Monday, July 28, 2025

シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

七 節
新プラトン主義──スーフィズム──霊的真理の普及を妨げるもの──似非神学者──似非科学者──先入的ドグマによる偏見──宗教の名に値するもの──理性こそ最高の指針




〔新プラトン主義哲学①に関する通信があった。見覚えのある容貌をした霊が写真に写ったが、衣服は見慣れないものだった。私の質問に対し、心霊写真に写るためにはある程度の物質化が必要で、霊視に写る時の像とは違うということだった。

 新プラトン主義の特徴的教義についての説明は実に克明で、私のまったく知らないものだった。忘我の状態で神性に背くものをすべて排除し、ひたすら神との合一をはかるス-フィズム②という恍惚的冥想行為について長々と説明し、その理想的人物として新プラトン主義学者の一人の名を挙げた。

その時教わったもの、特に右の学者の教説についてはその後なるほどと思わせるものがある。もっとも私自身はすでに体験していたこともあって、驚きの度合いが和らげられているが。

 その後短期間ではあったが通信が跡絶えた。その間に出席したある交霊会でイタズラ霊による偽名行為が再び発覚し、私も大いに考えさせられた。その後の通信でよその交霊会には絶対出席しないようにとの忠告があった。

霊媒には強い磁力があり、他の霊媒の交霊会に出るとそこでの現象に悪影響を及ぼし、同時に悪影響を持ち帰ることになるから、霊媒どうしの接触は絶対避けることが大切であるとのことだった。

 宮廷詩人だったリドゲート③のものを中心とする素晴らしい詩が、それによほど興味をもっているかのように見うけられる霊によって書かれた。その霊はただ詩を綴ること以外は何もしなかったが、その筆跡は見事で特徴があった。

 その後一八七三年六月十三日に開かれた交霊会で神学に関する質問を数多く用意しておいたところ、それに対して入神講演の形で長々と回答が述べられた。当然その全部は筆記できず、部分的で不完全な筆録しか残されていない。が、その翌日、その入神講演をした霊が、こちらからの要請もないのに、次のような自動書記通信を送って来た。〕



 


 


























 昨夜述べた事の中には、先を急ぐあまり十分に意を尽くし得なかった事が多く、筆録も正確とは言えぬ。あのような重要な問題は十分に念を入れ、是非とも正しく理解して貰わねばならぬ。そこで、十分に意を尽くし得なかった事をここでより分かり易く述べたく思う。

交霊会で汝の口を借りて語るのは必ずしもこうした方法(自動書記)で伝えるほど正確を期することが出来ぬものである。完全に隔離された状態のほうが緻密さと正確さの得られる状態に入るのが容易である。

 昨夜はわれらが神より託されたる使命について述べたつもりである。その使命の前途を遮る多くの困難の中でも最大のものは、その使命達成においてわれらが何よりも頼りとしている気心の知り合った同志が余りに神学的先入主に捉われ、あるいはそれまで説き聞かされて来た信仰と相容れぬことに強い恐怖を覚えるために、われらにとって為すすべがなく、挙句の果ては、悲しい哉、われらの説く神の教えが邪霊の言葉とされ、その背後にて操る強力なる悪魔のさしがねと決めつけられることである。われらにとってはこうした人材ほど嘆かわしいものはない。

 己の定めた勝手な条件のもとに、己のお気に入りの手段でしか物事を判断しようとせぬ似非科学者たち──われらを単に人間をたかぶらかす者、嘘つき、狂える者のたわごとと決めつける材料として以外には取り扱おうとせぬ科学者たち──彼らはわれらにとってまず用はない。

その曇れる目には真理は見えず、長年の偏見によって被われ束縛された知性は、われらには何の役にもたたぬ。どう気張ったところで霊界との交信の真相を垣間見ることすら出来ぬ。

彼らが獲得する知識はたとえそれ自身は有用であり、価値あるものであろうと、われらの特殊なる使命には先ずもって役に立たぬ。われらが目差すものは、われらの使命の一局面でしかない現象面にのみ目を向けたがる科学者がとやかく言うものとは、いささか方角が異なるのである。

長きに亙り物理学的観察に馴らされた知能は、その分野の事実の解明に向けるのが最も適切であろう。われらの分野はそれとはまた異なるのである。霊と霊との関係であり、霊の辿る宿命に関する知識を扱うのである。

 更に、われらが述べんとする真理に皆目知識を持ち合わせず、その理解にはこののち長年に亙る人生試練を必要とする無知にして未熟なる者たち───この種の者は、いつの日にかわれらの真理を理解し得る段階にまで向上してくるであろうが、今の段階にては用はない。

 況(いわん)や高慢にして傲慢なる知識人、己の世界にしか通用せぬ道学者、慣例と体面を守ることに汲々たる宗教家──彼らについては言葉もない。彼らを納得させるには更に多くの物的証拠を必要とする。われらが述べる言葉はたわごとにしか聞こえぬであろう。

 われらが真に頼りとするのは、神とその天使の存在を知り、愛と慈悲を知り、いずれ死後に己が赴く境涯について知らんと欲する人物である。然るに悲しい哉、神により植えつけられ、霊に育まれし天賦の宗教的本能が人間の勝手な宗教的教義──幾世紀にも亙って知らず識らずのうちに築きあげられた、無知と愚行の産物によってがんじがらめにされている。どこを突ついても、返ってくるのは真理から外れたことばかりである。

われらが父なる神の啓示を説けば、神の啓示はすでに全てを手にしていると言う。われらがその啓示の矛盾点を指摘し、そこに終局性も不謬性もなきことを告げれば、教会が拵えた取り留めもなき決まり文句をくり返すか、それとも〝絶対に誤ることなき人〟として選びし人物の説を引用するのみである。

つまり彼らは、一時期一地方の特殊なる必要性に応じて授けられた、かぎられた啓示をもって普遍的真理と思い込み、それをものさしとしてわれらを欺かんとするのである。

 また古代において霊格者を通じて行える如く、われらが信頼するにたる神の使者であることを表明し、その証拠として奇跡的現象を演出して見せても、彼らは、奇跡の時代は終わった、神の啓示の証として奇跡を行うことを許されたのは聖霊のみであると主張する。

そして悪魔──これは彼らの勝手な想像の産物にすぎぬのであるが──は神を装うことが出来るとし、われら及びわれらの使命を神と善に対抗する外敵であり、暗黒界の使者であると決めつけるのである。またこうも言う──出来ることなら力になってあげたい。

なぜなら言っていること自体はなるほどと思わせることばかりだからである。が、それが悪魔が使う誘惑の手だから困るのだ、と。確かに彼らがそう思うのも無理はない。

なぜなら、やがて善を装える邪霊集団がやってくることを聖書が予言しているからである。われらこそその邪霊なのであろう。彼らにとってはそうであるに相違ない。なんとなれば神聖にして犯し難き古の神学が神の子イエスを否定せんとする勢力の到来を予言しているではないか。

現にわれらの説はキリスト神の定めしイエスの位置とその使命を根底より否定している。またわれらは理性を信仰の上に置いている。われらの説く福音は(信仰よりも)善行を説く福音であり(忠実なる信仰でなく)善の実行者こそ佳(よ)しとする教えである。

彼らにとっては、こうした教えを説く霊はすべて光の天使を装う大悪魔の手先であり、魂を破滅に陥れんとの企みにほかならないのである。

 が、われらにとっては協力を期待する真摯なる信心家からこうした態度に出られることこそ痛恨のきわみである。彼らの多くは愛すべき真面目な人間である。ただその明るき魂の炎が地上の暗闇を照らすに至るには、是非とも進歩性を必要とする。

われらは是非とも彼らにメッセージを送りたい。が、すでに築き上げられたる神及び人間の義務についての確固たる信仰基盤を当てにするには、その前に進歩を阻む夾雑物を取り除かねばならぬ。

 宗教がその名に値するためには二つの側面をもたねばならぬ。一つは神への信仰であり、もう一つは人間についての教えである。その道の専門家により〝正統〟と呼ばれている伝来の信仰は一体その二点についてどう説いているであろうか。

その教えとわれらの教えとはどこがどう違うのであろうか。その〝違う〟部分はどこまで理性を納得させるであろうか。何故かく問うのかといえば、われらは何よりもまず神が植えつけ給うた理性こそ唯一の判断基準であると主張するものだからである。われらはあくまで理性に訴える。

何故なら、古の聖賢がこれこそ神の唯一にして最後の啓示であると断定して聖典を編纂した時も、彼らなりの理性に訴えたのである。その断定に際して彼らなりに理性に訴えたのである。故にわれらもまた理性に訴える。汝はわれら霊団の同志が啓示の永遠不変の支柱とすべきものを神自ら規定されたと主張しているとでも思われるか。

われらもまた神の使者にほかならぬ。かのヘブライの予言者たちを導いた霊たち、そして啓示を神の言葉を断定せる人間を指導した霊たちと同様に、われらもまた神によって導かれし霊なのである。

 われらも彼らと同じ神の使者である。携え来たるメッセージも同じである。ただより一層進んでいるというまでである。われらの説く神も彼らの説ける神と同一である。ただその神性をより明確に説いているまでである。つまり人間臭が減り、より神々しき存在となっている。

 こうしたわれらの訴えをその言葉どおりに神聖なるものと受け取るか否かは、汝らの理性(とは言え背後霊の指導を受けることは間違いないが、理性であることには変わりない)が最後の判断を下すことである。この上われらの訴えを拒否する者は自らの理性の愚昧さを証言する者にほかならぬ。盲信を理性的信仰と同等に見なすことはできぬ。

なんとなれば信仰にも根拠ある信仰と根拠なき信仰とがある。根拠ある信仰は論理的裏付けが可能であり、その場合にも理性が最終的判断を下す。後者は論理的裏付けなき信仰であり、これでは人を動かすことはできぬ。

況(ま)して全く根拠なき信仰に至っては、われらもその頼りなさと信用のなさについてこれ以上論ずる必要さえ認めぬ。

 故にわれらは理性に訴えるのである。理性的に判断してわれらがどこまで悪魔性を証しているというのか。われらの説く教義がどこまで邪霊的であるのか。何をもってわれらを悪魔的というのか。こうした点については、これより後に説くことにしよう。

〔註〕

(1)
Neoplatonism 三世紀にはじまったギリシャ哲学の一派で、プラトンの思想を中心にしてこれに東洋の神秘思想を加味したもの。その代表的思想家が本書の五節プルーデンスの名で出ているプロティノス plotinus である。

 
<address>
(2)Souffism
(3)Lydgate

Sunday, July 27, 2025

シアトルの夏 人間は生まれる前も、今も、そしてこれからもずっと霊です

 シルバーバーチの霊訓―地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



霊媒の指導霊や支配霊になるのは、霊媒自身より霊格の高い霊ときまっているのか。心霊研究というのは大切なものか。神を、全能で慈悲深い存在と考えてよいか。こうした質問がサイキックニューズ紙の読者から寄せられている。本章ではそうした投書による質問と、それに対するシルバーバーチの回答をまとめて紹介してみよう。

最初に紹介するのは、かの有名な“モーゼの十戒”に関するもので、あれはもう古いのではないか、内容を書き改めるべきではないか、といった意見が添えられていた。シルバーバーチは質問者の意見に同感であると述べてから、こう続けた。


「人類の永い歴史の中のある一時期のために届けられた霊力を、神による最終的な啓示と見なしてはなりません。啓示というものは、時代と民族の理解力に合わせて届けられるもので、継続的かつ進歩的です。理解力の及ぶ範囲内で少し進んだもの、ということです。常に一歩先のものが届けられ、そこまで到達すれば、さらに次の段階のものを、というふうに、無限の梯子(はしご)を登ってまいります。

なのに、かのユダヤ民族がまだ幼い段階にあり、しかもその当時の情況に合わせて届けられたものが、何もかも大きく事情の異なる現代に、どうして当てはまりましょうか。わたしには“一戒”しかありません。お互いがお互いのために尽くし合うべし――これだけです」

この回答がきっかけとなって、ひとしきりメンバーの間で議論の花が咲いた。それにシルバーバーチも加わって、こう述べた。


「こうして皆さんのご意見をお聞きしていると、わたしは、できることなら霊的ビジョンがどうなっているかをお見せしたいものだと思わずにはいられません。そうすれば、霊の世界に存在する複雑・微妙な組織と、計画が立案され地上の各国に影響力が行使されていく、その背景に行きわたる配慮、絶妙ともいうべき配剤を、まのあたりにすることができるのですが……。永年にわたって蓄積されてきた叡智から生まれる洞察力が総動員されます。が、それでも、時として見込み違いというものがあるものです。わたしたちにも失敗はあるのです。何もかもうまく行くとはかぎらないのです。

しかし、このわたしにかぎって言えば、皆さんからの大いなる愛と敬意を頂戴して、大へん恵まれた成果をあげてまいりました。その愛と敬意のお蔭で、他の霊団の多くが、必死の努力にもかかわらず、使命半ばにして挫折している中で、わたしの仕事はずいぶんラクな思いをさせていただきました。まったくの無名の状態から始めて、今や全世界のすみずみまで広がるに至ったこれまでの道のりを振り返ると、感慨ひとしおというところです。しかし、まだその使命は終わっていないのです。

今でも数多くの大きな問題に直面しております。が、それと闘い、そして克服しつつ、この暗闇に包まれた物質の世界に、ささやかな光明を注いでいくことができております」

次の投書には“大霊の存在を実感するにはどうしたらよいのでしょうか”とあった。これが読み上げられるとシルバーバーチは、間髪を入れず、こう答えた。


「まず第一に、生命の大霊とは何であるかを明確に認識しないといけません。これまでは、それが間違った概念のもとに信じられてまいりました。

もとより大霊を有限の用語で表現することは、必然的に不可能なことです。無限なる存在を有限なる言語で表現できる道理がありません。そこで、いつの時代においても、神の真の姿は捉え難く、限りある地上の人間の理解力では正しく理解することができませんでした。

しかし皆さんも霊的存在であり、内部に神性の火花を宿しており、程度の問題とはいえ、大霊の資質をそなえているからには、生命の全諸相に顕現している崇高にしてダイナミックな生命力を感じ取ることはできるはずです。ただし、それにも程度の差はありますが……。

そのための条件として、物的感覚を鎮静させること(精神統一)ができるようにならないといけません。世間の雑音、不協和音、いがみ合い等は、きれいさっぱりと忘れ去らないといけません。内面を穏やかに保ち、あたりを包んでいる崇高な根元的エネルギーに魂をゆだねるコツを身につけないといけません。その段階で内部から湧き出る静寂の醍醐味(だいごみ)――それが生命現象の背後の霊力と一体となった時の実感です。

そこに至るには、時間と忍耐と知識とが必要です。が、あなたのまわりに充満する霊妙にして微妙な霊的生命のバイブレーションを感じ取ることができるようになるにつれて、内部の霊的自我に潜む驚異的可能性に気づくようになります。それが、大霊の存在を実感するということです。しかし、それは容易なことではありません」

次の投書はシルバーバーチがよく使用する“霊の力”についての質問で、“それはタンジブルtangible(触れてみることができるもの)でしょうか。リアルreal(実体感のあるもの)でしょうか”というものだった。


「難しい用語を使用なさいますね。タンジブルとはどういう意味でしょうか。五感に反応するかという意味でしょうか。もしその意味でしたら、“ノー”の返事となります。

リアルなものか? むろんリアルです。知識がリアルであるように、叡智がリアルであるように、進化がリアルであるように、友情がリアルであるように、愛がリアルであるように、実在のエネルギーがすべてリアルであるように、霊力はリアルなものです。霊の世界においてはタンジブルなものですが、地上世界では、霊感者を除いては、感知できません。

霊力は生命を支えているエネルギーです。無知な人、偏見のある人、迷信にひきずり回されている人は、みずから障壁をこしらえ、それが霊力の流れを阻止しているのです。それを取り除くのにどれだけの時を要するかは、その障壁の性質(たち)によって違ってきます。

人によっては、霊的なことについて漠然とした概念すら抱くことなく生涯を終わる人もいます。生命とは霊であり、霊とは生命であり、地上に存在するものはすべて霊力のお蔭であるということが、チラリと脳裏をよぎることもなく過ごします。

そういう人は、霊的実在に対して、すべての感覚がマヒしているのです。言ってみれば物的牢獄の中で暮らしているようなもので、死が解放してくれるまで、その状態が続きます。もっとも、死んだらすぐに実在に気づくというものでないことは、ここにおいでの皆さんはよくご存知と思います。その種の人間は、霊的生活環境に馴染むまでに、相当な調整期間を要します。

中には、地上生活中に時おり、ほんの一瞬のことですが、生命の全諸相を創造し支配し導いている、何かしら超越的な力の存在に気づく人がいます。

さらには、ここにおいでの皆さんのように、霊力の実在について直接的な認識をお持ちで、日々、その恩恵に浴していらっしゃる方がいます。心が、精神が、そして魂が開かれ、この全大宇宙を動かしている力と同じものが自分を通して働きかけ、他の人々の魂を目覚めさせる上で、自分を役立てる用意ができておられる方たちです。

どの力も始原は一つです。全生命活動を動かしている力が、このわたしを今こうしてしゃベらせているのです」

そのシルバーバーチ霊団とサークルとのつながりについて問われて――


「信念に燃えなさい。盲目的な信念ではなく、確実な知識に基づいた信念です。確信です。これは、古くから言われ続けてきた訓えです。もともと、わたしが申し上げていることに新しいものは何一つありません。そこで、改めてここで、それが皆さんの存在の布地に染み込むように、わたしに可能なかぎりの力を込めて、同じ言葉を繰り返します――信念に燃えなさい!

皆さんは皆さんの役目を果たしてください。わたしたちはわたしたちの役目を果たします。絶対に見捨てるようなことはいたしません。宇宙にはインスピレーションが充満しているのです。条件さえ整えば、それを自由に我がものとすることができるのです。ところが、そこに取り越し苦労、疑念、不安といったものが入り込みます。そうした不協和音が邪魔をするのです。ですから、それらが心に宿るスキを与えてはならないのです。

為さねばならないことが山ほどあります。それを成就するためには、皆さんがた人間側の堅固な忠誠心による援護がぜひとも欲しいのです。比較的永い年月にわたる経験をもつこのわたしでさえ、克服に手こずる障害が沢山あります。それを乗り越えるには、皆さんがたが忠実であってくださること、信念を崩さないでいてくださること、そして何よりも、恐れることを知らない気魄(きはく)を持ち続けてくださることが不可欠なのです。心配・迷い・不安、こうした弱味が心に根を張るのを許してはなりません。

これからも難問が前途を過(よぎ)ることでしょう。が、皆さんもそれを過って進めばよろしい。いっしょに留まってはなりません。解決できないほど大きな難問、背負えないほど重い荷物というものはありません。弱気になってはいけません。明日がもたらすものを、断固たる意志と不敵な精神で迎えるのです。そうすれば万事うまく行きます。

皆さんの助力を必要とする人が無数にいます。皆さんはいつでも援助の手を差しのべられる用意ができていないといけません。それができてはじめて、自分の存在意義を発揮したことになるのです。どんな大言壮語をしても、人のためになることをしなかったら、自分が得たものを人に与えるということをしなかったら、せっかくあなたに託された霊的知識が教えてくれる生き方をしていないことになるのです。

やるべきことが沢山あります。どうか皆さんも、わたしたちとともに、自分の行為によって生きる愉(たの)しみを知ってくれる人が、ここにも、あそこにもいてくれるのだという喜びに満ちた期待をもって、仕事に邁進(まいしん)いたしましょう。

そして、例によってわたしの心は、大霊への祈りの気持ちに満たされます。

ああ、大霊よ、あなたの霊力はわたしたちを生かしめている力です。あなたの霊力はわたしたちの魂を高揚させる力です。わたしどもはその力をできうるかぎり豊かに地上へ顕現せしめ、それに気づかずにいる者に、その素晴らしさを認識させてあげたいのでございます。

大霊の祝福のあらんことを!」

別の日の交霊会でも、世界中の読者から寄せられた質問が取り上げられた。そのうちの一つは“他界後の行き先はわかったのですが、いったい霊はどこから来るのでしょうか”というものだった。するとシルバーバーチらしい返答が返ってきた。


「その方は本当に他界後の行き先がわかっていらっしゃるのでしょうか。どこへ行くのでしょう?」

この問いかけに、右の投書を読み上げたメンバーが「次の世界へ行くという意味だと思いますが……」と言うと――


「そういうふうに皆さんは“次の世界”などという実にあいまいな用語を用いられますが、生命の世界は一つなのです。それに無数の段階があるということです。皆さんは今も立派に霊界にいらっしゃるのですし、これからも永遠に霊界にいらっしゃるのです。バイブレーションの波長が異なるというだけのことです。同じ意味で、人間は今から立派に霊的存在であり、これからもずっと霊的存在です。“死”が霊にするのではありません――一ミリたりともあなたの霊性を高めてはくれません。

人間は生まれる前も、今も、そしてこれからもずっと霊です。現在はその肉体という機関を通して顕現している部分だけを意識していらっしゃるのです。いわゆる“死”のあとの進化にともなって、それまで顕現していなかった部分が次第に発揮されていきますが、“霊”としては、どこかへ行ってしまうわけではありません。どこから来たのでもありません。無窮の過去から存在し、今も存在し、これからも無窮に存在し続けます」

メンバーの一人「地上的表現形態をもつ前はどういう形で表現していたのでしょうか。この質問者が聞きたいのはそのことだろうと思うのです」


「霊としてはずっと存在しているのですが、その物質という形態に宿るまでは、個体としての存在はありません。霊が個別性をもつのは物的身体と連結した時です」

「それは、人間に飼われている動物の個別性が飼い主とのつながりによって促進されるのと同じと考えてよろしいでしょうか」


「結構です」


訳注――動物の霊は種族ごとの類魂としての意識しかなく、死後はその類魂と融合して個別性を失う。が、人間に可愛がられた動物は、その愛によって個別性が強められて、死後もしばらく、そのままの形態を維持している。飼い主の死後、霊界でいっしょに暮らしてますます個別性を強めるが、進化の速度が人間に劣るために、いつかは別れる時が来て、動物はその愛が薄れるにつれて個別性を失い、最後はやはり類魂の中へ融合していく。その分だけ類魂が進化を促進される。

コナン・ドイルの『妖精物語』の中で、ある体験者が、形体のはっきりしない精霊を目の前にして、素直でやさしい気持ちになるほど形体がくっきりと、そして生き生きとしてきた、という話がある。それが“愛の力”であり、育児や学校教育も、帰するところは“愛”の問題であることを、さきの人間と動物の進化の話とあわせて、教えているように思える。

別のメンバー「われわれがこの物的身体を失っても、やはり個性を持ち続けるのでしょうか」


「ますます個性が強くなります」

さらに別のメンバー「でも、次第にあなたのおっしゃる大霊の中へ融合していくのではないでしょうか。ますます神性を発揮するのですから……」


「それでもなお個性は残ります。あくまでもあなた自身の潜在的資質を発揮し続けるのです。その顕現の仕方は進化の程度によって決まります。進化するほど潜在的自我が表面へ出てまいります。それは、それだけ完成度が高められるということであり、完成度が高まるほど大霊に近づくということです。

もしもその完成度が限られたものであるとしたら、ある一定の時期がくればあなたも大霊に融合しきってしまうことになりますが、進化とは無限の過程なのです。進化すればするほど、まだその先に進化の余地があることを自覚することの連続です。こうしてあなたは、どこまで行っても、ますます個性を強めていくのです」

続いての投書は“他界した人たちには、私たちから送られる思いやりや祈りが通じているのでしょうか。愛の力を霊界での仕事に使用できるものでしょうか”というものだった。シルバーバーチが答える。


「それは、両者の間に真実の愛または情のつながりがあるかどうかによって違ってきますが、大体において、切なる思いや祈り、幸せを願う気持ちはその霊に通じ、力になります」

「もう一度やり直すチャンスはすべての人に与えられるのでしょうか」


「もちろんです。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事がお終いとなるとしたら、この世は実に不公平だらけで、生きてきた不満だらけの人生の埋め合わせもやり直しもできないことになります。

わたしたちが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は、人生が“死”をもって終了するのではないこと、したがって苦しい人生を送った人も失敗の人生を送った人も、あるいは屈辱の人生を送った人も、みんなもう一度やり直すことができるということ、言いかえれば、悔(くや)し涙を拭(ぬぐ)うチャンスが必ず与えられるということです。

人生は死後も続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で、人間は内在する能力、地上で発揮しえなかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時にまた、愚かにも摂理を無視し、他人の迷惑も考えずに横柄(おうへい)に生きてきた人間には、その悪業の償いをするチャンスが与えられます。

神の公正は完璧です。騙(だま)すことも、ごまかすこともできません。すべては神の眼下にあります。すべてをお見通しです。そうと知れば、まじめに生きてきた人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは、利己主義者だけです」

「スピリチュアリズムが現代の世界に貢献できることの中で最大のものは何でしょうか」


「最大の貢献は、大霊の子等にいろんな意味での自由をもたらすことです。これまで隷属させられてきた束縛から解放してくれます。知識の扉は誰にでも、分け隔てなく開かれていることを教えてあげることによって、無知の牢獄から解放してあげます。日陰でなく日向で生きることを可能にしてあげます。

スピリチュアリズムは、あらゆる迷信と宗教家の策謀から解放します。真理を求める闘いにおいて、勇猛果敢(ゆうもうかかん)であらしめます。内部に宿る神性を自覚せしめます。地上のいかなる人間にも、例外なく霊の絆が宿ることを認識せしめます。

憎み合いもなく、肌の色や民族の差別もない世界、自分をより多く人のために役立てた人だけが偉い人とされる世界を築くにはどうすればよいかを教えます。知識を豊かにします。精神を培(つちか)い、霊性を強固にし、生得の神性に恥じることのない生き方を教えます。こうした点がスピリチュアリズムにできる大きな貢献です。

人間は自由であるべく生まれてくるのです。自由の中で生きるべく意図されているのです。奴隷のごとく他の者によって縛られ、足枷をされて生きるべきものではありません。その人生に豊かさがないといけません。精神的に、身体的に、霊的に豊かでなければいけません。あらゆる知識――真理も、叡智も、霊的啓示も、すべてが広く開放されるべきです。生得の霊的遺産を差し押さえ、天命の全うを妨げる宗教的制約によって肩身の狭い思い、いらだち、悔しい思いをさせられることなく、霊の壮厳さの中で生きるべきです」

「スピリチュアリズムはこれまでどおり一種の影響力として伸び続けるべきでしょうか、それとも一つの信仰形体として正式に組織をもつべきでしょうか」


「わたしはスピリチュアリズムが信仰だとは思いません。知識です。その影響力の息吹は、止めようにも止められるものではありません。真理の普及は抑えられるものではありません。みずからの力で発展してまいります。外部の力で規制できるものではありません。あなたがたに寄与できるのは、それがより多くの人々に行きわたるように、その伝達手段となることです。

それがどれほどの影響をもたらすかは、前もって推し量ることはできません。そのためのルールをこしらえたり、細かく方針を立てたりすることはできない性質のものなのです。(※)

あなたがたにできるのは、一個の人間としての責任に忠実であるということ、それしかないのです。自分の理解力の光に照らして義務を遂行する――人のために役立つことをし、自分が手に入れたものを次の人に分け与える――かくして霊の芳香が自然に広がるようになるということです。一種の酵素のようなものです。じっくりと人間生活の全分野に浸透しながら熟成してまいります。みなさんは、ご自分で最善と思われることに精を出し、これでよいと思われる方法で真理を普及なさることです」


※――それを人間の浅知恵でやろうとすると、組織を整え、広報担当、営業担当といったものをこしらえ、一つの企業としての体制ができ上がる。その体制を維持するためには資金がいる。そこで、目標が宗教本来のものから逸脱して、いかにして収入増を図るかということに集中するようになり、かくして世俗的宗教――立派な“商売”となり下がっていく。それがいつの世にも変わらぬパターンであることを念頭においてシルバーバーチは警告している。

「支配霊になるのは霊媒自身よりも霊格の高い霊と決まっているのでしょうか」


「いえ、そうとはかぎりません。その霊媒の仕事の種類(大きく分ければ物理的心霊現象か精神的心霊現象か)によって違いますし、また、“支配霊”という用語をどういう意味で使っているかも問題です。

地上の霊媒を使用する仕事にたずさわる霊は“協力態勢”で臨みます。一人の霊媒には複数の霊から成る霊団が組織されており、その全体の指揮にあたる霊が一人います。これを“支配霊(コントロール)”と呼ぶのが適切でしょう。霊団全体を監督し、指示を与え、霊媒を通じてしゃべります。時おり他の霊がしゃべることもありますが、その場合も支配霊の指示と許可を得た上でのことです。しかし役割は一人ひとり違います。“指導霊(ガイド)”という呼び方をすることがあるのもそのためです。

霊言霊媒にかぎっていえば、支配霊はかならず霊媒より霊格が上です。が、物理現象の演出にたずさわるのは必ずしも霊格が高い霊とはかぎりません。中には、地上的要素(物質臭)が強く残っているからこそ、その種の仕事にたずさわれるという霊もいます。そういう霊ばかりで構成されている霊団もあり、その場合は必ずしも霊媒より上とはかぎりません。

しかし一般的に言えば、監督・支配している霊は霊媒より霊格が上です。そうでないと霊側に主導権が得られないからです」

「思念に実体があるというのは事実でしょうか」


「これはとても興味ぶかい問題です。思念にも影響力がある――このことには異論はないでしょう。思念は生命の創造作用の一つだからです。ですから、思念の世界においては実在なのです。が、それが使用される界層の環境条件によって、作用の仕方が制約を受けます。

いま地上人類は、五感を通して感識する条件下に住んでいます。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだ、テレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は、物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた、霊的存在ということです。その条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形態をとるまでは存在に気づかないからです。

思念は、思念の世界においては実在そのものです。が、地上においては、それを物質でくるまないと存在が感識されないのです。肉体による束縛をまったく受けないわたしの世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。わたしの世界では霊の表現または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。

勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは、思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても、代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは、邪道です。これも正しい視野で捉えないといけません」

「物的生活の動機づけとして使用するのは許されますね?」


「それは許されます。また事実、無意識のうちに使用しております。現在の限られた発達状態にあっては、その威力を意識的に活用することができないだけです」

「でも、その気になれば、霊側が人間の思念を利用して威力を出させることも可能でしょう?」


「できます。なぜなら、わたしたちは人間の精神と霊を通して働きかけているからです。ただ、わたしがぜひ申し上げておきたいのは、人間的問題を集団的思念行為で解決しようとしても、それは不可能だということです。思念がいかに威力があり役に立つものではあっても、本来の人間としての仕事の代用とはなり得ないのです。またまたわたしは歓迎されないお説教をしてしまいましたが、わたしが見るかぎり真実なのですから、仕方がありません」

「大戦前にあれだけ多くの人間が戦争にならないことを祈ったのに、阻止できませんでした。あれなどは、その良い例だと思います。ヨーロッパ全土、敵国のドイツでもそう祈ったのです」


「それは良い例だと思います。物質が認識の基本となっている物質界においては、思念の働きにもおのずと限界があります。それはやむを得ないことなのです。ですが他方、わたしは、思念の価値、ないしは地上生活における存在の意義を無視するつもりもありません」

「心霊研究をどう思われますか」


「その種の質問にお答えする時に困るのは、お使いになる用語の意味について、同意を得なければならないことです。“心霊研究”という用語には、スピリチュアリストが毛嫌いする意味も含まれています(※)。こうした交霊会や養成会も、本当の意味での“研究”であると言えます。というのは、わたしたちはこうした会を通じて、霊力がよりいっそう地上へもたらされるための通路を吟味・調査しているからです。

皆さんはわたしたちから学び、わたしたちは皆さんから学びます。動機が純粋な探求心に発し、得られたものを人類の福祉のために使用するのであれば、わたしは、研究は何であっても結構であると思います。が、霊媒を通して演出される現象を頭から猜疑心でもって観察し、にっちもさっちも行かなくなっている研究は感心しません。動機が真剣であれば、それは純粋に“研究”であるといえますが、真剣でなければ“研究”とはいえません。純心な研究は大いに結構です」


※―― 一八四八年のハイズビル事件以後、欧米各国にSociety for Psychical Research(略してS・P・R)という心霊研究のための学術機関が設立されたが、その基本的姿勢があくまでも従来の物質科学の常識を尺度としているために、結果的にただの資料集めの仕事しかしていない。“にっちもさっちもいかなくなっている研究”とはそのことを言っている。フレデリック・マイヤースやウィリアム・クルックス、オリバー・ロッジといった世界的な学者も一時は会長のイスに座っているが、そうした煮え切らない態度に嫌気がさして、すぐに辞任している。

「英国国教会は、スピリチュアリズムには何ら世の中に貢献する新しいものが見当らないといって愚弄(ぐろう)しておりますが、この意見にどう反論なさいますか」


「わたしは少しも“愚弄されている”とは思いません。わたしたちがお届けしたものの中で“新しいもの”が一つあります。それは、人類史上はじめて、宗教というものを証明可能な基盤の上に置いたことです。つまり信仰と希望と思索の領域から引き出して、“ごらんなさい、このようにちゃんとした証拠があるのですよ”と言えるようになったことです。

しかし、“新しいもの”がないとおっしゃいますが、ではイエスは何か新しいものを説いたのでしょうか。大切なのは新しさとか物珍しさではありません。真実であるか否かです」

「大霊(神)を、全能でしかも慈悲ある存在、と形容するのは正しいでしょうか」


「なんら差し支えありません。大霊は全能です。なぜなら、その力は宇宙およびそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。大霊より高いもの、大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。宇宙は、誤ることのない叡智と慈悲深い目的をもった法則によって統括されています。その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化していることは、間違いない事実です。

このことは、慈悲の要素が摂理の中に配剤されていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力をもってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。

いかに霊格の高い霊といえども、一つの原因が数学的正確さをもって結果を生んでいく過程を阻止することはできません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、この用語では、その背後に知的で目的意識をもつダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。

わたしがお伝えしようとしている概念は、全能にして慈悲にあふれ、完全にして無限なる存在でありながら、地上の人間がとかく想像しがちな“人間神”的な要素のない神です。しかし神は無限なる大霊である以上、顕現の仕方も無限です。あなたがたお一人お一人がミニチュアの神なのです。お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。その火花を宿しているからこそ存在できているのです。ただし、それが地上的人間性という形で顕現している現段階にあっては、皆さんは不完全な状態にあるということです。

神の火花は完全です。それがあなたがたの肉体を通して顕現している側面は、きわめて不完全です。死後はエーテル体、幽体、ないしは霊的身体――どうお呼びになっても結構です。要するに死後に使用する身体と理解すればよろしい――で自我を表現することになりますが、そのときは現在よりは不完全さが減ります。霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから、完全といい不完全といい、程度の問題です」

「バラも、つぼみのうちは完全とはいえませんが、満開となったときに完全となるのと同じですね?」


「まったくその通りとも言いかねるのです。厄介なことに、人間の場合は、完全への道が限りなく続くのです。完全の域へ到達することができないのです。知識にも、叡智にも、理解力にも、真理にも、究極というものがないのです。精神と霊とが成長するにつれて能力が増します。今の段階では成就できないものも、そのうち成就できるようになります。はしご段を上がっていき、昨日は手が届かなかった段に上がってみると、その上にもう一つ上の段が見えます。それが無限に続くのです。これで完全という段階がこないのです。もしそういうことがあるとしたら、進化ということが無意味となります」

これは当然のことながら論議を呼び、いくつかの質問が出たが、それにひと通り応答したあと、シルバーバーチはこう述べた。


「あなたがたは限りある言語を超えたことを理解しようとなさっているのであり、それはこれからも続けていくべきことですが、たとえ口では表現できなくても、心のどこかでチラリと捉え、理解できるものがあるはずです。たとえば言葉では尽くせない美しい光景、画家にも描けないほど美しい場面をチラッとでもご覧になったことがおありのはずですが、それは口では言えなくても心で感じ取り、しみじみと味わうことはできます。それと同じです。あなたがたは今、言葉では表現できないものを表現しようとなさっているのです」

「大ざっぱな言い方ですが、大霊は宇宙の霊的意識の集合体であると言ってよいかと思うのですが……」


「結構です。ただその意識にも、次元の異なる側面が無限にあるということを忘れないでください。いかなる生命現象も、活動も、大霊の管轄外で起きることはありません。摂理ないし自然法則は、自動的に宇宙間のすべての存在を包括するものだからです。たった一つの動き、たった一つの波動――動物の世界であろうと鳥類の世界であろうと、植物の世界であろうと昆虫の世界であろうと、根菜の世界であろうと花の世界であろうと、海の世界であろうと人間の世界であろうと、あるいは霊の世界であろうと――その法則によって規制を受けないものは何一つ存在しないのです。宇宙は漫然と存在しているのではありません。莫大なスケールをもった、一個の調和体なのです。

それを解くカギさえ手にすれば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は大霊の意志が顕現したものだということです。法則が大霊であり、大霊は法則であるということです。

その大霊は、人間を大きくしたようなものでないという意味では非人格的存在ですが、その法則が人間の霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では、人間的であると言えます。要するに、あなたがたは、人類として、宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです」

「ということは、神の法則は完全な形で定着しているということでしょうか。それとも新しい法則がつくられつつあるのでしょうか」


「法則は無窮の過去から存在しています。完全である以上、その法則の枠外で起きるものは何一つありえないのです。すべての事態にそなえてあります。ありとあらゆる可能性を認知しているのです。もしも新たに法則をこしらえる必要が生じるようなことがあれば、神は完全でなくなります。予測しなかった事態が生じたことを意味するからです」

「こう考えてよろしいでしょうか――神の法則は完全性の青写真(ブループリント)のようなもので、われわれはそのブループリントにゆっくりと合わせる努力をしつつあるところである、と」


「なかなかいい譬(たと)えです。皆さんは地上という進化の途上にある世界における進化しつつある存在です。その地球は、途方もなく大きな宇宙のほんの小さな一部にすぎませんが、その世界に生じるあらゆる事態にそなえた法則によって支配されております。

その法則の枠外に出ることはできないのです。あなたの生命、あなたの存在、あなたの活動のすべてが、その法則によって規制されているのです。あなたの思念、あなたの言葉、あなたの行為、つまり、あなたの生活全体をいかにしてその法則に調和させるかを、あなたみずから工夫しなければならないのです。

それさえできれば、病気も貧乏も、そのほか、無知の暗闇から生まれる不調和の状態がすべて無くなります。自由意志の問題について問われると、必ずわたしが、自由といっても無制限の自由ではなく、自然法則によって規制された範囲での自由です、と申し上げざるをえないのは、そのためです」

祈り

暗闇から光明へ……


ああ、大霊よ。わたしたちは、あなたの無限の叡智、無限の知識、無限の愛を、ささやかな形ででも啓示できればと心を砕いているところでございます。

過去幾世紀にもわたって、開けた洞察力に富む者たちは、目に見えざる、より大きな、より充実せる、より深き生命の界層を垣間見て、それをその時代の言語と慣習と特色の中で表現してまいりました。

いつの時代にもあなたの永遠の真理の証言者、霊力の存在に気づいた者がいたのでございます。ほかならぬその霊力によって鼓舞され、細やかにして微妙・霊妙なる霊波の存在を悟ったのでした。しかし、地上的条件の必然の結果として、そのいずれもが人間の浅知恵によって着色され、夾雑物の下敷きとなってしまいました。

そこでまたしても、あなたの僕たるわたしどもは、あなたのメッセンジャーとして、同じ永遠の真理を、こんどこそ汚れのない形で啓示せんとしております。一時期だけの特別の計らいとしてではありません。歴史的事件としてではありません。奇跡的現象としてではありません。あなたの自然の摂理の一環として啓示せんとしているのでございます。

物質界の彼方に広大なる霊の世界が存在する事実を知らせたいのでございます。その世界では、同じくあなたの子等が、向上と進化を重ねた末にいよいよ叡智の始原に近づき、それまでに獲得したものを、受け入れる用意のできた者に分け与えたいと望んでいるのでございます。

かくして地上には今、そうした霊界からの働きかけに反応する者、霊的な光明と知識と慰安と力と導きを広めるための道具たらんとする者が増えつつあり、今後ともますます増え続けることでしょう。わたしたちはぜひともこの任務を遠く広く遂行し、恵まれぬ人々へ手を差しのべるための手段となってくれる者を、一人でも多く霊力の影響下に引き寄せたいと願っております。

わたしたちの目には、心を苦痛と不安で満たされ、悲しみの涙で目を曇らされ、苦悩を背負い、孤独を味わい、暗くうっとうしい地上世界には希望も慰めもないと思い込んでいる人々の姿が見えます。

わたしたちがメッセージを届けるのはそういう人たちです。そういう人たちこそ、その魂に感動を与えてあげ、あなたの無限の摂理と愛と力への確信をもたせてあげ、自分が決して忘れ去られていないこと、あなたの王国ではすべての子等に豊かな配慮がなされていることを確信させてあげたいのでございます。

わたしは今その仕事に献身し、地上にあって、同胞を苦しみから救い、不安を和らげ、喪の悲しみの中にある人を慰め、暗闇から光明へと導かんとしている同志とともに、手を取り合ってまいるのでございます。



シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

六 節
ダービーによる悪影響──祭日の功罪──通信を可能にする条件と不可能にする条件──極端な節制の弊害──中庸こそ大切──死後の結婚の絆──進歩の法則と親和力の法則──通信内容に矛盾の生じる原因




〔この頃ホーム氏①と会った。その日はたまたまダービーの日で、ホーム氏を通じて、ダービーのために霊的状態が悪く、仕事にならないと言ってきた。そこで翌日(五月二十九日)その点を質してみたところ、いろんなことを述べたあと次のように書いた。〕


 そうした催しは道徳的雰囲気を乱し、われらを近づき難くする。そこにはわれらに敵対心をもつ邪霊が集結し、物欲を満たさんとして集まれる人間に取り入る隙を窺うのである。昨日はそうした物欲に燃える者が大挙して集結した。

邪霊たちにとって彼らは格好の標的である。アルコールが入り、野獣の如く肉欲に燃える者。大金を当てにして興奮する者。その当てが外れて絶望の淵に落とされる者、等々がいる。邪霊の誘いにもっとも乗り易い者はこの最後に挙げた人種である。

たとえそこまで落ち込まぬとしても、道徳的感覚が狂い、感情を抑え邪霊からの攻撃の盾となるべき冷静さと心の平衡が崩れ、つけ入る隙を与えることになる。絶対的悪とまでは行かぬが、自制心を失い狂乱状態に陥れる精神が攻撃の恰好の条件を用意することになる。

こうしたものは須(すべか)らく避けねばならぬ。そうした心は霊的悪影響、未熟にして有難からぬ邪霊にまんまんと罹り易い。興奮のあまり節度と理性を失える精神にはくれぐれも用心されたい。

 以上の如き理由のため、汝が質せるような日は善の使者の努力が最も要請されることになる。総攻撃をしかけんとして集結せる邪悪な未熟霊の計画を不首尾に終わらせんがためである。


──しかし、そうなると全ての祝日もいけないことになりませんか。

 必ずしもそうではない。祝日の雰囲気が感情の手綱(たずな)をゆるめさせ、喉を焼くアルコールと、欲情の満足と、霊を忘れた振る舞いに追いやることになれば、その祭日は許し難きものといえよう。手綱を奪われた肉体が霊の思うがままの支配下に置かれることになるからである。

 しかし祝日が身体に休息を与え、魂に憩のひと時を与えることになれば、話はまた別である。過労によって疲弊し身体が心地よき適度な休息によって生気を回復するであろう。毎日の気苦労と煩事に悩み苦しめられている精神も、適度な娯楽に興じることによって緊張がほぐれ、しばし煩わしさを忘れることになろう。

そうした心地よき気分転換がむしろ精神を引き締め、刺激することになるのである。そうしているうちに穏やかな静けさが魂を支配し、それが何にもまして天使の温かき支配を容易にする。かくして天界の使者の威力が強化され、いかに強力なる悪霊の計画も効を奏さぬこととなる。

祝日を人間の堕落の日とせぬためには、汝らが善霊の働きと汝らの義務についての認識を深めねばならぬ。暴動と放蕩、肉欲とギャンブル、邪念と絶望しか生まぬ祝日はわれらにとり少しも祝うべき日どころではなく、恐るべき日であり、警戒と祈りを忘れぬ日である。

 神よ、無文別なる愚行に耽る理由なき魂を救い、守り給わんことを!


〔そのころ催した実験会がどうやらいい加減な現象によって邪魔されていたらしく、通信霊の心霊写真を撮ろうとした試みも失敗に終わった。写っていた霊は自らはレクターだと名のったが、友人の判断でわれわれとは何の係りもない、いい加減な霊で、出席者の誰も知らないことが判った。私は何か通信を得たいと思って机に向かったが、一向にまともな通信が得られないので、やむなく諦めた。

 その翌日いつもの受け身的な精神状態を取り戻した。すると、こちらから求めないうちに向こうから(ドクターが)通信を送ってきた。私は前日の実験会のことに言及して、あのような場合われわれの方で為すべきことはどんなことか尋ねた。〕



 








 レクターは汝の混乱した精神状態のために、通信を送ることが出来なかった。汝の混乱は実験会でのエネルギーの負担が大きすぎる所為(せい)である。あの実験会での霊言は全く当てにならぬ。汝の精神状態は異常なほど反抗的であった。

写真に写った人物をレクターと思ったらしいが、レクターはあの種の現象には不慣れなので、汝の度の過ぎた興奮が今述べた精神状態と相まって通信を不可能にしている事実までは彼自身も気づいておらぬ。

あのような精神状態を感じた時は、いかなる話題についても通信を求めてはならぬ。そのような時に得た通信は当てにならず、不完全であり、往々にして危険でもある。



〔私の当惑は大きかった。そこであのような現象を度々見せられては私のささやかな信念がすっかり失われてしまうと不平を述べた。それまでは一度も体験したことがなかったからである。すると──〕

 


  
 汝はこれまで、われらのうちの誰かが付き添い、注意と保護を与え得る時以外は、あのような実験会には出席していない。昨日の実験会には物質的成分を操る霊しかいなかった。その結果あのような混乱となったのである。

あの時も前もって注意を与えたが、ここで改めて警告しておく。あの時の汝の反抗的精神状態では到底レクターには支配できぬ。汝の興奮状態が通信を不可能にしたのである。


〔それ以来私は身体の調子が悪い時や、どこかに痛みのある時、あるいは精神的な悩みや心配事のある時、さらにまた、そうした人が近くにいる時や、混乱を来しそうな雰囲気の中にいる時は、絶対に自動書記をしないように慎重を期した。

その所為だと私は思うのであるが、その後の通信は実に規則正しく、且つ落ち着いた感じを与える。大体において筆致は驚くほど流暢で、書かれたノートを見ても一カ所の削除も訂正も見当たらない。内容の論調も全然ムラがなく一貫している。〕











 可能なかぎり精神を受け身に、霊性に保つことである。仕事で過労ぎみの時、心配事で気分が苛立っている時、あるいは滅入りたる時、こうした時はわれらとの交信を求めてはならぬ。交霊会に新たなメンバーを加えてはならぬ。

調子を狂わせ、妨げにしかならぬ。余計な干渉をせず、すべてを任せて欲しい。メンバーの構成について変更すべきところはわれらから助言するであろう。会合する部屋を変更せぬように。そして出来るだけ受容性に富める心構えと健康体をもって出席してもらいたい。


──確かに、一日中身体と頭を働かせたあとは条件としてよくないとは思いますが、日曜日はさらに良くないように見受けます。

 日曜日はわれらにとっても好ましくない。なんとなれば、汝の心身から緊張が消え失せ、魂が行動する意欲を失い、休息を求めんとするために、われらの働きかけに反応しなくなるのである。こうなると、われらは汝に新たな現象を試みることに恐れを感じる。汝への危険を恐れて物理的実験を手控えるのである。

 理由はそれのみに限らぬ。物理現象はわれらの本来の目的ではなく、補助的なものに過ぎぬからでもある。これまで述べてきたわれらの使命の証として見せているのであり、それのみに安住してもらっては困る。

 日曜が好ましからぬ特殊な事情がもう一つある。汝らは気づかぬであろうが、平日と条件が変わることによってわれらが被る困難である。前にも述べたことであるが、食事のすぐあとに交霊会に臨むことは好ましくない。

われらが求める身体的条件は、受動性と反応の敏速性である。その受容性も、怠惰と無気力から生じるものであってはならぬ。アルコール類と共に腹一杯食した後の、あの眠気と無気力状態ほど交霊にとって危険なものはない。アルコールの飲用が物理現象を促す場合もなきにしもあらずであるが、われらにとっては障害でしかない。

より物質的に富める霊の侵入を許し、われらの霊力が妨害されるのである。これまでもそうした妨害を頻繁に受けて参った。汝はその点をよく考慮し、われらとの交信を求めるに際しては、何事につけ度を過ごさぬよう注意を払うがよい。

身体が刺激物でほてり、食べ過ぎで倦怠感を覚えるようであってはならぬ。精神が眠気を催し、不活発となるのも良くない。いずれの状態もわれらにとっては思うように仕事が出来ぬ。状態そのものが醸(かも)し出す影響力がわれらにも及び、われらのエネルギーを大いに阻害する。出席者の中に一人でもそうしたメンバーがいる時、もしくは身体を病み苦しむ者がいても、われらには如何ともし難き状態が発生するのである。


──しかし栄養不足による虚弱な心身では仕事にならぬと思いますが。

 われらは節制を説いているまでである。食事によって体力をつけねばならぬが、食したものが消化するまでは交霊に入ってはならぬ。日常の仕事のためには適度に刺激物を摂ることも必要であるが、それも常に用心して摂取すべきであり、まして、われらとの交霊は先に述べた条件を厳守した上でなければ絶対に始めてはならぬ。

心また身体が眠気を覚えたり注意を持続できぬような時、もしくはどこかを病んでいたり痛みを感じている時は、こちらからの指示がないかぎり机に向かってはならぬ。同じく、満腹している時は低級霊の活動が優勢となることが予想され、われらには近づけぬ。

そのような条件のもとでは物理現象も質が低下し、粗暴となり、好条件のもとで行われる時の如き品の良き美しき現象は望めぬ。

 われらにとっては極端が困るのである。断食で衰弱しきった身体ではもとより仕事にならぬが、飽食によって動けぬほど詰め込まれたる身体もまた用を為さぬ。節制と中庸、これである。友よ、汝らが少しでもわれらの仕事をやり易くし、最良の成果を望むのであれば、交霊会には是非とも感覚明晰にして鋭敏なる身体と、柔軟にして受容性に富める精神状態にて臨んでもらいたい。

そうすれば汝らの期待以上のものが披露できよう。列席者全員が調和し構成が適切であれば現象は一層上質となり、述べられる教訓も一層垢抜けし、信頼性に富むものとなろう。

先に汝の言及せる光──〔当時よく交霊会で無数の燐光性の発光体が見られた。〕あれも好ましき条件のもとでは淡く澄み曇りが見られぬ。好ましからぬ条件の時は、鈍く薄汚く曇って見えるであろう。


〔しばしば交霊会に出現していた夫婦の霊が、別の仕事の境涯へ向上して行ったと聞いていたので、夫婦の絆は永遠のものかどうかを尋ねた。〕

 それはひとえに霊的嗜好の類似性と霊格の同等性による。その両者が揃えば二者は相寄り添いて向上できる。われらの世界には共通の嗜好をもつ者、同等の霊格をもち互いに援助し合える者同士の交わりがあるのみである。われらの生活においては魂の教育が全てに優先し、刻一刻と進化している。同質でなければ協同体は構成されぬ。

したがって当然互いの進化にとって利益にならぬ同士の結びつきは長続きせぬ。地上生活において徒らに魂を傷つけ合い、向上を妨げるのみであった夫婦の絆は、肉体の死と共に終わりを告げる。

逆に互いに支え合い援助し合う関係にあった結びつきは、肉体より解放されたのちも、さらにその絆を強め発展していく。そして二人を結ぶ愛の絆が互いの発達を促す。かくの如く両者の関係が永続するのは、それが地上で結ばれた縁であるからというのではなく、相性の良さゆえに、互いが互いの魂の教育に資するからである。

かくの如き結婚の絆は不滅である。ただしその絆は親友同士の関係程度の意味である。それが互いの援助と進化によって一層強化されていく。

そして互いに資するところがあるかぎり、その関係は維持されていく。やがてもはや互いに資するものがなくなる時期が到来すると、両者は分かれてそれぞれの道を歩み始める。そこにはなんの悲しみもない。なぜなら相変わらず心を通じ合い、霊的利益を分かち合う仲だからである。

もしも地上的縁が絶対永遠のものであるとすれば、それは悲劇までも永遠であることを意味し、向上進化が永遠に妨げられることになる。そのような愚行は何ものにも許されていない。


──それは分かります。しかし私の観たかぎりでは、知的にも道徳的にも同等とは思えない者同士が互いに深く愛し合っているケースがあるように思えるのですが。

 愛し合う者同士を引き裂くことは絶対に出来ぬ。汝らはとかくわれら霊同士の関係を時間と空間の観念にて理解せんとするが故に納得がいかぬのである。霊同士は汝らの言う空間的に遠く離れていても親密に結び合うことが出来るということが理解できぬであろう。

われらには時間も空間も存在せぬ、われらは知性の発達程度が完全に同一でない限り直接の交流は有り得ぬ。それはわれらには全くあり得ぬことなのである。が、たとえわれらの言う同一の発達程度まで到達していなくても、真実の愛があれば、その絆によって結ばれることは可能である。

愛は距離をいかに隔てても霊同士を強く結びつける。それは地上に置いても見られることである。離ればなれになった兄弟も、たとえ海を隔てて、別れて何年経ようとも、兄弟愛はいささかも失われぬ。求めるものは異なるかも知れぬ。

物の考え方も違うであろう。が共通の愛は不変である。夫に虐待され死ぬ思いに耐えつつ、なおその夫を愛し続ける妻もいる。

 肉体の死は妻をその虐待の苦しみから救ってくれる。そして天国へと召される。一方地上の夫はさらに地獄の道を下り続けるであろう。が、たとえ二人二度と結ばれることはなくとも、夫への妻の愛は不滅である。その愛の前に空間は消え失せるのである。

われらにとっても空間は存在せぬ。これで汝も朧気(おぼろげ)ながらも理解が行くことと思うが、われらにとっての結合関係とは発達程度の同一性と、嗜好の共通性と、進化の協調性を意味するのであり、汝らの世界の如き一体不離の関係などというものは存在せぬ。


──では聖書の「天国では嫁を貰うとか嫁にやるとかいうことはなく、すべて神の使いとして暮らすのみである」という言葉は真実ですか。

 その言葉どおりである。先にわれらは進歩の法則と交わりの法則について述べたが、その法則は不変である。現在の汝にとって立派と思えることも、肉体の死とともに捨ててしまうであろうことが数多くある。地上という環境が汝の考えを色づけしているのである。

よってわれらとしても、比喩を用い、地上的表現を借りて説明せざるを得ぬことが多々ある。それ故われらの世界にのみ存在して汝らの世界に存在せず、現在の汝の知識を超越し、従って地上の言語によって大凡のことを伝えるほかなき事情のもとで用いた字句にあまりこだわりすぎてはならぬわけである。


──なるほど。それで霊界通信に食い違いが生じることがあるわけですか・・・・・・

 そうした食い違いは通信を送る霊の無知から生ずる場合、それから霊媒を通じて伝える能力に欠けている場合、さらにまたその時の交霊の状態が完全さを欠く場合などによく生ずる。他にも原因はある。その一つが、人間側が単なる好奇心から下らぬ質問をするために、つい霊の方も人間の程度に合わせて下らぬ返答をしてしまう場合である。


──しかし高級霊ならば〝愚か者の愚かな質問に答える〟ことをせずに、その質問者を諭せばいいでしょう。

 無論出来ることならそうしたい。しかし愚かしき精神構造はそうした配慮を受けつけようとせぬものである。類は類を呼ぶ。一時の気まぐれや愚かな好奇心の満足、あるいはわれらを罠にはめんとする魂胆からしか質問せぬ者は、同程度の霊と感応してしまう。

そのような心構えではわれらとの交信は得られぬ。敬虔にして真摯なる精神ならば、その受容性に応じた情報と教訓を自ら引き寄せる。

自惚れが強く、軽薄で、無知で、ふざけた質問しかせぬ者は、似たような類の霊しか相手にせぬ。もとよりわれらは相手にせず、たとえ相手にしても、適当にあしらっておく。そうした連中は避けるがよい。下らぬ愚か者ばかりである。


〔註〕

 D・D・Home (1833~1886)心霊史上最大・最高と評される英国の霊媒で、霊能の種類においても驚異性においても他に類を見ない。とくに空中浮揚現象は有名で、いつでもどこでもやってみせた。
(1)



 注ーと世界心霊法典Ⅰ℘72に載っているが、DDホームは米国出身で後に英国、ヨーロッパへ渡り、話題は空中浮遊。一切の金銭をいただかず全て無料に徹した。──

シアトルの夏 偶然・運命の気まぐれ・奇跡・偶発事故というものは存在しません

シルバーバーチの霊訓―地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)

 




 ハリー・エドワーズ氏のように世界的に名を知られ、第一線の表舞台で活躍している心霊治療家の陰にかくれて、名前こそ表に出ないが着実な治療活動を続けている心霊治療家も少なくない。

そうした地道なタイプの治療家の一人が、奥さんとともに、ある日の交霊会に招かれて、長年の念願だったシルバーバーチとの対話をもつことができた。まずシルバーバーチが歓迎の言葉を述べてから、こう続けた。


「われわれは、ともに一つの目的のために働いている、同志です。このわたしを始めとする霊団とともに、あなたも、今地上を大へんな勢いで席巻(せっけん)している物質万能の風潮に歯止めをかけるために、一致団結して頑張っているところです。霊の威力を応用することによって、人生の意義と目的について、人間の宿命について、さらには人間と大霊とのつながり、人間どうしのつながりについて、より正しい視野を披露してあげることに、今のところ予定通りの成果を挙げることができております。

いかなる形式を取るにせよ、霊力を行使する時は、それは物質中心の考え方が間違いであることを見せつけることになるのです。なぜなら、その行為によってあなたも、わたしと同じく、根本的な真理、すなわち人間も本来が霊的存在であること、人間はミニチュアの神であること、潜在的には神性のすべてを所有しているという、永遠の霊的事実を披露することになるからです。

あなたの場合、病院から見放されて絶望の淵に沈んでいる人々に手を当てがうだけで健康を取り戻させてあげれば、身体を癒してあげると同時に、その人の魂に感動を与え目を覚まさせることにもなるのです。そこに私の使命の一端があるのです。居眠りをしている魂にカツを入れて目を覚まさせ、真実の自分とは何であるかを自覚させることです」

ここでその治療家が自分の治療中の反応について述べると――


「そういう反応を地上の治療家の方たちから聞かされると、私たち霊界側として非常にうれしく思います。霊力の流入は、大体において、やってみないとわからないことです。前もってこうなるという形が決まっているわけではないのです――大まかな原則というものはありますが。エネルギー、力、光線あるいはバイブレーションが霊媒(治療家)を通してどれだけ流入するかは、その時どきの総合的な条件によって決まります。たとえば霊媒自身の健康状態もその一つです。気分が落着いているか、不安を抱いているかも左右します。基本的問題として、その霊媒の霊格の程度が受容力を決めます。

これに加えて、その霊媒のまわりの人たちに関わる環境があります。サークルで行っているとすれば、その一人ひとりのメンバーが何がしかの影響を及ぼします。

このように、いろいろと考慮しなければならないことがありますが、他方には、治してもらう側、患者、苦しんでおられる人がいるわけです。その一人ひとりに、その人なりの霊的条件、精神的条件、および身体的条件があります。こうしたもろもろの条件が、その患者に注入される霊力の質と量を決めるのです。

さて、もう一つ別の要素として、霊媒を通して治癒力が送り込まれ、そして戻される、という一連の操作が、その通路である治療家自身に何の影響も及ぼさないということは絶対にありえないことを理解しないといけません。治療家はただの“管(くだ)”ではありません。霊と、精神と、複雑きわまる機能をそなえた身体から成る、一個の組織体です。治癒力をもつダイナミックなエネルギーがそこを通過して、何の反応も生じないはずはありません。

すべては治療家の発達の程度にかかっております。わたしが、霊媒を志す人、治療家になりたいと思っている人に対して、まず第一に経験豊かな指導者のもとで修行することが大切であること、それにプラスして――実はこのことが一ばん大切なのですが――高級な指導霊の協力を得ることができるように、人間性を磨くことが大切であることを繰り返し説くのは、そこに理由があります。最高の結果を生み出すために、適切な治癒力を適切な形で適切な分量だけ流入させるようになるのには、長い年月をかけた厳しい鍛練が必要です。

あなたご自身としては、常に治癒力をより強く発揮したいという願望をもっていなければなりません。日常生活が清廉さと実直さにあふれたものであらねばなりません。身体も、霊の宮として、できるだけ清浄でなければいけません。仕事に熱心なあまり、健康を損ねるようなことにならないよう気をつけないといけません。疲れたら、必要な回復が得られるように、時には休息を取ることも大切です。かくして高級霊の協力が得られる条件が整えば、最高の結果が得られることでしょう。

あなたも霊的存在である以上、あなたの行う治療行為によって、あなた自身も影響を受けるのは当然です。あなたを通過する治癒エネルギーは、とくに精神と肉体に痕跡を残します。大がかりな治療行為が行われた場合は、あなたの持ち前の力だけでは足らないので、霊界から追加分が届けられることになりますが、そんな場合は、一時的にせよ、大きな反応があることは覚悟しないといけません。そのうち調整がなされますが……」

ここでそのゲストがシルバーバーチにお礼の言葉を述べかけると――


「感謝は大霊に捧げなさい。わたしたちはその大霊のために全てを捧げているのですから。わたしたちは大霊の使いにすぎません。ですから、賞讃も栄光も祈りも感謝も、わたしたちが戴くわけにはまいりません。あなたもわたしも、一つの大きな目的のための道具であり、その目的をより容易に、より立派に、そして人をより幸せにするために、お互いの役割を果たそうと努力しているところであることを忘れないようにいたしましょう」

「いわゆる“奇跡的治癒”の体験談をよく耳にするのですが、私の場合はこれまで一度も奇跡的といえる治病体験がないのです。治り方が違うようです。やはり治療家によって治療方法も異なるのでしょうか」


「治療法にもいろいろと種類があります。が、いずれも同じ“霊の力”の作用である点は変わりません。霊力は無限です。無限ですから、無限のバリエーションがあるわけです。人間でも同じ顔の人は二人といません。双子でさえ、似てはいても、まったく同じではありません。それと同じで、霊力には無限のバリエーションがありますから、それが二人の霊媒を通してまったく同じ働きをするということはありえないことです。すべてはその場を支配している環境条件によって左右されます。宇宙間のあらゆる出来事は、極大のものも極小のものも、自然法則によって規制されているからです。

このサークルのレギュラーとして、長い間わたしの話を聞いてくださっている方は、このことは、わたしが常づね申し上げているテーマであることをよくご存知です。嫉妬心と復讐心を抱く神、気まぐれで、特定の者だけを可愛がる神などというものは、わたしは知りません。わたしは、宇宙の生命活動のあらゆる側面に自然法則の働きを見てまいりました。物的宇宙だけではありません。わたしの本来の住処(すみか)である霊の世界においても同じです。これまでにわたしが行ってみたところには必ず、自然の摂理が働いておりました。

偶然・運命の気まぐれ・奇跡・偶発事故というものは存在しません。すべては整然とした犯すべからざる連鎖の法則にしたがって働く“因果律”の結果なのです。自然の摂理がこの全大宇宙を支配しており、どこで何が起きようと――昆虫であろうと人間であろうと天体であろうと――すべてにその法則が働いているのです。

そこに人間的願望や意志の入る余地はありません。あなたの考えや見解や願望によってその法則を都合のよいように変えることはできないということです。これまでも変わることなく働いてきましたし、今なお働いていますし、これからも働き続けます。時間は永遠であり、法則もまた永遠です。原因がないという意味での奇跡をわたしは知りません。わたしが知っているのは、霊の力は地上の人間にはまだ啓示されていない、ないしは理解されていない法則によって働きかけ、時にはそれが人間の目には一見すると奇跡と思えるものを引き起こすことがある、ということです。

霊の力は生命力そのものなのです。生命のあるところには霊が存在し、霊が存在するところには生命があります。その霊力を存分に送り届けることができれば、生命力の全資質が持ち込まれるわけですから、そこに奇跡と思えるようなことが起きるわけです。

要するに、別の次元の法則が働くからこそ、そこに思いも寄らなかったことが生じるわけです。あなたは何らかの原因に対する結果を見ておられるわけです。歩けなかった人が自由に歩けるようになり、物が言えなかった人が自由にしゃべれるようになり、目の見えなかった人が見えるようになります。その治癒力は、実はそれまでその患者が呼吸し、物を考え、見たり聞いたりの生活を可能にしていたのと同じ生命力なのです。同じ力が形を変えて働き、再び同じことを可能にさせているだけなのです。

あなたは霊であるからこそ、本来は生命をもたない物的身体を動かすことができているのです。あなたという霊が引っ込めば、いわゆる“死”が生じます。それまで活力を与えていたエネルギーが消えるわけです。それと同じ霊の力を患者の患部に働かせれば、そこに失われていたものを回復させることができる、という理屈になります」

以上の心霊治療の原理に続いて、こんどは具体的な問題について、ハリー・エドワーズ氏とシルバーバーチとの問答の内容から学んでいただきたい。まずエドワーズ氏が尋ねる。

「私がいつも関心を抱いているのは、私たち治療家に何が治せるかではなくて、どうしても治せずにいる病気のことです。どうすればより多くの病気を治し、どうすればそちらの世界の霊医との協調関係を深めることができるでしょうか」


「われわれは偉大にして遠大な目的に向かって協力し合っております。その目的とは、薄幸の人々、虚弱な人々、苦痛にあえぐ人々、寄るべなき人々、悲嘆に首をうなだれ、胸のふたぐ思いをしている人々に、少しでも援助の手を差しのべてあげることです。霊の力は人間を媒体として注ぎ込むチャンスをうかがっております。そのチャンスを見つけると、病気の場合であれば治癒力を見せつけることによって、人間の協力さえ得られれば見えざる世界の威力と光明とをもたらすことができることを示します。

霊の力はすなわち生命力です。生命があるのは霊があるからこそです。霊は生命であり生命は霊です。この途轍(とてつ)もなく広大な宇宙を創造した力も、あなたがたを生かしめ、これから後もずっと生かしめていく力と同じものです。また、あなたがたが愛し合い、物を思い、心を馳せ、判断し、反省し、決断し、勘案し、熟考し、霊感を受け、人間的情感の絶頂からドン底までを体験させてくれる力、それは霊の力なのです。

あなたがた一人ひとりが大霊であり、大霊はあなたがた一人ひとりであると言えます。程度の差があるだけで、その本質、実質においては同じです。人間は言わばミクロの神です。その力が病人を癒すのです。それを分析してお見せすることはできません。何でできているかを説明することもできません。わたしに言えることは、それが無限の形態をとって顕現している――なぜなら、生命は無限だから、ということだけです。

霊媒現象のすべてに共通した問題は、その霊的エネルギーのコントロールです。どのエネルギーをどれだけ発現できるかは、その時の条件一つにかかっています。言いかえれば、その霊媒の有する資質と、それをより大きく、より効果的にするための修行を、どこまで心がけるかにかかっています。わたしたちの側においても、常に新しいエネルギー、新しい放射線、新しい可能性を徐々に導入しては、それを実験(ため)しております。

ですが、それも、霊媒の身体的・精神的・霊的適性によって規制を受けます。受容力が大きければ、それだけ多くのものが導入されます。小さければ、それだけ制限されることになります。

霊力そのものは、自然法則による以外には何の制約も受けません。自然法則の枠組(わくぐ)みから離れて働くことはできないのです。が、その枠組みというのが途方もなく広範囲にわたっており、これまで地上の霊媒を通じて顕現されてきたものよりはるかに多くのものが、いまだに顕現されずに残っております。

わたしが指摘したいのは、多くのまじめで信心深い人々が、神の力はバイブルに記録されている古い時代にその全てが顕現されつくした、と思い込んでいるのですが、それは間違いだということです。啓示はそれ以来ずっと進歩し続けております。現代の霊媒を通して顕現されている霊力の方が、過去の時代のものに較べて、はるかに強大です。

さて、あなた(ハリー・エドワーズ)は豊かな恩恵に浴しておられるお一人です。あなたのすぐ身のまわりで働いている霊の姿をご覧になる霊視力があればよいのだが……と思われてなりません。背後霊の存在に確信を抱き、あなたを導く霊力に不動の信頼を置いておられることは申すまでもないのですが、その背後が誰で、どんな人物であるかをご覧になれたら、もっともっと自信を持たれることでしょう。


訳注――エドワーズ氏の背後霊団の中心的指導霊は、一九世紀の英国の外科医で消毒殺菌法の完成者J・リスターと、フランスの化学者で狂犬病予防接種法の発見者L・パスツールであるといわれる。なおエドワーズ氏は一九七六年に他界している。

古い霊の部類に属するこのわたしが確信をもって言えることは、あなたの地上生活は、今日の絶頂期を迎えるべく、ずっと導かれてきているということです。意図された通りのものを、今まさに成就なさりつつあります。今その目的地にたどり着かれました。あなたの協力なしには成就できない仕事にたずさわっていることを喜ぶべきです。

以上のわたしの話に納得がいかれましたか」

「よくわかります。ただ、そうなると二つの疑問が生じます。一つは、背後霊団は何とかして、われわれ治療家をもっと有効的に改良できないものか、ということです。たとえば、両足とも不自由な子供がいるとします。一方の足は良くなったのに、もう一方の足はどうしても良くならないことがあるのです。どこに問題があるのでしょうか。私は治療家の側に問題があるに違いないと思うのです。なぜなら、一方の足が治せれば、当然もう一方の足も治せるはずだからです」


「治療家の望む通りの結果、あるいは治療霊団がその時に目標とした通りの成果が得られるとはかぎりません。治療家を通して得られる限られた治癒エネルギーで、最大限の治癒効果をあげなければなりません。一つの治療に全エネルギーを集中すれば、一気に効果があげられるかも知れません。が、次の治療のためのエネルギーを溜めるのに長い時間を要することになります。

一つ一つが実験です、とわたしは言っているのです。治療霊団も、前もってこれはこうなるという保証はできません。効果が出ることはわかっていても、どこまで治るかはわかりません。前もって知ることのできない要素がいくつもあるのです。それは治療活動を制約することになるかも知れません。ですが、それまで少しも治らなかったものに治る兆しが見えるだけでも、喜ぶべきことです。

それだけで立派な貢献と言えます。あなたは背後霊に向かって堂々と“さあ、この私を使ってください。みなさんを信じています。あなた方の言う通りにいたします”と公言する資格があります。もちろん、あなたのもとに連れてこられる患者が、魔法のように即座に治れば、こんなうれしいことはないでしょう。が、それはありえないことです。

問題がいろいろとあるのです。この仕事も言わば開拓者開拓者(パイオニア)的な分野に属します。あなたに協力している霊団は、一つ一つの症状の変化を知った上で、さらにテクニックを改良し、効果をあげるために、他の要素を導入しようと忙しく立ち働いております。あなたが治療に当たるたびに症状が改善されているのを観察されているはずです」

「おっしゃる通りです」


「協力関係が密接であるほど多くの霊力が伝達されるのが道理なのですが、それを制約する要素として、もう一つの問題が絡(から)んできます。

議論の多い問題に踏み込むことになるのは百も承知ですが、それが事実であるからには、黙って見過ごすわけには参りませんので、敢えて申し上げます。どうしても避けられない要素の一つに、患者自身のカルマ(宿業、因縁)の問題があります。当人の霊的成長の度合によって決まる、精神と身体の関係です。おわかりでしょうか」

「どうぞ、その先をおっしゃってください」


「そうおっしゃると思っていました。これは実は重大な問題であり、あなたにとっても意外に思えることも含まれております。心霊治療の仕事の大切な要素は、身体を治すことではなくて、魂の琴線にふれさせることです。魂を目覚めさせ、身体への支配力を大きくさせ、生きる目的を自覚させ、霊的存在としての本来の自我を表現させることに成功すれば、これは治療家として最大の貢献をしたことになります。

そのことの方が身体を治すことより大切です。それが治療家としてのあなたの努力の中でも、永遠に残る要素です。人間は精神と肉体と魂とが一体となったものです。これに、その三者が互いに絡み合って生じる、プラスアルファの要素もあります。その影響も忘れてはなりません。

病気というのは、その大半は主として精神と肉体と魂との間の連絡が正しく行われていないことに起因しています。正しく行われていれば、つまり完全な一体関係が保たれていれば、健康と安定性と落着きと機敏性をそなえています。もっとも、そういう人物は地上では滅多にお目にかかれませんが……。

さて、あなたのもとを訪れる患者は、その人なりの霊的成長段階にあります。人生という梯子(はしご)の一つの段の上に立っているわけです。それがどの段であるかが、その人に注がれる治癒力の分量を決します。それを決する要素の一つが、わたしのいうカルマ的負債です。

その負債が大きすぎて、あなたにも手の施しようのない人がいます。肉体を犠牲にする、つまり死ぬこと以外に返済の方法がない人もいます。もう一度チャンスが与えられる人もいます。そんな人があなたとの縁で完治するということになる場合もあります。精神的要素のために治らない人もいます。そんな場合は、一時的には快方へ向かっても、また別の症状となってぶり返すでしょう」

「ということは、カルマ的負債の方がその人に注がれる治癒力よりも大きいのだと思います」


「おっしゃる通りです。わたしはぜひその点を強調したいのです。それが当人に賦課された税金であり、みずから綴っている物語(ストーリー)であり、その筋書きは、他の何ものによっても書き変えることはできないということです。

初めにわたしは、すべては法則の枠組みの中に存在すると申し上げました。何事もそれを前提として働きます。人間のいう奇跡は生じません。自然法則の停止も、変更も廃止もありません。すべてが原因と結果から成り立っております。そこに、自由への制約の要素があるわけです。もしも因果関係が何らかの理由でキャンセルできるとしたら、神の公正が根本から崩れます。治療家にできることは、魂を解放し、精神に自由を与えてあげることです。その結果が自然に身体に現れます」

「それがカルマ的負債を返済する一助となるのでしょうか」


「そういうことです。わたしが、心霊治療にとっては、その患者の魂の琴線にふれ、自我に目覚めさせ、生きる目的を自覚させることが一ばん重要な役目です、と申し上げる理由はそこにあります」

「わたしたち治療家が例外なく体験することですが、心の奥底からの喜び、高揚、崇高な情感や理念が湧き出るのを感じることがあります。あなたがおっしゃるのは、その時のことだと思います」


「天と地が融合した極限の瞬間――あっという間の一瞬でありながら、すべての障壁が取り除かれた時、人間は自分本来の霊性を自覚します。すぐその束縛を押し破り、霊の本来の感覚であるところの法悦(エクスタシー)の状態に達するのです」

ここでエドワーズ氏が再びカルマ的負債の問題を持ち出すと、シルバーバーチは、スピリチュアリズムの本来の大きな使命にまで敷延(ふえん)して、こう述べた。


「あなたも、わたしも、そしてこれにたずさわる人のすべてが、それぞれに役割分担を担(にな)っているスピリチュアリズムというものの最大の目的は、人類の魂を呼び覚まして、一人でも多くの人間に本当の自分に気づかせること、自分とは一体なにか、誰なのかを知ることによって、ふだんの日常生活の中において霊の本性と属性を発揮することができるように導いてあげることです。

それによって地上生活のすべてが姿を一変し、利己主義という名の雑草の生い茂る荒野から、理想の花咲くパラダイスへと変わることでしょう。われわれは今それを目的として努力しているのであり、まずまずの成功を収めつつあります。光明を見出す人、真の自我に目覚める人、物的な居眠りの生活から目覚める人――こうした人は人間本来の道を見出し、確信と知識とをたずさえて、本当の意味での巡礼の旅に出る魂であると言えましょう」

この言葉に感動したエドワーズ氏が「これだけお教えいただけば十分です。治るということ自体は重要ではないということですね」と述べると、シルバーバーチが――


「わたしたち霊界の者が人間の苦しみに無関心であるという意味ではありません。病をかかえた人々の悲劇や苦痛や侘(わび)しさに無頓着でいるわけではありません。が、そうした問題の究極の原因に手をつければ、精神と身体と霊との間の不調和に終止符をうつことができ、そうなれば、地上生活が必要としている光輝がふんだんに注がれるのです。神の子が享受すべく意図されている本来のもの――気高さ、崇高さ、威厳、豊かさ、光輝、美しさを見出すことでしょう。

そうした生活の末に死を迎えれば、来世にそなえるための地上生活の大役を果たしてくれた肉体を、何の苦痛もなく脱ぎ捨てて、気持ちよく霊界の門をくぐり抜けることができます」

このあとシルバーバーチは、エドワーズ氏の奥さんの方を向いてこう述べた。


「これまでに成就されたことを、奥さんも喜んでください。今この場に集まっている霊界の治療霊団の方が、奥さんの果たされた犠牲的な役割に対して抱いている感謝の気持ちを、ぜひわたしから伝えてほしいと頼んでおられますよ」

これを聞いて奥さんが「自分はこんなことでいいのだろうかと、時に迷ったこともございました」と述べると、シルバーバーチが――


「わたしは、わたしよりはるかに奥さんを知りつくしている霊から頼まれて申し上げているのです。霊団の人たちは、あなたの心、あなたの精神、あなたの魂を知りつくし、さらに、あなたが捧げられた忠誠心と愛の強さもよくご存知です。

その人たちが言っているのです――ご主人の使命達成を可能にした陰からのあなたの助力に対する感謝の気持ちを、ぜひ伝えてほしいと。一方が脚光を浴びる立場にあれば、他方はその陰にいなければなりません。陰の存在なくしては、脚光を浴びる人もいないでしょう。わたしたちの目から見れば、人のために為された貢献は、黙って人知れず為されたものであろうと、大勢の観衆を前にして華々しく為されたものであろうと、その評価にいささかの違いもございません」

祈り

美と愛らしさと優雅さと壮麗さとを……


大霊よ。わたしたちは、ひたすらにあなたのあるがままの姿を説き明かさんと努めております。子等が、あなたについての明確な概念を捉えるのを永きにわたって妨げてきた、虚偽と紛(まが)い物と誤解のすべてをはぎ取ってしまいたいからでございます。

子等が自分とは何であるかを知るためには、全生命の背後に控える霊力を認識し、それとのつながりを理解しなければなりません。それは人間的な激情や煩悩に動かされる“神格化された人間”ではございません。一民族の守護神ではございません。エホバ神ではございません。自分のお気に入りの者だけを可愛がる、えこひいきをする神様ではございません。

あなたは宇宙の大霊におわします。根源の第一原理であり、全生命の命運の究極の裁決者であり、王の中の王であり、完全なる愛と叡智の権化(ごんげ)にあらせられます。あなたこそ、この全大宇宙を創造し、その活動のすべての側面を細大もらさず規制する法則を始動なさった方でございます。

あなたは宇宙の全生命に配剤しそして指導する大精神です。あなたは、人間もいずれあなたと同じ完全なる存在へ向けて向上し進化していくことができるように、あなたと同じ生命を賦与なさった大霊にあらせられます。

そのあなたとあなたの摂理とをわたしたちが啓示せんと努めるのは、この宇宙という霊的機構の中にあって人類が占めている真実の位置と、その位置にあって果たさねばならない役割とを、包括的に理解する必要があるからでございます。

あなたは人類をどう猛な四つ足の段階から引き上げ、あなたの分霊を授けることによって神性を賦与し、あなたのご計画の推進に参加できるようになさいました。

人間には、その授かりものを有効に使うべしとの、あなたのご意志が託されております。すなわち内部の霊性を発揮することによって地上に美と愛らしさと優雅さと壮麗さとをもたらし、地上のすべての子等が等しくその豊かな恩恵に浴することができるような環境にしなければならないのでございます。

暗黒も残酷も、貪欲も強欲も悪徳も、地上には無用のものです。そうした悪性腫瘍は、あなたがお授けくださった霊力を行為に移すことによって、すべて取り除くことができるのでございます。

わたしたちが労苦をいとわず地上圏で精励するのは、ほかならぬその霊の威力を子等に実感させるためでございます。その体験を通じて、この地上にあっても天国の美を味わい、墓の向こうに待ちうける、絶対的な宿命としての霊の世界に備えることができるのでございます。

ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。



Saturday, July 26, 2025

シアトルの夏 知識はすべて、ためになるのです

 シルバーバーチの霊訓―地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)




 シルバーバーチは、長年にわたって、世界中の数え切れないほどの愛読者から、敬愛と賞讃を得てきた。そして今なおその広がりは止(とど)まることを知らないが、これから紹介する二人の子供は、一人は八歳、もう一人は六歳の時からシルバーバーチの大の仲良しで、毎年一回、大体クリスマスの前ごろに交霊会に出席している。

名前は姉がルース、弟がポールといい、ジャーナリストで心霊書も数多く著しているポール・ハリス氏(ペンネームはポール・ミラー)のお子さんで、交霊会に出るようになってすでに六年目になる。奥さんのフェイもスピリチュアリズムに理解があり、一家揃ってシルバーバーチのお友達ということである。

この二人の子供が出席する時は、前もって質問事項を自分たちで考え、大人からの助言や指示は受けないことにしている。では、父親のハリス氏が綴ったある日の交霊会の様子を、そのまま紹介しよう。

ハンネン・スワッファー・ホームサークルの支配霊であるシルバーバーチのそばに二人の子供が立っていた。その二人が、代わるがわる、クリスマスタイム(十二月二十四日~一月六日)のしばしの別れの挨拶をすると、シルバーバーチはまず姉のルースに、

「上品さと同時にたくましさを、そして愛と叡智を身につけるようにね」と言い、続いて弟のポールには、

「たくましくなりなさい。そして、自分には霊の力が守ってくれてるのだという確信を忘れないようにね」と言い、最後に二人に向かって、

「わたしはいつでも、わたしの存在のすべてをかけ、愛の心と霊の力を傾けて、お二人のために尽くしますよ」と述べた。

確かに、そう述べたのであるが、こうして活字にしてしまうと、二人の子供が質問し、シルバーバーチが答えるという形で、年一回、六年間も続けられてきた三人の間の情愛の温(ぬく)もりは、その片鱗すら伝えられない。一時間と二十分、二人は真剣そのもので質問し、自分たちの意見を述べた。幼いとはいえ、スピリチュアリズムの真理が二人の生活の一部となり切っているようだ。

二人は質問すべき問題を二人だけで話し合って決め、大人のサゼスチョン(提言、助言)を一切ことわった。その問答が始まった。

ルース「人間が死ぬときの死に方が、霊界へ行ってから影響するのかどうかを知りたいのです。つまり自然な死に方のほうが霊界へ行きやすいのかということです」


「もちろんです。大きな違いがあります。もしも地上の人間のすべてが正しい知識をもち、自然な生き方をすれば――もしもですよ――そうすれば、死に方があっさりとして、少しも苦痛を伴わなくなります。そして、死後の霊的身体を調節する必要もないでしょう。ところが残念なことに、実際はそんなにうまく行っておりません。

地上を去って霊界へ来る人のほとんどが、自分がこれからどうなるのか、自分というのは一体どのようにでき上がっているのか、霊的な実在とはどんなものかについて、恐ろしいほど無知なのです。その上、地上で十分な成長をしないうちにこちらへ来る人が、それはそれは多いのです。

そういう人は、わたしがたびたび言っておりますように、熟さないうちにモギ取られた果物のようなものです。ルースちゃんも知っているとおり、そんな果物はおいしくありませんね? 果物は熟せばひとりでに落ちるものなのです。霊が十分に成熟すると、自然に肉体から離れるのです。今わたしのいる世界へ、渋い果物や酸っぱい果物がぞくぞくと送り込まれております。

そのため、そういう人たちをこちらで面倒をみたり、監視したり、手当てをしたり、看護をしたりして、霊界に適応させてあげないといけないのです。みんなが、ちゃんとした知識をもって来てくれれば、わたしのように地上の人間の面倒をみている者は、とても手間がはぶけて助かるのですけどね。ルースちゃんの言う通り、死に方によって大変な違いが生じます。以上のような答えでよろしいですか」

ルース「ええ、とてもよくわかりました」

ポール「昔のインディアンは、儀式のようなことをして雨を降らせることができましたが、それには霊界の人はどのように関係しているのですか。何か関係があるのですか」


「関係ありません。心霊的法則(サイキック・ロー)と霊的法則(スピリチュアル・ロー)とは少し違うのです。まったく同じではないのです。どちらにでも言いかえることができると思っている人がいますが、同じものではありません。

かつてのインディアンは、地上の物的現象に関係した心霊的法則について、よく知っておりました。純粋に物的な現象です。そして、腕のいい熟練したまじない師は、儀式によってその心霊的要素を引き寄せる能力をそなえていたのです。

実は、これは簡単に説明するのが難しい質問なのです。とにかく霊界とは何のつながりもないのです。地上の物的な現象と関係した心霊的な法則とのつながりの方が大きいのです。こんな説明では、ポール君にはよくわからないでしょうね?」

ポール「いえ、わかります。ただ、その心霊的法則というのはどんなものですか」


「やっぱり、そこまで話さないといけませんかね」

ここで、交霊会の終わりが近づくまで大人は口出しをしてはいけないとの約束を忘れて、メンバーの一人が「それはサイコメトリ(※)のようなものでしょうか。あれは必ずしも霊的法則とは関係ないと思うのですが」と尋ねた。


※――ハンカチ、ボタン、帽子、衣服などを手に持つだけで、その所有者についての情報をキャッチする能力で、海外では犯人捜査に応用されて実績をあげた実例がある。これにも霊が関わっている場合と関わっていない場合とがある。日本語では“精神測定”と訳されている。


「例ならばいくらでも挙げられるのですが、この二人の子供にいちばんよく理解してもらえるものを考えているところです。たとえば霊視能力の場合を例にとってみましょう。

霊視がきくといわれる人でも、霊界のものは何も見えない人がたくさんいます。この場合は、心霊的能力の一部にすぎません。ですから、心霊的法則の支配をうけ、心霊的な能力で見るだけで、その背後に霊界の存在とのつながりはありません。他界した人の姿も見えません。肉眼に見えない遠くの情景は見えます。予知もできます。未来をのぞいたり過去の出来事を当てることもできます。ですが、そうしたことが霊界と全然つながっていないのです。生まれながらに備わっている、純粋に心霊的な能力なのです。これでわかりますか」

ここで二人の子供の母親のフェイが「私はそういうことがあるとは、思ってもみませんでした。霊界との関わりなしに言い当てたり見抜いたりすることができるとは知りませんでした」と言う。するとシルバーバーチが――


「でも、事実、そうなのです。この地上界の範囲だけの心霊的能力というのがあるのです。現に、多くの人がそれを使用しております。五感の延長と思えばよろしい。霊の世界とは何の関係もありません。物的法則とつながった心霊的法則、ないしは心霊的要素、の範囲内の現象です。易占い――ほんものの場合の話ですが――あるいは、ほんものの水晶占いで、霊的な働きかけなしに見たり聞いたりすることができるように、心霊的能力を駆使できるまじない師は、ある種の儀式によって物的法則の背後にある力を、その心霊能力と調和させて雨を降らせることができたのです。わたしに説明できるのは、こんなところですが……」

別のメンバーが「実によくわかりました。面白いテーマだと思います。私も、そうした能力がどの程度まで延ばせるのだろうかということに関心がありましたので……」と言うと――


「その可能性は大へんなものです。インドにはヨガの修行者で、すごいのがいます。それでも霊界とは何のつながりもありません。彼らが霊の姿を見たら、たまげることでしょう」

メンバーの一人「霊を見たら、その容姿を述べるのではないでしょうか」


「その時はすでに波長の次元が違います。霊媒現象というのは、霊的なものと心霊的なものとの組み合わせです。その融合作用で霊的通信が行われるのです。霊界と交信する能力は、霊媒のもつ心霊能力だけで行われるのではありません。支配霊ないしは指導霊との協力によって行われるのです」

ポール「すみません。ぼくは頭が悪いものですから、サイキックとスピリチュアルとはどこが違うのか、まだよくわかりません。今まではいっしょだと思っていました」


「似てはいますが、まったくいっしょではないのです。心霊的能力のすべてが開発されても、それが高級霊の指導を受けて、スピリチュアルな目的のために使用されるようになるまでは、それは霊的能力とは言えないのです。ポール君は物的身体のほかに、霊的身体もそなえています。その身体には、生まれつきさまざまな心霊能力が潜在していますが、それが開発され、しかも霊界の力と融合した時、はじめてスピリチュアルと言えるものになるのです」

ポール「死後の世界の界層(レベル)について教えてください。シルバーバーチさんはよくその違いについて話しておられますが、どういう違いがあるのですか」


「成長の度合が違うのです。しかし、その違いは地上のようにものさしで計れるものとは違います。もしわたしがポール君に、愚かな人と賢い人、あるいは、欲張りと聖人との違いを寸法で計りなさいと言っても、そんなことはできませんね?

しかし、それぞれの界に住む霊の成長には大きな差があるのです。こちらでは魂の成長に応じた界層、むずかしい言い方をすれば、その人の知性と道徳性と霊性の程度に合った世界に住むようになります。界層の違いは、そこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界層に住むことになります。

地上はその点が違います。物質界というレベルで生活しているからといって、みんなが精神的に、あるいは霊的に同じレベルの人たちばかりとはかぎりません。身体は同じレベルのものででき上がっていますが、その身体がなくなれば、魂のレベルに似合った界へ行くことになります」

ポール「はい、よくわかりました。もう少し聞きたいことがあります。この地球もそういう界の一つですか、それとも特別なものですか」


「いいえ、特別なものではありません。地上世界も霊的な世界の一部です。なぜかと言うと、霊の住む世界はぜんぶ重なり合っているからです。宇宙に存在する生活の場のすべてが、互いに重なり合い、融合し合っており、霊界とか幽界とか物質界という言い方は、一つの宇宙の違った側面をそう呼んでいるだけです。ポール君はいま物質界にいますが、同時に幽界にもつながっているのです」

ルース「あたしは、この交霊会での質問の準備をしながら、シルバーバーチさんはあたしたちよりはるかに多くのことを、あたしたちが夢にも思わないようなことまで知っておられるのだから、あたしたちの方から質問しなくても、ちゃんとお話してくださるだろうなと思ったりしました」


「ええ、お話しますとも。でも、だから何の質問もしなくていいということになるのですか?」

ルース「なりません。あたしが知りたいのは、子供の頃からスピリチュアリストとして育てられて、あたしたち二人は得をしているかどうかということです」


「ご自分ではどう思っていますか」

ルース「わかりません。だって、あたしは霊の世界に住んでいないでしょ? だから、どんな得をするか、自分ではわかりません」

母親「この子はスピリチュアリズムを知らない生活というものを体験していないものですから、比較ができないのです。その点、シルバーバーチさんは両方がご覧になれます」


「わたしは目を閉じていても見ることができます。わたしが“ご自分ではどう思っていますか”と尋ねたのは、ルースちゃんのお友だちには、死んでからのことを知らない人がたくさんいるからです。そういうお友だちは、ルースちゃんとくらベて得だと思いますか、損だと思いますか」

ルース「霊の世界へ行くときに何の準備もできていないという点では損だと思います。その知識も体験もないからです。でも、それ以外のことはよくわかりません。すみません」

ポール「今ルースが最初に言ったことは、その通りだと思います。でも、それ以外のことでは、損も得もないと思います。死ねばどうなるかがわかっているのは得だけど、そのほかの点では別に変わりはないと思います」


「答えは簡単なのです。知識はすべて、ためになるのです。ところが残念なことに、そうとばかりも言えないことが生じるのです。知識はたしかに喜びと幸せと落着きとをもたらしてくれますが、こんどは、それをどう生かすかという責任ももたらすのです。

知識は、無知から生じる愚かな心配(取り越し苦労)を取り除いてくれます。知識は、自分とは何かを自覚させ、これからどうすべきかを教えてくれます。そして、真理を知らずにいる人を見て気の毒に思うようになります。

真理を知らなかったために罪を犯す人は、もちろんそれなりの償いをさせられますが、真理を知っていながら罪を犯す人は、それよりもっと大きな償いをさせられます。より多くを知っているということが、罪を大きくするのです。ポール君は真理を知っているだけ得です。しかし、これからどういう行いをするかが問題です」

メンバーの一人「それだけは、あなたにもどうしようもないことなのですね?」


「わたしがその摂理を変えるわけにはいかないのです。わたしはただ、摂理がこうなっていますよ、とお教えするだけです。これまでわたしは何度か、みなさんが困った事態に陥(おちい)っているのを見て、その運命を何とかしてあげたい、降りかかる人生の雪と雨と寒さから守ってあげたいと思ったことがあります。しかし、それは許されないことなのです。なぜなら、そうした人生の酷(きび)しい体験をさせている力と同じ力が、人生に光と温もりをもたらしてくれるからです。一方なくして他方は存在しないのです。試練の体験を通してこそ、霊は成長するのです」

ルース「シルバーバーチさんにもそれが許されないのは、いいことだと思います。困ったことがあるたびにシルバーバーチさんにお願いしていたら、いつも誰かに頼らないといけない人間になってしまうからです」

ポール「人生の目的がなくなってしまいます」


「そうです。その通りです。ですが、それは、わたしにとって辛(つら)いことなのですよ。そういうお二人も、ほんとうの意味で“愛する”ということがどういうことなのか、愛する人が苦しんでいるのに何もしてあげられないということが、どんなに辛いことかがわかる日が来ることでしょう。

そこでもう一つ、さきほど述べたことに付け加えたいことがあります。これは、ルースちゃん、あなたにお聞かせしたいことです。スピリチュアリズムを知ったことによって生じる一ばん大きな違いは、自分が一人ぼっちでいることが絶対にない、ということを知ったことです。いつどこにいても、霊の世界からの愛と友情と親愛の念を受けているということです。

最善をつくしている時には、かならず霊界からの導きの力が加わっていること、あなたの持っているものから最善のものを引き出し、あなたの人生から最高のものを学び取ってくれるようにと願っている、友愛と親切心と協調精神に満ちた霊が身近に存在してくれているということです。このことがスピリチュアリズムがもたらしてくれる、一ばん有り難いことです。このことを知っただけ、ルースちゃんは、それを知らない人より幸せだということになります」

ポール「これまでの人類は、ずっと男性が女性を支配してきたように思えるのですが、これはなぜでしょうか。原因は何ですか」


「原因は、女性があまりに物ごとを知らなすぎたからです」

ポール「それを改めることができるでしょうか」


「改める必要はありません。これまでも、実際は女性の方が男性をリードしてきているからです」

メンバーの一人「これまで、あなたはそういう捉え方はなさらなかったように思うのですが……」


「ええ。でも、これにはそれなりの根拠があるのです。男性が狩りに出ていた時代の名残りです。つまり男性が家を建て、食糧を取りに出かけねばならない時代においては、男性が絶対的な支配力をもち、お腹をすかして疲れた体で帰ってきた時に、女性が優しく迎えて介抱し、食事を用意してあげていました。男性が行動的で女性が受動的だったために、何かにつけて男性に有利な習慣ができていきました。しかし、今それが変化しはじめ、どちらが上でも下でもない、お互いが補い合うようになっている、という認識が行きわたりつつあります」

ポール「よくわかりました。有り難うございました」


「お二人とは、ずいぶん長いつきあいですね。二本の小さな苗木がまっすぐに育っていくのを、わたしはずっと見てまいりました。そして、お二人が絶え間なく増えていく知識と理解力の中で生きておられるのを見て、うれしく思っております。

まだまだ知らねばならないことが沢山あります。でも、少なくともお二人は霊的な真理に守られて地上生活を送っておられ、その目的を理解し、何をしていても、誠意さえあれば決して挫(くじ)けることはないことを知っておられます。わたしはいつも身近にいて、わたしにできるかぎりの援助をいたしましょう。

今日はルースちゃんとポール君の二人が来てくれて、わたしはほんとにうれしく思っております。わたしがいつも身近にいることを知っていただく、いい機会になるからです。わたしは決して遠くにいるのではありません。お二人がお家(うち)にいる時も、学校へ行っている時も、遊んでいる時も、すぐそばにいることがあります。おかしくて笑い出すような光景を見ることもあります。

ですが、わたしの方から学び取ることも沢山あります。わたしは、まだまだ学ぶことが終わったわけではありません。西洋人の生き方や習慣には興味を引かれることが、いろいろとあります」

母親「私たちは、暖炉に火をくベながら、よくシルバーバーチさんのことを思い出すことがあるのですよ。暖炉の前に集まって、シルバーバーチさんは暖炉やいろりはお好きだろうかね、などと語り合うんですよ」


「わたしはいつも、わたしへ愛情を覚えてくださる方々の愛念によって心を温めております。わたしにとっては、地上で窒息しないために吸入できる唯一の酸素は“愛”なのです。地上へ降りてくるためにお預けにされる喜びを補ってくれる最大の慰めは、みなさんからの愛なのです。わたしの本来の住処(すみか)である高級界の霊的生活の壮厳をきわめた美しさを一度体験されたら、一度でもその世界の恩恵をほしいままにできる生活を体験されたら、悪意と敵意、憎しみと闘争、流血と悲劇に満ちた、この冷たくて陰うつな地上生活は、もう二度とご免こうむりたいと思われるはずです。

そんな世界に身を置いているわたしにとって、みなさん方の真理普及の活動によって魂が目を開かされた人々の心に灯された愛念が、何よりの慰めとなっております。地上世界での仕事は困難をきわめます。冷え切った心、歪んだ心のもち主、わたしたちからの叡智や指導はおろか、みずからの愛すら感じなくなっている人々が大勢います。そうした中にあって親近感や同情心、僚友精神や同志的友情がいかに大きな元気づけとなるものであるか、ご存知でしょうか。みなさんが想像される以上に、わたしにとって力となっております。さらに多くの人々へ手を差しのべていくための糧を供給してくださっていることになるのです。

ならば、道を見失い、同情の言葉に飢え、導きと慰めと希望の言葉を求めて、その日暮らしの生活に明け暮れている気の毒な人たちのことに、常に思いを馳せようではありませんか。そういう方たちはみな、この世に自分一人だけ取り残されたような悲哀の中で生きているのです。そういう人たちこそ、わたしたちが霊力の行使範囲に導くために何とかしてあげなくてはならないのです。憂うつな悲嘆の生活を一変させ、希望の光と真理の感触とをもたらしてあげることができるのです。

ご承知の通り、わたしはこれからしばしの間、地上を去ります(※)。うしろ髪を引かれる思いがいたしますが、しかし、時には高い世界のエネルギーを充電し、同じ使命にたずさわる同輩と協議し、失敗箇所と成功箇所、予定どおりに進行しているところと、そうでないところについて指示を仰ぐことがどうしても必要なのです。その時のわたしは、みなさんからの愛をたずさえて行き、わたしからの愛をみなさんにお預けしてまいります。再び戻ってくる日を心待ちにいたしております。

それでは最後に、みなさんとともに宇宙の最高のエネルギー、わたしたちがその一部を構成している大霊のエネルギーに波長を合わせましょう。そのエネルギー、神の力、大霊の息吹の恩恵をあらためて意識いたしましょう。その最高の力を受けるにふさわしい存在となるように努力いたしましょう。託された信頼を裏切ることのないように努力いたしましょう。高貴な目的のための道具として恥ずかしくない生き方、考え方、物の言い方を心がけましょう。そして、いかなる事態に立ち至っても、その神聖な使命を傷つけることのないようにいたしましょう。

双肩に担(にな)わされた使命を堂々と遂行いたしましょう。これから振りかかるいかなる受難にも、人のために己を役立てたいと望む者は、つねに限りない愛を秘めた大霊と一体であるとの信念に燃えて、不屈の決意をもって立ち向かいましょう」


※――三月のイースターと十二月のクリスマスの二度、シルバーバーチは本来の所属界へ帰って、地上の経綸に当っている高級指導霊による大集会に出席するという。モーゼスの『霊訓』にも、最高指導霊のインペレーターが同じことを述べている箇所がある。

以上がハリス氏の記事の全文であるが、続いて翌年のクリスマスにもルースとポールが招かれている。シルバーバーチによれば、二人の存在も計画の中に組み込まれており、二人を通して、それなくしては得られない、かけがえのない力を得ているということである。

その日の交霊会は、クリスマスにはどういう意味があるのかという話題から始まった。というのは、そのころポールの学校でクリスマスについてのお話があり、ポールはその意味がよくわからなくて、家に帰ってから両親に説明を求めたばかりだったのである。

そのいきさつを聞いてシルバーバーチがこう述べた。


「その問題に入る前に知っておいていただかねばならないことがあります。というのも、長いあいだ地上人類を悩ませてきたどうでもよい問題から先に片づけておく必要があるからです。ポール君は“神(ゴッド)”についてよくわからないことがありませんか」

ポール「これまでいろんな人が神についていろんな説き方をしているみたいです。それぞれに違っており、これだと得心のいくものが一つもないのです」


「その通りなのです。忘れてならないのは、人間はつねに成長しており、精神の地平線が絶え間なく広がっているということです。言いかえれば、境界線が取り除かれていきつつあるということです。知識が進歩すればするほど、宇宙そのものと、その宇宙に存在するものとについて、より大きな理解力がもたらされます。

太古においては、人間はまわりの環境についてほとんど知識がなく、自然現象についてはまったく理解していなかったために、何もかも神さまの仕業(しわざ)にしておりました。その神さまについても、人間を大きくしたような存在としてしか想像できませんでした。それが“いけにえ”の思想を生む元になりました。雷が鳴り、稲妻が走るのを見て、神さまが怒っておられるのだと思い、その怒りを鎮めるために、いろいろと生きたものをお供えするようになったのです。

そうした野蛮な小さな考えも次第に大きく成長し、人間は無知の暗闇から脱し、迷信の霧を突き抜け、知識の夜明けを迎えて、宇宙の根源はどうやら人間の想像を超えたものらしいということに気づきはじめました。しかし、だからといって、古い概念がそう簡単に消えたわけではありません。何かすごく大きな男性のような姿をした神さまが宇宙をこしらえたのだという概念が、何十世紀もたった今でも存在しております。

さて、わたしはその概念を一歩進めて、宇宙を創造しそして支配しているのは、男性神でもなく女性神でもなく、とにかく形ある存在ではないと説いているのです。人間的な存在ではないのです。宇宙は法則によって支配されており、その法則は規模においても適用性においても、無限なのです。それは無限の愛と叡智とから生まれたものであり、したがって完璧であり、過ったり失敗したりすることがないのです。

わたしは生命とは霊のことであり、霊とは生命のことであり、始めもなく終わりもないと説いております。霊を物質の中に閉じ込めてしまうことはできません。物質というのは霊のお粗末な表現でしかありません。物質界に生きる人間は、視覚と聴覚と嗅覚と味覚と触覚の五つの感覚でしか物事を判断することができませんから、その五感を超えた生命の本質を理解することは無理なのです。

そうした限界の中で生きているかぎり、その限界の向こう側にあるものが理解できるわけがありません。そこで次のような結論となります。すなわち宇宙は自然法則によって表現されていること、その法則の背後にある叡智は完全であること、しかし人間は不完全であるために、その完全さを理解することができない、ということです。人間が一個の形をもった限りある存在である以上、形のない無限の存在を理解することはできないのです。これはとても難しい問題ですが、少しでも理解の助けとなればと思って、申し上げてみました。

人類のすべてが――地球という一個の天体上だけではありません。数え切れないほどの天体上の人間的存在すべてがそうなのですが――わたしのいう大霊、みなさんのいう神(ゴッド)の一部を構成しているのです。大霊とは全宇宙の霊の総合体だからです。これならわかるでしょう?」

ルース「人間は進歩するほど、神について複雑な考え方をするようになり、複雑になるほど、真実から遠ざかっていくのではないでしょうか」


「ほんとうの意味での進歩であれば、そういうことにはなりません。実は“脳”ばかり発達して、“精神”や“霊”の発達がともなっていないことがあるのです。すると頭のいい人が多くなりますが、頭がいいということは、必ずしも偉大な魂、あるいは偉大な精神の持ち主ということにはならないのです。

それは、脳という物質のみにかぎられた発達なのです。そういう発達をした人の中には、複雑なことほど立派であるかに思い込んでいる人がいることは確かですが、ほんとうの発達、精神と魂の発達をともなったものであれば、霊的なことについても、より深く理解するようになります。正しい発達とは、精神的ならびに霊的発達のことをいうのです。そういう発達をしている人は、古い間違った概念を捨てて、ますます真理に近づいてまいります。

いつも忘れずにいてほしいのは、無限の存在である大霊のすべてを、限りある言語で説明することは不可能だということです。大きいものを小さいものの中に入れることはできません。これは当りまえのことです。わかってもらえたかな?

さて、ほかにはどんな質問がありますか」

ルース「人類による最大の発見は何だと思われますか」


「これは難しい問題ですよ。“最大”という言葉の意味がいろいろあるからです。どういう意味での“最大”なのか――物的にか、精神的にか、霊的にか、それを前もって考えてから質問すべきですね。

わたしの考えでは、人類による最大の発見は、人間が動物とは違うことを知ったこと、自我意識というものがあることを知ったこと、霊性を自覚したこと、お粗末とはいえ、身のまわりの現象について知る能力があることに気づいたことです。それが、他のすべての発見へとつながったからです。

いま“霊性を自覚した”と言いましたが、その意味は、人間が肉体だけの存在ではないこと、物質を超えた存在であること、やがて朽ち果てて土に帰っていく物質的容器とは違う存在であることを知ったということです。わたしは、これが何よりも大きな発見であると思います。

しかし、ルースちゃんの質問が、わたしにとっての最大の発見は何かという意味であれば、話はまた違ってきます」

ポール「それを聞きたいです。ぜひ話してください」


「わたしにとっての最大の発見は、地上の多くの人たちが善意と情愛と僚友意識と、そして愛までも、こんなにたくさん持っておられることを知ったことです。また、訴え方が正しければ、その愛を本性から呼び覚ますことができるということ、最高の波長にも反応してくれるということ、気高い品行を志し、気高い思念をもつことができるということ、理想主義、愛他精神、奉仕的精神にも共鳴してくださるものであることを知ったことです。

この冷たくてうっとうしい、およそ魅力のない地上での仕事に打ち込んできた、これまでの永い年月を振り返ってみて、わたしは一度もお目にかかったことがないにもかかわらず、わたしの訓えで救われたという気持ちから、感謝の愛念を贈ってくださる方々が増えることによって、地上にこうまで温かさがもたらされるものかと、驚きの念を禁じえません。

それほど多くの愛を頂戴することになろうとは、予想もしていなかったのです。わたしにとっては、それこそが感謝の源泉であり、それがわたしをさらに鼓舞し、同時に、もったいないことだという気持ちにもさせられます。なぜなら、わたしには、それに値するほどのことはしていないという自覚があるからです」

ルースとポールにとって、この答えはさすがに意外だったようである。子供心に、もっと楽しい話を予想していたのであろう。しかし、二人はかえって興味をそそられて、さらに質問する。

ポール「シルバーバーチさんが地上へ降りてこられてから、地上ではどんな変化があり、霊界ではどんな変化がありましたか」


「大ざっぱに言えば、地上における変化は“文明化”といわれる過程でしょう。人類は物質的な面で大きく飛躍しました。大自然の仕組みについて多くの発見をしました。山頂を征服し、海底を探査するようになりました。大陸と大洋を横断するようになりました。物質的な面では非常に高度なものを成就しました。驚異的な発達ぶりだったと言えましょう。

しかし、同じ発達が精神面と霊的な面に見られないのです。人類は、物質と精神と魂のうちの、物質面だけが異常に成長してしまいました。他の二つの側面がそれについていってないのです。それが、利己主義という地上でもっとも厄介な罪を生み出すことになったのです。

さて、こうした事実から学ばねばならない教訓があります。それは、物質面での発達を、全面的でなくてもいいから、霊的ならびに精神的側面にも、ある程度は反映するようにならないかぎり、人類は、みずから生み出したもの、みずからの創造の成果を、平和的な生活の中で味わえるようにはならないということです。そうならないかぎり、地上には混沌と無秩序と不協和音が絶えないということです。善いことをしようという意欲を起こさせ、協調と奉仕の仕事ヘ鼓舞するのは、精神と霊の発達なのです。

精神と霊の発達は利己主義を滅ぼし、代わって霊的教訓をもたらします。精神と霊に宿された才能を開発し、その上で、物質的文明の産物を自分一人のためでなく他のすべての人のために活用するようになれば、いわゆる地上天国が実現します。地上世界のすべての人間が、自分より恵まれない人のために役立てる、何らかの才能をそなえているものです。

さて、その間に霊界ではどんな変化があったかというご質問ですが、これは地上世界のことよりはるかにお答えしにくい問題です。簡単に言ってしまえば、地上とのコミュニケーションの橋をかける仕事がかつてなく組織的となり、二度と地上世界がチャンネル(霊媒・霊能者)の不足から霊界と絶縁状態とならないよう、入念な計画が練られ、そして実行に移されているということです。これ以上の説明は難しいです」

メンバーの一人「霊界においてそうした大きな仕事が成就され、コミュニケーションのための回線が敷設され、計画が順調に推進されていることを知って、わたしたちもうれしく思います。これには優れた霊媒が要請されることになりますが、今それが非常に不足しております」


「道具はそのうち揃います。霊力が多くのチャンネルを通じて恩恵をもたらすようになります。どんどん増えていきます。これまでの成果だけを見て、この程度のもの、と思ってはなりません。決してこの程度で終わるものではありません。昨日よりは今日、今日よりは明日と、ますます大きなことが成就されていきます。それが進歩というものです。われわれも進歩していくのです。“われわれのあとは誰が引き継いでくれるのだろうか?”――そう心配なさる方がいらっしゃるようですが、あなたがたの仕事が終われば、代わって別の人が用意されます。かくして霊力が今日以上に地上へ流れ込み続けます。それは誰にも阻止できません」

ルース「今スピリチュアリズムという形で霊界と地上界との間のコミュニケーションが開かれておりますが、それ以前にも大きなコミュニケーションの時代があったのでしょうか」


「一時的にインスピレーションがあふれ出たことはありますが、長続きしていません。このたびのコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理・監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一部として行われており、その計画の推進は、皆さんの想像も及ばないほどの協調体制で行われております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮がなされております。すべてに計画性があります。

そうした計画のもとに霊界の扉が開かれたのです(※)。このたび開かれた扉は二度と閉じられることはありません」


※――一八四八年の米国での“フォックス家事件”を皮切りに、地球規模の霊的浄化活動が始まったことを指している。

ルース「あたしたちが眠っている間は何をしているのでしょうか」


「皆さんは毎晩、その肉体を後にして別の世界へ行きます。訪れた世界での体験は二種類に分けることができます。一つは教育を目的としたもので、もう一つはただの娯楽を目的としたものです。教育的体験では、いずれ訪れる霊界生活で使用する霊的身体について教わります。娯楽を目的とした体験の場合は、たとえば霊界で催されている、いろいろな会場を訪れます。

いいですか、ルースちゃん、あなたは昨晩、わたしの世界の庭園へ連れて行ってもらったのですよ。それから、ポール君、あなたは音楽を聞きに行ったのですよ」

ポール「二人ともそのことを覚えていないなんて、つまんないですね」


「たしかに、そう思うのも無理ないかも知れませんね。でも、それは肉体から離れている間の異次元での体験を、肉体の脳で理解しようとするからなのです。ポットの水をぜんぶ一個のグラスに入れようとしても入りませんね。それと同じです。でも、夢を注意して見ていると、よいヒントになるものが見つかるはずですよ」

ルース「わけのわからない夢はどう理解したらいいのでしょうか」


「変な夢のことですか? あれは、異次元の体験を脳で思い出そうとする時にそうなるのです。脳は小さな袋のようなものです。霊体が肉体に戻ってきて、その間の体験を脳に詰め込もうとするのですが、小さな袋には全部が入り切れないのです。それをムリして押し込もうとするために、あのような変な形になるのです。夢というのは、訪れた別世界の体験がそのまま現れるのではなく、その断片的な思い出にすぎません」

ポール「シルバーバーチさんのお仕事で、ボクたちにもお手伝いできることがあれば教えてください」


「わたしに愛の念を送ってください。わたしを信頼し、善意の思念を送ってください。それが、わたしの何よりの食べものであり飲みものなのです。ただただ、愛が欲しいのです。善意をいただきたいのです。それさえいただければ、わたしは幸せなのです。しかし、どうぞ、わたしの仕事のことで心配しないでください。自分でちゃんとやりますので……」

ここで、いったん話題が外れてメンバーの人たちと話したあと、再びルースとポールに向かって次のような感動的な教訓を述べた。


「お二人のこれからの人生が日向(ひなた)ばかりだとは申し上げられません。曇りの日もあることでしょう。時には雨にうたれることもあるでしょう。困難なことがあるでしょう。試練に立たされることもあるでしょう。

人生は一本調子のものではありません。色彩もあり変化もあります。障害に出会うことでしょう。何もかもうまく行く楽しい日々もあれば、すべてが絶望的に思える暗い日々もあることでしょう。そうしたさまざまな体験の中でこそ、性格が培(つちか)われるのです。人生を形づくっているさまざまな体験の中で培われるのです。

もしも人生が始めから終わりまでラクに行ったら、もしも乗り切るべき困難もなく、耐え忍ぶべき試練もなく、克服すべき障害もないとしたら、そこには何の進歩も得られないことになります。レースは競い合うからこそ価値があるのです。賞はラクには貰えず、一生けんめい頑張ったあとにいただくから価値があるのです。

そういう価値ある人間になるように努力しなさい。この世に克服できない悩みはありません。ですから、悩んではいけないのです。征服できない困難はないのです。力の及ばないほど大きな出来事は何一つ起きないのです。

一つ一つの経験から教訓を学ぶことです。難しいと思った時は、ひるまず自分にムチ打つのです。それだけ前より強い人間となります。自分が霊であること、それが肉体を通して表現しているのだということ、そして、自分という永遠の霊に傷を負わせたり、害を及ぼしたりするものは、決して生じないということを忘れないことです。

世間でいう“成功者”になるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは、自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じるものに目をつぶることなく、ほんとうの自分自身に忠実であること、良心の命令に素直にしたがえることです。

それさえできれば、世間がどう見ようと、自分は自分としての最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ちうけている生活へのそなえが十分にできているという自信をもって、平然として死を迎えることができます。これが、わたしからのアドバイスです」

ルース「今のお話で、私たちの最後の質問をしなくてもよくなりました」


「さて、わたしはそろそろ行かねばならなくなりました。わたしの去り難い気持ちはおわかりいただけると思います。せっかくの親しいつながりを、しばらくのあいだ断(た)たねばならないからです。わたしは、もうすっかり地上のお付き合いが好きになってしまいました。しかし同時に、しばらくこのつながりを断たないことには、かえってわたしの存在価値が小さくなることも事実なのです。何となれば、これから先の仕事に必要なエネルギーが摂取できるのは、内奥の世界においてのみだからです。

その世界へ戻ると、わたしは地上へ帰りたい気持ちが薄らぎます。そこがわたしの本来の住処(すみか)だからです。何しろそこは、天上的なよろこびに満ちた、光輝あふれる世界なのです。しかし、わたしにはまだまだ為さねばならない仕事が残っております。これまでに成し遂げた仕事がそれで良かったのかどうかを確かめたいのです。そこでこれから、霊の絆において親密な同志たちと会ってきたいのです。

わたしの留守中も、どうかわたしのことを忘れないでくださいね。わたしの影響力だけはずっと残っていることを知ってください。そのうちまた、わたしみずから引き受けた仕事の推進のために戻ってまいります。皆さんの日常生活を絶え間なく見守り、付き添ってあげるために戻ってまいります。皆さんと生活を共にすることは、わたしにとって楽しみの一つなのです。お役に立つことができることを光栄に思っております。

では、またお会いする日まで、お別れすることにいたしましょう。わたしはいつも愛をもって訪れ、愛をもって去ります。皆さんに神の御恵みの多からんことを!」

ここで参考までに、別の交霊会で子供の宗教教育についてシルバーバーチが語ったものを紹介しておこう。


「今日の子供は明日の大人であるという、ごく当り前の考え方でこの問題と取り組んでみましょう。当然それは、学校教育を終えたあとの社会生活において、その社会の重要な責務を担う上での備えとなるベきものであらねばなりません。

意義ある社会の一員として、いかなる事態においても、社会のため、人類のために貢献できる人物に育てるための知識を授けることが、教育の根本義なのです。それには何よりもまず、宇宙の摂理がいかなるものであるかを説いてやらねばなりません。人間が有する偉大な可能性を教え、それを自分自身の生活と、自分の住む地域社会に役立てるために開発してやらねばなりません。

子供は感受性が強いものです。知能的にも、教えられたことが果たして真理であるかどうかを自分で判断することができません。とても従順ですから、教えられたことは何もかも本当のことと信じて、そのまま呑み込んでしまうのです。

このように、子供を教育することは、実に貴重でしかもデリケートな原料を扱っていることになります。教え込んだことがそのまま子供の性格のタテ糸とヨコ糸となって織り込まれていくのですから、教育者たるものは、まず教育というものの責任の重大さを自覚しなくてはなりません。その子の潜在意識にかかわることであり、教わったことはそのまま潜在意識に印象づけられ、それがその子のその後の思想を築いていく土台となるのです。その意味で、筋の通らぬ勝手な訓えを説く宗教家は、動機がどうあろうと、人類とその文明に大きな障害を築いていくことになり、罪を犯していることになるのです。

子供に種々さまざまな可能性が宿されていることを知らない人、霊的真理に通じていない人、子供が大人と同様、本来が霊的存在であり神の子であることを知らない人、宇宙における人間の位置を理解していない人――こうした人に育てられた子供は、健全な精神的発育を阻害されます。

ここで子供の物的生活における必須の要素について語るのは、わたしの領分ではありません。それについては、すでに十分な知識が普及しております。あらゆる分野の科学と、あらゆる分野の生命現象についての教育、地上なりの豊かな文学と芸術と教養の真価を味わえる精神を培う上で役立つもの、それを授けてやるべきであることは明白です。

そこで、宗教の問題にしぼって申せば、宗教とは個々の魂が人生のあらゆる闘いに堂々と対処し、そして克服していく上での指導原理なのですから、教育上きわめて重大な意義を有することは明らかです。子供の一人ひとりが神の一部であり、本質的に霊的存在であるからには、“自由”がもたらすあらゆる恵みを受けて生きるように意図されております。その魂を幼い時期から拘束し自由を奪うようなことをすれば、それは魂の基本的権利を無視することになります。隷属状態に陥らせることになります。霊的奴隷としてしまうことになります。

“自由”こそが教育の核心です。わたしの観るところによれば、宗教についての正しい真理を教わった子供は、自由闊達に成長します。教育にたずさわる人が、子供に真の自由を与えようという意図からでなく、古い神話や寓話への忠誠心を植えつけたいという願望から物事を教えていけば、それは子供の精神の泉を汚染することになります。知性が十分に発達していれば拒絶するはずの間違った教義を教え込むことは、宗教的観点からみても教育的観点からみても、その子にとって何の益にもなりません。

それだけでは済みません。そのうちきっといつか、魂が反発を覚える時期がまいります。無抵抗の幼い時期に間違ったことを教えてくれた人々に対して、背を向けるようになります。幼い魂は、若木のように、たくましく真っすぐに成長するように意図されております。それが間違った育て方をされるということは、存在の根をいじくり回されることであり、当然、成長が阻害されます。

霊について、神とのつながりについて、正しい真理を教えずに、倒れかかった教会を建てなおし、空席を満たそうとする魂胆から、誤った教義を押しつけんとする者すべてに対して、わたしは断固として異議を唱えます。宗教についての真実を申せば、真理のすべてを説いている宗教などありえないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条(すじ)しか見ておりません。しかも悲しいかな、その一条の光すら、永い年月のうちに歪められ、狂信家によって捏造(ねつぞう)されております。

子供には、宗教とは人のために自分を役立てることであること、ややこしい教義に捉われることなく、まじめで無欲の生活を送り、自分が生活している社会のために尽くすことであること、それが神に対して真に忠実に生きるという意味であることを教えてやらねばなりません」

祈り

無用の悲劇に終止符を……


これより大霊の祝福を求めて、お祈りをいたします。変幻きわまりない生命現象の背後に控える摂理と目的とを、地上の子等に啓示するための仕事の一環として、わたしたちが知識と叡智と悟りを広めんとする努力は、大霊のご加護なくしては報われません。

宇宙の大霊なるあなたは、これまで子等によって誤解され続け、誤り伝えられてまいりました。復讐心を燃やし、血に飢え、犠牲(いけにえ)を求め、ある者は可愛がってある者は見捨て、限られた少数の者だけに恩恵を与え、自分に背を向ける大衆は無視する神(ゴッド)として、恐怖の中で崇められてまいりました。

それに代わってわたしたちは、あなたを生命の法則――不変・不滅の自然法則、悠久の過去より存在し悠久の未来へも存在し続ける摂理として啓示いたします。魂の働きを束縛する迷信という名のくさりを解きほどき、魂の目を見えなくしている目隠しを取り除き、魂の耳栓を取りはずし、心の扉を開いて、天命の全うヘ向けての導き手となるべく、より大きな真理、より大きな叡智、より大きな視野を受け入れる用意を整えさせるのは、その知識をおいて他にないとの認識のもとに、その普及に尽力しているのでございます。

わたしたちは、大自然の摂理についての誤解が生み出す無用の悲劇に終止符をうち、当然の権利として人類が手にすべき平和と調和の障害となっている、あらゆる専制的非道、理不尽な既得権、自己中心主義を排除したいと願っております。永いあいだ人類の視野を曇らせ、調和と福祉と協調的生活の達成の障害となってきた、無知という名の霧を晴らすべく努力いたしております。

わたしたちは、持てる力とインスピレーションと愛を、受け入れる用意のある者には惜しみなく授けます。いかなる差別もいたしません。子等が神(ゴッド)と呼んでいるところの父なるあなたの存在に触れて、あなたの聖なる力と叡智を我がものとなし、生活の中にそれを顕現させ、かくして無用の悲しみと悩みと苦しみに代わって、新しい知識、新しい目的、新しい悟りの中で暮らすことになってほしいと、ひたすらに祈るものです。