Monday, December 1, 2025

シアトルの初冬 霊媒の書 第2部 本論

 The Mediums' Book
11章 霊媒能力の特殊性と危険性



本章では霊媒としての能力が十二分に発揮される段階に至ってからの問題点や危険性について述べておきたい。

自動書記を例に取れば、用紙にきちんとした書体で通信文が書かれるようになったとする。が、ここでいい気になって油断すると危険である。鳥が一人前に飛べるようになって巣立った後、場所もわきまえずに飛び回っていると、ワナにかかったり鳥モチで捕らえられたりするのと同じで、邪霊が鵜の目鷹の目で見張っていることを忘れてはならない。

ラクに書けるようになったということは霊が身体機能をうまく操れるようになったという、言わば物的ハードルを乗り越えたという段階に過ぎず、霊的ならびに精神的修養はこれからなのである。

霊媒としての能力は、自由に発揮できるようになったからといって、無計画に、無節操に使用してはならない。本来は謹厳な使用目的を義務づけられて授かっているのであって、安直な好奇心の満足で終わることは許されてはいない。

本来は最良のコンディションのもとに行うべき実験会を、霊現象の面白さだけを求めて一日中行うような無分別なことをすると、高級霊は四六時中面倒を見てくれているわけではないので、下らぬ低級霊の餌食にされてしまう危険性がある。細かい点については次の一問一答から学んでいただきたい。


――そもそも霊媒的能力というのは病的なものでしょうか。それとも単に異常なものでしょうか。


「異常な状態のこともありますが、病的なものではありません。霊媒にも頑健そのものの人がいます。虚弱な霊媒は別の原因から来ています。」


――霊媒能力の使用によって疲労を来すことがありますか。


「いかなる能力でも長時間にわたって使用すれば疲労を来します。霊媒能力も、とくに物理現象の場合は流動エネルギーを多量に使用しますから、当然疲労します。が、休息すれば回復します。」


――悪用した場合は論外として、善用した場合でも霊媒能力が健康に害を及ぼすことがありますか。


「肉体的ないしは精神的な反応によって、慎重を期する必要がある場合、もしくは控えた方が好ましい場合、少なくともよほどの節制を要する場合などがあります。それは直感的に自分で判断できるものです。疲労が蓄積していると感じた時は控えるべきです。」


――人によっては霊媒能力が害を及ぼすことがあるわけですか。


「今も述べた通り、それは霊媒自身の肉体的および精神的状態に係わる問題です。体質的・気質的に過度の刺激を与えるものは避けるべき人がいます。霊媒現象もその部類に入ります。」


――霊媒能力が精神異常を来すことがありますか。


「脳障害の素因がある場合を除いては、その可能性はありません。先天的に素因がある場合は、常識的に考えて、いかなる精神的興奮も避けるべきです。」


――子供が霊能開発をするのはいかがでしょうか。


「感心しないだけでなく、危険ですらあります。子供のデリケートでひ弱な体質が過度の影響を受け、精神的にも幼い想像力が異常な刺激を受けます。子供にはスピリチュアリズムの道徳的な側面を教えるにとどめ、霊媒現象の話はしない方が賢明です。」


――しかし、生まれつき霊媒能力をもった子供がいます。物理現象だけでなく、自動書記能力や霊視能力をもった子供もいます。そういう子供は危険なのでしょうか。


「いえ、危険ではありません。そのように自然発生的であれば、そういう素質をもって生まれてきているのであり、体質的にそれに耐えられるようにでき上がっております。人為的に開発する場合とは根本的に異なり、神経組織が異常に興奮することはありません。

また、霊視能力でさまざまなものが見えても、そのような子供はそれをごく自然に受け止め、ほとんど意に介さないので、すぐに忘れてしまいます。成人してから思い出しても、それによって心を痛めることはありません。」


――では霊能開発は何歳から始めれば危険性がないでしょうか。


「何歳という定まった年齢というのはありません。身体上の発育によって違いますし、それよりもっと大切なものとして、精神的発達によっても違ってきます。十二歳でも大人より悪い影響を受けない子供がいます。もっとも、これは霊媒能力一般についての話です。物理現象になると身体そのものの消耗が大きくなります。では自動書記なら問題ないかというと、これにも無知から来る別の危険性があります。面白くて、一人でやりすぎて、それが健康に害を及ぼします。」


編者注――このあとの通信でますます明確になってくることだが、スピリチュアリズムの現象面に係わるに当たっては邪悪な低級霊に騙されないための才覚と用心を怠らないようにしなければならない。大人にしてそうなのであるから、若者や子供はなおのこと用心が肝要である。

それには精神統一と感情の冷静さによって善良で高級な霊の協力を得ることが必要となる。同じく霊の援助を祈り求めるにしても、ふざけ半分の態度で軽々しくやるのは一種の冒涜的行為であり、むしろ低級霊のつけ入るスキを与えることになる。

こうしたことを子供に忠告しても意味がないから、霊媒的素質のある子供を指導するに際しては、絶対に一人で行わないように厳重に警告しておく必要があろう。

続いて、霊媒現象の実際に関する一問一答。


――霊媒がその能力を使用している時は完全に正常な状態にあると言えますか。


「多かれ少なかれ危険な状態にある場合があります。疲労するのはそのためです。だから休息が必要となるわけです。しかし大体において正常な状態にあるとみてよろしい。とくに自動書記の場合は完全に正常です。」


――自動書記にせよ霊言にせよ、伝達される通信は霊媒自身の霊を通して届けられるのでしょうか。


「霊媒の霊にも、他の霊と同じように伝達能力があります。肉体から解放されると霊としての能力を回復するのです。このことは生者が幽体離脱して、書くなり話すなりして意志を伝達することがある事実が証明しています。

出現する霊の中にはすでにこの地上か、どこか他の天体に再生している者もいます。そういう場合でも霊として語っているのであって、人間としてではありません。霊媒の場合も同じではないでしょうか。」


――その説明ですと、霊界通信というのは全て霊媒の潜在意識が語っているにすぎないという意見を認めることになりませんか。


「その意見が全てであると断定するところに誤りがあるだけです。霊媒の霊がみずから行動することができるのは間違いない事実です。しかしそのことは他の霊が他の手段で働きかけることがある事実を否定することにはなりません。」


――では通信が霊媒自身のものか他の霊からのものかの判断はどうすればよいのでしょうか。


「通信の内容です。通信が得られた時の状況、述べられた、ないしは書かれた言葉や用語などをよく検討することです。霊媒自身が表面に出やすいのは、主にトランス状態の時です。肉体による束縛が少ないからです。通常意識の時には、通常の人間的性格とは別の、本来の自我は出にくいものです。

また、質問に対する答えが霊媒自身のものであり得るかどうかも判断の材料になります。私が、よく観察し疑ってかかるように、と申し上げるのはそのためです。」


訳注――ここで言う“疑ってかかる”というのは“批判的態度で臨む”ということであって“疑(うたぐ)る”のとは違う。

スピリチュアリズムの思想面の発達に大きく寄与した人々の中には、気の進まないまま、あるいはトリックを発(あば)いてやろうといった気持ちで交霊会に出席して、霊言で自分しか知るはずのない事実、つまり霊媒を始めその場にいる人々が絶対に知るはずのないプライベートなことを聞かされて「何かある」と直観して、その日を境に人生観が百八十度転換した人が多い。

米国の次期大統領候補とまで目されていたニューヨーク州最高裁判事のジョン・ワース・エドマンズ、英国ジャーナリズム界の大御所的存在だったハンネン・スワッファーなどがその代表的人物で、エドマンズ判事が米国の知識人に、スワッファーが英国の知識人に与えた衝撃は大きかった。とくにスワッファーの場合はシルバーバーチ霊の霊言霊媒だったモーリス・バーバネルを説得して「霊言集」として一般に公表させた功績は百万言を費やしてもなお足りないほど大きい。

いずれの人物も“煮ても焼いても食えぬ”偏屈者で知られていたが、真実を真実として直観し、確信したら真一文字に突き進んだところに霊格の高さがあった。


――現在の肉体に宿っての生活のあいだ消えている前世での知識が霊的自我によって思い起こされ、それが霊媒の通常の理解力を超えている場合も考えられるのではないでしょうか。


「トランス状態においてしばしばそういうことが起きることがあります。が、改めて断言しますが、そういう場合と、我々霊団の者が出た場合とでは、よくよく検討すれば疑う余地のない違いというものが見つかります。時間を掛けて検討し、じっくり熟考なさることです。確信に至ります。」


――霊媒自身の霊的自我から出たものは他の霊からのものに比べて見劣りがするということでしょうか。


「必ずしもそうではありません。他の霊の方が霊媒より霊格が低い場合だってあるわけですから、その場合は他の霊からの通信の方が劣るでしょう。そうした現象はセミ・トランス状態でよく見られます。なかなか立派なことを述べていることもあります。」


訳注――ここで“セミ・トランス”と訳したのは英文ではsomnambulism(ソムナンビュリズム)となっている。これはもともと心理学の用語で、日本語では“夢遊病”などと訳されている。心理学がこれを病気として扱うのはやむを得ないが、スピリチュアリズムの観点からすれば病的なものではなく、トランス状態の初期の段階なので“半入神”という意味でセミ・トランスとした。

この訳に落ち着くまでに私は同じカルデックのもう一冊の『霊の書』『The Spirits' Book』、マイヤ-スの『Human Personality』、それにナンドー・フォドーの『Encyclopedia of Psychic Science』の該当項目を丹念に読んだ。いずれも多くの紙面を割いていることからも、複雑なものであることが窺えた。

カルデックの通信霊はトランスとソムナンビュリズムの相違点を質されて「トランスとはソムナンビュリズムの状態が一段と垢抜けて、魂がより多くの自由を得た状態」と述べ、マイヤースはトランスを次の三段階に分けている。

第一段階では潜在意識(自我)が肉体をコントロールするようになる。第二段階ではそのコントロールを維持しながら自我は霊界へ赴くかテレパシー的に交信状態を得る。そして第三段階で身体が別の霊にコントロールされる。心理学がソムナンビュリズムと呼んでいるのは第一段階に相当する。

フォドーも多くのページを割いてトランス状態とソムナンビュリズムの例を挙げているが、結論としては上のマイヤースの分類法を引用している。

どうやら仰々しい人物を名乗った霊言や自動書記通信はその第一段階、つまり浅いトランス状態で霊媒自身が述べているようである。


――霊が霊媒を通して通信を送ったという場合、それは霊が直接的に思想を伝達したということでしょうか、それとも霊媒の霊が媒介して伝達したということでしょうか。


「霊媒の霊は通信霊の通訳のような役目をしています。(“通訳”の語意についてはこの後の問答であきらかとなる――訳注)霊媒の霊は肉体とつながっており、言わばスピーカーのような役もしています。また、今のあなたと私のような送信する側と受け取る側との間の伝導体の役もしています。皆さんが電信でメッセージを送る場合を想像してみてください。まず電波を伝える電線が必要ですが、それと同時にメッセージを送る者と受け取る者とがいなければなりません。つまり送信する知的存在と受信する知的存在、そして電気という流動体によって伝達されるメッセージ、それだけ揃わないと電信は届かないわけです。」


――霊から送られてきたメッセージに対して霊媒の霊が何らかの影響を及ぼすことがありますか。


「あります。親和性がない場合にそのメッセージの内容を変えて、自分の考えや好みに合わせて脚色します。ただし通信霊その者に影響を行使することはありません。つまりは“正確さを欠く通訳”ということです。」


――通信霊が霊媒を選り好みすることがあるのはそのためですか。


「そうです。親和性があって正確に伝えてくれる通訳を求めます。親和性が全く欠如している場合は、霊媒の霊が敵対者となって抵抗を示すことさえあります。こうなったら文句ばかり言う通訳のようなもので、“不誠実な通訳”ということになります。

人間どうしでもそんなことがありませんか。連絡を頼んだのにその者が不注意だったり敵対心を抱いたりして、正しく伝えてくれないことがあるではありませんか。」


訳注――この部分を訳していて、シルバーバーチがバーバネルを霊媒として使用するために、母胎に宿った瞬間から霊言通信のための準備をしたわけがよく理解できた。

ご承知の方も多いと思うが、シルバーバーチというのは肖像画として描かれているインディアンではなく、“光り輝く存在”の域にまで達した高級霊の一柱で、三千年前に地上で生活したことがあるということ以外、地上時代の名前も国籍も地位も最後まで明かさなかった。すでに意義を失っているからだという。

そのシルバーバーチから発せられたメッセージが、トランス状態のバーバネルに憑依しているインディアンに届けられ、そのインディアンがバーバネルの言語中枢を通して英語で語った。この言語の問題についてはこの後の問答でも出てくるが、シルバーバーチが「英語の勉強に十数年を費やした」と言っているのは、霊界の霊媒であるインディアンのことである。本源のシルバーバーチは思想をそのまま伝達していたはずである。

この三者と司会のハンネン・スワッファー、それに速記録を取り続けたフランシス・ムーア女史などは同じ類魂に属していたはずで、出生前から綿密な打ち合わせができていて、親和性は完璧だったことであろう。シルバーバーチが「私の言いたいことが百パーセント伝えることができます」と言っているのもうなずける。


――霊には“思念の言語”しかない――言葉で述べる言語はない――と言うことは、伝達手段は一つ、思念しかないということを前提としてお尋ねしますが、霊は地上時代にしゃべったことのない言語で霊媒を通してしゃべることができるのでしょうか。もしできるとした場合、その単語をどこから仕入れるのでしょうか。


「今“一つの言語しかない、つまり思念の言語しかない”とおっしゃいました。それがその質問に対する回答になっているではありませんか。思念の言語はあらゆる知的存在――霊だけでなく人間にも理解できるのですから。出現した霊がトランス状態の霊媒の霊に語りかける時、それはフランス語でもなく、英語でもなく、普遍的言語すなわち思念で語りかけます。が、それを特定の言語に翻訳し、その言語であなた方に語りかける時は、霊媒の記憶の層から必要な単語を取り出します。」


――そうなると霊は霊媒の言語でしか表現できないことになります。ですが、我々が入手した通信には霊媒自身の知らない言語で書かれたもの、ないしは語られたものがあります。矛盾しませんか。


「基本的な認識として理解していただきたいことが二つあります。一つは、霊の全てが等しくこの種の現象に向いているとは限らないこと。もう一つは、霊側としても、よほど望ましいとみた時にのみこの手段を選んでいるに過ぎないことです。普通の通信では霊は霊媒の言語を用いたがります。肉体機能を利用する上で面倒が少ないからです。」


――こういうことは考えられませんか。書くにせよ語るにせよ、その言語は前世で使っていたもので、その直覚が保存されていたと……。


「そういう例もたまにはありますが、通例というわけではありません。と言うのは、霊には遭遇する物的抵抗を克服する力が備わっていますし、必要とあれば取っておきの能力を駆使することもできるからです。例えば霊媒自身の言語で書いていても、霊媒の知らない単語もあるわけですから、それを書かせるには取っておきの能力が通信霊に要求されます。」


――通常の状態では文字の書き方すら知らない者でも自動書記霊媒が務まりますか。


「務まります。ただし、その場合には通信霊に技術的な面で普段より大きな負担が掛かることは明らかです。霊媒の手そのものが文字を綴るのに必要な動きに慣れていないからです。絵の描き方を知らない霊媒に絵を描かせる場合にも同じことが言えます。」


――教養のない霊媒を高等な通信を受け取るのに使うことは可能ですか。


「可能です。教養のある霊媒でも時には理解できない単語を書いたり語ったりさせられるのと同じです。厳密な意味から言うと、霊媒という機能は、本来、知性とも徳性とも関係ないものです。ですから、差し当たって有能な霊媒が見つからない時は、取りあえず使える霊媒で我慢して、それを最高度に活用します。が、重大な内容の通信を送る時は、なるべく物理的な手間が少なくて済む霊媒を選ぶのは当然でしょう。

さらに、白痴と呼ばれている人の中には脳の機能障害が原因でそういう症状になっているだけで、内在する霊は見た目には想像もつかないほど霊性が発達している場合があります。その事実はこれまでにおやりになった生者と死者の招霊実験で確認ずみのはずです。」


編者注――我々のサークルで数回にわたって白痴の生者の霊を招霊したことがある。霊媒に乗り移った霊は自分の身元つまり白痴の身の上を明確に証言し、その上で我々の質問に対して極めて知的で高等な内容の返答をしている。

白痴というのは、そういう欠陥のある肉体に宿って再生しなければならないような罪に対する罰であることが多い。が、脳に欠陥があることが結果的には霊に脳の束縛を受けさせなくしていることになり、それだけに、物的生活によって間違った人生観を抱いている霊媒よりも純粋な霊的通信が得られることがある。


――作詩法を知らないはずの霊媒によってよく詩文が書かれることがありますが、これはどうしてでしょうか。


「詩も一種の言語です。霊媒の知らない言語で通信が書かれるのと同じ要領で詩が書かれるだけです。ただ、それ以外の可能性として、その霊媒が前世で詩人だったというケースも考えられます。霊は一度記憶したことは絶対に忘れません。ですから、我々が働きかけることによって、その霊媒の霊がそれまでに身につけたもので通常意識では表面に出ないものが、いろいろと便宜を与えてくれることがあります。」


――絵画や音楽の才能を見せる霊媒についても同じことが言えますか。


「言えます。絵画も音楽もつまるところは思想の表現形式ですから、やはり言語であると言えます。霊は、霊媒が有する才能の中から最も便利なものを利用します。」


――詩文であれ絵画であれ音楽であれ、そうした形式での思想の表現は、霊媒の才能によって決まるのでしょうか、それとも通信霊でしょうか。


「霊媒の場合もあれば通信霊の場合もあります。高級霊になるほど才能は豊かです。霊格が下がるほど知識と能力の範囲が狭くなります。」


――前世では驚異的な才能を見せた霊が、次の再生ではその才能を持ち合わせないというケースがあるのはどうしてでしょうか。


「その見方は間違いです。反対に、前世で芽生えた才能を次の再生時に完成させるケースの方が多いです。ただ、よくあるケースとして、前世での驚異的な才能を一時的に休眠状態にしておいて、別の才能を発揮させることがあります。休眠状態の才能は消滅したわけではなく、胚芽の状態で潜在していて、またいつか発現するチャンスが与えられます。もっとも、何かの拍子にそうした才能が直覚によっておぼろげに自覚されることはあります。」

シアトルの初冬 霊媒の書 第2部 本論

 The Mediums' Book
10章 自動書記現象の種々相




数ある霊とのコミュニケーションの手段の中でも“書く”ということが最も単純で、最も手軽で、何かと都合がいい。

と言うのは、きちんと時刻を定めて連続して交信することができ、その間の通信の内容や筆跡や態度を見て、通信霊の性格や霊格の程度や思想をじっくりと分析し、その価値判断を下すことができるからである。

体験を重ねるごとに霊的通信の純度が高まるという点でも、自動書記は好ましい手段である。

ここでいう自動書記というのは、その霊能つまり通信霊からのメッセージを受け止めて用紙に書き記すという能力を持った霊媒を中継して得られるものを言うのであって、霊媒を仲介せず、書くための道具もなしに記される直接書記とはメカニズムが異なる。(第八章参照)

自動書記には大別して三つのタイプがあり、霊媒によっては二つのタイプが交じり合っている場合もある。
①受動書記(器械書記)

本書の初めに紹介したテーブルラップやプランセットによる通信、および霊媒が筆記用具を握って書く通信は、このあと紹介する直覚書記や霊感書記と違って、テーブルやプランセットや霊媒の腕または手に霊が直接働きかけて通信を送るもので、例えば霊媒が手で書く場合でも霊媒自身は何が書かれるのか全く関知しないという点で受動的であり、その意味からこれを受動書記または器械書記と呼んでいる。霊媒の手もただの器械にすぎないと見なすわけである。(テーブルラップは物理現象の部類に入れられるのが普通であるが、符丁による通信が文字に置き替えられて綴られるという点では、確かに自動書記現象でもある――訳注)

この受動書記では手が激しく動いて、握っている鉛筆が手から離れて飛んでいったり、鉛筆を握ったまま苛立(いらだ)ったようにテーブルを叩き、鉛筆の芯が折れたりすることがある。霊媒はいっさい関係なく、そうした動きを呆れ顔で見つめている。

こうした現象が生じる時は決まって低級霊の仕業とみてよい。高級霊はあくまでも冷静で威厳が漂い、態度が穏やかである。会場の雰囲気が乱れていると高級霊は直ぐに引き上げる。そして代わって低級霊が出てくる。
②直覚書記(直感書記)

霊は霊媒の精神機能に働きかけることによって思想を伝達する。手や腕に直接働きかけるのではない。その身体に宿っている魂――霊媒が“自分”として活動するための顕在意識と潜在意識の総体――に働きかけ、その間は霊媒と一体となっている。ただし、霊媒と入れ替わっているのではないことに注意しなければならない。

霊の働きかけを受けて霊媒の精神が反応し手を動かして書く。あくまでも霊媒が書いているのであるが、伝達される思想は霊からのもので、霊媒はそれを意識的に綴っている。これを直覚書記または直感書記と呼ぶ。
③半受動書記

①の受動書記と②の直覚書記とが並行して行われる場合があり、頻度としてはこのケースがいちばん多い。

受動書記では“書く”という動作が先行し、その後から思想が付いてくる。直覚書記では思想が先行し、その後書くという動作が伴う。その両者が同時に起こる、あるいは前になったり後になったりするのを半受動書記と呼ぶ。
④霊感書記

通常意識の状態ないしはトランス状態で自分の精神の作用以外の始源から思想の流入を受け取ってそれを書き記すもので、②の直覚書記ときわめてよく似ている。唯一異なる点は、その思想が霊的始源からのものであるとの判断が明確にできないことで、霊感書記の最大の特徴はその自然発生性、つまり霊媒自身はそれをインスピレーションであるとの認識が定かでない点にある。

そもそもインスピレーションというのは、良きにつけ悪しきにつけ、霊界から我々人間に影響を及ぼす霊から送られてくるもので、日常生活のあらゆる側面、あらゆる事態における決断において関与していると思ってよい。

その意味においては我々は一人の例外もなく霊感者であると言える。事実、我々の周りには常に幾人かの霊がいて、良きにつけ悪しきにつけ、リモート・コントロール式に我々を操っている。

その事実から、守護霊を中心とする背後霊団の存在意義を理解しなければならない。人生には右か左かの選択を迫られる時機、何を言うべきかで迷う時があるものだが、そのような時に守護霊からのインスピレーションを求めることができる。自分と最も親和性の強い類魂であるとの知識に基づいた信念をもって祈り、あるいは瞑想によって指示を仰ぐ。

それに対する霊団側の反応は、最高責任者である守護霊の叡智によって一人一人異なる。まるで魔法のごとく名案を授かるかと思えば、何の反応も得られないこともある。そのような時は「待て」の指示であると受け止めるべきである。

よく耳にする話として、格別の霊的能力があるわけでもなく、また通常意識に何の変化があるわけでもないのに、一瞬の間に思想の奔流を受け、時には未来の出来事の予言まで見せられ、本人はただ唖然としてそれを受け止めるといった現象がある。そして終わってみると、それまでの悩みも苦しみも、跡形もなく消えている。

さらに天才と言われる人たち――芸術家、発明家、科学的発明者、大文学者等々――も高級霊の道具として偉大なるインスピレーションを授かるだけの器であったということであり、その意味では霊媒と同じだったわけである。


訳注――私の母は若い頃から火の玉を見たり神棚の御鏡に神々しい姿が映っているのが見えたりしたというから霊能がかなりあったようであるが、その人生は戦前と戦後とで天国と地獄を味わった、波乱に富んだ人生だった。のちに私の師となる間部詮敦氏と初めてお会いして挨拶をした時は「荒れ狂う激流を必死に泳いで、やっと向こう岸にたどり着いた感じがした」と言っていた。

その母が私にぽっつり語ったところによると、苦悶の極みに達すると必ず白い光の玉がぽっかりと浮かんで見え、それが消えると同時に一切の悩みも苦しみも消えていたという。ところが晩年にある人からしつこく意地悪をされたことがあり、私もそれを知っていたが、母が平然としているので、さすがに母だと思っていた。

ところがある日ついに堪忍袋の緒が切れて激怒に及んだ。それきり意地悪もされなくなったが、同時に「あの白い光の玉が見えなくなった」と寂しそうに言っていた。その後また見えるようになって喜んでいたが、この話から私は、いくら正義の憤怒とはいえ波動が乱れては高級な背後霊との連絡も途絶えることを教えられた。

以下は、自動書記の原理に関する霊団との一問一答である。


――インスピレーションとは何でしょうか。


「霊による思念の伝達です。」


――インスピレーションは重大なことに限られているのでしょうか。


「そんなことはありません。日常生活のいたって些細なことについてもあります。例えば、どこかへ行こうと思った時、その方角に危険が予想される場合には行かないようにさせます。あるいは思ってもみなかったことを、ひょっこり思いついてやり始める場合もそうです。一日のうちのどこかで大なり小なりそうした指示を霊感によって受けていない人はほとんどいないと考えてよろしい。」


――作家とか画家、音楽家などがインスピレーションを受ける時は、一種の霊媒と同じ状態にあると考えてよろしいでしょうか。


「その通りです。肉体による束縛が弱まって魂の活動が自由になり、霊的資質の一部が発現します。そんな時に霊団からの思念や着想がふんだんに流入します。」

次の問題として、霊媒の能力が一時的に中断したり急に失われたりすることがある。自動書記現象だけでなく物理現象その他の霊媒でも同じことがある。その問題について一問一答は次の通りである。


――霊媒能力が失われることがあり得ますか。


「よくあります。どんな能力でもあります。が、割合としては、完全に失われてしまうよりも、一時的な中断の方が多く、それも短期間です。再開されるのは中断された時の原因と同じことから発します。」


――それは霊媒の流動体の問題ですか。


「霊的現象というのは、いかなる種類のものであれ、親和性のある霊団の働きなしには生じません。現象が生じなくなった時は、霊媒自身に問題があるのではなく、霊団側が働きを止めたか、あるいは働きかけができなくなった事情がある場合がほとんどです。」


――どんな事情でしょうか。


「高級霊になると、霊媒に関して言えば、その能力の使用法によって大きな影響を受けるものです。具体的に言えば、ふざけ半分にやり始めたり野心が度を超しはじめたら、すぐに見放します。また、その能力を霊的真理の普及のために使用するという奉仕の精神を忘れ、指導を求めて来る人や研究・調査という学術的な目的で現象を求めに来る人を拒絶するようになった時も、高級霊は手を引きます。

大霊は霊媒自身の娯楽的趣味のために能力を授けるのではありません。ましてや低俗な野心を満足させるためではさらさらありません。あくまでも本人および同胞の霊性の発達を促進するために授けているのです。その意図に反した方向へ進みはじめ、教訓も忠告も聞き入れなくなった時に、霊団側はその霊媒に見切りをつけ、別の霊媒を求めます。」


――霊が去った後は別の霊が付くのではありませんか。もしそうであれば、霊媒の能力そのものが一時的に休止してしまうという現象はどう理解すべきでしょうか。


「面白半分に通信を送るだけの霊ならいくらでもいますから、高級霊が去ってしまった後に付く霊には事欠きません。が、優れた霊が霊媒への戒めのために、つまりその霊的能力の行使は霊媒とは別の次元の者(霊)によるものであって霊媒自身が自慢すべきものではないことを悟らせるために、一時的に休止状態にすることはあります。一時的に何もできなくなることによって霊媒は、自分が書いているのではないことを身に沁みて悟ります。もしそうでなかったら書けなくなるはずはないからです。

もっとも、必ずしも戒めのためばかりとも言えません。霊媒の健康への配慮から休息させる目的で中断することもあります。そういう場合には他の霊による侵入の懸念はありません。」


――しかし、徳性の高い人物で健康面でも別に休息の必要もないはずの霊媒が、通信がぷっつりと切れてしまって、その原因が分からずに悩んでいるケースはどう理解すればよいのでしょうか。


「そういうケースは忍耐力と意志の堅固さを試す試練です。その期間がいつまで続くかを知らされないのも同じく試練のためです。

一方、その期間はそれまでに届けられた通信を反芻(はんすう)させるためでもあります。それをどう理解しどう役立てるかによって、その霊媒が我々の道具として本当の価値があるかどうかの判断を下します。興味本位で立ち会う出席者についても同じような判断を下します。」


――何も出ない場合でも霊媒は机に向かうべきでしょうか。


「そうです、そういう指示があるかぎりは何も書かれなくても机に向かうべきです。が、机に向かうのも控えるようにとの指示があれば、止めるべきです。そのうち再開を告げる何らかの兆候が出ます。」


――試練の期間を短縮してもらう方法があるのでしょうか。


「忍従と祈り――そういう事態での取るべき態度はこれしかありません。毎日机に向かってみることです。が、ホンの数分でよろしい。余計な時間とエネルギーの消耗は賢明ではありません。能力が戻ったかどうかを確認することだけが目的です。」


――ということは、能力が中断したからといって必ずしもそれまでに通信を送ってくれた霊団が手を引いたとは限らないということですね?


「もちろんです。そういう時の霊媒は言わば“盲目という名の発作”で倒れているようなものです。が、たとえ見えなくても、実際は多くの霊によって取り囲まれております。ですから、そういう霊との間で思念による交信はできますし、また、それを求めるべきです。思念が通じていることを確認できることがあるでしょう。自動書記という現象は途絶えても、思念による交信まで奪われることはありません。」


――そうすると、霊媒現象の中断は必ずしも霊団側の不快を意味するものではないということでしょうか。


「まさにその通りです。それどころか、霊媒に対する優しい思いやりの証拠ですらあります。」


――霊団側の不快の結果である場合はどうやって知れますか。


「霊媒自身がおのれの良心に聞いてみるがよろしい。その能力をいかなる目的に使用しているか、どれだけ他人に役立てたか、霊団の助言・忠告によってどれだけ学んだか――そう自分に問いかけてみることです。その辺の回答を見出すのはそう難しくはないでしょう。」


――霊媒が自分が書けなくなったので他の霊媒に依頼するということは許されるでしょうか。


「それは、書けなくなったその原因によりけりです。通信霊はひと通りの通信を届けた後は、あまりしつこく質問するクセ、とくに日常生活のこまごまとしたことで相談する傾向を反省させる目的で、しばらく通信を休止することがあります。そういう場合は他の霊媒に代わってもらっても、満足のいくものは得られません。

通信の中断にはもう一つ別の目的があります。霊にも自由意志がありますから、呼べば必ず出てくれるとは限らないことを知らしめるためです。同じく交霊会に出席する人たちにも、知りたいことは何でも教えてもらえるとは限らないことを知らしめるためでもあります。」


――神はなぜ特殊な人だけに特殊な能力を授けるのでしょうか。


「霊媒能力には特殊な使命があり、そういう認識のもとに使用しなくてはなりません。霊媒は人間と霊との仲介役です。」


――霊媒の中には霊媒の仕事にあまり乗り気でない人がいますが……。


「それは、その人間が未熟な霊媒であることの証拠です。授かった恩恵の価値が理解できていないのです。」


――霊媒能力に使命があるのであれば、立派な人間にのみ特権として与えればよさそうに思えますが、現実にはおよそ感心できない人間が持っていて、それを悪用しているのはなぜでしょうか。


「もともとその人間自身にとって必要な修行として、その通信の教訓によって目を開かされることを目的として与えられています。もしもくろみ通りにいかなかった場合には、その不誠実さの結果について責任を問われることになります。イエスがとくに罪深き者を相手に教えを説いたことを思い起こすがよろしい。」


――自動書記霊媒になりたいという誠実な願望を抱いている者がどうしても叶えられない時は、霊団側がその者に対して親愛感が抱けないからと結論づけてよろしいでしょうか。


「そうとは限りません。体質的に自動書記霊媒として欠けたものがあることも考えられます。詩人や音楽家に誰でもなれるとは限らないのと同じです。が、その欠けた能力は、他の、同じ程度の価値のある能力で埋め合わせられていることでしょう。」


――霊の教えを直接耳にする機会のない人は、どうやってその恩恵に浴することができるのでしょうか。


「書物があるではありませんか。クリスチャンには福音書があるのと同じです。イエスの教えを実践するのにイエスが実際に説くのを聞く必要があるでしょうか。」

シアトルの初冬 シルバーバーチの霊訓(六)

 Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips

三章 自分の責任・他人の責任





    熱心なスピリチュアリストである実業家がある交霊会で質問した。

───背後霊や友人(の霊)に援助を要求するのはどの程度まで許されるのでしょうか。

 「生身(なまみ)の人間である霊媒との接触によって仕事をしている私どもは、地上生活における必要性、習慣、欲求といったものを熟知していなければなりません。物的必要性について無頓着ではいられません。現実に地上で生きている人間を扱っているからです。

結局のところ霊も肉体も神の僕です。霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙という機構の中での役割を果たすための一定の義務というものがあります。

肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。それを得るためには地上世界の通貨(コイン※)であるお金が必要です。そのことはよく承知しております。しかし次のことも承知しております。(シルバーバーチは口グセのように〝奉仕は霊のコインである〟と言っている。それになぞらえている───訳者)

 霊も肉体も神の僕と申し上げましたが、両者について言えば霊が主人であり肉体はその主人に仕える僕です。それを逆に考えることは大きな間違いです。あなた方は本質的には霊なのです。それが人間が潜在的に神性を宿していると言われるゆえんです。つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。
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宇宙という大生命体を機能させている偉大な創造原理があなた方一人ひとりにも宿っているのです。意識をもった存在としての生をうけたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。

全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫から必要なものを引き出すことができるのです。

 そのためには平静さが必要です。いかなる事態にあっても心を常に平静に保てるようになれば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することが出来ます。

 それに加えて、背後霊の愛と導きがあります。困難が生じた時は平静な受身の心になるよう努力なさることです。そうすればあなた自身の貯蔵庫から───まだ十分に開発されていなくても───必要な回答が湧き出てきます。きっと得られます。

われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のあなたの発達程度いかんによっては十分なものが得られないことがあります。が、その場合もまた慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。

 求めるものが正しいか間違っているかは、単なる人間的用語の問題にすぎません。私たちからみて大切なのは〝動機〟です。
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いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、私たちが第一に考慮するのはその動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、けっして無視されることはありません。

それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものがその祈りへの回答を生み出す原理を作用させております」


 ここでメンバーの一人が、学識もあり誠実そのものの人でも取越苦労をしていることを述べると───


 「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たして、しかも何の取越苦労もしないで生きていくことは可能です。

義務に無とん着であってもよろしいと言っているのではありません。かりそめにも私には、そんな教えは説きません。むしろ私は、霊的真理を知るほど人間としての責務を意識するようになることを強調しております。しかし、心配する必要などどこにもありません。霊的成長を伴わない知的発達もあり得ます」

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───あからさまに言えば、取越苦労性の人は霊的に未熟ということでしょうか。

 「その通りです。真理を悟った人間はけっして取越苦労はしません。なぜなら人生には神の計画が行きわたっていることを知っているからです。まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。

無用の心配をするということそのことが霊的成長の欠如の示標といえます。たとえ僅かでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。もし確信があれば心配の念は出てこないでしょう。偉大なる魂は泰然自若(たいぜんじじゃく)の態度で人生に臨みます。

確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺することはありません。このことだけは絶対に譲歩するわけにはいきません。なぜなら、それが私たちの霊訓の土台であらねばならないからです」
   


───たとえば50人の部下がいて、その部下たちが良からぬことをしたとします。その場合は気苦労のタネになってもやむを得ないように思いますが・・・
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 「責任は個々において背負うというのが摂理です。摂理のもとにおいては、あなたは他人の行為に責任を負うことはありません」


───文明社会においては責任を負わざるを得ないことがあるでしょう?。

 「文明はかならずしも摂理に適ったものではありません。摂理は完全です。機能を中止することはありません。適確さを欠くこともありません。間違いを犯すこともありません。あなたには自分のすること、自分の言うこと、自分の考えることに責任があります。

あなたの成長の指標が魂に刻まれているからです。したがって他人の魂のすることに責任を負うことはできません。それが摂理です。もしそうでなかったら公正が神の絶対性を欠くことになります」


───もし私がある人をそそのかし、その人が意志が弱くてそれを実行した場合、それでも私には責任はないでしょうか。
    
 「その場合はあります。他人をそそのかして悪いことをさせた責任があります。それはあなたの責任です。
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一種の連鎖反応を起こさせたことになります。何ごとも動機が第一に考慮されます。私はけっして自分以外のことに無とん着になれと言っているのではありません。


魂がある段階の偉大さを身につければ、自分の責任を自覚するようになり、やってしまったことはやってしまったこと───自分が責を負うことしかないと深く認めるようになるものなのです。いったんその段階まで到達すれば、何ごとにつけ自分にできる範囲で最善を尽くし、これでよいという確信をもつようになります」


───自分で理解しているかぎりの摂理にしたがっておればのことですか。

 「いいえ、(摂理をどう理解しているかに関係なく)原因と結果の法則は容赦なく展開していきます。その因果関係に干渉できる人はいません。その絶対的法則と相いれないことが起きるかのように説く教説、教理、教訓は間違っております。原因と結果の間にはいかなる調停も許されません。

あなた自身の責任を他人の肩に背負わせる手段はありませんし、他人の責任があなたの肩に背負わされることもあり得ません。各自が各自の人生の重荷を背負わねばなりません。そうあってはじめて正直であり、道徳的であり、倫理的であり、公正であると言えます。

それ以外の説はすべて卑劣であり、臆病であり、非道徳的であり、不公平です。摂理は完璧なのです」

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───広い意味において人間は他のすべての人に対して責任があるのではないでしょうか。世の中を住み良くしようとするのはみんなの責任だからです。

 「おっしゃる通りです。その意味においてはみんなに責任があります。同胞としてお互いがお互いの番人(創世記4・9)であると言えます。なぜなら人類全体は〝霊の糸〟によって繋がっており、それが一つに結びつけているからです。

しかし責任とは本来、自分が得た知識の指し示すところに従って人のために援助し、自分を役立て、協力し合うということです。

しかるに知識は一人ひとり異なります。したがって他人が他人の知識に基づいて行ったことに自分は責任はないことになります。しかしこの世は自分一人ではありません。お互いが持ちつ持たれつの生活を営んでおります。

すべての生命が混り合い、融合し合い、調和し合っております。そのすべてが一つの宇宙の中で生きている以上、お互いに影響を与え合っております。だからこそ知識に大きな責任が伴うのです。知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人より重い責任を取らされます。
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その行為がいけないことであることを知っているということが罪を増幅するのです。霊的向上の道は容易ではありません。

知識の受容力が増したことは、それだけ大きい責任を負う能力を身に付けたことであらねばならないのです。幸と不幸、これはともに神の僕です。

一方を得ずして他方を得ることは出来ません。高く登れば登るほど、それだけ低くまで落ちることもあるということであり、低く落ちれば落ちるほど、それだけ高く登る可能性があることを意味します。それは当然のことでしょう」


 その日の交霊会には二人の息子を大戦で失った実業家夫妻が招待されていた。その二人にシルバーバーチは次のような慰めの言葉を述べた。

 「霊の力に導かれた生活を送り、今こうして磁気的な通路(霊媒)によって私どもの世界とのつながりを持ち、自分は常に愛によって包まれているのだという確信をもって人生を歩むことができる方をお招きすることは、私どもにとって大いに喜ばしいことです。

お二人は神の恵みをふんだんに受けておられます。悲しみの中から叡知を見出されました。眠りのあとに大いなる覚醒を得られました。犠牲の炎によって鍛えられ清められて、今お二人の魂が本当の自我に目覚めておられます。
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 お二人は悲痛の淵まで下りられました。魂が謀反さえ起こしかねない酷しい現実の中で人間として最大の悲しみと苦しみを味わわれました。しかし、その悲痛の淵まで下りられたからこそ喜びの絶頂まで登ることもできるのです。

〝ゲッセマネの園〟と〝変容の丘〟は魂の体験という一本の棒の両端です。一方がなければ他方もあり得ません。苦痛に耐える力は深遠な霊的真理を理解する力と同じものです。

悲しみと喜び、闇と光、嵐と好天、こうしたものはすべて神の僕であり、その一つひとつが存在価値をもっているのです。魂が真の自我に目覚めるのは、存在の根源が束の間の存在である物的なものにあるのではなく永遠に不変の霊的なものにあると悟った時です。

地上的な財産にしがみつき、霊的な宝をないがしろにする者は、いずれ、この世的財産は色あせ錆つくものであることを思い知らされます。

霊的成長による喜びこそ永遠に持続するものです。今こそあなた方お二人は真の自我に目覚められ、霊界の愛する人々とのつながりがいっそう緊密になっていく道にしっかりと足を踏まえられました。

 ご子息が二人とも生気はつらつとして常にあなた方のお側にいることを私から改めて断言いたします。昼も夜も、いっときとしてお側を離れることはありません。みずから番兵のつもりでお二人を守り害が及ばないように見張っておられます。

といってお二人のこれからの人生に何の困難も生じないという意味ではありません。そういうことは有り得ないことです。
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なぜなら人生とは絶え間ない闘争であり、障害の一つ一つを克服していく中に個性が伸び魂が進化するものだからです。

いかなる困難も、いかなる苦難も、いかなる難問も、あなた方を包んでいる愛の力によって駆逐できないものはありません。それはみな影であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。訪れては去っていく影にすぎません。

悲劇と悲しみをもたらしたのはすべて、あなたのもとを通り過ぎていきました。前途に横たわっているのは豊かな霊的冒険です。あなた方の魂を豊かにし、いま学びつつある永遠の実在に一段と近づけてくれるところの、驚異に満ちた精神的探検です。

 お二人がこれまで手を取り合って生きて来られたのも、一つの計画、悲しみが訪れてはじめて作動する計画を成就するためです。そうした営みの中でお二人は悲しみというものが仮面をかぶった霊的喜悦の使者であることを悟るという計画があったのです。悲しみは仮面です。本当の中身は喜びです。仮面を外せば喜びが姿を見せます。

 どうかお二人の生活を美しさと知識、魂の豊かさで満たして下さい。魂を本来の豊かさの存在する高所まで舞い上がらせて下さい。そこにおいて本来の温もりと美しさと光沢を発揮されることでしょう。魂が本来の自我を見出した時は、神の御心と一体であることをしみじみと味わい不動の確信に満たされるものです。
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 私たちの述べることの中にもしもあなた方の理性に反すること、叡知と相入れないように思えることがあれば、どうか受取ることを拒否なさってください。良心の命令に背いてはいけません。自由意志を放棄なさってはいけません。私どもは何一つ押しつけるつもりはありません。強要するものは何一つありません。

私たちが求めるものは協調です。ご自分で判断されて、こうすることが正しくかつ当然であるという認識のもとに、そちらから手を差しのべて協力して下さることを望みます。

理性をお使いになったからといって少しも不快には思いません。私どもの述べたことに疑問を持たれたからといって、いささかも不愉快には思いません。その揚げ句に魂の属性である知性と理性とがどうしても納得しないということであれば、それは私たちはあなた方の指導霊としては不適格であるということです。

 私はけっして盲目の信仰、無言の服従は強要いたしません。それが神が自分に要求しておられることであることを得心するがゆえに、必要とあらば喜んで身を捧げる用意のある、そういう協力者であってくれることを望みます。

それを理想とするかぎり、私たちの仕事に挫折はありません。ともに神の使いとして手に手を取り合って進み、神の御心を日頃の生活の中で体現し、われわれの援助を必要とする人、それを受け入れる用意のある人に手を差しのべることができるのです」
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 そしてその日の交霊会を次の言葉でしめくくった。

 「始まりも終りもない力、無限にして永遠なる力に見守られながら本日も又、開会した時と同じ気持ちで閉会致しましょう。神の御力の尊厳へ敬意を表して、深く頭を垂れましょう。その恵みをお受けするために、いっときの間を置きましょう。その霊光を我が身に吸い込み、その光輝で我が身を満たし、その御力で我が身を包みましょう。

無限の叡知で私たちを導き、自発的な奉仕の精神の絆の中で私たちを結びつけようとなさる神の愛を自覚致しましょう。かくして私たちは意義ある生活を送り、一段と神に近づき、その無限なる愛の衣が私たちを、時々刻々、温かく包んでくださっていることを自覚なさることでしょう」