Friday, February 17, 2023

シアトルの冬 祈願成就の原理   Principle of prayer fulfillment


         
一九一三年十月七日 火曜日

 このたび初めて同行して来た霊団(グループ)の協力を得て私はこれより、ベールのこちら側より観た〝信仰〟の価値について少しばかり述べてみたいと思う。

 キリスト教の〝信徒信条〟に盛り込まれた教義については今ここで多くを語るつもりはありません。すでに多く語られ、それ以上の深いものを語るにはまだ人間側にそれを受け入れる用意が十分に出来ていないからである。

 そこで吾々は差し当たってその問題については貴殿の判断におまかせし、どの信条も解釈を誤らなければそれなりの真理が含まれている、と述べるに留めておきます。
 そこで吾々としては現在の地上の人間があまり考察しようとしない問題を取り上げることにしたい。その問題は、人間が真理の表面──根本真理でなく真理のうわべに過ぎないもの──についての論争を卒業した暁にかならず関心を向けることになるものである。

それを正しく理解すれば、いま人間が血眼(ちまなこ)になっている問題の多くがどうでもよい些細なことであることが判り、地上だけでなくこちらの世界でも通用する深い真理へ注意を向けることになるでしょう。

 その一つが祈りと冥想の効用の問題である。貴殿はこの問題についてはすでに或る程度の教示を受けておられるが、吾々がそれに追加したいと思います。

 祈りとは成就したいと思うことを要求するだけのものではない。それより遥かに多くの要素をもつものです。であるからには、これまでよりも慎重に考察されて然るべきものです。

祈りに実効を持たせるためには、その場かぎりの目先の事柄を避け、永遠不易のものに精神を集中しなくてはならない。そうすれば祈りの中に盛り込みたいと思っていた有象無象(うぞうむぞう)の頼みごとの大部分が視界から消え、より重大で巾広い問題が創造力の対象として浮かび上がって来る。

祈りにも現実的創造性があります。例えば数匹の魚を五千人分に増やしたというイエスの奇跡(ヨハネ6)に見られるように、祈りは意念の操作による創造的行為である。その信念のもとに祈りを捧げれば、その祈りの対象が意念的に創造され、その結果として〝祈りが叶えられる〟ことになる。

つまり主観的な願いに対し、現実的創造作業による客観的回答が与えられるのです。

 祈りの念の集中を誤っては祈りは叶えられません。放射された意念が目標物に当たらずに逸(そ)れてしまい、僅かに適中した分しか効果が得られないことになる。

さらに、その祈りに良からぬ魂胆が混入しても効力が弱められ、こちら側から出す阻止力または規制力の働きかけを受けることになります。どちらを受けるかはその動機次第ですが、いずれにせよ望み通りの結果は得られません。

 さて、こうしたことは人間にとっては取りとめのない話のように思えるかも知れませんが、吾々にとっては些(いささ)かもそうではない。

実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られてくる祈りを分析し選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部門に送る。そこでさらに検討が加えられ、その価値評価に従って然るべく処理されているのです。

これを完璧に遂行するためには、地上の科学者が音と光のバイブレーションを研究するのと同じように祈りのバイブレーションを研究する必要があります。例えば光線を分析して種類分けが出来るように祈りも種類分けが出来るのです。

そして科学者にもまだ扱い切れない光線が存在することが認識されているように、吾々のところへ届けられる祈りにも、こちらでの研究と知識の範囲を超えた深いバイブレーションをもつものがあります。

それは更に高い界層の担当者に引き渡され、そこでの一段と高い叡智による処理にまかされる。高等な祈りがすべて聖人君子からのものであると考えるのは禁物です。往々にして無邪気な子供の祈りの中にそれが見出されます。

その訴え、その嘆きが、国家的規模の嘆願と同じ程度の慎重な検討を受けることすらあるのです。

 「汝からの祈りも汝による善行も形見として神の御前に届けられるぞよ」──天使がコルネリウス(※)に告げたと言われるこの言葉を御存知であろう。これは祈りと善行がその天使の前に形体をとって現われ、多分その天使自身を含む霊団によって高き世界へと届けられる実際の事実を述べたものであるが、これが理解されずに無視されています。

この言葉は次のように言い変えることができよう──〝貴殿の祈りと善行は私が座長を勤める審議会に託され、その価値を正当に評価された。吾人はこれを価値あるものと認め、吾人よりさらに上の界の審議官によりても殊のほか価値あるものとのご認知をいただいた。依ってここに命を受けて参じたものである〟と。

吾々はわざとお役所風に勿体ぶった言い方で述べましたが、こちらでの実際の事情を出来るだけ理解していただこうとの配慮からです。(※ローマ教皇二五一──二五三)

 以上の事実に照らしてバイブルに出ている祈りの奇跡の数々を吟味していただけば、吾々霊界の者が目のあたりにしている実在の相(すがた)をいくらか推察していただけるであろう。

そして大切なのは、祈りについて言えることがそのまま他のあまり感心出来ぬ心の働きにも当てはまるということです。例えば憎しみや不純な心、貪欲、その他もろもろの精神的罪悪も、そちらでは目に見たり実感したりは出来ないでしょうが、こちらでは立派な形態をとって現われるのです。

悲しいかな、天使は嘆くことを知らぬと思い込むような人間は、地上で苦しむ同胞に対して抱く吾々の心中をご存知ない。神から授かれる魂の使用を誤っているが故に悩み苦しむ人々のために吾々がいかに心を砕いているかをご覧になれば、吾々に愛着を感じて下さると同時に、無闇に神格化してくれることもなくなるでしょう。

No comments:

Post a Comment