Friday, May 16, 2025

シアトルの春 十三章 おしまいに

Chapter 13 The End


Philosophy of Silver Birch
  by Stella Storm  

 
 「私は、こうした形で私にできる仕事の限界をもとより承知しておりますが、同時に自分の力強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません
私自身はいつも謙虚な気持ちです。

本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない───私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。が、私はその援助のすべてを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちているのと言っているのです。

 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると自信をもって語ることができます。霊団が指図することを安心して語っていればよいのです。

威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人間全体の進化の指導に当たっている、真の意味での霊格の高いスピリットなのです。

 私自身はまだまだ未熟で、けっして地上の平凡人からも遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなた方の悩みがよく分ります。私はこの仕事を通じて地上生活を永いあいだ味わってまいりました。

あなた方 (レギラーメンバー)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く関わってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないことも分かります。

 霊力というのは必要な条件さえ整えば地上に奇跡と思えるようなことを起こしてみせるものです。私たちは地上の存在ではありません。霊の世界の住民です。地上の仕事をするにはあなた方にその手段を提供していただかねばなりません。

あなた方は私たちの手であり、私たちのからだです。あなた方が道具を提供する───そして私たちが仕事をする、ということです。

 私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけないといったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れといった指示を受けます。私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。

いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束ができているということです。私より勝れた叡智を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。

 そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているのです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在です。私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会いできることを無上の光栄に思っております。

その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。

 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。神界というのはあなた方人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が、地上の仕事を実行するとなると、われわれのようなこうした小さな組織が必要となるのです。

 私たちはひたすら人類の向上の手助けをしてあげたいと願っております。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えする目的でやってまいりました。

そこから正しい叡智を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も地上から送られてくる無知で何の備えもできていない、厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる───そう思って努力してまいりました。

 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度は取りたくありません。人間をロボットのようには扱いたくないのです。

死の淵を隔てていても友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の心とからだと魂に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。

 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶なさるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。

私たちがあなた方に代わって生きてあげるわけにはまいりません。援助はいたしましょう。指導もいたしましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけには行かないのです。

 スピリットの中にはみずからの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私はみずから買って出た口ではないのです。しかし、依頼された時は快く引き受けました。

 引き受けた当初、地上の状態はまさにお先真っ暗という感じでした。困難が山積しておりました。が、それも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに較べれば物の数ではありません。

 私たちの願いは、あなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい。持てる知能と技能と才能とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生をうけた真の目的を成就することにつながり、死とともに始まる次の段階の生活に備えることにもなる───そう願っているのです。

 私は理性を物事の判断基準として最優先させています。私を永いあいだご存知の方なら、私が常に理性を最高の権威ある裁定者としてきていると申し上げても、これまでの私の言説と少しも矛盾しないことを認めてくださると信じます。

 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそすべてを律する実在なのです。そこでは仮面(マスク)も見せかけも逃げ口上もごまかしも利きません。すべてが知れてしまうのです。

  私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕(しもべ)にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。喜びと楽しみをもってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなた方の何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。

 あなた方は、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が、信じてください。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる能力を具えた、実在の人間です。

こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。

 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が幾多の障害を乗り越えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。


 神よ、かたじけなくもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私どもは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を良しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場なることを知らしめ給わんことを。

 では、神の御恵みの多からんことを」

               
   
 解説〝霊がすぐ側にいる〟と言うことの意味
      
 本書は Philosophy of Silver Birch by Stella Storm の全訳である。全訳といっても、動物愛護運動家のデニス夫妻を招待した時の交霊の様子は全巻の(八)に引用したし、宗教教育に関する章は(四)の九章に出ているので当然カットした。その替わりとしてシルビア・バーバネルの More Wisdom of Silver Birch (七)からカットしておいた 「イエス・キリストについての質問に答える」 と 「自殺に関する二つの投書」 を引用した。

  なお巻末にシルバーバーチの名言が断片的に集めてあるが、これは最終巻の総集編に入れたいと考えている。

 編者のステラ・ストーム女史については 「まえがき」 の中で自己紹介してくれていること以外のことは分からない。

 さて、本書を訳していて目についたことは,シルバーバーチの文句に〝すぐ側にいます〟とか 〝いつもいっしょです〟といった表現が多いことである。シルバーバーチ自身のことを言っている場合もあるし、他界した肉親・知人のことを言っている場合もある。

 これを文字どおりに受け取って距離的にすぐ側にいると解釈してよい場合もあろうが、霊的に言えば、たとえ霊的身体はその場に存在しなくても、時間・空間の法則が地上の物理法則と異なる次元においては、いっしょにいるのと同じ関係を維持することができる。

 が、よく考えてみると、物理法則の支配を受ける肉体に霊が宿っているのが地上の人間であるから、その肉体を超越さえすれば、この地上における人間どうしの関係においても同じことがいえることになる。

 ただ、現段階の人類は霊性の発達が十分でなく五感でしか存在感が得られないために、目に見え肌で触れないことには実在している気がしないというにすぎない。たとえば学校へ行っている子供と家庭にいる母親とは霊的には〝いっしょにいる〟のであり、〝すぐ側にいる〟と言ってもよいのである。

 そのことは心霊現象を見ればよく分かる。いちばん良い例がリモートコントロール式の霊言および自動書記現象である。最近出たばかりの 『インペレーターの霊訓』 (モーゼスの 『霊訓』 の続編)の〝まえがき〟の中で私は霊界と地上との交信の原理の概略を解説しておいたが、その中に直接書記というのがある。

 これは霊媒は手に何も筆記用具を持たずにただ入神しているだけで、その筆記用具がひとりでに動いてメッセージを綴るという現象である。その原理を背後霊団がモーゼスに見せるために幽体離脱(体外遊離)の状態にさせて実際に霊が筆記を行っている場面を披露するところがある。その場面を抜粋すると───

 《気がつくと自分の身体のそばに立っていた。例のノートを前にしてペンを右手に持って座っている。私はその様子とあたりの様子とを興味ぶかく観察した。自分自身のからだが目の前にあり、そのからだと自分とが細い光の紐によってつながっている。部屋中の物的なものがことごとく実体のない影のように見え、霊的なものが固くて実体があるように見えた。

 その私の身体のすぐうしろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方をペンを握っている右手にかざしている。さらにインペレーターと、これまで永いあいだ私に影響を及ぼしてきた霊が数人いた。そのほかに私に見覚えのない霊が出入りして、その現象を興味ぶかそうに見守っていた。

 天井を突き抜けて柔らかい心地よい光が注がれており、時おり青味を帯びた光線が幾本か私の身体に向けて照射されていた。そのたびに私の身体はぎくりとし、震えを見せた。生命力が補給されていたのであろう。

 さらに気がつくと戸外の光も薄れて窓が暗く感じられた。したがって部屋の中が明るく見えるのは霊的な光線のせいだった。私に語りかける霊の声が鮮明に聞こえる。人間の声を聞くのと非常によく似ているが、そのひびきは人間の声より優美で、遠くから聞こえてくるような感じがした。

 インペレーターによると、これは実際のシーンで、私に霊の働きを見せるために用意したとのことだった。レクターが書いているのだが、私の想像とは違って、私の手を操っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンに当てているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意志が伝わり、それがペンに綴らせているのだった。

 私の手が道具にすぎず、それも必ずしも無くてはならぬものでもないことを示すために、光線がそのペンを私の手から離し、用紙の上に立たせ、さらに驚いたことに、それが用紙の上を動きはじめ、最初に掲げた文章(省略)を綴ったのである》

 右の場合は距離的にはすぐ近くであるが、〝青い光線のようなもの〟はいくらでも延ばすことができる。それなりに余分のエネルギーが要るのであるが、同じ方法が霊言現象にも応用することができる。同じ『インペレーターの霊訓』の第一部〝霊言による霊訓〟の中に次のような箇所がある。

《地上へ降りてくる高級霊は一種の影響力のようなものであり、言わば放射性エネルギーです。あなた方が人間的存在として想像するものとは異なり、高級界からの放射物のようなものです。高等な霊信の内容の非個人性に注目していただきたい。

 この霊媒(モーゼス)との関わりをもった当初、彼はしつこく我々の身元の証明を求めました。が、実は我々を通してさまざまな影響力が届けられております。

 死後、首尾よく二段階三段階と昇った霊はあなた方のいう個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私は地上界へ戻れるぎりぎりの境涯までたどり着いています。が、距離には関係なく影響力を行使することができます。私は今、あなた方からはるか彼方にいます》


 霊的なことはすべてバイブレーションの原理によるのであるから、波長さえ合えば、ちょうど国際電話でもすぐお隣りと話をしているみたいに聞こえるように、すぐ身のまわりにいるのと同じ親近感が味わえるし、波長が合わなければ、すぐ近く、否、まったく同じ位置にいても、まったく反応し合わないことにもなる。

すべてを解くカギはバイブレーションの原理にある。それを劇的に演出してみせた例がスカルソープの 『私の霊界紀行』 に出ている。


 《初期の頃のことであるが、離脱してひとまず事務所のようなところへ案内され、そこで指導霊だけが中へ入って指示を受けるあいだ私だけ外で待たされるということがたびたびなので、私もいい加減その場所と波長にうんざりしはじめていた。

 そんな時にまた同じ場所へ連れて行かれたので、つい心の中で 〝ちぇっ、またここか〟とつぶやいた。 すると一瞬のうちに場面が一変し、退屈な風景から明るく楽しい田園風景の中に立っていた。その変わりようは驚異的だった。指導霊の私への支配力が増し、私の波長がその楽しい場所の波長に高められたのであるが、私の身体は少しも動いていなかった》


 この原理を発展させていけばキリがないが、一つだけ誤解を解いておきたいことがあるので、最後にそれを指摘して参考に供したい。

 それは霊視能力が出はじめたばかりの人が陥りやすい錯覚の一つで、進歩性のない人はいつまでもその錯覚に陥ったままであるが、たとえば病気とか悩みごとの原因を探る場合に、霊視した映像をいきなり犯人と決めつけて、すぐにそれを払い除けようとする。

この場合、かりにその霊が俗にいう因縁霊であるとしても、その霊は必ずしも身体の側にいたり直接憑依しているとはかぎらない。先の直接書記のように遠くからバイブレーションによって作用しているにすぎないことがある。

 この場合に用心しなければならないのは、したたかな邪霊になると遠くから映像を送って審神者をからかうことがあること、また、わざと立派そうな姿を見せて安心させることすらあることである。

 その反対に、何の姿も見えないから霊障はないと判断するのも浅薄である。陰に隠れてひっそりとしていることがある。世間の常識と違って、審神者にとって霊視能力はあまり頼りにならないものなのである。

 では何を判断の基準とすべきか。霊を裁く上での最大の武器は、その霊能者の霊格の高さから生まれる看破力、霊的直感力である。

 私は師の間部詮敦氏が審神者をされるところをずいぶん見ているが、その中でとくに印象に残っているのが一つある。陰に隠れていた霊がついに引っぱり出されて霊媒に憑依させられた時(これを招霊実験と呼ぶ)、その霊がふてぶてしい態度で開口一番、間部氏に向かってこう言い放った。

 「お前は大したヤツじゃ。オレの負けだ!大ていのヤツには負けんが、お前の力には負けた。大したヤツじゃ!」

 直感的には間部氏の背後霊がひっぱり出したのであるが、それも間部氏の霊格と霊力とが大いに物を言っている。心霊学に裏打ちされた学識と体験と同時に、高潔な日常生活における修養があればこそ出来ることである。

 最後にシルバーバーチの霊言からそれに関連した一問一答を紹介しておく。


 霊能者がタバコを吸いすぎたりアルコールを飲みすぎたり、そのほか生活面で真理に忠実でなく品行に問題がある場合は、それが霊能にも悪い影響を及ぼすでしょうか。

 「もちろんです。いかなる霊媒能力、特に精神的霊能について言えることは、その霊能者の質が高ければ高いほど通信の内容も質が高いということです。身体と精神の質を落とすようなことは霊にとっても同じ影響が及びます。

 忘れてならないのは、身体と精神と霊とは一体関係にあることです。緊密な相互関係があり、絶えずエネルギーや感情が行き交っております。霊の世界と物質の世界は実は一つの実在の二つの側面なのであり、お互いに影響し合っております。両者は融合し合っていて、はっきりとした境界線というものはないのです。

 そのことを理解なされば、物的身体に悪いものは霊的身体にも悪く、精神に良くないものは霊にとっても良くなく、したがって霊の宮(からだ)を汚すようなことは必ずその持ち主を通過して届けられる通信の質を汚すことになることがお分かりになると思います。

 理想を言えば完全であるに越したことはありません。そうすれば完全な通信が得られることでしょう。が、所詮、私たちが扱っているのは物質の世界に住む人間味たっぷりの道具です。アルコールもタバコもほどほどにたしなむのであれば大した害にはなりません。ただし、霊能者は常に理想を目指していなければなりません」

 一九八七年八月    近藤千雄

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