Saturday, February 18, 2023

シアトルの冬 罪の報い retribution for sin

  

   一九一三年十月二三日  木曜日     

 天界における向上進化の仕組みは実に細かく入り組んでおり、いかに些細な要素も見逃さないようになっておりますから、それを細かく説明していったら恐らくうんざりなさることでしょう。

ですが、ここで一つだけ実例を挙げて昨晩の通信の終わりで述べたことを補足説明しておきたいと思います。

 最近のことですが、又一人の女性が暗黒界から例の〝橋〟に到着するという連絡を受け、私ともう一人の仲間二人で迎えに行かされたことがありました。急いで行ってみますと、件(くだん)の女性がすでに待っておりました。

一人ぼっちです。実はそこまで連れてきた人たちがその女性に瞑想と反省の時を与えるためにわざと一人にしておいたのです。これからの向上にとってそれが大切なのです。

一本の樹木の下の芝生の坂にしゃがんでおり、その木の枝が天蓋(てんがい)のようにその方をおおっております。見ると目を閉じておられます。私たちはその前に立って静かに待っておりました。やがて目を開けると怪訝(けげん)そうな顔で私たちを見つめました。

でも何もしゃべらないので、私が「お姉さま!」と呼びかけてみました。女性は戸惑った表情で私たちを見つめていましたが、そのうち目に涙をいっぱい浮かべ、両手で顔をおおい、膝に押し当ててさめざめと泣くのでした。

 そこで私が近づいて頭の上に手を置き「あなたは私たちと姉妹になられたのですよ。私たちは泣かないのですから、あなたも泣いてはいけません」と言いました。

 「私が誰でどんな人間か、どうしてお判りになるのでしょう」──その方は頭を上げてそう言い、しきりに涙をこらえようとしておりましたが、その言葉の響きにはまだどこか、ちょっぴり私たちに対する反撥心がありました。

 「どなたかは存じませんが、どんなお方であるかは存じ上げております。あなたはずっと父なる神の子の一人でいらっしゃるし、従って私たちと姉妹でもありました。

今ではもっと広い意味で私たちと姉妹になったのです。それ以外のことはあなたの心掛け一つに掛かっております。

つまり父なる神の光の方へ向かう人となるか、それともそれが辛くて再びあの〝橋〟を渡って戻って行く人となるかは、あなたご自身で決断を下されることです」と私が述べると、暫く黙って考えてから、

 「決断する勇気がありません。どこもここも怖いのです」と言いました。

 「でも、どちらかを選ばなくてはなりません。このままここに留るわけには行きません。私たちと一緒に向上への道を歩みましょう。そうしましょうね、私たちが姉妹としての援助の手をお貸しして道中ずっと付き添いますから。」

 「ああ、あなたはこの先がどんな所なのかをどこまでご存知なのでしょう」──その声には苦悶の響きがありました。「今まで居た所でも私のことをみんな姉妹のように呼んでくれました。

私を侮(あなど)っていたのです。姉妹どころか、反対に汚名と苦痛の限りを私に浴びせました。

ああ、思い出したくありません。思い出すだけで気が狂いそうです。と言って、この私が向上の道を選ぶなんて、これからどうしてよいか判りません。私はもう汚れ切り、堕落しきったダメな女です。」

 その様子を見て私は容易ならざるものを感じ、その方法を断念しました。そして彼女にこういう主旨のことを言いました──当分はそうした苦しい体験を忘れることに専念しなさい。

そのあと、私たちも協力して新しい仕事と真剣に取り組めるようになるまで頑張りましょう、と。彼女にとってそれが大変辛く厳しい修行となるであろうことは容易に想像できました。

でも向上の道は一つしかないのです。何一つ繕(つくろ)うことが出来ないのです。すべてのこと──現在までの一つ一つの行為、一つ一つの言葉が、あるがままに映し出され評価されるのです。

神の公正と愛が成就されるのです。それが向上の道であり、それしか無いのです。がその婦人の場合は、それに耐える力が付くまで休息を与えなければならないと判断し、私たちは彼女を励ましてその場から連れ出しました。

 さて、道すがら彼女はしきりに辺りを見回しては、あれは何かとか、この先にどんなところがあるかとか、これから行くホームはどんなところかとか、いろいろと尋ねました。

私たちは彼女に理解できる範囲のことを教えてあげました。その地方一帯を治めておられる女性天使のこと、そしてその配下で働いている霊団のこと等を話して聞かせました。

その話の途中のことです。彼女は急に足を止めて、これ以上先へ行けそうにないと言い出しました。〝なぜ? お疲れになりましたか〟と聞くと〝いえ、怖いのです〟と答えます。

 私たちは婦人の心に何かがあると感じました。しかし実際にそれが何であるかはよく判りません。何か私たちに摑みどころのないものがあるのです。

そこで私たちは婦人にもっと身の上について話してくれるようお願いしたところ、ついに秘密を引き出すことに成功しました。それはこう言うことだったようです。

〝橋〟の向こう側の遠い暗闇の中で助けを求める叫び声を聞いた時、待機していた男性の天使がその方角へ霊の光を向け、すぐに救助の者を差し向けました。行ってみると、悪臭を放つ汚れた熱い小川の岸にその女性が気を失って倒れておりました。

それを抱きかかえて橋のたもとの門楼まで連れて来ました。そこで手厚く介抱し、意識を取り戻してから、橋を渡って、私たちが迎えに出た場所まで連れて来たというわけです。

 さて、救助に赴いた方が岸辺に彼女を発見した時のことです。気がついたその女性は辺りに誰かがいる気配を感じましたが姿が見えません。

とっさに彼女はそれまで彼女をいじめにいじめていた悪(わる)の仲間と思い込み、大声で「さわらないで こん畜生」と罵りました。

が次に気がついた時は門楼の中に居たというのです。彼女が私たちと歩いている最中に急に足を止めたのは、ふとそのことが蘇ったからでした。彼女は神の使者に呪いの言葉を浴びせたわけです。
 

自分の言葉が余りに酷かったので光を見るのが怖くなったのです。実際は誰に向かって罵ったか自分でも判りません。しかし誰に向けようと呪いは呪いです。そしてそれが彼女の心に重くのし掛かっていたのです。

 私たちは相談した結果これはすぐにでも引き返すべきだという結論に達しました。つまり、この女性には他にも数々の罪はあるにしても、それは後回しに出来る。それよりも今回の罪はこの光と愛の世界の聖霊に対する罪であり、それが償われない限り本人の心が安まらないであろうし、私たちがどう努力しても効果はないと見たのです。そこで私たちは彼女を連れて引きかえし〝橋〟を渡って門楼の所まで来ました。

 彼女を救出に行かれた件(くだん)の天使に会うと、彼女は赦しを乞い、そして赦されました。実はその天使は私たちがこうして引き返して来るのを待っておられたのです。

私たちより遥かに進化された霊格の高い方で、従って叡智に長け、彼女がいずれ戻って来ずに居られなくなることを洞察しておられたのです。

ですから私たちが来るのをずっと門楼から見ておられ、到着するとすぐに出て来られました。その優しいお顔付きと笑顔を見て、この女性もすぐにこの方だと直感し、跪いて祝福をいただいたのでした。

 今夜の話にはドラマチックなところは無いかも知れません。が、この話を持ち出したのは、こちらでは一見何でもなさそうに思えることでもきちんと片付けなければならないようになっていることを明らかにしたかったからです。

実際私には何か私たちの理解を超えた偉大な知性が四六時中私たちを支配しているように思えるのです。

あのお気の毒な罪深い女性が向上して行く上において、あんな些細なことでもきちんと償わねばならなかったという話がそれを証明しております。〝橋〟を通って門楼まで行くのは実は大変な道のりで、彼女もくたくたに疲れ切っておりました。

ですが、自分が毒づいた天使様のお顔を拝見し、その優しい愛と寛恕(かんじょ)の言葉を頂いた時に初めて、辛さを耐え忍んでこそ安らぎが与えられるものであること、為すべきことを為せばきっと恵みを得ることを悟ったのでした。

その確信は、彼女のようにさんざん神の愛に背を向けて来た罪をこれから後悔と恥辱の中で償って行かねばならない者にとっては、掛けがいのない心の支えとなります。


 ──その方は今どうされていますか。

 あれからまだそう時間が経っておりませんので目立って進歩しておりません。進歩を阻害するものがまだいろいろとあるのです。ですが間違い無く進歩しておられます。

私たちのホームにおられますが、まだまだ他人のための仕事をいただくまでには至っておりません。いずれはそうなるでしょうが、当分はムリです。

 罪悪というのは本質的には否定的性格を帯びております。が、それは神の愛と父性(※)を否定することであり、単に戒律(おきて)を破ったということとは比較にならない罪深い行為です。

魂の本性つまり内的生命の泉を汚し、宇宙の大霊の神殿に不敬をはたらくことに他なりません。その汚れた神殿の掃除は普通の家屋を掃除するのとはわけが違います。

強烈なる神の光がいかに些細な汚点をも照らし出してしまうのです。それだけに又、それを清らかに保つ者の幸せは格別です。何となれば神の御心のまにまに生き、人を愛するということの素晴らしさを味わうからです。     

(※民族的性向の違いにより神を〝父なる存在〟と見なす民族と〝母なる存在〟と見なす民族とがある。哲学的には老子の如く〝無〟と表現する場合もあるが、いずれにせよ顕幽にまたがる全宇宙の絶対的根源であり、神道流に言えばアメノミナカヌシノカミである。──訳者)
                                       


2 最後の審判           

 一九一三年十月二七日  月曜日

 
今夜もまた天界の生活を取りあげて、こちらの境涯で体験する神の愛と恵みについてもう少しお伝えできればと思います。私たちのホームは樹木のよく繁った丘の中腹に広がる空地に建っております。

私がお世話している患者──ほんとに患者なのです──は明かりの乏しい、言わば闇が魂に忍び込むような低地での苦しい体験の後にここへ連れて来られ、安らぎと静けさの中で介抱されております。

来た時は大なり小なり疲労し衰弱しておりますので、ここから向上して行けるようになるのは、余ほど体力を回復してからのことです。

 あなたはここでの介抱の仕方を知りたいのではないかと思いますので申し上げましょう。これを煎じ詰めれば〝愛〟の一語に尽きましょう。それが私たちの指導原理なのです。
 
と言うことは、私たちは罪を裁かず、罰せず、ただ愛を持って導いてあげるということですから、その事実を知った患者の中にはとても有難く思う人がいます。ところが実はそう思うことが原因となって、却ってそこにいたたまれなくなるものなのです。

 例えばこんな話があります。最近のことですが、患者の一人が庭を歩いている時に、私たち霊団の最高指導霊であられる女性天使を見かけました。

その人はつい目を反らして脇の道へ折れようとしました。怖いのではありません。畏れ多い気がしたのです。すると天使様の方から近づいてきて優しく声を掛けられました。話をしてみると意外に気楽に話せるものですから、それまで疑問に思っていたことを尋ねる気になりました。

 「審判者はどこにおられるのでしょうか。そして最後の審判はいつ行われるのでしょうか。そのことを思うといつも身震いがするのです。私のような人間はさぞ酷い罰を言いつけられるにきまっているからです。どうせなら早く知って覚悟を決めたいと思うのです。」

 この問いに天使様はこうおっしゃいました。

 「よくお聞きになられました。あなたの審判はあなたが審判を望まれた時に始まるのです。今のあなたのお言葉から察するに、もうそれは始まっております。ご自分の過去が罰を受けるに値すると白状されたからです。それが審判の第一歩なのです。
 
それから、審判者はどこに居るのかとお尋ねですが、それ、そこにおられます。あなたご自身ですよ。あなた自身が罰を与えるのです。これまでの生活を総点検して、自分の自由意志によってそれを行うのです。

一つ一つ勇気を持って懺悔する毎に向上して行きます。ここにお出でになるまでのあの暗黒界での生活によって、あなたはすでに多くの罰を受けておられます。

確かにあれは恐ろしいものでした。しかしもうそれも過去のものとなり、これからの辛抱にはあんな恐ろしさは伴いません。もう恐怖心とはおさらばなさらないといけません。ただし苦痛は伴うでしょう。

大変辛い思いをなさることと思います。ですがその苦痛の中にあっても神の導きを感じるようになり、正しい道を進めば進むほど一層それを強く感じるようになるでしょう。」

 「でも報酬を与えたり罰したりする大審判者つまりキリスト神の玉座が見当たらないのはおかしいと思うのです。」

 「なるほど、玉座ですか。それならいずれご覧になれる日が来るでしょう。でもまだまだです。審判というのはあなたがお考えになっているものとは大分ちがいます。でも怖がる必要はありません。進歩するにつれて神の偉大な愛に気づき、より深く理解して行かれます。」

 これは実はこちらへ来る人の多くを戸惑わせる問題のようです。悪いことをしているので、どうせ神のお叱りを受けて拷問に掛けられるものと思い込んでいるので、そんな気配がないことに却って戸惑いを感じるのです。

 また、自分は立派なことをしてきたと思い込んでいる人が、置かれた環境の低さ──時にはみじめなほど低い環境にとても落胆することがよくあります。

内心では一気にキリスト神の御前に召されて〝よくぞやってくれた〟とお褒めの言葉でも頂戴するものと思い込んでいたからです。もう、それはそれは、こちらへ来てからは意外なことばかりです。喜ぶ人もおれば悲しむ人もいるわけです。

 最近こんな人を見かけました。この方は地上では大変博学な文筆家で、何冊もの書物を出版した人ですが、地上でガス工場のかまたきをしていた青年に話しかけ、いろいろと教わっているところでした。楽しそうな様子なのです。

と言うのも、その人は謙虚さを少しずつ学んでいるところだったのです。ですがこの人のいけないところは、そんな行きずりの若造を相手に教えを乞うのは苦にならないのに、すでにこちらへ来ている筈の曽ての知人のところへ赴いて地上での過ちや知的な自惚れを告白することはしたくないのです。

しかし、いずれはしなければならないことです。青年との関係はそのための準備段階なのです。しかし同時に、私たちの目にはその人の過去も現在もまる見えであり、とくに現在の環境が非常に低いことが明白なのに、本人は相変わらず内心の自惚れは他人に知られてないと思い続けているのが哀れに思えてなりません。


こういう人には指導霊も大変な根気がいります。が、それがまた指導霊にとっての修行でもあるのです。

 ここで地上の心霊家を悩ます問題を説明しておきましょう。問題というのは、心霊上の問題点についてなぜ霊界からもっと情報を提供してくれないかということです。

 これにはぜひ理解していただかねばならない事情があるのです。こうして地上圏まで降りてきますと、私たちはすでに本来の私たちではなく、地上特有の条件による制約を受けます。
 
その制約が私たちにはすでに馴染めなくなっております。例えば地上を支配している各種の法則に従って仕事を進めざるを得ません。

そうしないとメッセージを伝えることも物理的に演出してみせてあげることも出来ません。実験会では出席者がある特定の霊の姿を見せてほしいとか話を交わしたいとか、あるいはその霊にまつわる証拠について質問したいと思っていることは判っても、それに応じるには私たちは非常に制約された条件下に置かれています。

例えばその出席者の有する特殊な霊力を活用しなければならないのですが、こちらが必要とする肝心なものは閉じられたままで、結局その人が提供してくれるものだけで間に合わせなくてはならないことになりますが、それが往々にして十分でないのです。

 さらに、その人の意念と私たちの意念とが言わば空中衝突をして混乱を生じたり、完全に実験が台なしになったりすることもあります。なるべくなら私たちを信頼して私たちの思いどおりにやらせてほしいのです。

そのあとで私たちが何を伝えんとしているかを批判的態度で検討して下さればいいのです。もし特別に情報が欲しいと思われる問題点があれば、それを日常生活におけるのと同じように、時おり心の中に宿していただけばそれでよろしい。

 私たちがそれを察知して検討し、もし可能性があり有益でもあり筋が通っていると判断すれば、チャンスと手段を見つけて、遅かれ早かれ、それに応じてあげます。

実験その他、何らかの形で私たちが側に来ている時に要求をお出しになるのであれば、強要せずに単に想念を抱くだけでよろしい。

あとは私たちにまかせて下さい。出来るだけのことをして差しあげます。しつこく要求してはいけません。私たちはお役に立ちたいと言う意図しかないのですから、あなたの為になることなら出来る限りのことをしていると信じて下さい。

 ちょうどその好い例があります。あなたはずっとルビーのことを知りたいと思っておられました。それをあなたがしつこく要求することがなかったので、私たちは存分に準備することが出来たのです。これからその様子をお伝えしましょう。

 ルビーは今とても幸せです。そして与えられた仕事もなかなか上手にこなせるようになりました。つい最近会ったばかりで、もうすぐあなたやローズにお話をしに行けそうだと言っておりました。

なぜ今夜来れないのかと思っておられるようですが、あの子にはほかにすることがありますし、私たちは私たちで計画に沿って果たさねばならないことがあります。

そう、こんなことも言っておりました──「お父さんに伝えてちょうだい。お父さんが教会でお説教をしている時の言葉があたしたちのところまで届けられて、その中の幾つかを取りあげてみんなで討論し合うことがあるって。地上で学べなかったことについてのお話が入ってるからなの」と。


──ちょっと考えられないことですね。本当ですか。

 おやおや、これはまた異なことを。本当ですか、とは一体あなたはこちらの子供をどんな風に考えておいでですか。いいですか、幼くしてこちらへ来た者はまずこの新しい世界の生活と環境について学び、それが終わってからこんどは地球と地上生活について少しずつ勉強することを許されます。

そしていずれは完全な知識を身につけないといけないのです。そのために、慎重を期しつつあらゆる手段を活用することになります。

父親の説教を聞いて学ぶこと以上に素晴らしい方法があるでしょうか。これ以上申しません。これだけ言えば十分のはずです。常識的にお考えになることです。少しは精神構造が啓発されるでしょう。


──でも、もしもあなたのおっしゃる通りだと、人間はうっかり他人にお説教など出来なくなります。それと、どうか気を悪くなさらないで下さい。

 ご心配なく。機嫌を損ねてなんかいませんよ。実はあなたの精神に少なくとも死後の環境とその自然さについて、かなりの理解が見られるようになって有難く思っていたのです。ところが、愚かしい漠然とした死後の観念をさらけ出すような、あのような考えを突如として出されたので驚いたのです。

 でも、他人に説教する際はよくよく慎重であらねばならないと思われたのは誠に結構なことです。でも、このことはあなた一人にかぎったことではありません。全ての人間がそうあらねばならないことですし、全ての人間が自分の思念と言葉と行為に慎重であらねばなりません。

こちらではそれが悉(ことごと)く知れてしまうのです。でも一つだけ安心していただけることがあります。万が一良からぬこと、品のないことをうっかり考えたり口にしたりした時は、そういうものはルビーがいるような境涯へは届かないように配慮されております。

ですからそちらではどうぞ気楽に考えて下さい。思いのままを遠慮なくおしゃべりになることです。こちらの世界では誠意さえあれば、たとえその教えが間違っていても、間違いを恐れて黙っているよりは歓迎されるのです。

 さ、お寝みなさい。皆さんによろしく。神の祝福を。そして神が常にあなたに勇気と忠誠心をお与え下さいますように。


Friday, February 17, 2023

シアトルの冬 祈願成就の原理   Principle of prayer fulfillment


         
一九一三年十月七日 火曜日

 このたび初めて同行して来た霊団(グループ)の協力を得て私はこれより、ベールのこちら側より観た〝信仰〟の価値について少しばかり述べてみたいと思う。

 キリスト教の〝信徒信条〟に盛り込まれた教義については今ここで多くを語るつもりはありません。すでに多く語られ、それ以上の深いものを語るにはまだ人間側にそれを受け入れる用意が十分に出来ていないからである。

 そこで吾々は差し当たってその問題については貴殿の判断におまかせし、どの信条も解釈を誤らなければそれなりの真理が含まれている、と述べるに留めておきます。
 そこで吾々としては現在の地上の人間があまり考察しようとしない問題を取り上げることにしたい。その問題は、人間が真理の表面──根本真理でなく真理のうわべに過ぎないもの──についての論争を卒業した暁にかならず関心を向けることになるものである。

それを正しく理解すれば、いま人間が血眼(ちまなこ)になっている問題の多くがどうでもよい些細なことであることが判り、地上だけでなくこちらの世界でも通用する深い真理へ注意を向けることになるでしょう。

 その一つが祈りと冥想の効用の問題である。貴殿はこの問題についてはすでに或る程度の教示を受けておられるが、吾々がそれに追加したいと思います。

 祈りとは成就したいと思うことを要求するだけのものではない。それより遥かに多くの要素をもつものです。であるからには、これまでよりも慎重に考察されて然るべきものです。

祈りに実効を持たせるためには、その場かぎりの目先の事柄を避け、永遠不易のものに精神を集中しなくてはならない。そうすれば祈りの中に盛り込みたいと思っていた有象無象(うぞうむぞう)の頼みごとの大部分が視界から消え、より重大で巾広い問題が創造力の対象として浮かび上がって来る。

祈りにも現実的創造性があります。例えば数匹の魚を五千人分に増やしたというイエスの奇跡(ヨハネ6)に見られるように、祈りは意念の操作による創造的行為である。その信念のもとに祈りを捧げれば、その祈りの対象が意念的に創造され、その結果として〝祈りが叶えられる〟ことになる。

つまり主観的な願いに対し、現実的創造作業による客観的回答が与えられるのです。

 祈りの念の集中を誤っては祈りは叶えられません。放射された意念が目標物に当たらずに逸(そ)れてしまい、僅かに適中した分しか効果が得られないことになる。

さらに、その祈りに良からぬ魂胆が混入しても効力が弱められ、こちら側から出す阻止力または規制力の働きかけを受けることになります。どちらを受けるかはその動機次第ですが、いずれにせよ望み通りの結果は得られません。

 さて、こうしたことは人間にとっては取りとめのない話のように思えるかも知れませんが、吾々にとっては些(いささ)かもそうではない。

実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られてくる祈りを分析し選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部門に送る。そこでさらに検討が加えられ、その価値評価に従って然るべく処理されているのです。

これを完璧に遂行するためには、地上の科学者が音と光のバイブレーションを研究するのと同じように祈りのバイブレーションを研究する必要があります。例えば光線を分析して種類分けが出来るように祈りも種類分けが出来るのです。

そして科学者にもまだ扱い切れない光線が存在することが認識されているように、吾々のところへ届けられる祈りにも、こちらでの研究と知識の範囲を超えた深いバイブレーションをもつものがあります。

それは更に高い界層の担当者に引き渡され、そこでの一段と高い叡智による処理にまかされる。高等な祈りがすべて聖人君子からのものであると考えるのは禁物です。往々にして無邪気な子供の祈りの中にそれが見出されます。

その訴え、その嘆きが、国家的規模の嘆願と同じ程度の慎重な検討を受けることすらあるのです。

 「汝からの祈りも汝による善行も形見として神の御前に届けられるぞよ」──天使がコルネリウス(※)に告げたと言われるこの言葉を御存知であろう。これは祈りと善行がその天使の前に形体をとって現われ、多分その天使自身を含む霊団によって高き世界へと届けられる実際の事実を述べたものであるが、これが理解されずに無視されています。

この言葉は次のように言い変えることができよう──〝貴殿の祈りと善行は私が座長を勤める審議会に託され、その価値を正当に評価された。吾人はこれを価値あるものと認め、吾人よりさらに上の界の審議官によりても殊のほか価値あるものとのご認知をいただいた。依ってここに命を受けて参じたものである〟と。

吾々はわざとお役所風に勿体ぶった言い方で述べましたが、こちらでの実際の事情を出来るだけ理解していただこうとの配慮からです。(※ローマ教皇二五一──二五三)

 以上の事実に照らしてバイブルに出ている祈りの奇跡の数々を吟味していただけば、吾々霊界の者が目のあたりにしている実在の相(すがた)をいくらか推察していただけるであろう。

そして大切なのは、祈りについて言えることがそのまま他のあまり感心出来ぬ心の働きにも当てはまるということです。例えば憎しみや不純な心、貪欲、その他もろもろの精神的罪悪も、そちらでは目に見たり実感したりは出来ないでしょうが、こちらでは立派な形態をとって現われるのです。

悲しいかな、天使は嘆くことを知らぬと思い込むような人間は、地上で苦しむ同胞に対して抱く吾々の心中をご存知ない。神から授かれる魂の使用を誤っているが故に悩み苦しむ人々のために吾々がいかに心を砕いているかをご覧になれば、吾々に愛着を感じて下さると同時に、無闇に神格化してくれることもなくなるでしょう。

Tuesday, February 14, 2023

シアトルの冬 “地上世界を救う”ですか。

 Is it "saving the earthly world"?

 

青い夢のような白樺の森イラスト背景, 雪の背景, 手描き, イラスト背景背景画像素材無料ダウンロード - Pngtree

 

(問い)――この地上世界を救うには、我々がこの教えをすべての人に広めないといけないのでしょうか。

「“地上世界を救う”ですか。

 

救うのは我々(霊界の霊たち)ではありません。

 

地上の人間の一人一人が自らの努力で救わねばなりません。」

 

シルバーバーチ

    『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』

Monday, February 13, 2023

シアトルの冬 すべてを支配する神の摂理  

 God's providence to rule over all

雪の白樺林と二匹のウサギ – 素材ごよみ

 

 〔宇宙は逃れようにも逃れられない自然法則によって支配されている。いかなる霊もその法則を変えたり、それを犯したときに生じる結果から逃れることはできない。しかし、そうした法則の存在を教えることによって無知から発生する危険を取り除いてあげることは可能である。シルバーバーチは数ある法則の中から、例えば引力の法則のような身近なものを取り上げて説き明かす。〕



私たちは大霊が定めた摂理(法則)をお教えしようとしているのです。それを守りさえすれば、地上生活に健康と幸せをもたらすことができるからです。教会で説教をしている人たちは、いつの日か、その間違いを取り消さなければなりません。いかなる人間も摂理の働きから逃れることはできません。とりわけ霊の声を聞いた者は、なおさらのことです。間違っていると知りつつ罪を犯す者は、真理を知らずに罪を犯す者よりも重い責任を取らされます。

魂が目覚め、霊力とともにもたらされる愛の恩恵に浴し、霊的真理の啓示を手にしながらも、なお自分中心の生き方をしている人は、その怠慢に対する罰がそれだけ大きくなります。無知ゆえに罪を犯したのではなく、真理を知りながら犯しているからです。人のために役立てるべき霊能を授かりながら、それを銀貨三十枚で売っている多くの霊媒・霊能者がいます。(イエスの弟子ユダが銀貨三十枚をもらってイエスの隠処を教え、それによってイエスの逮捕・処刑となり、ユダは自殺する。良心を裏切る行為のこと――訳注)

大霊はあなた方の内部に存在しています。進化の跡をたどれば確かに人間は向上しており、動物的進化の痕跡もとどめてはいますが、それは大霊の賜物(たまもの)の一部にすぎません。あなた方はそれをはるかに凌ぐ霊の資質を内部に宿しており、その力を発揮すれば地上にあっても神の如き生き方が可能となるのです。

一人ひとりの人間の内部には、いかなる病気も癒す力と、いかなる困難も克服する力が備わっているのですが、あなた方はまだそれを理解していません。人間は窮地に陥ったときに内部の貯蔵庫から霊力を引き出すことができます。このように神の王国は各自の内部にあるのですが、人々はそれをまったく理解していないのです。

その貯蔵庫から必要な霊力を引き出すためには、大霊(神)の摂理にのっとった生活に徹すればよいのです。しかし、果たして何人の人がそれを心がけているでしょうか。

人生は行為だけで成り立っているのではありません。口にする言葉や心で思うことも大切な要素です。行いだけが重要であると考えてはいけません。確かに行いが重要であることは事実ですが、言葉や思念も、あなたという存在の大切な一部なのです。よく言われるように、多くの人間が思想の主人ではなく、その奴隷となっています。


〔シルバーバーチがしばしば取り上げるテーマの一つが、地上人類は皆、肌の色に関係なく同胞であるということである。ある日の交霊会で次のように述べている。〕


私たちは一人の例外もなく大霊の一部です。そのうちのある者の肌を赤くし、ある者を黒色にし、ある者を黄色にし、ある者を無色(白色)にしました。しかし、こうしたことは大霊の計画の一端なのです。

いつの日か、大霊の摂理に対する理解が行きわたり、すべての肌の色の人々が混じり合い、互いに愛の心で睦み合うようになれば、地上に調和が訪れるようになります。あなた方は、肌の色の違いが意味するところを理解していません。異なる肌の色が与えられたことには重要な目的があり、それぞれが生命の摂理の成就に貢献することになるのです。すべての人種が一つに混じり合い、人間を肌の色で見分けるのではなく、その奥の魂で見分けるようになるまでは地上界に真の平和は訪れません。

このサークルが、地上のほとんどすべての人種から構成された一つの共和国になっていることにお気づきでしょうか。そこにはあなた方地上人に対する教訓があります。どの民族も他の民族にはないものを所有しており、そうした独自のものをそれぞれが持ち寄ることによって最高のものができ上がるのです。黄色人種には黄色人種ならではの貢献の場があり、白人には白人ならではの貢献の場があるということですが、地上人類は、こうしたことに理解が及んでいません。

あなた方は自らが大霊の一部であることを忘れてはいけません。あなた方一人ひとりが、大霊の仕事・大霊の力・大霊の愛・大霊の知識に貢献できるのです。例えば、自分よりも力の劣る人を少しでも向上させてあげようとするなら、大霊の力があなた方を通して顕現することになるのです。

それをいかなる形でするか、手を差し伸べる相手が誰であるか、どこで暗闇に光明をもたらすかは問題ではありません。挫折した人々を元気づけ、弱っている人々に力を与え、暗闇に光明をもたらし、飢えている人々に食べ物を施し、身を横たえる場所もない人々に休息の場を提供してあげることです。

それらの一つひとつが大霊の仕事の一部なのです。そうした努力をしていればどこにいても常に、あなた方を援助するための霊力がもたらされ、魂を鼓舞してくれます。そして、あなた方の想像を超えた結果を生み出すことになるのです。

大霊が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院ではありません。霊力に反応する人がいれば、そこがどこであろうと大霊は誠意に燃えた高級界の霊団を派遣します。地上の人間はとかく大霊の働き場所を限定して考え、特別な資格を持った人々を通してのみ働きかけると思いがちですが、地上界へつながる通路さえあれば、どこであろうと、いつであろうと、誰であろうと、その通路を使って働きかけます。

霊力には地上的な差別――階級や肩書き、社会的地位や肌の色、国家や民族の違いなどは関係ありません。霊力に反応する人であれば、それが誰であろうと、そこがどこであろうと、高級界から霊力を注いで精神を明るく照らし、魂を鼓舞し、神のブドウ園の園丁(えんてい)として使用します。(「ブドウ園の園丁」は、マタイ伝の「神の国はブドウ園で働く人を雇うために朝早く出かける主人のようなものである」から――訳注)

どうかこのことをしっかりと学び、大霊と大霊の子供たちのためにという決意のもとに、暗闇と重圧と嵐と困難の中で苦しんでいる人々の重荷を少しでも軽くし、新たな希望・新たな知識・新たな光明・新たな力を届けてあげてください。そうすれば、それを授かった人は身体に新たなエネルギーが満ち、精神は勇気にあふれ、霊は生気を取り戻して、大霊から授かっている資質の素晴らしさを満喫することになるでしょう。

そしてあなた方は、自分自身には何も求めず、ひたすら他人の霊的向上のみを目的とする真の奉仕(サービス)の喜びを味わうことになります。


〔これまで地上人類に知らされていなかった“重大な秘密”が明かされる。〕


大霊は無限の存在であり、あなた方はその大霊の一部です。もしも完璧な信念を持ち、正しい人生を送れば、大霊の恩寵(おんちょう)にあずかることができます。

地上界のすべての人間が完璧な信念を持てば、大霊はそれぞれの願いを喜んで聞き入れてくださることでしょう。魂が真剣に求め、しかも大霊に対する絶対的信念に燃えていれば、必ずやその望みは叶えられることでしょう。

神(大霊)の摂理はそのようにして働くのです。摂理に順応した生活を送っていれば、望み通りの結果が生じるようになっています。結果が出ないということは、摂理に一致した生き方をしていないことを示しています。

歴史をひもといてご覧なさい。最も低い階級、最も貧しい環境にありながら、神の摂理に忠実に従う努力をしたために道を踏み外すことがなかった人たちがいます。摂理に合わせようとしないで、“なぜ神は働かないのか”と不平ばかり言っている人間を相手にしてはいけません。

時には押しつぶされて不遇から抜け出せないこともあるでしょう。しかし、完璧な信念に燃えていれば、いつかはきっと地上生活での困難を克服することができます。大霊の象徴である太陽に向かってこう言うのです――「私は大霊の一部だ。私を破滅させるものは何もない。私は永遠の存在だ。無限の可能性を秘めた存在なのだ。有限の物質界のものは決して私を傷つけることはできない!」と。もしこれだけのことが言えるようであれば、あなたが傷つくことは絶対にありません。

多くの人が心に不安や恐れを抱いて出発します。望み通りの結果が得られないのではないか、という不安です。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。しかし「完全なる愛は恐れを取り除く」(ヨハネ第一の手紙四)、「まず神の国とその義を求めよ。そうすればそれらのものはみな与えられるであろう」(マタイ六)との言葉があります。

これは、はるか遠い昔、摂理を完璧に理解した人物によって述べられた教えです。彼は、摂理を実践すれば常にその結果がともなうことを示してみせたのです。あなた方も、摂理が働くような条件を整えさえすれば、必ずや望み通りの結果が得られます。

もう一つ別の摂理をお教えしましょう。それは何の代価も支払わずに入手できるものは、この地上界には何ひとつないということです。代価を支払わずに霊的能力を開発することはできませんし、魂の富を蓄えることもできません。霊的成長をおろそかにして金儲けにうつつを抜かしていると、そちらの世界では金持ちと言われても、こちらの世界では哀れな貧しい魂になってしまいます。

人間はその内部に、何よりも貴重な「神性」を宿しています。あなた方は大霊の一部なのです。地上のどこを探しても、それに匹敵する宝や富は存在しません。私たちは、魂の内部の鉱脈を探査し、肉体的本性の奥に埋もれた霊のダイヤモンドをいかにして引き出すか、それをお教えしようとしているのです。

そのためには霊界の最高の界層のバイブレーションに反応するようになっていただかなくてはなりません。あなた方は決して一人ぼっちではないこと、周囲には常にあなた方を愛する大勢の霊たちがいて、見守り、導き、援助し、鼓舞しようとして待機していることを知っていただきたいのです。そうした中で霊性が開発されていくにつれて少しずつ大霊に近づき、摂理と調和していくようになることを悟っていただきたいのです。

あなた方は、大霊の子供である地上の同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することになります。同胞のために役立つことをしているとき、大霊の無限の腕に抱かれ、その愛に包まれ、それが完全なる安らぎをもたらしてくれるようになります。

何の根拠もなく、ただ信じるというだけの信仰では、厳しい試練の嵐が吹けばひとたまりもなく崩れてしまいます。しかし、正しい霊的知識から生まれた信仰には確固たる土台がありますから、いかなる試練の嵐に遭っても揺らぐことはありません。

証拠を何ひとつ見なくても信じることができる人は幸せです。しかし、この宇宙が大霊の愛と叡智から生まれた霊的摂理によって支配されていることを信じることができる人は、なおいっそう幸せです。

その意味で、ここにおられる(ハンネン・スワッファー・ホームサークルの)皆さんは、霊的知識から生まれた完璧な信仰を持たなければなりません。皆さんは霊力の証(あかし)を手にしておられます。万事うまくいくという信念、大霊の摂理と調和して生きればそれ相当の実りを手にすることができるとの信念を持たなければなりません。

人間は“邪悪”と呼ばれるものの影響を受けてしまいます。しかしその邪悪なるものは、心の中から完全に追放することができるのです。なぜなら皆さんは、大霊とその摂理の保護のもとに生き、行動しておられるからです。

心に邪悪なものがなければ、善なるものしか近づきません。善なるものは、善なるものが支配するところにしか存在できないからです。霊界からこの交霊の場に訪れるのは大霊の使者のみです。恐れを持つ必要はありません。あなた方を包み込んでいる力、あなた方を支え導き鼓舞しようとしている力は、大霊から発しているのです。

その力が試練と苦難に際してあなた方を支えてくれます。嵐を鎮めて晴天とし、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれるのも、その力です。皆さんは進歩の正道をしっかりと踏みしめておられます。不安に思うことは何ひとつありません。

「完全なる愛は恐れを取り除く」とイエスは述べていますが、正しい知識は恐れを打ち払います。恐怖は無知から生じるものだからです。愛と信念と知識のあるところに恐怖は居すわることはできません。進化した魂は、いついかなるときも恐れることがありません。人生のどのような局面に際しても、自分は大霊であるがゆえに克服できないものはない、との確信があるからです。

恐怖心は魂の牢獄をつくります。ですから恐怖が頭をもたげかけたら、その波動に巻き込まれることなく、それを抑え込み、信念を持ってこう自分に言って聞かせるのです――「自分は大霊なのだ。地上の出来事で動揺などしない。魂に宿る無限の霊力でいかなる困難も凌いでみせる」と。あなた方は、あらゆる困難を克服する力を授かっているのです。その無限の力を見限ることがあってはなりません。

大霊の法則は、物的なものと霊的なものの両方を支配しています。宇宙という大霊の王国には、そうした区別はありません。物的生命を霊的生命から切り離して考えてはいけません。本来は別個のものではないのです。一つの大生命があり、それにいくつもの側面があるにすぎません。物的なものは霊的なものに反映し、霊的なものは物的なものに反映します。

大霊の摂理に一致した生き方をしているかぎり、克服できないような困難は生じないということを知らなければなりません。遭遇している困難や障害が取り除かれてしかるべきものであるなら、私たちの力で排除できないものはありません。

もしも苦しみが余りにも耐えがたく思われるときには、こう理解してください。私たち霊界の者は、あなた方の苦しみを取り除くために自分自身の進化の歩みを止めて努力します。しかしあなた方としては、その苦しみに耐え抜き、辛い体験を通して教訓を学び取る方が賢明であるということです。この短い地上人生のことだけを考えてはいけません。永遠の生命を視野におくことです。

物質界の人間も、物的であると同時に神性を宿していることを理解すれば、どれほど地上で生きやすくなることでしょう。悩みはたちまち消え去り、障害物も取り除かれることでしょう。ところが人間は内在している霊的な力を信じません。あなた方の言う“人間らしさ”とは地上界だけに属するものですが、霊力は大霊に属しているのです。

その昔、イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となるなかれ」と言いました(聖書には見当たらないが、モーゼスの『霊訓』にも引用されているところをみると、事実そういう言葉を何度も述べたのであろう――訳注)。地上人は、お金を持っている人間ほど悩みがないと思いがちです。“悩み”というものが相対的なものであることに気がつかないのです。大霊の摂理を金銭でごまかすことはできません。

あなた方は人間性を強化するために地上界へ来ています。それがなされるかどうかは、遭遇する難問にどう対処するかによって決まります。内在する霊力によって克服できないような問題は、地上には生じません。なぜなら、いかなる難問もしょせんは地上的・物質的なものにすぎないからです。あなた方は大霊の一部であり、神性を宿していることを忘れてはなりません。

真の幸福とは、大霊と一体になった者に訪れる安らぎのことです。それは心が大霊のリズムで鼓動し、大霊の意思と一致し、魂と精神が大霊と一つになっている状態のことです。大霊の摂理と調和しているから安らぎがあるのです。それ以外に安らぎは得られません。

この私にできるのは、摂理についてお教えすることだけです。イエスは二千年前に、「天国はあなた方の中にある」と言いました。外部のどこかにあるわけではありません。ましてや物質界の喧騒の中には存在しません。それは魂の内部に見いだされるものなのです。

神の摂理は絶妙なバランスを保ちながら完璧に働いていますから、いかにそれをごまかそうとしても不可能です。どのような人間も、罰せられるべきものが見逃されたり、報われるべきものが見落とされたりするようなことはありません。物的な目で永遠を判断してはいけません。より大きなものを見ないで小さなものを裁いてはいけません。

束の間の地上的な喜びと永遠の霊的な幸福とを混同してはいけません。地上的な喜びは安っぽい一時(いっとき)のものにすぎません。あなた方は地上的な観点から考えがちですが、私たちは霊的な目で見ます。あなた方を喜ばせるために摂理を曲げて説くわけにはまいりません。

霊界から地上界へ戻ってきた者(交霊会で出現した霊)に尋ねてごらんなさい。誰もが「摂理は完璧です」と答えるはずです。そして二度と地上へは再生したがりません。

あなた方は外部に安らぎを求めようとしますが、私はあなた方の内部にある永遠の安らぎを見いださせてあげたいと努めています。最も価値あるものは内在する霊的宝なのです。

常に何かしら不満を抱いている人がいるものです。それは地上世界だけでなく、こちらの世界でも同じです。彼らが満足できないのは、自分がもっと完璧になれると思っているからです。神の道具として、まだまだ十分ではないと思っているからです。まさに人間は、自己との闘いを通して自らの不完全さを克服し、神性の開発が可能になるのです。

まだ為すべきことがありながら、満足していられるでしょうか。生きるうえで欠かせないものに不自由している物質界の子らを見て、安穏としていられるでしょうか。神の名のもとに間違った教えが説かれているのを聞いて、私たちが安心していられると思われますか。

光があるべきところに暗闇があり、自由であるはずの者が強欲さによって自らの魂をがんじがらめにし、地上界のどこもかしこも混乱し、無秩序な状態にあるのを見て、私たちが心を痛めずにいられると思われますか。

私たちは、あなた方を通して大霊の愛が地上界に流入するように努めていますが、いまだに多くの大霊の子らが本来受け取るべきものを得られずにいるのです。大霊は必要なものは十分に用意してくださっているのに、それを授からない人がいるのです。他の人間が飢えているのに、自分だけが満ち足りて平気でいるようでは、霊格が高い人間とは言えません。

私たちの仕事でいちばん辛いのは、時としてあなた方が苦しんでいるのを傍観しなければならないことです。その苦しみがあなた方の魂にとって必要な闘いであるために、私たちは手出しをすることが許されないのです。あなた方がその闘いに勝利すれば、それは私たちにとっても勝利であり、あなた方が敗北すれば私たちにとっても敗北なのです。あなた方の闘いは常に私たちの闘いであるにもかかわらず、あなた方を援助することは一切許されません。

時々、私は涙を流すことがあります。救いの手を差し伸べてはいけないことが分かっているからです。それが摂理だからです。そのときの私の苦痛は、苦しんでいる本人よりも大きいことを知ってください。

皆さんに代わって私が問題を解いてあげるわけにはいきません。それは皆さんの自由意志に干渉することになるからです。もし私が、この霊媒(バーバネル)にああしろこうしろと指示し始めるようになったら、それはこの霊媒の自由意志が失われたことを意味します。それきり彼の進歩は止まってしまいます。

あなた方一人ひとりの内部に宿された霊性が発達するのは、日常生活で生じる問題をいかにして解決していくか、その努力をしているときです。何もかも楽に片づいているうちは成長しません。

ただし、私にも干渉を許される場合があります。この霊媒を通じての私の仕事が妨げられるときには、チャンネルであるこの霊媒の自由を確保するために、邪魔を排除する手段を講じます。しかし、この霊媒の霊性の進化に関わることはすべて本人の自己責任ですから、あくまでも霊媒自身の努力で解決していかなければなりません。


〔別の日の交霊会で――〕


霊的真理を説く人には、大きな責任が背負わされています。もしその責任に反するなら、地上生活の間に、または死後にその代償を払わなければなりません。

時おり私がうんざりさせられるのは、霊界からの“高度な教え”を求めるだけで、何ひとつ困っている同胞のために手を差し伸べようとしない人間がいることです。人は成長するにつれて霊的真理と大霊の摂理を深く理解するようになっていきます。

真理の追求ばかりしている人たちが、少しでも地上を明るく住みやすい世界にするために、人々への奉仕に立ち上がるなら、それこそ“最高の教え”を実践することになるのですが……。


〔地上界の問題の大半は自由意志の使い方を誤っていることから生じていることを強調して――〕


人間は戦争が起きると、「なぜ大霊は戦争をやめさせないのか」とか「なぜ未然に防いでくれないのか」と思うようですが、大霊の摂理を無視している以上、責任は人間自身にあるのです。

行為が生み出す結果は絶対に避けられません。私たちには、大霊の摂理を変えることはできません。蒔いた種が生み出す結果は、自分で刈り取らなければならないのです。利己主義という種を蒔けば、それ相当の結果を刈り取らなければなりません。高慢・嫉妬・怨恨(えんこん)・貪欲・敵意・不信・猜疑心(さいぎしん)――こうしたものがつもり積もって、戦争・困窮(こんきゅう)・不和といったものを生み出します。

私たちは大霊の摂理をお教えしようと努力しているのですが、私たちが地上界へ降りてきた目的を理解できない人たちから、しばしば非難されます。しかし私たちには、大自然の摂理を明かすこと以外には何の意図もありません。というのは、地上界を支配しているのは大霊の摂理以外の何ものでもないからです。それを“宗教”と呼ぼうと“科学”と呼ぼうと“哲学”と呼ぼうと“神の自然法則”と呼ぼうと同じことです。

摂理に逆らった生き方をする人は、一人の人間であろうと大勢の集団であろうと、民族であろうと国家であろうと、いつかはその代償を払わなければなりません。摂理の働きが完璧であることはいつも説いている通りです。その働きは人間の目には見えないかもしれませんが、原因と結果は常に連鎖しています。摂理がそのようになっているからです。何度も述べてきたことですが、それを改めて説くのは大霊の摂理がすべてだからです。

私たちは、大霊(神)とは何かを明らかにしようとしていますが、それは摂理を通して大霊を明らかにすることにほかなりません。私たちは、大霊の摂理をお教えしようとしているのです。それによってあなた方は、摂理と調和した生活が可能になります。もちろん自由意志が与えられていますから、摂理に従うか否かはあなた方の選択に任されています。一個人であろうと集団であろうと同じことです。

何事も摂理にのっとって行動し、それに反することがないようにしなければならないという認識が行きわたるまでは、地上界に混乱と破滅と惨事が絶えることはないでしょう。

私たちとしては、永遠の霊的真理をお教えすることしかできません。なぜなら霊的真理だけが、物的なものが崩壊しチリとなったあとも存在し続けるからです。物的なものだけに目を奪われている者は大きな過ちを犯しています。幻影を追いかけ、永遠の実在を忘れているからです。霊的真理といっても至って単純なことばかりです。それなのに地上界の人間は、いまだに真理を理解していません。

苦痛と落涙、流血と悲しみを通してしか霊的真理を学べないというのであれば、それもやむをえないでしょう。私としては、できることなら私たちが示してきたように愛と奉仕の精神を通して学んでほしいところです。しかし、それができないとなれば、摂理に反した生き方に対する代価(痛み)を払って学ぶしかないでしょう。

地上界で大人物と言われた人が霊界でも大人物と言われるわけではありません。こちらの世界での偉大さは、魂の偉大さ・霊性の高さ・奉仕精神の豊かさで計られます。これらは物的世界での輝きが消滅したあとも末永く存在し続けます。

自由意志は大霊から授かった権利です。が、その使用を誤ると代償を払わなければなりません。摂理にのっとった生き方をすれば豊かな恩恵を手にすることになります。もし摂理に反した生き方をするなら、それ相当の結果を刈り取らなければなりません。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱を招きます。

私たちは、本来なら大霊の子供たちの教育者であるべき立場の人々から軽蔑されています。私たちが大霊と大霊の愛の名のもとに地上へ降りてきたために、私たちを歓迎するはずの人間から拒絶されています。私たちは「お役に立ちたい!」との願望に燃えて、あなた方が自ら地上世界を救うための摂理と霊力についてお教えしようとしているのですが……。

霊的無知に浸りきり、儀式や作法に取り囲まれ、さらには神の霊力が今日でも地上界に注がれていることを否定するようでは、その代償を払わざるをえません。(英国国教会では神は紀元六六年まで地上に働きかけ、それ以後はいかなる働きかけもしないという信仰がある――訳注)

私たちは人のために役立つことを願う人々の味方であり、破壊をもくろむ者たちにとっては敵なのです。私たちは、手助けすることができる所ならどこへでも、愛と奉仕の翼に乗って降りてまいります。それこそが、私たち全員が果たさなければならない仕事だからです。

それには困難と障害が立ちはだかることは覚悟しています。しかし、私たちは必ず克服します。潮流のように満ち干を繰り返すことでしょうが、最後は必ず勝利します。

私たちだけでは大きな仕事はできませんが、あなた方地上の人々と協力すれば、幾ばくかの仕事はできます。一個の魂を引き上げ、暗闇にいる人に光明をもたらし、弱っている人に力を貸し、逆境に喘ぐ人を慰めてあげるなら、そのとき私たちは価値ある貢献をしたことになるのです。


〔一人ひとりの人生上の出来事には明らかな傾向が見られるという意味において、自由意志にも制約があると言えるのか、と問われて――〕


一定の傾向があるのは事実ですが、それは宿命的にどうしようもないものではありません。人間はさまざまな放射物や影響力に取り囲まれていて、その多くが人間の運命に何らかの影響を及ぼしていることは事実です。しかし、大霊は人間の一人ひとりにご自身の一部・霊性の一部を与えてくださっており、各自の進化のレベルに応じて自由意志を適切に行使すれば、霊性開発の道で生じるいかなる障害も克服できるようになります。あなたが大霊であり、大霊があなたなのです。

大地に蒔かれた種子は、その成長を正しく促すものを与えれば芽を出し、成長し、見事な花を咲かせます。それと同じで、あなたという存在の中に大霊の種子が植え込まれているのです。あなた自身が庭師です。その種子が花を咲かせられるかどうか、あるいはいつ花を咲かせるかは、あなたの手入れ一つにかかっています。そこにあなたの自由意志が関わっているのです。

せっかくの種子を暗闇の中に置き去りにして、魂の成長や慈悲や無私の善行という光を与えなければ、大霊があなたを通して顕現することにはなりません。


〔苦難の価値について問われて――〕


あらゆる体験が、あなた方の永遠の人生模様の一部を構成します。あなた方はとかく、この世だけの出来事によって永遠の人生を判断しようとします。目に見える物質世界の混乱状態だけで判断し、地上生活のすべてを通して一本の神聖な糸が貫いていることが理解できません。

調和を基本的摂理とするこの大宇宙においては、あなた方一人ひとりが大霊の計画に貢献しているのです。地上生活には、時として辛さと絶望、痛みと悲惨さがともないますが、そのすべてが魂にとって永遠の旅路に向かうための準備なのです。

暗黒と光、陰と日向(ひなた)といった対照的なものも、実は一個の統一体の反映にすぎません。陰なくしては光もあり得ず、光なくしては陰もあり得ません。それと同じで、困難は魂が向上するための階段です。困難・障害・ハンディキャップ――こうしたものは魂の試練なのです。それを克服したとき、魂はより強くなり、より純粋になり、より深くなり、いっそう進化するようになるのです。

無限の可能性を秘めた魂の潜在能力が、困難も苦痛もなく、陰も悲しみも悩みも悲惨さもなしに発現すると思われますか。発現するはずはありません。

悲哀の極みをなめ尽くして初めて、魂の奥底からの喜びが味わえるのです。生命の階段を低く下りるほど、それだけ高く上がれるのです。地上人生の陰と思える体験を重ねるほど、日向の喜びがひとしお身に沁みるようになるのです。

すべてのことが霊性進化の肥やしになります。そのうち皆さんも、肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上人生を振り返るときがまいります。その時、紆余曲折した出来事の中で、それらの一つひとつがちゃんとした意味を持ち、すべての体験が皆さんの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出すことになっていたことを理解するようになるはずです。

魂にとって、正しく理解し正々堂々と立ち向かって何の益ももたらさないような体験は一つもありません。いったい、困難も試練も問題もない物質世界というものが想像できるでしょうか。そうした世界では何の進化も得られません。克服すべきものが何もないからです。あるのは堕落のみです。

シアトルの冬 霊界の科学館 Spirit World Science Museum

         
一九一三年十月十一日 土曜日

 昨夜は時間がなくて簡単な叙述に終わってしまったので、今日は引き続きあのコロニーでの体験の幾つかを述べてみたいと思います。

そこには色んな施設があり、その殆どは地上の人間で死後の世界について疑問に思っている人、迷っている人を指導するにはどうすれば一ばん効果的かを研究するためのものです。

昨夜お話した私たちの体験を比喩として吟味されれば、その中に託された教訓をふくらませることが出来ると思います。

 さて、あのあと指導霊の一団の引率で私達はすでにお話した境界の外側へ出ました。そこは芝生地ですが、それが途方もなく広がっているのです。そこは時おり取り行われる高級界の神霊の〝顕現〟する場の一つです。

召集の通達が出されますと各方面からそれはそれは大勢の群集が集合し、その天界の低地で可能な限りのさまざまな荘厳なるシーンが展開します。

 そこを通り過ぎて行くうちに次第に登り坂となり、辿り着いたところは台地になっていて、そこに大小さまざまな建物が幾つか立っております。

 その中央に特別に大きいのが立っており、私たちはそこへ案内されました。入ってみるとそこは何の仕切りもない、ただの大きなホールになっております。

円形をしており、まわりの壁には変わった彫刻が施されております。細かく調べてみますと、それは天体を彫ったもので、その中に地球もありました。固定されているのではなく回転軸に乗っていて、半分が壁の中にあり半分が手前にはみ出ております。 

そのほか動物や植物や人間の像も彫られていて、そのほとんどが壁のくぼみ、つまり入れ込みに置いてあります。尋ねてみますとそこは純粋な科学教育施設であるとのことでした。 

 私たちはその円形施設の片側に取り付けられているバルコニーに案内されました。そこは少し出っ張っていますので全体が一望できるのです。これからそこの設備がどういう風に使用されるかを私たちのために実演して見せて下さることになりました。

 腰かけて見ておりますと。青い霞のようなものがホールの中心付近に立ち込みはじめました。と同時に一条(すじ)の光線がホールの中をさっと走って地球儀の上に乗っかりました。

すると地球儀がまるでその光を吸収していくかのように発光し始め、間もなく光線が引っ込められたあとも内部から輝き続けました。と見ているうちに今度はもう少し強烈な別の光線が走って同じように地球儀の上に乗りました。するとその地球儀がゆっくりと台座から離れ、壁から出て宙に浮きました。

 それがホールの中央部へ向けて浮上し、青い霞の中へ入ったとたんに誇張をしはじめ、輝く巨大な球体となって浮かんでおります。その様子は譬えようもなく美しいものでした。

それが地球と同じようにゆっくりと、実にゆっくりとした速度で回転し、その表面の海洋や大陸が見えます。その時はまだ地上で使われる平面図にすぎませんでしたが、回転を続けていくうちに次第に様子が変わってきました。

 山脈や高地が隆起し、河や海の水がうねり、さざ波を立て、都市のミニチュア、建物の細々(こまごま)とした部分までが見え始めたのです。きめの細かさがどんどん進んで、人間の姿──最初は群集が、やがて一人一人の姿が見分けられるようになりました。

直径80フィートから100フィートもあろうかと思える球体の上で生きた人間や動物が見えるというシーンは、とてもあなたには理解できないでしょう。がそれがこの施設の科学の目的なのです。つまり各天体上の存在を一つ一つ再現することです。

 その素晴らしいシーンはますます精度を増し、回転する球体上の都市や各分野で急がしく働いている人間の様子まで見えるようになりました。

広い草原や砂漠、森林、そこに生息する動物類の姿まで見えました。さらに回転して行くうちに、今度は内海や外洋が見えて来ました。あるものは静かに波うち、あるものは荒れ狂っております。そして、そこここに船の姿が見えます。つまり地上生活の全てが目の前に展開するのでした。

 私は長時間そのシーンに見入っておりました。するとその施設の係の方が下の方から私たちに声を掛けられました。おっしゃるには、私たちが今見ているのは現時点での実際の地上の様子で、もしお望みであれば過去へ遡って知性をもつ存在としての人類の起源までを再現できますということでした。

是非その美事な現象をもっともっと見せていただきたいと申し上げると、その方は現象の全てをコントロールしていると思われる器機のあるところへ行かれました。

 その話の続きはあとにして、ここで今あなたの心の中に見えるものについて説明しておきましょう。そのホールは暗くはありません。全体がすみずみまで明るいです。ですが球体そのものが、強烈でしかも不快感を与えない光に輝いているために、青い霞の外側が何となく薄暗く見えるまでです。その霞のあるところが球体の発する光輝の領域となっているようでした。

 さて、程なくしてその回転する球体上の光景が変化し始めました。そして私たちは長い長い年月を遡り、人間がようやく森林から出て来て平地で集落をこしらえるようになった頃の地上の全生命──人間と動物と植物の太古の姿を目のあたりにしはじめました。

 さて、ここでお断りしておかなければならないのは、太古の歴史は地上の歴史家が言っているような過程を辿ってはいないということです。当時の現象は〝国家〟と〝世紀〟の単位でなく〝種〟と〝累代〟(※)の単位で起きておりました。

何代もの地質学的時代がありました。人間が鉄器時代とか石器時代、氷河期と呼んでいる時期を見ますと実に面白いことが発見されます。あらかじめある程度の知識を持つ者には、どうもそうした名称がでたらめであることが判るのです。

と言いますのは、例えば氷河期は当時の地球の一、二の地域には当てはまるかも知れませんが、決して全体が氷で覆われていたわけではないことが、その球体を見ていると判るのです。それも大てい一時代に一つの大陸が氷で覆われ、次の時代には別の大陸が氷で覆われていたのです。

が、そうした歴史的展開の様子は地球が相当進化したところで打ち切られました。そうして、さっきも述べたように人類の出現はその時はすでに既成事実となっておりました。 (※地質学的時代区分を二つ以上含む最大の単位──訳者)

 どんどん様相を変えて行くこの多彩な宝石のような球体に魅入られ、これが他ならぬわが地球なのかと思い、それにしては自分たちが何も知らずにいたことを痛感していると、その球体が次第に小さくなって、もとの壁の入れ込みの中へ戻り、やがて光輝が薄れていき、ついには最初に見かけた時と同じただの石膏の彫り物の様なものになってしまいました。

 この現象に興味をそそられた私たちが指導霊に尋ねると、そこの施設についていろいろと解説して下さいました。今見た地球儀にはもっと科学的な用途があること、

あのような美しい現象を選んだのは科学的鍛錬を受けていない私たちには美しさの要素の多いものが適切と考えたからであること、科学的用途としては例えば天体と天体との関連性とか、それぞれの天体の誕生から現在までの進化の様子が見られるようになっていること。等々でした。

 壁にはめ込まれた動物も同じような目的に使用されるとのことでした。地球儀の時と同じように光線が当たると光輝を発してホールの中心部へやって来ます。

そこでまるで生きた動物のように動き回ります。事実ある意味でその間だけは生きた動物となっているのです。それが中央の特殊な台に乗っかると拡大光線──本当の科学的名称を知らないので仮りにそう呼んでおきます──を当てられ、さらに透明にする光線を当てられます。するとその動物の内臓がまる見えとなります。

施設の人の話によりますと、そうやって映し出される動物あるいは人間の内部組織の働き具合を見るのは実に見応えのあるものだそうです。

 そのモデルに別の操作を施すと、今度は進化の過程を逆戻りして次第に単純になって行き、ついには哺乳動物としての原初形態まで遡っていくことが出来ます。つまりその動物の構造上の発達の歴史が生きた姿のまま見られるというわけです。

面白いのはその操作を過ると間違ったコースを辿ることがあることで、その時は初期の段階が終わった段階で一たん元に戻し、もう一度やり直して、今度は正しいコースを取って今日の段階まで辿り着くということがあるそうです。

又、研究生が自分のアイディアを組み入れた進化のコースを辿らせてみることも出来るそうです。動物だけでなく、天体でも国家でも民族でも同じことができるそうですが、それを専門的に行う設備が別のホールにあるとのことでした。

 一度話に出た(八六頁参照)子供の学校の構内に設置されていた球体は実はこの施設の学生の一人がこしらえたのだそうです。勿論ここにあるものよりはずっと単純に出来ております。もしかしたらこの施設の美しさを見た後だからそう思えるのかも知れません。

 今日はこれ位にしておきましょう。他にも色々と見学したものがあるのですが、これ以上続けると長くなり過ぎるので止めにします。

 何か聞きたいことがあるみたいですね。その通りです。私は月曜日の勉強会に出席しておりました。あの方が私に気づいておられたのも知っておりました。私の述べた言葉は聞こえなかったようですけど。

 では、さようなら。あす又お会いしましょう。

≪原著者ノート≫最後のところで言及している勉強会のことについて一言述べておく必要がある。前の週の月曜日のことである。私はその日、礼拝堂の手すりと手すりの間に着席し、勉強会のメンバーは聖歌隊席で向かい合って着席していた。

聖歌隊席の至聖所側の一ばん端で私の右手になる位置にE婦人が着席していた。そのE婦人が後で語ってくれたところによると、私が会の最後の締めくくりの言葉を述べている最中に私の母親が両手を大きく広げ情愛あふれる顔で祭壇から進み出て、私のすぐ後ろまで来たという。

その姿は輝くように美しく、まるで出席しているメンバーと少しも変わらない人間の身体をまとっているようだったという。E婦人の目には今にも私を抱きしめるかに見えたそうで、余りの生々しさに一瞬自分以外の者には見えていないことを忘れ、今にも驚きの声を出しそうになったけど、どうにかこらえて目をそらしたという。私が質問しようと思っていたのはそのことだった。

Sunday, February 12, 2023

シアトルの冬 スピリチュアリズムが目指す新しい世界

 A New World of Spiritualism

北海道の動物達と冬の白樺並木/2022年カレンダーより | アートブランドCOMOデザイナー・ミレイの仕事録



〔人類が霊的法則を学び、その指示に従って生きるようになったときの世界は、どのようなものであろうか。新しい世界は一人の独裁者、一つの政府、あるいは国際連盟のような組織によってコントロールされる性質のものではないことは明らかである。人間一人ひとりによる努力の結果として誕生するものであろう。そのときの喜びがいかなるものであるか、それをシルバーバーチに語ってもらおう。〕


地球人類は今まさに危機の真っ只中にあります。何事につけ誕生には苦しみがともなうものですが、新しい秩序の誕生にも大きな苦しみがともないます。その誕生が近づくにつれて苦痛も増大してきます。

しかし間違いなく言えることは、新しい世界の種子がすでに地上界に根付いているということです。既得権力の座に安住している者たちがいかなる策を弄(ろう)しても、それは功を奏さないでしょう。イエスは、「天に為される如く地にも為されるであろう」と二千年前に述べています。それが実現しようとしているのです。

これから地上には、いくつもの大きな変化が生じます。崩壊や多くの大変動があるでしょう。皆さんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかもしれません。「たいへんな時代になった」と、おっしゃるかもしれません。しかし、そうした変動の背後には、地上世界を進化させようとしている大きな力が存在しているのです。

地上世界のための仕事に従事している私たちの多くは、より高い界層の霊たちによって、いつの日か地上はこうなるという未来像を見せていただいております。私たちは、その計画を受け入れる能力のある地上の同志に伝え、仕事を行っていくように彼らの心を鼓舞しているのです。私が見せていただいた未来像に比べると、現在の地上世界はとても醜く見えます。が、私には地上世界はこんなにまで立派になり得るのだ、こうでなければならないのだ、ということが分かっています。あとは時間の問題です。

そのうち、政治も宗教も科学も学問も、ある一つのものの側面にすぎないことが理解できる新しい人類が現れることでしょう。そのときは苦悩や嘆きや恐れ、喪の悲しみや不幸が追放され、笑顔と笑い声が満ちあふれる世界となるでしょう。しかし、現段階の地上世界で最も偉大な人間とは、他人の悲しみを取り除き、人生をより良くしてあげられる人のことなのです。

これまで人間は、何か良いものを手に入れると、それを他人のために使用せずに独り占めしようとしてきました。そしてそうした間違ったあり方ゆえに、いずれ崩壊するに違いない社会システムを構築しようとしてきたのです。しかし大霊からいただいた資質を発達させ、それを他人のために役立てる方向で使用するようになれば、永遠なるものを基盤とした社会システムが構築されるでしょう。

私たちが説いている教えは決して新しいものではありません。霊的な視野を持つ人々がずっと説き続けてきた、古くからある真理です。それをほとんどの人間が顧みようとしなかったために、私たちが改めて説き、大霊の教訓を学ぶように導く必要性が生じたのです。人類は自らの間違った考え方による愚行から、地上界を破滅の寸前にまで追いやっています。

今こそ人類は、大霊とその摂理へ回帰しなくてはいけません。いや、すでに回帰しつつあります。私の目には、ゆっくりとではありますが、大霊の摂理が地上界に具現しつつあるのが見えます。

何よりもまず人類が学ばなければならないのは、大霊の恩寵(おんちょう)は皆で分け合わなくてはいけないということです。現在の地上には、今日の食べ物にも事欠く人がいる一方で、度を超した飽食に走っている人がいます。もちろんこれは間違っています。あり余るほど持っている人は、足りない人に分けてあげなくてはいけません。別に難しいことではないと思うのですが……。

あなた方は、既得権を打破しなければなりません。摂理は完璧です。あなた方が自分のことを忘れて他人のために奉仕しようとするとき、あなた方を通して大霊が働くのです。それはあなた方だけでなく、すべての人間に言えることです。そんなことは無理ですとおっしゃるかもしれませんが、私は可能だと申し上げます。それが人間としての唯一の正しい生き方だからです。摂理は完璧であり、ごまかすことはできません。あなた方は摂理を学び、それを実行に移さなくてはいけません。

長いあいだ人類は、本当は取り壊すべきものを構築することに自由意志を行使してきました。しかし今、ゆっくりと地上の闇に大霊の光が射し込み、混乱と無秩序の中から新しい世界が生まれつつあります。そこにはもはや、不平等も不正もなく、持つ者と持たざる者といった差別もなく、大霊からの賜物(たまもの)がすべての子らに平等に分け与えられるようになることでしょう。

そうした新しい世界の夜明けを、どのような言葉で呼んでもかまいません。それは大霊の力によって成就する世界であり、新たな喜び、新たな人生、新たな幸せを地上にもたらそうとする大霊の意思に忠実な人間の努力によって、これ以上、霊界へ“出来損ない”(死後に「地縛霊」となってしまうような人間――訳注)を送り込まなくなる世界です。

時として、その努力が無駄に終わっているように感じられるかもしれません。しかし常に、世界中のあらゆる所でさまざまな人々が、自覚するしないに関わりなく霊界の道具として新しい世界の夜明けのために活用されているのです。大霊は、我が子が破滅の道へ向かうのを黙って見ていることはできません。私があなた方に繰り返し援助をお願いするのは、人類の悲劇に終止符を打つためです。新しい世界を築くための努力を“政治”と呼ぶかどうかは、私には関心はありません。私たちの仕事は、これからも続いていきます。霊界と地上界が協力して進めていく仕事です。もはや、それを阻止することはできません。

そうした私たち(霊界と地上界)の努力によって、物質界の至るところで大きな仕事が成し遂げられていることを誇りに思っています。地上の暗闇に光が射し込み、悲しみに暮れていた心に喜びがもたらされるようになっています。まだわずかではありますが、無知に代わって知識が存在するようになっています。私たちは、生きる気力を失った人々を助け、人生に疲れた人々に勇気を与え、進むべき道を見失った人々を導いています。そして地上の同胞のために働いている人々を鼓舞し、大霊とその子らのための仕事をするすべての人間の背後には、強力な霊の大軍が控えていることを理解させようとしているのです。

私はまた、皆さんが愛し、皆さんを愛している霊界の人々をこのサークルに連れてこられたことを嬉しく思っています。あなた方は、彼らを失ったのではありません。死は、愛と友情で心が一つになっている者たちの間を引き裂くものではなく、両者は変わらず結ばれていることを、これまで以上に実感することでしょう。

私たち霊団の影響力がどれほど拡大しているかを、あなた方にお見せできないのが残念です。私たちは障壁を壊し、障害物を取り除き、知識をもたらすために働いています。地上世界が必要としているものは、人類を霊的に、精神的に、そして物質的にも自由にしてくれる単純な真理です。ご存じのように私たちは、ただ奉仕するためだけに歩んでいます。無償の奉仕、それのみが地上人類を救うことになるからです。

ここで改めて申し上げておきたいのは、私はただの“道具”にすぎないということです。私は、人間は全生命を生み出した大霊の一部であるという単純な霊的真理をあなた方に悟らせたいと願っている多くの霊たちの一人にすぎません。大霊はあなた方の内部に存在しています。あなた方は神聖なる賜物を与えられており、その潜在的神性が宿っているからこそ大霊の恩寵にあずかる資格があるのです。その神性を妨げる障害物や慣習は、一掃しなければなりません。私たちの仕事は魂と精神を自由にするだけでなく、身体的にも自由にすることを目的としているのです。

そうした仕事に私たちは献身してきました。それが私たちが成し遂げようとしてきた奉仕(サービス)なのです。私は大霊の道具として、人類を救うことになる真理を皆さん方に届けるという特権にあずかったことを光栄に思っています。私が皆さんと一緒に奉仕の仕事に携わってきて何年かになりますが、その仕事はこれからもまだまだ続きます。地上界の皆さんと霊界の私たちの協力によって、地上人類がどうしても必要としている救いをお届けしてまいります。あなた方はすでに知識を持っています。霊的真理を手にしています。真理を知った者には、それを実践に移す責任がともないます。その責任を果たしてこそあなた方は、より優れた大霊の道具になれるのです。

あなた方が手にしている真理に疑念が向けられたときは、それには「神から授かった真理」の刻印が押されていることを常に思い出してください。私たちは、あなた方人間の理性だけに訴えています。私たちがお届けするメッセージは、あなた方の品位を落としたり、知性を侮辱(ぶじょく)したり、奉仕精神と善意を持った正直な生き方に背を向けさせるようなことはありません。それどころか、人間に内在する神性に気づかせ、大霊とのつながりを自覚させるものです。そしてあなた方の日常の行為のすべてを律し、全生命の始原である大霊を顕現させることができるように導くものなのです。

霊的真理の重要性を理解している人たちが一致団結して、物質界に立ち込めている無知の霧を晴らすためにその力を使用すれば、どれほど大きな仕事ができることでしょうか。善意と救済と奉仕の勢力(霊界の軍団)は常にあなた方の味方であることを自覚して、自信を持って前進してください。

私たちの前途には奉仕(サービス)の分野がいくらでも広がっています。私たちの行く手には、古い慣習を捨て、過去の信仰に頼らず、懐疑に耐え得る真理を求めながらも、どこへ向かえばよいのか分からずに迷っている多くの人々を救うことができるという喜びが待っているのです。そうした人々にこそ霊的真理と霊的摂理をお届けするのです。内部に宿る霊的資質に気づかせ、自分たち自身も大霊であるということを理解させてあげるのです。それによって彼らは、激怒し復讐心に燃える神の前にひれ伏すような卑屈な信仰を捨て去るようになります。

大霊の子らのために奉仕しようと努力している地上の同志の背後には、協力関係を求める巨大な霊的勢力が控えていることを知っていただきたいのです。そして霊的真理を武器として、あらゆる迷信、あらゆる邪悪と戦い、尊い真理の光で地上界を照らしていただきたいのです。

私たちは地上に霊力をもたらします。地上の同志を鼓舞し、導き、心の支えとなります。飢えた魂にエネルギーを注ぎ、病(やまい)に苦しむ人に癒しを与え、すべての人にインスピレーションと啓示と真理と叡智をもたらします。それが私たちの仕事なのです。

人間の側に理解力と受容力が備わっていれば、それに応じて霊力で満たしてあげることができます。私たちは、教会に属していようといまいと、どこかの宗教に属していようといまいと、科学者であろうと唯物論者であろうと哲学者であろうと、人類の霊的向上のために貢献したいと願うすべての人々との間に協力関係を築きたいと切望しているのです。 

 

シルバーバーチ



Saturday, February 11, 2023

シアトルの冬 愛と叡智 love and wisdom


 一九一三年十月十日  金曜日
 
私たちの日常生活とあなた方の日常生活とを比較して見られれば、結局はどちらも学校で勉強しているようなものであること、実に大きな学校でたくさんのクラスがあり、大勢の先生がおられること、しかし教育方針は一貫しており、単純なことから複雑なことへと進むようになっていること、そして複雑ということは混乱を意味するのではなく、

宇宙の創造主たる神を知れば知るほどその知る喜びによって一層神への敬虔なる忠誠心を抱くように全てがうまく出来上っていることを悟るようになります。

 そこで今日も従来からのテーマを取り上げて、こちらの世界で私たちが日頃どんなことをして過ごしているのか、神の愛がどのように私たちを包み、謙虚さと愛を身につけるにつれて事物がますます明快に理解されていくかを明らかにしてみましょう。


 こちらの事情で大切なことの一つに叡智と愛のバランスが取れていないといけないことが挙げられます。両者は実は別個のものではなく、一つの大きな原理の二つの側面を表わしているのです。

言わば樹木と葉との関係と同じで、愛が働き叡智が呼吸しておれば健全な果実が実ります。解りやすく説明するために、私たちが自分自身のこと、および私たちが指導することを許された人々の世話をする中でどういう具合にその愛と叡智を摂り入れて行くか、一つの具体例をあげてみましょう。


 つい先頃のことですが、私たちは一つの課題を与えられ、そのことで私たち五人で遠く離れたところにある地域(コロニー)を訪れることになりました。目的は神の愛の存在について疑念を抱き、あるいは当惑している地上の人間に対して取るべき最良の手段を教わることでした。

と言うのも、そうしたケースを扱う上でしばしば私たちの経験不足が障害となっていましたし、又あなたも御存知の通り地上にはそういう人が多いのです。

 そこにあるカレッジの校長先生は地上では才能豊かな政治家だった方ですが、その才能が地上ではあまり発揮されず、こちらへ来て初めて存分に発揮できるようになり、結局地球だけが鍛錬の成果が発揮される場でないことを身を持って理解されたわけです。

 訪問の目的を述べますと、その高い役職にも拘わらず、少しも偉(えらぶ)らず、極めて丁重で親切に応対されました。あなた達なら多分天使と呼びたくなるだろうと思われるほど高貴な方で、もしもそのお姿で地上に降りたら人間はその輝きに圧倒されることでしょう。

容姿もお顔も本当に美しい方で、それを形容する言葉としては、さしずめ〝燦然たる光輝に燃え立つような〟というところでしょう。親身な態度で私たちの話に耳を傾けられ、時折静かな口調で〝それで?〟と言って話を促され、私たちはついその方の霊格の高さも忘れて、恐れも遠慮もなく話しました。するとこうおっしゃいました。

 「生徒の皆さん──ここにいる間は生徒ということにしましよう──お話は興味深く拝聴いたしました。と同時に、そういうお仕事によくある問題でもあります。さて、そうした問題を私が今あっさりと解決してあげれば、皆さんは心も軽くお仕事に戻ることが出来るでしょう。が、イザ仕事に携わってみると又アレコレと問題が生じます。

なぜか。それは、一ばん心に銘記しておくべきことというものは体験してみなければ解らない細々(こまごま)したことばかりだからです。
それがいかに大切であるかは体験してみてはじめて解るということです。では私についてお出でなさい。大事なことをこれからお教えしましょう。」


 私たちは先生の後について敷地内を歩いて行きました。庭では庭師が花や果実の木の剪定などの仕事に専念しておりました。小道を右に左に曲がりながら各種の植え込みの中を通り抜けました。小鳥や可愛い動物がそこここに姿を見せます。やがて小川に出ました。そしてすぐ側にエジプト寺院のミニチュアのような石の東屋があり、私たちはその中に案内されました。

天井は色とりどりの花で出来た棚になっており、その下の一つのベンチに腰掛けると、先生も私たちのベンチと直角に置いてあるベンチに腰を下ろされました。


 床を見ると何やら図面のようなものが刻み込まれております。先生はそれを指さしてこうおっしゃいました。

 「さて、これが今私があなた方を案内して回った建物と敷地の図面です。この印のところが今いる場所です。ご覧の通り最初に皆さんとお会いした門からここまで相当の距離があります。

皆さんはおしゃべりに夢中でどこをどう通ったかは一切気にとめられなかった。そこでこれから今来た道を逆戻りしてみるのも良い勉強になりますし、まんざら面白くないこともないでしょう。無事にお帰りになってお会いしたら、先ほどお聞きしたあなた方の問題についてアドバイスいたしましょう。」



 そうおっしゃって校長先生は立ち去られました。私たちは互いに顔を見合わせ、先生が迷路のような道を連れて回られた目的に気づかなかったそのうかつさを互いに感じて、どっと笑い出しました。それから図面を何度も何度も調べました。直線と三角と四角と円がごちゃごちゃになっている感じで、始めはほとんど判りませんでした。

 が、そのうち徐々に判りはじめました。それはそのコロニーの地図で、東屋はその中心、ほぼ中央に位置しております。が入口が記されておりません。しかもそれに通じる小道が四本あって、どの道を辿ればよいかが判りません。

しかし私はこれは大した問題でないと判断しました。と言うのは四本ともコロニーの外郭へつながっており、その間に何本もの小道が交叉していたからです。その判断に到達するまでのすったもんだは省きましょう。時間が掛かりますから。

 とにかく私の頭に一つの案が浮かび、参考までに提案してみたところ皆んなそれはなかなか良い考えだと言い、これで謎が解けそうだと喜びました。と言って別に驚くほどのことではないのです。どの方向でも良いから、とにかく外へ出て一ばん直線的な道を進んでみるというだけの話です。

言い方がまずいようですね。要するに東屋からどちらの方角でも良いから一ばん真っ直ぐな道を取るということです。そうすると必ず外郭へ出る。その外郭は完全な円形をしているから、それに沿って行けば遅かれ早かれ門まで来ることになるわけです。

 いよいよ出発しました。道中は結構長くて楽しいものでした。そして冒険的要素が無いわけではありませんでした。と言うのも、そのコロニーはそれはそれは広いもので、丘あり谷あり森あり小川ありで、それがまた実に美しいので、よほど目的をしっかり意識していないと、道が二つに岐れたところに来るとつい方向を誤りそうになるのでした。

 しかし、必ずしも最短で直線的な道を選んだわけではないと私は思うのですが、私はついに外郭に辿り着きました。ついでに言うと、その外郭は芝生の生い茂った幅の広い地帯になっていて、全体は見えなくても、その境界の様子からして円形になっていることはすぐに判ります。

そこで左へ折れ、そのまま行くと間違いなく円形をしていて無限軌道のように続いておりました。どんどん歩いて行くうちに、ついに最初に校長先生にお会いした門のところまで来ました。

 先生は、よく頑張りました、と言って迎えて下さり、その足で建物の前のテラスに上がり、それまでの冒険談──私が書いたものより遥かに多くの体験──をお聞かせしました。先生は前と同じように熱心に耳を傾けて下さり「なるほど。結構立派にやり遂げられました。目的を達成し、ここまで帰って来られたのですから。
ではお約束通り、あなた方の学ばれた教訓を私から述べさせていただきましょう」と言って次のような話をされました。

 「まず第一に、行きたいと思う方向を確認すること。次に近道と思える道ではなく一ばん確実と思える道を選ぶこと。その道が一ばん早いとは限りません。
 
限りなく広がると思えたこのコロニーの境界領域までまずやってくる。その境界線から振り返ると、それまで通り抜けて来た土地の広さと限界の見当がつく。要はそれまでの着実さと忍耐です。望むゴールは必ず、達成されるものです。

 「又、その限られた地域とその先に広がる地域との境界領域に立って見渡すと、曲がりくねった道や谷や小森が沢山あって、あまり遠くまで見通せなくても全体としては完全に釣合が取れている──要するに完全な円形になっており、内部は一見すると迷路でごった混ぜの観を呈していても、より大きい、あるいはより広い観点から見ると、全体として完全な統一体で、実質は単純に出来ていることが判るはずです。小道を通っている時は迷うでしょうけど。

 それに、その外郭を曲線に沿って行くと限られた範囲しか目に入らなかったでしょう。それでも、その形からきっと求める場所つまり門に辿り着けると判断し、その理性的判断に基づいた確信のもとに安心して辿って来られた。そして今こうして辿り着き、少なくとも概略においてあなた方の知的推理が正しかったことを証明なさったわけです。
 
さてこの問題は掘り下げればまだまだ深いものがありますが、私はここであなた方をこの土地にいて私を援助してくれている仲間たちにお預けしようと思います。
 
その人たちがこの建物や環境をさらにご案内し、お望みならもっと広い地域まで案内してくれるでしょう。面白いものがたくさんあるのです。

その方たちと私が述べた教訓について語り合われるとよろしい。少し後でもう一度お会いしますので、その時に話したいことや尋ねたいことがあればおっしゃって下さい。」

そうおっしゃって私たちにひとまず別れを告げられると、代わって建物の中から楽しそうな一団が出て来て私たちを中へ招き入れました。まだまだ続けたいけど、あなたにはまだお勤めが残っているから今日はこの辺でやめにしましょう。少しの間とはいえ、こうして交信のために降りて来るのは楽しいことです。
 
あなたをはじめ皆さんに神の祝福を。母とその霊団より。