Wednesday, February 19, 2025

シアトルの冬 古代霊は語る 再生  ──生まれ変わり──

Rebirth




 因果律と切っても切れない関係にあるのが再生の問題です。つまり他界後あるいは期間をおいて再びこの地上(時には他の天体)へ生まれ出て、必要な体験を積み、あるいは前世の償いをするという説です。

シルバー・バーチはこの再生を全面的に肯定するスピリットの一人ですが、そのシルバー・バーチの霊媒をつとめていたバーバネル氏が永い間この説に反対していたという事実は、シルバー・バーチとバーバネル氏が別人である───

言いかえればシルバー・バーチはバーバネル氏の潜在意識ではない、ということを示す有力な証拠として、今なお有名な語り草になっています。

 さて、ひと口に再生といっても、同じ人間がそっくりそのまま生まれ変わるのだという説、いわゆる全部的再生説、未浄化の部分だけが生まれてくるのだという説、いわゆる部分的再生説、全部でも一部でも無い、

ちょうど人間が子ダネを宿すように、守護霊(となるべきスピリット)が霊的なタネを母体の胎児に宿すだけだという説、いわゆる創造的再生説、等々があります。

 同じスピリチュアリズムの中にあって何故こんなに説が分かれるのか。その点をまずシルバー・バーチに説明してもらいましょう。

『知識と体験の多い少ないの差がそうした諸説を生むのです。再生の原理を全面的に理解するには大変な年月と体験が必要です。霊界に何百年何千年いても、再生の事実を全く知らない者がいます。

なぜか。それは、死後の世界が地上のように平面的でなく、段階的な内面の世界だからです。その段階は霊格によって決まります。その霊的段階を一段また一段と上がっていくと、再生というものが厳然と存在することを知るようになります。もっともその原理はあなた方が考えるような単純なものではありませんが・・・・・・』

 霊界にしてこの有様ですから、地上の人間に至っては尚更のことで、太古より世界各地にさまざまな再生にまつわる信仰がありました。

単に人間としての再生だけでなく、動物への生まれ変わりを説くものもあります。ただ機械的に何回も何回も、それこそ無限に再生をくり返すと説く宗教もあります。

 では再生の真相はどうなのか。そしてその目的は何なのか、これをシルバー・バーチに説いてもらうことにしますが、その前に、再生問題を扱うに当たって大切な課題の一つに、用語の整理があります。

中でも一ばん中心的な用語となるのは「自我」「意識」「個人的存在」などで、これらを正しく理解していないと再生の真相は理解できません。

 浅野和三郎氏の名訳にマイヤースの『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』の二冊がありますが、前者の原題は The Road to Immortality となっていて、これを文字通りに訳せば「永遠不滅への道程」ということで、

結局後者の『個人的存在の彼方』 Beyond Human Personality と同一の内容を意味していることになります。つまり個人的存在を超えた大我こそが真に永遠不滅の存在だというのです。

(私の師で浅野氏の弟子であった間部詮敦氏の話によりますと、浅野氏は人間味とか人間らしさというものを大切にされた方だったそうで、その著書や訳書の題名にどこか文学的色彩や風味を感じさせるのはそのせいでしょう。私もこれは非常に大切なことだと思います。「永遠の大道」を、内容にこだわって「永遠への大道」とすると味が損われるような気がします。)

 さて今私たちが〝自分〟として意識しているものは実は絶対的な個人的存在ではなく、真の自我である大きな意識体の一部又は一面にすぎない。その個人的存在の彼方にある大我へ回帰していく過程がとりもなおさず人生であるというわけです。

 その個人的存在を超えた意識の集団をマイヤースは Group Soul と呼び、これを浅野氏は 「類魂」 と訳しました。達意の名訳というべきで、これよりほかにいい訳語が思い当たりませんが、問題はその正しい理解です。マイヤースの通信を読んでみましょう。まず The Road to Immortality から───

 『類魂は見方によっては単数でもあり複数でもある。一個のスピリットが複数の類魂を一つにまとめているのである。脳の中に幾つかの中枢があるように、心霊的生活においても一個のスピリットによって結ばれた一団の霊魂があり、それが霊的養分を右のスピリットから貰うのである。

 私はさきに帰幽者を大別して「霊の人」「魂の人」「肉の人」の三つに分けたが、その中の「魂の人」となると大部分は再び地上生活に戻りたいとは思わない。

が彼らを統一しているスピリットは幾度でも地上生活を求める。そしてそのスピリットが類魂同士の強いきずなとなって、進化向上の過程において互いに反応し合い刺激し合うのである。

従って私が霊的祖先というとき、それは肉体的祖先のことではなく、そうした一個のスピリットによって私と結びつけられた類魂の先輩たちのことを言うのである。

一個のスピリットの内に含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところの業(カルマ)は確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世の業ではなくて、

私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型(パターン)のことをさすことがある。同様に私も自分が送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる。

かくして吾々はいずれも独立した存在でありながら、同時に又、いろいろな界で生活している他の霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。

 そしてこの死後の世界に来て霊的に向上していくにつれて、われわれは次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そしてついには個人的存在に別れを告げてその類魂の中に没入し、仲間たちの経験までもわがものとしてしまう。

ということは、結局人間の存在には二つの面があるということである。すなわち一つは形態の世界における存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である。

 地上の人たちは私のこの類魂説をすぐには受け入れようとしないかも知れない。たぶん彼らは死後において不変の独立性にあこがれるか、あるいは神の大生命の中に一種の精神的気絶を遂げたいと思うであろう。が私の類魂説の中には実はその二つの要素が見事に含まれているのである。

すなわちわれわれは立派な個性をもつ独立した存在であると同時に、また全体の中の不可欠の一部分でもあるのである。私のいう第四界(色彩界)、とくに第五界(光焔界)まで進んでくると、全体としての内面的な協調の生活がいかに素晴らしく、また美しいかがしみじみとわかってくる。

存在の意義がここに来て一段と深まり、そして強くなる。又ここに来てはじめて地上生活では免れない自己中心性、すなわち自己の物質的生命を維持するために絶え間なく他の物質的表現を破壊していかねばならないという、地上的必要悪から完全に解脱する。』


 以上は浅野氏訳の「類魂」の章の主要部分を原書に照らしながら読み易く書き改めたものです。私が浅野氏の訳に出会ったのは高校三年の時、ある先輩の心霊家の家を訪れた際に勝手に書棚をあさっているうちに、昭和初期の『心霊と人生』という月刊誌(浅野氏が主筆)が出てきて、その中に連載されていたのを読んだのが最初でした。

 残念ながらその家には全部は揃っておりませんでした。しかし題名の魅力もさることながら、その内容にただならぬものを感じた私は、大学へ進学してからも何とかしてこの全篇を読みたいという気持ちを持ち続けました。

そして浅野氏のあとを引きついで『心霊と人生』を発行し続けている脇長生氏の主催する都内数ヵ所の心霊の集いに毎週のように出席して、該書をもっている人を探し求めました。

そしてついに探し出して、後日それをお借りして徹夜でザラ紙のノートに写しました。いま私が参照しているのもそのノートです。

 その後私はこの『永遠の大道』の原書をバーバネル氏の心霊出版社から取り寄せて、浅野氏の訳と照らし合わせながら読み耽ったものですが、右の「類魂」の章まで読み来った時、宇宙の壮大でしかもロマンチックな大機構に触れる思いがして、思わず感激し、しばし随喜の涙にくれたことはすでに述べました。

 マイヤースは同書の別のところで、宇宙の創造主は多分大数学者ではなくて大芸術家だろうと述べています。

その意味は、宇宙の法則はシルバー・バーチも言っている通り寸分の狂いもなく数学的正確さをもって機能していますが、しかし同時にそこにうまみがあり、美しさがあり、ロマンがあるというのです。私にもそれがわかるような気がします。

 さてマイヤースのもう一つの霊界通信に『個人的存在の彼方』があります。これも『永遠の大道』と同じく浅野氏が絶讃し翻訳しています。

これも私はノートにコピーしたものを所有していますが、原書を読んでみると、通信は三部から構成されていて、浅野氏の訳はその第二部を訳出したものにすぎないことがわかりました。

 確かにこの第二部は圧巻であり、褒めることの滅多になかった浅野氏が絶讃したのも肯ける内容であることに間違いないのですが (余談ですが、浅野先生が 「読んでも損はない」 と言った時は非常にいい本だということであり、「ちょっといい」と言った時はもう絶讃したことになったということを間部先生から聞かされました)、 

第一部および第三部にも珠玉のような内容のものが散見されます。その一つがこれから紹介する 「再生」 Reincarnation の項で、『永遠の大道』の「類魂」の章の足らざる部分を補うような形になっています。むしろ、これを読んで初めて類魂というものが全体的に理解できるのではないかと思われます。

 『地上で動物的本能の赴くままに生きた人間が、こんどは知的ないし情緒的生活を体験するために再び地上に戻ってくることは、これはまぎれもない事実である。言いかえれば、私のいう 「肉の人」はまず間違いなく再生する。

 私のいう「魂の人」の中にも再生という手段を選ぶ者がいないわけではない。が、いわゆる輪廻転生というのは機械的な再生の繰り返しではない。一つの霊が機械が回転するように生と死を繰り返したという例証を私は知らない。百回も二百回も地上に戻るなどということはまず考えられない。

その説は明らかに間違っている。もちろん原始的人間の中には向上心つまり動物的段階から抜け出ようとする欲求がなかなか芽生えない者がいるだろうし、そういう人間は例外的に何度も何度も再生を繰り返すかも知れない。が、

まず大部分の人間は二回から三回、ないしせいぜい四回くらいなものである。もっとも中には特殊な使命または因縁があって八回も九回も地上に戻ってくる場合もないではない。

従っていい加減な数字を言うわけにはいかないが、断言できることは、人間という形態で五十回も百回も、あるいはそれ以上も地上をうろつきまわるようなことは絶対にないということである。

 たった二回や三回の地上生活では十分な経験は得られないのではないか、こうおっしゃる方がいるのかも知れない。がその不足を補うための配慮がちゃんと用意されているのである。

 乞食、道化師、王様、詩人、母親、軍人、以上は無数にある生活形態の中から種類と性質のまったく異なるものを無雑作に拾い上げてみたのであるが、注目すべきことは、この六人とも五感を使っている

(不幸にしてそのうちの一つないし二つを失えば別だが)という点では全く同じであること、言いかえれば人間生活の基本である喜怒哀楽の体験においては全く同じ条件下にあり、ただ肉体器官の特徴とリズムがその表現を変えているにすぎない、ということである。

 そうは言っても、彼らが地上生活を六回送っても、人間的体験全体からみればホンの一部分しか体験できないことは確かである。苦労したといっても多寡が知れている。

人間性の機微に触れたといっても、あるいは豁然大悟したといっても、その程度は知れたものである。人間の意識の全範囲、人間的感覚のすべてに通暁するなどということはまず出来ない相談だといっていい。

それなのに私は、地上生活の体験を十分に身につけるまでは(特殊な例外を除いては)、死後において高級界に住むことは望めない、とあえて言うのである。

 その矛盾をとくのが私のいう類魂の原理である。われわれはそうした無数の地上的体験と知識を身につけるために、わざわざ地上に戻ってくる必要はない。他の類魂が集積した体験と知識をわがものとすることが可能なのである。

誰れにでも大勢の仲間がおり、それらが旅した過去があり、いま旅している現在があり、そしてこれから旅する未来がある。類魂の人生はまさしく「旅」である。

私自身はかつて一度も黄色人種としての地上体験をもたないが、私の属する類魂の中には東洋で生活した者が何人かおり、私はその生活の中の行為と喜怒哀楽を実際と同じように体験することが出来るのである。

 その中には仏教の僧侶だった者もいれば、アメリカ人の商人だった者もおり、イタリア人の画家だった者もいる。その仲間たちの体験を私がうまく吸収すれば、わざわざ地上におりて生活する必要はないのである。

 こうした類魂という〝より大きな自分〟の中に入ってみると、意志と精神と感性とがいかにその偉力を増すものであるかが分かる。自意識と根本的性格は少しも失われていない。それでいて性格と霊力が飛躍的に大きくなっている。

幾世紀にもわたる先人の叡智を、肉体という牢獄の中における〝疾風怒涛〟の地上生活によってではなく、肌の色こそ違え、同じ地上で生活した霊的仲間たちの体験の中から、愛という吸引力によってわがものとすることが出来るのである。

 仮りに不幸にして不具の肉体を持って地上に生まれたとすれば、それは前世において何らかの重大な過ちを犯し、それを償うには、そうした身体に宿るのが一ばん効果的であるという判断があったと解釈すべきである。

 たとえば白痴に生まれついた者は、それなりの知能で地上生活を実感し、それなりの地上的教訓を吸収することを余儀なくさせられる。地上で暴君とか残忍な宗教裁判官だった者は、白痴とか精神薄弱児として再生することがよくある。

つまり他界後彼らは自分の犠牲者たちの苦しみをみて深く反省し、良心の苛責を感じるようになる。時にはその苛責があまりに大きくて、精神的中枢が分裂することがある。そしてその状態のまま地上の肉体に生まれ変わる。

言いかえれば地上時代の罪悪の記憶に追い回され、悪夢にうなされ、さらには犠牲者たちが自分に復しゅうしようとしているという妄想によって、それが一段と強烈になっていき、ついには精神的分裂症になったまま再生するのである。

 再生には定まった型というものはない。一人一人みな異なる。死後の生活においては、だれしも地上生活を振り返り、その意義を深く吟味する時期がかならず来る。

原始的人間であれば、それが知性でなく本能によって、つまり一種の情感的思考によって行われ、魂の深奥が鼓舞される。その時、類魂を統一しているスピリットが再び地上に戻る考えを吹き込む。

といって、決して強制はしない。あくまで本人に選択の自由が残されている。が、スピリットは進化にとって最も効果的な道を示唆し、個々の類魂も大ていの場合その指示に従うことになる。

 初めて地上に生まれてくる霊の場合は特別な守護が必要なので、類魂との霊的なつながりが特に密接となり、その結果その直接の守護に当たる霊のカルマが強く作用することになる。

守護霊は多分三回ないし四回の地上生活を体験しているであろうが、まだ完全に浄化しきってはいない。言いかえると、霊的進化にとって必要な物的体験をすべて吸収しきってはいない。

そこでその不足を補うのに次の二つの方法が考えられる。一つは、さきほど紹介した類魂の記憶の中に入っていく方法と、もう一つは地上に生まれた若い類魂の守護霊となり、自分の残したカルマの中でもう一度その類魂と共に間接に地上生活を送る方法である。

 後者の場合、地上の類魂はいわば創造的再生の産物である。言ってみれば自分の前世の生き証人であり、これによって霊的に一段と成長する。

 霊魂とは創造的理解力の中枢である。が、中にはその力が乏しくてどうしても創造主の心の中に入り込むことが出来ない者がいる。そんな時、類魂を統一するスピリットは、永遠不滅の超越界に入る資格なしとみて、いま一度始めからのやり直しを命じる。

私が前著をThe Road to Immortality(永遠への道程)と呼びThe Road of Immortality (永遠なる道程)としなかったのはそのためである。

中途で落伍する者がいるということである。が、それまでの旅路で得たものは何一つ無駄にならないし、何一つ失われることはない。すべての記憶、すべての体験は類魂の中にあずけられ、仲間の活用に供せられるのである。

 私は確信をもって言うが、私のいう〝霊の人〟のうちのある者は、たった一回きりしか物質界を体験しない。また私の考えでは、イエス・キリストはエリアの再生ではない。他の何者の再生でもない。イエスは神の直接の表現、すなわちことばが肉となったのである。

イエスはたった一度だけ地上に降りて、そして一気に父なる神のもとに帰っていった。イエスにとって途中の段階的進化の旅は無用であった。そこにイエス・キリストの神性の秘密が存在する。』


 エリアというのは旧約聖書に出てくる紀元前九世紀ごろのヘブライの預言者のことです。キリスト教界ではイエスはエリアの再来であると説く人がいるためにこんなことをマイヤースも言うわけです。

 余談になりますが、シルバー・バーチがキリスト教について語っている中に「今もしイエスが地上に再来し同じ教説を説いたら、真っ先に石を投げつけるのは現在のキリスト教徒たちでしょう」

というくだりがあります。言うまでもなく、現在のキリスト教が二千年前にイエスが説いた教えとはすっかり違ったものになっていることを言っているわけですが、同じことが仏教をはじめとして他の既成宗教のすべてに言えるのではないでしょうか。だからこそ改めて霊的真理を説くためにやってきたのだとシルバー・バーチは言うのです。

 余談はさておき、以上のマイヤースの説明で、類魂というものが概略だけでもおわかりいただけたと思います。そして又、再生というものがその類魂の進化という大目的のために行われるものであることも理解いただけたと思います。


 再生の哲理をこの類魂の原理で説いたのは、私の知るかぎりではマイヤースが初めてですが、哲理の内容そのものは、シルバー・バーチが説くところやアラン・カルデックの 『霊の書』 に見られる複数の霊からの自動書記通信と完全に符節を合してしております。

 特にシルバー・バーチの場合は、「それはマイヤースのいう類魂と同じものですか」という問いに対して「まったく同じです」と断言しており、非常に興味を覚えます。

 これからそのシルバー・バーチの説くところを紹介していくわけですが、この再生問題に関するかぎりシルバー・バーチは一方的にしゃべるということをせず、質疑応答の形に終始しております。

 これはカルデックの『霊の書』でも同じで、察するところ、霊的なことには地上的用語で説明できないことがあり、中でも再生の原理はその最たるものであり、人間側からの質問の範囲に留めるということになったのでしょう。その証拠に、シルバー・バーチはこんなことを言っているのです。


 『宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、われわれ霊界の者から見れば、それは実在のかすかなるカゲを見たにすぎません。

鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなたがたに、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう。

 私の苦労を察して下さい。譬えるものがちゃんとあれば、どんなにか楽でしょうが、地上にはそれがない。あなた方にはせいぜい光と闇、日なたと日かげの比較ぐらいしか出来ません。

虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明の出来ないほどの美しい色を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。』


 そういう次第でシルバー・バーチには再生に関する長文の叙述はなく、細かい質疑応答から成っております。それはそれなりに非常にわかりやすく、いわゆる痒いところに手の届く利点があります。

 が私の察するところでは、いい意味で人間には秘密にされている部分もあるようです。つまり宇宙の内奥に関するものには人間には絶対に理解できないものがあるらしいのです。それは右の引用文からも察せられますが、再生の大体の概念、基本的原理に関する限りでは、シルバー・バーチとカルデックとマイヤースは完全に同じことを説いております。

 私はこれが再生に関する真相──少なくとも人間に理解できる範囲での真相であるとみて差支えないと信じます。マイヤースの類魂説を冒頭にもってきたのも、それがシルバー・バーチの説くところと完全に符節を合し、再生の基本概念を伝える論説として適切であるとみたからです。

 これを細かく敷衍(ふえん)する目的で、これからシルバー・バーチと列席者との一問一答を紹介してまいりましょう。

  
  一問一答

 まず再生は自発的なのか、それとも果たすべき目的があって已むを得ず再生するのかという問いに対して、シルバー・バーチはその両方だと答えます。ということは、要するにそれなりの意味があって、それが得心がいったから再生するということかと聞かれて、まさにその通りだと答えます。それから次のような応答が展開します。


問「ということは、つまり強制的というわけですね」

シルバー・バーチ「強制的という言葉の意味が問題です。誰れかから再生しろと命令されるのであれば強制的と言ってもいいでしょうが、別にそういう命令が下るわけではありません。

 ただ地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世の過ち、施すべきでありながら施さなかった親切、こうしたものを明確に意識するようになり、今こそそれを実行するのが自分にとって最良の道だと自覚するようになるのです」


問「死後は愛のきずなのある者が生活を共にすると聞いておりますが、愛する者が再生していったら、残った者との間はどうなるのでしょう」

シルバー・バーチ「別に問題はありません。物質的な尺度で物事を考えるから、それが問題であるかのように思えてくるのです。何度も言っていることですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分にすぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。

一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、そのうちの幾つかが地上に再生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間には物質という壁が出来て、一時的な分離状態になることは確かです。が愛のきずなのあるところにそんな別れは問題ではありません」


問「霊魂は一体どこから来るのですか。どこかに魂の貯蔵所のようなものがあるのですか。地上では近ごろ産児制限が叫ばれていますが、作ろうと思えば子供はいくらでも作れます。でもその場合、魂はどこから来るのですか」

シルバー・バーチ「こう申しては何ですが、あなたの問いには誤解があるようです。あなた方が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは、霊魂が自己を表現するための器官を提供することだけです。生命の根源である〝霊〟は無限です。

無限なるものに個性はありません。その一部が個体としての表現器官を得て地上に現われる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。〝霊〟は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。が個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。

霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大勢います。その中にはもう一度地上に来て果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が大勢います。そして、その目的のための機会を与えてくれる最適の身体を探し求めているのです」


問「人間の霊も原始的段階から徐々に進化して来たものと思っていましたが・・・・・」

シルバー・バーチ「そうではありません。それは身体については言えますが、霊は無始無終です」


問「古い霊魂と新しい霊魂との本質的な違いはどこにありますか」

シルバー・バーチ「本質的な違いは年輪の差でしょう。当然のことながら古い霊魂は新しい霊魂より年上ということです」


問「類魂の一つ一つを中心霊の徳性の表現とみてもいいでしょうか」

シルバー・バーチ「それはまったく違います。どうも、こうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の日のあの青く澄み切った空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります」


問「それはフレデリック・マイヤースのいう類魂と同じものですか」

シルバー・バーチ「まったく同じです。ただし、単なる霊魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が物質界に体験を求めてやって来るのです」


問「その意識の本体に戻った時、各霊は個性を失うのではないかと思われますが・・・」

シルバー・バーチ「川が大海へ注ぎ込んだ時、その川の水は存在が消えるでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、バイオリンならバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」


問「なぜ霊界通信のすべてが生まれ変わりの事実を説かないのでしょうか」

シルバー・バーチ「証明のしようのないものをあれこれ述べても仕方がありますまい。意識が広がって悟りの用意が出来あがった時はじめて真理として受け入れられるのであって、要は霊的進化の問題です。再生など無いと言う霊は、まだその事実を悟れる段階まで達していないからそう言うにすぎません。

宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしようがないでしょう。芸術家がインスピレーションの話を芸術的センスゼロの人に聞かせてどうなります。意識の程度が違うのです」


問「再生するのだということが自分でわかるのでしょうか」

シルバー・バーチ「魂そのものは本能的に自覚します。しかし知的に意識するとは限りません。神の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で、一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現しても、その分量はホンの少しであり、表現されない部分が大部分を占めます」


問「では無意識のまま再生するのでしょうか」

シルバー・バーチ「それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識しない霊もいます。魂が自覚していても、知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題で、とても地上の言語では説明しかねます」


問「生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか」

シルバー・バーチ「愛はかならず成就されます。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛はかならず愛する者を引き寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同士を永久に引き裂くことは出来ません」


問「でも再生をくり返せば互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが」

シルバー・バーチ「一致しないのはあなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙及びその法則は神が拵えたのであって、あなた方が拵えるのではありません。

賢明なる人間は新しい事実を前にすると自己の考えを改めます。自己の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても所詮は徒労に終ることを知っているからです」


問「これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもいいと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間はいつまでも最下等のままです。体験を積めば即成長というわけにはいきません。要は悟りの問題です」


問「これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか」

シルバー・バーチ「そうです。無限に続きます。なんとなれば苦難の試練を経て初めて神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて初めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて初めて強く逞しい輝きを見せるのです」


問「そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「今日あなたには天国のように思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」


問「再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインデアンはインデアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に」

シルバー・バーチ「そうとは限りません。目指している目的のために最も適当と思われる国、民族を選びます」


問「男性か女性かの選択も同じですか」

シルバー・バーチ「同じです。必ずしも前生と同じ性に生まれるとはかぎりません」


問「死後、霊界に行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか」

シルバー・バーチ「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。

生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとはかぎりません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。

ましてや二度も罰せられるということは決してありません。神の摂理を知れば、その完璧さに驚ろかされるはずです。決して片手落ちということがないのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」


問「自分は地上生活を何回経験している、ということをはっきりと知っている霊がいますか」

シルバー・バーチ「います。それがわかるようになる段階まで成長すれば自然にわかるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることができないのと同じです。名前をいくつか挙げても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は〝説く〟だけで十分なはずです。

私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向にかまいません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。

人が受け入れないからといって、別にかまいません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう」


問「再生問題は問題が多いから、それを避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるという考えは如何でしょう」

シルバー・バーチ「暗やみにいるより明るいところにいる方がいいでしょう。少しでも多く法則を知った方が知らないよりはましでしょう。人間が神の分霊であり、それ故に死後も生き続けるという事実は、真理探究の終着駅ではありません。そこから本格的探究が始まるのです」


問「新しい霊魂はどこから来るのですか」

シルバー・バーチ「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。聖書でも〝神は霊なり〟と言っております。

ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう」


問「ということは、われわれは神という全体の一部だということですか」

シルバー・バーチ「その通りです。だからこそあなた方は常に神とつながっていると言えるのです。あなたという存在は決して切り捨てられることはあり得ないし、消されることもあり得ないし、破門されるなどということもあり得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります」


問「でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう」

シルバー・バーチ「これまた用語の意味がやっかいです。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。その意味でしたら、それはよくあることです。

但し、それはいま地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します」


問「再生するに際して過ちのないように指導監督する官庁のようなものが存在するのでしょうか」

シルバー・バーチ「こうした問題はすべて自然法則の働きによって解決されます。再生すべき人は自分でそう決心するのです。

つまり意識が拡大し、今度再生したらこれだけの生長が得られるということがわかるようになり、それで再生を決意するのです。再生専門の機関や霊団がいるわけではありません。すべて魂自身が決めるのです」


問「再生するごとに進歩するのでしょうか。時には登りかけていた階段を踏みはずして一番下まで落ちるというようなこともあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「すべての生命、とくに霊的な生命に関するかぎり、常に進歩的です。今は根源的な霊性についてのみ述べています。それが一ばん大切だからです。

一たん神の摂理に関する知識を獲得したら、それを実践するごとに霊性が生長し、進歩します。進歩は永遠に続きます。なぜなら、完全なる霊性を成就するには永遠の時間を要するからです」


問「先天性心臓疾患の子や知能障害児は地上生活を送っても何の教訓も得られないのではないかと言う人がいます。私たちスピリチュアリストはこうした難しいことは神を信じて、いずれは真相を理解する時が来ると信じているわけですが、疑い深い人間を説得するいい方法はないものでしょうか」

シルバー・バーチ「疑い深い人間につける薬はありません。何でも疑ってかかる人は自分で納得がいくまで疑ってかかればよろしい。納得がいけばその時はじめて疑いが消えるでしょう。私は神学者ではありません。宗教論争をやって勝った負けたと言い争っている御仁とは違います。

すべては悟りの問題です。悟りが開ければ、生命の神秘の理解がいきます。もっとも、全てを悟ることは出来ません。全てを悟れるほどの人なら、地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。

するとさらに次の段階の真理を理解する力がつくわけです。それが人生の究極の目的なのです。激論し合ったり、論争を求められたりするのは私は御免こうむります。

私はただこれまで自分が知り得たかぎりの真理を説いて教えてさしあげるだけです。お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば、〝そうですか。それは残念(アイアムソリー)ですね〟と申し上げるほかはありません」


問「霊に幾つかの側面があり、そのうちの一つが地上に生まれ、残りは他の世界で生活することもありうる、という風におっしゃいましたが、もう少しくわしく説明していただけませんか」

シルバー・バーチ「私たち霊界の者は地上の言語を超越したことがらを、至ってお粗末な記号にすぎない地上の言語でもって説明しなくてはならない宿命を背負っております。言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものを、どうして地上的用語で説明できましょう。

これは言語学でいう意味論の重大な問題でもあります。私に言わせれば、霊とはあなた方のいう神、 God、 私のいう大霊 Great spirit の一部分です。あなた方に理解のいく用語で表現しようにも、これ以上の言い方は出来ません。

生命力 life force、 動力 dynamic、 活力 vitality、 本質 real essence、神性 divinity 、それが霊です。仮に私が〝あなたはどなたですか〟と尋ねたらどう答えますか。〝私は〇〇と申す者です〟などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方かは皆目わかりません。

個性があり、判断力をもち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することの出来る人───それがあなたであり、あなたという霊です。その霊があるからこそ肉体も地上生活が営めるのです。

霊が引っ込めば肉体は死にます。霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性をもっています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。

その霊にいくつかの面があります。それを私はダイヤモンドに譬えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。もしも二人の人間が格別に相性がいい場合(めったにないことですが)、それは同じダイヤモンドの二つの面が同じ時期に地上に誕生したということが考えられます。

そうなると当然二人の間に完全なる親和性があるわけです。調和のとれた全体の中の二つの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます」


問「あなたがダイヤモンドに譬えておられるその〝類魂〟について、もう少し説明していただけませんか。それは家族関係(ファミリー)のグループですか、同じ霊格を具えた霊の集団ですか、それとも同じ趣味をもつ霊の集まりですか。あるいはもっとほかの種類のグループですか」

シルバー・バーチ「質問者がファミリーという言葉を文字通りに解釈しておられるとしたら、つまり血縁関係のある者の集団と考えておられるとすれば、私のいう類魂はそれとはまったく異なります。

肉体上の結婚に起因する地上的姻戚関係は必ずしも死後も続くとは限りません。そもそも霊的関係というものは、その最も崇高なものが親和性に起因するものであり、その次に血縁関係に起因するものが来ます。

地上的血縁関係は永遠なる霊的原理に基くものではありません。類魂というのは、人間性にかかわった部分にかぎって言えば、霊的血縁関係ともいうべきものに起因した霊によって構成されております。

同じダイヤモンドを形づくっている面々ですから、自動的に引き合い引かれ合って一体となっているのです。その大きなダイヤモンド全体の進化のために個々の面々が地上に誕生することは有り得ることですし、現にどんどん誕生しております」


問「われわれ個々の人間は一つの大きな霊の一分子ということですか」

シルバー・バーチ「そういってもかまいませんが、問題は用語の解釈です。霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまでも個性を具えた独立した存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません」


問「では今ここに類魂の一団がいるとします。その個々の霊が何百万年かの後に完全に進化しきって一個の霊になってしまうことは考えられませんか」

シルバー・バーチ「そういうことは有り得ません。なぜなら進化の道程は永遠であり、終りがないからです。完全というものは絶対に達成されません。一歩進めば、さらにその先に進むべき段階が開けます。

聖書に、己れを忘れる者ほど己れを見出す、という言葉があります。これは個的存在の神秘を説いているのです。つまり進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていくということです。おわかりですか。

個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている紳的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです」


問「〝双子霊〟Twin Souls というのはどういう場合ですか」

シルバー・バーチ「双子霊というのは一つの霊の半分ずつが同時に地上に生を享けた場合のことです。自分と同じ親和性を持った霊魂───いわゆるアフィニティ affinity ───は宇宙にたくさんいるのですが、それが同じ時期に同じ天体に生を享けるとはかぎりません。

双子霊のようにお互いが相補い合う関係にある霊同士が地上でめぐり合うという幸運に浴した場合は、正に地上天国を達成することになります。

霊的に双子なのですから、霊的進化の程度も同じで、従ってその後も手に手を取り合って生長していきます。私が時おり〝あなたたちはアフィニティですね〟と申し上げることがありますが、その場合がそれです」


問「双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう」

シルバー・バーチ「肉体的にはその通りです。しかしそれもホンの束の間のことです。肝心なのは二人が霊的に一体関係にあるということですから、物質的な事情や出来ごとがその一体関係に決定的な影響を及ぼすことはありません。

しかも、束の間とはいえ地上での何年かの一緒の生活は、霊界で一体となった時と同じく、素晴らしい輝きに満ちた幸福を味わいます」


問「物質界に誕生する霊としない霊とがいるのはなぜですか」

シルバー・バーチ「霊界の上層部、つまり神庁には一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験をしなくても生長進化を遂げることが出来るのです。

頭初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上に降りてくることがあります。歴史上の偉大なる霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります」


問「大きな業(カルマ)を背負って生まれてきた人間が、何かのキッカケで愛と奉仕の生活に入った場合、その業がいっぺんに消えるということは有り得ますか」

シルバー・バーチ「自然法則の根本はあくまでも原因と結果の法則、つまり因果律です。業もその法則の働きの中で消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消えることはありません。原因があればかならずそれ相当の結果が生じ、その結果の中に次の結果を生み出す原因が宿されているわけで、これはほとんど機械的に作動します。

質問者がおっしゃるように、ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。しかし、いっぺんにというわけには行きません。愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えていき、やがて完全に消滅します。業という借金をすっかり返済したことになります」


問「戦争とか事故、疫病などで何万もの人間が死亡した場合も業だったのだと考えるべきでしょうか。持って生まれた寿命よりも早く死ぬことはないのでしょうか。戦争は避けられないのでしょうか。もし避けられないとすると、それは国家的な業ということになるのでしょうか」


シルバー・バーチ「業というのは詰まるところは因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。

これは神の公正の証として神が用意した手段の一つです。もしも介入が許されるとしたら、神の公正は根底から崩れます。因果律というのは行為者にそれ相当の報酬を与えるという趣旨であり、多すぎることもなく少なすぎることもないよう配慮されています。

それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についても当てはまります。次に寿命についてですが、寿命は本来、魂そのものが決定するものです。

しかし個人には自由意志があり、また、もろもろの事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。戦争が不可避かとの問いですが、これはあなた方人間自身が解決すべきことです。

自由意志によって勝手なことをしながら、その報酬は受けたくないというようなムシのいい話は許されません。戦争をするもしないも人間の自由です。が、もし戦争の道を選んだら、それをモノサシとして責任問題が生じます」

問「寿命は魂そのものが決定するとおっしゃいましたが、すべての人間にあてはまることでしょうか。たとえば幼児などはどうなるのでしょう。判断力や知識、教養などが具わっていないと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「この世に再生する前の判断力と、再生してからの肉体器官を通じての判断力とでは大きな差があります。もちろん再生してからの方が肉体器官の機能の限界のために大きな制限を受けます。しかし大半の人間は地上で辿るべき道程について再生前からあらかじめ承知しています」


問「地上で辿るべきコースがわかっているとすると、その結果得られる成果についてもわかっているということでしょうか」

シルバー・バーチ「その通りです」


問「そうなると、前もってわかっているものをわざわざ体験しに再生することになりますが、そこにどんな意義があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上に再生する目的は、地上生活から戻って来て霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もってわかったからといって、霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。

たとえば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えますまい。霊的生長というのは実際にものごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の全目的があります」


問「航空機事故のような惨事は犠牲者及びその親族が業を消すためなのだから前もって計画されているのだという考えは、私にはまだ得心がいきませんが・・・・・・」

シルバー・バーチ「ご質問はいろいろな問題を含んでおります。まず〝計画されている〟という言い方はよくありません。そういう言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事をひき起こしているように聞こえます。すべての事故は因果律によって起こるべくして起きているのです。

その犠牲者───この言い方も気に入りませんが取り敢えずそう呼んでおきます───の問題ですが、これには別の観方があることを知って下さい。つまり、あなたがたにとって死はたしかに恐るべきことでしょう。

が私たち霊界の者にとっては、ある意味でよろこぶべき出来ごとなのです。赤ちゃんが誕生すればあなた方はよろこびますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるのです。

反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらでは大よろこびでお迎えしています。次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。

これは運命と自由意志という相反する二つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です。つまり運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されているわけです。説明の難かしい問題ですが、そう言い表わすほかにいい方法が思い当たりません」

 
問「事故が予知できるのはなぜでしょう」 

シルバー・バーチ「その人が一時的に三次元の物的感覚から脱して、ホンの瞬間ですが、時間の本来の流れをキャッチするからです。大切なことは、本来時間というのは〝永遠なる現在〟だということです。このことをよく理解して下さい。

人間が現在と過去とを区別するのは、地上という三次元の世界の特殊事情に起因するのであって、時間には本来過去も未来も無いのです。三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になることが今現在において知ることが出来ます。

もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味をもつかは、これはまた別の問題です。

単に物的感覚の延長にすぎない透視、透聴の類いの心霊的能力 psychic powers によっても予知できますし、

霊視・霊聴の類いの霊感 spiritual powers によっても知ることができます。psychic と spiritual は同じではありません。いわゆるESP(Extra Sensory Perception 超感覚的知覚)は人間の霊性には何のかかわりはなく、単なる五感の延長にすぎないことがあります」


問「占星術というのがありますが、誕生日が人の生涯を支配するものでしょうか」

シルバー・バーチ「およそ生命あるものは、生命をもつが故に何らかの放射を行っております。生命は常に表現を求めて活動するものです。その表現は昨今の用語で言えば波長とか振動によって行われます。右中間のすべての存在が互いに影響し合っているのです。

雷雨にも放射活動があり、人体にも何らかの影響を及ぼします。言うまでもなく太陽は光と熱を放射し、地上の生命を育てます。木々も永年にわたって蓄えたエネルギーを放射しております。

要するに大自然すべてが常に何らかのエネルギーを放射しております。従って当然他の惑星からの影響も受けます。それはもちろん物的エネルギーですから、肉体に影響を及ぼします。

しかし、いかなるエネルギーも、いかなる放射性物質も、霊魂にまで直接影響を及ぼすことはありません。影響するとすれば、それは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度にすぎません」


問「今の質問者が言っているのは、たとえば二月一日に生まれた人間はみんな同じような影響を受けるのかという意味だと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「そんなことは絶対にありません。なぜなら霊魂は物質に勝るものだからです。肉体がいかなる物的影響下におかれても、宿っている霊にとって征服できないものはありません。もっともその時の条件にもよりますが。

いずれにせよ肉体に関するかぎり、すべての赤ん坊は進化の過程の一部として特殊な肉体的性格を背負って生まれてきます。それは胎児として母体に宿った日や地上に出た誕生日によって、いささかも影響を受けるものではありません。

しかし、そうした肉体的性格や環境の如何にかかわらず、人間はあくまでも霊魂なのです。霊魂は無限の可能性を秘めているのです。

その霊魂の本来の力を発揮しさえすれば、如何なる環境も克服しえないことはありません。もっとも、残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂の方が右往左往させられておりますが・・・・・・」

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