Saturday, March 8, 2025

シアトルの弥生 質問に答える

answer a question



Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley 
 

シルバーバーチの交霊会では開会の祈りと講話のあと〝何かお聞きになりたいことがありますか。もしあれば私の知る限りで精一杯お答えしましょう〟と述べる。

 質問はあらかじめまとめておいて司会者が述べることもあるが(投書による質問もある)、招待客がその専門分野、例えば心霊治療について直接質問することもある。その内の幾つかを紹介する。


 問 「もう一度やり直すチャンスは全ての人に与えられるのでしょうか」

 答 「もちろんです。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終わるとしたら、この世は実に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しもできないことになります。

私どもが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は人生が〝死〟をもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことができるということ。言いかえれば、悔やし涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。 

人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時にまた、愚かにも摂理を無視し他人の迷惑も考えずに横柄に生きてきた人間は、その悪行の償いをするチャンスが与えられます。

神の公正は完璧です。だますことも、ごまかすこともできません。すべては神の眼下にあります。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きてきた人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです。


 問 「祈りに効果があるでしょうか」

 答 「本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお分かりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい。カネが欲しい、家が欲しい──こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。

そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。そうした祈りには魂の内省があります。

つまり自己の不完全さと欠点を自覚するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。

ただ、これまでも何度か述べたことがありますが、そうした祈りをあえて無視して、その状態のまま放っておくことが実はその祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。

こちらからあれこれと手段を講じることがかえって当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の奥底からの要求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。

つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起こし、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。危険の中にあっての祈りであれば保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。

それは血縁関係によって繋がっている霊もおれば、愛の絆によって結ばれている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救われた体験があるので、その要領を心得ております。」


 問 「唯物主義者や無神論者は死後の世界でどんな目に遭うのでしょうか。」

 答 「宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を永い間迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。

祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか、無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。

 問 「霊界の医師にはガンの治療法が分かっているのでしょうか」

 答 「あらゆる種類のガンが治せるという意味での特殊な治療法はありません。全部が同じ原因から発生しているのではないからです。身体的なものに由来するものもあれば精神的なものもあり、また霊的なものもあります。

その全てを同じ方法で治すことはできません。私たち霊界の者が地上の問題にかかわるにはそれなりの制約があることを理解して下さい。

人間から頼まれて〝ああ、その問題ですか。じゃあ、こうしなさい〟といった調子で受け合うわけには参りません。地上の人間は地上の人間なりの努力をして解決していかねばなりません。ただし人生観が誤っていたり、動物に苦痛を与える実験をしたり、要するに援助を受けるべき資格のない状態でいくら努力をしても、治療法は見つかりません。

 霊界からの援助は二重に行われます。真摯で献身的な治療家が正しい霊的法則に則って治療に当たっている時、霊界からそのチャンスをうかがっているその道の専門家が自動的に引き寄せられます。次にその患者に受け入れる用意が出来ている時、霊的治癒エネルギーがふんだんに注ぎ込まれます。

霊界からの治療は全てこの霊力によってなされます。決して魔法の杖を使うわけではありません。霊力は患者の魂によって引き寄せられます。ですから、その魂が霊力を受け入れない限り反応は生じません。魂が窓を開けてくれない限り、霊力と魂とを繋ぐものがないのです。閉め切った魂とは接触は得られません。この他にもいくつかの要素があります。

ガンの直接の(物的)原因にもよりますし、この度の地上への誕生の目的にかかわる問題もありますし、誕生以前に 地上人類以外の何らかの身体での生活の体験があるかどうかもかかわってきます。決して単純な問題ではないのです。


 問 「生まれ変わりは本当にあるのでしょうか。」

 答 「これは非常にややこしい問題です。というのは、この問題に関してはこちらの世界でも事実を知る者と知らない者とで意見がさまざまに分かれているからです。知らない者はあくまでも〝ない〟と主張し、知っている者は自分の体験から自信をもって〝ある〟と断言します。私は後者の一人です。

私にも体験があるからです。ですから再生が事実であるという点は問題ないとしても、その真相の説明となると、これは大変やっかいです。なぜかと言えば、何度も述べてきたように、再生するのは同じ霊であっても、物質界に顕現するのは同じ面ではないからです」


 問 「霊的法則は霊界でも地上でも同じ作用をするのでしょうか。」

 答 「違います。こちらでは同一レベルにまで進化した者同士の生活が営まれており、霊格による区別がはっきりしているからです。ですから地上のように比較対照というものがありません。各自がその霊格に合った階層で生活しており、程度の低い者と高い者とが一緒に暮らすということがありません。

地上では精神的ならびに霊的発達程度の異なる者が毎日のように顔を合わせますが、こちらではそういうことはありません。ただし、使命を受けて(地上的言い方をすれば)低い階層へ降りて行けば別です。そうでない限り同じレベルの霊同志の生活が営まれます。

やがてそのレベル以上に向上してくれば次のレベルへ進んで行きます。ですから一つの階層で対照的な生活が営まれることがないわけです。

 とにかく私たちの世界には光と闇といった対照がなく、従って影もありません。光だけです。光の中だけで生きていける段階まで到達した霊は、光とは何かについて完全な理解が出来ております。そうでなかったらその階層におれません。

その階層に至るまではやはり光と闇の錯覚の世界である幽界に留まります。進化していくとそういう比較対照を必要としない段階に至ります。そうすれば実在の真相をより正しく理解するようになり、実相をあるがままに知ることができます。

 たとえば一輪の花にしても、もし霊眼によってその〝全体像〟を見ることができれば、地上では見られない美しさが鑑賞できます。霊眼には全ての物の内側と外側とが見えるのです。

内側には地上のような外側だけの世界に見られない無限の種類の色彩があります。色調も無数にあります。そして物的感覚では理解できない霊的な実体感を有しております。

私たちは地球の引力の作用を受けません。また永遠の光が存在します。魂が開発されるにつれて、その程度にふさわしい美しさも開発されます。こちらは創造進化の世界です。そこに生活する者自らが創造していく世界です。」


 問 「昨今のスピリチュアリズムの動向をどう観られますか」

 答 「潮に満ち潮と引き潮があるように、物事には活動の時期と静止の時期とがあるものです。いかなる運動も一気に進めるわけにはいきません。なるほど表面的にはスピリチュアリズムはかなりの進歩を遂げ、驚異的な勝利を収めたかに見えますが、まだまだ霊的真理について全く無知な人が圧倒的多数を占めております。

いつも言っているように、スピリチュアリズムというのは単なる名称にすぎません。

私にとってそれは大自然の法則、言いかえれば神の摂理を意味します。私の使命はその知識を広めることによって少しでも無知をなくすることです。その霊的知識の普及に手を貸してくださるものは、それが一個人であってもグループであっても、私はその努力に対して賞賛の拍手を贈りたいと思います。

神の計画はきっと成就します。私の得ている啓示によってもそれは間違いありません。地上における霊的真理普及の大事業が始まっております。

時には潮が引いたように活動の目立たない時期もありましょう。そうかと思うとブームのような時期があり、そして再び無関心の時期が来ます。普及に努力するのが嫌になる人もおりましょう。が、こうしたことは神の計画全体から見ればほんの部分的現象にすぎません。

その計画の中でも特に力を入れているのが心霊治療です。世界各地で起きている奇跡的治癒は計画的なものであって、決して偶発的なものではありません。その治癒の根源が霊力にあることに目覚めさせるように霊界から意図的に行っているものです。

私は真理の普及に関して決して悲観的になることはありません。常に楽観的です。というのは、背後で援助してくれている強大な霊団の存在を知っているからです。

私はこれまでの成果に満足しております。地上の無知な人々がわれわれの仕事を邪魔し、遅らせ、滞らせることはできても、真理の前進を完全に阻止することはできません。ここが大切な点です。

遠大なる神の計画の一部だということです。牧師が何と説こうと、医者がどうケチをつけようと、科学者がどう反論しようと、それは好きにさせておくがよろしい。時の進展と共に霊的真理が普及していくのをストップさせる力は彼らには無いのです。」


 問 「死後の世界でも罪を犯すことがありますか。」

 答 「ありますとも! 死後の世界でも特に幽界と言う処は地上と非常によく似ています。住民は地上の平凡人とほぼ同じ発達程度の霊たちで、決して天使でもなければ悪魔でもありません。

高級すぎもせず、さりとて低級すぎもせず、まあ、普通の人間と思えばいいでしょう。判断の誤りや知恵不足で失敗もすれば、拭いきれない恨みや憎しみ、欲望などに囚われて罪悪を重ねることもあります。要するに未熟であることから過ちを犯すのです。」


 問 「弱肉強食の自然界をこしらえた創造主がどうして全てを愛する神であり得るのでしょうか。」

 答 「限りある知恵で無限の叡知を理解することはできません。宇宙規模の問題を肉眼だけを通して覗いてみても、つまり限られた知性でもって理解しようとしても解決は得られません。全体のごく限られた一部しか見えないからです。

確かに自然界には弱肉強食の一面があり、腹が空けば互いに食い合うこともしますが、それは自然界全体としては極めて些細な話であって、人間界と同様に動物界にも調和と協調の原理が働いております。チャンスに恵まれればその原理を如実に見ることができます。

 それとは別に人間としての責務に関わる一面もあります。つまり、上に立つ者が低い進化の過程にある者に対してもつ責務です。人間も動物も、樹木や果実、花、野菜、小鳥などと共に一つの生命共同体を構成しているからです。

全生命は、進む時は共に進み、後戻りする時は共に後戻りします。ですから、人間が愛と慈悲と同情の心を発揮すれば、それこそオオカミと小ヒツジが相寄りそって寝そべるようになるでしょう。」


 問 「人間一人ひとりに守護霊がついているのですか。」

 答 「母体内での受胎の瞬間から、あるいはそれ以前から、その人間の守護の任に当たる霊が付きます。そして、その人間の死の瞬間まで、与えられた責任と義務の遂行に最善を尽くします。守護霊の存在を人間が自覚するとしないとでは大いに違ってきます。自覚してくれれば守護霊の方も仕事がやりやすくなります。

守護霊は決まって一人だけですが、その援助に当たる霊は何人かおります。守護霊にはその人間の辿るべき道があらかじめ分かっております。

が、その道に関して好き嫌いの選択は許されません。つまり、自分はこの男性にしようとか、あの女性の方が良さそうだ、といった勝手な注文は許されません。こちらの世界は実にうまく組織された機構の中で運営されております。」


 問 「地上で犯す罪は必ず地上で報いを受けるのでしょうか。」

 答 「そういう場合もあれば、そうでない場合もあります。いわゆる因果律というのは必ずしも地上生活期間中に成就されるとは限りません。しかし、いつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことはできないのです。

しかし、いつ成就されるかという時間の問題になると、それはその原因の性質いかんに関わってきます。すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。

その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すと、その罪がその人の霊に記録され、それなりの結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。

それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはさまざまな事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である霊性の進化にあることだけは確かです」


 問 「死とは何かを子供にどう説かれますか。」

 答 「その子供に理解力があればの話であることは無論ですが、死とは、小鳥が鳥かごから放たれて自由に羽ばたくように肉体から解き放たれて、より大きな生活の世界へ進んで行くことであると説明しましょう。」


 問 「いたいけない幼児が不治の病で苦しむのは何か原因があるのでしょうか。これで神が公正と言えるだろうかと思うことがありますが・・・。」

 答 「本来霊的な問題を物的尺度で解決することはできません。地上生活という極めて短い期間の体験でもって永遠を判断することはできません。神の公正は無限の摂理によって支配されており、その全てを小さいひとかけらだけで持って理解することはできません。

小さなものが自分より大きいものを理解出来るでしょうか。一滴の水が大海を語れるでしょうか。部分が全体を理解出来るでしょうか。

宇宙はただただ感嘆するばかりの見事な法則によって支配されております。完璧な叡知によって創造されているからです。法則が狂うということは絶対にありません。時に不公平のように思えることがあるのは全体の一部だけを見ているからです。

全体が見えるようになれば考えが変わります。地上にいる限り、その短い期間で無限を理解することはできません。

 埋め合わせ、あるいは応報の原理は人間には理解できません。霊の世界の豊かさ、美しさ、見事さは、それを譬えるべきものが地上に無いのですから、人間には理解する手掛かりがないわけです。宿命的に判断力が制限され、視野が狭められている人間にどうして地上の裏側の世界が理解できましょう。

 子供の身体は両親の血と肉とでこしらえられる以上、両親の肉体的要素が全部その子に受け継がれていくに決まっています。ですから、子供は両親の身体的欠陥まで頂戴することになります。

 しかし、子供は誕生という行為によって宇宙の大霊の一部となるのです。神の遺産、あらゆる物的障害に負けない潜在的神性を宿しております。物質は霊を凌ぐことは出来ません。物質はあくまでも従者です。霊が主人です。霊的成長はゆっくりとして着実な道程です。霊的感覚と理解力は魂にその用意ができた時に初めて得られるものです。

私たちの説く真理が馬の耳に念仏である人もいます。が、それになんらかの感動を覚えた時、その人はその後に待ち受ける数々の真理を理解していく用意が出来たことを意味します。あたかも神の立場に立って判決を下すようなことをしてはいけません。」


 問 「心霊的能力の発達は人類進化の次の段階なのでしょうか。」

 答 「霊能者とか霊媒と呼ばれている人が進化の先駆けであることに疑問の余地はありません。進化の梯子の一段上を行く、いわば先遣隊です。 そのうち心霊的能力が人間の当たり前の能力の一部となる時代が来ます。地上人類は今精神的発達の段階を通過しつつある処です。このあとには必然的に心霊的発達の段階が来ます。

 人間が五感だけを宇宙との接触の通路としている哀れな動物でないことをまず認識しないといけません。五感で知り得る世界は宇宙のほんの一部です。それは物的手段で感識できるものに限られています。人間は物質を超えた存在です。

精神と霊とで出来ているのです。その精神と霊にはそれなりのバイブレーションが備わっており、そのバイブレーションに感応する別の次元の世界が存在します。地上にいる間は物的なバイブレーションで生活しますが、やがて死を経て、高いバイブレーションの世界が永遠の住み家となる日が来ます。」


 問 「霊界のどこに誰がいるということがすぐに分かるものでしょうか。」

 答 「霊界にはそういうことが得意な者がおります。そういう霊には簡単に分かります。大ざっぱに分類すると死後の霊は、地上へ帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。

帰りたがっている霊の場合は有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡が取れます。が、帰りたがらない霊ですと、どこにいるかは簡単に突き止めることはできても、地上と連絡を取ることは容易ではありません。嫌だと言うのを無理やり連れてくるわけには参りません。」


 問 「永遠の生命を考えると、地上でのこんな限られた物的体験に意義があるでしょうか。」

 答 「永遠も無数の小さな体験の総計から成り立つのです。一つの体験、一つの行為、一つの言葉、一つの思念にも、それがいかに小さなものであってもそれなりの意義があります。そうした細々とした体験の寄せ集めが永遠を作るのです。その内の一つが欠けても完全性を失います。

例えば、二、三百名から成るオーケストラの中でトライアングルを一度だけ鳴らす人がいるとします。分量から言えば全くささやかな存在ですが、もしもその人が、たった一回の演奏で音階を間違えたらどうなりますか。あるいは音が弱すぎて聞き取れなかったらどうなりますか。

オーケストラ全体が台無しになるでしょう。分かりますね。あなた方の地上生活での体験もそれと同じことです。一つひとつが魂の陶冶(とうや)のための一部──大切な一部を担っているのです。その体験は永久に魂に刻み込まれていきます。」
            

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