Sunday, November 1, 2026

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch

by Stella Storm
近藤千雄訳




十三章 おしまいに


 「私は、こうした形で私にできる仕事の限界をもとより承知しておりますが、同時に自分の力強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません。私自身はいつも謙虚な気持ちです。

本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない───私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。が、私はその援助のすべてを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちているのと言っているのです。

 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると自信をもって語ることができます。霊団が指図することを安心して語っていればよいのです。

威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人間全体の進化の指導に当たっている、真の意味での霊格の高いスピリットなのです。

 私自身はまだまだ未熟で、けっして地上の平凡人からも遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなた方の悩みがよく分ります。私はこの仕事を通じて地上生活を永いあいだ味わってまいりました。

あなた方 (レギラーメンバー)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く関わってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないことも分かります。

 霊力というのは必要な条件さえ整えば地上に奇跡と思えるようなことを起こしてみせるものです。私たちは地上の存在ではありません。霊の世界の住民です。地上の仕事をするにはあなた方にその手段を提供していただかねばなりません。

あなた方は私たちの手であり、私たちのからだです。あなた方が道具を提供する───そして私たちが仕事をする、ということです。

 私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけないといったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れといった指示を受けます。私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。

いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束ができているということです。私より勝れた叡智を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。

 そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているのです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在です。私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会いできることを無上の光栄に思っております。

その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。

 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。神界というのはあなた方人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が、地上の仕事を実行するとなると、われわれのようなこうした小さな組織が必要となるのです。

 私たちはひたすら人類の向上の手助けをしてあげたいと願っております。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えする目的でやってまいりました。

そこから正しい叡智を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も地上から送られてくる無知で何の備えもできていない、厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる───そう思って努力してまいりました。

 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度は取りたくありません。人間をロボットのようには扱いたくないのです。

死の淵を隔てていても友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の心とからだと魂に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。

 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶なさるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。

私たちがあなた方に代わって生きてあげるわけにはまいりません。援助はいたしましょう。指導もいたしましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけには行かないのです。

 スピリットの中にはみずからの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私はみずから買って出た口ではないのです。しかし、依頼された時は快く引き受けました。

 引き受けた当初、地上の状態はまさにお先真っ暗という感じでした。困難が山積しておりました。が、それも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに較べれば物の数ではありません。

 私たちの願いは、あなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい。持てる知能と技能と才能とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生をうけた真の目的を成就することにつながり、死とともに始まる次の段階の生活に備えることにもなる───そう願っているのです。

 私は理性を物事の判断基準として最優先させています。私を永いあいだご存知の方なら、私が常に理性を最高の権威ある裁定者としてきていると申し上げても、これまでの私の言説と少しも矛盾しないことを認めてくださると信じます。

 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそすべてを律する実在なのです。そこでは仮面(マスク)も見せかけも逃げ口上もごまかしも利きません。すべてが知れてしまうのです。

  私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕(しもべ)にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。喜びと楽しみをもってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなた方の何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。

 あなた方は、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が、信じてください。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる能力を具えた、実在の人間です。

こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。

 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が幾多の障害を乗り越えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。


 神よ、かたじけなくもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私どもは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を良しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場なることを知らしめ給わんことを。

 では、神の御恵みの多からんことを」

               
   
 解説〝霊がすぐ側にいる〟と言うことの意味
      
 本書は Philosophy of Silver Birch by Stella Storm の全訳である。全訳といっても、動物愛護運動家のデニス夫妻を招待した時の交霊の様子は全巻の(八)に引用したし、宗教教育に関する章は(四)の九章に出ているので当然カットした。その替わりとしてシルビア・バーバネルの More Wisdom of Silver Birch (七)からカットしておいた 「イエス・キリストについての質問に答える」 と 「自殺に関する二つの投書」 を引用した。

  なお巻末にシルバーバーチの名言が断片的に集めてあるが、これは最終巻の総集編に入れたいと考えている。

 編者のステラ・ストーム女史については 「まえがき」 の中で自己紹介してくれていること以外のことは分からない。

 さて、本書を訳していて目についたことは,シルバーバーチの文句に〝すぐ側にいます〟とか 〝いつもいっしょです〟といった表現が多いことである。シルバーバーチ自身のことを言っている場合もあるし、他界した肉親・知人のことを言っている場合もある。

 これを文字どおりに受け取って距離的にすぐ側にいると解釈してよい場合もあろうが、霊的に言えば、たとえ霊的身体はその場に存在しなくても、時間・空間の法則が地上の物理法則と異なる次元においては、いっしょにいるのと同じ関係を維持することができる。

 が、よく考えてみると、物理法則の支配を受ける肉体に霊が宿っているのが地上の人間であるから、その肉体を超越さえすれば、この地上における人間どうしの関係においても同じことがいえることになる。

 ただ、現段階の人類は霊性の発達が十分でなく五感でしか存在感が得られないために、目に見え肌で触れないことには実在している気がしないというにすぎない。たとえば学校へ行っている子供と家庭にいる母親とは霊的には〝いっしょにいる〟のであり、〝すぐ側にいる〟と言ってもよいのである。

 そのことは心霊現象を見ればよく分かる。いちばん良い例がリモートコントロール式の霊言および自動書記現象である。最近出たばかりの 『インペレーターの霊訓』 (モーゼスの 『霊訓』 の続編)の〝まえがき〟の中で私は霊界と地上との交信の原理の概略を解説しておいたが、その中に直接書記というのがある。

 これは霊媒は手に何も筆記用具を持たずにただ入神しているだけで、その筆記用具がひとりでに動いてメッセージを綴るという現象である。その原理を背後霊団がモーゼスに見せるために幽体離脱(体外遊離)の状態にさせて実際に霊が筆記を行っている場面を披露するところがある。その場面を抜粋すると───

 《気がつくと自分の身体のそばに立っていた。例のノートを前にしてペンを右手に持って座っている。私はその様子とあたりの様子とを興味ぶかく観察した。自分自身のからだが目の前にあり、そのからだと自分とが細い光の紐によってつながっている。部屋中の物的なものがことごとく実体のない影のように見え、霊的なものが固くて実体があるように見えた。

 その私の身体のすぐうしろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方をペンを握っている右手にかざしている。さらにインペレーターと、これまで永いあいだ私に影響を及ぼしてきた霊が数人いた。そのほかに私に見覚えのない霊が出入りして、その現象を興味ぶかそうに見守っていた。

 天井を突き抜けて柔らかい心地よい光が注がれており、時おり青味を帯びた光線が幾本か私の身体に向けて照射されていた。そのたびに私の身体はぎくりとし、震えを見せた。生命力が補給されていたのであろう。

 さらに気がつくと戸外の光も薄れて窓が暗く感じられた。したがって部屋の中が明るく見えるのは霊的な光線のせいだった。私に語りかける霊の声が鮮明に聞こえる。人間の声を聞くのと非常によく似ているが、そのひびきは人間の声より優美で、遠くから聞こえてくるような感じがした。

 インペレーターによると、これは実際のシーンで、私に霊の働きを見せるために用意したとのことだった。レクターが書いているのだが、私の想像とは違って、私の手を操っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンに当てているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意志が伝わり、それがペンに綴らせているのだった。

 私の手が道具にすぎず、それも必ずしも無くてはならぬものでもないことを示すために、光線がそのペンを私の手から離し、用紙の上に立たせ、さらに驚いたことに、それが用紙の上を動きはじめ、最初に掲げた文章(省略)を綴ったのである》

 右の場合は距離的にはすぐ近くであるが、〝青い光線のようなもの〟はいくらでも延ばすことができる。それなりに余分のエネルギーが要るのであるが、同じ方法が霊言現象にも応用することができる。同じ『インペレーターの霊訓』の第一部〝霊言による霊訓〟の中に次のような箇所がある。

《地上へ降りてくる高級霊は一種の影響力のようなものであり、言わば放射性エネルギーです。あなた方が人間的存在として想像するものとは異なり、高級界からの放射物のようなものです。高等な霊信の内容の非個人性に注目していただきたい。

 この霊媒(モーゼス)との関わりをもった当初、彼はしつこく我々の身元の証明を求めました。が、実は我々を通してさまざまな影響力が届けられております。

 死後、首尾よく二段階三段階と昇った霊はあなた方のいう個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私は地上界へ戻れるぎりぎりの境涯までたどり着いています。が、距離には関係なく影響力を行使することができます。私は今、あなた方からはるか彼方にいます》


 霊的なことはすべてバイブレーションの原理によるのであるから、波長さえ合えば、ちょうど国際電話でもすぐお隣りと話をしているみたいに聞こえるように、すぐ身のまわりにいるのと同じ親近感が味わえるし、波長が合わなければ、すぐ近く、否、まったく同じ位置にいても、まったく反応し合わないことにもなる。

すべてを解くカギはバイブレーションの原理にある。それを劇的に演出してみせた例がスカルソープの 『私の霊界紀行』 に出ている。


 《初期の頃のことであるが、離脱してひとまず事務所のようなところへ案内され、そこで指導霊だけが中へ入って指示を受けるあいだ私だけ外で待たされるということがたびたびなので、私もいい加減その場所と波長にうんざりしはじめていた。

 そんな時にまた同じ場所へ連れて行かれたので、つい心の中で 〝ちぇっ、またここか〟とつぶやいた。 すると一瞬のうちに場面が一変し、退屈な風景から明るく楽しい田園風景の中に立っていた。その変わりようは驚異的だった。指導霊の私への支配力が増し、私の波長がその楽しい場所の波長に高められたのであるが、私の身体は少しも動いていなかった》


 この原理を発展させていけばキリがないが、一つだけ誤解を解いておきたいことがあるので、最後にそれを指摘して参考に供したい。

 それは霊視能力が出はじめたばかりの人が陥りやすい錯覚の一つで、進歩性のない人はいつまでもその錯覚に陥ったままであるが、たとえば病気とか悩みごとの原因を探る場合に、霊視した映像をいきなり犯人と決めつけて、すぐにそれを払い除けようとする。

この場合、かりにその霊が俗にいう因縁霊であるとしても、その霊は必ずしも身体の側にいたり直接憑依しているとはかぎらない。先の直接書記のように遠くからバイブレーションによって作用しているにすぎないことがある。

 この場合に用心しなければならないのは、したたかな邪霊になると遠くから映像を送って審神者をからかうことがあること、また、わざと立派そうな姿を見せて安心させることすらあることである。

 その反対に、何の姿も見えないから霊障はないと判断するのも浅薄である。陰に隠れてひっそりとしていることがある。世間の常識と違って、審神者にとって霊視能力はあまり頼りにならないものなのである。

 では何を判断の基準とすべきか。霊を裁く上での最大の武器は、その霊能者の霊格の高さから生まれる看破力、霊的直感力である。

 私は師の間部詮敦氏が審神者をされるところをずいぶん見ているが、その中でとくに印象に残っているのが一つある。陰に隠れていた霊がついに引っぱり出されて霊媒に憑依させられた時(これを招霊実験と呼ぶ)、その霊がふてぶてしい態度で開口一番、間部氏に向かってこう言い放った。

 「お前は大したヤツじゃ。オレの負けだ!大ていのヤツには負けんが、お前の力には負けた。大したヤツじゃ!」

 直感的には間部氏の背後霊がひっぱり出したのであるが、それも間部氏の霊格と霊力とが大いに物を言っている。心霊学に裏打ちされた学識と体験と同時に、高潔な日常生活における修養があればこそ出来ることである。

 最後にシルバーバーチの霊言からそれに関連した一問一答を紹介しておく。


 霊能者がタバコを吸いすぎたりアルコールを飲みすぎたり、そのほか生活面で真理に忠実でなく品行に問題がある場合は、それが霊能にも悪い影響を及ぼすでしょうか。

 「もちろんです。いかなる霊媒能力、特に精神的霊能について言えることは、その霊能者の質が高ければ高いほど通信の内容も質が高いということです。身体と精神の質を落とすようなことは霊にとっても同じ影響が及びます。

 忘れてならないのは、身体と精神と霊とは一体関係にあることです。緊密な相互関係があり、絶えずエネルギーや感情が行き交っております。霊の世界と物質の世界は実は一つの実在の二つの側面なのであり、お互いに影響し合っております。両者は融合し合っていて、はっきりとした境界線というものはないのです。

 そのことを理解なされば、物的身体に悪いものは霊的身体にも悪く、精神に良くないものは霊にとっても良くなく、したがって霊の宮(からだ)を汚すようなことは必ずその持ち主を通過して届けられる通信の質を汚すことになることがお分かりになると思います。

 理想を言えば完全であるに越したことはありません。そうすれば完全な通信が得られることでしょう。が、所詮、私たちが扱っているのは物質の世界に住む人間味たっぷりの道具です。アルコールもタバコもほどほどにたしなむのであれば大した害にはなりません。ただし、霊能者は常に理想を目指していなければなりません」

 一九八七年八月    近藤千雄

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch

by Stella Storm
近藤千雄訳



十二章 自殺について二つの投書


 大きな悩みを抱えて自殺まで考えている男性から投書があり、シルバーバーチ霊は自殺行為をどう観ているかを聞いてみてほしいとあった。投書が読み上げられるのを聞いてシルバーバーチはこう語った。


 「事態を改善するよりも悪化させるようなことは、いかなる魂に対してもお勧めするわけにはまいりません。自殺行為によって地上生活に終止符を打つようなことは絶対にすべきではありません。

もしそのようなことをしたら、それ相当の代償を支払わねばならなくなります。それが自然の摂理なのです。地上の誰一人として、何かの手違いのためにその人が克服できないほどの障害に遭遇するようなことは絶対にありません。

 むしろ私は、その障害物はその人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられているのですと申し上げたいのです。苦しいからといって地上生活にさよならをしても、その苦しみが消えるわけではありません。

それは有り得ないことです。またそれは摂理に反することです。地上であろうと霊界であろうと、神の公正から逃れることはできません。なぜならば、公正は絶対不変であり、その裁定はそれぞれの魂の成長度に合わせて行われるからです」


 ───(司会者) この方は現在の自分の置かれている状態が不当だとおっしゃりたいようです。

 「分かっております。地上の人間は時として物事を逆さまに見ていることがあります。きわめて不完全な知識でもって判断しようとされます。人間にも一定範囲の自由意志が許されており、それを行使していらっしゃいますが、誰一人として自然の摂理から逃れられる人はいません。

 物質の世界から霊の世界へ移ったからといって、それだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。それだけは明確に断言できます。無限の知識にくらべると、われわれは何と知らなすぎることでしょう。が、そのわずかな知識しかもたない者でも、今までより少しでも多く知ったら、その知識を有効に活用しなければなりません」


───自殺者は死後どのような状態に置かれるのでしょうか。

 「それは一概には申し上げられません。それまで送ってきた地上人生によって異なるからです。開発された霊的資質によって違ってきます。魂の発達程度によって違ってきます。そして何よりも、その自殺の動機によって違ってきます。

 キリスト教では自殺をすべて一つのカテゴリーに入れて罪であるとしておりますが、そういうものではありません。地上生活を自分で勝手に終わらせる権利は誰にもありませんが、自殺に至る事情には酌量すべき要素や環境条件がいろいろとあるものです」


───いずれにせよ自殺行為が為にならないことだけは間違いないでしょう。

 「むろんです。絶対に為になりません。地上生活を勝手に終わらせることが魂にプラスになったということは絶対にありません。が、だからといって、自殺した者がみんな暗黒界の暗闇の中に永遠に閉じ込められるわけではないと申し上げているのです」

      ※ ※ ※
      

 別の日の交霊会では、親戚の者が自殺をしてしまったという人からの投書が読み上げられた。その最後に「自殺行為は霊的進歩の妨げになるのでしょうか」という質問があった。

 これに対してシルバーバーチが

 「もちろんです」と答えると、


───神は耐え切れないほどの苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか。

 「それは違います。説明の順序として、これには例外があることから申し上げましょう。いわゆる精神異常者、あるいは霊に憑依されている場合もあります。が、この問題は今はわきへ置いておきましょう。いずれにせよ、このケースはごく少数です。

大多数は私に言わせれば臆病者の逃避行為であると言ってよいと思います。果たすべき義務に真正面から取り組むことができず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れるいちばんラクな方法だと考えるわけです。

ところが、死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。その状態から抜け出られないまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。

 しかし、私がいつも言っているように、いちばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今述べた通り、そう思惑どおりには行きません。

が一方、時たまあるケースとして、動機が利己主義でなく利他主義に発している時、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発している時は、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの憶病心から出た自殺とはまったく違ってきます。

 いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分の手で自分の人生を書き綴っているのです。いったん書き記したものは二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。

 だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。

責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。背負い切れないほどの荷はけっして負わされません。なぜなら、その荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。けっして神が〝この人間にはこれだけのものを負わせてやろう〟と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。

 宇宙の絶対的な法則の働きによって、その人間がその時までに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。

となれば、それだけの荷をこしらえることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです」


 ───因果律の働きですね。

 「そうです。それが全てです」


 ───たとえば脳神経に異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪がないと考えてよろしいでしょうか。

 「話をそういう風にもって来られると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第では私がまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人に口実を与えていることになりかねないからです。

 もちろん私にはそんなつもりは毛頭ありません。今のご質問でも、確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に反省してみると、やはりそのスタートの時点において私がさきほどから言っている〝責任からの逃避〟の心理が働いていたのです。

もしもその人が何かにつまずいた時点で〝自分は間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても最後まで責任を全うしよう〟と覚悟を決めていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来ていたはずです。

 ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われていきます。ついにはノイローゼ気味となり、自分で自分が分からなくなります。問題はスタートの時点の心構えにあったのです」


 ───いわゆる〝偶発事故(アクシデント)〟による死はあるのでしょうか。

 「ひじょうに難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈次第でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけの分からない盲目的な力でたまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。

 ただ、その法則の範囲内での自由意志というものが許されております。が、その自由意志にもまた法則があります。わがまま勝手が許されるという意味ではありません。したがって偶発事故の起きる余地はありません。

偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるのです。ぜひ知っていただきたいのは、法則の中にも法則があり、その裏側にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。平面的な単純な法則ではないのです。

 よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。問題は解釈の仕方にあります」


 ───病気は教訓として与えられるのだとか人間性を築くためだとか言う人がおりますが、本当でしょうか。

 「言っていること自体は正しいのですが〝与えられる〟という言い方は適切ではありません。私たちと同じくあなた方も法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として生じるのです。言ってみれば霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。

しかしその支払いとはまた別の〝補償〟の法則もあります。物事には得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観念からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。

 教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で現れることもあるわけです。人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。

 ということは双方に神の意志が宿っているということです。良いことにだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知ってください」


 ───死体は火葬にした方がいいでしょうか。

 「ぜったい火葬がよろしい。理由にはいろいろありますが、根本的には、肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体のまわりに在世中の所有物や装飾品を並べてみたところで何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆に、いたずらに悲しみや寂しさを誘うだだけです。

 人間は、生命の灯の消えたただの物質となった死体に対してあまりに執着しすぎます。用事は終わったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。

 死体を火葬にすることは、道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。同時に又、心霊知識も持たずに霊界へ来た者が地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。

 衛生上から言っても火葬の方がいいと言えますが(※)、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知っていただきたいことは、火葬までに最低三日間は置いてほしいということです。というのは未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれくらい掛かることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与えかねません」


※───『霊訓』 の続編である 『インペレーターの霊訓』 に次のような箇所がある。

《二つの埋葬地の中間に位置する家に滞在していたことを咎められたモーゼスが 「なぜいけないのですか」 と尋ねたのに対し、レクターと名のる霊が答えた。


 「最近のあなたは墓地に漂う臭気に一段と影響されやすくなっております。その近辺で長時間寝たり呼吸したりしてはいけません。そこに発生するガスや臭気は鈍感な人なら大して害はないが、あなたほどに発達してくると有害です」


 ───でも、すぐそばではありません。

 「二つの墓地の中間に位置しています。あたりの空気にはあなたの身体に有害なものが充満しています。
 肉体が腐敗する際に強烈な臭気を発散する。それが生者の呼吸する空気に混入し、それに惹かれて地縛霊がうろつきます。どこからどう見ても感心しないものですが、霊的感受性が敏感な人間にとっては尚のこと有害です」


 ───墓地を嫌っておられるようですが、埋葬するより火葬の方がよいというお考えですか。

 「朽ち果てていく肉体を生きた人間の生活の場のどまん中に埋めることほど愚かなことはありません。呼吸する空気が汚染されてしまいます。もうすこし進歩すれば生きた人間に害になるようなことはやめるでしょう」》