Thursday, April 6, 2023

シアトルの春 運命の十字路にさしかかる度毎に、右か左かの選択を迫られます。

At every crossroads of destiny, you are forced to choose left or right.
白樺の木イラスト - No: 22077343/無料イラスト/フリー素材なら「イラストAC」


前章では再生というスピリチュアリズム思想の中でも最も異論の多い課題を取り上げました。たとえ異論はあっても、そこに必ずや真実があるはずであり、万一再生することが真実であれば、これほど人生観に与える影響の大きいものはないと考えたからです。

 影響が大きいと言えば、死後の存続という事実こそ、まずだれにとっても画期的な影響を与える話題であるはずです。

私自身も哲学的な思考の芽生え始めた高校時代にスピリチュアリズムに接して、万一死後もこのまま生き続けるとしたら、賢こぶった哲学的で抽象的な思考にふけっている場合ではないという、せっぱつまった心境で心霊学に取り組み、結果的には一種の思考革命のようなものを体験しました。

 つまり〝生と死〟を深刻な主題としていた思考形式から、死を超越した生のみの思考形式に変異し、それ以後は想像の翼がひとりでにはばたいて、自由自在に広がっていく思いがしました。そしてそれは今なお続いており、私にとってこれほど楽しいレクリエーションはないといってもいいほどです。

 それというのも、シルバー・バーチやマイヤース、イムペレーター等のアカ抜けのした霊界通信のおかげにほかならないのですが、その前に、心霊実験会において目に見えない霊の存在をまざまざと見せつけられていたことが大きな転換のキッカケとなっているようです。


 この死後の存続という事実は今では少なくともスピリチュアリズムでは自明の事実であり、真理探究の大前提となっておりますが、私は、前章でも述べた通り、再生に関する事実も、第一級の霊界通信の述べるところが完全に符節を合しているところから、まず前章で紹介したところが再生の真相とみて差し支えないと信じます。

 とくに半世紀にわたるシルバー・バーチの霊言が、その間いささかの矛盾撞着もなく、首尾一貫して同じ説を述べ続けていることに注目すべきだと考えます。

 そのシルバー・バーチが説いていることの中で特に着目すべきことは、いかなる真理も、それを受け入れる準備が魂に備わるまで、言いかえればそれを理解するだけの意識の開発、難かしく言えば霊格の進化がなければ決して悟ることはできない、ということです。

 従って知識ばかりをいくら溜め込んでも、それが即その人の成長のあかしとはならない。シルバー・バーチの譬えでいえば、世界中の蔵書を全部読んだところで、それを実地に体得しないことには何にもならない。再生する目的はつまるところは体験を求めに来ることにほかならない、というわけです。

 さてその〝体験〟ということを考えてみますと、同じ条件下に置かれても、人によってその反応は百人百様の違いがあるはずです。ましてや男性と女性とでは比較しようもないほどの差があります。

男らしいといい、女らしいといっても、地上の人間に関するかぎり、それは肉体の生理的表現にすぎず、つきつめて言えば性ホルモンの違いというにすぎません。前章のシルバー・バーチの最後の言葉にあるように、大半の人間は物質によって魂が右往左往しているのが現実の姿であることは確かです。

 そうなると当然一回や二回の地上生活ではとても十分とは言えないわけで、その辺に再生の必要性が生じてくるわけですが、厳密に言えばマイヤースの言う通り、たとえ何十回何百回再生を繰り返しても地上体験による魂の成長には限度がある。

つまり魂に響くほどの体験、俗な言い方をすれば、骨身にしみるほどの体験がそうやたらにあるものではないことは、実際に地上生活を送っているわれわれが一ばんよく知っています。

 となると、漫然と日常生活を送ることには何の意味もないことになり、そこに守護霊を中心とする背後霊団の配慮の必要性が生じてまいります。表向きは平凡な生活を送っているようで、その実は次々と悩みや苦労、悲しみのタネが絶えないのが現実です。

シルバー・バーチに言わせれば、それは全て魂の試練として神が与えて下さるのであって、それが無かったら人生は何の意味もないと言います。


 『あなたがたもそのうち肉体の束縛から離れて、物質的な曇りのない目で、地上で送った人生を振り返る時が来るでしょう。その時、その出来ごとの一つ一つがそれぞれに意味をもち、魂の成長と可能性の開発にとってそれなりの教訓をもっていたことを知るはずです。』

 そう述べて、困難も試練もない、トラブルも痛みもない人生は到底あり得ないことを強調します。では少し長くなりますが、シルバー・バーチの訓えに耳を傾けてみましょう。


『この交霊会に出席される方々が、もし私の説く真理を聞くことによってラクな人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。

それに敢然と立ち向い、それを克服し、そして一層力強い人間となって下さることが私どもの真の目的なのです。

 霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それは一たん身についたらお金を落とすような具合に失くしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐え切れないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません。

解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが、旅する魂の当然の姿なのです。

 それはもちろんラクなことではありません。しかし魂の宝はそう易々と手に入るものではありません。もしラクに手に入るものであれば、何も苦労する必要などありますまい。

痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一ばんの薬なのです。

 私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、あえて手をこまねいて傍観するほかない場合がよくあります。そこからある教訓を学び取り、霊的に成長してもらいたいと願い祈りながら、です。

知識にはかならず責任が伴うものです。その責任をとってもらうわけです。霊は一たん視野が開ければ、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。

さんさんと太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身にしみません。魂が目を覚ましそれまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲たれこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。

 地上の人生は所詮は一つの長い闘いであり試練なのです。魂に秘められた可能性を試される職場に身を置いていると言ってもいいでしょう。

魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が秘められております。即ち動物的進化の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなたの個的存在の源である神的属性も秘められているのです。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。

地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには是非とも厳しい試練が必要なのです。

 運命の十字路にさしかかる度毎に、右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然として立ち向うか、それとも回避するかの選択を迫られますが、その判断はあなたの自由意志にまかされています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。

その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されているのです。

そのチャンスを前にして、積極姿勢をとるか消極姿勢をとるか、滅私の態度にでるか利己主義に走るかは、あなた自身の判断によってきまります。

 地上生活はその選択の連続といってよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生をおりなしていくのであり、同時に又、寿命つきて霊界に来た時に霊界で待ち受けている新しい生活、新しい仕事に対する準備が十分できているか否か、能力的に適当か不適当か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まるのです。単純なようで実に複雑です。

 そのことで忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。地上に再生するに際して、各自は地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。

才能がありながらそれを使用しない者は、才能のない人よりはそれだけ大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。

 悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に降れた時、一ばんよく眠れる魂の目を醒まさせるものです。魂は肉体の奥深くに埋もれているために、それを目覚めさせるためには余ほどの強烈な体験を必要とします。

悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる準備の出来た霊にとって深甚なる価値があると言えるのです。

 繰り返し述べて来たことですが、真理は魂がそれを悟る準備の出来た時初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。こちらからいかなる援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。

霊的知識を理解する時機を決するのは魂の発達程度です。魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれたあなたがた人間が、物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来ごとを物的ものさしで量り、考え、評価するのは無理もないことではありますが、それは長い物語の中のホンの些細なエピソード(小話)にすぎません。

 魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂の肥しです。魂がその秘められた力を発揮するにはどういう肥しを摂取すればいいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。

失意のドン底にある時はもう全てが終ったかの感じになるものですが、実はそこから始まるのです。あなたにはまだまだ発揮されていない力───それまで発揮されたものより、はるかに大きな力が宿されているのです。

それはラクな人生の中では決して発揮されません。苦難と困難の中でこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないとその純金の姿を拝むことが出来ないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出て来ないのです。それ以外に方法がないのです。ほかにもあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。

 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気ラクな人生ばかりを送っている者よりも一段と大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。

何もかもがうまく行き、日向ばかりの道を歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということなのです。

 困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂の肥しなのです。むろん困難のさ中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。つらいのですから。

しかしあとでその時を振り返ってみたとき、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥しであったことを知って、神に感謝するに相違ありません。この世に生まれくる霊魂がみなラクな暮しを送っていては、そこに進歩も開発も個性も成就もありません。

これはきびしい辛い教訓には違いありませんが、何事も、価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞は、そう易々と手に入るものではありません。
℘112   
 神は瞬時たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。

あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりにも小さすぎるのです。物的尺度でみるかぎり、世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真実の敗北しか見えないでしょう。当然かも知れません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

 地上ではかならずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律はかならずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが、地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤はかならずその平衡を取りもどします。

霊的に観て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身にはわかりません。もしかしたら、あなたにとって一ばんイヤなことが実は、あなたの祈りに対する最高の回答であることも有りうるのです。

 ですから、なかなかむずかしいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するよう努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。祈りはそれなりの回答が与えられます。

しかしそれはかならずしもあなたがたが望んでいる通りの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとって一ばん望ましい形で与えられます。神は決してわが子を見棄てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的な物さしで批判することはやめなければいけません。


 絶対に誤ることのない霊的真理がいくつかありますが、そのうちから二つだけ紹介してみましょう。一つは動機が純粋であれば、どんなことをしても決して危害をこうむることはないということ。もう一つは人のためという熱意に燃える者にはかならずそのチャンスが与えられるということ。その二つです。あせってはいけません。

何事も気長に構えることです。何しろこの地上に意識を持った生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。

さらに人間という形態が今日のような組織体をもつに至るのに何百万年もかかりました。その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。その力、宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤ることのないその力を信じることです。

 解決しなければならない問題もなく、争うべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」───こうおっしゃる方があるかも知れません。

しかし私は実際にそれを体験してきたのです。あなた方よりはるかに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。一つとして偶然ということがないのです。

偶発事故というものがないのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然と分かるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。

 あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静にそして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。

そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことが出来るのです。愛がすべての根源です。愛───人間的愛はそのホンのささやかな表現にすぎませんが───愛こそ神の摂理の遂行者なのです。

シルバーバーチ

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