Monday, February 3, 2025

シアトルの冬 祈りの法則

Laws of Prayer





〈讃仰(さんごう)の祈り〉



――讃仰の祈りとはどのような祈りでしょうか。


「思念の波動を神に近づけるための祈りです。その祈りを通して神に近づくのです」


――それは内部の感性の発露でしょうか、それとも祈りの言葉による産物でしょうか。


「宇宙の大霊の存在への信仰と同じく、内部の感性の発露です」


――やはり自然法則の範疇に入るのでしょうか。


「自然法則の一つです。なぜなら、人間の内部の感性の発露だからです。だからこそ、形式は異なっても、世界中の民族に見られるのです」


――表現形式は不可欠のものでしょうか。


「真実の祈りは心の中での働きです。いかなる形式を用いるにせよ、神の目が常に注がれていることを忘れないことです」


――と言うことは形式も無用ではないということでしょうか。


「見せかけのものでなければ無用ではありません。わざとらしい仰々しい態度や見せかけだけの敬虔な振る舞いを伴った祈りでは、人々を欺くと同時に、想像以上の弊害をもたらします」


――祈りは一人よりも集団で行う方が好ましいのでしょうか。


「思念と感情において親和性のある人々が集まれば善霊を呼び寄せる強力な波動が出せることはご存じと思いますが、それと同じで、祈りの波動も強力となります。だからといって一人での祈りは感心しないという意味に受け取ってはいけません。各自の思念の中において神を崇めることができるのですから」


――生涯を俗世から離れ、悪とも無縁で、ひたすら神を求めて瞑想三昧で過ごす生き方は、神の目から見て賞讃に値するものがあるのでしょうか。


「ありません。そういう人生では他人へ悪事を働くこともないでしょうが、善行もしません。しかも他人への善行がないということそれ自体が悪です。神は子等が神の存在を忘れないように配剤しておられますが(良心の声など)、同時に同胞に対しても果たすべき義務も与えておられます。精神統一と瞑想の行に費やす人生は、神の目から見て賞讃には値しません。そういう人生はその人だけのものであり、人類にとって何の益にもならないからです。いずれ神から、無為に終わらせた人生の穴埋めをするようにとのお達しがあるでしょう」
〈祈願〉


――一般的な意味での祈願とは何でしょうか。


「祈願も讃仰の祈りの一つです。神に祈るということは神の存在を意識することであり、神に近づくことであり、内的自我が神とコミュニケーションを持つことです。祈るということには三つの要素があることを認識してください。すなわち神を讃(たた)えること、神に何かを求めること、そして神に感謝すること、この三つです」


――よくお祈りをする人の中に、時として無愛想だったり、嫉妬深かったり、慈しみや忍耐心に欠ける人、極端な場合は悪徳の固まりのような人すら見かけますが、どう理解したらよろしいでしょうか。


「大切なのはたくさん祈るのではなく正しく祈ることです。今おっしゃったような人は祈りとは長々と言葉を述べることと思い込み、それを自分の欠点とは無関係と思っているのでしょう。彼にとっては言わば日課にすぎず、自己反省の要素は皆無です。効き目がないのは薬ではなく、その使い方を間違っているからです」


――自分の過ちを許してくださいと祈ることには何か意義があるのでしょうか。


「神の目には善か悪かは一目瞭然です。祈ったからといって神の目をごまかせるものではありません。過ちの許しを求める方法は、行いを改めるしかありません。善行が最高の祈りです。行為は言葉に優ります」


――他人のために祈ることに効用があるでしょうか。


「他人のためを思って祈る人の霊力が、力になってあげたいという欲求を通して影響を及ぼします。祈る人の波動によって善霊が引き寄せられ、その善行に加勢します」


――死者の霊および霊界で苦しんでいる霊のために祈ることは意義があるでしょうか。もしあるとすれば、その祈りがどういう形で苦痛を和らげ、あるいは苦しむ期間を短くしてあげることになるのでしょうか。祈りには摂理さえ変える力があるのでしょうか。


「神の摂理そのものは祈りによって何の影響も受けません。しかし、人間から送られてくる祈りの念によって霊の心が慰められます。孤独な霊にとっては自分に関心を向けてくれる人がいることの証であり、その思いが何よりの慰めとなるのです。が、それだけで終わっては何にもなりません。そこから高級霊の出番となります。慰めを得た霊に罪を悔い改め善性を志向する心が芽生えます。その一瞬を狙って高級霊が善性志向を増幅させ、結果的には苦悶の期間を短縮することになります」
〈生(い)け贄(にえ)〉


――祈りにつきものとして太古から生け贄を捧げる儀式がありますが、人類はなぜこんな残酷なことで神を喜ばせようとしたのでしょうか。


「まず第一は、神の概念が幼稚だったこと。第二に、ただの品物よりも生きたものの方が価値があると考え、始めのうちは動物を、やがて人間を捧げるようになりました。あなた方が贈り物をする時、高価なものほど受け取る人は喜ぶと考えるのと基本的にはいっしょです」


――すると、“人身御供(ひとみごくう)”というのは必ずしも残酷なこととは思われていなかったのでしょうか。


「その通りです。その方が神の怒りを鎮める効果が大きいと考えたのです。もちろん誤った神の概念から生まれたことですが……」


――動物の生け贄よりも果物のお供えの方が本当は神の目から見て喜ばしいわけですね?


「血なまぐさい生け贄よりも大地が生み出した果実の方がいいに決まっています。何度も言うように神が嘉納されるのは心です。形ある供物はどうでもよろしい。心の底から発せられた祈りの方が、山と積まれた供物よりも、遥かに神に通じます。くり返します――何事も心が大切です。形式はどうでもよろしい」

シアトルの冬 自然法則

 law of nature



〈自然法則の特性〉


――自然法則とは何でしょうか。


「神の摂理です。人間の幸せを保証する絶対的な摂理です。それが人間の為すべき事と為すべきでない事を示しており、それに逆らう者は苦しむのみです」


――神の摂理は永遠ですか。


「神ご自身と同じく永遠にして不変です」


――神の摂理は人間の倫理・道徳面だけに係わるものでしょうか。


「自然界の法則も全て神の摂理です。神が全存在の創造主だからです。科学の探求者は自然界の理法を研究し、善性の探求者はそれを魂の中に求め、そして実践します」


――人間はその全摂理に通暁できるのでしょうか。


「できます。ただし、たった一度や二度の地上生活では無理です」


――摂理は宇宙の全天体にわたって同一なのでしょうか。


「理性的に考えれば、当然、各天体の特殊性とそこに住む存在の発達程度に応じたものであるに決まっています」
〈自然法則の理解〉


――物的身体に宿る前の霊は、宿った後よりも神の摂理を明確に理解しているのでしょうか。


「到達した霊性の発達レベルに応じた理解をしており、身体に宿った後も直覚的な回想力を保持していますが、低劣な人間的本能がそれを忘れさせます」


――その摂理の理解は霊のどこに刻み込まれているのでしょうか。


「良心(善悪の分別力)です」


――良心に刻み込まれたものを、なぜ改めて啓発する必要があるのでしょうか。


「低劣な本能のせいで忘却したり誤解したりしているからです。人間がそれを思い出してくれるようにというのが神の御意志です」


――神はそうした摂理を外部から啓示する使者を派遣しておられるのでしょうか。


「もちろんです。あらゆる時代にその使命を授かった者がいます。霊性の高い霊で、人類の発達を促進する目的で地上へ降誕しています」


――そうした使者の中で模範とすべき最も完全に近い人物は誰でしょうか。


「ナザレのイエス」


訳注――カルデックの背後霊団がスピリチュアリズム、すなわち地球浄化の大事業の一翼を担っていたことは改めて指摘するまでもないであろう。巻頭の《カルデックへの霊団からのメッセージ》に「イエスの偉大なる愛の原理のもとに集える我々は」云々……とあるのを見ても明らかである。スピリチュアリズム運動の最高責任者がほかならぬあのナザレのイエスであることはシルバーバーチもインペレーターも明言している。

そのイエスは一体どういう風貌をしていたのだろうか。数多いインディアンの指導霊の一人であるホワイト・ホークが叙述しているところを紹介しておくと「体格はすらりとして品があり、髪はコーン色(浅黄)、顔は色白で卵形、わずかに頬が張り、髪よりも黒みがかったクリ色のアゴひげをたくわえていた。腕はほっそりとしていたが強靭で、容貌は優しさの中に憂いをたたえ、いつも紫色のマントをまとっていた。」
〈善と悪〉


――道徳的摂理とはどう定義づけたらよいでしょうか。


「道徳的摂理とは正しい行為を判断するための規準です。言い変えれば、実践において善と悪とを分別するための規準です。神の摂理の遵守が基本です。行為の動機と規準が善を志向するものであれば、その行為は正しいと言えます。神の摂理を遵守したことになるからです」


――善と悪との分別は何を規準にしたらよいのでしょうか。


「善とは神の摂理に適ったものであり、悪とは神の摂理から逸脱したものです。正しい行為とは神の摂理に適ったことをすることであり、過った行為とは神の摂理を侵害することです」


――人間には自ら善悪を弁(わきま)える能力がそなわっているのでしょうか。


「その両者を弁別するための直観的判断力(良心)が授けられています」


――自分では正しいと思っても間違っていることがあります。


「イエスが言っております――“自分がしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい”と。道徳的摂理の要諦はこの言葉に尽くされております。これを行動の規準にすることです。決して間違えることはありません」


――それは言わば相互依存の関係であり、自分自身に対する個人的な行為には当てはまらないと思うのです。自分自身への行為の善悪にも判断の規準があるのでしょうか。


「食べ過ぎると胃腸の調子がおかしくなります。神はその不快感をもって各自の限度の規準としています。その限界を超えると神が罰するということです。同じことが他の全てのことについて言えます。何事にも摂理によって必要限度というものが設定されており、それを超えると自動的に苦しみが生じて罰せられます。“それで十分”という神の声に人間が耳を傾けるようになれば、天災と思い込んでいる地上の災害の大半が未然に防げるはずです」


――善と悪は全ての人間にとって絶対的なものでしょうか。


「神の摂理は全ての人間に分け隔てなく働きます。が、罪悪はその実行に当たっての魂の欲望の中に潜んでいます。善はあくまでも善であり、悪はあくまでも悪であり、地位や職権には関係ありません。異なるのは責任の度合いです」


訳注――シルバーバーチは「罪は動機によって決まる」と一貫して述べている。ここでは「その実行に当たっての欲望」という難しい表現をしているが、煎じつめれば“動機”という用語に含まれているのではなかろうか。誉れ高き地位や名声を手にすると、善悪の判断に際してそれを失うまいとする欲望が先走り、良心との葛藤が渦巻く。しかし、シルバーバーチ曰く――「良心が命じることは、たとえその方向へ進むと物的には不遇になることが分かっていても、迷わず従いなさい。最後はきっと良いようになります。難しく考えることはないのです。これほど簡単な話はありません。」

とは言え、肉体をまとって地上の人間になってしまうと、それがそう簡単に行かない。“低劣な人間的本能”が邪魔をするのであるが、逆に考えると、だからこそ地上の物的生活の意義もあるのではなかろうか。


――すでに罪悪のタネが蒔かれていて、たまたま置かれた地位や立場上その責任を負わざるを得ないことがあります。この場合、最大の咎めを受けるのは誰でしょうか。


「最初にタネを蒔いた者です。罪悪そのものに対して責任を取らされるだけでなく、図らずもそのトラブルに巻き込まれた者がこうむった苦しみに対しても責任を問われます」


――反対に、自分は直接手を染めなかったけれどもその罪悪によって利益を得た者は、直接参加した場合と同じ罪に問われるのでしょうか。


「その通りです。罪による利益を手にした者は、罪を犯したのと同じです。仮に気が咎めて直接犯罪行為に加わらなかったとしても、実際に犯罪が実行され、その結果として得られた分け前を懐にすれば、直接参加したのと同じです」


――心に罪悪の思念を宿すということは、それを実行した場合と同じ罪に値するのでしょうか。


「それはそのケースによりけりです。犯意を抱きながらも、やはりいけないと必死に抑制した場合、これは立派です。しかし、同じく実行しなかった場合でも、実行するチャンスが無かったというのでは、これは罪を犯したのと同じです」


――置かれた立場上、善行のチャンスがないという人はいないでしょうか。


「善行のチャンスがない人間は一人もいません。もしいるとすれば、それは利己主義者のみです。人間関係が全く無いというのならともかく、毎日のように他人と接するチャンスがある生活環境においては、よほどの利己主義者を除いて、何らかの善行のチャンスはあります。善行というのは人に物を上げることを言っているのではありません。どんな形でもよろしい、他人の役に立つことをすることです」


――試練として悪徳の巷に生をうけた場合、悪への誘惑が抗し切れないものとはならないでしょうか。


「強烈ではあっても抗し切れないことはありません。悪徳の環境の中で徳性の高い行いを実践してみせる人はいます。そういう人は霊格の高い霊の生まれ変わりで、その程度の誘惑に負けないだけの霊力を身につけていますから、試練に打ち克つと同時に、周囲の人々に気高い影響力を行使する使命も果たします」


――徳行の価値の高さは、それを実行する環境の厳しさによって計られるものなのでしょうか。


「有徳の行為の価値は、実行の困難さによって決まります。克己も奮闘努力もなしに簡単に成就できるものは何の価値もありません。神は金持ちによる山ほどの供物よりも貧者による一切れのパンの方を嘉納されます。それをイエスは“寡婦の賽銭”の寓話で語っております」(新約聖書マルコ伝12)

シアトルの冬 再 生 生まれかわり

Rebirth Reincarnation


シルバーバーチの
スピリチュアルな生き方Q&A


【Q1】

意識がいくつかに分かれて働くということは、あり得ることでしょうか?
 今、あなたは物質の世界で自分を意識していますが、それは本源の大きな意識のほんの一部です。同じ本源の意識には、他の階層で発現している小さな意識がいくつもあります。

【Q2】
それぞれに独立しているのでしょうか?

 いえ、独立はしていません。あなたを含めた小さな意識は、一個の大きな霊的実在の部分的表現です。全体を構成する部分的意識であり、それらが(さまざまな階層で)質的に異なる媒体で自我を表現しています。

 ときおり、それらが合体することはあります。ですから、小我同士は必ずしも見ず知らずというわけではありませんが(注)、互いの存在を意識するのは、何らかの媒体を通して自己表現をし始めてからのことです。そして、最終的には合流点にたどり着いて、すべての小我が大我と一体となります。

訳注───熱心なシルバーバーチの愛読者なら気づかれたかもしれないが、十数年前に潮文社から出した 『シルバーバーチの霊訓』 第四巻にこれと同じQ&Aがあり、今、それを念のために目を通してみると、明らかな誤訳の箇所が見つかった。「必ずしも見ず知らずというわけではない」のところを「気づかないこともある」と訳している。翻訳者にありがちな思い込み違いによる誤訳である。「訳者あとがき」参照。


【Q3】
二つの部分的意識(ダイヤモンドの一側面・分霊)が、地上で会っていながら、そうと気づかないことがあるでしょうか?

 大きな意識を一つの大きな円であると想像してください。その円を構成する分霊が離ればなれになって中心核のまわりを回転しています。ときおり、分霊同士が会ってお互いが同じ円のなかにいることを認識しあいます。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て、再びもとの円が完成されます。


【Q4】
分霊同士で連絡しあうことができますか?

 必要があれば、できます。


【Q5】
二つの分霊が、同時に、地上に誕生することがありますか?

 ありません(注)。全体の目的に反することだからです。個々の意識があらゆる階層での体験を積むということが、本来の目的です。同じ階層へもう一度戻ってくることはありますが、それは成就すべきことが残っている場合に限られます。

訳注───これは 「原則として」 という文言を入れるべきであろう。前章のQ9の回答の最後の一節では「affinity」という用語を用いて、二つのアフィニティが出会うことがあると述べている。ただし「まれにですが」と断っている。

その直前の回答の最後で「それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです」と述べているが、これが原則であって、アフィニティ同士が出会うのは例外的であると理解すべきである。


【Q6】
体験による教訓は仲間から得られても、進化のための因果律は自分で解消していかねばならないと考えてよいでしょうか?
 そのとおりです。個々の分霊は一個の大きな意識の構成分子であり、それらがさまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて自我の本体を意識していくわけです。


【Q7】
そうやって、進化のある一点において、すべてが一体となるわけですね?

 そういうことです。無限の時をへてのことですが‥‥。


【Q8】
個々の分霊の地上への降誕は一回きり、つまり自我の本体としては再生はあっても、分霊としては再生はないと考えてよいでしょうか?

 それは、成就すべき目的が何であるかによります。同じ分霊が二度も三度も降誕してくることがありますが、それは特殊な使命がある場合に限られます。


【Q9】
一つの意識の個々の部分、というのはどういうものでしょうか?
 これは説明の難しい問題です。あなた方地上の人間には「生きている」ということの本当の意味が理解できないからです。あなた方のいう生命は、実は最も下等な形態で顕現しているのです。生命の実体───思いつくかぎりのものすべてを超越した意識をもって生きる、高次元での生命の実情は、とても想像できないでしょう。

 宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションにふれたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかな影を見たに過ぎません。

鈍重なる物質によって表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう?

 私の苦労を察してください。たとえるものがあればどんなにからくでしょうが、地上にはそれがありません。あなた方には、せいぜい光と影、日向と日陰の比較くらいしかできません。虹の色はたしかに美しいでしょう。ですが、地上の言語で説明できないほど美しい霊界の色彩を虹にたとえてみても、美しいという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。


【Q10】
分霊の一つ一つを本霊の徳性の表現と見てよろしいでしょうか?
 それはまったく違います。こうした問いにお答えするのは、生まれつき目の不自由な方に、晴天の日の、あの澄みきった青空の美しさを説明するようなもので、たとえるものがないのですから困ります。


【Q11】 
フレデリック・マイヤースのいう「類魂」(注)と同じものと考えてよいでしょうか?

 まったく同じものです。ただし、単なる魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する小意識の集団で、その全体の進化のために体験を求めて降誕してくるのです。

訳注───「類魂説」 は俗に 「マイヤースの通信」 と呼ばれている 『永遠の大道』 と 『個人的存在の彼方』 のうち、前編でその基本原理が述べられ、後編でそれを敷衍・発展させたもので、スピリチュアリズムに画期的な発展をもたらした。参考までに、前編の第六章 「類魂」 の章をかいつまんで紹介しておく。

 「類魂は見方によっては単数でもあり複数でもある。一個の高級霊が複数の霊を一つにまとめているのである。脳のなかに幾つかの中枢があるように、霊的生活においても一個の統括霊によって結ばれた霊の一団があり、それが霊的養分を右の高級霊からもらうのである。(中略)

 一個の統括霊のなかに含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところのカルマは確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世のカルマではなくて、私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型のことを指すことがある。

 同様に私も、自分で送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる。かくして我々は、いずれも独立した存在でありながら同時にまた、いろいろな界で生活している他の霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。(中略)

 我々は、この死後の世界へ来て向上していくにつれて、次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そして遂には個人的存在に別れを告げて類魂のなかに没入し、仲間たちの経験までも我がものとしてしまう。結局のところ人間の存在には二つの面があると理解していただきたいのである。

即ち一つは形態に宿っての客観的存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である」


【Q12】
その本霊に戻ったときに、分霊は個性を失ってしまうのではないかと思われるのですが。

 川の水が大海へ注ぎ込んだとき、その水は存在が消えてしまうのでしょうか? オーケストラが完全なハーモニーで演奏しているとき、たとえばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか?


【Q13】
再生の決定的な証拠を、なぜそちら側から提供してくれないのでしょうか?

 霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などあり得るでしょうか? 意識に受け入れ態勢が整い、再生が法則であることに理解がいってはじめて、事実として認識されるのです。再生はないと説く者が私の世界にもいるのはそのためです。まだ、その事実を悟れる段階に達していないから、そう言うに過ぎません。

宗教家が、その神秘的体験をビジネスマンに語っても仕方ないでしょう。芸術家が、インスピレーションの体験話を芸術的センスのない者に聞かせてどうなるでしょう。理解できるわけがないでしょう。意識の次元が違うのです。


【Q14】
そろそろ再生するということが、自分でわかるのでしょうか?

 魂そのものは本能的に自覚します。しかし、精神を通して(知覚的に)意識するとは限りません。大霊の一部である魂は、永遠の時の流れのなかで一歩一歩、少しずつ自我を表現していきます。しかし、どの段階でどう表現しても、その分量はわずかであり、表現されていない部分が大半を占めています。


【Q15】
では、無意識の状態で再生するのでしょうか?
 それも霊的進化の程度によって違います。再生する霊のなかには、自分が以前にも地上生活を送ったことがあることを知っている者もいれば、まったく知らない者もいます。

魂が自覚している、つまり霊的意識では自覚していても、それが精神によって知覚されていないことがあるのです。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題でして、あなた方の言語で説明するのはとても困難です。


【Q16】
生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれかわりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか?

 愛は必ず成就されます。なぜなら、愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は、必ず愛する者を引き寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同士を永久に引き裂くことはできません。

 
【Q17】
でも、再生を繰り返せば、互いに別れの連続ということになりませんか? これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが‥‥。

 一致しないのは、あなたの天上の幸せの観念と、私の天上の幸せの観念のほうでしょう。宇宙とその法則は大霊がこしらえたのであって、その子どもであるあなた方がこしらえるのではありません。賢明な人間は、新しい事実を前にすると、自分の考えを改めます。自分の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても、しょせんは徒労に終わることを知っているからです。


【Q18】
これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもよいと思うのですが‥‥。
 物質界にあっても聖人は聖人ですし、最低の人間はいつまでも最低のままです。体験を積めば、必ずそれだけ成長するというものではありません。要は、魂の進化の問題です。


【Q19】
これからも無限に苦難が続くのでしょうか?

 そうです。無限に続きます。何となれば、苦難の試練をへてはじめて、神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられてはじめて、その輝きを見せるように、神性も苦難の試練にさらされてはじめて、強くたくましい輝きを見せるのです。


【Q20】
そうなると、死後に天国があるという概念の意味がなくなるのではないでしょうか?

 今のあなたには天国に思えることが、明日は天国とは思えなくなるものです。というのは、真の幸福というものは、今より少しでも高いものをめざして努力するところにあるからです。


【Q21】
再生するときは前世と同じ国に生まれるのでしょうか?たとえば、インディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人にという具合に。

 そうとは限りません。めざしている目的のために最も適当と思われる国や民族を選びます。


【Q22】
男性か女性かの選択も同じですか?

 同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。


【Q23】
死後、霊界で地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当でしょうか?神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのでしょうか?

 償うとか罰するとかの問題ではなく、要は進化の問題です。つまり、学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。生まれかわるということは、必ずしも罪の償いのためとは限りません。ギャップ、つまり、欠けているものを補う目的で再生する場合がよくあります。

もちろん、償いをする場合もあり、前世で学ぶべきだった教訓を改めて学びにくるという場合もあります。償いのためとは限りません。

 ましてや、二度も罰せられることはあり得ないことです。大霊の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して不十分ということがないのです。完璧なのです。大霊そのものが完璧だからです。


【Q24】
自分は、地上生活を何回経験しているということを明確に認識している霊がいますか?

 います。それがわかる段階まで成長すれば、自然にわかるようになります。必然的にそうなるのです。光に耐えられるようになるまでは光を見ることはできません。名前をいくつかあげても結構ですが、それでは〝証拠〟にはならないでしょう。何度もいってきましたように、再生の事実はこうして〝説く〟だけで十分なはずです。

 私は、大霊の摂理について、自分がこれまでに理解したことを述べているのです。知ったとおりを述べているだけです。私の言うことに納得がいかない人がいても、それは一向にかまいません。受け入れてもらえなくてもよいのです。私と同じだけの年数の霊界生活を送れば、考えが変わるでしょう。


【Q25】
再生問題は異論が多いからそれは避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるほうがいいという考えはいかがでしょう?

 闇のなかにいるよりは、光のなかにいるほうがよろしい。無知のままでいるよりは、摂理を少しでも多く知ったほうがよろしい。何もしないでじっとしているよりは、真面目に根気よく真理の探究に励むほうがよろしい。向上をめざして奮闘するのがよいに決まっています。

 死後存続の事実を知ることが真理探究の終着駅ではありません。そこから始まるのです。自分が大霊の分霊であること、それゆえに〝死の関門〟を、何の苦もなく、何の変化もなく通過できるという事実を知ったら、それですべてがおしまいになるのではありません。そこから、本当の意味での〝生きる〟ということが始まるのです。

Saturday, February 1, 2025

シアトルの冬 霊的治療(スピリチュアル・ヒーリング)その原理の目的と問題点

Spiritual Healing: The Purpose and Problems of Its Principles


「シルバーバーチの
スピリチュアルな生き方Q&A」


【ヒーリングの原理(治療家グループを前にしてのシルバーバーチの霊言)】

 ヒーリングによって奇跡的に病気が治る───それはそれなりに素晴らしいことですが、その体験によって、その人が霊的真理に目覚めるところまでいかなかったら、そのヒーリングは失敗に終わったことになります。魂の琴線にふれたときこそ、本当に成功したといえるのです。なぜなら、その体験によって、魂の奥にある大霊の火花が放電し、輝きと威力とを増すことになるからです。

 ヒーリングの背後には、必ずそうした目的があるのです。あなた方は、そうして大霊の計画の一部を担って、この世に生まれてきているのです。すなわち、この世に在りながら、自分で自分が何者であるかを知らず、何のために生まれてきたかが悟れず、したがって、死ぬまで何をなすべきかがわからぬまま右往左往する大霊の子らに、霊的真理と永遠の実在を教えるために、人を癒すという力を与えられて生まれてきたのです。

 これほど大切な仕事はありません。その治療力で、たった一人でも魂を目覚めさせてあげることができれば、それだけでも、この世に生まれてきたことが無駄でなかったことになります。

 ヒーリングにも、いろいろあります。最も基本的なものは、磁気治療(マグネティック・ヒーリング)で、治療家の身体から出る豊富な磁気の一部を患者に分けてあげるものです。一種の物理療法と考えてもよろしい。これには霊界の治療家は関与しません。

 次の段階は、その磁気治療と、この後述べる純粋な霊的治療の中間に位置する心霊治療(サイキック・ヒーリング)で、遠隔治療(アブセント・ヒーリング)は主としてこの方法で行なわれます。

 そして最後が、本格的な霊的治療(スピリチュアル・ヒーリング)で、治療家が精神統一によって波動を高め、同時に患者の側の受け入れ態勢が整ったときに、一瞬のうちに行なわれます。

 人間の側から見れば奇跡に思えるかもしれませんが、因果律の働きによって、そういう現象が起きる機が熟していたのです。

 しかし、痛みや苦しみを取り除いてあげることが、ヒーリングの目的ではありません。あくまでも手段なのです。つまり、居眠りをしている魂を目覚めさせ、真の自分を見出させるための手段に過ぎないのです。

 病気で苦しみ続けてきた人が、あなた方による治療で奇跡的に治り、その体験によって霊的真理に目覚めて地上生活の意義を悟れば、あなた方は、遠大な地球浄化計画における責務を果たしたことになり、そうなってこそ、私たち霊界の者が援助したかいがあったことになるのです。



【Q1】
ヒーリングを行なうということは、どういうことでしょうか?

 生命力、すなわち霊的エネルギーが、そのヒーラーを通して患者に注ぎ込まれて魂と接触し、病気を引き起こした要因が何であれ、それによって乱されている調和を修復し、枯渇しているバッテリーに充電することです。

 大切なことは、ヒーラー自身も、それまでの人生で苦痛の何たるかを味わっていて、訪れる患者を真に思いやることができることです。治療の法則は、それを基盤にして働くのです。


【Q2】
病気になりやすい生活環境にいる患者の場合、体調を崩すたびに治療を施してあげるべきなのでしょうか?

 ヒーラーの役目は、救いを求めて訪れる魂に癒しを与えることです。その後、その患者がどうなるかは、あなたが関わることではありません。患者自身の責任です。身体が健康になっただけであれば、そのヒーリングは失敗だったことになります。本来の目的は、魂が目を覚まして活動的になることです。

 霊的治療の体験の結果として、患者がその後の人生のあり方について深く考えるようにならなければ、失敗だったとみなければなりません。ヒーラーを通して注がれるエネルギーは、身体の病気を癒すだけでなく、精神にも感動を与えて、人生とは何かについて革命的な理解をもたらさなければならないのです。時間がかかるゆえんです。


【Q3】
求められれば、同じ病気を何度でも治療してあげるべきだということでしょうか?

 あなたのほうから拒否してはなりません。一つの魂が救いを求めてきたのです。依頼されたヒーラーは、どう対処すべきかについて、勝手な規定を設けるべき立場にはありません。癒すことが仕事なのです。

それによって、患者の魂が感動すれば霊的啓発を得ることでしょう。かりに感動するまでに至らなくても、たとえ短い期間でも、身体が健康を取り戻すことになるでしょう。

 求められれば最善を尽くし、決して断ってはなりません。いつでも応じる態勢でいるべきです。その後、患者自身の不摂生によってさらに健康を害しても、それは患者自身の責任であって、あなたがかまうことではありません。


【Q4】
「魂に受け入れる用意ができる」とは、どういう意味でしょうか?

 黄金にたとえれば、掘り出されたままの土塊が、精製の過程をへて純金となったときです。浮き沈みのないモノトーンの人生───光ばかりで暗闇がなく、喜びばかりで悲しみがなく、食べるものが豊富にあって空腹を知らない人生を送っていたら、本当のありがたさはわかりません。人生の両極を体験してこそ、地上生活の目的と意義を理解することができるのです。


【Q5】
心霊手術によって治療できるようになるためには、ヒーラーは新たにどのような勉強が必要でしょうか?

 ヒーリングというものを、肉眼で確認できるかたちで見せるもののように考えてはなりません。ヒーリングの本質は霊的なものです。基本的には、患者の魂を目覚めさせることが目的です。

魂に受け入れる用意ができていれば、精神も正常となり、身体も正常となります。魂と精神と身体、この三者が正常な調和を取り戻すということです。その状態を健康というのです。全体の一体化であり、調和状態のことです。

 心霊手術で腫瘍を摘出すること自体は、ヒーリングの目的ではありません。目的は、あくまでも魂に感動を与えることです。その意味では、霊にもガンが生じることがあり得ることになります。

利己主義、その他の悪性の腫瘍が潜在しているかぎりは、真の霊的成長は得られません。生命現象で支配的な立場にあらねばならないのは霊性です。霊性が支配的になるまでは、調和も健康も幸せも充実感も得られません。


【Q6】
一瞬の間の治療も、霊的発達程度とカルマ、その他もろもろの要素が絡んでいるとおっしゃっていますが、ブラジルやフィリピンでは心霊手術によって簡単に治っています。どう違うのでしょうか?

 それもすべて因果律という自然法則の働きの結果です。患者の魂のヒーリングを受ける機が熟すると、そのチャンネルとなるべきヒーラーと出会うように環境条件が整うものです。そして、結果的に心霊手術がうまくいったとします。

が、たとえ腫瘍が摘出されて身体がらくになっても、それだけで自動的に魂の霊性が目覚めるわけではありません。霊的摂理の働きでそういう段階に到達し、これから魂の霊性が点火されて大きな焔となって燃えあがる、千載一遇のチャンスが訪れたということです。

 つまり、二つの要素が働いているわけです。一つは、その患者の魂のヒーリングを受ける用意が整い、その結果を出せるヒーラーと出会う、というめぐりあわせです。

もう一つは、そのヒーリングの影響によって患者の霊性が目覚め、霊的自覚の光のなかで生きるようになる絶好のチャンスとのめぐりあわせです。病的症状は消えても、霊的感性が芽生えなかったら、物的には成功しても、霊的には失敗だったことになります。


【Q7】
その種の霊的な外科手術は、治療法として問題ないのでしょうか?
 「果実によりて木を知るべし」(『マタイ伝』)「毛を刈り取られた羊には神は風を和らげる」(フランスのことわざ)といいます。霊的エネルギーは、時と場所、国と時代によって条件が異なります。

また、霊的現象の操作と霊的エネルギーの注入は、総合的な判断のもとで計画的に実施されます。基本的には、患者の身体的、精神的、そして霊的必要性にあわせて行ないます。具体的には体質、教育、環境、理解力を勘案したうえで、どういう治療法が最も適切かを決めます。


【Q8】
心霊手術がブラジルやフィリピンで行なわれて、英国で見られないのはなぜでしょうか?

 霊的気候が異なるからです。精神的風土も異なります。(それらの国では)目に見える現象的な方法のほうが、より霊妙な影響力を使用する方法よりも要求されるのです。それはちょうど一〇〇年前(一九世紀後半)の英国で、目に見えない霊的なものを物理的な現象で演出する必要があったのと同じです。現在の英国ではその必要はありません。

 しかし、教育水準、文化程度、理解力などが英国と大きく異なる国においては、現在でも現象的なものが要請されています。そこに生活する人々の必要性にあわせなければならないのです。


【Q9】
でも、現在の英国でも、そういう手術に興味をもちながら、要望がかなえられずにいる人が大勢います。やはり、気候が大きな要素なのでしょうか?

 一つには気候です。大気が手術に大きく影響するからです。しかし、同時に霊的な条件もあります。心霊手術は、英国に住んでいる人には向いていません。問題は、人間が何を望んでいるかではなくて、何がいちばん向いているかです。高度な霊的資質を秘めていながら、最低の物的次元のものを求めている人が多過ぎます。これでは進歩も発達も望めません。


【Q10】
私は、たった今、ガン患者を治療してきたのですが、痛みが出始めました。納得がいかないのですが‥‥。

 痛みをやわらげるだけなら可能でしょう。医学的な方法もあります。痛みだけを問題とするなら、むずかしくはありません。耐え切れないほどになっても、霊的に見れば、まだまだ最終判断を下す段階ではないというのが私の持論です。

 もしも一個の霊の地上的生命について、きわめて限られた医学的知識しかもちあわせない医師に、その最終判断を下す権利を与えてよいと私が申し上げたら、これまで私が説いてきた教えを裏切ることになるでしょう。


【Q11】
霊界の医師には、ガンの治療法がわかっているのでしょうか?

 あらゆる種類のガンを治す一つの治療法という意味での、特殊な治療法はありません。原因が同じではないからです。肉体的原因もあれば精神的原因もあり、霊的原因もあります。それらを同じ方法で治療することはできません。

 さらに、それ以前の問題として、霊界と地上界の関係のあり方について理解していただかねばならないことがあります。私たちは、あなた方がてこずっている問題に関して「こうしなさい、ああしなさい」と要請されれば、何でも簡単に解決策を教えるというようなことはしません。地上界の問題は、地上界の人間が解決するのが本筋です。

しかし、いくら努力を重ねてみても、罪のない動物に残酷な苦しみを与えたり、人間としての本来の生き方を間違えたり、あるいは患者がまだ癒されるだけの資格が整っていなければ、本当の治療法は見つかりません。

 霊界からの働きかけは二通りあります。一つは、霊的な理解のある人間が真摯に、そして献身的に霊的治療にたずさわっていれば、親和力の法則で同じ分野を専門とする高級霊を呼び寄せて、援助を受けます。

 もう一つは、患者の魂に受け入れ態勢が整ったときに摂理が働いて、霊的な治療エネルギーが注入されます。ヒーリングはすべて、霊的エネルギーによって行なわれるのです。

魔法の杖があるわけではありません。霊力がその患者の魂に引き寄せられるのです。したがって、魂に受け入れる用意ができていなければ、反応は生じないことになります。魂の霊的意識が開かれるまでは、磁気的なつながりはできません。閉じられたままであれば、何の接触も生じません。
 もちろん、ほかにもいろいろと要素があります。病気の原因が何であるかによっても違ってきます。何を目的に生まれてきたかによっても違ってきます。誕生するに当たって特殊な体質の身体を選んだ場合は、それも考慮に入れなくてはなりません。この問題は単純ではないのです。


【Q12】
癲癇になる原因は何でしょうか?また、治るのでしょうか?

 原因は脳に障害があって、精神からの連絡を正しく受け止められなくしていることです。もちろん、いかなる病気も治ります。“不治の病”というものはありません。治してもらえない人がいるだけです。



第7章 霊的治療(スピリチュアル・ヒーリング)その原理の目的と問題点
【Q13】
幼い子供が激痛を伴った不治の病に苦しんでいる場合、何に原因があるのでしょうか?また、公正といえるでしょうか?
 霊的な問題を物的な尺度で解くことはできません。永遠という時を、地上生活というカケラほどの体験で裁いてはいけません。無限の摂理によって支配されている神の公正を、目の前の束の間の現象だけで理解することはできません。

小さいものが大きいものを理解することはできません。一滴の水が大海を裁けるでしょうか。部分に全体がわかるでしょうか。

 宇宙は私たちの想像を絶した摂理によって経綸されており、これに私は常に敬虔な敬意を払っています。完全な英知から生み出されたものだからです。誤りというものがあり得ないのです。人間の目から見れば公正とは思えないかもしれませんが、それは限られた一部しか見ていないからです。

全体を見ることができれば、ご意見も変わるでしょう。ほんの短い地上人生を送っている人間には、永遠は理解できません。埋めあわせ、ないしは償いというものが、どういう具合に行なわれるか、人間には理解できません。

 あなた方には、霊の世界の豊かさ、美しさ、不思議さを理解する手だてがありません。地上のどこを探しても、比較・対照するものが見当たらないからです。

ならば当然、理不尽と思える事態の裏側にどのような摂理が働いているかを、判断力も視野も限られているはずのあなた方に、どうして説明できましょう?不公平や理不尽を口にされる方は、まだ人間を身体だけの存在として考えている、つまり物的世界の観点から考えており、永遠の観点から見ていないのです。

 霊そのものは、性病を患うことはありません。霊が不具になったり、奇形になったり、腰が曲がったりすることはありません。親の遺伝的体質や後天的性癖は受け継ぎません。地上で自我を表現するために宿っている身体には影響しますが、それが個性を変えてしまうことはありません。

 たしかに、地上的観点から見れば、つまり物的見地からのみ人生を見つめれば、病弱な身体で生まれてきた人のほうが、健康な身体で生まれてきた人より辛い思いをすることでしょうが、それは宿っている霊については当てはまりません。

身体が病弱だからといって霊も貧弱ということはなく、身体が健康だからといって、霊も健全というわけではありません。それどころか、霊的進化にとってかけがえのない体験である痛みと苦しみを数多く味わっただけ、それだけ霊的に豊かになっているとも言えるのです。



【Q14】
治らない患者は、治る資格がまだできていないからだとおっしゃいましたが、それでは単純すぎるように思えるのです。それでは悪人はいつまでたっても治らず、善人はいつでも治るということになるからです。

 そんなに単純なものではありません。それは、あまりに皮相な見方です。問題を霊の目で見ていないからです。たとえば、苦難は人間にとってはご免こうむりたいものでしょうが、私たちから見れば実にありがたいものなのです。凶事に遭うと、人間は万事休すと思いますが、私たちの立場から見ると、それが新たな人生の始まりであることがあるのです。

 善とか悪とかいった用語を、あたかも善人という人種、悪人という人種がいるかのように、物的基準で用いてはいけません。私たちの価値基準は、あなた方の価値基準とは必ずしも同じではありません。私は、治るためにはそれだけの霊的な資格がなければならないと言っているのです。善人とか悪人といった言い方はしていません。

魂が真の自我に目覚めれば治る資格ができたことになります。そうなったときに、治療が効を奏するのです。


【Q15】
カルマとの関係はどうでしょうか?

 患者のなかには、前世でこしらえたカルマをもち越している人がいます。そのカルマ、つまり因果律が成就されずに残っている場合は、治療効果が出ないでしょう。

 霊的進化の過程で因果律が成就している場合、つまり、原因に対する結果が出切って、カルマが清算されている場合は、治療は成功するでしょう。魂に霊的治癒エネルギーを受け入れる準備ができているからです。


【Q16】
その治癒エネルギーをそちらで準備する、つまり、一人ひとりの患者の特殊な条件にあわせて調合する方法を教えていただけませんか?
 これは、説明がとても困難です。非物質的なものを叙述する用語が見当たらないからです。よく理解していただきたいのは、そのエネルギーは生命力そのもの、生命素そのものであることです。生気そのものです。無限に存在するものです。融通無碍(ユウズウムゲ)、つまり無限の形態をとることができます。どんな組み合わせでも可能です。

 その仕事にたずさわる者として、知識と経験と理解力を身につけた、さまざまな次元の霊がひかえています。地上の化学者や科学者に相当する人たちもいます。そうした霊は、この生命力、この霊的エネルギーのさまざまな成分を調合して、一つの特性をもったものをこしらえる、英語で言えば「characterize」するのです。

これはよい表現です。絶えず実験を繰り返しています。チャンネルである治療家を通して、病状を念頭において可能なかぎり調整しています。

 こうした説明しかできません。要するに、訪れる患者に応じてエネルギーが調整されるのです。これには、患者のオーラが大いに参考になります。オーラには、病気を生み出した霊的および精神的状態が正直に残っていますから、それを参考にして調合します。


【Q17】
それには霊界の担当医の精神的(mental)な努力を要するのでしょうか?

 「mental」という用語は不適切です。実体のある作業だからです。実際に混合するのです。私たちも、あなた方のいう化学物質に相当する霊的素材を使用します。もちろん、精神(マインド)も使用します。霊界では、精神がすべてをこしらえるうえでの実体のある媒体だからです。


【Q18】
その治療エネルギーの通路として、ヒーラーの肉体または霊体は、どの程度まで使用されるのでしょうか?遠隔治療の場合とは違うことを念頭においての質問ですが‥‥。

 でも、遠隔治療でも、あなた方ヒーラーの身体が使われるのですよ。


【Q19】
肉体や霊体が使われるのですか?それとも単に患者と霊とを一体化するためのつなぎ役として使われるのでしょうか?

 ヒーラーの霊体を使用しなければなりません。


【Q20】
その過程を説明していただけませんか?

 ヒーラーは、テレビジョンのようなものです。霊的なバイブレーションがヒーラーに届けられ、それが半物質的治療光線に転換されて、それが患者に注がれます。ヒーラーは、変圧器のような役を果たしています。


【Q21】
それが、どうやって患者に届けられるのでしょうか?

 患者が治療を要請したということで、つながりができています。思念がヒーラーへ向けてのバイブレーションを生んでいます。そこに絆ができたわけで、その波長で治癒力が患者へ送られるのです。


【Q22】
自分のために、だれかが遠隔治療を要請してくれていることを患者自身が知らない場合は、どうなりますか?

 患者と関わりのあるだれかが知っているはずです。そうでなかったら、その患者に向けて治療が行なわれるはずがないでしょう。


【Q23】
ヒーラーが、病状を察して、一方的に遠隔で治療を施してあげる場合はどうなりますか?

 それだけで、霊的なつながりができています。


【Q24】
でも、患者のほうからは思念が出ていません。

 いえ、出ています。ヒーラーがその絆をこしらえています。こちらの世界では、思念に実体があることを忘れてはいけません。私があなたを見ても、肉体は見えません。霊媒の目を使えば見えるかもしれませんが…。

 私たちにとっては実体があるのは思念のほうであり、実体がないのは肉体のほうです。ですから、あなたが思念を出せば、それが実在物となるのです。それがバイブレーション──波動をこしらえ、それが遠隔治療で使用されるのです。


【Q25】
治療のたびに、それをこしらえる必要があるのでしょうか?

 一度つながりができれば、その必要はありません。霊界とのつながりはすべて磁気的なもので、一度できたら、二度と切れることはありません。


【Q26】
霊的治療を受けるうえで、信仰のあるなしは関係ないと理解していますが、患者が邪悪な思念を抱いていると、それが治療を妨げると考えてよろしいでしょうか?
 私は信仰をもつこと自体には反対していません。それが理性を土台としていて盲目的でなければ結構です。スピリチュアリズムの思想を正しく理解した方なら、手にした真理が全体のほんのひとかけらに過ぎないことはご存じと思います。

 物的身体に閉じ込められているあなた方が、真理のすべてを手にすることは不可能なことです。霊界へ来ても同じことです。となると、手にしたかぎりの知識を土台とした信仰をもたねばならないことになります。

 さて、そうした知識を土台とした理性的信仰をもっていることは、大いに結構なことです。そのこと自体に何ら問題はないと思います。それが治療にとって好ましい楽観的な雰囲気をこしらえるからです。霊的エネルギーは明るく楽しい、愉快な精神状態のときに最も有効に作用し、反対に、いじけて疑い深く、動揺しやすい心は、霊的雰囲気をかき乱して、治療の妨げとなります。


【Q27】
ヒーラー自身が病気になった場合は、他のヒーラーにお願いすべきでしょうか?それとも自分で治す方法があるのでしょうか?
 ほかのヒーラーにお願いする必要はありません。それよりも、いつも使用している霊的エネルギーを直接自分に奏効させる方法を工夫すべきです。神に祈るのに教会まで行く必要がないように、治癒エネルギーを自分自身に向けることができれば、他のヒーラーのところへ行く必要はありません。そのためには自分の心、自分の精神、自分の魂を開かないといけません。


【Q28】
サークル活動(勉強会・霊能養成会など)に参加できるヒーラーは、能力を発達させるうえで有利ですが、そういう機会に恵まれていない人のために何かアドバイスをいただけないでしょうか?それに、交霊会に出席することはヒーラーにとって不可欠でしょうか?

 あとのご質問からお答えしますと、これにはきっぱりと「ノー」と申しあげます。霊の能力はあくまでも霊の能力です。それを授かって生まれたのであり、授かった以上はそれを発達させる責任があります。ピアニストとしての才能をもって生まれた人は、練習と鍛錬によってそれを発達させなければならないのと同じです。

 では、治療能力はどうやって発達させるか。その答えは、サークル活動に参加することではありません。それもプラスにはなります。心に宿す動機によっても発達を促されます。日常生活の生き方によっても発達します。可能なかぎりの純粋性と完全性を目標とした心がけによっても発達します。できるだけ多くの人を治してあげたいという願望によっても発達します。

自我を発達させる唯一の方法は、自我を忘れることです。他人のことを思いやれば思いやるほど、それだけ立派になります。よい治療家になる方法を教えてくれる書物はありません。ひたすら他人のために役に立つことをしたいと願い、こう反省することです───「大霊は自分に治病能力を与えて下さったが、はたしてそれにふさわしい生き方をしているだろうか?」と。これを基本的姿勢として生きていれば、治病能力は自然に力を増し、質を高めていきます。


【Q29】
治療にたずさわるときは、ヒーラーは完璧な健康状態であるべきでしょうか?

 霊的なエネルギーで治療する人は、他の霊的現象の霊媒と同じく、道具です。つまり、受けたものを伝達するチャンネルです。自分の内部にためるのではなくて外部に送り出すのです。ですから、ヒーラーの身体のどこかが病んでいても、必ずしもそれが治病能力を阻害するとは限りません。治病能力は霊的なものであり、病気は物的なものです。


【Q30】
医者は、大病にもストレスや仕事上の心痛が原因であるものがあるといいます。そうしたケースでは(身体と精神と霊の)不調和は、どの程度まで関わっているのでしょうか?

 今、おっしゃったことは、私が別の言葉で言っているのと同じことです。仕事上の心痛と呼んでおられるのは、私の言う「不調和状態」のことです。精神と肉体と霊とが正しい連携関係にあれば、仕事上の心配も、その他いかなる心配も生じません。心配する魂は、すでに調和を欠いているのです。

 霊的実在についての知識を手にした者は、心配の念を宿してはなりません。とりこし苦労は陰湿な勢力です。霊性の進化した魂には縁のないものです。あなたは、それを仕事上の心痛と呼び、私は不調和状態と呼ぶのです。

 自分が永遠の霊的存在であること、それゆえ物質界には何一つおそれるものはないことを悟ったら、心配のタネはなくなります。


【Q31】
ほんの数分で治してしまうヒーラーもいれば、長時間かけても一向に変化が見られないヒーラーもいます。どうなっているのでしょうか?

 果実を見て木を知るべし、です。大切なのは結果です。ヒーラーは、霊団との最高の調和をめざして日常生活を律すべきです。そうすれば必ずよい結果が得られます。

 あなた方は、身を正すことだけを心がければよろしい。あとは私たちがやります。援助の要請が拒否されることはありません。霊力を出し惜しむようなことは絶対にいたしません。私たちは常に、お役に立つための努力を重ねています。人を選り好みしません。どんな人でも歓迎します。霊力は、すべての人に恩恵をもたらすべく存在しているのですから。

訳注───この質問に対する答え方には、いろいろな視点が考えられるが、この回答は抽象的過ぎるきらいがある。総合的にはQ13,14,15に尽くされているが、次のQ32がその具体例と言えるであろう。


【Q32】
幼児の両脚が奇形である場合に、片方は治ったのに、もう一方は何の反応も見せないことがあります。なぜでしょうか?

 それぞれの脚にそれぞれの原因があって、同じ治療法では治せないということです。一つ一つ治療法が異なります。それぞれの実情にあわせた治療が行なわれます。それぞれに特徴があるのです。

 こうした問題を地上のみなさんにできるだけ平易に説明しようとすると、とても骨が折れます。ほかにも考慮しなければならない条件がいろいろとあるのです。奥に隠れた原因があって、それに絡んだ霊的摂理が働いており、さらにその奥にも次元の異なる摂理が働いているのです。

 霊的治療は、見かけほど単純ではないのです。ただ、患部を治せばよいというものではありません。考慮されるのは、患者の魂の資質に関わることです。それにいかなる影響が及ぶか、治療がいかなる意味をもつことになるか、なぜその治療家のもとを訪れたのか、魂が目を覚ます霊的進化の段階に到達しているか、といったことです。

 いずれも物的尺度では、はかれないことばかりです。が、霊的治療にはそれらがすべて関わっているのです。なぜなら、治療にたずさわっている間は、生命力そのものを扱っているからです。ということは、宇宙の永遠の創造活動に参加していることになります。私が治療の重大性を強調する理由は、そこにあります。


【Q33】
精神に異常のある方は本当に気の毒でならないのですが、ヒーラーとして無力であることを痛感させられます。

 精神の病も治すことができます。私たちに身をゆだねる───あなたに要請されるのは、それだけです。自分を通して霊的エネルギーが流れるようにするのです。じかに治療できない患者には遠隔治療を施してあげなさい。霊的治療は、もはや地上に根づいています。退散させられることはありません。

 ヒーラーとしてのあなたにも、あなたなりの貢献ができます。しかも、とても重要な役割です。忘れないでいただきたいのは、無限の進化の計画のなかにおいて、あなたも神聖なる通路として大霊のお役に立っているということです。光栄このうえない仕事です。が、それだけに責任も重いということです。


【Q34】
心臓移植の問題ですが、霊的視点からどう見ておられますか?

 何ごとも動機が大切です。心臓移植にも、命を永らえさせてあげようという動機に発しているものがあることは、疑いの余地はありません。が、一度実験的に移植手術をしたことがはずみになって、次から次へと手術が行なわれるようになり、いつしか患者を救うという目的からはずれていくことになりかねません。

 それに、そもそも動物を残酷な目にあわせて治療法を開発しようとすること自体、霊的に見て許されることではありません。残酷な手段では健康は発見できません。人間のエゴに発した手段からは、大自然の秘密は見出せません。

 臓器を一人の人間から別の人間に移植することに、私は賛成できません。私は、輸血すら賛成できないのです。私は、あくまで私個人としての考えですが、そもそも物的生命を永らえさせることが、医学の至上目的であるとは思いません。地上の人間は、あくまで日常生活を霊的・精神的・物的の面で良心に恥じない生き方を心がけるように教育すればよい、という考えです。心に宿すことが正しければ行ないも正しくなり、身体も正常に働きます。

 臓器を移植することでは、病気の解決にはなりません。本当の解決法は大霊の意志にのっとった生き方に徹することです。同胞のことを思いやると同時に、この地球という天体を共有している生き物のすべてに対しても、思いやりの情をもたねばなりません。動物は、人間の物的寿命を延ばすための実験材料として地上に送られているのではありません。


【Q35】
現段階では、心臓移植は必ず失敗すると考えてよろしいでしょうか?

 成功することもあることは十分に考えられます。私が心配しているのは、霊的観点から見て、動物実験が間違った方向へ向かい始めていることです。

現在の医学界は、人間の幸せのために献身すべき者がとるべき方向へ進んでいません。今のやり方では、健康は見出せません。健康とは、調和のことです。医学がやっていることは、一時的な人体のパッチワークに過ぎません。

 人間の本質を理解しないといけません。いたって簡単なことです。人間は物的身体と精神と霊の三位一体の存在として、一人ひとりが独自に創造されています。三位一体ですから分解することはできません。

臓器だけを交換することはできないのです。三者で一つの全体を構成しているのです。健康というのは、その三者の一体化、調和、リズム、協調です。それが健康の要諦であり、薬品や医術によって健康になるのではありません。それは一時的な症状の緩和に過ぎません。
 人間は、あまりに無知の度が過ぎます。相変わらず 「死」 をおそろしい怪物のように扱っています。たしかに、死ぬことは怖いかもしれません。しかし、死も大自然の摂理の一環であることは、明らかな事実です。死なないようにすることが地上生活の目的ではありません。地球は、トレーニング・センターです。必ずおもむくことになっている次の生活の場にそなえて、教訓を学ぶところです。

 死すべきときが訪れたときは、いかなる医術をもってしても生き永らえさせることはできません。どうやら医学者も、何をもって死とするかは自信がないようです。死の瞬間について論争しています。が、本当の死は、玉の緒 (シルバーコード) が切れて、霊的身体が物的身体を離れたときです。その現象が起きたら最期、いかなる名医も生き返らせることはできません。