Sunday, March 30, 2025

シアトルの春  山をも動かす信仰   

Faith that moves mountains 
Le Spiritism  Allen Kardec

 

信仰の力

一、イエスが民衆に会いにやって来ると、一人の人が近寄り、ひざまずいて言った、「主よ、私の子に慈悲を。てんかんにかかってとても苦しんでおり、火の中や水の中に何度も倒れるのです。あなたの使徒たちのところへ連れて行きましたが、彼らには治すことはできませんでした」。

するとイエスは答えて言われた、「ああ、何という不信仰な、曲がった時代でしょう。いつまで、私はあなた方と一緒にいることが出来るのでしょうか。いつまであなたたちに我慢ができるのでしょうか。その子をここに、私のところに連れてきなさい」。

イエスが悪霊を脅すと、悪霊は子供から出て行き、その瞬間子供は健康になった。使徒たちはひそかにイエスの許へ行き、尋ねた、「どうして私たちは悪霊を追い払うことができなかったのですか」。イエスは答えて言われた、

「あなたたちの不信仰のせいです。誠に言います、からしの粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『あちらへ動け』と言えば動き、何も不可能なことはなくなります」。(マタイ 第十七章 14-20)
   

二、ある意味では、自分自身の力に対する信念が物質的なことの実現を可能とさせるのであって、自分自身を疑う者はそれを実現できないというのは真実です。しかし、ここでは道徳的な意味においてのみ、これらの言葉を解釈するべきです。

信仰が動かす山とは、困難、抵抗、やる気のなさ、要するに善いことに向かう時にさえも人間の間に現れるもののことです。

日常の偏見、物質的な関心、エゴイズム、狂信の盲目、誇り高き感情などは、どれもが人類の進歩のために働く者の道を遮る山の数々です。強固な信念は、忍耐力や、小さなものであれ大きなものであれ、障害に打ち勝つエネルギーを与えます。

不安定な気持ちは不確実さや、躊躇を生み、打ち勝たねばならない敵対者たちに利用されてしまいます。こうした不安定な気持ちは、打ち勝つ手段を求めることもありません。なぜなら、打ち勝つことが出来ることを信じないからです。


三、別の解釈によれば、信念とはあることを実現できると信じること、ある特定の目的を達成する確信と理解とされます。

それはある種の明晰さをもたらし、それによって思考の中で、そこまでたどり着くための手段や達成しなければならない目標を見ることを可能にさせるがため、それを持って歩む者は、言うならば全く安心して歩むことができるのだということができます。いずれの場合であれ、偉大な事柄の実現を可能にします。

 誠実で真実なる信念は常に平静です。知性と物事の理解に支えられ、望む目的に到達する確信があるために、待つことを知る忍耐をもたらします。ぐらついた信念はそれ自身の弱点を感じています。

関心がそれを刺激すると、怒りっぽくなり、暴力によって自分に足りない力を補おうとします。戦いにおける平静は常に力と自信の証です。反対に暴力は弱さと自分自身に対する不安を表しています。

℘333 
四、信念と自惚れを混同してはいけません。真なる信念は謙虚さを伴います。真の信念を持つ者は自分自身よりも神をより信頼しており、なぜなら自分自身は神意に従う単なる道具であり、神なしには何も存在し得ないことを知っているからです。

こうした理由から、善霊たちがその者を助けにやってきます。自惚れでは、自尊心が信仰を上まわっており、自尊心はそれを持つ者に課された失望や失敗によって遅かれ早かれ、罰せられることになります。


五、信仰(信念)の力は磁気的な動きによる直接的で特別な形でその姿を示します。宇宙的動因であるフルイドに対して人間はその仲介として作用し、その性質を変化させ、いわば抑えようのない衝撃を与えます。

そのようなことから、普通のフルイドのある大きな力に熱心な信仰が結びつき、善に向けた意志の力のみによって治療のような特別な現象を引き起こすことになります。

それらは昔は奇蹟として扱われましたが、自然の法則の結果に過ぎないのです。こうした理由により、イエスはその使徒たちに言ったのです。「治すことができなかったのは、信仰がなかったからです」。


  宗教的な信仰。揺るがぬ信仰の条件
六、宗教的な視点では、信仰とは、さまざまな宗教を組織させたある特別な教義を信じることから成り立っています。どの宗教にもその信仰の対象というものがあります。この点において、信仰は理性的でも盲目的でもあり得ます。

なにも検証することなく、真実と偽りを確かめたりせずに、盲目的な信仰はそれを受け入れ、一歩歩むたびに立証や理性と衝突します。それが過剰になると狂信を生みます。誤りの上に立っていると、遅かれ早かれ崩壊します。

真実に基づく信仰のみがその未来を保証することができます。なぜなら、人々の啓発に対する恐れがまったくないからであり、闇の中で真実たるものは光の中でも真実であり続けるからです。

どの宗教も排他的な真実の主となろうとします。ある信仰のある部分を誰かに盲目的に信じるように教えることは、その信仰が理に適って居ることを示すことが出来ないと告白するのと同じことです。


七、一般に信仰と言うものは他人に示しようがないと言われますが、そのために、信仰がないことには責任が無いという多くの人の言い訳を生んでいます。確かに信仰は他人に示しようがありませんし、増してや強要することは不可能です。

そうです、信仰は獲得するものなのであり、最も頑固な者でさえも、信仰を持つことが許されていない者はいないのです。私たちが述べているのは霊的な真理の基本的なことについてであり、ある特定の信仰に関してどうこう言っているのではありません。

信仰が人々を探し求めるのではないのです。信仰に出合うことができるように、人々が誠実に求めれば、それに出合えないことはないでしょう。

ゆえに、「信じること以上に善いものを私たちは望まないが、それができないのだ」と言う人々は、それを心の底からではなく口先だけで言っているのだということを確信し、そう言う言葉を聞いたら耳を塞いでください。しかし、そうした人の周りには証が雨のように降り注いでいます。ではなぜ、それに気づくことが出来ないのでしょうか。

一部の人たちはそれを無視しています。他の人たちは習慣を変えなければならなくなること恐れています。

大半の人たちには自尊心があり、自分たちより優れた存在を認めることを否定するのです。なぜなら、そうした存在の前に頭を下げなければならなくなるからです。ある人たちにとって信仰は、生まれつきのものであるかのように見えます。

火の粉ほどの信仰さえあれば、それを発展させることができます。霊的な真理を受け入れることに対するこうした容易さは、前世における進歩の明らかな証拠です。 

他の人たちにとってはその反対で、そうした真理が入り込みにくく、それは同様に遅れた性格を示す明らかな証拠です。前者の人々はすでに信じ、理解しました。再生した時には既に知ったことを直感的に持ち合わせて来ているのです。

彼らはすでに教育されています。後者の人々はすべてを学ばなければなりません。これから教育を受けなければなりません。しかしそれを行い、現世のうちに終了できなければ、次の人生においてそれを行うことになるのです。

 信仰のない者の抵抗は、多くの場合、その人自身よりも、物事のその人に対する示され方から来ているということに私たちは同意しなければなりません。信仰には基礎が必要であり、その基礎とは信じようとする者の知性です。そして、信じるためには見るだけでは足りません。

何よりも理解することが必要なのです。盲目的信仰は、もはや今世紀のものではなく(→FEB版注1)それゆえに盲目的な信仰を教える教義が今日、不信仰な人々を多く生み出しているのです。なぜなら、そうした教義は強要によって、人類の最も大切な特権である理性と自由意志の放棄を命ずるからです。

不信仰な人々は主にこうした信仰に対して反抗するのであり、これに関して言えば、まったく信仰とは説明し得ぬものだということができるでしょう。そうした教義は証拠を認めないために、心の中に何か曖昧なものを残し、そこから疑いが生まれます。

理性的な信仰は、理論と事実に支えられ、いかなる曖昧さも残すことはありません。つまり人間は、確かだと思うから信じるのであり、誰も理解することなしに確かさを感じることはできません。理解できないために屈服しないのです。

揺るがぬ信仰とは唯一、人類のいつの時代に置いても理性に対して真正面から向き合うことのできる信仰のことです。

 スピリティズムはこうした結果を導くことで、意図的、もしくは制度的な反対が無い限り、いつも不信仰な者に対して勝利を収めるのです。


  枯れたイチジクの木の話   
八、ベタニアから出かけてきた時、イエスは空腹を覚えられた。そして、遠くにイチジクの木をごらんになって、なにかありはしないかと近寄られたが、イチジクの季節ではなかったために葉しかなかった。するとイエスは、イチジクの木に向かって言われた、

「これから先、誰もおまえから果実を食べることはないだろう」。使徒たちはそれを聞いていた。

次の日、イチジクの木の近くを通ると、根まで枯れているのを見た。そこでイエスが言ったことを思いだすと、ペトロは言った、「先生、あなたが呪われたイチジクの木がどうなったか見て下さい」。

イエスはその言葉を聞くと答えて言われた、「神を信じなさい。誠に言いますが、言葉にしたことはすべて起きると強く信じ、そこをどき、海へ落ちよと、この山に心からためらうことなしにいう者は、実際にそれが起きるのを目にすることになるでしょう」。(マルコ 第十一章 12-14,20-23)


九、枯れたイチジクの木とは、見た目には善に関心があるように見えながらも、実際には善いものをうまない人たちの象徴です。堅実さよりも華々しさを持った説教者のように、その言葉の表面は虚飾に覆われており、それを聞く耳を喜ばすことはできても、詳細について吟味してみると、心にとって本質的な意味を何も持たないことが分かります。

そして私たちは、聞いた言葉の中から何を役立てることが出来るのだろうかと問い直すことになるのです。

 同時に、有益な存在となる手段を持ちながら、そうなっていない人々のことも象徴しています。堅実な基礎を持たないあらゆる空想、無益な主義、教義がそれにあてはまります。殆どの場合そこには真なる信仰である、生産性のある信仰、心の隅々をも動かす信仰が不足しています。

その信仰とは一言でいうなら、山をも動かす信仰のことです。そうした信仰の欠けた人々は、葉に覆われながらも果実に乏しい木のようです、だからイエスはそうした木を不毛であると言いわたしたのであり、いつかそれらは根まで乾いてしまうものなのです。

つまり人類にとって何の善ももたらすことの無いいかなる主義も、いかなる教義も、没落し、消滅するということを指しています。自分のもつ手段を働かせないことにより無益と判断された人はみな、枯れたイチジクの木と同じように扱われるでしょう。

℘337 
十、霊媒とは霊の通訳者です。霊たちにはその指導を伝えるための物質的な器官はありませんが、霊媒がそれを補うのです。このように、こうした目的のために使われる能力を持った霊媒が存在します。

社会が変革しようとしている今日、彼らには非常に特別な使命があります。それは同胞たちに霊的な糧を供給する木となることです。糧が十分であるように、その数は増えていきます。

あらゆる場所、あらゆる国、あらゆる社会階級の中に、裕福な者の間にも貧しい者の間にも、偉大なる者の間にも小さな者たちの間にも現れ、そのためどの場所にも不足することが無く、人類の全ての者が招かれていることが示されるのです。

しかし、もし彼らが、託されたその貴重な能力を神意による目的からはずれたことに用い、不毛なことや、有害なことに使用するのであれば、あるいは、世俗的な利益に仕えるために用いたり、熟した実の代わりに悪い実を結ばせ、それを他人の益のために用いることを拒んだり、自分たちを向上させようとそこから自分たちの為に何かの利益も得ることもないのであれば、彼らは枯れたイチジクの木であるのです。

神は彼らの中で不毛となった力を奪います。そして実を結ばせることを知らない種が、悪い霊たちの間に捕まってしまうのを許すのです。





   霊たちからの指導

   信仰──希望と慈善の母 
十一、 有益になるためには、信仰は活動的にならなければなりません。それを無感覚にしてしまってはいけません。神へ導くあらゆる美徳の母は、それが生み出した子供たちの成長を注意深く見守らなければなりません。

 希望と慈善は信仰から派生しますが、信仰と共に分離不可能な三位となります。主の約束の実現の希望を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たずに、何を期待することができるでしょうか。愛を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たぬのであれば、あなたの価値やその愛は何でありましょうか。

 神性の発露である信仰は、人間を善へ導くあらゆる高尚な本能を目覚めさせます。信仰は更生の基礎です。必要なのは、この基礎が強い持続性を持つことです。というのも、もし、ほんの小さな疑いによってその基礎が動揺してしまうとしたら、その上に築いたものはどうなると考えますか。

だから、ゆるぎない基礎の上にその建物を築いてください。あなたたちの信仰は不信仰な者たちの詭弁や冷やかしよりも強くなければなりません。もっとも人間の嘲笑に対抗できない信仰は、本当の信仰とは言えません。

 誠実な信仰は人の心を捕え、影響力を持っています。信仰を持たなかった者や、信仰を持ちたくないと考える者の心に訴えます。それは魂に響く、説得力のある言葉を持ち、一方で見せかけだけの信仰は、聞く者を無関心にし、冷たくしてしまうように響く言葉を使います。

あなたの模範によって信仰を説き、人々に信仰を吹き込んでください。あなたたちの事業の模範によってそれを説き、信仰の真価を示してください。あなたの不動の希望によってそれを説き、人生のあらゆる苦しみに立ち向かうことができるように人間を強くしてくれる確信を示してください。

 だから美しく善い、純粋で合理性を持った内容に信仰を抱いてください。盲目から生まれた目の見えない娘である、証明のない信仰を認めてはなりません。

神を愛してください。しかし、なぜ愛するのかを知って愛してください。その約束を信じてください。しかし、なぜそれを信じるのか知って信じてください。私たちの忠告に従って下さい。

しかし、私たちが指摘する事柄やそれを成し遂げるための手段について納得した上で従って下さい。信じ、無気力になることなく待ってください。奇蹟は信仰のなす業です。 (守護霊ヨセフ ボルドー、1862年)   


  人間的な信念と神への信仰
十二、人間の信念は、未来の運命に対して生来持っている感覚です。自分自身の内に無限の能力を秘めているのだという認識であり、最初それは潜在的に存在しますが、意志の働きによってそれを発芽させ、育てることが必要です。

 今日まで、信心とはその宗教的側面しか理解されませんでしたが、それは、キリストが信仰を強力な梃子として示したため、イエスは宗教の指導者としてしか考えられていなかったからです。

しかしながら、物質的な奇蹟を引き起こしたキリストは、こうした奇蹟によって、人間に信念があれば、つまり、何かを望み、その望みが必ず満足されるという確信があれば、何ができるのかを示したのです。使徒たちも、イエスの模範に従って、奇蹟を引き起こしたではありませんか。

ただ、こうした奇蹟は、人類が当時その原因をいまだに解明していなかった自然現象に過ぎません。今日、その大部分はスピリティズムと磁気の研究により解明され、全く理解可能なものとなったではありませんか。

人がその能力を地上の必要性を満たすために用いるか、天や未来に対する熱望に用いるかによって、人間的な信念にも神への信仰にもなります。

天における自分の未来を信じる善なる人は、その存在を美しく高尚な行動によって満たしたいと望み、その信念の中から自分を待ち受ける幸福の確信や必要な力を汲みあげ、そこで慈善、献身、自己放棄の奇蹟を引き起こします。

つまり、信念(信仰)によって、打ち勝つことのできない悪は存在しないのです。

 磁気は、行動に移された信念の力の最大の証のうちの一つです。治療などに見られるような珍しい現象は、過去において奇蹟と呼ばれていましたが、それらは信念によって引き起こされるのです。

 繰り返します。人間的な信念と神への信仰があります。もし生きる人々が、自分がもち合わせる力をよく理解し、自分の意志をその力を用いるために使おうと望めば、今日に至るまで奇蹟と考えられていたような事柄を実現することができるでしょう。そしてそれを実現することは、人間のもつ能力の発展に過ぎないのです。(ある守護霊 パリ、1863年)


●FEB版注1
アラン・カルデックはこの言葉を十九世紀に記しました。今日、人類の霊は更に多くを求めます。盲目的な信仰は放棄されました。そうした信仰を強要する教会には不信仰が君臨しています。人類の多くは理想もなく、現世以外の人生への希望も持たずに、暴力によって世界を変えようとしています。

経済的な戦いは風変わりな原因と結果の教義を生み出しました。経済的優勢を激しく切望した二度の世界大戦が地球を痛めつけました。人類のあらゆる希望はキリスト教の復興、キリストの教義の原則が示す、人生の永遠性や、思考、言葉、行動の責任が無限であることを教えるスピリティズムにかかっています。

第三の啓示が無かったら、世界は大いに誤った暴力的、唯物的イデオロギーによって手の施しようもないほど失われていたことでしょう。ーFEB1948


●和訳注 「信念」と「信仰」について
原文では、FOI(フランス語)、FE(ポルトガル語)、FAITH(英語)という一つの言葉によって、日本語で言う「信念」と「信仰」の二つの意味を表現しています。日本語の「信仰」には「神や仏を信じ、崇め尊ぶこと」とあるため、宗教的な意味においてしか用いられることはありません。

本文では必ずしも「神仏」に対する信仰を必要とせずに、人間はその意志によって多くを実現することが出来ることを説明しているため、翻訳に当たっては「信仰」と「信念」とを使い分ける必要がありましたことをお断りしておきます。

シアトルの春 ───〝祈り〟に関する一問一答───

PrayerーA Question and Answer on Prayer



Wisdom of Silver Birch

 

 ああ神よ、あなたは大宇宙を創造し給いし無限の知性に御(オワ)します。間断なき日々の出来ごとの全パノラマを統御し規制し給う摂理に御します。全存在を支える力に御します。物質的形態に生命を賦与し、人間を動物界より引き上げて、いま所有せるところの意識を持つに至らせ給いました。

 私たち(霊団の者は)はあなたという存在を絶対的法則───不変にして不可変、そして全能なる摂理として説いております。あなたの摂理の枠を超えて何事も起こり得ないからでございます。宇宙の全存在はその摂理の絶対的不易性に静かなる敬意を表しております。

あなたの霊的領域においてより大きな体験を積ませていただいた私たちは、あなたの御力によって支配されている全生命活動の完璧さに対する賞賛の念を倍加することになりました。

 私たちは今、そのあなたの仔細をきわめた摂理の一端でも知らしめんとしている者でございます。それを理解することによって、あなたの子等があなたがふんだんに用意されている生命の喜びを味わうことが出来るようにと願うゆえに他なりませぬ。

 私たちは又、無知という名の暗闇から生まれる人間の恐怖心を追い払い、生命の大機構における〝死〟の占める位置を理解せしめ、自分の可能性を自覚させることによって、霊的本性の根源である無限の霊としての自我に目覚めさせんものと願っております。

それは同時に彼らとあなたとのつながり、そして彼ら同志のつながりの霊的同質性を理解させることでもございます。

 あなたの霊が地球全体をくるんでおります。あなたの神性という糸が全存在を結びつけております。地上に生きている者はすべて、誰であろうと、いかなる人間であろうと、どこに居ようと、絶対に朽ちることのない霊的なつながりによってあなたと結ばれております。

故に、あなたと子等との間を取りもつべき人物などは必要でないのでございます。生まれながらにして、あなたからの遺産を受け継いでいるが故に、あなたの用意された無限の叡知と愛と知識と真理の宝庫に、誰でも自由に出入りすることが許されるのでございます。

 私たちの仕事は人間の内奥に宿された霊を賦活し、その霊性を存分に発揮せしめることによって、あなたが意図された通りの人生を生きられるように導くことでございます。

かくして人間はいま置かれている地上での宿命を完うすることでしょう。かくして人間は霊的存在としての義務を果たすことになることでしょう。

かくして人間は戦いに傷ついた世の中を癒し、愛と善意を行きわたらせる仕事に勤しむことでしょう。かくして人間はあなたの真の姿を遮ってきた暗闇に永遠に訣別し、理解力の光の中で生きることになることでしょう。ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。



───〝祈り〟に関する一問一答───

(前巻及び本書の中に断片的に出ていたものをここにまとめて紹介するー訳者)
                            


───霊界側は祈りをどうみておられるのでしょうか。

 「祈りとは何かを理解するにはその目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願いごとを口にしたり、決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける人はいませんし、訴える力を持った波動を起こすことも出来ません。

私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意が込もっておらず、それを口にする人みずから、内容には無頓着であるのが普通です。永いあいだそれをロボットのように繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。

しかしいかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなり得ません。

 祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難場所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責務を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果的連鎖関係を寸毫(すんごう)も変えることはできません。

人のためにという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りをすべて無視されるがよろしい。その後に残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的行為(スピリチュアル)であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。

その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。

 あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取りくんだ時───解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。

そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたの周りにいる者、霊的な目を持って洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです。たとえばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。

 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならその魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです。

このように、一口に祈りといっても、その内容を見分けた上で語る必要があります。

 ところで、いわゆる〝主の祈り〟(天にまします我らが父よ、で始まる祈禱文。マタイ6・9~13、ルカ11・2~4-訳者)のことですが、あのような型にはまった祈りは人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。単なる形式的行為は、その起源においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまいます。

儀式の一環としては便利かも知れません。しかし人間にとっては何の益もありません。そもそも神とは法則なのです。自分で解決できる程度の要求で神の御手を煩わすことはありません。それに、ナザレのイエスがそれを口にした(とされる)」時代から二千年近くも過ぎました。

その間に人類も成長し進化し、人生について多くのことを悟っております。イエスは決してあの文句の通りを述べたわけではありませんが、いずれにしても当時のユダヤ人に分かりやすい言葉で述べたことは事実です。

 今のあなた方には父なる神が天にましますものでないことくらいはお判りになるでしょう。完璧な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているものだからです。

この宇宙のどこを探しても完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。神は地獄のドン底だけにいるものではないように、天国の一ばん高い所にだけ鎮座ましますものでもありません。

大霊として宇宙全体に普遍的に存在し、宇宙の生命活動の一つひとつとなって顕現しております。〝御国の来まさんことを〟などと祈る必要はありません。地上天国の時代はいつかは来ます。

必ず来るのです。しかしそれがいつ来るかは霊の世界と協力して働いている人たち、一日も早く招来したいと願っている人たちの努力いかんに掛っております。そういう時代が来ることは間違いないのです。

 しかしそれを速めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛っているということです。(このあと関連質問が出る―訳者)


───モーゼの十戒をどう思われますか。

 「もう時代遅れです。今の時代には別の戒めが必要です。
 人間の永い歴史のいつの時代に述べられたものであっても、それをもって神の啓示の最後と思ってはいけません。啓示というものは連続的かつ進歩的なものであり、その時代の人間の理解力の程度に応じたものが授けられております。

理解力が及ばないほど高級すぎてもいけませんが、理解力の及ぶ範囲が一歩先んじたものでなければなりません。霊界から授けられる叡知はいつも一歩時代を先んじております。そして人間がその段階まで到達すれば、次の段階の叡知を受け入れる準備が出来たことになります。

人類がまだ幼児の段階にあった時代に特殊な民族の為に授けられたものを、何故に当時とは何もかも事情の異なる今の時代に当てはめなければならないのでしょう。もっとも私には〝十戒〟ならぬ〝一戒〟しか持ち合わせません。〝お互いがお互いのために尽くし合うべし〟───これだけです」

 続いて好天や雨乞いの儀式が話題となった。


───悪天候を急に晴天にするには神はどんなことをなさるのでしょうか。

 「急きょ人間が大勢集まって祈ったからといって、神がどうされるということはありません。神は神であるが故に、大聖堂や教会においてそういう祈りが行われている事実を知らされる以前から、人間が必要とするものについてはすべてを知り尽くしております。

 祈りというものは大勢集まって紋切り型の祈禱文や特別に工夫をこらした文句を口にすることではありません。祈りは自然法則の働きを変えることはできません。

原因と結果の法則に干渉することはできません。ある原因に対して寸分の狂いもない結果が生まれるという因果律を変える力は誰にもありません。

 祈りは魂の活動としての価値があります。すなわち自己の限界を悟り、同時に(逆説的になりますが)内部の無限の可能性を自覚し、それを引き出してより大きな行為へ向けて自分を駆り立てる行為です。魂の必死の活動としての祈りは、魂が地上的束縛から脱してより大きな表現を求める手段であると言えます。

そうすることによって高級界からの働きかけに対する受容力を高め、結局は自分の祈りに対して自分がその受け皿となる───つまり、より多くのインスピレーションを受けるに相応しい状態に高めるということになります。

 私は祈りを以上のように理解しております。大自然の営みを変えようとして大勢で祈ってみても何の効果もありません」


───キリスト教では悪天候を世の中の邪悪性のしるしと見なしていますが・・・

 「私は世の中が邪悪であるとは思いません。罪悪への罰として神が雨を降らせるとは思いません。自然現象は人間の生活とはそんな具合には繋がっておりません。第一、三か月前と一週間前とで世の中の邪悪性に差があるわけではないでしょう。

 それは相も変わらず、依怙(えこ)ひいきと復讐心と怒りを抱く人間神の概念の域を出ておりません。神とは生命の大霊です。この大宇宙の存在を支えている力は、人間が集団で祈ったところでどうなるものでもありません。人間にできることはその大宇宙の摂理がどうなっているかを発見し、それに自分を調和させ、できるだけ多くの人間ができるだけ多くの恩恵を受けられるような社会体制を作ることです。

そうなった時こそ生命の大霊が目覚めた人間を通じて顕現されていることになります。私はそういう風に考えております」(先に出た〝地上天国〟とはこのこと―訳者)


───人類にもいつかはそういう時代が来ると思われますか。


 「程度問題ですが、来ることは来ます。しかしそれも、そう努力すればの話です。人類は、宇宙の摂理を福利のために活用できるようになるためには、まず自己の霊性に目覚めなくてはなりません。宇宙には常に因果応報の摂理が働いております。どんなに進化しても、これ以上克服すべきものが無くなったという段階は決してまいりません。

 知識を獲得することによっていかなる恩恵を受けても、それには必ずもう一つ別の要素が付いて回ります───知識に伴う責任の問題です。その責任はその人の人格によって程度が定まり、同時に人格の方も知識によって程度が定まります。

かくして知識が広まるとともに人格も成長し、人生が豊かさと気高さを増し、生きるよろこびと楽しさを味わう人が多くなります。

 いま皆さんの脳裏に原子の発見のことがあるようですが、人間がこれで全てを知り尽くしたと思っても、その先はまだまだ未知の要素があります。これから先も、人間が生命そのものをコントロールできるような立場には絶対になれません。

ますます宇宙の秘密を知り、ますます大きなエネルギーを扱うようになることでしょう。しかしその大きさに伴って責任も自覚していかないと、そのエネルギーの使用を誤り、自然を破壊し、進化が止まってしまうということも考えられないことはありません。が、実際にはそういう事態にはまずならないでしょう。

進化は螺旋形を画きながら広がっていきます。時には上昇し時には下降することもありますが、ぐるぐると円を画きながら、どんどん、どんどん広がりつつ進化しております」


───霊界では雨乞いのような祈りは問題にしないということでしょうか。

 「しません。たとえ誠心誠意のものでも、何の効果もありません。法則は変えられないのです。自然現象をいろいろな予兆と結び付ける人がいますが、あれはすべて迷信です。私たちが訴えるのは知識であり理性です」


───医師と看護婦に力を貸すための祈りが多くのスピリチュアリスト教会で行われておりますが、いっそのことその医師や看護婦が心霊治療家になれるよう祈る方が賢明ではないかと思うのですが・・・

 「その方がずっと賢明でしょうが、そう祈ったから必ずそうなるというものではありません。地上世界には祈りについて大きな誤解があります。いかに謙虚な気持からであっても、人間からみてこうあるべきだと思うことを神に訴えるのが祈りではありません。

 神は全知全能ですから、医師その他が霊力についての知識を持つことが好ましいことくらいは知っております。それを祈りによって神に訴えたところで、それだけで医師や看護婦が心霊治療家に早変わりするものではありません。

 祈りとは魂の行です。より大きな自我を発見し、物的束縛から脱して、本来一体となっているべき高級エネルギーとの一体を求めるための手段です。

 ですから、真の祈りとは魂が生気を取り戻し、力を増幅するための手段、言い変えれば、より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段であると言えます。

それによって神の意志との調和が深められるべきものです。自己を内観することによってそこに神の認識を誤らせている不完全さと欠陥を見出し、それを是正して少しでも完全に近づき、神性を宿す存在により相応しい生き方をしようと決意を新たにするための行為です」


───それが出来ないときはどうしたらよいのでしょう。

 「どうしても出来ないと観念された方は祈らない方がよろしい。祈りとは精神と霊の〝行〟です。それを通じて宇宙の大霊との一体を求める行為です。もしそれが祈りによって成就出来ない時、いくら祈ってもうまくいかない時は、それはその方が祈りによってそれを求めるのが適さない方であることを意味しています。

祈りは行為に先行するものです。つまり、より大きい生命との直結を求め、それが当人の存在を溢れんばかりに満たし、宇宙の大意識と一体となり、その結果として霊的強化と防備を得て奉仕への態勢固めをすることです。これが私が理解しているところの祈りです」


 訳者註───シルバーバーチは〝祈らない方がよい〟と述べて、その具体的な理由は述べていないが、筆者の師である間部詮敦氏はシルバーバーチと全く同じことを述べて、その理由を〝そうした不安定な状態で精神統一を続けていると邪霊に憑かれやすいから〟と言われた。

そして具体的に精神統一の時間を十五分ないし三十分程度とし、それ以上は続けない方がよいと言われた。

 これに筆者の私見を加えさせていただけば、人間はそれぞれの仕事に熱中している状態が最も精神が統一されており、それが祈りと同じ効果をもたらすものと信じている。宇宙の大霊との合体を求めての祈りなどを言われても、普通一般の日常生活においてそれを求めること自体が無理であり、無用でもあろう。

大体そうしものは求めようとして求められるものではなく、生涯に一度あるかないかの特殊な体験───絶体絶命の窮地において、守護霊その他の配慮のもとに〝演出〟されるものであると筆者は考えている。

 それを敢えて求めようとするのは、霊的法則をよくよく理解している人は別として、きわめて危険ですらある。と言うのは、神人合一といわれる境地にもピンからキリまであり、シルバーバーチも〝高僧が割然大悟したといっても高級界からみれば煤けたガラス越しに見た程度に過ぎない〟と言っているほどである。

ところが本人はそうは思わない。煤けたガラス越しにでも実在を見たのならまだしも、単なる自己暗示、潜在意識の反映にすぎないものを持って〝悟り〟と錯覚し、大変な霊格者になったような気分になっていく。そこが怖いのである。

 地上の人間はあくまで地上の人間らしく、五感を正しく使って生活するのが本来の生き方であって、霊的なことは必要な時に必要なものを体験させてくれるものと信じて平凡に徹することである、というのが筆者の基本的生活態度である。

シルバーバーチが祈りについて高等なことを述べたのは質問されたからであり、だから〝出来ないと観念した人は祈らない方がよい〟と言うことにもなった。

 シルバーバーチ霊は三千年も前に地上を去り、すでに煩悩の世界を超脱した、日本流で言えば八百万の神々の一柱と言うべき高級霊であることを忘れてはならない。

シアトルの春 絶対不変の摂理

 invariant disproportionate rule



Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor



 「宇宙の大霊すなわち神は無限の存在です。そしてあなた方もその大霊の一分子です。不動の信念を持って正しい生活を送れば、きっとその恩恵に浴することができます。このことに例外はありません。いかなる身分の人であろうと、魂が何かを求め、その人の信仰に間違いがなければ、かならずやそれを手にすることができます。

 それが神の摂理なのです。その摂理に調和しさえすれば、かならずや良い結果が得られます。もしも良い結果が得られないとすれば、それは摂理と調和していないことを証明しているに過ぎません。

地上の歴史を繙(ひもと) けば、いかに身分の低い者でも、いかに貧しい人でも、その摂理に忠実に生きて決して裏切られることのなかった人々が大勢いることが分かります。忠実に生きずして摂理に文句を言う人間を引き合いに出してはいけません。

 時として酷しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。そんな時は神の象徴であるところの太陽に向かってこう述べるのです。

 ───自分は神の一部なのだ。不滅なのだ。永遠の存在なのだ。無限の可能性を宿しているのだ。その自分が限りある物質界のことで挫けるものか、と。そう言えるようになれば、決して挫けることありません。

 多くの人間はまず不安を抱きます。本当にそうなのだろうかと訝(いぶか)ります。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。〝完き愛は恐れを払う〟(ヨハネ①4・18)〝まず神の御国と義を求めよ。さらばすべてが汝のものとならん〟(ルカ12・31)

 これは遠いむかし神の摂理を理解した者(イエス)によって説かれました。勇気を持って実践すれば必ず成就されることを身をもって示しました。あなたもその摂理が働くような心構えができれば、何事も望みどおりの結果が得られます。

 もう一つ別の摂理をお教えしましょう。代価を払わずして価値あるものを手に入れることはできないということです。よい霊媒現象を得たいと思えばそれなりの感受性を磨かなくてはなりません。

また、この世的な富を蓄積しているとそれなりの代価を支払わされます。つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされることになります。

 人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなた方一人ひとりが神の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産もその霊の宝に優るものはありません。私どもはあなた方に内在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩の土塊(どかい)の中に埋もれた霊のダイヤモンドをお見せしようとしているのです。

 できるだけ高い界のバイブレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して宇宙で一人ぼっちでないこと、いつも周りに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚していただきたい。

そして霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知っていただきたい。そう願っているのです。
 
 人間は同胞のために自分を役立てることによって神に仕えることになります。その関係を維持しているかぎりその人は神のふところに抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。

 単なる信仰、盲目的な信仰は烈しい嵐にひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし立証された知識の土台の上に築かれた信仰はいかなる嵐にもびくともしません。

 いまだ証を見ずして死後の生命を信じることのできる人は幸せです。が、証を手にしてそれをもとに宇宙の摂理が愛と叡知によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることのできる人はその三倍も幸せです。

(訳者注──死後にも生命があることは証明できたが、それが永遠に続くものであるかどうかは、証明の問題では無く信仰の問題である。それは高級霊にとっても同じで、だから究極のことは知らない。とシルバーバーチは明言するのである)

 ここにお集まりの皆さんは完璧な信仰を持っていなければなりません。なぜならば皆さんは死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。霊力の証を手にしておられるからです。

そこまでくれば、さらに、今度は万事が良きに計らわれていること、神の摂理に調和しさえすれば幸せな結果がもたらされるとの信念を持たれてしかるべきです。

無明から生れるもの───あなた方のいう〝悪〟の要素によって迷わされることは絶対にないとの信念に生きなくてはいけません。自分は神の摂理による保護のもとに生き、活動しているのだという信念です。  

 心に邪なものさえなければ善なるものしか近づきません。善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。こちらの世界からも神の使徒しか近づきません。あなた方には何一つ恐れるものはありません。

あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹き込まんとする力は、宇宙の大霊から来る力に他ならないのです。

 その力はいかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。心の嵐を鎮め、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何一つ恐れるものはありません。

 完(まった)き信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐します。恐れは無知から生まれるものだからです。進化せる魂はいついかなる時も怖れることを知りません。なぜならば自分に神が宿るからには人生のいかなる出来ごとも克服できないものは有りえないことを悟っているからです。

 恐怖心は自ら魂の牢獄をこしらえます。皆さんはその恐怖心を達観しそのバイブレーションによって心を乱されることなく、完璧な信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩の気構えでこう宣言できるようでなければなりません───自分は神なのだ。足元の事情などには迷わされない。

いかなる困難も内部の無限の霊力できっと克服してみせる、と。その通り、人間はあらゆる環境を支配する力を所有しているのです。それを何を好んで(恐怖心などで)縮こませるのでしょう。

 神は物的なものも霊的なものも支配しております。神の目からすれば両者に区別はありません。ですから物の生命を霊の生命から切り離して考えてはなりません。決して水と油のように分離したものではありません。両者とも一大生命体を構成する不可分の要素であり、物的なものは霊的なものに働きかけ、霊的なものは物的なものに働きかけております。

 ですから、あなた方のように霊力の恵みを受けておられる方にとっては、いついかなる場においても神の存在を意識した生き方をしているかぎり、克服できない困難は絶対にふりかからないという信念に燃えなくてはなりません。

 世の中のいかなる障害も、神の目から見てそれが取り除かれるべきものであればきっと取り除かれます。万が一にもあなたの苦難が余りに大きくて耐え切れそうになく思えた時はこう理解して下さい───私の方でも向上進化の足を止めてあなたのために精一杯のことをして差し上げますが、今はじっとその苦難に耐え、それがもたらす教訓を学び取るように心掛ける方が賢明である場合がある、ということです。

 地上の人間の全てが自分が人間的煩悩と同時に神的属性も具えていることを自覚するようになれば、地上生活がどれだけ生き易くなることでしょう。トラブルはすぐに解決され、障害はすぐに取り除かれることでしょう。

しかし人間は心の奥に潜在する霊力をあまり信じようとしません。人間的煩悩はあくまでも地上だけのものです。神的属性は宇宙の大霊のものです。

 その昔〝この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ〟と言う訓え(※)が説かれましたが、死後の生命への信仰心に欠ける地上の人間にはそれを実践する勇気がありません。金持ちを羨ましがり金持ちの生活には悩みが無いかのような口を利きます。

金持ちには金持ちとしての悩みがあることを知らないからです。神の摂理は財産の多い少ないでごまかされるものではありません。

(※この世にありながら、この世的な俗人となるなというイエスの訓えで、確かに聖書にそういう意味のことを説いている箇所があるが、そっくりそのままの言葉は見当たらない。モーゼスの『霊訓』の中でも引用されているところをみると、地上の記録に残っていないだけで霊界の記録には記されているのであろう。オーエンの『ベールの彼方の生活』の通信霊の一人が〝われわれがキリストの地上での行状を語る時は霊界の記録簿を参照している〟と述べている。訳者)

 人間が地上にあるのは人格を形成するためです。降りかかる問題をどう処理して行くかがその人の性格を決定づけます。が、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものであり、一方あなたという存在は大霊の一部であり、神性を宿しているからには、あなたにとって克服できないほど大きな問題は絶対に生じません。

 心の平和は一つしかありません。神と一体となった者にのみ訪れる平和、神の御心と一つになり、神の大いなる意志と一つになった人に訪れる平和、魂も精神も心も神と一体となった者にのみ訪れる平和です。そうなった時の安らぎこそ真の平和です。神の摂理と調和するからです。それ以外には平和はありません。

 私にできることは摂理をお教えするだけです。その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。 有為転変の物質の世界に神の国があるはずはありません。魂の中に存在するのです。

 神の摂理は精細をきわめ完璧ですから、一切のごまかしが利きません。悪の報いを免れることは絶対にできませんし、善が報われずに終わることもありません。ただ、永遠の摂理を物質という束の間の存在の目で判断してはいけません。より大きなものをご覧にならずに小さいものを判断してはいけません。
      
 地上の束の間の喜びを永遠なる霊的なものと混同してはなりません。地上のよろこびは安ピカであり気まぐれです。あなた方は地上の感覚で物事を考え、私どもは霊の目で見ます。摂理を曲げてまで人間のよろこびそうなことを説くのは私にはとてもできません。

 私どもの世界から戻ってくる霊にお聞きになれば、みな口を揃えて摂理の完璧さを口にするはずです。そのスピリットたちは二度と物質の世界へ誕生したいとは思いません。

ところが人間はその面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。そこで私が、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。最大の財産は霊の財産だからです。

 どこまで向上してもなお自分に満足出来ない人がいます。そういうタイプの人は霊の世界へきても満足しません。不完全な自分に不満を覚えるのです。神の道具として十分でないことを自覚するのです。艱難辛苦を通してまだまだ魂に磨きをかけ神性を発揮しなければならないことを認識するのです。

 しなければならないことがあるのを自覚しながら心の安らぎが得られるでしょうか。地上の同胞が、知っておくべき真理も知らされず、神の名のもとに誤った教えを聞かされている事実を前にして、私どもが安閑としておれると思われますか。

 光があるべきところに闇があり、自由であるべき魂が煩悩に負けて牢獄に閉じ込められ、人間の過ちによって惹き起こされた混乱を目のあたりにして、私どもが平気な顔をしていられると思われますか。

 私どもがじっとしていられなくなるのは哀れみの情に耐え切れなくなるからです。霊的存在として受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に何とかして神の愛を行きわたらせたいと願うからです。神は人間に必要不可欠なものはすべて用意して下さっています。

それが平等に行きわたっていないだけです。偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に自分だけが豊富な知識を持って平気な顔をしていられないはずです。

 私たちが地上の人間を指導するに当たっていちばん辛く思うのは、時としてあなた方が苦しむのを敢えて傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということが判っているだけに、側から手出しをしてはならないことがあるのです。

 首尾よく本人が勝利を収めれば、それは私たちの勝利でもあります。挫折すれば私たちの敗北でもあります。いついかなる時も私たちにとっての闘いでもあるのです。それでいて指一本援助してはならないことがあるのです。

 私も、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。でも、ここは絶対に手出しをしてはならないと自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。

その時の辛さは苦しんでいる本人よりも辛いものです。しかし本人みずからの力で解決すべき問題を私が代って解決してあげることは許されないのです。もしも私が指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。

もしも私がこの霊媒(バーバネル)に為すべきこと、為すべきでないことをいちいち指示し始めたら、一人間として自由意志を奪うことになるのです。その時から(霊媒としてはイザ知らず)人間としての進歩が阻害され始めます。

 霊性の発達は各自が抱える問題をどう処理していくかに掛かっています。物ごとがラクに順調に捗(はかど)るから発達するのではありません。困難が伴うからこそ発達するのです。が、そうした中にあって私達にも干渉を許される場合が生じます。

 万一私たちスピリットとしての大義名分が損なわれかねない事態に立ちいたった時は干渉します。たとえばこの霊媒を通じての仕事が阻害される可能性が生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。しかしそれが霊媒個人の霊的進化に関わる問題であれば、それを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません。


 ある日の交霊会でサークルのメンバーの間で植物の栽培が話題となった時、それを取り上げてシルバーバーチがこう語った。

 「タネ蒔きと収穫の摂理は大自然の法則の中でも、もっともっと多くの人に理解していただきたいと思っているものです。大地が〝実り〟を産み出していく自然の営みの中に、神の摂理がいかに不変絶対であるかの教訓を読み取るべきです。

大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、大自然の仕組みの素晴らしさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、その全てを計画した宇宙の大精神すなわち神の御心をいくばくかでも悟られるはずです。

 蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因(タネ)は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの結果(みのり)をもたらします。自然界について言えることは人間界についてもそのまま当てはまります。

 利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑(かたく)な人、利己的な人は不寛容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。

いかなる宗教的儀式、いかなる賛美歌、いかなる祈り、いかなる聖典を持ってしても、その因果律に干渉し都合のよいように変えることはできません。

 発生した原因は数学的・機械的正確さを持って結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかはありません。

 その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げる事を通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されて初めて成長するのです。

邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。

 いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しています。その一つひとつが神の計画に沿って調和して働いています。この事実を推し進めて考えれば、世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活で責任を果たすべきであり、それを誰かに転嫁できるかのように教える誤った神学を一刻も早く棄て去るべきであることになります。

 人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡知と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは神が全部用意して下さっております。材料は揃っているのです。あとは各自がそれをいかに有効に使用するかに掛かっております」

 このようにシルバーバーチにとっては摂理そのものが神であり、神とは摂理そのものを意味する。別の交霊会でこう述べている。

 「人間的な感情を具えた神は、人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。悪魔も人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。それもこれも視野の狭い人間による想像の産物です。

神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら、世の中が不変不滅、無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰ひ一人としてこの宇宙から忘れ去られることがないことを悟ることができるからです。

 神が全てを知り尽くしているのも法則があればこそです。法則だからこそ何一つ見落とされることがないのです。法則だからこそ人生のあらゆる側面がこの大宇宙にその存在場所を得ているのです。人生のありとあらゆる側面が───いかに些細なことでも、いかに大きな問題でも───決して見逃されることがありません。全てが法則によって経綸されているからです。法則なくしては何ものも存在し得ません。

法則は絶対です。人間の自由意志が混乱を惹き起こし、その法則の働きを見きわめにくくすることはあっても、法則そのものは厳然と存在し機能しております。私は神学はこれまで人類にとって大きな呪いとなっていたと信じます。しかしその呪われた時代は事実上過ぎ去りました」

(訳者注───第二巻ならびに第三巻の〝あとがき〟で説明したとおり、シルバーバーチは同じ単語を冠詞の用い方で使い分けることが多く、ここでも一般に法律や法則を指す law を a law ,the law, laws,the laws, そしてただの law, さらにこれらを大文字にしたりしており、私はその場に応じて、法則、摂理、理法、絶対的原理、真理、神のおきて、あるいは働き等々と訳し変えている。

シルバーバーチも言っている通り霊的な内容を地上の言語で完璧に表現することは所詮無理なことであるから、用語そのものにあまり拘らずに全体としての意味を汲み取っていただければ結構である )

 さらにシルバーバーチはこれからはその法則を絶対的信仰対象にすべきであると説いてこう続ける。

 「私たちは神の摂理を説いているのです。摂理こそ地上に健康と幸福をもたらすと信じるからです。教会で(聖書を絶対のものとして)説教している人たちは、いずれその誤りを初めから是正させられる日が来ます。法則から逃れることはできません。

誰一人として免れることのできる人はいません。なかんずく霊の声を聞いたものは尚さらです。そうと知りつつ実行しない者は、知らずして実行しない者より責任は重大です。

 いったん心眼が開かれ霊力を伴った愛を受け入れた人、つまり霊的真理の啓示に目覚めた人が、そのあと万一それなりの責任を果たさなかったら、その人はいっそう大きな罰をこうむります。

なぜなら、そうと知りつつ怠ったのであり、そうとは知らずに怠ったのではないからです。立派な霊媒になれるはずなのに銀貨三十枚で霊的才能を売ってしまっている人が数多くいます。(訳者注──最後の晩餐の直前にイエスの弟子の一人ユダが、イエスを補縛せんとする側と密通して銀貨三十枚を貰ったことから〝裏切りの値〟としてよく用いられるが、ここではシルバーバーチは摂理に背くことを神への裏切り行為として述べている)

 神は人間の全てに内在しております。無論人類はありとあらゆる進化の形態を経て今日に至り、したがって誰しも遺伝的に動物的性向を宿してはおりますが、同時にそれらの全てに優るものとして神の属性も宿しており、それを機能させ発揮しさえすれば、地上生活を神の如く生きることができます」

 あらゆる病を治し、あらゆる困難を克服する力を人間の一人ひとりが宿している事実を地上人類はいまだに悟っておりません。心身が衰弱した時に引き出せる霊力の貯蔵庫を一人ひとりが携えているのです。

〝神の御国は汝等の心の中にある〟───この言葉の真意を理解する人が何と少ないことでしょう。

 その、より大きな自我と接触する方法は神の摂理に則った生活を送ることです。が、それを実行する人が何人いるでしょうか。生活は行為だけで成り立っているのではありません。口にすること、心に思うことによっても成り立っております。

行為さえ立派であれば良いというものではありません。むろん行為が一ばん大切です。しかし口をついて出る言葉、心に思うこともあなたの一部です。人間は往々にして思念の主人でなく奴隷になっている、とはよく言われることです」


普遍的な同胞精神の必要性を説いて───

 「私たちは一人の例外もなく神の一部です。赤い肌をした者(銅色人種)もいれば黒い肌をした者もおり、黄色い肌をした者もいれば白い肌をした者もいます。が、その一つひとつが全体の組織の一部を構成しているのです。

 そのうち神の摂理が地上全体で理解され、あらゆる肌色をした人種が混り合い、お互いに愛念を抱いて生活する調和のとれた地上天国が実現する日が来ます。今のあなた方にはそうした肌の色の違いが何を意味しているかは理解できません。が、その一つひとつに目的があり、それなりに生命の法則に貢献しているのです。

 そのすべてが融合し合うまでは地上にいかなる平和も訪れません。言いかえれば表面の肌色でなく、その奥の魂を見つめるようになるまでは真の平和は訪れません。

 このサークル───レギュラー・メンバーとシルバーバーチ霊団───がほぼ世界中の民族から構成されていることに気づかれたことがおありでしょうか。そのことにも地上人類への教訓が意図されているのです。

 私たちはどの民族にも他の民族にない特有の要素があって全体の為に寄与していることを学んだのです。各民族が全体にとって最善のものを持ち寄るのです。今までのところ地上人類は黄色人種は黄色人種なりに、白色人種は白色人種なりに、他の人種にない存在価値があることを理解しておりません。

 あなた方一人ひとりが神の構成分子であることを忘れてはなりません。お一人お一人が神の仕事、神の力、神の愛、神の知識に寄与することができるということです。自分より力の劣る人に手を貸すという、それだけの行為が、あなたを通じて神が顕現しようとする行為でもあるということになります。

 いかなる方法でもよいのです。相手が誰であってもよいのです。どこであってもよいのです。倒れた人に手を貸して起き上がらせ、衰弱した人に力を与え、暗闇に迷う人に光明をもたらし、飢えに苦しむ人に食べ物を与え、寝る場所とて見出せない人に安眠の場を提供してあげるという、その行為が大切です。

 そうした行為の一つひとつが神の仕事なのです。人間がそう努力するとき、そこには必ず霊界から支え、鼓舞し、援助せんとする力が加わり、予期した以上の成果が得られます。

 神が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院の中だけではありません。霊力に反応する人であればいつでもどこでも神の道具となります。神の力によって魂を鼓舞された人、高き天上界からの熱誠に感動して崇高なる憧憬に燃える人はみな神の道具です。

 地上界はいまだに神の力を特殊なものに限定し、聖霊の働きかける通路はかくかくしかじかの人でなければならないと勝手に決めてかかっておりますが、神はインスピレーションに感応する人、神の御心に適った生き方をしている人、神の摂理に従順な人であれば、どこの誰であろうと道具として使用します。

 その力は一切の地上的差別を無視します。地位や肩書、社会的階層の上下、肌の色、人種、国家、階級の別は構いません。場所がどこであろうと、誰であろうと、その力に反応する人に働きかけ、真理の大根源からの霊力を注ぎ、心を啓発し、魂を鼓舞し、宇宙という名の神の大農園の働き手として雇います。

 どうか皆さんもこの教訓を会得され、神の為に、人生の暗闇と重圧と嵐の中で難渋している神の子等を救う決意を固められ、彼らの重荷を軽くしてあげ、新たな希望と知識と光と力をもたらしてあげていただきたいのです。

それによって彼らの身体に新たなエネルギーが湧き、精神は勇気に満ち、霊は新たな意気に燃えて、神の恩恵を噛みしめることになるでしょう。同時にあなた方も人のために自分を役立てることの喜び───自分のためには何も求めず、ひたすら他人の心を高揚してあげる仕事の真の喜びを味わうことになるでしょう」

 霊的摂理の存在を知った者の責任の重大性を説いて───

 「地上の同胞の心身の糧となる霊的事実の中継役をする人たちには大変な責任が担わされています。その態度いかんが地上生活において、あるいは霊の世界へ来てから、その責任を問われることになります。

 霊界からの情報をしきりに求めながら、それを同胞の為に活用することをまるでしようとしない人に、私は時折うんざりさせられることがあります。そういう人は霊の述べたことなら何でも〝高等な訓え〟として有難がるのですが、各自が霊性の成長とともに神の摂理の働きをより多く理解していくのですから、訓えそのものに高級も低級もありません。

 もし彼らが自分の得た知識を活用して地上をより良い生活の場、つまり食に飢える人も喉を乾かしている人もなく、神の陽光がふんだんに降り注ぐ家に住むことが出来るような世の中にするために何かを為せば、それこそ最高の訓えを実践をしていることになりましょう」


 続いて自由意志との関連について───
 「人間は戦争が起きると〝なぜ神は戦争を中止させないのか〟 〝なぜ神は戦争が起きないようにしてくれないのか〟と言って私たちを批難します。しかし神の摂理をみずから無視しているかぎり、その責任は人間自身にあります。

 自分の行為による結果だけは避けようとする、そういうムシのいい考えは許されません。神の摂理は私たちも変えることはできません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばなりません。高慢、嫉妬、怨恨、貪欲、悪意、不信、猜疑心───こうしたものが実れば当然のことながら戦争、衝突、仲違いとなります。

 神の摂理を説こうとしている私たちは、こうして地上へ戻ってくる真の目的を理解していない人たちから(先ほど述べたように)よく批難されます。しかし私たちの目的は摂理を説くことでしかないのです。

この世には大自然の摂理しか存在しないからです。それをあなた方が宗教と呼ぼうと科学と呼ぼうと、あるいは哲学と呼ぼうと、それはどうでもよいことです。

 誰であろうと───一個人であろうと、大勢であろうと、民族全体であろうと国民全体であろうと───摂理に反したことをすれば必ずそれなりのツケが回ってきます。いつも申しておりますように、その摂理の働きは完璧です。時としてそれがあなた方人間には見きわめられないことがありますが、因果律は間違いなく働きます。法則だからです。このことはこれまで何度も説いてまいりました。ここでも改めて申しあげます───宇宙には大自然の法則、神の摂理しか存在しない、と。

 ですから、その摂理に順応して生きることが何よりも大切であることを人類が悟るまでは、地上に混乱と挫折と災害と破滅が絶えないことでしょう。私たちに出来るのは永遠の霊的原理をお教えすることだけです。物的なものがすべて朽ち果て灰燼(かいじん)に帰した後もなお残るのはそれだけだからです。

物的なものしか目に映じない人間は、幻影を追い求め永遠を忘れるために大きな過ちを犯すのです。いたって単純な真理ばかりです。が、地上人類はいまだにそれを悟れずにいます。

 霊界からいかなる手段を講じてもなお悟れないとすれば、苦痛と涙、流血と悲劇を通じて悟るほかはありません。私としてはこうした形で、つまり愛と協調の精神の中で悟って頂きたいのです。

ですが、それが叶えられない───つまり霊的手段ではだめということになれば、摂理に背いた生き方をしてその間違いを思い知らされるほかはありません。地上で偉人とされている人が必ずしも私たちの世界で偉人であるとは限りません。

私たちにとっての偉人は魂の偉大さ、霊の偉大さ、人のためを思う気持ちの大きさです。こうしたものは物的世界のケバケバしさが消えたあとも末永く残ります。

 自由意志は神からの授かりものです。ですが、その使い方を誤ればそれなりの償いをしなくてはなりません。地上世界が神の摂理に適った生き方をすれば、その恩恵がもたらさせます。摂理に背いた生き方をすれば、良からぬ結果がもたらされます。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱をもたらします。

 私たちは今、神の子の指導者であるべき人たちから軽蔑されております。神とその愛の旗印のもとに訪れるのですから歓迎されてよいはずなのに、彼らは私たちを受け入れようとしません。地上の人たちに何とかしてあげたいという願望に駆られて、みずからの力でみずからを救うための霊的理法と霊力の存在を明かそうと努力しているのですが・・・。

 ですが、霊的盲目による無知の中に浸り切り、祭礼や儀式に取り囲まれ、しかも今の時代に聖霊による地上への働きかけがあることを認めようとしない聖職者は、いずれその代償を払わされることになります。

私たちは人のためになることをしようとする人なら、いかなる分野の人でも味方として歓迎します。私たちにとっての敵は破壊的態度に出る人たちだけです。私たちは愛と奉仕の翼に乗って、援助の手を差し伸べられるところならどこへでも参ります。それが私たちに課せられた大切な使命なのです。

 むろんその過程において数々の困難や障害に遭遇することは承知しております。それを何とか克服していかねばなりません。汐は満ちたり引いたりします。が、確実に勝利に向かっております。私たちだけでは仕事らしい仕事はできません。あなた方地上の同志と手を握り合えばいくばくかの仕事はできます。

たった一個の魂でも目覚めさせれば、たった一人でも暗闇から光明へ導くことができれば、たった一人でも弱った人に元気を与え、悩める人に慰めを与えることができれば、それだけで私たちは立派な仕事を成し遂げたことになります」

 個々の人生に宿命的な流れがあるという意味において自由意志にも限度があるということにならないかとの質問に答えて───

 「人生にある種の傾向、つまり波動の流れがあることは事実ですが、どうしようもないものではありません。人間は常に各種の放射物や影響力によって囲まれており、その多くが個々の運動を左右する可能性を持っていることは事実です。

しかし神は全ての人間に自分の一部、大霊の分霊を賦与しています。それには、各自の進化の程度に応じて自由意志を正しく行使しさえすれば、その発現の障害となるものすべてを克服する力が秘められております。なぜなら一人ひとりが即ち神であり、神は即ちあなたがた一人ひとりだからです。

 神性を宿した種子は一人の例外もなくすべての人間に植えられております。その小さな種子は畑に蒔かれた種子と同じく正常な生長を促す養分さえ与えれば、やがて芽を出し、花を咲かせ、そして美事な実をつけます。

 その種子は神があなた方の魂に植えて下さっているのです。が、その手入れをするのは自分自身です。いつ花を咲かせるか、あるいは、果たして首尾よく花を咲かせるかどうかは、ひとえに各自の努力に掛っております。各自には自由意志があります。

もしもその種子を暗闇の中に閉じ込めて霊的成長のための光、慈善の光、善行の光を与えずにおけば、神の属性はいつになっても発揮されることはありません」
                  

シアトルの春 質問に答える  

answer a question
Wisdom of Silver Birch


 
───愛とは何でしょうか。

 「気が合うというだけの友情、趣味が同じだということから生れる友愛から、己を忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕的精神に至るまで、愛は数多くの形態をとります。地上では愛 Love という言葉が誤って用いられております。

愛とは言えないものまで愛だ愛だとさかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものを愛だと錯覚している人もいます。が、私が理解しているかぎりで言えば、愛とは魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神との繋がりを悟った時におのずから湧き出てくる魂の欲求です。最高の愛には一かけらの利己性もありません。

すなわち、その欲求を満たそうとする活動に何一つ自分のためにという要素がありません。それが最高の人間的な愛です。それが人類の啓発を志す人々、困窮する者への救済を志す人々、弱き者への扶助を願う人々、そして人生の喜びを踏みにじる既得権力との闘いを挑む人々の魂を鼓舞してきました。

 母国において、あるいは他国へ赴いて、そうした愛他的動機から人類の向上のために、言いかえれば内部に秘めた無限の可能性を悟らせるために尽力する人は、愛を最高の形で表現している人です。その表現形態にもさまざまな段階(らんく)があります。

愛の対象に対する働きかけという点では同じであっても、おのずから程度の差があります。最も程度の低い愛、狭隘(きょうあい)で、好意を覚える者だけを庇 (かば) い、そして援助し、見知らぬ者には一かけらの哀れみも同情も慈愛も感じない者もいます。

しかし宇宙には神の愛が行きわたっております。その愛が天体の運行を定め、その愛が進化を規制し、その愛が恵みを与え、その愛が高級霊の魂を鼓舞し、それまでに成就したもの全部をお預けにして、この冷たく薄暗い、魅力に乏しい地上へ戻って人類の救済に当らせているのです」


───自分の思念には全て自分が責任を取らなければならないでしょうか。

 「(精神障害などがある場合は別として)一般に正常とみなされている状態においては、自分の言動に全責任を負わねばなりません。これは厳しい試練です。行為こそが絶対的な重要性をもちます。

いかなる立場の人間にも人のために為すべき仕事、自分の霊性を高めるべき好機(ちゃんす)、霊の成長を促進するための機会が与えられるものです。

有徳の人や聖人君子だけが与えられるのではありません。すべての人に与えられ、その好機の活用の仕方、ないしは疎かにした度合いに応じて、霊性が強化されたり弱められたりします」


───子供はそちらへ行ってからでも成人していくと聞いておりますが、(霊媒の)子供の背後霊が何年たっても子供のままだったり、十八年も二十年も前に他界した子供がその時のままの姿恰好で出てくるのはなぜでしょうか。

 「地上の人間はいつまでも子供っぽい人を変だと見るかと思うと、一方では子供の無邪気さを愛するような口を利きます。しかも、人類のために敢えて幼児の段階に留まる手段を選んでいる霊を変だとおっしゃいます。幼児の方が得をする理由は容易に理解できます。

幼児は大人にありがちな障壁がありません。きわめて自然に、何時も新鮮な視点から物事を眺めることができます。大人が抱える問題に悩まされることもないので、通信のチャンネルとして好都合なのです。

大人にありがちな寛容性を欠いた先入観や偏見が少ないために仕事がスムーズに運びます。いつも生き生きとして新鮮味を持って仕事に携わり、大人の世界の煩わしさがありません。煩わされないだけ、それだけ霊的交信に必要な繊細なバイブレーションをすぐキャッチできるのです。

 しかし実はその幼児の個性は、大人の霊が仕事のために一時的にまとっている仮の衣服である場合が多いのです。仕事を終えればいつでも高い世界へ戻って、それまでの生活で開発したより大きな意識の糸をたぐり寄せることができます。

変だと決めつけてはいけません。こういう霊をトプシー(Topsy)と言います。こういう形で自分を犠牲にして地上の人々のために働いている神の愛すべき道具なのです。

 何年も前に他界した子供がそのままの姿で出現するのは、自分の存続の証拠として確認してもらうためです。身元の確認を問題にされる時に忘れてならないことは、他界した時点での姿や性格やクセを持ち、その時の姿のままを見せないとあなた方が承知してくれないということです。

そこで霊媒に影像を見せてそれを伝達させます。言わばテレビの画像のようなものです。霊媒が自分の精神のスクリーンに映った映像を見て叙述するわけです。直接談話であれば映像を見せる代わりにエクトプラズムで他界当時と同じ発声器官をこしらえます。条件さえうまく整えば、地上時代とそっくりな声が再生できます」



───子供のころから動物に対して残酷なことをして育った場合はそちらでどんな取り扱いを受けるのでしょうか。動物の世話でもさせられるのでしょうか。

 「人間の永い歴史を通じて、動物がいかに人間にとって役立ってきたかを教えることによって、地上時代の間違った考えを改めさせないといけません。動物界をあちらこちらへ案内して、本来動物というものが本当に動物を愛し理解する人間と接触するといかに愛らしいものであるかを実際に見せてやります。

知識が増すにつれて誤った考えが少しずつ改められていきます。結局は残酷を働いたその影響は、動物だけでなくそれを働いた人間にも表われるものであることを悟ることになります」


───他界する者の大多数が死後の生活の知識を持ち合わせません。他界直後は目まいのような状態にあり、自分が死んだことに気づきません。それは子供の場合も同じでしょうか。それとも本能的に新しい生活に順応していくのでしょうか。

 「それはその子供の知識次第です。地上の無知や迷信に汚染されすぎていなければ、本来の霊的資質に基づく自然な理解力によって新たな自覚が生まれます」


───人間が寿命を完うせずに〝死ぬ〟ことを神が許されることがあるのでしょうか。

 「神の意図は人間がより素晴らしい霊的生活への備えを地上生活において十分に身につけることです。熟さないうちに落ちた果実がまずいのと同じで、割り当てられた地上生活を完うせずに他界した霊は新しい世界への備えが十分ではありません。」


───子供が事故で死亡した場合、それは神の意図だったのでしょうか。

 「これは難しい問題です。答としては〝イエス〟なのですが、ただし書きが必要です。地上生活はすべて摂理によって支配され、その摂理の最高責任者は神です。しかしその摂理は人間を通じて作用します。究極的にはすべて神の責任に帰着しますが、だからといって自分が間違ったことをしでかしておいて、これは神が私にそうさせたのだから私の責任ではないという理屈は通用しません。

神がこの宇宙を創造し、叡知によって支配している以上は、最終的には神が全責任を負いますが、あなた方人間にも叡知があります。理性的判断力があります。自分で勝手に鉄道の線路の上に頭を置いておいて神に責任を求めても何にもなりません」


───いわゆる〝神童〟について説明していただけませんか。

 「三つの種類があります。一つは過去世の体験をそのまま携えて再生した人。二つ目はたとえ無意識であっても霊媒的素質を具えた人で、霊界の学問や叡知、知識、真理等を直接的にキャッチする人、三つ目は進化の前衛としての、いわゆる天才です」


───〝豚に真珠を与える勿れ〟と言ったイエスの真意は何でしょうか。

 「自分では立派な真理だと思っても、受け入れる用意のできていない人に無理やりに押しつけてはいけないということです。拒絶されるから余計なことはするなという意味ではありません。拒絶されることなら、イエスの生活は拒絶の連続でした。

そんな意味ではなく、知識、真理、理解を広めようとする努力が軽蔑と侮辱をもって迎えられるような時は、そういう連中は見る目を持たないのだから、美しいものを無理して見せようとせずに身を引きなさいという意味です」


───一身上の問題で指導を仰ぐことは許されるでしょうか。

 「それは許されます。ただ、霊的なことに興味はあっても真髄を理解していない人に説明する時は慎重を要します。うっかりすると霊界からの援助を自分の御利益のためだけに不当に利用しているかの印象を与えかねません。

スピリチュアリズムの基本はつまるところ物的な豊かさよりも霊的な豊かさを求めることであり、自分自身と宇宙と神についての実相を理解する上で基本となるべき摂理と実在を知ることです。むろん物的生活と霊的生活とは互いに融合し調和しております。

両者の間にはっきりとした一線を画すことはできません。霊的なものが物的世界へ顕現し、物的なものが霊的なものへ制約を与え、条件づけております」


───この世に生きる目的は、霊的なものを制約するものを排除し、霊的本性が肉体を通してより多く顕現するようにすることだと私は理解しておりますが・・・・・・。

 「その通りです。地上生活の目的はそれに尽きます。そうすることによって自分とは何かを悟っていくことです。自分を単なる肉体であり他の何ものでもないと思い込んでいる人は大きな幻影の中で生活しており、いつかは厳しい実在に目覚める日が来ます。

その日は地上生活中に訪れるかも知れないし、こちらへ来てからになるかもしれません。そちらにいるうちの方がはるかに有利です。なぜなら地上には魂の成長と進化と顕現のための条件が全部そろっているからです。

人間は地上生活中に身体機能ならびに霊的機能を存分に発揮するように意図されているのです。霊的なことにのみこだわって身体を具えた人間としての義務を怠ることは、身体上のことばかりに目を奪われて霊的存在としての責務を疎かにするのと同じく、間違っております。両者が完全なバランスが取れていなければなりません。

その状態で初めて、この世にありながら俗世に染まない生き方ができることになります。つまり身体は神聖を帯びた霊の〝宮〟として大事にし、管理し、手入れをする。すると成長と進化の過程にある霊が身体を通してその成長と進化の機会を与えられる、ということです」


───心霊治療を始めるには治療家自身がまず完全な健康体でなければならないのでしょうか。

 「むろん誰しも完全な健康体であるのが望ましいに決まっています。ただし、霊力によって病気を治す人も霊媒と同じく〝道具〟です。つまり自分が受けたものを伝達する機関です。その人を通して霊力が流れるということです。

言わば〝通路〟であり、それも内部へ向けてではなくて外部へ向けて送る通路です。その人の資質、才能、能力がその人なりの形で顕現しますが、それが霊界との中継役、つまり霊媒としての資格となり、生命力と賦活力と持久力にあふれた健康エネルギーを地上へもたらす役目が果たせるのです。

その際、治療家自身の健康に欠陥があるということ自体は治病能力の障害にはなりません。治病エネルギーは霊的なものであり、欠陥は身体的なものだからです」


───精神統一によって心の静寂、内的生命との調和を得ることは健康の維持に役立つでしょうか。
 
 「自然法則と調和した生活を送り、精神と身体との関係を乱すような(摂理に違反した)行為をしなければ、すべての病気に効果があるでしょう。あるいは遺伝的疾患のない健全な身体を持って生れておれば効果があるでしょう。内部に秘められた〝健康の泉〟の活用法を知れば、すべての病気を駆逐することができることは確かです。

しかし、現実には地上に病気が蔓延している以上、事は非常に厄介です。限界があるということです。たとえば〝死ぬ〟ということは誰も避けられません。身体は用事が終われば捨てられるのが自然法則だからです。

ところが困ったことに、余りに多くの人間が内部の霊性が十分に準備ができていないうちに、つまり熟しきらないうちに肉体を捨てています。魂の鍛錬にとって必要な体験を十分に積んでいないのです。私は法則を有りのままに述べているまでです。人間にとってそれを実践するのが容易でないことは私も承知しております。

何しろ地上というところは物質が精神を支配している世界であり、精神が物質を支配していないからです。本当は精神が上であり、霊がその王様です。しかしその王国も人間の行為の上に成り立っています」


───心の静寂が得られると肉体器官にどういう影響が現われるのでしょうか。

 「それ本来の有るべき姿、つまり王たる霊の支配下に置かれます。すると全身に行きわたっている精神がその入り組んだ身体機能をコントロールします。それはその根源において生命を創造し身体を形づくった霊の指令に従って行われます。

霊はその時のあなたの身体の構成要素のあらゆる分子に対して優位を占めています。それができるようになれば完全な調和状態───あらゆる部分が他と調和し、あらゆるリズムが整い、あなたは真の自我と一体となります。不協和音もなく衝突もありません。静寂そのものです。なぜなら、霊が宇宙の大霊と一体となっているからです」


───あなたはなぜそんなに英語がお上手なのでしょう。

 「あなた方西洋人は時おり妙な態度をお取りになりますね。自分たちの言語がしゃべれることを人間的評価の一つとなさいますが、英語が上手だからといって別に霊格が高いことにはなりません。たどたどしい言葉でしゃべる人の方がはるかに霊格が高いことだってあります。

私はあなた方の言語、あなた方の習性、あなた方の慣習を永い年月をかけて勉強しました。それは私たちの世界ではごく当たり前の生活原理である〝協調〟の一貫です。いわば互譲精神(ギブアンドテイク)を実践したまでです。

 つまりあなた方の世界を援助したいと望む以上はそれなりの手段を講じなくてはならない。その手段の中には人間にとって最高の努力を要求するものがある一方、私たちにとって嫌悪感を禁じ得ないほどの、神の子としてぎりぎりの最低線まで下がらなくてはならないこともあります。

私はこうして英語国民を相手にしゃべらねばなりませんので、何年もかけて困難を克復しなければなりませんでした。あなた方から援助もいただいております。同時に、かつて地上で大人物として仰がれた人々の援助も受けております。今でも言語的表現の美しさと簡潔さで歴史にその名を残している人々が数多く援助してくれております」

(平易な文章の中に高等な思想を盛り込む技術はシルバーバーチ一人の才能から出ているのではなく、英米文学史上のかつての名文家が協力していることが窺える―訳者)


───心に念じたことは全部その霊に通じるのでしょうか。

 「そんなことはありません。その霊と波長が合うか合わないかによります。合えば通じます。バイブレーションの問題です。私と皆さん方とは波長がよく合います。ですから、皆さんの要求されることが全部受け取れます。何か要求ごとをされると、そこにバイブレーションが生じ、その〝波〟が私に伝わります。

それを受ける受信装置が私に具わっているからです。地上と霊界の間でも、魂に共感関係があれば思念や要求の全てがすぐさま伝わります」


───われわれが死ぬ前と後には霊界の医師が面倒をみてくれるのでしょうか。

 「みてくれます。霊体をスムースに肉体から引き離し、新しい生活に備える必要があるからです。臨終の床にいる人がよく肉親の霊や知らない人が側にいるのに気づくのはそのためです。魂が肉体から脱け出るのを手助けしているのです」


───昨今のような醜い地上の状態では(何回も再生を繰り返した霊でなく)まったく新しい霊が誕生する方がよいのではないでしょうか。

 「私たちは人間一人ひとりは果たすべき責任を持って生まれていると説いております。たとえ今は世界が混沌と心配と喧騒に満ち、敵意と反抗心と憎しみに満ちていても、そうした苦闘と悲劇を耐え忍ぶことの中から新しい世界の誕生が待ち受けております。そのためにはその旗手となるべき人々がいなくてはなりません。

その人たちの先導によって真一文字に突き進まねばなりません。霊は苦闘の中で、困難の中で、刻苦の中でみずからを磨かねばなりません。平坦な道でなく、困難を克服しつつ前進し、そして勝利を手にしなくてはなりません。恐怖心がいちばんの敵です。無知という名の暗黒から生まれるものだからです」

Friday, March 28, 2025

シアトルの春 多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少い

Many are called, but few are chosen.



  
結婚披露宴のたとえ話

一、イエスはたとえ話によってさらに語って言われた、「天の国は、王子の結婚披露宴を開こうとする王と同じである。その王は家来を遣わし、披露宴に招待した者を呼びに行かせたのだが、誰も来ようとしなかった。

そこで王は、別の家来たちを遣わし、招待客に次のことを伝えるように命令した、『晩餐の用意が出来ました。私の牛と山羊をみな料理して、全ての準備が整いました。披露宴へお出で下さい』。

しかし、招待された者たちは、それに気を取られる様子もなく、ある者は自分の畑へ、ある者は商売をしに出掛けてしまった。又別の者たちは、遣わされた家来を捕え、大いに侮辱した後に殺してしまった。それを知って王は怒り、軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ってしまった。

そして家来たちに言った、『結婚披露宴は完全に準備が整っているが、そこに招待していたのはふさわしい者ではなかった。ゆえに、道の交差するところへ行き、そこで出会うすべての者を披露宴に連れてきなさい』。家来たちは道へ出て行き、善い者も悪い者も、出会う者はすべて連れてきた。披露宴の席は客でいっぱいになった。

 王が入ってきて、テーブルについた人々を見回すと、そこには礼服を着ていない者が一人いた。その者に向かって王が言った、『友よ、どうして礼服を着ないでここに来たのですか』。

しかしその者は黙っていた。すると王は家来に言った、『この者の手足を縛り、外の闇へ放りだせ。そこで涙を流し、歯を鳴らして震えるがよい』。呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです。(マタイ 第二十二章 1-14)
 

二、不信心な者はこの話を幼稚で単純だと笑い、なぜ披露宴に出席するのにそれ程の困難があるのか理解できず、更には招待された人がなぜ、招くために家の主人より送られてきた人たちを殺してしまうまでに抵抗するのか、ということが理解できません。

そのような者は、「たとえ話というのはもちろん象徴的なものです。しかし、そうであったとしても、真実としての限界を超えない必要がある」というでしょう。

 その他のたとえ話や、もっとも巧みに作られたおとぎ話にしても、それらから装飾的な部分を取り除き、隠された本当の意味を見出せなければ、同じようなことが言えるかもしれません。イエスはそのたとえ話を、生活の最もありふれた習慣を題材として創り、その話を聞かせる人々の特徴や習わしに適応させました。

それらの話の大半は、一般大衆の間に霊的な生活の考えを浸透させることを目的としており、それらを解釈する時に、こうした視点から見なければ、多くの話はその意味において理解不能であるかのようになります。

 ここで扱うたとえ話の中でイエスは、すべてが喜びと幸せに満ちた天の国を披露宴に譬えています。最初の招待客のことにふれ、最初に神にその法を知るように招かれたヘブライ人に注意をうながしています。

王に遣わされた家来たちとは、真なる幸せの道に従うように唱えた預言者たちです。しかし、その言葉はほとんど聞き入れられませんでした。その注意は軽んじられました。例え話の中の家来たちのように、多くの者は本当に殺されました。

招かれながらも言い訳をし、畑や商売の面倒を見に行かなければならないというのは世俗的な人々で、地上の事柄につかり、天の事柄に対しては無関心でい続ける人たちのことを象徴しています。

 当時のユダヤ人の間では、彼らの国がその他のすべての国々に対して優越していなければならないと信じられているのが一般的でした。実際、神はアブラハムの子孫が全地上を覆うことを約束しませんでしたか。しかし、いつもそうであるように、真意を推し量ることなく形式だけをとらえ、彼らはそれが物質的、物理的な支配のことだと信じたのです。

 キリストの到来以前、ヘブライ人を除くすべての民族は偶像崇拝をしており、多神教でした。上位の人々から庶民に至るまで、神の唯一性という考えを心に抱いたとしても、それは個人的な考えとしてとどまり、どこにおいても基本的な真実として受け入れられることはなく、もしくは、そうした考えを持つ者は、神秘のベールのもとにそうした知識を隠していたために、一般大衆にそうした考えが浸透することはありませんでした。

ヘブライ人は公に一神教を始めた最初の民族です。神は彼らに対して最初はモーゼを通じて、その後イエスを通じて、その法を伝えました。その小さな焦点から世界中に向けて溢れだす光が放たれ、異教に打ち勝ち、アブラハムの霊的な子孫を「天の星の数ほど」もたらすことになるのです。

しかし偶像崇拝を放棄しながらも、ユダヤ人たちは道徳の法を軽んじ、形式的な儀式と言うより容易な手段に執着してしまったのです。悪は頂点に達しました。国は奴隷化されるばかりか、党派によって崩壊し、宗派に分裂しました。不信心が聖地にまで及んだのです。

そしてその時イエスが現れましたが、イエスは神の法の遵守を呼び掛け、未来の命へ繋がる新しい地平線を彼らに広げるために送られたのでした。全世界の信仰の大宴会に招待された最初の者たちは、天から送られた救世主の言葉を拒み、生贄にしたのです。

そしてそれにより、彼らのイニシアチブによって得ることのできた善い結果を失うことになってしまいました。

 しかしそうであるからといって、そうした状況になったことについてその民族全体を非難することは不適当です。その責任はおもに、自尊心と狂信によって国を犠牲にした者たちや、その他の不信心な者であるファリサイ人やサドカイ人にありました。

ゆえに、結婚披露宴への出席を拒んだ招待客とイエスが同一視するのは、誰よりも彼らなのです。

「道の交差するところへ行き、そこで出会うすべての者を披露宴に連れてきなさい」と付け加えています。このように言うことによって、神の言葉がその後、異教徒であれ偶像崇拝者であれ、全ての民族に伝えられたことを述べ、その言葉を受け入れれば彼らが宴会に参加することが許され、当初の招待客の場所が与えられることに触れたのです。

 しかし、誰でも招待されるだけで事足りるわけではありません。自分がキリスト教徒であるというだけでは足りず、テーブルについて、天の宴会に参加するだけではいけないのです。なによりも最初に明白な条件として、礼服を着ていること、すなわち、清い心を持ち、霊に従って法を守ることが必要なのです。

ところで、その法のすべては次の言葉に要約されます。「慈善なしには救われません」。しかし、神の声を聞くあなたたちすべての間でも、それを守り有益に用いる者の何と少ないことでしょうか。

天の王国に入るに相応しい者の何と少ないことでしょうか。故にイエスは言ったのです。「呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです」。


 狭き扉
三、狭き扉より入りなさい。なぜなら堕落の扉は広く、そこへたどり着く道は広く、多くの者がそこから入るからです。命に至る扉の何と狭いことでしょう。そこへたどり着く道は何と窮屈なことでしょう。そして、その扉に出合える者の何と少ないことでしょう。(マタイ 第七章 13,14)


四、ある人がイエスに尋ねた、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。イエスは人々に答えて言われた、「狭き扉より入るように努力してください。実際、そこを通ろうとしても、通ることのできない人が多いでしょう。

家の主人が入り扉を閉めた後、あなたたちが外から扉をたたき、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人はあなたたちに答えるでしょう、『あなたがどこの人であるか私は知りません』。あなたたちは言うでしょう、『あなたと飲食を共にしました。あなたは広場において私たちを指導してくれました』。

主人は答えるでしょう、『あなたたちはどこの人であるか、私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい』。

 あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国に入っているのに、自分たちは外へ投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするでしょう。

東からも西からも、北からも南からも多くの者が神の国の宴会に参加するでしょう。こうして後の者で先になる者があり、また、先の者で後になる者もあるのです」(→第二十章 2)。(ルカ 第十三章 23-30) 


五、堕落の扉は広い。なぜなら、悪しき感情は多く、大抵の人は悪の道を進むからです。救いの扉は狭い。なぜなら、そこを通ろうとする者には、自分自身の悪しき傾向に打ち勝ち、数少ない者が受け入れることのできる事柄を甘受するための、自分自身に対する多大な努力が強いられるからです。

それが、「多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」と言う金言の補足です。

 地上における人類の状況とはそのようなものですが。それは地球が試練の世界であり、悪の方がより広く支配しているからです。それが変化した時には、善の道を通る者の方が多くなることになります。

したがって、これらの言葉は、絶対的な意味によってではなく、相対的な意味において解釈されるべきです。もしその悪の状態が人類の普通の状態であったなら、神はその被造物の大多数に堕落を強いることになりますが、全正義で善意である神を知る者にとって、それは受け入れられない推測です。

 しかし、もし全人類が地球だけに追いやられており、その魂に前世がなかったとしたら、現在、そして未来においてかくも悲しい運命が与えられた人類は、いったいどんな罪を犯したのでしょうか。なぜ、あなたたちの足元にはそれほど多くの妨げが置かれているのでしょうか。

もし魂を待つ運命が、死の直後に永遠に定められるのだとしたら、なぜほんの少しの者にしか通ることのできない狭い扉がなければならないのでしょうか。この様に、一回のみの人生しかなかったとしたら、人類は常に神の正義に対して矛盾を感じることになるでしょう。

魂に前世が存在することや、世界の複数性によって地平線は広がります。信心の最も暗い部分への光となります。現在と未来は過去とともに一体化し、それによってのみキリストの教えの全英知、全真実、全深意を理解することができるようになります。


 主よ、主よ、と言う者がみな天の国に入るわけではない
六、私に「主よ、主よ」と言う者すべてが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです。その日多くの者が私に言うでしょう、「主よ、主よ、あなたの名において私たちは預言しませんでしたか。

あなたの名において悪魔を追いやりませんでしたか。あなたの名において多くの奇跡を起こしませんでしたか」。

その時、私は大きな声で言うでしょう、「あなたがどこの人であるか私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい」(マタイ第七章21-23)


七、ゆえに、私の言葉を聞き、それを実践する者は、岩の上に家を建てた賢い者に喩えることができるでしょう。雨が降り、川があふれ、風が吹いた。それでも家は、岩の上に建てられているので壊れることはありませんでした。

しかし、私の言葉を聞き、それを実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな者と同じです。雨が降り,川があふれ、風が吹き家を打つと、その家は壊れました。その壊れ方は激しいものでした。(マタイ 第七章 24-27 ルカ 第六章 46-49)  


八、これらの最も小さな戒めを破り、人にそれを破るように教える者は、天の国において最後の者と呼ばれるでしょう。しかし、それを守り、教える者は、天の国において偉大な者と呼ばれるでしょう。(マタイ 第五章 19)


九、イエスの使命を知る者はみな「主よ、主よ」といいます。しかし、その教訓に従わないのであれば、師、もしくは主と呼ぶことが、どんな役に立つというのでしょうか。

外見的な献身の行動によって敬いながらも、同時に自尊心、エゴイズム、貪欲さ、その他の感情によってその教えを犠牲にする者はキリスト教徒でしょうか。毎日祈って過ごしながらも、少しも向上せず、同胞に対して寛大になったり慈善深くなったりすることのない人たちはイエスの使徒でしょうか。いいえ。

それは、祈りが口先にあっても心の中にはないファリサイ人たちが使徒ではないのと同じです。形式によって人間にそのことを印象付けることはできても、神に印象付けることはできません。

「主よ、あなたの名において預言を、すなわち教えを説きませんでしたか。あなたの名において悪魔を追い払いませんでしたか。あなたと飲食を共にしませんでしたか」とイエスに言ったとしても無意味なのです。

イエスは彼らに答えます。「私は、あなたたちが誰なのか知りません。あなたたちは非道を行い、行動が口で言ったことに反し、あなたの隣人の悪口を言い、やもめたちを食い物にし、姦淫を行いました。心から反感や憎悪をしたたらせ、私の名においてあなたたちの兄弟から血を流させ、涙を乾かす代わりに流させる者は私から遠ざかりなさい」。

神の国は、優しく、謙虚で慈善深い者たちのためにあるため、あなたたちは涙を流し歯ぎしりをすることになります。言葉を多くとなえたり、ひざまずくことによって主の正義を曲げることを期待してはなりません。あなたたちの唯一の道である愛と慈善の法の誠実な実践の道は開かれ、あなたはその恩恵を被るのです。

 イエスの言葉は真実であるがゆえに永遠です。天の生活への通行免状であるばかりか、地上の生活における平和、平安、安定の保証なのです。人類がつくる政治的、社会的、宗教的団体で、これらの言葉を支える団体が、岩の上に建てられた家のように安定しているのはこうした理由からです。

人々はその中に幸せを感じることができるので、それらの言葉を守るのです。しかし、それらの言葉に違反する団体は、砂の上に建てられた家のように、革新の風と進歩の川によって取り壊されてしまうでしょう。


  多くを受けた者は多くを求められる
十、主人の意志を知りながら、主人が望むとおりに用意もせず勤めもしなかったしもべは、厳しく罰せられるでしょう。

しかし、その意志を知らずに、罰に値するようなことを行った者は、より軽く罰せられるでしょう。多くを与えられた者には多くが求められ、より多くを託された者に対してはより大きな責任が問われるのです。(ルカ 第十二章 47,48)


十一、イエスは言われた、「見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになるよう審判を下すために、この世にやってきました」。

イエスと共にいたファリサイ人たちは、それを聞いて質問をした、「私たちもまた盲目なのですか」。イエスは答えて言われた、「もしあなたたちが盲目であったなら、罪はないでしょう。

しかし、今あなたたちが『見える』と言い張るところにあなた方の罪があるのです」。(ヨハネ 第九章 39-41)


十二、これらの金言は、霊たちの教えに特に当てはまります。キリストの教えを知りながらそれを守らぬ者は、誰であれ責任が問われます。しかしながら、それを含む福音がキリスト教の宗派の中にしか広められていないばかりか、その宗派の中でさえもそれを読まない者が何と多く、また読んだとしてもそれを理解できないものが何と多いことでしょうか。

結果的にイエスの言葉そのものは多くの人にとって無駄になっています。霊たちの教えは、これらの金言を別の形で再生し、発展させ、それに対する解説を加え、誰の手にも届くようになっており、特に相手が限られたものではありません。

あらゆる人が、教養があろうがなかろうが、信仰があろうがなかろうが、キリスト教であろうがなかろうがその金言を受け入れることができ、また霊たちはあらゆる場所で通信をします。直接受けようが、誰かを介して受けようが、それを受ける者はその無知を言い訳にすることはできません。

教育を受けなかったことのせいにすることも、その例えの曖昧さのせいにすることもできません。

ゆえに、これらの金言を自分の向上のために利用せず、それが心に響くことなく面白く興味深いものだと驚き、無益さ、自尊心、エゴイズム、物質的なものへの執着を減らすことも、自分の隣人に対して善くなることもない者は、真実を知る手段をより多く持っているがために、より責任を問われることになります。

 善い通信を受ける霊媒で、悪に固執する者は、自分自身に対する非難を多くの場合は書いていることになるのですから、より注意をしなければなりません。なぜなら、自尊心に目をつむらせることなしには、霊が自分に通信を向けていることを認識することが出来ないからです。

書き留めたり、他人に読んだりする教えを自分のために受け止めることなく、それを他人に当てはめることばかりに気を取られている人には、「隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」と言うイエスの言葉が当てはまります。(→第十章 9)

「盲目であったなら、罪はないでしょう」と言う言葉によってイエスは罪の責任とは、その人が持つ知識に応じていることを意味したかったのです。そしてその国で最も博識であると考えられ、実際そうであったファリサイ人たちは、無知な国民よりもより責任があると神の目には映ったのです。

 今日、多くを受けた者には多くが求められると、スピリティストに対して言うことができます。しかし、それをうまく利用した者には多くが与えられます。

 誠実なるスピリティストの払う最初の注意は、霊たちが与える忠告の中に、自分に対して述べられたことが何かないだろうかと見つけようとすることでなければなりません。

 スピリティズムは「呼ばれる者」の数を増やします。そしてそれがもたらす信心によって「選ばれる者」の数も増やすことになるのです。





     霊たちからの指導

  持つ者に与える
十三、イエスに近づくと、使徒たちは言った、「なぜ彼らにたとえ話で伝えるのですか」。答えて言われた、「なぜなら、あなたたちには天の国の謎が解き明かされましたが彼らには解き明かされていないからです。おおよそ、持つ者により多くを与えれば、より豊かになりますが、持たない者からは、持つものさえも奪われるでしょう。

だから彼らにはたとえ話で伝えるのです。それは彼らが、見えても何も見ず、聞こえても何も聞かず、また理解しないからです。彼らには次のように言ったイザヤの預言が当てはまります。『あなたたちはその耳で聞くが何も理解せず、その目で見るが何も見えない』」(マタイ 第十三章 10-14)


十四、聞くことに大いに注意を傾けなさい。そうすれば、他人を量る時に用いる秤であなたたちも量り与えられ、さらに増し加えられるでしょう。なぜなら、すでに持つ者には与え、持たぬ者からは持つものさえも奪われるからです。(マルコ 第四章 24,25)


十五、「持つ者に与え、持たぬ者からは奪う」。あなたたちは逆説として映るこの偉大なる教えについて熟考してください。与えられる者とは神の言葉を有する者のことを意味し、神の言葉にふさわしくなろうとすることによってのみそれを受けるのです。

なぜなら、主はその慈悲深い愛により、善へ傾く努力を励ますからです。辛抱強く勤勉なこうした努力は主の恩恵を引きつけ、それは磁石のように、進歩する上で善いことである多くの恵みを自分に呼び、それは労苦の休息が頂上に待ち受ける聖なる山をあなたたちが登ることができるように、あなたたちを強化してくれます。

 「持たぬ者や少ししか持たぬ者から奪う」。この言葉は比喩的に表現された対照的なものとして理解してください。神はその被造物から、それを行うように仕向けた善を奪うことはありません。目は見えず、耳も聞こえない人類よ、あなたたちの知性と心を開いてください。

霊によって見、魂によって聞き、あなたたちの目に主の正義が光り輝くことを可能にしたあの言葉を、不徳で不公平な方法で解釈しないでください。少しを受けた者から奪うのは神ではありません。

霊自身が、その道楽と怠慢のために、持っているもの、つまり心に落ちた小さな種を、保持し、増やし、そこから多くを生ませることを知らないのです。

 父が与えたり、相続によって与えられた畑を耕さない者は、その畑の植物が寄生植物に覆われるのをみるでしょう。その時、その人が準備しなかった収穫を奪うのは父でしょうか。管理が足りなかったのであれば、その畑で多くをもたらしたであろう種が死に、それらが何ももたらさなかったことを責める相手は、その父でしょうか。

いいえ、違います。全てを準備してくれた人や譲り受けたものを非難するのではなく、自分の惨めさの本当の原因を責めて悔やみ、勇気を持って生産的な労働に取り掛かってください。

恩知らずな土地を、意欲の努力によって開拓してください。後悔と希望の助けを借りて地面を耕し、その上に悪の中から仕分けて取り出した善の種を自信を持って蒔いてください。

あなたの愛と慈善の水をまけば、愛と慈善の神は、すでに受けた者に対して与えるでしょう。そして、その努力が成功の冠を受け、一粒の種が幾千もの種を生むのを見ることになるでしょう。労働者たちよ、元気を出してください。

あなたたちの鍬とくわを手に取って下さい。あなたたちの心を耕してください。毒草を引き抜き、主があなたたちに託してくれた善き種を蒔けば、愛の露が慈善の果実をもたらすことになるでしょう。(ある親しい霊 ボルドー、1862年)


  行いによりキリスト教徒であることを知る
十六、「『主よ主よ』と言う者全てが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。

 スピリティズムを悪魔の仕業と考え、拒絶する人たちは、師のこの言葉を聞いてください。耳を開いてください。聞く時が来たのです。

 従順な使徒となるためには、主に決められた衣を持ってくるだけで十分なのでしょうか。キリストの使徒となるためには、「私はキリスト教徒です」と言うだけで事足りるのでしょうか。真なるキリスト教徒を探す時、それをその行いによって知ることができます。

「善い木に悪い果実はなりませんし、悪い木には善い果実はなりません。善い果実を結ばない木は切り倒され、火に投じられます」。これらは師の言葉です。キリストの使徒たちよ、これらの言葉をよく理解してください。

強大で、葉の生い茂る枝が、世界の一部には木陰を与えながらも、その周りに集まる者のすべてを宿らせるには至らないキリストの教えの木は、どんな実を結ばねばならないのでしょうか。 命の木がもたらす果実とは、命の果実、すなわち希望と信仰の果実です。

キリストの教えは、何世紀も前にそうしたように、これらの神聖なる美徳を説き続けます。その果実を広げようと努力しますが、それを拾う者の何と少ないことでしょうか。木は常に良いのですが、庭に働く者たちが悪いのです。自分たちの考えに合わせて解釈し仕立てました。

自分たちの必要性に応じて剪定しました。摘み取り、切り戻し、切り捨ててしまいました。役立たずと言うことになれば、その枝はもう実を結ばないのですから、悪い実を結ぶこともありません。

喉を渇かした旅人がその枝のもとに立ち止まり、力と勇気を再び与えてくれる希望の果実を求めても、嵐を予告する乾いた枝葉しか見えません。命の木に命の果実を求めても、それは無駄骨に終わります。乾いた葉が落ちてくるだけです。男は手で木をあまりに揺すったために、枯れてしまいました。

 だから、愛する者たちよ、耳と心を開いてください。永遠の命を与えてくれるその命の木を育んでください。まだその木が神の果実を多く結ぶのを見ることが出来るために、それを植えた者は、あなたたちがそれを愛を持って扱うように呼びかけています。

キリストがその木をあなたたちに預けたとおりに、それを守ってください。切り倒してはいけません。その木は宇宙に広く木陰をもたらそうとしているのです。

その枝葉を切ってはいけません。その有益な果実は豊富に落ち、旅の終わりまでたどり着こうとする飢えた旅人の食物となります。これらの果実を蓄え、ため込み、腐らせ、誰の役にも立たなくなってしまうようにしてはいけません。

「多く者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」。物質的なパンを独占する者がいるのと同様に、人生のパンを独占する者がいます。その一人に数えられないようにして下さい。良い果実を結ぶ木は、すべての人にその果実を与えなければなりません。ゆえに飢えた者を探し求めに行って下さい。

彼らをその木の下へ連れて行き、その木がもたらす保護を彼らと分かち合って下さい。「木いちごの木にぶどうはなりません」。兄弟よ、道に生える茨をあなたたちに教える者たちから遠ざかり、人生の木陰にあなたたちを導いてくれる者の後をついて行って下さい。

 至上の正義である神聖なる救世主は、すでに伝え、その言葉は消えることはありません。「『主よ主よ』と言う者すべてが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。

神の恵みである主があなたたちを祝福してくれますように、光の神があなたたちに輝きを与えてくれますように。人生の木が、その果実を沢山あなたたちに与えてくれますように。信じ、祈ってください。(シモン ボルドー、1863年)

シアトルの春 霊と意識の起原

Origin of Spirit and Consciousness



Wisdom of Silver Birch



───霊の力とはどんなものでしょうか。

 「人間によって認識されている如何なるものさしにもかからないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色も容積も味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば霊力というものは存在しないことになります。

つまり実在とは人間のお粗末な五つの感覚で捉えられるものと決めてかかっている唯物的自然科学者にとっては、霊力は存在しないことになります。しかし愛は目に見えず耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。

それは深い愛の感動を体験した者が証言してくれます。確かに愛の力は強烈です。しかし霊の力はそれよりも無限大に強烈です。

 あなたが生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いめぐらすのも霊の力があればこそです。

物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも霊の力があればこそです。あなた方の行動の全て、あなた方の存在の全ては霊の力のおかげです。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって存在と目的と指針と生活を与えられているのです。物質界のどこを探しても意識の秘密は見つかりません。

科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質その物の中には存在しないからです。物質はそれが一時的に借りている宿に過ぎません。

 霊の力はあなた方が神と呼んでいるものそのものなのです。最も〝神〟というものを正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊力が曽て火の固まりであったものに今日見るがごとき生命を吹き込んだのです。その霊が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。魂がまとう衣服です。

地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の生長まで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが霊の力です。

 それが強大であるゆえんは、物質界に限られていないことにあります。すなわち無数の物的現象を通じて絶え間なく働いているだけでなく、見えざる世界の霊的活動のすべて、今のあなた方には到底その存在を知ることのできない幾重にもつながった高い界層、そしてそこで展開するこれ又あなた方の想像を絶した光輝あふれる生命現象までも、その霊力が支配しているのです。

しかし、いかに強大であっても、あるいは又いかにその活動が驚異的であるといっても、それにも制約があります。すなわち、それが顕現するにはそれに適した器、道具、媒体、通路、霊媒───どうお呼びになっても構いません───そうしたものが無ければならないということです。

壮大な霊の流れも、そうしたものによる制約を受けるのです。地上にどの程度のものが流れ込むかは人間側が決定づけるということです。

 私がいつも、心配の念を追い払いなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい、神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。

地上的な力はいつかは衰え、朽ちます。人間が築く王国は儚いものです。今日は高い地位にいても明日は転落するかも知れません。しかし霊の王国はけっして滅びることはありません。霊の尊厳は不変です。神の力はけっして衰えません。しかしその働きの程度を決定づけるのはあなた方であり、現に決定づけております。

 スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界の方からこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際にはそう言う人ほど、霊界からそうしてあげるための条件を整えてくれないものです。

この苦境に満ちた世界、暗闇と不安におおわれた世界にあって、どうか皆さんは灯台の光となっていただきたい。

あなた方の自信に満ちた生きざまを見て人々が近づき、苦悩のさなかにおける憩いの場、聖域、波静かな港を発見することができるようにしてあげていただきたい。皆さんはそういう人たちの心の嵐を鎮め、魂に静寂を取り戻してあげる霊力をお持ちになっています」


───霊は何時肉体に宿るのでしょうか。
 
 「霊としてのあなたは無始無終の存在です。なぜなら霊は生命を構成するものそのものであり、生命は霊を構成するものそのものだからです。あなたという存在は常にありました。生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。

が、個体として、他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。受胎作用は精子と卵子が結合して、生命力の一分子が自我を表現するための媒体を提供することです。生命力はその媒体が与えられるまでは顕現されません。

それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子が合体して新たな結合体を作ると、小さな霊の分子が自然の法則に従ってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。私の考えでは、その時点が意識の始まりです。

その瞬間から意識をもつ個体としての生活が始まるのです。それ以降は永遠に個性を具えた存在を維持します」


───何の罪もないのに無邪気な赤ん坊が遺伝性疾患や性病その他の病を背負ってこの世に生れてきます。これは公平とは思えません。子供には何の罪もないのですから。この問題をどうお考えでしょうか。

 「不公平を口にされるのは問題を肉体の問題としてだけ、つまり物質界のみの問題としてお考えになり、無限の生命の観点からお考えにならないからです。霊そのものは性病なんかには罹りません。霊は不具になったり奇形になったりしません。両親の遺伝的特質や後天的性格を受け継ぐことはありません。

それは霊が自我を表現する媒体であるところの肉体に影響を及ぼすことはあっても、霊そのものを変えることはありません。確かに地上的観点から、つまり物質的観点からのみ人生を見れば、病弱なからだを持って生れた人は健全なからだを持って生れた人よりも物的には不幸の要素が多いと言えますが、その意見は霊には当てはまりません。

からだが病的だから霊も気の毒で、からだが健全だから霊も豊かであるという方程式は成り立ちません。実際にはむしろ宿命的な進化のための備えとして多くの痛みや苦しみを味わうことによって霊が豊かになるということの方が正しいのです」


───では、この世をより良くしようとする衝動はどこから出て来るのでしょうか。

 「帰するところ神がその無限の創造事業への参加者としての人間に与えた自由意志から出ています」

───物的な苦痛によって霊が進歩するのであれば、なぜその苦痛を無くする必要があるのでしょうか。

 「私はそのような説き方はしておりません。私がその事実を引き合いに出したのは、人生には寸分の狂いもなしに埋め合わせの原理が働いていることを指摘するためです。

ここに二人の人間がいて、一人は五体満足でもう一人はどこかに障害があるとした場合、後者は死後も永遠にその障害を抱えていくわけではないと言っているのです。

要するに肉体の健康状態がそのまま霊の状態を表わすのではないことをお教えしようとしているまでです。霊には霊としての辿るべき進化の道程があります。その霊がいかなる身体に宿っても、必ず埋め合わせと償いの法則が付いてまわります」


───でも、やはり身体は何の障害も無い状態で生まれるのが望ましいのではないでしょうか。

 「もちろんです。(同じ意味で)地上にスラム街が無い方が良いに決まっています。しかし、そのスラム街をこしらえるのも地上天国をこしらえるのも、結局は同じ自由意志の問題に帰着します。人間に自由意志がある以上、それを正しく使うこともあれば誤って使うことがあるのは当然です」


───でも、不幸が霊のためになると知ったら、地上をより良くしようとする意欲を殺がれる人もいるのではないでしょうか。
 
 「地上の出来ごとで埋め合わせのないものは何一つありません。もしも神の働きが妨害されて、当然報われるべき行為が報われずに終わることがあるとすれば、これは神の公正を嘲笑う深刻な事態となります。

私が指摘しているのは、埋め合わせの原理が厳として存在すること、そして進化の法則に逆らった行為を犯しながら神の摂理とは別の結果が出るようにいくら望んでみたところで、神の計画は少しもごまかされないということです。

 しかし同時に次の事実も知っておく必要があります。すなわち、たとえ現代の地上の不幸の原因がすっかり取り除かれたとしても、人間はまたみずからの自由意志によって、みずからの複雑な文明の中から更に新たな不幸を生じさせる原因を生み出していくということです。

所詮、人生は完全へ向けての無限の階段の連続です。一段一段、自らの力で向上して行かねばなりません。しかも、いつかは最後の一段に辿り着くと思ってはいけません」(訳者注ー質問と答えに少しズレが見られるが、このあともう一度同じ内容の質問が出る)


───肉体の病気は霊的な進化を促進するかも知れませんが、同時にその逆もあり得る、つまり性格を損ねることもあるでしょう。

 「損ねることもあるし損ねないこともあります。どちらのケースもあります。病気になるのは摂理に反した行為をするからです」


───ではあなたは病気または病気に相当するものは絶対不可欠のものとおっしゃるわけですね。

 「いえ、私は病気に相当するものとは言っておりません。何らかの〝苦〟に相当するものです。人間に自由意志がある以上、選択の仕方によって楽しい体験となったり苦しい体験となったりするのは当然でしょう」


───それは分かります。苦しみを味わわなければ幸福も味わえないからです。が、どうも私には、もしもあなたがおっしゃるように、こういうことがあれば必ずこういう埋め合わせがあるというのが事実であれば、世の中を良くしようとして苦労する必要は無さそうに思えるのですが・・・・・・。


 「人間に選択の自由があるのに、ほかにどうあって欲しいとおっしゃるのでしょうか」

───私はこの度の戦争のことはさて措いて、今日の世界は三百年前よりはずっと幸せな世の中になっていると思うのです。世界中のほとんどの国が、戦争はあっても、やはり幸せな世の中となっております。

 「おっしゃる通りですが、それが私の言うこととどう矛盾するのでしょう」

───われわれ人間は(取り立てて人のためと説かれなくても)常に世の中を良くしてきているということです。

 「でもそれは、世の中を良くしたいという願望に燃えた人がいたからこそですよ。魂に宿された神性が自然な発露を求めた人たちです。神の一部だからこそです。かりに今日要求したことが明日、法の改正によって叶えられても、明日はまた不満が出ます。進化を求めてじっとしていられない魂が不満を覚えるのです。
 
それは自然の成り行きです。魂が無意識のうちにより完全へ近づこうとするからです。今日の地上の不幸はその大半がその自由意志による選択を間違えたことに起因しています。

それには必ず照合がなされ、更に再照合がなされます。そうすることで進歩したり退歩したりします。そうした進歩と退歩の繰り返しの中にも少しずつ向上進化が為されております。先んずる者があれば後れを取る者もあります。先を行っている者が後れている者の手を取って引き上げてやり、後れている者が先を行き過ぎている者に取って適当な抑制措置となったりしています。

そうやって絶え間なく完成へ向けての努力が為されているわけです。が、その間の人生のあらゆる悲劇や不幸には必ず埋め合わせの原理が働いていることを忘れてはなりません」


───改めるべきことが山ほどありますね。

 「あなた方は自由主義を誇りにしておられますが、現実には少しも自由とはいえない人々が無数におります。有色人種をごらんなさい。世界中のどの国よりも寛容心を大切にしているあなた方の国においてすら、劣等民族としての扱いを受けております。

私がいつも、これで良いと思ってはいけない、と申し上げる理由はそこにあります。世の中は幾らでも明るく、幾らでも清らかに、そして幾らでも幸せになるものなのです」


───葛藤や苦悩が霊的進化にとって不可欠なら、それは霊界においても必要なのではないでしょうか。なのに、あなたはそちらには悪と邪の要素がないようにおっしゃっています。


 「ご質問者は私の申し上げたことを正しく理解していらっしゃらないようです。私は邪と悪には二種類ある───この〝悪〟という言葉は嫌いなのですが───すなわち既得権に安住している利己主義者によって生み出されているものと、人類の未熟さから生まれるものとがあると申し上げたつもりです。

私たちの世界には邪悪なものは存在しません。もちろん死後の世界でもずっと低い界層へ行けば、霊性があまりに貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。が、そうした侘しい世界を例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。

邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心ゆくまで従事しております。

 葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっともその意味が問題ですが・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で絶え間ない葛藤があります。

一つは動物的先祖とでもいうべきもの、つまり身体的進化に属する獣的性質と、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹です。

その両者のどちらが優位を占め維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で自由意志によって選択することです。私達の世界へ来てからも葛藤はあります。

それは低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする絶え間ない努力という意味です。完全へ向けての努力、光明へ向けての努力というわけです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精錬と試練をへてようやく霊の純金が姿を現わします。

私たちの世界にも悩みはあります。しかしそれは魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表れであって、ほんの一時のことに過ぎません。完成へ向けての長い行進の中での短い調整期間のようなものです」


───でも、葛藤と進歩、それに努力の必要性は常にあるわけでしょう。

 「おっしゃる通りです。だからこそ私は先ほど言葉の解釈の仕方が問題だと申し上げたのです。自然界の常として、より高いものがより低いものを無くそうとします。それは当然のことで、そうでなかったら進化というものが真実でなくなります。

人間は低い段階から高い段階へ向けて成長しようとする進化性を持った存在です。進化するためには光明へ向けての絶え間ない葛藤がなければなりません。その場合の葛藤は成長の為の必須の過程の一つであるわけです。

シアトルの春  神とは

What is God?

Wisdom of Silver Birch

 ある日、交霊会が始まる前に、メンバーの間でキリスト教についての議論があり、その中でキリスト教の牧師には神とは何かの説明が出来る人がいないことが指摘された。やがて出現したシルバーバーチは冒頭の祈りの中で神の説明をした。それは明らかにメンバーの議論を踏まえたものだった。

(訳者注ーシルバーバーチは冒頭の祈り Invocation と終結の祈り Benediction とがある。前者は会の成功のための神の御加護を求めるものであり、後者は感謝と讃仰の祈りである)

 「神よ、あなたは一体どなたに御(おわ)し、いかなるお方に御すのでしょうか。いかなる属性をお具えなのでしょうか。
 
 私たち(霊界の者)はあなたを完璧なる摂理の働きであると説いております。たとえば宇宙に目を向けさせ、その構想の完璧さ、その組織の完璧さ、その経綸の完璧さを指摘いたします。そしてその完璧な宇宙の姿こそあなたの御業の鑑であり、あなたこそ宇宙の全生命を創造し給いし無限の心であると説いております。
 
 私たちには自然界の一つ一つの相、一つ一つの生命、一つ一つの草花、一つ一つのせせらぎ、小川、海、大洋、一つ一つの丘そして山、一つ一つの恒星と惑星、一つ一つの動物、一人一人の人間の目に向けさせ、そのすべてがあなたの無限なる根源的摂理によって規制され支配されていると説きます。

 私たちは宇宙間のすべての現象がその根源的摂理から派生したさまざまな次元での一連の法則によって支配され、かくしてその働きの完璧性が保たれているのであると認識している者でございます。

そのあなたには特別の寵愛者など一人もいないことを信じます。不偏不党であられると信じます。あなたのことを独裁者的で嫉妬心を持つ残忍なる暴君のごとく画いてきたこれまでの概念は誤りであると信じます。なぜなら、そのような人間的属性は無限なる神の概念にそぐわぬからでございます。

 これまで私たちは地上とは別個の世界においても同じあなたの摂理の働きを見出し、そしてそれがいついかなる時も寸分の狂いもないことを確認したが故にこそ、その摂理とそれを生み出された心に満腔の敬意を捧げ、その働きのすべて───物的、精神的、そして霊的な働きのすべてを説き明かさんと努めております。

なかんずく霊的なものを最も重要なものとして説くものです。なぜなら、すべての実在、すべての生命の根源は霊的世界にあるからでございます。

 あなたの子等のすべてかあなたの摂理を理解し、その摂理に従って生活を営むようになれば、すべての悲劇、すべての暗黒、すべての苦悩、すべての残虐行為、すべての憎悪、すべての戦争、すべての流血行為が地上から駆逐され、人間は平和と親善と愛の中で暮らすことになるものと信じます。

 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを──無意味な文句の繰り返しでなく、真理と叡知と光と理解力と寛容の心を広げる手段(人間)を一人でも多く見出したいとの願いとして──捧げ奉ります」 


 この祈りの後、シルバーバーチみずからその内容について次のように説明した。

 「この祈りには宇宙についての、地上の人間に理解できるかぎりの理性的かつ合理的説明が含まれております。人類が暗闇の生活を余儀なくさせられているのは、一方にはみずから真理に対して目を閉じたがる者が多く、また一方には既得の特権を死守せんとする者が多いからです。

すべての戦争は人間が摂理に背いた生き方をすること──一個の人間、一つの団体、一つの国家が誤った思想から、貪欲から、あるいは権勢欲から、支配欲から、神の摂理を無視した行為に出ることから生じるのです。直接の原因が何であれ、全ては宇宙の霊的法則についての無知に帰着します。

すべての者が霊的知識を具えた世界に独裁的支配はあり得ません。一人の人間が一国を支配することが不可能な組織となるからです。すべての者が霊的知識を具えた世界に流血はあり得ません。争いの起こり得ない体制となるからです。

 われわれの仕事はその霊的知識を広めることです。真実の意味での伝道者なのです。伝道の意味が今日の世の中では歪められてしまいましたが、真実の意味は真理または知識を広めることです。私たち霊団は今あなた方の世界で仕事をしておりますが、本来は別の世界の者です。

あなた方よりは一歩、二歩、もしかしたら、三歩ほど先を歩んでいるかも知れません。これまで幾つかの大自然の摂理を学んできました。そうして知ったことは、この世に奇跡は無く、神の特別の寵愛者もなく、選ばれし民もなく、唯一の神の子もいないということです。あるのはただ法則のみだということです。

 宇宙がいかに巨大にして荘厳であるとは言え、全てが絶対的法則によって支配されていることを知ったからこそ、こうしてその法則をお教えしようと努力しているわけです。

その法則とは、原因には必ずそれ相当の結果が伴うということです。自分が蒔いたタネは自分で刈り取るということです。所詮はごまかすことができない──なぜなら自分の言動がその性格と成長具合に消そうにも消せない印象を刻み込むからです。こうした真理を土台として真の宗教を築かねばなりません。

大主教の宮殿で何を説こうと、大聖堂で何を説こうと、寺院、教会堂、礼拝堂、その他、世界中いかなるところで何を説こうと、それが今述べた単純な基本的真理と矛盾したものであれば、それは誤りです。極めて簡単な真理なのです。

人生を霊的摂理が支配していること、お互いが扶けあうことが一ばん大切であること、それが霊を成長させ、性格を形成し、死後に待ち受ける新しい生活に霊的な備えを与えることになる───ただそれだけなのです。

 何も知らない人たちを光明から顔を背けさせ、カビの生えたドグマを信じさせ、今日の世でも受けられる霊的啓示(インスピレーション)を無視させ、遠い薄暗い過去のインスピレーションの残骸に目を向けさせようとする既成組織を私たちが非難するのは、そうした本来私たちと手を取り合うべき人たち、本来宗教を説くべき立場にある人々が私たちの敵の側にまわっているからです。

人間として非難するつもりはありません。彼らの多くは彼らなりに正しいと思うことに携わっているのです。真面目な徒であり、困難な状況の中で最善を尽くしております。

私たちが非難するのはその組織です。真理を知る可能性がありながら虚偽にしばりつけ、光明を見出すチャンスがありながら暗黒の中に閉じ込めておこうとする組織です。

 これ以上簡単な教えが一体どこにあるでしょうか。地上は今まさに大戦の真っ只中にあります。世界中に悲劇と苦悩が満ち、数知れぬ人が慰めを求め、すがるべき杖を探し、神が存在すること、我が子の苦しみに無関心ではいられないはずの親が存在するその証を求めております。牧師のもとへ行っても相も変わらず古い教説に少しばかり現代風な味を加えて説くばかりです。

そしてすぐに〝聖なる書〟を引用します。国によって大小さまざまな体裁をしていても、中身は同じ古い言葉ばかりです。うんざりするようなお決まりの教説を聞かされるだけです。霊的実在が存在することを証するものは何一つ持ち合わせていません。

 彼らが説く信仰は彼らみずからが心の奥では信じきれなくなっているものです。自分が自信を持てないでいて、どうして他人に確信を与えられましょう。人類の歩むべき道を自分が知らないでいて、どうして他人に慰安が与えられましょう。いわゆる〝あの世〟についてみずから疑問符をつけている者が、どうして肉親に先立たれた人たちを慰めてあげられましょう。

先のことを何も知らない者が、どうして魂の飢えた、心の満たされない、さ迷える人々を導くことができるでしょう。

 ところが真理はすぐ目の前にあるのです。求めさえすれば知識の宝、叡知の泉、真理の光がすぐ身の回りで待ち受けているのです。宗教が無力なのではないことを彼らは理解していないのです。無力なのは宗教の名を借りた漫画なのです。

三位一体説が宗教と何の関係があるのでしょう。無原罪懐胎(聖母マリアはその懐胎の瞬間から原罪を免れていたこと)が宗教と何の関係があるのでしょう。

処女降誕が宗教と何の関係があるのでしょう。贖罪説(イエスがすべての罪を背負ってくれるということ)が宗教と何の関係があるのでしょう。こうした説を信じた者は信じない者より少しでも宗教的な人間になるというのでしょうか。

 地上の人間は肩書やラベルや名称を崇めるのがお好きです。が、クリスチャンを名のろうと無神論者を名のろうと、何の違いもありません。大切なのは実生活において何をするかです。仮にここに宗教など無縁だと言う人がいるとしましょう。

神の名を唱えても頭を下げようとしません。しかし性格は正直で、人のためになることを進んで行い、弱い者に味方し、足の不自由な犬が柵を超えるのさえ手助けしてやり、打ちひしがれた人々の身になって考え、困った人を援助しようと心がけます。

もう一人は見たところ実に信心深い人です。あらゆる教義、あらゆる教説を受け入れ、信仰上の礼儀作法には口やかましく気を使います。しかし心の奥に慈悲心は無く、生活の中において何ら人のためになることをしません。前者の方が後者よりはるかに宗教的人物と言えます」


───神は完全無欠ですか。

 「あなたのおっしゃる神が何を意味するかが問題です。私にとって神々は永遠不変にして全知全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。

この複雑を極めた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完璧な配慮が行きわたっております。例えば極大から極微までの無数の形と色と組織を持つ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただけば、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識されるはずです。

私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなた方は不完全な物質の世界におられるということです。

 物質の世界に生きておられる皆さんは、今のところはその物質界すら五つの物的感覚でしか理解できない限られた条件下で限りある精神を通して自我を表現しておられるわけです。

物的身体に宿っているかぎりは、その五感が周りの出来ごとを認識する範囲を決定づけます。それ故あなた方は完全無欠というものを理解すること自体が不可能なのです。

五感に束縛されている限りは神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能です。その限界ゆえに法則の働きが不完全に思えることがあるかもしれませんが、知識と理解力が増し、より深い叡知をもって同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づき始めます。物質の世界は進化の途上にあります。

その過程の一環として時には静かな、時には激動を伴った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していくための絶え間ない自然力の作用と反作用の現れです。常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素です。それは実に複雑です」


───神は完全だとおっしゃいましたが、われわれ人間が不完全であれば神も不完全ということになりませんか。

 「そうではありません。あなた方は完全性を具えた種子を宿しているということです。その完全性を発揮するための完全な表現器官を具えるまでは完全にはなり得ないということです。現在のところではその表現器官が極めて不完全です。進化して完全な表現器官、すなわち完全な霊体を具えるに至れば完全性を発揮できるようになりますが、それには無限の時を要します」


───ということは神のすべての部分が完全の段階に至るのにも無限の時を要するということでしょうか。

 「違います。神は常に完全です。ただ現在物質の世界に人間という形態で顕現されている部分の表現が不完全だということです。それが完全な表現を求めて努力しているということです」


───それを譬えて言えば、ある正しい概念があって、それが人によって間違って理解され使用されているようなものでしょうか。

 「その通りです。しかし、それも一歩ずつではあっても絶えず理想へ近づいて行かねばなりません。完全は存在します。それを私は、あなた方は本当の自分のほんの一かけらほどしか表現していないと申し上げているのです。もしも現在のその身体を通して表現されている一かけらだけであなたを判断したら、きわめて不当な結論しか出てこないでしょう。

が、それは本当のあなたの一部分に過ぎません。もっと大きなあなた、もっと大きな意識が存在し、それが今もあなたとつながっているのです。ただそれは、それに相応しい表現器官が与えられないと発揮されないということです」


───お聞きしていると神が一個の存在でなくなっていくように思えます。独立した存在としての神はいるのでしょうか。

 「真っ白な豪華な玉座に腰かけた人間の姿をした神はいません。神とは一個の身体を具えた存在ではありません。法則です」


───それに心が具わっているわけですか。(ここでは〝心〟を〝精神〟と置きかえて考えてもよい―訳者)

 「心というものは、あなた方のような身体だけに限られたものではありません。法則を通して働いているのです。心を脳味噌と切り離して考えないといけません。意識というものはそのお粗末な脳細胞だけを焦点としているのではありません。

意識は脳とは完全に独立した形でも存在します。その小さな脳という器との関連で心の働きを考えるのは止めないといけません。心はそれ自体で存在します。

しかし、それを自覚するには何らかの表現器官が必要です。そのために人間に幾つかの身体が具わっているわけです(※)。身体を具えない状態を想像することは可能であり、その状態でもあなたは厳として存在しますが、あなたを表現する手段がないことになります。

(※シルバーバーチは身体の事を bodies という複数形で用いることがあるが、それがいくつあってどういうものであるという細かい説明はしていない。巻末〝解説〟参照ー訳者)

 神という存在を人間に説明するのはとても困難です。人間には独立した形態を具えた存在としてしか想像できないからです。言語や記号を超越したものを地上の言語で説明しようとするのが、そもそも無理な話です。創造の本質に関わることなのです。

神という存在をどこかのある一点に焦点を持つ力であるとは言えません。そんなものではないのです。神とは完全な心───初めも終りもなく、永遠に働き続ける完璧な摂理です。真っ暗だったところへある日突然光が射し込んだというものではありません。生命は円運動です。始まりも終りもありません」


───宇宙のすみずみまで神が存在するのと同じように、われわれ一人一人にも神が宿っているとおっしゃるわけですか。

 「私のいう神は、全創造物に顕現されている霊の総体と離れて存在することはできません。残念ながら西洋世界の人は今もって人類の創造をエデンの園(アダムとイブの物語)と似たような概念で想像します。実際はそれとはまったく異なるのです。

 宇宙の進化は無窮の過去から無窮の未来へ向けて延々と続いております。かつて何も無かったところへ突如として宇宙が出現したのではありません。宇宙は常にどこかに存在します。生命は何らかの形態で常に顕現してきました。そしてこれからも何らかの形で永遠に存在し続けます」


───子供には神のことをどう説いて聞かせたらよいでしょうか。

 「説く人自らが全生命の背後で働いている力について明確な認識を持っていれば、それは別に難しいことではありません。私だったら大自然の仕組みの見事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドの如き夜空の星の数々に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝き、名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。

あたかも囁きかけるようなそよ風、そしてそれを受けて揺れる松の林に目を向けさせます。さらさらと流れるせせらぎと、怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの動きが確固とした目的を持ち、法則によって支配されていることを指摘いたします。

そして更に人間がこれまで自然界で発見したものはすべて法則の枠内に収まること、自然界の生成発展も法則によって支配され規制されていること、その全体に、人間の想像を絶した広大にして入り組んだ、それでいて調和した一つのパターンがあること、全大宇宙のすみずみに至るまで秩序が行き亘っており、惑星も昆虫も嵐もそよ風も、その他あらゆる生命活動が───いかに現象が複雑を極めていても───その秩序によって経綸されていることを説いて聞かせます。



 そう説いてから私は、その背後の力、すべてを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、人間にはまだ知られていない見えざる世界までも支配している奇(くしび)な力、それを神と呼ぶのだと結びます」

Thursday, March 27, 2025

シアトルの春 完全でありなさい

Be perfect.




完全性の特徴  

一、あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを迫害し、中傷する者たちのために祈りなさい。あなたたちを愛してくれる者たちだけを愛するのであれば、いったい何を報酬として受けることが出来るでしょうか。

徴税官でさえそのようにしているではありませんか。あなたたちの兄弟だけに挨拶をするのであれば、他人に比べて何を多く行っているということになるでしょうか。ゆえに、あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい。(マタイ 第五章 44、46-48)


二、神はすべてにおいて永遠の完全性を有していることから、「あなたたちは天の父が完全であられるように、完全でありなさい」という命題は、文字どおりに受け取ると絶対的完成に到達できる可能性を推測させます。

もし創造物に、創造主と同様に完全になることが許されていたとすれば、創造物は創造主と等しくなってしまい、それは認められないことになります。しかし、イエスが話をした人々は、こうしたニュアンスを理解することができなかったので、イエスは彼らにこのような模範を示し、達成するために努力することを伝えたのです。

 ゆえに、この言葉は相対的な完全性、神に最も近い人類にとって可能な完全性と言う意味で理解するべきです。そうした完全性とは、なにからなっているのでしょうか。

イエスは「私たちの敵を愛し、私たちを憎む者に対して善を尽くし、私たちを迫害する者たちのために祈ること」にあると言いました。このようにしてイエスは、完全性の本質とは、そのもっとも広い意味における慈善であることを示しており、なぜならそれは、他のあらゆる美徳の行使を含むものだからです。

 あらゆる悪徳を、本当に単純な欠点に至るまで、そのもたらす結果において実際に観察してみると、そこには慈善の感覚を多少とも変化させないものはないということが分かるでしょう。

なぜなら悪徳は、多かれ少なかれ、その本質がエゴイズムと自尊心の中にあり、慈善とはそれを否定するものだからです。また、アイデンティティーの感情を過剰に刺激するものはみな、真なる慈善の要素である善意、寛大さ、自己の放棄、献身を破壊するか、少なくとも弱めることになるからです。

敵に対する愛にまで引き上げられた隣人愛は、慈善に反するどんな欠点にも結びつくことはなく、したがって、そうした愛は、いつも道徳性の優劣を示すしるしとなります。

そのことから、完全性の度合いは、その愛をどこまで広げることができるかということに直接かかわっていることになります。

そうであるがこそ、イエスはその使徒たちに慈善のきまりを教えた後、そのうちの最も崇高な教えである、「あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい」と言うことを言ったのです。


 善人
三、真なる善人とは、正義、愛、慈善の法を、その最も純粋な意味において遵守する人のことです。

このような人が自分自身の行動について良心に問いかける時には、自分に対して、その法を破っていないか、悪を行っていないか、可能な限りの善を尽くしているか、有益な機会を自ら無駄にしていないか、誰かが自分に対して不平を持っていないか、つまりは、自分にして欲しいように他人に対して行っているか、を問い詰めることでしょう。

神とその善意、その正義、その英知に対して信心を持っています。神の許可なしには何も起こることはないことを知っており、すべてにおいて神の意志に従うことを知っています。

 未来に対する信頼を抱き、そのために霊的な富を一時的な富の上に位置付けています。
 人生における全ての苦しみと痛み、あらゆる落胆は試練か報いであることを知っており、それらを不平を言わずに受け入れます。

 慈善と隣人愛の感覚を持ち、善のために善を、いかなる報酬を期待することなく行います。悪に対して善で報い、強者から弱者を守り、正義に対して自分の利益を犠牲にします。

 善意を広めること、仕事に打ち込むこと、他人を幸せにし、他人の涙を乾かし、苦しむ者に慰安を与えることに満足を見出します。第一の衝動は自分のことを考える前に他人を思うこと、他人の関心事の面倒を、自分の関心事の前に見ることです。

反対に利己的な人は、あらゆる寛大な活動について、そこから生じる損害や利益を計算します。

 善人とは良識を持ち、暖かく、すべての人に対して親切であり、人種や信仰の差別をせず、人類すべてをその兄弟として見ることが出来るのです。

 私たちすべての誠意ある確信を尊重し、彼と同じように考えない人を敵視することはありません。

 どのような状況に置いても慈善をその指針とし、悪口によって他人を害したり、自尊心によって傷つけたり、他人の感受性を軽んじたり、どんなに小さな苦しみや不一致であれ、それを引き起こすことを避けようとしないことが、隣人を愛する義務を怠っていることであり、そうあることは主の慈悲に値しないのだ、という確信があります。

 憎しみや怒り、復讐の欲を抱くことさえありません。イエスの規範に従って、赦し、攻撃することを忘れ、自分が赦したことに応じて自分も赦されることを知っているため、受けた恩恵の記憶だけを心に残します。

 他人の弱さに対して寛容で、なぜなら、自分も他人の寛容を必要としていることを知っており、次のキリストの言葉を覚えています。「罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」。

 他人の欠点を探すことを決して好まず、それを証言することも好みません。たとえそれを見ることが強いられても、常にその悪を緩和する善を求めます。

 自分自身の不完全性について研究し、それを無くすことができるように絶え間なく勉めます。次の日になって、前日に比べ何か良いことが自分にもたらさせたといえるように、あらゆる努力を用います。

 他人を犠牲にして自分自身の霊や才能の価値を高めようとはしません。反対に、他人にとって有益なことが目立つようにあらゆる機会を利用します。

 自分に与えられたものは、すべて奪われる可能性があることを知っているため、所有する富や個人的な優位性によって自惚れることはありません。

 自分に与えられた富について、それが預かりもので、何れ精算をしなければならないことを知っており、また、自分の情熱を満足させるためにそれを用いることが最も危害を与えることになることを知っているため、それを用いることはあっても濫用することはありません。

社会秩序がその人の支配下に他の人々を置いたとしても、神の前にはみな平等であるため、それらの人々を善意と寛容さによって扱います。その権威を彼らの道徳性を高めるために用い、傲りによって彼らを押し潰すことはありません。彼らの位置する従属的な立場がより辛いものとなるようなことはみな避けます。

 他人に従う立場にある場合は、自分のために、自分の占める位置における義務を理解しており、それを良心的に遂行します(→ 第十七章 9)。最後に、善人は自然の法が自分の同胞たちに与えるあらゆる権利を、自分が尊重して欲しいのと同じように尊重します。

 人を善人として区別するすべての特徴を詳細に述べることはできません。しかし、以上に述べた特徴を得ようと努力する者は、残りのすべての特徴をその道程で見つけることになるでしょう。


 善いスピリティスト   
四、善く理解され、なによりもよく意識されることにより、スピリティズムは前に記したような結果を導きますが、それは真なるスピリティストを特徴づけることであり、同時に真なるキリスト教徒を特徴づけることです。なぜなら双方は同じものであるからです。

スピリティズムは新しい道徳を定めるのではありません。単に人類に対してキリストの教えの理解と実践を容易にし、疑ったりぐらつく者に、揺るがぬ明確な信仰を与えようとしているのです。

 しかし、心霊現象を信じる多くの人は、その結果や、そのことが及ぶ道徳性を学ばず、あるいは、学んでも自分自身に適応させることがありません。それはどんな理由からなのでしょうか。スピリティズムの教義に何かしら明確さが欠けているのでしょうか。

いいえ、なぜなら、教義には誤った理解をもたらすような装飾や形を含んでいないからです。その明確さは本質そのものであり、直接知性に働きかけ、すべての力がその本質から来ています。

神秘的なものは何もなく、それに接したばかりの人も、そこにどんな秘密や俗世間に隠されたこともないということが分かるでしょう。

 それでは、それを理解するには並ならぬ知性が必要なのでしょうか。いいえ。著しい能力の持ち主でそれを理解することが出来ない人たちがいる一方で、一般的な知性の持ち主で、まだ青年期を終えたばかりの若者でも、それを賞賛すべき正確さによって、最も繊細な意味合いについても、学び取る人がいます。

このことは、いわば、科学の物質的な部分が、それを観察する目を必要とするのに対し、本質的な部分は、道徳性の成熟度と呼ぶことのできるある程度の感受性を必要としていることを証明しています。

その成熟度とは、年齢や教育の度合いからは独立したもので、それは特に肉体を持って生きる霊そのものの進歩に固有のものなのです。

 ある人たちにとっては、地上のものから解放されるには物質との絆が未だ強すぎることがあります。彼らを取り巻く霧は無限の視野を遮り、そのことから彼らには、自分たちの癖や習慣をそう容易には断ち切ることができず、彼らが取り入れていることよりも良い何かが存在することに気づくことができなくなるのです。

単なる事実として霊の存在を信じますが、そのことがその人の本能的な傾向を変化させることはほとんどないか、まったくありません。一言で言うなら、遠くから眺める一筋の光以上のものではなく、そのことが彼らを導き、傾向に打ち勝つだけの強烈な熱望を与えるには至らないのです。

彼らには、道徳は陳腐で単調に見え、現象にすがります。すでに創造主の秘密を知るにふさわしくなったかどうか知ろうともせず、霊たちに対して、絶えず新しい神秘について話をはじめることを依頼します。

こうした人たちは不完全なスピリティストで、彼らのうちの何人かは途中で学ぶことを止めてしまったり、同じ信仰を持つ同胞たちから遠ざかったりします。

なぜなら、自己を改革する義務から逃れたり、同じ欠点や偏見を有する人たちと共感し続けることになるからです。その場合、彼らは教義の原則を受け入れるという第一歩を簡単に踏み出しますが、第二歩目は、次の人生で踏むことになるのです。

 理性に則り、真の誠実なスピリティストとして分類されることのできる人は、道徳的進度においてより優れた段階にあります。その人を物質よりも完全な形で支配するその霊は、未来に対してより明確な感覚を与えます。教義の原則はその人を、他の人の中では反応することの無い神経までも震わせます。

一言で言うならば、その人は揺らぐことのない信仰によって心を支配されています。それは、音楽家がある和音を聞いただけで感動する一方で、他人にはそれがただの音にしか聞こえないのと同じです。

真のスピリティストは、その人の道徳的変化や、その悪しき傾向を抑制するために払う努力をしているかどうかで見極められます。ある人たちが有限の地平線に満足する一方で、別の人たちはより善いことを学び、そこから解放されようと努力し、それを固い意志をもって必ず達成することになるのです。


 種を蒔く者の話
五、その日、家を出ると、イエスは海岸に座っておられた。ところがその周りに大勢の群衆が集まってきたので、舟に乗って座られた。人々は海岸に居たままだった。

すると次の様に多くのことをたとえ話で語られた、「種蒔きが種を蒔きに出かけた。蒔いていると、道端に落ちた種があり、すると鳥がやって来て食べてしまった。石が多く土の少ない場所に落ちた種もあった。その場所は土が浅かったので種はすぐに芽を出した。

しかし芽が伸びると太陽が照り付け、根がないために乾いてしまった。別の種は茨の間に落ちたが、その茨が伸びると芽の成長をさえぎってしまった。そして良い土地に落ちた種は実を結び、一つの種から百、あるいは六十、あるいは三十の種がもたらされた。聞く耳を持つ者は聞きなさい」。(マタイ 第十三章 1‐9)

「ゆえに、種を蒔く者の話を聞きなさい。天の国よりの言葉を聞きながらも、それに注意を払わなければ、悪意のある霊がやって来て、その者の心の中にまかれた種を持って行ってしまいます。

そうした者は、種を道端で受けたのと同じことです。石の間に種を受ける者とは、御言を聞き、それをすぐに喜ばしく受け止める者のことです。しかし、そこには根が生えていないために、短い時間しか持続しません。反対や迫害を受けると、それを堕落と不正の理由にしてしまいます。

茨の間に種を受ける者とは、御言を聞きいれる者のことです。しかしやがて、その時代や富への関心が御言を押しつぶし、実を結ばなくなってしまいます。

良い土地に種を受ける者は、御言を聞き、それに注意を払い、それによって実を結ぶことができ、一つの種から百、六十、三十もの種がもたらされるのです」。(マタイ第十三章 18-23)


六、種を蒔く人の話は、福音の実際の受け止められ具合いを正しく表現しています。実際に、その人にとって福音が死んだ文字にしか映らず、石の上に落ちた種のように、全く実を結ばない人が何と多いことでしょうか。

 さまざまなスピリティストの分類の中にも全く同じことが当てはまります。物質的現象ばかりに気を取られ、珍しいものしか見ることがないために、そこからどんな結果も重要性も導くことが無い人々が、この話の中に象徴されているのではないでしょうか。

霊の通信の輝かしい部分ばかりに気をとられ、それで自分の想像を満足させることだけに興味を持ち、通信を聞いた後も、以前そうであったのと変わらず冷たく無関心でいる人はどうでしょうか。

忠告を良いと認識し、それを賞賛しながらも、それは他人に当てはめられるもので、自分自身にあてはめられるものではないと考えてはいないでしょうか。では、そうした教えを、良い土地に落ちて実を結ぶ種のように受け止める人とはどういう人でしょうか。  







   霊たちからの指導

 義務
七、義務とは、まず第一に自分自身に対する、そしてその次に他人に対する、人間の道徳的任務のことです。義務は人生の法です。最もささいな事柄においても、より高尚な行動の中にも、そ れに出合うことができます。ここでは職業上要求される義務ではなく、道徳的義務についてだけ述べたいと思います。 

 感情の秩序の中で、義務は、心や興味を引き付けるものと相反するものであるために、とても果たすのが難しいものです。その勝利に証人は存在せず、またその敗北は罰せられるものではありません。

人類のうちなる義務遂行は、その自由意志に委ねられます。良心の痛みが、内心の誠実なる番人であり、人に警告を与え、人を支えています。しかし多くの場合、それは感情の詭弁の前に無力となってしまいます。心の義務は、忠実に守られれば人類を高尚にします。

しかしそれをどのように正確に定めればよいのでしょか。それはどこに始まり、何処に終わるのでしょうか。義務はまさに、あなたたち一人一人が同胞の幸福や平和を脅かしはじめる点にはじまります。そして、他人には超えないように望まれる、あなたたちの辛抱の限度の境界で終わります。

 神はすべての人類を、痛みに対して平等に創造しました。小さな者も大きな者も、教育のある者も無知な者も、一人一人がその健全な良心によって引き起こし得る悪を判断することができるように、すべての人が同じ原因によって苦しむようになっています。

善に関しては、その表現が無限に多様化しており、その基準は同一ではありません。痛みに対する平等は神の崇高なるはからいであり、神はその子すべてが、共通した体験に教えられることによって、自分の無知による弁明をしながら悪を働くことがなくなることを望んでいるのです。

 あらゆる道徳的な思惑の実践は、義務に要約されます。それは戦いの苦しみに立ち向かう魂の勇敢な行動です。それは厳しくも寛大です。

多様で複雑な場面の前に屈する準備がありますが、その企てにおいて不屈であり続けます。義務を果たす人は、神を被造物よりも愛し、自分自身よりも創造主を愛していることになります。それはその原因自体に対する判事であると同時に奴隷でもあるということです。

 義務とは理性の最も美しい褒美です。母親から子供が生まれるように、理性からそれは生れます。人類は義務を愛さねばなりません。それは、義務が人生の悪や人類が逃れることの出来ない悪から守ってくれるからではなく、人類の進歩に必要な力を魂に与えてくれるからです。

 義務は、人類のより優れた向上のための期間のそれぞれの場面において、あらゆる高尚な形に育ち、輝きます。被造物の神に対する道徳的義務は、途切れることはありません。

被造物自身の美しさが自らの目の中に輝くことを神は望むため、不完全に終わることの無い永遠なる神の美徳を、義務は写し出しているのです。(ラザロ パリ、1863年)


 徳
八、最高位の徳とは、善人の持ち合わせるすべての本質的な特徴の集まりです。善くあり、慈善を行い、努力家であり、質素で、慎ましくあることは徳の高い人の特徴です。しかし残念なことに、大抵こうした徳とともに、小さな道徳的な病が同居し、徳を弱めてしまっています。

自分の徳を見せびらかす人は徳が高いとは言えません。なぜならそこには謙虚さという最も重要な特徴が欠けているからです。反対に、そこには謙虚さとまったく反する悪癖である自尊心が存在しているのです。

美徳と呼ばれるにふさわしい徳は、目立つことを好みません。そうした徳とはたとえその存在が想像できても、闇の中に隠れ、人々の賞賛から逃れようとします。聖ヴィンセンティオ・デ・パウロは、徳の高い人でした。

クーラ・ダール(アルスの司祭・聖ウ“ィアンネー)やその他の大勢の人々も高徳で、世界的に知られてはいませんが、神には知られているのです。

これらの善人たちはみな、自分たちが徳が高いということなど気にもしませんでした。自らの聖なるインスピレーションに任せ、完全に私心を捨て、完全なる自己の放棄によって善を行いました。

 子供たちよ、私はこのように理解され、実践される徳にあなたたちを招きます。この真にキリストの教えを守る、真なるスピリティストの徳にこそ、あなたたちに身を捧げて欲しいとお誘いします。しかし、あなたの心から自尊心、虚栄心、自己愛といった、最も美しい特徴をいつも失わせてしまうものはすべて遠ざけてください。

模範として自ら現れ、自分から自分の特徴を嫌がらずに聞いてくれる耳に向かって言いふらす者のマネをしてはいけません。そのように目立つ徳には多くの場合、多数の小さな醜行や憎まれるべき臆病が隠されています。

 概して、目立とうとする者、徳によって自分自身の彫像を建てようとする者は、そのことだけによって手に入れることのできたあらゆる実際の功労を打ち消してしまいます。

では、実際の姿とは違った姿で現れることばかりに価値を置いている人については、どう言えばよいのでしょうか。善を行う者は、間違いなく心のうちに満足感を抱くものです。しかし、その満足を外面的に現し、他人からの賞賛を得ようとした時、それは自己愛に転落してしまうのではないでしょうか。

 スピリティズムの信仰によって心を熱くしたあなたたちは、人類がその完成からどれだけ遠いところにあるかを知っているのですから、決して他人の賞賛を得ようとしてつまずいてはいけません。

すべての誠実なスピリティストに私は徳を積むことを望みます。しかしながら、あなたたちに申しあげます。謙虚さを伴う少ない徳の方が、自尊心を伴う多くの徳よりも価値があります。

自尊心によって人類は代々迷うことになるのです。いつか人類は謙虚さによって贖罪することになるでしょう。(フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)  
 

 上位の者、下位の者
九、権威にせよ、富みにせよ、それらは委任されたものであり、委ねられた者はいずれその精算をする必要があります。それらが単に無益な、命令する喜びを作るためにだけ与えられたのであるとか、地上においてそうした力を与えられた者の大半が思っているように、それが権利であり、所有物であるなどと考えてはなりません。

もっとも神は絶えずそのことを証明するため、そうと決めた時に、彼らからその権威や富を奪います。もしそれらが個人に属する特権であるなら、譲渡し得ないものであるはずです。

あるものが自分の同意なしに奪われる可能性があるとすれば、誰にもそのものがその人に属しているのだということはできません。神はそうあるべきだと判断した時、権威を使命または試練として託し、最も適したときにそれを奪います。

 権威を委託された者は誰であれ、主人と奴隷から君主と国民の関係に至るまで、その権威がどこに及ぶものであろうと、その責任が及ぶ範囲の中には、与える方向性の善し悪しに応じて、権威に従って変化する魂が含まれていることを忘れてはなりません。

彼らに対して犯した過ちや、悪しき模範や方向性を示した結果によって生まれた悪癖は、権威を託された者へ降りかかります。同様に、従う者たちを善へと導くように権威を行使する者は、その配慮の結果を得ることになります。すべての人が、大なり小なり、地上においてある使命を持っています。

その使命がどのようなものであれ、それは常に善のために与えられています。その根本においてあざむく者は、その使命の達成に失敗します。

 金銭的に裕福な者に対して、「あなたの周りに泉のように実りを溢れさせるはずであった、あなたの手中にあった富をあなたはどうしましたか」と尋ねるように、ある種の権威を有するものに対しても神は尋ねます。

「あなたの権威をどのように用いましたか。どんな悪を避けることができましたか。どんな進歩をもたらしましたか。あなたに従う者たちを与えましたが、それはあなたの意志に応じて働く奴隷とするためでもなければ、あなたの貪欲さや気まぐれに従順な道具とするためでもありません。

あなたが彼らを助け、彼らが私の胸もとまで上ってくることが出来るようにと、あなたを強い立場におくことによって権威を与え、弱い者たちをあなたに託したのです」。

 キリストの言葉に納得している上位の者は、自分に従う者を軽んじることはありません。なぜなら、神の目に社会的な区別は存在しないことを知っているからです。今日その人に従う者は、かつてはその人に対して命令を下していたかもしれません。

あるいは、後になって命令を下すことになるかもしれず、だからその人は権威を行使していた時に自分が従う者たちをどう扱ったかに応じて扱われるのだと言うことをスピリティズムは教えてくれるのです。

 上位の者に達成しなければならない義務があるのであれば、下位の者にも上位の者と同様に神聖な義務が存在します。

スピリティストであるならば、例えばその上司が自分に対する義務を遂行しないからと言って、自分の義務を遂行する必要がないと考えてはいけないのだ、と言うことを強制力をもってその良心が主張します。

なぜなら、ある者が過ちを犯したからと言って、悪に対して悪で応酬することが正当でないことをよく知っており、そのことが他人の過ちを正当化するものでないことをスピリティストは知っているからです。たとえその立場が苦しみをもたらしたとしても、それが疑いもなく自分にふさわしいことだと認識します。

なぜなら、おそらく、自分も過去に持っていた権威を濫用したために他人を苦しめており、今はそのことを自分自身が経験しているのだと感じるからです。その立場に耐えることが求められ、その他によりよい場所が見当たらないのであれば、それはその人の進歩に必要な謙虚さを養うための試練となっているのであり、スピリティズムはそれを甘受することを教えています。

スピリティズムを信じることは、自分がもし上司であったとしたら、自分に対してとることが望ましいような行動を部下たちに起こさせることができるように、自分の行動を導くことです。だからこそ、自分の義務を遂行することはより気がかりになります。

なぜなら、自分に与えられた仕事を怠けることは、報酬を払ってくれる人にも、時間と努力を負っている人にも、損失をもたらすのだということを理解しているからです。

一言で言うなら、スピリティズムを信じる人の心には、信仰から生まれた義務感があり、正しい道から離れることが、何れ支払わねばならなくなる債務を生むことになる、という確信があるのです。(モロー枢機卿フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)


 この世の人類
十、主の視野のもとに集まって善霊たちの支援を懇願する者たちの心を、常に慈悲の心が励まします。ですから、あなたたちの心を清めて下さい。その心の中にあらゆる世俗的な考えや無益な考えが長居することを許してはいけません。

あなたたちが呼ぶその霊のもとへあなたたちの霊を引き上げ、あなたたちがその魂の中で発芽させ、慈善と正義の実を結ばせなければならない種を彼らが豊富に蒔くことができるように、あなたたちの中に必要な準備を整えて下さい。

 しかし、私たちが祈りと精神を呼び起こすことを絶えずあなたたちに勧めるからと言って、私たちがあなたたちに、生きるように言いわたされた社会の法から逃れた、神秘的な生活を送ることを望んでいるのだと判断してはいけません。

そうです、あなたたちは、人類がそうあるべきであるように、あなたたちの時代の人々とともに生きなければなりません。その日のつまらぬことに対しても、必要性に応じて自分を犠牲にし、それらを神聖なものとすることができるように純粋な気持ちで自分を捧げて下さい。

 あなたたちは違った性格を持つ霊たち、相反する特徴を持った霊たちと接触するように呼ばれたのです。あなたたちがともに人生を過ごす彼らの誰とも衝突してはいけません。快活に、幸せであって下さい。

しかし、その快活さが潔白な良心のもとからもたらさせるように、その幸運が、あなたたちが遺産を手に入れる日までの残された日々を教える、天の相続人のものであるように。

 徳とは、あなたたち人類に許された快楽を嫌って厳しく陰気な表情を見せることではありません。

あなたたちに人生を与えてくれた創造主に対して、人生のあらゆる行動を報告すればよいのです。ある仕事を開始したり、終えたりした時、創造主のもとに思考を引き上げ、魂の喜びや、成功するための保護、あるいはその仕事を完成したのであれば、その祝福をお願いすればよいのです。

何を行うにおいても、あらゆるものに対してあなたの額を上げ、あなたのどんな行動さえも、神の記憶によって神聖化され、清純化されないことがないようにして下さい。

 キリストが言ったように、完成とは、絶対的な慈善の実践中の中にすべてが存在します。しかし、慈善の義務は小さい者から大きな者にいたるまで、あらゆる社会階級に及びます。孤立して生きる人間にはどんな慈善も行うことはできません。唯一、同胞たちとの接触において、その最も厳しい戦いの中でのみ、人は慈善を行う機会に出合うのです。

ゆえに、自ら孤立し、自分を完成させる最も強力な手段を失ってしまう人は、自分のことしか考えることがなく、その人生は利己的なものとなってしまいます。(→第五章 26)。

ですから、私たちと絶えず通信を取りながら、神の御心に叶うように生きるために自らを痛めつけたり、灰を被ったりする必要があると考えてはなりません。そうではないのです。繰り返し申し上げます。

人類の必要性に応じて幸せでありなさい。しかし、あなたたちの幸せの中に、あなたたちを愛しあなたたちを導く者を攻撃したり、彼らの顔を悲しませたりするようなことが決してあってはいけません。神は愛であり、神を純粋に愛する者を祝福するのです。(ある守護霊 ボルドー 1863年)

 
  肉体と霊を大切にしなさい
十一、 道徳的完成は肉体の苦行がもたらすのでしょうか。この問題を解決するために、基本的な原則に則り、まず肉体を大切にする必要性を示したと思います。なぜなら、健康か病気かと言うことは、肉体の虜と考えられる魂にとって大きな影響を及ぼすからです。

この虜が生き生きとし、その広がりを見せ、自由の幻想を抱くようになるには、肉体は健全で、すぐれ、強くなければなりません。ある例を示してみましょう。

ここに肉体と魂のいずれもが完全な状態にある人がいるとします。必要性や性質のまったく異なるこれらの二つの要素の均衡を保つためには何をしなければならないでしょうか。両者間の戦いは避けられず、それらを均衡に導く秘訣を見出すのは困難です。

 肉体と魂の扱いについては、二つの考え方が対立しています。一つは修行者の考え方で、その基本は肉体を痛めつけることであり、もう一つは唯物主義者の考え方で、その基本は魂を卑しめることです。

いずれも曲解であり、勝るとも劣らずばかげています。しかし、これら二つの両極端な考え方には、大勢の無関心な群衆が、確信もなく情熱を抱くこともなく群がります。彼らは愛に対して冷たく、喜びに対してケチな人々です。その時、知性はどこにあるのでしょうか。

生きるための科学はどこにあるのでしょうか。どこにもありません。スピリティズムが到来し、研究家たちを助け、肉体と魂の間に存在する関係を示し、お互いが他方に依存しているために、両方を大切にしなければならないと言わなければ、この大きな問題は解決されることはありません。

だから、あなたたちの魂を愛し、また、同様に、魂の道具であるあなたたちの肉体を大切にしてください。自然そのものが示す必要性を軽んじることは、神を軽んじることです。あなたの自由意志から犯された過ちによって肉体を痛めつけないでください。

そうした過ちに対しては、自由意志も、下手に操られた馬と同様に、それが引き起こす事故の責任を負っているのです。

肉体を苦行にさらし、あなたたちの隣人に対して慈善を行うことも、へりくだることも、自己中心的でなくなることもなしに、肉体を痛めつけることによって、あなたたちはより完全になることができるのでしょうか。いいえ、完成とはそうしたものではありません。

完成とは、あなたたちの霊に対して行う改革にあります。魂を曲げ、服従させ、へりくだり、苦しめて下さい。それが神の意志に対して従順になり、完成に至ることのできる唯一の手段です。(守護霊 ジョルジュ パリ、1863年)

Wednesday, March 26, 2025

シアトルの春 前世・現世・来世

Past life, present life, and the next life



Wisdom of Silver Birch


 ある日の交霊会に米国人ジャーナリストが招かれた。そして最初に出した質問が「霊界というところはどんなところでしょうか」という、きわめて基本的な質問だった。その時レギラーメンバーの一人が「この方は心霊研究家とお呼びしてもよいほどの方ですよ」と言ったことが、次のようなユーモラスな答えを誘い出すことになった。

(訳者注────ここでは心霊学に詳しい方という程度の意味で言ったのであるが、その心霊学が〝心霊現象の科学的研究〟を目的としているだけで、霊魂の存在も幾つかの学説の中の一つとして扱われているだけである。その点を念頭に置いてシルバーバーチがその〝学説〟を並べ立てて皮肉っぽく答えているところがユーモラスである)

 「私は地上の人たちから〝死んだ〟と思われている者の一人です。存在しないことになっているのです。私は本日ここにお集まりの方々による集団的幻影に過ぎません。

私は霊媒の潜在意識の産物です。私は霊媒の第二人格であり、二重人格であり、多重人格であり、分離人格です。これらの心霊用語のどれをお使いになっても結構ですが、私もあなたと同じ一個の人間です。ただ私は今あなたが使っておられる肉体をずいぶん前に棄ててしまいました。

あなたと私の根本的な違いはそれだけです。あなたは物的身体を通して自分を表現しているスピリットであり、私は霊的身体を通して表現しているスピリットであるということです。         

 私はほぼ三千年前に霊の世界へ来ました。つまり三千年前に〝死んだ〟のです。三千年というとあなたには大変な年数のように思われるかも知れませんが、永遠の時の流れを考えると僅かなものです。その間に私も少しばかり勉強しました。

霊の世界へ来て神からの授かりものである資質を発揮していくと、地上と同じ進化の法則に従って進歩していきます。つまり霊的な界層を一段また一段と向上していきます。界層という言い方をしましたが、一つ一つが仕切られているわけではありません。

霊的な程度の差があり、それぞれの段階にはその環境条件にふさわしい者が存在するということです。霊的に向上進化すると、それまでの界層を後にして次の一段と高い界層へ融け込んでいきます。それは階段が限りなく続く長い長い一本の梯子のようなものです。

 そう考えていけば、何百年、あるいは何千年か後には物質界から遠く離れていき、二度と接触する気持ちが起きなくなる段階に至ることは、あなたにも理解出来るでしょう。所詮、地上というところはたいして魅力ある世界ではないのです。

地上の住民から発せられる思念が充満している大気にはおよそ崇高なものは見られません。腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めております。人間生活全体を暗い影がおおい、霊の光が届くのはほんの少数の人に限られております。

一度あなたも私と同じように、経済問題の生じない世界、お金が何の価値も無い世界、物的財産が何の役にも立たない世界、各自が有るがままの姿をさらされる世界、唯一の富が霊的な豊かさである世界、唯一の所有物が個性の強さである世界、生存競争も略奪も既得権力も無く、弱者が窮地に追いやられることもなく、

内在する霊的能力がそれまでいかに居眠りをしていても存分に発揮されるようになる世界に一度住まわれたら、地上という世界がいかにむさ苦しく、いかに魅力に乏しい世界であるかがお判りになると思います。

その地上世界を何とかしなければならない───私のようにまだ地上圏へ戻ることのできる程度のスピリットが援助し、これまで身に付けた霊的法則についての知識を幾らかでも教えてあげる必要があることを、私は他の幾人かの仲間とともに聞かされたのです。

人生に迷い、生きることに疲れ果てている人類に進むべき方向を示唆し、魂を鼓舞し、悪戦苦闘している難問への解決策を見出させるにはそれしかないということを聞かされたのです。

 同時に私たちは、そのために必要とする力、人間の魂を鼓舞するための霊力を授けてくださることも聞かされました。しかし又、それが大変な難事業であること、この仕事を快(よ)く思わぬ連中、それも宗教的組織の、そのまた高い地位にある者による反抗に遭遇するであろうことも言い聞かされました。

悪魔の密使とみなされ、人類を邪悪の道へ誘い、迷い込ませんとする悪霊であると決めつけられるであろうとの警告も受けました。要するに私たちの仕事は容易ならざる大事業であること、そして(ついでに付け加えさせていただけば)その成就のためには、それまでの永い年月の中で体験してきた霊界生活での喜びも美しさも、すべてお預けにされることになるということでした。

しかし、そう言い聞かされた私たちのうちの誰一人としてそれを断わった者はいませんでした。かくして私は他の仲間と共に地上へ戻ってまいりました。地上へ再生するのではありません。地上世界の圏内で仕事をするためです。

 地上圏へ来てまず第一にやらねばならなかったのは霊媒を探すことでした。これはどの霊団にとっても一ばん骨の折れる仕事です。次に、あなた方の言語(英語)を勉強し、生活習慣も知らねばなりませんでした。あなた方の文明も理解する必要がありました。

 次の段階ではこの霊媒の使用法を練習しなければなりませんでした。この霊媒の口を借りて幾つかの訓え───誰にでも分る簡単なもので、従ってみんなが理解してくれれば地上が一変するはずの真理を説くためです。

同時に私は、そうやって地上圏で働きながらも常に私を派遣した高級霊たちとの連絡を保ち、より立派な叡智、より立派な知識、より立派な情報を私が代弁してあげなければなりませんでした。初めのころは大いに苦労しました。今でも決してラクではありませんが・・・。

そのうち私の働きかけに同調してくれる者が次第に増えてまいりました。すべての人が同調してくれたわけではありません。居眠りしたままの方を好む者も大勢いました。自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました。

その方が安全だったわけです。自由に解放されたあとのことを恐れたのです、が、そうした中にも、そこここで分かってくれる人も見出しました。私からの御利益は何もありません。

ただ真理と理性と常識と素朴さ、それに、近づいてくれる人のためをのみ考える、かなり年季の入った先輩霊としての真心をお持ちしただけです。

 それ以来私たちの仕事は順調に運び、多くの人々の魂に感動を与えてまいりました。無知の暗闇から抜け出た人が大勢います。迷信の霧の中からみずからの力で這い出た人が大勢います。自由の旗印のもとに喜んで馳せ参じた人が大勢います。死の目的と生の意味を理解することによって二度と涙を流さなくなった人が大勢います。」


───魂は母体に宿った時から存在が始まるのでしょうか。それともそれ以前にも存在(前世)があるのでしょうか。

 「これは又、ややこしい問題に触れる質問をしてくださいました。私は自分はこう思うということしか述べるわけにはまいりません。私は常に理性と思慮分別に訴えております。

いつも申し上げていることですが、もしも私の述べることがあなたの理性を反発させ、知性を侮辱し、そんなことは認められないとおっしゃるのであれば、どうぞ捨て去っていただきたい。拒絶していただいて結構です。

拒絶されたからといって私は少しも気を悪くすることはありません。腹も立ちません。愛の気持ちは変わりません。ここにおいでのスワッハーも相変わらず考えを変えようとしない者の一人です。

他の者はみな私の口車にのって前生の存在を信じるようになった(と思っている)のですが・・・・・・私の知るかぎりを言えば、前世はあります。つまり生まれ変わりはあるということで、その多くは、はっきりとした目的をもった自発的なものです」

 これを聞いたスワッハーが「私は再生の事実を否定したことはありませんよ。私はただ魂の成長にとって再生が必須であるという意見に反対しているだけです」と不服そうに言うと、

 「それは嬉しいことを聞きました。あなたも私の味方というわけですな、全面的ではなくても」と皮肉っぽく言う。

 するとスワッハーは「あなたは私も今生(こんじょう)に再生してきているとおっしゃったことがあるじゃないですか。私はただ再生に法則は無いと言っているだけです」と言う。するとシルバーバーチが穏やかにそれを否定して言う。

 「何かが発生するとき、それは必ず法則に従っております。自発的な再生であっても法則があるからこそ可能なのです。ここに言う法則とは地上への再生を支配する法則のことです。この全大宇宙に存在するものは、いかに小さなものでも、いかに大きなものでも、すべて法則によって支配されているというのが私の持論です」

 ここで米人ジャーナリストが関連質問をした───「人間にとって〝時間〟が理解しにくいということが再生問題を理解しにくくしているというのは事実でしょうか」

 「例によって私なりの観点からご説明しましょう。実はあなたはあなたご自身を御存じないのです。あなたには物質界へ一度も顔を出したことのない側面があるのですが、それをあなたはお気づきになりません。

物的身体を通して知覚したごくごく小さな一部分しか意識しておられませんが、本当のあなたはその身体を通して顕現しているものよりはるかに大きいのです。ご存知の通りあなたはその身体そのものではない。

あなたは身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではない。その証拠に、あなたの意識はその身体を離れて存在することが出来ます。たとえば睡眠中がそうです。しかし、その間の記憶は物的脳髄の眼界のために感識されません。

 結局あなたに感識出来る自我は物質界に顕現している部分だけということになります。他の、より大きい部分は、それなりの開発の過程をへて意識できるようにならない限りごく稀に、特殊な体験の際に瞬間的に顔をのぞかせるだけです。しかし一般的に言えば大部分の人間は死のベールをくぐり抜けて始めて真の自分を知ることになります。

以上があなたのご質問に対する私なりの回答です。今あなたが物的脳髄を通して表現しておられる意識は、それなりの開発法を講ずるか、それともその身体を棄て去るかのいずれかがないかぎり、より真実に近いあなたを認識することはできません」


───この地上にはあなたの世界に存在しない邪悪なものがあふれているとおっしゃいますが、なぜ地上にはそうした邪と悪とが存在するのでしょうか。

 「権力の座にある者の我がままが原因となって生じる悪───私は無明という言葉の方が好きですが───そして邪、それと、人類の進化の未熟さゆえに生じる悪と邪とは、はっきり区別する必要があります。

地上の邪と悪には貧民街(スラム)が出来るような社会体制の方が得をする者たち、儲けることしか考えない者たち、私腹を肥やすためには同胞がどうなろうと構わない者たち、こうした現体制下の受益者層の存在が原因となって発生しているものが実に多いことを知らなければなりません。悪の原因にはそうした卑劣な人種がのめり込んでしまった薄汚い社会環境があるのです。

 しかし一方において忘れてならないことは、人間は無限の可能性を秘めていること、人生は常に暗黒から光明へ、下層から上層へ、弱小から強大へ向けての闘争であり、進化の道程を人間の霊は絶え間なく向上していくものであるということです。

もし闘争もなく、困難もなければ、霊にとって征服すべきものが何もないことになります。人間には神の無限の属性が宿されてはいますが、それが発揮されるのは努力による開発を通してしかありません。その開発の過程は黄金の採取と同じです。粉砕し、精錬し、磨き上げなければなりません。

地上もいつかは邪悪の要素が大幅に取り除かれる時が来るでしょう。しかし、改善の可能性が無くなる段階は決して来ません。なぜなら人間は内的神性を自覚すればするほど昨日の水準では満足できなくなり、明日の水準を一段高いところにセットするようになるものだからです」

───隣人を愛すべしとの黄金律(※)と適者生存の法則とは時として矛盾することがあるように思えるのですが・・・・・・(※ The Golden Rule キリストの山上の垂訓の一つで、自分が人からしてもらいたいと思う通りを人にもしてあげなさいということ。マタイ7・12-訳者)

 「私は進化の法則を、無慈悲な者ほど生き残るという意味での適者生存と解釈することには賛成できません。適者生存の本当の意味は生き残るための適応性をもつ者が存続していくということです。言いかえれば存続するための適性を発揮した者が存続するということです。

そして注目していただきたいことは生き残っている動物を観察してみると、それが生き残れたのは残虐性のせいでもなく、適者だったからでもなく、進化の法則に順応したからであることが明らかなことです。もし適者のみが生き残ったとすると、なぜ有史以前の動物は死滅したかという疑問が生じます。

その当時は最も強い生物だったはずですが、生き残りませんでした。進化の法則とは生長の法則の一つです。ひたすらに発展していくという法則です。他の生命との協調、互助の法則です。つまるところ黄金律に帰着します」


 続いて〝偶然〟の要素について質問されて───
 「世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても───天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生れてきたのではありません。

原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません。全生命を創造した力はその支配のために規制ないし法則を用意したのです。その背景としての叡知においても機構においても完璧です。その法則は霊的なものです。

すべての生命は霊だからです。生命が維持されるのはその本質が物質でなく霊だからです。霊は生命であり生命は霊です。生命が意識を持った形態をとる時、そこには個としての霊が存在します。そこが下等動物と異なるところです。人間は個別化された霊、つまり大霊の一部なのです。
 人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。逆らえば暗黒と病気と困難と混乱と破産と悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば叡知と知識と理解力と真実と正義と公正と平和がもたらされます。それが黄金律の真意です。

 人間はロボットではありません。一定の枠組みの中での自由意志が与えられているのです。しかし決断は自分で下さなければなりません。個人の場合でも国家の場合でも同じです。摂理に叶った生き方をしている人、黄金律を生活の規範として生きている人は、大自然から、そして宇宙から、良い報いを受けます」

 続いて〝汝の敵〟に対する態度のあり方をこう説く。

 「私にとってはどの人間もみな〝肉体を具えた霊魂(スピリット)〟です。私の目にはドイツ人もイギリス人もアメリカ人もありません。みなスピリットであり、大霊の一部であり、神の子供です。時にはやむを得ず対症療法として罰を与えねばならないこともあるかも知れませんが、すでに述べた通り、新しい世界は憎しみや復讐心からは生まれません。

すべての人類のためを思う願望からしか生まれません。復讐を叫ぶ者───目には目を、歯には歯をの考えをもつ者は、将来の戦争のタネを蒔いていることになります。すべての人間に生きる場が与えられております。理性と常識によって問題を解決していけば、すべての者に必要なものが行きわたるはずです。

こういう説明よりほかに分かりやすい説明が見当たりません。あなたの国(米国)はなぜあの短い期間にあれだけの進歩を為し遂げたのか。それは一語に尽きます───寛容心です。英国が永い歴史の中で発展してきたのも寛容心があったからこそです。

米国は人種の問題、国籍の問題、宗教の問題を解決してきました。黒人問題もほぼ解決しました。その歴史を通じて全ての人種にそれぞれの存在価値があること、人種が増えるということは、いずれは優れた国民を生むことになることを学んできました。

 今あなた方の国が体験していることは、やがて世界全体が体験することになります。米国は世界問題解決のミニチュア版のようなものです。例えばあなたの存在を分析してみても遺伝的要素の一つ一つは確認できないでしょう。

それと同じで、米国は雑多な人種から構成されておりますが、その一つ一つがみな存在意識をもっており、雑多であるがゆえに粗末になるということはありません。逆に豊かさを増すのです。成長の途上においては新しい要素の付加と蓄積がひっきりなしに行われ、その結果として最良のものが出来あがります。

それは、自然というものが新しい力、新しい要素の絶え間ない付加によって繁栄しているものだからです。限りない変化が最高の性質を生むのです。大自然の営みは一ときの休む間もない行進です」


 その日のもう一人の招待客にポーランドの役人がいた。そしてまず最初に次のような質問をした。


 ───霊界の美を味わうことが出来るのは地上界で美を味わうことが出来た者だけというのは本当でしょうか。

 「そんなことはありません。それでは不公平でしょう。地上では真の美的観賞力を養成する教育施設がないのですから、数知れぬ人々が美を味わえないことになります。霊の世界は償いの世界であると同時に埋め合わせの世界でもあります。地上世界では得られなかったものが補われてバランスを取り戻すのです」

 これを聞いて別のメンバーが「今の質問の背景には人間が死ぬ時はこの世で培った資質を携えていくという事実があるように思うのですが」と述べると、シルバーバーチは───

 「地上の人間は無限の精神のほんの一部を表現しているにすぎないことを銘記しないといけません。精神には僅かに五つの窓があるだけです。それも至ってお粗末です。肉体から解放されると一段と表現の範囲が大きくなります。

精神が本領を発揮し始めます。自我の表現機関の性能がよくなるからです。霊界にはあらゆる美が存在しますが、それを味わう能力は霊性の発達の程度いかんに掛かっています。

たとえば二人の人間に同じ光景を見せても、一人はその中に豊かさと驚異を発見し、もう一人は何も発見しないということも有りえます。

それにもう一つ別の種類の美───魂の美、精神の美、霊の美があり、そこから永遠不滅のものの有する喜びを味わうことができます。充実した精神───思考力に富み、内省的で、人生の奥義を理解できる精神には一種の気高さと美しさがあります。

それは、その種のものとは縁遠い人、従って説明しようにも説明できない者には見られないものです」


───美の観賞力を養う最良の方法は何でしょうか。

 「大体において個人の霊的発達の問題です。適切な教育施設がすべての人に利用できることを前提として言えば、美を求める心は魂の発達とともに自然に芽生えてくるものです。価値観が高まれば高まるほど、精神が成長すればするほど、醜い卑劣な環境に不満を覚えるようになります。波長が合わなくなるからです。

自分の置かれた環境を美しくしたいと思い始めたら、それが進化と成長の最初の兆しと思ってよろしい。地上界をより美しくしようとする人間の努力は、魂が成長していく無意識の表われです。

それは同時に無限の宇宙の創造活動へ寄与していることでもあります。神は人間にあらゆる材料を提供しています。その多くは未完の状態のままです。そして地上のすみずみにまで美をもたらすには、魂、精神、理性、知性、成長度のすべてを注ぎ込まなければなりません。

 最後は必ず個人単位の問題であり、その成長度に帰着します。開発すればするほど、進化すればするほど、それだけ内部の神性を発揮させることになり、それだけいっそう美を求めることになります。

私がいつも霊的知識のもつ道徳的ないし倫理的価値を強調するのはそのためです。スラム街があってはならないのは、神性を宿す者がそんな不潔な環境に住まうべきではないからです。飢餓がいけないのは、神性を宿す肉体が飢えに苦しむようであってはならないからです。

すべての悪がいけないのは、それが内部の神性の発現を妨げるからです。真の美は物質的、精神的、そして霊的のすべての面において真の調和が行きわたることを意味します」


───美的観念を人々の心に植えつけるにはどうしたらよいでしょうか。

 「個々の魂が成長しようとすることが必須条件です。外部からありとあらゆる条件を整えてやっても、本人の魂が成長を望まなければ、あなたには為す術がありません。ですから、あなたにできることは霊的知識を広めること、これだけです。

正しい知識を広めることによって無知を無くし、頑迷な信仰を無くし、偏見を無くしていくことです。とにかく知識のタネを蒔くのです。時にはそれが石ころだらけの土地に落ちることもあるでしょう。が、根づき易い土地も方々にあるものです。蒔いたタネはきっと芽を出します。われわれの仕事は真理の光を可能な限り広く行きわたらせることです。

その光は徐々に世界中を広く照らし、人間が自分たちの環境を大霊の分子すなわち神の子が住まうに相応しいものにしようと望めば、迷信という名の暗闇に属するものすべて、醜さと卑劣さを生み出すものすべてが改善されていくことでしょう」