Thursday, July 31, 2025

シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

十 節
再び著者による反論──解答──キリストが受けた反論との比較──新しい真理は反撃に遭う宿命をもつ──神学的ドグマの誤りの指摘──宇宙は不変の摂理に支配される──真理探究と向上の中に真の幸福がある。



 〔不服だったので私は書かれた通信を時間をかけてじっくり吟味してみた。それは当時の私の信仰と正面から対立する内容のものだったが、それが書かれている間じゅう、私は心を昂揚させる強烈な雰囲気を感じ続けていた。反論する前に私は何とかしてその影響力を排除してしまいと思った。

 その反論の機会は翌日訪れた。私はこう反論した。あのような教義はキリスト教のどの教派からも認められないであろう。またバイブルの素朴な言葉とも相容れない性質のものであり、普通なら反キリスト的なものとして弾劾裁判にもかけられかねないところである。更にまた、そのような何となく立派そうな見解──当時の私にはそう映った──は信仰のバックボーンを抜き取ってしまう危険性がある、といったことだった。すると次のような回答がきた──〕


 友よ、良き質問をしてくれたことを嬉しく思う。われらが如何なる権能を有する者であるかについてはすでに述べた。われらは神の使命を帯びて来たる者であることを敢えて公言する。そして時が熟せばいずれそれが認められることを信じ、自信をもってその日の到来を待つ。

それまでに着実なる準備を為さねばならぬし、たとえその日が到来しても、少数の先駆者を除いては、われらの訓えを全て受け入れ得る者はおらぬであろうことも覚悟はできている。それはわれらにとって格別の驚きではないことを表明しておく。

考えてもみるがよい! より進歩的な啓示が一度に受け入れられた時代が果たしてあったであろうか。いつの時代にも知識の進歩にはこれを阻止せんとする勢力はつきものである。愚かにも彼らは真理は古きものにて事足れりとし、すべては試され証明されたりと絶叫する。一方、新しきものについては、ただそれが新しきものなること、古きものと対立するものとなること以外は何一つ知らぬのである。

 イエスに向けられた非難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解きわまる神学を打ち立てた者たち──その訓えはその時代に即応したそれなりの意義があったとは言え、時代とともにより高き、より霊性ある宗教にとって代えられるべきものであったが、彼らは後生大事にその古き訓えを微に入り細を穿ちて分析し、ついに単なる儀式の寄せ集めと化してしまった。

魂なき身体、然り! 生命なき死体同然のものにしてしまった。そしてそれを盾に彼らの神の冒涜者──不遜にも彼らは人類の宗教の救世主をそう呼んだのである───はモーセの律法を破壊し、神の名誉を奪う者であると絶叫した。

律法学者①とパリサイ人②、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを非難した。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号をまっ先に浴びせたのが彼らであった。

 イエスが神の名誉を奪う者でないことは汝のよく知るところである。イエスは神の摂理を至純なるものとし、霊性を賦与し、生命力と力を吹き込み、活力を与え、新たな生命を蘇らせんがために人間的虚飾を破壊せんとしたに過ぎぬ。

 親へのうわべだけの義務──愛の心を欠き、わずかな、しかも渋々ながらの施しのみの義務──を説く侘しき律法に代わって、イエスは愛の心より湧き出る子としての情愛、身体の授け親と神に対する無償の惜しみなき施しの精神を説いた。

うわべのみの慣例主義に代わって衷心より施しを説いた。いずれが正しく、より美しいであろうか。後者は前者を踏みにじるものであったろうか。むしろ前者の方が、生命なき死体が生ける人間に立ち向かうが如く、後者に執拗に抵抗したに過ぎぬのではなかったか。

にもかかわらず、軽蔑をもって投げ与えられた わずかな硬貨で、子としての義務を免れて喜ぶ卑しき連中が、イエスを旧(ふる)き宗教を覆さんと企む不敬者として十字架にかけたのであった。

 その新しき福音を喜ばず、かつ、それを受け入れる用意もなき世に厳然と立ち向かったイエスの弟子たちにしつこく向けられし非難もやはり、新しき教義をもって旧き信仰を覆さんとしているというものであった。そうして何とかして彼らを告発すべき恐ろしき罪状を見出さんと策を弄した。

が、〝四面楚歌〟の新しき信仰に対する如何なる非難をも甘受するその弟子たちの説く訓えに何一つ不埒(ふらち)千万なるものを見出し得なかった。彼らは確かに非合法の集団であった。が、ユダヤ教信仰と〝時の権力〟には忠実に従っていた故に、告発せんとして見守る者たちも、その謂れを見いだすことが出来なかった。

彼らは次々と新しき無垢の信者を集めていった。みな愛の心に満ちた優しきイエスの後継者たる彼らの訓えには、何一つ不埒千万なるものはなかった。汝らも今まさに、何とかしてわれらの訓えと使命の信頼性を失墜させるものばかりを好んで信じようとしているが・・・・・・

 しかし、いつの時代もそうだったのではなかろうか。新しきものが非難され、信頼を得られぬのは、宗教において、科学において、有限なる人間の為すことの全てにおいて、いつの時代にも変わらぬ物語である。それが人間的知性の特性の一つなのである。

すなわち、見慣れたものが気に入られ、目新しく見慣れぬものが懐疑と不信の目で眺められるのである。

 それ故われらはスピリチュアリズム的キリスト教観を説くに当たり、劈頭(へきとう)より懐疑の目をもって迎えられることに些(いささ)かの驚きも感じぬ。いずれは全ての者がその訓えの美しさと神聖さを認める日が到来するであろう。

 われらの説くところが人間の言説と衝突することは、別に驚くには当たらぬ。否むしろ、遠き過去において霊能の発達程度を異にする霊媒を通じて得られた訓えと矛盾せぬことのほうがおかしい。

バイブルの中にも、それが当時の霊媒を通じて得られた誤りだらけの混ぜものであるために、それらの訓えと融合し得ぬものが見出されることを敢えて指摘せぬわけにはいかないのである。この点についてはすでに述べたので繰り返す必要はあるまい。

 バイブルの啓示にも神についての知識に進歩のあとが見られぬわけでもないが、細部において不合理きわまる自家撞着を少なからず含んでいる。その上、霊媒を通過する際に紛れ込める人間的誤謬もまた少なしとせぬ。その中より真相を読み取るにはバイブル全体の流れを読むほかはない。

その全体像を無視して選び出した個々の言説は、それ自体の価値はあるにせよ、信仰の対象としての価値は些かも認められぬ。

そもそも幾世紀も昔の教説を今なお金科玉条として永遠の至上命令の如く考えること自体が愚かというべきである。その種の考えは自家撞着を含み、また同じバイブルの中の他の言説、あるいはそれと対立する言説とも矛盾する。

 申すまでもなく、汝らが神の声と呼ぶ書を筆記者たちが記録した時代においては、イエスは神なりとの信仰が広まり、それを否定せんとする者には厳しい批難が浴びせられた。

またそう信じた者たちは同時に、イエスが地上人類を裁くために霊妙不可思議なる方法にて雲間にその姿を表す──それもその世紀の人類が滅びる前である。と信じた。両者とも間違いであった。そうしてその時以来少なくとも一八〇〇年が過ぎ去ったが、イエスは再臨しておらぬ。このことに関連して今少し述べておく必要があろう。

 われらが汝に理解を望むことは、神の啓示といえども、所詮は汝自身に与えられた〝光〟にて判断せねばならぬということである。説教者の言葉を鵜呑みにすることなく、それを全体像の中で捉え、一言一句の言い回しにこだわることなく、その精神、その流れを汲み取るよう心がけねばならぬ。

われら自身、およびわれらの説教を判断するに際しても、得体の知れぬ古き予言に合うの合わぬだのと言う観点からではなく、汝の真に求むるもの、汝と神とのつながり、そして汝の魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断せねばならぬ。

 つまるところ一体われらは何を説かんとしているのか、その説くところがどこまで理性を納得せしむるか。神について何と説いているか。汝の魂にとってそれがどこまで有益か。そう問いかけねばならぬ。

 汝らが正統派教会より教え込まれた教義によれば、神はその一人子を犠牲(いけにえ)とすることで人間と和解し、さらにその中の選ばれし少数の者を天国へ招き入れ、そこで時の果つることなく永遠に、単調この上なく、神を称える歌をうたい続けるのだという。

その恩寵にあずからぬ他の人類は全て天国に入ることを許されることなく、言語に尽くし難き苦しみを永遠に受け続けるという。

 この至福にあずかれぬ哀れな者たちは、ある者は信仰なきが故であり、ある者は堕落せる環境のせいであり、ある者は恐ろしき煩悩の誘惑に負け、罪を犯せるが故である。さらにある者は多情多淫の肉体をもって生まれ、その激情に抗し得ざりしためである。

また何を為すべきかを知らぬ者もいた。もし知っておれば喜んで努力したであろうに。救われたくば是非信ぜねばならぬと説かれた教義が、知性的に受け入れ得なかった者もいる。さきに述べた如く、死後、天国への保証を確保してくれると説く言説に同意せざりし者もいる。

その者たちは永遠に破滅の道を歩み続け、その哀れなる者たちを、祝福されし者たちが平穏無事の高所より眺め下ろし、心安らかな満足を得るという。その実彼らの多くは地上にて悲しむべき堕落の生活を送りながら、ただドグマ的教説への信仰を告白せるが故に救われたというに過ぎぬ。

 肉欲と怠惰と、あらゆる法に違反せる生活も、信仰の告白という一つの行為によって全てが帳消しになる、と汝らは教え込まれてきた。いかに粗野にして肉体に狂える無法者も、死の床にてイエスへの信仰を告白すれば、それまでの生活そのものが冒瀆していたはずの神の許へ一気に招かれるという。不純にして卑しき堕落者が、聖純にして気高き聖人と共に完全無垢なる神のもとにかしづけるとは!

 指摘すれば枚挙にいとまなしであるが、われらの説くところと比較対照するには以上の指摘で十分であろう。われらは決してそのような神──理性が身震いし、父性的本能が嫌悪の念を催す神の概念は説かぬ。

同じく愛の神とはいえ、さような偏れる愛の神をわれらは知らぬ。それは人間の発明せる神であり、われらは知らぬ。さような人間的偶像は野蛮なる精神の哀れなる戯言(たわごと)に過ぎぬことを指摘せずにはいられぬ。至純至聖なる神を滑稽化するその不敬きわまる無知と愚かさに、汝もわれらと共に驚きを感じてほしく思うのである。

友よ、そのような神の観念を抱くようでは、人間はよくよく霊性が堕落していたものと推察される。今、そうした言説に厳然と意義を唱える者こそ、われらの説く福音を切望している者に相違あるまい。

 われらが知るところの神、そして汝に確信をもって説ける神こそ、真の意味での愛の神──その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲は全ての創造物に及びて尽きることを知らぬ。いかなる者に対しても分け隔てせず、全てに断固たる公正をもって臨む。その神と汝らとの間には無数の天使が階梯をなして待機し、神の愛の言葉を携え、神の意志を時に応じて啓示する。

この天使の働きにより神の慈悲は決して途切れることなく人類に及ぶ。これこそわれらが説く神──摂理によって顕現し、天使を通じて作用するとこころの神である。

 では汝ら人間についてわれらは何を説くか。たった一度の改心の叫び声、たった一つの懺悔の言葉、筋の通らぬ恐ろしき教義への信仰の告白行為一つにて、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしき体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の意味での不滅の魂なのか。否、否。汝らはより高き霊的生活への鍛練を得るべく、ほんの僅かな期間を肉の衣に包まれて地上に在るに過ぎぬ。

その霊の世界にあっては地上生活にて自ら蒔いた種子が実をつけ、自ら育てた作物を刈り取る。汝らを待ちうけているのは永遠の無活動の天国などという悪戯に類する夢幻の如き世界ではなく、より価値ある存在を目指し、絶え間なく向上進化を求める活動の世界である。

 その行為・活動の結果を支配するのは絶対不変の因果律である。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は逆に堕落させ、進歩を遅らせる。真の幸福とは向上進化の中、すなわち一歩一歩と神に近づく過程の中にこそ見出される。

神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂の喜びを味わう。ものぐさな怠惰を貪る者など一人もおらぬ。より深くより高き真理への探究心を失う者などおらぬ。人間的情欲、物欲、願望のすべてを肉体と共に棄て去り、純粋と進歩と愛の生活に勤しむ。これぞ真実の天国なのである。

 地獄──それは個々の魂の中を除いて他のいずこにも存在せぬ。未だに浄化も抑制もされぬ情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪業の報いとして容赦なく湧き出ずる魂の激痛に苛まれる。これぞ地獄である。その地獄より脱け出る道はただ一つ──辿り来る道を今一度あと戻りし、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にない。

 罪に対してはそれ相当の罰のあることは固(もと)よりであるが、その罰とは怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではない。

悪と知りつつ犯せる罪悪に対し、苦痛と恥辱の中にありて心の底より悔い改め、罪の償いの方向へと導くための自然の仕組みにほかならず、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしきドグマへの口先のみの忠誠を誓うが如き、退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてない。

 幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間なき日々の生活において、理性に叶い宗教心より発する行いをなす者すべてが手にすることができるものである。神の摂理を意識的に犯す者に必ず不幸が訪れる如く、正しき理性的判断は必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を棄てたる霊との区別はない。

 霊的生命の究極の運命についてはわれらも何とも言えぬ。何も知らぬのである。が、われらをして現在までに知り得たかぎりにおいて言わしむれば、霊的生命は汝ら肉体に宿る者もわれら霊も共に、等しく神の因果律によりて支配され、それを順守する者は幸福と生き甲斐を覚え、それを犯せるものは不幸と悔恨への道を辿るということだけは間違いなく断言できる。

 神に対する責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この三つの根本的責務についてはすでにその大要を述べた。よってここでは詳説はせぬ。いずれ敷衍して説く時機も到来しよう。

以上述べたところを篤と吟味せられたい。われらが当初より宣言せる主張──すなわち、われらの訓えが純粋にして神聖でありイエスの訓えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知るには、それで充分であろう。

 それは果たして正統派の教義に比して明確さを欠き曖昧であろうか。そうかも知れぬ。汝らに反発心を起こせしめる箇所については詳細を欠いているかも知れぬ。が、全体を通じて崇高にして清純なる雰囲気が漂っているであろう。

高尚にして神聖なる宗教を説いていよう。神性のより高き神を説いていよう。実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもない。そう映るのは、敬虔なる心の持ち主ならば浅薄な詮索をしたがらぬであろう課題を扱っているからに他ならぬ。

知り得ることは知り得ることとして措き、決して勝手な憶測はせぬ。全知全能の神についていい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのである。

 もしも人智を超えた神にベールをかけることをもって曖昧と呼ぶならば、確かにわれらの教えは曖昧であり、明確さに欠けるであろう。しかしもしも知り得たかぎりのこと、理解し得るかぎりのことしか述べぬこと、憶測するより実践すること、ただ信じるより実行することが賢明なる態度であるならば、われらの態度こそ叡智の命ずるところに従い、理性を得心させ神の啓示に与(あずか)れるものであると言えよう。

 われらの訓えには理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性がある。遠き未来においてもその価値を些かも失わず、数知れぬ魂を鼓舞し続けることであろう。一方これに異を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ぬことになろう。

それは、その信念を携えて進みし無数の霊を幸福と向上の道へ導き、一方、その導きを拒否せる者は、朽ち行く肉体と同じ運命を辿ることであろう。愚かなる無知からわれわれの訓えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信ずる者を悪魔の手先と非難しようとも、その訓えは存在し続け、信ずる者を祝福し続けることであろう。
                        ♰イムペレーター

──おっしゃることは筋が通っており、立派な訓えだと思います。また曖昧であるとの神の批判に対しても納得のいく答えをいただきました。しかし、一般の人はあなたの説くところを、事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。

そこで私がお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくに、それが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。


 それについては、いずれ時機をみて説くとしよう。今は控える。先を求むる前に、これまでわれらが述べたところを篤と吟味されたい。汝を正しく導く御力をわれらに給わらんことを!
♰イムペレーター


〔註〕
  (1) the Scribes 旧約聖書の筆写・編集・解釈を仕事としたユダヤ教の学者。
(2)the Pharisees 儀式・慣習等の慣習を重んじたユダヤ教の一派。独善的形式主義者を意味することがある

シアトルの夏 霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活――これが最高の生き方です

  シルバーバーチの霊訓―地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



 「霊界にも組織的な反抗勢力の集団がいるのでしょうか」――この問いに対するシルバーバーチの答えの中で、スピリチュアリズムの敵は地上だけでなく、霊界にもいるという事実が明かされた。シルバーバーチはこう答えたのである。


「いるのです。それがわれわれにとって悩みのタネの一つなのです。組織的反抗といっても、聖書にあるような天界から追放された堕落天使の反乱の話を想像してはなりません。あれは象徴的に述べられたまでです。

残念ながら霊界にも真理と叡智と知識の普及をこころよく思わぬ低級霊の勢力がいるのです。そして、スキあらば影響力を行使して、それを阻止しようとするのです。こうした交霊会のほとんどすべてが、その危険下にあるといってよろしい。ただし、和気あいあいの交霊会――地上のメンバーとこちらの霊団との間の協調関係がしっくりいっているかぎり、彼らのつけ入るスキはありません。

彼らにとって最もつけ入りやすい条件は、交霊会のメンバーの間に意見の衝突があって、雰囲気が乱れている時です。この交霊会も当初はそうでしたが、次第に改善されていきました。


訳注――当初はバーバネル自身が入神させられることを嫌っており、メンバーも奥さんのシルビアのほかに心霊的知識のない知人が二、三人といった状態で、シルバーバーチも試行錯誤の連続だったようである。(*詳しくは『霊性進化の道しるべ』巻末のバーバネルの遺稿《シルバーバーチと私》を参照してください。)

霊媒を通して届けられるメッセージに矛盾が多いのは、そのせいです。一種の妨害行為のせいですから、常に警戒が必要です。霊能開発を一人でやるのが感心しないのも、そこに理由があります。たった一人では、支配霊も指導霊も、邪霊やイタズラ霊を排除しきれないからです。

霊界というところは、一度は地上で生活したことのある人間(霊)で構成されていると考えてよろしい(※)。決して聖なる天使ばかりがいるわけではありません。霊性の粗野なものから至純至高の高級霊にいたるまで、実にさまざまな霊格をそなえた、かつての人間のいる世界です。みんな地上世界から来た者です。ですから、地上世界のすべての人間が清潔で、無欲で、奉仕的精神で生きるようになるまでは、霊の世界にも厄介な者、面倒を見てやらねばならない者が何割かはいることになります。そういう次第なのです」


※――地球に霊界があるように各天体に霊界がある。当然、太陽にも霊界があり、太陽系全体としての霊界があり、銀河系星雲にも霊界がある。さらに何段階もの霊界があって、最後は宇宙全体の霊界があるのであろうが、そこまでいたると、もはやスペキュレーションの域に入る。地上人類にとっては太陽系が事実上の宇宙であり、シルバーバーチも宇宙とか森羅万象といった用語をその意味で用いている。ここでいう“霊界”も地球の霊界の話である。

レギュラーメンバーの一人「でも、せっかくの計画を台なしにするような厄介者を、あなたほどの方でも、どうにもならないのでしょうか」


「可能なかぎりの手は尽くします。しかし、その中には、わたしたちとの接触が取れない者が大勢いることを知ってください。関係が生じないのです。霊性が向上して受け入れる用意が整った時にはじめて、われわれの影響力に触れるようになるのです。

誤解のないようにお願いしたいのは、そうした反抗勢力は本来のわたしたち(上層界の霊)には何の害も及ぼせないということです。彼らの勢力範囲は地上界にかぎられています。霊的状態が地上的波動に合うからです。

ですから、彼らが厄介な存在となるのは、わたしたちが波動を下げて地上圏へ近づいた時です。つまり低級勢力が幅をきかしている境涯へ足を踏み入れた時に問題が生じているだけです」

「この地上世界ですと、面倒ばかり起こしている者がいると、何とか手段を講じて更生させようとしますが、そちらではそういうわけにはいかないのですね?」


「それは、たとえば逮捕して、場合によっては死刑に処するということでしょうが、そういう手段では、こちらの世界へツケを回すようなものです」

「でも、場合によっては過ちを悟らせることによって立派に更生させることができます」


「それが思うようにならない場合もあるのではありませんか」

ここで別のメンバーが「懲役という方法もありますが、これだけでは精神の歪みを正し非行を改めさせることはできません。服役はどうやら矯正手段ではなさそうです。それによって心を入れかえさせることに成功するのは、きわめて稀です」と言うと、シルバーバーチが――


「実は地上世界では、そうした非行の元凶を突き止めるのが容易でないのです。自分はうまくすり抜けておいて、罪を他人におっかぶせることができるわけです。

が、こちらではそうは行きません。霊性の進化に応じた界層にしか住めないのです。地上世界ではさまざまな霊格の者が同じ平面上で生活しております。もっとも、だからこそ良い、という側面もありますが……。

いずれにしても、そうした妨害や反抗の勢力の存在をあまり大ゲサに考えるのは禁物です。善性の勢力に較べれば大したものではありません。ただし、存在することは確かです。それよりもっと厄介な存在として、地上時代の宗派の教えを死後もなお後生大事に信じて、それを地上の人間に広めようとして働きかける狂信家がいます」

「それが一ばん厄介な存在ということになるのでしょうか」


「いえ、総体的にみれば大したことはありません。彼らの中で死後の自分の身の上の真相に気づいている者は、きわめて少数だからです。大半の者は地上時代にこしらえた固定した精神構造の中に閉じ込められたまま、一種の夢幻の世界で生きております」

別の日の交霊会で、ローマカトリックの信者からの投書が読み上げられた。その筆者はまずスピリチュアリズムに対するローマカトリック教会としての否定的見解を引用したあと、“しかし、もしも霊界との交信が真実であるとしたら、それは地上人類にとって素晴らしいことです”という自分の見解を述べ、さらに“死後存続が証明されれば地上に愛が増え、罪悪と戦争が減ることでしょう”と結んであった。

これを聞いてシルバーバーチはこう述べた。


「今一人の人間が、難しい環境の中で少なくとも微かな光を見出し、これまで真実であると思い込んできたものとの関連性を理解しようと努力している事実を、まず喜びたいと思います。

この方は、疑問に思うことを少なくとも正直に尋ねてみるという行為に出ておられます。この段階まで至れば、真理探究が緒(ちょ)についたことを意味します。どうかこの方に、疑問は徹底的に追求し、証明を求め、証明されたものにしっかりとしがみつき、証明されていないもの、理性が承服しないものは、勇気をもって捨て去るようにお伝えください。

この方に伝えていただきたいことが、もう一つあります。お手紙の中にいくつかの引用文がありますが、この方は本当にそれを信じていらっしゃるのでしょうか。それが果たして真実かどうかの証拠がないものについては、“果たして筋が通っているだろうか”と一度はご自分の理性で疑ってみることが大切です。大霊からの授かりものであるその理性が納得しないものは、そこできっぱりと捨て、いかなるテストにも追求にも検査にも批判にも疑念にも耐えてなお残るものだけを基盤として、自分の宗教を打ち立てるのです。

一つ一つ取り挙げると時間がかかりますので、例として一つだけ取り挙げてみましょう。この方は“神はモーゼにかく言えり……”という文を引用しておられますが、神がモーゼに言ったことが事実であるという証拠はどこにあるのでしょうか。その証拠がないかぎり、あるいは少なくとも信じてよいと断定できるだけの理由が揃わないかぎりは、それを引用してはなりません。理性による判断はそれからのことです。それに、ついでに言えば、かりにそれが証明されたとしても、一体それが今日の時代に適用できるかどうかの問題もあります。

理性による検査と探求をなされば、かつては真実と思い込んでいたものの多くが、何の根拠もないことがわかり、間違いない事実だけを根拠としてご自分の宗教を打ち立てることになります。それならば、疑念の嵐が吹き荒れても、揺らぐことはありません。知識は岩盤のようなものだからです。その方に、わたしからの愛の気持ちを届けてあげてください。そして、頑張り通すようにと励ましてあげてください」

続いての投書は女性からのもので、いかに小さな体験にも、行為にも、あるいは言葉にも、思念にも、それなりの影響力があるとのシルバーバーチの言葉を引用して、“では一体どうすれば自分の言動に自信が持てるようになるのでしょうか”というものだった。シルバーバーチが答える。


「その方にこうお伝えください――精神的にも霊的にも自己を厳しく修養し、生活のすべての側面を折目正しく規制し、自分は本来は霊であるという意識をもって、行動のすべてに霊の優位性を反映させなさい、と。

霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活――これが最高の生き方です。既成のテキストはいりません。魂の成長ということだけを心がければいいのです。大霊からいただいている霊力が顕現し、人間が勝手にこしらえた教義への盲目的信奉者とならずにすみます」

次の質問は、スピリチュアリズムというものが、ただ単に他界した身内の者との交霊だけに終始して、本来の意義と責任を忘れてしまう危険性はないかというものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「知識の使い道を誤るという問題は常に存在します。何事にも正しい使い方と間違った使い方とがあるものです。これは誰しも直面させられる問題の一つです。

自分の個人的な不幸の慰めを交霊会に見出す人がいることは確かです。そして、悲しむ人がその悲しみを慰められること自体、少しも悪いことではありません。死別の嘆きが軽減され、涙を流さなくなるということは結構なことです。喪の悲しみに暮れる人にとって、交霊会が慰めの場となるのを、いけないことと非難するのはよくありません。むしろ必要なことですし、それがその人にとって人生の大きな転機になることもあります。

問題は、胸の痛みが癒え、涙が消え、陰うつさが晴れ、重荷が軽くなってから後のことです。言い変えれば、死後の存続という知識を手にしたあともなお、いつまでも私的な交信の範囲にとどまっているようでは、これは重大な利己主義の罪を犯すことになります。

それがなぜ罪なのか――互いに慰め合うことがなぜいけないのか――そう問われれば、確かにそれ自体少しも悪いことではないのですが、わたしの考えを言えば――これも例によって一般論として申し上げることで、例外はあるかも知れませんが―― 一人の霊媒を通じての霊界との交信が確立されドアが開かれたなら、他の人々にもそのチャンネルを使用させてあげて、多くの人々を啓発する方向で活用すべきです。

三千年におよぶ永い体験によってわたしは、“人を裁くなかれ”という教えが確かに真実であることを確認しております。他人の欠点を指摘することは容易なことです。もっとも、残念ながら、批判されてもやむを得ないだけの条件が揃っているケースもあることは認めますが……。地上の人たちが他人の利己主義に文句を言うのをやめて、自分の欠点を反省し、どうすればそれが改められるかに関心を向けるようになれば、地上はもう少しは進歩することでしょう」

ところで、シルバーバーチの交霊会、正式に言うとハンネン・スワッファー・ホームサークルは、霊媒のバーバネルが入神(トランス)状態に入ることで開会となるが、それに先立って出席者の間である話題について論議が交わされることがある。それをシルバーバーチは霊界で聞いている。やがてバーバネルがトランス状態に入ると、その身体に乗り移ってしゃべるわけであるが、ある日の交霊会に先立って金銭(マネー)の問題が話題になったことがある。やがて入神したバーバネルの口を借りてシルバーバーチがこう語った。


「地上世界で成就しなければならないことは、それを決意した霊性、人間の霊性が原動力となって成就されていくのです。表面的な意識が自覚するとしないとにかかわりなく、内部に秘められた神性の火花が発現を求める、その衝動によるのです。人類の歴史を飾ってきた先駆者はみな、その力を物的なものからではなく、霊的なものから――それは内部からの絶え間ない衝動である場合もあれば、外部からのインスピレーションである場合もありますが――それから得ていたのです。

残念ながら地上世界は、今なお物質万能主義の悪弊から脱け切れずにいます。すべてを金銭的感覚で捉えようとします。財産の多い人ほど偉い人と見なします。人間性ではなく財産と地位と肩書きと家柄によってランクづけします。実際にはまったく永続性のないものばかりです。虚飾にすぎません。実在ではないのです。

本当の価値の尺度は霊的成長度です。それは、その人の生活、日常の行為・言動によって、みずから成就していくもので、それがすべてであり、それしかないのです。お金で徳は買えません。お金で霊的成長は買えません。お金で霊格は高められません。そうしたものは各自が各自の努力で獲得しなければなりません。粗末な家で生まれたか、御殿のような家で生まれたかは、霊的成長には何の関係もありません。

霊的実践の場は、すべての人間に平等に存在します。死んでこちらへ来られると、意外に思えることが沢山あります。地上的な虚飾がすべて取っ払われて、魂が素っ裸にされます。その時はじめて自分の本当の姿を知ります。自分はこうだと思い込んでいたり装(よそお)ったりしていたものとは違います。

といって、わたしは、お金持ちはすべて貧乏人より霊的に劣ると言っているのではありません。そう言うつもりは毛頭ありません。お金は霊的成長とは何の関係もないこと、進化は各自の生活そのものによって決まっていくのであり、それ以外にないことを言いたいのです。困ったことに、地上の人間は、直面する物的問題に心を奪われて、つい間違った人生観をもってしまいがちですが、いついかなる時も、霊的真理を忘れないようにしないといけません。これだけは永続性のある霊的な宝であり、いったん身につけると、二度と奪われることはありません。永遠の所有物となります。

わたしは、霊力が今日のように少数の特殊なチャンネルを通してではなく、当り前の日常生活の一部として、無数のチャンネルを通して地上世界へ注がれる日の到来を、楽しみに待ち望んでおります。その時は“あの世”と“この世”との間の障害物がなくなります。すべての人間に潜在する霊的資質が、ごく当り前のものとして、学校教育の中で磨かれるようになります。生命は一つであるという事実が理解されるようになります。

わたしはそういう世界――地上世界が広大な宇宙の一部であることを認識し、すぐ身のまわりに高次元の世界の生活者を霊視できるような世界――の到来を待ち望んでおります。何と素晴しい世界でしょう!」

ここで質問が出た。

「まったくの赤の他人にスピリチュアリズムの教えを説くにはどうすればよいでしょうか」

これに対してシルバーバーチが「難しい質問ですね」と言うと、司会のハンネン・スワッファーが「それは相手によって違いますよ」と口添えする。するとシルバーバーチが改めてこう説いた。


「人それぞれに要求するものが異なることを、まず理解しないといけません。霊的成長度が一人ひとり異なるからです。ある人は聞かれなくなった声を聞きたい(霊言)と思い、触れられなくなった手をもう一度しっかりと握りしめたい(物質化現象)と思います。今なお愛が続いていることを確認したいのです。そういう人にとっては、自分を愛する人だけが関心の的であり、それはそれなりに、やむを得ないことです。

また一方には、自分の個人的なことよりも、科学的な関心を寄せる人もいます。宗教的観点から関心をもつ人もいます。哲学的な観点から関心をもつ人もいます。まったく関心を見せない人もいます。こうした人それぞれに対応した答え方があります。

わたしたちの側から申し上げられることは、次のことだけです。生命は墓の向こうでも続いていて、あなたは個性をもった霊としてずっと存在し続ける――このことは間違いない事実であり、筋の通ったものであれば、どんな手段を講じてもよいから、わたしたちの言っていることが本当かどうかを試されるがよろしい。最終的には、理性ある人間ならば誰しも納得がいくはずです。理性を欠いた人間には、つける薬はありません、と」

「現代の霊的教訓はイエスの教えに匹敵するものでしょうか」


「そもそも現代の人たちがなぜ遠い昔の本に書いてあることを信じたがるのかが、わたしには理解できないのです。それが真実であることを証拠だてるものは何一つ存在せず、ただの人間が述べたことの寄せ集めにすぎず、しかも現代にはそぐわない形で表現されているにもかかわらず、それに絶対的な権威があるかのごとく後生大事にしています。実際は、いつの時代にも通用するという保証はひとかけらもないのです。そのくせ、愛する人が生前そっくりの姿を見せ(物質化現象)そして語る(霊言)ことがある話をすると、そういうことは昔の本には出ていないから、という理由で信じようとしないのです」

出席者の一人が「それを信じたら、それまでの信仰を大々的に変更せざるを得なくなるので、しりごみする人がいるようです。それを批難するわけではないのですが、その試金石にあえて立ち向かう道義的勇気に欠けているのだと思います」という意見を述べた。するとシルバーバーチが――


「だとすると、その人は自分を傷つけているだけでなく、自分が愛する人たちをも傷つけていることになります。世の中には、正しい知識を知るよりも嘆き悲しんでいる方がいいという人がいるものです。知識は大霊からの授かりものです。その知識を拒否する人は、自分自身を傷つけることになるのです。“光”を差し出されても、結構です、私は“闇”で満足です、というのであれば、それによって傷ついても、それはその人の責任です」

別の出席者「まず受け入れる用意がいるとおっしゃる理由はその辺にあるわけですね?」


「そうです。わたしの使命には二つの要素があるとみています。一つは純粋に破壊的なもので、もう一つは建設的なものです。長いあいだ人間の魂の息を詰まらせてきた雑草――教会による虚偽の教え、宗教の名のもとに説かれてきた意味のない、不快きわまる、時には冒涜的でさえある教義を破壊するのが第一です。そうしたものは根こそぎ一掃しなければいけません。人生が本来の意義を果たすのを妨げるからです。それが破邪の要素です。

建設的要素は、正しい知識を提供して、受け入れる用意のできた人にとって、それがいかに自然で、単純で、美しく、そして真実味があるかを説くことです。両者は相たずさえて進行します。大切にしている教えの間違いを指摘されると不快な態度を見せるような人は、わたしはご免こうむります。そういう態度でいるとどういう結果になるかを、そちらでもこちらでも、さんざん見てきているからです。

わたしたちにとって、地上世界で仕事をするのは容易なことではありません。しかし今の地上世界は、わたしたちの努力を必要としているのです。どうか、霊の自由と魂の解放をもたらす基本的な霊的真理にしっかりとしがみついてください。精神がのびのびと活動できるようになり、二度と再び、歪んだ、ひねくれた、いじけた生き方をしなくなったことを喜ばないといけません。がんじがらめの窮屈な生き方をしている魂が多すぎます。本来の自我を存分に発揮できなくされているのです。

そこでわたしたちが、無知の牢獄の扉を開くカギをお持ちしているのです。それさえ手にすれば、暗闇の中から這い出て、霊的真理の陽光の中へと入ることができるのです。自由が束縛にまさるのは自明の理です。束縛は間違いであり、自由が正しいにきまっています。教義への隷属を強いる者は明らかに間違っています。自由への戦いを挑む者は明らかに正道を歩んでいる人です。

いかなる人間も、いつかは実在を見出さねばならなくなる時期がまいります。我儘(わがまま)からその時期を遅れさせることはできます。が、永久に避け通すことはできません」

「ということは、人間はすべて――今のところはどんなに品性の下劣な人間でも――そのうちいつかは、霊的に向上していくということでしょうか」


「そうです――永劫の時をへてのことですが……。わたしたちの関心は生命の実在です。影には真の安らぎも幸せも見出せないことをお教えしようとしているのです。影は光があるからこそ存在するのであり、その光とは霊的実在です。無限なる霊の莫大な可能性、広大な宇宙を支配しているだけでなく、一人ひとりの人間に少量ずつ存在している霊性に目を向けてほしいと願っているのです。

本当の宝を見出すのは自分の“内部”なのです。窮地にあって、物的手段が尽きたあとに救ってくれる力は、内側にあるのです。地上の友だちがすベて逃げ去り、自分ひとり取り残され、誰もかまってくれず、忘れ去られたかに思える時でも、背後霊の存在を知る者は、霊の世界からの温もりと親密さと愛があることを思い起こすことができます」

続いての質問に答えて、出席者全員に次のような勇気づけの言葉を述べた。


「皆さんが携わっておられる大いなる闘いは、これからも続きます。こうした霊的真理の絡んだ問題で、意見の衝突や論争が生じるのを恐れてはなりません。いずれは必ず人類の大多数によって受け入れられていくのですが、相手が間違っていることがわかっていながら、論争を避けて大人しく引っ込んだり、妥協したり、口先をごまかしたりすることなく、いかなる犠牲を払っても真理は真理として守り抜くという覚悟ができていないといけません。

結果を怖がるような人間は弱虫です。そんなことでは性格は鍛えられません。霊の世界の道具たらんと欲する者は、迫害されることをむしろ誇りに思うようでなくてはなりません。あらゆる攻撃を、それがどこから来ようと、堂々と迎え撃つのです。胸を張って生き、その毅然(きぜん)たる態度、その陰ひなたのない言動によって、いつでもどこでも試される用意があることを見せつけるのです」

時あたかも春だった。シルバーバーチは春という季節が永遠の希望を象徴するものであることを述べてから、こう結んだ。


「さて、最後に申し上げたいのは、この春という季節は喜ばしい成就の時節だということです。新しい生命が誕生してくるからです。今こそ、まさしく甦りの季節なのです。無数の形態を通して新しい美が息づく時、それは聖なる創造主の見事な芸術をご覧になっているのです。

皆さんは今まさに、自然界の生命の喜びの一つとして定期的に訪れる、新しい創造の夜明けをご覧になろうとしておられます。それには再活性化と、力と、太陽光線の増幅が伴います。絶対的摂理の上に築かれた希望と自信と信頼をもたらす、この新しい生命でご自分を満たされるがよろしい。それは、生命がいかに永い眠りの後でも必ず甦ること、森羅万象を生んだ力は永遠なる存在であること、そして、それと同じものが皆さんの一人ひとりに宿っていることの証(あかし)だからです。

ですから、取り越し苦労や悲観論、うんざりや投げやりの気持ちなどを抱く根拠はどこにもないのです。絶対的な自然法則の確実性に根ざした霊的知識に、すべてをゆだねることです。

大霊の祝福のあらんことを!」

同じく春の季節に行われた交霊会で、次のような、素朴でしかも厳粛さのただようメッセージを述べたことがあった。


「皆さんは今、大自然の華麗なページェントの一シーンをご覧になっているところです。春の美に飾られた大自然をご覧になっているわけです。新しい生命が神なる創造者への賛歌を奏(かな)でているところです。

いずこを見ても、永遠なる摂理の不変性の証にあふれております。雪に埋もれ、冬の暗闇の中で眠りつづけていた生命が目を覚ましはじめます。春の息吹がいたるところに見られます。神なる園丁(えんてい)が人間には真似ることすらできない腕の冴(さ)えを披露いたします。そしてやがて、つぼみが花と開き、美しさが一面に広がります。

春のあとに夏がつづき、夏のあとに秋がおとずれ、秋のあとに冬がめぐってきます。その永遠のサイクルに進化の要素が伴ってまいりました。これからも進化を伴いつつめぐりつづけます。同じように、皆さんも生命の冬の季節から春を迎え、やがて夏に向かって内部の神性を花開かせてまいります。

こうした規則正しい自然の流れの中に、大霊の働きの確実性を見て取ってください。その大霊の力があなたを通して働くように仕向けさえすれば、言い変えれば、大霊の道具として役立てる用意さえ整えれば、確実な知識にもとづく叡智とともに、豊かな恩恵をわがものとすることができるのです。

地上の人間には失望させられることがあるかも知れません、信頼していた同志から裏切られることがあるかも知れません。国がこしらえた法律や条令によって欺(あざむ)かれた思いをさせられることがあるかも知れません。しかし、大霊は絶対に裏切りません。なぜなら、完全なる摂理として働いているからです。

その働きの邪魔だてをしているのは、ほかならぬ自分自身なのです。自分の無知の暗闇を追い出し、正しい知識の陽光の中で生きなさい。そうすれば、この地上にあって天国の喜びを味わうことができるのです」

祈り

無限にして無尽蔵の霊の宝庫を……


大霊の恩寵が皆さまがた全てに下されますように!

これより皆さんとともに、全生命を生みたまい、その全側面を愛の抱擁の中に収めたもう崇高なる力に向けて、心を一つにいたしましょう。

ああ、大霊よ。わたしたちはあなたについて語らんと欲し、お粗末な表現ながらも、この果てしなき宇宙のすみずみまで浸透せるあなたの崇高さ、あなたの神性、あなたの絶対的法則を啓示するための言葉を探し求めております。

心を恐怖で満たされ、精神を不安で曇らされている男女が、あなたに至る道を知り、あなたを見出し、そして万事はよきに計らわれていること、あなたの配剤に間違いはないとの確信を得ることができますように、わたしたちがあなたの豊かな宝のいくつかを明かしてあげたいのでございます。

これまであなたの真実の姿、一分の狂いも休むことも弱まることもなく働く、完全なる法則としてのあなたを理解することを妨げてきた偽りの教義、愚かな間違い、無知と誤解のすべてを取り払うのも、わたしたちの仕事の一環でございます。わたしたちの目に映る宇宙は、生物であろうと無生物であろうと、ありとあらゆる存在にあなたの配剤があり、同時に、そこに生じるあらゆる事態にも十全なる備えがなされているのでございます。

あなたの目の届かぬ所は一つとしてございません。秘密も謎もございません。あなたは全てをご存知です。なぜなら、全てはあなたの法則の支配下にあるからでございます。わたしたちが指摘するのは、その法則の存在でございます。無窮の過去より作用し、これからも永劫(えいごう)に作用し続ける摂理でございます。

地上の子等がその摂理と調和した生活を送ることによって、すべての暗黒、すべての邪悪、すべての混乱と悲劇が消え、代わって光明が支配することになりましょう。

愛に死はなく、生命は永遠であり、その不滅の愛によって結ばれている者は、墓場で別れ別れになることはないこと、愛が求め合い霊力が働くところには、乗り越えられない障害も、取り壊せない障壁もないことを教えてあげるのも、わたしたちの仕事の一環でございます。

各自がその霊性を磨き、天命として与えられている役割を果たす段階に至るのを待ちうけている、無限にして無尽蔵の霊の宝庫を子等に明かしたいのでございます。

ここに、己を役立てることを求めるあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。



Wednesday, July 30, 2025

シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

九 節
著者の反論──宗教的夾雑物──贖罪説について──再び著者の反論──署名(サイン)に十字架を冠する理由──バイブルは人間的産物──字句に絶対性はあらず──神の概念の発達──啓示の信頼性は霊媒の受容度による──バイブルは誤謬だらけ。故に新しい霊的啓示と衝突するのは当然──霊団による思想上の指導方法──十字架の真の意味──キリストの使命と霊団の使命は同一


〔前節に述べられた説にはまるで私に訴えるものが見られなかったので、私はそれが正統派の教会の教説を全く相容れぬものであること、しかも畏れ多くもキリスト教の根本教理を幾つかを侵犯するものであると反論した。

そしてあの通信は途中で不純なものが混入しているのではないか、それに私が求めている肝心なものが脱落しているのではないかと述べた。もしあれをもって人生の指針として完璧だというのなら、私にはそれに反論する用意があった。すると次のような返答が書かれた。〕


 われらが述べたるところは凡その指針に過ぎぬが、それなりに真実である。ただし全てを尽くしているとは言わぬ。きわめて大まかな原則であり、不鮮明なる点、欠落していることが少なからずある。が本質的には間違っておらぬ。

確かに汝らが霊的救いにとって絶対不可欠と教え込まれたる教義を多くの点で犯していることは認める。また何の予備知識をもたぬ者には新しき説のように響き、古き信仰形体を破壊する者の如く思われるかもしれぬ。が実際はそういうものではない。

いやしくも宗教的問題を思考する者ならば、先入観に束縛されず、かつ新たな真理探究に怖れを抱きさえしなければ、原則的にはわれらの霊訓を受け入れることが出来るであろう。古き偏見によって足枷をはめられることさえなければ、全ての人間に薦められるべきものと信ずる。前(さき)にわれらは、まず夾雑物を取り除かねばならぬと述べた。

破邪が顕正に先立つことを述べた。古きもの、不用のものをまず取り払う必要があると述べた。要するに建設のための地ならしをせねばならぬと述べたのである。


──その通りですが、私から観てあなたが取り払おうとされているらしき夾雑物は、実はキリスト教徒が何世紀にも亙って信仰の絶対的基本としてきたものです。

 違う。必ずしもそうではない。汝の言い分にはいささか誇張がある。イエスの地上生活についての記録はきわめて不完全である。その記録を見れば、汝らのキリスト教会が無理やりに押しつけて来たイエスの位置・立場について、イエス本人は一言も語っておらぬことが判るであろう。


真実のイエスはそのイエスの名を冠する教会の説くイエスより遥かにわれわれの説くイエスに近き存在であった。


──そんな筈はありません。それに例の贖罪説──あれをどう思われますか。

 ある意味では間違ってはいない。われらが許せぬのは神を見下げ果てたる存在──わが子の死によって機嫌を取らねばならぬが如き残忍非情なる暴君に仕立て上げた幼稚きわまる言説である。

イエスの名のもとに作り上げた不敬きわまる説話──そのために却ってイエスの生涯の素朴なる偉大さ、その犠牲的生涯の道徳的垂訓を曇らせる結果となった誤れる伝説をわれらが否定したからとて、それはいささかもイエスの偉大さを減ずることにはならぬ。

そうしたドグマの発生と、それが絶対的教義として確立され、挙句の果てに、それを否定、あるいは拒絶することが大罪とされるに至れる過程については、いずれ詳しく語る時節もこよう。

 もしも神が人間と縁なき存在であり、全てを人間の勝手に任せているのであれば、神がその罪深き人間のために、我が子に大権を委ねて地上へ派遣した事実を否定することが永遠の火刑もやむを得ぬ大罪とされても致し方ないかも知れぬ。

キリスト教会のある教派はイエスの贖罪について絶対的不謬性を主張し、それを受け入れぬ者は生きては迫害、死しては永遠の恥辱と苦痛の刑に処せられると説く。これは汝らキリスト教会においても比較的新しき説である。が全てのドグマはこうして作られてきた。

かくして、人間の理性のみでは神の啓示と人間のこじつけとを見分けることが困難、いや、不可能となる。同時にまた、その夾雑物を取り除かんとする勇気ある者が攻撃の的とされる。いつの時代にもそうであった。われらがより高き視点より人間的夾雑物を指摘し、それを取り除くべく努力したからとして、それが誤れる行為として非難される筋合いはないのである。


──そうかもしれません。しかしキリストの神性と贖罪の信仰は人間が勝手に考え出したドグマとは言えないでしょう。現にあなたも署名の頭にかならず十字を冠しておられます(十 Imperator)。

私の推測ではあなたも地上では私たちと同じ教義を信じておられたに相違ありません。もう一人の通信者のレクターも同じように署名に十字を冠します(十 Rector)。あの方などは絶対と言いませんが恐らくキリスト教の教義のために死なれた殉教者に相違ありません。その辺に矛盾のようなものを感じるのです。

つまり、もしその教義が不要のもの、あるいは真理を履き違えたもの──もしくは完全な誤り──であるとしたら、私はどう結論づけたらよいのでしょうか。あなたは死後ご自身の信仰を変えられたのでしょうか。

あるいは、一体あなたは地上でクリスチャンだったのでしょうか、そうでなかったのでしょうか。もしそうでなかったとしたら、なぜ十字を付けられるのでしょうか。もしクリスチャンだったとしたら、なぜ信仰をかえられたのでしょうか。

問題は地上であなたがどういう方であったか、それ一つに関わっています。現在のあなたの言説と地上時代に抱いておられた信仰がどこでどう繋がるのか、そこが判らないのです。おっしゃることは確かに純粋であり、美しい教説だとは思いますが、明らかにキリスト教の教えとは違っています。またどう見ても署名に十字を付ける人が説く教えではありません。少なくとも私にはそう思えるのです。

 この苦悶がもしも私の無知ゆえであるならば、どうかその無知を啓発していただきたい。もしも私がただの詮索好きに過ぎぬのなら、それはどうかご寛恕ねがいたい。私にはあなたの言葉と態度以外に判断の拠り所がないのです。

私が判断しうるかぎりにおいては、あなたの言説と態度は確かに高潔であり高貴であり、また純粋であり、合理的です。しかしキリスト教的ではありません。現在の私の疑問と苦悶を取り除いてくれるような、納得のいく根拠をお示し願いたいと申し上げるのみです。


いずれ述べるとしよう。この度はこれにて終わりとする。



〔私は真剣に返答を求め、何とかして通信を得ようと努力したが、六月二十日まで何も出なかった。右の通信は十六日に書かれたものである。そしてようやく届いた返答は次のようなものだった〕





 友よ、これより汝を悩ませ続けて来た問題について述べるとしよう。十字架がわれらの教えとどう関わるかを知りたいのであろう。それを説くとしよう。

 友よ、主イエス・キリストの教えとして今地上にて流布している教えには、主の生涯と使命を表象するかの十字架に相応しからぬものが少なからずあるという事実をまず述べたい。各派の狂信家には字句にのみこだわり、意味を疎かにする傾向がある。

執筆者一人一人の用語に拘泥し、その教えの全体の流れを疎かにしてきた。真理の探究と言いつつも実はあらかじめ説を立て、その説をこじつけて、それを真理と銘うっているに過ぎぬ。汝らの言う聖なる書(バイブル)の解説者をもって任じる者が、その中より断片的なる用語や文句を引用しては勝手なる解説を施すために、いつしかその執筆者の意図せぬ意味をもつに至っている。

またある者はいささかの真理探究心もなしに、ただ自説をたてるためにのみバイブルより用語や文句を借用する。彼らはそれはそれなりに目的を達するであろう。がそうすることによって徐々に、用語や表現の特異性をいじくり回すことにのみ喜悦を覚える者、自説を立てそれをこじつけることをもって佳しとする者たちによって、一つの体系が作り上げられていく。いずれもバイブルというテキストより、一歩も踏み出せぬことになる。

 前(さき)にわれらは、これより説くべく用意している教えは多くの点において汝らのいう神の啓示と真っ向より対立すると述べた。

 正統派のキリスト者たちは、一人の神秘的人物──三位一体を構成する一人が一握りの人間の心を捉え、彼らを通じて真理の全てを地上にもたらしたと説く。それが全真理であり、完全であり、永遠なる力を有すると言う。神の教えの全体系がそこにあり、一言一句たりとも削ることを許されず、一言一句たりとも付け加えることも許されぬ。

神の語れる言葉そのものであり、神の御心と意志の直接の表現であり、顕在的にも潜在的にも全真理がその語句と言い回しの中に収められているという。ダビデ、パウロ、モーセ、ヨハネ、こうした予言者の訓えは神の意志と相通じるものであるのみならず、神の思念そのものであると言う。

彼らの言葉は神の裁可を受けたものであると同時に、神自ら選択したものであると言う。

要するに、バイブルはその内容においても形体においても神の直接の言葉そのものなのである。英語に訳されたものであっても等しくその一言一句が神の言葉であり、汝らが為せる如く細かく分析・解釈するに値するものとする。なぜなら、その翻訳に携われる者も、またその驚異的大事業の完成のために神の命を受けし者であるとしているからである。

 かくして単なる用語と表現の上に、かの驚くべき教義と途方もなき結論が打ち出されることになる。無理もないことかも知れぬ。なぜなら、彼らにとってはその一言一句が人間的謬見に犯されぬ聖なる啓示であるからである。然るにその実彼らの為せることは、己の都合よき文句のみ引用し、不都合なるところは無視して勝手なドグマを打ち立てているに過ぎぬ。が、とにかく彼らにとってバイブルは神の直接の言葉なのである。

 他方、こうした考えを潔く棄てた者たちがいる。彼らはバイブルの絶対性を打ち砕くことより出発し、ついに辿り着きたるところが他ならぬわれわれの説くところと同じ見解である。彼らもバイブルを神の真理を説く聖なる記録として敬意を払うが、同時にそれはその時代に相応しきものが啓示されたものであり、故に今なお現代に相応しき啓示が与えられつつあると観る。

バイブルは神と霊の宿命に関する人間の理解の発展過程を示すものとしてこれを読む。無知と野蛮の時代には神はアブラハムの友人であり、テントの入口にて共に食し共に語り合った。次の時代には民族を支配せる土師であり、イスラエル軍の先頭に立って戦いし王であり、幾人かの予言者の託宣によって政治を行える僭王であった。

それがやがて時代の進歩と共に優しさと愛と父性的慈悲心を具えた存在となっていった。

心ある者はこうした流れの中に思想的成長を見出し、その成長は決して終息せぬこと、人間の理解力は真理への渇仰を満たす手段を絶え間なく広げつつあるとの信念に辿り着く、故に真理探究者は少なくともその点についてのわれわれの教えを受け入れる備えはある筈である。われらが求めるのはそういう人物である。

すでに完璧なる知識を手にしたと自負する者に、われらは言うべき言葉をもたぬ。彼らにとっては先ず神と啓示に関わる問題についての無知を覚(さと)ることが先決である。それなくしては、われらが何を説こうと、彼らは固く閉じ込められた己の無知と自負心とドグマの壁を突き抜けることはできぬ。

彼らには、これまで彼らの霊的成長を遅らせ未来の霊的進歩の恐ろしき障害となるその信仰の誤りを、苦しみと悲しみの中に思い知らされる外に残されたる道はない。汝がこれまでわれらの述べたるところを正しく理解すれば、これより更に一歩進めて、啓示の本質と霊感の特性について述べることにしよう。

 われらに言わしむれば、バイブルを構成するところの聖なる書、及びその中に含まれていない他の多くの書はみな、神が人間に啓示する神自身についての知識の段階的発達の記録に過ぎぬ。その底流にある原理はみな同じであり一つである。

それと同じ原理がこうした汝とわれらとの交わりをも支配しているのである。人間に与えられる真理は人間の理解力の及ぶ範囲にかぎられる。いかなる事情のもとであろうと、それを超えたものは与えられぬ。人間に理解し得るだけのもの、その時代の欲求を満たすだけのものが与えられるのである。

 さて、その真理は一個の人間を媒体として啓示される。よって、それは大なり小なりその霊媒の思想と見解の混入を免れぬ。と言うよりは、通信霊は必然的に霊媒の精神に宿されたものを材料として使用せざるを得ぬ。つまり初期の目的に副ってその材料に新たな形体を加えるのである。その際、誤りを削り落とし、新たな見解を加えることになるが、元になる材料は霊媒が以前より宿せるものである。したがって通信の純粋性は霊媒の受容性と、通信の送られる際の条件が多いに関わることになる。

 バイブルのところどころに執筆者の個性と霊的支配の不完全さと執筆者の見解による脚色のあとが見られるのはそのためである。またそれとは別に、その通信が意図した民族の特殊なる必要性による特有の色彩が見られる。もともとその民族のために意図されたものだったからである。

 そうした例ならば汝には幾らでも見出せるであろう。イザヤ①がその民に霊の言葉を告げし時、彼はその言葉に己の知性による見解を加え、その民の置かれた当時の特殊な事情に適合させたのであった。申すまでもなく、イザヤの脳裏には唯一絶対の神の観念があった。

しかしそれを詩歌と修辞的比喩でもって綴った時、それはエゼキエル①がその独特の隠喩的修辞でもって語ったものとは遥かに異なるものとなった。ダニエル①にはダニエル独自の神の栄光の心象があった。エレミヤ①にはエレミヤを通じて語れる〝主〟の観念があった。

ホセア①には神秘的象徴性があった。そのいずれも同じ神エホバを説いたのであり、知り得た通りを説いたのである。が、その説き方が異なっていたのである。

 のちの時代の聖なる記録にも同じく執筆者の個性が色濃く残されている。パウロ②然り。ペテロ②然り。同一の真理を全く異なる角度より観ているのも已むを得ぬことである。真理なるものは二人の人間が異なる観点より各々の手法にて説いたからとて、いささかもその価値を減ずるものではない。

相違と言うも、それは霊感の本質にはあらず、その叙述の方法にあるに過ぎぬからである。霊感はすべて神より発せられる。が、受ける霊能者はあくまでも人間である。

 故に、バイブルを読む者はその中に己れ自身の心──いかなる気質であれ──の投影を読み取るということにもなる。神についての知識はあまりに狭く、神聖についての理解はあまりに乏しい。故に過去の啓示にのみ生き、それ以上に出られず、かつ出る意志も持たぬ者は、バイブルにその程度の心の反映しか見出さぬであろう。

彼はバイブルに己れの理想を見出さんとする。ところが、どうであろう、その心に映るのは彼と同じ精神的程度の者のための知識のみである。一人の予言者の言葉で満足せぬ時は他の予言者の言葉の中より己れの気に入る箇所を選び出し、他を棄て、その断片的知識をつなぎ合わせ、己れ自身の啓示をつくりあげる。

 同じことが全ての教派について言えよう。各派がそれぞれの理想を打ち立て、それを立証せんがために、バイブルより都合よき箇所のみを抜き出す。もとより、バイブルの全てをそのまま受け入れらる者は皆無である。何となれば全てが同質のものとは限らぬからである。各自が己れの主観にとって都合よき箇所のみを取り出し、それを適当に組み合わせ、それをもって啓示と称する。

他の箇所を抜き出した者の啓示と対照してみる時、そこに用語の曲解、原文の解説(と彼らは言うのだが)と注釈、平易なる意味の曖昧化が施され、通信霊も説教者も意図せざる意味に解釈されていることが明らかとなる。かくして折角の霊感が一教派のドグマのための方便と化し、バイブルは好みの武器を取り出す重宝なる兵器庫とされ、神学は誤れる手前勝手な解釈によって都合よく裏づけされた個人的見解となり果てたのである。

 汝らは、かくの如くして組み立てられたる独りよがりの神学に照らして、われらの説くところがそれと異なると非難する。確かに異なるであろう。われらはそのような神学とは一切無縁なのである。それはあくまで地上の神学であり、俗世のものである。

その神の観念は卑俗かつ低俗である。魂を堕落させ、神の啓示を標榜しつつ、その実、神を冒瀆している。さような神学にわれらは何の関わりも持たぬ。汝らの神学と矛盾するのは当然至極のことであり、むしろ、こちらより関わり合いを拒否する。

その歪める教えを修正し、代わりて神と聖霊についてより真実の、より高尚なる見解を述べることこそわれらの使命なのである。

 バイブルより出でし神の観念がかくも汝らの間にはびこるに至った今一つの原因は、霊感の不謬性を信じるあまり、その一字一句を大切にしすぎるのみならず、本来霊的な意味を象徴的に表現しているに過ぎぬものを、あまりに字句どおりに解釈しすぎたことにある。

人間の理解の及ばぬ観念を伝えるに当たっては、われらは人間の思考形式を借りて表現せざるを得ぬことがある。正直のところ、その表現の選択においてわれらもしばしば誤りを犯す。表現の不適切なるところもある。霊的通信のほとんど全てが象徴性を帯びており、とくに正しき観念に乏しき神の概念を伝えようとすれば、その用語は必然的に不完全であり、不適切であり、往々にして選択を誤れる場合が生ずるのは免れぬ。

いずれにせよ、所詮象徴的表現の域を出るものではなく、そのつもりで解釈してもらわねばならぬ。神につきての霊信を字句どおりに解釈するのは愚かである。

 さらに留意すべきは、神の啓示はそれを授かる者の理解力の程度に合わせた表現に授けられるものであり、そのつもりで解釈せねばならぬということである。バイブルをいつの時代にも適用すべき完全な啓示であると決めてかかる人間は一字一句を字句どおりに受けとめ、その結果、誤れる結論を下すことになる。

衝動的性格の予言者が想像力旺盛にして熱烈な東方正教会③の信者に説き聞かせたる誇張的表現は、彼らには理解できても、思想と言葉を大いに、あるいは完全に異にせる他民族にその字句どおりに説いて聞かせては、あまりに度が過ぎ、真実から外れ、徒に惑わせることになりかねぬ。

 神についての誤れる冒瀆的概念も多くはそこに起因しているとわれらは観るのである。もともと言語なるものが不備であった。それが霊媒を通過する際に大なり小なり色づけされ、真理からさらに遠く逸(そ)れる。それがわれらが指摘せる如く後世の者によって字句どおりに解釈され、致命的な誤りとなって定着する。

そうなってはもはや神の啓示とは言えぬ。それは神について人間が勝手に拵えたる概念であり、しかも未開人が物神に対して抱ける概念と同じく、彼らにとっては極めて真実味をもつものである。

 繰り返すが、そのような概念にわれらは同意できぬ。それどころか、敢えてその誤りを告発するものである。それに代わる、より真実にして、より崇高なる知識を授けることが、われらの使命なのである。またその使命の遂行に当たっては、われらは一つの協調的態勢にて臨む。先ず一人の霊媒に神的真理の一部を授ける。

それがその霊媒の精神において彼なりの発達をする。正しく発展する箇所もあれば、誤れる方向へ発展する箇所もある。若き日に培われたる偏見と躾の影響によって歪められ曇らされる部分もあろう。では、より正しき真理を植えつけるに当たって、いっそうのことその雑草を根こそぎ取り除くべきか。精神より一切の先入観念を払拭すべきか。

それはならぬ。われらはそうした手段は取らぬ。万一その手段をとらんとすれば、それには莫大な時間を要し、下手をすればその根気に負けて、霊媒の精神を不毛の状態のまま放置することになりかねぬ。

 そのようなことは出来ぬ。われらは既に存在する概念を利用し、それを少しでも真理に近きものに形づくっていくのである。いかなるものにも真理の芽が包蔵されているものである。もしそうでなければ一挙に破壊してもよかろう。が、われらはそうしたささやかな真理の芽に目をつけ、それに成長と発達を与えんとする。

われらには汝ら人間が大切に思う神学的概念がいかに無価値なるものかがよく判る。が、それもわれらが導く真理の光を当てれば自然崩壊するものと信じて、他の重要なる問題についての知識を提供していく。取り除かねばならぬのは排他的独断主義である。これが何よりも重大である。単なる個人的見解は、それが無害である限り、われらは敢えて取りあわぬ。

 そういう次第であるから、在来の信仰がトゲトゲしさを和らげてはいるものの、それは形の上でのことであり、極めて似た形で残っていることが多々ある。そこで人は言うのである──霊は霊媒自身の信仰をくり返しているに過ぎぬではないかと。

そうではない。今こうして汝に述べていることがその何よりの証拠である。確かにわれらは霊媒の精神に以前より存在するものを利用する。

が、それに別の形を与え、色調を和らげ、当座の目的に副ったものに適合させる。しかもそれを目立たぬように行う。汝らの目にその違いが明瞭となるほどの変化を施すのは、その信仰があまりにドグマ的である時に限られる。 

 仮にここに神も霊も否定し目に見え手で触れるものしか存在を認めぬ者がいるとしよう。この唯物主義者が神への信仰を口にし、死後の生活を信じると言い出せば、汝はその変わりように目を見張ることであろう。それに引きかえ、人間性が和らげられ、洗練され、純化され、崇高味を増し、また粗野で荒々しき信仰が色調を穏やかなものに塗り替えられていった場合、汝らにはその変化が気づかぬであろう。

その変化が徐々に行われ、かつ微妙だからである。が、われらに取りては着々と重ねたる努力の輝ける成果なのである。荒々しさが和らげられた。

頑(かたくな)にして冷酷、かつ陰湿なるところが温められ愛の生命を吹き込まれた。純粋さに磨きがかけられ、崇高さが一掃輝きを増し、善性が威力を増した。かくして真理を求める心が神と霊界についてより豊かなる知識を授けられたことになるのである。

 人間の見解が頭ごなしに押さえつけられたことはない。それに修辞を施し変化を与えたのみである。その霊的影響力は現実に汝らのまわりに存在している。汝らは全くそれに気づいておらぬが、霊的使命の中でも最も実感のある有難き仕事なのである。

 故に、霊は人間の先入観を繰り返すのみと人が言う時、それはあながち誤りとも言えぬことになる。その見解は害を及ぼさぬものであるかぎり、そのまま使用されているからである。ただ汝らに気づかれぬように修飾を施してある。有害とみたものは取り除き抹消してしまう。

 とくに神学上の教義の中でも特殊なるものを取り扱うに当たっては、可能なかぎり除去せずにそれに新しき意義を吹き込むべく努力する。なぜなら、汝には理解できぬかもしれぬが、信仰というものはそれが霊的にして生命あるものであれば、その形態は大して意味を持たぬものだからである。

それ故われらは既に存在する基盤の上に新たなものを築かんとするのである。とは言え、その目的の達成ためには、いまも述べた如く真理の芽をとどめている知識、あるいは知性の納得のいくものであるかぎり、大筋においてそのまま保存はするものの、他方において、ぜひ取り除かねばならなぬ誤れる知識、あるいは人を誤らせる信仰もまた少なしとせぬ。

そこで建設の仕事に先立って破壊の仕事をせねばならぬ。魂にこびり付きたる誤れる垢を拭い落とし、出来うるかぎり正しき真理に磨きをかけ純正なものにする。われらが、その頼りとする人間にまずその者が抱ける信仰の修正を説くのはそのためである。

 さて、かく述べれば、すでに汝には今の汝の苦悶の謂(いわ)れが判るであろう。われらは汝が抱ける神学上の見解を根こそぎにしようというのではない。それに修正を加えんとしているのである。振り返ってみるがよい。曾ての狭隘なる信仰原理が徐々に包括的かつ合理的なものへと広がって来た過程が判るであろう。

われらの指導のもとに汝は数多くの教派の神学に触れてきた。そうしてその各々に程度こそ違え、真理の芽を見て来た。ただその芽が人間的偏見によって被い隠されているに過ぎぬ。またキリスト教世界の多くの著書を汝自ら念入りに読んで来た。

そこに様々な形態の信仰を発見して汝自身の信仰の行き過ぎが是正され、荒々しさが和らげられた。太古の哲学の研究に端を発し、各種の神学体系に至り、そこから汝に理解し得るものを吸収するまで、実に長き、遅々たる道程であった。

 すでに生命を失い、呼吸することなきドグマで固められし東方正教会の硬直化せる教義、人間的用語の一字一句にこだわる盲目的信仰に痛撃を浴びせしドイツの神学者たちによる批判、汝の母国と教会における高等思想の思索の数々、その高等思想ともキリスト教とも無縁の他の思想の数々──汝はこうしたものを学び、汝にとって有用なるものを身につけて来た。

長く、そして遅々とした道程ではあったが、われらはこれより更に歩を進め、汝をいよいよ理想の真理──霊的にして実感に乏しくとも、汝の学びしものの奥に厳然と存在する真理へと案内したく思う。地上的夾雑物を拭い去り、真実の霊的実在を見せたく思うのである。

 まず汝に知ってほしいことは、イエス・キリストの霊的理想は、神との和解だの、贖罪だのと言う付帯的俗説も含めて、汝らが考えているものとは凡そ本質を異にするものであるということである。それは恰も古代ヘブライ人が仔牛を彫ってそれを神として崇めた愚かさにも似ていよう。われらは汝の理解し得るかぎりにおいて、汝らが救い主、贖い主、神の子として崇めるイエスの生涯に秘められたる霊的事実を知らしめたく思う。

イエスがその地上生活で身をもって示さんとした真の意味を教え、われらが取り除かんとする俗説がいかに愚劣にして卑劣であるかを明らかにしたく思うのである。

 汝はそうしたわれらの訓えがキリストの十字架の印とどう係わりがあるかと尋ねた。友よ、あの十字架が象徴するところの霊的真理こそ、われらが普及を宣誓するところの根本的真理なのである。己れの生命と家庭と地上的幸福を犠牲にしてでも人類に貢献せんとする滅私の愛──これぞ純粋なるキリストの精神であるが、これこそわれらが神の如き心であると宣言するものである。

その心こそ卑しさと権力欲、そして身勝手なる驕りが生む怠惰から魂を救い、真実の意味での神の御子とする、真実の救いである。

この自己犠牲と愛のみが罪を贖い、神の御心へと近づけしめる。これぞ真実の贖いである! 罪なき御子を犠牲(いけにえ)として恐れる神に和解を求むるのではない。本性を高め、魂を浄化する行為の中にて償い、人間性と神性とがその目的において一体となること(4)──身は地上にありても魂をより一層神に近づけていくこと──これぞ真実の贖いである。

 キリストの使命もその率先垂範にあった。その意味において、キリストは神の一つの発現であり、神の御子であり、人類の救い主であり、神との調停者であり、贖い主であった。その意味においてわれらはキリストの後継者であり、こののちも引き続きその使命を遂行していく。十字架のもとに働き続ける。

キリストの敵──たとえ正統派の旗印とキリストの御名のもとであっても、無明の故に、あるいは強情のゆえにキリストの名を汚す者たちに、われらは厳然と戦いを挑むものである。

 ある程度霊的真理に目覚めた者にとっても、われらの説くところには新しく且つ奇異に感じられるところが少なくなかろうと想像される。が、いずれはキリストの真実の訓えがわれらの説くところと本質において一体であるとの認識に到達する時代(とき)が訪れるであろう。その暁には、それまで真実を被い隠せる愚劣かつ世俗的夾雑物は取り払られ、無知の中に崇拝してきたイエスの生涯とその教えの荘厳なる真実の姿を見ることであろう。

その時のイエスへの崇敬の念はいささかも真実味を減ずるどころか、より正しき認識によって裏づけされる。すなわち、われらが印す十字架は不変なる純粋性と人類への滅私の愛の象徴なのである。汝らにその認識を得さしむることこそ、われらの真摯なる願いである。願わくばこれを基準として、われらの使命を裁いてもらいたい。

われらは神の使命を帯びて参った。その使命は神の如く崇高であり、神の如く純粋であり、神の如く真実である。人類を地上的俗信の迷いより救い出し、汚れを清め、霊性と神性とに溢れたる雰囲気へと導いてまいるであろう。

 われらの述べたるところをよく吟味されたい。そうして導きを求めよ。われらでなくともよい。その昔、かのイエスという名の無垢と慈悲と滅私の霊を地上に送りし如く、今われらを地上に送りし神に祈れ!

 イエスを今なおわれらは崇める。

その御名をわれらは敬う。
 その御ことばをわれらは繰り返す。
 その御訓えが再びわれらの中に生き返る。
 イエスもわれらも神の使いである。
 そしてその御名のもとにわれらは参る。
                       ♰ イムペレーター


〔註〕
(1)いずれも旧約聖書に出てくる予言者。
(2)いずれも新約聖書に出てくるイエスの弟子。
(3)Eastern Church 東ヨーロッパ、近東、エジプトを中心とするキリスト教会の総称。
(4)贖いを意味する英語 atonement が語原的に at-one-ment すなわち、〝一体となること〟を意味することを示唆しながら説いている。

シアトルの夏 偉大さの尺度は奉仕的精神の度合いにあります

 シルバーバーチの霊訓―地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)

    延べにして六十年にも及んだ地上での使命の中で、シルバーバーチが当惑した様子や不満の色、いらだちの態度を見せたことは一度もなかった。また、招待されて出席した人を個人的に批判することも絶対になかった。本当の意味での老賢人、慈悲深い魂だった。

その日の交霊会にもゲストが出席していた。そして、死後の世界の存在についてまだ本格的な確信が持てずにいることを正直に告白した。それを聞いて述べたシルバーバーチの回答が、さながらスピリチュアリズムの要約の観があるので、それをそのまま紹介しよう。


「わたしたち霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大変な使命です。霊界から見る地上は、無知の程度がひどすぎます。その無知が生み出す悪弊には、見るに耐えないものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれが、ひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。地上の宗教家は、死の関門をくぐった信者は、魔法のように突如として、言葉ではつくせないほどの喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です。

死んで霊界へ来た人は――初期の段階にかぎっての話ですが――地上にいた時と少しも変わりません。肉体を捨てた――ただそれだけのことです。個性は少しも変わっていません。性格はまったくいっしょです。習性も特質も性癖も個性も、地上時代そのままです。利己的だった人は、相変わらず利己的です。貪欲だった人は、相変わらず貪欲です。無知だった人は、相変わらず無知のままです。悩みを抱いていた人は、相変わらず悩んでおります。少なくとも霊的覚醒が起きるまでは、そうです。

こうしたことがあまりに多すぎることから、霊的実在について、ある程度の知識を地上に普及させるべしとの決断が下されたのです。そこで、わたしのような者が永年にわたって霊的生命についての真理を説く仕事にたずさわってきたわけです。霊的というと、これまではどこか神秘的な受け取られ方をされてきましたが、そういう曖昧なものでなしに、実在としての霊の真相を説くということです。そのためには、何世紀にもわたって受け継がれてきた誤解・無知・偏見・虚偽・欺瞞・迷信――要するに人類を暗闇の中に閉じ込めてきた勢力のすべてと闘わねばなりませんでした。

わたしたちは、そうした囚(とら)われの状態に置かれ続けている人類に霊的解放をもたらすという目的をもって、一大軍団を組織しました。お伝えする真埋はいたって単純なのですが、それにはまず、証拠になるものをお見せすることから始めなければなりません。すなわち偏見を捨てて、真摯な目的、真実を知ろうとする欲求をもって臨む者なら誰にでも得心のいくものであることを明らかにしなければなりません。愛する人たちは、そちら側からそのチャンスを与えてくれさえすれば、つまり然るべき通路(霊媒)を用意してくれさえすれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます。

これは空想の産物ではありません。何千回も何万回も、くり返し証明されてきている事実を、ありのままに述べているまでです。もはや議論や論争の枠を超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお、認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。

以上が第一の目的です。“事実なら、その証拠をみせていただこう。われわれはもう信じるというだけでは済まされなくなっている。あまりに長い間、気まぐれな不合理きわまる教義を信じ込まされてきて、われわれは今そうしたものに、ほとほと愛想をつかしてしまった。われわれが欲しいのは、われわれ自身で評価し、判断し、測定し、考察し、分析し、調査できるものだ”――そうおっしゃる物質界からの挑戦にお応えして、霊的事実の証拠を提供するということです。

それはもう十分に提供されているのです。すでに地上にもたらされております。欲しい人は自分で手にすることができます。それこそが、わたしがこれまでにあらゆる攻撃を耐え忍び、これからもその砦(とりで)となってくれる“確定的事実”という、スピリチュアリズムの基盤なのです。もはや“私は信じます。私には信仰というものがあります。私には希望があります”といったことでは済まされる問題ではなくなったのです。“事実なのだから、どうしようもありません。立証されたのです”と断言できる人が、数え切れないほどいる時代です。

人類史上はじめて、宗教が実証的事実を基盤とすることになりました。神学上のドグマは証明しようのないものであり、当然、議論や論争がありましょう。が、死後の存続という事実は、まともな理性をもつ者ならば必ずや得心するだけの証拠が揃っております。しかし、証明された時点から本当の仕事が始まるのです。それでお終(しま)いとなるのではありません。まだその事実を知らない人が無数にいます。その人たちのために証拠を見せてあげなくてはなりません。少なくとも、死後にも生命があるという基本的真理は間違いないのだ、という確証を植えつけてあげる必要があります。

墓の向こうにも生活があるのです。あなたがたが“死んだ”と思い込んでる人たちは、今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。現実に戻ってきているのです。

しかし、それだけで終わってはいけません。死後にも生活があるということは何を意味するのか。どのように生き続けるのか。その死後の生活は、地上生活によってどういう影響を受けるのか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。死の関門を通過したあと、いかなる体験をしているのか。地上時代に心に思ったことや言動は、死後、役に立っているのか障害となっているのか。以上のようなことを知らなくてはいけません。

また死後、地上へ伝えるべき教訓として何を学んでいるのか。物的所有物のすべてを残していったあとに、いったい何が残っているのか。死後の存続という事実は、宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別の問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。

そうです、そういう分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は、永いあいだ人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。

いかがですか、大ざっぱに申し上げた以上の話が、お役に立ちましたでしょうか」

「お話を聞いて、すっきりと理解がいったように思います」


「もう一つ申し上げたいことがあります。そうした問題と取り組んでいく上で、わたしたちは、暗黒の勢力と反抗勢力、そして、そうした勢力に加担することで利益を確保している者たちに対して、間断なき闘いを続けていかねばなりませんが、同時に、不安とか取り越し苦労といった“恐怖心”との闘いをも強(し)いられているということです。

地上と霊界との間には、その関係を容易にする条件と、反対に難しくする条件とがあります。誤解・敵意・無知――こうした障害は後者ですが、これはお互いの努力によって克服していけるものです。そのためには、わたしたちが存分に力を発揮する上で人間側に要求したい、心の姿勢というものがあります。

人間は肉体をたずさえた霊であり、わたしたちは肉体をもたない霊です。そこに共通したものがあります。“霊”というつながりです。あなたも今この時点において立派に“霊的存在”なのです。死んでから霊になるのではありません。死んでから霊体をさずかるのではありません。死はただ単に肉体という牢獄からあなたを解放するだけです。小鳥が鳥カゴを開けてもらって大空へ飛び立つように、死によってあなたは自由の身となるのです。

基本的には、あなたがた人間にも“霊”としてのあらゆる才能、あらゆる属性、あらゆる資質がそなわっております。今のところ、それが未発達の状態で潜在しているわけです。もっとも、わずかながら、すでに発現しているものもあります。未発達のものをこれからいかにして発現していくか、本当のあなたを表現していくにはどうしたらよいか、より大きな自我を悟り、大霊からのすばらしい遺産をわがものとするにはどうすればよいか、そうしたことをわたしたちがお教えすることができるのです。

しかし、いかなる形にせよ、そうした使命を帯びて地上へ戻ってくる霊は、必然的に、ある種の犠牲を強いられることになります。なぜなら、そのためには波長を地上の低い波長に合わさなければならない――言い変えれば、人間と接触するために、霊的な波長を物的な波長へと転換しなければならないからです。

人類の大半はまだ霊的なものを求める段階まで達しておりません。言い変えれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることができないのです。

そこで、わたしたちの方から、言わば階段を下りなければならないのです。そのためには当然、それまでに身につけた霊的なものの多くを、しばらく置き去りにしなければなりません。本当は人間側からも階段を上がってもらって、お互いが歩み寄るという形になれば有り難いのですが、それはちょっと望めそうにありません。

しかし、人間が霊的存在であることに変わりはありません。霊的資質を発揮し、霊的な光輝を発揮することができれば、不安や疑いの念はすべて消滅してしまいます。霊は安心立命の境地においてのみ、本来の力を発揮するものです。

わたしたちが闘わねばならない本当の敵は、実は人間の無用の心配です。それがあまりに多くの人間の心に巣くっているのです。単なる観念上の産物、現実には存在しない心配ごとで悩んでいる人が多すぎるのです。

そこでわたしは、取り越し苦労はおやめなさいと、くり返し申し上げることになるのです。自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物は決して与えられません。しかも、あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれる、あらゆる力を引き寄せることができるのです。

このように、霊的な問題は実に広大な範囲にまたがる、大きな問題なのです。人生のあらゆる側面にかかわりをもっているのです。ということは、これからという段階にいらっしゃるあなたには、探検旅行にも似た愉しみ、新しい霊的冒険の世界へ踏み込む楽しさがあるということでもあるのです。どうか頑張ってください」

「死後どれくらいたってから地上へ戻ってくるのでしょうか」


「それは一人ひとりの事情によって異なります。こちらへ来て何世紀にもなるのに、自分の身の上に何が起きたかがわからずにいる霊もいます」

「自分が死んだことに気づかないのです」とメンバーの一人が口添えする。するとシルバーバーチが――


「一方にはちゃんとした霊的知識をたずさえた人もいます。そういう霊は、適当な霊媒さえ見つかれば、死んですぐにでもメッセージを送ることができます。そのコツを心得ているのです。このように、この問題は霊的知識があるかどうかによって答えが異なる問題であり、単純にこうですとはお答えできません。

わたしたちが手を焼くのは、死後について誤った概念を抱いたままこちらへ来る大勢の人たちです。自分の想像していた世界だけが絶対と思い、それ以外ではありえないと思い込んでいます。一心にそう思い込んでいますから、それが彼らにとって現実の世界となるのです。わたしたちの世界は、精神と霊の世界であることを忘れないでください。思ったことがそのまま現実となるのです」

ここでシルバーバーチは、メンバーの中で心霊治療能力をもっている人に助言してから、再びさきの質問者に向かって――


「この心霊治療も、わたしたちの大切な仕事なのです。治療家を通路として霊界の治癒エネルギーが地上の病的身体に注がれるのです。

このように、わたしたちの仕事はいろいろな側面、いろいろな分野をもった、非常に幅の広い仕事です。初心者の方は面食らうこともあると思いますが、間違いなく真理であり、その真実性を悟られた時に、あなたの生活に革命が起こります。

宗教の世界では“帰依(きえ)”ということを言います。おきまりの宣誓文句を受け入れ、信仰を告白する――それでその宗教へ帰依したことになるというのですが、本当の帰依というのは、霊的真理に得心がいって、それがあなたという存在の中にしっくりと納まることをいうのです。

その時からその人は新しい眼を通して、新しい確信と新しい理解とをもって人生を見つめます。生きる目的が具体的にわかるようになります。大霊が全存在のために用意された計画の一端がわかり始めるからです。

ある人は政治の分野において、生活の苦しい人々、社会の犠牲になっている人々、裏切られている人々、寄るべなき人々のために、その霊的知識を生かそうと奮い立ちます。ある人は宗教の世界へ足を踏み入れて、死に瀕(ひん)している古い教義に新しい生命を吹き込もうとします。ある者は科学の実験室に入り、残念ながらすっかり迷路にはまってしまった科学者の頭脳に、霊的なアイディアを吹き込もうと意気込みます。また芸術の世界へ入っていく人もいることでしょう。

要するに霊的真理は人生のすべての分野に関わるものだということです。それは当然のことなのです。なぜなら、生命とは霊であり、霊とはすなわち生命だからです。霊が目を覚まして真の自分を知った時、つまり霊的意識が目覚めた時、その時こそ自分とは何者なのか、いかなる存在なのか、なぜ存在しているのかといったことに得心がいきます。それからの人生は、その後に宿命的に待ちうける、より豊かで、より大きな生命の世界への身仕度のために、“人のために自分を役立てる”ことをモットーとして生きるべきです。

どうぞ、これからも真理探求の旅をお続けください。求め続けるのです。きっと与えられます。要求が拒絶されることは決してありません。ただし、回答は必ずしもあなたが期待したとおりのものであるとはかぎりません。あなたの成長にとって最善のものが与えられます」

最後に出席者全員に向かって、次のような別れの言葉を述べた。


「われわれは大いなる神の計画の中に組み込まれていること、一人ひとりが何らかの存在価値をもち、小さすぎて用のない者というのは一人もいないこと、忘れ去られたりすることは決してないことを忘れないようにしましょう。そういうことは断じてありません。宇宙の大霊の大事業に誰しも何らかの貢献ができるのです。霊的知識の普及において、苦しみと悲しみの荷を軽くしてあげることにおいて、病を癒してあげることにおいて、同情の手を差しのべることにおいて、寛容心と包容力において、われわれのすべてが何らかの役に立つことができるのです。

かくして各自がそれぞれの道において、温かき愛と、悠然たる自信と、確固たる信念をもって生き、道を見失った人々があなたがたを見て、光明への道はきっとあるのだと感じ取ってくれるような、そういう生き方をなさってください。それも人のために役立つということです。

では、大霊の祝福の多からんことを!」

その日の交霊会はそれで終わり、続いての交霊会に出たシルバーバーチは、その間に帰っていた本来の上層界での話に言及して、こう述べた。


「いつものことながら、いよいよ物質界へ戻ることになった時の気持ちは、あまり楽しいものではありません。課せられた仕事の大変さばかりが心に重くのしかかります。しかし、皆さんの愛による援助を受けて、ささやかながらわたしの援助を必要としている人たち、そしてそれを受け止めてくださる人たちのために、こうして戻ってくるのです。

これまでの暫(しば)しの間、わたしは本来の住処(すみか)において僚友とともに過ごしてまいりましたが、どうやら、わたしたちのこれまでの努力によって何とか成就できた仕事についての評価は、わたしが確かめたかぎりにおいては、満足すべきものであったようです。これからも忠誠心と誠実さと協調精神さえあれば、ますます発展していく大霊の計画の推進に挫折が生じる気づかいは毛頭ありません。

その原動力である霊の力が果たしてどこまで広がりゆくのか、その際限を推し量ることは、このわたしにもできません。たずさわっている仕事の当面の成果と、自分の受け持ちの範囲の事情についての情報は得られても、その努力の成果が果たして当初の計画どおりに行っているのかどうかについては知りませんし、知るべき立場にもないのです。わたしたちの力がどこまで役立ったのだろうか、多くの人が救われているのだろうか、それとも僅(わず)かしかいなかったのだろうか――そんな思いを抱きながらも、わたしたちはひたすら努力を重ねるだけなのです。

しかし、上層界にはすべての連絡網を通じて情報を集めている霊団が控えているのです。必要に応じて大集会を催し、地上界の全域における反応をあらゆる手段を通してキャッチして、計画の進捗(しんちょく)ぐあいを査定し、評価を下しているのです。

かくして、わたしたちにすら知り得ない領域において、ある種の変化がゆっくりと進行しつつあるのです。暗闇が刻一刻と明るさを増していきつつあります。霧が少しずつ晴れていきつつあります。モヤが後退しつつあります。無知と迷信とドグマによる束縛と足枷から解放される人が、ますます増えつつあります。自由の空気の味を噛みしめております。心配も恐怖もない雰囲気の中で、精神的に、霊的に、自由の中で生きることの素晴らしさに目覚めつつあります。

自分がこの広い宇宙において決して一人ぼっちでないこと、見捨てられ忘れ去られた存在ではないこと、無限なる愛の手が常に差しのべられており、今まさに自分がその愛に触れたのだということを自覚し、そして理解します。人生は生き甲斐のあるものだということを、今一度あらためて確信します。そう断言できるようになった人が、今日、世界各地に広がっております。かつては、それが断言できなかったのです。

こうしたことが、わたしたちの仕事の進捗ぐあいを測るものさしとなります。束縛から解放された人々、二度と涙を流さなくなった人々が、その証人だということです。これから流す涙は、うれし涙だけです。心身ともに健全となった人々、懊悩(おうのう)することのなくなった人々、間違った教義や信仰がつくり出した奴隷的状態から逃れることができた人々、自由の中に生き、霊としての尊厳を意識するようになった人々、こうした人たちは皆、われわれの努力、人類解放という気高い大事業にたずさわる人たちすべての努力の成果なのです。

これからも、まだまだ手を差しのべるべき人が無数にいます。願わくば、われわれの手の届くかぎりにおいて、その無数の人々のうちの幾人かでも真の自我に目覚め、それまでに欠けていた確信を見出し、全人類にとって等しく心の拠(よ)り所となるべき、永遠の霊的真理への覚醒をもたらしてあげられるように――更生力に富み、活性力と慰安力とにあふれ、気高い目標のために働きかける霊の力の存在を意識し、代わって彼らもまた、いずれはその霊力の道具となって、同じ光明をますます広く世界中に行きわたらせる一助となってくれるよう、皆さんとともに希望し、祈り、そして決意を新たにしようではありませんか。

真理はたった一人の人間を通じてもたらされるものではありません。地球上の無数の人間を通じて浸透していくものです。霊力の働きかけがあるかぎり、人類は着実に進歩するものであることを忘れないでください。今まさに人類は、内在する霊的遺産を見出しはじめ、霊的自由をわがものとしはじめました。そこから湧き出る思い、駆り立てられるような衝動、鼓舞されるような気持ちは、強烈にして抑えがたく、とうてい抑え通せるものではありません。霊の自由、精神の自由、身体の自由にあこがれ、主張し、そして希求してきた地球上の無数の人々を、今その思いが奮い立たせております。

こうして、やがて新しい世界が生まれるのです。王位は転覆され、権力的支配者は失脚し、独裁者は姿を消してまいります。人類はその本来の存在価値を見出し、内部の霊の光が世界中にさん然と輝きわたることでしょう。

それは、抑え難い霊的衝動の湧出(ゆうしゅつ)によってもたらされます。今まさに、それが更生の大事業を推進しているのです。わたしが決して失望しない理由はそこにあります。わたしの目に、人類の霊的解放というゴールへ向けての大行進が見えるからです」

ここでメンバーの一人が「歴史をみても、人類の努力すべき方向はすでに多くの模範が示してくれております」と言うと――


「そうなのです。訓えは十分に揃っているのです。今必要なのは、その実行者です。

そこで、その実行者たるべきわれわれは、悲しみに打ちひしがれた人々、重苦しい無常感の中にあって真実を希求している無数の人々の身の上に思いを馳せましょう。われわれの影響力の行使範囲にまでたどりついた人々に精一杯の援助を施し、慰めを与え、その悲しみを希望に変え、孤独感を打ち消して、人生はまだお終いではないとの確信をもたせてあげましょう。

無限の宝を秘めた大霊の貯蔵庫から、霊力を引き出しましょう。われわれに存在を与え給い、みずからのイメージに似せて創造したまい、神性を賦与してくださった大霊の道具となるべく、日常生活において、われわれ自身を厳しく律してまいりましょう。

われわれこそ、その大霊の計画の推進者であることを片時も忘れることなく、謙虚さと奉仕の精神と、託された信託への忠誠心をもって臨むかぎり、恐れるものは何一つないこと、いかなる障害物も、太陽の輝きの前の影のごとく消滅していくとの確信をもって、邁進(まいしん)いたしましょう」

別の日の交霊会で――

「心霊的能力の発達は人類進化の次の段階なのでしょうか」


「霊能者とか霊媒と呼ばれている人が進化の先駆けであることに、疑問の余地はありません。進化の梯子の一段上を行く、いわば前衛です。そのうち、心霊能力が人間の当りまえの能力の一部となる時代がきます。地上人類は今、精神的発達の段階を通過しつつあるところです。このあとには、必然的に心霊的発達の段階がきます。

人間が、五感だけを宇宙との接触の通路としている、哀れな動物ではないことをまず認識しないといけません。五感で知りうる世界は、宇宙のほんの一部です。それは物的手段で感識できるものに限られています。人間は物質を超えた存在です。精神と霊とでできているのです。その精神と霊にはそれなりのバイブレーションがあり、そのバイブレーションに感応する、別の次元の世界が存在します。地上にいる間は物的なバイブレーションで生活しますが、やがて死をへて、より高いバイブレーションの世界が永遠の住処(すみか)となる日がまいります」

「霊界のどこに誰がいるということが簡単にわかるものでしょうか」


「霊界にはそういうことが得意な者がおります。そういう霊には簡単にわかります。大ざっぱに分類すれば、他界した霊は、地上へ帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。帰りたがっている霊の場合は、有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡が取れます。しかし帰りたがらない霊ですと、どこにいるかは突き止められても、地上と連絡を取るのは容易ではありません。イヤだというのを、無理やりに連れ戻すわけにはいかないからです」

別の質問に答えて――


「次のことをよく理解しないといけません。こちらの世界には地上の人間への愛、情愛、愛情、同情といったものをごく自然な形で感じている霊が大勢いるということです。精神的なもの、霊的なものによって結びついている時は、それは実在を基盤とした絆で結びついていることになります。なぜなら、精神的な力や霊的な力の方が、地上的な縁よりも強烈だからです。たとえば、地上のある画家がすでに他界している巨匠に心酔しているとします。その一念は当然その巨匠に通じ、それを縁として地上圏へ戻って、何らかの影響力を行使することになります。

もう一つ理解していただきたいのは、地上時代に発揮していた精神的ならびに霊的資質が何であれ、皆さんが“死んで”その肉体を捨ててしまうと、地上時代よりはるかに多くの資質が発揮されはじめるということです。肉体という物質の本質上、どうしても制約的・抑止的に働くものが取り払われるからです。そうなってから、もしも地上に、右の例の画家のように精神的ないし霊的なものを縁としてつながる人が見つかれば、その拡張された能力を役立てたいという気持ちになるものなのです。

その影響力を無意識のうちに受けておられる場合もあります。地上の芸術家はそれを“インスピレーション”と呼んできましたが、それが“霊”から送られていることには気づいておられないようです。つまり、かつて同じ地上で生活したことのある先輩から送られてきているという認識はないようです。

これは、わたしの場合にもいえることです。生命の摂理について皆さんより少しばかり多くのことを学んだわたしが、こうして地上へ戻ってきて、受け入れる用意のある人にお届けしているように、わたしより多くを学んでいる偉大な先輩が、このわたしに働きかけているのです。偉大さの尺度は奉仕的精神の度合にあります。いただくものが多いから偉大なのではなく、与えるものが多いから偉大なのです。

どうか皆さんも、可能なかぎりの美徳を地上にもたらすために皆さんを活用しようとしている高級霊の道具である、というよりは、心がけ一つで道具となれる、ということを自覚なさってください。自分が授かっている資質ないしは才能を人類のために捧げたい――苦悩を軽減し、精神を高揚し、不正を改めるための一助となりたい、という願望を至上目的とした生き方をしていれば、何一つ恐れるものはありません。

何が起きようと、それによって傷つくようなことはありません。目標を高く掲げ、何ものにも屈しない盤石(ばんじゃく)の決意をもって、“最大多数の人々への最大限の徳”をモットーにして仕事に当たれば、それが挫折することは絶対にありません」

その日のゲストには、ぜひとも交信したい相手がいて、どうすればそれが叶えられるかをシルバーバーチに尋ねた。すると次のようなアドバイスが与えられた。


「交霊会に出席する際に、特別な先入観を抱いていると、それが交信の障害となります。地上側はあくまでも受信者ですから、会場の雰囲気は受け身的でないといけません。そこへ強烈な思念を抱いて出席することは、言わばその会場に爆弾を落すようなものです。こうあってほしいという固定観念を放射し、それ以外のことを受け入れる余裕がないような状態では、せっかくの交信のチャンネルを塞いでしまうことになります。交信はあくまでもチャンネルを通して届けられるのです。それを塞いでしまっては、交信ができるはずがありません。開いていないといけません。

わたしたちが皆さんに近づけるのは、皆さんが精神的に共感的で受け身的な状態にある時です。言いかえれば、心のドアを開いて“さあ、受け入れの準備ができました。どうぞ”と言える時です。“自分はかくかくしかじかのものを要求したい。それ以外は断ります”といった態度では、交信のチャンネルを制約し、あなたが求めている霊までが出現しにくくなるのです」

「霊媒の中には、霊の姿まで見えているのに、その霊の地上時代の“姓”はよくわからないという人がいますが、なぜでしょうか」


「それは、その霊媒にとっては、ほかのことに較べて“姓”の観念がにがてというまでのことです。要は波動がキャッチできるかどうかの問題です。よく馴染んでいる波動は伝達が容易です。珍しい名前、変わった名前ほど伝達しにくく、したがって受け取りにくいということになります。

もう一つの要素として、霊界から霊媒や霊能者に届けられる通信の多くは、絵画やシンボルの形で送られることが多く、その点、姓名というのは絵画やシンボルで表現するのはほとんど不可能という事情があります。霊視力や霊聴力の確かな霊媒なら、姓名の伝達もうまく行きます。

ただ、忘れないでいただきたいのは、霊媒としての評価は姓名をよく言い当てるかどうかではなくて、その霊についての確かな存在の証拠を提供できるかどうかであることです」

祈り

地上各地に霊の神殿を設け……


ああ、大霊よ。全生命の無限なる始原にあらせられるあなた。全宇宙を創造し、形態を与え、それぞれに目的を持たせ、その全側面を経綸したまうあなた。そのあなたの分霊(わけみたま)をうけているわたしたちは、その霊性を高め、目的意識を強め、あなたとの絆をさらに強く締め、あなたの叡智、あなたの愛、あなたの力でみずからを満たし、あなたの道具として、より大きくお役に立ち、あなたの子等のために尽くしたいと願うものでございます。

わたしたちは、地上人類に実り多き仕事の機会をもたらす霊的な安らぎと和の雰囲気を回復させ、そのエネルギーを全世界へ福利と協調の精神を広めるために用い、空腹と飢餓、苦悩と悲哀、邪悪と病気、そして戦争という惨劇を永遠に排除し、すべての者が友好と親善の中で生活し、あなたが賦与なされた資質の開発に勤しみ、かくして一人ひとりが全体のために貢献するようになることを願っております。

わたしたちは子等の一人ひとりに潜在しているあなたの神性を呼び覚まし、それを生活の中に自由闊達に顕現せしめたいと念願しております。その神性にこそ、始めも終わりもない、無限の目的と表現をもつ、霊力の多様性が秘められているのでございます。

人間がチリとドロからこしらえられたものではなく、あなたの分霊であることを理解し、その目的のもとに生活を律していくためにも、その霊的資質を甦らせてあげたいのでございます。

愛と理解とをもって悲哀と無知とを追い出し、人間みずからこしらえてきた障害を破壊することによって、生命と同じく愛にも死はなく永遠であることの証を提供したいと望んでいる高き世界の霊が、自由にこの地上へ戻ってこられるようにしたいと願っているのでございます。

地上の各地に霊の神殿(交霊の場)を設け、高き界層からの導きとインスピレーションと叡智と真理が存分に届けられ、人間が人生の目的、物質界に存在することの理由を理解し、宿命的に待ちうける、より高き、より充実せる生命活動の場にそなえて、霊性を鍛えることができるようになることを願うものです。

あまりに永きにわたって霊性を束縛してきた無知と迷信への隷属状態から人間を救い出し、霊的にも、精神的にも、身体的にも自由を獲得し、あなたの意図された通りの生き方ができるようになって欲しいのでございます。





シアトルの夏 魂の挫折感を誘発するのは、精神上の倦怠感と絶望感です

  シルバーバーチの霊訓―地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)




今世紀最大の劇作家の一人としてジョージ・バーナード・ショウ(※1)を挙げることに異論を唱える人はいないであろう。この辛辣(しんらつ)な風刺家が“フリート街の法王”(※2)の異名をもつ、同じく劇作家のハンネン・スワッファーのインタビューを受けた――これだけでも大変なニュースだった。


※1――George Bernard Shaw(1856~1950)アイルランド生まれの英国の劇作家・評論家。一九二五年にノーベル文学賞を受賞。辛辣な批評と風刺で知られた。一度来日したことがあり、その時に日本の印象を聞かれて「ああ、日本にも家があるなと思いました」と答えたという。禁煙運動について意見を求められて「タバコを止めるのは簡単だよ。私なんか何度も止めたよ」と答えている。


※2――フリート街というのは英国の新聞社が軒をつらねている所で、つまりは英国ジャーナリズム界の御意見番的存在の意味。ショウとの年齢差は二十五歳で、スワッファーにとっては大先輩だった。

そのインタビューは、ショウが《タイム》誌上で、奥さんの死に際して寄せられた多くの悔やみ状に対する感謝の意を表明したあとに準備されたものだった。

当時すでに八十七歳だったショウは、スワッファーに「こんどは自分の番だ。もう悟り切った心境で待ってるよ」と言い、続けて、

「わたしなんか、もうどうでもいいという気分だ。あんたもわたしも似たような仕事をしてる。人さんにいろいろと物語ってあげてるわけだ。それはそれで結構なことだが、それで世の中がどうなるというものでもないよ」と付け加えた。

スワッファーが「あなたもいずれ死なれるわけですが、死んだらどうなると思っていらっしゃいますか」と尋ねると――

「死ねばこの世からいなくなっちまうということだ。わたしは死後の存続は信じたことはないし、今も信じていない。死後も生きてると信じている人間で、それがどういうことを意味するかが本当にわかっている人間がいるなんて、わたしには考えられないね」

ここではスピリチュアリズムに関係したものだけを紹介したが、ショウ対スワッファーの対談は大変なセンセーションを巻き起こした。同じ頃に催されたシルバーバーチの交霊会でも当然その話題が持ち出され、興味ある質問が出された。それを紹介しよう。

まず最初の質問は「ショウのようなタイプの人物を待ちうける環境はどんなものでしょうか」というものだった。シルバーバーチは例によって個人の問題にしぼらずに、普遍的なものに広げて、こう語った。


「洞察力に富む人間は、無意識のうちに、さまざまな形で実在に触れておりますから、待ちうける新しい体験を喜びの中に迎えることになります。死んだつもりがまだ生きていることに、最初はショックを受けますが、新しい環境での体験を重ねるうちに、精神的能力と霊的能力とが目覚めて、その素晴らしさを知るようになります。

叡智・知識・教養・真理、それに芸術的作品の数々が、ふんだんに、それも地上よりはるかに高度のものが入手できることを知って喜びを覚えます。肉体の束縛から解放されて今やっと本来の自我が目を覚まし、自分とは何かを自覚しはじめ、肉体の制約なしにより大きな生活の舞台での霊妙な愉しみが味わえる――それがいかなるものであるかは、とうてい地上の言語で説明できる性質のものではありません。

とにかく、どの分野に心を向けても――科学であろうと哲学であろうと、芸術であろうと道徳であろうと、その他いかなる知識の分野であろうと、そこには過去の全時代のインスピレーションが蓄積されているばかりでなく、それを受け入れる用意のある者にはいつでも授けるべく、無数の高級霊が待ちうけているのです。

飽きることのない楽しい冒険の世界が待ちうけております。他界して間もないころは、個人的な縁による結びつき、たとえば先に他界している家族や知人、地上に残した者との関係が優先しますが、そのうち、地上界のごとき物的制約を受けることなく広がる自然の驚異に触発されて、目覚めた霊性が急速に発達してまいります」

ショウ対スワッファーという劇的な対面がさまざまな話題を生み、それに関連したさまざまな質問に答えたあと、シルバーバーチはこうしめくくった。


「真理がすべてに優先します。真理が普及すれば虚偽が退散し、無知と迷信が生み出した霧と陰が消えてまいります。現在の地上にもまだ、生活全体をすっぽり包み込む、無知という名の闇の中で暮らしている人が無数におります。

いつの時代にも、霊の力が何らかの形で、その時代の前衛たる者――パイオニア、改革者、殉教者、教育家等々、輝ける真理の旗を高々と掲げた人々の心を鼓舞してまいりました。地上に存在するあらゆる力を超越した霊妙な何かを感じ、人類の未来像を垣間(かいま)見て、彼らはその時代に新たな輝きを添えたのでした。彼らのお蔭で多くの人々が暗闇のべールを突き通して、光明を見出すことができたのでした。彼らのお蔭で、用意のできていた者が、みずからの力で足枷を解きほどく方法(すべ)を知ったのでした。暗い牢獄からみずからの魂を解き放す方法を知ったのです。生活全体に行きわたっていた、うっとうしい空気が消えました。

地上世界の全域に、啓発の勢力が徐々に、実に牛の歩みではありますが、行きわたりつつあります。それにつれて無知の勢力が退却の一途をたどっております。今や地上人類は進軍の一途をたどっております。さまざまな形での自由を獲得しました――身体の自由、精神の自由、霊の自由です。偏見と迷信と無知の勢力から人類を解き放す上での一助となった人はみな、人類の永い歴史の行進を導いてきた、輝ける照明です。

魂の挫折感を誘発するのは、精神上の倦怠感と絶望感です。精神が明るく高揚している時こそ、魂は真の自我を発揮し、他の魂を永遠の光明へ向けて手引きするほどの光輝を発するのです」

さらに“生命力”の問題にふれて――


「生命力が存在することに疑問の余地はありません。生命は、それにエネルギーを与える力があるからこそ存在します。それが動力源です。その本質が何であるかは、地上の人間には理解できません。いかなる科学上の器具をもってしても検査することはできません。化学的分析もできません。物的手段による研究は不可能なのです。

人間にとっては“死”があり、そして“生命”がありますが、わたしたちから見れば“霊”こそ生命であり、生命はすなわち“霊”であるというふうに、きわめて単純に理解できます。物質界というのは永遠の霊の光によって生じた影にすぎません。物質はただの“殻”であり、実在は霊なのです。

意識のなかったところに生命を与えたのが霊です。その霊があなたに自分を意識させているのです。霊こそ大霊によって人間に吹き込まれた息吹、神の息吹であり、その時点から自我意識をもつ生きた存在となったのです。

人間に神性を与えているのは、その霊なのです。その霊が人間を原始的生命形態から今日の段階へと引き上げてくれたのです。ただの禽獣(きんじゅう)と異なるのは、その霊性です。同胞に有徳の行為をしたいと思わせるのも、その霊性です。自分を忘れ、人のためを思う心を抱かせるのも、その霊性です。少しでも立派になろうと心がけるようになるのも、その霊性のお蔭です。良心の声が聞こえるのも霊性があるからこそです。あなたはただの物質ではありません。霊なのです。この全大宇宙の運行と、そこに生活する全生命を経綸している力と同じものなのです。

人間は、その宇宙霊、その大生命力が個別性をそなえて顕現したものです。人間は個的存在です。神性を帯びた炎の小さな火花です。みなさんのいう神、わたしのいう大霊の、不可欠の一部分を占めているのです。その霊性は死によっていささかも失われません。火葬の炎によっても消すことはできません。その霊性を消す力をもったものは、この全大宇宙の中に何一つ存在しません」

さて、当時のジャーナリズム界の第一線で活躍していたスワッファーは、その知名度を生かして、当時の各界の著名人をよく交霊会に招待した。招待された人は、シルバーバーチとの対話もさることながら、まずはスワッファーというジャーナリズム界の大物に直接会えることを光栄に思って出席した人が多かったのも事実である。

その中でも、これから紹介する人は特異な人物の部類に入るであろう。無声映画時代に“世界の恋人”と呼ばれて人気を博した米国の女優メアリ・ピックフォードで、その交霊会の様子はスワッファーによって《サイキックニューズ》紙に発表された。以下はその全文である。

映画でも演劇でも芸術作品でも、それが真実を表現し、大勢の人々の心に触れるものをもっておれば、霊界からみれば実に大きな存在価値をもつものであることは、これまで各界で活躍している人を招待した時にシルバーバーチがたびたび強調していることであるが、このたびもまた、そのことを改めて確認することになった。以下は、先日催された交霊会の速記録から、興味ぶかい箇所を抜粋したものである。まずシルバーバーチから語りかけた――


「さて、海を渡って(米国から)お出でくださったお客さんに申し上げましょう。今日ここに出席しておられる方々があなたの大ファンでいらっしゃること、またいわゆる死の彼方にいる人たちからも守られていることを、あなたはずっと感じ取ってこられたことはご存知と思いますが、いかがですか」

ピックフォード「よく存じております」


「その愛、その導きがあなたの人生において厳然たる事実であったことを、あなたは幾度も体験しておられます。窮地に陥り、どちらへ向かうべきかがわからずに迷っていた時に、はっきりとした形で霊の導きがあり、あなたは迷うことなく、それに従われました。おわかりでしょうか」

ピックフォード「おっしゃる通りです」


「ですが、実際には、情愛によって結ばれた大勢の人々の愛を、これまで意識なさった以上に受けておられるのです。もしもその全てが認識できたら、あなたのこれまでの生涯がもったいないほどの導きを受けていることがわかるでしょう。またもし、この地上生活であなたに託された使命の全てを一度に見せられていたら、とても成就できないと思われていたことでしょう。それほどのものが、右足を一歩、左足を一歩と、着実に歩んでこられたからこそ、今日まで維持できたのです。

ある程度まではご存知でも、まだ全てはご存知ないと思いますが、わたしたちの世界――そちらの世界から移住してくる霊の世界から見ると、真実の宗教は人のために役立つことをすること、これしかないことがわかります。無私の善行は霊の通貨なのです。すなわち、人のために精一杯の努力をする人は、その誠意によって引きつけられる別の人によって、そのお返しを受けるのです。

あなたは、これまでの人生で大勢の人々の生活に幸せと理解力と知識とをもたらしましたが、その分だけあなたは地上の人だけでなく、はるか昔に地上を去り、その後の生活で身につけた叡智をあなたを通じて地上へもたらしたいと願う、光り輝く霊も引き寄せております。わたしの言っていることがおわかりでしょうか」

ピックフォード「はい、よくわかります」


「こちらの世界では、あなたのような存在を大使(アンバサダー)の一人と考えております。つまり一個の仲介者、大勢の人間との間を取りもつ手段というわけです。目に見えない世界の実在という素朴な福音を、あなたは熱心に説いてこられました。これまで物的障害が再三にわたって取り除かれ、首尾よく前進してこられたのも、あなたのこうした心がけがあったからです。

そこで、わたしから良いことをお教えしましょう。遠からずあなたは、これまでのそうしたご苦労に有終の美を飾られる――栄誉を賜り、人生の絶頂期を迎えられるということです。あなたの望まれたことが、これからいよいよ結実をみることになります」

ここで、私(スワッファー)が出席する会には必ず出現しているノースクリッフ卿(※)が、シルバーバーチと入れ替ってピックフォードに挨拶を述べた。私は直接は知らないが、ピックフォードが夫君のフェアバンクスと連れだって初めてロンドンを訪れた時、ファンの群れでどこへ行ってもモミクチャにされるので、ノースクリッフがひそかに二人を私邸に泊めたといういきさつがあるのである。


※――英国の有名な新聞経営者で、《デイリーメール》紙の創刊者。死後、スワッファーがよく出席していたデニス・ブラッドレーの交霊会に出現して決定的な身元確認の証拠を提供した。スワッファーがスピリチュアリズムの真実性を確認したのはこの体験による。そしてその体験記を『ノースクリッフの帰還』と題して出版、大反響を呼んだ。

そのあと、かつての夫君フェアバンクスも出現して、二人の結婚生活の不幸な結末を残念に思っていることを述べた。ここでは、その件についてはこれ以上深入りしないでおこう。とにかく、それを聞いたピックフォードが、シルバーバーチにこう述べた。

「私はかつて地上の人間にも他界した方にも、恨みを抱いたことは一度もありません。恨みに思ったのは、過ちを犯した時の自分に対してだけです」


「ご自分のことをそうダメ人間のようにお考えになってはいけません。今もしあなたの人生の“元帳”を整理することができたら、いわゆる“過ち”といえるほどのものは、無私の徳行や善行に較べると、いたって少ないことがおわかりになるはずです。多くの人々にどれほど良いことをなさってこられたかは、こちらへお出でになるまではおわかりにならないでしょう。

あなたは、数え切れないほどの人々に愉しみを与えてこられました。しばしの間でも悲しみを忘れさせ、心の悩みや痛みを忘れさせ、トラブルやストレスを忘れさせ、人生の嵐を忘れさせてあげました。あなた自身の願望から、あなたなりの方法で人のために役立つことをなさってこられました。人のために役立つということが何よりも大事なのです。

他のすべてのものが忘れ去られ、剥(は)ぎ取られ、財産が失われ、権力が朽(く)ち、地位も生まれも効力を失い、宗教的教義が灰に帰したあとも、無私の人生によって培(つちか)われた性格だけはいつまでも残り続けます。わたしの目に映るのは身体を通して光り輝く、その人格です。

わたしは、そうした善行を重ねてきた魂にお会いできることを大きな喜びとしております。以上が、あなたがみずから“過ち”とおっしゃったのを聞いて私が思ったことです。あなたは何一つ恐れるに及びません。真一文字に進まれればよろしい。あなたも率直なところをお聞きになりたいでしょう?」

ピックフォード「ええ」


「あなたは大金を稼ぐのは趣味ではなさそうですね。あなたの願望は、できるだけの善行を施すことのようです。違いますか」

ピックフォード「おっしゃる通りです」


「その奇特な心がけが、それなりの報酬をもたらすのです。自動的に、です。その目的は、とどのつまりは、あなたに確信を与えるということにあります。何一つ恐れるものはないということです。心に恐怖心を宿してはいけません。恐怖心はバイブレーションを乱します。バイブレーションのことはご存知でしょう?」

ピックフォード「ええ、少しは存じております」


「恐怖心は霊気を乱します。あなたの心が盤石の確信に満ちていれば、霊的知識を手にしたがゆえの揺るぎない決意に燃えていれば、この無常の地上において、その心だけは失意を味わうようなことは断じてありません。

物質界に生じるいかなる出来事も、真のあなた、不滅で、無限で、永遠の霊性をそなえたあなたに、致命的な影響を及ぼすことはできません。あなたは、背後にあってあなたに導きを与えている力が宇宙最大の力であること、あなたを大霊の計画の推進のための道具として使用し、その愛と叡智と真理と知識を、何も知らずにいる人々に教えてあげようとする愛の力であるという、万全の知識をたずさえて前進することができます。

あなたはこれまでに何度か、自分が間違ったことをしたと思って、ひそかに涙を流されたことがあります。しかし、あなたは決して間違ってはおりません。あなたの前途には栄光への道がまっすぐに伸びております。目的はきっと成就されます。わたしの申し上げたことがお役に立てば幸いです」

ピックフォード「本当にありがとうございました」


「いえ、わたしへの礼は無用です。礼は大霊に捧げるべきものです。わたしどもは、その僕(しもべ)にすぎないのですから。わたしはこの仕事の完遂に努力しておりますが、いつも喜びと快(こころよ)さを抱きながらたずさわっております。もしもわたしの申し上げたことが少しでもお役に立ったとすれば、それはわたしが大霊の御心にそった仕事をしているからにほかなりません。あなたとは、またいつかお会いするかも知れませんが、その時はもっとお役に立てることでしょう。

その時まで、どうか上を向いて歩んでください。下を向いてはなりません。無限の宝庫のある無限の源泉から、光と愛がふんだんに流れ込んでいることを忘れてはなりません。その豊かな宝庫から存分に吸収なさることです。求めさえすれば与えられるのです。著述の方もお続けください」

最後にサークルのメンバー全員に向けて、次のような祈りのメッセージを述べた。


「どうか、皆さんを鼓舞するものとして、霊の力が常に皆さんとともにあり、先天的に賦与されている霊的能力をますます意識され、それに磨きをかけることによって幸せの乏しい人たちのために役立て、そうすることによって皆さんの人生が真に生き甲斐あるものとなることを、切に祈ります」

そう述べて、いよいよバーバネルの身体から離れる直前、そろそろエネルギーが尽きかけているのを意識しながら、ピックフォードにこう述べた。


「ご母堂が、あなたに対する愛情が不滅であることを得心してもらえるまでは、このわたしを行かせない(霊媒から離れさせない)と言っておられます。ご母堂はあなたから受けた恩は決して忘れておられません。今その恩返しのつもりで、あなたのために働いておられます。どうしてもわたしを行かせてくれないのですが……」

ピックフォード「でも、私こそ母に感謝いたしております。十回生まれ変わってもお返しできないほどです」


「あなたはもうすでに十回以上、生まれ変わっておられますよ」

ピックフォード「猫より多いのでしょうか。十八回でも生まれ変わるのでしょうかね。こんどこそ、この英国に生まれてくることでしょうよ」


「いえ、いえ、あなたはすでに英国での前生がおありです。が、これはまた別の話ですね」

ピックフォード「あと一つだけ……私のその英国での前生について、何かひとことだけでも……」


「二世紀以上もさかのぼります。それ以上のことはまたの機会にしなくてはなりません。もう行かねばなりません。わたしはこれ以上霊媒を維持できません」

どうやらピックフォードは、その二世紀あまり前に少女として英国で生活した前生のことを、ずっと以前から信じていたらしいふしがある。その理由(わけ)はこの私には記憶がない。

とにかく、グラディス・スミスという名でカナダのトロントに生を受けた彼女は、血統が英国人であることを誇りに思っていることだけは確かである。

ハンネン・スワッファー

祈り

人生の本来の在り方としての大冒険に……


ああ、大霊よ。わたしどもは全生命を支える力に波長を合わせ調和せんとする努力の一環として、ここに祈りを捧げさせていただきます。

わたしたちはその力の背後に、絶対的な支配力をもつ知性の存在を認識しております。それは、人間的形態をそなえたものではございません。全大宇宙のありとあらゆる側面の活動を規制する絶対的な摂理でございます。いかなる側面を研究しても、いかなる秘密を掘り起こしても、いかに高く、あるいは、いかに深く探求のメスを入れても、そこにも必ず摂理が存在するのでございます。

新たに見出されたものも、必ずあなたの自然法則の枠組みの中に組み込まれていたものでございます。その意味において、超自然的現象も奇跡的現象も生じ得ないのでございます。法則と秩序によって規制され、その全パノラマがあなたの聖なる霊に抱かれているのでございます。

その霊こそ生命の根源であると認識するわたしたちは、地上の子等にその霊という実在と、その背後の霊的摂理に目を向かしめたいと願っております。その作用(はたらき)を理解することこそ、この物質の世界に新しい光、新しい悟り、新しい希望をもたらす素地となるのであり、それが地上世界を豊かにするのでございます。

地上の多くの人間がそうした霊的実在の素晴らしさと喜びに全く無知のまま、せっかくの人生を無為に過ごしております。その知識があれば、悲哀の多くをなくすことができるのです。喪の涙を拭うことができるのです。心の痛みを取り除くことができるのです。肩の荷を軽くすることができるのです。確信と目的意識をもって、人生の本来の在り方としての大冒険に、より賢明に備えることができるのでございます。

それ故にこそ、わたしどもは受け入れる用意のできている人たちのために霊的知識を広め、自分が一人ぼっちでいることは片時もないこと、霊の力の宝庫はいつでも誰にでも出入りできること、崇高なる愛が万事を良きに計らってくれるとの知識から、新たな生きる勇気を得てくれることを望むものです。それがわたしどもの仕事なのでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。



シアトルの夏 人類は苦しみつつも、一歩一歩、光明へ向けて進化しております

 シルバーバーチの霊訓―地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)




現代は、科学技術の進歩のおかげで、何秒も数えないうちに、ニュースが地球を一周する。何万キロも離れたところで起きたことが、ほぼ同時にテレビに映し出され、ラジオで報じられ、その日の夕刊に載る。問題なのは、そうした素晴らしい科学技術の恩恵を活用して報じられるニュースの大半が、暴力行為と悲惨な出来事ばかりだということである。

ところがシルバーバーチに言わせると、それでもなお、人類は進化しつつあるという。ある日、二人のゲストを迎えての交霊会で、そのことに言及してこう語った。


「地上世界は、たった一つの重大な原因によって、着実に改善されております。その原因とは、“霊の力”が働きかけているということです。霊力が注がれた場所、有能な道具(霊媒・霊覚者)を通して霊力が顕現したところには、必ずや霊的刷新の仕事が始まり、その仕事を通して物事の価値観が徐々に変わってまいります。

今からほぼ一世紀前(一八四八年のハイズビル事件)に始まった、大々的な組織体制のもとでの霊力の降下がなかったならば、地上世界はもっともっと深刻な事態に陥っていたはずです。潜在的な更生力が全世界に働きかけてきたからこそ、この程度で終わっているのです。

その潜在力も、最初はわずか数滴から始まりました。それが勢力を集めて小川となり、大河をつくり、海となって、今や枯渇する心配などみじんもない分量で地球を包んでおります。歴史の流れをすっかり変えております。人間生活の視野に革新をもたらしております。それは“霊”という要素、永遠に不変の要素が持ち込まれたからです。それなくしては人生は無意味ですし、不合理ですし、目的がないことになります。

科学・哲学・宗教・美術・倫理・道徳・音楽・文学――要するに人間生活の全分野において、人間は死を超えて生き続けるという事実の立証から生まれる“霊”の優越性の認識が、その意義の捉え方を変えてしまいました。時には後退のやむなきに至ったこともありますが、総体的には前進の一途をたどっており、人類は苦しみつつも、一歩一歩、光明へ向けて進化しております」

ゲストの一人「別の考え方として、もしもこの地球という天体が今よりずっと住み良い世界だったら、むしろ存在意義を失ってしまう――より高い界層へのトレーニングの場としての意味がなくなるのではないでしょうか。つまり、進歩を促す要素として、こうした苦難もなければならない……」


「その考えにも一理ありますが、元来人間というものは、いったん霊性に目覚めたら、つまり永遠の実在を垣間見て、微(かす)かであっても宇宙的計画の一端を知り、無限の宇宙機構の中で占める自分の位置を認識したら、大霊と同様、自分みずからも無限の個性を発揮していく永遠の生命を秘めた、無限の存在であることを知ります。それは言いかえれば、前途には永遠に続く進化の道があることを悟る――その頂点は永遠に見ることができない――行けども行けども登り坂が続く、ということです。おわかりでしょうか」

「よくわかります。でも……」と言って、なおも“大霊への帰一”という飛躍した意見を出した。そこでシルバーバーチが――


「話がずいぶん広遠かつ深遠なものになってまいりましたね。われわれは一人の例外もなく、大霊の一部です。あなたという存在全体が、そして、この宇宙間の全生命の総体が大霊を構成しています。生命の総体から離れて大霊の存在はありえないのです。

しかし、そう申し上げても、わたしにはそれを証明する手立てがない以上、いくらでも異論が出てくることでしょう。ですから、ここでは、ともかくわたしの言葉をそのまま受けとめていただくほかはありません。

進化の道は限りなく続きます。ここでお終(しま)いという究極がないということです。その点を理解してくだされば、究極における“神との合一”などというものはありえないことが納得していただけると思います。もしもあなたの個性のすべて――その肉体を通して顕現している小さな一部だけでなく、霊的存在としてのあなたのすべて――が完全の域に達することがあるとしたら、生命活動の計画が何のために案出されたのか、その合理的説明ができなくなります。

生命は永遠にして無限です。不完全な側面を一つまた一つと取り除きつつ、完全へ向けて絶え間なく努力していくのであり、その過程に“終局”はないのです」

「この機械化時代は人類の進化に役立っているのでしょうか。私にはそうは思えないのですが……」


「最終的には役に立ちます。進化というものを一直線に進むもののように想像してはいけません。前進と後退のくり返しです。立ち上がっては倒れるのくり返しです。少し登っては滑り落ち、次に登った時は前よりは高いところまで上がっており、そうやって少しずつ進化していきます。ある一時期だけを見れば、“ご覧なさい。この時期は人類進化の暗い汚点です”と言われるような時期もありますが、それは話のすべてではありません。ほんの一部です。

人間の霊性は徐々に進化しております。進化にともなって自我の本性についての理解が深まり、自我の可能性に目覚め、存在の意図を知り、それに適応しようと努力するようになります。

数世紀前までは夢の中で天界の美を見、あるいは恍惚たる入神の境地においてそれを霊視できたのは、ほんの一握りの者にかぎられていました。が、今や、無数の人がそれを見て、ある者は改革者となり、ある者は先駆者となり、ある者は師となり、死してのちも、その成就のために霊界から働きかけております。そこに進歩が得られるのです」

その点に関してはまったく同感です。進歩はあると思うのです。しかし全体として見た時、地球上が(機械化によって)便利になりすぎると、進化にとってマイナスになるのではないかと考えるのです」


「しかし、霊的進化がともなえば――あなた個人のことではなく人類全体としての話ですが――住んでいる世界そのものにも発展性があることに気づき、かつては夢にも思わなかった豊かさが人生から得られることを知ります。

機械化を心配しておられますが、それが問題となるのは、人間が機械に振り回されて、それを使いこなしていないからに過ぎません。使いこなしさえすれば、何を手に入れてもよろしい――文化・レジャー・芸術・精神と霊の探求、何でもよろしい。かくして内的生命の豊かさが広く一般の人々にも行きわたります。

その力はすべての人間に宿されているのです。すべての人間が大霊の一部だからです。この大宇宙を創造した力と同じ力、山をこしらえ、恒星をこしらえ、惑星をこしらえた力と同じ力、太陽に光を与え、花に芳香を与えた力、それと同じ力があなた方一人ひとりに宿っており、生活の中でその絶対的な力に波長を合わせさえすれば、存分に活用することができるのです」

「花に芳香を与えた力が、ヘビに毒を与えている、という観方もあります」


「わたしに言わせれば、それは少しも問題ではありません。よろしいですか。わたしは大霊があなた方のいう“善”だけを受けもち、悪魔が“悪”を受けもっている、とは申しておりません」

「潜在的には善も悪もすべて、われわれ自身の中に存在しているということですね?」


「人間一人ひとりが小宇宙なのです。あなたもミニチュアの宇宙なのです。潜在的には完全な天使的資質をそなえていると同時に、どう猛な野獣性もそなえております。だからこそ、自分の進むべき方向を選ぶ自由意志が授けられているのです」

「地球という惑星も進化しているとおっしゃいましたが、ではなぜ、霊の浄化のためになお苦難と奮闘が必要なのでしょうか」


「人間が無限の存在だからです。一瞬の間の変化というものは生じません。永い永い進化の旅が続きます。その間には上昇もあれば下降もあり、前進もあれば後退もあります。しかし、そのたびに少しずつ進化していくのです。

霊の世界では、次の段階への準備が整うと、新しい身体への脱皮のようなものが生じます。ですが、その界層を境界線で仕切られた、固定した平地のように想像してはなりません。次元の異なる生活の場が段階的にいくつかあって、お互いに重なり合い融合し合っているのです。地上世界においても、一応みなさんは地表という同じ物的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別々の世界に住んでいるとも言えるのです」

「これまでの地上社会の進歩は、これから先の進歩に較べれば微々たるものに過ぎないのでしょうか」


「いえ、わたしはそういう観方はしたくないのです。比較すれば確かに小さいかもしれませんが、進歩は進歩です。

次のことを銘記してください。人間は法律や規則をこしらえ、道徳律を打ち立てました。文学を豊かなものにしてきました。芸術の奥義をきわめました。精神の隠された宝を突き止めました。霊の宝も、ある程度まで掘り起こしました。

こうしたことは全て、先輩たちのお蔭です。苦しみつつコツコツと励み、試行錯誤をくり返しつつ、人生の大うず巻の中を生き抜いた人たちのお蔭です。総体的にみれば進歩しており、人間は、初期の時代に較べれば豊かになりました。物質的な意味ではなく、霊的に精神的に豊かになっております。そうあってくれないと困ります」

このあと、さらに次のようなコメントを付け加えた。


「嘆かわしいほど無知な人々――自分が霊的存在であることを知らず、したがって“死”の彼方にも生活があることを知らずにいる人々に、そうした基本的な知識を広めるために、われわれがしなければならないことが山ほどあります。

せっかくのこの地上生活を、霊的実在について聞く耳も、語る口も、見る目も持ち合わせないまま終えてしまう、数え切れないほど多くの人たちのことを思うと、何たる悲劇! と叫ばずにはおれません。これは大悲劇です。われわれの努力はそういう人たちに向けられねばならないのです。人生の本当の意義を全うするためには、真実の自分に目覚めないといけないからです」

続いて、もう一人のゲストに向かってこう述べた。女性霊媒として長年の経験をもつ人である。


「今日まであなたを導いてきた力(背後霊)を確信することです。そうすれば、その力の方からあなたを見捨てることはありません。あなたは大変な愛によって包まれております。その愛の力は絶対にあなたを見捨てません。あなたに託されている責務を忠実に果たしているかぎり、その愛の力から見放されることはありません。

愛の力とは何か、どのように作用するのか、どのように規制されているか、どういう摂理のもとに管理されているかは、とうてい言語では説明できません。ただ確実にいえることは、正しい条件――誠実さ、奉仕的精神、知識を基盤とした確信さえあれば、その力があなたを支え、導き、いかなる体験にも力強く対処させ、あなたに託された目的を達成する上で援助してくれるということです」

いよいよその日の交霊会も終わりに近づき、シルバーバーチは最後の締めくくりとして、こう述べた。


「わたしの仕事は、地上へ来てからこしらえた多くの同志――といっても、この声と個性によってしかわたしをご存知ないわけですが――その人たちのお蔭で、ずいぶんラクな思いをさせていただいております。

その同志から送られてくる愛が、わたしにとって大きな力となっているのです。その愛の力こそがこの仕事を続ける上での“資力”なのです。わたしたちの心にあるものは、嘆き悲しんでいる人々、疑念と恐怖にさいなまれている人々のことばかりです。そういう人たちの人生に少しでも安らぎを与えてあげるものをお届けしないことには、わたしたちの心も安まらないのです。

これは大変な仕事です。これを正当な手段で遂行していくことによって、わたしたちも、そして皆さんも、真の意味での大霊の道具となることができるのです。地上世界は“下”からでなく“上”から支配されているのです。地上世界の法律は改正されたり、廃止されたり、無効になったりします。新たな事情が生じて、それに合わせて新たな法律がこしらえられたりします。が、霊の法則は変えられないのです。不変なのです。法則どおりにならないということがないのです。そして、ありとあらゆる事態にそなえられているのです。

ですから、少しも案ずることはありません。そうした絶対的な摂理をこしらえた力、全生命に意義と目的とを与えた力、それがあなたを取り巻いているのです。逆境にあっては、あなたを守るマントとなり、永遠なる愛をもって包み込んでくれる力なのです」

祈り

偽りの神・偽りの教義・偽りの神学に背を向け……


これよりわたしは、古(いにしえ)の予言者を鼓舞し、聖賢や先見者に叡智の輝きに満ちた未来図を見ることを得さしめたのと同じ力を呼び寄せ、人間の無明(むみょう)の心に光明と悟りを与え、迷いを払うべく、完全なる摂理として働くあなたに、深甚なる感謝の祈りを捧げます。

わたしどもが改めて地上に甦(よみがえ)らせたいのは、人間生活を一変せしむるほどの威力、人類を変身せしむるほどの威力を秘めた霊力でございます。それが人間に、あなたの永遠の機構の中で占める位置を理解せしめ、改善と改良と奉仕のために働き、挫折せる者を救い、無力なる者を援助し、飢えに苦しむ者に食を与え、弱き者に力を与え、人類の呪(のろ)いであり文明の汚点である不平等と不公正のすべてを排除すべく、子等に力と勇気と目的意識とを与えてくださるのでございます。

わたしたちは、地上の子等が偽りの神・偽りの教義・偽りの神学に背を向け、あなたの真理の光に導かれて普遍的な宗教を打ち立てることができるように、すなわちあなたを人類全体の父として認識し、人類はすべてあなたの子であるとの理解のもとに、こぞってあなたを崇拝することになるように、あなたの真の姿と彼ら自身についての、より充実せる理解が得られる道へ手引きしたいのでございます。

子等の団結の妨げとなるもの全てを排除したいのでございます。階級の差別、肌色の違い、民族の違いによる分裂をなくし、人間のこしらえた障壁を崩し、新しい光、新しい希望を物質界にもたらしたいのでございます。

同胞の高揚のために心を砕く各界の先駆者や改革者を鼓舞し励まし、彼らが高き霊の世界から導かれていること、その努力には大霊の祝福があることを知らしめたいのでございます。

かくしてわたしどもは、子等を少しでもあなたに近づかしめ、あなたを子等に近づかしめるべく、祈り、そして刻苦するものです。



Tuesday, July 29, 2025

シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

八 節
著者の信仰上の遍歴──宗教の二面性──神とは──神と人間──理性なき信仰──派閥主義──賞と罰──神の絶対的公正──神は哀れむが情けはかけず──人間としての生活規範──神と同胞と自己への責務


 〔翌日、前回の通信に関連した長い入神談話があったあと、イムペレーターと名のる同じ霊がいつものレクターと名のる筆記者を使って、再び通信を送って来た。それが終わってから交霊会が開かれ、その通信の内容についての議論が交わされた。

その中で新たな教説が加えられ、私が出しておいた反論に対する論駁が為された。当時の私の立場から観ればその教説は、論敵から無神論的ないし悪魔的と言われても致し方ないように思われた。私なら少なくとも高教会派的①と呼びたいところである。そこで私はかなりの時間をかけてキリスト教の伝統的教説により近い見解を述べた。

 こうして始まった論争を紹介していくに当たって、当時の私の立場について少しばかり弁明しておく必要がある。私はプロテスタント教会の厳格な教理を教え込まれ、ギリシャ正教会およびローマ正教会の神学をよく読み、国教会の中でもアングリカン②と呼ばれる一派も、それまでに私が到達した結論に最も近い教義として受け入れられていた。

その強い信仰は自動書記通信によってある程度は改められていたが、本格的には国教会の教義を厳格に守る人、いわゆる高教会派の一人をもって任じていた。

 が、この頃からある強烈な霊的高揚を覚えるようになった。これに関してはこれから度々言及することになると思うが、その高揚された霊的状態の中で私は一人の威厳に満ちた霊の存在とその影響を強く意識するようになり、さらにそれが私の精神に働きかけて、ついには霊的再生とも言うべき思想的転換を惹き起こさせられるに至った。〕


 汝はわれらの教説を汝らの伝統的教説と相容れぬものとして反駁した。それに関して今少し述べるとしよう。
 そもそも魂の健全なる在り方を示す立場にある宗教は二つの側面をもつ。一つは神へ向かう側面であり、いま一つは同胞へ向けての側面である。ではわれらの説く神とは如何なる神か。

 われらは怒りと嫉妬に燃える暴君の如き神に代わりて愛の神を説く。名のみの愛ではない。行為と真理においても愛であり、働きにおいても愛を措いてほかの何ものでもない。最下等の創造物に対しても公正と優しさをもって臨む。

 われらの説く神は一片のおべっかも要らぬ。法を犯せるものを意地悪く懲らしめたり、罪の償いの代理人を要求したりする誤れる神の観念を拒否する。況や天国のどこかに鎮座して選ばれし者によるお世辞を聞き、地獄に落ち光と希望から永遠に隔絶されし霊の悶え苦しむさまを見ることを楽しみとする神など、絶対に説かぬ。

 われらの教義にはそのような擬人的神の観念の入る余地はない。その働きによってのみ知り得るわれらの神は、完全にして至純至誠であり、愛であり、残忍性や暴君性等の人間的悪徳とは無縁である。罪はそれ自らの中にトゲを含むが故に、人間の過ちを慈しみの目で眺め、且つその痛みを不変不易の摂理に則ったあらゆる手段を講じて和らげんとする。

光と愛の根源たる神! 秩序ある存在に不可欠の法則に則って顕現せる神! 恐怖の対象でなく、敬慕の対象である神! その神についてのわれわれの理解は到底汝らには理解し得ぬところであり、想像すら出来ぬであろう。

しかし神の姿を見た者は一人もおらぬ。覗き趣味的好奇心と度を越せる神秘性に包まれた思索によって、神についての人間の基本的概念を曖昧模糊(あいまいもこ)なるものとする形至上的詭弁も、またわれらは認めるわけには参らぬ。われらは真理を覗き見するが如き態度は取らぬ。

すでに汝に述べた神の概念ですら(神学より)雄大にして高潔であり、かつ崇高である。それより更に深き概念は、告げるべき時期の到来を待とう。汝も待つがよい。

 次に、神とその創造物との関係について述べるが、ここにおいてもまたわれらは、長き年月に亙って真理のまわりに付着せる人間的発想による不純物の多くをまず取り除かねばならぬ。神によって特に選ばれし数少なき寵愛者───そのようなものはわれらは知らぬ。選ばれし者の名に真に値するのは、己の存在を律する神の摂理に従いて自らを自らの努力によりて救う者のことである。

 盲目的信仰ないしは軽信仰がいささかでも効力を示した例をわれらは知らぬ。ケチ臭き猜疑心に捉われぬ霊の理解力に基づける信頼心ならば、われらはその効力を大いに認める。それは神の御心に副うものだからであり、したがって天使の援助を引き寄せよう。

が、かの実に破壊的なる教義、すなわち神学的ドグマを信じ同意すれば過ちが跡形もなく消される───生涯に亙る悪徳と怠惰の数々もきれいに拭い去られる───わずか一つの信仰、一つの考え、一つの思いつき、一つの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われらは断固として否定し且つ告発するものである。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ぬ。

 またわれらは一つの信仰を絶対唯一と決め込み他の全てを否定せんとする態度にも、一顧の価値だに認めぬ。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねる。いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。

汝らは気付くまいが、一個の人間を特殊なる信仰へ傾倒させていく地上的環境がわれらには手に取るように判る。それはそれなりに価値があることをわれらは認める。優れたる天使の中にさえ、かつては誤れる教義のもとに地上生活を送る者が数多くいることを知っている。

われらが敬意を払う人間とは、たとえ信じる教義が真理より大きく外れていても、真理の探求において真摯なる人間である。人間が喜ぶ枝葉末節の下らぬ議論には、われらは関知せぬ。汝らの神学を色濃く特徴づけているところの、理性的理解を超越せる神秘への覗き趣味には、われらは思わずあとずさりさせられる。われらの説く神学は極めて単純であり、理性的理解のいくものにかぎられる。

単なる空想には価値を求めぬ。派閥主義にも興味はない。徒(いたずら)に怨恨と悪意と敵意と意地悪の感情を煽るのみだからである。

 われらは宗教なるものを、われらにとっても汝らにとっても、より単純な形で関わるものとして説く。修行場として地上生活の中に置かれた人間──われらと同じく永遠不滅の霊であるが──は果たすべき単純なる義務が与えられ、それを果たすことによって一層高度な進歩的仕事への準備を整える。

その間、不変の摂理によって支配される。その摂理は、もし犯せば不幸と損失をもたらし、もし遵守すれば進歩と充足感を与えてくれる。

 同時に人間は、曾て地上生活を送れる霊の指導を受ける。その霊たちは人間を指導監督すべき任務を帯びている。ただしその指導に従うか否かは人間の自由意思に任せられる。人間には善意の判断を下す基準が先天的に具わっており、その判断に忠実に従い、迷うことさえなければ、必ずや真理の道へと導いてくれはずのものである。

善悪の判断を誤り背後霊の指導を拒絶した時、そこには退歩と堕落があるのみである。進歩が阻止され、喜びの代わり惨めさを味わう。罪悪そのものが罰するのである。
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正しき行為の選択には背後霊の指示もあるが、本来は霊的本能によりて知ることが出来るものである。為すべきことを為していれば進歩と幸福が訪れる。魂が成長し完成へ向けてより新しく、より充実せる視野が開け、喜びと安らぎをもたらす。

 地上生活は生命の旅路の一過程に過ぎぬ。しかし、その間の行為と結果は死後にもなお影響を残す。故意に犯せる罪は厳しく裁かれ、悲しみと恥辱の中に償わねばならぬ。


 一方善行の結果もまた死後に引き継がれ、霊界にてその清き霊を先導し高級霊の指導教化を受け易くする。

 生命は一つにして不可分のものである。ひたすらに進歩向上の道を歩むという点において一つであり、永遠にして不易の法則の支配下にある点においても一つである。誰一人として特別の恩寵には与(あずか)れぬ。

また誰一人として不可抗力の過ちのために無慈悲なる懲罰を受けることもない。永遠なる公正は永遠なる愛と相関関係にある。ただし〝お情け〟は神的属性ではない。そのようなものは不要である。何となれば、お情けは必然的に刑罰の赦免を意味し、それは罪障を自ら償える時以外には絶対に有り得ぬことだからである。哀れみは神の属性であり、情けは人間の属性である。

 徒に沈思黙考に耽り、人間としての義務を疎かにする病的信仰は、われらは是認するわけにはいかぬ。そのような生活によって神の栄光はいささかも高められぬことを知るからである。われらは仕事と祈りと崇拝の宗教を説く。

神と同胞と己れ自身(の魂と身体)への義務を説く。神学的虚構をいじくり回すことは、無明の暗闇の中にてあがく愚か者に任せる。われらが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次の如く要約できよう。


父なる神を崇め敬う(崇拝)・・・・・・神への義務
同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)・・・・・・隣人への義務

 


身体を大切にする(肉体的養成)
知識の獲得に努力する(知的進歩)
より深き真理を求める(霊的開発)
良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)
祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊
的修養) 自己への義務








 以上の中に地上の人間としての在るべき大凡(おおよそ)の姿が示されておる。いかなる教派にも偏ってはならぬ。理性の容認できぬ訓えに盲目的に従ってはならぬ。一時期にしか通用せぬ特殊な通信を無批判に信じてはならぬ。神の啓示は常に進歩的であり、いかなる時代によっても、いかなる民族によっても独占されるものではない。神の啓示は一度たりとも〝終わった〟ことはないのである。

その昔シナイ山にて啓示を垂れた如く③、今なお神は啓示を送り続けておられる。人間の理解力に応じてより進歩的啓示を送ることを神は決してお止めにならぬ。

 またこれも今の汝には得心しかねることであろうが、全ての啓示は人間を通路としてもたらされる。故に多かれ少なかれ、人間的誤謬によって着色されることを免れないのである。いかなる啓示も絶対ということは有り得ぬ。

信頼性の証は合理的根拠の有無以外には求められぬ。故に新たなる啓示が過去の一時期に得られた啓示と一致せぬからとて、それは必ずしも真実性を疑う根拠にはならないのである。いずれもそれなりに真実なのである。ただその適用の対象を異にするのみなのである。正しき理性的判断よりほかに勝手な判断の基準を設けてはならぬ。

啓示をよく検討し、もし理性的に得心が行けば受け入れ、得心が行かぬ時は神の名においてそれを捨て去るがよい。そして、あくまで汝の心が得心し、進歩をもたらしてくれると信じるものに縋(すが)るがよい。いずれ時が来れば、われらの述べたことが多くの人々によってその価値を認められることになろう。われらは根気よくその時節を待とう。

そして同時に、汝と共に、神が人種の隔てなく真理を求むる者すべてに、より高くより進歩的なる知識と、より豊かにして充実せる真理への洞察力を授け給わらんことを祈るものである。

 神のお恵みの多からんことを!


〔註〕

High Church 英国国教会内部の一派で、教会という組織の権威、支配、儀式等を重んじる。
Anglican カトリックとプロテスタントの両要素をもちながら、どちらにも偏らない要素を備えた一派で、総体的には高教会派的。
モーセの十戒。
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(3)