Thursday, February 20, 2025

シアトルの冬  苦しみと悲しみと ──魂の試練

Suffering, Sorrow, and the Trial of the Soul




 前章では再生というスピリチュアリズム思想の中でも最も異論の多い課題を取り上げました。たとえ異論はあっても、そこに必ずや真実があるはずであり、万一再生することが真実であれば、これほど人生観に与える影響の大きいものはないと考えたからです。

 影響が大きいと言えば、死後の存続という事実こそ、まずだれにとっても画期的な影響を与える話題であるはずです。

私自身も哲学的な思考の芽生え始めた高校時代にスピリチュアリズムに接して、万一死後もこのまま生き続けるとしたら、賢こぶった哲学的で抽象的な思考にふけっている場合ではないという、せっぱつまった心境で心霊学に取り組み、結果的には一種の思考革命のようなものを体験しました。

 つまり〝生と死〟を深刻な主題としていた思考形式から、死を超越した生のみの思考形式に変異し、それ以後は想像の翼がひとりでにはばたいて、自由自在に広がっていく思いがしました。そしてそれは今なお続いており、私にとってこれほど楽しいレクリエーションはないといってもいいほどです。

 それというのも、シルバー・バーチやマイヤース、イムペレーター等のアカ抜けのした霊界通信のおかげにほかならないのですが、その前に、心霊実験会において目に見えない霊の存在をまざまざと見せつけられていたことが大きな転換のキッカケとなっているようです。


 この死後の存続という事実は今では少なくともスピリチュアリズムでは自明の事実であり、真理探究の大前提となっておりますが、私は、前章でも述べた通り、再生に関する事実も、第一級の霊界通信の述べるところが完全に符節を合しているところから、まず前章で紹介したところが再生の真相とみて差し支えないと信じます。

 とくに半世紀にわたるシルバー・バーチの霊言が、その間いささかの矛盾撞着もなく、首尾一貫して同じ説を述べ続けていることに注目すべきだと考えます。

 そのシルバー・バーチが説いていることの中で特に着目すべきことは、いかなる真理も、それを受け入れる準備が魂に備わるまで、言いかえればそれを理解するだけの意識の開発、難かしく言えば霊格の進化がなければ決して悟ることはできない、ということです。

 従って知識ばかりをいくら溜め込んでも、それが即その人の成長のあかしとはならない。シルバー・バーチの譬えでいえば、世界中の蔵書を全部読んだところで、それを実地に体得しないことには何にもならない。再生する目的はつまるところは体験を求めに来ることにほかならない、というわけです。

 さてその〝体験〟ということを考えてみますと、同じ条件下に置かれても、人によってその反応は百人百様の違いがあるはずです。ましてや男性と女性とでは比較しようもないほどの差があります。

男らしいといい、女らしいといっても、地上の人間に関するかぎり、それは肉体の生理的表現にすぎず、つきつめて言えば性ホルモンの違いというにすぎません。前章のシルバー・バーチの最後の言葉にあるように、大半の人間は物質によって魂が右往左往しているのが現実の姿であることは確かです。

 そうなると当然一回や二回の地上生活ではとても十分とは言えないわけで、その辺に再生の必要性が生じてくるわけですが、厳密に言えばマイヤースの言う通り、たとえ何十回何百回再生を繰り返しても地上体験による魂の成長には限度がある。

つまり魂に響くほどの体験、俗な言い方をすれば、骨身にしみるほどの体験がそうやたらにあるものではないことは、実際に地上生活を送っているわれわれが一ばんよく知っています。

 となると、漫然と日常生活を送ることには何の意味もないことになり、そこに守護霊を中心とする背後霊団の配慮の必要性が生じてまいります。表向きは平凡な生活を送っているようで、その実は次々と悩みや苦労、悲しみのタネが絶えないのが現実です。

シルバー・バーチに言わせれば、それは全て魂の試練として神が与えて下さるのであって、それが無かったら人生は何の意味もないと言います。


 『あなたがたもそのうち肉体の束縛から離れて、物質的な曇りのない目で、地上で送った人生を振り返る時が来るでしょう。その時、その出来ごとの一つ一つがそれぞれに意味をもち、魂の成長と可能性の開発にとってそれなりの教訓をもっていたことを知るはずです。』

 そう述べて、困難も試練もない、トラブルも痛みもない人生は到底あり得ないことを強調します。では少し長くなりますが、シルバー・バーチの訓えに耳を傾けてみましょう。


『この交霊会に出席される方々が、もし私の説く真理を聞くことによってラクな人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。

それに敢然と立ち向い、それを克服し、そして一層力強い人間となって下さることが私どもの真の目的なのです。

 霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それは一たん身についたらお金を落とすような具合に失くしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐え切れないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません。

解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが、旅する魂の当然の姿なのです。

 それはもちろんラクなことではありません。しかし魂の宝はそう易々と手に入るものではありません。もしラクに手に入るものであれば、何も苦労する必要などありますまい。

痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一ばんの薬なのです。

 私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、あえて手をこまねいて傍観するほかない場合がよくあります。そこからある教訓を学び取り、霊的に成長してもらいたいと願い祈りながら、です。

知識にはかならず責任が伴うものです。その責任をとってもらうわけです。霊は一たん視野が開ければ、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。

さんさんと太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身にしみません。魂が目を覚ましそれまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲たれこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。

 地上の人生は所詮は一つの長い闘いであり試練なのです。魂に秘められた可能性を試される職場に身を置いていると言ってもいいでしょう。

魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が秘められております。即ち動物的進化の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなたの個的存在の源である神的属性も秘められているのです。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。

地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには是非とも厳しい試練が必要なのです。

 運命の十字路にさしかかる度毎に、右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然として立ち向うか、それとも回避するかの選択を迫られますが、その判断はあなたの自由意志にまかされています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。

その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されているのです。

そのチャンスを前にして、積極姿勢をとるか消極姿勢をとるか、滅私の態度にでるか利己主義に走るかは、あなた自身の判断によってきまります。

 地上生活はその選択の連続といってよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生をおりなしていくのであり、同時に又、寿命つきて霊界に来た時に霊界で待ち受けている新しい生活、新しい仕事に対する準備が十分できているか否か、能力的に適当か不適当か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まるのです。単純なようで実に複雑です。

 そのことで忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。地上に再生するに際して、各自は地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。

才能がありながらそれを使用しない者は、才能のない人よりはそれだけ大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。

 悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に降れた時、一ばんよく眠れる魂の目を醒まさせるものです。魂は肉体の奥深くに埋もれているために、それを目覚めさせるためには余ほどの強烈な体験を必要とします。

悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる準備の出来た霊にとって深甚なる価値があると言えるのです。

 繰り返し述べて来たことですが、真理は魂がそれを悟る準備の出来た時初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。こちらからいかなる援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。

霊的知識を理解する時機を決するのは魂の発達程度です。魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれたあなたがた人間が、物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来ごとを物的ものさしで量り、考え、評価するのは無理もないことではありますが、それは長い物語の中のホンの些細なエピソード(小話)にすぎません。

 魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂の肥しです。魂がその秘められた力を発揮するにはどういう肥しを摂取すればいいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。

失意のドン底にある時はもう全てが終ったかの感じになるものですが、実はそこから始まるのです。あなたにはまだまだ発揮されていない力───それまで発揮されたものより、はるかに大きな力が宿されているのです。

それはラクな人生の中では決して発揮されません。苦難と困難の中でこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないとその純金の姿を拝むことが出来ないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出て来ないのです。それ以外に方法がないのです。ほかにもあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。

 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気ラクな人生ばかりを送っている者よりも一段と大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。

何もかもがうまく行き、日向ばかりの道を歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということなのです。

 困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂の肥しなのです。むろん困難のさ中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。つらいのですから。

しかしあとでその時を振り返ってみたとき、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥しであったことを知って、神に感謝するに相違ありません。この世に生まれくる霊魂がみなラクな暮しを送っていては、そこに進歩も開発も個性も成就もありません。

これはきびしい辛い教訓には違いありませんが、何事も、価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞は、そう易々と手に入るものではありません。
℘112   
 神は瞬時たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。

あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりにも小さすぎるのです。物的尺度でみるかぎり、世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真実の敗北しか見えないでしょう。当然かも知れません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

 地上ではかならずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律はかならずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが、地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤はかならずその平衡を取りもどします。

霊的に観て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身にはわかりません。もしかしたら、あなたにとって一ばんイヤなことが実は、あなたの祈りに対する最高の回答であることも有りうるのです。

 ですから、なかなかむずかしいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するよう努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。祈りはそれなりの回答が与えられます。

しかしそれはかならずしもあなたがたが望んでいる通りの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとって一ばん望ましい形で与えられます。神は決してわが子を見棄てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的な物さしで批判することはやめなければいけません。


 絶対に誤ることのない霊的真理がいくつかありますが、そのうちから二つだけ紹介してみましょう。一つは動機が純粋であれば、どんなことをしても決して危害をこうむることはないということ。もう一つは人のためという熱意に燃える者にはかならずそのチャンスが与えられるということ。その二つです。あせってはいけません。

何事も気長に構えることです。何しろこの地上に意識を持った生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。

さらに人間という形態が今日のような組織体をもつに至るのに何百万年もかかりました。その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。その力、宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤ることのないその力を信じることです。

 解決しなければならない問題もなく、争うべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」───こうおっしゃる方があるかも知れません。

しかし私は実際にそれを体験してきたのです。あなた方よりはるかに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。一つとして偶然ということがないのです。

偶発事故というものがないのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然と分かるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。

 あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静にそして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。

そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことが出来るのです。愛がすべての根源です。愛───人間的愛はそのホンのささやかな表現にすぎませんが───愛こそ神の摂理の遂行者なのです。

 霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にもかならずや神の御加護があることを一片の疑いもなく信じることが出来なければいけません。苦難にも悲しみにもくじけてはいけません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも優るからです。

 恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心をむしばみます。恐怖心は理性をくじき、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。


 つとめて恐れの念を打ち消すことです。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信にあふれ、決して乱れることがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対 all-powerful というだけではありません。

絶対的な叡智 all-wisdom であり、また絶対的な愛 all-love でもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力があるのです。

 はがねは火によってこそ鍛えられるのです。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそなのです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証しです。

夜明けの前に暗黒があるように、魂が輝くには暗黒の体験がなくてはなりません。そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善をつくし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。

 霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません。陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、いわば硬貨の表と裏のようなものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。

人間の進歩のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。

そうした法則の全てに通暁することは人間には不可能です。どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかはありません。盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。

 
 知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を産み出さなくてはいけません。そういう義務があるのです。それも一つの法則なのです。

恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。われわれは信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念はわれわれ霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。

 太陽がさんさんと輝いて、全てが順調で、銀行にたっぷり預金もあるような時に、神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスなのです。

しかるべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がり且つ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆をかかげる時です。

 霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験してはじめて、それを理解するための魂の準備が出来あがるのです。

その点がどうもよくわかっていただけないようです。タネを蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりますまい。養分が揃っていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまく揃った時にようやくタネが芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。

 人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇です。何もかもうまく行き、鼻歌まじりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて、霊的知識を理解する素地が出来あがるのです。

そして一たん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮しはじめることになるのです。

そして一たん身につけたら、もう二度と失うことはありません。それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて霊界から力なり影響なり、インスピレーションなり真理なり美なりを引き出せるようになるのです。魂が進化した分だけ、その分だけ自由意志が与えられるのです。

 霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されます。あなたは所詮、現在のあなたを超えることは出来ません。そこがあなたの限界といえます。が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。

いかなる困難、いかなる障害も、かならず克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質にまさります。霊は何ものにもまさります。霊こそ全てを造り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。』


 一問一答

問「もう一度やり直すチャンスは全ての人間に与えられるのでしょうか」


シルバー・バーチ「もちろんですとも。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終わるとしたら、この世は正に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しも出来ないことになります。

私どもが地上の人々にもたらすことの出来る最高の霊的知識は、人生は死でもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことが出来るということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。

人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人は内蔵している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスを与えられ、同時に又、愚かにも神の法則を無視し、人の迷惑も考えずに横柄に生きた人間は、その悪業の償いをするためのチャンスが与えられます。神の公正は完全です。

騙すことも、ごまかすことも出来ません。すべては神の眼下にあるのです。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きている人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです」


問「祈りに効果があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがおわかりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。

ああしてほしい、こうしてほしい。カネが欲しい、家が欲しい───こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。

一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。こうした祈りには魂の内省があります。

つまり自己の不完全さと欠点を意識するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。それが本能的に魂の潜在エネルギーを湧出させます。それが真の祈りなのです。

その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。ただ、これまでも何度か言ったことがありますが、そうした祈りを敢えて無視してその状態のまま放っておくことが、その祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。

こちらからあれこれ手段を講じることが却って当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の心底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。

つまりその願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起し、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。

危険の中にあっての祈りであれば保護するためのエネルギーが引き寄せられ、同時に、救急のための霊団が派遣されます。それは血縁関係によってつながっている霊もおれば、愛によってつながっている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救ってもらったことがあるので、その要領を心得ております」


問「いたいけない子供が不治の病で苦しむのはどうしてでしょう。神は本当に公正なのでしょうか」

シルバー・バーチ「霊的な問題を物的尺度で解こうとしても所詮ムリです。ホンの束の間の人生体験で永遠を推し量ることは出来ません。測り知れない法則によって支配されている神の公正を地上生活という小さな小さな体験でもって理解することは絶対にできません。

小さなものが大きいものを理解できるでしょうか。一滴の水が大海を語ることが出来るでしょうか。部分が全体を説明できるでしょうか。

宇宙はただただ〝驚ろくべき〟としか形容のしようのない法則によって支配されており、私はその法則に満腔の信頼をおいております。なぜなら、その法則は神の完全なる叡智の表現だからです。従ってその法則には一つとして間違いというものがありません。

あなたがた人間から見れば不公平に見えることがあるかも知れませんが、それはあなた方が全体のホンの一部しか見ていないからです。もし全体を見ることが出来たら、成るほどと思ってすぐさま考えを変えるはずです。

地上生活という束の間の人生を送っているかぎり〝永遠〟を理解することは出来ません。あなたがた人間にはいわゆる因果応報の働きは分かりません。

霊界の素晴らしさ、美しさ、不思議さは、到底人間には理解できません。というのは、それを譬えるものが地上に存在しないからです。判断の基準には限界があり、視野の狭い人間に一体どうすれば霊界の真相が説明できるのでしょう。


 ご質問の子供の病の話ですが、子供の身体はことごとく両親からの授りものですから、両親の身体の特質が良いも悪いもみな子供の身体に受けつがれていきます。そうなると不治の病に苦しめられる子も当然出てまいりましょう。しかし子供にも神の分霊が宿っております。あらゆる物的不自由を克服できる神性を宿しているのです。

物質は霊より劣ります。霊のしもべです。霊の方が主人なのです。霊的成長はゆっくりとしていますが、しかし着実です。霊的感性と理解力は魂がそれを受け入れる準備ができた時はじめて身につきます。

従って私どもの説く真理も、人によっては馬の耳に念仏で終ってしまうことがあります。が、そういうものなのです。霊的真理に心を打たれる人は、すでに魂がそれを受け入れるまでに成熟していたということです。まるで神の立場から物を言うような態度で物事を批判することは慎しむことです」


問「こんな戦争ばかり続くみじめな世の中に生まれてくる意義があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「生まれてくる来ないの問題は自由意志の問題です。がその問題はさておいて、地上の多くの部分が暗雲におおわれていることは確かです。が、みじめな世の中と言ってしまうのは適切でないと思います。地球には地球なりの宇宙での役割があります。

生命の旅路における一つの宿場です。魂の修行場として一度は通過しなくてはならない世界です。もしも必要でなければ存在するはずがありません。存在しているということそのことが、それなりの存在価値をもっていることを意味します。

 さて、その物質界に生まれてくるのは各自にそれなりの霊界での仕事があり、それを果たすための修練の場としてこの地上を選んでくるわけです。案ずるより産むが易しと言いますが、決断を下す際に縣念したことも、実際に地上に来てみると、結構なんとかやっていけることがわかります。

あなたがたが不幸な子を可哀そうにと思うその気持ちは得てして思い過しであることが多いのです。大人は子供の気持になって考えているつもりで、その実、大人の立場から人生を眺めていることが多いのです。つまり子供自身にとっては恐ろしくも苦しくもない体験を、大人の方が先まわりして恐ろしかろう、苦しかろうと案じているのです」


問「でも、それも必要な場合があるんじゃないでしょうか。たとえば空襲などというのは体験のあるなしにかかわらず恐ろしいことには違いないでしょう」

シルバー・バーチ「おっしゃる通りです。私が言いたいのも実はその点なのです。子供というのは大人と同じ状態に置かれても、その影響の受け方が違います。

オモチャの兵器をいじくっても、子供はその本当の意味、おそろしさはわかりません。それは実は有難いことなのです。子供は何事も体験しないと理解できないのです。頭だけでは理解できないのです」


問「いかなる苦難の中にあっても、又いかなる混乱の中にあっても恐怖心を抱いてはいけないとおっしゃいました。解決はすべて己れの中に見出せるとのことですが、それはどうすれば見出せるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上の人間の全てが同じレベルの意識をもっているわけではないことを、まず認識して下さい。つまり今地上にいる何億何十億という人間の一人一人がみな違った段階を歩んでいるということです。その中には長い長い旅路の末にようやく魂の内奥の神性が発揮される段階に至った人がいます。

混乱の中にあって冷静さを失わず、内部の神性を発揮させる心構えの出来た人がいます。そういう人は必ずや解決策を見出します。〝どうすれば〟とのことですが、実はそういう疑問を抱くこと自体が、あなたがまだまだその段階に至っていないことを意味します。あなたも神の一部なのです。あなたにも神が宿っているのです。

それはホンの小さな一部ですが、神的属性のすべてを潜在的に所有しております。完成されてはいませんが完全なのです。もしも苦境にあってその神性と波長を合わせ、心を平静に保ち、精神的に統一状態を維持することが出来れば、それは宇宙の大霊と一体となることであり、疑いも迷いもなく、従ってそこに恐怖心の入るスキはありません。

波長が合わないからです。そうした心構えが簡単に出来るとは申しません。努力すれば出来ると言っているのです。現にそうした境地に達した人は大勢います」


問「地上生活を繰り返したあとの、魂の究極の運命はどうなるでしょうか」

シルバー・バーチ「究極の運命ですか。私は究極のことは何も知りません。最初と最後のことは私にはどうにもならないのです。生命は永遠です。進化も無限です。始まりもなく終りもないのです。進化は永遠に続くのです」


問「自由意志の使用を過ったが為に罪を犯した場合、神はなぜ過って使用されるような自由意志を与えたのでしょうか」

シルバー・バーチ「では一体どうあって欲しいとおっしゃるのですか。絶対に過ちを犯すことのないように拵えられたロボットの方がいいとおっしゃるのですか。それとも、罪も犯せば聖人君子にもなれる可能性をもった生身の人間の方がいいと思われますか。ロボットは罪を犯さないかも知れませんが、自由意志も、従って進歩もありません。

それでいいのですか。進歩する為には成功と失敗の両方が必要なのです。失敗が無ければ成功もないからです。人生は常に相対的です。困難と矛盾対立の中にこそ進歩が得られるのです。

ラクだから進歩するのではありません。難しいからこそ進歩するのです。その苦しい過程が魂を鍛え、清め、そして成長させるのです。光のないのが闇であり、善でないのが悪であり、知識の無いのが無知であるわけです。

宇宙全体が光になってしまえば、それはもはや光ではなくなります。相対的体験の中にこそ人間は進歩が味わえるのです。ドン底を体験しなければ頂上の味は分かりません。苦労して得たものこそ価値があるのです。ラクに手に入れたものはそれなりの価値しかありません」


問「自殺した者は霊界でどうなるでしょうか」

シルバー・バーチ「それは一概には言えません。それまでどんな地上生活を送ったかにもよりますし、どういう性格だったかにもよりますし、霊格の高さにもよります。が、何といってもその動機が一ばん問題です。

キリスト教では自殺のすべてを一つの悪の中にひっくるめていますが、あれは間違いです。地上生活を自らの手で打ち切ることは決していいことではありませんが、中には情状酌量の余地のあるケースがあることも事実です」


問「でも、自殺してよかったと言えるケースはないでしょう」

シルバー・バーチ「それは絶対にありません。自分の生命を縮めて、それでよかろうはずはありません。しかし自殺した者がみな死後暗黒の中で何千年何万年も苦しむという説は事実に反します」


問「自殺行為は霊的進歩の妨げになりますか」

シルバー・バーチ「もちろんです」


問「神は耐え切れない程の苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか」

シルバー・バーチ「それは違います。その説明の順序としてまず、これには例外があることから話を進めましょう。

いわゆる精神異常者、霊的に言えば憑依霊の仕業による場合があります。が、この問題は今はワキへ置いておきましょう。いずれにせよこのケースはごく少数なのです。大多数は、私に言わせれば臆病者の逃避行為にすぎません。

果たすべき義務に真正面から取り組むことが出来ず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることが、その苦しみから逃れる一ばんラクな方法だと考えるわけです。ところが死んでも、というよりは死んだつもりなのに、相変らず自分がいる。

そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変らず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを造り出して、それが外界との接触を遮断します。そうした状態のまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。

 しかし、すでに述べたように、一ばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今のべた通りそう思惑どおりには行きません。

が一方、これはそう多くあるケースではありませんが、動機が利己主義ではなく利他主義に発しているとき、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発しているときは、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの臆病心から出た自殺とはまったく違ってきます。

 いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分自身の手で自分の人生を書き綴っているのです。

一たん書き記したものはもう二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。

 いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になればかならず光が見えてきます。魂の内奥に潜む勇気が湧き出て来ます。その時あなたはその分だけ魂を開発したことになり、霊界からの援助のチャンスも増えます。背負いきれないほどの荷は決して負わされません。

なぜならその荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。決して神が〝この男にはこれだけのものを背負わせてやれ〟と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。

 宇宙の絶対的な法則のはたらきによってその人間がそれまでに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷を拵えることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。

つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです」


問「因果律のことでしょうか」

シルバー・バーチ「そうです。それが全てです」


問「たとえば脳神経が異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪はないと考えてもよろしいでしょうか」

シルバー・バーチ「話をそういう風にもってこられると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第ではまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人を勇気づけているようなことになりかねないからです。

 もちろん私にはそんなつもりは毛頭ありません。いまのご質問でも、確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に見てみると、やはりスタートの時点において、私がさきほどから言っている〝責任からの逃避〟の心理が働いているのです。

もしもその人が何かにつまづいたその時点で〝オレは間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても男らしく立ち向かおう。絶対に背を向けないぞ〟と覚悟をきめていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来たはずです。

 ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われてきます。

ついにはノイローゼとなり、自分で自分がわからなくなっていくのです。問題はスタートの時点の心構えにあったのです」


問「いわゆるアクシデント(偶発事故)というのはあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「非常に難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈次第でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけのわからぬ盲目的な力でたまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。

宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。ただその法則の範囲内での自由意志は認められています。しかしその自由意志にもまた法則があります。わがまま勝手が許されるという意味ではありません。

従って偶発事故の起きる余地はあり得ません。偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるからです。ぜひ知っておいていただきたいのは、法則の中にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。

平面的な単純な法則ではないのです。よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。自由意志の法則と宿命の法則とが入り組んで作用しているのです」


問「病気は教訓として与えられるのだとか、人間性を築くためだとか言う人がおりますが、本当でしょうか」

シルバー・バーチ「言っていること自体は正しいのですが〝与えられる〟という言い方は適切でありません。私どもと同じくあなたがたも法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として起きるのです。

言ってみれば、霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。しかしその支払にはまた別に補償という法則もあります。

物ごとには得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観点からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。

 教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で表われることもあるわけです。

人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。よろこびと悲しみ、健康と病気、晴天とあらし、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。

というのは、その双方に神の意志が宿っているからです。良い事にだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知って下さい」


問「死体は火葬にした方がいいでしょうか」

シルバー・バーチ「絶対、火葬がよろしい。理由にはいろいろありますが、根本的には、肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体のまわりに在世中の所有物や装飾品を並べてみたところで何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆に、徒らに悲しみやさびしさを誘うだけです。

 人間の生命の灯が消えてただの物質に帰した死体に対しあまりに執着しすぎます。用事は終ったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。死体を火葬にすることは、道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。

同時に又、心霊知識ももたずにこちらへ来た者が地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。

 衛生上から言っても火葬の方がいいといえますが、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知っていただきたいことは、火葬までに最低三日間は置いてほしいということです。というのは、未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれくらい掛かることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与えかねません」

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