Tuesday, April 11, 2023

シアトルの春 あなた方は永遠の存在であることを自覚して下さい。生命の旅路においてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。

 Realize that you are eternal beings. Just a pilgrim on earth for a short period of time on the journey of life.

 

Teachings of Silver Birch by Silver Birch - Ebook | Scribd

 

役に立つ喜び

 人生において、自分が役に立つということほど大きな喜びはありません。どこを見ても闇ばかりで、数え切れないほどの人々が道を見失い、悩み、苦しみ、悲しみに打ちひしがれ、朝、目を覚ます度に今日はどうなるのだろうかという不安と恐怖におののきながら生きている世の中にあって、たった一人でも心の平静を見出し、

自分が決して一人ぼっちの見捨てられた存在ではなく、無限の愛の手に囲まれているという霊的事実に目覚めさせることが出来たら、これはもう立派な仕事というべきです。他のいかなる仕事にも優る大切な仕事を成し遂げたことになります。

 地上生活のそもそもの目的は、居眠りをしている魂がその存在の実相に目覚めることです。あなた方の世界は毎日を夢の中で過ごしているいわば生ける夢遊病者で一杯です。彼らは本当に目覚めてはいないのです。霊的実相については死んだ人間も同然です。

そういう人たちの中のたった一人でもよろしい、その魂の琴線に触れ、小さく燻る残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせることができたら、それに勝る行為は有りません。

どう理屈をこねてみたところで結局は神の創造物──人間、動物、その他何でもよろしい──の為になることをすることによって神に奉仕することが何にも勝る光栄であり、これに勝る宗教はありません。


 こうした仕事のために神の使節として遣わされている私たちは幸せと思わなくてはいけません。もっとも、絶え間なく続く悲劇を目の当たりにしていると、それだけのことで嬉しい気分に浸れるものではありません。

現実に何かの役に立った時、例えば無知を駆逐し、迷信を打破し、残酷を親切に置き替え、虐待を憐憫に置き替えることができた時、あるいは協調と親善の生き方を身を以って示すことができた時、その時初めて地上の全ての存在の間に真の平和が訪れます。真の平和は一部の者のみが味わうべきものではないからです。

そこには霊の力の働きかけがあります。それを是非とも地上に招来しなくてはならないのです。教会が何を説こうと、学者先生がどう批判しようと、霊力はそんなことにはお構いなく働きます。そして、きっと成就します。

 その霊力が、道に迷ってあなた方のもとを訪ねて来る人々に安堵、健康、苦痛の緩和、慰め、指導、援助のいずれかを授けてあげる、その道具となることほど偉大な仕事はありません。無味乾燥な教義のお説教ばかりで霊力のひとかけらもない教会、礼拝堂、集会、寺院等よりも遥かに意義ある存在です。
 
 病める人、苦痛を抱えた人、身も心も霊も悶え苦しむ人、希望を失った人、寄るべない人、人生に疲れ切った人、迷える人、こうした人々にお説教は要りません。

説く人自らが信仰に自信を失っていることすらよくあるのです。説く人にも説き聞かされる人にも意味を持たない紋切型の説教をオウムのように繰り返しても、誰も耳を傾ける気にはならないでしょう。欲しいのは霊的真理が真実であるとの証です。

あなた方が真に奉仕の精神に燃え霊的能力を人のために役立てたいと望めば、その霊力があなた方を通してその人たちに流れ込み、苦痛を和らげ、調和を回復させ、マヒした関節ならばこれを自由に動かせるようにし、そうすることによって霊的真実に目覚めさせることになることでしょう。

 ただ、この道には往々にして挫折があります。私どもの仕事は人間を扱う仕事です。残念ながら人間は数々の脆(もろ)さと弱み、高慢と見栄、偏見と頑迷さで塗り固められております。自分のことよりまず人のためと考える人はまれです。
 
大義のために一身上のことを忘れる人はほとんどいません。しかし、振り返ってご覧になれば、そうした条件の中にありながらも、霊的な導きによって着実に使命に沿った道を歩み、これから先の歩むべき方角への道しるべがちゃんと示されていることを明確に認識されるはずです。

これまで一点の疑念も疑問の余地もないほどその威力を証してきた力は、前途に横たわる苦難の日々を正しく導いてくれます。

 施しを受けるよりも施しを授ける方が幸せです。証拠を目に見ず耳に聞くこともなく、それでもなおこの道にいそしむことができる人は幸せです。あなた方のまわりには、あなた方より幸せの少ない人々に愛の手を差し伸べることを唯一の目的とする高級霊の温かみと輝きと行為と愛があります。

 地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。

 その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知のうえで生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我──より大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。

その意味では〝お気の毒に・・・〟などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。

こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。私が〝魂は知っている〟と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。

その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。

それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。

 自分が果たしてどの程度の人間か、どの程度進化しているかを自分で判断することは、今のあなた方には無理なことです。判断を下す手段を持ち合わせないからです。人間は霊的視野で物を見ることが出来ません。四六時中物的視角で物事を考えているために、判断がことごとく歪んでおります。

魂への影響を推し量ることができない。そこが実はいちばん大切な点です。肉体が体験することは魂に及ぼす影響次第でその価値が決まります。魂に何の影響も及ぼさない体験は価値がありません。霊の力を無理強いすることは許されません。神を人間の都合の良い方向へ向けさせようとしても無駄です。
 
神の摂理は計画通りに絶え間なく作用しています。賢明なる人間──叡知を身につけたという意味で賢明な人間は、摂理に文句を言う前に自分から神の無限の愛と叡知に合わせていくようになります。

 そうした叡知を身につけることは容易なことではありません。身体的、精神的、霊的苦難が伴います。この三つの要素のうちの二つが絡むこともあれば三つが全部絡むこともあります。

霊性の開発は茨の道です。苦難の道を歩みつつ、後に自分だけの懐かしい想い出の標識を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。

 しかし、利己的生活や無慈悲な生活にそれ相当の償いがあるように、その霊性開発の孤独な道にもそれなりの埋め合わせがあります。悟りが深まるにつれて内的生命、内的輝き、内的喜び、内的確信がいっそうその強さを増していくのです。

生命現象の全てが拠り所とする内的実在界の実相を味わい、神の愛の温もりをひしひしと実感するようになります。それが容易に成就されるとは私は一度も言っておりません。最高の宝、最も豊かな宝は、最も手に入れ難いものです。しかもそれは自らの努力によって自分一人で獲得していかねばならないのです。

 私はかつて地上で何年も生活し、こちらへ来てからも(三次元の世界の数え方で言えば)何千年もの歳月を過ごしてきましたが、向上すればするほど宇宙の全機構を包括し大小あらゆる出来ごとを支配する大自然の摂理の見事さに驚嘆するばかりです。

その結果しみじみと思い知らされていることは、知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟るということは最後はみな一人でやらねばならない──自らの力で〝ゲッセマネの園〟に踏み入り、そして〝変容の丘〟に登らねばならないのだということです。(第二章参照)

 悟りの道に近道はありません。代わりの手段もありません。安易な道を見つけるための祈りも儀式も教義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。

悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。私がこんなことを説くのは説教者ヅラをしたいからではありません。これまでに自分が学んだことを少しでもお教えしたいと望むからにほかなりません。

 さらに私は、一見矛盾するかに思えるかもしれませんが、人のために役立ちたいと望む人々、自分より恵まれない人々──病める人、肉親を失える人、絶望の淵にいる人、人生の重荷に耐えかねている人、疲れ果て、さ迷い、生きる目的を見失える人、等々に手を差しのべたいという願望に燃える人──要するに何らかの形で人類の福祉に貢献したいと思っている人が挫折しかけた時は、必ずやその背後に霊界からの援助の手が差し伸べられるということも知っております。

 時には万策尽き、これにて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が生み出す内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我れ行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。

 その奇特な意気に感じて訪れてくるのは血のつながった親類縁者──その人の死があなた方に死後の存続に目を開かせた霊たち── ばかりではありません。あなた方が地上という物質界へ再生してくるに際して神からその守護の役を命ぜられ、誕生の瞬間よりこの方ずっと見守り指導してきた霊もおります。

そのおかげでどれほどの成果が得られたか、それはあなた方自身には測り知ることはできません。しかし分からないながらも、その体験は確実にあなた方自身の魂と同時に、あなた方を救ってあげた人々の魂にも消えることのない影響を及ぼしております。

そのことを大いに誇りに思うがよろしい。他人への貢献の機会を与えて下さったことに関し、神に感謝すべきです。人間としてこれほど実り多い仕事は他にありません。

 愚にもつかぬ嫉妬心や他愛ない意地悪から出る言葉を気にしてはなりません。そのようなものはあなた方の方から心のスキを与えない限り絶対に入り込めないように守られております。霊の力は避難所であり、霊の愛は聖域であり、霊の叡知は安息所です。イザという時はそれを求めるがよろしい。

人間の心には裏切られることがありますが、霊は決して裏切りません。たとえ目には見えなくても常に導きを怠ることなく、愛の手があなた方のまわりにあることを忘れないでください。

 私としては、たった一言であっても、私の述べたことの中にあなた方の励みになり元気づけ感動させるものを見出していただければ、もうそれだけで嬉しいのです。私たちに必要なのは霊の道具となるべきあなた方です。豪華なビルや教会や寺院や会館ではありません。

それはそれなりの機能があることは認めますが、霊の力はそんな〝建物〟に宿るのではありません。〝人間〟を通して授けられるのであり、顕幽の巨大な連絡網のつなぎ手として掛けがえのない大切なものです。その道具たらんとして謙虚に一身を擲(なげう)ってくれる人間一人の方が、そうした建造物全部よりも遥かに大切です。頑張ってください。

そしてこれからも機会を逃さず人のため、人のため、という心掛けを忘れないで下さい。世間の拍手喝さいを求めてはなりません。この世に生れてきたそもそもの目的を果たしているのだという自覚を持ち、地上に別れを告げる時が来た時に何一つ思い残すことのないよう、精一杯努力して下さい。

 ここに集える私たち一人ひとりが同胞の幾人かに霊的啓発をもたらすことによって、少しでも宇宙の大霊に寄与することができることの幸せを神に感謝いたしましょう。

人間として霊として、こうして生を享けた本来の目的を互いに果たせることの幸せを感謝いたしましょう。人のために尽くすことに勝る宗教はありません。病める人を治し、悲しむ人を慰め、悩める人を導き、人生に疲れ道を見失える人を手引きしてあげること、これは何にも勝る大切な仕事です。

 ですから、こうして神の愛を表現する手段、才能、霊力を授かり、それを同胞のために役立てる仕事に携われることの幸せを喜ばなくてはいけません。神の紋章を授かったことになるのだと考えて、それを誇りに思わなくてはいけません。

これから後も人のために役立つ仕事に携わるかぎり、霊の力が引き寄せられます。人生の最高の目標が霊性の開発にあることを、ゆめ忘れてはなりません。自分の永遠の本性にとって必須のものに目を向けることです。

それは人生について正しい視野と焦点を持つことになり、自分が元来不死の魂であり、それが一時の存在である土塊に宿って自我を表現しているにすぎないこと、心がけ一つで自分を通じて神の力が地上に顕現するという実相を悟ることになるでしょう。

こうしたことは是非とも心に銘記しておくべき大切な原理です。日常の雑務に追いまくられ、一見すると物が強く霊が弱そうに思える世界では、それは容易に思い出せないものです。ですが、あくまで霊が主人であり物は召使いです。霊が王様であり物は従臣です。霊は神であり、あなたはその神の一部なのです。

 自分がこの世に存在することの目的を日々成就できること、つまり自分を通じて霊の力がふんだんに地上に流れ込み、それによって多くの魂が初めて感動を味わい、目を覚まし、健全さを取り戻し、改めて生きることの有難さを噛みしめる機会を提供すること──これは人のために役立つことの最大の喜びです。

真の意味で偉大な仕事と言えます。地上のどの片隅であろうと、霊の光が魂を照らし、霊的真理が沁みわたれば、それでいいのです。それが大事なのです。それまでのことは全てが準備であり、全てが役に立っているのです。

魂はそれぞれの使命のために常に備えを怠ってはなりません。時には深い谷間を通らされるかもしれません。度々申し上げてきたように、頂上に上がるためにはドン底まで下りなければならないのです。

 地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では〝物〟を有難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。

人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません。そんなものは死と共に消えてなくなるのです。が、他人のために施した善意は決して消えません。

なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。

 世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。が、もしもあなたが他人のために自分なりに出来るだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。

言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重要な仕事です。

手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生れて来たのかを悟り、地上を去るまでに何をなすべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡知と理解を広める仕事に協力していることになります。

 肝心なことはそれを人生においてどう体現していくかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終わってはいけません。今度はそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです。

それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。

霊的成長にも摂理があり、魂に受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。

真の福音、霊的実在についての良い知らせをお持ちしているだけです。それを本当に良い知らせであると思って下さるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えが出来ていないということです。

 イエスはそのことを〝豚に真珠を投げ与えるべからず〟と表現しましたが、これは決してその言葉から受けるような失礼な意味で述べたのではありません。いかに高価なものをもってしても他人を変えることはできないのです。自分で自分を変えるしかないのです。

私たちは同胞の番人ではないのです。各自が自分の行為に責任を持つのであって、他人の行為の責任は取れません。あなたが行うこと、心に思うこと、口にする言葉、憧れるもの、求めるものがあなたの理解した霊的真理と合致するようになるのは、生涯をかけた仕事と言えるでしょう。

 あなたにできるのはそれだけです。他人の生活を代わりに生きることはできません。どんなに愛する人であってもです。なぜなら、それは摂理に反することだからです。そうと知りつつ摂理に反することをした人は、そうとは知らずに違反した人よりも大きい代償を払わされます。

知識には必ず責任が伴うからです。真理を知りつつ罪を犯す人は、同じ行為を真理を知らずに犯す人より罪の大きさが違うのです。当然そうあらねばならないでしょう。

 一個の魂に感動を与えるごとにあなた方は神の創造の目的成就の一翼を担ったことになります。これはあなた方に出来る仕事の中でも最も重要な仕事です。魂に真の自我を悟らせてあげているのであり、これは他のいかなる人にもできないことです。ただし、この仕事は協調の上に成就されるものです。

私ども霊側も強引に命令することはしたくありません。あなた方の理性を押しのけたり自由意志を奪ったりすることはいたしたくありません。あくまでも導くことを主眼としているのです。あなた方が何か一つ努力するごとに、私どもがその目的に合わせ援助することによって、より大きな成果を挙げるように協力しているのです。

協力し合うことによって人生の全てが拠り所とするところの霊的基盤に関わる重大な仕事に携わることができるのです。

 残念ながら多くの人間が実体と影、核心と外殻とを取り違えております。実相を知らずにおります。言わば一種の退廃的雰囲気の中で生きております──それが〝生きる〟と言えるならばの話ですが、霊の光の啓示を受けた人は幸いです。

私としてはあなた方に、頑張って下さいとしか申し上げる言葉を知りません。霊の無限の力が控えております。イザという時にあなた方の力となって支えてくれることでしょう。

 自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにして下さい。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方たちでも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われ、霊的実相を忘れてしまいがちです。が、

それだけは絶対に忘れぬようにしなければなりません。地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。

霊こそ実在です。物質は実在では無いのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じることもできないかもしれません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識出来ません。しかし、やはり霊こそ全ての根源であることに変わりありません。

あなた方は永遠の存在であることを自覚して下さい。生命の旅路においてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。

Monday, April 10, 2023

シアトルの春 動物にも死後の生命があるのか、

  Do animals have life after death?

白樺 チューリップ 自然 花の写真素材 - PIXTA

 動物にも死後の生命があるのか、あの世で再び会うことが出来るのかという問題は、スピリチュアリズムに関心のある人にとって共通した関心事ですが、動物をいわゆるペットとして吾が子のように可愛がっている人々にとっても大きな関心事であろうかと思われます。


 心霊問題に熱心な方なら、動物の存続を証明する確証を何らかの形で得ておられることでしょう。心霊写真に動物が写っていることがよくありますし、霊界通信でもそれを証言する霊がいくらもいます。

 さて、ひと味違った霊界通信に、英国の女性心霊治療家オリーブ・バートンの 「子供のための心霊童話」 Spirit Stories for Children, retold by Olive Burton というのがあります。これはバートン女史のお嬢さんのエドウィーナちゃんの守護霊が語った一種の童話で、一つ一つの話に立派なカラーの挿画も付いていて、

日本も早くこうしたものが出せる世の中になってほしいと思わせる心霊書ですが、この童話の中ではペットだけでなく野獣も含めた動物のすべてが、人間(の霊)と完全に調和した生活を送っている様子が描かれており、それがそのまま霊界での真実であると述べています。

 それより先の一九四〇年に、バーバネル氏の奥さんであるシルビア・バーバネル女史が When Your Animal Dies というのを出しています。

文字どおり動物の死後を扱ったもので、出版と同時に大変な反響を呼び、幾度か版を重ねております。この本を読んでスピリチュアリズムを信じるようになったという人が少なくありません。

私はこれもいずれは日本でも出さねばならない心霊書の一つだと考えておりますが、その第十八章に動物に関するシルバー・バーチの霊言が特集してあります。

 もちろん一九四〇年までの十年余りの間の霊言が引用されているわけで、その後もシルバー・バーチは折にふれて動物愛護を説き、娯楽のための狩猟、食用のための屠殺、科学に名を借りた動物実験の罪悪性を戒めておりますが、

その十八章にはシルバー・バーチシリーズ(全十一冊)に編集されていないものが相当あり(注)、しかも内容的に見てもそれで全てをつくしているようですので、ここではその十八章をそのまま引用することにしました。

 単に動物の死後の問題にとどまらず、生命の進化、自我の発生など、心霊学徒にとって興味深い問題が次々と出て来ます。章の始めは当然のことながらシルバー・バーチという霊の紹介に費やされておりますが、われわれにとっては不要ですので、早速本題に入ります。

(注──このシリーズは各編者が半世紀に亘るシルバー・バーチの霊言の中から自分の主観によって編集したもので、従って全十一冊が霊言のすべてではないわけです。何冊かに重複して編集されている部分もあれば、どの霊言集にも載せられていない部分もあるわけで、その一例がこれから紹介する部分です)


問「動物は死後もずっと飼主といっしょに暮らすのでしょうか。それとも、いずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」

シルバー・バーチ「どちらとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛がかかわっているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かは、その動物に対する飼主の愛一つにかかっているのです。

もしも動物とその飼主──この飼主 (owner) という言葉は好きではありません。他の生命をわがものとして所有する(own)などということは許されないのですから──その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼主のところで暮らします。

愛のある場所が住処となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は動物界へ行く必要はありません。しかし、もしも飼主より先に他界した場合は、動物界へ行ってそこで面倒をみて貰わなくてはなりません。

飼主との愛が突如として切れたのですから、単独で放っておかれると動物も迷います。地上では人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けたのですから、その主人が来るまで、ちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家にあずけるように、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」


問「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

シルバー・バーチ「長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは法則の働きによって、動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身につけたわけです。

すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが神の息吹きで目を醒ましたわけです。

さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込むことが出来るはずです。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。

動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。

また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同士でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。愛があればこそ生命は進化するのです」


問「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」

シルバー・バーチ「いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても分かれなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違うために、どうしても人間について行けなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、向上進化を求める霊性が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力が他の生命の進化を援助する方向へと発揮されていきます。

そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はいかに愛によって結ばれているとは言えそのスピードについて行けなくなり、やがてこの愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます」


問「すると動物の場合は個性を失ってしまうということですか」

シルバー・バーチ「その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体として未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間となります。

ペットとして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び越えて人間と一緒に暮らすわけで、人間の進化についていけなくなって愛の糸が切れてしまえば、もとの類魂の中に戻るほかはありません」


問「せっかく人間との接触で得たものが消えてしまうのでは愛がムダに終ったことになりませんか」

シルバー・バーチ「そんなことはありません。類魂全体に対して貢献をしたことになります。類魂全体としてその分だけ進化が促進されたことになるのです。全体に対する貢献です。

今までその類魂に無かったものが加えられたわけです。全体のために個が犠牲になったということです。そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて人間へと進化していきます」


問「その時点で人間界へと誕生するわけですか」
シルバー・バーチ「そうです。人間界への誕生には二種類あります。古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と、そうやって動物界から始めて人間界へ誕生してくる場合です」


問「一人の人間としてですか」
シルバー・バーチ「そうです。双方とも霊魂です。双方とも自我意識をもった霊であり個性を有しております。ただ、一方がベテラン霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上へやってくるのに対し、他方は、やっと人間の段階にまで達した新入生です。

直前まで動物だったのが人間へとジャンプしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階を辿って、今ようやく人間へと達したのです」

Sunday, April 9, 2023

 シアトルの春 ある年の復活祭(イースター)の季節にシルバーバーチは〝死〟を一年の四季の巡りになぞらえて、こう語った。

 One year during the Easter season, Silver Birch likened "death" to the cycle of the four seasons of the year and said:

347,688 Happy Easter Stock Photos - Free & Royalty-Free Stock Photos from  Dreamstime


 ある年の復活祭(イースター)の季節にシルバーバーチは〝死〟を一年の四季の巡りになぞらえて、こう語った。

 「四季の絶妙な変化、途切れることのない永遠の巡りに思いを馳せて御覧なさい。

すべての生命が眠る冬、その生命が目覚める春、生命の世界が美を競い合う夏、そして又、次の春までの眠りに備えて大自然が声をひそめはじめる秋。

 地上は今まさに大自然の見事な顕現───春・イースター・蘇り───季節を迎えようとしております。新しい生命、それまで地下の暗がりで安らぎと静けさを得てひっそりと身を横たえていた生命が、いっせいに地上へ顕現する時期です。

間もなくあなた方の目にも樹液の活動が感じられるようになり、やがてつぼみが、若葉がそして花が目に入るようになります。

地上全体の新しい生命の大合唱が響きわたります。

 こうしたことから、皆さんに、太古においては宗教というものが大自然の動きそのものを儀式の基本としていたことを知っていただきたいのです。

彼らは移り行く大自然のドラマの星辰の動きの中に神々の生活、自分たちを見つめている目に見えない力の存在を感じ取りました。

自分たちの生命を支配する法則に畏敬の念を抱き、春を生命の誕生の季節として、最も大切に考えました。

 同じサイクルが人間一人一人の生命において繰り返されております。大自然の壮観と同じものが一人一人の魂において展開しているのです。

 まず意識の目覚めと共に春が訪れます。続いて生命力が最高に発揮される夏となります。

やがてその力が衰え始める秋となり、そして疲れ果てた魂に冬の休眠の時が訪れます。

が、それですべてが終わりとなるのではありません。

それは物的生命の終わりです。

冬が終わると、その魂は次の世界において春を迎え、かくして永遠のサイクルを続けるのです。

 この教訓を大自然から学びとってください。そして、これまで自分を見捨てることのなかった摂理は、これ以降も自分を、そして他のすべての生命を見捨てることなく働き続けてくれることを確信して下さい」

Friday, April 7, 2023

シアトルの春 生命は責務

   life is a responsibility

白樺林イラスト/無料イラスト/フリー素材なら「イラストAC」
 

生命は神からの贈りものであり、神が人間に託した責務です。

シルバーバーチ

Thursday, April 6, 2023

シアトルの春 運命の十字路にさしかかる度毎に、右か左かの選択を迫られます。

At every crossroads of destiny, you are forced to choose left or right.
白樺の木イラスト - No: 22077343/無料イラスト/フリー素材なら「イラストAC」


前章では再生というスピリチュアリズム思想の中でも最も異論の多い課題を取り上げました。たとえ異論はあっても、そこに必ずや真実があるはずであり、万一再生することが真実であれば、これほど人生観に与える影響の大きいものはないと考えたからです。

 影響が大きいと言えば、死後の存続という事実こそ、まずだれにとっても画期的な影響を与える話題であるはずです。

私自身も哲学的な思考の芽生え始めた高校時代にスピリチュアリズムに接して、万一死後もこのまま生き続けるとしたら、賢こぶった哲学的で抽象的な思考にふけっている場合ではないという、せっぱつまった心境で心霊学に取り組み、結果的には一種の思考革命のようなものを体験しました。

 つまり〝生と死〟を深刻な主題としていた思考形式から、死を超越した生のみの思考形式に変異し、それ以後は想像の翼がひとりでにはばたいて、自由自在に広がっていく思いがしました。そしてそれは今なお続いており、私にとってこれほど楽しいレクリエーションはないといってもいいほどです。

 それというのも、シルバー・バーチやマイヤース、イムペレーター等のアカ抜けのした霊界通信のおかげにほかならないのですが、その前に、心霊実験会において目に見えない霊の存在をまざまざと見せつけられていたことが大きな転換のキッカケとなっているようです。


 この死後の存続という事実は今では少なくともスピリチュアリズムでは自明の事実であり、真理探究の大前提となっておりますが、私は、前章でも述べた通り、再生に関する事実も、第一級の霊界通信の述べるところが完全に符節を合しているところから、まず前章で紹介したところが再生の真相とみて差し支えないと信じます。

 とくに半世紀にわたるシルバー・バーチの霊言が、その間いささかの矛盾撞着もなく、首尾一貫して同じ説を述べ続けていることに注目すべきだと考えます。

 そのシルバー・バーチが説いていることの中で特に着目すべきことは、いかなる真理も、それを受け入れる準備が魂に備わるまで、言いかえればそれを理解するだけの意識の開発、難かしく言えば霊格の進化がなければ決して悟ることはできない、ということです。

 従って知識ばかりをいくら溜め込んでも、それが即その人の成長のあかしとはならない。シルバー・バーチの譬えでいえば、世界中の蔵書を全部読んだところで、それを実地に体得しないことには何にもならない。再生する目的はつまるところは体験を求めに来ることにほかならない、というわけです。

 さてその〝体験〟ということを考えてみますと、同じ条件下に置かれても、人によってその反応は百人百様の違いがあるはずです。ましてや男性と女性とでは比較しようもないほどの差があります。

男らしいといい、女らしいといっても、地上の人間に関するかぎり、それは肉体の生理的表現にすぎず、つきつめて言えば性ホルモンの違いというにすぎません。前章のシルバー・バーチの最後の言葉にあるように、大半の人間は物質によって魂が右往左往しているのが現実の姿であることは確かです。

 そうなると当然一回や二回の地上生活ではとても十分とは言えないわけで、その辺に再生の必要性が生じてくるわけですが、厳密に言えばマイヤースの言う通り、たとえ何十回何百回再生を繰り返しても地上体験による魂の成長には限度がある。

つまり魂に響くほどの体験、俗な言い方をすれば、骨身にしみるほどの体験がそうやたらにあるものではないことは、実際に地上生活を送っているわれわれが一ばんよく知っています。

 となると、漫然と日常生活を送ることには何の意味もないことになり、そこに守護霊を中心とする背後霊団の配慮の必要性が生じてまいります。表向きは平凡な生活を送っているようで、その実は次々と悩みや苦労、悲しみのタネが絶えないのが現実です。

シルバー・バーチに言わせれば、それは全て魂の試練として神が与えて下さるのであって、それが無かったら人生は何の意味もないと言います。


 『あなたがたもそのうち肉体の束縛から離れて、物質的な曇りのない目で、地上で送った人生を振り返る時が来るでしょう。その時、その出来ごとの一つ一つがそれぞれに意味をもち、魂の成長と可能性の開発にとってそれなりの教訓をもっていたことを知るはずです。』

 そう述べて、困難も試練もない、トラブルも痛みもない人生は到底あり得ないことを強調します。では少し長くなりますが、シルバー・バーチの訓えに耳を傾けてみましょう。


『この交霊会に出席される方々が、もし私の説く真理を聞くことによってラクな人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。

それに敢然と立ち向い、それを克服し、そして一層力強い人間となって下さることが私どもの真の目的なのです。

 霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それは一たん身についたらお金を落とすような具合に失くしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐え切れないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません。

解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが、旅する魂の当然の姿なのです。

 それはもちろんラクなことではありません。しかし魂の宝はそう易々と手に入るものではありません。もしラクに手に入るものであれば、何も苦労する必要などありますまい。

痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一ばんの薬なのです。

 私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、あえて手をこまねいて傍観するほかない場合がよくあります。そこからある教訓を学び取り、霊的に成長してもらいたいと願い祈りながら、です。

知識にはかならず責任が伴うものです。その責任をとってもらうわけです。霊は一たん視野が開ければ、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。

さんさんと太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身にしみません。魂が目を覚ましそれまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲たれこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。

 地上の人生は所詮は一つの長い闘いであり試練なのです。魂に秘められた可能性を試される職場に身を置いていると言ってもいいでしょう。

魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が秘められております。即ち動物的進化の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなたの個的存在の源である神的属性も秘められているのです。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。

地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには是非とも厳しい試練が必要なのです。

 運命の十字路にさしかかる度毎に、右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然として立ち向うか、それとも回避するかの選択を迫られますが、その判断はあなたの自由意志にまかされています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。

その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されているのです。

そのチャンスを前にして、積極姿勢をとるか消極姿勢をとるか、滅私の態度にでるか利己主義に走るかは、あなた自身の判断によってきまります。

 地上生活はその選択の連続といってよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生をおりなしていくのであり、同時に又、寿命つきて霊界に来た時に霊界で待ち受けている新しい生活、新しい仕事に対する準備が十分できているか否か、能力的に適当か不適当か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まるのです。単純なようで実に複雑です。

 そのことで忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。地上に再生するに際して、各自は地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。

才能がありながらそれを使用しない者は、才能のない人よりはそれだけ大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。

 悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に降れた時、一ばんよく眠れる魂の目を醒まさせるものです。魂は肉体の奥深くに埋もれているために、それを目覚めさせるためには余ほどの強烈な体験を必要とします。

悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる準備の出来た霊にとって深甚なる価値があると言えるのです。

 繰り返し述べて来たことですが、真理は魂がそれを悟る準備の出来た時初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。こちらからいかなる援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。

霊的知識を理解する時機を決するのは魂の発達程度です。魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれたあなたがた人間が、物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来ごとを物的ものさしで量り、考え、評価するのは無理もないことではありますが、それは長い物語の中のホンの些細なエピソード(小話)にすぎません。

 魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂の肥しです。魂がその秘められた力を発揮するにはどういう肥しを摂取すればいいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。

失意のドン底にある時はもう全てが終ったかの感じになるものですが、実はそこから始まるのです。あなたにはまだまだ発揮されていない力───それまで発揮されたものより、はるかに大きな力が宿されているのです。

それはラクな人生の中では決して発揮されません。苦難と困難の中でこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないとその純金の姿を拝むことが出来ないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出て来ないのです。それ以外に方法がないのです。ほかにもあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。

 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気ラクな人生ばかりを送っている者よりも一段と大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。

何もかもがうまく行き、日向ばかりの道を歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということなのです。

 困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂の肥しなのです。むろん困難のさ中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。つらいのですから。

しかしあとでその時を振り返ってみたとき、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥しであったことを知って、神に感謝するに相違ありません。この世に生まれくる霊魂がみなラクな暮しを送っていては、そこに進歩も開発も個性も成就もありません。

これはきびしい辛い教訓には違いありませんが、何事も、価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞は、そう易々と手に入るものではありません。
℘112   
 神は瞬時たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。

あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりにも小さすぎるのです。物的尺度でみるかぎり、世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真実の敗北しか見えないでしょう。当然かも知れません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

 地上ではかならずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律はかならずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが、地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤はかならずその平衡を取りもどします。

霊的に観て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身にはわかりません。もしかしたら、あなたにとって一ばんイヤなことが実は、あなたの祈りに対する最高の回答であることも有りうるのです。

 ですから、なかなかむずかしいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するよう努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。祈りはそれなりの回答が与えられます。

しかしそれはかならずしもあなたがたが望んでいる通りの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとって一ばん望ましい形で与えられます。神は決してわが子を見棄てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的な物さしで批判することはやめなければいけません。


 絶対に誤ることのない霊的真理がいくつかありますが、そのうちから二つだけ紹介してみましょう。一つは動機が純粋であれば、どんなことをしても決して危害をこうむることはないということ。もう一つは人のためという熱意に燃える者にはかならずそのチャンスが与えられるということ。その二つです。あせってはいけません。

何事も気長に構えることです。何しろこの地上に意識を持った生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。

さらに人間という形態が今日のような組織体をもつに至るのに何百万年もかかりました。その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。その力、宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤ることのないその力を信じることです。

 解決しなければならない問題もなく、争うべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」───こうおっしゃる方があるかも知れません。

しかし私は実際にそれを体験してきたのです。あなた方よりはるかに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。一つとして偶然ということがないのです。

偶発事故というものがないのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然と分かるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。

 あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静にそして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。

そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことが出来るのです。愛がすべての根源です。愛───人間的愛はそのホンのささやかな表現にすぎませんが───愛こそ神の摂理の遂行者なのです。

シルバーバーチ

シアトルの春 償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。

It's not a matter of atonement or punishment, it's a matter of evolution.

緑の葉と漫画の動物イラストと白樺の木のある森の風景 背景, 吠える, そして, バーチ背景画像素材無料ダウンロード - Pngtree

 問「死後、霊界に行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか」

シルバー・バーチ「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。

つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。

生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとはかぎりません。

欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。

もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行くという場合もあります。

罪の償いとばかり考えてはいけません。

ましてや二度も罰せられるということは決してありません。

神の摂理を知れば、その完璧さに驚ろかされるはずです。

決して片手落ちということがないのです。完璧なのです。

神そのものが完全だからです」

シルバーバーチ

Wednesday, April 5, 2023

シアトルの春 絶対不変の法則──────因果律

The Law of Absolute Immutability --- The Law of Cause and Effect
白樺の森 イラスト素材 無料ダウンロード - Lovepik

前章ではシルバー・バーチと名告る高級霊を中心とする霊団が神界からの使命を受けて、霊媒モーリス・バーバネル氏の口を借りて神の摂理を説くに至った経緯を述べました。

 その準備のためにシルバー・バーチはバーバネル氏の出生以前、それも母体に宿る瞬間から面倒をみたと言います。もちろんこれは霊言霊媒にふさわしい人間に育てるための面倒をみたという意味であって、私の推察では母体に宿る以前のバーバネル氏も実はシルバー・バーチ霊団の一人であって、使命達成について十分な打ち合わせを行った上で母体に宿ったに違いありません。一種の再生です。

 果たせるかな、氏にとって最後の記事となった一九八一年八月号の Two Worlds 誌の遺稿の冒頭で、次のように告白しております。

 『私と心霊とのかかわり合いは前世にまでさかのぼると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッド・クラウドは私にとっては死後存続の決定的証拠をみせつけてくれた恩人であり、

その交霊会においてサイキック・ニューズ紙出版の決定が為されたのであるが、そのレッド・クラウドの話によると、私は「こんど生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯をささげる」と約束したのだそうである。』 (巻末〝バーバネル氏の遺稿〟参照)

 約束どおり氏は十八歳から七十九歳までのほぼ六十年間をスピリチュアリズムひと筋に尽くしました。中でも特筆すべきことはサイキック・ニューズ社の社長を無報酬で務めたことです。正に奉仕の生涯であったわけです。

 再生については別に章を設けて詳しく取り扱いますので、ここでは難しいことは述べませんが、こうした滅私奉公の大役を担った人物は例外なく高級霊の再生とみてよいようです。

 もっとも、それでも尚かつ、うぬぼれや見栄、肉欲などのいわゆる〝人間的煩悩〟に迷わされて、使命の道から脱線していくケースが多いのです。とりもなおさず肉体というやっかいな欲望の媒体に宿っているからこそでしょう。

 オリバー・ロッジ Sir Oliver Lodge の著書に Phantom Walls (幻の壁)という、あまり知られていない随筆調の論文集があります。幻の壁とはつまりは肉体の五感を意味し、これが幻にすぎない存在であるといっているのですが、言ってみれば仏教の色即是空の思想と相通じるものがあります。

 オリバー・ロッジはもともと物理学者ですが、後年は心霊科学者となり、さらに、単なる心霊科学からいち早くスピリチュアリズム的思想に転換し、晩年は哲人を思わせる洗練された心霊思想を説いています。それを如実に物語るのが右の書で、その中に次のような箇所があります。

 『われわれはよく「肉体の死後も生き続けるのだろうか」という疑問を抱く。が一体その死後というのはどういう意味であろうか。もちろんこの肉体と結合している五、七十年の人生の終ったあとのことに違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問にすぎない。

というのは、こうして物質をまとってこの地上に生きていること自体が驚異なのである。これは実に特殊な現象というべきである。私はよく 「死は冒険であるが、楽しく待ち望むべき冒険である」 と言ってきた。

確かにそうに違いないのだが、実は真に冒険というべきはこの地上生活そのものなのである。地上生活というのは実に奇妙で珍しい現象である。こうして肉体に宿って地上に出て来たこと自体が奇蹟なのだ。失敗する霊がいくらもいるのである。

 霊界から見れば、肉体の死後にも生命があるのは極めて当り前のことであろう。言ってみれば地上の生命などは朝露のようなもので、日の出とともに蒸発してしまうはかない存在なのである。とは言え、生きているかぎり肉体というのは実にやっかいなシロモノである。

地上生活の困難の大部分は肉体の扱いにくさから生じているといってよい。肉体をまとっていくこと自体がまずやっかいである。そして、死ぬ時もまたやっかいである。その生から死への間もずっと手入れがやっかいである。が肉体がわれわれではない。少しの間──ホンのちょっとの間だけ使用する道具にすぎないのである。』


 古今東西の宗教が例外なく肉体的欲望を罪悪の根源とみなし、節制を説き、肉体を超越する修業の必要性を力説するのもむべなるかなと思われますが、それに関連してもう一つやっかいなことは、そうした重大なる使命の達成を妨げよう、挫折させようとする霊界の一方の勢力が鵜の目鷹の目で見張っているということです。

 そうした霊は人間のちょっとした心のスキ──よく魔がさすと言いますが、そうしたちょっとした邪念につけ入って、ズルズルと深みへと引きずり込んでいきます。

はじめの頃は純粋で謙虚で誠心誠意の人だった霊能者が、いつしか自分は神である、仏である、と言い出し、本来の使命を忘れて宗教としての勢力の拡大に躍起になり、権謀術数をめぐらすようになっていきます。

 中国の古い言葉に「聡明叡智、これを守るに愚をもってす」というのがありますが、その点バーバネル氏やテスター氏のように愚直なまでに寡欲で謙虚であることが、宗教家や霊能者としての第一条件なのでしょう。

 シルバー・バーチに言わせれば、地上の宗教は既成、新興の別なくことごとく落第だそうです。つまり人間的欲望というアカがこびりついて宗教としての本来の意義を失ってしまっている。そこでそのアカを洗い落とし、本来の神の摂理を改めて説き明かすのが自分たち霊団の使命だというのです。


 そこで本章ではその神の摂理とは何かという点に焦点を絞ってみましょう。シルバー・バーチはこれを「恒久不変の自然法則」Eternal Natural Laws と呼んだり「神的叡智」 Divine Wisdom と呼んだりしていますが、これをつきつめれば「原因と結果の法則」、いわゆる因果律 The Law of Cause and Effect に収約されるようです。

 こう言うと「なんだ、要するに因縁のことだろう」とおっしゃる方がおられると思います。その通りです。しかしシルバー・バーチはこれに人間の霊的向上進化という目的を付加します。単なる因果応報の機械的なくり返しではなく、その因果律の背後に人間を向上せしめんとする神の配慮があると説くのです。

 それがある時はよろこびとして感じられ、ある時は苦しみとして感じられたりします。人間の真情として、不幸や貧乏、病気、災害といったものが無いことを希望しますが、それは今という刹那しか意識できない人間の狭い量見から出るわがままであって、過去、現在、未来の三世を見通した神の目から見れば、当人の成長にとってはそれが最上であり必須のものであるわけです。

 そうなると、いわゆる「因縁を切る」ということのもつ重大性を痛感せずにはおれません。切ることが大切だと言っているのではありません。はたして因縁を切ることが正しいことなのかどうか、イヤその前に、一体因縁は人為的に切ることが出来るものなのかどうかを真剣に考えなくてはならないということです。

 この「因縁を切る」という観念は、私の知るかぎりでは世界でも日本人だけのもののようです。そして、これは非常に広い意味、いろんな意味で使用されており、まずその整理から始めなくてはならないようです。

 たとえば何代にもわたって長男が自殺するという家系があるとします。「怨みの因縁だろう」──だれしもそう考えます。そしてそれは多分当っているでしょう。そこでその因縁を切るための手段を講じます。

 手段にもいろいろありますが、要するところ長男を自殺に追いやる霊魂、いわゆる因縁霊をつかまえて諭すなり供養するなりして改心させることになります。そしてそれがうまく行けば、大ていこれで「因縁が切れた」と思いがちです。

 がここまでの段階は因縁霊との縁が切れたということであって、その奥の因縁そのものが消えたとはいえません。もしかしたらその時期がちょうど因縁の消滅する時期だったかも知れませんから、それならば本当の意味で「因縁が切れた」ということになりますが、因縁霊もあくまで因縁という法則に便乗して動くコマのような存在にすぎないのですから、因縁霊だけを人為的に引き離しても、それだけで因縁そのものが切れたということにはなりません。

 では因縁そのものが自然消滅するまで手段を講ずべきでないということになるかというと、そうとも言えません。病気と同じで、生命の危険もあるほどの大病の場合は手術もやむを得ないことがあるように、人為的に因縁霊を引き離す術、いわゆる除霊の必要な場合もありましょう。

ただ、それだけで事足れりとする考えは過りであることを私は指摘しているのです。その奥の因縁そのものが残っているかぎり、また別の形で不幸や災厄が起こってきます。

 次に、自分に何のかかわりもない遠い祖先の残した因縁になぜ自分が苦しまねばならないのかという疑問が生じます。一見もっとものような疑問ですが、これはスピリチュアリズムの真髄を知らない人の抱く疑問といえそうです。

 自分とかかわりがないという考えそのものが根拠のない考えであって、実際は深い深い因縁の糸によってつながっているのです。

これは生まれ変わり、つまり再生の問題に関わってくる大問題で、これは次章でくわしく取り扱うことにして、ここでは要するに、縁のないものとの係わりあいは絶対にない、と述べるに留めておきましょう。シルバー・バーチはそれを次のように表現しています。


 『そのうちあなた方も肉体の束縛から開放されて曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば紆余曲折した、一見とりとめのない出来ごとの絡み合いの中で、その一つ一つがちゃんとした意味をもち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解するはずです。』


 これは人生が有目的の因果律によって支配されていることを物語っているのですが、その「有目的」というところに注目していただきたいのです。

つまり宇宙人生が魂の向上進化という至上目的のために経綸されているということです。この点が従来の因果律の思想と本質的に異る点といえましょう。ではこれからシルバー・バーチにその点をくわしく説いてもらいましょう。


 『あなたがたがスピリチュアリズムと呼んでいるものも神の法則の一部です。神は宇宙を法則によって統一し、法則を通じてその意志を表現しているのです。宇宙のどこをさがしても、法則の支配しない場所など一箇所もありません。

人間がこれまでに知り得た範囲に限りません。それよりはるかに大きい、人智の及ばないところまでも、完全に神の法則が支配しております。

 自然界の法則はいわば神の定めた法則です。およそ人間界の法律といわれるものには変化(改正)がつきものです。不完全であり、全てを尽くすことができないからですが、神の法律は全てを尽くし、至らざるところはありません。

偶然とか偶発というものは絶対にあり得ません。すべてが規制され、すべてが計算されているのです。あなたがたは肉体を具えていますが、これは一種の機械です。つまり肉体という機械をあやつりながら自己を表現しているわけです。

かりに悩みを抱いたとしますと、それは水門を閉ざすのと同じで、生気の通るチャンネルを失うことになります。つまりエネルギーの供給がカットされ、不健康の要因ができあがります。あなたがたがそのことに気づくまで、肉体は悩みと病気の悪循環を繰り返します。

 また悩みは肉体の霊的大気ともいえるオーラにも悪影響を及ぼし、それが心霊的バイブレーションを乱します。

悩みを取り除かないかぎり、心霊的エネルギーは流れを阻害され病気の要因となります。悩みや恐怖心を超越する──言いかえると自我のコントロールが出来るようになるには、長い年月と厳しい修養がいります。

 それも実は神の無限の愛と叡智から出た法則なのです。その悩みに費されるエネルギーを建設的な思考に切りかえれば、決して病いは生じません。神の法則は完璧です。

そして、あなたがたはその中の無くてはならない存在なのです。向上進化という至上目的のために必要な勉強のチャンスは、日常生活の中にいくらでも見出せるのです。


 私が法則を変えるわけにはいきません。原因と結果の法則は絶対であり、私がその間に入ってどうこうするということは許されないのです。ただ、そういう法則の存在を教え、そんな心構えでいては病気になりますヨという警告をしてあげることは出来ます。肉体は機械ですから、それなりの手入れが必要です。

手入れを怠ると働きが悪くなります。ですから時には休息させて回復のチャンスを与え、その本来の働きを取り戻すように配慮してやらなくてはいけません。神の法則はごまかしがきかないのです。

人間は肉体という機械を通して自分を表現しています。その機械にもエネルギーの限界があり、バッテリーに充電してやらなくてはならない時期が来ます。

それを知ってそれなりの手段を講じるのはあなた自身の責任であり義務なのです。なぜなら地上生活を生きる上で欠かすことのできない大切な道具だからです。

 私がいかにあなた方のしあわせを願っているとはいえ、あなた方に代ってその責任と義務を遂行してあげるわけにはいかないのです。心に思うこと、口に出す言葉、そして実際の行動、このいずれにも責任をとらされます。あくまで自分が責任を負うのです。

が、そのいずれも地上生活においては結局肉体という機械を通じて表現するわけですから、その機械が正常に働いてくれるように、ふだんから健康管理に気を配らなくてはいけません。肉体は実に驚嘆に値するすばらしい器官です。

地上でこれ以上の入り組んだ器官をこしらえることはまずできないでしょう。正に驚異といってよいものですが、やはりそれなりの手入れは必要なのです。

 もちろん法則と調和した生活を送っておれば病気も不快も苦痛も生じないでしょう。病気とか不快とか苦痛とかは自然法則との不調和の信号にほかならないからです。法を犯してその代償を払うか、法を守って健康を維持するか、そのいずれかになるわけです。

 人間の思想・言動において動機というものが大きなポイントになることは確かですが、法則を犯したこと自体はやはりそれなりの代償を払わねばなりません。動機さえ正しければ何やってもかまわないというわけにはいかないということです。

肉体を犠牲にしてまで精神的な目標を成就すべきかどうかは、その人の進化の程度によって判断が異ってくる問題ですが、ただ地上に生を享けた以上は、それなりの寿命というものが与えられているのですから、それを勝手に縮めることは神の意志に反します。

 たとえば人類愛に燃えた崇高な人物がいると仮定しましょう。その人が博愛事業のために肉体を犠牲にすることが果たして許されるかとなると、それはその人個人の問題であって一概に断定はできませんが、ただ残念なのは、得てしてそういう人の動機がはたからみるほど純粋ではないということです。

その腹の底にはオレは偉い人物だといううぬぼれがどこかに潜んでいるものです。それが無理な行動に自分を駆りたてる結果となっていることに気づかないのです。

 ひと口に法則といっても、肉体を支配する法則もあれば、精神を支配する法則もあり、霊的な法則もあり、それらが絡み合った法則もあります。

そうした法則を人間はもうダメだというギリギリの段階に至るまで気がつかないからやっかいなのです。なぜでしょう。人間と宇宙の真実の相(スガタ)を知らないからにほかなりません。要するにこの世はすべて〝物〟と〝金〟と考えているからです。

 が、そうした苦しみの末に、いつかは真実に目覚める時がやってまいります。自我の意識が芽生え、内在する神性が目覚めはじめます。これも実は神の因果律の働きの結果なのです。つまり苦しみが大きければ大きいほど、それだけ目覚める知識も大きいということです。

 別の言い方をすれば、神は宇宙の一ばん優秀な会計係と考えればいいでしょう。収支のバランスをきちんと合わせ、使途の配分に一銭の狂いもありません。あなたは受け取るに値するだけを受け取り、多すぎもせず、少なすぎることもありません。

その価値判断はあなたの霊的進化の程度を考慮した上で行われます。地上でごまかしやお目こぼしがきくようですが、霊的なことに関するかぎりそれは絶対に有り得ません。

 大自然の法則は完璧です。その背後には神の無限の愛と叡智が働いております。私たちがこしらえたのではありません。私たちはただその働きを知っているだけです。

原因があれば結果があり、その結果が新らしい原因となってまた次の結果を生んでいくという法則です。その間に何者も介入することを許されません。偶然もありません。幸運もありません。ただ法則があるだけです。

 法則が撤廃されるなどということも絶対にありません。執行の猶予も保留も妨害もありません。絶え間なく機能し、変化することも無く、また人為的に変えることも出来ません。法則の中から都合のいいものを選ぶことも出来ません。

絶対なのです。神とはすなわち法の極致であり、法の粋であり、いかなる力、いかなる情実をもってしても動かすことは出来ません。』