Monday, October 5, 2026

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd. London, England



十三章  質問に答える

 
───愛とは何でしょうか。

 「気が合うというだけの友情、趣味が同じだということから生れる友愛から、己を忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕的精神に至るまで、愛は数多くの形態をとります。地上では愛 Love という言葉が誤って用いられております。

愛とは言えないものまで愛だ愛だとさかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものを愛だと錯覚している人もいます。が、私が理解しているかぎりで言えば、愛とは魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神との繋がりを悟った時におのずから湧き出てくる魂の欲求です。最高の愛には一かけらの利己性もありません。

すなわち、その欲求を満たそうとする活動に何一つ自分のためにという要素がありません。それが最高の人間的な愛です。それが人類の啓発を志す人々、困窮する者への救済を志す人々、弱き者への扶助を願う人々、そして人生の喜びを踏みにじる既得権力との闘いを挑む人々の魂を鼓舞してきました。

 母国において、あるいは他国へ赴いて、そうした愛他的動機から人類の向上のために、言いかえれば内部に秘めた無限の可能性を悟らせるために尽力する人は、愛を最高の形で表現している人です。その表現形態にもさまざまな段階(らんく)があります。

愛の対象に対する働きかけという点では同じであっても、おのずから程度の差があります。最も程度の低い愛、狭隘(きょうあい)で、好意を覚える者だけを庇 (かば) い、そして援助し、見知らぬ者には一かけらの哀れみも同情も慈愛も感じない者もいます。

しかし宇宙には神の愛が行きわたっております。その愛が天体の運行を定め、その愛が進化を規制し、その愛が恵みを与え、その愛が高級霊の魂を鼓舞し、それまでに成就したもの全部をお預けにして、この冷たく薄暗い、魅力に乏しい地上へ戻って人類の救済に当らせているのです」


───自分の思念には全て自分が責任を取らなければならないでしょうか。

 「(精神障害などがある場合は別として)一般に正常とみなされている状態においては、自分の言動に全責任を負わねばなりません。これは厳しい試練です。行為こそが絶対的な重要性をもちます。

いかなる立場の人間にも人のために為すべき仕事、自分の霊性を高めるべき好機(ちゃんす)、霊の成長を促進するための機会が与えられるものです。

有徳の人や聖人君子だけが与えられるのではありません。すべての人に与えられ、その好機の活用の仕方、ないしは疎かにした度合いに応じて、霊性が強化されたり弱められたりします」


───子供はそちらへ行ってからでも成人していくと聞いておりますが、(霊媒の)子供の背後霊が何年たっても子供のままだったり、十八年も二十年も前に他界した子供がその時のままの姿恰好で出てくるのはなぜでしょうか。

 「地上の人間はいつまでも子供っぽい人を変だと見るかと思うと、一方では子供の無邪気さを愛するような口を利きます。しかも、人類のために敢えて幼児の段階に留まる手段を選んでいる霊を変だとおっしゃいます。幼児の方が得をする理由は容易に理解できます。

幼児は大人にありがちな障壁がありません。きわめて自然に、何時も新鮮な視点から物事を眺めることができます。大人が抱える問題に悩まされることもないので、通信のチャンネルとして好都合なのです。

大人にありがちな寛容性を欠いた先入観や偏見が少ないために仕事がスムーズに運びます。いつも生き生きとして新鮮味を持って仕事に携わり、大人の世界の煩わしさがありません。煩わされないだけ、それだけ霊的交信に必要な繊細なバイブレーションをすぐキャッチできるのです。

 しかし実はその幼児の個性は、大人の霊が仕事のために一時的にまとっている仮の衣服である場合が多いのです。仕事を終えればいつでも高い世界へ戻って、それまでの生活で開発したより大きな意識の糸をたぐり寄せることができます。

変だと決めつけてはいけません。こういう霊をトプシー(Topsy)と言います。こういう形で自分を犠牲にして地上の人々のために働いている神の愛すべき道具なのです。

 何年も前に他界した子供がそのままの姿で出現するのは、自分の存続の証拠として確認してもらうためです。身元の確認を問題にされる時に忘れてならないことは、他界した時点での姿や性格やクセを持ち、その時の姿のままを見せないとあなた方が承知してくれないということです。

そこで霊媒に影像を見せてそれを伝達させます。言わばテレビの画像のようなものです。霊媒が自分の精神のスクリーンに映った映像を見て叙述するわけです。直接談話であれば映像を見せる代わりにエクトプラズムで他界当時と同じ発声器官をこしらえます。条件さえうまく整えば、地上時代とそっくりな声が再生できます」



───子供のころから動物に対して残酷なことをして育った場合はそちらでどんな取り扱いを受けるのでしょうか。動物の世話でもさせられるのでしょうか。

 「人間の永い歴史を通じて、動物がいかに人間にとって役立ってきたかを教えることによって、地上時代の間違った考えを改めさせないといけません。動物界をあちらこちらへ案内して、本来動物というものが本当に動物を愛し理解する人間と接触するといかに愛らしいものであるかを実際に見せてやります。

知識が増すにつれて誤った考えが少しずつ改められていきます。結局は残酷を働いたその影響は、動物だけでなくそれを働いた人間にも表われるものであることを悟ることになります」


───他界する者の大多数が死後の生活の知識を持ち合わせません。他界直後は目まいのような状態にあり、自分が死んだことに気づきません。それは子供の場合も同じでしょうか。それとも本能的に新しい生活に順応していくのでしょうか。

 「それはその子供の知識次第です。地上の無知や迷信に汚染されすぎていなければ、本来の霊的資質に基づく自然な理解力によって新たな自覚が生まれます」


───人間が寿命を完うせずに〝死ぬ〟ことを神が許されることがあるのでしょうか。

 「神の意図は人間がより素晴らしい霊的生活への備えを地上生活において十分に身につけることです。熟さないうちに落ちた果実がまずいのと同じで、割り当てられた地上生活を完うせずに他界した霊は新しい世界への備えが十分ではありません。」


───子供が事故で死亡した場合、それは神の意図だったのでしょうか。

 「これは難しい問題です。答としては〝イエス〟なのですが、ただし書きが必要です。地上生活はすべて摂理によって支配され、その摂理の最高責任者は神です。しかしその摂理は人間を通じて作用します。究極的にはすべて神の責任に帰着しますが、だからといって自分が間違ったことをしでかしておいて、これは神が私にそうさせたのだから私の責任ではないという理屈は通用しません。

神がこの宇宙を創造し、叡知によって支配している以上は、最終的には神が全責任を負いますが、あなた方人間にも叡知があります。理性的判断力があります。自分で勝手に鉄道の線路の上に頭を置いておいて神に責任を求めても何にもなりません」


───いわゆる〝神童〟について説明していただけませんか。

 「三つの種類があります。一つは過去世の体験をそのまま携えて再生した人。二つ目はたとえ無意識であっても霊媒的素質を具えた人で、霊界の学問や叡知、知識、真理等を直接的にキャッチする人、三つ目は進化の前衛としての、いわゆる天才です」


───〝豚に真珠を与える勿れ〟と言ったイエスの真意は何でしょうか。

 「自分では立派な真理だと思っても、受け入れる用意のできていない人に無理やりに押しつけてはいけないということです。拒絶されるから余計なことはするなという意味ではありません。拒絶されることなら、イエスの生活は拒絶の連続でした。

そんな意味ではなく、知識、真理、理解を広めようとする努力が軽蔑と侮辱をもって迎えられるような時は、そういう連中は見る目を持たないのだから、美しいものを無理して見せようとせずに身を引きなさいという意味です」


───一身上の問題で指導を仰ぐことは許されるでしょうか。

 「それは許されます。ただ、霊的なことに興味はあっても真髄を理解していない人に説明する時は慎重を要します。うっかりすると霊界からの援助を自分の御利益のためだけに不当に利用しているかの印象を与えかねません。

スピリチュアリズムの基本はつまるところ物的な豊かさよりも霊的な豊かさを求めることであり、自分自身と宇宙と神についての実相を理解する上で基本となるべき摂理と実在を知ることです。むろん物的生活と霊的生活とは互いに融合し調和しております。

両者の間にはっきりとした一線を画すことはできません。霊的なものが物的世界へ顕現し、物的なものが霊的なものへ制約を与え、条件づけております」


───この世に生きる目的は、霊的なものを制約するものを排除し、霊的本性が肉体を通してより多く顕現するようにすることだと私は理解しておりますが・・・・・・。

 「その通りです。地上生活の目的はそれに尽きます。そうすることによって自分とは何かを悟っていくことです。自分を単なる肉体であり他の何ものでもないと思い込んでいる人は大きな幻影の中で生活しており、いつかは厳しい実在に目覚める日が来ます。

その日は地上生活中に訪れるかも知れないし、こちらへ来てからになるかもしれません。そちらにいるうちの方がはるかに有利です。なぜなら地上には魂の成長と進化と顕現のための条件が全部そろっているからです。

人間は地上生活中に身体機能ならびに霊的機能を存分に発揮するように意図されているのです。霊的なことにのみこだわって身体を具えた人間としての義務を怠ることは、身体上のことばかりに目を奪われて霊的存在としての責務を疎かにするのと同じく、間違っております。両者が完全なバランスが取れていなければなりません。

その状態で初めて、この世にありながら俗世に染まない生き方ができることになります。つまり身体は神聖を帯びた霊の〝宮〟として大事にし、管理し、手入れをする。すると成長と進化の過程にある霊が身体を通してその成長と進化の機会を与えられる、ということです」


───心霊治療を始めるには治療家自身がまず完全な健康体でなければならないのでしょうか。

 「むろん誰しも完全な健康体であるのが望ましいに決まっています。ただし、霊力によって病気を治す人も霊媒と同じく〝道具〟です。つまり自分が受けたものを伝達する機関です。その人を通して霊力が流れるということです。

言わば〝通路〟であり、それも内部へ向けてではなくて外部へ向けて送る通路です。その人の資質、才能、能力がその人なりの形で顕現しますが、それが霊界との中継役、つまり霊媒としての資格となり、生命力と賦活力と持久力にあふれた健康エネルギーを地上へもたらす役目が果たせるのです。

その際、治療家自身の健康に欠陥があるということ自体は治病能力の障害にはなりません。治病エネルギーは霊的なものであり、欠陥は身体的なものだからです」


───精神統一によって心の静寂、内的生命との調和を得ることは健康の維持に役立つでしょうか。
 
 「自然法則と調和した生活を送り、精神と身体との関係を乱すような(摂理に違反した)行為をしなければ、すべての病気に効果があるでしょう。あるいは遺伝的疾患のない健全な身体を持って生れておれば効果があるでしょう。内部に秘められた〝健康の泉〟の活用法を知れば、すべての病気を駆逐することができることは確かです。

しかし、現実には地上に病気が蔓延している以上、事は非常に厄介です。限界があるということです。たとえば〝死ぬ〟ということは誰も避けられません。身体は用事が終われば捨てられるのが自然法則だからです。

ところが困ったことに、余りに多くの人間が内部の霊性が十分に準備ができていないうちに、つまり熟しきらないうちに肉体を捨てています。魂の鍛錬にとって必要な体験を十分に積んでいないのです。私は法則を有りのままに述べているまでです。人間にとってそれを実践するのが容易でないことは私も承知しております。

何しろ地上というところは物質が精神を支配している世界であり、精神が物質を支配していないからです。本当は精神が上であり、霊がその王様です。しかしその王国も人間の行為の上に成り立っています」


───心の静寂が得られると肉体器官にどういう影響が現われるのでしょうか。

 「それ本来の有るべき姿、つまり王たる霊の支配下に置かれます。すると全身に行きわたっている精神がその入り組んだ身体機能をコントロールします。それはその根源において生命を創造し身体を形づくった霊の指令に従って行われます。

霊はその時のあなたの身体の構成要素のあらゆる分子に対して優位を占めています。それができるようになれば完全な調和状態───あらゆる部分が他と調和し、あらゆるリズムが整い、あなたは真の自我と一体となります。不協和音もなく衝突もありません。静寂そのものです。なぜなら、霊が宇宙の大霊と一体となっているからです」


───あなたはなぜそんなに英語がお上手なのでしょう。

 「あなた方西洋人は時おり妙な態度をお取りになりますね。自分たちの言語がしゃべれることを人間的評価の一つとなさいますが、英語が上手だからといって別に霊格が高いことにはなりません。たどたどしい言葉でしゃべる人の方がはるかに霊格が高いことだってあります。

私はあなた方の言語、あなた方の習性、あなた方の慣習を永い年月をかけて勉強しました。それは私たちの世界ではごく当たり前の生活原理である〝協調〟の一貫です。いわば互譲精神(ギブアンドテイク)を実践したまでです。

 つまりあなた方の世界を援助したいと望む以上はそれなりの手段を講じなくてはならない。その手段の中には人間にとって最高の努力を要求するものがある一方、私たちにとって嫌悪感を禁じ得ないほどの、神の子としてぎりぎりの最低線まで下がらなくてはならないこともあります。

私はこうして英語国民を相手にしゃべらねばなりませんので、何年もかけて困難を克復しなければなりませんでした。あなた方から援助もいただいております。同時に、かつて地上で大人物として仰がれた人々の援助も受けております。今でも言語的表現の美しさと簡潔さで歴史にその名を残している人々が数多く援助してくれております」

(平易な文章の中に高等な思想を盛り込む技術はシルバーバーチ一人の才能から出ているのではなく、英米文学史上のかつての名文家が協力していることが窺える―訳者)


───心に念じたことは全部その霊に通じるのでしょうか。

 「そんなことはありません。その霊と波長が合うか合わないかによります。合えば通じます。バイブレーションの問題です。私と皆さん方とは波長がよく合います。ですから、皆さんの要求されることが全部受け取れます。何か要求ごとをされると、そこにバイブレーションが生じ、その〝波〟が私に伝わります。

それを受ける受信装置が私に具わっているからです。地上と霊界の間でも、魂に共感関係があれば思念や要求の全てがすぐさま伝わります」


───われわれが死ぬ前と後には霊界の医師が面倒をみてくれるのでしょうか。

 「みてくれます。霊体をスムースに肉体から引き離し、新しい生活に備える必要があるからです。臨終の床にいる人がよく肉親の霊や知らない人が側にいるのに気づくのはそのためです。魂が肉体から脱け出るのを手助けしているのです」


───昨今のような醜い地上の状態では(何回も再生を繰り返した霊でなく)まったく新しい霊が誕生する方がよいのではないでしょうか。

 「私たちは人間一人ひとりは果たすべき責任を持って生まれていると説いております。たとえ今は世界が混沌と心配と喧騒に満ち、敵意と反抗心と憎しみに満ちていても、そうした苦闘と悲劇を耐え忍ぶことの中から新しい世界の誕生が待ち受けております。そのためにはその旗手となるべき人々がいなくてはなりません。

その人たちの先導によって真一文字に突き進まねばなりません。霊は苦闘の中で、困難の中で、刻苦の中でみずからを磨かねばなりません。平坦な道でなく、困難を克服しつつ前進し、そして勝利を手にしなくてはなりません。恐怖心がいちばんの敵です。無知という名の暗黒から生まれるものだからです」

シルバーバーチの霊訓(三)

 Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd. London, England




十章  前世・現世・来世  
 
 ある日の交霊会に米国人ジャーナリストが招かれた。そして最初に出した質問が「霊界というところはどんなところでしょうか」という、きわめて基本的な質問だった。その時レギラーメンバーの一人が「この方は心霊研究家とお呼びしてもよいほどの方ですよ」と言ったことが、次のようなユーモラスな答えを誘い出すことになった。

(訳者注────ここでは心霊学に詳しい方という程度の意味で言ったのであるが、その心霊学が〝心霊現象の科学的研究〟を目的としているだけで、霊魂の存在も幾つかの学説の中の一つとして扱われているだけである。その点を念頭に置いてシルバーバーチがその〝学説〟を並べ立てて皮肉っぽく答えているところがユーモラスである)

 「私は地上の人たちから〝死んだ〟と思われている者の一人です。存在しないことになっているのです。私は本日ここにお集まりの方々による集団的幻影に過ぎません。

私は霊媒の潜在意識の産物です。私は霊媒の第二人格であり、二重人格であり、多重人格であり、分離人格です。これらの心霊用語のどれをお使いになっても結構ですが、私もあなたと同じ一個の人間です。ただ私は今あなたが使っておられる肉体をずいぶん前に棄ててしまいました。

あなたと私の根本的な違いはそれだけです。あなたは物的身体を通して自分を表現しているスピリットであり、私は霊的身体を通して表現しているスピリットであるということです。         

 私はほぼ三千年前に霊の世界へ来ました。つまり三千年前に〝死んだ〟のです。三千年というとあなたには大変な年数のように思われるかも知れませんが、永遠の時の流れを考えると僅かなものです。その間に私も少しばかり勉強しました。

霊の世界へ来て神からの授かりものである資質を発揮していくと、地上と同じ進化の法則に従って進歩していきます。つまり霊的な界層を一段また一段と向上していきます。界層という言い方をしましたが、一つ一つが仕切られているわけではありません。

霊的な程度の差があり、それぞれの段階にはその環境条件にふさわしい者が存在するということです。霊的に向上進化すると、それまでの界層を後にして次の一段と高い界層へ融け込んでいきます。それは階段が限りなく続く長い長い一本の梯子のようなものです。

 そう考えていけば、何百年、あるいは何千年か後には物質界から遠く離れていき、二度と接触する気持ちが起きなくなる段階に至ることは、あなたにも理解出来るでしょう。所詮、地上というところはたいして魅力ある世界ではないのです。

地上の住民から発せられる思念が充満している大気にはおよそ崇高なものは見られません。腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めております。人間生活全体を暗い影がおおい、霊の光が届くのはほんの少数の人に限られております。

一度あなたも私と同じように、経済問題の生じない世界、お金が何の価値も無い世界、物的財産が何の役にも立たない世界、各自が有るがままの姿をさらされる世界、唯一の富が霊的な豊かさである世界、唯一の所有物が個性の強さである世界、生存競争も略奪も既得権力も無く、弱者が窮地に追いやられることもなく、

内在する霊的能力がそれまでいかに居眠りをしていても存分に発揮されるようになる世界に一度住まわれたら、地上という世界がいかにむさ苦しく、いかに魅力に乏しい世界であるかがお判りになると思います。

その地上世界を何とかしなければならない───私のようにまだ地上圏へ戻ることのできる程度のスピリットが援助し、これまで身に付けた霊的法則についての知識を幾らかでも教えてあげる必要があることを、私は他の幾人かの仲間とともに聞かされたのです。

人生に迷い、生きることに疲れ果てている人類に進むべき方向を示唆し、魂を鼓舞し、悪戦苦闘している難問への解決策を見出させるにはそれしかないということを聞かされたのです。

 同時に私たちは、そのために必要とする力、人間の魂を鼓舞するための霊力を授けてくださることも聞かされました。しかし又、それが大変な難事業であること、この仕事を快(よ)く思わぬ連中、それも宗教的組織の、そのまた高い地位にある者による反抗に遭遇するであろうことも言い聞かされました。

悪魔の密使とみなされ、人類を邪悪の道へ誘い、迷い込ませんとする悪霊であると決めつけられるであろうとの警告も受けました。要するに私たちの仕事は容易ならざる大事業であること、そして(ついでに付け加えさせていただけば)その成就のためには、それまでの永い年月の中で体験してきた霊界生活での喜びも美しさも、すべてお預けにされることになるということでした。

しかし、そう言い聞かされた私たちのうちの誰一人としてそれを断わった者はいませんでした。かくして私は他の仲間と共に地上へ戻ってまいりました。地上へ再生するのではありません。地上世界の圏内で仕事をするためです。

 地上圏へ来てまず第一にやらねばならなかったのは霊媒を探すことでした。これはどの霊団にとっても一ばん骨の折れる仕事です。次に、あなた方の言語(英語)を勉強し、生活習慣も知らねばなりませんでした。あなた方の文明も理解する必要がありました。

 次の段階ではこの霊媒の使用法を練習しなければなりませんでした。この霊媒の口を借りて幾つかの訓え───誰にでも分る簡単なもので、従ってみんなが理解してくれれば地上が一変するはずの真理を説くためです。

同時に私は、そうやって地上圏で働きながらも常に私を派遣した高級霊たちとの連絡を保ち、より立派な叡智、より立派な知識、より立派な情報を私が代弁してあげなければなりませんでした。初めのころは大いに苦労しました。今でも決してラクではありませんが・・・。

そのうち私の働きかけに同調してくれる者が次第に増えてまいりました。すべての人が同調してくれたわけではありません。居眠りしたままの方を好む者も大勢いました。自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました。

その方が安全だったわけです。自由に解放されたあとのことを恐れたのです、が、そうした中にも、そこここで分かってくれる人も見出しました。私からの御利益は何もありません。




シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd. London, England




十二章  神とは  

 ある日、交霊会が始まる前に、メンバーの間でキリスト教についての議論があり、その中でキリスト教の牧師には神とは何かの説明が出来る人がいないことが指摘された。やがて出現したシルバーバーチは冒頭の祈りの中で神の説明をした。それは明らかにメンバーの議論を踏まえたものだった。

(訳者注ーシルバーバーチは冒頭の祈り Invocation と終結の祈り Benediction とがある。前者は会の成功のための神の御加護を求めるものであり、後者は感謝と讃仰の祈りである)

 「神よ、あなたは一体どなたに御(おわ)し、いかなるお方に御すのでしょうか。いかなる属性をお具えなのでしょうか。
 
 私たち(霊界の者)はあなたを完璧なる摂理の働きであると説いております。たとえば宇宙に目を向けさせ、その構想の完璧さ、その組織の完璧さ、その経綸の完璧さを指摘いたします。そしてその完璧な宇宙の姿こそあなたの御業の鑑であり、あなたこそ宇宙の全生命を創造し給いし無限の心であると説いております。
 
 私たちには自然界の一つ一つの相、一つ一つの生命、一つ一つの草花、一つ一つのせせらぎ、小川、海、大洋、一つ一つの丘そして山、一つ一つの恒星と惑星、一つ一つの動物、一人一人の人間の目に向けさせ、そのすべてがあなたの無限なる根源的摂理によって規制され支配されていると説きます。

 私たちは宇宙間のすべての現象がその根源的摂理から派生したさまざまな次元での一連の法則によって支配され、かくしてその働きの完璧性が保たれているのであると認識している者でございます。

そのあなたには特別の寵愛者など一人もいないことを信じます。不偏不党であられると信じます。あなたのことを独裁者的で嫉妬心を持つ残忍なる暴君のごとく画いてきたこれまでの概念は誤りであると信じます。なぜなら、そのような人間的属性は無限なる神の概念にそぐわぬからでございます。

 これまで私たちは地上とは別個の世界においても同じあなたの摂理の働きを見出し、そしてそれがいついかなる時も寸分の狂いもないことを確認したが故にこそ、その摂理とそれを生み出された心に満腔の敬意を捧げ、その働きのすべて───物的、精神的、そして霊的な働きのすべてを説き明かさんと努めております。

なかんずく霊的なものを最も重要なものとして説くものです。なぜなら、すべての実在、すべての生命の根源は霊的世界にあるからでございます。

 あなたの子等のすべてかあなたの摂理を理解し、その摂理に従って生活を営むようになれば、すべての悲劇、すべての暗黒、すべての苦悩、すべての残虐行為、すべての憎悪、すべての戦争、すべての流血行為が地上から駆逐され、人間は平和と親善と愛の中で暮らすことになるものと信じます。

 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを──無意味な文句の繰り返しでなく、真理と叡知と光と理解力と寛容の心を広げる手段(人間)を一人でも多く見出したいとの願いとして──捧げ奉ります」 


 この祈りの後、シルバーバーチみずからその内容について次のように説明した。

 「この祈りには宇宙についての、地上の人間に理解できるかぎりの理性的かつ合理的説明が含まれております。人類が暗闇の生活を余儀なくさせられているのは、一方にはみずから真理に対して目を閉じたがる者が多く、また一方には既得の特権を死守せんとする者が多いからです。

すべての戦争は人間が摂理に背いた生き方をすること──一個の人間、一つの団体、一つの国家が誤った思想から、貪欲から、あるいは権勢欲から、支配欲から、神の摂理を無視した行為に出ることから生じるのです。直接の原因が何であれ、全ては宇宙の霊的法則についての無知に帰着します。

すべての者が霊的知識を具えた世界に独裁的支配はあり得ません。一人の人間が一国を支配することが不可能な組織となるからです。すべての者が霊的知識を具えた世界に流血はあり得ません。争いの起こり得ない体制となるからです。

 われわれの仕事はその霊的知識を広めることです。真実の意味での伝道者なのです。伝道の意味が今日の世の中では歪められてしまいましたが、真実の意味は真理または知識を広めることです。私たち霊団は今あなた方の世界で仕事をしておりますが、本来は別の世界の者です。

あなた方よりは一歩、二歩、もしかしたら、三歩ほど先を歩んでいるかも知れません。これまで幾つかの大自然の摂理を学んできました。そうして知ったことは、この世に奇跡は無く、神の特別の寵愛者もなく、選ばれし民もなく、唯一の神の子もいないということです。あるのはただ法則のみだということです。

 宇宙がいかに巨大にして荘厳であるとは言え、全てが絶対的法則によって支配されていることを知ったからこそ、こうしてその法則をお教えしようと努力しているわけです。

その法則とは、原因には必ずそれ相当の結果が伴うということです。自分が蒔いたタネは自分で刈り取るということです。所詮はごまかすことができない──なぜなら自分の言動がその性格と成長具合に消そうにも消せない印象を刻み込むからです。こうした真理を土台として真の宗教を築かねばなりません。

大主教の宮殿で何を説こうと、大聖堂で何を説こうと、寺院、教会堂、礼拝堂、その他、世界中いかなるところで何を説こうと、それが今述べた単純な基本的真理と矛盾したものであれば、それは誤りです。極めて簡単な真理なのです。

人生を霊的摂理が支配していること、お互いが扶けあうことが一ばん大切であること、それが霊を成長させ、性格を形成し、死後に待ち受ける新しい生活に霊的な備えを与えることになる───ただそれだけなのです。

 何も知らない人たちを光明から顔を背けさせ、カビの生えたドグマを信じさせ、今日の世でも受けられる霊的啓示(インスピレーション)を無視させ、遠い薄暗い過去のインスピレーションの残骸に目を向けさせようとする既成組織を私たちが非難するのは、そうした本来私たちと手を取り合うべき人たち、本来宗教を説くべき立場にある人々が私たちの敵の側にまわっているからです。

人間として非難するつもりはありません。彼らの多くは彼らなりに正しいと思うことに携わっているのです。真面目な徒であり、困難な状況の中で最善を尽くしております。

私たちが非難するのはその組織です。真理を知る可能性がありながら虚偽にしばりつけ、光明を見出すチャンスがありながら暗黒の中に閉じ込めておこうとする組織です。

 これ以上簡単な教えが一体どこにあるでしょうか。地上は今まさに大戦の真っ只中にあります。世界中に悲劇と苦悩が満ち、数知れぬ人が慰めを求め、すがるべき杖を探し、神が存在すること、我が子の苦しみに無関心ではいられないはずの親が存在するその証を求めております。牧師のもとへ行っても相も変わらず古い教説に少しばかり現代風な味を加えて説くばかりです。

そしてすぐに〝聖なる書〟を引用します。国によって大小さまざまな体裁をしていても、中身は同じ古い言葉ばかりです。うんざりするようなお決まりの教説を聞かされるだけです。霊的実在が存在することを証するものは何一つ持ち合わせていません。

 彼らが説く信仰は彼らみずからが心の奥では信じきれなくなっているものです。自分が自信を持てないでいて、どうして他人に確信を与えられましょう。人類の歩むべき道を自分が知らないでいて、どうして他人に慰安が与えられましょう。いわゆる〝あの世〟についてみずから疑問符をつけている者が、どうして肉親に先立たれた人たちを慰めてあげられましょう。

先のことを何も知らない者が、どうして魂の飢えた、心の満たされない、さ迷える人々を導くことができるでしょう。

 ところが真理はすぐ目の前にあるのです。求めさえすれば知識の宝、叡知の泉、真理の光がすぐ身の回りで待ち受けているのです。宗教が無力なのではないことを彼らは理解していないのです。無力なのは宗教の名を借りた漫画なのです。

三位一体説が宗教と何の関係があるのでしょう。無原罪懐胎(聖母マリアはその懐胎の瞬間から原罪を免れていたこと)が宗教と何の関係があるのでしょう。

処女降誕が宗教と何の関係があるのでしょう。贖罪説(イエスがすべての罪を背負ってくれるということ)が宗教と何の関係があるのでしょう。こうした説を信じた者は信じない者より少しでも宗教的な人間になるというのでしょうか。

 地上の人間は肩書やラベルや名称を崇めるのがお好きです。が、クリスチャンを名のろうと無神論者を名のろうと、何の違いもありません。大切なのは実生活において何をするかです。仮にここに宗教など無縁だと言う人がいるとしましょう。

神の名を唱えても頭を下げようとしません。しかし性格は正直で、人のためになることを進んで行い、弱い者に味方し、足の不自由な犬が柵を超えるのさえ手助けしてやり、打ちひしがれた人々の身になって考え、困った人を援助しようと心がけます。

もう一人は見たところ実に信心深い人です。あらゆる教義、あらゆる教説を受け入れ、信仰上の礼儀作法には口やかましく気を使います。しかし心の奥に慈悲心は無く、生活の中において何ら人のためになることをしません。前者の方が後者よりはるかに宗教的人物と言えます」


───神は完全無欠ですか。

 「あなたのおっしゃる神が何を意味するかが問題です。私にとって神々は永遠不変にして全知全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。

この複雑を極めた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完璧な配慮が行きわたっております。例えば極大から極微までの無数の形と色と組織を持つ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただけば、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識されるはずです。

私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなた方は不完全な物質の世界におられるということです。

 物質の世界に生きておられる皆さんは、今のところはその物質界すら五つの物的感覚でしか理解できない限られた条件下で限りある精神を通して自我を表現しておられるわけです。

物的身体に宿っているかぎりは、その五感が周りの出来ごとを認識する範囲を決定づけます。それ故あなた方は完全無欠というものを理解すること自体が不可能なのです。

五感に束縛されている限りは神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能です。その限界ゆえに法則の働きが不完全に思えることがあるかもしれませんが、知識と理解力が増し、より深い叡知をもって同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づき始めます。物質の世界は進化の途上にあります。

その過程の一環として時には静かな、時には激動を伴った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していくための絶え間ない自然力の作用と反作用の現れです。常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素です。それは実に複雑です」


───神は完全だとおっしゃいましたが、われわれ人間が不完全であれば神も不完全ということになりませんか。

 「そうではありません。あなた方は完全性を具えた種子を宿しているということです。その完全性を発揮するための完全な表現器官を具えるまでは完全にはなり得ないということです。現在のところではその表現器官が極めて不完全です。進化して完全な表現器官、すなわち完全な霊体を具えるに至れば完全性を発揮できるようになりますが、それには無限の時を要します」


───ということは神のすべての部分が完全の段階に至るのにも無限の時を要するということでしょうか。

 「違います。神は常に完全です。ただ現在物質の世界に人間という形態で顕現されている部分の表現が不完全だということです。それが完全な表現を求めて努力しているということです」


───それを譬えて言えば、ある正しい概念があって、それが人によって間違って理解され使用されているようなものでしょうか。

 「その通りです。しかし、それも一歩ずつではあっても絶えず理想へ近づいて行かねばなりません。完全は存在します。それを私は、あなた方は本当の自分のほんの一かけらほどしか表現していないと申し上げているのです。もしも現在のその身体を通して表現されている一かけらだけであなたを判断したら、きわめて不当な結論しか出てこないでしょう。

が、それは本当のあなたの一部分に過ぎません。もっと大きなあなた、もっと大きな意識が存在し、それが今もあなたとつながっているのです。ただそれは、それに相応しい表現器官が与えられないと発揮されないということです」


───お聞きしていると神が一個の存在でなくなっていくように思えます。独立した存在としての神はいるのでしょうか。

 「真っ白な豪華な玉座に腰かけた人間の姿をした神はいません。神とは一個の身体を具えた存在ではありません。法則です」


───それに心が具わっているわけですか。(ここでは〝心〟を〝精神〟と置きかえて考えてもよい―訳者)

 「心というものは、あなた方のような身体だけに限られたものではありません。法則を通して働いているのです。心を脳味噌と切り離して考えないといけません。意識というものはそのお粗末な脳細胞だけを焦点としているのではありません。

意識は脳とは完全に独立した形でも存在します。その小さな脳という器との関連で心の働きを考えるのは止めないといけません。心はそれ自体で存在します。

しかし、それを自覚するには何らかの表現器官が必要です。そのために人間に幾つかの身体が具わっているわけです(※)。身体を具えない状態を想像することは可能であり、その状態でもあなたは厳として存在しますが、あなたを表現する手段がないことになります。

(※シルバーバーチは身体の事を bodies という複数形で用いることがあるが、それがいくつあってどういうものであるという細かい説明はしていない。巻末〝解説〟参照ー訳者)

 神という存在を人間に説明するのはとても困難です。人間には独立した形態を具えた存在としてしか想像できないからです。言語や記号を超越したものを地上の言語で説明しようとするのが、そもそも無理な話です。創造の本質に関わることなのです。

神という存在をどこかのある一点に焦点を持つ力であるとは言えません。そんなものではないのです。神とは完全な心───初めも終りもなく、永遠に働き続ける完璧な摂理です。真っ暗だったところへある日突然光が射し込んだというものではありません。生命は円運動です。始まりも終りもありません」


───宇宙のすみずみまで神が存在するのと同じように、われわれ一人一人にも神が宿っているとおっしゃるわけですか。

 「私のいう神は、全創造物に顕現されている霊の総体と離れて存在することはできません。残念ながら西洋世界の人は今もって人類の創造をエデンの園(アダムとイブの物語)と似たような概念で想像します。実際はそれとはまったく異なるのです。

 宇宙の進化は無窮の過去から無窮の未来へ向けて延々と続いております。かつて何も無かったところへ突如として宇宙が出現したのではありません。宇宙は常にどこかに存在します。生命は何らかの形態で常に顕現してきました。そしてこれからも何らかの形で永遠に存在し続けます」


───子供には神のことをどう説いて聞かせたらよいでしょうか。

 「説く人自らが全生命の背後で働いている力について明確な認識を持っていれば、それは別に難しいことではありません。私だったら大自然の仕組みの見事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドの如き夜空の星の数々に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝き、名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。

あたかも囁きかけるようなそよ風、そしてそれを受けて揺れる松の林に目を向けさせます。さらさらと流れるせせらぎと、怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの動きが確固とした目的を持ち、法則によって支配されていることを指摘いたします。

そして更に人間がこれまで自然界で発見したものはすべて法則の枠内に収まること、自然界の生成発展も法則によって支配され規制されていること、その全体に、人間の想像を絶した広大にして入り組んだ、それでいて調和した一つのパターンがあること、全大宇宙のすみずみに至るまで秩序が行き亘っており、惑星も昆虫も嵐もそよ風も、その他あらゆる生命活動が───いかに現象が複雑を極めていても───その秩序によって経綸されていることを説いて聞かせます。

 そう説いてから私は、その背後の力、すべてを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、人間にはまだ知られていない見えざる世界までも支配している奇(くしび)な力、それを神と呼ぶのだと結びます」

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd. London, England




十一章  霊と意識の起原

───霊の力とはどんなものでしょうか。

 「人間によって認識されている如何なるものさしにもかからないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色も容積も味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば霊力というものは存在しないことになります。

つまり実在とは人間のお粗末な五つの感覚で捉えられるものと決めてかかっている唯物的自然科学者にとっては、霊力は存在しないことになります。しかし愛は目に見えず耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。

それは深い愛の感動を体験した者が証言してくれます。確かに愛の力は強烈です。しかし霊の力はそれよりも無限大に強烈です。

 あなたが生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いめぐらすのも霊の力があればこそです。

物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも霊の力があればこそです。あなた方の行動の全て、あなた方の存在の全ては霊の力のおかげです。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって存在と目的と指針と生活を与えられているのです。物質界のどこを探しても意識の秘密は見つかりません。

科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質その物の中には存在しないからです。物質はそれが一時的に借りている宿に過ぎません。

 霊の力はあなた方が神と呼んでいるものそのものなのです。最も〝神〟というものを正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊力が曽て火の固まりであったものに今日見るがごとき生命を吹き込んだのです。その霊が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。魂がまとう衣服です。

地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の生長まで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが霊の力です。

 それが強大であるゆえんは、物質界に限られていないことにあります。すなわち無数の物的現象を通じて絶え間なく働いているだけでなく、見えざる世界の霊的活動のすべて、今のあなた方には到底その存在を知ることのできない幾重にもつながった高い界層、そしてそこで展開するこれ又あなた方の想像を絶した光輝あふれる生命現象までも、その霊力が支配しているのです。

しかし、いかに強大であっても、あるいは又いかにその活動が驚異的であるといっても、それにも制約があります。すなわち、それが顕現するにはそれに適した器、道具、媒体、通路、霊媒───どうお呼びになっても構いません───そうしたものが無ければならないということです。

壮大な霊の流れも、そうしたものによる制約を受けるのです。地上にどの程度のものが流れ込むかは人間側が決定づけるということです。

 私がいつも、心配の念を追い払いなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい、神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。

地上的な力はいつかは衰え、朽ちます。人間が築く王国は儚いものです。今日は高い地位にいても明日は転落するかも知れません。しかし霊の王国はけっして滅びることはありません。霊の尊厳は不変です。神の力はけっして衰えません。しかしその働きの程度を決定づけるのはあなた方であり、現に決定づけております。

 スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界の方からこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際にはそう言う人ほど、霊界からそうしてあげるための条件を整えてくれないものです。

この苦境に満ちた世界、暗闇と不安におおわれた世界にあって、どうか皆さんは灯台の光となっていただきたい。

あなた方の自信に満ちた生きざまを見て人々が近づき、苦悩のさなかにおける憩いの場、聖域、波静かな港を発見することができるようにしてあげていただきたい。皆さんはそういう人たちの心の嵐を鎮め、魂に静寂を取り戻してあげる霊力をお持ちになっています」


───霊は何時肉体に宿るのでしょうか。
 
 「霊としてのあなたは無始無終の存在です。なぜなら霊は生命を構成するものそのものであり、生命は霊を構成するものそのものだからです。あなたという存在は常にありました。生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。

が、個体として、他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。受胎作用は精子と卵子が結合して、生命力の一分子が自我を表現するための媒体を提供することです。生命力はその媒体が与えられるまでは顕現されません。

それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子が合体して新たな結合体を作ると、小さな霊の分子が自然の法則に従ってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。私の考えでは、その時点が意識の始まりです。

その瞬間から意識をもつ個体としての生活が始まるのです。それ以降は永遠に個性を具えた存在を維持します」


───何の罪もないのに無邪気な赤ん坊が遺伝性疾患や性病その他の病を背負ってこの世に生れてきます。これは公平とは思えません。子供には何の罪もないのですから。この問題をどうお考えでしょうか。

 「不公平を口にされるのは問題を肉体の問題としてだけ、つまり物質界のみの問題としてお考えになり、無限の生命の観点からお考えにならないからです。霊そのものは性病なんかには罹りません。霊は不具になったり奇形になったりしません。両親の遺伝的特質や後天的性格を受け継ぐことはありません。

それは霊が自我を表現する媒体であるところの肉体に影響を及ぼすことはあっても、霊そのものを変えることはありません。確かに地上的観点から、つまり物質的観点からのみ人生を見れば、病弱なからだを持って生れた人は健全なからだを持って生れた人よりも物的には不幸の要素が多いと言えますが、その意見は霊には当てはまりません。

からだが病的だから霊も気の毒で、からだが健全だから霊も豊かであるという方程式は成り立ちません。実際にはむしろ宿命的な進化のための備えとして多くの痛みや苦しみを味わうことによって霊が豊かになるということの方が正しいのです」


───では、この世をより良くしようとする衝動はどこから出て来るのでしょうか。

 「帰するところ神がその無限の創造事業への参加者としての人間に与えた自由意志から出ています」

───物的な苦痛によって霊が進歩するのであれば、なぜその苦痛を無くする必要があるのでしょうか。

 「私はそのような説き方はしておりません。私がその事実を引き合いに出したのは、人生には寸分の狂いもなしに埋め合わせの原理が働いていることを指摘するためです。

ここに二人の人間がいて、一人は五体満足でもう一人はどこかに障害があるとした場合、後者は死後も永遠にその障害を抱えていくわけではないと言っているのです。

要するに肉体の健康状態がそのまま霊の状態を表わすのではないことをお教えしようとしているまでです。霊には霊としての辿るべき進化の道程があります。その霊がいかなる身体に宿っても、必ず埋め合わせと償いの法則が付いてまわります」


───でも、やはり身体は何の障害も無い状態で生まれるのが望ましいのではないでしょうか。

 「もちろんです。(同じ意味で)地上にスラム街が無い方が良いに決まっています。しかし、そのスラム街をこしらえるのも地上天国をこしらえるのも、結局は同じ自由意志の問題に帰着します。人間に自由意志がある以上、それを正しく使うこともあれば誤って使うことがあるのは当然です」


───でも、不幸が霊のためになると知ったら、地上をより良くしようとする意欲を殺がれる人もいるのではないでしょうか。
 
 「地上の出来ごとで埋め合わせのないものは何一つありません。もしも神の働きが妨害されて、当然報われるべき行為が報われずに終わることがあるとすれば、これは神の公正を嘲笑う深刻な事態となります。

私が指摘しているのは、埋め合わせの原理が厳として存在すること、そして進化の法則に逆らった行為を犯しながら神の摂理とは別の結果が出るようにいくら望んでみたところで、神の計画は少しもごまかされないということです。

 しかし同時に次の事実も知っておく必要があります。すなわち、たとえ現代の地上の不幸の原因がすっかり取り除かれたとしても、人間はまたみずからの自由意志によって、みずからの複雑な文明の中から更に新たな不幸を生じさせる原因を生み出していくということです。

所詮、人生は完全へ向けての無限の階段の連続です。一段一段、自らの力で向上して行かねばなりません。しかも、いつかは最後の一段に辿り着くと思ってはいけません」(訳者注ー質問と答えに少しズレが見られるが、このあともう一度同じ内容の質問が出る)


───肉体の病気は霊的な進化を促進するかも知れませんが、同時にその逆もあり得る、つまり性格を損ねることもあるでしょう。

 「損ねることもあるし損ねないこともあります。どちらのケースもあります。病気になるのは摂理に反した行為をするからです」


───ではあなたは病気または病気に相当するものは絶対不可欠のものとおっしゃるわけですね。

 「いえ、私は病気に相当するものとは言っておりません。何らかの〝苦〟に相当するものです。人間に自由意志がある以上、選択の仕方によって楽しい体験となったり苦しい体験となったりするのは当然でしょう」


───それは分かります。苦しみを味わわなければ幸福も味わえないからです。が、どうも私には、もしもあなたがおっしゃるように、こういうことがあれば必ずこういう埋め合わせがあるというのが事実であれば、世の中を良くしようとして苦労する必要は無さそうに思えるのですが・・・・・・。


 「人間に選択の自由があるのに、ほかにどうあって欲しいとおっしゃるのでしょうか」

───私はこの度の戦争のことはさて措いて、今日の世界は三百年前よりはずっと幸せな世の中になっていると思うのです。世界中のほとんどの国が、戦争はあっても、やはり幸せな世の中となっております。

 「おっしゃる通りですが、それが私の言うこととどう矛盾するのでしょう」

───われわれ人間は(取り立てて人のためと説かれなくても)常に世の中を良くしてきているということです。

 「でもそれは、世の中を良くしたいという願望に燃えた人がいたからこそですよ。魂に宿された神性が自然な発露を求めた人たちです。神の一部だからこそです。かりに今日要求したことが明日、法の改正によって叶えられても、明日はまた不満が出ます。進化を求めてじっとしていられない魂が不満を覚えるのです。
 
それは自然の成り行きです。魂が無意識のうちにより完全へ近づこうとするからです。今日の地上の不幸はその大半がその自由意志による選択を間違えたことに起因しています。

それには必ず照合がなされ、更に再照合がなされます。そうすることで進歩したり退歩したりします。そうした進歩と退歩の繰り返しの中にも少しずつ向上進化が為されております。先んずる者があれば後れを取る者もあります。先を行っている者が後れている者の手を取って引き上げてやり、後れている者が先を行き過ぎている者に取って適当な抑制措置となったりしています。

そうやって絶え間なく完成へ向けての努力が為されているわけです。が、その間の人生のあらゆる悲劇や不幸には必ず埋め合わせの原理が働いていることを忘れてはなりません」


───改めるべきことが山ほどありますね。

 「あなた方は自由主義を誇りにしておられますが、現実には少しも自由とはいえない人々が無数におります。有色人種をごらんなさい。世界中のどの国よりも寛容心を大切にしているあなた方の国においてすら、劣等民族としての扱いを受けております。

私がいつも、これで良いと思ってはいけない、と申し上げる理由はそこにあります。世の中は幾らでも明るく、幾らでも清らかに、そして幾らでも幸せになるものなのです」


───葛藤や苦悩が霊的進化にとって不可欠なら、それは霊界においても必要なのではないでしょうか。なのに、あなたはそちらには悪と邪の要素がないようにおっしゃっています。


 「ご質問者は私の申し上げたことを正しく理解していらっしゃらないようです。私は邪と悪には二種類ある───この〝悪〟という言葉は嫌いなのですが───すなわち既得権に安住している利己主義者によって生み出されているものと、人類の未熟さから生まれるものとがあると申し上げたつもりです。

私たちの世界には邪悪なものは存在しません。もちろん死後の世界でもずっと低い界層へ行けば、霊性があまりに貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。が、そうした侘しい世界を例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。

邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心ゆくまで従事しております。

 葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっともその意味が問題ですが・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で絶え間ない葛藤があります。

一つは動物的先祖とでもいうべきもの、つまり身体的進化に属する獣的性質と、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹です。

その両者のどちらが優位を占め維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で自由意志によって選択することです。私達の世界へ来てからも葛藤はあります。

それは低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする絶え間ない努力という意味です。完全へ向けての努力、光明へ向けての努力というわけです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精錬と試練をへてようやく霊の純金が姿を現わします。

私たちの世界にも悩みはあります。しかしそれは魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表れであって、ほんの一時のことに過ぎません。完成へ向けての長い行進の中での短い調整期間のようなものです」


───でも、葛藤と進歩、それに努力の必要性は常にあるわけでしょう。

 「おっしゃる通りです。だからこそ私は先ほど言葉の解釈の仕方が問題だと申し上げたのです。自然界の常として、より高いものがより低いものを無くそうとします。それは当然のことで、そうでなかったら進化というものが真実でなくなります。

人間は低い段階から高い段階へ向けて成長しようとする進化性を持った存在です。進化するためには光明へ向けての絶え間ない葛藤がなければなりません。その場合の葛藤は成長の為の必須の過程の一つであるわけです。

先ほど私が言いたかったのは、地上には不必要な葛藤、無益な努力が多すぎるということです。それは自由意志の使用を過って、薄汚い知恵、病気、スラム街といった、あってはならない環境を生み、それが霊界からの働きかけをますます困難にしているのです」

霊訓〈完訳・上〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





10節

本節の内容
*再び著者による反論 *回答
*キリストが受けた反論との比較
*新しい真理は反撃に遭う宿命をもつ
*神学的ドグマの誤りの指摘
*宇宙は不変の摂理に支配される
*真理探求と向上の中に真の幸福がある


〔不服だったので私は書かれた通信を時間を掛けてじっくり吟味してみた。それは当時の私の信仰と正面から対立する内容のものだったが、それが書かれている間じゅう、私は心を昂揚させる強烈な雰囲気を感じ続けていた。反論する前に私は何とかしてその影響力を排除してしまいたいと思った。

その反論の機会は翌日訪れた。私はこう反論した。あのような教義はキリスト教のどの教派からも認められないであろう。またバイブルの素朴な言葉とも相容れない性質のものであり、普通なら反キリスト的なものとして弾劾裁判にもかけられかねないところである。更にまた、そのような何となく立派そうな見解――当時の私にはそう映った――は信仰のバックボーンを抜き取ってしまう危険性がある、といったことだった。すると次のような回答が来た――〕


友よ、良き質問をしてくれたことを嬉しく思う。われらが如何なる権能を有する者であるかについてはすでに述べた。われらは神の使命を帯びて来たる者であることを敢えて公言する。そして時が熟せばいずれそれが認められることを信じ、自信をもってその日の到来を待つ。それまでに着実な準備を為さねばならぬし、たとえその日が到来しても、少数の先駆者を除いては、われらの訓えを全て受け入れ得る者はおらぬであろうことも覚悟は出来ている。それは、われらにとりて格別の驚きではないことを表明しておく。考えてもみるがよい! より進歩的な啓示が一度に受け入れられた時代が果たしてあったであろうか。いつの時代にも知識の進歩にはこれを阻止せんとする勢力は付きものである。愚かにも彼らは真理は古きものにて事足れりとし、全ては試され証明されたと絶叫する。一方、新しきものについては、ただそれが新しきものなること、古きものと対立するものなること以外は何一つ知らぬのである。

イエスに向けられた非難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解きわまる神学を打ち立てた者たち――その訓えはその時代に即応したそれなりの意義があったとは言え、時代とともにより高き、より霊性ある宗教にとって代えられるべきものであったが、彼らは後生大事にその古き訓えを微に入り細を穿ちて分析し、ついに単なる儀式の寄せ集めと化してしまった。魂なき身体、然り! 生命なき死体同然のものにしてしまった。そしてそれを盾に、彼らの神の冒涜者――不遜にも彼らは人類の宗教の救世主をそう呼んだのである――はモーセの律法を破壊し、神の名誉を奪う者であると絶叫した。律法学者(1)とパリサイ人(2)、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを非難した。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号を真っ先に浴びせたのが彼らであった。

イエスが神の名誉を奪う者でないことはそなたのよく知るところである。イエスは神の摂理を至純なるものとし、霊性を賦与し、生命と力を吹き込み、活力を与え、新たな生命を甦らせんがために人間的虚飾を破壊せんとしたに過ぎぬ。

親へのうわべだけの義務――愛の心を欠き、わずかな、しかも渋々ながらの施しのみの義務――を説く佗しき律法に代わって、イエスは愛の心より湧き出でる子としての情愛、身体の授け親と神に対する無償の惜しみなき施しの精神を説いた。うわべのみの慣例主義に代わって衷心よりの施しを説いた。いずれが正しく、より美しいであろうか。後者は前者を踏みにじるものであったろうか。むしろ前者のほうが、生命なき死体が生ける人間に立ち向かうが如く、後者に執拗に抵抗したに過ぎぬのではなかったか。にもかかわらず、軽蔑をもって投げ与えられたわずかな硬貨で、子としての義務を免れて喜ぶ卑しき連中が、イエスを旧(ふる)き宗教を覆(くつがえ)さんと企(たくら)む不敬者として十字架にかけたのであった。

その新しき福音を喜ばず、かつ、それを受け入れる用意もなき世に敢然と立ち向かったイエスの弟子たちへしつこく向けられし非難もやはり、新しき教義をもって旧き信仰を覆さんとしているというものであった。そうして何とかして彼らを告発すべき恐ろしき罪状を見出さんと策を弄した。が“四面楚歌”の新しき信仰に対する如何なる非難をも甘受するその弟子たちの説く訓えに何一つ不埒(ふらち)千万なるものを見出し得なかった。彼らは確かに非合法の集団であった。が、ユダヤ教信仰と“時の権力”には忠実に従っていた故に、告発せんとして見守る者たちも、その謂れを見出すことが出来なかった。彼らは次々と新しき無垢の信者を集めていった。みな愛の心に満ちた優しきイエスの後継者たる彼らの訓えには、何一つ不埒千万なるものはなかった。そなたも今まさに、何とかしてわれらの訓えと使命の信頼性を失墜させるものばかりを好んで信じようとしているが……

しかし、いつの時代もそうだったのではなかろうか。新しきものが非難され、信頼を得られぬのは、宗教において、科学において、有限なる人間の為すことの全てにおいて、いつの時代にも変わらぬ物語である。それが人間的知性の特性の一つなのである。すなわち、見慣れたものが気に入られ、目新しく見慣れぬものが懐疑と不信の目で眺められるのである。

それ故われらはスピリチュアリズム的キリスト教観を説くに当たり、劈頭(へきとう)より懐疑の目をもって迎えられることに些(いささ)かの驚きも感じぬ。いずれは全ての者がその訓えの美しさと神聖さを認める日が到来するであろう。

われらの説くところが人間の言説と衝突することは、別に驚くには当たらぬ。否むしろ、遠き過去において霊能の発達程度を異にする霊媒を通じて得られた訓えと矛盾せぬことの方がおかしい。バイブルの中にも、それが当時の霊媒を通じて得られた誤りだらけの混ぜものであるために、それらの訓えと融合し得ぬものが見出されることを敢えて指摘せぬわけにはいかぬのである。この点についてはすでに述べたので繰り返す必要はあるまい。

バイブルの啓示にも神についての知識に進歩のあとが見られぬわけでもないが、細部において不合理きわまる自家撞着を少なからず含んでいる。その上、霊媒を通過する際に紛れ込める人間的誤謬もまた少なしとせぬ。その中より真相を読み取るにはバイブル全体の流れを読むほかはない。その全体像を無視して選び出した個々の言説は、それ自体の価値はあるにせよ、信仰の対象としての価値は些かも認められぬ。そもそも幾世紀も昔の教説を今なお金科玉条として永遠の至上命令の如く考えること自体が愚かと言うべきである。その種の考えは自家撞着を含み、また同じバイブルの中の他の言説、あるいはそれと対立する言説とも矛盾する。

申すまでもなく、そなたたちが神の声と呼ぶ書を筆記者たちが記録した時代においては、イエスは神なりとの信仰が広まり、それを否定せんとする者には厳しい批難が浴びせられた。またそう信じた者たちは同時に、イエスが地上人類を裁くために霊妙不可思議なる方法にて雲間にその姿を現す――それもその世紀の人類が滅びる前である、と信じた。両者とも間違いであった。そうしてその時以来少なくとも一八〇〇年が過ぎ去ったが、イエスは再臨しておらぬ。このことに関連して今少し述べておく必要があろう。

われらがそなたに理解を望むことは、神の啓示といえども、所詮は自分自身に与えられた“光”にて判断せねばならぬということである。説教者の言葉を鵜呑みにすることなく、それを全体像の中で捉(とら)え、一言一句の言い回しにこだわることなく、その精神、その流れを汲み取るよう心がけねばならぬ。われら自身、およびわれらの教説を判断するに際しても、得体の知れぬ古き予言に合うの合わぬだのという観点からではなく、そなたの真に求むるもの、そなたと神とのつながり、そしてそなたの魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断せねばならぬ。

つまるところ一体われらは何を説かんとしているか。その説くところがどこまで理性を納得せしむるか。神について何と説いているか。そなたの魂にとってそれがどこまで有益か。そう問いかけねばならぬ。

そなたが正統派教会より教え込まれた教義によれば、神はその一人子を犠牲(いけにえ)とすることで人間と和解し、さらにその中の選ばれし少数の者を天国へ招き入れ、そこで時の果つることなく永遠に、単調この上なく、神を讃える歌をうたい続けるのだという。その恩寵にあずからぬ他の人類は全て天国に入ることを許されることなく、言語に尽くし難き苦しみを永遠に受け続けるという。

この至福にあずかれぬ哀れな者たちは、ある者は信仰なきが故であり、ある者は堕落せる環境のせいであり、ある者は恐ろしき煩悩の誘惑に負け、罪を犯せるが故である。さらにある者は多情多淫の肉体をもって生まれ、その激情に抗し得ざりしためである。また何を為すべきかを知らぬ者もいた。もし知っていれば喜んで努力したであろうに。救われたくば是非信ぜねばならぬと説かれた教義が、知性的に受け入れ得なかった者もいる。さきに述べた如く、死後、天国への保証を確保してくれると説く言説に同意せざりし者もいる。その者たちは永遠に破滅の道を歩み続け、その哀れなる者たちを、祝福されし者たちが平穏無事の高所より眺め下ろし、心安らかなる満足を得るという。その実彼らの多くは地上にて悲しむべき堕落の生活を送りながら、ただドグマ的教説への信仰を告白せるが故に救われたというに過ぎぬ。

肉欲と怠惰と、あらゆる法に違反せる生活も、信仰の告白という一つの行為によりて全てが帳消しになる、とそなたたちは教え込まれてきた。いかに粗野にして肉欲に狂える無法者も、死の床にてイエスへの信仰を告白すれば、それまでの生活そのものが冒涜していたはずの神のもとへ一気に招かれるという。不純にして卑しき堕落者が、清純にして気高き聖人と共に完全無垢なる神のもとにかしづけるとは!

指摘すれば枚挙に暇なしであるが、われらの説くところと比較対照するには以上の指摘で十分であろう。われらは決してそのような神――理性が身震いし、父性的本能が嫌悪の念を催す神の概念は説かぬ。同じく愛の神とはいえ、さような偏れる愛の神をわれらは知らぬ。それは人間の発明せる神であり、われらは知らぬ。さような人間的偶像は野蛮なる精神の哀れなる戯言(たわごと)に過ぎぬことを指摘せずにはいられぬ。至純至聖なる神を滑稽化するその不敬きわまる無知と愚かさに、そなたもわれらと共に驚きを感じて欲しく思うのである。友よ、そのような神の観念を抱くようでは、人間はよくよく霊性が堕落していたものと推察される。今、そうした言説に敢然と異議を唱える者こそ、われらの説く福音を切望している者に相違あるまい。

われらが知るところの神、そしてそなたに確信をもって説ける神こそ、真の意味での愛の神――その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲は全ての創造物に及びて尽きることを知らぬ。いかなる者に対しても分け隔てせず、全てに断固たる公正をもって臨む。その神とそなたたちとの間には無数の天使が階梯をなして待機し、神の愛の言葉を携え、神の意志を時に応じて啓示する。この天使の働きにより神の慈悲は決して途切れることなく人類に及ぶ。これこそわれらが説く神――摂理によって顕現し天使を通じて作用するところの神である。

では、人間についてわれらは何を説くか。たった一度の改心の叫び声、たった一つの懴悔の言葉、筋の通らぬ恐ろしき教義への信仰の告白行為一つにて、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしき体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の意味での不滅の魂なのか。否、否。そなたたちはより高き霊的生活への鍛練を得るべく、ほんの僅かな期間を肉の衣に包まれて地上に在るに過ぎぬ。その霊の世界にありては地上生活にて自ら蒔いた種子が実をつけ、自ら育てた作物を刈り取る。そなたたちを待ちうけているのは永遠の無活動の天国などという児戯に類する夢幻(ゆめまぼろし)の如き世界ではなく、より価値ある存在を目差し、絶え間なく向上進化を求める活動の世界である。

その行為・活動の結果を支配するのは絶対不変の因果律である。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は逆に堕落させ、進歩を遅らせる。真の幸福とは向上進化の中、すなわち一歩一歩と神に近づく過程の中にこそ見出される。神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂の喜びを味わう。ものぐさな怠惰を貪(むさぼ)る者など一人もおらぬ。より深くより高き真理への探求心を失う者もおらぬ。人間的情欲、物欲、願望のすべてを肉体と共に棄て去り、純粋と進歩と愛の生活に勤しむ。これぞ真実の天国なのである。

地獄――それは個々の魂の中を除いて他のいずこにも存在せぬ。未だに浄化も抑制もされぬ情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪業の報いとして容赦なく湧き出ずる魂の激痛に苛(さいな)まれる。これぞ地獄である。その地獄より脱け出る道はただ一つ――たどり来る道を今一度あと戻りし、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にはない。

罪に対してはそれ相当の罰のあることはもとよりであるが、その罰とは怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではない。悪と知りつつ犯せる罪悪に対し、苦痛と恥辱の中にありて心の底より悔い改め、罪の償いの方向へと導くための自然の仕組みにほかならず、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしきドグマへの口先のみの忠誠を誓うが如き、退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてない。

幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間なき日々の生活において、理性に適い宗教心より発する行ないを為す者すべてが手にすることが出来るものである。神の摂理を意識的に犯す者に必ず不幸が訪れる如く、正しき理性的判断は必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を棄てた霊との区別はない。

霊的生命の究極の運命についてはわれらも何とも言えぬ。何も知らぬのである。が、われらをして現在までに知り得たかぎりにおいて言わしむれば、霊的生命はそなたら肉体に宿る者もわれら霊も共に、等しく神の因果律によりて支配され、それを遵守する者は幸福と生き甲斐を覚え、それを犯せる者は不幸と悔恨への道をたどるということだけは間違いなく断言できる。

神に対する責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この三つの根本的責務についてはすでにその大要を述べた。よってここでは詳説はせぬ。いずれ敷衍(ふえん)して説く時機も到来しよう。以上述べたところを篤と吟味せられたい。われらが当初より宣言せる主張――すなわち、われらの訓えが純粋にして神聖であり、イエスの訓えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知るには、それで十分であろう。

それは果たして正統派の教義に比して明確さを欠き曖昧であろうか。そうかも知れぬ。反発心を起こせしめる箇所については詳細を欠いているかも知れぬ。が、全体を通じてより崇高にして清純なる雰囲気が漂っているであろう。高尚にして神聖なる宗教を説いていよう。神性のより高き神を説いていよう。実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもない。そう映るのは、敬虔なる心の持ち主ならば浅薄な詮索をしたがらぬであろう課題を扱っているからに他ならぬ。知り得ぬことは知り得ぬこととして措き、決して勝手な憶測はせぬ。全知全能の神についていい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのである。

もしも人智を超えた神にベールをかけることをもって曖昧と呼ぶならば、確かにわれらの教えは曖昧であり、明確さに欠けるであろう。しかし、もしも知り得たかぎりのこと、理解し得るかぎりのことしか述べぬこと、憶測するより実践すること、ただ信ずるより実行することが賢明なる態度であるならば、われらの態度こそ叡智の命ずるところに従い、理性を得心させ、神の啓示に与(あずか)れるものであると言えよう。

われらの訓えには理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性がある。遠き未来においてもその価値を些かも失わず、数知れぬ魂を鼓舞し続けることであろう。一方これに異を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ぬことになろう。それは、その信念を携えて進みし無数の霊を幸福と向上の道へ導き、一方、その導きを拒否せる者は、朽ち行く肉体と同じ運命をたどることであろう。愚かなる無知からわれわれの訓えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信ずる者を悪魔の手先と非難しようとも、その訓えは存在し続け、信ずる者を祝福し続けることであろう。

(†インペレーター)


――おっしゃることは筋が通っており、立派な訓えだと思います。また曖昧であるとの私の批判に対しても納得のいく答えをいただきました。しかし、一般の人はあなたの説くところを、事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。そこで私がお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくに、それが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。


それについては、いずれ時機をみて説くとしよう。今は控える。先を求むる前に、これまでわれらが述べたところを篤と吟味されたい。そなたを正しく導く御力をわれらに給わらんことを!

(†インペレーター)




〔注〕

(1)the Scribes 旧約聖書の筆写・編集・解釈を仕事としたユダヤ教の学者。
(2)the Pharisees 儀式・慣習等の伝統を重んじたユダヤ教の一派。独善的形式主義者を意味することがある。

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch 

Psychic Press Ltd. London, England




九章  人間的思念と霊的思念

 英国フリート街に立ち並ぶ新聞社の一つの主筆でスピリチュアリズムにも興味を持つジャーナリストが、ある日の交霊会で思念とインスピレーションの違いについて質問した。それについてシルバーバーチはこう答えた。


 「物質の世界に住んでおられるあなた方はきわめて創造性の乏しい存在です。よくよくの例外を除いて、まず何も創造していないと言ってよろしい。受信局であると同時に発信局のような存在です。まず外部から思念が送られて来る。

それがいったんあなたならあなたという受信局で受け止められ、それに何かが付加されて発信され、それを別の人が受信するという具合です。あなたに届いた時の思念と、あなたから発信される時の思念とはすでに同じではありません。

あなたの個性によって波長が高められることもあり低くなることもあり、豊かになっていることもあり貧弱になっていることもあり、美しくなっていることもあり醜くなっていることもあり、新たに生命力を付加されていることもあり衰弱していることもあります。

しかし、それとはまったく別に、霊的な波長の調整によってあなたと同じ波長をもつ霊からのインスピレーションを受けることもできます。人間が(あなた方の言い方で)死んで私たちの世界へ来ます。その時(肉体は捨てても)精神と魂に宿されているものは何一つ失われません。

それは霊的であり、無限であり、霊的にして無限なるものは絶対に無くならないからです。その魂と精神に宿された資質はその後も生長し、広がり、発達し、成熟していきます。そうした霊性を宿しているからこそ、こちらへ来てしばらくすると、地上の人間のために何か役立つことをしたいと思うようになるわけです。やがて自分と同質の人間を見出します。あるいは見出そうと努力し始めます。

 地上で詩人だった人は詩人を探すでしょう。音楽家だった人は音楽家を探すでしょう。そして死後に身に付けたことの全てを惜しげもなく授けようとします。問題は波長の調整です。インスピレーションが一瞬の出来ごとでしかないのは、私たちの側が悪いのではありません。

二つの世界の関係を支配している法則が完全に理解されれば───別の言い方をすれば、地上の人間が両界の自由な交信の障害となる偏見や迷信を取り除いてくれれば、無限の世界の叡知が人間を通してふんだんに流れ込むことでしょう。

要は私たちの側から発信するものを受信する装置がなければならないこと、そしてその装置がどこまで高い波長の通信を受け取れるかという、性能の問題です。すべてのインスピレーション、すべての叡知、すべての真理、すべての知識は、人間側の受信能力に掛かっております」


───それだけお聞きしてもまだ、なぜインスピレーションというものが一瞬のひらめきで伝わるのかがよく理解できません。

 「その瞬間あなたの波長が整って通信網に反応するからです」と答えたあと、そういう思念が霊界からのものか地上の人間からのものかの区別の仕方について質問されて、こう述べた。

 「両者をはっきりと線引きすることはとても困難です。思念には地上の人間の発したものが地上の他の人間によって受け取られることもありますが、霊界からのものもあります。思念は常に循環しております。そのうちのある種のものが同質の性格の人に引き寄せられます。

これはひっきりなしに行われていることです。しかし、インスピレーションは霊界の者がある種の共通の性質、関心、あるいは衝動を覚えて、自分がすでに成就したものを地上の人間に伝えようとする、はっきりとした目的意識をもった行為です。地上の音楽、詩、小説、絵画の多くは実質的には霊界で創作されたものです」


───祈りは叶えられるものでしょうか。

 「叶えられる時もあります。祈りの中身と動機次第です。人間はとかく、そんな要求を叶えてあげたら本人の進歩の妨げになる、あるいは人生観をぶち壊してしまいかねない祈りをします。そもそも祈りとは人間が何かを要求してそれをわれわれが聞き、会議を開いて検討してイエスとかノーとかの返事を出すのとは違います。

祈るということは、叶えられるべき要求が自動的に授かるような条件を整えるために自分自身の波長を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為です」


───〝天才〟をどう説明されますか。

 「まず理解していただきたいのは、大自然あるいは法則───どう呼ばれても構いませんが───は決して一本の真っすぐな線のように向上するようには出来ていないことです。さまざまな変異(バリエーション)、循環(サイクル)、あるいは螺旋(スパイラル)を画きながら進化しています。

全体からみればアメーバから霊に至る段階的進化がはっきりしておりますが、その中にあって時に一足跳びに進化するものと後退するものとが出てきます。先駆けと後戻りが常にあります。天才はその〝先駆け〟に当たります。

これから何十世紀、何百世紀かのちには地上の全人類が、程度の差こそあれ、今の天才と同じ段階まで発達します。天才は言わば人類の進化の前衛です」


───現在地上で行われている進化論とだいぶ違うようですが・・・。

 「私の見解はどうしても地上の説とは違ってきます。霊の目をもって眺めるからです。地上的な視野で見ていないからです。皆さん方はどうしても物的観点から問題を考察せざるを得ません。物的世界に生活し、食料だの衣服だの住居だのといった物的問題を抱えておられるからです。

そうした日々の生活の本質そのものが、その身を置いている物的世界へ関心を向けさせるようになっているのです。日常の問題を永遠の視点から考えろと言われても、それは容易にできることではありません。が、私達から見れば、あなた方も同じく霊的存在なのです。

いつ果てるともない進化の道を歩む巡礼者である点は同じです。いま生活しておられるこの地上が永遠の住処でないことは明白です。これから先の永遠の道程を思えば、地上生活などはほんの一瞬のできごとでしかありません。私達の視界は焦点が広いのです。

皆さんから受ける質問も霊的真理に照らしてお答えしております。その真理が人間生活においてどんな価値をもつか、どうやって他の同胞へ役立てるべきか、どんな役に立つか、そう考えながらです。

これまで私は私の説く真理は単純素朴なものであること、唯一の宗教は人のために自分を役立てることであることを、皆さんもいい加減うんざりなさるのではないかと思うほど繰り返し述べてきました。私たちの真理の捉え方が地上の常識と違う以上、そうせざるを得ないからです。

 大半の人間は地上だけが人間の住む世界だと考えています。現在の生活が人間生活の全てであると思い込み、そこで物的なものを───いずれは残して死んでいかねばならないものなのに───せっせと蓄積しようとします。

戦争、流血、悲劇、病気の数々も元はと言えば人間が今その時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。

人間は肉体を通して自我を表現している霊魂(スピリット)なのです。それが地上という物質の世界での生活を通して魂を生長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです」


 このシルバーバーチの言葉がきっかけとなってサークルのメンバーの間で、〝進化〟についての議論にひとしきり花が咲いた。それを聞いたシルバーバーチは、やおら次のように述べた。

 「人間はすべて、宇宙の大霊の一部である───言いかえれば無限の創造活動の一翼を担っているということです。一人ひとりがその一分子として進化の法則の働きを決定づけているということです。霊としての真価を発揮していく階梯の一部を構成しているのです。

霊は自我意識が発現しはじめた瞬間から存在し、その時点から霊的進化が始まったのです。身体的に見れば人類は、事実上、進化の頂点に達しました。が、霊的にはまだまだ先は延々と続きます」


 別の交霊会に世界的に名の知れた小説家が出席した。(姓名は紹介されていない、手掛かりになるものも出てこない──訳者)シルバーバーチが出る前に地上で世界的に有名だった人物で今ではシルバーバーチ霊団のメンバーとして活躍している複数の霊がバーバネルの口を借りて挨拶し、それに応えてサークルのメンバーが挨拶している様子を見つめていた。

(訳者注──シルバーバーチ霊団はシルバーバーチ自身がそうであるように地上時代の氏名は───無名だった人物を除いて───いっさい明かしていない。余計な先入観となるからであろう)

その作家に対してシルバーバーチは「私にはあなたが今日はじめての人とは思えません。実質的に霊力に無縁の方ではないからです」とまず述べてから、こう続けた。

 「あなたの場合は意識的に霊力を使っておられるのではありません。あなたご自身の内部で表現を求める叫び、使って欲しがる単語、言語で包んで欲しがるアイディア、湧き出てあなたを包み込もうとする美、時として困惑させられる不思議な世界、そうしたものが存在することを知っている人間の持つ内的な天賦の才能です。違いますか」


───まったくおっしゃる通りです。

 「しかし同時に、これは多くの方に申し上げていることですが、ふと思いに耽り、人生の背後で動めいているものに思いを馳せ、いかにして、なぜ、いずこへ、といった避け難い人生の問題に対する回答をみずから問うた時、宿命的といえる経緯(いきさつ)によって道が開けてきました。幼少の頃からそうであったはずですが、いかがですか」


───その通りです。

 「私たちは、方法は何であれ、自分の住む世の中を豊かにし、美と喜びで満たし、いかなる形にせよ慰めをもたらす人を誇りをもって歓迎いたします。しかし、あなたにはこれまでなさったことより、はるかに立派なことがお出来になります。お判りでしょうか」


───ぜひ知りたいものです。

 「でも、何となくお感じになっておられるのではありませんか」


───(力強い口調で)感じています。

 ここでシルバーバーチはサークルの一人に向かって 「この方は霊能をお持ちです」 と言うと、そのメンバーも「そうですね、心霊眼をお持ちです」と答えた。するとシルバーバーチは、

 「しかし、この方の霊能はまだ鍛錬されておりません。純粋に生まれつきのものです」 と述べてからその作家の方を向いて「あなたは蔭から指導している(複数の)霊の存在をご存じでない。あなたが感じておられるよりはるかに多く援助してくれているのですよ」
 
 すると別のメンバーが 「この方がこれからなさるべきことは何でしょう」と尋ねた。

 「それは、これまでなさったことよりはるかに大きな仕事です。そのうち自然に発展していきます。が、すでにその雰囲気がこの方の存在に充満していますから、ご自分では気づいておられるはずです。じっとしていられないことがあるはずです。私の言わんとしていることはお判りでしょう?」 と言ってその作家の方を向いた。


───非常によく分かります。

 「次のことをよく理解しておいてください。他の全ての人間と同じく、あなたにも小さな身体に大きな魂を宿しておられるということです。どうもぎこちない、大ざっぱな言い方をしましたが、あなたという存在は肉体という、魂の媒体として痛ましいほど不適当な身体を通して表現せざるを得ないということです。

あなたの真の自我、真の実在、不滅の存在であるところの魂に宿る全能力───芸術的素質、霊的能力、知的能力の全てを顕現させるにつれて、それだけ身体による束縛から逃れることになります。

魂そのものは本来は物質を超越した存在ですから、たとえ一時的には物質の中に閉じ込められても、そのうち鍛錬や養成をしなくても、無意識のうちに物質を征服して優位を得ようとあらゆる手段を試みるようになります。それが今まさにあなたの身の上に起きつつあるわけです。

インスピレーション、精神的活動、目に見えない側面のすべてが一気に束縛を押し破り、あなたの存在に流入し、充満し、あなたはそれに抗し切れなくなっておられる。私の言っていることがお分かりでしょうね」

───非常によく分かります。
 
 「しかし、同時にあなたは私たちの世界の存在によって援助されております。すでに肉体の束縛から解放された人たちです。その人たちは情愛によってあなたと結ばれております。愛こそ宇宙最大の絆なのです。

愛は自然の成り行きで愛する者同士を結びつけ、いかなる者もいかなる力もいかなるエネルギーも、その愛を裂くことはできません。

愛がもたらすことのできる豊かさと温もりのすべてを携えてあなたを愛している人たちは、肉体に宿るあなた自身には理解できない範囲であなたのためにいろいろと援助してくれております。が、それとは別に、そうした情愛、血縁、家族の絆で結ばれた人々よりは霊性においてはるかに偉大な霊が、共通の興味と共通の目的意識ゆえに魅かれて、あなたのために働いてくれております。

今ここで簡単には説明できないほど援助してきており、こののち、もしその条件が整えば、存在をあなたに知らしめることにもなるでしょう」


───ぜひ知らせてほしいものです。それと、こうした背後霊の皆さんに私からの感謝の気持ちを伝えていただけますでしょうか。


 「もう聞こえていますよ。今日私があなたにぜひ残していきたいのは、あなたのまわりに存在する霊力の身近かさの認識です。私は古い霊です。私にも為しうる仕事があることを知り、僅かですが私が摂取した知識が地上の人々のお役に立てばと思って、こうして戻ってまいりました。

すでに大勢の友───その知識を広めるために私の手足となってくれる同僚をたくさん見つけております。私の大の友人パリッシュ(心霊治療家で、その日の交霊会にも出席していた)のように特殊な使命を帯び、犠牲と奉仕の記念碑を打ち立てている者もいます。

しかし、すべての友が自分が利用されていることを意識しているわけではありません。でも、そんな人たちでも時たま、ほんの瞬間にすぎませんが、何とも言えない内的な高揚を覚え、何か崇高な目的の成就のために自分も一翼を担っていることを自覚することがあるものです」


Sunday, October 4, 2026

霊訓〈完訳・上〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





9節

本節の内容
*著者の反論 *宗教的夾雑物 *贖罪説について
*再び著者の反論 *署名に十字架を冠する理由
*バイブルは人間的産物 *字句に絶対性はあらず
*神の概念の発達 *啓示の信頼性は霊媒の受容度による
*バイブルは誤謬だらけ。
 故に新しい霊的啓示と衝突するのは当然
*霊団による思想上の指導方法
*十字架の真の意味
*キリストの使命と霊団の使命は同一


〔前節に述べられた説にはまるで私に訴えるものが見られなかったので、私はそれが正統派の教会の教説と全く相容れぬものであること、しかも畏れ多くもキリスト教の根本教理の幾つかを侵犯するものであると反論した。そしてあの通信は途中で不純なものが混入しているのではないか、それに私が求めている肝心なものが脱落しているのではないかと述べた。もしあれをもって人生の指針として完璧だと言うのなら、私にはそれに反論する用意があった。すると次のような返答が書かれた。〕


われらが述べたるところは大凡の指針に過ぎぬが、それなりに真実である。ただし全てを尽くしているとは言わぬ。極めて大まかな原則であり、不鮮明なる点、欠落していることが少なからずある。が、本質的には間違ってはおらぬ。確かにそなたが霊的救いにとって絶対不可欠と教え込まれたる教義を多くの点で犯していることは認める。また何の予備知識も持たぬ者には新しき説のように響き、古き信仰形体を破壊するものの如く思われるかも知れぬ。が、実際はそういうものではない。いやしくも宗教的問題を思考する者ならば、先入観に束縛されず、かつ新たな真理探究に怖れを抱きさえしなければ、原則的にはわれらの霊訓を受け入れることが出来るであろう。古き偏見によりて足枷をはめられることさえなければ、全ての人間に薦められるべきものと信ずる。前(さき)にわれらは、先ず夾雑物を取り除かねばならぬと述べた。破邪が顕正に先立つことを述べた。古きもの、不用のものをまず取り払う必要があると述べた。要するに建設のための地ならしをせねばならぬと述べたのである。


――その通りですが、私から観てあなたが取り払おうとされているらしき夾雑物は、実はキリスト教徒が何世紀にも亙って信仰の絶対的基本としてきたものです。


違う。必ずしもそうではない。そなたの言い分にはいささか誇張がある。イエスの地上生活についての記録は極めて不完全である。その記録を見れば、キリスト教会が無理やりに押しつけて来たイエスの位置・立場について、イエス本人は一言も語っておらぬことが判るであろう。真実のイエスはそのイエスの名を冠する教会の説くイエスより遥かにわれらの説くイエスに近き存在であった。


――そんな筈はありません。それに例の贖罪説――あれをどう思われますか。


ある意味では間違ってはいない。われらが許せぬのは神を見下げ果てたる存在――わが子の死によって機嫌を取らねばならぬが如き残忍非情なる暴君に仕立て上げた幼稚きわまる言説である。イエスの名のもとに作り上げた不敬きわまる説話――そのために却ってイエスの生涯の素朴なる偉大さ、その犠牲的生涯の道徳的垂訓を曇らせる結果となった誤れる伝説をわれらが否定したからとて、それはいささかもイエスの偉大さを減ずることにはならぬ。そうしたドグマの発生と、それが絶対的教義として確立され、挙句の果てに、それを否定、あるいは拒絶することが大罪とされるに至れる過程については、いずれ詳しく語る時節も来よう。

もしも神が人間と縁なき存在であり、全てを人間の勝手に任せているのであれば、神がその罪深き人間のために、わが子に大権を委(ゆだ)ねて地上へ派遣した事実を否定することが永遠の火刑もやむを得ぬ大罪とされても致し方ないかも知れぬ。キリスト教会のある教派はイエスの贖罪について絶対的不謬性を主張し、それを受け入れぬ者は生きては迫害、死しては永遠の恥辱と苦痛の刑に処せられると説く。これはキリスト教会においても比較的新しき説である。が、全てのドグマはこうして作られてきた。かくして、人間の理性のみでは神の啓示と人間のこじつけとを見分けることが困難、いや、不可能となる。同時にまた、その夾雑物を取り除かんとする勇気ある者が攻撃の的とされる。いつの時代にもそうであった。われらがより高き視点より人間的夾雑物を指摘し、それを取り除くべく努力したからとて、それが誤れる行為として非難される筋合いはないのである。


――そうかも知れません。しかしキリストの神性と贖罪の信仰は人間が勝手に考え出したドグマとは言えないでしょう。現にあなたも署名の頭にかならず十字を冠しておられます(†Imperator)。私の推測ではあなたも地上では私たちと同じ教義を信じておられたに相違ありません。もう一人の通信者のレクターも同じように署名に十字を冠します(†Rector)。あの方などは絶対とは言いませんが恐らくキリスト教の教義のために死なれた殉教者に相違ありません。その辺に矛盾のようなものを感じるのです。つまり、もしその教義が不要のもの、あるいは真理を履(は)き違えたもの――もしくは完全な誤り――であるとしたら、私はどう結論づけたらよいのでしょうか。あなたは死後ご自身の信仰を変えられたのでしょうか。あるいは、一体あなたは地上でのクリスチャンだったのでしょうか、そうでなかったのでしょうか。もしそうでなかったとしたら、なぜ十字を付けられるのでしょうか。もしクリスチャンだったとしたら、なぜ信仰を変えられたのでしょうか。問題は地上であなたがどういう方であったか、それ一つに関わっています。現在のあなたの言説と地上時代に抱いておられた信仰がどこでどう繋がるのか、そこが判らないのです。おっしゃることは確かに純粋であり、美しい教説だとは思いますが、明らかにキリスト教の教えとは違っています。またどう見ても署名に十字を付ける人が説く教えではありません。少なくとも私にはそう思えるのです。

この苦悶がもしも私の無知ゆえであるならば、どうかその無知を啓発していただきたい。もしも私がただの詮索好きに過ぎぬのなら、それはどうかご寛恕ねがいたい。私にはあなたの言葉と態度以外に判断の拠り所がないのです。私が判断しうるかぎりにおいては、あなたの言説と態度は確かに高潔であり高貴であり、また純粋であり、合理的です。しかしキリスト教的ではありません。現在の私の疑問と苦悶を取り除いてくれるような、納得のいく根拠をお示し願いたいと申し上げるのみです。


いずれ述べるとしよう。この度はこれにて終わりとする。


〔私は真剣に返答を求め、何とかして通信を得ようと努力したが、六月二十日まで何も出なかった。右の通信は十六日に書かれたものである。そしてようやく届いた返答は次のようなものだった。〕


友よ、これよりそなたを悩ませ続けて来た問題について述べるとしよう。十字架がわれらの教えとどう関わるかを知りたいのであろう。それを説くとしよう。

友よ、主イエス・キリストの教えとして今地上にて流布している教えには、主の生涯と使命を表象する、かの十字架に相応(ふさわ)しからぬものが少なからずあるという事実をまず述べたい。各派の狂信家は字句にのみこだわり、意味を疎かにする傾向がある。執筆者一人一人の用語に拘泥し、その教えの全体の流れを疎かにしてきた。真理の探求と言いつつも実はあらかじめ説を立て、その説をこじつけて、それを真理と銘うっているに過ぎぬ。そなたたちの言う聖なる書(バイブル)の解説者をもって任ずる者が、その中より断片的な用語や文句を引用しては勝手な解説を施すために、いつしかその執筆者の意図せぬ意味をもつに至っている。またある者はいささかの真理探究心もなしに、ただ自説を立てるためにのみバイブルより用語や文句を借用する。彼らはそれはそれなりに目的を達するであろう。が、そうすることによりて徐々に、用語や表現の特異性をいじくり回すことにのみ喜悦を覚える者、自説を立てそれをこじつけることをもって佳(よ)しとする者たちによって、一つの体系が作り上げられていく。いずれもバイブルというテキストより、一歩も踏み出せぬことになる。

前(さき)にわれらは、これより説くべく用意している教えは多くの点においてそなたたちのいう神の啓示と真っ向より対立すると述べた。

正統派のキリスト者たちは、一人の神秘的人物――三位一体を構成する一人が一握りの人間の心を捉え、彼らを通じて真理の全てを地上にもたらしたと説く。それが全真理であり、完全であり、永遠なる力を有すると言う。神の教えの全体系がそこにあり、一言一句たりとも削ることを許されず、一言一句たりとも付け加えることも許されぬ。神の語れる言葉そのものであり、神の御心と意志の直接の表現であり、顕在的にも潜在的にも全真理がその語句と言い回しの中に収められていると言う。ダビデ、パウロ、モーセ、ヨハネ、こうした予言者の訓えは神の意志と相通じるものであるのみならず、神の思念そのものであると言う。彼らの言葉は神の裁可を受けたものであると同時に、神自ら選択したものであると言う。要するに、バイブルはその内容においても形体においても神の直接の言葉そのものなのである。英語に訳されたものであっても等しくその一言一句が神の言葉であり、そなたたちが為せる如く細かく分析・解釈するに値するものとする。なぜなら、その翻訳に携われる者も、またその驚異的大事業の完成のために神の命を受けし者であるとしているからである。

かくして単なる用語と表現の上に、かの驚くべき教義と途方もなき結論が打ち出されることになる。無理もないことかも知れぬ。なぜなら、彼らにとりてはその一言一句が人間的謬見に犯されぬ聖なる啓示であるからである。然るにその実彼らの為せることは、己の都合よき文句のみを引用し、不都合なところは無視して勝手なドグマを打ち立てているに過ぎぬ。が、とにかく彼らにとってはバイブルは神の直接の言葉なのである。

他方、こうした考えを潔(いさぎよ)く棄てた者たちがいる。彼らはバイブルの絶対性を打ち砕くことより出発し、ついにたどり着きたるところが他ならぬわれらの説くところと同じ見解である。彼らもバイブルを神の真理を説く聖なる記録として敬意を払うが、同時にそれはその時代に相応しきものが啓示されたものであり、故に今なお現代に相応しき啓示が与えられつつあると観る。バイブルは神と霊の宿命に関する人間の理解の発展過程を示すものとしてこれを読む。無知と野蛮の時代には神はアブラハムの友人であり、テントの入口にて共に食し共に語り合った。次の時代には民族を支配せる士師であり、イスラエル軍の先頭に立って戦いし王であり、幾人かの予言者の託宣によって政治を行なえる僭王であった。それがやがて時代の進歩と共に優しさと愛と父性的慈悲心を具えた存在となっていった。心ある者はこうした流れの中に思想的成長を見出し、その成長は決して終息せぬこと、人間の理解力は真理への渇仰を満たす手段を絶え間なく広げつつあるとの信念にたどり着く。故に真理探求者は少なくともその点についてのわれらの教えを受け入れる備えはある筈である。われらが求めるのはそういう人物である。すでに完璧なる知識を手にしたと自負する者に、われらは言うべき言葉を持たぬ。彼らにとっては先ず神と啓示に関わる問題についての無知を覚(さと)ることが先決である。それなくしては、われらが何を説こうと、彼らは固く閉じ込められた己の無知と自負心とドグマの壁を突き抜けることは出来ぬ。彼らには、これまで彼らの霊的成長を遅らせ未来の霊的進歩の恐ろしき障害となるその信仰の誤りを、苦しみと悲しみの中に思い知らされる外に残された道はない。そなたがこれまでわれらの述べたるところを正しく理解すれば、これより更に一歩進めて、啓示の本質と霊感の特性について述べることにしよう。

われらに言わしむれば、バイブルを構成するところの聖なる書、及びその中に含まれていない他の多くの書はみな、神が人間に啓示する神自身についての知識の段階的発達の記録にすぎぬ。その底流にある原理はみな同じであり一つである。それと同じ原理がこうしたそなたとわれらとの交わりをも支配しているのである。人間に与えられる真理は人間の理解力の及ぶ範囲にかぎられる。いかなる事情のもとであろうと、それを超えたものは与えられぬ。人間に理解し得るだけのもの、その時代の欲求を満たすだけのものが与えられるのである。

さて、その真理は一個の人間を媒体として啓示される。よって、それは大なり小なりその霊媒の思想と見解の混入を免れぬ。と言うよりは、通信霊は必然的に霊媒の精神に宿されたものを材料として使用せざるを得ぬ。つまり所期の目的に副ってその材料に新たな形体を加えるのである。その際、誤りを削り落とし、新たな見解を加えることになるが、元になる材料は霊媒が以前より宿せるものである。したがって通信の純粋性は霊媒の受容性と、通信の送られる際の条件が大いに関わることになる。

バイブルのところどころに執筆者の個性と霊的支配の不完全さと執筆者の見解による脚色のあとが見られるのはそのためである。またそれとは別に、その通信が意図した民族の特殊なる必要性による特有の色彩が見られる。もともとその民族のために意図されたものだったからである。

そうした例ならば幾らでも見出せるであろう。イザヤ(1)がその民に霊の言葉を告げし時、彼はその言葉に己の知性による見解を加え、その民の置かれた当時の特殊な事情に適合させたのであった。申すまでもなく、イザヤの脳裏には唯一絶対の神の観念があった。しかしそれを詩歌と修辞的比喩でもって綴った時、それはエゼキエル(1)がその独特の隠喩的修辞でもって語ったものとは遥かに異なるものとなった。ダニエル(1)にはダニエル独自の神の栄光の心象があった。エレミヤ(1)にはエレミヤを通じて語れる“主”の観念があった。ホセア(1)には神秘的象徴性があった。そのいずれも同じ神エホバを説いたのであり、知り得た通りを説いたのである。が、その説き方が異なっていたのである。

のちの時代の聖なる記録にも同じく執筆者の個性が色濃く残されている。パウロ(2)然り。ペテロ(2)然り。同一の真理を全く異なる角度より観ているのもやむを得ぬことである。真理なるものは二人の人間が異なる観点より各々の手法にて説いたからとて、いささかもその価値を減ずるものではない。相違と言うも、それは霊感の本質にはあらず、その叙述の方法にあるに過ぎぬからである。霊感はすべて神より発せられる。が、受ける霊能者はあくまで人間である。

故に、バイブルを読む者はその中に己自身の心――いかなる気質であれ――の投影を読み取るということにもなる。神についての知識はあまりに狭く、神性についての理解はあまりに乏しい。故に過去の啓示にのみ生き、それ以上に出られず、かつ出る意志も持たぬ者は、バイブルにその程度の心の反映しか見出さぬであろう。彼はバイブルに己の理想を見出さんとする。ところが、どうであろう、その心に映るのは彼と同じ精神的程度の者のための知識のみである。一人の予言者の言葉で満足せぬ時は他の予言者の言葉の中より己の気に入る箇所を選び出し、他を棄て、その断片的知識をつなぎ合わせ、己自身の啓示を作り上げる。

同じことが全ての教派について言えよう。各派がそれぞれの理想を打ち立て、それを立証せんがために、バイブルより都合よき箇所のみを抜き出す。もとより、バイブルの全てをそのまま受け入れらる者は皆無である。何となれば全てが同質のものとは限らぬからである。各自が己の主観にとって都合よき箇所のみを取り出し、それを適当に組み合わせ、それをもって啓示と称する。他の箇所を抜き出した者の啓示と対照してみる時、そこに用語の曲解、原文の解説(と彼らは言うのだが)と注釈、平易なる意味の曖昧化が施され、通信霊も説教者も意図せざる意味に解釈されていることが明らかとなる。かくして折角の霊感が一教派のドグマのための方便と化し、バイブルは好みの武器を取り出す重宝なる兵器庫とされ、神学は誤れる手前勝手な解釈によって都合よく裏付けされた個人的見解となり果てたのである。

そなたは、かくの如くして組み立てられたる独りよがりの神学に照らして、われらの説くところがそれと異なると非難する。確かに異なるであろう。われらはそのような神学とは一切無縁なのである。それはあくまで地上の神学であり、俗世のものである。その神の観念は卑俗かつ低俗である。魂を堕落させ、神の啓示を標榜しつつ、その実、神を冒涜している。さような神学にわれらは何の関わりも持たぬ。神学と矛盾するのは当然至極のことであり、むしろ、こちらより関わり合いを拒否する。その歪める教えを修正し、代わりて神と聖霊についてより真実の、より高尚なる見解を述べることこそわれらの使命なのである。

バイブルより出でし神の観念がかくもそなたたちの間にはびこるに至った今一つの原因は、霊感の不謬性を信じるあまり、その一字一句を大切にしすぎるのみならず、本来霊的な意味を象徴的に表現しているに過ぎぬものを、あまりに字句どおりに解釈しすぎたことにある。人間の理解の及ばぬ観念を伝えるに当たりては、われらは人間の思考形式を借りて表現せざるを得ぬことがある。正直のところ、その表現の選択においてわれらもしばしば誤りを犯す。表現の不適切なるところもある。霊的通信のほとんど全てが象徴性を帯びており、とくに正しき観念に乏しき神の概念を伝えようとすれば、その用語は必然的に不完全であり、不適切であり、往々にして選択を誤れる場合が生ずるのは免れぬ。いずれにせよ、所詮象徴的表現の域を出るものではなく、そのつもりで解釈して貰わねばならぬ。神につきての霊信を字句どおりに解釈するのは愚かである。

さらに留意すべきは、神の啓示はそれを授かる者の理解力の程度に合わせた表現にて授けられるものであり、そのつもりで解釈せねばならぬということである。バイブルをいつの時代にも適用すべき完全な啓示であると決めてかかる人間は一字一句を字句どおりに受けとめ、その結果、誤れる結論を下すことになる。衝動的性格の予言者が想像力旺盛にして熱烈な東方正教会(3)の信者に説き聞かせたる誇張的表現は、彼らには理解できても、思想と言葉を大いに、あるいは完全に異にせる他民族にその字句どおりに説いて聞かせては、あまりに度が過ぎ、真実から外れ、徒に惑わせることになりかねぬ。

神についての誤れる冒涜的概念も多くはそこに起因しているとわれらは観るのである。もともと言語なるものが不備であった。それが霊媒を通過する際に大なり小なり色づけされ、真理からさらに遠く逸(そ)れる。それがわれらが指摘せる如く後世の者によりて字句どおりに解釈され、致命的な誤りとなって定着する。そうなってはもはや神の啓示とは言えぬ。それは神について人間が勝手に拵えたる概念であり、しかも未開人が物神に対して抱ける概念と同じく、彼らにとっては極めて真実味をもつものである。

繰り返すが、そのような概念にわれらは同意できぬ。それどころか、敢えてその誤りを告発するものである。それに代わる、より真実にして、より崇高なる知識を授けることが、われらの使命なのである。またその使命の遂行に当たりては、われらは一つの協調的態勢にて臨む。先ず一人の霊媒に神的真理の一部を授ける。それがその霊媒の精神において彼なりの発達をする。正しく発展する箇所もあれば、誤れる方向へ発展する箇所もある。若き日に培われたる偏見と躾けの影響によって歪められ曇らされる部分もあろう。では、より正しき真理を植えつけるに当たりて、いっそのことその雑草を根こそぎ取り除くべきか。精神より一切の先入観念を払拭すべきか。それはならぬ。われらはそうした手段は取らぬ。万一その手段を取らんとすれば、それには莫大な時間を要し、下手(へた)をすれば、その根気に負けて、霊媒の精神を不毛の状態のまま放置することになりかねぬ。

そのようなことは出来ぬ。われらは既に存在する概念を利用し、それを少しでも真理に近きものに形づくって行くのである。いかなるものにも真理の芽が包蔵されているものである。もしそうでなければ一挙に破壊してもよかろう。が、われらはそうしたささやかな真理の芽に目をつけ、それに成長と発達を与えんとする。われらには人間が大切に思う神学的概念がいかに無価値なるものかがよく判る。が、それもわれらが導く真理の光を当てれば自然崩壊するものと信じて、他の重要なる問題についての知識を提供していく。取り除かねばならぬのは排他的独断主義である。これが何より重大である。単なる個人的見解は、それが無害であるかぎり、われらは敢えて取り合わぬ。

そういう次第であるから、在来の信仰がトゲトゲしさを和らげてはいるものの、それは形の上でのことであり、極めて似た形で残っていることが多々ある。そこで人は言うのである――霊は霊媒自身の信仰を繰り返しているに過ぎぬではないかと。そうではない。今こうしてそなたに述べていることがその何よりの証拠である。確かにわれらは霊媒の精神に以前より存在するものを利用する。が、それに別の形を与え、色調を和らげ、当座の目的に副ったものに適合させる。しかもそれを目立たぬように行なう。そなたの目にその違いが明瞭となるほどの変化を施すのは、その信仰があまりにもドグマ的である時に限られる。

仮にここに神も霊も否定し、目に見え手で触れるものしか存在を認めぬ者がいるとしよう。この唯物主義者が神への信仰を口にし、死後の生活を信ずると言い出せば、そなたはその変わりように目を見張ることであろう。それに引きかえ、人間性が和らげられ、洗練され、純化され、崇高味を増し、また粗野で荒々しき信仰が色調を穏やかなものに塗りかえられていった場合、そなたたちにはその変化が気づかぬであろう。その変化が徐々に行なわれ、かつ微妙だからである。が、われらにとりては着々と重ねたる努力の輝ける成果なのである。荒々しさが和らげられた。頑(かたく)なにして冷酷、かつ陰湿なるところが温められ愛の生命を吹き込まれた。純粋さに磨きがかけられ、崇高さが一層輝きを増し、善性が威力を増した。かくして真理を求める心が神と霊界についてより豊かなる知識を授けられたことになるのである。

人間の見解が頭ごなしに押さえつけられたことはない。それに修辞を施し変化を与えたのみである。その霊的影響力は現実にそなたたちのまわりに存在している。そなたたちは全くそれに気づいておらぬが、霊的使命の中でも最も実感のある有難き仕事なのである。

故に、霊は人間の先入観を繰り返すのみと人が言う時、それはあながち誤りとも言えぬことになる。その見解は害を及ぼさぬものであるかぎり、そのまま使用されているからである。ただ、そうと気づかれぬように修飾を施してある。有害とみたものは取り除き抹消してしまう。

とくに神学上の教義の中でも特殊なるものを取り扱うに当たりては、可能なかぎり除去せずにそれに新しき意義を吹き込むべく努力する。なぜなら、そなたには理解できぬかも知れぬが、信仰というものはそれが霊的にして生命あるものであれば、その形態は大して意味をもたぬものだからである。それ故われらは既に存在する基盤の上に新たなものを築かんとするのである。とは言え、その目的の達成のためには、今も述べた如く真理の芽をとどめている知識、あるいは知性の納得のいくものであるかぎり、大筋においてそのまま保存はするものの、他方において、ぜひ取り除かねばならぬ誤れる知識、あるいは人を誤らせる信仰もまた少なしとせぬ。そこで建設の仕事に先立って破壊の仕事をせねばならぬ。魂にこびり付きたる誤れる垢を拭い落とし、出来うるかぎり正しき真理に磨きをかけ純正なものにする。われらが、その頼りとする人間にまずその者が抱ける信仰の修正を説くのはそのためである。

さて、かく述べれば、すでにそなたには今のそなたの苦悶の謂(いわ)れが判るであろう。われらはそなたが抱ける神学上の見解を根こそぎにしようというのではない。それに修正を加えんとしているのである。振り返ってみるがよい。かつての狭隘なる信仰原理が徐々に包括的かつ合理的なものへと広がってきた過程が判るであろう。われらの指導のもとにそなたは数多くの教派の神学に触れてきた。そうしてその各々に程度こそ違え、真理の芽を見て来た。ただその芽が人間的偏見によりて被い隠されているに過ぎぬ。またキリスト教世界の多くの著書をそなた自ら念入りに読んで来た。そこに様々な形態の信仰を発見してそなた自身の信仰の行き過ぎが是正され、荒々しさが和らげられた。太古の哲学の研究に端を発し、各種の神学体系に至り、そこからそなたに理解し得るものを吸収するまで、実に長き、遅々たる道程であった。

すでに生命を失い、呼吸することなきドグマで固められし東方正教会の硬直化せる教義、人間的用語の一字一句にこだわる盲目的信仰に痛撃を浴びせしドイツの神学者たちによる批判、そなたの母国と教会における高等思想の思索の数々、その高等思想ともキリスト教とも無縁の他の思想の数々――そなたはこうしたものを学び、そなたにとって有用なるものを身につけてきた。長く、そして遅々とした道程ではあったが、われらはこれより更に歩を進め、そなたをいよいよ理想の真理――霊的にして実感に乏しくとも、そなたの学びしものの奥に厳然と存在する真理へと案内したく思う。地上的夾雑物を拭い去り、真実の霊的実在を見せたく思うのである。

まず知ってほしいことは、イエス・キリストの霊的理想は、神との和解だの、贖罪だのという付帯的俗説も含めて、そなたたちが考えているものとは大凡本質を異にするものであるということである。それは恰も古代ヘブライ人が仔牛を彫ってそれを神として崇めた愚かさにも似ていよう。われらはそなたの理解しうるかぎりにおいて、そなたたちが救い主、贖い主、神の子として崇めるイエスの生涯に秘められたる霊的事実を知らしめたく思う。イエスがその地上生活で身をもって示さんとした真の意味を教え、われらが取り除かんとする俗説がいかに愚劣にして卑劣であるかを明らかにしたく思うのである。

そなたはそうしたわれらの訓えがキリストの十字架の印とどう係わりがあるのかと尋ねた。友よ、あの十字架が象徴するところの霊的真理こそ、われらが普及を宣誓するところの根本的真理なのである。己の生命と家庭と地上的幸福を犠牲にしてでも人類に貢献せんとする滅私の愛――これぞ純粋なるキリストの精神であるが、これこそわれらが神の如き心であると宣言するものである。その心こそ卑しさと権力欲、そして身勝手なる驕りが生む怠惰から魂を救い、真実の意味での神の御子とする、真実の救いである。この自己犠牲と愛のみが罪を贖い、神の御心へと近づかしめる。これぞ真実の贖いである! 罪なき御子を犠牲(いけにえ)として怒れる神に和解を求むるのではない。本性を高め、魂を浄化する行為の中にて償い、人間性と神性とがその目的において一体となること(4)――身は地上にありても魂をより一層神に近づけて行くこと――これぞ真実の贖いである。

キリストの使命もその率先垂範にあった。その意味において、キリストは神の顕現の一つであり、神の御子であり、人類の救い主であり、神との調停者であり、贖い主であった。その意味においてわれらはキリストの後継者であり、こののちも引き続きその使命を遂行していく。十字架のもとに働き続ける。キリストの敵――たとえ正統派の旗印とキリストの御名のもとであっても、無明の故に、あるいは強情のゆえにキリストの名を汚す者たちに、われらは敢然と戦いを挑むものである。

ある程度霊的真理に目覚めた者にとりても、われらの説くところには新しく且つ奇異に感じられるところが少なくなかろうと想像される。が、いずれはキリストの真実の訓えがわれらの説くところと本質において一体であるとの認識に到達する時代(とき)が訪れるであろう。その暁には、それまで真実を被い隠せる愚劣かつ世俗的夾雑物は取り払われ、無知の中に崇拝してきたイエスの生涯とその教えの荘厳なる真実の姿を見ることであろう。その時のイエスへの崇敬の念はいささかでも真実味を減ずるどころか、より正しき認識によって裏づけされる。すなわち、われらが印す十字架は不変なる純粋性と人類への滅私の愛の象徴なのである。そなたにその認識を得さしむることこそ、われらの真摯なる願いである。願わくばこれを基準として、われらの使命を裁いてもらいたい。われらは神の使命を帯びて参った。その使命は神の如く崇高であり、神の如く純粋であり、神の如く真実である。人類を地上的俗信の迷いより救い出し、汚れを清め、霊性と神性とに溢れたる雰囲気へと導いて参るであろう。

われらの述べたるところをよく吟味されたい。そうして導きを求めよ。われらでなくともよい。その昔、かのイエスという名の無垢と慈悲と滅私の霊を地上に送りし如く、今われらを地上に送りし神に祈れ!


イエスを今なおわれらは崇める。

その御名をわれらは敬う。

その御ことばをわれらは繰り返す。

その御訓えが再びわれらの中に生き返る。

イエスもわれらも神の使いである。

そしてその御名のもとにわれは参る。

†インペレーター


〔注〕
(1)いずれも旧約聖書に出てくる予言者。
(2)いずれも新約聖書に出てくるイエスの弟子。
(3)Eastern Church 東ヨーロッパ、近東、エジプトを中心とするキリスト教会の総称。
(4)贖いを意味する英語atonementが語原的にat-one-mentすなわち、“一体となること”を意味することを示唆しながら説いている。