Friday, October 4, 2024

シアトルの秋 宗派を超えて

Across denominations 

  

  
一九一三年十二月十七日  水曜日

 前回に引き続き、遠き国よりはるばる海を渡って来た一団についての話題を続けよう。はるばる長い道程を辿ったのは、新しい界に定住するに当たっての魂の準備が必要だったからである。

 さて、いよいよ一団は海岸へ降り立った。そして物見の塔の如くそそり立つ高い岬の下に集合した。それから一団の長(おさ)が吾々のリーダーを探し求め、やがて見つかってみると顔見知りであった。以前に会ったことのある間柄であった。二人は温かい愛の祝福の言葉で挨拶し合った。

 二人は暫し語り合っていたが、やがて吾々のリーダーが歩み出て新しく来た兄弟たちへおよそ次のような意味の挨拶を述べられた。

 「私の友であり、兄弟であり、唯一の父なる神のもとにおいては互いに子供であり、それぞれの魂の光によってその神を崇拝しておられる皆さんに、私より心からの歓迎の意を表したいと思います。

 この新たな国を求めて皆さんははるばるとお出でになられましたが、これからこの国の美しさを見出されれば、それも無駄でなかったことを確信されることでしょう。私は一介の神の僕に過ぎず、こうしてお出でになられた皆さんがこの国の生活環境に慣れられるようにとの配慮から、私どもがお出迎えに上がった次第です。

 これまでの永い修養の道ですでに悟られたことと思いますが、あなた方が曽て抱いておられた信仰は、神の偉大なる愛と祝福を太陽に譬えれば、その一条の光ほどのものに過ぎませんでした。

その後の教育と成長の過程の中でそのことを、あるいはそれ以上のことを理解されましたが、一つだけあなた方特有の信仰形体を残しておられる──あの船上の祭壇です。

ただ、今見ると、あの台座に取り付けられた独特の意匠が消えて失くなっており、また、いつも祈願の時に焚かれる香の煙が見えなかったところを見ますと、どうやら私には祭壇が象徴としての意義をほとんど、あるいは全く失ってしまったように思えます。

これからもあの祭壇を携えて行かれるか、それともそのまま船上に置いて元の国へ持って帰ってもらい、まだ理解力があなた方に及ばない他の信者に譲られるか、それはあなた方の選択にお任せします。では今すぐご相談なさって、どうされるかをお聞かせ頂きたい。」

 相談に対して時間は掛からなかった。そしてその中の一人が代表してこう述べた。

 「申し上げます。あなたのおっしゃる通りです。曽ては吾々の神を知り祈願する上で役に立ちましたが、今はもう私どもには意味を持ちません。いろいろと教えを受け、また自分自身の冥想によって、今では神は一つであり人間は生まれや民族の別なくその神の子であることを悟っております。

愛着もあり、所持しても邪魔になるものでもないとは言え、自と他を分け隔てることになる象徴を置いておくのはもはや意味のない段階に至ったと判断いたします。そこであの祭壇は送り返したいと思います。まだまだ曽ての自分の宗教を捨て切れずにいる者が居りますので。

 そこで皆さまのお許しをいただければ是非これよりお伴させて頂き、この一段と光輝溢れる世界および、これより更に上の界における同胞関係について学ばせて頂きたいものです。」

 「よくぞ申された。是非そうあって頂きたいものです。他にも選択の余地はあるのでしょうが、私も今おっしゃった方法が一番よろしいように思います。では皆さん、私についてお出でなさい。これよりあの門の向こうにある平野、そして更にその先にあるあなた方の新たなお国へご案内いたしましょう。」

 そうおっしゃってから一団の中へ入り、一人一人の額に口づけをされた。すると一人一人の表情と衣装が光輝を増し、吾々の程度に近づいたように私の目に映った。

そこへさらに例の女性ばかりの一団の長が降りて来て、吾々のリーダーと同じことをされた。女性の一団は吾々との邂逅(かいこう)を心から喜び、吾々もまた喜び、近づく別れを互いに惜しんだ。

吾々が門の方へ歩み始めると長が途中まで同行し、いよいよ吾々が門をくぐり抜けると、その女性の一団による讃美歌が聞こえて来た。それは吾々への別れの挨拶でもあった。吾々は一路内陸へ向けて盆地を進んだ。

 さて貴殿は例の祭壇とリーダーの話が気になることであろう。


──遮って申し訳ありませんが、あなたはなぜそのリーダーの名前をお出しにならないのですか。

 是非にというのであれば英語の文字で綴れる形でお教えしよう。が、その本来のお名前の通りにはいかない。実は、それを告げることを許されていないのである。取り敢えずハローレン Harolen とでも呼んでおこう。三つの音節から成っている。本当のお名前がそうなのである。これでよかろうと思う。では話を進めよう。

 一隊が盆地を過ぎ、川を渡り、その国の奥深く入り行くあいだ、ハローレン様はずっとその新参の一団のことに関わっておられた。その間の景色は私はまだ述べていないであろう。私がハローレン様と初めてお逢いしたのはそのずっと先だったからである。

その辺りまで来てハローレン様にゆとりと見られたので、私は近づいてその一団のこと、並びに海辺で話された信仰の話についてお尋ねした。

すると、一団は地上では古代ペルシァ人の崇拝した火と太陽の神を信仰した者たちであるとのことであった。

 ここで私自身の判断によって、そのことから当然帰結される教訓を付け加えておかねばならない。人間が地上生活を終えてこちらへ来た当初は、地上にいた時とそっくりそのままであることを知らねばならない。

いかなる宗教であれ、信仰厚き者はその宗教の教義に則った信仰と生活様式とをそのまま続けるのが常である。が、霊的成長と共に〝識別〟の意識が芽生え、一界また一界と向上するうちに籾殻が一握りずつ捨て去られて行く。

が、その中にあっても、いつまでも旧態依然として脱け切らない者もいれば、さっさと先へ進み行く者もある。そうして、その先へ進んだ者たちが後進の指導のために戻って来ることにもなる。

 こうして人間は旧い時代から新しい時代へ、暗い境涯から明るい境涯へ、低い界から高い界へと進みつつ、一歩一歩、普遍的宇宙神の観念へと近づいてゆく。

同じ宗教の仲間と生活を共にしてはいても、すでに他の宗派の思想・信仰への寛恕の精神に目覚め、自分もまた他の宗派から快く迎えられる。かくしてそこに様々な信仰形態の者の間での絶え間ない交流が生まれ、大きくふくらんで行くことになる。

 が、しかし、全ての宗派の者が完全に融合する日は遠い先のことであろう。あのペルシャ人たちも古いペルシャ信仰に由来する特殊な物の見方を留めていた。

今後もなお久しく留めていることであろう。が、それで良いのである。何となれば、各人には各人特有の個性があり、それが全体の公益を増すことにもなるからである。

 例の一行は海上での航海中にさらに一歩向上した。と言うよりは、すでにある段階を超えて進歩したことを自ら自覚するに至ったと言うべきであろう。私が彼らの船上での祈りの言葉とその流儀に何か妙な響きを感じ取りながらも、それが内的なものでなく形の上のものに過ぎなかったのはそのためである。

だからこそハローレン様から選択を迫られたとき潔く祭壇を棄て、普遍的な神の子として広い同胞精神へ向けて歩を進めたのであった。

 こうして人間は、死後、地上では何ものにも替え難い重要なものと思えた枝葉末節を一つ一つかなぐり棄ててゆく。裏返して言えば、愛と同胞精神の真奥に近づいて行くのである。

 どうやら貴殿は戸惑っているように見受けられる。精神と自我とがしっくりいっていないのが私に見て取れるし、肌で感じ取ることも出来る。そのようなことではいけない。

よく聞いてほしい。いかなるものにせよ、真なるもの、善なるもののみが残る。そして真ならざるもの、善ならざるもののみが棄て去られて行く。貴殿が仕える主イエスは〝真理〟そのものである。

が、その真理の全てが啓示されたわけではない。それは地上で肉体に宿り数々の束縛を余儀なくされている者には有り得ないことである。が、イエスも述べているように、いつの日か貴殿も真理の全てに誘(いざな)われることであろう。

それは地上を超えた天界に置いて一界又一界と昇って行く過程の中で成就される。そのうちの幾つかがこうして貴殿に語り伝えられているところである。それが果たしていかなる究極を迎えるか、崇高な叡智と愛と力がどこまで広がって行くかは、この私にも判らない。

 ただこの私──地上で貴殿と同じくキリスト神とナザレ人イエスを信じつつ忠実な僕としての生涯を送り、いま貴殿には叶えられない形での敬虔な崇拝を捧げる私には、次のことだけは断言できる。すなわち、そのイエスなる存在はこの私にとっても未だ、遥か遥か彼方の遠い存在であるということである。

今もしその聖なるイエスの真実の輝きを目のあたりにしたら、私は視力を奪われてしまうことであろうが、これまでに私が見ることができたのは黄昏時の薄明かりていどのものに過ぎない。その美しさは私も知らないではない。現実に拝しているからである。

が、私に叶えられる限りにおいて見たというに過ぎず、その全てではない。それでさえ、その美しさ、その美事さはとても言葉には尽くせない。その主イエスに、私は心から献身と喜びを持って仕え、そして崇敬する。

 故に貴殿はイエスへの忠誠心にいささかの危惧も無用である。吾々と異なる信仰を抱く者へ敬意を表わしたからといって、イエスの価値をいささかも減じることにはならない。

なぜなら、全ての人類はたとえキリスト教を信じないでも神の子羊であることにおいては同じだからである。イエスも人の子として生まれ、今なお人の子であり、故に吾ら全ての人間の兄弟でもあるのである。アーメン   ♰

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