まえがき
本書を手にされたいきさつは、人それぞれに異なるであろう。第一に考えられるのは、古くからのシルバーバーチの愛読者で、その崇高な英知と人生への霊的洞察から多くを学んでいるので、何の躊躇もなく手にされたというケースである。また、シルバーバーチのメッセージを、地上のみならず、死後の人生の指針としている人から贈られたという方もいるであろう。
本書は、そういう方を決して裏切らないであろうことを断言しておきたい。もしかしたら書店でふと目にとまったからという方、あるいは新聞広告を見て興味を覚えて買ったという方もいることであろう。いわば偶然のなせるわざであるが、お読みになれば決して偶然ではなく、何らかの形で霊的な導きがあったのだと、ご理解がいくことであろう。
ともあれ、シルバーバーチの訓えの素晴らしさを、今ここで筆者の拙い筆で改めて宣伝しようとは思わない。それよりも、本書の二人の編纂者の労をねぎらいたい心境である。
すでに発刊された(そして廃刊となった)数多くの霊言集の中から珠玉の「Q&A」を抜き出して一冊にまとめるというアイデアそのものに敬意を表したい。こういう形で読むと、シルバーバーチが一段と身近に感じられ、その意味の深さを改めて認識することになるであろう。
霊的真理普及財団・会長 ロイ・ステマン
編者まえがき
人生のスピリチュアルな面とサイキックな面に関心を向けながら求道の旅を続けている人々のために、遭遇する疑問への回答を与えてくれる一冊の書を用意してあげたい───これが本書を編纂した理由である。
また、われわれが「勉強会」を始めた時、何か手ごろなテキストはないものかと話し合ったことがある。スピリチュアリズムの枠内でも起こり得る誤解や勝手な解釈を一掃したもの、というのが第一の条件であったが、そうなると 「シルバーバーチ」 の名で知られている、あの高級霊が遺してくれた宇宙哲学と生きる英知以外にはあり得ないのではないかという結論に達した。
本書に盛られた質問には、実質的には一九二〇年から始まった交霊会で何度も出されているものがある。が、シルバーバーチはそのつど、内容を深めたり敷衍(フエン)したりして答えているので、本書でも重複をいとわず掲載した。
霊言集の出版が終わった今、こうしたかたちでシルバーバーチの霊言を世に出すということは、真理普及に改めて貢献することになる。この一冊によって光を見出す人が一人でもいれば、われわれの努力も無駄ではなかったことになる。 スタン・バラード
ロジャー・グリーン
シルバーバーチとは何者か - 訳者
本書を手にして「まえがき」と「編者まえがき」に目を通した時、シルバーバーチの霊言集がほとんど廃刊となった今でも、英国において「霊的真理普及財団」や「勉強会」という形で脈々と生き続けていることを知ってうれしかった。
人間は形而上的にも形而下的にも 「なぜ?」 と問いかけたくなるものにあふれている。
たとえば 「地動説」 という厳然たる事実が常識となるまでに何百年もかかったが、一体なぜ地球が太陽の周りを回転するのかは、いまだに謎である。
まっすぐに進もうとする地球を太陽が引っ張るから、というのは単なる原理的解説であって、では、なぜ地球はまっすぐに進もうとするのかは、天文学でもいまだに謎である。
こうした 「なぜ?」 と問いかけたくなることは、人生にはいくらでもある。本書は、そのいくつかに納得のいく回答を与えてくれる。かけがえのない英知の泉であるが、シルバーバーチと名のる霊は一体いかなる存在なのであろうか。本書によってはじめてシルバーバーチを知ったという方のために、おおよそのところを紹介しておきたい。
シルバーバーチというのは、霊媒のモーリス・バーバネルの口を使って、一九二〇年から六〇年間にわたって霊的教訓を語り続けてきた古代霊の仮の名で、今から三〇〇〇年前頃、つまりイエス・キリストより一〇〇〇年も前に地上で生活したということ以外、地上時代の国籍も姓名も地位も不明のままで終わった。
せめて姓名だけでも教えてくれるよう何度かお願いしたが、そのつど、
「それを知ってどうしようというのですか。人間は名前や肩書きにこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だと分かったら、私がこれまで述べてきたことに一段と箔がつくと思われるのでしょうが、それは非常にたちの悪い錯覚です。
前世で私が王様であろうと召使いであろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもでもよろしい。私の述べていることに、なるほどと納得がいったら真理として信じてください。そんなばかなと思われたら、どうぞ拒否してください。それでいいのです」
と答えるのが常で、そのうち出席者も聞かなくなってしまった。
ただ一つだけはっきりしていることは、霊視能力者が描いた肖像画が北米インディアンの姿をしていても、実はそのインディアンがシルバーバーチその人ではないということである。
インディアンは、いわば霊界の霊媒であって、実際にメッセージを送っているのは高級神霊界の存在で、直接地上の人間に働きかけるには波長が高過ぎるので、その中継役としてインディアンを使っていたのである。近代の科学的霊魂学ともいうべきスピリチュアリズムによって、死後も今と同じ意識をもって生き続けることが明らかとなった。
これを 「個性の死後存続」 と呼び、これは 「地動説」 と同じく科学的事実として、好むと好まざるとにかかわらず、万人が認めざるを得ないものである。
その詳しい解説は第4章にゆずることにして、シルバーバーチが繰り返し説いている特徴的な教訓の一つは、仏教で「生・老・病・死」 を不幸としてとらえているのとは対照的に、そうしたものを体験するところに地上生活の意義があり、いわば魂の肥やしとして前向きにとらえることが、死後の向上につながると説いていることである。
第6章を 「生・老・病・死・苦──地上人生の意義」 という見出しにしたのは、これがシルバーバーチの教えの圧巻だからである。そこには在来の全ての宗教に見られる 「現世利益」(げんせりやく) 的な気休めの説教はカケラもない。
「事実なのですから、そう述べるしかありません。もしも私が地上生活をらくに生きる方法があるかに説いたら、それは私が高級神霊界からあずかった使命に背いたことになります」 とまで述べているのである。
シルバーバーチの教説は、その意味で 「大人の人生指導原理」 といえるかも知れない。気休めのありがたい話を好まれる方には厳し過ぎるかもしれない。が、現実界を見れば、気休めやご利益信仰など吹っ飛んでしまうような事象が毎日のように起きている。今後とも、それは変わることはないであろう。
本書によって生きる勇気を与えられることを願っている。
※ ※ ※
第1章 祈り
【Q1】
祈るということは大切でしょうか?
それは、その祈りがどういうものであるかによって違ってくることです。祈りの文句を目的もなしに繰り返すだけでは、ただ大気中に波動を起こすだけです。
が、誠心誠意、魂の底からの祈り、大霊 (第10章参照) の心と一体となり、大霊の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものが、その人を大霊の僕として、よりふさわしく、よりたくましくします。祈るということ、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。
【Q2】
祈りは主観的なもので、客観的な結果は生み出さないとおっしゃるのでしょうか?人間的に立派になるだけで、具体的には何も生み出さないのでしょうか?
真実の祈りは、人のために役立つ行為への心の準備であらねばなりません。より高い波長に適合させるための手段です。
私のいう祈りは、他人の書いた意味のわからない文句を繰り返すことではありません。誠心誠意の祈り、魂の波長を最高度に高めようとする真摯な願いです。その結果として、感応するインスピレーションに満たされて一段とたくましい存在となります。
【Q3】
他人のために祈ることにも、何か効用がありますか?
あります。真摯な祈りは決して無駄になりません。思念は生きものだからです。
【Q4】
遠隔治療にたずさわる治療家による祈りにも、実質的な効果があるのでしょうか?
あります。先ほどの質問に対しては個人としての祈り (注) を念頭においてお答えしましたが、あらゆるかたちの祈りについてもいえることです。祈っているときは、サイキックな (心霊的) エネルギーを出しており、これを治療専門の霊が利用するのです。
訳注──「個人としての祈り」 と断ったときのシルバーバーチの念頭には、グループで行なう遠隔治療のことがあったことが前後の文脈からうかがえる。グループで円座をつくり、中心に特定の患者がいるとの想定のもとに祈る方法である。
【Q5】
他に援助が得られないとき、祈りを通じて霊界からの援助を要請してもよいものでしょうか?
誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長に感応させます。祈るということ自体が心を開かせるのです。ただし、その祈りは、心と魂と精神を込めたものであらねばなりません。こうしてほしい、ああしてほしといった、ただの要求は祈りではありません。真実の意味での祈りは大きな霊的活動です。
それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならない、というのがいちばん的確な表現かと思います。
「何とぞ私を役立たせ給え」───これ以上の祈りの言葉はありません。「大霊とその子らのために、自分を役立たせたい」 と祈ることよりも偉大なる仕事、大いなる愛、崇高なる宗教、高邁なる哲学はありません。
どういうかたちでもよろしい。摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、お腹をすかしている人に食べるものを与えてあげることでも、あるいは暗い思いに沈んでいる人を明るい気持ちにしてあげることでもよろしい。つまりは、その人のためになることであれば、どんなことでもよいのです。
自分のことをあとまわしにしてでも、他人のために役立つことをする術を身につければ、それだけ内部の霊性、すなわち大霊が発現することになるのです。ことは、簡単なのです。
ところが、聖職者たちは教会を建立し、そのなかで得体の知れない説教をします。私にも理解できないようなむずかしい用語を散りばめ、〝宗教的〟であると信じている儀式をします。が、そんなことはどうでもよろしい。
くじけそうになっている人のところへ行って元気づけてあげ、疲れた人に休息の場を与えてあげ、空腹の人に食べ物を施してあげ、のどの渇いた人に飲み物を与えてあげ、暗闇のなかに沈んでいる人に新しい光明を見出させてあげるのです。そのとき、あなたを通して大霊の摂理が働いています。
【Q6】
祈りに何の回答もないように思えることがありますが、そんなとき、霊的にはどうなっているのでしょうか?
人間の内部には人間くさいものと神性を帯びたものとが同居していて、両者の間で常に葛藤があります。霊性に軍配があがったときは大霊と一体となったときで、崇高な喜びに浸ります。人間性に軍配があがったときは、霊的自我は落胆しています。
人生には、しばしば本人がこうあってほしいと思っている道ではなく、当人の存在意義が最大限に発揮される道へ、いやおうなしに導かれることがあります。たとえば、この部屋には、毎日毎晩、霊の一団が訪れています。
その霊団の一人ひとりが、本来なら一直線に向上の道を歩みたいところを、それをしばらくおあずけにして、この部屋に光の環(サークル)を構築するための環境条件を整えるために参加しているのです。いずれここが、暗い地上の片隅まで照らす灯りの始原の一つとなります。そういう仕事に比べれば、地上の人間的な悩みごとなど、ものの数ではありません。
身を横たえる家もなく、星空のもとで寝て雨風にさらされ、満足に食べるものにもありつけない人が現実に大勢いるというのに、ここにお出でのみなさんの祈り求めるものが、大霊の目から見て、そんなに大切だと思われますか。
みなさんに自覚していただきたいのは、みなさんも大霊の大計画に参画しているということ、そのなかでみなさんご自身の小さな人生模様を織っているということです。今は、その大計画がどういう図柄であるかはわからなくても、そのうちすべてが明かされる日が来ます。そのとき、すべての人種、すべての肌色が、それぞれに役割を果たしていることがわかります。そのときが地上天国となったときです。
表向きは何事も生じていないかに思えるときでも、霊的刺繍は着々として織り込まれているのです。昼となく夜となく、大霊の計画は休むことなく続けられており、最終的には人間の一人ひとりがいくばくかの貢献をしています。
人間から、ときおり自分の魂の成長にとってためにならないもの、かえって進化を遅らせることになるものを要求されます。それは、かなえてあげるわけにはいきません。またときおり、それを手にするに値するだけの努力をしていないものを要求されます。それも与えられません。
そしてときとして、(要求を)受け入れるだけの十分な準備をなさっているものを要求されます。それは、ここという好機を見はからって与えられます。みなさんの祈りは、口に出す前から、大霊は、先刻ご承知なのです。
【Q7】
教会で毎日のように唱えられている祈りに、効用があるのでしょうか?
祈る人それぞれで違うでしょう。口先だけの祈りは空虚な音の響きに過ぎません。魂を込めた祈り、熱誠と憧憬に満ちた祈り、大霊に一歩でも近づきたいとの熱望に燃えた祈りであれば、その熱望そのものが祈りに翼を与え、霊界の深奥(シンオウ)まで届くことでしょう。
【Q8】
たとえば、幼な子が飲んだくれの親に更生してもらいたいと思って祈る祈りに、効用はあるのでしょうか?
誠意ある祈りには、それなりのパワーがあります。そのパワーがどこまで物的次元に転換されるかは、さまざまな条件によって違ってきます。今あげられた例の場合ですと、飲んだくれの父親の魂が問題となります。つまり、その祈りのパワーがその琴線にふれるか、それとも霊的なものから遠ざかり過ぎて何の反応も示さないかによって違ってきます。この質問には 「イエス」 「ノー」 では答えられません。
【Q9】
でも、何らかの影響はあるでしょう?
人のために役立ちたいという祈り、真理、光明、導きを求めての祈り、これはすべてその人の魂の進化の指標です。その心は物的身体から出たものではなく、霊そのもの、すなわち大霊の一部であり、したがって大霊のパワーを秘めているのです。しかし、それを発揮するためには艱難辛苦の体験を通じて、霊性が進化しなければなりなせん。それまでは、パワーは発揮できません。
【Q10】
祈りは霊界のだれかが聞き届けてくれるのでしょうか?それとも、その祈りと調和するバイブレーションに反応するパワーを、人間のほうで想定する必要があるのでしょうか?
そもそも祈りとは魂の発現です。そこのところをまず明確にしておきたいと思います。光明すなわち導きを求めて叫ぶ魂の渇望です。その熱誠そのものが回答をもたらすのです。それが思念のパワーを起動させるのです。それが回答を引き寄せる原因であり、回答が結果です。霊界のだれかが、人間が祈るのを待っている必要はありません。
なぜなら、人間の祈りの性質によって、それが届く範囲というものが自動的に決まり、その人間の霊性の進化の度合いに応じて、引き寄せられるべき霊が自然に引き寄せられるのです。その霊たちは、地上人類のために働く決意ができていますから、そのパワーが人間の祈りが生み出したパワーを増幅させます。それは思念の波動であり、霊性の一部です。
つまり、祈る人間の霊性に応じて、宇宙のエネルギーが働くのです。ということは、稼動させることができる宇宙エネルギーは、祈る者の霊格によって、その範囲が自然に決まるということです。
祈る人の霊性の進化の程度によっては、何らかの理想の観念を思い浮かべて、それに意念を集中するほうがいい場合があるでしょう。そのほうがやりやすいというのであれば、私はあえて否定はしません。
しかし肝心なのは大霊であり、生命の原則であり、大自然の摂理です。大霊は完全ですから、摂理も完全です。あなたがたの内部に宿る大霊も完全であり、それがあなた方を通じて発現しようとしているのです。祈りにしても、人のための献身にしても、大霊を発現しようとする魂の行為です。そうした魂を開発しようとする行為が、霊性の進化を促すのです。
【Q11】
あらゆることが変えようにも変えられない法則によって支配されている以上は、大霊に祈っても何にもならないのではないでしょうか?祈りとは、大霊に法則を変更してくれるように頼むことではないかと思うのです。
私は、祈りをそのようには理解していません。祈りとは、大霊に近づかんとする魂の切実な願いです。その行為そのものが内部に宿る大霊を発現させ、未踏の階層まで至らしめてくれるのです。そこに不公平も特別の配慮もありません。祈りという行為によって魂が身を引き締め、大霊をより多く発現し、それだけ多くの恵みをわがものとすることができるということです。大霊の恵みは無限です。そして、あなたの魂も無限に開発されていきます。
【Q12】
なぜ人間は、神に罪の赦しを乞うのでしょうか?摂理を犯せば自動的に罰が下されるのではないでしょうか?
赦しを求めて祈っても、摂理が手直しされることはありません。支払うべき代償は支払わねばなりません。しかし、赦しを求めて祈るということは、自分の間違いに気付いて大霊との調和を求め始めたことを意味します。自我を見つめ、内省し始めたことを意味します。本当の意味での霊性の進化が始まったのです。
【Q13】
われわれは、摂理に向かって祈るべきなのでしょうか?
それは違います。自分の内部と外部に存在する大霊に向かって祈るのです。波動の調整とひたむきな向上心によって、大霊という無限のパワーとの一体化を少しでも促進しようとする営みです。より多くの光明、より多くの知識、より多くの英知と理解力を求める切実なものであらねばなりません。そういう祈りならば、必ず報われます。なぜならば、誠心誠意の訴えそのものが、内部の神性を発現させるからです。
【Q14】
ときおり、こちらが祈り求めないうちに霊界からの援助をいただくことがありますが、われわれの必要性をどうやってお知りになるのでしょうか?
切実な祈りは、然るべき目標に届くものです。必死に祈れば (私の言う 「祈り」 は 「要求」 ではありません)、その祈りは必ず目標に届きます。磁気的引力の法則が働くのです。祈りがかけ橋となって回答が届けられるのです。
【Q15】
大霊に直接語りかけることができますか?
あなたは大霊であり、大霊はあなたです。あなたと大霊との違いは、「性質」 ないしは 「本質」 にあるのではなく 「程度」 にあります。大霊は完全の極致であり、あなたはそれに向かって、はてしない努力を続けるのです。
したがって、大霊は内部にも外部にもあることになります。あなたが神性を発現したとき、すなわち愛、寛容、慈悲、哀れみ、慈善などの行為を実行に移したとき、あなたは大霊と通じあっていることになります。なぜならそれは、大霊があなたを通して働きかけていることにほかならないからです。
【Q16】
悲しみのどん底にありながら、祈るということをしない人がいますが、どうなのでしょう?神の存在を信じない以上、救いようがないのでしょうか?
大霊の存在を信じる信じないは問題ではありません。そのことで、大霊がお困りになることはありません。
【Q17】
ですが、そういう人でも救いがあるのでしょうか?さまざまな理由から神に祈ることも信じることもできないでいながら、大変な悩みを抱え、救いが必要な人がいます。
救いをいただく資格は、大霊の存在を信じるか信じないかで決まるのではありません。その時点までに到達した精神的、ならびに霊的進化の程度によって決まることです。手助けをいただく資格があるからいただくのです。これも原因と結果の自然法則です。
【Q18】
霊側では、人間側が祈るまで待っているのでしょうか? それとも、人間側が要求するしないにかかわらず、聞き届けたり無視したりするのでしょうか?
絶対的な法則によって経綸されている宇宙の大機構のなかにあって、人間、あるいは何らかの形態の存在が忘れ去られるということはあり得ません。自然法則は完壁ですから、すべての存在を包含しており、何一つ、だれ一人その枠からはみ出ることはありません。
地上の人間が、大霊の目からもれるということはあり得ません。人間の一人ひとりがおかれている情況は、すべて把握されています。祈りがかなえられた場合は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的進化の段階で、当人にとってふさわしいものがかなえられたのです。
【Q19】
宗教集団で行なう日課の祈祷は、霊界に何か影響を及ぼすのでしょうか?
ほんのわずかな間でも、波動が一つにまとまれば影響が出るでしょう。が、祈りとは、本来はやむにやまれず発する魂の叫びです。組織的な体制で、機械的に行う行事は祈りではありません。
【Q20】
スピリチュアリストの集会のなかには、祈りの日を設けているところがありますが・・・・・・。
日常生活において霊的真理の意義を生かした生き方をしていなければ、自分たちを 「スピリチュアリスト」 と呼んでみても何の意味もありません。大切なのは、自分たちはこういう者ですと名のることではなく、実生活において何をしているかです。
【Q21】
祈れば、聞き届けてもらえるのでしょうか?
聞き届けてもらえることもありますが、それは祈りの中身と動機によります。人間はよく、中身の性質上、聞いてあげるわけにはいかないものを要求します。要求通りにしてあげたら霊性の進化を妨げ、あるいは人生観を狂わせてしまうからです。
祈りというものを、人間の側からの要求を聞いて霊界で審議会を開き、「よかろう」とか「それはならぬ」といった返事をするような図を想像してはいけません。祈ることによって波動を高め、より次元の高い階層と通じることによって、然るべき回答が届けられる条件を整えるのです。
【Q22】
祈りの機能は何でしょうか?
本当の祈りとご利益信仰との違いを述べれば、祈りが、本来、どうあるべきかがおわかりいただけると思います。ご利益信仰は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい、お金がほしい、家がほしいといった物的欲望には、霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな欲求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。
一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、万物の背後にひかえる霊力との融合を求める祈りといった、真実の祈りがあります。こうした祈りには魂の内省があります。つまり、自己の不完全さと欠点を自覚するがゆえに、真摯に祈ります。それが内在する霊的エネルギーを発現することになり、その姿勢そのものが祈りの回答を受け入れる態勢となるのです。
これまで何度か述べたように、人間の祈りのなかには、それを完全に無視することが最高の回答であるものがたくさんあります。言うとおりにしてあげることが、かえって当人にとってプラスにならないとの判断があるのです。
しかし、魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める願望は、自動的に成就されます。つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを巻き起こし、そのバイブレーションによって、当人の霊的成長に応じた分だけの援助が、次のステップのために引き寄せられます。
危険のなかにあっての祈りであれば、保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。そのなかには血縁関係によってつながっている霊もいれば、愛の絆によって結ばれている類魂もいます。そうした霊たちはみな、かつて地上時代に、自分も同じようにして救われた体験があるので、その要領を心得ています。
【Q23】
霊界側は、祈りをどう見ているのでしょう。
祈りは、人間としての義務を逃れるための臆病者の〝避難所〟ではありません。祈りは、実際の行為で果たさねばならないことの代用となるものではありません。祈りは、義務を免除してもらうための手段ではありません。祈りは、大霊の摂理を出し抜くための手段ではありません。
それはいかなるかたちの祈りによっても不可能ですし、途切れることのない原因と結果のつながりを寸毫(スンゴウ)も変えることはできません。
自分を役立てたいという願い、義務と責任を自覚した心から発していない祈りを、すべて無視してください。そしてその後に、サイキックないしはスピリチュアルなものとして、ある種のバイブレーションを生み出す祈りが残ります。そのバイブレーションが回答を呼び寄せるのです。それは必ずしも、当人が期待したとおりのものではありません。当人が発したバイブレーションが生み出した自然な結果です。
【Q24】
本当の祈りは、自分の意志を大霊の意志と調和させることだとおっしゃいましたが、どうやって調和させるかについては述べておられませんが・・・・・・。
祈り方がわからないという方は、無理して祈るべきではありません。祈りとは、精神と霊の行為、自分の意志を大霊の意志と調和させるための手段です。いくらやっても調和させることができないときは、それはあなたの祈りが効果を生み出さなかったということを意味します。真実の祈りには、その後に行為が伴わなければなりません。
つまり、祈りの行為によって、自分を大いなる生命の力と荘厳さと支配力に調和させることで、それを満身に受け、宇宙的意識と一体となり、精神・霊的に一段と強くなって、より大きな貢献ができるようにならねばなりません。これが、私が理解している祈りです。
【Q25】
公式の祈りの日に、どういう意義があるのでしょうか?
祈りに公式も非公式もありません。昼と夜の区別もありません。祈りを発する当人以外の何者によっても影響を受けることはありません。当番の者が先導して述べる機械的な祈りには、何の価値もありません。
そういう規約になっているため、あるいはそういう習慣になっているために顔をあわせて行なう祈祷───すっかり慣れっこになっているために、何の感慨もわいてこないような祈祷では、大霊に一歩たりとも近づけてくれません。人間にとって必要なものは、大霊は先刻ご承知です。人数を多くして嘆願する必要はありません。
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