Monday, January 27, 2025

シアトルの冬 真理を知らないでいることは暗闇の中を歩くことで

To remain ignorant of the truth is 
to walk in darkness.





半世紀以上にもわたって催された交霊会に出席するために、ロンドンのモーリス・バーバネルの私宅を訪れた人は、数も多ければ人物も多彩だった。海外旅行のハイライトとしてやってくる人もいれば、ロンドン市内から気軽に訪れる人もいた。


十一歳のジョン少年もその一人で、これが最初の交霊会への出席だった。幼いときに姉を失い、こんどは父親を不慮の事故で失って、母親と二人きりになったが、母親がシルバーバーチを通じて聞いていた二人からのメッセージをいつもジョンに語って聞かせていたので、十一歳の少年ながら、すでに死後の世界の存在を自然に信じるようになっていた。

まず、シルバーバーチの方からお父さんとお姉さんがここに来てますよと言い、二人ともジョン君と同じようにわくわくしている様子を告げると――

ジョン「ぼくは、お姉さんのことをよく知らないんです」


「でも、お姉さんの方はジョン君のことをよく知ってますよ」

ジョン「ぼくがまだ赤ちゃんの時に見たきりだと思います」


「いいえ、その赤ちゃんの時から、今のように大きくなるまで、ずっと見てきております。ジョン君には見えなくても、お姉さんの方からはジョン君がよく見えるんです。同じように目が二つあっても、ジョン君とは見え方がまったく違うのです。壁やドアを突き通して見ることができるんですから……」

ジョン「そうらしいですね。ぼく、知ってます」


「ジョン君のような目を持っていなくても、よく見えるんです。霊の目で見るのです。霊の目で見ると、はるか遠い先まで見えます」

ジョン「お姉さんは今年でいくつになったのですか」


「それはとても難しい質問ですね。なぜ難しいかを説明しましょう。わたしたち霊の成長のしかたは、ジョン君たちとは違うのです。誕生日というのがないのです。年齢(とし)が一つ増えた、二歳になった、というような言い方はしないのです。そういう成長のしかたをするのではなく、霊的に成長するのです。言い方をかえると、完全(パーフェクト)へ向けて成長するのです」

ジョン「パーフェクトというのは何ですか」


「パーフェクトというのは、魂の中のすべてのものが発揮されて、欠点も弱点もない、一点非のうちどころのない状態です。それがパーフェクトです」

ジョン「言いかえれば、ピースですか(※)」


※――peace(ピース)には戦争の反対の平和という一般的な意味以外に、日本語で表現できない精神的な意味がいくつかある。が、十一歳の少年がそう難しい意味で使うはずはないし、さりとて平和でもないので、原語のままにしておいた。


「そうです。パーフェクトになればピースが得られます。しかし実をいうと、“これがパーフェクトです”と言えるものは存在しないのです。どこまで行っても、それは永遠に続く過程の一つの段階にすぎないのです。いつまでも続くのです。終わりというものがないのです」

ジョン「でも、パーフェクトに手が届いたら、それが終わりとなるはずです」


「パーフェクトには手が届かないのです。いつまでも続くのです。これは、ジョン君には想像できないでしょうね? でも、ほんとにそうなのです。霊的なことには始まりも終わりもないのです。ずっと存在してきて、これからも休みなく向上していくのです。ジョン君のお姉さんも大きくなっていますが、地上のように身体(からだ)が大きくなったのではなくて、精神と霊とが大きくなったのです。成熟したのです。内部にあったものが開発されたのです。発達したのです。でも、身体のことではありませんよ。だから、いくつになったかは地上のことだけで、こちらでは言えないのです。

そんなことよりも、ジョン君に知ってほしいことは、もうわかってきたでしょうけど、お姉さんとお父さんはいつも側(そば)にいてくれているということです。これは、まだまだ知らない人が多い、大切な秘密です。いつもいっしょにいてくれているのです。ジョン君を愛し、力になってあげたいと思っているからです。

このことは、人に話しても信じてくれませんよね? みんな目に見えないものは存在しないと思っているからです。このことを知らないために、地上では多くの悲しみが生じております。理解すれば“死”を悲しまなくなります。死ぬことは悲劇ではないからです。あとに残された家族にとっては悲劇となることはあっても、死んだ本人にとっては、少しも悲しいことではありません。新しい世界への誕生なのです。まったく新しい生活の場へ向上して行くことなのですから……。ジョン君もそのことをしっかりと理解してくださいね。ジョン君は眠っている時にお姉さんに会ったことがあるので、少しは知っているでしょ?」

ジョン「今この目で見てみたいです」


「目を閉じれば見えることがあると思いますよ」

ジョン「この部屋にいる人が見えてるようにですか」


「まったく同じではありません。さっきも言ったように“霊の目”で見るのです。霊の世界のものは肉眼では見えません。霊の世界の音も、肉体の耳では聞こえません。

今お父さんが、とてもうれしいとおっしゃってますよ。もちろんお父さんは、ジョン君のことは何でも知っています。いつも面倒をみていて、ジョン君が正しい道からそれないように導いてくれているのですから……」

ジョン「ぼくに代わって、礼を言ってくださいね」


「今の言葉はちゃんとお父さんに聞こえてますよ。ジョン君にはまだちょっと理解するのは無理かな? でも、ジョン君がしゃべることも、みんなお父さんにはわかるのです。フラッシュとなってお父さんのところに届くのです」

ジョン「どんなフラッシュですか」


「ジョン君が何かを考えるたびに、小さな光が出るのです」

ジョン「どんな光ですか。地上の光と同じですか。ぼくたちの目には見えないのでしょうけど、マッチをすった時に出るフラッシュのようなものですか」


「いえ、いえ、そんなんじゃなくて、小さな、色のついた明かりです。ローソクの明かりに似ています。それにもいろんな色があるのです。考えの中身によって、みんな色が違うのです。地上の人間の思念は、そのように色彩となってこちらへ届くのです。

わたしたちには人間は色彩のかたまりとなって映ります。いろんな色彩をもった一つのかたまりです。訓練のできた人なら、その色彩の一つ一つの意味を読み取ることができます。ということは、隠しごとはできないということです。その色彩が、その人の考えていること、欲しがっているもの、そのほか何もかも教えてくれます」

ジョン「スピリチュアリズムについて知ると、どういう得をするのでしょうか」


「知識はすべて大切です。何かを知れば、知らないでいた時より、その分だけ得(とく)をします。真理を知らないでいることは、暗闇の中を歩くことです。ジョン君はどっちの道を歩きたいですか」

ジョン「光の中です」


「でしたら、少しでも多くの真理を知らなくてはいけません。知識は大切な財産です。なぜなら、生きるための知恵は知識から生まれるからです。判断力が生まれるからです。知識が少ないということは、持ち物が少ないということです。わかりますね?

ジョン君は今、地球という世界に住んでいます。自分では地球は広いと思っても、宇宙全体からみれば、ほんのひとかけらほどの、小さな世界です。でも、その地球上に生まれたということは、その地球上の知識をできるだけ多く知りなさいということなのです。それは、次の世界での生活にそなえるためです。

さて、スピリチュアリズムのことですが、人生の目的は何なのかを知ることは、とても大切なことなのです。なぜなら、人生の目的を知らないということは、何のために生きているかを知らずに生きていることになるからです。そうでしょ? ジョン君のお母さんは前よりずっと幸せです。なぜかというと、亡くなったお父さんやお姉さんのことについて、正しい知識を得たからです。そう思いませんか」

ジョン「そう思います。前よりも助けられることが多いです」


「ほら、ジョン君の質問に対する答えがそこにあるでしょ? さて次の質問は?」

ジョン「地上の人間が発明するものについて、霊の世界の人たちはどう思っていますか。たとえば原爆のことなんかについて……」


「これは大きな質問をされましたね。地上の人たちがどう考えているかは知りませんが、わたしたちが考えていることを正直に申しましょう。

地上の科学者は、戦争のための実験と研究にはっぱをかけられて、その結果として原子エネルギーという秘密を発見しました。そしてそれを爆弾に使用しました。しかし本当は、その秘密は人類が精神的・霊的にもっと成長して、それを正しいことに使えるようになってから発見すべきだったのです。もうあと百年か二百年のちに発見しておれば、地上人類も進歩していて、その危険な秘密の扱い方に手落ちがなかったことでしょう。

今の人類は、まだまだうっかりミスの危険性があります。原子エネルギーは益にも害にもなるものを秘めているからです。ですから、今の質問に対する答えは、地上人類が精神的・霊的にどこまで成長するかにかかっている、ということになります。わかりますか」

ジョン「最後におっしゃったことがよくわかりません」


「では、説明のしかたを変えてみましょう。原子エネルギーの発見は、時期が早すぎたということです。人類全体として、まだ自分たちが発見したものについて正しく理解する用意ができていなかったために、それが破壊の目的のために利用されてしまったのです。もし十分な理解ができていたら、初めから有効な目的のために利用されていたことでしょう。

そこで最初の質問に戻りますが、もしも地上の科学者のすべてが正しい知識、霊的なことについての正しい知識をもっていれば、そうした問題について悩むこともなかったことでしょう。出てくる答えは決まっているからです。霊的な理解ができていれば、その発見のもつ価値を認識して、その応用は人類の福祉のためという答えしか出てこないからです」

ジョン「それが本当にどんなものであるかがわかったら、正しい道に使うはずです」


「その通りです。自分の発明したものの取り扱いに悩むということは、まだ霊的理解力ができていないということです」

ジョン「幽霊と霊とは、どう違うのでしょうか」


「これはとてもいい質問ですよ。幽霊も霊の一種です。が、霊が幽霊になってくれては困るのです。地上の人たちが幽霊と呼んでいるのは、地上生活がとても惨(みじ)めだったために、いつまでも地上の雰囲気から抜け出られないでいる霊が姿を見せた場合か、それとも、よほどのことがあって強い憎しみや恨みを抱いたその念がずっと残っていて、それが何かの拍子に、その霊の姿となって見える場合の、いずれかです。

幽霊さわぎの原因は、大てい最初に述べたタイプ、つまり、地上世界から抜け出られない霊のしわざである場合が多いようです。死んで地上を去っているのに、地上で送った生活、自分の欲望しか考えなかった生活が、その霊を縛りつけるのです」

ジョン「もう質問はありません」


「以上のわたしの解答に、ジョン君は何点をつけてくれますか」

ジョン「ぼく自身がその答えがわからなかったんですから……」


「わたしの答えが正しいか、間違っているか、ジョン君にはわからない――よろしい! わからなくてもかまいません。大切なのは次のことです。

ジョン君は地上の身近な人たちによる愛情で包まれているだけでなく、わたしたち霊の世界の者からの大きな愛情によっても包まれているということです。目には見えなくても、ちゃんと存在しているのです。何か困ったことがあったら、静かにして、わたしか、お父さんか、お姉さんか、誰でもいいですから、心に念じてください。きっとその念が通じて、援助にまいります」

別の日の交霊会で、同じ原爆の問題が取り上げられ、次のような質問が出された。

「国家が、そして人類全体が、原爆の恐怖に対処するにはどうすればよいでしょうか」


「問題のそもそもの根元は、人間生活が霊的原理に支配されずに、明日への不安と貪(どん)欲、妬(ねた)みと利己主義と権勢欲によって支配されていることにあります。残念ながら、お互いに扶(たす)け合い、協調と平和の中で暮らしたいという願望は見られず、自分の国を他国より優位に立たせ、他の階層の者を犠牲にしてでも自分の階層を豊かにしようとする願望が支配しております。

すべての制度が、相も変わらず、唯物主義の思想を土台としております。唯物主義という言葉は、今日ではかなり影をひそめてきているかも知れませんが、実質的には変わっておりません。誰が何と言おうが、この世はやはりカネと地位と人種が物を言うのだ、と考えております。そして、それを土台として、すべての制度をこしらえようとします。永遠の実在が無視されております。人生のすべてを目で見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わえる範囲の、つまり、たった五つの感覚で得られる、ほんの僅かな体験でもって判断しようとしています。

しかし、生命は物質を超えたものであり、人間は土くれやチリだけでできているのではありません。化学・医学・原子、こうしたもので理解しようとしても無駄です。生命の謎は、科学の実験室の中で解明される性質のものではありません。魂をメスで切り裂いたり、化学的手法で分析したりすることはできません。なのに、物質界の大半の人間は、霊的実在から完全に切り離された生活を営んでおります。物質こそ生命と思い込んで、最も大切な事実、全生命の存在を可能ならしめているところの根元を無視しております。

地上の全生命は、“霊”であるがゆえに存在しているのです。あなたという存在は“霊”に依存しているのです。実在は物質の中にあるのではありません。その物的身体の中には発見できません。存在のタネは身体器官の中を探しても見つかりません。あなた方は今の時点において、立派に霊的存在なのです。死んでこちらへ来てから霊的なものを身につけるのではありません。母胎に宿った瞬間から(物的身体をたずさえた)霊的存在であり、どうもがいてみても、あなたを生かしめている霊的実在から離れることはできません。地上の全生命は霊のおかげで存在しているのです。なぜなら、生命とはすなわち霊であり、霊とはすなわち生命だからです。

死人が生き返ってもなお信じようとしない人は別として、その真理を人類に説き、聞く耳をもつ者に受け入れられるように、何らかの証拠を提供することがわたしたちの使命の大切な一環なのです。人間が本来は霊的存在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。今日は原爆が不安のタネですが、明日はそれよりもっと恐ろしい、途方もないものとなるでしょう。

が、地上の永い歴史を見れば、力による圧政はいずれ挫折することは明らかです。独裁的政治は幾度か生まれ、猛威をふるい、そして消滅していきました。独裁者が永遠に王座に君臨することは有り得ないのです。霊は絶対であり天与のものである以上、はじめは抑圧されても、いつかはその生得権を主張するようになるのです。

魂の自由性(※1)を永遠に束縛することはできません。魂の自在性(※2)も永遠に拘束し続けることはできません。自由性と自在性は、ともに魂が決して失ってはならない大切な条件です。人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在を超えたものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。人間的知性ではその果てを知ることのできない巨大な宇宙の中での、千変万化の生命現象の根元的要素である霊と、まったく同じ、不可欠の一部なのです。


※1――freedom 外部からの束縛・強制がないという意味での自由。


※2――liberty 心に囚(とら)われがないという意味での自由。


以上のような真理が正しく理解されれば、すべての恐怖と不安は消滅するはずです。来る日も来る日も煩悶と恐れを抱き、明日はどうなるのかと案じながら生きることがなくなるでしょう。霊的な生得権を主張するようになるのです。霊は本来、自由の陽光の中で生きるべく意図されているからです。内部の霊的属性を存分に発揮すべきなのです。

永遠なる存在である霊が拘束され、閉じ込められ、制約され続けることは有り得ないのです。いつかは束縛を突き破り、暗闇の中で生きることを余儀なくさせてきた障害のすべてを排除していきます。正しい知識が王座に君臨し、無知が逃走してしまえば、もはや恐怖心に駆られることもなくなるでしょう。

ですから、ご質問に対する答えは、とにもかくにも、霊的知識を広めることです。すべての者が霊的知識を手にすれば、きっとその中から、その知識がもたらす責務を買って出る者が出てくることでしょう。不安のタネの尽きない世界に平和(やすらぎ)を招来するためには、霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて、他に手段は有り得ません。

ストレスと難問の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は、“真理の使節”としての自覚をもたねばなりません。残念ながら、豊かな知識を手にし、悲しみの中で大いなる慰めを得た人が、その本当の意義を取り損ねていることがあります。

霊媒能力は神聖なものです。いい加減な気持ちでたずさわってはならない仕事なのです。ところが不幸にして、大半といってよい霊媒が自分の能力を神聖なものとは自覚せず、苦しむ者、弱き者、困り果てている人たちのために、営利を度外視してわが身を犠牲にするというところまで行っておりません。

また、真理の啓示を受けた者――長いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って、目もくらまんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行して、滅私の精神が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。まだまだ精進が足りません。まだまだ霊的再生が必要です。

真理普及の仕事を託された者にわたしから申し上げたいのは、現在のわが身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけてはいないか、今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか、時の流れとともに煤(すす)けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか……そう反省してみることです。

霊力の地上へのいっそうの顕現の道具として、おのれの全生活を捧げたいという熱意にもう一度燃えていただきたいのです」

祈り


ではお終いに、皆さんとともに、調和と愛の力によって可能なかぎり波長を高め、心配事や悩み事などの雑念を払い、内奥の魂を顕現せしめ、全存在の創造主、全創造物の統治者にあらせられる大霊に近づき、その尊き力と栄光による祝福を賜るべく、お祈りいたしましょう。

ああ、真白き大霊よ。あなたの子であり、あなたに似せて造られているわたしどもは、ささやかな叡智の蓄えに少しでも多くを加えるべく、敬虔さと真摯さと誠意とをもって、あなたに近づかんとしているところでございます。

これまでに学んだ知識は、あなたについての誤った認識を改めさせ、無限なる霊であるあなたに一層近づかせてくれました。あなたの霊妙不可思議な摂理が、あなたがこしらえられたこの宇宙に存在する生きとし生けるものすべてを制御し、規制し、維持しているのでございます。

あらゆる存在が、あらゆる生きものが、あらゆる動物が、あらゆる小鳥が、自然界のあらゆる生命が、あなたの摂理の恒常性と正確さに賛嘆の敬意を表しております。この果てしなき宇宙の全存在に完璧な配剤がなされているからでございます。自然界の全側面が、その一つ一つの動きに至るまで経綸している自然法則の命令にしたがって、調和とリズムをもって動いているのでございます。

狂いなき軌道にそって回る恒星、地軸上を自転しつつ公転をくり返す地球、規則正しく巡りくる四季、野菜・果物・花・樹木等々の植物、そしてあなたの神性をミニチュアの形で宿している子等の活動、こうしたものはすべて、荘厳なる全大宇宙を支えるその崇高なる力の発現にほかなりません。

それと同じ力の発現を物質界を超越した高き次元の境涯において見届けてきたわたしどもは、時の経過とともに、賛嘆の念が薄れるどころか、ますます強烈さを増し、この宇宙的大機構の中にあってわれわれなりに貢献せねばという気持ちを、畏怖の念とともに抱くのでございます。

そこでわたしどもは、こうした教訓を説き、範を垂れ、知識を広めることによって、聞く耳をもつ者、受け入れる用意のある人々に永遠不滅の真理を届け、彼らを一層あなたに近づかせ、また互いに近づかせ、光輝と威厳と尊厳と気高さの中に生きることを可能ならしめたいのでございます。真実の自我に目覚めた者は、ぜひそうあらねばならないのです。

かくしてわたしどもは、無知と頑迷と憎しみを生み出す暗黒を駆逐し、混乱と無秩序、敵意と貪欲を追い払い、破滅へと導く利己的物質万能主義を排除して、愛が支配し霊的真理が息づく平和の中で暮らせる地上天国を招来するために、微力を捧げる所存でございます。

Sunday, January 26, 2025

シアトルの冬  霊としての生活

 Life as a Spirit

    The Spirits' Book
    アラン・カルデック(編)
    近藤千雄(訳)

  • 〈さすらう霊〉


    訳注――wandering spiritsをそのまま訳したのであるが、原語も日本語もともに適切とは思えない。要するに実在に目覚めずに仮相の世界にあって時には地球に、時には他の天体に再生する霊が、その再生するまでの期間を言わば〝放浪〟するわけである。別のところではerraticityという用語を用いているが、これは“住所不定”とか“無軌道”といった意味をもつもので、やはり放浪の状態を指している。要するに仮相の現象界を旅している霊のことで、“旅する霊”という方が言葉としては適切のように思えるが、取りあえず原語のままにしておいた。


    ――魂は身体から離れた(死亡した)あと直ぐに再生するのでしょうか。


    「直ぐに再生するケースも時たまありますが、大多数は長い短いの差はあっても合間の期間があります。それが地球に比して遥かに進化している天体の場合ですと、再生は、ほとんど例外なく、直ぐさま行われます。そういう天体では同じく物的身体といっても精練の度合いが違いますから、再生後も霊的能力のほとんどを使用することができます。強いて譬えればセミトランスの状態が通常の状態です」


    ――直ぐに再生しない霊は次の再生までの合間はどうなっているのでしょうか。


    「新しい運命(さだめ)を求めてさすらいます。その時の状態は“待ち”と“期待”の状態と言えます」


    ――合間の長さはどれくらいでしょうか。


    「短いのでは二、三時間、長いのになると数千年にもなります。厳密に言うと一定のきまりというものはありません。大変な期間に及ぶ場合がありますが、永遠にさすらうということはありません。前回の物的生活の清算をするために、遅かれ早かれ、いつかは再生する機会が与えられます」


    ――さすらいの期間は霊の意志で決まるのでしょうか、それとも罪の償いの意味もあるのでしょうか。


    「結果的には霊自身の自由意志に帰着します。霊が自由意志で行為の選択をする時は、明確な認識をもっております。ところが神の摂理の働きで、ある者は罰として次の再生が延期されることがあり、またある者は、物質身体に宿らない方がより効果的に遂行できる勉強が許されて、霊界に留まれるように配慮してもらえることもあります」


    ――さすらうということは、その霊が低級であることの証拠でしょうか。


    「それは違います。さすらう霊にも低級から高級まであらゆる等級があります。むしろ再生している状態の方が過渡的期間と言えます。霊の本来の状態は物質から離れている時です」


    ――物質界へ誕生していない霊は全てさすらいの状態にあるという言い方は正しいでしょうか。


    「まだ再生すべき段階にある霊についてはその言い方で正しいと言えます。しかし霊性がある一定のレベルまで浄化されつくした霊はさすらってはいません。その状態で完成されているのです」


    ――さすらう霊はどのような形で学んでいくのでしょうか。


    「それまでの全生活を細かく観察し、さらに向上するための手段を求めます。霊的観察力が働きますから、さすらって通過する境涯の現場の状況を観察したり、聡明な霊による講話に耳を傾けたり、高級霊によるカウンセリングを受けたり、といったことを通じて、どんどん新しい教育を身につけていきます」


    ――霊にも人間的な感情が残っているものでしょうか。


    「洗練された霊になると肉体とともに人間的感情も捨ててしまい、善性を求める欲求だけが残ります。が、低級霊は地上的不完全性を留めています。それさえ無ければ、どの霊もみな最高のものを秘めているのですが……」


    ――ではなぜその低級な感情を死とともに捨ててしまわないのでしょうか。


    「いいですか、あなたの知っている人の中にも、例えば極端に嫉妬心の深い人がいると思いますが、その人がこの地上を去ったら、とたんにその悪感情をあっさりと捨ててしまうということが想像できますか。地上を去ったあと、特に強烈な邪悪な感情をもった人には、その感情に汚染されたオーラが付着したまま残っています。霊は死とともに物的生活の影響から抜け出るのではありません。相変わらず地上時代の想念の中にあり、本当はこうでなくてはいけないという正しい心の持ち方を垣間見るのは、ホンの時おりでしかありません」


    ――霊はさすらいの状態の間にも進化するのでしょうか。


    「努力と向上心の強さしだいでは大いに進歩します。ですが、その状態で獲得した新しい概念を本格的に実行して身に沁ませるのは物的生活の中においてです」


    ――さすらいの状態にあることを霊自身は幸せに感じるでしょうか、不快に思うでしょうか。


    「それはその時点での功罪によりけりです。低級感情に負けるその根本的性格がそのままだと幸せとは感じないでしょうし、物的波動から脱すればその分だけ幸せを感じるでしょう。さすらいの状態にある間に霊は、より幸せになるためには何が必要であるかに気づき、それに刺激されて自分に欠けているものを獲得するための手段を求めようとします。その結果それが再生であると悟っても、必ずしもすぐに許されるとは限りません。それがすぐに叶えられずに延期されることが罰であることがあります」


    ――さすらいの状態にある霊でも他の天体を訪れることが出来るのでしょうか。


    「それは霊性の発達の程度しだいです。霊が物的身体から離れたといっても、必ずしも物的波動から脱したわけではありません。相変わらず今まで生活していた天体、あるいはそれと同等の発達程度の天体の波動の中で生活しております。ただし、地上生活中の試練の甲斐あって霊性が飛躍的に発達していれば別です。そうやって物的生活の体験をするごとに霊性が発達するのが本来の目的です。発達がないようではいつまでたっても完成の域には達しません。

    それはともかくとして、さすらいの状態にある霊でも地球より程度の高い別の天体を訪れることはできます。しかし、どうも勝手が違うという印象を受けるはずです。結局はその世界の生活風景を垣間見る程度にしか見ることができません。しかし、その体験が刺激となって改善と向上への意欲が促進され、やがてはそこに定住できることにもなるでしょう」


    ――浄化の程度の高い高級霊が波動の低い天体を訪れることはあるのでしょうか。


    「よくあることです。住人の向上を促進するためです。そういうことがなかったら、波動の低い天体は指導する者もいないまま放置されることになります」
    〈一時休憩所〉


    ――さすらう霊が休息をとる場所のようなものがあるのでしょうか。


    「あります。当(あ)て所(ど)もなく放浪の旅を続けている霊を迎え入れるための世界があり、みんなそこで一時的に生活を営みます。言うなればキャンパーが一時的にビバークするキャンプ地のようなもので、とかく退屈しがちな放浪の生活の途中で一服して英気を養うわけです。

    そうした世界は秩序を異にする世界との中継所的な役割を果たしており、そこへ訪れる霊の程度に応じて幾つかの段階が設けてあります。それぞれに居心地がいいような状態になっています」


    ――そこを離れたければいつでも離れていいのでしょうか。


    「結構です。赴くべき場所が定まれば、いつそこを出ても構いません。そこは譬えで言えば、渡り鳥が途中で翼を休めて次の目的地へ向けて飛び立つためのエネルギーを蓄える島のようなものです」


    ――そこでの滞在中にも進歩はあるのでしょうか。


    「もちろんあります。そもそもそういう世界へやってくる霊は何らかの指示を得たい、より高い界層を訪れる許しが得たい、そして速やかに向上したい、という願望を持っているのです」


    ――そこは特殊な世界で、永遠にさすらう霊の逗留地として運命づけられているのでしょうか。


    「そうではありません。天界の組織の中での位置は一時的なものです」


    ――その世界の物質界には物的身体をもった者が生活しているのでしょうか。


    「いえ、その天体の物的表面は不毛の土地です。その世界に住む者は物的欲望は持ち合わせません」


    ――不毛とおっしゃいましたが、永遠に不毛なのでしょうか、それとも何らかの原因でそうなったのでしょうか。


    「いえ、不毛性は一時的なものです」


    ――すると、そういう天体は大自然の美などは何もないわけですね?


    「“大自然の美”とおっしゃるのは“地上の生命活動の調和の妙”のことでしょう。それに劣らず見事な美によって創造の尽きせぬ豊かさが演出されております」


    ――そうした天体が一時的なものであるとすると、この地球もいつかはそういう天体となることも有り得るのでしょうか。


    「すでにそういう状態の時期がありました」


    ――いつのことでしょうか。


    「生成期のことです」
    〈霊の感覚と知覚と苦痛〉


    ――魂は、肉体から離れて霊の世界へ戻っても、地上時代に使用した感覚をそのまま所有しているのでしょうか。


    「所有していますし、地上時代に肉体に遮られて使用しなかったものまで使えるようになります。知性も霊の属性の一つで、肉体の束縛を受けなくなったため自由に顕現します」


    ――霊の知覚や知識に際限はない――つまり霊は何でも知ることができるのでしょうか。


    「完全に近づくにつれて知識も増えていきます。高級界層の霊になるとその知識の範囲は広大となります。低界層の霊は何につけても相対的に無知です」


    ――時の推移を感知しますか。


    「しません。あなた方から日時や時代を特定するように要求された時、我々の返答が今一つ明確でないことがあるのはそのためです」


    ――霊になれば地上にいた時よりも物事の真相が正確に把握できるようになるのでしょうか。


    「地上時代に比べれば昼と夜の差ほどの違いがあります。人間には見えないところまで見透せますから、物事の判断の仕方も違ってきます。ですが、何度も言っているようにそれも霊性の開発の程度によって違ってくる問題です」


    ――霊は過去に関する知識をどこから仕入れるのでしょうか。無制限に入手できるのでしょうか。


    「我々にとって過去のことは、そのことに意念を集中しさえすれば、あたかも現在の出来事のように感得されます。それは地上でも、強烈な出来事に関しては同じではないでしょうか。ただ異なるのは我々は人間の知性を鈍らせる物的なベールに閉ざされていませんので、人間の記憶から完全に消えていることでも鮮明に思い出せることです。ただし霊といえども全てが知れるわけではありません。たとえば我々がいつどうやって創造されたかは、今もって謎です」


    ――未来が予見できますか。


    「これも霊性の発達程度によって違ってきます。大体において部分的にしか見えませんし、かりに明確に見えても、それをみだりに人間に明かすことは許されません。見える時はまさに現在の出来事のように見えます。霊格が高いほど明確に見えます。死後、霊は過去の転生の全てを一望のもとに見せてもらいますが、未来については見せてもらえません。未来を一望できるようになるのは、いくつもの転生を重ねた末に神と一体となった霊のみです」


    ――完成された霊には宇宙の未来の全てが完全に読み取れるのでしょうか。


    「“完全に”という用語は適切ではありません。神のみが絶対的支配者であり、他のいかなる者も神と同等の“完全性”を身につけることはできません」


    ――その神の姿を拝することは可能でしょうか。


    「最高界の霊のみが神のお姿を拝し理解することができます。それより以下の霊はその存在を霊感で感知するのみです」


    ――神の姿を直(じか)に拝せない程度の霊が、かくかくしかじかのことは神から禁じられているとか許されているとか述べる時、その許可や禁止の命令をどうやって知るのでしょうか。


    「神を直接拝することはできなくても、その神威は感じ取れます。何かが為される、あるいは語られる時は、一種の直覚によってその見えざる警告、つまり公表を控えるようにとの命令を感じ取ります。あなたご自身もその種の密かな印象、つまりやってよいとかいけないとかを感じ取ることがあるのではありませんか。我々とて同じです。ただ程度が高いというだけの違いです。お分かりと思いますが、霊としての実体が人間より遥かに精妙になっていますから、神からの訓戒をより純粋に受け取ることができるのです」


    ――そうした神からの訓戒は神から直接伝達されるのでしょうか、それとも高級霊によって中継されるのでしょうか。


    「神から直接ということはありません。神と直接の交信にあずかるには、それなりの資格が要ります。命令は全て叡知と純粋性において高級な霊を中継して届けられます」


    ――霊の視力も人間のような限られた視界というものがあるのでしょうか。


    「ありません。視力は霊の内部から出ていますから」


    ――光は必要ないのでしょうか。


    「霊の内部から発する視力で見るのであって、外部からの光は必要としません。暗闇というものがないのです。あるとすれば、それは犯した罪への罰として閉じ込められる魂の暗闇です」


    ――霊が二つの箇所を見る時、一箇所を見て、それからもう一つの箇所まで移動するのでしょうか。例えば地球の北半球と南半球とを同時に見ることができますか。


    「霊は思念の速さで移動できますから、結果的には幾つの箇所でも同時に見ることができます。また霊は、同時に幾つの箇所へでも思念を発することができます。ただし、その威力は霊的純粋性によって違ってきます。不純であるほど視野が狭くなります。一度に全体を見通せるのは高級霊のみです」


    ――我々人間と同じように鮮明に見えるのでしょうか。


    「人間の視力より鮮明です。霊の視力は全てのものを貫通します。遮るものは何もありません」


    ――聴力もありますか。


    「あります。人間のお粗末な聴力では聞き取れないものまで聞こえます」


    ――その聴力も視力と同じく霊そのものの内部にそなわっているのでしょうか。


    「霊の感覚は本性として霊そのものにそなわっており、その存在の一部を構成しています。その霊が物的身体に宿ると、その身体のそれぞれの器官を通してしか感識できなくなります。死によってその肉体器官の束縛から離れて自由の身になると、視力とか聴力とかの区別なしに、霊の本質的なものとして働きます」


    ――感覚能力が霊の本質的なものであるとしたら、その能力を出したり引っ込めたりできるのでしょうか。


    「見たいと思ったものを見、聞きたいと思ったものを聞きます。ただしこれは正常な状態、とくに高級界での一般的な話として受け止めてください。と言うのは、贖罪界の低級霊は霊的矯正のために効果のあるものを否応なしに見せられ聞かされます」


    ――霊も音楽に感動しますか。


    「地上の音楽のことですか? 天上の音楽に比べて、一体あれが音楽と言えますか? 天上の音楽のハーモニーを譬えるものは地上にはありません。未開人のわめき声と素敵なメロディほどの差があります。もっとも低級霊の中には地上の音楽を好む者がいます。それ以上の崇高なものが理解できないのです。

    高級霊にとって音楽は汲めども尽きぬ魅力の泉です。審美的感覚が発達しているからです。私が言っているのは天上の音楽のことです。これほど甘美で麗しいものは、霊的想像力をもってしても、まず考えられません」


    ――大自然の美しさについてはどうでしょうか。


    「自然の美しさといっても各天体によってその美しさの形態が異なりますから、霊もその全てを知っているわけではありません。美しさを味わいそして理解する才能に応じて、それぞれにその自然界の美を感識しておりますが、高級霊になると細部の美しさは視界から消えて、全体としてのハーモニーの美しさを感得します」


    ――物的な必要性や苦痛を体験することがありますか。


    「そういうものがあることを知ってはおります。地上時代に体験しているからです。しかし、人間と同じようには体験しません。霊なのですから」


    ――霊も疲労を覚えて休息を必要とすることがありますか。


    「あなたがおっしゃる意味での疲労は覚えませんし、従って体を休める必要もありません。体力の補給を必要とする器官は持ち合わせないからです。ですが、霊も絶え間なく動き回っているわけではないという意味においては、休息を取ることがあると言えましょう。動くといっても身体を動かすという意味とは違います。霊にとって行動とは百パーセント知的な働きをいい、休息とは心の静寂をいいます。言い変えれば思念活動が静止して特定の目的に向けられていないことがあるということで、これが言うなれば霊の休息です。身体を休めるという意味での休息とは違います。もし疲れを覚えるとすれば、それは霊性の低さの指標であるとも言えます。霊性が高まるほど休息の必要性が無くなるものだからです」


    ――霊が苦痛を訴えることがありますか。どういう性質の苦痛でしょうか。


    「精神的苦悶です。いかなる身体的苦痛にもまして、魂に激痛を与えます」


    ――霊が寒さや暑さを訴えることがありますが、なぜでしょうか。


    「地上時代の体験の記憶によってそう感じ取っているまでですが、本人としては実際に寒さや暑さを感じていることがあります。しかし、よくある例として、自分の魂の苦悶を表現する手段が思いつかなくて、比喩的に寒さや暑さに擬(なぞら)えていることがあります。霊は、地上時代の身体のことを思い浮かべると、あたかも脱ぎ捨てた衣服をもう一度着るように、実際に身体があるかのように感じるものです」
    〈試練の選択〉


    ――霊界でのさすらいの状態にある霊は、新たな物的生活に入る(再生する)前に、それがどのような人生になるかを予見できるのでしょうか。


    「遭遇する試練については自分で選択します。そこに霊としての自由意志の行使が認められます」


    ――すると罰として苦難を科するのは神ではないのですね?


    「神の裁可なくして何事も発生しません。宇宙を経綸するための全法則・全摂理をこしらえたのは神なのですから。

    あなた方人間の立場から見ると、神はなぜこんな摂理をこしらえたのか――他に方法がありそうなものだが……と疑問に思うこともあることでしょう。実は各霊に選択の自由を与えるに際しては神は、同時に、その行為とその行為が生み出す結果についての一切の責任も担わせているのです。

    霊が自ら選んで進もうとするのを遮るものは何もありません。悪の道を歩むのもよし、善の道を歩むのもよし。かりに悪徳の誘惑に負けて悪の道に入っても、もはや取り返しがつかないというようなことにはなっておりません。しくじった人生をもう一度始めからやり直す機会が与えられます。

    もう一つ申し上げておきたいのは、神の意志による業(わざ)と、人間の意志による業とを截然と区別しなければならないということです。例えばあなたが危機にさらされたとします。その危機そのものはあなたがこしらえたのではありません。神が用意したのです。しかし、その危機にさらされることを選択したのはあなた自身です。その危機に遭遇することの中に霊的成長の手段を見出して自ら志願し、そして神がそれを裁可したということです」


    ――霊が地上生活で体験する苦難を自ら選択するということは、あらかじめ自分の一生を予知し選んでいるということになるのですね?


    「そういう言い方は正確ではありません。全部が全部あなたが選んだものとは言えないからです。あなたが選ぶのはどういう種類の試練にするかということで、実際に誕生してからの細かい出来事は、置かれた境遇でそれに対処するあなたの態度が生み出します。

    具体例で説明しましょう。かりに一人の霊が悪党ばかりがいる境遇に生まれたとしましょう。当然その霊は、そういう境遇でさらされるであろう良からぬ人間関係は覚悟しているはずです。しかし、それが具体的にどういうものであるかは、いちいち予知しているわけではありません。その時その時の対処の仕方、自由意志の行使の結果によって決まります。

    このように、霊は再生に際してはあらかじめ一つの人生航路を選び、その人生では大体かくかくしかじかの苦難を体験するであろうと予測します。つまり人生の大まかなパターンを承知の上で再生してきますが、それがどういう形の人間関係や事件・事故となって具体化するかは、置かれた境遇や時の流れの勢いによって決まる性質のものなのです。もっとも、その中には人生の方向を決定づける大きな要素がいくつかあり、それはあらかじめ承知しております。

    別の譬えで言えば、目の前にでこぼこ道が横たわっているとします。用心しながら歩かないと転びます。しかし、その道のどのくぼみで転ぶかが決まっているわけではありません。細心の注意をもって歩めば転ばなくても済むかも知れません。ところが一方、足もとにばかり気をつけていると、どこかの屋根の瓦が頭上に落下してくるかも知れません。そうなるように宿命づけられていたのだと考えるのは間違いです」


    ――悪党ばかりがいる境遇になぜ誕生しなければならないのでしょうか。


    「試練には教訓が込められています。ある霊にとってどうしても必要な教訓を学ばせるために、そういう条件をそなえた境遇に生をうける必要が生じるのです。その際、正さなくてはならない欠点と、その霊が置かれる境遇との間に連携的調和がなくてはなりません。例えば略奪強盗の衝動が沁みついている魂は、そういう境遇に再び放り込まれて、とことんその無情を味わう必要が生じる場合があるのです」


    ――では地上に邪悪な人間がいなくなったら霊は自分の試練のための条件が無くなることになりませんか。


    「結構なことではありませんか。なぜそれが不服なのでしょう? あなたのおっしゃるような世界はまさに高級霊の世界です。悪の要素は一切近づけず、従ってそこに住まうのは善霊ばかりです。地上界も一日も早くそういう世界になるように努力なさるがよろしい」


    ――完全を目指して試練の道を歩んでいる霊は、ありとあらゆる誘惑にさらされなくてはならないのでしょうか。自惚れ、嫉妬、貪欲、色欲、その他もろもろの人間的煩悩を試される環境に身を置かなくてはならないのでしょうか。


    「そのようなことはありません。すでに述べた通り、霊の中には当初から順調なコースを歩み、そういう酷しい試練を必要としない霊もいます。しかし、いったんコースを間違えると次から次へと誘惑にさらされることになります。例えば金銭欲に目が眩(くら)んだとします。そして思い通りの大金が入ったとします。その際、その人の性格によってはますます欲の皮がつっぱり、放蕩の生活に入ってしまうことはあるでしょうし、困っている人々に気前よく施しをして有意義に使用することも可能です。ですから、その人が大金を所有したからといって、それゆえに生じる邪悪性の全ての試練にさらされるということにはなりません」


    ――霊はその原初においては単純で無知で、体験も皆無のはずです。その状態でどうして知的な選択ができるのでしょうか。またその選択に対してどうやって責任を取るのでしょうか。


    「神は、霊の原初における未経験さを、ちょうど人間が赤ん坊を揺りかごの中で保護して育てるように、安全無事であるように叡知でもって保護してくださっています。そして、そうした中で芽生えていく自由意志との釣り合いを取りながら、少しずつ“選択の主”となることを許していきます。が、それは同時に選択を誤り、悪の道に入っていく可能性も出てくることを意味します。先輩の霊のせっかくの忠言も無視するようになるのもこの頃です。聖書に言う“アダムとイブの原罪”(人類の堕落)というのはことのことを言っていると考えてもいいでしょう」


    ――霊が自由意志を所有するに至れば、その後に選ぶ物的生活は百パーセント本人の意思によるのでしょうか、それとも罪滅ぼしとして神が科することもあるのでしょうか。


    「時を超越している神は何事にも決して急ぎません。罪滅ぼしも急ぎません。しかしながら、無知にせよ強情からにせよ、本人がそれから先どうすればよいかに気づかないと見た時、そして霊性の浄化と発達にとって物的生活が適し、それが罪滅ぼしのための環境条件を提供すると見た時は、強制的に物質界へ送り込みます」


    ――霊みずから試練として選択する時の規準はどのようなものでしょうか。


    「過去の過ちを償い、同時に霊性の進化を促進するものです。その目的のためにある者はみずから窮乏生活を選び、酷しい環境の中で力強く生き抜く修行をします。またある者は、財力と権力の誘惑の多い環境に生まれて、その誘惑への抵抗力を試す者もいます。貧乏よりもこの方が危険です。とかくそれを悪用しがちですし、それにまつわる邪悪な感情もどぎついものがあるからです。さらには悪徳の栄える巷に身を投じ、その中にありながらも、あくまでも善を志向する決意を強化せんとする者もいます」


    ――自分の徳性を試すために悪徳の環境に自らをさらす者がいるとなると、同じ口実のもとにそういう環境に生まれて放蕩ざんまいをする者もいるのではないでしょうか。


    「確かにそういう者がいます。しかし、それは当然のことながらよほど霊性の低い霊にきまっています。しかも、そういう場合はそれに対する試練が自動的に生じ、しかも長期間にわたって続きます。遅かれ早かれ彼は動物的本能に浸ることが悲惨な結果を招くことに気づきますが、気づいてもすぐにはその悲惨さから抜け切れず、そのまま永遠に続くかに思われます。神は時としてそういう再生の仕方の罪の深さを思い知らせるために、その状態に放置するのです。そのうち自ら志願して本当の試練によってその償いをする決意をするようになります」


    ――試練の選択に当たってはなるべく苦痛の少ない人生を選ぶのが人情ではないでしょうか。


    「人情としてはそうでしょう。しかし霊の観点からは違います。物的束縛から解放されると錯覚から目覚め、まったく違った感覚で考えるようになるものです」


    ――完全な純粋性に到達するまでは、霊は何度でも試練に遭わなくてはならないのでしょうか。


    「理屈の上ではその通りですが、“試練”の意味が違ってきます。地上の人間にとっての試練は物的な辛苦です。が、霊がある一定の純粋性の段階まで到達すると、まだ完全ではなくても、その種の試練は受けなくなります。代わって今度は進化向上のための仕事が課せられ、その責務の遂行が試練となりますが、それには苦痛は伴いません。たとえば他の霊たちの進歩を手助けする仕事などです」


    ――試練の選択を間違えるということは有り得ますか。


    「自分の力量に余るものを選んでしまうことはあります。その場合は挫折に終わります。反対に何の益にもならない人生を選ぶこともあります。怠惰で無意味な人生を送る場合です。こうしたケースでは霊界に戻ってからそのことに気づいて、その埋め合わせをしたいという欲求を覚えます」


    ――地球より程度の低い天体ないしは地上の最低の人種、たとえば人食い人種などから文明国に生まれ出ることがありますか。


    「あります。思い切って霊性の高い環境に挑戦してみようという考えから地球に誕生してくる霊はいます。ですが、どうも場違いという感じを抱きます。前世での本能や習性を携えてきているために、それが新しい社会の通念や慣習と衝突するのです」


    ――反対に文明国で前世を送った人間が罪滅ぼしとして未開人種の中に再生することがありますか。


    「あります。ただし、その罪滅ぼしの中身が問題です。奴隷に対して残酷だった主人は今度は自分が奴隷の身の上に生まれて、同じ残酷な仕打ちをされるかも知れません。理不尽な権力をふるった支配者は今度は自分が権力者の前に跪(ひざまず)く立場に生まれ変わるかも知れません。そうした罪滅ぼしは権力を悪用したことから生じていますが、善霊が程度の低い民族に影響力のある存在として生まれ出ることもあります。その場合は使命となります」
    〈生前と死後の人間関係〉


    ――霊性の発達の違いは上下関係をこしらえるのでしょうか。つまり霊界にも権威による主従関係というものがあるのでしょうか。


    「大いにあります。霊格の差による上下関係は厳然としており、霊性の高い者が低い者に対して持つ優位性は絶対的な不可抗力と言えるほどです」


    ――地上時代の権力や地位は霊界でも通用しますか。


    「しません。霊の世界では謙虚な者が高められ、尊大な者は卑められます。聖書を読みなさい」


    ――高められるとか卑められるとかいうのはどのように理解したらよいのでしょうか。


    「霊には、身につけた霊性の差による秩序があるのはご存じのはずです。ですから地上で最高の地位についても、霊性が低ければ霊の世界では低い界層に位置し、その人の従者だった者が高い界層に位置することがあるのです。

    まだ納得がいきませんか。イエスも言っているではありませんか――“およそ尊大な者は卑められ、謙虚な者は高められるであろう”と」(ルカ14・マルコ23)


    ――地上で偉大な人物とされていた者が霊界では低い界層にいた場合、その違いに屈辱感を覚えるでしょうか。


    「そういうケースが実に多いのです。高慢で嫉妬心が強かった場合はなおさらです」


    ――一兵卒だった者が霊界で上官と出会った時、やはり敬意を表するでしょうか。


    「肩書は何の意味もありません。本質的な霊的優位性が全てです」


    ――霊の世界も霊格の異なるさまざまな霊が入り交じっているのでしょうか。


    「そうとも言えますし、そうでないとも言えます。つまり互いの目には姿が見えていても、霊格の違いによる隔たりを直感しています。人間社会と同じで、親密感と違和感とによって近づいたり離れたり避けたりしています。霊の世界はさまざまな状況と霊的関係が混然一体となった世界で、地上界はそのおぼろげな反映にすぎません。同じ霊格の者が親和力の作用で引かれ合い、グループをこしらえ、共通の目的で協力し合っております。

    それにも善と悪とがあります。善の集団はあくまでも善を志向し、悪の集団はあくまでも悪を志向します。過去の悪行の不面目(ふめんぼく)を意地で打ち消してさらなる悪行を重ね、また自分と同類の集団の中に身を置くことによって気を紛らすのです」


    ――霊は誰とでも接触できるのでしょうか。


    「善霊あるいは高級霊は悪霊あるいは低級霊へ近づくことができます。善性の影響力を行使するためにはそうする必要があるからです。しかし低級霊が高級霊の界層へ近づくことはできません。ですから邪悪な感情で聖域が汚されることはありません」


    ――善霊と悪霊の関係の本質は何なのでしょうか。


    「善霊が悪霊の邪悪な性向を正すべく闘い、少しでも霊性を高めるように援助してやる――つまり善霊にとっては使命となるような関係になっています」


    ――低級霊はなぜ人間を悪の道に誘って喜ぶのでしょうか。


    「嫉妬心が強いからです。しょせん善霊の仲間には入れないと知ると、未熟な霊が順調に幸せになっていくことに嫉妬心を覚え、それを阻止しようとするのです。自分が味わっている辛い状態を彼らにも味わわせてやろうと考えます。同じような人間が地上にもいるのではありませんか」


    ――霊どうしの交信はどのようにして行われるのでしょうか。


    「見ただけで理解し合います。言語は物質界のものです。言語能力は霊の属性の一形態です。普遍的流動体(エーテル)によって霊どうしは常に交信状態にあると言ってよろしい。地上界の空気が音の伝達手段であるように、流動体が思念の伝達手段です。言うなれば宇宙的霊信装置で全天体を結んでおり、霊はどの天体とでも交信ができます」


    訳注――“言語能力は霊の属性の一形態”という意味は、見たり聞いたりする能力と同じく意思表示の能力も霊の本性として直接的に働くものであるが、地上という環境条件の中で生活するためには発声器官を媒体としなくてはならない。が、意思表示しているのは霊そのものの本性だということである。現在の生理学でも、なぜ見えるのか、なぜ聞こえるのかは、脳の働きと同じく、その構造を見ただけでは分からないという。シルバーバーチも、目があるから見えるわけではない、耳があるから聞こえるのではない、見るのも聞くのも“霊”です、と言っている。


    ――心に思っていることを隠すことができますか。また自分の姿を隠すことができますか。


    「できません。何一つ隠すことはできません。霊格が完成の域に達した霊の間ではとくにそうです。たとえ面前から退いても、互いに常に見えております。ただし、これを絶対的にそうとばかりも言えません。と言うのは、高級霊になると、自分が身を隠した方がいいと思った時は、低級霊には見えないようにすることができるからです」


    ――地上時代にいっしょに生活したことのある人であることが認識できますか。たとえば息子は父親を、友だちはその友だちを。


    「できます。何代にもわたって認識できます」


    ――それはどうやって知るのでしょうか。


    「霊は自分の過去世を見ることができるのです。自分の友や敵(かたき)の人生を誕生から死に至るまで見ることができます」


    ――死んで肉体から離れて直ちに親戚や友人の霊と会えるのでしょうか。


    「直ちにというのは正確ではありません。前にも述べたと思いますが、魂が霊界に戻って霊的意識を取り戻し物質性を払い落とすには、しばらく時間を要します」


    ――どのような迎え方をされるのでしょうか。


    「まっとうな人生を送った者は待ちに待った愛する友のように迎えられ、邪悪な人生を送った者は侮蔑の目をもって迎えられます」


    ――同類の邪悪な霊はどういう態度で迎えるのでしょうか。


    「自分たちと似て幸福感というものを奪われた仲間が増えたことに満足を覚えます。地上でもヤクザな人間は仲間が増えると満足するのと同じです」


    ――地上時代の親族や友人とは必ずいっしょに暮らせるのでしょうか。


    「それは霊格の要素が絡んだ問題で、時には向上の道を追いかけなければならないことがあります。つまり一方が遥かに向上していて、しかもそのスピードが速い時は、付いて行けません。もちろんホンの一時だけ会うことはできます。が、いっしょに暮らすことができるのは、遅れている方が追い付くか、または両者が完成の域に達してからです。もう一つの見方として、親族も友人も姿を見せてくれないのは、何らかの罪に対する罰であることがあります」
    〈親和力と反発力〉


    ――霊には大ざっぱな意味での類似性のほかに、特殊な情愛の関係もあるのでしょうか。


    「あります。人間と同じです。人間のような身体がないだけ、それだけ感情の起伏がありませんから、霊どうしのつながりは強くなります」


    ――霊どうしでも憎しみの念を抱くことがありますか。


    「憎しみは不浄な霊の間にのみ存在するものです。人間どうしの憎み合いや不和のタネを蒔くのは霊界の不浄霊です」


    ――地上で仇(かたき)どうしだった者は霊界でもずっと憎み合っているのでしょうか。


    「そうとは限りません。憎み合うことの愚かさを悟り、憎しみのタネとなったことの他愛なさに気がつく者が大勢います。いつまでも地上時代の怨恨を持ち続けているのはよほど幼稚な霊です。が、そうした者でも霊性が浄化されるにつれて少しずつその迷いから覚めて行きます。人間として物的生活を送っていた時に些細なことから生じた怒りは、その物的波動から抜けるとすぐに忘れていくものです。諍(いさか)いのタネが無くなってしまうと、本質的に霊性が合わない場合は別として、再び仲良くなるものです」


    ――地上時代にいっしょに悪事を働いた二人が霊界へ行った場合、その悪事の記憶が二人の関係を損いますか。


    「損います。疎遠になりがちです」


    ――悪事の被害者はどんな気持ちでしょうか。


    「霊性の高い人であれば、当人が反省すれば赦すでしょう。霊性が低い場合は怨みを持ち続け、時には再生してでも仕返しに出ることがあります。懲罰として神がそれを許す場合があります」


    ――情愛は死を境に変化するものでしょうか。


    「しません。愛は決して相手を違(たが)えません。地上のように偽善者がかぶるマスクはこちらにはありません。ですから、純粋な愛はこちらへ来てもいささかも変化しません。互いをつなぎ合う愛は崇高なる至福の泉です」


    ――地上で愛し合った二人は霊界でもそのまま続くのでしょうか。


    「霊的親和性の上に成り立っている愛であれば永続性があります。物的な要素の方が親和性よりも多い場合は、その物的要素が無くなると同時に終わりとなります。愛は人間どうしの場合よりも霊どうしの間の方が実感があり、かつ永続性があります。物的打算や自己愛による気まぐれの要素に影響されることがないからです」


    ――宇宙のどこかに自分の片割れがいて、いつかは一体となるように初めから宿命づけられているという説は本当でしょうか。


    「二つの魂が宿命的に特別な合体をするというようなことは有り得ません。一体となるのであれば、全ての霊が一体化へ向かって進化しており、それぞれの霊格の段階で融合し合っています。言い変えれば、到達した霊性の完成度に応じた段階で融合が生じます。完成度が高いほど融和性も深まります。人間社会に悪がはびこるのは融和性が欠けているからです。全ての霊が究極において到達する完全な至福の境涯は融和が生み出すのです」


    ――完全な親和性をもつ二人が霊界で再会した場合、もうそれで二人は永遠に一体なのでしょうか、それとも、いつかは別れて、また別の霊と一体となるのでしょうか。


    「霊はそれぞれの霊性の発達段階で誰かと一体となっていると言えます。私が完全な至福の境涯と言ったのは、完全の域に到達した霊のことです。それ以下の段階、つまり低い界層から高い界層へと向上して行く途中の段階においては、霊格の差によって離れてしまった者に対しては、かつてのような親和性は感じません」


    ――完ぺきな親和性で結ばれた二人は互いに補完し合うのでしょうか、それともその一体化は本質的な霊性の一致の結果なのでしょうか。


    「霊と霊とを結びつける親和力は両者の性向と本能とが完全に一致した時に生じる結果です。もし一方が存在しなければ他方が完全になれないというのでは、両者とも個的存在を失うことになります」


    ――現段階では親和関係のない霊の間にもいずれは親和関係が生ずるのでしょうか。


    「そうです。全ての霊がいつかは親和関係で一体となります。かりに二人の霊がいて、かつては一体だったのが、一方の進化が速すぎて、今のところは別れ別れになっているとします。しかし、これから先、進化の遅れている方が急速に進歩して他方に追いつくことも考えられますし、先を歩んでいた者が試練に負けてある界層で停滞を余儀なくさせられている場合には、後から進化してきた者がそれだけ速く追いつくことも考えられます」


    ――ということは、今は親和関係にあっても、その関係が切れてしまうことも有り得るわけですか。


    「当然です。一方の生命力が弱くて、他方がどんどん向上して行くというケースがあります」
    〈前世の回想〉


    ――終えたばかりの地上生活は死の直後にそっくりそのまま再現されるのでしょうか。


    「そうではありません。霊的意識が強まるにつれて少しずつ見えるようになります。ちょうど霧が晴れて少しずつ実体が見えてくるような調子と思えばよろしい」


    ――その気になれば何でも思い出せますか。


    「霊には、前世のありとあらゆる出来事の一部始終を、さらには心に抱いた思念までも、思い出す力がそなわっています。ただ、必要でもないものまで思い出すことはしません」


    ――過去世はどのような形で再現されるのでしょうか。その霊の想像力によるのでしょうか、それとも絵画のように眼前に映るのでしょうか。


    「その両方のケースがあります。興味があって思い出したいと思ったことは、まるで現実の出来事のように再現されます。それ以外のことは多かれ少なかれおぼろげか、まったく忘れ去っております。物的波動が薄れるほど物質界での出来事に重要性を置かなくなるからです。あなたにも体験があると思いますが、地上を去ったばかりの霊を招霊してみると、好きだったはずの人の名前や、あなたから見て大切な出来事と思えるものが思い出せないことがあるはずです。それは彼自身は重要視していないために記憶が薄れているからです。反対に、現在の彼の知的ならびに道徳的向上に影響を及ぼした、人生の重要なポイントとなっている出来事は、完全に思い出します」


    ――今捨て去ったばかりの肉体をどんな気持ちで眺めますか。


    「何かにつけて厄介だった不愉快な衣服を見つめるような気持ちです。脱ぎ去ってさっぱりしています」


    ――腐敗していくのを見てどんな気持ちですか。


    「ほとんどの場合、無関心です。どうでもいいものという感じです」


    ――死後少したってから、埋葬されている遺骸とか、かつての自分の持ち物とかを確認することがありますか。


    「時たまそういうことをすることがあります。が、その時はすでに地上的な物を見る目が大なり小なり高度になっています」


    ――後に残った者たちによって自分の遺品が飾られて遺徳を偲ばれるのは嬉しいものでしょうか。


    「いかなる霊でも地上の縁ある人々によって記念の行事が催されるのは嬉しいものです。そうした時に用意される記念物は、それに参加した人々を思い出す縁(よすが)となります。もちろんその記念物そのものではなく、それを発起した人々の思念がそうさせるのです」


    ――ある人が一連の重要な仕事に関わっていて、その完成を見ずして他界したとします。その場合、霊界で悔やむでしょうか。


    「そんなことはありません。そういう重要な仕事は他の有志によって完成されるように計画されていることを知るからです。悔やまないどころか、その完成のために霊界から現界の後継者に働きかけます。そういう人の地上人生は同胞のためという目的に向けられていたのであり、霊界へ来ても少しも変わりません」


    ――芸術作品や文学作品の遺作は地上時代と同じ感覚で見るものでしょうか。


    「霊格によって違いの大きさは異なりますが、地上時代とは別の視点で鑑賞し、往々にしてそのお粗末さに嫌気がさすものです」


    ――芸術や科学の進歩のために今地上で為されている努力に霊は関心を持つでしょうか。


    「霊格の程度によりますし、授かった使命によっても違ってきます。地上の人間には壮大なものに思えるものでも、霊から見るとどうでもよいものがあります。かりに関心を持つとしても、それは高等教育を受けた人が小学校の教育に関心を持つのと同じ程度にすぎないことがあります。地上に再生した者の霊格の程度を細かく調べ、その進歩に注目しています」


    ――霊は死後も母国への愛着がありますか。


    「霊格の高い霊にとっては宇宙全体が母国です。地球にかぎって言えば、いちばん愛着を感じる場所は親和関係の強い人間がいちばん多い所です」


    ――この地上へ生まれる以前は霊界に住んでいたのに、なぜ死後も生きていることを知って驚くのでしょうか。


    「驚くのは一時期だけのことで、それも死後の目覚めに伴う意識の混乱の結果です。意識が落ち着くとともに過去世の記憶が甦ります」


    〈葬儀にまつわる問題〉


    ――地上に残した愛する人々に関する記憶が甦ることで霊は影響を受けますか。


    「あなた方が想像する以上に影響を受けます。現在自分が置かれている状態が幸せであれば、その幸福感が増幅されます。もし不幸であれば、その思い出によって慰められます」


    ――国によっては命日というものを設けて法要が営まれるのですが、その日は特にその場に引き寄せられるものでしょうか。


    「法要の日に限らず、情愛を込めて祈念された時は、いつでも引き寄せられます」


    ――法要の日は埋葬されている場所に赴くのでしょうか。


    「大勢の人が集まってくれている時はその想念に引きつけられてそこへ赴きますが、義理で出席しているだけの人には無関心です。心から祈念してくれている人の一人一人のもとを訪れます」


    ――自宅で祈るよりも墓に詣でる方が喜ぶでしょうか。


    「墓まで足を運ぶということは、その霊のことを忘れていないことを示す一つの方法でしょう。しかし、すでに述べたように大切なのは心です。心からの祈りであれば、どこで祈るかは大切ではありません」


    ――故人を記念した像や石碑が建立されることがありますが、当の霊はその除幕式に出席するものでしょうか。その様子を喜んで見つめるものでしょうか。


    「出席できる状態であれば出席します。ですが、そのようにして記念してくれることを名誉と思うよりも、出席者の思いそのものを有り難く思うものです」


    ――自分の葬儀に出席しますか。


    「出席するケースはよくありますが、多くの場合、死に伴う意識の混乱状態の中にあるために、出席していても何のことか分からないものです」


    ――葬儀で長蛇の列をなしているのを見て、やはり得意な気分になるものでしょうか。


    「どういう心情で集まっているかにもよるでしょうけど、大勢の参列者を見て悪い気はしないでしょう」


    ――遺産相続人の会合には立ち合うものでしょうか。


    「必ずといってよいほど立ち合います。当人の教育として、また強欲が受ける懲罰がいかなるものであるかを見せるために、神がそのように計らいます。つまり、彼が生前受けた愛想の良さやお追従(ついしょう)が本当は何が目的であったかを思い知らされ、さらに遺産をめぐる強欲の張り合いを目(ま)のあたりにして、愕然とします。その相続人たちへの懲罰も、そのうち巡ってきます」








シアトルの冬 霊界への帰還 

Return to the spirit world

The Spirits' Book
アラン・カルデック(編)
近藤千雄(訳)



〈死後の魂〉



――死の瞬間、魂はどうなるのでしょうか。


「再び霊に戻ります。つまり霊の世界へ帰るわけです。ホンの少しの間だけ留守にしていたのです」


――その魂は死後も個性をそなえているのでしょうか。


「もちろんです。個性は決して失われません。もし個性を失ったら魂はどうなりますか」


――物的身体がないのに、なぜ個的存在としての意識が残っているのでしょうか。


「その霊特有の流動体(※霊体)が残っています。その天体の大気中から摂取したものです。それに、それまでの物的生活での魂の特徴が全て刻み込まれています。あなたのおっしゃるペリスピリットです」


――魂はそれ以外には地上生活から何も持っていかないのですか。


「地上生活の記憶と、より良い世界への憧れのみです。その記憶には地上生活をどう生きたかによって、楽しさか辛さのどちらかがいっぱい詰まっています」


――魂は、死後、普遍的な魂の集合体の中に戻っていくという説はどう理解すればよいでしょうか。


「個々の霊が集まって全体を構成するわけですから、集合体に戻ると表現してもよいのではないでしょうか。あなたも集合体に戻ればその不可欠の一部となるわけです。ただ、個性は維持しています」


――死後の個性存続の証拠はどうすれば得られるのでしょうか。


「今こうして交信している事実が何よりの証拠ではないでしょうか。あなたにもし霊視力があれば霊の姿が見えるはずです。霊聴力があれば霊の声が聞こえるはずです。一日のうち何度もあなたと別個の人格があなたに話しかけているのですよ」


――永遠の生命というものをどう理解すべきでしょうか。


「永遠なるものは霊の生命だけです。肉体は束の間の儚(はかない)い存在です。肉体が死滅することによって魂は再び永遠の生命に戻るわけです」


――私が思うに、永遠の生命という用語は浄化しきった霊、つまり相対的な意味での完全の段階にまで到達して、もはや苦難による試練を必要としなくなった霊に当てはめるべきではないでしょうか。


「その段階の生命はむしろ“永遠の至福”の境涯と呼ぶ方が良いでしょう。ですがそれはあくまでも用語の問題です。あなた方の間で意味の解釈で合意ができていれば、何と呼ばれても結構です」
〈魂と肉体の分離〉


――魂が肉体から分離する時は苦痛を伴いますか。


「苦痛はありません。死の瞬間よりも、むしろ死に至るまでの人生の方が遥かに苦痛を伴います。死に際して魂自身は肉体に生じている変化を意識しないものです。それどころか、言うなれば“国外追放の刑期”を終える時がいよいよ近づいたことを自覚して、魂自身は嬉しさでわくわくしていることがよくあります」


――分離の現象はどのようにして行われるのでしょうか。


「魂をつなぎ止めていた絆(玉の緒(シルバーコード))が切れ、肉体から離れて行きます」


訳注――ここに掲げた写真はカルデックが一八五〇年に創刊した『心霊評論』La Review Spirite紙上で紹介されたもので、それが訳者が購読中だった米国の心霊月刊誌CHIMES(チャイムズ)に掲載された(現在は廃刊)。解説文によるとフランス北東部のアルザスに住む老婦人が他界して納棺される直前に、娘が写真を撮りたいと言うので、弔問に訪れていた高等学校の校長が代わりに撮ってあげた。十二枚のフィルムのうち四枚だけ残っていたので四枚撮った。最初の一枚は露光は一秒だったが、部屋の明かりが弱すぎるので、二枚目は十二秒、三枚目は十五秒、四枚目は二十秒にした。焼き付けてみると一枚目は老婦人の普通の写真が写っていたが、残り三枚には見事なシルバーコードの映像が写っていた。玉の緒(通夜における写真)
(露光12秒)(露光15秒)(露光20秒)


――それは突然、そして一瞬の間に行われるのでしょうか。生と死とを分ける明確な線があるのでしょうか。


「いえ、魂は少しずつ分離します。カゴが開けられて小鳥がぱっと飛んで出て行くような調子で、霊が肉体から急に去って行くのではありません。生と死との境を行ったり来たりしながら、霊は少しずつ肉体との絆を緩めていきます。一気に切断するのではありません」


――有機体としての生命が停止するより先に霊と肉体とが完全に分離することも有り得ますか。


「肉体の断末魔が始まる前に霊が去っているということが時おりあります。断末魔は有機体としての生命の終末の反応にすぎません。本人にはもはや意識はないのですが、わずかながら生命力が残っています。しょせん肉体は心臓の働きによって動く機械です。血液が巡っているから生き続けているだけで、魂はもう存在する必要はありません」


――死の現象の最中に霊がこれから帰って行く霊の世界を垣間見ることはありますか。


「霊は、肉体につなぎ止められてきた絆が緩んでいくのを感じると、その分離現象を促進して一刻も早く完了させようとするものです。その際、すでに物的束縛から幾分か脱していますから、これから入って行く霊的世界が眼前に広がり、それを楽しく眺めていることがあります」


――いよいよ分離して霊界での意識を取り戻した時の感じはどんなものでしょうか。


「各自の事情によって異なります。悪いことばかりしてきた者は、その悪事の場面を見せつけられて恥じ入るでしょうし、善行に励んできた者は肩の荷を下ろしたような、晴れやかな気分がすることでしょう。どんなに厳しい目で見られても恥じ入るところは何一つ無いのですから」


――地上時代の知り合いで先に他界した人たちと再会できるでしょうか。


「できます。ただ、愛情関係の度合いによって直ぐに会える人と、なかなか会えない人とがいます。霊界への帰還を察知して出迎えてくれ、物質との絆を解くのを手伝ってくれる人もいます。前世で知り合いだったのに、あなたが地上へ行ってしまったのでその間会えなかった人が出迎えてくれることもあります。霊界に帰りながら今なお迷っている者にも会えますし、地上に残した者のところへ行ってみることもあります」
〈死後の意識の混乱〉


――事故死のように、老齢や病気による衰弱が伴わない死の場合、魂の分離は肉体的生命の死と同時に発生するのでしょうか。


「大体においてそうです。そうでないケースも無きにしもあらずですが、いずれにしても肉体の死から魂の分離までの時間はそう長くはありません」


――例えば斬首された場合、意識はそのまま残っているのでしょうか。


「少しの間残っているケースがしばしばあります。が、それよりも、死の恐怖のために刑の執行直前に意識を失っているケースがよくあります」


編者注――ここでいう“意識”は肉体器官を通じての意識のことである。その意識の途絶えは必ずしも肉体からの魂の分離を意味しない。肉体が元気なうちの突然の死においてはペリスピリットがしっかりしているために、魂の分離に時間が掛かるようである。


――肉体から分離した魂は直ちに霊としての自我意識を持つのでしょうか。


「直ちにではありません。しばらくの間意識が混乱し、感覚が鈍い状態が続きます」


――それはどんな霊でも同じですか。


「いえ、霊性の発達程度によって違います。霊的浄化がある一定レベルまで達している霊は、すでに地上生活中に物的束縛から脱していますから、直ちに意識を取り戻します。一方、物的波動にどっぷりと浸っていた者や道義心が鈍い者は、いつまでも物的波動から抜け出られません」


――霊的真理を知っているということは死後の目覚めに影響がありますか。


「大いにあります。これから置かれる自分の新しい環境についてあらかじめ理解ができていることになるからです。しかし、やはり何よりも大切なのは実直な日常生活と道義への忠実さです」

シアトルの冬  霊の書 第2部  霊の物質界への降誕

Nativity of the spirit into the material world




〈降誕の目的〉


――霊が物質界へ誕生してくる目的は何でしょうか。


「それは、完全性を成就するための手段として神が課した必要性の一つです。ある者にとっては罪の償いであり、ある者にとっては使命である場合もあります。完全性を成就するためには物的身体に宿ってのありとあらゆる体験を重ねる必要があります。個霊としての存在価値を発揮させるのは、浄化のための辛苦の体験です。

降誕にはもう一つの目的があります。すなわち造化の仕事に携わるに相応しい力を付けることです。その目的をもって、派遣された天体の物的環境に調和した物的身体を授かります。それを手段として、神によって割り当てられた各自の仕事を成就することができます。かくして一方で各自の霊性を磨きつつ、その世界の福祉のための役割をも果たすようになっているのです」


――個霊としての存在を得た当初から摂理にかなった道を歩んできた者にとっても必須なのでしょうか。


「全ての霊は無垢と無知の状態で創造されています。そして物的生活における苦闘と辛苦から教訓を得るために物質界へ降誕するのです。公正なる神は、ある者だけに苦難も努力も必要としないラクな人生を与えるようなことはしません。そんな人生では結局は何の価値もありません」


――もしそうだとすると、摂理にかなった道を歩んでも物的生活の困苦から免れないことになり、一体何のために正しい道を歩むのかという疑問が生じます。


「そういう霊は他の霊よりも速やかにゴールに到達するということです。そして、それとは別に、人生の苦労は、得てして霊としての不完全さの結果である場合が多いのです。ですから、そういう欠陥が少ないほど苦労も少ないことになります。妬むことも羨むことも知らず、貪欲も野心もない人は、そういう欠点をもつ者が遭遇する苦悶を味わう必要はありません」
〈魂〉


――魂(ソウル)とは何でしょうか。


「物的身体に宿っている霊(スピリット)のことです」


――物的身体に宿る前の魂は何だったのでしょうか。


「霊(スピリット)です」


――すると魂も霊も同一物ということでしょうか。


「そうです。魂も霊です。物的身体と結合する前の魂は見えざる世界で生活する知的存在で、それが浄化と啓発を得るために一時的に肉体に宿るということです」


――人間にはその魂と肉体のほかにまだ何かあるのでしょうか。


「その魂と肉体とを結びつけるものがあります」


――その結びつけるものというのはどういう性質をしているのでしょうか。


「半物質体、つまり魂と肉体との中間的性質をしたものです。異質の両者を結びつけるために必要なものです。霊が物質に働きかけ、物質が霊に働きかけるのは、この半物質体を通してです」


――魂は生命体(肉体)とは別個の存在なのでしょうか。


「繰り返し申し上げている通り、肉体は魂の媒体です」


――肉体は魂がいなくても(離脱しても)存在できますか。


「できます。ただし、魂が去ってしまえば生きていられません。誕生前の(母胎内での)魂と肉体との関係は完全ではありません。が、無事に誕生して両者の結合が確定的となれば、両者のつながりを断ち切ることができるのは肉体の“死”のみです。それを限りに魂は肉体から引き上げます。有機的生命は魂が抜けた身体を生かしめることはできますが、魂は有機的生命のない身体には宿れません」


――もし魂がなかったら肉体はどうなりますか。


「知性のない、ただの肉の塊です。何と呼んでもかまいません。人間でないことだけは確かです」


――同じ霊が同時に二つの肉体に宿って生まれることはできますか。


「できません。霊は分割できません。それゆえ二つの肉体を同時に生かしめることはできません」(『霊媒の書』第七章参照


――魂は筋肉の数だけ細分化されて、それが肉体の機能を支配しているという説がありますが、いかがでしょうか。


「魂という用語の意味が問題です。生命の流動体のことであれば、その説は正しいと言えます。宿っている霊のことであれば、それは間違いです。霊が分割できないことはすでに述べました。流動体を通して肉体器官を動かしているのであって、各器官に分散しているのではありません」


――でも、そういう説を唱える霊がいます。


「無知な霊はよく原因と結果とを取り違えます」


――魂は肉体の外部にあって肉体をくるんでいるという説は正しいでしょうか。


「魂が肉体に宿ると言う時、小鳥がカゴの中に閉じ込められているような図を想像してはいけません。魂のもつ霊的影響力がちょうど電球の光があたり一面を照らすように、あるいは音が四方へ鳴り響くように肉体全体に行きわたり、さらに肉体の外部にまで及んでいます。その意味では肉体の外部にあると言えますが、だからと言って魂は肉体をくるんでいるということにはなりません。

魂には二種類の媒体があります。第一の、ないしは、いちばん奥にあるのが、あなたのおっしゃるペリスピリット(※霊体)で、軽妙で繊細です。もう一つが肉体で、粗野で鈍重です。魂はこの二種類の媒体の中心で、ちょうど果実のタネの胚のようなものと思えばよろしい」


――魂は子供から大人になるまでの一生をかけて成長して完成されるという説はいかがでしょうか。


「霊というのは個霊として一単位であり、子供の時でも大人と同じく全ての属性をそなえた統一体です。一生をかけて成長するのは魂の表現機能としての肉体器官です。その説もまた原因と結果を取り違えています」


――なぜ全ての霊が魂について同じ定義が述べられないのでしょうか。


「この種の問題に関して全ての霊が同じ程度に啓発されているとは限らないからです。知的な発達が遅れていて、抽象的な概念が理解できない者がいます。地上の子供といっしょと思ってください。また、間違った知識ばかりを詰め込まれている者もいます。そういう霊は聞く者に権威をふりかざそうとして、やたらに難しい用語を並べ立てます。これ又、地上によく見かける例です。

それとは別に、正しく啓発されていながら、一見すると全く異なった用語を用いる霊がいます。基本的には同じことを言っているのですが、特に地上の言語では明確に表現できない問題についてはそうなりがちです。それを比喩や象徴的表現を用いて説明するのですが、それが文字通りに受け取られてしまうということもあります。魂という用語はとても曖昧で、各自が勝手な想像を加えて解釈しています」


――魂は身体のどこかに、周りを取り囲まれた存在場所をもっているのでしょうか。


「そういうものはありません。ただ、天才や思考を仕事とする人は主として頭部に、情緒に富んだ人や人道主義的な仕事に携わっている人は主として心臓部にあるということは言えるかも知れません」


――身体の中央部にあるという説もありますが……


「さまざまな思いはどうしても中心部に集中する傾向がありますから、そこに霊が位置していると言えるかも知れませんが、そういう説を立てる人は、霊の働きを生命力の流れと混同しているようです。それはそれとして、魂は知的ならびに道徳的な性格の表現を受け持つ器官に存在することが多いということは言えるかも知れません」
〈唯物思想〉


――解剖学者や生理学者、その他、一般的に自然科学に携わる人は唯物思想に陥りがちなのはなぜでしょうか。


「生理学者は、当然、何もかも五感を基準にしてものを考えます。科学者は全てを知り尽くしたと自惚れ、それまでの知識で理解できないものは、その存在自体を認めようとしません。科学そのものが人間を生意気にしてしまい、大自然で人間に知られていないものはないかに思い込んでいます」


――本来なら大自然を支配する大いなる知性の優位性を証明すべき科学的研究の結果が唯物思想を生むというのは嘆かわしいことではないでしょうか。


「唯物思想が科学的研究の結果、というのは正しくありません。科学的研究の成果から誤った結論を出す、人間の不完全性の結果です。人間はとかくそのようにして最高の宝を台なしにしてしまいます。さらに言えば、死は全ての終わりという概念は、実は、それを口にしている当人の方がジレンマを感じているのです。彼らは自信をもってそれを公言しているのではありません。偉そうな態度を取っているだけなのです。

いわゆる唯物主義者の大半はそう確信しているのではなく、死後の生命に合理的証明が得られないから取りあえず唯物論をぶっているだけです。こうして生きている生命が死とともに無に帰するという、あくびの出るような面白くない人生観しか抱けない学者が、ふとしたことで死後の生命に確かな拠り所を見つけてごらんなさい。とたんに、まるで溺れかかった人間のようにその証拠にしがみつくでしょう」

シアトルの冬 光の存在を知るのは闇があるからです

It is only with the darkness that we know the light exists.


The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)

映画女優のマール・オベロンには婚約者(フィアンセ)がいた。そのフィアンセを空港で見送った数秒後に、オベロンの人生に悲劇が訪れた。フィアンセを乗せた飛行機が爆発炎上したのである。事故の知らせを聞いて、当然のことながらオベロンは芒然自失の状態に陥った。


その後間もなく、ふとしたきっかけからハンネン・スワッファーのMy Greatest Story(私の人生最大の物語)という本を手に入れ、その中に引用されているシルバーバーチの霊言を読んで心を動かされた。たった一節の言葉に不思議な感動を覚えたのだった。

オベロンはさっそくスワッファーを訪ねて、できればシルバーバーチという霊のお話を直接聞きたいのですが、とお願いした。その要請をスワッファーから聞いたシルバーバーチは快く承諾した。そして、事故からまだ幾日も経たないうちに、交霊会に出席するチャンスを得た。

その後、さらに幾人かの霊媒も訪ねてフィアンセの存在を確信したオベロンは、その霊的知識のおかげで悲しみのどん底から脱け出ることができた。

では、最初にシルバーバーチの交霊会に出席した時の様子を紹介しよう。当日、スワッファーが交霊会の部屋(バーバネルの書斎)へオベロンを案内し、まずシルバーバーチにこう紹介した。

「ご承知のとおり、この方は大変な悲劇を体験なさったばかりです。非凡な忍耐力をもって耐えていらっしゃいますが、本日はあなたのご指導を仰ぎに来られました」

するとシルバーバーチがオベロンに向かって――


「あなたは本当に勇気のある方ですね。でも、勇気だけではダメです。知識が大きな力になってくれることがあります。ぜひ理解していただきたいのは、大切な知識、大きな悟りというものは、悲しみと苦しみという魂の試練を通してはじめて得られるものだということです。人生というものは、この世だけでなく、あなた方が“あの世”と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。光と影の両面がなくてはならないのです。

光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇がなければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは闇でなくなります。同じように、困難と悲しみを通してはじめて、魂が自我に目覚めていくのです。もちろん、それは容易なことではありません。とても辛いことです。でも、それが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜなら、地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ちうける次の段階の生活にそなえて、それに必要な霊的成長と才能とを身につけていくことだからです。

これまでにたどられた道も、決してラクではありませんでした。山あり、谷あり、そして、結婚という最高の幸せを目前にしながら、それが無慈悲にも一気に押し流されてしまいました。

あなたは何事も得心がいくまでは承知しないかたです。生命と愛は果たして死後にも続くものなのか、それとも死をもってすべてが終わりとなるか、それを一点の疑問の余地もないまで得心しないと気が済まないでしょう。そして今、あなたは死がすべての終わりでないことを証明するのに十分なものを手にされました。

ですが、わたしが察するところ、あなたはまだ本当の得心を与えてくれる事実のすべてを手にしたとは思っていらっしゃらない。そうでしょ?」

オベロン「おっしゃる通りです」


「こういうふうに理解なさることです――これがわたしにできる最大のアドバイスです――われわれ生あるものは、すべて、まず第一に霊的存在であるということです。霊であるからこそ生きているのです。霊こそ存在の根元なのです。生きとし生けるものが呼吸し、動き、意識を働かせるのは、霊であるからこそなのです。その霊があなた方のいう神であり、わたしたちのいう大霊なのです。その霊の一部、つまり大霊の一部が物質に宿って、次の段階の生活にふさわしい力を身につけるために地上体験を積みます。それはちょうど、子供が学校へ通って、卒業後の人生にそなえるのと同じです。

さて、あなたも、他のすべての人間と同じく、一個の霊的存在です。物的なものはそのうち色あせて朽ち果てますが、霊的なものは永遠であり、いつまでも残り続けます。物質の上に築かれたものは永続きしません。物質は殻であり、入れ物にすぎず、実体ではないからです。地上の人間の大半が幻影(まぼろし)を崇拝しております。キツネ火を追いかけているようなものです。真実のものを発見できずにいます。こうでもない、ああでもないの連続です。本来の自分を見出せずにいます。

大霊が愛と慈悲の心からこしらえた宇宙の目的・計画・機構の中の一時的な存在として人生をとらえ、自分もその中での不可欠の一部であるとの理解がいけば、たとえ身にふりかかる体験の一つ一つの意義はわからなくても、究極においては全てが永遠の機構の中に組み込まれているのだ、という確信は得られます。

霊にかかわるものは決して失われません。死は消滅ではありません。霊が別の世界へ解き放たれるための手段にすぎません。誕生が地上生活へ入るための手段であれば、死は地上生活から出るための手段ということができます。あなたはその肉体ではありません。その頭でも、目でも、鼻でも、手足でも、筋肉でもありません。つまり、その生物的集合体ではないということです。

それはあなた自身ではありません。あなたという別個の霊的存在が、地上で自我を表現していくための器官にすぎません。それが地上から消滅したあとも、あなたという霊は存在し続けます。

死が訪れると、霊はそれまでに身につけたものすべて――あなたを他と異なる存在であらしめている個性的所有物のすべて――をたずさえて、霊界へまいります。意識・能力・特質・習性・性癖、さらには愛する力、愛情と友情と同胞精神を発揮する力、こうしたものはすべて霊的属性であり、霊的であるからこそ存続するのです。

真にあなたのものは失われないのです。真にあなたの属性となっているものは失われないのです。そのことをあなたが理解できるできないにかかわらず、そしてまた確かにその真相のすべてを理解することは容易ではありませんが、あなたが愛する人、そしてあなたを愛する人は、今なお生き続けております。得心がいかれましたか?」

オベロン「はい」


「物的なものはすべてお忘れになることです。実在ではないからです。実在は物的なものの中には存在しないのです」

オベロン「私のフィアンセは今ここへ来ておりますでしょうか」


「来ておられます。実は先週も来られて、霊媒を通じてあなたに話しかける練習をなさったのです(※)。しかし、これはそう簡単にいくものではないのです。ちゃんと話せるようになるには、大変な訓練がいるのです。でも、あきらめずに続けて出席なさっておれば、そのうち話せるようになるでしょう。ご想像がつくと思いますが、彼は今のところ、非常に感情的になっておられます。まさかと思った最期でしたから、感情的になるなという方が無理です。とても無理な話です」


※――オベロンがスワッファーに出席の申し込みをした時点から霊団側はフィアンセと連絡を取っていたことが、これでわかる。交霊会は毎週金曜日の夜に行われた。

オベロン「今どうしているのでしょう? どういうところにいるのでしょうか。元気なのでしょうか」

この質問に、シルバーバーチは司会のスワッファーの方を向いて、しみじみとした口調で――


「このたびの事故は、そちらとこちらの二人の人間にとって、よほどのショックだったようですな。まだ今のところ調整ができておりません。あれだけの事故であれば、無理もないでしょうね」と述べてから、改めてオベロンに向かって――


「わたしとしては、若いフィアンセが、あなたの身近にいらっしゃることをお教えすることが、精一杯あなたの力になってあげることです。彼は今のところ何もできずにおります。ただお側に立っておられるだけです。これから交信の要領を勉強しなくてはなりません。霊媒を通じてだけではありません。ふだんの生活において、考えや欲求や望みをあなたに伝えることもそうです。それは大変な技術を要することです。それができるまでは、ずっとお側に付き添っているだけでしょう。

あなたの方でも、心を平静に保つ努力をしなくてはいけません。それができるようになれば、彼があなたに与えたいと望み、そしてあなたが彼から得たいと望まれる援助や指導が、確かに届いていることを得心なさることでしょう。

よく知っておいていただきたいのは、そうした交信を伝えるバイブレーションはきわめて微妙なもので、感情によってすぐ乱されるということです。不安・ショック・悲しみといった念を出すと、たちまちあなたの周囲に重々しい雰囲気、交信の妨げとなる壁をこしらえます。

心の静寂を保てるようになれば、平静な雰囲気を発散することができるようになれば、内的な安らぎを得るようになれば、それが、わたしたちの世界から必要なものを受けるための最高の条件を用意したことになります。感情が錯乱している状態では、わたしたちも何の手出しもできません。受容性、受け身の姿勢、これが、わたしたちが人間に近づくための必須の条件です」

このあと、フィアンセについて幾つかプライベートな内容の話が交わされてから、シルバーバーチがこう述べた。


「あなたにとって理解しがたいのは、多分、あなたのフィアンセが今はこちらの世界へ来られ、あなたはそちらの世界にいるのに、精神的にはわたしよりもあなたの方が身近な存在だということでしょう。おわかりになりますか。彼にとっては、霊的なことよりも地上のことの方が気がかりなのです。問題は、彼が霊的なことについて何も知らずにこちらへ来たということです。一度も意識にのぼったことがなかったのです。

でも、今では、こうした形であなたが会いに来てくれることで、彼も、あなたが想像する以上に助かっております。大半の人間が死を最期と考え、こちらへ来てからも記憶の幻影の中でのみ暮らして、実在を知りません。その点あなたのフィアンセは、こうして最愛のあなたに近づくチャンスを与えられ、あなたも、まわりに悲しみの情の壁をこしらえずにすんでおられる。そのことを彼はとても感謝しておられますよ」

オベロン「死ぬ時は苦しがったのでしょうか」


「いえ、何も感じておられません。不意の出来事だったからです。事故のことはお聞きになられたのでしょ?」

オベロン「はい」


「一瞬の閃光のうちに終わりました」

スワッファー「この方もそういうふうに聞かされております」


「そうでした。本当にあっという間の出来事でした。それだけに、長い休養期間が必要なのです」

オベロン「どれくらい掛かるのでしょうか」


「そういうご質問には、お答えするのがとても難しいのです。と申しますのは、わたしたちの世界では、地上のように時間で計るということをしないのです。でも、どのみち普通の死に方をした人よりは長く掛かります。急激な死に方をした人はみな、ショックを伴っているからです。いつまでも続くわけではありませんが、ショックはショックです。もともと霊は、肉体からそういう離れ方をすべきではないからです。そこで調整が必要となるのです」

さらにプライベートなメッセージを聞かされたあと――

オベロン「彼は今しあわせと言えるでしょうか。大丈夫でしょうか」


「しあわせとは申せません。彼にとって霊界は精神的に居心地がよくないからです。地上に戻って、あなたといっしょになりたいという気持ちの方が強いのです。それだけに、あなたの精神的援助が必要ですし、彼自身の方でも自覚が必要です。これは過渡的な状態であり、彼の場合は大丈夫です。霊的な危害(※)が及ぶ心配がありませんし、そのうち調整がなされることでしょう。

宇宙を創造なさった大霊は、愛に満ちた存在です。わたしたち一人一人に存在を与えてくださったその愛の力を信頼して、何事もなるべくしてそうなっているのだということを知らなくてはなりません。今は理解できないことも、そのうち明らかになる機会が訪れます。決して口先で適当なことを言っているのではありません。現実にそうだから、そう申し上げているのです。

あなたはまだ人生を物質の目でごらんになっていますが、永遠なるものは、地上の尺度では正しい価値は計れません。そのうち正しい視野をお持ちになることでしょうが、本当に大事なもの――生命・愛・本当の自分、こうしたものはいつまでも存在し続けます。死は生命に対しても、愛に対しても、まったく無力なのです」


※――邪霊による妨害と誘惑のことで、愛の絆のある霊たちが出迎えてくれるのは、それを防ぐ意味もある。

別の日の交霊会で、英国のみならず海外でも活躍している古くからのスピリチュアリスト(氏名は公表されていない)が招待され、シルバーバーチは「霊的知識に早くから馴染まれ、その道をいちずに歩まれ、今や多くの啓示を授かる段階まで到達された人」として丁重にお迎えした。そしてこう語りかけた。


「思えば長い道のりでしたね。人生の節目が画期的な出来事によって織りなされております。しかし、それもすべて、一つの大きな計画のもとに、愛によって導かれていることに気づいていらっしゃいます。暗い影のように思えた出来事も、今から思えば計画の推進に不可欠の要素であったことをご存知です。あなたがご自分の責務を果たすことができたのも、あなた自身の霊の感じる衝動に暗黙のうちに従っておられたからです。

これより先も、その肉体を大地へお返しになるまでに課せられているあなたの仕事は、とても意義深いものです。これまで一つ一つ段階を追って多くの啓示に接してこられましたが、これから先も、さらに多くの啓示をお受けになられます。これまでは、その幾つかをおぼろげに垣間見てこられたのであり、光明のすべて、啓示のすべてが授けられたわけではありません。それを手にされるには、ゆっくりとした発達と霊的進化が必要です。わたしの言わんとしていることがおわかりでしょうか」

「よくわかります」


「これは一体どういう目的あってのことなのか――あなたはよくそう自問してこられましたね?」

「目的があることは感じ取れるのです。目的があること自体を疑ったことはありません。ただ、自分の歩んでいる道のほんの先だけでいいから、それを照らし出してくれる光が欲しいのです」


「あなたは“大人(おとな)の霊”です。地上へ来られたのはこの度が最初ではありません。それはわかっておられますか」

「そのことについては、ある種の自覚をもっております。ただ、今ここで触れるつもりはありませんが、それとは別の考えがあって、いつもそれとの葛藤が生じるのです」


「わたしにはその葛藤がよく理解できます。別に難しいことではありません。その肉体を通して働いている意識と、あなたの本来の自我である、より大きな意識との間の葛藤です。たわいないこの世的な雑念から離れて霊の力に満たされると、魂が本来の意識を取り戻して、日常の生活において五感の水際(みぎわ)に打ち寄せて、しきりに存在を認めてほしがっていた、より大きな自我との接触が得られます。

さきほどおっしゃった目的のことですが、実は霊の世界から地上圏へ引き返し、地上人類のために献身している霊の大軍を動かしている壮大な目的があるのです。無知の海に知識を投入すること、それが目的です。暗闇に迷う魂のために灯火(ともしび)をかかげ、道を見失った人々、悩める人々、安らぎを求めている人々に安息の港、聖なる逃避所の存在を教えてあげることです。

わたしたちを一つに団結させている大いなる目的です。宗教・民族・国家、その他ありとあらゆる相違を超越した大目的なのです。その目的の中にあって、あなたにもあなたなりの役目が担わされております。そして、これまで数多くの魂の力になってこられました」

「ご説明いただいて得心がいきました。お礼申し上げます」


「わたしたちがいつも直面させられる問題が二つあります。一つは、惰眠(だみん)をむさぼっている魂の目を覚まさせ、地上で為すべき仕事は地上で済ませるように指導すること。もう一つは、目覚めてくれたのはよいとして、まずは自分自身の修養から始めなければならないのに、それを忘れて心霊的な活動に夢中になる人間を抑制することです。大霊は決してお急ぎになりません。宇宙が消滅してしまうことは決してありません。摂理も決して変更になることはありません。じっくりと構え、これまでに啓示されたことは、これからも啓示されていくことがあるとの証明として受け止め、自分を導いてくれている愛の力は、自分が精一杯の努力を怠りさえしなければ、決して自分を見捨てることはないとの信念に燃えなくてはいけません」

この老スピリチュアリストは、今回の交霊に備えて三つの質問を用意していた。次にその問答を紹介しよう。

「私の信じるところによれば、人間は宇宙の創造主である全能の神の最高傑作であり、形態ならびに器官の組織は大宇宙のミクロ的表現であり、各個が完全な組織をそなえ、特殊な変異は生まれません。しかし一体、その各個の明確な個性、顔つきの違い、表情の違い、性向の違い、そのほか知性・身振り・声・態度・才能等の差異も含めた、一見して区別できる個性を決定づけている要素は何なのでしょうか」


「これは大変な問題ですね。まず、物質と霊、物質と精神とを混同なさらないでください。人間は、宇宙の自然法則にしたがって生きている三位一体の存在です。肉体は物的法則にしたがい、精神は精神的法則にしたがい、霊は霊的法則にしたがっており、この三者が互いに協調し合っております。こうして、法則の内側にも法則があることになり、時には矛盾しているかに思えても、その謎を解くカギさえ手にすれば、本質的には何の矛盾もないことがわかります。

法則のウラに法則があると同時に、一個の人間のさまざまな側面が交錯し融合し合って、つねに精神的・霊的・物的の三種のエネルギーの相互作用が営まれているのです。そこでは三者の明確な区別はなくなっております。肉体は遺伝的な生理法則にしたがっており、精神は霊の表現ではあっても、肉体の脳と五官によって規制されております。つまり霊の物質界での表現は、それを表現する媒体である肉体によって制約を受けるということです。かくして、そこに無数の変化と組み合わせが生じます。霊は肉体に影響を及ぼし、肉体もまた霊に影響を及ぼすからです。これでおわかりいただけましたでしょうか」

「だいぶわかってまいりました。これからの勉強に大いに役立つことと思います。では次の質問に移させていただきます。人間はその始源――全生命の根源から生まれてくるのですが、その根源からどういう段階をへてこの最低次元の物質界へ下降し、物的身体から分離したあと(死後)、こんどはどういう段階をへて向上し、最後に“無限なる存在”と再融合するのか、その辺のところをお教えいただけませんか」


「これもまた大きな問題ですね。でも、これは説明が困難です。霊的生命の究極の問題を、物的問題の理解のための言語で説明することは、とてもできません。霊的生命の無辺性を完全に説き明かす言語は存在しません。ただ端的に、人間は霊である、ただし大霊は人間ではない、という表現しかできません。

大霊とは、全存在の究極の始源です。万物の大原因であり、大建築家であり、王の中の王です。霊とは生命であり、生命とは霊です。霊として、人間は始まりも終わりもなく存在しています。それが個体としての存在を得るのは、地上にかぎって言えば、母胎に宿った時です。物的身体は霊に個体としての存在を与えるための道具であり、地上生活の目的はその個性を発揮させることにあります。

霊界への誕生である死は、その個性をもつ霊が巡礼の旅の第二の段階を迎えるための門出です。つまり霊の内部に宿されている全資質を発達、促進、開発させ、完成させ、全存在の始源によりいっそう近づくということです。人間は霊である以上、潜在的には大霊と同じく完全です。しかし、わたしは、人間が最後に大霊の生命の中に吸収されてしまうという意味での“再融合”の時期がくるとは考えません。大霊が無限であるごとく、生命の旅も発達と完全へ向けての無限の過程であると主張します」

「よくわかります。お礼申し上げます。次に三つ目の質問ですが、今おっしゃられたことである程度まで説明されておりますが、人間は個霊として機械的に無限に再生をくり返す宿命にあるというのは事実でしょうか。もし事実でないとすれば、最低界である地上へ降りてくるまでに体験した地球以外における複数の前世で蓄積した個性や特質が、こんどは死後、進化向上していく過程を促進もし、渋滞もさせる、ということになるのでしょうか。私の言わんとすることがおわかりでしょうか」


「こうした存在の深奥にふれる問題を、わずかな言葉でお答えするのは容易なことではありませんが、まず、正直に申して、その輪廻転生論者がどういうことを主張しているのか、わたしは知りません。が、わたし個人として言わせていただけば――絶対性を主張する資格がないからこういう言い方をするのですが――再生というものが事実であることは、わたしも認めます。そのことに反論する人と議論するつもりはありません。理屈ではなく、わたしは現実に再生して戻ってきた人を大勢知っているのです。どうしても再生しなければならない目的があってそうするのです。地上にあずけてきた質(しち)を取り戻しに行くのです。

ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物とは申しておりません。一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは、全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、その海面上の部分だけです。死後もう一度生まれてくる時は、別の部分が海面上に顔を出します。潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。

霊界で進化を続けていくうちに、潜在的自我が、常時、発揮されるようになります。再生問題を物質の目で理解しようとしたり、判断したりしようとなさってはいけません。霊的知識の理解から生まれる叡智の目で洞察してください。そうすれば得心がいきます」

祈り

自然法則の一大パノラマの中に……


ああ大霊よ。無限なる設計者、王の中の王、全大宇宙機構を考案し、叡智によってそれを維持し、愛によってそれを動かしている、崇高なる知性にあらせられるあなた――そのあなたに、わたしたちは少しでも近づき、その無限なる叡智の宝庫から、永遠に続く求道(ぐどう)の旅に必要なものを摂取したいと願っているところでございます。

あなたは無限なる存在であり、あなたについてのわたしたちの認識は必然的に限りあるものとならざるを得ません。したがって、あなたの全体像を理解することは不可能なのでございます。

わたしたちは、果てしなき規模で顕現している宇宙の全生命を経綸する、自然法則の一大パノラマの中にあなたを見出しております。あなたは一部の人間が考えているがごとき、嫉妬心に燃える我儘(わがまま)な暴君ではございません。誰一人として特別に寵愛(ちょうあい)することもなければ、誰一人として特別に呪(のろ)うこともない、無限の知性にあらせられるのでございます。

あなたはその経綸のために絶対的原理を設けられました。原因に対しては必ずそれ相当の結果が自動的に、そして途切れることなく発生するように定められたのでございます。あなたに近づく者、あなたの意思を調和し、あなたの御心を表現する者は、その実りを、静寂と確信とにあふれた生活、輝きと豊かさに満ちた生活の中に刈り取ることになるのでございます。

不幸にしてあなたを見出し得ない者は、暗黒と無知の霧の中に迷い込み、行き先を見えなくする影にいつも取り囲まれていることになるのでございます。

人類の霊的救済に立ちあがったわたしたちにとって、そうした不幸な人々、困窮者、喪の悲しみに暮れている人々、病に苦しむ人々、重荷に耐えかねている人々、道を見失って、いずこへ向かうべきかが分からずにいる人々に手を差しのべることこそ任務と心得ております。進むべき道を照らし出す灯台としての真理を見出させてあげることが、わたしどもの願望なのでございます。

われわれの送り届けようとする霊力が、今、霊的真理と叡智の豊かさを受け入れる用意のある者に広めたいと願う地上の多くの同志を通して、ますます力強く顕現されていることに感謝の意を表したいと思います。

かくして人類は、徐々にではあっても確実に、混沌と利己主義と貪欲と戦争に背を向ける方向へと突き進むことになりましょう。そして霊力がますます人々の生活の中に顕現していくにつれて、平和の勢力がますます勢いを増し、やがて地上天国も現実のものとなることでございましょう。

その目標へ向けてわたしどもは祈り、そして努力するものです。

Saturday, January 25, 2025

シアトルの冬 永続性があるのは、唯一、“愛の絆”だけです

Only the bond of love is permanent.

The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



数十年にわたる交霊会でシルバーバーチに出された質問は、ありとあらゆる分野にわたっていて、文字どおり数え切れないほどであるが、本章が証明するように、シルバーバーチはそれらに対して実に当意即妙に応答している。念のために付け加えておくが、霊媒のバーバネルはその質問について前もって知らされたことは一度もない。

さて、シルバーバーチの霊言はすでに何冊か読んでいるというその日のゲストが、睡眠中にどんなことが起きているのかを尋ねた。するとシルバーバーチが間髪を入れずこう答えた。


「睡眠中の皆さんは、ただの生理的反応から霊的な活動にいたるまで、さまざまな体験をしておられます。あまりにも多種多様であるために、その中から特定して、これは生理的なもの、これは霊的なもの、といったはっきりした判断ができないだけのことです。

睡眠の目的そのものは単純です。身体は一種の機械です。実にすばらしい機械で、地上のいかなる技術者にもこれほど見事な機械はつくれませんが、機械である以上は休ませることが必要です。そうしないと機能を維持することができません。

大切なのはその身体の休息中に、霊がその身体から脱け出て活動しているということです。まさに、人間は毎晩死んでいるといってもいいのです。わずかに銀色の紐(シルバーコード)(魂の緒)によってつながってはいても、霊は完全に身体から脱け出ています。そのコードは実に柔軟な性質をしていて、霊はその束縛なしに完全に肉体から解放されています(※)。

その間におもむく先は、それぞれの霊的成長と進化の程度に似合った環境です。が、それがどこであれ、そこでの体験は地上世界の時間と五感の範囲からはみ出たものばかりですから、脳という物的器官では認識できないのです。

シルバーコードが完全に切れて霊界の住民になってしまえば、そうした睡眠中の体験のすべてを思い出すことができるようになりますが、今は断片的にしか思い出せません。霊界ではそれが通常となるわけです」


※――ここで言っているのは心身ともに健全な状態での話であって、病気だったり心配事が根強いと魂の緒が硬直して伸びきらないために、霊体が脱け切れずにウトウトとした状態が続いたり、完全な不眠症になったりする。

「霊界ではお互いをどう呼びかけ合うのでしょうか」


「こちらへ来て、完全に地上圏から脱すると、それまでの霊的成熟度に似合った名称が与えられます(※)。したがって、その名称で霊的成長と進化の程度が知れるわけです。が、名前そのものにこだわることはありません。お互いに有るがままに認識し合っています」


※――シルバーバーチがこんなことを言うのは初めてであるが、名前といっても音声と文字で表現されている地上の姓名とは本質的に異なる。それと同じ意味でのことばも、実は、ある。シルバーバーチが霊界ではことばはいりませんと言っているのは、誤解を避けるためである。『ベールの彼方の生活』の中で通信霊が霊界での名前が地上のことば(この場合は英語のアルファベット)でうまく表現できなくて困る場合がよくあり、各界層に特有のことば、つまり観念や意志の伝達手段があることを明確に述べている。

「人間は現在の人種と異なる人種に生まれ変わることがあるというのは本当でしょうか。もしも本当だとすると、愛する者とも別れ別れになることになり、大変な悲劇に思えるのですが……」


「そういう考え方は、再生というものの真相を正しく理解していないところから生じるのです。決して悲劇的なことは生じません。そもそも地上的な姻戚関係というのは、必ずしも死後にも続くとはかぎらないのです。イエスが地上にいた時、まわりの者が「お母さんがお見えになってますよ」と言ったのに対して、「いったい本当の母とは誰なのでしょう? 本当の父とは誰なのでしょう?」と問うたのをご存知でしょう。

自我のすべてが一度に物質界へ生まれ出てくることは絶対にありません。地上で“自分”として意識しているのは、本来の自我のほんの一かけらにすぎません。全部ではないのです。その小さなかけらの幾つかが別々の時代に別々の民族に生まれ出るということは有り得ることです。すると、それぞれに地上的血縁関係をこしらえることになり、中には幽体の次元での縁戚すらできることもありますが、それでも、霊的な親和関係は必ずしも存在しないことがあるのです。

永続性があるのは、唯一“愛の絆”だけです。血のつながりではありません。愛があり、血のつながりもある場合は、そこには魂が求め合う絆がありますので、両者の関係は死後も続きます。が、血のつながりはあっても愛の絆がない場合は、すでに地上にある時から霊的には断絶しており、こちらへ来ても断絶のままとなります」

「支配霊や指導霊は生涯を通して同じなのでしょうか、それとも霊的成長にともなって入れ替わるのでしょうか」


「それは仕事の内容によって異なります。たとえば支配霊――わたしたちはグループないしは霊団を組織していますから、その中心になる支配霊がいます――は言わば代弁者(スポークスマン)として選ばれた霊で、ある特定の霊媒現象を担当して、当人の寿命のあるかぎりその任に当たります(※)。成長過程の一時期だけを指導する霊は、その段階が終わって次の段階に入ると、入れ替わって別の指導霊が担当します」


※――ここは自分のケースを念頭において述べている。シルバーバーチはバーバネルの守護霊ではない。このあとの守護霊に関する注釈を参照。

「あなたは大霊は“摂理”であるとおっしゃりながら、祈りの中では“あなた”と呼びかけておられます。これは人間的存在を意味する用語ですから“矛盾”と受け取る人も多いのではないでしょうか」


「その辺がことばの難しさです。無限で、言語を超越しているものを、限りある言語で表現しようとするのですから……。そもそも霊とは物質を超越したものですから、物質界の言語では表現できないのです。小は大を兼ねることができません。

わたしたちにとって大霊とは、この全大宇宙とそこに存在するもの全てに責任を担う摂理であり、知性であり、力です。男性でも女性でもありません。皆さんが想像するような人格性はありませんが、かといって人間と無縁の存在という意味での非人格的存在でもありません。

あなた方もお一人お一人が大霊の不可欠の要素であり、大霊もあなた方の不可欠の要素なのです。その辺を理解していただこうとすれば、どうしても地上的な表現を用いざるを得ないわけですが、用いているわたしの方では、ことばを超えたものを表現することの限界を、いつも痛感させられております」

「創造主である大霊は、自分が創造したものの総計よりも大きいのでしょうか」


「そうです。ただし、創造は今なお続いており、これからも限りなく続きます。完結したものではありません。これからも永遠に続く営みです」

「ということは、大霊も完成へ向けて進化しているということでしょうか」


「進化という過程で顕現している部分はその過程を経なくてはなりません。なぜなら、宇宙は無限性を秘めているからです。その宇宙のいかなる部分も大霊と離れては存在できません。それも大霊の不可欠の要素だからです。とてもややこしいのです」

「死んで霊界入りする日(寿命)は何によって決まるのでしょうか。定められた日よりも長生きできないとしたら、心霊治療でも治らないことがあるのも、その辺に理由があるのでしょうか」


「おっしゃる通り、それも理由の一つです。霊がいつ物質に宿り、いつ物質から離れるかは、自然の摂理によって決まることです。とくに死期は故意に早めることが可能ですが、それは自然の摂理に反します。

人間は、脳の意識ではわからなくても、いつ生まれいつ死ぬかは、霊の意識ではわかっております。肉体から離れるべき時――これは生命の法則の一環として避けることはできません――が訪れたら、いかなる治療も効果はありません。一般論としての話ですが。

忘れないでいただきたいのは、心霊治療というのはきわめて複雑な問題でして、根本的には身体の病気を癒やすのが目的ではなく、魂の成長を促すためのものだということです。魂の体験としては病気も健康も必要です。物議をかもしかねない問題ですね、これは」

「病気も必要というところが引っ掛かります。病気を知らない生活が送れるほど完成された時代も到来すると私は信じます。あなたのおっしゃる病気とは、摂理を犯すこと、と受け止めてよろしいでしょうか」


「人間はいつになっても摂理に違反した行為をいたします。もしも完全に摂理と調和した地上生活を送ることができれば、それは地上で完全性を成就したことになりましょうが、完全性の成就は地上では有り得ないのです。なぜなら地球そのものが不完全だからです。

地球は学習のために通う“学校”です。その学習は、比較対象の体験による以外には有り得ません。日向(ひなた)と陰、嵐と凪(なぎ)、愛と憎しみ、善と悪、健康と病気、楽しみと苦しみといった相反する体験を通して学習していくのです。相対的体験と、その中での試行錯誤の努力を通して、魂が磨かれていくのです」

「そちらから人間をご覧になると、われわれが肉眼で見ているのと同じように見えるのでしょうか、それとも、肉体は見えずに霊体だけが見えるのでしょうか」


「有り難いことに、肉眼で見るようには見えません。わたしたちの目には皆さんは霊的存在として映じております。肉体は薄ぼんやりとしています。こうして霊媒の身体に宿って、その肉眼を通して見る場合は別です。その間は物質の次元にいるわけですから」

「ある人は霊界には無数の“界層”があると言い、ある人は七つしかないと言うのですが、どちらが本当でしょうか」


「霊的なものを物的な用語で定義することはもともと不可能なのですが、この“界層”という用語も誤解を招きます。霊界には地理的な仕切りはありません。“意識の状態”があって、魂が進化するにつれて意識が高まる、ないしは深まっていくことの連続です。一つの意識状態と次の意識状態とは自然に融合しております。そこに仕切り線のようなものはありません。進歩とか開発とか進化というのは、一足跳びにではなく、粗野な面が少しずつ取り除かれて、霊的な側面が表に出てくるということの連続なのです。

むろん未開な時代には、死後の世界は地上と同じように平面的な場所で、地上より高い界層と低い界層があるといった説き方をしたのはやむを得なかったことです。が、死後の世界は宇宙空間のどこかの一定の場所に存在するのではありません」

「病苦がカルマのせいだとすると、それが心霊治療によって治った場合、そのカルマはどうなるのでしょうか」


「そのご質問は論点がズレております。病苦がカルマのせいであれば、そのカルマが消滅するまでは病苦は除かれません。それ以外には考えようがありません」

「ある敬虔(けいけん)なクリスチャンで、とても立派だった女性が、死後、ある霊媒のところへ戻ってきて、ずっと薄闇の中にいて堪(たま)らないと、救いを求めておりました。あれほどの立派な方がなぜ薄闇の中にいるのか不思議でならないのですが、死後の存続の事実を知るチャンスがなかったからなのでしょうか」


「もしもその霊の出現が本もので、ほんとに暗闇ないしは薄闇の中に閉じ込められているとしたら、それは自分の魂の進化の程度の反映です。摂理はごまかせません。そして、“永遠不変の善”の規準は必ずしも“地上の善”とは一致しません。地上には、人間が“悪”だと決めつけているものでも、霊的観点からすれば“善”に思えるものが沢山ありますし、逆に、人間は“善”だと思っているものでも、わたしたちから見れば“悪”だと言いたいものが沢山あります。

たとえばキリスト教では、自分たちで勝手にこしらえた教義を盲目的に受け入れた人のことを善人のような言い方をします。が、実は、それは人間の宗教性の本質を窒息死させる行為にも等しいものです。なぜかと言えば、それではその後の人生は何をやっても“善人”であることを保障することになるからです。自分では正しいと信じていても間違っております。

そういう人工的な規準とはまったく関係のない“基本的善性”というものが存在します。あとに残るのはその基本的善性の方です。倫理・道徳には二種類あります。政治的道徳、経済的道徳、伝統的道徳といった類が一つ。もう一つは霊的要素によって決まる道徳です。あとに残るのは霊的要素のみです」

「“聖痕(スティグマ)”などの現象をスピリチュアリズム的にどう解釈したらよいのでしょうか」


「これは、大体においてその人のサイキ(※)の領域に属する現象です。熱烈な信仰心が精神に宿る心霊的要素を動かして、キリストのはりつけの時の傷跡などが斑点となって、その人の肉体に現れることがあります。物質的なものでないという意味では超常現象といえますが、霊の世界とは何の関係もありません」


※――Psyche元来は精神ないしは心の意味であるが、精神のもつ不思議な力をさすことが多い。これからサイキック(心霊的)という用語ができたのであるが、シルバーバーチはそれをスピリチュアル(霊的)と区別し、どちらかというとサイキックなものへの過度の関心を戒めている。スプーン曲げとか硬貨の溶解現象といった、最近、日本ではやっている超能力現象は純然たるサイキの領域に属するもので、未開人によるまじないや雨乞いに作用するエネルギーと同次元のものである。スピリチュアルなものと違って霊格や人格とは何の関係もなく起きるものであるから、そういう能力をもつ人を尊敬したり、自分にそういう能力があることを知って偉くなったような気持ちになるのは危険である。

「霊界通信には、内容的に正反対のことを言っているのがありますが、なぜそうなるのでしょうか」


「霊とはいえ人間的存在です。叡智の頂上をきわめた大天使と交信しているのではないことを知ってください。霊界にはさまざまな発達段階の存在がいて、それぞれに体験が異なりますから、当然、伝える情報も異なってきます。同一の霊からの通信でも、その後の体験によって違ったことを言うことも有り得ます。

他界する際に霊界についてある種の固定概念をもってくる人がいます。そういう人は、その固定観念を抱いているかぎり、そういう環境の中にいますから、交霊会などで意見を述べる機会があれば、その段階での見解を述べることになります。しかし、基本的なことに関するかぎり、矛盾はないはずです」

「スピリチュアリストの中にも相変わらずイエスは神の代理人で救世主であると信じている人がいます。これはスピリチュアリズムの七大綱領(※)と矛盾しませんか」


※――英国の女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンの霊言で述べられたもので、(一)神は全人類の父である。(二)人類はみな同胞である。(三)霊界と地上との間に霊交がある。(四)人間の霊は死後も存続する。(五)人間は自分の行為に自分が責任を取らねばならない。(六)地上での行為には、死後、善悪それぞれに報賞と罰が与えられる。(七)いかなる霊も永遠に進化する。以上の七つのうちの(二)と(五)に矛盾すると言っているのであろう。


「わたしは、何事にも寛容的で自主性を重んじるべきであるとの考えから、いかなる信条であれ、そう信じるのだという人にはその道を歩ませ、そうでないという人には、その人の信じる道へ行かせてあげればよいと考えています。信条はどうでもいいのです。教義は大切なものではありません。大切なのは“真実”です。が、地上であれ、霊界であれ、無限の真理のすべてを知り尽すことはできません。ほんの一部しか見えないのです。そして、知れば知るほど、まだまだ知らねばならないことが沢山あることを自覚します。そこで、ますます寛容的になっていくのです」

「バイブルには“神を恐れよ”とありますが、なぜ恐れねばならないのでしょうか」


「“おそれる”という用語の解釈の問題でしょう。神を怖がりなさいという意味ではないと思います。“畏(おそ)れ敬(うやま)う”という意味もあります」

「同じくバイブルの〈主の祈り〉に“悪魔の誘惑に負けませんように”とありますが、これをどう思われますか」


「これは間違いです。悪魔が誘惑するのではありません。自分にそういう要素があるから悪の道にはまるのです。

ここで一言、わたしが感じていることを述べさせていただきますが、こうした質問をお聞きしていると、まだまだ霊的真理がわかっていらっしゃらないようです。いまだに用語や書物や教会に縛られています。わたしたちはそういうものには一切こだわりません。本来が霊的存在である皆さんは、大霊と同じく無限の存在であり、そういう子供っぽい概念から早く脱け出ないといけないと申し上げているのです。

永遠に変わることのない真理を理解しないといけません。それは、古い言い伝えにこだわり、教義や用語や書物を手放すのを恐れているかぎり、できません。そこで、オモチャは幼児の段階では役に立っても、大人になったら、いち早く片付けないといけません」

「霊能開発の修行中の者が霊の救済活動に手をかけることについてはいかがでしょうか」


「未熟な霊媒がそういう重大な仕事に手をつけるのは実に危険で、感心できません。暗闇の中で迷っている霊を救うには、高度な霊能を身につけた霊媒を必要とします。未熟な霊媒だと、その霊媒自身が憑依されて、いろいろと厄介なことになりかねません」

「守護霊についてお話し願えませんか」


「霊が地上へ誕生してくるに際しては、一人の守護天使(※)がつけられます。それは地上でいう“家系”を同じくする者である場合もあれば、“霊的親和性”(霊系)によって選ばれる場合もあります。いずれにしても、両者を結びつける何らかの共通の利益というものに基づいております。

しかし、両者の関係がどこまで親密となるかは、地上の人間の霊的成長しだいで決まることです。守護霊の働きかけをまったく感受できない場合は、霊力を使用して外部環境から操作せざるを得ません。意識的協力が不可能な場合は、無意識のうちにでも協力関係をもたねばなりません。霊界からの働きかけは霊的にしかできませんから、いつどこであろうと、条件が揃った時にその影響力が届けられるように配慮するわけです」


※――Guardian Angel 日本では守護霊と呼び、その守護霊の守護霊、そのまた守護霊とたどっていくと、そうした“類魂”の大もとに行き着く。これを守護神と呼ぶことがある。

いずれにせよ、英語でも日本語でも“守護”という用語が使われているために、何でもかでも“守ってくれる”と誤解されがちであるが、地上にいる当人の成長と進化が絶対的な目標であるから、そのために最も効果的な手段を取ろうとする。それが当人にとっては辛く苦しい体験に思えることもある。

もう一つの誤解は、じっと付き添って見つめてくれているかに想像することである。実際は高級霊ほど仕事が多くて一刻の休みもなく活動している。その中で守護霊としての仕事を引き受けるのであるから、それは兼務の形になり、直接的な仕事は指導霊にまかせることが多い。それでいて当人の心の動きの一つ一つに通じている。

シルバーバーチは霊言現象のための指導霊であり支配霊であって、バーバネルの守護霊ではない。守護霊は別にいたはずで、“わたしよりはるかに霊格の高い方たちの指示により……”といったセリフが見えるので、たぶんその中の一人であろうと私は見ているが、六十年間、一度も表に出なかった。ここにも、シルバーバーチ霊団の次元の高さがうかがえる。

「霊界でも子供の出産があるのでしょうか」


「わたしは一度も見たことがありません。誕生といえるものならあります。しかし、それは霊的復活のことです。出産は地上だけの出来事です。地上は学校だからです」

「ホメオパシー(※)の謎について教えてくださいませんか」


※――Homeopathy 同種療法・同毒療法と訳されている医学用語で、病気の原因物質と同じものを少量だけ使う治療法。


「“謎”というべきものではありません。よくわからないだけのことです。生命の営みについて、われわれもあまり多くを知りません。造化の秘密もまだわかっておりません。何事も、究極のところまでくると“なぜか”はわからないのです。

ホメオパシーも究極的には一種の霊的エネルギーに基づいております。すべてがそうだとは言い切れませんが、突きつめていくと、無限小の世界へ入って行きます。そして、行きつくところまで行きつくと、やはり全生命の根源にたどりつきます。結局それが根源です。

別の側面からみると、この問題も、作用と反作用とは同じであると同時に正反対である、という科学的原則に基づいております。同種と異種とは作用と反作用であり、同じであると同時に正反対、つまり同じ棒(ポール)の両端ということです。“ゲッセマネの園”(※1)は同じポールの一方の端であり、もう一方の端が“変容の丘”(※2)というわけです。両者とも同じ一本のポールなのです」


※1――イエスが苦悩と裏切りにあったオリーブ山のふもとの丘で、人生における最大の苦難の象徴。


※2――イエスがモーセとエリヤの霊と交霊した丘のことで、その時イエスはこの世の人間とも思えない神々しい姿になったという。物的なもの、世俗的なものを克服した霊的勝利の象徴。

「人を殺(あや)めた人が、その後バチが当って殺されたとします。この場合、その人は死んでから改めて殺人行為の償いをさせられるのでしょうか」


「残念ながらご質問者は、霊的生命についてよくご存知ないようです。宇宙は、変えようにも変えられない絶対的な自然法則によって支配されております。その中でも原因と結果の法則(因果律)が基本となっております。つまり結果にはそれ相当の原因があり、原因のない結果というものは有り得ない――言いかえれば、原因はそれに先立つ原因の結果であり、その結果が原因となって新たな結果を生んでいくということです。

このように、各自の運命は自然法則によって決められていくのです。その法則の働きは当人の魂に刻み込まれた霊的成長度に反応します。あなたは今あるがままのあなたです。こうありたいと装ってみてもダメです。地上生活中に行ったことが、すべて、真の自我に刻み込まれています。その行為の価値が魂を豊かにもし、貧しくもします。あなたみずから行ったことが、そういう結果を生んでいくのです。

死によって物的身体から離れると、魂はそれまでに到達した進化の程度をスタートラインとして、新しい生活に入ります。それより高くもなっていませんし、それより低くもなっていません。自然の摂理があらゆる要素を認知しているからです。公正が行きわたるように摂理が自動的に働くのです。

罰せられるのも報われるのも、すべてあなたの行為一つ一つが生み出す結果の表れです。自分の行為によって成長する場合と、成長を阻害される場合とがあるということです。以上がわたしたちの説く教えの核心です」

「天体が人間の宿命や日常生活に影響を及ぼすという占星術の考えを肯定なさいますか、否定なさいますか。もともと占星術は運命判断を目的としたものではないという認識の上での話ですが……」


「わたしは、地球上の天体も、地球上の人間の生命に影響を及ぼしている事実は認めますが、それは、あくまでも物的影響力をもつ放射物に限られています。

その放射物が何であれ、それが霊力をしのぐほど強烈であったり強大であったりすることは有り得ないと信じます。あくまでも霊は物質より上である――霊が王様で物質は従僕である、というのがわたしの考えです。

宿命とおっしゃいましたが、何もかもあらかじめ定められているという意味での宿命はないと考えています。これも用語の問題――宿命という用語をどう定義するかの問題です。宇宙はあくまでも秩序によって支配されていて、人間生活の重大な出来事もその計画の一部であるという意味では、あらかじめ定められていると言えると思います。

そうした宿命的な出来事を生み出す波動や放射物、そしてそれらが人間各自に及ぼす影響を正確に計算しようと思えばできないことはないはずですが、最終的にはやはり霊が絶対優位にあり、物的なものは霊的なものに従属したものであると主張いたします」

「よく問題となる霊と物質との結合の時期を一応受胎の瞬間であるとした場合、その受胎までは霊ないし意識体はどこで何をしていたのでしょうか。そもそも意識体というのは何なのでしょうか」


「生まれ変わり(再生)のケースは別として、霊は、物質と結合する以前から存在していても、その時はまだ個体性はそなえていないということです。物質と結合してはじめて人間的個性(パーソナリティティー)が発生するのです。そして、そのパーソナリティーの発達とともに内部の個的大我(インディビジュアリティー)が顕現されてまいります。

したがって、ご質問に対する答えは、霊は無始無終に存在していますが、物的身体と結合してはじめて個別性というものを持つことになるということです。ただし、最初に断りましたように、例外として、物的身体との結合が初めてでないケースがあります」

「もしそれが事実で、物質の結合以前には個性がないとなると、霊としてのそうした新しい現象をどうやって意識できるのでしょうか」


「パーソナリティーとインディビジュアリティーとを区別して理解しないといけません。パーソナリティーというのは、永遠の実在であるインディビジュアリティーが地上生活中に見せる特殊な側面にすぎません。インディビジュアリティーとしては霊的意識体は無始無終に存在しております。が、それが地上に顕現するためにはパーソナリティーという地上的形態を持たねばなりません。つまりパーソナリティーというのはインディビジュアリティーが物的身体を通して顕現している部分で、いわばマスクであって、本当の顔ではありません。あくまでも地上だけの人物像であり、内的実在の物的表現にすぎません」

「となると、再生する目的は、そのパーソナリティーを大きくするためでしょうか、インディビジュアリティーの方ではなくて……」


「必ずしもそうとは言えません。再生するのはインディビジュアリティーの別の部分であることがあるからです。その新しい部分による地上体験によって、全体のインディビジュアリティーの開発が促進されるわけです。インディビジュアリティーはパーソナリティーよりはるかに大きいのですが、この“大きい”というのは霊的な意味でのことでして、その意味はどう説明したところで、地上の人間には理解していただけません」

「では、あなたの知っている方で、この地上へ再生して行った人がいますか」


「います、沢山います。ですが、(上の説明でもわかる通り)それを証明してあげるわけにはいきません。わたしの言葉を信じていただくほかはありません。もちろん、否定なさってもかまいません。真理は、否定されたからといって、いささかも影響はうけません」

「キリスト教的伝統の中で生まれ育ちながら、なお真実を求めている人は、キリストをどう理解したらよいのでしょうか」


「ここでもまた用語が問題となります。どの宗教にせよ、一つの宗教的伝統の中で生まれ育った人は、すでに無意識のうちに偏見というものを持ち合わせていますから、そうした問題を不偏不党の立場で論じるのは至難のことです。

“キリスト”という用語はもともとは“油を注がれた人”という意味であって、これまでに油を注がれた人を数え上げれば大変な数にのぼります。が、ご質問者が“ナザレのイエス”のことをおっしゃっているのであれば、あの二千年前の時代と地域環境の中で、人間としての正しい生き方を霊的に、心霊的に、そして物質的に範(はん)を垂(た)れた、すぐれた人物として敬意を表すべきです。

しかし、イエスなる人物は大霊だったわけではありません。大霊がイエスとなって出て来たのではありません。もしも神学で説かれているように、イエスは大霊が物的身体をまとって出現したのだと信じたら、せっかくのイエスの存在価値はなくなり、無意味となります。

かりに完全無欠の大霊がそっくり人間の形態をとって出現したとすれば、その人物が完全無欠の人生を送ったとしても当たり前の話であって、尊敬には値しません。が、皆さんと同じ一個の人物が皆さんと同じように自然の摂理にしたがって生まれ、しかも人間として最高の人生を送ったとなれば、それは人間の模範として、すべての人間の敬意を表するに値する人物であることになります。

啓示というものは、一つの時代、一つの言語に限られたものではありません。あらゆる啓示の始源は一つあるだけです。無限の叡智の宝庫があるのです。太古から現代に至るまでのあらゆる時代に、その国、その民族の条件に合わせて、必要なだけの叡智と知識を啓示する努力が、絶えずなされてきております。その意味でも、過去の啓示にばかり目を向けるのは間違っていることになります。

今この時点で、今いるその場で、永遠の泉からの啓示に浴することができるという事実をよく理解しないといけません」

「今あなたは、大霊だったら完全無欠の人生を送るのは簡単であるとおっしゃいましたが、その言い分だと、神も一個の人間的存在であるという理屈になりませんか」


「ご質問の意味が、神ご自身が人間的形体をまとって出現した――それが、第一だか第二だか第三だか知りませんが、とにかく“三位一体”のいずれかの“位(くらい)”を占めているという神学上の説のことをおっしゃっているのであれば、それは完全無欠の神の化身なのでしょうから、完全無欠の人生を送るのは容易かも知れないが、そんな人生には価値はないと申し上げているのです。ナザレ人イエスの使命の肝心なものが消滅してしまいます。

大霊は人間的な姿格好をしているのではありません。大霊はあらゆる人間的人物像を超越した存在です。ですが、それを人間に説明するためには、わたしは、限りある人間に理解していただける範囲でのことばを使用する以外に方法がないのです」

「“ナザレ人イエス”というのは、結局、何だったのでしょうか。並はずれた霊的才能を持ち、言うこと為すことすべてが背後霊に導かれていた、一個の人間だったのでしょうか。それとも、きわめて霊格の高い高級霊が降臨したのでしょうか」


「どちらも真実です。問題は、イエスの生涯に関する記録はきわめて乏しく、断片的で、その上ずいぶん書き換えられているということです。

イエスの生涯の最大の価値は、心霊的能力と霊的能力(P29参照)を見事に使いこなしてみせたことにあります。心霊的法則と霊的法則を私利私欲や邪(よこしま)なことに使用したことは一度もありませんでした。時には人間性をむき出しにしたこともありましたが(※)、霊的摂理というものを完全に理解しておりました。

歴史的に見れば、彼のような生身の人物による啓示を必要とする時代だったから出現した、と理解すべきです。が、彼がその啓蒙のために使用した霊力は、今あなた方の時代に顕現している霊力とまったく同じものだったのです」


※――不正や邪悪なものを前にした時に見せた激しい怒りのことを言っている。いわゆる義憤であるが、シルバーバーチに言わせれば、動機が何であれ、憤(いきどお)るということは人間的感情であって、その意味でイエスは完全無欠の人生を送ったとは言えないと、別のところで述べている。常識的に考えれば当たり前のことであるが、キリスト教ではイエスを無理やり完全無欠な人物にしようとするからそういう言い方をすることにもなったわけである。

「霊能開発に際して、真面目な霊を引き寄せ、邪霊を追い払うにはどうしたらよいでしょうか」


「類は類を呼ぶといいます。あなたの動機が真面目なものであれば、つまり常に最高のものを求め、邪心をもたず、利己的な下心がなければ、親和力の作用そのものが同じような霊を引き寄せます。また、そこには危険性もないことになります。

要するにあなたから出ている雰囲気が、異質なものを近づけなくするわけです。もしも聖人君子に愚かしい霊がつくとしたら、宇宙には摂理がないことになります」

「あなたは、愛する者がいつも私たちといっしょにいてくれているとおっしゃいましたが、その時、彼らは本来の自我の一部ではないかと思いますが……」


「そうです。愛する霊は地上の者を見守りつつ、同時に霊界での生活を営むことができるのです。皆さんのように一個の身体に縛られていないからです。こちらの世界では、意識というものに地上のような制約がありません。皆さんは英国と南アフリカに同時にいることはできませんが、わたしたちにはそれが可能なのです。距離とか行程とかの問題がないからです。

愛する者にとっては、皆さんのもとに来るのは決して辛いことではありません。愛がなければいっしょにいる気にはなれません。愛があればこそ、歩調を合わせて見守る気にもなるわけです」

「霊的な援助は必ず背後霊を通して届けられるのでしょうか――大霊が直接関与するのではなくて」


「大霊による直接の関与などというものは絶対にありません。あなた方が想像なさるような意味での人間的存在ではないのです。

そうではなくて“ヤコブのはしご”(旧約聖書)の話に象徴されているように、最低のものから最高のものへと至る霊的階梯があって、そこに無数の中間的存在がいるのです。上へあがるほど、より神性を帯びた意志と叡智を表現しております。

ですから、人間が心を開き、霊性を開発し、向上するにつれて、より大きな霊力、より大きな知識、より大きな理解力をそなえた高級な存在と連絡が取れるようになるわけです。みな大霊の僕(しもべ)として、この全大宇宙の人間的存在の向上を援助する仕事に、自発的にたずさわっているのです。こちらの世界では、進化向上が進むほど、自分が得たものを他に施すべきであるとの自覚が強くなるのです。

以上がご質問に対するわたしの答えです」

「霊界にも学問のための建造物があるのでしょうか」


「もちろん、ありますとも。こちらの教育システムはいたって単純です。ありとあらゆる分野の知識が得られるように、各種のホール、専門学校、総合大学等が用意されています。そこで教える資格をもつ者は、教育者としての才覚をそなえた人にきまっています。

この無限の宇宙の中のありとあらゆるテーマについての知識が得られるようになっていて、教師も、それぞれの分野にふさわしい資格をもっている者が揃っており、受け入れる用意のある人に分け隔てなく与えられます。どの分野だけ、といった制約はありません。受け入れる用意のある人には何でも与えられます。つまり、唯一の条件は魂の受け入れ態勢です。

地上の皆さんでもその知識に与(あずか)ることができます。皆さんにとって興味のあること、成長と開発と進歩にとって必要な情報と知識を得るのは至って簡単なのです」

「“愛”に発した貢献(サービス)と“責務への忠誠心”に発した貢献とでは、どちらが上でしょうか」


「それは、その“貢献”がどういう性質のものであるかによって違ってきます。その動機を探らなくてはなりませんし、それに、あなたのおっしゃる“愛”とは何かが問題です。愛の最高の形での表現は神性を帯びたものとなりますが、最低の形での表現は利己主義の極致となります。

どんなものであっても、サービスはサービスです。その価値の尺度は、そのサービスを受けた人への作用と、施した人への反作用です。責務への忠誠心に発したものであれば、それはそれなりに立派ですし、愛に発したものも、その愛の対象のみに偏らない、無私・無欲の愛によるものであれば、これまた、動機は立派です」

「心霊治療は別として、スピリチュアリズムの活動は物理的現象を必要としない段階に入ったと言えるでしょうか」


「いえ、いつの時代にも、自分の目で確かめ、手で触れないと気が済まない人、つまり物的次元での証拠を必要とする人のための物的現象が必要です。それは物質以外のものの存在が信じられない人だけに限ったことではなく、五感の領域を超えたものの実在が理解できないように洗脳された科学者についても言えることです。

むろん同じく物的現象でも、時代によって形式の変化はあるかも知れません。が、物的な側面での何らかの形での演出は、いつの時代にも必要です。寄せては返す波のように、歴史はくり返します」

「公開交霊会(※)などで壇上の霊視家が霊からのメッセージを伝える時に“この列の何番目の席の方”といった指摘の仕方でなしに、その方の名前が言えるようになれば、なお証拠性が高まると思うのですが……」


※――シルバーバーチの交霊会のように限定された少人数で行うのを“家庭交霊会(ホームサークル)”といい、広いホールなどで大勢の会衆を前に行うのを“公開交霊会(デモンストレーション)”という。


「もちろん、それに越したことはありません。ですが、バイブルにもありますように、見えるといい聞こえるといっても、人間の能力には限度があります。ご質問者は、霊媒現象というものがその時その場での条件次第で良かったり悪かったりするものであることをご存知ないようです。まず第一に、それまでの霊媒自身の霊格の発達程度がありますし、霊的能力の開発程度がありますし、通信霊が霊媒のオーラとどこまで感応できるかの問題もありますし、支配霊と霊媒との一体関係の程度にもよります。

一つの霊視現象には以上のような要素が絡んでいるのです。問題は、どうすべきかではなくて、その時の条件下でいかにして最高のことを行うかです」

「あなたは、われわれ人間は大霊のミニチュアないしは縮図、未開発の大霊である、といった意味のことをおっしゃったことがあります」こう述べて、続けて質問に入ろうとするとシルバーバーチが――


「あなたは神、わたしのいう大霊であり、大霊はあなたです。発達程度の違いがあるだけです。大霊が所有しているものはすべて、本性(エッセンス)の形であなたにも宿されています。大霊は神性の極致であり、あなたにも同じ神性が宿されています。神性の本質の違いではなく、その神性の発達程度の違いがあるだけです」

「で、その人間がひどい苦痛をともなう精神的障害によって表現機能を奪われているケースがありますが、そんな時は、むしろ早く死なせてあげた方がよいのではないでしょうか」


「その人がいつ死ぬべきであるということを、一体どなたがお決めになるのでしょうか。その責任はだれが取るのでしょうか。この人は二度と正常に戻れませんという判断は、一体だれに下せるのでしょうか。精神と霊とが正常な連絡関係を取り戻して精神的障害が治ってしまう――そういう霊的革新が起きないとは、だれに断言できるのでしょう。

わたしはそういう考えには賛同しかねます。人間が生命をこしらえるのではない以上、その生命を勝手に終わらせる権利は、人間にはありません。次の進化の過程にそなえた体験を積むために割り当てられた期間は、最後まできちんと生きるべきです。ほんのわずかな地上生活でもって永遠の時を査定なさろうとすると、この無限の宇宙について、至ってお粗末でひがんだ観方(みかた)しか生まれてきません」

「そういう行為は、魂に霊的資質を失わせることも有り得るのでしょうか」


「いえ、失うということは有り得ません。表現の器官を失うことによって開発のチャンスを失うことにはなっても、本来の霊的資質を失うことは有り得ません。その分、つまり失われた開発のチャンスは、埋め合わせの原理によって、他の何らかの手段によって与えられることになるでしょう」

「“単純”ということが神の属性であると信じているわたしたちからすれば、霊界の通信者はなぜもっと単純な表現をしてくれないのだろうかと、疑問に思うのです。高級界の神霊のことになると、なぜか直接的な表現を避けるところが見受けられます。たとえば“神”のことを私たちはGod(ゴッド)という用語を用いますが、あなた方はそれを使用せずにGreat White Spirit(グレイト ホワイト スピリット)などと、ややこしい言い方をなさいます」


「複雑で深遠な問題を扱うには、そう単純に片づけられないことがあるのです。たとえば“神”のことをあなた方はゴッドと呼び、わたしたちはグレイト・ホワイト・スピリットと呼びますが、どこがどう違うのか。

わたしにとっては、宇宙の背後に控える無限の力は、“ゴッド”のように、世界中の億単位の人間がそれぞれにまったく異なる概念で使用している用語を用いるよりは、グレイト・ホワイト・スピリット(真白き大霊、ないし無色の大霊、の意)の方が、より正確にその本性を伝えていると考えるのです。単純ということは、それで済まされる場合には大切な要素となりますが、この問題に関するかぎり、わたしはゴッドという単純な用語を避けても非難されるいわれはないと信じます。

高級神霊のことですが、これもなかなかうまい表現が見当たらないのです。わたしが知るかぎり、地上には譬えられるものが存在しません。あなたはご自分と似たような容姿の人間ばかりを見慣れていらっしゃいますが、わたしが光栄にも時おり連絡を取り合うことを許されている高級霊になると、その容姿をどう表現したところで、あなたには理解していただけないでしょう。

“存在”というと、人間的容姿をそなえたものしか想像できない人間に、全身これ光、ないしは炎のかたまり、といった存在をどう表現したらよいのでしょう。伝えようにも、それをうまく表現する用語が見当たらないのです。秘密にしておこうという魂胆があるわけではありません。現在の地上人類の進化の段階では、それとは途方もなく隔たりのある段階の存在は、とても理解できないからにすぎません」

「私の家でサークルをこしらえて、そこへあなたがお出になって人生相談に乗っていただくというのは可能でしょうか」


「それをこの家で行いましょうということで、これまで努力してきたわけです。このわたしを頼りにしてくださるのは有り難いのですが、こうしてしゃべるための霊媒を養成するのに、ずいぶん永い年月が掛かったのです。それがこうして成就されたというのに、また新たな霊媒のために永い年月を掛けるということは、計画の中に組み込まれてはいないようですよ」

「私は霊視能力が欲しいのですが、これまでのところ、うまくいっておりません。熱意が不足しているのでしょうか」


「熱意というのは、あまり強すぎると、えてしてバイブレーションを乱すことがあるものです。健全な能力の開発は、サイキックなものであれスピリチュアルなものであれ、完全な受容性と安らぎと静寂の中で行われるものです」

「献血という行為には何か霊的な意味があるのでしょうか。また、肉体以外にも何か影響はないものでしょうか」


「わたしは、ここで改めて輸血という医療行為に不賛成を表明せざるを得ません。そのわけは、輸血に際して注入されるのは血液だけではなくて、それに付随した幽質の要素も含まれているからです。それは献血者の人間性の一部です。つまり輸血によってその献血者の存在の本性にかかわるさまざまな要素までもが他人に移されることになり、これは、場合によっては好ましくないケースも有り得ます。

人間というのは実に複雑な要素が一個の統一体となった存在でして、入り組んだメカニズムの中で、全体ががっちりとうまく組み合わさっているのです。その大切な要素の一部を他の人間に譲るということは、自然の摂理に反します。なぜなら、肉体と精神と霊の三つの要素の正しい関係の最大の条件である“調和”を乱すことになるからです」

「でも、それによって生命が救われたケースがあるようですが……」


「わたしの気持ちとしては、いかなる方法にせよ、患者を救うという行為の尊さを割り引くようなことは言いたくないのですが、それでも一言だけ言わせていただけば、現在の医学で行われている治療法を絶対と思うのは間違っております。

どうも、医学の世界に不謬(ふびゅう)性のようなものがあるかに考える傾向があるようですね。病気を治す、あるいは生命(いのち)を永らえさせるにはこうするしかないと医者が言えば、それで最終的な断が下されたことになるかに思われているようですが、わたしはそうは思いません。

わたしに言わせれば、人間は本来が霊的存在であり、すべての治療法はその霊性の優位性を考慮すべきであるという原則に立てば、無数といってよいほどの治療法が用意されているのです。肉体というのは霊が使用する機械としての存在しかないのです。

とにかく生命さえ取り止めればいいのだ、という考えに立てば、今の医療行為も正当化されるかも知れませんが、では、そのために行われている身の毛もよだつような恐ろしい、そして人間の霊性にもとる行為は許されるのか、という疑問が生じます」

「生体実験のことでしょうか」


「そうです。目的は必ずしも手段を正当化しません」

「移植手術については、いかがでしょうか」


「患者自身の身体の一部を他の部分に移植するのであれば、結構なことです。生理的要素も幽質的要素もまったく同一のものだからです。ですが、それを他人に移植するとなると、必ずしも感心しません。(人道上はともかくとして)その移植片そのものが問題を生み出すからです。肉体そのものには生命はなく、霊と呼ばれている目に見えない実在の殻または衣服にすぎないことを理解することが、この問題を解決するカギです」

「眼の移植手術をすれば見えるようになるという場合でも、それをしないで、見えないままでいるのが望ましいということになるのでしょうか」


「個々の問題にはそれなりの事情がありますから、それを無視して一般論で片づけるわけにはまいりませんが、わたしたちからすれば、目が見えないというのは、あくまでも相対的な問題としてしか考えておりません。霊的な盲目という問題をどうお考えになりますか。

地上人類の霊的覚醒を使命としているわたしたちの立場からすれば、無数にいる霊的に盲目の人の方をむしろ見下したくなります。そこでわたしは、この問題も当人の魂の進化の程度による、とお答えします。霊的覚醒の段階まで到達している人にとっては、目が見えないということは、別に障害とはならないでしょう。ただ物が見えるというだけの視力よりもはるかに素敵な視野を得ていることでしょう。

皆さんはこうした問題をとかく物的身体の観点からのみ捉えて、永遠という概念を忘れがちです。といって、そのことを非難するつもりはありません。無理もないことだからです。たしかに、目が見えなければ春の華やかさと美しさはわかりません。が、そんなものは、霊の華やかさと輝きに較べれば、物の数ではありません」

「でも、私たちは、今なおこの世界にいるのです」


「その通りですね。ですが、俗世にありながら俗世に染まらない生き方もできることを知ってください」

祈り

愛の絆は死によって切断されることはなく……


ああ、大霊よ。あなたの限りなき愛の深さを誰が測り得ましょう。あなたの奇しき恩恵を誰が説き明かせましょう。あなたの神々しき尊厳を誰が正しく描写し得ましょう。

あなたは限りある理解力を超えた存在にあらせられます。あらゆる限界と束縛とを超越した存在にあらせられます。あなたは無限なる霊――かつて存在したものと、これから存在するであろうもののすべての根源にあらせられるのでございます。

あなたの霊性が“愛”に存在を与え、あらゆる意識的存在にあなたの神性の属性を賦与なされました。人間を理想主義と自己犠牲と奉仕の精神に燃え立たしめるのも、内部に湧き立つあなたの霊性にほかなりません。

このことは、あなたが人間の内部に顕現しておられるということであり、その意味において人間は極微の形態をとった大霊と言えるのでございます。

わたしたちはあなたの子等に、その霊性に秘められた資質と属性と才能のすべてを自覚させてあげたいと望んでおります。その認識なくしては、人間は無知の中に生きていることになるのでございます。武器を持たずに戦場へおもむくのにも似ておりましょう。

それに引きかえ、自己の存在の実相に目覚めた者は、万全の装備を整えたことになり、生きるということの中に美しさと愉(たの)しさと充実感と輝きとを見出すことができるのでございます。

さんさんと輝く陽光のもとに生きられるものを、実在によって映し出される影の中で生きている者が多すぎます。安定性と落ち着きと自信をもたらしてくれるはずの知識を欠くがゆえに煩悶の絶えない人、内なる嵐にさいなまれ続けている人が多すぎます。

わたしどもがこの地上という物質の世界にもたらしたいのは、その霊的実在についての“知識”でございます。それによって地上の子等が真実の自我を理解し、あなたとのつながり、および同胞とのつながりについて理解し、愛の絆は死によって切断されることはなく、情愛によるつながりも血縁によるつながりも、死後もなお存続するものであることを知ることになりましょう。

それもわたしたちの使命の一環なのでございます。その目的のために、これまで一身を捧げてまいりました。少しでも広く真理を普及させることでございます。子等が知識によって武装し、理性によって導かれ、永遠なる霊力の理解のもとに生きることができますように……そう祈るからでございます。

シアトルの冬  真理を悟った人間は決して取り越し苦労はしませ 

A man who has realized the truth will never go overboard.


熱心なスピリチュアリストである実業家が、ある日の交霊会で質問した。

「背後霊や友人(の霊)に援助を要請するのは、どの程度まで許されるのでしょうか」


「生身の人間である霊媒との接触によって仕事をしているわたしたちは、地上生活における必要性、習慣、欲求といったものを熟知していなければなりません。物的必要性について無頓着ではいられません。現実に地上で生活している人間を扱っているからです。結局のところ、霊も肉体も大霊の僕(しもべ)です。霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙という機構の中での役割を果たすための一定の義務というものもあります。肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。それを得るためには地上世界の通貨(コイン)(※)であるお金(マネー)が必要です。そのこともよく承知しております。しかし、次のことも承知しております。


※――“奉仕(サービス)は霊の通貨です”というのがシルバーバーチの決まり文句で、マネーによって物的生活が営まれているように、霊的生活はサービスによって営まれているというのであるが、ここでもそのことを念頭において述べている。


霊も肉体も大霊の僕と申し上げましたが、両者について言えば、霊が主人(あるじ)であり、肉体はその主人に仕える僕です。それを逆に考えるのは大きな間違いです。あなた方は本質的には霊なのです。それが、人間は潜在的に神性を宿していると言われるゆえんです。つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。宇宙という大生命体を機能させている偉大な創造原理が、あなた方一人ひとりに宿っているのです。意識をもった存在としての生命を受けたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫から必要なものを引き出すことができるのです。

そのためには平静さが必要です。いかなる事態に遭遇しても、心を平静に保てるようになれば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することができます。

それに加えて、背後霊の愛と導きがあります。困難が生じた時は、平静な受け身の心を保つよう努力なさることです。そうすれば、あなた自身の貯蔵庫から――まだ十分には開発されていなくても――必要な回答が湧き出てまいります。きっと得られます。われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のその人の発達程度いかんによっては、十分なものが得られないことがあります。しかし、その場合でも、慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。

求めるものが正当か否かは、単なる人間的用語の問題にすぎません。わたしたちから見て大切なのは“動機”です。いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、わたしたちが第一に考慮するのは、その動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、決して無視されることはありません。それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものが、その祈りへの回答を生み出す原理を作動させるのです」

ここでメンバーの一人が「学識もあり誠実そのものの人でも取り越し苦労をしています」と述べると――


「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たし、しかも何の取り越し苦労もしないで生きていくことは可能です。のほほんとしていてもよいと言っているのではありません。そんな教えは、かりそめにも説きません。むしろわたしは、霊的真理を知れば知るほど、人間としての責務を意識するようになることを強調しております。しかし、心配する必要はどこにもないと申し上げているのです。霊的成長を伴わない知的発達も有り得るのです」

最初の質問者「あからさまに言えば、取り越し苦労性の人は霊的に未熟ということでしょうか」


「その通りです。真理を悟った人は決して取り越し苦労はしません。なぜなら、人生には大霊の計画が行きわたっていることを知っているからです。まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。無用の心配をするという、そのことが、霊的成長の欠如の指標であると言えます。たとえわずかでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。確信があれば心配の念は出てこないでしょう。

偉大なる魂は、泰然自若(たいぜんじじゃく)の態度で人生に臨みます。確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺させられることはありません。このことだけは絶対に譲歩するわけにはいきません。なぜなら、それがわたしたちの霊的教えの土台であらねばならないからです。

その基本法則にもとることでも起こり得るかのように説く教えは、すべて間違いです。原因と結果の間には何一つ、誰一人として介入することはできません。あなたの行為の責任を他人の肩に背負わせる方法はありませんし、他人の行為の責任をあなたが背負うこともできません。各自が自分の人生の重荷を背負わねばならないのです。そうであってはじめて正直であり、道徳的であり、道義的であり、公正であると言えましょう。

それ以外の教説はすべて卑怯であり、臆病であり、非道徳的であり、不公正です(※)。摂理は完璧なのです」


※――提示された話題を、質問者が考えてもみなかった方向へ広く深く敷延していくのがシルバーバーチの特徴の一つであるが、ここでも単なる取り越し苦労の話をキリスト教の贖罪説に結びつけて、これを厳しく断罪している。イエスを信じて洗礼を受ければ全ての罪をイエスが背負ってくれるから安心なさい、という贖罪説は、心配・不安・恐怖といった人間の煩悩をうまく利用した卑怯な教説であることを述べているのであるが、これはキリスト教に限ったことではなく、“ウチの宗教に入信しさえすれば……”といった勧誘方法は、新興宗教のすべてが使う手段で、言うなれば“商売の手口”である。



「広い意味において人間は他のすべての人に対して責任があるのではないでしょうか。世の中を住み良くするのは、みんなの責任だからです」


おっしゃる通りです。その意味においては、みんなに責任があります。同胞として、お互いがお互いの番人(旧約聖書)であるといえます。なぜなら、人類全体が“霊の糸”によって繋がっており、それが一つに結びつけているからです。

しかし、責任とは本来、自分が得た知識の指し示すところにしたがって人のために援助し、自分を役立て、協力し合うということです。しかるに、知識は一人ひとり異なります。したがって、他人が他人の知識に基づいて行ったことに自分は責任がないことになります。

が、この世は自分一人ではありません。お互いが持ちつ持たれつの生活を営んでおります。すべての生命が混じり合い、融合し合い、調和し合っております。そのすべてが一つの宇宙の中で生きている以上、お互いに影響を与え合っております。

だからこそ知識に大きな責任が伴うのです。知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人より重い責任を取らされます。その行為がいけないことであることを知っているということが罪を増幅するのです。霊的向上の道は容易ではありません。知識の受容力が増したことは、それだけ大きい責任を負う能力を身につけたことであらねばならないのです。

幸と不幸、これはともに大霊の僕です。一方を得ずして他方を得ることはできません。高く登れば登るほど、それだけ低く落ちることもあるということであり、低く落ちるほど、それだけ高く登る可能性があることを意味します。これは理の当然でしょう」

「“恐れ”というのは、人間の本能的要素の一つです。それをなくせと言っても無理だと思うのです。これは自衛のために用意された自然の仕組みです。動物の世界は“恐れ”に満ちております。それがいけないとなると、ではなぜ、それが動物界の基本的要素となっているのかという疑問が出ます」


「なかなかいい質問だと思います。人間は二面性をもつ存在であり、動物時代の名残と、本来の資質である霊性の二つの要素を、地上生活の中で発揮しております。そして、より高く進化していく上で不可欠の“自由意志”を授かっております。それが内部の神性が発揮されていく必須の条件だからです。

このように人間は、その進化の道程において、持てる資質を利己的な目的に使用するか利他的な目的に使用するかの二者択一を、永遠に迫られることになります。これまでにたどってきた進化の道程において植えつけられた肉体的要素に負けてしまえば、生命の根源そのものである霊性の優位を否定していることになります。

恐怖心は大体において動物的先祖から引き継いだものです。そして、わたしが“動物的先祖”という場合は、物的身体が原初から今日に至るまでにたどってきた進化の全側面をさします。しかし、だからといって、やむを得ないこと、ということにはなりません。たしかに自衛本能としての恐怖心もありますが、まったく無意味で筋の通らない、救いようのない恐怖心もあり、それが困難や危険を増幅し、視野を遮ってしまいます。生活の根底であるべき霊的実在に、まったく気づいていないからです」

「動物の場合は、本性そのものが恐怖心を必要としているという意味でしょうか」


「人間は動物よりはるかに高度の意識を発揮していますから、それだけ精神的側面をコントロールできないといけません。が、動物は、人間に飼われているものは例外として、本能的に行動しています。人間には理性があります。そして、高級界からのインスピレーションを受け取り、叡智と知識を活用することによって、暗黒と無知の産物をなくしていく霊的資質をそなえております」

「動物も、進化すると恐怖心を見せなくなります。人間を恐れるのは虐待行為に原因があるのだと思います」


「わたしが今“人間に飼われているものは例外として”と申し上げたのは、そのことがあったからです。人間との接触によって人間的意識をいくらか摂取して個体性をもつようになり、恐怖心を捨てていきます。そこに“愛の力”の働きが見られるのです。人間が愛を発現することによって、その愛が動物から恐怖心を追い出します。人間は、その自由意志によって動物に無用の恐怖心を吹き込むという罪を犯していることを忘れてはなりません。野生動物でさえも、人間の愛によって恐怖心を捨てていくものなのです。そして、現実にライオンと小羊が仲良く寝そべるようになるのです」

「あなたがおっしゃるように、もしも摂理が完璧で、数学的正確さをもって働き、あらゆるものを認知し、誰一人として不公平に扱われることがないようにバランスが取れているとしたら、それはカルマの法則と再生の事実を認めていることになるのでしょうか」


「イエス・ノーの答え方だけで言えば、イエスです」

「ある記事で、きわどい手術をするために医師がその患者の心臓を十五分間ストップさせたという話を読みました。私は、心臓が鼓動をやめたら、その瞬間に霊は身体を離れたはずだと思うのですが……」


「霊が身体から離れはじめると心臓が鼓動を止めはじめるのです。ですが、その離脱の過程はふつう、かなりの時間を要します。自然死の場合の話です。その過程の途中で、一時的に鼓動が止まることがあります。単なる生理反応が原因の場合もありますし、機能上の欠陥が原因の場合もあります。いずれにしても、心臓が止まったから霊が逃げ出すのではありません。逆です。霊が引っ込むから心臓の機能が止まるのです」

「建設的な目的にせよ、原子力を使うために核を分裂させなければなりませんが、それは自然界の調和の原理に違反し、人類自身にとっても危険なことではないでしょうか」


「これは非常に難しい問題です。なぜかといえば、それには現在の地上人類に理解できない要素がたくさん含まれているからです。宇宙に調和の原理があり、それを人間が乱すことはできます。が、大自然の摂理の働きを止めたり変えたりすることはできません。わたしが言わんとしているのは、もしも原子核の分裂が不可能だったら、人間が核分裂を起こすことはできなかったということです。

このことに関連して間違いなく言えることは、この核分裂の発見は調和のとれた進化からズレているということです。つまり、まだその時機でなかった――人類の精神的ないし霊的成熟度が十分でなかったということです。もし十分であれば、原子エネルギーの使用にまつわるさまざまな問題は起きないはずです。この、とてつもない発見のおかげで、人類は霊的に受け入れる用意のできていないものを手にしてしまい、それがもとで、大変な危険の可能性を抱えてしまいました。が、各国の命運を握っている指導者たちが、霊的な叡智に目覚めれば解決できるでしょう。というよりは、それしか道はないでしょう」

「私たちは子供の頃から“愛の神”“天にまします父なる神”を信じるよう教えられてきましたが、地上生活を終えた霊が、地上の人間に憑依することが有り得るものなのでしょうか」


「もちろん有り得ますとも」

「愛の神がそれを許すものなのでしょうか」


「大霊とは法則のことです。ある人間的な存在がいて、それはやってよろしい、それはいけません、といった指図をしている図を想像してはなりません。原因と結果の法則で動いている宇宙なのですから、地上と霊界との交信にもちゃんとした原理があります。その原理は“善人にしか使用できません”という規約をもうけるわけにはいかないのです。同じチャンネルを善霊でも悪霊でも使用できるのです。

他界後に地縛霊となってしまうような地上生活を送った場合、それは利己主義や貪欲や強欲が悪いのであって、大霊が悪いのではありません。また、麻薬やアルコールや貪欲がもとで、そういう地縛霊に憑依されるようなことになった場合、それをどうして大霊のせいにできましょう。自分の自由意志でやったことなのですから」

「これからは心霊治療がもっとも重大な分野となるように計画されているのでしょうか」


「迷うことなく“そうです”と申し上げます。これからは、病気に苦しむ人々の治療の分野に霊力を顕現させていく計画が用意されています。病気や障害のために人生が侘(わび)しく、陰うつで、絶望的にさえ思えている人々に、霊的な治癒エネルギーが存在することを証明してあげるのです。

霊力――生命力そのものであり、数多くの治療家(チャンネル)を通して注入される無限のエネルギーは、病気や障害によって痛めつけられ苦しめられている身体に、新たなエネルギーを注ぎ込んで活気づけ、いかに疑り深い人間でも、地上の用語では説明できない力が存在することを認めざるを得なくしてしまいます。皆さんが生きておられる今の時代にぜひ必要だからこそ、そう計画されているのです」

「治療していただくのに、なぜ治療家にお願いしなければならないのでしょうか」


「要請があるまでは対応のしようがないからです。治療に使用するエネルギーは、こちらから呼び入れなくてはならないのです。生命力は宇宙的活動の一環として全宇宙くまなく巡っております。が、その中の一部を一人の患者のために使用するには、知的操作によって、そのエネルギーを誘導しなくてはなりません。したがって、前もってその要請がなくてはなりません」

「要請がなくても、そちらから知的な操作ができるのではありませんか」


「できます。が、治療家という媒体がいないと、それは純粋に霊的次元での操作にとどまることになります。それを地上に顕現させるには、連結体、ないしは通路にあたる媒体がなくてはなりません。たとえば、あなたが奥さんから遠く離れたところにいるとして、奥さんがあなたと連絡を取るにはどうしますか。電話という連絡手段がいるでしょう。それと同じです」

「その要請をなぜ治療家にお願いしなければならないのでしょうか」


「治療家が“焦点”となるのですから、当然そうなります。別の側面から見れば、そもそも霊的治療を要請するということ自体、その患者の魂が霊性に目覚めはじめ、霊的な援助が叶えられることを自覚しはじめたことの兆候なのです。ご存知の通り、霊的治療のそもそもの目的は――わたしたちの仕事はすべてそうなのですが――人間の本性が霊的なものであることに関心を向けさせることにあるのです」

「その覚醒が治癒を呼び寄せるという要因もあるわけですね?」


その通りです。霊性に目覚めはじめた魂は、当然つながりができるべきエネルギーを自動的に引き寄せるのです」

「“求めよ、さらば与えられん”という言葉はそのことを言っているのでしょうか」


「そうですとも。真摯(しんし)に求めるという行為が、満たされたいという魂の欲求を始動させ、それが、エネルギーが届けられる連鎖反応を起こすのです。祈りが届けられるのです」

「すべての治療家が、たぶん同じ霊的エネルギーを使用しているはずなのに、なぜ治療家によって治り方に差異があるのでしょうか」


「霊力には無限のバリエーションがあります。一人の治療家を通して顕現されるものは、その治療家のもつ肉体的・精神的・霊的資質によって特徴づけられます。気質・霊的進化の程度・性格・人生観――こうした要素が、その人を通過する霊力の質と量とを決定づけるのです。本質的には同じエネルギーですが、真理と同じく、無限の様相を呈するのです」

「患者の態度が治療効果を左右することもありますか」


「もちろんありますとも。霊的治癒力も自然法則の働きにしたがって作用します。その法則が治癒力の強弱を左右することになるのですが、その際に霊と精神と肉体にかかわるさまざまな条件が絡んでまいります。治療家自身だけでなく、患者の条件も絡んでいます。

遠隔治療で患者に知られずに行っても成功した例があることは、わたしもよく知っております。しかし、念のために申し上げておきますが、意識的な自覚はなくても、内奥の魂は自覚しているのです。治療の対象はその魂です。心霊治療はすべて、内部から外部へと働くのです」

「遠隔治療の原理をご説明ねがえませんか」


「目に見えないもの、手で触れることのできないもの、耳に聞こえないものでも実在するものがいくらでもあることが分かってきた現在、霊的放射物が距離に関係なく目標物(患者)へ届けられるのが信じられないというのが、わたしには理解できません。ふだんの肉眼に映じない波長を映像化してくれる器具はいくらでもあります。しかも、それにもきちんとした法則があることも分かっております。

遠隔治療の場合も、確固とした波長、放射物、治癒エネルギー――どう呼ばれてもかまいません――そういうものが使用されており、霊界の専門霊によって治療家を通して患者に注がれるのです」

「自分で自分を治す力は誰にでもあるというのは本当でしょうか」


「潜在的にはみんな持っております。なぜなら、大霊の一部としての霊性を宿しているということは、必然的に生命力ないし原動力を宿していることになるからです。それが機能を正常にします。ですから、それを働かせる方法(こつ)を会得(えとく)しさえすれば、自分で自分を治すことができるという理屈になります」

「心霊治療によって苦しみが取り除かれます。が、一方では、地上人生の教訓を学ぶには苦しみも大切な要素であると説かれています。そうなると、病気が治るということはそのチャンスを奪うことになり、霊的成長の障害となるという理屈にならないでしょうか」


「大自然の摂理の働きには絶対に干渉できません。宇宙は絶対に狂うことも間違うこともない、無限の知性によって規制されております。これだけは避けて通るわけにはいかないものなのです。そこで、それを知らないがために引き起こしている愚かしい過ちによる余計な苦しみ、無くもがなの苦しみが実に多いのです。たしかに地上生活の目的は霊的成長にありますが、その目的を成就する手段はいくらでもあります。苦しみはその中の一つということでして、それしかないわけではありません」

「治療法にも信仰治療、霊的治療、磁気療法、神癒などと、いろいろあるようですが、どこがどう違うのでしょうか」


「大ざっぱに言って、わたしは二つに分類するのがよいと思います。霊界のエネルギーによるものと地上のエネルギーによるものとの、二種類です。催眠療法、磁気療法、暗示療法、こうしたものは治療家自身によるもので、霊界とは何の関係もありません。それはちょうど、心霊(サイキック)能力が霊的(スピリチュアル)能力と違って霊界とは何の関係もないのと同じです。

もう一つの種類は霊界から届けられる治癒エネルギーによるもので、それにもいろいろと治療法があって、それぞれに名称があるようですが、いかなる方法であれ、またいかなる名称であれ、基本的には霊力の作用である点は同じです」

「治癒力を磨くにはどうすればよいのでしょうか」


「我欲を捨て、人のために役立ちたいという心がけで生きることです。霊的能力を開発するための最大の要素は、その“人のために役立ちたい”という欲求です。それは病人だけでなく、同胞すべてに対する愛であり、その愛の中において治癒力が増してまいります」

「治療家が風邪を引いたりインフルエンザにかかったり、その他、いろいろと体調を崩すことがあるのは、なぜでしょうか」


「それは何か摂理に反したことをした、その反応でしょう。治療家も人間です。霊力の道具であるとはいえ、摂理の働きを特別に免れるわけではありません。魔法はありません。摂理は正直に働きます。治療家がそれを犯せば、それなりの結果に直面させられます」

「治療家ですら、自分の病気を治せないことが多いのはなぜでしょうか」


「治療家というのは、大体において霊力の通路にすぎません。霊力の流れを通過させているだけです。治療家でも自分で自分を治せる人はいくらでもいますが、治癒力がその人を通って患者へ流入するというだけの過程では、必ずしもその人自身の病気を治す目的には使用されません。その辺のことは、治療家のタイプによります。

たとえば、治療家が何かの事故で身体機能に障害をきたしたとします。ところが患者の治療には何ら差しつかえがないということがわかった場合、治療家によっては、自分のことはどうでもよいと考えるかも知れません。わたしだったら、そう考えるところです」

「その際、自分は治療家だから、放っといてもちゃんと治してくれるだろうと考えるのは間違いでしょうか」


「“治る”ということは、本来、能動的な作用であって、受動的なものではありません。魂の悟りが原動力となっているものです。真の自我に目覚めるということが重大な要素なのです。目覚める段階までくれば、物的障害を突き破ろうとする欲求が湧いてきます。切望し、希求するその願望を引き出すのが、心霊治療の本来の目的です」

「愛(いと)しい人に先立たれた人には、死後の再会の楽しみがありますが、この投書の質問者には、そういう人がいないとのことです。こういう場合はどうなりますか」


「大霊の摂理は完璧です。幾十億年にもわたって、一度も誤ることなく、そして絶え間なく働いてまいりました。この広大な宇宙機構の中にあって、何一つ見落されることもなければ、忘れ去られることもありません。その投書をなさった方も例外ではありません。その摂理には埋め合わせというものがあります。地上で欠けていたものは、こちらへ来て補われます。つねに完全なバランスが取れており、摂理どおりに落ち着くのです。霊的機構においては誰一人として忘れ去られることはありません」

「ヨガでは身体機能を自在にコントロールする修行をしますが、あれは霊的発達にとって不可欠のものでしょうか。何か役立つことでもあるのでしょうか」


「まず初めのご質問に対する答えですが、これは不可欠のものではありません。身体を鍛練し、自制心を身につけ、物質に対する精神の影響力を披露する方法であって、それによって心霊的能力を開発することにはなりますが、これをやらないとダメというものではありません。方法なら他にいくらでもあります。なお、はっきり申し上げておきますが、このタイプの鍛練方法は西洋人よりも東洋人に向いております」

「それはまた、なぜでしょうか」


「本性において、東洋人の方が西洋人より瞑想的であり、興味を持ちやすいからです。大気そのものに、そういうものに馴染ませる要素があるのです。昔からその道の達人が根拠としてきた宗教思想があり、それを自然に身につけているのです」

「西洋人にはそれに匹敵する別の鍛練法があるわけでしょうか」


「身体をコントロールする精神力の存在を教える鍛練は、それが結果的に霊性を開発することになるのであれば、何でも結構であると信じます。ただ、呼吸を止めたり、脈拍や血行を変えたりすることができるからといって、それで霊的に立派になったことにはなりません」

「質問が少し大きすぎるかも知れませんが、西洋人にとってはどういうタイプの鍛練をすべきでしょうか」


「精神統一です。一日一回、少しの時間を割(さ)いて精神を統一し、霊的な力を表面に出す鍛練をすべきだと思います。生活があまりにせわしく、霊的な気分一新をするゆとりがなさすぎます。内側と外側に存在する霊的エネルギーが顕現するのは、精神が穏やかで、受け身的で、控え目になっている時です」

「睡眠状態には、その効果はないのでしょうか」


「霊性の積極的な発達には、効果はありません。睡眠というのは、霊体が肉体から解放されて霊界を訪れ、死後の生活の準備をするために自然が用意してくれた機能です」

「イエスの姿が見えると言いながら死んでいく人がよくいます。最近でも、ローマ法王がイエスの姿を見たと述べておりますが、この“姿”というのは何なのでしょうか。本当にあのイエスなのでしょうか」


「とても興味ぶかい問題です。ですが、言うまでもないことですが、見た、見えた、といっても、それが実際に何であったかの確認はできません。その時の姿が本当にその人であったとはかぎらないからです。そもそも、わたしたち霊の真実の姿を物的形体でお見せすることはできないのですから、したがって映像化してお見せするしかないのです。

たとえば、わたしが霊界で表現している本来の容姿をみなさんに認識していただきたくても、それをお見せする手段がありません。したがって、わたしを視覚に映じる形でお見せすることはできないわけです。同じ意味で、ナザレのイエスが今霊界で顕現しておられるお姿は、地上の手段では表現のしようがありませんから、人間にはお見せできないわけです。そこで、その人間にわかりやすく映像をこしらえて見せることになるわけです。

今日のいかに熱烈なクリスチャンといえども、イエスの現在の本当の姿をお見せしても、まったく意味がありません。イエスさまの姿を見たとおっしゃっても、それはその人が想像しているイエスの姿を見たという意味であり、実体をご覧になったわけではありません。こしらえられた映像を見たわけです。おわかりでしょうか」

「見たと言っている人の思念の投射である場合もあるわけでしょうか」


「その通りです。人間の精神には映像をこしらえる能力がありますから、それが具象化するほど強烈な場合には、そういうことも起こりうるわけです。一つの思念をある一定の次元で保持し続けると、その通りの形体を取るのです。物的形体ではありません。幽質の場合もあれば、霊的な場合もあります。要するに、非物質の世界のいずれかの次元での映像となるわけです」

「死にぎわだから見えやすいということも、原因と考えてよろしいでしょうか」


「そのことに関して二つの事情を忘れてはなりません。一つは、ナザレのイエスが今どういう容姿をしているかを知っている者は、地上には誰一人いないということです。もう一つは、イエスが地上にいた時の容姿についても、誰一人知る者はいないということです。そうなると、これはイエスだと判断する材料は何もないということになります。

たしかに死にぎわには大変な量の心霊的ならびに霊的エネルギーが放出されます。遠くにいる肉親・縁者に姿を見せることができるのも、そのためです。死んだとはいえ、まだ地上的波動の中にいますから、何マイル先であっても、大体の生前の容姿を取ることができるわけです。あくまでも死にぎわにかぎっての話です。イエスの姿が見えたというのも、同じく死にぎわにおける心霊的ならびに霊的エネルギーの放出によって生じる現象です」

「地獄は存在しないと言ってくる霊がいます。そうなると、真っ暗いところとか薄暗い世界というのは何なのでしょうか」


「地獄はあります。ただ、地獄絵などに描かれているものとはかぎらないというまでのことです。未熟な霊が集まっている暗い世界は、もちろん存在します。そこに住んでいる霊にとっては、そこが地獄です。実在の世界です。

考えてもごらんなさい。地上世界を暗黒と悲劇の淵に陥(おとしい)れた者たち、無益な流血の巷(ちまた)としてしまった張本人たち――こういう人たちがこちらへ来て置かれる境遇がどういうものか、大体の想像はつきませんか。

そうした行為の結果として直面させられる世界が天国であろうはずはありません。まさに地獄です。が、バイブルに説かれているような、業火(ごうか)で焼かれる地獄とは違います。行ったことの邪悪性、非道徳性、利己性を魂が思い知らされるような境遇です。それが地獄です。そこで味わう苦しみは、中世の地獄絵に描かれたものより、はるかに耐え難いものです」

「私たちが他界したあと、それまでの背後はどうなるのでしょうか。私たちが死ぬと同時に用済みとなるのでしょうか」


「あなたとのつながりが、単に地上での仕事のためのものであれば、死によってその仕事も終わったわけですから、その霊とのつながりも終わりとなります。とくに霊媒の支配霊の場合は、その人間の霊的能力を有効に使用することを目的として付き添うわけですから、霊媒の死と同時につながりはなくなります」

「霊媒を通して支配霊とも親しくなった者にとっても、死とともに縁が切れると聞くと、一抹のさみしさを覚えます」


「わたしは、つながりは終わりとなると申し上げているのであって、それは、縁が切れて別れ別れになってしまうという意味ではありません。地上時代のようなつながりは終わりとなるということです」

「さきほどの方は、そういう意味で述べたのだと思います」


「会いたいと思えば会えます」

「死後も特別な関係が続くのでしょうか」


「支配霊と霊媒、という関係にすぎなかった場合は何も残りません。仕事が終わったのですから」

「お互いに会えなくなるという意味ではないのですね?」


「これまでにも何度も申し上げておりますように、この問題に関する答えは、支配霊と霊媒の霊的発達程度の違いによって異なります。意識の程度とインディビジュアリティーに関わる問題でして、これはテーマが大きくなってきます。

あなたがお知りになりたいのは、死後あなたがこのわたしと会えるのか、そして、この霊媒がわたしと会えるのか、ということなのでしょ? もちろん、ここにおいでの皆さんとは再会できるでしょう。が、その時はもう、こうした形でしゃべる必要がないことを期待したいものですね(※)」


※――死後の目覚めと、その後の霊的成長度は各自まちまちであるから、もしかしたら、面会を要請されても、直接の対面はできないことも有りうることを示唆している。


「交霊会で物理的現象を求めている場合の出席者の態度はどうあるべきでしょうか。その場合でも霊視力とか霊聴力を働かせてもよろしいでしょうか。もしいけないとなると、それは意識的に抑えられるものでしょうか。抑えられるとしたら、その方法を教えてください」


「物理的現象を求めている時に精神的現象を起こそうとすると、障害となります。霊視、霊聴、入神談話といったものは抑えて、あくまでも物理的なものが起きるように、辛抱づよく待っていただかねばなりません」

「そのように意識的に抑制できるものなのでしょうか。そのテクニックを教えていただけませんか」


「難しく考えることはありません。精神的心霊能力をもつ人が、精神状態を受け身的にならないようにすればよろしい。この霊媒(バーバネル)がもし拒絶したら、わたしはコントロールできなくなります。いつも受け身の精神状態になってくれるので、ラクに支配できているのです」

「フリーメーソン(※)の団体に加入することをおすすめになりますか」


※――博愛・自由・平等の実現を目指す世界規模の団体。一種の秘密結社で、全容は明らかでない。


「どこかの組合や会派や団体に加入すること自体は何の意義もありません。大切なのは、その人が日常生活で何をするかです。ただし、そういうものに加入することによって、より親切で、より非利己的で、より人のためになる生活を志向することになると思う人は、加入させてあげるがよろしい。

しかし、唯一の、そして厳格な基準は、その人の日常の行為です。為すことのすべてにおいて、責任を負わねばなりません」

「フリーメーソンの教義は、心霊能力の開発にとって有益であるとお考えでしょうか」


「その教義の本当の意味を理解し、他の信者がただの“お題目”と考えているものを霊的開発の糧にすることができれば、それも有益であることになります」

「そういう秘密結社がはびこる風潮は好ましいことでしょうか。真理はすべての者に開かれたものであるべきで、一部の者によって独占されるべきものではないと思うのですが……」


「というよりは、そもそも真理とは独占できる性質のものではないのです。無限なるものであり、これで全部です、などと言える性質のものではないからです。そうした活動は、動機さえ正しければ、秘密のうちに行おうと、公然と行おうと、それは関係ありません。何事も動機によって判断しないといけません。大切なのは各自の人生において何を為すかです。

わたしたちがこうして地上世界へ戻って来たのは、宗教というものを実際的な日常のものにするため、と言ってもいいのです。もう、信条だの、形式だの、儀式だのと結びつける時代ではありません。宗教とは人のためになる()行為(サービス)のことであり、人のために役立つことを志向させるものは、何であってもよいということを、ありとあらゆる手段を講じて主張するものです」

「でも、フリーメーソンでは、そのサービスを会員の者の間だけに限っております」


「そのことも知っております。ですが、少なくとも人のために良いことをしていることは事実であり、それはサービスの第一歩です」

「ある霊視家によると、自殺した者ばかりが集まる場所があるそうですが、本当でしょうか。実際にそこを見てきたと言い、正視できないほど惨めだという話ですが……」


「地上生活をみずから中断させた者が集まっている界層が見えたというのは、ある意味では事実かも知れません。同じ意識レベルの者が類をもって集まっているわけですから。

ですが、そこが自殺者の連れて行かれる固定した場所であると考えるのは間違いです。同じく自殺した人でも、動機によって一人一人裁かれ方が違います。一人一人に公正な因果律が働きます。何度も申し上げておりますように、全事情を決定づける要素は“動機”です。それがその人の魂の指標だからです。

宗教的信仰における頑迷さにおいて程度が同じであることから同じ界層に集まっている人たちもいます。その界層へ行けば、そういう人たちばかりがいるわけです。あなたも、あなたの魂の成長度に似合った場所へ行かれます」

「自殺者には互いに引き合う何か共通の要素があるから集まるのではないでしょうか」


「霊的発達の程度が同じだからです。それが死後に置かれる位置を決定づけるのです。霊的にどの程度の魂であるかが、霊界においてどの界層に落ち着くかを決定づけるのです。こちらでは霊性がそのまま現実となって具象化するからです。

自殺者の中にも霊的レベルの同じ者がいますから、そういう者が集まっている界層を霊視家が見たというのは有り得ることだと申し上げたわけです」

一読者からの投書による質問「私たちは精神的生活が死後もそのまま持続されると信じていますが、精神に異常のある人の場合、とくに永いあいだ錯乱状態にあった人はどうなるのでしょうか」


「精神的に異常のある場合は、精神が地上生活の目的である“発現”のチャンスが与えられなかったということであって、破壊されていたわけではありません。損傷を受けることはありますが、秘められている能力そのものは無傷のままです。発現のチャンスが奪われたということです。

そうした人の場合は、知性が幼児の程度のままでこちらへ来ますので、その発育不足を補うための調整が少しずつ行われます。霊にかかわるものには永遠の傷というものはありません。一時的な状態であり、そのうち調整されます」

「身内の者が出現した時、なぜ霊界での趣味とか研究、今つき合っている人、進歩の程度などについて詳しく話してくれないのでしょうか。何人かの名前をあげたり、花の名前を言ったり、そのうち万事うまく行きますよ、とか、いつもそばにいて力になってあげてますよ、といった簡単なセリフしか言いません。私たちが休日に遊びに行った時の楽しい話を手紙で書き送るような調子で、なぜもっといろいろと語ってくれないのでしょうか」


「それはいささか話が違いますね。もしも、地上との交信が休日の体験を手紙に書くような、そんな簡単なものであれば、もっともっと多くの情報が送れるのですが、残念ながら霊媒を通じて語るのは、手紙で書き送るほど単純なものではないのです。

交信が始まった当初は断片的なものしか語れません。そこで、たとえばあなたがほんの一言でも伝えるチャンスが与えられたとしたら、地上に残した人には“大丈夫よ、みんな元気ですよ”と言ってあげたいと思うのではないでしょうか。それは大いなるメッセージです。とくに初めて霊からのメッセージを聞く人にとっては、大いに意義があります。

ただし、霊は断片的なことしか語らないという言いがかりは、このわたしに関しては当らないと思います。初めのころは断片的でしたが、その後、回を重ねて膨大な量の情報を提供してまいりました。それが多くの書物(霊言集)となって残されております」

祈り


ああ、大霊よ。何はさておき、あなたへの感謝の祈りを捧げることから始めさせていただきます。この驚異に満ちた宇宙のすべてに、あなたの神性の刻印が押されているからでございます。あなたの無限なる知性がこの宇宙を創り出されたからでございます。それを動かすのもあなたの無限なる愛であり、それを維持するのもあなたの無限なる叡智だからでございます。

あなたの霊が千変万化の生命の諸相に行きわたり、その一つ一つの活動をあなたの摂理が認知いたしております。あなたの子等が最高度に魂を高揚された次元において行う行為に顕現されるのは、ほかならぬあなたの神性なのでございます。

あなたは子等のすべてに、あなたの神性の種子を植えつけられました。したがって、この地上生活中のみならず、それを終えたあとの霊の世界においても、あなたと子等の間には、切ろうにも切れない絆があるのでございます。

地上に生をうけている者は、いずこにいようと、いかなる地位にあろうと、階級・肌の色・民族・国家の別なく、すべてあなたの生命の一部であり、あなたの摂理によって維持され、あなたの霊性によって結ばれているのでございます。

かくして子等は、永遠にあなたと結びつけられているのであり、忘れ去られることも、無視されることも有り得ないのでございます。あなたの不変・不易の摂理が、愛と叡智の配剤のもとに支えているのでございます。

わたしどもは、子等が霊と精神と身体を存分に機能させることによって、内部にある神性を自覚し、霊的資質を発現し、あなたから譲りうけた遺産を、豊かで光輝にあふれた人生という形でわがものとしてもらうためには、いかに生きれば良いかを教えたいと念願しているところでございます。

人間は、あなたがその物的器官に宿された霊の資質を行使することによって、物質の領域を超えて高次元の世界の存在と交わることができます。その存在も、かつては物的牢獄に閉じ込められていたのを、今はそれを完全に超越して、愛と奉仕の気持ちから地上圏へ戻ってきているのでございます。

物質と霊の二つの世界が手を握り合い、霊力の流入を妨げている障害を取り除くことによってインスピレーションをふんだんに摂取し、これまであまりに永きにわたって、あまりに多くの者が閉じ込められてきた憂うつと暗黒を打ち払い、霊の光輝によって人生を豊かにすることができるようになることでしょう。