The Silver Birch Book of Question & Answer
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳
【Q1】
本人の罪でもなく親の罪でもないのに、子どもが手足や目の障害を抱えて生まれてくるのはなぜでしょうか?
魂というものを外見だけで判断してはいけません。魂の霊性の進化と、それが地上で使用する身体の進化とを混同してはいけません。
たとえ遺伝の法則で、父親または母親、あるいは双方から障害を受け継いでいても、それが霊性の進化を妨げることはありません。
よくご覧になれば大抵おわかりになると思いますが、身体上の欠陥をもって生まれた人は、魂のなかに埋め合わせの原理をもちあわせているものです。五体満足の人よりも他人への思いやり、寛容心、やさしさをその性格のなかに秘めています。因果律の働きから逃れられるものは何一つありません。
親となる人は来るべき世代の人間に物的身体を授ける責任があるわけですから、当然その身体をできるだけ完全なものにする義務があります。その義務を怠れば(注)、それなりの結果が出ます。法則は変えられないのです。
訳注──一般的には食生活が考えられるが、タバコやアルコール、麻薬などの弊害を示唆しているようにも思える。母親からの直接の影響はいうまでもないが、父親からの間接的な影響も無視できないであろう。
【Q2】
精神に異常があれば責任はとれません。(あなたがおっしゃるように)霊界では、地上で培った性格と試練への対処の仕方によって裁かれるとなると、そういう人が霊界へ行った場合、どのような扱いになるのでしょうか?
あなたも、物的なものと霊的なものとを混同しておられます。脳細胞が異常をきたせば、地上生活は支離滅裂となります。表現器官が異常をきたしているために自我を正常に表現できないわけですが、そうした状態のなかでも魂そのものは自分の責任を自覚しています。
大霊の摂理は、魂の発達程度に応じて働きます。地上的な尺度ではなく、永遠の英知が魂を裁くのです。ですから、地上的な常識では間違いと思えることをした魂が、地上において(不当な)裁きを受けることはあるでしょうが、実質的には魂に責任はないわけですから、霊界に行ってその責任をとらされることはありません。
同じことが、狂乱状態のなかで、人の命を奪ったり自殺したりした場合にもいえます。表現器官が正常でなかったのですから、責任は問われません。
こちらの世界の絶対的な判定基準は、魂の動機です。これを基準とするかぎり、誤りは生じません。
【Q3】
脳の障害のために地上生活の体験から何も学ぶことができなかった場合、霊界ではどういう境涯におかれるのでしょうか?
表現器官が正常でないために、地上で体験すべきものが体験できなかったわけですから、それだけ損失を強いられたことになります。貴重な物的生活の価値を身につけることができなかったわけです。しかし、そうしたなかにも「埋め合わせの原理」が働いています。
【Q4】
われわれは地上でのさまざまな試練によって身につけた人間性をたずさえて霊界へ行くわけですが、精神異常者の場合はどうなるのでしょうか?やはり、そのままの人間性で裁かれるのでしょうか?
そういう人の場合は、それまでの魂の進化の程度と動機(注)だけで裁かれます。
訳注──この〝動機〟についてさらに質問してほしかったところである。訳者の推察では、これは再生(生まれかわり)とつながる問題であり、質問者がさらに突っ込んで問いただせば説明してくれたはずである。
【Q5】
地上では、精神的にも道徳的にも衛生的にも、不潔きわまるスラムのような環境に生まれついて、つらい、そして面白くない生活を送らねばならない者がいる一方、美しいものに囲まれ、楽しい人生が約束された環境で育つ者もいます。こうした不公平には、どのような配慮がなされるのでしょうか?
魂には、その霊性の進化の程度が刻み込まれています。地上の人間は、物的尺度で価値判断をし、魂の発現という観点からの判断をしません。身分の上下にかかわらず、すべての人間に、他人のために自分を役立てるチャンスが訪れます。それは言い換えれば、自我意識に目覚めて、その霊性を発現するチャンスです。その霊性こそが唯一の判定基準です。
物的基準で判定すれば、地上界は不公平ばかりのように思えますが、本当の埋め合わせの原理が魂の次元で働いています。それによって、魂があらゆる艱難を通して、自我を顕現していくように意図されているのです。
【Q6】
でも、悪い人間がよい思いをしていることがありますが、なぜでしょうか?
それも、あなた自身のこの世的な基準による判断に過ぎません。よい思いをしているかに見える人が、惨めな思い、虐げられた思い、懊悩や苦痛に悩まされていないと、何を根拠に判断なさるのでしょう?いつもニコニコしているからでしょうか?贅沢なものに取り囲まれた生活をしているからでしょうか?豪華な服装をしていれば魂も満足しているのでしょうか?永遠の判断基準は霊であって、物を基準にしてはいけません。そうしないと、真の公正がないことになります。
【Q7】
でも、やはり罪悪や飢餓、その他、低俗なものばかりがはびこる環境よりもよい環境のほうが、立派な動機を生みやすいのではないでしょうか?
私は、そうは思いません。私が見てきたかぎりでは、偉大なる魂は必ずといってよいほど低い階層に生まれついています。偉人と呼ばれている人はみな、低い階層の出です。耐え忍ばねばならない困難が多いほど、魂はそれだけ偉大さを増すのです。本来の自我を見出させてくれるのは困難との闘争です。ものごとを外側からではなく、内側から見るようにしてください。
【Q8】
霊性は、物的生命と同時進行で進化してきたのでしょうか?
同時進行ではありましたが〝同じ道〟ではありませんでした。霊が顕現するための道具として、物的身体のほうが霊よりも先に、ある程度の進化を遂げておく必要があったからです。
【Q9】
われわれは、死後も努力次第で向上進化するのであれば、罪深い動機から転落することもあるのでしょうか?
ありますとも!こちらの世界に来ても、地上的な欲望から抜け切れずに、何百年も、ときには何千年も、進化らしい進化を遂げない者が大勢います。地上時代と同じ欲求と願望に明け暮れる生活を送り、霊的な摂理など理解しようとしません。身は霊界にあっても、地球の波動のなかで生活しており、霊的なものにまったく反応しないまま、刻一刻と霊性が堕落していきます。
【Q10】
そうやって際限もなく堕落していって、最後は消滅してしまうのでしょうか?
そういうことはありません。内部に宿された大霊の火花が今にも消えそうに明滅するまでになることはあっても、完全に消えてなくなることはありません。大霊と結びつける絆は永遠なるものだからです。いかに低級な魂も、もはや向上できなくなるというほど堕落することはありません。いかに高級な魂も、もはや低級界の魂を救えないほど向上してしまうことはありません。
【Q11】
個霊は死後さまざまな階層をへて、最後は大霊と融合し、その後、物質その他の成分となって宇宙にばらまかれるのでしょうか?
私は、完全の域まで達して完全性のなかに融合してしまったという個霊の話を聞いたことがありません。完全性が深まれば深まるほど、まだまだ完全でないところがあることに気づくことの連続です。そうやって意識が開発されていくのです。意識は、大霊の一部ですから無限であり、無限性へ向けて永遠に開発し続けるのです。究極の完全性というものを私たちも知りません。
【Q12】
でも、個霊が進化していくうちに類魂のなかに融合し切って、個々のアイデンティティーを失ってしまうのは事実ではないでしょうか?
私の知るかぎり、そういうことはありません。ただ、次のようなことはあります。成就すべき大切な仕事があって、心を一つにする霊団が、知識と情報源を総動員してそれに没頭し、そのなかの一人が残り全員を代表してスポークスマンとなる、ということです。その間は全員が一つの心のなかに埋没してアイデンティティーを失っています。が、それも一時的なことです。
【Q13】
ペットは死後もそのまま存続しているそうですが、ふつうの動物でも存続しているのをご覧になることがありますか?
あります。現在では犬や猫が人間のペットになっていますが、私たちが地上にいた頃は、ふつうの動物でも、私たちの仲間だったものがたくさんいました。人間との交わりで個性を発現した動物は、そのままの個性をたずさえて存続していました。もっとも、動物の場合は永遠ではありません。わずかな期間だけ存続して、やがて類魂のなかに融合していきます。その類魂が種を存続させるのです。
大霊の子である人類は、大霊の霊力を授かっているがゆえに、意識がまだ人類の進化の次元にまで達していない存在に対して、その霊力を授けることができることを知らねばなりません。それが愛であり、その愛の力によって、まだその次元に達していない存在の進化を促進してあげることができるのです。
【Q14】
そのように人間にかわいがられた場合は別として、原則として動物も個性をたずさえて死後に存続するのでしょうか?
存続しません。
【Q15】
動物が原則として個性をたずさえて存続しないとなると、たとえば人間にかまってもらえない動物や虐待されている動物と大霊との関係はどうなるのでしょうか。創造した者と創造された者との関係として見たとき、そういう動物の生命に大霊の公正はどのようなかたちで示されるのでしょうか?
地上の人間の理解力を超えた問題を解説するのは容易ではありません。これまで私は、動物は死後、類魂のなかに融合していくと述べるにとどめてきましたが、その段階で埋め合わせの原理が働くのです。絶対的公正の摂理の働きによって、受けるべきでありながら受けられなかったもの、すべてについて埋め合わせがあります。
しかしそれは、人間の進化の行程とは次元が異なります。しいてたとえれば、十分な手入れをされた花と、ほったらかしにされてしぼんでいく花のようなものでしょう。あなた方には、その背後で働いている摂理が理解できないかもしれませんが、ちゃんと働いているのです。
【Q16】
個々の動物について埋め合わせがあるのでしょうか?
いえ、類魂としてです。受けた苦痛が類魂の進化を促すのです。
【Q17】
そのグループのなかには苦痛を受けた者とそうでない者とがいるはずですが、それがグループ全体として扱われるとなると、埋め合わせを受けるべき者とその必要のない者とが出てきます。そのへんはどうなるのでしょうか?
体験の類似性によって、各グループが構成されます。
【Q18】
ということは、虐待された者とそうでない者とが、別々のグループを構成しているということでしょうか?
あなた方の身体が、さまざまな種類の細胞から構成されているように、類魂全体にもさまざまな区分けがあります。
【Q19】
ばい菌のような原始的生命はなぜ存在するのでしょうか?また、それが発生し消毒されるということは、宇宙が愛によって支配されていることと矛盾しませんか?
人間には自由意志が与えられています。大霊から授かっている霊力と、正しいことと間違ったこととを見分ける英知とを用いて、地上界を〝エデンの園〟にすることができます。それをしないで、ほこりと汚れで不潔にしておいて、それが生み出す結果について大霊に責任を求めるというのは虫がよ過ぎないでしょうか?
【Q20】
地上的生命の創造と進化が、弱肉強食という血染めの行程をたどったという事実のどこに、善性と愛という神の観念が見出せるのでしょうか?
そういう意見を述べる人(注)は、なぜそういう小さな一部だけを見て全体を見ようとしないのでしょうか?進化があるということ、そのことが神の愛の証しではないでしょうか?その人たちは、そういう考えが一度も浮かんだことがないのでしょうか?人間が低い次元から高い次元へと進化するという事実そのものが、進化の背後で働いている摂理が愛の力であることの証しではないでしょうか?
訳注──答えが直接質問者に向けられていないのは、多分、質問が読者からの投書だったのであろう。主語が「you」でなく「they」となっているところからそう判断したのであるが、もしかしたら質問が「という意見を述べる人がいますが…」となっていたのかもしれない。
***
訳者あとがき
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳
【Q1】
本人の罪でもなく親の罪でもないのに、子どもが手足や目の障害を抱えて生まれてくるのはなぜでしょうか?
魂というものを外見だけで判断してはいけません。魂の霊性の進化と、それが地上で使用する身体の進化とを混同してはいけません。
たとえ遺伝の法則で、父親または母親、あるいは双方から障害を受け継いでいても、それが霊性の進化を妨げることはありません。
よくご覧になれば大抵おわかりになると思いますが、身体上の欠陥をもって生まれた人は、魂のなかに埋め合わせの原理をもちあわせているものです。五体満足の人よりも他人への思いやり、寛容心、やさしさをその性格のなかに秘めています。因果律の働きから逃れられるものは何一つありません。
親となる人は来るべき世代の人間に物的身体を授ける責任があるわけですから、当然その身体をできるだけ完全なものにする義務があります。その義務を怠れば(注)、それなりの結果が出ます。法則は変えられないのです。
訳注──一般的には食生活が考えられるが、タバコやアルコール、麻薬などの弊害を示唆しているようにも思える。母親からの直接の影響はいうまでもないが、父親からの間接的な影響も無視できないであろう。
【Q2】
精神に異常があれば責任はとれません。(あなたがおっしゃるように)霊界では、地上で培った性格と試練への対処の仕方によって裁かれるとなると、そういう人が霊界へ行った場合、どのような扱いになるのでしょうか?
あなたも、物的なものと霊的なものとを混同しておられます。脳細胞が異常をきたせば、地上生活は支離滅裂となります。表現器官が異常をきたしているために自我を正常に表現できないわけですが、そうした状態のなかでも魂そのものは自分の責任を自覚しています。
大霊の摂理は、魂の発達程度に応じて働きます。地上的な尺度ではなく、永遠の英知が魂を裁くのです。ですから、地上的な常識では間違いと思えることをした魂が、地上において(不当な)裁きを受けることはあるでしょうが、実質的には魂に責任はないわけですから、霊界に行ってその責任をとらされることはありません。
同じことが、狂乱状態のなかで、人の命を奪ったり自殺したりした場合にもいえます。表現器官が正常でなかったのですから、責任は問われません。
こちらの世界の絶対的な判定基準は、魂の動機です。これを基準とするかぎり、誤りは生じません。
【Q3】
脳の障害のために地上生活の体験から何も学ぶことができなかった場合、霊界ではどういう境涯におかれるのでしょうか?
表現器官が正常でないために、地上で体験すべきものが体験できなかったわけですから、それだけ損失を強いられたことになります。貴重な物的生活の価値を身につけることができなかったわけです。しかし、そうしたなかにも「埋め合わせの原理」が働いています。
【Q4】
われわれは地上でのさまざまな試練によって身につけた人間性をたずさえて霊界へ行くわけですが、精神異常者の場合はどうなるのでしょうか?やはり、そのままの人間性で裁かれるのでしょうか?
そういう人の場合は、それまでの魂の進化の程度と動機(注)だけで裁かれます。
訳注──この〝動機〟についてさらに質問してほしかったところである。訳者の推察では、これは再生(生まれかわり)とつながる問題であり、質問者がさらに突っ込んで問いただせば説明してくれたはずである。
【Q5】
地上では、精神的にも道徳的にも衛生的にも、不潔きわまるスラムのような環境に生まれついて、つらい、そして面白くない生活を送らねばならない者がいる一方、美しいものに囲まれ、楽しい人生が約束された環境で育つ者もいます。こうした不公平には、どのような配慮がなされるのでしょうか?
魂には、その霊性の進化の程度が刻み込まれています。地上の人間は、物的尺度で価値判断をし、魂の発現という観点からの判断をしません。身分の上下にかかわらず、すべての人間に、他人のために自分を役立てるチャンスが訪れます。それは言い換えれば、自我意識に目覚めて、その霊性を発現するチャンスです。その霊性こそが唯一の判定基準です。
物的基準で判定すれば、地上界は不公平ばかりのように思えますが、本当の埋め合わせの原理が魂の次元で働いています。それによって、魂があらゆる艱難を通して、自我を顕現していくように意図されているのです。
【Q6】
でも、悪い人間がよい思いをしていることがありますが、なぜでしょうか?
それも、あなた自身のこの世的な基準による判断に過ぎません。よい思いをしているかに見える人が、惨めな思い、虐げられた思い、懊悩や苦痛に悩まされていないと、何を根拠に判断なさるのでしょう?いつもニコニコしているからでしょうか?贅沢なものに取り囲まれた生活をしているからでしょうか?豪華な服装をしていれば魂も満足しているのでしょうか?永遠の判断基準は霊であって、物を基準にしてはいけません。そうしないと、真の公正がないことになります。
【Q7】
でも、やはり罪悪や飢餓、その他、低俗なものばかりがはびこる環境よりもよい環境のほうが、立派な動機を生みやすいのではないでしょうか?
私は、そうは思いません。私が見てきたかぎりでは、偉大なる魂は必ずといってよいほど低い階層に生まれついています。偉人と呼ばれている人はみな、低い階層の出です。耐え忍ばねばならない困難が多いほど、魂はそれだけ偉大さを増すのです。本来の自我を見出させてくれるのは困難との闘争です。ものごとを外側からではなく、内側から見るようにしてください。
【Q8】
霊性は、物的生命と同時進行で進化してきたのでしょうか?
同時進行ではありましたが〝同じ道〟ではありませんでした。霊が顕現するための道具として、物的身体のほうが霊よりも先に、ある程度の進化を遂げておく必要があったからです。
【Q9】
われわれは、死後も努力次第で向上進化するのであれば、罪深い動機から転落することもあるのでしょうか?
ありますとも!こちらの世界に来ても、地上的な欲望から抜け切れずに、何百年も、ときには何千年も、進化らしい進化を遂げない者が大勢います。地上時代と同じ欲求と願望に明け暮れる生活を送り、霊的な摂理など理解しようとしません。身は霊界にあっても、地球の波動のなかで生活しており、霊的なものにまったく反応しないまま、刻一刻と霊性が堕落していきます。
【Q10】
そうやって際限もなく堕落していって、最後は消滅してしまうのでしょうか?
そういうことはありません。内部に宿された大霊の火花が今にも消えそうに明滅するまでになることはあっても、完全に消えてなくなることはありません。大霊と結びつける絆は永遠なるものだからです。いかに低級な魂も、もはや向上できなくなるというほど堕落することはありません。いかに高級な魂も、もはや低級界の魂を救えないほど向上してしまうことはありません。
【Q11】
個霊は死後さまざまな階層をへて、最後は大霊と融合し、その後、物質その他の成分となって宇宙にばらまかれるのでしょうか?
私は、完全の域まで達して完全性のなかに融合してしまったという個霊の話を聞いたことがありません。完全性が深まれば深まるほど、まだまだ完全でないところがあることに気づくことの連続です。そうやって意識が開発されていくのです。意識は、大霊の一部ですから無限であり、無限性へ向けて永遠に開発し続けるのです。究極の完全性というものを私たちも知りません。
【Q12】
でも、個霊が進化していくうちに類魂のなかに融合し切って、個々のアイデンティティーを失ってしまうのは事実ではないでしょうか?
私の知るかぎり、そういうことはありません。ただ、次のようなことはあります。成就すべき大切な仕事があって、心を一つにする霊団が、知識と情報源を総動員してそれに没頭し、そのなかの一人が残り全員を代表してスポークスマンとなる、ということです。その間は全員が一つの心のなかに埋没してアイデンティティーを失っています。が、それも一時的なことです。
【Q13】
ペットは死後もそのまま存続しているそうですが、ふつうの動物でも存続しているのをご覧になることがありますか?
あります。現在では犬や猫が人間のペットになっていますが、私たちが地上にいた頃は、ふつうの動物でも、私たちの仲間だったものがたくさんいました。人間との交わりで個性を発現した動物は、そのままの個性をたずさえて存続していました。もっとも、動物の場合は永遠ではありません。わずかな期間だけ存続して、やがて類魂のなかに融合していきます。その類魂が種を存続させるのです。
大霊の子である人類は、大霊の霊力を授かっているがゆえに、意識がまだ人類の進化の次元にまで達していない存在に対して、その霊力を授けることができることを知らねばなりません。それが愛であり、その愛の力によって、まだその次元に達していない存在の進化を促進してあげることができるのです。
【Q14】
そのように人間にかわいがられた場合は別として、原則として動物も個性をたずさえて死後に存続するのでしょうか?
存続しません。
【Q15】
動物が原則として個性をたずさえて存続しないとなると、たとえば人間にかまってもらえない動物や虐待されている動物と大霊との関係はどうなるのでしょうか。創造した者と創造された者との関係として見たとき、そういう動物の生命に大霊の公正はどのようなかたちで示されるのでしょうか?
地上の人間の理解力を超えた問題を解説するのは容易ではありません。これまで私は、動物は死後、類魂のなかに融合していくと述べるにとどめてきましたが、その段階で埋め合わせの原理が働くのです。絶対的公正の摂理の働きによって、受けるべきでありながら受けられなかったもの、すべてについて埋め合わせがあります。
しかしそれは、人間の進化の行程とは次元が異なります。しいてたとえれば、十分な手入れをされた花と、ほったらかしにされてしぼんでいく花のようなものでしょう。あなた方には、その背後で働いている摂理が理解できないかもしれませんが、ちゃんと働いているのです。
【Q16】
個々の動物について埋め合わせがあるのでしょうか?
いえ、類魂としてです。受けた苦痛が類魂の進化を促すのです。
【Q17】
そのグループのなかには苦痛を受けた者とそうでない者とがいるはずですが、それがグループ全体として扱われるとなると、埋め合わせを受けるべき者とその必要のない者とが出てきます。そのへんはどうなるのでしょうか?
体験の類似性によって、各グループが構成されます。
【Q18】
ということは、虐待された者とそうでない者とが、別々のグループを構成しているということでしょうか?
あなた方の身体が、さまざまな種類の細胞から構成されているように、類魂全体にもさまざまな区分けがあります。
【Q19】
ばい菌のような原始的生命はなぜ存在するのでしょうか?また、それが発生し消毒されるということは、宇宙が愛によって支配されていることと矛盾しませんか?
人間には自由意志が与えられています。大霊から授かっている霊力と、正しいことと間違ったこととを見分ける英知とを用いて、地上界を〝エデンの園〟にすることができます。それをしないで、ほこりと汚れで不潔にしておいて、それが生み出す結果について大霊に責任を求めるというのは虫がよ過ぎないでしょうか?
【Q20】
地上的生命の創造と進化が、弱肉強食という血染めの行程をたどったという事実のどこに、善性と愛という神の観念が見出せるのでしょうか?
そういう意見を述べる人(注)は、なぜそういう小さな一部だけを見て全体を見ようとしないのでしょうか?進化があるということ、そのことが神の愛の証しではないでしょうか?その人たちは、そういう考えが一度も浮かんだことがないのでしょうか?人間が低い次元から高い次元へと進化するという事実そのものが、進化の背後で働いている摂理が愛の力であることの証しではないでしょうか?
訳注──答えが直接質問者に向けられていないのは、多分、質問が読者からの投書だったのであろう。主語が「you」でなく「they」となっているところからそう判断したのであるが、もしかしたら質問が「という意見を述べる人がいますが…」となっていたのかもしれない。
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訳者あとがき
読者というのは、はじめてその本を読む人のことと理解してよいと思うが、本書に関するかぎりは、はじめての方に加えてすでにシルバーバーチを繰り返し読んでいる方が多い──むしろ、そういう方のほうが圧倒的に多いに違いないという想定のもとに、「あとがき」を書かせていただく。
そのあと新しい読者のために、シルバーバーチ霊からのメッセージの中継者として生涯を捧げたモーリス・バーバネルの手記を紹介する。
「編者まえがき」の冒頭で述べられているように、本書はすでに霊言集として十数冊の単行本として発行されているもののなかから、Q&A、つまり交霊会の出席者からの質問にシルバーバーチが答えたものばかりを編集したものである。
私は霊言集の原書をすべてそろえており、そのすべてを翻訳して一六冊の日本語版として四つの出版社から上梓した(巻末参照)。
したがって、本書の原書を手にしたときは、その日本語版にあるものばかりなのだから、あえて訳す必要性はないと考えていたのであるが、「勉強会」を進めていくうちに、こういう問答形式のテキストも使い勝手がよい、むしろそのほうが効用が大きいように思えてきた。
そこで翻訳に着手して、一章ごとに「勉強会」で披露していったのであるが、そのうち気がついたのは、部分的には訳した覚えがあっても、全体としては別個のものが、かなりの頻度で出てくることだった。
同じシルバーバーチが述べたことであるから、どこか似ていることを述べていても不思議はないのであるが、そのうち〝編纂〟という作業に関して、日本人と英国人との間に考え方の違い、大げさに言えば、精神構造の違いをほうふつさせる事実が明るみになってきた。
それは、原書の編集者は、単に霊言を集めてテーマ別に区分けするというだけではなく、ときには別々の交霊会での霊言をつぎはぎして新しい文章をこしらえることがあるということである。
無駄、ないしはなくてもよいと思える文章を削るのはまだしも、そこで述べていないもの──たとえ別の箇所で述べていても──それをつぎ足してかたちだけ整えるのは、いささか悪趣味が過ぎるのではないかと思うので、私はそれを発見したときは削除した。
そんな次第で、既刊の霊言集に出ているものと本書に出ているものとの間に〝似て非なるもの〟があるときは、本書のほうが正しい、つまりよけいなつけ足しをしていないと受け取っていただきたい。もちろん、表現を改めたところは少なからずあるが‥‥。
もう一つ気づいたことは──これは嬉しい発見であるが──どの霊言集にも掲載されていない問答がいくつか見られることである。
そこで考えたのであるが、どうやら二人の編者は、前任者たちが霊言集を編纂したときの資料、つまり交霊会の速記録やテープ録音を文字に転写したもののなかから、新たに拾い出したものを採用したのではないかということである。
これは、そうした資料に直接アクセスできない者にとっては実にありがたいことで、もしも条件が整えば、私自身がそうしたものの発掘の旅に英国まで行ってきたい心境である。未公開のものがいくらでもあるはずであるから‥‥。
さて、回答で指摘したとおり、私自身の誤訳も見つかった。ある意味では大切な発見で、本文でもお詫びかたがた注を施しておいた。「not」を見落とした単純ミスで、いわゆる「思い込み違い」である。
が、その単純ミスがその後の文章の意味をわかりにくくしてしまうという、二重の過ちを犯したことになる。この一節はシルバーバーチ特有の、簡潔にして含蓄の深い文章の典型で、たった数行であるがきわめて難解である。
テーマは「アフィニティ」説で、二十世紀初頭に入手されたフレデリック・マイヤースの「類魂」説と基本的に同一である。
けがの功名で、はからずも今回の誤訳の発見によって解説がしやすくなったので、ここで「霊魂」とは何か、それが「進化する」とはどういうことかを、改めて解説しておきたい。
まず用語の意味を整理しなければならない。日本人は「霊」と「魂」を並べて「霊魂」という呼び方をする。見方によってはそれで問題ない場合もあるが、スピリチュアリズムでは明快に区別している。
それをシルバーバーチの言葉で説明すると──「霊」とは全存在の根源的生命力で、無形・無色、影もかたちもないという。われわれ人間について言えば、身体のどこそこにあるという〝場所をもつ〟存在ではなく、「しいて言えば、意識です」とシルバーバーチは言うのであるが、この「しいて言えば」と断ること自体が、必ずしも「意識」とは言えない状態での存在もあることを示唆している。
それについては後述するとして──「魂」とは、その霊が自我を表現するための媒体をまとった状態を指す。地上では、物的身体という媒体に宿って生命活動を営んでいるわけで、その意味で、人間も「霊」であると言ってもよいし、「魂」であると言ってもよいし、「霊魂」であると言っても間違いではないことになる。
シルバーバーチが用語にこだわらずに、ときには矛盾するかのような使い方をするのは、決していい加減な表現をしているわけではない。シルバーバーチがわれわれの実体を鳥瞰図的に見ているのに対し、われわれは脳の意識を焦点として考えているので、どうしても視野が狭くなり、字句にこだわることになる。
日本の古神道には「一霊四魂」という思想がある。霊は自我で、その表現媒体として四つの魂、すなわち荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)があるというもので、スピリチュアリズムでいう自我と肉体・幽体・霊体・神体(または本体)の四つの身体という説とまったく同一である。
さらには、これらの身体に相応した物質界・幽界・霊界・神界があるというわけであるが、ここではこれ以上は踏み込まないことにする。
さて、自我である「霊」は、無始無終の存在として、単細胞生物にはじまって植物、動物と、その媒体を変えながら進化し、最後に「霊的流入(Spiritual Influx)」という過程をへてヒトの身体に宿る。そして、この段階ではじめて自我意識が芽生える。霊的生命の発達と進化の過程における「画期的飛躍」と呼んでよいであろう。
シルバーバーチが「見ず知らずというわけではない」と述べたのは「意識的には知らない」という意味に解釈してよいであろう。無限の資質と可能性を秘めた霊的生命が、無意識の静的状態から動的状態へと移行し、機能的進化を重ねたあげくに「霊的流入」という飛躍をへてヒトとなり、自我意識と個性をそなえて、精神的ならびに霊的進化の旅に出ることになる。その旅に終点はないという。
では、本書に掲載されていないシルバーバーチの霊言で、「霊的流入」を考慮してはじめて理解できる一節を紹介しておく。
「いく百万年とも知れない歳月をかけて、あなた方は下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥のなかから天空へ向けて一段また一段と、ゆっくりと進化してきたのです。その間、少しずつ動物性を捨てては霊性を発揮するという過程を続けてきました。今あなた方が宿っている身体がそこまで発達するのに、はたして何百万年かかったことでしょう。しかし、まだ進化は終わっていないのです。
そして他方において、魂も進化させなければならないのですが、それにも、これから何百万年かけることになるでしょうか。
かつて、あなたはサルでした。サルそのものだったという意味ではありません。サルという種を通して顕現した時期もあったという意味です。それも大霊の機構の一部なのです。生命のあるところには、大霊の息吹があります。それなくしては、生命活動は存在しません。ただ、その息吹に段階的な差があるということです。発達と開発があり、下等な段階から高等な段階への転移があるということです。」
では、このたびはじめてシルバーバーチと出会ったという方のために、シルバーバーチの専属霊媒としての生涯を送ったモーリス・バーバネルの手記を紹介する。
これはバーバネルの後継者として週刊紙『サイキック・ニューズ(Psychic News)』の編集長となったトニー・オーツセンに「自分が死んでから公表してほしい」といって手渡したもので、その遺言どおり、一九七九年七月の他界後に同紙に掲載された。
シルバーバーチと私 モーリス・バーバネル
私の記憶によれば、スピリチュアリズムなるものをはじめて知ったのは、ロンドンで催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた18歳のときのことで、およそドラマティックとは言えないことがきっかけとなった。
クラブで私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、どうにか大過なくやりこなしていた。
もう一つは、講演の内容いかんにかかわらず、私がそれに反論することでディスカッションへと発展させていくことで、いつも同僚が「なかなかやるじゃないか」と誉めてくれていた。
実はその頃、数人の友人が、私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん、はじめてのことで、私は大真面目で出席した。ところが、終わってはじめて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。
たとえ冗談とはいえ、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。
同時に、その頃の私は、他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教には背を向けていた。母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が、「教会での儀式に一人で出席するのはみっともないから、ぜひ同伴してほしい」と嘆願しても、頑として聞かなかった。
二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。理屈のうえでは必ずといってよいほど、父のほうが母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それからさらに不可知論へと変わっていった。
こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただく、その背景として必要だと考えたからである。
ある夜の会で、これといった講演者のいない日があった。そこで、ヘンリー・サンダースという青年がしゃべることになった。彼は、スピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終わると、同僚が例によって私のほうを向き、反論するようにとの合図を送ってきた。
ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近、にせの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないと述べ、したがって、それをまったくもちあわせない私の意見では価値がないと思うと述べた。これには出席者一同が驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。
終わると、サンダース氏が近づいてきて「体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もしそうだったら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか」と尋ねた。「ええ……」──私は、つい、そう返事をしてしまった。が、「結論を出すまで六カ月の期間がいると思います」と付け加えた。
そのことがきっかけで、サンダース氏は、私を近くで開かれていた交霊会へ招待してくれた。約束の日時に、私は、当時、婚約中だったシルビアを伴って出席した。会場に案内されてみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。
若い者もいれば、老人もいる。あまり好感はもてなかったが、真面目な集会であることはたしかだった。
霊媒は、ブロースタインという中年の女性だった。その女性がトランス状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。
そして事実、そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。少なくとも私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが「死者」であることを得心させる証拠は、何一つ見当たらなかった。
しかし、私には、六カ月間、スピリチュアリズムを勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。ところが、会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり居眠りをしてしまった。目を覚ますと、私はあわてて非礼を詫びた。ところが驚いたことに、私は居眠りをしていたのではなく、レッド・インディアンが、私の身体を借りてしゃべっていたことを知らされた。
それが私の最初の霊媒的トランス体験だった。何をしゃべったかは、自分にもまったくわからない。聞いたところでは、ハスキーで、のどの奥から出るような声で少しだけしゃべったという。その後、現在に至るまで大勢の方々に聞いていただいている、地味ながら人の心に訴えるとの評判を得ている響きとは、似ても似つかぬものだったらしい。
しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホーム・サークルが誕生した。シルバーバーチも回を重ねるごとに、私の身体のコントロールがうまくなっていった。
コントロールするということは、シルバーバーチの個性と私の個性とが融合することであるが、それがピッタリうまくいくようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。
はじめのうち、私は、トランス状態に入るのはあまり好きではなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が、私自身にわからないのは不当だという、生意気な考えのせいであったと思われる。
ところが、あるとき、こんな体験をさせられた。交霊会を終わってベッドに横たわっていたときのことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声、つまり私の口を使っての霊言とともに、ビデオのように映し出されたのである。そんなことが、その後もしばしば起きた。
が、その後、それは見られなくなった。それは、ほかならぬハンネン・スワッファーの登場のせいである。その後「フリート街の法王」(フリート街は、ジャーナリズム界の通称)と呼ばれるほどのご意見番となったスワッファーも、当時からスピリチュアリズムには彼なりの体験と理解があった(別の交霊会で劇的な霊的体験をして死後存続の事実を信じていた)。
そのスワッファーが、私のトランス霊言に非常な関心を示すようになり、シルバーバーチ霊をえらく気に入り始めていた。そして、これほどの霊的教訓がひと握りの人間にしか聞けないのはもったいない話だといい出した。
元来が宣伝好きの男なので、それをできるだけ多くの人に分けてあげるべきだと主張し、『サイキック・ニューズ』(週刊の心霊紙)に連載するのがいちばんいいという考えを示した。
はじめ、私は反対した。自分が編集している新聞に、自分の霊的現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん論議したあげくに、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。
その頃から、私の交霊会は「ハンネン・スワッファー・ホームサークル」と呼ばれるようになり、同時に、その会での霊言が毎週定期的に掲載されるようになった。
当然のことながら、霊媒は一体だれなのかという詮索がしきりになされたが、かなりの期間、内密にされていた。しかし、顔の広いスワッファーが次々と著名人を招待するので、いくら箝口令を敷いても、いつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して事実を打ちあける記事「シルバーバーチの霊媒はだれか──実はこの私である」を掲載したのだった(カッコ内は訳者。わかりやすく編集した箇所もある)。
そのあと新しい読者のために、シルバーバーチ霊からのメッセージの中継者として生涯を捧げたモーリス・バーバネルの手記を紹介する。
「編者まえがき」の冒頭で述べられているように、本書はすでに霊言集として十数冊の単行本として発行されているもののなかから、Q&A、つまり交霊会の出席者からの質問にシルバーバーチが答えたものばかりを編集したものである。
私は霊言集の原書をすべてそろえており、そのすべてを翻訳して一六冊の日本語版として四つの出版社から上梓した(巻末参照)。
したがって、本書の原書を手にしたときは、その日本語版にあるものばかりなのだから、あえて訳す必要性はないと考えていたのであるが、「勉強会」を進めていくうちに、こういう問答形式のテキストも使い勝手がよい、むしろそのほうが効用が大きいように思えてきた。
そこで翻訳に着手して、一章ごとに「勉強会」で披露していったのであるが、そのうち気がついたのは、部分的には訳した覚えがあっても、全体としては別個のものが、かなりの頻度で出てくることだった。
同じシルバーバーチが述べたことであるから、どこか似ていることを述べていても不思議はないのであるが、そのうち〝編纂〟という作業に関して、日本人と英国人との間に考え方の違い、大げさに言えば、精神構造の違いをほうふつさせる事実が明るみになってきた。
それは、原書の編集者は、単に霊言を集めてテーマ別に区分けするというだけではなく、ときには別々の交霊会での霊言をつぎはぎして新しい文章をこしらえることがあるということである。
無駄、ないしはなくてもよいと思える文章を削るのはまだしも、そこで述べていないもの──たとえ別の箇所で述べていても──それをつぎ足してかたちだけ整えるのは、いささか悪趣味が過ぎるのではないかと思うので、私はそれを発見したときは削除した。
そんな次第で、既刊の霊言集に出ているものと本書に出ているものとの間に〝似て非なるもの〟があるときは、本書のほうが正しい、つまりよけいなつけ足しをしていないと受け取っていただきたい。もちろん、表現を改めたところは少なからずあるが‥‥。
もう一つ気づいたことは──これは嬉しい発見であるが──どの霊言集にも掲載されていない問答がいくつか見られることである。
そこで考えたのであるが、どうやら二人の編者は、前任者たちが霊言集を編纂したときの資料、つまり交霊会の速記録やテープ録音を文字に転写したもののなかから、新たに拾い出したものを採用したのではないかということである。
これは、そうした資料に直接アクセスできない者にとっては実にありがたいことで、もしも条件が整えば、私自身がそうしたものの発掘の旅に英国まで行ってきたい心境である。未公開のものがいくらでもあるはずであるから‥‥。
さて、回答で指摘したとおり、私自身の誤訳も見つかった。ある意味では大切な発見で、本文でもお詫びかたがた注を施しておいた。「not」を見落とした単純ミスで、いわゆる「思い込み違い」である。
が、その単純ミスがその後の文章の意味をわかりにくくしてしまうという、二重の過ちを犯したことになる。この一節はシルバーバーチ特有の、簡潔にして含蓄の深い文章の典型で、たった数行であるがきわめて難解である。
テーマは「アフィニティ」説で、二十世紀初頭に入手されたフレデリック・マイヤースの「類魂」説と基本的に同一である。
けがの功名で、はからずも今回の誤訳の発見によって解説がしやすくなったので、ここで「霊魂」とは何か、それが「進化する」とはどういうことかを、改めて解説しておきたい。
まず用語の意味を整理しなければならない。日本人は「霊」と「魂」を並べて「霊魂」という呼び方をする。見方によってはそれで問題ない場合もあるが、スピリチュアリズムでは明快に区別している。
それをシルバーバーチの言葉で説明すると──「霊」とは全存在の根源的生命力で、無形・無色、影もかたちもないという。われわれ人間について言えば、身体のどこそこにあるという〝場所をもつ〟存在ではなく、「しいて言えば、意識です」とシルバーバーチは言うのであるが、この「しいて言えば」と断ること自体が、必ずしも「意識」とは言えない状態での存在もあることを示唆している。
それについては後述するとして──「魂」とは、その霊が自我を表現するための媒体をまとった状態を指す。地上では、物的身体という媒体に宿って生命活動を営んでいるわけで、その意味で、人間も「霊」であると言ってもよいし、「魂」であると言ってもよいし、「霊魂」であると言っても間違いではないことになる。
シルバーバーチが用語にこだわらずに、ときには矛盾するかのような使い方をするのは、決していい加減な表現をしているわけではない。シルバーバーチがわれわれの実体を鳥瞰図的に見ているのに対し、われわれは脳の意識を焦点として考えているので、どうしても視野が狭くなり、字句にこだわることになる。
日本の古神道には「一霊四魂」という思想がある。霊は自我で、その表現媒体として四つの魂、すなわち荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)があるというもので、スピリチュアリズムでいう自我と肉体・幽体・霊体・神体(または本体)の四つの身体という説とまったく同一である。
さらには、これらの身体に相応した物質界・幽界・霊界・神界があるというわけであるが、ここではこれ以上は踏み込まないことにする。

さて、自我である「霊」は、無始無終の存在として、単細胞生物にはじまって植物、動物と、その媒体を変えながら進化し、最後に「霊的流入(Spiritual Influx)」という過程をへてヒトの身体に宿る。そして、この段階ではじめて自我意識が芽生える。霊的生命の発達と進化の過程における「画期的飛躍」と呼んでよいであろう。
シルバーバーチが「見ず知らずというわけではない」と述べたのは「意識的には知らない」という意味に解釈してよいであろう。無限の資質と可能性を秘めた霊的生命が、無意識の静的状態から動的状態へと移行し、機能的進化を重ねたあげくに「霊的流入」という飛躍をへてヒトとなり、自我意識と個性をそなえて、精神的ならびに霊的進化の旅に出ることになる。その旅に終点はないという。
では、本書に掲載されていないシルバーバーチの霊言で、「霊的流入」を考慮してはじめて理解できる一節を紹介しておく。
「いく百万年とも知れない歳月をかけて、あなた方は下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥のなかから天空へ向けて一段また一段と、ゆっくりと進化してきたのです。その間、少しずつ動物性を捨てては霊性を発揮するという過程を続けてきました。今あなた方が宿っている身体がそこまで発達するのに、はたして何百万年かかったことでしょう。しかし、まだ進化は終わっていないのです。
そして他方において、魂も進化させなければならないのですが、それにも、これから何百万年かけることになるでしょうか。
かつて、あなたはサルでした。サルそのものだったという意味ではありません。サルという種を通して顕現した時期もあったという意味です。それも大霊の機構の一部なのです。生命のあるところには、大霊の息吹があります。それなくしては、生命活動は存在しません。ただ、その息吹に段階的な差があるということです。発達と開発があり、下等な段階から高等な段階への転移があるということです。」
では、このたびはじめてシルバーバーチと出会ったという方のために、シルバーバーチの専属霊媒としての生涯を送ったモーリス・バーバネルの手記を紹介する。
これはバーバネルの後継者として週刊紙『サイキック・ニューズ(Psychic News)』の編集長となったトニー・オーツセンに「自分が死んでから公表してほしい」といって手渡したもので、その遺言どおり、一九七九年七月の他界後に同紙に掲載された。
シルバーバーチと私 モーリス・バーバネル
私の記憶によれば、スピリチュアリズムなるものをはじめて知ったのは、ロンドンで催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた18歳のときのことで、およそドラマティックとは言えないことがきっかけとなった。
クラブで私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、どうにか大過なくやりこなしていた。
もう一つは、講演の内容いかんにかかわらず、私がそれに反論することでディスカッションへと発展させていくことで、いつも同僚が「なかなかやるじゃないか」と誉めてくれていた。
実はその頃、数人の友人が、私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん、はじめてのことで、私は大真面目で出席した。ところが、終わってはじめて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。
たとえ冗談とはいえ、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。
同時に、その頃の私は、他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教には背を向けていた。母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が、「教会での儀式に一人で出席するのはみっともないから、ぜひ同伴してほしい」と嘆願しても、頑として聞かなかった。
二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。理屈のうえでは必ずといってよいほど、父のほうが母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それからさらに不可知論へと変わっていった。
こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただく、その背景として必要だと考えたからである。
ある夜の会で、これといった講演者のいない日があった。そこで、ヘンリー・サンダースという青年がしゃべることになった。彼は、スピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終わると、同僚が例によって私のほうを向き、反論するようにとの合図を送ってきた。
ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近、にせの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないと述べ、したがって、それをまったくもちあわせない私の意見では価値がないと思うと述べた。これには出席者一同が驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。
終わると、サンダース氏が近づいてきて「体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もしそうだったら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか」と尋ねた。「ええ……」──私は、つい、そう返事をしてしまった。が、「結論を出すまで六カ月の期間がいると思います」と付け加えた。
そのことがきっかけで、サンダース氏は、私を近くで開かれていた交霊会へ招待してくれた。約束の日時に、私は、当時、婚約中だったシルビアを伴って出席した。会場に案内されてみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。
若い者もいれば、老人もいる。あまり好感はもてなかったが、真面目な集会であることはたしかだった。
霊媒は、ブロースタインという中年の女性だった。その女性がトランス状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。
そして事実、そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。少なくとも私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが「死者」であることを得心させる証拠は、何一つ見当たらなかった。
しかし、私には、六カ月間、スピリチュアリズムを勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。ところが、会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり居眠りをしてしまった。目を覚ますと、私はあわてて非礼を詫びた。ところが驚いたことに、私は居眠りをしていたのではなく、レッド・インディアンが、私の身体を借りてしゃべっていたことを知らされた。
それが私の最初の霊媒的トランス体験だった。何をしゃべったかは、自分にもまったくわからない。聞いたところでは、ハスキーで、のどの奥から出るような声で少しだけしゃべったという。その後、現在に至るまで大勢の方々に聞いていただいている、地味ながら人の心に訴えるとの評判を得ている響きとは、似ても似つかぬものだったらしい。
しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホーム・サークルが誕生した。シルバーバーチも回を重ねるごとに、私の身体のコントロールがうまくなっていった。
コントロールするということは、シルバーバーチの個性と私の個性とが融合することであるが、それがピッタリうまくいくようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。
はじめのうち、私は、トランス状態に入るのはあまり好きではなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が、私自身にわからないのは不当だという、生意気な考えのせいであったと思われる。
ところが、あるとき、こんな体験をさせられた。交霊会を終わってベッドに横たわっていたときのことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声、つまり私の口を使っての霊言とともに、ビデオのように映し出されたのである。そんなことが、その後もしばしば起きた。
が、その後、それは見られなくなった。それは、ほかならぬハンネン・スワッファーの登場のせいである。その後「フリート街の法王」(フリート街は、ジャーナリズム界の通称)と呼ばれるほどのご意見番となったスワッファーも、当時からスピリチュアリズムには彼なりの体験と理解があった(別の交霊会で劇的な霊的体験をして死後存続の事実を信じていた)。
そのスワッファーが、私のトランス霊言に非常な関心を示すようになり、シルバーバーチ霊をえらく気に入り始めていた。そして、これほどの霊的教訓がひと握りの人間にしか聞けないのはもったいない話だといい出した。
元来が宣伝好きの男なので、それをできるだけ多くの人に分けてあげるべきだと主張し、『サイキック・ニューズ』(週刊の心霊紙)に連載するのがいちばんいいという考えを示した。
はじめ、私は反対した。自分が編集している新聞に、自分の霊的現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん論議したあげくに、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。
その頃から、私の交霊会は「ハンネン・スワッファー・ホームサークル」と呼ばれるようになり、同時に、その会での霊言が毎週定期的に掲載されるようになった。
当然のことながら、霊媒は一体だれなのかという詮索がしきりになされたが、かなりの期間、内密にされていた。しかし、顔の広いスワッファーが次々と著名人を招待するので、いくら箝口令を敷いても、いつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して事実を打ちあける記事「シルバーバーチの霊媒はだれか──実はこの私である」を掲載したのだった(カッコ内は訳者。わかりやすく編集した箇所もある)。
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