Friday, June 13, 2025

シアトルの初夏 十二章 落ち穂集

 


シルバー・バーチの霊訓(十二) 
煌く名言を集めて 総集編 近藤千雄訳編 



(1)私たちの霊団は悪魔の使いではありません。皆さんを混乱の袋小路に誘い込もうとしているのではありません。理解と自信と安らぎと幸せを生み出してくれる単純な霊的真理をお教えしようとしているだけです。言いかえれば、少しでも神に近づけてくれる摂理を啓示してあげようとしているのです。それが私たちの使命なのです。


(2)皆さんも神の僕です。皆さんの労苦を通して大霊の御心が地上に行きわたるのです。その労苦の中に大きな喜びがあることを知ってください。なぜなら、多くの人々の生活の中にかつては思いも寄らなかった新たな希望をもたらしてあげているからです。

皆さんは霊の力が地上へ降下するお手伝いをなさっているのであり、それは神の摂理が正しく地上で作用するお手伝いをしていることにほかなりません。それが物的世界の苦しみや悲しみを取り除くことにもなるのです。


(3)人間はなぜ光明よりも暗闇を好むのでしょうか。なぜ知識よりも無知を好むのでしょうか。なぜ叡智よりも迷信を好むのでしょうか。なぜ霊の生きた真理よりも形骸化した教義の方を好むのでしょうか。なぜ霊的叡智の泉よりもホコリだらけの神学の方を好むのでしょうか。


(4)地上の人間は流血によって問題が解決されるかに考えますが、これまでの歴史でそのような方法で問題が解決した例(タメシ)はありません。流血は無益であり、結局は徒労に終わります。

なぜ人類はせっかく神から授かっている理性が使えないのでしょうか。なぜできるだけ多くの敵を殺すのが唯一の解決策だと考えるのでしょうか。敵を一番多く殺した者が英雄とされる───地上というところは不思議な世界です。


(5)古い価値基準が棄て去られ、すべての権威が疑義を差しはさまれて影響力を失墜しつつあるこの混乱の時にあって、私たちは絶対に威力を失うことも誤ることもない〝摂理〟という形での神の概念を説きます。それこそ宇宙の絶対的権威者なのです。物質の世界の人間がその摂理に従って生きるようになれば、平和と秩序が再び支配します。


(6)地上の人々、なかんずく霊的知識を手にされた方たちが、せめて一度でも、物的五感を超えて、すぐ身のまわりにある霊的実在を認識してくれれば、という私の願いは切なるものがあります。


(7)悩みの種が尽きることはありません。だからこそ地上に来ているのです。すなわち問題を一つ一つ片付けていく中で、新たな力、より大きな発展を獲得していくのです。次から次へと生じる問題を挑戦課題として受け止め、一つ一つ処理していくことです。


(8)私はすでに多くの方が直感的に、あるいは理性的・論理的に理解しておられる単純な真理を改めて説いているに過ぎません。その真理の仕入れ先は霊界です。しかもその上層界です。そこではすべての人が実在を目のあたりにします。

原因と結果とが即座に働き、他への思いやりの多い人が少ない人より偉い人とされ、地上時代の見栄や肩書はすべてはぎ取られ、魂がまる裸にされて、長所も短所も衆目にさらされてしまいます。そういう世界で学んだことをお届けしているのです。


(9)いかなる聖職者も魔法の力は持ち合わせません。水を他の何物にも変えることはできません。司祭が赤子の顔に水を二、三滴たらしたからといって、それでその子の地上生活に、あるいは死後の生活に、いささかも変化は生じません。

その二、三滴の水は、垂らす前も、垂らした後も、相変わらずただの水にすぎません。その水の科学的成分を変え法則と違ったことを生じさせる力は、司祭にはありません。

  
(10)治療家が苦痛を取り除いてあげることが許されるのは、それが霊的自我の目覚めへつながるからこそです。病気を治してあげることが立派な仕事であることは違いないのですが、治療家にはそれよりもっと大切な仕事があります。

その病気が縁で訪れてくる人の魂を目覚めさせ、真の自我を発見させてあげることです。それに比べれば、症状が取れるというだけの治療は大して重要ではありません。


(11)大切なことは魂に感動を覚えさせてあげることです。人間は大ていの場合、大霊から授かっている神性の炎が小さく弱くなっております。それを大きく燃え上がらせてあげるのです。その体験の中から新たな悟りが生まれます。

そういう体験をさせてあげるために特別製の聖衣がいるわけではありません。特殊な養成所に通う必要もありません。ひたすらに人の幸せを願い、少しでも霊的資質を発揮する生活を心掛け、いつでも霊力の通路として使用してもらえる態勢を整えておけば、それでよいのです。


(12)人生で最も貴重なものは入手が最も困難なものです。困難でなかったら貴重とは言えません。もしも霊の褒章が安易に手に入るものであれば価値はないことになります。ですから、困難を歓迎するのです。しり込みしてはなりません。それを逆手にとって支配下に治め、それを克服していく努力の中で、あなたの未開発の能力が引き出されるのです。


(13)時には思い切り涙を流すことも大切です。感情を発散させることになり、すっきりとして気分が和らぎます。意地を張って感情を押し込めたままにしておくよりも、涙とともにその感情を流し出した方がよいことがあるものです。


(14)私は地上に大勢の友をこしらえることが出来て、とても幸せ者であると思っております。私はただ、私に送られてきた基本的な真理を英語という地上の言葉にくるんでお届けしているだけです。受け入れる用意のできた人が受け取ってくだされば、それでよいのです。


(15)真理を知らずに間違ったことをしているのであれば、まだ弁護の余地はありますが、聖職者としての義務を知っていながら自分の栄達の方を優先させている者は一体どう弁解するつもりでしょう。


(16)私たち霊団の者は地上的環境というままならぬ条件のもとで精一杯努力しております。そこで、皆さん方に要求するのは〝協力〟の二文字だけです。私たちが提供するのも〝協力〟です。命令的な指示はしたくありません。強制しようとは思いません。

人のために役立ち自我の開発にも役立つことをするには人間はどうすればよいかをお教えすることによって、皆さんの愛と理性に発する協力を獲得したいのです。


(17)皆さんはキリスト教の聖職者にも、ユダヤ教の聖職者にも、世界のいかなる宗教の指導者にもできないことがお出来になります。神は聖なる職にある人だからということで霊力をお授けになるのではありません。霊力を授かるにふさわしい資格を具えた人にお授けになるのです。


(18)人生のどこかの段階で神は子等に真の自我の発見とその存在意義に目覚めるための機会を提供します。そのための前提条件として、魂の琴線に触れる体験が必要です。


(19)魂が感動を覚えないうちは、霊力は働きません。ですから、たとえば病気そのものは治っても、その体験によって魂が何らかの感動を覚えるまでに至らなかったら、その治療は本来の目的を成就出来なかったことになります。


(20)私たちがこうして地上へ戻ってきた目的は、物的現象のウラには霊的実在があることを披露することによって、人間が幻影を追い求めることを止め、この千変万化の地上生活の複雑な諸相を律している基本的な真理を学んでくださるように導くことです。


(21)あなたは人間です。過ちを犯します。判断を誤り、しくじることがあります。人間性は頑強に出来上っていない故に、人間は常に弱みを背負って生きています。人間が人間であることの証は、欠点を持っているということです。だからこそ今あなたは地上へ来ているのです。


(22)完全性など、とても地上で成就できるものではありません。ですが、いずれお出でになるこちらの世界のための霊的な準備となる教訓を学ぶことはできます。


(23)人生は両極性から成っています。作用と反作用、同等と正反対といった具合ですが、それは同じ硬貨(コイン)の両面です。ですから憎しみが愛に変わることがあると同時に、不幸にして愛が憎しみに変わることもあるわけです。両者は同じ力なのです。問題はその力をどう働かせるかです。


(24)このサークルに来られる方に強調しておきたいのは、この私という存在は進化の頂点を極めた、したがって誤りを犯すこともなくなった、完全な霊の教師ではないということです。そんなものはこの世には存在しません。向上すればするほど、まだその先に向上すべき余地があることに気づくことの連続なのです。


(25)私が説く真理の最大の価値は、それが宇宙の叡智の宝庫から取り出した崇高なものであるということです。といって私は、それを無理にでも信ぜよとは申しません。私のいう通りにしなさいとは申しません。また、これ以外に神すなわち宇宙の大霊へ近づく道はないなどと豪語するつもりもありません。


(26)私に断言できること、絶対の自信を持って申し上げられることは、霊的な真理も人間の理性と知性と体験によるいかなるテストにも耐えうるものだということです。と言って、仮にあなたが〝こんなものは受け入れるわけにはいかない〟と拒否なさっても、別にバチは当たりませんから心配はご無用です。


(27)取り越し苦労はいけません。心配は無知から生まれます。真理を知って〝知識の光〟の中で生きなさい。


(28)イースターは全生命の復活を祝う時です。それは太陽系の全天体が一丸となって、地上世界が悲劇と苦痛と災厄から復活して、より意義ある人生、真実の生き方に目覚めるようにと祈る、その祈りのシンボルなのです。



(29)地上世界には霊的新生が大いに必要です。しかし今や大霊の造化の目的のために自分を役立てたいと願う者が増え、物欲による横暴が駆逐されるにつれて、大霊の意志が除々にではありますが行きわたりつつあります。


(30)私はこのイースターの時期になると、他の大勢の同志とともに本来の所属界へと舞い戻り、物的条件によって制約された人間の理解力では到底理解できない霊的生命の喜びをしばし満喫し、敬愛する指導者に拝謁し、その崇高なる叡智に触れ、その強烈なる霊力を頂き、畏(カシコ)き神々の集える審議会への出席を許され、

そこで計画がどこまで進捗したか、どこがうまく行っていないかについてのご指導にあずかり、絶え間なく続く善と悪との闘いのために案出された次のご計画を仰ぎます。


(31)出来ることなら皆さんをご一緒にお連れして、地上のために働いている霊団の面々をご覧いただいて、その光輝の素晴らしさをお見せすると同時に、その光輝を発している畏れ多き神霊がかつて地上では何という名前で呼ばれていたかをお教えしたい気持ちです。しかし、その前に皆さんは、あまりの崇高さに尻込みなさることでしょう。

地上時代の名前はすっかり意味を失っております。それよりも、現実にそうして地上のために活動しておられるその影響力の方が大切です。そうした方々によって催される大審議会の模様を一度でもお目に掛けることが出来たらと思うのですが・・・・・・


(32)暗黒の勢力と既得権にあぐらをかいている宗教界との戦いのほかに、もう一つ、人間の〝心配の念〟という敵との戦いもあります。無知から生じる無用の心配の念が無数の人間の心に巣くっております。心配というのは想像の世界にしか存在しないものです。実在しないということです。

それで私は心配の念を棄てなさいと繰り返し申し上げるのです。解決できない問題というのは絶対に生じません。重すぎて背負えない程の荷は与えられません。常に明るく確信に満ちた雰囲気の中で生活していれば、必ずや援助し導いてくれる勢力を呼び寄せます。


(33)洗礼の儀式は少しも魂を聖めることにはなりません。地上生活にあって少しでも完全に近づくように、日常生活の中で内なる神すなわち霊性を一つでも多く発揮するように努力することから、本当の聖らかさが生まれるのです。


(34) 科学の発達によって精巧な機器が発明され、それによって宇宙の新しい側面が次々と明らかにされるようになりましたが、それは決して新しいものを生み出したわけではありません。無窮の過去から働き続けてきた法則の存在を今になってやっと知ったというに過ぎません。


(35)まったく新しいものが創造されるということはありません。何が生まれても、それはすでに存在していたものの一部分に過ぎません。大自然の法則と一致しないものが発生することは絶対にありません。法則はすべてを包摂しているからです。人間がその存在に気づくか気づかないかの問題です。


(36)クリスチャンがイエスの本当の生きざまを見習いはじめた時、歴史に画期的な新時代が始まったことになります。が、今のところはまだ始まったとは言えません。私の目にはその兆しが見えないのです。イエスの名を口にするだけではイエスに忠誠を尽くすことにはなりません。

その生き方を見習わないといけません。それができないでいてこの私に〝クリスチャン〟という言葉を用いないでください。イエスも言っているではありませんか───〝私に向かって主よ主よと言ってくれる者すべてが天国へ召されるわけではない。天なる父の御意志(ミココロ)を実行する者こそが召されるのである〟と。


(37)すべての存在に神の息吹が掛かっております。だからこそ物質界の最下等の生命体も全知全能の神とつながっており、地上で最高の聖人・君子ともつながっていると言えるのです。同じ意味で極悪非道の犯罪人と高潔な聖人とは兄弟なのです。どちらにも同じ神の息吹が宿されているのです。


(38)霊能養成のために費やす時間が無駄に終わることは決してありません。何の反応もなくて焦れったい思いをなさる気持ちは私にもよく分かります。が、そうした状態のもとで着実に進歩していることを知っていただきたいのです。背後霊との絆が強化され、霊的感覚が鋭敏さを増しております。成長と開発と進化が一刻の休みもなく続いております。


(39)知識を求める人にはちゃんとその人なりのものが用意されているものです。ですが、皆さん方のように真理普及の第一線に立つ者は、自ら冒険を求める勇気がなくてはいけません。時には予想もしなかった危険にさらされることも覚悟しなくてはいけません。

未踏の奥地にまで踏み込む用意も必要です。しかも、真理に導かれる所ならどこへでも付いて行き、間違いであることが分かったものは、たとえ古くから大切にされている教えであっても、即座に棄て去るだけの心の準備ができていなくてはなりません。


(40)患者に手を当てがうということは、言ってみればオモチャで遊ぶ程度のことです。大切なのは患者の魂が目を覚まして真実の自分を発見することです。私にはこれ以上にうまい表現が思いつきません。


(41)霊とは内部の神性の火花です。心霊治療はその火花を大きな炎と燃え上がらせる仕事です。それが心霊治療の本来の目的です。


(42)私のことをいろいろと話題にしてくださるのはよいとして、シルバーバーチという一個の存在のみに関心を向けるのはよくありません。私は私よりはるかに偉大な霊から送られてくるメッセージを皆さん方にお届けしているだけです。

光り輝く存在、大天使団によって組織された政庁があり、大霊の計画の実質上の責任をあずかっているのです。私はその使い走りにすぎません。そのことを光栄に思ってはいますが・・・・・・


(43)高級霊は人間を霊的知識をもたらすための手段───真理を普及し、間違った考えを改め、迷信を駆逐し、光明を少しでも広く行きわたらせ、苦痛・悲劇・不幸に終止符を打ち、その結果として幸せと安らぎと繁栄をもたらすための手段とみなしております。


(44)証拠、証拠とおっしゃいますが、証拠を手にすることと魂の成長とは何の関係もありません。真理を受け入れる能力は、あなたの魂が霊界のどの次元まで突入できるかによって決まります。つまり真理を悟る能力がどこまで進化したかに掛かっております。それを証拠の入手と混同してはなりません。

両者は必ずしも並行して進むものではありません。死後にも生命があることを立証する立派な証拠を手にしていながら、霊的には一向に目覚めていない人がいるものです。


(45)あなたは〝霊〟だからこそ生きているのです。霊だからこそ墓場を超えて生き続けるのです。霊だからこそ永遠に生き続けるのです。それには〝教祖さま〟は何の関係もありません。生得の権利であり神からの遺産の一つなのです。



(46)現代の啓示も過去の啓示と同一線上にあります。私たちはイエスが説いた真理を否定していませんし、そのイエスもモーゼの説いた真理を否定しませんでした。われわれの後に来る人も、私たちが今説いている真理を否定することはないでしょう。

しかし未来の子は一段高い進化のレベルにありますから、啓示される真理も今の時代に啓示されている真理より進歩したものであらねばなりません。


(47)日常生活において霊性を発揮すればするほど大霊に近づきます。あなた方一人ひとりが大霊の一部であり、したがってあなたと大霊との間に〝仲介役〟というものは要りません。


(48)本当を言うと魂は内部にあるとか外部にあるとかは言えません。魂とは全宇宙に偏在するものです。〝意識〟です。一個の身体によって束縛されるものではなく、無限の広がりを持つものです。一瞬の間に地球を一周できます。


(49)一体あなたとは何なのでしょう。ご存知でしょうか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。


(50)身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。家であってあなた自身ではないということです。家である以上は住み心地を良くしないといけません。手入れがいるわけです。しかし、あくまでも住居であり住人ではないことを忘れてはなりません。


(51)あなたはその身体の奥に神の属性である莫大なエネルギーのすべてを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発してそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。

なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありませんが・・・・。


(52)霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利といえるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したら、それが征服といえるでしょうか。

霊的進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きつつ後の者のために道しるべを残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。


(53)肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。その形体としての存在はホンの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいます。が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。その辺の理解ができた時こそあなたの神性が目を覚ましたことになります。

肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出始めたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出てきたのです。あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。


(54)人間の大半が何の益にもならないものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類にとって最高の財産を犠牲にしております。どうか、どこでもよろしい。種子を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。

議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理をして植えても不毛の土地には決して根づきません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。小ばかにしてあなたに心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねてくることでしょう。

  
(55)人生には目的があります。しかしそれは当事者が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。人間の一人ひとりに神の分霊が宿っており、一人ひとりが無限の創造活動に参加できるのです。

つまりあなたには個的存在としての責任と同時に、ある一定限度内での自由意志が与えられているのです。自由といっても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありません。限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。

運命全体としての枠組みはできております。が、その枠組みの中であなたが計画された予定表(ブループリント)に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第ということです。



(56)霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊のないところに生命はありません。物質は殻に過ぎません。霊という実在によって投影されたカゲに過ぎません。物質それ自体には存在はないのです。

あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、熟考することができるのは、あなたが霊であるからこそです。霊があなたの身体を動かしているのです。霊が離れたら最後、その身体は崩壊して元の土くれに戻ってしまいます。


(57)人間という形態を通して顕現している生命力は、小鳥・動物・魚類・樹木・草花・果実・野菜などを通して顕現しているものと同じ生命力なのです。いかなる形態にせよ生命のあるところには必ず霊が働いております。


(58)時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその見方は事実の反面しか見ておりません。

まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。私はあなた方に比べれば遥かに永い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てまいりましたが、私はその摂理に絶対的な敬意を表します。神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。


(59)せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台なしにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターンがあり、そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も自ら定めた摂理の枠から外れて働くことはできないのです。

指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えないといけません。そのためには、それまでの経験を活用しなければなりません。それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして、自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信を持つことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。

正しい条件さえ整えば、その神性は神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くためのあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。

 神は決してあなたを見捨てません。見捨てるのはあなたの方です。あなたが神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開かれるのだという自信を持つことです。不動の信念を持つことです。そうすれば道は必ず開かれます。



(60)悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味を持つものです。それが魂の琴線に触れた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。魂は物的身体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。

もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる段階まで来ている魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。


(61)人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味での〝ご利益〟(リヤク)と言わねばなりません。

何もかもうまく行き、日向ばかりを歩み、何一つ思い煩うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫を開き神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。


(62)神は一瞬の休みもなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日もともに神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。

あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりに小さすぎるのです。物的尺度で見る限り世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しかないかに思えるでしょう。当然かも知れません。しかし、それは極めて偏った、誤った判断です。


(63)霊的真理は、単なる知識として記憶しているだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験して初めて、それを理解するための魂の準備ができたことになります。どうもその点がよく解っていただけないようです。種子を蒔きさえすれば芽が出るというものではありません。

芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりません。養分は揃っていても太陽と水がなくてはなりません。そうした条件が全部揃った時にようやく種子が芽を出し、生長し、そして花を咲かせるのです。人間にとってその〝条件〟とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。何もかもうまく行き、鼻歌交じりの呑ん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。

そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて霊的知識を理解する素地ができあがります。そして、いったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮し始めることになるのです。


(64)人間は物質の中に埋もれた生活をしているために、バイブレーションが低くなっております。朝目を覚まし、まだ意識が完全に働かないうちから、あれやこれやと煩わしいことや心配事の波に呑み込まれていきます。

大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取り越し苦労に過ぎぬもの、等々いろいろあります。いずれにせよ全ては一時的なものに過ぎないのですが、そういうものに心を奪われてしまうと、背後霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素が閉め出され、霊的流入を遮断する一種の壁をこしらえてしまいます。


(65)恐怖心は無知の産物にほかなりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから、知識を携えて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。

人間が恐れるべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念を持つ魂は恐れることを知りません。


(66)生長・変化・進化・進歩・開発・発展───これが宇宙の大原理です。一口に進化と言っても、そこには必ず潮の干満にも似た動きがあることを知ってください。循環(サークル)運動、周期(サイクル)運動、螺旋(スパイラル)運動───こうした運動の中で進化が営まれており、表面は単調のようで内面は実に複雑です。

その波間に生きるあなたも、寄せては返す波に乗って進歩と退歩を繰り返します。物的繁栄の中にあっては霊的真理を無視し、苦難の中にあっては霊的真理を渇望するものです。それは人生全体を織りなすタテ糸でありヨコ糸であるわけです。


(67)霊媒現象ばかりが霊力のはけ口ではありません。芸術家を通して、哲学者を通して、あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々の役に立つ仕事に携わることです。

看板は何であってもかまいません。係わる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。


(68)地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。

その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。


(69)私が〝魂は承知している〟と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。

その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。たとえば、予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻ってくることになります。

それを何度も繰り返すことがあります。そうするうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。


(70)時には万策尽きて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。



(71)自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにしてください。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方でも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われて霊的実相を忘れてしまいがちです。が、それだけは絶対に忘れないようにしなければなりません。

地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。霊こそ実在です。物質は実在ではないのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じ取ることもできないかも知れません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識できません。

しかし、やはり霊こそすべての根源であることに変わりありません。あなた方は永遠の存在であることを自覚してください。生命の旅路においてホンの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者に過ぎません。


(72)治療家としてこの世に生を受けたのは、その仕事を通じて神の計画の遂行に参加し、自分が何であるかも自覚せず、何のために地上に生まれてきたのかも知らず、従って何を為すべきかも知らずに迷っている神の子等に永遠の真理、不変の実在を教えてあげるためです。

これは何にも勝る偉大な仕事です。たった一人でもよろしい。治療を通して霊的真理に目覚めさせることができたら、あなたの地上生活は無駄でなかったことになります。一人でいいのです。それであなたの存在意義があったことになります。


(73)あなた方人間は物的身体を通して自我を表現している霊魂です。霊魂に霊的法則があるように、身体には生理的法則があります。その法則の働きによって身体に何らかの影響が表れたとすれば、それも原因と結果の法則が働いたことを意味します。

私たちは霊力によって手助けすることはできても、その法則の働きによる結果に対しては干渉できません。要するに奇跡は起こせないということです。大自然の因果律は変えられないということです。神は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬の休みもなく働いております。

すべてを包摂しており、木の葉一枚落ちるのにも摂理の働きがあります。ありとあらゆる治療法を試みてなお治らなかった患者が、もし心霊治療によって見事に治ったとしたら、それは奇跡ではなく霊的法則が働いた証と考えるべきです。


(74)人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。全ての病気にはそれなりの治療法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視して動物実験を続ける限り、人間の真の健康と福祉は促進されません。

動物はそんな目的の為に地上に生を受けているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。三つの機能が一体となって働くということです。これは動物を苦しめたり体内から特殊成分を抽出したりすることによって得られるのではありません。


(75)身体が病むということは、精神か霊のいずれかに不自然なところがあることを意味します。霊が正常で精神も正常であれば、身体も正常であるはずです。身体に出る症状はすべて霊と精神の反映です。

これを医学では心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。大切なのはいつの時代にも変わらぬ真理です。魂が病めば身体も病みます。魂が健康であれば身体も当然健康です。身体の治療、これは大切ではありません。魂の治療、これが大切なのです。


(76)私たちが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は人生が〝死〟をもって終了するのではないこと。したがって苦しい人生を送った人も失敗の人生を送った人も屈辱の人生を送った人も、みなもう一度やり直すことができるということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。人生は死後もなお続くのです。

永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時に又、愚かにも摂理を無視し他人への迷惑も考えずに横柄に生きた人間には、その悪業の償いをするチャンスが与えられます。


(77)宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが、人間を永いあいだ迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それがすべてのカギです。

祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者や無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いというケースがいくらもあるのです。問題は何を信じるかではなく、これまで何を為してきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。


(78)いわゆる因果律というのは必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。しかしいつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことはできないのです。しかし、いつ成就されるかという時期の問題になると、それは原因の性質いかんに係わってきます。

すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すとその罪がその人の霊に記録され、それ相当の結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。

それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはさまざまな事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である〝霊の進化〟にあることだけは確かです。


(79)人間生活には三つの側面があります。まず第一に霊であり、次に精神であり、そして肉体です。人間としての個性を存分に発揮するようになるのはこの三つの側面の存在を認識し、うまく調和させるようになった時です。

物的世界にのみ意識を奪われ、物的感覚にしか反応を示さぬ人間は、精神的ならびに霊的な面においてのみ獲得される、より大きい、より深い、より美しい喜びを味わうことはできません。

反対に精神的なもの、霊的なものばかりの瞑想的生活から生まれる内的満足のみを求め、この世の人間としての責務をおろそかにする人間は、一種の利己主義者です。


(80)人間にとって最大の恐怖は死でしょう。それが少しも怖いものでないことを知り、生命が永遠の存在であり、自分も永遠の存在であり、あらゆる霊的武器を備えていることを知っていながら、なぜ将来のことを心配なさるのでしょう。

不幸の訪れの心配は、その不幸そのものより大きいものです。その心配の念が現実の不幸より害を及ぼしております。


(81)心霊治療家になしうることは、病気の期間を縮めるか、治してしまうか、あるいは、もっと大切なこととして、真理に目覚める用意のできた魂に感動的な体験を与えることです。

悪事とか懲罰の問題を超えたものがそこにあります。魂そのものの成長に関わる問題です。魂が目覚めるまでは往々にして悲しみや病気がお伴をすることになります。


(82)期間の問題ではなく〝霊〟そのものに係わる問題です。霊は、何日も何週間もかかって体験するものを僅か二、三秒で体験することができます。霊的なものを物的な尺度として価値判断することはできません。霊的なものは霊的に判断しなければなりません。霊的なことが原因で発生した現象を地上的な期間を尺度として価値判断することはできません。

さらに、理屈はどうであれ、治療家が痛みを軽減したり、らくにしてあげたり、治してしまうことができるという現実は、そこに何らかの法則が働いていることの証拠であり、同時にそれは、その患者の魂がその救いを得る段階まで来ていたことを意味します。偶然とかまぐれとかで起きているのではありません。


(83)人生はすべて法則によって支配されております。天命・宿命・運命───こうした問題は何世紀にもわたって思想家の頭を悩ませてまいりました。では真相はと言えば、法則の内側にもまた別の次元の法則が働いているということです。

宇宙には何人(なんぴと)にも動かしがたい基本的法則がまず存在します。そして、それとは別に、自由意志を行使できる法則もあります。ただし、自由意志による行為が原因となってそれ相当の結果が生じます。それは絶対に避けることはできないということです。


(84)いくら善人でも無知から霊的な罪を犯すことがあり得ます。たとえば、ここに一人の子供、とても気立ての良い子がいて、その子が炉の中に手を突っ込んだとします。炉の火は、その子が良い子であるか悪い子であるかにお構いなく、その手に火傷を負わせます。

もしもその子に、火に手を入れたら火傷をするという〝知識〟があったら、手を突っ込むことはしなかったでしょう。ですから、この場合、火傷をするしないは知識の問題です。

私が因果律の問題は魂の進化の程度によって決まるという言い方をするのは、そうした要素があるからです。因果律は必ず働きます。信仰とか願望にはおかまいなく働きます。


(85)いかなる人間にも必ず試練と困難、いわゆる人生の悩みが訪れます。いつも日向ばかりを歩いて蔭を知らないという人は一人もいません。ただその人生の難問がどの程度の影響を及ぼすかは、各自の霊的進化の程度に掛かっております。

ある人には何でもないことが、あなたには大変に思える場合があります。反対に、ある人には大変に思えることが、あなたには些細なことに思えることもあります。各自が自分なりの運命を切り開いて行くのです。


(86)人間は無数のことに苦しみ、悲哀と苦痛を味わわねばなりません。これは人類の永年の伴侶なのです。遠い昔、どうみても何一つ苦労はなかったであろうと思われる昔からです。


(87)ヒトは身体的にはすでに進化の頂点に達しております。次は精神的進化と霊的進化です。長い年月をかけて徐々に全人類が自己の心霊的能力に目覚めていくことでしょう。が、ここで〝但し書き〟が必要です。心霊的能力を発揮するようになることが必ずしも霊的進化の程度の指標とはならないということです。

霊的身体の有する能力を全部発揮しても、魂そのものは少しも進化していないということもありえます。本当の意味で霊的に進化しはじめるのは、人のために役立つ仕事を目的として霊界のスピリットの協力を得ながら心霊能力を開発した時です。


(88)霊界から手を差しのべてよい範囲があり、出しゃばってはならない限界があり、しゃべってはならない時があり、今こそしゃべる時があり、それに加えて必ず、その時々の環境条件による制約があります。しかしそのパターンは厳然としており、指導に当たるスピリットはすべからくそのパターンに従わなくてはなりません。

前もってそういう取り決めがしてあるからです。私も私より遥かに霊格の高い霊団によって計画された枠の外に出ることは許されません。そもそも地上で成就すべきものと判断を下した、もしくは計画したのは、その高級霊団だからです。

光り輝く存在、高等審議会、神庁、天使団───どうお呼びになられても結構です。要するに私たちが行う全仕事に対して責任を持つ、進化せる高級霊の集団です。私にはもうすぐその方たちとお会いする喜びが待ち受けております。

その時まず私の方からそれまでの成果をご報告申し上げ、次に私がどの程度まで成功しどの点において失敗しているかについて言い渡され、それによってこれから先の私のなすべきことを判断することになるのです。

その霊団の上には更に高級な霊団が控え、その上にも又さらに高級な霊団が控えており、連綿として事実上無限につながっているのです。


(89)われわれの目的は言わば〝宗教のリハビリテーション〟です。宗教を無味乾燥で不毛の神学論争から救い出すことです。

宗教間のいがみ合いから救い出し、教理上の論争を超越して実証的事実の基礎の上に真の宗教を確立し、霊界からの啓示を現在ますます増えつつある霊媒を通して地上に普及させ、あらゆる地域の人類に神が今なお働いていること、その恩寵は決して過去の一時期に限られたものではなく、今日でも、いずこにいようと誰であろうと、同じ恩寵に浴することができることを知らしめる、そういう計画があるのです。

  
(90)霊界の誰かがそれまでに身につけた知識を伝えて地上世界を少しでも明るくしようと一念発起したとします。その際、その霊が地上で有名人であれば、身元を明かすことを躊躇するものです。少なくとも当分の間は明かしたがりません。

それは、その人が通信を送ろうとするそもそもの目的とは関係のないことであって、そんなことで余計な混乱を生じさせたくないからです。


(91)霊界通信はその内容によって価値が決まります。身元の証拠を提供することと、霊的知識を提供することとは、まったく別の範疇に属することであることを忘れてはなりません。前者は疑ぐり深い人間を得心させる必要からすることであり、後者は魂に受け入れる用意の出来た人に訴えるのが目的です。


(92)霊の地上への働きかけは、そのために必要な条件を人間の方で用意するかしないかに掛かっています。霊の世界と連絡の取れる条件を用意してくれれば、身近な関係にある霊が働きかけることができます。よく聞かれる不思議な体験、奇跡的救出の話はみなそれなりの条件が整った時のことです。

条件を提供するのは人間の方です。人間の側から手を差し伸べてくれなければ、私たちは人間界に働きかけることができないのです。


(93)〝生〟を正しい視野で捉えていただきたい。その中で〝死〟が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間はあまりに永い間、死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私たちは是非ともその無知───死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れとみなす無知を取り除きたいのです。

そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく、別の生命を得ることなのです。

肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられる、より豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。


(94)苦痛と老いと疲労と憂鬱から解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探求心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでおります。自分が失ったものを嘆いているのです。

自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。


(95)皆さんもいずれは寿命を全うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ち受ける人々と再会することができます。

その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。


(96)あなた方人間こそ〝死者〟です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で、立派な死者です。神の宇宙の美しさが見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。

愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡智を役立てたいと望んでいるのです。


(97)見えないままでいたければ目を閉じ続けられるのがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。しかし賢明な人間は魂の窓を開き、人生を生き甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。

あなたは神の子なのです。その愛と叡智を持って全宇宙を創造した大霊の子なのです。その大霊とのつながりを強化するのは、あなたの理解力一つです。もしも教会がその邪魔になるのであれば教会をお棄てになることです。

もしも邪魔になる人間がいれば、その人との縁を切ることです。もしも聖典が障害となっていることに気づかれれば、その聖典を棄て去ることです。


(98)私の説く宗教は実践の宗教です。一日一日の宗教─── 一日二十四時間、一時間六十分、一分間六十秒、そのすべてを実践の時とする宗教です。それが私の評価の基準です。それが目標とする理想です。


(99)人間が地上生活を生き抜き成長していくために必要な真理は、これ以上つけ加えるべきものは何もありません。あとは真理をより深く理解すること、神とのつながり、及び同胞とのつながりに関してより一層理解を深めることです。新たに申し上げることは何一つありません。


(100)叡智というものは体験から生まれます。十分な体験を経て魂がそれを要求するようになった時にはじめて真理が受け入れられます。それから今度は、その知識をどうするかの段階となります。その知識を他人の為に活用する義務の問題です。

そうした過程は実に遅々としたものですが、人類の進化はそういう過程を経るしかないのです。


(101)もうイエスのような大人物が出現する必要はありません。たとえあのナザレのイエスが今この地上に戻ってきたとしても、多分地上で最も評判の悪い人間となることでしょう。特にイエスを信奉し師と崇めているキリスト教徒からいちばん嫌われることでしょう。


(102)大半の人間は地上だけが人間の住む世界だと考えています。現代の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで、物的なものを、いずれは残して死んでいかねばならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。

戦争、流血、悲劇、病気の数々も、元はと言えば、人間が今この時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂(スピリット)なのです。

それが地上という物質の世界での生活を通して魂を生長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです。



(103)宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在の微かな影を見たに過ぎません。


(104)キリスト教界にも奇特な行いをしている真摯な人材は確かに存在します。私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かなければならないからです。真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。

同胞のために自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそれを何度申し上げてきたことでしょう。しかるに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。

人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし、新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません。


(105)神は人間に理性という神性の一部を植え付けられました。あなた方(クリスチャン)もぜひその理性を使用していただきたいのです。大きな過ちを犯しそれを神妙に告白する───それは心の安らぎにはなるかもしれませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。


(106)あなた(キリスト教の牧師)に理解していただきたいことは、聖書のテクストのことをうんぬんするよりも、もっともっと大切なことがあるということです。主よ、主よと叫ぶ者がみな敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそ敬虔なのです。

それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日なおあなた方は、それが一番大切であることをなぜ信者に説けないのでしょうか。


(107)動機が何であるか───これが最後の試練です。魂の奥の静かな、そして小さな声が反発するがゆえに戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にイザとなれば我が身を犠牲にする覚悟を持って戦場へおもむく人間とは、私たちの世界から見て上下の差はありません。動機がもっとも優先的に考慮されるからです。


(108)地上には幾十億と知れぬ人間がおり、みな成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。したがって全ての者に一様に当てはめられる型にはまった法則、物的なものさし、といったものは存在しません。

固定した尺度を用いれば、ある者には厳しすぎ、ある者には厳しさが足りないということになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪とは縁のない人間には何の係わりもありません。


(109)神は人間各自に、決して誤ることのない判断の指標、すなわち道義心というものを与えています。その高さはそれまでに到達した霊的成長の度合いによって定まります。

あなたが地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自の取るべき手段を判断する力、つまりそれが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は、例外なく備わっております。

あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。

徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度において高いこともあれば低いこともあります。しかし、互いに正反対の考えをしながらも、双方ともそれなりに正しいということもありうるのです。


(110)再生(生まれ変わり)というものが事実であることは私も認めます。それに反論する人たちと議論するつもりはありません。理屈ではなく、私は現実に再生してきた人物を大勢知っているのです。

どうしてもそうせざるを得ない目的があって生まれ変わるのです。預けた質を取り戻しに行くのです。ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物ではありません。

一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、その海面上の部分だけです。死後再び生まれ出てきた時は別の部分が海面上に顔を出します。

潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。


(111)私はつねづね人生とは対照の中で営まれていると申し上げております。愛の倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒錯したのが臆病です。いずれも本質において同じ一本の棒の両端を表現したものです。私はまた、低く沈むことができただけ、それだけ高く上昇することができるとも申し上げております。

臆病を勇気に、憎しみを愛に転換することができるということです。人間の精神にはさまざまな複雑な感情や想念が渦巻いております。それをうまくコントロールするところにあなたの成長があり、進化があり、低いものが高いものへ転換されていくのです。


(112)世間でいうところの〝成功者〟になるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、その内あっさりと価値を失ってしまいます。

大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると確信するものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。

それさえできれば、世間があなたをどう見ようと、自分は自分として最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ち受ける生活への備えが十分にできているという自信を持って、平然として死を迎えることができます。


(113)名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものです。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい。お金があるとか世間的に出世したということで名が知れたにすぎません。イエスはそういう名声をいっさい求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者といわれた人は名声を求めたでしょうか。

大切なのは、どれだけ人のために役立つことをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名乗って出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の基準は何と名乗っているかではなくて、どういう態度でどんなことを説いているかです。


(114)いま地上人類は五感を通して感識する条件下に住んでおります。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。まだまだ開発しなければならないものがあります。

地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。この条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形態をとるまでは存在に気づかれないからです。


(115)思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が認識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現、または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。

勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野で捉えないといけません。


(116)あなたはその二つの眼で見ているのではありませんよ。またその二つの耳で聞いているのではないのですよ。見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているのです。もしも脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動も全く無意味なのです。

脳がレシーバーとしての働きをしてくれたあとは、その情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには〝見る〟能力はないのです。ただ光線を感知するための媒体に過ぎないのです。カメラのレンズと同じです。

自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。〝見えた〟という認識は、精神がその印象を脳から受け取った時に生じるのです。脳を痛めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります。


(117)時として味方であるべき人物が敵に回ることがあります。また時として、悲しいことですがこの道に携わっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その方のために蔭で涙を流しておあげなさい。


(118)〝証拠〟などといっても、ただの用語に過ぎません。確信というのは内部から湧き出てくるものです。魂に〝受け入れ準備〟が備われば理解が行きます。その理解こそ大切で、それが唯一の確信です。

科学は刻一刻と変わっていき、その領域を広げつつあります。知識というものは固定したものではありません。一方、確信というのは、真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟りです。



(119)霊はこしらえるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。霊としては、あなたは無始無終に存在しているのです。霊を新たにこしらえなければならなくなったことは一度もありません。無が有になる段階というものは、これまで一度もありません。

生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生み出されるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、全てそうです。霊は存在の大原動力です。


(120)母体に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばしの間地上で機能するわけです。しかし霊はさまざまな側面を持つことができます。

その幾つかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはありえます。その意味では〝年輩の霊〟〝若い霊〟と呼べる霊は存在します。しかし〝新しい霊〟というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。


(121)〝死後〟とおっしゃいますが、私は時おり地上世界を見渡して、果たして〝死ぬ前〟に生命があるのかと思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、あるいは、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。


(122)良きにつけ悪しきにつけ、あなたの霊的命運を定めていくのはあなた自身です。あなた自身のことに関して最後に責任を負うのはあなた自身です。もしも死の床にあって罪を告白し特別の信仰を受け入れれば立ちどころに罪が赦されて潔白の身になれるとしたら、それはまさにお笑いものであり、茶番劇というべきです。


(123)物的なことと霊的なこととの区別がつかない人は気の毒です。日常生活で悪戦苦闘していても、霊的な平静さと安らぎを忘れないでいることは可能です。

地上のいかなる困難の中にあっても、自分が本来は霊であることを忘れず、その聖域を守ることができれば、いつでも内的な安らぎを得ることができます。安らぎは外から得るものではありません。内部から湧き出てくるものです。


(124)地上の人間が内部に霊的な武器を備えていることを実感することができれば、どんなにか充実した生活が送れることでしょうに。それを活用することによって、時には地上的喧騒から身を引いて、冷静さ・落着き・平穏・安らぎに浸ることができるのです。


(125)真理普及の第一線に立って苦悩している地上の偉大なる魂は、その闘いがいかに激しく反抗がいかに強烈でも、その中にあって少しも内的な安らぎを失うことはありません。表面上の物的な出来事と霊的原理とを同じ天秤にかけてはいけません。霊が主人で物は従僕です。常に霊に係わることを優先させなさい。


(126)解放されなければならないのは女性だけではありません。男性だけでもありません。子供だけでもありません。人類によって苦しめられている動物も解放してやらねばなりません。霊は常に自由であるべきです。物的な何ものによっても束縛されるべきではないのです。

物的身体は霊が存分に自己表現をする手段として与えられているのであり、解放とはそれを制約するものすべてを取り除いてあげることです。


(127)敵意や敵愾心(テキガイシン)は無知の産物です。そこには理性の働きが見られません。時には恐怖心から出ていることもあります。また時には〝洗脳〟の結果である場合もあります。

知的抵抗力のない幼い時期に植え付けられたお座なりの教えから一歩も出ることができず、精神がすっかり汚染されているのです。


(128)あなたの説く霊的真理が敵意を持って迎えられた時は、その素晴らしい宝石の光が見えない気の毒な人への適切な言葉を求めて神に祈りなさい。もしもそれが少しでも効果があれば、その人との出会いは無駄でなかったことになります。

もしも何の効果もなければ、それはその人がまだ霊的真理を受け入れる用意ができていなかったことを意味します。魂に準備が出来ていない時は、為す術がありません。



(129)地上の同志の方々にいつも申し上げているのは、私たち霊団側としては皆さんが誠心誠意、精一杯の努力をすること以上のことは要求しないということです。あなた方は欠点を具えた人間的存在であり、その欠点を一つ一つ取り除いていかねばなりません。しかしそれは大変な時間を要する作業であり、たった一度の地上生活では成就できません。


(130)身体に係わる義務を疎かにしてまで霊的なことに専念しなさいとは決して申しておりません。しかし同時に、霊に係わることも大切にしなければならないことも真実です。地上ではその二つとも大切なのです。


(131)霊的真理のための闘争は生やさしいものではありません。バイブルにも光の勢力と闇の勢力との戦いの話が出ていますが、両者は現実に存在します。が、光の方が強力です。いつかは光が闇を突き通します。しかし時には闇があまりに濃いために、それを突き通すのに手こずることがあります。


(132)霊的計画が推進されていく実情を何とかして皆さんにお見せしたいものです。一度ごらんになれば、取り越し苦労などしなくなることでしょう。悲しむということがなくなるでしょう。何事が起きようと、すべては神の叡智で良きに計らわれているとの確信を持つようになることでしょう。

宇宙は無限の叡智を伴った無限の愛の力で支配されております。愛はそれ自体でも崇高さを極めた力ですが、叡智との組み合わせによって、必要なものは必ず成就してまいります。


(133)図太さを失ってはなりません。愚かな人間による抵抗に惑わされてはなりません。むしろ哀れに思い、せっかくのチャンスを失ったことを気の毒に思ってあげなさい。そういう人たちは自らを傷つけ、さらには彼らが生き甲斐としているものまで台なしにしているのです。が、根気よく、そして図太く生きておれば、その内それも排除されてまいります。


(134)私の名はシルバーバーチではありません。これは私がバイブレーションを下げて地上世界とコンタクトすることを可能にしてくれる一種の変圧器の役目をしている、かつて地上でインディアンだった霊の名前です。

いずれにせよ名前はどうでもよいことです。私に関する限り名前は何の価値もありません。これまで一度も地上時代の名を明かしたことはありません。地上時代の私はインディアンではありません。このインディアンより遥かに古い時代の、別の民族の者です。

霊的進化の末に二度と地上世界へ生身に宿って戻ってくる必要のない段階にまで到達いたしました。霊界の上層部には〝神庁〟とでも呼ぶべきものが存在します。それに所属するのは格別に進化を遂げた霊、高級神霊です。その仕事は立案された創造進化の計画を円満に進展させることです。

その神庁からこの私にお呼びが掛かり、これまでの進化で私が得たものを一時お預けにして、可能な限り地上圏に近づき、その高級神霊たちのメッセンジャーとして働いてくれないかとの要請を受けたのです。

私の役目はその指導霊達の教えを取り次ぎ、一人でも多くの、受け入れる用意のできた人間にお届けすることです。私は喜んでその要請をお引き受けしました。それが半世紀近くにもわたってたずさわってきた私の使命だったのです。


(135)これは容易ならざる仕事です。私はこれを一つの素晴らしい挑戦課題としてお引き受けしたのです。地上は冷ややかな世界です。荒涼として陰鬱な暗い世界です。しかし、その中にあって私たちはそこここに愛と好意と友情の炉辺(ロバタ)を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことができております。


(136)皆さんはついぞこの私の姿をご覧になることがありませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。しかし信じて下さい。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる実在の人間です。こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは、地上という惑星を離れるまでは理解していただけないことかも知れません。



  シルバーバーチの祈り


 皆さんの協力のもとに私たちが勤しんでいる仕事への祝福を求めて、ごいっしょに大霊への祈りを捧げましょう。

ああ、真白き大霊よ。あなたは全生命を包摂する摂理にあらせられます。なぜなら、あなたは全生命を創造し、全生命を扶養し、全大宇宙はあなたとあなたの摂理があればこそ存在を得ているからでございます。

 あなたは森羅万象となって顕現なさっておられます。昇っては沈む太陽にも、満ちては引く海の潮にも、夜空に輝く星にも、小鳥のさえずりの中にも、稲妻と雷鳴の中にも顕現なさっておられます。

 大霊よ。あなたはいつの時代にもあらゆる民族によりて崇拝され、幸いにしてあなたを垣間見ることを得た者の理解力に応じて表現されるに任せてまいられました。しかし真実のあなたは物質の子等の中のいかなる聖賢の理解力をも超えた偉大さと巨大さと愛と叡智と公正と慈悲とをそなえた存在にあらせられます。

 あなたの僕として霊の世界より仕える私たちは、永きにわたって埋もれてきたあなたの摂理、首尾よく物質の霧を突き抜ける霊的な識別力と理解力を持つ者によって、極めて稀にしか掘り起こされることのなかった霊的真理を、地上の子等に啓示せんと努力しているところで御座います。

 私たちは地上の子等がこの宇宙の孤児ではなく、大霊にあらせられるあなたの分霊を受け、内部に無限の力と光を宿すがゆえに、いかなる邪悪も不正も克服し、その霊性によってあなたの存在とあなたの摂理の絶対性とを認識することによって、地上にあなたの王国を実現していく、その援助をしているところでございます。

 弱き者を高揚し、人生に疲れた人に慰めを与え、暗闇にいる者に光明をもたらさらんと望む地上の同志たち、あなたの愛の地上への顕現を妨げんとする勢力のすべてに抵抗する気概に満ちた同志との一致協力を願っております。

 それが私どもに課せられた仕事であり、あなたのため、あなたの王国のため、あなたの光明と愛のために献身せんとする者すべてと力を合わせたく存じております。

      
       
    
 訳者あとがき

 シルバーバーチと名のる古代霊が地上時代の実名も身分も明かさぬまま約半世紀にわたって英国の霊媒モーリス・バーバネルを通じて語り続けた、人類史上空前絶後ともいうべき霊言集を翻訳・編纂してきたシリーズも、本巻を持ってひとまず完結する。

 再三紹介してきたように、サイキックニューズ社から発行された原書は一九三八年第一巻を皮切りに〝シルバーバーチ〟に名を冠した第一期のものが十二冊、冠していない第二期のものが一九八八年八月現在で三冊ある。

 第一期は九名のメンバーが独自の視点から編集しているが(うち三名が二冊ずつ)、中には互いに重複する箇所が幾つかあり、それを削除して他のもので補充したり、ページ数が他の倍ほどのもあって二冊に分けざるを得なかったものもあったりして、結局は私の翻訳シリーズも本巻を入れて同じく十二冊となった。

 ここで改めてお断りしておきたいのは、原書の第一巻は桑原啓善氏が 『シルバーバーチ霊言集』 と題して同じ潮文社から出しておられる。テキスト風にまとめられ、私の訳し方とかなり趣きが異なるが、同じ出版社から同じものが出るのもおかしいので、私はこれを完訳することは遠慮して、他の巻の補充や差し替えに使用したり、

本巻のために名言だけを拾ったりして、一応その大半を摂り入れるという形をとった。又その〝序文〟はシルバーバーチ交霊会(正式の名称は〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟)の産みの親であるハンネン・スワッハー氏のものなので、その抄訳を本巻に掲げて最後の締めくくりとした。

 洋の東西を問わず〝霊言〟と名のつくものは数多く存在する。が、シルバーバーチ(と名のる霊)ほど気取らず、何のてらいもなく、格好も付けず、親しみ深く語りかけながら、しかも威厳を失わず、そして最後までその自分の地上時代の名前も地位も国家も明かさなかった霊を私は他に知らない。

 私は今でも、ふと、一体シルバーバーチのどこがいいのだろう、と自問することがある。そして、これといって取り立てて挙げられるものがないのに、実際に霊言を読み、あるいはカセットを聞くと何とも言えない魅力を覚え、知らぬ間に読み耽り、聞き耽り、いつしか体に熱いものが込み上げてきて涙が頬をつたう。

スワッハ―も〝序文〟の中で述べているが、シルバーバーチに語りかけられると、姿はバーバネルなのに、思わず感涙にむせぶ者が多かったという。

 確かにそうだったに違いない。何しろひねくれ者の毒舌家として世界にその名を知られ、英国では〝フリート街の法王〟と呼ばれて恐れられていたハンネン・スワッハーその人が一も二もなく参ったという事実そのものが、シルバーバーチの大きさを何よりも雄弁に物語っている。更に、頑固おやじのようなバーバネルを霊媒として手なずけたという事実も見落としてはなるまい。

 ところで、そのシルバーバーチの霊言の素晴らしさに触れた者が心しなければならないのは、この霊言集に盛られている真理が真理として受け入れられるか否かは、その人の霊性にとってそれが必要であるか否かによって決まることであって、その素晴らしさの分からない人のことをつまらない人、分かった人は霊性が高いといった判断を下すべきではないということである。

それはシルバーバーチが何度も言っているように当人の問題である。そして受け入れた瞬間から〝責任〟が生じる。

 その責任には二つの面がある。一つはその真理の指示する通りを素直に生活の中で実践すること、言いかえれば、自分に正直に生きるということであり、もう一つはその知識を縁ある人々を通して広げていくということである。

イエスの時代から二千年もたち、人類は少なくとも知的には確実に進化している。そしてこうした出版機構の発達により書物がかつてのように貧しい人の手に入りにくい時代と違って、誰でもいつでも手に入れられる時代である。そして一人静かに、しかも何度でも繰り返して読むことができる。

 このシリーズを愛読してくださっている方の中には、心に残る言葉を抜き書きにしたりテープに吹き込んだりしていらっしゃる方が少なくないようである。理解しにくい箇所や疑問に思う箇所について質問をお寄せになる方も多い。

その一つ一つに私なりの理解の範囲内でご返事を差し上げているのは無論であるが、それは、その責任が私にあると自覚しているからであると同時に、そうした関係の中で真理が理解されていくのが、これからの時代の一番正しい、そして有効なあり方だと信じるからである。

 カセットテープという便利なものもできて、お陰でシルバーバーチの生の声(といってもバーバネルの声を太くしたものに過ぎないのだが)を聞いて、交霊会の雰囲気を味わうこともできる。そこで気心の合った少人数で読書会や研究会あるいは親睦会といった形で横のつながりを持っておられる方が多いようである。私はこのことを非常にうれしく思い、今後の発展を祈っている。

 ただ一言だけ私見を述べさせていただけば、そうした会の発展が特定の人物を中心としたタテの組織を持つに至るのは感心しないであろう。組織であるがゆえの無用の義務、無用の規約、無用の出費が要求されるようになり、それはシルバーバーチが指摘しているように、人類が自らを束縛することを繰り返してきたその轍を、またぞろ踏むことになりかねないからである。規模の大きい小さいには関係なく言えることである。

 ご自分のワープロで印刷したものを知人・友人に配布しておられる方も多い。その中には、九州の獣医さんで、ペットの死をわが子の死のように悲しんで、見るも気の毒なほど塞ぎ込んでいる人たちのために、動物の死後についてシルバーバーチが語っている箇所をワープロで印刷したものを渡してあげているという方もいる。素晴らしいことだと思い、私の労が報われる思いがする。きっとシルバーバーチも喜んでいることであろう。

 シルバーバーチはバーバネルの死とともに地上との縁を切ってしまったわけではない。バーバネルという地上の人間の肉体を借りての〝語りかけ〟は終わっても、同じ霊団を従え、それにバーバネルやスワッハーなども加えて、何らかの形で地上の霊的革新のために活動しているはずである。それはイエスが地上を去ったのちも霊団を組織して大々的に働きかけてきたのと同じで、その延長線上にあると考えればよいであろう。

 本書はそのシルバーバーチが地上に残してくれた霊言でまだ紹介されていないものの中から、熟読玩味に値すると私がみたものを選んでまとめたものである。サイキックニューズ紙やツーワールズ紙に掲載されたもので霊言集に摂り入れられていないものが多い。が、前後の関係と内容理解の上で必要とみたものは、すでに紹介されているものでも加えてある。

 特に最後の章は紙面に少し余裕があることが分かったので、全巻に目を通しながら〝これはぜひ〟と思うものを拾って追加した。もしかしたら私の記憶違いで、すでに前に掲載されたもの、あるいはそれに類似したものが混じっているかもしれない。が、名言は何べん読んでも価値は薄れないという言い訳をさせていただいて、ご寛恕願いたい。結果的には本書一冊にシルバーバーチの霊的教訓のエキスが凝縮されることとなった。

 本書を人生の友として末永く座右に置いていただければ幸いである。 一九八八年  




   新装版発行に当たって
多くの読者に支持され、版を重ねてきた、このシリーズが、この度、装いを新たにして出されることになりました。天界のシルバーバーチ霊もさぞかし喜ばしく思っていてくれていることでしょう。

                        平成十六年一月   近藤千雄

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