Friday, August 1, 2025

シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

十一節 

霊団による著者への支配の強化──著者によるキリスト教の弁護──回答──正直な疑問は無批判の信仰に勝る──絶対的証拠にも限界──〝果実によって木を知るべし〟──人間的見解は無価値──宗教は単純素朴なもの──真理は一個人一宗教の占有物にあらず──アテノドラスからアキリーニに至る真理の系譜──霊同士の見解の相違は説き方の相違──霊団による段階的思想操作──イムペレーター霊団は神の計画遂行のために派遣された多くの霊団の一つ ──啓示の源は一つ ──神は真理を提供するのみ──その諾否は各自の理性的判断と自由意思に任される──イエス・キリストの位置づけ


   〔この頃には迫ってくる例の影響力が一段と強くなり、他の通信が一切締め出されてしまった。七月二十四日に私のほうからいつもの霊に通信を求めたがダメだった。その影響力には不思議と精神を昂揚させるものがあり、それが精神活動を完全に支配していた。日常生活はいつもの通りに行っていたが、その合間に一分一秒でも割いて、その影響力と、私にとって目新しい訓えのことを考えた。

考え始めるとすぐにその影響力が中に割りこんできて、かつて感じたことない力と物静かな美しさで迫ってくる感じがした。それまで私は神学を長年に亙って広く深く勉強してきたが、数ある教説もあら探しをする意図のもとに読んだことは一度もなかった。辻褄が合わない点も、批判するよりむしろうまく繋ぎ合わせるようにしたものである。

ところが今や私にとって全く新しい考え──それまで金科玉条として受け入れて来たものの多くを根底から覆しかねない思想を突き付けられている。七月二十六日、私は前回のイムペレーターの通信に再び言及してこう述べた──〕

──あなたの述べられた事柄についていろいろと考え、日頃尊敬している同僚に読んで聞かせたりもしました。何と言っても私たちが信仰の基本として教え込まれて来たキリスト教の教義が、事もあろうに、十字架の象徴(しるし)のもとに否定されていることに驚きを禁じ得ません。

私の置かれた窮地は言葉で尽くせるものではありませんが、敢えて表現させていただけば、確かにあなたのおっしゃることは知的には理解できても、過去一八〇〇年以上もの長きに亙って存在し続けて来たキリスト教信仰が、たとえ理屈では納得できるとは言え、これといった権威ある立証もない教説によって軽々しく覆されては耐(たま)らないという心境です。

一体あなたはイエス・キリストをどう位置付けるのか、またイエスの名のもとに訓えを説くとかと思えば否定し、古い福音に替えて新たな福音を説いたりする行為を、一体いかなる権能のもとに行うのか、お尋ねしたい。

またあなた自身の地上での身元の確認と、あなたが公言される使命の真実性を証明するに十分な証拠をお示し願いたい。合理的思考力を具えた者なら誰もが得心する証拠です。

天使であろうと人間であろうと霊であろうと、またそれが何と名のろうと、何の立証もない者から送られた言葉だけで、神の起原とその拘束力についてのこれほど致命的変化を受け入れるわけにはいきません。

またそのように要求される謂れもないように思われます。その変化には徐々にではあっても歴然たる相違点が発見されます。またあなたの同僚である複数の霊からの通信の内容にも食い違いがあるようです。そうした統一性のないものから送られる思想には強力な団結性が無いものと判断せざるを得ません。


 友よ、これほど真摯にして理性的質問を汝より引き出し得たことは、われらにとって大いなる喜びである。真摯に、そして知的に真理を求めんとする心──その出所が何であろうと単なるドグマはこれを拒否し、すべてを正しき理性によりて検討し、その理性的結論には素直に従う用意のある心、これこそ神意に叶うものであることだけは信じて欲しく思う。われらはそうした態度に異議を唱えるどころか、それを受容性のある真面目な心の証として称賛する。

従来の信仰をそれ相当の根拠なしには棄てず、一方新しき言説は形而上的ならびに形而下的に合理的な証拠さえあれば喜んで受け入れる。そうした懐疑と煩悩のほうが、もっともらしく色づけされたものを無批判に鵜呑みにする軽信的態度より遥かに価値がある。

思想的風雨にさらされても何の内省も生まれず、そよ風にも能面の如き無表情をほころばせることもなく、いかなる霊的警告も通じぬ無感動と無関心の魂よりも遥かにはるかに貴重である。

 汝の抱く懐疑の念はむしろわれらの指導の成功の証として称賛する。汝らがわれらに挑む議論は、神の使者として述べたる言説を全面的に検討してくれていることの知的証拠として歓迎する。汝の煩悶せる問題については、いずれ、われらの力の及ぶかぎりにおいて回答を授けるであろう。われらには証を提示することの不可能な、ある越えられぬ一線がある。それはわれらも十分承知している。

われらは汝らの世界で言うところの証人を立てることが出来ぬという大きな不利な条件のもとで難儀している。われらは地上の人間ではない。故に法廷にもちだす類の証拠を提示するわけには参らぬ。汝らにはただわれらの証言を聞いてもらい、理解してもらう───証拠によりて明らかにし得ぬものは知性にまかせ、公正に判断してもらうほかはないのである。

 それは、われらの言説がわれらと共にこの仕事に携われる者を除いては、先ずもって、これを支持してくれる者がいないからでもある。実際にはわれらの同僚の多くが地上時代の身元を明かしている①。そうして、その名をもつ実在の歴史的人物の地上生活についても、汝は決定的とも言い得るものを事細かく知り尽くしている。

汝があくまでもそれでは納得できないと言うのであれば──もしもそれを偽りの霊の仕業であるとし、汝を欺くために集めたる情報に過ぎぬというのであれば、われわれとしては汝とのこうした霊的交わりをもつ霊的雰囲気に注目し、〝木はその実によりて知らるべし。茨より無花果(いちじく)を取らず、薊(アザミ)より葡萄を収めるなり②〟とイエスが述べたる判断の基準を思いだして貰いたい。われらの訓えが神意に適うものであることの証を全体の雰囲気の中に必ずや見出すであろうことを断言して憚らぬ。

 しかし、これ以上この点について弁明することはわれらの使命の沽券に係ろう。汝がこの点に言及したことにわれらは微塵も驚きを感じぬ。が、もしも右の弁明でもなお得心がいかぬとなれば、われらとしてはもはやこれ以上付け加えるものを持ち合わせず、後は汝がこれを納得してくれる日の到来を忍耐強く祈るほかはない。

 それまでは決して押しつけがましきことは言わぬ。辛抱強く待つとしよう。

 われらの霊団の各霊──地上時代に異なる国、異なる時代に生き、神及び死後についての見解も異にした者たちの結びつきについては多くを語ることが出来るが、それはまた別の機会に譲るとしよう。

 差し当たりここで汝らの地上生活には避け難き誤解を指摘しておきたい。それは地上の人間はいわゆる〝自説(オピニオン)〟というものが殆ど無価値であることを知らぬことである。死の過程を経て肉体から離れる。すると目かくしをされていたベールが取り払われ、それまで金科玉条としていた信仰がいかに愚にもつかぬ他愛なき幻想に過ぎぬものであったかを思い知らされるが、目かくしをされている今はそれが判らぬ。

一方程度こそ違えすべての神学的教義にはその奥に本質的にきわめて類似せる真理の芽が宿されていることも知らぬ。

 ああ、友よ、汝ら人間は宗教をむやみに難解なるものにしたがるが、本来宗教とは決して難解なものではない。人間に授けられたるかぎりある知性によって十分に包括し得るものである。かの神学的産物──神の啓示を被い隠せる気まぐれなるドグマは徒らに人間を迷わせ、当惑させ、真摯に道を求める者を無知と迷信の霧の中へ迷い込ませる以外に何の役にも立たぬ。

向上進化を求める魂の特徴である暗中模索の真理探究は、いつの時代も同じであった。枝葉の点においては異なっても、本質においては少しも変わらぬ。目の見えぬ者が光を求める如く、迷える魂が必死に真理を求める。が、迷信という名の迷路がある。

無知という名の霧がある。曲がりくねった道をよろめきつつ、躓きつつ進み、時に路上に倒れて邪霊に踏みつけられる。が、すぐまた立ち上がり、手を差しのべつつなおも光を求める。

 かくの如き彷徨える魂は汝の目にはみな同じように映るかも知れぬ。がわれら霊界の者には実に多くの相違点があることが判る。古来、人間的ドグマの迷路の中にあって必死に光源を求めて喘ぎ進む魂は、外側より見る目にはみな一様に見えるであろう。

がわれらより見れば、汝らが教会と呼ぶ各教派を特徴づける神学上の教説は、汝らが考えるほど同一ではない。われらの目にはその質的な差異が見て取れる。またわれらは未知なるものについて全く同一の理解をもつ魂は二つと存在せぬことを知っている。いかなる魂も大なり小なり他の魂と同じ見解を抱いてはいても、決して同一ではない。

 その迷いの霧が晴れるのは、死のベールを通過したのちでしかない。人間的詮索は肉体と共に滅び、個人的見解は取り除かれ、かくして曇りなき目にそれまで朧気に抱いていた真相が姿を顕し、鋭さを増した判断力によって地上での印象を修正していく。

そのとき悟るのは全てに真理の芽が宿されていること、それが在る者においては受容性豊かな心と霊的洞察力によって成長を促進され、また或る者においては束縛された知性と卑しき肉体ゆえに、成長を阻害されるということである。

しかし、神と、己れの辿る運命についての真理を求めてやまぬ魂においては、死と共に地上時代の誤れる信仰は速やかに影をひそめ、みなその低劣さと非真実性を悟っていくものである。いつまでも地上のままを維持し続ける者は真理への欲求を欠く者にかぎられる。

 これで汝にも判るであろう。真理はいかなる宗教の専有物でもない。それは古代ローマにおいて霊の浄化と禁欲を求めたアテノドラス③の思想の底流にも見出すことが出来る。

ギリシャのヒポリタス③が朧気ながら垣間見ていた実在の世界を信じて地上生活を犠牲にし、神との一体を求めたその信仰の中にも見出すことが出来る。同じ真理への希求がローマの哲学者プロティノス③をして地上にありながらすでに地上界を超越せしめた。

アラビアの神学者アルガザ―リ③には教説そのものには誤りがありながらも、その奥底に正しき理解があった。その同じ神的真理の芽がアレッサンドロ・アキリーニ③の思想を照らし、その教説の言葉に力と真実を賦与した。

 かくの如く彼ら全ての指導者の教説には同じ純粋なる宝石が輝いている。その光が彼らをして人間が神より授かれる真理の堆積物を清め、神及び聖霊の宿命についてのより霊的な解釈を施すことによって、人間の歩むべき道を一層気高く一層崇高なるものにするという共通の目的のために一丸となって働くことに邁進せしめたのである。

 彼らにとって今や地上時代の教説の相違は取るに足らぬことである。そうした夾雑物は疾(と)うの昔にかなぐり棄て、かつて地上にて魂の目を曇らせ進歩の妨げとなった人間的偏見などは跡形もない。それは今や完全に葬り去られ、ひとかけらの悔いも残っておらぬ。復活の信仰も見当たらぬ。疾うの昔に棄て去っている。

がその信仰の奥底に秘められたる宝石は一段と輝きを増し、永遠にして不滅である。その啓発的影響力──ただ存在するだけで魂を鼓舞するその影響力に、かつて地上においては教説を異にする霊たちを結びつける神秘なる親和力の絆が存在するのである。

 彼らが今、より崇高にして純粋なる宗教的知識を広めんが為に、共同の仕事に一団となって奉仕していることが決して汝が考えるほど不可能なことでないことの理由が、これで汝にも得心が行くことであろう。そのための地上の道具として最も適切とみて汝を選んだのである。その判断に誤りはない。

われらの述べたるところを根気よく熟読玩味すれば、いずれ汝もその合理性に得心が行くであろうことを確信する。その絶対的証拠は、と言うのであれば、それは汝自身が死のベールを突き破り、一点曇りなき目をもってわれらの仲間入りするまで待つより外はあるまい。今のわれらとしては、精々、汝が少しづつわれらに対する確信を築き上げてくれることを望むのみである。

どうかイエスが人を裁くときに使用せる判断の基準──己れが裁かれんと欲する如くに人を裁くべし、という神の摂理をわれらにも適用して欲しく思う。

  われらの教説に矛盾があるやに思うのは誤りである。これまで汝と交信せる様々な霊によって種々な形での論議が為され、その取り挙げたる論点もまた多様であった。確かにわれらは汝をわれらが伝えんとする根源的教説へ徐々に導かんとして、取り敢えず汝の観念に深く根差しわれらの教説と正面衝突することが明らかなものは無論のこと、差しあたって必須でないものは避けてきた。それは否定せぬ。

われらの基本方針は、汝の心に存在する特異な部分をいくじるよりも、その中に見出される真理の芽を発達させることにあった。それを目差して幾つかの接点を確保し、大切にして参った。一方それとは関わりなき問題点を避けてきた。

そうしたこれまで看過してきた点、論議を避けてきた諸点についてはこれ以後に取り挙げることになろう。が、これまでも汝のほうより、われらが明らかに誤りがあり何時までも放って置けぬと観た見解について批判を求めてきた時は、われらとしては遠慮なく啓発してきたつもりである。

 われらの目には、汝の心に想念の潮流が発生し、それが汝の魂にとってもはや安全ではなくなった古き停泊所より汝を運び出さんとする動きがよく見て取れる。

それを見てわれらは汝をその潮流と風の為すがままに放置し座礁するに任せておくに忍びず、われらがその水先案内をする。その際われらは教説という名のロープを一本一本少しずつ穏やかに緩め、より安全にして確実な港へ係留してきた。

もしも一気にその港へ引っ張り込んでおれば、古きロープは切れ、汝の魂は疑問と煩悶の嵐の中に巻き込まれ、舵(かじ)を取る者もなく、立ち寄るべき港も見当たらず、ただ風波に翻弄され、救われる見込みはなかったであろう。

われらが予(あらかじ)め衝突を避けられるものは避け、荒波を立えぬよう配慮したことを咎めるのは当たらぬ。致し方なきことであった。汝の思う方角へ向けて援助することも出来ぬでもない。が、仮に援助してそのロープを締めていたならば、汝の魂は私物と化せる遠き過去へ一層強く繋がれることになっていたであろう。

汝の心の態度一つでわれらは汝をその嵐から超然とさせ、新たなる生命あふれる信仰を携えて、より静かにしてより広き海原に乗り出さしめ、地上という試練の場と、死後の安らぎの港との間に横たわる苦難の海を乗り切れるよう援助することであろう。

 こうした作業において、われらは汝に過激な衝撃を与えぬよう慎重の上にも慎重を期してきた。いかなる点においても指導を誤ったことはない。汝をごまかしたこともない。

汝に与えたわれらの教説には予め徹底した吟味が為されている。われらはなるべくなら汝の精神に宿る思想を取り出し、敷衍し発展させるよう心がけた。そうしてその中により新しくより且つ真実に近き見解を育み、導き、注入するよう努めたが、いかなる点においても為れるもの、歪めたるもの、あるいは指導を誤れるものは何一つない。

 われらがこれまで述べてきた教説には実質上の齟齬(ソゴ)は何一つない。万に一つそう思えるものが存在しても、それは通信上の難しさと汝の精神による種々の影響の所為である。つまり通信霊の未経験に起因する場合もあるであろうし、就中(なかんずく)、汝自身の先入観の影響が大いにある。

汝の精神が受け付けようとせぬものは、われらも伝えることは出来ぬ。そこでわれらとしては、いつか汝が曇りなき目で見るであろうところの真理を、象徴的に大まかに伝えるしかない。

霊媒の魂が煩悶している時、身体が苦痛に苛まれている時、あるいは精神状態が病的になっている時も、明確なる通信を伝えることは出来ぬ。否、荒れ模様の天気、電気的障害、あるいは近隣の人々の非友好的態度ですら通信に反映し、明確に、そして十分に意を尽くすことを妨げるのである。それが汝の綿密なる目には矛盾として映るのであろう。

が、それも些細なことであり、また数も取るに足らぬ。それらは障害が取り除かれると同時に雲散霧消することであろう。そして、ここぞという困難と危険に際して、高邁なる霊的洞察力が汝を導いていたことを知るであろう。

 汝はわれらの説く訓えが一般に受け入れられる見込みは乏しいと言うが、その点についても汝は真相を知らぬ。お粗末な継ぎ接(は)ぎだらけの朽ちかけたる古き信仰が、より高尚にして崇高なる信仰──対抗するものではなく補足補充するもの──と置き換えられ、イエスの説きし福音がより高き次元において理解される日は、汝が思うよう遥かに近く迫りつつある。

 友よ、よく心するがよい。今われら従事せるが如き神の計画が、人間の必要性との関連を無視して不用意に授けられることは絶対にない。われらの仕事も神の一大計画のほんの一部門に過ぎぬ。他にも数多くの霊団がそれぞれの使命に邁進している。

その訓えは徐々にそして着実に、それを受け入れる用意のある者に受け入れられていくであろう。それが神の計画なのである。神の時を地上の時で以って考えてはならぬ。

またわれらの視界は汝らの視界の如く狭くかぎられたものではない。いずれもわれらの意図せる通りの知識が地上に広まる日も来よう。その間、それに備えた進歩的魂は着々と教育を受けている。貴重なる種子が蒔かれつつある。やがてその収穫の時期も到来しよう。その時を汝もわれらも共に待たねばならぬ。

 われらの述べたるところを心して読めば、われらが提供しつつある状況証拠などより遥かに明確にその本質を読み取ることが出来るはずである。繰り返すが、神は決して福音の押し売りはせぬ。神はただ提供するのみである。

それを受け入れるか拒否するかは汝の選択に任されている。が、汝およびわれらが係わり合える人々の全てが、いずれ、その神性を確信してくれるであろう。それをあくまでも否定する者は浅薄なる頑迷の綱にかかり、神学という名の足枷をはめられ、鉄の如きドグマによって束縛された者たちのみであろう。

そうしたドグマ主義者、頑固なる迷信家、偏狭なる信者・独善家はわれらの取り合うところではない。否、魂に染み込みたる古き信仰に何よりの安心立命を見いだす者もまた、われらの取り合うところではない。神の御名にかけて彼らにはそのまま古きものに縋らせておくとしよう。彼らにもいずれ進歩の時が訪れよう。今はその時ではない。

汝および汝と志を同じくする進歩的求道者には、われらが決して悪魔の使いでもなければ悪魔的意図も持たぬことを、これ以上弁明する必要はあるまい。

 また啓示についてのわれらの言説を熟読玩味すれば、要するにわれらの教説も神に関する知識の段階的進歩の一つの階梯に過ぎぬことを理解するであろう。すなわち神を人間と同一と観た神人同形同性説の時代から、人間的煩悩や感情を神の属性とすることの不合理を徐々に悟り始めた現在に至るまで、神的啓示も人間の進歩とともに徐々に向上しつつあるということである。

本質においては、われらの啓示も、それに先立つ啓示と何ら異ならぬ。ただ、人間の知識と同様に、一歩向上したというにすぎぬ。その根源は同じであり、それを授ける手段も同じである。今も昔もあくまで人間であり、完璧は期し難く、時には誤りを犯す。人間を通信手段とする以上、それは免れぬことである。

 さらには、われらが明言せる態度を思い出していただきたい。われらの一貫せる態度は、かの伝統的教説──単に古き時代のものという意味での伝統的教説──を金科玉条とする盲目的信仰に代わりて汝の理性に訴えるということである。

軽信に代わって合理的知性的検討を勧め、確信に基づける容認を要求する。われらが神の使者というだけで、われらの教説──単に今の時代に授けられたという意味での新しき教説──を信じても貰おうなどとは、さらさら思わぬ。

理性の天秤にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶するがよい。十二分に得心するまで決して同意することも行為に出ることも求めぬ。

 それ故、霊的教義の内容は正しき理性を得心させるべきものであると同時に、われらが汝にその受け入れを求める根拠もまた合理的且つ論理的思考を完全に満足せしめるものである。

道を誤りたるとはいえ真摯なる求道者はもとよりのこと、進歩的人間の真面目な生活において過去一八〇〇年以上もの永きに亙りて後生大事にされてきた教義に対し、われらが功を焦るあまり、いたずらに彼らを反目せしめる結果となることは神が許されぬ。

それほど永きに亙りて大事にされた事実そのものが、彼らの崇敬を受けるに足る資格を物語っていよう。ただ、われらの広き視野より見る時、その説くところが古き蒙昧なる時代ならいざ知らず、この開け行く時代には、それなりに視野を広げ霊性を賦与しなければならぬと思われるのである。

とは言え、われらとしては急激なる改革によって混乱を来すことは望まぬ。今あるものに磨きをかけ、新しき解釈を施したく思う。ひきずり下ろし、足で踏みにじるようなことはせぬ。シナイ山にて嵐の如き口調にて啓示されたる戒め④に代えて、イエスが慈愛と滅私の純心さをもって、より崇高なる信仰を説いた如く、われらはそれをさらに新しきこの時代の受容能力と必要性に鑑みて説かんとするものである。

〝そのようなものはわれらの信仰が受けつけぬ〟と申されるか。なるほど、それもよかろう。われらとしては少なくともこうした見解の存在を知らしむるだけのことはした。

それを受け入れる者は、古き信仰に比してその影響力が一段と明るきものであることを感ずるものと確信する。一つの真理が始めて語られ、それが最終的に受け入れられるに至るまでの道程は、しばしば永き年月を要するものである。 

収獲にはまず種子蒔きの時期があらねばならぬ。その後、雨に打たれ霜に埋もれ、寒々とした冬の季節はいかにも長く感ぜられよう。が、やがて暖かき太陽の光に照らされて種子が芽を出し、真夏の恵みを受けて豊かに実をつけ、そして収獲の季節を迎える。

耕作の時期は長いかも知れぬ。種子を蒔いたあとの待つ時期は暗く憂鬱かも知れぬ。が、収穫の季節は必ず来る。その到来を遅らせることは出来ぬ。

収穫時に手を貸すことは出来よう。種子蒔きに手を貸すことも出来よう。が手を貸す貸さぬに係わりなく、あるいは、たとえそれを阻止せんとしても、神の時節(とき)は必ず到る。その時、神の言葉を受け入れるか拒否するかの問題は、本質的には個人の問題でしかない。受け入れる者は進歩し、拒否する者は退歩する。

そしてそれに関われる天使があるいは喜び、あるいは悲しむ。それだけのことに過ぎぬ。

 次に汝はわれらがイエス・キリストを如何なる地位(くらい)に位置づけるかを問うている。われらとしては、さまざまな時代に神に派遣されたるさまざまな指導者について興味本位の比較をすることは控えたい。未だその時期ではない。

但し今このことだけは明白である。すなわち、人類の歴史においてイエスほど聖純にして気高く、神の祝福を受け且つ人に祝福を与えた霊はいないということである。その滅私の愛によってイエスほど人類の敬愛を受くるに相応しき霊はいない。

イエスほど人類に祝福をもたらせる霊はいない。要するに、イエスほど神のために働きたる霊はいないということである。

 が、神より遣わされたる偉大なる指導者を比較し論じる必要をわれらは認めぬ。われらとしてはその一人一人に称讃を賜り、克己と犠牲と愛の生涯を、それぞれの時代の要請せる手本として賞揚したく思う。

キリストの例にしても、もしも人類がその際立てる素朴さと誠実さ、愛的献身と真摯なる目的、自己犠牲と聖純さの模範として仰いでおれば、かの宗教的暗黒時代の神学者たち──汝らに呪いの遺産ともいうべき愚か極まる思索の産物を残せる者たちも、今少し有意義なる存在となり、人類の呪いとはならず、むしろ祝福となったことであろう。

神の尊厳を傷つけることもなく、キリストの素朴なる福音を素直に受け入れていたであろう。然るに彼らは神人同形同性説的神学を丹念に築き上げ、それがキリストの素朴なる訓えより一層遠ざけることになっていった。

今やその名と教義は派閥間の争いの戦場と化し、その訓えは滑稽な物真似となり下がってしまった。その有様を聖なるキリストの霊は衷心より悲しみ、哀れに思っておられる。

 友よ、神の摂理と人間的解釈とは截然と区別せねばならぬ。われらは主イエスの威厳の前にひれ伏すが、人間が勝手に解釈し、それをイエスの名において説く教説──イエス自ら否認されるであろう教説を黙認することによってイエスの面目を汚すようなことは潔しとせぬ。さようなことは絶対にせぬ。

主はもとより、主の父であり全存在の父である神の面目を真に辱しめるのは、バイブルを正しく理解せずその心を掴み損ねて、ただ字句どおりの解釈に固執する余り、無知の為せる業とは言え、逆に神への不敬を働いている者たちなのである。われらではない。

彼らこそ真に神の名誉を傷つけているのである。たとえ長年の慣用の歴史を有するとは言え、またたとえその字句を彼らが聖なるものと断定せる書からの引用によりて飾ろうと、さらにまたそれらの書に、そこに述べられたことへ意義を唱える者への呪いの言葉が見出されようとも、真に神を冒瀆する者はわれらにあらず、彼らなのである。

 われらはその呪いの言葉を哀れの情なくしては見つめることが出来ぬ。われらとしては、差し当たり実害なき誤りはこれを敢えて覆そうとは思わぬ。しかし神を冒瀆し魂の向上の妨げとなる言説はこれを赦しておくわけにはいかぬ。

本来ならば神に帰すべき名誉をイエスなる一人物に押しつけ、神に対する個人的敬意と愛を疎かにすることは、神に対する人間としての義務を無視することにほかならぬ。狭隘(きょうあい)にして冷酷きわまるドグマをその一言一句に至るまで頑なに遵守せんとする態度は魂を束縛し、霊性を歪め、進歩を遮り、成長を止める。

〝義父は殺す。されど霊は活かす〟⑤とある。それ故われらは火炎地獄の如き作り話に見られる神の観念を否定する。贖罪説の如き伝統的教説に代わってわれらは、より清き、より理性的教説を主張する。要するにわれらは霊性を基盤とする宗教を説くものである。

死物と化せる形式主義、生命も愛もなき教条主義より汝らを呼び戻し、霊的真理の宗教、愛に満ちた天使の象徴的教訓、高き霊の世界へ誘(いざな)わんとするとするものである。

そこには物的なものの入る余地はなく、過去の形式的ドグマも永遠に姿を消す。

 以上、われらは事の重大性に鑑みて、細心の注意をもって語ったつもりである。汝も細心の注意をもって良く熟読されたい。ひたすらに真理を求むる心をもって検討し、隔てなき神の御加護を祈り求められんことを希望する。
                      ♰ イムペレーター


〔註〕
(1)巻末「解説」参照。
(2)ルカ 6 - 44
(3)ここに引用された古代の思想家、及び宗教家はすべてイムペレーター霊団に属してる。「解説」参照。
(4)モーセの「十戒」。
(5)コリント後 3 - 6
 


  

シアトルの夏 幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものです

   シルバーバーチの霊訓―地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



生誕後はや二千年もたった今日でさえ、イエスなる人物の正しい位置づけが、スピリチュアリズムにおいても時おり論議の的となる。ある者はイエスも一人間だった――ただ並はずれた心霊的能力を持ち、それを自在に使いこなした勝れた霊覚者だったと主張するし、またある者は、やはりイエスは唯一の“神の子”だったのだと主張する。

当然のことながら、毎回ほぼ一時間半も続いたシルバーバーチの交霊会においても、たびたびその問題ならびに、それに付随した重大な問題が提出されてきた。出席者は異口(いく)同音に、その一時間半があっという間に過ぎた感じがするのが常だったと言う。

さて、そんなある日の交霊会で、一牧師からの投書による質問が披露された。“シルバーバーチ霊はイエスを宇宙機構の中でどう位置づけておられるのでしょうか。また〈人間イエス〉と〈イエス・キリスト〉とは、どこがどう違うのでしょうか”というのがそれである。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「ナザレのイエスは、地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜(※)の、最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて、霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。


※――メルキゼデク→モーセ→エリヤ→エリシャ→イエスという系譜のことを言っているのであるが、こうした霊的系譜は各民族にある。ただ、世界的視野でみた時、イエスが地上人類としては最大・最高の霊格と霊力をそなえていたことは間違いない事実のようで、モーゼスの『霊訓』の中でもインペレーター霊がまったく同じことを述ベている。今スピリチュアリズムの名のもとに繰り広げられている地球浄化と真理普及の運動は、民族の別を超え、そのイエスを最高指導霊とした、世界的規模で組織された霊団によるものである。

イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と少しも変わらない一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質界へやってきて、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが大量に流入したことは、前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦(が)れきの下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

そのために彼は、まず自分へ注意を引くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して、心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。偉かったのは、それを一度たりとも私的利益のために使わなかったことです。

またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も、廃止も、干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を引くようになると、こんどは、人間が地球上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊覚者が説いてきたのと同じ、単純で、永遠に不変で、基本的な霊的真理を説くことを開始したのです。

それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する正しい記録はきわめて乏しいのですが、その乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くの、ありもしないことが書き加えられています。したがって聖書に書かれていることには、マユツバものが多いということです。できすぎた話はみな割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから……。

もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後さらに開発され威力を増した霊力を駆使して、愛する地上人類のために働いておられるのです。イエスは“神”ではありません。全生命を創造し人類に神性を賦与した、宇宙の大霊そのものではありません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、“イエス”と“神”とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にひざを折り、平身低頭して仕える必要はないのです。それよりも、イエスの生き方を自分の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。

以上、大変大きな問題について、ほんの概略を申し上げてみました」

メンバーの一人「“キリストの霊” Christ Spiritとは何でしょうか」


「ただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを誇示するために、聖なる油を注がれた時代がありました。それは大抵王家の生まれの者でした。“キリスト”という言葉は“聖油を注がれた”という意味です。それだけのことです。(※)」


※――イエスの死後、イエスこそそれに相応しい人物だったという信仰が生まれ、それでJesus Christと呼ばれるようになり、それがいつしか固有名詞化していった。

「イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったというのが、私には理解できません」


「わたしは決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。わたしが申し上げたのは、地上へ降りた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊覚者の系譜の中で、イエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。イエスの生活が完全だったとは一度も言っておりません。それはあり得ないことです。なぜなら、彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」

「イエスの教えは最高であると思われますか」


「不幸にして、イエスの教えはその多くが汚されております。わたしはイエスの教えが最高であるとは言っておりません。わたしが言いたいのは、説かれた教えの精髄(エッセンス)は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど強力に、そして純粋に心霊的法則を使いこなした例は、地上では空前絶後であるということです」

「イエスの教えがその時代の人間にとっては進みすぎていた――だから理解できなかった、という見方は正しいでしょうか」


「おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに、彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は、彼らにとって成功であることが時代的にみれば失敗であり、彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」


※――George Lansburyは一九三一年~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じて、ヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppardは生前キリスト教の牧師だったこと以外は不明。なおこの当時二人ともシルバーバーチ霊団のメンバーだったことは他の資料によって確認されている。

「イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の始原であると考えてよろしいでしょうか」


「それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは、霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し、かつそれを自在に使いこなすことができたからです。

ぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた愚行が多かったにもかかわらず、あれほどの短期間に全世界に広まり、そして今日まで生き延びてこれたのは、イエスの言動が常に霊力と調和していた(※)からだということです」


※――ここでは背後霊団との連絡が緊密だったという意味。『霊訓』のインペレーター霊によると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。地上生活中のイエスは早くからその事実に気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体で離脱し、その背後霊団と直接交わって、連絡を取り合っていたという。

かつてメソジスト派の牧師だった人が尋ねる――

「いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできませんか」


「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。教えそのものと、その教えを取り違え、しかもその熱烈な信仰によってかえってイエスを磔刑(はりつけ)にするような間違いを何度も犯している信奉者とを混同しないようにしないといけません。

イエスの生涯を見て、わたしはそこに物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完璧で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった――自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも、みずから課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的のために利用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

どうもうまく説明できないのですが、イエスも、生をうけた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味では完全ではあり得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派な、そして大きな仕事ができる時代が来るとイエス自身が述べている意味がなくなります。

イエスという人物を指さして“ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時は、これほどの仕事ができるのですよ”と言える、そういう人物だったと考えればよいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。しかもそのイエスは、わたしたちの世界においても今、わたしの知るかぎりでの最高の霊格をそなえた霊(※)であり、自分を映す鏡として、イエスに代わる霊はいないと考えております。


※――地球神界での話。『ベールの彼方の生活』では“各天体にキリストがいる”と述べられている。要するに神庁の最高位の霊のことで、イエスなる人物はそのすべてではないが直接の表現だったということであろう。

わたしがこうしてイエスについて語る時、わたしはいつも“イエス崇拝”を煽(あお)ることにならなければよいが、という懸念があります。それは、わたしがよく“指導霊崇拝”に警告を発しているのと同じ理由からです。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな、永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は、理性と常識と知性をもって行わないといけません。それは書物からでも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人がすすめるから、良いことを言ってるから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断規準です。

このわたしとて、無限の叡智の所有者などではありません。霊の世界のことを一手販売しているわけではありません。地上世界のための仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。完全であるとか、間違ったことは絶対に言わないなどとは申しません。みなさんと同様、わたしも至って人間的な存在です。ただ、みなさんよりは生命の道をほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が、わたしに少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしもわたしの言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線をわたしといっしょに眺めませんかと、お誘いしているわけです」

霊言の愛読者の一人から“スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して〈最後の晩餐〉の儀式を行うべきでしょうか”という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません。わたしにとっても何の益にもなりません。まったくなりません。霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛(じゅばく)から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

イエスに対する最大の貢献は、イエスを模範と仰ぐ人々が、その教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病に苦しむ人々を癒し、疑念と当惑に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人々すべてに手を差しのべてあげることです。

儀式よりも生活の方が大切です。宗教は儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。“聖なる書”と呼ばれている書物から、活字のすベてを抹消してもかまいません。讃美歌の本から“聖なる歌”をぜんぶ削除してもかまいません。儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に“宗教的人間”でありうるのです。そういう生活こそ、内部の霊性を正しく発揮させるからです。

わたしとしては、みなさんの関心を儀式ヘ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく、生活そのものです。生活の中で何を為すかです。どういう行いをするかです。〈最後の晩餐〉の儀式がイエスの時代よりさらに遠くさかのぼる由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」

別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて――


「人のためになることをする――これがいちばん大切です。わたしの意見は単純・明快です。宗教には“古い”ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関わりもないものばかりです。

わたしにとって宗教とは、何かを崇拝することではありません。祈ることでもありません。会議を開いて考え出した形式的セレモニーでもありません。わたしはセレモニーには興味はありません。それ自体はなくてはならないものではないからです。

しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事をなくてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、それを無理して止めさせる理由はありません。

わたし自身としては、幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との交渉、地上的障害を超越して、次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係――これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません」

祈り

あなたの目の前に人類は一つ……


これより皆さんとともに、可能なかぎりの最高のものを求めて、お祈りいたしましょう。

ああ、大霊よ、わたしどもは、あなたをあるがままの姿、広大なこの大宇宙機構の最高の創造主として、子等に説き明かさんとしております。あなたは、その宇宙の背後の無限の精神にあらせられます。あなたの愛が立案し、あなたの叡智が配剤し、あなたの摂理が経綸しているのでございます。

かくして、生命現象のあらゆる側面があなたの摂理の支配下にあります。この摂理は可能なかぎり、ありとあらゆる状況に備えたものであり、一つとして偶発の出来事というものは起きないのでございます。

あなたはこの宇宙に、あなたの神性の一部を宿した個的存在を無数に用意なさいました。その神性があればこそ、崇高なるものを発揮することができるのでございます。その神性を宿せばこそ、すべての人間はあなたと、そして他のすべての同胞と霊的につながっていることになるのでございます。民族の別、国家の別、肌の色も階級も教義も超えて、お互いに結ばれているのでございます。あなたの目の前に人類は一つなのです。

誰一人として忘れ去られることも見落とされることもございません。誰一人として無視されることも、あなたの愛が届かぬこともございません。孤独な思いに沈むのは、あなたの絶妙な摂理というものが存在し、心がけ一つで誰でもその恩恵にあずかることができることを知らぬからにほかなりません。

子等が霊の目と耳とを開きさえすれば、高級界からの美と叡智と豊かさとが、ふんだんに注がれるのでございます。その高級界こそが、すべてのインスピレーション、すべての啓示、すべての叡智、すべての知識、すべての愛の始原なのでございます。

わたしたちの使命は、子等に内部の神性と霊的本性に気づかせ、地上はいっときの仮住まいであって、永遠の住処(すみか)は霊界にあること、地上生活の目的は、そうした崇高なる霊的起原と誉れ高き宿命に恥じないだけの霊格を身につけることであることを理解せしめて、しかるべき導きを与えることでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。


訳者あとがき


一九二〇年に始まったシルバーバーチの霊言は、当初は霊媒のバーバネル自身が乗り気でなかったこともあって、記録として残す考えはまったくなく、したがって何も残されていない。また、記録として残すほどの内容でもなかったらしい。言ってみればシルバーバーチの練習(リハーサル)に費やされていたようなもので、ハンネン・スワッファーが司会者となってホームサークルを結成してから正式に速記録の係を置くようになり、さらに後になってテープに録音されるようになった。

私の訳で潮文社から出ている全十二巻のシリーズは、八人のサイキックニューズのスタッフが、その記録の中から互いに重複しない箇所をテーマ別に抜粋して構成したもので、その手間の大変さは、思い半ばに過ぎるものがある。が、今こうしてオーツセン一人による新シリーズを訳していきながら気づいたことは、その十二巻に編纂されたもの以外にも、まだまだ素晴らしい霊言、胸を打つ言葉がたくさん残っているということである。

が、そうした言わば“取り残し”の部分だけを断片的に拾い出しただけでは、全体としての筋がまとまらないという弊害が生じる。そこでオーツセンは、すでに前シリーズに出ているものでも敢えて削除せずに、その前後の霊言といっしょに引用するという形で新しい趣向をこらしている。前シリーズと異なって、自分一人で編纂した新シリーズを出すことにしたオーツセンの意図が、その辺から読み取れる。

確かに、こうして形を変え角度を変えて読むと、三十年以上も読み続け、そして翻訳までしてきた私でさえ、何かしら新しいものを読む感じがするから不思議である。同時に、一瞬ドキッとさせられる鋭い言葉が出てきて、襟を正させられることがある。つい先ごろ届いたオーツセンからの手紙によると、いま五冊目を手がけているとのことである。一冊でも多く出してくれることを、日本のシルバーバーチファンを代表してお願いしておいた。

さて、ご存知の方も多いことであろうが、私は本書の前に、コナン・ドイルの『妖精物語』を出している。これは俗に“コッティングレー事件”と呼ばれている衝撃的な妖精写真を扱ったものであるが、これが注目を集めたのが一九一七年から三年間ほどのことで、ドイルがその経緯をまとめて出版したのが一九二二年であるから、時期的にはシルバーバーチが出現しはじめた頃と、ほぼ一致する。

と言って、その二つの現象の間に直接のつながりはないであろう。意義の重大性の点でも、かなりの開きがあるであろう。が、一八四八年の米国における“ハイズビル事件”に始まる、地球の霊的浄化活動――これをスピリチュアリズムと呼ぶ――の気運に乗った、計画的なものであることは間違いないと私は見ている。

こうした気運は、今日、当時よりさらに勢いを増して世界的規模で広がりつつある。心霊治療家や、霊言・自動書記等のいわゆる霊界通信の輩出がそれを物語っている。私がこの道に関心を抱きはじめた昭和三十年頃は、霊的なことを口にするのも憚(はばか)られたものであるが、それを思うと、大きな時代の流れを痛感する。

しかし同時にそうなったらそうなったで、また別の問題が生じている。いかがわしい霊媒・霊能者、そして、いかがわしい霊界通信の氾らんである。ほんものが出ると必ずまがいものが出るのは世の常であるから、これもやむを得ないことかも知れないが、私が今もっとも懸念しているのは、テレビジョンという素晴らしい発明品も、テレビ局のスタッフの良識いかんによっては、社会に害毒をもたらすような内容の情報やドラマが、無差別に茶の間に持ち込まれることがあるように、言論・出版の自由をよいことに、“売れる”ことのみを当てこんで、理性的に考えればあろうはずもないような霊言や自動書記通信が、無節操に出版されはじめていることである。

危険性の伴う機械には何段階もの安全装置が取り付けられているように、社会の仕組みにもチェック機能があってしかるべきであろう。出版にかぎって言えば、その第一のチェックは出版社に求められるべきであろう。さらには、それを売りさばく書店にもその機能の一端を果たしてもらいたいところである。買う人がいるから売る、といった態度では、倫理・道徳は地に落ちてしまう。もっとも、現在の出版界全体の事情のもとでは、あまり高度な理解を求めるのは無理なのかも知れない。

結局、最後で最大のチェック機能をもつのは“自分自身”ということになる。レッテルやタイトルは何とでもつけられる。中身も、それらしいことを書けば格好はつく。霊言と銘うっているものを、まるで駄菓子でもつまむような調子で読みあさるのが趣味という人は、それはそれでよいが、真実のものを求めているつもりの人のために、次の二つのシルバーバーチの言葉を再び引用しておきたい。

「“光”を差し出されても、結構です、私は“闇”で結構です、というのであれば、それによって傷ついても、それはその人の責任です」

「その(神の)働きの邪魔だてをしているのは、ほかならぬ自分自身なのです。自分の無知の暗闇を追い出し、正しい知識の陽光の中で生きなさい」

短いが、深遠な意味を含んだ言葉である。

平成元年五月

近藤干雄