Saturday, May 10, 2025

シアトルの春  霊能者の責任

Responsibility of the psychic



Philosophy of Silver Birch
  by Stella Storm 



《他人(ひと)のためになることをする人は、いつかはきっと他人から有難いと思うことをしてもらうものです。収支決算をしてみると必ず黒字になっております。一身を捧げている霊媒を私たちは決して見捨てるようなことはいたしません。授けられている霊的能力を最大限に発揮できるよう、常に鼓舞し勇気づけております》
                               シルバーバーチ


 英国が生んだ大霊媒の一人で、シルバーバーチの古くからの馴染でもある ヘレン・ヒューズ女史が他界するわずか二、三か月前のことだった。永いあいだ女史と人生を共にし、そして今、他界を目前にしている女史を懸命に介護している女性が、その日の交霊会に招かれていた。その女性に向かってシルバーバーチがこう語りかけた。

 「ヒューズ女史は今ゆっくりと終焉に近づきつつある弱り切った肉体に閉じ込められた偉大なる霊です。もはや施す手だてはほとんどありません。肉体というのは、生長して本来の機能を発揮しはじめた時点から霊への拘束力を強めていくものです。が、女史はその生涯で見事に霊的自我を発揮されました。

 地上に生を受けた目的を立派に果たされました。数え切れないほどの人々の沈んだ心を奪いたたせ、親族を失った人々の涙を拭い、涙と悲しみと苦悩しか見られなかった顔に確信の笑みをもたらしてあげました。

女史はいついかなる時も霊の力を裏切るようなことはしなかったという自信がありますから、これまで歩んできた永い奉仕の道を満足して見つめることがお出来になります。

 女史こそ霊の道具はかくあるべきという最高の規範です。言葉によっても、行為によっても、あるいは心に宿す思念によっても、託された聖なる信頼を裏切るようなことは何一つなさっておりません。

人々に歩むべき道を教え、やれば到達できる水準を示されました。霊の力は、その地上への顕現に協力してくれる献身的で無欲な道具さえあれば、こういうことまで出来るのだということを見事に示されたのです。

 確かに女史は世俗的な意味では裕福ではないかも知れませんが、霊的な意味では裕福そのものであり、倦むことなく続けられた永い奉仕の人生で身につけられた輝かしい宝石類を沢山お持ちです。

それは永遠に輝きを失うことはありません。どうか私をはじめとして、女史の業績を尊敬し感謝している、本日ここにお集まりの皆さんの気持ちをよろしくお伝えください。

 これまでに女史が美事に発揮し実証してきた霊の力は、これからも女史のもとを離れることはありません。休みなく輝き続けることでしょう。女史ご自身もそれを辺りに感じて、いつもその真っ只中にいることを自覚されることでしょう。

女史のような方がもっともっと大勢いてくれれば、私たちの仕事もどんなにかラクになるのですが、残念ながらイエスが言った通り〝招かれる者は多し、されど選ばれる者は少なし〟(マタイ)です」

 同じ日、ともに霊能者である夫妻が招かれていた。英国人と米国人で、今は米国に住んでおられる。その二人にシルバーバーチはこう語った。

 「霊的資質は永いあいだ潜在的状態を続け、魂が十分に培われた時点でようやく発現しはじめるものです。それが基本のパターンなのです。すなわち悲しみや病気、あるいは危機に遭遇し、この物質の世界には何一つ頼れるものはないと悟った時に、はじめて魂が目を覚ますのです。

 何一つ煩わしいことがなく、空は明るく静かに晴れ上がり、すべてがスムーズにそして穏やかに運んでいるような生活の中では、真の自我は見出せません。すばらしい霊的覚醒が訪れるのは、嵐が吹きまくり、雷鳴が轟き、稲妻が光り、雨が容赦なく叩きつけている時です。

 お二人が歩まれた道もラクではありませんでした。しかし、だからこそ良かったのです。困難にグチをこぼしてはいけません。困難は霊の拍車です。霊的知識をたずさえてそれに立ち向かうことです。霊の力は物質の力に勝ります。

問題に遭遇した時はいったん足を止め、霊的知識に照らして判断し、どんなことがあってもお二人が担って生まれてこられた目的から目をそらさないでください。

 お二人はこれまでずいぶん多くの人々のお役に立ってこられましたが、これからもまだまだお役に立たれます。まさに奉仕の道一筋に生きておられます。教会の高位高僧が───まじめな気持からではあっても───行っていることよりはるかに多くの仕事をなさっておられます。

何も知らずに生きている人たちに霊の真理をもたらしておられます。地上に存在している目的を成就する上で力になってあげておられます。霊的本領を発揮する上で力になってあげておられます。霊的知識を普及しておられます。こうしたことはみな神聖な仕事です。そういう仕事を仰せつかったことを誇りに思うべきです。

 人生は難問だらけです。バラの花は少なく、トゲだらけです。しかし、あなた方を導いている力は宇宙を創造したのと同じ力です。無限の威力を秘めております。物わかりの悪い人を相手にしてはいけません。心ない中傷や嫉妬は無視なさることです。まったく下らぬことです。

 本来の責務を全うしていない霊能者のことは気の毒に思ってあげればよろしい。所詮それは当人の責任なのです。あなた方はあなた方なりに精いっぱい責任を果たしておればよろしい。力量以上のものは要求されません。

力のかぎり大霊の道具としての自分を有効に役立てることです。少しでも多くの霊力があなたを通して地上に顕現し、それを必要としている人たちのために力と導きと愛をもたらしてあげられるように努力してください。

 地上には為さねばならないことが沢山あります。今の時代はとくにそうです。邪悪な勢力がのさばっています。利己主義が支配しています。既得権力が崩れ行くわが城を守ることに懸命です。

こうした中であなた方がたった一つの魂でも真の自我に目覚める上で力になってあげれば、それは大へん価値のあることです。ひたすら前向きに進まれることです。

 われわれが手を取り合うことによって、援助を必要とする人々の力になってあげることができます。受け入れる用意のない人に押しつけてはなりません。みずから求めてわれわれの手の届く範囲にまで訪れた人々に気持ちよく手を差しのべましょう。

その人たちなりの自我の覚醒を促す理解力を身につけてくれるように、われわれが力になってあげましょう。かくして霊の力が広がり続けることになります。

 本日お二人が揃ってお出でくださったことを私の方こそ光栄に思っております。と申しますのは、お二人には大へん高級な背後霊団が控え、お二人を道具として使用しているからです。その威力はこれまでの成果で十分に証明されております。

あなた方は霊力の働きの生きた手本です。お選びになられた道を着実に歩んでおられ、その結果として、縁あって訪れる大勢の人たちの力になってあげていらっしゃいます。

 私から改めて申し上げることは何もありません。お手にされた知識に私から付け加えるものはございません。私の世界でも極めて霊格の高い、そして数々の霊的業積を積んで尊敬されている霊団から授かっておられます。が、こうして別の人間の口からお聞きになるのも、それなりの得心を与えてくれるものです。

 同志として、また協力者として、私がお二人に申し上げておきたいことは、お二人ほどの霊的才能をもってしてもなお、お二人を取り巻いている莫大な霊力の実在を感じ取ることはできないということです。その実体のすべてを把握することは不可能なのです。

 あなた方が実証しておられるのは全生命が基盤としている基本的実在です。人間がみずからを、そしてこの世を救うことのできる唯一の道を公開していらっしゃるのです。霊的実在───生命の世界にあって唯一の不変の要素───を実証することができるということです。

 うっかりすると方角を見失いがちな世界にあって、あなた方は物質中心思想という悪性のガンと闘っている霊の大群に所属しておられます。唯物思想は何としても撲滅しなければならない悪性の腫瘍です。これが人類を肉体的にも精神的にも霊的にも病的にしているのです。

 既成宗教にはそれを撲滅する力はありません。なぜなら、そこには霊力というものが存在しないからです。一時的には勢力を伸ばすことはあっても、霊力というものを持ち合わせません。大霊からの遺産としての霊的資質がもつ影響力に欠けております。

 その点あなた方は喪の悲しみの中にある人には死が有難い解放者であること、魂に自由をもたらすものであり、いずれはその人と再会できるという事実を立証してあげることができます。愛さえあればその真実性を実証してみせることが出来ます。それは今の教会にはできません。

 また医者のすべてが〝不治〟 の宣告を下した患者にも、あなた方はなお希望をもたらすことができます。心霊治療によって、全てではないにしても、健康を回復してあげることができます。たとえ全治はできなくても、痛みを和らげ、快方へ向かわせ、活力を与えることが出来ます。

万一それも不可能となり死を待つばかりという場合でも、その死に際して魂を肉体から安らかに離れるようにしてあげることが出来ます。それも心霊治療家の大切な仕事です。

 幻影ばかりを追いかけている世界において、あなた方は真理の存在場所を教えてあげることが出来ます。口で説かれることを実地に証明してみせることが出来ます。それは誰にでもは出来ないことです。偉大な仕事です。神聖な仕事です。霊による仕事です。大変な奉仕の仕事です。

 時にはうんざりさせられることもあるに違いありません。この物質界にあって霊の僕として働くことは容易なことではありません。強い味方と思っていた人が、愚かで強情な見栄から、敵にまわってしまうこともあります。

そういう人は気の毒に思ってやらねばなりません。せっかく光を見ていながら暗闇の道を選べば、その人はそれ相当の責任を取らされることになるのですから。

 お二人は霊の使節なのです。神の特使なのです。地上のいかなるものにも勝る力の代理人です。そして、それ故に又、お二人の責任も大きいということになります。

 私から申し上げることは、これまで通り突き進みなさい、ということだけです。ラクではないでしょう。が、進化しつつある魂はラクを求めないものです。挑戦を求めるものです。それが内在する力を表面に引き出し、それだけ霊的に強力となっていきます。苦難は必ずそれだけの甲斐があるものです。なさねばならないことが沢山あります。

手を差しのべてあげなければならない魂が大勢います。道を見失っている人が沢山います。そしてそういう人たちはお二人のような霊的真理に目覚めた方にしか救えないのです。

 これからも失敗はあるでしょう。何度もしくじることでしょう。だからこそ地上に生まれてきたのです。もしも学ぶことがなければ、この地上にはいらっしゃらないでしょう。地上は子供が勉強に来る学校なのです。完全な霊だったら物質に宿る必要はないでしょう。

 お二人が住んでおられる巨大な大陸(米国)では、宇宙の大霊である神よりも富の神であるマモンの方が崇拝の対象として大いにもてはやされています。だからこそお二人にはいろいろとしなければならないことがあるわけです。

どこで仕事をなさっても、必ずそこに霊の勢力が待機し、霊の光が輝いています。縁あってお二人のもとに連れてこられる魂の力となってあげることになります」


 会の終了後その感激をご主人が次のような文章に託された。

《予想していた通り、シルバーバーチ霊は深遠な叡智と大へんな謙虚さを感じさせた。語られたことは私たち夫婦にとって、いちいち身にしみて理解できることばかりだったが、私にはその裏側にもっと多くを語る実在感が感じられた。

見ていると、霊媒のバーバネル氏の存在は完全に消えてしまって、シルバーバーチ霊が支配しきっているという感じがした。この道の仕事は確かにうんざりさせられることがありがちである。シルバーバーチ霊は目的への信念を回復させる手段を提供してくれた》

 その日はもう一人、有名な霊媒で心霊治療家としても活躍している人(名前は公表されていない───訳者)のお嬢さんが招待されていた。親の仕事ぶりを見て自分も独自のスピリチュアリストチャーチを設立したいという願望を抱いている。そのことを念頭においてシルバーバーチがこう語った。

 「本日はあなたが最後になってしまったことをまず赦していただかねばなりません。でも〝後なる者が先になるべし〟(マタイ)という名言を述べた先人もいます。あなたを後まわしにしたのは決して礼を失したわけではありません。このほうが私の仕事ぶり、通信の仕方をよく見ていただくことになって勉強になると考えたのです。

 それはそれとして、本日こうして初めてお会いしてみて、あなたが少しも〝場違い〟の感じがしないのは、あなたが幸いにしてすでにこの道の初歩的教育を受けておられるからです。他の人たちにとって不思議で信じられないことが、あなたにとっては至って自然に思われるのです。

と言って、あなたもそれをそう簡単に信じたわけではありません。独立心に富むしっかりした魂はラクを求めないものです。あなたはあなたなりの道を切り開かねばなりませんでした。独自の道をたどり、自分の理性の命ずるところに従うには、それなりの独立心というものを発揮しなければなりませんでした。

 あなたも非常に恵まれたお方です。背後には私と親しい間柄にある偉大な霊が控えていて、あなたはその霊から多くの叡智をさずかっておられます。自覚なさっておられる以上に援助を受けておられます。

なのに尚あなたは現状にいらだちを覚え、ご自分の活動の場を設立したいという願望に燃えていらっしゃる。しかし今はまだその時期ではありません。あなたにはまだドアは開れておりません。が、いずれ開かれる時が来ます。

 ここにお出の皆さんはすでにご存じのことですが、あなたにも、ひとつ、人生の秘訣をお教えしましょう。

 ドアをノックしても開けてくれない時は無理してこじ開けようとしてはいけません。軽く押してみるのです。それでもし開いたら、あなたの進むべき道がそこにあるということです。閉め切られた道は通れません。絶対に開かないドアを叩き続けて無駄な時間と労力を浪費している人間が多すぎます。

 あなたは霊の力がどういう具合に働くかをすでにご存知です。あなたに必要なものが十分に用意されれば、あとはドアをそっと押してみるだけでよくなります。それまではどこにいても人のためになることを心掛けることです。手を差しのべるべき人はどこにでもいます。

けっして大げさな催しをする必要はないのです。悲しみの中にある人にやさしい言葉を掛けてあげるだけでもよろしい。沈んだ人に肩にそっと手を掛けて力づけてあげるだけでもよろしい。病の人に早く治りますようにと祈りの気持ちを送ってあげるだけでもよろしい。むろん実際に治療してあげるに越したことはありません。

 そうしたことがそれまで近づけずにいた霊の力とのつながりをもたせることになるのです。あなたがその触媒となるのです。その結果、あなたの行為が影響力の行使範囲をわずかでも広げたことになります。

 あなたの前途にはいろいろなことが用意されております。ですから、一日一日をすばらしい霊的冒険へのプレリュード(序曲・前ぶれ)として迎えることです。将来、きっとあなたは、与えられていく絶好期に欣喜雀躍なさることでしょう」


 S・A・G・B (the Spiritualist Association of Great Britain スピリチュアリストの総合施設で、十数名の霊能者が常駐し、各種の催しや人生相談にのっている。図書館や食堂も完備している───訳者) の事務長のロシター氏 Ralph Rossiter が奥さん同伴で招待された時のシルバーバーチの霊言も、ここで紹介しておくのが適切のようである。ロシター氏は度重なる病気と闘いながら霊的真理の普及に献身しておられる。

 「あなたや奥さんのような方が私との対話を希望してくださることは私にとって大きな喜びの源泉です。お二人は知識も経験も豊富でいらっしゃるので、私から改めて申し上げることはほとんどありません。

ただ、時には別の通路をへて届けられる言葉に耳を傾けるのも、お二人がご自分で思っていらっしゃるよりはるかに霊の力が身近かな存在であることを確認し自覚なさる上で助けになりましょう。

 日夜スピリチュアリズムの普及のために働いておられる方は、霊的真理があまりに身近かな存在であるために〝木を見て森を見ず〟の弊害に陥ることがあります。時には一服して、自分がどういう位置にあるかを確かめるのも良いことです。残念ながら地上には成果を記録する装置がありませんから、自分たちの努力によってどういうことが成就されつつあるかを正確に推し測ることが出来ないのです。

 あなたの協会には大勢の人が訪れ、そして帰って行きます。ある者は病気が癒えて、ある者は元気づけられて、ある者は啓発されて、逆にある者はがっかりして、ある者は何の反応もなしに帰って行きます。魂にその準備ができていなかったのですから止むを得ません。が、

そうしたことが絶え間なく繰り返されると、つい肝心な基本、すなわち魂に訴えるという目的を忘れてしまいがちです。大切なのは魂の内部に宿る神の火花を燃え立たせ、真の自我に目覚めさせることです。

 地上の悲劇は、霊的真理にまったく無知な人間が無数にいるというところにあります。みずから信心深いと思い込み、せっせと礼拝の場へ通っている人でも、霊的実在と何の関わりも持っていない人が大勢います。

と言うことは、真の豊かさと美しさ、物質という次元を超えた生き方がもたらしてくれる歓喜というものに、まったく無縁ということになります。

 そういう人たちは地上生活の目的が分かっておりません。地上を去るまでにしておかねばならないことについて何の予備知識も持ち合わせません。人生の価値観が間違っておりますから、優先させるものが間違っております。

視野のピントがずれております。物事の判断基準が狂っております。生活は不毛で味気なく、自我の開発などとうてい覚束なく、生きる目的というものがありません。いつも迷路の中に生きており、出口が見出せずにいます。

 あなた方の仕事はそうした地上界にあって一つの灯台となることです。ぐるぐると絶え間なく光線を放射し、それが闇を貫き、受け入れる用意のできた人に真理の在りかを教えてあげるのです。

いつも申し上げていることですが、地上生活の終点に来た時に、たった一人の魂にでも真の自我を見出させてあげることができていたら、それでその人生は十分に生き甲斐があったことになります。

 これまで、たった一人どころでなく数え切れない人々が、あなた方のおかげで生命の秘密を発見し、人生を十分に楽しみ、恐れることなく死後の生活に備えることが出来ていることを思えば、本当にしあわせな方であると言えます。

 叶えられることなら、あなたや同僚の方、それに、さんざん悪しざまに言われている霊媒が行っている仕事の偉大さが実感としてお解りいただければいいのですが・・・・・。あらゆる困難、さまざまな問題、幾多の辛苦、それに費用の問題を抱えながらも、あなたはよくぞそれらを切り抜けてこられました。これからもきっとやり抜かれることでしょう。 

 莫大な霊力と、それを使用して活動している大勢の進化せる霊の存在を知りさえすれば、それが得心していただけます。地上で為し得る最も偉大な仕事なのです。容易でないことは私もよく承知しております。しかし、何事も価値あるものは困難がつきものなのです。

 悲しいかな、数だけは沢山ある現代の教会にも、それはなし得ません。魂に感動を与えることはできません。内部の神性にカツを入れることはできません。が、神の使者には、たった一人でもそれができます。

生まれつき霊的能力を授かっているからです。霊覚を持ち合わせない宗教家は、ありきたりの説教と信条の繰り返しに頼るしかなく、便宜主義へと堕落します。霊的淵源からのインスピレーションとも啓示とも無縁なのです。

 肝心なことは、魂が真の自我を見出し全存在の源に触れることです。神が遠く離れた近づき難い存在ではなく自分の内部にあること、したがって困難や危機に遭遇した時に使用できる霊的な武器、力、貯え、潜在力がちゃんと備わっていることを知るべきです。

 それだけではありません。内部の莫大な潜在力とは別に、外部の無限の霊力の恩恵を受けることもできるのです。進化の階段を一つ一つ昇りながら、その一段ごとにその霊格に似合った霊が待機して援助の手を差しのべてくれるのです。これは大切な事実です。

 これまであなたがたがたどって来られた人生はラクではありませんでした。これからも決してラクではないでしょう。もしも私がラクな人生をお約束したら、それはウソを言うことになります。が、あなたはこの仕事をするために生まれて来られたのです。

支払わねばならない負債を背負って来られたのです。その栄光ある仕事の松明が今あなたに手渡されています。何としてもその明かりを灯し続けて、後を引き継ぐ人に手渡す時には一段と輝きを増しているようにして下さい」


 シルバーバーチの祈りから。

《内部に宿るあなたの霊こそ、私たちが何とかして発揮させてあげたいと願っているものでございます。それを発揮することによって初めて人間は神性をもつ存在としての限りない美質、豊かさ、光輝、威厳、壮大さ、気高さを真にわがものとすることが出来るのでございます。

 そうした資質を自覚することによって人間は自我意識を高め、自分を物的なものに縛りつけている拘束物の幾つかを切断し、未開発の精神と霊の豊かな遺産を手にすることが出来るのでございます。

かくしてインスピレーションと叡智と啓示と真理への窓を開くことになります。それらは高き世界からの恩寵としてこれまでも脈々と流れているのであり、人間の受容力に応じて受け入れられているものでございます。

 その流れは常に壮大にして崇高なる霊力を伴っております。霊力こそ生命の源泉であり、強力にして生命力にあふれ、病の人には健康を、衰弱せる人には元気を、迷える人には導きを、そして今なお暗闇の中にいる人には光明をもたらすのでございます》

Friday, May 9, 2025

シアトルの春 祝福されたる者よ、来たれ

The Life Beyond the Veil Vol. II  

The Highlands of Heaven by G. V. Owen



The Life Beyond the Veil
Vol. II The Highlands of Heaven
by G. V. Owen




 1 光り輝く液晶の大門      

 一九一三年 十二月 二九日 月曜日

 例の高地での体験についてはこれ以上は述べない。地上近くで生活する人間や景色について地上の言語で述べるのは容易であるが、上層界へ行くほど何かと困難が生じてくる。私の界は天界においても比較的高い位置にある。そして今述べたことはこの界のさらに高地での話題である。

それ故、前に述べたように、この界の景観も栄華も極めて簡略に、従って不十分な形でしか述べることが出来ない。そこでこれから差し当り今の貴殿にとって重要であり参考となる話題を取り上げようと思う。

 これは私が十界の領主の特命を受けて第五界へ旅立つことになった時の話である。その説明をしよう。

 私はその界の首都を訪ね、領主と面会し、そこで私の訪問の要件を聞かされることになっていた。領主にはすでに私の界の領主からの連絡が届いていたのである。また、私一人で行くのではなく、他に三人のお伴を付けて下さった。

 五界へ到着してその首都を見つけるのは至って簡単であった。曽てその界の住民であった頃によく見聞きしていたからである。それにしても、その後の久しい時の経過と、その間に数々の体験を経た今の私の目に、その首都は何と変わって映じたことであろう。

考えてもみよ。五界を後にして六界へ進み、さらに向上を続けてついにこの十界に至って以来、こうして再び五界へ戻るのはその時が初めてだったのである。

その途中の界層の一つ一つに活気あふれる生活があり、そこでの数々の体験が私を変え発達を促してきた。そして今、久方ぶりにこの界へ戻ってきたのである。

この界での生活は他の界ほど長くはなかったとはいえ、今の私の目には一見全てが物珍らしく映える。が、同時に何もかもが馴染みのあるものばかりである。

物珍らしく映るのは、私が第四界よりこの界へ向上して来た頭初、あまりの栄華に圧倒され目を眩まされた程であったが、今では逆にその薄暗さ、光輝の不足に適応するのに苦労するほどだからである。

 四人は途中の界を一つ通過する毎に身体を適応させて下りてきた。六界までそれを素早く行ったが、五界の境界内に入った時からは、そこの高地から低地へとゆっくりとした歩調で進みつつ、その環境に徐々に慣らしていった。

と申すのも、多分この界での滞在はかなりの長期に及ぶものとみて、それなりの耐久性を身に付けて仕事に当たるべきであると判断したからである。

 山岳地帯から平地へと下って行くのも、体験としては興味あるものであった。行くほどに暗さが増し、吾々は絶えず目と身体とを調整し続けねばならなかった。その時の感じは妙なものではあったが不愉快なものではなかった。そして少なくとも私にとっては全く初めての体験であった。

お蔭で私は、明るい世界から一界又は一界と明るさが薄れてゆく世界へ降りて行く時の、霊的身体の順応性の素晴らしさを細かく体験することとなった。

 貴殿にもしその体験が少しでも理解できるならば、ぜひ想像の翼をさらに広げて、こうして貴殿と語り合うために、そうした光明薄き途中の界層を通過して地上へ降りてくることがいかに大変なことであるかを理解して欲しいものである。

それに理解が行けば、人間との接触を得るために吾々がさんざん苦労し、その挙句にすべてが無駄に終わることが少なくないと聞かされても、あながち不思議がることはあるまい。

貴殿がもしベールのこちら側より観察することが出来れば、そのことを格別不思議とは思わないであろうが・・・・・・吾らにとってはその逆、つまり人間が不思議に思うことこそ不思議なのである。

 では都市について述べよう。

  位置は領主の支配する地域の中心部に近い平野にあった。大ていの都市に見られる城壁は見当たらない。が、それに代って一連の望楼が立ち並んでいる。さらに平野と都市の内部にもうまく配置を考えて点在している。

領主の宮殿は都市の縁近くに正方形に建てられており、その城門は特に雄大であった。

 さて、これより述べることは吾々上層界の四人の目に映った様子ではなく、この界すなわち第五界の住民の目に映じる様子と思っていただきたい。

 その雄大な門は液体の石で出来ている。文字どおりに受け取っていただきたい。石そのものが固くなくて流動体なのである。色彩も刻一刻と変化している。

宮殿内での行事によっても変化し、前方に広がる平野での出来ごとによっても変化し、さらにその平野の望楼との関連によっても変化する。

その堂々たる門構えの見事な美しさ。背景の正殿と見事に調和し、色彩の変化と共に美しさも千変万化する。その中で一個所だけが変わらぬ色彩に輝いている。

それが要石で、中央やや上部に位置し、愛を象徴する赤色に輝いていた。その門を通って中へ入るとすぐに数々の広い部屋があり、各部屋に記録係がいて、その門へ寄せられるメッセージや作用を読み取り、それを判別して然るべき方面へ届ける仕事をしている。

吾々の到着についてもすでに連絡が入っており、二人の若者が吾々を領主のもとへ案内すべく待機していた。

 広い道路を通って奥へ進むと、行き交う人々がみな楽しげな表情をしている。このあたりでは常にそうなのである。それを事さらに書くのは、貴殿が時おり、否、しばしば心の中では楽しく思ってもそれを顔に出さないことがあるからである。吾らにとっては、晴れの日は天気がよいと言うのと同じほど当たり前のことなのであるが・・・

 それから宮殿の敷地内の本館へ来た。そこが領主の居所である。

 踏み段を上がり玄関(ポーチ)を通ってドアを開けると、そこが中央広場(ホール)になっている。そこも正方形をしており、大門と同じ液状石の高い柱で出来ている。それらがまた大門と同じように刻一刻と色調を変え、一時として同じ色を留めていない。

全部で二二本あり、その一本一本が異なった色彩をしている。二本が同じ色を見せることは滅多にない。それがホール全体に快い雰囲気を与えている。それらが天井の大きな水晶のドームの美しさと融合するように設計されており、それが又一段と美しい景観を呈するのであった。

これは貴殿の想像に俟つよりほかはない。私の表現力の限界を超えているからである。

 吾々はそのホールで待つように言われ、壁近くに置かれている長椅子に腰を下ろして色彩の変化の妙味を楽しんでいた。見ているうちにその影響が吾々にも及び、この上ない安らぎと気安さを覚え、この古く且つ新しい環境にいてすっかり寛いだ気分になった。

やがてそのホールに至る廊下の一つに光が閃くのを見た。領主が来られたのである。

吾々の前まで来られるとお辞儀をされ、私の手を取って丁重な挨拶をされた。彼は本来は第七界に所属するお方であり、この都市の支配のためにこの界の環境条件に合わせておられるのであった。

至ってお優しい方である。吾々の旅の労をねぎらったあと、謁見の間へ案内して下さり、ご自分の椅子に私を座らせ、三人の供の者がその周りに、さらにご自分はその近くに席を取られた。

 すぐに合図があって、女性ばかりの一団が白と青の可憐な衣装で部屋へ入ってきて丁寧な挨拶をし、吾々の前に侍(はべ)った。

それから領主が私と三人の供に今回の招待の趣意を説明された。女性たちは吾々上層界の者の訪問ということで、ふだん身につけている宝石を外していた。が、その質素な飾りつけの中に実に可憐な雰囲気を漂わせ、その物腰は数界の隔たりのある吾々を前にした態度に相応しい、しとやかさに溢れていた。

 私はそれに感動を覚え、領主に話を進める前に許しを乞い、彼女たちのところへ下りて行って、一人一人の頭に手を置き祝福の言葉を述べた。その言葉に、そうでなくてもおずおずしていた彼女たちは一瞬とまどいを見せたが、やがて吾々見上げてにっこりと笑微(ほほえ)み、寛ぎの表情を見せた。

 さて、そのあとの会見の様子は次の機会としよう。この度はこの界層の環境と慣習を理解してもらう上でぜひ告げておかねばならないことで手一杯であった。この度はこれにて終わりとする。私はその女性たちに優しい言葉を掛け手を触れて祝福した。そして彼女たちも喜びにあふれた笑顔で私を祝福してくれた。

吾々はこうして互いに祝福し合った。こちらではそれが習慣なのである。人間もかくあるべきである。これは何よりも望ましいことである。

 そこで私も祝福をもって貴殿のもとを去ることとする。礼の言葉は無用である。何となれば祝福は吾々を通して父なる神より与えられるものであり、吾々を通過する時にその恩恵のいくばくかを吾々も頂戴するからである。そのこともよく銘記するがよい。他人を祝福することは、その意味で、自分自身を祝福することになることが判るであろう。 ♰


  
 2 女性ばかりの霊団       

 一九一三年十二月三十日  火曜日

 前回の続きである。
 女性の一団は私の前に立っていた。そこで私がこの度の訪問の目的を述べようとしたが、私自身にはそれが判らない。そこで領主の方へ目をやると、こう説明してくださった。

「この女性たちは揃ってこの界へ連れてこられた一団です。これまでの三つの界を一団となって向上して来た者たちです。一人として他の者を置き去りにする者はおりませんでした。進歩の速すぎる者がいると、遅れがちな者の手を取ってやるなどして歩調を合わせ、やっとこの界で全員が揃ったところです。

そして今この界での修養も終えて、さらに向上して行く資格もできた頃と思われるのですが、その点についてザブディエル様のご判断をお聞かせいただきたい。彼女たちはその判断のために知恵をお借りしたいのです。

と申しますのも、十分な資格なしに上の界へ行くと却って進歩を阻害されることが、彼女たちもこれまでの体験で判ってきたのです。」

 この詳しい説明を聞いて私自身も試されていることを知った。私の界の領主がそれを故意に明かさずにおいたのは、こうして何の備えもなしに問題に直面させて、私の機転を試そうという意図があったのである。

これはむしろ有難いことであった。なぜならば、直面する問題が大きいほど喜びもまた大きいというのがこちらの世界の常であり、領主も、私にその気になれば成就する力があることを見抜いた上での配慮であることを知っておられるからである。

 そこで私は速やかに思考をめぐらし、すぐさま次のような案を考えついた。女性の数は十五人である。そこでこれを三で割って五人ずつのグループに分け、すぐさま都市へ出て行って各グループ一人ずつ童子を連れて来ること。その際にその子がぜひ知っておくべき教訓を授け、それがきちんと述べられるようにしておく、というものであった。

 さて、話は進んで、各グループが一人ずつ計三人の童子を連れて帰って来た。男児二人と女児一人であった。

 全員がほぼ時を同じくして入ってきたが、全く同時ではなかった。そのことから、彼女たちが途中で遭遇することがなかったことを察した。と言うのは、彼女たちの親和力の強さは、いったん遭遇したら二度と離れることが出来ないほどのものだったからである。

私は三人の子どもを前に立たせ、まずその中の男の子にこう尋ねた。「さあ坊や、あの方たちからボクがどんなことを教わったか、この私にも教えてくれないだろうか。」

 この問いにその子はなかなかしっかりとこう答えた。

 「お許しを得て申し上げます。ボクは地球というところについて何も知らずにこちらへ来ました。お母さんがボクに身体を地上に与える前にボクの魂を天国へ手離したからです。

それでこのお姉さま方が、ここへ来る途中でボクに、地球がこちらの世界の揺りかごであることを知らねばならないと教えて下さいました。地球には可哀そうな育てられ方をしている男の子が大勢います。

そしてその子たちは地球を去るまではボクたちのような幸せを知りません。でも、地球もこの世界と同じように神様の王国なので、あまり可哀そうな目に遭っている子や、可哀そうな目に遭わせている親のために祈ってあげないといけません。」

 この子は最後の言葉を女性たちから聞かされてからずっと当惑していたのか、そのあとにこう付け加えた。「でも、ボクたちはいつもお祈りをしています。それがボクたちの学校の教課の一つなのです。」

 「そうだね、それはなかなかよい教課だね」───私はそう言い、さらに、それは学校の先生以外の人から教えられても同じように立派な教えであることを述べて、今の返答がなかなかよく出来ていたと褒めてあげた。

 それからもう一人の男の子を呼び寄せた。その子は私の足もとへ来て、その足を柔らかい可愛らしい手で触ってから、愛敬のある目で私の顔を見つめ「お許しを頂き、優しいお顔の天使さまに申し上げます」と述べ始めた。が私は、もう感動を抑え切れなくなった。

私は屈み込んでその子を抱いて膝に置き頬に口づけをした。私の目から愛の喜びの涙が溢れた。その様子をその子は素直な驚きと喜びの混ざり合った表情で見つめていた。

私が話を続けなさいと言うと、下におろしてくれないと話しにくいと言う。これにはこんどは私の方が驚いて慌てて下ろしてあげた。

 するとその子は再び私の衣服の下から覗いている足に手を置き、ひどく勿体ぶった調子で、先の言葉をきちんとつないで、こう述べた。

 「天使のおみ足は見た目に美しく、触れた手にも美しく感じられます。見た目に美しいのは天使が頭と心だけでなく、父なる神への仕え方においても立派だからであり、触れた手に美しいのは、優しくそっと扱われるからです。

過ちを犯した人間が心に重荷を感じている時にはそっとお諫(いさ)めになり、悲しみの中にいる人をそっと抱いてこの安らぎと喜びの土地へお連れになります。

ボクたちもいつかは天使となり、子供でなくなります。大きく、強く、そして明るくなり、たくさんの叡智を身に付けます。その時にそうした事を思い出さないといけません。

なぜなら、その時は霊格の高いお方が、勉強と指導を兼ねてボクたちを地上へ派遣されるからです。ボクたちのように早くこちらへ来た者には必要のないことでも、地上にはそれを必要としている人が大勢いるのです。

お姉さま方からそのように教わりました。教わった通りであると思います。」

 童子の愛らしさには私はいつもほろりとさせられる。正直を申して、その時もしばし頭を下げ、顔を手でおおい、胸の高まりと苦しいほどの恍惚状態に身を任せていたのである。それから三人の子供を呼び寄せた。

三人とも顔では喜びつつも足は遠慮がちに近づいて来た。そして二人の男の子を両脇に、女の子を膝の前に跪かせた。三人に思いのたけの情愛を込めて祝福の言葉を述べ、可愛らしくカールした頭髪に口づけした。

それから二人の男の子を両脇に立たせ、女の子を膝に乗せて、お話を聞かせてほしいと言った。

「で・は・お・ゆ・る・し・を・い・た・だ・い・て」と言い始めたのであるが、一語一語を切り離して話しますので、私は思わず吹き出してしまった。

と言うのも、さきの男の子の時のように、私が感激のあまり涙を流して話が中断するようなことにならないように、〝優しいお顔の天使さま〟といった言い方を避けようとする心遣いがありありと窺えたからである。

「お嬢ちゃん、あなたはお年よりも身体の大きさよりも、ずっとしっかりしてますね。きっと立派な女性に成長して、その時に置かれる世界で立派な仕事をされますよ。」

 私がそう言うと、けげんな顔で私を見つめ、それから、まわりで興味深くその対話を見つめている人たちを見まわした。私が話を続けるように優しく促すと、さきの男の子と同じようにきちんと話を継いでこう話した。

 「女の子はその懐(ふところ)で神の子羊を育てる母親となる大切なものです。でも身体が大きくそして美しくなるにつれて愛情と知恵も一緒に成長しないと本当の親にはなれません。ですから、あたしたち女の子は、宿されている母性を大切にしなくてはなりません。

それは神様があたしたちがお母さんのお腹の中で天使に起こされずに眠っている間に宿して下さり、そしてこの天国へ連れてきて下さいました。

あたしたちの母性が神聖なものであることには沢山の理由があります。その中でも一ばん大切なのは次のことです。

あたしたちの救いの主イエス・キリスト(と言って、くぼみのある可愛らしい両手を組み合わせて恭(うやうや)しく頭を下げ、ずっとその恰好で話を続けた)も女性からお生まれになり、お生みになったその母親を愛され、その母親もイエス様を愛されたことです。

あたしたちは今お母さんがいなくても、お母さんと同じように優しくしてくださる人がいます。でも、あたしたちと同じようにお母さんがいなくて、しかも優しくしてくれる人がいない人のことを、大きくなってから教わるそうです。

その時に、自分が生んだ子供でない子供で、今のあたしのように、お母さんの代わりをしてくれる人を必要としている子供たちのお母さん代わりをする気があるかどうかを聞かれます。その時あたしははっきりとこう答えるつもりです。

〝どうかこのあたしをこの明るい世界からもっと暗い世界へ行かせて下さい。もしあたしにその世界の可哀そうな子供たちを救い育てる力があれば、あたしはその子供たちと共に苦しみたいのです。なぜならば、その子供たちも主イエス様の子羊だからです。

その子供たちのためにも、そして主イエス様のためにも、あたしはその子供たちを愛してあげたいと思います〟と。」

 私はこの三人の答えに大いに感動させられた。全部を聞き終わるずっと前から、これらの女性たちは上級界へ向上していく資格が充分あるとの認識に到達していた。

 そこでこう述べた。「皆さん。あなた方は私の申し付けたことを立派に果たされました。三人の子供もよくやりました。とくに私が感じたことは、あなた方はもうこの界で学ぶべきものは十分に学び、次の界でも立派になって行けるであろうということです。

同時にあなた方は、やはりこののちも、これまで同様いっしょに行動されるのがよいと判断しました。三人の子供を別々に教えても答えは同じ内容───地上の子供たちのことと、その子供たちの義務のことでした。これほど目的の一致するあなた方は、一人一人で生きるよりも協力し合った方が良いと思います。」

 そこで全員に祝福を与え、間もなく吾々四人が帰る時にいっしょに付いて来るように言った。

 実はその時に言うのを控え、いっしょに帰る途中で注意したことが幾つかあった。その方が気楽に話せると考えたからである。その一つは、彼女たち十五人が余りに意気投合しすぎるために、三人の子供への教えの中に義務と奉仕の面ばかりに偏りが見られることである。

三人の子供ならびに死産児としてこちらへ来る子供の全てが、いずれは地上の子供たちの看護と守護の仕事に携わることになるが、その子どもたちは本来なら地上で為さねばならない他のもろもろのことを失っていることを知らなければならない。

さらにもう一つは、実際に地上へ赴くのは彼らの中のごく僅かな数に過ぎないということである。その理由は性質的にデリケートすぎるということで、そういう子どもには実際に地上に来るよりも、ほかにもっと相応しい仕事があるのである。

 が、今はこれ以上は述べないことにする。神の愛と祝福が貴殿と貴殿の子羊とその母親の上にあらんことを、神の王国にいる守護者は優しき目をもって地上の愛する者を見つめ、こちらへ来た時に少しでも役に立つものを身につけさせんと心を砕いている。このことをよく心に留め、それを喜びとするがよい。 



 3 女性団、第六界へ迎えられる   

 一九一三年十二月三一日 水曜日

 話を進める前に、前回に述べた面会が行われた都を紹介しておこう。と言うのは、私の知る限りでは、第五界にはこの界特有の特徴が幾つかあるのである。

例えば大ていの界──全てとは言わないが──には中心となる都が一つあるのみであるが、この五界には三つあり、従って三人の領主がおられることになる。

 この三重統治の理由は、この界の置かれた位置が、ここまで辿り着いた者がこのあとどちらの方向に進むかについて重大な選択を迫られる位置にあるからである。一種の区分所のようなものであり、住民はここでの生活中にそれぞれに相応しいグループに配属され、最も相応しい仕事に携わるべく上層界へと進む。

 三つの都は途方もなく広い平坦な大陸の境界域近くに位置し、その三つを線で結ぶと二等辺三角形となる。それ故、それぞれ都から出る何本かの広い道路が扇状に一直線に伸びている。こうして三つの都は互いに連絡し合っている。その三角形の中心に拝殿がある。

森の中央の円形広場に建てられている。各都市から伸びる広い道路は途中で互いに交叉しており、結局全てがこの拝殿とつながっていることになる。そうして、折ある毎に三つの都市の代表を始めとして、その統治下にある住民の代表が礼拝を捧げるために一堂に会する。

 その数は何万あるいは何十万を数え、見るからに壮観である。三々五々、みな連れだって到着し、広場に集合する。そこは広大な芝生地である。そこで大群集が合流するわけであるが、五界にある全ての色彩が渾然一体となった時の美しさは、ちょっとした見ものである。

 が、それ以上に素晴らしいのは多様性の中に見られる一体感である。それぞれの分野でもうすぐ次の界へ向上して行く者がいて、決して一様ではない。が、その大集団全体を通じて〝愛の調べ〟が脈うっている。そしてそれが不変不朽であり、これよりのち各自がいかなる道を辿ろうと、この広き天界のいずこかにおいて相見(まみ)えることを可能にしてくれることを全員が自覚している。

それ故誰一人として、やがて訪れる別れを悲しむ者はいない。そのようなものは知らないのである。愛あるところには地上でいう別れも、それに伴う悲しみもない。それは〝人類の堕罪〟さえなければ、地上においても言えるところである。

人間がその資質を取り戻していくのは容易ではあるまい。が、不可能ではない。なぜなら、今は目覚めぬままであるとは言え、よくよくの例外を除いては、その資質は厳然と人間に宿されているからである。

 さて吾々は旅の次の段階、すなわち例の女性の一団を第六界へと送り届け、そこの領主へ引き渡す用事へ進まねばならぬ。

 いよいよ第六界へ来ると、首都から少し離れた手前で歓迎の一団の出迎えを受けた。あらかじめ第五界との境界の高地において到着の報を伝えておいたのである。歓迎の一団の中には女性たちの曽ての知友も混じっており、喜びと感謝のうちに旧交を温めるのであった。

 女性たちのしばしの住処となるべき市(まち)に到着すると、明るい衣装をまとった男女に僅かばかりの子供の混じった市民が近づいて来るのが見えた。あらかじめ指定しておいた道である。両側に樹木が生い茂り、ところどころで双方の枝が頭上で重なり合っている。

一行はそうした場所の一つで足を止め、吾々の到着を待った。あたりはあたかも大聖堂の如く、頭上高く木の葉が覆い、その隙間を通して差し込む光はあたかも宝石の如く,そして居合わせる者はあたかも聖歌隊の如くであり礼拝者の如くでもあった。

出迎えの人々は新参の女性たちのための花輪と衣装と宝石を手にしていた。それを着飾ってもらうと、それまでのくすんだ感じの衣装が第六界に相応しい新しい衣装に負けて立ちどころに消滅した。それから和気あいあいのうちに全員が睦み合ったところで、出迎えの市民が市の方へ向きを変え、ある者は手にしていた楽器で行進曲を演奏し、ある者は歌を合唱しつつ行進しはじめた。

沿道にも塔にも門前にも市民が群がって歓迎の挨拶を叫び、喜びを一層大きなものにしていった。

新参者は皆こうした体験を経て自分たちへ向けられる歓迎の意向を理解していくのである。そして界を二つ三つと経ていくうちに新しい顔と景色の奇異な点が少しも恐れる必要がないこと──全てが愛に満ちていることを悟るに至るのである。

 さて、門を通過して市中へ入ると、まず聖殿へ向かった。見事な均整美をした卵形の大きな建物で、その形体は二つの球体が合体して出来たものを思わせる。

一つは愛を、もう一つは知識を意味する。それが内部の塔を中央にして融合しており、その組み合わせが実に美事で巧みなのである。照明は先日叙述した液晶柱のホールと同じく一時として同じ色彩を見せず、刻一刻と変化している。全体を支配しているのはたったの二色──濃いバラ色と、緑と青の混じったスミレ色である。

 やがて新参の女性たちが中へ案内された。中にはすでに大会衆が集まっている。彼女たちは中央の壇上に案内され、そこにしばらく立っていた。

すると聖殿の専属の役人がリーダーの先導で神への奉納の言葉を捧げ、すぐそのあと会衆が唱和すると、場内に明るい光輝をした霧状の雲が発生し、それが彼女たちのまわりに集結して、この第六界の雰囲気の中に包み込んでしまった。

 やがてそれが上昇し、天蓋の如く頭上に漂ったが、彼女たちは深く静かな恍惚状態のままじっと立ちつくし、その美しい雲がさらに上昇して他の会衆まで広がるのを見ていた。

すると今度は音楽が聞こえてきた、遥か遠くから聞こえてくるようであったが、その建物の中に間違いなかった。そのあまりの美しさ、柔らかさ、それでいて力強さにあふれた旋律に、吾々は神の御前にいるような崇高さを覚え、思わず頭を垂れて祈り、神の存在を身近かに感じるのであった。

 やがて旋律が終わったが、余韻はまだ残っていた。それはあたかも頭上に漂う光輝性の雲の一部になり切っているように感じられた。実は、貴殿には理解できない過程を経てそれは、真実、雲の一部となっていたのである。

そしてその輝く雲と愛の旋律とが一体となって吾々にゆっくりと降りてきて吾々の身体を包み込むと、聖なる愛の喜びに全会衆が一体となったのであった。

私を除く全会衆にはそれ以上の顕現は見えなかった。が、修行をより長く積んできた私には他の者に見えないものが見え、上層界からの参列者の存在にも気づいていた。

また旋律の流れくるところも判っていた。祝福の時に授けられる霊力がいかなる種類のものであるかも判っていた。それでも他のすべての者はこの上なく満足し、ともに幸せを味わった。十五人の女性たちはいうまでもなかった。



──その間あなたは何をなさっていたのでしょうか。そこではあなたが一ばん霊格が高かったのではありませんか。

 ただお世話をするために同行したに過ぎない私自身について語るのは感心しない。この度の主役は十五人の女性であった。私の界からは他に三名の者が同行し、それより上の界の者は一人もいなかった。吾々四人に全ての人が友好的で親切で優しくしてくれた。

それが吾々にとって大いなる幸せであった。いよいよ十五人が落着くべき住処へ案内されることになった時、彼女たちはぜひもう一度礼を述べたいといって戻ってきて、感謝の言葉を述べてくれた。

吾々も言葉を返し、そのうち再び戻ってその後の進歩の様子を伺い、多分、助言を与えることになろうと約束した。彼女たちからの要請でそうなったのである。

そこに彼女たちの立派な叡智が窺えた。私もそうすることが彼女たちにとって大きな力となるものと確信する。こうした形での助言は普通はあまり見られない。そうたびたび要請されるものではないからである。

 「真理は求める者には必ず与えられる」──このイエスの言葉は地上と同じくこちらの世界にも当てはまることが、これで判るであろう。この言葉の意味を篤と考えるがよい。  ♰



 4 イエス・キリストの出現       

 一九一四年一月二日  金曜日

 ここで再び私の界へ心の中で戻ってもらいたい。語り聞かせたいことが幾つかある。神とその叡智の表われ方について知れば知るほど吾々は、神のエネルギーが如何に単純にして同時にいかに複雑であるかを理解することになる。

これは逆説的であるが、やはり真実なのである。単純性はエネルギーの一体性とそのエネルギーの使用原理に見出される。

 例えば創造の大事業のために神から届けられるエネルギーの一つ一つは愛によって強められ、愛が不足するにつれて弱められていく。この十界まで辿りつくほどの者になれば、それまで身につけた叡智によって物事の流れを洞察することが可能となる。

〝近づき難き光〟すなわち神に向けて歩を進めるにつれて、全てのものが唯一の中心的原理に向かっており、それがすなわち愛であることが判るようになる。愛こそ万物の根源であることを知るのである。

 その根源、その大中心から遠ざかるにつれて複雑さが増す。相変わらず愛は流れている。が、創造の大事業に携わる霊の叡智の低下に伴い、必然的にそれだけ弱められ、従って鮮明度が欠けていく。

その神の大計画のもとに働く無数の霊から送られる霊的活動のバイブレーションが物的宇宙に到達した時、適応と調整の度合が大幅に複雑さを増す。

この地上にあってさえ愛することを知る者は神の愛を知ることが出来るとなれば、吾々に知られる愛がいかに程度の高いものであるか、思い半ばに過ぎるものであろう。

 しかし、吾々がこれより獲得すべき叡智はある意味ではより単純になるとは言え、内的には遥かに入り組んだものとなる。なぜならば吾々の視野の届く範囲が遥かに広大な地域にまで及ぶからである。

一界一界と進むにつれて惑星系から太陽系へ、そして星団系へと、次第に規模が広がっていく世界の経綸に当たる偉大な霊団の存在を知る。その霊団から天界の広大な構成について、あるいはそこに住む神の子について、更には神による子への関わり、逆に子による神への関わりについて尋ね、そして学んでゆかねばならない。

 これで、歩を進める上では慎重であらねばならないこと、一歩一歩の歩みによって十全な理解を得なければならないことが判るであろう。吾々に割り当てられる義務はかぎりなく広がってゆき、吾々の決断と行為の影響が次第に厳粛さを帯びてゆき、責任の及ぶ範囲が一段と広い宇宙とその住民に及ぶことになるからである。

 しかし今は地球以外の天体には言及しない。貴殿はまだそうした地球を超えた範囲の知識を理解する能力が十分に具わっていない。

私および私の霊団の使命は、地球人類が個々に愛し合う義務と、神を一致団結し敬愛する義務についての高度な知識を授け、さらに貴殿のように愛と謙虚さをもって進んで吾々に協力してくれる者への吾々の援助と努力──つまり吾々はベールのこちら側から援助し、

貴殿らはベールのそちら側で吾々の手となり目となり口となって共に協力し合い、人類を神が意図された通りの在るべき姿──本来は栄光ある存在でありながら今は光乏しい地上において苦闘を強いられている人間の真実の姿を理解させることにあるのである。

 では私の界についての話に戻るとしよう。

 ある草原地帯に切り立つように聳える高い山がある。あたかも王が玉座から従者を見下ろすように、まわりの山々を圧している。その山にも急な登り坂のように見える道があり、そのところどころに建物が見える。四方に何の囲いもない祭壇も幾つかある。

礼拝所もある。そして頂上には全体を治める大神殿がある。この大神殿を舞台にして時おりさまざまな〝顕現〟が平地に集結した会衆に披露される。


──前に話されたあの大聖堂のことですか(五章4)

 違う。あれは都の中の神殿であった。これは〝聖なる山〟の神殿である。程度において一段と高く、また目的も異なる。そこの内部での祈りが目的ではなく、平地に集結した礼拝者を高揚し、強化し、指導することを主な目的としている。

専属の聖職者がいて内部で祈りを捧げるが、その霊格はきわめて高く、この十界より遥かに上の界層まで進化した者が使命を帯びて戻って来た時にのみ、中に入ることが許される。

 そこは能天使(※)の館である。すでにこの十界を卒業しながら、援助と判断力を授けにこの大神殿を訪れる。そこには幾人かの天使が常駐し、誰ひとり居なくなることは決してない。が、私は内部のことは詳しくは知らない。

霊力と崇高さを一団と高め、十一界、十二界と進んだ後のこととなろう。(※中世の天使論で天界の霊的存在を九段階に分けた。ここではその用語を用いているまでで、用語そのものに拘わる必要はない。──訳者)

 さて平地は今、十界の全地域から召集された者によって埋め尽くされている。地上の距離にしてその山の麓から半マイルもの範囲に亘って延々と群がり、その優雅な流れはあたかも〝花の海〟を思わせ、霊格を示す宝石がその動きに伴ってきらきらと輝き、色とりどりの衣装が幾つもの組み合わせを変えて綾を織りなしてゆく。

そして遠く〝聖なる山〟の頂上に大神殿が見える。集まった者たちは顕現を今や遅しと期待しつつ、その方へ目をやるのであった。

 やがてその神殿の屋根の上に高き地位(くらい)を物語る輝く衣装をまとった一団が姿を現わした。それから正門と本殿とをつなぐ袖廊(ポーチ)の上に立ち並び、そのうちの一人が両手を上げて平地の群集に祝福を述べた。

その一語一語は最も遠方にいる者にも実に鮮明に、そして強い響きをもって聞こえた。遠近に関わりなく全員に同じように聞こえ、容姿も同じように鮮明に映じる。

それから此の度の到来の目的を述べた。それは、首尾よくこの界での修行を終え、さらに向上していくだけの霊力を備えたと判断された者が間もなく第十一界へ旅立つことになった。そこで彼らに特別な力を授けるためであるという。

 その〝彼ら〟が誰であるのか──自分なのか、それとも隣にいる者なのか、それは誰にも判らない。それはあとで告げられることになった。そこで吾々はえも言われぬ静寂のうちに、次に起きるものを待っていた。ポーチの上の一団も無言のままであった。

 その時である。神殿の門より大天使が姿を現わした。素朴な白衣に身を包んでいたが、煌々と輝き、麗わしいの一語に尽きた。頭部には黄金の冠帯を付け、足に付けておられる履き物も黄金色に輝いていた。

腰のあたりに赤色のベルトを締め、それが前に進まれるたびに深紅の光を放つのであった。右手には黄金の聖杯(カリス)を捧げ持っておられる。

左手はベルトの上、心臓の近くに当てておられる。吾々にはその方がどなたであるかはすぐさま知れた。他ならぬイエス・キリストその人なのである。(※)いかなる形体にせよ、あるいは顕現にせよ、愛と王威とがこれほど渾然一体となっておられる方は他に類を求めることが出来ない。

その華麗さの中に素朴さを秘め、その素朴さの中に威厳を秘めておられる。それらの要素が、こうして顕現された時に吾々列席者の全ての魂と生命とに秘み込むのを感じる。

そして顕現が終了した後もそれは決して消えることなく、いつまでも吾々の中に残るのである。(※その本質と地上降誕の謎に関しては第三巻で明かされる。──訳者)

 今そのイエス・キリストがそこに立っておられる。何もかもがお美しい。譬えようもなくお美しい。甘美にして優雅であり、その中に一抹の自己犠牲的慈悲を漂わせ、それが又お顔の峻厳な雰囲気に和みを添えている。

その結果そのお顔は笑顔そのものとなっている。といって決して笑っておられるのではない。そしてその笑みの中に涙を浮かべておられる。悲しみの涙ではない。

己の喜びを他へ施す喜びの涙である。その全体の様子にそのお姿から発せられる実に多種多様な力と美質が渾然一体となった様子が、側に控える他の天使の中にあってさえ際(きわ)立った存在となし、まさしく王者として全てに君臨せしめている。

 そのイエス・キリストは今じっと遠くへ目をやっておられる。吾々群集ではない。吾々を越えた遥か遠くを見つめておられる。やがて神殿の数か所の門から一団の従者が列をなして出てきた。男性と女性の天使である。その霊格の高さはお顔と容姿の優雅さに歴然と顕れていた。

 私の注目を引いたことが一つある。それを可能なかぎり述べてみよう。その優雅な天使の一人一人の顔と歩き方と所作に他と異なる強烈な個性が窺われる。同じ徳を同じ形で具えた天使は二人と見当たらない。霊格と威光はどの方もきわめて高い。が、一人一人が他に見られない個性を有し、似通った天使は二人といない。

その天使の一団が今イエス・キリストの両脇と、前方の少し低い岩棚の上に位置した。するとお顔にその一団の美と特質と霊力の全てが心地よい融和と交わりの中に反映されるのが判った。一人一人の個性が歴然と、しかも渾然一体となっているのが判るのである。

さよう、主イエスは全ての者に超然としておられる。そしてその超然とした様子が一層その威厳を増すのである。

 以上の光景を篤と考えてみてほしい。このあとのことは貴殿が機会を与えてくれれば明日にでも述べるとしよう。主イエスのお姿を私は地上を去ってのち一度ならず幾度か拝してきたが、そこには常に至福と栄光と美とが漂っている。

常に祝福を携え、それを同胞のために残して行かれる。常に栄光に包まれ、それが主を高き天界の玉座とつないでいる。そしてその美は光り輝く衣服に歴然と顕れている。

 しかも主イエスは吾々と同じく地上の人間と共にある。姿こそお見せにならないが、実質となって薄暗い地上界へ降り、同じように祝福と栄光と美をもたらしておられる。が、そのごく一部、それもごく限られた者によって僅かに見られるに過ぎない。

地球を包む罪悪の暗雲と信仰心の欠如がそれを遮るのである。それでもなお主イエスは人間と共にある。貴殿も心を開かれよ。主の祝福が授けられるであろう。  ♰



 
 5 ザブディエル十一界へ召される   

 一九一四年一月三日  土曜日

主イエスは黙したまましばし恍惚たる表情で立っておられた。何もかもがお美しい。やがて天使団に動きが生じた。ゆっくりと、いささかも急ぐ様子もなく、その一団が天空へ向けて上昇し、イエスを中心にして卵型に位置を取った。後部の者は主より高く、前方の者は主の足より下方に位置している。かくして卵形が整うと、全体が一段と強烈な光輝を発し、吾々の目にはその一人一人のお姿の区別がつかぬほどになった。

今や主の周りは光輝に満ち満ちている。にもかかわらず主の光輝はそれよりさらに一段と強烈なのである。但し、主の足元のすぐ前方に一個所だけ繋がっていないところがある。つまり卵形の一番下部に隙間が出来ているのである。

 その時である。主が左手を吾々の方へ伸ばして祝福をされた。それから右手のカリスを吾々の方へ傾けると、中から色とりどりの色彩に輝く細い光の流れがこぼれ出た。

それが足もとの岩に落ち、岩の表面を伝って平地へと流れ落ちて行く。落ちながら急速に容積を増し、平地に辿り着くと一段と広がり、なおも広がり続ける。今やそれは光の大河となった。その光に無数の色彩が見える。

濃い紫から淡いライラック、深紅から淡いピンク、黄褐色から黄金色等々。それらが大河のそこここで各種の混合色を作りつつ、なおも広がり行くのであった。

  かくしてその流れは吾々の足もとまで来た。吾々はただその不思議さと美しさに呆然として立ちつくすのみであった。今やその広大な平野は光の湖と化した。が、吾々の身体はその中に埋没せず、その表面に立っている。だが、足もとを見つめても底の地面まで見通すことはできない。あたかも深い深い虹色の海のような感じである。

しかも吾々は地面に立つようにその表面にしっかりと立っている。が、表面は常に揺らめき、さざ波さえ立てている。それが赤、青、その他さまざまな色彩を放ちつつ吾々の足元を洗っている。何とも不思議であり、何とも言えぬ美しさであった。

  やがて判ってきたことは、その波の浴び方が一人一人違うことであった。群集のところどころで自分が他と異なるのに気づいている者がいた。そう気づいた者はすぐさま静かな深い瞑想状態に入った。側の者の目にもそれが歴然としてきた。

まず周囲の光の流れが黄金色に変わり、それがまず踝(くるぶし)を洗い、次に液体のグラスのような光の柱となって膝を洗い、更に上昇して身体全体が光の柱に囲まれ、黄金色の輝きの真っ只中に立ちつくしているのだった。

頭部には宝石その他、それまで付いていたものに代って今や十一個の星が付いている。それまた黄金色に輝いていたが、流れの黄金色より一段と強烈な輝きを発し、あたかも〝選ばれし者〟を飾るために、その十一個の星に光が凝縮されたかのようであった。

その星の付いた冠帯が一人一人の頭部に冠せられ、両耳の後ろで留められていた。かくして冠帯を飾られた者はその輝きが表情と全身に行き亘り、他の者より一段と美しく見えるのであった。

 そこで主がカリスを真っ直ぐに立てられた。と同時に流れが消えた。光の流れにおおわれていた岩も今やその岩肌を見せている。平地も次第に元の草原の姿を現わし、ついに光の海は完全に消滅し、吾々群集は前と同じ平地の上に立っていた。

 さて、その〝選ばれし者〟のみが最後まで光輝に包まれていたが、今はもうその光輝も消滅した。が、彼らはすでにもとの彼らではなかった。

永遠に、二度ともとに戻ることは無いであろう。表情には一段と霊妙さが増し、身体もまた崇高さを加え、衣装の色調も周りの者に比して一段と明るさを加え、異った色彩を帯びていた。十一個の星は相変わらず光り輝いている。包んでいた光の柱のみが今は消滅していた。

 その時である。〝聖なる山〟の神殿からもう一人の天使が姿を現わし、優しさを秘めた力強い声で、星を戴いたものはこの山の麓まで進み出るように、と言われた。それを聞いて私を含めて全員が集結し───実は私も星を戴いた一人だったのである───そして神殿の前に立たれる主イエスのお姿を遥かに見上げながら整列した。

 すると主がおよそ次のような趣旨のことを述べられた。「あなた方は託された義務をよくぞ果たされた。父なる神と余に対し、必ずしも完璧とは言いかねるが、出来うるかぎりの献身を為された。これより案内いたす高き界においても、これまでと変わらぬ献身を希望する。では、ここまで上がって来られたい。

あなた方を今や遅しと待ち受ける新たな館まで案内いたそう。さ、来るがよい。」

 そう言われたかと思うと、すぐ前に広い階段が出来あがった。一ばん下は吾々の目の前の平野にあり、一ばん上は遥か山頂に立たれる主の足元まで伸びている。その長い階段を吾々全員が続々と登り始めた。数にして何万人いたであろうか。

が、かなりの位置まで登って平野を見下ろして別れの手を振った時、そこにはそれに劣らぬ大群集が吾々を見上げていた。それ程その時の群集は数が多かったのである。

 かくして吾々全員が神殿の前の広場に勢揃いした時、主が下に残った群集へ向けて激励と祝福を述べられた。仮に吾々と共に召されなかったことを悲しんだ者がいたとしても、私が見下ろした時は、そこには悲しみの表情は跡形もなかった。

主イエス・キリストの在(ましま)すところに誰一人悲しむ者はあり得ず、ひたすらにその大いなる愛と恩寵を喜ぶのみである。

 その時吾々と同じ神殿の前から幾人かの天使が階段を降り始めた。そしてほぼ中途の辺りで立ち止まった。全員が同じ位置まで来ると〝天に在す栄光の神〟を讃える感謝の賛美歌を斉唱した。平地の群集がこれに応えて交互に斉唱し、最後は大合唱となって終わった。

 聖歌隊が再び上がって来た。そして吾々と同じ場所に立った。その時はすでに階段は消滅していた。どのようにして消えたか、それは私にも判らなかった。

見た時はもうすでにそこに無かったのである。そこで主が両手をお上げになって平地の群集に祝福を与えた。群集はただ黙って頭を垂れていた。それからくるりと向きを変えられて神殿の中へお入りになった。吾々もその後に続いたのであった。




 ザブディエル最後のメッセージ

 さて、私の同志であり、友であり、私が守護を託されている貴殿に、最後に申し置きたいことがある。別れの挨拶ではない。これよりのちも私は常に貴殿と共にあり、貴殿の望みに耳を傾け、そして答えるであろう。

いついかなる時もすぐ近くに居ると思うがよい、たとえ私の本来の住処が人間の距離感では遥か彼方にあっても、吾らにとってはすぐ側に居るのも同然であり、貴殿の考えること望むことそして行うことにおいて、常に接触を保ち続けている。

なぜなら、私にはその全てについて評価を下す責務があるからである。それ故、もしも私が友として援助者として貴殿に何らかの役に立ってきたとすれば、私が下した評価において貴殿が喜ぶように私も貴殿のことを喜んでいるものと心得るがよい。

七つの教会の七人の天使のこと(七章2)を思い出し、私の立場に思いを馳せてほしい。

更に又、いずれの日か貴殿も今の私と同じように、自分の責任において保護し指導し監視し援助し、あるいは人生問題に対処し、正しい生き方を教唆すべき人間を託されることになることを知りおくがよい。

では祝福を。もしかして私は再び貴殿と語る手段と許しとを授かることになるかも知れない。同じ手段によるかも知れないし、別の簡単な手段となるかも知れない。それは私も今は何とも言えない。貴殿の選択に任されるところが多いであろう。

ともあれ、何事が起ころうと常に心を強くもち、辛抱強く、あどけない無邪気さと謙虚さと祈りの心を持って事に当たることである。

 神の御恵みのあらんことを。私はこれをもって終わりとするに忍びないが、これも致し方ないことであろう。

 主イエス・キリストの御名のもとに、その僕として私は常にすぐそばに居ることをつゆ忘れるでないぞ。 アーメン    ♰   
              ザブディエル





 訳者あとがき

 第一巻はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占めた。その親子関係が醸(かも)し出す雰囲気には情緒性があり、どこかほのぼのとしたものを感じさせたが、この第二巻は一転して威厳に満ちた重厚さを漂わせている。

文章も古い文語体で書かれ、用語も今日では〝古語〟または〝廃語〟となっているものが数多く見受けられる。

が、同時に読者はその重厚な雰囲気の中にもどこかオーエン氏に対する温かい情愛のようなものが漂っていることに気づかれたであろう。最後のメッセージにそれがとくに顕著に出ている。もしそれが読み取っていただけたら、私の文章上の工夫が一応成功したことになって有難いのであるが・・・

実は私は頭初より本書を如何なる文体に訳すかで苦心した。原典の古い文体をそのまま日本の古文に置き換えれば現代人にはほとんど読めなくなる。それでは訳者の自己満足だけで終わってしまう。

そこで、語っているのがオーエン氏の守護霊である点に主眼点を置き、厳しさの中にも情愛を込めた滋味を出すことを試みた。それがどこまで成功したかは別問題であるが・・・

 さて、その〝厳しさの中の情愛〟は守護霊と人間との関係から出る絶対的なもので、第一巻が肉体的ないし血族的親子関係であれば、これは霊的ないし類魂的親子関係であり、前者がいずれは消滅していく運命にあるのに対し、後者は永遠不滅であり、むしろ死後においてますます深まっていくものである。

ついでに一言述べておきたいことがある。守護霊という用語は英語でも Guardian(ガーディアン) と言い、ともに〝守る〟という意味が込められている。

そのためか、世間では守護霊とは何かにつけて守ってくれる霊という印象を抱き、不幸や苦労まで取り除いてくれることを期待する風潮があるが、これは過りである。

守護霊の仕事はあくまでも本人に使命を完うさせ宿命を成就させるよう導く事であり、時には敢えて苦しみを背負わせ悲劇に巻き込ませることまでする。そうした時、守護霊は袖手(しゆうしゆ)傍観しているのではなく、ともに苦しみともに悲しみつつ、しかも宿命の成就のために霊的に精神的に援護してやらねばならない。

そうした厳粛な責務を持たされているのであり、その成果如何によって守護霊としての評価が下されるのである。

そのことは本文の〝七つの教会〟の話からも窺われるし、シルバーバーチの霊訓が〝苦難の哲学〟を説くのもそこに根拠がある。

 守護霊にはその守護霊がおり、その守護霊にもまた守護霊がいて、その関係は連綿として最後には守護神に辿り着く。それが類魂の中の一系列を構成し、そうした系列の集合体が類魂集団を構成する。言ってみれば太陽系が集まって星雲を構成するのと同一である。

 その無数の類魂の中でも一ばん鈍重な形体の中での生活を余儀なくさせられているのが吾々人間であるが、それは決して哀れに思うべきことではない。

苦難と悲哀に満ちたこの世での体験はそれだけ類魂全体にとって掛けがえのないものであり、それだけ貴重なのであり、それ故人間は堂々と誇りをもって生きるべきである、というのが私の人生観である。

 ただし一つだけ注意しなければならないのは、この世には目には見えざる迷路があり、その至る所に見えざる誘惑者がたむろしていることである。大まじめに立派なことをしているつもりでいて、その実とんでもない邪霊に弄(もてあそ)ばれていることが如何に多いことか。

 では、そうならないためにはどうすべきか。それは私ごとき俗物の説くべきことではなかろう。読者みずから本書から読み取っていただきたい。それが本書の価値の全てとは言えないにしても、それを読み取らなければ本書の価値は失われるのではなかろうか。

 一九八五年九月
                                近藤千雄



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シアトルの春 死別の教訓

Lessons from Bereavement

Philosophy of Silver Birch
  by Stella Storm  


《肉親の死に遭遇した時、あの顔、あの姿がもう二度と見られなくなったことを悲しむのならまだしも、死んでいった当人の身の上を悲しむのであれば、それは止めなくてはいけません。

 人生は霊的価値を基盤として考えないといけません。その価値があなたの行為の一つ一つの輝ける指標として、日々の生活の中で発揮されなくてはいけません。スピリチュアリストを自任している方々は、スピリチュアリズムを死という不幸に遭遇した時だけ持ち出して、それ以外の時はどこかに仕舞い込んでおくようなことでは困ります》
                シルバーバーチ  


 その日の交霊会には奥さんを失った男性、二人の子供を失った両親、それにジャーナリストとして有名だったロレンス・イースターブルック氏の奥さんが息子さんといっしょに出席していた。死別の不幸を味わったこの三組の招待客に対してシルバーバーチが次のように語りかけた。

 まず奥さんを失った男性に対して───

 「これまでずいぶん過酷な道を歩んで来られましたが、あなたはこれ以上為すべきことはないというところまで、よく頑張られました。考えうるかぎりのことをおやりになりました。いかに愛しているとはいえ、その人の身体がもはや霊を引き止めておけない状態になってしまえば、それ以上生き永らえてくれることを望むのは酷というものです。

地上の人生にはいつかは別れる時がまいります。頑健な方が居残り、弱った者は先に行った方がよいのです。

 あなたには有難く思うべきことが山ほどあります。大きな危機に、無知のままではなく正しい知識をたずさえて臨むことができました。もしも霊についての知識がなかったら、あなたの人生は今よりどれほど大変なものとなっていたことでしょう。

その意味であなたは貴重な人生のおまけを体験なさったと言えます。そのことをあなたは感謝しなくてはいけません。が、霊を引き止めておけなくなった身体から奥さんが去って行くのは、もはやどうしようもありませんでした。

 あの時の奥さんの心境は複雑でした。もう死んでしまいたいと思ったこともあれば、何とかして生き延びたいと思ったこともありました。が、生き延びたいと思ったのはあなたの立場を思ってのことでして、ご自分の立場からではありませんでした。奥さんにはもう何の苦痛もありません。

老いも病気も衰弱も、そのほか人生の盛りを過ぎた者にかならず訪れる肉体の宿命に苦しむことはなくなりました。肉体が衰弱するほど霊は強くなるものです。

 あなたが楽しくしていれば奥さんも楽しい気分になります。あなたが塞ぎ込めば奥さんも塞ぎ込みます。一人ぼっちになられたのは身体上だけの話であり、霊的には少しも一人ぼっちではありません。奥さんは決して遠くへ離れてはいません。今でもあなたを夫と思い、あなたの住む家を我が家と思っていらっしゃいます。

 あなたは信仰心をお持ちです。ただの信仰心ではなく、あなたに証された〝事実〟を根拠とした現実味のある信仰心です。それが、間違いなく訪れる不幸に備えるために、受け入れ態勢の整った時点でもたらされました。それをあなたの人生の全ての基盤となさってください。

あなたはこれからまだまだこの地上で得るものが沢山あります。あなたの人生はまだ終末に来てはいません。他人のために為すべきことがあり、開発すべき資質があり、成就すべき目的があります。

 神は完全なる公正です。自然の摂理を通して因果応報がきちんと行われております。収支は常に完全なバランスを保っております。あなたは忘れ去られることも見落とされることも無視されることもありません。

あなたを導き、援助し、慈しんでくれる愛があります。それを頼みの綱となさることです。それが、いついかなる事態にあっても不動の信念を維持させてくれることでしょう」


 次に子供を失った夫婦に対して───

 「あなた方お二人が、縁あって訪れてくる人たちにいろいろとお役に立っておられる様子を見て、お子さんはとても誇りに思っておられますよ。大切なのは受け入れる用意のできた土壌に蒔かれるタネです。

あなた方が受け入れられたタネはいま見事な花を咲かせております。お子さんは、お二人の人生に衝撃的な影響を及ぼした霊的真理を自然に受け入れて行かれるのをご覧になって、とてもよろこんでいらっしゃいます。

お二人はその大きな真理を我が子の死という大きな悲しみを通して見出さねばなりませんでした。それはまさしく試金石でした。途方に暮れて、力になってくれるものが誰一人、何一つないかに思えた時に、真の自分を見出させてくれることになった触媒でした。

 魂というものは、その奥底まで揺さぶられ、しかも物的なものでは一縷の望みさえつなげない状態下においてのみ目覚めるものであるというのが、基本的な霊的真理なのです。つまり物質界には頼れるものは何一つないとの悟りで芽生えた時に魂が甦り、顕現しはじめるのです。

 現在のお二人の生活も決して楽ではありません。これまでも楽だったことは一度もありません。が、日常の問題にもちゃんとした摂理があります。それは、人のために自分を役立てる者は決して生活に不自由はしないということです。

基本的に必要とするものは必ず与えられるということです。その際に大切なことは、それまでの体験によって得たものを、日常の生活の中で精いっぱい生かしていくことです。そうすることの中で、神とのつながりを強化して行くことになるからです。そのつながりが強くなればなるほど、援助と力とが流れ込む通路が内面的に奥深くなって行くのです。

真理を理解した人間は沈着、冷静、覚悟が身についております。恐れるということがありません。不安の念の侵入を受けつけず、無知と迷信と悩みが生み出す暗黒を打ち消します。自分に生命を与えてくれた力、宇宙を支配している力、呼吸し活動するところのものに必需品を供給する力は絶対に裏切らないとの信念があるからです。

 大切なのは、ご自分の方から神を裏切らないことです。これまでに得たもの、いま受けつつあるもの、そしてそれから生まれる叡智のおかげでせっかく宿すようになった信頼を裏切るような行為をなさらないように心掛けることです。

 霊的真理にしがみつくことです。これまでに自分たちに啓示されたものを信じて物事に動じないことです。一つ一つの問題に正面から取り組み、精いっぱい努力し、済んだことは忘れることです。援助は必ず与えられます。

なぜなら、お二人を愛する人たち、地上にいた時より一段と親密度を増している人たちが、お二人が難題を切り抜けるように取り計らってくれるからです」


 続いてイースターブルック氏の奥さんに対して───

 「今ここにご主人が来ておられますよ。あなたと息子さんのことをとても誇りに思っていらっしゃいます。試練の時を立派に乗り切られたからです。こうして陰から守り導くことができることをご主人が証明してみせたからには、これからもずっと見守っているものと確信してほしいと希望しておられます。

明日のことを思い煩ってはいけません。心配の念を心に宿してはいけません。地上世界には何一つ怖いものはありません。

 ご主人はいつもあなたのお側にいます(〝解説〟参照)。愛のあるところには必ずご主人がいると思ってよろしい。あなたの心、あなたの家庭からいっときも離れることはありません。物質的には離れてしまいましたが、霊的にはいつもいっしょです。霊的につながっている者はけっして別れることはありません。

そうした霊的次元の愛を知り、理解力を身につけ、そしてお互いに足らざるところを補い合う関係───半分ずつが合わさって統一体を構成する関係、魂の結婚という、地上で滅多に見かけられない真実の霊的関係を成就されたあなた方は、本当におしあわせです。

 あなたはご主人のことを誇りに思うべきです。その啓蒙の光は在世中にもしばしば異彩を放っていた偉大なる霊です。彼ほどに人の心の琴線にふれ、高邁(こうまい)なものに手の届く人はそう多くはいません。

 お二人に対する愛は少しも変わっておりません。その愛が鋼鉄の帯のようにお二人を取り囲んでおります。これからも常にお側におられます。お二人を守り、導き、支えとなり、慈しんでくれることでしょう。あなた方が手にされたこうした知識が他の無数の人々も手にできるようになれば、地上はどんなにか変わることでしょう。

 ですから、毎朝を無限の可能性に満ちた新しい霊的冒険の始まりとして、又、あなたの霊的な輝きと資質を増す機会の到来として、歓喜をもって迎えるのです。毎朝が、霊的成長を促し内部の神性を発達させ全生命の始源へ近づけてくれる好機(チャンス)をもたらしてくれるのです」

(訳者注───次に掲げる霊言は誰に向って述べられたものかが明記されておらず、内容からもその手掛かりが得られないので、一般的なものとして訳出しておく)

 「一人一人の人間が、自分の行為に自分で責任を取ります。それが自然の摂理なのです。いかに愛する人とはいえ、その人に代わってあなたが責任をとるわけにはまいりません。その人の行為の結果をあなたが背負うことはできません。それを因果律というのです。過ちを犯したら、過ちを犯した当人がその償いをする───霊的法則がそうなっているのです。

 地上世界には不正、不公平、不平等がよく見られます。不完全な世界である以上、それはやむを得ないことです。しかし霊的法則は完全です。絶対に片手落ちということがありません。

一つの原因があれば、数学的正確さをもってそれ相応の結果が生じます。原因と結果とを切り離すことはできません。結果は原因が生み出すものであり、その結果がまた原因となって次の結果を生み出していきます。

 その関係が終わりもなく続くのです。もしもその因果関係が人為的に変えられ、利己主義者が博愛主義者と同じように霊的に成長することが可能であるとしたら、それは神の公正を根底から愚弄することになります。自分が蒔いたタネは自分で刈り取る───そうあらねばならないのです。

 あなたはあなた自身の行為に責任を取るのです。その行為の結果を自分が引き受けるのです。これからもあなたは過ちを犯します。そしてそれに対する償いをすることになります。

そうした営みの中で叡智を学んでいくべきなのです。過ちを犯すために地上へ来たようなものです。もしも絶対に過ちを犯さない完全な人間だったら、今この地上にいらっしゃらないはずです。

 過ちも失敗もあなたが不完全であることから生じます。しかし、転んでも起き上がることができます。取り返しのつかない過ちというものはありません。新しい希望と新しい可能性を秘めた新しい一日、新しい夜明けが必ず訪れます。

 うちの宗教の教えを信ずれば罪も赦されるかに説いている宗教がいくつかあるようですが、そういうことは有り得ません。罪をあがなうのはその罪を犯した当人のみです。〝神聖〟とされる文句や言葉をいくら繰り返しとなえても、原因から生じる結果を赦免したり消去したりすることはできません。

 ですから、いくら愛しい人であっても、その人の行為にあなたが責任をとるわけにはまいりません。その人みずから学び、学ぶことによって成長し進化していくのです。それが生命の法則なのです。生命は静止することがありません。絶えず向上を目指して動いております。動くということが永遠の進化のための一つの要素なのです。

完全へ向けての向上に終止符(ピリオド)を打つことはできません。無限の時をかけて完全へ近づくことの連続であり、これでおしまいということがないのです。完全性の達成は無限の過程です。完全なのは大霊のみです。

 思い煩ってはなりません。心配の念はせっかくの援助の通路を塞いでしまいます。私はいつも取り越し苦労はおやめなさいと申し上げております。心配の念は有毒です。悪気を生み出し、それがあなたを取り囲みます。陰湿な雰囲気で包まれてしまいます。その状態になると霊の力も突き通せなくなります」

《われわれは、顕と幽の区別なくいずこに存在しようと、神を父とし、一人ひとりがその子供という関係において一つの広大な霊的家族を構成しております。神性の絆がわれわれのすべてをつなぎ、一体としております。

その意味で私たちは、こうして顕と幽の二つの世界の間に横たわる障害の多くを克服してきたことを、この上ない恩恵として感謝しております。そのおかげで地上世界へ影響力を行使できる聖なる霊が次々と輩出しております》
                             シルバーバーチ     

シアトルの春 不変・不滅・不可避の摂理

Immutable, indestructible, and inescapable providence


Philosophy of Silver Birch
  by Stella Storm  


 ≪万が一にも大自然の摂理に欠陥が見つかったら、私はこのたびの使命をすべて放棄します。もしどこかに摂理のとおりに行っていないところが見つかったら教えてください。しかし、そういうことは絶対にありません。原因にはかならず結果が伴います。蒔いたタネを刈るのです。それ以外には有りようがないのです≫   シルバーバーチ


 「皆さんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは大自然の法則のことです。神はこの宇宙を不変の法則によって支配し顕現していくように定めました。宇宙のあらゆる側面が法則によって治められているのです。

みなさんが親しんでいる物的地上界であろうと、人間に感知できない、それよりはるかに大きな霊界であろうと、法則が行き届かないというところはどこにもありません。

 この法則を通して神の意志が働いているのです。人間の法律には変更と修正がつきものです。不完全であり、あらゆる情況を考慮に入れていないからです。が、神の法則は、起こりうるあらゆる事態に備えてあります。すべてが規制され、すべてが管理され、神の配剤がすべてに行きわたっております。

 人間には一種の機械としての物的身体が与えられています。あなたはその身体を通して自我を表現している一個の霊なのです。あなたが悩みを抱くと、霊と身体との間の水門が閉ざされ、身体は生命力の補給路を失うことになります。

補給源とのつながりを断たれることになります。そのことに気づいて心構えを改めないかぎり、あなたの身体はその不健康な作用と反作用の法則に従いつづけることになります。

 心配の念はあなたの霊的大気であるオーラの働きを阻害し、その心霊的波長を乱します。 (オーラには磁気性と電気性の二種類がある。詳しくは『母と子の心霊教室』を参照───訳者) 

その障害を取り除くまでは生命力は流れ込みません。泰然自若の境地に至るには長く厳しい修行、過酷な試練、そして心配の念の侵入を許すまいとする不断の努力が要請されます。

 無限の愛と叡智を有する神がこの摂理を創案したのです。完璧に出来あがっており、必ずその通りに作用します。心配することに費やしているエネルギーを建設的な思念へ転換すれば、健康上の問題は生じなくなります。神の計画は完全であり、あなたもその計画の中に組み込まれているのです。

あなたも自分自身を完成しなくてはいけません。そのための機会は日常生活の中にいくらでも用意されております。

 私には自然法則を変える力はありません。因果律という不変の法則に私が干渉することは許されません。たとえばあなたの身体が衰弱している兆候を見つければ、大切にするよう警告してあげることしかできません。

身体は一種の機械です。したがってそれなりの手入れがいります。手入れを怠れば故障するにきまっています。すると休息と修理によって機能を回復させるほかはありません。法則はごまかせないのです。

 あなたはその身体を通して自我を表現しているのです。その身体のすることにも限界があり、それを超えてしまえばバッテリーを補充しなければなりません。それはあなたの責任です。あなたの身体だからです。

 いくら愛があるとはいえ、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念の責任を私が肩代わりしてあげるわけにはまいりません、行為の一つひとつ、言葉の一つひとつ、思念の一つひとつについて、あなた自身が責任を取るのです。
身体はその責任ある自己表現の媒体なのですから、その遂行において支障がないように十分な手入れをしておく必要があります。人体は地上のいかなる機械よりもはるかに入り組んだ、すばらしい組織体です。まさしく驚異というにふさわしい道具です。が、それにも手入れがいります。

 自然の摂理と調和した生き方をしていれば病気も異状も不快感もありません。こうしたものは不調和から生じるのです。摂理に反することをすれば、その代償を払うことになります。摂理の範囲内で生活していれば恩恵を受けます。

 何よりも動機が優先されます。が、摂理に違反したことをすれば、それに対してペナルティが科せられます。自分の気持ちを満足させようとして身体を痛めるところまで行ってしまうか否かは、一人ひとりがその霊的進化の程度にしたがって判断することです。

地上生活にも神の計画の中でのそれなりの役割があります。無理を重ねて次の段階の生活への準備が十分に整わないうちに地上を去るようなことになってはいけません。

 たとえば、ここに人類の福祉に貢献している高潔な人物がいるとしましょう。その人がもしもその道での超人的活動で健康を損ねた場合、それは立派と言えるでしょうか。それも本人自身が判断すべきことです。

ただ残念なことに、そうした決断を下すに当たって必ずしも自分自身に真っ正直になり切っていないということです。どこかに自惚れの要素───オレ以外に出来るヤツはいないのだという考えが潜んでいるものです。

 法則にも、次元の違いによっていろいろあります。物的次元のもの、精神的次元のもの、霊的次元のもの、さらにはそれらが入り組んで作用する場合もあります。悲しいかな、人間は物的次元のことがギリギリの絶望的段階に至るまで、霊的次元の真理が理解できません。

それは実在を無視した生活に終始しているからです。物的なものだけが大切と思い込んでいるからです。

 しかし魂はいつかは真の自我に目覚めなくてはなりません。その時から内在する神性が発現しはじめるのです。それも神が定めた埋め合わせの法則の一環なのです。苦難が大きいだけ、そこから得られる悟りもそれだけ大きいものとなります。

 神は宇宙の会計士のようなものです。生命の帳簿は常に帳尻が合っており、すべてがきちんと清算されております。霊的機構は整然と規制されておりますから、あなたが霊的に受けるものはあなたに相応しい分だけであり、多すぎることもなければ少なすぎることもありません。

その計算はあなたがそれまでの努力によって到達した霊的進化の程度を基準にして行われます。霊的なことは常に完全な清算が行き届いており、ごまかしも見せかけも通用しません。

 法則は無限なる愛と叡智の働きによって完璧に機能しています。各自が受け取るのはそれまでの努力にふさわしい分だけです。私がそのように定めたのではありません。そのようになっていることを私が知ったというだけです。

それを因果律といいます。原因と結果の間にはいかなる者も干渉できません。偶発事故とか不測の事態というものは起きません。すべては自然の摂理でそうなっているのです。

 その摂理が廃止されたり、一時停止されたり、妨害されたりすることは絶対にありません。自然の摂理は絶え間なく作用しており、変わることもなければ修正することもできません。その摂理と調和して生きることです。

すると良い結果が得られます。摂理にひっかからないように上手にすり抜ける方法はありません。その作用は絶対です。宇宙の大霊は摂理の精髄であり、権化であり、哀願も弁解も通用しません」


 《私たちがこれまでに賜った知識のすべて───いま生きている宇宙について、その宇宙を法則によって管理している絶対的な力について、そしてその力と私たちとの関係ならびに私たち相互の関係について、より明確な理解を得させてくれた知識を有難く思っております。

 私たちは宇宙の摂理の働きについてより多くのことを学び、それが一つの手落ちもなく私たちの幸福にとって不可欠のものをいかに美事に用意してくれているか───無限なる叡智によって考案され、無限なる愛によって管理されている摂理が私たちすべてを包摂し、私たちのあらゆる必要性に備え、誰一人としてその支配からはみ出ることがないことを理解しております》                          

シアトルの春  霊の威力

The Power of the Spirit

Philosophy of Silver Birch
  by Stella Storm  



    《もしも霊力が働かなくなるようなことがあったら、地球は回転を止め、四季は巡ってこなくなることでしょう。もしも霊力が働きを中止したら、太陽の炎は消滅し、月はあの幽玄な輝きを見せなくなるでしょう。もしも霊力がしくじることがあったら、種子は花を咲かせず実を結ばなくなることでしょう。》                    シルバーバーチ


 「私たちは、霊が生命を吹き込んでくれたおかげで共通の絆を与えられているのです。そのことによって全世界の神の子が根源において結ばれていることになるからです。人間が地上でも、そして死後も生き続けることを可能にしているのは、神を共通の親として、全人類を一つの家族に結びつけているのと同じ霊力なのです。

 この崇高な事実こそ私たちが啓示せんとしている真理です。あらゆる物的差違、あらゆる障害、あらゆる障壁を超えるものです。肌の色の違い、言語の違い、国家の違いを超越するものです。物的存在の表面の内側に、断とうにも絶つことのできない同胞性で全人類を結びつけている、共通の霊的属性があることを教えております。

 今の地上世界にはぜひともこの真理が必要です。その理解さえ行きわたれば戦争は無くなります。世界中ではびこり過ぎている利己主義と貪欲と既得の権利が撲滅されます。人間の唯一の、そして真の尊厳すなわち霊性が、今あまりにはびこっている低俗な物的価値基準に対する優位を発揮するようになります。

 その理解が行きわたるにつれて、無限の豊かさと輝きと崇高さと愛と指導力と治癒力とを秘めた霊の力がそれだけ多く発揮され、これまであまりに永いあいだ支配して混沌と災禍をもたらしてきた無知と偏見と迷信を駆逐して行くことでしょう。

 あなた方も、お一人お一人がミニチュアの大霊すなわち神なのです。その霊はあなた方の努力次第で生長と発達と拡大を続け、成熟して開花する可能性を秘めているのです。どこまで発揮できるかを決定づけるのはあなた自身です。他の誰もあなたに代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。

あなたも大霊であることを自覚することです。そうすれば神の王国があなた自身の中にあることに理解がいくはずです。霊力は絶対に裏切りません。

 必需品を永遠に供給していくための摂理があり、それに順応しさえすれば、あなたは必要なものに事欠くことは有り得ません。空腹や渇きに苦しむようなことは決してありません。

しかし、必要以上のものは授かりません。あなたの成長度に合ったものを授かるのであって、多すぎることも少なすぎることもなく、高すぎることも低すぎることもありません。摂理ですから、それ以外に有りようがないのです。

 霊は物質による制約には負けません。全生命の原動力であり、全存在の始源である霊は、あなたが地上生活において必要なものはすべて供給してくれます。その地上生活の目的はいたって単純です。本来のあなたである霊的本性を開発・強化して、死後に待ちかまえる次の生活の身支度をすることです。

となると、ありとあらゆる人生体験───楽しいことも苦しいことも、光も蔭も、有利なことも不利なことも、愛も憎しみも、健康も病気も、その一つ一つがあなたの霊的成長にとって何らかのプラスになるということです。

 真理の顕現には無限の形態があります。真理とは無限なる大霊から出るものであり、顕現の媒体となる人物の進化の程度によってその形態が違ってくるからです。その真理の理解は単純・素朴さを通して行われます。

やたらに綴りの長い単語や聞きなれない難解な用語を用いたからといって、それで真理にハクがつくわけではありません。むしろそれが無知の仮面となっていることがよくあるものです。

 私たちの説く真理は、無辺・無限の大霊の真理です。すべての人のためのものであり、一宗一派、一個人のものではありません。全人類を愛の抱擁の中に包まんとして働きかけております。

 実在は物質の中には見出せません。その肉体の中にも発見できません。存在の種子は物的器官の中には見出せません。あなたは今からすでに霊的存在なのです。私たちの世界へ来てはじめて霊性を身につけるのではありません。

 受胎の瞬間から人間も霊的存在なのです。その存在の源である霊という実在からあなた自身を切り離そうとしても、それは絶対にできません。地上世界のすべてが霊のおかげで存在しているのです。霊なくしては生命はありません。なぜなら生命とは霊であり、霊は生命だからです。

 (物的表面にとらわれず)肝心かなめのものにすがることです。目を逸らしてはいけません。これこそ真実であると確信したものにしっかりとすがることです。そして煩雑な物的生活の中で何が何やらわけが分からなくなった時は、大霊の力と安らぎの住む内部へ退避して、その雑念を忘れることです。

そうすればその静寂の中にあなたにとって必要なものを見出すことでしょう。あなたという存在の組織は必ず神の定めたパターンにしたがって織っていくことが大切です。

 そのためには一体われわれは何の目的で神によって創造されたかを忘れないようにしましょう。その神とのつながりに汚点を残すような行為は絶対にしないようにいたしましょう。そうなることが全生命の根源たる神の意図を正しく理解している者すべてに必ず与えられる恩寵に、われわれも常に浴すことになるのです」


 シルバーバーチの祈りから。

《私たち子等を互いに結び、そして私たちとあなたとを永遠に結びつけているのは、全生命の息吹であるあなたの霊にほかなりません。私たちすべてを霊的大家族としてつないでいるその霊的きずなを断絶させうるものは、地上にも霊の世界にも、何一つ存在いたしません》


   
 四章 不変・不滅・不可避の摂理

≪万が一にも大自然の摂理に欠陥が見つかったら、私はこのたびの使命をすべて放棄します。もしどこかに摂理のとおりに行っていないところが見つかったら教えてください。しかし、そういうことは絶対にありません。原因にはかならず結果が伴います。蒔いたタネを刈るのです。それ以外には有りようがないのです≫   シルバーバーチ


 「皆さんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは大自然の法則のことです。神はこの宇宙を不変の法則によって支配し顕現していくように定めました。宇宙のあらゆる側面が法則によって治められているのです。

みなさんが親しんでいる物的地上界であろうと、人間に感知できない、それよりはるかに大きな霊界であろうと、法則が行き届かないというところはどこにもありません。

 この法則を通して神の意志が働いているのです。人間の法律には変更と修正がつきものです。不完全であり、あらゆる情況を考慮に入れていないからです。が、神の法則は、起こりうるあらゆる事態に備えてあります。すべてが規制され、すべてが管理され、神の配剤がすべてに行きわたっております。

 人間には一種の機械としての物的身体が与えられています。あなたはその身体を通して自我を表現している一個の霊なのです。あなたが悩みを抱くと、霊と身体との間の水門が閉ざされ、身体は生命力の補給路を失うことになります。

補給源とのつながりを断たれることになります。そのことに気づいて心構えを改めないかぎり、あなたの身体はその不健康な作用と反作用の法則に従いつづけることになります。

 心配の念はあなたの霊的大気であるオーラの働きを阻害し、その心霊的波長を乱します。 (オーラには磁気性と電気性の二種類がある。詳しくは『母と子の心霊教室』を参照───訳者) 

その障害を取り除くまでは生命力は流れ込みません。泰然自若の境地に至るには長く厳しい修行、過酷な試練、そして心配の念の侵入を許すまいとする不断の努力が要請されます。

 無限の愛と叡智を有する神がこの摂理を創案したのです。完璧に出来あがっており、必ずその通りに作用します。心配することに費やしているエネルギーを建設的な思念へ転換すれば、健康上の問題は生じなくなります。神の計画は完全であり、あなたもその計画の中に組み込まれているのです。

あなたも自分自身を完成しなくてはいけません。そのための機会は日常生活の中にいくらでも用意されております。

 私には自然法則を変える力はありません。因果律という不変の法則に私が干渉することは許されません。たとえばあなたの身体が衰弱している兆候を見つければ、大切にするよう警告してあげることしかできません。

身体は一種の機械です。したがってそれなりの手入れがいります。手入れを怠れば故障するにきまっています。すると休息と修理によって機能を回復させるほかはありません。法則はごまかせないのです。

 あなたはその身体を通して自我を表現しているのです。その身体のすることにも限界があり、それを超えてしまえばバッテリーを補充しなければなりません。それはあなたの責任です。あなたの身体だからです。

 いくら愛があるとはいえ、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念の責任を私が肩代わりしてあげるわけにはまいりません、行為の一つひとつ、言葉の一つひとつ、思念の一つひとつについて、あなた自身が責任を取るのです。
身体はその責任ある自己表現の媒体なのですから、その遂行において支障がないように十分な手入れをしておく必要があります。人体は地上のいかなる機械よりもはるかに入り組んだ、すばらしい組織体です。まさしく驚異というにふさわしい道具です。が、それにも手入れがいります。

 自然の摂理と調和した生き方をしていれば病気も異状も不快感もありません。こうしたものは不調和から生じるのです。摂理に反することをすれば、その代償を払うことになります。摂理の範囲内で生活していれば恩恵を受けます。

 何よりも動機が優先されます。が、摂理に違反したことをすれば、それに対してペナルティが科せられます。自分の気持ちを満足させようとして身体を痛めるところまで行ってしまうか否かは、一人ひとりがその霊的進化の程度にしたがって判断することです。

地上生活にも神の計画の中でのそれなりの役割があります。無理を重ねて次の段階の生活への準備が十分に整わないうちに地上を去るようなことになってはいけません。

 たとえば、ここに人類の福祉に貢献している高潔な人物がいるとしましょう。その人がもしもその道での超人的活動で健康を損ねた場合、それは立派と言えるでしょうか。それも本人自身が判断すべきことです。

ただ残念なことに、そうした決断を下すに当たって必ずしも自分自身に真っ正直になり切っていないということです。どこかに自惚れの要素───オレ以外に出来るヤツはいないのだという考えが潜んでいるものです。

 法則にも、次元の違いによっていろいろあります。物的次元のもの、精神的次元のもの、霊的次元のもの、さらにはそれらが入り組んで作用する場合もあります。悲しいかな、人間は物的次元のことがギリギリの絶望的段階に至るまで、霊的次元の真理が理解できません。

それは実在を無視した生活に終始しているからです。物的なものだけが大切と思い込んでいるからです。

 しかし魂はいつかは真の自我に目覚めなくてはなりません。その時から内在する神性が発現しはじめるのです。それも神が定めた埋め合わせの法則の一環なのです。苦難が大きいだけ、そこから得られる悟りもそれだけ大きいものとなります。

 神は宇宙の会計士のようなものです。生命の帳簿は常に帳尻が合っており、すべてがきちんと清算されております。霊的機構は整然と規制されておりますから、あなたが霊的に受けるものはあなたに相応しい分だけであり、多すぎることもなければ少なすぎることもありません。

その計算はあなたがそれまでの努力によって到達した霊的進化の程度を基準にして行われます。霊的なことは常に完全な清算が行き届いており、ごまかしも見せかけも通用しません。

 法則は無限なる愛と叡智の働きによって完璧に機能しています。各自が受け取るのはそれまでの努力にふさわしい分だけです。私がそのように定めたのではありません。そのようになっていることを私が知ったというだけです。

それを因果律といいます。原因と結果の間にはいかなる者も干渉できません。偶発事故とか不測の事態というものは起きません。すべては自然の摂理でそうなっているのです。

 その摂理が廃止されたり、一時停止されたり、妨害されたりすることは絶対にありません。自然の摂理は絶え間なく作用しており、変わることもなければ修正することもできません。その摂理と調和して生きることです。

すると良い結果が得られます。摂理にひっかからないように上手にすり抜ける方法はありません。その作用は絶対です。宇宙の大霊は摂理の精髄であり、権化であり、哀願も弁解も通用しません」


 《私たちがこれまでに賜った知識のすべて───いま生きている宇宙について、その宇宙を法則によって管理している絶対的な力について、そしてその力と私たちとの関係ならびに私たち相互の関係について、より明確な理解を得させてくれた知識を有難く思っております。

 私たちは宇宙の摂理の働きについてより多くのことを学び、それが一つの手落ちもなく私たちの幸福にとって不可欠のものをいかに美事に用意してくれているか───無限なる叡智によって考案され、無限なる愛によって管理されている摂理が私たちすべてを包摂し、私たちのあらゆる必要性に備え、誰一人としてその支配からはみ出ることがないことを理解しております》                          
                         シルバーバーチ




Thursday, May 8, 2025

シアトルの春 活字の効用

The printed word has tremendous influence.

Philosophy of Silver Birch
  by Stella Storm



 《印刷された文字には絶大な影響力があります。話し言葉は忘れ去られるということがあります。人間の脳という小さなスクリーンにゆらめく映像はいたって儚いもので、それに付随して生まれる言葉には不滅の印象を残すほどの威力はありません。その点、活字には永続性があります。


いつでも参照することができます。目に見えますし、その意味をくり返し吟味することもできます。また人から人へと伝えられ、海をも超えて、悲運をかこつ孤独な人のもとに届けられることもあります。

幸いにして私は、これまでに手にすることの出来た叡智をこうして皆さんにお聞かせしておりますが、それが速記者の仲介をへて次々と活字になっております。そのおかげで各地で魂が目を覚まし、種子が実を結んでおります》
                                                                                             シルバーバーチ 


  Brother John (ブラザージョン)のペンネームで二十年以上(一九六九年現在)にわたってサイキックニューズ紙上で心霊知識の解説と人生相談を担当してきたコラムニストが初めてシルバーバーチ交霊会に招かれた。冒頭の引用句はそのジョンが〝なぜあなたは説教者としての仕事を選び、またその霊媒としてバーバネルを選んだのですか〟と質したのに対して答えたものである。


 ブラザー・ジョンが二十年あまり一週も欠かすことなく執筆し続けた記事は、延べにして一千回を超える。その中には読者から寄せられた質問に対する情愛あふれる回答も含まれている。たとえば一九六七年の一年間に寄せられた手紙は千四百通にのぼり、人生相談的なものからコラムの内容についての質問まであるが、彼はそのすべてに、ていねいに回答している。

 その真摯にして謙虚な態度はシルバーバーチと同じで、死後の存続の事実と、それが有する重大な意義について十年一日のごとく、倦むことなく語り続けている。その彼が媒体としているのも又、活字である。

(訳者注──その間の膨大な記事をまとめ上げた本が一九七七年に Truth Has No Label 〝真理にラベルはない〟の題名で出版されている。その〝まえがき〟の中でブラザー・ジョンは「サイキックニューズ紙上に毎週掲載してきた記事を一冊の本にまとめてはどうかという勧めを聞くようになって久しいが、私はそれをずっと遠慮してきた。

このたびついに説得されて出版の運びとなったが、やはり戸惑いを禁じえない」と謙虚に述べている)


 これまでの霊言集の編者のうちの二人が、冷ややかな活字ではシルバーバーチの温かい人間味と愛を伝えることは到底できないと述べている。確かにその通りである。交霊会に出席する光栄に浴した人は例外なく、顕と幽との二つの世界の言うに言われぬ交わりを体験して感動するものである。

 しかし、私自身はそうたびたび出席したわけではないが、そうした人間味とか愛のみがシルバーバーチという一個の霊の個性のもっとも重要な要素とは思えないし、その使命の主たる目的でもないと考えている。

私自身が出席した交霊会の霊言が活字になったのを読んでも、私は改めて感動を覚える。要するにシルバーバーチの述べていることそのものが魂に訴えるものをもっているということである。


 このたび本書を編纂するに当たってこれまでの霊言記録に目を通してみて私は、改めてシルバーバーチという霊の述べた言葉の威力───一つのフレーズ(句)、一つのセンテンス(文)を何の準備もなしに当意即妙に述べる、その〝言葉の錬金術〟に驚嘆させられた。

 これまでに出版された霊言集はすべて読んでいるし、またサイキックニューズ社での仕事の一つが月刊誌ツーワールズに連載されている霊言の校正もある。その私が本書を編纂しながら一度も退屈さを感じなかった。

シルバーバーチは自分のことを〝古いメッセージをたずさえた同じ古い霊です〟と言うが、その助言、その内側に秘めた真理と率直さは常に生き生きとして新鮮である。


 かの手厳しい評論家のハンネン・スワッハーでさえ十五年前にこう書いている───〝私はシルバーバーチの教え・指導・助言に毎週一回一時間あまりにわたって耳を傾けることをずっと続けているが、地上のいかなる人物よりも敬愛し尊敬するようになった〟と。

 今では録音技術の進歩のおかげでカセットテープにまで収められて、シルバーバーチのナマの声が世界各国で聞けるようになった。が、シルバーバーチがみずからに課した使命のエッセンスは、いつも哀れみを込めて語り続ける言葉が活字となって広く読まれることにあると私は確信している。その思想の真価は、少なくともこの地上においては直々に会うことは望めない世界各地の人々に及ぼす影響力によって計られるのである。

 みずから述べているように、シルバーバーチにとっては、基本的な霊的真理を一人でも多くの人に伝えるための霊媒の発見が第一の仕事であった。そして、最終的にモーリス・バーバネルに白羽の矢が立てられたことはなるほどと思わせる。なぜならバーバネルは週刊と月刊の二つの心霊ジャーナルの主筆であり、シルバーバーチの霊訓を遠く広く流布する手段として打ってつけの人物だったからである。 

 さて、初めての交霊会の印象をブラザー・ジョンは次のように書いている。

 〝永い年月の中で、このシルバーバーチ交霊会での体験ほど素晴らしいものはなかった。シルバーバーチが語ってくださった言葉に私は思わず涙を流した。シルバーバーチという霊に何か強烈な親近感を覚え、それでつい、ほろっとしてしまった。私にとって忘れ難い夜となった〟

 その夜のシルバーバーチ霊言の中から幾つかを抜粋して紹介しておこう。


 「今夜はようこそお出でになりました。まっ先にご注意申し上げておきますが、私についていささか誇張された宣伝がなされており、私がまるで全ての叡智を具えているかのように書かれておりますが、とんでもないことです。

私もあなたと同じ、いたって人間的な存在であり、弱点もあれば欠点もあり、誤りも犯します。ただ私は、霊的真理について少しばかり知識の蓄えがあり、それを、受け入れる用意のできた人たちにお分けしたいと思っているところです。


 それとても私自身の所有物ではありません。私はただの代弁者にすぎません。私はその仕事を要請されたのです。仕事が完了して地上から引き上げる時期が来るまでは続けることになりましょう。が、

今はまだその時期ではありません。まだもう少し時間が掛かります。これまで多くのことが成就されてまいりましたが、まだまだ為さねばならないことがあります。


 霊力は条件さえ整えば、つまり一かけらの心配の念もなく、知識を基盤とした信仰と体験から生まれた確信とがあれば、時として驚異的なことをやってのけます。

  あなたが今の職責を果たしていらっしゃるのも霊力のお陰です。それは私から申し上げるまでもないこととは思いますが、ただ、あなたはその貢献度、奉仕度を過小評価していらっしゃる。それはいけません。読者のために施しておられる援助の大きさはあなた自身にはお分かりになりません。

多くの魂に感銘を与えていらっしゃいます。そしてそれは、地上で為しうる最も大切な仕事の一つなのです。


 地上に肉体をたずさえて生まれて来るそもそもの目的は、魂が真の自我を見出すこと、言いかえれば、宿された神性に点火し、燃え上がらせ、輝かしい炎とすることです。残念ながら必ずしもそういう具合に行かないのが実情です。迷信と無知の暗闇、疑念と恐怖と困惑の泥沼の中で過ごす人が多すぎるのです。

そうした中で一人でも真理に目覚めさせてあげることができれば、それだけであなたの存在価値があったことになります。たった一人でいいのです。それで十分なのです。それをあなたはすでに数え切れないほどの人に施しておられます。

 その程度はどうあれ、神の使徒として働けるわれわれは光栄この上ないことです。これはキリスト教の教会にはもはや望めないことです。心の奥ではもう信じていない古い教えを決まり文句として口にするだけとなっております。とっくの昔に意味を失ってしまった紋切り型の語句、使い古した慣習と儀式をくり返すのみです。

 そうした教会、大聖堂、寺院などが陳腐で空しい死物と化してしまったのは、そこに霊の力が働かなくなったからです。生命を与えているのは霊なのです。なのに、そうした建造物の中で行われていることは、霊力、キリスト教でいう聖霊を拒絶することばかりなのです。

そこで、われわれのように、風変わりな式服もまとわず、祭壇もしつらえず、ただ霊力の流れる通路となり、この世で誰一人として無視されたり見落とされたりすることのない神の摂理の存在を教えることだけを心掛ける者を利用せざるを得なくなったのです。


 あなたの場合も、人生が暗く荒涼として、いずこへ向かうべきかも分からず、あたかも絶望の壁に四方を仕切られた思いをさせられていた時に、啓示をうけられました。これ以上申し上げる必要はないでしょう。愛、情愛、友情、同情、慈悲、哀れみ、寛容心、こうしたものは不滅の霊性です。愛に死はないのです。

死は生命に対しても愛に対しても無力なのです。いま申し上げた霊性もみな元をただせば愛の諸相なのです。私はけっしてナゾナゾを申し上げているのではありません」



 ここでシルバーバーチはその日の交霊会に、かつてブラザー・ジョンといっしょに仕事をしたこともある偉大な心霊治療家で、今はブラザー・ジョンの背後霊の一人として働いているフレッド・ジョーンズが来ていることを述べてから、さらにこう続けた。

 「今この会場に訪れているあなたの霊団は実にすばらしい方ばかりです。あなたをこの道に導いたのはこの方たちであり、今もずっと指導しておられます。フレッド・ジョーンズは偉大な霊です。

彼にとって物的身体が小さすぎるほど霊性が大きくなったためにこちらへ来られましたが、地上に立派な足跡を残されました。この道の先駆者としての仕事をしたのです。その努力は無駄ではありませんでした。


 彼が地上で仕事をしていた頃は、心霊治療を施す者はほんの一にぎりにすぎませんでした。が、今日では数え切れないほどになっております。身体と精神と魂を病んだ人がいたるところにいる病める地上では、それだけの数が必要なのです。残念ながら物質中心主義から生まれる病は感染力が強く、すぐにまん延する一種の伝染病です。

しかし、光が闇を駆逐するごとく、心霊治療は正しい生き方を教えることによってその病弊を駆逐していくことでしょう。


 健康を増進するのは医学でも医薬でも劇薬でもありません。不自然なものを体内に注ぎ込むことによって健康にすることはできません。それは言わば医学的愚行です。正しい生き方さえしていれば、つまり思念に邪なところがなく、

霊と精神と身体とが調和していれば健康でいられるのです。日常生活のストレスと心労、あるいは利己心や邪心や強欲が生み出す不自然な緊張───こうしたものは物的存在のすべての息の根を止める毒薬です。


 もしも私の話をお聞きになられて今後も頑張ろうという気持ちになってくだされば、本日ここにお出でになられた甲斐があったことになります。思うにまかせぬことがあることはよく存じております。が、霊的な褒章を求める者にはラクな道はありません。

 大霊は完全です。摂理は完全です。必ず摂理どおりに働きます。が、そのワクの中に自由意志の要素が存在し、その中に、自分の意志で貢献するチャンスが与えられているわけです。全世界を破滅に追いやる力はありません。大混乱を巻き起こすくらいならできるでしょう。が、人間のすることにはおのずと限界があります。

 神の計画が狂うということは絶対にありません。もし狂えば、ないしは狂うことも有りうるとしたら、神は神でなくなります。完全が間違いを犯すはずがないのです。もし犯せば完全が完全でなくなります。自然法則という形での神の定めは無窮の過去から常に存在し、一度たりともその定め通りに働かなかったことはありません。

 地球が一瞬でも回転を止めたことがあるでしょうか。汐が満ちてこなかった日が一日でもあったでしょうか。昼のあとにはかならず夜が来ていないでしょうか。蒔いたタネは正直にその果実を実らせていないでしょうか。

 狂いません。神の計画は絶対に狂いません。本来は人間もその定められた計画にそって進まねばならないのです。しかし人間は愚かさと無知と利己心から誤った道へ外れる可能性もあるのです。

美しい花を咲かせるべき庭園に雑草を生い茂らせることも有りうるということです。正し生き方とは何であるかを、みずから学んで行かねばなりません。そうすることが人間としての神への貢献となるのです。潜在的には無限の霊的属性を秘めておりますが、それを駆使できるようになるには、それなりの努力をしなければならないということです」



 交霊会が終わったあとブラザー・ジョンは、何よりもシルバーバーチの素朴さと謙虚さに一ばん心を打たれたと語り、こう続けた。

 「その素朴さとは二つの世界を一体ならしめる素朴さ───偉大なる魂が素朴にして深遠な真理を説くために地上のもう一つの魂の身体と精神とを支配するための素朴さである。

 それに謙虚さ───シルバーバーチの言葉の中にはこの偉大な特質の表現と思えるものが何度も出て来たが、私との対話の中でとくに心に沁みる思いがした場面が三回あった。それは私が思わずお礼の言葉を口にした時で、そのたびにシルバーバーチは穏やかに、そして優しく〝私への礼はおやめ下さい。私が感謝を頂戴するわけにはまいりませんから〟と述べるのだった」

 《こうした人材の操作、つまり適時に適材を適所に活用することは、入りくんだ複雑な協力態勢を必要とする大へんなわざです。今や神の教えが多くの人々に届けられるようになりました。私の教えではありません。

私はそれを中継してお届けしているだけです。同志の協力を得て、霊光と霊力をいくらかでも悩める地上世界へお届けすることができております。いつの日か皆さんが私のもとへ来られて、書物なり心霊誌に書かれていたのを読んだことが救いになったと告げてくだされば、私は、こうした協調的努力が無駄でなかったことを知ることになります》 
                                               シルバーバーチ
 

Wednesday, May 7, 2025

シアトルの春 まえがき シルバーバーチはなぜ戻ってきたか  

Chapter 1: Why Did Silver Birch Come Back?
Philosophy of Silver Birch
  by Stella Storm  



 十二人の出席者が扇形に席を取った。みんなヒソヒソと話を交わしているが、私の目はソファの右端に座っている小柄で身ぎれいな男性に注がれていて、まわりの人たちの話の内容は分からない。

 その眠気を催すような低音の話声だけを耳にしながら、私はその男性が少しづつ変身していく様子をじっと見守っていた。ふだんは実に弁舌さわやかな人間が、そうした取りとめもない雑談から身を引くように物を言わなくなっていった。

 やがて黒縁の眼鏡と腕時計をはずし、頭を下げ、両目をこすってから、その手を両膝の間で組んだ。顎が、居眠りをしているみたいに腕のところに来ている。

 それから二、三分してから新しい変化を見せ始めた。背をかがめたまま顔を上げた。出席者たちはそんなことにはお構いなしに雑談に耽りながらも、すでに霊媒(ホスト)が肉体を離れていることを感じ取っていた。そして代って主賓(ゲスト)の挨拶の第一声が発せられると同時に、水を打ったように静寂が支配した。

 その霊媒モーリス・バーバネルが肉体を離れ、代わって支配霊のシルバーバーチがその肉体を〝拝借〟して、今われわれの真っ只中にいる。霊媒とは対照的にゆっくりとした、そして幾分しわがれた感じの声で情愛溢れる挨拶をし、いつものように開会の祈りを述べた。

 「神よ、自らに似せて私たちを造り給い、自らの神性の一部を賦与なされし大霊よ。私たちは御身と私たち、そして私たち相互の間に存在する一体関係を一層緊密に、そして強くせんと努力しているところでございます。

 これまでに私たちに得させてくださったものすべて、かたじけなくもお与えくださった叡智のすべて、啓示してくださった無限なる目的への確信のすべてに対して、私たちは感謝の意を表し、同時に、これ以後もさらに大いなる理解力を受けるにふさわしき存在となれるよう導き給わんことを祈るものでございます。

 私たちは、これまであまりに永きに渡って御身をおぼろげに見つめ、御身の本性と意図を見誤り、御身の無限なる機構の中における私たちの位置について誤解しておりました。しかし今ようやく私たちも、御身の永遠の創造活動に参加する測り知れない栄誉を担っていることを知るところとなりました。

その知識へ私たちをお導きくださり、御身について、私たち自身について、そして私たちの置かれている驚異に満ちた宇宙について、いっそう包括的な理解を得させてくださったのは御身の愛に他なりません。

 今や私たちは御身と永遠につながっていること、地上にあっても、あるいは他界後も、御身との霊的な絆が切れることは絶対にないことを理解いたしております。それゆえに私たちは、いかなる時も御身の視界の範囲にあります。

いずこにいても御身の摂理のもとにあります。御身がいつでも私たちにお近づきになられるごとく、私たちもいつでも御身に近づけるのでございます。

 しかし、子等の中には自分が永久に忘れ去られたと思い込んでいる者が大勢おります。その者たちを導き、慰め、心の支えとなり、病を癒し、道案内となる御身の霊的恩寵の運び役となる栄誉を担った者が、これまでに数多くおりました。

 私たちは死のベールを隔てた双方に存在するその先駆者たちの労苦に対し、また数々の障害を克服してくれた人達に対し、そして又、今なお霊力の地上への一層の導入に励んでくださっている同志に対して、深甚なる感謝の意を表明するものでございます。

 どうか私たちの言葉のすべてが常に、これまでに啓示していただいた摂理に適っておりますように。また本日の交霊会によって御身に通じる道を一歩でも前進したことを知ることができますように。
 ここに常に己を役立てることをのみ願うインディアンの祈りを捧げます」


 私(女性)はバーバネル氏のもとで数年間、最初は編集秘書として、今は取材記者(レポーター)として、サイキックニューズ社に勤めている。

 私にとってはその日が多分世界一と言える交霊会への初めての出席だった。英国第一級のジャーナリストだったハンネン・スワッハー氏の私宅で始められたことから氏の他界後もなおハンネン・スワッハー・ホームサークルと呼ばれているが、今ではバーバネル氏の私宅(ロンドンの平屋のアパート)の一室で行われている。

 その日開会直前のバーバネル氏は、チャーチル(元英国首相)と同じようにトレードマークとなってしまった葉巻をくわえて、部屋の片隅で出番を持っていた。一種の代役であるが、珍しい代役ではある。主役を演じるのは北米インディアンの霊シルバーバーチで、今では二つの世界で最も有名な支配霊となっている。

そのシルバーバーチが憑ってくるとバーバネルの表情が一変した。シルバーバーチには古老の賢者の風格がある。一分のスキもなくスーツで身を包んだバーバネルの身体がかすかに震えているようだった。

 そのシルバーバーチとバーバネルとの二つの世界にまたがる連繋関係は、かなりの期間にわたって極秘にされていた。シルバーバーチの霊言が一九三〇年代にはじめてサイキックニューズ誌に掲載された時の英国心霊界に与えた衝撃は大きかった。活字になってもその素朴な流麗さはいささかも失われなかった。

 当初からその霊言の価値を認め、是非活字にして公表すべきであると主張していたのが他ならぬスワッハー氏だった。これほどのものを一握りのホームサークルだけのものにしておくのは勿体ないと言うのだった。

 初めはそれを拒否していたバーバネルも、スワッハー氏の執拗な要請についに条件付きで同意した。彼がサイキックニューズ誌の主筆であることから、〝もし自分がその霊媒であることを打ち明ければ、霊言を掲載するのは私の見栄からだと言う批判を受けかねない〟と言い、〝だから私の名前は出さないことにしたい。

そしてシルバーバーチの霊言はその内容で勝負する〟という条件だった。

 そういう次第で、暫くの間はサークルのメンバーはもとより、招待された人も霊媒がバーバネルであることを絶対に口外しないようにとの要請を受けた。とかくの噂が流れる中にあって、最終的にバーバネル自身が公表に踏み切るまでその秘密が守られたのは立派と言うべきである。

 あるとき私が当初からのメンバーである親友に「霊媒は誰なの?」と密かに聞いてみた。が、彼女は秘密を守りながらも、当時ささやかれていた噂、すなわち霊媒はスワッハーかバーバネルかそれとも奥さんのシルビアだろうという憶測を、否定も肯定もしなかった。

 当時の私にはその中でもバーバネルがシルバーバーチの霊媒としていちばん相応しくないように思えた。確かにバーバネルはスピリチュアリズムに命を賭けているような男だったが、そのジャーナリズム的な性格は霊媒のイメージからは程遠かった。まして温厚な霊の哲人であるシルバーバーチとはそぐわない感じがしていた。

 サイキックニューズとツーワールズの二つの心霊誌の主筆として自らも毎日のように書きまくり、書物も出し、英国中の心霊の集会に顔を出しまわって〝ミスター・スピリチュアリズム〟のニックネームを貰っているほどのバーバネルが、さらにあの最高に親しまれ敬愛されているシルバーバーチの霊媒までしているというのは、私には想像もつかないことだった。

そのイメージからいっても、シルバーバーチは叡智に溢れる指導者であり、バーバネルは闘う反逆児だった。

 今から十年前(一九五九年)、バーバネル自身によるツーワールズ誌上での劇的な打ち開け話を読んだ時のことをよく覚えている。

 〝永い間秘密にされていたことをようやく公表すべき時期が来た。シルバーバーチの霊媒は一体誰なのか。その答えは───実はこの私である〟とバーバネルは書いた。

 「それ見ろ、言った通りだろう!───こうしたセルフがスピリチュアリストの間で渦巻いた。

 シルバーバーチが霊媒の〝第二人格〟でないことの証拠としてあげられるのが、再生説に関して二人が真っ向から対立していた事実である。バーバネルは各地での講演ではこれを頭から否定し、その論理に説得力があったが、交霊会で入神して語り出すと全面的に肯定する説を述べた。が、

バーバネルもその後次第に考えが変わり、晩年には「今では私も人間が例外的な事情のもとで特殊な目的をもって自発的に再生してくることがあることを信じる用意が出来た」と述べていた。

 シルバーバーチの叡智と人間愛の豊かさは尋常一様のものではない。個人を批判したり、けなしたり、咎めたりすることが絶対にない。それに引き換えバーバネルは、自らも認める毒舌家であり、時には癇癪を起すこともある。

交霊会でシルバーバーチの霊言を聞き、他方で私のようにバーバネルと一緒に仕事をしてみれば、二人の個性の違いは歴然としていることが分かる。

 バーバネルは入神前に何の準備も必要としない。一度私が、会場(バーバネルの自宅)へ行く前にここ(サイキックニューズ社の社長室)で少し休まれるなり、精神統一でもなさってはいかがですかと進言したことがあるが、

彼はギリギリの時間まで仕事をしてから、終わるや否や車を飛ばして会場へ駆け込むのだった。交霊会は当時はいつも金曜日の夕刻に開かれていたから、一週間のハードスケジュールが終わった直後と言うことになる。

 私も会場まで車に乗せて頂いたことが何度かある。後部座席に小さくうずくまり、一切話しかけることは避けた。そのドライブの間に彼は、間もなく始まる交霊会の準備をしていたのである。と言っても短い距離である。目かくしをしても運転できそうな距離だった。 

 会場に入り、いつも使用しているイスに腰を下ろすと、はじめて寛いだ様子を見せる。そしてそれでもうシルバーバーチと入れ替わる準備が出来ている。その自然で勿体ぶらない連繋プレーを見ていて私は、職業霊媒が交霊会の始めと終わりに大袈裟にやっている芝居じみた演出と較べずにはいられなかった。

 シルバーバーチが去ることで交霊会が終わりとなるが、バーバネルには疲れた様子は一切見られない。両目をこすり、眼鏡と時計をつけ直し、一杯の水を飲み干す。ややあってから列席者と軽い茶菓をつまみながら談笑にふけるが、シルバーバーチの霊言そのものが話題となることは滅多にない。そういうことになっているのである。

 シルバーバーチを敬愛し、その訓えを守り、それを生活原理としながら、多分地上では会うことの無い世界中のファンのために、シルバーバーチとバーバネル、それにサークルの様子をおおざっぱに紹介してみた。霊言集はすでに八冊が出版され、世界十数か国語に翻訳されている。その世界にまたがる影響力は測り知れないものがある。

 本書はそのシルバーバーチのいつも変わらぬ人生哲学を私なりに検討してみてまとめ上げた、その愛すべき霊の哲人の合成ポートレードである。
                             ステラ・ストーム


  
  一章 シルバーバーチはなぜ戻ってきたか

  《正直言って私は、あなた方の世界に戻るのは気が進みませんでした。地上というのは、いったんその波長の外に出てしまうと、これといって魅力のない世界です。私がいま定住している世界は、あなた方のように物質に閉じ込められている者には理解の及ばないほど透き通り、光り輝く世界です。

 くどいようですが、あなた方の世界は私には魅力ある世界ではありませんでした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなければなりませんでした。地上の同志を見つけて、その協力が得られるよう配慮しなくてはなりませんでした。

 それから私の代弁者となるべき霊媒を養成し、さらにその霊媒を通じて語る真理をできるだけ広く普及させるための手段も講じなくてはなりませんでした。しかし同時に、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証も得ました。そして計画は順調に進められました》                                        シルバーバーチ


 「ずいぶん前の話ですが、私は物質界に戻って霊的真理の普及に一役買ってくれないかとの懇請を受けました。そのためには霊媒と同時に心霊知識をもつ人のグループを揃えなくてはならないことも知らされました。私は霊界にある記録簿を調べあげた上で、適当な人物を霊媒として選び出しました。

それはその人物がまだ母胎に宿る前の話です。私はその母体に宿る瞬間を注意深く見守りました。そしていよいよ宿ったその霊が自我を表現しはじめた時から影響力を行使し、以来その関係が今なお続いているわけです。

 私はこの霊媒の霊と小さな精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる面を細かく観察し、霊的に一体となる練習をし、物の考え方や身体のクセを呑み込むように努めました。要するに私はこの霊媒を、霊と精神と身体の三つの側面から徹底的に研究したのです。

次に私は霊的知識の理解へ向けて指導しなければなりませんでした。まず地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的にはそのすべてに反発させ、いわゆる無神論者にさせました。これで霊媒となるべき準備がひと通り整いました。

 その上で、ある日私はこの霊媒を初めて交霊会へ出席するように手引きしました。そこで、用意しておいたエネルギーを駆使して───いかにもぎこちなく内容も下らないものでしたが、私にとってはきわめて重大な意義をもつ───最初の霊的コンタクトをし、他人の発声器官を通じてしゃべるという初めての体験をしました。

 その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、ごらんの通りになりました。今ではこの霊媒の潜在意識にあるものを完全に支配して、私自身の考えを百パーセント述べることができます。

 要請された使命をお引き受けしたとき私はこう言われました───〝あなたは物質の世界へ入り、そこであなたの道具となるべき人物を見出したら、こんどはその霊媒のもとに心が通い合える人々を集めて、あなたがメッセージを述べるのを補佐してもらわねばなりません〟と。私は探しました。そして皆さん方を見出してここへ手引きしました。

 私が直面した最大の難問は、同じく地上に戻るにしても、人間が納得する(死後存続の)証拠つまり物理現象を手段とするか、それとも(霊言現象による)真理の唱道者となるか、そのいずれを選ぶかということでした。結局私は難しい方を選びました。

 自分自身の霊界生活での数多くの体験から、私は言わば大人の霊、つまり霊的に成人した人間の魂に訴えようと決意したのです。真理をできるだけ解りやすく説いてみよう。常に慈しみの心をもって人間に接し、決して腹を立てまい。そうすることで私がなるほど神の使者であることを身をもって証明しよう。そう決心したのです。

 同時に私は生前の姓名は絶対に明かさないという重荷をみずから背負いました。仰々しい名前や称号や地位や名声を棄て、説教の内容だけで勝負しようと決心したのです。

 結局私は無位無冠、神の使徒であるという以外の何者でもないということです。私が誰であるかということが一体なんの意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは、私のやっていることで判断していただきたい。私の言葉が、私の誠意が、そして私の判断が、暗闇に迷える人々の灯となり慰めとなったら、それだけで私はうれしいのです。

 人間の宗教の歴史を振り返ってごらんなさい。謙虚であったはずの神の使徒を人間は次々と神仏にまつり上げ、偶像視し、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。私ども霊団の使命はそうした過去の宗教的指導者に目を向けさせることではありません。

そうした人たちが説いたはずの本当の真理、本当の知識、本当の叡智を改めて説くことです。それが本物でありさえすれば、私が偉い人であろうがなかろうが、そんなことはどうでもよいことではありませんか。

 私どもは決して真実から外れたことは申しません。品位を汚すようなことも申しません。また人間の名誉を傷つけるようなことも申しません。私たちの願いは地上の人間に生きるよろこびを与え、地上生活の意義はいったい何なのか、宇宙において人類はどの程度の位置を占めているのか、

その宇宙を支配する神とどのようなつながりをもっているのか、そして又、人類同士がいかに強い霊的家族関係によって結ばれているかを認識してもらいたいと、ひたすら願っているのです。

 と言って、別に事新しいことを説こうというのではありません。すぐれた霊格者が何千年もの昔から説いている古い古い真理なのです。それを人間がなおざりにしてきたために、私たちが改めてもう一度説き直す必要が生じてきたのです。要するに神という親の言いつけをよく守りなさいと言いに来たのです。


 人類はみずからの過った考えによって、今まさに破滅の一歩手前まで来ております。やらなくてもいい戦争をやります。霊的真理を知れば、殺し合いなどしないだろうにと思うのですが・・・。

 神は地上に十分な恵みを用意しているのに、飢えに苦しむ人が多すぎます。新鮮な空気も吸えず、太陽の温かい光にも浴さず、人間の住むところとは思えない場所で、生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人が大勢います。欠乏の度合いがひどすぎます。貧苦の度がすぎます。そして悲劇が多すぎます。

 物質界全体を不満の暗雲が覆っています。その暗雲を払いのけ、温かい陽光の射す日が来るか来ないかは、人間の自由意志一つに掛かっているのです。

 一個の人間が他の人間を救おうと努力するとき、その背後には数多くの霊が群がってこれを援助し、その気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善行の努力は絶対に無駄にはされません。奉仕の精神も決して無駄に終わることはありません。

誰かが先頭に立って藪を切り開き、あとに続く者が少しでも楽に通れるようにしてやらないといけません。やがてそこに道ができあがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。

 高級神霊界の神々が目にいっぱい涙をうかべて悲しんでおられる姿を時おり見かけることがあります。今こそと思っていたせっかくの善行のチャンスが、人間の誤解と偏見とによって踏みにじられ無駄に終わってしまうのを見るからです。

そうかと思うと、うれしさに顔を思いっ切りほころばせているのを見かけることもあります。名もない平凡人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。

 私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志とともに、波長を物質界の波長に近づけて降りてまいりました。その目的は、神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることが出来ることを教えてあげたいと思ったからです。

 物質界に降りてくるのは、正直言ってあまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。例えてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもだらしなく感じられます。

どこもかしこも陰気でいけません。したがって当然、生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。

 私が定住している世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心には真の生きるよろこびがみなぎり、適材適所の仕事にたずさわり、奉仕の精神にあふれ、互いに己れの足らざるところを補い合い、充実感と生命力とよろこびと輝きに満ちた世界です。

 それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せであるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。神は必要なものはすべて用意してあるのです。問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

 それを取り除いてくれと言われても、それは私たちには許されないのです。私たちに出来るのは、物質に包まれたあなた方に神の摂理を教え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通じて運用されるかを教えてさしあげることです。ここにお出での方にはぜひ、霊的真理を知るとこんなに幸せになれるのだということを身をもって示していただきたいのです。
 
 もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることができたら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上に降りてきた努力の一端が報われたことになりましょう。

 私たちは決してあなたたち人間の果たすべき本来の義務を肩がわりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとしているだけです。

 今こうして語っている私は、(四十年ほど前に)はじめて語った、あの霊と同じ年輩の霊です。説くメッセージも同じです。古くからある同じ真理です。ただ、語り聞かせる相手は同じ古い世界ではなくなりました。世の中は変わっており、霊的叡智に耳を傾ける人が増え、霊力の受容力が増しております。

 霊的真理も大きく前進しました。私たちの影響力がどれほど行きわたっているか、できることならそれを皆さんにお見せしたいところです。努力がこれほど報われたことを私はとても誇りに思っております。かつては悲しみに打ちひしがれていた心が今ではよろこびを味わいはじめています。

光明が暗闇を突き通したのです。かつては無知が支配していたところに知識がもたらされました。

 うぬぼれているわけではありません。宇宙について知れば知るほど私は、ますます謙虚の念に満たされてまいります。が同時に、導いてくださる霊力の存在も知っているのです。それが私のような者にも頂けるのです。私が偉いからではありません。私が志している真理普及への努力を多としてくださってのことです。

これまでの永い年月を通じて、この交霊関係はずっとその霊的援助を受けてまいりました。これからも皆さんが望むかぎり、与えられ続けることでしょう。

 改めて申し上げますが、私はただの道具にすぎません。地上への霊的真理、霊についての単純な真理、すなわち人間も一人ひとりが神の一部としての霊であるという認識をもたらさんとしている多くの霊のうちの一人にすぎません。

 人間も神の遺産を宿しているのであり、その潜在する神性のおかげで神の恩寵のすべてを手にする資格があります。そのための努力を続ける上において手かせ足かせとなる制度や習慣をまず取り除かないといけません。また私たちの仕事は魂と精神だけの解放を目的としているのではありません。肉体的にも(病気や障害から)解放してあげないといけません。

 それが今私たちが全霊を捧げている仕事なのです。微力ながら奮闘努力している仕事なのです。もしもこの私が一個の道具として皆さんのお役に立つ真理をお届けすることができれば、私はそれを光栄に思い、うれしく思います。

 私が皆さんとともに仕事をするようになって相当な期間になりますが、これからも皆さんとの協同作業によって地上世界にぜひとも必要な援助をお届けしつづけることになるでしょう。皆さんは知識をお持ちです。霊的真理を手にされています。そしてそれを活用することによっていっそう有効な道具となる義務があります。

 私のことを、この交霊会でほんのわずかな時間だけしゃべる声としてではなく、いつも皆さんのお側にいて、皆さんの霊的開発と進化に役立つものなら何でもお届けしようと待機している、脈動する生きた存在とお考え下さい。

 これまで私は、皆さんが愛を絆として一体となるように導いてまいりました。より高い界層、より大きな生命の世界の法則をお教えし、また人間が(そうした高級神霊界の造化活動によって)いかに美事に出来あがっているかを解き明かそうと努力してまいりました。

 また私は、そうして学んだ真理は他人のために役立つことに使用する義務があることをお教えしました。儀式という形式を超えたところに宗教の核心があり、それは他人のために自分を役立てることであることを知っていただこうと努力してまいりました。

 この絶望と倦怠と疑念と困難とに満ちあふれた世界にあって私は、まずはこうして皆さん方に霊的真理をお教えして、その貴重な知識を皆さん方が縁ある人々に広め、ゆくゆくは全人類に幸せをもたらすことになるように努力してまいりました。

 もしも皆さんの行く手に暗い影がよぎるようなことがあったら、もしも困難がふりかかったら、もしも疑念が心をゆさぶり、不安が宿るようなことがあったら、そうしたものはすべて実在ではないことを自分に言い聞かせるのです。翼を与えて追い出してやりなさい。


 この大宇宙を胎動させ、有機物と無機物の区別なく全生命を創造した巨大な力、星も惑星も太陽も月もこしらえた力、物質の世界へ生命をもたらし、あなた方人間の意識に霊性を植えつけてくださった力、完璧な摂理として全生命活動を支配している力、その大いなる霊的な力の存在を忘れてはなりません。

 その力は、あなた方が見捨てないかぎり、あなた方を見捨てることはありません。その力をわが力とし、苦しい時の避難場所とし、心の港とすることです。神の愛が常に辺りを包み、あなた方はその無限の抱擁の中にあることを知ってください」


 一読者の手紙から───

 《文章の世界にシルバーバーチの言葉に匹敵するものを私は知りません。眼識ある読者ならばそのインスピレーションが間違いなく高い神霊界を始源としていることを認めます。一見すると単純・素朴に思える言葉が時として途方もなく深遠なものを含んでいることがあります。その内部に秘められた意味に気づいて思わず立ち止まり、感嘆と感激に浸ることがあるのです》


Tuesday, May 6, 2025

シアトルの春 愛すべき仲間たち───動物

Lovable companions──animals


More Philosophy of Silver Birch
Edited by Tony Ortzen


    毎年毎年、世界中で幾百万とも知れぬ動物が〝万物の霊長〟たることを誇る人間の手によって実験材料にされている。霊的に見れば本来人間の仲間である無抵抗の動物を人間が冷酷非情に虐待することは、人間どうしが故意に苦痛を与え合うこと以上に罪深いことである。


血染めの白衣をまとった科学者や研究者は、人間も動物であるという事実に一度でも思いを馳せたことがあるのだろうか。


───あなたのおっしゃるように、もしも自然の摂理が完全であるならば、その摂理にしたがって生きている動物界になぜ弱肉強食という、むごたらしい生き方があるのでしょうか。

 「おっしゃる通り摂理は完全です。たとえ人間にはその顕現のすべては理解できなくても完全です。(三千年もの)永い経験で私は自然の摂理には何一つ不完全さがないことを知りました。無限の叡智と無限の愛によって生み出されたものだからです。

これまで何度も申し上げておりますように、創造活動のありとあらゆる側面に対応した摂理が用意されており、何一つ、誰一人として忘れられたり、放ったらかされたり、見落されたりすることがないのです。

 その一つである進化の法則は、存在と活動の低い形態から高い形態への絶え間ない進行の中で働いております。低い動物形態においては、見た目には残忍と思える食い合いの形を取ります。が、進化するにつれてその捕食本能が少しずつ消えていきます。先史時代をごらんなさい。

捕食動物の最大のものが地上から姿を消し、食い合いをしない動物が生き残ってきております。これにはもう一つ考慮すべき側面があります。そうした動物の世界の進化のいくつかの面で人類自身の進化がかかわっていることです。

すなわち人類が進化して動物に対する残忍な行為が少なくなるにつれて、それが動物界の進化に反映していくということです」


───(サークルのメンバー)私の観察では、動物の中にも同じ種属の他の仲間より進化していて人間的資質さえ見せているのがいます。

 「それは当然そうあってしかるべきことです。どの種属においてもそうですが、進化の世界では未来において発揮されるものを今の段階で発揮している前衛的存在と、現在の段階で発揮すべきものすら発揮していない後衛的存在がいるものだからです。

 人類について言えば、天才、革命家、聖賢といった存在が霊的資質を発揮して、あすの人類のあるべき姿を示しております。人間として可能な最高の英雄的精神と奉仕的精神の見本を示しているわけですが、動物の世界にもそれに比肩しうるほどの資質を、他の仲間から抜きん出て発揮するのがいます」


───生命活動の目的が愛と慈悲の心を学ぶことがあるのなら、なぜ大自然は捕食動物のような悪い見本を用意したのでしょうか。

  「大自然が悪い見本を用意するようなことはしません。大自然は宇宙の大霊すなわち神が顕現したものです。神は完全です。神の摂理も完全です。大自然は、その本来の仕組みどおりに働けばかならずバランスと調和が取れるようになっているのです。人間が自然と調和して生きれば、地上はパラダイス、神の御国となります。

 たしかに捕食動物はいますが、それは〝適者生存〟の摂理の一環であり、しかも大自然の摂理全体のほんの小さな側面にすぎません。自然界の本質は協調です。共存共栄です。たとえてみれば人間は地球の庭師のようなものです。

植物の本性に合わせて手入れをしておれば庭は美しくなります。今では人間が捕食動物となっています。何百万年もの歴史の中で人間ほど破壊的な生物はおりません」

 生命あるものすべてに敬意を抱いている女性のメンバーが尋ねる。

───マラリヤとか眠り病などを予防するために殺虫剤を使用することは間違いでしょうか。


 「すべての生命に敬意を抱かなければならないのは言うまでもないことですが、これも動機と程度の問題です。特殊な環境において病気の原因となる虫が発生するので殺虫剤を使用するという場合は、その動機は正しいと言えます。

生きるための環境条件を確保する必要を考慮に入れなければいけません。たとえばダニが発生した場合、その家に住む者の健康を確保するという動機からであれば、スプレーして駆除してしまった方がくつろいで暮らせます」


───地上の動物がたとえば気高い情や知性といった人間的要素を発達させた場合でも、死後はやはり動物の類魂の中に帰っていくのでしょうか。それとも遠からず人間界へと進化していくのでしょうか。

 「進化も自然の摂理の一部です。これにも一本の本流とたくさんの支流とがありますが、全体としては同じ摂理の一部を構成しております。あなたがた人間に潜在している霊性と動物のそれとは質的にはまったく同じものです。程度において差があるだけで本質においては差はありません。

霊は無限ですから、可能性としては人間においても動物においても驚異的な発現力を秘めておりますが、霊的には両者とも一本の進化の道に属しております。その道程のどの時点で動物へ枝分かれし、どの段階で人間へ枝分かれするかは、誰れにも断定できません。私はそこに取り立てて問題とすべき要素はないと思います」


───動物も人間と同じコースをたどって進化するのでしょうか。

 「動物には動物としての進化のコースがあります。それも進化活動全体の背後にある同じパターンの一部です。動物の場合は(進化と言うよりは)一種の発達過程です。もしも私から〝子供はみんな両親と同じように進化するのでしょうか〟と尋ねたら、答えは〝イエス〟でもあり〝ノー〟でもあるでしょう。

子供にはそれぞれにたどるべき人生のパターンがあらかじめ定められております。が、そのパターンの範囲内において、それまでに到達した霊的意識の段階によって規制された自由意志の行使が許されております(それが進化の要素となる───訳者)。霊を宿した存在には無限の可能性があります」(45頁参照)

 ここでメンバーどうしで意見を出し合っているのを聞いたあとシルバーバーチはさらにこう続けた。

 「動物には動物なりの、進化の全過程の中で果たすべき役割があり、それを基準とした進化のコースをたどります。やはり因果律が絶対的要素です。今現在あるものはすべて、かつてあったものの結果です。動物も宇宙進化の大機構で欠かすことのできない存在であり、それは山川草木、海、その他自然界のあらゆるものが欠かせない存在であるのと同じです。

 それらを一つにまとめている絆が〝霊〟です。生命は一つなのです。人間は動物とつながっているだけでなく、命あるものなら何とでもつながっているのです。ただし、それらはそれぞれに定められた進化のコースをたどります。

そして、それらがどこまで進化するかは、それぞれの次元での進化の法則によって決まります。花、木、小鳥、野生動物、そして人間と、それぞれに適応した法則があるのです」


───ということは動物にもそれなりの法則を破ることがあるということですね?

 「あなた方人間が摂理に背いたことをするのと同じ意味においてのみ、そう言えます。が、やはり因果律は働いております。人間も、摂理を逸脱した行為をすることはあっても、因果律の働きを阻止するという意味で〝摂理を破る〟ことはできません。ダダをこねてるだけです」

(訳者注───最後の文は Kick over the traces という成句を使用している。traces というのは馬の引き革のことで、人間が摂理に順応できなくてわがままを言うのを、馬が引き革をきゅうくつに思って蹴ってあばれることに喩えている。)


───動物でも霊的に咎められるべきことをすることがありますか。

 「自然法則に逆らったことをすれば、それは有り得ることです。人間に〝ならず者〟がいるように動物にも狂暴化した動物がいます」


───そういう動物は自分が悪いことをしたことを個的意識の中で自覚するのでしょうか。

 「それは知りません。私は動物ではないからです。ともかく善良な動物もいれば邪悪な動物もいるということです。いかなる動物も、いかなる人間も、つまり地上のいかなる存在も完全ではないのです」

 (訳者注───シルバーバーチの答えの中で私が解しかねるものが二、三ある。これがその一つである。自分は動物ではないから知らないという返答は、はっきり言って無責任である。が、シルバーバーチは知らないものは正直に知らないと言う霊であるから、それがこんな素っ気ない返答をすることには何かわけがありそうである。

意識の神秘はとうてい人間には理解できないからということでわざとそういう言い方で茶化したのかも知れないし、深入りしてはならないと命じられている問題の一つなのかも知れない。そのいずれかであろう。


シルバーバーチ自身、そういうものがあることを別のところで述べているし、『霊訓』のイムペレーターも、自動書記の中でも霊言の中でも、〝霊的なことがらの中には人間には知らさない方がよいことも多々ある〟と述べている。)


───動物が死ぬと類魂の中に帰って行くということを多くの霊が述べておりますが、実際には死後もずっと地上のままの姿を留めていることを示す証拠が沢山あります。この矛盾を説き明かしていただけませんか。

 「人間と親密な関係にあった動物にかぎって、個体を具えたままの存続が可能なのです。そうした動物は地上にいる時から、類魂としての本能のまま生きる動物には得られない、個体としての進化が促進されております。それは人間と動物との間で霊的進化を促進し合うという、すばらしい関係の一例といえます。

動物が皆さんとともに同じ環境で過ごすということは、そうでない場合よりもはるかに人間らしい個性的な意識を発達させることになるのです。そうした〝人間的〟表現というものに縁のなかった動物は類魂の中に埋没していきます」


 ここでメンバーの一人が 「私は人間が進歩して動物の生命についてもっと多くを知るということも、動物の進化を促進することになると思うのです。優しい心が動物に良い影響を及ぼすことはよく分かっているからです。

野生の動物の赤ん坊を優しく育てると人間的性質を見せるようになる例がよくあります」と言うと、別のメンバーが「それはすべての生命が一つだからですよ」と言う。するとシルバーバーチが───

 「それも一本の進化の大木の枝のようなものです。進化の道が枝分かれして発展したものです。そこにおいては、優しさが優しさを呼び、哀れみが哀れみを呼び、愛が愛を呼び、憎しみが憎しみを呼びます。ですから、人間は常に最高の理想を目標としなければいけないことになります。

そう努力することの中で、人間と動物とが進化の道程でお互いに促進し合うことになるのです。それはすべての生命が一つだからです。物質的にはさまざまな区別がありますが、霊的には一つです」


───動物は再生しますか。

 「輪廻転生説というのがあるようですが、動物は再生しません」


───動物が死んで、進化を促進してくれた人間との縁が切れたら、その時点から類魂へ帰りはじめるのでしょうか、それとも、どっちつかずの状態に置かれるのでしょうか。

 「人間に可愛がられた動物は、霊界でずっと待っていて、その人が他界してきた時に出迎えます。永遠に消滅することのない個的存在を与えてくれた人ですから、必要なかぎりずっと待っています。存続するのはその個的存在です」


───すべての動物は人間との縁を通じて個的存在を獲得するように意図されているのでしょうか。つまり個としての独自の意識をもつということです。

 「そうです。人間がその思考とその行為において動物に対する愛を発揮すればするほど、動物の方も愛を発揮するようになり、それこそ、聖書の中のオオカミと小ヒツジの話のように、人間と動物とが並んで寝そべるようになります」


───自分の生命を維持するために人間は植物の生命を奪い、動物の卵や乳を横取りし、もっと酷いこととして、動物を殺して食べざるを得ません。こうした強引な言わばドロボー的生き方は、あなたがよく強調なさっている理性を反撥させずにはおかないのですが、これを〝愛の造物主〟の概念とどう結びつけたらよいのでしょうか。

 「自分たちで勝手に動物を殺しておいて、神がそうせざるを得なくしているかにお考えになってはいけません。どちらにするかは、あなた方が決めることです。動物を殺さないと生きて行けないというものではありません。

が、いずれにせよ、答えは簡単です。そうした問題をどう処理していくかによって人類の進化が決まるということです。自分たちのやっていることに疑問を感じるようになれば、その時、あなたの良心が次の答えを出します。

 人間は自分のすることに責任を取ることになっており、その行為の一つ一つが、その人の霊性に影響を及ぼします。その際にかならず考慮されるのが動機です。動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかったという場合は、その行為はあなたの成長にプラスに働きます。

 霊的摂理は原因と結果の関係、タメ蒔きと刈り入れの原理の上に成り立っており、これは絶対にごまかせません。あなたのすること、考えること、口にすることの一つ一つがそれ相応の結果を自動的に生み出します。

そこにごまかしは利きません。悪いと知りつつ間違ったことをした場合は、その結果に対して責任を取らされます。その結果としての苦しみは自分で背負わねばなりません。

 良い行いをする場合でも、それが見栄から出ているのであれば動機がお粗末でいけませんが、魂の自然の発露として善行を施した場合は、そういう行いをしたという事実そのものが、あなたを霊的に向上させます。それが摂理というものなのです。

 私が常づね申し上げているのは、〝殺害〟の観念がつきまとう食糧品はなるべくなら摂取しない方がよいということです。殺すということは絶対にいけないことです。ただし、その動機を考慮しなければならない場合があることは認めます。

 霊的向上を望む者は、いかなる犠牲を払っても大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければなりません。その摂理は霊的なのです。霊が発揮すべき側面はいつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理にしたがって考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。

しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。そのために神は自由意志というものをお与えになっているのです」


───動物に投与している抗生物質などの薬品類がめぐりめぐって人間の体内へ入ってきている事実をどう思われますか。

 「それは、他の生命に害悪を及ぼすと必ずそれに対して責任を取らされるという、大自然の永遠のサイクルの一環です。他の生命に残酷な仕打ちをしておいて、それが生み出す結果を逃れるということは許されません。

貪欲以外に何の理由づけもなしに動物をオリの中で飼育し、動物としての本来の権利を奪うことは、悪循環をこしらえることにしかなりません。

そのサイクルの中で因果律が生み出すものに対して、人間は苦しい代償を支払わねばなりません。動物であろうと花であろうと小鳥であろうと人間であろうと、自然界全体が恵んでくれる最高のものを得るには、慈悲と愛と哀れみと親切と協調しかないのです」


───いわゆる動物実験では本当に役立つものは得られないということを人類が理解する段階はもう来ているのでしょうか。そのことに理解がいけば、それは道徳的ならびに霊的生活における大きな進歩を意味することになるのでしょうか。

 「動物実験によって何一つ役立つものが得られないというわけではありません。が、その手段は間違っていると申し上げているのです。何の罪もない動物に残酷な仕打ちをすることは霊的なことすべてに反するからです。

 人間は自分のすることに責任を取らされます。動機は正しいといえるケースも沢山ありますし、それはそれとして霊的発達に影響を及ぼします。摂理とはそういうものなのです。がしかし、神は、子等が動物への略奪と残忍な行為によって健康になるようには計画しておられません。それは改めて強調する必要を認めないほど明らかなことでしょう。

 学者が道を間違えているのはそこのところです。人間の方が動物より大切な存在である。よってその動物を実験台として人間の健康と幸福の増進をはかる権利がある、という弁解をするのですが、これは間違っております。

 共存共栄こそが摂理なのです。人間がその責任を自覚すれば、哀れみと慈悲の心が生まれてくるはずです。他の生命を略奪しておいて、その結果として自分に及ぶ苦しみから逃れられるものではありません。略奪行為は略奪者自身にとって危険なことなのです。残虐行為はそれを行う人間にとって罪なことなのです。

愛を発揮すれば、それだけ自分が得をするのです。憎しみの念を出せば、それだけ自分が損をするのです。摂理がそういうふうに出来ているのです。

 したがって当然、皆さんは動物への残虐行為を減らし、もっと良い方法、哀れみに満ちた手段を教えるための努力をすべきです。人々に、みずからの生活を規則正しくし自然の摂理と調和して生きる手段を教えてあげれば、みんな元気で健康で明るさいっぱいの人間になれるのです。

 霊的にみて間違っていることは決して許されるものではありません。しかし、不完全な世界においてはある程度の間違いと行き過ぎはやむを得ません。そうした中にあって皆さんが、平和と友好と和合と愛の中で暮らすべき全生命の福祉を促進するために闘うべきなのです。愛とは摂理を成就することなのです。

他の生命に残酷な行為をしているかぎり、愛を成就しているとは言えません。ナザレのイエスは自分の敵に対して向けられる愛を最高のものとしました。もとより、これは生やさしいものではありません。

情愛、共感、近親感を覚える者を愛することは容易です。しかし、とかく敵対関係になる相手を愛することがもし出来れば、それは神の御心の最高の表現であると言えます。

 何ごとにつけ、価値あるものは成就することが困難にできあがっているのです。もしも霊的進化がラクに達成できるとしたら、それは達成するほどの価値はないことになりましょう」


───敵のことをせめて悪く思わないでいられるようになれば、小さくても進歩は進歩だろうと思います。大部分の人間にとってそれが精いっぱいです。

 「おっしゃる通りなのですが、私たちの立場としては、愛と哀れみと寛容の精神を発揮するという理想へ向けて皆さんを導かねばならないのです。それが霊の資質だからです。それが多く発揮されるほど地上は良くなります。

ですから、皆さんには可能なかぎりの最善を尽くしていただかねばなりません。たった一人の人間、たった一頭の動物でも救ってあげれば、それは価値ある仕事と言えます」


───霊的に正しければ物的な側面も正しくなるとおっしゃったことがありますが、地上の動物についてそれをどう当てはめたらよいのでしょうか。人間によって虐待され屠殺され誤用されるために生まれてくるようなものです。動物は霊的に何も間違ったことはしていないはずですが・・・・・・

 「そうではありません。動物の霊は、霊は霊でも人間の霊とは範疇(カテゴリー)が違います。人間には正しい選択をする責任が負わされています。そこに自由意志があります。進化の計画を促進することもできれば遅らせることもできます。

つまり、限られた範囲内においての話ですが、地球という惑星でいっしょに暮らしている他の生命をどう扱うかについて自由意志を行使することが許されております。地上は悪用、濫用、誤用だらけです。

その中でも決して小さいとは言えないのが動物への無用の虐待と略奪です。しかし、人間が進化していくにはそうした過程もやむを得ないのです。もしも人間から自由意志を奪ってしまえば、インディビジュアリティを進化させ発展させていくチャンスが無くなります。そこが難しいところなのです」


───そういう事態が生じることが許されるという、そこのところが理解できないのです。

 「〝生じることが許される〟という言い方をなさるということは、あなたは人間から自由意志を奪い去った方がよいとお考えになっていることになります。くり返しますが、もしも人間が自由意志を奪われたら、ただの操り人形でしかなくなり、内部の神性を発揮することができなくなります。

霊的本性が進化せず、地上生活の目的も果たせません。あなたが地上に生を受けたのは、地上が霊の保育所であり、学校であり、訓練所だからです。さまざまな挑戦にあい、それを克服していく中で自由意志を行使してこそ、霊は進化できるのです」


 ここで別のメンバーがディスカッションに加わる。

───人類が過ちを犯しながら学んでいく、その犠牲になるのが抵抗するすべを知らない動物たちであるというのは、我々の限りある知能では不公平に思えてなりません。人間が悪いことをして動物が犠牲を払うというのは、どこか間違っているように思えます。


 「あなたご自身はどうあるべきだとお考えですか」

───人間が動物に対して間違いを犯せば、その天罰は動物ではなく人間の頭上に降りかかるべきだと考えます。

 「埋め合わせと懲罰の法則というのがあります。あなたが行う善いこと悪いことのすべてが、自動的にあなたに霊的な影響を及ぼします。大自然の因果律は絶対に免れません。

埋め合わせと懲罰の法則はその大自然の中核をなすものです。罪もない人民が支配者の横暴な振舞いによって被る犠牲に対して埋め合わせがあるように、残虐な取り扱いをうけた動物にもそれなりの埋め合わせがあります」


───(別のメンバー)人間はこれから先もずっと動物に酷いことをしつづけるのではないかと思うのですが・・・・・・

 「いえ、そうとばかりも言えません。他の生命に対する責任を徐々に理解していくでしょう。人間は進化しつつある世界での進化しつつある存在です。絶頂期もあれば奈落の底もあり、向上もすれば転落もします。進化というのは螺旋形(スパイラル)を画きながら進行するものだからです。しかし全体としては少しずつ向上しています。

さもないと進化していないことになります。無限の叡智と無限の愛によって、すべてのもの、すべての人間についてしかるべき配慮が行き届くように、ちゃんとした構想が出来あがっていることを認識しなくてはいけません」


 ここでさきのメンバーが〝私が言いたかったのは、動物が酷い扱われ方をしているのは人間の過ちだということです。人間も徐々にではありますが動物を食糧にすべきではないことを自覚しつつあります〟と言うと、その日の招待客の一人が〝残酷なことをしたらすぐにそれと気づくようになっていればいいのですが・・・。

どうも人間はうまく罪を免れているように思えてなりません〟という意見を出した。するとシルバーバーチが───

 「うまく罪を免れる人は誰一人いません。摂理は間違いなく働きます。たとえ地上で結果が出なくても、霊界でかならず出ることを私が断言します。因果律はいかなる手段を持ってしても変えられません。永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があればかならず結果が生じます。

それから逃れられる人は一人もいません。もしいるとしたら、神は神としての絶対的な資格である〝完全なる公正〟を失います。

 そのこととは別に、もう一つ私がいつも強調していることがあります。残念ながら人間は宿命的に(五、七十年という)ほんの短い視野しか目に入らず、永遠の観念で物ごとを考えることができないということです。あなた方には地上で発生していることしか見えませんが、その結果は霊界で清算されるのです」


───人間はせっかちなのです。


 「そのお気持ちは理解しております。人間が人間としての責任に目覚めるよう、皆さんにできるかぎりの努力をお願いします。オオカミと小ヒツジとが並んで寝そべるような時代が少しでも近づくように努力していただきたいのです。進化を成就しなければならないのです」


───われわれ人間がもっと自然な、もっと神の御心にかなった生き方をするようになれば、こうまで無数の動物が実験材料にされることもなくなると思います。

 「その通りです。ですから、われわれは今後とも啓発と真理の普及を、いつどこにいても心掛けなくてはならないのです。その妨げとなるものを一つでも取り除くことができれば、そのたびにそれを喜びとしなければいけません。

霊の力は単なる変革をもたらすのではありません。そこに進化があります。地上の人間が大自然とその背後に秘められた莫大な力から絶縁した行為をすれば、それに対する代償を支払わねばなりません。

 人間は霊的属性、霊的潜在力、霊的才能をたずさえた霊的存在です。自分だけでなく他の存在、とくに動物の進化を促進することになる生き方をする能力を具えているのです。進化の生き方をする能力を具えているのです。

進化の大計画は何としても達成しなければなりません。それを人間が邪魔をして遅らせることはできます。が、完全に阻止することは絶対にできません」


───動物にはよく〝下等〟という言葉が付けられますが、人間より本当に劣っているのでしょうか。まだ人類と同じ進化の段階まで到達していないのでしょうか。と申しますのは、たとえば犬には人間に対する無私の献身と忍耐という資質があります。これはわれわれも大いに学ばされます。進化の道がまったく異なるのでしょうか。

 「いえ、進化は全生命が一丸となって歩むものです。進化の法則はたった一つあるのみで、それが生命活動の全側面を規制しております。

 いつものことながら、用語が厄介です。〝下等動物〟という用語を用いれば、動物は人間と同じ意識段階まで到達していないことを意味します。たしかに動物には人間のような理性、理解力、判断力、決断力をつかさどる機能が仕組まれておらず、大部分が本能によって動かされているという事実から言えばその通りです。

ですから、そうした限られた一つの視点から観れば動物は〝下等〟と考えることができます。しかし、それですべての検証が終わったわけではありません。

 動物に教えられることが多いのは当然のことです。動物は忠誠心、愛着心、犠牲心、献身といった資質をけなげに表現しますが、これは人間が学ぶべきすばらしい手本です。しかし人間はそれらを意識的に、そしてもっと高度に発揮できます。なぜなら、動物よりも意識の次元が高いからです。ただし、ここでは霊的意識のことではありません」


 ここでサークルのメンバーが〝動物が人間よりも気高い行為をした感激的な話がたくさんありますね〟と言うと、別のメンバーが〝超能力をもっている動物もいます〟と言う。 するとシルバーバーチが───

 「それがいわゆる埋め合わせの法則の一例です。ある種の能力が欠けていると、それを埋め合わせる別の能力を授かります。目の不自由な方には正常な人にない鋭敏さが与えられます」


───例えば家で飼われている猫は人間には見えない霊の存在に気づいているのでしょうか。

 「もちろん気づいております。人間に見えなくなったのは、あなた方の文明───時としてそう呼ぶのはふさわしくないことがあるのですが───それが人間生活を大自然から遠ざけたことに原因があります。つまり大自然がもたらしてくれる能力と力から人間が絶縁しているのです。

そのために文明人は大自然と密接につながった生活をしている人種よりも心霊能力が発達を阻害されているのです。

 一般的に言って、家庭で飼われている動物は〝文明の恩恵〟は受けておりません。動物の方がその飼い主よりも自然な超能力を発揮しております。そういうわけで、残念ながら動物の方が霊的存在について人間よりも自然な形で意識しております」

訳者注───このあと動物愛護運動に夫婦ともども生活をささげて最近奥さんに先立たれた人との対話が紹介されているが、私の推察ではこの人は間違いなく英国のテレビ番組≪サファリ≫の制作者デニス氏で、奥さんが健在のころに一度夫婦して招かれて、シルバーバーチから賛辞を受けた時の様子が、ステラ・ストーム女史が編纂したPhilosophy of Silver Birch by Stella Storm に出ている。これは次の第九巻に予定しているが、理解の便を考えて、その部分をあえてここで紹介しておくことにした。

 「あなた方(Michael & Armand Denis) は肉体に閉じ込められているために、ご自分がどれほど立派な仕事をされたかご存じないでしょう。お二人は骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物との間に同類性があり従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。

 大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり(実験で)片端にしたりするのは、人間のすべきことではありません。強き者が弱き者を助け、知識あるものが無知なる者を救い、陽の当たる場所にいる者が片隅の暗闇を少しでもなくすための努力をすることによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。

 その点あなた方は大自然の大機構の中での動物の存在意義を根気よく紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人間の大切な役割の一つなのです。地上の難題や不幸や悲劇の多くが人間の愚かさと自惚れによって惹き起こされていることは、残念ながら真実なのです。

 慈しみの心が大切です。寛容の心を持たなくてはいけません。自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こすとき、その相手が人間どうしであっても動物であっても、結局は人間自身の進化を遅らせることになるのです。人間が動物を敵にまわしているうちは自然界に平和は訪れません。

平和は友好と一致と協調の中にこそ生まれます。それなくしては地上は苦痛の癒える時がなく、人間が無用の干渉を続けるかぎり災害は無くなりません。人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営むとき地上に平和が訪れ、神の国が実現する基礎ができるのです。

 残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が、愛は愛を呼び、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間みずからが破滅の道をたどることになります。ことわざにも〝風を蒔いてつむじ風を刈る〟と言います。悪いことをすればその何倍もの罰を被ることになるのです。

 何ものにも憎しみを抱かず、すべてに、地上のすべての生命あるものに愛の心で接することです。それが地上の限りない創造進化を促進するゆえんとなります。それは、人間がその一部を占めている進化の機構の中で為しうる最大の貢献です。

 挫けてはなりません。あなた方の仕事に対して人はいろいろと言うことでしょう。無理解、無知、他愛ない愚かさ、間抜けな愚かさ、心無い誹謗、等々。これには悪意から出るものもありましょうし、何も知らずに、ただ出まかせに言う場合もあるでしょう。それに対するあなた方の武器は、ほかならぬ霊的知識であらねばなりません 。

所詮はそれがすべての人間の生きる目的なのです。霊的知識を理解すれば、あとは欲の皮さえ突っ張らなければ、神の恩恵に浴することができるのです。

 お二人は多くの才能をお持ちです。まだまだ動物のために為すべき仕事が山ほど残っております。地上の生命は全体として一つのまとまった生命体系を維持しているのであり、そのうちのどれ一つを欠いてもいけません。お二人が生涯を傾けておられる動物は、究極的には人間が責任を負うべき存在です。

なぜならば、人間は動物とともに進化の道を歩むべき宿命にあるからです。ともに手を取り合って歩まねばならないのです。動物は人間の貪欲や道楽の対象ではないのです。動物も進化しているのです。

 自然界の生命はすべてが複雑にからみ合っており、人間の責任は、人間どうしを超えて草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは、ぜひとも阻止しなくてはなりません。

 装飾品にするために動物を殺すことは、神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺生は絶対に止めなくてはなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事にたずさわる者は、常にそうした人間としての道徳的原理に訴えながら闘わなくてはいけません。

小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。

 動物への残忍な行為を見て心を痛め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだという信念のもとに、勇気をもって動物愛護のための仕事を続けてください。多くの残酷な行為が、無知であるがゆえに横行しています。それらは、霊的知識を知って目が覚めればたちどころに消えてしまうのです。

また、一つの霊的知識に目覚めると、その知識のもつ別の意義にも目覚めてくるものです。その時こそ魂が真の自由への道を歩み始めた時でもあるのです。

 動物と人間とは、進化のある段階でどうしても別れ別れにならざるを得なくなります。地上の年数にして何万年にもなるかも知れませんが、動物と人間とでは霊的進化のスピードが違います。より大きな光を求めて絶え間なく成長していく人間の魂についていけなくて、動物は置き去りにされることになります。

 いったん物質のベールをくぐり抜けて霊界入りし霊的生活環境に慣れてくると、つまりあなたを地上に縛りつけていた絆が切れたことを認識すると、進歩しようとする欲求、内部に渦巻く神性を開発しようとする欲求が加速されます。いつどこにいても、修行次第で自分をいっそう役立てることを可能にしてくれる資質を開発しようとします。

その霊的開発の分野において高く昇れば昇るほど、動物はついていけなくなります。そして、死後もなお炎を燃やしつづけた愛が次第に衰えはじめます。やがて炎がチラチラと明滅しはじめ、最後は同じ種族の類魂の中へ融合していきます。

 創造物全体の進化を支配する総合的機構は一つあるだけですが、それぞれの顕現の形態にそれなりの異なった進化のコースがあります。人間が成就している個別的意識をもつに至っていない動物には、種族全体としての類魂があります。もっとも、同じ種族の動物でも人間との接触を通じて個別化を促進されて、人間に似た形態の個別的意識をもつに至っているのもいます。

 全体としての類魂もいつまでも同じ状態にあるのではなく、つねに進化しております。高級界の神霊が人間に対する責任を自覚しているごとくに人間が地上の全創造物に対する責任を自覚するようになれば、動物の進化が加速され個別化が促進されます。

しかし、人間との関係がよほど接近しないかぎり、ある程度まで同一方向ではあっても、進むコースは別々です。進化が進むにつれて類魂の数は少なくなり、個別化された魂が増えてまいります。

 全生命を通じて〝霊〟という共通の近親関係が存在します。生命のあるところには必ず霊が存在します。人間の残忍性は動物の進化を遅らせるという形で反映します。

それは人間の野獣性がみずからの進化を遅らせるのと同じことです。そのプロセスは同じです。全生命は協調、すなわちそれぞれが自分を役立てるということによって互いの進化に貢献し合うように意図されているのです。

 何ごとにつけ動機が重大な要素となります。愛する動物が手の施しようのない状態となっている時、これ以上苦しませるのが忍びなくて地上生命に終止符を打たせる処置を取るのであれば、その動機は正当です。

しかし動物の生得の権利を完全に無視して一かけらの同情心もなしに屠殺するとなると、その動機は利己的です。それは人間自身にとっても動物にとっても良かろうはずはありません。

そこで、殺された動物の霊を何とかしてやらねばならなくなります。人間の場合、死産児や夭折した子の霊は地上で味わうべきであったものについて埋め合わせが行われますが、動物の場合も同じで、地上で得そこなったものについて埋め合わせがあります。

 あなた方はみずからの意志を行使できない生命───その愛情と忠誠心と信頼と献身とが不幸にして、自分たちのしていることがいかに間違ったことであるかを知らない人間による情け容赦ない残虐行為によって皮肉な報復を受けている動物の保護のために献身しておられます。

動物虐待は人間が気取って〝文明〟などと呼んでいるものにとっての大きな汚点であり、邪悪な汚辱です。

 西洋人は私たちレッドインディアンを野蛮人と呼びますが、人間と同じ霊によって生命を与えられ同じ進化の道を歩みながら、一方的に人間によって略奪され苦しめられてきた動物に対するこれまでの人間の態度は、それに劣らず野蛮です。

 お二人がこの道に導かれたのは決して偶然ではありません。霊的熟達の極印は哀れみの情にあるからです。哀れみのないところに霊的進化はありません。すべての存在、すべての動物、あらゆる生物、地上に存在する霊的顕現のすべてに対して哀れみの情を向けなくてはいけません。

進化の道を少し先まで進んだ者は、共有している世界の不可欠の存在であるすべての人間、すべての生物に対して責任があることを自覚するものです。

 抵抗する勢力がいかに強かろうと、障害や困難が見た目にいかに大きかろうと、善いことのために払われた犠牲はけっして無駄にはなりません。今たずさわっておられる闘いは最後には必ずや勝利をおさめます。なぜなら、最後には真実が勝利をおさめるからです。

これからたどられる道もけっして容易ではありません。しかし先駆者たる者、大胆不敵な魂は、気楽な生活を期待したり蓮の台(うてな)の生活を夢見たりするようなことがあってはなりません。魂が偉大であるほど、要請される仕事も大きなものとなるものです。
フランチェスコ   
 申し上げるまでもないことと思いますが、地上であなた方とともにこの道にたずさわっている同志のほかに、私たちの世界でもあなた方に協力せんとして、霊の大軍が控えております。その先頭に立って指揮しているのが地上でアッシジの聖フランチェスコと呼ばれていた人物です。地上時代にもこの悪弊の改善運動に全身全霊を捧げ、今また霊界からたずさわっているパイオニアには長い長い系譜があるのです。

 時として味方であるべき人物が敵にまわることがあります。また時として、悲しいことですが、この道にたずさわっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その人のために蔭で涙を流しておやりなさい。

 私たちから要求することは、あなた方に啓示された光明にひたすら忠実であってくださる───それだけです。自分を役立てるという目的にひたむきでありさえすれば───これ以上の崇高な宗教はないのです───自動的に莫大な霊の力を呼び寄せ、それが数々の障害を取り除き、神の慈愛あふれる意志が地上に顕現されることになるでしょう。

 生命はその全側面において互いに混じり合い依存し合っております。そこに一種の親族関係ともいうべき密接なつながりがあります。生命は無限ですから、その顕現もまた無限の形態をとっております。どの部分も他と切り離されて存在することはできません。

 動物の中には人間との接触を通じて、人間とよく似た個的意識が芽生えているものがいます。もとより人間が動物に個別性を賦与するわけではありません。それは出来ませんが、潜在しているものを加速させることはできます。

それは皆さんが精神統一その他の修行によって内部の霊的能力を開発するのと同じです。感性を具えた存在に永遠の資質を賦与することができるのは宇宙の大霊すなわち神のみです。

 動物の魂も本質においては人間の魂とまったく同じです。双方とも同じ神から出ているのです。違うのは質ではなく程度です。動物と人間とでは発達の法則が同一方向ではあっても別々になっております。地上に生をうけた目的を果たして霊界入りし、他界直後の余波がおさまると、両者は別れ別れになります。

 このように、両者はそれぞれに果たすべき役割があります。人間は地上での人物像、つまり肉体器官を通じての魂の部分的表現が次第に消え、反対に霊的本性が開発され、潜在する完全性がより大きな発現の機会を得ます。

永遠の時をへて成就される完全性へ向けて向上するにつれてパーソナリティが減り、インディビジュアリティが増えていきます(92頁参照)。また動物は人間との愛の絆があるかぎり、目的を果たすまで人間とのつながりを維持します。

 すべての〝種〟に地上界と霊界とで果たすべき役割があります。何の原因もなしに、つまり偶然に存在するものは一つもありません。神の完全なる構想によって、あらゆる創造物、あらゆる生命がそれなりの貢献をするようになっているのです。

用もない種が地上に発生したために絶滅させなければならなくなったなどということは絶対にありません。人間が地上で最大の破壊的動物であってはならない理由はそこにあります。

 野性動物と人間との共存共栄が次第に当たりまえのこととなりつつあります。それは人間の動物への愛が大きくなって恐怖の壁が崩されつつある証拠です。人間がもしもこれまでのように動物を屠殺したり狩猟をしたり威嚇したりすることがなかったら、動物の側に恐怖心というものはおきなかったはずです。

進化の促進のために人間とのつながりを求める動物もいるのです。身体機能上の進化ではなくて心霊的進化です。

 しかし進化とは一直線に進むものでないことを忘れてはなりません。上昇と下降とがあります。スパイラルに進行します。感激的な絶頂にまで上がる時があるかと思えば、悪魔に呪われたようなドン底へ落ちる時もあります。そうした中にも計画は着実に進展し、進化が成就されていくのです。

 愛が愛としての本来の威力を発揮するようになれば、すべての創造物が仲良く暮らせるようになります。地球という生活環境を毒し問題を発生させる不協和音と混沌のタネを蒔くのは、人間という破壊主義者、人間という殺し屋です。すべての問題は人間がこしらえているのです。

神が悪いのではありません。動物が悪いのでもありません。人間が自由意志の行使を誤り、(万物の霊長だなどと)勝手に優越性を誇ったためです」


 奥さんの他界後、一人で出席したデニス氏にシルバーバーチがこう語りかけた。

 「奥さんからの伝言ですが、奥さんはあなたがその後も動物愛護の仕事───あなたとともに生涯をかけた、動物への無用で愚かで邪悪な残虐行為を止めさせるための仕事をずっとお続けになっていることを喜んでおられます。

これはまさに文明の汚点、恥ずべき汚辱です。全生命の同一性を理解しておられる皆さんは、下等な存在と見なされている動物が本来の権利を存分に発揮できるようにしてあげるための闘争に嫌気がさすようなことがあってはなりません。

 虐待、残忍、苦痛、無益な流血への挑戦を続けてください。その価値ある闘争におけるあなたの役割を存分に果たしてください。最後はかならず善意が愚行に打ち勝ちます」

 デニス氏 「どうもこれまでは残虐行為をしている側の方が勝っているように思えるのは不幸なことです」

 シルバーバーチ 「光が闇を征服するように、善はかならず悪を征服します。闇の力は光には勝てませんし、悪の力も善の力には勝てません。気落ちしてはなりません。あなたの背後には、かつて地上で同じ仕事に献身し死後も引き続き地上の生命すべてに自由をもたらすために尽力している霊団が控え、味方になってくれております。

 プランというものがあるのです。あなたはその成就のための仕事に参加する栄誉を担っておられるのです。最後にはかならず成就されるのです。それを邪魔することはできます。遅らせることはできます。妨害することはできます。しかし、それによって神が計画を撤回なさるようなことは絶対にありません」

 デニス氏 「私が理解できないのは、霊界では確固とした協力態勢ができているのに、地上で同じ愛護運動にたずさわっているはずの人たちの間に一致団結が見られないことです」

 シルバーバーチ「一致団結というのは難しいものです。残念ながら地上においては往々にして原理・原則よりも個人的な考えが優先されます。立派な仕事にたずさわっているものの、時が経つにつれて初心を忘れ、一身上のことばかり考えるようになります。人間の煩悩の一つです。

それは、つまるところ霊的理解力の欠如から生まれております。献身的に取り組んではいるものの、それは自分の思うように進んでいるかぎりの話です。自分の考えが正しいと思うのは良いとして、それが最高でそれしかないと自惚れはじめます。これが、地上で同じ仕事にたずさわっていて、こちらへ来てからもその成就のために援助している霊を困らせる問題の一つなのです。

 あなた方に心掛けていただきたいのは、容易なことではありませんが、その種の人間に個人的見解の相違を忘れさせ、基本の原理・原則に立ち帰って、最初にこの仕事に情熱を燃やした時の目標に向かって無心に努力するように指導することです。これは今たずさわっておられる動物愛護の仕事にかぎりません。

他の分野においても言えることです。たとえばスピリチュアリズムと呼ばれている思想運動においても、自己顕示欲が強い人がいて、とかく自惚れが原因となって衝突が起きていませんか?

 私は善のための努力は絶対に無駄にされないと申し上げます。闘いはかならず勝利をおさめます。なぜならば背後に控える霊力は、それくらいのことでは押し止められないほど強大だからです。いかなる抵抗に遭ってもかならず退却せしめます。

 改革は私たちの世界から鼓吹(こすい)されるのですが、同時に強大な霊力を具えた輝ける存在による祝福と協力とが与えられます。あなたは是非とも為さねばならないことへの情熱を失ってはなりません。

善行への励みに嫌気がさしてはなりません。これは大切な事です(嫌気を吹き込み、やる気を無くさせようとする邪霊集団の働きかけがあるから───訳者)勇猛果敢な精神を保持しなければいけません。

あなたには為すべきことが山ほどあります。今のところあなたはそれを立派にやってのけておられます。どうにもならないと思える事態にいたっても必ず道が示されます。

 私の記憶では、ここにお集まりの皆さんの誰一人として、克服できないほどの困難に遭遇された方はいらっしゃいません。時にはギリギリの瀬戸際まで待たざるを得ないことがあるかも知れませんが、きっと道は開けます。

 いかに美しいバラにもトゲがあります。見たところ不潔なものの中からきれいなものが出てくることがあります。大自然は両極性、多様性、付随的対照物、というパターンの中で営まれております。

絶頂があればドン底があり、晴れの日があれば嵐の日があり、無知な人がいれば知識豊かな人がおり、戦争があれば平和があり、愛があれば憎しみがあり、真実があればウソがあり、弱みがあれば強みがあります。それぞれに果たすべき役割があります。

 進化の法則はそうしたパターン以外には働きようがないのです。弱点の中に長所を見出すことがあります。暗闇の中でこそ光明が見出せるのです。困難の中にあってこそ援助が得られるのです。

夜明け前には必ず闇夜があるというのは陳腐な譬えですが、やはり真実です。これも人生のパラドックスの一つです。進化というのはそうしたパターンの中でこそ不易の目的を成就していけるのです。

 こうしたことを知ったからには、あなたは悲観なさる必要などどこにもありません。残虐行為の当事者たちが自分たちのしていることの極悪非道さを知らずにいることであなたが思い悩むことはありません。

あなた自身も気づいていらっしゃらない要素がいろいろとあるのです。あなたも一個の人間に過ぎませんが、内部には神性という黄金の筋金が入っているのです。それこそがあなたの宝庫です。発電所です。イザという時のエネルギー源です。

 同志の中に手を焼かせる者がいたら、その人のことを気の毒に思ってやることです。道を間違えているのです。そういう人間を激しい口調で説き伏せようとしてはなりません。素朴な真理を教えてあげるだけでよろしい。そのうち分かってくれるようになります。

 あなたは今みずからの自由意志で選択した仕事にたずさわっておられます。神から授かったもっとも大切な贈物の一つと言えるでしょう。もしかしたら理性も思考力も挑戦欲も懐疑心も持てない、ただの操り人形、ロボットのような存在となっていたかも知れないのです。

それが、反対にあなたには無限の神性が潜在的に宿されているのです。何かに挑戦することによってそれを引き出すことができるのです。その時の奮闘努力が霊のはがねを鍛えるのです。掛けがえのない絶好機です。霊がその純金の姿をあらわし神性を発揮することになるよう、どうか今こそあなたの気骨を示してください。

 挑戦にしりごみしてはなりません。闘うということは、霊的な目的意識さえ失わなければ、為になるものです。あなたより少しばかり先輩の魂である私から、最後にひとこと激励の言葉を述べさせていただきましょう。いついかなる時も永遠の霊的原理を指標としそれに頑固にしがみついているかぎり、あなたに、絶対に挫折はありません」


 その日もう一人動物愛護運動家が招かれていた。その人に向ってシルバーバーチがこう語りかけた。

 「本日あなたにお出でいただいたことを非常にうれしく思っております。人類の啓発と、感性を具えたあらゆる形態の生命への慈悲心を教える仕事に献身しておられる神の僕をお迎えすることは大いなるよろこびです。

 その仕事が容易ならざるものであること、前途に困難が山積していることは私もよく存じております。しかし、霊の褒章は、困難に直面した時ほど最大限の信念を堅持できる人にしか獲得できないのです。あなたは容易ならざる道を選んでしまわれました。私はけっしてあなたが今それを後悔していらっしゃると申し上げているのではありません。

あなたはこの道をみずからの自由意志で選択なさったことを指摘しているだけです。もう分かっていらっしゃると思いますが、地上で先駆的な仕事にたずさわっている人たちはけっして孤独な闘いを強いられているのではない───霊界から大々的に援助を受けている事実を分かってほしいと思っている霊が大勢います。

 この分野の仕事は困難をきわめます。改めるべきことが沢山あります。が、残虐行為を一つでも終わらせる、ないしは少なくすることに成功すれば、その分だけ永遠の創造活動に参加したことになるのです。

 申し上げるまでのないことと思いますが、地上に共存する動物にも人間と同じように〝奪うべからざる権利〟というものがあります。進化の法則は地上の全生命を包括していること、一つとしてその働きの外にはみ出ることは有り得ないこと、形態はいかにさまざまであっても、すべてが一丸となって前進するものであること、

すべての残酷な行為は、それが人間どうしであっても動物への仕打ちであっても、結局は生命の世界全体の進化を遅らせることになる───こうしたこともすべてあなたはすでにご存知と思います。

  この大切な分野において少しでも進展があれば、それは大きな勝利であるとみなすべきです。私と同様あなたも、人類の進化が動物の世界全体と密接につながっていることをよくご存知です。

献身と忠誠をもって人間に仕えている動物たち、また人間の進化によってその進化が促進されるようにと地上に生をうける動物たちに対する責任を人間が無視しあるいは忘れるようなことがあると、それは人間みずからの進化をも遅らせることになるのです。

 困難、戦争、貪欲、利己主義、こうした物質万能主義の副産物はすべて、人間が愛、情け、哀れみ、慈悲、好意といった霊的資質を発揮しないかぎり地上から無くなることはありません。

そうした資質は神からの授かりものなのです。それが発揮できるようになるまでは、人間はみずからを傷つけることばかりします。乱獲や残虐行為の一つ一つが人間どうし、あるいは動物に対して害を及ぼすのは無論のこと、それが人間みずからの進歩を妨げることになるのです。
   
 地上の動物愛護運動の背後には偉大な霊の集団が控えております。そのリーダーといってよい立場にあるのが(※)地上で〝アッシジの聖フランチェスコ〟と呼ばれた人物です。霊界において活発にこの運動を展開しており、他界後に身につけた霊力をフルに活用してあなた方の仕事の成就を援助しております。

(※ リーダーといってよい立場、というあいまいな言い方をしたのは、その上にも、そのまた上にも高級霊が控えて指揮しているからである。『霊訓』のイムペレーターも四十九名の霊団の頭であるが、その上にはプリセプターと名のる、直接人間界と接触できないほどの高級霊が控えていた。

それは多分紀元前九世紀の予言者エリヤであろうとされているが、いずれにせよ最後に行き着くところは、地球圏に限っていえば、地球の守護神である。なお聖フランチェスコ San Francesco d'Assisi は十三世紀のイタリアのカトリック修道士で、庶民的愛と清貧を主義とするフランシスコ修道会の創始者───訳者)

 問題に直面した時はそれをどう処理するかの決断を下さねばなりませんが、そんな時いちばんお勧めするのは、瞑想状態に入って魂の奥へ引きこもり、神の声に耳を傾けることです。

 今あなたがたずさわっておられる仕事は、あなたご自身がお選びになったのです。この分野にも組織、教会、審議会などがいろいろとありますが、そうしたものは本来の機能を果たせないかぎり存在しても無意味です。

この種の仕事は内奥の生命、霊的実在についての知識に目覚め、他の生命との霊的なつながりを理解した者が、自分を役立てるという動機一つに鼓舞されて仕事に従事するということであらねばなりません。

 以上の私からのメッセージ、といっても、そう伝えるようにと言われたのでお伝えしたまでですが、それが少しでもお役に立てば、その代弁者(マウスピース)となったことを私はうれしく思います。

 あなたのように闘いの最前線に身を置く者は、ひるむことのないよう鍛えられ試される必要があるのです。これまでの数々の体験は、そうした試練の中でも肝心な要素として用意されたものでした。

すなわち霊の純金を磨いて浮き出させて、イザという時に霊力を引き出し、窮地に陥った時に引きこもって安らぎを得るために、その内奥の力、内奥の避難所の存在に目覚めさせることに目的があったのです」


───お言葉はまさに私がいま必要としていることばかりです。きっと、これからの仕事に大いに役立つことと存じます。私たちは時としてどちらの方向を取るべきか迷うことがあるのです。

 「その時点で正しいと思われたことをなさればよいのです。ただし、これが正しいということに確信がなくてはいけません。動機が純粋であれば、その後に派生してくるものも善へ向かいます。

万が一動機が間違っていたことに気がつかれれば、その時は自分が責めを負えばよろしい。が、闘って敗れ、しかも動機にやましいところがなければ、もう一度気を取り直して闘いを挑むのです。

 われわれは闘士なのです。挑まねばならない闘いがある以上は闘士であらねばなりません。しかも、いま挑んでいる闘いは、あらゆる闘いの中でも最大の闘いではないでしょうか。無知と愚行と利己主義と迷信───光明に逆らう闇の勢力すべてとの闘いです。抑圧と残虐と略奪と無用の犠牲(動物実験)に対する闘いです。ぜひとも勝たねばならない大規模な闘いです。

 あなたがもしたった一つの残虐行為でも止めさせることができれば、あなたの全人生が生き甲斐あるものとなります。その無益な残虐行為こそ、地上から完全に駆逐するまでわれわれは何度でも闘いを挑まねばなりません。見た目にいかに抵抗が大きくても、決してひるんではなりません。かならずや勝利はあなた方のものとなります。

 あなた方が望んでいる改革のすべてが、あなたの在世中に成就されるとはかぎりません。しかし、そのうちの一つでも、二つでも、あるいは三つでも成就されれば、あなたが地上に存在した意義があったことになります。

 時どき私は、この仕事に没頭しておられるあなた方に、できることなら私たちの世界の動物が一かけらの恐れも怖じ気もなく安らかに仲良く暮らしているところを一度ご覧に入れたいものだと思うことがあります。そこはまさに動物にとっての天国なのです」

    
   
  解説〝再生〟と〝前生〟についての誤解 ───訳者───

  本書の編者トニー・オーツセンという人はまだ四十そこそこの若い、才覚あふれる行動派のジャーナリストである。この人とは私は二度会っている。一度はバーバネルが健在のころで、そのときはまだ取材記者の一人にすぎなかった。

二度目はバーバネル亡きあと編集スタッフの一員として、生来の才覚と若さと、それにちょっぴりハンサムなところが買われて、BBCなどにも出演したりしていた。そのときはサイキックニューズ社の所在地も現在地に移っていて、一階の書籍コーナーで私がレジの女性に自己紹介してオーツセンに会いたいと言うと、二階の編集室へ電話を入れてくれた。

すると間もなく階段を転げ落ちるようなスピードで降りてくる足音がして、あっという間にオーツセンが顔を見せ〝よく来た!〟と言って握手を求め、すぐに二階へ案内してくれた。こうした行動ぶりから氏の性格を想像していただきたい。もっともその積極性が時おり〝勇み足〟を生むのが玉にキズなのだが・・・・・・

 彼とは今でも月に何度か手紙のやり取りがあるが、つい最近の手紙で彼がついに日本でいう専務取締役、兼編集主任となっていることが分かった。彼もついにかつての親分(バーバネル)のイスに腰掛けたわけである。その昇進ぶりから彼の才覚のほどを察していただきたい。今後の大成を期待している。

 さて本書の原典の第三章は〝再生〟に関する霊言が集めてあるが、これは日本語シリーズ第四巻の三章〝再生の原理〟とほぼ完全に重複しているのでカットした。

ただ次の二つの質問が脱落しているので、ここで紹介してそれを問題提起の糸口としたい。これは第四巻七九ページの「双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう」という質問に続いて出された質問である。


───同じ進化の段階まで到達した双子霊がなぜ別れ別れに地上に誕生するのでしょうか。霊界でいっしょになれた段階で、もうこれでずっといっしょで居続けられる、と思うのではないでしょうか。

 「おっしゃる意味は、霊的に再会しながら肉体的に別れ別れになるということと理解しますが、それとてほんの一時期の話です。アフィニティであれば、魂のやむにやまれぬ衝動が強烈な引力となって霊的に引き合います。親和力の作用で引き寄せられるのです。身体的には二つでも霊的には一つだからです」


───別れ別れに誕生してくるのも双子霊として向上のためと理解すればよいのですね。

 「別れるということに拘っておられるようですが、それは別だん大きな問題ではありません。別れていようと一緒でいようと、お互いが一個の魂の半分ずつであれば、肉体上の違いも人生のいかなる出来ごとも、互いに一体になろうとする基本的なプロセスに影響を与えることはありません。霊的な実在を物的な現象と混同してはいけません。霊にかかわる要素が持続されていくのです」


 オーツセンはその第三章を〝再生───霊の側からの見解〟と題しているが、この〝霊の側からの見解〟という副題に私はさすがはオーツセンという感想をもった。

というのは、現在地上で扱われている再生説や前生うんぬんの問題は、そのほとんどが人間的興味の観点から捉えられたものばかりで、上のシルバーバーチの言葉どおり〝霊的な実在を物的な現象と混同して〟いるからである。そこから大きな誤解が生じているので、本稿ではその点を指摘しておきたい。


 人間には前世は分からない

 第六巻の十章で 〝自分の前生を思い出してそれと断定できるものでしょうか〟 という質問に対してシルバーバーチは、それは理論的にはできますと言えても実際にそれができる人は現段階の地上人類にはまずいませんと述べている。ところが現実には洋の東西を問わず、〝あなたの前生は〇〇です〟とか、みずから

〝私は××の生まれ変わりです〟 と平然と公言する自称霊能者が多く、またそれをすぐに真にうけている信者が実に多いのである。「スピリチュアリズムの真髄」の中で著者のレナードがこう述べている。

 「この輪廻転生に関して意味深長な事実がある。それは、前生を〝思い出す〟人たちのその前生というのが、大てい王様とか女王とか皇帝とか皇后であって、召使いのような低い身分だったという者が一人もいないことである。中でも一ばん人気のある前生は女性の場合はクレオパトラで、男性の場合が大てい古代エジプトの王という形をとる」

 こう述べてからD・D・ホームの次の言葉を引用している。

 「私は多くの再生論者に出会う。そして光栄なことに私はこれまで少なくても十二人のマリー・アントワネット、六人ないし七人のメリー・スコットランド女王、ルイ・ローマ皇帝ほか、数え切れないほどの国王、二十人のアレキサンダー大王にお目にかかっているが、横丁のおじさんだったという人には、ついぞお目にかかったことがない。もしそういう人がいたら、ぜひ貴重な人物として檻にでも入れておいてほしいものである」

 これが東洋になると、釈迦とかインドの高僧とかが人気の筆頭のようである。釈迦のその後の消息が皆目わからないのがスピリチュアリズムの間で不思議の一つとされているが、あの人この人と生まれ変わるのに急がしくて通信を送る暇がなかったということなのだろうかと、と皮肉の一つも言ってみたくなる。

 それにしても一体なぜ高位・高官・高僧でなければいけないのであろうか。なぜ、歴史上の人物でなければ気が済まないのであろうか。マイヤースの通信『個人的存在の彼方』に次のような一節がある。

 「偉大なる霊がまったく無名の生涯を送ることがよくある。ほんの身近な人たちにしか知られず、一般世間の話題となることもなく、死後はだれの記憶にも残らない。その無私で高潔な生涯は人間の模範とすべきほどのものでありながら、それを証言する者は一人としていない。

そうした霊が一介の工場労働者、社員、漁師、あるいは農民の身の上に生をうけることがあるのである。これといって人目につくことをするわけではないのだが、それでいて類魂の中心霊から直接の指導を受けて、崇高な偉大さと高潔さを秘めた生涯を送る。かくして、先なる者が後に、後なる者が先になること多し(マタイ19・30)ということにもなるのである」

 オーエンの『ベールの彼方の生活』第三巻に、靴職人が実は大へんな高級霊で、死後一気に霊団の指揮者の地位に付く話が出ている。地上生活中は本人も思いも寄らなかったので、天使から教えられて戸惑う場面がある。肉体に宿ると前生(地上での前生と肉体に宿る前の霊界での生活の二種類がある)がシャットアウトされてしまうからである。『続霊訓』に次のようなイムペレーターの霊言がある。

 「偉大なる霊も、肉体に宿るとそれまでの生活の記憶を失ってしまうものである。そうした霊にとって地上への誕生は一種の自己犠牲ないしは本籍離脱の行為と言ってよい」

 そうした霊が死後向上していき、ある一定の次元まで到達すると前生のすべてが(知ろうと思えば)知れるようになる、というのがシルバーバーチの説明である。霊にしてその程度なのである。まして肉体に包まれている人間が少々霊能があるからといって、そう簡単に前生が分かるものではないのである。


 たとえ分かっても何にもならない

 ところで、かりに人間にそれが分かるとして、一体それを知ってどうなるというのであろうか。一回一回にそれなりの目的があって再生をくり返し、そのつどシルバーバーチの言うように〝霊にかかわる要素〟だけが持続され、歴史的記録や名声や成功・失敗の物語はどんどん廃棄されていく。

ちょうど我々の食したものから養分だけが摂取され、残滓(ざんさい)は排泄されていくのと同じである。そんな滓(かす)を思い出してみてどうなるというのであろう。

 それが歴史上の著名人であれば少なくとも〝人間的興味〟の対象としての面白味はあるかも知れないが、歴史にまったく記されていない他の無名の人物───ほとんど全部の人間といってよい───の生涯は面白くもおかしくもない、平々凡々としているか、波乱万丈であれば大抵被害者あるいは犠牲者でしかないのである。

人間的体験という点においては何も歴史的事件にかかわった者の生涯だけが貴重で、平凡な人生は価値がないというわけでは絶対にない。その人個人にとっては全ての体験がそれなりの価値があるはずである。が、

人間はとかく霊というものを人間的興味の観点からせんさくしようとするものである。シルバーバーチが本名を絶対に明かさないのは、そんな低次元の興味の対象にされたくないということと、そういうことではいけませんという戒めでもあるのである。


  再生問題は人間があげつらうべきものではない

 再生そのものが事実であることに疑問の余地はない。シルバーバーチは向上進化という霊の宿命の成就のための一手段として、再生は必須不可欠のものであり、事実この目で見ておりますと述べている。私はこの言葉に全幅的信頼を置いている。

 また、それを否定する霊がいるのはなぜかの問いに、霊界というところは地上のように平面的な世界ではなく、内面的に無限の次元があり、ある一定の次元まで進化しないと再生の事実の存在が分からないからだと述べている。

つまりその霊が到達した次元での視野と知識で述べているのであって、本人はそれが最高だ、これが全てだ、これが真実だと思っても、その上にもまた上があり、そこまで行けばまた見解が変わってくる。

だからシルバーバーチも、今否定している人も自分と同じところまで来れば、なるほど再生はあると思うはずだと述べている。イムペレーターも、このあと引用する『続霊訓』の中で、再生の事実そのものは明確に認めている。

そういうわけで私は再生という事実については今さらとやかく述べるつもりはない。その原理については第四巻の三章を参照していただきたい。ただ、世間において、あるいはスピリチュアリズムに関心をお持ちの方の中においても、生まれ変わりというものについて大きな誤解があるようなので、それを指摘しておきたいと思う。
 
 モーゼスの『続霊訓』に次のような一節がある。

 「霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊にしてはじめて論ずることのできる問題である。最高神のご臨席のもとに、神庁において行われる神々による協議の中身については神庁の下層の者にすら知り得ない。正直に言って、人間にとって深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。

神庁において紳議(かむはか)りに議られしのちに一個の霊が再び肉体に宿りて地上へ生まれるべきか、それとも否か、そのいずれの判断が下されるかは誰にも分からない。誰にも知り得ないのである。守護霊さえ知り得ないのである。すべては佳きに計らわれるであろう。

 すでに述べた如く、地上にて広く喧伝(けんでん)されている形での再生(機械的輪廻転生)は真実ではない。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とを携えて地上へ降り人間と共に生活を送ることは事実である。ほかにもわれらなりの判断に基づいて広言を避けている一面もある。

まだその機が熟していないとみているからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならない。そう広言する霊は、みずから己れの虚偽性の証拠を提供しているに他ならない」
(『ベールの彼方の生活』をおもちの方は第四巻第六章3〝神々による廟議〟を参照されたい)

 高級霊にしてこの程度なのに、こうして肉体に包まれ、シルバーバーチ流に言えば〝五本の鉄格子(五感)の間から外界をのぞく〟程度の地上の人間が、少々霊能が芽生えたからといって、そんなもので再生問題を論ずるのは言語道断なのである。

 再生とは少なくとも今の自分と同じ人間がそっくり生まれ変わるという、そんな単純なものではない。心霊学によって人間の構成要素をよく吟味すれば、イムペレーターやシルバーバーチから指摘されなくてもその程度のことは分かるはずである。

 そんな軽薄な興味にあたら時間と精神とを奪われるよりも、五感を中心として平凡な生活に徹することである。そうした生活の中にも深刻な精神的葛藤や身体的苦闘の材料がいくらでもあるはずである。それと一生けんめい取り組んでいれば、ごく自然な形で、つまり無意識のうちに必要な霊的援助を授かるのであり、それがこの世を生きる極意なのである。



  悪ふざけをして喜ぶ低級霊団の存在

 私が声を大にしてそう叫ぶのは、一つにはそこにこそ人間的努力の尊さがあり、肉体をもって生活する意義もそこから生まれると信じるからであるが、もう一つ、生半可な霊能を頼りにすることの危険性として、そうした霊能者を操って悪ふざけをする低級霊がウヨウヨしているという現実があるからである。『霊訓』に次のような一節がある。

 「邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはりわれらにとって面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えない。肉体より離れていく人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。

そして地上に近き界層を一気に突き抜けていくほどの進化した霊は、特別の使命でもないかぎり地上へは舞い戻っては来ないものである。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。

 言い残したものにもう一種類の霊団がある。それは、悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊界へ出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。

邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いていかにも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取って面白がっているに過ぎない。

交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると汝に言わしめる要因もそこにある。茶目っ気やいたずら半分の気持ちからいかにも真面目くさった演出をしては、それを信ずる人間の気持ちを弄ぶ霊の仕業がその原因となっている。列席者が望む肉親を装っていかにもそれらしく応対するのも彼らである。

誰でも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも彼らの存在の所為(せい)である。最近、だれそれの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、そのほどんとは彼らの仕業である。

通信にふざけた内容、あるいは馬鹿げた内容を吹き込むのも彼らである。彼らは真の道義的意識は持ち合わせない。求められれば、いつでもいかなることでも、ふざけ半分、いたずら半分にやってみせる。その時どきの面白さ以上のものは何も求めない。人間を傷つける意図はもたない。ただ面白がるのみである」

 ついでに『続霊訓』からも次の一節を紹介しておこう。これは自動書記通信であるが、モーゼスが「間違った教理を信じ切っている霊が何百年、何千年と、そう思い込んだままの状態でいると聞いて驚きを禁じ得ません。それはよくあることなのでしょうか」と質問したのに対してこう述べている。

 「そう滅多にあるものでないのであるが、霊媒を通じてしゃべりたがる霊は、概してそう高度な悟りに到達していない者たちである。理解力に進歩のない連中である。請われもしないのに勝手に地上へ戻ってくるということ自体が、あまり進歩的でないことの証明といえよう。中でも、人間がこしらえた教理によってがんじがらめにされたままやってくる霊は、もっとも進歩が遅い。

 真実の教理は人間の理解力に応じて神みずから啓示されるものである。数ある地上の教説や信仰は大なり小なり間違っている。ゆえに(それが足枷となって)進歩が遅々としている者が実に多く、しかも自らはその誤りに気づかないのである。

その種の霊が徒党を組み、その誤りがさらに新たな誤りを生んでいくことがしばしばある。かくして無知と偏見と空理空論が下層界に蔓延し、汝らのみならず我らにとりても厄介なことになっている。というのも、彼らの集団も彼らなりの使者を送って人間界を攪乱せんとするのである。

彼らは必ずといってよいほど敬虔な態度を装い、勿体ぶった言葉を用いる。それがいつしか進歩を阻害し、心理を窒息させるように企んでいるのである。魂の自由を束縛し、真理への憧憬を鈍らせるということにおいて、それは断じて神の味方ではなく、敵対者の仕業である」

 五感はたしかに鈍重であるが、それなりの安定性がある。それに引きかえ、霊能というのはきわめて不安定であり、肉体の健康状態、精神的動揺によって波長が変化し、昨日は高級霊からのものをキャッチしていたのが今日は低級霊に騙されているということがある。まさに両刃の剣である。

 ショパンが弾けるというだけの人なら世界中どこにでもいるが、人に聞かせるに足る名演奏のできる人はそう数多くいるものではない。それと同じく、信頼の置ける霊媒、高い霊質と人格と識見とを兼ね具えた名霊媒はそう数多くいるものではない。

その一人がステイントン・モーゼスであり、ヴェール・オーエンであり、ジェラルディン・カミンズであり、モーリス・バーバネルである。そのほか地道にやっている霊能者が世界中にいるはずである。

 そして、こうした霊媒を通じて通信してくる霊が異口同音に言うのが〝宇宙の神秘は奥には奥があって、とても全てを知ることはできない〟ということである。肝に銘ずべきであろう。   
                                                    
                     一九八七年四月     近藤 千雄





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