Tuesday, August 29, 2023

シアトルの晩夏 霊とは何か

what is a spirit 

シルバー・バーチの霊訓 新装版 10の通販/パム・リーバ/近藤 千雄 - 紙の本:honto本の通販ストア

 霊とは何かを言語によって完璧に描写することは絶対に不可能です。

無限だからです。言語はすべて有限です。私はこれからそれを何とか説明してみようと思いますが、いかにうまく表現してみたところで、霊力のほんのお粗末でぎこちない描写でしかないことをご承知下さい。

 宇宙の大霊すなわち神が腹を立てたり残酷な仕打ちをしたりわがままを言ったりするような人間的存在でないことは、すでにご承知でしょう。何度も言ってきたように、神とは法則であり、その背後に働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。

それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。その中に極小と極大の区別もありません。

 こうした大まかな表現によって私たちは自分本来の姿、つまりミクロの神でありミニチュアの宇宙である自我について、どうにかその片鱗をつかむことができます。全体を理解するには余りに大きすぎます。あなた方がこうして地上に生を享けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終わることのない道程です。

何故なら神性は無限に顕現するものだからです。神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している霊は偉大であることになります。

 では、いかにすればこの驚異的な潜在的神性を意識的に発現させることができるのでしょうか。

 それに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようというものです。

要するに物的混沌から脱け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、私はどれといって特定の方法を説くことには賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見出していくべきものだからです。

 自我を一時的に潜在意識にコントロールさせ、それをきっかけにして内部の生命力とのつながりをより緊密に、そしてより強くさせることを目的とした内観法が幾つかあります。それが次第に深まれば霊界からのインスピレーションを受けることも多くなります。

まず心霊的(サイキック)な面が開発されます。続いて霊的(スピリチュアル)な面が開発され(※)宇宙の内奥に存在する生命力がふんだんに流れ込むようになります。

(※サイキックとスピリチュアルの違いはこうした自我の開発のほかに心霊能力にも心霊治療にもあります。心霊治療については第七章でシルバーバーチが詳しく説明しています。心霊能力について言えば、たとえば単なる透視力は動物の超能力と同じで五感の延長にすぎません。これがサイキックです。

つまり目の前に存在するもの──地上にせよ霊界にせよ──しか見えません。これに背後霊の働きが加わり、その場に存在しないもの、あるいは高次元の世界のものを映像またはシンボルの形で見せられるようになれば、それがスピリチュアルです。── 訳者)

 ある種のテクニックを身につければ病気を自分で治し、体内の不純物を排出し、欠陥を矯正することができるようになります。自我の全ての側面──霊と精神と身体の調和を成就することができます。

かくして霊性が本来の優位を確保していくに従って、霊的叡知、霊的理解、霊的平穏、霊的自信、霊的静寂が増し、不滅の霊力との真の繋がりを自覚するようになります。

 人間は霊的存在である以上、宇宙の大霊すなわち神の属性を潜在的に所有しております。あなた方一人ひとりが神であり、神はあなた方一人ひとりなのです。一人ひとりが神の無限の霊力の一翼を担っているのです。地上への誕生はその大霊の一部が物質と結合する現象です。その一部に大霊の神性の全てが潜在的に含まれております。いわば無限の花を開かせる可能性を秘めた種子と言えましょう。

 その可能性の一部が霊界からの働きかけによって本人も気づかぬうちに発揮されるということがあります。むろん無意識よりは意識的の方が望ましいに決まっています。ですが無意識であっても、全然発揮されないよりはましです。人間が同胞に向けて愛の手を差し伸べんとする時、その意念は自動的に霊界の援助の力を呼び寄せます。

その、人のために役立とうとする願望は魂をじっとしていられなくします。そして、やがて機が熟して魂が霊性に目覚める時が来ます。その時からは自己の存在の意義を成就する目標へ向けて意識的に邁進するようになります。

 先にサイキックという用語を用いましたが、これは物質と霊との中間的段階をさします。悟りを求め、あるいは霊能を開発せんとして精神統一の訓練を開始すると、まず最初に出てくるのが心霊的(サイキック)な超能力です。これはその奥の霊的(スピリチュアル)な能力に先がけ出て来ます。

超能力の開発は霊性の発達を阻害すると説く人がいます。そう説く人は心霊的な段階を経ずに一気に、独力で、神との合一を求めるべきであると主張するのですが、私はこれは間違っていると思います。それもあえて出来ないとは申しませんが、大変な修行のいることであり、しかも往々にして危険を伴います。

 霊格が向上するほど生命活動が協調によって営まれていることを悟るものです。自分一個で生きているものは何一つありません。お互いが力を出し合って生きております。一人ひとりが無限の連鎖関係の中の一つの単位なのです。

そんな中でなぜ初心者が熟練者の手助けを拒絶するのでしょう。私たちがこうして地上に戻ってあなた方を手助けし、手助けされたあなた方が同胞の手助けをする。そこにお互いの存在の理由があるわけです。

一人だけ隔離された生活をするようにはなっていないのです。みんなと協力し合って生きていくように出来ているのです。この見解を世界中に広めなければなりません。

すなわち世界の人間の全てが霊的に繋がっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きん出ることは許されないのです。

 登るのも下るのもみんな一緒です。人類だけではありません。動物も一緒です。なぜなら生命は一つであり、無限の宇宙機構のすみずみに至るまで、持ちつ持たれつの関係が行きわたっております。独善的考えから他の全ての方法を蔑視して独自の悟りの境地を開くことも不可能ではありません。

が、私はそうした独善的な生き方には反対です。私の理解した限りにおいて、宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能です。他人の援助を頼まずに独力で事を成就しようとする気構えは、それ自体は必ずしも利己的とは言えません。

私はただ、その方法はお勧めしないと言っているのです。自分を他人に役立てること── これが霊的存在の真の価値だと私は信じます。私はその心掛けで生きて参りました。それが宇宙の大霊の意志だと信じるからです。そうではないと思われる方は、どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい。

 人類の手本と仰がれている人々は、病に苦しむ人には霊的治癒を、悲しみの人には慰めの言葉を、人生に疲れた人には生きる勇気を与えて、多くの魂を鼓舞してきました。要するに己を犠牲にして人のために尽くしたのです。それが神の御心なのです。

悲しみの涙を拭ってあげる。病を治してあげる。挫折した人を勇気づけてあげる。苦境にある人に援助の手を差しのべてあげる。

たったそれが一人であっても立派に神の意志を行為で示したことになります。そんなことをする必要はないと説く教えは絶対に間違っております。救いの手を差し伸べることは決して間違っておりません。それを拒絶する方が間違っております。

 もちろんそこに動機の問題もあります。見栄から行う善行もありましょう。が、それも何もしないよりはましです。邪な考えに発した偽善的行為、これはいけません。魂にとって何の益もありません。摂理をごまかすことはできないのです。完璧なのです。

イエスが〝慈悲の心は耐え忍ぶもの〟(※)と語ったのは神の意志の偉大さを説かんとしたのです。善行はそれ自体の中に報酬が宿されております。

(※コリント前書13・4-この言葉は聖書では〝愛は寛容である〟と訳されております。イエスの言葉はこの後さらに次のように続きます。

〝愛は慈悲に富む、愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼をせず、己れの利益を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ〟。──訳者)

 霊力の道具として働く霊能者は多くの魂へなんらかの影響を及ぼしています。そこが霊的現象の大切な点です。悲しみの人に慰めを与え、病の人に治癒を与え、主観・客観の両面にわたって霊力の証を提供することも確かに大切ですし、これを否定できる人はおりません。が、真の目的は現象的なものを超えたところにあります。魂に感動を与え実在に目覚めさせることです。

地上は未だに〝眠れる魂〟で一杯です。生命の実相をまるで知らず、これから目覚めていかねばなりません。

 霊的現象の目的はそうした個々の魂に自我への覚醒をもたらし、物的感覚を超えて自分が本来霊的存在であることを自覚させることです。いったん霊性を悟れば、その時から神からの遺産として宿されている神性の種子が芽を出して生長を開始します。その時こそ全大宇宙を経綸する無限の創造力のささやかな一翼を担うことになります。

 こうして霊力の道具として役立つだけの資格を身につけるまでには、それなりのトレーニングが要ります。それは大変なことです。何となれば、その結果としてある種の鍛錬、ある種の確信を身につけなければならず、それは苦難の体験以外には方法がないからです。霊力の道具として歩む道は厳しいものです。

決して楽ではありません。容易に得られた霊能では仕事に耐えきれないでしょう。魂の最奥・最高の可能性まで動員させられる深刻な体験に耐えるだけの霊性を試されて初めて許されることです。そうして身に付けたものこそ本物であり、それこそ霊の武器と言えます。

 その試練に耐え切れないようでは自分以外の魂を導く資格は有りません。自ら学ぶまでは教える立場に立つことは出来ません。それは苦難の最中、苦悩の最中、他に頼る者とてない絶体絶命の窮地において身につけなければなりません。最高のものを得る為には最低まで降りてみなければなりません。

こうした霊的覚醒、言えかえれば飢えと渇きに喘ぐ魂に霊的真理をもたらすことは実に大切なことです。それが地上での存在の理由の全てなのです。なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせず地上を素通りしております。

 ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えも出来ていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方が遥かに学びやすく、その方が自然なのです。

悲しみの人を慰め、迷える人を導き、悩める人を救うためには、自らが地上において苦難の極み、悲哀のドン底を体験しなければなりません。自分自身の体験によって魂が感動した者でなければ人に法を説く資格は有りません。

 教える立場に立つ者は自らが学ぶ者として然るべき体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。艱難辛苦── 辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばなければなりません。それが真に人のために役立つ者となるための鉄則です。

そうでなければ有難いのだが、と私も思うことがあります。しかし側(はた)の者には分からないあなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。なぜならその艱難辛苦こそ全ての疑念と誘惑を蹴散らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。

 これも神の摂理として定められた一つのパターンです。霊的成就への道は楽には定められておりません。もし楽に出来ておれば、それは成就とは言えません。楽に得られるものであれば、得るだけの価値はありません。人のために役立つためにはそれなりの準備が要ります。

その準備を整えるためには魂の琴線に触れる体験を積み、霊性を開発し、心霊的能力を可能な限り霊的レベルまで引き上げなければいけません。心霊的能力を具えた人は大勢います。が、それを霊的レベルまで高めた人は多くは居ません。

私たちがかかわるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)の持つ能力、つまり肉体の五感の延長でしかないものには、たとえ地上の学者がどんなに面白い実験(※)をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味があります。

(※ここではESPつまり超感覚的能力の実験を指していますが、シルバーバーチの説を総合すれば、ヨガや密教における超人的な術、未開人におけるまじない的な術、雨を降らせる術なども同類に入ります。──訳者)

 地上には、自分を変えようとせずに世の中を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革は先ず自分から始めなくてはなりません。自分が霊的資質を開発し、発揮し、それを何かに役立てることが出来なければ、他の人を改める資格はありません。

地上人類の霊的新生という大変な事業に携っていることは事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮しなければなりません。

 宗教的呼称や政治的主義主張はどうでもよろしい。私はその重要性を認めません。もし何かの役に立てば、それはそれで結構です。が、本当に大切なのは神の子として授かった掛けがえのない霊的遺産を存分に発揮することです。

その光輝、その気高さ、その威厳の中に生きることです。いかなる名称の思想、いかなる名称の教会、いかなる名称の宗教よりも偉大です。

神の遺産は尽きることがありません。地上に誕生してくる者の全てが、当然の遺産としてその一部を無償で分け与えられております。

 人生の重荷を抱えた人があなた方のもとを訪れた時、大切なのはその人の魂に訴えることをしてあげることです。他界した肉親縁者からのメッセージを伝えてあげるのも良いことには違いありません。メッセージを送る側も送られる側も共に喜ぶことでしょう。しかし喜ばせるだけで終わってはいけません。

その喜びの体験を通して魂が感動し、宇宙の絶対的な規範であるところの霊的実在に目覚めなければなりません。慰めのメッセージを伝えてあげるのも大事です。病気を治してあげるのも大事です。私がこうしておしゃべりすることよりも大事です。

ですが、霊界において目論まれている目的、こうして私どもが地上へ舞い戻って来る本当の目的は、地上の人間の霊的覚醒を促進させることです。

 その仕事にあなた方も携わっておられるわけです。困難に負けてはいけません。神の道具として託された絶大なる信頼を裏切らない限り、決して挫折することはありません。嵐が吹きまくることもあるでしょう。雨も降りしきることでしょう。

しかし、それによって傷めつけられることはありません。嵐が去り太陽が再び輝くまで隔離され保護されることでしょう。

煩わしい日常生活の中に浸り切っているあなた方には、自分が携わっている恵み深い仕事の背後に控える霊力がいかに強力で偉大であるかを理解することは難しいでしょう。

ですから、あなた方としてはひたすらに人の役に立つことを心掛けるほかないのです。あなた方を通して働いている力はこの宇宙、想像を絶する広大な全大宇宙を創造した力の一部なのです。

 それは全ての惑星、全ての恒星を創造した力と同じものなのです。雄大なる大海の干満を司るエネルギーと同じものなのです。

無数の花々に千変万化の色合いと香りを与えたエネルギーと同じものなのです。

小鳥、動物、魚類に色とりどりの色彩を施したのも同じエネルギーです。

土くれから出来た人間の身体に息吹きを与え生かしめている力と同じものです。それと同じエネルギーがあなた方を操っているのです。

目的は必ず成就します。

 真摯な奉仕的精神をもって然るべき条件さえ整えば、その霊力は受け入れる用意の出来た人へいつでも送り届けられます。

怖じけてはいけません。

あなた方は神の御光の中に浸っているのです。それはあなた自身のものなのです。

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