本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。
揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。
────アラン・カルデック
序 章
Ⅰ、 本書の目的
福音書に記された内容は五つの部分に分類することができます。
1、キリストの生涯における出来事。 2、奇跡。 3、預言。 4、教会の教義を確立させるために用いられた言葉。 5、道徳的な教え。
最初の四つの部分は議論の対象となってきましたが、最後の一つに関して異議を唱える者は誰もいません。この神聖なる法の前には、不信心さえも屈するのです。
道徳的な教えは、すべての宗教が交わるところであり、この法の旗のもとには、信仰の対象がどのように違っていようとも、万人が宿ることができます。
教義の違いが引き起こす、様々な宗教的論争の対象にはなり得ないものなのです。もし、これについて議論しようとするならば、その宗派は、自らに対する非難に出遭うことになるでしょう。また、そのような宗派はほとんどの場合、一人一人の改革を強いる道徳的な部分よりも、神秘的な部分に執着しているものです。
キリストの道徳的な教えとは、人類の個人的・社会的生活のあらゆる状況における行動の規則であり、最も厳格な正義によって築かれた、全ての社会関係の原則となるものです。
幸福を手に入れるために何よりも間違いのない道であり、ベールに覆い隠された未来の生活の一端を垣間見せてくれるものなのです。本書を発刊する極めて重要な目的はこの部分にあります。
誰もが福音の道徳に感心し、その崇高さと必要性を唱えます。多くの人が、他人が言ったことを信じたり、格言と化した教えの言葉を用いたりしていますが、その深い意味を知る者は非常に少なく、そこから結果を引き出すことが出来る人は更に少ないといえます。
それはほとんどの場合、読み方が難しくて、多くの人が福音を理解できないからです。これでは、意味を理解することなく祈りを唱えるのと同じで、全く無益なことになってしまいます。福音の朗読が、義務感から強要されて行われるものになってしまっていることは否めません。
福音を理解できない原因の一つとしてあげられるのが、装飾的な表現や意図的に神秘性を加えられた言葉の多用です。方々に散らばった道徳の規律は、物語の間に入り混じっているために見失われてしまい、全体を一つとして理解し、朗読の対象となるものと、熟考の対象となるものとに区別することができなくなってしまうのです。
これまでにも、福音の道徳に関するさまざまな専門書が確かに書かれてはいます。しかし、その現代的で文学的なスタイルは、素朴な簡潔さを失ったことで本来の魅力と威厳を薄れさせ、中には、最も際立った教えを、格言的な表現に簡略化してしまったものさえあります。
簡略化された教えは気の利いた格言に過ぎず、その教えが伝えられた時の状況や場面の説明が伴っていないために関心が奪われてしまっているのです。
こうした不具合を避けるために、本書では信仰する宗教が何であるかに関わらず、全世界共通の道徳の法として構成することのできる条項を集めました。
引用については、その考えを発展させるために有効な箇所は残し、テーマに関連しない部分だけを除外しました。また、筋の分割に関しても、サシ―(sacy)による翻訳に正確に従いました。(→和訳注1)。
しかしながら、教えを年代順に追うことが不可能なこと、また、そうすることによって得られる実質的な利点がないことから、相応する性格に従って系統的に分類し、一つ一つの教えがつながっていくよう、出来る限り努めました。章の番号と節の番号を付したことにより、必要に応じて一般的な分類で調べることもできます。
しかし、これは本書の物理的な特徴であり、二次的な目的でしかありません。最も肝心なことは、曖昧な部分をきちんと解説し、生活のあらゆる条件にあてはまることを考えながら、教えを充分に展開させて、皆の手の届くところにおくことです。
本書では、私たちを見守ってくれている善霊たちの助けを借りながら、そうすることを試みました。
福音書や聖書など、一般的な聖典には不明瞭な部分が多く、中には本当の意味を理解するための鍵が見当たらないために、道理にかなっていないのではないかと誤解を受けるようなものもあります。スピリティズムにはこのような鍵が完全な形で存在しています。
教義を真剣に研究した者たちを納得させたように、後になれば、その鍵がどれほど役立つものかを知ることが出来るでしょう。スピリティズムは、太古より人類のあらゆる時代、そしてすべての場所に存在してきました。文献、信仰、記念碑等、あらゆるものの中にその形跡を見つけることができます。
曖昧さを解く鍵と長い歴史の中で育まれた英知が、未来へ向けて新しい地平線を拓くと共に、過去の謎に明るい光を投じるのです。
各々の戒律について、補足として幾つかの指導を選択して加えてありますが、それは様々な国でさまざまな霊媒を通して霊たちが伝えたものです。つまり一箇所だけから得られたものではないということです。従って特定の個人やそれを伝えた者たちの影響を受けているというものではありません。
このさまざまなところから得られたという事実は、霊たちが国や人種を超えて同じ教えを伝えていること、また、そうした教えによってどんな特権を受けた者もいないのだということを証明するものでもあります。(→備考1)
本書はすべての者のためにあります。本書からすべての者が、キリストの道徳に則して行動する方法を知ることができます。その方法とはスピリティストにとっては特に関係の深いものです。人間と不可視の世界との関係が今後も永遠に成り立っていくお蔭で、霊たちが全ての国々に教えてくれた福音の法は、もはや死語ではなくなるのです。
なぜなら、一人一人がそれを理解することによって指導霊たちの忠告に従い、継続してそれらを実践することを強いられることになるからです。霊たちによってもたらされるこうした指導はまさしく天の声であり、人類の謎を解き明かし、福音の実践へと導いてくれるものなのです。
●備考1
それぞれのテーマに関して本書の中で引用されたもの以外にも、他の町や他のスピリティスト・センターにおいて多くの通信が受けられていたことが勿論考えられます。しかし、無意味な繰り返しによって単調になることを防ぐ必要があったため、また、基調と形式において本書の計画に最も適当なものに選択を絞らねばならなかったため、本書に記すことのできないものについては今後の出版のために取っておくことにしました。
霊媒たちに関しては、彼らの名前を記すことは避けました。なぜなら、名前を記すことは自尊心を満足させることでしかなく、彼らはそのようなことにはまったく価値を見出さないからです。本当に真剣な霊媒は、霊たちと通信するという自分の役割が、単に受動的なものであり、自分の価値を高めるものではないということをよく理解しています。この知性的な仕事に自分は機械的に協力したに過ぎず、おごってしまうことが愚かであることを知っているのです。
Ⅱ、スピリティズムの教義の権威 霊たちによる教えの普遍的管理
もし、スピリティズムの教義が、全く人間だけの考えによって成り立ったものであったとしたら、この教義を実際に思いついた人を啓発すること以外に、なんの保証もすることはできなかったでしょう。この世における唯一絶対の真理を手に入れようと考えることは誰にもできません。
また、もし霊たちが、啓示をたった一人の人間にだけもたらしていたとすれば、その啓示がどこから来たのかを誰にも保証することはできないでしょう。なぜなら、霊たちから教えを受けたと主張する者一人だけの言葉を、私たちは信じなければならないからです。
その教えを、いやしくも私たちがこの上なく誠実に受け止めたとしても、その者ができることは、せいぜい自分の周囲にいる人々を納得させることくらいでしょう。一つの宗派を設立することが出来たとしても、世界中の人々を集結させることはできません。
神は新しい啓示がもっとも早く正当な方法によって人類に届くことを望んだため、地球の端から端まで啓示が運ばれて行くよう霊たちに託し、霊たちはあらゆる場所で啓示を残しました。
特定の人間だけにその言葉を聞く特権を与えるようなことはありませんでした。啓示を受けるものが一人であれば騙されたり、間違えたりします。しかし何百万もの人々が同じことを見たり聞いたりした時には、そうではありません。
さらに言うならば、一人の人間を消すことはできても、すべての人を消すことはできないのです。そして、本を焼却することはできても、霊たちを燃やすことはできません。
たとえすべての本を焼却したとしても、教義の源は無尽蔵であり続けます。それは教義の源が地上にあるのではなく、どのような場所にも表れる霊たちの中にあるからで、誰もがそこに胸の渇きを癒すことが出来るのです。
あとは教義を普及させる人々がいればよいのです。霊たちは、常にすべての人々に対して働きかけているのですが、そうした霊たちの存在にすべての人が気づくわけではありません。そのため、霊たちは無数の霊媒の力を借りて教義の布教を行っているのであり、世界中のさまざまな場所から教えを示してくれているのです。
もし、ただ一人の紹介者しか存在しなかったとしたら、その通訳の内容がどんなによいものであっても、スピリティズムはこれほどまでに知られることにはならなかったでしょう。その通訳者がどんな階級に属していようとも、多くの人々から警戒され、すべての国々で受け入れられることはなかったと思われます。
霊たちは、地球上のあらゆる場所で、すべての国の人々や宗派、すべての政党に対して通信してくれるので、誰もがそれを受け入れることができます。スピリティズムには国境がありません。又既存の宗教の一部をなすものでもありません。誰もが他界した家族や友人から指導を受けることができるのですから社会階級を問うこともありません。
そうでなければ、スピリティズムが人類すべてを兄弟愛へと導くことができないからです。中立的な立場を維持しなければ、不和を鎮めるどころか勢いづけることになってしまいます。スピリティズムの力と、その大変速い普及の理由は、こうした遍在性ある霊たちが普及させているということにあります。
たった一人の人間の言葉でしかなければ、出版という力を借りたとしても、すべての人々に知れわたるまでには何世紀もかかることでしょう。それを、幾千もの声が地球上のあらゆる場所で、最も無知な者から最も博学なものまで、誰もがそれを受け継ぐことができるように、同じ原理を同時に宣伝してくれるのです。
これは、今日まで生まれたいずれの教義も享受したことがなかった有利な点です。したがってスピリティズムが真理であるならば、人間に嫌われたり、道徳的な革命が起こったり、あるいは地球が物理的に崩壊したりすることがあったとしても、その影響が霊たちのもとまで及ぶことはないのですから、恐れることは無いのです。
このような特別な立場にあることからスピリティズムに与えられた有利な点は、こればかりではありません。スピリティズムには、人々の野心や、霊同士の矛盾から生じるどんな意見の違いからも攻撃されることはないという保証があります。
意見の相違がおこることが障害となることは間違いありませんが、善と悪とは隣合わせですから、その障害自体が、その障害を取り除く薬を持ち合わせているのです。
霊たちは、自分たちの能力には差異があって、真理のすべてを手にすることはとてもできないということを自覚しています。ある種の謎については、限られた霊にしか知ることが許されておらず、一人一人の霊の知識は、各々の浄化の程度に応じているのです。
平凡な霊たちは、多くの人間が知る以上のことを知ることはありません。しかし中には、人間同様、自分の知らぬことを知っていると思い込んで、うぬぼれたり知ったかぶりをする者がいるのです。
自分の考えが真実であると思い込む者もいます。また、自分たちが描く理想郷を真の理想郷だと信じ込ませようと、自分たちよりも高級な分類に属する霊の名前を平然と名のって、人を騙そうとする霊がいることも知られています。
結局のところ、現世的な偏見や考えを捨て去っているのは、物質的な観念から完全に脱却し、より高級な分類に属する霊たちだけなのです。
ですから、啓示を得たとしても、それが道徳的な教えの範疇からはずれたものである場合はすべて、その啓示が個人的な性格を持った不確実なものであると疑う必要があります。このような啓示は一人の霊の個人的な意見として捉えるべきであり、それを絶対的な真実として軽率に広めては、慎重さに欠けることになります。
その啓示が確実なものかどうかを証明するための第一の分析方法は、霊から伝えられたすべてのことを、もれなく理性によって分析することです。良心や厳格な理論、すでに得られている肯定的な事実に矛盾する理論は、それがどんなに表敬に値する名前によって署名されていたとしても、すべて否定されるべきです。
しかしながらこの分析方法は、自分自身に対して絶対的な自信を持っていない限り、行うのが難しいと言えます。実際、知識が欠けていたり、自尊心の強い傾向にある人が多かったりすることから、多くの場合、この分析方法だけでは不十分でしょう。では、他にどんな方法があるのでしょうか?
大勢の人々の見解を求め、それを自分の意見の指針とすればよいのです。これは、霊たちが私たちに与えてくれている方法でもあるのです。
霊たちは、さまざまな場所で複数の人間に、同じ教えを示します。霊たちからの教えが一致していることが、最良の真偽の証明になるのです。しかし、それがある決められた条件下で示されたものであることが大切です。例えば、ある疑わしき事項について、一人の霊媒がさまざまな霊に対して尋ねるというのでは、証明する力が弱くなります。
なぜなら、その霊媒が憑依のもとにある場合、もしくは人を騙す霊と結びついている場合、その霊が同じことを様々な名前を用いて述べるに違いないからです。
また、一つの集会所でさまざまな霊媒を通じて得られた教えが一致したとしても、やはり、霊媒たちが同じ影響下にある可能性があるため、それが確実な啓示であることを十分に証明することにはなりません。
霊たちの教えの唯一の保証が存在します。お互いに知らない多数の霊媒たちを通じ、さまざまな場所で霊たちによって自発的に伝えられた啓示が一致していることです。
これは、二次的な関心事に関する通信についてではなく、教義の原理に関した通信についてそうであるということに注意してください。経験によりある新しい原理が述べられる時、それは自発的にさまざまな場所で、同時に、その形式や真意までも同じ方法で伝えられるということが判っています。
ですから、もしある霊が、風変わりな方法で自分の意見を全面に出して真実を除外するようであれば、その意見は広まることなく、あらゆる場所において伝えられる確実な真理の教えの前に、必ずや崩されることになるでしょう。そのような事例は、これまでにも沢山あります。
スピリティズムの始まりにおいて、可視の世界と不可視の世界との関係を支配する法が知られる以前には、こうした不一致を排除する方法が、部分的に現れた、霊現象に対する個々の独自の説明を崩していったのです。
教理の原理を確立する際に、私たちはこうした不一致を排除する方法に頼りました。霊たちの教えの一致です。私たちの考え方の一致ではありません。真実は私たちが作り上げたものではないのです。
ですから、「信じてください。なぜなら私たちが信じなさいと言っているのですから」などと、私たちが至上の真実の裁定者であるかのように主張することは決してありません。
私たちの意見は個人的な意見にしか過ぎず、それが真実であるにせよ偽りであるにせよ、他の考え方と比べて絶対に確実であるとも考えていません。私たちがそのことを真実としているのは、単にある原理が教えられたからではなく、一致した容認を受けたからなのです。
℘23
地上のあらゆる場所に、霊たちからの通信を受ける、千に近い敬虔なスピリティズムの集会所があり、それぞれの受けた啓示が一致することで、どんな原理を確立しているかを観察する条件が、私たちには備わっています。この観察が、今日まで私たちを導いてきたのです。
そしてまた今後も、スピリティズムが新たに開拓しなければならない分野へと導いてくれるでしょう。
なぜなら、フランス国内を始め、諸外国からきた通信を注意深く観察すると、それぞれの啓示には共通した特別なメッセージが込められており、スピリティズムが新しい方向に進もうと、前へ向かって大きく踏み出す時が来たことを示唆しているからです。
これらの啓示は、隠された言葉によってなされることが多いため、それらを受けた人たちにもしばしば見逃されてきました。また、自分たちだけが啓示を得られるのだと、勘違いしてしまう人もいました。
霊たちから送られる啓示は、一つ一つを個別に受け取ったというだけでは、私たちにとってどんな価値も持ち得ません。それらの通信内容が一致していることで初めて、重要性を持つことになるのです。
各々が同じ意味の通信を受けていたことは、後に公開されて知ることになります。こうした全体的な動きについて、どう扱うかの判断を助けてくれている私たちの指導霊たちに助力を受けながら、私たちは観察・研究したのです。
こうして世界的に証明されることは、スピリティズムの未来永劫の普遍性を保証し、それに矛盾する全ての理論を打ち消すことになります。それを実現することができるようになった時こそ、スピリティズムは、真実の基準となり得るのです。
「霊の書」「霊媒の書」に著された教義が継承され続けてきたのは、人々がこれらの本に書かれたことを証明する啓示を、あらゆる場所で霊たちより直接受けたからです。万一、霊たちがこれらの本の内容と矛盾することを世界各地に出没して伝えていたとしたら、他の空想的な概念の全てが被ったように、これらの書物はとうに支持されなくなっていたことでしょう。
そうなるといくら出版社が本を出したところで無駄な努力です。しかしながら、そもそも『霊の書』『霊媒の書』は、出版社から助けを得ることができませんでした。
それでも道を閉ざされることなく、速い速度で広まって行きました。そこには霊たちの助力があったのであり、彼らが充分な意思をもって普及させたことにより、人間の悪意をも圧倒したのです。いかなる思想も、霊たちから発せられたものであれ、人間から発せられたものであれ、あらゆる対決の試練に耐え抜くことが、誰にも反対できない力の存在を示すことになるのです。
仮に、本書に対抗する内容の本を書くことに喜びを感ずる霊がいたとしましょう。そして敵意をもって、スピリティズムの教義の信用を失わせようと、偽の通信を引きおこしたとします。
しかし他のすべての霊が、その霊と反対のことを言っていたとすれば、その霊が書いた書物が本書に一体どんな影響を及ぼすことができるでしょうか。どんな考え方であれ、自分の名を名乗って掲げるのであれば、このように多くの霊たちとの合意を得ようとしないことには、それが存続するための保証を得ることはできません。
たった一人の唱える主義主張とみなが唱えるものとの間には、一瞬から永遠までの距離があります。何百万もの友好的な声が届き、それが宇宙のすみずみから家庭の中にまで聞こえわたる時、それを汚し、その価値を失わせようとする論議に何ができるというのでしょうか。
この理論については、何もできないということをすでに実証済みです。スピリティズムを倒そうと意図して、これまでに書かれた無数の出版物はどうなったでしょうか。そのうち一冊でも、スピリティズムの歩みを遅らせることができたのでしょうか。
現在に至るまで、そのようなことが重要な問題として議論されたことはありません。いずれの書物も、それぞれが勝手な考えを伝えたのに過ぎず、霊たちが伝える真の啓示に従ったものではなかったのです。
一致の原則は、スピリティズムが特定の個人の都合のいいように変更を加えられたり、利益目的の宗派に変えられたりしないように保証するものでもあります。根本的な神意を曲げようとする者は、成功することはないでしょう。なぜなら、霊たちの教えは普遍的なものであり、霊たちは、真実から遠ざけようとするいかなる変更をも地に倒そうとするからです。
こうしたことのすべてから根本的な真実が導かれます。すでに確立され公認されている考えに対抗しようとする者は、確かに、ごく限られた場所で一時的に動揺をもたらすことが出来るかもしれません。しかしその時においても、また、未来においても、全体を支配することは決してできないのです。
また、霊たちによって与えられた指導であっても、それがまだ教義によって解説されていないことに触れており、孤立して存在しているうちは、それが法をなすものでないのだということを強調しておきます。ゆえに、結局のところそうした指導は、今後解明されることが必要なものと言う制限つきで、受け入れられなければなりません。
これらの指導を公表するか否かについては、この上なく慎重に吟味する必要があります。そしてそれを公表してもよいと判断された時には、必ず、それが正確な啓示であるという確認を事前に取ったうえで、まだ一致による容認を受けていない、個人的な意見に過ぎないものとして公開することが大切です。
軽率であるとか、浅はかな信心だと非難されたくなければ、ある主義主張を絶対的な真実であると公開する前に、その確認が取れるのを待つことです。
人智を超越した英知によって、優秀な霊たちは啓示を行います。教義の大きな問題については、知性がより高い水準の真実を理解することができるようになるに従って、またその状況がその新しい考えを送信するにふさわしくなった時、徐々に伝達していきます。
このような計画があったので、最初から一度にすべてのことを伝えなかったのです。今日においてもいまだすべてを伝えられてはおらず、だからと言って、機が熟していないうちから啓示を求めたところで、与えられるものではないのです。神が其々の事柄に対して割り当てた時間を早めようとすることは、無駄なことです。
なぜなら、時間を早めようとしたとき、本当に真剣な霊たちはそれに同調することを拒むからです。軽率な霊は、真実に囚われることなく、全てのことに返事をします。そのために、機の熟していないあらゆる質問には、いつも矛盾した答えが返ってくるのです。
この原則は、個人的な理論によってもたらされたものではありません。霊たちがおかれている状況から必然的にもたらされたものなのです。ある一人の霊があることをある場所で言う一方で、何百万もの別の霊がその反対のことをどこかで言うのであれば、押し量られる真実とは、たった一人、もしくはほぼ一人とみられる者が持つその考えの中にあるはずはありません。
誰か一人が、その他すべての者に反対されながら、理に適っていると主張しようとすることは、人間の間で理屈に合わないと同様に、霊たちの間でも理屈に合いません。
本当に思慮深い霊たちは、ある問題に関して十分に理解しているという自信がない限り、自分が絶対に正しいと主張して、その問題を解決することは決してありません。彼らは、自分の個人的な観点からその問題を扱っていることを宣伝し、その確認を待つことを勧めます。
その考えがどんなに美しく、正しく、偉大であったとしても、啓示を受けたばかりの時は、あらゆる意見を集約することが不可能です。従って、複数の意見が衝突するのは避けられないことです。
しかし、複数の意見を衝突させることは、真実をより際立たせるためには必要なことであり、偽りの考えがすぐに取り除かれるためにも、早くからおきた方が良いことなのです。
ですからスピリティストはこれに関して恐れを抱く必要は全くありません。孤立したあらゆる思い上がった考えは、普遍性を持つ偉大で強力な基準の前に、自ら淘汰されることになるのです。
ある一人の意見に他人が集まるのではなく、異口同音に発せられる霊たちの声に集まるのです。それは一人の人や、私たちや、スピリティズムの正当性を確立させることになる別の誰かでもありません。または誰であれ、一人の霊が強要しに来るのでもありません。
それは神の指示により、地球のあらゆる場所において通信する霊たちの教えの普遍性に集まるのです。それがスピリティズムの教義の根本的な性格であり、その力であり、権威です。神はその法が揺るがぬ基礎の上に君臨することを望み、そのために一人のはかない頭をその基礎としなかったのです。
派閥や妬み深い競争相手、宗派、国家さえも存在しない、それほど強力な審判の前には、あらゆる反対意見も、野心も、個人的な優位性に立ったうぬぼれも崩壊してしまいます。私たちが自分自身の考えによって至上の法を変更しようとすれば、自らを破滅させることになってしまうのです。
神のみが論争すべき問題を決定し、異論者には閉口させ、道理にかなう者にはその正当性を与えるのです。こうした天からの威厳あるあらゆる声の前に、一人の人間や霊の意見に何ができるというのでしょうか。一つの意見、それは海の中に落ちて消滅する一滴の水や、嵐によって打ち消される子供の声よりも小さなものなのです。
普遍的な意見こそが最高の審判であり、それは最後の時に発せられることになるのです。普遍的な意見はあらゆる個人的な意見によって形成されています。もしそのうちの一つが真実であれば、秤にはその相対的な重量しか示されないことになります。それが偽りであれば、その他の意見に対して勝ることはありません。
この広大な集合の中に全ての個人的な偏った考えが消えて行くことになり、人類の自尊心(→和訳注2)はここでも生き延びることが出来ないのです。
神の意志のもとに働く霊たちの動きはすでに出来上がっているのです。今世紀は、その働きが輝くことにより、不確実な部分を明らかにすることなしに終わることは無いでしょう。すでに土地は十分に耕されているため、今からその時までは使命を受けた力強い声が、人類を一つの旗のもとに集めることになります。
それが実現するまでの間、二つの相対する主義の間をさ迷う人には、一般的な考えがどちらの方向に向かって形成されて行くのかを観察することができるでしょう。その方向を正しく示すのは、さまざまな場所において通信する霊たちの大半が発言することであり、それが、二つの主義の内のどちらが生き残るかを示す確かなしるしとなります。
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