Friday, February 28, 2025

シアトルの弥生 あなたとは何か 

What is You? 


 Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley 



 いったいあなたとは何なのでしょう。ご存知ですか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。  

 ですから、どれが自分でどれが自分でないかを知りたければ、まずその総体としての自分を発見することから始めなくてはなりません。これまであなたはその身体に包まれた〝小さな自分〟以上のものを少しでも発見された経験がおありですか。

今あなたが意識しておられるその自我意識が本来のあなた全体の意識であると思われますか。お分りにならないでしょう。


 となると、どれが普段の自分自身の考えであり自分自身の想像の産物なのか、そしてどれがそのような大きな自分つまり高次元の世界からの霊感であり導きなのか、どうやって判断すればよいのでしょう。

 そのためには正しい物の観方を身につけなくてはなりません。つまりあなた方は本来が霊的存在であり、それが肉体という器官を通して自己を表現しているのだということです。霊的部分が本来のあなたなのです。霊が上であり身体は下です。

霊が主人であり身体は召使いなのです。霊が王様であり身体はその従僕なのです。霊はあなた全体の中の神性を帯びた部分を言うのです。

 それはこの全大宇宙を創造し計画し運用してきた大いなる霊と本質的には全く同じ霊なのです。つまりあなたの奥にはいわゆる〝神〟の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。

その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありません。

 身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。家であってあなた自身ではないということです。家である以上は住み心地よくしなければなりません。手入れが要るわけです。しかし、あくまで住居であり住人ではないことを忘れてはなりません。

 この宇宙をこしらえた力が生命活動を司っているのです。生命は物質ではありません。霊なのです。そして霊は即ち生命なのです。生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。

 あなた自身も生命そのものであり、それ故に宇宙の大霊との繋がりがあり、それ故にあなたもこの無限の創造進化の過程に参加することができるのです。その生命力は必要とあらばいつでもあなたの生命の井戸からくみ上げることが出来ます。

その身体に宿る霊に秘められた莫大なエネルギー、あなたの生命活動の動力であり活力であり、あなたの存在を根本において支えている力を呼び寄せることができるのです。

 あなた方にはそれぞれにこの世で果たすべき仕事があります。それを果たすためにはこうした知識を摂取し、それを活力としていくことが必要です。霊に宿された資質を自らの手で発揮することです。そうすることは暗闇で苦悩する人々に光を与える小さな灯台となることであり、そうなればあなたのこの世での存在の目的を果たしたことになります。

 宇宙にはある計画に沿った〝摂理(きまり)〟というものがあります。私たちはそれにきちんと合わさるように出来上がっているのですが、それに合わすか否かは本人の意志による選択の自由が与えられています。東洋の諺に〝師は弟子に合わせて法を説く〟というのがあります。霊的に受け入れる準備ができればおのずと真理の扉が開かれるのです。

こちらから求めなくても良いのです。豁然と視野が開き、そこから本当の仕事が始まります。

 と言っても私どもはあなた方の生活から問題も悩みも苦しみもなくなるというお約束はできません。お約束できるのは全ての障害を乗り越え、不可能と思われることを可能にする手段をあなた方自身の中に見出すようになるということです。

内部に宿る資質の中の最高のもの、最奥のもの、最大のものを発揮しようと努力する時、私ども霊界の者の中であなたに愛着を感じ、あなたを援助することによって多くの人々の力になりたいと望む霊を呼び寄せることになるのです。

 悲しいかな、あまりに多くの人々が暗黒の霧に取り巻かれ、人生の重荷に打ちひしがれ、病める身と心と魂を引きずりながら、どこへ救いを求めるべきかも分からずに迷い続けております。私どもはこうした人々に救いの手を差し延べなければならないのです。

 もしも私どもが霊性の開発が容易であるとか、暗黒の中にささやかなりとも光明をもたらしたいと願う人々の仕事が楽に達成されるかのような口を利くことがあれば、そのこと自体がすでに私どもの失敗を証言していることになりましょう。

決してそんな容易なものではありません。歴史を見てもその反対を証言することばかりです。真理と誤謬とがいつ果てるともない闘いを続けております。たぶん〝完全〟が成就されるまで続くことでしょう。しかし完全ということは事の性質上絶対に成就されることはありません。その意味で私どもは長く困難で苦労の多い仕事に携わっているわけです。

 これより先どれほどの偏見と反感と敵意と誤解と迷信と故意の敵対行為に遭遇しなければならないかは、あなた方には想像もつかないことでしょう。

怖じけづかせようと思って言っているのではありません。事を成就するためにはそのあるがままの背景を理解しておく必要があるからです。私にはその大変さがよく分かるのです。

 これまでも私は可能な限りの力を駆使して、克服不可能と思われた障害を克服して、あなた方の世界に近づいてまいりました。私一人の力ではありません。私は地上へ戻るべく選ばれた霊団の一人です。なぜその必要があるのか。

それは今、地上人類に降りかからんとしている苦難があまりに恐ろしいものであるために、霊界の力を結集して地上のあらゆる地点に橋頭堡を築かなければ、人類自らが人類を、そして地球そのものを破壊に陥れることになるからです。

 人類は物質文明を自負しますが、霊的には極めてお粗末です。願わくはその物質文明の進歩に見合っただけの霊性が発達することを祈ります。つまりこれまで〝物〟に向けられてきた人間的努力の進歩に匹敵するだけの進歩が精神と霊性の分野にも向けられればと思います。

 進歩に霊性が伴わない今の状態では、使用する資格のないエネルギーによって自ら爆破してしまう危険があります。そこで私どもは、地上生活全体の根幹であるべき霊的真理に従って各自が生活を営めるように、ということを唯一の目的として努力しているのです。

 嫉妬心、口論、諍い、殺人、戦争、混乱、羨望、貪欲、恨み、こうしたものを地上より一掃することは可能です。そして、それに代わって思いやりの心、親切、優しさ、友愛、協力の精神によって生活の全てを律することができます。

それにはその根幹として、霊性において人類は一つであるとの認識が必要です。決して救いようのないほど暗い面ばかりを想像してはいけません。

明るい面もあります。なぜならそうした障害と困難の中にあっての進歩は、たった一歩であっても偉大な価値があるからです。

 たった一人でいいのです。全てが陰気で暗く侘しく感じられるこの地上において元気づけてあげることができれば、それだけであなたの人生は価値があったことになります。そして一人を二人に、二人を三人としていくことができるのです。

 霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利といえるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したとしたら、それが征服と言えるでしょうか。

霊的進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きながら後の者のために道標を残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。

 〔地上の人間が何かを成就しようとして努力する時、少なくとも同等の、あるいは多くの場合それ以上の援助の努力が霊界において為されていることを強調して次のように述べる──〕

 援助を求める真摯な熱意が等閑(なおざり)にされることは決してありません。衷心からの祈りによる霊的つながりが出来ると同時に、援助を受け入れる扉を開いたことになります。その時に発生する背後での霊的事情の実際はとても言語では説明できません。

元来地上の出来ごとを表現するように出来ている言語は、それとは本質的に異なる霊的な出来ごとを表現することは不可能です。どう駆使してみたところで、高度な霊的実在を表現するにはお粗末なシンボル程度の機能しか果たせません。

 いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。すなわち一種の悟りを開きます。大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に全く気付かぬまま生きております。こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないのです。

 人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。つまり真のあなたは霊なのです。生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。

 肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。その形体としての存在はほんの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいます。が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。

その辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出はじめたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出て来たのです。あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。

 そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。霊性を一切行使することなく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。

 霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。神性が目を覚ましたのです。それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。

霊の宝は地上のいかなる宝よりも遥かに偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。物的なものが全て色褪せ、錆つき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。

 魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。それはこの宇宙で最も強力なエネルギーの一つなのです。その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。

これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し延べます。

 この霊的自覚が確立された時、あなたにはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないもの──盤石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心を所有することになります。そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ──自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。

 人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。どうか、何処でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。

議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理して植えても不毛の土地には決して根付きません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。あなたを小馬鹿にして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来ることでしょう。

 私たちを互いに結びつける絆は神の絆です。神は愛をもって全てを抱擁しています。これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来事は宇宙のいずこにも決して起きません。

 宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。従って私たちも神を見捨てるようなことがあってはなりません。宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。

種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そして再び新しい芽を出すことを繰り返しています。色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやに靡(なび)き、かくして全世命が法則に従って生命活動を営んでおります。

 私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。私たちもその一部を構成しているからです。どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれていることを忘れぬようにしましょう。

シアトルの冬 自動書記現象の種々相

Various Aspects of the Automatic Writing Phenomenon







数ある霊とのコミュニケーションの手段の中でも“書く”ということが最も単純で、最も手軽で、何かと都合がいい。


と言うのは、きちんと時刻を定めて連続して交信することができ、その間の通信の内容や筆跡や態度を見て、通信霊の性格や霊格の程度や思想をじっくりと分析し、その価値判断を下すことができるからである。

体験を重ねるごとに霊的通信の純度が高まるという点でも、自動書記は好ましい手段である。

ここでいう自動書記というのは、その霊能つまり通信霊からのメッセージを受け止めて用紙に書き記すという能力を持った霊媒を中継して得られるものを言うのであって、霊媒を仲介せず、書くための道具もなしに記される直接書記とはメカニズムが異なる。(第八章参照)

自動書記には大別して三つのタイプがあり、霊媒によっては二つのタイプが交じり合っている場合もある。
①受動書記(器械書記)

本書の初めに紹介したテーブルラップやプランセットによる通信、および霊媒が筆記用具を握って書く通信は、このあと紹介する直覚書記や霊感書記と違って、テーブルやプランセットや霊媒の腕または手に霊が直接働きかけて通信を送るもので、例えば霊媒が手で書く場合でも霊媒自身は何が書かれるのか全く関知しないという点で受動的であり、その意味からこれを受動書記または器械書記と呼んでいる。霊媒の手もただの器械にすぎないと見なすわけである。(テーブルラップは物理現象の部類に入れられるのが普通であるが、符丁による通信が文字に置き替えられて綴られるという点では、確かに自動書記現象でもある――訳注)

この受動書記では手が激しく動いて、握っている鉛筆が手から離れて飛んでいったり、鉛筆を握ったまま苛立(いらだ)ったようにテーブルを叩き、鉛筆の芯が折れたりすることがある。霊媒はいっさい関係なく、そうした動きを呆れ顔で見つめている。

こうした現象が生じる時は決まって低級霊の仕業とみてよい。高級霊はあくまでも冷静で威厳が漂い、態度が穏やかである。会場の雰囲気が乱れていると高級霊は直ぐに引き上げる。そして代わって低級霊が出てくる。
②直覚書記(直感書記)

霊は霊媒の精神機能に働きかけることによって思想を伝達する。手や腕に直接働きかけるのではない。その身体に宿っている魂――霊媒が“自分”として活動するための顕在意識と潜在意識の総体――に働きかけ、その間は霊媒と一体となっている。ただし、霊媒と入れ替わっているのではないことに注意しなければならない。

霊の働きかけを受けて霊媒の精神が反応し手を動かして書く。あくまでも霊媒が書いているのであるが、伝達される思想は霊からのもので、霊媒はそれを意識的に綴っている。これを直覚書記または直感書記と呼ぶ。
③半受動書記

①の受動書記と②の直覚書記とが並行して行われる場合があり、頻度としてはこのケースがいちばん多い。

受動書記では“書く”という動作が先行し、その後から思想が付いてくる。直覚書記では思想が先行し、その後書くという動作が伴う。その両者が同時に起こる、あるいは前になったり後になったりするのを半受動書記と呼ぶ。
④霊感書記

通常意識の状態ないしはトランス状態で自分の精神の作用以外の始源から思想の流入を受け取ってそれを書き記すもので、②の直覚書記ときわめてよく似ている。唯一異なる点は、その思想が霊的始源からのものであるとの判断が明確にできないことで、霊感書記の最大の特徴はその自然発生性、つまり霊媒自身はそれをインスピレーションであるとの認識が定かでない点にある。

そもそもインスピレーションというのは、良きにつけ悪しきにつけ、霊界から我々人間に影響を及ぼす霊から送られてくるもので、日常生活のあらゆる側面、あらゆる事態における決断において関与していると思ってよい。

その意味においては我々は一人の例外もなく霊感者であると言える。事実、我々の周りには常に幾人かの霊がいて、良きにつけ悪しきにつけ、リモート・コントロール式に我々を操っている。

その事実から、守護霊を中心とする背後霊団の存在意義を理解しなければならない。人生には右か左かの選択を迫られる時機、何を言うべきかで迷う時があるものだが、そのような時に守護霊からのインスピレーションを求めることができる。自分と最も親和性の強い類魂であるとの知識に基づいた信念をもって祈り、あるいは瞑想によって指示を仰ぐ。

それに対する霊団側の反応は、最高責任者である守護霊の叡智によって一人一人異なる。まるで魔法のごとく名案を授かるかと思えば、何の反応も得られないこともある。そのような時は「待て」の指示であると受け止めるべきである。

よく耳にする話として、格別の霊的能力があるわけでもなく、また通常意識に何の変化があるわけでもないのに、一瞬の間に思想の奔流を受け、時には未来の出来事の予言まで見せられ、本人はただ唖然としてそれを受け止めるといった現象がある。そして終わってみると、それまでの悩みも苦しみも、跡形もなく消えている。

さらに天才と言われる人たち――芸術家、発明家、科学的発明者、大文学者等々――も高級霊の道具として偉大なるインスピレーションを授かるだけの器であったということであり、その意味では霊媒と同じだったわけである。


訳注――私の母は若い頃から火の玉を見たり神棚の御鏡に神々しい姿が映っているのが見えたりしたというから霊能がかなりあったようであるが、その人生は戦前と戦後とで天国と地獄を味わった、波乱に富んだ人生だった。のちに私の師となる間部詮敦氏と初めてお会いして挨拶をした時は「荒れ狂う激流を必死に泳いで、やっと向こう岸にたどり着いた感じがした」と言っていた。

その母が私にぽっつり語ったところによると、苦悶の極みに達すると必ず白い光の玉がぽっかりと浮かんで見え、それが消えると同時に一切の悩みも苦しみも消えていたという。ところが晩年にある人からしつこく意地悪をされたことがあり、私もそれを知っていたが、母が平然としているので、さすがに母だと思っていた。

ところがある日ついに堪忍袋の緒が切れて激怒に及んだ。それきり意地悪もされなくなったが、同時に「あの白い光の玉が見えなくなった」と寂しそうに言っていた。その後また見えるようになって喜んでいたが、この話から私は、いくら正義の憤怒とはいえ波動が乱れては高級な背後霊との連絡も途絶えることを教えられた。

以下は、自動書記の原理に関する霊団との一問一答である。


――インスピレーションとは何でしょうか。


「霊による思念の伝達です。」


――インスピレーションは重大なことに限られているのでしょうか。


「そんなことはありません。日常生活のいたって些細なことについてもあります。例えば、どこかへ行こうと思った時、その方角に危険が予想される場合には行かないようにさせます。あるいは思ってもみなかったことを、ひょっこり思いついてやり始める場合もそうです。一日のうちのどこかで大なり小なりそうした指示を霊感によって受けていない人はほとんどいないと考えてよろしい。」


――作家とか画家、音楽家などがインスピレーションを受ける時は、一種の霊媒と同じ状態にあると考えてよろしいでしょうか。


「その通りです。肉体による束縛が弱まって魂の活動が自由になり、霊的資質の一部が発現します。そんな時に霊団からの思念や着想がふんだんに流入します。」

次の問題として、霊媒の能力が一時的に中断したり急に失われたりすることがある。自動書記現象だけでなく物理現象その他の霊媒でも同じことがある。その問題について一問一答は次の通りである。


――霊媒能力が失われることがあり得ますか。


「よくあります。どんな能力でもあります。が、割合としては、完全に失われてしまうよりも、一時的な中断の方が多く、それも短期間です。再開されるのは中断された時の原因と同じことから発します。」


――それは霊媒の流動体の問題ですか。


「霊的現象というのは、いかなる種類のものであれ、親和性のある霊団の働きなしには生じません。現象が生じなくなった時は、霊媒自身に問題があるのではなく、霊団側が働きを止めたか、あるいは働きかけができなくなった事情がある場合がほとんどです。」


――どんな事情でしょうか。


「高級霊になると、霊媒に関して言えば、その能力の使用法によって大きな影響を受けるものです。具体的に言えば、ふざけ半分にやり始めたり野心が度を超しはじめたら、すぐに見放します。また、その能力を霊的真理の普及のために使用するという奉仕の精神を忘れ、指導を求めて来る人や研究・調査という学術的な目的で現象を求めに来る人を拒絶するようになった時も、高級霊は手を引きます。

大霊は霊媒自身の娯楽的趣味のために能力を授けるのではありません。ましてや低俗な野心を満足させるためではさらさらありません。あくまでも本人および同胞の霊性の発達を促進するために授けているのです。その意図に反した方向へ進みはじめ、教訓も忠告も聞き入れなくなった時に、霊団側はその霊媒に見切りをつけ、別の霊媒を求めます。」


――霊が去った後は別の霊が付くのではありませんか。もしそうであれば、霊媒の能力そのものが一時的に休止してしまうという現象はどう理解すべきでしょうか。


「面白半分に通信を送るだけの霊ならいくらでもいますから、高級霊が去ってしまった後に付く霊には事欠きません。が、優れた霊が霊媒への戒めのために、つまりその霊的能力の行使は霊媒とは別の次元の者(霊)によるものであって霊媒自身が自慢すべきものではないことを悟らせるために、一時的に休止状態にすることはあります。一時的に何もできなくなることによって霊媒は、自分が書いているのではないことを身に沁みて悟ります。もしそうでなかったら書けなくなるはずはないからです。

もっとも、必ずしも戒めのためばかりとも言えません。霊媒の健康への配慮から休息させる目的で中断することもあります。そういう場合には他の霊による侵入の懸念はありません。」


――しかし、徳性の高い人物で健康面でも別に休息の必要もないはずの霊媒が、通信がぷっつりと切れてしまって、その原因が分からずに悩んでいるケースはどう理解すればよいのでしょうか。


「そういうケースは忍耐力と意志の堅固さを試す試練です。その期間がいつまで続くかを知らされないのも同じく試練のためです。

一方、その期間はそれまでに届けられた通信を反芻(はんすう)させるためでもあります。それをどう理解しどう役立てるかによって、その霊媒が我々の道具として本当の価値があるかどうかの判断を下します。興味本位で立ち会う出席者についても同じような判断を下します。」


――何も出ない場合でも霊媒は机に向かうべきでしょうか。


「そうです、そういう指示があるかぎりは何も書かれなくても机に向かうべきです。が、机に向かうのも控えるようにとの指示があれば、止めるべきです。そのうち再開を告げる何らかの兆候が出ます。」


――試練の期間を短縮してもらう方法があるのでしょうか。


「忍従と祈り――そういう事態での取るべき態度はこれしかありません。毎日机に向かってみることです。が、ホンの数分でよろしい。余計な時間とエネルギーの消耗は賢明ではありません。能力が戻ったかどうかを確認することだけが目的です。」


――ということは、能力が中断したからといって必ずしもそれまでに通信を送ってくれた霊団が手を引いたとは限らないということですね?


「もちろんです。そういう時の霊媒は言わば“盲目という名の発作”で倒れているようなものです。が、たとえ見えなくても、実際は多くの霊によって取り囲まれております。ですから、そういう霊との間で思念による交信はできますし、また、それを求めるべきです。思念が通じていることを確認できることがあるでしょう。自動書記という現象は途絶えても、思念による交信まで奪われることはありません。」


――そうすると、霊媒現象の中断は必ずしも霊団側の不快を意味するものではないということでしょうか。


「まさにその通りです。それどころか、霊媒に対する優しい思いやりの証拠ですらあります。」


――霊団側の不快の結果である場合はどうやって知れますか。


「霊媒自身がおのれの良心に聞いてみるがよろしい。その能力をいかなる目的に使用しているか、どれだけ他人に役立てたか、霊団の助言・忠告によってどれだけ学んだか――そう自分に問いかけてみることです。その辺の回答を見出すのはそう難しくはないでしょう。」


――霊媒が自分が書けなくなったので他の霊媒に依頼するということは許されるでしょうか。


「それは、書けなくなったその原因によりけりです。通信霊はひと通りの通信を届けた後は、あまりしつこく質問するクセ、とくに日常生活のこまごまとしたことで相談する傾向を反省させる目的で、しばらく通信を休止することがあります。そういう場合は他の霊媒に代わってもらっても、満足のいくものは得られません。

通信の中断にはもう一つ別の目的があります。霊にも自由意志がありますから、呼べば必ず出てくれるとは限らないことを知らしめるためです。同じく交霊会に出席する人たちにも、知りたいことは何でも教えてもらえるとは限らないことを知らしめるためでもあります。」


――神はなぜ特殊な人だけに特殊な能力を授けるのでしょうか。


「霊媒能力には特殊な使命があり、そういう認識のもとに使用しなくてはなりません。霊媒は人間と霊との仲介役です。」


――霊媒の中には霊媒の仕事にあまり乗り気でない人がいますが……。


「それは、その人間が未熟な霊媒であることの証拠です。授かった恩恵の価値が理解できていないのです。」


――霊媒能力に使命があるのであれば、立派な人間にのみ特権として与えればよさそうに思えますが、現実にはおよそ感心できない人間が持っていて、それを悪用しているのはなぜでしょうか。


「もともとその人間自身にとって必要な修行として、その通信の教訓によって目を開かされることを目的として与えられています。もしもくろみ通りにいかなかった場合には、その不誠実さの結果について責任を問われることになります。イエスがとくに罪深き者を相手に教えを説いたことを思い起こすがよろしい。」


――自動書記霊媒になりたいという誠実な願望を抱いている者がどうしても叶えられない時は、霊団側がその者に対して親愛感が抱けないからと結論づけてよろしいでしょうか。


「そうとは限りません。体質的に自動書記霊媒として欠けたものがあることも考えられます。詩人や音楽家に誰でもなれるとは限らないのと同じです。が、その欠けた能力は、他の、同じ程度の価値のある能力で埋め合わせられていることでしょう。」


――霊の教えを直接耳にする機会のない人は、どうやってその恩恵に浴することができるのでしょうか。


「書物があるではありませんか。クリスチャンには福音書があるのと同じです。イエスの教えを実践するのにイエスが実際に説くのを聞く必要があるでしょうか。」

シアトルの冬 霊媒能力の特殊性と危険性

 Peculiarities and Dangers of Mediumship



 本章では霊媒としての能力が十二分に発揮される段階に至ってからの問題点や危険性について述べておきたい。

自動書記を例に取れば、用紙にきちんとした書体で通信文が書かれるようになったとする。が、ここでいい気になって油断すると危険である。鳥が一人前に飛べるようになって巣立った後、場所もわきまえずに飛び回っていると、ワナにかかったり鳥モチで捕らえられたりするのと同じで、邪霊が鵜の目鷹の目で見張っていることを忘れてはならない。

ラクに書けるようになったということは霊が身体機能をうまく操れるようになったという、言わば物的ハードルを乗り越えたという段階に過ぎず、霊的ならびに精神的修養はこれからなのである。

霊媒としての能力は、自由に発揮できるようになったからといって、無計画に、無節操に使用してはならない。本来は謹厳な使用目的を義務づけられて授かっているのであって、安直な好奇心の満足で終わることは許されてはいない。

本来は最良のコンディションのもとに行うべき実験会を、霊現象の面白さだけを求めて一日中行うような無分別なことをすると、高級霊は四六時中面倒を見てくれているわけではないので、下らぬ低級霊の餌食にされてしまう危険性がある。細かい点については次の一問一答から学んでいただきたい。


――そもそも霊媒的能力というのは病的なものでしょうか。それとも単に異常なものでしょうか。


「異常な状態のこともありますが、病的なものではありません。霊媒にも頑健そのものの人がいます。虚弱な霊媒は別の原因から来ています。」


――霊媒能力の使用によって疲労を来すことがありますか。


「いかなる能力でも長時間にわたって使用すれば疲労を来します。霊媒能力も、とくに物理現象の場合は流動エネルギーを多量に使用しますから、当然疲労します。が、休息すれば回復します。」


――悪用した場合は論外として、善用した場合でも霊媒能力が健康に害を及ぼすことがありますか。


「肉体的ないしは精神的な反応によって、慎重を期する必要がある場合、もしくは控えた方が好ましい場合、少なくともよほどの節制を要する場合などがあります。それは直感的に自分で判断できるものです。疲労が蓄積していると感じた時は控えるべきです。」


――人によっては霊媒能力が害を及ぼすことがあるわけですか。


「今も述べた通り、それは霊媒自身の肉体的および精神的状態に係わる問題です。体質的・気質的に過度の刺激を与えるものは避けるべき人がいます。霊媒現象もその部類に入ります。」


――霊媒能力が精神異常を来すことがありますか。


「脳障害の素因がある場合を除いては、その可能性はありません。先天的に素因がある場合は、常識的に考えて、いかなる精神的興奮も避けるべきです。」


――子供が霊能開発をするのはいかがでしょうか。


「感心しないだけでなく、危険ですらあります。子供のデリケートでひ弱な体質が過度の影響を受け、精神的にも幼い想像力が異常な刺激を受けます。子供にはスピリチュアリズムの道徳的な側面を教えるにとどめ、霊媒現象の話はしない方が賢明です。」


――しかし、生まれつき霊媒能力をもった子供がいます。物理現象だけでなく、自動書記能力や霊視能力をもった子供もいます。そういう子供は危険なのでしょうか。


「いえ、危険ではありません。そのように自然発生的であれば、そういう素質をもって生まれてきているのであり、体質的にそれに耐えられるようにでき上がっております。人為的に開発する場合とは根本的に異なり、神経組織が異常に興奮することはありません。

また、霊視能力でさまざまなものが見えても、そのような子供はそれをごく自然に受け止め、ほとんど意に介さないので、すぐに忘れてしまいます。成人してから思い出しても、それによって心を痛めることはありません。」


――では霊能開発は何歳から始めれば危険性がないでしょうか。


「何歳という定まった年齢というのはありません。身体上の発育によって違いますし、それよりもっと大切なものとして、精神的発達によっても違ってきます。十二歳でも大人より悪い影響を受けない子供がいます。もっとも、これは霊媒能力一般についての話です。物理現象になると身体そのものの消耗が大きくなります。では自動書記なら問題ないかというと、これにも無知から来る別の危険性があります。面白くて、一人でやりすぎて、それが健康に害を及ぼします。」


編者注――このあとの通信でますます明確になってくることだが、スピリチュアリズムの現象面に係わるに当たっては邪悪な低級霊に騙されないための才覚と用心を怠らないようにしなければならない。大人にしてそうなのであるから、若者や子供はなおのこと用心が肝要である。

それには精神統一と感情の冷静さによって善良で高級な霊の協力を得ることが必要となる。同じく霊の援助を祈り求めるにしても、ふざけ半分の態度で軽々しくやるのは一種の冒涜的行為であり、むしろ低級霊のつけ入るスキを与えることになる。

こうしたことを子供に忠告しても意味がないから、霊媒的素質のある子供を指導するに際しては、絶対に一人で行わないように厳重に警告しておく必要があろう。

続いて、霊媒現象の実際に関する一問一答。


――霊媒がその能力を使用している時は完全に正常な状態にあると言えますか。


「多かれ少なかれ危険な状態にある場合があります。疲労するのはそのためです。だから休息が必要となるわけです。しかし大体において正常な状態にあるとみてよろしい。とくに自動書記の場合は完全に正常です。」


――自動書記にせよ霊言にせよ、伝達される通信は霊媒自身の霊を通して届けられるのでしょうか。


「霊媒の霊にも、他の霊と同じように伝達能力があります。肉体から解放されると霊としての能力を回復するのです。このことは生者が幽体離脱して、書くなり話すなりして意志を伝達することがある事実が証明しています。

出現する霊の中にはすでにこの地上か、どこか他の天体に再生している者もいます。そういう場合でも霊として語っているのであって、人間としてではありません。霊媒の場合も同じではないでしょうか。」


――その説明ですと、霊界通信というのは全て霊媒の潜在意識が語っているにすぎないという意見を認めることになりませんか。


「その意見が全てであると断定するところに誤りがあるだけです。霊媒の霊がみずから行動することができるのは間違いない事実です。しかしそのことは他の霊が他の手段で働きかけることがある事実を否定することにはなりません。」


――では通信が霊媒自身のものか他の霊からのものかの判断はどうすればよいのでしょうか。


「通信の内容です。通信が得られた時の状況、述べられた、ないしは書かれた言葉や用語などをよく検討することです。霊媒自身が表面に出やすいのは、主にトランス状態の時です。肉体による束縛が少ないからです。通常意識の時には、通常の人間的性格とは別の、本来の自我は出にくいものです。

また、質問に対する答えが霊媒自身のものであり得るかどうかも判断の材料になります。私が、よく観察し疑ってかかるように、と申し上げるのはそのためです。」


訳注――ここで言う“疑ってかかる”というのは“批判的態度で臨む”ということであって“疑(うたぐ)る”のとは違う。

スピリチュアリズムの思想面の発達に大きく寄与した人々の中には、気の進まないまま、あるいはトリックを発(あば)いてやろうといった気持ちで交霊会に出席して、霊言で自分しか知るはずのない事実、つまり霊媒を始めその場にいる人々が絶対に知るはずのないプライベートなことを聞かされて「何かある」と直観して、その日を境に人生観が百八十度転換した人が多い。

米国の次期大統領候補とまで目されていたニューヨーク州最高裁判事のジョン・ワース・エドマンズ、英国ジャーナリズム界の大御所的存在だったハンネン・スワッファーなどがその代表的人物で、エドマンズ判事が米国の知識人に、スワッファーが英国の知識人に与えた衝撃は大きかった。とくにスワッファーの場合はシルバーバーチ霊の霊言霊媒だったモーリス・バーバネルを説得して「霊言集」として一般に公表させた功績は百万言を費やしてもなお足りないほど大きい。

いずれの人物も“煮ても焼いても食えぬ”偏屈者で知られていたが、真実を真実として直観し、確信したら真一文字に突き進んだところに霊格の高さがあった。


――現在の肉体に宿っての生活のあいだ消えている前世での知識が霊的自我によって思い起こされ、それが霊媒の通常の理解力を超えている場合も考えられるのではないでしょうか。


「トランス状態においてしばしばそういうことが起きることがあります。が、改めて断言しますが、そういう場合と、我々霊団の者が出た場合とでは、よくよく検討すれば疑う余地のない違いというものが見つかります。時間を掛けて検討し、じっくり熟考なさることです。確信に至ります。」


――霊媒自身の霊的自我から出たものは他の霊からのものに比べて見劣りがするということでしょうか。


「必ずしもそうではありません。他の霊の方が霊媒より霊格が低い場合だってあるわけですから、その場合は他の霊からの通信の方が劣るでしょう。そうした現象はセミ・トランス状態でよく見られます。なかなか立派なことを述べていることもあります。」


訳注――ここで“セミ・トランス”と訳したのは英文ではsomnambulism(ソムナンビュリズム)となっている。これはもともと心理学の用語で、日本語では“夢遊病”などと訳されている。心理学がこれを病気として扱うのはやむを得ないが、スピリチュアリズムの観点からすれば病的なものではなく、トランス状態の初期の段階なので“半入神”という意味でセミ・トランスとした。

この訳に落ち着くまでに私は同じカルデックのもう一冊の『霊の書』『The Spirits' Book』、マイヤ-スの『Human Personality』、それにナンドー・フォドーの『Encyclopedia of Psychic Science』の該当項目を丹念に読んだ。いずれも多くの紙面を割いていることからも、複雑なものであることが窺えた。

カルデックの通信霊はトランスとソムナンビュリズムの相違点を質されて「トランスとはソムナンビュリズムの状態が一段と垢抜けて、魂がより多くの自由を得た状態」と述べ、マイヤースはトランスを次の三段階に分けている。

第一段階では潜在意識(自我)が肉体をコントロールするようになる。第二段階ではそのコントロールを維持しながら自我は霊界へ赴くかテレパシー的に交信状態を得る。そして第三段階で身体が別の霊にコントロールされる。心理学がソムナンビュリズムと呼んでいるのは第一段階に相当する。

フォドーも多くのページを割いてトランス状態とソムナンビュリズムの例を挙げているが、結論としては上のマイヤースの分類法を引用している。

どうやら仰々しい人物を名乗った霊言や自動書記通信はその第一段階、つまり浅いトランス状態で霊媒自身が述べているようである。


――霊が霊媒を通して通信を送ったという場合、それは霊が直接的に思想を伝達したということでしょうか、それとも霊媒の霊が媒介して伝達したということでしょうか。


「霊媒の霊は通信霊の通訳のような役目をしています。(“通訳”の語意についてはこの後の問答であきらかとなる――訳注)霊媒の霊は肉体とつながっており、言わばスピーカーのような役もしています。また、今のあなたと私のような送信する側と受け取る側との間の伝導体の役もしています。皆さんが電信でメッセージを送る場合を想像してみてください。まず電波を伝える電線が必要ですが、それと同時にメッセージを送る者と受け取る者とがいなければなりません。つまり送信する知的存在と受信する知的存在、そして電気という流動体によって伝達されるメッセージ、それだけ揃わないと電信は届かないわけです。」


――霊から送られてきたメッセージに対して霊媒の霊が何らかの影響を及ぼすことがありますか。


「あります。親和性がない場合にそのメッセージの内容を変えて、自分の考えや好みに合わせて脚色します。ただし通信霊その者に影響を行使することはありません。つまりは“正確さを欠く通訳”ということです。」


――通信霊が霊媒を選り好みすることがあるのはそのためですか。


「そうです。親和性があって正確に伝えてくれる通訳を求めます。親和性が全く欠如している場合は、霊媒の霊が敵対者となって抵抗を示すことさえあります。こうなったら文句ばかり言う通訳のようなもので、“不誠実な通訳”ということになります。

人間どうしでもそんなことがありませんか。連絡を頼んだのにその者が不注意だったり敵対心を抱いたりして、正しく伝えてくれないことがあるではありませんか。」


訳注――この部分を訳していて、シルバーバーチがバーバネルを霊媒として使用するために、母胎に宿った瞬間から霊言通信のための準備をしたわけがよく理解できた。

ご承知の方も多いと思うが、シルバーバーチというのは肖像画として描かれているインディアンではなく、“光り輝く存在”の域にまで達した高級霊の一柱で、三千年前に地上で生活したことがあるということ以外、地上時代の名前も国籍も地位も最後まで明かさなかった。すでに意義を失っているからだという。

そのシルバーバーチから発せられたメッセージが、トランス状態のバーバネルに憑依しているインディアンに届けられ、そのインディアンがバーバネルの言語中枢を通して英語で語った。この言語の問題についてはこの後の問答でも出てくるが、シルバーバーチが「英語の勉強に十数年を費やした」と言っているのは、霊界の霊媒であるインディアンのことである。本源のシルバーバーチは思想をそのまま伝達していたはずである。

この三者と司会のハンネン・スワッファー、それに速記録を取り続けたフランシス・ムーア女史などは同じ類魂に属していたはずで、出生前から綿密な打ち合わせができていて、親和性は完璧だったことであろう。シルバーバーチが「私の言いたいことが百パーセント伝えることができます」と言っているのもうなずける。


――霊には“思念の言語”しかない――言葉で述べる言語はない――と言うことは、伝達手段は一つ、思念しかないということを前提としてお尋ねしますが、霊は地上時代にしゃべったことのない言語で霊媒を通してしゃべることができるのでしょうか。もしできるとした場合、その単語をどこから仕入れるのでしょうか。


「今“一つの言語しかない、つまり思念の言語しかない”とおっしゃいました。それがその質問に対する回答になっているではありませんか。思念の言語はあらゆる知的存在――霊だけでなく人間にも理解できるのですから。出現した霊がトランス状態の霊媒の霊に語りかける時、それはフランス語でもなく、英語でもなく、普遍的言語すなわち思念で語りかけます。が、それを特定の言語に翻訳し、その言語であなた方に語りかける時は、霊媒の記憶の層から必要な単語を取り出します。」


――そうなると霊は霊媒の言語でしか表現できないことになります。ですが、我々が入手した通信には霊媒自身の知らない言語で書かれたもの、ないしは語られたものがあります。矛盾しませんか。


「基本的な認識として理解していただきたいことが二つあります。一つは、霊の全てが等しくこの種の現象に向いているとは限らないこと。もう一つは、霊側としても、よほど望ましいとみた時にのみこの手段を選んでいるに過ぎないことです。普通の通信では霊は霊媒の言語を用いたがります。肉体機能を利用する上で面倒が少ないからです。」


――こういうことは考えられませんか。書くにせよ語るにせよ、その言語は前世で使っていたもので、その直覚が保存されていたと……。


「そういう例もたまにはありますが、通例というわけではありません。と言うのは、霊には遭遇する物的抵抗を克服する力が備わっていますし、必要とあれば取っておきの能力を駆使することもできるからです。例えば霊媒自身の言語で書いていても、霊媒の知らない単語もあるわけですから、それを書かせるには取っておきの能力が通信霊に要求されます。」


――通常の状態では文字の書き方すら知らない者でも自動書記霊媒が務まりますか。


「務まります。ただし、その場合には通信霊に技術的な面で普段より大きな負担が掛かることは明らかです。霊媒の手そのものが文字を綴るのに必要な動きに慣れていないからです。絵の描き方を知らない霊媒に絵を描かせる場合にも同じことが言えます。」


――教養のない霊媒を高等な通信を受け取るのに使うことは可能ですか。


「可能です。教養のある霊媒でも時には理解できない単語を書いたり語ったりさせられるのと同じです。厳密な意味から言うと、霊媒という機能は、本来、知性とも徳性とも関係ないものです。ですから、差し当たって有能な霊媒が見つからない時は、取りあえず使える霊媒で我慢して、それを最高度に活用します。が、重大な内容の通信を送る時は、なるべく物理的な手間が少なくて済む霊媒を選ぶのは当然でしょう。

さらに、白痴と呼ばれている人の中には脳の機能障害が原因でそういう症状になっているだけで、内在する霊は見た目には想像もつかないほど霊性が発達している場合があります。その事実はこれまでにおやりになった生者と死者の招霊実験で確認ずみのはずです。」


編者注――我々のサークルで数回にわたって白痴の生者の霊を招霊したことがある。霊媒に乗り移った霊は自分の身元つまり白痴の身の上を明確に証言し、その上で我々の質問に対して極めて知的で高等な内容の返答をしている。

白痴というのは、そういう欠陥のある肉体に宿って再生しなければならないような罪に対する罰であることが多い。が、脳に欠陥があることが結果的には霊に脳の束縛を受けさせなくしていることになり、それだけに、物的生活によって間違った人生観を抱いている霊媒よりも純粋な霊的通信が得られることがある。


――作詩法を知らないはずの霊媒によってよく詩文が書かれることがありますが、これはどうしてでしょうか。


「詩も一種の言語です。霊媒の知らない言語で通信が書かれるのと同じ要領で詩が書かれるだけです。ただ、それ以外の可能性として、その霊媒が前世で詩人だったというケースも考えられます。霊は一度記憶したことは絶対に忘れません。ですから、我々が働きかけることによって、その霊媒の霊がそれまでに身につけたもので通常意識では表面に出ないものが、いろいろと便宜を与えてくれることがあります。」


――絵画や音楽の才能を見せる霊媒についても同じことが言えますか。


「言えます。絵画も音楽もつまるところは思想の表現形式ですから、やはり言語であると言えます。霊は、霊媒が有する才能の中から最も便利なものを利用します。」


――詩文であれ絵画であれ音楽であれ、そうした形式での思想の表現は、霊媒の才能によって決まるのでしょうか、それとも通信霊でしょうか。


「霊媒の場合もあれば通信霊の場合もあります。高級霊になるほど才能は豊かです。霊格が下がるほど知識と能力の範囲が狭くなります。」


――前世では驚異的な才能を見せた霊が、次の再生ではその才能を持ち合わせないというケースがあるのはどうしてでしょうか。


「その見方は間違いです。反対に、前世で芽生えた才能を次の再生時に完成させるケースの方が多いです。ただ、よくあるケースとして、前世での驚異的な才能を一時的に休眠状態にしておいて、別の才能を発揮させることがあります。休眠状態の才能は消滅したわけではなく、胚芽の状態で潜在していて、またいつか発現するチャンスが与えられます。もっとも、何かの拍子にそうした才能が直覚によっておぼろげに自覚されることはあります。」

シアトルの冬 霊能者のモラルの問題

The Medium's Book
Allan Kardec

Moral Issues for Spiritualists


訳注――ここで“霊能者”と訳したのは英文版では前章までと同じmedium(ミーディアム)である。これを“霊媒”と訳さなかったのは、日本では霊媒という用語は、物理現象や自動書記ならびに霊言現象における“入神(トランス)霊媒”というニュアンスが定着していて、本章のように同じくミーディアムでも霊視・霊聴・霊感といった主観的霊能を使用する人にも当てはまる内容には“霊媒”では不適切と判断し、限定的に用いるにとどめた。また、人格・識見を兼ね備えた優れた霊能者を“霊覚者”と呼ぶことにしていることも理解していただきたい。


――霊的能力の発達は霊能者自身のモラルに掛かっているのでしょうか。


「そうとは言えません。厳密に言うと、元来、霊的能力は体質に係わる問題であって、モラル的要素とは無縁です。しかしその霊能をいかに使用するかの問題になるとモラルの面が出て来ます。最終的にはモラルの高い低いが霊媒現象の質を決定づけます。」


――霊能は“大霊からの贈り物”と言われますが、そうであれば立派な人だけが授かればよいのに、中にはどうみても不似合いと思える人、つまり霊能の使い道を間違っている人がいるのはなぜでしょうか。


「才能はすべて神の恩寵として感謝すべきものです。あなたの言い分は、神はなぜ悪人に良い視力を与えるのか、なぜペテン師に鋭い勘を与えるのか、人を口車に乗せるのがうまい者になぜ流暢な弁舌を与えるのかとおっしゃっているようなものです。

霊能についても同じことが言えます。相応しくないと思える人が霊的能力に恵まれていることがよくありますが、それはその人にとって必要だからであって、それを使用することによって人間的に向上することを目的として授けられているのです。大霊が邪悪な人間には更生の手段を与えないということが有り得るでしょうか。その逆です。少しでも進歩すると、さらに多くの手段を用意なさいます。その手にしっかりと持たせるのです。

ですから、才能というのは、まずは当人がその恩恵に浴するためのものなのです。」


――その霊能の使用を誤った時は、それ相当の報いがあるのでしょうか。


「倍の報いを受けます。普通の人より多くの啓発の手段を授かっているからです。目が見えるのに道を間違える人は、目の見えない人が溝に落ちるのとは別の次元の裁きを受けます。」


――自動書記霊媒の中には同じテーマ、たとえばモラルの問題やその霊媒の短所に関連した通信が繰り返し綴られる者がいますが、何か特別な意図をもって行われているのでしょうか。


「そうです。繰り返し言及されているテーマについて当の霊能者を啓発し、短所を改めさせようという意図があります。霊団側はその目的のもとに、ある霊能者には自尊心について、別の霊能者には慈悲心について説きます。おのれの欠点に目覚めさせるために警告と忠告を繰り返しておく必要がある、そういう性癖をもった霊能者がいるものです。

野心や我欲のために才能を悪用する者、あるいは自惚れ、独善、軽率さといった欠点によって、せっかくの霊能を台なしにしかねない者には、霊団から折あるごとに警告が発せられます。が、残念なことに、そうした霊能者ほど自分には関係ないと思うものです。」


――しかし、霊能者自身のためという意図はなしに、一般的な戒めとして、その霊能者を通して授けている場合もあるのではないでしょうか。つまり一般人への教訓の道具として霊能者を使っているという場合です。


「もちろんです。我々霊界側としては、霊能者を媒介として届ける以外に方法のない人々のためを意図して忠告することがよくあります。もちろん取り次ぐ者がそれを自分への警告として受け止めることもあるでしょう。原則として霊的能力はその霊能者本人の霊性の向上だけでなく、人類一般の啓発のために授けられるのですから、ただ今のご意見はまさにその通りです。

我々は霊能者をあくまでも“道具”と見なし、道具として大切にしますが、決して他の一般の人々より特別に扱うわけではありません。従って体質的に霊的教訓の通路として役立つと見た時は、どの霊能者でも利用します。が、それも現段階での話です。いずれ人類が進化して優れた霊能者が続々と輩出するようになれば、体質だけで選ぶことはなくなり、精神的・道徳的に霊性の発達した霊能者を選ぶようになるでしょう。」


――霊能者の徳性の高さが低級霊を近づけなくしているとすれば、間違いなく徳性が高いと思える霊媒を通して信の置けない愚劣なメッセージが届けられたりするのはなぜでしょうか。


「間違いなく徳性が高い、とおっしゃいますが、あなたは霊能者の魂のすみずみまでお見通しなのでしょうか。邪悪性はないとしても、まだまだ軽薄さのような欠点が残っていることがあるものです。その意味でも常に反省を怠らぬように、こちらから時おり警告を発する必要があります。」


――優れた霊能を有し、従って大きな貢献をする可能性のある人が誤った道へ外れて行くのを、高級霊はなぜ許すのでしょうか。


「霊団側としては、あらゆる種類の霊能者に正しい道を歩ませるべく指導します。が、それに耳を傾けず、堕落の道を歩み続ける者には見切りをつけます。そして、霊能そのものは劣っても、少しでも徳性の高くある者を、渋々ですが、使用します。それ以上の人材が見当たらないのですから、やむを得ません。偽善者を通して真理が正しく伝えられることは有りません。」


――モラルの感覚に欠ける霊媒を通して高等な通信が得られることは、絶対にありませんか。


「そういう霊媒でも、能力的に良いものを持っていれば、今も述べた通り、他にこれといった人材がいないという特殊事情にかんがみて、取りあえずその者で間に合わせます。が、そのうち他に適切な霊媒が見つかれば、すぐに見捨てます。」


編者注――注目すべき事実として、高級霊団は霊能者が道徳的に堕落して低級霊の餌食になり始めたら、必ずといってよいほど、大きな事件を持ち上がらせてその過ちを暴くことをする。真面目な求道者がその霊能者に騙されないようにとの配慮からである。高級霊になると、いかに霊能が優れていようと、それには代えられないという見方をするようである。


――では完全な霊覚者とはどういう資質を有するのでしょうか。


「完全? ああ、残念ながらこの地上には完全なものは存在しません。もし完全だったら、この世には存在しないでしょう。“まっとうな”霊能者とでも呼びましょうか。いや、それでもまだ言い過ぎでしょう。まっとうな霊能者にも滅多にお目にかかれません。“完全な”霊覚者だったら邪霊集団も騙そうという考えすら抱かないでしょう。地上で求められる最高の霊覚者としては、常に高級な善霊との親和関係を保ち、せめて邪霊に騙されることが滅多にない者といったところでしょう。」


――善霊との親和関係を保っていてもなお騙されることがあるということでしょうか。なぜでしょうか。


「いかに優れた霊能者であっても、高級霊があえて騙されるに任せることがあるのです。洞察力を試すためであり、また、真実と虚偽との見分け方を教えるためでもあります。さらには、いかに優れているといってもどこかに欠点があるわけですから、邪霊のつけ入るスキは必ずあるものです。そこで時おり痛い目に遭わせるのです。

時おり他愛もない通信を受け取るのは、決して油断はならぬとの警告であり、自惚れさせないためです。手回しオルガンの奏者がいくら良い曲を聞かせても自慢にはならないのと同じで、いくら高等な通信を受け取っても自分が偉いわけではないのですから。」


――高等な霊界通信を受け取るための最適の条件とはどんなことでしょう?


「動機にやましい点がないこと、我欲と高慢がないこと。この二つが必須の条件です。」


――高級霊からの通信がそんなに厳しい条件のもとでしか入手できないとなると、霊的真理の普及の障害となるのではありませんか。


「そんなことはありません。求める者には必ず光が与えられます。取り払うべき地上の闇は不純な心から生まれたものです。高慢と貪欲と無慈悲をなくすことです。そうすれば、格好つけた交霊会など開かなくても、善霊は光明へ導いてくれます。

霊能者に恵まれないまま真理の光を求めている人々には、自分自身の理性を頼りとして大霊の無限の霊力と叡智を学ぶように告げてあげてください。その真摯な求道心はいつかは最高の証しを生み出し、必ずや高遠の世界からの援助にあずかることでしょう。」

シアトルの冬 シルバー・バーチシリーズ刊行に当たって

On the Occasion of the Publication of the Silver Birch Series

Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley




 私は、ほぼ一年半前 (一九八四年五月) に 「シルバーバーチ霊言集」 全十一巻を総集した 『古代霊は語る』 を潮文社より上梓した。正直言って、その出版に際して訳者自身も潮文社の担当者も、この種のものに対する一般読者の反応に一抹の懸念を禁じ得なかった。

ところが、出版してみると、予想に反して全国各地から訳者と出版社の双方に感動と感謝の手紙が次々と寄せられた。英語の素養のある方からは原書の入手方法についての問い合わせもあった。そして、当然予想されたこととして、霊言集全十一巻を全訳してほしいという希望が多く寄せられた。

 『古代霊は語る』の〝あとがき〟の中で私は「今この全十一巻を一冊にまとめて、何という無謀なことをしたのだろうと、恰も過ちを犯してしまった時のような気持ちがふと湧くことがある。が・・・(中略) 決して弁解して言うのではなく、私の理解力の範囲で確信して言うが、シルバーバーチの説かんとすることは本書が一応その全てを尽くしていると考えていただいて結構である」 と述べた。

そして今もその確信に変わりはないが、多くの読者からの希望を受け取るごとに、かなえられるものであれば全巻を訳しておくのも私の使命かも知れないという考えが深まっていった。そしてこの度潮文社のご理解を得て、幾つかの条件のもとにその実現に努力してみることになった次第である。

 〝条件〟を考慮しなければならない最大の原因は、内容的に重複する箇所が多いことにある。 『古代霊は語る』 と題して一冊にまとめた理由もそこにあるが、〝まとめる〟という作業がエッセンスだけに絞ることになる傾向を避けられないことは確かで、現に読者から〝もっと細々(こまごま)とした悩みごとの質疑応答はないのでしょうか〟といった手紙も寄せられている。

そして、確かにそれが豊富にあるのである。全訳によってそれが紹介できることを有難いと思う一方、重複は是非避けたい気持ちもある。そこで翻訳のシリーズは原典のシリーズのそのままの置き替えではなく、重複箇所を削除し、編者による冗漫な解説も省かせていただくことにした。その点をご了解ねがいたい。

 霊言集は五〇年余りにわたって蓄積された膨大な量の霊言をハンネン・スワッハー・ホームサークルのメンバーがそれぞれの視点から編集したものである。そのうち二人のメンバーが二冊ずつ出しているので、全部で九人によって十一冊が編集されたことになる。

先日、メンバーの一人でバーバネルの秘書だったパム・リバ女史に手紙で確かめたところ、これ以後新たに編集する予定は今のところ無いということであった。

 いま改めてその十一巻に目を通してみると、その扱い方は一冊一冊に特徴があり、実に多彩である。その中から本シリーズの第一巻としてアン・ドゥーリー女史の Guidance from Silver Birch (シルバーバーチの導き) を選んだのは、本書が全巻の中でもシルバーバーチの霊訓をもっとも平易な形でまとめてあり、また 「まえがき」 でシルバーバーチと霊媒バーバネルについての詳しい紹介があり、本シリーズの初巻を飾るものとしていちばん適当とみたからである。

 また全巻の中で本書が最もページ数が少なかったことが、巻末に私自身の長文の解説 「霊的啓示の系譜」 を載せる余裕を与えてくれることにもなった。これによって人類史の背後の霊的な流れの中における「シルバーバーチの霊訓」の位置を理解していただけるものと信じている。

 熱心な読者のために、願わくば一冊でも多く、そして少しでも早く出せることを心から念じている。
                       一九八五年七月  近藤 千雄




  まえがき

  古代霊シルバーバーチと霊媒モーリス・バーバネル

 四〇年余り前 (一九二〇年ごろ) のことである。文人による社交クラブで司会役をしていた十八歳の議論好きの青年が、思わぬ成り行きからスピリチュアリズム (章末注①) の研究に引きずり込まれた。そしてある心霊家の招きでロンドンの東部地区で催されていた交霊会 (注②) なるものに一種の軽蔑心を抱きつつ出席した。

 これといった感動も覚えぬまま会の成り行きを見ていたその青年は、入神した人間の口をついてインディアンだのアフリカ人だの中国人だのが代わるがわるしゃべるのを聞いて苦笑を禁じ得なかった。そして列席者の一人から 「あなたもそのうち同じことをするようになります」 と言われた時もアホらしいといった気持ちで軽く聞き流した。のちにこれが現実となるとは神ならぬ身には知る由もなかった。

二度目に出席した時、青年は途中でうっかり〝居眠り〟をしてしまい、目覚めてから慌てて失礼を詫びた。ところが驚いたことに他の出席者たちから 「居眠りをなさっている間あなたはインディアンになっておられましたよ。名前も名のってましたが、その方はあなたがお生まれになる前からあなたを選んで、これまでずっと指導してこられたそうです。そのうちスピリチュアリズムについて講演なさるようになるとも言ってました」と言われた。

 この時も青年は一笑に付した。しかしどこか心の奥にひっかかるものがあった。そしてその後出席する度に入神させられ、そのたびに同じインディアンがしゃべった。はじめのうち片言英語しか話せなかったのが次第に流暢になっていった。

 その青年の名はモーリス・バーバネル。(注③) そしてインディアンはシルバーバーチ (注④) と呼ばれるようになった。両者は顕と幽の相反する世界にいながら密接に結びついた仕事で世界的に知られるようになる運命にあった。

前者は練達の宣伝家、著作家、編集者として、後者はハンネン・スワッハー氏 (注⑤) の言葉を借りれば〝他のいかなる説教家よりも多くの心酔者をもつ〟雄弁な説教者としてである。

 スワッハーの言葉には説得力がある。スワッハー自身がその会の司会者であり、今日までその交霊会はハンネン・スワッハー・ホームサークルの名称で知られているからである。それにスワッハーはジャーナリズム界では〝フリート街の法王〟の異名を取る反骨のジャーナリストとして長くその存在を知られている人物である。

 そのスワッハーの勧めでシルバーバーチの霊言が心霊紙上で公表されるようになってからも、霊媒がバーバネルであることは内密にされた。

バーバネルにしてみれば自分を通じての霊的教訓はいくら宣伝されてもそれだけの価値はあるが、それを掲載するサイキックニューズ紙とツーワールズ紙の主筆が実はその霊媒であるというのは、受け取られようではまずい印象を与えるのではないかという用心があったのである。


そういう次第でバーバネルがシルバーバーチの霊媒であるという事実は二十年余りも極秘にされていたが、いったい霊媒は誰なのかという次第に高まる一般のうわさを放置するわけにもいかなくなり、ついに一九五七年八月二四日のツーワールズ紙上でバーバネル自ら公表したのであった。

 シルバーバーチについてスワッハーはこう述べている。 「シルバーバーチは実はインディアンではない。いったい誰なのか、本当のところは分からない。本来属する界は波長が高すぎて地上とは直接の交信が不可能であるために低い界の霊 (霊界の霊媒) の幽体を使用している。

シルバーバーチと名のるインディアンはたぶんその幽体の持ち主であろう。その証拠に彼はこう言っているのである。〝いずれ私の身元を明かす日も来ることでしょう。私は仰々しい名前を使うことによって敬愛を受けたくはありません。私が語る真理によって私の真価を証明するためにあえて素朴なインディアンに身をやつしております。それが自然の理というものなのです〟」と。

 これらの教説が霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのかとの批評家の質問に対してスワッハーは、両者が別個の存在であることを示す決定的な事実がいくつかあると言う。例えばシルバーバーチは再生説(注⑥)を説くが、バーバネルは通常意識の時はこれを否定し、入神すると反対に再生説を主張する。

 シルバーバーチ自身も自分が心霊家がよく持ち出す〝霊媒の第二人格〟でないことを示す証拠をこれまで何度も提供している。例えば霊媒の奥さんのシルビアに対してシルバーバーチが、今度のエステル・ロバーツ女史 (注⑦) の交霊会でかくかくしかじかのことを直接談話 (注⑧) で言います、と約束したことがある。

そしてその約束どおりのことが起きた。いっしょに出席していたバーバネルも初めてシルバーバーチの声を直接聞いて感動を覚えたという。

 「文は人なり」 とは十八世紀のフランスの博物学者ビュフォンの名言であるが、これはシルバーバーチに関する限り人間性のみならず教説の説き方についても言える。霊媒のバーバネルもシルバーバーチの説き方の巧みさをまさに〝霊の錬金術〟であると激賞してこう述べている。

 「年がら年中ものを書く仕事をしている人間から観れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さでもって説き続けるということ、それ自体がすでに超人的であることを示している。

ペンで生きている他のジャーナリスト同様、私も平易な文章ほど難しいものはないことを熟知している。誰しも単語を置き換えたり消したり、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っぴきでやっと満足の行く記事が出来上がる。ところがこの〝死者〟は一度も言葉に窮することなく、すらすらと完璧な文章を述べていく。

その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を昂揚し、気高さを感じさせる。シルバーバーチの言葉には実にダイヤモンドの輝きにも似たものがある。ますます敬意を覚えるようになったこの名文家、文章の達人に私は最敬礼する。」

 南アフリカにおけるスピリチュアリズムの中心的指導者であるエドマンド・ベントリー氏もその著書の中でシルバーバーチとバーバネルの相違を〝一目瞭然〟であると評し、とくに弁舌のさわやかさと文体の美しさにおいて際立った対照を見せていると述べてからこう続ける。

 「バーバネルも確かに優れた演説家である。公開の演壇上で、宴会の席で、選挙の応援演説で、あるいは何万人もの聴衆を前にした集会の演説等々での体験から氏は実に弁舌さわやかであり、ユーモアのあるエピソートを混じえるのも巧みであり、なかんずく法廷弁護士にも似た理路整然とした説明にただならぬ才能を見せる。

 しかしシルバーバーチはこうした人間的評価の域を完全に超えている。シルバーバーチには荘厳さと威厳があり、それに王者の風格ともいうべき高度な素朴さと情愛とが一体となった風合いが感じられる。

あえて説明するに及ばぬことであるが、その表現力の幅広さ、用語の選択の適確さ、生気溢れる爽やかな弁舌をみれば、シルバーバーチと名のる存在が明らかにバーバネルとは別個の霊界からの訪問者であり、それが豊富な知識と叡智と才能を携えて訪れ、地上の人間の身体を借りて語っていることは明白である。」

 そのシルバーバーチがバーバネルの身体を完全に使いこなすに至る過程をバーバネル自身が次のように語っている。

 「はじめのころは身体から二、三フィート離れたところに立っていたり、あるいは身体の上の方で宙ぶらりんの格好で自分の口からでる言葉を一語一語聞き取ることができた。シルバーバーチは英語がだんだん上手になり、はじめのころの太いしわがれ声も次第にきれいな声──私より低いが気持ちのよい声──に変わっていった。

 ほかの霊媒の場合はともかくとして、私自身にとって入神はいわば〝心地良い降服〟である。まず気持ちを落着かせ、受身の心境になって気分的に身を投げ出してしまう。

そして私を通じて何とぞ最高で純粋な通信が得られますようにと祈る。すると一種名状し難い温かみを覚える。ふだんでも時折感じることがあるが、これはシルバーバーチと接触したときの反応である。

温かいといっても体温計で計る温度とは違う。恐らく計ってみても体温に変化はないはずである。やがて私の呼吸が大きくリズミカルになり、そして鼾(いびき)にも似たものになる。

すると意識が薄らいでいき、まわりのことが分からなくなり、柔らかい毛布で包まれたみたいな感じになる。そしてついに〝私〟が消えてしまう。どこへ消えてしまうのか私にも分からない。

 聞くところによると、入神はシルバーバーチのオーラと私のオーラとが融合し、シルバーバーチが私の潜在意識を支配した時の状態だとのことである。意識の回復はその逆のプロセスということになるが、目覚めた時は、部屋がどんなに温かくしてあっても下半身が妙に冷えているのが常である。

時には私の感情が使用されたのが分かることもある。というのは、あたかも涙を流したあとのような感じが残っていることがあるからである。

  入神状態がいくら長引いても、目覚めた時はさっぱりした気分である。入神前にくたくたに疲れていても同じである。そして一杯の水を頂いてすっかり普段の私に戻るのであるが、交霊会が始まってすぐにも水を一杯いただく。

忙しい毎日であるから、仕事が終わっていきなり交霊会の部屋に飛び込むこともしばしばであるが、どんなに疲れていても、あるいはその日どんなに変わった出来ごとがあっても、入神には何の影響もないようである。

あまりに疲労がひどく、こんな状態ではいい成果が得られないだろうと思った時でも、目覚めてみると、いつもと変わらない成果が得られていることを知って驚くことがある。

 私の経験では交霊会の前はあまり食べないほうが良いようである。胸がつかえた感じがするのである。また、いろいろと言う人がいるが、私の場合は交霊会の出席者 (招待客) についてあらかじめあまり知らない方がうまくいく。

余計なことを知っているとかえって邪魔になるのである。」


 私(アン・ドゥーリー) にとっては一九六三年秋に初めて出席した交霊会は忘れ難いものとなった。格別目を見張るような現象があったわけではない。常連のメンバー六人に私を含む招待客六人の計十二人が出席した。雰囲気は極めてリラックスして和気あいあいとしていた。部屋はロンドン近郊の樹木に囲まれたバーバネル氏の自宅の一階の居間で、書物の並ぶ壁で四方を取り囲まれた素敵な部屋であった。

 聞いた話では交霊会は〝テーブルの振動〟によって始まるとのことであった。確かにそうなのだが、その時の印象は見ると聞くとでは大違いであった。

死んだカエルの足がピクピク引きつるのを科学者が目撃したのが電気時代の始まりだそうだが、私にとってそんな言い草は、他の出席者と共に両手をテーブルの上に置いたとたんに消し飛んだ。テーブルに〝生命〟が吹き込まれるのをこの目で見ただけでなくこの手で感じ取ったのである。

出席者が誠実な人ばかりであることは確信していたので、誰かが故意に動かしているのではないことは断言できる。そのテーブルがこちらの挨拶に応えて筋の通った反応を見せた時に、私がこれまで抱いていた万有引力の法則の概念が崩れ去った。

何の変哲もない無生物である木製のテーブルがギーギーときしむ音を出しながら人間が頷くような動作から、苛立つように激しく前後に揺れ動く動作まで、さまざまな動きを見せるのだった。

 そうした現象がひと通り終わって全員が着席すると、霊媒のバーバネルがソファに腰掛けて入神状態に入った。その瞬間から会が目に見えぬ一団によって進められている雰囲気となった。そして私は神秘家の言う〝聖霊の降下〟を垣間見ることとなった。

 驚いたことにバーバネル氏の顔が急に変貌し始めたのである。仕事の上で慣れ親しんでいるあの皮肉屋でいつも葉巻を口にした毒舌家のジャーナリストに、一体何の変化が生じたのだろうか。フロイトに言わせると、精神病や夢の原因はことごとく潜在意識の仕業だそうで、われわれもそう思い込んできた。

が、それから八〇分間にわたって私がこの目で見この耳で聞いたものは、そんな単純な説明ではとても解釈できるものではなかった。ジャーナリストとしてネタ集めに奔走してきた関係で、私は熟練の税関職員と同じように、話しぶりや挙動でその人の本性を見抜く才能が身についている。

いま目の前でしゃべり始めたのが日ごろ親しくしているバーバネル氏とは別人であることを私はすぐに直感した。バーバネル氏の身体がしゃべっているのであるが、それはバーバネル氏その人ではない。話しぶりが全く違うのである。

 その日、シルバーバーチは出席者の一人一人に個別に語りかけたが、その内容は万人に共通した普遍的なものであった。ただ序(ついで)に付け加えれば、その日この強(したた)か者の私を含む三人の女性が涙を流した。悲しみの涙ではない。感激の涙である。

こう言うとまた否定論者の偏見を招くことになるかもしれない。が、ギリシャのデルポイの神託でリディアの最後の王クロイソスが何の変哲もないメッセージを受けたことがもとで、王国が根柢から揺れ動いた例もあることを忘れてはならない。

 さて長年の慣例に従い私もシルバーバーチに悩みごとの相談を許された。私はこう質問した。「私が今なお理解できないのはこの世に不可抗力の苦難が絶えず、それが私を含めて多くの人間を神へ背を向けさせていることです。」

シルバーバーチ「なるほど。でも神はその方たちに背を向けませんよ。いったいどうあってほしいとおっしゃるのですか。苦労なしに勝利を収め、努力なしに賞を獲得したいとおっしゃるのでしょうか」


 次に私は 「当然の報いと慈悲との関係がよく分かりません」 と尋ねた。

シルバーバーチ 「報いは報いであり慈悲は慈悲です。地上で報われない時はこちらの世界 (死後の世界) で報われます。神をごまかすことはできません。なぜなら永遠の法則が全ての出来事をチェックしているからです。その働きは完璧です。宇宙を創造したのは愛です。無限なる神の愛です。

無限なる愛がある以上、そこに慈悲が無いはずはないでしょう。なぜなら慈悲心、思いやり、寛容心、公正、慈善、愛、こうしたものはすべて神の属性だからです。

 苦難は無くてはならぬものなのです。いったい霊性の向上はどうすれば得られるのでしょう。安逸をむさぼっていて得られるでしょうか。楽でないからこそ価値があるのです。もし楽に得られるのであったら価値はありません。身についてしまえば楽に思えるでしょう。身につくまでは楽ではなかったのです。」


 このハンネン・スワッハー・ホームサークルにおけるシルバーバーチの霊言の全てが公表されれば、いま物質主義的文化の危険な曲がり角に立つ人類が抱える諸問題についての注目すべき叡智が数多く発見されることであろう。

 とりあえずその中から私なりに選んだ叡智の幾つかを紹介するに際し、読者の全てがご自分の人生において慰めとなり、あるいは思考の糧となる何ものかを見出されることを希望してやまない次第である。
                      一九六六年  アン・ドゥーリー


 注釈

①スピリチュアリズム Spiritualism

 狭義には、古来〝奇蹟〟または〝超自然現象〟と呼ばれてきたものを組織的に調査・研究した結果、その背後に〝霊魂〟つまり他界した先祖の働きがあるとする〝霊魂説〟およびそれを土台とする死後の生命観、道徳観、神に関する思想・哲学を意味するが、広義には、次の注②の交霊会を通じその死者との交信や心霊現象一般を指すこともある。ラテン諸国ではスピリティズム Spiritism と呼んでいる。

②交霊会

 霊媒を通じて死者の霊と交信したり心霊現象を観察したりする会で、出席者が十人前後の私的な集いと科学的調査研究を目的としたものとがある。西洋では前者を家庭交霊会(ホームサークル)と呼ぶが、日本では双方とも心霊実験会と呼んでいる。

③モーリス・バーバネル Maurice Barbanell (1902~1981)

  ミスター・スピリチュアリズムの異名をとった英国第一級の心霊ジャーナリストで、本文で紹介されている二つの週刊心霊紙(ツーワールズは後に月刊誌となる) の主筆をつとめつつ、シルバーバーチの霊言霊媒として五十年余りにわたって毎週一回 (晩年は月一回) 交霊会を開き、数え切れない人々に啓発と慰安を与えた。

④シルバーバーチ Silver Birch

 バーバネルの遺稿 「シルバーバーチと私」 によると当初は別のニックネームでよばれていたが、それが公的な場で使用するには不適当ということで、本人自らこの名を選んだ。

面白いことに、そう決まった翌日バーバネル氏の事務所にスコットランドから氏名も住所もない一通の封書が届き、開けてみると銀色の樺 の木(シルバーバーチ) の絵はがきが入っていたという。常識では、距離的に考えてすぐ翌朝に届く筈はない。

⑤ハンネン・スワッハー Hannen Swaffer  (1879~1962)

 〝フリート街の法王〟(フリート街は英国の新聞社が林立する通り) と呼ばれた世界的なジャーナリスト。シルバーバーチの霊言を高く評価し、当初は自宅に呼んで交霊会を開き、のちにバーバネルの自宅で定期的に行われるようになり、その霊言を二つの心霊紙に掲載させる一方、自分の知名度を利用して各界の名士を招待して、スピリチュアリズムの普及と理解に大いに貢献した。

⑥再生説

 いったん他界した人間が再び人体に宿って地上に誕生してくるという説。スピリチュアリズムの中でも賛否両論があり、従って定説とはなっていないが、シルバーバーチはこれを五十余年にわたって首尾一貫して説き続け、その説に矛盾撞着は見られない。

これを肯定する霊の間にも諸説があり、中には否定する霊さえいるが、その間の事情についてシルバーバーチはこう語っている。

 「知識と体験の多い少ないの差がそうした諸説を生むのです。再生の原理を全面的に理解するにはたいへんな年月と体験が必要です。霊界に何百年何千年いても再生の事実を全く知らない者がいます。なぜか。それは死後の世界が地上のように平面的でなく段階的な内面の世界だからです。

その段階は霊格によって決まります。その霊的段階を一段また一段と上がって行くと、再生というものが厳然と存在することを知るようになります。もっともその原理はあなた方が想像するような単純なものではありませんが・・・」

⑦エステル・ロバ―ツ Estelle Roberts

 英国屈指の女性霊媒で、多彩な霊能を発揮したが、中でも霊視と霊聴の適確さは完璧であった。中心的支配霊はブラック・クラウドと名のるやはりインディアンで、直接談話 (注⑧参照) でユーモア溢れる話術で列席者と親しく交わった。

バーバネルは女史を英国最高の霊媒として敬意を表し、毎週開かれる交霊会に出席して細かくメモを取り、それを中心的資料として名著 This is Spiritualism (邦訳「これが心霊の世界だ」 潮文社刊) を著わした。

⑧直接談話

 シルバーバーチは入神中のバーバネルの発声器官を使用した。これを入神談話または霊言現象と呼ぶが、霊媒の身体を使わず直接空中からメガホンを使って話しかけるのを直接談話と呼ぶ。この際も実際にはエクトプラズムという霊質の物質でメガホンの中に人間と同じ発声器官をこしらえている。

Thursday, February 27, 2025

シアトルの冬 見えざる世界の実験室 

Laboratory of the Unseen World


霊は、流れるような優美な衣をまとっていることもあれば、ありふれた人間的な服装をしていることもあることはすでに述べた。どうやら前者が一定レベル以上の高級霊の普段の衣装で
るように思われる。

いずれにせよ、ではそうした衣装をどこから手に入れるのであろうか。とくに地上時代と同じ衣服をまとって出てくる霊は、それをどこから手に入れるのであろうか。衣服のアクセサリーまでまったく同じなのはなぜなのであろうか。あの世まで持って行ったはずはない。そのことだけは間違いない。なのに、実験会に出現してそれを見せ、時には触らせてくれることもある。一体どうなっているのであろうか。

このテーマは、霊姿を見た者にとって、これまでずっと不可解きわまる謎だった。もちろん単なる好奇心の対象でしかない人も少なくないであろう。

が、これは実はきわめて重大な意義を含んでいて、我々の探求によって、霊界と現界とに等しく当てはまる法則の発見の手掛かりをつかむことができた。それなしにはこの複雑な現象の解明は不可能である。

すでに他界している人間の霊が出現した時に生前そっくりの衣服を着ていても、驚くには当たらない。記憶と想念の作用、つまり霊の創造力の産物とみてよいであろう。が、それをアクセサリーにも当てはめるのには抵抗がある。まして、前章の生者の幽霊現象に出てくる“かぎタバコ入れ”のように、その後ふだんの肉体で訪れた時に持っていたものとそっくりだったという事実は、普通では理解できない。

あの時、すなわち老紳士が病臥の女性の寝室を訪れたのは幽体であったことは理解できるが、かぎタバコ入れはどこから持ってきたのだろうか。杖やパイプ、ランタン、書物などを手にしていることもある。

初めのころ我々はこう考えた――不活性の物体にもエーテル的な流動体があるから、それが凝結して、肉眼には映じない型をこしらえることができる、と。この仮説もまったく真実性が無いわけではないが、これだけでは説明しきれない現象があることが分かってきた。

それまで我々が観察していたのはイメージや容姿ばかりだった。そして流動エネルギーが物質性をそなえることができることも知っていたが、それはあくまでも一時的なものであって、用が済めば消滅してしまうのである。その現象も確かに驚異的であるが、その後それよりさらに驚異的な現象に出会うことになった。いろいろあるが、その中の一つを挙げると“直接書記現象”がある。

これについては改めて章を設けて解説する予定であるが、ここで指摘しておきたい点と深く係わっているので、少しばかり言及しておきたい。

直接書記というのは霊媒の手も鉛筆も使わずに自動的に文章または暗号・符号・図などが書かれる現象である。ということは、用意するのは一枚の用紙だけということで、しかもそれを折り畳んでもいいし、引き出しに入れてもいいし、もちろんテーブルの上に置くだけでもよい。そのあと、ホンのわずかな間を置くだけで、その紙面にメッセージや暗号などが書かれているのである。

そのメッセージなどは鉛筆で書かれていたり、クレヨンで書かれていたり、赤鉛筆だったり普通のインクだったり、時には印刷用のインクだったりする。

用紙といっしょに鉛筆を置いておいたのであれば、霊はその鉛筆で書いたという想像が成り立つが、書くための用具は何一つ置いていないのである。となると霊は霊界でこしらえた何らかの道具で書いたことになる。一体どうやってこしらえるのであろうか。

その点の疑問が、例のかぎタバコ入れの現象に関する聖ルイの回答によって解明された。次がその一問一答である。


――生者の幽霊現象の話の中にかぎタバコが出てきます。そして、あの老紳士は実際にそれをかぐ仕草をしているのですが、あの時、我々がふだん香りをかぐのと同じように嗅覚を使っているのでしょうか。


「香りはありません。」


――あのかぎタバコ入れは老紳士がふだん使っているものとそっくりだったようですが、実物は家に置かれているはずです。手にしていたのは何なのでしょうか。


「外観だけの見せかけです。かぎタバコを見せたのは老紳士であることの状況証拠として印象づけるためと、あの現象が少女の病気による幻覚ではないことを証拠づけるためです。老紳士は自分の存在を少女に確信させたいと思い、リアルに見せるために外観を整えたのです。」


――“見せかけ”とおっしゃいましたが、見せかけには中味がなく、一種の目の錯覚です。我々が知りたいのは、あのかぎタバコ入れは中味のない、ただのイメージだったのかということ、つまり物質性は少しもなかったのかということです。


「もちろん物質性は幾分かはあります。霊が地上時代の衣服と同じものを身につけて霊姿を見せることができるのは、流動エネルギーを使用してダブルに物質性をもたせるからです。」


――ということは、不活性の物体にもダブルがあるということでしょうか。つまり、見えない世界に物質界の物体に形体をもたせる根元的要素があるということですか。言いかえれば、地上の物体にも、我々人間に霊が宿っているように、エーテル質の同じものがあるのでしょうか。


「そうではありません。霊は、宇宙空間および地上界に存在する物的原素に向けて、あなた方には想像もできない性質のエネルギーを放射し、その原素を意念で凝結して、目的に応じて適当な形体をこしらえます。」


――先ほどの聞き方が回りくどかったので、もう一度直截的にお聞きします。霊がまとっている衣服には実体がありますか。


「今の回答で十分その質問の答えになっていると思いますが……流動体そのものが実体のあるものであることはご存じでしょう?」


――霊はエーテル質の物体をどのようにでも変えることができ、かぎタバコの例で言えば、そういうものが霊界にあるのではなく欲しい時に意念の力で瞬間的にこしらえ、用事が終われば分解してしまう。同じことが霊が身につけているもの――衣服・宝石・その他あらゆるもの――について言える、ということでしょうか。


「まさにその通り。」


――問題のかぎタバコ入れは女性の目に見えています。本人は実物だと思ったほど明瞭に見えています。触っても実感があるようにでもできたのでしょうか。


「そのつもりになればできたでしょう。」


――そのタバコ入れを手に持ってみることもできたでしょうか。その場合でも本物と思えたでしょうか。


「そのはずです。」


――そのタバコ入れを彼女が開けたと仮定します。そこにかぎタバコが入っていたと思われますが、それを一つまみ吸ったらクシャミをしたでしょうか。


「したでしょう。」


――すると霊は形体をこしらえるだけでなく、その特殊な性質まで付与することも可能ということでしょうか。


「その気になれば可能です。これまでの質問に肯定的にお答えしたのはその原理に基づいてのことです。霊による物質への強烈な働きかけの証拠なら幾らでもあります。今のところはあなた方の想像力の及ばないようなものばかりですが……」


――仮に霊が有害なものをこしらえて、それを人間が呑み込んだとします。その人間はその毒にやられますか。


「そうした毒物を合成しようと思えばできないことはありません。が、そんなことをする霊はいません。許し難いことだからです。」


――健康に良いもので病気を癒すものも合成できますか。合成したことがありますか。


「ありますとも。しばしば行っております。」


――そうなると身体を扶養するための飲食物も合成できることになりますが、仮に果物か何かをこしらえて、それを人間が食べた場合、空腹が満たされますか。


「当然です。満たされます。ですが、口はばったいようですが、こんな分かりきったことを延々としつこく聞き出そうとするのは、いい加減お止めなさい。

太陽光線一つを取り上げてみても、あなた方のその粗野な肉眼が宇宙空間に充満する物的粒子を捉えることができるのは、その太陽光線のお蔭ではありませんか。空気中に水分が含まれていることはご存じのはずですが、それが凝縮すると元の水に戻ります。ご覧なさい、触ってみることも見ることもできない粒子が液体になるではありませんか。他にももっと驚異的な現象を起こせる物質を、化学者は数多く知っているはずです。

ただ、我々にはそれより遥かに素晴らしい道具があるということです。すなわち意念の力と神のお許しです。」


――そうやって霊によってこしらえられ、意念の力によって感触性を付与された物が、さらに永続性と安定性を得て人間によって使用されることも可能ですか。


「可能かどうかと言えば可能です。が、そんなことは霊は絶対にしません。それは人間界における秩序の摂理を侵害することになるからです。」


――霊はみな等しく感触性のある物体をこしらえる力を持っているのでしょうか。


「霊性が高いほど容易にこしらえるようになります。が、それもその場の条件次第です。低級霊にもそうした力を持った者がいます。」


――出現した霊がまとっている衣装や、我々に差し出して見せる品物が、どうやってこしらえられたのか、その霊自身は知っているのでしょうか。


「そうとは限りません。霊的本能によってこしらえている場合が多いです。十分に霊性が啓発されないと理解できません。」


ブラックウェル脚注――我々の身体の細胞は絶え間なく変化しているが、我々は食したものがどのようなプロセスで血となり肉となり骨となっているのか知らないのと同じであろう。


――霊は、宇宙に遍在する普遍的要素から、あらゆる物体をこしらえる原料を抽出することができ、さらにその一つ一つに一時的な実在性と特殊な性質を持たせることができるという事実から推し量ると、文字や符号を書くための材料もその普遍的要素から抽出できることは明らかですから、直接書記現象のカギもどうやらその辺にある――そう考えてよいでしょうね?


「ああ! やっとその理解に到達しましたね。」


編者注――これまでの質問は全てこの結論に到達することを念頭に置きながら出してきたもので、「ああ!」という感嘆の言葉は、霊側も我々の考えを読み取っていたことを示唆している。


――霊がこしらえるものは一時的なもので永続性がないとおっしゃいましたが、そうなると、直接書記の文字がいつまでも消えずに残っているのはなぜでしょうか。


「あなたは用語にこだわり過ぎます。私は永続性は絶対にないとは言っておりません。私が述べているのは重量のある物体のことです。直接書記の産物は紙面に書かれた文や図形にすぎません。それが保存する必要があればそのような処置を取ります。霊的にこしらえたものは一般の使用には向かないと言っているのです。あなた方の身体のように本来の物質で出来上がったものではないからです。」


訳注①――英文訳者のブラックウェルが最後の脚注で、英国ウェールズ州の“断食少女”を紹介している。が、あまりに簡単で資料としての重みがない。それよりも明治時代に話題をまいた長南年恵(正式にはチョウナントシエであるが、オサナミと呼ばれることが多い)という女性の現象の方が世界的水準からいっても驚異的なので、それを簡潔にまとめて紹介しておきたい。

資料は浅野和三郎氏が実弟の長南雄吉氏に面接して取材したもの。その時には年恵はすでに他界しており、浅野氏は年恵の現象が最高潮だった頃に、自分が「涼しい顔をして英文学なんかをひねくっていた」ことを悔やんでいる。

それにしても、それほどの霊能者がなぜ一時代の不思議話で終わったのか。「御一新(明治維新)の世にそんなバケモノ話があってたまるか!」という言葉に感じられる当時の官憲の悲しいほどの幼稚さが原因なのか、それとも私がいつもモノサシにする高級霊団による計画的援助の無さが原因なのか。どうも私にはその両方だったような気がしてならない。

日本の役人や学者の感性の無さは今も昔も言わずもがなであるが、その後その現象による啓発がどこにも見当たらないことも見逃せない事実である。単なる人騒がせの現象には高級霊団は関与しないからである。が、物理現象としては第一級のものだったことは確かなようで、とくに本章の「霊的にこしらえたもので肉体が養えるか」という疑問に対する絶好の回答であると私は観ている。

年恵は一八五八年、山形県の生まれ。驚異的現象が起き始めたのは三十五歳の時で、その後十五年間続いている。ということは欧米でスピリチュアリズムが最も盛んだった一八九〇年代とほぼ一致することになる。

しかし現象が表面化する前から普通の女性でないことで親を悩ませていたようである。例えば煮たり焼いたりしたものは一切身体が受けつけず、生水とホンの少量の生のサツマイモだけで、トイレに行くことがないばかりか女性の生理も三十五歳になっても一切無く、その顔はまるで十二、三歳の少女のようで、大阪の弟の雄吉の家に同居していた頃は、雄吉の妾ではないかとのうわさが立ったほどである。

雄吉がひそかに湯を沸かして、それを冷ましてから「水だ」と言って飲ませることを何度か試したが、そのたびに吐き出し、ひどい時は血まで吐いたという。

さらに年恵が入神(トランス)状態に入ると家屋全体が振動したり、部屋の中で笛や琴、鈴などによる合奏が聞こえ、そんな時はうわさを耳にした人や警察官などが家を取り巻くように集まって、それに聴き入ったという。

また入神した時は態度も声も変わり、普段は無邪気で無学な少女が凜(りん)とした態度で教えを説き、書画を書き、予言をし、それがことごとく適中したという。

年恵は「人心を惑わす詐欺行為」のかどで二度留置場へ入れられている。が、拘留中も身辺に妙なる音楽が聞こえたり、真夏でも年恵だけは蚊一匹寄りつかず、化粧道具は何一つないのに蝶々髷(まげ)はいつも結い立てのごとく艶(つや)々としていた。本人は「神様が結ってくださいます」と言っていたという。

圧巻は牢内での霊水の実験であろう。普段は自宅の祭壇に栓をした空ビンを十本、二十本、多い時は四十本も供えて、十分間ほど祈祷すると、パッと霊水で満たされる。赤・青・黄、色とりどりで、それぞれの病名に卓効があったという。

面白いのは、病気でもない者が試しに病名を適当に記した空ビンを置いておくと、それだけは何も入っていなかったという。

拘留されたのは二度であるが、法廷に立ったことが一度ある。結局無罪放免になったのであるが、その理由が霊水の実験だった。神戸裁判所でのことだったが、当時は新築中で、弁護士詰め所は電話室ができ上がったばかりで、電話そのものがまだ取り付けられていなくて空っぽだった。それを使って実験をしようということになり、年恵は素っ裸にされて検査をされた後、裁判長みずからが封印をした二合入りの空ビンを一本手にして電話室に入った。そして二分ほどするとコツコツというノックがしたので扉を開けると、茶褐色の水の入った二合ビンが密封されたままの状態で年恵の手に持たれていたのだった。

明治四十年十一月のある日、憑(かか)ってきた霊が「近いうちにあの世へ連れて行く」と予言した通り、間もなくあっさりと他界した。五十歳だった。


訳注②――直接書記現象については「改めて章を設けて解説する予定」とある。確かに「直接書記と霊聴」という見出しで扱われているが、意外に簡単に扱っていて「詳しくは第八章を参照」などと述べている。

確かに本章の説明で十分と思われるのでそこはカットすることにしているが、もう一つの「霊聴」を「直接書記」と並べて扱っているところに面白い視点が見られるので、その核心部分だけを紹介しておく。

私が「霊聴」と訳した用語は原典では“スピリット・サウンド”および“スピリット・ボイス”となっている。カルデックはその原因(声の出どころ)を“内的”と“外的”とに分け、内的なものはまるで“声”を聞いているように思えても聴覚で聞いているのではなく、外的なものは直接談話のようにエクトプラズムでこしらえたボイスボックス(声帯と同じもの)を使ってしゃべっているので聴覚に響く。つまり音声で聞いている。

ブラックウェルも「サークルでは出席者全員に聞こえる」と脚注で述べている。

シアトルの冬 古代霊は語る 遺稿「シルバー・バーチと私」ーモーリス・バーバネル

 End Postscript Posthumous 

Manuscript “Silver Birch and I” 

── Maurice Birbanel


おしまいに あとがき 

 シルバー・バーチによる交霊会は正式の名称をハンネン・スワッハー・ホームサークルと言いましたが、その第一回が何年何月に開かれたのかは明らかでありません。公表されていないし、もしかしたら記録すらないかも知れません。というのは霊媒のバーバネル氏は、その会があくまで私的な集まりだからという理由で、初めのころは霊言そのものの公表すら避けていたのです。


 バーバネルという人は自分を表に出すことを徹底的に嫌った人で、その態度は七十九才で他界するまで変わりませんでした。

ところが真の意味で最良の親友だったハンネン・スワッハーは当時英国新聞界の法王とまで言われたほどの大物で、バーバネルとは対照的に、英国の著名人でスワッハーの名を知らない人はまずいないと言ってよいほどでした。

 スワッハーはその知名度を利用して各界の名士を交霊会に招待し、また招待された方は相手がスワッハーとなると断わるわけにもいかず、かならず出席しました。

中には 「よし、オレがバーバネルのバケの皮をはがしてやる」とか、「シルバー・バーチとかいうインデアンをオレが徹底的に論破してやる」といった意気込みで乗り込んで来る連中もいたようですが、バーバネルが入紳してシルバー・バーチが語り始めると、その威厳ある雰囲気に圧倒されて、来た時の意気込みもどこへやら、すっかり感動して帰って行ったそうです。

 こうしたバーバネルとスワッハーという対照的な性格のコンビは実にうまい取り合わせで、それにシルバー・バーチが加わった三人組(トリオ)は多分、いや間違いなく、二人の出生以前から組まれた計画だったと想像されます。

バーバネルなくしてはシルバー・バーチもあり得ず、スワッハーなくしては霊言集の出版もなかったはずです。

 はじめ公表に消極的だったバーバネルをスワッハーが説き伏せて、霊言が『サイキック・ニューズ』紙に連載されるようになってほぼ半世紀が過ぎました。

そして私がその心霊紙で、霊視家によるシルバー・バーチの肖像画と共に初めて霊言に接して、一種異様な感動を覚えながら貪り読んで以来、三十年近い歳月が流れました。

 そして一九八一年七月にバーバネル氏が急逝した時、私はこれでついにシルバー・バーチの霊言にもピリオドが打たれたかと思い、その心の拠りどころとして来ただけに残念無念さも一入(ヒトシオ)でした。

また、何か一つの大きな時代が終って自分一人が取り残されたような、言葉では形容しようのないさみしさをしみじみと味わったものでした。

 が、その霊訓は霊言集として残されている。それを日本の有志の方々──シルバー・バーチの言う〝それを理解できるところまで来ている人々〟に紹介することが私の使命であるかも知れないという自覚が私の魂を鼓舞し続け、それが本稿となって実現しました。

 シルバー・バーチ霊言集は延べにして二千ページ程度になります。それだけのものをこの程度のものにまとめてしまうのは、あるいは暴挙と言えるかも知れません。

しかしシルバー・バーチは単純で基本的な真理──いやしくも思考力を具えた者であれば老若男女のすべてが理解できる真理をくり返しくり返し説いたのであって、決して二千ページも要するほど難解な哲理を説いたのではありません。

私はこれまで紹介したものだけで十分シルバー・バーチの言わんとしていることは尽くしていると確信します。

 願わくば読者諸氏が、シルバー・バーチが繰り返し繰り返し説いたごとく、それを繰り返し繰り返し味読されることを希望します。恩師の間部先生がよく、霊界の前売券を買っておきなさい、と言われたのを思い出します。

宗教とか信仰はどうかすると地上生活を忌避する方向に進みがちですが、スピリチュアリズムだけはむしろ、死後の存在を現実のものとして確信することによって、地上生活を人間らしく生きよう、

地上生活ならではの体験を存分に積んでおこう──楽しみもそして苦しみも──という積極的な生活態度を生んでくれます。それは〝前売券〟を手にしているという安心と自信が生んでくれる。間部氏はそういう意味で言われたのではないかと思うのです。

 そしてそれが、図らずも、シルバー・バーチの訓えの中枢でもあります。

では最後にシルバー・バーチのしめくくりの霊言と神への祈りの言葉を紹介して本稿を閉じることにします。


 「私はこうした形で私に出来る仕事の限界を、もとより十分承知しておりますが、同時に自分の力の強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません。

私自身はいつも謙虚な気持です。本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない──私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。

が私はその援助の全てを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちていると言っているのです。

 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると、自信をもって語ることが出来ます。霊団が指示することを安心して語っていればよいのです。

威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人類全体の進化の指導に当たっている、真の意味で霊格の高いスピリットなのです。

 私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけない、といったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れ、といった指示を受けます。

私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束が出来ているということです。

私よりすぐれた叡知を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。

 そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているからです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在なのです。

私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会い出来ることを無上の光栄に思っております。その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。
 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。

神界というのはあなたがた人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が地上経綸の仕事を実施するとなると、こうした小さな組織が必要となるのです。

 私自身はまだまだ未熟で、決して地上の一般的凡人から遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなたがたの悩みがよくわかります。私はこの仕事を通じて地上生活を長く味わってまいりました。

あなたがた(列席者)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く係わりあってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないこともわかります。

 私たちはひたすらに人類の向上の手助けをしてあげたいと願っています。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えするためにやって来たのです。そこから正しい叡知を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。

そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も、地上から送られてくる無知で何の備えも出来ていない厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる。そう思って努力してまいりました。

 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度を取りたくありません。ロボットのようには扱いたくないのです。

死の淵を隔てていても、友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の肉体と心と霊に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。


 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶なさるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。

私たちがあなたがたに代って生きてあげるわけにはまいりません。援助は致しましょう。指導もしてあげましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけにはいかないのです。

 スピリットの中には自らの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私は自ら買って出た口ではないのです。が依頼された時は快く引き受けました。

 引き受けた当初、地上の状態はまさにお先まっ暗という感じでした。困難が山積しておりました。がそれも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに比べれば物の数ではありません。

 私たちの願いはあなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい──持てる知能と技能と天賦の才とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生を享けた真の目的を成就することにつながり、死と共に始まる次の段階の生活に備えることにもなる。そう願っているのです。

 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそ全てを律する実在なのです。そこでは仮面も見せかけも逃げ口上もごまかしもききません。すべてが知れてしまうのです。

 私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。よろこびと楽しみを持ってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなたがたに何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。


 あなたがたは、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が信じて下さい。私も物事を感じ、知り、そして愛することの出来る能力を具えた実在の人間です。

こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。

 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が、幾多の障害をのり超えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。

 神よ、忝(かたじけな)くもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私たちは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を佳しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場となることを知らしめ給わんことを。

 では神の御恵みの多からんことを。」                                            シルバー・バーチ



  あとがき

 シルバー・バーチとバーバネルに関しては、本文と 「遺稿」で十分紹介されていると思うので、ここで改めて付け加えることは何もない。

そこで最後に私とシルバー・バーチとの出会いと、その霊言をこうした形で紹介するに至った経緯について述べておきたい。

 そもそも私がシルバー・バーチ霊言集に接したのは大学二年の時だった。当時 (昭和三十年頃)、東京には日本心霊科学協会のほかにもう一つ、浅野和三郎氏の系統を受け継いだ心霊科学研究会というのがあった(現状については寡聞にしてよく知らない)。

 ある日、別にこれといった目的もなしに事務所を訪ねたところ、月刊雑誌 「心霊と人生」 主幹の脇長生氏が私が英文科生であることを知って 「サイキックニューズ」 という英字新聞を手渡し、これを持って帰って何かいい記事があったら訳してみてくれないかと言う。

言われるまま下宿に帰ってからページをめくっているうちに、例のインデアンの肖像画とともにシルバー・バーチの霊言が目についた。

その肖像画から受けた印象は、それまで西部劇映画などから受けていたインデアンの印象とはまったく違った、一種名状しがたい威厳と叡智に満ちた賢人のそれだった。

 霊言の英文を読んで一層その感を深くした私は、これを訳したいとも思ったが、当時のお粗末な英語力ではとても自信がなく、何かほかの簡単な心霊現象に関する記事を訳し、それが 「心霊と人生」 に載って感激したのを憶えている。それが私にとって最初の翻訳であり、活字になったのもそれが最初だった。

 しかし印象という点ではその時に受けたシルバー・バーチの印象の方がよほど強烈で、その後ずっと忘れられず、サイキックニューズ社から次々と霊言集を取り寄せることになる。

最初に届いた Teachings of Silver Birch (一九三八年発行)は果たして何度読み返したか知らないが、とにかく余ほど読み返したに相違いないことは、ページが全部バラバラになってしまっていることからも窺える。

また至るところに見られる赤鉛筆による下線部分を読むと、当時の私がどんなことに悩んでいたか、何を知りたがっていたかが判って興味ぶかい。

 とにかくシルバー・バーチとの出会いは私の思想と人生を方向づける決定的な意味をもつものであった。僭越かも知れないが、シルバー・バーチはバーバネルの支配霊であったと同時に私の精神的指導霊でもあったと表現して、あながち間違いではないと思ってるほどである。

 さて、その出会いから四半世紀後の一九八〇年八月末のことであったが、福岡の手島逸郎氏 (日本心霊科学協会評議員) から、福岡支部で発行している 「心霊月報」 に何か寄稿してほしいとの依頼があった。その依頼の手紙を読み終えたとたんに 「シルバー・バーチ」 の名が浮かび、ずっと脳裏から離れなかった。

 そしてさっそく九月から霊言集の翻訳と編纂に取りかかったのであるが、十月に入った頃から、ふと、英国へ行ってみようかという気になり、それが日増しに強くなっていき、十月末ごろにはすでに行くことに決めて準備に取りかかっていた。

 準備には渡航のための準備もあったが、もっと大切なこととして、バーバネル氏やテスター氏といった、向うで是非会うべき人々との面会の日程を組むために先方の都合を聞かねばならない。同時に私は高校生対象の英語塾を開いている関係で、冬休みか夏休みにしか行けない。

どっちにしようかと迷ったが、とにかく気が急くので冬休みを選んだ。本文でも言及したが、もしも翌年の夏休みにしていたら、この世でバーバネル氏に会うことはなかったことになる。私の背後霊が急がせたわけもあとで納得がいった。

 バーバネル氏に会ったことで霊言集の翻訳に拍車がかかったことは言うまでもない。「心霊月報」 は四、五回連載したところで都合で休刊となったが、私の筆は自分でも不思議なほど渉るので、発表の場を日本心霊科学協会の 「心霊研究」 に移して、もう一度最初から連載していただいた。

(当時の編集主幹梅原伸太郎氏の理解と積極的好意に対し、ここに深甚なる謝意を表したい。それなくしては私の筆はその時点で挫折していたかも知れない。)

 バーバネル氏の訃報が入ったのはその頃だった。梅原氏の要請で 「モーリス・バーバネル氏を偲んで」 と題する一文を書いたが、その結びの節で私はこう述べた。

 「それにしても、ほぼ半世紀にわたって脈々と続いてきたシルバー・バーチの霊言がこれでついに途絶えるのかと思うと、学生時代から四半世紀にわたって愛読してきた私には、ただ惜しいという気持とは別に、何か一つ大きな時代が去ったような心細い感慨が、ひしひしと身に沁みるような思いがいたします。」

 もちろんこれは私の人間としての感慨である。バーバネルほどの人物に哀悼の念など贈る必要はない。そもそもシルバー・バーチは霊界の人間であり、バーバネルも今そこへ逝った。地上での使命が終わってホッとしていることだろう。

私もいずれはそこへ行く日が来る。そして多分バーバネルに、そして若しかしたらシルバー・バーチにも会えるかもしれない。その時に、〝よくぞやってくれた〟と言われたい。

そう言われるような仕事を残したい。私はそんな気持を抱えながら本稿の執筆を続け、どうにか、まる二年を掛けて仕上げたのだった。

 いま、その全十一巻を一冊の本にまとめ上げて、何という無謀なことをしたのだろうという、あたかも過ちを犯してしまった時のような気持がふと湧くことがある。

 が、何度も説明してきたようにシルバー・バーチは決して難解な哲学を延々と説き続けたのではない。誰れにでも理解できる平凡な霊的真理を平易な言葉で繰り返し繰り返し説いてきたのである。私は決して弁解して言うのではなく、私の理解力の範囲で確信して言うが、シルバー・バーチの説かんとしたことは本書が一応その全てを尽くしていると考えていただいて結構である。

 むしろ私が真に恐れているのは、シルバー・バーチの流麗なる文体と、その後聞くことを得た生の声が伝える威厳に満ちた雰囲気を、果たして私の訳文がどこまで伝え得たかということである。

 が、これに対する答えはきわめて明瞭である。満足のいくほど十分に伝え得たはずはまずない。何となれば私はまだ五十そこそこの地上の人間であり、シルバー・バーチは三千年を生きた霊界のはるか上層部のスピリットだからだ。

 願わくは、拙い私の拙い翻訳から、その雰囲気の何分の一かでも読み取っていただければと思う。同時にシルバー・バーチの霊言の中に、他の何ものからも得られなかった新たな教訓を発見され、あるいは生きる勇気を鼓舞され、さらには霊的真理を知るよろこびを味わっていただければ、まる二年を掛けた私の努力も無駄でなかったという慰めを得ることが出来る。少なくとも私は終始そう祈りながら執筆したことを付記しておきたい。



●遺稿  

 シルバー・バーチと私 モーリス・バーバネル 
                     近藤千雄 訳


 私と心霊との係わりあいは前世にまで遡ると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッドクラウドは死後存続の決定的証拠を見せつけてくれた恩人であり、その交霊会において 「サイキック・ニューズ」 紙発刊の決定が為されたのであるが、そのレッドクラウドの話によると、私は、こんど生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯を捧げるとの約束をしたそうである。

 私の記憶によればスピリチュアリズムなるものを初めて知ったのは、ロンドン東部地区で催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた十八才の時のことで、およそドラマチックとは言えない事がきっかけとなった。

 クラブでの私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、これをどうにか大過なくやりこなしていた。それは多分にその名士たちが、ロンドンで最も暗いと言われる東部地区でそういうシャレた催しがあることに興味をそそられたからであろう。

 私のもう一つの役目は、講演の内容のいかんに係わらず、私がそれに反論することによってディスカッションへと発展させていくことで、いつも同僚が、なかなかやるじゃないかと私のことを褒めてくれていた。

 実はその頃、数人の友人が私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん初めてのことで、私は大真面目で出席した。ところが終って初めて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。

そんなこともあって、たとえ冗談とは言え、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。

 同時にその頃の私は他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教に背を向けていた。

母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が教会での儀式に一人で出席するのはみっともないからぜひ同伴してほしいと嘆願しても、頑として聞かなかった。二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。

理屈の上では必ずと言ってよいほど父の方が母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それから更に不可知論へと変わって行った。

 こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただく上で、その背景として必要だと考えたからである。

 ある夜、これといって名の知れた講演者のいない日があった。そこでヘンリー・サンダースという青年がしゃべることになった。彼はスピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終ると私の同僚が私の方を向いて、例によって反論するよう合図を送った。

 ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近ニセの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないと述べ、従ってそれをまったく持ち合わせない私の意見では価値がないと思う、と言った。これには出席者一同、驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。

 終わるとサンダース氏が私に近づいて来て、〝調査研究の体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もしも本気でおっしゃったのなら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか〟 と尋ねた。

 〝ええ〟 私はついそう返事をしてしまった。しかし〝結論を出すまで六か月の期間がいると思います〟 と付け加えた。日記をめくってみると、その六ヶ月が終わる日付がちゃんと記入してある。もっとも、それから半世紀たった今もなお研究中だが・・・・・・

 そのことがきっかけで、サンダース氏は私を近くで開かれているホームサークルへ招待してくれた。定められた日時に、私は、当時婚約中で現在妻となっているシルビアを伴って出席した。行ってみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。

 若い者も老人もいる。あまり好感はもてなかったが、まじめな集会であることは確かだった。

 霊媒はブロースタインという中年の女性だった。その女性が入神状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。そして事実そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。

少なくとも私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが〝死者〟である、ということを得心させる証拠は何一つ見当らなかった。

 しかし私には六ヶ月間勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。ところが会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり 〝居眠り〟をしてしまった。目を覚ますと私はあわてて非礼を詫びた。

ところが驚いたことに、その 〝居眠り〟 をしている間、 私がレッド・インデアンになっていたことを聞かされた。

 それが私の最初の霊媒的入神だった。何をしゃべったかは自分にはまったく分からない。が、聞いたところでは、シルバー・バーチと名告る霊が、ハスキーでノドの奥から出るような声で、少しだけしゃべったという。

その後現在に至るまで、大勢の方々に聞いていただいている。地味ながら人の心に訴える (と皆さんが言って下さる) 響きとは似ても似つかぬものだったらしい。

 しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホームサークルができた。シルバー・バーチも、回を重ねるごとに私の身体のコントロールがうまくなっていった。

コントロールするということは、シルバー・バーチの個性と私の個性とが融合することであるが、それがピッタリうまく行くようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。

 始めのうち私は入神状態にあまり好感を抱かなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が私自身に分らないのは不当だ、という生意気な考えのせいであったろう。

 ところが、ある時こんな体験をさせられた。交霊会を終ってベッドに横になっていた時のことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声つまり私の霊言とともに、ビデオのように映し出されたのである。そんなことがその後もしばしば起きた。

 が、今はもう見なくなった。それは他ならぬハンネン・スワッハーの登場のせいである。著名なジャーナリストだったスワッハーも、当時からスピリチュアリズムに彼なりの理解があり、私は彼と三年ばかり、週末を利用して英国中を講演してまわったことがある。

延べにして二十五万人に講演した計算になる。一日に三回も講演したこともある。こうしたことで二人の間は密接不離なものになっていった。

 二人は土曜日の朝ロンドンをいつも車で発った。そして月曜日の早朝に帰ることもしばしばだった。私は当時商売をしていたので、交霊会は週末にしか開けなかった。もっともその商売も、一九三二年に心霊新聞 『サイキック・ニューズ』を発行するようになって、事実上廃業した。それからスワッハーとの関係が別の形をとり始めた。

 彼は私の入神現象に非常な関心を示すようになり、シルバー・バーチをえらく気に入り始めた。そして、これほどの霊訓をひとにぎりの人間しか聞けないのは勿体ない話だ、と言い出した。元来が宣伝ずきの男なので、それをできるだけ大勢の人に分けてあげるべきだと考え、『サイキック・ニューズ』 紙に連載するのが一ばん得策だという考えを示した。

 始め私は反対した。自分が編集している新聞に自分の霊現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん議論したあげくに、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。

 が、もう一つ問題があった。現在シルバー・バーチと呼んでいる支配霊は、当初は別のニック・ネームで呼ばれていて、それは公的な場で使用するには不適当なので、支配霊自身に何かいい呼び名を考えてもらわねばならなくなった。

そこで選ばれたのが 「シルバー・バーチ」 (Silver Birch) だった。不思議なことに、そう決まった翌朝、私の事務所にスコットランドから氏名も住所もない一通の封書が届き、開けてみると銀色の樺の木(シルバーバーチ)の絵はがきが入っていた。

 その頃から私の交霊会は、 「ハンネン・スワッハー・ホームサークル」 と呼ばれるようになり、スワッハー亡きあと今なおそう呼ばれているが、同時にその会での霊言が 『サイキック・ニューズ』 紙に毎週定期的に掲載されるようになった。当然のことながら、霊媒は一体誰かという詮索がしきりに為されたが、かなりの期間秘密にされていた。

しかし顔の広いスワッハーが次々と著名人を招待するので、私はいつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して、ついに事実を公表する記事を掲載したのだった。

 ついでに述べておくが、製菓工場で働いていると甘いものが欲しくなくなるのと同じで、長いあいだ編集の仕事をしていると、名前が知れるということについて、一般の人が抱いているほどの魅力は感じなくなるものである。

 シルバー・バーチの霊言は、二人の速記者によって記録された。最初は当時私の編集助手をしてくれていたビリー・オースチンで、その後フランシス・ムーアという女性に引き継がれ、今に至っている。シルバー・バーチは彼女のことをいつも、the scribe (書記)と呼んでいた。

 テープにも何回か収録されたことがある。今でもカセットが発売されている。一度レコード盤が発売されたこともあった。いずれにせよ、会の全てが記録されるようになってから、例のベッドで交霊会の様子をビデオのように見せるのは大変なエネルギーの消耗になるから止めにしたい、のとシルバー・バーチからの要請があり、私もそれに同意した。

私が本当に入神しているか否かをテストするために、シルバー・バーチが私の肌にピンを突きさしてみるように言ったことがある。血が流れ出たらしいが、私は少しも痛みを感じなかった。

 心霊研究家と称する人の中には、われわれが背後霊とか支配霊とか呼んでいる霊魂(スピリット)のことを、霊媒の別の人格にすぎないと主張する人がいる。私も入神現象にはいろいろと問題が多いことは百も承知している。

 問題の生じる根本原因は、スピリットが霊媒の潜在意識を使用しなければならないことにある。霊媒は機能的には電話のようなものかも知れないが、電話と違ってこちらは生きものなのである。従ってある程度はその潜在意識によって通信内容が着色されることは避けられない。

霊媒現象が発達するということは、取りも直さずスピリットがこの潜在意識をより完全に支配できるようになることを意味するのである。

 仕事柄、私は毎日のように文章を書いている。が、自分の書いたものをあとで読んで満足できたためしがない。単語なり句なり文章なりを、どこか書き改める必要があるのである。ところが、シルバー・バーチの霊言にはそれがない。

コンマやセミコロン、ピリオド等をこちらで適当に書き込むほかは、一点の非の打ちどころもないのである。それに加えてもう一つ興味深いのは、その文章の中に私が普段まず使用しないような古語が時おり混ざっていることである。

シルバー・バーチが (霊的なつながりはあっても) 私とまったくの別人であることを、私と妻のシルビアに対して証明してくれたことが何度かあった。中でも一番歴然としたものが初期のころにあった。

 ある時シルバー・バーチがシルビアに向って、〝あなたがたが解決不可能と思っておられる問題に、決定的な解答を授けましょう〟 と約束したことがあった。

当時私たち夫婦は、直接談話霊媒として有名なエステル・ロバーツ女史の交霊会に毎週のように出席していたのであるが、シルバー・バーチは、次のロバーツ女史の交霊会でメガホンを通してシルビアにかくかくしかじかの言葉で話しかけましょう、と言ったのである。

 むろんロバーツ女史はそのことについては何も知らない。どんなことになるか、私たちはその日が待遠しくて仕方がなかった。いよいよその日の交霊会が始まった時、支配霊のレッドクラウドが冒頭の挨拶の中で、私たち夫婦しか知らないはずの事柄に言及したことから、レッドクラウドはすでに事情を知っているとの察しがついた。

 交霊会の演出に天才的なうまさを発揮するレッドクラウドは、そのことを交霊会の終るぎりぎりまで隠しておいて、わざとわれわれ夫婦を焦らせた。そしていよいよ最後になってシルビアに向い、次の通信者はあなたに用があるそうです、と言った。

暗闇の中で、蛍光塗料を輝かせながらメガホンがシルビアの前にやってきた。そしてその奥から、紛れもないシルバー・バーチの声がしてきた。間違いなく約束した通りの言葉だった。

 もう一人、これは職業霊媒ではないが、同じく直接談話を得意とする二ーナ・メイヤー女史の交霊会でも、度々シルバー・バーチが出現して、独立した存在であることを証明してくれた。

 私の身体を使ってしゃべったシルバー・バーチが、こんどはメガホンで私に話しかけるのを聞くのは、私にとっては何とも曰く言い難い、興味ある体験だった。

 ほかにも挙げようと思えば幾つでも挙げられるが、あと一つで十分であろう。私の知り合いの、ある新聞社の編集者が世界大戦でご子息を亡くされ、私は気の毒でならないので、ロバーツ女史に、交霊会に招待してあげてほしいとお願いした。名前は匿しておいた。が、女史は、それは結構ですがレッドクラウドの許可を得てほしいと言う。

そこで私は、では次の交霊会で私からお願いしてみますと言っておいた。ところがそのすぐ翌日、ロバーツ女史から電話が掛かり、昨日シルバー・バーチが現われて、是非その編集者を招待してやってほしいと頼んだというのである。

 ロバーツ女史はその依頼に応じて、編集者夫妻を次の交霊会に招待した。戦死した息子さんが両親と 〝声の対面〟 をしたことは言うまでもない。



 訳者付記

 ここに訳出したのは、モーリス・バーバネル氏の最後の記事となったもので、他界直後に、週刊紙 『サイキック・ニューズ』 の一九八一年七月下旬号、及び月刊誌 『ツー・ワールズ』 の八月号に掲載されたもので、原文にはタイトルはないが、便宜上訳者が付した。

Wednesday, February 26, 2025

シアトルの冬 真理の理解を妨げるもの ──宗教的偏見──

Religious Prejudice - An Obstacle to Understanding Truth




 シルバー・バーチ霊言集が全部で十一冊あることはすでに述べましたが、その十一冊がシルバー・バーチ霊言の全てというわけではありません。

 五十年余りにわたる膨大な霊言を九人の編者(うち二人が二冊ずつ)が自分なりの視点から編纂したもので、むしろ残されたものの方が多いのではないかと想像されます。

従って、霊媒のバーバネルが他界したこれからのちにも何冊か出版される可能性が十分あり、私などもそれを首を長くして待っている一人です。

 それはそれとして、バーバネル自身が著した書物が二冊あります。一冊は、人生を健康で力強く生き抜くためのスピリチュアリズム的処生訓を説いた Where There is a Will (『霊力を呼ぶ本』潮文社刊)、もう一冊はスピリチュアリズムを現象面と思想面の双方から説いた This is Spiritualism(『これが心霊の世界だ』同)です。

 さて後者の中に 「英国国教会による弾圧」 と題する一章があります(日本語版では割愛)。国教会というのはローマカトリック教会から独立したキリスト教の一派で、形式的には英国民の大半がその会員ということになっており、文字通り英国の国教ということができます。

 日本の宗教とは事情が異り、歴史的背景も違いますので比較対照は無理ですが、その本質はこれから紹介するその国教会とスピリチュアリズムの論争とも闘争とも言える一つの事件を辿っていけば自ずと理解していただけると信じます。

その火付け役、ないしは主役として英国の宗教界に一大センセーションを巻き起こしたのが、ほかならぬバーバネルだったのです。

 心霊現象の科学的研究が、SPR を代表とする資料の蒐集一本やりの一派と、その現象に思想的ないし哲学的意義を認めて、いわゆるスピリチュアリズムへと発展させていった一派があることは第五章で述べましたが、

そのスピリチュアリズムの先駆者となったフレデリック・マイヤース、オリバー・ロッジ、コナン・ドイル、アルフレッド・ウォーレス、ウィリアム・クルックスといった、人類の知性を代表するといっても過言でない知識人は、みな英国人です。

 そうした歴史的背景と同時に、バーバネルがハンネン・スワッハーという英国ジャーナリズム界の大物を後援者にもったことが、どれほどスピリチュアリズムの普及を促進したか、その陰の力は量り知れないものがあります。

 もっとも〝普及〟は必ずしも受け入れを意味しません。そういうものがあるという事実の認識に止まる人も多いのですが、その段階まで行くことだけでも、国家的に見て大変な進歩です。

これから紹介するバーバネルと国教会の対立は、そういった事情を背景としていることをまず認識していただかねばなりません。と同時に、国教会も基本的教説においてはキリスト教の他の宗派と大同小異ですから、これをスピリチュアリズムとキリスト教の対立と考えても差支えないと思います。


 一九三七年のことですが、自らも心霊的体験をもつエリオット牧師と神学博士のアンダーヒルが当時のヨーク大主教 (国教会はカンタベリーとヨークの二大管区に区分され、カンタベリーが全体の中心)であったテンプルに会い、これほどまでスピリチュアリズムが話題にのぼるようになった以上、国教会としても本格的に調査研究して態度を明確にすべきではないかと進言しました。


 テンプルはカンタベリー大主教のラングと協議し、その進言を聞き入れて、さっそく十名から成るスピリチュアリズム調査委員会を発足させました。そして二年後にその結果を報告すると約束しました。

ここまでは実に見上げた態度だったのですが、約束の二年が過ぎてから、調査結果の報告書(レポート)をめぐって宗教的偏見がむき出しになり始めました。ラングの命令でそのレポートが発禁処分にされたのです。

 この時点からバーバネルを中心とするサイキックニューズ社のスタッフが活動しはじめます。スタッフは、レポートの公開を拒むのは明らかにその内容が心霊現象の真実性を肯定するものになっているからだという認識のもとに、それに携わったメンバーとの接触を求めます。

そしてついに全部ではないが報告書の大部分──肯定派七人による多数意見報告書──を入手し、それをバーバネルの責任のもとに、思い切ってサイキックニューズ紙に掲載しました。

 案の定、それは英国内に大変な反響を呼びました。蜂の巣をつついたような、と形容しても過言でないほどの騒ぎとなり、たまりかねたラング大主教は、張本人であるバーバネルを厳しく非難する一方、国教会とスピリチュアリズムの同盟を求める会の会長であるストバート女史に、何とか騒ぎを鎮めてほしいと頼むほどでした。

 が報告書は絶対公表すべきであるという意見が足もとの国教会内部からも次々と出され、「この調査委員会による結論の公表を禁止させた〝主教連中〟による心ない非難や禁止令、それに何かというとすぐ〝極秘〟をきめ込む態度こそ、国教会という公的機関の生命を蝕む害毒の温床となってきた了見の狭い聖職権主義をよく反映している」といった厳しい意見が公然と出されました。

が国教会首脳は頑として公表を拒否し続けました。バーバネルはその著書の中でこう述べています。

 「私はその後テンプル博士がカンタベリー大主教に任命された時、書簡でぜひ委員会報告を正式に公表するよう何度もお願いした。書簡のやりとりは長期間に及んだが、ついに平行線を辿った。

社会正義の改革運動では同じ聖職者仲間から一頭地を抜いている人物が、こと宗教問題となると頑として旧態を墨守しようとする。現実の問題では恐れることを知らない勇気ある意見を出す人物からの書簡をことごとく〝極秘〟か〝禁〟の印を押さなければならないとは一体どういうことだろうか。」

 サイキックニューズ紙に掲載された多数意見報告書は 「英国国教会とスピリチュアリズム」と題されて、パンフレットとしてサイキックニューズ社から発行されました。私の手もとにもそれがあります。

 が、もともとバーバネルの意図は報告書を入手することではありませんでした。内容は始めからおよその見当がついており、スピリチュアリズムにとってそれは今さら取り立てて意味のあるものでないことはわかっていました。

バーバネルが求めたのは英国国教会が宗教的偏見を超えて心霊現象の真実性を認めるという、真理探究者としての、あるいは聖職者としての公明正大な態度でした。それが出来ない国教会首脳に対する憤りと無念さが至る所に窺われます。たとえば───

 「この、かつてのヨーク大主教、後のカンタベリー大主教にとっては、その職務への忠誠心の方が死後の存続という真理への忠誠心より大事ということなのだろうか。」

 「私の持論は、宗教問題に限らず、人間生活のすべてにおいて、伝統的な物の考え方が新らしい考え方の妨げになるということである。

固定観念が新らしい観念の入る余地を与えないのである。いかなる宗教の信者においても、宗教それ自体がスピリチュアリズム思想を受け入れる上で邪魔をするのである。」

 こうしたバーバネルの既成宗教についての考え方はシルバー・バーチと全く同一です。その理解の便に供する意味で、このあと、英国国教会の流れをくむ一派であるメソジスト派の牧師とシルバー・バーチとの二度にわたる論争を紹介したいと思います。

論争といっても、その言葉から受けるほど激しいものではありません。それは多分にシルバー・バーチの霊格の高さによることは明らかですが、同時に、その牧師が真摯な真理探究心をもっていたからでもあります。

そうでなければシルバー・バーチが交霊会へ招待するはずはありません。二人の論争を通じて、ひとりキリスト教にとどまらず既成宗教全体に共通して言える一種の弊害を認識していただきたいと思います。なおその青年牧師の立場を考慮して氏名は公表されておりません。

 参考までにメソジスト派というのはジョン・ウェスレーという牧師が主唱し、弟のチャールズと共に一七九五年に国教会から独立して一派を創立した宗派です。ニューメソッド、つまり新らしい方式を提唱している点からその名があるのですが、基本的理念においては国教会と大同小異とみてよいと思います。

 ある時そのメソジスト派の年次総会が二週間にわたってウェストミンスターのセントラルホールで開かれ、活発な報告や討論が為されました。がその合間での牧師たちの会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりにささやかれました。

 そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッハーを訪ね、一度交霊会というものに出席させてもらえないかと頼みました。

予備知識としてはコナン・ドイルの The New Revelation (新らしい啓示)という本を読んだだけでしたが、スワッハーは快く招待することにし、

 「その会ではシルバー・バーチという霊が入神した霊媒の口を借りてしゃべるから、その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得のいかないところは反論し、分らないところは遠慮なく質問なさることです。そのかわり、あとでよそへ行って、十分な議論がさせてもらえなかったといった不平や不満を言わないでいただきたい。

質問したいことは何でも質問なさって結構です。その会の記録はいずれ活字になって出版されるでしょうが、お名前は出さないことにします。そうすればケンカになる気遣いもいらないでしょう。もっともあなたの方からケンカを売られれば別ですョ。」


と、いかにもスワッハーらしい、ちょっぴり皮肉を込めた、しかし堂々とした案内の言葉を述べました。

 さて交霊会が始まると、まずシルバー・バーチがいつものように神への祈りの言葉を述べ、やおらその青年牧師に話しかけました。

シルバー・バーチ「この霊媒には、あなたがたのいう〝聖霊〟の力がみなぎっております。これがこうして言葉をしゃべらせるのです。私はあなたがたのいう〝復活せる霊〟の一人です」

(聖霊というのはキリスト教の大根幹である三位一体説──父なる神〔キリスト神〕、子なる神 〔イエス〕 そして聖霊が一体であるという説の第三位にあるものですが、スピリチュアリズム的に観れば、その三者を結びつける根拠はありません。実にキリスト教とスピリチュアリズムの違いはそこから発しています。シルバー・バーチもその点を指摘しようとしています)


牧師「死後の世界とはどういう世界ですか」

シルバー・バーチ「あなたがたの世界と実によく似ております。但し、こちらは結果の世界であり、そちらは原因の世界です」

(スピリチュアリズムでは、霊界が原因の世界で地上は結果の世界であるといっておりますが、それは宇宙の創造過程から述べた場合のことで、ここではシルバー・バーチは因果律の関係から述べ、地上で蒔いたタネを霊界で刈り取るという意味で言っております)


牧師「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」

シルバー・バーチ「ありません。私たちインデアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりましたから。あなたが属している宗派の創立者ウェスレ―も霊感の鋭い人でした。やはり霊の力に動かされておりました。それはご存知ですね」


牧師「おっしゃる通りです」

シルバー・バーチ「ところが現在の聖職者たちは〝霊の力〟に動かされておりません。

宇宙は究極的には神とつながった一大連動装置によって動かされており、一ばん低い地上の世界も、あなたがたのいう天使の世界とつながっております。どんなに悪い人間も、ダメな人間も、あなたがたの言う神、私の言う宇宙の大霊と結ばれているのです」


牧師「死後の世界でも互いに認識し合えるのですか」
シルバー・バーチ「地上ではどうやって認識しあいますか」

牧師「目です。目で見ます」
シルバー・バーチ「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ているのではありませんか」

牧師「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」

シルバー・バーチ「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊が見えるし肉体も見えます。が肉体は影にすぎません。光源は霊です」

牧師「地上での最大の罪は何でしょうか」
シルバー・バーチ「罪にもいろいろあります。が最大の罪は神への反逆でしょう。神の存在を知りつつも、尚それを無視した生き方をしている人々。そういう人が犯す罪が一ばん大きいでしょう」

牧師「われわれはそれを〝聖霊の罪〟と呼んでおります」
シルバー・バーチ「あの本(聖書)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」

牧師「〝改訳聖書〟をどう思われますか。〝欽定訳聖書〟と比べてどちらがいいと思われますか」

シルバー・バーチ「文字はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。神の真理は聖書だけではなく、ほかのいろんな本に出ています、それから、人のために尽くそうとする人々の心には、その人がどんな地位の人であろうと、誰れであろうと、どこの国の人であろうと、ちゃんと神が宿っているのです。それこそが一ばん立派な聖書です」

牧師「改心しないまま死んだ人はどうなりますか」
シルバー・バーチ「〝改心〟というのはどういう意味ですか。もっと分かりやすい言葉でお願いします」

牧師「たとえば、良くないことばかりしていた人がそのまま他界した場合と、死ぬ前に改心した場合とでは死んでからどんな違いがありますか」

シルバー・バーチ「あなたがたの本(聖書)から引用しましょう。〝蒔いたタネは自分で刈り取る〟のです。これは真理であり、変えることは出来ません。今のあなたそのままを携えてこちらへ参ります。

自分はこうだと思っているもの、人からこう見てもらいたいと願っていたものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへ来れば分かります」

ここでシルバー・バーチはスワッハーの方を向いて、この人には霊能があるようだと述べ、なぜ連れて来たのかと尋ねると、 「この人の方から尋ねてきたのです」 と答えます。そこでシルバー・バーチがその牧師に向かって 「インデアンが聖書のことをよく知っていて驚いたでしょう」と言うと、「よくご存知のようです」と答えます。

すると別の列席者が「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えします。牧師はすかさず三千年前つまり紀元前十世紀の人間である例のダビデの名前を出して、シルバー・バーチに、そういう人間がいたことを知っているかと尋ねます。それに対してこう答えます。

シルバー・バーチ「私は白人ではありません。レッド・インデアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなたがたのおっしゃる野蛮人というわけです。しかし私は、これまで西洋人の世界に、三千年前のわれわれインデアンよりはるかに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見て来ております。

今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます」

牧師「そちらへ行くとどんな風に感じるのでしょう。やはり後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」

シルバー・バーチ「一ばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終ったことです。あなたもこちらへお出になれば分かります。きちんと為しとげたこと、やるべきだったのにやらなかったこと、そうしたことが逐一分かります。逃がしてしまった好機が幾つもあったことを知って後悔するわけです」


牧師「キリストへの信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納されるでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣うことになると思うのですが」

シルバー・バーチ「主よ、主よと、何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行いです。それが全てです。口にする言葉や、心に信じることではありません。

頭で考えることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰というものを持たなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇にいる人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です」

 ここで列席者の一人が、イエスは神の分霊なのかと問います。それに対しこう答えます。

シルバー・バーチ「イエスは地上に降りた偉大なる霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、ついに十字架にかけました。いや今なお十字架にかけ続けております。イエスだけでなく全ての人間に神の分霊が宿っております。ただその分量が多いか少ないかの違いがあるだけです」

牧師「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物がウソをつくはずがありません。キリストは言いました。〝私と父は一つである。私を見た者は父を見たのである〟と。これはキリストが即ち神であることを述べたのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「もう一度聖書を読み返してご覧なさい。〝父は私より偉大である〟と言っていませんか」
牧師「言っております」

シルバー・バーチ「また〝天に在しますわれらが父に祈れ〟とも言っております。〝私に祈れ〟とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が〝天に在しますわれらが父〟であるわけがないでしょう。〝私に祈れ〟とは言っておりません。〝父に祈れ〟と言ったのです」

牧師「キリストは、〝あなたたちの神〟と〝私の神〟という言い方をしています。〝私たちの神〟とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列に置いていません」

シルバー・バーチ「〝あなたたちの神と私〟とは言っておりません。〝あなたたちは私より大きい仕事をするであろう〟とも言っております。あなた方キリスト者にお願いしたいのは、聖書を読まれる際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をなさらないことです。

霊的実相に照らして解釈しなくてはなりません。存在の実相が霊であるということが宇宙のすべての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を多用したのはそのためです」

牧師「神は地球人類を愛するが故に唯一の息子を授けられたのです」

シルバー・バーチ「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年もたってから二ケーア会議でそんなことが聖書に書き加えられたのです」

牧師「二ケーア会議?」
シルバー・バーチ「西暦三二五年に開かれています」


牧師「でも私がいま引用した言葉はそれ以前からあるヨハネ福音書に出ていました」
シルバー・バーチ「どうしてそれがわかります?」

牧師「いや、歴史にそう書いてあります」
シルバー・バーチ「どの歴史ですか」

牧師「どれだかは知りません」
シルバー・バーチ「ご存知のはずがありません。一体聖書が書かれる、そのもとになった書物はどこにあるとお考えですか」

牧師「ヨハネ福音書はそれ自体が原典です」
シルバー・バーチ「いや、それよりもっと前の話です」

牧師「聖書は西暦九〇年に完成しました」
シルバー・バーチ「その原典になったものは今どこにあると思いますか」

牧師「いろんな文書があります。例えば・・・・・・」 と言って一つだけ挙げます。
シルバー・バーチ「それは原典の写しです。原典はどこにありますか」

 牧師がこれに答え切れずにいると──

シルバー・バーチ「聖書の原典はご存知のあのバチカン宮殿にしまい込まれて以来一度も外に出されたことがないのです。あなた方が聖書(バイブル)と呼んでいるものは、その原典の写し(コピー)の写しのそのまた写しなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。

初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。

ところが、いつになっても再臨しないので、ついにあきらめて記憶を辿りながら書きました。イエス曰く──と書いてあっても、実際に言ったかどうかは書いた本人も確かでなかったのです」

牧師「でも四つの福音書にはその基本となったいわゆるQ資料 (イエス語録) の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的な事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが」

シルバー・バーチ「私は何もそうしたことが全然起きなかったと言っているのではありません。私はただ、聖書に書いてあることの一言一句までイエスが本当に言ったとはかぎらないと言っているのです。

聖書に出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用がずいぶん入っていることを忘れてはいけません」

 こうした対話から話題は苦難の意義、神の摂理、と進み、その間に細かい問題も入りますが、それらはすでに前章までの紹介したことばかりなので割愛します。ともかくここで第一回の論争が終り、何日かのちに再びその牧師が出席して第二回目の論争が始まります。

最初の質問は、地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能か否か、すべての人間を愛することが出来るか否かといった、いかにも聖職者らしいものでした。シルバー・バーチは答えます。


シルバー・バーチ「それは不可能なことです。が、そう努力しなくてはいけません。努力することそのことが、性格の形成に役立つのです。

怒ることなく、辛く当ることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間でないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれて来るのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」

牧師「イエスは〝天の父の完全である如く汝等も完全であれ〟と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

シルバー・バーチ「だから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活における最高の理想なのです。すなわち内部に宿る神性を開発することです」

牧師 「私がさっき引用した言葉はマタイ伝第五章の終りに出ているのですが、普遍的な愛について述べたあとでそう言っているのです。また〝ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝等は完全であれ。神の子なればなり〟と言っています。

神は全人類を愛して下さる。だからわれわれも全ての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」

この質問にシルバー・バーチは呆れたような、あるいは感心したような口調で、少し皮肉も込めてこう言います。

シルバー・バーチ「あなたは全世界の人間をイエスのような人間にしようとなさるんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な地上生活を送ったとお考えですか」


牧師「そう考えます。完全な生活を送ったと思います」
シルバー・バーチ「一度も腹を立てたことがないとお考えですか」

牧師「当時行われていたことを不快に思われたことはあると思います」
シルバー・バーチ「腹を立てたことは一度もないとお考えですか」

牧師「腹を立てることはいけないと説かれている、それと同じ意味で腹を立てたことはないと思います」
シルバー・バーチ「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなたがたはどんなことでも正当化なさるんだから・・・・・・」

 
ここで列席者の一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出します。

シルバー・バーチ「私が言わんとしているのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチを持って追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。

怒るということは人間的感情です。私が言わんとするのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。

イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスもまた一個の人間であった──ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、という風に考えることが大切です。ありもしないことを無理やりにこじつけようとするのはよくありません。わかりましたか」

牧師「わかりました」

シルバー・バーチ「誰れの手も届かないところに祭り上げたらイエス様がよろこばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり自分たち人間と同じ人の子だったと見る方がよほどよろこばれるはずです。自分だけ超然とした位置に留まることはイエスはよろこばれません。人類と共によろこび、共に苦しむことを望まれます。

一つの生き方の手本を示しておられるのです。イエスが行ったことは誰れにでも出来ることばかりなのです。誰れもついて行けないような人だったら、せっかく地上に降りたことが無駄だったことになります」

 このあと牧師が自由意志について質問すると、すでに紹介した通り各自に自由意志はあるが、あくまで神の摂理の範囲内での自由意志であること、つまりある一定のワク内での自由が許されているとの答えでした。

続いて罪の問題が出され、シルバー・バーチが結論として、罪というものはそれが結果に対して及ぼす影響の度合いに応じて重くもなり軽くもなると述べると、すかさず牧師がこう反論します。

牧師「それは罪が知的なものであるという考えと矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」

シルバー・バーチ「罪は罪です。からだが犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれもみな罪は罪です。あなたはさっき衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこから来ると思いますか」


牧師「思念です」
シルバー・バーチ「思念はどこから来ますか」

牧師「(少し躊躇してから)善なる思念は神から来ます」
シルバー・バーチ「では悪の思念はどこから来ますか」

牧師「分かりません」 と答えますが、実際は 「悪魔から」 と答えたいところでしょう。シルバー・バーチはそれを念頭において語気強くキリスト教の最大の欠陥をつきます。

シルバー・バーチ「神は全てに宿っております。間違ったことの中にも正しいことの中にも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。

おわかりになりますか。神とは〝これとこれだけに存在します〟という風に一定の範囲内に限定できるものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、そのすみずみまで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。

日光は神の恵みで、作物を台なしにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神は全てに宿ります。あなたという存在は、思念を受けたり出したりする一個の器官です。

が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。もしもあなたが、あなたのおっしゃる〝完全な生活〟を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。そうでしょう?」

牧師 「おっしゃる通りだと思います。では、そうした煩悩ばかりを抱いた人間が死に際になって自分の非を悟り、〝信ぜよ、さらば救われん〟の一句で心にやすらぎを覚えるというケースがあるのをどう思われますか」

 この質問はキリスト教のもう一つの重要な教説である贖罪説につながってきます。イエス・キリストへの信仰を告白することで全ての罪が贖われるという信仰が根強くあり、それが一種の利己主義を生む土壌になっております。

シルバー・バーチは折にふれてその間違いを指摘していますが、ここでもイエスの別の言葉を二、三引用したあと、こう語ります。

シルバー・バーチ「神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心で一ぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一ぺんに洗い落とせると思いますか。

無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、我儘で心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言で全てが許されるとしたら、果たして神は公正と言えますか。如何ですか」

牧師 「私は神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ・・・・・・」

シルバー・バーチ 「お待ちなさい。私はあなたの率直な意見を聞いているのです。率直にお答えいただきたい。本に書いてある言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか私にはわかっております。私は、あなた自身はどう思うかと聞いているのです」

牧師 「たしかにそれでは公正とは言えないと思います。が、そこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです」

 そこでシルバー・バーチが、もしも英国の法律が善人と罪人とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思うかと尋ねると、牧師は自分はそうは言っていないと弁明しかけますが、再びそれをさえぎって───

シルバー・バーチ 「自分がタネを蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る。この法則から逃れることは出来ません。神の法則をごまかすことは出来ないのです」


牧師 「では悪のかぎりを尽くした人間が今死にかかっているとしたら、私はその人間にどう説いてやればいいのでしょう」

シルバー・バーチ 「シルバー・バーチがこう言っていたとその人に伝えて下さい。もしもその人が真の人間、つまりいくばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになれるはずです。

自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持がどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない。ただの臆病者だと、そう伝えて下さい」


牧師 「しかし罪を告白するということは、誰れにでもは出来ない勇気ある行為だとは言えないでしょうか」

シルバー・バーチ 「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。

元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が安まったとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です」


 ここで牧師がイエスの言葉を引用して、イエスが信者の罪を贖ってくれるのだと主張しますが、シルバー・バーチは同じくイエスの言葉を引用して、イエスは決してそんな意味で言っているのではないと説きます。

するとまた牧師が別の言葉を引用しますが、シルバー・バーチも別の言葉を引用して、罪はあくまで自分で償わなくてはならないことを説きます。そしてキリスト教徒が聖書一つにこだわることの非を諭して次のように語って会を閉じました。


シルバー・バーチ「神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなたがたもぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する──それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変らず罪として残っております。いいですか。それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることは出来ないのです。

 前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとはかぎらないのです。そのうちの多くはのちの人が書き加えたものです。イエスがこうおっしゃっている、とあなたがたが言う時、それは〝そう言ったと思う〟という程度のものでしかありません。

そんないい加減なことをするより、あの二千年前のイエスを導いてあれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知ってほしいのです。

 あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡知、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。なにも神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。

今ここに在しますのです。二千年前とまったく同じ神が今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物 (霊媒・霊能者) は今も決して多くはありません。しかし何故にあなたがたは、二千年前のたった一人の霊能者にばかり頼ろうとなさるのです。なぜそんな昔のインスピレーションにばかりすがろうとなさるのです。なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです。

 何故に全知全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです。宇宙の神が一個の人間、あるいは一冊の書物で全部表現できるとでもお思いですか。私はイエスよりずっと前に地上に生を享けました。すると神は私には神の恩恵に浴することを許して下さらなかったということですか。

 神の全てが一冊の書物の中のわずかなページで表現できてるとお思いですか。その一冊が書き終えられた時を最後に、神はそれ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとでもお考えですか。聖書の最後の一ページを読み終った時、神の真理の全部を読み終ったことになるというのでしょうか。

 あなたもいつの日かに天に在します父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応しい住処に住まわれます。神の子としてのあなたに分っていただきたいことは、神を一つワクの中に閉じ込めることは出来ないということです。神は全ての存在に宿るのです。

悪徳のかたまりのような人間にも、神か仏かと仰がれるような人にも同じ神が宿っているのです。あなたがた一人一人に宿っているのです。

あなたがその神の御心をわが心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力とやすらぎとが、あなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」

シアトルの冬 自動書記現象の種々相

The Mediums' Book
Various Aspects of the Automatic Writing Phenomenon




数ある霊とのコミュニケーションの手段の中でも“書く”ということが最も単純で、最も手軽で、何かと都合がいい。


と言うのは、きちんと時刻を定めて連続して交信することができ、その間の通信の内容や筆跡や態度を見て、通信霊の性格や霊格の程度や思想をじっくりと分析し、その価値判断を下すことができるからである。

体験を重ねるごとに霊的通信の純度が高まるという点でも、自動書記は好ましい手段である。

ここでいう自動書記というのは、その霊能つまり通信霊からのメッセージを受け止めて用紙に書き記すという能力を持った霊媒を中継して得られるものを言うのであって、霊媒を仲介せず、書くための道具もなしに記される直接書記とはメカニズムが異なる。(第八章参照)

自動書記には大別して三つのタイプがあり、霊媒によっては二つのタイプが交じり合っている場合もある。
①受動書記(器械書記)

本書の初めに紹介したテーブルラップやプランセットによる通信、および霊媒が筆記用具を握って書く通信は、このあと紹介する直覚書記や霊感書記と違って、テーブルやプランセットや霊媒の腕または手に霊が直接働きかけて通信を送るもので、例えば霊媒が手で書く場合でも霊媒自身は何が書かれるのか全く関知しないという点で受動的であり、その意味からこれを受動書記または器械書記と呼んでいる。霊媒の手もただの器械にすぎないと見なすわけである。(テーブルラップは物理現象の部類に入れられるのが普通であるが、符丁による通信が文字に置き替えられて綴られるという点では、確かに自動書記現象でもある――訳注)

この受動書記では手が激しく動いて、握っている鉛筆が手から離れて飛んでいったり、鉛筆を握ったまま苛立(いらだ)ったようにテーブルを叩き、鉛筆の芯が折れたりすることがある。霊媒はいっさい関係なく、そうした動きを呆れ顔で見つめている。

こうした現象が生じる時は決まって低級霊の仕業とみてよい。高級霊はあくまでも冷静で威厳が漂い、態度が穏やかである。会場の雰囲気が乱れていると高級霊は直ぐに引き上げる。そして代わって低級霊が出てくる。
②直覚書記(直感書記)

霊は霊媒の精神機能に働きかけることによって思想を伝達する。手や腕に直接働きかけるのではない。その身体に宿っている魂――霊媒が“自分”として活動するための顕在意識と潜在意識の総体――に働きかけ、その間は霊媒と一体となっている。ただし、霊媒と入れ替わっているのではないことに注意しなければならない。

霊の働きかけを受けて霊媒の精神が反応し手を動かして書く。あくまでも霊媒が書いているのであるが、伝達される思想は霊からのもので、霊媒はそれを意識的に綴っている。これを直覚書記または直感書記と呼ぶ。
③半受動書記

①の受動書記と②の直覚書記とが並行して行われる場合があり、頻度としてはこのケースがいちばん多い。

受動書記では“書く”という動作が先行し、その後から思想が付いてくる。直覚書記では思想が先行し、その後書くという動作が伴う。その両者が同時に起こる、あるいは前になったり後になったりするのを半受動書記と呼ぶ。
④霊感書記

通常意識の状態ないしはトランス状態で自分の精神の作用以外の始源から思想の流入を受け取ってそれを書き記すもので、②の直覚書記ときわめてよく似ている。唯一異なる点は、その思想が霊的始源からのものであるとの判断が明確にできないことで、霊感書記の最大の特徴はその自然発生性、つまり霊媒自身はそれをインスピレーションであるとの認識が定かでない点にある。

そもそもインスピレーションというのは、良きにつけ悪しきにつけ、霊界から我々人間に影響を及ぼす霊から送られてくるもので、日常生活のあらゆる側面、あらゆる事態における決断において関与していると思ってよい。

その意味においては我々は一人の例外もなく霊感者であると言える。事実、我々の周りには常に幾人かの霊がいて、良きにつけ悪しきにつけ、リモート・コントロール式に我々を操っている。

その事実から、守護霊を中心とする背後霊団の存在意義を理解しなければならない。人生には右か左かの選択を迫られる時機、何を言うべきかで迷う時があるものだが、そのような時に守護霊からのインスピレーションを求めることができる。自分と最も親和性の強い類魂であるとの知識に基づいた信念をもって祈り、あるいは瞑想によって指示を仰ぐ。

それに対する霊団側の反応は、最高責任者である守護霊の叡智によって一人一人異なる。まるで魔法のごとく名案を授かるかと思えば、何の反応も得られないこともある。そのような時は「待て」の指示であると受け止めるべきである。

よく耳にする話として、格別の霊的能力があるわけでもなく、また通常意識に何の変化があるわけでもないのに、一瞬の間に思想の奔流を受け、時には未来の出来事の予言まで見せられ、本人はただ唖然としてそれを受け止めるといった現象がある。そして終わってみると、それまでの悩みも苦しみも、跡形もなく消えている。

さらに天才と言われる人たち――芸術家、発明家、科学的発明者、大文学者等々――も高級霊の道具として偉大なるインスピレーションを授かるだけの器であったということであり、その意味では霊媒と同じだったわけである。


訳注――私の母は若い頃から火の玉を見たり神棚の御鏡に神々しい姿が映っているのが見えたりしたというから霊能がかなりあったようであるが、その人生は戦前と戦後とで天国と地獄を味わった、波乱に富んだ人生だった。のちに私の師となる間部詮敦氏と初めてお会いして挨拶をした時は「荒れ狂う激流を必死に泳いで、やっと向こう岸にたどり着いた感じがした」と言っていた。

その母が私にぽっつり語ったところによると、苦悶の極みに達すると必ず白い光の玉がぽっかりと浮かんで見え、それが消えると同時に一切の悩みも苦しみも消えていたという。ところが晩年にある人からしつこく意地悪をされたことがあり、私もそれを知っていたが、母が平然としているので、さすがに母だと思っていた。

ところがある日ついに堪忍袋の緒が切れて激怒に及んだ。それきり意地悪もされなくなったが、同時に「あの白い光の玉が見えなくなった」と寂しそうに言っていた。その後また見えるようになって喜んでいたが、この話から私は、いくら正義の憤怒とはいえ波動が乱れては高級な背後霊との連絡も途絶えることを教えられた。

以下は、自動書記の原理に関する霊団との一問一答である。


――インスピレーションとは何でしょうか。


「霊による思念の伝達です。」


――インスピレーションは重大なことに限られているのでしょうか。


「そんなことはありません。日常生活のいたって些細なことについてもあります。例えば、どこかへ行こうと思った時、その方角に危険が予想される場合には行かないようにさせます。あるいは思ってもみなかったことを、ひょっこり思いついてやり始める場合もそうです。一日のうちのどこかで大なり小なりそうした指示を霊感によって受けていない人はほとんどいないと考えてよろしい。」


――作家とか画家、音楽家などがインスピレーションを受ける時は、一種の霊媒と同じ状態にあると考えてよろしいでしょうか。


「その通りです。肉体による束縛が弱まって魂の活動が自由になり、霊的資質の一部が発現します。そんな時に霊団からの思念や着想がふんだんに流入します。」

次の問題として、霊媒の能力が一時的に中断したり急に失われたりすることがある。自動書記現象だけでなく物理現象その他の霊媒でも同じことがある。その問題について一問一答は次の通りである。


――霊媒能力が失われることがあり得ますか。


「よくあります。どんな能力でもあります。が、割合としては、完全に失われてしまうよりも、一時的な中断の方が多く、それも短期間です。再開されるのは中断された時の原因と同じことから発します。」


――それは霊媒の流動体の問題ですか。


「霊的現象というのは、いかなる種類のものであれ、親和性のある霊団の働きなしには生じません。現象が生じなくなった時は、霊媒自身に問題があるのではなく、霊団側が働きを止めたか、あるいは働きかけができなくなった事情がある場合がほとんどです。」


――どんな事情でしょうか。


「高級霊になると、霊媒に関して言えば、その能力の使用法によって大きな影響を受けるものです。具体的に言えば、ふざけ半分にやり始めたり野心が度を超しはじめたら、すぐに見放します。また、その能力を霊的真理の普及のために使用するという奉仕の精神を忘れ、指導を求めて来る人や研究・調査という学術的な目的で現象を求めに来る人を拒絶するようになった時も、高級霊は手を引きます。

大霊は霊媒自身の娯楽的趣味のために能力を授けるのではありません。ましてや低俗な野心を満足させるためではさらさらありません。あくまでも本人および同胞の霊性の発達を促進するために授けているのです。その意図に反した方向へ進みはじめ、教訓も忠告も聞き入れなくなった時に、霊団側はその霊媒に見切りをつけ、別の霊媒を求めます。」


――霊が去った後は別の霊が付くのではありませんか。もしそうであれば、霊媒の能力そのものが一時的に休止してしまうという現象はどう理解すべきでしょうか。


「面白半分に通信を送るだけの霊ならいくらでもいますから、高級霊が去ってしまった後に付く霊には事欠きません。が、優れた霊が霊媒への戒めのために、つまりその霊的能力の行使は霊媒とは別の次元の者(霊)によるものであって霊媒自身が自慢すべきものではないことを悟らせるために、一時的に休止状態にすることはあります。一時的に何もできなくなることによって霊媒は、自分が書いているのではないことを身に沁みて悟ります。もしそうでなかったら書けなくなるはずはないからです。

もっとも、必ずしも戒めのためばかりとも言えません。霊媒の健康への配慮から休息させる目的で中断することもあります。そういう場合には他の霊による侵入の懸念はありません。」


――しかし、徳性の高い人物で健康面でも別に休息の必要もないはずの霊媒が、通信がぷっつりと切れてしまって、その原因が分からずに悩んでいるケースはどう理解すればよいのでしょうか。


「そういうケースは忍耐力と意志の堅固さを試す試練です。その期間がいつまで続くかを知らされないのも同じく試練のためです。

一方、その期間はそれまでに届けられた通信を反芻(はんすう)させるためでもあります。それをどう理解しどう役立てるかによって、その霊媒が我々の道具として本当の価値があるかどうかの判断を下します。興味本位で立ち会う出席者についても同じような判断を下します。」


――何も出ない場合でも霊媒は机に向かうべきでしょうか。


「そうです、そういう指示があるかぎりは何も書かれなくても机に向かうべきです。が、机に向かうのも控えるようにとの指示があれば、止めるべきです。そのうち再開を告げる何らかの兆候が出ます。」


――試練の期間を短縮してもらう方法があるのでしょうか。


「忍従と祈り――そういう事態での取るべき態度はこれしかありません。毎日机に向かってみることです。が、ホンの数分でよろしい。余計な時間とエネルギーの消耗は賢明ではありません。能力が戻ったかどうかを確認することだけが目的です。」


――ということは、能力が中断したからといって必ずしもそれまでに通信を送ってくれた霊団が手を引いたとは限らないということですね?


「もちろんです。そういう時の霊媒は言わば“盲目という名の発作”で倒れているようなものです。が、たとえ見えなくても、実際は多くの霊によって取り囲まれております。ですから、そういう霊との間で思念による交信はできますし、また、それを求めるべきです。思念が通じていることを確認できることがあるでしょう。自動書記という現象は途絶えても、思念による交信まで奪われることはありません。」


――そうすると、霊媒現象の中断は必ずしも霊団側の不快を意味するものではないということでしょうか。


「まさにその通りです。それどころか、霊媒に対する優しい思いやりの証拠ですらあります。」


――霊団側の不快の結果である場合はどうやって知れますか。


「霊媒自身がおのれの良心に聞いてみるがよろしい。その能力をいかなる目的に使用しているか、どれだけ他人に役立てたか、霊団の助言・忠告によってどれだけ学んだか――そう自分に問いかけてみることです。その辺の回答を見出すのはそう難しくはないでしょう。」


――霊媒が自分が書けなくなったので他の霊媒に依頼するということは許されるでしょうか。


「それは、書けなくなったその原因によりけりです。通信霊はひと通りの通信を届けた後は、あまりしつこく質問するクセ、とくに日常生活のこまごまとしたことで相談する傾向を反省させる目的で、しばらく通信を休止することがあります。そういう場合は他の霊媒に代わってもらっても、満足のいくものは得られません。

通信の中断にはもう一つ別の目的があります。霊にも自由意志がありますから、呼べば必ず出てくれるとは限らないことを知らしめるためです。同じく交霊会に出席する人たちにも、知りたいことは何でも教えてもらえるとは限らないことを知らしめるためでもあります。」


――神はなぜ特殊な人だけに特殊な能力を授けるのでしょうか。


「霊媒能力には特殊な使命があり、そういう認識のもとに使用しなくてはなりません。霊媒は人間と霊との仲介役です。」


――霊媒の中には霊媒の仕事にあまり乗り気でない人がいますが……。


「それは、その人間が未熟な霊媒であることの証拠です。授かった恩恵の価値が理解できていないのです。」


――霊媒能力に使命があるのであれば、立派な人間にのみ特権として与えればよさそうに思えますが、現実にはおよそ感心できない人間が持っていて、それを悪用しているのはなぜでしょうか。


「もともとその人間自身にとって必要な修行として、その通信の教訓によって目を開かされることを目的として与えられています。もしもくろみ通りにいかなかった場合には、その不誠実さの結果について責任を問われることになります。イエスがとくに罪深き者を相手に教えを説いたことを思い起こすがよろしい。」


――自動書記霊媒になりたいという誠実な願望を抱いている者がどうしても叶えられない時は、霊団側がその者に対して親愛感が抱けないからと結論づけてよろしいでしょうか。


「そうとは限りません。体質的に自動書記霊媒として欠けたものがあることも考えられます。詩人や音楽家に誰でもなれるとは限らないのと同じです。が、その欠けた能力は、他の、同じ程度の価値のある能力で埋め合わせられていることでしょう。」


――霊の教えを直接耳にする機会のない人は、どうやってその恩恵に浴することができるのでしょうか。


「書物があるではありませんか。クリスチャンには福音書があるのと同じです。イエスの教えを実践するのにイエスが実際に説くのを聞く必要があるでしょうか。」

シアトルの冬 心霊治療

 Spiritual Healing

古代霊は語る
シルバーバーチ


 
「心霊治療によって奇蹟的に病気が治る──それはそれなりにすばらしいことですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終ったことになります」

 シルバー・バーチの心霊治療観を煎じつめるとこの言葉に尽きるようです。つまり心霊治療も魂の開発のための一つの手段であって、単なる病気治療だけに止まるものではないというのです。

 数ある驚異的心霊現象の中でもとくに心霊治療、つまり奇蹟的治癒の現象は、歴史の中に多くの例を見ることができます。

聖書に出てくるイエスの話などは、聖書という世界的超ベストセラーのおかげで余りにも有名ですが、実際には洋の東西を問わず、世界のどこでも起き、今なお毎日のように起きていると言っても言い過ぎではありません。

 しかし、一人の患者を見事に治療した心霊治療家が次の患者も同じように奇蹟的に治せるかというと、かならずしもそうではありません。そこに〝なぜか〟という疑問が生じます。

そして、その因果関係を辿ってみると、シルバー・バーチが一ばん強く説いている因果律の問題に逢着します。因果律は当然、これ又シルバー・バーチが強調する〝苦難の意義〟と密接につながっており、それは結局人生そのものということになります。

シルバー・バーチが心霊治療を他の現象以上に重要視するのは、それが人生そのものの意義と共通した要素をもっているからにほかなりません。

 ではシルバー・バーチに語ってもらいましょう。


 「人間には、ただ単に病気を治すだけでなく魂の琴線に触れて霊的真理に目覚めさせる偉大な霊力が宿されております。私はこれからこの霊力について語り、あなた方にぜひ理解していただきたいと思います。というのは、心霊治療もそこに本来の存在理由があるからです。

 心霊治療によって奇蹟的に病気が治る──それはそれなりにすばらしいことですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終ったことになります。

魂の琴線に触れた時こそ本当に成功したといえます。なぜなら、その体験によって魂の奥にある神の火花が鼓舞され、輝きと威力を増すことになるからです。

 心霊治療の背後にはかならずそうした目的があるのです。治療家はそうした神の計画の一部を担ってこの世に生まれて来ているのです。

すなわち、この世に在りながら自分で自分が何者であるかを知らず、何のために生まれてきたかを悟れず、従って死ぬまでに何を為すべきかが分らぬまま右往左往する神の子等に、霊的真理と永遠の実在を悟らせるためにその治癒力を与えられて生まれて来たのです。これほど大切な仕事はありません。

その治癒力でたった一人でも魂を目覚めさせることが出来れば、それだけでも、この世に生まれて来たことが無駄でなかったことになります。たった一人でもいいのです。それだけでこの世における存在価値があったと言えるのです。

 最近、この道での仕事が盛んになり、霊力に対する一般の関心がますます大きくなって来つつあることを私は非常にうれしく思っております。地上の同志が困難に直面すれば、われわれは出来るかぎりの援助を惜しみません。病気治療には一層多くのエネルギーをつぎ込みます。

しかし忘れてならないのは、あらゆる出来ごとにはかならずそれ相当の原因があるということです。霊界からいかなる援助を差しのべても、この原因と結果の相関関係にまで干渉することだけは絶対にできないのです。援助はします。がすでに発生したある原因から生じる結果を消してあげることは出来ません。

 私たちには〝奇蹟〟を起こす力はないのです。自然法則の連続性を人為的に変えることは絶対にできないのです。神の法則は一瞬の断絶もなく働いております。

瞬時たりとも法則が休止することはありません。宇宙間何一つとして神の法則の働きなしに発生することはありえないのです。もしも、ありとあらゆる手段を尽くしても治らなかった病いが心霊治療によって治ったとすれば、それは宇宙に霊的エネルギーが存在することの生きた証拠と受け取るべきです。

すなわち、それまで試したいかなるエネルギーにも勝る強力なエネルギーが存在することを如実に思い知らされる絶好のチャンスなのです。

 数ある心霊現象にはそれぞれに大切な意義がもたらされています。が、それが何であれ、霊的な真理へ導くためのオモチャにすぎません。いつまでもオモチャで遊んでいてはおかしいでしょう。いつかは大人へ成長しなくてはいけないでしょう。大人になれば、もはや子供だましのオモチャはいらなくなるはずです。


 心霊治療(ヒーリング)にもいろいろあります。一ばん基本的なものは磁気治療(マグネティックヒーリング)で、治療家の身体から出る豊富な磁気の一部を患者に分けてあげるもので、一種の物理療法と考えてもよろしい。これには霊界の治療家は関与しません。

次の段階はその磁気的治療法とこのあとに述べる純粋の心霊治療(スピリチュアルヒーリング)の中間に位置するサイキックヒーリングというもので、遠隔治療は主にこの療法で行われております。

そして最後に今のべた純粋のスピリチュアルヒーリングで、治療家が精神統一によって波長を高め、同時に患者がそれを受ける態勢が整った時に一瞬のうちに行われます。人間の側から見れば奇蹟的に思えるかも知れませんが、因果律の働きによって、そういう現象が起きる機が熟していたのです。

 人間は一人の例外もなく神の分霊を宿しております。要はその神的エネルギーを如何にして発揮するかです。

肉体にも自然治癒力というのがあり、その治癒力が働きやすい条件さえ揃えば自然に治るように、霊的存在であるあなたがたには霊的治癒力も具わっており、その法則を理解しそれに従順に生きておれば、病気は自然に治るはずのものなのです。
  
 健康とは肉体(ボディ)と精神(マインド)と霊(スピリット)が三位一体となった時の状態です。三者が調和した状態が健康なのです。そのうちの一つでも調和を乱せば、そこに病いという結果が生じます。調和を保つにはその三者がそれぞれの機能を法則に忠実に果たすことです。

 霊はすばらしい威力を秘めております。その存在を無視し、あるいはその働きを妨げれば、天罰はてきめんに表われます。

 それと同じエネルギーの見本がいたるところに存在します。そもそもこの物的大宇宙を創造したエネルギーがそうですし、大海原を支えるエネルギー、万有引力のエネルギー、惑星を動かすエネルギー、そのほか地上の人間、動物、植物、昆虫、等々、ありとあらゆる生命を生育せしめるエネルギーがそれと同じものなのです。

 要するに治癒エネルギーも生命力の働きの一部なのです。身体に生命を与えているものは霊です。物質そのものには生命はないのです。霊が宿っているからこそ意識があるのであって、身体そのものには意識はないのです。

あなた方を今そうして生かしめている生命原理と同じものが、悩める者、病める者、苦しむ者を救うのです。

 しかし痛みや苦しみを取り除いてあげることが心霊治療の目的ではありません。あくまで手段なのです。つまり眠れる魂を目覚めさせ、真の自分を悟らせるための手段にすぎないのです。

病気で苦しみ続けた人が心霊治療によって霊的真理に目覚め地上生活の意義を悟れば、その治療家は遠大な地上救済計画における自分の責務を見事に果たしたことになり、そうあってこそ私たちスピリットが援助した甲斐があったことになるのです。

 身体の病気が治癒することよりも、その治癒がキッカケとなって真の自我に目覚めることの方が、はるかに大切なのです。それが真の目的なのです。そこまで行かない心霊治療は、たとえ病気は治せても、成功したとは言えません。

 こうした心霊治療の真の意義が理解されるには長い長い年月を要します。心霊治療に限らず、霊界の力を地上に根づかせるには、大勢の人間を一気に動かそうとしてはダメです。一人の人間、一人の子供という具合に、一度に一人ずつ根気よく目覚めさせ、それを霊的橋頭堡として、しっかり固めていくほかはありません。

なぜなら、真理に目覚めるということは、そのキッカケが心霊治療であれ、交霊会であれ、あるいは物理実験会であれ、本人の霊的成長度がその真理を受け入れる段階まで進化していることが大前提だからです。

 魂にその準備ができていない時は心霊治療も効を奏しません。いかにすぐれた心霊治療でも治せない病気があるのはそのためです。従って失敗したからといって心霊治療を批判するのは的はずれなのです。

患者の魂がまだまだ苦しみによる浄化を十分受けていないということです。すべて自然法則が支配しています。トリックなどありません。いかなる心霊治療もその法則の働きを勝手に変えたり曲げたりする力はありません。

 もちろん苦難が人生のすべてではありません。ホンの一部にすぎません。が苦難のない人生もまた考えられません。それが進化の絶対条件だからです。

地上は完成された世界ではありません。あなた方の身体も完璧ではありません。が完璧になる可能性を宿しております。人生の目的はその可能性を引き出して一歩一歩と魂の親である神に向かって進歩していくことです。

 その進化の大機構の中で程度と質を異にする無数のエネルギーが働いており、複雑にからみ合っております、決して一本調子の単純なものではありません。

が生命は常に動いております。渦巻状を画きながら刻一刻と進化しております。その大機構の働きのホンの一端でも知るためには、人生の真の目的を悟らなくてはなりません。

 苦しみには苦しみの意味があり、悲しみには悲しみの意味があります。暗闇があるからこそ光の存在があるのと同じです。その苦しみや悲しみを体験することによって真の自我が目覚めるのです。その時こそ神の意図された素晴らしい霊的冒険の始まりでもあるのです。

魂の奥に宿れる叡智と美と尊厳と崇高さと無限の宝を引き出すための果てしない旅への出発なのです。

地上生活はその人生の旅の一つの宿場としての意味があるのです。ところが現実はどうでしょうか。唯物主義がはびこり、利己主義が支配し、どん欲がわがもの顔に横行し、他人への思いやりや協調心や向上心は見当りません。

 医学の世界もご多分にもれません。人間が自分たちの健康のために他の生命を犠牲にするということは、神の計画の中に組み込まれていません。

すべての病気にはそれなりの自然な治療法がちゃんと用意されております。それを求めようとせずに、いたずらに動物実験によって治療法を探っても、決して健康も幸福も見出せません。


 真の健康とは精神と肉体と霊とが三位一体となって調和よく働いている状態のことです。それを、かよわい動物を苦しめたり、その体内から或る種の物質を抽出することによって獲得しようとするのは間違いです。神はそのような計画はされておりません。

神は、人間が宇宙の自然法則と調和して生きていくことによって健康が保たれるよう意図されているのです。もしも人間が本当に自然に生きることが出来れば、みんな老衰による死を遂げ、病気で死ぬようなことはありません。

 肉体に何らかの異常が生じるということは、まだ精神も霊も本来の姿になっていないということです。もし霊が健全で精神も健全であれば、肉体も健全であるはずです。精神と霊に生じたことがみな肉体に反映するのです。

それを医学では心身相関医学などと呼ぶのだそうですが、名称などどうでもよろしい。大切なのは永遠の真理です。魂が健全であれば、身体も健全であり、魂が病めば身体も病みます。心霊治療は肉体そのものでなく病める魂を癒すことが最大の目的なのです。』


 以上が心霊治療に関するシルバー・バーチの基本的概念です。心霊治療の価値と必要性をこれほど強調するスピリットを私は他に知らないのですが、その考えの厳しさもまた格別です。

しかし基本概念としてはそれが真実であり理想であろうと考えます。その理想に一歩でも近づこうとするところに治療家としての努力の余地があると言えるのではないでしょうか。

 あとで世界的心霊治療家のハリー・エドワーズ氏及びその助手たちとの一問一答を紹介しますが、その前に、心霊治療に関してかならず出される疑問、すなわち日本の治療家はまず第一に除霊とか供養といったことから始めるのに西洋では皆無といっていいほどそれが聞かれないのはどういうことか、という点について私見を述べてみたいと思います。

 それには私の師である間部詮敦氏の治療法を紹介するのが一ばん都合がよいようです。間部氏は本来は心霊治療家で、私は側近の一人としてその治療の様子をつぶさに観察してまいりましたが、やはり除霊と供養を重点に置いておりました。

 具体的に説明すると、まず患者をうつぶせに寝かせました。そしてその背に手を置くと、その手が身体の悪いところに自然に動いていきます。その要領で三十分ほど施療したあと、患者を正座させ、背後から霊視します。すると病気にまつわる霊、いわゆる因縁霊が出て来ます。

これは多分間部氏の背後霊が連れてくるのだろうと思われますが、霊視が終ると、患者にその霊の容姿を説明して、その名前または戒名をたずねます。

それを二枚の短冊に書き、うち一枚を患者に手渡して、仏壇に供えて三日間お水を上げ、その水を清浄なところに捨てるようにと言います。霊が古くて名前が分からない時は、およその年齢の見当を付けて、たとえば 「五〇代の霊」 という風に書きます。

 主として関西地方と中国地方を回られたので、自宅(三重県)に戻られた時は短冊もかなりの枚数になっていたと思われますが、それを神前に供えて祈念し、霊を一人一人呼び出して(多分背後霊が連れて来て)、死後の世界の存在を教え、向上進化の必要性を説き、指導霊の言うことに従うよう諭します。

もちろん背後霊の働きかけも盛んに行われたことであろうことが推察されます。

 さて、これで万事うまく行ったかというと、必ずしもそうではありません。たとえば私の家族の場合はよく父方のおじいさんが出ました。そのたびに話を聞いて、その時は一応得心するのですが、またぞろ出て来ていろいろと災いをもたらしました。

別に何の遺恨があってのことでもないのですが、晩年に精神に異常を来たし、不幸な最期を遂げた人でしたから、その人がうろうろするだけで非常に良くない影響を与えたわけです。

 バーバネル氏の This is Spiritualism (拙訳 『これが心霊の世界だ』 潮文社刊) に霊の肖像画を専門にしているフランク・リーアという人の話が詳しく出ていますが、その中でバーバネル氏は

 「死者を描く時はなぜかその人間の死際の、いわば地上最後の雰囲気が再現され、リーア氏も否応なしにその中に巻き込まれる。その意味でリーア氏自身、自分が画いた肖像画の枚数分だけ死を体験したことになる」 と述べ、さらに別のところでは

 「この種の仕事で困ることは、そのスピリットの死の床の痛みや苦しみといった、地上生活最後の状態を霊能者自身も体験させられるということである。

なぜかは十分に解明されていないが、多分ある磁力の作用によると思われるが、スピリットが初めて地上に戻って来た時は地上を去った時の最後の状態が再現されるのである」 と述べています。

 間部氏もそのたびに 「またおじいさんですなあ」 と言って首をかしげておられましたが、考えてみると酒やタバコ (それにもう一つありそうですが・・・) がなかなか止められないのと同じで、どうしても霊的自我が目覚めず、地上への妄執が断ち切れなかったのでしょう。

これに類することで興味ぶかいことがいろいろあって、私には勉強になりました。

 さて問題は除霊すれば因縁が切れるかということですが、今の例でもわかる通り、霊というのは波長の原理でひっついたり離れたりするもので、人間の方はむろんのこと、霊の方でも自分が人間に憑依していることに気づいていないことすらあります。

因縁という用語はもとは因縁果という言葉から来たもので、因がもろもろの縁を経て果を生むという意味だそうです(高神覚昇『般若心経講義』)。私は心霊的にもその通りだと考えます。

 つまりシルバー・バーチのいう因果律は絶対的に本人自身のもので、それを他人が背負ったり断ち切ったりすることは出来ません。それはシルバー・バーチが繰り返し強調しているところですが、その因と果の間にいろんな縁が入り込んで複雑にしていきます。

病気の場合の因縁がそのよい例で、病気になるのは本人に原因があるわけですが、その病気が縁となって波長の合った霊が憑依し、痛みや苦しみを一段と強くしているのだと私は解釈しています。

 従ってその霊を取り除けばラクにはなりますが、それで業を消滅したことにはならない。もちろん霊が取り除かれた時が業の消える時と一致することもあり得ます。いわゆる奇蹟的治癒というのはそんな時に起きるのだと思われますが、除霊さえすれば事が済むというものではないようです。

 次に、西洋では病気にまつわる因縁霊の観念はないのか、除霊の必要性はないのか、ということですが、数こそ少ないのですが、それを実際にやっている人がいます。米国のカール・ウィックランドという人が最も有名です。

 この人は職業は精神科医ですが、奥さんが霊能者であるところから、主として精神異常者に憑依している霊を奥さんに憑依させて、間部氏と同じように、こんこんと霊的真理を説いて霊的自我に目覚めさせるやり方で大変な数の患者、と同時に霊をも、救っております。

それをまとめたのが Thirty Years Among the Dead で、 田中武氏が訳しておられますので一読をおすすめします。 (『医師の心霊研究三十年』日本心霊科学協会発行)

 ウィックランド氏の場合は主として精神異常者を扱っておりますが、当然身体的病気の場合にも似たような霊的関係があるはずであり、本来なら日本式の供養のようなものがあってもいいはずなのですが、それが皆無とは言わないまでも、非常に少ないという事実は、私は民族的習慣の相違に起因していると考えております。


 たとえば浅野和三郎氏が 「幽魂問答」 と題して紹介している福岡における有名なたたりの話は、数百年前に自殺した武士が自分の墓を建立してもらいたい一心から起こした事件であり、西洋では絶対と言ってよいくらい起こり得ない話です。

日本人は古来、死ねば墓に祀られるもの、供養してもらえるもの、戒名が付くものという先入観念があるからこそ、そうしてもらえない霊が無念残念に思うわけで、本来は真理を悟ればそんなものはすべて無用なはずです。いわゆる煩悩にすぎません。

 シルバー・バーチはある交霊会で供養の是非を問われて、「それはやって害はなかろうけど、大して効果があるとも思われません」 と述べておりますが、シルバー・バーチの話は常に煩悩の世界を超越した絶対の世界から観た説であることを認識する必要があります。

つまり永遠の生命を達観した立場からの説であって、私は、洋の東西を問わず、供養してやった方がいい霊は必ずいる、ということを体験によって認識しております。煩悩の世界には煩悩の世界なりの方法手段があると思っております。

また、民族によって治療法が異るように、個々の治療家によっても治療法や霊の処理方法が異ってくるはずであり、供養しなくても済む方法があるかも知れない、という認識も必要かと思われます。この辺が心霊的なものが一筋縄ではいかないところです。


 一問一答 (質問者はハリー・エドワーズを中心とする治療家グループ)

問「心霊治療によって治るか治らないかは患者の魂の発達程度にかかっていると言われたことがありますが、そうなると治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであるということになるのでしょうか」

シルバー・バーチ「あなた自身はどう思いまいすか。魂に働きかけないとしたら、ほかに何に働きかけますか」


問「まず魂が癒され、その結果肉体が癒されるということでしょうか」
シルバー・バーチ「その通りです」


問「では私たち治療家は通常の精神面をかまう必要はないということでしょうか」

シルバー・バーチ「精神もあくまで魂の道具にすぎません。従って魂が正常になれば、おのずと精神状態もよくなるはずです。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達してなければ、肉体への反応も起こりません。魂が一段と発達するまで待たねばなりません。

つまり魂の発達を促すためのいろんな過程を体験しなければならないわけです。その過程は決して甘いものではないでしょう。なぜなら魂の進化は安楽の中からは得られないからです」


問「必要な段階まで魂が発達していない時は霊界の治療家も治す方法はないのでしょうか」
シルバー・バーチ「その点は地上も霊界も同じことです」


問「クリスチャン・サイエンスの信仰と同じですか」
シルバー・バーチ「真理はあくまでも真理です。その真理を何と名付けようと私たち霊界の者には何の係わりもありません。要は中身の問題です。

仮りにクリスチャン・サイエンスの信者が心霊治療のおかげで治ったとして、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のおかげだと信じても、それはそれでいいのです」


問「私たち治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、患者の魂を治療するというのは何だか取りとめのない感じがするのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「あなたがたは少しどころか大いに貴重な役割を果たしておられます。第一、あなたがた地上の治療家がいなくては私たちも仕事になりません。

霊界側から見ればあなたがたは地上と接触する通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーのような存在です。霊波が流れる、その通路というわけです」


問「流れるというのは何に流れるのですか。肉体ですか魂ですか」
シルバー・バーチ「私どもは肉体には関知しません。私の方からお聞きしますが、例えば腕が曲がらないのは腕の何が悪いのですか」

問「生理状態です」
シルバー・バーチ「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのですか」

問「無くなっています。病気に負けて、病的状態になっています」
シルバー・バーチ「もしその活力が再びそこを通い始めたらどうなりますか」

問「腕の動きも戻ると思います」
シルバー・バーチ「その活力を通わせる力はどこから得るのですか」

問「私どもの意志ではどうにもならないことです。それは霊界側の仕事ではないかと思います」
シルバー・バーチ「腕をむりやりに動かすだけではダメでしょう」

問「力ではどうにもなりません」
シルバー・バーチ「でしょう。そこでもしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れていた機能が回復すれば、腕は自然によくなるということです」

問「すると私ども心霊治療家の役目は患者が生まれつき具えている機能にカツを入れるということになるのでしょうか」

シルバー・バーチ「そうとも言えますが、そればかりではありません。と言うのは、患者は肉体をまとっていますから、波長がどうしても低くなっています。それで霊界からの高い波長をもった霊波を送るには一たんあなたがた治療家に霊波を送り、そこで波長を患者に合った程度まで下げる必要が生じます。

あなたがたをコンデンサーに譬えたのはそういう役目を言ったわけです。そういう過程を経た霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治療効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇蹟のようなことが起きるわけですが、

前にも言いましたように、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢が出来ていない時は何の効果も生じません。結局、治るか治らないかを決める最終の条件は患者自身にあるということになるわけです」


問「神を信じない人でも治ることがありますが、あれは・・・・・・」

シルバー・バーチ「別に不思議ではありません。治癒の法則は神を信じる信じないにおかまいなく働きます」


問「先ほど治癒は魂の進化と関係があると言われましたが・・・・・・」
シルバー・バーチ「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がおります。霊格の高さは信仰心の強さで測れるものではありません。行為によって測るべきです。

よく聞いて下さい。あなたがた治療家に理解しておいていただきたいのは、あなたがたは治るべき人しか治していないということです。つまり、治った人は治るべき条件が揃ったから治ったのであり、そこに何の不思議もないということです。

あんなに心がけの立派な人がなぜ治らないのだろうと不思議がられても、やはりそこにはそれなりの条件があってのことなのです。ですが、よろこんで下さい。

あなた方を通じて光明へ導かれるべき人は幾らでもおります。皆が皆治せなくても、そこには厳とした法則があってのことですから、気になさらないで下さい。

と言っても、それで満足して、努力することをやめてしまわれては困ります。いつも言う通り、神の意志は愛だけではなく憎しみの中にも表現されています。

晴天の日だけが神の日ではありません。嵐の日にも神の法則が働いております。それと同じく、成功と失敗とは永遠の道づれですから、失敗を恐れたり悲しんだりしてはいけません」


問「治療による肉体上の変化は私たちにもよくわかりますが、霊的な変化は目で確かめることが出来ません」

シルバー・バーチ「たとえ百人の霊視能力者を集めても、治療中の霊的操作を全部見きわめることは出来ないでしょう。それほど複雑な操作が行われているのです。

肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者ともそれぞれにとても複雑なのですから、その両者をうまく操る操作は、それはそれは複雑になります。

むろん全体に秩序と調和が行き亘っておりますが、法則の裏に法則があり、そのまた裏に法則があって、言葉ではとても尽くせません」


問「肉体上の苦痛は魂に何の影響も与えないとおっしゃったように記憶しますが・・・」

シルバー・バーチ「私はそんなことを言った憶えはありません。肉体が受けた影響は必ず魂にも及びますし、反対に魂の状態はかならず肉体に表われます。両者を切り離して考えてはいけません。

一体不離です。つまり肉体も自我の一部と考えてよいのです。肉体なしには自我の表現は出来ないのですから」


問「では肉体上の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う手がないとみたら、魂の悪影響を防ぐために故意に死に至らしめるということもなさるわけですか」

シルバー・バーチ「それは患者によります。原則として霊体が肉体から離れるのはあくまで自然法則によって自動的に行われるべきです。もっとも人間の気まぐれから自然法則を犯して死を早めていることが多いようですが・・・・・・」


問「でも、明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われる例がありますが・・・・・」
シルバー・バーチ「ありますが、いずれも周到な配慮の上で行っていることです。それでもなお魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが・・・・・・」


問「肉体を離れるのが早すぎたために生じるショックですか」
シルバー・バーチ「そうです。物事にはかならず償いと報いとがあります。不自然な死を遂げるとかならずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。

それがどんなものになるかはその人によって異りますが、どんなものであれ、あなた方地上の治療家としては出来るだけ苦痛を和らげてあげることに意を用いておればよろしい」


問「絶対に生きながらえる望みなしと判断した時、少しでも早く死に至らしめるような手を加えるのは良いことでしょうか悪いことでしょうか」

シルバー・バーチ「私はあくまで〝人間は死すべき時に死ぬべきもの〟と考えています」


問「肉体の持久力を弱めれば死を早めることになりますが・・・・・・」

シルバー・バーチ「どうせ死ぬと分かっている場合でもそんなことをしてはいけません。あなたがたの辛い立場はよくわかります。また私としても、好んで冷たい態度をとるわけではありませんが、法則はあくまで法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備が出来た時に来るべきものです。

それはちょうど柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ったものは渋くて食べられますまい。治療もあくまで自然法則の範囲内で手段を講ずべきです。

たとえば薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体はもともとそんな状態になるようには意図されておりません。そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。

まずそういう観点から考えて行けば、どうすればいいかは自ずと決まってくると思います。何事も自然法則の範囲内で考えなくてはいけません。

もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てばそれなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いか悪いかは霊的法則にどの程度通じているかによって決まることです。

つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば肉体にとっても最善であるに違いありません」


問「魂の治療の点では私たち地上の治療家よりも霊界の治療家の仕事の方が大きいのですか」
シルバー・バーチ「当然そうなりましょう」


問「すると私たちの役割は小さいということでしょうか」

シルバー・バーチ「小さいとも言えますし大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きくわけて治療方法には二通りあります。一つは治療エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家自身に送ります。それを再度治癒エネルギーに変えてあなた方が使用するわけです。

もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的に具わっている治癒力を刺戟して、魂の不調和すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう」


問「いえ、理屈はよく分かります。ただ実感としては理解できませんが・・・」

シルバー・バーチ「では説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかというと、生命とは本質において物質と異ったものであり、いわゆる理化学的な研究対象とはなり得ないものだからです。

で、私はよく生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識をもち、呼吸し、歩き、考えるその力、また樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。

ですから、あなたが今そこに生きている事実そのものが、小規模ながらあなたも神であり大生命の流れを受けていることを意味しています。

私がさっき述べた治療法は、その生命力の働きの弱った患者の魂に特殊な霊波、いわば生命のエッセンスのようなものをその霊格に応じて注ぎ込んでやることなのです。

むろんこれは病因が魂にある場合のことです。ご承知の通り病気には魂に病因があるものと純粋に肉体的なものとがあります。肉体的な場合は治療家が直接触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を利用します。が、この方法にも限度があります。

というのは、あなた方治療家の霊格にもおのずから限度がありますし、患者も同様だからです。またいわゆる因縁(カルマ)というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにおかまいなく働きます」


問「魂の病にもいろいろあって、それなりの影響を肉体に及ぼしているものと思いますが、そうなると病気一つ一つについて質的に異った治癒エネルギーがいるのではないかと想像されますが・・・・・・」                
 シルバー・バーチ「まったくその通りです。ご存知の通り人間は大きく分けて三つの要素から成り立っています。一つは今述べた霊(スピリット)で、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、全てがここから出ます。

次にその霊が精神(マインド)を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって肉体(ボディ)を支配します。この三者が融合し互いに影響し合い、どれ一つ欠けてもあなたの存在は失くなります。三位一体というわけです」


問「精神と肉体が影響し合うわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。霊的な発達程度からくる精神状態が肉体を変えていきます。意識的に変えることも出来ます。インドの行者などは西洋の文明人には想像も出来ないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思い通りに操ることが出来ることを示すよい例でしょう」


問「そういう具合に心霊治療というのが魂を目覚めさせるためのものであるならば霊界側からの方がよほどやりやすいのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「そうとも言えますが、逆の場合の方が多いようです。と言うのは、死んでこちらへ来た人間でさえ地縛の霊になってしまう者が多い事実からもおわかりのとおり、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、大ていは物的な波長にしか反応を示さず、私達の送る霊波にはまったく感応しないものです。

そこであなた方地上の治療家が必要となってくるわけです。従って優れた心霊治療家は霊的波長にも物的波長にも感応する人でなければなりません。心霊治療家にかぎらず、霊能者と言われている人が常に心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。

霊的に向上すればそれだけ高い波長が受けられ、それだけ仕事の内容が高尚になっていくわけです。そのように法則が出来あがっているのです。ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます。

ただ一人、前人未踏の地を歩みながら後の者のために道しるべを立てて行くことになります。あなたがたにはこの意味がおわかりでしょう。すぐれた特別の才能にはそれ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」


問「先ほど治癒エネルギーのことを説明された時、霊的なものが物的なものに転換されると言われましたが、この転換はどこで行われるでしょうか。どこかで行われるはずですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「使用するエネルギーによって異りますが、いにしえの賢人が指摘している〝第三の目〟とか太陽神経叢などを使用することもあります。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する〝場〟なのです。

これ以外にも患者の潜在意識を利用して健全な時と同じ生理反応を起こさせることによって、失われた機能を回復させる方法があります」


問「説明されたところまではわかるのですが、もっと具体的に、どんな方法で、いつ、どこで転換されるのか、その辺が知りたいのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「そんな風に聞かれると、どうも困ってしまいます。弱りました。わかっていただけそうな説明がどうしてもできないのです。強いて譬えるならば、さっきも言ったコンデンサーのようなことをするのです。

コンデンサーと言うのは電流の周波を変える装置ですが、大たいあんなものが用意されてると想像して下さい。エクトプラズムを使用することもあります。ただし、心霊実験での物質化現象などに使用するものとは形体が異ります。もっと微妙な、目に見えない・・・・・・」


問「一種の〝中間物質〟ですか」

シルバー・バーチ「そうです。スピリットの念波を感じ易く、しかも物質界にも利用できる程度の物質性を具えたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のエネルギーが結合してコンデンサーの役をするのです。そこから患者の松果体ないしは太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。

その活エネルギーは全身に行き亘ります。電気的な温かみを感じるのはその時です。知っておいていただきたいことは、とにかく私たちのやる治療方法には決まりきったやり方というものがないということです。患者によってみな治療法が異ります。

また霊界から次々と新らしい医学者が協力にまいります。そして新らしい患者は新らしい実験台として臨み、どんな放射線を使ったらどんな反応が得られたか、その結果を細かく検討します。

なかなか捗(はかど)らなかった患者が急に良くなり始めたりするのは、そうした霊医の研究成果の表われなのです。また治療家のところへ来ないうちに治ってしまったりすることがあるのも同じ理由によります。

実質的な治療というものは、あなたがたが直接患者と接触する以前にすでに霊界側において、その大部分が為されていると思って差支えありません」


問「そうすると、一方で遠隔治療を受けながら、もう一方で別の治療家のところへ行くという態度は治療を妨げることになるわけでしょうか」
シルバー・バーチ「結果をみて判断なさることです。治ればそれでよろしい」


問「なぜそれでいいのか理屈がわからないと、われわれ人間は納得できないのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、まったく支障を来さないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから一概に言い切るわけにはいきません。あなただって、患者をひと目見てこれは自分に治せるとは言い切れますまい。

治せるかどうかは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分通りしか治せない患者も、他の治療家のところへ行けば良くなるかも知れません。条件が異るからです。

その背後つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと断定的な言葉は使えなくなるはずです。神の法則には無限の奥行があります。あなたがた人間としては正当な動機と奉仕の精神に基いて精いっぱい人事を尽くせばよいのです。あとは落着いて結果を待つことです」


問「細かい点は別として、私たちが知りたいのは、霊界の医師は必要とあらばどの治療家にでも援助の手を差しのべてくれるかということです」

シルバー・バーチ「霊格が高いことを示す一ばんの証明は、人を選り好みしないということです。私たちは必要とあらばどこへでも出かけます。これが高級神霊界の鉄則なのです。あなたがたも決して患者を断わるようなことをしてはいけません。

あなた方はすでに精神的にも霊的にも立派な成果をあげております。人間的な目で判断してはいけません。あなた方には物事のウラ側を見る目がないのです。従って自分のやったことがどんな影響を及ぼしているかもご存知ないようです」



問「複数の人間が集まって一人の患者のために祈念するという方法をとっている人がいますが、効果があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「この問題も祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご存知の通り、宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇蹟というものは絶対起こりません。

もしもその祈りが利己心から発したものでしたら、それはそのままその人の霊格を示すもので、こんな祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。

ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りにはおのずから霊力も具わっていますから、高級神霊界にも届きましょうし、自動的に治癒効果を生むことも出来るでしょう。要するに祈る人の霊格によって決まることです」


問「祈りはその人そのものということでしょうか」
シルバー・バーチ「そういうことです」


問「大僧正の仰々しい祈りよりも素朴な人間の素朴な祈りの方が効果があるということでしょうか」

シルバー・バーチ「大僧正だから、あるいは大主教だからということで祈りの力が増すと考えるのは間違いです。肝心なのは祈る人の霊格です。どんなに仰々しい僧衣をまとっていても、その大僧正がスジの通らない教義に凝り固まった人間でしたら何の効果もないでしょう。

もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。いかにも力が増しそうですが、案外効果は少ないものです。要するに神は肩書きや数ではごまかされないということです。

祈りとは本来、自分の波長を普段以上に高めるための霊的な行為です。波長が高まればそれだけ高級な霊との接触が生じ、必要な援助が授かるというわけです。あくまで必要な援助だけです。いくらたのんでみても、必要でないもの、叶えてあげるわけにいかないものがあります。

その辺の判断は然るべき法則に基いて一分一厘の狂いもなく計算されます。法則をごまかすことは出来ません。神に情状酌量をたのんでもムダです。人間は自分自身をもごまかせないということです」


問「治療の話に戻りますが、患者に信仰心を要求する治療家がいますが、関係ないと言う人もいます。どうなのでしょうか」

シルバー・バーチ「心霊治療にかぎらず霊的なことに関しては奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言い切れないことばかりなのです。信仰心があった方が治り易い場合が確かにあります。

その信仰心が魂に刺戟を与えるのです。しかしあくまで自然法則の知識に基いた信仰でして、何か奇蹟でも求めるような盲目の信仰ではダメです。反対にひとかけらの信仰心がなくても、魂が治るべき段階まで達しておれば、かならず治ります」


問「神も仏もないと言っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって不思議に思うことがあるのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「人間の評価は魂の発達程度を基準にすべきです。あなたがたの観方は表面的で、内面的観察が欠けています。魂そのものが見えない為に、その人はそれまでどんなことをして来たかが判断できません。治療の結果を左右するのはあくまでも魂です。

ご承知の通り、私も何千年か前に地上でいくばくかの人間生活を送ったことがあります。そして死後こちらでそれよりはるかに長い霊界生活を送ってきましたが、その間、私が何にも増して強く感じていることは、大自然の摂理の正確無比なことです。

知れば知るほどその正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりなのです。一分の狂いも不公平もありません。

人間も含めて宇宙の個々の生命はそれぞれに在るべき位置にところを得ているということです。何ごとも憂えず、ただひたすら心によろこびを抱いて、奉仕の精神に徹して生活なさい。そして、あとは神におまかせしなさい。それから先のことは人間の力の及ぶことではないのです。

あなたがたは所詮私達のスピリットの道具にすぎません。そして私たちも又さらに高い神霊界のスピリットの道具にすぎません。自分より偉大なる力がすべてを良きに計らってくれているのだと信じること、それが何より大切です」