スピリティズムによる福音
本書には、
本書には、
スピリティズムの教義に基づいたキリストの道徳的原理の解説、
並びに、
並びに、
日常生活での様々な場面におけるその応用が著されている。
アラン・カルデック著
揺るがぬ信仰とは、
アラン・カルデック著
揺るがぬ信仰とは、
人類のどの時代においても道理と真正面から
立ち向かうことのできるものでなくてはならない。
立ち向かうことのできるものでなくてはならない。
十、霊は、完成することなく完全なる幸福を求めることはできません。どんな小さな汚点があっても、その霊が不完全であれば至福の世界へ入ることはできません。ある伝染病が広まった船に閉じこめられた乗組員たちが、どの港に到着しても、伝染病に感染していないことが証明されるまでは上陸の許可が下りないのと同じことです。
霊は幾度にも亘る再生によって、不完全性から少しずつ脱却していくのです。人生における試練は、うまく乗り越えることが出来れば、霊を進化させます。償うことにより、過去の罪を清算し、霊は浄化されます。
それらは傷を癒し、病人を治すための薬であり、重症であればあるほど、薬も強いものである必要があります。つまり多く苦しむ者は多くの罪を償う必要があるのであり、早く治してくれる薬が与えられたことを喜ぶべきでしょう。
その苦しみに忍従することによってそれを有益なもとし、その苦しみがその人にもたらしてくれたものを、不満をこぼすことによって失ってしまうことがないように出来るかどうかは、その人自身にかかっているのです。
そうすることが出来ないのであれば、再び同じような苦しみを繰り返さねばならないで
しょう。
過去の忘却
十一、過去の人生のことを覚えていないから、過去の経験を生かすことが出来ないと考えることはつまらぬことです。神が過去をベールで覆うことにしたのは、その方が有益と考えられたからに違いありません。過去を覚えていたとしたら、実際に多くの不都合を生じるでしょう。
過去の事実によってひどく恥ずかしめられることもあるでしょうし、また、過大な自尊心をもつようになってしまうこともあるでしょう。私たちの過去は、私たちの自由意志を束縛することになるでしょう。いずれの場合であれ、過去を覚えていたとしたら、社会関係おいて必ず大きな混乱を招くことになります。
霊はよく過去に過ちを犯した相手に償うために、過去に生活した時と同じ環境、同じ人間関係の中に生まれ変わります。もし、こうした関係の中で、過去に憎んでいた人が再び存在しているとわかってしまったら、また憎しみが湧いてくるでしょう。もし過去に攻撃した相手を前にしたらいたたまれない気持ちになることでしょう。
神は私たちの向上のために、私たちが必要とするものを、ちょうど足りるだけ与えてくれているのです。すなわち神は私たちに良心の声と本能的な習性を与えてくれました。私たちに不利益になるものを私たちから取り除いてくれたのです。
人間は生まれた時から、それまでに獲得したものを持って生まれます。生まれるものは、過去に生きていた通りに生まれ変わるのです。一回一回の人生のすべてが新たな出発点です。過去がどうであったかというのは、重要なことではありません。もし罰せられているのであれば、過去に過ちを犯したからです。
その人の現在の悪い習性は、その人自身がまだどこを正さねばならないかを示しているのです。そうであるからこそ、そうした自分自身の悪い性癖を見逃さないよう、その人は注意しなければなりません。
なぜなら、すでに完全に正された悪は表に出てこないからです。良心の声が善と悪との区別を警告し、悪の誘惑に乗らないようにする力を与えてくれる時、人は善なる決断を下すことができるのです。
過去の忘却は、地上で生活している間だけのものです。霊の世界へ戻れば、自分の過去を思いだすことになります。したがって、過去の忘却とは、一時的な記憶の中断に過ぎません。それは私たちが寝ている間、地上での生活の記憶に一時的な中断があるにもかかわらず、次の日、寝た前日やそれ以前の記憶を失っていないのと同じことです。
過去の記憶を取り戻すのは、死後だけのことではありません。霊は過去の記憶を失うことはなく、人間は睡眠中、身体の寝ている間、霊はある種の自由を得ることが出来、また、過去の人生の記憶を持っているということを経験は証明しています。
従って霊はなぜ苦しむのかを知っており、またその苦しみが正当なものであるということも知っています。過去の記憶は、霊が地上で寝ずに活動している間だけ消えています。
その霊にとっては苦しく、社会的に生活する上で不利益ともなり得る過去の細かな記憶を消されているということが、その解放の時間をうまく利用することができる霊にとっては、新しい力を得ることが可能になるのです。
甘受しなければいけない理由
十二、「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」という言葉で、イエスは、苦しむ者が受けるべき代償と、苦しみと言うものが病める私たちの回復の始まりであって、私たちは苦しみを有難く受け止めなければならないことを同時にのべています。
これらの言葉は次のように言い換えることができます。苦しむことを幸せに感じなければいけません。何故なら、この世におけるあなたたちの苦しみは、あなたたちの過去の過ちに負うものであるからです。
これらの痛みは、地上で辛抱強く耐えられるのであれば、未来の何世紀にも及ぶ生活への蓄えとなるのです。したがって、神が、現生においてあなたたちに義務を果たす機会を与えてくれ、未来での平和を約束し、義務を軽減してくれているのだと言うことを感謝しなければなりません。
苦しむ者とは、多大な借金を抱えたような者です。その者に対して、借金を取りたてる者が、「今日中に百分の一でも払ってくれるのなら、残りは全て水に流してあげましょう。もし、払わないのであれば、最後の一円まで、取りたてようと追い回すことになります」と言ったとします。
借金を負う者は、全てを掛けて百分の一だけを支払って負債から逃れた方が幸せでしょう。このように言ってくれる取立人には文句を言うどころか、感謝をするのではないでしょうか。
これが「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」と言う言葉の意味するところです。苦しむ者はその借金を返済することが出来るのですから幸いなのです。
なぜなら、支払いを終えれば自由になるからです。しかし、その借金を払いながらも、また別の方から借金をするならば、永久に負債から逃れることはできません。新しい過ちを犯す度に負債は増えるのです。
なぜならいかなる過ちであれ、避けることのできない罰が与えられないものは何一つないからです。もし今日支払うのでなければ、明日は支払わねばなりません。現世で支払うのでなければ、来世において支払うことになるでしょう。神の意志に対する甘受の気持ちの欠如も、まず一番目にこうした過ちの内に含めなければなりません。
なぜなら、もし、私たちが苦労や苦しみに対し不満を持ち、私たちに相応しいものを受け入れず、神を不公平であると非難するのであれば、苦労が与えてくれる利益を失い、新たな債務を負うことになるからです。
それは私たちを追い立て苦しめる債権者に少しずつ支払いながら、同時に又新たな債務を負い、また、新しい支払いを始めなければならないのと同じことです。
霊の世界へ入った人間とは、報酬を受け取りに現れた労働者のようなものです。そのうちの何人かに雇い主は言います。「あなたの働いた分の報酬です」。
しかし、地上で満たされた者、怠惰な生活をし、幸せを自分勝手な私欲や自尊心のために、また世俗的な快楽に求めてきた者に対して雇い主は言います。「なにも支払うものはありません。何故なら、あなたたちは地上ですでに報酬を受け取っているからです。行きなさい、あなたたちの仕事をやり直しなさい」。
十三、人は人生のとらえ方次第で、与えられた試練を軽く感じたり、重く感じたりします。試練の期間が長いと感じれば感じるほど、そこから来る苦しみも増します。霊の世界に視点をおいて、地上での物質的な人生というものが、永遠の生命の中のある一瞬でしかないと見ることのできる者には、その人生の短さを理解することができ、苦しみもすぐに過ぎ去ってしまうのだということが分かるでしょう。
近い将来に必ず幸せがやってくるであろうと言う確信は、苦しむ者に勇気を与え、苦しむ者の支えとなります。苦しむのではなく、彼を進歩させてくれる痛みを、天に向かって感謝することになります。
物質的な人生しか目に入らない者には、それがいつまで立っても終わらないものであるかのように思え、苦しみは重くのしかかってきます。霊の世界から人生を見れば、この世のあらゆるものの重要性は薄れてしまいます。人間的な欲望を和らげることによっておかれた立場への満足を得ることができます。
人の身分を羨むことがなくなれば、悲運や失望もあまり感じなくなるでしょう。そうした人は、心の平静と甘受の気持ちを持つことができるようになり、その気持ちは身体の健康にとっても、また、魂にとっても大変良い影響を及ぼします。
一方羨みや野心は、短い人生の惨めさや苦しみを増大させ、そのものを苦境に導きます。
霊は幾度にも亘る再生によって、不完全性から少しずつ脱却していくのです。人生における試練は、うまく乗り越えることが出来れば、霊を進化させます。償うことにより、過去の罪を清算し、霊は浄化されます。
それらは傷を癒し、病人を治すための薬であり、重症であればあるほど、薬も強いものである必要があります。つまり多く苦しむ者は多くの罪を償う必要があるのであり、早く治してくれる薬が与えられたことを喜ぶべきでしょう。
その苦しみに忍従することによってそれを有益なもとし、その苦しみがその人にもたらしてくれたものを、不満をこぼすことによって失ってしまうことがないように出来るかどうかは、その人自身にかかっているのです。
そうすることが出来ないのであれば、再び同じような苦しみを繰り返さねばならないで
しょう。
過去の忘却
十一、過去の人生のことを覚えていないから、過去の経験を生かすことが出来ないと考えることはつまらぬことです。神が過去をベールで覆うことにしたのは、その方が有益と考えられたからに違いありません。過去を覚えていたとしたら、実際に多くの不都合を生じるでしょう。
過去の事実によってひどく恥ずかしめられることもあるでしょうし、また、過大な自尊心をもつようになってしまうこともあるでしょう。私たちの過去は、私たちの自由意志を束縛することになるでしょう。いずれの場合であれ、過去を覚えていたとしたら、社会関係おいて必ず大きな混乱を招くことになります。
霊はよく過去に過ちを犯した相手に償うために、過去に生活した時と同じ環境、同じ人間関係の中に生まれ変わります。もし、こうした関係の中で、過去に憎んでいた人が再び存在しているとわかってしまったら、また憎しみが湧いてくるでしょう。もし過去に攻撃した相手を前にしたらいたたまれない気持ちになることでしょう。
神は私たちの向上のために、私たちが必要とするものを、ちょうど足りるだけ与えてくれているのです。すなわち神は私たちに良心の声と本能的な習性を与えてくれました。私たちに不利益になるものを私たちから取り除いてくれたのです。
人間は生まれた時から、それまでに獲得したものを持って生まれます。生まれるものは、過去に生きていた通りに生まれ変わるのです。一回一回の人生のすべてが新たな出発点です。過去がどうであったかというのは、重要なことではありません。もし罰せられているのであれば、過去に過ちを犯したからです。
その人の現在の悪い習性は、その人自身がまだどこを正さねばならないかを示しているのです。そうであるからこそ、そうした自分自身の悪い性癖を見逃さないよう、その人は注意しなければなりません。
なぜなら、すでに完全に正された悪は表に出てこないからです。良心の声が善と悪との区別を警告し、悪の誘惑に乗らないようにする力を与えてくれる時、人は善なる決断を下すことができるのです。
過去の忘却は、地上で生活している間だけのものです。霊の世界へ戻れば、自分の過去を思いだすことになります。したがって、過去の忘却とは、一時的な記憶の中断に過ぎません。それは私たちが寝ている間、地上での生活の記憶に一時的な中断があるにもかかわらず、次の日、寝た前日やそれ以前の記憶を失っていないのと同じことです。
過去の記憶を取り戻すのは、死後だけのことではありません。霊は過去の記憶を失うことはなく、人間は睡眠中、身体の寝ている間、霊はある種の自由を得ることが出来、また、過去の人生の記憶を持っているということを経験は証明しています。
従って霊はなぜ苦しむのかを知っており、またその苦しみが正当なものであるということも知っています。過去の記憶は、霊が地上で寝ずに活動している間だけ消えています。
その霊にとっては苦しく、社会的に生活する上で不利益ともなり得る過去の細かな記憶を消されているということが、その解放の時間をうまく利用することができる霊にとっては、新しい力を得ることが可能になるのです。
甘受しなければいけない理由
十二、「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」という言葉で、イエスは、苦しむ者が受けるべき代償と、苦しみと言うものが病める私たちの回復の始まりであって、私たちは苦しみを有難く受け止めなければならないことを同時にのべています。
これらの言葉は次のように言い換えることができます。苦しむことを幸せに感じなければいけません。何故なら、この世におけるあなたたちの苦しみは、あなたたちの過去の過ちに負うものであるからです。
これらの痛みは、地上で辛抱強く耐えられるのであれば、未来の何世紀にも及ぶ生活への蓄えとなるのです。したがって、神が、現生においてあなたたちに義務を果たす機会を与えてくれ、未来での平和を約束し、義務を軽減してくれているのだと言うことを感謝しなければなりません。
苦しむ者とは、多大な借金を抱えたような者です。その者に対して、借金を取りたてる者が、「今日中に百分の一でも払ってくれるのなら、残りは全て水に流してあげましょう。もし、払わないのであれば、最後の一円まで、取りたてようと追い回すことになります」と言ったとします。
借金を負う者は、全てを掛けて百分の一だけを支払って負債から逃れた方が幸せでしょう。このように言ってくれる取立人には文句を言うどころか、感謝をするのではないでしょうか。
これが「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」と言う言葉の意味するところです。苦しむ者はその借金を返済することが出来るのですから幸いなのです。
なぜなら、支払いを終えれば自由になるからです。しかし、その借金を払いながらも、また別の方から借金をするならば、永久に負債から逃れることはできません。新しい過ちを犯す度に負債は増えるのです。
なぜならいかなる過ちであれ、避けることのできない罰が与えられないものは何一つないからです。もし今日支払うのでなければ、明日は支払わねばなりません。現世で支払うのでなければ、来世において支払うことになるでしょう。神の意志に対する甘受の気持ちの欠如も、まず一番目にこうした過ちの内に含めなければなりません。
なぜなら、もし、私たちが苦労や苦しみに対し不満を持ち、私たちに相応しいものを受け入れず、神を不公平であると非難するのであれば、苦労が与えてくれる利益を失い、新たな債務を負うことになるからです。
それは私たちを追い立て苦しめる債権者に少しずつ支払いながら、同時に又新たな債務を負い、また、新しい支払いを始めなければならないのと同じことです。
霊の世界へ入った人間とは、報酬を受け取りに現れた労働者のようなものです。そのうちの何人かに雇い主は言います。「あなたの働いた分の報酬です」。
しかし、地上で満たされた者、怠惰な生活をし、幸せを自分勝手な私欲や自尊心のために、また世俗的な快楽に求めてきた者に対して雇い主は言います。「なにも支払うものはありません。何故なら、あなたたちは地上ですでに報酬を受け取っているからです。行きなさい、あなたたちの仕事をやり直しなさい」。
十三、人は人生のとらえ方次第で、与えられた試練を軽く感じたり、重く感じたりします。試練の期間が長いと感じれば感じるほど、そこから来る苦しみも増します。霊の世界に視点をおいて、地上での物質的な人生というものが、永遠の生命の中のある一瞬でしかないと見ることのできる者には、その人生の短さを理解することができ、苦しみもすぐに過ぎ去ってしまうのだということが分かるでしょう。
近い将来に必ず幸せがやってくるであろうと言う確信は、苦しむ者に勇気を与え、苦しむ者の支えとなります。苦しむのではなく、彼を進歩させてくれる痛みを、天に向かって感謝することになります。
物質的な人生しか目に入らない者には、それがいつまで立っても終わらないものであるかのように思え、苦しみは重くのしかかってきます。霊の世界から人生を見れば、この世のあらゆるものの重要性は薄れてしまいます。人間的な欲望を和らげることによっておかれた立場への満足を得ることができます。
人の身分を羨むことがなくなれば、悲運や失望もあまり感じなくなるでしょう。そうした人は、心の平静と甘受の気持ちを持つことができるようになり、その気持ちは身体の健康にとっても、また、魂にとっても大変良い影響を及ぼします。
一方羨みや野心は、短い人生の惨めさや苦しみを増大させ、そのものを苦境に導きます。
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