Sunday, September 3, 2023

シアトルの初秋 人のために役立つことを

be useful for people

秋の白樺林の風景パノラマ の写真素材・画像素材. Image 47536430.
シルバーバーチの霊訓

  

 〝新聞界の法王〟の異名をもつ世界的ジャーナリスト、ハンネン・スワッハー氏 Hannen Swaffer がシルバーバーチの交霊会の様子を次のように紹介している。

       
  ※       ※ 
      
 自分を人のために役立てること──これが繰り返し説かれ強調されて来たシルバーバーチの教訓の〝粋〟である。それを折あるごとに新たな譬えで説き、別の言葉で表現し、深い洞察力と眼識の光で照らし出して見せてくれる。われわれレギュラーメンバーにとっては何年ものあいだ繰り返し聞かされて来たことであるが、招待された新参者にとっては一種の啓示である。

 数日前も私は三人の知人を招待した。三人ともシルバーバーチの霊言に興味を抱く新参者である。そのうちの一人は爵位をもつ家柄の夫人でありながら庶民層への施しの必要性を説く仕事に身を投じて来られた。交霊会の頭初からシルバーバーチが夫人の心を読み取っていることを思い知らされた。

 「あなたは私どもの説く教説の真実性をかねがね痛感しておられましたね」とシルバーバーチが語り始めた。「あなたはこれまで宗教の名のもとに与えられてきた説教には不満を抱いておられました。これまで得た知識に加えて是非ともこのスピリチュアリズムの知識が必要であることを痛感されました。そして何年か前に、残りの生涯をご自分より不幸な人々のために捧げようと密かに決意なさいました」

 「おっしゃるとおりです」と夫人が答えると、続けてシルバーバーチは、しばしば困難に遭遇するその仕事についてこう述べて勇気づけた。

  「あなたが片時も一人ぼっちでいることはないことはご存知でしょう。人のために尽くそうとされるその願望は自動的に私どもの世界で同じ願望を抱く博愛心に燃える霊を惹き寄せます。なぜならば双方に理解力における親和性があるからです。永遠に変わらぬものは〝愛〟です。

人のために尽くしたいという願望から発する真実の愛です。私どもは肩書も党派も教義も宗派も興味ありません。その人がその日常生活において何を為しているかにしか興味はないのです。


 私どもにとっては〝人のために尽くすこと〟が宗教の全てなのです。人のために生きる者こそ、最も神に近い存在なのです。そこに魂の存在価値があるのであり、人のためという願望を抱く者は自動的にこちらの世界で同じ願望を抱いている霊を引き寄せます。

その人間を介して自分を役立てたいと思う霊が寄って来るのです。こちらの世界には地上で人類解放のために生涯を捧げた霊が無数におります。その気高い使命は墓場で終わったのではありません。霊の世界へ来てからの体験によってむしろその使命感を一層強烈に感じるようになります。霊界から地上世界を見ると悲劇と悪行が目に余ります。

強欲と利己主義と略奪が横行し、改めねばならないことが無数にあることが判ります。そこでそんな地上を少しでも良くし少しでも美しくするために自分を役立てるための媒体として同じ願望を抱く人間を求めるのです。

 これが人のために役立てるということの仕組みです。つまり自分を無にして霊の力に委ねるのです。霊の力を取りとめのないもののように想像してはいけません。実体があり直接的にあなたの心に触れることが出来るのです。それがあなたを通じて他人へ働きかけ、より大きな悟りを開く助けとなります」


 ここで夫人が良い講演をするにはどうしたらよいかを尋ねた。するとシルバーバーチは、「精神統一をなさることです。時には煩雑なこの世の喧騒を離れて魂の静寂の中へお入りになることです。静かで受身的で受容性のある心の状態こそ霊にとって最も近づき易い時です。静寂の時こそ背後霊が働きかける絶好機なのです。片時も静寂を知らぬような魂は騒音のラッシュの中に置かれており、それが背後霊との通信を妨げ、近づくことを不可能にします。

 ですから、少しの間でいいのです。精神を静かに統一するよう工夫することです。すると次第に役に立つ良い考えが浮かんでくるようになります。背後霊のオーラとあなたのオーラとが融合する機会が多いほど、それだけ高度なインスピレーションが入ってきます。

どれほど多くの愛があなたのまわりを包んでいるか、それが判っていただけないのが残念です。その様子を言葉でお伝えするのは容易ではありません。

 人間は目に見え耳に聞こえるものによって現実を判断します。お粗末な手段であるとはいえ、やむを得ないことです。しかし本当は身のまわりの目に見えないところに同じ志を抱く霊が待機し、堕落せる者を立ち上がらせ、心弱き者を元気づけ、困窮せる者を救い、病人を癒し、肉親に先立たれた人を慰め、道に迷える者、疲れ果て煩悶する者たちに知識と叡知と悟りを授けんとして、その好機を窺っております。あなたには為すべきことがあります。そして、いずれおやりになることでしょう」
 
 もう一人の招待客は出版業を営む男性で、ヨーロッパ中に洪水の如く良書を行き亘らせることが夢である。というのは知的水準の高い良書という良書がヒトラー政権のナチ党員によって焼却されてしまい、今その失われた知識を求める声がしきりに聞かれるからである。

 シルバーバーチはこの男性に対し、これまでも霊が陰から援助して来ている事実を語り、のっぴきならぬ状態に差しかかるたびに霊の救いの手が差しのべられてきた事実を指摘した。そして書物を出版する仕事はただの商売という人がいるかも知れないが立派に神の計画の一翼を担っていること、そして彼の動機の崇高さの故に何物も阻止しえないことを説いてからこう語る。

 「私には人生に疲れきった人間の数々──生活は暗く、あたかも霧と靄の中で暮らしているような人間、肉体的にも知的にも霊的にもがんじがらめにされた人間が見えます。そこで私どもはその束縛から解き放すための援助の手を差し伸べようと願っているのです。

あなたには今心で願っておられることを成就するチャンスがあります。怖れることなく、そして立ち塞がる困難に惑わされることなく、あなたがこれまで少なくとも三度試みられたことを今一度試みていただきたい。真一文字に突き進みなさい。障害と思えることも、近づいて行けば雲散霧消します。


 忘れないでください、あなたに生命を賦与した力、あなたに息吹きを与えたエネルギー、あなたに意識を与えた生命力は、この宇宙を創造し極小極大を問わず全存在に生命を与えたのとまったく同じものなのです。心に唯一の目的を抱いて真一文字に進むことです。そうすれば必ずその力があなたを支えてくれます」

 三人目の招待客は右の出版業者の秘書で、いきなりシルバーバーチからお褒めの言葉を頂戴して赤面した。見通しの真っ暗な時、出版による文化の普及がもはや絶望的と思えた時期にこの女性が社長を励まし続けてきた。これも人のためである。シルバーバーチはこう語りかけた。

「あなたも細胞の寄せ集め以上のものを宿しておられるお一人です。黄金の心、純金の心、最高の金でできた心をお持ちです。これまで精錬と純化を重ねて、今まさに最高の光沢をもって輝いております。そこには憎しみの念などひとかけらもありません。愛と哀れみの情が溢れております。

 そのあなたに大切な仕事があります。私が申し上げることは、まっしぐらにその道を進むこと、それだけです。生命、愛、記憶、意識──こうしたものは墓場を超えて存続し、この世的な取越苦労、病気、苦痛から解放された霊が新たなエネルギーと生命力をもって心機一転してあなた方を援助してくれます。あなたのこれからの人生にも期待できることが大いにあります。自信をもって邁進なさることです」

 その秘書が謙虚に「私は本当に無力なのです」と述べると、シルバーバーチはこう語った。 
 「ご自分で思っておられるほど無力ではありません。女性は男性に比べて知性よりも情緒によって支配されるために弱い面があります、しかしそれは決して悪いことではありません。それだけ感受性が強いということだからです。男性より繊細な属性を具えており、それだけ私たち霊界の者からの働き掛けに敏感であり、影響を受けやすいということになります。

 その点男性は余り情緒性がありません。その生活は心より頭によって支配されております。精妙な生命力の働きに女性ほど敏感でなく、ために情緒の自然な発露としての喜びの多くが感識出来ないのです。

 むろん女性が情緒的であることにもマイナス面はあります。心の痛みを男性よりも強く感じてしまうことです。しかしそれも身体にはない魂の属性の一つであることに変わりありません」

 
 交霊会を閉じる直前にシルバーバーチは今自分のそばにキア・ハーディ(英国の政治家で労働党の創設者の一人)が立っていたと言い、本日彼が来た理由は招待客の一人で最初に紹介した婦人がキア・ハーディの熱烈なファンであったからだと説明した。そしてこう語った。

 「ハーディ氏は偉大な霊の一人です。氏には庶民一般に対する思いやりがあります。氏はこれまで社会事情の推移を残念に思っていないと言っておられます。というのは庶民の権利獲得の闘争は永くそして漸進的なものであることを覚悟しておられるからです。

氏は庶民が一段また一段と生得の権利の獲得を目指して梯子を昇っていく様子を見つめております。それを阻止できるものは無いと氏は信じております。

 庶民の幸福を妨げようとする運動は決して永続きしません。なぜなら、いかなる人間も、いかなる階級も、いかなる教義も、神の子を騙してその生得の権利を奪うことは許されないからです。一時的には神の計画を邪魔することはできます。

しかし霊的な力は人間の力より大きく、正義のために闘う者は必ず勝利を収めます。ハーディ氏もその正義の福音を信じておられるのです。ここで私たち全てが大いなる目的のための道具であることを銘記しましょう」そう述べてから、いつものように締めくくりの言葉に入った。

 「常に崇高なる目的のためにわれわれを使用せんとする偉大なる力の存在を忘れぬようにいたしましょう。常に神と一体であるように生活に規律を与え、神の心をわが心といたしましょう。そうすればわれわれが神の意図された通りに努力していることを自覚することでしょう。神の御恵みの多からんことを」

 かくして人のために尽くさんと心がけている人々が心を新たにし、勇気を新たにして会をあとにする。


 以上がハンネン・スワッフハーによるある日の交霊界の描写である。〝人のため〟という教えはシルバーバーチが繰り返し説いているテーマであり、別の交霊会でもこう語っている。
 
 「私たちが説く全教説の基調は〝人のために己を役立てる〟という言葉につきます。あなた方の世界のガンとも言うべき利己主義に対して私たちは永遠の宣戦を布告します。戦争を生み、流血を呼び、混乱を招き、破壊へ陥れる、かの物質万能主義を一掃しようと心を砕いております。

 私たちの説く福音は互助と協調と寛容と同情の精神です。お互いがお互いのために尽くし合う。持てる者が持たざる者、足らざる者に分け与える。真理を悟った者が暗闇にいる者を啓発するために真理という名の財産を譲る。そうあって欲しいのです。

 地上にはその精神が欠けております。人間の一人一人が持ちつ持たれつの関係にあること、全ての人間に同じ神性が流れていること、故に神の目には全てが平等であること、霊的本性において完全に平等であるとの観念を広める必要があります。

性格において、生長において、進化において、そして悟りにおいて、一歩先んじている者が後れている者に分け与えるという行為の中に偉大さがあるのです。

 霊的な仕事に携わる人たち、己れの霊的才能を真理探究のために捧げる霊媒は、自己を滅却することによって実は自分が救われていることを知るでしょう。

なぜならその人たちは人間はかくあるべきという摂理に則った行為をしているからです。それは取り引きだの報酬だのといった類のものではなく、多くを与える者ほど多くを授かるという因果律の働きの結果に他なりません。

 こうして今あなた方と共に遂行している仕事においても、お互い一人一人が欠かせない役割を担っております。今私たちはいわば霊的戦争の兵籍に入り、あらゆる進歩の敵──改革、改善、改良、人道主義、善意、奉仕の精神を阻止せんとする勢力と対抗した闘いにおいて、霊界の軍団の指揮下に置かれております。

 私たちの仕事は何世紀にもわたって無視されてきた霊的真理を人類に理解させることです。一部の人間だけに霊力の証を提供するだけでは満足できません。その豊かな霊的〝宝〟、驚異的な霊力が一人でも多くの人間に行きわたることを望んでいます。

無数の人間が普段の生活において真理と知識と叡知の恩恵に浴せるように、というのが私どもの願いなのです。

 神から霊的遺産として当然味わうべき生命の優美さ、豊かさを全く知らない人間の数の多さに愕然とさせられます。餓死の一歩手前でようやく生きている人々、地上生活の最低限の必需品さえ恵まれずにいる人々を坐視するわけにはまいりません。地球の富の分配の不公平さを見て平然とはしておれないのです。

 それは大変な仕事です。そして、あなた方はその実現への最短距離に位置しておられます。あなた方は新しい時代に入りつつあります。人類の新しい時代の夜明けです。その恩恵の全てに浴したければ、真理の受け入れを邪魔してきた愚かな教義をかなぐり棄て、無知の牢獄から脱け出て、自らの自由意志で歩み、神が意図された通りに生きることです。


 獲得した知識は着実に実生活に生かして行くように心がけましょう。その知識全体に行きわたる霊的理念にそって生活を律していきましょう。人間の勝手な考えや言葉や行為によって色づけせず、その理念に忠実に生き、その行為を見た全ての人から成るほど神のメッセンジャー(使者)であり霊界からの朗報の運搬人であると認めてもらえるようになりましょう。

 そう努力することが又、より大きな叡知、より大きな愛を受けるに相応しい資質を身につけることになり、また宇宙間の全生命の宿命を担いつつ一切を懐に包んでいるところの、その驚異的な霊力とのいっそう緊密な繋がりを得ることになるのです」

 別の交霊会でシルバーバーチは「お金は盗まれることがあっても知識は絶対に盗まれません。叡知も盗まれません。そうした貴重な真理は一たん身についたら永遠にあなたのものとなります」と述べている。
 続いてシルバーバーチはリラックスすることの効用を次のように説く。

 「リラックスと言っても、足を暖炉の上にでも置いて椅子にふんぞり返ることとは違います。身体の活動を中止し、静かに休息して内なる自我を取り戻し、その霊力が本来の威厳と力とを発揮し潜在力が目を覚ます機会を与えることです。

 あなた方の世界にはそういう機会がありませんね。目覚めている間にすることと言えばただ忙しくあっちへ走りこっちへ走り、その場限りの他愛ない楽しみを求めて、あたら貴重な時間を費やしています。

そうした物的生活に心を奪われている魂のすぐ奥には、永遠に錆びることも色褪せることもない貴重な知識と叡知と真理の宝が、あなた方によって存分に使用されることを待ちうけているのです。一度手に入れたら永遠にあなた方の所有物となるのです」


 ここで曽てのメンバーの一人で理由(わけ)あってしばらく欠席し、この度何年振りかで再びレギュラーとなった人が、シルバーバーチが以前と少しも変わらず雄弁で魅力的で説くところも一貫して変わっていないことを述べると、

 「おっしゃる通り私は曽てと同じ霊であり、説くところの真理も同じ真理です。ただそれを説く対象である地上の人間は曽てとは同じではありません。常に変わりつつあり、叡知の声に耳を傾け霊の力を受け入れる者が次第に増えつつあります。真理は大いに進歩を遂げました」

 そう述べながらもシルバーバーチは真理普及の立役者は自分ではないと主張してこう述べる。


 「私の力でそうなったのではありません。そんな大それたことは私は申しません。むろん私も私なりに貢献しているでしょう。でもそれは無数の霊が参画している大いなる献身的事業のほんの小さな一部にすぎません。これまで成し遂げた進歩は確かに驚異的なものがあります。しかし、もっと大きな進歩が遂げられんとしております。何事も最初が肝心なのです」


 さて、シルバーバーチは自分が霊界のマウスピース(代弁者)にすぎないことをよく強調する。

 「私はこうした形で私に出来る仕事の限界を十分承知しておりますが、同時に自分の力の強さと豊富さに自信を持っております。自分が偉いと思っているというのではありません。私自身はいつも謙虚な気持ちです。本当の意味で謙虚なのです。

というのは私自身はただの道具にすぎない──私をこの地上に派遣した神界のスピリット、全てのエネルギーとインスピレーションを授けて下さる高級霊の道具にすぎないからです。が私はその援助の全てを得て、思う存分に仕事をさせてもらえる、その意味で私は自信に満ちていると言っているのです。
 
 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると、自信をもって語ることができます。霊団が指図することを安心して語っておればよいのです。威力と威厳に溢れたスピリットの集団なのです。

進化の道程を遥かに高く登った光り輝く存在です。人類全体の進化の指導に当たっている、真の意味で霊格の高いスピリットなのです」


 会を閉じるにあたってシルバーバーチは次のように語った。

 「私達は深刻さの中に笑いの要素をもたらしました。他界した古き知友との再会を実現させました。死によって隔てられていた絆を取り戻したことをうれしく思います。人のために己れを捧げる者は必ず報われます。

 この集会には真剣な目的が託されていることを忘れてはなりません。人類の行く手に横たわる危険な落とし穴を教えてあげる重大な任務を帯びているからです。人生に疲れ、あるいは迷う人々の心を軽やかにし、精神を目覚めさせ、指導と助言となるべき霊的な光を顕現してあげようと努力しているのです。


 困難と懐疑と絶望の中にある者には魂の避難場所を提供してあげることができます。人間の歩むべき道、つまり内在する崇高な精神を存分に発現させる方法を教えることができます。

そして何にもまして、全ての光と全ての愛の大根源より発せられる荘厳な神的エネルギーの存在を自覚せしめます。それは決して遥か彼方の手の届かない場所にあるのではありません。全ての人間の魂に内在しているのです。

 それは実にこの大宇宙を造り上げたエネルギーであり、自然界のすみずみまで流れているエネルギーであり、その存在を自覚する者が見棄てられることは絶対にありません」

   

Friday, September 1, 2023

シアトルの晩夏 解説  霊的啓示の系譜

Commentary: Genealogy of Spiritual Revelation

上品】 シルバーバーチの霊訓 pillasport.ru

 歴史的に辿れば、人類全体としての啓発に寄与するほどの霊的啓示は、各民族個有の宗教の起源となった聖典に求めることができよう。モーセの「十戒」、キリスト教のバイブル、イスラム教のコーラン、仏教の原初仏典、日本の古神道の原典等がその主だったものと言えよう。

 これらの中でも日本の古神道いわゆる神ながらの道の思想は人工的夾雑物が少なく、自然で、最もスピリチュアリズム的要素に富んでいるというのが、長年各種の霊界通信に親しんできた筆者の私見であるが、問題はいかなる啓示もその起源においては霊的であっても、時代とともに人間的主観によって歪められていくということである。

 〝スピリチュアリズムのバイブル〟と呼ばれて今なお欧米においてロングセラーを続けるモーゼスの『霊訓』の中で、イムペレーターと名のる最高指導霊(実は旧約聖書に出て来る預言者マラキ)がこう述べている。

 「・・・・・聖書(バイブル)に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がある。彼らは地上にありては真理と進歩の光として輝き、地上を去りて後は後継者を通じて啓示をもたらしてきた。

その一人──神が人間に直接的に働きかけるものとの信仰が今より強く支配せる初期の時代の一人にサレム(現在のパレスチナの西部にあった古代都市)の王メルキゼデクがいる。

彼はアブラハムを聖別(聖なる目的に使用するために世俗より離す)して神の恩寵の象徴による印章を譲ったのだった。これはアブラハムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においてはまだ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては民のために送りし神託の代弁者であった。

 ここで今まさに啓発の門出に立つ汝に注意しておくが、太古の記録を吟味するに当たりては事実の記録と単なる信仰の表現にすぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見受けられる。

それらは伝えられるがごとき秀でた人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混じり合い、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれし時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。

それ故、たしかに汝らの聖書と同じくその中に幾ばくかの事実はなきにしもあらずであるが、その言語の一つひとつに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ。」

 こう述べた後、キリスト教を例にしてその啓示の系譜を明らかにする。

 「メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者──イスラエルの民をエジプトより救出し、独自の律法と政体を確立せる指導者──モーセを導いた。


霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強力なる人物であった。当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智、エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈なる意志が、支配者としての地位にふさわしき人物とした。

その彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それがさらに世界各地へと広がっていった。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治的体制を入念に確立し、法律と規律を制定した。

その時代はユダヤ民族にとりては、他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似性を持つ段階、すなわち古きものが消えゆき、霊的創造力によりて全てのものが装いを新たにする。霊的真理の発達段階であった。

 ここでもまた、推理を誤ってはならぬ。モーセの制定する律法は汝らの説教者たちの説くがごとき、いつの時代にも適応さるべき普遍絶対のものにはあらず。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。

すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使途によりて霊的能力に富む者を介して授けられたのである。

      (中 略)

 今日なお存続せるかの「十戒」は変転きまわりなき時代のために説かれた、真理の一面にすぎぬ。もとより、そこに説かれたる人間的行為の規範は、その精神においては真実である。が、すでにその段階を超えたる者に字句どおりに当てはめるべきものにはあらず。かの十戒はイスラエルの騒乱から逃れ、地上的煩悩の影響に超然たるシナイ山の頂上において、モーセの背後霊団より授けられたのであった。

(中 略)

 メルキゼデクがモーセの指導霊となりたるごとく、そのモーセも死後エリヤの指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断わっておくが、今われらはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんが為に他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。

またその巨大な流れの中には数多くの優れたる霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最小限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたる後もなお地上へ影響を及ぼし続けている事実を強く指摘せんとしているのである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。

がそれは今の汝にはかかわりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大な潮流こそ汝にとりて最大の関心事であろう。もっとも、それをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘(きょうあい)なる宗閥心だけは棄ててもらわねばならぬ。」 

 さてスピリチュアリズムは、人間が知性の飛躍的発達とともに霊的なものに背を向け、物質文明へ向けて急旋回し始めた十九世紀半ば頃勃興し、今日までに数多くの珠玉の霊的啓示を入手することに成功している。その代表的なものが右に紹介した『霊訓』並びに『続霊訓』であり、マイヤースの『永遠の大道』並びに『個人的存在の彼方』であり、

オーエンの『ベールの彼方の生活』であり、フランス人アラン・カルデックの編纂になる『霊の書』並びに『霊媒の書』であり、そしてこの『シルバーバーチの霊訓』全十一巻である。

 以上は比較的長文のものを拾ったまでで、小冊子程度のものまで数えれば、それこそ枚挙にいとまがないほどであり、内容的に貴重なものも少なくない。

もっと言えば、立派な通信を入手しながら、さまざまな事情から公表をあきらめたものもあるであろう。筆者がそう推測する根拠は、オーエンが『ベールの彼方』を刊行するまでの経緯にある。その「まえがき」の中でこう述べている。

 「さて〝聖職者というものは何でもすぐに信じてしまう〟というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど〝信仰〟というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかもしれない。

が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。

ちなみに私が本通信を〝信じるに足るもの〟と認めるまでにちょうど四分の一世紀を費やしている。すなわち、確かに霊界通信というものが実際に存在することを認めるのに十年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適っていることを明確に得心するのに十五年もかかった。」

 国教会の牧師だったオーエンはこれを出版したことで教会長老の怒りをかい〝回心〟を求められたが頑として聞きいれず自ら辞職している。可能性としては身の保全のためにそれを公表せずに焼却処分にすることも有り得たわけであり、現実にそうしたケースが他にいくつもあったであろうことは十分に推測される。

 さて『霊訓』の一節に人類の進歩とともに啓示の内容も進歩するという件りがあるが、右に紹介した霊界通信に絞ってみてもそれがうかがえる。例えば『霊訓』の中においては〝再生〟の問題は一切見当たらず、モーセの死後に編纂された『続霊訓』の中に僅かに散見される程度である。この続編はモーセの恩師であるスピーア夫人が審神者となって得た霊言を主体に収録されているが、その中に次のような箇所がある。

 「霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊のみが論ずることの出来る問題である。大神のご臨席のもとに神庁において行われる神々の協議の中身につきては、神庁の下層部の者にすら知ることを得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊魂の究極の運命である。

神庁において神議(はかり)に議られしのちに、一個の霊が再び地上へ肉体を持って生まれるべしと判断されるか〝否〟と判断されるかは、誰にも分からぬ。誰にも知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。すべては良きに計らわれるであろう。

 すでに述べたごとく、地上にて広く喧伝されている形での再生は真実にはあらず。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とをもちて地上に降り人間と共に生活を送ることはある。他にもわれわれなりの配慮により広言を避けている一面もある。

まだその機が熟していないからである。霊なら全ての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう広言する霊は自ら己れの虚偽性の証拠を提供しているに他ならぬ。」

 これはイムペレーターの霊言である。末尾の〝他にもわれらなりの配慮により云々…〟という言葉からうかがえるように、再生は〝あるにはある〟といった程度に止めている。

 これがほぼ半世紀後に出たシルバーバーチになると、再生を魂の向上進化の絶対的条件として前面に押し出し、〝人間の言語ではその真相はうまく伝えられないが・・・〟と断りつつも、その目的と意義を繰り返し説いている。

本書(アン・ドゥリー編)では再生に関する具体的な霊言は採録されておらず、僅かに第十章の「質問に答える」の中で簡単に触れているだけであるが、他の十巻の全部で詳しく説かれている。

 霊媒のモーゼスもバーバネルもともに英国人である。英国において同じくイエス・キリストを霊的源流とする二つの霊的啓示が、一方は〝まだその時機でない〟という態度を取り、他方が〝今こそその時機である〟という態度で臨んでいるこの対照は、明らかに〝啓示の進歩〟を物語るものと観てよいであろう。

 今も述べたように、先に列挙した霊的啓示は多かれ少なかれキリスト教的色彩を帯びている。ナザレ人イエスにその淵源を求めることが出来るという意味である。

すなわちメルキゼデクに発した大きな霊的潮流がイエス・キリストの出現で一つのクライマックスを迎え、それがいったん埋もれたあと、十九世紀の後に再び多くの霊媒を通して霊言あるいは自動書記の形で地上へ奔出しはじめたと観ることが出来る。シルバーバーチはイエスについて見解を求められて次のように語っている。

 「ナザレ人イエスは神より託された使命を成就せんがために物質界へ降りた多くの神の使途の一人でした。イエスは地上での目的は果たしました。が残りの使命はまだ果たしておりません。それが今まさにイエスの指揮のもとに成就されつつあるところです。

          (中   略)

 イエスを通して地上へ働きかけた霊は、今なお、二千年前に始まった事業を果たさんとして引き続き働きかけております。その間イエスの霊は数え切れないほど何度もはりつけにされ、今なお毎日のようにはりつけにされております。」
 
 ───あなたが〝ナザレ人イエス〟と言う時、それは地上で生活したあの人間イエスのことですか、それともイエスを通して働いている霊的威力のことですか。

「あの人間イエスのことです。ただしその後イエスも向上進化し、地上時代よりはるかに大きな意識となって顕現しております。地上時代は、当時の時代的制約に合わさざるを得なかったのです。それでもなお、地上の人間でイエスほど霊の威力を発揮した者はおりません。イエスほど強烈に霊的摂理を体現した人間はおりません。」

 ───この二千年の間に一人もいないのでしょうか。

「いません。前にも後にもおりません。地上という世界があの時代ほど偉大な神の啓示に浴した時代はありません。しかし私たちは地上に誕生した人間イエスを崇めているのではありません。イエスを通して働きかけた霊の力に敬意を表するのです。人間というのは、どれだけ霊力の道具として役に立ったかによって、その人に払われる敬意の度合いが決まるのです。」


 ───霊界には今後イエスのごとき人物を地上へ送ることによってさらに奥深い啓示をもたらす計画があるのでしょうか。

「さまざまな民族の必要性に応じて、さまざまな手段が講じられつつあります。忘れてならないのは、現在の地上はますます複雑さを増し、相互関係がますます緊密となり、それだけ多くの通信回路を開かねばならなくなっているということです。

各民族の異なった気質、習慣、思想、生活手段や様式を考慮に入れなくてはなりません。通信の内容もその国民の生活環境や特質、民族的習性に合わさなくてはなりません。それをその国民の言語で表現せねばならず、その他もろもろの制約があります。が、啓示の由って来る究極の淵源はみな同じです。」

 百年を生きるのがやっとというわれわれ地上人の人間にとって二千年とか五千年という時の流れは気の遠くなる思いがするが、悠久の宇宙的尺度をもってすればほんの短い一時期にすぎないのであろう。

巷間(こうかん)にはこれから後の僅か百年二百年について、やたらに悲愴感を煽る勿体ぶった予言書が出版されているが、筆者はこうした、人の心を怖じけづかせ魂を縮み上がらせるようなものは決して純正な予言ではない、否、極めて悪質であると思う。もっとも、悠久の目をもってみれば〝悪質なイタズラ〟程度のものなのかもしれないが。

 純正な霊的啓示は常に魂を鼓舞し生きる勇気を与えてくれるものをもっている。それは以上紹介した霊的啓示の系譜の中に如実に見られる一大特質である。

 筆者が今携わっている仕事はいわば西洋的系譜の啓示を日本へ輸入することであるが、右のシルバーバーチの霊言から推測されるように、日本には日本なりの一大啓示の時代がいずれ到来するものと信じている。

私見によれば、それは多分神道的色彩を帯びることであろう。そしてそれを西洋へ逆輸出する形になるのかもしれない。そうすることによって西洋的な啓示と東洋的な啓示とが合流して一大奔流となって世界を流れる時こそ真の世界平和、いわゆる地上天国が築かれるのではなかろうか。

 ただ少なくとも日本の現状に目をやる時、今はこうした西洋的系譜の啓示を是非とも普及しなければならない時代であるという認識を持つのは、一人筆者のみではないと信じている。

 では、おしまいに再び『霊訓』から啓示の本質に触れた部分を紹介しておこう。〝新しい啓示〟と〝古い啓示〟との間の矛盾の問題に言及してイムペレーターはこう述べている。

 「啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、啓示が別の時代の啓示と矛盾するということはあり得ぬ。ただしその真理は常にその時代の必要性と受容能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに思えるものは真理そのものにはあらずして、人間の心にその原因がある。

人間は単純素朴では満足し得ず、何やら複雑なるものを混入してはせっかくの品質を落し、勝手な推論と思惑とで上塗りする。時の経過とともにいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなっていく。矛盾すると同時に不純でありこの世的なものとなってしまう。

 やがて新らしき啓示が与えられる。がその時はもはやそれをそのまま当てはめられる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り壊さねばならぬ。新らしきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示には矛盾はない。が、矛盾せるが如く思わしめるところの古き夾雑物がある。

まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を見せねばならぬ。人間はそれに宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達せる人間は、無知なる者や偏見に固められたる人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。

 神は決して押し売りはせぬ。このたびの啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊な啓示と思うがよい。これまでもそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者をみるがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。

 神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押し付けはせぬ。用意の出来ている者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者はそれを拒絶する。それでよいのである。」
                                 近藤 千雄

 
 

Wednesday, August 30, 2023

シアトルの晩夏 従順にして謙虚な者ほど成長する。

The more obedient and humble one grows.

2023年最新】モーゼスの 霊訓の人気アイテム - メルカリ

 

〔ある本でインドが民族と宗教の揺籃の地であるとの説を読んだことがあり、われわれの交霊会でもその問題に触れた霊言を聞いたことがあった。その点を質すと(1)――〕


その通りである。今の貴殿の信仰の底流となっている宗教的概念の多くはインドにその源流を発している。インドに発し、太古の多くの民族によって受け継がれてきた。その原初において各民族が受けた啓示は単純素朴なものであったが、それにインドに由来する神話が付加されていったのである。救世主出現の伝説は太古よりある。いずれの民族も自分たちだけの救世主を想像した。キリスト教の救世主説も元を辿ればインドの初期の宗教の歴史の中にその原型を見出すことが出来る。インドの伝承文学の研究がこれまで貴殿が勉強してきた言語学的側面と大いに関わりがあるように、その遠く幽(かす)かな過去のインドの歴史の宗教的側面の研究は今の貴殿にとって必要欠くべからざるものである。関心を向けよ。援助する霊を用意してある。

インド、ペルシャ、エジプト、ギリシャ、ローマ、ユダヤ――これらの民族とその知的発達に応じた神の概念の啓示の流れについて今こそ学ぶべきである。ジャイミニー(2)とヴェーダ・ヴャーサ(3)がソクラテスとプラトンの先輩であったことを知らねばならない。そのことに関してはその時代に地上生活を送り、その事実に詳しい者がいずれ教えることになろう。が、その前に地上に残る資料を自らの手で蒐集する努力をせねばならない。指導はそれが終了した後のことである。

さらに、その資料の中に人間がいつの時代にも自分を救ってくれる者の存在の必要性を痛感して来たこと、そしてまた、そうした救世主にまつわる伝説が太古より繰り返されて来ている事実を見出さねばならない。数多くの伝説を生んだ神話の一つが、純潔の処女デーヴァキー(4)の奇跡の子クリシュナ(5)の物語であることも判るのであろうし、そうした事実がこれまでキリスト教の中で闇に包まれていた部分に光を当てることにもなろう。もっともわれらはこの事実を重大なるものとして早くから指摘して来た。貴殿の異常な精神状態がその分野に関する全くの無知と相俟って、われらをして手控えさせたのである。

このほかにもまだまだ取り除かねばならぬ夾雑物は多い。これを取り除かぬかぎり安心して正しい思想体系の構築は望めぬ。大まかな荒筋においてさえ貴殿にはまだ奇異に思えることが多い。まずそれに馴染んだ後でなければ細部へ入ることは出来ぬ。たとえば古代の四大王国、すなわちエジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマの哲学と宗教はその大半がインドから摂り入れたものである。インドの大革命家であり説教者であったManou(6)がエジプトではManesとなり、ギリシャではMinosとなり、ヘブライ伝説ではMosesとなった。いずれも固有名詞ではなく“人間”Manを意味する普通名詞であった。偉大なる真理の開拓者はその顕著な徳ゆえに民衆からThe Manと呼ばれた(7)。民衆にとっては人間的威力と威厳と知識の最高の具現者だったわけである。

インドのManou(マヌ)はキリストの誕生より三千年も前の博学な学識者であり、卓越せる哲学者であった。いや実は、そのマヌでさえそれよりさらに何千年も昔の、神と創造と人間の運命について説かれたバラモンの教説の改革者に過ぎなかった。

ペルシャのゾロアスター(8)の説ける真理も全てマヌから学んだものであった。神に関する崇高なる概念は元を辿ればマヌに帰する。法律、神学、哲学、科学等の分野において古代民族が受けたインドの影響は、貴殿らが使用する用語がすべてマヌ自身が使用した用語と語源が同一である事実と同様に間違いない事実であるとの得心がいくであろう。近代に至ってからの混ぜ物がその本来の姿を歪めてしまったために、貴殿には類似点を見出し得ぬかも知れないが、博学なる言語学者ならばその同一性を認めることであろう。一見したところ世界の宗教はバラモンの伝承的学識の中に類似性を見出せぬかに思われるが、実はマヌが体系づけ、マーニーManesがエジプトに摂り入れ、モーセMosesがヘブライの民に説いた原初的教説から頻繁に摂取しているのである。

哲学及び神学のあらゆる体系の中にヒンズー(インド)的思想が行き渡っている。たとえば、古代インドの寺院において絶対神への彼らなりの純粋な崇拝に生涯を捧げたデーヴァダーシー(9)と呼ばれる処女たちの観念は、古代エジプトではオシリス(10)の神殿に捧げられる処女の形を取り、古代ギリシャではデルポイ(11)の神殿における巫子(みこ)となり、古代ローマではケレース(12)神の女司祭となり、後にあのウェスターリス(13)となって引き継がれていった。

が、これはわれらが貴殿に教えたいことの一例に過ぎない。ともかく注意をその方向へ向けて貰いたい。われらは極めて大まかな概略を述べたに過ぎない。細かき点はこれより後に埋め合わせるとしよう。貴殿にはまだ概略以上のことは無理である。


――確かに私は知らないことばかりです。それにしてもあなたは人間がまるで霊の道具に過ぎないような言い方をされます。出来のいい道具、お粗末な道具、分かりのいい道具、分かりの悪い道具。


これまでもしばしば述べて来た如く、知識はすべて霊界よりもたらされる。実質はわれらの側にあり、人間はその影に過ぎない。地上にても教えやすい者ほど学ぶことが多いのと同じく、われらの交わりにおいても素直な者ほど多くを学ぶことになる。貴殿に学ぶ心さえあれば幾らでも教える用意がある。


――人間には取り柄(え)はないということですか。


従順さと謙虚さの取り柄がある。従順にして謙虚な者ほど成長する。


――もし霊側が間違ったことを教えた場合はどうなります。


すべての真理に大なり小なりの誤りは免れない。が、その滓(かす)はいずれ取り除かれるものである。


――霊によって言うことが悉く違う場合があります。どちらが正しいのでしょう。真実とは一体何なのでしょう。


言うことが違っているわけではない。各霊が自分なりの説き方をしているまでである。故に細部においては異なるところはあっても、全体としては同じことを言っている。貴殿もそのうち悪と呼んでいるものが、実は善の裏側に過ぎぬことが判るようになるであろう。地上においては混じり気のない善というものは絶対に有り得ない。それは空しき夢想というものである。人間にとっては真理はあくまで相対的なものであり、死後にも長期間に亙って相対的であることは免れない。歩めるようになるまではハイハイで我慢しなければならない。走れるようになるまでは歩くだけで我慢しなければならない。高く跳べるようになるまでは走るだけで我慢しなければならならない。

(プルーデンス)



Tuesday, August 29, 2023

シアトルの晩夏 霊とは何か

what is a spirit 

シルバー・バーチの霊訓 新装版 10の通販/パム・リーバ/近藤 千雄 - 紙の本:honto本の通販ストア

 霊とは何かを言語によって完璧に描写することは絶対に不可能です。

無限だからです。言語はすべて有限です。私はこれからそれを何とか説明してみようと思いますが、いかにうまく表現してみたところで、霊力のほんのお粗末でぎこちない描写でしかないことをご承知下さい。

 宇宙の大霊すなわち神が腹を立てたり残酷な仕打ちをしたりわがままを言ったりするような人間的存在でないことは、すでにご承知でしょう。何度も言ってきたように、神とは法則であり、その背後に働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。

それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。その中に極小と極大の区別もありません。

 こうした大まかな表現によって私たちは自分本来の姿、つまりミクロの神でありミニチュアの宇宙である自我について、どうにかその片鱗をつかむことができます。全体を理解するには余りに大きすぎます。あなた方がこうして地上に生を享けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終わることのない道程です。

何故なら神性は無限に顕現するものだからです。神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している霊は偉大であることになります。

 では、いかにすればこの驚異的な潜在的神性を意識的に発現させることができるのでしょうか。

 それに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようというものです。

要するに物的混沌から脱け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、私はどれといって特定の方法を説くことには賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見出していくべきものだからです。

 自我を一時的に潜在意識にコントロールさせ、それをきっかけにして内部の生命力とのつながりをより緊密に、そしてより強くさせることを目的とした内観法が幾つかあります。それが次第に深まれば霊界からのインスピレーションを受けることも多くなります。

まず心霊的(サイキック)な面が開発されます。続いて霊的(スピリチュアル)な面が開発され(※)宇宙の内奥に存在する生命力がふんだんに流れ込むようになります。

(※サイキックとスピリチュアルの違いはこうした自我の開発のほかに心霊能力にも心霊治療にもあります。心霊治療については第七章でシルバーバーチが詳しく説明しています。心霊能力について言えば、たとえば単なる透視力は動物の超能力と同じで五感の延長にすぎません。これがサイキックです。

つまり目の前に存在するもの──地上にせよ霊界にせよ──しか見えません。これに背後霊の働きが加わり、その場に存在しないもの、あるいは高次元の世界のものを映像またはシンボルの形で見せられるようになれば、それがスピリチュアルです。── 訳者)

 ある種のテクニックを身につければ病気を自分で治し、体内の不純物を排出し、欠陥を矯正することができるようになります。自我の全ての側面──霊と精神と身体の調和を成就することができます。

かくして霊性が本来の優位を確保していくに従って、霊的叡知、霊的理解、霊的平穏、霊的自信、霊的静寂が増し、不滅の霊力との真の繋がりを自覚するようになります。

 人間は霊的存在である以上、宇宙の大霊すなわち神の属性を潜在的に所有しております。あなた方一人ひとりが神であり、神はあなた方一人ひとりなのです。一人ひとりが神の無限の霊力の一翼を担っているのです。地上への誕生はその大霊の一部が物質と結合する現象です。その一部に大霊の神性の全てが潜在的に含まれております。いわば無限の花を開かせる可能性を秘めた種子と言えましょう。

 その可能性の一部が霊界からの働きかけによって本人も気づかぬうちに発揮されるということがあります。むろん無意識よりは意識的の方が望ましいに決まっています。ですが無意識であっても、全然発揮されないよりはましです。人間が同胞に向けて愛の手を差し伸べんとする時、その意念は自動的に霊界の援助の力を呼び寄せます。

その、人のために役立とうとする願望は魂をじっとしていられなくします。そして、やがて機が熟して魂が霊性に目覚める時が来ます。その時からは自己の存在の意義を成就する目標へ向けて意識的に邁進するようになります。

 先にサイキックという用語を用いましたが、これは物質と霊との中間的段階をさします。悟りを求め、あるいは霊能を開発せんとして精神統一の訓練を開始すると、まず最初に出てくるのが心霊的(サイキック)な超能力です。これはその奥の霊的(スピリチュアル)な能力に先がけ出て来ます。

超能力の開発は霊性の発達を阻害すると説く人がいます。そう説く人は心霊的な段階を経ずに一気に、独力で、神との合一を求めるべきであると主張するのですが、私はこれは間違っていると思います。それもあえて出来ないとは申しませんが、大変な修行のいることであり、しかも往々にして危険を伴います。

 霊格が向上するほど生命活動が協調によって営まれていることを悟るものです。自分一個で生きているものは何一つありません。お互いが力を出し合って生きております。一人ひとりが無限の連鎖関係の中の一つの単位なのです。

そんな中でなぜ初心者が熟練者の手助けを拒絶するのでしょう。私たちがこうして地上に戻ってあなた方を手助けし、手助けされたあなた方が同胞の手助けをする。そこにお互いの存在の理由があるわけです。

一人だけ隔離された生活をするようにはなっていないのです。みんなと協力し合って生きていくように出来ているのです。この見解を世界中に広めなければなりません。

すなわち世界の人間の全てが霊的に繋がっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きん出ることは許されないのです。

 登るのも下るのもみんな一緒です。人類だけではありません。動物も一緒です。なぜなら生命は一つであり、無限の宇宙機構のすみずみに至るまで、持ちつ持たれつの関係が行きわたっております。独善的考えから他の全ての方法を蔑視して独自の悟りの境地を開くことも不可能ではありません。

が、私はそうした独善的な生き方には反対です。私の理解した限りにおいて、宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能です。他人の援助を頼まずに独力で事を成就しようとする気構えは、それ自体は必ずしも利己的とは言えません。

私はただ、その方法はお勧めしないと言っているのです。自分を他人に役立てること── これが霊的存在の真の価値だと私は信じます。私はその心掛けで生きて参りました。それが宇宙の大霊の意志だと信じるからです。そうではないと思われる方は、どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい。

 人類の手本と仰がれている人々は、病に苦しむ人には霊的治癒を、悲しみの人には慰めの言葉を、人生に疲れた人には生きる勇気を与えて、多くの魂を鼓舞してきました。要するに己を犠牲にして人のために尽くしたのです。それが神の御心なのです。

悲しみの涙を拭ってあげる。病を治してあげる。挫折した人を勇気づけてあげる。苦境にある人に援助の手を差しのべてあげる。

たったそれが一人であっても立派に神の意志を行為で示したことになります。そんなことをする必要はないと説く教えは絶対に間違っております。救いの手を差し伸べることは決して間違っておりません。それを拒絶する方が間違っております。

 もちろんそこに動機の問題もあります。見栄から行う善行もありましょう。が、それも何もしないよりはましです。邪な考えに発した偽善的行為、これはいけません。魂にとって何の益もありません。摂理をごまかすことはできないのです。完璧なのです。

イエスが〝慈悲の心は耐え忍ぶもの〟(※)と語ったのは神の意志の偉大さを説かんとしたのです。善行はそれ自体の中に報酬が宿されております。

(※コリント前書13・4-この言葉は聖書では〝愛は寛容である〟と訳されております。イエスの言葉はこの後さらに次のように続きます。

〝愛は慈悲に富む、愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼をせず、己れの利益を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ〟。──訳者)

 霊力の道具として働く霊能者は多くの魂へなんらかの影響を及ぼしています。そこが霊的現象の大切な点です。悲しみの人に慰めを与え、病の人に治癒を与え、主観・客観の両面にわたって霊力の証を提供することも確かに大切ですし、これを否定できる人はおりません。が、真の目的は現象的なものを超えたところにあります。魂に感動を与え実在に目覚めさせることです。

地上は未だに〝眠れる魂〟で一杯です。生命の実相をまるで知らず、これから目覚めていかねばなりません。

 霊的現象の目的はそうした個々の魂に自我への覚醒をもたらし、物的感覚を超えて自分が本来霊的存在であることを自覚させることです。いったん霊性を悟れば、その時から神からの遺産として宿されている神性の種子が芽を出して生長を開始します。その時こそ全大宇宙を経綸する無限の創造力のささやかな一翼を担うことになります。

 こうして霊力の道具として役立つだけの資格を身につけるまでには、それなりのトレーニングが要ります。それは大変なことです。何となれば、その結果としてある種の鍛錬、ある種の確信を身につけなければならず、それは苦難の体験以外には方法がないからです。霊力の道具として歩む道は厳しいものです。

決して楽ではありません。容易に得られた霊能では仕事に耐えきれないでしょう。魂の最奥・最高の可能性まで動員させられる深刻な体験に耐えるだけの霊性を試されて初めて許されることです。そうして身に付けたものこそ本物であり、それこそ霊の武器と言えます。

 その試練に耐え切れないようでは自分以外の魂を導く資格は有りません。自ら学ぶまでは教える立場に立つことは出来ません。それは苦難の最中、苦悩の最中、他に頼る者とてない絶体絶命の窮地において身につけなければなりません。最高のものを得る為には最低まで降りてみなければなりません。

こうした霊的覚醒、言えかえれば飢えと渇きに喘ぐ魂に霊的真理をもたらすことは実に大切なことです。それが地上での存在の理由の全てなのです。なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせず地上を素通りしております。

 ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えも出来ていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方が遥かに学びやすく、その方が自然なのです。

悲しみの人を慰め、迷える人を導き、悩める人を救うためには、自らが地上において苦難の極み、悲哀のドン底を体験しなければなりません。自分自身の体験によって魂が感動した者でなければ人に法を説く資格は有りません。

 教える立場に立つ者は自らが学ぶ者として然るべき体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。艱難辛苦── 辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばなければなりません。それが真に人のために役立つ者となるための鉄則です。

そうでなければ有難いのだが、と私も思うことがあります。しかし側(はた)の者には分からないあなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。なぜならその艱難辛苦こそ全ての疑念と誘惑を蹴散らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。

 これも神の摂理として定められた一つのパターンです。霊的成就への道は楽には定められておりません。もし楽に出来ておれば、それは成就とは言えません。楽に得られるものであれば、得るだけの価値はありません。人のために役立つためにはそれなりの準備が要ります。

その準備を整えるためには魂の琴線に触れる体験を積み、霊性を開発し、心霊的能力を可能な限り霊的レベルまで引き上げなければいけません。心霊的能力を具えた人は大勢います。が、それを霊的レベルまで高めた人は多くは居ません。

私たちがかかわるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)の持つ能力、つまり肉体の五感の延長でしかないものには、たとえ地上の学者がどんなに面白い実験(※)をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味があります。

(※ここではESPつまり超感覚的能力の実験を指していますが、シルバーバーチの説を総合すれば、ヨガや密教における超人的な術、未開人におけるまじない的な術、雨を降らせる術なども同類に入ります。──訳者)

 地上には、自分を変えようとせずに世の中を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革は先ず自分から始めなくてはなりません。自分が霊的資質を開発し、発揮し、それを何かに役立てることが出来なければ、他の人を改める資格はありません。

地上人類の霊的新生という大変な事業に携っていることは事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮しなければなりません。

 宗教的呼称や政治的主義主張はどうでもよろしい。私はその重要性を認めません。もし何かの役に立てば、それはそれで結構です。が、本当に大切なのは神の子として授かった掛けがえのない霊的遺産を存分に発揮することです。

その光輝、その気高さ、その威厳の中に生きることです。いかなる名称の思想、いかなる名称の教会、いかなる名称の宗教よりも偉大です。

神の遺産は尽きることがありません。地上に誕生してくる者の全てが、当然の遺産としてその一部を無償で分け与えられております。

 人生の重荷を抱えた人があなた方のもとを訪れた時、大切なのはその人の魂に訴えることをしてあげることです。他界した肉親縁者からのメッセージを伝えてあげるのも良いことには違いありません。メッセージを送る側も送られる側も共に喜ぶことでしょう。しかし喜ばせるだけで終わってはいけません。

その喜びの体験を通して魂が感動し、宇宙の絶対的な規範であるところの霊的実在に目覚めなければなりません。慰めのメッセージを伝えてあげるのも大事です。病気を治してあげるのも大事です。私がこうしておしゃべりすることよりも大事です。

ですが、霊界において目論まれている目的、こうして私どもが地上へ舞い戻って来る本当の目的は、地上の人間の霊的覚醒を促進させることです。

 その仕事にあなた方も携わっておられるわけです。困難に負けてはいけません。神の道具として託された絶大なる信頼を裏切らない限り、決して挫折することはありません。嵐が吹きまくることもあるでしょう。雨も降りしきることでしょう。

しかし、それによって傷めつけられることはありません。嵐が去り太陽が再び輝くまで隔離され保護されることでしょう。

煩わしい日常生活の中に浸り切っているあなた方には、自分が携わっている恵み深い仕事の背後に控える霊力がいかに強力で偉大であるかを理解することは難しいでしょう。

ですから、あなた方としてはひたすらに人の役に立つことを心掛けるほかないのです。あなた方を通して働いている力はこの宇宙、想像を絶する広大な全大宇宙を創造した力の一部なのです。

 それは全ての惑星、全ての恒星を創造した力と同じものなのです。雄大なる大海の干満を司るエネルギーと同じものなのです。

無数の花々に千変万化の色合いと香りを与えたエネルギーと同じものなのです。

小鳥、動物、魚類に色とりどりの色彩を施したのも同じエネルギーです。

土くれから出来た人間の身体に息吹きを与え生かしめている力と同じものです。それと同じエネルギーがあなた方を操っているのです。

目的は必ず成就します。

 真摯な奉仕的精神をもって然るべき条件さえ整えば、その霊力は受け入れる用意の出来た人へいつでも送り届けられます。

怖じけてはいけません。

あなた方は神の御光の中に浸っているのです。それはあなた自身のものなのです。

Monday, August 28, 2023

シアトルの夏 人間的想像と誤謬に埋もれた素朴な真理を明らかにするのが霊団の使命

 The mission of the Spirit Group is to reveal the simple truth buried in human imagination and error.



ウィリアム・ステイントン・モーゼス - Wikipedia
  • The Spirit Teachings
  • ステイントン・モーゼス(著)
  • 近藤千雄(訳)

一八七三年十一月二日。私が提出した質問が無視され、バイブルに記録が見られる時代のキリスト教系全体の神の啓示の発達のあとを本格的に解説して来た。これが、並行して進行している多くの啓示のうちの一つであることは以前から予告されていた。〕



これよりわれらは古き時代においてわれらと同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた過程について述べたく思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。彼らは地上にありては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきた。その一人――神が人間に直接的に働きかけるとの信仰が今より強く支配せる初期の時代の一人に、そなたたちがメルキゼデク(1)の名で知るところの人物がいた。彼はアブラム(2)を聖別(3)して神の恩寵の象徴たる印章を譲った。これはアブラムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においては未だ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては、その民のために送りし神託の代弁者であった。

ここで今まさに啓発の門出に立つそなたに注意しておくが、太古の記録を吟味する際には、事実の記録と、単に信仰の表現に過ぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見うけられる。それらは伝えられる如く秀でたる人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混り合い、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれた時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。それ故、確かにそなたらの聖書と同様にその中に幾許かの事実は無きにしもあらずであるが、その言説の一つ一つに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ。これまでのそなたはそれらの説話を絶対的同意の立場より読んできた。これよりは新しき光――より益多くして興味浅からぬ見地より見る必要があろう。

神は“創世記”に述べられたるが如き、神人同形同性説的なものではない。またその支配は相応しき霊を通して行なわれてきたのであり、決して神自らが特別に選びし民のみを愛されたのではない。

神と人間との結びつきはいつの時代にも一様にして不変である。すなわち、人間の霊性の開発に応じて緊密となり、動物的本能が強まればそれだけ疎遠となり、肉体的並びに物質的本能の為すがままとなる。

かの初期の時代において、選ばれしアブラムに神の聖別を与えたのがメルキゼデクである。が、キリスト教徒もマホメット教徒も挙(こぞ)って称(たた)えるそのアブラムはメルキゼデクの如き直接の霊的啓示には与(あずか)らなかった。アブラムはその死と共に影響力を失い、在世中のみならず死後も、人間界に影響と言えるほどのものは及ぼしていない。そなたには不審に思われることかも知れぬが、地上にその名を馳せたる霊の中にも同じ例が数多くあるのである。地上での仕事が終わりてのち、地上と係われる新たな仕事を授からぬことがある。在世中の仕事に過ちがあったのかも知れぬ。そして死後その霊的香気を失い、無用の存在となり果てることもある。

メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者、イスラエルの民をエジプトより救い出し、独自の律法と政体を確立せる指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強大なる人物であった。当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智――エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈な意志が支配者としての地位に相応しき人物とした。彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それが更に世界へと広がっていった。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成せしめ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定した。その時代はユダヤ民族にとりては他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的創造力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのである。

ここにおいてもまた推理を誤ってはならぬ。モーセの制定せる法律はそなたらの説教者の説くが如き、いつの時代にも適用さるべき普遍的なものではない。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使徒によりて霊的能力を持つ者を通して授けられたのである。当時のイスラエルの民にとりて第一に必要な真理は、彼らを支配し福祉を配慮してくれるのは唯一絶対神であるということであった。エジプトの多神教的教説に毒され、至純なる真理の宿る霊的奥義を知らぬ民に、その絶対神への崇敬と同胞への慈悲と思いやりの心を律法に盛り込んだのである。

今日なお存続せるかの「十戒」は変転きわまりなき時代のために説かれた真理の一端に過ぎぬ。もとよりそこに説かれた人間の行為の規範は、その精神においては真実である。が、すでにその段階を超えた者に字句どおりに適用すべきものではない。かの「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ、地上的煩悩の影響に超然とせるシナイ山の頂上にてモーセの背後霊団より授けられた。背後霊団は今日の人間の忘却せるもの――完全なる交霊のためには完全なる隔離が必要であること、純粋無垢なる霊訓を授からんとすれば低次元の煩雑なる外部からの影響、懸念、取越苦労、嫉妬、論争等より隔絶せる人物を必要とすることを認識していたのである。それだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることが出来るのである。

モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として七十人もの長老――高き霊性を具えたる者――を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高き者が役職を与えられたのである。モーセはそのために律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となりたる後も、人類の恩人として末長くその名を地上に留めているのである。

メルキゼデクがモーセの指導霊となりたる如く、そのモーセも死後エリヤ(4)の指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断っておくが、今われらはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんがために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。また、その巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最少限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたるのちも引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を強く指摘せんとしているところである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。が、それは今のそなたには係わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大なる流れこそそなたにとりて最大の関心事であろう。もっともそれをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘なる宗閥心だけは棄てて貰わねばならぬ。

偉大なる指導者エリヤ、イスラエル民族の授かれる最高の霊はかつての指導者モーセの霊的指揮下にあった。ユダヤ民族が誇るこの二人の指導者への崇敬の念は、神がモーセの死体(からだ)を隠し、一方エリヤを火の馬車に乗せて天国へさらって行ったという寓話にも示されている(5)。崇敬の念のあまりの強さがこうした死にまつわる奇怪な話を生んだのである。指摘するまでもないと思うが、霊が生身の肉体を携えて霊の世界に生き続けることは絶対にない。偉大なる仕事を成し遂げたる霊が次の世界より一段と強力に支配することを教えんが為の寓話に過ぎぬ。エリヤはその後継者エリシャ(6)に己の霊を倍加して授けたという。が、それはエリシャが倍加された徳を賦与されたという意味ではない。そのようなことは有り得ぬことだからである。そうではなく、エリヤの霊力による輝ける業績が後継者の時代に倍の勢力をもって働きかけ、エリシャがそれを助成し実践していったという意味であった。

そのエリヤもまた後の世に地上に戻り指導に当たった。そなたも知る如く、かの“変容(7)”の山上にてモーセと共にキリストの側(そば)にその姿を見せた。二人はその後ヨハネにも姿を見せ、それよりのちにも再び地上を訪れることを告げたとある。


〔私はこの通信の書かれた十一月二日の時点では最後の一文にあるような、二人がのちに再び地上に戻ると述べたということが全く理解できなかった。それがヨハネ黙示録11-3、その他に出ている“二人の証人”のことであることが分かったのは最近のことで、それも私の無名の友人が送って来たヨハネ黙示録に関する小論文を読んで始めてそれと気づいたことで、もしもその小論文を見なかったら知らずじまいになるところであった。その小論文はたまたまその二人の証人と二人の予言を扱ったもので、私にとっては実にうまい時機(タイムリー)に届けられたのだった。

右の通信で私はいろいろと質問をしたが、その中でメルキゼデクの前にも神の啓示を受けた霊覚者がいたかどうかを尋ねた。すると――〕


無論である。われらは最後にイエスに至る流れの最初の人物としてメルキゼデクを持ち出したに過ぎぬ。その流れの中でさえ名を挙げることを控えた人物が大勢いる。すでに述べた如く、その多くが神の啓示を受けていた。エノク(8)がその一人であった。彼は霊覚の鋭き人物であった。同じくノア(9)がその一人であった。もっとも、霊覚は十分ではなかった。デボラ(10)も霊覚の鋭き人物であり、歴史にて“イスラスルの士師”と呼ばれる行政官はすべて、霊感の所有者であるという特殊の資格をもって選ばれたのであった。そのことにつきて詳しく述べる余裕はない。ユダヤの歴史に見られるその他の霊力の現われにつきては、こののち述べることもあろう。今はまずその古き記録全般に視点を置き、さらにその中の霊的な流れの中から(イエスに連なる)一つだけに絞っていることを承知されたい。


――あなたはそうした古い記録は文字どおりに受け取ってはならぬとおっしゃったことがあります。“モーセ五書(11)”のことですが、あれは一人の著者によるものでしょうか。


あの五書はエズラ(12)の時代に編纂されたものである。散逸の危険にあった更に太古の時代の記録を集め、その上に伝説または記憶でもって補充した部分もある。モーセより以前には生の記録は存在せぬ。「創世記」の記録も想像の産物もあれば伝説もあり、他の記録からの転写もある。天地創造の記述や大洪水の物語は伝説に過ぎぬ。エジプトの支配者ヨセフ(13)に関する記述も他の記録からの転写である。が、いずれにせよ現在に伝えられる“五書”はモーセの手になるものではない。エズラとその書記たちが編纂したものであり、その時代の思想と伝説を表わしているに過ぎぬ。もっとも、モーセの律法に関する叙述は他の部分に比して正確である。何となれば、その律法の正確な記録が聖なる書として保存され、その中より詳細な引用が為されたのである。かく述べるのは、論議の根拠として“五書”の原文が引用された際に一々その点を指摘する面倒を省くためでもある。記録そのものが字句どおりに正確ではないのである。ことに初めの部分などは全く当てにならず、後半も当てになるのは正確な記録が残っていたモーセの律法に関する部分のみである。


――想像の産物だとおっしゃいましたが。


散逸せる書を補充する必要があり、それを記憶または伝説から引き出したという意味である。


――アブラハム(14)のことは簡単にあしらっておられるようですが。


そういうわけではない。神の使者としてその霊的指導に当たれるモーセに比して霊格の程度が低かったというに過ぎぬ。こうした問題を扱う上において、われらは一々人間界の概念にはこだわらぬ。アブラハムは人間界ではその名を広く知られているが、われらにとりては、さして重要なる存在ではない。


――エノクとエリヤの生身での昇天――あれは何だったのでしょう。


伝説的信仰に過ぎぬ。民衆の崇敬を得た人物の死にはとかく栄光の伝説がまとわりつくものである。太古において民衆に崇められ畏敬の念をもってその名が語られた人物は、生身のまま天の神のもとへ赴いたとの信仰が生まれたものである。霊力の行使者であり、民衆の最高指導者であったモーセもその死に神秘なる話が生まれた。生前においては神と直接(じか)に親しく話を交わし、今やその神のもとへ赴いたと信じられた。同様に、人間的法律を超越し、何一つ拘束力を知らず、あたかも風の如く来り風の如く去った神秘的霊覚者エリヤ――彼もまた生身のまま天へ召されたと信じられた。いずれの場合もその伝説の根底にある擬人的神と物的天国の観念による産物であった。前にも述べた如く、人間は神と天国に関してその霊的発達程度以上のものは受けとめることは出来ぬ。古代においては神を万能の人間――すべての点で人間的であり、更にその上にある種の特性、人間の自然の情として更にかく有りたいと憧れる特質を具えた人間として想像した。言い換えれば人類の理想像にある特性を付加し、それを神と呼んだのであった。これは決して嘲笑(あざわら)うべきことではない。程度こそ違え人類の歴史は同じことの繰り返しである。すべての啓示は、元は神より出でても生身の霊覚者を通過し、しかもその時代の人類の発達程度に適合させねばならぬ以上、人間的愚昧の霧によりて曇らされるのは必定である。それは地上という生活環境においては避け難き自然な結果と言うべきである。そこで人間の知識が進歩し叡智が発達するに従い、当然、神の観念も改められることを要する。人間がその必要性を痛感して始めて新たなる光が授けられるのである。(そなたらの中には神と霊的生活と進歩に関してわれらの教説からは何一つ学ぶものはないと言う者がいるが、その者たちには今述べたことが最良の回答である。)

天国についても同じである。そなたらは前時代の者が想像し来れる天国の概念を大幅に改めて来た。今どき生身のまま天国の館に赴くなどと信ずる愚か者はおるまい。地上にて崇められたる人物が生身を携えて擬人的神のもとへ昇天して行くなどと信じた時代はもはや過去のものとなった。まさかそなたはその生身を携えて全知全能の神のまわりにて、あたかも地上でするが如くに、讃美歌三昧に耽るなどとは想像すまい。そのような天国は根拠なき夢想に過ぎぬ。霊の世界へ入るのは霊のみである。肉体のまま天空のどこかへ連れて行かれ、そこで地上とまったく同じように、人間と同じ容姿の神、ただ能力において人間を超越しているというに過ぎぬ神のもとで暮らすなどという寓話は、そなたはすでに卒業しているであろう。そのような天国は預言者ヨハネに象徴的に啓示された天国像からの借用に過ぎぬ。そのような神が存在するわけのないことくらいはそなたにも判るであろう。昇天の時(死)は全ての善人に訪れる(15)。が、生身のままではない。地上の務めを終えた疲れ果てたる身体より脱け出で、栄光ある魂としてより明るき世界、いかなる霊覚者の想像をも絶する輝ける天国へと召されるのである。


――伝説の中にもあとで事実であったことが判明したものが沢山あります。問題は事実と伝説とを見分けることが困難なこと、毒草を抜こうとして薬草までいっしょに抜いてしまう危険があることです。神話の中にもちゃんとした意味をもち、立派な真理を含んだものがあります。


それはその通りである。そなたらが聖なる記録としているものの中に混入せる伝説は、多くの場合、偉大なる人物にまつわる迷信的信仰である。神話の中に真理の核が包蔵されていることも事実である。これまでも度々指摘したことであるが、人間はわれらの如き霊とその影響力と目的に関して余りに誤れる概念を抱いてきた。その原因には人間としてやむを得ぬ要素もあるが、克服できる要素もある。知性の幼稚な段階においては、その知性の理解力を超えたものは絶対に理解できぬのが道理である。

それはやむを得ぬことである。それまで生きて来た環境、体験せる唯一の環境と全く異なれる環境の霊的生活を正しく想像できるわけはない。そこで図解と比喩をもって教えねばならぬことになる。これもやむを得ぬことである。ところが人間は比喩として述べた言葉と観念をそのまま掻き集め、そこから辻褄の合わぬ愚かなる概念を築き上げる。これよりのちそなたも、知識の進歩と共に、その過程をより一層明確に理解することになるであろう。

また人間は神の啓示は全て普遍的適用性をもち、一字一句に文字通りの意味があるものと思い込んで来た。われらの説き方はいわば親が子に教えるのと同じであることが判らなかった。抽象的な真理の定義を説いても子供の頭では理解できぬ。子供は教えられた事柄をそのまま受け止める。それと同じ態度で人間は啓示の一言一句をあたかも数学的かつ論理的に正確なるものとして受け止め、その上に愚かにして自己矛盾に満ちた説を打ち立てる。子供は親の言葉を躊躇なく受け入れ、それを金科玉条とする。それが実は譬え話であったことを知るのは大人になってからのことである。人類も神の啓示を同じように扱ってきた。比喩的表現に過ぎぬものを言葉どおりに解釈してきた。謬りだらけの、しかも往々にして伝説的記録に過ぎぬものを数学的正確さをもって扱ってきた。かくして今なお嫉妬に狂う神だの、火炎地獄だの、選ばれし者のみの集まる天国だの、生身のままの復活だの、最後の審判だのという愚か極まる教説を信じ続けている。これらはいわば幼児の観念であり、大人になれば自然に卒業していくべきものである。霊性において成人せる人間はすべからくそうした幼稚なる概念を振り棄て、より高き真理へと進まねばならぬ。

然るに現実は、原始的迷信、愚か極まる作り話がそのまま横行している。想像力に富める民族が描ける誇張的映像がそのまま事実として受け入れられている。数々の空想と誤謬と真理とがまさに玉石混淆となり、より高き真理を理解せる理知的人間にはとても付いて行けぬ。そうした支離滅裂の寄せ集めを一つに繋いでいるものは他ならぬ信仰心である。われらはその信仰心を切断し、信仰心のみで無批判に受け入れて来たものを理性でもって検討し直せと言っているのである。きっとその中には人類の幼児時代より受け継がれた人間的産物を多く見出すであろう。煩わしく且つ無益なるものに反撥することであろう。が、同時に、その残りの中に理性に訴えるもの、体験によりて裏付けされたもの、そして神より出でしものを発見するであろう。父なる神が子なる人間に用意せる計画の一端を暗示するものを手にすることであろう。が、今のそなたにはそれ以上のことは叶わぬ。そなたは、今のその心に余りに多く巣くうところの愚かなる誤謬と誤解より解放された新しき局面を切り開くことのみで佳しとせねばならぬ。過去は根本においては現在へ投げかける照明として、そしてまた未来を照らす仄(ほの)かなる光としての価値を有するものであることを、そなたもそのうち次第に認識していくことであろう。

これで判っていただけるであろうが、われらの現在の仕事の目的もそこにある。すなわち神と生命と進化につきてそなたたちがこれまで抱いて来た思想を一層純粋なるものに近づけ、恥ずべき要素を排除することである。そのためにはまずそなたたちの教義の中の誤りと、神的真理として罷り通って来た人間的想像の産物と、理性的には反撥を覚えつつも信仰心によって受け入れられ、今や歴史的事実の如く結晶してしまった伝説を指摘せねばならぬのである。われらとしてはそなたらの側に忍耐強き真摯なる思考を要求する他はない。またわれらの為すことを全て破壊的と受け取ってはならぬ。夾雑物が取り除かれれば建設も可能となろう。それまでは、もしもそなたの目にわれらが破壊的思想を撒き散らしていると見えるならば、それはより神々しき神の、より崇高なる神殿、より聖なる聖堂を築かんがための予備工事として、まず夾雑物を掻き集め、それを取り除かんとしているに過ぎぬと理解されたい。

(†インペレーター)

Sunday, August 27, 2023

シアトルの夏 ヒデケルの土手のそばでの出来ごとであった。

 It happened near the bank of Hidekel 

モーゼスの「霊訓」〈下〉 (TEN BOOKS) :20220923214037-00157us:SelectShopMar - 通販 -  Yahoo!ショッピング

〔“モーセ五書”を新たな観点から読み直してみて私は、その中に神の観念が徐々に発達していく様子を明瞭に読み取ることが出来た。結局それが一人の作者によるものでなく数多くの伝説と伝承の集成にすぎないという結論に達した。その点について意見を求めると――〕


われらの手引きによる聖書の再検討において、そなたは正しき結論に到達した。そなたをその方向へ手引きしたのは、個々の書が太古の人間の伝説や伝承をまとめたものに過ぎず、そのカギを知らぬ者には見分けのつかぬものであるが故に、いかに信の置けぬものであるかを知らしめんが為である。われらはこの点を篤と訴えたい。そなたらの宗教書より引用せる言説にどこまで信を置くべきかは、むろんそなた自身の理解力にもよるが、それと同時に、その引用せる書の正体と、その言説のもつ特殊な意味にもよる。いかに古き書の中にも崇高なる神の概念を見出すことが可能である一方、その後に出たより新しき書の中にこの上なく冒とく的で極めて人間的な不愉快千万なる概念を見出すことも出来る。たとえば人間の姿をして人間と格闘する神、対立する都市への報復の計画を人間と相談する神、血の酒宴を催し敵の血を啜(すす)って満腹する残忍至極な怪物としての神、友人の家の入口に座し、仔ヤギの肉とパンを食する人間としての神、等々。その説くところは完全に類を異にし、個々の話をいくら集めたとて、正しき理性を物差しとせる判断以上のものとはなり得ぬ。それ故に、無知ゆえに真相を捉え損ね、過ちへと迷い込むことのなきよう、そうした言説は奥に秘められた意味を理解することが肝要である。

重ねて言うが、啓示とは時代によりて種類を異にするのではなく、程度を異にするのみである。その言葉は所詮は人間的媒体を通して霊界より送り届けられるものであり、霊媒の質が純粋にして崇高であれば、それだけ彼を通して得られる言説は信頼性に富み、概念も崇高さを帯びることになる。要するに霊媒の知識の水準が即ち啓示の水準ということになるわけである。故に、改めて述べるまでもあるまいが、初期の時代、たとえばユダヤ民族の記録に見られる時代においては、その知識の水準は極めて低く、特殊なる例外を除いては、その概念はおよそ崇高と言えるものではなかった。

人類創造の計画の失敗を悔しがり、悲しみ、全てをご破算にするが如き、情けなき神を想像せる時代より、人間は知識において飛躍的に進歩を遂げてきた。より崇高にして真実に近き概念を探らんとすれば、人間がその誤りの幾つかに気づき、改め、野蛮な想像力と未熟な知性の産み出せる神の概念に満足できぬ段階に到達せる時代にまで下らねばならぬ。野蛮な時代は崇高なるものは理解し得ず、従って崇高なるものは何一つ啓示されなかった。それは、神の啓示は人間の知的水準に比例するという普遍的鉄則に準ずるものである。故に、そもそもの過ちの根源は人間がその愚かにして幼稚きわまる野蛮時代の言説をそのまま受け継いで来たことにある。神学者がそれを全ての時代に適応さるべき神の啓示であるとしたことにある。その過ちをわれらは根底より改めんと欲しているのである。

今一つ、それより更に真理を台無しにするものとして、神は全真理を聖書の全筆録者を通じて余すところなく啓示し、従って根源的作者は神であるが故に、そこに記録された文字は永遠にして絶対的権威を有するとの信仰がある。この誤りはすでにそなたの頭からは取り除かれている。その証拠に、最早やそなたは神が矛盾撞着だらけの言説の作者であるとは思わぬであろうし、時代によりて相反することを述べるとも思うまい。霊界からの光が無知蒙昧なる霊媒を通じて送られ、その途中において歪められたのである。

そうした誤れる言説に代わりてわれらは、啓示というものがそれを送り届けんとする霊の支配下にあり、その崇高性、その完全性、その信頼性にそれぞれの程度があると説く。またそれ故にその一つ一つについて理性的判断をもって臨むべきであること、つまり純粋なる人間的産物を批判し評価する時と全く同じ態度にて判断すべきであると説くのである。そうなれば聖典を絶対的論拠とすることもしなくなるであろう。全ての聖典を(神が絶対無二のものとして授けたのではなく)単なる資料として今そなたの前に置かれたものとして取り扱うことになろう。その批判的精神をもって臨む時、聖典そのものの出所と内容について、これまで是認され信じられて来たものの多くを否定せねばならぬことに気づくであろう。

さてそなたは「モーセ五書」について問うている。これは前にも少し触れた如く、何代にも亙って語り伝えられた伝説と口承が散逸するのを防ぐためにエズラが集成したものである。その中のある部分、とくに“創世記”の初めの部分は記述者が伝説にさらに想像を加えたものに過ぎぬ。ノアの話、アブラハムの伝説等がそれであり、これらは他の民族の聖典にも同一のものが見られる。“申命記”の説話もみなそうであり、エズラの時代に書き加えられたものである。その他についても、その蒐集はソロモンとヨシアの時代の不完全なる資料より為されたものであり、それがまたさらにそれ以前の伝説と口承に過ぎなかったのである。いずれの場合もモーセ自身の言葉ではない。また律法に関する部分の扱いにおいて真正なる原典からの引用部分は例外として、他に真正なるものは一つも存在せぬ。

いずれ、聖書の初期の書に見られる神の観念につきて詳しく述べることになろう。今は、そうした書が引用せる神話や伝説を見れば、他の資料によりその真正さが確認された場合を除けば、その歴史的記述も道徳的説話も一顧の価値だになきものであることを指摘するに留める。


〔この通信は私自身の調査を確認するところとなった。編纂者が引用したのはエロヒスト(1)とヤハウィスト(2)の二人の記録まで辿ることが出来ると考えた。それは例えば“創世記”第一章及び第二章の③と第二章の④の天地創造の記述の対比、ゲラルにおけるアビメレク王によるサラの強奪(“創世記”第二十章)と同第十二章の⑩~⑲及び第二十六章の①~②の対比に見られる。私はこの見解が正しいか否かを尋ねた。〕


それも数多い例証の中の一つに過ぎぬ。こうした事実を認識すれば、その証拠がそなたの身近に幾らでも存在することに気づくであろう。問題の書はエズラの二人の書記エルナサン(3)とヨイアリブ(4)が引用せる伝説的資料である。数が多く、あるものはサウル王(5)の時代に蒐集され、あるものは更に前のいわゆる“イスラエルの士師(6)”の時代に蒐集され、またあるものはソロモン(7)とヘゼキヤ(8)とヨシア(9)の時代に蒐集されたもので、いずれも口承で語り継がれた伝説に恰好をつけたものに過ぎぬ。啓示の本流がメルキゼデクに発することはすでに指摘した。それ以前のものは悉く信が置けぬ。霊に導かれた人物に関する記録も、必ずしも全てが正確とは言えぬ。しかし全体としての啓示の流れはこれまでわれらが述べて来た通りであったと思えばよい。


〔旧約聖書の聖典がそのような形で決められてきたとなると“預言書”についてはどの程度まで同じことが言えるかを尋ねた。〕


あの預言の書は全てエズラ王の権威のもとに、現存せる資料を加え配列したに過ぎぬ。そのうちのハガイ書(10))、ゼカリア書(11)、マラキ書(12)はその後に付け加えられたものである。ハガイはエズラ書の編纂に関わり、またマラキと共にその後の書を付加して、ついに旧約聖書を完成せしめた。この二人とゼカリアの三人は常に親密な間柄を保ち、大天使ガブリエル(13)とミカエル(14)がその霊姿を預言者ダニエル(15)の前に現わして使命を授けた時にその場に居合わせる栄誉に浴した。預言者ダニエルは実に優れたる霊覚者であった。有難きかな、神の慈悲。有難きかな、その御力の証。


――“ダニエル書”第十章にある“幻(まぼろし)”の話ですか。


ヒデケル(16)の土手のそばでの出来ごとであった。

インピレーター

Saturday, August 26, 2023

シアトルの夏 なぜ苦しみがあるのか

why is there pain

白樺林イラスト/無料イラスト/フリー素材なら「イラストAC」

 
 この交霊会に出席される方々が、もしも私の説く真理を聞くことによって楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が神から授かった使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。

それに敢然と対ち向い、それを克服し、そしていっそう力強い人間となってくださることが私どもの真の目的なのです。

 霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐えきれないほどの苦難を背負わされるようなことは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。

 それは勿論楽なことではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、なにも、苦労する必要などないでしょう。痛みと苦しみの最中(さなか)にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとっていちばんの薬なのです。

 私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿をあえて手を拱(こまね)いて傍観するほかない場合がよくあります。

そこから教訓を学び取り霊的に成長してもらいたいと願い祈りながらです。知識には必ず責任が伴うものです。その責任を取ってもらうわけです。霊はいったん視野が開かれれば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔むことはないはずです。

燦々と太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身に沁みません。魂が眼を覚まし、それまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れ込める暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。

 地上の人生はしょせんは一つの長い闘いであり試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもよいでしょう。魂にはありとあらゆる種類の長所と欠点が秘められております。

すなわち動物的進化の段階の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなた方の個的存在の源泉である神的属性も秘められております。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。

地上に生れてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生れてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、是非とも厳しい試練が必要なのです。    

 運命の十字路にさしかかるごとに右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然と立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られるわけですが、その判断はあなたの自由意志に任されています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。

その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。

地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されております。そのチャンスを前にして積極姿勢を取るか消極姿勢をとるか、滅私の態度に出るか自己中心の態度に出るかは、あなた自身の判断によって決まるということです。

 地上生活はその選択の連続と言ってもよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命つきて霊界へ来た時に待ち受けている生活、新らしい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か、能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まります。単純なようで実に複雑なのです。

 そのことに関連して忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。地上へ再生するに際して各自は、地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。才能がありながらそれを使用しない者は、才能の無い人より大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。 

 悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。

魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。

もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。

 繰り返し述べてきたことですが、真理は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。こちらからいくら援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。霊的知識を理解する時機(トキ)を決するのは魂の発達程度です。

魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれているあなた方人間が物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来ごとを物的モノサシで測り、考え、評価するのは無理もないことですが、それは長い物語の中のほんの些細なエピソート(小話)にすぎません。   

 魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂のこやしです。魂がその秘められた力を発揮するにはいかなるこやしを摂取すればよいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。失意のどん底にある時は、もう全てが終わったかの感じを抱くものですが、実はそこから始まるのです。

あなた方にはまだまだ発揮されていない力──それまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されているのです。それは楽な人生の中では決して発揮されません。

苦痛と困難の中にあってこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことができないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。それ以外に方法がないのです。ほかにもあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。

 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。

何もかもがうまくいき、日なたばかりを歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。

 困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂のこやしです。むろん困難の最中(さなか)にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。しかし、あとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません。

この世に生まれくる霊魂がみな楽な暮しを送っていては、そこには進歩も開発も個性も成就もありません。これは酷(きび)しい辛い教訓ではありますが、何事も価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞はそうやすやすと手に入るものではありません。
 
 神は一瞬たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。

神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。あなた方自身さえも裁く資格はありません。

物的尺度があまりに小さすぎるのです。物的尺度で見る限り世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しか見えないでしょう。当然かもしれません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

 地上では必ずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衝を取り戻します。

霊的に見て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身には分かりません。もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌なことが実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることも有り得るのです。

 ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度では無く霊的尺度で判断するように努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。祈りにはそれなりの回答が与えられます。

しかしそれは必ずしもあなたが望んでいる通りの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとっていちばん望ましい形で与えられます。神は決して我が子を見捨てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的なモノサシで批判することはやめなくてはいけません。

 絶対に誤まることのない霊的真理が幾つかありますが、その内から二つだけ紹介してみましょう。一つは、動機が純粋であれば、どんなことをしても決して被害をこうむることはないということ。

もう一つは、人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ。この二つです。焦ってはいけません。何事も気長に構えることです。
   bigbang 138憶年 earth誕生46億年 
何しろこの地上に意識をもった生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。さらに人間という形態が今日のごとき組織体を具えるに至るのに何百万年もかかりました。

その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。その力、宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤まることのないその力を信じることです。    

 解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。

悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」──こうおっしゃる方があるかもしれません。

しかし私は実際にそれを体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私はただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりです。

一つとして偶然というものがないのです。偶発事故というものが無いのです。全てが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかも一目瞭然と分かるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。
  
 あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。

心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも自信を持って生きることです。そうすれば自然に神の心があなたを通して発揮されます。

愛の心と叡知をもって臨めば、何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことができるのです。愛が全ての根源です。愛──人間的愛──はそのほんのささやかな表現にすぎませんが、愛こそ神の摂理の遂行者です。

 霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや神の御加護があることを一片の疑いも無く信じることができなければいけません。苦難にも悲しみにも挫けてはなりません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも勝るからです。

 恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心を蝕みます。恐怖心は理性を挫き、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼び起こします。

 つとめて恐れの念を打ち消すことです。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信に溢れ、決して取り乱すことがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対というだけではありません。

絶対的な叡知であり、絶対的な愛でもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力が控えているのです。

 はがねは火によってこそ鍛えられます。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証です。夜明け前に暗黒があるように、魂が輝くには暗闇の体験がなくてはなりません。

そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善を尽くし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。


 霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません。陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、言わば硬貨の表と裏のようなものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。

人間の進化のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。

そうした法則の全てに通暁することは人間には不可能です。どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかはありません。盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。

 知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を産み出さなくてはいけません。そういう義務があるのです。それも一つの法則です。

恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。

 太陽が燦々と輝き、全てが順調で、銀行にたっぷり預金もあるような時に神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスです。

然るべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がりかつ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆をかかげる時です。

 霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験して、初めてそれを理解するための魂の準備が出来あがります。どうもその点がよく分かっていただけないようです。

種を蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分がそろわなくてはなりますまい。養分が揃っていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまくそろった時にようやく種が芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。

 人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。何もかもがうまくいき、鼻歌交じりののん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験して初めて霊的知識を理解する素地が出来上がります。

そしていったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、そして厳しさを発揮しはじめることになるのです。そしていったん身につけたら、もう二度と失うことはありません。

それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて霊界から力なり影響なり、インスピレーションなり、真理なり、美なりを引き出せるようになります。魂が進化しただけ、その分だけ自由意志が与えられます。

 霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されます。あなたはしょせん、現在のあなたを超えることは出来ません。

そこがあなたの限界と言えます。が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。いかなる困難、いかなる障害もきっと克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質に勝ります。

霊は何ものにも勝ります。霊こそ全てを造り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。

シルバーバーチ