Friday, February 10, 2023

シアトルの冬 ベールの彼方の生活  The Life Beyond the Veil



念力による創造実験          

 一九一三年十月八日 水曜日

 私たちからの通信の奥深い意味を理解なさろうとする方にとって大事なことが幾つかあります。今夜はそうした表面を見ただけでは判らないこと──普通の物の考え方では見落とされがちな問題を扱う上で役に立ち指針となるものをお教えしようと思います。

 その一つは人間界から放射された思念がこちらへ届く時の様子です。善性を帯びた思念には輝きが見られますが、善性が欠ける思念にはそれが見られません。その光輝はもともと本人の身体から出ており、それで私たちはその色彩(オーラ)を見て霊的性格を判断することができます。

単に明るいとか暗いとか、明るさの段階がどの段階であるといったことだけでなく、その人のどういう面が優れていて、どういう面に欠点があるということまで判断します。その判断に基づいて、長所をさらに伸ばし欠点を矯正していく上で最も適当な指導霊を当てがうことになります。

こうして一種のプリズム方式によって性格を分析し、それに基づいて診断を下します。

 これは肉体に包まれた人間の場合であって、こちらではそんなことをする必要はありません。と言うのは、こうしたことは霊的身体(※)に関わる問題であり、こちらでは霊体は当然だれの目にもまる見えであり、それが言わば魂の完璧な指標なのですから、その人の霊的性格が全部わかってしまいます。

言い落としましたが、そうした色彩は衣服にも反映しますから、その中の支配的な色彩を見て、この人はどの界のどの程度の人だという判断を下すわけです。しかし思念は精神的行為の〝結果〟ですから、その霊が生活している環境を見てもどういう思念を抱いている人であるかが判ります。

単に見えるだけでなく肌で感じることが出来ます。地上よりも遥かに正確でしかも強烈です。(※日本の心霊学ではこれを幽体と霊体と神体とに分けるのが常識となっているが、本書では霊体という用語を肉体とは別の霊的な身体という意味で用いることにする。霊界についても同じである。──訳者)

 こういう風に考えていけば私たちが強烈な思考を働かせれば、その念が目に見える客観的存在となって顕現することが当然有り得ることになります。と言うことは、美しいものを意識的に拵えることも出来るというわけです。


──何か例をあげていただけますか。

 よろしい。その方がよく分かっていただけるでしょう。

 ある時、こうした問題を勉強している仲間が集まって、どの程度進歩したかを試してみましょうということになりました。そこで美しい森の空地を選び、全員である一つの像を念じてその出来具合を見ました。

私たちが選んだのは、後で調べるのに都合が良いように、固くて長持ちするものということで象に似た動物でした。象とは少し違います。こちらにはいますが地上ではもう絶滅しました。

 私たちは空地で円座を組み、その動物を想像しつつ意念を集中しました。すると意外に速くそれが目の前に姿を現わしました。こんなに速く出来るものかと皆んなで感心しました。

しかし私たちの目には二つの欠点が見えました。一つは大きすぎるということ。全員の意念を加減することを忘れたのです。もう一つは、確かに生きた動物ではあるけど、部分的には石像のようなところもあることです。

生きた動物を想像して念じた者が多かったからそうなったので、結局は石と肉と混合のような、妙なものになってしまいました。他にも挙げれば細かい欠点が色々と目立ちます。例えば頭部が大きすぎて胴が小さすぎました。念の配分が片寄っていることを示すものです。

こういう具合にして欠点を知り、その修正方法を研究します。実験してみてはその成果を検討し、再びやり直します。右に紹介したのがその一例というわけです。

 そうして拵えた像から注意を逸らして語り合っていると、その像が徐々に姿を消して行きます。そこでまた新たにやってみるわけです。私達は同じモデルは二度と使用しないことにしました。送念の仕方が一つのパターンにはまってしまう恐れがあるからです。

そこで今度は果実の付いた樹木にしました。オレンジの木に似ていますが、少し違います。

 こんどは前よりうまく行きました。失敗点の主なものとしては、果実が熟したものと熟してないものとがあったこと。それから葉の色が間違ってましたし、枝の長さにまとまりがありませんでした。こうして次から次へと実験し、その度に少しずつうまくなって行きました。

 あなたにはこうした学習の愉(たの)しさや、失敗から生まれる笑いやユーモアがある程度は想像していただけると思います。死後の世界には冗談も、従って笑いも無いかのように想像している人は、いずれその考えを改めていただかねばなりません。

そうしないとこちらへ来てから私たちとお付き合いがしにくい──いえ、私たちの方がその方たちとお付き合いしにくいのです。でも、そういう人でもやがてこの世界の愛に目覚め、至って自然にそして屈託なく振舞うことが出来ることを知り、そうならないとまともに相手にしてもらえないことを悟るようになります。

地上というところはそれとは反対のように思いますが、いかがですか。いえ、地上は地上なりに生きてそれなりの教育を得ることです。そうすればこちらへ来て──ただブラブラするだけ、あるいはもっと堕落すれば別ですが──当たり前に生活すれば進歩も速いのです。そして学べば学ぶほど自由に使いこなせるエネルギーに感嘆するのです。


──アストリエル霊、きのう出られた方ですが、ここに来ておられますか。

 今夜はお出でになりません。お望みであれば、またお出になりましょう、きっと。


──どうも。でもあなたにも来て書いていただきたいですね。

 ええ、それはもちろん。あの方も私も参りますよ。あなたのためでもあり、同時に私たちにとっても、こうして霊感操作をすることが、今述べたのと同じように意念や霊力の使い方を勉強する上でも良い訓練になるのです。私たちが述べていることが映像となってあなたの意識に入って来るのが見えませんか。


──見えます。時には実に鮮明に見えることがあります。そう言うことだとは思ってもみませんでした。

 おやおや、そうでしたか。でもこれでお判りでしょう、さっきのことを書いたのもそれなりの目的があったということが。あなたはそれがどうもピンと来ない──多分その通りだったでしょう。それは私たちも認めます──と思っておられましたし、一体何を訴えんとしているのかと、いささか不愉快にさえ思っておられた。

ね、そうではなかったかしら。私たちはあなたのその様子を見てニコニコしていたのですよ。でもあなたは私たちに思念をほぼ私たちが念じた通りに解釈しておられましたし、そうさせた私たちの意図も、意念というものがあれほど鮮明に、そして実感を持って眼前に現れるものであることを判っていただくことにあったのです。
 では、さようなら。あなたに、そしてあなたのお家族に神の祝福を。


Thursday, February 9, 2023

シアトルの冬 地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。

 The soul itself knows exactly what to do on earth.

 

白樺 イラスト素材 - iStock | 木, 炭, 桜

「地上に生をうける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。

 何も知らずに誕生してくるのではありません。

自分にとって必要な向上進化を促進するには、こういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。

ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識にあがってこないだけの話です。」

シルバーバーチ

Tuesday, February 7, 2023

シアトルの冬 神の御手の中に  in the hands of God

 

神とは宇宙の自然法則です。

物的世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。

完全なる愛であり、完全なる叡智です。

神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。
 

神は全生命に宿っております。

全存在の内部に宿っております。

全法則に宿っております。

神は宇宙の大霊です。

神は大生命です。

神は大愛です。

神は全存在です。
 

神性こそ、その無限の愛の包容力によって私たちを支えている力であり、その尊い遺産を発揮し宿命を成就するよう導いてくれる力です。

宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っております。魂のそれぞれの必要性を察知し、いかにしてそれを身につけるかを知らしめんと取り計らってくれます。

自分とはいったい何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。
 

ですから、私たちは愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せようではありませんか。

その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も神の御手の中にあることを自覚しようではありませんか。

シルバーバーチ

Saturday, February 4, 2023

シアトルの冬 モーゼスの霊訓  解説            sprit teachingー Commentary

W・S・モーゼス William Stainton Moses

 
霊訓は形の上ではモーゼスという霊媒的素質をもつキリスト教信者を通して、目に見えぬ知的存在が全ての人間の辿る死後の道程を啓示し、モーゼスが幼少時より教え込まれ、絶対と信じ、且つ人に説いてきた思想的信仰を根底から改めさせ、真実の霊的真理を理解させんとする働きかけに対し、モーゼスがあくまで人間的立場から遠慮容赦のない反論を試みつつも、ついに得心していく過程をモーゼス自身がまとめて公表したものである。

 モーゼス自身が再三断っているように、本書に収められたのはほぼ十年間に亙って送られて来た膨大な量の通信のほんの一部である。

主としてイムペレーターと名のる最高指揮霊が右に述べたモーゼスの霊的革新の目的に副って啓示した通信を採録してあるが、記録全体の割合からいうとプライベートなこと、些細なこと、他愛ないことのほうが圧倒的に多いようである。

が、それはモーゼスの意思に従って公表されていない。実際問題としては些細なこと、プライベートなことのほうがむしろ科学的ないし論理的なものよりも人間の心に訴えるという点においては重要な価値をもつことがあり、その意味では残念なことではあるが、もともと霊団の意図がそこになかったことを考えれば、それもやむを得なかったと言わざるを得ない。

 通読されて実感されたことであろうが、モーゼスによってその十年間の顕幽にまたがる論争は、モーゼスの名誉と人生の全てを賭けた正に真剣勝負そのものであった。全ての見栄と打算を排した赤裸々な真理探究心のほとばしりをそこに見ることが出来る。

それだけに、自分に働きかける目に見えざる存在が地上時代にいかなる人物であろうと、何と説こうと、己の理性が得心し求道心が満足するだけでは頑として承服しなかった。

その点は今の日本に見られるような、背後霊に立派そうな霊がいると言われただけで有頂天になったり、何やら急に立派な人間になったかのように錯覚する浅薄な心霊愛好家とは次元が異なる。

ほぼ三十年後の同じくキリスト教の牧師オーエンが名著「ベールの彼方の生活」Life Beyond the Veil by R. V. Owen を出すまでに二十五年の歳月をかけた事実と相通じるものがあろう。

 なおこの「霊訓」には「続霊訓」More Spirit Teachings という百ページばかりの続編がある。これはモーゼス自身の編纂によるものではなく、モーゼスの死後、モーゼスのこの道での恩師であったスピーア博士夫人が博士邸で定期的に催されていた交霊会での霊言と自動書記による通信の記録の中から〝是非とも公表されるべきである〟と判断したものをまとめたものである。

背後霊団の意図と霊的真理の中枢においては何ら変わりなく、その意味で目新しいものは見当たらないとも言えるが、第一部の霊言集と(第二部は自動書記通信)第三部のモーゼスの人物像に関するものには参考になるものが少なくない。

その紹介も兼ねて、このあとの解説には主としてこの「続霊訓」を参考にさせていただくことにする。


 〇霊団の構成について
 「続霊訓」の冒頭でイムペレーターが霊言でこう述べている。

 『神の使徒たる余は四十九名より成る霊団の頭であり、監督と統率の任にあり、他の全ての霊は余の指導と指令により仕事に当たる。

 余は全智全能なる神の意志を成就せんがために第七界より参った。使命完遂の暁には二度と地上に戻れぬ至福の境涯へと向上していくであろう。が、それはこの霊媒が地上での用を終えた後となるであろう。

そしてこの霊媒は死後において地上より更に広き使命を与えられるであろう。

 余の下に余の代理であり副官であるレクターがいる。彼は余の不在の折に余に代わって指揮し、とりわけ物理的心霊現象に携わる霊団の統率に当たる。

 レクターを補佐する三番目に高き霊がドクター・ザ・ティーチャーである。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率化に、あとで紹介するところの、知恵と知識を担当するところの一団が控えている。

 次に控えるのが地上の悪影響を避け、あるいは和らげ、危険なるものを追い払い、苦痛を軽減し、よき雰囲気を作ることを任務とせる二人の霊である。この二人にとりて抗し切れぬものはない。が、内向的罪悪への堕落は如何ともし難い。

そこで霊界の悪の勢力───霊媒の心変わりを画策し聖なる使命を忘れさせんとする低級霊の誘惑より保護することを役目とする二人の霊がついている。直々に霊媒に付き添うこの四人を入れた七人で第一の小霊団(サークル)を構成する。われらの霊団は七人ずつのサークルより成り、各々一人の指揮官が六人を統率している。

 第一のサークルは守護と啓発を担当する霊───霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊より成る。

 次のサークルは愛の霊のサークルである。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、そのほか優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類のもの全てを配慮する。

 次のサークル───これも同じく一人が六人を主宰している───は叡智を司る霊の集団である。直感、感識、反省、印象、推理、等々を担当する。直感的判断力を観察事実からの論理的判断力を指導する。叡智を吹き込み、且つ判断を誤らせんとする影響を排除する。

 次のサークルは知識───人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識───を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当する。また霊媒の辿る困難きわまる地上生活を指導し、有益なる実際的知識を身に付けさせ、直感的知恵を完成せしめる。これはドクターの指揮のもとに行われる。

 その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループである。彼らは崇高にして知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さとに溢れる言葉に触れさせる。美しきもの、芸術的なもの、洗練され教養溢れるものへ心を向けさせ性格に詩的潤いを与え、気品あるものにする。

 次の七人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を担当する。これが霊媒の性格に軽快なタッチを添える。すなわち社交上大切な生気溢るる明るさであり、これが日々の重々しき苦労より気分を解放する。愛想良き心優しき魅力ある霊たちである。

 最後の霊団は、物理的心霊現象を担当する霊たちである。高等なる霊的真理を広める上で是非必要とみた現象を演出する。指揮官代理であるレクターの保護監督のもとに、彼ら自身の厚生を兼ねてこの仕事に携わっている。

霊媒ならびにわれら背後霊団との接触を通じて厚生への道を歩むのである。それぞれに原因は異なるが、いずれも地縛霊の類に属し、心霊現象の演出の仕事を通して浄化と向上の道を歩みつつある者たちである。

 いずれのグループに属する霊も教えることにて自ら学び、体験を与えることによりて自ら体験し、向上せしめることによりて自ら向上せんとしている。これは愛より発せられた仕事である。それはわれわれの徳になると同時に、この霊媒の徳ともなり、そしてこの霊媒を通じて人類への福音をもたらすことになるのである。』

 以上がイムペレーター自身の霊言による霊団の説明であるが、「ステイントン・モーゼの背後霊団」The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewy によると、この最高指揮官であるイムペレーターの上に更にプリセプターと名のる総監督が控え、これが地球全体の経綸に当たるいわば地球の守護神の命令を直接受け取り、それがいむイムペレーターに伝えられる、という仕組みになっていたようである。


〇霊団の身元について
 本文でもイムペレーターが繰り返し述べているように、霊の地上時代の身元を詮索することは単なる好奇心の満足にはなっても、それによって「霊訓」の信頼性が些かも増すものではないし、減じるものでもない。第一地上の記録自体が信頼がおけないのである。

がしかし、一応興味の対象であることには違いないので、主な霊の地上時代の名前を紹介しておくと───

 イムペレーターは紀元前五世紀のユダヤの予言者で旧約聖書の〝マキラ書〟の編纂者マキラ Marachi` レクターは初期キリスト教時代のローマの司教だった聖ヒポリタス Hippolytus‘ ドクターは紀元二世紀ごろのギリシャの哲学者アテノドラス Athenogoras` プルーデンスは〝新プラトン主義哲学〟の創始者プロティノス Plotinus` その他、本書に登場していない人物で歴史上に名のある人物としてプラトン、アリストテレス、セネカ、アルガザリ等の名が見られる。

 ここに参考までに訳者の個人的見解を述べさせて頂くと、スピリチュアリズムの発展に伴って守護霊、指導霊、支配霊等のいわゆる背後霊の存在が認識されてきたことは意義深いことであり、背後霊のほうも、自分たちの存在を認識してくれるのと無視されるのとでは霊的指導において大いに差がある、と言うのが一致した意見であるが、そのことと、その背後霊の地上時代の名声とか地位とかを詮索することはまったく別問題である。

地位が高かったとか名声が高かったということは必ずしも霊格の高さを示すものではない。そのことは現在の地上の現象を見れば容易に納得のいくことである。

シルバーバーチやマイヤースの通信を見ると、偉大な霊ほど名声とか地位、権力といった〝俗世的〟なものとは縁のない道を選んで再生するという。従ってその生涯は至って平凡であり、その死も身内の者を除いてほとんど顧みられないことが多い。

そうした人物が死後誰かの守護霊として、あるいは指導霊として働いた時、その身元をとやかく詮索して何になろう。満足のいく結果が得られる筈がないのである。しかも霊は死後急速に向上し変化していくという事実も忘れてはならない。イムペレーターの霊言に次のようなところがある。

『地上へ降りてくる高級霊は一種の影響力であり、いわば放射性エネルギーである。汝らが人間的存在として想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物の如きものである。高等なる霊信の非人個人性に注目されたい。

この霊媒との関わりをもった当初、彼はしつこくわれらの身元の証明を求めた。が実はわれらを通して数多くの影響力が届けられておる。死後首尾よく二段階三段階と登りたる霊は、汝らのいう個体性を失い形態なき影響力となり行く。

余は汝らの世界に戻れるぎりぎりの境界まで辿り着いた。が、距離には関係なく影響力を行使することが出来る。余は今、汝らより遥か彼方に居る。』


 西洋においても日本においても霊能者は軽々しく背後霊や前世のことを口にし過ぎる傾向があるが、その正確さの問題もさることながら、そのこと自体が本人にとって害こそあっても何ら益のないことであることを強く主張しておきたい。

辿ればすべて神に行き着くのである。その途中の階梯において高いだの低いだのと詮索して何になろう。霊的指導者の猛省を促したい。



〇スピリチュアリズムにおける「霊訓」の価値

 スピリチュアリズム Spirituailsm というのは用語だけを分析すれば主義・主張を意味することになるが、本来は人為的教義を意味するものではなく、地上では名称なしには存在が示されないからやむを得ずそう銘打っているまでで、〝発明〟ではなく〝発見〟───目に見えぬ内的世界と霊的法則の発見である。

 そのきっかけが一八四八年の米国における心霊現象であったことは周知の通りである。イムペレーターの霊言に次のような箇所がある。

『今夜は大勢の霊が活発にうごいている。本日が記念すべき日であるからに他ならぬ。汝らが〝近代スピリチュアリズム〟と呼ぶとところのものが勃興した当初、高級霊界より強力なる影響力が地球へ差し向けられ、霊媒現象が開発された。

かくして地球的雰囲気に縛りつけられた多くの霊を地球圏より解放し、新たなる生活へ蘇らしめるための懸け橋が設けられた。このことを記念してわれらはこの日を祝うのである。

スピリチュアリズム───われらはこれをむしろ〝霊界からの声〟と呼びたいところであるが、これは真理に飢えし魂の叫びに応えて授けられるものである。』


 この霊言からも判る通り、スピリチュアリズムは本来は霊界からの新たな啓示を地上人類にもたらす運動であり、その目的のために霊媒が養成され、霊的存在の威力の証として様々な心霊現象が演出されたのであった。

新たな啓示とは突き詰めれば人間の死後存続の事実と、その生活場としての霊界の存在と、その顕と幽とに跨る因果律の存在の三つに要約されよう。

ところが現実にはスピリチュアリズムへの一般の関心の多くは霊の存在の物的証拠に過ぎないところの〝現象面〟に注がれ、肝心の霊的教訓が等閑(なおざり)にされている。イムペレーターは続けてこう語っている。

『スピリチュアリズムには徐々に募りつつある致命的悪弊が存在する。現象のみの詮索から由来するいわば一種の心霊的唯物主義である。人間は物理現象の威力のみに興味を抱き、その背後のさまざまな霊的存在を理解しようとせぬ。

物質は付帯的要件に過ぎず、実在はあくまで霊なのである。世界の全ての宗教は来たるべき死後の世界への信仰も絶えだえとなっている。

もしもこのまま現象のみの満足にて終るとすれば、始めよりこの問題に関らぬほうが良かったかも知れぬ。がしかし、一方にはそうした現象的段階を首尾よく卒業し、高き霊的真理を希求する者もまた多い。彼らにとりて心霊現象は霊的真理への導入に過ぎなかったのである。』


 要するにスピリチュアリズムの究極の目的はこの「霊訓」に象徴される霊的真理の普及にあるのである。イムペレーターも述べている通り、こうした霊的啓示を地上へ送り届ける霊団は古来いくつも結成され、その時代に必要とするものを霊覚者を通して送って来た。

そして今なお世界各地で送られてきている。「霊訓」はあくまでそのうちの一つに過ぎない。そして霊媒のモーゼスがキリスト教の牧師(三十歳の時に病を得て辞職)であったこと、その時期がスピリチュアリズムの勃興期に当たったという事情からくる特殊性を見落としてはならないであろう。

つまりその内容は煎じ詰めれば、キリスト教的ドグマの誤謬を指摘し、それに代わる真正なる霊的意義を説くことに集中され、その他の一般の人間にとっての関心事、例えば再生───生まれ変わり───の問題等については、少なくとも本書に採録されたものの中には見当たらないし、「続霊訓」の中で言及しているものも概念的なことを述べているだけで、深入りすることを避けんとする意図が窺える。イムペレーターは自動書記通信でこう述べている。

 『霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊にして始めて論ずることの出来る問題である。最高神ご臨席のもとに神庁において行われる神々の教義の中身については、神庁の下層の者にすら知り得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方が良い秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。

神庁において神議(かむはか)りに議られしのちに一個の霊が再び地上へ肉体に宿りて生まれるべきと判断されるか、それとも否かと判断されるかは誰にもわからぬ。誰も知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。全ては佳きに計らわれるであろう。

 すでに述べた如く、地上にて広く喧伝されている形での再生は真実ではない。また偉大なる霊が崇高な使命と目的とを携えて地上に戻り人間と共に生活を送ることは事実である。

他にもわれらなりの判断に基づきて広言を避けている一面もある。まだその機が熟しておらぬからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう公言する霊は自ら己の虚偽性の証拠を提供していることに他ならぬ。』


〇シルバーバーチ霊訓との比較
 イムペレーター霊団がモーゼスを通じて活動を開始したのは一八七〇年代初期からであるが、ぞれからほぼ半世紀後の一九二〇年代には、霊言霊媒モ―リス・バーバネルを通じてシルバーバーチ霊団が活動を開始している。

そして一九八一年にバーバネルが他界するまでのほぼ半世紀に亙って膨大な量の霊言を残し「シルバーバーチ霊言集」全十一巻となって出版されている。

 訳者はこれを「古代霊は語る」(潮文社)と題してその中心的思想の全容を紹介したが、モーゼスの「霊訓」とは基本的には完全に符合を合している。強いて異なる点を挙げるならば、イムペレーターが控えめに肯定した再生の事実を思い切り前面に押し出し、これを魂の向上進化のために必要不可欠の要素として説いている点である。

察するにモーゼスの「霊訓」その他によっていわゆる〝夾雑物〟が取り除かれ、人類が神の神秘にもう一歩踏み込める段階に来たことを意味するのであろう。

 このことに関して興味深いのは、キリスト教の根本教理を論駁するイムペレーター霊団の霊媒がキリスト教会の曾ての牧師であり、再生を根本教理として説くシルバーバーチ霊団の霊媒が再生説を嫌悪する人物であったことである。訳者個人としてはそこに霊界の意図的配慮があったものと推察している。


〇モーゼスの経歴と人物像
 ウィリアム・ステイントン・モーゼスは一八三九年に小学校の校長を父として生まれた。小学生時代に時おり俗にいう夢遊病的行動をしている。一度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩にまとまらなかった問題についての作文を書き、再びベッドに戻ったことがあったが、その間ずっと無意識のままであった。

書かれた作文はその種のものとしては第一級であったという。しかし幼少時代に異常能力を見せた話はそれだけである。

 オックスフオード大学を卒業後、国教会(アングリカン)の牧師としてマン島に赴任している。二十四歳の若さであったが、教区民からは非常な尊敬と敬愛を受けた。特に当地で天然痘が猛威をふるった時の勇気ある献身的行為は末永く語り継がれている。

 一八六九年三十歳時に重病を患い S・T・スピーア博士の世話になったことが、生涯に亙るスピーア家との縁の始まりであると同時に、スピリチュアリズムとの宿命の出会いでもあった。博士の奥さんが大変なスピリチュアリストだったのである。

翌年病気回復と共に再びドーセット州で牧師の職に付いたが病気が再発し、ついに辞職して以後二度と聖職に戻ることはなかった。そして翌年ロンドンの小学校の教師を任命され、一八八九年に病気で辞職するまで教鞭をとった。

 その間の一八七一年から一八八二年のほぼ十年間がこの「霊訓」を生み出した重大な時期である。モーゼス自身にとっては死に物狂いで真理を追究した時期であり、スピリチュアリズムにとっては大いなる霊的遺産を手にした時期でもあったと言える。

 最後に「続霊訓」の第三部に載っているモーゼスの人物評を紹介しておく。いずれもモーゼスの死に際して贈られた言葉である。まずスピーア夫人はこう語っている。

『自然を愛する心と、気心の合った仲間との旅行好きの性格、そして落ち着いたユーモア精神が、地名や事物、人物、加えてあらゆる種類の文献に関する膨大な知識と相俟って、氏を魅力ある人間に作り上げていました。

 二年間の病いさえなければ「霊訓」をもう一冊編纂して出版し、同時に絶版となっている氏の著作が再版されていたことでしょう。健康でさえあったら、いずれ成就されていた仕事です。霊界の人となった今、氏は、あとに残された同志たちが氏が先鞭をつけた仕事を引き継いで行ってくれることを切望しているに相違ありありません。』


 次は心霊誌「ライト」に載った記事。

 『氏は生れついての貴族であった。謙虚さの中にも常に物静かな威厳があった。これは氏が手にした霊的教訓と決して無縁ではなかった。氏ほどの文学的才能と、生涯を捧げた霊的教訓と、稀有の霊的才能は、氏を傲慢不遜し苛立ちを生み嫌悪感を覚えさせても決しておかしくないところである。が氏にとってはそれは無縁であった。モーゼス氏は常に同情心に満ち、優しく、適度の同調性を具えていた。』

 スピア博士の子息でモーゼスが七年もの間家庭教師をしたチャールトン・スピーア氏は、氏の人間性の深さと暖かさ、性格の優しさ、真摯な同情心、そして今こそ自己を犠牲にすべきとみた時の徹底した没我的献身ぶりを称えてから、こう結んでいる。

『真理普及への献身的態度は幾ら称賛しても称賛しきれない。氏はまさに燃える炎であり、輝く光であった。恐らくこれほどの人物は二度と現れぬであろう。』

シアトルの冬 真理なるものは常に秘宝的要素をもつ。     Truth always has a mystical element.


 モーゼスの霊訓


  真理なるものは常に秘宝的要素をもつ。

必然的にそうなるのである。何となれば真理はそれを受け入れる用意のある魂にのみ受け入れられるものだからである。

このことを篤と心に留めておかれたい。

さらにまた、受け入れる用意の出来ていない者に押し付けることは真理を粗暴に扱うことになり、汝にとっては天啓ではあってもそうとは思えぬ者には取り返しのつかぬ害すら及ぼしかねぬことも心されたい。
 

さらに忘れてならぬことは、真理のための真理探究を、人生の至上目的として生きることこそ、地上にありて最高の目標であり、いかなる地上的大望よりも尊く、人間の為し得るいかなる仕事にもまして気高きものであるということである。

人間生活に充満する俗悪なる野心は今は取り合わぬ。虚栄より生まれ、嫉妬の中に育まれ、ついには失望に終わる人類の闘争と野心───これは粉(まご)うかたなきソドムの林檎⑦である。

然るに一方には目覚めし魂への密かなる誘惑───同胞のために善行を施し、先駆者の積み上げたケルン⑧にもう一つの石を積み上げんとする心である。

彼らは己の生活を大きく変革する真理を熱誠を込めて広めんと勇み立つ。

すでにその真理に夢中である。胸に炎が燃え上がり、その訓えを同胞へ説く。

その説くところは気高きものかもしれぬ。そして、もし聞く者の欲求に叶えば同類の心にこだまして魂を揺るがせ、何らかの益をもたらすかも知れぬ。

が、その逆となるかも知れぬ。ある者にとっては真理と思えることはその者にとって真実であるに過ぎず、その声は荒野に呼ばわる声に過ぎず、聞く者の耳には戯言(たわごと)にしか響かぬ。

彼の殊勝なる行為が無駄に終わる。それだけのエネルギーを一層の真理の探究のために温存し、人に説くまえにより多くを学ぶべきであった。
教えることは結構である。しかし学ぶことはさらに望ましい。また両者を両立させることも不可能ではない。

ただ、学ぶことが教えることに先立つものであることを忘れてはならぬ。そして真理こそ魂が何よりも必要とするものであることを、しかと心得よ。

真理を宿す神秘の園に奥深く分け入る求道者は、その真理が静かに憩う聖域を無謀に荒らすことがあってはならぬ。

その美しさはつい語りたくなるであろう。

己が得た心の慰安を聞く耳を持つ者に喧伝したく思うかも知れぬ。

が、己の魂の深奥に神聖なる控えの間、清き静寂、人に語るには余りに純粋にして、余りに貴重なる秘密の啓示を確保しておかねばならぬ。


 〔ここで大して重要でない質問をしたのに対してこう綴られた───〕 

違う。それについてはいずれ教えることになろう。

われらは汝自身の試練の一つであるものを肩代わりすることは出来ぬ。迷わずに、今歩める道を突き進むがよい。

それが真理へ直接続く道である。しかし不安と苦痛の中を歩まねばならぬ。

これまで導いた道は、汝には過去の叡智を摂り入れ先駆者に学ぶ必要があると観たからである。

地上とわれらの世界との交霊関係の正道を歩まんとする者は、その最も通俗的な現象面にまとわりつく愚行と欺瞞によって痛撃を食らうであろうことは、早くより予期していた。

愚行と欺瞞が横行するであろう時を覚悟して待ち、これに備えてきた。

その学問には過去の神秘学と同じく二つの側面があり、またそうあらねばならぬことを教えたく思う。一つの側面を卒業した今、汝は今ひとつの側面を理解せねばならぬ。
 

そのためには、人間と交信せんとする霊が如何なる素性のものであるかを知らねばならぬ。

それを措いて今汝を悩ませる謎を正しく読み取ることは出来ぬ。

一体真理なるものが如何なる方法によりいかなる条件のもとに得られるものであるか、また如何にすれば誤謬と策謀と軽薄なる行為と愚行とを避け得るかを知らねばならぬ。

人間が安全な態勢でわれらの世界との関わりをもつには予めこうしたことを全て理解せねばならぬ。

しかも、それを学び終えた暁、あるいは学びつつある時も、その成功如何は殆ど、あるいは全て人間側にかかっていることを忘れてはならぬ。

我欲を抑え、最奥の魂を清め、不純なる心を悪疫として追い払い、目差す目的を出来得るかぎり崇高なるものとせよ。

真理を万人が頭をたれるべき神そのものとして崇敬せよ。

いずこへ至るかを案ずることなく、ひたすらに真理の探究を人生の目的とせよ。

そうすれば神の使徒が汝を見守り、その魂の奥に真理の光を見出すことであろう。
                               ♰ イムペレーター

Friday, February 3, 2023

シアトルの冬 地獄───それは個々の魂の中を除いて他のいずこにも存在せぬ。Hell--it exists nowhere else except in the individual soul.

               モーゼスの霊訓

地獄───それは個々の魂の中を除いて他のいずこにも存在せぬ。未だに浄化も抑制もされぬ情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪業の報いとして容赦なく湧き出ずる魂の激痛に苛まれる。これぞ地獄である。その地獄より脱け出る道はただ一つ───辿り来る道を今一度あと戻りし、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にない。
 罪に対してはそれ相当の罰のあることは固(もと)よりであるが、その罰とは怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではない。

悪と知りつつ犯せる罪悪に対し、苦痛と恥辱の中にありて心の底より悔い改め、罪の償いの方向へと導くための自然の仕組みにほかならず、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしきドグマへの口先のみの忠誠を誓うが如き、退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてない。

 幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間なき日々の生活において、理性に叶い宗教心より発する行いをなす者すべてが手にすることができるものである。神の摂理を意識的に犯す者に必ず不幸が訪れる如く、正しき理性的判断は必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を棄てたる霊との区別はない。

 霊的生命の究極の運命についてはわれらも何とも言えぬ。何も知らぬのである。が、われらをして現在までに知り得たかぎりにおいて言わしむれば、霊的生命は汝らの肉体に宿る者もわれら霊も共に、等しく神の因果律によりて支配され、それを順守する者は幸福と生き甲斐を覚え、それを犯せるものは不幸と悔恨への道を辿るということだけは間違いなく断言できる。

 神に対する責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この三つの根本的責務についてはすでにその大要を述べた。よってここでは詳説はせぬ。いずれ敷衍して説く時機も到来しよう。

以上述べたところを篤と吟味せられたい。われらが当初より宣言せる主張───すなわち、われらの訓えが純粋にして神聖でありイエスの訓えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知るには、それで充分であろう。

 それは果たして正統派の教義に比して明確さを欠き曖昧であろうか。そうかも知れぬ。汝らに反発心を起こせしめる箇所については詳細を欠いているかも知れぬ。が、全体を通じて崇高にして清純なる雰囲気が漂っているであろう。

高尚にして神聖なる宗教を説いていよう。神性のより高き神を説いていよう。実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもない。そう映るのは、敬虔なる心の持ち主ならば浅薄な詮索をしたがらぬであろう課題を扱っているからに他ならぬ。

知り得ることは知り得ることとして措き、決して勝手な憶測はせぬ。全知全能の神についていい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのである。

 もしも人智を超えた神にベールをかけることをもって曖昧と呼ぶならば、確かにわれらの教えは曖昧であり、明確さに欠けるであろう。しかしもしも知り得たかぎりのこと、理解し得るかぎりのことしか述べぬこと、憶測するより実践すること、ただ信じるより実行することが賢明なる態度であるならば、われらの態度こそ叡智の命ずるところに従い、理性を得心させ神の啓示に与(あずか)れるものであると言えよう。

 われらの訓えには理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性がある。遠き未来においてもその価値を些かも失わず、数知れぬ魂を鼓舞し続けることであろう。一方これに異を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ぬことになろう。

それは、その信念を携えて進みし無数の霊を幸福と向上の道へ導き、一方、その導きを拒否せる者は、朽ち行く肉体と同じ運命を辿ることであろう。愚かなる無知からわれわれの訓えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信ずる者を悪魔の手先と非難しようとも、その訓えは存在し続け、信ずる者を祝福し続けることであろう。
                        ♰イムペレーター

───おっしゃることは筋が通っており、立派な訓えだと思います。また曖昧であるとの神の批判に対しても納得のいく答えをいただきました。しかし、一般の人はあなたの説くところを、事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。

そこで私がお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくに、それが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。


 それについては、いずれ時機をみて説くとしよう。今は控える。先を求むる前に、これまでわれらが述べたところを篤と吟味されたい。汝を正しく導く御力をわれらに給わらんことを!
 

♰イムペレーター

Wednesday, February 1, 2023

シアトルの冬 イエス・キリストについて       About Jesus Christ

冬の森6 白樺 うさぎ Stock ベクター | Adobe Stock

 

質問に答える─イエス・キリストについて   

 地上の歴史の中で最大の論争の的とされている人物すなわちナザレのイエスが、その日の交霊会でも質問の的にされた。

 まず最初に一牧師からの投書が読み上げられた。それにはこうあった。〝シルバーバーチ霊はイエス・キリストを宇宙機構の中でどう位置づけているのでしょうか。また、<人間イエス>と<イエス・キリスト>とはどこがどう違うのでしょうか〟

 これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「ナザレのイエスは地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜の最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。

 イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と変わらぬ一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが地上に流入したことは前にも後にもありません。

イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦礫の下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

 そのために彼はまず自分へ注目を惹くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。彼は一度たりともそれを邪なことに使ったことはありませんでした。

 またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も廃止も干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を惹くようになりました。

そこでイエスは、人間が地球という惑星上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊格者が説いてきたのと同じ、単純で永遠に不変で基本的な霊の真理を説くことを始めたのです。

 それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大へんな改ざんがなされていることです。

ずいぶん多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話はぜんぶ割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから。

 もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後いっそう開発された霊力を駆使して、愛する人類のために働いておられるのです。イエスは神ではありません。全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではありません。

 いくら立派な位であっても、本来まったく関係のない位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんではありません。父なる神の右に座しているとか、〝イエス〟と〝大霊〟とは同一義であって置きかえられるものであるなどと主張しても、イエスは少しもよろこばれません。

 イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にヒザを折り平身低頭して仕える必要はないのです。それよりもイエスの生涯を人間の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。
 以上、大へん大きな問題についてほんの概略を申し上げました」


 メンバーの一人が尋ねる。
   ───〝キリストの霊〟Christ spiritとは何でしょうか。

 「これもただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを示すために聖油を注がれた時代がありました。それは大てい王家の生まれの者でした。キリストと言う言葉は〝聖油を注がれた〟という意味です。

それだけのことです」 (ユダヤでそれに相応しい人物はナザレのイエス Jesus だという信仰が生まれ、それで Jesus Christ と呼ぶようになり、やがてそれが固有名詞化していった───訳者)


 ───イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったとおっしゃるのが私にはどうしても理解できません。

 「私は決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。私が申し上げたのは地上を訪れた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊格者の系譜の中でイエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。

イエスの生活が完全であったとは一度も言っておりません。それは有り得ないことです。なぜなら彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」


 ───イエスの教えは最高であると思われますか。 

 「不幸にしてイエスの教えはその多くが汚されてしまいました。私はイエスの教えが最高であるとは言っておりません。私が言いたいのは、説かれた教訓の精髄は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど心霊的法則を使いこなした例は地上では空前絶後であるということです」


 ───イエスの教えがその時代の人間にとっては進み過ぎていた───だから理解できなかった、という観方は正しいでしょうか。

 「そうです。おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は彼らにとって成功であることが時代的に見れば失敗であり、逆に彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」

(※ George Lansbury は一九三一~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次世界大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じてヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppard についてはアメリカーナ、ブリタニカの両百科全書、その他の人名辞典にも見当たらない───訳者)


 ───イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の大根源であると考えてよろしいでしょうか。

 「いえ、それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し自在に使いこなすことができたからです。皆さんにぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、

つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた間違いが多かったにもかかわらず、あれほどの短い期間に全世界に広まりそして今日まで生き延びて来たのは、イエスが常に霊力と調和していたからだということです」

(訳者注───霊力との調和というのは、ここでは背後霊団との連絡がよく取れていたという意味である。『霊訓』のインペレーターによると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。

地上生活中のイエスは早くからそのことに気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体離脱し、その背後霊団と直接交わって連絡を取り合っていたという)


 ───(かつてのメソジスト派の牧師)いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできます。

 「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異論を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。

教えそのものと、その教えを取り違えしかもその熱烈信仰によってかえってイエスを何度もはりつけにするような間違いを犯している信奉者とを混同しないようにしなければなりません。

  イエスの生涯をみて私はそこに、物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完全で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった───自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。

イエスは一度たりとも自ら課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的に使用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

 どうもうまく説明できないのですが、イエスも生を受けた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味で完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派なそして大きな仕事ができる時代が来ると述べた意味がなくなります。 

 イエスという人物を指さして〝ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時はあれほどのことが出来るのですよ〟 と言える、そういう人間だったと考えればいいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。

しかもそのイエスは私たちの世界においても、私の知るかぎりでの最高の霊格を具えた霊であり、自分を映す鏡としてイエスに代わる者はいないと私は考えております。

 私がこうしてイエスについて語る時、私はいつも〝イエス崇拝〟を煽ることにならなければよいがという思いがあります。それが私が〝指導霊崇拝〟 に警告を発しているのと同じ理由からです(八巻P18参照)。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は理性と常識と知性をもって行わないといけません。

書物からも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人が良いと言ったから、賢明だと言ったから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断基準です。

 例えその後一段と明るい知識に照らしだされた時にあっさり打ち棄てられるかも知れなくても、今の時点でこれだと思うものを採用すべきです。たった一冊の本、一人の師、一人の指導霊ないしは支配霊に盲従すべきではありません。

 私とて決して無限の叡智の所有者ではありません。霊の世界のことを私が一手販売しているわけではありません。地上世界のために仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。私は完全であるとか絶対に間違ったことは言わないなどとは申しません。あなた方と同様、私もいたって人間的な存在です。

私はただ皆さんより人生の道のほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が私に少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしも私の言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線を私といっしょに眺めませんかとお誘いしているわけです」


 霊言の愛読者の一人から「スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して 〝最後の晩餐〟 の儀式を行うべきでしょうか」という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチがこう答えた。

 「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって身体的に、精神的に、あるいは霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれは最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、私自身にはそういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。

そんなことをしたからといってイエスは少しも有難いとは思われません。私にとっても何の益にもなりません。否、霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

 イエスに対する最大の貢献はイエスを模範と仰ぐ人々がその教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人すべてに手を差しのべてあげることです。

 儀式よりも生活の方が大切です。宗教とは儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。〝聖なる書〟 と呼ばれている書物から活字のすべてを抹消してもかまいません。賛美歌の本から 〝聖なる歌〟 を全部削除してもかまいません。

儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に 〝宗教的〟 で有りうるのです。そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。

 私は皆さんの関心を儀式へ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく生活そのものです。生活の中で何をなすかです。どういう行いをするかです。〝最後の晩餐〟 の儀式がイエスの時代よりもさらにさかのぼる太古にも先例のある由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」


 別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて───

 「他人のためになることをする───これがいちばん大切です。私の意見は単純明快です。宗教には〝古い〟ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関係もないものばかりだということです。

 私にとって宗教とは崇拝することではありません。祈ることでもありません。審議会において人間の頭脳が考え出した形式的セレモニーでもありません。私はセレモニーには興味はありません。

それ自体は無くてはならないものではないからです。しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、無理してそれを止めさせる理由はありません。

 私自身としては、幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具はかたづけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係───これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えと何の関係もありません」 


───支配霊や指導霊の中にはなぜ地上でクリスチャンだった人が少ないのでしょうか。

 「少ないわけではありません。知名度が低かった───ただそれだけのことです。地上の知名度の高い人も実はただの代弁者(マウスピース)にすぎないことをご存知ないようです。

つまり彼らの背後では有志の霊が霊団やグループを結成して仕事を援助してくれているということです。その中にはかつてクリスチャンだった人も大勢います。もっとも、地上で何であったかは別に問題ではありませんが・・・・・・」


───キリスト教の教えも無数の人々の人生を変え、親切心や寛容心を培ってきていると思うのです。そういう教えを簡単に捨てさせることが出来るものでしょうか。

 「私は何々の教えという名称には関心がありません。私が関心をもつのは真理のみです。間違った教えでもそれが何らかの救いになった人がいるのだからとか、あえてその間違いを指摘することは混乱を巻き起こすからとかの理由で存続させるべきであるとおっしゃっても、私には聞こえません。

一方にはその間違った教えによって傷ついた人、無知の牢に閉じ込められている人、永遠の苦悶と断罪の脅迫によって悲惨な生活を強いられている人が無数にいるからです。

 わずかばかり立派そうに見えるところだけを抜き出して〝ごらんなさい。まんざらでもないじゃありませんか〟 と言ってそれを全体の見本のように見せびらかすのは、公正とは言えません。

 霊的摂理についてこれだけは真実だと確信したもの、および、それがどのように働くかについての知識を広めることが私の関心事なのです。あなたのような賢明な方たちがその知識をもとにして生き方を工夫していただきたいのです。そうすることが、個人的にも国家的にも国際的にも、永続性のある生活機構を築くゆえんとなりましょう。

 私は過去というものをただ単に古いものだからとか、威光に包まれているからというだけの理由で崇拝することはいたしません。あなたは過去からあなたにとって筋が通っていると思えるもの、真実と思えるもの、役に立つと思えるもの、心を鼓舞し満足を与えてくれるものを選び出す権利があります。

と同時に、非道徳的で不公正で不合理でしっくりこず、役に立ちそうにないものを拒否する権利もあります。ただしその際に、子供のように純心になり切って、単純な真理を素直に見て素直に受け入れられるようでないといけません」


 いわゆる 〝聖痕(スチグマ)〟について問われて───

 「人間の精神には強力な潜在能力が宿されており、ある一定の信仰や精神状態が維持されると、身体にその反応が出ることがあります。精神は物質より強力です。そもそも物質は精神の低級な表現形態だからです。精神の働きによって物質が自我の表現器官として形成されたのです。

精神の方が支配者なのです。精神は王様であり支配者です。ですから、もしもあなたがキリストのはりつけの物語に精神を集中し、それを長期間にわたって強力に持続したら、あなたの身体に十字架のスチグマが現れることも十分可能です」


 〝大霊の愛〟と、〝己を愛する如く隣人を愛する〟という言葉の解釈について問われて───
 
 「私だったら二つとも簡明にこう解釈します。すなわち自分を忘れて奉仕の生活に徹し、転んだ人を起こしてあげ、不正を駆逐し、みずからの生活ぶりによって神性を受け継ぐ者としてふさわしい人物である事を証明すべく努力する、ということです」

 シルバーバーチ