Thursday, March 21, 2024

シアトルの初春 霊は何かと祝祭日が好きである。

Spirits like holidays.

三十 節

〔霊は何かと祝祭日が好きである。その所為でキリスト教の祝祭日に関する特別のメッセージが数多く寄せられてる。一例として三年連続して送られてきたイースターメッセージを紹介しておく。一八七四年のイムペレーターによるメッセージに較べると、一八七五年に別の霊がサインしたものが雰囲気も異なり観点も異なる点に気づかれるであろう。〕

〔イースター。一八七四年。前の年の同日にドクターとプルーデンスから送られた通信に言及したところ、次のようなメッセージが書かれた。〕

 あの通信が届けられたころの汝の心境と現在の汝の知識とを比べれば、汝の進歩の良き指標となろう。重大なる問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めたかがよく判るであろう。

あの頃われらはいわゆる〝復活〟が肉体の復活ではなく〝霊〟の復活であることを説いた。遠い未来ではなく死の瞬間における蘇りの真相を説明した。その時点においては汝にとって初耳であった。が今は違う。当時理解に苦しんだことについて今は明確な理解がある。

イエスの地上での使命と、今その使者を通じて進行中の仕事についても説いた。イエスの真の神性──汝らが誤って崇拝してきた〝主〟の本来の偉大さについても説いた。イエス自ら述べた如く、イエスが汝らと同じ一個の人間であったこと、ただ比類なき神性を体現する至純至高の人間の理想像であったことを説いた。

愚かなる人間神学が糊塗せるイエスの虚像を取り除くことによって、そこに地上の人間の理想像としての人間イエス・キリストの実像を明らかにすることが出来た。

 イエスは肉体をもって昇天したのではなかった。が決して死んでしまったわけでもない。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説いた。われらも同様のことをする日が来るかもしれぬ。

 今汝が見ているのはこれから始まる新しき配慮──人間が空想し神学者が愚かにも説ける人類の最後の審判者としての〝主〟の出現ではなく、われら使者を通じての新たなる使命(実は古き真理の完成)、地上への新しき福音の啓示という形による〝主〟の出現の前触れとしての〝しるしと奇跡①〟なのである。

すでに地上に進行しつつあるその働きの一環をわれらも担っている。イエス・キリストの指導のもとに新しき福音を地上にもたらすことがわれらの使命なのである。

今はまだその一部しか理解できぬであろう。が、いずれ、のちの時代にそれが神より授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることであろう。

 このところ汝の精神の反抗性が減り、受容的態度が増したことにより、われらは直接的働きかけが目立って容易となってきた。これに加えて忍耐力と同時に祈りの気持ちと不動の精神をぜひ堅持してもらいたい。われらの目差す目的から目をそらせてはならぬ。

今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージをくり返しじっくりと噛みしめることである。進歩の妨げとなる障害物をつとめて排除せよ。

もっとも、日々の勤めを疎かにしてもらっては困る。そのうち今より頻繁に汝を利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではない。そのためにはまだまだ試練と準備とが必要である。友よ、その時期まで汝は火の如き厳しき鍛練を必要とすることを覚悟せよ。

地上的意識を超えて高級霊の住める高き境涯へと意識を高めねばならぬぞ。これがわれらからの復活祭(イースター)のメッセージである。

死せるものより目覚め、魂を甦らせよ。地上世界の低俗なる気遣いより超脱せよ。魂を縛り息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。死せる物質より生ける霊へ、俗世的取越苦労より霊的愛へ、地上より天界へと目を向けよ。

地上生活にまつわる気苦労より霊を解放せよ。これまでの成長の補助的手段に過ぎなかった物的証拠並びに物理的現象を棄て去り、汝の興味を地上的なものより霊的真理の正しき理解へ向けよ。イエスが弟子たちに申したであろう──「この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ②」と。

次の聖書の言葉も汝の心の糧とせよ。「汝ら、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん③」


──私がこの世的なことに無駄な時間を費やしてきたとおっしゃってるように聞こえますが。



 そうは言っておらぬ。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことは為さねばならぬと言ってきたつもりである。

が、われらの願いはそうした客観的証拠がもはや必要とせぬ段階においては、そこより霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることである。向上心を要求しているのである。そして汝に求めることを全ての人間に求むるものである。



〔さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世的な仕事に全く不向きとなり、ガラスケースにでも入れておく他ないほど繊細となる──つまり霊界との関係にのみ浸りきり世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのかと尋ねた。〕







 霊媒には環境も背後霊も異なる別のタイプがある。その種の霊媒にとってはそうなっていくことが理想であろう。汝もいずれはそのように取り扱うことになろう。もともと汝を選んだのはそうした目論見があってのことでる。

それ故にこそ、自制心に欠け邪霊の餌食となり易き人間となるのを防がんとして、時間を犠牲にしてきたのである。時間を掛けるだけ掛ければ疑念と困難が薄れ、代わって信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのである。

焦ったからとてその時期の到来が早まるものではない。たとえ早まるとしても、われらは焦らぬ。が、霊的向上心の必要性だけは、われらの仕事に関わる全ての人間に促してきた。同時に、物理的基盤が確立した以上、今度は霊的構築の段階に入るべきであることも常に印象づけてきたつもりである。



〔ここで私は曾て述べたことがあることを再度述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行われているものの多くが無価値で、時に有害でさえあること。霊媒現象と言うものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、無闇に利用すると危険であると言ったことであった。

さらに私は、信念が必要であることは論を俟たないが、私には私なりの十分な信念が出来ていること、これ以上いくら物的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。〕












 汝の信念が十分に確立されていると思うのは間違いである。信念が真に拡充され純粋さを増した時、今汝が信念と呼んでいるところの冷ややかにして打算的かつ無気力なる信念とはおよそ質を異にするものとなるであろう。

今の程度の汝の信念では本格的な障害に遭遇すれば呆気なく萎(しぼ)むことであろう。まだまだ汝の精神に染み込んではおらぬ。生活の重要素となっておらぬ。

ある種の抵抗に遭うことで力をつけることは有ろうが、霊界の邪霊集団の強力なる総攻撃に遭えば、ひとたまりもないであろう。真実の信念とは〝用心〟の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越せる無条件の〝あるもの〟にょって鼓舞されたものであらねばならぬ。

魂の奥底より燃えさかる炎であり、湧き出ずる生命の源泉であり、抑えようにも抑えがたきエネルギーであらねばならぬ。

イエスが〝山をも動かす〟④と表現せる信念はこのことだったのである。それは死に際しても拷問に際しても怯まぬ勇気を与え、長く厳しき試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成の道程にふりかかる幾多の危険の中を首尾よくゴールへ向けて導いてくれる筈のものである。

 この種の信念を汝は知らぬ。汝の信念はまだ信念とは言えぬ。ただの論理的合意に過ぎぬ。自然に湧き出ずる生きた信念にはあらずして、常に知的躊躇を伴う検討のあげくに絞り出したる知的合意に過ぎぬ。

安全無事の人生を送るには間に合うかもしれぬが、山をも動かすには覚束ぬ。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れぬが、魂を鼓舞し元気づけるだけの力はない。

知的論争における後ろ盾としての効用はあろうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為と崇高なる目的の遂行において圧倒的支配力を揮うところの、魂の奥底より絶え間なき湧き出ずる信念ではない。汝にはその認識が皆無である。が、案ずるには及ばぬ。

そのうち汝も過去を振り返り、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、且つまた、その及び腰の信念でもって神の真理の扉の開かれるのを夢想したものであると驚き呆れる時も到来しよう。

その時節を待つことである。その時節が至れば、信念に燃え崇高なる目的に鼓舞された生ける身体の代わりに、大理石の彫像を置くこともせぬであろう。汝にはまだ信念はない。


──あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくとも、些(いささ)か希望を挫けさせるものがあります。それにしても〝信仰は神からの授かりもの〟⑤である以上、私のどこが責めらるべきなのか理解に苦しみます。私は〝拵えられた〟ものです。

 違う。今の汝は内と外より影響を受けつつ汝自ら造り上げてきたものである。外なる環境と内なる偏向と霊的指導の産物である。汝には誤解がある。われらが非難したのは、その名に値せぬものを信念であると公言したことに過ぎぬ。案ずるには及ばぬ。

汝はより崇高なる真理への道を歩みつつある。(なるべくならば)現象的なものを控え、内的なるもの、霊的なるものの開発を心がけよ。信念を求めて祈れ。汝がいみじくも〝神からの授かりもの〟と呼べるものが魂に注がれ、その力によってより高き知識へと導かれるよう祈れ。汝のそのあらぬ気遣いがわれらを妨げる。
                              ♰ イムペレーター

No comments:

Post a Comment