Saturday, February 4, 2023

シアトルの冬 モーゼスの霊訓  解説            sprit teachingー Commentary

W・S・モーゼス William Stainton Moses

 
霊訓は形の上ではモーゼスという霊媒的素質をもつキリスト教信者を通して、目に見えぬ知的存在が全ての人間の辿る死後の道程を啓示し、モーゼスが幼少時より教え込まれ、絶対と信じ、且つ人に説いてきた思想的信仰を根底から改めさせ、真実の霊的真理を理解させんとする働きかけに対し、モーゼスがあくまで人間的立場から遠慮容赦のない反論を試みつつも、ついに得心していく過程をモーゼス自身がまとめて公表したものである。

 モーゼス自身が再三断っているように、本書に収められたのはほぼ十年間に亙って送られて来た膨大な量の通信のほんの一部である。

主としてイムペレーターと名のる最高指揮霊が右に述べたモーゼスの霊的革新の目的に副って啓示した通信を採録してあるが、記録全体の割合からいうとプライベートなこと、些細なこと、他愛ないことのほうが圧倒的に多いようである。

が、それはモーゼスの意思に従って公表されていない。実際問題としては些細なこと、プライベートなことのほうがむしろ科学的ないし論理的なものよりも人間の心に訴えるという点においては重要な価値をもつことがあり、その意味では残念なことではあるが、もともと霊団の意図がそこになかったことを考えれば、それもやむを得なかったと言わざるを得ない。

 通読されて実感されたことであろうが、モーゼスによってその十年間の顕幽にまたがる論争は、モーゼスの名誉と人生の全てを賭けた正に真剣勝負そのものであった。全ての見栄と打算を排した赤裸々な真理探究心のほとばしりをそこに見ることが出来る。

それだけに、自分に働きかける目に見えざる存在が地上時代にいかなる人物であろうと、何と説こうと、己の理性が得心し求道心が満足するだけでは頑として承服しなかった。

その点は今の日本に見られるような、背後霊に立派そうな霊がいると言われただけで有頂天になったり、何やら急に立派な人間になったかのように錯覚する浅薄な心霊愛好家とは次元が異なる。

ほぼ三十年後の同じくキリスト教の牧師オーエンが名著「ベールの彼方の生活」Life Beyond the Veil by R. V. Owen を出すまでに二十五年の歳月をかけた事実と相通じるものがあろう。

 なおこの「霊訓」には「続霊訓」More Spirit Teachings という百ページばかりの続編がある。これはモーゼス自身の編纂によるものではなく、モーゼスの死後、モーゼスのこの道での恩師であったスピーア博士夫人が博士邸で定期的に催されていた交霊会での霊言と自動書記による通信の記録の中から〝是非とも公表されるべきである〟と判断したものをまとめたものである。

背後霊団の意図と霊的真理の中枢においては何ら変わりなく、その意味で目新しいものは見当たらないとも言えるが、第一部の霊言集と(第二部は自動書記通信)第三部のモーゼスの人物像に関するものには参考になるものが少なくない。

その紹介も兼ねて、このあとの解説には主としてこの「続霊訓」を参考にさせていただくことにする。


 〇霊団の構成について
 「続霊訓」の冒頭でイムペレーターが霊言でこう述べている。

 『神の使徒たる余は四十九名より成る霊団の頭であり、監督と統率の任にあり、他の全ての霊は余の指導と指令により仕事に当たる。

 余は全智全能なる神の意志を成就せんがために第七界より参った。使命完遂の暁には二度と地上に戻れぬ至福の境涯へと向上していくであろう。が、それはこの霊媒が地上での用を終えた後となるであろう。

そしてこの霊媒は死後において地上より更に広き使命を与えられるであろう。

 余の下に余の代理であり副官であるレクターがいる。彼は余の不在の折に余に代わって指揮し、とりわけ物理的心霊現象に携わる霊団の統率に当たる。

 レクターを補佐する三番目に高き霊がドクター・ザ・ティーチャーである。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率化に、あとで紹介するところの、知恵と知識を担当するところの一団が控えている。

 次に控えるのが地上の悪影響を避け、あるいは和らげ、危険なるものを追い払い、苦痛を軽減し、よき雰囲気を作ることを任務とせる二人の霊である。この二人にとりて抗し切れぬものはない。が、内向的罪悪への堕落は如何ともし難い。

そこで霊界の悪の勢力───霊媒の心変わりを画策し聖なる使命を忘れさせんとする低級霊の誘惑より保護することを役目とする二人の霊がついている。直々に霊媒に付き添うこの四人を入れた七人で第一の小霊団(サークル)を構成する。われらの霊団は七人ずつのサークルより成り、各々一人の指揮官が六人を統率している。

 第一のサークルは守護と啓発を担当する霊───霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊より成る。

 次のサークルは愛の霊のサークルである。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、そのほか優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類のもの全てを配慮する。

 次のサークル───これも同じく一人が六人を主宰している───は叡智を司る霊の集団である。直感、感識、反省、印象、推理、等々を担当する。直感的判断力を観察事実からの論理的判断力を指導する。叡智を吹き込み、且つ判断を誤らせんとする影響を排除する。

 次のサークルは知識───人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識───を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当する。また霊媒の辿る困難きわまる地上生活を指導し、有益なる実際的知識を身に付けさせ、直感的知恵を完成せしめる。これはドクターの指揮のもとに行われる。

 その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループである。彼らは崇高にして知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さとに溢れる言葉に触れさせる。美しきもの、芸術的なもの、洗練され教養溢れるものへ心を向けさせ性格に詩的潤いを与え、気品あるものにする。

 次の七人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を担当する。これが霊媒の性格に軽快なタッチを添える。すなわち社交上大切な生気溢るる明るさであり、これが日々の重々しき苦労より気分を解放する。愛想良き心優しき魅力ある霊たちである。

 最後の霊団は、物理的心霊現象を担当する霊たちである。高等なる霊的真理を広める上で是非必要とみた現象を演出する。指揮官代理であるレクターの保護監督のもとに、彼ら自身の厚生を兼ねてこの仕事に携わっている。

霊媒ならびにわれら背後霊団との接触を通じて厚生への道を歩むのである。それぞれに原因は異なるが、いずれも地縛霊の類に属し、心霊現象の演出の仕事を通して浄化と向上の道を歩みつつある者たちである。

 いずれのグループに属する霊も教えることにて自ら学び、体験を与えることによりて自ら体験し、向上せしめることによりて自ら向上せんとしている。これは愛より発せられた仕事である。それはわれわれの徳になると同時に、この霊媒の徳ともなり、そしてこの霊媒を通じて人類への福音をもたらすことになるのである。』

 以上がイムペレーター自身の霊言による霊団の説明であるが、「ステイントン・モーゼの背後霊団」The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewy によると、この最高指揮官であるイムペレーターの上に更にプリセプターと名のる総監督が控え、これが地球全体の経綸に当たるいわば地球の守護神の命令を直接受け取り、それがいむイムペレーターに伝えられる、という仕組みになっていたようである。


〇霊団の身元について
 本文でもイムペレーターが繰り返し述べているように、霊の地上時代の身元を詮索することは単なる好奇心の満足にはなっても、それによって「霊訓」の信頼性が些かも増すものではないし、減じるものでもない。第一地上の記録自体が信頼がおけないのである。

がしかし、一応興味の対象であることには違いないので、主な霊の地上時代の名前を紹介しておくと───

 イムペレーターは紀元前五世紀のユダヤの予言者で旧約聖書の〝マキラ書〟の編纂者マキラ Marachi` レクターは初期キリスト教時代のローマの司教だった聖ヒポリタス Hippolytus‘ ドクターは紀元二世紀ごろのギリシャの哲学者アテノドラス Athenogoras` プルーデンスは〝新プラトン主義哲学〟の創始者プロティノス Plotinus` その他、本書に登場していない人物で歴史上に名のある人物としてプラトン、アリストテレス、セネカ、アルガザリ等の名が見られる。

 ここに参考までに訳者の個人的見解を述べさせて頂くと、スピリチュアリズムの発展に伴って守護霊、指導霊、支配霊等のいわゆる背後霊の存在が認識されてきたことは意義深いことであり、背後霊のほうも、自分たちの存在を認識してくれるのと無視されるのとでは霊的指導において大いに差がある、と言うのが一致した意見であるが、そのことと、その背後霊の地上時代の名声とか地位とかを詮索することはまったく別問題である。

地位が高かったとか名声が高かったということは必ずしも霊格の高さを示すものではない。そのことは現在の地上の現象を見れば容易に納得のいくことである。

シルバーバーチやマイヤースの通信を見ると、偉大な霊ほど名声とか地位、権力といった〝俗世的〟なものとは縁のない道を選んで再生するという。従ってその生涯は至って平凡であり、その死も身内の者を除いてほとんど顧みられないことが多い。

そうした人物が死後誰かの守護霊として、あるいは指導霊として働いた時、その身元をとやかく詮索して何になろう。満足のいく結果が得られる筈がないのである。しかも霊は死後急速に向上し変化していくという事実も忘れてはならない。イムペレーターの霊言に次のようなところがある。

『地上へ降りてくる高級霊は一種の影響力であり、いわば放射性エネルギーである。汝らが人間的存在として想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物の如きものである。高等なる霊信の非人個人性に注目されたい。

この霊媒との関わりをもった当初、彼はしつこくわれらの身元の証明を求めた。が実はわれらを通して数多くの影響力が届けられておる。死後首尾よく二段階三段階と登りたる霊は、汝らのいう個体性を失い形態なき影響力となり行く。

余は汝らの世界に戻れるぎりぎりの境界まで辿り着いた。が、距離には関係なく影響力を行使することが出来る。余は今、汝らより遥か彼方に居る。』


 西洋においても日本においても霊能者は軽々しく背後霊や前世のことを口にし過ぎる傾向があるが、その正確さの問題もさることながら、そのこと自体が本人にとって害こそあっても何ら益のないことであることを強く主張しておきたい。

辿ればすべて神に行き着くのである。その途中の階梯において高いだの低いだのと詮索して何になろう。霊的指導者の猛省を促したい。



〇スピリチュアリズムにおける「霊訓」の価値

 スピリチュアリズム Spirituailsm というのは用語だけを分析すれば主義・主張を意味することになるが、本来は人為的教義を意味するものではなく、地上では名称なしには存在が示されないからやむを得ずそう銘打っているまでで、〝発明〟ではなく〝発見〟───目に見えぬ内的世界と霊的法則の発見である。

 そのきっかけが一八四八年の米国における心霊現象であったことは周知の通りである。イムペレーターの霊言に次のような箇所がある。

『今夜は大勢の霊が活発にうごいている。本日が記念すべき日であるからに他ならぬ。汝らが〝近代スピリチュアリズム〟と呼ぶとところのものが勃興した当初、高級霊界より強力なる影響力が地球へ差し向けられ、霊媒現象が開発された。

かくして地球的雰囲気に縛りつけられた多くの霊を地球圏より解放し、新たなる生活へ蘇らしめるための懸け橋が設けられた。このことを記念してわれらはこの日を祝うのである。

スピリチュアリズム───われらはこれをむしろ〝霊界からの声〟と呼びたいところであるが、これは真理に飢えし魂の叫びに応えて授けられるものである。』


 この霊言からも判る通り、スピリチュアリズムは本来は霊界からの新たな啓示を地上人類にもたらす運動であり、その目的のために霊媒が養成され、霊的存在の威力の証として様々な心霊現象が演出されたのであった。

新たな啓示とは突き詰めれば人間の死後存続の事実と、その生活場としての霊界の存在と、その顕と幽とに跨る因果律の存在の三つに要約されよう。

ところが現実にはスピリチュアリズムへの一般の関心の多くは霊の存在の物的証拠に過ぎないところの〝現象面〟に注がれ、肝心の霊的教訓が等閑(なおざり)にされている。イムペレーターは続けてこう語っている。

『スピリチュアリズムには徐々に募りつつある致命的悪弊が存在する。現象のみの詮索から由来するいわば一種の心霊的唯物主義である。人間は物理現象の威力のみに興味を抱き、その背後のさまざまな霊的存在を理解しようとせぬ。

物質は付帯的要件に過ぎず、実在はあくまで霊なのである。世界の全ての宗教は来たるべき死後の世界への信仰も絶えだえとなっている。

もしもこのまま現象のみの満足にて終るとすれば、始めよりこの問題に関らぬほうが良かったかも知れぬ。がしかし、一方にはそうした現象的段階を首尾よく卒業し、高き霊的真理を希求する者もまた多い。彼らにとりて心霊現象は霊的真理への導入に過ぎなかったのである。』


 要するにスピリチュアリズムの究極の目的はこの「霊訓」に象徴される霊的真理の普及にあるのである。イムペレーターも述べている通り、こうした霊的啓示を地上へ送り届ける霊団は古来いくつも結成され、その時代に必要とするものを霊覚者を通して送って来た。

そして今なお世界各地で送られてきている。「霊訓」はあくまでそのうちの一つに過ぎない。そして霊媒のモーゼスがキリスト教の牧師(三十歳の時に病を得て辞職)であったこと、その時期がスピリチュアリズムの勃興期に当たったという事情からくる特殊性を見落としてはならないであろう。

つまりその内容は煎じ詰めれば、キリスト教的ドグマの誤謬を指摘し、それに代わる真正なる霊的意義を説くことに集中され、その他の一般の人間にとっての関心事、例えば再生───生まれ変わり───の問題等については、少なくとも本書に採録されたものの中には見当たらないし、「続霊訓」の中で言及しているものも概念的なことを述べているだけで、深入りすることを避けんとする意図が窺える。イムペレーターは自動書記通信でこう述べている。

 『霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊にして始めて論ずることの出来る問題である。最高神ご臨席のもとに神庁において行われる神々の教義の中身については、神庁の下層の者にすら知り得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方が良い秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。

神庁において神議(かむはか)りに議られしのちに一個の霊が再び地上へ肉体に宿りて生まれるべきと判断されるか、それとも否かと判断されるかは誰にもわからぬ。誰も知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。全ては佳きに計らわれるであろう。

 すでに述べた如く、地上にて広く喧伝されている形での再生は真実ではない。また偉大なる霊が崇高な使命と目的とを携えて地上に戻り人間と共に生活を送ることは事実である。

他にもわれらなりの判断に基づきて広言を避けている一面もある。まだその機が熟しておらぬからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう公言する霊は自ら己の虚偽性の証拠を提供していることに他ならぬ。』


〇シルバーバーチ霊訓との比較
 イムペレーター霊団がモーゼスを通じて活動を開始したのは一八七〇年代初期からであるが、ぞれからほぼ半世紀後の一九二〇年代には、霊言霊媒モ―リス・バーバネルを通じてシルバーバーチ霊団が活動を開始している。

そして一九八一年にバーバネルが他界するまでのほぼ半世紀に亙って膨大な量の霊言を残し「シルバーバーチ霊言集」全十一巻となって出版されている。

 訳者はこれを「古代霊は語る」(潮文社)と題してその中心的思想の全容を紹介したが、モーゼスの「霊訓」とは基本的には完全に符合を合している。強いて異なる点を挙げるならば、イムペレーターが控えめに肯定した再生の事実を思い切り前面に押し出し、これを魂の向上進化のために必要不可欠の要素として説いている点である。

察するにモーゼスの「霊訓」その他によっていわゆる〝夾雑物〟が取り除かれ、人類が神の神秘にもう一歩踏み込める段階に来たことを意味するのであろう。

 このことに関して興味深いのは、キリスト教の根本教理を論駁するイムペレーター霊団の霊媒がキリスト教会の曾ての牧師であり、再生を根本教理として説くシルバーバーチ霊団の霊媒が再生説を嫌悪する人物であったことである。訳者個人としてはそこに霊界の意図的配慮があったものと推察している。


〇モーゼスの経歴と人物像
 ウィリアム・ステイントン・モーゼスは一八三九年に小学校の校長を父として生まれた。小学生時代に時おり俗にいう夢遊病的行動をしている。一度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩にまとまらなかった問題についての作文を書き、再びベッドに戻ったことがあったが、その間ずっと無意識のままであった。

書かれた作文はその種のものとしては第一級であったという。しかし幼少時代に異常能力を見せた話はそれだけである。

 オックスフオード大学を卒業後、国教会(アングリカン)の牧師としてマン島に赴任している。二十四歳の若さであったが、教区民からは非常な尊敬と敬愛を受けた。特に当地で天然痘が猛威をふるった時の勇気ある献身的行為は末永く語り継がれている。

 一八六九年三十歳時に重病を患い S・T・スピーア博士の世話になったことが、生涯に亙るスピーア家との縁の始まりであると同時に、スピリチュアリズムとの宿命の出会いでもあった。博士の奥さんが大変なスピリチュアリストだったのである。

翌年病気回復と共に再びドーセット州で牧師の職に付いたが病気が再発し、ついに辞職して以後二度と聖職に戻ることはなかった。そして翌年ロンドンの小学校の教師を任命され、一八八九年に病気で辞職するまで教鞭をとった。

 その間の一八七一年から一八八二年のほぼ十年間がこの「霊訓」を生み出した重大な時期である。モーゼス自身にとっては死に物狂いで真理を追究した時期であり、スピリチュアリズムにとっては大いなる霊的遺産を手にした時期でもあったと言える。

 最後に「続霊訓」の第三部に載っているモーゼスの人物評を紹介しておく。いずれもモーゼスの死に際して贈られた言葉である。まずスピーア夫人はこう語っている。

『自然を愛する心と、気心の合った仲間との旅行好きの性格、そして落ち着いたユーモア精神が、地名や事物、人物、加えてあらゆる種類の文献に関する膨大な知識と相俟って、氏を魅力ある人間に作り上げていました。

 二年間の病いさえなければ「霊訓」をもう一冊編纂して出版し、同時に絶版となっている氏の著作が再版されていたことでしょう。健康でさえあったら、いずれ成就されていた仕事です。霊界の人となった今、氏は、あとに残された同志たちが氏が先鞭をつけた仕事を引き継いで行ってくれることを切望しているに相違ありありません。』


 次は心霊誌「ライト」に載った記事。

 『氏は生れついての貴族であった。謙虚さの中にも常に物静かな威厳があった。これは氏が手にした霊的教訓と決して無縁ではなかった。氏ほどの文学的才能と、生涯を捧げた霊的教訓と、稀有の霊的才能は、氏を傲慢不遜し苛立ちを生み嫌悪感を覚えさせても決しておかしくないところである。が氏にとってはそれは無縁であった。モーゼス氏は常に同情心に満ち、優しく、適度の同調性を具えていた。』

 スピア博士の子息でモーゼスが七年もの間家庭教師をしたチャールトン・スピーア氏は、氏の人間性の深さと暖かさ、性格の優しさ、真摯な同情心、そして今こそ自己を犠牲にすべきとみた時の徹底した没我的献身ぶりを称えてから、こう結んでいる。

『真理普及への献身的態度は幾ら称賛しても称賛しきれない。氏はまさに燃える炎であり、輝く光であった。恐らくこれほどの人物は二度と現れぬであろう。』

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