The Spirits' Book
6章 破壊の法則
このページの目次
〈必要な破壊と不当な破壊〉
――破壊も自然法則の一つでしょうか。
「形あるものは別の存在物の材料となって生まれ変わるために破壊される必要があります。破壊とは変化のことにほかなりません。その目的は生き物の新生と改良です」
――すると生き物には神の配剤として破壊の本能が植えつけられているのでしょうか。
「神の創造物は、神が意図しておられる目的を達成するための道具です。生き物は互いが互いの食糧となるために破壊し合います。それは生産と消費の均衡を保つためであり――生産ばかりでは過剰となります――また外衣としての物質の再利用のためでもあります。あくまでも外衣であり、考える力をもった存在の本質部分、すなわち知的要素は破壊されません。外衣がさまざまな変態を経ていくうちに、その知的要素が鍛練されてまいります」
――新生のための破壊が必要であるならば、なぜ自己保存の本能を授けてあるのでしょうか。
「破壊作用が適切な時期より早すぎることがないようにという配慮からです。破壊の時期が早すぎると知的要素の発達が阻害されます。神が各存在に生き延びようとする力と再生しようとする力とを授けた理由はそこにあります」
――破壊の法則は地球人類には常に必要なのでしょうか。
「物質に対する霊性の優位が高まるにつれて破壊の必要性も減少します。その必然の結果として、知的ならびに精神的発達に破壊の恐怖が伴う理由がお分かりでしょう」
――破壊が必要性と安全性の限度を超えているケースがあります。例えばスポーツとしての狩猟(ハンチング)などは意味がありませんし、殺すことの楽しさ以外の動機は考えられません。どういう見方をすべきでしょうか。
「狩猟は霊性に対する獣性の優位以外の何ものでもありません。生きる上での必要性の限度を超えた破壊は全て神の摂理に違反します。肉食動物でも空腹を満たす以上のことはしません。それと較べて人間は自由意志を持っているために不必要な破壊行為をします。自由意志の乱用は、いずれ神から釈明せよとのお達しがあるでしょう。本来なら抑制すべき本能に負けたのですから」
〈自然災害による破壊〉
――神は何の目的で自然災害という破壊をもたらすのでしょうか。
「人間の進化に拍車をかけるためです。精神的新生のためには破壊も必要です。新しく再生する毎に霊的浄化において新しい一歩を踏み出すのです。何事につけ、その過程を正しく理解するためには、結果を見届けなくてはいけません。人間はとかく我が身に置き代えて判断するために、苦しいことはみな災害と考えがちですが、新たな秩序をもたらすためには思い切った混乱を必要とする時があるのです。それまでの平穏無事の惰性では何世紀も要するような改革が二、三年で成就されることがあります」
――神はそういう破壊の手段以外に何か別の手段を取ることが出来ないのでしょうか。
「取っておられます。日常生活の中での善悪の判断を通じて進化を促すという方法です。ところがこの方法では人間はなかなか向上しません。そこでその高慢の鼻をへし折り、人間の弱さを思い知らせる必要が生じるのです」
――ですが、そうした災害による犠牲は、邪悪な人間だけでなく善良な人間も悲嘆に暮れさせるだけではないでしょうか。
「人間は、地上を旅する間の出来事は、どうしてもその肉体の生存期間を尺度として捉えます。ところが死んで霊界に戻ってくると観点が大きく変わり、地上時代の出来事が実に些細なことであることに気づきます。地上の一世紀は永遠の時の中では一瞬の花火のようなものに思えます。そして、地上の時間にして何日、何か月、何年にもわたる苦しみもどうということはないように思えてくるものです。
どうかこの点を今後のあなた方の生き方の参考にしていただきたい。霊こそ実在であり、全てのものに優先し、全てのものが消滅したあとも残り続けます。その霊の在り方こそ神が何よりも気遣うものであり、肉体は地上を生き抜くための仮の媒体にすぎません。
多くの尊い人命を奪う大災害におけるそうした犠牲者たちは、戦闘後の兵士のようなものです。軍服はボロボロに破れ、あるいは千切れ、あるいは無くなっているかも知れません。が、生命(いのち)は失っていない。その姿を見て将校は軍服のことよりも生命があったことを喜ぶものです。軍服が肉体であり生命が魂です」
〈戦争・殺人・残虐行為〉
――人間を戦争に駆り立てるものは何でしょうか。
「獣性が霊性を凌駕すること、そしてその動物的激情を満足させたいという欲求です。霊性が野蛮な状態では弱肉強食の原理しか通用しません。従って闘うということが通常の状態となるのです。霊性が発達するとともに争いを引き起こす原因が少なくなります。それだけ闘争が少なくなり、仮に闘争が避けられないことがあっても、その闘争の中にも人道的行為が見られるようになります」
――地球上から戦争が無くなる日が来るでしょうか。
「来ます。正義というものを理解し、神の摂理を実践すれば、戦争は無くなります。その時は人類がみな兄弟であるとの理解が行きわたるからです」
――神は何のために戦争を必要と認めたのでしょうか。
「自由と進歩のためです」
――戦争によって自由がもたらされるというのであれば、敗戦国が往々にして隷属させられる結果となるのはなぜでしょうか。
「隷属といっても一時的なことです。それを神が許すのは隷属の状態にうんざりさせて、自由へ向けての急速な進歩を促すためです」
――殺人はいかなるケースでも極悪な罪でしょうか。
「神は常に公正であると申し上げたつもりです。何事につけ、行為そのものよりも、その行為に出る動機ないし意図を審判なさいます」
――正当防衛であれば許されますか。
「絶対的な必要性があった場合にのみ許されます。攻撃を仕掛けられて、我が身を守るために相手の生命を奪うのは、やむを得ないことです」
――戦争における殺人行為にも責任を負わされるのでしょうか。
「命令によって戦わされている以上は責任は問われません。が、戦争によく見られる残虐行為には責任が問われ、人道的行為にはそれなりの報いがあります」
――残虐行為に駆り立てる心情は破壊的本能と関係があるのでしょうか。
「破壊的本能の中でも最も悪質なものです。破壊が必要になることはありますが、残虐行為が必要になることは絶対にありません。邪悪な心情が生み出す結果です」
〈死刑制度〉
――人間界の法律から死刑制度が消える日が来るでしょうか。
「いずれ消えることは間違いありません。それが成就されれば人類にとっての大きな進歩を画することになります。霊性が啓発されるにつれて、地球上の全土から死刑制度が無くなります。人間が人間を裁く必要が無くなるからです。もっとも、ずっと先の話ですが……」
――死刑制度が文明国から消えるということは、文明が開けない時代には必要悪だったということでしょうか。
「必要悪という用語は適切ではありません。人間は他に良い方法が見つからないとすぐに必要悪だと決めつけます。霊性が開発されるにつれて正しいことと正しくないこととの分別が明確になってきます。そして無知な時代に正義の名のもとに行った誤った慣習をやめます」
7章 社会生活の法則
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――破壊も自然法則の一つでしょうか。
「形あるものは別の存在物の材料となって生まれ変わるために破壊される必要があります。破壊とは変化のことにほかなりません。その目的は生き物の新生と改良です」
――すると生き物には神の配剤として破壊の本能が植えつけられているのでしょうか。
「神の創造物は、神が意図しておられる目的を達成するための道具です。生き物は互いが互いの食糧となるために破壊し合います。それは生産と消費の均衡を保つためであり――生産ばかりでは過剰となります――また外衣としての物質の再利用のためでもあります。あくまでも外衣であり、考える力をもった存在の本質部分、すなわち知的要素は破壊されません。外衣がさまざまな変態を経ていくうちに、その知的要素が鍛練されてまいります」
――新生のための破壊が必要であるならば、なぜ自己保存の本能を授けてあるのでしょうか。
「破壊作用が適切な時期より早すぎることがないようにという配慮からです。破壊の時期が早すぎると知的要素の発達が阻害されます。神が各存在に生き延びようとする力と再生しようとする力とを授けた理由はそこにあります」
――破壊の法則は地球人類には常に必要なのでしょうか。
「物質に対する霊性の優位が高まるにつれて破壊の必要性も減少します。その必然の結果として、知的ならびに精神的発達に破壊の恐怖が伴う理由がお分かりでしょう」
――破壊が必要性と安全性の限度を超えているケースがあります。例えばスポーツとしての狩猟(ハンチング)などは意味がありませんし、殺すことの楽しさ以外の動機は考えられません。どういう見方をすべきでしょうか。
「狩猟は霊性に対する獣性の優位以外の何ものでもありません。生きる上での必要性の限度を超えた破壊は全て神の摂理に違反します。肉食動物でも空腹を満たす以上のことはしません。それと較べて人間は自由意志を持っているために不必要な破壊行為をします。自由意志の乱用は、いずれ神から釈明せよとのお達しがあるでしょう。本来なら抑制すべき本能に負けたのですから」
〈自然災害による破壊〉
――神は何の目的で自然災害という破壊をもたらすのでしょうか。
「人間の進化に拍車をかけるためです。精神的新生のためには破壊も必要です。新しく再生する毎に霊的浄化において新しい一歩を踏み出すのです。何事につけ、その過程を正しく理解するためには、結果を見届けなくてはいけません。人間はとかく我が身に置き代えて判断するために、苦しいことはみな災害と考えがちですが、新たな秩序をもたらすためには思い切った混乱を必要とする時があるのです。それまでの平穏無事の惰性では何世紀も要するような改革が二、三年で成就されることがあります」
――神はそういう破壊の手段以外に何か別の手段を取ることが出来ないのでしょうか。
「取っておられます。日常生活の中での善悪の判断を通じて進化を促すという方法です。ところがこの方法では人間はなかなか向上しません。そこでその高慢の鼻をへし折り、人間の弱さを思い知らせる必要が生じるのです」
――ですが、そうした災害による犠牲は、邪悪な人間だけでなく善良な人間も悲嘆に暮れさせるだけではないでしょうか。
「人間は、地上を旅する間の出来事は、どうしてもその肉体の生存期間を尺度として捉えます。ところが死んで霊界に戻ってくると観点が大きく変わり、地上時代の出来事が実に些細なことであることに気づきます。地上の一世紀は永遠の時の中では一瞬の花火のようなものに思えます。そして、地上の時間にして何日、何か月、何年にもわたる苦しみもどうということはないように思えてくるものです。
どうかこの点を今後のあなた方の生き方の参考にしていただきたい。霊こそ実在であり、全てのものに優先し、全てのものが消滅したあとも残り続けます。その霊の在り方こそ神が何よりも気遣うものであり、肉体は地上を生き抜くための仮の媒体にすぎません。
多くの尊い人命を奪う大災害におけるそうした犠牲者たちは、戦闘後の兵士のようなものです。軍服はボロボロに破れ、あるいは千切れ、あるいは無くなっているかも知れません。が、生命(いのち)は失っていない。その姿を見て将校は軍服のことよりも生命があったことを喜ぶものです。軍服が肉体であり生命が魂です」
〈戦争・殺人・残虐行為〉
――人間を戦争に駆り立てるものは何でしょうか。
「獣性が霊性を凌駕すること、そしてその動物的激情を満足させたいという欲求です。霊性が野蛮な状態では弱肉強食の原理しか通用しません。従って闘うということが通常の状態となるのです。霊性が発達するとともに争いを引き起こす原因が少なくなります。それだけ闘争が少なくなり、仮に闘争が避けられないことがあっても、その闘争の中にも人道的行為が見られるようになります」
――地球上から戦争が無くなる日が来るでしょうか。
「来ます。正義というものを理解し、神の摂理を実践すれば、戦争は無くなります。その時は人類がみな兄弟であるとの理解が行きわたるからです」
――神は何のために戦争を必要と認めたのでしょうか。
「自由と進歩のためです」
――戦争によって自由がもたらされるというのであれば、敗戦国が往々にして隷属させられる結果となるのはなぜでしょうか。
「隷属といっても一時的なことです。それを神が許すのは隷属の状態にうんざりさせて、自由へ向けての急速な進歩を促すためです」
――殺人はいかなるケースでも極悪な罪でしょうか。
「神は常に公正であると申し上げたつもりです。何事につけ、行為そのものよりも、その行為に出る動機ないし意図を審判なさいます」
――正当防衛であれば許されますか。
「絶対的な必要性があった場合にのみ許されます。攻撃を仕掛けられて、我が身を守るために相手の生命を奪うのは、やむを得ないことです」
――戦争における殺人行為にも責任を負わされるのでしょうか。
「命令によって戦わされている以上は責任は問われません。が、戦争によく見られる残虐行為には責任が問われ、人道的行為にはそれなりの報いがあります」
――残虐行為に駆り立てる心情は破壊的本能と関係があるのでしょうか。
「破壊的本能の中でも最も悪質なものです。破壊が必要になることはありますが、残虐行為が必要になることは絶対にありません。邪悪な心情が生み出す結果です」
〈死刑制度〉
――人間界の法律から死刑制度が消える日が来るでしょうか。
「いずれ消えることは間違いありません。それが成就されれば人類にとっての大きな進歩を画することになります。霊性が啓発されるにつれて、地球上の全土から死刑制度が無くなります。人間が人間を裁く必要が無くなるからです。もっとも、ずっと先の話ですが……」
――死刑制度が文明国から消えるということは、文明が開けない時代には必要悪だったということでしょうか。
「必要悪という用語は適切ではありません。人間は他に良い方法が見つからないとすぐに必要悪だと決めつけます。霊性が開発されるにつれて正しいことと正しくないこととの分別が明確になってきます。そして無知な時代に正義の名のもとに行った誤った慣習をやめます」
7章 社会生活の法則
このページの目次
〈社会生活の必要性〉
――社会生活は自然なことでしょうか。
「もちろんです。神は人間を社会という形態の中で生活するように意図されています。言語を始めとして人間関係に必要な能力を授けてあるのはそのためです」
――すると社会から隔絶した生き方は自然法則に反するのでしょうか。
「そうです。人間は本能的に他の人間との交わりを求めるものであり、お互いがお互いの進歩を援助し合うように意図されているからです」
――他との交わりを求めても結局は利己的な感情に負けるのではないでしょうか。それとも、そうした点にこそ神の配剤があるのでしょうか。
「人間は進化という宿命があります。それは一人だけの生活では達成されません。誰一人として才能の全てを所有してはいないからです。そこに他との接触の必要性が生じます。隔絶した一人の生活では人間らしさが失われ、太陽に当たらない植物のように弱々しくなります」
〈隠遁生活〉
――原則として社会志向の生活が自然であることは理解できますが、その社会から遁(のが)れた生活への志向も、それで本人が満足するのであれば、悪いとは言えないと思うのですが……
「そういう満足は利己的満足だからいけないのです。酒びたりの生活を送っている人がいますが、あなたはそれを、満足しているのだから良いとおっしゃるつもりですか。自分をその立場に置いてみて、自分以外の人に何の意味も持たないと思ったものは、神はお喜びにならないと思ってください」
――不幸な人々のために生涯を捧げる決意をして世を捨てる人々はどう理解すべきでしょうか。
「そういう人は自ら身を低くすることによって魂を高めています。物的享楽を捨てることと、仕事の法則を成就することによる善行の二つの点で大きな功績があります」
――ある種の仕事の成就のために世俗から遁れて静寂の中で生活している人はいかがでしょうか。
「そういう動機からであれば利己的ではありません。実質的には人のためなのですから、社会から隔絶してはおりません」
――ある宗派では“無言の誓い”というのを教義としておりますが、これはいかがでしょうか。
「言語能力が自然な能力であること、神から授かったものであることをお考えになれば、自ら答えが出るはずです。神は能力の悪用は咎めますが、正しい使用は決して咎めません。もっとも、静寂の時を持つこと自体は結構なことです。そういう時こそ本来の自我が顕現し、霊的な自由が増し、背後霊との内的コミュニケーションが持てます。ですから、そういう目的のために自発的な苦行を行うのは、動機の点で有徳の行為と言えます。が、基本的に見てそういう行に終始する生活は、神の摂理を十分に理解していないという点で、やはり間違いです」
8章 進歩の法則
このページの目次
――社会生活は自然なことでしょうか。
「もちろんです。神は人間を社会という形態の中で生活するように意図されています。言語を始めとして人間関係に必要な能力を授けてあるのはそのためです」
――すると社会から隔絶した生き方は自然法則に反するのでしょうか。
「そうです。人間は本能的に他の人間との交わりを求めるものであり、お互いがお互いの進歩を援助し合うように意図されているからです」
――他との交わりを求めても結局は利己的な感情に負けるのではないでしょうか。それとも、そうした点にこそ神の配剤があるのでしょうか。
「人間は進化という宿命があります。それは一人だけの生活では達成されません。誰一人として才能の全てを所有してはいないからです。そこに他との接触の必要性が生じます。隔絶した一人の生活では人間らしさが失われ、太陽に当たらない植物のように弱々しくなります」
〈隠遁生活〉
――原則として社会志向の生活が自然であることは理解できますが、その社会から遁(のが)れた生活への志向も、それで本人が満足するのであれば、悪いとは言えないと思うのですが……
「そういう満足は利己的満足だからいけないのです。酒びたりの生活を送っている人がいますが、あなたはそれを、満足しているのだから良いとおっしゃるつもりですか。自分をその立場に置いてみて、自分以外の人に何の意味も持たないと思ったものは、神はお喜びにならないと思ってください」
――不幸な人々のために生涯を捧げる決意をして世を捨てる人々はどう理解すべきでしょうか。
「そういう人は自ら身を低くすることによって魂を高めています。物的享楽を捨てることと、仕事の法則を成就することによる善行の二つの点で大きな功績があります」
――ある種の仕事の成就のために世俗から遁れて静寂の中で生活している人はいかがでしょうか。
「そういう動機からであれば利己的ではありません。実質的には人のためなのですから、社会から隔絶してはおりません」
――ある宗派では“無言の誓い”というのを教義としておりますが、これはいかがでしょうか。
「言語能力が自然な能力であること、神から授かったものであることをお考えになれば、自ら答えが出るはずです。神は能力の悪用は咎めますが、正しい使用は決して咎めません。もっとも、静寂の時を持つこと自体は結構なことです。そういう時こそ本来の自我が顕現し、霊的な自由が増し、背後霊との内的コミュニケーションが持てます。ですから、そういう目的のために自発的な苦行を行うのは、動機の点で有徳の行為と言えます。が、基本的に見てそういう行に終始する生活は、神の摂理を十分に理解していないという点で、やはり間違いです」
8章 進歩の法則
このページの目次
〈野生と進歩〉
――野生のままの状態と自然の法則とは一致しますか。
「しません。野生のままということは原始的状態のことです。文明は野生の状態とは相容れません。一方、自然の法則は人類の進歩に貢献します」
――人間は進歩を促す力を内部に秘めているのでしょうか、それとも進歩は外部からの働きかけの結果なのでしょうか。
「人間は自らの力で自然に発達します。ただ、全ての人間が同じ速度で同じ形で進歩するわけではありません。従って最も進歩している者が社会という形態の中での接触を通じて他の者の進歩を助ける仕組みになっているのです」
――道徳的進歩は知的発達に続くものでしょうか。
「知的発達の結果として道徳的進歩が生じますが、必ずしもすぐにというわけではありません」
――知的発達がどうして道徳的進歩を促すのでしょうか。
「知的発達によって善と悪とを理解するようになり、続いて、そのどちらかを選択するようになります。知性が発達すると自由意志が発達し、そこから人類の行動の責任が増してきます」
――人間にはそうした進歩を止める力がありますか。
「ありません。もっとも、時おり遅らせることをします」
――人類の進歩のためと思って真剣にやっていることが実際には進歩の邪魔をしているというケースがあるように思えるのですが……。
「あります。大きな車輪の下に小石をばらまく人がいますが、そんなことで進歩が阻止されるものではありません」
――人類の進歩は常にゆっくりとしたペースなのでしょうか。
「時の勢いで必然的に生じる一定の速度の進歩がありますが、それがあまりに遅すぎると、思い切った転換を促すために、時として物理的ないしは精神的ショックを神が用意します」
――進歩の最大の障害は何でしょうか。
「高慢と利己主義です。ただし道徳的進歩に限っての話です。と言うのは、知的進歩は時の勢いで常に進んでおります。そして、一見すると野心や富への欲望といった悪徳を煽るかに見えますが、代わってそれが精神を修養するための探求へ駆り立てます。
このように人間生活の全てが物的のみならず精神的にもどこかでつながっていて、悪と思えるものからでも善が生まれるのです。ただ、そういう形での因果関係は永続性がありません。それよりも、霊性が開眼して地上的享楽のレベルを超えた、限りなくスケールの大きい、そして限りなく永続性のある至福の境涯があることを悟るようになります」(十二章〈利己主義〉参照)
〈滅びゆく民族〉
――進歩性を完全に失ってしまった民族もあるように見受けられるのですが……。
「あります。ただしそれは一度にではなく、日を追って少しずつ人口が減少するという形を取ります」
――究極的には世界の全民族が一つの国家に統一されるのでしょうか。
「一つの国家にはなりません。それは有り得ないことです。気候の違いが多様な慣習と必要性を生み、それが自ずと多様な国民性を生み出します。そしてその一つ一つが特殊な慣習と必要性に適応した法律を必要とします。しかし思いやりの摂理には地域の差はありません。神の摂理にのっとった法律を施行していれば、国家と国家の間にも人間どうしと同じ思いやりによって結ばれ、互いが平和で幸せな生活が送れるようになります。誰一人として他を傷つけたり他を犠牲にして利益を得ようとする者はいなくなるからです」
〈文明の進歩〉
――文明は人類の進歩の現れでしょうか、それとも何人かの学者が言っているように、デカダンスでしょうか。
「進歩には違いありません。が、まだまだ完全からは程遠いです。人類は幼児期から一気に理性の時代へと移行するわけではありません」
訳注――デカダンスというのは、ちょうど本書が編纂されている頃、すなわち一九世紀末にフランスを中心にヨーロッパで広まった官能主義的頽廃思想のことで、現代のアメリカに代表される機械的物質文明とは質を異にする。
――文明をいけないものとする考えはいかがでしょうか。
「文明を悪用する者を非難すべきであって、神の配剤に文句を言うべきではありません」
――いずれは文明も浄化されて、それが生み出していた悪弊も消えるのでしょうか。
「そうです。人間の道徳性が知性と同じ程度にまで発達すればそうなります。花が咲く前に実がなることはありません」
――文明が頂点に達したことは何をもって知ることができるのでしょうか。
「道徳的発達です。あなた方は少しばかり発明や発見をし、立派な家に住んでシャレた服を着るようになると、えらく文明が発達したかに思い込んでいるようですが、本当の意味で“開化”したと言えるのは、不名誉な悪徳が消え、イエスの説く慈悲を実践して兄弟のごとく仲良く暮らせるようになった時です。それまでは“知的に啓発された”だけの国家であって、文明化の初期の段階を通過したにすぎません」
〈社会的法律の進歩〉
――人間社会を治めるには、人間がこしらえた法律の助けなしに自然の法律だけで十分なのでしょうか。
「自然の法則が正しく理解され、それを人間が素直に実践するのであれば、それで十分でしょう。が、社会には無法者がいますから、それに応じた特別の法律が必要となります」
――現段階の人間社会では刑法にも厳しさが必要でしょうか。
「堕落した社会には厳格な刑法も必要ですが、不幸にして現在の刑法は罰することにばかり偏って、悪の発生源を改めることに意を用いていません。人類を啓発するのは教育しかありません。教育さえしっかりすれば現在のような厳しさは必要でなくなります」
――法律を改めるにはどうすればよいでしょうか。
「時勢の流れによっても改められて行きますが、地上界をリードする偉大なる人物の影響によっても改められて行きます。これまでに多くの悪法が改められてきましたし、これからも改められて行くでしょう。焦らぬことです」
〈スピリチュアリズムの役割〉
――スピリチュアリズムはいずれは世間一般に受け入れられて行くのでしょうか、それとも限られた少数派のものであり続けるのでしょうか。
「間違いなく一般に受け入れられて行き、人類史上における画期的な時代が到来するでしょう。本質的に自然界の秩序に属するものであり、人類の知識の一部門として位置づけられるべきものだからです。しかしそれまでには、まだまだ烈しい抵抗に遭うでしょう。それは教義の真偽を問われるというよりも損得から生じる抵抗です。スピリチュアリズムの普及で経済的に被害をこうむる者、虚栄心を守ろうとする者、さらには世俗的面子(めんつ)にこだわる者などがいることを忘れてはなりません。しかしそのうち自分たちが少数派になってしまったことを知ると、恥を承知の上でも、手のひらを返すような態度に出ることでしょう」
――なぜ霊界側は人類発生の初期からこうした真理を説かなかったのでしょうか。
「あなただって大人に教えるようなことを子供に説くようなことはしないでしょうし、赤ん坊が消化しきれないものを食べさせるようなことはしないでしょう。何事にも時期というものがあります。これまでだって全く説かれていないわけではありません。が、その意義が理解されず、あるいは曲解されたりしています。そして今ようやく正しく理解してもらえる段階が到来したということです。が、これまでの教えも、不完全だったとは言え、これから本格的な実りを得るタネ蒔きのための土地を耕してくれていたのです」
9章 平等の法則
このページの目次〈さまざまな不平等〉
〈貧富による試練〉
〈男女の権利の平等〉
〈さまざまな不平等〉
――神はなぜ全ての人間に同じ才能を与えていないのでしょうか。
「全ての霊は神によって平等に創造されています。が、創造されてから今日に至るまでの期間に長短の差があり、結果的には過去世の体験の多い少ないの差が生じます。つまり各自の違いは体験の程度と、意志の鍛練の違いにあり、それが各自の霊的自由を決定づけ、自由の大きい者ほど急速に進化します。こうして現実に見られるような才能の多様性が生じて行きます。
この才能の多様性は、各自が開発した身体的ならびに知的能力の範囲内で神の計画の推進に協力し合う上で必要なことでもあります。ある人にできないことを別の人が行うという形で、全体の中の一部としての有用性を発揮できるわけです。さらには宇宙の全天体が連帯性でつながっていますから、より発達した天体の住民――そのほとんどが地球人類より先に創造されています――が地上に再生して範を垂れるということもあります」
――高級な天体から低級な天体へと転生しても、それまでに身につけた才能は失われないのでしょうか。
「失われません。すでに申しているごとく、進化した霊が退化することは有り得ません。物質性の強さのために以前の天体にいた時より感覚が鈍り、生まれ落ちる環境も危険に満ちた所を選ぶかも知れませんが、ある一定レベル以上に進化した霊は、そうした悪条件を糧として新たな教訓を悟り、さらなる進化に役立てるものです」
――社会の不平等も自然の法則でしょうか。
「違います。人間が生み出したものであり、神の業ではありません」
――最終的には不平等は消滅するのでしょうか。
「永遠に続くものは神の摂理以外にはありません。人間社会の不平等も、ご覧になっていて、少しずつではあっても日毎に改められて行っていることに気づきませんか。高慢と利己主義が影をひそめるにつれて不平等も消えて行きます。そして最後まで残る不平等は功罪の評価だけです。いずれ神の大家族が血統の良さを云々(うんぬん)することを止めて、霊性の純粋性を云々する日が来るでしょう」
訳注――“功罪の評価”の不平等というのは、功も罪も動機や目的によってその報いも違ってくるという意味で、“不公正”とは異なる。逆の場合の例を挙げれば、キリスト教には“死の床での懺悔”というのがある。イエスの信仰を告白して他界すればいかなる罪も赦されるという教義であるが、これは間違った平等であって、不公正の最たるものであろう。
――貧富の差は能力の差でしょうか。
「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。詐欺や強盗にも結構知恵が要りますが、これをあなたは能力と見ますか」
――私のいう能力はそういう意味ではありません。たとえば遺産には悪の要素は無いでしょう?
「どうしてそう断言できますか。その財産が蓄積される源にさかのぼって、その動機が文句なしに純粋だったかどうかを確かめるがよろしい。最初は略奪のような不当行為で獲得したものではないと誰が断言できますか。
百歩譲ってそこまでは詮索しないとしても、そもそもそんな大金を蓄えるという魂胆そのものが褒められることだと思われますか。神はその動機を裁かれます。その点に関するかぎり神は人間が想像するより遥かに厳正です」
――仮に蓄財の当初に不当行為があった場合、その遺産を引き継いだ者は責任まで引き継がされるのでしょうか。
「仮に不当行為があったとしても、相続人はまったく知らないことですから、当然その責任までは問われません。しかし、これから申し上げることをしっかりと理解してください。遺産の相続人は、必ずとは言いませんが、往々にして、その蓄財の当初の不正の責任を取ってくれる者が選ばれるということです。その点を正直に理解した人は幸せです。その罪を最初の蓄財者の名において償えば、その功は、当人と蓄財者の双方に報われます。蓄財者が霊界からそのように働きかけた結果だからです」
〈貧富による試練〉
――ではなぜ貧富の差があるのでしょうか。
「それなりに試練があるからです。ご存じの通り、再生するに際して自分でどちらかを選んでいるのです。ただ、多くの場合、その試練に負けています」
――貧と富のどちらが人間にとって危険でしょうか。
「どちらも同じ程度の危険性があります。貧乏は神への不平不満を抱かせます。一方、富は何かにつけて極端な過ちに陥(おとしい)れます」
――富は悪への誘惑となると同時に善行の手段にもなるはずです。
「そこです。そこに気づいてくれれば意義も生じるのですが、なかなかその方向へは向かわないものです。大抵は利己的で高慢で、ますます貪欲になりがちです。財産を増やすことばかり考え、これで十分という際限が無くなるのです」
〈男女の権利の平等〉
――女性が肉体的に男性より弱くできていることには何か目的があるのでしょうか。
「女性に女性としての機能を発揮させるためです。男性は荒仕事に耐えられるようにつくられ、女性は穏やかな仕事に向いています。辛い試練に満ちた人生を生き抜く上で互いが足らざる所を補い合うようにできています」
――機能的にも男女の重要性はまったく平等なのでしょうか。
「女性の機能の方がむしろ重要性が大きいと言えます。何しろ人間としての生命を与えるのは女性なのですから」
――神の目から見て平等である以上は人間界の法律上でも平等であるべきでしょうか。
「それが公正の第一原理です。“他人からして欲しくないことは、すべからく他人にもすべきではない”と言います」
訳注――これはキリストの“山上の垂訓”の一つである「他人からして欲しいことは、すべからく他人にもそのようにすべし」という有名な“黄金律”を裏返して表現したもの。
――法律が完全に公正であるためには男女の権利の平等を明言すべきでしょうか。
「権利の平等は明言すべきです。機能の平等はまた別問題です。双方がそれぞれの特殊な存在価値を主張し合うべきです。男性は外的な仕事に携わり、女性は内的な仕事に携わり、それぞれの性の特質を発揮するのです。
人間界の法律が公正を期するためには男女の権利の平等を明言すべきであり、どちらに特別の権利を与えても公正に反します。文明の発達は女性の解放を促すもので、女性の隷属は野蛮のレベルに属します。
忘れてならないのは、性の違いは肉体という組織体だけの話であって、霊は再生に際してどちらの性でも選べるという霊的事実です。その意味でも霊は男女どちらの権利でも体験できるわけです」
訳注――この問答を見るかぎりでは、当時はまだ自由と平等の先進国のフランスでも男女の平等は法律で謳われていなかったようで、今日の自由主義国の人間が読むと奇異にすら感じられる。しかし“権利”の平等と“機能”の平等を区別し、機能は平等・不平等次元で論じるべきものではないとしている点は、昨今いささか行き過ぎた平等主張、いわゆる“悪平等”が幅をきかせている、日本を始めとする文明先進国に良い反省材料を提供しているのではなかろうか。
10章 自由の法則
このページの目次
――野生のままの状態と自然の法則とは一致しますか。
「しません。野生のままということは原始的状態のことです。文明は野生の状態とは相容れません。一方、自然の法則は人類の進歩に貢献します」
――人間は進歩を促す力を内部に秘めているのでしょうか、それとも進歩は外部からの働きかけの結果なのでしょうか。
「人間は自らの力で自然に発達します。ただ、全ての人間が同じ速度で同じ形で進歩するわけではありません。従って最も進歩している者が社会という形態の中での接触を通じて他の者の進歩を助ける仕組みになっているのです」
――道徳的進歩は知的発達に続くものでしょうか。
「知的発達の結果として道徳的進歩が生じますが、必ずしもすぐにというわけではありません」
――知的発達がどうして道徳的進歩を促すのでしょうか。
「知的発達によって善と悪とを理解するようになり、続いて、そのどちらかを選択するようになります。知性が発達すると自由意志が発達し、そこから人類の行動の責任が増してきます」
――人間にはそうした進歩を止める力がありますか。
「ありません。もっとも、時おり遅らせることをします」
――人類の進歩のためと思って真剣にやっていることが実際には進歩の邪魔をしているというケースがあるように思えるのですが……。
「あります。大きな車輪の下に小石をばらまく人がいますが、そんなことで進歩が阻止されるものではありません」
――人類の進歩は常にゆっくりとしたペースなのでしょうか。
「時の勢いで必然的に生じる一定の速度の進歩がありますが、それがあまりに遅すぎると、思い切った転換を促すために、時として物理的ないしは精神的ショックを神が用意します」
――進歩の最大の障害は何でしょうか。
「高慢と利己主義です。ただし道徳的進歩に限っての話です。と言うのは、知的進歩は時の勢いで常に進んでおります。そして、一見すると野心や富への欲望といった悪徳を煽るかに見えますが、代わってそれが精神を修養するための探求へ駆り立てます。
このように人間生活の全てが物的のみならず精神的にもどこかでつながっていて、悪と思えるものからでも善が生まれるのです。ただ、そういう形での因果関係は永続性がありません。それよりも、霊性が開眼して地上的享楽のレベルを超えた、限りなくスケールの大きい、そして限りなく永続性のある至福の境涯があることを悟るようになります」(十二章〈利己主義〉参照)
〈滅びゆく民族〉
――進歩性を完全に失ってしまった民族もあるように見受けられるのですが……。
「あります。ただしそれは一度にではなく、日を追って少しずつ人口が減少するという形を取ります」
――究極的には世界の全民族が一つの国家に統一されるのでしょうか。
「一つの国家にはなりません。それは有り得ないことです。気候の違いが多様な慣習と必要性を生み、それが自ずと多様な国民性を生み出します。そしてその一つ一つが特殊な慣習と必要性に適応した法律を必要とします。しかし思いやりの摂理には地域の差はありません。神の摂理にのっとった法律を施行していれば、国家と国家の間にも人間どうしと同じ思いやりによって結ばれ、互いが平和で幸せな生活が送れるようになります。誰一人として他を傷つけたり他を犠牲にして利益を得ようとする者はいなくなるからです」
〈文明の進歩〉
――文明は人類の進歩の現れでしょうか、それとも何人かの学者が言っているように、デカダンスでしょうか。
「進歩には違いありません。が、まだまだ完全からは程遠いです。人類は幼児期から一気に理性の時代へと移行するわけではありません」
訳注――デカダンスというのは、ちょうど本書が編纂されている頃、すなわち一九世紀末にフランスを中心にヨーロッパで広まった官能主義的頽廃思想のことで、現代のアメリカに代表される機械的物質文明とは質を異にする。
――文明をいけないものとする考えはいかがでしょうか。
「文明を悪用する者を非難すべきであって、神の配剤に文句を言うべきではありません」
――いずれは文明も浄化されて、それが生み出していた悪弊も消えるのでしょうか。
「そうです。人間の道徳性が知性と同じ程度にまで発達すればそうなります。花が咲く前に実がなることはありません」
――文明が頂点に達したことは何をもって知ることができるのでしょうか。
「道徳的発達です。あなた方は少しばかり発明や発見をし、立派な家に住んでシャレた服を着るようになると、えらく文明が発達したかに思い込んでいるようですが、本当の意味で“開化”したと言えるのは、不名誉な悪徳が消え、イエスの説く慈悲を実践して兄弟のごとく仲良く暮らせるようになった時です。それまでは“知的に啓発された”だけの国家であって、文明化の初期の段階を通過したにすぎません」
〈社会的法律の進歩〉
――人間社会を治めるには、人間がこしらえた法律の助けなしに自然の法律だけで十分なのでしょうか。
「自然の法則が正しく理解され、それを人間が素直に実践するのであれば、それで十分でしょう。が、社会には無法者がいますから、それに応じた特別の法律が必要となります」
――現段階の人間社会では刑法にも厳しさが必要でしょうか。
「堕落した社会には厳格な刑法も必要ですが、不幸にして現在の刑法は罰することにばかり偏って、悪の発生源を改めることに意を用いていません。人類を啓発するのは教育しかありません。教育さえしっかりすれば現在のような厳しさは必要でなくなります」
――法律を改めるにはどうすればよいでしょうか。
「時勢の流れによっても改められて行きますが、地上界をリードする偉大なる人物の影響によっても改められて行きます。これまでに多くの悪法が改められてきましたし、これからも改められて行くでしょう。焦らぬことです」
〈スピリチュアリズムの役割〉
――スピリチュアリズムはいずれは世間一般に受け入れられて行くのでしょうか、それとも限られた少数派のものであり続けるのでしょうか。
「間違いなく一般に受け入れられて行き、人類史上における画期的な時代が到来するでしょう。本質的に自然界の秩序に属するものであり、人類の知識の一部門として位置づけられるべきものだからです。しかしそれまでには、まだまだ烈しい抵抗に遭うでしょう。それは教義の真偽を問われるというよりも損得から生じる抵抗です。スピリチュアリズムの普及で経済的に被害をこうむる者、虚栄心を守ろうとする者、さらには世俗的面子(めんつ)にこだわる者などがいることを忘れてはなりません。しかしそのうち自分たちが少数派になってしまったことを知ると、恥を承知の上でも、手のひらを返すような態度に出ることでしょう」
――なぜ霊界側は人類発生の初期からこうした真理を説かなかったのでしょうか。
「あなただって大人に教えるようなことを子供に説くようなことはしないでしょうし、赤ん坊が消化しきれないものを食べさせるようなことはしないでしょう。何事にも時期というものがあります。これまでだって全く説かれていないわけではありません。が、その意義が理解されず、あるいは曲解されたりしています。そして今ようやく正しく理解してもらえる段階が到来したということです。が、これまでの教えも、不完全だったとは言え、これから本格的な実りを得るタネ蒔きのための土地を耕してくれていたのです」
9章 平等の法則
このページの目次〈さまざまな不平等〉
〈貧富による試練〉
〈男女の権利の平等〉
〈さまざまな不平等〉
――神はなぜ全ての人間に同じ才能を与えていないのでしょうか。
「全ての霊は神によって平等に創造されています。が、創造されてから今日に至るまでの期間に長短の差があり、結果的には過去世の体験の多い少ないの差が生じます。つまり各自の違いは体験の程度と、意志の鍛練の違いにあり、それが各自の霊的自由を決定づけ、自由の大きい者ほど急速に進化します。こうして現実に見られるような才能の多様性が生じて行きます。
この才能の多様性は、各自が開発した身体的ならびに知的能力の範囲内で神の計画の推進に協力し合う上で必要なことでもあります。ある人にできないことを別の人が行うという形で、全体の中の一部としての有用性を発揮できるわけです。さらには宇宙の全天体が連帯性でつながっていますから、より発達した天体の住民――そのほとんどが地球人類より先に創造されています――が地上に再生して範を垂れるということもあります」
――高級な天体から低級な天体へと転生しても、それまでに身につけた才能は失われないのでしょうか。
「失われません。すでに申しているごとく、進化した霊が退化することは有り得ません。物質性の強さのために以前の天体にいた時より感覚が鈍り、生まれ落ちる環境も危険に満ちた所を選ぶかも知れませんが、ある一定レベル以上に進化した霊は、そうした悪条件を糧として新たな教訓を悟り、さらなる進化に役立てるものです」
――社会の不平等も自然の法則でしょうか。
「違います。人間が生み出したものであり、神の業ではありません」
――最終的には不平等は消滅するのでしょうか。
「永遠に続くものは神の摂理以外にはありません。人間社会の不平等も、ご覧になっていて、少しずつではあっても日毎に改められて行っていることに気づきませんか。高慢と利己主義が影をひそめるにつれて不平等も消えて行きます。そして最後まで残る不平等は功罪の評価だけです。いずれ神の大家族が血統の良さを云々(うんぬん)することを止めて、霊性の純粋性を云々する日が来るでしょう」
訳注――“功罪の評価”の不平等というのは、功も罪も動機や目的によってその報いも違ってくるという意味で、“不公正”とは異なる。逆の場合の例を挙げれば、キリスト教には“死の床での懺悔”というのがある。イエスの信仰を告白して他界すればいかなる罪も赦されるという教義であるが、これは間違った平等であって、不公正の最たるものであろう。
――貧富の差は能力の差でしょうか。
「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。詐欺や強盗にも結構知恵が要りますが、これをあなたは能力と見ますか」
――私のいう能力はそういう意味ではありません。たとえば遺産には悪の要素は無いでしょう?
「どうしてそう断言できますか。その財産が蓄積される源にさかのぼって、その動機が文句なしに純粋だったかどうかを確かめるがよろしい。最初は略奪のような不当行為で獲得したものではないと誰が断言できますか。
百歩譲ってそこまでは詮索しないとしても、そもそもそんな大金を蓄えるという魂胆そのものが褒められることだと思われますか。神はその動機を裁かれます。その点に関するかぎり神は人間が想像するより遥かに厳正です」
――仮に蓄財の当初に不当行為があった場合、その遺産を引き継いだ者は責任まで引き継がされるのでしょうか。
「仮に不当行為があったとしても、相続人はまったく知らないことですから、当然その責任までは問われません。しかし、これから申し上げることをしっかりと理解してください。遺産の相続人は、必ずとは言いませんが、往々にして、その蓄財の当初の不正の責任を取ってくれる者が選ばれるということです。その点を正直に理解した人は幸せです。その罪を最初の蓄財者の名において償えば、その功は、当人と蓄財者の双方に報われます。蓄財者が霊界からそのように働きかけた結果だからです」
〈貧富による試練〉
――ではなぜ貧富の差があるのでしょうか。
「それなりに試練があるからです。ご存じの通り、再生するに際して自分でどちらかを選んでいるのです。ただ、多くの場合、その試練に負けています」
――貧と富のどちらが人間にとって危険でしょうか。
「どちらも同じ程度の危険性があります。貧乏は神への不平不満を抱かせます。一方、富は何かにつけて極端な過ちに陥(おとしい)れます」
――富は悪への誘惑となると同時に善行の手段にもなるはずです。
「そこです。そこに気づいてくれれば意義も生じるのですが、なかなかその方向へは向かわないものです。大抵は利己的で高慢で、ますます貪欲になりがちです。財産を増やすことばかり考え、これで十分という際限が無くなるのです」
〈男女の権利の平等〉
――女性が肉体的に男性より弱くできていることには何か目的があるのでしょうか。
「女性に女性としての機能を発揮させるためです。男性は荒仕事に耐えられるようにつくられ、女性は穏やかな仕事に向いています。辛い試練に満ちた人生を生き抜く上で互いが足らざる所を補い合うようにできています」
――機能的にも男女の重要性はまったく平等なのでしょうか。
「女性の機能の方がむしろ重要性が大きいと言えます。何しろ人間としての生命を与えるのは女性なのですから」
――神の目から見て平等である以上は人間界の法律上でも平等であるべきでしょうか。
「それが公正の第一原理です。“他人からして欲しくないことは、すべからく他人にもすべきではない”と言います」
訳注――これはキリストの“山上の垂訓”の一つである「他人からして欲しいことは、すべからく他人にもそのようにすべし」という有名な“黄金律”を裏返して表現したもの。
――法律が完全に公正であるためには男女の権利の平等を明言すべきでしょうか。
「権利の平等は明言すべきです。機能の平等はまた別問題です。双方がそれぞれの特殊な存在価値を主張し合うべきです。男性は外的な仕事に携わり、女性は内的な仕事に携わり、それぞれの性の特質を発揮するのです。
人間界の法律が公正を期するためには男女の権利の平等を明言すべきであり、どちらに特別の権利を与えても公正に反します。文明の発達は女性の解放を促すもので、女性の隷属は野蛮のレベルに属します。
忘れてならないのは、性の違いは肉体という組織体だけの話であって、霊は再生に際してどちらの性でも選べるという霊的事実です。その意味でも霊は男女どちらの権利でも体験できるわけです」
訳注――この問答を見るかぎりでは、当時はまだ自由と平等の先進国のフランスでも男女の平等は法律で謳われていなかったようで、今日の自由主義国の人間が読むと奇異にすら感じられる。しかし“権利”の平等と“機能”の平等を区別し、機能は平等・不平等次元で論じるべきものではないとしている点は、昨今いささか行き過ぎた平等主張、いわゆる“悪平等”が幅をきかせている、日本を始めとする文明先進国に良い反省材料を提供しているのではなかろうか。
10章 自由の法則
このページの目次
〈自由と束縛〉
――人間が完全な自由を得るのはどういう条件下においてでしょうか。
「砂漠の中の世捨て人くらいのものでしょう。二人の人間が存在すれば、互いの権利と義務が生じ、完全に自由ではなくなります」
――と言うことは、他人の権利を尊重するということは、自分の権利を奪われることを意味するのでしょうか。
「それは違います。権利は生得のものです」
――奴隷制度が既成の慣習となっている国家において、使用人の家に生まれた者はそれを当たり前のことと思うに違いありませんが、その場合でも罪でしょうか。
「いけないことはいけないこと、いくら詭弁を弄しても悪い慣習が良い慣習になるわけではありません。が、責任の重さとなると、当人がその善悪についてどの程度まで理解していたかによって違ってきます。
奴隷制度で甘い汁を吸っている者は神の摂理に違反していることは明白です。が、その場合の罪の重さは、他の全ての場合と同じく、相対的なものです。長年にわたって奴隷制度が根付いている国においては使用人は少しも悪いこととは思わず、むしろ当たり前のことと思っているでしょう。しかし例えばイエスの教えなどに接して道義心が目覚め、理性が啓発されて、奴隷も神の前には自分と同等なのだと悟ったあとは、どう弁解しても罪は罪です」
――使用人の中には心の優しい人もいて、扱い方が人道的で、何一つ不自由をさせないように心を配っていながら、解放してやると却って生活が苦しくなるという理由から奴隷を雇い続けている人がいますが、これはどう理解すべきでしょうか。
「奴隷を残酷に扱っている使用人に較べれば自分のしていることについての理解が立派であると言えるでしょう。が、私に言わせれば、それは牛や馬を飼育しているのと同じで、マーケットで高く売るために大切にしているだけです。残酷に扱っている人と同列には問えませんが、人間を商品として扱い、生来の独立した人格としての権利を奪っている点において罪に問われます」
〈良心の自由〉
――他人の良心の自由に柵を設ける権利はあるでしょうか。
「思想の自由に柵を設ける権利がないのと同じく、そういう権利は許されません。良心を判断する権利は神のみが所有しておられます。人間が法律によって人間と人間との関係を規制していますが、神は自然の摂理によって人間と神との関係を規律づけています」
――ある宗教で説かれている教義が有害であることが明らかな時、良心の自由を尊重する立場からこれをそのまま許すべきでしょうか、それとも、良心の自由を侵さない範囲で、その誤った教義によって道に迷っている人を正しい道に導いてもよろしいでしょうか。
「もちろんよろしいし、また、そう努力すべきです。ただし、その時の態度はイエスの範にならって、優しさと説得力をもって臨むべきで、強引な態度は慎まないといけません。強引な態度は、その相手の間違った信仰よりも有害です。確信は威嚇によって押しつけられるものではありません」
〈自由意志〉
――人間には行為の自由がありますか。
「思想の自由がある以上、行為の自由もあります。自由意志がなかったら人間はロボットと同じです」
――その自由意志は誕生の時から所有しているのでしょうか。
「自らの意志で行為に出るような段階から自由意志を所有したことになります。誕生後しばらくは自由意志は無いに等しく、機能の発達と共に発達しはじめ、目的意識を持つようになります。幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています」
――未開の段階では人間は本能と自由意志のどちらが支配的なのでしょうか。
「本能です。と言っても、完全な自由意志による行動を妨げない面もいくつかあります。幼児と同じで、自分の必要性を満たすために自由意志を行使していて、その自由意志は知性の発達を通してのみ発達します。と言うことは、あなた方のように知性の発達した人類は、自由意志の行使による過ちに対しては未開人よりも責任が重いということになります」
――社会的地位が自由行動の妨げになることはありませんか。
「社会に属している以上、当然、それなりの制約はあるでしょう。神は公正であり、そうした条件も全て考慮に入れて裁かれますが、そうした制約に負けないだけの努力をしているか否かも神は見ておられます」
――人生での出来事にはいわゆる運命、つまりあらかじめ決められているものもあるのでしょうか。もしあるとすれば自由意志はどうなるのでしょうか。
「再生する際に自ら選択した試練以外には必然的な宿命(さだめ)というものはありません。試練を選択することによって、そのようになる環境へ誕生しますから、自然にそうなるのです。
もっとも私が言っているのは物的な出来事(事故など)のことです。精神的な試練や道徳的誘惑に関しては、霊は常に善悪の選択を迫られており、それに抵抗するか負けるかのどちらかです。その際、当人が躊躇しているのを見て背後霊がアドバイスをしてくれますが、当人の意志の強さの程度を超えて影響を及ぼすことはできません。
一方、低級なイタズラ霊が大げさな取り越し苦労の念を吹き込んで悩ませたり怖がらせたりすることもします。が、最後の選択権は当人にあります」
――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……
「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」
――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。
「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」
――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。
「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」
――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。
「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」
――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。
「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。
例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。
神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」
――例えば殺人を犯した場合、再生する時から殺人者になることを知っているのでしょうか。
「そうではありません。自分が選択した人生において殺人を犯しかねない事態が予想されていたかも知れません。が、その時点では殺人を犯すか犯さないかは分かっておりません。殺人を犯した者でも、その直前までは理性を働かせる余裕があったはずです。もしも殺人を犯すことに決まっているとしたら、自由意志による判断力を働かせることができないことになります。罪悪も、他のあらゆる行為と同じく、自由意志による判断力と決断力の結果です。
あなた方はとかく二種類のまったく異なるものを混同しがちです。すなわち物的生活での出来事と精神的生活での行為です。もし宿命性というものがあるとすれば、それは物的生活において、原因が本人の手の届かない、そして本人の意志と無関係の出来事にかぎられています。それとは対照的に、精神生活における行為は必ず本人から出ており、従って本人の自由意志による選択の余地があります。その種の行為に宿命性は絶対にありません」
――では“幸運の星の下に生まれる”とか“星回りの悪い時に生まれる”という表現はどこから生まれたのでしょうか。
「星と人間とを結びつける古い迷信から生まれたもので、愚かな人間が比喩的表現を文字通りに受け取っただけです」
11章 公正・愛・寛容の法則
このページの目次〈生得の権利と公正〉
〈隣人への寛容と愛〉
〈生得の権利と公正〉
――公正とはどう定義づけたらよろしいでしょうか。
「公正とは他人の権利の尊重を基本として成り立つものです」
――その権利を定めるのは何でしょうか。
「二つあります。人間の法律と自然の法則です。人間の法律はその時代の人間的性格と習性に合わせてこしらえられていますから、啓発が進むにつれて規定される権利も変わってきます。今日のフランスの法律は、まだ完全からは程遠いとは言え、中世において権利として認められたものは、もう認めていません。今日のあなた方には途方もないものに思えるでしょうけど、当時としてはごく当たり前だったのです。
そういう次第ですから、人間がこしらえた法律は必ずしも絶対的公正とは一致しません。その上、人間の法律が規定するのは社会生活に関連した側面に限られております。しかし各個人の生活においては、時々刻々の言動や思念について、良心の法則による裁きを受けております」
――では人間的法律はさておいて、自然の摂理に適った公正の基本は何でしょうか。
「イエスが言っております――自分が他人からしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい、と。神は、公正の真実の尺度として、自分の権利を尊重してもらいたいという願望を各自に植えつけておられます。対人関係において難しい事態に立ち至り、如何なる行為に出るべきかに迷った時は、自分を相手の立場に置いて、自分だったらどうしてもらいたいと思うだろうかと考えてみることです。その判断に基づいて行動した時は良心が咎めることはありません」
――生得の権利で第一に挙げられるのは何でしょうか。
「生きる権利です。従って他人の生命を奪う権利、あるいは個人的存在を危うくする権利は、誰にもありません」
〈隣人への寛容と愛〉
――イエスが説いた“慈愛”の本当の意味は何でしょうか。
「全ての人間への善意、他人の欠点への寛容、自分への中傷の容赦です」
――イエスは“汝の敵を愛せよ”とも言っておりますが、それは人間の自然な心情にはそぐわないように思います。
「自分に敵対する者に優しくし愛の心を向けることは、確かに人間には不可能でしょう。イエスも決して文字通りのことを要求しているわけではありません。敵を愛するということは、敵を赦し、悪想念に対して善意で返すということです。それができた時、あなたは本当の意味で敵に勝ったのであり、悪意でやり返した時は敵に負けたことになります」
――施しをすることはいけないことでしょうか。
「そんなことはありません。いけないのは施しそのものではなく、施しの仕方です。イエスの説いた慈愛の心を理解した者は、物乞いをするという下卑(げび)た態度に出させないようにして困っている人々に施しをするべきです。
真の慈善の行為は、ただ施しをするというだけでなく、その態度に優しさが無くてはいけません。同じく人のためになることでも、その行為に思いやりの心がこもっていると二重の功徳になります。反対に恵んでやるといった高慢な態度で施しをしたのでは、飢えている人は形振(なりふ)り構わず頂くでしょうが、感謝の念は抱かないでしょう。
もう一つ忘れてならないのは、見栄からの施しは神の目から見ると功徳にはならないということです。イエスは“右の手が行ったことを左の手に知らしめてはならない”と言っております。せっかくの慈善行為を高慢と見栄で汚してはいけないという意味です。
施しと善意との違いを知ってください。本当に困っているのは必ずしも道端で物乞いをしている人ではありません。飢えに苦しみながらも、恥を知る人間は物乞いをしません。本当に善意のある人とは、そうした人知れず飢えに耐えている人に施しをし、そしてそのことを口外しない人のことです」
12章 完全なる人格
このページの目次
――人間が完全な自由を得るのはどういう条件下においてでしょうか。
「砂漠の中の世捨て人くらいのものでしょう。二人の人間が存在すれば、互いの権利と義務が生じ、完全に自由ではなくなります」
――と言うことは、他人の権利を尊重するということは、自分の権利を奪われることを意味するのでしょうか。
「それは違います。権利は生得のものです」
――奴隷制度が既成の慣習となっている国家において、使用人の家に生まれた者はそれを当たり前のことと思うに違いありませんが、その場合でも罪でしょうか。
「いけないことはいけないこと、いくら詭弁を弄しても悪い慣習が良い慣習になるわけではありません。が、責任の重さとなると、当人がその善悪についてどの程度まで理解していたかによって違ってきます。
奴隷制度で甘い汁を吸っている者は神の摂理に違反していることは明白です。が、その場合の罪の重さは、他の全ての場合と同じく、相対的なものです。長年にわたって奴隷制度が根付いている国においては使用人は少しも悪いこととは思わず、むしろ当たり前のことと思っているでしょう。しかし例えばイエスの教えなどに接して道義心が目覚め、理性が啓発されて、奴隷も神の前には自分と同等なのだと悟ったあとは、どう弁解しても罪は罪です」
――使用人の中には心の優しい人もいて、扱い方が人道的で、何一つ不自由をさせないように心を配っていながら、解放してやると却って生活が苦しくなるという理由から奴隷を雇い続けている人がいますが、これはどう理解すべきでしょうか。
「奴隷を残酷に扱っている使用人に較べれば自分のしていることについての理解が立派であると言えるでしょう。が、私に言わせれば、それは牛や馬を飼育しているのと同じで、マーケットで高く売るために大切にしているだけです。残酷に扱っている人と同列には問えませんが、人間を商品として扱い、生来の独立した人格としての権利を奪っている点において罪に問われます」
〈良心の自由〉
――他人の良心の自由に柵を設ける権利はあるでしょうか。
「思想の自由に柵を設ける権利がないのと同じく、そういう権利は許されません。良心を判断する権利は神のみが所有しておられます。人間が法律によって人間と人間との関係を規制していますが、神は自然の摂理によって人間と神との関係を規律づけています」
――ある宗教で説かれている教義が有害であることが明らかな時、良心の自由を尊重する立場からこれをそのまま許すべきでしょうか、それとも、良心の自由を侵さない範囲で、その誤った教義によって道に迷っている人を正しい道に導いてもよろしいでしょうか。
「もちろんよろしいし、また、そう努力すべきです。ただし、その時の態度はイエスの範にならって、優しさと説得力をもって臨むべきで、強引な態度は慎まないといけません。強引な態度は、その相手の間違った信仰よりも有害です。確信は威嚇によって押しつけられるものではありません」
〈自由意志〉
――人間には行為の自由がありますか。
「思想の自由がある以上、行為の自由もあります。自由意志がなかったら人間はロボットと同じです」
――その自由意志は誕生の時から所有しているのでしょうか。
「自らの意志で行為に出るような段階から自由意志を所有したことになります。誕生後しばらくは自由意志は無いに等しく、機能の発達と共に発達しはじめ、目的意識を持つようになります。幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています」
――未開の段階では人間は本能と自由意志のどちらが支配的なのでしょうか。
「本能です。と言っても、完全な自由意志による行動を妨げない面もいくつかあります。幼児と同じで、自分の必要性を満たすために自由意志を行使していて、その自由意志は知性の発達を通してのみ発達します。と言うことは、あなた方のように知性の発達した人類は、自由意志の行使による過ちに対しては未開人よりも責任が重いということになります」
――社会的地位が自由行動の妨げになることはありませんか。
「社会に属している以上、当然、それなりの制約はあるでしょう。神は公正であり、そうした条件も全て考慮に入れて裁かれますが、そうした制約に負けないだけの努力をしているか否かも神は見ておられます」
――人生での出来事にはいわゆる運命、つまりあらかじめ決められているものもあるのでしょうか。もしあるとすれば自由意志はどうなるのでしょうか。
「再生する際に自ら選択した試練以外には必然的な宿命(さだめ)というものはありません。試練を選択することによって、そのようになる環境へ誕生しますから、自然にそうなるのです。
もっとも私が言っているのは物的な出来事(事故など)のことです。精神的な試練や道徳的誘惑に関しては、霊は常に善悪の選択を迫られており、それに抵抗するか負けるかのどちらかです。その際、当人が躊躇しているのを見て背後霊がアドバイスをしてくれますが、当人の意志の強さの程度を超えて影響を及ぼすことはできません。
一方、低級なイタズラ霊が大げさな取り越し苦労の念を吹き込んで悩ませたり怖がらせたりすることもします。が、最後の選択権は当人にあります」
――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……
「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」
――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。
「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」
――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。
「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」
――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。
「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」
――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。
「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。
例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。
神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」
――例えば殺人を犯した場合、再生する時から殺人者になることを知っているのでしょうか。
「そうではありません。自分が選択した人生において殺人を犯しかねない事態が予想されていたかも知れません。が、その時点では殺人を犯すか犯さないかは分かっておりません。殺人を犯した者でも、その直前までは理性を働かせる余裕があったはずです。もしも殺人を犯すことに決まっているとしたら、自由意志による判断力を働かせることができないことになります。罪悪も、他のあらゆる行為と同じく、自由意志による判断力と決断力の結果です。
あなた方はとかく二種類のまったく異なるものを混同しがちです。すなわち物的生活での出来事と精神的生活での行為です。もし宿命性というものがあるとすれば、それは物的生活において、原因が本人の手の届かない、そして本人の意志と無関係の出来事にかぎられています。それとは対照的に、精神生活における行為は必ず本人から出ており、従って本人の自由意志による選択の余地があります。その種の行為に宿命性は絶対にありません」
――では“幸運の星の下に生まれる”とか“星回りの悪い時に生まれる”という表現はどこから生まれたのでしょうか。
「星と人間とを結びつける古い迷信から生まれたもので、愚かな人間が比喩的表現を文字通りに受け取っただけです」
11章 公正・愛・寛容の法則
このページの目次〈生得の権利と公正〉
〈隣人への寛容と愛〉
〈生得の権利と公正〉
――公正とはどう定義づけたらよろしいでしょうか。
「公正とは他人の権利の尊重を基本として成り立つものです」
――その権利を定めるのは何でしょうか。
「二つあります。人間の法律と自然の法則です。人間の法律はその時代の人間的性格と習性に合わせてこしらえられていますから、啓発が進むにつれて規定される権利も変わってきます。今日のフランスの法律は、まだ完全からは程遠いとは言え、中世において権利として認められたものは、もう認めていません。今日のあなた方には途方もないものに思えるでしょうけど、当時としてはごく当たり前だったのです。
そういう次第ですから、人間がこしらえた法律は必ずしも絶対的公正とは一致しません。その上、人間の法律が規定するのは社会生活に関連した側面に限られております。しかし各個人の生活においては、時々刻々の言動や思念について、良心の法則による裁きを受けております」
――では人間的法律はさておいて、自然の摂理に適った公正の基本は何でしょうか。
「イエスが言っております――自分が他人からしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい、と。神は、公正の真実の尺度として、自分の権利を尊重してもらいたいという願望を各自に植えつけておられます。対人関係において難しい事態に立ち至り、如何なる行為に出るべきかに迷った時は、自分を相手の立場に置いて、自分だったらどうしてもらいたいと思うだろうかと考えてみることです。その判断に基づいて行動した時は良心が咎めることはありません」
――生得の権利で第一に挙げられるのは何でしょうか。
「生きる権利です。従って他人の生命を奪う権利、あるいは個人的存在を危うくする権利は、誰にもありません」
〈隣人への寛容と愛〉
――イエスが説いた“慈愛”の本当の意味は何でしょうか。
「全ての人間への善意、他人の欠点への寛容、自分への中傷の容赦です」
――イエスは“汝の敵を愛せよ”とも言っておりますが、それは人間の自然な心情にはそぐわないように思います。
「自分に敵対する者に優しくし愛の心を向けることは、確かに人間には不可能でしょう。イエスも決して文字通りのことを要求しているわけではありません。敵を愛するということは、敵を赦し、悪想念に対して善意で返すということです。それができた時、あなたは本当の意味で敵に勝ったのであり、悪意でやり返した時は敵に負けたことになります」
――施しをすることはいけないことでしょうか。
「そんなことはありません。いけないのは施しそのものではなく、施しの仕方です。イエスの説いた慈愛の心を理解した者は、物乞いをするという下卑(げび)た態度に出させないようにして困っている人々に施しをするべきです。
真の慈善の行為は、ただ施しをするというだけでなく、その態度に優しさが無くてはいけません。同じく人のためになることでも、その行為に思いやりの心がこもっていると二重の功徳になります。反対に恵んでやるといった高慢な態度で施しをしたのでは、飢えている人は形振(なりふ)り構わず頂くでしょうが、感謝の念は抱かないでしょう。
もう一つ忘れてならないのは、見栄からの施しは神の目から見ると功徳にはならないということです。イエスは“右の手が行ったことを左の手に知らしめてはならない”と言っております。せっかくの慈善行為を高慢と見栄で汚してはいけないという意味です。
施しと善意との違いを知ってください。本当に困っているのは必ずしも道端で物乞いをしている人ではありません。飢えに苦しみながらも、恥を知る人間は物乞いをしません。本当に善意のある人とは、そうした人知れず飢えに耐えている人に施しをし、そしてそのことを口外しない人のことです」
12章 完全なる人格
このページの目次
〈美徳と悪徳〉
――美徳とされているものの中で最も徳性が高いのは何でしょうか。
「美徳はすべて価値があります。霊性の向上の証だからです。邪悪性を帯びた影響力の誘惑に自ら抵抗する行為も全て徳行と言えます。が、その徳行の崇高さは、他人への善行のために私利私欲を滅却するところにあります。最も崇高なる徳は、できるだけ多くの人への無私の善行という形を取った時です」
――誰の目にも明らかな欠点と悪徳は別として、一見するとそうは見えない不完全さの表れの中で最も特徴的なものは何でしょうか。
「利己主義です。一見すると徳の高そうな風貌をしていても、実はきらびやかなメッキにすぎず、試金石にはとても耐え切れないことがあります。世間的には“立派な方”で通っていて、確かにそこそこの人格をそなえていても、厳しい試練には耐え切れず、すぐに利己心をのぞかせます。それだけでどの程度の霊格をそなえているかが知れます。もっとも、絶対的な無欲というのは地上界では滅多にお目にかかれるものではなく、もしあれば驚嘆に値するでしょう」
――人のためになることを計画して、その実行のための資金を稼ぐということは間違っているでしょうか。
「純粋にそう思ってやっているのであれば結構でしょう。ですが、果たして心底から人のためと思っているでしょうか。利己心は一切無いと断言できるでしょうか。人のためと言いながら、その実、第一に考えているのは自分のことではないでしょうか」
〈感情〉
――感情というのは、本来、悪なのでしょうか。
「悪ではありません。悪となるのは度が過ぎた時だけです。度を越すということは意念の悪用の結果だからです。基本的には感情は人間の性格の形成に益するもので、偉大な仕事の成就に強烈な拍車をかけてくれることがあります。感情が害を及ぼすのは、その使い道を誤った時です」
――その善用と悪用の境界はどうやって認識するのでしょうか。
「感情は馬と同じです。手綱をうまく操っている間は役に立ちますが、いったんコントロールを失うと危険が生じます。抑えることができなくなると自分だけでなく他人をも傷つけるようになります」
――それは意志の力で克服できるのでしょうか。
「できます。ホンのちょっとした意志の働かせ方で抑えられるものです。その意志、抑えようとする意志の欠如が感情を暴走させてしまうのです。残念ながら、そういう努力をする人が少なすぎます」
〈利己主義〉
――悪徳の中でもその根源にあるものは何でしょうか。
「利己心です。このことはすでに何度も説いてきました。およそ悪と呼ばれているものは全てこの利己心から生じているからです。悪いこと、いけないこととされているものをよく分析してご覧なさい。その底には必ず自分中心の欲が巣食っています。それと闘い、克服して、悪を根絶やしにしないといけません。
利己主義こそ社会的腐敗の根源です。この地上生活(だけとは限りませんが)において幾らかでも道徳的に向上したいと願う者は、まず自分の心の奥から利己心を根こそぎ取り払わないといけません。利己心があるかぎり公正も愛も寛容心も生まれません。あらゆる善性を無力化してしまいます」
――利己心を撲滅するにはどうすればよいでしょうか。
「人間的欠点の中でも最も取り除き難いのがこの利己心です。その原因は物質の影響力と結びついているからです。人類はまだまだ物質性を多分に残していますから、それから解放されるのは容易ではありません。人間界の法律、社会的組織、そして教育までもが唯物主義の上に成り立っています。物的生活が精神的生活によって支配されるようになるにつれて、利己主義も薄められて行くでしょう。それにはスピリチュアリズムの普及によって死後の生命の実在についての認識が浸透することが大前提です。スピリチュアリズムの教義が正しく理解され、それまでの人類の信仰や慣習が見直されれば、習慣やしきたり、社会的関係の全てが改められるでしょう。
利己主義は自分という個的存在にこだわりすぎ、平たく言えば自分が偉いと思っているところから生じています。スピリチュアリズムを正しく理解すれば、それとは逆に、全てを大いなる生命の観点から見つめるようになって、己の小ささに気づきます。全体の中のささやかな存在にすぎないという認識によって自尊心が消え、必然的に利己心も消えてしまいます」
(署名)フェヌロン
訳注――フランソワ・フェヌロン(一六五一~一七一五)はフランスの聖職者・教育論者・著述家。ルイ十四世から孫(王子)の教育を託され、その功によって大主教に任ぜられるが、前任の教育係との間の神学論争に敗れて主教に降格される。その後王子の教育論を述べた大著を発表するが、ルイ王はそれを自分への風刺と受け取って発禁処分にし、対立する教育論者たちからも非難を浴びる。が、「王は臣民のためにあるのであり臣民が王のためにあるのではない」との説は最後まで歪げなかったという。
〈人格者〉
――高等な霊性をそなえていると判断できる人はどういう人格をしているでしょうか。
「肉体に宿っている霊の霊格の判断は、その人の日常生活での言動が神の摂理に適っているかどうか、そして霊的生命についてどの程度まで理解しているかによって決まります」
――地上生活によって徳性を高め、悪の誘いに抵抗していくには、どのような生き方が最も有効でしょうか。
「古賢の言葉に“汝自らを知れ”とあります」
訳注――ギリシャのデルファイの神殿に刻まれている言葉で、誰の言葉であるかは不明。
――その言葉の意味はよく分かるのですが、自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。
「私(聖アウグスティヌス)が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。
霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことのできない場にさらされたとしても、青天白日の気持ちで誰にでも顔向けができるか、と。まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。
人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つの秤(はか)り、二種類のモノサシを用いるはずはありません。
さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。
我々への質問は明確に、そして有りのままを述べ、幾つでもなさるがよろしい。そこに遠慮は無用です。人間は老後に備えてあくせくと働きます。老後の安楽が人生最大の目的――現在の疲労と窮乏生活をも厭わないほどの目的になっているではありませんか。疲労こんぱいの身体で人生最後の、ホンのわずかな時を経済的に安楽に過ごすことと、徳積みの生活に勤しんで死後の永遠の安らぎを得るのと、どちらが崇高でしょうか。
そう言うと人間は言うでしょう――現世のことは明確に分かるが死後のことは当てにならない、と。実はその考えこそ、我々霊団が人間の思念の中から取り除いて死後の実在に疑念を持たせないようにせよと命じられている、大きな課題なのです。だからこそ我々は心霊現象を発生させてあなた方の注意を喚起し、そして今こうして霊的思想を説いているのです。
本書を編纂するよう働きかけたのもその目的のためです。今度はあなた方がそれを広める番です」
(署名)アウグスティヌス
訳注――聖アウグスティヌス(三五四~四三〇・聖オーガスチンとも)は言わずと知れた初期キリスト教時代の最大の指導者・神学者・哲学者で、遺産を全て売り払って貧者に恵み、自らは清貧に甘んじ、とくに後半生は病弱と貧困に苦しめられたが、その中にあっても強靭な精神力、底知れぬ知性、深遠な霊性、崇高な高潔さは、キリスト教最高・最大の聖人と呼ばれるに相応しいものだったと言われる。
なお、これまでの通信でも“私”という言い方をしながら、それが誰であるかが記されていないものがある。それにも署名はあったであろうから、それを敢えて記さなかったのは、まったく無名の人物か、カルデックが本人であることに疑念を抱いたかの、どちらかであろう。フェヌロンとオーガスチンに関してはよほど確信を持ったということになる。
――美徳とされているものの中で最も徳性が高いのは何でしょうか。
「美徳はすべて価値があります。霊性の向上の証だからです。邪悪性を帯びた影響力の誘惑に自ら抵抗する行為も全て徳行と言えます。が、その徳行の崇高さは、他人への善行のために私利私欲を滅却するところにあります。最も崇高なる徳は、できるだけ多くの人への無私の善行という形を取った時です」
――誰の目にも明らかな欠点と悪徳は別として、一見するとそうは見えない不完全さの表れの中で最も特徴的なものは何でしょうか。
「利己主義です。一見すると徳の高そうな風貌をしていても、実はきらびやかなメッキにすぎず、試金石にはとても耐え切れないことがあります。世間的には“立派な方”で通っていて、確かにそこそこの人格をそなえていても、厳しい試練には耐え切れず、すぐに利己心をのぞかせます。それだけでどの程度の霊格をそなえているかが知れます。もっとも、絶対的な無欲というのは地上界では滅多にお目にかかれるものではなく、もしあれば驚嘆に値するでしょう」
――人のためになることを計画して、その実行のための資金を稼ぐということは間違っているでしょうか。
「純粋にそう思ってやっているのであれば結構でしょう。ですが、果たして心底から人のためと思っているでしょうか。利己心は一切無いと断言できるでしょうか。人のためと言いながら、その実、第一に考えているのは自分のことではないでしょうか」
〈感情〉
――感情というのは、本来、悪なのでしょうか。
「悪ではありません。悪となるのは度が過ぎた時だけです。度を越すということは意念の悪用の結果だからです。基本的には感情は人間の性格の形成に益するもので、偉大な仕事の成就に強烈な拍車をかけてくれることがあります。感情が害を及ぼすのは、その使い道を誤った時です」
――その善用と悪用の境界はどうやって認識するのでしょうか。
「感情は馬と同じです。手綱をうまく操っている間は役に立ちますが、いったんコントロールを失うと危険が生じます。抑えることができなくなると自分だけでなく他人をも傷つけるようになります」
――それは意志の力で克服できるのでしょうか。
「できます。ホンのちょっとした意志の働かせ方で抑えられるものです。その意志、抑えようとする意志の欠如が感情を暴走させてしまうのです。残念ながら、そういう努力をする人が少なすぎます」
〈利己主義〉
――悪徳の中でもその根源にあるものは何でしょうか。
「利己心です。このことはすでに何度も説いてきました。およそ悪と呼ばれているものは全てこの利己心から生じているからです。悪いこと、いけないこととされているものをよく分析してご覧なさい。その底には必ず自分中心の欲が巣食っています。それと闘い、克服して、悪を根絶やしにしないといけません。
利己主義こそ社会的腐敗の根源です。この地上生活(だけとは限りませんが)において幾らかでも道徳的に向上したいと願う者は、まず自分の心の奥から利己心を根こそぎ取り払わないといけません。利己心があるかぎり公正も愛も寛容心も生まれません。あらゆる善性を無力化してしまいます」
――利己心を撲滅するにはどうすればよいでしょうか。
「人間的欠点の中でも最も取り除き難いのがこの利己心です。その原因は物質の影響力と結びついているからです。人類はまだまだ物質性を多分に残していますから、それから解放されるのは容易ではありません。人間界の法律、社会的組織、そして教育までもが唯物主義の上に成り立っています。物的生活が精神的生活によって支配されるようになるにつれて、利己主義も薄められて行くでしょう。それにはスピリチュアリズムの普及によって死後の生命の実在についての認識が浸透することが大前提です。スピリチュアリズムの教義が正しく理解され、それまでの人類の信仰や慣習が見直されれば、習慣やしきたり、社会的関係の全てが改められるでしょう。
利己主義は自分という個的存在にこだわりすぎ、平たく言えば自分が偉いと思っているところから生じています。スピリチュアリズムを正しく理解すれば、それとは逆に、全てを大いなる生命の観点から見つめるようになって、己の小ささに気づきます。全体の中のささやかな存在にすぎないという認識によって自尊心が消え、必然的に利己心も消えてしまいます」
(署名)フェヌロン
訳注――フランソワ・フェヌロン(一六五一~一七一五)はフランスの聖職者・教育論者・著述家。ルイ十四世から孫(王子)の教育を託され、その功によって大主教に任ぜられるが、前任の教育係との間の神学論争に敗れて主教に降格される。その後王子の教育論を述べた大著を発表するが、ルイ王はそれを自分への風刺と受け取って発禁処分にし、対立する教育論者たちからも非難を浴びる。が、「王は臣民のためにあるのであり臣民が王のためにあるのではない」との説は最後まで歪げなかったという。
〈人格者〉
――高等な霊性をそなえていると判断できる人はどういう人格をしているでしょうか。
「肉体に宿っている霊の霊格の判断は、その人の日常生活での言動が神の摂理に適っているかどうか、そして霊的生命についてどの程度まで理解しているかによって決まります」
――地上生活によって徳性を高め、悪の誘いに抵抗していくには、どのような生き方が最も有効でしょうか。
「古賢の言葉に“汝自らを知れ”とあります」
訳注――ギリシャのデルファイの神殿に刻まれている言葉で、誰の言葉であるかは不明。
――その言葉の意味はよく分かるのですが、自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。
「私(聖アウグスティヌス)が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。
霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことのできない場にさらされたとしても、青天白日の気持ちで誰にでも顔向けができるか、と。まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。
人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つの秤(はか)り、二種類のモノサシを用いるはずはありません。
さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。
我々への質問は明確に、そして有りのままを述べ、幾つでもなさるがよろしい。そこに遠慮は無用です。人間は老後に備えてあくせくと働きます。老後の安楽が人生最大の目的――現在の疲労と窮乏生活をも厭わないほどの目的になっているではありませんか。疲労こんぱいの身体で人生最後の、ホンのわずかな時を経済的に安楽に過ごすことと、徳積みの生活に勤しんで死後の永遠の安らぎを得るのと、どちらが崇高でしょうか。
そう言うと人間は言うでしょう――現世のことは明確に分かるが死後のことは当てにならない、と。実はその考えこそ、我々霊団が人間の思念の中から取り除いて死後の実在に疑念を持たせないようにせよと命じられている、大きな課題なのです。だからこそ我々は心霊現象を発生させてあなた方の注意を喚起し、そして今こうして霊的思想を説いているのです。
本書を編纂するよう働きかけたのもその目的のためです。今度はあなた方がそれを広める番です」
(署名)アウグスティヌス
訳注――聖アウグスティヌス(三五四~四三〇・聖オーガスチンとも)は言わずと知れた初期キリスト教時代の最大の指導者・神学者・哲学者で、遺産を全て売り払って貧者に恵み、自らは清貧に甘んじ、とくに後半生は病弱と貧困に苦しめられたが、その中にあっても強靭な精神力、底知れぬ知性、深遠な霊性、崇高な高潔さは、キリスト教最高・最大の聖人と呼ばれるに相応しいものだったと言われる。
なお、これまでの通信でも“私”という言い方をしながら、それが誰であるかが記されていないものがある。それにも署名はあったであろうから、それを敢えて記さなかったのは、まったく無名の人物か、カルデックが本人であることに疑念を抱いたかの、どちらかであろう。フェヌロンとオーガスチンに関してはよほど確信を持ったということになる。
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