Tuesday, October 20, 2026

霊の書 アラン・カルデック(編)

 The Spirits' Book

スピリチュアリズムの真髄「思想編」
近藤千雄(訳)



第1部 根源


1章 神とは
〈神と無限〉 〈神の実在の証拠〉 〈神の属性〉 〈汎神論〉

2章 宇宙を構成する一般的要素
〈物質の根源的要素〉 〈霊と物質〉 〈宇宙空間〉

3章 創造
〈天体の形成〉 〈生命体の発生〉 〈人類の発生〉 
〈人種の多様性〉

4章 生命素
〈有機物と無機物〉 〈生と死〉 〈知性と本能〉



1章 神とは

このページの目次
〈神と無限〉 〈神の実在の証拠〉 〈神の属性〉 〈汎神論〉





〈神と無限〉


――神とは何でしょうか。


「神とは至高の知性――全存在の第一原理です」


――無限というものをどう理解すればよいでしょうか。


「始まりも終わりもないもの、計り知れないもの、知り尽くし得ないもの、それが無限です」


――神は無限なる存在であるという言い方は正しいでしょうか。


「完全な定義とは言えません。人間の言語の貧困さゆえに、人間的知性を超越したものは定義できません」
〈神の実在の証拠〉


――神が存在することの証拠として、どういうものが挙げられるでしょうか。


「地上の科学的研究の全分野における大原則、すなわち“原因のない結果は存在しない”、これです。何でもよろしい、人間の手になるもの以外のものについて、その原因を探ってみられることです。理性がその問いに答えてくれるでしょう」


――神の実在を人類共通の資質である直観力で信じるという事実は何を物語っているのでしょうか。


「まさに神が実在するということ、そのことです。なんとなれば、もしも実在の基盤がないとしたら、人間の精神はその直観力をどこから得るのでしょうか。その直観力の存在という事実から引き出される結論が“原因のない結果は存在しない”という大原則です」


――神の実在を直観する能力は教育と学識から生まれるのでしょうか。


「もしそうだとしたら原始人がそなえている直観力はどうなりますか」


――物体の形成の第一原因は物質の本質的特性にあるのでしょうか。


「仮にそうだとしたら、その特性を生み出した原因はどうなりますか。いかなる物にもそれに先立つ第一原因がなくてはなりません」


――造化の始源を気まぐれな物質の結合、つまりは偶然の産物であるとする説はいかがでしょうか。


「これまた愚かな説です。良識をそなえた者で偶然を知的動因とする者が果たしているでしょうか。その上、そもそも偶然とは何なのでしょう? そういうものは存在しません」


――万物の第一原因が至高の知性、つまり他のいかなる知性をも超越した無限の知性であるとする根拠は何でしょうか。


「地上には“職人の腕はその業を見れば分かる”という諺があります。辺りをごらんになり、その業から至高の知性を推察なさることです」
〈神の属性〉


――神の根源的本質は人間に理解できるでしょうか。


「できません。それを理解するための感性が人間にはそなわっていません」


――その神の神秘はいずれは人間にも理解できるようになるのでしょうか。


「物質によって精神が曇らされることがなくなり、霊性の発達によって神に近づくにつれて、少しずつ理解できるようになります」


――たとえ根源的本質は理解できなくても、神の完全性のいくばくかを垣間(かいま)見ることはできるでしょうか。


「できます。いくばくかは。人間は物質による束縛を克服するにつれて、神性を理解するようになります。知性を行使することによってそれを垣間見るようになります」


――神とは永遠にして無限、不変、唯一絶対、全知全能、至上の善と公正である、と述べても、属性の全てを表現したことにはならないでしょうか。


「人間の観点からすればそれで結構です。そうした用語の中に人間として考え得るかぎりのものが総括されているからです。

ですが、忘れてならないのは、神の属性は地上のいかなる知性をも超越したものであり、人間的概念と感覚を表現するだけの地上の言語をもってしては、絶対に表現できないということです。

神が今述べられたような属性を至高の形で所有しているに相違ないことは、人間の理性でも理解できるはずです。そのうちの一つでも欠けたら、あるいは無限の形で所有していないとしたら、神は全てのものを超越することはできず、従って神ではないことになります。全存在を超越するためには神は森羅万象のあらゆる変化変動に超然とし、想像力が及ぶかぎりの不完全さの一つたりとも所有していてはなりません」
〈汎神論〉


――神は物的宇宙とは別個の存在でしょうか、それとも、ある一派が主張するように、宇宙の全エネルギーと知性の総合体でしょうか。


「もしも後者だとすると、神が神でなくなります。なぜなら、それは結果であって原因ではないことになるからです。神は究極の原因であって、原因と結果の双方ではあり得ません。

神は実在します。そのことに疑いの余地はありません。そこが究極の最重要ポイントです。そこから先へ理屈を進めてはいけません。出口のない迷路へと入り込んでしまいます。そういう論理の遊戯は何の益にもなりません。さも偉くなったような自己満足を増幅するのみで、その実、何も知らないままです。

組織的教義というものをかなぐり捨てることです。考えるべきことなら身の回りにいくらでもあるはずです。まず自分自身のことから始めることです。自分の不完全なところを反省し、それを是正することです。その方が、知り得ようはずもないことを知ろうとするよりも、遥かに賢明です」


――自然界の全ての物体、全ての存在、天体の全てが神の一部であり、その総合体が神であるとする、いわゆる汎神論はどう理解すべきでしょうか。


「人間は、所詮は神になり得ないので、せめてその一部ででもありたいと思うのでしょう」


――その説を唱える者は、そこに神の属性のいくつかの実証を見出すことができると公言します。例えば天体の数は無限であるから神は無限であることが分かる。真空ないしは虚無というものが存在しないということは、神が遍在していることの表れである。神が遍在するがゆえに万物は神の不可欠の一部である。かくして神は宇宙の全ての現象の知的原因である、と。これには何をもって反論すべきでしょうか。


「理性です。前提をよく検討してみられるがよろしい。その不合理性を見出すのに手間は掛かりません」


訳注――カルデックが“かくかくしかじかの説を唱える者がいるが……”と述べる時、それはキリスト教系の説と思ってまず間違いない。同じ時代に米国の次期大統領の有力候補だったニューヨーク州最高裁判事のジョン・エドマンズがカルデックと同じような実験会に参加してその真実性を確信し、その信ずるところを新聞に掲載したことで轟きたる非難を浴び、ついに判事職を辞任するに至った原因も、その信念がキリスト教の教義と相容れないという、ただそれだけのことだった。カルデックも似たような非難を浴びていたであろうことは容易に想像できる。だからこそ〝序〟にあるような激励の文を霊団が寄せたのである。





2章 宇宙を構成する一般的要素

このページの目次
〈物質の根源的要素〉


――人類は物質の根源的要素についていつかは認識することになっているのでしょうか。


「いえ、地上には人間に理解できないものがあります」


――現在のところ人間には秘密にされていることも、いずれは理解できるようになるのでしょうか。


「魂が純化される度合いに応じてベールが取り払われて行きます。が、ある一定レベル以上のものを理解するには、これまでに開発されていない能力が必要となります」


――人間は科学的探求によって大自然の秘密をあばいて行けるでしょうか。


「科学的研究の才覚は人類の各方面における進歩のための手段として授けられたものです。しかし、現段階における才覚の限界を超えることはできません」


――そうした限界を超えた問題、つまり五感の範疇を超えているがゆえに通常の科学的研究の領域に属さない問題に関して、高級霊界からの通信を受けることは許されるでしょうか。


「許されます。それが有用であるとの判断が下されれば、神は科学では無力とみた範囲のことについて啓発を授けられます」
〈霊と物質〉


――物質は神と同じく永遠の過去から存在しているのでしょうか、それとも、ある特定の時期に創造されたのでしょうか。


「神のみぞ知る、と申し上げておきましょう。ただ、一つのヒントとして、人間の理性でも十分に推理できることを申し上げれば、無始無終の存在である神が一瞬たりともその活動を止めたことはないということです。その活動の始まりを限りなく遠い遠い過去まで溯っていっても、神が一瞬たりとも無活動の状態になった時期があったことを想像することはできません」


――物質とは一般に“広がりがあり”“五感に印象を与え”“貫通できないもの”と定義されておりますが、これで正しいでしょうか。


「人間の観点からすれば正しいと言えます。知り得たものを基準に定義するしかないからです。しかし、物質は人間がまだ知らずにいる状態でも存在できます。例えば人間の感覚で捉えられないほど霊妙な状態で存在し、それでいて物質の範疇に属します。もっとも人間にはそうは思えないでしょうけれど……」


――では、そちら側からはどう定義されますか。


「物質とは霊をつなぎ止めるもので、同時に霊に仕える道具であり、霊の働きかけによって活動するものである、と」


――霊とは何でしょうか。


「宇宙の知的根源素です」


――その究極の本性は何でしょうか。


「霊の本性を人間の言語で説明することは不可能です。人間の感覚には反応しませんから“もの”とは言えないでしょう。しかし我々にとっては“もの”です」


――霊は知性と同義ですか。


「知性は霊の本質的属性の一つです。が、両者は一つの根源素として融合していますから、人間にとっては同一物と言ってよいでしょう」


――霊は物質とは別個の存在でしょうか、それとも、ちょうど色彩が光の特性の一つであり音が空気の特性であるように、物質の特性の一つにすぎないのでしょうか。


「霊と物質とは全く別個の存在です。しかも、物質に知的活動を賦与するためには霊と物質との合体が必要です」


――その合体は霊自体の表現にとって必要なのでしょうか。


「人間にとっては必要です。なぜなら、人間は物質と離れた状態で感識するような有機的構造にはなっていないからです。現段階での人類は物質から独立した次元での感覚をそなえていません」


――物質のない霊、霊のない物質というものが考えられるわけでしょうか。


「もちろんです。ただし観念上のことですが……」


――すると宇宙には霊と物質の二つの要素が存在することになるのでしょうか。


「その通りです。そしてその両者の上に神すなわち万物の生みの親である創造主が君臨しています。この三つの要素が生きとし生けるもの全ての原理、言わば普遍的三位一体というわけです。

しかし、物質には霊との接着剤的媒介の役目をしている普遍的流動体が付属しています。物質と霊との質的差異が大きすぎるために、霊が物質に働きかけるための中間的媒介物が必要なのです。その観点から見るかぎり流動体は物的要素の中に入りますが、いくつかの点で霊的性質もそなえています。これを物質の範疇に入れるのであれば、霊も物的範疇に入れてもよいほど物的性質をそなえています。つまりは中間的存在ということです。

その流動体が物質の特性とさまざまな形で結合し、霊の働きかけを受けて、ご存じの心霊現象を演出しているわけです。それとて可能性のほんの一部にすぎません。この原始的ないし基本的な流動体は、そのように霊が物質に働きかけるための媒体であって、この存在なくしては物質は永久に他の存在と離れたままの存在でしかなく、重量を有するがゆえに(霊の働きかけによって)生ずるさまざまな特性を発揮することはできないでしょう」


――その流動体は我々のいう電流と同じものでしょうか。


「今の回答の中で物質の性質を無数の形で結合すると申しました。地上界でいう電気とか磁気といったものもその流動体の変化したものです。が、厳密に言えば、普遍的流動体はそうしたものよりも純度が高く、霊妙で、それ独自の存在を有していると考えてもよいでしょう」


――霊も“もの”であるからには、これを“知的物体”と呼び物質を“不活性の物体”と呼ぶ方がより正確ではないかと思うのですが……


「用語の問題は我々にとってはどうでもよろしい。人間どうしで通じ合えるような用語をこしらえることです。地上の論争の大半は、五感に反応しないものに関して地上の言語が不完全であるために、用語について共通の同意が欠けていることから生じています」


訳注――穏やかな調子で回答しているが、実際はあきれてまともな返答ができないというのが、この時の霊側の正直な心境であったと推察される。この回答の後にも、また他のほとんどの回答にもカルデックのコメントが付してあるが、スピリチュアリズム勃興の初期にはやむを得なかったにしても、今日ではポイントがズレているので削除した。今後とも、よくよく気の利いたもの以外は訳出しない。読者各自の理解力で読み取っていただきたい。


――密度は物質の本質的属性でしょうか。


「そうです。ただし人間がいう物質の属性であって、普遍的流動体としての物質の属性ではありません。この流動体を構成する霊妙な物質は人間には計量できません。にもかかわらず地上の物質の基本的要素です」


編者注――地上の物質の密度も、あくまでも相対的なものである。天体の表面からある一定の距離以上まで離れると“重量”はなくなる(無重力状態)。“上”とか“下”がなくなるのと同じである。


――物質は一つの要素から成っているのでしょうか、それとも複数の要素で構成されているのでしょうか。


「一種類の基本的要素でできています。とは言え、単純に見える物体も実際は基本的元素そのものでできているのではありません。物体の一つ一つが根源的物質の変化したものです」


――物質のさまざまな特性はどこから生じるのでしょうか。


「各種の基本分子が合体したり、ある条件の作用を受けたりすることによる形態の変化によって生じます」


――その観点から言えば、各種の物体の特性、芳香、色彩、音色、有毒か健康に良いかといったことも皆、たった一つの基本的物質が変化したその結果にすぎないことになるのでしょうか。


「まさしくその通りです。そして、そうしたものを感知するように出来あがっている器官の機能のおかげでもあります」


――同じ基本的物質がさまざまな形態に変化し、さまざまな特性をそなえることが出来るわけでしょうか。


「その通りです。そして“全ての中に全てが存在する”という格言はその事実のことを言っているのです」


――その説は、物質の基本的特性は二つしかない――力と運動であるとし、その他の特性は全て二次的な反応にすぎず、その力の強さと運動の方向によって違ってくる、という説を支持しているように思えますが、いかがでしょうか。


「その説自体に間違いはありません。ただし、それにさらに“分子の配列の形態によって”という条件を付け加えないといけません。例えば不透明な物体が分子の配列しだいで透明になり、その逆にもなることはご存じでしょう」


――物質の分子には形態があるのでしょうか。


「あります。そのことに疑問の余地はありませんが、人間の感覚器官では確認できません」


――その形態は一定不変ですか、それとも変化しますか。


「原始的基本分子は不変ですが、基本分子の団塊である副次的な分子は変化します。地上の科学で分子と呼んでいるものは副次的なもので、まだまだ基本分子とは程遠いものです」


訳注――原始的基本分子を人間の科学では最初“原子”と呼び、その後“素粒子”と呼び、最近では“クォーク”と呼んでいる。これこそ物質の究極の相だろうと思ったものが、こうして次々と覆され、一九九四年には“トップクォーク”の存在が確認されている。が、右の回答は百年前のものとはいえ、このトップクォークでさえまだまだ究極のものではなさそうな感じを抱かせる。いずれにしても物質というものが五感で慣れ親しんでいるものとは全く違うもので、その意味で我々は仮相の世界、言わば錯覚の世界に生きていることがよく分かる。「そうしたものを感知するようにでき上がっている器官のおかげでもあります」というのはその辺を言いたかったのであろう。
〈宇宙空間〉


――宇宙空間は無辺でしょうか、それとも限りがあるのでしょうか。


「無辺です。もしもどこかに境界があるとしたら、その境界の向こうは一体どうなっているのでしょう? この命題は常に人間の理性を困惑させますが、それでも、少なくとも“それではおかしい”ということくらいは理性が認めるはずです。無限の観念はどの角度から捉えてもそうなります。人間の置かれている条件下では絶対に理解不可能な命題です」


――宇宙のどこかに絶対的真空というものが存在するのでしょうか。


「いえ、真空というものは存在しません。人間から見て真空と思えるところにも、五感その他いかなる機器でも捕らえられない状態の“もの”が存在しています」






3章 創造

このページの目次
〈天体の形成〉


――物的宇宙は創造の産物でしょうか、それとも神と同じく永遠の過去から存在し続けているのでしょうか。


「もちろん宇宙がみずからをこしらえるはずはありません。もしも神と同じく永遠の過去からの存在であるとしたら、それは神の業(わざ)ではないことになります」


――どのようにして創造されたのでしょうか。


「有名な表現を借りれば“神のご意思によって”です。神が“光よあれ”と言われた。すると光が生まれた。この“創世記”の言葉以外に、全能の神のあの雄大な働きをうまく表現したものはありません」


――天体が形成されていく過程を教えていただけませんか。


「人間の理解力の範囲内でこの命題に答えるとすれば、空間にまき散らされた物質が凝縮して天体となった、と表現するしかありません」


――彗星は、天文学で推測されている通り、その物質の凝縮の始まり、つまり形成途上の天体なのでしょうか。


「その通りです。ただし、彗星にまつわる不吉な影響を信じるのは愚かです。すべての天体には、ある種の現象の発生にそれぞれの役割分担があります」


――完成された天体が消滅し、宇宙のチリとなって再び天体として形成されるということはありませんか。


「あります。神は、天体上の生き物を新しくつくり変えるように、天体そのものも新しくつくり変えます」


――天体、たとえばこの地球が形成されるのに要した時間は分かるでしょうか。


「それは我々にも分かりません。創造主のみの知るところです。いかにも知っているかのごとき態度で長々と数字を並べたりするのは愚か者のすることです」
〈生命体の発生〉


――地球上の生物はいつ頃から生息するようになったのでしょうか。


「天地初発(あめつちはじめ)の時は全てが混乱の状態で、あらゆる原素が秩序もなく混じり合っていました。それが次第に落ちつくべき状態に落ちつき、その後、地球の発達段階に応じて、それに適合した生物が出現して行きました」


――その最初の生物はどこから来たのでしょうか。


「どこからというのではなく、地球そのものに“胚”の状態で含まれていて、発生に都合のよい時期の到来を待っておりました。地球の初期の活動がようやく休止すると、有機的原素が結合して地上に生息するあらゆる生物の胚を形成しました。そして各々の種に生気を賦与する適切な時期の到来まで、その胚はさなぎや種子と同じように、不活性の状態で潜伏していました。やがてその時期が到来して発生し、繁殖して行きました」


――その有機的原素は地球が形成される以前はどこに存在していたのでしょうか。


「言うなれば流動体的状態で空間や霊界、あるいは他の天体に存在し、新しい天体での新たな生命活動を開始すべく、地球の造成を待っておりました」


――今でも自然発生しているものがあるのでしょうか。


「あります。ですが、潜在的には胚の状態で以前から存在しているのです。その例なら身のまわりに幾らでもあります。例えば人間や動物の体には無数の寄生虫が胚の状態で存在していて、生命がなくなると同時に活動を開始して腐敗させ、悪臭を放ちます。人間の一人一人が、言うなれば“眠れる微生物の世界”を内部に含んでいるのです」
〈人類の発生〉


――ヒトの種も有機的原素の一つとして地球に含まれていたのでしょうか。


「そうです。そして創造主の定めた時期に発生したのです。“人間は地のチリから造られた”という表現はそこから来ています」


――そのヒトの発生、および地上の他の全ての生物の発生の時期は確認できるのでしょうか。


「できません。あれこれと数字を並べる霊がいますが、何の根拠もありません」


――人類の胚が有機的原素の中に含まれていてそれが自然発生したとなると、今でも(生殖作用によってでなく)自然発生的にヒトの種が誕生してもよさそうに思えるのですが……


「生命の起原のことは我々にも秘密にされております。ただ断言できることは、最初の人類が発生した時に、すでにその内部に、その後の生殖活動によって繁殖していくために必要な要素を全て所有していたということです。他の全ての生物についても同じことが言えます」


――最初の人間は一人だったのでしょうか。


「違います。アダムは最初の人間でもなく、唯一の人間でもありません」


――アダムが生きていた時代を特定できますか。


「大体“創世記”にある通りです。キリストより四〇〇〇年ほど前です」


編者注――アダムという名で記録にとどめている人物は、当時地球上を襲った数々の自然災害を生き抜いた幾つかの人種の一つの長であろう。
〈人種の多様性〉


――地上の人種に身体的ならびに精神的な差異が生じた原因は何でしょうか。


「気候、生活形態、社会的慣習などです。同じ母親から生まれた二人の子供でも、遠く離れた異なる環境条件のもとで育てられると、それぞれに違った特徴を見せるようになります。とくに精神的には全く違ってきます」


――人類の発生は一か所だけでなく地球上の幾つもの地域で行われたのでしょうか。


「そうです。それも、幾つもの時代に分けて行われました。このことも人類の多様性の原因の一つです。原始時代の人間はさまざまな気候の地域へ広がり、他の集団との混血が行われたので、次々と新しいタイプの人類が生まれて行きました」


――その違いが種の違いを生んだのでしょうか。


「それは断じて違います。全ての民族で人類という一つの家族を構成しています。同じ名前の果実にいろいろな品種があっても、果実としては一つであるのと同じです」


――人類の始祖が一つでなく地球上で幾つも発生したということは、互いに同胞とは言えないことになるのではないでしょうか。


「創造主とのつながりにおいては全ての人種は一つです。同じ大霊によって生命を賦与され、同じ目的に向かって進化しているからです。人間はとかく言葉にこだわり、表現が異なると中身も異なるかに解釈しがちですが、言葉というのは不十分であり不完全なものです」
〈地球外の生息地〉


――宇宙空間を巡っている天体の全てに知的存在が生息しているのでしょうか。


「そうです。そしてその中でも地球は、人間が勝手に想像しているような、知性、善性、その他の全般的な発達において、およそ第一級の存在ではありません。数え切れないほど存在する天体の中で地球だけが知的存在が生息する場である――神は人類のために宇宙をこしらえたのだと豪語する者がいるようですが、浅はかな自惚れもここに極まれりという感じです」


――どの天体も地質的構成は同じなのでしょうか。


「同じではありません。一つ一つが全く違います」


――あれほどの数の天体がありながら、その組成が同じものが二つとないとなると、そこに生息している存在の有機的組成も異なるのでしょうか。


「当然です。地上でも魚は水の中で生きるようにできており、鳥は空を飛ぶようにできているのと同じです」


――太陽から遥か遠く離れた天体は光も熱も乏しく、太陽が恒星(星)の大きさにしか見えないのではないでしょうか。


「あなたは光と熱の源は太陽しかないとでも思っていらっしゃるのですか。また、ある天体上では電気の方が地上より遥かに重要な役割を果たしている事実をご存じですか。そういう世界でも地球と同じように眼球を使って物を見ているとでも思っていらっしゃるのですか」


訳注――カルデックの質問の中には時おり「おや?」と思うようなものが出てきて訳者を戸惑わせることがある。奥さんと共に私塾を開いて天文学、物理学、解剖学といった、当時としては最先端の学問を教えていたようであるが、百年以上も昔のことであるから、その幅も奥行きも現代とは比較にならないものであったことは容易に想像がつく。

この質問も太陽も恒星の一つで銀河系には二〇〇〇億個もの恒星があり、その中でもわが太陽はごく小さい部類に属するので、このような質問はナンセンスである。が、回答の中で眼球を必要としない知的存在がいることを暗示しているので、それが大きな暗示を与えてくれると思って訳出した。コウモリは声帯から出す超音波で一瞬のうちに距離を計って飛び回り、イルカも超音波で信号を出し合って連絡し合っているという。眼球や耳のない人間的存在がいても不思議ではないのである。






4章 生命素

このページの目次
〈有機物と無機物〉


――物質の原素を合体させる力は有機物の場合も無機物の場合も同じものですか。


「同じものです。親和性の法則は全てに同じです」


――有機物と無機物とではどこが違うのでしょうか。


「物質でできている点は双方とも同じです。が、有機物においてはその物質が活性化されています」


――その活性化の原因は何でしょうか。


「生命素との一体化です」


――その生命素は何か特殊な作用因子の中に存在するのでしょうか、それとも組織をもつ物体の一要素にすぎないのでしょうか。つまり、それは原因なのか結果なのかということです。


「両方です。生命というのは物質へのある因子の働きかけによって生じた結果です。しかしこの因子も、物質がなければ生命を生み出すことはできませんし、物質もこの因子の働きかけなしには活性化されません。生命素はそれを受け止めて一体化するものに生命を賦与するということです」


――これまで私は霊と物質が宇宙の二大主要構成要素であると思っておりました。この生命素は第三の要素なのでしょうか。


「宇宙を構成する不可欠の要素の一つであることは論をまちません。しかし、その源は普遍的物質の変化にあります。その目的に即して変化したものです。人間にとっては酸素や水素と同じく原素ですが、究極の要素ではありません。人間に知られている原素は全て、究極の原素のように思えても実質は基本的流動体の変化したものです」


――今のご説明ですと、活力というのはそれ自体が独立した因子ではなく、普遍的流動体の特殊な要素で、それがある種の変化を遂げたものということになりそうですが……


「その通りです。これまで述べたことを結論づければ当然そうなります」


――その生命素は人間に知られているあらゆる物体に内在しているのでしょうか。


「その源は普遍的流動体にあります。いわゆる磁気流とか電流と呼ばれているものが活性化されたものです。霊と物質との中間的存在です」


――生命素は有機的存在の全てに共通したものでしょうか。


「同じものですが、種によって変化が加えられています。動きと活動の原動力となっているのがその生命素で、その点がただの物質とは異なるところです。物質も動きますが、自発的な動きではありません。物質は動かされるもので、動きを生み出すことはありません」


――活力はその生命素の不変の属性なのでしょうか、それともその活力を生み出している器官の働きによるのでしょうか。


「活力は生命素が物体とつながることによって初めて生じます。さきほどこの因子(生命素)は物質がなければ生命を生み出せないと申し上げたはずです。生命の生産には両者の合体が必要です」


――生命因子が物体と合流しないうちは活力は潜在状態にあると考えてよろしいでしょうか。


「その通りです」
〈生と死〉


――有機体の死の原因は何でしょうか。


「器官の活力の枯渇です」


――その死を機械が故障して動きが止まった状態になぞらえるのは正しいでしょうか。


「いいでしょう。機械が故障すれば動きが止まります。身体が病に冒されれば生命は引っ込みます」


――心臓病による死亡率が他の臓器よりも高いのはなぜでしょうか。


「心臓は生命を生み出す器官です。ですが死をもたらすのは必ずしも心臓の病気だけではないでしょう。心臓は身体という機械を動かす必須の機関の一つにすぎません」


――有機体の身体と生命素は死後どうなるのでしょうか。


「身体は分解して新しい物体の構成要素として使用されます。生命素は普遍的流動体の海の中へ帰ります」
〈知性と本能〉


――知性は生命素の属性ですか。


「違います。その証拠に、植物は生命を有しながら思考力はありません。有機的生命を有するのみです。知性と物質との間には何の依存性もありません。ただし、物体は知性がなくても存在できますが、知性は物的器官を通じないと意思表示ができません。活性化された物質(肉体)が霊と一体となって初めて知的活動が可能となります」


編者注――それゆえ地上の存在物は三つに大別できる。第一は、物質のみの不活性の存在で、生命も知性もない、無機物の世界。第二は、物質でできた身体と活力を有するが、知性を持たない、動植物の世界。そして第三が活力ある身体と、思考力を生み出す知的原理をそなえた人類。


――知性の始源は何でしょうか。


「普遍的知性です」


――こういう定義はいかがでしょうか。すなわち、知的存在は各自が普遍的始源から知性の一部を引き寄せ、引き寄せつつ吸収し、同時に生命素も吸収する、と。


「そういう定義はおよそ真相から離れています。知性というのは各自その分に応じて授けられる能力で、精神的個性の一部を形成するものです。

さらに言わせていただけば、宇宙には人間に絶対理解できないことがいろいろあります。知性の始源も、現段階の人類にとっては、その中に入ります」


――本能というのは知性とは何の関係もないのでしょうか。


「そう明確に断定することはできません。と言うのは、本能も知性の一種であることには違いないからです。本能は言わば論理的思考力をもたない知性です。進化の階梯の低い段階にある存在は、この本能によって必要性を満たします」


――知性と本能との違いを一線で画すことはできますでしょうか。つまり、ここまでが本能でここからが知性、という具合に。


「できません。双方が混じり合っていることがよくあります。しかし、本能から出た行為と知性から出た行為とは明確に見分けることができます」


――知的能力の発達とともに本能が退化すると考えてよいでしょうか。


「それは違います。本能は本能として存在しつづけます。人間がそれを軽視しているだけです。本能も理性と同じように正しい方向へ導いてくれることがあります。その導きはまず間違いなく感得できるものです。時には理性的判断よりも確かなことがあります。決して脱線することはありません」


――なぜ理性的判断が必ずしも頼りにならないのでしょうか。


「間違った教育、自惚れ、私利私欲によって歪められさえしなければ理性は正しい判断を下します。本能は論理を超えて直覚的に判断を下します。理性は常に選択の余地を残し、人間に自由意志を与えます」

霊の書 アラン・カルデック(編)

The Spirits' Book
スピリチュアリズムの真髄「思想編」
近藤千雄(訳)


本書について

カルデックによる『霊の書』は、シルバーバーチの霊訓、モーゼスの霊訓と並ぶ最高級レベルの霊訓です。まさしく人類にとって最高の宝、スピリチュアリズムの“三大霊訓”と言えるものです。

本書は仏人アラン・カルデックが、通信霊、聖ルイにありとあらゆる質問を投げかけ、これに対する答えを得るという形で進められています。そのため、スピリチュアリズムの細部にわたるまで実に手にとるように明らかにされ、スピリチュアリズムの真理の全てが理解されるようになっています。




アラン・カルデックの生涯と業績

カルデックは本名をイポリット=レオン=ドゥニザール・リヴァイユといい、一八〇四年にフランスのリヨンで生まれている。アラン・カルデックというペンネームは、いくつかの前世での名前の中から背後霊団の一人が選んで合成して授けたものである。


家系は中世のいわゆるブルジョワ階級で、法官や弁護士が多く輩出している。初等教育はリヨンで修めたが、向学心に燃えてスイスの有名な教育改革家ペスタロッチのもとで科学と医学を学んだ。


帰国して二十八歳の時に女性教師と結婚、二人で新しい教育原理に基づいた私塾を開設する。が、偶発的な不祥事が重なって、塾を閉鎖せざるを得なくなり、リヨンを離れ、幾多の困難と経済的窮乏の中で辛酸をなめる。が、その間にあっても多くの教育書や道徳書をドイツ語に翻訳している。


その後名誉を回復して多くの学会の会員となり、一八三一年にはフランス北部の都市アラスの王立アカデミーから賞を授かっている。一八三五年から数年間、妻とともに自宅で私塾を開き、無料で物理学、天文学、解剖学などを教えている。


スピリチュアリズムとの係わり合いは、一八五四年に知人に誘われて交霊会に出席したことに始まる。そこでは催眠術によってトランス状態に入ったセリーナ・ジェイフェットという女性霊媒を通して複数の霊からの通信が届けられていた。


すでにその通信の中にも“進化のための転生”の教義が出ていて、一八五六年にはそれがThe Spirits'Bookのタイトルで書物にまとめられていた。が、その内容にはまだ一貫性ないし統一性がなかった。それが本格的な思想体系をもつに至るのは、カルデックがビクトーリャン・サルドゥーという霊能者が主催するサークルに紹介されて、そこで届けられた通信の中で、カルデックが本格的な編纂を委託されてからだった。それが同じタイトルで一八五七年に出版され、大反響を呼んだ。


このように、カルデックは霊界通信によってスピリチュアリズムに入り、当初は物理的心霊現象を軽視していた。さらに、スピリチュアリズム史上もっとも多彩な現象を見せたD・D・ホームと会った時に、ホームが個人的には再生(転生)説を信じないと言ったことで、ますます物理現象を嫌うようになった。


その後カルデックも物理現象の重要性に目覚める。「霊媒の書」がその証と言えるが、フランスでの心霊現象の研究は、カルデックの現象嫌いで二十年ばかり遅れたと言われている。


一八六九年に心臓病で死去。六十五歳。遺体はペール・ラシェーズ墓地にあり、今なお献花する人が絶えない。


業績は多方面にわたり、多くの学術論文を残しているが、著書としてはThe Spirits'Book(本書)、The Mediums'Book(「霊媒の書」)の他にHeaven and Hell(天国と地獄)、The Four Gospels(四つの福音書)など、スピリチュアリズム関係のものが多い。編者まえがき

これまでに明かされたいかなる法則によっても説明のつかない現象が、今、世界各地で発生している。そしてその原因として、自由意志をそなえた見えざる知的存在の働きかけがクローズアップされてきている。

理性的に考えれば、知的結果には知的原因があるはずである。事実、さまざまな事象から、その知的存在は物的符丁を使用することによって人間と交信することが可能であることが証明されている。

その知的存在の本性を追求してみると、かつては我々と同じく地上で生活したことがあり、肉体を捨てたあと霊的存在として別の次元の世界で存在し続けていることが分かってきた。かくして霊の実在ということが厳然たる事実となってきたのである。

その霊の世界と地上世界との間の交信も自然現象の範疇に属し、そこには何一つ摩訶不思議はないことが分かっている。その交霊の事実は世界のいずれの民族にも、そしてまたいつの時代にもあったことが史実として残っているだけでなく、今日では一般的でごく当たり前のこととなりつつある。

その霊たちが断言するところによると、大霊が定めた死後存続の事実の世界的規模での顕現の時節が今まさに到来し、大霊の使徒でありその意志の道具である彼らの使命は、新しい啓示を通して、人類の霊的革新の新時代を切り開くことにあるという。

本書は、その新しい啓示の集大成である。これまでの一宗一派の偏見と先入観を排除した理性的哲学の基盤を確立することを目的として、高級な霊格をそなえた霊団による指導と指令によって書き上げられたものである。その中には霊団の意図の発現でないものは一切ない。また、項目の配列とそれに付したコメント、さらには、ところどころで採用した表現形式は、本書の刊行を委任されたこの私の責任において工夫したものであるが、いずれに関しても霊団側の是認を受けている。

本書上梓に参画してくれた霊団のメンバーの多くは、時代こそ違え、かつてこの地球上に生をうけ、教訓を説き、徳と叡知を実践した人たちであることを自ら認めている。その名を歴史に留めていない人物も少なくないが、その霊格の高さは、教説の純粋さと、そうした高名な歴史上の人物との一致団結ぶりによって、十分に立証されている。

では本書の編纂開始に際してその霊団の総意として寄せられた、私への激励を込めたメッセージを披露させていただく。

アラン・カルデック



カルデックへの、霊団からの激励のメッセージ


我々との協調関係のもとに行うこの仕事に着手するに当たって、そなたに対して熱誠と忍耐とを要請したい。これは実質的には我々の仕事だからである。これから編纂される書物の中に、全人類を愛と慈悲の精神において一体たらしめる新しい殿堂の基盤を構築したいと思う。完成後それを世に出す前に我々がその全編に目を通し、誤りなきを期したい。

質(ただ)したいことがあれば遠慮なく呼び出すがよい。いついかなる時でも力になるであろう。すでに明かしたごとく、我々には大霊から割り当てられた使命があり、本書の編纂はその使命の一端にすぎない。

これまでに明かした教説の中には、当分はそなたの内に秘しておくべきものもある。公表すべき時期が到来すれば、さよう告げるであろう。それまではそなた自身の思考の糧として、じっくり温めておくがよい。課題として取り扱うべき時期が到来した折に理解を容易にするためである。

巻頭に我々の描いたブドウの蔓(つる)の絵を掲げてほしい。これは、創造主による造化の仕事の象徴である。身体と霊を象徴する要素が合体している図である。蔓が身体を表し、樹液が霊を表し、ブドウの実が両者の合体を表す。人間の努力は樹液という潜在的資質を呼び覚ます。すなわち、努力によって獲得される知識を通して、身体が魂に潜在する霊的資質を発達させるのである。

これより先そなたは、敵意に満ちた非難に遭遇することであろうが、それによって怯(ひる)むようなことがあってはならぬ。とくに既存の悪弊に甘んじて私利私欲を貪(むさぼ)る者から、悪意に満ちた攻撃を受けることであろう。

人間界にかぎらぬ。同じことを霊界から受けることもあろう。彼らは物的波動から抜け切らずに、憎しみと無知から、スピリチュアリズムへの疑念のタネを蒔き散らそうと画策する。

神を信じ、勇猛果断に突き進むがよい。背後より我々が支援するであろう。スピリチュアリズムの真理の光が四方に放たれるようになる時節も間近い。

全てを知り尽くしたかに自惚れ、全てを既存の誤れる教説で片付けることで満足している者たちが真っ向から抵抗するであろう。しかし、イエスの偉大なる愛の原理のもとに集(つど)える我々は、あくまでも善を志向し全人類を包摂する同胞愛の絆のもとに結ばれている。用語の差異についての下らぬ議論をかなぐり捨てて、真に価値ある問題へ向けて全エネルギーを注いでいる。地上時代の宗派の別を超えて、高き界層の霊からの通信から得られる確信にはいささかの相違もないのである。

そなたの仕事を実りあるものにするのは、一(いつ)に掛かって忍耐である。我々が授けた教説が本書を通して普及し、正しく理解されることによってそなたが味わう喜びは、また格別なるものがあろう。もっとも、それは今すぐではなく遠い未来のことかも知れぬが……。

疑り深き人間、悪意に満ちた者たちがバラ撒くトゲや石ころに惑わされてはならぬ。確信にしがみつくことである。その確信こそが我々の援助を確かなものにし、その援助を得てはじめて目的が達成されるのである。

忘れてはならぬ。善霊は謙虚さと無私無欲の態度で神に奉仕する者にのみ援助の手を差し延べる。霊的なことを世俗的栄達の足掛かりにせんとする者は無視し、高慢と野心に燃える者からは手を引く。高慢と野心は人間と神との間に張りめぐらされる障壁である。それは天界の光線を見えなくする。光の見えぬ者に神は仕事を授けぬということである。

シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch
Edited by Sylvia Barbanell
近藤千雄訳



二章 今なぜスピリチュアリズムか
 
 シルバーバーチの交霊会には時おりレギュラーメンバーのほかに新参者が招かれる。その日も一人の招待客が出席していた。その客の質問に対するシルバーバーチの答えは、さながらスピリチュアリズムの要約の観があるので紹介しよう。

 「私たち霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大変な使命です。霊界から見る地上は無知の程度がひどすぎます。その無知が生みだす悪弊は見るに耐えかねるものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれがひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。

地上の宗教家は、死の関門をくぐった信者は魔法のように突如として言葉では尽くせない程の喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です。

 死んで霊界へ来た人は───初期の段階においては───地上にいた時と少しも変わりません。肉体を棄てた───ただそれだけのことです。個性は少しも変わりません。性格は全く一緒です。習性も特性も性癖も個性も地上時代そのままです。利己的な人は相変わらず利己的です。

貪欲な人は相変わらず貪欲です。無知な人は相変わらず無知のままです。悩みを抱いていた人は相変わらず悩んでいます。少なくとも霊的覚醒が起きるまではそうです。

 こうしたことが余りに多すぎることから、霊的実在についてある程度の知識を地上に普及させるべしとの決断が下されたのです。そこで私のような者が永年にわたって霊的生命についての真理を説く仕事にたずさわってきたわけです。

霊的というと、これまではどこか神秘的な受けとられ方をされてきましたが、そういう曖昧なものでなしに、実在としての霊の真相を説くということです。そのためには何世紀にもわたって受け継がれてきた誤解、無知、偏見、虚偽、偽瞞、迷信───要するに人類を暗闇の中に閉じ込めてきた勢力のすべてと闘わねばなりませんでした。

 私たちはそうした囚れの状態に置かれ続けている人類に霊的解放をもたらすという目的を持って一大軍団を組織しました。お伝えする真理はいたって単純なものですが、それにはまず証拠になるものをお見せすることから始めなければなりません。

 すなわち偏見を棄てて真摯な目的、真実を知ろうとする欲求を持って臨む者なら誰にでも得心がいくものであることを明らかにしなければなりません。あなた方の愛する人々はそちら側からそのチャンスを与えてくれさえすれば、然るべき通路(霊媒)を用意してくれさえすれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます。

 これは空想の産物ではありません。何千回も何万回も繰り返し証明されてきている事実を有りのままに述べているまでです。もはや議論や論争のワクを超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。

 以上が第一の目的です。〝事実ならばその証拠を見せていただこう。われわれはもはや信じるというだけでは済まされなくなっている。あまりに永い間気まぐれな不合理きわまる教義を信じ込まされてきて、われわれは今そうしたものにほとほと愛想をつかしてしまった。

われわれが欲しいのはわれわれ自身で評価し、判断し、測定し、考察し、分析し、調査できるものだ〟───そうおっしゃる物質界からの挑戦にお応えして、霊的事実の証拠を提供するということです。

 それはもう十分に提供されているのです。すでに地上にもたらされております。欲しい人は自分で手にすることができます。それこそが私がこれまであらゆる攻撃を耐え忍び、これからもその砦となってくれる〝確定的事実〟というスピリチュアリズムの基礎なのです。もはや、〝私は信じます。私には信仰というのがあります。

私には希望があります〟といったことでは済まされる問題ではなくなったのです。〝事実なのだからどうしようもありません。立証されたのです〟と断言できる人が数え切れないほどいる時代です。

 人類史上初めて宗教が実証的事実を基礎とすることになりました。神学上のドグマは証明しようのないものであり、当然、議論や論争がありましょう。が、死後の存続という事実はまともな理性を持つ者なら必ず得心するだけの証拠が揃っております。

しかし、証明された時点から本当の仕事がはじまるのです。それでおしまいとなるのではありません。まだその事実を知らない人が無数にいます。その人たちのために証拠を見せてあげなくてはなりません。少なくとも死後にも生命があるという基本的真理は間違いないのだという確証を植え付けてあげる必要があります。

 墓の向こうにも生活があるのです。あなた方が〝死んだ〟と思っている人たちは今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。げんに戻ってきているのです。しかし、それだけで終わってはいけません。

死後にも生活があるということはどういうことを意味するのか。どういう具合に生き続けるのか。その死後の生活は地上生活によってどういう影響を受けるか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。

 死の関門を通過したあと、どういう体験をしているのか。地上時代に口にしたり、行ったり心に思ったりしたことが役に立っているのか、それとも障害となっているのか。こうしたことを知らなくてはいけません。

 また、死後、地上に伝えるべき教訓としていかなることを学んでいるのか。物的所有物のすべてを残していった後に一体何が残っているのか。死後の存続という事実は宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。

そうなのです。そうした分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は永い間人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。
 いかがです?大ざっぱに申し上げた以上の私の話がお役にたちましたでしょうか」

 「お話を聞いて、すっきりと理解がいったように思います」

 「もう一つ申し上げたいことがあります。そうした問題と取り組んでいく上において私達は暗黒の勢力と反抗勢力、そして、そうした勢力に加担することで利益を確保している者たちに対して間断なき闘いを続けていかねばなりませんが、同時に、不安、取越苦労といった〝恐怖心〟との闘いも強いられているということです。

 地上の人間と霊界の人間との間にはその関係を容易にする条件と、反対に難しくする条件とがあります。誤解、敵意、無知、こうした障害はお互いの努力によって克服していけるものです。そのために私たちが存分に力を発揮する上で人間側に要求したい心の姿勢というものがあります。あなた方は肉体を携えた霊であり、私たちは肉体のない霊です。そこに共通したものがあります。〝霊〟というつながりです。

 あなたも今この時点において立派に霊的存在なのです。死んでから霊的存在となるのではありません。死んでから霊体をさずかるのではありません。死はただ単に肉体という牢獄から解放するだけです。小鳥が鳥カゴを開けてもらって大空へ飛び立つように、死によってあなた方は自由の身となるのです。

 基本的にはあなた方人間も〝霊〟としてのあらゆる才能、あらゆる属性、あらゆる資質が具わっております。今はそれが未発達の形で潜在しているわけです。もっとも、わずかながらすでに発現しているものもあります。

その未発達のものをこれからいかにして発現していくか、本当のあなたを表現していくにはどうしたらよいか、より大きな自我を悟り、神からの素晴らしい遺産を真に我がものとするにはどうすればよいかを私たちがお教えすることができるのです。

 しかし、いかなる形にせよ、そうした使命を帯びて地上へ戻ってくる霊は、必然的にある種の犠牲を強いられることになります。なぜならば、そのためには波長を地上の低い波長に合わさなければならない───言いかえれば、人間と接触するために霊的な波長を物的な波長へと転換しなければならないからです。

 人類の大半を占める人たちがまだ霊的なものを求める段階まで達していません。言いかえれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることが出来ないのです。

 そこで私たちの方から言わば階段を下りなければならないのです。そのためには当然、それまで身につけた霊的なものの多くをしばらくのあいだ置き去りにしなければなりません。

 本当ならば人間側にも階段を上がってもらって、お互いが歩み寄るという形になれば有難いのですが、それはちょっと望めそうにありません。

 しかし、人間が霊的存在であることに変わりはありません。霊的資質を発揮し、霊的な光輝を発揮することが出来れば、不安や疑いの念などはすべて消滅してしまいます。霊は安心立命の境地において本来の力を発揮するものです。

 私たちが闘わねばならない本当の敵は無用の心配です。それが余りに多くの人間の心に巣くっているのです。単なる観念上の産物、本当は実在しない心配ごとで悩んでいる人が多すぎるのです。そこで私は、取越苦労はおやめなさいと、繰り返し申し上げることになるのです。

自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物というものは決して与えられません。しかも、あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれるあらゆる力を引き寄せることになるのです。

 このように、霊的な問題は実に広大な範囲にまたがる大きな問題なのです。人生のあらゆる側面にかかわりを持っているのです。ということは、これからという段階にいらっしゃるあなたには、探検旅行にも似た楽しみ、新しい霊的冒険の世界へ踏み込む楽しさがあるということでもあるのです。どうか頑張ってください」


 「死後どのくらいたってから地上へ戻って来るのでしょうか」

 「それは個々の事情によって異なります。こちらへ来て何世紀にもなるのに自分の身の上に何が起きたかが分からずにいる人もいます」

 「自分が死んだことに気づかないのです」 とレギュラーメンバーの一人が口添えをするとシルバーバーチが───

 「一方にはちゃんとした霊的知識を携えた人もいます。そういう人は、適当な霊媒さえ見つかれば、死んですぐにでもメッセージを送ることはできます。そのコツを心得ているのです。このように、この問題は霊的知識があるか否かといった条件によって答えが異なる問題であり、単純にこうですとはお答えできません。

 私たちが手を焼くのは、多くの人が死後について誤った概念を抱いたままこちらへ来ることです。自分の想像していた世界だけが絶対と思い、それ以外ではあり得ないと思い込んでいます。一心にそう思い込んでいますから、それが彼らにとって現実の世界となるのです。私たちの世界は精神と霊の世界であることを忘れないでください。思ったことがそのまま現実となるのです」


 ここでシルバーバーチはレギュラーメンバーの中で心霊治療能力を持っている人にひとこと助言してから、再びその新参者に───

 「この心霊治療というのも私たちの大切な仕事の一つなのです。治療家を通路として霊界の治癒エネルギーが地上の病的身体に注がれるのです。このように私たちの仕事は、いろんな側面、いろんな分野を持った、ひじょうに巾の広い仕事です。初心者の方は面食らうこともあると思いますが、間違い無く真理であり、その真実性を悟られた時にあなたの生活に革命が起こります。

 宗教の世界では〝帰依〟ということを言います。おきまりの宣誓文句を受け入れ、信仰を告白する──それでその宗教へ帰依したことになるというのですが、本当の帰依というのは霊的真理に得心がいって、それがあなたという存在の中にしっくりと納まることをいうのです。

 その時からその人は新しい眼を通して、新しい確信と新しい理解とをもって人生を見つめます。生きる目的が具体的に分かるようになります。神が全存在のために用意された計画の一端がわかりはじめるからです。

 ある人は政治の分野において生活の苦しい人々、社会の犠牲となっている人々、社会に裏切られた人々、よるべなき人々のためにその霊的知識を生かそうと奮い立ちます。ある人は宗教の世界へ足を踏み入れて、死に瀕している古い教義に新しい生命を吹き込もうとします。

ある者は科学の実験室に入り、残念ながらすっかり迷路にはまってしまった科学者の頭脳に霊的なアイディアを吹き込もうと意気込みます。また芸術の世界へ入っていく者もいることでしょう。

 要するに霊的真理は人生のすべての分野に関わるものだということです。それは当然のことです。なぜなら生命とは霊であり、霊がすなわち生命だからです。霊が目を覚まして真の自分を知った時、すなわち霊的意識が目覚めたとき、その時こそ自分とは何者なのか、いかなる存在なのか、なぜ存在しているのかということに得心がいきます。

それからの人生はその後に宿命的に待ち受ける、より豊かでより大きな生命の世界への身支度のために〝人のために自分を役立てる〟ことをモットーとして生きるべきです。

 どうぞこれからも真理探求の旅をお続けください。求め続けるのです。きっと与えられます。要求が拒絶されることは決してありません。ただし、解答は必ずしもあなたが期待した通りのものであるとはかぎりません。あなたの成長にとって最善のものが与えられます」


 最後に出席者全員に向かって次のような別れの言葉を述べた。

 「われわれは大いなる神の計画の中に組み込まれていること、一人ひとりが何らかの存在価値を持ち、小さすぎて用の無い者というのは一人もいないこと、忘れ去られたりすることは決してないことを忘れないようにしましょう。

そういうことは断じてありません。宇宙の大霊の大事業に誰しも何らかの貢献ができるのです。霊的知識の普及において、苦しみと悲しみの荷を軽くしてあげることにおいて、病を癒してあげることにおいて、同情の手を差し伸べることにおいて、寛容心と包容力において、われわれのすべてが何らかの役に立つことができるのです。

 かくして各自がそれぞれの道において温かき愛と悠然たる自信と確固たる信念を持って生き、道を失った人々があなた方を見て、光明への道はきっとあるのだと、感じ取ってくれるような、そういった生き方をなさってください。それも人のために役立つということです。では、神の祝福の多からんことを」


 その日の交霊会はそれで終わり、続いて次の交霊会に出たシルバーバーチは、その間に帰っていた本来の上層界での話に言及してこう述べた。

 「いつものことながら、いよいよ物質の世界に戻ることになった時の気分はあまり楽しいものではありません。課せられた仕事の大変さばかりが心にあります。しかし皆さん方の愛による援助を受けて、ささやかながら私の援助を必要としている人たち、そしてそれを受け止めてくださる人たちのために、こうして戻ってくるのです。

 これまでのしばしの間、私は本来の住処において私の僚友とともに過ごしてまいりましたが、どうやら私たちのこれまでの努力によって何とか成就できた仕事についての僚友たちの評価は、私が確かめたかぎりにおいては満足すべきものであったようです。これからも忠誠心と誠実さと協調精神さえ失わなければ、ますます発展していく神の計画の推進に挫折が生じる気遣いは毛頭ありません。

 その原動力である霊の力が果たしてどこまで広がり行くのか、その際限を推し量ることは私にもできません。たずさわっている仕事の当面の成果と自分の受け持ちの範囲の事情についての情報は得られても、その努力の成果が果たして当初の計画どおりに行っているのかどうかについては知りませんし、知るべき立場にもないのです。

私たちの力がどこまで役立っただろうか───多くの人が救われているだろうか、それとも僅かしかいなかっただろうか───そんな思いを抱きながらも私たちはひたすら努力を重ねるだけなのです。しかし上層界にはすべての情報網を通じて情報を集めている霊団が控えています。必要に応じて大集会を催し、地上界の全域における反応をあらゆる手段を通じてキャッチして、計画の進捗具合を査定し評価を下しているのです。

 かくして私たちにすら知り得ない領域において、ある種の変化がゆっくりと進行しつつあるのです。暗闇が刻一刻と明るさを増しつつあります。霧が少しずつ晴れていきつつあります。モヤが後退しつつあります。無知と迷信とドグマによる束縛と足枷から解放される人がますます増えております。

自由の空気の味を噛みしめております。心配も恐怖もない雰囲気の中で、精神的に、霊的に自由に生きることのすばらしさに目覚めつつあります。自分がこの広い宇宙において決して一人ぼっちでないこと、見捨てられ忘れ去られた存在でないこと、無限なる愛の手が常に差しのべられており、今まさに自分がその愛に触れたのだということを自覚し、そして理解します。

人生は生き甲斐のあるものだということを今一度あらためて確信します。そう断言できるようになった人が、今日、世界の各地に広がっております。かつてはそれが断言できなかったのです。

 こうしたことが私たちの仕事の進捗具合を測るものさしとなります。束縛から解放された人々、二度と涙を流さなくなった人々がその証人だということです。これから流す涙はうれし涙だけです。

心身ともに健全となった人々、懊悩することがなくなった人々、間違った教義や信仰が作り出した奴隷状態から逃れることが出来た人々、自由の中に生き、霊としての尊厳を意識するようになった人々、こうした人達はみな私たちの努力、人類解放という気高い大事業に携わる人たち全ての努力の成果なのです。

 これからもまだまだ手を差し伸べるべき人が無数にいます。願わくは私たちの手の届く限りにおいて、その無数の人々のうちの幾人かでも真の自我に目覚め、それまで欠けていた確信を見出し、全人類にとって等しく心の拠りどころとなるべき永遠の霊的真理への覚醒をもたらしてあげられるように───更生力に富み活性力と慰安力にあふれ、

気高い目標のために働きかける霊の力の存在を意識し、代わって彼らもまたいずれはその霊力の道具となって同じ光明をますます広く世界中に行きわたらせる一助となってくれるよう、皆さんとともに希望し、祈り、決意を新たにしようではありませんか。

 真理はたった一人の人間を通じてもたらされるものではありません。地球上の無数の人々を通じて滲透していくものです。霊力の働きかけがある限り人類は着実に進歩するものであることを忘れないでください。今まさに人類は霊的遺産を見出し始め、霊的自由をわがものとし始めました。

そこから湧き出る思い、駆り立てられるような衝動、鼓舞されるような気持ちは強烈にして抑え難く、とうてい抑え通せるものではありません。霊の自由、精神の自由、身体の自由にあこがれ、主張し、希求してきた地球上の無数の人々を、今、その思いが奮い立たせております。

 こうして、やがて新しい世界が生まれるのです。王位は転覆され、権力的支配者は失脚し、独裁者は姿を消していきます。人類はその本来の存在価値を見出し、内部の霊の光が世界中に燦然と輝きわたることでしょう。

 それは抑え難い霊的衝動の湧出(ゆうしゅつ)によってもたらされます。今まさにそれが更生の大事業を推進しているのです。私がけっして失望しない理由はそこにあります。私の目に人類の霊的解放というゴールへ向けての大行進が見えるからです」


 ここでメンバーの一人が 「歴史を見ても人類の努力すべき方向はすでに多くの模範が示してくれております」 と言うと、

 「そうなのです。訓えは十分に揃っております。いま必要なのはその実行者です」と述べ、最後にこう締めくくった。

 「そこで、その実行者たるべきわれわれは、悲しみに打ちひしがれた人々、重苦しい無常感の中にあって真実を希求している無数の人々の身の上に思いを馳せましょう。われわれの影響力の行使範囲まで来た人々に精一杯の援助を施し、慰めを与え、その悲しみを希望に変え孤独感を打ち消して、人生はまだお終いではないとの確信を持たせてあげましょう。

 無限の宝を秘めた神の貯蔵庫から霊力を引き出しましょう。われわれに存在を与え給い、みずからのイメージに似せて創造し給い、神性を賦与してくださった大霊の生きた道具となるべく、日常生活においてわれわれ自身を律してまいりましょう。

われわれがその大霊の計画の推進者であることを片時も忘れず、謙虚さと奉仕の精神と、託されたその信託への忠誠心を持って臨む限り何一つ恐れるものはないこと、いかなる障害物も太陽の輝きの前に影のごとく消滅していくとの確信のもとに邁進いたしましょう」

Monday, October 19, 2026

霊訓〈完訳・下〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





33節

本節の内容
*霊の身元を裏づける証拠の数々
*著者の結びの言葉



〔四節において作曲家アーンの生涯について綴られた極めて細かい事実を紹介したが、一八七三年九月十二日には他の作曲家――ベンジャミン・クック(1)、ヨハン・ペプシュ(2)、ウェレスリ・アール(3)の生前の事実や日時についても同じように細かく且つ正確な言及が為された。三人とも私の知らない名前であった。まるで人名辞典のような簡略な記述で内容的にはばかばかしいほどの些細なこともあった。いずれもドクターの署名が記されたが、その中でドクター自身も“実に下らぬ内容である。貴殿の確信のためと思えばこそのことで、それだけがわれらの目的である。地上生活のこまごましたことは今のわれらには興味はない”と述べている。

一八七四年七月十六日。病気で部屋に籠っていたところ右の三人の音楽家に関連した情報がさらに送られてきた。私個人としては何の関わりもないのであるが、私が毎日のように会っていた一人の人物と密接な関連のある内容であった。この度の霊はジョン・ブロウ(4)と言い、“クリストファー・ギボン(5)の教え子で、ウェストミンスター寺院のヘンリー・パーセル(6)の後継者。少年時代からすでに作曲家だった”と書かれた。生没年を質すと一六四八年~一七六八年と書かれた。これなどは表面的には私が異常に過敏な状態でたまたま部屋に引き籠っていたから得られた情報である。

一八七三年十月五日に更にプライベートな証拠がもたらされた。四節において書物からの読み取りが出来る霊として紹介された霊が、古代の年代記から幾つかを抜き書きした。それは凡そのことは私も不案内というわけではなかった。と言うのも、その主題が私の研究範囲に属することだったからであるが、その内容の極端な細かさと正確さは私には付いて行けないものだった。私はこまごまとした事実、とくに年月日を記憶することが苦手な性質(たち)なのである。生まれつきそうした細かいことを扱いきれないのと、幅広い視野で物事を総合的に把握することの方が実際的であるという信念から、私は常日頃からそういう習慣を付けるべく努力してきた。

その観点から見て奇妙に思えるのは、私の手を通して書かれた通信のほとんど全てが顕微鏡的細かさをもち、インペレーターからのものを除いては、視野の広さと多様性に欠けていることである。

同じ頃、中世の錬金術学者ノートン(7)の著書からの二十六行が、それまでのどの通信とも異なる奇妙な古書体で書き出された。その抜粋をのちに校合(きょうごう)しようとしたが困難を極めた。と言うのは、関係書が乏しく、ノートンに関しては生没年すら曖昧なほどで、ほとんど知られていないからである。通信によると、古代のオカルト学者で霊媒的素質があり、それで地上へ戻りやすいということだった。そして彼の著作に詩文で書かれた The Ordinal or Manual of Chemical Art(8)というのがあり、ヨーク大主教のネビル(9)に捧げられたものであった。

他にも紹介しようと思えば幾つかあるが、以上紹介したものに優る証拠性をもつものではない。相当な量の資料の中から適当に抜き出したものである。

が、もう一つだけ、通信の真実性の証明の仕方に特徴があるので紹介しておこうと思う。事実を提供した霊が自らその証明の方法に言及しているように思える。しかもその情報は出席していた者の誰一人として知らないことであったところにメリットがある。私の記録から引用する。

一八七四年三月二十五日。ある女性がテーブル通信で列席者の誰も知らない氏名と事実を伝えてきた。そこで翌日私の背後霊に事情を尋ねた。〕


あの霊はシャーロット・バックワース(10)と名のっていたが、その通りである。われわれとは特に関わりはないのであるが、たまたまあの場に居あわせ、貴殿にとって証拠になると考えて通信を許した。交霊会の状態はわれわれにとって良くはなかった。われわれの手で改善することも出来なかった。非常に乱れていた。あのような日の後は得てしてそういうものである。貴殿の巻き込まれたあの連中の異質の雰囲気がわれわれの手ではどうしようもない混乱の要素を誘い込んだのである。


――霊媒的能力を持つ四人と一緒になってしまいました。私はいつもあの種の人間から悪い影響を受けるようです。


貴殿はあの種の人間の影響にどれほど過敏であるかをご存知ないようだ。あの時に通信した霊は百年以上も前に地上を去った者で、一七七三年に急死し、何の備えもないまま霊界へきた。ジャーミン通り(11)の友人の家で他界している。そこで娯楽パーティーに出席していた。多分彼女自身からもっと詳しい話が聞けると思うが、われわれにはどうしようもない。


〔ここへ連れて来てほしいと言ったところ、通信霊がそれは自分たちには出来ないと言う。そこで彼女について何か他に知っていることがあるかと尋ねた。〕


ある。実は彼女自身もあの時もう少し述べたかったのであるが、エネルギーが尽きた。死後の長い眠りから覚めてしばらく特殊な仕事に従事し、その間ずっと最近に至るまで地上の雰囲気に近づいていない。雰囲気が調和性のある場所に引かれている。それは彼女の性格に愛らしさがあるからである。他界のしかたは急死であった。娯楽パーティで倒れ、その場で肉体から離れた。


――死因は?


心臓が弱かった。それが激しいダンスで負担を増した。優しく愛らしい性格ではあったが、至って無頓着な娘であった。


――何という人の家で、どこにありましたか。


われわれには判らぬ。彼女自身から告げることになろう。


〔このあと別の話題が綴られたが、彼女に関する話はそれ以上出なかった。同日の午後になって簡単な通信がきた。私は忙しくて寛いだ気分になれないのでペンを手にする気がしなかったが、次のような一節を書かされてしまった。〕


ロッティ(12)が他界したのはドクター・ベーカー(13)とかいう人の家であったことを確認した。十二月五日であった。それ以上のことは判らぬ。が、以上で十分であろう。

(レクター)


通信そのものもそうであったが、内容の確認が思いがけない形で為された。当初その事実を確認する手掛りはまずないとあきらめていた。そしてその件をすっかり忘れてしまっていた。その後少しして、スピーア博士が古書の好きな知人を自宅に呼び、私を入れた三人で談笑したことがあった。その部屋には滅多に読まれたことのない莫大な数の本が床から天井までぎっしりと書棚に並べられていた。話の途中でスピーア博士の友人――A氏と呼んでおく――が一番上の棚の本を取り出すために椅子を持っていった。そこには「記録年鑑」ばかりが並んでいる。A氏は埃の中から一冊を取り出し、一年一年の貴重な出来事の記録が載っていて、まず載っていないものはないほどだと言った。それを聞いた時、私の頭に例の女性の死について確認する記録があるかも知れないという考えが閃いた。インスピレーションの経験のある人ならよくご存知の、曰く言い難い閃きであった。内的感覚に語りかけられた声のようなものであった。私は一七七三年版の年鑑を探し出し、当時話題になった死亡事故の記録の中に、右の通信にある通りの、ある上流家庭でのパーティで起きたセンセーショナルな女性死亡事件を発見した。その本は厚く埃を被り、五年ほど前にそこに置かれてから一度も動かされていなかった。私の記憶ではその年鑑はきちんと配列されていた。そして一度も手を触れた形跡がなく、A氏の古書趣味がなかったら、われわれの誰一人として取り出して調べてみる考えは起きなかったのではないかと思われる。

このことに関連して一つだけ付け加えておくと、一八七四年三月二十九日に私のノートにあるメッセージが綴られ、最初私にはそれが読めなかった。一度も見たことのない筆跡で、まるで体力の衰えた老人が震えながら書いたような感じであった。署名もされているのであるが、いつもの書記が判読して教えてくれるまでは私には読めなかった。結局それは私の知らないかなり老齢の婦人からのメッセージで、われわれがいつも交霊会を催す家からあまり遠くない所にある家で百歳近い高齢で他界している。姓名も住所も公表できない。理由はご理解いただけると思う。今生きておられる縁故者に許しを乞う立場にないし、その気にもなれない。邸宅の名前と位置、死亡年月日がいずれもメッセージの通りであったとだけ述べておく。メッセージを伝えたそもそもの目的(と思われるの)はその婦人が一八七二年十二月に他界しているという注目すべき事実で、“寿命を全うして、地上生活の疲れを癒して来た”ということであった。

この件にかぎらず、霊の身元の件に関するものは全てインペレーターが指示し、私がしつこく要求した身元の確認――というよりは、死後の個性の存続の証拠を提供するという確固たる意図があったものと信じている。そのいずれも明らかにある計画性をもって運ばれている。私からの勝手な要求が容れられたことは一度もなく、その計画を変更させることは遂に出来なかった。

通信の連続性がこの頃から途切れ、通信らしい通信が来なくなった。時たま思い出したように通信が出ることはあっても、この厖大な量の“霊訓”を一貫して支えてきた強烈なエネルギーは見られなくなった。所期の目的が達成され、その後も通信はあっても間隔が開くようになり、やがて一八七九年頃を境にこの自動書記による通信は事実上終わりを告げ、もっと容易で単純なものに代わってしまった。私が保存してある通信ノートの中から他の貴重な個所を抜き出すのは簡単である。多分これからその作業に取り掛かることになろう。が、取り敢えず以上紹介した通信がそれなりに完結しており、他に類を見ない貴重な体験の標本として、十分にその意義をもつものと思う。

本書を締めくくるに当たり敢えて言わせていただきたいのは、この“霊訓”は人間とは別個の知性の存在を強力に示唆する証拠として提供するものである。その内容は読む人によって拒否されるかも知れないし、受け入れられるかも知れない。しかし、真摯に、そして死に物狂いで真実を求めんとして来た一個の人間のために、人間の脳とは別個の知的存在が弛(たゆ)むことなく働きかけ、そして遂に成功したという事実をもし理解できないとしたら、その人は本書の真の意義を捉え損ねたことになるであろう。〕

(完)



〔注〕

(1)Benjamin Cooke  (2)Johann Pepusch  (3)Wellesley Earl
(4)John Blow  (5)Christopher Gibbon  (6)Henry Purcell  (7)Norton
(8)直訳「化学的技法の手引き」 
(9)Richard Neville 15世紀の英国の貴族・政治家。
(10)*Charlotte Buckworth(女性) (11)Jermyn Street ロンドンの中心に位置する。
(12)シャーロットの愛称 (13)*Doctor Baker





解説(訳者)

内容
霊団の構成について
霊団の身元について
スピリチュアリズムにおける『霊訓』の価値
シルバーバーチの霊訓との比較
モーゼスの経歴と人物像
あとがき



本書は形の上ではモーゼスという霊媒的素質をもつキリスト教信者を通して、目に見えぬ知的存在が全ての人間の辿る死後の道程を啓示し、モーゼスが幼少時より教え込まれ、絶対と信じ、かつ人に説いて来た思想的信仰を根底から改めさせ、真実の霊的真理を理解させんとする働きかけに対し、モーゼスがあくまで人間的立場から遠慮容赦のない反論を試みつつも、ついに得心していく過程をモーゼス自身がまとめて公表したものである。

モーゼス自身が再三断わっているように、本書に収められたのはほぼ十年間にわたって送られて来た厖大な量の通信のほんの一部である。主としてインペレーターと名のる最高指揮霊が右に述べたモーゼスの霊的革新の目的にそって啓示した通信を採録してあるが、記録全体の割合から言うとプライベートなこと、些細なこと、他愛ないことの方が圧倒的に多いようである。が、それはモーゼスの意向に従って公表されていない。実際問題としては些細なこと、プライベートなことのほうがむしろ科学的ないし論理的なものよりも人間の心に訴えるという点においては重要な価値をもつことがあり、その意味では残念なことではあるが、もともと霊団の意図がそこになかったことを考えれば、それもやむを得なかったと言わざるを得ない。

通読されて実感されたことであろうが、モーゼスにとってその十年間の顕幽にまたがる論争は、モーゼスの名誉と人生の全てを賭けた正に真剣勝負そのものであった。全ての見栄と打算を排した赤裸々な真理探求心のほとばしりをそこに見ることが出来る。それだけに、自分に働きかける目に見えざる存在が地上時代にいかなる人物であろうと、何と説こうと、己の理性が得心し求道心が満足するだけでは頑として承服しなかった。その点は今の日本に見られるような、背後霊に立派そうな霊がいると言われただけで有頂天になったり、何やら急に立派な人間になったかのように錯覚する浅薄な心霊愛好家とは次元が異なる。ほゞ三十年後の同じくキリスト教の牧師オーエンが名著『ベールの彼方の生活』Life Beyond the Veil by R.V.Owenを出すまでに二十五年の歳月をかけた事実と相通じるものがあろう。

なおこの『霊訓』には『続霊訓』More Spirit Teachingsという百ページばかりの続編がある。これはモーゼス自身の編纂によるものではなく、モーゼスの死後、モーゼスのこの道での恩師であったスピーア博士夫人が、博士邸で定期的に催されていた交霊会での霊言と自動書記による通信の記録の中から“是非とも公表されるべきである”と判断したものをまとめたものである。背後霊団の意図と霊的真理の中枢においては何ら変わりなく、その意味で目新しいものは見当たらないとも言えるが、第一部の霊言集と(第二部は自動書記通信)第三部のモーゼスの人物像に関するものには参考になるものが少なくない。その紹介も兼ねて、このあとの解説には主としてこの『続霊訓』(潮文社刊)を参考にさせて頂くことにする。

●霊団の構成について


『続霊訓』の冒頭でインペレーターが霊言でこう述べている。

「神の使徒たる余は四十九名より成る霊団の頭(かしら)であり、監督と統率の任にあり、他の全ての霊は余の指導と指令によりて仕事に当たる。

余は全知全能なる神の意志を成就せんが為に第七界より参った。使命完遂の暁には二度と地上に戻れぬ至福の境涯へと向上して行くであろう。が、それはこの霊媒が地上での用を終えた後となるであろう。そしてこの霊媒は死後において地上より更に広き使命を与えられるであろう。

余の下に余の代理であり副官であるレクターがいる。彼は余の不在の折に余に代わって指揮し、とりわけ物理的心霊現象に携わる霊団の統率に当たる。

レクターを補佐する三番目に高き霊がドクター・ザ・ティーチャーである。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、あとで紹介するところの、知恵と知識を担当する一団が控えている。

次に控えるのが地上の悪影響を避け、あるいは和らげ、危険なるものを追い払い、苦痛を軽減し、よき雰囲気を作ることを任務とせる二人の霊である。この二人にとりて抗し切れぬものはない。が、内向的罪悪への堕落は如何ともし難い。そこで霊界の悪の勢力――霊媒の心変わりを画策し聖なる使命を忘れさせんとする低級霊の誘惑より保護することを役目とする二人の霊が付いている。余の直属のこの四人を入れた七人で第一の小霊団(サークル)を構成する。われらの霊団は七人ずつのサークルより成り、各々一人の指揮官が六人を統率している。

第一のサークルは守護と啓発を担当する霊――霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊より成る。

次のサークルは愛の霊のサークルである。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、そのほか優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類のもの全てを配慮する。

次のサークル――これも同じく一人が六人を主宰している――は叡智を司る霊の集団である。直感、感識、反省、印象、推理、等々を担当する。直感的判断力を観察事実からの論理的判断力を指導する。叡智を吹き込み、且つ判断を誤らせんとする影響を排除する。

次のサークルは知識――人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識――を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当する。また霊媒の辿る困難きわまる地上生活を指導し、有益なる実際的知識を身につけさせ、直感的知恵を完成せしめる。これはドクターの指揮のもとに行なわれる。

その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループである。彼らは崇高にして知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さとに溢れる言葉に触れさせる。美しきもの、芸術的なもの、洗練され教養溢れるものへ心を向けさせ、性格に詩的潤いを与え、気品あるものにする。

次の七人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を担当する。これが霊媒の性格に軽快なタッチを添える。すなわち社交上大切な生気溢るる明るさであり、これが日々の重々しき苦労より気分を開放する。愛想良き心優しき魅力ある霊たちである。

最後の霊団は物理的心霊現象を担当する霊たちである。高等なる霊的真理を広める上で是非必要とみた現象を演出する。指揮官代理であるレクターの保護監督のもとに、彼ら自身の厚生を兼ねてこの仕事に携わっている。霊媒ならびにわれら背後霊団との接触を通じて厚生への道を歩むのである。それぞれに原因は異なるが、いずれも地縛霊の類に属し、心霊現象の演出の仕事を通して浄化と向上の道を歩みつつある者たちである。

いずれのグループに属する霊も教えることによりて自ら学び、体験を与えることによりて自ら体験し、向上せしめることによりて自ら向上せんとしている。これは愛より発せられた仕事である。それはわれらの徳になると同時に、この霊媒の徳ともなり、そしてこの霊媒を通じて人類への福音をもたらすことになるのである。」

以上がインペレーター自身の霊言による霊団の説明であるが、「ステイントン・モーゼスの背後霊団」The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewyによると、この最高指揮官であるインペレーターの上に更にプリセプターと名のる総監督が控え、これが地球全体の経綸に当たる言わば地球の守護神の命令を直接受け取り、それがインペレーターに伝えられる、という仕組みになっていたようである。

●霊団の身元について


本文でもインペレーターが繰り返し述べているように、霊の地上時代の身元を詮索することは単なる好奇心の満足にはなっても、それによって『霊訓』の信頼性が些かも増すものではないし、減じるものでもない。第一、地上の記録自体が信頼が置けないのである。が、しかし、一応興味の対象であることには違いないので、主な霊の地上時代の名前を紹介しておくと――

インペレーターは紀元前五世紀のユダヤの預言者で旧約聖書の“マラキ書”の編纂者マラキMalachi、レクターは初期キリスト教時代のローマの司教だった聖ヒポリタスHippolytus、ドクターは紀元二世紀頃のギリシャの哲学者アテノドラスAthenogoras、プルーデンスは“新プラトン主義哲学”の創始者プロティノスPlotinus、その他、本書に登場していない人物で歴史上に名のある人物としてプラトン、アリストテレス、セネカ、アルガザリ等の名が見られる。

ここに参考までに訳者の個人的見解を述べさせて頂くと、スピリチュアリズムの発展に伴って守護霊、指導霊、支配霊等のいわゆる背後霊の存在が認識されてきたことは意義深いことであり、背後霊のほうも、自分たちの存在を認識してくれるのと無視されるのとでは霊的指導において大いに差がある、と言うのが一致した意見であるが、そのことと、その背後霊の地上時代の名声とか地位とかを詮索することは全く別問題である。地位が高かったとか名声が高かったということは必ずしも霊格の高さを示すものではない。そのことは現在の地上の現実を見れば容易に納得のいくことである。シルバーバーチやマイヤースの通信を見ると、偉大な霊ほど名声とか地位、権力といった“俗世的”なものとは縁のない道を選んで再生するという。従ってその生涯は至って平凡であり、その死も身内の者を除いて殆ど顧みられないことが多い。そうした人物が死後誰かの守護霊として、あるいは指導霊として働いた時、その身元をとやかく詮索して何になろう。満足のいく結果が得られる筈がないのである。しかも霊は死後急速に向上し変化していくという事実も忘れてはならない。インペレーターの霊言に次のようなところがある。

「地上へ降りて来る高級霊は一種の影響力であり、言わば放射性エネルギーである。そなたらが人間的存在として想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物の如きものである。高等な霊信の非個人性に注目されたい。この霊媒との関わりをもった当初、彼はしつこくわれらの身元の証明を求めた。が、実はわれらを通して数多くの影響力が届けられている。死後首尾よく二段階三段階と上りたる霊は、そなたらのいう個体性を失い、形体なき影響力となり行く。余はそなたらの世界に戻れるぎりぎりの境涯まで辿り着いた。が、距離には関係なく影響力を行使することが出来る。余は今、そなたらより遙か彼方に居る。」

西洋においても日本においても霊能者は軽々しく背後霊や前世のことを口にしすぎる傾向があるが、その正確さの問題もさることながら、そのこと自体が本人にとって害こそあっても何ら益のないことであることを強く主張しておきたい。辿ればすべて神に行き着くのである。その途中の階梯において高いだの低いだのと詮索して何になろう。霊的指導者の猛省を促したい。

●スピリチュアリズムにおける『霊訓』の価値


スピリチュアリズムSpiritualismというのは用語だけを分析すれば主義・主張を意味することになるが、本来は人為的教義を意味するものではなく、地上では名称なしには存在が示されないからやむを得ずそう銘打っているまでで、“発明”ではなく“発見”――目に見えぬ内的世界と霊的法則の発見である。

そのきっかけが一八四八年の米国における心霊現象であったことは周知の通りである。インペレーターの霊言に次のような個所がある。

「今夜は大勢の霊が活発に動いている。本日が記念すべき日であるからに他ならぬ。そなたらが“近代スピリチュアリズム”と呼ぶところのものが勃興した当初、高級霊界より強力なる影響力が地球へ差し向けられ、霊媒現象が開発された。かくして地球的雰囲気に縛りつけられた多くの霊を地球圏より解放し、新たなる生活へ蘇らしめるための懸け橋が設けられた。このことを記念してわれらはこの日を祝うのである。スピリチュアリズム――われらはこれをむしろ“霊界からの声”と呼びたいところであるが、これは真理に飢えし魂の叫びに応えて授けられるものである。」

この霊言からも判る通り、スピリチュアリズムは本来は霊界からの新たな啓示を地上人類にもたらす運動であり、その目的のために霊媒が養成され、霊的存在の威力の証としてさまざまな心霊現象が演出されたのであった。新たな啓示とは突き詰めれば人間の死後存続の事実と、その生活場としての霊界の存在と、その顕と幽とに跨る因果律の存在の三つに要約されよう。ところが現実にはスピリチュアリズムヘの一般の関心の多くは霊の存在の物的証拠に過ぎないところの“現象面”に注がれ、肝心の霊的教訓が等閑(なおざり)にされている。インペレーターは続けてこう語っている。

「スピリチュアリズムには徐々に募りつつある致命的悪弊が存在する。現象のみの詮索から由来する言わば一種の心霊的唯物主義である。人間は物理現象の威力のみに興味を抱き、その背後のさまざまな霊的存在を理解しようとせぬ。物質は付帯的要件に過ぎず、実在はあくまで霊なのである。世界の全ての宗教は来るべき死後の世界への信仰に拠り所を求めている。が、地球を取り巻く唯物的雰囲気に影響され、霊的真理が視覚的現象の下敷きとなり、息も絶えだえとなっている。もしもこのまま現象のみの満足にて終わるとすれば、初めよりこの問題に関わらぬ方が良かったかも知れぬ。が、しかし、一方にはそうした現象的段階を首尾よく卒業し、高き霊的真理を希求する者もまた多い。彼らにとりて心霊現象は霊的真理への導入に過ぎなかったのである。」

要するにスピリチュアリズムの究極の目的はこの『霊訓』に象徴される霊的真理の普及にあるのである。インペレーターも述べている通り、こうした霊的啓示を地上へ送り届ける霊団は古来いくつも結成され、その時代に必要とするものを霊覚者を通して送って来た。そして今なお世界各地で送られて来ている。『霊訓』はあくまでそのうちの一つに過ぎない。そして霊媒のモーゼスがキリスト教の牧師(三十歳の時に病を得て辞職)であったこと、その時期がスピリチュアリズムの勃興期に当たったという事情から来る特殊性を見落としてはならないであろう。つまり、その内容を煎じつめれば、キリスト教的ドグマの誤謬を指摘し、それに代わる真正なる霊的意義を説くことに集中され、その他の一般の人間にとっての関心事、たとえば再生――生まれ変り――の問題等については、少なくとも本書に採録されたものの中には見当たらないし、『続霊訓』の中で言及しているものも概念的なことを述べているだけで、深入りすることを避けんとする意図が窺える。インペレーターは自動書記通信でこう述べている。

「霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊にして初めて論ずることの出来る問題である。最高神ご臨席のもとに神庁において行なわれる神々の協議の中身については、神庁の下層の者にすら知り得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。神庁において神議(かむはか)りに議られしのちに一個の霊が再び地上へ肉体に宿りて生まれるべきと判断されるか、それとも否と判断されるかは誰にも判らぬ。誰も知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。全ては佳きに計らわれるであろう。

すでに述べた如く、地上にて広く喧伝されている形での再生は真実ではない。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とを携えて地上に戻り、人間と共に生活を送ることは事実である。他にもわれらなりの判断に基づきて広言を避けている一面もある。未だその機が熟しておらぬからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう広言する霊はみずから己の虚偽性の証拠を提供していることに他ならぬ。」

●シルバーバーチの霊訓との比較


インペレーター霊団がモーゼスを通じて活動を開始したのは一八七〇年代初期からであるが、それからほぼ半世紀後の一九二〇年代には、霊言霊媒モーリス・バーバネルを通じてシルバーバーチ霊団が活動を開始している。そして一九八一年にバーバネルが他界するまでのほぼ半世紀にわたって厖大な量の霊言を残し、『シルバーバーチ霊言集』全十六巻となって出版されている。

訳者はこれを全て翻訳して上梓しているが、その内容は基本的にはモーゼスの『霊訓』と完全に符節を合している。強いて異なる点を挙げるならば、インペレーターが控え目に肯定した再生の事実を思い切り前面に押し出し、これを魂の向上進化のために必要不可欠の要素として説いている点である。察するにモーゼスの『霊訓』その他によっていわゆる“夾雑物”が取り除かれ、人類が神の神秘にもう一歩踏み込める段階に来たことを意味するのであろう。

このことに関連して興味深いのは、キリスト教の根本教理を論駁するインペレーター霊団の霊媒がキリスト教会のかつての牧師であり、再生を根本教理として説くシルバーバーチ霊団の霊媒が再生説を嫌悪する人物であったことである。訳者個人としてはそこに霊界の意図的配慮があったものと推察している。
●モーゼスの経歴と人物像


ウィリアム・ステイントン・モーゼスは一八三九年に小学校の校長を父として生まれた。小学生時代に時おり俗にいう夢遊病的行動をしている。一度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩にまとまらなかった問題についての作文を書き、再びベッドに戻ったことがあったが、その間ずっと無意識のままであった。書かれた作文はその種のものとしては第一級であったという。しかし幼少時代に異常能力を見せた話はそれだけである。

オックスフォード大学を卒業後、国教会(アングリカン)の牧師としてマン島に赴任している。二十四歳の若さであったが、教区民からは非常な尊敬と敬愛を受けた。とくに当地で天然痘が猛威をふるった時の勇気ある献身的行為は末永く語り継がれている。

一八六九年三十歳時に重病を患いS・T・スピーア博士の世話になったことが、生涯にわたるスピーア家との縁の始まりであると同時に、スピリチュアリズムとの宿命の出会いでもあった。博士の奥さんが大変なスピリチュアリストだったのである。翌年病気回復と共に再びドーセット州で牧師の職についたが病気が再発し、ついに辞職して以後二度と聖職に戻ることはなかった。そして翌年ロンドンの小学校の教師を任命され、一八八九年に病気で辞職するまで教鞭をとった。

その間の一八七一年から一八八二年のほぼ十年間がこの『霊訓』を生み出した重大な時期である。モーゼス自身にとっては死に物狂いで真理を追求した時期であり、スピリチュアリズムにとっては大いなる霊的遺産を手にした時期であったと言える。

最後に『続霊訓』の第三部に載っているモーゼスの人物評を紹介しておく。いずれもモーゼスの死に際して贈られた言葉である。まずスピーア夫人はこう語っている。

「自然を愛する心と、気心の合った仲間との旅行好きの性格、そして落着いたユーモア精神が、地名や事物、人物、加えてあらゆる種類の文献に関する厖大な知識と相まって、氏を魅力ある人間に造り上げていました。

二年前の病さえなければ『霊訓』をもう一冊編纂して出版し、同時に絶版となっている氏の著作が再版されていたことでしょう。健康でさえあったら、いずれ成就されていた仕事です。霊界の人となった今、氏は、あとに残された同志たちが氏が先鞭をつけた仕事を引き継いで行ってくれることを切望しているに相違ありません。」

次は心霊誌『ライト』に載った記事。

「氏は生まれついての貴族であった。謙虚さの中にも常に物静かな威厳があった。これは氏が手にした霊的教訓と決して無縁ではなかった。氏ほどの文学的才能と、生涯を捧げた霊的教訓と、稀有の霊的才能は、氏を倣慢不遜にし苛立(いらだ)ちを生み嫌悪感を覚えさせても決しておかしくないところである。しかし、氏にとってそれは無縁であった。モーゼス氏は常に同情心に満ち、優しく、適度の同調性を具えていた。」

スピーア博士の子息でモーゼスが七年もの間家庭教師をしたチャールトン・スピーア氏は、氏の人間性の深さと暖かさ、性格の優しさ、真摯な同情心、そして今こそ自己を犠牲にすべきとみた時の徹底した没我的献身ぶりを称えてから、こう結んでいる。

「真理普及ヘの献身的態度はいくら称賛しても称賛しきれない。氏はまさに燃える炎であり、輝く光であった。恐らくこれほどの人物は二度と現われないであろう。」
●あとがき


訳者としてお断わりと謝意を述べなければならないことがある。

まず、この度の翻訳に当たり、聖書関係の人名及び訳語については、研究社の『新英和大辞典』、小学館の『ランダムハウス英和大辞典』、それに各種の日本語訳聖書を参照したが、辞典ごとによる違い、プロテスタントとカトリックとの違い、ラテン語読みと英語読みの違い等があり、その選択に迷ったものは近くのプロテスタント系の教会で司牧されている方の助言を得た。またイエス語録の訳についても教えを乞うたが、いずれの場合も最終的には私なりの判断で訳した。それ故、全責任は訳者の私にある。

本書の内容に鑑みて、その牧師の氏名を公表できないのが残念であるが、快く助言を下さったことに陰ながら深く謝意を表したい。

本書は“スピリチュアリズムのバイブル”と呼ばれて今なお世界各地に熱烈な愛読者をもっている。日本にも浅野和三郎氏の抄訳がある。それを読んでぜひ全訳を読みたいと思われた方も多いことであろう。実は訳者自身その一人であった。訳者はその後、原典でその全編と続編を読み、こんどは、それを全訳したいとの希望を抱き続けてきた。それがこの度、国書刊行会から『世界心霊宝典』の一冊として上梓されることになり、この私が訳すことになった。永くスピリチュアリズムに親しんできた者としてこの事をこの上ない光栄と思い、まる一年、この翻訳に体力と知力の全てを投入してきた。

今こうして上梓するに当たり、その名誉をよろこぶ気持ちと同時に、こうした訳し方でよかっただろうかという一抹の不安と不満を禁じ得ない。もっと平易な現代語に訳すことも出来たであろう。訳者も当初それを試みてはみた。が、原典のもつあの荘重な雰囲気を出すには現代語では無理と判断し、結果的にこうした形に落着いた。この最大の要因は、この霊界通信が単なる霊的知識の伝授ではなく、霊媒のモーゼスと指導霊インペレーターとの壮絶とも言うべき知的並びに人間的葛藤の物語であり、そこに両者の個性がむき出しになっている点にある。そこにこそ本霊界通信の、他に類を見ない最大の魅力があり、その生々しさを表現するには文体を操るしかないと判断したのである。

その出来不出来は読者の批判を仰ぐこととして、訳者としては、いつの日か別のスピリチュアリストが別の形での訳を試みられることを期待しつつ、今はただ、お粗末ながらもこうした歴史に残る霊的啓示の書が日本でも出版されることになったことを素直によろこび、一人でも多くの方がこの“泉”によって魂の渇きを潤して下さることを祈るのみである。

なお、『霊訓』初版は一八八三年に刊行された。翻訳に当たっては一九四九年版を使用した。

一九八五年七月

近藤 千雄

霊訓〈完訳・下〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






32節

本節の内容
*真理とは
*一般向けの真理と魂の“秘宝”としての真理
*真理は他人へ押しつけるべきものにあらず
*甲の薬は乙の毒
*真理のための真理探求こそ人間としての最高の道



〔その後のインペレーターからの通信の一例として、次のメッセージを紹介しておく。内容的には一層崇高さを増した霊訓の典型を見る思いがする。驚異的なスピードで書かれたもので、書かれたままを紹介するが、一語の訂正の必要もなかった。綴られている間の私は、強力にして崇高な影響力が全身に染みわたるのを感じていた。〕

『真 理』


イエス・キリストの祝福を。この度は二度と訪れぬかも知れぬこの機に、そなたの疑問に答え必須の真理を授けたく思う。このところそなたのもとに届けられた何通かの手紙によりて、われらが警告しておいた艱難辛苦の時代の到来がわれらのみならず、他の霊団によりても予期されていることが判るであろう(1)。備えを怠るでない。間違いなく到来する。苦悩は必要だからこそ訪れるのである。イエスもそう悟り、そう説いているであろう。魂には鍛錬が必要なのである。それなくして深き真理は理解できぬ。何人(なんぴと)といえども、悲しみの試練を経ずして栄光ある頂上へ登ることは許されぬ。真理へのカギは霊界にある。試練によりて鍛えられた真摯なる魂にあらずんば、何人といえども勝手に真理をもぎ取ることは許されぬ。

安逸と放縦の道は夏の日を夢見心地で過ごす者には楽しいかも知れぬ。それに引きかえ、克己と自己犠牲と自己修養の道はトゲと岩だらけの上り道である。が、それが悟りと力の頂上へ辿り着く道なのである。イエスの生涯をよく吟味し教訓を学び取るがよい。

さらに、今こそわれらと邪霊との烈しき闘争の時期でもある。その煽(あお)りがそなたにも感じられるであろうことを述べたことがあるが、神の摂理の大いなる発展の時期には付きものなのである。言わば夜明け前の暗黒であり、成長の前提条件として憂鬱の体験であり、真摯なる魂が浄化される試練の時期なのである。イエスはそれを、かのゲッセマネにおける苦悩の時に“今やお前たちの時、そして暗黒の時(2)”と述べた。今こそその時である。しかも容易には過ぎ去らぬであろう。辛酸をなめ尽くさねばならぬのである。

それぞれの時代に授けられた啓示は、時の流れと共に人間的誤謬が上乗せされ、勝手な空想的産物が付加される。次第に生気を失い訴える力を失う。批判の声に抗し切れず、誤謬が一つまた一つと剥ぎ取られていき、信仰の基盤が揺さぶられ、ついに大声をあげて叫ぶ――真理とは何ぞや! と。それに答えて新たな、より高き真理の誕生となる。産みの苦しみが世界を揺るがせ、その揺り籠のまわりに霊界の力が結集してこれを守る。その闘争の噴煙と轟音はまさに熾烈である。

その新たな真理の光に空が白み、雲が晴れると、高き塔より眺める霊的洞察力に富める者はいち早く新時代の到来を察知し、その夜明けを歓迎する。“喜びは暁と共に来らん(3)”“悲しみと歎きは消え行かん(4)”かくして夜の恐怖――“暗黒の力”が過ぎ去る。が、全ての者にとりてのことではない。相も変わらず光を見る目を持たず、真理の太陽が煌々と頭上に輝くまで気づかぬ者が圧倒的多数を占める。彼らは新たな真理の夜明けに気づくことなく、ただ眠り続ける。

故に、全ての人間が等しく真理を理解する時代は決して訪れぬであろう。いつの時代にも真理に対して何の魅力も感じぬ者、なまじ上り坂をいくことが危険を伴う者、古き時代より多くの者によりて踏みならされた道を好む者が数多くいるものである。暁の到来を告げる空の白みをいち早く察知する者がいる如く、そうした人種もいつの時代にもいるものである。故に、全ての者に同じ視野が開かれることを期待してはならぬ。そのような夢の如き平等性は不可能である。不可能である以上に、望ましくもない。

神秘の奥義を詮索するに足る力を授かれる者がいる一方、極力それを避けねばならぬ者もいるのである。そこで大衆を導く指導者と先達が必要となる。その任に当たる者はそれなりの準備と生涯にわたる克己の修養が要請される。それを理性によりて律し、我欲を抑え、魂が一切の捉われを棄てて自由に振舞えるようであらねばならぬ。そのことについては、とうに述べてある。心するがよい。

大方の者が真理なりと信ずることが、そなたには空(うつ)ろに、かつ気まぐれに見えるからとて、少しも案ずるに及ばぬ。そういうものなのである。真理にもさまざまな段階がある。多くの側面をもつ水晶から無数の光が発せられる。その光の一条たりとも全ての魂によって曇りなき目で受け止められるとは限らぬ。僅かな者、ごく僅かな数の者に、その無数の光の中よりはぐれた一条――もしかしてそれ以上――の光が届くに過ぎぬ。それも多くの媒介者を通して届けられる故に、ようやく届いた時はすでにその透明度が曇らされている。それは如何ともし難きことである。それ故にこそさまざまな真理の観方が生ずるのである。それ故にこそさまざまな見解、誤謬、誤解、錯誤が罷り通ることにもなるのである。真理を見たと言うも、その多くは束の間の真理を見ているに過ぎぬ。それに己の見解を付加し、敷衍(ふえん)し、発展させ、そうするうちに折角の光を消し、一条の貴重なる真理の光が歪められ破壊される。かくして真理が台無しにされて行く。咎めらるベきは真理の中継者の不完全さである。

或いはこうも観ることが出来る。一人の向上心に燃える魂の熱望に応えて授けられたものを当人は万人に等しく分け与えらるべきものと思い込む。独り占めにするには余りに美しく、余りに崇高であり、余りに聖純なるが故に、全ての人に授けるべきであると思い込む。そこで宝石が小箱より取り出され、一般に披露される。ユリの花が切り取られて人前に飾られる。とたんに純粋さが失われ、生気が半減し、萎縮し、そして枯死する。彼にとりてあれほど美しく愛らしく思えた真理が忙(せわ)しき生存競争の熱気と埃(ほこり)の中で敢えなく新鮮味を失いゆくのを見て驚く。己の隠れ処(が)においてはあれほど純にして真なるものが、世に喧伝されると見る間に精彩を失い、場違いの感じを受けることに驚異を覚える。彼がもし賢明であればこう悟る――へルモン(5)の露は魂の静寂と孤独の中でこそ純化されるものであること、花は夜の暗闇の中でこそ花弁を開き、真昼の光の中では萎(しぼ)むものであること、即ち至聖にして至純なる真理は霊感によりて魂より魂へと密かに伝達されるものであり、声高らかに世に喧伝さるべきものではない、と。

むろん真理には、あたかも切り出したばかりの磊々(らいらい)たる岩石の如き粗野なるものもある。これは言わば全ての建築者が等しく使用すべき土台石なのである。が、至純なる宝石は魂の神殿に仕舞い置き、独り静かに眺むるべきものである。故にヨハネが天界の都市の宝石を散りばめた壁と門の話(6)をした時、彼は全ての者の目に映ずるはずの真理の外形を物語ったのだった。但し、彼がこの奥の院に置いたのは至純なる真理の光ではなく、主イエス・キリストの存在と栄光のみであった。

そなたがこうした事実を悟れぬことこそ驚異と言わねばならぬ。そなたにとりて絶対的真理と思えるものも実は、そなたの求めに応じて、完全なる真理の輪を構成する粒子の一つ、ほんの一かけらが授けられたに過ぎぬ、そなたがそれを必要としたからこそ授けられたのである。そなたにとりては完璧であり、それが“神”であろう。が、別の者にとりては不可解なるものであり、魂の欲求を満たしてくれる声は聞けず、求める美を見出すことは出来ぬ。衆目に曝したければそれもよかろう。が、すぐに生気を失い、その隠された魅力も人の心を改めさせるだけの力は持たぬであろう。それはあくまでもそなたのものであり、そなた一人のものなのである。そなたの魂の希求に応じて神より授けられたる、特殊な需要に対する特殊な施しなのである。

真理なるものは常に秘宝的要素をもつ。必然的にそうなるのである。何となれば真理はそれを受け入れる用意のある魂にのみ受け入れられるものだからである。日用品として使用するにはその香気が余りに儚(はか)なすぎる。その霊妙なる芳香は魂の奥の院においてのみ発せられるものである。このことを篤と心に留めておかれたい。さらにまた、受け入れる用意の出来ておらぬ者に押しつけることは真理を粗暴に扱うことになり、そなたにとりては天啓ではあっても、そうとは思えぬ者には取り返しのつかぬ害すら及ぼしかねぬことも心されたい。

さらに忘れてならぬことは、真理のための真理探求を、人生の至上目的として生きることこそ、地上にありての最高の目標であり、いかなる地上的大望よりも尊く、人間の為し得るいかなる仕事にもまして気高きものであるということである。人間生活に充満する俗悪な野心は今は取り合わぬ。虚栄より生まれ、嫉妬の中に育まれ、ついには失望に終る人類の闘争と野心――これらは紛(まご)うかたなきソドムの林檎(7)である。然るに一方には目覚めし魂への密かなる誘惑――同胞のために善行を施し、先駆者の積み上げたケルン(8)にもう一つの石を積み上げんとする心である。彼らは己の生活を大きく変革する真理を熱誠を込めて広めんと勇み立つ。すでにその真理に夢中である。胸に炎が燃え上がり、その訓えを同胞へ説く。その説くところは気高きものかも知れぬ。そして、もし聞く者の欲求に叶えば同類の心にこだまして魂を揺るがせ、何らかの益をもたらすかも知れぬ。が、その逆となるかも知れぬ。ある者にとりて真理と思えることはその者にとりて真実であるに過ぎず、その声は荒野に呼ばわる声に過ぎず、聞く者の耳には戯言(たわごと)にしか響かぬ。彼の殊勝なる行為が無駄に終わる。それだけのエネルギーを一層の真理の探求のために温存し、人に説く前により多くを学ぶべきであった。

教えることは結構である。しかし学ぶことはさらに望ましい。また両者を両立させることも不可能ではない。ただ、学ぶことが教えることに先立つものであることを忘れてはならぬ。そして真理こそ魂が何よりも必要とするものであることを、しかと心得よ。真理を宿す神秘の園に奥深く分け入る求道者は、その真理が静かに憩う聖域を無謀に荒らすことがあってはならぬ。その美しさはつい語りたくなるであろう。己が得た心の慰安を聞く耳を持つ者に喧伝したく思うかも知れぬ。が、己の魂の深奥に神聖なる控えの間、清き静寂、人に語るには余りに純粋にして、余りに貴重なる秘密の啓示を確保しておかねばならぬ。


〔ここで大して重要ではない質問をしたのに対してこう綴られた――〕


違う。それについてはいずれ教えることになろう。われらはそなた自身の試練の一つであるものを肩代わりすることは出来ぬ。迷わずに、今歩める道を突き進むがよい。それが真理へ直接続く道である。しかし不安と苦痛の中を歩まねばならぬ。これまで導いた道は、過去の叡智を摂り入れ先駆者に学ぶ必要があると観たからである。地上とわれらの世界との交霊関係の正道を歩まんとする者は、その最も通俗的な現象面にまとわりつく愚行と欺瞞によりて痛撃を食らうであろうことは、早くより予期していた。愚行と欺瞞が横行するであろう時を覚悟して待ち、これに備えてきた。その学問には過去の神秘学と同じく二つの側面があり、またそうあらねばならぬことを教えたく思う。一つの側面を卒業した今、そなたはもう一つの側面を理解せねばならぬ。

そのためには、人間と交信せんとする霊が如何なる素性の者であるかを知らねばならぬ。それを措(お)いて今そなたを悩ませる謎を正しく読み取ることは出来ぬ。一体真理なるものが如何なる方法により如何なる条件のもとに得られるものであるか、また如何にすれば誤謬と策謀と軽薄なる行為と愚行とを避け得るかを知らねばならぬ。人間が安全な態勢でわれらの世界との関わりを持つには予(あらかじ)めこうしたことを全て理解せねばならぬ。しかも、それを学び終えた暁、あるいは学びつつある時も、その成功如何はほとんど、あるいは全て人間側に掛かっていることを忘れてはならぬ。我欲を抑え、最奥の魂を清め、不純なる心を悪疫として追い払い、目指す目的を出来得るかぎり崇高なるものとせよ。真理を万人が頭(こうべ)を垂れるべき神そのものとして崇敬せよ。いずこへ到るかを案ずることなく、ひたすらに真理の探求を人生の目標とせよ。そうすれば神の使徒が見守り、そなたは魂の奥に真理の光を見出すことであろう。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)具体的に何のことかは述べられていないが、歴史的にみて、ほぼ30年後の第一次世界大戦、さらには、50年後の第二次大戦も含めてのことと推測される。
(2)ルカ22:53。“お前たち”とは、イエスを捕縛に来た兵士と裏切り者のユダたちを指すが、それは同時に背後の邪霊集団を意味している。
(3)詩篇30:5。
(4)イザヤ書35:10。
(5)Mount Hermon シリアとレバノンの間に位置するアンチレバノン山脈の最高峰。
(6)ヨハネ黙示録21:11~21。
(7)odom apples 外観は美しいが口に入れると灰に化すと伝えられるリンゴで、失望の種子、幻滅を意味する。
(8)記念・道標などとしてピラミッド型に積み上げた石塚。

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks
AgainEdited by S. Phillips
近藤千雄訳



十二章 苦難にこそ感謝を

 「私は霊的な目を通して眺めることができるという利点のおかげで真理のさまざまな側面が見える立場にあります。あなた方は残念ながら肉体の中に閉じ込められているという不利な条件のために、私と同じ視点から眺める事ができません」


 これは今スピリチュアリズムを熱心に勉強しはじめた初心者の夫婦を招いた時に、霊と物質という基本的なテーマについて語るにあたっての前置きである。続けてこう語る。

 「あなた方は物質をまとった存在です。身を物質の世界に置いておられます。それはそれなりに果たすべき義務があります。衣服を着なければなりません。家が無くてはなりません。食べるものが必要です。身体の手入れをしなくてはなりません。身体は、要請される仕事を果たすために必要なものをすべて確保しなければなりません。

物的身体の存在価値は基本的には霊の道具であることです。霊なくしては身体の存在はありません。そのことを知っている人が実に少ないのです。身体が存在出来るのはまず第一に霊が存在するからです。霊が引っ込めば身体は崩壊し、分解し、そして死滅します。

 このことを申し上げるのは、多くの人たちと同様に、あなた方もまだ本来の正しい視野をお持ちでないからです。ご自身のことを一時的な地上的生命を携えた霊的存在であるとは見ておられません。
℘201
身体に関わること、世間的なことを必要以上に重大視される傾向がまだあります。いかがですか。私の言っていることは間違っていますか。間違っていれば遠慮なくそうおっしゃってください。私が気を悪くすることはありませんから…」


 「いえ、おっしゃる通りだと思います。そのことを自覚し、かつ忘れずにいるということは大変難しいことです」と奥さんが答える。

 「むつかしいことであることは私もよく知っております。ですが、視野を一変させ、その身体だけでなく、住んでおられる地球、それからその地球上のすべてのものが存在できるのは霊のおかげであること、あなたも霊であり、霊であるがゆえに神の属性のすべてを宿していることに得心がいくようになれば、前途に横たわる困難のすべてを克服していくだけの霊力を授かっていることに理解がいくはずです。

生命の根元、存在の根元、永遠性の根元は霊の中にあります。自分で自分をコントロールする要領(コツ)さえ身につければ、その無限の貯蔵庫からエネルギーを引き出すことができます。

 霊は物質の限界によって牛耳られてばかりはいません。全生命の原動力であり全存在の大始源である霊は、あなたの地上生活において必要なものをすべて供給してくれます。その地上生活の目的は極めて簡単なことです。死後に待ち受ける次の生活に備えて、本来のあなたであるところの霊性を強固にするのです。

身支度を整えるのです。開発するのです。となれば、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の糧となるのです。

 その一つ一つが神の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も───暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが───克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えられないほどの試練や危機に直面させられることはありません。

その事実を何らかの形で私とご縁のできた人に知っていただくだけでなく、実感し実践していただくことができれば、その人は神と一体となり、神の摂理と調和し、日々、時々刻々、要請されるものにきちんと対応できるはずなのです。

 ところが、残念ながら敵があります───取越苦労、心配、不安と言う大敵です。それが波長を乱し、せっかくの霊的援助を妨げるのです。霊は平静さと自信と受容力の中ではじめて伸び伸びと成長します。日々の生活に要請されるものすべてのが供給されます。物的必需品の全てが揃います」

 ここでご主人が 「この霊の道具にわれわれはどういう注意を払えばよいかを知りたいのですが・・・肝心なポイントはどこにあるのでしょうか」と尋ねる。


 「別にむつかしいことではありません。大方の人間のしていることを御覧になれば、身体の必要性にばかりこだわって精神ならびに霊の必要性に無関心すぎるという私の意見に賛成していただけると思います。身体へ向けている関心の何分の一かでも霊の方へ向けて下されば、世の中は今よりずっと住みよくなるでしょう。」


 「霊を放ったらかしにしているということでしょうか。ということは身体上のことはそうまで構わなくてよいということでしょうか。それとも、もっと総体的な努力をすべきなのでしょうか」

 「それは人によって異なる問題ですが、一般的に言って人間は肉体のことはおろそかにしていません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。あなた方が文明と呼んでいるものが不必要な用事を増やし、それに対応するためにまた新たな慣習的義務を背負い込むという愚を重ねております。

肉体にとって無くてはならぬものといえば光と空気と食べ物と運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにあれこれと必要なものではありません。慣習上、必需品となっているだけです。

 私は決して肉体ならびにその必要条件をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するようにとお願いしているのではありません。私は一人でも多くの人間に正しい視野をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。

まだ自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい霊を具えた肉体だと思い込んでいる人が多すぎます。本当は肉体を具えた霊的存在なのです。それとこれとでは大違いです。

 無駄な取越苦労に振り回されている人が多すぎます。私が何とかして無くしてあげたいと思って努力しているのは不必要な心配です。神は無限なる叡智と無限なる愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。

驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない神の摂理によって支配され規制され維持されているのです。その節理の働きは一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。

今存在する自然法則はかつても存在し、これからも永遠に存在し続けます。なぜなら、完璧な構想のもとに全能の力によって生み出されたものだからです。

 宇宙のどこでもよろしい。よく観察すれば、雄大なものから極小のものに至るまでのあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。

途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥、樹木、花、海、山川、湖どれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節の巡りが生まれているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。

種子を蒔けば芽が出る───この、いつの時代にも変わらない摂理(きまり)こそ神の働きの典型です。神は絶対にしくじったことはありません。あなたがたの方から見放さないかぎり神はあなた方を見放すことはありません。

(訳者注───〝神がしくじる〟という言い方はいかにも幼稚にひびくが、われわれが不安や心配を抱き取越苦労が絶えないということは、裏返せば神の絶対的叡智に対する信仰が不足していることを意味し、これを分かりやすく表現すれば神がしくじるかも知れないと思っていることになる)

 私は、神の子すべてにそういう視野を持っていただきたいのです。そうすれば取越苦労もなくなり、恐れおののくこともなくなります。

いかなる体験も魂の成長にとっては何らかの役に立つことを知ります。その認識のもとに一つ一つの困難に立ち向かうようになり、首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。あなた方もいつかは私達の世界へお出でになりますが、こちらへ来れば、感謝なさるのはそういう暗い体験の方なのです。

視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有難く思えなくても、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明して差し上げることはできませんが、こちらへお出でになればみずから証明なさることでしょう。

 こうしたことはあなたにとっては比較的新しい真理でしょうが、これは大へんな真理であり、また多くの側面をもっています。まだまだ学ばねばならないことが沢山あるということです。探求の歩みを止めてはいけません。歩み続けるのです。ただし霊媒の口を突いて出るものを全部鵜呑みにしてはいけません。

あなたの理性が反撥するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶なさい。理に適っていると思えるもの、価値があると確信できるもののみを受け入れなさい。何でもすぐに信じる必要はありません。あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです

 私たちは誤りを犯す可能性のある道具を使用しているのです。交信状態が芳しくない時があります。うっかりミスを犯すことがあります。伝えたいことのすべてが伝えられないことがあります。他にもいろいろ障害があります。

霊媒の健康状態、潜在意識の中の思念、頑なに固執している観念などが伝達を妨げることもあります。その上に、私たちスピリット自身も誤りを犯す存在だということを忘れてはなりません。死によって無限の知識のすべてを手にできるようになるわけではありません。地上時代より少し先が見えるようになるだけです。

そこであなた方より多くを知った分だけをこうしてお授けしたいと思うわけです。私たちも知らないことが沢山あります。が、少しでも多く知ろうと努力を続けております。

 より開けたこちらの世界で知り得た価値ある知識をこうしてお授けするのは、代わってこんどはあなた方が、それを知らずにいる人々へ伝えていただきたいと思うからです。宇宙はそういう仕組みになっているのです。実に簡単なことなのです。私たちは自分自身のことは何も求めません。

お礼の言葉もお世辞も要りません。崇めてくださっても困ります。私たちはただの使節団、神の代理人にすぎません。自分ではその使命にふさわしいとは思えないのですが、その依頼を受けた以上お引き受けし、力の限りその遂行に努力しているところなのです」 
          
 

   
  解説 〝霊〟と〝幽霊〟 
 
 四章の 「ジョン少年との対話」 に出てくる〝霊〟と〝幽霊〟はどう違うかという質問は、シルバーバーチも〝なかなかいい質問ですよ〟と言っているように、西洋ではとかく誤解されがちな問題であるが、現下の日本の心霊事情を見てもその誤解ないしは認識不足によってとんでもない概念が広がっているので、ここでシルバーバーチの答えを敷延(ふえん)する形で解説を施しておきたい。

 誤解には二通りある。〝霊〟を〝幽霊〟と思っている場合と、〝幽霊〟を〝霊〟と思っている場合である。日本人は何かにつけてそうであるが、霊についても極めて曖昧な概念を抱いている。次に紹介する話はそれを典型的に示しているように思う。

 私も時たま墓地の清掃に行くが、同じ墓園に殆ど毎日墓参する人がいる。その人は先祖は家の根であり、根を培わずして子孫の繁栄はないという信仰から供養を欠かさないのだという話を聞かされたことがあるが、その後またいっしょになった時にその信仰をほじくってやろうというイタズラ心から 「やはり霊というのが存在していて、どこかに霊の世界というのがあるのでしょうね」と聞いてみた。すると案の定、言下にこう言い放った。

 「何をおっしゃるんです。人間この肉体が滅びたらもうおしまいですよ。私はその霊を供養しているだけですよ」

 いったいその霊とは何なのであろう。何かしら得体のしれない、実態の無いものを漠然と思い浮かべているらしいのであるが、そんなものを供養してそれが子孫の繁栄になぜ繋がるのか───そんな理屈っぽいことはみじんも考えないところが、いかにも日本人らしいのである。

 が、先日のテレビで〝心霊相談〟にのっている自称霊能者(女性)が古い先祖霊の供養に言及して「霊の中には一千年でも生きている場合がありますから」うんぬんと述べているのを聞いて私は自分の耳を疑った。どの程度の霊能があるのか知らないが、今紹介したような信心深い平凡人ならまだしも、心霊相談にのるためにテレビに出るほどの専門家(プロ)がこの程度の理解しかしていないことに私は唖然とした。

この自称霊能者にとっては相も変わらず肉体が実在であって、霊は一種の〝名残り〟のようなものとしてどこかにふわっと残っていて、やがて消滅していくものらしいのである。そして多分、大方の日本人が大体そんな風に漠然とした認識しか抱いていないのではなかろうか。

 では一体霊とは何なのか───これはシルバーバーチが繰り返し説いていることなので、ここで改めて私から説くことは控えたい。ただ一言だけ述べておきたいのは、知識を持つことと、それを実感を持って認識することとの間にはかなりの距離があるということである。霊には、実体があるのです、

と言われても、それをなるほどと実感するには、その知識を片時も忘れずに念頭において生活しながら、その実生活の中で霊的意識を高めていくほかはない。その内、ふとしたこと───大自然の驚異を見たり何でもない日常の出来ごとを体験して───あ、そうか、という悟りを得るようになる。

それが本当に分かったということであろう。シルバーバーチが単純素朴な真理を繰り返し繰り返し説くのも、そうした霊的意識の深まりを期待しているからであることを銘記していただきたい。

 次に〝幽霊〟を〝霊〟と勘違いしている場合であるが、 これはシルバーバーチの答えの通りであるが、それに付け加えて言えば、いわゆる心霊写真の大半がその類だということである。

 その説明に先だって認識しておいていただきたいのは、人間の想念というものはその人の人相と同じ形体を取る傾向があるということである。次の例からそれを理解していただきたい。

 私の家によく来ていただいている僧侶───ひじょうに霊感の鋭い方である───が仏壇の前でいつものようにお経を上げている最中に、その僧侶には珍しく途中で詰まってお経が乱れ、ややあってからどうにか普通の調子に戻ったことがあった。

 終わってからその僧が私に、今読経している最中にかくかくしかじかの人相の人が目の前に現われたと言って、その人相を説明した。さらにおっしゃるには、その霊は死者の霊ではなく、まだ生きている人だという。いわゆる生霊である。「何か怨みか嫉妬でも買う様なことをされましたか」と僧侶が私に聞いた。

 私はすぐにピンと来た。確かに思い当たる人がいて、私に嫉妬心を抱いてもやむを得ない事情があった。そのせいか、家族中でなんとなく不調を訴えることが多かったが、その僧の処置ですっかり良くなった。

 恩師の間部詮敦氏は 「念は生き物です」 というセリフをよく口にされ、したがって自分から出た念は必ず自分に戻って来るから、何時も良い念を出すように心がけなさいという論法で説教しておられた。

 私がここでそれを付け加えて言いたいのは、その念はその人の人相、時には姿恰好までそっくりの形体を取る傾向があるということである。これは謎の一つで、なぜだかは分らない。

 よく肉親や知人が枕元に立った夢を見て目を覚まし、後で分かってみると、ちょうどその人が死亡した時刻と一致したという話が語られる。この場合すぐに、その死者の霊が自分の死を知らせに来たのだとか別れを言いに来たのだと解釈され、それがいかにもドラマチックなのでそう思い込まれがちであるが、実際問題として、よほどの霊覚者でないかぎり、死んですぐに意識的に自分で姿を見せるような芸当のできる者はいない。

 これには二つのケースが考えられる。一つはその死者の背後霊が本人を装って姿を見せた場合で、これは意外に多いようである。もう一つはその死者の念が最も親和性の強い人のところへ届き、それがその人の姿かたちを取った場合で、私はこのケースがはるかに多いと見ている。

 心霊写真の中で生気が感じられないものは大半が浮遊している念が感応したか、または地上に残された幽質の殻が当人の念の働きを受けて感応したかである。もちろん実際にその場に居合わせた霊───大抵は自分でこしらえた磁場から脱け出られなくてその辺りをうろついている、いわゆる地縛霊であるが───が親和力の作用で近づいたのがたまたま霊能のある人の写真に写ったという場合もあることはあるであろう。

 反対に生気はつらつとして、まるで地上の人間と変わらないような雰囲気で写っている場合は、霊界の写真技術師の指示を受けてエクトプラズムをまとって出た場合であり、A・R・ウォーレスの 『心霊と進化と』 にはその詳しい説明が出ている。

 幽霊話に出てくるのは大抵地上に残した殻───セミの脱け殻とまったく同じと思えば、よい───が何かのはずみで動き出した場合で、不気味ではあっても少しも恐ろしいものではない。

 よく怪談ものを映画や芝居で演じる場合に奇怪な出来ごとが相次ぎ、話が話だけにいやが上にも恐怖心が煽られるが、それを、例えば四谷怪談であればお岩の亡霊がやっていると考えるのは間違いで、単なるイタズラ霊の仕業、西洋でいうポルターガイストに過ぎない。スタッフの中に霊格の高い人がいたらそういう奇怪な現象は起こらない。その人の守護霊がイタズラ霊を抑えてしまうからである。

 こうした解説を施しながら私はいつも、スピリチュアリズム的霊魂観の普及の必要性を痛感せずにはいられない。
                 一九八六年九月    近藤 千雄

Sunday, October 18, 2026

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks
AgainEdited by S. Phillips
近藤千雄訳



十一章 みんな永遠の旅の仲間

 ある日の交霊会で、開会を前にして出席者の間で〝実存主義〟についての議論が戦わされたことがあった。(訳者注───霊媒のバーバネルが入神しシルバーバーチが憑ってくると開会となるが、霊団はその前から準備しているので、シルバーバーチはその議論のようすを全部知っている)

  出現したシルバーバーチがこう述べた。
 「ただ今の議論と真理の本質に関するご意見をとても興味ぶかく拝聴いたしました」

───私たちの意見に賛成なさいますか。それとも的外れでしょうか。

 「いえ、ちゃんと的を射ておられます。みなさんには道しるべとなる知識の用意があるからです。ですが、みなさんも人間である以上各自に歩調というものがあります。進化とは絶え間ない成長過程です。成長は永遠に続くものであり、しかもみんなが同時に同じ段階に到達するとはかぎりません。各自が自分の魂の宿命を自分で成就しなければなりません。

それまでに手にした光明(悟り・理解力)と、直面する困難を媒体として、その人独自の教訓を学んでいかねばなりません。それを自分でやらねばならないのです。他人からいくら知恵の援助を受けることができても、魂の成長と開発と発達はあくまで当人が自分の力で成就しなければならない個人的問題なのです。

 真理は永遠不滅です。しかも無限の側面があります。なのに人間は自分が手にした一側面をもって真理の全体であると思い込みます。そこから誤りが始まります。全体などではありません。進化するにつれて理解力が増し、他の側面を受け入れる用意ができるのです。生命活動とは断え間なく広がり行く永遠の開発過程のことです。真理の探究は無限に続きます。

あなた方はそちらの地上において、私はこちらの世界において、真理の公道(ハイウェー)を旅する巡礼の仲間であり、他の者より少し先を歩んでいる者もいますが、究極のゴールにたどり着いた者は一人もいません。

 不完全さが減少するにつれて霊的資質が増し、当然の結果として、それまで手にすることの出来なかった高度の真理を受け入れることができるようになります。人類のすべてが一様に従うべき一個のパターンというものはありません。神の顕現が無限であるからには神の真理に近づく道にも又無限のバリエーションがあることになります。お分かりでしょうか」

 「分かります。その道にも直接的に近づく道と迂回する道とがあるのではないでしょうか」

 「その通りです。直接的なものと迂回的なものとがあります。が、それはその道を歩む本人の発達程度によって決まることです。直接的な道が歩めるようになるまでは、それが直接的な道であることが読み取れません。環境は当人の魂の本性によって条件づけられています。全生命は自然法則によって規制されています。その法則のワクを超えた条件というものは望めませんし、あなた自身そのワクの外に出ることも出来ません。

 かくして、いかなる体験も、これがあなたの住む地上であろうと私の住む霊界であろうと、ことごとく自然法則によって位置付けられていることになります。偶然にそうなっているのではありません。奇跡でもありません。あなたの進化の本質的核心の一部を構成するものです。そうでないといけないでしょう。常に原因と結果の法則によって織りなされているのです」

 「環境条件が自分の進化と無関係のものによってこしらえられることがありますか」

 「それは一体どういう意味でしょうか」

 「もしかしたら私は明日誰かの行為によって災難に遭うかも知れません」

 「そうかも知れません。が、それによって苦しい思いをするか否かはあなたの進化の程度の問題です」

 「でも、その他人がその様な行為に出なかったら私は災難に遭わずに済みます」

 「あなたは永遠の霊的規範を物的尺度で測り、魂の視点からでなく肉体の視点、言いかえれば今物質を通して顕現している精神だけの視点から眺めておられます」

 「それを災難と受け取るのも進化のある一定段階までのことだとおっしゃるのでしょうか」

 「そうです。それを災難と受け取る段階を超えて進化すれば苦しい思いをしなくなります。苦は進化と相関関係にあります。楽しみと苦しみは両極です。同じ棒の両端です。愛と憎しみも同じ力の二つの表現です。

愛する力が憎しみとなり得ますし、その逆もあり得ます。同じく、苦しいと思わせる力が楽しいと思わせることもできます。あなたの体験の〝質〟を決定づけるのはあなたの進化の〝程度〟です。ある段階以上に進化すると憎しみを抱かなくなります。

愛のみを抱くようになります。苦を感じず幸せばかりを感じるようになります。難しいことですが、しかし真実です。苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなります」


 ここで別のメンバーが 「同じ環境に二人の人間を置いても、一方は愛を持って反応し、他方は憎しみを持って反応します」 と言うと、もう一人のメンバーが 「他人のために災難に遭うということもありませんか。例えばイエスは他人のために災難を受けました」と言う。するとシルバーバーチが質問の意味が分からないと述べるので、改めてこう質問した。

 「あなたは先ほど他人の行為によって自分が災難に遭うこともあり得ることを認められました。他人の苦しみを知ることによって自分が苦しむという意味での苦しみもあるのではないでしょうか。それは無視してもよいのでしょうか。そしてそれは良いことなのでしょうか」

 「少しずつ深みに入ってきましたね。でも思い切って足を踏み入れてみましょう。円熟した魂とは人生の有為転変のすべてを体験しつくした魂のことです。苦しみの淵を味わわずして魂の修練は得られません。

底まで下りずして頂上へはあがれません。それ以外に霊的修練の道はないのです。あなた自ら苦しみ、あなたみずから艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することのすべてに通じて初めて進化が得られるのです。進化とは低いものから高いものへの成長過程にほかならないからです。

 さて、苦しみとは一体なんでしょうか。苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神又は魂が苦痛を覚えた時の状態を言います。が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。

なぜなら各人が置かれる環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません」


 「そうだと思います。私もそういう意味で申し上げたのですが、用語が適切でありませんでした」

 「要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。また、すべきではありません」


 別のメンバー「バイブルにはイエスはわれわれのために苦しみを受けたとあります」

 「バイブルには事実でない事が沢山述べられています。いかなる人間も自分以外の者の為に代って苦しみを受けることはできません。自分の成長を管理するのは自分一人しかいない───他人の成長は管理できないというのが摂理だからです。

贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっち上げた教説の一つです。自分が過ちを犯したら、その荷は自分で背負ってそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。そうやって教訓を学ぶのです。もしも誰か他の者が背負ってあげることが出来るとしたら、過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります。

 苦と楽、悲しみと喜び、平静さと怒り、嵐と晴天、こうしたものがみな魂の成長の糧となるのです。そうしたものを体験し教訓を学んで初めて成長するのです。その時はじめて宇宙が無限なる愛によって支配され、その愛から生み出された摂理に間違いはないとの自覚を得ることができるのです。

〝まず神の国と義を求めよ。さらばそれらのものもすべて汝のものとならん〟(マタイ6・33)というのは真実です。

その心掛けになり切れば、つまり宇宙の摂理に不動の、そして全幅の信頼を置くことができるようになれば、人生で挫折することはありません。なぜならばその信念が内部の霊力を湧き出させ、何ごとも成就させずにはおかないからです。

 その霊力を枯渇させマヒさせる最たるものは〝心配〟の念です。全幅の信頼心───盲目的な信仰ではなく知識を土台とした完全なる信念は、人生のあらゆる体験に心配も迷いも不安もなく立ち向かわせます。

神の子である以上は自分の魂にも至聖所があり、そこに憩うことを忘れないかぎり、自分を焼き尽くす火も吹き倒す嵐も絶対にないとの確信があるからです」


 「すばらしいことです」

 「本当にそうなのです。本当にそうなのです。物質に包まれた人間にはその理解はとても困難です。魂そのものは知っていても、その物質による束縛がどうしても押し破れないのです。しかし、それを押し破っていくところに進化があるのです。

人生問題を霊の目で眺めれば、その一つ一つに落着くべき場がちゃんと用意されているのです。地上的な目で眺めるから混乱と困難と誤解が生じるのです。そこで私たちの出番が必要となります。すなわち霊的真理の光をお見せするのです。

 ナザレのイエスが〝神の御国は汝自身の中にある〟と述べたのは寓話ではなく真実を述べたのです。神は全生命の中心です。宇宙は神が内在するがゆえに存在しているのです。地上のあらゆる存在物も神が内在するからこそ存在しているのです。あなた方もミニチュアの神なのです。

あなた方の心掛け次第でその内部の力が成長し、発展し、開花するのです。その成長の度合を決定づけるのはあなた方自身です。他の誰も代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。

 自分も神であることを自覚なさることです。そうすれば神の御国(摂理)は他ならぬ自分の魂の中にあることを悟られるはずです。それは絶対に裏切ることがありません。無限の補給源である神の摂理に調和した生き方をしているかぎり、何一つ不自由な思いも空腹も渇きも感じなくなります。といって必要以上のものはいただけません。

魂の成長の度合にふさわしいだけのものが与えられ、それより多くも、それより少なくも、それより程度の高いものも低いものも受けません。それ以外にありようがないのです」