Thursday, December 8, 2022

シアトルの冬 心霊治療  psychic treatment


 「心霊治療によって奇蹟的に病気が治る───それはそれなりにすばらしいことですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終ったことになります」

 シルバー・バーチの心霊治療観を煎じつめるとこの言葉に尽きるようです。つまり心霊治療も魂の開発のための一つの手段であって、単なる病気治療だけに止まるものではないというのです。

 数ある驚異的心霊現象の中でもとくに心霊治療、つまり奇蹟的治癒の現象は、歴史の中に多くの例を見ることができます。

聖書に出てくるイエスの話などは、聖書という世界的超ベストセラーのおかげで余りにも有名ですが、実際には洋の東西を問わず、世界のどこでも起き、今なお毎日のように起きていると言っても言い過ぎではありません。

 しかし、一人の患者を見事に治療した心霊治療家が次の患者も同じように奇蹟的に治せるかというと、かならずしもそうではありません。そこに〝なぜか〟という疑問が生じます。

そして、その因果関係を辿ってみると、シルバー・バーチが一ばん強く説いている因果律の問題に逢着します。因果律は当然、これ又シルバー・バーチが強調する〝苦難の意義〟と密接につながっており、それは結局人生そのものということになります。

シルバー・バーチが心霊治療を他の現象以上に重要視するのは、それが人生そのものの意義と共通した要素をもっているからにほかなりません。

 ではシルバー・バーチに語ってもらいましょう。

「人間には、ただ単に病気を治すだけでなく魂の琴線に触れて霊的真理に目覚めさせる偉大な霊力が宿されております。私はこれからこの霊力について語り、あなた方にぜひ理解していただきたいと思います。というのは、心霊治療もそこに本来の存在理由があるからです。

 心霊治療によって奇蹟的に病気が治る───それはそれなりにすばらしいことですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終ったことになります。

魂の琴線に触れた時こそ本当に成功したといえます。なぜなら、その体験によって魂の奥にある神の火花が鼓舞され、輝きと威力を増すことになるからです。

 心霊治療の背後にはかならずそうした目的があるのです。治療家はそうした神の計画の一部を担ってこの世に生まれて来ているのです。

すなわち、この世に在りながら自分で自分が何者であるかを知らず、何のために生まれてきたかを悟れず、従って死ぬまでに何を為すべきかが分らぬまま右往左往する神の子等に、霊的真理と永遠の実在を悟らせるためにその治癒力を与えられて生まれて来たのです。これほど大切な仕事はありません。

その治癒力でたった一人でも魂を目覚めさせることが出来れば、それだけでも、この世に生まれて来たことが無駄でなかったことになります。たった一人でもいいのです。それだけでこの世における存在価値があったと言えるのです。

 最近、この道での仕事が盛んになり、霊力に対する一般の関心がますます大きくなって来つつあることを私は非常にうれしく思っております。地上の同志が困難に直面すれば、われわれは出来るかぎりの援助を惜しみません。病気治療には一層多くのエネルギーをつぎ込みます。

しかし忘れてならないのは、あらゆる出来ごとにはかならずそれ相当の原因があるということです。霊界からいかなる援助を差しのべても、この原因と結果の相関関係にまで干渉することだけは絶対にできないのです。援助はします。がすでに発生したある原因から生じる結果を消してあげることは出来ません。

 私たちには〝奇蹟〟を起こす力はないのです。自然法則の連続性を人為的に変えることは絶対にできないのです。神の法則は一瞬の断絶もなく働いております。

瞬時たりとも法則が休止することはありません。宇宙間何一つとして神の法則の働きなしに発生することはありえないのです。もしも、ありとあらゆる手段を尽くしても治らなかった病いが心霊治療によって治ったとすれば、それは宇宙に霊的エネルギーが存在することの生きた証拠と受け取るべきです。

すなわち、それまで試したいかなるエネルギーにも勝る強力なエネルギーが存在することを如実に思い知らされる絶好のチャンスなのです。

 数ある心霊現象にはそれぞれに大切な意義がもたらされています。が、それが何であれ、霊的な真理へ導くためのオモチャにすぎません。いつまでもオモチャで遊んでいてはおかしいでしょう。いつかは大人へ成長しなくてはいけないでしょう。大人になれば、もはや子供だましのオモチャはいらなくなるはずです。


 心霊治療(ヒーリング)にもいろいろあります。一ばん基本的なものは磁気治療(マグネティックヒーリング)で、治療家の身体から出る豊富な磁気の一部を患者に分けてあげるもので、一種の物理療法と考えてもよろしい。これには霊界の治療家は関与しません。

次の段階はその磁気的治療法とこのあとに述べる純粋の心霊治療の中間に位置するサイキックヒーリングというもので、遠隔治療は主にこの療法で行われております。

そして最後に今のべた純粋のスピリチュアルヒーリングで、治療家が精神統一によって波長を高め、同時に患者がそれを受ける態勢が整った時に一瞬のうちに行われます。人間の側から見れば奇蹟的に思えるかも知れませんが、因果律の働きによって、そういう現象が起きる機が熟していたのです。

 人間は一人の例外もなく神の分霊を宿しております。要はその神的エネルギーを如何にして発揮するかです。

肉体にも自然治癒力というのがあり、その治癒力が働きやすい条件さえ揃えば自然に治るように、霊的存在であるあなたがたには霊的治癒力も具わっており、その法則を理解しそれに従順に生きておれば、病気は自然に治るはずのものなのです。
  
 健康とは肉体(ボディ)と精神(マインド)と霊(スピリット)が三位一体となった時の状態です。三者が調和した状態が健康なのです。そのうちの一つでも調和を乱せば、そこに病いという結果が生じます。調和を保つにはその三者がそれぞれの機能を法則に忠実に果たすことです。

 霊はすばらしい威力を秘めております。その存在を無視し、あるいはその働きを妨げれば、天罰はてきめんに表われます。

 それと同じエネルギーの見本がいたるところに存在します。そもそもこの物的大宇宙を創造したエネルギーがそうですし、大海原を支えるエネルギー、万有引力のエネルギー、惑星を動かすエネルギー、そのほか地上の人間、動物、植物、昆虫、等々、ありとあらゆる生命を生育せしめるエネルギーがそれと同じものなのです。

 要するに治癒エネルギーも生命力の働きの一部なのです。身体に生命を与えているものは霊です。物質そのものには生命はないのです。霊が宿っているからこそ意識があるのであって、身体そのものには意識はないのです。

あなた方を今そうして生かしめている生命原理と同じものが、悩める者、病める者、苦しむ者を救うのです。

 しかし痛みや苦しみを取り除いてあげることが心霊治療の目的ではありません。あくまで手段なのです。つまり眠れる魂を目覚めさせ、真の自分を悟らせるための手段にすぎないのです。

病気で苦しみ続けた人が心霊治療によって霊的真理に目覚め地上生活の意義を悟れば、その治療家は遠大な地上救済計画における自分の責務を見事に果たしたことになり、そうあってこそ私たちスピリットが援助した甲斐があったことになるのです。

 身体の病気が治癒することよりも、その治癒がキッカケとなって真の自我に目覚めることの方が、はるかに大切なのです。それが真の目的なのです。そこまで行かない心霊治療は、たとえ病気は治せても、成功したとは言えません。

 こうした心霊治療の真の意義が理解されるには長い長い年月を要します。心霊治療に限らず、霊界の力を地上に根づかせるには、大勢の人間を一気に動かそうとしてはダメです。一人の人間、一人の子供という具合に、一度に一人ずつ根気よく目覚めさせ、それを霊的橋頭堡として、しっかり固めていくほかはありません。

なぜなら、真理に目覚めるということは、そのキッカケが心霊治療であれ、交霊会であれ、あるいは物理実験会であれ、本人の霊的成長度がその真理を受け入れる段階まで進化していることが大前提だからです。

 魂にその準備ができていない時は心霊治療も効を奏しません。いかにすぐれた心霊治療でも治せない病気があるのはそのためです。従って失敗したからといって心霊治療を批判するのは的はずれなのです。

患者の魂がまだまだ苦しみによる浄化を十分受けていないということです。すべて自然法則が支配しています。トリックなどありません。いかなる心霊治療もその法則の働きを勝手に変えたり曲げたりする力はありません。

 もちろん苦難が人生のすべてではありません。ホンの一部にすぎません。が苦難のない人生もまた考えられません。それが進化の絶対条件だからです。

地上は完成された世界ではありません。あなた方の身体も完璧ではありません。が完璧になる可能性を宿しております。人生の目的はその可能性を引き出して一歩一歩と魂の親である神に向かって進歩していくことです。

 その進化の大機構の中で程度と質を異にする無数のエネルギーが働いており、複雑にからみ合っております、決して一本調子の単純なものではありません。

が生命は常に動いております。渦巻状を画きながら刻一刻と進化しております。その大機構の働きのホンの一端でも知るためには、人生の真の目的を悟らなくてはなりません。

 苦しみには苦しみの意味があり、悲しみには悲しみの意味があります。暗闇があるからこそ光の存在があるのと同じです。その苦しみや悲しみを体験することによって真の自我が目覚めるのです。その時こそ神の意図された素晴らしい霊的冒険の始まりでもあるのです。

魂の奥に宿れる叡智と美と尊厳と崇高さと無限の宝を引き出すための果てしない旅への出発なのです。

地上生活はその人生の旅の一つの宿場としての意味があるのです。ところが現実はどうでしょうか。唯物主義がはびこり、利己主義が支配し、どん欲がわがもの顔に横行し、他人への思いやりや協調心や向上心は見当りません。

 医学の世界もご多分にもれません。人間が自分たちの健康のために他の生命を犠牲にするということは、神の計画の中に組み込まれていません。

すべての病気にはそれなりの自然な治療法がちゃんと用意されております。それを求めようとせずに、いたずらに動物実験によって治療法を探っても、決して健康も幸福も見出せません。


 真の健康とは精神と肉体と霊とが三位一体となって調和よく働いている状態のことです。それを、かよわい動物を苦しめたり、その体内から或る種の物質を抽出することによって獲得しようとするのは間違いです。神はそのような計画はされておりません。

神は、人間が宇宙の自然法則と調和して生きていくことによって健康が保たれるよう意図されているのです。もしも人間が本当に自然に生きることが出来れば、みんな老衰による死を遂げ、病気で死ぬようなことはありません。

 肉体に何らかの異常が生じるということは、まだ精神も霊も本来の姿になっていないということです。もし霊が健全で精神も健全であれば、肉体も健全であるはずです。精神と霊に生じたことがみな肉体に反映するのです。

それを医学では心身相関医学などと呼ぶのだそうですが、名称などどうでもよろしい。大切なのは永遠の真理です。魂が健全であれば、身体も健全であり、魂が病めば身体も病みます。心霊治療は肉体そのものでなく病める魂を癒すことが最大の目的なのです。』


 以上が心霊治療に関するシルバー・バーチの基本的概念です。心霊治療の価値と必要性をこれほど強調するスピリットを私は他に知らないのですが、その考えの厳しさもまた格別です。

しかし基本概念としてはそれが真実であり理想であろうと考えます。その理想に一歩でも近づこうとするところに治療家としての努力の余地があると言えるのではないでしょうか。

 あとで世界的心霊治療家のハリー・エドワーズ氏及びその助手たちとの一問一答を紹介しますが、その前に、心霊治療に関してかならず出される疑問、すなわち日本の治療家はまず第一に除霊とか供養といったことから始めるのに西洋では皆無といっていいほどそれが聞かれないのはどういうことか、という点について私見を述べてみたいと思います。

 それには私の師である間部詮敦氏の治療法を紹介するのが一ばん都合がよいようです。間部氏は本来は心霊治療家で、私は側近の一人としてその治療の様子をつぶさに観察してまいりましたが、やはり除霊と供養を重点に置いておりました。

 具体的に説明すると、まず患者をうつぶせに寝かせました。そしてその背に手を置くと、その手が身体の悪いところに自然に動いていきます。その要領で三十分ほど施療したあと、患者を正座させ、背後から霊視します。すると病気にまつわる霊、いわゆる因縁霊が出て来ます。

これは多分間部氏の背後霊が連れてくるのだろうと思われますが、霊視が終ると、患者にその霊の容姿を説明して、その名前または戒名をたずねます。

それを二枚の短冊に書き、うち一枚を患者に手渡して、仏壇に供えて三日間お水を上げ、その水を清浄なところに捨てるようにと言います。霊が古くて名前が分からない時は、およその年齢の見当を付けて、たとえば 「五〇代の霊」 という風に書きます。

 主として関西地方と中国地方を回られたので、自宅(三重県)に戻られた時は短冊もかなりの枚数になっていたと思われますが、それを神前に供えて祈念し、霊を一人一人呼び出して(多分背後霊が連れて来て)、死後の世界の存在を教え、向上進化の必要性を説き、指導霊の言うことに従うよう諭します。

もちろん背後霊の働きかけも盛んに行われたことであろうことが推察されます。

 さて、これで万事うまく行ったかというと、必ずしもそうではありません。たとえば私の家族の場合はよく父方のおじいさんが出ました。そのたびに話を聞いて、その時は一応得心するのですが、またぞろ出て来ていろいろと災いをもたらしました。

別に何の遺恨があってのことでもないのですが、晩年に精神に異常を来たし、不幸な最期を遂げた人でしたから、その人がうろうろするだけで非常に良くない影響を与えたわけです。

 バーバネル氏の This is Spiritualism (拙訳 『これが心霊の世界だ』 潮文社刊) に霊の肖像画を専門にしているフランク・リーアという人の話が詳しく出ていますが、その中でバーバネル氏は

 「死者を描く時はなぜかその人間の死際の、いわば地上最後の雰囲気が再現され、リーア氏も否応なしにその中に巻き込まれる。その意味でリーア氏自身、自分が画いた肖像画の枚数分だけ死を体験したことになる」 と述べ、さらに別のところでは

 「この種の仕事で困ることは、そのスピリットの死の床の痛みや苦しみといった、地上生活最後の状態を霊能者自身も体験させられるということである。

なぜかは十分に解明されていないが、多分ある磁力の作用によると思われるが、スピリットが初めて地上に戻って来た時は地上を去った時の最後の状態が再現されるのである」 と述べています。

 間部氏もそのたびに 「またおじいさんですなあ」 と言って首をかしげておられましたが、考えてみると酒やタバコ (それにもう一つありそうですが・・・) がなかなか止められないのと同じで、どうしても霊的自我が目覚めず、地上への妄執が断ち切れなかったのでしょう。

これに類することで興味ぶかいことがいろいろあって、私には勉強になりました。

 さて問題は除霊すれば因縁が切れるかということですが、今の例でもわかる通り、霊というのは波長の原理でひっついたり離れたりするもので、人間の方はむろんのこと、霊の方でも自分が人間に憑依していることに気づいていないことすらあります。

因縁という用語はもとは因縁果という言葉から来たもので、因がもろもろの縁を経て果を生むという意味だそうです(高神覚昇『般若心経講義』)。私は心霊的にもその通りだと考えます。

 つまりシルバー・バーチのいう因果律は絶対的に本人自身のもので、それを他人が背負ったり断ち切ったりすることは出来ません。それはシルバー・バーチが繰り返し強調しているところですが、その因と果の間にいろんな縁が入り込んで複雑にしていきます。

病気の場合の因縁がそのよい例で、病気になるのは本人に原因があるわけですが、その病気が縁となって波長の合った霊が憑依し、痛みや苦しみを一段と強くしているのだと私は解釈しています。

 従ってその霊を取り除けばラクにはなりますが、それで業を消滅したことにはならない。もちろん霊が取り除かれた時が業の消える時と一致することもあり得ます。いわゆる奇蹟的治癒というのはそんな時に起きるのだと思われますが、除霊さえすれば事が済むというものではないようです。

 次に、西洋では病気にまつわる因縁霊の観念はないのか、除霊の必要性はないのか、ということですが、数こそ少ないのですが、それを実際にやっている人がいます。米国のカール・ウィックランドという人が最も有名です。

 この人は職業は精神科医ですが、奥さんが霊能者であるところから、主として精神異常者に憑依している霊を奥さんに憑依させて、間部氏と同じように、こんこんと霊的真理を説いて霊的自我に目覚めさせるやり方で大変な数の患者、と同時に霊をも、救っております。

それをまとめたのが Thirty Years Among the Dead で、 田中武氏が訳しておられますので一読をおすすめします。 (『医師の心霊研究三十年』日本心霊科学協会発行)

 ウィックランド氏の場合は主として精神異常者を扱っておりますが、当然身体的病気の場合にも似たような霊的関係があるはずであり、本来なら日本式の供養のようなものがあってもいいはずなのですが、それが皆無とは言わないまでも、非常に少ないという事実は、私は民族的習慣の相違に起因していると考えております。


 たとえば浅野和三郎氏が 「幽魂問答」 と題して紹介している福岡における有名なたたりの話は、数百年前に自殺した武士が自分の墓を建立してもらいたい一心から起こした事件であり、西洋では絶対と言ってよいくらい起こり得ない話です。

日本人は古来、死ねば墓に祀られるもの、供養してもらえるもの、戒名が付くものという先入観念があるからこそ、そうしてもらえない霊が無念残念に思うわけで、本来は真理を悟ればそんなものはすべて無用なはずです。いわゆる煩悩にすぎません。

 シルバー・バーチはある交霊会で供養の是非を問われて、「それはやって害はなかろうけど、大して効果があるとも思われません」 と述べておりますが、シルバー・バーチの話は常に煩悩の世界を超越した絶対の世界から観た説であることを認識する必要があります。

つまり永遠の生命を達観した立場からの説であって、私は、洋の東西を問わず、供養してやった方がいい霊は必ずいる、ということを体験によって認識しております。煩悩の世界には煩悩の世界なりの方法手段があると思っております。

また、民族によって治療法が異るように、個々の治療家によっても治療法や霊の処理方法が異ってくるはずであり、供養しなくても済む方法があるかも知れない、という認識も必要かと思われます。この辺が心霊的なものが一筋縄ではいかないところです。

Tuesday, December 6, 2022

シアトルの冬 再生 regeneration (return to life)


 一問一答

 まず再生は自発的なのか、それとも果たすべき目的があって已むを得ず再生するのかという問いに対して、シルバー・バーチはその両方だと答えます。ということは、要するにそれなりの意味があって、それが得心がいったから再生するということかと聞かれて、まさにその通りだと答えます。それから次のような応答が展開します。


問「ということは、つまり強制的というわけですね」

シルバー・バーチ「強制的という言葉の意味が問題です。誰れかから再生しろと命令されるのであれば強制的と言ってもいいでしょうが、別にそういう命令が下るわけではありません。

 ただ地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世の過ち、施すべきでありながら施さなかった親切、こうしたものを明確に意識するようになり、今こそそれを実行するのが自分にとって最良の道だと自覚するようになるのです」


問「死後は愛のきずなのある者が生活を共にすると聞いておりますが、愛する者が再生していったら、残った者との間はどうなるのでしょう」

シルバー・バーチ「別に問題はありません。物質的な尺度で物事を考えるから、それが問題であるかのように思えてくるのです。何度も言っていることですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分にすぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。

一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、そのうちの幾つかが地上に再生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間には物質という壁が出来て、一時的な分離状態になることは確かです。が愛のきずなのあるところにそんな別れは問題ではありません」


問「霊魂は一体どこから来るのですか。どこかに魂の貯蔵所のようなものがあるのですか。地上では近ごろ産児制限が叫ばれていますが、作ろうと思えば子供はいくらでも作れます。でもその場合、魂はどこから来るのですか」

シルバー・バーチ「こう申しては何ですが、あなたの問いには誤解があるようです。あなた方が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは、霊魂が自己を表現するための器官を提供することだけです。生命の根源である〝霊〟は無限です。

無限なるものに個性はありません。その一部が個体としての表現器官を得て地上に現われる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。〝霊〟は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。が個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。

霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大勢います。その中にはもう一度地上に来て果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が大勢います。そして、その目的のための機会を与えてくれる最適の身体を探し求めているのです」


問「人間の霊も原始的段階から徐々に進化して来たものと思っていましたが・・・・・」

シルバー・バーチ「そうではありません。それは身体については言えますが、霊は無始無終です」


問「古い霊魂と新しい霊魂との本質的な違いはどこにありますか」

シルバー・バーチ「本質的な違いは年輪の差でしょう。当然のことながら古い霊魂は新しい霊魂より年上ということです」


問「類魂の一つ一つを中心霊の徳性の表現とみてもいいでしょうか」

シルバー・バーチ「それはまったく違います。どうも、こうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の日のあの青く澄み切った空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります」


問「それはフレデリック・マイヤースのいう類魂と同じものですか」

シルバー・バーチ「まったく同じです。ただし、単なる霊魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が物質界に体験を求めてやって来るのです」


問「その意識の本体に戻った時、各霊は個性を失うのではないかと思われますが・・・」

シルバー・バーチ「川が大海へ注ぎ込んだ時、その川の水は存在が消えるでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、バイオリンならバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」


問「なぜ霊界通信のすべてが生まれ変わりの事実を説かないのでしょうか」

シルバー・バーチ「証明のしようのないものをあれこれ述べても仕方がありますまい。意識が広がって悟りの用意が出来あがった時はじめて真理として受け入れられるのであって、要は霊的進化の問題です。再生など無いと言う霊は、まだその事実を悟れる段階まで達していないからそう言うにすぎません。

宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしようがないでしょう。芸術家がインスピレーションの話を芸術的センスゼロの人に聞かせてどうなります。意識の程度が違うのです」


問「再生するのだということが自分でわかるのでしょうか」

シルバー・バーチ「魂そのものは本能的に自覚します。しかし知的に意識するとは限りません。神の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で、一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現しても、その分量はホンの少しであり、表現されない部分が大部分を占めます」


問「では無意識のまま再生するのでしょうか」

シルバー・バーチ「それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識しない霊もいます。魂が自覚していても、知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題で、とても地上の言語では説明しかねます」


問「生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか」

シルバー・バーチ「愛はかならず成就されます。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛はかならず愛する者を引き寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同士を永久に引き裂くことは出来ません」


問「でも再生をくり返せば互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが」

シルバー・バーチ「一致しないのはあなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙及びその法則は神が拵えたのであって、あなた方が拵えるのではありません。

賢明なる人間は新しい事実を前にすると自己の考えを改めます。自己の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても所詮は徒労に終ることを知っているからです」


問「これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもいいと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間はいつまでも最下等のままです。体験を積めば即成長というわけにはいきません。要は悟りの問題です」


問「これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか」

シルバー・バーチ「そうです。無限に続きます。なんとなれば苦難の試練を経て初めて神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて初めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて初めて強く逞しい輝きを見せるのです」


問「そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「今日あなたには天国のように思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」


問「再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインデアンはインデアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に」

シルバー・バーチ「そうとは限りません。目指している目的のために最も適当と思われる国、民族を選びます」


問「男性か女性かの選択も同じですか」

シルバー・バーチ「同じです。必ずしも前生と同じ性に生まれるとはかぎりません」


問「死後、霊界に行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか」

シルバー・バーチ「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。

生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとはかぎりません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。

ましてや二度も罰せられるということは決してありません。神の摂理を知れば、その完璧さに驚ろかされるはずです。決して片手落ちということがないのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」


問「自分は地上生活を何回経験している、ということをはっきりと知っている霊がいますか」

シルバー・バーチ「います。それがわかるようになる段階まで成長すれば自然にわかるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることができないのと同じです。名前をいくつか挙げても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は〝説く〟だけで十分なはずです。

私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向にかまいません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。

人が受け入れないからといって、別にかまいません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう」


問「再生問題は問題が多いから、それを避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるという考えは如何でしょう」

シルバー・バーチ「暗やみにいるより明るいところにいる方がいいでしょう。少しでも多く法則を知った方が知らないよりはましでしょう。人間が神の分霊であり、それ故に死後も生き続けるという事実は、真理探究の終着駅ではありません。そこから本格的探究が始まるのです」


問「新しい霊魂はどこから来るのですか」

シルバー・バーチ「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。聖書でも〝神は霊なり〟と言っております。

ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう」


問「ということは、われわれは神という全体の一部だということですか」

シルバー・バーチ「その通りです。だからこそあなた方は常に神とつながっていると言えるのです。あなたという存在は決して切り捨てられることはあり得ないし、消されることもあり得ないし、破門されるなどということもあり得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります」


問「でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう」

シルバー・バーチ「これまた用語の意味がやっかいです。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。その意味でしたら、それはよくあることです。

但し、それはいま地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します」


問「再生するに際して過ちのないように指導監督する官庁のようなものが存在するのでしょうか」

シルバー・バーチ「こうした問題はすべて自然法則の働きによって解決されます。再生すべき人は自分でそう決心するのです。

つまり意識が拡大し、今度再生したらこれだけの生長が得られるということがわかるようになり、それで再生を決意するのです。再生専門の機関や霊団がいるわけではありません。すべて魂自身が決めるのです」


問「再生するごとに進歩するのでしょうか。時には登りかけていた階段を踏みはずして一番下まで落ちるというようなこともあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「すべての生命、とくに霊的な生命に関するかぎり、常に進歩的です。今は根源的な霊性についてのみ述べています。それが一ばん大切だからです。

一たん神の摂理に関する知識を獲得したら、それを実践するごとに霊性が生長し、進歩します。進歩は永遠に続きます。なぜなら、完全なる霊性を成就するには永遠の時間を要するからです」


問「先天性心臓疾患の子や知能障害児は地上生活を送っても何の教訓も得られないのではないかと言う人がいます。私たちスピリチュアリストはこうした難しいことは神を信じて、いずれは真相を理解する時が来ると信じているわけですが、疑い深い人間を説得するいい方法はないものでしょうか」

シルバー・バーチ「疑い深い人間につける薬はありません。何でも疑ってかかる人は自分で納得がいくまで疑ってかかればよろしい。納得がいけばその時はじめて疑いが消えるでしょう。私は神学者ではありません。宗教論争をやって勝った負けたと言い争っている御仁とは違います。

すべては悟りの問題です。悟りが開ければ、生命の神秘の理解がいきます。もっとも、全てを悟ることは出来ません。全てを悟れるほどの人なら、地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。

するとさらに次の段階の真理を理解する力がつくわけです。それが人生の究極の目的なのです。激論し合ったり、論争を求められたりするのは私は御免こうむります。

私はただこれまで自分が知り得たかぎりの真理を説いて教えてさしあげるだけです。お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば、〝そうですか。それは残念(アイアムソリー)ですね〟と申し上げるほかはありません」


問「霊に幾つかの側面があり、そのうちの一つが地上に生まれ、残りは他の世界で生活することもありうる、という風におっしゃいましたが、もう少しくわしく説明していただけませんか」

シルバー・バーチ「私たち霊界の者は地上の言語を超越したことがらを、至ってお粗末な記号にすぎない地上の言語でもって説明しなくてはならない宿命を背負っております。言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものを、どうして地上的用語で説明できましょう。

これは言語学でいう意味論の重大な問題でもあります。私に言わせれば、霊とはあなた方のいう神、 God、 私のいう大霊 Great spirit の一部分です。あなた方に理解のいく用語で表現しようにも、これ以上の言い方は出来ません。

生命力 life force、 動力 dynamic、 活力 vitality、 本質 real essence、神性 divinity 、それが霊です。仮に私が〝あなたはどなたですか〟と尋ねたらどう答えますか。〝私は〇〇と申す者です〟などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方かは皆目わかりません。

個性があり、判断力をもち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することの出来る人───それがあなたであり、あなたという霊です。その霊があるからこそ肉体も地上生活が営めるのです。

霊が引っ込めば肉体は死にます。霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性をもっています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。

その霊にいくつかの面があります。それを私はダイヤモンドに譬えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。もしも二人の人間が格別に相性がいい場合(めったにないことですが)、それは同じダイヤモンドの二つの面が同じ時期に地上に誕生したということが考えられます。

そうなると当然二人の間に完全なる親和性があるわけです。調和のとれた全体の中の二つの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます」


問「あなたがダイヤモンドに譬えておられるその〝類魂〟について、もう少し説明していただけませんか。それは家族関係(ファミリー)のグループですか、同じ霊格を具えた霊の集団ですか、それとも同じ趣味をもつ霊の集まりですか。あるいはもっとほかの種類のグループですか」

シルバー・バーチ「質問者がファミリーという言葉を文字通りに解釈しておられるとしたら、つまり血縁関係のある者の集団と考えておられるとすれば、私のいう類魂はそれとはまったく異なります。

肉体上の結婚に起因する地上的姻戚関係は必ずしも死後も続くとは限りません。そもそも霊的関係というものは、その最も崇高なものが親和性に起因するものであり、その次に血縁関係に起因するものが来ます。

地上的血縁関係は永遠なる霊的原理に基くものではありません。類魂というのは、人間性にかかわった部分にかぎって言えば、霊的血縁関係ともいうべきものに起因した霊によって構成されております。

同じダイヤモンドを形づくっている面々ですから、自動的に引き合い引かれ合って一体となっているのです。その大きなダイヤモンド全体の進化のために個々の面々が地上に誕生することは有り得ることですし、現にどんどん誕生しております」


問「われわれ個々の人間は一つの大きな霊の一分子ということですか」

シルバー・バーチ「そういってもかまいませんが、問題は用語の解釈です。霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまでも個性を具えた独立した存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません」


問「では今ここに類魂の一団がいるとします。その個々の霊が何百万年かの後に完全に進化しきって一個の霊になってしまうことは考えられませんか」

シルバー・バーチ「そういうことは有り得ません。なぜなら進化の道程は永遠であり、終りがないからです。完全というものは絶対に達成されません。一歩進めば、さらにその先に進むべき段階が開けます。

聖書に、己れを忘れる者ほど己れを見出す、という言葉があります。これは個的存在の神秘を説いているのです。つまり進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていくということです。おわかりですか。

個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている紳的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです」


問「〝双子霊〟Twin Souls というのはどういう場合ですか」

シルバー・バーチ「双子霊というのは一つの霊の半分ずつが同時に地上に生を享けた場合のことです。自分と同じ親和性を持った霊魂───いわゆるアフィニティ affinity ───は宇宙にたくさんいるのですが、それが同じ時期に同じ天体に生を享けるとはかぎりません。

双子霊のようにお互いが相補い合う関係にある霊同士が地上でめぐり合うという幸運に浴した場合は、正に地上天国を達成することになります。

霊的に双子なのですから、霊的進化の程度も同じで、従ってその後も手に手を取り合って生長していきます。私が時おり〝あなたたちはアフィニティですね〟と申し上げることがありますが、その場合がそれです」


問「双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう」

シルバー・バーチ「肉体的にはその通りです。しかしそれもホンの束の間のことです。肝心なのは二人が霊的に一体関係にあるということですから、物質的な事情や出来ごとがその一体関係に決定的な影響を及ぼすことはありません。

しかも、束の間とはいえ地上での何年かの一緒の生活は、霊界で一体となった時と同じく、素晴らしい輝きに満ちた幸福を味わいます」


問「物質界に誕生する霊としない霊とがいるのはなぜですか」

シルバー・バーチ「霊界の上層部、つまり神庁には一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験をしなくても生長進化を遂げることが出来るのです。

頭初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上に降りてくることがあります。歴史上の偉大なる霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります」


問「大きな業(カルマ)を背負って生まれてきた人間が、何かのキッカケで愛と奉仕の生活に入った場合、その業がいっぺんに消えるということは有り得ますか」

シルバー・バーチ「自然法則の根本はあくまでも原因と結果の法則、つまり因果律です。業もその法則の働きの中で消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消えることはありません。原因があればかならずそれ相当の結果が生じ、その結果の中に次の結果を生み出す原因が宿されているわけで、これはほとんど機械的に作動します。

質問者がおっしゃるように、ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。しかし、いっぺんにというわけには行きません。愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えていき、やがて完全に消滅します。業という借金をすっかり返済したことになります」


問「戦争とか事故、疫病などで何万もの人間が死亡した場合も業だったのだと考えるべきでしょうか。持って生まれた寿命よりも早く死ぬことはないのでしょうか。戦争は避けられないのでしょうか。もし避けられないとすると、それは国家的な業ということになるのでしょうか」


シルバー・バーチ「業というのは詰まるところは因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。

これは神の公正の証として神が用意した手段の一つです。もしも介入が許されるとしたら、神の公正は根底から崩れます。因果律というのは行為者にそれ相当の報酬を与えるという趣旨であり、多すぎることもなく少なすぎることもないよう配慮されています。

それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についても当てはまります。次に寿命についてですが、寿命は本来、魂そのものが決定するものです。

しかし個人には自由意志があり、また、もろもろの事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。戦争が不可避かとの問いですが、これはあなた方人間自身が解決すべきことです。

自由意志によって勝手なことをしながら、その報酬は受けたくないというようなムシのいい話は許されません。戦争をするもしないも人間の自由です。が、もし戦争の道を選んだら、それをモノサシとして責任問題が生じます」

問「寿命は魂そのものが決定するとおっしゃいましたが、すべての人間にあてはまることでしょうか。たとえば幼児などはどうなるのでしょう。判断力や知識、教養などが具わっていないと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「この世に再生する前の判断力と、再生してからの肉体器官を通じての判断力とでは大きな差があります。もちろん再生してからの方が肉体器官の機能の限界のために大きな制限を受けます。しかし大半の人間は地上で辿るべき道程について再生前からあらかじめ承知しています」


問「地上で辿るべきコースがわかっているとすると、その結果得られる成果についてもわかっているということでしょうか」

シルバー・バーチ「その通りです」


問「そうなると、前もってわかっているものをわざわざ体験しに再生することになりますが、そこにどんな意義があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上に再生する目的は、地上生活から戻って来て霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もってわかったからといって、霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。

たとえば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えますまい。霊的生長というのは実際にものごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の全目的があります」


問「航空機事故のような惨事は犠牲者及びその親族が業を消すためなのだから前もって計画されているのだという考えは、私にはまだ得心がいきませんが・・・・・・」

シルバー・バーチ「ご質問はいろいろな問題を含んでおります。まず〝計画されている〟という言い方はよくありません。そういう言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事をひき起こしているように聞こえます。すべての事故は因果律によって起こるべくして起きているのです。

その犠牲者───この言い方も気に入りませんが取り敢えずそう呼んでおきます───の問題ですが、これには別の観方があることを知って下さい。つまり、あなたがたにとって死はたしかに恐るべきことでしょう。

が私たち霊界の者にとっては、ある意味でよろこぶべき出来ごとなのです。赤ちゃんが誕生すればあなた方はよろこびますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるのです。

反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらでは大よろこびでお迎えしています。次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。

これは運命と自由意志という相反する二つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です。つまり運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されているわけです。説明の難かしい問題ですが、そう言い表わすほかにいい方法が思い当たりません」

 
問「事故が予知できるのはなぜでしょう」 

シルバー・バーチ「その人が一時的に三次元の物的感覚から脱して、ホンの瞬間ですが、時間の本来の流れをキャッチするからです。大切なことは、本来時間というのは〝永遠なる現在〟だということです。このことをよく理解して下さい。

人間が現在と過去とを区別するのは、地上という三次元の世界の特殊事情に起因するのであって、時間には本来過去も未来も無いのです。三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になることが今現在において知ることが出来ます。

もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味をもつかは、これはまた別の問題です。

単に物的感覚の延長にすぎない透視、透聴の類いの心霊的能力 psychic powers によっても予知できますし、

霊視・霊聴の類いの霊感 spiritual powers によっても知ることができます。psychic と spiritual は同じではありません。いわゆるESP(Extra Sensory Perception 超感覚的知覚)は人間の霊性には何のかかわりはなく、単なる五感の延長にすぎないことがあります」


問「占星術というのがありますが、誕生日が人の生涯を支配するものでしょうか」

シルバー・バーチ「およそ生命あるものは、生命をもつが故に何らかの放射を行っております。生命は常に表現を求めて活動するものです。その表現は昨今の用語で言えば波長とか振動によって行われます。右中間のすべての存在が互いに影響し合っているのです。

雷雨にも放射活動があり、人体にも何らかの影響を及ぼします。言うまでもなく太陽は光と熱を放射し、地上の生命を育てます。木々も永年にわたって蓄えたエネルギーを放射しております。

要するに大自然すべてが常に何らかのエネルギーを放射しております。従って当然他の惑星からの影響も受けます。それはもちろん物的エネルギーですから、肉体に影響を及ぼします。

しかし、いかなるエネルギーも、いかなる放射性物質も、霊魂にまで直接影響を及ぼすことはありません。影響するとすれば、それは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度にすぎません」


問「今の質問者が言っているのは、たとえば二月一日に生まれた人間はみんな同じような影響を受けるのかという意味だと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「そんなことは絶対にありません。なぜなら霊魂は物質に勝るものだからです。肉体がいかなる物的影響下におかれても、宿っている霊にとって征服できないものはありません。もっともその時の条件にもよりますが。

いずれにせよ肉体に関するかぎり、すべての赤ん坊は進化の過程の一部として特殊な肉体的性格を背負って生まれてきます。それは胎児として母体に宿った日や地上に出た誕生日によって、いささかも影響を受けるものではありません。

しかし、そうした肉体的性格や環境の如何にかかわらず、人間はあくまでも霊魂なのです。霊魂は無限の可能性を秘めているのです。

その霊魂の本来の力を発揮しさえすれば、如何なる環境も克服しえないことはありません。もっとも、残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂の方が右往左往させられておりますが・・・・・・」

Monday, December 5, 2022

シアトルの冬 絶対不変の法則───因果律       The Law of Absolute Immutability --- The Law of Cause and Effect





前章ではシルバー・バーチと名告る高級霊を中心とする霊団が神界からの使命を受けて、霊媒モーリス・バーバネル氏の口を借りて神の摂理を説くに至った経緯を述べました。

 その準備のためにシルバー・バーチはバーバネル氏の出生以前、それも母体に宿る瞬間から面倒をみたと言います。もちろんこれは霊言霊媒にふさわしい人間に育てるための面倒をみたという意味であって、私の推察では母体に宿る以前のバーバネル氏も実はシルバー・バーチ霊団の一人であって、使命達成について十分な打ち合わせを行った上で母体に宿ったに違いありません。一種の再生です。

 果たせるかな、氏にとって最後の記事となった一九八一年八月号の Two Worlds 誌の遺稿の冒頭で、次のように告白しております。

 『私と心霊とのかかわり合いは前世にまでさかのぼると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッド・クラウドは私にとっては死後存続の決定的証拠をみせつけてくれた恩人であり、

その交霊会においてサイキック・ニューズ紙出版の決定が為されたのであるが、そのレッド・クラウドの話によると、私は「こんど生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯をささげる」と約束したのだそうである。』 (巻末〝バーバネル氏の遺稿〟参照)

 約束どおり氏は十八歳から七十九歳までのほぼ六十年間をスピリチュアリズムひと筋に尽くしました。中でも特筆すべきことはサイキック・ニューズ社の社長を無報酬で務めたことです。正に奉仕の生涯であったわけです。

 再生については別に章を設けて詳しく取り扱いますので、ここでは難しいことは述べませんが、こうした滅私奉公の大役を担った人物は例外なく高級霊の再生とみてよいようです。

 もっとも、それでも尚かつ、うぬぼれや見栄、肉欲などのいわゆる〝人間的煩悩〟に迷わされて、使命の道から脱線していくケースが多いのです。とりもなおさず肉体というやっかいな欲望の媒体に宿っているからこそでしょう。

 オリバー・ロッジ Sir Oliver Lodge の著書に Phantom Walls (幻の壁)という、あまり知られていない随筆調の論文集があります。幻の壁とはつまりは肉体の五感を意味し、これが幻にすぎない存在であるといっているのですが、言ってみれば仏教の色即是空の思想と相通じるものがあります。

 オリバー・ロッジはもともと物理学者ですが、後年は心霊科学者となり、さらに、単なる心霊科学からいち早くスピリチュアリズム的思想に転換し、晩年は哲人を思わせる洗練された心霊思想を説いています。それを如実に物語るのが右の書で、その中に次のような箇所があります。

 『われわれはよく「肉体の死後も生き続けるのだろうか」という疑問を抱く。が一体その死後というのはどういう意味であろうか。もちろんこの肉体と結合している五、七十年の人生の終ったあとのことに違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問にすぎない。

というのは、こうして物質をまとってこの地上に生きていること自体が驚異なのである。これは実に特殊な現象というべきである。私はよく 「死は冒険であるが、楽しく待ち望むべき冒険である」 と言ってきた。

確かにそうに違いないのだが、実は真に冒険というべきはこの地上生活そのものなのである。地上生活というのは実に奇妙で珍しい現象である。こうして肉体に宿って地上に出て来たこと自体が奇蹟なのだ。失敗する霊がいくらもいるのである。

 霊界から見れば、肉体の死後にも生命があるのは極めて当り前のことであろう。言ってみれば地上の生命などは朝露のようなもので、日の出とともに蒸発してしまうはかない存在なのである。とは言え、生きているかぎり肉体というのは実にやっかいなシロモノである。

地上生活の困難の大部分は肉体の扱いにくさから生じているといってよい。肉体をまとっていくこと自体がまずやっかいである。そして、死ぬ時もまたやっかいである。その生から死への間もずっと手入れがやっかいである。が肉体がわれわれではない。少しの間───ホンのちょっとの間だけ使用する道具にすぎないのである。』


 古今東西の宗教が例外なく肉体的欲望を罪悪の根源とみなし、節制を説き、肉体を超越する修業の必要性を力説するのもむべなるかなと思われますが、それに関連してもう一つやっかいなことは、そうした重大なる使命の達成を妨げよう、挫折させようとする霊界の一方の勢力が鵜の目鷹の目で見張っているということです。

 そうした霊は人間のちょっとした心のスキ───よく魔がさすと言いますが、そうしたちょっとした邪念につけ入って、ズルズルと深みへと引きずり込んでいきます。

はじめの頃は純粋で謙虚で誠心誠意の人だった霊能者が、いつしか自分は神である、仏である、と言い出し、本来の使命を忘れて宗教としての勢力の拡大に躍起になり、権謀術数をめぐらすようになっていきます。

 中国の古い言葉に「聡明叡智、これを守るに愚をもってす」というのがありますが、その点バーバネル氏やテスター氏のように愚直なまでに寡欲で謙虚であることが、宗教家や霊能者としての第一条件なのでしょう。

 シルバー・バーチに言わせれば、地上の宗教は既成、新興の別なくことごとく落第だそうです。つまり人間的欲望というアカがこびりついて宗教としての本来の意義を失ってしまっている。そこでそのアカを洗い落とし、本来の神の摂理を改めて説き明かすのが自分たち霊団の使命だというのです。

 そこで本章ではその神の摂理とは何かという点に焦点を絞ってみましょう。シルバー・バーチはこれを「恒久不変の自然法則」Eternal Natural Laws と呼んだり「神的叡智」 Divine Wisdom と呼んだりしていますが、これをつきつめれば「原因と結果の法則」、いわゆる因果律 The Law of Cause and Effect に収約されるようです。

 こう言うと「なんだ、要するに因縁のことだろう」とおっしゃる方がおられると思います。その通りです。しかしシルバー・バーチはこれに人間の霊的向上進化という目的を付加します。単なる因果応報の機械的なくり返しではなく、その因果律の背後に人間を向上せしめんとする神の配慮があると説くのです。

 それがある時はよろこびとして感じられ、ある時は苦しみとして感じられたりします。人間の真情として、不幸や貧乏、病気、災害といったものが無いことを希望しますが、それは今という刹那しか意識できない人間の狭い量見から出るわがままであって、過去、現在、未来の三世を見通した神の目から見れば、当人の成長にとってはそれが最上であり必須のものであるわけです。

 そうなると、いわゆる「因縁を切る」ということのもつ重大性を痛感せずにはおれません。切ることが大切だと言っているのではありません。はたして因縁を切ることが正しいことなのかどうか、イヤその前に、一体因縁は人為的に切ることが出来るものなのかどうかを真剣に考えなくてはならないということです。

 この「因縁を切る」という観念は、私の知るかぎりでは世界でも日本人だけのもののようです。そして、これは非常に広い意味、いろんな意味で使用されており、まずその整理から始めなくてはならないようです。

 たとえば何代にもわたって長男が自殺するという家系があるとします。「怨みの因縁だろう」──だれしもそう考えます。そしてそれは多分当っているでしょう。そこでその因縁を切るための手段を講じます。

 手段にもいろいろありますが、要するところ長男を自殺に追いやる霊魂、いわゆる因縁霊をつかまえて諭すなり供養するなりして改心させることになります。そしてそれがうまく行けば、大ていこれで「因縁が切れた」と思いがちです。

 がここまでの段階は因縁霊との縁が切れたということであって、その奥の因縁そのものが消えたとはいえません。もしかしたらその時期がちょうど因縁の消滅する時期だったかも知れませんから、それならば本当の意味で「因縁が切れた」ということになりますが、因縁霊もあくまで因縁という法則に便乗して動くコマのような存在にすぎないのですから、因縁霊だけを人為的に引き離しても、それだけで因縁そのものが切れたということにはなりません。

 では因縁そのものが自然消滅するまで手段を講ずべきでないということになるかというと、そうとも言えません。病気と同じで、生命の危険もあるほどの大病の場合は手術もやむを得ないことがあるように、人為的に因縁霊を引き離す術、いわゆる除霊の必要な場合もありましょう。

ただ、それだけで事足れりとする考えは過りであることを私は指摘しているのです。その奥の因縁そのものが残っているかぎり、また別の形で不幸や災厄が起こってきます。

 次に、自分に何のかかわりもない遠い祖先の残した因縁になぜ自分が苦しまねばならないのかという疑問が生じます。一見もっとものような疑問ですが、これはスピリチュアリズムの真髄を知らない人の抱く疑問といえそうです。

 自分とかかわりがないという考えそのものが根拠のない考えであって、実際は深い深い因縁の糸によってつながっているのです。

これは生まれ変わり、つまり再生の問題に関わってくる大問題で、これは次章でくわしく取り扱うことにして、ここでは要するに、縁のないものとの係わりあいは絶対にない、と述べるに留めておきましょう。シルバー・バーチはそれを次のように表現しています。


 『そのうちあなた方も肉体の束縛から開放されて曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば紆余曲折した、一見とりとめのない出来ごとの絡み合いの中で、その一つ一つがちゃんとした意味をもち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解するはずです。』


 これは人生が有目的の因果律によって支配されていることを物語っているのですが、その「有目的」というところに注目していただきたいのです。

つまり宇宙人生が魂の向上進化という至上目的のために経綸されているということです。この点が従来の因果律の思想と本質的に異る点といえましょう。ではこれからシルバー・バーチにその点をくわしく説いてもらいましょう。


『あなたがたがスピリチュアリズムと呼んでいるものも神の法則の一部です。神は宇宙を法則によって統一し、法則を通じてその意志を表現しているのです。宇宙のどこをさがしても、法則の支配しない場所など一箇所もありません。

人間がこれまでに知り得た範囲に限りません。それよりはるかに大きい、人智の及ばないところまでも、完全に神の法則が支配しております。

 自然界の法則はいわば神の定めた法則です。およそ人間界の法律といわれるものには変化(改正)がつきものです。不完全であり、全てを尽くすことができないからですが、神の法律は全てを尽くし、至らざるところはありません。

偶然とか偶発というものは絶対にあり得ません。すべてが規制され、すべてが計算されているのです。あなたがたは肉体を具えていますが、これは一種の機械です。つまり肉体という機械をあやつりながら自己を表現しているわけです。

かりに悩みを抱いたとしますと、それは水門を閉ざすのと同じで、生気の通るチャンネルを失うことになります。つまりエネルギーの供給がカットされ、不健康の要因ができあがります。あなたがたがそのことに気づくまで、肉体は悩みと病気の悪循環を繰り返します。

 また悩みは肉体の霊的大気ともいえるオーラにも悪影響を及ぼし、それが心霊的バイブレーションを乱します。

悩みを取り除かないかぎり、心霊的エネルギーは流れを阻害され病気の要因となります。悩みや恐怖心を超越する──言いかえると自我のコントロールが出来るようになるには、長い年月と厳しい修養がいります。

 それも実は神の無限の愛と叡智から出た法則なのです。その悩みに費されるエネルギーを建設的な思考に切りかえれば、決して病いは生じません。神の法則は完璧です。

そして、あなたがたはその中の無くてはならない存在なのです。向上進化という至上目的のために必要な勉強のチャンスは、日常生活の中にいくらでも見出せるのです。


 私が法則を変えるわけにはいきません。原因と結果の法則は絶対であり、私がその間に入ってどうこうするということは許されないのです。ただ、そういう法則の存在を教え、そんな心構えでいては病気になりますヨという警告をしてあげることは出来ます。肉体は機械ですから、それなりの手入れが必要です。

手入れを怠ると働きが悪くなります。ですから時には休息させて回復のチャンスを与え、その本来の働きを取り戻すように配慮してやらなくてはいけません。神の法則はごまかしがきかないのです。

人間は肉体という機械を通して自分を表現しています。その機械にもエネルギーの限界があり、バッテリーに充電してやらなくてはならない時期が来ます。

それを知ってそれなりの手段を講じるのはあなた自身の責任であり義務なのです。なぜなら地上生活を生きる上で欠かすことのできない大切な道具だからです。

 私がいかにあなた方のしあわせを願っているとはいえ、あなた方に代ってその責任と義務を遂行してあげるわけにはいかないのです。心に思うこと、口に出す言葉、そして実際の行動、このいずれにも責任をとらされます。あくまで自分が責任を負うのです。

が、そのいずれも地上生活においては結局肉体という機械を通じて表現するわけですから、その機械が正常に働いてくれるように、ふだんから健康管理に気を配らなくてはいけません。肉体は実に驚嘆に値するすばらしい器官です。

地上でこれ以上の入り組んだ器官をこしらえることはまずできないでしょう。正に驚異といってよいものですが、やはりそれなりの手入れは必要なのです。


 もちろん法則と調和した生活を送っておれば病気も不快も苦痛も生じないでしょう。病気とか不快とか苦痛とかは自然法則との不調和の信号にほかならないからです。法を犯してその代償を払うか、法を守って健康を維持するか、そのいずれかになるわけです。

 人間の思想・言動において動機というものが大きなポイントになることは確かですが、法則を犯したこと自体はやはりそれなりの代償を払わねばなりません。動機さえ正しければ何やってもかまわないというわけにはいかないということです。

肉体を犠牲にしてまで精神的な目標を成就すべきかどうかは、その人の進化の程度によって判断が異ってくる問題ですが、ただ地上に生を享けた以上は、それなりの寿命というものが与えられているのですから、それを勝手に縮めることは神の意志に反します。

 たとえば人類愛に燃えた崇高な人物がいると仮定しましょう。その人が博愛事業のために肉体を犠牲にすることが果たして許されるかとなると、それはその人個人の問題であって一概に断定はできませんが、ただ残念なのは、得てしてそういう人の動機がはたからみるほど純粋ではないということです。

その腹の底にはオレは偉い人物だといううぬぼれがどこかに潜んでいるものです。それが無理な行動に自分を駆りたてる結果となっていることに気づかないのです。

 ひと口に法則といっても、肉体を支配する法則もあれば、精神を支配する法則もあり、霊的な法則もあり、それらが絡み合った法則もあります。

そうした法則を人間はもうダメだというギリギリの段階に至るまで気がつかないからやっかいなのです。なぜでしょう。人間と宇宙の真実の相(スガタ)を知らないからにほかなりません。要するにこの世はすべて〝物〟と〝金〟と考えているからです。

 が、そうした苦しみの末に、いつかは真実に目覚める時がやってまいります。自我の意識が芽生え、内在する神性が目覚めはじめます。

 これも実は神の因果律の働きの結果なのです。つまり苦しみが大きければ大きいほど、それだけ目覚める知識も大きいということです。

 別の言い方をすれば、神は宇宙の一ばん優秀な会計係と考えればいいでしょう。収支のバランスをきちんと合わせ、使途の配分に一銭の狂いもありません。

 あなたは受け取るに値するだけを受け取り、多すぎもせず、少なすぎることもありません。

その価値判断はあなたの霊的進化の程度を考慮した上で行われます。地上でごまかしやお目こぼしがきくようですが、霊的なことに関するかぎりそれは絶対に有り得ません。

 大自然の法則は完璧です。その背後には神の無限の愛と叡智が働いております。私たちがこしらえたのではありません。私たちはただその働きを知っているだけです。

原因があれば結果があり、その結果が新らしい原因となってまた次の結果を生んでいくという法則です。その間に何者も介入することを許されません。偶然もありません。幸運もありません。ただ法則があるだけです。

 法則が撤廃されるなどということも絶対にありません。執行の猶予も保留も妨害もありません。絶え間なく機能し、変化することも無く、また人為的に変えることも出来ません。法則の中から都合のいいものを選ぶことも出来ません。

絶対なのです。神とはすなわち法の極致であり、法の粋であり、いかなる力、いかなる情実をもってしても動かすことは出来ません。』

シルバーバーチ

Sunday, December 4, 2022

シアトルの冬 童子のような心になりきって      Become like a child


真理というものは、童子のような心になりきって古い概念から生じた誤った信仰を捨て去ってしまえば、実に簡単に理解できるものです。

言い換えれば、新しい教義や信条をこしらえるというのではなく、正しいことは正しいこととし、それを否定することでいかなる犠牲を強いられることになろうと、それを幼子のような素直な心で受け入れる態度で臨めば、容易に理解できるものです。

いかなる宗教であろうと、何らかの教義に忠誠を誓った人たちが必ずしも真理を理解する上で有利な立場にあるとは言えません。

なぜなら魂というものは、信仰を誓った時の忠誠心と、そこに満足を得たいと希(ねが)う心との間の葛藤に悩み苦しむことがあるものだからです。

私は皆さんに、二千年前にイエスが説いた真理と、今地上界のリーダーと目されている人たちが説いている教説とを比較して、イエスの教えがいかに単純であるかに着目していただきたいのです。

私たちも単純なメッセージをお届けしています。理性にもとらず、知性を侮辱することもないメッセージです。

それは自然の結果として、私たちが当初から主張しているもの、即ち簡単な霊的真理であることの証拠にほかなりません。

その中でも第一に申し上げているのは、地上界の人たちがいちばん願っていること、即ち他界した縁ある人々が今も生き続けていること、言い換えれば生命に「死」というものは存在しないという事実です。

次に申し上げているのは、霊力は(二千年前だけでなく)今もなお人類の高揚のために献身している人々を鼓舞しているという事実です。

霊力の働きが人生を生き甲斐あるものに、そして調和の取れたものにする上で「豊かさ」をもたらしてくれているのです。

さらに私たちは霊的治療エネルギーによって、病魔と闘っている人々の苦しみと痛みを和らげてあげています。

こうして私たちは地上の人々に互いに助け合う生活の送り方をお教えする意図のもとに結集した、神の使徒なのです。

要するに私たちは、これまでの人類の歴史において大霊のインスピレーションに接した人々が説いたものを繰り返して説いているまでです。

宇宙には神の絶対的法則というものがあることをお教えし、それがどういう形で働いているかを証明して見せているのです。

同じ法則を使用して、過去に起きた現象が現在でも起こせることを実際にお見せしているのです。

しかし現実には、本来その人たちこそ霊力の恩恵を受けるべきであるはずの聖職者たちがそれを拒絶しております。

神学という名の隔離された世界に閉じこもっております。教条主義という名の修道院に身を隠しております。

彼らは、内心、怖いのです。スピリチュアリズムという名の真理が広まれば僧侶も牧師も主教も大主教も要らなくなることを知っているのです。

そんなものがいなくても、スピリチュアリズムの知識さえあれば各自が大霊の道具となることが出来るからです。

しかし、本日国教会の「報告書」を一部だけでも聞かせていただいて、教条主義が徐々に勢力を失い、代わって私たちの教えが広がりつつあることを改めて確信いたしました。

シルバーバーチ

Saturday, December 3, 2022

シアトルの冬 イエス・キリストとブッタ・キリスト jesus christ and buddha christ



一九一九年三月十九日  水曜日

 キリストについての地上的概念の解体作業はこうして進行していきましたが、これはすでに述べた物質科学の進歩ともある種の関連性があります。とは言え、それとこれとはその過程が異なりました。しかし行き着くところ、吾々の目標とするところは同じです。


関連性があると言ったのは一般的に物的側面を高揚し、純粋な霊的側面を排除しようとする傾向です。この傾向は物質科学においては内部から出て今では物的領域を押し破り、霊的領域へと進入しつつあります。

一方キリスト観においては外部から働きかけ、樹皮をはぎ取り、果肉をえぐり取り、わずかながら種子のみが残されておりました。しかしその種子にこそ生命が宿っており、いつかは芽を出して美事な果実を豊富に生み出すことでしょう。

 しかし人間の心はいつの時代にあっても一つの尺度をもって一概に全世界の人間に当てはめて評価すべきものではありません。

そこには自由意志を考慮に入れる必要があります。ですからキリストの神性についての誤った概念を一挙にはぎ取ることは普遍的必要性とは言えません。イエスはただの人間にすぎなかったということを教えたがために、宇宙を経綸するキリストそのものへの信仰までも全部失ってしまいかねない人種もいると吾々は考えました。

そこで、信仰そのものは残しつつも信仰の中身を改めることにしました。でも、いずれそのうちイエスがただの人間だったとの説を耳にします。そして心を動揺させます。

しかし事の真相を究明するだけの勇気に欠けるために、その問題を脇へ置いてあたかも難破船から放り出された人間が破片にしがみついて救助を求めるごとくに、教会の権威にしがみつきます。

 一方、大胆さが過ぎて、これでキリストの謎がすべて解けたと豪語する者もいます。彼らは〝キリストは人間だった。ただの人間にすぎなかった〟というのが解答であると言います。しかし貴殿もよく注意されたい。

かく述べる吾々も、この深刻な問題について究明してきたのです。教えを乞うた天使も霊格高きお方ばかりであり、叡智に長(タ)けておられます。なのになお吾々は、その問題について最終的解決を見出しておらず、高級界の天使でさえ、吾々にくらべれば遥かに多くのことを知っておられながら、まだすべては知り尽くされていないとおっしゃるほどです。

 地上の神学の大家たちは絶対神についてまでもその本性と属性とを事細かにあげつらい、しかも断定的に述べていますが、吾々よりさらに高き界層の天使ですら、絶対神はおろかキリストについても、そういう畏れ多いことはいたしません。それはそうでしょう。

親羊は陽気にたわむれる子羊のように威勢よく突っ走ることはいたしません。が、子羊よりは威厳と同時に叡智を具えております。

 さて信仰だけは剥奪せずにおく方がいい人種がいるとはいえ、その種の人間からはキリストの名誉回復は望めません。それは大胆不敵な人たち、思い切って真実を直視し驚きの体験をした人たちから生まれるのです。

前者からもある程度は望めますが、大部分は少なくとも偏見を混じえずに〝キリスト人間説〟を読んだ人から生まれるのです。むろんそれぞれに例外はあります。私は今一般論として述べているまでです。

 実は私はこの問題を出すのに躊躇しておりました。キリスト教徒にとっては根幹にかかわる重大性をもっていると見られるからです。ほかならぬ〝救世主〟が表面的には不敬とも思える扱われ方をするのを聞いて心を痛める人が多いことでしょう。

それはキリストに対する愛があればこそです。それだけに私は躊躇するのですが、しかしそれを敢えて申し上げるのも、やむにやまれぬ気持からです。

願わくはキリストについての知識がその愛ほどに大きくあってくれれば有難いのですが・・・・・・。と言うのも、彼らのキリストに対する帰依の気持は、キリスト本来のものではない単なる想像的産物にすぎないモヤの中から生まれているからです。

いかに真摯であろうと、あくまでも想像的産物であることに変りはなく、それを作り上げたキリスト教界への帰依の心はそれだけ価値が薄められ容積が大いに減らされることになります。その信仰の念もキリストに届くことは届きます。しかしその信仰心には恐怖心が混じっており、それが効果を弱めます。

それだけに、願わくはキリストへの愛をもってその恐怖心を棄て去り、たとえ些細な点において誤っていようと、勇気をもってキリストの真実について考えようとする者を、キリストはいささかも不快に思われることはないとの確信が持てるまでに、

キリストへの愛に燃えていただきたいのです。吾々もキリストへの愛に燃えております。しかも恐れることはありません。

なぜなら吾々は所詮キリストのすべてを理解する力はないこと、謙虚さと誠意をもって臨めば、キリストについての真実をいくら求めようと、それによる災いも微罰もあり得ぬことを知っているからです。

 同じことを貴殿にも望みたいのです。そしてキリストはキリスト教徒が想像するより遥かに大いなる威厳を具えた方であると同時に、その完全なる愛は人間の想像をはるかに超えたものであることを確信なさるがよろしい。


───キリストは地上に数回にわたって降誕しておられるという説があります。たとえば(ヒンズー教の)クリシュナや(仏教の)ブッタなどがそれだというのですが、本当でしょうか。

 事実ではありません。そんなに、あれやこれやに生まれ変ってはおりません。そのことを詮索する前に、キリストと呼ばれている存在の本性と真実について理解すべきです。

とは言え、それは吾々にとっても、吾々より上の界の者にとってもいまだに謎であると、さきほど述べました。そういう次第ですから、せめて私の知るかぎりのことをお伝えしようとするとどうしても自家撞着(パラドックス)に陥ってしまうのです。

 ガリラヤのイエスとして顕現しそのイエスを通して父を顕現したキリストがブッダを通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。

またキリストという存在が唯一でなく数多く存在するというのも真実ではありません。イエス・キリストは父の一つの側面の顕現であり、ブッダ・キリストはまた別の側面の顕現です。しかも両者は唯一のキリストの異なれる側面でもあるのです。

 人間も一人一人が造物主の異なれる側面の顕現です。しかしすべての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストとブッダ・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。

しかし顕現の大きさからいうとイエス・キリストの方がブッダ・キリストに優ります。

が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この二つの名前つまりイエス・キリストとブッダ・キリストを持ち出したのはたまたまそうしたまでのことで、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、そのすべてに右に述べたことが当てはまります。

 貴殿が神の心を見出さんとして天界へ目を向けるのは結構です。しかしたとえばこのキリストの真相の問題などで思案に余った時は、バイブルを開いてその素朴な記録の中に兄貴としてまた友人としての主イエスを見出されるがよろしい。

その孤独な男らしさの中に崇拝の対象とするに足る神性を見出すことでしょう。差し当たってそれを地上生活の目標としてイエスと同等の完璧さを成就することができれば、こちらへ来られた時に主はさらにその先を歩んでおられることを知ることになります。

天界へ目を馳せ憧憬を抱くのは結構ですが、その時にも、すぐ身のまわりも驚異に満ち慰めとなるべき優しさにあふれていることを忘れてはなりません。

 ある夏の宵のことです。二人の女の子が家の前で遊んでおりました。家の中には祖母(バア)ちゃんがローソクの光で二人の長靴下を繕っておりました。そのうち片方の子が夜空を指さして言いました。

 「あの星はあたしのものよ。ほかのよりも大きくて明るいわ。メアリ、あなたはどれにする?」
 するとメアリが言いました。

 「あたしはあの赤いのにするわ。あれも大きいし、色も素敵よ。ほかの星のように冷たい感じがしないもの」

 こうして二人は言い合いを始めました。どっちも譲ろうとしません。それでついに二人はばあちゃんを外に呼び出して、どれが一ばん素敵だと思うかと尋ねました。ばあちゃんならきっとどれかに決めてくれると思ったのです。ところがばあちゃんは夜空を見上げようともせず、相変わらず繕いを続けながらこう言いました。

 「そんな暇はありませんよ。お前たちの長鞄下の繕いで忙しいんだよ。それに、そんな必要もありませんよ。あたしはあたしの一ばん好きな星に腰かけてるんだもの。これがあたしには一ばん重宝(チョウホウ)してるよ」
アーネル ± 

Friday, December 2, 2022

シアトルの冬 物質科学から霊的科学へ          From material science to spiritual science


 一九一九年二月二十八日  金曜日 

 人類が目覚めのおそい永い惰眠を貪(むさぼ)る広大な寝室から出て活発な活動の夜明けへと進み、未来において到達すべき遠い界層をはじめて見つめた時にも、やはり神々による廟議は開かれていたのでした。

その会議の出席は多分、例のアトランティス大陸の消滅とそれよりずっと後の奮闘の時代───人類の潜在的偉大さの中から新たな要素がこれより先の進化の機構の中で発現していく産みの苦しみを見ていたことでしょう。

後者は同じ高き界層からの働きかけによって物質科学が発達したことです。人間はそれをもって人類が蓄積してきた叡智の最後を飾るものと考えました。

しかし、その程度の物的知識を掻き集めたくらいでおしまいになるものではありません。

大いなる進化は今なお続いているのです。目的成就の都市は地上にあるのではありません。はるか高遠の彼方にあるのです。

人間は今やっと谷を越え、その途中の小川で石ころを拾い集めてきたばかりです。こんどはそれを宝石細工人のもとへ持っていかねばなりません。そういう時期もいずれは到来します。細工人はそれを王冠を飾るにふさわしい輝きと美しさにあふれたものに磨き上げてくれることでしょう。しかし細工人はその低き谷間にはいません。

いま人類が登りかけている坂道にもいません。光をいっぱいに受けた温い高地にいるのです。そこには王とその廷臣の住む宮殿があります。しかし王自身は無数の廷臣を引きつれて遥か下界へ降りられ、再び地上をお歩きになっている。ただし、この度はそのお姿は(地上の人間には)見えません。

吾々はそのあとについて歩み、こうした形で貴殿にメッセージを送り、王より命じられた仕事の成就に勤しんでいるところです。


───では、アーネルさん、キリストは今も地上にいらっしゃり、あなたをはじめ大勢の方たちはそのキリストの命令を受けていると理解してよろしいでしょうか。

 キリストからではないとしたら、ほかに誰から受けるのでしょう。今まさに進行中の大変な霊的勢力に目を向けて、判断を誤らぬようにしてください。

地上の科学は勝利に酔い痴れたものの、その後さらに飛躍してみれば、五感の世界だけの科学は根底より崩れ、物的尺度を超えた世界の科学へと突入してしまいました。皮肉にも物的科学万能主義がそこまで駆り立てたのです。

今やしるしと不思議(霊的現象のこと。ヨハネ4・48―訳者)がさまざまな形で語られ、かつてはひそひそ話の中で語られたものが熱弁をもって語られるようになりました。

周囲に目をやってごらんなさい。地上という大海の表面に吾々無数の霊が活発に活動しているその笑顔が映って見えることであろう。声こそ発しなくても確かに聞こえるであろう。姿こそ見えなくても、吾々の指先が水面にさざ波を立てているのが見えるであろう。

人間は吾々の存在が感じ取れないと言う。しかし吾々の存在は常に人間世界をおおい、人間のこしらえるパイ一つ一つに指を突っ込んでは悦に入っております。中のプラムをつまみ取るようなことはしません。

絶対にいたしません。むしろ吾々の味つけによって一段とおいしさを増しているはずです。

 あるとき鋳掛屋(いかけや)がポーチで食事をしたあと、しろめ製の皿をテーブルに置き忘れたまま家に入って寝た。暗くなって一匹の年取ったネコが現われてその皿に残っていた肉を食べた。それからネコはおいしい肉の臭いの残る皿にのって、そこを寝ぐらにしようとした。

しろめの硬さのために寝心地が悪く、皿の中でぐるぐると向きを変えているうちに、その毛で皿はそれまでになくピカピカに光り輝いた。

 翌朝、しろめの皿のことを思い出した鋳掛屋が飛び出してみると、朝日を受けてその皿が黄金のように輝いている。

 「はて、不思議なことがあるもの・・・・・・」彼はつぶやいた。「肉は消えているのに皿は残っている。肉が消えたということは〝盗っ人〟のしわざということになるが、皿が残っていて、その上ピカピカに光っているところをみると、そいつは〝良き友〟に違いない。

しかし待てよ。そうだ。たぶんこういうことだろう───肉は自分が食べてしまっていたんだ。そして星のことかなんか、高尚なことを考えながら一ぱいやっているうちに、自分のジャーキン(皮製の短い上着)で磨いていたんだ」


───この寓話の中のネコがあなたというわけですね?

 そのネコの毛一本ということです。ほんの一本にすぎず、それ以上のものではありません。
アーネル  ±

 訳者注───この寓話の部分はなぜか文法上にも構文上にも乱れが見られ細かい部分が読み取れないので、大体のあらすじの訳に留めておいた。要するに人類は各分野での進歩・発展を誇るが、肝心なことは霊の世界からのインスピレーションによって知らないうちに指導され援助されているということであろう。

Thursday, December 1, 2022

シアトルの冬 古代霊は語る  ancient spirits speak

 


 シルバー・バーチが地上に戻って心霊的真理つまりスピリチュアリズムを広めるよう神界から言いつけられたのは、のちにシルバー・バーチの霊言霊媒となるべき人物すなわちモーリス・バーバネル氏がまだ母体に宿ってもいない時のことでした。

 そもそもこの交霊会の始まったのが一九二〇年代のことですから、シルバー・バーチが仕事を言いつけられたのは一八〇〇年代後半ということになります。

バーバネル氏が霊言能力を発揮しはじめたのは十八才の時でした。正確なことは分からないにしても、とにかく人間の想像を超えた遠大な計画と周到な準備のもとに推進されたものであることは間違いありません。

 さて言いつけられたシルバー・バーチが二つ返事でよろこんで引き受けたかというと、実はそうではなかったのです。

 『正直いって私はあなた方の世界に戻るのは気が進みませんでした。地上というのは、一たんその波長の外に出てしまうと、これといって魅力のない世界です。私がいま定住している境涯は、あなた方のように肉体に閉じ込められた者には理解の及ばないほど透き通り、光に輝く世界です。

 くどいようですが、あなた方の世界は私にとって全く魅力のない世界でした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなくてはなりません。

地上の同志を見つけ、その協力が得られるよう配慮しなくてはなりません。それから私の代弁者となるべき霊媒を養成し、さらにその霊媒を通じて語る真理を出来るだけ広めるための手段も講じなくてはなりません。

それは大変な仕事ですが、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証を得ました。そして計画はすべて順調に進みました。』

 その霊媒として選ばれたのが、心霊月刊誌 Two Worlds と週刊紙 Psychic News を発行している心霊出版社 Psychic Pressの社長であったモーリス・バーバネル氏であり、同志というのは直接的にはハンネン・スワッハー氏を中心とする交霊会の常連のことでしょう。

 スワッハー氏は当時から反骨のジャーナリストとして名を馳せ「新聞界の法王」の異名をもつ人物で、その知名度を武器に各界の名士を交霊会に招待したことが、英国における、イヤ世界におけるスピリチュアリズムの発展にどれだけ貢献したか、量り知れないものがあります。

今はすでにこの世の人ではありませんが、交霊会の正式の呼び名は今でもハンネン・スワッハー・ホームサークルとなっております。

 いま私は「直接的には」という言い方をしましたが、では間接的には誰かという問いが出そうです。


 一八四八年に始まったスピリチュアリズムの潮流は、そのころから急速に加速された物質文明、それから今日見るが如き科学技術文明という、言わば人間性喪失文明に対する歯止めとしての意義をもつもので、その計画の中にモーゼスの「霊訓」のイムペレーターを中心とする総勢五十名から成る霊団がおり、

「永遠の大道」のフレデリック・マイヤースがあり、さらに、これはあまり知られておりませんが、ヴェール・オーエン氏の「ベールの彼方の生活」のリーダーと名告る古代霊を中心とする霊団がおり、

南米ではアラン・カルデックの「霊の書」を産んだ霊団があり、そしてこのシルバー・バーチを中心とする霊団がいるわけです。

 このほかにも大小さまざまな形でその大計画が推進され、今なお進められているわけです。心霊治療などもそのひとつで、中でもハリー・エドワーズ氏などはその代表格(だった)というべきでしょう。日本の浅野和三郎氏などもその計画の一端を担われた一人でしょう。

 が、分野を霊界通信にしぼってみたとき、歴史的にみてオーソドックス(正統)な霊界通信は右に挙げたものが代表格といってよいでしょう。そのうちマイヤースについて特筆すべき点は、こうしたスピリチュアリズムの流れを地上で実際に体験した心霊家としてあの世へ行っていることです。

そしてこのシルバー・バーチについて特筆すべきことは、前四者が主として自動書記通信である(注)のと違って霊言現象の形で真理を説き、質疑応答という形も取り入れて、親しく、身近かな人生問題を扱っていることです。

(注──モーゼスの「霊訓」には「続霊訓」という百ページばかりの続編があり、これには霊言現象による通信も含まれています。その中でイムペレーターを中心とする数名の指導霊の地上時代の本名を明かしております)

 体験された方ならすぐに肯かれることと思いますが、数ある心霊現象の中でも霊言現象が一ばん親しみと説得力をもっています。

 もっとも霊媒の危険性と、列席者が騙されやすいという点でも筆頭かも知れません。が、それは正しい知識と鋭い洞察力を備えていれば、めったにひっかかるものではありません。

 シルバー・バーチも、自分が本名を明かさないのは、真理というものは名前とか地位によって影響されるべきものではなく、その内容が理性を納得させるか否かによって判断されるべきものだからだ、と述べていますが、確かに、最終的にはそれ以外に判断の拠り所はないように思われます。


 こう見てきますと、シルバー・バーチを中心とする霊団がロンドンの小さなアパートの一室におけるささやかなホームサークルを通じて平易な真理を半世紀以上にもわたって語り続けてきたことは、スピリチュアリズムの流れの中にあっても特筆大書に価することと言ってよいでしょう。

 しかし霊団にとっては、それまでの準備が大変だったようです。シルバー・バーチは語ります。

『もうずいぶん前の話ですが、物質界に戻って霊的真理の普及に一役買ってくれないかとの懇請を受けました。このためには霊媒と、心霊知識をもつ人のグループを揃えなくてはならないことも知らされました。私は霊界にある記録簿を調べ上げて適当な人物を霊媒として選びました。

それは、その人物がまだ母体に宿る前の話です。私はその母体に宿る日を注意深く待ちました。そして、いよいよ宿った瞬間から準備にとりかかりました』

 この中に出てくる「霊界の記録簿」というのは意味深長です。

 神は木の葉一枚が落ちるのも見落さないというのですから、われわれ人間の言動は細大もらさず宇宙のビデオテープにでも収められているのでしょうが、シルバー・バーチの場合は、霊媒のバーバネル氏が生まれる前から調べ上げてその受胎の日を待った、というのですから、話の次元が違います。続けてこう語ります。

 『私はこの人間のスピリットと、かわいらしい精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる面を細かく観察し、霊的に一体となる練習をし、物の考え方や身体上のクセをのみ込むよう努めました。要するに私はこの霊媒をスピリットと精神と肉体の三面から徹底的に研究したわけです」

 参考までにここに出た心霊用語を簡単に説明しておきましょう。スピリットというのは大我から分れた小我、つまり、神の分霊です。それ自体は完全無欠です。それが肉体と接触融合すると、そこに生命現象が発生し〝精神〟が生まれます。私たちが普段意識しているのはこの精神で、ふつう〝心〟といっているものです。これには個性があります。

肉体のもつ体質(大きいものでは男女の差)、それに遺伝とか自分自身及び先祖代々の因縁等が複雑に混り合っていて、それが人生に色とりどりの人間模様を織りなしていくわけです。

 シルバーバーチは続けてこう語ります。

 『肝心の目的は心霊知識の理解へ向けて指導することでした。まず私は地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的にはそのいずれにも反発させ、いわゆる無神論者にさせました。それはそれなりに本人の精神的成長にとって意味があったのです。

これで霊媒となるべきひと通りの準備が整いました。ある日私は周到な準備のもとに初めての交霊会へ出席させ、続いて二度目の時には、用意しておいた手順に従って入神させ、その口を借りて初めて地上の人に語りかけました。

いかにもぎこちなく、内容も下らないものでしたが、私にとっては実に意義深い体験だったのです。その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、ごらんの通りの状態になりました。今ではこの霊媒の潜在意識を完全に支配し、私の考えを百パーセント述べることが出来ます。』

 その初めての交霊会の時、議論ずきの十八歳のバーバネル氏は半分ヤジ馬根性で出席したと言います。そして何人かの霊能者が代わるがわる入紳してインデアンだのアフリカ人だの中国人だのと名告る霊がしゃべるのを聞いて〝アホらしい〟といった調子でそれを一笑に付しました。そのとき「あなたもそのうち同じようなことをするようになりますヨ」と言われたそうです。

 それが二回目の交霊会で早くも現実となりました。バーバネル氏は交霊会の途中で〝ついうっかり〟寝込んでしまい、目覚めてから「まことに申し分けない」とその失礼を詫びました。すると列席者からこんなことを言われました。

 「寝ておられる間、あなたはインデアンになってましたヨ。名前も名告ってましたが、その方はあなたが生まれる前からあなたを選んで、これまでずっと指導してこられたそうです。そのうちスピリチュアリズムについて講演をするようになるとも言ってましたヨ」

 これを聞いてバーバネル氏はまたも一笑に付しましたが、こんどはどこか心の奥に引っかかるものがありました。

 その後の交霊会においても氏は必ず入神させられ、はじめの頃ぎこちなかった英語も次第に流暢になっていきました。その後半世紀以上も続く二人の仕事はこうして始まったのです。


 では当のバーバネル氏に登場してもらいましょう。入神中の様子について氏は次のように述べています。

 『はじめの頃は身体から二、三フィート離れた所に立っていたり、あるいは身体の上の方に宙ぶらりんの格好のままで、自分の口から出る言葉を一語一語聞きとることが出来た。シルバー・バーチは英語がだんだん上手になり、はじめの頃の太いしわがれ声も次第にきれいな声───私より低いが気持のよい声───に変わっていった。

 ほかの霊媒の場合はともかくとして、私自身にとって入神はいわば〝心地よい降服〟である。まず気持ちを落ち着かせ、受身的な心境になって、気分的に身を投げ出してしまう。そして私を通じて何とぞ最高で純粋な通信が得られますようにと祈る。

すると一種名状しがたい温かみを覚える、普段でも時おり感じることがあるが、これはシルバー・バーチと接触した時の反応である。温かいといっても体温計で計る温度とは違う。恐らく計ってみても体温に変化はないはずである。やがて私の呼吸が大きくリズミカルになり、そしていびきに似たものになる。

すると意識が薄らいでいき、まわりのことがわからなくなり、柔らかい毛布に包まれたみたいな感じになる。そしてついに〝私〟が消えてしまう。どこへ消えてしまうのか、私自身にもわからない。

 聞くところによると、入神はシルバー・バーチのオーラと私のオーラとが融合し、シルバー・バーチが私の潜在意識を支配した時の状態だとのことである。意識の回復はその逆のプロセスということになるが、目覚めた時は部屋がどんなに温かくしてあっても下半身が妙に冷えているのが常である。

時には私の感情が使用されたのが分かることもある。というのは、あたかも涙を流したあとのような感じが残っていることがあるからである。

 入神状態がいくら長びいても、目覚めた時はさっぱりした気分である。入神前にくたくたに疲れていても同じである。そして一杯の水をいただいてすっかり普段の私に戻るのであるが、交霊会が始まってすぐにも水を一杯いただく。

いそがしい毎日であるから、仕事が終るといきなり交霊会の部屋に飛び込むこともしばしばであるが、どんなに疲れていても、あるいはその日にどんな変わった出来ごとがあっても、入神には何の影響もないようである。あまり疲労がひどく、こんな状態ではいい成果は得られないだろうと思った時でも、目覚めてみると、いつもと変わらない成果が得られているのを知って驚くことがある。

 私の経験では、交霊会の前はあまり食べない方がよいようである。胸がつかえた感じがするのである。又、いろいろと言う人がいるが、私の場合は交霊会の出席者(招待者)については、あらかじめアレコレ知らない方がうまく行く。余計なことを知っていると、かえって邪魔になるのである。』


 バーバネル氏はシルバー・バーチ霊のいわば専属霊媒です。かつては英米の著名人、たとえばリンカーンなども出たようですが、それは一種の余興であって、本来はシルバー・バーチに限られています。いずれにせよ、バーバネル氏が二つの心霊機関紙を発行する心霊出版社の社長兼編集長であることはよく知られていても、霊言霊媒であることは日本はもとより世界でも意外に知られていないようです。

 これは謙虚で寡欲なバーバネル氏が自分からそのことをしゃべったり書いたりすることがまず無いということに起因しています。シルバー・バーチが絶対に地上時代の名前を明かさないという徹底した謙虚さが、そのままバーバネル氏に反映しているのでしょう。

 実は氏は自分の霊言を活字にして公表することにすら消極的だったのです。それを思い切らせたのが他ならぬハンネン・スワッハー氏でした。

 ここで私が直接面会して感じ取ったバーバネル氏の素顔を紹介しておきましょう。

 幸いにも私は一九八〇年の暮れに渡英し、多くの心霊家に面会する機会を得ました。バーバネル氏とは新年早々の五日に心霊出版社で面会し、帰国する前日にお別れの挨拶にもう一度立ち寄りました。

 女性秘書がドアを開けてくれて社長室に入った時、バーバネル氏が意外に小柄なのにまず驚ろきましたが、満面に笑みをたたえて、知性と愛情にあふれたまなざしでしっかりと私の目を見つめ、無言のまま両手を差しのべて固く私の手を握り、左手でどうぞこちらへという仕草をされました。

そしてインターホーンでスタッフや秘書にアレコレと(私のために)指示をされてから、ようやく私に向かって「二通目の手紙は(出発までに)間に合いましたか」という問いかけがあって、ようやく会話が始まりました。

 普通なら「はじめまして」とか「お元気ですか」といった初対面の挨拶があるところですが、そんな形式を超えた、あるいは、そんな形式を必要としない、心と心の触れ合いから入りました。

 その前日に面会したテスター氏(拙訳『背後霊の不思議』の原著者)も、背恰好といい年恰好といいバーバネル氏と実によく似た老紳士で、その応対ぶりもそっくりで、目と目が合っただけで通じ合う感じでした。

 むろんこれはお互いがスピリチュアリズムという思想においてつながっているからでしょうが、私がこれまで接触のあった英米の教育者から実業家に至る多くの外人で人格者といえる人物は、クリスチャンであろうと無神論者であろうと、不思議に東洋的なものを感じさせる雰囲気をもっていたのが印象的です。

 バーバネル氏もテスター氏もまさにその通りで、私は何の違和感もなく、まるで親戚のおじさんにでも会ったような感じでした。二人はまた大の仲良しで、お互いの名前を出すのにミスター(Mr.)を付けずに呼び棄てにします。それが却って親しみを感じさせました。

 ついでに言えば、テスター氏の家の近辺には銀色をしたカバの木がそこかしこに見られます。それを英語でシルバー・バーチと言うのです。バーバネル氏曰く、

 「テスターが二十数年前にあそこに引っ越したのも意味があったんですヨ。」
 テスター氏夫妻は数え切れないほどシルバー・バーチの交霊界に出席しています。


 さてバーバネル氏とテスター氏がよく似通った紳士だと言いましたが、一つだけ大きく違うものがあります。それは声の質です。

 テスター氏の声は風貌に似合わず細く澄んだ声で、かなり早口です。これと対照的にバーバネル氏の声は太くごつい感じで、ゆっくりとしゃべります。これはシルバー・バーチの影響でしょう。

 風貌もシルバー・バーチの似顔絵に非常に似ている感じですが、シルバー・バーチが憑ってくるとその感じが一段と強まり、声がいっそうごつくなります。そして、しゃべり方が一語一語かみしめるようにゆっくりとした調子になり、英語のアクセントとイントネーション(抑揚)が明らかに北米インデアンの特徴を見せはじめます。

 しかし同時に、何とも言えない、堂々として威厳に満ちた、近づきがたい雰囲気が漂いはじめます。ハンネン・スワッハ―氏はこう表現しています。

 「が、いったん活字になってしまうと、シルバー・バーチの言葉もその崇高さ、温かさ、威厳に満ちた雰囲気の片鱗しか伝えることができない。交霊会の出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバー・バーチがどんなに謙虚にしゃべっても、高貴にして偉大なる霊の前にいることをわれわれはひしひしと感じる。決して人を諌めない。そして絶対に人の悪口を言わない。」

 これは十一冊の霊言集のうちの一冊に寄せた緒言の中から抜粋したものですが、同じ緒言の中に興味ぶかいところがありますので、ついでに紹介しておきましょう。

 「霊媒のバーバネル氏が本当に入神していることをどうやって確認するのかという質問をよく受けるが、実はシルバー・バーチがわれわれ列席者に霊媒の手にピンをさしてみるよう言いつけたことが一度ならずあった。

おそるおそる軽く差すと、ぐっと深く差せという、すると当然、血が流れ出る。が入神から覚めたバーバネル氏に聞いてもまるで記憶がないし、そのあとかたも見当たらなかった。

 もう一つよく受ける質問は、霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのか、ということであるが、実はシルバー・バーチとバーバネル氏との間に思想的に完全に対立するものがいくつかあることが、そのよい証拠といえよう。

たとえばシルバー・バーチは再生説を説くが、バーバネル氏は通常意識のときは再生は絶対にないと主張する。そのくせ入神すると再生説を説く。」

 この緒言の書かれたのが一九三八年ですから、すでに四〇年余りも前のことになります。私が面会した時は再生問題は話題にのぼりませんでしたが、晩年はさすが頑固なバーバネル氏も再生を信じ、記事や書物に書いておりました。


 本題に戻りましょう。シルバー・バーチが心霊知識普及の使命を言い渡され、不承不承ながらも引き受ける覚悟をきめたことはすでに紹介しましたが、覚悟をきめなければならない重大な選択がもう一つあったのです。それは、知識普及の手段として物理的心霊現象を選ぶか、それとも説教という手段をとるか、ということでした。

 ご承知のとおり物理的心霊現象は見た目には非常にハデで、物めずらしさや好奇心を誘うにはもってこいです。しかしそれは、その現象の裏側で霊魂が働いていること、言いかえれば死後の世界が厳然と存在することを示すことが目的であって、それ以上のものではありません。

 ですから、心霊現象を見て成るほど死後の世界は存在するのだなと確信したら、もうそれ以上の用事のないものなのです。霊界の技術者たちもその程度のつもりで演出しているのです。

 ところが現実にはその思惑どおりには行っていないようです。というのは、現象は見た目には非常に不思議で意外性に富んでいますから、人間はどうしてもうわべの面白さにとらわれて、そのウラに意図されている肝心の意義を深く考えようとしないのです。

 たとえば最近テレビではやっている心霊番組をご覧になればその点に気づかれると思います。怪奇現象を起こしたり写真に写ったりする霊魂について、それが身内の人であるとか先祖霊であるとか地縛霊であるとか浮遊霊であるとか、いろいろ述べるのは結構ですし、その供養まで勧めるのはなお結構なことだとは思うのですが、

しかし話はいつもその辺でストップし、その先の、たとえば死後の世界が存在することの重大性とか、その世界が一体どんな世界なのか、またそういう形で姿を見せない、その他の無数の霊たち、とくにすぐれた高級霊たちはどこでどうしているのか、といった疑問は一般の人からも出ないし、指導する霊能者の方からの解説もありません。

 その点についてひと通りの理解をもった心霊家ならいいとして、何も知らない人が同じ番組を見たら、死後の世界というのは実に不気味で、陰気で、何の楽しみも面白味もない、まるで夜ばかりの世界のような印象を受けるのではないかと案じられます。日本のテレビや雑誌にみる心霊の世界はおしなべてそんな傾向があるようです。

 そこへ行くとスピリチュアリズムは実に明朗闊達、広大無辺、そして自由無礙。人生百般に応用ができて、しかも崇高な宗教心も涵養してくれます。

 しかしそれは心霊を正しく理解した人に言えることあって、実はそこに至るまでが大変なのです。その第一の、そして最大の障害となっているのが、スピリチュアリズムが一般の宗教に見るような御利益的信仰心の入る余地がないということではないかと察せられます。

 人間は誰れしも、理屈はどうでもいい、とにかく今直面している問題──病気、家庭問題、仕事の行きづまり等々を解決してくれればいい、と考えるものです。

 それ自体は決して悪いことでも恥ずべきことでもないのですが、ただそれが解決すればもうそれでおしまいということになると問題です。あるいは、その解決だけを目的としてどこかの宗教に入信する、あるいはどこかの霊能者におすがりする、というのは困りものです。それでは何の進歩もないからです。シルバー・バーチもこんなことを言っています。

 『私がもしも真理を求めて来られた方に気楽な人生を約束するような口を利くようなことがあったら、それは私が神界から言いつけられた使命に背いたことになりましょう。私どもの目的は人生の難問を避けて通る方法を伝授することではありません。

艱難に真っ向から立ち向かい、これを征服し、一段と強い人間に生長していく方法を伝授することこそ私どもの使命なのです。』


 さてシルバー・バーチは最終的に「説教」の手段を選びました。が、これは心霊現象の演出よりはるかに根気と自信のいる仕事です。なぜ困難な方を選んだのか。それをシルバー・バーチ自身に語ってもらいましょう。

 『自分自身の霊界生活での数多くの体験から、私はいわば大人の霊、つまり霊的に成人した人間の魂に訴えようと決意しました。真理をできるだけ解り易く説いてみよう。常に慈しみの心をもって人間に接し、決して腹を立てまい。そうすることによって私がなるほど神の使者であるということを身をもって証明しよう。そう決心したのです。

 同時に私は生前の姓名は絶対に明かさないという重荷を自ら背負いました。仰々しい名前や称号や地位や名声を棄て、説教の内容だけで勝負しようと決心したのです。

 結局私は無位無冠、神の使徒であるという以外の何ものでもないということです。私が誰であるかということが一体何の意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは、私のやっていることで判断していただきたい。私の言葉が、私の誠意が、そして私の判断が、暗闇に迷える人々の灯となり慰めとなったら、それだけで私はしあわせなのです。

 人間の宗教の歴史をふり返ってごらんなさい。謙虚であったはずの神の使徒を人間は次々と神仏の座にまつり上げ、偶像視し、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。私ども霊団の使命は、そうした過去の宗教的指導者に目を向けさせることではありません。

そうした人々が説いたはずの本当の真理、本当の知識、本当の叡智を改めて説くことです。それが本物でありさえすれば、私が偉い人であろうが卑しい乞食であろうが、そんなことはどうでもいいことではありませんか。

 私どもは決して真実からはずれたことは申しません。品位を汚すようなことも申しません。また人間の名誉を傷つけるようなことも申しません。私どもの願いは地上の人間に生きるよろこびを与え、地上生活の意義は何なのか、宇宙において人類はどの程度の位置を占めているのか、

その宇宙を支配する神とどのようなつながりをもっているか、そして又、人類同士がいかに強い家族関係によって結ばれているかを認識してもらいたいと、ひたすら願っているのです。

 といって、別に事新しいことを説こうというのではありません。すぐれた霊覚者が何千年もの昔から説いている古い古い真理なのです。それを人間がなおざりにして来たために私どもが改めてもう一度説き直す必要が生じてきたのです。要するに神という親の言いつけをよく守りなさいと言いに来たのです。

 人類は自分の誤った考えによって今まさに破滅の一歩手前まで来ております、やらなくてもいい戦争をやります。霊的真理を知れば殺し合いなどしないだろうと思うのですが・・・。神は地上に十分な恵みを用意しているのに飢えに苦しむ人が多すぎます。

新鮮な空気も吸えず、太陽の温かい光にも浴さず、人間の住むところとは思えない場所で、生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人が大勢います。欠乏の度合がひどすぎます。貧苦の度が過ぎます。そして悲劇が多すぎます。

 物質界全体を不満の暗雲が覆っています。その暗雲を払いのけ、温かい太陽の光の差す日が来るか来ぬかは、人間の自由意志一つにかかっているのです。

 一人の人間が他の一人の人間を救おうと努力するとき、その背後には数多くの霊が群がってこれを援助し、その気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善行の努力は絶対に無駄にはされません。奉仕の精神も決して無駄に終わることはありません。

誰れかが先頭に立って薮を切り開き、あとに続く者が少しでも楽に通れるようにしてやらねばなりません。やがてそこに道が出来あがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。

 高級神霊界の神々が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでおられる姿を時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが、人間の誤解と偏見とによって踏みにじられ、無駄に終わっていくのを見るからです。

そうかと思うと、うれしさに顔を思い切りほころばせているのを見かけることもあります。無名の平凡人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。

 私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志と共に、波長を物質界の波長に近づけて降りてまいりました。その目的は、神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることが出来ることを教えてあげたいと思ったからです。

 物質界に降りてくるのは、正直言って、あまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。たとえてみれば、弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもがだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。

従って当然、生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。

 私が定住している世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真の生きるよろこびがみなぎり、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、互いに己れの足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。

 それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せであるべき所に不幸があり、光があるべき所に暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。神は必要なものはすべて用意してあるのです。問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

 それを取り除いてくれと言われても、それは私どもには出来ないのです、私どもに出来るのは、物質に包まれたあなた方に神の摂理を教え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通じて運用されるかを教えてさしあげるだけです。ここにおられる方にはぜひ、霊的真理を知るとこんなに幸せになれるのだということを、身をもって示していただきたいのです。

 もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることが出来たら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上に降りて来た努力の一端が報われたことになりましょう。

私ども霊団は決してあなた方人間の果たすべき本来の義務を肩がわりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとするだけです。』


 この物質界は霊界から見てそんなにひどいところなのだろうか───右のシルバー・バーチの言葉を読まれた方の中にはそんな感慨を抱かれた方が少なくなかろうと思います。

 が、シルバー・バーチなどは霊言現象のせいで言葉に気をつけて表現しているほうで、一ばんひどいのになると「地球はまるでゴミ溜めのようなもの」と書いている霊もいます。

 ここで参考までに有名な霊界通信のマイヤースの「個人的存在の彼方」を開いてみますと、第一部の第一章から地上生活に対して厳しい観察を述べています。

その表現も「このケチくさいチャチな時代」となっているのですから、およその雰囲気は察せられると思いますが、この章は浅野和三郎訳では省略されておりますので、その中から部分的に抜粋して紹介してみましょう。

マイヤースは地上時代は古典学者であると同時に詩人でもありましたから、さすがに表現はおだやかですが、その意味するところは深長なものがあります。

 『健全なる精神と健全なる肉体───古代ギリシャ人が求めた理想、つまり美と力への憧憬を今こそ地球人類はわが理想、わが憧憬としなければならない。私は今、地球を言うなれば山の頂上から眺める立場にある。そこから見る地上は、将来に対する真の洞察、熱慮ある反省ももたぬ盲目同然の群集がただ右往左往するのみである。

 幼児期の思考と夢が既にその子の未来の原型を形成しているという。あたかも陶器が焼窯に入れられて固く仕上げられる以前に既に形が出来ているように、人間の未来も歴史的過去において既に変えがたい形体が造られ、それが〝現在〟という時を通りすぎ、〝永遠〟という名の神の時刻の中に記録されていくのである。

 それ故わたしは、今まさに幼児期にあってこれからの未来を形づくりつつある人類に対し、古代ギリシャ人が求めた夢と理想───心と身体の健全さ、美と力への憧憬を思い出してもらいたいのである。

 私は決して人類に咎め立てする気もなければ、いたずらに迷わせるつもりで言うのではないが、現代人は人間というものを機械から截然(セツゼン)と切り離し、人生を〝金銭〟から切離して考えるよう切望してやまない。

絶え間なく回転し、文化生活とやらの担い手である、あの怪物の如き機械のジャングルの中にあっては、健全なる知識を産み出す静思や瞑想の時も雰囲気も見出せない。いったんその現代の怪物───唯物主義という名の悪魔の最後の権化である機械───の虜になったが最期、いかに深刻な運命が人類を待ち受けているかは、正に知る者のみぞ知る、である。

 二千年あまり前、神の御子イエス・キリストは地上に降りて肉体をまとい、その生きざまによって天上の美をこの世にもたらした。この二十世紀においては唯物主義の申し子である〝機械〟が地上に降り、その教義が今まさに全世界を席巻しつつある、そしてそれを人類は熱心に、熱烈に信仰している。


 が、ここにもう一つの怪物がいる。大都会という名の怪物である。現代の都会は人間の集まりであるより、むしろ一つの機械の如き性格を帯びつつあり、このまま進めば、その機械が人間を振り回すことになりかねない。恐ろしいのは、その人間の集団が一つの集団心理に巻き込まれて、一気に戦争に突入することである。

がそういう極端な形はとらなくても、人口の増加とそれに伴って増えるであろう無能な人間、弱い人間、堕落した人間、そして精神病者等によって不幸が生まれ悲劇が広がる危険性が多分にある。大都会という名の唯物主義の申し子は、ただ盲目的に質よりも量を求める。ただ機械的に人口を増やし、その結果不幸をも増やす。

 私は機械なんかブチ壊してしまえと言っているのではない。機械の本質をよくわきまえてほしいと言っているのである。魂をもたぬ機械は、思考する動物である人間の下僕であるべきであって、断じて主人の座に据えられるべきではない。

言い変えれば人間の生活と心に深刻なまでに影響を及ぼしている機械の力を人間自身がコントロールしチェックできるようでなければならない。その上でならば、人類の霊的進化のために、具われる力を思い切り発揮し、肉体と五感のよろこびを健全に味わいつつ、近代文明がふんだんにもたらしてくれる洪水の如き機械製品の恩恵に浴すればよいのである。』


 この警告が第二次世界大戦前の一九三〇年代に出ていたという事実は、われわれ日本人にもいろいろと示唆を与えてくれます。警告どおり日本は、マイヤースの言葉を借りれば、「丘を駈け下りるように」戦争への道を突進し、そして敗戦を迎えました。

そして一時は目覚ましい復興ぶりを見せますが、今や機械化された現代社会、言いかえれば人間性を喪失した科学技術文明の悪弊に悩まされ始めていることは、心ある人なら先刻お気づきのことでしょう。

 これは日本に限ったことではありません。世界の先進国といわれている近代国家は例外なくそうした文明病に悩まされています。

 なぜでしょう。なぜ人間は間違った方向にばかりに走りたがるのでしょう。シルバー・バーチの霊言に耳を傾ける前に私は、そうした人間の愚かさを批判し警鐘を鳴らしつづけている数多くの良識ある知識人の一人である生化学者のセント・ジェルジ博士 Albert Szent-Gyorgyi の意見を紹介したいと思います。

博士はハンガリー生まれで現在はアメリカに在住していますが、ビタミンCの発見者として知られ、一九三七年にノーベル賞を受賞しています。

 もっとも博士は、受賞で得た〝生涯のんびり食べていけるほどのお金〟を、これは国民の税金だからということで、社会に還元する方向でいっぺんに使い果たしています。

この事実一つだけでも博士の物の考え方がほぼ察しがつくというものですが、私の手許にある著書は特にこれからの若い世代のために書いた The Crazy Ape (狂った猿)という小冊子です。その「まえがき」の中でこう述べています。

 『人類が今まさに歴史始まって以来の最大の危機に直面していること、つまり、このまま行けば人類全体がそう遠からぬ将来においていっぺんに滅亡することも十分にありうるという危険な時期にさしかかっていることに、ほぼ疑いの余地はない。

なぜこんなことになってしまったのか、どうすればその危機から脱することが出来るかについては、数えきれないほどの意見が説かれてきた。軍事的見地から、政治的立場から、社会的観点から、経済的角度から、科学技術的な面から、はたまた歴史的見地から、それなりの分析が為されてきた。

しかしながら、一つだけ大きく見落されている要素がある。それは、人間それ自身───生物学的存在としての人間そのものである。(中略)究極の問題は、はたして人類はおよそまともな人間のすることとは思えない、言わば狂った猿とでもいうべき振舞いをする現状を首尾よく切り抜けられるかということである。』

 そして続く第一章の冒頭でこう述べています。

 『人間はなぜ愚の骨頂ともいうべき振舞をするのか。それが私がこれから取り扱う問題である。ある意味では今日ほど人生をエンジョイできる時代は歴史上かつてなかった。寒さにふるえることもない。空腹を耐えしのぶということもない。病気でコロコロ死んでいくということもなくなった。

つまり生きていく上で最低限必要とされるものが全て充足されたのは現代がはじめてのことであろう。ところが同時に、自らこしらえた爆弾のたった一発で人類全部を絶滅し、あるいは環境汚染によってこの愛すべき母なる大地を住めない場所にしてしまう可能性をもつに至ったのも、歴史上はじめてのことである。』

 さらに次のような興味深い物の観方を提言して第一章をしめくくります。

 『もし人間が真に愚かであるとしたら、一体どうして地球上に発生してからの百万年という歳月を首尾よく生き抜いてこれたのであろうか。この問いに対しては二つの考え方ができるように思う。

一つは、人間は決してそんな愚かな存在ではない。むしろ地球という生活環境の方が人類が適応できないほどまでに変化してしまったのだという考えである。がもう一つ、こうも考えることが出来よう。すなわち人間は今も昔も少しも変わってはいない。人類というのは本来が自己破壊的なのだ。

ただこれまでは、一度に絶滅させるほど強力な武器を持つに至らなかっただけなのだというのである。確かに人間の歴史は無意味な殺し合いと破壊の連続であった。

それが人類絶滅という事態に至らしめなかったのは、殺人の道具が原始的で威力に欠けていたからというにすぎない。だからこそ、どんなに烈しい戦争でも多くの生存者がいたわけである。が現代の科学技術の発達で事情が一変してしまった。今や人類は集団自殺の道しかないのだ。

 この二つの考えのどちらが正しいにせよ、とにもかくにもこの危機を切り抜けて生き延びるためには、一体どこがどう間違ってこんな事態に至ったかを見極め、そこから抜け出る可能性もしくは良い方法があるのかどうかを早急に検討しなければならない。』

 翻訳権の問題がありますのであまり多くを紹介できないのが残念ですが、私があえてスピリチュアリズムに直接関係のない人の意見を紹介したのは、スピリチュアリズムに関係のない、あるいは心霊を知らない人で案外スピリチュアリズム的な透徹した物の考え方をしている人が幾らでもいることを痛感しているからです。

 論語読みの論語知らずという諺がありますが、心霊心霊とやたらに心霊を口にする人、あるいはその道の本まで書いている人がまるで心霊の真髄を理解していないことが多いのにはウンザリさせられます。私は主義として、心霊とかスピリチュアリズムということを口にすることは滅多にありません。

そうしたものは自分の人生観や物の考え方の中で消化醗酵させておけばいいのであって、それが無形のエネルギーとして生きる力となり、人間性や生活態度に反映していくのだと信じているからです。

 やはり人間の全てを決するのはその人の日常生活ではないでしょうか。シルバー・バーチもその点を繰り返し協調しています。

 『唯物主義者や無神論者は死後の世界でどんなことになるのかという質問をよく受けますが、宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を長いこと迷わせて来たようです。実際は必ずしもそうばかりとも言えないのです。

ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。祭壇の前にひれ伏し神への忠誠を誓い〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物主義者とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。

問題は何を信じるかではなくて、これまでどんなことをして来たかです。そうでないと神の公正(Justice)が根本から崩れます。』


 少しわき道にそれたようですが、ではシルバー・バーチは右のセント・ジェルジ博士の提起した問題にどう答えるか、それをみてみましょう。シルバー・バーチは語ります。

 『人間はなぜ戦争をするのか。それについてあなた方自身はどう思いますか。なぜ悲劇を繰り返すのか、その原因は何だと思いますか。なぜ人間世界に悲しみが絶えないのでしょうか。

 その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることが出来ないために、万物の背後に絶対的統一原理である〝神〟が宿っていることを理解できないからです。宇宙全体を唯一絶対の霊が支配しているということです。

ところが人間は何かにつけて〝差別〟をつけようとします。そこから混乱が生じ、不幸が生まれ、そして破壊へと向かうのです。

 前にも言ったとおり、私どもはあなた方が〝野蛮人〟と呼んでいるインデアンですが、あなた方文明人が忘れてしまったその絶対神の摂理を説くために戻ってまいりました。

あなた方文明人は物質界にしか通用しない組織の上に人生を築こうと努力してきました。言いかえれば、神の摂理から遠くはずれた文明を築かんがために教育し、修養し、努力してきたということです。

 人間世界が堕落してしまったのはそのためなのです。古い時代の文明が破滅したように、現代の物質文明は完全に破滅状態に陥っています。

その瓦礫を一つ一つ拾い上げて、束の間の繁栄でなく、永遠の神の摂理の上に今一度文明を築き直す、そのお手伝いをするために私どもは地上に戻ってまいりました。

それは、私どもスピリットと同様に、物質に包まれた人間にも〝神の愛〟という同じ血が流れているからに外なりません。

 こう言うと、こんなことをおっしゃる人物がいるかもしれません。“イヤ、それは大きなお世話だ。われわれ白人は有色人種の手を借りてまで世の中を良くしようとは思わない。白人は白人の手で何とかしよう。有色人種の手を借りるくらいなら不幸のままでいる方がまだましだ〟と。

 しかし、何とおっしゃろうと、霊界と地上とは互いにもたれ合って進歩して行くものなのです。地上の文明を見ていると、霊界の者にも為になることが多々あります。

私どもは霊界で学んだことをあなた方に教えてあげようと努力し、同時にあなた方の考えから成る程と思うことを吸収しようと努めます。その相互扶助の関係の中にこそ地上天国への道が見出されるのです。

  そのうち地上のすべての人種が差別なく混り合う日がまいりましょう。どの人種にもそれなりの使命があるからです。それぞれに貢献すべき役割を持っているからです。

霊眼をもって見れば、すべての人種がそれぞれの長所と、独自の文化と、独自の教養を持ち寄って調和のとれた生活を送るようになる日が、次第に近づきつつあるのが分かります。

 ここに集まられたあなた方と私、そして私に協力してくれているスピリットはみな、神の御心を地上に実現させるために遣わされた〝神の使徒〟なのです。私たちはよく誤解されます。

同志と思っていた者がいつしか敵の側にまわることがしばしばあります。しかしだからといって仕事の手をゆるめるわけにはいきません。神の目から見て一ばん正しいことを行っているが故に、地上にない霊界の強力なエネルギーのすべてを結集して、その遂行に当たります。

徐々にではあっても必ずや善が悪を滅ぼし、正義が不正を駆逐し、真が偽をあばいていきます。時には物質界の力にわれわれ霊界の力が圧倒され、あとずさりさせられることがあります。しかしそれも一時のことです。

 われわれはきっと目的を成就します。自ら犯した過ちから人間を救い出し、もっと高尚でもっと気の利いた生き方を教えてあげたい。お互いがお互いのために生きられるようにしてあげたい。

そうすることによって心と霊と頭脳が豊かになり、この世的な平和や幸福でなく、霊的なやすらぎと幸福とに浴することが出来るようにしてあげたいと願っているのです。

 それは大変な仕事ではあります。が、あなた方と私たちを結びつけ一致団結させている絆は神聖なるものです。どうか父なる神の力が一歩でも地上の子等に近づけるように、共に手を取り合って、神の摂理の前進を阻もうとする勢力を駆逐していこうではありませんか。

 こうして語っている私のささやかな言葉が少しでもあなた方にとって役に立つものであれば、その言葉は当然それを知らずにいる、あなた方以外の人々にも、私がこうして語っているように次々と語りつがれていくべきです。自分が得た真理を次の人へ伝えてあげる───それが真理を知った者の義務なのです。

 私とて、霊界生活で知り得た範囲の神の摂理を、英語という地上の言語に翻訳して語り伝えているに過ぎません。

それを耳にし、あるいは目にされた方の全てが、必ずしも私の解釈の仕方に得心がいくとはかぎらないでしょう。しかし忘れないでください。私はあなた方の世界とはまったく次元の異なる世界の人間です。英語という言語には限界があり、この霊媒にも限界があります。

ですから、もしも私の語った言葉が十分納得できない場合は、それはあなた方がまだその真理を理解する段階にまで至っていないか、それともその真理が地上の言語で表現し得る限界を超えた要素をもっているために、私の表現がその意味を十分に伝え切っていないかの、いずれかでありましょう。

 しかし私はいつでも真理を説く用意ができています。地上の人間がその本来の姿で生きていくには、神の摂理、霊的真理を理解する以外にないからです。盲目でいるよりは見える方がいいはずです。聞こえないよりは聞こえた方がいいはずです。居睡りをしているよりは目覚めていた方がいいはずです。

皆さんと共に、そういった居睡りをしている魂を目覚めさせ、神の摂理に耳を傾けさせてやるべく努力しようではありませんか。それが神と一体となった生活への唯一絶対の道だからです。

 そうなれば身も心も安らぎを覚えることでしょう。大宇宙のリズムと一体となり、不和も対立も消えてしまいましょう。それを境に、それまでとは全く違った新しい生活が始まります。

 知識はすべて大切です。これだけ知っておれば十分だ、などと考えてはいけません。私の方は知っていることを全部お教えしようと努力しているのですから、あなた方は吸収できるかぎり吸収するよう努めていただきたい。

こんなことを言うのは、決して私があなた方より偉いと思っているからではありません。知識の豊富さを自慢したいからでもありません。自分の知り得たことを他人に授けてあげることこそ私にとっての奉仕の道だと心得ているからにほかなりません。

 知識にも一つ一つ段階があります。その知識の階段を一つ一つ昇っていくのが進歩ということですから、もうこの辺でよかろうと、階段のどこかで腰を下ろしてしまってはいけません。人生を本当に理解する、つまり悟るためには、その一つ一つを理解し吸収していくほかに道はありません。

 このことは物質的なことにかぎりません。霊的なことについても同じことが言えるのです。というのは、あなた方は身体は物質界にあっても実質的には常に霊的世界で生活しているのです。

従って物的援助と同時に霊的援助すなわち霊的知識も欠かすことが出来ないのです。ここのところをよく認識していただきたい。あなた方も実際は霊的世界に生きている───物質はホンの束の間の映像にすぎないのだ───これが私たちのメッセージの根幹をなすものです。

 そのことにいち早く気づかれた方々がその真理に忠実な生活を送って下されば、私たちの仕事も一層やりやすくなります。スピリットの声に耳を傾け、心霊現象の中に霊的真理の一端を見出した人々が、小さな我欲を棄て、高尚な大義の為に己れを棄てて下されば、尚一層大きな成果を挙げることが出来ましょう。

 繰り返しますが、私は久しく忘れ去られてきた霊的真理を、今ようやく夜明けを迎えんとしている新しい時代の主流として改めて説くために遣わされた、高級霊団の通訳にすぎません。要するに私を単なる代弁者と考えて下さい。

地上に霊的真理を普及させようと努力している高級霊の声を、気持ちを、そして真理を、私が代弁していると考えて下さい。その霊団を小さく想像してはいけません。それはそれは大きな高級霊の集団が完全なる意志の統一のもとに、一致団結して事に当っているのです。

その霊団がちょうど私がこうして霊媒を使っているように私を使用して、霊的真理の普及に努めているのです。

 決して難解な真理を説こうとしているのではありません。いま地上人類に必要なのは神学のような大ゲサで難解で抽象的な哲学ではなく、いずこの宗教でも説かれている至って単純な真理、その昔、霊感を具えた教祖が説いた基本的な真理、すなわち人類は互いに兄弟であり、霊的本質において一体であるという真理を改めて説きに来たのです。

 すべての人種に同じ霊、同じ神の分霊が宿っているのです。同じ血が流れているのです。神は人類を一つの家族としておつくりになったのです。そこに差別を設けたのは人間自身であり、私どもがその過りを説きに戻ったということです。

 四海同胞、協調、奉仕、寛容───これが人生の基本理念であり、これを忘れた文明からは真の平和は生まれません。協力し合い、慈しみ合い、助け合うこと、持てる者が持たざる者に分けてあげること。こうした倫理は簡単ですが繰り返し繰り返し説かねばなりません。

個人にしろ、国家にしろ、人種にしろ、こうした基本的倫理を実生活で実践するときこそ、神の意図した通りの生活を送っているといえましょう。

 そこで私の使命は二つの側面をもつことになります。すなわち破邪と顕正です。まず長いあいだ人間の魂の首を締めつけてきた雑草を抜き取らねばなりません。

教会が、あるいは宗教が、神の名のもとに押しつけてきた、他愛もない、忌わしい、不敬きわまるドグマの類を一掃しなければなりません。なぜなら、それが人間が人間らしく生きることを妨げてきたからです。これが破邪です。

 もう一方の顕正は、誰にもわかり、美しくて筋の通った真実の訓えを説くことです。この破邪と顕正は常に手に手をとり合って進まねばなりますまい。それを神への冒涜であると息巻いたり尻込みしたりする御仁に係わりあっているヒマはありません。』

 シルバー・バーチの交霊会の全体のパターンは、最初に 「祈りの言葉」 があり、続いて右に紹介したような 「説教」 があり、そのあとに列席者との間の一問一答があり、そして最後にしめくくりの 「祈り」 があります。

 質問は個人的な内容のものから哲学的なものまで種々様々ですが、時にはすでに説教の中で述べたことと重複することもあります。が、シルバー・バーチは煩をいとわず懇切ていねいに説いて聞かせます。

 かつては週一回だった交霊会が晩年には月一回になったとはいえ、半世紀以上にわたる交霊会での応答は大変な量にのぼります。その中から各章に関連のあるものを選んで章の終りに紹介しようと思います。