Friday, September 4, 2026

天界の大学 ベールの彼方の生活(四)

 著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)

近藤千雄 訳



四章 天界の大学  
1 五つの塔 2 摂理(ことば)が物質となる
マンダラ模様の顕現 の発育





1 五つの塔
  一九一八年 三月十八日 金曜日

 第十界の森林地帯の真っ只中に広大な空地があります。周囲を林に囲まれたその土地から四方へ数多くの道が伸びており、その道からさらに枝分かれして第十界のすみずみまで連絡が取れております。

その連絡網は、瞑想と他の界層との通信を求めてその空地へ集まってくる人々によってよく利用されています。その一帯を支配する静穏の美しいこと。茂る樹木、咲き乱れる花々、そこここに流れる小川、点在する池、群がる小鳥や動物たちが、修養を心がける者たちを自然に引きつけ、その静穏の雰囲気に浸らせます。

 が、これから述べるのはその中心にある空地のことです。空地といっても地上ならさしずめ平野と呼ばれそうな広大な広さがあります。そこには庭園あり、噴水あり、寺院あり、建物あり。それらがみな研究と分析・調査の目的に使用されています。

そこは一種の大学ですが、その性格は〝美の都市〟とでも呼ぶにふさわしいものを具えております。と言うのは、そこでは美と知識とがまったく同等の意図を持つに至っているかに思えるのです。

 形は長円形をしています。その片方の端には森の緑から巾の広い背の高いポーチが突き出ており、その両側に木が立ち並び、その樹木の上空に建物の翼廊が姿を見せています。 その翼廊の壁の高い位置にバルコニーが付いていて、そこから空地全体を見晴らすことができます。

建物の残りの部分はすっぽり森林に包まれており、塔とドームだけがポーチよりはるかに高く聳え立っております。それが無かったら森林の中に一群の建造物が存在することに誰も気づかないでしょう。それほど周囲に樹木が密生しているのです。

 塔は五つあります。うち四つは型は違っていても大きさは同じで、その四つにかぶさるようにドームが付いています。残りの一つは巨大なものです。あくまでも高く聳え、その先端が美しいデザインの帽子のようになっています。

あたかも天界のヤシの木のようで、その葉で王冠の形に線条細工が施され、それに宝石が散りばめてあり、さらにその上は銀河に似たものが同じく宝石をふんだんに散りばめて広がっております。

 これら四つの塔とドームと大塔には神秘的な意味が込められており、その意味は例の大聖堂を通過した者でなければ完全な理解はできません。それが大きな儀式の際に理解力に応じた分だけが明かされる。その幾つかは〝顕現〟に形で説明されることもあります。

そのうちの一つをこれからお話するつもりですが、その前にそこの建物そのものについてもう少し述べておきましょう。


 ポーチの前方に左右に広がる池があり、その池に至る道は段々になっています。大学の本館はその水面から聳え立っており(※)、周辺の庭園と群立する他の小館とは橋でつながっており、その大部分に天蓋が付いています。

ドームのあるホールは観察に使用されています。観察といっても大聖堂の翼廊での観察とは趣きが異なり、援助を送ったり連絡を維持するためではなく、他の界層の研究が目的です。そこでの研究は精細をきわめており、一つの体系の中で類別されています。

それというのも、天界においては他の界との関連性によって常に情況が変化しているからです。ですから、こうした界層についての知識の探求には際限がありません。

(※霊界の情況は地上の情況になぞらえて描写されるのが常であるが、地上圏から遠ざかるにつれてそれも困難となる。この部分もその一つで、一応文章のままに訳しておいたが、これでは地上の人間には具体的なイメージが湧いて来ないであろう。が、私の勝手な想像的解釈も許されないので、やむを得ずこのままに留めておいた──訳者)


 四つの小塔にはそれぞれ幾つかの建物が付属しています。それぞれに名称がありますが、地上の言語では表現ができないので、取りあえずここでは〝眠れる生命の塔〟──鉱物を扱う部門、〝夢見る生命の塔〟──植物を扱う部門、〝目覚める生命の塔〟──動物を扱う部門、そして〝自我意識の塔〟──人間を扱う部門、と呼んでおいてください。


 大塔は〝天使的生命の塔〟です。ここはさきの四つの生命形態を見おろす立場にあり、その頂点に君臨しているわけです。その段階へ向けて全生命が向上進化しつつあるのです。

 それらの塔全体を管理しているのが〝ドームの館〟で、各塔での分析調査の仕事に必要な特殊な知識はそこから得ます。つまりその館の中で創造・生産されるものを各分野に活用しています。

 四つの小塔は一つ一つデザインが異なり、平地から四つを一望するとすぐに、全体としていかなる創造の序列になっているかが知れます。

そういう目的をもってデザインされているのです。内部で行われる仕事によって各塔にそれ特有の性格がみなぎり、それが滲み出て外形をこしらえているのです。

 大塔は見るからに美しい姿をしております。その色彩は地上に見出すことはできません。が、取りあえず黄金のアラバスターとでも表現しておきましょう。それにパールを散りばめた様子を想像していただければ、およその見当がつくでしょう。

 それは言うなれば液晶宝石の巨大にして華麗な噴水塔という感じです。水が噴き出る代わりに囁くようなハーモニーが溢れ出て、近づく者に恍惚状態(エクスタシー)に近い感動を覚えさせずにはおきません。

 周辺の水がまた美しいのです。花園をうねりながら流れるせせらぎもあれば大きな池もあり、その水面(みなも)に五つの塔やドーム、あるいは他の美しい建物が映っており、静かな、落ち着いた美しさを見せています。

その感じを貴殿に分かりやすく表現すれば、揺りかごの中の天使の子供のようです。では、これより貴殿を大塔の中にご案内して、その特徴を二、三ご紹介しましょう。

 この塔は何かの建物の上にあるのではなく、基礎からいきなり聳え立っております、その内部に立って見上げたら、貴殿は唖然とされるでしょう。階が一つもなく、屋根のようなものもなく、ただ虚空へ向けて壁(四方にあります)が山の絶壁のように上へ上へと伸びているだけです。

そしてその頂上は星辰の世界のど真ん中へ突きささっているかの如くです。その遥かはるか遠くにその塔の先端の縁(ヘリ)が、あたかも塔そのものから離れてさらにその上にあるかのように見えます。それほど高いのです。

 その壁がまた決してのっぺりとしたものではないのです。四方の壁が二重になっていて、間(ま)が仕切ってあり、各種のホールや天使の住居(すまい)となっております。外部を見ると通路あり、バルコニーあり、張り出し窓あり、さらには住居から住居へと橋がループ状につながっております。

壁の上に対角線状に見えるものは、そこの部屋から部屋へ、あるいは楽しみのための施設から別の施設へとつなぐ階段です。庭園もあります。塔の側壁から棚状に突き出た広大な敷地にしつらえてあります。

この方尖塔は実に高くそして広大なので、そうした付属の施設──中へ入ってみるとそれぞれに結構大きなものなのですが──少しも上空を見上げた時の景色の妨げにならず、また一ばん先端の輪郭を歪めることもありません。

 また、よく見ると光が上昇しながら各部屋を通過していく際に変化したり溶け合ったり、輝きを増すかと思えば消滅していったりしております。

たとえば塔の吹き抜けに面したある住居のところでは真昼の太陽に照らされているごとくに輝き、別の住居のところでは沈みゆく夕日が庭を照らし、夕焼空を背景にして緑の木々やあずま屋が美しく輝いて見えます。

さらに別のところでは春の爽やかな朝の日の出どきの様相、さよう、そんな感じを呈しております。小鳥がさえずり、小川がさざ波を立てて草原へ流れていきます。この驚異の世界にも〝流れる水〟は存在するのです。

 音楽も流れています。あの部屋から一曲、この部屋から一曲と聞こえてきます。時には数か所から同時に聞こえてくることもありますが、塔の広さのせいでお互いに他のメロディの邪魔になることはありません。

 さて、以上お話したこと──全体のほんの一かけらほどでしかありませんが──を読まれて貴殿はもしかしたら、その大塔の中がひどく活気のない所のように思えて、建立の動機に疑問を持たれるかもしれません。

が、先ほど私が各塔に名付けた名称を思い出していただけば、決してそうでないことが分かっていただけるでしょう。

この大塔は四つの小塔を指揮・監督する機能を有し、そのためのエネルギーを例のドームから抽(ひ)き出すのです。そこにはきわめて霊格の高い天使が強烈な霊力と巾広い経験を携えて往き来し、かつて自らが辿った道を今歩みつつある者たちの援助に当たります。

すなわち測り知れぬ過去において自分が行ったことを、四つの小塔とドームの館に住む者が永遠の時の流れの中の今という時点において励んでいるということです。進化の循環(サイクル)の中で、先輩の種族が去って新しい種族が今そこに住まっているのです。

 これでお気づきと思いますが、そこでの仕事がいかに高度なものであるとはいえ、そこはあくまでも第十界であり、従ってあくまでも物事の育成の場であって創造の界ではないのです。

でも、創造へ向かいつつあることに間違いはなく、第十界では最高の位置にある施設の一つです。


──アーネルさんご自身もその大学を卒業されたのですか。

しました。四つの塔を全部通過するコースを終えました。それが普通のコースです。


──ドームも館もですか。

 学徒として入ったことはありません。別の形で同じことを修了しておりましたから。実は私は四番目の塔を終えたのちに大塔直属の天使のお一人に仕える身となったのです。大聖堂へ行けるまでに修行できたのもその方のお陰です。

例の暗黒界への旅の間にずっと力をお貸しくださったのもその方で、そのことは旅から帰って初めて知りました。その方はそうした援助の仕事を他の者にもしておられました。それがその方の本来の仕事だったのです。(※)

 神の祝福を。        アーネル ±
(※過去形になっているのは現在は別の仕事に携わっているからであろう。〝その方〟について何も述べていないが、同じ霊系の一人、つまり類魂の一人であるに違いなく、こうした関係は地上に限らず上級界へ行っても同じであることが分かる──訳者)




2 摂理(ことば)が物質となる
一九一八年 三月 四日 月曜日

 五つの塔から成る大学の構内は常時さまざまな活動に溢れていますが、せわしさはありません。中央水路へ通じる数々の小水路を幾艘もの船が往き来して、次々と渡航者を舟着き場へ下ろしています。

その水辺近くまで延びているテラスや上り段には幾千ともつかぬ参列者が群がっており、新しい一団がその明るい賑わいを増しています。いずれもある大きな顕現を期待してやって来るからです。

参加者はそれぞれ個人としての招待にあずかった人ばかりです。その地域の者なら誰でも参加できるのではありません。ある一定の霊格以上の者にかぎられています。

 招待者が全員集合したところで天使の塔から旋律が流れてきました。続いて何が起きるのであろうかと一斉に注目しています。ではそのあとの顕現の様子を順を追って叙述しましょう。

 音楽がボリュームを増すにつれて、その塔を包む大気が一種の霞を帯びはじめました。しかし輪郭が変わって見えるほどではありません。そして塔は次第に透明度を増し、それが上下に揺れて見えるのです。

つまり色彩に富んだ液晶ガラスのように、外側へ盛り上がったかと思うと内側へのめり込んでいくのです。

 やがて吾々の耳にその音楽よりさらに大きな歌声が聞こえてきました。それは絶対紳とその顕現であるキリストへの讃歌(テデウム)でした。そのキリストの一つの側面がこれより顕現されるのです。


──そのテデウムの歌詩を教えていただけませんか。

 いえ、それは不可能です。その内容だけを可能な限り地上の言語に移しかえてみましょう。こうです──

「遠き彼方より御声に聞き入っております私どもは、メロディの源であるキリストこそあなたであると理解しております。あなたのみことばを聞いて無窮が美をもたらしたのでございます。

 あなたの直接の表現であらせられるキリストの目にあなたのお顔を拝している私どもは、あなたは本来無形なる存在であり、その御心より形態を生じ、美がむき出しのままであることを好まず、光を緯(よこ)糸とし影を経(たて)糸として編まれた衣にて包まれいると理解しております。

 あなたの御胸の鼓動を感じ取っております私どもは、美がそのように包まれているのはあなたが愛のすべてであり、あなたの愛でないものは存在しないからでございます。

あなたのその美を私どもはキリストの美によって知り得るのみであり、そのキリストはあなたが私どもに与え給うたのと同じ形態をまとって顕現されることでございましょう。

 私どもはあなたを讃えて頭(コウベ)を垂れます。私どもはあなたのものであり、あなたを生命と存在の源として永遠におすがりいたします。この顕現せる生命の背後に恵み深き光輝が隠されております。

 キリストの顕現とその安らぎを待ち望む私どもにお与えくださるのは、御身みずからのことに、ほーかーなーりーまーせーぬ」

 最後の歌詞はゆっくりと下り調子で歌われ、そして終わった。そして吾々は頭を垂れたまま待機していました。

 次に聞こえたのは〝ようこそ〟という主の御声でした。その声に吾々が一斉に顔を上げると、主は天使の塔の入り口の前に立っておられます。その前には長いそして広い階段が水際まで続いています。その階段上には無数の天使が跪いています。

その塔に所属する天使の一団です。総勢幾千もの数です。主は塔へ通じる大きなアーチ道から遠く離れた位置にお一人だけ立っておられます。

が、その背後には階段上の天使よりさらに霊格の高い天使の別の一群が立ち並んでいます。主の降臨に付き添ってきた天使団です。

 今や天使の塔は躍動する大きな炎のごとく輝き、大気を朱に染めてそれがさらに水面に反映し、灼熱に燃えあがるようにさえ思えるのです。

 その時です。主がまず片足をお上げになり、続いてもう一方の足をお上げになって宙に立たれました。塔の頂上を見上げると、その先端に載っている王冠状のものが変化しはじめているのが分かります。あたかも美しい生きもののように見えます。

レース状の線条細工がみな躍動しており、さらによく見ると、そのヤシの葉状の冠には数々の天使の群れが宝石を散りばめたように光って見えます。

ある群れは葉に沿って列をなして座し、ある群れは基底の環状部に曲線をなして立ち、またある群れは宝石の飾り鋲に寄りかかっています。王冠を構成しているあらゆる部分が天使の集団であり、宝石の一つ一つがセラピム(※)の一団であり、炎のごとく輝き燃え上がっているのでした。(※キリスト教で最高神に直接仕える第一級の天使──訳者)

やがてその塔の頂上部分がゆっくりと塔から離れて主ならびに付き添いの天使団が立ち並ぶ位置の上空高く上昇し、それからゆっくりと下降してテラスに着地しました。

内部にはすでに千の単位で数えるほどの天使がいます。そして吾々も水路を横切ってその内部へ入るように命じられました。(その大塔は湖の中央に聳えている──訳者)

 私が階段の頂上まで来て見下ろすと、滔々(とうとう)とした人の流れが、喜びの極みの風情で、新しくしつらえた宮殿の中へ入って行くのが見えました。私もその流れに加わって何の恐れの情もなく中へ入りました。すべてが静寂、すべてが安らぎとよろこびに溢れておりました。

 入ってみると、その王冠の内側は広く広大なホールとなっており、天井が実に高く、下から上まで宝石と宝玉に輝いておりました。透し細工に光のみなぎった薄もやが充満し、それがそのままホールの証明となっておりました。

壁は少し垂直に伸びてからアーチを描いて穹陵(きゅうりょう=西洋建築における天井の一形式)となり、その陵線がサファイア色をした大きな宝玉のところで合流しています。

壁の材質は透明なクリスタルで、外側の天界の様子を映し出す性質をしており、どの天使が飛来しどの天使が去って行ったかが、いながらにして分かるようになっています。

この王冠はテラスへ下降してくる間にそのように模様替えされたに相違ありません。普段は完全に青空天井になっておりますから。



──出席者は全部で何名だったのでしょうか。

 私には分かりません。でも主のお伴をした霊は少なくとも千五百名を数えたに相違ありません。そして吾々招待を受けた者はその六倍を下りませんでした。それに塔の直属の霊がおよそ三千名はいました。大変な集会だったのです。

 このたびの顕現はその大学における科学に関する指導の一環として行われたものです。それがどんなものであるかはすでにお話しました。

それまで吾々は研究を重ね、資料を豊富に蓄積しておりました。そこへ主が訪れてそうした知識がそれより上の境涯へ進化して行きながら獲得される神についての知識といかに調和したものであるかをお示しになられたのです。


──もう少し詳しくお話ねがえませんか。今のでは大ざっぱすぎます。

 そうでしょう。私もそれを残念に思っているのですが、といってこれ以上分かりやすくといっても私には出来そうにありません。でも何とか努力してみましょう。

 冗漫な前おきは抜きにして一気に本論へ入りましょう。あのとき主は神のことばがそのまま顕現したのでした。すでに(第二巻で述べたので)ご承知の通り、宇宙創造の当初、神の生命のエネルギーが乳状の星雲となり、それが撹拌されて物質となり、その、物質から無数の星が形成されるに至った時の媒介役となったのが、ほかならぬことばでした。ことばこそ創造の実行者だったのです。

すなわち神がそのことばを通して思惟し、その思念がことばを通過しながら物質という形態をとったということです。(※Word は聖書などでことばと訳されているので一応それに倣ったが、シルバーバーチの言う宇宙の摂理、自然法則のことである──訳者)

 この問題は永いあいだの吾々の研究課題でした。主が降臨されて宇宙の創造における父なる神の仕事との関連においてのことばの意味について吾々が学んだことに、さらに深いことを説明なさったのは、上層界における同種の、しかしさらに深い研究につなげていくためでした。残念ながらこれ以上のことは伝達しかねます。


──このたび主がお出でになられた時の容姿を説明していただけませんか。

 主は大ホールの中空に立っておられ、最後まで床へ下りられませんでした。最初私はそれがなぜだか分かりませんでした。が顕現が進行するにつれて、その位置がこのたびの主の意図に最も相応しいことが分かってきました。

視覚を使って教育するためだけではありません。中空に立たれたのは、その時の主の意図が自然にそのような作用をしたのです。

そしてお話をされている間も少しずつ上昇して、最後は床と天井の中間あたりに位置しておられました。それはその界層における力学のせいなのです。そう望まれたのではなく、科学的法則のせいだったのです。

 さらに、冠の外側に群がっていた天使が今は内側の壁とドームの双方に、あたかも生きた宝石のごとく綴れ織(タベストリ)り模様に群がって飾っているのでした。

 さて貴殿は主の容姿を知りたがっておられる。衣装は膝までのチュニックだけでした。

澄んだ緑色をしており、腕には何も──衣服も宝石も──付けておられませんでした。宝石はただ一つだけ身につけておられました。胴のベルトが留め金でとめてあり、その留め金が鮮血の輝くような赤色をした宝石でした。

腰の中央に位置しており、そのことは、よくお考えいただくと大きな意味があります。

と言うのは、主は父なる神と決して断絶することはありませんが、この界層における仕事に携わるために下りて来られるということは確かに一種の分離を意味します。造化の活動のためにみずから出陣し、そのために父より顔をそむけざるを得ません。

意念を〝霊〟より〝物質〟へと放射しなければならないのです。その秘密が宝石の位置に秘められているのです。このことは語るつもりはなかったのですが、貴殿の精神の中にその質問が見えたものですから、ついでに添えておきます。

 マントは付けておられませんでした。膝から下は何も付けておられませんでした。両手両脚とお顔は若さ溢れる元気盛りのプリンスのそれでした。頭髪にも何も付けておられず、中央で左右に分けておられ、茶色の巻き毛が首のあたりまで下がっておりました。

いえ、目の色は表現できません──貴殿の知らない色ばかりです。それにしても貴殿の精神は主についての質問でいっぱいですね。これでも精一杯お答えしてあげてるつもりです。


──主についてのお話を読むといつもその時のお姿はどうだったのかが知りたくなります。私にとっても他の人たちにとっても、それが主をいっそう深く理解する手掛かりになると思うからです。主そのものをです。

 お気持ちはよく分かります。しかし残念ながら貴殿が地上界にいる限り主の真相はほとんど理解し得ないでしょう。現在の吾々の位置に立たれてもなお、そう多くを知ることはできません。それほど主は偉大なのです。

それほど地上のキリスト教界が説くような窮屈な神学からはほど遠いものなのです。キリスト者は主を勝手に捉えて小さな用語や文句の中に閉じ込めようとしてきました。

主はそんなもので表現できるものではないのです。天界においてすら融通無碍であり、物的宇宙に至っては主の館の床に落ちているほこり一つほどにしか相当しません。にもかかわらずキリスト者の中には主にその小さなほこりの中においてすら自由を与えようとしない人がいます。この話はこれ以上進めるのは止めましょう。


──それにしても、アーネルさん、あなたは地上では何を信仰しておられたのでしょうか。今お書きになられたことを私は信じます。が、あなたは地上におられた時もそう信じておられたのですか。

 恥ずかしながら信じていませんでした。と言うのも、当時は今日に較べてもなお用語に囚れていたのです。しかし正直のところ私は神の愛について当時の人たちには許しがたい広い視野から説いていました。それが私に災いをもたらすことになりました。

殺されこそしませんでしたが、悪しざまに言われ大いに孤独を味わわされました。今日の貴殿よりも孤独なことがありました。貴殿は当時の私よりは味方が多くいます。

貴殿ほど進歩的ではありませんでしたが、当時の暗い時代にあっては、私はかなり進んでいた方です。現代は太陽が地平線を緩めはじめております。当時はまさに冬の時代でした。


──それはいつの時代で、どこだったのでしょう?

 イタリアです。美しいフローレンスでした。いつだったかは憶えてはいません。が神が物事を刷新しはじめた時代で、人々はそれまでになかった大胆な発想をするようになり、教会が一方の眉をひそめ国家がもう一方の眉をひそめたものです。

そして──そうでした。私は人生半ばにして他界し、それ以上の敵意を受けずに済みました。


──何をなさっていたのでしょう。牧師ですか?

 いえ、いえ、牧師ではありません。音楽と絵画を教えておりました。当時はよく一人の先生が両方を教えたものです。


──ルネッサンス初期のことですね?

 吾々の間ではそういう呼び方はしませんでした。でも、その時代に相当しましょう。そうです! 今日と同じように神がその頃から物事を刷新しはじめたのです。

(それが何を意味するのかがこれからあとの通信の主なテーマとなる──訳者)そして神がそのための手を差しのべるということは、それに応えて人間もそれに協力しなければならないことになります。大いに苦しみも伴います。

が刷新の仕事は人間一人苦しむのではありません。主のベルトのルビーの宝石を思い出して、主がいつもお伴をして下さっていると信じて勇気を出していただきたいのです。
アーネル ± 


3 マンダラ模様の顕現
一九一八年三月 八日 金曜日

 吾々招待にあずかった者が全員集合すると、主のお伴をしてきた天使群が声高らかに讃美の聖歌を先導し、吾々もそれに加わりました。貴殿はその聖歌の主旨(モチーフ)を知りたがっておられる。それはおよそ次のようなものでした。


 「初めに実在があり、その実在の核心から神が生まれた。
 神が思惟し、その心からことばが生まれた。
 ことばが遠く行きわたり、それに伴って神も行きわたった。神はことばの生命(イノチ)にして、その生命がことばをへて形態をもつに至った。

 そこに人間(ヒト)の本質が誕生し、それが無窮の時を閲(ケミ)して神の心による創造物となった。さらにことばがそれに天使の心と人間の形体とを与えた。

 顕現のキリストはこの上なく尊い。ことばをへて神より出て来るものだからである。そして神の意図を宣言し、その生命がキリストをへて家族として天使と人間に注がれる。

 これがまさしくキリストによることばを通しての天使ならびに人間における神の顕現である。神の身体にほかならない。

 ことばが神の意志と意図を語ったとき虚空が物質に近い性質を帯び、それより物質が生じた。そして神より届けられる光をことばを通して反射した。

 これぞ神のマントであり、神のことばのマントであり、キリストのマントである。

そして無数の天体がことばの音楽に合わせて踊った。その声を聞いてよろこびを覚えたのある。なぜならば、天体が創造主の愛を知るのはことばを通して語るその声によるのみだからである。

 その天体はまさに神のマントを飾る宝石である。

 かくして実在より神が生まれ、神よりことばが生じ、そのことばより宇宙の王としてその救済者に任じられたキリストが生まれた。

 人間は永遠にキリストに倣う。永遠の一日の黄昏どきに、見知らぬ土地、ときには荒れ果てた土地を、わが家へ向けて、神へ向けて長き旅を続けるのである。今はまさにその真昼どきである。

 ここが神とそのキリストの王国となるであろう」


 こう歌っているうちにホール全体にまず震動がはじまり、やがて分解しはじめ、そして消滅した。そしてそれまで壁とアーチに散らばっていた天使が幾つかのグループを形成し、それぞれの霊格の順に全群集の前に整列しました。

その列は主の背後の天空はるか彼方へと続いていました。さらに全天にはさまざまな民族の数え切れないほどの人間と動物が満ちておりました。全創造物が吾々のまわりに集結したのです。

 動物的段階にあった時代の人間の霊も見えます。さまざまな段階を経て今や天体の中でも最も進化した段階に到達した人種もいます。さらには動物的生命───陸上動物と鳥類──のあらゆる種類、それに、あらゆる発達段階にある海洋生物が、単純な形態と器官をしたものから複雑なものまで勢揃いしていたのです。

 さらには、そうした人類と動物と植物を管理する、これ又さまざまな段階の光輝をもつ天使的存在も見えました。その秩序整然たる天使団はこの上ない崇高性にあふれていました。それと言うのも、ただでさえ荘厳なる存在が群れを成して集まっていたからであり、

王冠のまわりに位置していた天使団も今ではそれぞれに所属すべきグループのメンバーとしての所定の位置を得ておりました。

 全創造物と、中央高く立てるキリスト、そしてそのまわりを森羅万象が車輪のごとく回転する光景は、魂を畏敬と崇拝の念で満たさずにはおかない荘厳そのものでした。

 私がその時はじめて悟ったことですが、顕現されるキリストは、地上においてであれ天界においてであれ、キリストという全存在のほんの小さな影、その神性の光によって宇宙の壁に映し出されたほのかな影にすぎないこと、そしてその壁がまた巨大な虚空の中にばらまかれたチリの粒から出来ている程度のものであり、その粒の一つ一つが惑星を従えた恒星であるということです。


 それにしても、その時に顕現された主の何とお美しかったこと、そしてまた何という素朴な威厳に満ちておられたことでしょう。全創造物の動きの一つ一つが主のチュニック、目、あるいは胴体に反映しておりました。

主の肌の気孔の一つ一つ、細胞の一つ一つ、髪の毛の一本一本が、吾々のまわりに展開される美事な創造物のどれかに反映しているように思えるほどでした。


──あなたが見たとおっしゃる創造物の中にはすでに地上から絶滅したものやグロテスクなもの、どう猛な動物、吐き気を催すような生物──トラ、クモ、ヘビの類──もいたのでしょうか。


 ご注意申し上げておきますが、いかなる存在もその内側を見るまでは見苦しいものと決めつけてはいけません。

バラのつぼみも身をもちくずすとトゲになる、などという人がいますが、そのトゲも神が存在を許したからこそ存在するわけで、活用の仕方次第では美しき女王のボディガードのようにバラの花を護る役目にもなるわけです。

 そうです、その中にはそういう種類のものもいました。バラとトゲといった程度のものだけでなく、人間に嫌われているあらゆる生物がいました。神はそれらをお捨てにならず、活かしてお使いになるのです。

 もっとも吾々は、そうした貴殿がグロテスクだとか吐き気を催するようなものと呼んだものを、地上にいた時のような観方はせず、こちらへ来て教わった観方で見ております。その内面を見るのです。

すると少しもグロテスクでも吐き気を催すようなものでもなく、自然の秩序正しい進化の中の一本の大きな樹木の枝分かれとして見ます。

邪悪なものとしてではなく、完成度の低いものとして見ます。どの種類もある高級霊とその霊団が神の本性の何らかの細かい要素を具体的に表現しようとする努力の産物なのです。

 その努力の成果の完成度が高いものと低いものとがあるというまでのことで、神の大業が完成の域に達するまでは、いかなる天使といえども、ましてや人間はなおのこと、これは善であり、これは邪性から生じたものであるなどと宣言することは許されません。

内側から見る吾々は汚れなき主のマントの美しさに固唾(かたず)をのみます。中心に立たれたそのお姿は森羅万象の純化されつくしたエッセンスに包まれ、それが讃仰と崇敬の香りとなって主に降り注いているように思えるのでした。

 その時の吾々はもはや第十界の住民ではなく全宇宙の住民であり、広大なる星辰の世界を流浪(さすら)い、無限の時を眺望し、ついにそれを計画した存在、さらには神の作業場においてその創造に従事した存在と語り合ったのです。

そして新しいことを数多く学びました。その一つひとつが、今こうしてこちらの大学において高等な叡智を学びつつある吾々のように創造界のすぐ近くまでたどり着いた者のみが味わえる喜びであるのです。

 かくして吾々はかの偉大なる天使群に倣い、その素晴らしい成果───さよう、虫けらやトゲをこしらえたその仕事にも劣らぬものを為すべく邁進しなければならないのです。

それらを軽視した言い方をされた貴殿が、そのいずれをこしらえようとしても大変な苦労をなさるでしょう。そう思われませんか。ま、叡智は多くの月数を重ねてようやく身につくものであり、さらに大きな叡智は無限の時を必要とするものなのです。

 そこで吾々大学で学んでいた者がこうして探究の旅から呼び戻されて一堂に招集され、いよいよホールの中心に集結したところで突如としてホール全体が消滅し、気が付くと吾々は天使の塔のポーチの前に立っているのでした。

 見上げると王冠はもとの位置に戻っており、すべてがその儀式が始まる前と同じになっておりました。ただ一つだけ異なっているものがありました。

こうした来訪があった時は何かその永遠の記念になるものを残していくのが通例で、この度はそれは塔の前の湖に浮かぶ小さな建物でした。ドームの形をしており、水面からそう高くは聳えておりません。

水晶で出来ており、それを通して内部の光が輝き、それが水面に落ちて漂っております。

反射ではありません。光そのものなのです。かくしてその湖にそれまでにない新しいエネルギーの要素が加えられたことになります。


──どんなものか説明していただけませんか。

 それは無理です。これ以上どうにもなりません。地上の人間の知性では理解できない性質のものだからです。それは惑星と恒星のまわりに瀰漫するエネルギーについての吾々の研究にとっては新たな一助となりました。

そのエネルギーが天体を包む鈍重な大気との摩擦によっていわゆる〝光〟となるのです。

吾々はこの課題を第十一界においてさらに詳しく研究しなければなりません。新しい建造物はその点における吾々への一助としての意味が込められていたのです。
                               アーネル ±

──カスリーン、何か話したいことありますか。

  あります。こうして地上へ戻って来てアーネルさんとその霊団の思念をあなたが受け取るのをお手伝いするのがとても楽しいことをお伝えしたいのです。

みなさん、とても美しい方たちばかりで、わたしにとても親切にしてくださるので、ここでこうして間に立ってその方たちの思念を受信し、それをあなたに中継するのが私の楽しみなのです。


──アーネルさんはフローレンスに住んでおられた方なのに古いイタリア語ではなく古い英語で語られるのはどうしてでしょう?

 それはきっと、確かにフローレンスに住んでおられましたが、イタリア生まれではないからでしょう。

私が思うにアーネルさんは英国人、少なくとも英国のいずれかの島(※)生まれだったのが、若い時分に移住したか逃げなければならなかったか──どちらかであるかは定かでありませんが──いずれにしても英国から出て、それからフローレンスへ行き、そこに定住されたのです。

その後再び英国へ帰られたかどうかは知りません。当時はフローレンスに英国の植民地があったのです。(※英国は日本に似て大小さまざまな島から構成されているからこういう言い方になった──訳者)


──誰の治世下に生きておられたかご存知ですか。

 知りません。でも、あなたがルネッサンスのことを口にされた時に想像されたほど古くはないと思います。どっちにしても確かなことは知りませんけど。


──どうも有難う。それだけですか。

 これだけです。私たちのために書いてくださって有難う。


──これより先どれくらい続くのでしょう?

そんなに長くはないと思います。なぜかって? お止めになりたいのですか。


──とんでもない。私は楽しんでやってますよ。あなたとの一緒の仕事を楽しんでますよ。それからアーネルさんとの仕事も。でも最後まで持つだろうかと心配なのです。つまり要求される感受性を維持できるだろうかということです。このところ動揺させられることが多いものですから。

 お気持ちは分かります。でも力を貸してくださいますよ。そのことは気づいていらっしゃるでしょう? 邪魔が入らなくなったことなど・・・・・・アーネルさんがこれから自分が引き受けるとおっしゃってからは一度も邪魔は入っていませんよ。


──まったくおっしゃる通りです。あの時までの邪魔がぴたっと入らなくなったのが明らかに分かりました。ま、あなたが〝これまで〟と言ってくれるまで続けるつもりです。神のみ恵みを。では又の機会まで、さようなら。
 おやすみなさい。 カスリーン

シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳



第8章 動物と人間との関わりあい

【Q1】
霊的に正しければ、物的な面もおのずから正されるとおっしゃっていますが、痛みつけられ、大量に殺戮され、酷使されるために生まれてきているとしか思えない動物には、それは当てはまらないように思います。動物は、何も悪いことはしていないのではないでしょうか?

 その見方は間違いです。同じく霊といっても、人間の霊と動物の霊とでは、範疇(カテゴリー)が違うのです。人間には正しい選択をすべき義務が与えられています。

 いい換えれば、そこに自由意志の行使が許されているということです。それによって人間は、宇宙の進化を促進することもあれば、妨害することもあるわけです。この天体上で共存している動物に関しても、それをどう扱うかについて、ある一定範囲で選択する自由が与えられています。

 人間の世界には悪用・誤用が多過ぎます。そのなかでも決して小さいとはいえない問題が、動物への残酷な医学的行為と、食糧としての身勝手な濫用です。しかしこれは、人間が進化するための、一種の必要悪なのです。もしも人間から自由意志を奪ったら、個的存在としての発達と進化を遂げるチャンスがなくなってしまいます。ここに問題の核心があります。


【Q2】
そういう事態が生じることが、なぜ許されるのかが理解できません。

 「生じることが許される」ことに疑問を抱くということは「許されないようにすべきである」とお考えになっていることになりますが、それは人類から自由意志を奪ってしまうことになります。繰り返しますが、自由意志を奪ってしまえば、人類はただの操り人形となってしまい、内部の神性を発現するチャンスがなくなってしまいます。霊的資質が発達せず、地上生活の基本的な目的が失われます。

 地上世界は、霊にとっての保育所であり、学校であり、トレーニング・センターです。さまざまな挑戦に遭遇し、それを克服しようと努力するなかで自由意志を行使してこそ、霊性が進化するのです。


【Q3】
人間が動物に対して間違いを犯せば、その天罰は動物ではなくて、人間の頭上に降りかかるべきだと思うのですが‥‥。

 「埋め合わせと懲罰」の法則があります。あなたが行なう善いこと悪いことのすべてが、自動的に霊的な影響を及ぼします。大自然の因果律を免れることは絶対にできません。

 埋め合わせと懲罰の法則は、その中核をなすものです。罪もない庶民が、支配者の横暴によって被る犠牲に対して埋め合わせがあるように、残虐な取り扱いを受けた動物にも、それなりの埋め合わせがあります。


【Q4】
人類は、これからもずっと、動物に残酷な扱いを続けるのではないかと思うのですが。

 いえ、そうとばかりも言えません。他の生命に対する責任を少しずつ理解していくでしょう。一朝一夕に残虐行為がなくなるとは言いません。人類は進化しつつある世界の、進化しつつある存在です。絶頂期もあれば奈落の底もあり、向上もすれば転落もします。が、進化というのは螺旋状(スパイラル)に進行するもので、一見すると向上しているようには見えなくても、全体として見ると、徐々に向上しているものです。

 そうでないと、進化していないことになります。無限の英知と愛によって、すべての物、すべての人間について、然るべき配慮が行き届くように構成されていることを認識しなくてはいけません。


【Q5】
残酷なことをしたら、その結果がすぐに出るといいのですが‥‥。どうも人類は、うまく罪を免れているように思えてなりません。

 うまく罪を免れる者は一人もいません。摂理は間違いなく働きます。たとえ結果が地上で出なくても、霊界で出ることを断言します。因果律は、いかなる手段をもってしても変えられません。

永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があれば必ず結果が生じます。それから逃れられる者は一人もいません。もしいたら、大霊は大霊としての絶対的な条件である「完全なる公正」を失います。

 そのこととは別にもう一つ、私がいつも強調していることがあります。残念ながら人類は、宿命的に短期間の視野しか目に入らず、永遠の観念でものごとを考えることができないことです。あなた方には、地上で発生していることしか目に入りませんが、その結果は霊界で清算されています。


【Q6】
地上の動物が、気高い情や知性といった人間的資質を発達させた場合でも、死後は、やはり動物のままなのでしょうか?それとも、そのうち人間界へと進化していくのでしょうか?

 進化も自然の摂理の一部です。これにも一本の本流とたくさんの支流とがありますが、全体として同じ摂理の一部を構成しています。あなた方人間に潜在している霊性と動物の霊性とは、質的にはまったく同じものです。進化の度合において差があるだけで、本質においては違いはありません。

 霊は無限ですから、可能性においては、人間でも動物でも驚異的な発現力を秘めていますが、霊的には両者とも、一本の進化の道に属しています。その道程の、どの段階で動物へ枝分かれし、どの段階で人類へ枝分かれするかは、だれにも確言できません。そこに、とりたてて問題となる要素はないと思います。


【Q7】
動物も人間と同じ進化の道程をたどるのでしょうか?

 動物は、動物独自の進化の道程をたどります。といっても、全生命の進化の背後に存在するパターンの一部です。発達と呼んだほうがよいかもしれません。

たとえば、もし私が 「子どもは親と同じ進化の仕方をするものですか?」 と聞いたら、その答えは 「イエス」 でもあり 「ノー」 でもあるでしょう。人類のすべてがたどるパターンは決まっているのですが、その枠内で、意識の発達に伴って自由意志の行使範囲が広がるからです。

 霊を宿したものは、例外なく無限の発達の可能性を秘めています。動物も、進化のパターンのなかで受けもっている役割にしたがった進化の道程をたどります。因果律は絶対です。現在あるものは、過去にあったものの結果です。それ以外にありようがないのです。

 生命の根源は一つです。千変万化の生命現象も、霊的な絆で一つにつながっているのです。が、草花、樹木、小鳥、野獣、あるいは人類が、それぞれの進化の法則によって支配されているように、動物も独自の法則によって、進化が規制されているのです。


【Q8】
動物界にも、高等・下等の差別があるのでしょうか?

 ありません。それぞれの動物に、たどるべき進化の道程があります。生あるものは霊であるがゆえに生きているのです。霊は生命であり、生命は霊です。ですから、創造されたもの───小鳥も魚も花も木も果実も、すべて霊なのです。

 高等・下等の問題ですが、これは無数の生命形態のなかの他の生命と比べて、進化のどの段階にあるかの差に過ぎません。たとえば人間は、魚に比べれば高い段階にあるかもしれませんが、霊界の上層界の存在に比べれば低い段階にあることになります。


【Q9】
動物のなかには、同族の他のものたちより抜きん出て発達していて、人類と同じ資質を発揮しているものがいるように見受けられますが‥‥。

 当然、そうあって然るべきです。なぜかと言いますと、進化の世界においては、進化を先どりした前衛的なものと、その種族の平均的な発達程度から遅れている後衛的なものとがいるものです。それはちょうど、人類においても天才とか改革者、聖人といった霊性を顕著に発揮して、人類の未来の姿を顕示している者がいるのと同じです。

動物のなかにも、同じ種族の者より数段も進化しているものがいて、人間にも匹敵するほどの英雄的行為や献身的行為を見せることがあるのも、同じ範疇に属します。

 資質の発達は、早い側面もあれば遅い側面もありますが、同じ天体上に棲息する生命体のすべての調和(のとれた生命連鎖)を維持するうえで、最終の責任を担っているのは人類です。

 しかし、人類がどのような(間違った)行為をしでかしても、大自然の摂理の一環として、必ずそれに対する埋め合わせの法則が用意されています。人類には、動物がそれなりの進化の道程を順調に歩むように配慮すべき義務があるのです。それを怠ると、それに対する代償を支払わなければなりません。残酷な扱いをしている人間は、その行為のすべてに対して、霊的な代償を支払わねばならなくなるでしょう。


【Q10】
動物に投与している抗生物質などの薬品類が、めぐりめぐって人間の体内へ入ってきている事実をどう思われますか?

 それは、他の生命に害悪を及ぼすと、必ずそれに対して責任をとらされるという、大自然の永遠のサイクルの一環です。他の生命に残酷な仕打ちをしておいて、それが生み出す結果を逃れるということは許されません。

 貪欲以外に何の理由づけもなしに、動物を檻のなかで飼育し、動物としての生得の権利を奪うことは、悪循環をこしらえることにしかなりません。そのサイクルのなかで因果律が生み出すものに対して、人間は苦しい代償を支払わねばなりません。

動物であろうと草花であろうと、小鳥であろうと人間であろうと、自然界全体が恵んでくれる最高のものを得るには、慈悲と愛と哀れみと、親切と協調しかないのです。


【Q11】
自分たちの使命を維持するために、人間は植物の生命を奪い、動物の卵や乳を横どりし、さらにひどいこととして、動物を殺して食べざるを得ません。こうした強盗にも似た生き方は、あなたがよく強調なさっている理性を反発させずにはおかないのですが、これを「愛の造物主」の観念とどう結びつけたらよいのでしょうか?

 人間は、自分たちのすることに責任をとることになっており、その行為の一つ一つが霊性に影響を及ぼします。その際に必ず考慮されるのが動機です。動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかった場合は、その行為はあなたの霊性にプラスに働きます。

 霊的摂理は、原因と結果との関係、種まきと刈り取りの原理のうえに成り立っており、これだけは絶対にごまかせません。あなたのすること、考えること、口にすることの一つ一つが、それ相当の結果を自動的に生み出します。そこに、ごまかしの余地はありません。

 悪いと知りつつ間違ったことをした場合は、その結果に対して責任をとらされます。その苦しみは自分で背負わねばなりません。善い行ないをした場合でも、それが見栄から出ていれば動機がお粗末でいけませんが、魂の自然な発露としての善行であれば、あなたを霊的に向上させます。それが摂理とうものなのです。

 常々申しあげているように、「殺害」の観念がつきまとう食品は、なるべく摂取しないほうがよろしい。殺すということは絶対にいけないことです。ただし、その動機を考慮しなければならないケースがあることは認めます。

 霊的向上をのぞむ者は、いかなる犠牲を払っても、大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければなりません。その摂理は霊的なものです。霊が発揮すべき側面は、いつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理にしたがって考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。

しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。そのために大霊は、自由意志というものをお与えになったのです。


【Q12】
地上界でおそろしい動物虐待が行なわれているのを見ていながら、なぜ霊界から阻止してくれないのでしょうか?

 それは、宇宙が自然の摂理で支配されているからです。(第10章Q1参照)。残念なことに、地上の人間の大半が、霊性の発達の欠如から、自分たちを生かしめているものが、同じ地上の他の生き物のすべてを生かしめているものと同じ「霊」であることを理解していません。つまり、動物も物的身体をたずさえた霊的存在であることに、理解がいかないのです。

 大半の人間は、自分たちが万物の霊長であると信じていながら、だからこそ他の生きものに対して責任があることに気づいていません。高い段階にいる者が、低い段階にいる者に手を差しのべるべきなのです。


【Q13】
生体解剖は許されることでしょうか、間違ったことでしょうか?人類に何らかの益をもたらすでしょうか?

 人間は、動物を解剖するという手段で自分たちの健康が達成されると信じて、何の罪もない動物に無用で残酷な行為や恐怖を与えていますが、これは間違いです。

 私は、動物を使っての実験のすべてに反対です。何一つ正当化する理由が見つからないのです。動物は、人間による保護と管理のもとに生きるべく、地球上に送られてくるのです。ですから、人間には、動物の成長と進化を促進させる義務があります。その動物をむごい目にあわせるのは、動物が人間に見せる愛着や献身や忠誠に報いる行為としては、いささかお粗末過ぎます。

自然界には、人間の病を治す薬効成分がいろいろなかたちで存在し、人間が発見するのを待っています。動物的創造物にそういう無益な干渉をしなくても、大霊は、必要なものはすべて用意してくださっているのです。

 霊界から援助している霊たち、人間の苦痛を軽減する方法を心得ている霊医たち、地上の医者が「不治」の診断を下した病を治すこともできるほど進歩した霊界の医学者たちは、生体解剖の手段はとりません。

山野に自生するハーブや霊的治療エネルギーを使用します。何ものにも苦痛は与えません。宇宙は道義的な意図で満ちあふれています。非道義的な意図は、大霊の摂理に反します。


【Q14】
人類は、生体解剖という手段では救えないということを悟る一歩手前まできているでしょうか?

 私は、生体解剖という手段では何一つ人類に益するものは得られない、と言っているのではありません。そういう痛い目にあわされるいわれのない動物に、残酷なことや苦しい思いをさせることは、宇宙の霊性に反することだから正しくないと言っているのです。そこのところが、医学界が理解できずにいるところです。

 人間は動物よりも大切な存在であるとの先入観で、動物実験を正当化し、それによって人類の健康と幸せを促進する権利があると思い込んでいます。しかし、これは間違いです。霊的に間違っていることは絶対に許されません。

この地球上において仲良く協力しあって、生きるべき者すべての幸せを促進する方向で、努力しなくてはいけません。

愛こそが摂理を成就させるのです(注)。

他の生物に苦しみを与えているようでは、人類に愛があるとは言えません。

訳注───「愛こそが摂理を成就させる(Love is the fulfilling of the law.)」の意味を私なりに解説しておくと───。

 宇宙の摂理は「進化」を志向して無限の次元にわたって構成されている。「良心が痛む」というのが、その顕著なあらわれである。したがって、ここで言う「成就する」とは、進化の方向へ向かって摂理が働くということになる。

 これは、イエスの有名なセリフ「右の頬を叩かれたら左の頬を出してやりなさい」(『マタイ5』)の訓えのなかで最高のかたちで具体化されていると考えられる。叩かれて叩き返していたら「目には目、歯には歯」の報復の繰り返しになって、業(カルマ)の消えるときがない。

どちらかが、その愚かさを悟って叩き返さない態度に出れば、そこで摂理が一段と高められた次元で成就される。その力が、本当の意味での愛であるということであろう。

Thursday, September 3, 2026

シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

 崇高な存在との対話

スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第7章 霊的治療(スピリチュアル・ヒーリング)その原理の目的と問題点

 【ヒーリングの原理(治療家グループを前にしてのシルバーバーチの霊言)】

 ヒーリングによって奇跡的に病気が治る───それはそれなりに素晴らしいことですが、その体験によって、その人が霊的真理に目覚めるところまでいかなかったら、そのヒーリングは失敗に終わったことになります。魂の琴線にふれたときこそ、本当に成功したといえるのです。なぜなら、その体験によって、魂の奥にある大霊の火花が放電し、輝きと威力とを増すことになるからです。

 ヒーリングの背後には、必ずそうした目的があるのです。あなた方は、そうして大霊の計画の一部を担って、この世に生まれてきているのです。すなわち、この世に在りながら、自分で自分が何者であるかを知らず、何のために生まれてきたかが悟れず、したがって、死ぬまで何をなすべきかがわからぬまま右往左往する大霊の子らに、霊的真理と永遠の実在を教えるために、人を癒すという力を与えられて生まれてきたのです。

 これほど大切な仕事はありません。その治療力で、たった一人でも魂を目覚めさせてあげることができれば、それだけでも、この世に生まれてきたことが無駄でなかったことになります。

 ヒーリングにも、いろいろあります。最も基本的なものは、磁気治療(マグネティック・ヒーリング)で、治療家の身体から出る豊富な磁気の一部を患者に分けてあげるものです。一種の物理療法と考えてもよろしい。これには霊界の治療家は関与しません。

 次の段階は、その磁気治療と、この後述べる純粋な霊的治療の中間に位置する心霊治療(サイキック・ヒーリング)で、遠隔治療(アブセント・ヒーリング)は主としてこの方法で行なわれます。

 そして最後が、本格的な霊的治療(スピリチュアル・ヒーリング)で、治療家が精神統一によって波動を高め、同時に患者の側の受け入れ態勢が整ったときに、一瞬のうちに行なわれます。

 人間の側から見れば奇跡に思えるかもしれませんが、因果律の働きによって、そういう現象が起きる機が熟していたのです。

 しかし、痛みや苦しみを取り除いてあげることが、ヒーリングの目的ではありません。あくまでも手段なのです。つまり、居眠りをしている魂を目覚めさせ、真の自分を見出させるための手段に過ぎないのです。

 病気で苦しみ続けてきた人が、あなた方による治療で奇跡的に治り、その体験によって霊的真理に目覚めて地上生活の意義を悟れば、あなた方は、遠大な地球浄化計画における責務を果たしたことになり、そうなってこそ、私たち霊界の者が援助したかいがあったことになるのです。



【Q1】
ヒーリングを行なうということは、どういうことでしょうか?

 生命力、すなわち霊的エネルギーが、そのヒーラーを通して患者に注ぎ込まれて魂と接触し、病気を引き起こした要因が何であれ、それによって乱されている調和を修復し、枯渇しているバッテリーに充電することです。

 大切なことは、ヒーラー自身も、それまでの人生で苦痛の何たるかを味わっていて、訪れる患者を真に思いやることができることです。治療の法則は、それを基盤にして働くのです。


【Q2】
病気になりやすい生活環境にいる患者の場合、体調を崩すたびに治療を施してあげるべきなのでしょうか?

 ヒーラーの役目は、救いを求めて訪れる魂に癒しを与えることです。その後、その患者がどうなるかは、あなたが関わることではありません。患者自身の責任です。身体が健康になっただけであれば、そのヒーリングは失敗だったことになります。本来の目的は、魂が目を覚まして活動的になることです。

 霊的治療の体験の結果として、患者がその後の人生のあり方について深く考えるようにならなければ、失敗だったとみなければなりません。ヒーラーを通して注がれるエネルギーは、身体の病気を癒すだけでなく、精神にも感動を与えて、人生とは何かについて革命的な理解をもたらさなければならないのです。時間がかかるゆえんです。


【Q3】
求められれば、同じ病気を何度でも治療してあげるべきだということでしょうか?

 あなたのほうから拒否してはなりません。一つの魂が救いを求めてきたのです。依頼されたヒーラーは、どう対処すべきかについて、勝手な規定を設けるべき立場にはありません。癒すことが仕事なのです。

それによって、患者の魂が感動すれば霊的啓発を得ることでしょう。かりに感動するまでに至らなくても、たとえ短い期間でも、身体が健康を取り戻すことになるでしょう。

 求められれば最善を尽くし、決して断ってはなりません。いつでも応じる態勢でいるべきです。その後、患者自身の不摂生によってさらに健康を害しても、それは患者自身の責任であって、あなたがかまうことではありません。


【Q4】
「魂に受け入れる用意ができる」とは、どういう意味でしょうか?

 黄金にたとえれば、掘り出されたままの土塊が、精製の過程をへて純金となったときです。浮き沈みのないモノトーンの人生───光ばかりで暗闇がなく、喜びばかりで悲しみがなく、食べるものが豊富にあって空腹を知らない人生を送っていたら、本当のありがたさはわかりません。人生の両極を体験してこそ、地上生活の目的と意義を理解することができるのです。


【Q5】
心霊手術によって治療できるようになるためには、ヒーラーは新たにどのような勉強が必要でしょうか?

 ヒーリングというものを、肉眼で確認できるかたちで見せるもののように考えてはなりません。ヒーリングの本質は霊的なものです。基本的には、患者の魂を目覚めさせることが目的です。

魂に受け入れる用意ができていれば、精神も正常となり、身体も正常となります。魂と精神と身体、この三者が正常な調和を取り戻すということです。その状態を健康というのです。全体の一体化であり、調和状態のことです。

 心霊手術で腫瘍を摘出すること自体は、ヒーリングの目的ではありません。目的は、あくまでも魂に感動を与えることです。その意味では、霊にもガンが生じることがあり得ることになります。

利己主義、その他の悪性の腫瘍が潜在しているかぎりは、真の霊的成長は得られません。生命現象で支配的な立場にあらねばならないのは霊性です。霊性が支配的になるまでは、調和も健康も幸せも充実感も得られません。


【Q6】
一瞬の間の治療も、霊的発達程度とカルマ、その他もろもろの要素が絡んでいるとおっしゃっていますが、ブラジルやフィリピンでは心霊手術によって簡単に治っています。どう違うのでしょうか?

 それもすべて因果律という自然法則の働きの結果です。患者の魂のヒーリングを受ける機が熟すると、そのチャンネルとなるべきヒーラーと出会うように環境条件が整うものです。そして、結果的に心霊手術がうまくいったとします。

が、たとえ腫瘍が摘出されて身体がらくになっても、それだけで自動的に魂の霊性が目覚めるわけではありません。霊的摂理の働きでそういう段階に到達し、これから魂の霊性が点火されて大きな焔となって燃えあがる、千載一遇のチャンスが訪れたということです。

 つまり、二つの要素が働いているわけです。一つは、その患者の魂のヒーリングを受ける用意が整い、その結果を出せるヒーラーと出会う、というめぐりあわせです。

もう一つは、そのヒーリングの影響によって患者の霊性が目覚め、霊的自覚の光のなかで生きるようになる絶好のチャンスとのめぐりあわせです。病的症状は消えても、霊的感性が芽生えなかったら、物的には成功しても、霊的には失敗だったことになります。


【Q7】
その種の霊的な外科手術は、治療法として問題ないのでしょうか?
 「果実によりて木を知るべし」(『マタイ伝』)「毛を刈り取られた羊には神は風を和らげる」(フランスのことわざ)といいます。霊的エネルギーは、時と場所、国と時代によって条件が異なります。

また、霊的現象の操作と霊的エネルギーの注入は、総合的な判断のもとで計画的に実施されます。基本的には、患者の身体的、精神的、そして霊的必要性にあわせて行ないます。具体的には体質、教育、環境、理解力を勘案したうえで、どういう治療法が最も適切かを決めます。


【Q8】
心霊手術がブラジルやフィリピンで行なわれて、英国で見られないのはなぜでしょうか?

 霊的気候が異なるからです。精神的風土も異なります。(それらの国では)目に見える現象的な方法のほうが、より霊妙な影響力を使用する方法よりも要求されるのです。それはちょうど一〇〇年前(一九世紀後半)の英国で、目に見えない霊的なものを物理的な現象で演出する必要があったのと同じです。現在の英国ではその必要はありません。

 しかし、教育水準、文化程度、理解力などが英国と大きく異なる国においては、現在でも現象的なものが要請されています。そこに生活する人々の必要性にあわせなければならないのです。


【Q9】
でも、現在の英国でも、そういう手術に興味をもちながら、要望がかなえられずにいる人が大勢います。やはり、気候が大きな要素なのでしょうか?

 一つには気候です。大気が手術に大きく影響するからです。しかし、同時に霊的な条件もあります。心霊手術は、英国に住んでいる人には向いていません。問題は、人間が何を望んでいるかではなくて、何がいちばん向いているかです。高度な霊的資質を秘めていながら、最低の物的次元のものを求めている人が多過ぎます。これでは進歩も発達も望めません。


【Q10】
私は、たった今、ガン患者を治療してきたのですが、痛みが出始めました。納得がいかないのですが‥‥。

 痛みをやわらげるだけなら可能でしょう。医学的な方法もあります。痛みだけを問題とするなら、むずかしくはありません。耐え切れないほどになっても、霊的に見れば、まだまだ最終判断を下す段階ではないというのが私の持論です。

 もしも一個の霊の地上的生命について、きわめて限られた医学的知識しかもちあわせない医師に、その最終判断を下す権利を与えてよいと私が申し上げたら、これまで私が説いてきた教えを裏切ることになるでしょう。


【Q11】
霊界の医師には、ガンの治療法がわかっているのでしょうか?

 あらゆる種類のガンを治す一つの治療法という意味での、特殊な治療法はありません。原因が同じではないからです。肉体的原因もあれば精神的原因もあり、霊的原因もあります。それらを同じ方法で治療することはできません。

 さらに、それ以前の問題として、霊界と地上界の関係のあり方について理解していただかねばならないことがあります。私たちは、あなた方がてこずっている問題に関して「こうしなさい、ああしなさい」と要請されれば、何でも簡単に解決策を教えるというようなことはしません。地上界の問題は、地上界の人間が解決するのが本筋です。

しかし、いくら努力を重ねてみても、罪のない動物に残酷な苦しみを与えたり、人間としての本来の生き方を間違えたり、あるいは患者がまだ癒されるだけの資格が整っていなければ、本当の治療法は見つかりません。

 霊界からの働きかけは二通りあります。一つは、霊的な理解のある人間が真摯に、そして献身的に霊的治療にたずさわっていれば、親和力の法則で同じ分野を専門とする高級霊を呼び寄せて、援助を受けます。

 もう一つは、患者の魂に受け入れ態勢が整ったときに摂理が働いて、霊的な治療エネルギーが注入されます。ヒーリングはすべて、霊的エネルギーによって行なわれるのです。

魔法の杖があるわけではありません。霊力がその患者の魂に引き寄せられるのです。したがって、魂に受け入れる用意ができていなければ、反応は生じないことになります。魂の霊的意識が開かれるまでは、磁気的なつながりはできません。閉じられたままであれば、何の接触も生じません。
 もちろん、ほかにもいろいろと要素があります。病気の原因が何であるかによっても違ってきます。何を目的に生まれてきたかによっても違ってきます。誕生するに当たって特殊な体質の身体を選んだ場合は、それも考慮に入れなくてはなりません。この問題は単純ではないのです。


【Q12】
癲癇になる原因は何でしょうか?また、治るのでしょうか?

 原因は脳に障害があって、精神からの連絡を正しく受け止められなくしていることです。もちろん、いかなる病気も治ります。“不治の病”というものはありません。治してもらえない人がいるだけです。


【Q13】
幼い子供が激痛を伴った不治の病に苦しんでいる場合、何に原因があるのでしょうか?また、公正といえるでしょうか?
 霊的な問題を物的な尺度で解くことはできません。永遠という時を、地上生活というカケラほどの体験で裁いてはいけません。無限の摂理によって支配されている神の公正を、目の前の束の間の現象だけで理解することはできません。

小さいものが大きいものを理解することはできません。一滴の水が大海を裁けるでしょうか。部分に全体がわかるでしょうか。

 宇宙は私たちの想像を絶した摂理によって経綸されており、これに私は常に敬虔な敬意を払っています。完全な英知から生み出されたものだからです。誤りというものがあり得ないのです。人間の目から見れば公正とは思えないかもしれませんが、それは限られた一部しか見ていないからです。

全体を見ることができれば、ご意見も変わるでしょう。ほんの短い地上人生を送っている人間には、永遠は理解できません。埋めあわせ、ないしは償いというものが、どういう具合に行なわれるか、人間には理解できません。

 あなた方には、霊の世界の豊かさ、美しさ、不思議さを理解する手だてがありません。地上のどこを探しても、比較・対照するものが見当たらないからです。

ならば当然、理不尽と思える事態の裏側にどのような摂理が働いているかを、判断力も視野も限られているはずのあなた方に、どうして説明できましょう?不公平や理不尽を口にされる方は、まだ人間を身体だけの存在として考えている、つまり物的世界の観点から考えており、永遠の観点から見ていないのです。

 霊そのものは、性病を患うことはありません。霊が不具になったり、奇形になったり、腰が曲がったりすることはありません。親の遺伝的体質や後天的性癖は受け継ぎません。地上で自我を表現するために宿っている身体には影響しますが、それが個性を変えてしまうことはありません。

 たしかに、地上的観点から見れば、つまり物的見地からのみ人生を見つめれば、病弱な身体で生まれてきた人のほうが、健康な身体で生まれてきた人より辛い思いをすることでしょうが、それは宿っている霊については当てはまりません。

身体が病弱だからといって霊も貧弱ということはなく、身体が健康だからといって、霊も健全というわけではありません。それどころか、霊的進化にとってかけがえのない体験である痛みと苦しみを数多く味わっただけ、それだけ霊的に豊かになっているとも言えるのです。


【Q14】
治らない患者は、治る資格がまだできていないからだとおっしゃいましたが、それでは単純すぎるように思えるのです。それでは悪人はいつまでたっても治らず、善人はいつでも治るということになるからです。

 そんなに単純なものではありません。それは、あまりに皮相な見方です。問題を霊の目で見ていないからです。たとえば、苦難は人間にとってはご免こうむりたいものでしょうが、私たちから見れば実にありがたいものなのです。凶事に遭うと、人間は万事休すと思いますが、私たちの立場から見ると、それが新たな人生の始まりであることがあるのです。

 善とか悪とかいった用語を、あたかも善人という人種、悪人という人種がいるかのように、物的基準で用いてはいけません。私たちの価値基準は、あなた方の価値基準とは必ずしも同じではありません。私は、治るためにはそれだけの霊的な資格がなければならないと言っているのです。善人とか悪人といった言い方はしていません。

魂が真の自我に目覚めれば治る資格ができたことになります。そうなったときに、治療が効を奏するのです。


【Q15】
カルマとの関係はどうでしょうか?

 患者のなかには、前世でこしらえたカルマをもち越している人がいます。そのカルマ、つまり因果律が成就されずに残っている場合は、治療効果が出ないでしょう。

 霊的進化の過程で因果律が成就している場合、つまり、原因に対する結果が出切って、カルマが清算されている場合は、治療は成功するでしょう。魂に霊的治癒エネルギーを受け入れる準備ができているからです。


【Q16】
その治癒エネルギーをそちらで準備する、つまり、一人ひとりの患者の特殊な条件にあわせて調合する方法を教えていただけませんか?
 これは、説明がとても困難です。非物質的なものを叙述する用語が見当たらないからです。よく理解していただきたいのは、そのエネルギーは生命力そのもの、生命素そのものであることです。生気そのものです。無限に存在するものです。融通無碍(ユウズウムゲ)、つまり無限の形態をとることができます。どんな組み合わせでも可能です。

 その仕事にたずさわる者として、知識と経験と理解力を身につけた、さまざまな次元の霊がひかえています。地上の化学者や科学者に相当する人たちもいます。そうした霊は、この生命力、この霊的エネルギーのさまざまな成分を調合して、一つの特性をもったものをこしらえる、英語で言えば「characterize」するのです。

これはよい表現です。絶えず実験を繰り返しています。チャンネルである治療家を通して、病状を念頭において可能なかぎり調整しています。

 こうした説明しかできません。要するに、訪れる患者に応じてエネルギーが調整されるのです。これには、患者のオーラが大いに参考になります。オーラには、病気を生み出した霊的および精神的状態が正直に残っていますから、それを参考にして調合します。


【Q17】
それには霊界の担当医の精神的(mental)な努力を要するのでしょうか?

 「mental」という用語は不適切です。実体のある作業だからです。実際に混合するのです。私たちも、あなた方のいう化学物質に相当する霊的素材を使用します。もちろん、精神(マインド)も使用します。霊界では、精神がすべてをこしらえるうえでの実体のある媒体だからです。


【Q18】
その治療エネルギーの通路として、ヒーラーの肉体または霊体は、どの程度まで使用されるのでしょうか?遠隔治療の場合とは違うことを念頭においての質問ですが‥‥。

 でも、遠隔治療でも、あなた方ヒーラーの身体が使われるのですよ。


【Q19】
肉体や霊体が使われるのですか?それとも単に患者と霊とを一体化するためのつなぎ役として使われるのでしょうか?

 ヒーラーの霊体を使用しなければなりません。


【Q20】
その過程を説明していただけませんか?

 ヒーラーは、テレビジョンのようなものです。霊的なバイブレーションがヒーラーに届けられ、それが半物質的治療光線に転換されて、それが患者に注がれます。ヒーラーは、変圧器のような役を果たしています。


【Q21】
それが、どうやって患者に届けられるのでしょうか?

 患者が治療を要請したということで、つながりができています。思念がヒーラーへ向けてのバイブレーションを生んでいます。そこに絆ができたわけで、その波長で治癒力が患者へ送られるのです。


【Q22】
自分のために、だれかが遠隔治療を要請してくれていることを患者自身が知らない場合は、どうなりますか?

 患者と関わりのあるだれかが知っているはずです。そうでなかったら、その患者に向けて治療が行なわれるはずがないでしょう。


【Q23】
ヒーラーが、病状を察して、一方的に遠隔で治療を施してあげる場合はどうなりますか?

 それだけで、霊的なつながりができています。


【Q24】
でも、患者のほうからは思念が出ていません。

 いえ、出ています。ヒーラーがその絆をこしらえています。こちらの世界では、思念に実体があることを忘れてはいけません。私があなたを見ても、肉体は見えません。霊媒の目を使えば見えるかもしれませんが…。

 私たちにとっては実体があるのは思念のほうであり、実体がないのは肉体のほうです。ですから、あなたが思念を出せば、それが実在物となるのです。それがバイブレーション──波動をこしらえ、それが遠隔治療で使用されるのです。


【Q25】
治療のたびに、それをこしらえる必要があるのでしょうか?

 一度つながりができれば、その必要はありません。霊界とのつながりはすべて磁気的なもので、一度できたら、二度と切れることはありません。


【Q26】
霊的治療を受けるうえで、信仰のあるなしは関係ないと理解していますが、患者が邪悪な思念を抱いていると、それが治療を妨げると考えてよろしいでしょうか?
 私は信仰をもつこと自体には反対していません。それが理性を土台としていて盲目的でなければ結構です。スピリチュアリズムの思想を正しく理解した方なら、手にした真理が全体のほんのひとかけらに過ぎないことはご存じと思います。

 物的身体に閉じ込められているあなた方が、真理のすべてを手にすることは不可能なことです。霊界へ来ても同じことです。となると、手にしたかぎりの知識を土台とした信仰をもたねばならないことになります。

 さて、そうした知識を土台とした理性的信仰をもっていることは、大いに結構なことです。そのこと自体に何ら問題はないと思います。それが治療にとって好ましい楽観的な雰囲気をこしらえるからです。霊的エネルギーは明るく楽しい、愉快な精神状態のときに最も有効に作用し、反対に、いじけて疑い深く、動揺しやすい心は、霊的雰囲気をかき乱して、治療の妨げとなります。


【Q27】
ヒーラー自身が病気になった場合は、他のヒーラーにお願いすべきでしょうか?それとも自分で治す方法があるのでしょうか?
 ほかのヒーラーにお願いする必要はありません。それよりも、いつも使用している霊的エネルギーを直接自分に奏効させる方法を工夫すべきです。神に祈るのに教会まで行く必要がないように、治癒エネルギーを自分自身に向けることができれば、他のヒーラーのところへ行く必要はありません。そのためには自分の心、自分の精神、自分の魂を開かないといけません。


【Q28】
サークル活動(勉強会・霊能養成会など)に参加できるヒーラーは、能力を発達させるうえで有利ですが、そういう機会に恵まれていない人のために何かアドバイスをいただけないでしょうか?それに、交霊会に出席することはヒーラーにとって不可欠でしょうか?

 あとのご質問からお答えしますと、これにはきっぱりと「ノー」と申しあげます。霊の能力はあくまでも霊の能力です。それを授かって生まれたのであり、授かった以上はそれを発達させる責任があります。ピアニストとしての才能をもって生まれた人は、練習と鍛錬によってそれを発達させなければならないのと同じです。

 では、治療能力はどうやって発達させるか。その答えは、サークル活動に参加することではありません。それもプラスにはなります。心に宿す動機によっても発達を促されます。日常生活の生き方によっても発達します。可能なかぎりの純粋性と完全性を目標とした心がけによっても発達します。できるだけ多くの人を治してあげたいという願望によっても発達します。

自我を発達させる唯一の方法は、自我を忘れることです。他人のことを思いやれば思いやるほど、それだけ立派になります。よい治療家になる方法を教えてくれる書物はありません。ひたすら他人のために役に立つことをしたいと願い、こう反省することです───「大霊は自分に治病能力を与えて下さったが、はたしてそれにふさわしい生き方をしているだろうか?」と。これを基本的姿勢として生きていれば、治病能力は自然に力を増し、質を高めていきます。


【Q29】
治療にたずさわるときは、ヒーラーは完璧な健康状態であるべきでしょうか?

 霊的なエネルギーで治療する人は、他の霊的現象の霊媒と同じく、道具です。つまり、受けたものを伝達するチャンネルです。自分の内部にためるのではなくて外部に送り出すのです。ですから、ヒーラーの身体のどこかが病んでいても、必ずしもそれが治病能力を阻害するとは限りません。治病能力は霊的なものであり、病気は物的なものです。


【Q30】
医者は、大病にもストレスや仕事上の心痛が原因であるものがあるといいます。そうしたケースでは(身体と精神と霊の)不調和は、どの程度まで関わっているのでしょうか?

 今、おっしゃったことは、私が別の言葉で言っているのと同じことです。仕事上の心痛と呼んでおられるのは、私の言う「不調和状態」のことです。精神と肉体と霊とが正しい連携関係にあれば、仕事上の心配も、その他いかなる心配も生じません。心配する魂は、すでに調和を欠いているのです。

 霊的実在についての知識を手にした者は、心配の念を宿してはなりません。とりこし苦労は陰湿な勢力です。霊性の進化した魂には縁のないものです。あなたは、それを仕事上の心痛と呼び、私は不調和状態と呼ぶのです。

 自分が永遠の霊的存在であること、それゆえ物質界には何一つおそれるものはないことを悟ったら、心配のタネはなくなります。


【Q31】
ほんの数分で治してしまうヒーラーもいれば、長時間かけても一向に変化が見られないヒーラーもいます。どうなっているのでしょうか?

 果実を見て木を知るべし、です。大切なのは結果です。ヒーラーは、霊団との最高の調和をめざして日常生活を律すべきです。そうすれば必ずよい結果が得られます。

 あなた方は、身を正すことだけを心がければよろしい。あとは私たちがやります。援助の要請が拒否されることはありません。霊力を出し惜しむようなことは絶対にいたしません。私たちは常に、お役に立つための努力を重ねています。人を選り好みしません。どんな人でも歓迎します。霊力は、すべての人に恩恵をもたらすべく存在しているのですから。

訳注───この質問に対する答え方には、いろいろな視点が考えられるが、この回答は抽象的過ぎるきらいがある。総合的にはQ13,14,15に尽くされているが、次のQ32がその具体例と言えるであろう。


【Q32】
幼児の両脚が奇形である場合に、片方は治ったのに、もう一方は何の反応も見せないことがあります。なぜでしょうか?

 それぞれの脚にそれぞれの原因があって、同じ治療法では治せないということです。一つ一つ治療法が異なります。それぞれの実情にあわせた治療が行なわれます。それぞれに特徴があるのです。

 こうした問題を地上のみなさんにできるだけ平易に説明しようとすると、とても骨が折れます。ほかにも考慮しなければならない条件がいろいろとあるのです。奥に隠れた原因があって、それに絡んだ霊的摂理が働いており、さらにその奥にも次元の異なる摂理が働いているのです。

 霊的治療は、見かけほど単純ではないのです。ただ、患部を治せばよいというものではありません。考慮されるのは、患者の魂の資質に関わることです。それにいかなる影響が及ぶか、治療がいかなる意味をもつことになるか、なぜその治療家のもとを訪れたのか、魂が目を覚ます霊的進化の段階に到達しているか、といったことです。

 いずれも物的尺度では、はかれないことばかりです。が、霊的治療にはそれらがすべて関わっているのです。なぜなら、治療にたずさわっている間は、生命力そのものを扱っているからです。ということは、宇宙の永遠の創造活動に参加していることになります。私が治療の重大性を強調する理由は、そこにあります。


【Q33】
精神に異常のある方は本当に気の毒でならないのですが、ヒーラーとして無力であることを痛感させられます。

 精神の病も治すことができます。私たちに身をゆだねる───あなたに要請されるのは、それだけです。自分を通して霊的エネルギーが流れるようにするのです。じかに治療できない患者には遠隔治療を施してあげなさい。霊的治療は、もはや地上に根づいています。退散させられることはありません。

 ヒーラーとしてのあなたにも、あなたなりの貢献ができます。しかも、とても重要な役割です。忘れないでいただきたいのは、無限の進化の計画のなかにおいて、あなたも神聖なる通路として大霊のお役に立っているということです。光栄このうえない仕事です。が、それだけに責任も重いということです。


【Q34】
心臓移植の問題ですが、霊的視点からどう見ておられますか?

 何ごとも動機が大切です。心臓移植にも、命を永らえさせてあげようという動機に発しているものがあることは、疑いの余地はありません。が、一度実験的に移植手術をしたことがはずみになって、次から次へと手術が行なわれるようになり、いつしか患者を救うという目的からはずれていくことになりかねません。

 それに、そもそも動物を残酷な目にあわせて治療法を開発しようとすること自体、霊的に見て許されることではありません。残酷な手段では健康は発見できません。人間のエゴに発した手段からは、大自然の秘密は見出せません。

 臓器を一人の人間から別の人間に移植することに、私は賛成できません。私は、輸血すら賛成できないのです。私は、あくまで私個人としての考えですが、そもそも物的生命を永らえさせることが、医学の至上目的であるとは思いません。地上の人間は、あくまで日常生活を霊的・精神的・物的の面で良心に恥じない生き方を心がけるように教育すればよい、という考えです。心に宿すことが正しければ行ないも正しくなり、身体も正常に働きます。

 臓器を移植することでは、病気の解決にはなりません。本当の解決法は大霊の意志にのっとった生き方に徹することです。同胞のことを思いやると同時に、この地球という天体を共有している生き物のすべてに対しても、思いやりの情をもたねばなりません。動物は、人間の物的寿命を延ばすための実験材料として地上に送られているのではありません。


【Q35】
現段階では、心臓移植は必ず失敗すると考えてよろしいでしょうか?

 成功することもあることは十分に考えられます。私が心配しているのは、霊的観点から見て、動物実験が間違った方向へ向かい始めていることです。

現在の医学界は、人間の幸せのために献身すべき者がとるべき方向へ進んでいません。今のやり方では、健康は見出せません。健康とは、調和のことです。医学がやっていることは、一時的な人体のパッチワークに過ぎません。

 人間の本質を理解しないといけません。いたって簡単なことです。人間は物的身体と精神と霊の三位一体の存在として、一人ひとりが独自に創造されています。三位一体ですから分解することはできません。

臓器だけを交換することはできないのです。三者で一つの全体を構成しているのです。健康というのは、その三者の一体化、調和、リズム、協調です。それが健康の要諦であり、薬品や医術によって健康になるのではありません。それは一時的な症状の緩和に過ぎません。
 人間は、あまりに無知の度が過ぎます。相変わらず 「死」 をおそろしい怪物のように扱っています。たしかに、死ぬことは怖いかもしれません。しかし、死も大自然の摂理の一環であることは、明らかな事実です。死なないようにすることが地上生活の目的ではありません。地球は、トレーニング・センターです。必ずおもむくことになっている次の生活の場にそなえて、教訓を学ぶところです。

 死すべきときが訪れたときは、いかなる医術をもってしても生き永らえさせることはできません。どうやら医学者も、何をもって死とするかは自信がないようです。死の瞬間について論争しています。が、本当の死は、玉の緒 (シルバーコード) が切れて、霊的身体が物的身体を離れたときです。その現象が起きたら最期、いかなる名医も生き返らせることはできません。

ベールの彼方の生活(四)

 著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)

近藤千雄 訳



三章 霊の親族(アフィニティ)
(アフィニティと言う用語はいわゆる類魂(グループソール)よりも親和性の強い間柄に使用される──訳者)

1 二人の天使 2 双子の霊 3 水子の霊


1 二人の天使
一九一八年 二月十一日 月曜日 

 では今夜もまた貴殿の精神をお借りして、前回私が〝歓送の儀〟ならびに〝顕現〟と呼んだところの行事を叙述してみたいと思います。この度の行事にはその両方がいっしょに取り行われたのです。

 今しも中央大ホールには大聖殿の総監からの召集で第十一界の各地から晴れやかな面持ちの群集が列をなして集まっていました。が、面持は晴れやかでも、姿全体にどこか緊張感が漂っています。

というのも、彼らにはこれより厳粛な儀式が行われることが分かっており、この機会に自分の進歩を促進させるものを出来るかぎり摂取しておこうという心構えで来ているのです。

その儀式には神秘的かつサクラメント的な性格があり、吾々はその意味を理解し、意図されている恩恵のすべてを身に受けるべく、上層界より届けられる高き波長に合わせる修行を存分に積んでいるのです。

 全員が集合した時、前回申し上げた天上の雲状のものを見上げたところ、その色彩が変化しつつあるのが分かりました。

私がそのホールへ入ったときは青い筋の入った黄金色をしていました。それが今は次々と入場する群集が携えてくる色調を吸収し融合していき、数が増えるにつれて色彩が変化し、そしてついに全員が集結した時は濃い深紅のビロードの色調となっていました。

地上の色彩の用語で説明すれば以上が精一杯です。実際にはその色彩の表情に上層界からの高度なエネルギーの影響が加わっており、すでに何かの顕現が行われる準備が出来ていることを窺わせておりました。

 そう見ているうちに、その雲状のものからあたかも蒸溜されたエッセンスのようなものが霧状となって降下し、甘美な香気と囁きの音楽とともに個々の列席者にふりそそぎ、心に歓喜と安らぎの高まりを引き起こし、やがて吾々全員が完全なる融和状態へと導かれていきました。

その状態はあたかも細胞のすべてが一体となって一個の人体を構成しているごとくに、出席者全員がもはや個人としてでなく全体として一つの存在となっているのでした。それほどまで愛と目的とが親和性において一つになり切っていたのです。

 やがて謁見の間へ通じる道路の前に一個の雲状の固まりが現われ、凝縮しつつ形体を整えはじめました。

さて私はこれより展開することを精一杯描写するつもりですが、貴殿によくよく留意しておいていただきたいのは、かりに貴殿がその通りを私と同じ界の者に語って聞かせたら、その人は確かにそういう現象があったことは認めても、言い落していること、用語の不適切さ等のために、実際に起きたものとは違うことを指摘するであろうと言うことです。

 その雲状の固まりは表面は緑色で、内側に琥珀色の渦巻状の筋が入っており、それに青色の天蓋がかぶさっておりました。

それが休みなくうごめいており、やがてどっしりとしたパピリオン──濃い青紫色の天井と半透明の緑と琥珀色の柱をした館──の姿を見せました。半円形をした周囲に全部で七本の柱が並び、さらに表面玄関の両わきに二本見えます。

この二本は全体が濃紫色で、白の縁どりのある深紅の渦巻状の帯が巻いています。

パピリオン全体がその創造に携わる神霊の意念によって息づき、その構造から得も言われぬメロディの囁きが伝わってくるのが感じ取れました───聞くというよりは感じ取ったのです。こちらでは貴殿らのように聞くよりも感じ取る方がいっそう実感があるのです。


 やがて天蓋の下、七本の柱のちょうど中央に当たる位置に一台の四輪馬車が出現しました。後部をこちらへ向けております。五頭の美しい馬が頭を上げ、その厳かなドラマに一役買っていることをさも喜ぶかのような仕草をするのが見えます。

肌はほのかな黄金色に輝き、たてがみと尾はそれより濃い黄金色をしております。見るからに美しく、胴を飾る繻子(サテン)の掛けものもパピリオンの色彩を反映してうっすらと輝いております。

 続いてその馬車の中に現れたのは美しい若い女性の姿でした。吾々の方を向いておられ、私の目にはその美しさのすべてを見ることができました。見れば見るほど、ただただ美しいの一語に尽きます。全身が地上に存在しない色合いをしております。

琥珀色といってもよろしいが、同じ琥珀でもパピリオンの柱のそれとは感じが異なります。

もっと光輝が強く、もっと透明ですが、柱には見られない実在感と永続性を具えております。上腕部には紫の金属でできた腕輪(バンド)をつけ、手首のところにルビーの金属の輪が見えます。

頭部には白と黄色の筋の入った真っ赤な小さい帽子をつけておられ、髪はあたかも沈みかかった太陽の光を受けているような、オレンジ色の光沢をした茶褐色をしております。目は濃紫に青の混じった色をしておられます。

 さて、そうしたお姿に見入っているうちに突如として私は天上界からお出ましになられたこの女神が・・・・・・いけません。

その方が吾々にいかなる意味を持つのか、本来の界においていかなるお立場にあるのかをお伝えしたいのですが、それを適確に言い表わす用語が思い当たりません。しばらく間を置かせてください。それからにしましょう。


 では、こう綴ってください。母なる女王。処女性。一民族を懐に抱きつつ、進歩と善へ向けての力として、その民族の存在目的の成就へと導く守護神。

一方において惰眠をむさぼり進歩性を失える民族に啓示をもたらしてカツを入れ、騒乱の危険を冒してでも活動へとかきたて、他において、永遠の時がこのいっときに集約され、すべてが安寧の尊厳の中に融和し吸収され尽くしたかの感覚をすべての者に降り注ぐ。

すべてを曝しても恥じることなく、美への誘惑がことごとく聖(キヨ)さと哀れみと愛へ向かうところの、恐れることを知らぬ心と純粋性。

以上のものをひとまとめにして、これを〝女王〟という一語で表してみてください。その時のお姿から吾々が得たものをお伝えするにはそれが精一杯です。

 さて、その女王が後ろを振り向いて一ばん近い二頭の馬に軽く手を触れられると、馬車はくるりと向きを変えて吾々の方へ向きました。

するとそこへホールの反対側の二階の回廊から一人の若者が降りてきて、中央の通路を通って馬車の近くで歩を止められました。そこで女王がにっこりと笑みを送ると、若者は後部から馬車に乗り、女王のそばに立ちました。

そのお二人が立ち並んでいる時の愛と聖なる憧憬の中の、得も言われぬ睦み合い───互いが己れの美を与え合って互いの麗しさを増しております。


──その若者の様子を述べていただけませんか。

 若者は右に立たれる女王をそのまま男性としたようなものです。両者は互いに補足し合うもの、言わば〝対〟の存在です。ただし一つだけ異なるところがありました。

身にまとわれた衣装がわずかながら女王のそれより赤みがかっていたことです。それ以外にお二人を見分けるものはとくにありませんでした。

性別も身体上ではなく霊性に表われているだけでした。にもかかわらず、一方はあくまで女性であり、他方はあくまで男性でした。ですが、お二人には役割があります。

 お二人は、これより、ある雄大な構想を持つ画期的な計画を推進する大役を仰せつかった一団の指揮者として参られたのです。

その計画の推進には卓越した才能と多大な力とを要するために、一団はそれまでに大聖堂を中心とした聖域において準備を整えてきたのでした。その計画というのはこうです。

 現在ある天体上の生命がようやく〝知性〟が芽生えはじめる進化の階梯に到達していて、その生命を動物的段階からヒトの段階へと引き上げ、人類としての種を確立させるためにその天体へ赴くというものです。

人類といっても、現在の地上人類のタイプと同一のものとはならないでしょうが、大きく異なるものでもなく、本質においては同種です。

一団はその人類のこの画期的段階における進化を指導する仕事を引き受けることになっているわけです。計画のすべてを受け持つのではありません。

また今ただちに引き受けるのではありません。今回は彼らの前任者としてその天体を現在の段階にまで導いてきた〝創造の天使たち〟と初めて面会することになっております。彼らは時おり休息と指示を仰ぎに帰ってきます。

その間、一部の者が残留して仕事を続行し、休息を得た者は再びその天体へ赴いて、残留組と交替し、そうやって徐々に仕事を広げて生きつつありますが、他方では(今回の一団のように)この界または他の界において、次の新たな進化の段階を迎える時に備えて、さらに多くの天使からなる霊団を組織して鍛錬を積んでいるのです。

彼らはその天体が天界の虚空を旅しながら首尾よくモヤの状態から組織体へ、単なる組織体から生ける生命体へ、そして単なる生命体から知性を具えた存在へ──これを地上に擬(なぞら)えて言えば、動物的段階から人間的存在を経て神格を具えた存在へと進化していくのを陰から援助・促進するのです。

 間もなく吾々の見送りを受ける一団は、これから最初の試練を受けることになります。

といって、いきなり創造に携わるのではなく──それはずっと先の話です──創造的大業の末端ともいうべき作業、すなわち、すでに創造された生命を別の形体へと発展させる仕事を割り当てられます。

それも、原理的には創造性を帯びておりますが、まったく新しい根源的な創造ではなく、低級な創造物の分野にかかわる仕事です。

 ここで注目していただきたいのは、お二人が出現なさった時、順序としてまず女性の方が馬車の中に姿をお見せになり、それから男性が姿を見せたことです。

この王国においては女性原理が優位を占めているからです。が、お二人は並んでお立ちになり、肩を並べて歩まれます。

そこに謎が秘められているのです。つまり一方が主であり他方が従であるはずのお二人がなぜ等位の形で一体となることが出来るかということです。現実にそうなっているのです。しかし私からこれ以上話さないことにします。

あなた方ご自身でお考えいただくことにいたしましょう。理屈でなしに、真実性を直感していただけると思うのです。(章末にその謎を解くカギが出てくる──訳者)

 いよいよその厳粛なる使命のために選ばれた霊団──遠く深い暗黒の虚空の最果てへ赴く霊団がやってまいりました。彼らが赴くところは霊質に代って物質が支配する世界です。

ああ、光明の天界より果てしなく濃密な暗黒の世界へ──環境はもとより、吾々と同じ根源を有する生命の火花を宿す身体も物質で出来ている奈落の底へと一気に下がって行くことが吾々にとっていかなることを意味するか、貴殿にはまず推し測ることはできないであろう。

 かつて私も霊団を従えて同じような境涯へ赴いたのです。不思議といえば不思議、その私と霊団が今こうして物的身体に閉じ込められた貴殿に語りかけているとは。

もっとも、吾々の目には貴殿の霊的身体しか映じません。それに向けて語りかけているのです。が、可憐なるカスリーン嬢が彼女特有の不思議な魔力を駆使して吾々よりさらに踏み込み、直接貴殿の物的脳髄と接触してくれております。

 さて今回はこれ以上述べることはありません。質問が幾つかおありのようですね。私にはそれが見て取れます。お書きになってください。次の機会にお答えしましょう。
                           アーネル ±

 訳者註──ここには記載されていないが、実際にはこのあと質問事項が箇条書きにしたことが四日後の次の通信の冒頭から窺われる。




2 双子の霊
一九一八年 二月十五日 金曜日

──前回お話しくださった儀式のことは、あれでおしまいですか。まだお話しくださることがあるのでしたら、私の質問に対する答えはあとまわしにしてくださって結構です。そちらのご都合に合わせます。

 どちらでも結構ですが、(前回のおしまいのところで)お書き留めになった質問の中に今ここでお答えしておいた方がよいものがあるようです。


──〝二人の天使は地上ではどこの民族に属していたか〟──この質問のことでしょうか。

 それです。そのことに関連してまずご承知おき願いたいのは、あの二人の若い天使の誕生は実は太古にまで遡るということです。

あれほどの霊力と権威とを悠久の鍛錬と進化の過程を経ずして獲得し、それをあのような任務に行使するに至るという例はそう滅多にないことです。お二人は双子霊なのです(※)。

地球がまだ現在のような環境となっておらず、人類がまだこれからお二人が霊団を率いて赴く天体上の人種と同じ発達段階にあったころに地上で生活なされました。その段階の期間は随分永く続きました。その間にお二人は知性の黎明期を卒業し、それから霊界入りしました。

その時点から本格的な試練がはじまり、同じ人種の中でも格別に進歩性の高いお二人は、各種の天体を低いものから高いものへと遍歴しながら、最後は再び地上圏へ戻って来て、さらに進化を遂げられました。

そのころは地球も合理的思考の段階、ほぼ今日の人類と同じ発達段階に到達しておりました。(※ Twin souls シルバーバーチはこれを一つの霊の半分ずつが同時に物質界に誕生した場合のことで、典型的なアフィニティであるという──訳者)


──青銅器時代、それとも石器時代、どっちですか。

 同じ人類でも今おっしゃった青銅器時代にある人種もいれば鉄器時代にある人種もおり、石器時代にある人種もいます。人類全体が同じ歩調で進化しているのではありません。そのくらいのことはご存知でしょう。今の質問は少し軽率です。

 地上人類が知性的発達段階にあった時期──こう言えば一ばん正確でしょう。それは歴史的に言えばアトランティスよりもずっと前、あるいはレムリアと呼ばれている文明が登場するより前のことです(※)。

お二人は地上近くの界層まで降りて強力な霊力を身につけ、さらに知識も身につけ、もともと霊性の高いお方でしたから、一気に地球圏を卒業して惑星間の界層へと進まれ、さらには恒星間の界層へと進まれたものと想像されます(第一巻六章参照)。

と言うのも、敢えて断言しますが、それほどの使命を仰せつかる方が、自転・公転の運動と相互作用を続ける星雲の世界を統率する途方もない高級エネルギーに通暁していないはずはないからです。

(※アトランティス大陸もレムリア大陸も共に伝説上のものとする説があるが、実際に存在していたことがこれで知れる──訳者)

 お二人が自分たちがアフニィティであることを悟ったのはそのあと霊界へ戻ってからのことで、霊的親和力によって自然に引き寄せられ、以来ずっと天界の階梯を向上し続けておられるのです。


──地球以外の惑星との接触はどういう形で行ったのでしょうか。再生したのでしょうか。


 再生という用語は前生と同じ性質の身体にもう一度宿るということを意味するものと思われます。もしそうだとすれば、そして貴殿もそう了解してくださるならば、地球以外の天体上の身体や物質に順応させていく操作を〝再生〟と呼ぶのは適切ではありません。

というのは、身体を構成する物質が地上の人間のそれと非常に似通った天体もあるにはありますが、全く同じ素材で出来ている天体は二つとなく、全く異なるものもあります。

 それ故、貴殿が今お考えになっているような操作を再生と呼ぶのは適切でないばかりか、よしんば惑星間宇宙を支配する法則と真っ向から対立するものではないにしても、物的界層の進化の促進のためにこの種の問題を担当している神霊から見れば、そう一概に片づけられる性質ものでないとして否定されることでしょう。

そうではなくて、お二人はこの太陽系だけでなく他の恒星へも地上の場合と同じように、今私が行っている方法で訪れたのです。

 私はこの地上へ私の霊力の強化のために戻ってまいります。そして時には天体の創造と進化についての、より一層の叡智を求めて、同じ方法で他の天体を訪れます。が、物質的身体をまとうことは致しません。そういうことをしたら、かえって障害となるでしょう。

私が求めているのは内的生活、その世界の実相であり、それは内部から、つまり霊界からの方がよく判ります。物的世界のことはそこの物質を身にまとって生まれるよりも、今の霊としての立場から眺めた方がより多く学べるのです。

魂をそっとくるんでくれる霊的身体よりはるかに鈍重な器官を操作しなければならないという制約によって、霊的感覚がマヒしてしまうのです。

 お二人の体験を私自身の体験を通してお答えしてみたのですが、これでお分かりいただけたでしょうか。


──どうも恐縮です。よく分かりました。

 結構です。お気づきでしょうが、創造全体としては一つでも、崇高なる喜悦の境涯にまでも〝多様性〟が存在し、その究極の彼方において成就される〝統一性〟の中において初めて自我についての悟りに到達する。

それまでは神の時計の振子が永遠から永遠へと振り、その調べのリズムがダイナミックな創造の大オーケストラの演奏の中で完全に融合し全体がたった一つの節となってしまう。

その崇高なる境涯へ向けて一日一日を数えながら辿った来(こ)し方を振り返るごとに、それまでの道程が何と短いものであるかを痛感させられるものです。

 私が今置かれているところもやはり学校のようなところです。この界へ上がり聖堂へ入ることでようやく卒業した試練の境涯から、ほんの一段階うえの学校の低学年生というところです。お二人の天使もここを通過されてさらに高い学校へと進級して行かれました。

そしてこのたびのように、かつてのご自分と同じ鍛錬の途上にある者の教師として、あるいは指導者として戻って来られるのです。


──お二人の名前を伺いたいと思っていたのですが・・・・・・

 思ってはいたが前と同じように断られるのではないかと思って躊躇された・・・・・・のですね? さてさて、困りました。やはり(アルファベットで)書き表せる名前ではないのです。こうしましょう。貴殿の思いつくままの名前をおっしゃってみて下さい。それを差し当たってのお名前といたしましょう。


──これまた思いも寄らなかったことです。

 いやいや、今お考えになって書いてくださればよろしい。本当の名前を知っていながらそれが書き表せない私よりも(何もご存知でない)貴殿が適当に付けてくださる方がいいでしょう。本当のお名前はアルファベットでは書こうにも書けないのです。さ、どう呼ばれますか。


──マリアとヨセフではいかがでしょう。

 これはまた謎めいたことをなさいました。その謎は貴殿にはよくお判りにならないでしょうが、ま、その名前で結構です。いけないと言っているのではありません。

結構ですとも。お二人をお呼びするにふさわしい意味をもつ名前を歴史上に求めれば、それしかないでしょうから。その意味については述べないでおきます。〝聞く耳ある者は聞くべし〟(マルコ4・9)です。

ではその名前で話を進めましょう。マリアにヨセフ。貴殿はその順序で述べられました。その順序でまいりましょう。ぜひそうしてください。それにも意味があるのです。


──地上時代の名前や年代はとても伝えにくいようですね。そちらからの通信を受けている者には一様にそう感じられます。どうしてなのでしょう?

 貴殿は少し問題を取り違えてますね。今おっしゃったのはかつての地上での名前と生活した時代のことでしょう。


──そうです。

 そうでしょう。では名前のことからお話ししましょう。これは死後しばらくは記憶しています。しかしそのうち新しい名前をもらってそれをいつも使用するので、地上時代の名前は次第に使わなくなります。

すると記憶が薄れ、おぼろげとなり、ついにほとんど、ないしは完全に記憶が消滅してしまいます。地上に親族がいる間はさほどでもありませんが、全員がこちらへ来てしまうと、その傾向が促進されます。

やがて何世紀もの時の流れの中で他の血族との境界線がぼやけて混り合い、一つの血族だけのつながりも薄れて、最後は完全に消滅します。例外もあるにはあります。

が、それも僅かです。それと同時に少しずつ名前の綴りと発音の形態が変わっていき、そのうちまったく別の形態の名前になります。しかし何といっても進化に伴って地上圏との距離が大きくなるにつれて地上時代への関心が薄れていくことが最大の要因でしょう。

霊界でのその後の無数の体験をへるうちに、すっかり忘れ去られていきます。記録を調べれはいつでも知ることはできます。が、その必要性も滅多に生ずるものではありません。

 地上時代の年代が思い出しにくいのも似たような理由によります。吾々の関心は未来にありますので、この問題はさしあたっての仕事にとっても無意味です。

もう一つの事情として、地上時代のことが刻々と遠ざかり、一方では次々と新しい出来ごとがつながっていくために、今ただちに地上時代のことを拾い出してそれが地上の年代でいつだったかを特定するのはとても困難となります。

もっとも地上の人間からのそうした問い合わせに熱心に応じる霊がいるものでして、そうした霊にとっては簡単に知ることができます。

が吾々のように他に大切な用件があり、今という時間に生きている者にとっては、急に航行先の変更を命じられて回れ右をし、すでに波がおさまってしまった抗行跡を引き返して、その中の一地点を探せと言われても困るのです。

その間も船は大波をけって猛スピードで前進しているのです。その大波の一つ一つが地上の一世紀にも相当すると思って下さい。そうすれば私の言わんとしていることが幾らかでもお分かり頂けるでしょう。

 では今回はこの辺で打ち切って、次の機会に同じ話題を取り上げ、神の名代である二人の天使、マリアとヨセフについて今少し述べることにしましょう。
  アーネル ±


3 水子の霊の発育
一九一八年 二月二十二日 金曜日

 今夜お話することは多分貴殿には本題から外れているように思えるかも知れません。が地上で当たり前と思われている生活とは異なる要素を正しく理解する上で大切なことがらについて貴殿の認識を改めておく必要があるのでお話します。

 それは、同じく地上から霊界へ誕生してくる者の中でも、地上で個的存在としての生活を一日も体験せずにやってくる、いわゆる死産児のことです。

そういう子供は眠ったままの状態でこちらへやって参ります。その子たちにとってのこちらでの最初の目覚めは、地上での誕生時と同じ過程であることは理解していただけるでしょう。

ただ、地上の空気を吸ったことが無く、光を見たこともなく、音を聞いたこともありません。要するに五感のどれ一つとして母胎内での自然な過程の中で準備してきた、その本来の形で使用されたことがありません。

従ってそれぞれの器官はほぼ完全に近い状態であっても完全に出来上がってはいません。その上、脳髄が五官からのメッセージを処理する操作をしたことがありません。

そういうわけで、死産児としてこちらへ来た子供は潜在的には地上的素質は具えてはいても、経験的にはそれが欠けています。ただ、たとえ数分間にせよ、あるいはそれ以下にせよ、実際に生きて地上に誕生したあと他界した子供はまた事情が異なります。

 こういう次第ですから、死産児の霊の世話に当たる人たちが解決しなければならない問題はけっして小さいものではないのです。まずその霊が自然な発育をするように霊的感覚器官を発達させてやらねばなりません。

それから霊的脳髄にその器官からの情報を処理する訓練をさせてやらねばなりません。
数分間でも生きていた子の場合であれば脳と器官との連絡がわずかながらも出来ておりますから、その経験をその後の発達の土台として使用することができます。

が、死産児にはそれが欠けていますから、こちらの世界でそれをこしらえてやる必要があります。それが確立されさえすれば、あとは普通の子供と同じように、発育の段階を一つ一つ重ねていくだけとなります。

 この段階での育児には、たとえ面倒でも、さまざまな手段が講じられます。たとえばその子供と地上の両親との間、とくに母親との間には特殊なつながりがあります。

そこで、出来るだけ母胎からの出産に似た体験をその子にさせて、その体験を通じて母胎からの肉体的分離つまり独立した個体となったという感触を味わわせます。

むろんこれは肉体では出来ませんから、子供の霊的身体と母親の霊的身体とを使って行います。これによって自然な出産がもたらすほどの密接な脳と器官との連絡関係が得られるわけではありませんが、一応、地上の親との関係は確立されます。そしてその時点からその子供は地上の母親とのつながりを保ち、可能な限り普通の子供と同じような発育をするよう配慮されます。

それでもやはり、地上に誕生した体験を持つ子供との間にある種の相違点がどうしてもあります。地上体験から得られるきびしさに欠けている面がある一方、地上体験のある子供よりも性格と考え方に霊性が見られます。

しかし、成長とともに地上体験のある子供は霊性を身につけ、死産児は母親との繋がりを通じて、さらに成長してからは他の家族とのつながりを通じて、地上の知識を身につけていきますから、その相違点は次第に小さくなり、ついにはほぼ同等の友情関係まで持てるようになり、互いに自分に欠けているものを補い合えるようになります。

 かくして一方は柔らかさを身につけ、他方は力強さを身につけ、一つの共同体の中で、有益であると同時に楽しい〝多様性〟の要素をもたらすことになります。

 以上の話から貴殿も、地上の両親の責任が死後の世界の子孫にとっていかに大きいかがお分かりになるでしょう。死後の育児にとっても両親との接触が必要だからです。地上の血縁関係の人との接触の無い子供は正常な発育が得られない──他の何ものによっても補えない、欠落した要素があるのです。

かりに両親が邪悪な生活を送っている場合は、地上の時間にして何年もの間その両親に近づかないようにしておいて、そうした子供の保育に当たっている人たち(※)からみて大丈夫と思えるだけの体力と意志力と叡智を身につけるように指導する必要があります。

(※地上において子宝に恵まれず母胎本能が満たされないまま他界した女性であることがこのあとに出てくる──訳者)

ところが、子供が地上的影響力にさらされても安全という段階に至らないうちに、親の方が地上の寿命が尽きてこちらの世界へ来るというケースがよくあります。そうなった場合子供は祈りを頼りとするほかなくなります。

 その場合の親にはもはや地上で乳房をふくませた子供に対する情愛は持ち合わせません。あるいは自分にそんな子がいたことすら知らないでしょう。

ですから、二人の間の絆は──かりに残っていても弱いものですが──子供が向上していくにつれてますます薄れていき、一方母親の方は浄化のための境涯へと下りて行きます。その浄化のための期間を終えて再び戻ってきた頃には、子供の方は既に母親の手の届かない高い境涯へと進化していることでしょう。

 子供の方では母親を認識しております。そして母親の気付かないうちにもいろいろと援助しております。しかし親と子を結びつける本来の温かい情愛の絆は、向上進化を基調とした天界での通常の生活では存在しないし、有り得ないことになります。

 この話を持ち出したのは、吾々から見ると地上にはこうした(水子の)問題において母性が持つ重責が余りに無視されているからです。

地上にて花開くことなく蕾のうちにむしり取られた、そうした優しい花は余りにも可憐であり、親を知らないことからくる物憂げな表情が歴然としているために、それを見る者は悲痛な思いをさせられるものです。

といって今その子供たちが不幸だと言っているのではありません。およそ不幸といえるものとは縁遠いものです。

ただ、さきも言った通り、他の何ものによっても補えない欠落した要素があり、これは地上で母性本能を満たされなかった女性が母親代わりに世話してあげても、ほんの部分的に補えるだけです。

そこで(永い永い進化の旅の中で)一方が他方の欠けているものを与え、また自分に欠けているものを受け取っていくということになるのです。その関係は見ていて実に美しいものです。


──お伺いしますが、このような話をなぜここに挿入されたのでしょうか。これまでの話題と何の関係もなさそうですが・・・・・・

 それが実は、あるのです。
今お書きになった質問が貴殿の精神の中で形成されていくのが私には分かっておりました。そしていずれお聞きになるものと思っておりました。

 今夜この話題を持ち出したことは、れっきとした意図がありました。こうしたことを知っていただかないことには、貴殿がマリヤとヨセフと名付けられたあの女王とその配偶者についての理解は不可能だからです。

実は遠い昔、お二人は今夜お話したような関係にあったのです。それで初めにお二人の話をしておいたのです。お二人はついにあのような形で愛の絆を成就されたのです。
                            アーネル ±

 追伸──この十字のしるしに注目されたい。いろいろと大切な意味が込められていますが、その一つが〝両性の一体化〟です。ここではその意味で記しております。

ベールの彼方の生活(四)

著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)
近藤千雄 訳



二章 
聖なる山の大聖堂
1起 源   2構 造



1 起 原
一九一八年二月五日 火曜日


 貴殿はかの聖なる山の大聖堂の起源と構造について語ってほしがっておられる。
 それは第十界と第十一界の中間に位置している。ということは、両方の界から見ることが出来るということであり、どちらにも属していないということです。

 その起源はこうです。ずいぶん昔のことですが、試練の末に首尾よく第十界から第十一界へと向上していく者が大勢いた時代がありました。

しかし第十界は下層界での修行の旅の中で身につけた霊力と霊性の全属性が仕上げられ、まとめあげられる界であると言えないこともありません。

つまりここで雄大な旅程の一段界を終え、次からはそれまでとは次元の異なる進化と発達の段階が始まる、その大きな節目に当たる界なのです。

 そうしたスピリットが向上の過程において果たしてきた仕事はおおむね守護と強化の目的を帯びていた。多分貴殿は守護霊と呼びたいであろう。その任務はたしかに発達を促進するし、向上するにつれてますます崇高性を帯びていきます。

が、地上ならびにそのあとに続く下層界において見守られ援助を受けている者との関係においては、さまざまな様相を呈していても、本質においては同じ次元に属することです。

 しかし、この第十一界に突入するスピリットには別の次元の仕事が待ち受けております。いよいよ〝創造性〟を帯びたものとなっていきます。

同じく宇宙の大いなる神秘を学ぶにしても現象として顕現しているところの〝動〟のエネルギーではなく、父の館に住める大天使のもとに近づくにつれて見出されるところの潜在的創造エネルギーについて学ぶのです。

そうすることによって彼らはそれまで身につけた霊性に加えて、より高い霊性を身につけ、一界又一界と上の界へ融合していき、創造の神秘の巨大さを崇高なる美しさの中で明かされる境涯への突入に備えるのです。それが聖堂の使用目的の一つであり、実はそれが最大の目的でもあります。

その他はここで述べるほどのものではありません。それよりは貴殿は聖堂の建物の平面図と立面図を描写して欲しがっておられるようです。

吾々もそのつもりでおりますが、それに先立ってぜひ心しておいていただきたいことがあります。それは、今述べた使用目的の叙述においてもそうなのですが、その様相についての吾々の叙述は不完全を免れないということです。

それというのも、聖堂は物質ではなく霊質によって出来上がっているのみならず、その霊的大気と環境が昇華作用によって強烈さを測り知れないほど増しております。

それを力学ないしエネルギーの潜在力の用語に置き換えて何と呼ぶべきか───吾々はいい加減な当てずっぽうは控えたい。何となれば地上の言語ではとても当を得た表現は不可能だからです。

 聖堂建立の目的を一言にしていえば、さまざまな異質の様相を持つ二つの界の融和です。

つまり第十界を去って第十一界へと突入する段階に至ったスピリットたちがここに集結し、かなりの期間滞在しながら折りある毎に第十界ないしそれ以下の界へ降りては、それまでと同じように、その界の住民の援助と守護と指導と啓発に従事する。

しかしそれと同時に上層界のスピリットに付き添って第十一界へと足を踏み入れることも始める。初めのうちはあまり深く入りません。またあまり長く滞在しません。

が、霊力を強化し、その界の精妙なバイブレーションに慣れるにつれて少しずつ奥へ踏み入り、かつ又、滞在期間を長くしていきます。戻ってくるとその聖堂で休息を取ります。

と言っても、多分その間に下層界への任務を言いつけられて降りていくことになろう。

現に貴殿はそうした任務の一つとして私が霊団とともに下層界、それも地獄ともいうべき境涯まで降りていった話を受け取っておられる。あの任務は吾々にとって実に厳しい試練でした。

何しろ吾々が足を踏み入れた界は一つや二つではなく、地上からこの界に至るまでの全域に亘った上に、さらに地上より低い界までも踏み込んだのです。

忍耐力と環境への適応能力と、霊団全体が身体的並びに精神的に一丸となって吾々の通常の生活環境と気候とはまったく懸け離れた条件下での問題を処理していく能力をこうまで厳しくテストされたことには、それなりの意図がありました。

聖堂の居住者であり、第十一界への突入の段階を迎えた私にとってはそれが最終的な試練であり、私に付き添った霊団のうち十二名にとっては第九界より第十界への向上のための試練であり、残りの二名にとっては第十界よりこの聖堂へ入ってそこの居住者となるための試練でした。

 また私が例の一団を暗黒界から救出し光明界へ向けて導く任務を与えられたことには特別の意味があったことに気づかれるでしょう。いよいよ創造的能力が威力を増し鍛えられていく上層界へ召される前の、私にとっての最終的な試練だったのです。

その時はそれが理解できず、今なお本当に理解しているとは言えませんが、こうした中にも私の最終的な啓発はすでに始まっているらしく、かつてあれほどの苦界に身を沈めていたのが今はどうにか寛ぎを見出し、少なくとも約束した道に励む者にとって幸せとは何かを知ることが出来るまでになったあの者たちを待ち受けている栄光が、私にも少しばかり見透すことができるように思えるのです。


──ではあなたはすでに第十界から第十一界へ入られたわけですか。

 まだ恒久的に十一界の住民になったわけではありません。今のところまだ聖堂の住民の一人です。ですが次第に十一界の環境条件に調和していきつつあります。

そうした生活を構成する要素は数かぎりなく、しかもそのうちのどれ一つを取ってみても極めて重要なことばかりなので、そのうちの一つでも見逃さずにお伝えしたいと思う一方、その千分の一を語るにしても、貴殿にはその時間も用語もないという情況なのです。

 聖堂での滞在はまず必ずといってよいほど長期間に及びます。私の場合は格別に永くなることでしょう。その理由はこうです。

 私には監督し援助し向上の道から外れないようにしてやらねばならない大事な預かりものがあります。バーナバスの民のことです。今でも私は時おり彼らの目に映じる身体をまとって自ら訪ねなければなりません。

ですから、いつ何どきでもその状態になれるよう体調を整えておかねばなりません。それも現在の界層から一つや二つ下がった境涯ならまだしも、はるか下界の、言うなれば宇宙の暗い果てに降りていかねばならないのです。

 従って今の私には二重の仕事があるわけです。この聖堂のある台地へ立って一方の手は天上へ向けて何ものかを得んとし、もう一方の手は下界へ下ろして何ものかを与えんとしている。

そうです。そういうわけです。どうやら分かっていただけたようですので、これ以上駄弁は要らないですね。私の言わんとするところはお分かりでしょう。


──ザブディエル霊は第十一界へ入られたのでしたね。

 いかにも。重要な任務は十一界へ移ったわけです。ですが、時おり聖堂へ立ち寄られ、そこで曽ての身体的条件をまとわれて下界へと降りていかれる。戻られるとやはり聖堂を通過して本来の任務地へと向かわれる。

 さて、聖堂の様子や環境についてはこの度はこれまでとしよう。引き続き聖堂の内部を紹介することにしようと思います。が、今回はこれにて終わりとします。貴殿は力を使い果たしておられる。


──最後にひとことお名前のことでお聞かせください。〝リーダー〟というのが唯一私が存じ上げてるお名前ですが、これが私はどうも感心しません。

 これは恐れ入りました。しかし、地上の聖賢がいかなる名言を吐こうと(※)名前というものにはある種の力があるものです。私は聖堂より上の界においては別の名で知られておりますが、下層界では〝アーネル〟の名で呼ばれております。よろしかったら貴殿もそうお呼びくださって結構です。

(※どの名言を指すのかは心当たりがないが、私の知る限りではシェークスピアの「ロメオとジュリエット」にこんな一節がある。

 いったい名前に何の意味があるというのか
 バラと呼んでいるあの花、
 あれをどう呼びかえようと
 あの美しさに何の変りもあるまいに──訳者)


──私の母からの通信に〝アーノル〟という名前の方が出てきましたが・・・・・・

 地上には天上の名前をうまく表現する文字の配列も語句もありません。ご母堂が紹介されたのはこの私です。どちらでもお好きなようにお呼びください。いずれにせよ、これからはその名前でいきましょう。その名前でよろしいか──いや、貴殿に〝感心〟していただけるであろうか?

──これは一本やられました。結構です。そうお呼びすることにしましょう。

ぜひそうしていただきましょう。何しろ今までの名前では貴殿に耐えがたい思いをさせ、あまり好意を持っていただけなかったのですから。ではお寝みを申し上げましょう。
                              アーネル ±

  原著者注──アーネルが署名したのはこの日が最初で、それ以後は必ず署名し、さらに十字の記号を付した。(見慣れない記号であるが、その象徴的意味を三章の終わりのところで説明している──訳者)



2 構 造
一九一八年 二月 八日 金曜日

 〝聖なる山の大聖堂〟の使用目的についてはすでに述べました。今度はその構造そのものについて少しばかり述べてみましょう。と言っても、詳しいことは説明しません。不可能だからです。

 広大な草原に切り立った崖が聳えております。その頂上の台地に聖堂が建っております。草原から目に入る部分は小さな翼廊だけで、本館は見えません。何千何万もの大群集が集結して見上げた時にまず目に入るのは、こちら側に面した翼廊のポーチとその側壁とアーチ型の窓である。

高々と聳えるその位置、雄大な規模、均整のとれた建築様式は、その位置から見上げただけでも実に堂々としていて、且つまた美しいものです。

 そのポーチから入り、それを通り抜けて中へ入ると、吾々は右へ折れ、天蓋はあっても側壁の無い柱廊(コロネード)を通って進みます。

そのコロネードは、通路と交叉する幾つかの箇所を除いては、本館全体をかなりの距離を置いて取り囲むように走っており、吾々の位置から左手へ行くと中央聖堂へ至り、右手へ行くと別の幾つかの翼廊へと至る。

その翼廊の一つひとつにポーチが付いている。しかしそれは全部第十一界の方角へ向いており、吾々が通った翼廊だけが第十界へ向いている。

翼廊は全部で十一個あり、その一つひとつに特殊な使用目的がある。その〝十〟という数字は下界の十の界層とは関係ありません。それから上の十の界層と関連しているのです。


──その〝十〟という数字には第十界の方を向いているポーチも含まれているのですか。

 いえ、あれはあれのみの独立した存在で、関係するのは下界のことのみです。十個の翼廊は第十一界およびその後に続く十の界層と関連しております。それぞれの翼廊に大きなホールがあります。翼廊は一つひとつ形が違っており、二つとして同じものはありません。

貴殿には理解しかねることかも知れませんが、各翼廊はそれと関連した界を構成する要素の特質を帯びており、常にその界と連絡が取れております。上層界の情報はぜんぶそこの翼廊に集められ、第十一界の言語に翻訳された上で、その場で処理されるか、必要とあれば関連した地域へ発信される。

 また、聖堂内の住民が上層界へ赴いている間もこの翼廊と間断なく連絡が維持され、一界また一界と上昇していくのを追いながら絶えず連絡を取っている。

 吾々はコロネードと交叉している通路の一つを左へ折れます。その通路は中庭を通り、庭園を過(よぎ)り、そして森を突き抜けています。

いずれも美しく手入れされ、噴水あり、彫像あり、池あり、色とりどりの玉砂利を敷きつめた小道、あずまや、寺院──その幾つかは上層界の寺院の複製ですが実物ほど雄大ではない──があります。そしてついに(複数の建物から成る)本館へ辿り着きました。

本館にも十個のポーチがついています。ただしここのポーチは通路とは連絡されておらず一つひとつが二本の通路から等間隔の位置にあり、通路はすべて本館と直接つながっております。

つまりポーチは通路にはさまれた地域に立っており、各地域がかなりの広さを持っております。地上ならさしずめ公園(パーク)と呼ぶところでしょう。

何しろ聖堂全体は途方もなく広く、各地域に常時何万を数える住民が住んでいるのです。それほど一つひとつの地域は広く、そこに家屋と庭園が点在しているのです。

 さて吾々は第十二界の翼廊と第十三界の翼廊───こういう呼び方をしているわけではありませんが、貴殿の頭の混乱を避けるために便宜上そう呼ぶまでのことです───の中間に位置するポーチの前まで来て足を止めました。

その一帯に広大なテラスが広がっています。ポーチとつながっていて、美しい土地を次第に上昇しながら、はるか地平線の彼方に見える山々の方へ向けて広がっている。

実はそこから本来の第十一界が始まります。大聖堂は第十一界の一番端に位置していることになります。つまりポーチからいきなりテラスとなり、それがその地域全体に広がっているわけです。

目も眩まんばかりの琥珀色の石段があってそれを登っていくのですが、足元を照らす光が外の光と融合し、それが登りゆく人の霊的性格によって輝きを変えます。

 ここで銘記していただきたいのは、貴殿らが死物ないし無生物と呼んでいるものも、ここでは他の存在に対して反応を示すのです。

石は緑草や木々に影響を及ぼすと同時に、自分も影響を受けます。木々のすぐ側に人間が立つと、お互いの性質によってさまざまな影響を及ぼし合います。家屋や建造物のすべてについて同じことが言えます。

 ポーチそのものがまた実に美しいのです。形はまるくもなく角ばってもおらず、ちょっと人間には想像できない形をしております。私がもしこれを〝形というよりは芸術的情感〟とでも表現したら、貴殿はそれを比喩として受け取ることでしょう。

しかしその情感に地上のいかなる建造物よりもしっかりとした永続性が具わっているのです。その成分を真珠層のようだと言ってもよろしい。液晶ガラスのようであると言ってよろしい。そんなものと思っていただけば結構です。

 さて、中へ入ると大きな楕円状の空間があります。天井は植物と花をあしらった格子細工がほどこしてあり、それらの植物はポーチの外側に根をはっているものと内側に根を下ろしているものとがあります。しかしこんな話はやめて先へ進みましょう。吾々はついに聖堂の大ホールへと入っていくことになります。


──暗黒界からお帰りになってすぐにキリストをご覧になったホールですか。

 同じホールです。地上で屋根と呼んでいるのと同じ意味での屋根は付いておりません。といって青空天井でもありません。屋根のあるべきところに堂々たるアーチ形をした天蓋が高く聳えており、色とりどりの液晶の柱によって支えられております。

しかし天蓋のへりは流動する線状を呈し、光の固まりのようなものとつながっております。と言ってもその固まりは普段そこに参集する者にも貫通できない性質をしております。しかも、いっときとして同じ色を呈しておらず、下のホールで催される儀式の内容によってさまざまな変化をしております。

 そこの祭壇、それとその背後にある〝謁見の間〟については既に述べました。大ホールに隣接して、そうした〝間〟がまわりに幾つもあります。

その一つが〝式服着用の間〟です。いかにも地上的感じがするかも知れませんが、そこで行われるのは単なるコートやマントの着更えだけでなく、実に重大な儀式が行われることを知っていただきたいと思います。それについて述べてみましょう。

 その大ホールにおいて、時おり、はるか上層界から送られてくる電気性を帯びた霊力の充満する中で厳かな儀式が行われることがあります。

その際、その霊力を帯びる第十一界を最低界とする下層界の者は、各々その霊力によって傷つくことなく吾が身にとって益となるように身仕度を整える必要があります。そこで〝式服着用の間〟において着更えの作業が真剣に行われることになります。

その行事は神聖さと霊力とを具えた専門の霊が立ち会い、式服が儀式に要求される色合いと生地と様式を整えるように、こまごまと指導します。

そのすべてに、着用する当人の霊的本性が影響します。つまり当人の内的資質が式服の外観に出てくるわけです。そうなってはじめて大ホールへの入場を許され、やがて行われる儀式に参列することになるのです。

 その儀式はある一団が使命を帯びて他の界層へ赴くに際しての〝歓迎の儀〟であることもありましょう。その場合は参列した者が霊力を一つにまとめて、送られる者へ与えることが目的となります。従ってすべてが完璧な融合・調和の中で行う必要があります。

そこで霊格の劣る者、ないしは新参の者は、その目的で〝着用の間〟において周到な調整をしておかねばなりません。

 さらには、大ホールでの〝顕現〟が近づいていることもありましょう。キリストと同等の神格を具えた方かもしれませんし、大天使のお一人かも知れませんし、もしかしたらキリストご自身かも知れません。そんな時は式服の着用も入念に行われます。

さもないと益を受けるどころか、反対に害をこうむることにもなりかねません。もっとも、私が聞いたかぎりでは、一度もそのような例はありません。しかし理屈の上では十分に有り得ることなのです。

 しかし、この界へ来たばかりの霊が、強烈な霊力を具えた神霊の顕現ないし何らかの強烈な影響力が充満しているホールに近づくと、次第に衰弱を覚えるということは往々にしてあることです。

そこでその人はいったん引き返すことになりますが、それは実は霊力が試されているのです。その体験に基づいて自分にいかなる鍛錬が欠けているかを認識することになります。それはそれで恩恵を受けたことになります。

 この大聖堂を先に述べた山の頂(イタダキ)から眺めれば、おびただしい数の塔とアーチ道とドームと樹木と風致地区(家屋を建ててはいけない土地)を具えた一つの都市のように見えることでしょう。

その中央の宝石からあふれ出る光輝は遠く彼方まで届き、言うに言われぬ美しさです。

宝石と言ったのは、ドームあるいは尖塔の一つひとつが宝石のような造形をしており、それが天上的な光と言葉となって光り輝いているのです。言葉と言ったのは、一個の建物、一個の色彩、または一群の色彩が、そこの住民には一個の意味として読み取れるからです。

また住民が柱廊玄関、バルコニー、屋上、あるいは公園を行き来する姿もまた実に美しいものです。あたりの美観や壮観とほどよく調和し、その輝きと同時に安らぎをも増しています。

と言うのも、住民と聖堂とは完全に一体関係にある──言い換えれば、以前に述べたように一種の呼応関係にありますから、そこには不調和の要素はいささかも存在せず、配置具合もすべて完璧な調和を保っております。

もしこの聖堂都市を一語にして命名するとしたら、私は〝調和の王国〟Kingdom of Harmony とでも呼びたいということです。そこにおいて音と色と形、それに住民の気質とが和合の極致を見せているからです。
                             アーネル ± 

Wednesday, September 2, 2026

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第6章 生 ・ 老 ・ 病 ・ 死 ・ 苦・・・・・・地上人生の意義


【Q1】
人間(ヒト)として地上に誕生してくるのは、進化のどの段階でしょうか?

 霊としては常に存在していました。霊とは生命であり、生命とは霊だからです。あなたという存在は、常に存在してきたのです。
 あなたも大霊の一部ですから、いつから存在し始めたという〝始まり〟はないのです。しかし、一個の独立した意識的存在としては、生命の流れのなかのどこかで存在を得なければなりません。

 受胎というのは、男性と女性の細胞が合体して、その個的存在に自我を表現する媒体を提供する現象です。媒体を得るまでは、生命力は発現しないのです。その媒体を提供するのが、地上の両親です。双方の細胞が合体して一個の生命体を形成した時点で、霊的粒子がそれに付着し、物的世界での表現を開始します。

それが意識の始まりだというのが私の説です。その瞬間から意識のある個的生活が始まります。それからは永遠に個的実在であり続けます。


【Q2】
胎児のどの段階で霊が入るのでしょうか?

 何度も出された質問ですが、回答はいつも同じです。受胎が発生した時点で、すでに生命があります。そして、生命のあるところには霊が存在します。

 納得できない方がいるであろうことは、私も承知しています。しかし、私は断言します───精子と卵子が一体となり、ミニチュアのかたちで媒体としての機能をそなえた瞬間から、霊は地上生活を開始します。


【Q3】
次から次へと霊が地上へ誕生しています。一方、地上では人口増加が問題となっています。霊を生産すれば人口は増えるに決まっていますが、霊は一体どこからやってくるのでしょうか?
 その質問には誤解があるようです。霊は、あなた方人間がこしらえるのではありません。人間は、霊が自我を発現するためのチャンネルをこしらえるだけです。根源的存在である霊は、時空を超越したものであり、ものさしで計量することはできません。人間が行なっているのは、霊が身体に宿って、個別的存在を獲得するための手段(媒体)を提供することです。


【Q4】
スピリチュアリズムを占星術と同類と見ている人がいます。その人たちは、人生の出来事が星によって宿命づけられ操られていると考えていますが。

 人生は、一連の振動(Vibrations)、放射線(Radiations)、放散物(Emanations)から成り立っており、森羅万象のあらゆる相の影響を受けています。それらが、あなたに何らかの影響を及ぼしていることは事実ですが、どれ一つとして、抵抗できないほど強力なパワーをもつものではありません。

 生まれた日に、ある星が東の地平線上にあったからといって、その星によって人生が運命づけられるというのは事実ではありません。

 あらゆる天体、あらゆる自然物、宇宙のあらゆる存在物、あらゆる生命体が、何らかの影響を及ぼすことでしょう。しかし、あくまでも主人は、あなたです。最終責任はあなたにあり、霊的進化の程度によって自分の運命を決定づけています。

 私が言いたいのは、要するにあなたも神の一部であること、そして、神性を宿すがゆえに、創造力を宿すがゆえに、この宇宙を創造した力の一部であるがゆえに、その身体を牛耳ろうとする力に打ち克つことができるということです。
 わかりやすく言えば、私も影響力の一つです。あなたがつきあう人たちも何らかの影響を与えます。お読みになる本も影響力をもっています。しかし、あくまでも影響力に過ぎません。それによって、あなたが圧倒されることもないし、絶対的に支配されることもないでしょう。


【Q5】
死ねばおしまいと思って他界していった者は、どうなるのでしょう?

 自然法則によって死のうにも死ねないのですから、覚醒してから現実に直面せざるを得ません。霊的事実に得心がいくのにどれほどの時間がかかるかは、霊的進化の程度、霊性がどの程度発達しているか、新しい環境にどう適応していくかによって決まります。

 霊的事実に得心がいくのは、霊的理解力が目覚めたときです。あらかじめ霊的知識があれば、得心はよほど早いでしょう。ですから、私たちは無知と誤解と迷信、人工の教義や間違った神学と闘わねばならないのです。こうしたものは、どれ一つとして死後の目覚めに役立ちません。そうした夾雑物をすっかり払い落とすまでは、魂は長い長い休息(注)のなかで自己改造を強いられるのです。

訳注───ここで言う 「休息」 は二つの解釈ができる。一つは睡眠と同じ状態で、地上生活の過酷な辛苦によって疲弊した魂が、安らぎを得て無意識状態となり、その間に霊界の医師団によって治癒エネルギーによる癒しを受ける。

その長さは人によってまちまちで、長い人は何ヶ月も何年もかかることがあり、地上的時間では、はかりしれない要素があるようだ。

 もう一つは、その状態から覚醒して現実と直面し、地上時代の認識を改めて、霊的実在に目覚めていくのが通例であるが、シルバーバーチの回答にもある 「地上的夾雑物」 を完全に払い落とすまでには何百年、何千年、ときには何万年もかかることがあり、人によっては地上へ再生する必要が生じる場合もあるという。その次元の魂は、いわば夢幻のなかで生きており、実在界の高級霊から見れば酔生夢死の休息状態と変わらないらしい。


【Q6】
そもそも地上生活の目的とは何でしょうか?

 そもそもの目的は、本来の自分を理解することです。そのためには、物的身体の機能と霊としての資質を存分に発揮することが必要です。物的なことに偏って、霊的存在としての義務をおろそかにするのもいけませんが、霊的なことに偏って物的存在としての義務をおろそかにするのも間違いです。両者のバランスをとり、この世にありながら、この世的人間に堕することのないようにすべきです。

 肉体は神の分身である霊の神殿ですから、十分な手入れが必要です。そして成長と進化の過程にある霊は、その肉体を通して、成長と進化のための機会を与えられる必要があります。

 地上生活の目的は、地上を去った霊が次の階層での生活になじめるように、さまざまな体験を積むことです。そこで、まず地球へやってくるのです。地球は、トレーニングセンターです。肉体に宿った霊が、次の次元の生活への装備を提供してくれる教訓を学ぶための学校のようなものです。

 そういう理由から、私は改めて申しあげます。あなた方が嫌な体験と思っているものが、最高の薬になっていることがあるのです。本当の自分を見出すのは日向の生活のなかではなく、嵐のような生活のなかなのです。雷鳴が鳴り響き、稲光がひらめいているときです。

 人間は厳しく磨かれ、清められ、純化されなければなりません。絶頂もどん底も体験しなければなりません。地上生活だからこそ体験できるものを、体験しなくてはいけません。そうした体験によって霊性が強化され、補強され、死の向こうに待ち受ける生活への準備が整うのです。

 地上生活の目的は、霊性を活気づけることです。そのために、地上界の出来事は二面性と二極性を鮮烈に体験するようになっており、そこに地上生活の地上生活たるゆえんがあるのです。たとえば、善と善でないものが同居しています。これは、私たちの世界にはないことです。高次元の世界には、対照的なものが存在しないのです。

 地上生活の目的は、魂がその霊的資質を発揮できるように、さまざまな体験をするチャンスを与えて、霊性を一段と強化することです。そのために悪もあれば罪もあり、暴力も存在するのです。

 地上の全生命の存在目的は、人類をはじめ動物、その他の全生命に宿る神性に火がともされて火種となり、灯火となり、火焔となって燃えさかるように、刺激的体験を得ることです。霊的意識が目覚め、地上にありながら、生命の現象的側面にとどまらず、もっと大切な内的側面をも理解して、その恵みを享受するようになります。


【Q7】
永遠の時の観念からすると、地上生活はあまりにも短く、どれほどの意義があるのかといいたくなりますが‥‥。

 永遠も無限の小さな体験のつながりです。一つ一つの経験、一つ一つの行為、一つ一つの言葉や思念が、いくら小さなものであっても、永遠の時のなかで、それなりの役割を果たしています。それらの体験の蓄積が、永遠を形成するのであり、どれか一つを欠いても完全でなくなります。オーケストラによる演奏と同じです。

 たとえば、トライアングルの演奏家は、二〇〇人あるいは三〇〇人で構成されたオーケストラのなかでは最もめだたない存在でしょう。しかし、たった一回だけめぐってくる自分の演奏箇所で、もしも音階を間違えたり、音量が足らなかったりしたら、全シンフォニーが台無しになってしまいます。それはおわかりですね?地上生活も同じです。魂の鍛錬にとっては欠かせない一部なのです。そして、それが魂に消すことのできない跡形を印していくのです。


【Q8】
戦争、痛み、精神的ならびに肉体的苦しみ、病気、悲しみ、愛、憎しみ、喜び、幸せといった地上的体験は、人類の発達と進歩にとって欠かせない神の計画の一部なのでしょうか?
 神の計画という見方は間違いです。戦争は大霊が起こすのではありません。病気は大霊が与えるのではありません。そうしたものは、物質界の人間が自由意志の使用を過ったために引き起こされるのです。もちろん、学ぶべき教訓はあるでしょう。が、それは人間同士で身の毛もよだつ残虐行為をしなくても学べるはずです。人間同士で勝手にやっていることを、大霊のせいにしてはなりません。


【Q9】
地球上の自然災害は、神の計画の範囲内で起きているのでしょうか?

 そう言ってよいでしょう。因果律という動かし難い法則によって支配されているという意味で、神の配剤からはみ出ることはあり得ないからです。絶対的支配力をもつその因果律が、人間に制約を加えるということです。

 少し乱暴なたとえですが、人間の科学がいくら発達しても、物的宇宙を完全に破壊するほどの爆薬を開発することはできません。そこに限界があります。
 一夜にして地球が破壊されることはありません。大霊は、その無限の愛と英知によって宇宙間のあらゆる次元の存在(極大のものから極小のもの、複雑なものから単純なものに至るまでの全存在)に配慮した自然法則を用意しておられます。その自然法則は、進化という目的にそって機能するのであって、変革によって機能するのではありません。

となれば、当然、その法則によって人間の力は制約を受けます。どうしようもないこともある、ということです。自由意志はあります。しかし、ある一定限度内でのことです。


【Q10】
本当の自由とはどういうことでしょうか?

 私は、いかなるテーマも霊の体験という光に照らして考察します。人間というのは、物的身体を通して自我を表現している霊です。ところが、いく百万とも知れない地上の霊が窒息させられ、踏みつぶされ、抑圧され、踏みにじられています。
 本当の自由とは、好き勝手なことをする権利のことではありません。出来心や気まぐれや性癖のおもむくままにする権利のことではありません。自由には責任が伴います。そして、何のためにこの地上におかれているかという、存在の目的についての理解がなければなりません。


【Q11】
自由意志とカルマは、どう関係づけたらよいのでしょうか?

 生命のすべてが、自然法則による規制を受けています。筋の通らないことや奇跡や偶然によって起きることはありません。すべてが原因と結果、種まきと刈り取りの摂理の働きによります。そうでないと、宇宙は大混乱に陥ります。無限の配剤、無限の知性の働きを示す証拠なら、どこへ目をやっても存在します。

 四季のめぐり、惑星や星雲、潮の満ち引き、無数の姿かたちをした花々にも見られます。どれ一つとっても、法則によって営まれているのです。その法則の枠を離れることがないということですから、そこに制約があるということになります。しかし、法則の裏に別の次元の法則が存在します。物的法則だけに限りません。精神の働きにも法則があり、霊的次元にも法則があります。
 自由意志という要素、ある条件下で、右か左かを選択する力と能力をそなえているということは、神の配剤の一つです。それを最善に、そして最高に活用すれば、あなたの所属する民族、この地上世界、宇宙、森羅万象の霊的発展と進化の一翼を担うことができるのです。なぜなら、あなたも、霊的には大霊の一部だからです。

 全存在物に生命を付与している神性が、あなたにも内在しているのです。その意味で、あなたはミクロの大霊なのです。大霊が所有する無限の属性をあなたも所有しているのであり、それを発現していくための無限の時も用意されているのです。
 明朝、あなたはいつもより一時間早く起きてもよろしいし、一時間遅く起きてもよろしい。起きたくなければ、そのままベッドのなかにいてもよいでしょう。起きてから散歩に行ってもよいし、ドライブに行ってもよいでしょう。かんしゃくを起こしてもかまいませんし、思い直して我慢するのも、あなたの自由です。このように、あなたに許されていることはいろいろとあります。

 しかし、太陽の輝きを消すことは、あなたにはできません。嵐を鎮めることは、あなたにはできません。あなたの力を超えているからです。このように、選択の範囲が限られているという意味で、あなたの自由意思にも制約があります。

 そしてもう一つ、あなたの精神的ならびに霊的発達の程度による制約があります。たとえば、人を殺めるという行為は、だれにでもできます。が、あなたにはできないでしょう。これまでに築いてきた人間性および霊性が、それを許さないからです。

 ですから、どちらかの選択をするとき、そこには人間性と霊性の程度が関わっているのです。ここにも、宇宙によくあるパラドックス(一見矛盾しているかに思えること)があります。自由といっても、一定限度内の自由ということです。
 さて、ここからもう一歩踏み込まねばなりません。カルマの問題が出されたからです。これも、たしかに考慮に入れなくてはならない重大なテーマです。なぜかといえば、地上へ誕生するに当たって、前もって、カルマの解消をスケジュールのなかに入れている人が少なくないからです。その自覚は、すぐには意識の表面に出てきませんが、意識するしないに関係なく、そのことも自由意志に制約を加えます。

(原書では、この項目はここで終了しているが、カルマへの言及が足りないので、霊的治療家のハリー・エドワーズとのQ&Aのなかから、参考になる部分を編集して紹介しておく)

あなたのもとを訪れる患者は、その人なりの霊的成長段階にあります。人生というはしごの一つの段の上に立っているわけです。それがどの段階であるかが、その人に注がれる治癒力の質・量を決します。それが私のいう「カルマ的負債」です。

 あなたにも手の施しようのない人がいます。肉体を犠牲にする、つまり、死ぬこと以外に返済の方法がないほど負債が大きい人もいます。もう一度チャンスを与えられる人もいます。そんな人が、あなたとの縁で完治することになる場合もあります。
 精神的要素のために治らない人もいます。そんな場合は、一時的に快方に向かっても、また別の症状となってぶり返すでしょう。それは、当人に賦課された税金のようなものであり、自分で綴っている物語(ストーリー)であり、その筋書きは他の何者によっても書き換えることはできません。

 はじめに私は、すべては法則の枠のなかに存在すると申しあげました。何ごとも、それを前提として働きます。人間のいう「奇跡」は生じません。自然法則の停止も変更も廃止もありません。すべてが原因と結果から成り立っています。そこに自由の制約があります。もしも因果関係がキャンセルできるとしたら、神の公正が崩れます。

 治療家にできることは魂を解放し、精神に自由を与えることです。その結果が、自然に身体にあらわれます。それが、カルマ的負債を返済する手助けになるのです。私が、霊的治療家はその患者の魂の琴線にふれ、自我に目覚めさせ、生きる目的を自覚させることが最も重要な役目であると申しあげる理由はそこにあります。


【Q12】
航空機事故は、犠牲者のカルマ的負債を償却するためにもくろまれるのでしょうか?もしそうだとすると、予言や虫の知らせがあるのはなぜでしょうか?それによって人生が一八〇度変わってしまいます。

 むずかしい問題です。まず 「もくろまれる」 という言い方は適当でありません。いかにも悲劇を引き起こすために、わざと事故を計画したことになるからです。何ごとも原因と結果の法則によって生じています。そうした悲劇の犠牲者(あなた方にならってそう呼んでおきますが) には別の見方があることを忘れないでください。

 死は地上の人間にとっては恐ろしいことのようですが、私たちにとっては喜ぶべきことなのです。赤ちゃんが地上へ誕生して行ったとき、こちらでは泣いて見送る者が大勢いるのです。そして、死んで肉体から解放された者を喜んで迎えているのです。
 しっくり理解できないかもしれませんが、永遠の時の流れのなかでの宇宙の大機構において、宿命という要素が役割を演じています。定められたことと自由意志という二つの矛盾した要素が絡んだ、複雑なテーマです。両方とも真実です。定められた運命のなかで、自由意志が許されているということです。このように説明するのが最もわかりやすいでしょう。

 予知の問題ですが、これは三次元の脳の意識から離れて、たとえ一瞬にせよ、より高い次元の階層に入り、その次元での時間に接したときに体験するものです。そもそも時間とは〝永遠の現在〟なのです。あなた方が、過去とか未来と呼んでいるものを決定づけるのは、地上次元でのあなたと時間とのつながりです。その三次元の物的束縛から離れて本来の時間と接したとき、人間にとって未来であるものが現時点で感得できるのです。


【Q13】
人間の一人ひとりに守護霊(注)がついているというのは本当でしょうか?

 受胎の瞬間から、ときにはそれ以前から、誕生してくる魂を守護する霊が付き添います。「神がそなたの管理を配下の天使に託し、諸事にわたりて配慮させ給う」という 『祈祷書』 の言葉は、文字どおり真実です。その霊は、あなたが死の関門を通過してこちらへ来るまで、能力の限りを尽くして守護してくれます。

その関係は、あなたがその事実を知っているほど行き届いたものになります。まったく知らずにいると、何かとやりにくいものです。守護霊は一人ですが、それを補佐する指導霊が何人かいます。

 あなたの人生にどういうことが待ち受けているかは、守護霊にはわかっていますし、そのことに関して勝手な干渉は許されません。だれの守護霊になるかについて選り好みも許されません。私たちの世界は組織の行き届いた世界です。

訳注──「守護霊」は、英語でも 「Guardian Angel(守護天使)」で、ともに「守る」という意味が込められているために、とかく母親がヨチヨチ歩きのわが子を、ころばないように、ケガをしないようにと守っているかの印象を与えがちであるが、「諸事にわたりて配慮させ給う」 という 『祈祷書』 の表現どおり、当人のカルマの解消や使命の成就のために、大所高所から配慮するのが本来の使命であり、そのためには病気や困難もあえて体験させることもあることを知らねばならない。Q15の回答の波動の原理も考慮する必要があろう。


【Q14】
だれが任命するのでしょうか?

 親和力の法則です。

訳注──シルバーバーチの言う「アフィニティ」、マイヤースの言う「類魂」のなかの一人が、全体を統括している高級霊によって任命されるのであるが、その基本において働いているのは親和力である。


【Q15】
災害から救われるケースと救われないケースとがありますが、守護霊との関係はどうなっているのでしょうか?

 すべては、その時点での環境条件によって支配されます。だれにも守護霊がついているのは事実ですが、その事に気づいている人はどれほどいるでしょうか?もし気づいていなければ、無意識のうちに霊感でも働いていないかぎり、守護霊は地上界と感応することはできません。

 このように、霊の働きかけというのは、地上界の人間が条件を整えることが大前提なのです。条件がそろうと、つまり人間側が霊界の波動と調和した道具になってくれると、守護霊や指導霊が物質界と感応し、物質に強く働きかけることができます。

 奇跡的救出や保護や導きの話が数多く語られていますが、いずれもそうした条件が整ったときなのです。人間側が条件を整えないといけないのです。私たち霊にとって、人間は〝手〟のようなものです。手がなくては、地上界で何の仕事もできません。


【Q16】
愛する伴侶を失って、失望のあまり自殺する人がいますが、許されることでしょうか?

 許されません。あくまでも摂理にのっとって生きなければなりません。摂理の働きは常に完璧なのです。その摂理の背後では、すべてのものに内在し、すべてのものを通して働く大霊の愛と英知が働いているのです。その摂理に干渉する権利は、だれにもありません。それを無視して自らの命を絶てば、その代償を支払わねばなりません。

 リンゴを熟さないうちにもぎとれば、まずくて食べられません。霊が然るべき準備もなしに無理やり次の次元へ行くと、その調整に長い長い時間をかけて代償を支払わねばなりません。そのうえ、願いとは裏腹に、乱れた波動のために、愛する人との間にみぞをつくってしまい、かえって離ればなれになってしまいます。


【Q17】
自殺は、すべて許されないのでしょうか?

 一概にすべていけないとは言えません。その人がそれまで生きてきた人生、その間に発達させた資質、霊性の進化の程度、そして何よりも大切なものとして、動機は何かによって、死後におかれる状態が違ってきます。

キリスト教では自殺を一つのカテゴリーに入れて、すべて罪悪であると説いていますが、そういうものではありません。もちろん基本的には、生命を自ら断つ権利はありませんが、そういう行為に至るには、それなりに考慮すべき要素、情状酌量すべき事情があることは疑いの余地がありません。

 地上生活を中断して魂にプラスになることは、何一つありません。が、だからといって、自殺した魂がすべて、気の遠くなるほど長い間、暗黒界でもいちばん暗いところに押し込められるわけではありません。


【Q18】
自殺が、霊的進化の大きなつまずきであることは間違いないでしょう?

 もちろんです。何ごとにも例外はありますが、それはきわめて少数です。ご承知のように、私は、何ごとも動機が大きな比重を占めると申しあげています。が、魂の裁きは、行為そのものが受けます。

 あなたは、自分の人生の書を、自分の筆で書いているのです。書いたものは消せません。ごまかすことはできません。自分で自分を裁くのです。摂理は決まっており、改められることはありません。ですから、私は「自分の責任には、臆せず正面から立ち向かいなさい」と申しあげるのです。いかなる窮地も、案じているほど暗いものではありません。



【Q19】
死刑制度をどう見られますか?

 人を殺した人間だから殺してもよいという理屈は、霊的には通らないということを、これまで私は躊躇することなく申しあげてきました。

 地上界の人間は、正義と復讐とを区別しないといけません。復讐心という最低の人間的感情からすれば、憎いやつを地上界から消すことは正義と思えるかもしれませんが、それでは未熟な魂を霊界へ送り込むだけで、それによって成就されるものは何一つありません。公正な裁きがなされないといけません。

国による殺人を行なっても、地上界はカケラほども霊的に進化しません。それどころか「目には目、歯には歯」の復讐の場に堕落してしまいます。激情が理性を凌駕したところに正義は生まれません。

 肉体の死後にも生命が存続することは、議論の余地のない事実なのですから、それに基づいた原理・原則を信念としなければなりません。死後の生活に何の準備もしていない者が、次々と地上界から送られてくるために、こちらでは面倒なことがますます増えています。なかには、冤罪によって処刑されているケースや、不当な刑を受けているケースもあります。

 生命は神聖なものであり、人間が与えたり奪ったりすべきものではありません。生命は物質から創造されるのではありません。物質が生命によって創造され、維持されているのです。生命は霊的なものであり、大霊を始原としており、神性を帯びているのです。ですから、生命とその物的顕現を扱うときは、最高の慈悲心と思いやりと同情心をもってのぞむべきです。そして、動機は間違っていないかを確認することを忘れないでください。

 死刑制度では、問題は何一つ解決しません。罪を犯した人のことを思いやる心こそが、摂理を成就させるのです。いかなる方法をとるにせよ、更生を促進するものであるべきで、決して復讐心を生み出すようなものであってはなりません。


【Q20】
人間の誕生は自然法則によって支配されているとおっしゃっていますが、そうなると産児制限はその自然法則に干渉することになり、間違っていることになるのでしょうか?

 いいえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この問題でも動機が大切です。何ごとも動機が正しければ正しい決着をみます。出産を制限することも、その動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。

 しかし、霊の世界には、地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ちかまえているという現実も忘れないでください。


【Q21】
妊娠中絶はいけないとおっしゃっていますが、どの段階からいけないことになるのでしょうか?

 中絶行為をしたその瞬間からです。(妊娠してすぐでもいけないかと念を押されて)とにかく中絶が実施された瞬間から間違いを犯したことになります。いいですか、あなた方人間には、生命を創造する力はないのです。あなた方は、生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。

 中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から、霊は子宮に宿っています。中絶されれば、その霊は、未熟な霊的身体に宿って霊界で生き続け、成長しなければなりません。中絶によって物的表現の媒体をなきものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児の自然な成長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機しだいで事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。

 私の住む世界の高級霊で、人工中絶を支持する霊は一人もいません。が、動機を考慮しなければならない特殊なケースがあることも事実です。行為そのものは、絶対にいけないことですが。

 あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがって、その生命が物質界に顕現するための媒体を、勝手に滅ぼすべきではありません。物質をなきものにしたことで、すべてが終わったわけではないこと、それに関わった当事者は、いつの日か、その中絶によって地上への誕生を阻止された霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなると、私は考えています。