The Spirit Teachings
ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)
霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。
ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)
霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。
序論
内容自動書記について 文体の特徴 通信霊について 通信が来る時の状況
霊媒による脚色の問題 霊媒が意志を行使できる限界
インペレーター霊の使命 著者モーゼスの意図
本書の大半を構成している通信は、自動書記(1)ないし受動書記(2)と呼ばれる方法によって得られたものである。これは直接書記(3)と区別されねばならない。前者においては霊能者がペンまたは鉛筆を手に握るか、あるいは、プランセントに手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれる。一方後者においては霊能者の手を使わず、時にはペンも鉛筆も使わずに、直接的にメッセージが書き記される。
自動書記というのは、われわれが漠然と“霊(スピリット)”と呼んでいる知的存在の住む目に見えない世界からの通信を受け取る手段として、広く知られている。読者の中には、そんな得体の知れない目に見えぬ存在――人類の遺物、かつての人間の殻のような存在――を霊と呼ぶのは勿体ないとおっしゃる方がいるであろうことはよく承知している。が、私は霊という用語が一番読者に馴染みやすいと思うからそう呼ぶまでで、今その用語の是非について深く立ち入るつもりはない。とにかく、私に通信を送って来た知的存在はみな自分たちのことを霊と呼んでいる。多分それは私のほうが彼らのことを霊と呼んでいるからであろう。そして少なくとも差し当たっての私の目的にとっては、彼らは“霊(スピリット)”でいいのである。
その霊たちからのメッセージが私の手によって書かれ始めたのはちょうど十年前の一八七三年三月三十日のことで、スピリチュアリズムとの出会いからほぼ一年後のことであった。もっとも、それ以前にも霊界からの通信は(ラップ(4)や霊言(5)によって)数多く受け取っていた。私がこの自動書記による受信方法を採用したのは、このほうが便利ということと同時に、霊訓の中心となるべく意図されているものを保存しておくためでもあった。ラップによる方法はいかにもまどろこしくて、本書のような内容の通信にはまったく不適当だった。一方、入神した霊媒の口を使ってしゃべると部分的に聞き落とすことがあり、さらに当初のころはまだ霊媒自身の考えが混じらないほど完全な受容性を当てにすることは不可能でもあった。
そこで私はポケットブックを一冊用意し、それをいつも持ち歩くことにした。すると私の霊的オーラがそのノートに染み込んで、筆記がより滑らかに出てくることが判った。それは、使い慣れたテーブルのほうがラップが出やすく、霊媒自身の部屋のほうが新しい部屋より現象が起きやすいのと同じ理屈である。スレートを使った通信(6)の専門霊媒であるヘンリー・スレードも、新しいスレートを使ってうまく行かない時は、使い古したものを使うとまず失敗がなかった。今このことにこれ以上言及しない。その必要がないほど理屈は明瞭だからである。
最初の頃は文字が小さく、しかも不規則だったので、ゆっくりと丁寧に書き、手の動きに注意しながら、書かれていく文章をあとから追いかけねばならなかった。そうしないとすぐに文意が通じなくなり、結局はただの落書きのようなものになってしまうのだった。
しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきた。文字はますます小さくなったが、同時に非常に規則的で字体もきれいになってきた。あたかも書き方の手本のような観のするページもあった。(各ページの最初に書いた)私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていた。神 God の文字はかならず大文字で、ゆっくりと、恭(うやうや)しげに綴られた。
通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図した私的(プライベート)な色彩を帯びていた。一八七三年に始まって八〇年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言説、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類いは、私の知るかぎり一片も見当たらなかった。知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわないものはおよそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つが誠実さと実直さと真剣さに満ちあふれていた。
初期の通信はさきに説明した通りの、きちんとした文字で書かれ、文体も一貫しており、署名(サイン)はいつもドクター・ザ・ティーチャー(7)だった。通信の内容も、それが書かれ続けた何年かの間ずっと変わらなかった。いつ書いても、どこで書いても筆跡に変化がなく、最後の十年間も、私自身のふだんの筆跡が変わっても、自動書記の筆跡はほとんど変わることがなかった。文章上のクセもずっと同じで、それは要するに通信全体を通じて一つの個性があったということである。その存在は私にとって立派な実在であり、一人の人物であり、大ざっぱな言い方をさせていただければ、私がふだんつき合っている普通の人間とまったく同じように、独自の特徴と個性を具えた存在であった。
そのうち別の通信が幾つか出はじめた。筆跡によっても、文体および表現の特徴によっても、それぞれの区別がついた。その特徴は、いったん定着すると等しく変わることがなかった。私はその筆跡をひと目見て誰からの通信であるかがすぐに判断できた。
そうしているうちに徐々に判ってきたことは、私の手を自分で操作できない霊が大勢いて、それらがレクター(8)と名のる霊に書いて貰っているということだった。レクターは確かに私の手を自在に使いこなし、私の身体への負担も少なかった。不慣れな霊が書くと、一貫性がない上に、私の体力の消耗が激しかった。そういう霊は自分が私のエネルギーを簡単に浪費していることに気づかず、それだけ私の疲労も大きかったわけである。
さらに、そうやって代書のような役になってしまったレクターが書いたものは流暢で読み易かったが、不慣れな霊が書いたものは読みづらい上に書体が古めかしく、しばしばいかにも書きづらそうに書くことがあり、ほとんど読めないことがあった。そういうことから、当然の結果としてレクターが代書することになった。しかし、新しい霊が現れたり、あるいは、特殊なメッセージを伝える必要が生じた時は本人が書いた。
断っておきたいのは、私を通じて得られた通信の全てが一つの源から出たものではないということである。本書に紹介した通信にかぎって言えば、同じ源から出たものばかりである。すなわち、本書はインペレーター(9)と名のる霊が私と係わり合った期間中の通信の記録である。もっともインペレーター自身は直接書くことをせず、レクターが代書している。その他の期間、とくにインペレーターとの関係が終わったあとは明らかに別の霊団から通信があり、彼らは彼らなりの書記を用意した。その通信は、その霊団との係わりが終わる最後の五年間はとくに多くなっていった。
通信の書かれた環境はそのときどきでみな異なる。原則としては、私は一人きりになる必要があり、心が受身的になるほど通信も出やすかったが、結果的にはいかなる条件下でも受け取ることができた。最初の頃は努力を要したが、そのうち霊側が機械的に操作する要領を身につけたようで、そうなってからは本書に紹介するような内容の通信が次から次へと書かれていった。本書はその見本のようなものである。
本書に紹介したものは、初めて雑誌に発表した時と同じ方法で校正が施してある。最初は心霊誌『Spiritualist』に連載され、その時は筆記した霊側が校正した。もっとも内容の本質が変えられたところはない。その連載が始まった時の私の頭には、今こうして行なっている書物としての発行のことはまったく無かった。が、多くの友人からサンプルの出版をせがまれて、私はその選択に取りかかった。が、脈絡のことは考えなかった。その時の私を支配していた考えは、私個人の私的(パーソナル)な興味しかないものだけは絶対に避けようということだけで、それは当然まだ在世中の人物に言及したものも避けることにもつながった。私個人に係わることを避けたのは、ただそうしたいという気持からで、一方、他人に言及したものを避けたのは、私にそのような権利はないと考えたからである。結果的には私にとって或る意味で最も衝撃的で感動的な通信を割愛することになってしまった。本書に発表されたものは、そうした、今は陽(ひ)の目を見ることができないが、いずれ遠い将来、その公表によって私を含めて誰一人迷惑をこうむる人のいなくなった時に公表を再考すべき厖大な量の通信の、ほんの見本にすぎないと考えていただきたい。
通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なほどの配慮をしたつもりである。最初の頃は筆致がゆるやかで、書かれて行く文をあとから確かめるように読んでいかねばならなかったほどであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも、間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていった。
こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体で綴られているのである。
だからといって、私は決して私自身の精神が使用されていないと言うつもりはないし、得られた通信が、それが通過した私という霊媒の知的資質によって形体上の影響を受けていないと言うつもりもない。私の知るかぎり、こうした通信にはどこか霊媒の特徴が見られるのが常である。影響がまったく無いということはまず考えられない。しかし、確実に言えることは、私に送られて来た通信の大部分は私の頭の中にあることとはおよそ縁のないものばかりであり、私の宗教上の信念ともその概念上において対立しており、さらに私のまったく知らないことで、明確で確実で証明可能な、しかもキメの細かい情報がもたらされたことも幾度かあったということである。テーブルラップによって多くの霊が自分の身許についての通信を送ってきて、それを後にわれわれが確認したりしたのと同じ要領で、私の自動書記によってそうした情報が繰り返し送られて来たのである。
私はその通信の一つ一つについて議論の形式で対処している。そうすることで、ある通信は私に縁もゆかりもない内容であることが明確に証明され、またある通信では私の考えとまったく異なる考えを述べる別個の知的存在と交信していることを確信することができるわけである。実際、本書に集録した通信の多くはその本質をつきつめれば、多分、まったく同じ結論に帰するであろう。
通信はいつも不意に来た。私の方から通信を要求して始まったことは一度もない。要求して得られることはまずなかった。突如として一種の衝動を覚える。どういう具合にかは私自身にも判らない。とにかくその衝動で私は机に向かって書く用意をする。一連の通信が規則正しく続いている時は一日の最初の時間をそれに当てた。私は起きるのが早い。そして起きるとまず私なりの朝の礼拝をする。衝動はしばしばその時に来た。といってそれを当てにしていても来ないことがあった。自動書記以外の現象もよく起きた。健康を損ねた時(後半よく損ねたが)を除き、いよいよ通信が完全に途絶えるまで、何の現象も起きないということは滅多になかった。
さて、厖大な量の通信の中でもインペレーターと名のる霊からの通信が私の人生における特殊な一時期を画している。本書の解説の中で私は、そのインペレーターの通信を受け取った時の魂の高揚、激しい葛藤、求めても滅多に得られなかった心の安らぎに包まれた時期について言及しておいた。それは私が体験した霊的発達のための教育期間だったわけで、結果的には私にとって一種の霊的新生となった。その期間に体験したことは他人には伝えようにも伝えられる性質のものではない。また伝えたいとも思わない。しかし内的自我における聖霊の働きかけを体験したことのある方々には、インペレーターという独立した霊が私を霊的に再教育しようとしたその厚意ある働きかけの問題は、それでもう十分解決されたと信じていただけると思う。表面的にはあれこれと突拍子もないことを考えながらも、また現に問い質すべきいわれは幾らでもあるにもかかわらず、私はそれ以来インペレーターという霊の存在を真剣に疑ったことはただの一度もない。
この序論は、私としてはまったく不本意な自伝風のものとなってしまった。私に許される唯一の弁明は、一人の人間の霊体験の物語は他の人々にとっても有益なものであることを確信でき序論る根拠が私にある、ということだけである。これから披露することを理解していただくためには、不本意ながら、私自身について語る必要があったのである。私は、その必要性を残念に思いながらも、せめて本書に記載したことが霊的体験の一つの典型として心の琴線に触れる人には有益であると確信した上で、その必要性におとなしく従うことにした。真理の光を求めて二人の人間がまったく同じ方法で努力することはまずないであろう。しかし、私は人間各自の必要性や困難には家族的とも言うべき類似性があると信じている。ある人にとっては私のとった方法によって学ぶことが役に立つ日が来るかも知れない。現にこれまでもそうした方がおられたのである。私はそれを有難いと思っている。
こうしたこと、つまり通信の内容と私自身にとっての意義の問題以外にも、自動書記による通信の形式上の問題もあるが、これは極めて些細な問題である。通信の価値を決定づけるのはその通信が主張する内容そのもの、通信の目的、それ本来の本質的真理である。その真理が真理として受け入れられない人は多いであろう。そういう人にとっては本書は無意味ということになる。また単なる好奇心の対象でしかない人もいるであろう。愚か者のたわごととしか思えぬ人もいるであろう。私は決して万人に受け入れて貰えることを期待して公表するのではない。その人なりの意義を見出される人のために本書が少しでも役立てば、それで私は満足である。
ステイントン・モーゼス
一八八三年三月
1節
本節の内容新しい霊的真理普及の時代
これを阻止せんとする勢力の存在
神の啓示
その進歩的連続性
人間による歪曲
破邪と顕正
背後霊とは
地上に戻ってくる霊
邪霊集団とその働き
悪とは
地上時代の性格の存続
個性の発達
死後その霊性に相応しい境涯に落着く
悪魔
〔世界の歴史においても特異な意味をもつこの時期とその特徴について述べたあと、さらにこう綴った――〕
今まさに新しき真理の普及のために特別の努力が為されつつある。神の使徒による働きかけである。それが敵対者の大軍による曾てなき抵抗に遭遇している。世界の歴史は常に善と悪との闘争の物語であった。片や神と善、片や無知と悪徳と邪悪――霊的邪悪、精神的邪悪、そして物的邪悪である。そこで、時として――今がまさにその時期の一つであるが――尋常ならぬ努力が払われることがある。神の使徒が一段と勢力を強めて集結し、人間を動かし、知識を広める。目的達成の時も間近い。恐るべきは真理からの逃亡者であり生半可者であり、日和見(ひよりみ)主義者である。かくの如き人種に惑わされてはならぬ。が、神の真理ゆえに迷うことがあってもならぬ。
――解ります。しかし何をもって神の真理とするか、その判断に迷う者はどうすればよいのでしょう。真剣に求めながらなお見出せぬ者が多いのです。
切に求める者にして最後に見出せぬ者はおらぬ。その道のりの長く久しき者もあろう。さよう、地上を去り、高き界へ到りてようやく見出す者もあるやも知れぬ。神は全ての者を試される。そして相応(ふさわ)しき者にのみ真理を授けられる。一歩進むにもそれ相当の備えが為されねばならぬ。それが進歩の鉄則である。適性ありての前進である。忍耐の必要なる所以である。
――それは解るのですが、内部の意見の衝突、証拠を納得して貰えないこと、偏見、その他もろもろの要因から来る障害はどうしようもないように思えます。
そなたにそう思えるというにすぎぬ。一体何故に神の仕事に抵抗せんとするのか。もろもろの障害!? われらが過去において遭遇せる障害に比べれば、そなたたちの障害など物の数でないことをそなたは知らぬ。かのローマ帝政の末期――放蕩と肉欲と卑俗と悪徳とに浸り切った地域から聖なるものすべてが恐れをなして逃げ去った、あの暗黒の時代にもしそなたが生を享けておれば、悪が結束した時の恐ろしさを思い知らされたことであろう。その非情さは絶望のそれであり、その陰気さは墓場のそれであった。肉欲、ただ肉欲のみであった。天使はその光景を正視できずに逃げ去り、その喘ぎを和らげてやることなど到底及びもつかなかった。実に、あるのはただ不信のみ。否、それよりさらに悪かった。世をあげてわれらを侮蔑し、われらの行為を貶(さげす)み、すべての徳をあざ笑い、神を愚弄し、永遠の生命をののしり、ただ食べて飲んだりの放蕩三昧の日を送るのみであった。まさしく堕落しきった動物同然の生活であった。さほどの悪の巣窟さえ神とその使者は見事に掃き清められしものを、ああ、そなたはわずかな障害を前にして、これを“どうしようもない”と嘆くとは!
〔このあとも、地上人類のための計画が人間みずからの無知と強情ゆえに何度も挫折してきた経緯が述べられた。そこで私はこのたびも失敗に終わりそうなのかと尋ねた。〕
神はそなたの想像以上に働きかけを強めておられる。地上の各地に神の真理普及のための拠点ができ、魂の渇きを潤し知性を納得せしめる真理がふんだんに地上に注がれている。むろん中には古き訓えのみにて足れりとし、新たなる真理を受け入れようとせぬ者もあろう。われらはそうした人種を構うつもりはない。それはそれでよい。が、古き啓示を十分に学び尽くし、さらに深き真理を渇望している者が大勢いる。そうした者に神はそれなりの手段をもって啓示を授けられる。それが彼らを通じて縁ある人々へと波及し、やがて山上の垂訓の如く、われらが公然と全人類へ向けての啓示を垂れる日も到来しよう。見よ! 神の隠密は地上の低き階層にて研鑽を重ね、その知識と体験をもって真理を唱道する。その隠れたる小さき泉がやがて多くの流れを集めて大河を成す。測り知れぬエネルギーを宿すその真理の大河は激流となって地上に溢れ、その時は、今そなたを悩ませる無知も不信も、愚かなる思想も罪も一気に押し流してしまうことであろう。
――その“新しき啓示”ですが、それは“古き啓示”と矛盾していませんか。その点で二の足を踏む者が多いのですが。
啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾するということは有り得ぬ。ただし、その真理は常に時代の要請と、その時代の人間の受け入れ能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに映ずるのは真理そのものではなく、人間の心に原因がある。人間は単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。時の経過と共にいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなってしまう。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなり果てる。やがてまた新しき啓示が与えられる。が、その時はもはやそれをそのまま当てはめる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り崩さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾はない。が、矛盾する如く思わせる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を顕さねばならぬ。人間は己に宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達した人間は無知なる者や、偏見に固められた人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。神は決して真理の押し売りはせぬ。この度のわれらによる啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊なる啓示と思えばよい。これまでも常にそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者を見るがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押しつけはせぬ。用意のある者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者は拒絶する。それでよいのである。そなたの嘆く意見の衝突も相違も単なる正邪の選り分けの現れにすぎぬ。しかも取るに足らぬ原因から起こり、邪霊によって煽られている。結束せる悪の勢力の働きかけも予期せねばならぬ。が、足もとにのみ捉われてはならぬ。常に未来に目を向け、勇気を失わぬことである。
――背後霊(1)のことですが、どういう具合にして選ばれるのでしょうか。
背後霊は必ずしも指導する目的のみで付くのではない。そういう場合が一番多いのではあるが、時には背後霊自身にとっての必要性から付くこともある。が、その場合でも人間を教え導くという傾向は自然に出てくる。また時には特殊な使命を帯びた霊が付くこともある。性格に欠けたものがあって、それを補ってやるために、その欠けたものを豊富に有する霊が選ばれることもある。反対に霊の側に欠けたものがあり、それを身につけるために適当なる人間を選ぶという場合もある。これは高級なる霊が好む手段である。己の霊的向上のために、敢えて指導が困難で不愉快な思いをさせられる人間に付くことを自ら希望する霊もいる。その人間と苦労を共にしつつ向上していくのである。中には霊的親和力によって結ばれる場合もある。地上的縁の名残りで結ばれることもある。何ら特殊な使命を帯びていない人間の背後霊は、魂が向上するに従い背後霊が入れ替わることがしばしばある。
――そうやって地上に戻ってくる霊はどの程度の霊ですか。
主として地球に最も近き下層の三界(2)の者たちである。地上の人間との連絡が取り易いからである。高級霊の場合はそなたたちの言う霊媒的素質に似たものをもつ者に限られる。このことについては余り多くは語れぬ。われらの通信を正しく伝え得る霊媒を見出すことは至難のわざであるということ以上は今は語れぬ。通信を望む霊は実に多い。が、適切な霊媒が見当たらぬことと、それを求めてあたら無駄な時を費すのを嫌う故に、彼らは地上との接触を断念する。ここにも霊界通信の内容に矛盾の生じる要因がある。そなたたちが時おり発見する間違いは必ずしもわれらの側の落度とは限らぬ。そのうち、通信に影響を及ぼす事情につきてさらに多くを語る時期も来よう。
――神に敵対する霊のことを述べられましたが、それはどういう霊ですか。
われらの使命を阻止せんとする邪霊のことである。彼らはいかにもわれらと同じ勢力、同じ仕事仲間であるかに装いつつわざとしくじり、人間及び霊にわれらへの反抗心を煽るのである。悲しい哉、彼らは善性を求める心を魂の奥へ押し込め、邪悪の道に快感を求め、一段と悪の要素の強烈なる霊を首領として集結し、われらに憎悪を抱き、仕事を邪魔せんとする。彼らは悪戯(いたずら)に長(た)け、ある時は人間の悪感情を煽り、ある時はわれらと同じ仕事仲間であるかの如く装いつつわざとヘマをやっては、半信半疑の真面目の徒を迷わせ、就中(なかんずく)、崇高にして高雅なるものを授けんとするわれらの努力の裏をかき、真摯なる学徒に下劣にして卑俗なるものを与えんと企(たくら)む。神の敵であり、人間の敵と言うべきである。善の敵であり悪の使者である。彼らに対してわれらは飽くなき闘いを挑むものである。
――そうした悪の組織の存在は聞くだに恐ろしいことですが、一方には悪の存在を否定し、全ては善であり、悪に見えるものも善が悪を装っているに過ぎないと説く人がいますが。
ああ、哀れなる哉! 哀れなる哉! 善に背を向け、悪への道を選びし霊たちほど哀れなるものはない。そなたはその邪霊たちが群れをなしてわれらの使命を阻止せんとすることが驚異だと言うが、それなどまだまだ驚くには当たらぬ。実状はそれどころではない。人間は霊界へ来たからとて、地上時代といささかも変わるものではない。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪をそのまま携えて来るのである。変わるのは肉体を棄てたということのみである。低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたとてその本性が変わるものではない。それは、誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死と共に俗悪なる魂に一変することが有り得ぬのと同じである。そなたたちがその事実を知らぬことこそ、われらにとって驚異と言うべきである。考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂がそなたたちの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。然るにそなたたちは、神を憎み善に背を向け肉欲に溺れし罪深き魂も、懴悔一つにて清められ天国に召されると説く。前者が有り得ぬ如く後者も絶対に有り得ぬ。魂の成長は一日一日、一刻一刻の歩みによって築かれるのである。すぐに剥(は)げ落ちる上塗りではない。魂の本性に織り込まれ、切り離そうにも切り離せぬ一部となりきること――それが向上であり成長である。そうして築かれたる本性がもしも崩れるとすれば、それは長き年月にわたる誤れる生活によりて徐々に朽ちるのであり、織物を乱暴に切り裂くが如くに一夜にして崩れることはない。ない、ない、断じてない! 習い性となり、魂に深く染み込みて個性の一部となりきるのである。肉体の煩悩に負け続けた魂はやがてその奴隷となる。そうなったが最期、純なるもの聖なるものを嫌い、死後もかつての地上の遊び場に赴いて肉の快楽に耽る。魂の本性となり切っているが故である。これでそなたも納得がいくであろう。悪の軍団とはかくの如き未発達、未熟なる霊のことであり、それが聖なるもの善なるものへの反抗心によって結束する。彼らに残されたる更生の道はただ一つ。高級なる霊の教唆によりて道義心に目覚め、懴悔のうちに一つ一つ過去の罪を償いつつ、歪める心を正し、苦しみの中に一歩一歩向上することのみである。かくの如き低級霊は実に多い。それらが全てわれらの敵なのである。善に対抗し真理の普及を妨げんとする悪の組織の存在を否定する言説こそ、そなたらを迷わせんとする彼らの策謀であることを心すべきである。
――その首謀者と言うべきいわゆる“悪魔”がいるのでしょうか。
彼らを煽動する首領は多い。が、キリスト教神学の説くが如き“悪魔”は存在せぬ。善良なる霊も、邪悪なる霊も、全て善悪を超越せる宇宙神の支配下にある。
〔注〕
(1)
地上に生をうけた霊(人間)の使命達成と罪障消滅を目的として陰から守護・指導・援助する霊を指す総合的な用語。本人の魂の親である守護霊(ガーディアン)(類魂の一人)を中心として複数の指導霊(ガイド)と支配霊(コントロール)が含まれる。その意図は本文の説明どおり各自まちまちであるが、守護霊の許しを得て、その監督のもとに働いている点においては同じである。
(2)
インペレーターによると、宇宙は大きく三階層に分かれており、各階層が更に七界ずつに分かれている。地球は最下層の階層の最上界に属するという。三節参照。
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