モーゼスの霊訓
地獄───それは個々の魂の中を除いて他のいずこにも存在せぬ。未だに浄化も抑制もされぬ情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪業の報いとして容赦なく湧き出ずる魂の激痛に苛まれる。これぞ地獄である。その地獄より脱け出る道はただ一つ───辿り来る道を今一度あと戻りし、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にない。
罪に対してはそれ相当の罰のあることは固(もと)よりであるが、その罰とは怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではない。
悪と知りつつ犯せる罪悪に対し、苦痛と恥辱の中にありて心の底より悔い改め、罪の償いの方向へと導くための自然の仕組みにほかならず、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしきドグマへの口先のみの忠誠を誓うが如き、退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてない。
幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間なき日々の生活において、理性に叶い宗教心より発する行いをなす者すべてが手にすることができるものである。神の摂理を意識的に犯す者に必ず不幸が訪れる如く、正しき理性的判断は必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を棄てたる霊との区別はない。
霊的生命の究極の運命についてはわれらも何とも言えぬ。何も知らぬのである。が、われらをして現在までに知り得たかぎりにおいて言わしむれば、霊的生命は汝らの肉体に宿る者もわれら霊も共に、等しく神の因果律によりて支配され、それを順守する者は幸福と生き甲斐を覚え、それを犯せるものは不幸と悔恨への道を辿るということだけは間違いなく断言できる。
神に対する責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この三つの根本的責務についてはすでにその大要を述べた。よってここでは詳説はせぬ。いずれ敷衍して説く時機も到来しよう。
以上述べたところを篤と吟味せられたい。われらが当初より宣言せる主張───すなわち、われらの訓えが純粋にして神聖でありイエスの訓えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知るには、それで充分であろう。
それは果たして正統派の教義に比して明確さを欠き曖昧であろうか。そうかも知れぬ。汝らに反発心を起こせしめる箇所については詳細を欠いているかも知れぬ。が、全体を通じて崇高にして清純なる雰囲気が漂っているであろう。
高尚にして神聖なる宗教を説いていよう。神性のより高き神を説いていよう。実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもない。そう映るのは、敬虔なる心の持ち主ならば浅薄な詮索をしたがらぬであろう課題を扱っているからに他ならぬ。
知り得ることは知り得ることとして措き、決して勝手な憶測はせぬ。全知全能の神についていい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのである。
もしも人智を超えた神にベールをかけることをもって曖昧と呼ぶならば、確かにわれらの教えは曖昧であり、明確さに欠けるであろう。しかしもしも知り得たかぎりのこと、理解し得るかぎりのことしか述べぬこと、憶測するより実践すること、ただ信じるより実行することが賢明なる態度であるならば、われらの態度こそ叡智の命ずるところに従い、理性を得心させ神の啓示に与(あずか)れるものであると言えよう。
われらの訓えには理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性がある。遠き未来においてもその価値を些かも失わず、数知れぬ魂を鼓舞し続けることであろう。一方これに異を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ぬことになろう。
それは、その信念を携えて進みし無数の霊を幸福と向上の道へ導き、一方、その導きを拒否せる者は、朽ち行く肉体と同じ運命を辿ることであろう。愚かなる無知からわれわれの訓えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信ずる者を悪魔の手先と非難しようとも、その訓えは存在し続け、信ずる者を祝福し続けることであろう。
♰イムペレーター
───おっしゃることは筋が通っており、立派な訓えだと思います。また曖昧であるとの神の批判に対しても納得のいく答えをいただきました。しかし、一般の人はあなたの説くところを、事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。
そこで私がお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくに、それが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。
それについては、いずれ時機をみて説くとしよう。今は控える。先を求むる前に、これまでわれらが述べたところを篤と吟味されたい。汝を正しく導く御力をわれらに給わらんことを!
♰イムペレーター
No comments:
Post a Comment