relationship between animals and humans
【Q1】
霊的に正しければ、物的な面もおのずから正されるとおっしゃっていますが、痛みつけられ、大量に殺戮され、酷使されるために生まれてきているとしか思えない動物には、それは当てはまらないように思います。動物は、何も悪いことはしていないのではないでしょうか?
その見方は間違いです。同じく霊といっても、人間の霊と動物の霊とでは、範疇(カテゴリー)が違うのです。人間には正しい選択をすべき義務が与えられています。
いい換えれば、そこに自由意志の行使が許されているということです。それによって人間は、宇宙の進化を促進することもあれば、妨害することもあるわけです。この天体上で共存している動物に関しても、それをどう扱うかについて、ある一定範囲で選択する自由が与えられています。
人間の世界には悪用・誤用が多過ぎます。そのなかでも決して小さいとはいえない問題が、動物への残酷な医学的行為と、食糧としての身勝手な濫用です。しかしこれは、人間が進化するための、一種の必要悪なのです。もしも人間から自由意志を奪ったら、個的存在としての発達と進化を遂げるチャンスがなくなってしまいます。ここに問題の核心があります。
【Q2】
そういう事態が生じることが、なぜ許されるのかが理解できません。
「生じることが許される」ことに疑問を抱くということは「許されないようにすべきである」とお考えになっていることになりますが、それは人類から自由意志を奪ってしまうことになります。繰り返しますが、自由意志を奪ってしまえば、人類はただの操り人形となってしまい、内部の神性を発現するチャンスがなくなってしまいます。霊的資質が発達せず、地上生活の基本的な目的が失われます。
地上世界は、霊にとっての保育所であり、学校であり、トレーニング・センターです。さまざまな挑戦に遭遇し、それを克服しようと努力するなかで自由意志を行使してこそ、霊性が進化するのです。
【Q3】
人間が動物に対して間違いを犯せば、その天罰は動物ではなくて、人間の頭上に降りかかるべきだと思うのですが‥‥。
「埋め合わせと懲罰」の法則があります。あなたが行なう善いこと悪いことのすべてが、自動的に霊的な影響を及ぼします。大自然の因果律を免れることは絶対にできません。
埋め合わせと懲罰の法則は、その中核をなすものです。罪もない庶民が、支配者の横暴によって被る犠牲に対して埋め合わせがあるように、残虐な取り扱いを受けた動物にも、それなりの埋め合わせがあります。
【Q4】
人類は、これからもずっと、動物に残酷な扱いを続けるのではないかと思うのですが。
いえ、そうとばかりも言えません。他の生命に対する責任を少しずつ理解していくでしょう。一朝一夕に残虐行為がなくなるとは言いません。人類は進化しつつある世界の、進化しつつある存在です。絶頂期もあれば奈落の底もあり、向上もすれば転落もします。が、進化というのは螺旋状(スパイラル)に進行するもので、一見すると向上しているようには見えなくても、全体として見ると、徐々に向上しているものです。
そうでないと、進化していないことになります。無限の英知と愛によって、すべての物、すべての人間について、然るべき配慮が行き届くように構成されていることを認識しなくてはいけません。
【Q5】
残酷なことをしたら、その結果がすぐに出るといいのですが‥‥。どうも人類は、うまく罪を免れているように思えてなりません。
うまく罪を免れる者は一人もいません。摂理は間違いなく働きます。たとえ結果が地上で出なくても、霊界で出ることを断言します。因果律は、いかなる手段をもってしても変えられません。
永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があれば必ず結果が生じます。それから逃れられる者は一人もいません。もしいたら、大霊は大霊としての絶対的な条件である「完全なる公正」を失います。
そのこととは別にもう一つ、私がいつも強調していることがあります。残念ながら人類は、宿命的に短期間の視野しか目に入らず、永遠の観念でものごとを考えることができないことです。あなた方には、地上で発生していることしか目に入りませんが、その結果は霊界で清算されています。
【Q6】
地上の動物が、気高い情や知性といった人間的資質を発達させた場合でも、死後は、やはり動物のままなのでしょうか?それとも、そのうち人間界へと進化していくのでしょうか?
進化も自然の摂理の一部です。これにも一本の本流とたくさんの支流とがありますが、全体として同じ摂理の一部を構成しています。あなた方人間に潜在している霊性と動物の霊性とは、質的にはまったく同じものです。進化の度合において差があるだけで、本質においては違いはありません。
霊は無限ですから、可能性においては、人間でも動物でも驚異的な発現力を秘めていますが、霊的には両者とも、一本の進化の道に属しています。その道程の、どの段階で動物へ枝分かれし、どの段階で人類へ枝分かれするかは、だれにも確言できません。そこに、とりたてて問題となる要素はないと思います。
【Q7】
動物も人間と同じ進化の道程をたどるのでしょうか?
動物は、動物独自の進化の道程をたどります。といっても、全生命の進化の背後に存在するパターンの一部です。発達と呼んだほうがよいかもしれません。
たとえば、もし私が 「子どもは親と同じ進化の仕方をするものですか?」 と聞いたら、その答えは 「イエス」 でもあり 「ノー」 でもあるでしょう。人類のすべてがたどるパターンは決まっているのですが、その枠内で、意識の発達に伴って自由意志の行使範囲が広がるからです。
霊を宿したものは、例外なく無限の発達の可能性を秘めています。動物も、進化のパターンのなかで受けもっている役割にしたがった進化の道程をたどります。因果律は絶対です。現在あるものは、過去にあったものの結果です。それ以外にありようがないのです。
生命の根源は一つです。千変万化の生命現象も、霊的な絆で一つにつながっているのです。が、草花、樹木、小鳥、野獣、あるいは人類が、それぞれの進化の法則によって支配されているように、動物も独自の法則によって、進化が規制されているのです。
【Q8】
動物界にも、高等・下等の差別があるのでしょうか?
ありません。それぞれの動物に、たどるべき進化の道程があります。生あるものは霊であるがゆえに生きているのです。霊は生命であり、生命は霊です。ですから、創造されたもの───小鳥も魚も花も木も果実も、すべて霊なのです。
高等・下等の問題ですが、これは無数の生命形態のなかの他の生命と比べて、進化のどの段階にあるかの差に過ぎません。たとえば人間は、魚に比べれば高い段階にあるかもしれませんが、霊界の上層界の存在に比べれば低い段階にあることになります。
【Q9】
動物のなかには、同族の他のものたちより抜きん出て発達していて、人類と同じ資質を発揮しているものがいるように見受けられますが‥‥。
当然、そうあって然るべきです。なぜかと言いますと、進化の世界においては、進化を先どりした前衛的なものと、その種族の平均的な発達程度から遅れている後衛的なものとがいるものです。それはちょうど、人類においても天才とか改革者、聖人といった霊性を顕著に発揮して、人類の未来の姿を顕示している者がいるのと同じです。
動物のなかにも、同じ種族の者より数段も進化しているものがいて、人間にも匹敵するほどの英雄的行為や献身的行為を見せることがあるのも、同じ範疇に属します。
資質の発達は、早い側面もあれば遅い側面もありますが、同じ天体上に棲息する生命体のすべての調和(のとれた生命連鎖)を維持するうえで、最終の責任を担っているのは人類です。
しかし、人類がどのような(間違った)行為をしでかしても、大自然の摂理の一環として、必ずそれに対する埋め合わせの法則が用意されています。人類には、動物がそれなりの進化の道程を順調に歩むように配慮すべき義務があるのです。それを怠ると、それに対する代償を支払わなければなりません。残酷な扱いをしている人間は、その行為のすべてに対して、霊的な代償を支払わねばならなくなるでしょう。
【Q10】
動物に投与している抗生物質などの薬品類が、めぐりめぐって人間の体内へ入ってきている事実をどう思われますか?
それは、他の生命に害悪を及ぼすと、必ずそれに対して責任をとらされるという、大自然の永遠のサイクルの一環です。他の生命に残酷な仕打ちをしておいて、それが生み出す結果を逃れるということは許されません。
貪欲以外に何の理由づけもなしに、動物を檻のなかで飼育し、動物としての生得の権利を奪うことは、悪循環をこしらえることにしかなりません。そのサイクルのなかで因果律が生み出すものに対して、人間は苦しい代償を支払わねばなりません。
動物であろうと草花であろうと、小鳥であろうと人間であろうと、自然界全体が恵んでくれる最高のものを得るには、慈悲と愛と哀れみと、親切と協調しかないのです。
【Q11】
自分たちの使命を維持するために、人間は植物の生命を奪い、動物の卵や乳を横どりし、さらにひどいこととして、動物を殺して食べざるを得ません。こうした強盗にも似た生き方は、あなたがよく強調なさっている理性を反発させずにはおかないのですが、これを「愛の造物主」の観念とどう結びつけたらよいのでしょうか?
人間は、自分たちのすることに責任をとることになっており、その行為の一つ一つが霊性に影響を及ぼします。その際に必ず考慮されるのが動機です。動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかった場合は、その行為はあなたの霊性にプラスに働きます。
霊的摂理は、原因と結果との関係、種まきと刈り取りの原理のうえに成り立っており、これだけは絶対にごまかせません。あなたのすること、考えること、口にすることの一つ一つが、それ相当の結果を自動的に生み出します。そこに、ごまかしの余地はありません。
悪いと知りつつ間違ったことをした場合は、その結果に対して責任をとらされます。その苦しみは自分で背負わねばなりません。善い行ないをした場合でも、それが見栄から出ていれば動機がお粗末でいけませんが、魂の自然な発露としての善行であれば、あなたを霊的に向上させます。それが摂理とうものなのです。
常々申しあげているように、「殺害」の観念がつきまとう食品は、なるべく摂取しないほうがよろしい。殺すということは絶対にいけないことです。ただし、その動機を考慮しなければならないケースがあることは認めます。
霊的向上をのぞむ者は、いかなる犠牲を払っても、大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければなりません。その摂理は霊的なものです。霊が発揮すべき側面は、いつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理にしたがって考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。
しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。そのために大霊は、自由意志というものをお与えになったのです。
【Q12】
地上界でおそろしい動物虐待が行なわれているのを見ていながら、なぜ霊界から阻止してくれないのでしょうか?
それは、宇宙が自然の摂理で支配されているからです。(第10章Q1参照)。残念なことに、地上の人間の大半が、霊性の発達の欠如から、自分たちを生かしめているものが、同じ地上の他の生き物のすべてを生かしめているものと同じ「霊」であることを理解していません。つまり、動物も物的身体をたずさえた霊的存在であることに、理解がいかないのです。
大半の人間は、自分たちが万物の霊長であると信じていながら、だからこそ他の生きものに対して責任があることに気づいていません。高い段階にいる者が、低い段階にいる者に手を差しのべるべきなのです。
【Q13】
生体解剖は許されることでしょうか、間違ったことでしょうか?人類に何らかの益をもたらすでしょうか?
人間は、動物を解剖するという手段で自分たちの健康が達成されると信じて、何の罪もない動物に無用で残酷な行為や恐怖を与えていますが、これは間違いです。
私は、動物を使っての実験のすべてに反対です。何一つ正当化する理由が見つからないのです。動物は、人間による保護と管理のもとに生きるべく、地球上に送られてくるのです。ですから、人間には、動物の成長と進化を促進させる義務があります。その動物をむごい目にあわせるのは、動物が人間に見せる愛着や献身や忠誠に報いる行為としては、いささかお粗末過ぎます。
自然界には、人間の病を治す薬効成分がいろいろなかたちで存在し、人間が発見するのを待っています。動物的創造物にそういう無益な干渉をしなくても、大霊は、必要なものはすべて用意してくださっているのです。
霊界から援助している霊たち、人間の苦痛を軽減する方法を心得ている霊医たち、地上の医者が「不治」の診断を下した病を治すこともできるほど進歩した霊界の医学者たちは、生体解剖の手段はとりません。
山野に自生するハーブや霊的治療エネルギーを使用します。何ものにも苦痛は与えません。宇宙は道義的な意図で満ちあふれています。非道義的な意図は、大霊の摂理に反します。
【Q14】
人類は、生体解剖という手段では救えないということを悟る一歩手前まできているでしょうか?
私は、生体解剖という手段では何一つ人類に益するものは得られない、と言っているのではありません。そういう痛い目にあわされるいわれのない動物に、残酷なことや苦しい思いをさせることは、宇宙の霊性に反することだから正しくないと言っているのです。そこのところが、医学界が理解できずにいるところです。
人間は動物よりも大切な存在であるとの先入観で、動物実験を正当化し、それによって人類の健康と幸せを促進する権利があると思い込んでいます。しかし、これは間違いです。霊的に間違っていることは絶対に許されません。
この地球上において仲良く協力しあって、生きるべき者すべての幸せを促進する方向で、努力しなくてはいけません。
愛こそが摂理を成就させるのです(注)。
他の生物に苦しみを与えているようでは、人類に愛があるとは言えません。
訳注───「愛こそが摂理を成就させる(Love is the fulfilling of the law.)」の意味を私なりに解説しておくと───。
宇宙の摂理は「進化」を志向して無限の次元にわたって構成されている。「良心が痛む」というのが、その顕著なあらわれである。したがって、ここで言う「成就する」とは、進化の方向へ向かって摂理が働くということになる。
これは、イエスの有名なセリフ「右の頬を叩かれたら左の頬を出してやりなさい」(『マタイ5』)の訓えのなかで最高のかたちで具体化されていると考えられる。叩かれて叩き返していたら「目には目、歯には歯」の報復の繰り返しになって、業(カルマ)の消えるときがない。
どちらかが、その愚かさを悟って叩き返さない態度に出れば、そこで摂理が一段と高められた次元で成就される。その力が、本当の意味での愛であるということであろう。
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