Saturday, March 8, 2025

シアトルの弥生 私の国はこの世のものではありません。

My country is not of this world.





一、ピラトは再び官邸に入ると、自分の前にイエスを呼んで、尋ねた、「おまえはユダヤの王なのか」イエスは答えられた、「私の国はこの世のものではありません。もし私の国がこの世のものであったとしたら、人々は戦って、私がユダヤ人の手にわたることを阻止したでしょう。しかし、私の国はこの世のものではありません」

するとピラトは言った、「おまえは王か」。イエスは答えられた、「あなたの言う通り、私は王です。私がこの世に来たのは真実の証をするためです。真実につく者は私の声を聞くでしょう」(ヨハネ 第十八章  三十三 三十六 三十七)


 未来における生活
二、こうした言葉によって、イエスははっきりと未来における生活に付いて触れていますが、イエスはその生活が、いかなる場合においても、人類の目指す目標であり、地上における人間はその生活のことを最大の関心事と捉えるべきであると示しています。イエスの金言はすべて、未来における生活が存在するというこの大きな原則に基づいているのです。

未来における生活がなければ、イエスの道徳上の教訓のほとんどは、どんな根拠も存在しなくなってしまうため、未来における命を信じない者たちは、イエスが現在の生活についてのみ語っているのだと考え、その教えを理解できずに、無益なものだと考えたのです。

 したがって、この教義はキリストの教えの中心軸となるものであり、そのために本書の初期の章に挿入されました。この教えは人類全ての目標とならなければならないのです。この教えだけが、地上における生活で生じる不平等の正当性を、神の正義に基づいて明らかにしてくれるのです。


三、ユダヤ人たちが未来における生活に付いて抱いていた考えは、ただ不明確なものでしかありませんでした。天使を信じていましたが、それらは創造主によって特権を与えられた存在であると考えていました。

人類がいつの日か天使となり、その幸せを分かち合うことができるようになるのだということは知り得なかったのです。彼らは神の法を遵守すれば、その報いとして地上で富を得たり、自分たちの国を優勢に導いたり、敵に勝利することが出来ると考えていました。

災害や敗北を被ることはすなわち、神の法を破ったことによって与えられる罰であったのです。モーゼは何よりもまず、この世の物事に心を動かされてしまう無知な牧人たちに、それ以上のことを伝えることはできませんでした。

時が過ぎ、イエスは神の正義が支配する別の世界があることを示しました。そしてイエスはこの世界の存在を神の戒めを守る者たちに約束し、そこで善き人々は相応の報いを受けることが出来るとしたのです。

そこがイエスの支配する国なのです。この地上を後にして戻っていくその国に、イエスの栄光が存在するのです。


 しかし、イエスは当時の人類の状況を鑑み、完全なる光を彼らに与えても、理解されず、当惑させてしまうだろうと察し、そうすべきではないと考えました。そしてまさしくイエスは、未来における生活をあくまでも原則として示し、その作用から誰も逃れることはできない自然の法なのだというにとどめたのです。

よって、全てのキリスト教徒は必然的に未来における生活を信じています。しかし、多くの人々のそれに対する考えは曖昧で不完全であり、それ故に多くの点において誤っています。多くの人々にとって、それは単なる信仰箇条以上の何ものでもなく、絶対的な確信を欠いているというところから疑問と不信心が生まれるのです。

 スピリティズムは、そのように不十分なキリストの教えを補うために、人類がその真実を学ぶに足りるだけの発達段階に十分達した時期に登場したのです。スピリティズムがもたらされることによって、未来における生活は信仰の単なる一箇条でも、単なる仮説でもなくなります。

それは事実によって裏付けられた、実体ある現実のものとなるのです。なぜなら、未来における生活のすべての側面を、すべての出来事において描写しているのは、自からそれを目撃した証人たちであるからです。

そのためにこの事柄に対するどんな疑問を抱くこともできないばかりか、普通の知性の持ち主であれば未来の生活について、ある詳細な描写を読むことによって、ある国のことを誰もが想像できるように、その真の姿を想像することができるのです。

未来の生活の描写はとても細かく説明されており、彼らがそこで幸せなのか、不幸なのか、彼ら自身の生活がどうなのかが分かります。合理的なその状況は、彼ら自身が生みだしたものです。ここにいる私たち各々は、いやでもその状況が、理にかなっていることを認め、自分に言い聞かせることになりますが、そこに神の真なる正義の存在が明かされているのです。
 

 イエスの王位
四、イエスの国がこの世のものではないことはみな理解するところですが、地上においてもイエスには王位があるのではないでしょうか。王というのは、一時的に権力を行使する人物に限りません。

この称号は、いかなる分野であっても、その素質によって第一等の頂点に昇り、その時代を支配し、人類の進歩に寄与するとみなが認めた者に与えられるものです。だからこういう意味で、私たちは、優れた哲学者、芸術家、詩人、作家などを「王」または「王子」と呼ぶことがあります。

こうした個人の功績から来る王座や、子孫によって神聖化された王座は、多くの場合、実際に王冠を持つ王位よりも優勢なものとして映ってはいないでしょうか。前者の王座は消滅し得ないものですが、後者の王位には盛衰があります。また、前者に対してはいつの世も賞賛しますが、後者に対しては、ののしることもしばしばあります。

地上での王位は命とともに終結します。道徳的な王位はその力を永続し、死後においても支配します。このような点でイエスは、地上において権利を与えられた王よりも偉大な権威を有しているとは言えないでしょうか。ピラトに対して「私は王です。しかし、私の国はこの世のものではありません」と言ったのにはこうした意味が込められていたのです。


   視点
五、未来における生活を明確かつ詳細に認識することは、未来に対する揺るがぬ確信を形成することになり、その、確信が、地上において人間を取り巻く生活に対する視点を完全に変えてしまうため、人類の道徳観念に多大な影響を及ぼします。

その思考において自分を無限の霊的な生活に置くことが出来る者にとっては、肉体を持つ生活は単なる一過性のもの、不幸な国での一時的な滞在となります。

その生活における一連の盛衰や混乱は一時のものであり、その後により幸せな生活が訪れることが判っているので、じっと耐え忍んでいればいいような出来事に過ぎないのです。死はもはや虚無に対して開かれた恐れをもたらす扉ではなく、解放へと通じる扉となり、流刑者たちはそこを通って、平和と至福の家に入っていくことができるようになるのです。

この世での滞在が永遠のものではなくて一時的なものだということを知っているので、人生の心配事にも大した関心を抱くことなく霊的な平静をもたらし、悲哀の多くを取り除くことになります。

 未来における生活を疑うという単純なことから、人間はそのあらゆる考えを地上における生活に差し向けます。地上における富以上に貴重な富を見つけることがでず、自分のおもちゃ以外何も目に入らぬ子供のようになります。そして唯一本物として映る地上の富を獲得するために、どんなことでも行います。

そうした富のほんの少しでも失おうものなら、過失、失望、満たされぬ野心、不正の犠牲となること、傷つけられた自尊心や虚栄心と言った数々の苦痛が、人生においていつまでも続く苦悩と化すのです。

このように人間は、いつも真の拷問を自らに科していることになります。自分が実際にあると考える物質世界に視点を置くと、自分の周りにあるものがその視野すべてを占めることになります。そうした目には、自分のもとに訪れる悪や、他の者を動かす善などが、大きな重要性を持つように映ってしまいます。都会の中にいる者にはすべてが大きく見えます。

高い地位に辿り着いた者にとって、その記念碑は、とても大きく見えるものです。しかし、山に登って見下ろすと、人も物も小さく見えるようになります。未来における生活に重点を置いて地上の生活を送る人にはこのような視点があります。

 人類は、天にある星と同じように、無限に広がる空間の中では小さすぎて見分けがつかなくなります。すると蟻塚の上にいる蟻のように、大きなものも小さなものも混同してしまっていることに気づきます。無産者も主権者も同じ背丈であることがわかります。

悲しいことに、これらのはかない生き物たちは、彼らを殆ど向上させることのない、とても短い時間しか持続しない、その居場所を勝ち取るために、大変な苦労に身を投じているのです。このことから、私たちが地上の財産に与える重要性が、常に未来における生活への確信から来る重要性とは相反しているのだと考えるようになるのです。
 

六、すべての者がこのように考えるようになっては、誰も地上のことに気を取られなくなってしまい、地上のものはすべて危険にさらされてしまうのではないでしょうか。しかし、実際にはそうはなりません。

人間は本能的に快適な生活を求め、その場所に短時間しかいないことが確実であったとしても、そこに最も良い状態で、もしくは可能な限り悪の少ない状態でいようとします。手に棘が触れた時、それに刺されないようにとその手をどけない人はいません。

快適さへの欲求は、人間にすべてを改善させることを強要しますが、それは自然の法の中にある、進歩と保存の本能によるものです。故に人間は必要性や嗜好、または義務によって働くことで神の意に叶うことが出来、また神もそうした目的の為に人類を地上に送ったのです。

端的に言えば、未来に心を託し今日に対して必要以上に関心を持たない者は、失敗しても、自分を待ち受ける未来について考えて、容易に自分を慰めることが出来るのです。

 神は地上の楽しみを非難することはありません。しかし魂に損害を与えるまでこの楽しみに溺れることを非難します。イエスの言った次の言葉を自分自身に応用させることができる者は、こうした楽しみの濫用を予防することができます。「私の国はこの世のものではありません」。

未来における生活を自分の身に起こることとして考えることができる者は、少額を失うことに動揺せぬ金持ちのような人です。地上の生活ばかりに考えを集中させる者は、持つものをすべて失い途方に暮れてしまう貧乏な人のようです。


七、スピリティズムは思考を広げ、新しい地平線を切り開きます。現世ばかりに集中した、狭苦しいほどの小さな視野は、地上に住む一瞬だけを唯一のはかない未来の基軸と考えさせますが、スピリティズムはそれとは違い、現世というものが、調和のとれた壮大な創造主の一連の業の一端に過ぎないのだということを示してくれます。

同じ存在同士、同じ世界に住むすべての存在同士、全ての世界のあらゆる存在同士の生活を結びつける連帯関係を示してくれます。それによって宇宙全体の兄弟愛の存在の理由と基礎が与えられます。

一方で魂は一人一人の肉体が生まれる時に創造されるのだという教義では、すべての存在がお互いに知らぬ者同士だということになってしまいます。

単一の全体に属する各部を結びつけるこの連帯感は、ある一部分だけを考慮に入れたのでは一見説明しようがない事柄をも解説することになります。キリストの時代、人類はこの全体の繋がりについて理解することができませんでしたが、そのためにイエスはそのことが理解されることを後の時代に残しておいたのです。
 





   霊たちからの指導

  地上における王位

八、「私の国はこの世のものではありません」とイエスが言われたことの本当の意味を、一体誰が私以上に理解することが出来るでしょうか。私は地上で暮らす間、自尊心によって自分を見失っていました。

地上での王位と言うものが、こちらでは何の役にも立たないということを、女王であった私が言っているのです。地上の国から、私はこちらに何を持ってくることが出来たでしょうか。

何一つ持ってくることは出来ませんでした。それどころか地上の墓にさえも持ってくることが出来なかったということは、このことを理解させてくれる痛ましい現実でした。人間たちの間で女王でいる者は、天の国へ行っても女王であり続けるものだと信じていました。

しかし何と言う誤解であったことでしょう。最高なる者として迎えられる代わりに、私より上に、はるか上に、地上では高貴な血を引いていないからといって、身分の低いものとして軽んじていた人たちを見た時の恥ずかしさ。

ああ、やっとその時、自分の高慢さと、地上で人類が貪欲に求める「高い地位」のつまらなさを知ることが出来ました。

 こちらの国で必要なものは、献身、つつましさ、慈善、全ての人に対する慈悲深さです。あなたが地上で何であったか、どんな身分でいたかは問われません。あなたがどのような善を働いたか、どれだけ涙を乾かしてあげることが出来たかが問われるのです。

 ああ、イエスよ、あなたの国はこの世のものではないと言われました。それは、天に辿り着くには苦しまなければならないからです。そしてこの世の王位など持っていくことは出来ないからです。人生の苦しい道のりが天へ導いてくれるのです。だから花の中にではなく、棘の中に道を求めなければならないのです。

 人間はそれをあたかも永遠に自分のものとすることが出来るかのように地上の富を追いかけます。しかし、こちらにはそのような幻想は存在しないことを知り、こちらの国の扉を開く唯一の、確実で長続きするものをそれまで軽んじて、影ばかりを追い続けていたのだということにすぐに気づくのです。

 天の国の王位を得ることの出来なかった者を哀れんでください。あなたたちの祈りによって、彼らを助けてあげてください。なぜなら祈りは人を神に近づけ、地上と天を結ぶものだからです。どうかそのことを忘れないでください。(あるフランスの女王 ルアーブル、一八六三年)

 



シアトルの弥生 心霊治療と生命力

Psychic Therapy and Life Force



Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley 

 (本章は主として心霊治療の専門家グループを招待した交霊会での霊言である。──訳者)

 あなた方には病気を治すだけでなく霊的真理へ向けて魂を開眼させる生命力について是非理解していただきたいと思います。魂に霊的悟りをもたらせることこそ心霊治療の真髄だからです。身体的障害を取り除いてあげても、その患者が霊的に何の感動を覚えなかったら、その治療は失敗したことになります。

もしもなんらかの霊的自覚を促すことになったら成功したことになります。内に秘められた神の火花を大きく燃え上がらせ輝きを増すのを手助けしてあげたことになるからです。

 それが常に変わらぬ心霊治療の隠れた目的です。治療家としてこの世に生を享けたのは、その仕事を通して神の計画の遂行に参加し、自分が何であるかも自覚せず何のために地上に生まれきたのかも知らず、従って何をなすべきかも知らずに迷っている神の子等に、永遠の真理、不変の実在を教えてあげるためです。これは何にも勝る偉大な仕事です。

たった一人でもよろしい。治療を通じて霊的真理に目覚めさせることができたら、あなた方の地上生活は無駄でなかったことになります。一人でいいのです。それであなた方の存在の意義があったことになります。

 真理普及の仕事が次第に発展しつつあること、霊的威力に目を向ける人が増えつつあることを私は非常にうれしく思っております。その人たちが困難に遭遇した時はいつでも援助の手を差しのべております。病気治療にはいっそう強力な生命力を注ぎ込みます。

しかし忘れないでいただきたいのは、何ごとにも必ずそれ相当の原因があるということです。

霊界からいかなる援助の手を差しのべても、その原因と結果の間に割って入るわけにはいかないのです。手助けはできます。が、厳然とした原因に由来する結果を抹消してあげるわけには参りません。あなた方人間は物的身体を通して自我を表現している霊魂です。

霊魂に霊的法則があるように、身体には生理的法則があります。その法則の働きによって身体に何らかの影響が表われたとすれば、それも原因と結果の法則が働いたことを意味します。私どもは霊力によって手助けすることは出来ても、その法則の働きによる結果に対しては干渉できません。

 要するに奇跡は起こせないということです。大自然の因果律は変えられないということです。神は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬の休みもなく働いております。全てを包含し、木の葉一枚落ちるのにも摂理の働きがあります。

ありとあらゆる治療法を試みてなお治らなかった患者が、もし心霊治療によって見事に治ったとしたら、それは奇跡ではなく霊的法則が働いた証と考えるべきです。地上でそれまで巡り合ったいかなる力にも勝る力を身をもって体験したことになります。

 その体験によって魂が何らかの感動を覚えたら──本来そうあるべきであり、そうならなかったら成功とは言えないというのが私の考えですが──それは霊的自我に目覚めたということであり、存在の意義を成就し始めたことになります。

この根本的目標を理解していない人が一般の人はもとよりスピリチュアリズムの仕事に携わる人々の中にも大勢おります。スピリチュアリズムにおける様々な現象はそれぞれに意義があります。しかし、それはしょせんは注意をひくためのオモチャに過ぎません。

いつまでもオモチャで遊んでいてはいけません。幼児から大人へと成長しなければなりません。成長すれば、よろこばせ、興味を引くために与えられたオモチャは要らなくなるはずです。

 一口に心霊治療と言っても、内面的にみれば磁気的(マグネチック)なもので生理的とも言えるものと、心霊的(サイキック)ではあっても霊的(スピリチュアル)とは言えないもの、そしてわれわれ霊による最も程度の高いもの、すなわち治療家と霊界の医師との波長が一致し、しかも患者の治るべき時機が熟している時に治療家が一切手を触れずに一瞬の内に治してしまうものがあります。

健康体のもつ磁気だけでも治る場合があります。その時は霊界とは何のかかわりもありません。その方法と霊的方法との中間的なものがサイキックなもので、遠隔治療と呼ばれているものはたいていこれによります。

その上にあるのが治療家を通して霊界の医師が症状に応じた治療エネルギーを注ぎ込むやり方で、患者の身体に一切触れずに一瞬の内に治すことができます。

 その治療エネルギーは実は人間の全てに宿されているのです。霊的兵器庫の中にしまわれていて、努力次第で活用することができるのです。身体に自然治癒力があるように、霊的存在であるあなた方には霊的に治癒する力が具わっております。ただそれにはそれなりの摂理があるということです。

 そもそも健康とは身体と精神と霊の三者の関係が健全であるということです。この三つの必須要素が調和のとれた状態にあることです。そのうちの一つでも正常に働かなくなると連係がうまくいかなくなり、そこに病が生じます。 

三者の調和を保つ方法はその三者がそれぞれに与えられた地上での機能を果たすことです。霊力は素晴らしい威力を発揮します。これには反駁(はんぱく)の余地はありません。この事実を否定したり、この知識の普及を妨げんとする者は必ずその結果に対して責任を取らねばなりません。


 霊的治癒エネルギーの威力を目のあたりにされるあなた方は、宇宙の全創造物を支配する莫大なエネルギーのミニチュア版を見ているようなものです。同じ質のものが大海の動きを支配し、引力を支配し、星座の運行を支配し、人間、動物、植物、その他ありとあらゆる生命の千変万化の造化を支配しています。治癒エネルギーはその生命力の一部なのです。

身体に生命を賦与しているのは霊です。物質そのものには生命はありません。霊から離れた物質に意識的存在はありません。あなた方を生かしめている原理と同じものが、痛みに苦しむ人、精神的に病める人、そして身体を患う人の治療に際して、あなた方を通して働くのです。

 このように、ある意味であなた方は、宇宙の大霊と共に宇宙的創造計画の中において、その無限の生命力を使用する責任を担っていることになります。その仕事に邪魔を入れんとする者は必ず後悔します。

かつてはこれが聖霊に対する罪、霊力の働きを邪魔する大罪と見なされました。その霊力の流入を存分に受け入れるように心を開けば、その霊力と共に自動的に宇宙の根源的創造主から発せられる恩寵に浴することになります。

 物質的にも精神的にも霊的にも病的状態にある地上には、なさねばならない大切なことがいろいろとあります。私どもにとっても、あなた方にとっても、身体と精神と霊の病を駆逐し、混沌の霧の中を道を探し求めてさ迷う人々に愛の証をもたらすことが大切な仕事の一つです。

それが全ての霊媒現象の究極の目的なのです。悲しみに心重く、目に涙を浮かべた人々に愛のメッセージを伝えること、これが大切です。痛みに苦しめられ、病気に悩まされ、異常に苛まれる人々を癒してあげること、これはまさに慈悲の行為であり、いまこそ要請されていることです。

 しかし、これもあくまで手段であって、そのことが目的ではありません。目的は眠れる魂を目覚めさせ、霊的自覚をもたらすことです。魂が目を覚まし、地上に生れてきた目的を理解し始めた時、地上に霊的新生をもたらす膨大な計画の一翼を担ったことになります。

そこにこそ私達が一致協力する理由があります。それが真理への扉を開くカギです。霊的自覚をもたらすことの方が、病気を治し悩みを解消してあげることより大切です。それが神の目的を成就する所以だからです。そこまで至らない限り真に成功したことにはなりません。

 全ての霊媒現象と、その中でも重要な部分を占めるこうした霊的通信の背後にはそうした目的があり、その実現に全エネルギーを傾注すれば、それはあなた方の宿命を成就していることになります。それがこの世に生れてきた目的だからです。

 霊力は無限です。尽きることがないのです。通過する道具によって制限されるだけです。道具なしには霊力は地上に発現されません。ですから、道具となるべき霊能者は受容能力を少しでも広く深くする努力をしなくてはいけませんし、そうすることによって霊性も発達させなければなりません。

霊性こそが霊力の分量を決することになるからです。霊性が高まればそれだけ多くの霊力が流入するようになります。尽きることがありません。

霊的潜在力には際限が無いのです。そうした人間的努力の背後では高級霊がそれぞれの霊媒についていろいろと試し、エネルギーの効果的な組み合わせを考えて、より素晴らしい、そしてより速やかな治癒が得られるようにと、研究を怠りません。

こちらの世界には〝これでおしまい〟ということがないのです。ただこの道の仕事の宿命として、人間という道具を使用しなければならず、与えられた道具で最大の効果をあげるしかないのです。

 心霊治療の真の理解には長い長い時間を要します。霊の威力を地上で見せつける方法は大勢の人間を一度に改心させることではありません。一度に一人の人間、一人の子供を治すことによって、いわば霊的橋頭堡を築き、それをしっかりと固め、不朽のものとするのです。

千種万様の形をとる霊力は、心霊治療にせよ、霊訓にせよ、公開での交霊会にせよ、魂にそれを受け入れる備えが出来た者によってその真価が発揮されます。受入態勢が出来ているということが絶対条件なのです。


 人間が神の摂理を犯し、物質と精神と霊の協調関係を乱します。そこで心霊治療によって内部の霊的エネルギーにカツを入れて本来の協調関係を取り戻させます。

こうして霊の威力による治療が次々と成就され、宣伝され、その霊的事実関係に関する理解が深まるにつれて、そこに一石二鳥の成果が得られていることが分かります。すなわち病気が減ると同時に、その分だけ霊力による目的成就が容易になるということです。

 人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。すべての病気にはそれなりの治療方法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視し動物実験による研究を続ける限り、人間の真の健康と福祉は促進されません。

動物はそんな目的のために地上に生を享けているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。

三つの機能が一体となって働くということです。これは動物を苦しめたり体内から特殊成分を抽出したりすることによって得られるのではありません。

宇宙の摂理に調和した生き方を成就すれば自然に得られるのです。そういう生活を送れば人間は病気によって死ぬことはなくなり、老化現象によって死を迎えることになります。肉体がそれなりの目的を果たし、次の世界の生活のための霊的準備が整った結果としてそうなるのです。

 身体が病むということは精神か霊かのいずれかに不自然なところがあるということです。霊が正常で精神も正常であれば身体も正常であるはずです。身体に出る症状はすべて霊と精神の反映です。これを医学では心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。大切なのはいつの時代にも変わらぬ真理です。

魂が病めば身体も病みます。魂が健康であれば身体は当然健康です。身体の治療、これは大切ではありません。魂の治療、これが大切なのです。

 あなた方の治療によって患者の症状が取り除かれても魂に何の感動も及ぼさなかったとしたら、その治療は失敗であったことになります。あなた方の失敗であると同時に私どもの失敗でもあり、その患者は悟りへの道を失ったことになります。絶好のチャンスを手にしながら、それを実りあるものに出来なかったわけです。

本当はその病気は当の患者に人生の目的と、存在の意義を成就するためになさねばならぬことを啓示するための手段であったのです。魂の琴線に触れる体験をさせること、これが最も大事なことです。真理は真理です。絶対に変えるわけにはいきません。

それが真理です。人間の一人ひとりに宇宙の大霊が宿っており、それが絶えず発現を求めます。より広く顕現することによって初めて人生から豊かさを獲得できるからです。事は極めて簡単です。顕現しなければ悟りは得られないのです。

 そこに苦の存在する理由があります。悲しみの存在する理由があります。光が暗闇の中にあってこそ見出せる理由がそこにあります。ただし、その体験による魂の顕現はそれから始まる大冒険の始まりにすぎません。その大冒険こそ神の意図する人生のあるべき姿なのです。

疾風怒濤の霊的冒険であり、その体験を通して叡知と崇高さと美しさと光輝と威厳と気品と尽きることのない霊的遺産を手にすることです。それが地上生活のあるべき本来の姿です。ところが現実はそうではありません。唯物主義がはびこり、利己主義が横行し、貪欲が支配し、奉仕の精神、協調の心、向上心、人助けの気持ちが失われております。

 そのことを思えば、こうして人の役に立つ機会が次第に広く開かれていくことを、あなた方は有難く思うべきです。そうです。身体の痛みを取り除き、悩む心を慰め、魂を鼓舞し、肉の牢から開放してあげることが大事です。大切なのはそこなのです。

なぜならば、魂が一度霊的自我に目覚め、神との霊的つながりを再構築すれば、その時から真の意味で〝生きる〟ということが始まるからです。治療家が障害物を取り除いてあげれば、霊力がふんだんに流れ込むようになります。

障害とは無知であり、誤まった生き方であり、誤った考えであり、高慢であり、うぬぼれであり、嫉妬心であり、失望です。人間は神と自己と同胞と調和しつつ、大自然の摂理に則った生活を送るようにならなければなりません。

 苦が全てというわけではありません。人生の一部でしかありません。しかし、苦のない世界はありません。苦しみと困難があることが進化の必須の条件なのです。あなた方の住む世界は完全ではありません。身体も完全ではありません。

ただし、魂の内部には完全性の種子を秘めております。人生の目的はその種子を発芽させ発達させ、その完全性を賦与してくれた根源へ向けて少しずつ近づいて行くことです。この巨大な宇宙組織の内面には進化の機構を操るエネルギーの相互作用があります。

生命はじっとしておりません。生命の世界には絶え間なく増幅していく円運動または螺旋運動の形での発達があります。その全機構がどう働いているかを察知できるようになるのは、人生の目的を悟った暁のことです。

 霊的治癒は魂がそれを受けるに値する段階に至るまでは何人といえども受けられません。いかに勝れた治療家にも治せない患者がいる理由はそこにあります。治らないのは治療家の責任ではありません。

患者の魂にそれを受け入れる準備が整っていなかったということです。全てが自然法則によって支配されています。トリックは利きません。いかなる治療家もその法則の働きを変えたり外らせたりすることはできません。

 ですから、人間としての最大限の成果をあげるべく努力をすることです。それが私から言える唯一の助言です。背後霊との協調性が高まれば高まるほど、より大きな成果が得られます。この仕事は延々と続きます。人間は御し難いものです。しょせん地上は完璧な世界ではないからです。完璧であれば地上には居ないはずです。

寛容的でなければならない理由がそこにあるのです。自分が一般の人より先を歩んでいることを自覚されるなら、なおのこと寛容的であらねばならない責任があります。

 奉仕の仕事に嫌気がさしてはなりません。奉仕は霊の通貨(コイン)のようなものです。神が発行される万人共通の通貨です。あなた方の仕事にとって必要な力は用意されています。しかし一度に大きな仕事を成就しようとしてはいけません。今日は今日出来ることだけをして、明日やるべきことは今日は忘れることです。

力に限界が来たら無理して出そうとするより補給することを考えなさい。その方が無理をしてその乏しいエネルギーを使い果たし、結局は仕事を全面的に休止しなければならなくなるよりはましです。

 限界があるのは実はエネルギーではありません。身体と言う機能の方です。いかなる機械も限界を超えた仕事を課せられると故障が生じます。人間の身体ほど多くの仕事を課せられながら休息の少ない機械は他にありません。霊の宿る貴重な神殿です。良く管理し、保護し、大切にすべきです。

 どの分野であろうと、人のために尽くす仕事に携わる人が時には嫌気がさし、疲れを覚え、不快に思うことがあることは私も承知しております。もう駄目かと思えることもあるでしょう。しかし道は必ず開けます。霊的真理、霊的事実は最後には勝つのです。

貪欲、利己主義、残酷、粗暴、過酷、邪悪、こうしたものは全て一掃されねばなりませんし、きっと一掃される時が来ます。

そして人間同士の平和だけでなく、人間と他の創造物とが調和し一体となって進化の道を歩むことになることでしょう。

 地上で自由を享受するのは人間だけではありません。創造物の全てが自由を享受する資格があるのであり、本来守ってやるべき立場にある人間によって勝手に捕えられ苦しめられ利用されて良いものは何一つありません。その代償は必ず支払わされます。

因果律は必ず働きます。人間に生命を賦与し地上での存在を可能にしている処の神性をごまかすことは出来ません。

 全生命は不可分のものです。物的形態上の違いはあっても深奥での区別は無いのです。生命は一つなのです。霊は一つなのです。そして霊とは神であり、全存在に内在しております。かなうものならば、あなた方の視界を遮るベールが取り払われ、背後で協力している光輝く霊的存在を一目お目にかけることができれば、と思うことしきりです。

立ちはだかる困難の一つひとつは、あなた方が是非とも迎えうち克服し、そうすることによって霊の力が物の力に勝ることを証明していかねばならない、一つの挑戦でもあります。
                 

シアトルの弥生 霊とは何か

  What is Spirit?


Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley 

 
霊とは何かを言語によって完璧に描写することは絶対に不可能です。無限だからです。言語はすべて有限です。私はこれからそれを何とか説明してみようと思いますが、いかにうまく表現してみたところで、霊力のほんのお粗末でぎこちない描写でしかないことをご承知下さい。

 宇宙の大霊すなわち神が腹を立てたり残酷な仕打ちをしたりわがままを言ったりするような人間的存在でないことは、すでにご承知でしょう。何度も言ってきたように、神とは法則であり、その背後に働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。

それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。その中に極小と極大の区別もありません。

 こうした大まかな表現によって私たちは自分本来の姿、つまりミクロの神でありミニチュアの宇宙である自我について、どうにかその片鱗をつかむことができます。全体を理解するには余りに大きすぎます。あなた方がこうして地上に生を享けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終わることのない道程です。

何故なら神性は無限に顕現するものだからです。神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している霊は偉大であることになります。

 では、いかにすればこの驚異的な潜在的神性を意識的に発現させることができるのでしょうか。

 それに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようというものです。

要するに物的混沌から脱け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、私はどれといって特定の方法を説くことには賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見出していくべきものだからです。

 自我を一時的に潜在意識にコントロールさせ、それをきっかけにして内部の生命力とのつながりをより緊密に、そしてより強くさせることを目的とした内観法が幾つかあります。それが次第に深まれば霊界からのインスピレーションを受けることも多くなります。

まず心霊的(サイキック)な面が開発されます。続いて霊的(スピリチュアル)な面が開発され(※)宇宙の内奥に存在する生命力がふんだんに流れ込むようになります。

(※サイキックとスピリチュアルの違いはこうした自我の開発のほかに心霊能力にも心霊治療にもあります。心霊治療については第七章でシルバーバーチが詳しく説明しています。心霊能力について言えば、たとえば単なる透視力は動物の超能力と同じで五感の延長にすぎません。これがサイキックです。

つまり目の前に存在するもの──地上にせよ霊界にせよ──しか見えません。これに背後霊の働きが加わり、その場に存在しないもの、あるいは高次元の世界のものを映像またはシンボルの形で見せられるようになれば、それがスピリチュアルです。── 訳者)

 ある種のテクニックを身につければ病気を自分で治し、体内の不純物を排出し、欠陥を矯正することができるようになります。自我の全ての側面──霊と精神と身体の調和を成就することができます。

かくして霊性が本来の優位を確保していくに従って、霊的叡知、霊的理解、霊的平穏、霊的自信、霊的静寂が増し、不滅の霊力との真の繋がりを自覚するようになります。

 人間は霊的存在である以上、宇宙の大霊すなわち神の属性を潜在的に所有しております。あなた方一人ひとりが神であり、神はあなた方一人ひとりなのです。一人ひとりが神の無限の霊力の一翼を担っているのです。地上への誕生はその大霊の一部が物質と結合する現象です。その一部に大霊の神性の全てが潜在的に含まれております。いわば無限の花を開かせる可能性を秘めた種子と言えましょう。

 その可能性の一部が霊界からの働きかけによって本人も気づかぬうちに発揮されるということがあります。むろん無意識よりは意識的の方が望ましいに決まっています。ですが無意識であっても、全然発揮されないよりはましです。人間が同胞に向けて愛の手を差し伸べんとする時、その意念は自動的に霊界の援助の力を呼び寄せます。

その、人のために役立とうとする願望は魂をじっとしていられなくします。そして、やがて機が熟して魂が霊性に目覚める時が来ます。その時からは自己の存在の意義を成就する目標へ向けて意識的に邁進するようになります。

 先にサイキックという用語を用いましたが、これは物質と霊との中間的段階をさします。悟りを求め、あるいは霊能を開発せんとして精神統一の訓練を開始すると、まず最初に出てくるのが心霊的(サイキック)な超能力です。これはその奥の霊的(スピリチュアル)な能力に先がけ出て来ます。

超能力の開発は霊性の発達を阻害すると説く人がいます。そう説く人は心霊的な段階を経ずに一気に、独力で、神との合一を求めるべきであると主張するのですが、私はこれは間違っていると思います。それもあえて出来ないとは申しませんが、大変な修行のいることであり、しかも往々にして危険を伴います。

 霊格が向上するほど生命活動が協調によって営まれていることを悟るものです。自分一個で生きているものは何一つありません。お互いが力を出し合って生きております。一人ひとりが無限の連鎖関係の中の一つの単位なのです。

そんな中でなぜ初心者が熟練者の手助けを拒絶するのでしょう。私たちがこうして地上に戻ってあなた方を手助けし、手助けされたあなた方が同胞の手助けをする。そこにお互いの存在の理由があるわけです。

一人だけ隔離された生活をするようにはなっていないのです。みんなと協力し合って生きていくように出来ているのです。この見解を世界中に広めなければなりません。

すなわち世界の人間の全てが霊的に繋がっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きん出ることは許されないのです。

 登るのも下るのもみんな一緒です。人類だけではありません。動物も一緒です。なぜなら生命は一つであり、無限の宇宙機構のすみずみに至るまで、持ちつ持たれつの関係が行きわたっております。独善的考えから他の全ての方法を蔑視して独自の悟りの境地を開くことも不可能ではありません。

が、私はそうした独善的な生き方には反対です。私の理解した限りにおいて、宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能です。他人の援助を頼まずに独力で事を成就しようとする気構えは、それ自体は必ずしも利己的とは言えません。

私はただ、その方法はお勧めしないと言っているのです。自分を他人に役立てること── これが霊的存在の真の価値だと私は信じます。私はその心掛けで生きて参りました。それが宇宙の大霊の意志だと信じるからです。そうではないと思われる方は、どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい。

 人類の手本と仰がれている人々は、病に苦しむ人には霊的治癒を、悲しみの人には慰めの言葉を、人生に疲れた人には生きる勇気を与えて、多くの魂を鼓舞してきました。要するに己を犠牲にして人のために尽くしたのです。それが神の御心なのです。

悲しみの涙を拭ってあげる。病を治してあげる。挫折した人を勇気づけてあげる。苦境にある人に援助の手を差しのべてあげる。

たったそれが一人であっても立派に神の意志を行為で示したことになります。そんなことをする必要はないと説く教えは絶対に間違っております。救いの手を差し伸べることは決して間違っておりません。それを拒絶する方が間違っております。

 もちろんそこに動機の問題もあります。見栄から行う善行もありましょう。が、それも何もしないよりはましです。邪な考えに発した偽善的行為、これはいけません。魂にとって何の益もありません。摂理をごまかすことはできないのです。完璧なのです。

イエスが〝慈悲の心は耐え忍ぶもの〟(※)と語ったのは神の意志の偉大さを説かんとしたのです。善行はそれ自体の中に報酬が宿されております。

(※コリント前書13・4-この言葉は聖書では〝愛は寛容である〟と訳されております。イエスの言葉はこの後さらに次のように続きます。

〝愛は慈悲に富む、愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼をせず、己れの利益を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ〟。──訳者)

 霊力の道具として働く霊能者は多くの魂へなんらかの影響を及ぼしています。そこが霊的現象の大切な点です。悲しみの人に慰めを与え、病の人に治癒を与え、主観・客観の両面にわたって霊力の証を提供することも確かに大切ですし、これを否定できる人はおりません。が、真の目的は現象的なものを超えたところにあります。魂に感動を与え実在に目覚めさせることです。

地上は未だに〝眠れる魂〟で一杯です。生命の実相をまるで知らず、これから目覚めていかねばなりません。

 霊的現象の目的はそうした個々の魂に自我への覚醒をもたらし、物的感覚を超えて自分が本来霊的存在であることを自覚させることです。いったん霊性を悟れば、その時から神からの遺産として宿されている神性の種子が芽を出して生長を開始します。その時こそ全大宇宙を経綸する無限の創造力のささやかな一翼を担うことになります。

 こうして霊力の道具として役立つだけの資格を身につけるまでには、それなりのトレーニングが要ります。それは大変なことです。何となれば、その結果としてある種の鍛錬、ある種の確信を身につけなければならず、それは苦難の体験以外には方法がないからです。霊力の道具として歩む道は厳しいものです。

決して楽ではありません。容易に得られた霊能では仕事に耐えきれないでしょう。魂の最奥・最高の可能性まで動員させられる深刻な体験に耐えるだけの霊性を試されて初めて許されることです。そうして身に付けたものこそ本物であり、それこそ霊の武器と言えます。

 その試練に耐え切れないようでは自分以外の魂を導く資格は有りません。自ら学ぶまでは教える立場に立つことは出来ません。それは苦難の最中、苦悩の最中、他に頼る者とてない絶体絶命の窮地において身につけなければなりません。最高のものを得る為には最低まで降りてみなければなりません。

こうした霊的覚醒、言えかえれば飢えと渇きに喘ぐ魂に霊的真理をもたらすことは実に大切なことです。それが地上での存在の理由の全てなのです。なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせず地上を素通りしております。

 ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えも出来ていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方が遥かに学びやすく、その方が自然なのです。

悲しみの人を慰め、迷える人を導き、悩める人を救うためには、自らが地上において苦難の極み、悲哀のドン底を体験しなければなりません。自分自身の体験によって魂が感動した者でなければ人に法を説く資格は有りません。

 教える立場に立つ者は自らが学ぶ者として然るべき体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。艱難辛苦── 辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばなければなりません。それが真に人のために役立つ者となるための鉄則です。

そうでなければ有難いのだが、と私も思うことがあります。しかし側(はた)の者には分からないあなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。なぜならその艱難辛苦こそ全ての疑念と誘惑を蹴散らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。

 これも神の摂理として定められた一つのパターンです。霊的成就への道は楽には定められておりません。もし楽に出来ておれば、それは成就とは言えません。楽に得られるものであれば、得るだけの価値はありません。人のために役立つためにはそれなりの準備が要ります。

その準備を整えるためには魂の琴線に触れる体験を積み、霊性を開発し、心霊的能力を可能な限り霊的レベルまで引き上げなければいけません。心霊的能力を具えた人は大勢います。が、それを霊的レベルまで高めた人は多くは居ません。

私たちがかかわるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)の持つ能力、つまり肉体の五感の延長でしかないものには、たとえ地上の学者がどんなに面白い実験(※)をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味があります。

(※ここではESPつまり超感覚的能力の実験を指していますが、シルバーバーチの説を総合すれば、ヨガや密教における超人的な術、未開人におけるまじない的な術、雨を降らせる術なども同類に入ります。──訳者)

 地上には、自分を変えようとせずに世の中を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革は先ず自分から始めなくてはなりません。自分が霊的資質を開発し、発揮し、それを何かに役立てることが出来なければ、他の人を改める資格はありません。

地上人類の霊的新生という大変な事業に携っていることは事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮しなければなりません。

 宗教的呼称や政治的主義主張はどうでもよろしい。私はその重要性を認めません。もし何かの役に立てば、それはそれで結構です。が、本当に大切なのは神の子として授かった掛けがえのない霊的遺産を存分に発揮することです。

その光輝、その気高さ、その威厳の中に生きることです。いかなる名称の思想、いかなる名称の教会、いかなる名称の宗教よりも偉大です。

神の遺産は尽きることがありません。地上に誕生してくる者の全てが、当然の遺産としてその一部を無償で分け与えられております。

 人生の重荷を抱えた人があなた方のもとを訪れた時、大切なのはその人の魂に訴えることをしてあげることです。他界した肉親縁者からのメッセージを伝えてあげるのも良いことには違いありません。メッセージを送る側も送られる側も共に喜ぶことでしょう。しかし喜ばせるだけで終わってはいけません。

その喜びの体験を通して魂が感動し、宇宙の絶対的な規範であるところの霊的実在に目覚めなければなりません。慰めのメッセージを伝えてあげるのも大事です。病気を治してあげるのも大事です。私がこうしておしゃべりすることよりも大事です。

ですが、霊界において目論まれている目的、こうして私どもが地上へ舞い戻って来る本当の目的は、地上の人間の霊的覚醒を促進させることです。

 その仕事にあなた方も携わっておられるわけです。困難に負けてはいけません。神の道具として託された絶大なる信頼を裏切らない限り、決して挫折することはありません。嵐が吹きまくることもあるでしょう。雨も降りしきることでしょう。

しかし、それによって傷めつけられることはありません。嵐が去り太陽が再び輝くまで隔離され保護されることでしょう。

煩わしい日常生活の中に浸り切っているあなた方には、自分が携わっている恵み深い仕事の背後に控える霊力がいかに強力で偉大であるかを理解することは難しいでしょう。

ですから、あなた方としてはひたすらに人の役に立つことを心掛けるほかないのです。あなた方を通して働いている力はこの宇宙、想像を絶する広大な全大宇宙を創造した力の一部なのです。

 それは全ての惑星、全ての恒星を創造した力と同じものなのです。雄大なる大海の干満を司るエネルギーと同じものなのです。無数の花々に千変万化の色合いと香りを与えたエネルギーと同じものなのです。

小鳥、動物、魚類に色とりどりの色彩を施したのも同じエネルギーです。土くれから出来た人間の身体に息吹きを与え生かしめている力と同じものです。それと同じエネルギーがあなた方を操っているのです。目的は必ず成就します。

 真摯な奉仕的精神をもって然るべき条件さえ整えば、その霊力は受け入れる用意の出来た人へいつでも送り届けられます。怖じけてはいけません。あなた方は神の御光の中に浸っているのです。それはあなた自身のものなのです。

Friday, March 7, 2025

シアトルの弥生 私は法を破る為に来たのではありませ

I am not here to break the law.





一、私が法を破ったり、予言者たちを否定しに来たのだと思ってはなりません。それらを破りに来たのではなく、成就しに来たのです──よって誠に言います。天地が滅びゆくまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのです。(マタイ 第5章 十七、十八)


 モーゼ
二、モーゼの戒律は、二つの異なった部分からなっています。シナイ山で宣言された神の法と、モーゼによって定められた民の法、または規律の法です。一方は変化し得ないもので、もう一方は国民の習慣や性格に適合したものであり、時とともに変化します。神の法は次の十戒の中に定められています。


ⅰ、私は、あなたたちを奴隷のすみかであるエジプトから救った神であり、あなたたちの主です。私の前に他の神は存在しません。天の上にあるものについても、地上にあるものについても、彫刻された像や、地上の水の中にあるものについても、いかなる偶像も創ってはなりません。それを崇拝したり、それらに対して儀式を行ってはなりません(→FEB版注1)。
ⅱ、あなたたちの神である、主の名前をみだりに唱えてはなりません。
ⅲ、土曜の日を聖日とすることを覚えなさい。
ⅳ、主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい。
Ⅴ、殺してはなりません。
ⅵ、姦淫を犯してはなりません。
ⅶ、盗んではなりません。
ⅷ、あなたたちの隣人に偽証を行ってはなりません。
ⅸ、あなたたちの隣人の妻を求めてはなりません。
Ⅹ、あなたたちの隣人の家や奴隷、しもべ、牛、ろば、またなんであれ、彼らに属するものを羨ましがってはなりません。(十戒 出エジプト 第二十章 二~五、七、八、十二~十七)


 あらゆる時代の全ての国にこの法は存在し、それ故に、その性格は神意を持つものであるのです。それら以外のものは全てモーゼが定めた法で、騒々しく規律の無いその民の間で、エジプトにおいて奴隷となっていた時に染まってしまった偏見や悪癖を根絶する必要があり、民は恐れからその内容に従ったのです。

その法の権威を示すためには、原始的な立法者が皆そうしたように、それらの起源が神にあるという意味合いを持たせることが必要でした。人間の権威は神の権威に頼る必要があったのです。しかし、無知な人々に強い印象を与えることができたのは、恐ろしい姿をした神の観念のみで、未発達な人々は、その中に道徳観や真っ直ぐな正義感を見出すことができたのです。

「殺してはなりません。隣人を害してはなりません」と言う部分を自分の戒律に含めたモーゼ自身が、殺すことを義務として、自分自身に矛盾するわけにはいかなかったのは明らかです。つまり、いわゆるモーゼの律法は、基本的に暫時的な性格を持つものだったのです。


 キリスト
三、イエスは法を破る為に来たのではありませんが、その法とは神の法のことです。その法を成就しに来た、つまり、その法を発展させ、その真なる意味を与え、それを人間の進歩の度合いに合わせ、適応させるためにやって来たのです。

ですからこの法の中には、教義の基本である神と隣人に対する私たちの義務の原則が顕われています。厳密に言うところのモーゼの法では、それらは内容においても、表現においても、大きく変えられています。

常に外見的な習慣や誤った理解を打ち消そうとしましたが、それらを要約するには、次の言葉以上に核心的なものとすることはできませんでした。「自分を愛するように、神をなににも増して愛しなさい」。また、その中にはすべての法と預言が存在すると付け加えています。

「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることは無く、ことごとく全うされるのです」という言葉によって、イエスは、神の法が完全に守られること、つまり地上に置いてその法が完全にその純粋さを保たれ、すべての広がりと重要性において実践されることが必要だと述べたかったのです。

しかし、ある種の人間、もしくはある単一の民族だけの特権を形成するためにその法が宣言されたのであったとすれば、実際なんの役に立つことができたでしょうか。神の子である人類の全てが、全く区別されることなく、同じように配慮されているのです。


四、しかし、イエスの役割と言うのは、その言葉に排他的な権威を持つ単なる道徳的立法者となることではありませんでした。イエスの到来の預言を遂行することがその役割であったのです。イエスには、神から与えられた使命と、その霊として特別な性格による権威があったのです。

イエスは、単なる命というものが地上において起こるものではなく、天の国において生きる命がそうであることを人類に教えに来たのです。この天の国へと導く道や、いかに神と調和するかの手段を人々に教え、また人間の運命の実現のために訪れる事柄の流れの中に、その手段を感知することを人々に教えたのです。

しかしながら、全てを述べたのではなく、多くの点に関しては、イエス自身が述べたように、まだ理解されないであろう事柄について真実の種を蒔くにとどまったのでした。すべてについて触れながらも、言葉の裏に隠した形で伝えました。

その言葉の幾つかに隠された意味が学び取られるには、新しい考えや新しい知識によって、それを理解するのに不可欠な鍵がもたらされることが必要でしたが、そうした考えというものは、人類の霊がある程度の水準に成熟しなければ顕すことが出来なかったのです。

そうした考えを登場させ、発展させるために、科学は大いに貢献する必要がありました。従って科学が進歩するまで時間を与える必要があったのです。


  スピリティズム 
五、スピリティズムは霊界の存在とその様相、及びその物質界との関わりを、否定できない方法で証明することによって人類に示す新しい科学です。スピリティズムの中では、霊を超自然のものとして示すのではなく、自然界で絶え間なく働く生きた力の一つとして捉え、今日においても理解の不足から驚異と空想の産物として軽視されている様々な霊現象の根源としています。

キリストはこうした関係について、多くの場面において言及しましたが、彼の述べたことの多くは理解されなかったり、誤って解釈されたりしてしまいました。スピリティズムは、すべてをより容易に解説するための鍵なのです。


六、旧約聖書の法はモーゼによって具現化されました。新約聖書の法はキリストによって具現化されました。スピリティズムは神の法の第三の啓示ですが、どんな個人にも具現化されていません。なぜならそれは、人間によって与えられた教えではなく、霊たちによって与えられた教えの結果であるからで、それは無数の媒介者の協力によって地上のあらゆる場所に伝えられた天の声なのです。

別の言い方をすれば、それが集合的な存在であるということができ、それは霊界の存在者の集合によって形成され、その個々が人類に対して光の捧げものをもたらし、霊界を知らしめ、人類を待ち受ける運命を教えてくれているのです。


七、キリストが「法を破りに来たのではなく、成就するために来たのです」と言うように、スピリティズムも「キリストの法を破るために来たのではなく実行するために来たのです」と言うことができます。

キリストが教えたことに反する教えは一つもなく、それをさらに発展させ、補足し、例え話の形でしか述べられていなかったことを、誰にとっても明解な言葉によって解説しています。予言されたときにキリストが宣言したことを遂げる為に、そして未来の出来事に対する準備をするためにやって来たのです。

したがって、スピリティズムはキリストの業であり、その宣言のとおり、世を更生し、地上における神の国を準備するための指揮を取っているのです。

℘54   
 科学と宗教の同盟

八、科学と宗教は、人類の知性における二つの梃子(テコ)の役割を果たしています。一方は物質界の法を明らかにし、もう一方は道徳の世界を示します。しかし、これらの法は神と言う同一の原理のもとで矛盾することはできません。

もし一方が他方を否定するのであれば、必然的にどちらかが誤っていて、どちらかが真実であることになりますが、神は自らの創造物の破壊を意図しているはずがありません。

これら二種類の考え方の間に存在すると考えられる不一致は、一方の他方に対する誤った観察や、過度の排他主義からくるものでしかありません。そこから衝突が生じ、不信や偏狭が生まれました。

 キリストの教えが完成されなければならない時代が到来したのです。その教えの幾つかの部分に掛けられたベールが取り去られなければならない時が来たのです。科学は排他的に唯物的であることを止め、霊的要素を考慮に入れなければなりません。

宗教は有機的な法や、物質の普遍な法則を無視することを止め、一方が他方を補い合う二つの力として、友に歩み、相互に協力しなければなりません。そうすることで宗教は、事実に基づいた非の打ち所のない論理を確立することになり、科学に否定されることの無い理性に従った不動の力を得ることになります。

 科学と宗教が今日までお互いを理解できなかったのは、それぞれが排他的な視点を持って対立し、お互いを拒絶していたからです。両者を隔てる空間を埋め、両者を近づけるための統合の絆が欠けていました。

この統合の絆は、霊的宇宙を支配する法や、その物質界との関わりに関する知識の中に存在します。この法とは普遍の法であり、あらゆる存在や天体の動きを支配するもののことです。

こうした関係が経験により証明されると新たな光が生まれました。信仰は理性へと進み、理性は信仰の中に不合理を見出さず、かくして唯物主義は打破されたのです。

しかしすべてにおいてそうであるように、一般的な動きによって引っ張られて行くようになるまでには、それに遅れる人々が存在します。そうした人たちはその考えについて行こうとせず、それを踏みにじり、抵抗します。

今起こるすべての革命に霊たちが働き操作しています。十八世紀以上続いた一つの準備を経て、その実現の時が到来し、人類の生活における新しい時代を画すことになるのです。

その結果を予見することは容易です。社会関係に避けて通ることのできない変革を引き起こすことになり、それに対して誰も、抵抗することはできなくなるでしょう。なぜならそれは神意の内に存在し、神の法である進歩の法から生じる出来事であるからです。





    霊たちからの指導
   新しい時代

九、神は唯一であり、そのことをヘブライ人のみならず、多神教の民にも知らしめるため、その使命を託されて神によって送られた霊がモーゼです。ヘブライの民は、モーゼや預言者たちによって神の啓示を受けることで神に対して仕えた道具であり、この民族が経験した苦しみは、一般に人々の注目を集め、神意を人類の目から隠していたベールを取り除くためのものだったのです。

 モーゼを仲介して与えられた神の戒めは、広義におけるキリストの道徳の種を含んでいます。ところがそれらを純粋に実行してもその意味が理解できなかったために、聖書では意味を狭めて解説されています。しかし、そうであるからと言って神の十の戒めが、人類が通らねばならない道を明るく照らす灯台としての輝かしい姿を失うわけではありません。

 モーゼが教えた道徳は、更生を促す人々の当時の進化のレベルに適切なものでした。こうした人々は、魂の完成度においては半原始的で、生贄を使わずに神を崇拝したり、敵を赦すといったことを理解できませんでした。

彼らの知性の遅れは、物質的観点から見た芸術や科学において、また、道徳性においてもみられ、完全な霊的な宗教に改宗していたわけではありませんでした。ヘブライ人たちの宗教がそうであったように、半物質的な形で見せつけられることが必要であったのです。神の考えが霊たちに響くのと同じように、生贄が彼らの感情に訴えました。

 キリストはより純粋でより崇高な道徳、キリストの福音の創始者であり、それは世界を革新し、人類を兄弟として近づけるものです。人類の全ての心の中に慈善と隣人への愛を芽生えさせ、人類の間に共通の連帯感を生み出すものです。

その道徳はいずれ地球を変革し、今日そこに住む霊たちよりも優れた霊たちのすみかとすることでしょう。自然界を支配する進化の法は成就し、スピリティズムは、人類が前進するために神が用いる梃子の役割を果たすのです。

 神意にある進歩が実現するにはさまざまな考えが発展しなければならない時がやってきました。自由の観念やその先駆けとなった考え方が通った道と同じ道を辿ることになります。しかし、このような新しい考えの発展が戦いなしに達成されると考えてはなりません。

そうです、そうした考えが成熟するためには動乱や議論の対象となることが必要で、その結果大衆の注意を引くことになります。

一度それが達成されたなら道徳の神性さと美しさが霊たちの心を動かし、人々は永遠の幸せが約束される未来の生活の扉を開く鍵を与えてくれる科学を、受け入れることになります。モーゼが道を開き、イエスがその事業を継承しました。スピリティズムはそれを完成させることになります。(あるイスラエルの霊 ミュールーズ、一八六一年)


十、ある時神は、その尽きぬ慈悲により、真実が闇を追い払うのを人類が目にすることを許しました。その日、キリストが到来しました。生きた光が去り、再び闇が戻ってきました。真実か闇かの選択肢が与えられた後、世界は再び道に迷いました。

すると旧約聖書の中の預言者たちのように、霊たちがあなたたちに注意を促すために話し始めました。世界はその根本から動揺しています。雷が鳴り響いています。覚悟をしてください。

 スピリティズムは自然界の法そのものに則し、神の命令に従うものであり、神の命令に従う者はすべて、偉大で有益な目的を伴っていることを確信してください。あなたたちの世界は迷っています。

科学は道徳を犠牲にして発展し、あなたたちを物質的な豊かさへと導きましたが、それが原因で、闇の霊たちがあふれるようになりました。キリスト教徒たちが知るように、心と愛は科学とともに歩まねばならないのです。

ああ、十八世紀が過ぎ、多くの殉教者たちが血を流したにもかかわらず、キリストの国はまだ到来していないのです。キリスト教徒たちよ、あなたたちを救おうとしている師のもとへ戻ってください。信じ愛することを知る者にとってはすべてが容易なことです。

愛はそうした者を言い表しようのない喜びで満たします。親愛なる子供たちよ、この世は混乱しています。善霊たちはあなたたちに何度も言います。

嵐の訪れを告げる突風に身をかがめ、風によって地に倒されないようにしてください。つまり、予期せずに夫が戻ってきて打たれた、愚かな処女たちと同じ目に遭わないように準備をしてください。

 準備が進められている革命とは、物質的な革命というよりも道徳的な革命です。神のメッセンジャーである偉大なる霊たちは、信心の風を吹かせ、明晰で熱意にあふれた労働者であるあなたたちすべてが、自分の謙虚な声を聞くようにし向けるのです。

あなたたちは砂の粒ですが、砂の粒なしに山は存在しないのです。「私たちは小さい」というだけでは事足りないのです。一人一人に使命があり、それぞれの仕事が与えられています。蟻たちはその共同生活の巣を作り、取るに足らない微生物は大陸を創り上げているではありませんか。

新しい十字軍のはじまりです。宇宙の平和の使徒たちよ、戦争によってではなく、現代の聖ベルナルドとして、前を見つめ前進してください。世界の法とは進歩の法です。(フェヌロン ポアチエ、1861年)


十一、聖アウグスティヌスはスピリティズムの最も偉大な伝導者の一人です。ほぼすべての場所にその姿を現します。その理由は、この偉大なるキリスト教哲学者の生涯の中に見ることができます。

彼は教会の創始者たちの集団に属しており、そこから彼のキリスト教への忠誠とその強固な支えを得ています。他の多くの者がそうであるように、彼は多神教から去り、より正確に言うならば、深い不信仰から真実の輝きへと導かれました。

過度の贅沢に身を任せていると、彼を我に返らせる特別な魂の響きを感じ、幸せとははかなく無気力を誘う快楽の中にではなく、別のところに存在しているのだということに気づかされたのです。そして、ダマスカスへ向かう道の途中、「サウロよ、サウロよ。

なぜ私を迫害するのですか」と言ったのと同じ聖なる声をついに聞かされたのです。神よ、神よ、お赦しください。信じます、私もキリスト教徒です」。そしてそれ以来、福音を支えるもっとも強い者の一人となりました。

この輝かしい霊が残した注目すべき告白を読むと、彼の性格が読み取れるとともに、聖アウグスティヌスの母、聖モニカの死後、彼が語った預言的な言葉の内容を知ることができます。「私は、私の母親が私に会いに来て、忠告をくれ、未来の生活においてなにが私たちを待ち受けているのかを明らかにしてくれることを確信しています」。

なんと大切な教えがこの言葉の中に含まれていることでしょうか。来たるべき教義の予告が、何と激しく響いていることでしょうか。

聖アウグスティヌスがさまざまなところに姿を現すのは、古来より予感された真実を布教する時が到来したことを悟り、啓示を求めるすべての者に、熱意をもって応えようとしているからなのです。(聖パウロの弟子エラストゥス パリ、1863年)


<備考>聖アウグスティヌスは積み上げたものを崩すためにやって来たのでしょうか。もちろんそうではありません。その他の多くの者がそうであるように、彼は人間として生きていた間見ることができなかったものを、霊の目で見ているのです。

魂は解放され、新しい光をかいま見て、以前理解していなかったことを理解したのです。新しい考えが幾つかの金言の本当の意味を彼に示すことになりました。地上においては、その時持ち合わせていた知識に従って物事を評価して居ました。

しかし、新しい光が彼を照らすと、それらをより賢明に評価できるようになりました。こうしてそれまで霊に対して抱いていた考えや、反対者の論理に対して浴びせていた非難を捨てることになったのです。

キリスト教の純粋さのすべてが顕れた今日、キリストの使徒であることを放棄することなく、彼は幾つかの点について、生きていた時とは違う方法で考えることが出来るのです。自分の信心を否定することなく、スピリティズムの布教者となり、予言されたことを達成しに来たのです。

スピリティズムを布教することにより、現代に生きる私たちがその記録をより適切に論理的に解釈できるように導いてくれるのです。同様の立場にある他の霊たちにも同じことが起きています。

●FEB版注1
 アラン・カルデックは第一の戒めの最も重要なところだけを引用し、それに続く次の文は記載しませんでした。
「あなたの神、主である私は、ねたむ神であるから、私を憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、私を愛し、私の戒めを守るものには、恵みを施して千代にいたるであろう」。(出エジプト 第二十章 5、6)

 カトリック教会やプロテスタントによるこの戒めの翻訳は、魂がたった一度だけ受肉するという教義と一致させるため、削除されました。また、「三、四代に及ぼし」という箇所はブラジル版の聖書によると、Zamenhof の訳で、文章を「三、四代まで」と変更しています。カトリックのIgrejaAnglicana教会やプロテスタントのAlmeidaやその他に見られる、こうして手を加えられた文章は、神の正義を恐ろしいものにしてしまっています。

つまり、息子、孫、ひ孫、又その次の代の者が、父、祖父、ひいおじいさん、の罪により罰せられることになってしまうのです。これは一度限りの命の考え方に法をあてはめた失敗の例です。──FEB一九四七

Thursday, March 6, 2025

シアトルの弥生 愛の力 

power of love



  Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley 




 愛は大きさを測ることができません。重さを測ることもできません。いかなる器具をもってしても分析することはできません。なのに愛は厳然として存在します。宇宙における最大の力です。大自然の法則を機能させる原動力です。

愛あればこそ全大宇宙が存在するのです。宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。

生命活動の原動力であり、霊の世界と物質の世界の間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。辿り着いた高級霊界からの遼遠の旅路の末に再び地上に舞い戻り、古くかつ新しい名言〝愛は死を乗り超える〟を改めて宣言することができるのも、この愛あればこそです。

 あなた方を今日まで導き、これ以後もより一層大きな霊的回路とするための受容力の拡大に心を砕いてくれている背後霊の愛に目を向けて下さい。

昼の後には夜が訪れるように、春の後には夏が訪れるように、種子を蒔けば芽が出るように、霊は着実に開眼し一歩一歩その存在意義の成就に向けて階段を昇ります。日常の煩瑣(はんさ)な雑事の渦中にあって、時には僅かの時間を割いて魂の静寂の中に退避し、己れの存在の原動力である霊性に発現の機会(チャンス)を与えて下さい。

 心に怖れを宿してはいけません。完全に拭い去らないといけません。誕生以来今日までずっとあなたを導いてきた霊が、今になって見捨てるはずがありません。これまで日夜あなたの生活の支えとなってきたのであり、これ以後もずっと支えとなることでしょう。

なぜなら、あなたに絶対成就してもらわねばならない仕事があるからです。霊がこの世へ携えて来た能力がこれからもその役目を果たしていきます。こちらから援助に当たる霊の背後には宇宙の大霊すなわち神の力が控えております。それは決して裏切ることはありません。

 宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。

受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落着きを身につけなければなりません。

 そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることができます。それが神の摂理なのです。そういう仕組みになっているのです。受け入れ、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されるということです。

受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。それだけのことです。悲哀の念が消えるに従って、魂を取り巻いていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込むことでしょう。

 宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。全宇宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。

愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差しのべさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。そして、いつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。

 好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。そこには徳性も神聖さもありません。好感の持てない人を愛する──これが魂の霊格の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではありません。
 
確かに難しいことです。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければいけません。他人に出来ないことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからです。可哀そうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。

 最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これはやさしいことです。しかし、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けでは出来ません。が、

それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。向上進化の梯子を登って行けば、己れのために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。

 願わくばあなた方の世界も是非そうあってほしいと思うことしきりです。私たちのことが理解できない人々はいろいろと勝手なことを言ってくれますが、私たち自身はどう評価されたいとも思っておりません。

手の届くかぎりの人々に手を差しのべたいと思うだけです。その意味でも、あなた方には霊の世界の最高レベルの階層と感応するよう努力していただきたい。

あなた方は決して孤軍奮闘しているのではないこと、まわりにはあなた方を愛する人々、手引きし援助し鼓舞せんとする霊が大勢取り囲んでいることを認識していただきたい。

そしてまた、霊的開発が進めば進むほど、宇宙の大霊である神へ向けて一歩一歩近づきつつあり、よりいっそう、その摂理と調和していきつつあることを理解していただきたいのです。

 単なる信仰、ただそう信じているというだけでは、厳しい体験の嵐が吹けばあっけなく崩れてしまいます。が知識に根ざした信仰はいかなる環境にあってもゆるぎない基盤を提供してくれます。霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。が、

証を授かり、それ一つを手掛かりとして他の多くの真理を信じることのできる人は、それ以上に幸いです。なぜならばその人は宇宙の摂理が愛と叡知そのものであるところの霊の力によって支配されていることを悟っているからです。

 人生とは生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは立証可能な事実です。かくして人間は地上にあっても霊的存在であり物質的存在ではないこと、すなわち身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではないということを自覚することができます。

物質界への誕生は測り知れない価値ある遺産の一部を享けることです。霊であるからこそ物質と結合し、活動と生命を賦与することができるのです。その霊は宇宙の大霊の一部であり、本質的には神性を具え、性質的には同種のものであり、ただ程度において異なるのみです。

 我欲を棄て他人の為に自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。

排他性の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が上です。いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。

 家族的な愛は往々にして排他性を帯びます。いわゆる血のつながりによる結びつきです。それは進化の過程における動物的段階の名残りである防衛本能によって支配されていることがよくあります。が、愛の最高の表現は己れを思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することができることです。

その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。

愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表われます。

 霊の世界へ来た者がなぜ地上に舞い戻って来るかご存知ですか。大多数の人間にとって死は有難いことであり、自由になることであり、牢からの解放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。

地上の住民を脅かす老いと病いと数々の煩悩に別れを告げたのです。なのに、地上との間に横たわる測り知れない困難を克服してまで自ら志願して帰って来るのは、あなた方への愛があるからです。彼らは愛の赴くところへ赴くのです。

愛のあるところに存在するのです。愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。霊界において如何なる敵対行為が私達へ向けられても、妨げんとする邪霊集団の勢力がいかに強力であろうと、それが最後には効を奏することができないのは、そうした愛に燃えた霊たちの働きがあればこそです。
 
 これまでに得させて頂いたものを喜ぶべきです。浴し得た恩寵に感謝すべきです。愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得たことを有難く思うべきです。あなた方を包む愛によって存分に慰められ、支えられ、励まされるがよろしい。

その愛の豊かさはとても私には表現し尽くせません。時には何とか伝えてみようと努力することもあるのですが、あなた方の心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さはとうてい人間の言語では表現できません。

 あなた方はこれまで、愛に発する利他的行為、英雄的行為、奉仕的行為、滅私的行為による目覚ましい成果を見て参りましたが、霊界の高級霊が生命力そのものを結集してあなた方を温く包む、その愛の底知れぬ潜在力はとうてい推し測ることはできません。

もっとも、それを受け入れる器がなければ授かりません。それが摂理なのです。理屈は分かってみれば簡単です。資格ある者が授かるというだけのことです。

霊力は無尽蔵です。それに制限を加えるのは人間の受容能力です。人間が少しでもその受容能力を増せば、その分だけを授ける用意がこちらにはいつでも出来ております。が、それ以上のものは絶対に授けることはできません。

 常に上を向いて歩んで下さい。下を向いてはいけません。太陽の光は上から差します。下からは照らしません。太陽は永遠の輝きの象徴です。霊的太陽は啓蒙と活力の源泉です。内在する霊に刺激を与えます。自分が本質において永遠なる存在であり何事も修行であることを忘れぬ限り、何が起きようと意気消沈することはありません。

霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で、実際の行為によって体得しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。

 神聖こそ、その無限の愛の抱擁力によって私たちを支えている力であり、その尊い遺産を発揮し宿命を成就するよう導いてくれる力です。宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っております。魂のそれぞれの必要性を察知し、いかにしてそれを身につけるかを知らしめんと取り計らってくれます。

自分とは一体何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。ですから、私達は愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せようではありませんか。その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も神の御手の中にあることを自覚しようではありませんか。

 完全なる愛は恐怖心を駆逐します。知識も恐怖心を駆逐します。恐怖は無知から生まれるものだからです。愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めません。進歩した霊はいついかなる時も恐れることがありません。なんとなれば、自分に神が宿る以上は人生のいかなる局面に遭っても克服できぬものはないとの信念があるからです。

これまであなたを包んできた愛が今になって見放すわけがありません。それは宇宙の大霊から放たれる無限なる愛であり、無数の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人のために役立たんと志す人々の力となります。

気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。あなたの周りに張りめぐらされた防御帯であり、決して破られることはありません。神の力だからです。

 私ども霊界の者が是非とも提供しなけらばならない証は、愛が不滅であること、死は愛し合う者の仲を裂くことはできないこと、物的束縛から脱した霊は二度と死に囚われることがないということです。愛の真の意義を悟るのは霊の世界へ来てからです。

なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものです。宇宙の大霊の顕現なのです。互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。邪なるもの、害なるものを知りません。愛は己れのためには何も求めないのです。

 死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。

愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩── 愚かさ、無知、依怙地、偏見等々を乗り超えて働きます。

 二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結びつきです。神はその無限の叡知をもって、男性と女性とが互いに足らざるものを補い合う宿命を定めました。両者が完全に融合し合うことこそ真の愛の働きがあり、互いに補足し合って一体となります。

愛は無限なる霊の表現ですから、低い次元のものから高い次元のものまで、無限の形をとります。すなわち磁気的で身体的な結びつきから精神的な結びつき、さらには根源的な霊的な結びつきへと進みます。

その魂と魂との結びつきが地上で実現することは極めてまれなことであり、むしろ例外的なことに属します。が、もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となります。これが魂と魂との真の結婚の形態です。

 これは本来一体である親和性をもった魂が二つに分かれて地上へ顕現しているという、いわゆる〝同類魂〟(アフィニティー)の思想で、古来からあります。それが再び一体となるには何百万年、何千万年もの歳月を要します。それが僅か五十~七十年の短い期間に地上という小さな天体上で巡り合うということは極めて異例のことです。

幸いにしてその幸運に浴した時は、それは神がそう図られたとしか考えられません。そしてそのアフィニティーの二人は死後も融合同化の過程を、人智を超えた歳月にわたって続けます。人間的個性を少しずつ脱ぎ捨て、霊的個性をますます発揮していき、その分だけ融合の度合いを深めていくことになります。
 
 愛は血縁に勝ります。愛は死を乗り超えます。愛は永遠不易のエネルギーです。それが宇宙を支配しているのです。神の意図によって結び合った者は生涯離れることなく、死後も離れることはありません。墓には愛を切断する力はありません。愛は全てのものに勝ります。

なぜなら、それは宇宙の大霊すなわち神の一表現だからです。そして神の統一体(※)としての一部を構成するものは永遠にして不滅です。(※それを欠けば完全性を失う必須の存在。──訳者)
              

Wednesday, March 5, 2025

シアトルの弥生 序 章  Ⅰ、 本書の目的

Introduction 
I. Purpose of this document




本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。
────アラン・カルデック


       序 章 

Ⅰ、 本書の目的
福音書に記された内容は五つの部分に分類することができます。
1、キリストの生涯における出来事。  2、奇跡。 3、預言。 4、教会の教義を確立させるために用いられた言葉。 5、道徳的な教え。

 最初の四つの部分は議論の対象となってきましたが、最後の一つに関して異議を唱える者は誰もいません。この神聖なる法の前には、不信心さえも屈するのです。

道徳的な教えは、すべての宗教が交わるところであり、この法の旗のもとには、信仰の対象がどのように違っていようとも、万人が宿ることができます。

教義の違いが引き起こす、様々な宗教的論争の対象にはなり得ないものなのです。もし、これについて議論しようとするならば、その宗派は、自らに対する非難に出遭うことになるでしょう。また、そのような宗派はほとんどの場合、一人一人の改革を強いる道徳的な部分よりも、神秘的な部分に執着しているものです。

 キリストの道徳的な教えとは、人類の個人的・社会的生活のあらゆる状況における行動の規則であり、最も厳格な正義によって築かれた、全ての社会関係の原則となるものです。

幸福を手に入れるために何よりも間違いのない道であり、ベールに覆い隠された未来の生活の一端を垣間見せてくれるものなのです。本書を発刊する極めて重要な目的はこの部分にあります。

 誰もが福音の道徳に感心し、その崇高さと必要性を唱えます。多くの人が、他人が言ったことを信じたり、格言と化した教えの言葉を用いたりしていますが、その深い意味を知る者は非常に少なく、そこから結果を引き出すことが出来る人は更に少ないといえます。

それはほとんどの場合、読み方が難しくて、多くの人が福音を理解できないからです。これでは、意味を理解することなく祈りを唱えるのと同じで、全く無益なことになってしまいます。福音の朗読が、義務感から強要されて行われるものになってしまっていることは否めません。

 福音を理解できない原因の一つとしてあげられるのが、装飾的な表現や意図的に神秘性を加えられた言葉の多用です。方々に散らばった道徳の規律は、物語の間に入り混じっているために見失われてしまい、全体を一つとして理解し、朗読の対象となるものと、熟考の対象となるものとに区別することができなくなってしまうのです。

 これまでにも、福音の道徳に関するさまざまな専門書が確かに書かれてはいます。しかし、その現代的で文学的なスタイルは、素朴な簡潔さを失ったことで本来の魅力と威厳を薄れさせ、中には、最も際立った教えを、格言的な表現に簡略化してしまったものさえあります。

簡略化された教えは気の利いた格言に過ぎず、その教えが伝えられた時の状況や場面の説明が伴っていないために関心が奪われてしまっているのです。

 こうした不具合を避けるために、本書では信仰する宗教が何であるかに関わらず、全世界共通の道徳の法として構成することのできる条項を集めました。

引用については、その考えを発展させるために有効な箇所は残し、テーマに関連しない部分だけを除外しました。また、筋の分割に関しても、サシ―(sacy)による翻訳に正確に従いました。(→和訳注1)。

しかしながら、教えを年代順に追うことが不可能なこと、また、そうすることによって得られる実質的な利点がないことから、相応する性格に従って系統的に分類し、一つ一つの教えがつながっていくよう、出来る限り努めました。章の番号と節の番号を付したことにより、必要に応じて一般的な分類で調べることもできます。

 しかし、これは本書の物理的な特徴であり、二次的な目的でしかありません。最も肝心なことは、曖昧な部分をきちんと解説し、生活のあらゆる条件にあてはまることを考えながら、教えを充分に展開させて、皆の手の届くところにおくことです。

本書では、私たちを見守ってくれている善霊たちの助けを借りながら、そうすることを試みました。

 福音書や聖書など、一般的な聖典には不明瞭な部分が多く、中には本当の意味を理解するための鍵が見当たらないために、道理にかなっていないのではないかと誤解を受けるようなものもあります。スピリティズムにはこのような鍵が完全な形で存在しています。

教義を真剣に研究した者たちを納得させたように、後になれば、その鍵がどれほど役立つものかを知ることが出来るでしょう。スピリティズムは、太古より人類のあらゆる時代、そしてすべての場所に存在してきました。文献、信仰、記念碑等、あらゆるものの中にその形跡を見つけることができます。

曖昧さを解く鍵と長い歴史の中で育まれた英知が、未来へ向けて新しい地平線を拓くと共に、過去の謎に明るい光を投じるのです。

 各々の戒律について、補足として幾つかの指導を選択して加えてありますが、それは様々な国でさまざまな霊媒を通して霊たちが伝えたものです。つまり一箇所だけから得られたものではないということです。従って特定の個人やそれを伝えた者たちの影響を受けているというものではありません。

このさまざまなところから得られたという事実は、霊たちが国や人種を超えて同じ教えを伝えていること、また、そうした教えによってどんな特権を受けた者もいないのだということを証明するものでもあります。(→備考1)

 本書はすべての者のためにあります。本書からすべての者が、キリストの道徳に則して行動する方法を知ることができます。その方法とはスピリティストにとっては特に関係の深いものです。人間と不可視の世界との関係が今後も永遠に成り立っていくお蔭で、霊たちが全ての国々に教えてくれた福音の法は、もはや死語ではなくなるのです。

なぜなら、一人一人がそれを理解することによって指導霊たちの忠告に従い、継続してそれらを実践することを強いられることになるからです。霊たちによってもたらされるこうした指導はまさしく天の声であり、人類の謎を解き明かし、福音の実践へと導いてくれるものなのです。

●備考1
 それぞれのテーマに関して本書の中で引用されたもの以外にも、他の町や他のスピリティスト・センターにおいて多くの通信が受けられていたことが勿論考えられます。しかし、無意味な繰り返しによって単調になることを防ぐ必要があったため、また、基調と形式において本書の計画に最も適当なものに選択を絞らねばならなかったため、本書に記すことのできないものについては今後の出版のために取っておくことにしました。

 霊媒たちに関しては、彼らの名前を記すことは避けました。なぜなら、名前を記すことは自尊心を満足させることでしかなく、彼らはそのようなことにはまったく価値を見出さないからです。本当に真剣な霊媒は、霊たちと通信するという自分の役割が、単に受動的なものであり、自分の価値を高めるものではないということをよく理解しています。この知性的な仕事に自分は機械的に協力したに過ぎず、おごってしまうことが愚かであることを知っているのです。



 Ⅱ、スピリティズムの教義の権威  霊たちによる教えの普遍的管理

 もし、スピリティズムの教義が、全く人間だけの考えによって成り立ったものであったとしたら、この教義を実際に思いついた人を啓発すること以外に、なんの保証もすることはできなかったでしょう。この世における唯一絶対の真理を手に入れようと考えることは誰にもできません。

 また、もし霊たちが、啓示をたった一人の人間にだけもたらしていたとすれば、その啓示がどこから来たのかを誰にも保証することはできないでしょう。なぜなら、霊たちから教えを受けたと主張する者一人だけの言葉を、私たちは信じなければならないからです。

その教えを、いやしくも私たちがこの上なく誠実に受け止めたとしても、その者ができることは、せいぜい自分の周囲にいる人々を納得させることくらいでしょう。一つの宗派を設立することが出来たとしても、世界中の人々を集結させることはできません。

 神は新しい啓示がもっとも早く正当な方法によって人類に届くことを望んだため、地球の端から端まで啓示が運ばれて行くよう霊たちに託し、霊たちはあらゆる場所で啓示を残しました。

特定の人間だけにその言葉を聞く特権を与えるようなことはありませんでした。啓示を受けるものが一人であれば騙されたり、間違えたりします。しかし何百万もの人々が同じことを見たり聞いたりした時には、そうではありません。

さらに言うならば、一人の人間を消すことはできても、すべての人を消すことはできないのです。そして、本を焼却することはできても、霊たちを燃やすことはできません。

たとえすべての本を焼却したとしても、教義の源は無尽蔵であり続けます。それは教義の源が地上にあるのではなく、どのような場所にも表れる霊たちの中にあるからで、誰もがそこに胸の渇きを癒すことが出来るのです。

 あとは教義を普及させる人々がいればよいのです。霊たちは、常にすべての人々に対して働きかけているのですが、そうした霊たちの存在にすべての人が気づくわけではありません。そのため、霊たちは無数の霊媒の力を借りて教義の布教を行っているのであり、世界中のさまざまな場所から教えを示してくれているのです。

 もし、ただ一人の紹介者しか存在しなかったとしたら、その通訳の内容がどんなによいものであっても、スピリティズムはこれほどまでに知られることにはならなかったでしょう。その通訳者がどんな階級に属していようとも、多くの人々から警戒され、すべての国々で受け入れられることはなかったと思われます。

 霊たちは、地球上のあらゆる場所で、すべての国の人々や宗派、すべての政党に対して通信してくれるので、誰もがそれを受け入れることができます。スピリティズムには国境がありません。又既存の宗教の一部をなすものでもありません。誰もが他界した家族や友人から指導を受けることができるのですから社会階級を問うこともありません。

そうでなければ、スピリティズムが人類すべてを兄弟愛へと導くことができないからです。中立的な立場を維持しなければ、不和を鎮めるどころか勢いづけることになってしまいます。スピリティズムの力と、その大変速い普及の理由は、こうした遍在性ある霊たちが普及させているということにあります。

 たった一人の人間の言葉でしかなければ、出版という力を借りたとしても、すべての人々に知れわたるまでには何世紀もかかることでしょう。それを、幾千もの声が地球上のあらゆる場所で、最も無知な者から最も博学なものまで、誰もがそれを受け継ぐことができるように、同じ原理を同時に宣伝してくれるのです。

これは、今日まで生まれたいずれの教義も享受したことがなかった有利な点です。したがってスピリティズムが真理であるならば、人間に嫌われたり、道徳的な革命が起こったり、あるいは地球が物理的に崩壊したりすることがあったとしても、その影響が霊たちのもとまで及ぶことはないのですから、恐れることは無いのです。

 このような特別な立場にあることからスピリティズムに与えられた有利な点は、こればかりではありません。スピリティズムには、人々の野心や、霊同士の矛盾から生じるどんな意見の違いからも攻撃されることはないという保証があります。

意見の相違がおこることが障害となることは間違いありませんが、善と悪とは隣合わせですから、その障害自体が、その障害を取り除く薬を持ち合わせているのです。

 霊たちは、自分たちの能力には差異があって、真理のすべてを手にすることはとてもできないということを自覚しています。ある種の謎については、限られた霊にしか知ることが許されておらず、一人一人の霊の知識は、各々の浄化の程度に応じているのです。

 平凡な霊たちは、多くの人間が知る以上のことを知ることはありません。しかし中には、人間同様、自分の知らぬことを知っていると思い込んで、うぬぼれたり知ったかぶりをする者がいるのです。

自分の考えが真実であると思い込む者もいます。また、自分たちが描く理想郷を真の理想郷だと信じ込ませようと、自分たちよりも高級な分類に属する霊の名前を平然と名のって、人を騙そうとする霊がいることも知られています。

結局のところ、現世的な偏見や考えを捨て去っているのは、物質的な観念から完全に脱却し、より高級な分類に属する霊たちだけなのです。

 ですから、啓示を得たとしても、それが道徳的な教えの範疇からはずれたものである場合はすべて、その啓示が個人的な性格を持った不確実なものであると疑う必要があります。このような啓示は一人の霊の個人的な意見として捉えるべきであり、それを絶対的な真実として軽率に広めては、慎重さに欠けることになります。

 その啓示が確実なものかどうかを証明するための第一の分析方法は、霊から伝えられたすべてのことを、もれなく理性によって分析することです。良心や厳格な理論、すでに得られている肯定的な事実に矛盾する理論は、それがどんなに表敬に値する名前によって署名されていたとしても、すべて否定されるべきです。

しかしながらこの分析方法は、自分自身に対して絶対的な自信を持っていない限り、行うのが難しいと言えます。実際、知識が欠けていたり、自尊心の強い傾向にある人が多かったりすることから、多くの場合、この分析方法だけでは不十分でしょう。では、他にどんな方法があるのでしょうか?

大勢の人々の見解を求め、それを自分の意見の指針とすればよいのです。これは、霊たちが私たちに与えてくれている方法でもあるのです。

 霊たちは、さまざまな場所で複数の人間に、同じ教えを示します。霊たちからの教えが一致していることが、最良の真偽の証明になるのです。しかし、それがある決められた条件下で示されたものであることが大切です。例えば、ある疑わしき事項について、一人の霊媒がさまざまな霊に対して尋ねるというのでは、証明する力が弱くなります。

なぜなら、その霊媒が憑依のもとにある場合、もしくは人を騙す霊と結びついている場合、その霊が同じことを様々な名前を用いて述べるに違いないからです。

また、一つの集会所でさまざまな霊媒を通じて得られた教えが一致したとしても、やはり、霊媒たちが同じ影響下にある可能性があるため、それが確実な啓示であることを十分に証明することにはなりません。

 霊たちの教えの唯一の保証が存在します。お互いに知らない多数の霊媒たちを通じ、さまざまな場所で霊たちによって自発的に伝えられた啓示が一致していることです。


 これは、二次的な関心事に関する通信についてではなく、教義の原理に関した通信についてそうであるということに注意してください。経験によりある新しい原理が述べられる時、それは自発的にさまざまな場所で、同時に、その形式や真意までも同じ方法で伝えられるということが判っています。

ですから、もしある霊が、風変わりな方法で自分の意見を全面に出して真実を除外するようであれば、その意見は広まることなく、あらゆる場所において伝えられる確実な真理の教えの前に、必ずや崩されることになるでしょう。そのような事例は、これまでにも沢山あります。

スピリティズムの始まりにおいて、可視の世界と不可視の世界との関係を支配する法が知られる以前には、こうした不一致を排除する方法が、部分的に現れた、霊現象に対する個々の独自の説明を崩していったのです。

 教理の原理を確立する際に、私たちはこうした不一致を排除する方法に頼りました。霊たちの教えの一致です。私たちの考え方の一致ではありません。真実は私たちが作り上げたものではないのです。

ですから、「信じてください。なぜなら私たちが信じなさいと言っているのですから」などと、私たちが至上の真実の裁定者であるかのように主張することは決してありません。

私たちの意見は個人的な意見にしか過ぎず、それが真実であるにせよ偽りであるにせよ、他の考え方と比べて絶対に確実であるとも考えていません。私たちがそのことを真実としているのは、単にある原理が教えられたからではなく、一致した容認を受けたからなのです。
℘23
 地上のあらゆる場所に、霊たちからの通信を受ける、千に近い敬虔なスピリティズムの集会所があり、それぞれの受けた啓示が一致することで、どんな原理を確立しているかを観察する条件が、私たちには備わっています。この観察が、今日まで私たちを導いてきたのです。

そしてまた今後も、スピリティズムが新たに開拓しなければならない分野へと導いてくれるでしょう。

なぜなら、フランス国内を始め、諸外国からきた通信を注意深く観察すると、それぞれの啓示には共通した特別なメッセージが込められており、スピリティズムが新しい方向に進もうと、前へ向かって大きく踏み出す時が来たことを示唆しているからです。

 これらの啓示は、隠された言葉によってなされることが多いため、それらを受けた人たちにもしばしば見逃されてきました。また、自分たちだけが啓示を得られるのだと、勘違いしてしまう人もいました。

霊たちから送られる啓示は、一つ一つを個別に受け取ったというだけでは、私たちにとってどんな価値も持ち得ません。それらの通信内容が一致していることで初めて、重要性を持つことになるのです。

各々が同じ意味の通信を受けていたことは、後に公開されて知ることになります。こうした全体的な動きについて、どう扱うかの判断を助けてくれている私たちの指導霊たちに助力を受けながら、私たちは観察・研究したのです。

 こうして世界的に証明されることは、スピリティズムの未来永劫の普遍性を保証し、それに矛盾する全ての理論を打ち消すことになります。それを実現することができるようになった時こそ、スピリティズムは、真実の基準となり得るのです。

「霊の書」「霊媒の書」に著された教義が継承され続けてきたのは、人々がこれらの本に書かれたことを証明する啓示を、あらゆる場所で霊たちより直接受けたからです。万一、霊たちがこれらの本の内容と矛盾することを世界各地に出没して伝えていたとしたら、他の空想的な概念の全てが被ったように、これらの書物はとうに支持されなくなっていたことでしょう。

そうなるといくら出版社が本を出したところで無駄な努力です。しかしながら、そもそも『霊の書』『霊媒の書』は、出版社から助けを得ることができませんでした。

それでも道を閉ざされることなく、速い速度で広まって行きました。そこには霊たちの助力があったのであり、彼らが充分な意思をもって普及させたことにより、人間の悪意をも圧倒したのです。いかなる思想も、霊たちから発せられたものであれ、人間から発せられたものであれ、あらゆる対決の試練に耐え抜くことが、誰にも反対できない力の存在を示すことになるのです。

 
 仮に、本書に対抗する内容の本を書くことに喜びを感ずる霊がいたとしましょう。そして敵意をもって、スピリティズムの教義の信用を失わせようと、偽の通信を引きおこしたとします。

しかし他のすべての霊が、その霊と反対のことを言っていたとすれば、その霊が書いた書物が本書に一体どんな影響を及ぼすことができるでしょうか。どんな考え方であれ、自分の名を名乗って掲げるのであれば、このように多くの霊たちとの合意を得ようとしないことには、それが存続するための保証を得ることはできません。

たった一人の唱える主義主張とみなが唱えるものとの間には、一瞬から永遠までの距離があります。何百万もの友好的な声が届き、それが宇宙のすみずみから家庭の中にまで聞こえわたる時、それを汚し、その価値を失わせようとする論議に何ができるというのでしょうか。

この理論については、何もできないということをすでに実証済みです。スピリティズムを倒そうと意図して、これまでに書かれた無数の出版物はどうなったでしょうか。そのうち一冊でも、スピリティズムの歩みを遅らせることができたのでしょうか。

現在に至るまで、そのようなことが重要な問題として議論されたことはありません。いずれの書物も、それぞれが勝手な考えを伝えたのに過ぎず、霊たちが伝える真の啓示に従ったものではなかったのです。

 一致の原則は、スピリティズムが特定の個人の都合のいいように変更を加えられたり、利益目的の宗派に変えられたりしないように保証するものでもあります。根本的な神意を曲げようとする者は、成功することはないでしょう。なぜなら、霊たちの教えは普遍的なものであり、霊たちは、真実から遠ざけようとするいかなる変更をも地に倒そうとするからです。

 こうしたことのすべてから根本的な真実が導かれます。すでに確立され公認されている考えに対抗しようとする者は、確かに、ごく限られた場所で一時的に動揺をもたらすことが出来るかもしれません。しかしその時においても、また、未来においても、全体を支配することは決してできないのです。

 また、霊たちによって与えられた指導であっても、それがまだ教義によって解説されていないことに触れており、孤立して存在しているうちは、それが法をなすものでないのだということを強調しておきます。ゆえに、結局のところそうした指導は、今後解明されることが必要なものと言う制限つきで、受け入れられなければなりません。

 これらの指導を公表するか否かについては、この上なく慎重に吟味する必要があります。そしてそれを公表してもよいと判断された時には、必ず、それが正確な啓示であるという確認を事前に取ったうえで、まだ一致による容認を受けていない、個人的な意見に過ぎないものとして公開することが大切です。

軽率であるとか、浅はかな信心だと非難されたくなければ、ある主義主張を絶対的な真実であると公開する前に、その確認が取れるのを待つことです。

 人智を超越した英知によって、優秀な霊たちは啓示を行います。教義の大きな問題については、知性がより高い水準の真実を理解することができるようになるに従って、またその状況がその新しい考えを送信するにふさわしくなった時、徐々に伝達していきます。

このような計画があったので、最初から一度にすべてのことを伝えなかったのです。今日においてもいまだすべてを伝えられてはおらず、だからと言って、機が熟していないうちから啓示を求めたところで、与えられるものではないのです。神が其々の事柄に対して割り当てた時間を早めようとすることは、無駄なことです。

なぜなら、時間を早めようとしたとき、本当に真剣な霊たちはそれに同調することを拒むからです。軽率な霊は、真実に囚われることなく、全てのことに返事をします。そのために、機の熟していないあらゆる質問には、いつも矛盾した答えが返ってくるのです。

 この原則は、個人的な理論によってもたらされたものではありません。霊たちがおかれている状況から必然的にもたらされたものなのです。ある一人の霊があることをある場所で言う一方で、何百万もの別の霊がその反対のことをどこかで言うのであれば、押し量られる真実とは、たった一人、もしくはほぼ一人とみられる者が持つその考えの中にあるはずはありません。

誰か一人が、その他すべての者に反対されながら、理に適っていると主張しようとすることは、人間の間で理屈に合わないと同様に、霊たちの間でも理屈に合いません。

本当に思慮深い霊たちは、ある問題に関して十分に理解しているという自信がない限り、自分が絶対に正しいと主張して、その問題を解決することは決してありません。彼らは、自分の個人的な観点からその問題を扱っていることを宣伝し、その確認を待つことを勧めます。

 その考えがどんなに美しく、正しく、偉大であったとしても、啓示を受けたばかりの時は、あらゆる意見を集約することが不可能です。従って、複数の意見が衝突するのは避けられないことです。

しかし、複数の意見を衝突させることは、真実をより際立たせるためには必要なことであり、偽りの考えがすぐに取り除かれるためにも、早くからおきた方が良いことなのです。

ですからスピリティストはこれに関して恐れを抱く必要は全くありません。孤立したあらゆる思い上がった考えは、普遍性を持つ偉大で強力な基準の前に、自ら淘汰されることになるのです。

 ある一人の意見に他人が集まるのではなく、異口同音に発せられる霊たちの声に集まるのです。それは一人の人や、私たちや、スピリティズムの正当性を確立させることになる別の誰かでもありません。または誰であれ、一人の霊が強要しに来るのでもありません。

それは神の指示により、地球のあらゆる場所において通信する霊たちの教えの普遍性に集まるのです。それがスピリティズムの教義の根本的な性格であり、その力であり、権威です。神はその法が揺るがぬ基礎の上に君臨することを望み、そのために一人のはかない頭をその基礎としなかったのです。

 派閥や妬み深い競争相手、宗派、国家さえも存在しない、それほど強力な審判の前には、あらゆる反対意見も、野心も、個人的な優位性に立ったうぬぼれも崩壊してしまいます。私たちが自分自身の考えによって至上の法を変更しようとすれば、自らを破滅させることになってしまうのです。

神のみが論争すべき問題を決定し、異論者には閉口させ、道理にかなう者にはその正当性を与えるのです。こうした天からの威厳あるあらゆる声の前に、一人の人間や霊の意見に何ができるというのでしょうか。一つの意見、それは海の中に落ちて消滅する一滴の水や、嵐によって打ち消される子供の声よりも小さなものなのです。

 普遍的な意見こそが最高の審判であり、それは最後の時に発せられることになるのです。普遍的な意見はあらゆる個人的な意見によって形成されています。もしそのうちの一つが真実であれば、秤にはその相対的な重量しか示されないことになります。それが偽りであれば、その他の意見に対して勝ることはありません。

この広大な集合の中に全ての個人的な偏った考えが消えて行くことになり、人類の自尊心(→和訳注2)はここでも生き延びることが出来ないのです。

 神の意志のもとに働く霊たちの動きはすでに出来上がっているのです。今世紀は、その働きが輝くことにより、不確実な部分を明らかにすることなしに終わることは無いでしょう。すでに土地は十分に耕されているため、今からその時までは使命を受けた力強い声が、人類を一つの旗のもとに集めることになります。

それが実現するまでの間、二つの相対する主義の間をさ迷う人には、一般的な考えがどちらの方向に向かって形成されて行くのかを観察することができるでしょう。その方向を正しく示すのは、さまざまな場所において通信する霊たちの大半が発言することであり、それが、二つの主義の内のどちらが生き残るかを示す確かなしるしとなります。


℘29
 Ⅲ、歴史的背景
 福音のくだりには、当時のユダヤ人社会の習慣を特徴づける語彙がしばしば用いられている個所があることから、より理解を深めるためには、そうした語彙が持つ正しい意味を知っておく必要があります。

いずれも今日では、もはや当時と同じ意味を持たないために、その意味を誤って解釈されることが多く、不確実性をもたらす原因になっているのです。これらの語彙の意味を正確に理解することにより、これまで妙だと感じられていたような金言についても、その真の意味を知ることが出来るでしょう。


サマリア人──十部族の分裂の後、サマリアはイスラエルから分裂した王国の首都となった。幾度も破壊されては再建され、ローマ時代には、パレスチナの四つの分割された地区の一つであるサマリア国の長となった。偉大なるエロデは、贅沢なモニュメントによりサマリアを美化し、アウグストゥスを讃え、彼をギリシア語でセバステと命名した。

 サマリア人たちは、ほとんどいつもユダの王たちと戦争状態にあった。分裂の時代以来、深い敵意が二つの民族の間に持続されることになり、お互いに避け合うような関係になっていった。

その溝はさらに広がり、宗教的な祭を祝う時でさえ、エルサレムに行かなくてもいいように、自分たちだけの宮を建て、教義に幾つかの変革を加えた。彼らはモーゼの法が記された『モーゼ五書』だけを用い、それらにあとで付け加えられたその他のいずれの書物も用いなかった。

彼らの聖典は最も古いヘブライ語で書かれていた。正統派のユダヤ人にとって彼らは異教徒であり、それ故に蔑視され、敵視され、迫害されることになった。お互いに信仰の起源は同じであったにもかかわらず、二つの国家の間に根強く浸透した敵意は、宗教的な意見の不一致によるものであった。当時のプロテスタントたちである。

 今日に至っても、ナブルス及びジャファといったレバンテの一部の地域には、サマリア人が存在する。彼らは他のユダヤ人たちよりも厳格にモーゼの律法を守り、サマリア人同士で結婚をする。

ナザレ人──古代の法において、一生涯、もしくは一時的にでも純粋さを完全に保つことを誓約したユダヤ人の人々に与えられた呼び名。彼らは貞節を守り、アルコールを飲むことを避け、髭を伸ばしていた。サムソン、サムエル、バプテスマのヨハネはナザレ人であった。

 イエスがナザレ出身であったことにちなみ、後になってユダヤ人たちは初期のキリスト教徒たちにこの呼び名を与えた。

 また、この呼び名は、西暦初期200~300年に存在した異教の宗派にも与えられた。この宗派はエボナイト派と同様に幾つかの原則を持っており、モーゼの法とキリストの教義の実践の両方を混在させていたが、四世紀に消滅した。

パブリカン(徴税官)──古代ローマ時代において、所得税を始めとするあらゆる税金の徴収を引き受けていた人々を指して言う呼び名。ローマを始め、ローマ帝国全土でこのように呼ばれていた。アンシャン・レジーム時代のフランスで見られた競売人や賃借人のような人々であり、その姿は今日も目にすることが出来る。

彼らは、一部の者から不当に徴税するなど、不正な手段によって利益を得ていたが、危険を伴う職務であったことから、人々は彼らが蓄えた富に対して目をつむっていた。

パブリカンという名は後になって、公的資金を管理する人々や、それに従属して働く代理人までをも指すようになった。

今日では、慎重さに欠ける財政官や代理人の代名詞として、軽蔑の意味を込めて用いられている。不当な手段によって富を得た人を指して、「パブリカンのように貪欲である」とか「パブリカンのように金持ちである」という表現が使われることもある。

 ローマの支配下において、ユダヤ人はなかなか税金徴収を受け入れずパブリカンを大いに苛立たせていた。やがてユダヤ人の中に多くの反発が生まれ、そこから宗教的な問題に転化し、税金を徴収することを法に反するものであると考えたのである。

そして、ゴロニテのユダと呼ばれた者を中心に、税金を支払わないことを原則とする強大な政党までもが組織された。結果としてユダヤ人たちは、税金とそれを徴収する任務にあったものを嫌い、あらゆる種類のパブリカンを嫌悪するようになった。

パブリカンの中には尊敬すべき人物がいたにもかかわらず、その職務ゆえに蔑視され、また、彼らと関係を持っていた人々までもが同じ非難を受けた。ユダヤ人の有力者たちは、こうした人々と親しくなることは、わが身に危険を招くことだと考えていた。

関税徴収人──階級の低い税徴収者たちで、主に町に入るための税金の徴収を行っていた。その役割は、関税の徴収を行う税関職員の職務内容にほぼ相当する。当時は、パブリカン(徴税官)が一般的に反感を受けていたために、関税徴収人も同じように非難を受けざるを得なかった。

福音の中で、しばしば関税徴収人が罪深い人々の表現として用いられているのは、このような理由からである。罪深い人々とはいっても、堕落した者や浮浪者という意味は含まれていなかった。関税徴収人は、「悪い仲間を持つ人々」の同意語であり、他の人々と共に生活するにふさわしくない人々という意味で用いられていた。

ファリサイ人(ヘブライ語で分離・区別を意味する「parush」がその後源)──ユダヤ人の神学の中で、伝統は重要な位置を占めていた。その神学は、聖典の意味に従って代々継承された解釈を教義の条項として採用し、編集されたものから成り立っていた。

博士たちの間では、もっとも単純な言葉や形式の問題について、中世におけるスコラ学派の神学的議論に類するような、終わりのない論議がしばしば交わされた。そこからさまざまな宗教が生まれ、各々が真理を独占しようとして、お互いを憎み合うようになった。

 この時に生まれた宗派のうち、最も影響力を持っていたのはファリサイ人たちであったが、その長であるヒレル(Hillel)(→FEB版注1)は、バビロニアに生まれ、有名な学校を設立し、そこでは聖書のみに信仰を抱くべきであると教えた。ファリサイ人の起源は紀元前180~200年にさかのぼる。

ファリサイ人たちはさまざまな時代において迫害されたが、中でも激しかったのは、ユダヤの王であり教皇であったヒルカノ(Hircano)と、シリアの王であるアリストブーロスとアレクサンドロスの時代であった。

しかし、後者がファリサイ人たちに名誉を与え財産を補償したことから過去の勢力を回復し、西暦70年頃にエルサレムが没落するまでそれを維持することになった。没落後はユダヤ人たちが離散したためにその名は消えていった。

ファリサイ人たちは宗教論争に積極的に参加した。外見的な儀式や習慣を厳格に守る人々であった。ユダヤ教を改革しようという熱意に満ちた革新者たちを敵視し、その主義を厳格なまでに貫き通す人々でもあった。しかしこれらは、細心の注意を払った熱心な見せかけにしか過ぎず、実際は、ふしだらな習慣には目をつむり、自尊心が強く、何よりも支配することに過剰なまでの欲望を抱いていた。

彼らにとって宗教とは、誠実な信仰の対象というよりも、自分たちの欲望を満たすための手段に過ぎなかったのである。見せかけや目立ちたがること以外に、どんな美徳をも有していなかった。しかし、中には民衆に大きな影響を与える者もいて、民衆からは聖なる人々であると見られていた。そんなことからファリサイ人たちは、エルサレムにおいて大きな勢力を持っていたのだった。

 神を信じていたというのではなく、せいぜい神や魂の不滅、永遠の罰、死者の復活(→第四章 四)を信じているふりをしていただけである。イエスは法の中で何よりも簡素さや魂の質を重んじており、殺す学問よりも生を与える魂を重要視したため、その使命の間に彼らの偽善を暴こうとした。

そのため、ファリサイ人たちの中に残忍なイエスの敵が現れた。ファリサイ人たちは主要な聖職者たちと同盟を結び、民衆が反乱を起こしてイエスを消すようにけしかけたのである。

書記官──主にユダヤの王の秘書やユダヤ軍の監督官に与えられた呼び名。後にモーゼの律法を民衆に解説する博士たちの呼び名として用いられるようになった。彼らの従う主義及び改革者たちに対する敵対心には、ファリサイ人たちと共通している点があることから、イエスはファリサイ人たちを戒めるにあたって、対象者として彼らをも含めた。

シナゴーグ(集合、集会を意味するギリシア語の「synagogê」がその語源)──ユダヤの国には、エルサレムのソロモンの宮一つしかなかったが、そこでは宗教のさまざまな儀式が行われた。ユダヤ人は毎年そこへ行き、過越祭り、奉納の祭り、神殿の祭りといった主要な祭りがあるたびに巡礼した。

こうした機会には、イエスもそこへ行くことがあった。その他の町には宮がない代わりにシナゴーグがあった。そこではユダヤ人が毎週土曜日に集まり、長老や書記官、律法学者たちが指揮を取って公式に祈った。またそこでは聖典の朗読も行われ、続いて解説や説教が行われ、誰もが参加することが出来た。

そうしたことから、イエスは司教ではなかったが、土曜日になると、シナゴーグで教えを説いたのであった。エルサレムが没落してユダヤ人が分散した後、シナゴーグは、ユダヤ人たちが生活を続けた町で、その宗派の祭りを行う寺院となった。

サドカイ派──紀元前248年頃に形成されたユダヤの宗派であり、その名は創始者のサドックに由来する。不死と復活を信じず、良い天使と悪い天使をも信じない。とはいえ、彼らは神を信じていた。死後に待ち受けるものは何もないので、一時的な報酬だけを目的に神に仕えていたのである。

彼らによれば、その報酬は神の意志により決められているという。サドカイ派は、このように考えることによって、肉体的な感覚を満たすことを人生の根本的な目的としたのである。法典については、旧法に従った。

伝統やいかなる解釈をも受け入れなかった。善の行いをし、法を簡素かつ純粋に守ることを、外見的な儀式の実践よりも上に置いていた。

彼らは当時における唯物主義者、多神教者、官能主義者であったのだ。宗派に属する人は少数であったが、幹部に重要な人物が何人かいたため、ファリサイ人と敵対する政党となった。

エッセ二ア人──紀元前150年頃、マカベウの時代に創設されたユダヤ人の宗派の一つ。修道院のような場所に住み、道徳的・宗教的結社として活動していた。その寛大な習慣や厳格さを特徴とし、神と隣人に対する愛と霊魂の不滅を教え、復活を信じていた。

独身生活を営み、奴隷制と戦争を非難し、その財産を分かち合い、農業に従事した。不死を否定した官能主義者のサドカイ派や、見せかけだけの美徳や単に表面的にだけ厳しい習慣を持っていたファリサイ人とは違って、エッセ二ア人たちは宗派論争に決して参加することはなかった。

彼らの説く道徳原則の内容と生活様式が、初期のキリスト教徒たちのそれと似通っていることから、イエスはその任務を開始する前は、エッセ二ア人の社会に属していたのではないかと多くの人々に思わせることになった。

イエスがエッセニア人たちのことを知っていたことは確かであるが、その社会に属していたことを証明するものは何も存在せず、それについて書かれたものはすべて仮説に過ぎない(→備考2)。

セラペウタ(「仕える、面倒を見る」を意味するギリシャ語「therapeuein」が転じて「神に仕える、治療者」を意味する「therapeutai」になった)──キリストと同時代のユダヤの宗派で、特にエジプトやアレクサンドリアに存在した。エッセニア人との関係が深く、あらゆる美徳の実践を受け入れた。

食事は極端に質素であった。また、独身主義であり、独立した生活を送ることをよいと考え、宗教結社を形成していた。アレクサンドリアのユダヤ人でプラトン主義哲学者のフィロンはセラペウタをユダヤ教の一宗派と考えた最初の人であった。

一方、エウセビオス、(聖)ヒエロ二モス、及びその他教会の司教たちは、彼らをキリスト教徒であると考えた。実際にそうであったか否かは別にせよ、エッセニア人と同様にセラペウタも、ユダヤ教とキリスト教を統合させた面影を残していることは明らかである。

●備考2
 エッセニア人によって書かれたと言われる「イエスの死」は全くの偽りの書物であり、その唯一の目的はある考えを支えることに過ぎない。その著書自体の中に、それが現代に書かれたものであることが証明されている。


℘36 
 Ⅳ、ソクラテスとプラトン。キリスト教思想及びスピリティズムの先駆者たち

 イエスがエッセニア人の宗派を知っていたからといって、イエスが自分の教義をそこから取り込んで生みだしたと結論づけることは誤りであり、またそうであったとすれば、もしもイエスが別の環境に生まれていたとしたら、別の主義を唱えていたことになってしまいます。

偉大な考えと言うものは、決して突然登場することはありません。真実の上に位置する考えというものにはいつも先駆者がいて、分担して道を切り開く準備をして行きます。

後になって、その時がやってくると、神はその考えを要約し、整え、散らばった要素を補い、それらを教義の幹としてまとめる者を送ることになります。このようにその考えは突然現れるのではないため、登場した時には受け入れる準備の出来た霊たちに出会うことができるのです。

キリスト教思想でもこのような事が起こり、イエスやエッセニア人の何世紀も前には、その主な先駆者としてソクラテスとプラトンがいました。

 ソクラテスはキリストと同様になにも記しませんでした。少なくともなにも書き残しませんでした。当時の信仰を攻撃し、偽善や偶像の上に真なる美徳を掲げ、いわば、宗教的な偏見を打ち破ったため、キリストのように狂信者の犠牲となり、罪人として死を遂げました。

ファリサイ人たちによって、その教えが民衆を堕落させていると非難されたイエスと同じように、ソクラテスも当時のファリサイ人に当たる人々に非難されました。神の唯一性、霊魂の不滅と未来の命についての教義をとなえて非難された人々は、いつの時代においても存在したのです。

イエスの教義をその使徒たちの書き残した者によってのみ知ることが出来るように、ソクラテスの教義も、その弟子プラトンによる記述によってのみ知ることができます。

ここで、最も重要な点について要約し、ソクラテスの教義とキリストの教えの原則、双方の一致している部分を示すことは有意義であると考えました。

 これらの二つの教義を対照することを不敬であると考え、多神教者の教義とキリストの教義の間に共通点がある筈がないと考える人々に対しては、ソクラテスが多神教者ではなく、彼の目的は多神教を崩すことにあったのだと申し上げておきます。

より完全で浄化されたキリストの教義は、その比較において何も失うものはありません。神意によって送られたキリストの使命の偉大さが減じられることはありません。ゆえに、その他のことについては、誰にも打ち消すことのできなかった歴史的事実として扱われるのです。

人類は、升の上に自ら光を灯す時代にまでたどりついています。人類は充分成熟し、それに真正面から向かい合うことが出来るようになり、聞く耳を持とうとしない者にとってはより難しい時がやって来ました。

物事をより広く、崇高に考える時代がやって来ており、もはや宗派や階級による狭い心に制限された視野で見る時代ではありません。

 さらに、このことは、ソクラテスとプラトンがキリストの思想を予感していたのであれば、その記述の中にスピリティズムの基本的な原則をも見出せることを証明してくれるでしょう。 


 ソクラテスとプラトンの教義の要約    

Ⅰ、人間とは肉体を持って生まれる魂である。肉体を持って生まれる以前はその本質的なもの、真理、善、美の考えに属していた。そこから肉体を得て分離するが、その過去を覚えているために、そこへ戻ろうとする欲求に大なり小なり苦しめられる。

知性的な根本と物質的な根本との区別と、その独立性を、これ以上明確に表現することは出来ません。さらに魂が存在するという教えについても同様です。

人間は、熱望するもう一方の世界に対する曖昧な直感──つまり死の後に、肉体の滅亡を超えて存在し続けることや、肉体を受けて生まれるために霊界から出てくること、そして再び同じ世界へ戻っていくこと──を抱き続けています。そして最終的には堕落した天使の教義にたどり着きます。

 
Ⅱ 魂は、肉体を使ってある目的を達成しようとすると動揺する。移りゆくものに執着するために、酔ったようなめまいを起こす。

一方で、自らの本質を見つめる時には純粋で永遠、不死なるものに向かうが、魂の性質がそうであるために出来る限り長くそこに繋がれようとする。すると、普遍的なものと結びつくために、道に迷わなくなる。その魂の状態を英知と言う。

 このように物事を地上においてしか考えることの出来ない人間は錯覚を起こしているのであって、物事を正確に観賞するには高い所から、つまり霊的な視点から見なければなりません。

ゆえに本当の英知を有する者は肉体と魂とを分離させ、霊の眼によって物事を見なければならないのです。それはスピリティズムが教えることと同様です(→第二章 五)。


Ⅲ、私たちの肉体と魂がこの堕落の中に存在するうちは、私たちの望む真実を手に入れることはできない。私たちには肉体の面倒を見る必要があるため、そこから幾千もの障害が生じてくる。

それに加え、肉体は欲望や、貪欲、恐れ、数知れぬ妄想や、つまらぬことによって私たちを満たし、そのために、肉体を持っている間に、分別を持つことは、ほんの一瞬の間でさえ不可能となる。

しかし、魂が肉体に結びついている間、私たちは何も純粋な形で物事を知ることが出来ないのであれば、選択は二つに一つである。つまり真実を決して知ることができないか、死後それを知ることになるかのいずれである。

肉体の狂気から解放されれば、同様に解放された人々と会話をし、私たちは物事の本質を自ら知ることになるのだ。こうした理由によって真なる哲学者は死の準備をするのであり、彼らにとって死は決して恐怖ではないのである。

 肉体の器官によって弱められた魂の能力が、死後になって広がるのだ、という基本的な考え方がここにはあります。しかしそれはすでに浄化された魂に起こることであり、不浄の魂に同様なことが起きることはありません。(→『天国と地獄』第一部 第二章、第二部 第一章)。


Ⅳ、不純な魂は、その状態に置いて抑圧された状態にあり、不可視で非物質的であることによって、可視の世界に引きずられて行くことになる。すると人々は、遺跡や墓石の周りで不気味な亡霊をみると、それらが肉体を後にしながら、いまだに完全に浄化されていないために、物質的な姿をひきずっているもので、それが人間の目に見えるのだと間違えてしまう。

実際には、それらは善なる魂ではなく、悪しき魂であり、こうした場所にさ迷うことを余儀なくされ、自分と共に生前の罰を引きずりながら、その物質的な姿に伴う欲求が再び別の肉体に反映されるまでさ迷い続けるのである。そして疑いもなく、最初の人生において有していた習慣を再び身に付け、それがその魂の執着となる。

 再生(リインカーネイション)(→和訳注3)の原則ばかりか、スピリティリズムにおいて霊との通信によって見られるような、肉体の枷のもとにある魂の状態までもがここに明確に表現されています。さらに、肉体への再生は魂の不浄の結果であり、浄化された魂は再生することから免れているとされています。

まったく同じことを、スピリティズムは述べていないでしょうか。付け加えるのであれば、霊界において善い決意を持った魂は、再生する際に、すでに有する知識とより少ない欠点、より多くの美徳や直感的な考えを、その前の人生の時より多く持ち合わせているのです。こうすることによって、一回ごとの人生は知性的、道徳的な進歩をもたらすことになるのです(→『天国と地獄』第二部 例)。


Ⅴ、私たちの死後、生きている間任務にあった妖精(ダイモン、デビル)は、ハデス(地獄)へ行かなければならない者をすべて集めて連れて行き、そこでは審判が下される。魂たちは、ハデスにおいて必要な時間を過ごすと、複数回にわたる長い人生に再び導かれる。

 これは守護霊、もしくは保護霊の教義と、霊界におけるある程度の時間の感覚を置いた、連続的な再生の教義に外なりません。


Ⅵ、ダイモンは地上と天を分ける空間に存在する。その空間とは、すべてを自分自身に統合する偉大なる絆である。神が人間に直接通信をすることは決してなく、それはダイモンを介して行われ、ゼウス(神々)は彼らと取り決めを行い、起きている間も寝ている間もそれに従事する。

 ダイモンと言う言葉はディーモン(悪魔)の語源となっていますが、昔は現代のように悪者と考えられてはいませんでした。悪意のある者だけではなく、一般的な霊を指し、その中にはゼウス(神々)と呼ばれる優秀な霊たちも、人間と直接通信する劣った霊、つまりいわゆるディーモン(悪魔)も含まれていたのです。スピリティズムでも霊たちが宇宙空間に住んでいると言います。

神は純粋な霊たちを介してのみ人類と通信し、それらの霊たちは神の意志を伝えることを任されるのです。起きている間も寝ている間も霊たちは人間と通信します。ダイモンと言う言葉の箇所に霊と言う言葉を置き換えれば、スピリティズムの教義がそこにあることが判ります。天使という言葉に置き換えると、そこにキリストを読み取ることができます。


Ⅶ、(ソクラテスやプラトンの考えにもとづく)哲学者たちの不断の関心事は、魂に対して最も多くの注意を払うことであり、一時しか続くことの無い現在の人生には多くの関心を持たず、永遠を視野に置くことである。魂は永遠なのであるから、永遠を見据えて生きる方が賢明ではないか。


  キリスト教とスピリティズムは同じことを教えている

Ⅷ、魂が非物質であるならば、この人生の後には同様に不可視で非物質の世界を通らねばならず、それは肉体が分解して物質へと戻るのと同じである。しかしその時、神のように思考や科学によって自らを養う純粋で真に非物質の魂と、物質の不純さによる汚点を残した魂で、神に向かって昇って行くことを拒み、地上において存在した場所に残留する者たちとを区別することが大切である。

 この通り、ソクラテスとプラトンは、魂の非物質化の程度の違いを完全に理解していたのでした。その純粋さの程度により状況が多様化することを主張したのです。彼らが直感的に述べたことを、スピリティズムは私たちに無数の例を通じて証明しています(→『天国と地獄』第二部)。


Ⅸ、死が人間の完全なる消滅であったのであれば、悪人は死によって多くを得ることになるであろう。何故なら、同時に肉体や魂、悪癖からも自由になることが出来るからである。外見的な装飾ではなく、適切なものによって魂を飾ることが出来た者だけが別の世界へ旅立つ時を平穏に待つことができる。

 これは唯物主義が、死の後には無が待っているということで、これまでのあらゆる責任を白紙にし、結果的に悪を助長することになるのだと言っているのに等しいのです。悪は無によってすべてにおいて得をすることになります。

悪癖を捨て美徳によって豊かになった人だけが、別の人生に目覚めるのを安心して待つことが出来るのです。スピリティズムは、毎日私たちに示してくれる例を用いて悪人にとって、この人生から別の人生、未来の人生への入り口へと移っていくことがどんなに苦しいことかを教えてくれます(→『天国と地獄』第二部 第一章)。


Ⅹ、肉体はそれが受けた手当てや遭遇した事故の痕跡をはっきりと保っている。同じことが魂にも言える。肉体に別れを告げると、魂はその性格の明白な形跡やその愛情、人生の間に残したあらゆる行動の跡を保つことになる。そのために、人間において起こりうる最悪の不幸とは、別の世界へ罪に覆われた魂を持って移っていくことである。

あなたと同じように、カリクレスもボルックスも、ゴルギアスも別の世界へ行ったときに有益となるような別の人生を歩まなければならないのだということを証明することはできない。

これほどに多くの意見の中でも唯一揺らぐことのないことは、悪を働くよりも悪を受ける方が良いことであり、何よりも私たちは外見においてではなく、内面において善の人とならなければならないということである。(牢におけるソクラテスの弟子との対話より)

 ここに私たちは、今日科学によって裏付けされたもう一つの重要な点を見出すことができます。すなわち浄化されていない魂は地上で持っていた考えや、傾向、性格、情熱を抱き続けるということです。

悪を働くより悪を受ける方が価値があるという金言は、まったくキリスト教の考えと等しいではありませんか。同じ考えをイエスは次の表現で表しました。「彼が一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい」(→第十二章 7、8)


Ⅺ、二つに一つ。死が絶対的な破滅であるか、魂が別の場所へ移行するのであるか。もしすべてが消滅するのであれば、死とは夢も見ず、自分自身の意識もなしに過ごすまれな夜のようなものである。しかし、もし死が生きる場所の変更に過ぎず、そこに死者たちが集まるのであれば、そこで知人に出会う喜びの何と大きいことか。

私の最大の喜びとはその別の場所の住人を近くで観察し、自分を何であると唱える人たちのうち、誰がそれにふさわしく誰がふさわしくないのかを知ることである。しかしいまは私たちに別れる時が来た。私は死へ、あなたたちは生へ。(判事に対するソクラテスの言葉)

 ソクラテスによると、地上に生きたものは死後に出合い、お互いを認識し合います。スピリティズムは、生きている間に人々がお互いに築いた関係は継続し、それ故に死は人生の中断でも、終わりでもなく、継続性のある避けることのできない変遷であると示しています。

 その五百年後に広められたキリストの教えや今日スピリティズムが広める教えをソクラテスとプラトンが知っていたとしても、彼らは別の言い方をすることはなかったでしょう。偉大なる真実は永遠で、進歩した霊がそれを地上に来る前に知り、地上にもたらしたのであると考えれば、それは驚くことではありません。

すなわちソクラテスやプラトンのような当時の偉大なる哲学者たちは、後の時代において、まさしく他人に比べ崇高な教えをよりよく理解する条件を備えていたために、キリストの神聖なる使命に従って、偉大なる真実をもたらすために選ばれた可能性があります。

そしてついには、同じ真実を人類に教える役割を担う霊の集団に加わっていると考えることができます。


Ⅻ、私たちに与えた損害がなんであろうと、それに対して不義によって報いたり、誰かに悪を働いたりしてはならない。しかし、この原則を受け入れる者は少なく、彼らとそれを理解しない者たちとは、疑いもなくお互いを蔑視することになるであろう。

 悪を悪によって報いず、敵を赦すことを教える慈善の原則が、ここに書かれているのではないでしょうか。


ⅩⅢ、果実によって木を知るのである。いかなる行動もそれがもたらすものによって評価されなければならない。そこから悪がもたらされるとき、それを悪と判別し、善の源となって居る時には善であると判断する。


 「果実によって木を知る」という金言は福音の中に繰り返し記載されています。


ⅩⅣ、富は大きな危険である。富を愛する者は皆、自分自身をも自分自身に属するものをも愛さない。その者に属するものよりも慣れないものを愛しているのである。


ⅩⅤ、最も美しい祈りも、最も美しい供え物も、神に同化しようと努力する徳の高い魂ほどに神を喜ばすことはできない。神々が私たちの魂よりも私たちの供え物に関心を抱くと考えたとしたらそれは重大な誤りである。

そうしたことが起きたのであれば、より責任を負う者が、都合よくなることができるようになってしまう。しかし、そうではない。言葉と行動において真に正当で公正な者だけが、神々や人々に対して負う義務を遂行する。(→第十章 7,8)



ⅩⅥ、魂よりも肉体を愛する者を悪習の者と呼ぶ。愛は自然のあらゆる場所に存在し、私たちが知性を使うことを促してくれる。天体の動きの中にも愛は見いだせる。その愛とは、自然を装飾する豊かな絨毯のようなものである。

愛は花が咲き芳香が漂うところを飾り、そこに存在する。人間に平和を与え,海を鎮め、風を静まらせ、痛みを和らげるのも愛である。

 一つの兄弟愛の絆によって人類を結びつける愛とは、自然の法としての宇宙の愛に関するプラトンの理論の結論です。

「愛は一つの神でも、一人の死すべき人間でもなく、一人の偉大なダイモンである」とソクラテスは言いましたが、つまり、宇宙の愛に生きる偉大なる霊の存在のことであり、この結論を唱えたために彼は罪人として罪を負わされたのです。


℘46
ⅩⅦ、美徳は教えられるものではない。神の賜としてそれを有する者に与えられる。
 
 これはほとんど、恵みについて教えるキリストの教えと同等です。しかし、美徳が神の賜であるならば、それは特別な待遇であり、なぜそれがすべての者に与えられていないのか質問をすることができます。他方で、それが賜であるのだとすれば、それを有する者の功労は失われてしまいます。

スピリティズムはより明解であり、美徳を有する者は、それを連続した人生の中で自らの努力によって、少しずつ不完全性を捨てながら手に入れたのだと教えています。恵みとは、悪を追放し善を行おうという意志のある者に神が与える力のことなのです。
 

ⅩⅧ、他人の欠点よりも、私たち自身の欠点に気づくことが少ないのは、私たちすべてにあてはまる自然の傾向である。

 福音には記されています。「あなたの隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」(→第十章 9、10)。


ⅩⅨ、成功しない医師がいるのであれば、それは病気のほとんどを治療する時、肉体は治療しても、魂を治療していないからである。すべてが善い状況になければ、病人の一部が善くなることも不可能である。

 スピリティズムは魂と肉体との関係の鍵を与え、一方が他方に対して絶え間なく作用していることを証明しています。これにより、科学の新しい道を開いています。いくつかの病気の真の原因を示すことにより、それと戦う手段をより容易なものとします。肉体の営みにおける霊的要因の作用を科学が考慮するようになれば、医師たちの失敗も少なくなることでしょう。


ⅩⅩ、どんな人間も、その幼い時代から善よりも多くの悪を働く。

 ソクラテスのこの文は、地上における悪の優勢という重大な問題に触れています。この問題は世界の複数性や、人類のほんの一部が住む地球の運命についての知識なしには解決できないものです。この問題はスピリティズムだけが解決できますが、それは後の第一、二、三章に記されています。


ⅩⅩⅠ、知らないことについては知っているふりをしない方が賢明である。

 この言葉は、基本的な事項さえも知らずに批判する人々に差し向けられます。プラトンは、ソクラテスのこの考えに補足して次のように言いました。

 「まず最初に、可能であれば、言葉をより誠実に受け止めてみる。そうでないのであれば、彼らは気をかけず真実だけを求めればよい。私たち自身を教化することを心がけ、彼らを侮辱してはいけない」。

 スピリティズムも、悪意の有無にかかわらずそれに対して反論する者たちに対して、このように接しなければいけません。プラトンが、今日再び生きることになれば、自分の時代とほとんど同じ状態の物事を見て同じ言葉を使うことでしょう。また、ソクラテスもその霊に対する信念をあざける人々に出合うことになり、弟子プラトンとともに狂人として扱われるでしょう。

 こうした原則を唱えたためにソクラテスは嘲笑の対象となり、後に不信心の罪に問われ毒を飲まされたのでした。確かに多くの関心や偏見に取り組むことになる偉大な新しい真実は、戦いや殉教者なしには定着することはないのです。


●FEB版注1
 このファリサイ人の宗派を設立したヒレルと、その二百年後に生き、ヒレリズムとして知られる忍耐と愛の宗教的社会的原則を築いた同名のヒレルを混同してはならない。──FEB一九四七
●和訳注1
 和訳においては、ここに記されたSacyによる翻訳を参照することができないため、FEB版のポルトガル語訳の内容と日本聖書協会発行の聖書(旧約聖書 一九五五年改訳、新約聖書 一九五四年改訳)を参照し、聖書の引用としました。
●和訳注2
 「自尊心」という言葉には「自分の人格を大切にする気持ち」という肯定的な意味もあります。しかしながら、自分の人格が他人と比べてより優れているとの思いから、「自尊心」が過ちの原因となってしまっているのも事実です。また、本書では神の基準から見た道徳性を扱っており、その前には不完全な人間が尊いと信じることも小さく映ってしまう場合があります。したがって本書では「自尊心」という言葉が克服すべきものという意味で使われています。
●和訳注3
 再生(リインカ―ネイション)──魂が新たな肉体を授かり物質界に生まれること。

シアトルの弥生 通信の内容に矛盾が生じる諸原因    Causes of inconsistencies in the content of communications


霊界から届けられた通信の内容に、時おり矛盾が見出されることがある。その原因とそれが及ぼす影響の大きさは表裏一体の関係にあるようである。


その意味は、我々はともすると霊界を平面的に想像して、霊の言うことならみな同じであるものと考えがちである。が、霊の世界の実情が分かってみると、地上界に近い最低の界層から、物的束縛から完全に解脱した超越界に至るまで、事実上無限の階梯があって、上層界へ行くほど広い視野から眺めるので誤りが少なくなるが、地上の人間に通信を送るのは低界層の霊が多いので視野が狭く、それだけ誤った認識も多くなり、結果的には矛盾点も多いことになる。

では、そうした玉石混交の中にあって本物と偽物、上等と下等を見分けるにはどうすればよいか――本章はその点に的をしぼった質疑応答を集めた。

―同じ霊が二つの交霊会に出て述べたことが矛盾することが有り得るでしょうか。


「その二つの交霊会が思想的に異質であれば支配している霊団が異なるわけですから、その伝達した通信が枉(ま)げられることがあります。通信霊は同じことを述べていても、霊媒を通して届けられるまでに、その場を支配する波動で内容が脚色されるのです。」

―その場合は理解できるのですが、二つの交霊がともに高級霊団によって指導されていて、しかも出席者も真摯な真理探求者である場合でも、高級霊の述べることが食い違うことがあるのはなぜでしょうか。


「その霊団が本当に高級霊団であれば、その言説に矛盾撞着は有り得ません。交霊会の出席者とその場の雰囲気で表現方法に違いが生じることがあっても、実質的には同じことを述べているはずです。仮に矛盾していても表面上のこと、つまり言説よりも述べ方の違い程度にすぎません。じっくりと読めば基本的には同じことを述べているはずです。

しかし、出席者の霊格の程度によっては同じ霊でも違った答え方をすることは有り得ます。例えばあなたが幼児と科学者から同じ質問をされたとします。あなたはその二人に同じ答え方をしますか。それぞれに理解しやすい形で答えるはずです。そして質問者はそれぞれに納得するでしょう。ところが表面上は二つの答え方は全く異なります。それでいながら本質的には同じことを述べていることだってあるわけです。」

―真面目と思える霊がある思想、時には偏見と思えるような言説を、相手によって適当に言い換え、完全に食い違うようなことすらあるのですが、これはどう理解すればよいでしょうか。


「私たちは出席している人間の理解力の程度に応じて表現を変えなければならない立場にあります。例えば何らかの教説について絶対的な信念を抱いている人を相手にした場合、仮にそれが誤りであっても、それを頭ごなしに論駁せずに、穏やかに、そして徐々に改めさせようとします。すると当然その人の信仰の用語を借用し、その教説に共鳴するところがあるかのような印象を抱かせることもします。そうやって相手をムキにならせず、次の会にも出席しようという気持ちにさせるわけです。

間違った先入観に急激なショックを与えるのは賢明とは言えません。そういうことをすると、それっきりこちらの教説に耳を傾けなくなります。そこで我々としては、あらぬ反発を買わないように、出席者の信仰に理解を示す態度で臨むわけです。

さらに言えば、人間から見て矛盾しているかに思えることでも、同じ真理を偏った角度から表現しているにすぎないことがよくあるものです。スピリチュアリズムに係わっている霊団にはそれぞれに大霊からの割り当てがあり、こうして授ける通信が効率よく受け入れられ霊性の進化を促すような方法と状態を工夫して、それぞれの役割分担を遂行しなくてはならないのです。」

―たとえ表現上の違いにすぎないとは言え、矛盾した言説は人によっては疑念を生じさせます。そういう矛盾した通信を正しく理解して、これが真実だという確信を得るにはどうすればよろしいでしょうか。


「真実と誤りとを選り分けるには、手にした通信の内容を時間をかけてじっくり検討することです。そこにはこれまでになかった新しい知識の世界が広がっています。まったく新しい考究課題であり、したがって時間と努力を要します。何でもそうですが……。

その言わんとするところを真剣に考究し、他と比較検討し、奥の奥の核心に至る――真理というものはそれほどの代償を払って初めて手にできるものなのです。考えてもごらんなさい。これまでの狭い通念を後生大事にし、それに照らして簡単に片づけるだけで、どうしてスピリチュアリズムという果てしなく広大な真理の世界が理解できますか。

こうした霊的教訓が世間一般に広まる日はそう遠い先の話ではありません。本質だけでなく、枝葉末節に至るまで、矛盾撞着のない形で広まることでしょう。が、現段階においては、これまでの誤った概念を打破することがスピリチュアリズムの使命です。それも、一つ一つ片づけていくしかないのです。」

―そうした深刻な問題に深く係わる時間も欲求もない者がいる一方には、霊の言うことは何でも彼でも信じる者もいます。そのような形で間違ったものを受け入れていくことは性格に害を及ぼさないでしょうか。


「その人がそれでいいと思うのであればそうすればよろしい。いけないと思えばやらなければよろしい。この自由意志の原理には例外はありません。アラーの神の名のもとであろうとエホバの神の名のもとであろうと、良いものは良い、悪いものは悪いのです。宇宙には大霊という名の神しかいないのですから。」

―知的には相当なレベルと思われる霊でも、問題によっては明らかに間違った考えを抱いていることがあるのは、どうしてでしょうか。


「人間と同じで、霊も独断と偏見を抱いているものです。自惚れて実際よりも賢いつもりでいる霊は、真理についてよく間違った考えや不完全な概念を抱いているものです。人間と少しも変わりません。」

―矛盾した説の中で最も顕著なのが“再生説”です。再生が霊にとって必要不可欠のものであれば、なぜ全ての霊が同じ説を説かないのでしょうか。


「あなたは、霊も人間と同じで、今の自分のことにしか思いが及ばない者が大勢いることをご存じないのですか。現在の自分の感覚だけで物事を捉え、今の状態が永遠に続くと思っているのです。そうした感覚の範囲を超えた先のことまでは思いが至らず、自分は一体どこから来たのか、この後どこへ向かって行くのかといった観念は浮かばないのです。

しかし、摂理は逃れられません。再生するということを知らなくても、再生すべき時機は必ず到来します。その時になって初めて再生があることを知ります。が、そういう霊的進化の仕組みについては何も知りません。」

―未熟な霊には再生問題が理解できないことは分かりました。ただ、そうなると、霊的にも知的にもどうみても低いと思われる霊が自分の前世の話を持ち出して、その間の不行跡を償うためにもう一度再生したいと思っていると述べたりするのは、どう理解したらよいでしょうか。


「霊の世界の事情には地上の人間には理解し難いことが沢山あります。具体的には説明しにくいのですが、例えば地上でも、ある分野の事に関しては造詣が深いのに、別の分野の事については皆目知らないという人、あるいは学問は無くても直観力は鋭い人、判断力は乏しくてもウィットに富んだ頭脳の持ち主など、いろいろなタイプがいるのと同じです。

それに加えて知っておいていただきたいのは、霊の中には自分の優位を保ちたいという浅はかな根性から、人間にわざと教えないでおこうとする者もいることです。つまり人間から真剣に論議を挑まれたら自分の優位が崩れることを知っているので、それを意図的に避けようとして、巧妙に議論をスリ抜けるのです。

むろんそれは低級霊の場合です。が、高級霊による慎重な配慮の結果として、たとえ真理であっても、現段階で急激にそれを広めることはいたずらに目を眩ませるだけで賢明でないとの判断から、わざと差し控えることがあるということです。そして、時と場所と出席者のレベルに応じて小出しにします。

モーセを通して語られなかったものをキリストが語り、そのキリストを通してさえ時期尚早ということで後世へ持ち越されたものがあります。

あなたの疑問は再生が真実ならばなぜ世界の各民族で早くから説かれなかったのかということのようですが、よく考えてみてください。仮に肌の色による差別と偏見の激しい国で説いていたら大変な反発を買ったことでしょう。なぜかはお分かりでしょう。短絡的に受け止める者は、今奴隷の身にある者は来世では主人となり、今主人である者は奴隷となるのだと考えて、怪しからん説だということになるに決まっています。

まずは霊界と現界との間にも交信が可能なのだという基本的事実から始めて、徐々にそうした倫理・道徳の思想的問題へと進めるのが賢明です。大霊の配剤について人間はなんと近視眼的なのでしょう! 大霊の認可なしにはこの宇宙に何一つ発生しないのです。人間には到底推し量ることのできない深遠な叡智があるのです。

すでに述べたことですが、改めて申し上げておきます。スピリチュアリズムの思想はいつかはきっと地球上にあまねく広まります。今は統一性がないかに見えても、人間の霊性の発達とともに徐々にその食い違いは少なくなり、最後は完全に消えて失くなることでしょう。そこに大霊の意思が働いており、究極的にはその意思が成就されます。」

―誤った教説はスピリチュアリズムの発展を阻害しようという策略から行われているのでしょうか。


「人間はとかく困難もなく手間取ることもなく物事が運ぶことを求めがちです。しかし、よく考えてごらんなさい。どんなに立派な庭にも必ず雑草が生え、きれいに保つには一本一本それを手で抜き取らないといけません。誤った教説は地球人類の霊性の低さが生み出す雑草のようなものです。もしも人類が完全であれば高級霊しか近づかないでしょう。

誤りというのは、言うなれば偽のダイヤモンドのようなものです。見る目のない人間には本物に見えるでしょうが、見る目をもった者にはすぐに偽物と分かります。その見分け方を学びたければ年季奉公に出るしかありません。考え方によっては偽物の存在にも意味があるのです。本物と偽物とを見分ける判断力を養う良い試金石です。」

―でも、偽物を信じた者はそのことで進歩が阻害されるのではないでしょうか。


「そういう気遣いは無用です。そもそも偽物をつかまされるようでは本物を見る目がないということです。」

―スピリチュアリズムの実践面でのいちばん不愉快な障害は、そうやって霊に担(かつ)がれることです。これを避ける手段はないものでしょうか。


「それに対する回答はこれまでにお答えしてきたことで十分だと思いますが……方法はあります。しかも極めて簡単です。要するにスピリチュアリズム本来の目的に徹することです。そして、その目的とは人類の霊的啓発、これに尽きます。これを片時も忘れないようにすれば、邪霊にたぶらかされるようなことは決してありません。それこそが真実の人の道だからです。

高級霊は人のために役立つ仕事のためには大いに援助しますが、名誉心や金儲けといった情けない人間の野心の満足のためには絶対に手を貸しません。そういう他愛もないことや人間に伝えることを許されていない事柄についてしつこく要求しないかぎりは、邪霊集団に操られるようなことにはなりません。こうした事実からも、低級霊に騙されるのは騙されるようなことをしている人間に限られるということがお分かりになるはずです。

霊団の仕事は世俗的問題に関するアドバイスを授けることではありません。地上人生を終えた後に訪れる霊的人生に自然に順応するための生き方を指導することです。もちろん世俗的問題に言及することがありますが、それはその時点で必要性があると見なしたからであって、そちらからの要請に応じることは絶対にないと思ってください。霊界通信を運勢判断や魔術と同種のような受け止め方をしていると、低級霊につけ入られます。

また霊界の知識の蒐集のようなことにばかり偏っていると霊的存在としての自由意志が硬直してしまい、大霊によって意図されている人間としての進むべき進化の道を歩めなくなってしまいます。人間は自らの意志で“行為”に出なくてはいけません。こうして我々が地上へ派遣されるのは人間の歩む道を平らにならしてあげるためではありません。来るべき霊的生活に順応するための準備を手助けしてあげるためです。」

―ですが、こちらから世俗的問題を持ち出したわけでもないのに、霊の方から言及してアドバイスを与えてくれて、それに従ったらとんでもないことになった人もいますが……


「そちらから持ち出さなかったとしても、交霊会でそんな俗っぽい問題を霊側が持ち出したという点が問題です。そちらからそれを許したということであって、結果的には同じことです。それを鵜呑みにせず理性的に疑ってかかる態度で臨み、霊界通信の本来の在り方に徹すれば、そう簡単に担がれることはないはずです。」

―真面目な求道者(ぐどうしゃ)がそういう形で担がれることを神はなぜ許すのでしょうか。せっかくの確信をわざと崩すように計算されているみたいです。


「その程度のことで崩れるような信念ではまだ本物とは言えません。そのことでスピリチュアリズムに愛想をつかすようであれば、それはまだスピリチュアリズムを真に理解していないことを示しています。張りぼてだったということです。その種のたぶらかしは、一つには忍耐力の試金石であり、一つには交霊会をご利益の手段に利用する者への懲罰です。」

(完)



訳者あとがき

訳者というのは実質的に原書の価値に関して生殺与奪の権を握っていると言っても過言ではない。少なくとも私はその自覚のもとに“いかなる形に訳すのが原典の真価を伝えるか”で腐心しながら翻訳に着手し、途中で“まずい”と感じたら初めから別の形で訳し直すこともある。さらに下訳をしばらく寝かせておいて第三者の読者になったつもりで読み直して、添削を施してから原稿用紙に浄書するといった配慮もする。内容的に大きく訳し変えるということは滅多にないが、下訳の時には気づかなかった文章上の欠陥がよく発見される。

この度のカルデックの翻訳に当たっては、以上のことに加えて“編修”という作業が必要だった。これについては“まえがき”で若干言及したが、口で言うほど簡単なことではなく、大ゲサに言えば、これまでの半世紀に近いスピリチュアリズムとの係わりにおける体験を土台にして初めてできたことだった。

そんな面倒なことをせずに、あっさり全訳すればよかったのではないか――そうおっしゃる方がいるかも知れない。が、カルデックの書が本格的霊界通信の出版物としてはスピリチュアリズムでは最も古い、というよりは早かった――ハイズビル事件後わずか十年あまり後――ということもあって、既成宗教界、とくにキリスト教界からの非難中傷が激しかったようで、カルデックはそれに対する理論武装に大変な神経と紙面を費やしている。

当時としては止むを得なかったとは言え、その後百年余りたった現在、しかもキリスト教よりはるかにスピリチュアリズムに近い神道(かんながら)的信仰が自然に行き亘っている日本において、さらにシルバーバーチやインペレーターの霊訓に馴染んでいる読者が圧倒的に多いであろうことを念頭に置いて読むと、それをいちいち訳出することは、無益であるばかりでなく煩雑すぎて興味を削(そ)ぐ恐れがあるとの結論に達したのだった。

“編者注”としたカルデックのコメント、“ブラックウェル脚注”とした英国人訳者の付言は、ぜひこれだけは、と思うものに制限し、フランス語圏の人にしか知られていない古い例証は割愛したり、代わりに日本人向けのものを“訳注”で補ったりした。

私が、“英国の三大霊訓”と呼んでいるモーゼスの『霊訓』、オーエンの『ベールの彼方の生活』、シルバーバーチの霊言集とカルデックの霊界通信の唯一の相違点は、霊媒が紹介されていないことである。それというのも、正確な数字は述べられていないが、相当な数の霊媒を通して得られた通信――カルデックが直接入手したものと他の交霊会で入手されてカルデックのもとに持ち込まれたもの――を総合的に編纂して、テーマ別にまとめ、それにカルデック自身のコメントを付け加えたものを『霊の書』と『霊媒の書』とに大別して出版したのだった。

その通信が霊言なのか自動書記なのかも、いちいち断っていない。私が訳しながら得た感触では自動書記の方が多いようであるが、訳し方は霊言のような語り口調に統一した。現象の原理としてはどちらも同じことなので、たぶんカルデックもあまりこだわらず、また霊媒はあくまでも“道具”であるとの認識から、霊媒の氏名も一切挙げていない。

ついでに付言すれば、カルデックのもとに寄せられた通信の中にもかなりいかがわしいものがあり、イエスを筆頭にナポレオンだのパスカルだのジャンヌ・ダルクだのジャン・ジャック・ルソーだのと、フランスらしい顔ぶれが勢揃いしている。カルデックはそれらを最後にまとめて紹介し、“ニセモノ”と断じている。たとえばイエスの署名のある自動書記通信については「あのイエスが(二千年後の今になっても)こんなキザでぎこちない、そしてバカげた表現しかできないのか」と手厳しく批判し、最後に「これら一連の通信はたぶん一人の低級霊が書いたものである」と一刀のもとに切り捨てている。いずこの国にもこうした手合いの霊界通信があるものである。

さて『霊媒の書』を訳し終えた今、私の胸に去来する感慨を披瀝させていただけば、フランスを中心としてラテン系民族の間でバイブルのように愛読されているこの霊界通信までも自分が訳すことになったことを、身に余る光栄と受け止めているところである。

カルデックの二著の英文版は、“英国の三大霊訓”とほぼ同時期に購入していた。そしてその内容には何の違和感も抱かず、折りにふれ無造作にページを開いて読むということを続けていた。最近でもよく繙(ひもと)くことがある。そんな次第で、「心の道場」(現スピリチュアリズム普及会)から翻訳の依頼を受けた時は何の躊躇もなくお引き受けした。

訳している時もそうだったが、訳し終えた今しみじみと思うのは、「訳して良かった――後世に計り知れない影響をもたらすことは間違いない」という確信である。プライベートなサークルによる自費出版であるから、流通機構に乗った出版物と比較して購買の規模は小さいであろう。しかしこの道、すなわちスピリチュアリズム的真理の普及という仕事は、本当に理解した人が一人また一人と増えることによって広げるしかないのであって、華々しく衆目の的となることは期待できない。本質的にそういうものではないのである。

ある出版ジャーナリストがいみじくも言っているが、ベストセラーというのは普段はロクに文字を読むということをしない者までが「そんなに売れてるなら」という、ただそれだけの理由で買って帰るからあれほど売れるのであって、実際に読まれているわけではない、と。スピリチュアリズムには間違ってもそういうことは起こり得ない。

振り返ってみると私の生涯は十八歳の時の一霊覚者との出会いで決定づけられて以来、半世紀近くにわたる孜々(しし)とした地道な努力の積み重ねであった。その間私を支えてくれたのはやはりシルバーバーチだった。この道は孤独なもので、見慣れた風景が次々と過ぎ去って、道なき道を一人で切り開いて行かねばならない。しかし魂の奥ではアフィニティーとの結束がますます強まって、そこに真の生き甲斐を覚えるものである……といった意味の言葉の真実味を味わいながら、人類の宝ともいうべき霊界通信を純粋な形で後世に遺すことだけを心掛けてきた。

そして今六十歳の峠にさしかかった時点でスピリチュアリズム・サークル「心の道場」とのご縁が一気に熟し、カルデックの二著の翻訳の仕事を依頼されると同時に、私が所有する、今はもう絶版となったシルバーバーチの原書全十六巻をはじめ、モーゼスの『霊訓』その他、後世に遺すべき原典三十冊ばかりのものをコピーして保存してくださることになった。真の意味で私の仕事の価値の理解者との出会いが待っていたのである。私にとってこれほど元気づけられることはない。

私がそろそろこの地上生活に終止符を打ってもおかしくない年齢に至って、スピリチュアリズムという名の聖火の若いランナーとの思わぬ出会いがあり、私も負けじと、もう一仕事をしたいと念願しているところである。

最後に、私の原稿をワープロ打ちにする労に当たられた方、出版費用を快く寄付してくださった方々等、本書の出版のために協力してくださった「心の道場」のサークルの皆様に、心からの謝意を表したい。

平成八年六月

近藤千雄

シアトルの弥生 霊的交信のむずかしさ

The Difficulty of Spiritual Communication


Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley 

 

 霊界の通信者の伝えたいことが百パーセント伝わることは滅多にありません。あることはあるのですが、よほどの例外に属します。あなた方が電話で話を交わすような平面上の交信とは違うのです。その電話でさえ聞き取り難いことがあります。


混線したり故障したりして全く通じなくなることもあります。地上という平面上の場合でもそうしたトラブルが生じるのですから、全く次元の異なる二つの世界の間の交信がいかに困難なものであるかは容易に理解していただけると思います。

 霊媒に乗り移った霊は意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変えなくてはなりません。それは完全入神の場合でも百パーセントうまくいくとは限りません。霊媒も人間です。

その霊媒のオーラと霊のオーラとがどこまで融合するか──完全か、部分的か、それとも全く融合しないか──によって支配の度合いが決まります。

支配霊は霊媒の潜在意識を占領し、そうすることによって潜在意識に繋がった肉体機能を支配します。その状態の中で通信霊から送られるイメージ、思想、絵画、あるいはアイデアを言葉に変えて伝えるわけですが、霊媒も人間ですから疲れていることもあるでしょうし、気分の悪い時、機嫌の悪い時、空腹または満腹の度が過ぎる時、アルコールの飲みすぎ、たばこの吸いすぎ等々、それはもういろいろとあるものです。

そうしたことの一つひとつが支配霊と霊媒の融合の度合いに影響を及ぼします。

 これとは別に、霊媒の精神をしつこく支配している潜在的観念があって、それが強く表現を求めていることがあります。そんな時はとりあえずその観念を吐き出させておとなしくさせるしかないことがよくあります。時として支配霊が霊媒の潜在的観念を述べているにすぎないことがあるのはそのためです。

ひどい時は支配霊の方がその観念の洪水に押し流されて我れを失うことさえあります。霧の深い日はいけません。温度の高すぎるのもいけません。冷んやりとして身の引き締まるような雰囲気がいちばんよろしい。

 とにかく容易なことではないのです。ですから地上世界へ戻って来るには大変な努力が要ります。あえてその大変な努力をしようとする霊があなた方に対する愛念を抱く者に限られているというのも、そこに理由があるのです。愛念こそが自然に、そして気持ちよく結ばれている地上の縁者を慰め、導き、手助けしようと思わせる駆動力なのです。

地上を去り、全く次元の異なる世界へ行っても、地上に残した者に対する愛念がある限りは、いかなる障壁をも突き破り、あらゆる障害を克服して愛する者とのつながりを求めます。私どもの世界からの地上への働きかけの原動力の一つにそれがあるのです。

 ですから、あまり無理なことを要求しないでいただきたいのです。霊媒を責めないでいただきたいのです。また必ずしも支配霊に責任があるとも限らないことを知ってほしいのです。

私どもは許される限りの手段を尽くしています。今こうして私が行っている入神談話も、一種の変圧器にも似たものを使用した波長の下降操作を要します。そのために、私なら私の本来の個性が大幅に制限されます。その辺のところはお分かりでしょう。

これをもっと物的要素の濃い現象にしようとすると、さらに波長を下げなくてはなりません。物質化して出る時などは本来の霊妙で迅速でデリケートな波長から一気に地上の鈍重で鈍速で重苦しい波長へと戻さなくてはなりません。これも一種の犠牲、完全な個性の犠牲を強いられる仕事です。

 その他にも霊媒の精神ないし霊的体質によるエクトプラズムの微妙な個体変差があります。エクトプラズム(※)は決して一様のものではありません。いちばん元になるものが霊媒から抽出されるからです。霊媒の体質が粗野であればエクトプラズムも精神的ないし霊的に程度が低く、精妙度が劣ります。

精神的に霊的に垢抜けした霊媒であれば、その性質がエクトプラズムにも反映します。(※元になるものをエクトプラズミック・フォースと言い、これに霊界の技術者が特殊な成分を混ぜ合わせてエクトプラズムをこしらえる。──訳者)

 こちらの世界の霊が地上と交信したいと思えば誰にでもかなえられるかといえば、必ずしもそうではありません。折角そのチャンスを与えられても、思うことの全てが伝えられるともかぎりません。その霊次第です。

しっかりとして積極性のある霊は全ての障害を克服するでしょう。が、引っ込み思案で積極性に欠ける霊は得てしてそれに必要なだけの努力をしたがらないものです。

  霊の世界では言語を使用しません。従って思念なり映像なりシンボルなりを霊媒に憑っている霊を通じて、あるいは直接霊媒へ伝える操作がまた大変です。これを霊視力を使ってやるとなると実に入り組んだ操作となります。私がこうして楽にしゃべっているからといって、それが楽にできると思ってはいけません。

こうしてしゃべっている間、私は霊媒との連係を保つために数え切れないほどの〝糸〟を操っているのです。その内の一本がいつ切れるとも限りません。切れたが最期、そこで私の支配力はおしまいです。

 このように霊界と地上との交信を理解していただくうえで説明しなくてはならないことがたくさんあります。簡単に出来ることのようにだけは決して想像しないでください。必要条件が全部そろえば簡単にできることは、一応理屈では言えます。しかし実際にはそこにいろいろと邪魔が入るのです。

その邪魔のためにうまくいかなくて、それを私どものせいにされてしまいます。実にデリケートでいわく言い難い条件をうまく運用する必要があります。ベテランの霊媒でも同じです。しくじらせる要素がいくらでもあるのです。

 これで、私が毎度行っている波長の転換操作つまり波長を下げる作業によって、美しさと光彩と輝きが随分失われることがお分かりでしょう。しかし交信が霊と霊、心と心、魂と魂の直接的なものであれば、つまりインスピレーション式のものであれば、そういった複雑な裏面操作抜きの、霊界からの印象の受信という単純直截なものとなります。

その成功不成功は背後霊との合体の確信に基づく静寂と受容性と自信にかかっていますから、不安の念に動かされるほど結果は良くないということになります。いったん精神的動揺をきたすと、その不安の念の本質的性格の為に霊的通信網が塞がれてしまいます。

 人間の心に浮かぶ思念がすべて霊界からのものであるとは申しません。それは明らかに言いすぎでしょう。

しかしその多くが、背後霊が何とかして精神と霊とを豊かにしてあげようとする努力の反映であって、少なくとも単なる心像として見過ごしてはいけないことだけは真実です。

 その思念の伝達が地上における平面上の横のつながり、つまり同じ意識の次元での交信でないことを忘れてはいけません。霊的なものを物的なものへと、二つの全く異なる意識の次元での表現操作を要するのです。その上から下への次元の転換の際にいろいろと混乱が生じます。混乱なく運ぶようになる時代はまだまだ先のことです。

こちらの世界では精神的レベル、物的レベル、治病レベル等々、ありとあらゆる交霊関係での実験と研究がなされております。よりよい成果を挙げるための努力が常になされているのです。

 何年か後に振り返ると結構進歩しているのに気づかれるのはそのためです。今こうして行っているようなサークル活動の裏側にはそうした目的も目論まれております。私たち霊があなた方の能力を開発しそれを大いに活用に供するためには、こうしたサークルによって活動の場を提供していただく以外に方法がありません。

その効果を高めるには第一に協調性が必要です。通信網が敷かれ、霊媒というチャンネルが開かれ、そこへ私たちが通信を送り届ける、という具合になることが肝心です。かつては通信網も無ければチャンネルが一つもないという時代がありました。

 私が理解に苦しむのは、地上の人間はなぜ無知という名の暗闇を好み、真理という名の光を嫌うのかということです。私たちはその真理の光を広げ、人に役立てるための手段となるべき人をいつも探し求めております。そういう人が一人でも増えることは、地上人類の進歩と向上へ向けて叡知と霊力を広げる手段が一つ増えることを意味します。

これは重大なことです。私たちの携わる使命全体の背後には重大な目的が託されています。私はその使命達成を託された大勢の使者の一人に過ぎません。物的世界の背後の霊的世界において目論まれた遠大な計画の推進者の一人であり、霊的悟りを開く用意の出来た者へ真理を送り届けることを仕事としているのです。

 ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚まさせ、当然悟るべき真理を悟らせるのが私たちの仕事です。言ってみれば霊への贈物を届けてあげることです。それが本来自分に具わる霊的威厳と崇高さを自覚させることになります。その折角の贈り物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断ったことになります。

 私たちからお贈り出来るものは霊的真理しかありません。が、それは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。

そこが私には分からないのです。いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。判断力が歪められ、伝来の教えのほかにも真理があることに得心がいかないのです。

どうやらそういう人々は、神がもし自分たちの宗教的組織以外に啓示を垂れたとしたら、それは神の一大失態であるとでも考えるに相違ないと思うことが時折あります。神の取る手段は人智の及ぶところではありません。大丈夫です。神が失態を演じることは絶対にありません。

 キリスト教会との関係となると、これは厄介です。自分たちの教義こそ絶対的真理であると真面目に信じており、それをこのうえなく大事なものとして死守せんとしています。実際にはもともと霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経るうちに人間的想像の産物の下に埋もれてしまっていることに気づいてくれないのです。

中味と包装物との区別がつかなくなっているのです。包装物を後生大事に拝んでいるのです。こうした偏向した信仰が精神的にも霊的にも硬直化してくると、もはや外部から手を施す術がありません。神は時として精神的ないし霊的大変動の体験を与えて一気に真理に目覚めさせるという荒療治をすることがありますが、それも必ずしも思うとおりにいかないものです。もしも困難や悲哀、病苦等が魂の琴線に触れて何かに目覚めたとしたら、その苦い体験も価値があったことになります。

 霊の世界からこうして地上へ戻って来るそもそもの目的は、人間の注意を霊的実在へと向けさせることにあります。ただそれだけのことです。地上世界の出来ごとに知らぬふりをしようと思えばできないことはありません。別段地上との関わりを強制される謂れはないのです。また人間側にはわれわれに対して援助を強要する手段は何もないはずです。

ですから私達の尽力は全て自発的なものです。それは人間愛ともいうべきものに発し、援助の手を差しのべたいという願望があるからこそです。それも一種の利己主義だと言われれば、確かにそうかもしれません。

愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。身を霊界に置いて、次から次へと地上生活の落伍者ともいうべき人間が何の備えも無いまま送り込まれて来るのを見ているわけですから・・・。その人たちが、こちらへ来る前に、つまり教訓を学ぶために赴いた地上という学校でちゃんと学ぶべきものを学んで来てくれれば、どんなにか楽になるのですが・・・・・。

 そこで私たちは何とかして地上の人々に霊的実相を教えてあげようとするわけです。すなわち人間は誕生という過程において賦与される霊的遺産を携えて物的生活に入るのだということを教えてあげたいのです。生命力はいわば神の火花です。本性は霊です。

それが肉体と共に生長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的生長に関心を抱く者も幾らかおります。が、霊的生長に関心を抱く者はきわめて少数に限られております。

永続性のある実在は霊のみです。もしも私たちの尽力によって人間を霊的本性を自覚させることに成功すれば、その人の人生は一変します。生きる目的に目覚めます。自分と言う存在の拠って来る原因を知ります。

これから辿る運命を見極め、授かった霊的知識の意味をわきまえた生活を送るようになります。いたって簡単なことなのですが、それが私たちの活動の背後に目論まれた計画です。

霊的真理は、これを日常生活に活用すれば不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、うぬぼれ等々を追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立することでしょう。

霊的真理を一つでも多く理解していくことが、あなた方の魂と霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。これは地上と霊界を結ぶ磁気的な絆なのです。

 地上とのつながりをもつためには、それなりの道具がいります。つまり霊力を送り込むための回路が必要です。心霊能力の開発や霊的発達は、一つにはその霊力の受容力を増すということでもあります。魂の本性がそれぞれの背後霊とうまく調和するということが、イザという重大事、困難、危険に際して霊力を授けやすくします。

その霊力とは何かとなると、これはなかなか説明が困難です。物質的観点から見る限り手に触れたり目で確かめることのできないものだからです。しかし、あくまで実体のあるものです。

生命力そのものであり、神の一部であり、宇宙の全生命活動に意識と存在を賦与しているものと本質的に同一のものです。種子に芽を出させ、花を咲かせ、実をつけさせ、樹木を太らせ、人間の魂を開発させる力と同じものです。

 その顕現の仕方は無限です。生気を取り戻させるのもそうですし、蘇生させるのもそうですし、活気を与えるのもそうですし、再充電するのもそうですし、再興させるのもそうです。

霊感の形を取ることもあれば病を治すこともします。条件さえ整えば物的現象を演出してお目にかけることもできます。人を治す仕事の為に治療所の奥に閉じこもる時、それは一方では霊力を受けるために霊的回路を開いていることでもあります。
 
二つの仕事は常に相携えて進行します。霊能開発のためのサークル活動に参加し、いつになっても何の変化もないと思っている時でも、実際には霊と物質との間のつながりを強化し一体化する作用が着々となされていることがあります。霊力の伝道はそれはそれは複雑で微妙な過程なのです。

 現今のように物質性が勝り霊性が劣る状態から、逆に霊性が物質性を凌ぐまでに発達してくれば、霊界からの指導も随分楽になることでしょう。それは、

間をつなぐものが霊と霊との関係になるからです。しかし残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊があまりに奥に押し込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のままに放置されております。これではよほどの努力をしない限り覚醒は得られません。

物質性にすっかり浸りきり、霊が今にも消えそうな小さな炎でしかなく、まだ辺りを照らすほどの光をもたぬ人がいます。それでも、霊であることに変わりありません。

酷い辛酸をなめ、試練に試練を重ねた暁にはそうした霊も目を醒まし、自我に目醒め、霊的真理を理解し、自己の霊性に目覚め、神を意識し、同胞と自然界との霊的つながりを知り、宇宙の大原理であるところの霊的一体性を悟ることができるようになります。

 いったんある方向への悟りの道が開かれたら、その道を閉ざすことなくいつまでも歩み続ける努力をしなくてはなりません。地上生活では完全は得られないでしょう。でも精神的に霊的に少しでも完全へ向けて努力することはできます。

 世の中には、ここに集える私たちに較べて精神的・霊的な豊かさに欠ける人がいます。そういう人々に愛の手を差しのべる仕事は、あなた方の霊性が向上するほど大きくなっていきます。

絶望の淵に落ち込んだ人を励まし、病める人にはいかなる病にも必ず治す方法があることを教え、あるいは地上を美しく栄光ある世界にするために、霊力の流れを阻害している誤謬と迷信、腐敗した体制を打破してゆく、その基本的足場としての永遠の霊的真理を説くことが必要です。

 肉眼で見ることができず、手で触れてみることも出来ない私たち霊界の者が物質の世界と接触を持つことは容易なことではありません。

人間側が善良な心と自発的協調性と受容的態度と不動の信念を保持してくれているかぎり、両者を結ぶ霊的回路が開かれた状態にあり、その人はあらゆる面において、つまり霊的に精神的に物質的に、より良い方向へと自動的に進んで参ります。

多くの人になかなか分かっていただけないのは、そしてまた人間が望むように事が運ばないのは、その援助を届けるための回路が開かれていないということです。

本人自らが回路を開いてくれないかぎり他に手段がないのです。霊力が物質に働きかけるためには、それが感応して物質界に顕現するための何らかの連鎖関係がなくてはなりません。分かってみれば何でもない当り前のことです。

そこで是非ともあなた方には、今あなた方を支え援助している力が霊的なものであり、それには成就出来ないものは何一つないことを知っていただきたいのです。

 暗闇にいる人に光を見出させてあげ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を治し、無力な動物への虐待行為を阻止することができれば、それがたった一人の人間、一匹の動物であっても、その人の地上生活は十分価値があったことになります。

価値あるものを求める闘いに嫌気がさすようではいけません。これはあらゆる闘いの中でも特に偉大な闘いです。唯物主義と利己主義──地上世界を蝕み、何のために生れて来たかを自覚せぬ大勢の人々を暗闇へと堕落させている、この二つのガンに対する永遠の闘いです。

 善のための努力が徒労に終わることは決してありません。人のためになろうとする試みが無駄に終わることはありません。善行に嫌気がさすようなことがあってはなりません。

成果が表われないことに失望してはなりません。人のために役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して一人であがいているのではありません。

いかなる状況のもとであろうと、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります。裏切ることのないその霊の力に満腔の信頼を置き、それを頼りとすることです。物質の世界にはこれだけは安全というものは何一つはありません。

真の安全は人間の目に映じぬ世界──地上のいかなる器具をもってしても測ることのできない永遠の実在の世界にしかありません。

 人間にとっての真の安全は霊の力であり、神が宇宙に顕現していく手段であるところの荘厳なるエネルギーです。他の全ての存在が形を変え、あるものは灰に帰し、またあるものは塵と砕けても、霊的実在のみは不変・不易であり、不動の基盤として存在し続けます。

全てを物的感覚によって推し量る世界に生きているあなた方にとって、その霊的実在の本質を理解することが極めて困難であることは私もよく承知しております。捉えようとしてもなかなか捉えられないものです。

ですが、私のこうした説教によって、たとえ不十分ながらも、霊こそが永遠の実在でありそれ以外は重要でないことをお伝えすることができ、流砂のような移り変わりの激しい物的存在ではなく、不変の霊的真理を心を支えとして生きようとする志を抱いて下さることになれば、及ばずながら私なりの使命を達成しつつあることになりましょう。
             
 

Tuesday, March 4, 2025

シアトルの弥生  役に立つ喜び

The Joy of Being Useful


Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley 


 人生において、自分が役に立つということほど大きな喜びはありません。どこを見ても闇ばかりで、数え切れないほどの人々が道を見失い、悩み、苦しみ、悲しみに打ちひしがれ、朝、目を覚ます度に今日はどうなるのだろうかという不安と恐怖におののきながら生きている世の中にあって、たった一人でも心の平静を見出し、自分が決して一人ぼっちの見捨てられた存在ではなく、無限の愛の手に囲まれているという霊的事実に目覚めさせることが出来たら、これはもう立派な仕事というべきです。他のいかなる仕事にも優る大切な仕事を成し遂げたことになります。

 地上生活のそもそもの目的は、居眠りをしている魂がその存在の実相に目覚めることです。あなた方の世界は毎日を夢の中で過ごしているいわば生ける夢遊病者で一杯です。彼らは本当に目覚めてはいないのです。霊的実相については死んだ人間も同然です。

そういう人たちの中のたった一人でもよろしい、その魂の琴線に触れ、小さく燻る残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせることができたら、それに勝る行為は有りません。

どう理屈をこねてみたところで結局は神の創造物──人間、動物、その他何でもよろしい──の為になることをすることによって神に奉仕することが何にも勝る光栄であり、これに勝る宗教はありません。


 こうした仕事のために神の使節として遣わされている私たちは幸せと思わなくてはいけません。もっとも、絶え間なく続く悲劇を目の当たりにしていると、それだけのことで嬉しい気分に浸れるものではありません。

現実に何かの役に立った時、例えば無知を駆逐し、迷信を打破し、残酷を親切に置き替え、虐待を憐憫に置き替えることができた時、あるいは協調と親善の生き方を身を以って示すことができた時、その時初めて地上の全ての存在の間に真の平和が訪れます。真の平和は一部の者のみが味わうべきものではないからです。

そこには霊の力の働きかけがあります。それを是非とも地上に招来しなくてはならないのです。教会が何を説こうと、学者先生がどう批判しようと、霊力はそんなことにはお構いなく働きます。そして、きっと成就します。

 その霊力が、道に迷ってあなた方のもとを訪ねて来る人々に安堵、健康、苦痛の緩和、慰め、指導、援助のいずれかを授けてあげる、その道具となることほど偉大な仕事はありません。無味乾燥な教義のお説教ばかりで霊力のひとかけらもない教会、礼拝堂、集会、寺院等よりも遥かに意義ある存在です。
 
 病める人、苦痛を抱えた人、身も心も霊も悶え苦しむ人、希望を失った人、寄るべない人、人生に疲れ切った人、迷える人、こうした人々にお説教は要りません。

説く人自らが信仰に自信を失っていることすらよくあるのです。説く人にも説き聞かされる人にも意味を持たない紋切型の説教をオウムのように繰り返しても、誰も耳を傾ける気にはならないでしょう。欲しいのは霊的真理が真実であるとの証です。

あなた方が真に奉仕の精神に燃え霊的能力を人のために役立てたいと望めば、その霊力があなた方を通してその人たちに流れ込み、苦痛を和らげ、調和を回復させ、マヒした関節ならばこれを自由に動かせるようにし、そうすることによって霊的真実に目覚めさせることになることでしょう。

 ただ、この道には往々にして挫折があります。私どもの仕事は人間を扱う仕事です。残念ながら人間は数々の脆(もろ)さと弱み、高慢と見栄、偏見と頑迷さで塗り固められております。自分のことよりまず人のためと考える人はまれです。
 
大義のために一身上のことを忘れる人はほとんどいません。しかし、振り返ってご覧になれば、そうした条件の中にありながらも、霊的な導きによって着実に使命に沿った道を歩み、これから先の歩むべき方角への道しるべがちゃんと示されていることを明確に認識されるはずです。

これまで一点の疑念も疑問の余地もないほどその威力を証してきた力は、前途に横たわる苦難の日々を正しく導いてくれます。

 施しを受けるよりも施しを授ける方が幸せです。証拠を目に見ず耳に聞くこともなく、それでもなおこの道にいそしむことができる人は幸せです。あなた方のまわりには、あなた方より幸せの少ない人々に愛の手を差し伸べることを唯一の目的とする高級霊の温かみと輝きと行為と愛があります。

 地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。

 その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知のうえで生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我──より大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。

その意味では〝お気の毒に・・・〟などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。

こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。私が〝魂は知っている〟と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。

その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。

それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。

 自分が果たしてどの程度の人間か、どの程度進化しているかを自分で判断することは、今のあなた方には無理なことです。判断を下す手段を持ち合わせないからです。人間は霊的視野で物を見ることが出来ません。四六時中物的視角で物事を考えているために、判断がことごとく歪んでおります。

魂への影響を推し量ることができない。そこが実はいちばん大切な点です。肉体が体験することは魂に及ぼす影響次第でその価値が決まります。魂に何の影響も及ぼさない体験は価値がありません。霊の力を無理強いすることは許されません。神を人間の都合の良い方向へ向けさせようとしても無駄です。
 
神の摂理は計画通りに絶え間なく作用しています。賢明なる人間──叡知を身につけたという意味で賢明な人間は、摂理に文句を言う前に自分から神の無限の愛と叡知に合わせていくようになります。

 そうした叡知を身につけることは容易なことではありません。身体的、精神的、霊的苦難が伴います。この三つの要素のうちの二つが絡むこともあれば三つが全部絡むこともあります。

霊性の開発は茨の道です。苦難の道を歩みつつ、後に自分だけの懐かしい想い出の標識を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。

 しかし、利己的生活や無慈悲な生活にそれ相当の償いがあるように、その霊性開発の孤独な道にもそれなりの埋め合わせがあります。悟りが深まるにつれて内的生命、内的輝き、内的喜び、内的確信がいっそうその強さを増していくのです。

生命現象の全てが拠り所とする内的実在界の実相を味わい、神の愛の温もりをひしひしと実感するようになります。それが容易に成就されるとは私は一度も言っておりません。最高の宝、最も豊かな宝は、最も手に入れ難いものです。しかもそれは自らの努力によって自分一人で獲得していかねばならないのです。

 私はかつて地上で何年も生活し、こちらへ来てからも(三次元の世界の数え方で言えば)何千年もの歳月を過ごしてきましたが、向上すればするほど宇宙の全機構を包括し大小あらゆる出来ごとを支配する大自然の摂理の見事さに驚嘆するばかりです。

その結果しみじみと思い知らされていることは、知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟るということは最後はみな一人でやらねばならない──自らの力で〝ゲッセマネの園〟に踏み入り、そして〝変容の丘〟に登らねばならないのだということです。(第二章参照)

 悟りの道に近道はありません。代わりの手段もありません。安易な道を見つけるための祈りも儀式も教義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。

悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。私がこんなことを説くのは説教者ヅラをしたいからではありません。これまでに自分が学んだことを少しでもお教えしたいと望むからにほかなりません。

 さらに私は、一見矛盾するかに思えるかもしれませんが、人のために役立ちたいと望む人々、自分より恵まれない人々──病める人、肉親を失える人、絶望の淵にいる人、人生の重荷に耐えかねている人、疲れ果て、さ迷い、生きる目的を見失える人、等々に手を差しのべたいという願望に燃える人──要するに何らかの形で人類の福祉に貢献したいと思っている人が挫折しかけた時は、必ずやその背後に霊界からの援助の手が差し伸べられるということも知っております。

 時には万策尽き、これにて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が生み出す内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我れ行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。

 その奇特な意気に感じて訪れてくるのは血のつながった親類縁者──その人の死があなた方に死後の存続に目を開かせた霊たち── ばかりではありません。あなた方が地上という物質界へ再生してくるに際して神からその守護の役を命ぜられ、誕生の瞬間よりこの方ずっと見守り指導してきた霊もおります。

そのおかげでどれほどの成果が得られたか、それはあなた方自身には測り知ることはできません。しかし分からないながらも、その体験は確実にあなた方自身の魂と同時に、あなた方を救ってあげた人々の魂にも消えることのない影響を及ぼしております。

そのことを大いに誇りに思うがよろしい。他人への貢献の機会を与えて下さったことに関し、神に感謝すべきです。人間としてこれほど実り多い仕事は他にありません。

 愚にもつかぬ嫉妬心や他愛ない意地悪から出る言葉を気にしてはなりません。そのようなものはあなた方の方から心のスキを与えない限り絶対に入り込めないように守られております。霊の力は避難所であり、霊の愛は聖域であり、霊の叡知は安息所です。イザという時はそれを求めるがよろしい。

人間の心には裏切られることがありますが、霊は決して裏切りません。たとえ目には見えなくても常に導きを怠ることなく、愛の手があなた方のまわりにあることを忘れないでください。

 私としては、たった一言であっても、私の述べたことの中にあなた方の励みになり元気づけ感動させるものを見出していただければ、もうそれだけで嬉しいのです。私たちに必要なのは霊の道具となるべきあなた方です。豪華なビルや教会や寺院や会館ではありません。

それはそれなりの機能があることは認めますが、霊の力はそんな〝建物〟に宿るのではありません。〝人間〟を通して授けられるのであり、顕幽の巨大な連絡網のつなぎ手として掛けがえのない大切なものです。その道具たらんとして謙虚に一身を擲(なげう)ってくれる人間一人の方が、そうした建造物全部よりも遥かに大切です。頑張ってください。

そしてこれからも機会を逃さず人のため、人のため、という心掛けを忘れないで下さい。世間の拍手喝さいを求めてはなりません。この世に生れてきたそもそもの目的を果たしているのだという自覚を持ち、地上に別れを告げる時が来た時に何一つ思い残すことのないよう、精一杯努力して下さい。

 ここに集える私たち一人ひとりが同胞の幾人かに霊的啓発をもたらすことによって、少しでも宇宙の大霊に寄与することができることの幸せを神に感謝いたしましょう。

人間として霊として、こうして生を享けた本来の目的を互いに果たせることの幸せを感謝いたしましょう。人のために尽くすことに勝る宗教はありません。病める人を治し、悲しむ人を慰め、悩める人を導き、人生に疲れ道を見失える人を手引きしてあげること、これは何にも勝る大切な仕事です。

 ですから、こうして神の愛を表現する手段、才能、霊力を授かり、それを同胞のために役立てる仕事に携われることの幸せを喜ばなくてはいけません。神の紋章を授かったことになるのだと考えて、それを誇りに思わなくてはいけません。

これから後も人のために役立つ仕事に携わるかぎり、霊の力が引き寄せられます。人生の最高の目標が霊性の開発にあることを、ゆめ忘れてはなりません。自分の永遠の本性にとって必須のものに目を向けることです。

それは人生について正しい視野と焦点を持つことになり、自分が元来不死の魂であり、それが一時の存在である土塊に宿って自我を表現しているにすぎないこと、心がけ一つで自分を通じて神の力が地上に顕現するという実相を悟ることになるでしょう。

こうしたことは是非とも心に銘記しておくべき大切な原理です。日常の雑務に追いまくられ、一見すると物が強く霊が弱そうに思える世界では、それは容易に思い出せないものです。ですが、あくまで霊が主人であり物は召使いです。霊が王様であり物は従臣です。霊は神であり、あなたはその神の一部なのです。

 自分がこの世に存在することの目的を日々成就できること、つまり自分を通じて霊の力がふんだんに地上に流れ込み、それによって多くの魂が初めて感動を味わい、目を覚まし、健全さを取り戻し、改めて生きることの有難さを噛みしめる機会を提供すること──これは人のために役立つことの最大の喜びです。

真の意味で偉大な仕事と言えます。地上のどの片隅であろうと、霊の光が魂を照らし、霊的真理が沁みわたれば、それでいいのです。それが大事なのです。それまでのことは全てが準備であり、全てが役に立っているのです。

魂はそれぞれの使命のために常に備えを怠ってはなりません。時には深い谷間を通らされるかもしれません。度々申し上げてきたように、頂上に上がるためにはドン底まで下りなければならないのです。

 地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では〝物〟を有難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。

人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません。そんなものは死と共に消えてなくなるのです。が、他人のために施した善意は決して消えません。

なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。

 世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。が、もしもあなたが他人のために自分なりに出来るだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。

言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重要な仕事です。

手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生れて来たのかを悟り、地上を去るまでに何をなすべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡知と理解を広める仕事に協力していることになります。

 肝心なことはそれを人生においてどう体現していくかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終わってはいけません。今度はそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです。

それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。

霊的成長にも摂理があり、魂に受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。

真の福音、霊的実在についての良い知らせをお持ちしているだけです。それを本当に良い知らせであると思って下さるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えが出来ていないということです。

 イエスはそのことを〝豚に真珠を投げ与えるべからず〟と表現しましたが、これは決してその言葉から受けるような失礼な意味で述べたのではありません。いかに高価なものをもってしても他人を変えることはできないのです。自分で自分を変えるしかないのです。

私たちは同胞の番人ではないのです。各自が自分の行為に責任を持つのであって、他人の行為の責任は取れません。あなたが行うこと、心に思うこと、口にする言葉、憧れるもの、求めるものがあなたの理解した霊的真理と合致するようになるのは、生涯をかけた仕事と言えるでしょう。

 あなたにできるのはそれだけです。他人の生活を代わりに生きることはできません。どんなに愛する人であってもです。なぜなら、それは摂理に反することだからです。そうと知りつつ摂理に反することをした人は、そうとは知らずに違反した人よりも大きい代償を払わされます。

知識には必ず責任が伴うからです。真理を知りつつ罪を犯す人は、同じ行為を真理を知らずに犯す人より罪の大きさが違うのです。当然そうあらねばならないでしょう。

 一個の魂に感動を与えるごとにあなた方は神の創造の目的成就の一翼を担ったことになります。これはあなた方に出来る仕事の中でも最も重要な仕事です。魂に真の自我を悟らせてあげているのであり、これは他のいかなる人にもできないことです。ただし、この仕事は協調の上に成就されるものです。

私ども霊側も強引に命令することはしたくありません。あなた方の理性を押しのけたり自由意志を奪ったりすることはいたしたくありません。あくまでも導くことを主眼としているのです。あなた方が何か一つ努力するごとに、私どもがその目的に合わせ援助することによって、より大きな成果を挙げるように協力しているのです。

協力し合うことによって人生の全てが拠り所とするところの霊的基盤に関わる重大な仕事に携わることができるのです。

 残念ながら多くの人間が実体と影、核心と外殻とを取り違えております。実相を知らずにおります。言わば一種の退廃的雰囲気の中で生きております──それが〝生きる〟と言えるならばの話ですが、霊の光の啓示を受けた人は幸いです。

私としてはあなた方に、頑張って下さいとしか申し上げる言葉を知りません。霊の無限の力が控えております。イザという時にあなた方の力となって支えてくれることでしょう。

 自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにして下さい。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方たちでも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われ、霊的実相を忘れてしまいがちです。が、

それだけは絶対に忘れぬようにしなければなりません。地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。

霊こそ実在です。物質は実在では無いのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じることもできないかもしれません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識出来ません。しかし、やはり霊こそ全ての根源であることに変わりありません。

あなた方は永遠の存在であることを自覚して下さい。生命の旅路においてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。