Monday, September 21, 2026

シルバー・バーチの霊訓(一)

Guidance from Silver Birch

Edited by Anne Dooley




八章 愛の力

 愛は大きさを測ることができません。重さを測ることもできません。いかなる器具をもってしても分析することはできません。なのに愛は厳然として存在します。宇宙における最大の力です。大自然の法則を機能させる原動力です。

愛あればこそ全大宇宙が存在するのです。宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。

生命活動の原動力であり、霊の世界と物質の世界の間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。辿り着いた高級霊界からの遼遠の旅路の末に再び地上に舞い戻り、古くかつ新しい名言〝愛は死を乗り超える〟を改めて宣言することができるのも、この愛あればこそです。

 あなた方を今日まで導き、これ以後もより一層大きな霊的回路とするための受容力の拡大に心を砕いてくれている背後霊の愛に目を向けて下さい。

昼の後には夜が訪れるように、春の後には夏が訪れるように、種子を蒔けば芽が出るように、霊は着実に開眼し一歩一歩その存在意義の成就に向けて階段を昇ります。日常の煩瑣(はんさ)な雑事の渦中にあって、時には僅かの時間を割いて魂の静寂の中に退避し、己れの存在の原動力である霊性に発現の機会(チャンス)を与えて下さい。

 心に怖れを宿してはいけません。完全に拭い去らないといけません。誕生以来今日までずっとあなたを導いてきた霊が、今になって見捨てるはずがありません。これまで日夜あなたの生活の支えとなってきたのであり、これ以後もずっと支えとなることでしょう。

なぜなら、あなたに絶対成就してもらわねばならない仕事があるからです。霊がこの世へ携えて来た能力がこれからもその役目を果たしていきます。こちらから援助に当たる霊の背後には宇宙の大霊すなわち神の力が控えております。それは決して裏切ることはありません。

 宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。

受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落着きを身につけなければなりません。

 そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることができます。それが神の摂理なのです。そういう仕組みになっているのです。受け入れ、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されるということです。

受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。それだけのことです。悲哀の念が消えるに従って、魂を取り巻いていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込むことでしょう。

 宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。全宇宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。

愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差しのべさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。そして、いつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。

 好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。そこには徳性も神聖さもありません。好感の持てない人を愛する──これが魂の霊格の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではありません。
 
確かに難しいことです。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければいけません。他人に出来ないことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからです。可哀そうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。

 最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これはやさしいことです。しかし、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けでは出来ません。が、

それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。向上進化の梯子を登って行けば、己れのために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。

 願わくばあなた方の世界も是非そうあってほしいと思うことしきりです。私たちのことが理解できない人々はいろいろと勝手なことを言ってくれますが、私たち自身はどう評価されたいとも思っておりません。

手の届くかぎりの人々に手を差しのべたいと思うだけです。その意味でも、あなた方には霊の世界の最高レベルの階層と感応するよう努力していただきたい。

あなた方は決して孤軍奮闘しているのではないこと、まわりにはあなた方を愛する人々、手引きし援助し鼓舞せんとする霊が大勢取り囲んでいることを認識していただきたい。

そしてまた、霊的開発が進めば進むほど、宇宙の大霊である神へ向けて一歩一歩近づきつつあり、よりいっそう、その摂理と調和していきつつあることを理解していただきたいのです。

 単なる信仰、ただそう信じているというだけでは、厳しい体験の嵐が吹けばあっけなく崩れてしまいます。が知識に根ざした信仰はいかなる環境にあってもゆるぎない基盤を提供してくれます。霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。が、

証を授かり、それ一つを手掛かりとして他の多くの真理を信じることのできる人は、それ以上に幸いです。なぜならばその人は宇宙の摂理が愛と叡知そのものであるところの霊の力によって支配されていることを悟っているからです。

 人生とは生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは立証可能な事実です。かくして人間は地上にあっても霊的存在であり物質的存在ではないこと、すなわち身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではないということを自覚することができます。

物質界への誕生は測り知れない価値ある遺産の一部を享けることです。霊であるからこそ物質と結合し、活動と生命を賦与することができるのです。その霊は宇宙の大霊の一部であり、本質的には神性を具え、性質的には同種のものであり、ただ程度において異なるのみです。

 我欲を棄て他人の為に自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。

排他性の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が上です。いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。

 家族的な愛は往々にして排他性を帯びます。いわゆる血のつながりによる結びつきです。それは進化の過程における動物的段階の名残りである防衛本能によって支配されていることがよくあります。が、愛の最高の表現は己れを思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することができることです。

その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。

愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表われます。

 霊の世界へ来た者がなぜ地上に舞い戻って来るかご存知ですか。大多数の人間にとって死は有難いことであり、自由になることであり、牢からの解放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。

地上の住民を脅かす老いと病いと数々の煩悩に別れを告げたのです。なのに、地上との間に横たわる測り知れない困難を克服してまで自ら志願して帰って来るのは、あなた方への愛があるからです。彼らは愛の赴くところへ赴くのです。

愛のあるところに存在するのです。愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。霊界において如何なる敵対行為が私達へ向けられても、妨げんとする邪霊集団の勢力がいかに強力であろうと、それが最後には効を奏することができないのは、そうした愛に燃えた霊たちの働きがあればこそです。
 
 これまでに得させて頂いたものを喜ぶべきです。浴し得た恩寵に感謝すべきです。愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得たことを有難く思うべきです。あなた方を包む愛によって存分に慰められ、支えられ、励まされるがよろしい。

その愛の豊かさはとても私には表現し尽くせません。時には何とか伝えてみようと努力することもあるのですが、あなた方の心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さはとうてい人間の言語では表現できません。

 あなた方はこれまで、愛に発する利他的行為、英雄的行為、奉仕的行為、滅私的行為による目覚ましい成果を見て参りましたが、霊界の高級霊が生命力そのものを結集してあなた方を温く包む、その愛の底知れぬ潜在力はとうてい推し測ることはできません。

もっとも、それを受け入れる器がなければ授かりません。それが摂理なのです。理屈は分かってみれば簡単です。資格ある者が授かるというだけのことです。

霊力は無尽蔵です。それに制限を加えるのは人間の受容能力です。人間が少しでもその受容能力を増せば、その分だけを授ける用意がこちらにはいつでも出来ております。が、それ以上のものは絶対に授けることはできません。

 常に上を向いて歩んで下さい。下を向いてはいけません。太陽の光は上から差します。下からは照らしません。太陽は永遠の輝きの象徴です。霊的太陽は啓蒙と活力の源泉です。内在する霊に刺激を与えます。自分が本質において永遠なる存在であり何事も修行であることを忘れぬ限り、何が起きようと意気消沈することはありません。

霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で、実際の行為によって体得しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。

 神聖こそ、その無限の愛の抱擁力によって私たちを支えている力であり、その尊い遺産を発揮し宿命を成就するよう導いてくれる力です。宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っております。魂のそれぞれの必要性を察知し、いかにしてそれを身につけるかを知らしめんと取り計らってくれます。

自分とは一体何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。ですから、私達は愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せようではありませんか。その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も神の御手の中にあることを自覚しようではありませんか。

 完全なる愛は恐怖心を駆逐します。知識も恐怖心を駆逐します。恐怖は無知から生まれるものだからです。愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めません。進歩した霊はいついかなる時も恐れることがありません。なんとなれば、自分に神が宿る以上は人生のいかなる局面に遭っても克服できぬものはないとの信念があるからです。

これまであなたを包んできた愛が今になって見放すわけがありません。それは宇宙の大霊から放たれる無限なる愛であり、無数の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人のために役立たんと志す人々の力となります。

気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。あなたの周りに張りめぐらされた防御帯であり、決して破られることはありません。神の力だからです。

 私ども霊界の者が是非とも提供しなけらばならない証は、愛が不滅であること、死は愛し合う者の仲を裂くことはできないこと、物的束縛から脱した霊は二度と死に囚われることがないということです。愛の真の意義を悟るのは霊の世界へ来てからです。

なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものです。宇宙の大霊の顕現なのです。互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。邪なるもの、害なるものを知りません。愛は己れのためには何も求めないのです。

 死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。

愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩── 愚かさ、無知、依怙地、偏見等々を乗り超えて働きます。

 二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結びつきです。神はその無限の叡知をもって、男性と女性とが互いに足らざるものを補い合う宿命を定めました。両者が完全に融合し合うことこそ真の愛の働きがあり、互いに補足し合って一体となります。

愛は無限なる霊の表現ですから、低い次元のものから高い次元のものまで、無限の形をとります。すなわち磁気的で身体的な結びつきから精神的な結びつき、さらには根源的な霊的な結びつきへと進みます。

その魂と魂との結びつきが地上で実現することは極めてまれなことであり、むしろ例外的なことに属します。が、もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となります。これが魂と魂との真の結婚の形態です。

 これは本来一体である親和性をもった魂が二つに分かれて地上へ顕現しているという、いわゆる〝同類魂〟(アフィニティー)の思想で、古来からあります。それが再び一体となるには何百万年、何千万年もの歳月を要します。それが僅か五十~七十年の短い期間に地上という小さな天体上で巡り合うということは極めて異例のことです。

幸いにしてその幸運に浴した時は、それは神がそう図られたとしか考えられません。そしてそのアフィニティーの二人は死後も融合同化の過程を、人智を超えた歳月にわたって続けます。人間的個性を少しずつ脱ぎ捨て、霊的個性をますます発揮していき、その分だけ融合の度合いを深めていくことになります。
 
 愛は血縁に勝ります。愛は死を乗り超えます。愛は永遠不易のエネルギーです。それが宇宙を支配しているのです。神の意図によって結び合った者は生涯離れることなく、死後も離れることはありません。墓には愛を切断する力はありません。愛は全てのものに勝ります。

なぜなら、それは宇宙の大霊すなわち神の一表現だからです。そして神の統一体(※)としての一部を構成するものは永遠にして不滅です。(※それを欠けば完全性を失う必須の存在。──訳者)


シルバー・バーチの霊訓(一)

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七章 心霊治療と生命力

 (本章は主として心霊治療の専門家グループを招待した交霊会での霊言である。──訳者)

 あなた方には病気を治すだけでなく霊的真理へ向けて魂を開眼させる生命力について是非理解していただきたいと思います。魂に霊的悟りをもたらせることこそ心霊治療の真髄だからです。身体的障害を取り除いてあげても、その患者が霊的に何の感動を覚えなかったら、その治療は失敗したことになります。

もしもなんらかの霊的自覚を促すことになったら成功したことになります。内に秘められた神の火花を大きく燃え上がらせ輝きを増すのを手助けしてあげたことになるからです。

 それが常に変わらぬ心霊治療の隠れた目的です。治療家としてこの世に生を享けたのは、その仕事を通して神の計画の遂行に参加し、自分が何であるかも自覚せず何のために地上に生まれきたのかも知らず、従って何をなすべきかも知らずに迷っている神の子等に、永遠の真理、不変の実在を教えてあげるためです。これは何にも勝る偉大な仕事です。

たった一人でもよろしい。治療を通じて霊的真理に目覚めさせることができたら、あなた方の地上生活は無駄でなかったことになります。一人でいいのです。それであなた方の存在の意義があったことになります。

 真理普及の仕事が次第に発展しつつあること、霊的威力に目を向ける人が増えつつあることを私は非常にうれしく思っております。その人たちが困難に遭遇した時はいつでも援助の手を差しのべております。病気治療にはいっそう強力な生命力を注ぎ込みます。

しかし忘れないでいただきたいのは、何ごとにも必ずそれ相当の原因があるということです。

霊界からいかなる援助の手を差しのべても、その原因と結果の間に割って入るわけにはいかないのです。手助けはできます。が、厳然とした原因に由来する結果を抹消してあげるわけには参りません。あなた方人間は物的身体を通して自我を表現している霊魂です。

霊魂に霊的法則があるように、身体には生理的法則があります。その法則の働きによって身体に何らかの影響が表われたとすれば、それも原因と結果の法則が働いたことを意味します。私どもは霊力によって手助けすることは出来ても、その法則の働きによる結果に対しては干渉できません。

 要するに奇跡は起こせないということです。大自然の因果律は変えられないということです。神は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬の休みもなく働いております。全てを包含し、木の葉一枚落ちるのにも摂理の働きがあります。

ありとあらゆる治療法を試みてなお治らなかった患者が、もし心霊治療によって見事に治ったとしたら、それは奇跡ではなく霊的法則が働いた証と考えるべきです。地上でそれまで巡り合ったいかなる力にも勝る力を身をもって体験したことになります。

 その体験によって魂が何らかの感動を覚えたら──本来そうあるべきであり、そうならなかったら成功とは言えないというのが私の考えですが──それは霊的自我に目覚めたということであり、存在の意義を成就し始めたことになります。

この根本的目標を理解していない人が一般の人はもとよりスピリチュアリズムの仕事に携わる人々の中にも大勢おります。スピリチュアリズムにおける様々な現象はそれぞれに意義があります。しかし、それはしょせんは注意をひくためのオモチャに過ぎません。

いつまでもオモチャで遊んでいてはいけません。幼児から大人へと成長しなければなりません。成長すれば、よろこばせ、興味を引くために与えられたオモチャは要らなくなるはずです。

 一口に心霊治療と言っても、内面的にみれば磁気的(マグネチック)なもので生理的とも言えるものと、心霊的(サイキック)ではあっても霊的(スピリチュアル)とは言えないもの、そしてわれわれ霊による最も程度の高いもの、すなわち治療家と霊界の医師との波長が一致し、しかも患者の治るべき時機が熟している時に治療家が一切手を触れずに一瞬の内に治してしまうものがあります。

健康体のもつ磁気だけでも治る場合があります。その時は霊界とは何のかかわりもありません。その方法と霊的方法との中間的なものがサイキックなもので、遠隔治療と呼ばれているものはたいていこれによります。

その上にあるのが治療家を通して霊界の医師が症状に応じた治療エネルギーを注ぎ込むやり方で、患者の身体に一切触れずに一瞬の内に治すことができます。

 その治療エネルギーは実は人間の全てに宿されているのです。霊的兵器庫の中にしまわれていて、努力次第で活用することができるのです。身体に自然治癒力があるように、霊的存在であるあなた方には霊的に治癒する力が具わっております。ただそれにはそれなりの摂理があるということです。

 そもそも健康とは身体と精神と霊の三者の関係が健全であるということです。この三つの必須要素が調和のとれた状態にあることです。そのうちの一つでも正常に働かなくなると連係がうまくいかなくなり、そこに病が生じます。 

三者の調和を保つ方法はその三者がそれぞれに与えられた地上での機能を果たすことです。霊力は素晴らしい威力を発揮します。これには反駁(はんぱく)の余地はありません。この事実を否定したり、この知識の普及を妨げんとする者は必ずその結果に対して責任を取らねばなりません。


 霊的治癒エネルギーの威力を目のあたりにされるあなた方は、宇宙の全創造物を支配する莫大なエネルギーのミニチュア版を見ているようなものです。同じ質のものが大海の動きを支配し、引力を支配し、星座の運行を支配し、人間、動物、植物、その他ありとあらゆる生命の千変万化の造化を支配しています。治癒エネルギーはその生命力の一部なのです。

身体に生命を賦与しているのは霊です。物質そのものには生命はありません。霊から離れた物質に意識的存在はありません。あなた方を生かしめている原理と同じものが、痛みに苦しむ人、精神的に病める人、そして身体を患う人の治療に際して、あなた方を通して働くのです。

 このように、ある意味であなた方は、宇宙の大霊と共に宇宙的創造計画の中において、その無限の生命力を使用する責任を担っていることになります。その仕事に邪魔を入れんとする者は必ず後悔します。

かつてはこれが聖霊に対する罪、霊力の働きを邪魔する大罪と見なされました。その霊力の流入を存分に受け入れるように心を開けば、その霊力と共に自動的に宇宙の根源的創造主から発せられる恩寵に浴することになります。

 物質的にも精神的にも霊的にも病的状態にある地上には、なさねばならない大切なことがいろいろとあります。私どもにとっても、あなた方にとっても、身体と精神と霊の病を駆逐し、混沌の霧の中を道を探し求めてさ迷う人々に愛の証をもたらすことが大切な仕事の一つです。

それが全ての霊媒現象の究極の目的なのです。悲しみに心重く、目に涙を浮かべた人々に愛のメッセージを伝えること、これが大切です。痛みに苦しめられ、病気に悩まされ、異常に苛まれる人々を癒してあげること、これはまさに慈悲の行為であり、いまこそ要請されていることです。

 しかし、これもあくまで手段であって、そのことが目的ではありません。目的は眠れる魂を目覚めさせ、霊的自覚をもたらすことです。魂が目を覚まし、地上に生れてきた目的を理解し始めた時、地上に霊的新生をもたらす膨大な計画の一翼を担ったことになります。

そこにこそ私達が一致協力する理由があります。それが真理への扉を開くカギです。霊的自覚をもたらすことの方が、病気を治し悩みを解消してあげることより大切です。それが神の目的を成就する所以だからです。そこまで至らない限り真に成功したことにはなりません。

 全ての霊媒現象と、その中でも重要な部分を占めるこうした霊的通信の背後にはそうした目的があり、その実現に全エネルギーを傾注すれば、それはあなた方の宿命を成就していることになります。それがこの世に生れてきた目的だからです。

 霊力は無限です。尽きることがないのです。通過する道具によって制限されるだけです。道具なしには霊力は地上に発現されません。ですから、道具となるべき霊能者は受容能力を少しでも広く深くする努力をしなくてはいけませんし、そうすることによって霊性も発達させなければなりません。

霊性こそが霊力の分量を決することになるからです。霊性が高まればそれだけ多くの霊力が流入するようになります。尽きることがありません。

霊的潜在力には際限が無いのです。そうした人間的努力の背後では高級霊がそれぞれの霊媒についていろいろと試し、エネルギーの効果的な組み合わせを考えて、より素晴らしい、そしてより速やかな治癒が得られるようにと、研究を怠りません。

こちらの世界には〝これでおしまい〟ということがないのです。ただこの道の仕事の宿命として、人間という道具を使用しなければならず、与えられた道具で最大の効果をあげるしかないのです。

 心霊治療の真の理解には長い長い時間を要します。霊の威力を地上で見せつける方法は大勢の人間を一度に改心させることではありません。一度に一人の人間、一人の子供を治すことによって、いわば霊的橋頭堡を築き、それをしっかりと固め、不朽のものとするのです。

千種万様の形をとる霊力は、心霊治療にせよ、霊訓にせよ、公開での交霊会にせよ、魂にそれを受け入れる備えが出来た者によってその真価が発揮されます。受入態勢が出来ているということが絶対条件なのです。


 人間が神の摂理を犯し、物質と精神と霊の協調関係を乱します。そこで心霊治療によって内部の霊的エネルギーにカツを入れて本来の協調関係を取り戻させます。

こうして霊の威力による治療が次々と成就され、宣伝され、その霊的事実関係に関する理解が深まるにつれて、そこに一石二鳥の成果が得られていることが分かります。すなわち病気が減ると同時に、その分だけ霊力による目的成就が容易になるということです。

 人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。すべての病気にはそれなりの治療方法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視し動物実験による研究を続ける限り、人間の真の健康と福祉は促進されません。

動物はそんな目的のために地上に生を享けているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。

三つの機能が一体となって働くということです。これは動物を苦しめたり体内から特殊成分を抽出したりすることによって得られるのではありません。

宇宙の摂理に調和した生き方を成就すれば自然に得られるのです。そういう生活を送れば人間は病気によって死ぬことはなくなり、老化現象によって死を迎えることになります。肉体がそれなりの目的を果たし、次の世界の生活のための霊的準備が整った結果としてそうなるのです。

 身体が病むということは精神か霊かのいずれかに不自然なところがあるということです。霊が正常で精神も正常であれば身体も正常であるはずです。身体に出る症状はすべて霊と精神の反映です。これを医学では心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。大切なのはいつの時代にも変わらぬ真理です。

魂が病めば身体も病みます。魂が健康であれば身体は当然健康です。身体の治療、これは大切ではありません。魂の治療、これが大切なのです。

 あなた方の治療によって患者の症状が取り除かれても魂に何の感動も及ぼさなかったとしたら、その治療は失敗であったことになります。あなた方の失敗であると同時に私どもの失敗でもあり、その患者は悟りへの道を失ったことになります。絶好のチャンスを手にしながら、それを実りあるものに出来なかったわけです。

本当はその病気は当の患者に人生の目的と、存在の意義を成就するためになさねばならぬことを啓示するための手段であったのです。魂の琴線に触れる体験をさせること、これが最も大事なことです。真理は真理です。絶対に変えるわけにはいきません。

それが真理です。人間の一人ひとりに宇宙の大霊が宿っており、それが絶えず発現を求めます。より広く顕現することによって初めて人生から豊かさを獲得できるからです。事は極めて簡単です。顕現しなければ悟りは得られないのです。

 そこに苦の存在する理由があります。悲しみの存在する理由があります。光が暗闇の中にあってこそ見出せる理由がそこにあります。ただし、その体験による魂の顕現はそれから始まる大冒険の始まりにすぎません。その大冒険こそ神の意図する人生のあるべき姿なのです。

疾風怒濤の霊的冒険であり、その体験を通して叡知と崇高さと美しさと光輝と威厳と気品と尽きることのない霊的遺産を手にすることです。それが地上生活のあるべき本来の姿です。ところが現実はそうではありません。唯物主義がはびこり、利己主義が横行し、貪欲が支配し、奉仕の精神、協調の心、向上心、人助けの気持ちが失われております。

 そのことを思えば、こうして人の役に立つ機会が次第に広く開かれていくことを、あなた方は有難く思うべきです。そうです。身体の痛みを取り除き、悩む心を慰め、魂を鼓舞し、肉の牢から開放してあげることが大事です。大切なのはそこなのです。

なぜならば、魂が一度霊的自我に目覚め、神との霊的つながりを再構築すれば、その時から真の意味で〝生きる〟ということが始まるからです。治療家が障害物を取り除いてあげれば、霊力がふんだんに流れ込むようになります。

障害とは無知であり、誤まった生き方であり、誤った考えであり、高慢であり、うぬぼれであり、嫉妬心であり、失望です。人間は神と自己と同胞と調和しつつ、大自然の摂理に則った生活を送るようにならなければなりません。

 苦が全てというわけではありません。人生の一部でしかありません。しかし、苦のない世界はありません。苦しみと困難があることが進化の必須の条件なのです。あなた方の住む世界は完全ではありません。身体も完全ではありません。

ただし、魂の内部には完全性の種子を秘めております。人生の目的はその種子を発芽させ発達させ、その完全性を賦与してくれた根源へ向けて少しずつ近づいて行くことです。この巨大な宇宙組織の内面には進化の機構を操るエネルギーの相互作用があります。

生命はじっとしておりません。生命の世界には絶え間なく増幅していく円運動または螺旋運動の形での発達があります。その全機構がどう働いているかを察知できるようになるのは、人生の目的を悟った暁のことです。

 霊的治癒は魂がそれを受けるに値する段階に至るまでは何人といえども受けられません。いかに勝れた治療家にも治せない患者がいる理由はそこにあります。治らないのは治療家の責任ではありません。

患者の魂にそれを受け入れる準備が整っていなかったということです。全てが自然法則によって支配されています。トリックは利きません。いかなる治療家もその法則の働きを変えたり外らせたりすることはできません。

 ですから、人間としての最大限の成果をあげるべく努力をすることです。それが私から言える唯一の助言です。背後霊との協調性が高まれば高まるほど、より大きな成果が得られます。この仕事は延々と続きます。人間は御し難いものです。しょせん地上は完璧な世界ではないからです。完璧であれば地上には居ないはずです。

寛容的でなければならない理由がそこにあるのです。自分が一般の人より先を歩んでいることを自覚されるなら、なおのこと寛容的であらねばならない責任があります。

 奉仕の仕事に嫌気がさしてはなりません。奉仕は霊の通貨(コイン)のようなものです。神が発行される万人共通の通貨です。あなた方の仕事にとって必要な力は用意されています。しかし一度に大きな仕事を成就しようとしてはいけません。今日は今日出来ることだけをして、明日やるべきことは今日は忘れることです。

力に限界が来たら無理して出そうとするより補給することを考えなさい。その方が無理をしてその乏しいエネルギーを使い果たし、結局は仕事を全面的に休止しなければならなくなるよりはましです。

 限界があるのは実はエネルギーではありません。身体と言う機能の方です。いかなる機械も限界を超えた仕事を課せられると故障が生じます。人間の身体ほど多くの仕事を課せられながら休息の少ない機械は他にありません。霊の宿る貴重な神殿です。良く管理し、保護し、大切にすべきです。

 どの分野であろうと、人のために尽くす仕事に携わる人が時には嫌気がさし、疲れを覚え、不快に思うことがあることは私も承知しております。もう駄目かと思えることもあるでしょう。しかし道は必ず開けます。霊的真理、霊的事実は最後には勝つのです。

貪欲、利己主義、残酷、粗暴、過酷、邪悪、こうしたものは全て一掃されねばなりませんし、きっと一掃される時が来ます。

そして人間同士の平和だけでなく、人間と他の創造物とが調和し一体となって進化の道を歩むことになることでしょう。

 地上で自由を享受するのは人間だけではありません。創造物の全てが自由を享受する資格があるのであり、本来守ってやるべき立場にある人間によって勝手に捕えられ苦しめられ利用されて良いものは何一つありません。その代償は必ず支払わされます。

因果律は必ず働きます。人間に生命を賦与し地上での存在を可能にしている処の神性をごまかすことは出来ません。

 全生命は不可分のものです。物的形態上の違いはあっても深奥での区別は無いのです。生命は一つなのです。霊は一つなのです。そして霊とは神であり、全存在に内在しております。かなうものならば、あなた方の視界を遮るベールが取り払われ、背後で協力している光輝く霊的存在を一目お目にかけることができれば、と思うことしきりです。

立ちはだかる困難の一つひとつは、あなた方が是非とも迎えうち克服し、そうすることによって霊の力が物の力に勝ることを証明していかねばならない、一つの挑戦でもあります。
                 

シルバー・バーチの霊訓(一)

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六章 役に立つ喜び
 
 人生において、自分が役に立つということほど大きな喜びはありません。どこを見ても闇ばかりで、数え切れないほどの人々が道を見失い、悩み、苦しみ、悲しみに打ちひしがれ、朝、目を覚ます度に今日はどうなるのだろうかという不安と恐怖におののきながら生きている世の中にあって、たった一人でも心の平静を見出し、

自分が決して一人ぼっちの見捨てられた存在ではなく、無限の愛の手に囲まれているという霊的事実に目覚めさせることが出来たら、これはもう立派な仕事というべきです。他のいかなる仕事にも優る大切な仕事を成し遂げたことになります。

 地上生活のそもそもの目的は、居眠りをしている魂がその存在の実相に目覚めることです。あなた方の世界は毎日を夢の中で過ごしているいわば生ける夢遊病者で一杯です。彼らは本当に目覚めてはいないのです。霊的実相については死んだ人間も同然です。

そういう人たちの中のたった一人でもよろしい、その魂の琴線に触れ、小さく燻る残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせることができたら、それに勝る行為は有りません。

どう理屈をこねてみたところで結局は神の創造物──人間、動物、その他何でもよろしい──の為になることをすることによって神に奉仕することが何にも勝る光栄であり、これに勝る宗教はありません。


 こうした仕事のために神の使節として遣わされている私たちは幸せと思わなくてはいけません。もっとも、絶え間なく続く悲劇を目の当たりにしていると、それだけのことで嬉しい気分に浸れるものではありません。

現実に何かの役に立った時、例えば無知を駆逐し、迷信を打破し、残酷を親切に置き替え、虐待を憐憫に置き替えることができた時、あるいは協調と親善の生き方を身を以って示すことができた時、その時初めて地上の全ての存在の間に真の平和が訪れます。真の平和は一部の者のみが味わうべきものではないからです。

そこには霊の力の働きかけがあります。それを是非とも地上に招来しなくてはならないのです。教会が何を説こうと、学者先生がどう批判しようと、霊力はそんなことにはお構いなく働きます。そして、きっと成就します。

 その霊力が、道に迷ってあなた方のもとを訪ねて来る人々に安堵、健康、苦痛の緩和、慰め、指導、援助のいずれかを授けてあげる、その道具となることほど偉大な仕事はありません。無味乾燥な教義のお説教ばかりで霊力のひとかけらもない教会、礼拝堂、集会、寺院等よりも遥かに意義ある存在です。
 
 病める人、苦痛を抱えた人、身も心も霊も悶え苦しむ人、希望を失った人、寄るべない人、人生に疲れ切った人、迷える人、こうした人々にお説教は要りません。

説く人自らが信仰に自信を失っていることすらよくあるのです。説く人にも説き聞かされる人にも意味を持たない紋切型の説教をオウムのように繰り返しても、誰も耳を傾ける気にはならないでしょう。欲しいのは霊的真理が真実であるとの証です。

あなた方が真に奉仕の精神に燃え霊的能力を人のために役立てたいと望めば、その霊力があなた方を通してその人たちに流れ込み、苦痛を和らげ、調和を回復させ、マヒした関節ならばこれを自由に動かせるようにし、そうすることによって霊的真実に目覚めさせることになることでしょう。

 ただ、この道には往々にして挫折があります。私どもの仕事は人間を扱う仕事です。残念ながら人間は数々の脆(もろ)さと弱み、高慢と見栄、偏見と頑迷さで塗り固められております。自分のことよりまず人のためと考える人はまれです。
 
大義のために一身上のことを忘れる人はほとんどいません。しかし、振り返ってご覧になれば、そうした条件の中にありながらも、霊的な導きによって着実に使命に沿った道を歩み、これから先の歩むべき方角への道しるべがちゃんと示されていることを明確に認識されるはずです。

これまで一点の疑念も疑問の余地もないほどその威力を証してきた力は、前途に横たわる苦難の日々を正しく導いてくれます。

 施しを受けるよりも施しを授ける方が幸せです。証拠を目に見ず耳に聞くこともなく、それでもなおこの道にいそしむことができる人は幸せです。あなた方のまわりには、あなた方より幸せの少ない人々に愛の手を差し伸べることを唯一の目的とする高級霊の温かみと輝きと行為と愛があります。

 地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。

 その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知のうえで生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我──より大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。

その意味では〝お気の毒に・・・〟などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。

こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。私が〝魂は知っている〟と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。

その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。

それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。

 自分が果たしてどの程度の人間か、どの程度進化しているかを自分で判断することは、今のあなた方には無理なことです。判断を下す手段を持ち合わせないからです。人間は霊的視野で物を見ることが出来ません。四六時中物的視角で物事を考えているために、判断がことごとく歪んでおります。

魂への影響を推し量ることができない。そこが実はいちばん大切な点です。肉体が体験することは魂に及ぼす影響次第でその価値が決まります。魂に何の影響も及ぼさない体験は価値がありません。霊の力を無理強いすることは許されません。神を人間の都合の良い方向へ向けさせようとしても無駄です。
 
神の摂理は計画通りに絶え間なく作用しています。賢明なる人間──叡知を身につけたという意味で賢明な人間は、摂理に文句を言う前に自分から神の無限の愛と叡知に合わせていくようになります。

 そうした叡知を身につけることは容易なことではありません。身体的、精神的、霊的苦難が伴います。この三つの要素のうちの二つが絡むこともあれば三つが全部絡むこともあります。

霊性の開発は茨の道です。苦難の道を歩みつつ、後に自分だけの懐かしい想い出の標識を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。

 しかし、利己的生活や無慈悲な生活にそれ相当の償いがあるように、その霊性開発の孤独な道にもそれなりの埋め合わせがあります。悟りが深まるにつれて内的生命、内的輝き、内的喜び、内的確信がいっそうその強さを増していくのです。

生命現象の全てが拠り所とする内的実在界の実相を味わい、神の愛の温もりをひしひしと実感するようになります。それが容易に成就されるとは私は一度も言っておりません。最高の宝、最も豊かな宝は、最も手に入れ難いものです。しかもそれは自らの努力によって自分一人で獲得していかねばならないのです。

 私はかつて地上で何年も生活し、こちらへ来てからも(三次元の世界の数え方で言えば)何千年もの歳月を過ごしてきましたが、向上すればするほど宇宙の全機構を包括し大小あらゆる出来ごとを支配する大自然の摂理の見事さに驚嘆するばかりです。

その結果しみじみと思い知らされていることは、知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟るということは最後はみな一人でやらねばならない──自らの力で〝ゲッセマネの園〟に踏み入り、そして〝変容の丘〟に登らねばならないのだということです。(第二章参照)

 悟りの道に近道はありません。代わりの手段もありません。安易な道を見つけるための祈りも儀式も教義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。

悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。私がこんなことを説くのは説教者ヅラをしたいからではありません。これまでに自分が学んだことを少しでもお教えしたいと望むからにほかなりません。

 さらに私は、一見矛盾するかに思えるかもしれませんが、人のために役立ちたいと望む人々、自分より恵まれない人々──病める人、肉親を失える人、絶望の淵にいる人、人生の重荷に耐えかねている人、疲れ果て、さ迷い、生きる目的を見失える人、等々に手を差しのべたいという願望に燃える人──要するに何らかの形で人類の福祉に貢献したいと思っている人が挫折しかけた時は、必ずやその背後に霊界からの援助の手が差し伸べられるということも知っております。

 時には万策尽き、これにて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が生み出す内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我れ行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。

 その奇特な意気に感じて訪れてくるのは血のつながった親類縁者──その人の死があなた方に死後の存続に目を開かせた霊たち── ばかりではありません。あなた方が地上という物質界へ再生してくるに際して神からその守護の役を命ぜられ、誕生の瞬間よりこの方ずっと見守り指導してきた霊もおります。

そのおかげでどれほどの成果が得られたか、それはあなた方自身には測り知ることはできません。しかし分からないながらも、その体験は確実にあなた方自身の魂と同時に、あなた方を救ってあげた人々の魂にも消えることのない影響を及ぼしております。

そのことを大いに誇りに思うがよろしい。他人への貢献の機会を与えて下さったことに関し、神に感謝すべきです。人間としてこれほど実り多い仕事は他にありません。

 愚にもつかぬ嫉妬心や他愛ない意地悪から出る言葉を気にしてはなりません。そのようなものはあなた方の方から心のスキを与えない限り絶対に入り込めないように守られております。霊の力は避難所であり、霊の愛は聖域であり、霊の叡知は安息所です。イザという時はそれを求めるがよろしい。

人間の心には裏切られることがありますが、霊は決して裏切りません。たとえ目には見えなくても常に導きを怠ることなく、愛の手があなた方のまわりにあることを忘れないでください。

 私としては、たった一言であっても、私の述べたことの中にあなた方の励みになり元気づけ感動させるものを見出していただければ、もうそれだけで嬉しいのです。私たちに必要なのは霊の道具となるべきあなた方です。豪華なビルや教会や寺院や会館ではありません。

それはそれなりの機能があることは認めますが、霊の力はそんな〝建物〟に宿るのではありません。〝人間〟を通して授けられるのであり、顕幽の巨大な連絡網のつなぎ手として掛けがえのない大切なものです。その道具たらんとして謙虚に一身を擲(なげう)ってくれる人間一人の方が、そうした建造物全部よりも遥かに大切です。頑張ってください。

そしてこれからも機会を逃さず人のため、人のため、という心掛けを忘れないで下さい。世間の拍手喝さいを求めてはなりません。この世に生れてきたそもそもの目的を果たしているのだという自覚を持ち、地上に別れを告げる時が来た時に何一つ思い残すことのないよう、精一杯努力して下さい。

 ここに集える私たち一人ひとりが同胞の幾人かに霊的啓発をもたらすことによって、少しでも宇宙の大霊に寄与することができることの幸せを神に感謝いたしましょう。

人間として霊として、こうして生を享けた本来の目的を互いに果たせることの幸せを感謝いたしましょう。人のために尽くすことに勝る宗教はありません。病める人を治し、悲しむ人を慰め、悩める人を導き、人生に疲れ道を見失える人を手引きしてあげること、これは何にも勝る大切な仕事です。

 ですから、こうして神の愛を表現する手段、才能、霊力を授かり、それを同胞のために役立てる仕事に携われることの幸せを喜ばなくてはいけません。神の紋章を授かったことになるのだと考えて、それを誇りに思わなくてはいけません。

これから後も人のために役立つ仕事に携わるかぎり、霊の力が引き寄せられます。人生の最高の目標が霊性の開発にあることを、ゆめ忘れてはなりません。自分の永遠の本性にとって必須のものに目を向けることです。

それは人生について正しい視野と焦点を持つことになり、自分が元来不死の魂であり、それが一時の存在である土塊に宿って自我を表現しているにすぎないこと、心がけ一つで自分を通じて神の力が地上に顕現するという実相を悟ることになるでしょう。

こうしたことは是非とも心に銘記しておくべき大切な原理です。日常の雑務に追いまくられ、一見すると物が強く霊が弱そうに思える世界では、それは容易に思い出せないものです。ですが、あくまで霊が主人であり物は召使いです。霊が王様であり物は従臣です。霊は神であり、あなたはその神の一部なのです。

 自分がこの世に存在することの目的を日々成就できること、つまり自分を通じて霊の力がふんだんに地上に流れ込み、それによって多くの魂が初めて感動を味わい、目を覚まし、健全さを取り戻し、改めて生きることの有難さを噛みしめる機会を提供すること──これは人のために役立つことの最大の喜びです。

真の意味で偉大な仕事と言えます。地上のどの片隅であろうと、霊の光が魂を照らし、霊的真理が沁みわたれば、それでいいのです。それが大事なのです。それまでのことは全てが準備であり、全てが役に立っているのです。

魂はそれぞれの使命のために常に備えを怠ってはなりません。時には深い谷間を通らされるかもしれません。度々申し上げてきたように、頂上に上がるためにはドン底まで下りなければならないのです。

 地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では〝物〟を有難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。

人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません。そんなものは死と共に消えてなくなるのです。が、他人のために施した善意は決して消えません。

なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。

 世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。が、もしもあなたが他人のために自分なりに出来るだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。

言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重要な仕事です。

手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生れて来たのかを悟り、地上を去るまでに何をなすべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡知と理解を広める仕事に協力していることになります。

 肝心なことはそれを人生においてどう体現していくかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終わってはいけません。今度はそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです。

それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。

霊的成長にも摂理があり、魂に受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。

真の福音、霊的実在についての良い知らせをお持ちしているだけです。それを本当に良い知らせであると思って下さるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えが出来ていないということです。

 イエスはそのことを〝豚に真珠を投げ与えるべからず〟と表現しましたが、これは決してその言葉から受けるような失礼な意味で述べたのではありません。いかに高価なものをもってしても他人を変えることはできないのです。自分で自分を変えるしかないのです。

私たちは同胞の番人ではないのです。各自が自分の行為に責任を持つのであって、他人の行為の責任は取れません。あなたが行うこと、心に思うこと、口にする言葉、憧れるもの、求めるものがあなたの理解した霊的真理と合致するようになるのは、生涯をかけた仕事と言えるでしょう。

 あなたにできるのはそれだけです。他人の生活を代わりに生きることはできません。どんなに愛する人であってもです。なぜなら、それは摂理に反することだからです。そうと知りつつ摂理に反することをした人は、そうとは知らずに違反した人よりも大きい代償を払わされます。

知識には必ず責任が伴うからです。真理を知りつつ罪を犯す人は、同じ行為を真理を知らずに犯す人より罪の大きさが違うのです。当然そうあらねばならないでしょう。

 一個の魂に感動を与えるごとにあなた方は神の創造の目的成就の一翼を担ったことになります。これはあなた方に出来る仕事の中でも最も重要な仕事です。魂に真の自我を悟らせてあげているのであり、これは他のいかなる人にもできないことです。ただし、この仕事は協調の上に成就されるものです。

私ども霊側も強引に命令することはしたくありません。あなた方の理性を押しのけたり自由意志を奪ったりすることはいたしたくありません。あくまでも導くことを主眼としているのです。あなた方が何か一つ努力するごとに、私どもがその目的に合わせ援助することによって、より大きな成果を挙げるように協力しているのです。

協力し合うことによって人生の全てが拠り所とするところの霊的基盤に関わる重大な仕事に携わることができるのです。

 残念ながら多くの人間が実体と影、核心と外殻とを取り違えております。実相を知らずにおります。言わば一種の退廃的雰囲気の中で生きております──それが〝生きる〟と言えるならばの話ですが、霊の光の啓示を受けた人は幸いです。

私としてはあなた方に、頑張って下さいとしか申し上げる言葉を知りません。霊の無限の力が控えております。イザという時にあなた方の力となって支えてくれることでしょう。

 自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにして下さい。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方たちでも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われ、霊的実相を忘れてしまいがちです。が、

それだけは絶対に忘れぬようにしなければなりません。地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。

霊こそ実在です。物質は実在では無いのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じることもできないかもしれません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識出来ません。しかし、やはり霊こそ全ての根源であることに変わりありません。

あなた方は永遠の存在であることを自覚して下さい。生命の旅路においてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。

Sunday, September 20, 2026

シルバー・バーチの霊訓(一)

Guidance from Silver Birch

Edited by Anne Dooley




五章 霊的交信のむずかしさ

 霊界の通信者の伝えたいことが百パーセント伝わることは滅多にありません。あることはあるのですが、よほどの例外に属します。あなた方が電話で話を交わすような平面上の交信とは違うのです。その電話でさえ聞き取り難いことがあります。

混線したり故障したりして全く通じなくなることもあります。地上という平面上の場合でもそうしたトラブルが生じるのですから、全く次元の異なる二つの世界の間の交信がいかに困難なものであるかは容易に理解していただけると思います。

 霊媒に乗り移った霊は意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変えなくてはなりません。それは完全入神の場合でも百パーセントうまくいくとは限りません。霊媒も人間です。

その霊媒のオーラと霊のオーラとがどこまで融合するか──完全か、部分的か、それとも全く融合しないか──によって支配の度合いが決まります。

支配霊は霊媒の潜在意識を占領し、そうすることによって潜在意識に繋がった肉体機能を支配します。その状態の中で通信霊から送られるイメージ、思想、絵画、あるいはアイデアを言葉に変えて伝えるわけですが、霊媒も人間ですから疲れていることもあるでしょうし、気分の悪い時、機嫌の悪い時、空腹または満腹の度が過ぎる時、アルコールの飲みすぎ、たばこの吸いすぎ等々、それはもういろいろとあるものです。

そうしたことの一つひとつが支配霊と霊媒の融合の度合いに影響を及ぼします。

 これとは別に、霊媒の精神をしつこく支配している潜在的観念があって、それが強く表現を求めていることがあります。そんな時はとりあえずその観念を吐き出させておとなしくさせるしかないことがよくあります。時として支配霊が霊媒の潜在的観念を述べているにすぎないことがあるのはそのためです。

ひどい時は支配霊の方がその観念の洪水に押し流されて我れを失うことさえあります。霧の深い日はいけません。温度の高すぎるのもいけません。冷んやりとして身の引き締まるような雰囲気がいちばんよろしい。

 とにかく容易なことではないのです。ですから地上世界へ戻って来るには大変な努力が要ります。あえてその大変な努力をしようとする霊があなた方に対する愛念を抱く者に限られているというのも、そこに理由があるのです。愛念こそが自然に、そして気持ちよく結ばれている地上の縁者を慰め、導き、手助けしようと思わせる駆動力なのです。

地上を去り、全く次元の異なる世界へ行っても、地上に残した者に対する愛念がある限りは、いかなる障壁をも突き破り、あらゆる障害を克服して愛する者とのつながりを求めます。私どもの世界からの地上への働きかけの原動力の一つにそれがあるのです。

 ですから、あまり無理なことを要求しないでいただきたいのです。霊媒を責めないでいただきたいのです。また必ずしも支配霊に責任があるとも限らないことを知ってほしいのです。

私どもは許される限りの手段を尽くしています。今こうして私が行っている入神談話も、一種の変圧器にも似たものを使用した波長の下降操作を要します。そのために、私なら私の本来の個性が大幅に制限されます。その辺のところはお分かりでしょう。

これをもっと物的要素の濃い現象にしようとすると、さらに波長を下げなくてはなりません。物質化して出る時などは本来の霊妙で迅速でデリケートな波長から一気に地上の鈍重で鈍速で重苦しい波長へと戻さなくてはなりません。これも一種の犠牲、完全な個性の犠牲を強いられる仕事です。

 その他にも霊媒の精神ないし霊的体質によるエクトプラズムの微妙な個体変差があります。エクトプラズム(※)は決して一様のものではありません。いちばん元になるものが霊媒から抽出されるからです。霊媒の体質が粗野であればエクトプラズムも精神的ないし霊的に程度が低く、精妙度が劣ります。

精神的に霊的に垢抜けした霊媒であれば、その性質がエクトプラズムにも反映します。(※元になるものをエクトプラズミック・フォースと言い、これに霊界の技術者が特殊な成分を混ぜ合わせてエクトプラズムをこしらえる。──訳者)

 こちらの世界の霊が地上と交信したいと思えば誰にでもかなえられるかといえば、必ずしもそうではありません。折角そのチャンスを与えられても、思うことの全てが伝えられるともかぎりません。その霊次第です。

しっかりとして積極性のある霊は全ての障害を克服するでしょう。が、引っ込み思案で積極性に欠ける霊は得てしてそれに必要なだけの努力をしたがらないものです。

  霊の世界では言語を使用しません。従って思念なり映像なりシンボルなりを霊媒に憑っている霊を通じて、あるいは直接霊媒へ伝える操作がまた大変です。これを霊視力を使ってやるとなると実に入り組んだ操作となります。私がこうして楽にしゃべっているからといって、それが楽にできると思ってはいけません。

こうしてしゃべっている間、私は霊媒との連係を保つために数え切れないほどの〝糸〟を操っているのです。その内の一本がいつ切れるとも限りません。切れたが最期、そこで私の支配力はおしまいです。

 このように霊界と地上との交信を理解していただくうえで説明しなくてはならないことがたくさんあります。簡単に出来ることのようにだけは決して想像しないでください。必要条件が全部そろえば簡単にできることは、一応理屈では言えます。しかし実際にはそこにいろいろと邪魔が入るのです。

その邪魔のためにうまくいかなくて、それを私どものせいにされてしまいます。実にデリケートでいわく言い難い条件をうまく運用する必要があります。ベテランの霊媒でも同じです。しくじらせる要素がいくらでもあるのです。

 これで、私が毎度行っている波長の転換操作つまり波長を下げる作業によって、美しさと光彩と輝きが随分失われることがお分かりでしょう。しかし交信が霊と霊、心と心、魂と魂の直接的なものであれば、つまりインスピレーション式のものであれば、そういった複雑な裏面操作抜きの、霊界からの印象の受信という単純直截なものとなります。

その成功不成功は背後霊との合体の確信に基づく静寂と受容性と自信にかかっていますから、不安の念に動かされるほど結果は良くないということになります。いったん精神的動揺をきたすと、その不安の念の本質的性格の為に霊的通信網が塞がれてしまいます。

 人間の心に浮かぶ思念がすべて霊界からのものであるとは申しません。それは明らかに言いすぎでしょう。

しかしその多くが、背後霊が何とかして精神と霊とを豊かにしてあげようとする努力の反映であって、少なくとも単なる心像として見過ごしてはいけないことだけは真実です。

 その思念の伝達が地上における平面上の横のつながり、つまり同じ意識の次元での交信でないことを忘れてはいけません。霊的なものを物的なものへと、二つの全く異なる意識の次元での表現操作を要するのです。その上から下への次元の転換の際にいろいろと混乱が生じます。混乱なく運ぶようになる時代はまだまだ先のことです。

こちらの世界では精神的レベル、物的レベル、治病レベル等々、ありとあらゆる交霊関係での実験と研究がなされております。よりよい成果を挙げるための努力が常になされているのです。

 何年か後に振り返ると結構進歩しているのに気づかれるのはそのためです。今こうして行っているようなサークル活動の裏側にはそうした目的も目論まれております。私たち霊があなた方の能力を開発しそれを大いに活用に供するためには、こうしたサークルによって活動の場を提供していただく以外に方法がありません。

その効果を高めるには第一に協調性が必要です。通信網が敷かれ、霊媒というチャンネルが開かれ、そこへ私たちが通信を送り届ける、という具合になることが肝心です。かつては通信網も無ければチャンネルが一つもないという時代がありました。

 私が理解に苦しむのは、地上の人間はなぜ無知という名の暗闇を好み、真理という名の光を嫌うのかということです。私たちはその真理の光を広げ、人に役立てるための手段となるべき人をいつも探し求めております。そういう人が一人でも増えることは、地上人類の進歩と向上へ向けて叡知と霊力を広げる手段が一つ増えることを意味します。

これは重大なことです。私たちの携わる使命全体の背後には重大な目的が託されています。私はその使命達成を託された大勢の使者の一人に過ぎません。物的世界の背後の霊的世界において目論まれた遠大な計画の推進者の一人であり、霊的悟りを開く用意の出来た者へ真理を送り届けることを仕事としているのです。

 ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚まさせ、当然悟るべき真理を悟らせるのが私たちの仕事です。言ってみれば霊への贈物を届けてあげることです。それが本来自分に具わる霊的威厳と崇高さを自覚させることになります。その折角の贈り物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断ったことになります。

 私たちからお贈り出来るものは霊的真理しかありません。が、それは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。

そこが私には分からないのです。いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。判断力が歪められ、伝来の教えのほかにも真理があることに得心がいかないのです。

どうやらそういう人々は、神がもし自分たちの宗教的組織以外に啓示を垂れたとしたら、それは神の一大失態であるとでも考えるに相違ないと思うことが時折あります。神の取る手段は人智の及ぶところではありません。大丈夫です。神が失態を演じることは絶対にありません。

 キリスト教会との関係となると、これは厄介です。自分たちの教義こそ絶対的真理であると真面目に信じており、それをこのうえなく大事なものとして死守せんとしています。実際にはもともと霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経るうちに人間的想像の産物の下に埋もれてしまっていることに気づいてくれないのです。

中味と包装物との区別がつかなくなっているのです。包装物を後生大事に拝んでいるのです。こうした偏向した信仰が精神的にも霊的にも硬直化してくると、もはや外部から手を施す術がありません。神は時として精神的ないし霊的大変動の体験を与えて一気に真理に目覚めさせるという荒療治をすることがありますが、それも必ずしも思うとおりにいかないものです。もしも困難や悲哀、病苦等が魂の琴線に触れて何かに目覚めたとしたら、その苦い体験も価値があったことになります。

 霊の世界からこうして地上へ戻って来るそもそもの目的は、人間の注意を霊的実在へと向けさせることにあります。ただそれだけのことです。地上世界の出来ごとに知らぬふりをしようと思えばできないことはありません。別段地上との関わりを強制される謂れはないのです。また人間側にはわれわれに対して援助を強要する手段は何もないはずです。

ですから私達の尽力は全て自発的なものです。それは人間愛ともいうべきものに発し、援助の手を差しのべたいという願望があるからこそです。それも一種の利己主義だと言われれば、確かにそうかもしれません。

愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。身を霊界に置いて、次から次へと地上生活の落伍者ともいうべき人間が何の備えも無いまま送り込まれて来るのを見ているわけですから・・・。その人たちが、こちらへ来る前に、つまり教訓を学ぶために赴いた地上という学校でちゃんと学ぶべきものを学んで来てくれれば、どんなにか楽になるのですが・・・・・。

 そこで私たちは何とかして地上の人々に霊的実相を教えてあげようとするわけです。すなわち人間は誕生という過程において賦与される霊的遺産を携えて物的生活に入るのだということを教えてあげたいのです。生命力はいわば神の火花です。本性は霊です。

それが肉体と共に生長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的生長に関心を抱く者も幾らかおります。が、霊的生長に関心を抱く者はきわめて少数に限られております。

永続性のある実在は霊のみです。もしも私たちの尽力によって人間を霊的本性を自覚させることに成功すれば、その人の人生は一変します。生きる目的に目覚めます。自分と言う存在の拠って来る原因を知ります。

これから辿る運命を見極め、授かった霊的知識の意味をわきまえた生活を送るようになります。いたって簡単なことなのですが、それが私たちの活動の背後に目論まれた計画です。

霊的真理は、これを日常生活に活用すれば不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、うぬぼれ等々を追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立することでしょう。

霊的真理を一つでも多く理解していくことが、あなた方の魂と霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。これは地上と霊界を結ぶ磁気的な絆なのです。

 地上とのつながりをもつためには、それなりの道具がいります。つまり霊力を送り込むための回路が必要です。心霊能力の開発や霊的発達は、一つにはその霊力の受容力を増すということでもあります。魂の本性がそれぞれの背後霊とうまく調和するということが、イザという重大事、困難、危険に際して霊力を授けやすくします。

その霊力とは何かとなると、これはなかなか説明が困難です。物質的観点から見る限り手に触れたり目で確かめることのできないものだからです。しかし、あくまで実体のあるものです。

生命力そのものであり、神の一部であり、宇宙の全生命活動に意識と存在を賦与しているものと本質的に同一のものです。種子に芽を出させ、花を咲かせ、実をつけさせ、樹木を太らせ、人間の魂を開発させる力と同じものです。

 その顕現の仕方は無限です。生気を取り戻させるのもそうですし、蘇生させるのもそうですし、活気を与えるのもそうですし、再充電するのもそうですし、再興させるのもそうです。

霊感の形を取ることもあれば病を治すこともします。条件さえ整えば物的現象を演出してお目にかけることもできます。人を治す仕事の為に治療所の奥に閉じこもる時、それは一方では霊力を受けるために霊的回路を開いていることでもあります。
 
二つの仕事は常に相携えて進行します。霊能開発のためのサークル活動に参加し、いつになっても何の変化もないと思っている時でも、実際には霊と物質との間のつながりを強化し一体化する作用が着々となされていることがあります。霊力の伝道はそれはそれは複雑で微妙な過程なのです。

 現今のように物質性が勝り霊性が劣る状態から、逆に霊性が物質性を凌ぐまでに発達してくれば、霊界からの指導も随分楽になることでしょう。それは、

間をつなぐものが霊と霊との関係になるからです。しかし残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊があまりに奥に押し込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のままに放置されております。これではよほどの努力をしない限り覚醒は得られません。

物質性にすっかり浸りきり、霊が今にも消えそうな小さな炎でしかなく、まだ辺りを照らすほどの光をもたぬ人がいます。それでも、霊であることに変わりありません。

酷い辛酸をなめ、試練に試練を重ねた暁にはそうした霊も目を醒まし、自我に目醒め、霊的真理を理解し、自己の霊性に目覚め、神を意識し、同胞と自然界との霊的つながりを知り、宇宙の大原理であるところの霊的一体性を悟ることができるようになります。

 いったんある方向への悟りの道が開かれたら、その道を閉ざすことなくいつまでも歩み続ける努力をしなくてはなりません。地上生活では完全は得られないでしょう。でも精神的に霊的に少しでも完全へ向けて努力することはできます。

 世の中には、ここに集える私たちに較べて精神的・霊的な豊かさに欠ける人がいます。そういう人々に愛の手を差しのべる仕事は、あなた方の霊性が向上するほど大きくなっていきます。

絶望の淵に落ち込んだ人を励まし、病める人にはいかなる病にも必ず治す方法があることを教え、あるいは地上を美しく栄光ある世界にするために、霊力の流れを阻害している誤謬と迷信、腐敗した体制を打破してゆく、その基本的足場としての永遠の霊的真理を説くことが必要です。

 肉眼で見ることができず、手で触れてみることも出来ない私たち霊界の者が物質の世界と接触を持つことは容易なことではありません。

人間側が善良な心と自発的協調性と受容的態度と不動の信念を保持してくれているかぎり、両者を結ぶ霊的回路が開かれた状態にあり、その人はあらゆる面において、つまり霊的に精神的に物質的に、より良い方向へと自動的に進んで参ります。

多くの人になかなか分かっていただけないのは、そしてまた人間が望むように事が運ばないのは、その援助を届けるための回路が開かれていないということです。

本人自らが回路を開いてくれないかぎり他に手段がないのです。霊力が物質に働きかけるためには、それが感応して物質界に顕現するための何らかの連鎖関係がなくてはなりません。分かってみれば何でもない当り前のことです。

そこで是非ともあなた方には、今あなた方を支え援助している力が霊的なものであり、それには成就出来ないものは何一つないことを知っていただきたいのです。

 暗闇にいる人に光を見出させてあげ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を治し、無力な動物への虐待行為を阻止することができれば、それがたった一人の人間、一匹の動物であっても、その人の地上生活は十分価値があったことになります。

価値あるものを求める闘いに嫌気がさすようではいけません。これはあらゆる闘いの中でも特に偉大な闘いです。唯物主義と利己主義──地上世界を蝕み、何のために生れて来たかを自覚せぬ大勢の人々を暗闇へと堕落させている、この二つのガンに対する永遠の闘いです。

 善のための努力が徒労に終わることは決してありません。人のためになろうとする試みが無駄に終わることはありません。善行に嫌気がさすようなことがあってはなりません。

成果が表われないことに失望してはなりません。人のために役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して一人であがいているのではありません。

いかなる状況のもとであろうと、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります。裏切ることのないその霊の力に満腔の信頼を置き、それを頼りとすることです。物質の世界にはこれだけは安全というものは何一つはありません。

真の安全は人間の目に映じぬ世界──地上のいかなる器具をもってしても測ることのできない永遠の実在の世界にしかありません。

 人間にとっての真の安全は霊の力であり、神が宇宙に顕現していく手段であるところの荘厳なるエネルギーです。他の全ての存在が形を変え、あるものは灰に帰し、またあるものは塵と砕けても、霊的実在のみは不変・不易であり、不動の基盤として存在し続けます。

全てを物的感覚によって推し量る世界に生きているあなた方にとって、その霊的実在の本質を理解することが極めて困難であることは私もよく承知しております。捉えようとしてもなかなか捉えられないものです。

ですが、私のこうした説教によって、たとえ不十分ながらも、霊こそが永遠の実在でありそれ以外は重要でないことをお伝えすることができ、流砂のような移り変わりの激しい物的存在ではなく、不変の霊的真理を心を支えとして生きようとする志を抱いて下さることになれば、及ばずながら私なりの使命を達成しつつあることになりましょう。
             

シルバー・バーチの霊訓(一)

Guidance from Silver Birch

Edited by Anne Dooley




四章〝物〟に惑わされない生き方
 
 その日その日の煩わしい雑事に追いまくられ、心配事や悩み事を抱えた生活を送っていると、時としてあなた方は、なぜこんな目に遭わなければならないのかと思ったり、また、これもよくあることですが、気持の通じ合った仲だと思っていた人から冷たい態度に出られたりして、理想を求める旅路で初めて光を見た時の感激をつい忘れてしまいがちです。

 その感激的体験の純粋無垢の美しさは時の経過とともにある程度その輝きを失いがちなものであり、体験当初のあの喜悦を今一度味わうことは必ずしも可能ではありません。しかし、今私たちが携っている仕事は、それぞれの持ち場において測り知れない重大性をもっております。

肉体という物質の牢に閉じ込められ、意識を制限された状態で物的生活を送っているあなた方には、霊と心と身体の関係について明確な理解をもつことは不可能です。

気苦労の絶え間がありません。身体の要求を満たしてやらなくてはなりません。金銭の問題にも関わらなくてはなりません。そうした息つく暇もない生活の中であなた方はつい意識の焦点を外し、支援しようとして待機している背後霊の存在を忘れがちです。

 この交霊会での私のうれしい役目の一つは、そうした状況下に置かれているあなた方が、所期の聖なる目的に向けて導かんとする愛の力によって、意識するしないにお構いなく見守られているということを思い出させてあげることです。

その愛の光の証をお見せしたり、あなた方を取りまいているところの霊の世界の美しさを披露することは、たとえ要求されてもなかなか叶えられるものではありません。しかし、事実、間違いなく存在するのです。

 霧が視野を遮ることがあるかもしれません。しかし、しょせんは霧です。私どもの世界から光を射し込むことができるし、現にこうして射し込んでおります。

これまで何年もの準備期を経て、こうしてあなた方を奉仕の仕事に導いてきたように、これからもその光と力とがあなた方が道を迷わぬよう導き続けることでしょう。そして万一迷ってもすぐ元の道に立ち戻らせ、神への道を歩み続けさせるよう配慮することでしょう。

 あなた方は本当の意味で祝福を受けられた方たちです。なぜならば、あなた方は地上のいかなる富も影が薄くなるほど高価な霊的知識の所有者だからです。こう申し上げるのは、あなた方も是非私どもと同じ視野から人生を理解していただきたいからです。

私どもは地上生活を物的視野でなく、価値観も異なれば判断の基準も異なる霊的世界から眺めております。その視野からの判断の方が遥かに真実に近いと信じています。

 人間は物質の中に埋もれた生活をしているためにバイブレーションが低くなっております。朝、目を覚まし、まだ意識が完全に働かないうちから、あれやこれやと煩わしいことや心配事の波にのみ込まれていきます。大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取り越し苦労に過ぎぬもの等々いろいろあります。

が、いずれにせよ全ては一時的なものにすぎないのですが、そういうものに心を奪われてしまうと、背後で霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素を閉め出してしまい、霊的流入を遮断する一種の壁をこしらえてしまいます。

 これは真理普及の仕事に携る人にも〝よくある話〟なのです。奉仕の情熱、落胆、試練、そして悟り、このパターンの繰り返しです。これは魂が自我に目覚め、内在する神性を開発せんとして必死にあがく一種のシーソーゲームのようなものです。

神の使徒の一人ひとりが、先覚者の一人ひとりが、預言者の一人ひとりが、その他霊感鋭き男女の一人ひとりが辿った道なのです。

悟りの道にも満ち潮と引き潮にも似た盛衰があるということです。しかし大勢の方々に申し上げたことですが、一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型(パターン)があります。静かに振り返ってみれば、何者かによって一つの道に導かれていることを知るはずです。

 あなた方には分らなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのかとか、いつになったらとか、どういう具合にとか、何がどうなるのかといった疑問を抱くことがあることでしょう。

無理もないことです。しかし私には、全てはちゃんとした計画があってのことです、としか言いようがありません。天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来事といったものは決して起きません。

 全ての魂がそうであるように、あなたの魂も、地上でいかなる人生を辿るかを誕生前から承知していたのです。その人生で遭遇する困難、障害、失敗の全てがあなたの魂を目覚めさせる上での意味を持っているのです。価値ある賞ほど手に入れるのが困難なのです。

容易にもらえるものはもらう価値はないことになります。簡単に達成したものほど忘れやすいものです。内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです。

 人生は全て比較対象の中で展開しております。光も闇もともに神を理解するうえでの大切な要素です。もし光と闇とが存在しなければ、光は光でなくなり闇は闇でなくなります。つまり光があるから闇があり、闇があるから光があるのです。同じく昼と夜がなければ昼は昼でなくなり夜は夜でなくなります。

愛と憎しみがなければ愛は愛でなくなり憎しみが憎しみでなくなります。その違いが分かるのは相対的だからです。しかし実は両者は一本の棒の両端にすぎないのです。元は一つなのです。しかしその一つを理解するには両端を見なければならないのです。

それが人生です。光と闇の両方がなければなりません。温かさと寒さの両方がなければなりません。喜びと悲しみの両方がなければなりません。自我を悟るにはこうしたさまざまな経験が必要です。

 〝完全〟は絶対に成就出来ません。なぜなら、それには〝永遠〟の時が必要だからです。私は謎めいたことを言っているのではありません。要するに完成へ向けての絶え間ない過程において、一歩前進すればそのまた一歩先が見えてくるということです。

知識と同じで、知れば知るほど知らなければならないことがあることを自覚するものです。知識にはこれでおしまいというものはありません。叡知にも真理にも理解にも霊的悟りにも、おしまいというものはありません。なぜなら、それらは全て無限なる神の一部だからです。

 地上生活に何一つ怖いものはありません。取り越し苦労は大敵です。生命力を枯渇させ、霊性の発現を妨げます。不安の念を追い払いなさい。真実の愛は恐れることを知りません。その愛が宇宙を支配しているのです。そこに恐怖心の入る余地はないのです。

それは無知の産物に他なりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから知識を携えて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。

人間が恐るべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念をもつ魂は恐れることを知りません。

 あなた方の〝呼吸する〟というなんでもない動作一つでも、それを可能にしているのは、宇宙を創造し惑星や恒星の運行を司り、太陽に無尽蔵のエネルギーを与え、大海の干満を司り、あらゆる植物の種子に芽を出させ、地上に千変万化の彩りを添えさせているところの根源的生命力と同じものです。

その力はかつて一度たりとも働きを狂わせたことはありません。海の干満が止まったことが一度でもあったでしょうか。地球が回転を止めたことがあったでしょうか。自然法則が機能しなかったことがあったでしょうか。

 物質界は生活の一側面にすぎません。あなたの生活の全体ではないのです。人間の多くが悩みが絶えないのは、無意識の内に物質の世界にのみ生きていると思い込んでいるからです。本当はあなた方と私とは同じ宇宙の中に存在するのです。

霊界と地上とが水も漏らさぬように区別されているのではありません。互いに融合し合い調和し合っています。死ぬということは物的身体による認識をやめて霊的身体によって魂の別の側面を表現し始めるということに過ぎません。

 あなた方が直面する悩みごとは私にもよく分かっております。しかし霊的知識を有する者はそれを正しく運用して、物的要素に偏らないようにならなければなりません。霊的要素の方に比重を置かなければいけないということです。

正しい視野に立って考察すれば、焦点を正しく定めれば、日常生活での心の姿勢さえ正しければ、物的要素に対して最小限度の考慮を払い、決して偏ることはないでしょう。そうなれば霊的自我が意のままに働いてあなたを支配し、生活全体を変革せしめるほどの霊力が漲り、ついには物的要素に絶対に動かされない段階にまで到達することでしょう。

 永遠なるものを日常の出来ごとを基準にして判断しても駄目です。あなた方はとかく日常の精神によって色づけされた判断、つまり自分を取りまく環境によって判断を下しがちです。

そして、それまで成就してきた成果の方は忘れがちですが、これは物質の中に閉じ込められ、朝目を覚ました瞬間から夜寝るまで日常的問題に追いまくられているからです。

今と昔を較べるために過去のページを繙いてごらんなさい。そこに背後霊による指導のあとがありありと窺えるはずです。霊的知識に恵まれた者は決して首をうなだれることなく、脇目も振らず前向きに進めるようでなくてはなりません。背後霊は決して見捨てないことをご存じのはずです。 

人間が神に背を向けることはあっても、神は決して人間に背を向けることはありません。無限の可能性を秘めたこの大宇宙の摂理と調和した生活を営んでさえいれば、必要な援助は必ず授かります。これは決して忘れてはならない大切な真理です。

 霊の世界の存在を知った者は、より大きな生活の場をかいま見たことになります。宇宙の構造の内奥に触れたが故に無責任なことができなくなります。置かれた世界に対する義務と責任をいっそう自覚するからです。決してそれを疎かにせず、また物的なことに心を奪われたり偏ったりすることもありません。

安全も援助も全て〝霊〟の中に見出すことができます。地上の全ての物的存在も、あなた方の身体も、霊の顕現であるからこそ存在し得るのです。

 この真理があなたの生活を支配しはじめた時、それに伴う内的静寂と冷静さが生まれ、日常生活の一つひとつに正しい認識を持つことができるようになります。あほらしく思えていい加減に処理したり、義務を怠るようになると言っているのではありません。

私が申し上げたいのは、そうした知識を手にした人でも、ややもすると日常生活の基盤である霊的真相を忘れてしまいがちであるということです。

霊的な目で日常生活を眺め、その背後に霊的基盤があることを忘れずにいれば、最大の敵であるところの取り越し苦労と決別できるようになります。知識は我身を守る鎧です。不安は魂を蝕み錆つかせます。

 もしも神が私に何か一つあなた方へプレゼントすることを許されたとしたら、私が何よりも差し上げたいと思うのは〝霊的視力〟です。この薄暗い地上に生きておられるあなた方を私は心からお気の毒に思うのです。

あなた方は身の回りの見えざる世界の輝きがどれほど素晴らしいものかをご存知ない。宇宙の美しさがご覧になれない。物質という霧が全てを遮断しています。

それはちょうど厚い雲によって太陽の光が遮られているようなものです。その輝きを一目ご覧になったら、この世に悩みに思うものは何一つ無いことを自覚される筈です。

 私たちは法則と条件による支配を受けます。その時々の条件に従って能力の範囲内のことをするほかはありません。が、目に見えようと見えまいと、耳に聞こえようと聞こえまいと、手に触れられようと触れられまいと、あなた方を導き、援助し、支えんとする力が常に存在します。

人のために役立とうと心掛ける人に私はいつも申し上げてきたことですが、見通しがどんなに暗くても、いつかは必ず道は開けるものです。

霊の力は生命の力そのものだからです。生命は霊なしには存在しません。生命──その本質、活力、潜在力、こうしたものは全て〝霊〟であるからこそ存在するのであり、程度の差こそあれ、本質において全存在の創造主と同じものなのです。

 これは、全てが夢幻に過ぎない物質界に生きているあなた方にとっては理解の困難なことです。しかし、だからこそ、実在が見えざる世界にあること、おぼろげに見ている世界を実在と錯覚しないようにと警告することが私の任務であるわけです。

曇りのない視覚を持って実在が認識できるようになるのは、物質界から撤退して内的世界つまり霊界へ来た時です。私は地上の思想上の名称にはこだわりません。

団体や組織にも頓着致しません。霊力の顕現の道具であってくれればよいのです。受け入れてくれる備えのある人であればどんな人でも導き、教え、私なりの体験から得た叡知を僅かでもお授けするのが私の仕事なのです。

もう一つの側面として、こうして同志の協力のもとに、その霊的真理をより分かりやすい形で披露し、それによって一人でも多くの人が調和のとれた地上生活を送ることが出来るようにしてあげることです。

 私にとって大事なのは〝道具〟です。霊が地上に働きかけるには人間という道具が必要です。そこで、確実に霊波を受け止めてくれる霊能者を一人でも多く見出さねばならないというのが、いつもながら私どもにとって難題であるわけです。霊力は無限です。

然るに霊能者の数には限りがあります。霊力は無尽蔵ですから、霊媒はいくらいても多すぎることはありません。しかし〝師は弟子に応じて法を説く〟と言われるように、霊力も霊媒の受容力に応じたものしか授けられません。能力以上のものは受けられないのです。

 進化の法則は民族全体、国民全体、人類全体の単位で働いているように、個人単位でも働いております。となると当然あなたは、満ちては引き、引いては満ちながら進化していく霊力の流れによる様々な影響を受けるわけですが、問題はその霊力の流れそのものと、霊力が顕現される〝場〟──民族、国家等の組織の集合体をはじめ、その働きの場である建物とを混同しないことです。

人間はとかく自分の関わった組織や団体にのみに霊力が顕現されているかに錯覚しがちですが、霊力というものは何ものによっても独占されるものではありません。人間側から勝手に操ることもできません。

個人としてあなた方にできることは、その霊力の流れる一個の場として出来るだけ純粋であるよう心がけ、できるだけ多くの霊力が顕現されるようにする──つまり人のために役立つようになることです。

 ついでに申せば、現代の地上には無数の〝通路〟を通してかつてなかったほどの霊力が注がれております。その通路は霊媒にかぎりません。それとは気づかぬままに通路となっている人も大勢います。また同じ霊力が他の分野においても活用されております。

 神の計画が変わることはありません。あなた方が自らを変えてその計画に合わせなくてはなりません。神の霊力の流れに調和し、日々の生活をその流れに乗って送れば、あなた方の地上での存在意義が完うされます。

霊力は地上的基準に従って働くのではありません。人間の勝手な打算的欲望で働きを早めたり自分の方へ引き寄せたりはできません。〝風は思いのままに吹く。いずこより来たりいずこへ行くか汝らは知らず〟(ヨハネ3-8)

 星は寸分の狂いもなくその軌道上を回り、潮は間違いなく満ち引きを繰り返し、四季は一つ一つ巡りては去り、それぞれに荘厳にして途方もなく雄大かつ崇高なる宇宙の機構の中での役割を果たしております。今あなたがそれを変えようとしても変えられるものではありません。が、

その大自然の営みの原動力である霊力と同じものを自分を通して働かせ、そうすることであなた自身もその営みに参加することができるのです。

神からの遺産を受け継いだ霊的存在として、あなたも神の一部なのです。神はあなた方一人ひとりであると同時にあなた方一人ひとりが神なのです。ただ規模が小さく、胚芽的存在にすぎず、言ってみれば神のミニチュアです。

あなた方は神の縮図であり、その拡大が神というわけです。霊性の高揚と成長と進化を通じて無限の神性を少しずつ発揮していくことによって、一歩一歩、無限なる神に近づいて行くのです。

 徐々にではありますが、光が闇を照らすように知識が無知の闇を明るく照らしていきます。生長、変化、進化、進歩、開発、発展 ──これが宇宙の大原則です。一口に進化と言っても、そこには必ず潮の干満にも似た動きがあることを知ってください。

循環(サークル)運動、周期(サイクル)運動、螺旋(スパイラル)運動 ──こうした運動の中で進化が営まれており、表面は単調のようで内面は実に複雑です。その波間に生きるあなた方も、寄せては返す波に乗って進歩と退歩を繰り返します。

物的繁栄の中にあっては霊的真理を無視し、苦難の中にあっては霊的真理を渇望します。それは人生全体を織りなすタテ糸とヨコ糸であるわけです。

 もしも現在の自分に満足し始めたら、それは退歩しはじめたことを意味します。今の自分に飽き足らず常に新しい視野を求めている時、その時こそ進歩しているのです。あなた方の世界には〝自然は真空を嫌う〟という言葉があります。じっとしている時がないのです。前進するか、さもなくば後退するかです。

 霊は全生命の創造力であるからこそじっとしていることができず、どこかに新しい捌け口を求め、従って満足することがないのです。何も霊媒現象を通して働くばかりが霊力ではありません。

芸術家を通して、哲学者を通して、あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々に何か役に立つ仕事に携わることです。看板は何であっても構いません。

かかわる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。

 神は絶対にごまかされません。法則は法則です。原因はそれ相当の結果を生み、自分が蒔いた種子は自分で刈り取ります。そこに奇跡の入る余地もなければ罰の免除もありません。摂理は一分一厘の狂いもなく働きます。不変・不易であり、数学的正確さを持って作用し、人間的制度にはお構いなしです。

地上生活では勝者がいれば敗者がいるわけですが、霊性に目覚めた人間はそのいずれによっても惑わされてはなりません。やがてはその人間的尺度があなたの視野から消える時が来ます。その時は永遠の尺度で判断することができるようになるでしょう。

 と言って私は、あなた方の悩みや苦労を見くびるつもりは毛頭ありません。それは私にも痛いほどよく分かります。ただ、もしも私が現在のあなた方に評価できない永遠の価値を指摘せずにおけば、それは私が神界から授けられた義務を怠ることになります。

永い歴史を振り返れば、余りの悲劇に指導者も〝世も末だ〟と嘆いた時代が幾度かありました。万事休すと観念し、暗黒にのみ込まれ、全ての真理が埋もれてしまうと思い込んだものでした。しかし宇宙はこうして厳然として存在し続け、これからもずっと存在し続けることでしょう。

 私にできることは、いつの時代にも適用できる真理を繰り返し説くことです。それを受け入れ、生活の基盤とするのはあなた方の役目です。それは容易なことではありません。しかし、もしも容易であったらそれだけの価値はないことになりましょう。霊的探検に容易なものは何一つありません。霊の歩むべき本来の道は何にも増して困難なものです。

聖者の道、悟りへの道、円熟への道は容易には達成されません。自己犠牲を伴う長くゆっくりとして根気のいる、曲がりくねった道です。己れを棄てること──これが進化の法則です。

 もしも霊の最高の宝が努力なしに手に入るものだとしたら、これは永遠の叡知を嘲笑うことになります。これは絶対的摂理として受け入れなくてはいけません。私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。

善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。宇宙間の出来ごとの一部だけを除外して、これだけは神とは別個のもの、何かしら、誰かしら、とにかく別種のエネルギーの仕業であるなどとは言えません。

私はいつも宇宙は全て両極性によって成り立っていると申しております。

 暗闇の存在が認識されるのは光があればこそです。光の存在が認識されるのは暗闇があるからこそです。善の存在を認識するのは悪があるからこそです。悪の存在を認識するのは善があるからこそです。

つまり光と闇、善と悪を生む力は同じものなのです。その根源的な力がどちらへ発揮されるかは神の関わる問題ではなく、あなた方の自由意志に関わる問題です。そこに選択の余地があり、そこに発達のチャンスがあるということです。

 地球は完全な状態で創造されたのではありません。個々の人間も完全な状態で創造されたのではありません。完全性を潜在的に宿しているということです。その潜在的完全性が神からの霊的遺産であり、これを開発することが個人の責務ということです。

それには自由意志を行使する余地が与えられています。善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由ということです。ただし忘れてならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないということです。

神の力とエネルギーと援助を呼び込むための手段は常に用意されています。しかしそのためには時には魂の奥の間に引きこもり、その静寂の中でできるだけ神との融合を保つことを怠ってはなりません。

 私たちは相互援助と相互扶助の縁によって結ばれ、互いに役立つものを施し合っております。ここまで目を開かせていただいたことを神に感謝しましょう。これを土台として、私たちを創造し育み続けて下さる御力の存在を信じましょう。

その御力が自分より恵まれぬ人々に施されるための通路となるよう心掛けましょう。私たちは神の御前にいるのだという自覚を常に忘れず、手を差しのべさえすれば必要なものが能力に見合っただけ施されることを忘れないように致しましょう。それは無限の可能性を秘めた無限なる霊の無限なるエネルギーなのです。
 

Saturday, September 19, 2026

インペレーターの霊訓──続『霊訓』

More Spirit Teachings
W・S・モーゼス著  近藤 千雄訳




訳者まえがき

 本書は英米をはじめとする西洋各国で〝スピリチュアリズムのバイブル〟と呼ばれて百年以上もロングセラーを続けている『霊訓』の続篇である。
 正篇は昭和十二年に浅野和三郎の抄訳によって本邦に紹介され、このたび(六十年)潮文社からその復刻版が発行されている。それとほぼ時を同じくして私による完訳版が国書刊行会から出ている。

 『霊訓』の第一の特徴はキリスト教の牧師だったステイントン・モーゼスと、紀元前に地上生活を体験したという身元不明の霊との熾烈な論争という形で霊的真理が説かれていることである。主としてキリスト教の教義がその論争のテーマとなっているために、読者の側にキリスト教に関する基礎的知識が要求される点が、本書を西洋人にくらべて東洋人にどこか取っつきにくくしている事実は否めない。しかし、キリスト教を熱烈に信仰し、自らもそれを説き聞かせる職にあるモーゼス(のちに辞職して教師となる)の手がひとりでに動いて綴った文章(自動書記通信)が自分の信仰と真っ向から対立する内容であり、そのことに悩み、苦しみ、それに反論し、かくして〝目に見えざる存在〟との論争をえんえん十年間も続けながらまったく正常な人格者であり続けたという事実が、この五感の世界以外に知的で理性的で愛を知る存在が実在していることを何よりも雄弁に物語っているといえよう。

 その熾烈な論争──一時は霊側の総引き上げという形での決裂寸前にまで至ったほどの遠慮容赦のない激論を闘わせながら、モーゼスの側はあくまでも真摯な真理探究心を、霊側は真実の光明へ導かんとする温かい愛を最後まで失っていないところが、本書が稀有の価値を与えていると私は考えている。

 私はこれを一日数時間、ほぼ三百日をかけて完訳したのであるが、その間、訳者としての立場を忘れて思わず情的にその内容に巻き込まれ、感涙の流れるに任せざるを得なかったことが何度あったか知れない。今でも心が落ち着きを失いかけた時は必ず繙(ひもと)くことにしているが、その度に勇気百倍、生きる意欲を鼓舞される『シルバーバーチの霊訓』『ベールの彼方の生活』と並んでこれを私が〝英国の三大霊訓〟の一つに数えるのはそのためである。

 さて、この続編はモーゼスの死後、恩師である医師のスピーア博士 S・T・Speerの夫人が、博士宅で催された交霊会(自動書記は自宅の書斎で、交霊会は博士宅で行われた。博士一家との縁については巻末「解説」を参照されたい)の筆記録の中から、ぜひとも公表すべきであると思われるものを選んで心霊紙 Light に掲載し、それにモーゼス自身が同じ心霊誌に発表していた記事の中から参考になるものを精選して、それといっしょに一冊にまとめたものである。

 本書の特徴は、正篇が自動書記通信だけで構成されているのに対して、霊言現象による通信が紹介されていることである。霊言と自動書記の違いは、霊言が霊媒の発声器官を使用し自動書記が霊媒の腕を使用するという形の上から言えばそれだけのことであるが、表向きは単純のようで裏面の原理はそれぞれに何種類もあって複雑である。


 そもそも霊界通信なるものの入手方法は右の霊言と自動書記の外にもう一つ、幽体離脱によって霊界を探検したり指導霊からじかに教わったものを持ち帰って綴る、あるいは語る、という方法がある。これはいわば霊界旅行記であるが、霊言や自動書記に於いて霊が行っている役割を自分が行う──いうなれば一人二役をするだけのことで、原理的には右の二つと同じである。

 この場合でも本人の目には見えなくても大勢の背後霊が陰から指導し援助し、又危険から守ってくれている。この道の第一人者ともいうべき A・J・デービスは自分は霊の力を一切借りずに全部一人でやっているようなことを述べているが、これはただ自分でそう思っていただけで、実際には陰から指導と援助と保護を受けていたのである。本書の中でも通信霊の一人が、それには例外はないと断言している。

 このことは地上と霊界との関係に限ったことではなく、霊界に於ける上層界と下層界との関係においても同じである。『ベールの彼方の生活』の通信霊アーネルが部下とともに暗黒界を探検し、その間ずっと自分達だけでやっていたと思っていたのが、帰還して見ると、悉く上層界からの指示と加護を受けていたことを知る、という経緯が述べられている。

 その点『私の霊界紀行』(潮文社)のスカルソープ氏は自分の行動はすべて背後霊団によって準備され案内され守られていると述べていて、デービスと対照的に実に謙虚である。見かけのスケールは小さいが、霊的には非常に高い、あるいは深いことを述べていて、信頼度は抜群であると私は見ている。

 他に有名な人としてはスェーデンボルグが挙げられるが、実際に見たものを無意識のうちに潜在的な観念によって歪曲している部分が多すぎて、私はあまり、というより、ほとんど価値を見出せずにいる。とくに初心者には妙な先入観念を植えつけられる危険性さえある。

 この霊能において肝要なのは、異次元の世界で見たものをどこまで生のまま三次元の言語で表現できるかであって、その純度が価値を決定づける。そこに背後霊団の援助と霊能者本人の霊格の高さが要求されるわけである。なおこの体外遊離現象はモーゼスも体験していて、わずかではあるが第三部で紹介されている。

 次に霊言現象の原理であるが、これには四種類ある。
(一)直接談話現象──これはエクトプラズムという特殊な物質によって人間の発声器官と同じものをこしらえ、それを霊が自分の霊的身体の口を当てがってしゃべる現象である。空中から聞こえる場合は肉眼に見えないほど稀薄な物質でこしらえてある場合で、メガホンから聞こえる場合は、そのメガホンの中に発声器官がこしらえてある。

(二)霊媒の発声器官を使用する場合──ふつう霊言現象というのはこれを指す場合が多い。この場合は霊媒の潜在意識(精神機能)の中の言語中枢を使用するので、霊媒自身の考えによって影響されないだけの訓練が要請される。モーリス・バーバネルを通じて五十年にわたって霊言を送って来たシルバーバーチ霊は、その為の訓練をバーバネルが母体に宿った瞬間から開始したという。

(三)リモコン式に操る場合──シルバーバーチのように霊媒の身体を占領するのではなく、遠距離から霊波によって操る。原理的にはテレビのリモコンやオモチャのラジコンと同じである。霊視するとその霊波が一本の光の棒となって霊媒とつながっているのが見られる。

(四)太陽神経叢を使用する場合──みぞおちの部分にある神経叢が心霊中枢の一つとなっていて、そこから声が出てくる人がいる。また、なぜかこの霊能を持つ人がほとんど決まって米国のナイヤガラ瀑布の近辺の出身か、そこで修業した人であるという事実も興味深い。

 次に自動書記現象の原理であるが、これには大きく分けて三種類、細かく分けると四種類ある。

(一)ハンドライティング──霊が霊媒の腕と手を使用する場合で、これはさらに二種類に分けることが出来る。
 ①霊媒の腕を直接使用する場合、ふつう自動書記と言えばこれをさす。モーゼスの場合もこれである。
 ②リモコン式に操る場合、霊言の場合と同じで、霊波によって霊媒の言語中枢と筆記機能とを操作する。

(二)ダイレクト・ライティング(直接書記)──紙と鉛筆を用意しておくと、いきなり文章が綴られる。
ストレートライテングもこの部類に入る。多量のエネルギーを必要とするので、長文のものは困難で、簡単なメッセージ程度のものが多い。

(三)インスピレーショナル・ラィテング(霊感書記)──霊感で思想波をキャッチすると自動的に手が動いて書く。原理的にはふだんわれわれが考えながら書くのと同じで、ただその考えがインスピレーション式に送られてくるというだけの違いである。オーエンの『ベールの彼方の生活』がこの方式によって綴られている。

 さて、本書の第一部は最高指導霊のインペレーターをはじめとして、他に数人の霊による霊言が集められている。そのインペレーターの言葉に、「私はいま皆さんからはるか彼方にいます」とあることから、その時はリモコン式にメッセージを送っていたことが推察される。それでもインペレーターが語る時は交霊会の部屋に厳かさと力強さが漲ったという。そのインペレーターが冒頭で紹介している霊団の組織と役割分担についての説明は非常に興味ぶかい。

 第二部は、自動書記による通信で正篇に盛られていないものの中から、スピーア夫人が是非ともと思うものを選び出したもので、正篇を補足する形になっている。
 注目すべきこととしては、ここで初めて〝再生〟の問題が取り上げられていることで、多くは語っていないがインペレーターがそれを肯定する立場から含蓄のあることを述べている。私の推察では、この再生問題はインペレーター霊団の役目の中に予定されておらず、いずれ、ほぼ半世紀後にシルバーバーチ霊団が再生説を基本概念とした霊的進化論を説くことになっているという、全体の予定表が出来ていたのであろう。

 第三部はモーゼス自身をテーマとして、先ず他界後、心霊誌ライトに載った追悼の言葉、続いて交霊会で起きた珍しい物理現象、さらに、入神中の体外遊離体験、そして最後に、生前モーゼスがライト誌に投稿した記事の中から興味深いもの、参考になるものを抜粋して紹介している。

 モーゼスの人となり、及びスピリチュアリズムに関する見解を知る上でそれが非常に参考になるが、私はそれをさらに補足する目的で、ナンドー・フォドーの《心霊科学百科事典》から<ステイントン・モーゼス>の項目を全訳して巻末に紹介した。その内容がそのまま『霊訓』ならびに霊媒としてのモーゼスの解説となっているからである。インペレーターを初めとする背後霊団の地上時代の身元についての調査資料も一般の読者の方には興味ぶかいテーマであろう。

 なお第一部の構成者(編者はスピーア夫人であるが本書の構成者は別人である。名前は公表されていないが、多分当時のサイキック・ニューズ社のスタッフの一人であろう)が〝はじめに〟の中で述べているように、本書に収録されたものは断片的に抄出したものであって内容に連続性がない。そこでその〝断片〟の合間に正篇から抜粋を挿入して、理解を深める上で参考となるように私なりの配慮をした。時には長文に及ぶものもあるが、読者はいちいち正篇を繙く手間が省けるであろう。

 また場合によっては内容の重大性に鑑みて、『シルバーバーチの霊訓』や『ベールの彼方の生活』からも抜粋して紹介してある。要するに私は本書を英国のいわゆる〝三大霊訓〟のダイジェスト版のようなものに仕上げたつもりである。

 今後ますます霊的なものが輩出することが予想される日本に於いて、その真偽の判断の拠り所として、こうした時代の荒波にもまれながら生き延びてきた、真の意味での聖典(バイブル)と言えるものをぜひとも座右に置いておく必要があると考えるのである。

 初めに紹介した霊言現象および自動書記現象による霊からのメッセージの入手方法の原理と合わせて、霊についての正しい常識と知恵を身に付けていただくことになれば幸いである。

 最後にひとこと、翻訳の文体について述べておきたい。この『霊訓』の原文は正続ともに古めかしい文体で書かれており、それは霊言の場合でも同じである。そこで国書刊行会からの完訳版ではなるべくそれを訳文に反映させるように工夫したために古い堅苦しい文体となったが、本書では霊言が主体となっていることも考慮して、思い切って現代文で表現してみた。インペレーター独特の重厚味が欠ける憾みがなきにしもあらずであるが、広く現代の読者に読んでいただくためにはこの方が親しみやすくて良いと判断した次第である。
  一九八七年六月
                                        近藤千雄


     第一部 霊言による霊訓
    はじめに

 この第一部に収録した霊訓は、医師スピーア博士の私宅で催された交霊会での霊言を博士夫人が筆録して保存しておられたものである。

 ステイントン・モーゼス氏の死後、夫人はそれを心霊誌ライトに寄稿された。その記事の中からさらに厳選して、ここに出版することにした。貴重な価値と興味あふれる資料が紛失することを惜しむがゆえである。

 収録されたものは断片的に抄出したものであって、内容に連続性はない。同時に、原文では連続していないものでも内容に一貫性があれば並置したところもある。

 カッコ「 」の部分が通信霊の述べた言葉で、その他はスピーア夫人の説明である。通信霊はほとんどの場合が最高指導霊のインぺレーターで、特に指摘されていない場合は、インペレーターと思っていただきたい。

 ライト誌での連載を終えるに当たってスピーア夫人はこう述べている。
「交霊会における現象の見事さと品の良さ、またインペレーター霊の強烈にして威厳に満ちた雰囲気はとても言葉で尽くせるものではありませんでした」
                                      ──構成者 


(註)──この前書きは本書の構成者のものであるが、氏名は記されていない。なおスピーア夫人の文章は現在形と過去形とが入り乱れていて一貫性がない。実際にはモーゼスの死後のことであるから過去形である方が自然なので、私はすべてを過去形に統一した。☆


 「私こと Imperator Servus Dei (神の僕インペレーター)は四十九名から成る霊団の頭であり、監督と統率の任にあり、他のすべての霊は私の指導と指令によって仕事に当たります。

 私は全知全能の神の意志を成就せんがために第七界(55頁参照)より参りました。使命達成の暁には二度と地上には戻れない至福の境涯へと向上して行くことでしょう。しかしそれはこの霊媒が地上での用を終えた後となるでしょう。そしてこの霊媒は死後において地上よりさらに大きな使命を与えられることでしょう。

 私の下に私の代理であり副官であるレクター Rector がいます。彼は私の不在の折に私に代わって指揮し、とりわけ物理的心霊現象に携わる霊団の統率に当たります。

 レクターを補佐する三番目に高い霊がドクター Doctor, the Teacher です。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、後で紹介する知恵と知識を担当する一団が控えています。

 次に控えるのが、地上の悪影響を避けあるいは和らげ、危険なものを追い払い、苦痛を軽減し、よい雰囲気を醸し出すことを任務とする二人の霊です。この二人にとって抗しきれないものはありません。が、内向的罪悪への堕落はどうしようもありません。そこで霊界の悪の勢力──霊媒の心変わりを画策し、聖なる使命を忘れさせようとする低級霊の誘惑から保護することを役目とする二人の霊が付いております。じきじきに霊媒に付き添うこの四人を入れた七人で第一の小霊団(サークル)を構成しています。われわれの霊団は七人ずつのサークルで構成されており、それぞれに一人の指揮官がいて六人を統率しております。

 第一のサークルは守護と啓発を担当する霊──霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊から成ります。

 次のサークルは愛の霊のサークルです。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、その他に優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類のものすべてを配慮します。

 次のサークル──これも同じく一人が六人を主宰しています──は叡智を司る霊の集団です。直感、感識、反省、印象、推理、といったものを担当します。直感的判断力と、観察事実からの論理的判断力とを指導します叡智を吹き込み、且つ判断を誤らせんとする邪霊からの影響力を排除します。

 次のサークルは知識──人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当します。また霊媒の辿る困難きわまる地上生活を指導し、有益な実際的知識を身に付けさせ、直観的知恵を完成させます。これはドクターの指揮のもとに行われます。

 その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループです。彼等は崇高で知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さにあふれる言葉に触れさせます。美しいもの、芸術的なもの、洗練された教養あふれるものへ心を向けさせ、性格に詩的な潤いを与え、気品あるものにします。

 次の七人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を受け持ちます。これがこの霊媒の性格に軽快なタッチを添えます。つまり社交上大切な生気あふれる明るさであり、これが日々の重々しい苦労から気分を解放します。愛想がよく心優しい、魅力あふれる霊たちです。

 最後のサークルは物理的心霊現象を担当する霊たちです。高等な霊的真理を広める上でぜひ必要とみた現象を演出します。指揮官代理であるレクターの保護・監督のもとに、彼ら自身の更生を兼ねて、この仕事に携わっております。この霊媒及びわれわれ背後霊団との接触を通じて、更生への道を歩むのです。それぞれに原因は異なりますが、いずれも地縛霊の類に属し、心霊現象の演出の仕事を通じて浄化と向上の道を歩みつつある者たちです。

 このように、私の霊団は七つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るく愛想のいい霊たち、この低い地上界の単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界と皆さんとの交わりを通じて低い界から高い界への進化という恩恵に浴さんとして働く霊たち──その霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。

 いずれのグループの霊たちも、みずからも進歩を求めている霊たちです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒と共に進歩せんと志す者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによってみずからも向上せんとしているのです。

 われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。
 全能の父なる神の祝福のあらんことを」 


 「私がこの地上を去ったのは遥か遠い昔のことになりますが、このたび戻って参りましたのは、この霊媒を通じて霊的啓示を届けんがためです。それが私の使命なのです。私の属する界層からこの地上へ戻って来る霊はきわめて稀です。が、大神が特殊な使命のためにこの私を遣わされたのです」

 「天界と地上との間の階梯(はしご)はつねに掛けられております。が、人間の側の不信心が天使の働きかけを遮断してまいりました」

──あなたは神の僕ですか。
 「いかにも。神の僕として選ばれ使命を仰せつかることは、われわれ仲間の間にあってはただならぬことです。私はこの霊媒を通じての使命を終えた後には二度と個的身体をまとって戻ることの出来ない境涯へと赴きます。他の霊を通じて影響力を行使するのみとなるでしょう。

 皆さんはすべからく大神の導きを求めねばなりません。おのれを恃(たの)む者は滅びる、滅びる、滅びる・・・・・・(特に厳粛な調子で述べた)。神は光明と導きを求める者を決してお見捨てにはなりません。決して、決して、決して・・・・・・」

 霊言が始まった当初、インペレーターはモーゼスのほぼ全生涯を共にしてきたと述べた。そのころは第六界に所属していたが、のちに第七界へと向上しているという。

 そのインペレーターがモーゼスを入神させて語る時、モーゼスの頭部の後方に大きな光の十字架と、それを取り巻く光線が列席者の目に映った。やがてそれが数フィートにも及ぶ高さの、強烈な光輝を発する美しい〝光の柱〟となり、それが右に左にと動いていた。その光柱の背後に沢山の光が楕円形に群がっていた。その状態が三十分以上も続いた。そのことについて尋ねるとインペレーターが、光の柱はインペレーター自身で、それを取り囲んでいる光線は側近の者で、光の群れは霊団の他の者たちであると説明してくれた。また霊媒の頭部のまわりの光輝は霊媒の霊的威力を示しているとのことだった。

 インペレーターが出現している時は必ずサークル全体に厳かな雰囲気がみなぎり、われわれは偉大にして善良な霊の前に居ることを感じるのだった。

 インペレーター霊団の背後にはもう一人、強烈な影響力を持つ霊が控えていて(巻末〝解説〟参照)、霊団全体の指導と霊媒の守護の任に当たっていた。その霊団の中でも高級な部類に属する霊たちは霊媒を教化する立場にあり、代わって霊媒が霊団の中でも未発達な霊を教化するという関係にあった。その大半が地上生活での成長が乏しかった者で、再教育の為に、いうなれば地上という学校へもう一度戻ってきたのである。この仕事を通じて成長したものはやがて霊団を離れて上層界へと進み、代わって、同じ仕事を必要とする霊がその役目についた。

 インペレーターの語り口と祈りは実に厳かで、聞く者の心に、ぜひともこの聖なる仕事を完遂したいとの真摯な願望を抱かずにはおかなかった。われわれの祈りに対してもインペレーターは(自分みずからではなく)自分を通じて神の意志が直接伝えられるように嘆願してくれるのだった。そして交霊会のしめくくりとしていつも、われわれが、神の御国がわが心の中にあることをこの地上にあって悟り、慈悲と穏やかさと優しさと哀れみの心を身につけるようにその祈りの言葉を述べた。その一つを紹介すると──

 「願わくば全能なる大神の祝福と保護のもとに真理と安らぎへ導かれんことを。地上を去りてのち、苦しむことなく中間の界層を首尾よく通り抜け、喜びの境涯へと進むことが出来るよう、この今を生きられんことを」

 「地上へ降りてくる高級な霊は一種の影響力であり、言わば放射性エネルギーです。人間が想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物のようなものです。高等な霊的通信の非個人性に注目していただきたい。この霊媒との関わりを持った当初、彼はしつこくわれわれの身元の証明を求めました。が、実はわれわれを通して数多くの影響力が届けられているのです。死後、首尾よく二段階三段階と上って行った霊は人間的意味での個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私はいま地上へ戻れるぎりぎりの境涯まで辿り着きました。が、距離には関係なく影響力を行使することが出来ます。今私は皆さんからはるか彼方に居ます」

 エリオトソン Elliotson と名のる霊に代わる。
 「(入神状態において宇宙の記憶層から)無意識のうちに回想するなどということは不可能なことです。無意識的回想説は笑止千万というべきです。すべてのカギは背後霊の働きにあります。またアイデンティティ(地上時代と同じ人物像)が不変であるかに考えるのも間違いです。私の知る限り高級霊ほどアイデンティティをほとんど失っております。進化していくうちに個性が拡張し放散して、一種の影響力の中枢のような存在となるのです。この霊媒の守護に当たっておられるインペレーター霊はこの上なく高貴なお方で、私をその影響下に包み込んでおられます。が、私にはそのお姿は見えないのです。しかも私が存在する空間に充満しておられます。命令と指示を受けておりますが、一度もお姿を拝したことがないのです。この霊媒には顕現の形で見えることがあります。その必要性があってのことで、私にはその必要性はありません。

 私にとっては、こうして地上に戻ってくることは一種の試練です。たとえてみれば、清らかで陽光あふれる大気の世界からも濃霧の立ちこめる谷底へ下りて行くにも似ていましょう。地上の雰囲気の中に入ると私はすっかり変わってしまうようです。かつての地上時代の思考の習性がよみがえってきますし、当時より鈍重な空気を呼吸するような感じがします」

 「私たちはあなた方人間に神そのものが影響力の大中心であること、その影響力は中間的存在である霊を通じて人類へいきわたることをお教えしたいのです。その霊的存在──あなた方が天使と呼んでおられる存在です──が人類に影響を行使しているのです。光の大中心を取り巻いて存在する大天使が、それをさらに取り巻いて存在する天使に影響力を放散する──つまりそうした天使的存在を通路として最高神の霊力が、受け入れる能力のある者すべてに届けられるという仕組みをお教えしたいのです。

 人間は無意識のうちに知識を受け取りそれを広める通路となっているのです。与えられた才能を開発し、与えられた仕事を助成することによって、人間界における神の霊の住処を開発していくことができるのです。神のお力は高き界層に発し、天使を通して降下し、選ばれた使者にしみ通り、いかにすれば人間が神の協力者たりうるかを示します」


 インペレーターに代わる。
 「かつては〝天使〟と呼ばれ今日では〝霊〟と呼ばれている存在が人間と神との間をとりもち、神の恩恵を地上へ送り届けると同時に、人間の祈りを神の玉座へ送り届けることも致します。それが神と人間とを取り持つ手段であり、影響力の通路なのです。物質に宿る霊(人間)のまわりには常に天使の支配があると思われるがよろしい」


(註──ここでエリオトソンとインペレーターが述べていることは、私が〝まえがき〟で述べたこととも関連して、霊能者をもって任じている人達に猛省を促したいところである。
 宇宙意識とか記憶の層から望み通りの知識や情報が得られることは理屈の上でのみ言えることであって、実際にそれができる人は地上の人間にまずいない。シルバーバーチは自分の過去世を知ることすら地上の人間には困難だと言っている。

 この種の問題ではエドガー・ケーシーの名を思い浮かべる方が多いことであろう。この人は宇宙意識が語るのを入神状態で取り次ぐそうであるが、実際はエリオトソンが言っている通り、それもすべて背後霊団がやっていることである。
 ラジオのダイヤルを回すと次から次にいろんな放送が入って来るが、宇宙にはそれとは比較にならない、無数といってよいほどの意識や観念が飛び交っている。高級霊からのものもあるが、それを妨害したり、それらしく装って実はニセの情報を流している低級霊の集団からのものもある。困ったことには、そうした低級霊の波長の方が人間には感応しやすいのである。そこに予言のハズレや霊言のいい加減さが生じる原因がある。

 心霊治療の場合は治る治らないの形で結果が明確に出るから良いが、霊言、霊示、お告げの類は、本当か否かを判断する手掛かりは何一つない。たとえ間違いなく〝霊〟からのものであっても、今度はこの霊の程度と質が問題となる。それを試す方法は二つある。

 一つは徹底的に疑ってかかることである。唯々諾々として何でも有難がるのが一番危険である。疑われて機嫌を損ねるような霊は相手にしない方がよい。

 もう一つは、その内容から判断して、それが〝霊〟から承(うけたまわ)らねばならないほどのものかどうか、あるいは、そんなことを知ってどうするのかということを常識的に検討してみることである。その尺度でいけば、最近マスコミを通じて霊言だ、予言だと言って宣伝されているものに、どうでもいい、好い加減なものがいかに多いかがお分かりいただけるであろう。☆


 スピーア博士がキリスト教の教義について質したのに対してインペレーターが──


 「キリスト教の説く教義には多くの誤りが見受けられます。神についての見解はそれを受け取った霊媒の先入観念によってとかく着色されているものです。人間の勝手な考えによって教説をこしらえ、それがドグマとして定着し、絶対的教義として教え込まれています。創造神と人間とのつながり、及び罪についてのキリスト教の説は間違っております。

 罪とは、本質的には、霊性を高めるべく意図された永遠不変の摂理に意識的に違反することです。神が人間の罪をご自身への侮辱と受け止めるような事はあり得ません。われわれが幼児の無礼を受けとめるのと同じように(寛容的に)受けとめられます。自然の摂理によっていずれは悲しみと罰とがもたらせるようになっているのです。罪それ自体は創造神への侮辱などではありません。従って無力な人間に報復という形で罰が加えられるなどということはあり得ません。罪はそれ自体が不変の摂理の審判としての罰を含んでいるのです。

 人間イエス・キリストの地上生活は、地上の人間が見習うべき一つの模範を垂れたものでした。が、それをもって人間の罪を贖ってくれるものと見なすことは赦し難い欺瞞であり、それこそ神を侮辱し、その汚れなき霊性を侮辱し、盲目的信仰に安住している者を堕落させ、おのれの軽信をもって美徳と思わせることになりかねません。

 そのうち、これほど好い加減な寓話が、よくも大まじめに信じられてきたものと呆れる日も来ることでしょう。われわれにその普及の権限が託されている真理は、いずれそうした人間的創作を全て無用のものとすることでしょう。人間は神を自分に似せて想像したのです。その神はきわめて人間的です。人間らしさを幾つも備えております。もう少し崇高な概念が抱ける者ならばおよそ受け入れ難い性質を、人間は〝神〟の名のもとに説いてきました。

 地上人類はようやく今、全知全能の父なる神の概念へ向けて近づきつつあります。やがて新たな啓示を得て、すべての古い誤謬を排除し、新しい神の概念を理解することになるでしょう。全能の神からわれわれが頂いてきた啓示は、これまでの古い教義と思索の産物を排除し、それに代わって、作り話ではなく、あるがままの真理を授けることになるでしょう。

 霊的啓示はすべて神から届けられます。がしかし、それまで人間が信じ希望を託してきたものの多くを除去しなければならないために、必然的にそれは人間が〝信仰〟と呼んでいる者を覆すことになります。神は人間の理解力に応じたものを啓示されます。ゆえに、神の啓示は段階的進歩を辿ることになります。それを授けようとするわれわれの仕事を阻止せんとする邪霊が組織的策謀を弄していますが、こうした反抗は真理が完全に普及しつくすまでは途絶えることはないでしょう。それは信念の弱い者にとっては容易ならざる試金石となるでしょうし、信念強固なものにとっては油断ならない大敵となるでしょう。が、そこにこそ邪霊の存在意義もあるのです。

 見えざる通信霊の指導を仰ぐ時は、果たしてその霊がみずから公言するとおりの存在であるか否かを見極めないで唯々諾々として承ることのないよう心していただきたい。われわれの立場から言わせていただけば、真摯にして純粋な探求心から発する調査には何ら恐れは覚えません。この交霊会において皆さんが目の当たりにされている現象は、キリストが行った奇跡と本質に置いて同じものです。その耳でお聞きになる言葉はヘブライの予言者たちの言葉と少しも変るところはありません。

 スピリチュアリズムの知識はいずれ普及します。が、何所かの宗派の教義としてではありません。われわれの啓示には主教も司祭も執事も必要としません。必要なのは守護・指導に当たる霊と、それを受ける人間の霊との交わりのみです。キリストも述べております──いずこの土地、いずこかの人間が特に他より神聖であるかに説かれることのない時代が訪れるであろう。と」


(注──英国国教会のかつての大主教ウィリアム・テンプルの言葉にこうある──〝わが国教会の最大の誤りは、神は紀元六六年まで世界の一地域すなわちパレスチナにのみ働きかけ、それ以後は他のいかなる土地にいかなる働きかけもしていないという信仰を作り上げてしまったことである〟と。いつから何を根拠にこうした説が出来上がったのかは知らないが、もしその通りだとすると、交霊会というものはあり得ないことになる。キリスト教徒が交霊会を毛嫌いする理由はそこにあるが、ここでインペレーターが言っているのは、交霊会を通じてのみならず日常生活においても霊は人間に働きかけており、それが一番大切だということである。☆

 「われわれは人間に対して、自分をおいて他にいかなる救い主も説きません。胸をえぐられる思いの後悔の念と深甚なる償い──罪の結果はそれしかありません。悪いと知りつつ犯した罪が生み出すその結果から逃れられる者はいません。誰一人いません。お慈悲を求めていかに大げさに泣き叫んでみても、それだけで即座に神の御前に侍らせていただけるようなことは断じてありません。叉底なしの地獄絵図など、われわれは説きません。肉体的に、精神的に、そして霊的に、地上の人間としても義務を果たすことによって徐々に幸せに、少しずつ神らしく成長していきます。人間の勝手なドグマなどは肉体の死と共に死滅し、昇りゆく太陽によって雲散霧消します」


 スピーア博士「十字架上での盗人の懺悔の教訓は人を誤らせるものということになるわけですね」
 「そうです。涙も絶叫も魂を清めることにはなりません。矯正のための永い過程をへなければなりません」

 スピーア博士「御子イエスの血がすべての血を清める、という聖書の文句を解説してください」

 「その中身を汲み取ることです。人間はこれを神がその御子を地上へと身を落とさせ、その御子の血のほとばしりが、それによる贖いへの信仰を告白した者のみを永遠の火焔地獄から救い出すと解釈しています。一体その御子が何者であるかについて知らないままそう解釈しておりますが、そのような冷酷にして無情、邪険きわまる言説は打ち棄て、キリストの生涯と教えの底流にある霊的な意義を読み取ることです。

その人生は人間にとって模範とすべきものであり、至純にして至聖、苦難によって崇高さを増し、慈悲によよって高揚された生涯でした。みなさんもぜひその生活を見習っていただきたい。そうした生活こそ罪より救い、気高いものへと導いてくれることでしょう。誤ることを免れない人間の言葉を字句通りに受け取り、さらにその誤った土台の上に教理の体系という上部構造を築くという間違いを犯しております」

 「ここで、神についての真実の概念を申し述べたいと思います。人間的属性をそなえた人格神としてではありません。神々しい人間神としてでもありません。全宇宙に瀰漫し、普及する普遍的大霊としてです。今や人類は神についてより大きな概念を受け入れる用意が出来ました。われわれは〝愛〟として顕現している神を説きます。愛──いかなる限界内にも閉じ込められない愛としてです。

人間神の概念はかつての人類全体に行きわたっていた偶像崇拝の産物です。これを改めることもわれわれも使命の一つです。神は一個の人格を具えた存在などではありません。どこかの一地点に鎮座ましますのではありません。すべてに浸透し、無始無終に存在し、すべてを導き、すべてを愛されるのです。

 肉体に宿る人間はどうしても限りある形体を具えた神を想像します。われわれが知り得た限りでは、神は限りある人格者ではなく、ましてや一個の人間となって誕生したこともなく、人間的影響力によって動かされることなど断じてありません。神は普遍的法則として働いています。祈ることは結構です。祈りは波動の原理で天上界へと送られ、神が直接働きかけられる天使のもとに届けられます。人間はすべからく祈ることです。祈ることを知らない頑なな魂は天使も近づくことができません。祈る魂には、いついかなる時でも、天上界の使者が惹きつけられます。

 一方においてわれわれは神を一種のエネルギーとして片付けんとする致命的な誤りを避けねばなりませんが、他方、神を人間的煩悩と必需品と権力欲とを具えた人間的存在とする擬人説の迷妄にも陥らぬように注意しなければなりません。原書、人間は自分で勝手な神を作り上げました。暴君の如き神、いえ、人間にも真似のできないほど極悪非道の神でした。本当の神とは生命の本質として、全存在に活力を与える〝霊〟です。全存在を美化する光と愛とを供給する資源です。その神の御心にかなった生活はキリストの生涯の中に体現されています。神は単なるエネルギーではありません。さりとて人間が大自然と呼んでいる非人格的存在でもありません。

 神のことを宇宙に瀰漫する根源的大霊と心得るがよろしい。〝父なる存在〟という言葉がその正しい概念を伝えております。大自然そのものは神ではありません。その大霊が顕現した相(すがた)にすぎません。手がすなわち身体とは言えません。身体を構成するものの一顕現にすぎないのと同様です。

 これまで〝父なる神〟についてあまりに誤った概念がはびこっていました。遠い昔にあっては、それは怒れる神であり、、人間はお慈悲を求めて泣き叫ぶことによってその怒りを鎮めることを要しました。わが子を永遠の地獄へほうり込むことを愉快に思う神でした。

 われわれが認識している神(想像する神ではありません)は、完全にして永遠なる愛の神、過ちを犯した人間も善良な人間もともにその御胸に抱かれる神──わが子すべてを等しく哀れみをもって見つめ、民族や土地によって区別することなく、神の御名を唱えるものすべてに等しく優しさと愛の念をもって応えてくださいます。

 もしも人間が、いかに身分の低い者をも、世間でいかに軽蔑されている者をも慈しみ慰め給う間断なき愛の証──天使の軍勢が神の子等を取り囲んでいる姿をわれわれと同じようにご覧になることが出来れば──たとえ一瞬でもその目で光り輝く存在の大軍勢を垣間見ることが出来れば、誰しもきっと感動を覚え、鑽仰(さんぎょう)の声を発するに違いないのですが・・・・・・。願わくば石のごとく冷ややかな人間の心、高級界からの働きかけに何の反応も示さない心が神の御光に感動し、全てを与えたもう神、普遍的愛の神へ向けて讃仰の声を発することになってくれればと祈らずにはいられません。

 われわれはその天界の政庁の代表として参っている者です。父なる大神は、子等の望みに応えるべく、慰安と導きと愛をたずさえた天使団を送られます。輝ける永遠の光明界よりわれわれは人類の経綸のために参っているのです。天使の群れ、霊の群れ、他界せる知友の群れが、後に残れる者の経綸に当たっているのです。

  
「各時代の人間の中から啓示の受信者が選ばれます。その者はいうなれば霊的影響力の預かり人であり、現在と未来とをつなぐ連結の輪の一つです。後続の者に引き継ぐべき真理がその者に預けられます。そして、その者には大神の特命を受けた高級霊が指導に当たります。大神がその万能の叡智をもって立てた計画の遂行に当たるべく、厳粛な意図をもって抜擢された霊たちです。

 やがてその受信者たちが使命に目覚めます。神の使者が天と地とを忙しく往き来します。閉ざされていた扉が再び開かれる時が到来したのです。エゼキエル(紀元前六世紀のヘブライの予言者)、パブステマの・ヨハネ(イエスの洗礼者)、そして霊覚者ヨハネ(イエスの使徒)の耳に響いた声が再び開かれる時が到来したのです。
では、人間は素直にその声に耳を傾けてくれるか──否❕ かつてと同じく今日の時代においてもそれは同じことです。このたびもまた人間側の不信が、神の愛の意図を踏みにじっているのです。人間の頑迷さが神の計画の妨げとなっているのです」

 (注)──五十年にわたってモーリス・バーバネルの口を使って語り続けたシルバーバーチの霊言の中には、ここでインペレーターが述べているのと同じことに言及しているものが何度も出て来るが、その中の一つに次のような箇所がある。

質問「今はスピリチュアリズムという形で霊界と地上界との間にコミュニケーションが開かれていますがそれ以前にも立派なコミュニケーションの時代があったのでしょうか」

シルバー・バーチ「一時的にインスピレーションがあふれ出たことはありますが、長続きしていません。このたびのコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理、監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一環として行われており、その計画の推進は皆さんがたの想像も及ばないほどの協調体制で行われております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮がなされております。すべてに計画性があるのです。そうした計画のもとに(十九世紀半ばに)霊界の扉が開かれたのです。このたび開かれた扉は二度と閉ざされることはありません」

 訳者は『霊訓』と『シルバーバーチの霊訓』と、もう一つオーエンの『ベールの彼方の生活』を英国の三大霊訓と呼んでいるが、このオーエンの霊訓全四巻の最終巻では通信霊のアーネルが右のインペレーターとシルバーバーチが指摘している〝神の計画〟について、その発端から推進の過程までの全貌を雄大なタッチで描写している。

 そのリーダーをキリストと言う名で表現している。その点はインペレーターもシルバーバーチも同じであるが、これは霊媒のモーゼスとオーエンがともにキリスト教の牧師であったこと、それからバーバネルの場合は本人は無宗教であっても交霊会のメンバーがかつてのクリスチャン、あるいは牧師だった人たちで構成されていたことから当然そうならざるを得なかったまでのことで、要するに地球神界の政庁から派遣された最高級の霊と考えればよい。アーネルが〝各天体にキリストがいる〟と言っていることからも、そう理解してよいであろう。

 地球神界の上には太陽神界があり、さらにその上に銀河系神界があり、その銀河系が幾つか集まった規模の神界が又存在し、多分中間にいくつかの段階、現在の天文学では知られていない規模の組織があって、最後にようやく〝造化の神界〟がある。そこを始源として全宇宙にシルバーバーチのいう〝大霊〟が瀰漫している、ということなのであろう。もっともシルバーバーチはその〝最後〟というのはないということであるが、ここまでくるともう人間の脳を通しての知性では理解できなくなる。

 それは別の問題として、こう観て来ると地球などは宇宙のチリほどの存在にすぎないが、もったいないことに、その地球の浄化のために、地上の全人口をはるかに超えた数の霊の大軍が組織され、本格的な活動を行っていることは、以上の三大霊訓の支配霊が異口同音に語っていることで、どうやら間違いない事実のようである。☆


 「人間とは何か? 人間とはいかにもインスピレーションの媒体にすぎません。地上で崇められるいかに立派な人物も、神がその叡智のうち、人間にとって適切とみたごくわずかな一部を伝達するための手段にすぎません。その為すところの者は、偉大なるもの、気高きものもすべて、守護霊の影響でないものはありません。

 霊媒が特別の能力ゆえに選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示の為に適当な道具として選ばれ、その啓示が託されたというに過ぎません。霊媒の功績とすべきものではないのです。また真に忠実な僕としての心得のある者なら、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具にすぎません。その栄誉も、霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕──神のメッセージの受け皿として特に選ばれたという点に於いて、われわれの側にとって有難い存在という意味です。

 その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去ってのち、今度は自分が神のメッセンジャーとして、地上の霊媒にメッセージを届ける役目にふさわしい人物として成長していきます。その受け皿はおのずと気高い芳香に満ちております。そして神の僕として仕えれば仕えるほど、その気高さを増していきます。神の真理と言う名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けに足る存在となって行きます。
  
 しかし、万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし神のみに帰すべき栄光を私せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、さらには又、世俗への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害を被ることになります。

 それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任が伴うということです。善行の絶好機を手にしつつ無為に過ごした者、あるいはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りつつその実行を怠った僕としての禍が降りかかります。前者が向上するところを彼は下降します。霊的能力は没収され、道徳的にもまた知的にも堕落していきます。栄誉を投げ捨て、そして、見よ、恩恵に代わって禍が彼に降りかかります。

 それ故、そうした経歴の持ち主が他界したのちに万が一にも通信を送ってくるとすれば、その通信の内容は、その人物の地上での評判から想像されるものよりは必然的に低いものとなりましょう。地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる言葉でした。が今や神より授かった霊力は没収されています。彼の語る言葉は(親和力によって)ひかれて行く低次元の社会に似つかわしいものとなっています」


(注)──正篇の『霊訓』で同じテーマを同じくインペレーターが別の角度から説いている箇所があるので、長文をいとわず引用しておく。自動書記によるものなので文体がやや異なる。

《われわれにとっての最大の難事は、進化した高級霊からの通信を受け取るにふさわしい霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならない。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ないのが道理だからです。次に、愚かな地上的偏見にとらわれぬものでなければならない。若い時代の誤った思想を潔く捨て去り、例え世間に受け入れられないものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主でなけばならない。

 まだある。独断主義から解放されねばならない。この世的思想から抜け出せないようではいけません。神学的独断と派閥と偏狭な教義から解放されなければなりません。己の無知に気づかない、一知半解の塀に陥ってはなりません。常にとらわれのない探求心に燃えた魂であらねばなりません。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富む者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。要するに真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならないのである。

 またわれわれの仕事は、頑固な敵対心からの自己主張、または高慢なでしゃばり根性と利己心によって阻害されることがあってはなりません。そのような霊媒では仕事らしい仕事は為し得ないし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を排除するのが精一杯ということになる。われわれが求めるのは有能にして真摯、そして飽くなき探求心に燃えた無欲の心の持ち主でなければならないのです。

 そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解していただけるであろう。まさに至難の業であり、まず不可能に近い。さればわれわれは、見出し得る限りの最高の人材を着実に鍛錬した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、おのれの知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。そうすることで独断的偏見から抜け出させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物でないとの悟りへの地ならしを行う。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と積み重ね、基礎さえでき上れば、安心して上部構造を築き上げていくことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われわれの初期の目標に調和させていく。

 ここに至って多くの者が脱落して行く、そしてわれわれも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能であること、また古来の地上的偏見と頑固な独断的信仰が容易に拭えないものであること、それゆえ時の流れに任せるほかなく、われわれにとって用のない存在となったことを知って諦めるのです。

 また真理への完全な忠誠心と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われわれによる教化によって着実に培われていくものである。われわれは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。そしてわれわれが神より許された範囲での行為と霊的教訓を忍耐強くまつ心構えを培う。こうした心構えは、多くの霊媒に見受けられる苛立った、落ち着きのない不満と正反対である。

 この段階でまた多くの者が脱落して行く。恐怖と不安に駆られ、疑念に襲われる。古くからの神学を説く神は、自分のような人間の破滅を今か今かと見守っていると思い、悪魔が罠にかけんとして油断なく見張っていると思い込む。確かに、古い信仰の基盤が揺さぶられてはいても、まだ新しい信仰基盤は敷かれていない。その間隙(すき)に邪霊が付け入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖にたまりかねた者が脱落し、われわれにとって用のない存在となって行く。

 それでもなおわれわれは、人間のあらゆる利己心を払拭しなければなりません。われわれの仕事には私心の出しゃばりは許されないのです。さもないと、われわれは何もなし得ません。霊界からの指導にとって人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なものはありません。小知を働かせてはなりません。われわれからの知的働きかけの妨げとなるからです。独断主義に陥った知性は使用しようにも使い物になりません。ましてそれが高慢と自惚れに満ちていれば、われわれには近づくことすらできません。

 いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にした預言者たちはみな、我欲を滅却して使命に生きた人たちでした。聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送りました。とくにイエスはその地上生活を通して、使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した、偉大にして崇高なる模範であった。イエスという人物の中に、人類の全歴史を通して最大限の人間の可能性の証を見ることが出来るのです。

 この世から誤りを駆逐し真理の光をもたらした人々はみな、おのれに課せられた使命のために無私と献身の生涯を送った者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物──我を張らず、尊大ぶらず、自惚れを知らぬ人たちであった。いちずな誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人たちです。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲にとらわれていたならば、その成功の核心が蝕まれていたことであろう。謙虚さと誠実さといちずさとがあったればこそ成就し得たのです。

 われわれが求める人材とはそのような資質の持ち主です。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。いちずに神の仕事に目を据え、一切の地上的打算を忘れた性格。こうした麗しい魂の持ち主が稀であることは確かです。


 が、友よ、平静にしてしかも誠実かついちずな哲学者の心を心とされよ。情愛にあふれ、寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とされよ。さらに報酬を求めぬ神の僕としての無欲の心を心とされよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主をおいて他に成就し得る者はいない。われわれもそうした人材を油断なく見守り、警戒を怠らぬであろう。神より遣わされた天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれることであろう》☆


 「皆さんは次のような間違った事実に気づいておられるでしょうか。すなわち大半のキリスト教徒は自分たちこそイエスが保証した天国の継承者であると思い込み、神は自分たちのために死すべく唯一の息子を送ってくださったと信じていること。また自分たちは神の直属の僕によって授けられたメッセージの啓示を受け、かつてそれ以外のメッセージが人類に授けられたためしはないと信じていること、さらに又、その自分たちにのみ明かされた教義をインド、中国人、その他の異教徒すべてに説くことが自分たちの絶対的義務であると思い込んでいること。そして、その啓示は完全にして、神の最後のお言葉であるとまで信じていることです。

 そのような、間違っていると同時に独善的な言説は即刻捨て去られるがよろしい。最高神がそのような偏ったえこひいきをなさることはあり得ぬことです。すべてを統率される永遠の存在が、地上の一地域の子等の陳腐な願い事だけに耳を傾けるようなことはなさりません。いつの時代にも、それぞれの時代の特殊な事情に応じて神の啓示が授けられているのです。

 そのいずれの啓示にも、中核をなす重大な思想が盛られております。スピリチュアリズムと呼ばれているものは、それらを一つにまとめた総合的思想なのです。これまで断片的に啓示されてきたものが集められ、スピリチュアリズムの名のもとに、偏りのない一個の集合体としたのです。純粋性および真実性において優るものもあれば劣るものもあります。が、イエス・キリストの説いた真理が最も真実味にあふれ、多分インドの古代宗教がそれに続くでしょう。真理の受け入れの最大の障害となるのは偏見です。

 私が地上で生活した頃はそうした古い宗教については何の知識も存在しませんでした。そもそもユダヤ人の間には霊魂不滅の信仰と呼べるものは何一つ存在せず、単に憧れる程度にすぎませんでした。そこへイエス・キリストが出現して、真実の信仰として霊の不滅性を説いたのです。使命の一環がその真理を広めることにあったのです。

 当時のユダヤ人は今日のクリスチャンとよく似た傾向にありました。いつしか来世についてあまり多くを考えないようになって行きました。そこへイエスが出現して霊の不滅性と永遠性を説いたのです。それは、こうしてわれわれが他界した霊との交信の可能性を説きに来たのと同じです」


 「皆さんが異教徒と呼んでいる者の運命について大部分のクリスチャンが、彼らは死後哀れな道を辿り、お慈悲を要求することを許されぬまま神の裁きに任される、と断じております。不思議でならないのは、イエス自身は同じオリに種類の異なる羊もいると述べ、彼らも同じ仲間として、その行いによって裁かれると教えている事実を忘れていることです。またパウロが神について語った時も、神は地上のすべての民族を同じ血によってこしらえられたと言い、したがって人類は同じ家系から生じ、神を慕い求める者は誰にでもその願いが叶えられることを説いております」

 「キリストが所有していた強大な霊力はとうてい皆さんには理解し得ません。完全な自己滅却が人間の中にあって神のごとき生活を可能ならしめました。その奇跡は天使の背後霊団によって演出されました。そしてその思想は一つの気高い目的に集中しておりました。すなわち人類の福祉への献身です。

 キリストは悠久の前生(後注)を有する高級霊の一柱が宿ったものであり、その高い界層においてもなお高い位にありました。人類更生のための大事業はすべてそのキリストを淵源としております。その聖なる影響力は地上のいかなる暗き場所をも数多く啓発しております。これ以降も人類の霊的受容能力が開発されるに従ってその影響力がますます広がって行くことでしょう。

 われわれはそのキリストの名のもとに参ります。そのキリストの霊力のお蔭をもって語ります。そしてそのキリストの祝福を皆さんにおあずけしてまいります。その上に安らぎを、安らぎを、安らぎを・・・・・・」

 (注)──ここでいう〝前生〟とは誕生前の霊界における生活であって、地上での生活ではない。これは神々の誕生に関わる大問題で、日本の神話では寓話風に語られているが、シルバーバーチは〝物資界に誕生する霊としない霊とが居るのはなぜですか〟という質問に答えて次のように述べている。《霊界の上層部つまり神庁には、一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験しなくとも成長進化を遂げることが出来るのです。当初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上へ降りてくることがあります。歴史上の偉大な霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合が幾つかあります》
これは次のインペレーターの霊言とも一致している。☆

 「キリストの場合はかつて一度も物質界へ降りたことのない高級神霊が人類の向上と物的体験の獲得のために一時的に肉体に宿ったものです。そうした神霊は高い界層に所属し、人類の啓発のために特殊な任務を帯びて派遣されます。肉体に宿らずに、霊媒を見出して働きかける場合もあります(後注①)。その霊媒に対して、いまだかつて物質界に降りたことのない〝真理の啓発者〟から深遠な真理の幾つかが注ぎ込まれ、それについて霊媒は睡眠中に教えを受けることがあります(後注②)。本人はそれと気づいていなくても吸収することは出来ております。

 この種の神霊は俗世的問題を問われる気遣いのない時を見て働きかけようとするのです。なぜかと言えば、彼らは俗世の問題については全く無知であり、霊的知識以外は伝授し得ないのです。そうした神霊が時として自らの意志によって地上へ降誕してくることもあります。慈悲に発する使命感から率先して志願するのです。そして肉体に宿っている間は自己のアイデンティティ(本来の身元)の記憶を喪失します。こうした行為に出る神霊は数多く存在します。そして、地上生活を終えた後、特殊な存在の側面についての体験と知識とをたずさえて、本来の界層へと帰還していきます」


(注)①──『ベールの彼方の生活』第四巻で、ある〝双子霊〟が各種の天体を遍歴しながら向上していく話のあと、霊媒のオーエンとアーネル霊との間で次のような問答がある。

──地球以外の惑星との接触はどういう形で行ったのでしょうか。再生したのでしょうか。

 「再生という用語は前生と同じ性質の身体にもう一度宿るということを意味するものと思われます。そうだとすれば、そして貴殿もそう了解して下さるならば、地球以外の天体上の身体や物質に順応させていく操作を〝再生〟と呼ぶのは適切ではありません。というのは身体を構成する物質が地上の人間のそれと非常に似通った天体もあるにはありますが、まったく同じ素材で出来ている天体は二つとなく、まったく異なるものもあります。

 それゆえ貴殿が今お考えになっているような操作を再生と呼ぶのは適切でないばかりか、よしんば惑星間宇宙を支配する法則と真っ向から対立するものではないにしても、物的界層の進化の促進のためにこの種の問題を担当している神霊から見れば、そう一概に片付けられる性質のものでないとして否定されることでしょう。そうではなくて、お二人はこの太陽系だけでなく他の恒星へも、地上の場合と同じく、今私が行っている方法で訪れたのです。

 私はこの地上へ私の霊力の強化のために戻ってまいります。そして時には天体の創造と進化についての、より一層の叡智を求めて、同じ方法で他の天体を訪れます。が、物的身体をまとうことはいたしません。そういうことをしたら、かえって障害となるでしょう。私が求めているのは内的生活、その世界の実相であり、それは内部から、つまり霊界からの方がよく分かります。物的世界のことは、そこの物質を身にまとって生まれるよりも、今の霊としての立場から眺めた方がより多く学べるのです。魂をそっとくるんでくれる霊的身体よりも遥かに鈍重な器官を操作しなければならないという制約によって、霊的感覚がマヒしてしまうのです」

(注)②──これはわれわれ平凡人においても同じことで、肉体から抜け出て脳を通しての意識から解放されている間に、背後霊によっていろいろと指導を受けている。それが肉体に戻ってからどこまで脳の意識に反映されるかは霊的意識の発達程度(霊格)によるので、一人ひとり異なる。『シルバーバーチの霊訓』第七集のなかで、ルースとポールという二人の子供(姉と弟)を相手にしてシルバーバーチが次のような話をしている。


ルース「私たちは眠っている間はどんなことをしているのでしょうか」

シルバーバーチ「みなさんは毎晩その身体を後にして別の世界へ行きます。訪れた世界での体験は二種類に分けることが出来ます。一つは教育を目的としたもので、もう一つは純粋に娯楽を目的としたものです。教育的体験では、いずれ訪れる霊界生活で使用する霊的身体について教わります。娯楽を目的とした体験の場合は、たとえば霊界で催されているいろいろな会場を訪れます。
 いいですか、ルースちゃん、あなたは昨晩私の世界の庭園へ連れて行ってもらったのですよ。それからポール君は音楽を聞きに行ったのですよ」


ポール「二人ともそのことを覚えていないなんて、つまんないですね」

シルバーバーチ「たしかに、そう思うのも無理ないかも知れませんね。でも、それは肉体から離れている間の(異次元の)体験を肉体の脳で理解しようとするからなのです。ポットの水ぜんぶをグラスに入れようとしても入りませんね。それと同じです。でも夢を注意してみているとよいヒントになるものが見つかるはずですよ」

ルース「わけの分からない夢はどう理解したらいいのですか」

シルバーバーチ「変な夢のことですか。あれは異次元での体験を脳で思い出そうとするからそうなるのです。脳は小さな袋のようなものです。霊体が肉体に戻って来て、その間の体験を脳に詰め込もうとするのですが、小さな袋には全部が入りきれないのです。それを無理して押し込もうとすために、あのような変てこな形になるのです。夢というのは別世界での体験がそのまま現れるのではなく、その断片的な思い出にすぎません」☆


 「われわれはキリストの降誕に関して新しい視点を披露しました。これからそれを敷衍したいと思います。
 キリストの霊は地上へ降りることの可能な霊の中でも最高次元の霊です。そのキリストが地上人類の霊的更生のために自ら降誕したのです。

 霊が降誕するのは地球ばかりとは限りません。ただ、地球には地球ならではの特殊な体験が幾つかあります。いずれの天体にも霊的発達のための利用価値があり、すべての天体で生活が営まれております。そこへ時として高級霊が降誕して、教化と高揚に当たります。

 キリストは新しい時代を切り開かんとして、単純素朴さと誠実さとを教えるために地上に参りました。いま皆さんが見とどけておられるのは、さらに一段と高等な真理、より神性に富んだ真理を霊界から届ける新世紀の夜明けです。決して一過性の現象ではありません。人類を霊的方向へ導き啓発せんがための首尾一貫した大計画の一端なのです。現世紀は主として霊団の活躍による影響を受けていますが、少ないながらも、身をもって降誕している〝進化せる霊〟が地上にも存在しています。

 キリストの霊がそれ以前に地上へ降りたことは一度もありません。高級霊といえども肉体に宿ることによって前生の記憶を失うものです(後注①)。この種の降誕は一種の自己滅却です。もしくは〝国籍離脱〟にも似た行為です。皆さんが今生活しておられる地球は、ほぼ最低に近い次元の存在の場です。地球よりはるかに発達した天体が数多く存在します。形成の段階ある天体もあります。(太陽系では)水星がもっとも低く、木星がもっとも進化しています。

 キリストは〝無〟の境涯(超越界)へと入って行かれました(後注②)。が、われわれの仕事の完遂の暁にはみずからお出ましになられることでしょう。その刈り入れ時の到来までには幾多の為さねばならぬことがあります。種子まきと成育には長い期間(とき)を要するものです。今遂行されつつある仕事の大きさ、開かれつつある眺望の広さは皆さんには理解できません。神の愛がかくも強烈にほとばしり出たことはかつて一度もありません。地上人の心に静かな影響力が働きかけております。今こうしてお持ちしている教えの受け入れ態勢が地球上至る所で準備されつつあります。さらに多くの援助が必要となれば、新たに偉大なる天使の軍勢が差し向けられ、その霊力が地球へ届けられることでしょう。今はまだその必要はありません。計画通りに順調に進捗(しんちょく)しているからです。

 皆さんは今、地球の歴史上有数の画期的世紀一つに生きておられます。新たな教説が受け入れられるに先立って古い教説を一掃しなければなりません。が、そう易々と一掃されることはないでしょう。何となれば、その教説のまわりを、幾世紀にもわたる付着物が取り巻いているからです。しかし今や、それも急速に取り払われつつあります。そして二度と生き返ることはないでしょう。この時代に生をうけ、こうした新しい真理を学ぶことの出来たみなさんは幸せ者です。もっともその恩恵を正しく理解し活用すればのことですが・・・・・・

 私の教えは(同じく超越界に入っている)私の大先輩(紀元前九世紀ごろのヘブライの予言者だったエリヤの霊)から授けられます。私はその方と直接お会いすることが出来ます。その方もまたその大先輩(紀元前十二世紀ごろのヘブライの予言者モーセの霊)から教えを受けておられます(後注③)。

 私はまだ冥想界へ入ることはできません。が、その方が私のもとに降りて来られて、このたびの使命を私に授けられたのです。われわれの一人ひとりが大いなる系譜の一単位であり、その先を辿れば最高神にまで行きつきます。

 私の指揮のもとにある霊団は私の命令を受け、時おり私との交わりを求めて会合を持ちます。われわれの仕事にとって秩序がすべてであり、身勝手は許されません。人間が思うままに振舞えるのは、行為の及ぼす結果について人間が鈍感で、われわれと違って知らないでも平気でいられるからです。

 もっとも人間は気づいていないようですが、人間も真の意味では自由ではありません。人間の意志は、良きにつけ悪しきにつけ、かならず何らかの霊的影響力によって導かれております。ひと口に霊といっても、その進化の程度によってさまざまな種類が存在します。他の天体に所属する霊がこの地球を訪れることは、あることはありますが、滅多にはありません。地球所属の霊にしても、地上より他界した人間の霊の外に数々の種類が存在します。その中には自然界のエネルギーを支配する霊もいます(後注④)。


(注)①──『霊訓』に次のような箇所がある。


《地上の救済のために遣わされる霊はそのほとんどが肉体をまとうことによって霊的感覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常です。が、イエスは例外であった。その肉体の純粋さゆえに霊的感覚
を鈍らせることがほとんどなく、同等の霊格の天使達と連絡を取ることが出来ました。天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における地位まで記憶して居ました。天使としての生活の記憶はいささかも鈍らず、一人の時は殆ど常時、肉体を離れて天使と交わっていました。長時間にわたる入神も苦にならなかったのです》


(注)②──同じく『霊訓』の中で、魂が向上発達していく〝試練〟もしくは〝浄化〟の境涯と、そのあとに来るいわゆる超越界、いったん突入したらよくよくの場合を除いて二度と戻ることのない〝無〟の世界との間に、大きな懸隔があると述べてから、さらに次のように綴られた。

《七つの試練界の最高界から超越界の最低界への突入は人間の死にも似ている。が、その超越界についてはわれわれもほとんど聞かされていません。ただ、われわれがこうして人間を見守っている如く、その世界の至聖なる霊もわれわれを援助し導いてくださっていることは承知している。が、それ以外の具体的事実については何も知りません。分っているのは、その世界の霊はいよいよ神性が完成に近づき、宇宙の根源に通じ、大神を身近に拝むことを得るらしいということのみである。

 われわれとてその至福の境涯からは程遠い。まだまだ為さねばならぬことがあります。その遂行の中に喜びを見出しているところです。霊といえども自分が得た経験と知識に従って語っていることを承知する必要があろう。奥深い問題についても、それまで知り得た限りの範囲で解答を出します。ゆえに、真実から外れたことを述べることもあり得るわけであるから、そうした霊を咎めてはなりません。が、霊の世界について間違いなく言えることは、地上界が七つの下層界のうちの最高界であり、その上に七つの〝動〟の世界があり、さらにその上に七つの超越的〝無〟の世界が存在するということである。但しその七つの各界には無数の〝境涯〟が存在する》


(注)③──古来〝啓示〟にも霊的系譜があることを、同じく『霊訓』の中でインペレーターが次のように述べている。


《古き時代においてわれわれと同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた道程についてこれより述べようと思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。彼らは地上にあっては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきました。その一人──神が人間に直接的に話しかけるとの信仰が今より強く支配していた時代の一人に、メルキゼデクの名で知られた人物がいた。(中略)

 そのメルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時最大の改革者──イスラエルの民をエジプトから救い出し、独自の律法と政体とを確立した指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強大な人物でした。すでに当時としては最高の学派において、すぐれた知的叡知、エジプト秘伝の叡智が発達していました。人を引き付ける彼の強烈な意思が、支配者としての地位にふさわしい人物としたのです。彼を通じて強力な霊団がユダヤの民に働きかけ、それがさらに世界へと広がって行きました。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定しました。その時代はユダヤ民族にとっては、他の民族も同様に体験している段階、そして現代も重大な類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的想像力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのです。(中略)

 メルキゼデクがモーセの指導霊となったごとく、そのモーセも死後エリヤの指導霊として永く後世に影響を及ぼしました。断っておくが、今われわれはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示すために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。又その巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最小限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去った後も引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を指摘せんとしているところです。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。が、今の貴殿には関わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大な流れこそ最大の関心事であろう。もっとも、それをもって真理の独占的所有権を主張するような、愚かにして狭隘な宗閥心だけは捨て去って貰わなければなりません。

 偉大なる指導者エリヤ──イスラエル民族が授かった最高の霊は、かつての指導者モーセの霊的指揮下にありました。(中略)そのエリヤもまた後の世に地上へ戻り、指導に当たった。貴殿も知るごとく、かの〝変容〟の山上にてモーセと共にキリストの側にその姿を見せました。二人はその後ヨハネにも姿を見せ、それよりのちにも再び地上を訪れることを告げたとあります》


《注》④──いわゆる〝精霊〟のことで、『ベールの彼方の生活』ではそれを〝半理知的原始霊〟という呼び方で次のように説明している。

《これは個性をもたない自然界の霊で、鉱物の凝縮力として働くもの、植物の新陳代謝を促進するもの、動物の種族ごとの類魂として働いているものとがあります。鉱物の霊はこの分野を担当する〝造化の天使〟によって磁力を与えられて活動する以外には、それ本来の知覚らしい知覚はもっておりません。が、植物の霊になるとその分野の〝造化の天使〟から注がれるエネルギーに反応するだけの、それ本来の確立された能力を具えております。鉱物にくらべて新陳代謝が早く、目に見えて生育していくのはそのためです。

 同じ理由で、人間の働きかけによる影響が通常の発育状態にすぐ現れます。例えば性質の相反する二種の鉱物、あるいは共通した性質を持つ二種の鉱物を科学実験のように溶解状態で混ぜ合わせると、融和反応も拒否反応も、ともに即座にそして明瞭な形で出ます。感覚性が皆無に近いからです。

 ところが植物の世界に人間という栽培者が入ると、いかにも渋々とした故意的な反応を示します。ふだんの発育状態を乱されることに対して潜在的な知覚が不満を持つからです。しかし、これが動物界になると、その類魂も十分な知覚を有し、かつ叉、少量ながら個性も備えています。また〝造化の天使〟も整然とした態勢で臨んでおります》☆


 「他の天体に降誕した霊が、のちに地球へ降誕することもあります。地球上の生命の創造は霊力によって行われました。高級霊になれば、地球の大気から摂取した成分を加工し生命の要素を吹き込むことによって、新しい創造物を形成することが出来ます。霊の創造は今なお、地上においても霊界においても、絶え間なく続けられております。生殖本能は地球のみに限られているのではありません。

 新しい生命、言うなれば魂を宿した動物的生命は、途切れることなく地上へ誕生しております。精神は物質の附属物ではなく、別個の誕生と創造の起源を有します。新しい霊の創造は大気中の成分を凝縮することによって行われます。その凝縮した成分がわれわれ霊的存在と人間的存在との連結の媒体となります。いずれ、その成分に宿った魂が人間として地上へ誕生するのに要する条件、及び地上期間中にいかなる陶冶を受けるかが人類に語り明かされる日も到来しましょう。それは今みなさんが迎えつつある時代に属する課題です。その為には多くの古い偏見が淘汰されねばなりません。が、人間の頑迷さが取り除かれ、敵対者の軍団(後注)を追い散らすことさえできれば、その後に訪れる光明は真昼の太陽のごとく浩々たる輝きに満ちていることでしょう」

  
(注)──『霊訓』から邪霊集団の影響についての通信の一部を紹介する。

《すでに聞き及んでいようが、今貴殿を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈な反目がある。われわれの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば、人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの戦いです。

 それは何時の時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟な霊の抱く憎しみに煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに、程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれます。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われわれを始めとする他の多くの霊団の仕事に対して、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中です。(中略)

 そうした霊団に集まるのは必然的に地縛霊・未発達霊の類である。彼らにとって地上生活は何の利益ももたらさず、その意念のおもむくところは、彼らにとって愉しみの宝庫ともいうべき地上でしかなく、霊界の高尚な喜びには何の反応も示さない。かつて地上で通いなれた悪徳の巣窟をうろつき回り、同類の地上の人間に憑依し、哀れな汚らわしい地上生活に浸ることによって淫乱と情欲の満足を間接的に得んとするのです。(中略)

 こうした現実が身のまわりに実在するのです。それに人間は一向に気づかない。そうした悪疫の巣がある──あるどころか、ますます繫栄し、のさばる一方でありながら、それを非難する叫び声がいったい地上のいずこより聞こえるであろうか。なぜどこからも非難の声が上がらぬのであろうか。

 なぜか。それも邪霊の働きに他なりません。その陰湿な影響力によって人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならないのです》☆

 「皆さんは霊力のひとかたならぬ恩恵に浴しておられます。人類全体においても霊的感覚が増大しつつあり、一歩一歩、霊的影響力の存在が顕現されつつあります。今地上に行きわたりつつある霊力の波はキリストの時代のそれに類似しています。今明かされつつある教えがこれよりのち、キリストがもたらした教えのごとく(人間的夾雑物によって)汚されることがなければ幸いです。

 今日キリストの御名のもとに教えを説いている者の多くが、キリストが実際に説いたものとは似ても似つかぬものを説いております。われわれが今あらたに神の始源からお持ちしている真理も、全ての真理が当初において必ず遭遇する運命に遭遇することでしょう。が、人間がそれを受け入れる時代も間近に迫っております。われわれが恐れるのはわれわれの使命への反抗よりも、むしろ無関心の方です。問い質すことをせず、疑念を抱くほどの関心すら持たない感覚のマヒした、冷ややかな、生命のない無関心です」

このあとインペレーターは、この民主主義の時代においてはキリストのような巨大な予言者が一人だけ出現しても効果はないこと、これからの時代は真理がさまざまな手段でさまざまな人間に届けられること、精神構造が異なれば真理もまた異なった種類のものが必要であること、これからスピリチュアリズムに対する大きな反抗が予想されるので、それに対する備えがなければならぬこと、新しい真理の啓示に抵抗はつきものであることを語った。

℘62 
 セオフィラス Theophilus と名乗る霊が語る。
 「神はさまざまな表現形式をとり、さまざまな媒介者を通して顕現しておられます。そしてその顕現にあずかった者は、たいていその媒介者と啓示とを自分だけのものと思い込む間違いを犯します。時代ごとにそれ相応のメッセージが授けられているのですが、いずれの時代においてもそれを最終的な神のメッセージと受け止める間違いを犯します。神は何度も語りかけて来られました。が、最後の語りかけというものはなさっておりません。すでに知っての通り、現人類のための啓示はメルキゼデクに始まり、今なお連綿として続いているのです。

 またキリスト教会のみが神の啓示の唯一の受託者ではなく、他にも別の真理の受託者がいて諸国へ伝道していることも皆さんはご存知でしょう。いずれの宗教にも神の全真理のほんの一かけらのみが授けられたのです。現代の学識ある者の中には、あたかもサドカイ派(ユダヤ教の一派で霊魂の実在を信じず律法を字句どおりに解釈した者たち)とよく似た者、キリスト教徒の中にはあたかもパリサイ派(サドカイ派と対立し儀式を重んじた者たち)とよく似た者が見受けられます。一方神学者の中には、結局は何の価値もない文献を仰々しくいじくり回している者が大勢いるようです。

 今日のキリスト教の聖職者の宗教概念は、規範と教義とによって埋め尽くされて、その底流にある霊的概念をなおざりにしています。信仰心が薄れて行く第一の徴候はその霊的概念が忘れ去られることで、それが霊界などは存在しないと思わせ、まったく無意味な形式ばかりをいじくり回すようになります。かくして人間的発明品であるドグマや教説によって四方を囲まれ、肝心な霊的真理を度外視するようになり始めたら最後、信仰は衰微し始めることは確実です。

 今人間が決断を迫られているのは、霊的啓示を受け入れるか拒否するかです。受け入れる者もいれば拒絶する者もいるでしょう。

 これまでは真理が傑出した一人の人物に集中的に啓示されてきましたが、これからはそういうことはありません。一つの流れに偏り、こじつけられ、そして窮屈なものになるということはなくなり、大勢の霊媒を通じて与えられ、それだけ私的な偏りから免れ、世界中へ行きわたり、受け入れる魂を鼓舞するようになります。排他性の時代は過ぎ去りました。開かれたビジョンの時代──特権階級による一方的支配の時代から民主主義が主導的原理となる時代が到来したのです。神の真理はその流入の場を常に特権意識を持たない人達に求めます。そこには自尊心が少なく、見栄と高慢に振り回される可能性が少ないからです。

 ペテロが〝私には金銀はない〟(使徒行伝3・3)と述べた時、彼は失われてしまった高等な真理を指摘したのです。当時の聖職者たちが金銭的に恵まれた地位を得ようと躍起になっている様を見て、ペテロが強く戒めたのです。霊的影響力は当時の教会からはすでに消え失せ、物的影響力が支配していました」


 一八七五年のキリスト昇天祭におけるインペレーターの霊言。
 「以前この席でも何度か語ったことのある祝祭日(後注①)の一つであるこの日に、われわれ霊団の者も集会を催すことを、よもやお忘れではありますまい。この祝祭日は〝人の子〟イエスの昇天を象徴するものです。宗教問題を考究している学者の大多数がキリストがこの日に肉体を携えたまま天国へ移り住んだとの信仰に同意しております。しかるに皆さんの先達の一人は、血と肉では神の御国を継ぐことはできないと説いております。

 全世界各地において行われつつある物理的心霊現象がこの問題に大きな光を投げかけております。すなわちイエス・キリストほどの霊力を具えた霊が一時的に物質をまとって姿を見せることが何の不思議もないということです。キリストの生涯は尋常なものではありませんでした。霊の世界と交わる者の生涯は得てしてそうなるものです。ただキリストにくらべて他の霊覚者の生涯はさほど知られておりません。そして華々しい脚光を浴びることもありません。しかし、だからといって、いつの時代にも霊の世界と交信できる者がそこここに存在している事実を疑ってはなりません。

 キリスト教では主イエスは神人であり、人類とは異質のものであり、奇跡的な死を遂げ、死後さらに奇跡的な生命を得たと説いておりますが、真実の主はそのようなものではありません。死して後に弟子たちに姿を見せたことは事実です。が、弟子たちと共に過ごした時のあの生身の肉体のまま現れたのではありません。また同じ日、弟子たちにやさしく別れを告げたあと一瞬にして姿を消し本来の天界へと帰って行ったことも事実です。

 人間はイエスが物的身体をもって現れたことに困惑し、その解釈に頭を痛めていますが、その例証となるものを皆さんは(この交霊会で)すでに見ておられます。残酷な死を遂げたのちに見せたキリストの身体は物質化した霊体だったわけです。物質化に必要な条件が整った時に弟子たちに見せたのでした。

 大気中には地上の物的存在物を形成する基本的成分が存在します。そして又、霊体にはその被いとなる原子を吸着する性質が具わっています。かくして生成された物質に霊力が形体を与え、人間の目に、あるいは感光板にも、印象を与えることが可能となります。磁気的な作用によって霊体のまわりにその霊的生成物がが保持されるのです。

 以上の説明に科学的用語は用いておりませんが、その意味するところをよく理解してほしく思います。一つのエネルギー(生命エネルギーと呼んでもよいでしょう)がその瞬間に出席者を一つに融合させ、連結し、そして調和状態を作り出します。そのエネルギーの源は皆さんの上方に位置し、そこから生み出されます。

 かくして調和よく形成されたサークルにおいていわゆる心霊現象が発生します。それなくしては何一つ現象は起きません。そのエネルギーの発生には人間もさまざまな方法で援助することが出来ます。たとえば手と手をすり合わせるのもよいし、歌をうたうのも宜しい。霊の側においても、楽音やそよ風を発生させたり芳香を漂わせたりして、心地よい雰囲気をかもし出し、そのエネルギーの活動を助けます。それなくしては物体を操ることは出来ないのです。

 イエスの十二人の弟子はみな霊媒的素質を具えており、何よりもその資質ゆえに選ばれたのであり、イエスとの交わりの中でそれがますます発達して行きました。中でもペテロとヤコブとヨハネがとくにイエスとの共鳴度において高いものを有しておりました。同じ意味においてモーセは霊媒的素質をもった七〇人の長老を選ぶようにとの霊示を受けておりました。(後注②)

 イエスは画期的な霊的新時代の端緒を開くために地上へ派遣され、一度も地上へ生を受けたことのない高級霊団によってその生涯を指導されておりました。神が直接霊媒に働きかけることは絶対にありません。いかなる人間といえども神と直接交信することはできません。それは人間が足元の草の葉と交信できないのと同じ程度のおいて不可能なことです。

 イエスの任務と使命について地上の人間がこれほどまでに誤解するに至ったことは、われわれにとって驚くべき事実です。もっとも、その事実から幾つかの学ぶべきことも見出すことはできます。たとえば同じく真理にも深遠な霊的真理と、人間の精神に受け入れられる範囲での真理とがあり、その間に大きな隔たりがあることが人間には洞察できないことです。真理とは霊的栄養であり、精神の体質とその時々の状態に合わせて摂取されるべきものです。それはちょうど肉体の体質その時々の状態に合わせて食事を取らねばならないのと同じです。忘れてならないことは、人間の精神は地上への誕生時の条件によって支配され、霊覚が開かれるまでは、その受け入れる真理はごく限られていることです。

 イエスの再臨とは霊的な意味での再臨のことです。しかし物的偏重の時代はそれを物的再臨と考え、イエスは肉体のままいったん天国と呼ばれる所へ運ばれたあと、同じ肉体をまとって地上へ戻り、生者と死者ともどもに最後の審判をくだすものと想像しました。

 今日われわれが人間に祝ってほしく思うのは、イエスの純真な霊的身体の荘厳な昇天です。これは今人間を取り囲み神の真理の光が魂を照らすことを妨げている物的環境からの、人間の霊の絶縁の模範なのです」


 (注)①──キリスト教で祝う祭日の霊的な意味について『霊訓』に次のような説明がある。通信霊はインペレーターではない。

〇クリスマス(キリスト降臨祭)──これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿として、人類愛から己を犠牲にする。われわれにとってクリスマスは無私の祭日である。

〇エビファニー(救世主顕現祭)──これはその新しい光の地上への顕現を祝う祭日であり、われわれにとって霊的啓発の祭日である。すなわち地上へ生まれて来るすべての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人ひとりに持ち運んで与えるのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めに訪れるように、高揚するのである。

〇レント(受難節)──これはわれわれにとっては、真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの次節は、絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日である。

〇グッドフライデー(聖金曜日)──これはわれわれにとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤に訪れる目的成就、すなわち〝死〟を象徴する。ただし新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生命の認識と達成の祝日である。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。

〇イースター(復活祭)──これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克った霊、そして又、打ち克つべき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた、蘇れる生命の祭りである。

〇ペンテコステ(聖霊降臨祭)──キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけているが、われわれにとっては実に重大な意義を持つ日である。それはキリストの生命の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさゆえに自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を受ける。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理のいっそうの豊かさを祝う日である。

〇アセンション(昇天祭)──これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的決別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生命の終焉である。使命の完遂の祭りである。


(注)②──同じ『霊訓』でインペレーターがこう述べている。
《今日なお存続している「十戒」は変転きわまりない時代のために説かれた真理の一端にすぎない。もとよりそこに説かれている人間の行為の規範は、その精神においては真理である。が、すでにその段階を通り過ぎた者に字句どおりに適用すべきものではない。「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ地上的煩悩の影響に超然としたシナイ山の山頂においてモーセの背後霊団によって授けられた。背後霊団は今日の人間が忘却しているもの、つまり完全な交霊のためには完全な隔離が必要であること、純粋無垢な霊訓を授かるためには低次元の煩雑な外敵影響、懸念、取越苦労、嫉妬、論争等から隔絶した人物を必要とすることを認識していたのである。これだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることが出来るのである。

 モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として七十人もの長老──高き霊性を具えた者──を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高いものが役職を与えられたのである。モーセはそのための律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となったのちも、人類の恩人として末永くその名を地上に留めているのである》☆

℘70 
イエスの生涯のうち記録にない青年時代について──

「イエスの若き時代は一貫して準備期でした。聖書にある悪魔による誘惑の話は、他の多くに記録と同じく、ただの作り話にすぎません。〝神の声〟として受け取られている出所不明の記録の中の出来ごとをたどって行けば、そこに幾つかの矛盾撞着が見られます。その一つが荒野の誘惑の話(マタイ4)です。悪魔がイエスを荒野へおびき出し、断食によって体力を衰えさせておいて、自分の前にひれ伏せば天国を与えその主としてやると申し出たというのですが、実はこうした作り話が、向上しようとする魂の足枷となって人類を永い間拘束して来ました。すべて作り話であり、ただの想像の産物であり、光明へ向かわんとする魂を引き止めております。真の向上を得るためには、啓発の拠り所としているバイブルの中からそうした夾雑物を抹消しなければなりません。バイブルにも多くの真理の宝物が蔵されております。が、それを啓発の拠り所とする者は、真偽を見分ける判断力を身につけなければいけません。

 主イエスは、かつて一度も地上へ生を受けたことのない霊によって指導され鼓舞されておりました(後注①)。霊の影響力が今地上界へ浸透しております。その霊力はすべて主に発し、一大連動装置を形成する無数の霊を通じて地上へと届けられております。

 高級霊が今われわれがこの霊媒を支配している如くに直接的に支配することはきわめて稀なことです。もしあるとすれば、霊媒はよほど発達した者でなければならず、そのような霊媒は稀にしか存在しません。もっとも、直接的には支配せずとも、幾つかの連鎖関係を通じて支配することはできます。しかし、霊媒が(たとえ霊媒能力はあっても)精神的に未熟である場合は、高級霊はあえて努力して使用してみることはしません。

 イエスほどの進化せる霊となれば、直接的に地上の霊媒を支配することは不可能です。イエスは神の意志の直接的表現が肉体をまとったのです。後継者は残しませんでした。これから以後も出現しないでしょう。今その全霊力がこの地球の啓蒙のために向けられております。天体の一つひとつにそれぞれの霊的光明の淵源が割り当てられているのです(後注②)」


(注)①──本来の所属界においてはイエスが〝主〟でその霊団が〝従〟の関係にあり、イエス自身もそのことを知っていたという。

(注)②──各天体の守護神のことで、イエスは地球の守護神の直属の大天使の一人と考えられる。☆


 「イエス・キリストのことを一般には全能なる神の命令を受けて、その神の化身として人類救済の為に降誕し、かの磔刑(はりつけ)をもってその人類救済が成就されたと考えられておりますが、何というお粗末な思想でしょう。

 しかし実はこの身代わりの贖罪の概念は大切な真実に基づいているのです。と申しますのは、キリスト教原理と称しているものはすべての人間の霊的救済にあるのであり、各自の霊性が呼び覚まされるほどに霊界からの導きを受け向上していくものだからです。人間キリストにおいてその霊的原理が最高に発揮され、まさしく〝神の子〟と呼ばれるにふさわしい人物でした。すなわち地上に生を受けた人間の中でもっとも神のごとき人間という意味において〝神の子〟でした。

 仏佗の場合と同じように(後注①)イエスが神であるとの概念が生まれたのは死後かなりの年数が経ってからのことでした。そしてそのことはイエス自身にとっては迷惑千万なことでした。イエスを慕う者たちが祭り上げてしまった神の座を、本人は一度も口にしたことはなかったのです。イエスは真の意味での神と人間との間の仲立ちでした。神の真理をその時代に、さらにその時代を通して後世にまで啓示したのです。

 その生涯を通じてイエスは当時支配的だった思想と真っ向から対立する教えを説き、そうした者が必ず遭遇する運命をたどりました。まず貶(けな)され、つづいて見当違いの告発を受け、有罪を宣告され、そして最後に死刑を執行されました。(後注②)

 伝説は排除してもよろしいが、イエスの徳に満ちた生活、ならびにイエスが説いた福音は排除してはなりません。イエスの訓えの根底にある原理は神の父性とそれへの讃仰、全人類の同胞性と共同社会を構成する霊的な絆、祈願の法則と自己犠牲の法則、すなわち他人からしてもらいたいと思うことを他人にしてあげなさいということ(黄金律)です」


(注)①──『ベールの彼方の生活』から。
《ガリラヤのイエスとして顕現したキリストが仏陀を通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。またキリストが数多く存在する(何度も生まれ変わった)というのも真実ではありません。イエス・キリストは父なる神の一つの側面の顕現であり、仏陀・キリストは又別の側面の顕現です。

 人間も一人ひとりが造物主(父なる神)の異なれる側面の顕現です。が、すべての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストと仏陀・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。しかし顕現の大きさから言うとイエス・キリストの方が優ります。が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この二つの名前を持ち出したのはたまたまそうしたまでのことで、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、そのすべてに右に述べたことが当てはまります》


(注)②──『霊訓』から。
《イエスに向けられた非難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解きわまる神学を打ち立てた者たち──(中略)彼らは後生大事にその古い訓えを微に入り細を穿って分析し、ついに単なる儀式の寄せ集めとしてしまった。魂なき身体、さよう、生命なき死体同然のものにしてしまったのです。そしてそれを盾に彼等の神の冒瀆者(イエス)はモーセの律法を破壊し神の名誉を奪うものであると絶叫しました。律法学者とパリサイ人、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを非難しました。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号を真っ先に浴びせたのが彼らだったのです》☆


 イエス・キリストを祈願の対象としてよいかとの問いに──

 「父なる神、純粋無垢の光の中におわす永遠なる大霊の概念が理解できないうちは、イエスに祈るのも何ら差しつかえはありません。その神の概念が理解できた者なら直接神に祈ることです。が、それが出来ないのであれば、自分にとって最も身近な信仰の対象を仲立ちとして祈るがよろしい。その仲立ちによって祈りが大神へ届けられます」


(注)──シルバーバーチは〝霊界側は祈りをどう見ておられるのでしょうか〟との問いにこう答えている。
《祈りとは何かを理解するためには、その目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願い事を口にしたり決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける者はいませんし、訴える力を持った波動をおこすこともできません。私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意がこもっておらず、それを口にする人みずから、内容に無頓着であるのが普通です。永い間それをロボットのように繰り返して来ているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。しかし如何なる精神的行為にも、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなりません。

 祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責任を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果関係をみじんも変えることはできません。人のためという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りをすべて無視されるがよろしい。そのあとに残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)な行為であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。

 あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取り組んだ時──解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る、完全な権利があると言えましょう。そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたのまわりにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態をありのままに見抜く力があるからです。たとえば、あなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。

 さてその種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求める為の祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜなら、その魂の行為そのものがそれにふさわしい当然の結果を招来するからです》☆


 「ぜひとも理解していただきたいのは、スピリチュアリズムの本質は宗教性にあるということです。このことに異議を唱える者がいることは、われわれには何とも不思議に思えてなりません。ある者はスピリチュアリズムといえば他界した親戚・縁者との交信にすぎないと思い込んでおります。そういうところに、往々にして邪霊につけ込まれ、もっともらしく装った通信によって迷わされるスキがあることになります。

 地上生活の根底にある一番大切な要素の一つは宗教性です。われわれのいう宗教性とは人間の霊と父なる神との交わりのことであり、それは無数の階梯をなして存在する天使的存在によって執りなされます。すなわち人間が祈りを発すると、それを中継する霊が受け取りその霊自身の判断による回答を届けます。

 本当の霊的交わりは、宗教心に発した祈りの行為がその端緒となります。この事実が理解されない限り、スピリチュアリズムと関わりを持つことが必ずしも安全とは言えず、又有益とも言えません。その点を誤解している者が多く、そのために、あれこれとやっては見たが結局は真の満足が得られないということになります。

 人間にはその人なりの何らかの宗教的形式が必要です。それなのにただ心霊現象をあれこれといじくってばかりいて、その宗教的側面を理解できずに居れば、好奇心が駆られるばかりで、何か物足りないというグチをこぼすことになります。

 こうして、本来なら最大の魂の充足感が得られるはずのところを、彼らは何時しかわれわれに背を向けて、スピリチュアリズムは人を迷わすものだ、騙された、スピリチュアリストが関わっている霊は低級霊で悪魔の手先だ、と言い出す始末です。こうしてわれわれのもとを去り、せっかくの神の真理を拒絶し、またぞろ人間的産物を信仰の対象とします。
  
 神はつねに人間に語りかけております。そして人間と神との間には無数の中間的存在がいます。これまで二千年近くにもわたって人間を満足させてきた霊的食事が今日ではもはや満足できなくなり、そこで(スピリチュアリズムという名のもとに)新たな霊的流入が行われているところです。スピリチュアリズムは、それを最も必要とする時代への神のメッセージに他なりません。本質において人生全般に関わる宗教性を帯びたメッセージです。

 それは、人間がただ食べて飲んで寝てそして死んでいくというだけの存在ではなく、その内部に永遠に死滅することのない霊性を具えていること、そして又、この世で蒔いたタネは死後に必ず自分で刈り取らねばならないことを教えるメッセージです。われわれがスピリチュアリズムのことを、地上を再生せしめる唯一の力であると申し上げる所以はそこにあります。

 今はまさに地上再生の大事業の開始時期なのです。その進行は地上で言う共和的なものとなるでしょうが、それを主導するのは霊的なものです。人間は常に霊的な光を受け入れられるよう魂を準備していなくてはいけません。神はみずから暗闇を好む魂は決して照らさないからです。

 われわれは霊的真理を広めるための組織的な使命を帯びております。その霊的真理なくしては地上の霊的生命は死滅します。今日の地上には宗教といえるものは殆ど存在しません。わずかながら存在するものも、その大半がすでに影響力を失っております。生命力が抜け、形骸のみが残っております。イエスの時代がそうであったごとくに、今の時代もまさにその通りです。地上人類は次にもたらされるものをしきりに求めております。

 腐敗が社会の全組織に行きわたっております。そして地雷がいつ爆発するかも知れない状態にあります。共産主義と社会主義は悪の勢力です。その潜在的魔力の恐ろしさを政治家は誰一人と気づいておりません。この都市(ロンドン)においても、それがいつ爆発し、社会組織を全滅させるかもしれません。近い将来において不満分子が英国の国政を預かる者を悩ませることになることが予想されますが、それも皆そうした勢力の影響です。

 地上は社会的側面においても宗教的側面においても、まさにいまわの際に立っており、生命力を与えてくれる新しい力を必要としております。スピリチュアリズムと呼んでいるものがその腐敗への唯一の矯正手段であり、解毒剤です。あからさまに言って今の時代は、空虚で見掛け倒しで真実味に乏しい時代です。何らかの宗教が必要です。

 われわれとともに皆さんが関わっておられる大事業は大いなる進展を見せております。純粋な霊的真理の発展、寛容的精神の成長、頑固な障壁の崩壊、神学でなくキリスト精神の普及──進歩はこうしたものによってのみ達成されるものなのです。

 心霊現象についてとかく噂されるニセモノや詐欺行為に皆さんは困惑し迷惑に思われることでしょうが、スピリチュアリズムの基盤はいささかも揺らいでおりません。不快な空気はいずれ一掃され、清潔にして純粋な霊的雰囲気が残ります。現代は物事をしつこく穿(せん)さくする時代です。と同時に、神の真理の種まきの時期でもあります。

 かつてわれわれは、各国において既存の秩序が攻撃の的とされる時期が到来すると申し上げたことがあります。スペイン、ドイツ、イタリヤにおいてもそうであり、ロシヤにおいてはなおのことです。それが今現実となってきており、もっと恐ろしい混乱が生じることでしょう。社会主義、共産主義、無神論、ニヒリズム──これらはみな同じ陰湿な病弊を別な呼び方をしているに過ぎません。それが今地上に蔓延しつつあります。こうした勢力も、秘められた力を出し尽くせば善の方向へ利用することも可能でしょうが、現在のところは混乱の原理を操る邪霊集団に振り回されております。われわれの大事業を阻止せんとしているのです。

 偉大な指導者をご覧になれば、みな何らかの社会悪に対する憤りに燃えていることがお分かりでしょう。何らかの改革を真剣に求め、それに一身をなげうち、覚悟をもって臨んだのです。たしかに〝悪〟に対抗し〝善〟のために闘う上において強固にして真摯であるためには、何らかの目的意識を持たねばならないことは事実です。しかし断固たる信念と強烈な個性をもつ人間にとかくありがちな危険性は、何時しか自分の一個の目的意識に偏り、利己的になって行くことです。利己主義は霊的病弊の一大根源です。己自身のために闘う者は利己的となります。一方、真理のために闘う者は気宇壮大な同胞精神を持つに至ります」


 エジプト人の霊に代わる。
「霊界においては地上の近い将来を恐怖の念をもって眺めております。戦争の可能性が見えます。すべてがヨーロッパの大混乱へ向けて進行しております。人間が完全になれば戦争はしなくなるでしょうが、それは肉体に宿っている限りあり得ないことです」


 インペレーターに代わる。
 「苦難の時代が近づいております。いつの時代にも真理が顔を出せば必ずそれを目の敵にする反抗勢力が結集するものです。平和が乱されることを嘆く者がいるのも無理からぬことですが、真実と虚偽との闘いの中に神の真理の火花を打ち出す好機を見出す才覚のある者には、混乱もまた喜ぶべき理由がなきにしもあらずなのです。

 戦争と激動を覚悟しなければなりません。苦難と混乱を覚悟しなければなりません。そして又、キリストの再臨を地上への再生と信じる者が惹き起こすであろう抵抗も大いに覚悟しなければなりません。今、〝キリスト的〟と呼ばれる時代が終焉を迎えております。キリストは霊としてまた霊力として地上へ戻り、人類の魂を解放するための新しい啓示をもたらしつつあります。

 それを受ける霊媒が背信あるいは不信心ではなかろうかと恐れている者は、実はこれより良き種子が蒔かれていく休閑地のようなものです。迷信的教義によってがんじがらめにされた精神の方が、何の先入観もない精神よりはるかに有害です。いわゆる信仰をもたぬ者が多いことを恐れることはありません。新しい真理が注ぎ込まれるためには、まず無垢な受容性がなければなりません」


 「キリストの生涯には当時のエルサレム、キリストが涙を流して嘆かれた都市だけではなく、皆さんの住んでおられる都市(ロンドン)にも当てはまる予言めいた言葉があることに気づかれるでしょう。ご自身が生きられた時代だけでなく皆さんの時代も見通しておられたのです。エルサレムへの嘆きはそのまま皆さんが運命をともにされている人たちにも向けられてよいものです。今や金銭が神の座を占めております。蔓延する贅沢と怠惰の中に堕落の要因があります。今まさに英国の顔に〝滅亡〟の文字が記されております。

 どうか、これからの最後の闘争に備えてください。それは善と悪との闘い、信仰心と猜疑心との闘い、〝法と秩序〟対〝無法と放縦(ほうしょう)〟の闘いです。キリストが予言した嘆かわしい不幸の時代となるでしょう。それが暗黒の勢力、つまり悪魔のしわざとされるでしょう。〝聖書を汚す罪〟が横行することでしょう。

 そうした中にあって確固たる信念を失わずにいる者は幸いです。煩悩に負けて堕落していく者が多いのです。なかんずく、いったん霊的光明を見ながらそれを拒絶した者は、この地上においても、来るべき霊の世界においても、救いはありません」


 「今まさにキリストの再臨の予言が現実となりつつあります。キリストは〝助け主が訪れるであろう〟と述べておりますが(ヨハネ)、〝助け主〟とはキリストの霊による影響力のことです。それが今、現実に成就されつつあります。地上を去って至福の境涯へとたどり着いた霊が、今ふたたび地上圏へと戻って活躍しております。その最初の余波は不協和音の増幅、邪霊集団による活発な反抗活動、既成権力の狼狽という形で現れます。霊力の流入は反抗勢力を活気づけ、又新しい真理の到来に必ず伴う所の頑迷と偏狭が、なりふりかまわずムキ出しにされます。

 われわれは今二つの敵対勢力の真っ只中におります。片や光明より暗黒を好む悪霊集団であり、片や進歩的なものをすべて毛嫌いする地上の退嬰的人間です。人間界の日常の出来事がどのようにして霊によって支配されているかについての知識を世間一般に得心させることに、われわれはほぼ絶望的となっております。その作用が五感に感応せず、また霊の動きが眼に映じないために、そうした概念を捉えることが出来ないのです」

 われわれはこれまで、皆さんの注意を単なる一身上の興味の問題ではなく、神の真理と、霊界と物質界との内的交信の実在に向けさせようと努力してまいりました。身内の者からの私的なメッセージによって強い確信が得られる事実を決して過小評価するわけでありません。ただ、その種の通信はとかく情愛による先入観によって歪められ、情緒的になって正確さを欠き、真実味よりも感情の吐露に終わる傾向があります。

 そこでわれわれは、一身上のことよりも普遍的なことを基盤として証拠を披露するよう努めて参りました。一個人の体験はささいで重要性がないかに思われますが、そうした一人ひとりの説得によって得られる霊的真理の進歩は実は絶大なのです。物的宗教から抜け出て霊的知識を受け入れるに至った者が大勢います。新しい、真実味のある宗教を見出したのです。

 それは、言い変えれば、最高神からのインスピレーションを受取り、その神の懐に抱かれている宗教です。これからの宗教はそういう宗教となるでしょう。神の経綸とインスピレーションが受け入れられる宗教です。

 来るべき時代を担う世代は、皆さんには理解できない方法でその働きかけを受けつつあります。地上各地に霊的影響力の中枢が形成されつつあります。他方、人間の霊性の衰退と邪霊集団の跋扈が、われわれにとっての悩みの種を次々ともたらしております。人間界において善なるものが進歩することに反抗的態度をつのらせている霊たちです。

 しかし、いずれは神霊のほとばしりが地上の隅々にまで浸透して、そうした勢力を内紛状態へと追いやり、受け入れ準備の整っている魂が渇望している真理のメッセージを届けることになるでしょう。

 真摯な魂による祈願は、神の霊力の豊かなほとばしりを求め、信仰厚き魂が真理のために結束してくれることを求めるものであらねばなりません。

 常に未来へ目をやり、けっして絶望してはなりません。敵対する勢力のすべてが結束しても、味方となってくれる神の勢力の方がはるかに大きいのです」


 主イエスを信じるか否かによって霊の識別をしてよいかとの質問に──
 「いかなる信仰の告白も、その真実性を保証することにはなりません。霊が地上を離れれば、地上時代の教義など雲散霧消してしまいます。ただ、中には地上時代からまとわりついている神学的モヤの中から脱し切れず、それを真実と思い込んで、とんでもない間違った教説を大真面目に通信する霊がよくいます。

 また一方には、自分ではそうと気づかずに邪霊集団の手先となって通信している霊もいます。彼らは、われわれが全勢力を結集してその誤りを指摘せんとしている教義をわざと存続させようと企みます。われわれがこうして地上に降りて来たそもそもの目的は、真実の霊的真理を人間に啓示することにあります」


 「もし通信霊の述べることに気高さを感じ、知的に、道徳的に、あるいは霊的に高い次元へと昂揚してくれるものを感じ、意気盛んにしてくれるものがあれば、それを受け入れるがよろしい。反対に、低俗なものを感じ俗悪なものを指向していると思った時は、それは無視なさることです。その種のものは邪霊集団からのものだからです。交霊会をもっともらしく演出しながら、適当に茶化しては軽蔑と嘲笑の的とするのです」


(注)──『霊訓』の中で同じインペレーターが次のように述べている。
《邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、(59頁参照)それとは別に、悪意からではないが、やはり我々にとって面倒を及ぼす存在がいます。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えない。肉体から離れていく人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもないものです。そして、地上に近い界層を一気に突き抜けて行くほど進化せる霊は、特別の使命でもない限り地上へは戻って来ないものです。地縛霊の存在についてはすでに述べたとおりである。

 言い残したもう一種類の霊団があります。それは悪ふざけ、茶目っけ、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて、いかにも勿体ぶった雰囲気の中で通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっている所を読み取って面白がっているに過ぎません。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると貴殿に言わしめる要因がそこにあります。

 茶目っけやイタズラ半分の気持ちから、いかにも真面目くさった演出をしては、それを信じる人間の気持ちをもてあそぶ霊の仕業がその原因となっています。列席者が望む肉親を装っていかにもそれらしく対応するのも彼らである。誰にでも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在が原因である。(中略)彼らは真の道徳的意識は持ち合わせません。求められれば、いつでも、いかなることでも、ふざけ半分、イタズラ半分にやってみせます。その時々の面白さ以上のものは何も求めません。人間を傷つける意図はもちません。ただ面白がるのみです。

 人も道を誤らせ、邪な欲望や想念を抱かせるのも彼らである。ひそかに霊媒を操り、高尚な目的を阻止せんとする。高尚にして高貴な目的が彼らには我慢ならず、俗悪な目的を示唆する。要するにその障害物、妨害となろうとするのです。関わるのは主として物理現象です。通例その種の現象が得意であり、列席者を惑わせる魂胆をもって混乱を引き起こす現象を演出する。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによって引き起こされる当惑の様子を見て、ほくそ笑むのです。

 憑依現象を始めとする数々の心霊的障害は彼らの仕業に起因する。いったん付け入れば、いかようにでも心理操作ができるのです。個人的に霊を呼び出して慰安を求める者たちを愚弄するのも彼らです。いかにもそれらしく応対し、うれしがらせるような言葉を述べて欺く。

 間違いなく本人が出て、しっかりとした意思の疎通が行われることはあります。が、次の会では巧みに本人を出し抜いてイタズラ霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながら、その中に辻褄の合わない話を織り混ぜたり、まったくの作り話を語ったりする。そうした霊に付け入られないためにも、一身上の話題はんなるべく避けるが懸命である》☆


 〝永遠の刑罰〟について問われて──
 「永遠の刑罰の教義を立論の典拠とすることは神を冒涜するものであると同時に、恐ろしい思想と言わねばなりません。ほんの僅かばかりの真理は含んでいても、それが大きく曲解され歪められております。地上には善良な人間もいれば邪悪な人間もいますが、身代わりの贖罪を信じた者、あるいは洗礼を受けた者は善悪の区別なく祝福されて神のもとに侍(はべ)り、それ以外の者は呪われたものとして悪魔のもとに侍らされるというのは、人間の創作にすぎません。魂は常に進化の状態にあり、善でも悪でもないのですから、そのような尺度で人間を善と悪とに分けることはできません。

 宇宙の大神がこの地上という低き界層から御子イエスの血によって贖われた霊だけを救いだして側に侍らせるわけはありませんし、また、(宗教の違い等の)不可抗力の巡り合わせから生じたに過ぎないことを最大のいいがかりにして地獄へ蹴落とすようなこともなさるわけありません。地上を去る者は、それぞれ誰も知らない条件のもとで地上へ誕生しております。不可抗力だった悪徳の犠牲となっている場合もあります。

 地上を去った後一気に向上して行く優秀な霊がいると申し上げましたが、そうした霊も、すぐに最高神のもとに侍るようになるなどと言うことは人間的精神の空想にすぎないということでしょう。地獄はあります。が、それは、為すべきことを為さなかった悔恨の念に苦しめられる状態のことです。火焔地獄など、肉体をもたない霊の世界では何の効力もありません」


 「霊そのものは無始無終の存在です。その霊が地上に生を受ける前のことからお話ししましょう。霊そのものは、この地上世界の基盤として、これを取り巻くように存在し支配している霊的界層に前もって存在しております。いかなる霊も、肉体を身につけるまでは空間を宿として存在しています。そして肉体に宿って誕生する時期に至るまでは、さまざまな過程を経ながら成長してまいります。その段階でミクロコズム、すなわち火花の形で宿した神性の具現体となり、かくして物質を支配する力を獲得します。物質の特質の一つは不活性です。自らは何もできません。霊によって支配され活性を与えられ、一方、霊の方は人体をまとった段階で個別性を持つことになります。

 このように、地球を包み込むように霊的界層があって、すべての霊はそこからやって来ては、またそこへ帰っていくわけです。それとは別に仕事の界層(動の世界)と瞑想の界層(静の世界)が地球を取り巻いており、個霊はすべてその一つ一つを通過しながら向上してまいります。地球全体を霊の大気が包み込んでおり、それが霊界です。皆さんは、その存在に気づいて居なくてもその中で生きておられるわけです。地球とよく似た(主観と客観の)世界です。ただ、はるかに美しく、そして純化されているというだけのちがいです。

 霊界においても、自己を表現するためには何らかの媒体が必要であり、形体が必要です。ただし、霊質のものです。霊界にも地上と同じように植物、鉱物、動物、といった種別があります。ですから、そちらの世界からこちらの世界へ来ることは〝環境条件〟が変わるに過ぎません。

 生まれつき目の不自由な人には光とは何かが分かりません。その人が仮に視力を得て光が見えるようになったとすれば、それは〝状態〟が変わったのであって〝場所〟が変わったのではありません。それと同じで、その肉体を脱ぎ捨てて霊界入りしても、それは場所が変わったのではありません。状態が変わったに過ぎません」


 インペレーターによれば瞑想的〝静〟の世界は七つあり、その下に七つの進歩的〝動〟の世界があり、さらに下に七つの〝試練〟の世界があり、地球はその最上階に属するという。

(注)──ここでいう界層とは霊的進化がほぼ同程度の者が集まって生じる〝状態〟のことであって、各界がどこかで仕切れらていて、それに通路や階段がついているわけではない。強いて言えば小学校や中学校を知能の発達程度に応じて大ざっぱに六学年とか三学年に分けているのと同じで、学年が上がれば教室は変わるが、さらに上がるとまた同じ教室を使用することもある。要は〝知能〟の問題であって、霊的界層の問題もそれを〝霊格〟に置き変えて考えればよい。インペレーターが〝上〟とか〝下〟とかの用語を用いているのは、地上の言語で表現すればそうせざるを得ないからであって、現実には同じ一点に全界層が存在していると考えるべきである。☆


 「人心を教化するにはゆっくりとした段階を経なくてはなりません。たとえば、もしも最初から低級霊の話を持ち出していたら、皆さんはこぞってわれわれを相手にするのを拒絶したことでしょう。またもし、本物の霊的交信がそう易々と得られるものでないことを口にしたり、キリストについての信仰が全く見当違いであることをいきなり切り出していたら、皆さんはきっと〝この教えは聖書の福音に背反している。これこそ聖書が出現を警告している悪霊集団の仕業である。こんなのとお付き合いをするのはご免こうむる〟と仰ったことでしょう。そこでわれわれは徐々に明るい見解、より高いレベルへと手引きしてまいりました。皆さんもそれに首尾よく付いて来られました。が、まだまだお教えするわけにはいかない真理がたくさん残っております。お教えしても皆さんには理解できないからです」


 「最近この霊媒が、低級霊の影響──邪霊の誘いにすぐに乗ってしまう幼稚な霊、われわれは未発達霊と呼ぶ方を好むのですが──そうした霊の影響を受け易くなってきました。そのために、進歩の途絶えた邪霊集団によるまやかし行為が見抜けなくなっております。今その類の霊がばっこしております。遠くない将来、そうした霊による敵対行為が盛んになることを厳粛な気持ちで警告しておきます。

 その原因は地上に霊的知識が行きわたり、霊的交信の思想が進歩してきたことに邪霊集団がいらだちを覚えはじめたことにあります。とかく衝突が生じやすいのも、こちらでのそうした事情の反映にすぎません。彼らは霊的交信の事実を何とかして抑止しようとし、そこにわれわれとの衝突が生じているのです。彼らにとっては地上に暗闇が広がるほど都合がよいのです。がしかし、意念の力を行使することによって、守護霊団との霊的交信の障害は克服されることでしょう」


 「(地球を取り巻く)霊的大気が今ひじょうに乱れており、暗雲は容易に晴れそうにありません。暗雲の出どころは主として地上世界です。いよいよ困った事態が到来しそうです。が、人類は大きい、そして強烈な苦しみ──産みの苦しみ──を体験せずして低い次元から高い次元へと向上することは絶対に不可能です」


 「今はまさしく大混乱の時代です。未来には希望があります。が、その未来と現在との間には死にも似た暗い影があります。遠い将来には、聞く耳を持つ者は天使の声を聞くことが出来るでしょう。そしてその賛歌は平和の大合唱となることでしょう」

 「まさに現代は、かつて主イエスが地上の人間と生活を共にした時代と同じく、霊力が奔流となって注ぎ込まれている時代です。(イエスの時代の後に霊的衰退の時代が訪れたように)この霊的潮流が衰退することも絶対にないとは断言できませんが、実際問題として、そういうことにはならないとわれわれは考えております。それは、霊界が総力をあげて、かつてなかった規模で霊力を行使する時期がいよいよ間近に迫っているからです。それを契機として疑念と混乱とが生じることでしょう。地上は今(一八七五年五月)混乱の極にあります。それは、実はわれわれが代表している霊的勢力による影響の表れなのです。残念ながら低級霊でもわれわれが披露するのとそっくりのものを演出して見せることが出来るので厄介です。地球人類は道徳的に、精神的に、そして物質的に病的状態にあります。そして、これにはみな長期間にわたる治療を要します」


 「キリストは今〝静〟の世界から再び〝動〟の世界へ戻られ、特に地球のために活発に働いておられます。前回皆さんと語り合ったのちにこちらで大きな動きが生じており、われわれは油断なく交信を取り合っております。(地球圏の)最高級の霊団が地球人類のために大事業を再開しました。みなさんは忍耐強く、真摯に、祈りに満ちた心を堅持し、真理を求め、そうした霊の大軍を神の使徒と仰ぐことです。その大軍が今、地球のまわりに待機しております。

 願わくは全知全能の愛の神が我々を通じて皆さんにその恩寵をふんだんに垂れ給い、われわれともども、今たずさわっている仕事によって高揚され向上されんことを。そして又、これよりのち神の玉座の坐(ましま)す境涯へ首尾よく辿り着くことが出来ます様に。
 ではごきげんよう」


(注)──『ベールの彼方の生活』第四巻に次のような問答がある。答えているのはルネッサンス時代に地上生活を体験したアーネルと名のる霊。


──その〝尊き大事業〟というのは何でしょうか。

「それについてこれから述べようと思っていたところです。(中略)

 いつの世紀においても、その当初に神界において審議会が催されると聞いております。まず過去が生み出す結果が計算されて披露されます。遠い過去のことは簡潔な図表の形で改めて披露され、比較的新しい世紀のことは詳しく披露されます。前世紀までのニ、三年のことは全項目が披露されます。それらがその時点で地上で進行中の出来事との関連性において検討されます。それから同族惑星の聴聞会を催し、さらに地球と同族惑星とをいっしょにした聴聞会を催します。それから審議会が開かれ、来るべき世紀に適用された場合に他の天体の経綸に当たっている天使群の行動と調和するような行動計画に関する結論が下されます。悠揚迫らぬ雰囲気のうちに行われるとのことです」
    (中略)
──それらの審議会においてキリストはいかなる位置を占めておられるのでしょうか。
 「それらではなくそのと単数形で書いてください。審議会はたった一つだけです。が、会合は世紀ごとに催されます。出席者は絶対不同というわけではありませんが、変わるとしても二、三エオンの間にわずかに変動があるだけです。創造界の神格の高い天使ばかりです。その主催霊がキリストというわけです」(エオンは地質学的時代区分の最大の期間で、億単位で数える──訳者)
    (中略)
──どうもありがとうございました。私なりに分かったように思います。
 「それは結構なことです。そう聞いてうれしく思います。それというのも、私はもとより、私より幾らか上の界層の者でも、その審議会の実際の様子は象徴的にしか理解されていないのです。私も同じ手法でそれを貴殿に伝え、貴殿はそれに満足しておられる。結構に思います。

 以上でお分かりの通り、審議会の主催霊たるキリストみずからその大事業を引き受けられたのです。(中略)今日キリストはその任務を帯びて地上人類の真っ只中におられ、地球へ降下されたあと、すでにその半ばを成就されて、方向を上に転じて父の古里へと向かっておられます。(後略)」☆


 フィロファス Philosophus と名のる霊が語る。
 「地上世界の思想的指導者たちは祈りというものについての信仰を完全に失っております。今こそ祈りを必要としております。単に決まり文句を繰り返すことではありません。意念の傾注であり、高級霊の援助を求めるための祈りです。祈りとはきっと救いに来てくれることを信じた魂の真剣な叫びであり、型にはまった言葉の繰り返しではありません」


 インペレーターに代わる。
 「現代の危機は真剣な祈りを必要としております。祈りと言ってもクリスチャンの間で神への挨拶として当然のごとく使用されている古臭い決まり文句(主の祈り)の繰り返しのことではありません。そうした外部へ向けての行為は必要ではないのです。悩める魂の内なる叫び──それだけで、ここぞという時の援助と慰めを呼び寄せるのです。祈りとは要するに〝切望〟であればよいのです。背後霊による霊的援助のもとに高き思想を求める魂の努力です。ただし、祈りは瞑想界の内部までは届きません」


 思念が客観性を持つことがあり得るかとの質問に対して──

 「われわれにとっては思念こそが実体であり、考えたことがそのままあなた方にとっての形体と実質と同じものを形成します。崇高な魂を具えた人の中には、精神的には、地上にありながらみずからこしらえた観念の世界で暮らしている人が少なくありません。詩人、劇作家、小説家などは自分自身の世界を現実にこしらえます。みなさんも思念を投射していることは、ご自分で想像しておられる程珍しいことではありません。

 われわれの世界では思念の波長の合わない性質の霊とは生活を共にすることが出来ません。交わる相手の霊的本性と個性とがすぐに知れます。〝場所〟は関係ありません。〝状態〟がすべてです。個性がそれ相応の環境をこしらえます。そして(瞑想界に至るまでの)試練の境涯において、霊としての個性が形成されていきます。行為の一つ一つが永続性のある個性と、それ以後の生活の場をこしらえる働きをします。鍛錬のどの段階においても、それ相応の義務というものが割り当てられ、それを正しく遂行して行くことが、霊性を発達させ進化させます。かくして霊が鍛えられていく過程は地上においても霊界においても、形式こそ違っても実質的には類似しております」


 「霊体にも肉体と同じ機能が具わっており、さらに地上とは縁のない別の能力も備わっております。霊体には神性が内在しており、祈りと内省の時を多く持ち、実生活における義務を誠心誠意はたすことによって、その神性が発達します。ものは使用するほど強化されるという原理によってそうなるのです。それが普遍的な摂理なのです。

 一段と高級な霊になると、地上の大気の中ではほんの短い時間しか滞在できません。時にはこの交霊会の場にも近づけないことがあります。私も今はこの霊媒から遠く離れた位置にいます。精神的並びに肉体的条件のせいで、これ以上近づくことが出来ません。体調を崩している時は近づけません。最近他界したばかりの霊の方が容易に近づけます。しかし、われわれは遠い距離からでも影響力を行使することが出来ます。われわれ(高級なスピリット)にとっては時間も空間もありません」


 死刑制度に関して──
 「いかなる事情のもとでも許されるべきではありません。突如として肉体から切り離された魂は、やがて地上へ戻って来て人間に恐ろしい仕打ちをはじめます。守護霊も近づくことが出来ず、魂の進歩に重大な障害をもたらすことになります。残酷にして野蛮な処刑によっていかなる悪が生じているかは、霊界へ来て見て初めて分かることです。

 地上でいうところの生命を奪う形での処罰は、無分別きわまる行為です。それは目には目を歯には歯をの発想の時代の名残です。罪人は矯正するか隔離するかの、いずれかにすべきであって、身体を奪ってはなりません。それは、せっかくの地上という存在の場での寿命を全うしないまま霊を身体から引き裂くことになります」


(注)──その死刑制度を激しい語気で非難した部分が『霊訓』の中に見える。その激烈さのためにモーゼスは〝手がヒリヒリし腕がガクガクして、強烈なエネルギーが身体を流れるのを感じた。書き終わった時はぐったりして横になるほど疲れ果て、頭の奥に激しい痛みを覚えた〟という。その一部を紹介すると──

《罪人は教え導いてやらねばなりません。罰するのはよい。われわれの世界でも処罰はする。が、それは犯した罪がいかに自分を汚し、いかに進歩を遅らせているかを悟らせるための、一種の見せしめであらねばなりません。神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らをおき、罪を償い、真理の泉によって魂を潤すことを体験させてやらねばなりません。そこに神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、暖かい霊波を注ぎ込んでくれることでしょう。しかるに人間は罪人を寄せ集めて、手を施す術のない者として牢に閉じ込めてしまう。

その後さらに、意地悪く、残酷に、そして愚かきわまる方法で処罰する。そうした扱いを受けた者は、刑期を終えて社会に復したのちも繰り返し罪を犯す。そしてついに最後の、そして最も愚かな手段に訴えられるべき罪人の名簿に書き加えられる。すなわち死刑囚とされ、やがて斬首される。心は汚れ果て、堕落しきり、肉慾のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界へ来る。それまではまだ肉体という足枷があった。が、今はその足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔のごとき邪念に駆られて暴れまわるのである。

 人間は何も知らない! 何も知らない! 自分たちのしていることがいかに愚かであるかを一向に知らない。自分こそ最大の敵であることを知らない。神とわれわれと、そしてわれわれに協力する人間を邪魔しようとする敵を利用することになっていることを知らない。

 知らないと同時に愚かさの極みである。邪霊がほくそ笑むようなことに、あたら努力を傾けている。凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したに過ぎない者に報復的刑罰を与える。厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化している。断じて間違いである。しかも、こうして傷つけられた霊が霊界から復讐に出ることを人間は知らない。

 神の優しさと慈悲──堕落した霊を罪悪と憤怒の谷間より救い出し、聖純と善性の進歩の道へ導かんとして、われわれ使者を通じて発揮される神の根本的原理の働きを知らねばなりません。右のごとき行為を続けるのは、神の存在を認識していないからです。

 人間は自分の本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら分からぬ高所より人間を座視し、自分の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、自分の創造物については、自分に媚び自分への信仰を告白した者のみを天国へ召し入れ、その他に対しては容赦も寛恕もない永遠の刑罰を科してほくそ笑む、悪魔のごとき神をでっちあげた。そうした神を勝手に想像する一方、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えのない言葉を吐かせ、暖かい神の御心には到底そぐわない律法を定めた。

 何たる見下げ果てた神! 一時の出来心から罪を犯した無知なわが子に無慈悲な刑を科して喜ぶとは! 作り話にしても余りにお粗末! お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟な心の産物にすぎない。そのような神は存在しません! 絶対に存在しません! われわれには到底想像の及ばぬ神であり、人間の愚劣な心の中以外のいずこに存在しません。

 父なる神よ! 願わくば無明の迷える子らに御身を啓示し、御身を知らしめ給え。子らが御身につきて悪夢を見ているに過ぎぬこと、御身について何一つ知らぬこと、これまでの愚かなる概念を拭い去らぬ限り、真のお姿は知り得ぬことを悟らしめ給え》☆


 国家が退廃して行く主な原因は不道徳(悪徳)にあるのではないかとの質問に対して──

 「その通りです。不道徳こそ、人間を動物以下にまで堕落させ、悪魔と同類にしてしまう、罪の中の罪です。他のいかなる罪にもまして人間を天使の支配より遮断し、神より遠ざけるものです。ローマもそれにて滅び、スペインもしかりです。フランスも堕落しています。イギリスも同じ道を急速に辿りつつあります。

 ああ、人間はなぜ気づいてくれないのでしょう。たとえ一瞬の間でも霊眼を開いて、不道徳から救い出さんとして待機する天使の集団の存在を垣間見てくれればと思うのですが、人間は一向に気づかず、気づいた時は時すでに遅しです」


 再生の問題についてインペレーターは、一般に信じられている形での再生説は間違っていると述べ、偉大なる霊が人類の啓発のためにみずから志望して地上へ降誕することは、これまでの地上の歴史に幾つかの例があること、また、霊性の穢れが極端な場合は最低界へ沈んでいき、いったん〝霊の海〟へ埋没してから改めて生まれて来ることもあるという。ただし、その場合は多分この地上ではなく別の天体になる──一度落第した学校は二度と通わないものです、という。
℘105
(注)──『霊訓』の中で同じインペレーターが地上の悪徳を増幅させている邪霊集団の存在について述べた後、その救済についてこう述べている。

《こうした霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求が芽生えた時こそ更生への第一歩である。その時より神性にして気高い波長に感応するようになり、救済団により手厚い看護を受けることになる。

 地上にもみずからを犠牲にして悪徳の世界へ飛び込み、数多くの堕落者を見事に更生させている気高い人物がいるように、われわれの世界にもそうした奈落の底に沈んだ霊の救済に身を投じる霊がいる。そうした霊の努力によって善に目覚め、堕落の生活から救い出され、浄化の境涯における辛い試練を経て、ついに悪の影響と断絶し清らかにして善なる霊の保護のもとに置かれた霊は決して少なくありません。

 かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。それよりさらに深く沈んだ境涯については、われわれも多くは知りません。漠然と知り得たところによれば、悪徳の種類と程度によってさまざまな区別がなされている。中には善なるものへの欲求をすべて失い。不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く深く沈んでいく者がいます。そしてついには意識的自我を失い、事実上、個的存在が消滅して行く。少なくともわれわれはそう信じている》☆

℘106
「地上で極貧と悪徳の環境に生を受け、善性を指向する機会が乏しかった者は、他界後に霊界にてその埋め合わせの教育が施されます」

「生命に終わりはなく、永遠に進化し続けます。魂は一瞬たりとも静止することはありません。進化するか、さもなくば退化します」

 霊による人間への働きかけは人間自身が想像する以上に多く、いかなる霊が働きかけているかによって、その人間の程度が知れるという。また物的存在物はみなオーラを発しており、その内部に霊が潜在しているという。

 人間は死後もほとんど本性は変わっていない。また動物もそのまま生き続けている。一度創造された生命は決して死滅しないという。
℘107
 「地上近くをうろつき回っている低級霊は交霊会にしばしば出現し、さまざまな人物の名を騙ってしゃべります」

「悪条件のもとで交霊会を催して万が一そうした低級霊とのつながりが生じると、数々の危険を覚悟しなくてはなりません。邪悪な影響力の侵入を許し、危険が生じます。交霊会のメンバーは純粋な心の持ち主──真理の探求者によって構成すべきです」

「霊が人間に影響力を行使する場合、人間の身体が見えているわけではありません。人間は視力というものを肉眼と結びつけて考える習性がありますが、われわれは、映像として見えなくても存在を認識することが出来ます。霊と霊との関係は磁気的なものです(22頁参照)」

 「霊界における霊の誕生は地上における赤子の誕生とよく似て居ります。誕生したばかりの霊はやはり育児と看護が必要です」

 「霊界から人間に協力しているわれわれは、きわめてデリケートで不安定な条件のもとで働きかけていることを銘記して頂かねばなりません。その際、物質はわれわれの視界から消えており、物質界にありながら物質はまったく映じません。見えるのは霊のみです。したがって写真に写ることはできません。が、他の(低級な)霊にわれわれの肖像を真似させることは、しようと思えばできます」


 背後霊団の一人でメンターMentor と名のる霊についてインペレーターは、この霊は霊界ではとても霊格の高い霊で、第四界に所属し、教育と自然界のエネルギーの支配を担当しており、教育の仕事はすでに完了していると語ってから、
 「霊界での生活はそのように学ぶことと教えることの連続で、つねに前進であり、常に向上なのです」


 「われわれにとって神を崇めるということは、神の仕事と意志を実践することであり、人類を霊的に高揚させることにほかなりません」


 「人間は常に霊的生命に取り囲まれており、片時も孤独でいることはありません。絶対にありません」


 ムーディとサンキー(後注)の教えとその影響について問われて──

 「岩だらけの道を切り開くだけの道具を高等な物差しで採点しては、良識を欠くことになるでしょう。霊的なものが人間界に注入されていくに際して波風が立つのは、やむを得ないことです。冷たく陰鬱な惰眠をむさぼらせるよりも、揺り起こして目を覚まさせる方がましです。今の人類に蔓延している自己満足の中の平穏無事に騒ぎを起こさせる働きに対して、われわれは否定的態度はとりたくありません。現代は霊的な影響力がさまざまな形で顕現しつつある過渡期なのです。

 ムーディとサンキーの教えは知的レベルの低い階層に向けられたもので、それはそれなりに、その階層の者には適切だったことを知らなくてはいけません。霊的興奮の時期においては、波風の立つのは天使の到来の前兆と見るべきです。冷ややかさと無関心の状態から人類を目覚めさせるものであれば、われわれは何でも歓迎します。そうした問題についてわれわれが皆さんと違って高い観点から眺めることになるのも、立場上やむを得ないことでしょう」


(注)──D. L. Moody(一八三七~九九)、I. D. Sankey(一八四〇~一九〇八)。ムーディは靴のセールスマンから牧師となった人物で、歌手のサンキーと組んで米国に三回目のリバイバルを起こした。☆

 「人間が霊に出現してもらいたがるのはよいとしても、出現する霊にとっては、地上圏へ舞い戻ることが再び煩悩を呼び覚ますことになりかねないことを知るべきです。地上へ戻ることが退歩となることがあり、進化の法則に逆行することになります。人間の情的な念によって引き戻されるケースが多いのですが、その霊にとっては大変まずいことがあります。人間の情念の方が強烈であるために、地上へ引き戻されることによって進歩の歩調が乱されるのです。それほど人間の念が一個の霊の道を制約するものなのです。

 地上圏を去った者は二度と地上へ戻れなくなるケースが多いのですが、かりに何とか戻ることができても、人間も霊もともに意識過剰になり、一種の反発作用が生じ、交信を台無しにしてしまいます」


 入神中のモーゼスについて──
 「彼は今、教育担当の指導霊とともに天上界へ赴いております。彼のもつ霊力によって恩恵を受ける霊もいます。ただし、そのためには霊性が高尚で誠実で非利己的でなければなりません。何よりもまず〝小我〟を滅却することです。そうすれば思いもよらないほどの霊力を授かります」

 「地上でダニエルの名で知られた霊は大変な高級霊が降誕したもので、強力な霊媒的素質を具えておりました。時として偉大なる霊が地上へ降誕、ないしは再生することがあります。が、これは例外に属することで、一般的によくあることではありません」


(注)──ダニエルは紀元前六世紀のヘブライの霊覚者で、旧約聖書にそのダニエルについての書がある。彼もメルキゼデクに始まってイエスに至る系譜の中の一人で、多分インペレーター霊団の一人であろう。☆


 一八四八年に勃興した近代スピリチュアリズムの満百年を記念して──

 「今夜は大勢の霊が活発に動いております。本日が記念すべき日であるからにほかなりません。皆さんが近代スピリチュアリズムと呼んでいるものが勃興した当初、高級界より強力な影響力が地上へ差し向けられ、霊媒現象が開発されました。かくして自縛的状態にあった霊を解放し、新たな生活へ甦らせるための掛け橋が設けられました。そのことを記念してわれわれはこの日を祝うのです。

 スピリチュアリズム──われわれとしては〝神の声〟と呼びたいところですが──これは真理に飢えた魂の叫びに応じて授けられるものです。

 しかし、このスピリチュアリズムにも次第に致命的な悪弊が生じつつあります。すなわち現象のみをいじくり回すことから生じる、言わば心霊的唯物主義です。現象を生ぜしめるエネルギーにのみ関心を向け、その背後で働く各種の知的存在を認識しようとしません。物質はあくまでも付帯的なものであり、実在は霊なのです。

 地上のすべての宗教がその基盤を来世への信仰に於いております。にもかかわらず、地球を取り巻く唯物的雰囲気のために、せっかくの神の真理を心霊現象で埋め尽くして窒息死させかねない状態となって居ります。もしもそれのみにて満足するのであれば、むしろ始めから一切の関わりを持たなかった方がよかったかもしれません。

 われわれは、しかし、首尾よくそうした現象的段階を超えて、かつての真理より一段と高等な霊的真理を求めようとする者が多く輩出してくれることを期待しております。心霊現象はそのための手引としての価値しかありません」


 「スピリチュアリズムは今まさに最後の試練の時期(後注)を迎えております。そして多分それを首尾よく通り抜けて、さらに新たな局面を迎えることになるでしょう。その時は、これまでより一段と内面的なスピリチュアリズムが前面に出てくることでしょう。が、今はまだその時期ではありません」

 (注)──これはあくまでも訳者個人としての見解であるが、このインペレーター霊団とちょうど入れ替わるようにシルバーバーチ霊団その他、目的は同じでも手段を異にする霊団、たとえばハリー・エドワーズに代表される心霊治療団が地上への働きかけを開始している所をみると、インペレーターのいう〝最後の試練の時期〟とは第二次世界大戦に象徴される混乱の時期で、〝一段と内面的なスピリチュアリズム〟というのは、〝再生〟を因果律の重大な要素として前面に押し出した思想と心霊治療活動をさすものと考えられる。

 が、モーリス・バーバネルをして〝イエス・キリストに優る〟といわしめた心霊治療家のハリー・エドワーズもすでに亡く、その後を追うようにバーバネルも他界し、そして昨年(一九八六年)の十二月にはやはり心霊治療家のテスターと、その恩人ともいうべきフリッカーの二人が申し合わせたように相次いで他界し、シルバーバーチがたびたび交霊会に招待していた治療家や霊媒もほとんどが姿を消してしまったことを思うと、実はこれまでがその〝最後の試練の時期〟で、これから〝さらに新たな局面〟を迎え、そして〝一段と内面的なスピリチュアリズム〟が啓示されるかもしれないと思ったりもしている。
 願わくばそうあってほしいものである。☆