Sunday, December 21, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

五章 天界の科学

3 光と旋律による饗宴        

 一九一三年十二月四日  木曜日

 いささか簡略に過ぎた嫌いはあるが、天界においてより精妙な形で働いている原理が地上においても見られることを、ひと通り説明した。そこで次は少しばかり趣きを変えて話を進めようと思う。

本格的な形では吾々の世界にしか存在しない事柄を幾ら語ったところで、貴殿には理解できないであろうし、役にも立たないであろうが、旅する人間は常に先へ目をやらねばならない。これより訪れる国についての理解が深ければ深いほど足どりも着実となるであろうし、到着した時の迷いも少ないことであろう。

 然らばここを出発点として──物質のベールを超えて全てが一段と明るい霊的界層に至り、まず吾々自らがこの世界の真相を学ぶべく努力し、そしてそれを成就した以上──その知識をこののちの者に語り継ぐことが吾々の第一の責務の一つなのである。

 他界後、多くの人間を当惑させ不審に思わせることの一つは、そこに見るもの全てが実在であることである。そのことについては貴殿はすでに聞かされているが、それが余りにも不思議に思え予期に反するものである様子なので、今少し説明を加えたいと思う。

と申すのも、そこに現実に見るものが決して人間がよく言うところの〝夢まぼろし〟ではなく、より充実した生活の場であり、地上生活はそのための準備であり出発点に過ぎないことを理解することが何よりも大切だからである。

何故に人間は生長しきった樫の木より苗木を本物と思いたがり、小さな湧き水を本流より真実で強力と思いたがるのであろうか。地上生活は苗木であり湧き水に過ぎない。死後の世界こそ樫の木であり本流なのである。

 実は人間が今まとっている肉体、これこそ実在と思い込んでいる樹木や川、その他の物的存在は霊界にあるものに比して耐久性がなく実在性に乏しい。なぜなら、人間界を構成するエネルギーの源はすべて吾々の世界にあるのであり、その量と強烈さの差は、譬えてみれば発電機と一個の電灯ほどにも相当しよう。

 それ故人間が吾々のことを漂う煙の如く想像し、環境をその影の如く想像するのであれば、一体そう思う根拠はどこにあるのかを胸に手を当てて反省してみよと言いたい。否、根拠などあろうはずがないのである。あるのは幼稚なる愚かさであり、他愛なき想像のみなのである。

 ここで私はこちらの世界における一光景、ある出来ごとを叙述し、遠からぬ将来にいずれ貴殿も仲間入りする生活の場を紹介することによって、それをより自然に感じ取るようになって貰いたいと思う。

この光あふれる世界へ来て地上を振り返れば、地上の出来ごとの一つ一つが明快にそして生々しく観察でき、部分的にしか理解し得なかったことにもそれなりの因果関係があり、それでよかったことに気づくことであろう。

が、それ以上に、こうして次から次へと無限なるものを見せつけられ、一日一日を生きている生活も永遠の一部であることを悟れば、地上生活が如何に短いものであるかが判るであろう。

 さて、スミレ色を帯びたベールの如き光が遠く地平線の彼方に見え、それが前方の視界をさえぎるように上昇しつつある。その地平線と今私が立っている高い岩場との間には広い平野がある。その平野の私のすぐ足もとの遥か下手(しもて)に大聖堂が見える。これが又、山の麓に広がる都の中でも際立って高く聳えている。 

 ドームあり、ホールあり、大邸宅あり、ことごとくまわりがエメラルドの芝生と宝石のように輝く色とりどりの花に囲まれている。広場あり、彫像あり、噴水あり、そこを、花壇を欺(あざむ)くほどの美しさに輝き、色彩の数も花の色を凌ぐほどの人の群れが行き交っている。

その中に、他を圧するようにひときわ強く輝く色彩が見える。黄金色である。それがこの都の領主なのである。

 その都の外郭に高い城壁が三か月状に伸び、あたかも二本の角(つの)で都を抱きかかえるような観を呈している。その城壁の上に見張りの姿が見える。敵を見張っているのではない。広い平地の出来ごとをいち速く捉え、あるいは遠い地域から訪れる者を歓迎するためである。

 その城壁には地上ならば海か大洋にも相当する広大な湖の波が打ち寄せている。が、見張りの者にはその広大な湖の対岸まで見届ける能力がある。そう訓練されているのである。その対岸に先に述べたベールのような光が輝いており、穏やかなうねりを見せる湖の表面を水しぶきを上げて往き交う舟を照らし出している。

 さて私もその城壁に降り立ち、これより繰り広げられる光景を見ることにした。やがて私の耳に遠雷のような響きがそのスミレ色の光の方角から聞こえてきた。音とリズムが次第に大きくなり、音色に快さが増し、ついに持続的な一大和音(コード)となった。

 すると高く聳える大聖堂から一群の天使が出て来るのが見えた。全員が白く輝く長服をまとい、腰を黄金色の帯で締め、額に黄金の環帯を付けている。やがて聖堂の前の岩の平台に集結すると、全員が手を取り合い、上方を向いて祈願しているかに見える。

実は今まさにこの都へ近づきつつある地平線上の一団を迎えるため、エネルギーを集結しているのであった。

 そこへもう一人の天使が現われ、その一団の前に立ち、スミレ色の光の方へ目をやっている。他に較べて身体の造りが一回り大きく、身につけているものは同じく白と黄金色であるが、他に比して一段と美しく、顔から放たれる光輝も一段と強く、その目は揺らぐ炎のようであった。

 そう見ていた時のことである。その一団の周りに黄金色の雲が湧き出て、次第に密度を増し、やがて回転し始め一個の球体となった。全体は黄金色に輝いていたが、それが無数の色彩の光から成っていた。それが徐々に大きくなり、ついには大聖堂をも見えなくした。それから吾々の目を見張らせる光景が展開したのである。

 その球体が回転しつつ黄金、深紅、紫、青、緑、等々の閃光を次々と発しながら上昇し、ついには背後の山の頂上の高さ、大聖堂の上にまで至り、更に上昇を続けて都の位置する平野を明るく照らし出した。気がついてみると、さきほど一団が集合した平台には誰れ一人姿が見当たらない。

その光と炎の球体に包まれて上昇したのである。これはエネルギーを創造するほどの霊力の強烈さに耐えうるまでに進化した者にしかできぬ業(わざ)である。球体はなおも上昇してから中空の一点に静止し、そこで閃光が一段と輝きを増した。

 それから球体の中から影のようなものが抜け出てきて、その球面の半分を被うのが見えた。が、地平線上の例のスミレ色の光の方を向いた半球はそのままの位置にあり、それが私に正視できぬほどに光輝を増した。見ることを得たのは、スミレ色の光から送られるメッセージに応答して発せられ平地の上空へ放たれたものだけであった。

 そのとき蜜蜂の羽音のようなハミングが聞こえてきた。そしてスミレ色の光の方角から届く大オーケストラの和音(コード)と同じように次第に響きを増し、ついに天空も平野も湖も、光と旋律とで溢れた。天界では、しばしば、光と旋律とは状況に応じてさまざまな形で融合して効果をあげてゆくのである。

 すでにこの時点において、出迎えの一団と訪問の一団とは互いに目と耳とで認識し合っている。二つの光の集団は次第に近づき、二つの旋律も相接近して美事な美しさの中に融合している。両者の界は決して近くはない。天界での距離を地上に当てはめれば莫大なものになる。

両者は何十億マイル、あるいは何百億マイルも遠く離れた二つの恒星ほども離れており、それが今その係留(けいりゅう)を解(ほど)いて猛烈なスピードで相接近しつつ、光と旋律とによって挨拶を交わしているのに似ている。

これと同じことが霊的宇宙の二つの界層の間で行われていると想像されたい。そうすれば、その美しさと途方もなく大きな活動は貴殿の想像を絶することが判るであろう。

 そこまで見て私はいつもの仕事に携わった。が、光はその後もいやが上にも増し、都の住民はその話でもちきりであった。この度はどこのどなたが来られたのであろうか。前回は誰それが見えられ、かくかくしかじかの栄光を授けて下さった。等々と語り合うのであった。

 かくて住民はこうした機会にもたらされる栄光を期待しつつ各々の仕事に勤しむ。天界では他界からの訪問者は必ずや何かをもたらし、また彼らも何かを戴いて帰り住民に分け与えるのである。

 それにしても、その二つの光の集団の面会の様子を何とかうまく説明したく思うのであるが、それはとても不可能である。地上の言語では到底表現できない性質のものだからである。実はこれまでの叙述とて、私にはおよそ満足できるものではない。

壮麗な光景のここを切り取りあそこを間引きし、言わば骨と皮ばかりにして何とか伝えることを得たにすぎない。かりにその断片の寄せ集めを十倍壮麗にしたところで、なお二つの光の集団が相接近して会合した時の壮観には、とても及びもつかぬであろう。

天空は赫々(カクカク)たる光の海と化し、炎の中を各種の動物に引かれたさまざまな形態の馬車に乗った無数の霊(スピリット)が、旗をなびかせつつ光と色のさまざまな閃光を放ちつつ往き交い、その発する声はあたかも楽器の奏でる如き音色となり、それが更にスミレ色の花とダイヤモンドの入り混じった黄金の雨となって吾々の上に降りそそぐ。

 なに、狂想詩? そうかも知れない。単調きわまる地上の行列──けばけばしい安ピカの装飾を施され、それが又、吾々の陽光に比すればモヤの如き大気の中にて取り行われる地上の世界から見れば、なるほどそう思われても致し方あるまい。

が、心するがよい。そうした地球及び地上生活の生ぬるい鬱陶(ウットウ)しさのさ中においてすら、貴殿は実質的には本来の霊性ゆえに地上の者にはあらずして、吾々と同じ天界に所属する者であることを。故に永続性の無い地上的栄光を嗅ぎ求めて這いずり回るような、浅ましい真似だけは慎んでほしい。

授かったものだけで満足し、世の中は万事うまく取り計らわれ、今あるがままにて素晴らしいものであることを喜ぶがよい。ただ私が言っているのは、この低い地上に置いて正常と思うことを規準にして霊界を推し量ってはならないということである。

 常に上方を見よ。そこが貴殿の本来の世界だからである。その美しさ、その喜びは全て貴殿のために取ってある。信じて手を差しのべるがよい。私がその天界の宝の中から一つずつ授けて参ろう。心を開くがよい。来たるべき住処の音楽と愛の一部を吾々が吹き込んでさしあげよう。

 差し当たっては有るがままにて満足し、すぐ目の前の仕事に勤しむがよい。授かるべきものは貴殿の到来に備えて確実に、そして安全に保持してある。故にこの仕事を忠実にそして精一杯尽くすがよい。

それを全うした暁には、貴殿ならびに貴殿と同じく真理のために献身する者は、イエスのおん血(ヘブル書9)を受け継ぐ王として或いは王子として天界に迎えられるであろう。

聖なるものと愛する者にとってはイエスのおん血はすなわちイエスの生命なのである。なぜならイエスは聖なるものの美を愛され〝父〟の聖なる意志の成就へ向けて怯(ひる)むことなく邁進されたからである。人間がそれを侮辱し、それ故に十字架にかけたのであった。

主の道を歩むがよい。その道こそ主を玉座につかしめたのである。貴殿もそこへ誘(いざな)われるであろう──貴殿と共に堂々と、そして愛をもって邁進する者もろともに。

 主イエスはその者たちの王なのである。 ♰



シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

五章 天界の科学


2 〝光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず〟 

  一九一三年十二月三日  水曜日
  
 昨日取りあげた話題をもう少し進めて、私の言わんとするところを一層明確にしておきたい。改めて言うが、エネルギーの転換についてこれまで述べたことは用語の定義であり本質の説明ではないことをまず知ってほしい。

 貴殿の身の周りにある神的生命の顕現の様子をつぶさに見れば、幾つか興味深いものが観察されるであろう。

 まず、人間にも視覚が具わっているが、これも外部に存在する光が地球へ向けて注がれなければ使用することは出来まい。が、その光もただのバイブレーションに過ぎず、しかも発生源から地上に至るまで決して同じ性質を保っているのではない。

と言うのも、人間は太陽を目に見えるものとしてのみ観察し、各種のエネルギーの根源とみている。が、光が太陽を取り巻く大気の外側へ出ると、そこに存在する異質の環境のために変質し、いったん人間が〝光〟と呼ぶものでなくなる。

その変質したバイブレーションが暗黒層を通過し、更に別の大気層、例えば地球の大気圏に突入すると、そこでまたエネルギーの転換が生じて、再び〝光〟に戻る。

太陽から地球へ送られて来たのは同一物であって、それが広大な暗黒層を通過する際に変質し、惑星に衝突した時に再び元の性質に戻るということである。

 「光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず」(ヨハネ福1・5)この言葉を憶えているであろう。これは単なる比喩にはあらず、物質と霊のこの宇宙における神のはたらきの様子を述べているのである。しかも神は一つであり、神の王国も又一つなのである。

 光が人間の目に事物を見せる作用をするには或る種の条件が必要であることが、これで明らかであろう。その条件とは光が通過する環境であり、同時にそれが反射する事物である。

 これと同じことが霊的環境についても言える。吾ら霊的指導者が人間界に働きかけることが出来るのは、それなりの環境条件が整ったときのみである。

ある者には多くの真理を、それも難なく明かすことができるのに、環境条件の馴染まぬ者にはあまり多くを授けることが出来ないことがあるのはそのためである。かくて物的であろうと霊的であろうと、物事を明らかにするのは〝光〟であることになる。

 この比喩をさらに応用してお見せしよう。中間の暗黒層を通過して遥か遠方の地上へと届くように、高き神霊界に発した光明が中間の階層を経て地上へと送り届けられ、それを太陽光線を浴びるのと同じ要領で浴びているのである。

 が、さらに目を別の方角に向けてほしい。地球から見ることのできる限りの、最も遠い恒星のさらに向こうに、人間が観察する銀河より遥かに完成に近づいた美事な組織が存在する。そこにおいては光の強さは熱の強さに反比例している。

と言うことは、永い年月に亘る進化の過程において、熱が光を構成するバイブレーションに転換されていることを暗示している。

月は地球より冷たく、しかもその容積に比例して計算すれば、地球より多くの光を反射している。天体が成長するほど冷たくなり、一方、光線の力は強くなってゆく。吾々の界層から見るかぎりそうであり、これまでこの結論に反する例証を一つとして観察したことはない。

 曽てそのエネルギーの転換の実例を私の界において観察したことがある。

 ある時、私の界へ他の界から一団の訪問者が訪れ、それが使命を終えてそろそろ帰国しようとしているところであった。吾々の界の一団──私もその一員であった──が近くの大きな湖まで同行した。訪れた時もその湖から上陸したのである。

いよいよ全員がボートに乗り移り、別れの挨拶を交わしていた時のことである。

吾々の国の指導者格の天使の一人がお付の者を従えて後方の空より近づき、頭上で旋回し始めた。私はこの国の慣習を心得てはいるものの、その時は彼ら──というよりはその天使──の意図を測りかねて、何をお見せになるつもりであろうかと見守っていた。

この界においては来客に際して互いに身に付けた霊力を行使して、その効果をさまざまな形で見せ合うのが慣習なのである。

 見ていると遥か上空で天使のまわりを従者たちがゆっくりと旋回し、その天使から従者へ向けて質の異なる、従って色彩も異なるバイブレーションの糸が放たれた。天使の意念によって放射されたのである。それを従者が珍しい、そして実に美しい網状のものに編み上げた。

二本の糸が交叉する箇所は宝石のような強力な光に輝いている。またその結び目は質の異なる糸の組み合わせによって数多くの色彩に輝いている。

 網状の形体が完成すると、まわりの従者は更に広がって遠くへ離れ、中央に天使一人残った。そして、出来上がった色彩豊かなクモの巣状の網の中心部を片手で持ち上げた。それがふわふわと頭上で浮いている光景は、それはそれは〝美しい〟の一語に尽きた。

 さて、その綱は数多くの性質を持つバイブレーションの組織そのものであった。やがて天使が手を離すとそれがゆっくりと天使を突き抜けて降下し、足もとまで来た。そこで天使はその上に乗り、両手を上げ、網目を通して方向を見定めながら両手をゆっくりと動かして所定の位置へ向けて降下し続けた。

 湖の上ではそれに合わせて自然発生的に動きが起こり、ボートに乗ったまま全員が円形に集合した。そこへ網が降りてきて、全員がすっぽりとその範囲内におさまる形でおおい被さり、更に突き抜けて網が水面に落ち着いた。

そこでその中央に立っている天使が手を振って一団に挨拶を送った。するとボートもろとも網がゆっくりと浮上し、天高く上昇して行った。

 かくて一団は湖上高く舞い上がった。吾らの一団もそのまわりに集まり、歌声と共に道中の無事を祈った。彼らはやがて地平線の彼方へと消えて行った。

 こうした持てなしは、他の界からの訪問者に対して吾々が示すささやかな愛のしるしの一例に過ぎないもので、それ以上の深い意味はない。私がこれを紹介したのは──実際には以上の叙述より遥かに美しいものであったが──強烈な霊力を有する天使の意念がいかにエネルギーを操り質を転換させるかを、実例によって示すためであった。

 目を愉しませるのは美しさのみとは限らない。美しさは天界に欠かせぬ特質の一つにすぎない。例えば効用にも常に美が伴う。人間が存在価値を増せば増すほど人格も美しさを増す。聖は美なりとは文字どおりであり真実である。願わくば全ての人間がこの真理を理解して欲しいものである。 ♰

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(八)

  More Philosophy of Silver Birch  Edited by Tony Ortzen

二章 自由意志 ──人間はどこまで自由か──


    
 過去幾世紀ものあいだ人間は自由意志の問題に追いかけられ続けてきた。はたして人間は自分の運命を変えることができるのだろうか。絶対的自由というものはあるのだろうか。それとも限定的自由なのだろうか。

これは人間にとってきわめて理解の難しい問題であるが、関心を寄せる方が多いので本章をこの問題に当てて、シルバーバーチの意見に耳を傾けていただくことにした。

 「男性と女性とがお互いに足らざるところを補い合って全体を完成させる──理性で解答の出ないところは直感で補う──これは〝補完の摂理〟の一つの側面です。人間には自我の開発のためのチャンスが常に与えられております。それをどう活用するかは本人の自由意志に任されております。

 人生に偶然はありません。偶発事故というものはありません。偶然の一致もありません。すべてが不変の自然法則によって支配されております。存在のどの側面を分析しても、そこには必ず自然法則が働いております。人間もその法則の働きの外には出られません。全体を構成する不可欠の一部だからです。

 その法則はあなた方が何らかの選択をした際に確実に働いてきました。選択をするのはあなた方自身です。その際あなた方を愛する霊による導きを受けておられます。足元を照らす光としての愛です。それに素直に従えば意義ある人生を歩むことになる、そういう愛です。

 愛は生命と同じく不滅です。物的なものはその本性そのものが束の間の存在ですから、いつかは滅ぶ運命にありますが、霊的なものは永遠に不滅です。愛の本性は霊的なものです。だからこそ永続性があるのです。死を超えて存在し続けます。バイブルにあるように愛とは神の摂理を成就することです」


──全ての道は同じ目的地に通じているのでしょうか。それとも目的地というものは無いのでしょうか。

 「〝目的地〟という用語がやっかいです。私なりに言わせていただけば、すべての道は造化の霊的大始源に通じております。宇宙の大霊、あなた方の言う神(ゴッド)は無限なる存在です。となると、完全なる愛と叡知の権化であるその大霊に通じる道もまた無限に存在することになります。

大霊とは生命であり、生命とは大霊です。生命ある存在は誕生によっていただく遺産として神性を宿しております。そして地球という惑星上の全生命は究極において唯一の霊的ゴールに通じる道をたどりつつ永遠の巡礼の旅を続けております。どの道をたどるかは問題ではありません。

巡礼者の一人ひとりが真摯に自我の向上を求め、責任を遂行し、与えられた才能を開発して、その人が存在したことによって他の人が霊的な豊かさを得ることができるようにという、誠実な動機をもって生きればそれでよいのです」


──(核実験のような)人間の行っていることが原因で地球が滅びるのでないかと心配している若者が多いのですが・・・・・・

 「この惑星が滅びてしまうことはありません」


──人類が滅びることもないのでしょうか。

 「ありません。人類も生存し続けます。人間がこの惑星に対して為しうることは、自然法則によっておのずから限界があります。惑星全体をそこの生命もろともに消滅させてしまうことはできません。しかし、そこにも自由意志の要素が絡んでおります。つまり内部に宿る神性に目覚めるか、それともそれを無視するかです。

無視すれば霊的向上は望めません。霊的な身支度ができないまま私たちの世界へやってまいります。そうしてもう一度初めからやり直さなければなりません。いかなる人間も、たとえ集団組織をもってしても、神の意志の実現を挫けさせることはできません。

その進行を遅らせることはできます。手を焼かせることはできます。妨害することはできます。しかし宇宙を支配しているのは無限なる叡知と愛です。いつかは必ず行きわたります。それが神の意志だからです」


──私たち人類はすでに多くのものを破壊し、それはもう元には戻せません。その多くは私たちの住むこの大地にあったものでした。その大地も限りある存在です。

 「しかしその大地には莫大な潜在的資源が隠されています。まだまだ多くのものが明かされていきます。多くのものが発見されてまいります。人類は進化の終局を迎えたわけではありません。まだまだ初期の段階です。

 霊的真理を悟った方は決して絶望しません。それまでに明かされた知識が楽観的にさせるからです。その知識を基礎として、霊力というものに絶対的な信頼を抱くことができるのです。永い人類の歴史には数々の災禍がありました。

が、人類はそれを立派に乗り越えてきました。我ながら感心するほどの強靭さをもって進歩してまいりました。これからも進歩し続けます。なぜなら、進化することが自然の摂理だからです。霊的進化も同じ摂理の顕れです」


 (別の日の交霊会で)
──自由意志は、たとえば宿業(カルマ)によってどの程度まで制約を受けるのでしょうか。

 「人生はすべてが自然の摂理によって規制されております。気まぐれな偶然や奇跡などによって動かされているものは何一つありません。すべてが原因と結果、種まきと刈入れです。さもなければ宇宙は混乱状態におちいります。

いずこをご覧になっても無限の叡知から生まれた無限の構想の中で自然法則が働いている証拠を見出すことができます。

 たとえば四季のめぐりがそれです。惑星と星雲の動きがそれです。潮の満ち引きがそれです。花々の見事な生育ぶりがそれです。それらにすべてが自然法則によって支配されているのです。

となれば、その法則の枠組みを超えたものは絶対に起きないということですから、いくら自由といっても、そこにはおのずから限界がある───法則という神の力による制約があることになります。

しかし、法則の裏側にも法則があります。物理法則だけではありません。精神的法則もあり、霊的法則もあります。

 あなたが生き、呼吸し、存在しているのは、あなたという霊が受胎によって物質と結合して個的存在を得たからです。その個的存在が徐々に発達していきつつあるのです。その発達過程においてあなたには自由意志という要素、つまりその時どきの環境条件の中で道を選択する力あるいは判断力を駆使できることになっております。

あなたが最良にして最高の選択をなされば、あなたの民族のために、世界のために、森羅万象のために、宇宙の霊的発達と進化のために貢献することになります。なぜなら、あなたの霊は宇宙の大霊の一部だからです。

 宇宙のすみずみまで支配している神性とあなたもつながっているということです。あなたはミクロの大霊なのです。大霊が具えている神性のすべてをあなたも所有しており、それを開発していくための永遠の時が用意されているのです。

 明日の朝あなたはいつもより一時間はやく起きようと遅く起きようと、あるいは起きずに終日ベットにもぐっていようと、それはあなたの自由です。起きてから散歩に出かけようとドライブしようと、それも自由です。腹を立てるのも自由です。冷静さを取り戻すのも自由です。そのほか、あなたには好き勝手にできることがいろいろとあります。

 しかしあなたは太陽の輝きを消す力はありません。嵐を止める力はありません。あなたの力を超えたものだからです。その意味であなたの自由意志にも限界があります。それからもう一つ別の限界もあります。

これまでにあなたが到達した精神的ならびに霊的進化の程度です。たとえば人を殺める行為は誰にでもできます。が、その行為に至らせるか否かは、その人の精神的ならびに霊的進化によって決まることです。

ですから、あなたに選択の自由があるとはいっても、その自由はその時点でのあなたの霊的本性によって制約を受けていることになります。宇宙にはこうしたパラドックス──一見すると矛盾しているかに思える真実──がいろいろとあります。自由意志といっても常に何らかの制約を受けているということです。

 さて、ここで私はもう一歩踏み込まねばなりません。あなたがカルマの問題をお出しになったからです。このカルマも非常に大きな要素となっております。なぜなら、地上に誕生してくる人の中にはあらかじめそのカルマの解消を目的としている人が少なくないからです。たとえ意識へのぼってこなくても、その要素が自由意志にもう一つ別の制約を加えております」


──良心の問題ですが、これは純粋に自分自身のものでしょうか、それとも背後霊の影響もあるのでしょうか。

 「あなた方人間は受信局と送信局とを兼ねたような存在です。純粋に自分自身の考えを生みだすことはきわめて稀です。地上のラジオやテレビにチャンネルとかバイブレーション(振動)──フリークエンシー(周波数)が適切でしょう──があるように、人間にもそれぞれのフリークエンシーがあって、その波長に合った思想、観念、示唆、

インスピレーション、指導等を受信し、こんどはそれに自分の性格で着色して送信しています。それをまた他の人が受信するわけです。(地上の人間どうしの場合もある──訳者)

 その波長を決定するのは各自の進化の程度です。霊的に高ければ高いほど、それだけ感応する思念も程度が高くなります。ということは、発信する思念による影響も高度なものとなるわけです」


 改めて自由意志についての質問に答えて──

 「完全に自由な意志が行使できる者はいません。自由といってもある限られた範囲内での自由です。あなたの力ではどうにもならない環境条件というものがあります。魂は、再生するに当たってあらかじめ地上で成就すべき目的を自覚しております。

その自覚が地上で芽生えるまでには長い長い時間を要します。魂の内部には刻み込まれているのです。それが芽生えないままで終わったときは、また再生して来なければなりません。首尾よく自覚が芽生えれば、ようやくその時点から、物質をまとった生活の目的を成就しはじめることになります。(次章48頁〝訳者注〟参照)

 人間の本性を私が変えるわけにはまいりません。その本性は実に可変性に富んでおります。最高のものを志向することもできれば、哀れにもドン底まで落ち込むこともできます。そこに地上へ再生してくる大きな目的があるのです。

内部には霊的な可能性のすべてが宿されております。肉体は大地からもらいますが、それを動かす力は内部の霊性です。

 人生をどう生きるか──霊のことを第一に考えるか、それとも物質(もの)を優先させるか、それは本人の自由意志の選択にまかされております。そこに人間的問題の核心があるのですが、援助を求めてやってきた人にあなたは、その選択に余計な口出しをせずに、必要な援助を与えなければいけません。

援助が効を奏さなければそれ以上かまう必要はありません。(それであなたの責任は終わったということです。と別のところで述べている──訳者)

縁あってあなたのもとを訪れたということは、その人にとって自我を見出す絶好機がめぐってきたということです。成功すれば、あなたは他人のために自分を役立てる機会が与えられたことに感謝なさることです。もし失敗したら、その人のことを気の毒に思ってあげることです」

別の招待客がこう尋ねた。──「自由意志はどういう具合に働くのでしょうか。私がこの疑問を抱いたのは Two Worlds の記事の中であなたが〝時間は永遠の現在です〟とおっしゃっているのを読んだからです。

もしも私がこれまでの人生をつぶさに点検することができれば、自分が下した決断や因果律の働きのすべてがつながって見えるはずです。またもし未来をのぞくことができれば、これから先のこともすべて分かることになります。もしそうだとすると、どこに私の自由意志の働く余地があるのでしょうか」


 「こういう言い方は失礼かも知れませんが、あなたの認識は少し混乱しております。時間は永遠の現在です。過去でもなく未来でもありません。それがあなたの過去となり未来となるのは、その時間との関わり方によります。とても説明しにくいのですが、たとえば時間というものを回転し続ける一個の円だと思ってください。

今その円の一点に触れればそこが現在となります。すでに触れたところを、あなた方は過去と呼び、まだ触れていないところを未来と呼んでいるまでのことです。時間そのものには過去も未来も無いのです。

 〝未来を覗く〟とおっしゃいましたが、それは三次元の物質界との関わりから離れて霊視力ないしは波長の調整によってこれから生じるものを見る、その能力が働いたにすぎません。

つまりあなたの行為によって作動させた原因、言いかえれば自由意志が生み出した原因から生じる結果をごらんになるだけです。それは時間そのものには影響を及ぼしません。時間との関係が変わるだけです」


 訳者注──〝時間は永遠の現在〟というのは、〝宇宙は無限〟というテーマと同じく、この肉体に宿っているかぎり絶対に理解できないことであろう。ただそれが事実であることを暗示する体験はたしかに存在する。

ガケから落下するわずか二、三秒の間にそれまでの全体験をじっくり見てその一つ一つを反省したとか、車にはねられて数メートル飛ばされるその一瞬の間にやはり全生涯を思い出したとかいうのがそれである。

信じられないことであるが、本人は事実それを体験したのであるから、そういうことも有り得るということを認めざるを得ない。それがシルバーバーチのいう〝三次元の物質界から離れる〟ということで、実在の側から見れば別だん驚くほどのことではないのであろう。

逆の見方をすれば、人間というのは所詮は物質によって三次元の世界に閉じ込められた小さな存在だということであろう。がしかし、だからこそこの地球という物的生活環境にもそれならではの体験もあるということになる。
         

Saturday, December 20, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

 The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

五章 天界の科学


1 エネルギーの転換       

 一九一三年十二月二日  火曜日

    今夜はエネルギーの転換に関連した幾つかの問題を取り上げてみよう。ここでいうエネルギーとは上層界の意念の作用を人間の心へ反映させていくための媒体と理解していただきたい。

吾々が意図することを意念の作用を利用して、いわゆるバイブレーションによって中間界を通過させて地上界へと送り届けるよう鍛錬しているのである。私がエネルギーと呼ぶのはこのバイブレーションの作用のことである。

 さて、こうして地上の用語を使用する以上は、天界の科学を正確に、あるいは十分に表現するには不適当な手段を用いていることになることを理解していただかねばならない。

それ故、当然、その用語の意味を限定する必要が生じる。私がバイブレーションという用語を用いる時は、単なる往復振動のことではなく、時には楕円運動、時には螺旋運動、更にはこれらが絡み合い、それに他の要素が加わったものを意味するものと思われたい。

 この観点からすれば、最近ようやく人間界の科学でも明らかにされ始めたバイブレーションの原子的構造は、太陽系の組織、更には遥か彼方の天体の組織と同一なのである。

太陽をめぐる地球の動きも原子内の素粒子の動きもともにバイブレーションである。

その規模は問わぬ。つまり運動の半径が極微であろうが極大であろうが、本質的には同じものであり、規模において異なるのみである。

 が、エネルギーの転換はいかなる組織にも運動の変化をもたらし、運動の性質が変われば当然その結果にも変化が生じる。かくて吾々は常に吾々より更に高級にして叡智に富む神霊によって定められた法則に沿いつつ、意念をバイブレーションの動きに集中的に作用させて質の異なるバイブレーションに転換し、そこに変化を生じさせる。

 これを吾々は大体において段階的にゆっくりと行う。計算どおりの質的転換、大きすぎもせず小さすぎもしない正確な変化をもたらすためである。

 吾々が人間の行為ならびに自然界の営みを扱うのも実はこの方法によるのである。それを受持つ集団は鉱物・植物・動物・人間・地球・太陽・惑星の各分野において段階的に幾層にも別れている。更にその上に星辰の世界全体を経綸する神庁が控えている。

 混沌たる物質が次第に形を整え、天体となり、更にその表面に植物や動物の生命が誕生するに至るのも、全てこのエネルギーの転換による。が、これで判っていただけると思うが、いかなる生命も、いかなる発達も、すべて霊的存在の意志に沿った霊的エネルギーの作用の結果なのである。

この事実を掌握すれば、宇宙に無目的の作用は存在せず、作用には必ず意図がある───一定範囲の自由は許されつつも、規定された法則に従って働く各段階の知的にして強力な霊的存在の意図があることに理解がゆくであろう。

 更に、物質自体が実は霊的バイブレーションを鈍重なものに転換された状態なのである。それが今、地上の科学者によって分析されつつあり、物質とはバイブレーションの状態にあり、いかなる分子も静止しているものは無く、絶え間なく振動しているとの結論に到達している。

これは正解である。が、最終結論とは言えない。まだ物質を究極まで追跡しきってはいないからである。より正確に表現すれば、物質がバイブレーションの状態にあるのではなく、物質そのものが一種のバイブレーションであり、より精妙なバイブレーションの転換されたものである。その源は物質の現象界ではなく、その本性に相応しい霊界にある。

 これで貴殿も、いよいよその肉体を棄てる時が到来したとき、何の不都合もなく肉体なき存在となれることが理解できるであろう。地上の肉体は各種のバイブレーションの固まりに過ぎず、それ以上のものではないのである。

有難いことに今の貴殿にも肉体より一層実体のある、そして耐久性のある別のバイブレーションで出来た身体が具わっている。肉体より一段と精妙で、それを創造し維持している造化の根源により近い存在だからである。

その身体は、死後、下層界を旅するのに使用され、霊的に向上するにつれて、更に恒久性のある崇高な性質を帯びた身体へと転換される。この過程は延々と限りなく繰り返され、無限の向上の道を栄光よりさらに高き栄光へと進化してゆくのである。

 そのことは又、死後の下層界が地上の人間に見えないのと同じく、下層界の者には通常は上層界が見えないことも意味する。かくて吾々は一界また一界と栄光への道を歩むのである。

 まさしくそうである。貴殿もいつの日かこちらへ来れば、このことをより一層明確に理解するであろう。と申すのも、今述べたバイブレーションの原理も貴殿は日常生活において常時使用しており、他の全ての人間も同じく使用しているにも拘わらず、その実相については皆目理解していないからである。

吾らは持てる力を神の栄光と崇拝のために使用すべく、鋭意努力している。願わくば人間がその努力に一体となって協力してくれることが望ましい。

一丸となれば、善用も悪用も出来るその力が現在の人間の知識を遥かに超えたものであることを知るであろう。蠅や蟻の知能を凌ぐほどに。

 吾々は、有難いことに、知識と崇高さにおける進歩が常に対等であるように調整することが出来る。完璧とは言えないが、ある範囲内───広範囲ではあるが確固とした範囲内において可能である。もしも可能でないとしたら地上は今日見るが如きものでは有り得ず、また今ほどの秩序ある活動は見られないであろう。

 もっとも、これも人類に対する吾々の仕事の一側面に過ぎない。そして人類の未来に何が待ち受けているかは私にも何とも言えない。霊的真理の世界へこれより人類がどこまで踏み込むかを推測するほどには、私は先が見えない。まだその世界への門をくぐり抜けたばかりだからである。

が、大いなる叡智をもって油断なく見守る天使によっても、こののちも万事よきに計らわれるであろう。天使の支配のある限り、万事うまく行くことであろう。 ♰

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

 The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

四章 天界の〝控えの間〟地上界

4 天使の怒り   

一九一三年十二月一日  月曜日

 暗黒の中にあって光明を見出す者は少なく、その暗黒の何たるかを理解する者もまた多くはない。暗黒は己れの魂の状態の反映に他ならない。その中にあって真理を求める者には、吾々の界よりその者の魂の本性と能力に応じて然るべき援助を授ける。

 それは今に始まったことではない。天地の創造以来ずっとそうであった。何となれば神は一つだからである。本性において一つであるのみならず、その顕現せる各界層を通じての原理においても一つなのである。

 神は、現在のこの物的宇宙を創造した時、直接造化の事業に携わる神霊に、計画遂行に要する能力を授けると同時に、すでに述べたように、その能力の行使に一定範囲の自由をも授けた。が、

万物を支配する法則の一つとして、その託された能力の行使においての自由から生まれる細々(こまごま)とした変化と、一見すると異質に思える多様性の中においても、統一性というものが主導的原理として全てを律し、究極において全てがその目的に添わねばならないことになっている。

 この統一性と一貫性の根本原理は造化の大業の事実上の責任者である最高界の神霊にとっての絶対的至上命令であり、絶対に疎かにされたことはない。

それは今日においても同じである。人間はその事実を忘れ、吾ら天界の者が未発達の人間世界に関与し、こうして直接交信し、教えを説き導くという事実を否定し、それに関わる者を侮辱する。

 同時に又、これに携わる者が途中で躊躇し、霊と口を利くことは悪であると思い、救世主イエスの御心に背くことになると恐れることこそ吾らには驚異に思える。

実はイエスが地上へ降りたそもそもの目的も、その大原理すなわち霊的なものと物的なものとは神の一大王国の二つの側面に過ぎず両者は一体であることを示す為であったのだが・・・・・・

 イエスの教えを一貫して流れるものもこの大原則であり、皮肉にも敵対者たちがイエスを磔刑(はりつけ)に処したのもそこに理由があった。

つまり、もともと神の王国がこの地上のみに限られるものであったならば、イエスは彼らの敵対者たちの地上的野望も安逸と豪奢な生活も批難することはなかったであろう。が、イエスは、神の国は天界にあり地上はそれに至る控えの間に過ぎないことを説いた。

そうなれば当然、魂の気高さを計る尺度は天界のそれであらねばならず、俗世が求める低次元の好き勝手は通じないことになる。

 しかし人間はその大真理を説くイエスを葬った。そして今日に至るも、さきに述べたように、キリスト教会と一般社会の双方の中にそれに似通った侮辱的感情を吾らは見ている。

人間が吾ら霊魂による地上との関わり合いを認識し、神の王国の一員としての存在価値を理解するに至るまでは、光明と暗黒の差の認識において大いなる進歩は望めないであろう。

 地上には盲目の指導者が余りに多すぎる。彼らは傲慢なる態度で吾々の仕事と使命を軽蔑し、それが吾々の不快を誘う。現今のキリスト教の指導者たちは言う──「当時の人間がもし真実を知っていたら栄光の主イエスを葬ることはしなかったであろう」と。まさにその通りであろう。が、現実には葬ったではないか。

同じく、そのように嘆く者たちが、もしも吾々のようにこうして地上へ降りてくる者が彼らのいう天使であることを認識すれば、吾々と地上の烏合の衆より一頭地を抜く者との交霊を悪(あ)しざまに言うこともあるまいに、と思う。

しかし現実には、吾らと係わりをもつ者たちを悪しざまに言っているではないか。そして主イエス・キリストを葬った者たちと同じ趣旨の申し開きをして、己れの無知と盲目を認めようとしないではないか。


──おっしゃることはまさにその通りで、間違ってはいないと思います。ただ、おっしゃることに憤怒に似たものが感じられます。それに、イエスを葬ったユダヤ人を弁護したのはペテロであってユダヤ人自身ではなかったのではないでしょうか。

 よくぞ言ってくれた。私は今たしかに怒りを込めて語っている。が、怒りも雅量のある怒り、すなわち愛に発する怒りがある。吾々が常に平然として心を動かされることがないかに思うのは誤りである。吾らとて時に怒りを覚えることがある。が、

その怒りは常に正しい。と言うよりは、そこに些かでも邪なものがあれば明晰な目を持って吾らを監視する上層界の霊によってすぐさま修正される。が、復讐だけは絶対にせぬ。

このことだけはよく憶えておいて欲しく思う。そしてまたよく理解しておいて欲しく思う。但し、公正の立場、そして又、吾々の協力者である地上の同志への愛の立場から、不当なる干渉をする者へは吾々がそれ相当の処罰を与え、義務の懲罰を課すことはある。

が、どうやら貴殿は私の述べることに賛同しかねている様子が窺える。そこで一応その気持ちを尊重し、この度はこの問題はおあずけと致そう。が、私が述べたことに些かの誤りもないし、何か訴えるものを感じる者にとっては熟考するに値する課題であることを指摘しておく。

 ペテロの弁護の問題であるが、確かに弁護したのはペテロであった。が、もう一つ次のことを忘れてはならない。私はベールのこちら側より語り、それを貴殿はベール越しに地上において聞いているということである。

人間と同じく吾々の世界にも歴史の記録──ベールのこちら側の歴史──があり、それは詳細をきわめている。その記録より判断するに、彼らイエスを告発した者たちは、こちら側へ来てその迷妄を弁明せんとしたが、大して弁明にはなっていない。

光明も彼らにとっては暗黒であり、暗黒が光明に思えた。なぜなら、彼らは魂そのものが暗黒界に所属していたからである。イエスの出現を光明と受け取れなかったのも同じ理由による。

無理からぬことであった。彼らはまさに真理に対して盲目であり理解できなかったのである。

かくて死後の世界においては盲目とは外の光を遮断することによる結果ではなく、魂の内部に起因する。外的でなく内的なのであり、霊的本性を意味する。故に真理に盲目なる者はそれに相応わしい境涯へと送られる──暗闇と苦悶の境涯である。

 今は光明界の強烈な活動の時代である。地上の全土へ向けて莫大なエネルギーが差し向けられている。教会も教義も、その波紋を受けないところはまずあるまい。光が闇へ向けて射し込みつつある。修養を心掛ける者にとっては大いに責任を問われる時代である。

すべからく旺盛な知識欲と勇気とを持ってその光を見つめ我がものとしなければならない。これが私からの警告であり、厳粛なる思いを込めて授けるものである。

と申すのも、私が語ることの多くは、物的脳髄を使用するより遥かに迅速に学ぶことのできる、この霊界という学校における豊富な体験を踏まえているからでる。この種の問題についての真相を人間はすべからく謙虚に求め、自ら探し出さねばならない。

 真理を求めようとせぬ者に対しては、吾々は敢えて膝を屈してまで要求しようとは思わない。そのことも彼らにしかと伝えるがよい。吾々は奴隷が王子へ贈物を差し出すがごとき態度で真理を授けることはしない。

地上のいかなる金銀財宝によっても買うことのできない貴重な贈物を携えて地上へ参り、人間のすぐ近くに待機する。そして謙虚にして善なる者、心清らかな者に、イエスの説いた真理の真意を理解する能力、死後の生命の確信と喜び、地上あるいは死後の受難を恐れぬ勇気、そして天使との交わりと協調性を授ける。

 本日はこれにて終りとする。これまでと比べて気の進まぬことを書かせたことについては、どうか寛恕を願いたい。こちらにそれなりの意図があってのことだからである。又の機会に、より明るいメッセージを述べることでその穴埋めをすることにしよう。

 心に安らぎと喜びを授からんことを。アーメン ♰

 

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(八)

More Philosophy of Silver Birch  Edited by Tony Ortzen
 一章 シルバーバーチのアイデンティティ



まえがき

 本書はハンネン・スワッハー・ホームサークルでの過去七年におけるシルバーバーチの霊言の速記録を読み返し、ふるいにかけ、そしてまとめ上げたものである。夏期を除いて、交霊会は月に一回の割合で開かれた。

 私のねらいはシルバーバーチの哲学と教訓を個人的問題、社会的問題、および国際的問題との関連においてまとめることである。選んだ題目はなるべく多岐にわたるよう配慮した。

シルバーバーチはとかく敬遠されがちな難題、異論の多い問題を敢えて歓迎する。それを、ぎこちない地上の言語の可能性を最大限に発揮して、わかり易い、それでいて深遠な響きを持った言葉で解き明かしてくれる。

 私はこの穏やかな霊の聖人から受けた交霊会での衝撃をひじょうに印象ぶかく思い出す。開会直前のバーバネル氏の落着かぬ様子を見るに見かねて目を外らすことがしばしばだった。

いつもはジャーナリズムとビジネスの大渦巻のど真ん中に身を置いて平然としている、この精力的でエネルギッシュ過ぎるほどの人物がシルバーバーチに身をゆだねんとして、その訪れを待っている身の置き所のなさそうな何分間かは、本人にとっては神の裁きを待っている辛い瞬間のようで、私には痛々しく思えるのだった。

 しかし、シルバーバーチの訪れはいたって穏やかである。そしてそのメッセージはいたって単純素朴であるが、今崩壊の一途をたどりつつあるキリスト教の基盤にとっては、あたかもダイナマイトのような衝撃である。十八歳の青年だった懐疑論者のバーバネルをある交霊へ誘って入神させて以来ほぼ半世紀たった今、その思想は一貫して変わっていない。

 変わっていないということは進歩がないということではない。その間にいくつかの世界的危機と社会的変革がありながら、それを見事に耐え抜いてきたということは、その訓えの本質的な強固さと実用性を雄弁に物語っていると言えよう。

 これからシルバーバーチに登場していただくお膳立てのつもりのこの前書きも、結局はシルバーバーチの霊言を引用するのが一ばん良いように思われる。ある日の交霊会でシルバーバーチがこの私にこう語ったことがある。

  「活字になってしまった言葉の威力を過小評価してはいけません。活字を通して私たちは海を越えて多くの人とのご縁ができているのです。読んでくださる私の言葉、と言っても、高級界の霊団の道具として勿体なくもこの私が取り次いでいるだけなのですが、それが、読んでくださった方の生活を変え、歩むべきコース、方角、道しるべとなっております。

無知が知識と取って代わり、暗闇が光明に変わり、模索が確信に代わり、恐怖が平静と取って代わります。地上の人間としての義務である天命の成就に向かって踏み出しております。

 それほどのことが活字によって行われているのです。それにたずさわるあなたは光栄に思わなくてはいけません。話し言葉はそのうち忘れてしまうことがありますが、活字にはそれがありません。永久にそこにあります。何度でも繰り返して読むことができます。理解力が増すにつれて新しい意味を発見することにもなります。

 かくして私たちは、この世には誰一人、また何一つ希望を与えてくれるものはないと思い込んでいた人々に希望の光を見せてあげることが出来るのです。あなたも私も、そして他の大勢の人々が参加できる光栄な仕事です。

それはおのずと、その責任の重さゆえに謙虚であることを要求します。その責任とは、自分の説く霊的真理の気高さと荘厳さと威厳をいささかたりとも損なうようなことは行わないように、口にしないように、伝達しないように慎むということです」

 そういう次第で、本書には私個人の誉れとすべきものは何一つない。関係者一同による協力の産物である。では、主役の古代霊、穏やかな老聖人、慈愛あふれる支配霊にご登場願うことにしよう。
     トニー・オーツセン


 訳者注──本書はシリーズの中で一ばんページ数が多く、一ばん少ない第一巻に較べると倍以上の霊言が収められている。しかも〝再生〟の章を除いて、重複するところがまったくない。そこで、ぺージ数をほぼ平均にしたいという潮文社の要望も入れて、わたしはこれを二冊に分けることにした。

というのは、オーツセンが編集したものがもう一冊あるが、これが本書とうって変わってその九〇パーセントが他と重複するものばかりであること、さらに本書の後半が全霊言集の中から名文句を断片的に厳選して収録してあることから、それとこれとを一緒にして最終巻としたいと考えている。


 なおサイキックニューズ紙とツーワールズ誌には今なお断片的ながらシルバーバーチの霊言が掲載されている。その中には霊言集に出ていないものもある。最終巻にはそうしたものも収録してシルバーバーチの〝総集編〟のようなものにしたいと考えている。 





  一章 シルバーバーチのアイデンティティ

 シルバーバーチとはいったい誰なのか。なぜ地上時代の本名を明かさないのか。アメリカ・インディアンの幽体を使用しているのはなぜなのか。こうした質問はこれまで何度となく繰り返されているが、二人の米国人が招待された時もそれが話題となった。そしてシルバーバーチは改めてこう答えた。

 「私は実はインディアンではありません。あるインディアンの幽体を使用しているだけです。それは、そのインディアンが地上時代に多彩な心霊能力をもっていたからで、私がこのたびの使命にたずさわるように要請された際に、その道具として参加してもらったわけです。私自身の地上生活はこのインディアンよりはるかに古い時代にさかのぼります。

このインディアンも、バーバネルが私の霊媒であるのとまったく同じ意味において私の霊媒なのです。私のように何千年も前に地上を去り、ある一定の霊格を具えるに至った者は、波長のまったく異なる地上圏へ下りてそのレベルで交信することは不可能となります。

そのため私は地上において変圧器のような役をしてくれる者、つまりその人を通して波長を上げたり下げたりして交信を可能にしてくれる人を必要としたのです。

同時に私は、この私を背後から鼓舞し、伝えるべき知識がうまく伝えられるように配慮してくれている上層界の霊団との連絡を維持しなくてはなりません。ですから、私が民族の名、地名、あるいは時代のことをよく知っているからといって、それは何ら私のアイデンティティを確立することにはなりません。それくらいの情報はごく簡単に入手できるのです」


 では一体地上でいかなる人物だったのか、またそれはいつの時代だったのか、という質問が相次いで出されたが、シルバーバーチはその誘いに乗らずにこう答えた。

「私は人物には関心がないのです。私がこの霊媒とは別個の存在であることだけ分かっていただければよいのでして、その証拠ならすでに一度ならず確定的なものをお届けしております。

(訳者注──たとえばある日の交霊会でバーバネルの奥さんのシルビアにエステル・ロバーツ女史の交霊会でかくかくしかじかのことを申し上げますと予告しておいて、その通りのことを述べたことがある。

ロバーツ女史はまったく知らないことなので、バーバネルを通じてしゃべったのと同じ霊がロバーツ女史を通じてしゃべったことになる。つまりシルバーバーチはバーバネルの潜在意識ではない──二重人格の一つではないことの証拠となる)

 それさえ分かっていただければ、私が地上で誰であったかはもはや申し上げる必要はないと思います。たとえ有名だった人物の名前を述べたところで、それを証明する手段は何一つ無いのですから、何の役にも立ちません。

私はただひとえに私の申し上げることによって判断していただきたいと望み、理性と知性と常識に訴えようと努力しております。 もしもこうした方法で地上の方々の信頼を勝ち取ることができないとしたら、私の出る幕でなくなったということです。

 かりに私が地上でファラオ(古代エジプトの王)だったと申し上げたところで、何にもならないでしょう。それは地上だけに通用して、霊の世界には通用しない地上的栄光を頂戴することにしかなりません。私たちの世界では地上でどんな肩書き、どんな財産をもっていたかは問題にされません。要はその人生で何を為したかです。

私たちは魂そのものを裁くのです。財産や地位ではありません。魂こそ大切なのです。地上では間違ったことが優先されております。あなた方のお国(アメリカ)では黄金の仔牛(旧約聖書に出てくる黄金の偶像で富の象徴)の崇拝の方が神への信仰心をしのいでおります。

圧倒的多数の人間が神よりもマモン(富の神)を崇めております。それが今日のアメリカの数々の問題、困難、争いごとの原因となっております。

 私がもしアリマタヤのヨセフ (※) だったとかバプテスマのヨハネ (※※)だったとか申し上げたら、私の威信が少しでも増すのでしょうか。それともイロコワ族(※※※)の酋長だったとでも申し上げればご満足いただけるのでしょうか」

(※ イエスの弟子。 ※※イエスに洗礼を施した人物。 ※※※北米インディアンの五つの部族で結成した政治同盟。イロコイ、イロカイオイとも──訳者)


その後の交霊会で 「あなたは代弁者(マウスピース)にすぎないとおっしゃってますが、その情報はどこから伝達されるのですか」との質問に答えて──

「数え切れないほどの中継者を通じて、無尽蔵の始源から届けられます。その中継者たちは真理の本来の純粋性と無垢の美しさが失われないようにするための特殊な仕事を受け持っているのです。

あなた方のいう〝高級霊〟のもとに大霊団が組織されています。が、高級などという表現をはるかに超えた存在です。神の軍団の最高指令官とでも言うべき位置にあり、それぞれが霊団を組織して責務の遂行に当たっております。

 各霊団の組織は真理が首尾よく地上世界に滲透することを目的とすると同時に、それに伴って霊力がより一層地上へ注がれることも意図しております。生命力といってもよろしい。 霊は生命であり、生命は霊なのです。

生命として地上に顕現したものは、いかなる形態であろうと、程度こそ違え、本質において宇宙の大霊と同じものなのです。お分かりでしょうか。

 忘れないでいただきたいのは、私たちはすべて(今述べた最高指令官による)指揮、監督のもとに仕事をしており、一人で勝手にやっているのではないということです。私は今、私が本来属している界、言わば〝霊的住処〟から帰ってきたばかりです。

その界において私は、私を地上へ派遣した上司との審議会に出席し、これより先の壮大な計画と、これまでに成し遂げた部分、順調にはかどっているところ、しっかりと地固めができた部分について教わってきました。

 その界に戻るごとに私は、天界の神庁に所属する高級霊団によって案出された計画の完璧さを再確認し、巨大な組織による絶妙の効果に驚嘆の念を禁じ得ないのです。そして、地上がいかに暗く、いかに混沌とし、仕事がいかに困難を極めようと、神の霊力がきっと支配するようになるとの確信を倍加して地上へ戻ってまいります。

 そのとき他の同志たち(他の霊媒や霊覚者を通じて地上に働きかけている霊団の支配霊)とともに私も、これからの仕事の継続のために霊的エネルギーを補充してまいります。指揮に当たられる方々から計画が順調に進行していることを聞かされることは、私にとって充足感の源泉です。すでに地上に根づいております。

二度と追い帰されることはありません。 かつてのような気紛れな働きかけではありません。絶え間なく地上にその影響力を滲透させんとして働きかけている霊力の流れを阻止できる力は、もはや地上には存在しません。

 ですから、悲観的になる材料は何一つありません。明日を恐れ、不安におののき、霊的真理なんか構ってはいられないと言う人は、好きにさせておくほかはありません。幸いにも霊的光明をかいま見ることができ、背後に控えている存在に気づかれた方は、明日はどうなるかを案ずることなく、常に楽観的姿勢を維持できなければいけません」


 シルバーバーチは交霊会の途中ないしは終了時にサークルのメンバーや招待客から感謝の言葉を述べられると必ず「私に礼を言うのは止めてください」と言う。ある日の招待客からそのわけを聞かれて──

 「それはいたって単純な理由から自分で自分に誓ったことでして、これまで何度もご説明してきました。私は自分がお役にたっていることを光栄に思っているのです。ですから、もしも私の努力が成功すれば、それは私がみずから課した使命を成就しているに過ぎないのです。ならば、感謝は私にそのチャンスを与えてくださった神に捧げるべきです。


 私は自分の意志でこの仕事をお引受けし、これまでに学んだことを、受け入れる用意のできている方々にお分けすることにしたのです。もし成功すれば私が得をするのです。わずかな年数のうちに多くの方々に霊的実在についての知識を広めることができたことは私にとって大きな喜びの源泉なのです。

 これほどのことが成就できたことを思うと心が喜びに満たされるのです。ほんとうならもっともっと大勢の方々に手を差しのべて、霊的知識がもたらしてくれる幸せを味わっていただきたいのです。

なのに地上の人間はなぜ知識よりも無知を好み、真理よりも迷信を好み、啓示よりも教理を好むのでしょうか。それがどうしても理解できないのです。私の理解力を超えた人間的煩悩の一つです。

 あなた(質問者)の人生が決して平坦なものでなかったことは私もよく承知しております。スピリチュアリズムという大きな知識を手にするために数々の大きな困難を体験しなければならない──それが真理への道の宿命であるということがあなたには不可解に思えるのではありませんか。けっして不可解なことではありません。そうでないといけないのです。

 ぜひともご注意申し上げておきたいのは、私はけっして叡知と真理と知識の権化ではないということです。あなた方より少しばかり多くの年数を生き、地上より次元の高い世界を幾つか体験したというだけの一個の霊にすぎません。

そうした体験のおかげで私は、素朴ではありますが大切な真理を学ぶことができました。その真理があまりに啓発性に富み有益であることを知った私は、それを受け入れる用意のできた人たちに分けてあげたいと思い、これまでたどってきた道を後戻りしてきたのです。

 しかし私もいたって人間的な存在です。絶対に過ちを犯さない存在ではありません。間違いをすることがあります。まだまだ不完全です。書物や定期刊行物では私のことをあたかも完全の頂上を極めた存在であるかのように宣伝しているようですが、とんでもありません。

私はただ、こうして私がお届けしている真理がこれまで教え込まれてきた教説に幻滅を感じている人によって受け入れられてきたこと、そして今そういう方たちの数がますます増えていきつつあること、それだけで有難いと思っているのです。

 私は何一つややこしいことは申し上げておりません。難解な教理を説いているわけではありません。自然の摂理がこうなっていて、こういう具合に働くのですと申し上げているだけです。そして私は常に理性に訴えております。

そうした摂理の本当の理解は、それを聞かれた方がなるほどという認識が生まれた時にはじめて得られるのです。何が何でも信じなさいという態度は私たちの取るところではありません。

  霊界からのメッセージが届けられて、その霊がいかに立派そうな名をなのっていようと、もしもその言っていることにあなたの理性が反撥し知性が侮辱されているように思われた時は、遠慮なく拒否しなさいと申し上げております。理性によって協力が得られないとしたら、それは指導霊としての資格がないということです」


 とくに最近になってシルバーバーチは〝指導霊崇拝〟の傾向に対して警告を発するようになった。その理由をこう述べている。

 「指導霊といえども完全ではありません。誤りを犯すことがあります。絶対に誤りを犯さないのは大霊のみです。私たちも皆さんと少しも変わらない人間的存在であり、誤まりも犯します。ですから私は、霊の述べたものでも(すぐに鵜呑みにせず)かならず理性によってよく吟味しなさいと申し上げているのです。

私がこうして皆さんからの愛と好意を寄せていただけるようになったのも、私自身の理性で判断して真実であるという確信の得られないものは絶対に口にしていないからです。

 私は何一つ命令的なことを述べたこともなければ、無理やりに押しつけようとしたこともありません。私は霊的にみて一ばん良い結果をもたらすと確信した案内指標(ガイドライン)(これはなかなか良い言葉です)をお教えしているのです。霊的にみてです。物的な結果と混同してはいけません。

時にはあなた方人間にとって大へんな不幸に思えることが霊的には大へんな利益をもたらすことがあるのです。

 人間は問題をことごとく地上的な視点から眺めます。私たちは同じ問題を霊的な視点から眺めます。しかも両者は往々にして食い違うものなのです。たとえば〝他界する〟ということは地上では〝悲しいこと〟ですが、霊の世界では〝めでたいこと〟なのです。

  人間の限られた能力では一つ一つの事態の意義が判断できません。ですから、前にも申し上げたように、判断できないところは、それまでに得た知識を土台として(すべては佳きに計らわれているのだという)信念で補うしかありません。しかし、所詮、そこから先のことは各自の自由意志の問題です。

自分の生き方は自分の責任であり、ほかの誰の責任でもありません。他人の人生は、たとえ肉親といえども代わりに生きてあげるわけにはいかないのです。その人がしたことはその人の責任であって、あなたの責任ではありません。もしそうでなかったら神の判断基準は地上の人間の公正な観念よりお粗末であることになります。

 自分が努力した分だけを霊的な報酬として受け、努力を怠った分だけを霊的な代償として支払わされます。それが摂理であり、その作用は完璧です。

こうした仕事を通じて私たちが皆さんにお教えしなければならない任務の一つは、私たち自身は実に取るに足らぬ存在であることを認識していただくことです。どの霊もみな神の使者にすぎないのです。

ですから、自分以外の誰かがその神の意志(こころ)と霊力(みちから)にあやかれるようにしてあげれば、それは自分に課せられた仕事を成就していることですから、その機会を与えられたことに感謝すべきだと考えるわけです。

 私がこうしてこの霊媒を使用するように、私を道具として使用する高級霊団の援助のもとに素朴な真理をお届けすることに集中していると、時として私自身の存在が無くなってしまったような、そんな感じがすることがあります。

 私はこれまでたどってきた道を後戻りして、その間に発見したものを受け入れる用意のある人たちに分けてあげるようにとの要請を受け、そしてお引受けしたのです。

私は絶対に誤りを犯さないなどとは申しません。まだまだ進化のゴールに到着したわけではありません。が、これまでに発見したもの、学んだことを、それが皆さんのお役に立つものであれば、なんでも惜しみなくお分けします。

 その教えが悲しみと悩みと困難の中にある人たちの救いになっていることを知るのが、私にとって充足感の源泉の一つなのです。その教えは私個人の所有物ではないのです。

それは全ての者がたどるべき道があることを教え、その道をたどれば自分自身についての理解がいき、全生命を支配している無限の霊力の存在に気づき、各生命がその霊力の一部をいただいていること、それ故に絶対に切れることのない絆で結ばれていることを知ります。

 そういう次第ですから、指導霊ないしは支配霊としての資格を得るにいたった霊は、自分自身が崇拝の対象とされることは間違いであるとの認識があるのです。

崇拝の念は愛と叡智と真理と知識と啓示と理解力の完全な権化であるところの宇宙の大霊、すなわち神へ向けられるべきなのです。神とその子等との間の一層の調和を目的とした感謝の祈りをいつ、どこで、どう捧げるべきかについて、間違いのないようにしないといけません。

もっとも、皆さんからの愛念は大歓迎です。私がこうして使命を継続できているのも地上に愛があるからこそです。その愛を私がいただけるということは、私が託された仕事を成就しつつあるということです。これからも、この冷ややかな地上世界に降りた時の何よりの支えとなる愛の温かさを頂戴しつづけるつもりです。

 自我の開発──これが人間としてもっとも大切な目的です。それがこうして私たちが霊界から地上へ戻ってくる目的でもあるのです。すなわち人間に自己開発の方法、言いかえれば霊的革新の方法をお教えすることです。内在する神の恩寵を味わい、平和と調和と協調と友愛の中で生きるにはそれしかないからです。今の地上にはそれとは逆の〝内紛〟が多すぎます。

 数からすれば私たちの霊団は比較的少数ですが、計画は発展の一途をたどっております。着実に進歩しております。確実な大道を見出す巡礼者の数がますます増えております。まことに悦(よろこ)ばしいことです」


 招待客の夫婦がシルバーバーチの霊言集を読んで感動と勇気づけをうけていることを述べて感謝すると──

 「私はマウスピースにすぎませんが、この私を通して届けられた訓えがお役に立っているということは、いつ聞かされても嬉しいものです。私たちがこの仕事を始めた当初はほんの一握りの少数にすぎませんでした。

それが地上の皆さん方の協力を得て、素朴ではありますが深遠な霊的真理が活字になって出版されるに至りました。それによって霊的真理に目覚める人が大幅に増えつつあることは何と有難いことでしょう。

 地上の霊的新生のための大計画をはじめて教えられ、並大抵の苦労では済まされない大事業だが一つあなたもこれまでに手にしたもの(霊的幸福)を犠牲にして参加してみないかと誘われたとき、私のような者でもお役に立つのであればと、喜んでお引受けしました。

 進化の階梯を相当高くまで昇った光輝あふれる存在の中で生活している者が、その燦爛たる境涯をあとにして、この暗くてじめじめした、魅力の乏しい地上世界で仕事をするということは、それはそれは大変なことなのです。

しかし幸いなことに私は地上の各地に協力者を見出すことに成功し、今ではその方たちとの協調的勢力によって、そこここに心の温かみを与えてくれる場をもうけることができました。おかげでこの地表近くで働いている間にも束の間の安らぎを得ることができるようになりました。

 他の大勢の方々と同じように、お二人からも私がお役に立っていることを聞かされると、こうして地上圏へ突入して来なければならない者が置かれる冷えびえとした環境にまた一つ温かみを加えることになります」

 ここでメンバーの一人が「今のご気分はいかがですか」と言い、「こういう質問をした者はいないみたいですね」と述べる。

 「有難いことに私は地上の病気や悩みに苦しめられることがありません。私はすこぶる健康です。あなた方のように年を取ることもありません」


──私はそのことをお聞きしたのではありません。(地上圏が冷えびえとしていると聞かされたので、その日の交霊会へ来てみてどんな気分かと尋ねたのであろうが、それに対する次の返事も何となく噛み合っていない──訳者)

 「これからも霊的成長を続けたいと願っております」

──悩みごとというのはないのですね。

 「この地上へ来た時しかありません」

──死後の世界がそんなに素晴らしいところだとは知りませんでした。地上を去ったときと同じ状態でいるとばかり思っていました。


 「同じ死後の世界でも、どこに落着くかによって違ってきます。バラにもトゲがあります」
(質問者が〝素晴らしい世界〟のことを a bed of roses 〝バラの花壇〟と表現したのでそう述べた───訳者)

──何の悩みもないのでしょうか。

 「あります。が、それもすべて今たずさわっている使命に関わったことだけです。だからこそ時おり地上を去って、私を地上へ派遣した霊団の人たちのもとへ帰り、こんど地上へ行ったらこうしなさいとの指示を仰ぐのです。私たちも数々の問題を抱えています。が、それはすべて神の計画の達成という目的に付随して起きることです」


 ここで、最近新しい方法でスピリチュアリズムの普及を始めている二人のメンバーにシルバーバーチが 「何かお困りになっていることがありますか」 と尋ねると、一人が 「大した問題はありません。とにかくお役に立つことができれば嬉しく思っております」 と述べた。するとシルバーバーチが──

 「あなた方は本当に恵まれた方たちです。私はいつも思うのですが、あなた方のような(真理普及にたずさわる)人たちが、いつか、ご自分の身のまわりで立ち働いている霊の存在をぜひ目のあたりにできるようになっていただきたいのです。そうすれば、たずさわっておられる仕事の偉大さについて一段と認識を深められることでしょう」


 別のメンバーの関連質問に答えて──

 「私たちはまだまだ舵取りに一生けんめいです。あらんかぎりの力を尽くしております。が、地上的条件による限界があります。やりたいことが何でもできるわけではありません。私たちが扱うエネルギーは実にデリケートで、扱い方が完全でないと、ほとんど成果は得られません。

コントロールがうまくいき、地上の条件(霊媒及び出席者の状態)が整えば、物体を私たちの意のままに動かすこともできます。が、いつでもできるというものではありません。そこでその時の条件下で精一杯のことをするしかないわけです。ですが、最終的な結果については私たちは自信を持っております。


 神の地上計画を妨害し、その達成を遅らせることはできても、完全に阻止することはできません。そういう態度に出る人間は自分みずからがみずからの進歩の最大の障害となっているのです。愚かしさ、無知、迷信、貪欲、権勢欲、こうしたものが地上で幅をきかせ、天国の到来を妨げているのです。

 物的な面では、すべての人にいきわたるだけのものがすでに地上にはあります。そして霊的にも十分すぎるほどのものがこちらに用意されています。それをいかにして受け入れる用意のある人にいきわたらせるか、その手段を求めて私たちは一層の努力をしなければなりません。問題はその受け入れ態勢を整えさせる過程です。

何かの体験が触媒となって自我を内省するようになるまで待たねばならないのです。外をいくら見回しても救いは得られないからです。

 これまでこの仕事にたずさわっている方々の生活において成就されたものを見ても、私たちは、たとえ一時的な障害はあっても、最後は万事がうまくいくとの自信があります。
皆さんのすべてが活用できる莫大な霊力が用意されているのです。
 
精神を鎮め、受容性と協調性に富んだ受身の姿勢を取れば、その霊力がふんだんに流入し、人間だけでなく動物をも治癒させる、その通路となることができます。

 ここにおいでの皆さんの多くはみずから地上への再生を希望し、そして今この仕事にたずさわっておられます。地上にいらっしゃる間に自我の可能性を存分に発揮なさることです。そして最後に下される評価は、蓄積した金銀財宝で問われるのではありません。霊的なパスポートで評価されます。それを見ればあなたの霊的な本性が一目瞭然です」


──霊媒が他界した場合、それまでの支配霊は別の霊媒を探すのでしょうか。

 「それは霊媒現象の種類によります。物理的現象が盛んだった初期のころは、そうした現象を起こすための難しい技術をマスターした指導霊が大勢いました。その種の霊はそれまでの霊媒が他界すると別の霊媒を探し出して仕事を継続しました。

 精神的心霊現象の場合には滅多にそういうことはありません。なぜかというと支配霊と霊媒とのつながりが物理霊媒の場合よりはるかに緊密だからです。オーラの融合だけの問題ではありません。時には両者の潜在的大我の一体化の問題もあるのです。そんな次第で、霊媒が他界すると同時に支配霊としての仕事も終わりとなります。

そして支配霊は本来の所属界へ帰っていきます。私の場合、この霊媒が私の世界へ来てしまえば、別の霊媒を通じて通信することはありませんし、通信を試みるつもりもありません。なぜならば、この霊媒を通じて語るための訓練に大変な年数を費やしてきましたので、同じことを初めからもう一度やり直す気にはなれません。

 私の場合、霊媒との関係は誕生時から始まりました。仕事がご承知のような高度なものですから、まず初期の段階は、通信をできるだけ容易にするために必要な霊体と霊体、幽体と幽体の連係プレーの練習に費やさねばなりませんでした。

 そのうち霊媒が生長して自意識に目覚め、人間的に成長しはじめると、今度は発声器官を使用して、どんな内容のものでも伝えられるようにするための潜在意識のコントロールという、もう一つの難しい仕事に取りかかりました」

 人間的な年齢でいうと何歳になるのかと尋ねられて──

 「私がお教えしようとしている叡知と同じ年季が入っているとお考えくださればよろしい。有難いことに私はこうしてお教えしている自然の摂理の驚異的な働きをこの目で確かめることができました。つまり、あなたがこれから行かれる霊的世界において神の摂理がどう顕現しているかを見ております。

その素晴しさ、その大切さを知って私は、ぜひとも後戻りしてそれを地上の方にも知っていただこう──きっと地上にもそれを受け入れて本当の生き方、すなわち霊的なことを最優先し、物的なことをそれに従属させる生き方に目覚めてくれる人がいるはずだと思ったのです」
                

Friday, December 19, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

 The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

四章 天界の〝控えの間〟地上界


3 〝下界〟と地縛霊

一九二三年十一月二八日 金曜日

 人類の救世主、神の子イエス・キリストが〝天へ召される者は下界からも選ばれる〟と述べていることについて考察してみたい。下界に見出されるのみならず、その場において天に召されるという。

その〝下界から選ばれる者〟はいずこに住む者を言うのであろうか。これにはまずイエスが〝下界〟という用語をいかなる意味で用いているかを理解しなければならない。

この場合の下界とはベールの彼方においてとくに物質が圧倒的影響力を持つ界層のことを指し、その感覚に浸る者は、それとは対照的世界すなわち、物質は単に霊が身にまとい使用する表現形体に過ぎぬことを悟る者が住む世界とは、霊的にも身体的にも全く別の世界に生活している。

 それ故、下界の者と言う時、それは霊的な意味において地上に近き界層に居る者を指す。時に地縛霊と呼ぶこともある。肉体に宿る者であろうと、すでに肉体を棄てた者であろうと、同じことである。

身は霊界にあっても魂は地球に鎖でつながれ、光明の世界へ向上して行くことが出来ず、地球の表面の薄暗き界層にたむろする者同士の間でしか意志の疎通が出来ない。完全に地球の囚われの身であり、彼らは事実上地上的環境の中に存在している。

 さてイエスはその〝下界〟より〝選ばれし者〟を天界へ召されたという。その者たちの身の上は肉体をまとってはいても霊体によって天界と疎通していたことを意味する。その後の彼らの生活態度と活躍ぶりを見ればその事実に得心が行く。

悪のはびこる地上をやむを得ぬものと諦めず、悪との闘いの場として厳然と戦い、そして味方の待つ天界へ帰って行った彼ら殉教者の不屈の勇気と喜びと大胆不敵さは、その天界から得ていたのであった。そして同じことが今日の世にも言えるのである。

 これとは逆に地上の多くの者が襲われる恐怖と不安の念は地縛霊の界層から伝わって来る。その恐怖と不安の念こそがそこに住む者たちの宿業なのである。肉体はすでに無く、さりとて霊的環境を悟るほどの霊覚も芽生えていない。が、

それでも彼らはその界での体験を経て、やがては思考と生活様式の向上により、それに相応しい霊性を身につけて行く。

 かくて人間は〝身は地上に在っても霊的にはこの世の者とは違うことが有り得る〟という言い方は事実上正しいのである。

 これら二種類の人間は、こちらへ来ればそれ相応の境涯に落着くのであるが、いずれの場合も自分の身の上については理性的判断による知識はなく、無意識であったために、置かれた環境の意外性に驚く者が多い。

 このことを今少し明確にするために私自身の知識と体験の中から具体例を紹介してみよう。

 曽て私は特別の取り扱いを必要とする男性を迎えに派遣されたことがある。特別というのは、その男は死後の世界について独断的な概念を有し、それに備えた正しく且つ適切な心掛けはかくあるべしとの思想を勝手に抱いていたからである。

地球圏より二人の霊に付き添われて来たのを私がこんもりとした林の中で出迎えた。二人に挟まれた格好で歩いて来たが、私の姿を見て目が眩んだのか、見分けのつかないものを前にしたような当惑した態度を見せた。

 私は二人の付き添いの霊に男を一人にするようにとの合図を送ると、二人は少し後方へ下がった。男は始めのうち私の姿がよく見えぬようであった。そこで、こちらから意念を集中すると、ようやく食い入るように私を見つめた。

 そこでこう尋ねてみた。「何か探しものをしておられるようだが、この私が力になってさしあげよう。その前に、この土地へお出でになられてどれほどになられるであろうか。それをまずお聞かせ願いたい。」

 「それがどうもよく判りません。外国へ行く準備をしていたのは確かで、アフリカへ行くつもりだったように記憶しているのですが、ここはどう考えても想像していたところではないようです。」

 「それはそうかも知れない。ここはアフリカではありません。アフリカとはずいぶん遠く離れたところです。」

 「では、ここは何という国でしょうか。住んでいる人間は何という民族なのでしょうか。先ほどのお二人は白人で、身なりもきちんとしておられましたが、これまで一度も見かけたことのないタイプですし、書物で読んだこともありません。」

 「ほう、貴殿ほどの学問に詳しい方でもご存知ないことがありますか。が、貴殿もそうと気づかずにお読みになったことがあると思うが、ここの住民は聖人とか天使とか呼ばれている者で、私もその一人です。」

 「でも・・・・・・」彼はそう言いかけて、すぐに口をつぐんだ。まだ私に対する信用がなく、余計なことを言って取り返しのつかぬことにならぬよう、私に反論するのを控えたのである。

何しろ彼にしてみればそこは全くの見知らぬ国であり、見知らぬ民族に囲まれ、一人の味方もいなかったのであるから無理もなかろう。

 そこで私がこう述べた。「実は貴殿は今、曽てなかったほどの難問に遭遇しておられる。これまでの人生の旅でこれほど高くそして部厚い壁に突き当たったことはあるまいと思われます。これから私がざっくばらんにその真相を打ち明けましょう。

それを貴殿は信じて下さらぬかも知れない。しかし、それを信じ得心が行くまでは貴殿に心の平和は無く、進歩もないでしょう。

貴殿がこれより為さねばならないことは、これまでの一切の自分の説を洗いざらいひっくり返し裏返して、その上で自分が学者でも科学者でもない、知識の上では赤子に過ぎないこと、この土地について考えていたことは一顧の価値もない──つまり完全に間違っていたことを正直に認めることです。

酷なことを言うようですが、事実そうであれば致し方ないでしょう。でも私をよく見つめていただきたい。私が正直な人間で貴殿の味方だと思われますか、それともそうは見えぬであろうか。」

 男はしばし真剣な面持ちで私を見つめていたが、やがてこう述べた。「あなたのおっしゃることは私にはさっぱり理解できませんし、何か心得違いをしている狂信家のように思えますが、お顔を拝見した限りでは真面目な方で私の為を思って下さっているようにお見受けします。で、私に信じて欲しいとおっしゃるのは何でしょうか。」

 「〝死〟についてはもう聞かされたことでしょう。」

 「さんざん!」

 「今私が尋ねたような調子でであろう。なのに貴殿は何もご存知ない。知識というものはその真相を知らずしては知識とは言えますまい。」

 「私に理解できることを判り易くおっしゃってください。そうすればもう少しは吞み込みがよくなると思うのですが・・・・・・」

 「ではズバリ申し上げよう。貴殿はいわゆる〝死んだ人間〟の一人です。」
 これを聞いて彼は思わず吹き出し、そしてこう述べた。

 「一体あなたは何とおっしゃる方ですか。そして私をどうなさろうと考えておられるのでしょうか。もし私をからかっておられるだけでしたら、それはいい加減にして、どうか私を行かせてください。この近くにどこか食事と宿を取る所がありますか。少しこれから先のことを考えたいと思いますので・・・・・・」

 「食事を取る必要はないでしょう。空腹は感じておられないでしょうから・・・・・・宿も必要ありません。疲労は感じておられないでしょうから・・・・・・それに夜の気配がまるでないことにお気づきでしょう。」


 そう言われて彼は再び考え込み、それからこう述べた。

 「あなたのおっしゃる通りです。腹が空きません。不思議です。でもその通りです。空腹を感じません。それに確かに今日という日は記録的な長い一日ですね。わけが分かりません。」

 そう言って再び考え込んだ。そこで私がこう述べた。

 「貴殿はいわゆる死んだ人間であり、ここは霊の国です。貴殿は既に地上を後にされた。

ここは死後の世界で、これよりこの世界で生きて行かねばならず、より多く理解して行かねばならない。まずこの事実に得心が行かなければ、これより先の援助をするわけには参りません。しばらく貴殿を一人にしておきましょう。

よく考え、私に聞きたいことがあれば、そう念じてくれるだけで馳せ参じましょう。それに貴殿をここまで案内してきた二人が何時も付き添っています。何なりと聞かれるがよろしい。答えてくれるでしょう。

ただ注意しておくが、先ほど私の言い分を笑ったような調子で二人の言うことを軽蔑し喋笑してはなりません。謙虚に、そして礼儀を失いさえしなければ二人のお伴を許しましょう。

貴殿はなかなか良いものを持っておられる。が、これまでも同じような者が多くいましたが、自尊心と分別の無さもまた度が過ぎる。それを二人へ向けて剥き出しにしてはなりませんぞ。

その点を篤と心してほしい。と言うのも、貴殿は今、光明の世界と影の世界との境界に位置しておられる。そのどちらへ行くか、その選択は貴殿の自由意志に任せられている。神のお導きを祈りましょう。それも貴殿の心掛け一つに掛かっています。」

 そう述べてから二人の付き添いの者に合図を送った。すると二人が進み出て男のそばに立った。そこで三人を残して私はその場を離れたのであった。


──それからどうなりました。その男は上を選びましたか下を選びましたか。

 その後彼からは何の音沙汰もなく、私も久しく彼のもとを訪れていない。根がなかなか知識欲旺盛な人間であり、二人の付き添いがあれこれ面倒を見ていた。が、

次第にあの土地の光輝と雰囲気が慣染まなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に優るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛き屈辱の体験でもあった。

しかし彼は勇気ある魂の持ち主で、ついに己れに克った。その時点において二人の付き添いに召されて再び始めの明るい界層へと戻った。

 そこで私は前に迎えた時と同じ木蔭で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで、安易に人を軽蔑することもなくなっていた。私が静か見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの時のことを思い出して羞恥心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私をあざ笑ったことをえらく後悔していたようであった。

 やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。嗚咽で肩を震わせているのが判った。

 私はその頭に手を置いて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうしたことはよくあることである。 ♰

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

 The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

四章 天界の〝控えの間〟地上界


2 一夫婦の死後の再会の情景

一九一三年十一月二七日  火曜日

 前回述べたことに更に付け加えれば、地上の人間は日々生活を送っているその身のまわりに莫大な影響力が澎湃(ほうはい)として存在することに殆ど気づいていない。

すぐ身の回りに犇(ひし)めく現実の存在であり、人間が意識するとせぬとに拘らず生活の中に入り込んでいる。しかもその全てが必ずしも善なるものではなく、中には邪悪なるものもあれば中間的なもの、すなわち善でもなければ悪でもない類のものもある。

 よって私がエネルギーだの影響力だのと述べる時、必然的にそこにはそれを使用する個性的存在を想定してもらわねばならない。

人間は孤独な存在ではなく、孤独では有り得ず、また単独にて行動することも出来ず、常に何らかの目に見えない存在と共に行動し、意識し、工夫していることになる。その目に見えぬ相手がいかなる性質(たち)のものとなるかは、意識するとせぬとに拘らず当人自身が選択しているのである。

 この事実に鑑みれば、当然人間はすべからくその選択に慎重であらねばならないことになるが、それを保証するのは〝祈り〟と〝正しい生き方〟である。崇敬と畏怖の念を持って神を想い、敬意の念を持って同胞を思いやることである。

そして何を行うにも常に守護・指導に当たる霊が自分の心の動き一つ一つを見守り注視していること、今の自分、およびこれより変わり行く自分がそのまま死後の自分であること、その時は今の自分にとって物的であり絶対であり真実と思えることももはや別世界の話となり、地球が縁なき存在となり、地上で送った人生も遠い昔の旅の思い出となり、

金も家財道具も庭の銘木も、その他今の自分には掛けがえのない財産と思えるものの一切が自分のもので無くなることを心して生活することである。

 こちらへ来れば地上という学校での成績も宝も知人もその時点で縁が切れ、永遠に過去のものとなることを知るであろう。

その時は悲しみと後悔の念に襲われるであろうが、一方においては言葉に尽せぬよろこびと光と美と愛に包まれ、その全てが自分の思うがままとなり、先に他界した縁故者がようこそとばかりに歓迎し、霊界の観光へ案内してくれることであろう。

 では、窓一つない狭き牢獄のような人生観を持って生涯を送った者には死後いかなる運命が待ち受けていると思われるか。そういう者の面倒を私は数多くみてきたが、彼らは地上で形づくられた通りの心を持って行動する。

すなわちその大半が自分の誤りを認めようとしないものである。そういう者ほど地上で形成し地上生活には都合の良かった人生観がそう大きく誤っているはずはないと固く信じ切っている。

この類の者はその委縮した霊的視野に光が射すに至るまでには数多くの苦難を体験しなければならない。

 これに対し、この世的財産に目もくれず、自重自戒の人生を送った者は、こちらへ来て抱え切れぬほどの霊的財宝を授かり、更には歓迎とよろこびの笑顔を持って入れ替わり立ち替わり訪れてくれる縁故者などの霊は、一人一人確かめる暇(いとま)もないほどであろう。

そしてそこから真の実在の生活が始まり、地上より遥かに祝福多き世界であることを悟るのである。

 では以上の話を証明する実際の光景を紹介してみよう。

 緑と黄金色に輝き、色とりどりの花の香りが心地よく漂う丘の中腹に、初期の英国に見るような多くの小塔とガラス窓を持った切妻の館がある。それを囲む樹木も芝生も、また麓の湖も、色とりどりの小鳥が飛び交い、さながら生を愉しんでいる如く見える。地上の景色ではない。

これもベールの彼方の情景である。こちらにも地上さながらの情景が存在することは今さら述べるまでもあるまい。ベールの彼方には地上の善なるもの美なるものが、その善と美とを倍加されて存在する。

この事実は地上の人間にとって一つの驚異であるらしいが、人間がそれを疑うことこそ吾々にとりて驚異なのである。

 さて、その館の櫓(やぐら)の上に一人の貴婦人が立っている。身にまとえる衣服がその婦人の霊格を示す色彩に輝いているが、その色彩が地上に見当たらぬ故に何色とも言うことが出来ない。黄金の深紅色とでも言えようか。が、これでも殆んど伝わらないのではないかと思われる。

 さて婦人は先ほどから湖の水平線の彼方に目をやっている。そこに見える低い丘は水平線の彼方から来る光に美しく照り映えている。婦人は見るからにお美しい方である。姿は地上のいかなる婦人にも増して美しく整い、その容貌はさらにさらに美しい。

目は見るもあざやかなスミレ色の光輝を発し、額に光る銀の星は心の変化に応じてさまざまな色調を呈している。その星は婦人の霊格を表象する宝石である。言わば婦人の霊的美の泉であり、その輝き一つが表情に和みと喜びを増す。

この方は数知れぬ乙女の住むその館の女王なのである。乙女たちはこの婦人の意志の行使者であり、婦人の命に従って引きも切らず動き回っている。それほどこの館は広いのである。

 実はこの婦人は先ほどから何者かを待ちこがれている。そのことは婦人の表情を一見すれば直ちに察しがつく。

やがてその麗しい目からスミレ色の光輝が発し、それと同時に口元から何やら伝言が発せられた。そのことは、婦人の口のすぐ下から青とピンクと深紅色の光が放射されたことで判った。その光は、人間には行方を追うことさえ出来まいと思われるほど素早かった。

 すると間もなく地平線の右手に見える樹木の間をぬって、一隻のボートが勢いよくこちらへ向けて進んで来るのが見えてきた。オールが盛んに水しぶきを立てている。

金箔を着せた船首が散らす水しぶきはガラス玉のような輝きを見せながら、あるいはエメラルド、あるいはルビーとなって水面へ落ちて行く。やがてボートは船着き場に着いた。着くと同時に眩ゆいばかりに着飾った一団が大理石で出来た上り段に降り立った。

その上り段は緑の芝生へ通じている。一団は足取りも軽やかに上って来たが、中にただ一人、ゆっくりとした歩調の男が居る。その表情は喜びに溢れてはいるが、その目はまだ辺りを柔らかく包む神々しい光に十分慣れていないようである。

 その時、館の女王が大玄関より姿を見せ一団へ向かって歩を進めた、女王は程近く接近すると歩を止め、その男に懐かしげな眼差しを向けられた。男の目がたちまち困惑と焦燥の色に一変した。すると女王が親しみを込めた口調でこう挨拶された。

「ようこそジェームス様。ようやくあなた様もお出でになられましたね。ようこそ。ほんとにようこそ。」

 が、彼はなおも当惑していた。確かに妻の声である。が昔とだいぶ違う。それに、妻は確か死んだ時は病弱な白髪の老婆だったはずだ。それがどうしたことだ。いま目の前にいる妻は見るからに素敵な女性である。

若すぎもせず老いすぎもせず、優雅さと美しさに溢れているではないか。

 すると女王が言葉を継いだ。「あれよりこの方、私は蔭よりあなた様の身をお護りし、片時とて離れたことがございませんでした。たったお一人の生活でさぞお淋しかったことでしょう。が、それもはや過去のこと。

かくお会いした上は孤独とは永遠に別れを告げられたのでございます。ここは永遠に年を取ることのない神の常夏の国。息子たちやネリーも地上の仕事が終わればいずれこちらへ参ることでしょう。」

 女王はそう語ることによって自分が曽ての妻であることを明かさんと努力した。そしてその願いはついに叶えられた。彼はその麗わしくも神々しい女王こそまさしく吾が妻、吾が愛しき人であることを判然と自覚し、そう自覚すると同時に感激に耐えかねて、どっと泣きくずれたのである。

再び蘇った愛はそれまでの畏敬の念を圧倒し、左手で両目を押さえ、時折垣間見つつ、一歩二歩と神々しき女王に近づいた。

それを見た女王は喜びに顔をほころばせ、急いで歩み寄り、片腕を彼の肩に掛け、もう一方の手で彼の手を握りしめて厳かな足取りで彼と共に石段を登り、その夫のために用意していた館の中へ入って行ったのであった。

 さよう、その館こそ実に二人が地上で愛の巣を営み、妻の死後その妻を弔いつつ彼が一人さびしく暮らしたドーセット(英国南部の州)の家の再現なのである。

私はその家族的情景を、天界なるものが感傷的空想の世界ではなく、生き生きとして実感あふれる実存の世界であることを知ってもらうために綴ったのである。

家、友、牧場──天界には人間の親しんだ美しいものが全て存在する。否、こちらへ来てこそ、地臭を捨てた崇高なる美を発揮する。

 この夫婦は素朴にして神への畏敬の念の中に、貧しき者にも富める者にも等しく交わる良き人生を送った。こうした人々は必ずや天界にてその真実の報酬を授かる。その酬いはこの物語の夫婦の如く、往々にして予想もしなかったものなのである。

 この再会の情景は私が実際に見たものである。実は私もその時の案内役としてその館まで彼に付き添った者の一人であった。その頃は私はまだその界の住民だったのである。

──第何界での出来ごとでしょうか。

 六界である。さて、これにて終わりとしよう。私はしみじみ思う──愛に発する行為を行い、俗世での高き地位よりも神の義を求める、素朴な人間を待ち受ける栄光を少しでも知らせてあげたいものと。

そうした人間はあたかも星の如くあるいは太陽の如く、辺りの者がただ側(そば)にいるだけでその光輝によって一段と愛らしさを増すことであろう。 ♰
                                           

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch Edited by Sylvia Barbanell

十一章 なぜ神に祈るのか

 


 〝あなたはなぜ神に祈るのですか〟と問われてシルバーバーチは〝祈り〟の本来のあり方について次のように述べた。

 「それは、私に可能なかぎり最高の〝神の概念〟に波長を合わせたいという願いの表れなのです。

 私は祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、つまり抑え難い気持ちを外部へ向けて集中すると同時に、内部へ向けて探照の光を当てる行為であると考えております。ほんとうの祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。

われわれの心の中に抱く思念は神は先刻ご承知なのです。要望は口に出される前にすでに知れているのです。

 なのになぜ祈るのか。それは、祈りとはわれわれのまわりに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段だからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態に置くことになるのです。

僅かな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることが出来、かくしてわれわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。

 利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーのムダ使いをしているに過ぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。が、自分をよりいっそう役立てたいという真摯な願いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめるための祈りであれば、その時の高められた波長を通して力と励ましと決意を授かり、祈りが本来の効用を発揮したことになります。

 では誰に、あるいは何に祈るべきか──この問題になると少し厄介です。なぜなら人間一人ひとりに個人差があるからです。人間は必然的に自己の精神的限界によって支配されます。その時点までに理解したものより大きいものは心象として描きえないのです。

ですから私もこれまでに地上にもたらされた知識に、ある程度まで順応せざるを得ないことになります。たとえば私は言語という媒体を使用しなければなりませんが、これは観念の代用記号にすぎず、それ自体が、伝えるべき観念に制約を加える結果となっています。

 このように地上のための仕事をしようとすれば、どうしても地上の慣例や習慣、しきたりといったものに従わざるを得ません。ですから私は、神は人間的存在でないと言いながら男性代名詞を使用せざるを得ないことになります (たとえば〝神の法則〟というのを His Iaws というぐあいに──訳者)。私の説く神は宇宙の第一原因、始源、完全な摂理です。

 私が地上にいた頃はインディアンはみな別の世界の存在によって導かれていることを信じておりました。それが今日の実験会とほぼ同じ形式で姿を見せることがありました。その際、霊格の高い霊ほどその姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。

そこで我々は最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像したわけです。いつの時代にも〝白〟という のは 〝完全〟〝無垢〟〝混ぜもののない純粋性〟 の象徴です。そこで最高の霊は 〝白光の大霊〟 であると考えました。当時としてはそれが我々にとって最高の概念だったわけです。

 それは、しかし、今の私にとっても馴染みぶかい言い方であり、どのみち地上の言語に移しかえなければならないのであれば、永年使い慣れた古い型を使いたくなるわけです。

ただし、それは人間ではありません。人間的な神ではありません。神格化された人間ではありません。何かしらでかい存在ではありません。激情や怒りといった人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。

永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的な宇宙エネルギーであり、それが個別的意識形体をとっているのが人間です。

 しかしこうして述べてみますと、やはり今の私にも全生命の背後の無限の知性的存在である神を包括的に叙述することは不可能であることを痛感いたします。が少なくとも、これまで余りに永いあいだ地上世界にはびこっていた多くの幼稚な表現よりは、私が理解している神の概念に近いものを表現していると信じます。

 忘れてならないのは、人類は常に進化しているということ、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっているということです。知的地平線の境界がかつてほど狭くなくなり、神ないしは大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれにともなって進化しております。しかし神自体は少しも変わっておりません。

 これから千年後には地上の人類は今日の人類よりはるかに進化した神の概念を持つことになるでしょう。だからこそ私は、宗教は過去の出来ごとに依存してはいけないと主張するのです。過去の出来ごとを、ただ古い時代のことだから、ということで神聖であるかに思うのは間違いです。

霊力を過去の一時代だけに限定しようとすることは、霊力が永遠不変の実在であるという崇高な事実を無視することで、所詮は無駄に終わります。地上のいずこであろうと、通路のあるところには霊力は注がれるのです。

(訳者注──聖霊は紀元六六年まで聖地パレスチナにのみ降り、それきり神は霊力の泉に蓋をされた、というキリスト教の教えを踏まえて語っている)

 過去は記録としての価値はありますが、その過去に啓示の全てが隠されてるかに思うのは間違いです。神は子等に受容能力が増すのに応じて啓示を増してまいります。生命は常に成長しております。決して静止していません。〝自然は真空を嫌う〟という言葉もあるではありませんか。

 あなた方は人々に次のように説いてあげないといけません。すなわち、どの人間にも神性というものが潜在し、それを毎日、いえ、時々刻々、より多く発揮するために活用すべき才能が具わっていること、それさえ開発すれば、周囲に存在する莫大な霊的な富が誰にでも自由に利用できること、言語に絶する美事な叡知が無尽蔵に存在し、活用されるのを待っているということです。

人類はまだまだその宝庫の奥深くまで踏み込んでいません。ほんの表面しか知りません」


──あなたは霊的生活に関連した法則をよくテーマにされますが、肉体の管理に関連した法則のことはあまりおっしゃってないようにお見受けします。

 「おっしゃる通り、あまり申し上げておりません。それは、肉体に関して必要なことはすでに十分な注意が払われているからです。私が見るかぎり地上の大多数の人間は自分自身の永遠なる部分すなわち霊的自我について事実上何も知らずにおります。

生活の全てを肉体に関連したことばかりに費しております。霊的能力の開発に費している人は殆ど──もちろんおしなべての話ですが──いません。

第一、人間に霊的能力が潜在していることを知っている人がきわめて少ないのです。そこで私は、正しい人生観を持っていただくためには、そうした霊的原理について教えてあげることが大切であると考えるわけです。

 私はけっして現実の生活の場である地上社会への義務を無視して良いとは説いておりません。霊的真理の重大性を認識すれば、自分が広い宇宙の中のこの小さな地球上に置かれていることの意味を理解して、いちだんと義務を自覚するはずです。

自国だけでなく広い世界にとってのより良き住民となるはずです。人生の裏側に大きな計画があることを理解し始め、その大機構の中での自分の役割を自覚しはじめ、そして、もしその人が賢明であれば、その自覚に忠実に生きようとしはじめます。

 肉体は霊の宿である以上、それなりに果たすべき義務があります。地上にいるかぎり霊はその肉体によって機能するのですから、大切にしないといけません。が、そうした地上の人間としての義務をおろそかにするのが間違っているのと同じく、霊的実在を無視しているのも間違いであると申し上げているのです。

 また世間から隔絶し社会への義務を果たさないで宗教的ないし神秘的瞑想に耽っている人が大勢いますが、そういう人たちは一種の利己主義者であり、私は少しも感心しません。何ごとも偏りがあってはなりません。

いろんな法則があります。それを巾広く知らなくてはいけません。自分が授かっている神からの遺産と天命とを知らなくてはいけません。そこではじめて、この世に生まれてきた目的を成就することになるのです。

 霊的事実を受け入れることのできる人は、その結果として人生について新しい理解が芽生え、あらゆる可能性に目覚めます。霊的機構の中における宗教の持つ意義を理解します。科学の意義が分かるようになります。

芸術の価値が分るようになります。教育の理想が分るようになります。こうして人間的活動の全分野が理解できるようになります。一つ一つが霊の光で啓蒙されていきます。所詮、無知のままでいるより知識を持って生きる方がいいに決まっています」

 続いて二人の読者からの質問が読み上げられた。

 一つは「〝神は宇宙の全生命に宿り、その一つを欠いても神の存在はありません〟とおっしゃっている箇所がありますが、もしそうだとすると神に祈る必要ないことになりませんか」というものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「その方が祈りたくないと思われるのなら、別に祈る必要はないのです。私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないものを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列に過ぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。

魂の開発を促進するという霊的な目的です。ただし、だからといって祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。

 祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にするための刺戟──これから訪れるさまざまな闘いに打ち克つために守りを固める手段です。何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方にかかわってくる問題です。

 言い変えれば、祈りとは神性の一かけらである自分がその始源とのいっそう緊密なつながりを求めるための手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めたとき、その時こそ真の自我を見出したことになります」


 もう一つの質問は女性からのもので、「イエスは〝汝が祈りを求めるものはすでに授かりたるも同然と信ぜよ。しからば汝に与えられん〟と言っていますが、これは愛する者への祈りには当てはまらないように思いますが、いかがでしょうか」というものだった。これに対してシルバーバーチは答えた。

 「この方も、ご自分の理性にそぐわないことはなさらないことです。祈りたい気持ちがあれば祈ればよろしい。祈る気になれないのでしたら無理して祈ることはありません。イエスが述べたとされている言葉が真実だと思われれば、その言葉に従われることです。真実とは思えなかったら打っちゃればよろしい。

神からの大切な贈りものであるご自分の理性を使って日常生活における考え、言葉、行為を規制し、ご自分が気に食わないもの、ご自分の知性が侮蔑されるように思えるものを宗教観、哲学観から取り除いていけばよいのです。私にはそれ以上のことは申し上げられません」


──〝求めよ、さらば与えられん〟という言葉も真実ではなさそうですね。

 「その〝与えられるもの〟が何であるかが問題です。祈ったら何でもその通りになるとしたら、世の中は混乱します。最高の回答が何もせずにいることである場合だってあるのです」


──今の二つの格言はそれぞれに矛盾しているようで真実も含まれているということですね。

 「私はいかなる書物の言葉にも興味はありません。私はこう申し上げたことがあるはずです──われわれが忠誠を捧げるのは教義でもなく、書物でもなく、教会でもない、宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理である。と」



 シルバーバーチの祈り

 ああ神よ。私たちはあなたの尊厳、あなたの神性、無限なる宇宙にくまなく行きわたるあなたの絶対的摂理を説き明かさんと欲し、もどかしくも、それに相応しき言葉を求めております。

 私たちは、心を恐怖によって満たされ精神を不安によって曇らされている善男善女が何とかあなたへ顔を向け、あなたを見出し、万事が佳きに計らわれていること、あなたの御心のままにて全てが佳しとの確信を得てくれることを期待して、霊力の豊かな宝の幾つかを明かさんとしているところでございます。

 その目的の一環として私どもは、これまで永きにわたってあなたの子等にあなたの有るがままの姿───完璧に機能している摂理、しくじることも弱まることもない摂理、過ちを犯すことのない摂理としてのあなたを拝することを妨げてきた虚偽と誤謬と無知と誤解の全てを取り払わんとしております。

 私たちは宇宙には生物と無生物とを問わず全ての存在に対して、また全ての事態に対して備えができているものと観ております。あなた方から隠しおおせるものは何一つございません。神秘も謎もございません。あなたは全てを知ろしめし、全てがあなたの摂理の支配下にございます。

 それゆえ私どもは、その摂理───これまで無窮の過去より存在し、これより未来永劫に存在し続ける摂理を指向するのでございます。子等が生活をその摂理に調和させ、すべての暗黒、すべての邪悪、すべての混沌と悲劇とが消滅し、代わって光明が永遠に輝き渡ることでございましょう。

 さらに又、愛に死はないこと、生命は永遠であること、墓場は愛の絆にて結ばれし者を分け隔てることはできぬこと、霊力がその本来の威力を発揮したときは、いかなる障害も乗り切り、あらゆる障壁を突き破って、愛が再び結ばれるものであることを証明してみせることも私どもの仕事でございます。

 私たちは、人間が進化を遂げ、果たすべく運命づけられている己れの役割に耐えうる素質を身に付けた暁に活用されることを待っているその霊力の豊かさ、無尽蔵の本性を持つ無限なる霊の存在を明かさんと欲しているものでございます。
 ここに、己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

Thursday, December 18, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen
四章 天界の〝控えの間〟地上界


 1 インスピレーション

一九一三年十一月二六日  水曜日

 語りたいことは数多くある。霊界の組織、霊力の働き──それが最上界より発し吾々の界層を通過して地球へ至るまでに及ぼす影響と効果、等々。その中には人間に理解できないものがある。また、たとえ理解はできても信じてもらえそうにないものもある。

それ故私は、その中でも比較的単純な原理と作用に限定しようと思う。その一つがいわゆるインスピレーションの問題である。それが吾々と人間との間でどのように作用しているかを述べよう。

 ところで、このインスピレーションなる用語は正しく理解すれば実に表現力に富む用語であるが、解釈を誤ると逆に実に誤解を招き易い用語でもある。たとえば、それは吾々が神の真理を人間の心に吹き込むことであると言っても決して間違ってはいない。が、

それは真相のごく一部を述べているに過ぎない。それ以外のもの──向上する力、神の意志を成就する力、それを高尚な動機から成就しようとする道義心、その成就の為の叡智(愛と渾然一体となった知識)等々をも吹き込んでいるからである。

故に人間がインスピレーションを受けたと言う場合、それは一つの種類に限られたことではなく、また例外的なものでもない。

いかに生きるべきかを考えつつ生きている者──まったく考えぬ者はまずいないであろうが──は何らかの形で吾々のインスピレーションを受け援助を得ているのである。

 が、その方法を呼吸運動に譬えるのは必ずしも正しいとは言えない。それを主観的に解釈すればまだしもよい。人間が吸い込むのは吾々が送り届けるエネルギーの波動だからである。

人間は山頂において深呼吸し新鮮なる空気を胸いっぱいに吸い込み爽快感を味わうが、吾々が送り届けるエネルギーの波動も同時に吸い込んでいるのである。

 が、これを新しい神の真理を典雅なる言葉で世に伝える人々、あるいは古い真理を新たに説き直す特殊な人々のみに限られたことと思ってはならない。

病いを得た吾が子を介抱する母親、列車を運転する機関士、船を操る航海士、その他にもろもろの人間が黙々と仕事に勤しんでいるその合間をぬって、時と場合によって吾々がその考えを変え、あるいは補足している。

たとえ当人は気づかなくてもよい。大体において気づいていない。が、吾々は出来る範囲のことをしてそれで満足である。邪魔が入らぬ限りそれが可能なのである。

 その邪魔にも数多くある。頑な心の持ち主には無理して助言を押し付けようとはしない。その者にも自由意志があるからである。また、われわれの援助が必要とみた時でも、そこに悪の勢力の障害が入り込み、吾々も手出しが出来ないことがある。

悪に陥れんとする邪霊の餌食となり、その後の哀れな様は見るも悲しきものとなる。

 それぞれの人間が、老若男女を問わず、意識すると否とに拘らず、目に見えぬ仲間を選んでいると思えばよい。

当人が、吾々霊魂(スピリット)がこの地上に存在していること、つまり目に見えぬ未知の世界からの影響を受けているという事実をあざ笑ったとしても、善意と正しい動機にもとづいて行動しておれば、それは一向に構わぬことである。それが完全な障害となる気遣いは無用である。

吾々は喜んで援助する。なぜなら当人は真面目なのであり、いずれ自分の非を認める日も来るであろう──いずれ遠からぬ日に。ただ単に、その時点においては吾々の意図を理解するほどに鋭敏で無かったということに過ぎない。

人間が吾々の働きかけの意図を理解せず、結果的に吾々が誤解されることは良くあることである。

 水車は車軸に油が適度に差されているときは楽に回転する。これが錆びつけば水圧を増さねばならず、車輪と車軸との摩擦が大きくなり、動きも重い。

又、船員は新たに船長として迎えた人が全く知らない人間であっても、その指示には一応忠実に従うであろうが、よく知り尽くした船長であれば、例え嵐の夜であっても命令の意味をいち速く理解してテキパキと動くであろう。

互いに心を知り尽くしている故に、多くを語らずして船長の意図が伝わるからである。それと同じく、吾々の存在をより自然に、そしてより身近に自覚してくれている者の方が、吾々の意図をより正しく把握してくれるものである。

 それ故ひと口にインスピレーションと言っても意味は広く、その中身はさまざまである。古い時代の予言者は──今日でもそうであるが──その霊覚の鋭さに応じて霊界からの教示を受けた。霊の声を聞いた者もおれば姿を見た者もいた。

いずれも霊的身体に具わる感覚を用いたのである。また直感的印象で受けた者もいる。

吾々がそうした方法及び他の諸々の方法によって予言者にインスピレーションを送るその目的はただ一つ──人間の歩むべき道、神の御心に叶った道を歩むための心がけを、高い界にいる吾々が理解し得たかぎりにおいて、地上の人間一般へ送り届けることである。

もとより吾々の教えも最高ではなく、また絶対に誤りが無いとも言えない。が、少なくとも真剣に、そして祈りの気持ちと大いなる愛念を持って求める者を迷わせるようなことには絶対にならない。祈りも愛も神のものだからである。

そしてそれを吾ら神の使途は大いなる喜びとして受け止めるのである。

またそれを求めて遠くまで出向くことも不要である。なぜなら地上がすでに悪より善の勢力の方が優勢だからである。そしてその善と悪の程度次第で大いに援助できることもあれば、行使能力が制限されることもある。

 故に人間は、各自、次の二つのことを心しなければならない。一つは、天界にて神に仕える者の如くに地上に在りても常に魂の光を灯し続けることである。吾々が人間界と関わるのは神の意志を成就するためであり、そのために吾々が携えて来るのは他ならぬ神の御力だからである。

人間の祈りに対する回答は吾ら使徒に割り当てられる。つまり神の答えを吾々が届けるのである。故に吾々の訪れには常に油断なく注意しなければならない。

実は吾々は、かのイエスが荒野における誘惑と闘った時、またゲッセマネにおける最大の苦境にあった時に援助に赴いた霊団に属していたのである。(もっともあの時直接イエスと通じ合った天使は私よりは遥かに霊格の高きお方であるが。)

 もう一つ心しなければならないことは、常に〝動機〟を崇高に保ち、自分のためでなく他人の幸せを求めることである。吾々にとっても、己れ自身の利益より同胞の利益を優先させる者の進歩が最も援助しやすいものである。吾々は施すことによって授かる。

人間も同じである。イエスも述べた如く、動機の大半は施すことであらねばならない。そこにより大きな祝福への道があり、しかもそこに例外というものは無いのである。

 イエスの言葉を思い出すがよい。「私はこの命を捨てるに吝(やぶさ)かではない。が私はそれを私の子羊のために捨てるのである」と述べ、その言葉どおりに、そして、いささかの迷いもなく、潔く生命を捨てられた。が、捨てると同時に更に栄光ある生命を持って蘇られた。

ひたすら同胞への愛に動かされていたからである。貴殿も〝我〟を捨てることである。そうすれば、施すことの中にも授かることの中にも喜びを味わうことであろう。

これを完全に遂行することは確かに至難のわざである。が、それが本来の正しい道であり、ぜひ歩まねばならぬ道なのである。それを主イエスが身を持って示されたのである。


 花の導管は芳香を全部放出して人間を楽しませては、すぐまた補充し、そうした営みの中で日々成熟へと近づく。心優しき言葉はそれを語った人のもとに戻って来る。

かくして二人の人間はどちらかが親切の口火を切ることによって互いが幸せとなる。又、優しき言葉はやがて優しき行為となりて帰ってくる。かくて愛は相乗効果によって一層大きくなり、その愛と共に喜びと安らぎとが訪れる。

また施すことに喜びを感じる者、その喜び故に施しをする者は、天界へ向けて黄金の矢を放つにも似て、その矢は天界の都に落ち、拾い集められて大切に保存され、それを投げた者が(死後)それを拾いに訪れた時、彼は一段と価値を増した黄金の宝を受け取ることであろう。♰


シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(七)

  More Wisdom of Silver Birch Edited by Sylvia Barbanell

十章 質問に答える


(一)──スピリチュアリズムが現代の世界に貢献できるものの中で最大のものは何でしょうか。

 「最大の貢献は神の子等にいろんな意味での自由をもたらすことです。これまで隷属させられてきた束縛から解放してくれます。知識の扉は誰にでも分け隔てなく開かれていることを教えてあげることによって、無知の牢獄から解放します。日蔭でなく日向で生きることを可能にします。

 あらゆる迷信と宗教家の策謀から解放します。真理を求める戦いにおいて勇猛果敢であらしめます。内部に宿る神性を自覚せしめます。地上の他のいかなる人間にも霊の絆が宿ることを認識せしめます。

 憎み合いもなく、肌の色や民族の差別もない世界、自分をより多く役立てた人だけが偉い人と呼ばれる新しい世界を築くにはいかにしたらよいかを教えます。知識を豊かにします。精神を培い、霊性を強固にし、生得の神性に恥じることのない生き方を教えます。こうしたことがスピリチュアリズムにできる大きな貢献です。

 人間は自由であるべく生れてくるのです。自由の中で生きるべく意図されているのです。奴隷の如く他のものによって縛られ足枷をされて生きるべきものではありません。その人生は豊かでなければなりません。

精神的にも身体的にも霊的にも豊かでなければいけません。あらゆる知識──真理も叡知も霊的啓示も、すべてが広く開放されるべきです。生得の霊的遺産を差し押さえ天命の全うを妨げる宗教的制約によって肩身の狭い思い、いらだち、悔しい思いをさせられることなく、霊の荘厳さの中で生きるべきです」


(二)──スピリチュアリズムはこれまでどおり一種の影響力として伸び続けるべきでしょうか、それとも一つの信仰形体として正式に組織を持つべきでしょうか。

 「私はスピリチュアリズムが信仰だとは思いません。知識です。その影響力の息吹は止めようにも止められるものではありません。真理の普及は抑えられるものではありません。みずからの力で発展してまいります。外部の力で規制できるものではありません。

あなた方が寄与できるのは、それがより多くの人々に行き渡るように、その伝達手段となることです。それがどれだけの影響をもたらすかは前もって推し量ることは出来ません。そのためのルールをこしらえたり、細かく方針を立てたりすることはできません。

(そういうことを人間の浅知恵でやろうとすると組織を整え、広報担当、営業担当といったものをこしらえ、次第に世俗的宗教となり下がるということであろう──訳者)

 あなた方に出来るのは一個の人間としての責任に忠実であるということ、それしかないのです。自分の理解力の光に照らして義務を遂行する──人のために役立つことをし、自分が手に入れたものを次の人に分け与える──かくして霊の芳香が自然に広がるようになるということです。一種の酵素のようなものです。

じっくりと人間生活の全分野に浸透しながら熟成してまいります。皆さんはご自分で最善と思われることに精を出し、これでよいと思われる方法で真理を普及なさることです」


(三)──支配霊になるのは霊媒自身よりも霊格の高い霊と決まっているのでしょうか。

 「いえ、そうとはかぎりません。その霊媒の仕事の種類によって違いますし、また、〝支配霊〟という用語をどういう意味で使っているかも問題です。地上の霊媒を使用する仕事に携る霊は〝協力態勢〟で臨みます。

一人の霊媒には複数の霊からなる霊団が組織されており、その全体の指揮に当たる霊が一人います。これを〝支配霊〟と呼ぶのが適切でしょう。霊団全体を監督し、指示を与え、霊媒を通じでしゃべります。

ときおり他の霊がしゃべることもありますが、その場合も支配霊の指示と許可を得たうえでのことです。しかし役割は一人ひとり違います。〝指導霊〟という言い方をすることがあるのもそのためです。

 入神霊言霊媒にかぎって言えば、支配霊は必ず霊媒より霊格が上です。が、物理現象の演出にたずさわるのは必ずしも霊格が高い霊ばかりとはかぎりません。中にはまだまだ地上的要素が強く残っているからこそその種の仕事にたずさわれるという霊もいます。

そういう霊ばかりで構成されている霊団もあり、その場合は必ずしも霊媒より上とはかぎりません。しかし一般的には監督・支配している霊は霊媒より霊格が上です。そうでないと霊側に主導権が得られないからです」

(訳者注──〝霊〟と〝魂〟の違いと同じく、この〝支配霊〟と〝指導霊〟の使い方は英語でも混乱している。と言うよりは勝手な解釈のもとに使用されていると言った方がよいであろう。これは各自の理解力に差がある以上やむを得ないことであり、こうしたことは心霊の分野だけでなく学問の世界ですら一般的である。だからこそ辞引や用字用語辞典が生まれてくるのである。

心霊用語を一定の規範にまとめるべきだという意見も聞かれるが、私は使用する人間にその心得がない以上それは無駄であると同時に、その必要性もないと考えている。要は自分はこういう意味で使用するということを明確にすれば、あるいは文脈上それがはっきりすれば、それでいいと思う。

特に霊界通信になると根本的に人間の用語では表現できないことが多く、通信霊は人間以上にその点で苦労しているのである。

それは私のように英語を日本語に直す仕事以上に大変なことであろう。霊言でも自動書記でも同じである。それが人間の言語の宿命なのである。シルバーバーチが折あるごとに、用語に拘らずその意味をくみ取って欲しいと言っているのもそのためである)


(四)───入神状態(トランス)は霊媒の健康に害はないのでしょうか。
  「益こそあれ何ら害はありません。ただし、それは今までに明らかにされた霊媒現象の原理・法則を忠実に守っていればのことです。あまりひんぱんにしすぎると、たとえば一日に三回も四回も行えば、これは当然健康に悪影響を及ぼします。が、

常識的な線を守って、きちんと期間を置いて行い、霊媒としての日ごろの修行を怠らなければ、必ず健康にプラスします。なぜかというと、霊媒を通して流れるエネルギーは活性に富んでいますから、それが健康増進の効果をもたらすのです。正しく使えば霊媒能力はすべて健康にプラスします。が使い方を誤るとマイナスとなります」


(五)──思念に実体があるというのは本当でしょうか。

 「これはとても興味深い問題です。思念にも影響力がある───このことには異論はないでしょう。思念は生命の創造作用の一つだからです。ですから、思念の世界においては実在なのです。が、それが使用される界層(次元)の環境条件によって作用の仕方が制約を受けます。

 いま地上人類は五感を通して感識する条件下の世界に住んでいます。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信しあえる段階までは進化していないということです。

まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。その条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形体をとるまでは存在に気付かないからです。

 思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が感識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。

 勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野でとらえなければいけません」


──物的活動の動機づけとして活用するのは許されますね?

 「それは許されます。また事実、無意識のうちに使用しております。現在の限られた発達状態にあっては、その威力を意識的に活用することができないだけです」


──でも、その気になれば霊側が人間の思念を利用して威力を出させることも可能でしょう?

 「できます。なぜなら私たちは人間の精神と霊を通して働きかけているからです。ただ、私がぜひ申し上げておきたいのは、人間的問題を集団的思念行為で解決しようとしても、それは不可能だということです。思念がいかに威力があり役に立つものではあっても、本来の人間としての仕事の代用とはなり得ないのです。

またまた歓迎されないお説教をしてしまいましたが、私が観るかぎり、それが真実なのですから仕方がありません」


──大戦前にあれほど多くの人間が戦争にならないことを祈ったのに阻止できませんでした。あれなどはそのよい例だと思います。ヨーロッパ全土───敵国のドイツでもそう祈ったのです。

 「それは良い例だと思います。物質が認識の基本となっている物質界においては、思念の働きにおのずと限界があります。それはやむを得ないことなのです。ですが他方、私は思念の価値、ないしは地上生活における存在の場を無視するつもりはありません」


──善意の人々にとっては思念の力が頼りです。

──米国民への友好心はわれわれ英国人への友好心となって返ってきます。

 「それから、遠隔治療において思念が治療手段の一つとなっています。ただしその時は霊がその仲介役をしていることを忘れないでください。地上の人間は自分の精神に具わっている資質(能力)の使い方をほとんど知らずにいます。

ついでに言えば、その精神的資質が次の進化の段階での大切な要素となるのです。その意味でこの地上生活において思念を行為の有効なさきがけとする訓練をすべきです。

きちんと考えたうえで行為に出るように心掛けるべきです。ですが、思念の使い方を知らない方が何と多いことでしょう。わずか五分間でも、じっと一つのことに思念を集中できる人が何人いるでしょうか。実に少ないのです」


(六)──遠隔治療において患者が(精神を統一するなどして)治療に協力することは治療効果を増すものでしょうか。

 「私の考えでは、それは波長の調整にプラスしますから、大体において効果を増すと思います。異論もあることでしょうが、私はそうみています。知らずにいるよりは知っている方が原則としては治療が容易になります。治療エネルギーを送る側と受ける側とが波長が合えば、治療が一段と容易になります。

 治療を受けていることを知らないでも顕著な治療効果が表れたケースがあることは私もよく知っておりますが、大抵の場合それは患者の睡眠中に行われているのです。その方が患者の霊的身体との接触が容易なのです」

(昼間に送られた治療エネルギーが睡眠中に効き始めるというケースもある───訳者)


(七)──心霊研究をどう思われますか。

 「その種の質問にお答えする時に困るのは、お使いになる用語の意味について同意を得なければならないことです。〝心霊研究〟という用語には、いわゆるスピリチュアリストが毛嫌いする意味が含まれています。(S・P・Rのように資料をいじくりまわすだけに終始して一歩も進歩しない心霊研究をさす───訳者)

こうした交霊会や実験会や養成会も真の意味における〝研究〟であると言えます。というのは、私たちはそうした会を通して霊力がよりいっそう地上へもたらされるための通路を吟味・調査しているからです。

 みなさんは私たちから学び、私たちはみなさんから学びます。動機が純粋の探求心に発し、得られた知識を人類の福祉のために使うのであれば、私は研究は何であっても結構であると思います。が、霊媒を通して得られる現象を頭から猜疑心を持って臨み、にっちもさっちも行かなくなっている研究は感心しません。

動機が真摯であればそれは純粋に〝研究〟であると言えます。真摯でなければ〝研究〟とは言えません。純心な研究は大いに結構です」


(八)──国教会は、スピリチュリズムには何ら世の中に貢献する新しいものがないと言って愚弄しておりますが、それにどう反論されますか。

 「私は少しも愚弄されているとは思いません。私たちがお届けした〝新しいものが〟一つあります。それは、人類史上初めて宗教というものを証明可能な基盤の上に置いたことです。つまり信仰と希望とスペキュレーションの領域から引き出して〝ごらんなさい。このようにちゃんと証拠があるのですよ〟と言えるようになったことです。

しかし、新しいものが無いとおっしゃいますが、ではイエスは何か新しいものを説いたでしょうか。大切なのは新しさとか物珍しさではありません。真実か否かです」


 ここでメンバーたちがシルバーバーチの当意即妙の応答ぶりに感心して口々にそのことを述べると、こう述べた。

 「地上のみなさんは細切れの知識を寄せ集めなければなりませんが、私たちは地上にない形で組織された知識の貯蔵庫があるのです。どんな情報でも手に入ります───即座に手に入れるコツがあるのです(※)。私たちの世界の数ある驚異の一つは、すべてが見事に、絶妙に組織されていることです。

知識の分野だけでなく、霊にとってのあらゆる資源───文学、芸術、音楽等の分野においてもそうです。すべてが即座に知れ、即座に手に入ります。まだ地上の人間に知られていないことでも思いどうりになります」

(※霊格の高い低いに関係なく、そのコツさえ会得すれば誰にでも知れる。だからこそ歴史上の人物を名のって出る霊は警戒を要するのである。つまり、その人物の思想や地上時代の情報はいとも簡単に───あたかもコンピューターの情報のように、あるいはそれ以上に簡単に、しかも詳細に知れるので、〝それらしいこと〟を言っているからといってすぐに信じるのは浅はかである。

他界したばかりの霊を呼び出す場合も同じで、それらしく見せかけるのは霊にとっては造作もないことである。そんなことを専門にやって人間を感動させたり感激させたりしている低級霊団がいて、うまく行くとしてやったりと拍手喝さいして喜んでいる。別に危険性はないが、私には哀れに思えてならないのである───訳者)


(九)──大霊(神)を全能でしかも慈悲ある存在と形容するのは正しいでしょうか。

 「何ら差し支えありません。大霊は全能です。なぜならその力は宇宙及びそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。大霊より高いもの、大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。宇宙は誤ることのない叡知と慈悲深き目的を持った法則によって統括されています。

その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化していることは間違いない事実です。

 このことは慈悲の要素が神の摂理の中に目論まれていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力を持ってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。

 いかに霊格の高い霊といえども、一つの原因が数学的正確さを持って結果を生んでいく過程を阻止することは出来ません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、この用語ではその背後に知的で、目的意識を持ったダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。

 私がお伝えしようとしている概念は全能にして慈悲にあふれ、完全で無限なる神であると同時に、地上の人間がとかく想像しがちな〝人間神〟的な要素のない神です。しかし神は無限なる大霊である以上その顕現の仕方も無限です。あなた方お一人お一人がミニチュアの神なのです。

お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。その火花を宿していればこそ存在出来るのです。しかしそれが地上的人間性という形で顕現している現段階においては、みなさんは不完全な状態にあるということです。

 神の火花は完全です。一方それがあなた方の肉体を通して顕現している側面は極めて不完全です。死後あなた方はエーテル体、幽体、又は霊的身体───どう呼ばれても結構です。要するに死後に使用する身体であると理解すればよろしい───で自我を表現することになりますが、そのときは現在よりは不完全さが減ります。

霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから完全といい不完全といい、程度の問題です」


──バラもつぼみのうちは完全とは言えませんが満開となった時に完全となるのと同じですね。

 「全くその通りとも言いかねるのです。厄介なことに、人間の場合は完全への道が無限に続くのです。完全へ到達することができないのです。知識にも叡知にも理解力にも真理にも、究極というものがないのです。精神と霊とが成長するにつれて能力が増します。いま成就出来ないのも、そのうち成就出来るようになります。

はしご段を昇っていき、昨日は手が届かなかった段に上がってみると、その上にもう一つ上の段が見えます。それが無限に続くというのです。それで完全という段階が来ないのです。もしそういうことが有りうるとしたら、進化ということが無意味となります」


 これは当然のことながら議論を呼び、幾つかの質問が出たが、それにひと通り応答した後、シルバーバーチはこう述べた。

 「あなた方は限りある言語を超えたものを理解しようとなさっているのであり、それはぜひこれからも続けていくべきですが、たとえ口では表現できなくても、心のどこかでちらっと捉らえ、理解出来るものがあるはずです。

たとえば言葉では尽くせない美しい光景、画家にも描けないほど美しい場面をちらっと見たことがおありのはずですが、それは口では言えなくても心で感じ取り、しみじみと味わうことは出来ます。それと同じです。あなた方は今、言葉では表現できないものを表現しようとなさっているのです」


──大ざっぱな言い方ですが、大霊は宇宙の霊的意識の集合体であると言ってよいかと思うのですが・・・

 「結構です。ただその意識にも次元の異なる側面が無限にあるということを忘れないでください。いかなる生命現象も、活動も、大霊の管轄外で起きることはありません。摂理──大自然の法則──は、自動的に宇宙間のすべての存在を包含するからです。

たった一つの働き、たった一つのバイブレーション、動物の世界であろうと、鳥類の世界であろうと、植物の世界であろうと、昆虫の世界であろうと、根菜の世界だろうと、花の世界であろうと、海の世界であろうと、人間の世界であろうと、霊の世界であろうと、その法則によって規制されていないものは何一つ存在しないのです。

宇宙は漫然と存在しているのではありません。莫大なスケールを持った一つの調和体なのです。

 それを解くカギさえつかめば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は神の意志が顕現したものだということです。法則が神であり、神は法則であるということです。

 その神は、人間を大きくしたようなものではないという意味では非人格的存在ですが、その法則が霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では人間的であると言えます。要するにあなた方は人類として宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです」



──ということは神の法則は完全な形で定着しているということでしょうか。それとも新しい法則が作られつつあるのでしょうか。

 「法則は無窮の過去からずっと存在しています。完全である以上、その法則の枠外で起きるものは何一つ有り得ないのです。すべての事態に備えられております。あらゆる可能性を認知しているからです。もしも新たに法則を作る必要性が生じたとしたら、神は完全でなくなります。予測しなかった事態が生じたことを意味するからです」


──こう考えてよろしいでしょうか。神の法則は完全性のブループリント(青写真・設計図)のようなもので、われわれはそのブループリントにゆっくりと合わせる努力をしつつあるところである、と。

 「なかなか好い譬えです。みなさんは地上という進化の過程にある世界における進化しつつある存在です。その地球は途方もなく大きな宇宙のほんの小さな一部に過ぎませんが、その世界に生じるあらゆる事態に備えた法則によって支配されております。

 その法則の枠外に出ることは出来ないのです。あなたの生命、あなたの存在、あなたの活動のすべてがその法則によって規制されているのです。

あなたの思念、あなたの言葉、あなたの行為、つまりあなたの生活全体をいかにしてその法則に調和させるかは、あなた自ら工夫しなければなりません。それさえできれば、病気も貧乏も、そのほか無知の暗闇から生まれる不調和の状態が無くなります。

自由意志の問題について問われると必ず私が、自由といっても無制限の自由ではなく自然法則によって規制された範囲での自由です。と申し上げざるを得ないのはそのためです」


(10)──この機械化時代は人類の進化に役立っているのでしょうか。私にはそうは思えないのですが。

 「最終的には役に立ちます。進化というものを一直線に進むもののように想像してはいけません。前進と後退の繰り返しです。立ち上がっては倒れるの繰り返しです。少し登っては滑り落ち、次に登った時は前より高いところまで上がっており、そうやって少しずつ進化して行きます。

ある一時期だけを見れば〝ごらん!この時期は人類進化の黒い汚点です〟と言えるような時期もありますが、それは物語の全体ではありません。ほんの一部です。

 人間の霊性は徐々に進化しております。進化に伴って自我の本性の理解が深まり、自我の可能性に目覚め、存在の意図を知り、それに適応しようと努力するようになります。

 数世紀前までは夢の中で天界の美を見、あるいは恍惚たる入神の境地においてそれを霊視できたのは、ほんのひとにぎりの者にかぎられていました。が今や、無数の人々がそれを見て、ある者は改革者となり、ある者は先駆者となり、ある者は師となり、死して後もその成就の為に立ち働いております。そこに進歩が得られるのです」


──その点に関しては全く同感です。進歩はあると思うのです。が、全体として見た時、地球上が(機械化によって)余り住み良くなると進化にとってマイナスとなるのではないかと思うのです。

 「しかし霊的に向上すると──あなた個人のことではなく人類全体としての話ですが──住んでいる世界そのものにも発展性があることに気づき、かつては夢にも思わなかった豊かさが人生から得られることを知ります。

機械化を心配しておられますが、それが問題となるのは人間が機械に振り回されて、それを使いこなしていないからに過ぎません。使いこなしさえすれば何を手に入れても宜しい──文化、レジャー、芸術、精神と霊の探究、何でもよろしい。かくして内的生命の豊かさが広く一般の人々にも行きわたります。

 その力は全ての人間に宿っています。すべての人間が神の一部だからです。この大宇宙を創造した力と同じ力、山をこしらえ恒星をこしらえ惑星をこしらえた力と同じ力、太陽に光を与え花に芳香を与えた力、それと同じ力があなた方一人ひとりに宿っており、生活の中でその絶対的な力に波長を合わせさえすれば存分に活用することが出来るのです」


──花に芳香を与えた力が蛇に毒を与えているという問題もあります。

 「それは私から見れば少しも問題ではありません。よろしいですか。私は神があなた方のいう〝善〟だけを受け持ち、悪魔があなた方のいう〝悪〟を受けもっているとは申しあげておりません」


──潜在的には善も悪もすべてわれわれの中に存在しているということですね。

 「人間一人一人が小宇宙(ミクロコズム)なのです。あなたもミニチュアの宇宙なのです。潜在的には完全な天使的資質を具えていると同時に獰猛な野獣性も具えております。だからこそ自分の進むべき方向を選ぶ自由意志が授けられているのです」


(十一)──あなたは地球という惑星がかつてより進化しているとおっしゃいましたが、ではなぜ霊の浄化のためになお苦難と奮闘が必要なのでしょうか。

 「なぜなら人間が無限の存在だからです。一瞬の間の変化というものはありません。永い永い進化の旅が続きます。その間には上昇もあれば下降もあり、前進もあれば後退もあります。が、そのたびに少しずつ進化してまいります。

 霊の世界では、次の段階への準備が整うと新しい身体への脱皮のようなものが生じます。しかしその界層を境界線で仕切られた固定した平地のように想像してはなりません。次元の異なる生活の場が段階的に幾つかあって、お互いに重なり合い融合し合っております。

地上世界においても、一応皆さんは地表と言う同じ物質的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別の世界に住んでいると言えるのです」


──これまでの地上社会の進歩はこれから先に為されるべき進歩に較べれば微々たるものに過ぎないのでしょうか。

 「いえ、私はそういう観方はしたくないのです。比較すれば確かに小さいかも知れませんが、進歩は進歩です。次のことを銘記してください。人間は法律や規則をこしらえ、道徳律をうち立てました。文学を豊かにしてきました。芸術の奥義を極めました。精神の隠された宝を突き止めました。霊の宝も、ある程度まで掘り起こしました。

 こうしたことは全て先輩達のお陰です。苦しみつつコツコツと励み、試行錯誤を繰り返しつつ、人生の大渦巻きの中を生き抜いた人たちのお陰です。総合的に見れば進歩しており、人間は初期の時代にくらべて豊かになりました。物質的な意味ではなく霊的・精神的に豊かになっております。そうあって当然でしょう」

Wednesday, December 17, 2025

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(七)

 More Wisdom of Silver Birch Edited by Sylvia Barbanell
九章 悩み多きインド





    インドのボンベイの新聞〝フリープレス・ジャーナル〟のロンドン特派員シュリダール・テルカール氏がハンネン・スワッハー氏との不思議な出会いからシルバーバーチの交霊会に招かれた。以下はテルカール氏の記事である。

             ※ ※ ※

 われわれの日常生活には不思議なことが起きるものである。なぜそうなったかは必ずしも説明できない。〝ああ、それはそうなるようになってたんだよ〟と言う人がいるであろう。〝それが神の意志だったのさ〟と言って片づけてしまう人もいるであろう。

かくして凡人はそうした〝予期せぬこと〟の背後の重大な意味に気づかないまま毎日を生きている。

 いま私の脳裏に、なぜあの時あんなことになってしまったのだろうかという、ある不思議な体験のことが残っている。今の私には不思議なナゾに包まれたミステリーに思える。私の職業はジャーナリストである。母国インドの新聞に何か新鮮なものを送りたいと思っていつも目を皿のようにしている人間である。

 さて、つい先ごろのことである。インド人の友だちが情報局のプレスルームにひょっこり姿を見せた。思いがけないことだった。〝サボイ・ホテルまで来てくれないか。いい話があるんだ〟と言う。

誘われるまま行ってみると、ストラボルギー卿の記者会見が行われていた。友たちは会見室に入っていきジャーナリストが並んでいる一ばん端に席を取った。が、私は何となく入る気がしなくて外で待っていた。

 ところが突然ストラボルギー卿が席を立って私のところへ歩み寄り、握手を求め〝ま、お入りください〟と言って中へ案内した。そして座らされたテーブルには、なんと、卿夫妻とイスラエル人の他にハンネン・スワッハー氏がいた。

私はスワッハー氏は取材旅行中に何度も見かけたことはあるが、それほど身近に見るのは初めてだった。氏には何かしら私を惹きつけるものを感じていた。

 その瞬間私の脳裏には学生時代のことが浮かんだ。当時はハンネン・スワッハーといえば毒舌をもって鳴らす怖い存在に思えた。が今はじめて言葉を交わして見て、本当は心根の優しい、温かい、真の庶民の味方で、深い人間的理解力を秘めた方であることを知った。

記者会見が終わると私はスワッハー氏に〝かねがねお会いできればと願っておりました〟と挨拶した。すると〝正午に私の家にいらっしゃい〟と言われた。

 訪ねてみるとスワッハー氏は書物と書類に埋もれた〝仕事場〟にいた。氏はそこであの超人的才能で文章を書き上げているのだ。あの辛らつな、容赦ない風刺をきかした文章、スワッハー一流の簡潔な文章──千語が百語に凝縮してしまうのだ。その日私はそのスワッハー氏がその魔術的仕事に携わっているところを見ていて〝ペンは剣より強し〟という古い諺を思い出した。

実はその時の私にはある不満のタネがあった。それを遠慮なく述べると、それをまともに取り上げてくれて、その場であっという間に記事を書き上げてしまった。奇跡としか思えなかった。スワッハーという人はただの毒舌家ではないのだ。

 さて私がそろそろ失礼しようとすると、氏が司会をしているホームサークルに出席してみなさいと言われた。私は英国へ来て十五年余りになるが、スピリチュアリストの集会にも交霊会にも行ってみたことがない。

ジャーナリストである以上──ジャーナリストというのは常に抜け目のない批判的精神の持ち主であると相場がきまっているので──このチャンスを逃すのは勿体ないと考えて、招待に応じた。

 交霊会が催されるこじんまりとした住居(バーバネルの私邸)に到着した時私はいささか興奮していた。とても雰囲気のいい家だった。バーバネル夫妻が温かく迎えてくれた。至って英国らしい家庭である。

が、雰囲気はどこかよそと違うところがある。何となく母国インド人の手厚い歓迎を受けているような錯覚を覚えた。数こそ少ないが、その日そこに集まった人たちとすぐに打ちとけてしまったのである。

初めて会う人たちばかりなのに、あたかも親しい旧友と再会したみたいに愉快に語り合い、冗談を言い合っては笑いが巻き起るのだった。

 壁の肖像画がすぐ目に入った。このハンネン・スワッハー・ホームサークルの支配霊シルバーバーチである。深い洞察力に富んだ眼と顔の輝きがインディアンの聖人を思わせる。私はしばしその画に見入っていた。今にも私に語りかけそうな感じがした。

 談笑はしばらく続いた。私はスワッハー氏の隣に腰かけた。有名な心霊治療家であるパリッシュ氏と向かい合う形となった。やがて急に部屋が静寂に包まれた。時おりヒソヒソと語り合う声がする。私は列席者の顔ぶれに興味のまなこを向けた。スワッハーの横にはもう一人、純情そうな若いジャーナリストがいた。こうして油断を怠らなくさせるのは新聞記者としての私の本能である。

 列席している男女は至って普通の人間ばかりである。奇人・変人の様子はひとかけらも見られない。語り合った印象でも、みな教養豊かな知識人ばかりである。政治問題、社会主義、ガンジーなどが話題に上ったが、どう見ても〝へソ曲がり〟でもなく〝ネコかぶり〟でもなく、〝一風変わった精神病者〟ではあり得なかった。(当時のスピリチュアリストはそういう言葉で形容されていたのであろう───訳者)

 そのうち霊媒のバーバネルが落ち着かない様子を見せはじめた。〝落ち着かない〟という表現は適切ではないのであろうが、私の目にはそう映ったのである。両手でしきりに頬をさすっている。眼はすでに閉じている。氏の身も心も何か目に見えないものによって占領されているように私には思えた。

続いて〝シュー〟という声とともにドラマチックな一瞬が訪れた。全員の目が霊媒の方へ注がれている。ついにシルバーバーチが語り始めたのである。

(訳者注───必ずいびきを伴った息づかいから始まり、それが次第に大きくなっていき、最後に〝フーッ〟と大きく吐き出す。それがそのときの唇の形によって〝シューッ〟となったり〝スーッ〟となったりする。霊媒から離れる時もなぜかいびきを伴った息づかいで終わる)

 最初に祈りの言葉があった。その簡潔でいてしかも深い意味を持つ言葉に私は感銘を受けた。それが淀みなく流れ出るのに深い感動を覚えた。祈りが終わってスワッハー氏が私を(インドの霊覚者)リシーと親交のある人物として紹介すると、シルバーバーチはこう語ってくれた。

 「本日は私たちの会にご出席いただいてうれしく思います。リシーご夫妻には私も深い敬意を抱いております。大きな仕事をなさっておられるからです。暗黒の大陸においては小さな灯でしかないかも知れませんが・・・

 ご夫妻は右に偏ることも左に偏ることもなく、双肩に担わされた神聖な信任に応えるべく真っすぐに歩んでおられます。大陸を相手にたった一人です。自らも遅々として進歩の少ないことを自覚しておられますが、そのたった一人の力で多くの魂が感動し、太古からの誤った教えと古臭い迷信による束縛から脱し、霊的真理の光明へ向かっております。

 どんどん広がってまいります。小さなうねりが次第に大きくなって大河となり、やがて巨大な大洋となることでしょう。きっとなります。宗教についてあれほど多くが語られながら霊についての真実がほとんど理解されていないあなたの大陸においてきっと広がることでしょう。

 私から見るとインドには霊の道具となれる人があふれるほどいます。一人ひとりが福音を広める道具です──道具となれる可能性をもっております。一人の人間が一人の人間に真理をもたらすことができれば、少なくとも倍の真理がもたらされたことになりましょう。

 所詮は短い人生です。その短い人生においてたった一人の人間でもいいから重荷を軽くしてあげることに成功したら、たった一人の人間の涙を拭ってあげることが出来たら、たった一人の人間の悩みを取り除いてあげることが出来たら、それだけでもあなたの生涯は無駄でなかったことになります。

ところが悲しいことに、地上生活の終わりを迎えたときに何一つ他人のためになることをしていない人が実に多いのです。そう思われませんか」

 「まったくです」と私は答えた。

 社会主義者として、また普遍的同胞精神の大切さを信じる者の一人として、そのシルバーバーチの最後の言葉は、苦しむ人類の全てに対するメッセージと言ってよい。その言葉を胆に銘ずべき人がいる筈である。今地上には同胞に対する非人間性がはびこりつつあり、われわれの想像力を悩ませている。


神と真理の名において多くの罪悪が横行している。〝力は善なり〟の風潮がはびこり、宇宙の永遠の摂理が風に吹き飛ばされている。確かにシルバーバーチの言うとおり、もしも〝一人ひとりが福音を広める道具〟となれば、少なくともわれわれの人生は無駄でなかったことになろう。私はシルバーバーチにこう尋ねた。

 「私は人間はすべて自由であるべきだと思います。私の国民は今大きな苦しみを味わっております。インドの魂は悶え苦しんでいると私はみています。今日インドには立派な人がいることはいます。

インド国民の霊的意識を高揚させ、霊力の貯蔵庫の恩恵にあずからせるべく献身的生活をしている霊覚者がいて、インドをイギリスの支配から独立させ、平和と幸福と自由を得るために闘っております。私たちの国民がそこまで到達する方法、あるいは道があるのでしょうか」

 「今ここに素晴らしい方がお見えになってます。その方の詩をあなたも愛読していらっしゃると言えば、もう誰だかお分かりでしょう」

 タゴールである。インド最高の詩人であり、その詩によって無数の国民の魂を鼓舞した人物である。シルバーバーチは続けた。

 「いいですか。インドは今、過去に蒔いたタネを刈り取っているところだということを知ってください。宇宙は法則によって支配されております。原因と結果の法則です。私の声は──そして地上の物的束縛から解放された者たちの声もみなそうですが──自由と解放と寛容の大切さを強調します。が、

血なまぐさい戦争の結果として生じた複雑な問題が一気に解決できるわけがありません。

国民が勝手にこれが自由だと思いこみ、それ以外の自由を望まない国民を安易に解放するわけには行かないでしょう。自由には必ず条件が付きものだからです。何の拘束も無い自由と言うものは無いのです。

〝自由な自由〟というものは無いのです。自由というのは、その自由がもし無条件なものとなったらかえって侵害されかねない〝自由の恩恵〟を味わうために、ある程度の制約が必要なのです。

 インドはこれまで幾世紀にもわたって、勝手にこしらえた信仰に縛られてきたがために生じた暗黒が支配しています。無数の国民が間違った偶像を崇拝し、それに神性と絶対力があるかに思い、それ以外の神々を認めることを拒否します。

それによって人間の霊性が束縛され、隷属させられ、抑圧されております。わけの分らない概念で戸惑わせるばかりの複雑な教義でがんじがらめにされております。

 さて、そうした彼らを救出してあげなければならないのですが、何世紀にもわたって積み重ねられてきたものをたった一日で元に戻す方法はありません。インド民族はまだ寛容の精神が身に付いておりません。

神の前において人類はすべて平等であること、誰一人として神の特別の寵愛を受ける者はいないこと、無私の奉仕に献身した者だけが神の恩寵にあずかるという教えが理解できておりません。

 改めなければならないことが沢山あります。永い間暗闇の中で暮らしてきた者は一度に真理の光を見ることができません。そんなことをしたら目が眩んでしまいます。仕事は一人ひとりが自分の力で、牢獄となってしまった宗教的束縛から脱け出ることから始まります。

その束縛を打ち破ってしまえば、より大きな自由を手にすることが出来ます。すなわち他人の権利を認めてあげられる心のゆとりです。

 人間の霊には教義やカースト(世襲的階級制度)を超えてすべてを結びつける要素があるとこと、民族全体が一つの兄弟関係にあることを理解出来る人が大多数を占めるようになれば、もはやその民族を隷属させる権力者も支配者もいなくなります。

なぜなら、すでにその民族は自らの努力によって獲得した魂の自由を駆使できる段階まで到達している筈だからです。

 まずは献身的奉仕精神に目覚めた、ひとにぎりの誠心誠意の人物が出現すればいいのです。その人たちによって多くの難問解決への道が切り開かれ、暗闇に光明を灯す糸口がつかめるでしょうが、そのためには、その人たちは〝我〟を超越し〝宗派〟を超越し、〝教義〟と〝カースト〟を超越して、インド民族のすべてが広大な宇宙の一員であること、その一人ひとりに存在の意味があることを率直にそして謙虚に認められるようにならなければいけません。

あれほどの宗教国家においてあれほどの暗黒が存在するとは、何という矛盾でしょう!。あれだけの裕福な階級がある一方で、あれほどの貧民階級が存在するとは、何という矛盾でしょう!」


 私は主張した──「でもインドにも偉大な人物が数多く存在します。政治犯として今なお獄中にあるネールを初め、ガンジー、そのほか偉大な人物がいます。インドの国民は、問題は要するに一国家による他国家の占領支配にあると考えています」

 「それは違いますよ」 と優しく諭すようにシルバーバーチは語ってくれた。「いいですか、問題はあなたのおっしゃる一国による占領支配にあるのではありません。何となれば、かりにその占領支配が一気に取り除かれても、それで民族に自由がもたらされるかというと、そうは行かないでしょう。

自由というのは苦労した末に手にすべきものなのです。自分の力で勝ち取らねばならないものなのです。そのための大きな革命がナザレのイエス以来ずっとこの方、個人の力で成就されてきているではありませんか」

(訳者注──イエス時代のイスラエル民族はローマの占領支配下にあり、それと結託したユダヤ政治家や宗教家の腐敗と堕落によって民衆は息も絶えだえの状態にあった。そこに出現したのがイエスであり、腐敗と堕落を極めた宗教家と政治家を相手に敢然として立ち向かった。

イエスは一般にはキリスト教の教祖のように思われているが、世襲的にはユダヤ教徒だった。が、ユダヤ教の誤った教義によって束縛された生活習慣や物の考え方を改めるために新しい霊的真理を説き、その証拠として持ち前の霊的能力を駆使したまでのことで、本質的には社会革命家だった。シルバーバーチの念頭にはインドが当時のイスラエルに似ているという認識がある)

 シルバーバーチの霊言を聞いていて私は、その言葉に深い真理があることに気づいた。その訓え──インド民族への霊的メッセージに秘められた叡知に大きな感動を覚えた。最も、末節的には賛成しかねる部分もあった。

現在のインド民族の大半がヒンズー教徒の信者であるが、今日のヒンズー教徒はべーダとウパニシャッド(ともにバラモン教の根本教典で最高の宗教哲学書とされている──訳者)をもとにした純粋のヒンズー教徒ではなくなっている。べーダとウパ二シャッドの教えはまさにシルバーバーチの訓えそのものなのである。

 ヒンズー教もその内きっと本来のあるべき姿を取り戻す日が来るであろう。それは時間の問題に過ぎない。ガンジーその他の大人物がすでにエネルギーを再生させ、それによって無数のインド人が勇気づけられている。今やインドは蘇ったのである。多くの者が既に邪神と似非(えせ)予言者との縁を断っている。

 この度の英国による政治支配はむろんインド自身の側にもその責任の一端がある。が、こうした事態に至らしめた最大の責任は、片手に銃を、もう一方の手にバイブルを持って攻め込んだ征服者の側にある。それが自分たちの邪神と似非予言者をインドに植え付けたのである。

それが積み重ねられた影響力がインド人の心にますます混乱を引き起こした。打ちひしがれた心が一段と虐げられ、インドの自由精神はほぼ外敵の戦車の車輪につながれてしまっていた。

 今日のインドには世界の他のいかなる国にも劣らない霊的同胞精神がある。人間の霊性が武力の前に恐れおののいているように思えてならない。カーストと教義を超えてインド人は、シルバーバーチの言うように〝すべてが広大な宇宙の一員であること、その一人ひとりに存在の意味がある〟ことを認識している。

 〝大きな革命は個人の力で成就されてきた〟──このシルバーバーチの言葉は至言である。ガンジーもネールも偉大な革命家だった。彼らの政策に批判的な人がいるかも知れない。その経済政策に疑問を持つ人がいるかも知れない。彼らの禁欲主義は度を過ごしていると思う人がいるかも知れない。が、彼らは現実にインドの大衆の心を捉えたのだ。

 彼らこそ宗教的教義のジャングルを切り開き、不幸な私の母国に自由をもたらしてくれることであろう。が、同時に、他の多くの国の偉大な霊もまた、その霊的統一をもたらす上で力となってくれるに違いない。頑丈な体格をしながらも傷ついた人間に小柄な人間が力を貸すことが出来ることもあるのだ。 

 では最後にこう付け加えて本稿を終わろう。私は厳密な意味でのスピリチュアリストではない。が、この度の交霊会への出席は素晴らしい体験だった。今なお私は勉強中であり、研究中であり、指導を求めている。道は遠く、困難をきわめることであろう。が、どうやらその旅の終わりには、それだけの価値のあるものが待ち受けている様な気がする。
シュリダール・テルカール
 

Tuesday, December 16, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

三章 天上的なるものと地上的なるもの


2 守護霊と人間 

一九一三年十一月二四日   月曜日

 更に言えば、いついかなる時も吾らの存在を意識することは好ましいことであり、吾らにとって何かと都合がよい。事実、吾らはいつも近くにいる。もっとも、近くにいる形態はさまざまであり意味も異る。

距離的に近くにいる時は役に立つ考えや直感を印象づけるのが容易であり、又、仕事がラクに、そして先の見通しも他の条件下よりは鮮明に見えるように順序よく配慮することが出来る。

 吾らの本来の界にいる時でも、人間の心の中および取り巻く環境で起きている事柄のみならず、その事情の絡み合いがそのまま進行した場合どういう事態になるかについての情報をも入手する手段がある。

 こうして接触を保ちつつ吾らは監督指導が絶え間なく、そして滞りなく続けられるよう配慮し、挫折することのないように警戒を怠らない。

それが出来るのも吾らの界、および吾らと人間との間に存在する界層を通じて情報網が張りめぐらされているからであり、必要とあらば直接使者を派遣し、場合によっては今の吾々がそうであるように、自ら地上へ降りることも可能だからである。

 更にその方法とは別に、吾らの如き守護の任に当たる者が本来の界に留ったまま、ある手段を講じて自分に託された人間と接触し、然るべく影響を行使することも可能である。

これで理解が行くことと思うが、創造主の摂理は全界層を通じて一体となって連動し、相関関係を営んでいる。宇宙のいかなる部分も他の影響を受けないところは一つとして無く、人間が地上において行うことは天界全域に知れ亘り、それが守護霊の心と思想に反映し、守護霊としての天界での生活全体に影響を及ぼすことになる。

 されば人間は常に心と意念の働きに注意せねばならない。思念における行為、言葉における行為、そして実際の行為の全てが、目に映じ手を触れることのできる人々に対してのみならず、目には見えず手を触れることこそできないが、いつでも、そしてしばしば監視しながら接触している指導霊にも重大な影響を及ぼすからである。

それのみではない。地上から遠く離れた界層にて守護の任に当たる霊にも影響が及ぶ。私の界においても同じである。

この先更にどこまで届くか、それは敢えて断言することは控えたい。が、強いて求められれば、人間の行いは七の七十倍の勢い(*)を持って天界に知れ亘る、とでも答えておこう。その行きつく先は人間の視野にも天使の視野にも見届けることは出来ない。

何となれば、その行きつくところが神の御胸であることに疑いの余地は無いからである。(マタイ18・22。計り知れない勢いの意──訳者)

 故に、常に完全を心掛けよ。何となれば天に坐(ましま)す吾等が父が完全だからである。不完全なるものは神の玉座に列することを許されないのである。

 では善と美を愛さぬ者の住む界層はどうなるのか。実は吾らはその界層とも接触を保ち、地上と同じように、援助の必要があれば即座に届けられる。縁が薄いというのみであって決して断絶しているわけではないからである。

その界層の霊たちも彼らなりに学習している。その点は人間も変わらない。ただしその界の雰囲気は地上よりは暗い───ただそれだけのことである。彼らも唯一絶対なる神の息子であり娘であり、従って吾らの弟であり妹でもあるわけである。

人間の要請に応える如く彼らの魂の叫びに応えて吾らは援助の手を差し伸べる。そうした暗黒界の事情については貴殿はすでにある程度のことを知らされている。が、ご母堂の書かれたもの(第一巻三章)にここで少しばかり付け加えるとしよう。

 すでにご存知の通り、光と闇は魂の状態である。暗黒界に住む者が光を叫び求める時、それは魂の状態がそこの環境とそぐわなくなったことを意味する。そこで吾等は使者を派遣して手引きさせる。が、その方角は原則として本人の希望に任せる。

つまり、いきなり光明界へ連れてくることはしない。そのようなことをすれば却って苦痛を覚え、目が眩み、何も見えぬことになる。

そうではなく暗黒の度合いの薄れた世界、魂の耐えうる程度の光によって明るさを増した世界へ案内され、そこで更に光明を叫び求めるようになるまで留まることになる。

 暗黒地帯を後にして薄明の世界へ辿りついた当初は、以前に較べて大いなる安らぎと安楽さを味わう。その環境が魂の内的発達程度に調和しているからである。が、

尚も善への向上心が発達し続けると、その環境にも調和しない時期が到来し、不快感が募り、ついには苦痛さえ覚えるに至る。やがて自分で自分がどうにもならぬまま絶望に近い状態に陥り、自力の限界ぎりぎりまで至った時に、再び叫び声を上げる。

それに応えて神の使者が訪れ、更に一段階光明界に近い地域へと案内する。そこはもはや暗黒の世界ではなく薄明の世界である。かくて彼はついに光が光として見える世界へ辿り着く。それより先の向上の道にはもはや苦痛も苦悩も伴わない。喜びから更に大きな喜びへ、栄光から大いなる栄光へと進むのである。

 ああ、しかし、真の光明界へ辿り着くまでにいかに長き年月を要することか。苦悶と悲痛の歳月である。そしてその間に絶え間なく思い知らされることは、己れの魂が浄化しない限り再会を待ち望む顔馴染みの住む世界へは至れず、愛なき暗黒の大陸をとぼとぼと歩まねばならないということである。

 が、私の用いる言葉の意味を取り違えてはならない。怒れる神の復讐などは断じてない。「神は吾らの父なり」、しかして「父は愛なり」(ヨハネ)その過程で味わう悲しみは必然的なものであり、種子蒔きと刈入れを司る因果律によって定められるのである。

吾々の界──驚異的にして素晴らしいものを数多く見聞きできるこの界においてすら、まだその因果律の謎を知り尽くしたとは言えない。

全ての摂理が〝愛〟に発するものであることは、地上時代とは異なり、今の吾々には痛いほどよく解る。曽てはただ信ずるのみであったことを今は心行くまで得心することが出来ることも、憚(はばか)ることなく断言できる。が、因果律というこの厳粛なる謎については、まだまだ未知なるものがある。

が、吾々はそれが少しずつ明かされていくのを待つことで満足している。それというのも、吾々は万事が神の叡智によって佳きに計られていることを信ずるに足るだけのものを既に悟っているからである。

それは暗黒界の者さえいつの日か悟ることであろう。そして彼らがこの偉大にして美わしき光の世界へと向上進化して来てくれることが吾々にとっての何よりの慰めであり、また是非そうあらしむべく吾らが手引きしてやらねばならない。

そしてその暁には万事が有るがままにて公正であるのみならず、それが愛と叡智に発するものであることを認め、そして満足することであろう。

 吾々はそう理解しているのであり、そのことだけは確信を持って言える。そして私もその救済に当たる神の使者の一人なのである。

私が気づいていることは、かの恐ろしき暗黒の淵から這い上がって来た人たちの神への讃仰と祝福の念を、その体験の無い吾々のそれと比較する時、そこに愛の念の欠如が見られないことである。些かも見られぬのである。

と言うのも、正直に明かせば、彼らと共に天界の玉座の光の前にひれ伏して神への祈りを捧げた折のことであるが、彼らの祈りの中に私の祈りに欠けている何ものかがあることに気づいたのである。

そこで思わず、私もそれにあやかりたいとものと望みをかけて、ようやく思い止まったことでああった。

 それは許されぬことであろう。そして神はその愛ゆえに、吾々の内にあるものを嘉納されるに相違ない。それにしても、かのキリストの言葉は実に美わしく、愛がその美しさを赤裸々に見せる吾々の界において如実にその真実味を味わうのである。

 神はその愛の中にて人間と交わりを保つ。神の優しき抱擁に身を任せ、その御胸に憩いを求める時、何一つ恐れるものはない。 ♰  

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

三章 天上的なるものと地上的なるもの



1 古代の科学と近代の科学

一九一三年十一月二一日  金曜日

 読むのが速い者が必ずしも正しく読み取っているとは限らない。そういう者は、見た目に重要に思えない事柄は落ち着いてじっくり考える余裕をもたないものだからである。

表面的なこと以外は目に止まらないのである。であるから、通信が判り易く書かれていると、大部分が軽く読み流されてしまい、そのメッセージの重要性が目に止まらないことになる。

 このことは人間が自然と呼んでいるもの、つまり霊力が物質を通して活動しているその表面的な現象に書かれている教訓についても言える。また人間なり民族なりがその本来の性格を基盤として繰り拡げる運命の働きについても同じことが言える。

 更にこのことは、程度こそ異なるが、いわゆる科学の発見においても言えることである。ではこれより、この発見の問題を取り上げ、ざっと目を通すだけで深く読もうとしない大方の人間よりも深く踏み込もうとする人間に対して深く暗示されているものを観てみよう。

 歴史と同じく科学もまた繰り返す。が決して全く同じことを繰り返すわけではない。知識の探求にも常に大よその原理というものが支配しており、その原理が一定の役割を果たすと、他の原理にその場を譲って裏側へまわり、新たな原理が人類の注目を世界中で集中的に受けることになる。

が、時の経過とともにいつしか前の原理が再び表に出て来て──順序は定まっていないが──新しく人類の注目を集める。かくして人類進化の行進が続けられる。

 発見そのものの種類も又、失われては新たに発見されることを繰り返す。まったく同じものではない。外観が変わり、新たな特徴が加わり、同時に古い特徴が失われている、ということがしばしば見られる。

 以上述べたことを更に判り易くするために、例を挙げて細かく説明しよう。曽ては科学そのものが今日の科学とは異なる意味をもった時代がある。つまり科学にも心があり、物質的現象は二次的な意味しか持たなかった。

錬金術がそうであり、星学がそうであり、工学ですらそうであった。当時すでに地上世界が霊的世界によって支配され、無数の霊団が自発的に──但し上層界から偉大な霊力と崇高な権威によって規制された限度内で──監督に当たっていることが知られていた。

そして当時の人間はそうした霊的支配者の程度や階級、及び自然界と人間界の各部門における彼らの役割、更には各階級から行使される霊力の量まで知ろうとする研究が行われていたのである。

 事実、彼らはおびただし数の事実を発見し、分類した。ただ、そうした事実や法則、規制、条件等が地上的なものでなく霊的なものであったがために、彼らは己むなくそれを通常の言語とは別の形で表現した。

 これが関心の異なる別の世代が台頭してくると、先祖が伝承話の形に込めた知識の何たるかを考慮することなく、これは単なる譬え話であり象徴的なものに過ぎないと断定してしまう。そう断定することで裏に秘められた事実が輪郭を失い。やがて真実味まで失って行く。

さまざまな民族における霊力の研究成果がそうした経過を辿り、これがヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語を生み出すことになった。それらは、まぎれもなく古代の科学が或るものを付加され、あるものを抜き取られ、さまざまに歪められながら生き残れる姿なのである。

が、そうした物語を今述べたことに照らし、その本質と近代に至ってからの潤色とを選り分けて読めば、その底に、あたかも幾世紀ものあいだ土砂に埋もれたエジプトの古代都市の如く、太古の科学すなわち霊的観点より考究した知識を見出すことが出来る。 ♰



──何か顕著な例を挙げていただけませんか。

 「ジャックと豆の木」という物語がある。まず名前を見るがよい。ジャックはJohnの愛称であり、このジョンを最初に用いたのは例の「黙示録」の著者(ヨハネ、英語読みでジョン──訳者)である。

豆の木は「ヤコブのはしご」(創成記)すなわち霊界の上層界へ辿り着くための階段の翻案である。物語の意味は、天界に辿り着けばそこは現実の国であり、さまざまな地域があり、自然の風景があり、家々があり、素晴らしい知識がある。

天使はその全てを人間に授けるつもりはないのであるが、時に大胆で能力のある人間が侵入して地上へ持ち帰ることがある。

天使はそれを取り返そうとし、人間がそれ以上に大胆になることによって獲得する所有権を奪おうとするのであるが、人間は生来の機智を弄してそれを妨げることが出来るというのである。

 さて、これはなかなか面白い話ではある。が、その深い意味を理解せぬ者によって幾世紀も語り継がれて来たために、話の筋が奇妙で滑稽にさえなっている。たとえば、もしも真の意味が理解されておればジャックという軽々しい愛称は用いられなかったであろう。

があのジャックのお馴染みの衣装を見れば分る通り、ジャックという俗称に変わったのは神聖なものや霊的なものが軽視された時代のことである。当時は霊的存在を理解することが出来なかったのである。

悪魔に衣服を着せ、刃物のような耳やしっぽを付けたりしたのも同じ理由からである。すなわちそうしたものは当時ではあくまで神話の世界だけの存在だったのである。従って悪魔の性格も神話的な架空のものに過ぎなかった。

 この物語は数多く存在する物語の一つに過ぎない。「パンチとジュディ」という物語も救い難き極悪人としてピラトとイスカリオテ(ユダ)を風刺したものである(*)がこの宗教的にして且つ恐ろしき事実を扱うその手法にも、当時の時代的軽薄さが歴然としている。

(*「パンチとジュディ」はパンチという名のせむし男が子供を絞殺したり妻のジュディをいじめ殺したりする古い英国の人形芝居であるが、これはイエスの処刑を命じた残虐非道のローマ総督と、イエスを裏切ったユダを風刺したものとされる。──訳者)

 まさに軽薄であり、これまで常にそうであった。が、今の時代に至って霊的なるものがようやく人間世界に戻り、その位置を見出しつつある。

必ずしも正当な位置を得ているとは言えないが、少なくとも過去幾世紀かにおける扱われ方に較べれば、より大きな考慮を払われていると言えよう。

 かくして外面的には様相を変えてはいるものの、内面的にはかのエジプトの星学を支配した一般的原理、並びにモーゼが学びそして活用した叡智に類似したものが今日再び人間界に戻りつつある。

それが人間の意識を高め、生命力の産物──貝殻、石、化石──をいじくりながらその生命力の根源の存在を認めようとせぬ過去の唯物思想に存在意識を賦与しつつある。

曽ての唯物科学は大自然の法則の秩序ある働きを説いた──にも拘らず、その秩序と働きの背後の唯一絶対の霊的始源の存在を否定した。

大自然の美を謳った──なのに、その美も人間に〝霊〟が宿ればこそ感識し得るものであること、そしてその霊も永遠なる神の生命が存在すればこそ存在を得ていることを忘れていた。

 吾らは常に人間界を見守っている。そして許されるかぎり、好機の与えられるかぎりにおいて導いている。もし人間が吾らの働きかけに忠実に応えてくれれば、今まさに過ぎ去りつつある時代よりも更に多くの光と愛と生命の美に溢れる時代が到来する。

吾々は人間はきっと応えてくれるものと確信する。何となれば、新しきものは古きものに勝るのが必定であり、更に、吾らが地上へ向けて働きかける時、背後にさらに高い世界から叡智と霊力とが澎湃(ほうはい)として迫りくるものを感ずるのである。

そして吾らは、これぞ上層界の意図であり要望であると確信するものを実行に移す。

 吾々とて、あまりに遠き未来まで 覗き見ることは出来ない。それにはそれなりの特殊な部門があり、それは現在の吾々の霊団の任務には組み入れられていない。が、

吾らはその努力が多くの人間に首尾よく反応を示してくれることに喜びを感じ、時の経過と共により多くの機会を得て、人間にとって吾らがいかに身近な存在であるか、又、人間が常に謙虚にして冷静さを保ち、最高の模範としてキリストを目指し、吾らの教説の中にたとえ走り読みにせよ見出せるであろう聖なる美を体現すべく努力をしておれば、いかに大きな仕事を成就する潜在力を秘めているかを示すことが出来る──そう期待しているのである。

それというのも、キリストの霊的生命は、それをひと目見れば、美とは何かを知る者は恍惚の境へと誘われるほどのものだからである。


 キリストの名において吾らは愛し、キリストに向けて吾らは崇拝の念を捧げる。常にキリストの安らぎのあらんことを。アーメン。 ♰