Friday, February 16, 2024

シアトルの冬  シルバーバーチの霊訓(五) 巻頭言

More Teachings of Silver Birch


 巻頭言


 あなたがもしも古き神話や伝来の信仰をもって足れりとし、あるいはすでに真理の頂上を極めたと自負されるならば、本書は用はない。が、もしも人生とは一つの冒険であること、魂は常に新しき視野、新しき道を求めてやまぬものであることをご存知ならば、ぜひお読みいただいて、世界のすべての宗教の背後に埋もれてしまった必須の霊的真理を本書の中に見出して頂きたい。

 そこにはすべての宗教の創始者によって説かれた教えと矛盾するものは何一つない。地上生活と、死後にもなお続く魂の旅路に必要不可欠の霊的知識が語られている。もしもあなたに受け入れる用意があれば、それはきっとあなたの心に明りを灯し、魂を豊かにしてくれることであろう。

その中にはあなたの理性を反発させ、あなたの知性を侮辱するものは何一つない。なぜなら、すべては愛の心と奉仕の精神から生まれたものだからである。

シルバーバーチ



まえがき  (編者)

 本書はほぼ一世紀前に(※)霊界において開始された大々的布教活動───すべての宗教の教義の下に埋もれてしまった必須の霊的真理を掘り起こし、その本来の単純素朴な形で地上に蘇らせる活動の一環として出版されるものである。

世界各地で催されている交霊会(ホームサークル)において、民族を異にする霊媒を通じて働きかけている支配霊たちが目的としているのは、人間に霊的実在を教え霊的叡智を授けることによってお互いがお互いのための生活を送り、そうすることによって同胞精神に満ちた新しい世界を招来する一助となるように導くことにある。
  (※一八四八年のスピリチュアリズムの勃興をさす───訳者)

 本書に収められているのは世界的に敬愛されている古代霊からの教訓である。その名をシルバーバーチというが、これは本名ではない。いま彼が所属している世界では名前はどうでもよいのだといって明かそうとしないのである。が、いつかは明かす日が来ることを約束している。


(※)それまでは私も語られた言葉だけで彼がいかなる人物であるかを判断することで満足するとしよう───誰が語っているのかは分からないままそのメッセージを受け入れていくことにしよう。

(※一九八一年バーバネルの死によってそれも果たされないまま終わった。いつかは明かすと言ったは、明かしてもよい時期が来たら明かすという意味で言ったのであろう。が現実にはシルバーバーチという人物像が強烈となるにつれて地上では誰だったのかという興味が次第に薄れ、そのせんさくが無意味に思われるようになっていったというのが実情である───訳者)


 過去九年間ほぼ週に一回の割でこの霊のメッセンジャー(使い)の入神談話を速記してきて───彼は自分のことを上層界の神霊によって派遣されたメッセンジャーに過ぎないと言い、功績を自分のように言われるのを嫌うが───私はシルバーバーチを高貴な個性と明確な視野と表現の流暢さとを兼ね具えた高級神霊の一人として尊敬するようになった。

 冷やかな活字では彼の言葉の温かさ、サークルに出席して個人的に接した者が肌で感じ取る情愛を伝えることはできない。一度も交霊会に出席したことがなく活字によってのみシルバーバーチを知る者には、直接(じか)にその声を耳にしているメンバーほどには彼の人類を思いやる心は感じ取れない。

 われわれメンバーにとってはシルバーバーチは同席しているメンバーとまったく変わらない実在の人物である。

彼が常に訴えるのは理性であり、行いの試金石は動機であり、望みとしているのは自分を役立てることのみである。慈悲の心と思いやりと理解力に溢れるシルバーバーチは決して人を諌めることはしない、しばしば非難の矛先を組織へ向けることはあっても、決して個人へは向けない。
 
援助の要請も絶対に断らない。自分が役に立つ可能性があればいかなる労苦もいとわず、いかに難しい説明も試みてくれる。

 初めて出席した招待者が礼を述べると、シルバーバーチはきまって、礼は神に述べなさいと言う。そして〝私は一介の僕に過ぎず、礼を述べていただくわけにはまいりません。

すべては神へ捧げるべきです〟と述べる。と言うのも、シルバーバーチの主張するところによれば、かつての使者によってもたらされたメッセージがその使者を崇める者たちによって影が薄くなってしまっている。

したがって我々がシルバーバーチに感謝するようになれば、それは何時かはシルバーバーチという使者を崇めてメッセージは二の次となり、ついには本来の使者を台無しにしてしまいかねないというのである。

その本来の使命は各自が自分の力で神との直接の繋がりを待つべきであり神保者(※)は無用であることを教えることにある。 (※キリスト教で説くイエスのように神との仲立ちをする者───訳者)



シルバーバーチの祈り

 これまでシルバーバーチが述べた祈りの言葉は数知れないが、表現はさまざまでもその趣旨に本質的な違いはない。大別すると、開会に際して成功を祈るもの Invocation と閉会に際しての感謝の祈り Benediction とがある。それぞれの典型的なものを紹介する。


○ Invocation

 神よ、私どもはあなたの測り知れぬ愛、限りなき叡智、尽きることなき知識、果てしなき顕現の相をどう説き明かせばよいのでしょうか。永きにわたってあなたを誤解し間違った信仰を抱いてきたあなたの子等にどう説けば、あなたを正しく認識できるのでしょうか。

あなたは決して無知な人間が想像する如き嫉妬深い、横暴な方ではございません。又残忍にして復讐心を抱き、血に飢え、えこひいきをし、選ばれし者のみを愛する方でもございません。

 あなたは全生命の大霊におわします。その息吹が創造を生み、そのリズムが永遠なる宇宙のあらゆる相、あらゆる動き、あらゆる鼓動に表われております。私どもはあなたを完璧なる摂理───絶対に誤らず、絶対に連続性を失うことのない法則として啓示せんものと努めております。

物的世界のみならず霊的世界の最奥をも含む全生命活動を支えるあなたの法則に断絶はあり得ないのでございます。宇宙間の何一つとしてあなたを超えて存在するものは有り得ないのでございます。

なぜならあなたは全存在の中に存在しておられるからです。しかしあなたの霊は、あなたがあなたに似せて創造された人間的存在において最高の形で表現されております。なぜならば、あなたは人間にあなたの霊、あなたの神性を賦与され、あなたの属性の全てを授けておられるからでございます。最下等の動物的存在の位より彼らを引き上げ、いずれはあなたの創造の大業に参加する権利を与えられたのでございます。

 かくして生まれたあなたとのつながりは、切ろうにも切れない宿命となります。なぜならば人間はあなたの一部であり、それは、あなたも人間を離れて存在し得ないことを意味するからでございます。

すなわち、あなたの霊は彼らの全てをお抱きになると同時に彼らの内部にも存在し、自己犠牲と愛他の生活、慈悲と思いやりの行為、老若男女、そしてまた鳥獣に対しても己れを役立てんとする行為において最高の形で顕現なさっておられます。

理想主義に燃え、迷える者に希望を、疲れし者には力を、暗闇にいる者に光を与えんと努力する者の生活にあなたが顕現しておられると理解しております。

 私どもは幾世紀にもわたって忘れ去られてきた摂理───霊眼を開き霊耳を持って聞き霊力の働きかけに素直に従って霊的感受性を鼓舞された少数の者のみが知ることを得た霊的法則を明かすべく努めております。

それを実践することがあなたへの理解を、宇宙についての理解を、そして全人類についての理解を深めることになる、そうした理法を教え、そこに自己の霊性を高めひいてはそれが同胞の霊性を高めることになり、かくして共にあなたのもとへ少しでも近づかしめる手掛かりを見出すことになるよう願っております。
 
 その仕事のために私どもは、同じく霊界にあって一日も早く地上へ新しい秩序をもたらし、新しい世紀を招来せんとして、あらゆる民族、あらゆる教義、あらゆる国家の人間とも協力する上で吾々と同じ立場を取る無数の霊に呼びかけております。

これこそが私どもの祈り───心から、魂の奥底から湧き出る願いであるとともに、可能なかぎり人のために己を役立てることによってそれを実現せんとする祈りでもございます。

その目標へ向けて私どもは真摯なる気持ちでもって自信を持って邁進いたします。あなたを味方とするかぎり決して挫折はないと信じるが故にほかなりません。なぜならば、あなたの力は、私どもの努力を必要とする場において、常に支え、守り、導き、援助し、指示してくださるからでございます。


 ○ Benediction

 いつもながら私は、ささやかなる勤めを可能ならしめる温かき愛を得て、宇宙の大霊に深い感謝の念を覚えつつ、この場を後に致します。この仕事を開始した当初、私どもは多難な条件のもとで何とか推進するために強烈なる祈念と真剣なる誓願をもって臨みました。今その努力が実りつつあることを私どもはこの上なくうれしく存じます。

 私たちすべての者に存在をお与えくださり、神性とその属性のすべてを宿らせ給いし神よ、どうかこののちも、私どものためにでなく真理のために、そしてその真理をぜひとも必要としている人々のために、より一層の成功を得させ給わんことを。

世界各地で行われておりますこの会と同じ交霊会において、そこがあなたの愛を知る機縁(よすが)となるべく、どうかあなたの霊の御力をこの幾層倍にも顕現なされたく、お祈り申しあげます。

あなたの子等が自分自身の中にあなたを見出し、それを生活の中にて発現せんとの決意に燃え、怖れも悲劇も争いもなく、あなたの豊かな恵みを享受できる世の中において、お互いがお互いのために努力し助け合い、平和と調和と一致協力のもとに生きつつ、あなたの御心を体現していくことになるよう、切にお祈り申し上げます。

Thursday, February 15, 2024

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓12巻10章  宗教

religion



(1)地上では〝宗教に帰れ〟という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊すなわち神に奉仕することです。

そのためには殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植えつけ同胞への愛の心を強めることにならないかぎり何の意味もありません。いつどこにいても人のために役立つことをなさい。同胞の重荷を軽くしてあげることをなさい。それが宗教です。


(2)人のためになることであれば、どんなことでもよろしい。転んだ人の手を取ってあげることでも、勇気づけの言葉を掛けてあげることでもよろしい。霊的なものに係わることでなくてもよいのです。

物的なことであっても、それが相手の人にとって意義のあることであり、あなたもそれを嫌々ながらでなく気持ちよくしてあげるのであれば、それは立派に神の道具としての役目を果たしたことになります。


(3)しょせん人間は同胞に奉仕することによって大霊に奉仕する以外に、大霊への協力の道はないのです。地上には政治学、経済学、社会学といった立派そうな名称やラベルをつけた分野があり、それが勿体つけて説かれておりますが、どれもこれも、しょせんは言葉の遊戯に過ぎません。

私に言わせれば service(サービス)の一語ですべてが片付くのです。人のために役立つことをする───それが宗教です。


(4)サービスの真意を理解した人こそ私は偉大な人物とみなします。霊的自我の発見を目的とする人たちだけの話ではありません。極貧の人たちを救うこと、病の苦しみを取り除いてあげること、不正や横暴と闘うこと、憎悪と闘うこと、自由を守ること、害悪を取り除き、人間の霊性が神の意図された通りに発揮できるチャンスを用意してあげること───こうしたこともみなサービスです。


(5)相手が立派な地位にある人であろうと、平々凡々の庶民であろうと、そんなことはどうでもよろしい。とにかく一個の魂を立ち上がらせ、暗闇にいる人に光をもたらし、無知の牢獄にいる人を解放してあげ、お腹を空かしている人を満たしてあげ、渇いたのどを潤してあげ、争いごとを止めさせてあげることができれば、あなたは立派に大霊に協力していることになるのです。


(6)あなた方一人ひとりが大霊の一部であることを忘れてはなりません。一人ひとりが大霊の仕事に貢献し、大霊の力と愛と知識を地上へもたらすことができるのです。自分より恵まれない人のために力を貸そうと努力する時、大霊の力がみなさんを通して顕現するのです。どの分野でもよろしい。

どこの誰でもよろしい。意気消沈している人を元気づけ、弱った人に手を貸し、暗闇の中に明かりをもたらし、空腹の人に食べるものを与え、身を横たえる所さえない人に安らかな眠りの場を提供してあげれば、それが大霊に協力するゆえんとなります。


(7)神の働きに何か特別なわくがあって、特殊な経路でしかその恩恵がもたらされないかに考える傾向がありますが、神の力はそれを受け取る波長を持つ人なら誰にでも与えられるものです。要するに神の御心に適った心掛けがカギです。

地上的名声も社会的地位も、肌の色も人種も、国家も階級も関係ありません。どこであろうと、誰であろうと、神の御心に適った人は真の大源から力を授かり、心が啓発され、魂が鼓舞され、造化の仕事に参加させてもらえるのです。


(8)聖書(バイブル)もなかなか立派な本です。が、もっと立派な本があります。森羅万象がそれです。大霊の摂理によって維持されている大自然の営みです。地上のいかなる書物、それがいかに部厚いものであっても、いかに敬われているものであっても、いかに神聖視されているものであっても、その大自然が教えてくれるものに較べれば、物の数ではありません。


(9)そこで私たちは大自然の摂理、それだけを説くのです。それをスピリチュアリズムと呼ぼうと何と呼ぼうと、要するにそれが大霊の法則であり、目に見える見えないに関わりなく、生命活動が営まれているあらゆる界層を通じて働いていることを理解していらっしゃれば、それでいいのです。


(10)宗教界の学者は宗教というものを不可解きわまる一大神秘───難解な用語と教義による上部構造を築き上げ、それが難問と困惑と混乱を生んでおります。しかし宗教の本質、生命の本能的欲求はサービスの一語に尽きます。


(11)サービス、すなわち自分を忘れて人のために役立つことをしようとする心は、大霊の心にほかなりません。今こそ地上世界にはこのサービスの精神が必要です。私たちがこうして説きそしてみずから実行しているのはそのためです。地上界の靄と暗黒、疑念と不安、悲しみと闘争、苦難と苦痛の背後には永遠の目的があります。それを一つでも多く理解するように努力してください。


(12)神の存在を信じ、神を讃美する教説を朗読し讃美歌をうたい、日曜日にはきちんと礼拝に出席しているからといって、それだけで霊性が一ミリたりとも伸びるわけではありません。それは他人への思いやりの心を鼓舞して、暗闇の生活から光明の生活へと導いてあげる行為を実践させる、その手段と考えるべきです。


(13)大切なのはあなたの〝行い〟です。そして他のことは信じなくてもこれだけはぜひ信じて下さい───たった一つの魂を光明へ導いてあげたら、あるいは飢えに苦しむ人に食を与え、のどの渇きに苦しむ人に飲み水を与えたら、あるいは又、肩の重荷を軽くしてあげ、足元の石ころを取り除いてあげたら、それだけで地上の全財産にも勝る大切なことをしたことになるのです。


(14)いかなる教義も魂を拘束します。教義を守るから立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人間は教義の名のもとに戦争を仕掛け、教義の名のもとに異教徒を焼き殺してきました。

魂を束縛するもの、精神の手かせ足かせとなるもの、霊性の自由な発現を妨げるものは、いかなるものであっても取り除かねばなりません。


(15)私がキリスト教に我慢ならないのは、みずから用意した真理普及の場(教会・礼拝堂等)において、すでに地上に啓示されている肝心の霊的真理を説こうとしないからです。言いかえればキリスト教と銘うちながら肝心のキリストを裏切るようなことばかりしているからです。

神の座に祭り上げてしまって、人類が模範としようにも、もはや手の届かない、遥か彼方の天国へ連れて行ってしまっております。それが我慢ならないのです。


(16)私は牧師になって神に奉仕しようと心掛ける多くの殊勝な人たちを批難しているのではありません。その中には偉大な魂の持ち主が大勢います。私が批難するのは真理にとって為にならない組織、使い古された意味のない教義を相変わらず後生大事にして、生き生きとした霊力の発揮される場を無くしている、その体制です。



(17)教義・ドグマ・教条・儀式・ステンドグラス・祭壇・法冠・コープ(儀式用マント)───こうしたものが宗教とどういう関係があるというのでしょうか。宗教とは霊性に係わることです。全存在に内在する霊性です。それが千変万化の律動と形態の中で顕現しています。

大自然の営みにも、理想に燃えた指導者や社会革命家の努力にも、それが顕現しているのです。それが教条とどういう関係があるというのでしょう。


(18)私は時おり〝霊界からの高等な教え〟とやらばかりを欲しがって自分は隣人・同胞のために何一つ役に立つことをしない人たちに嫌気がさすことがあります。教えに〝高等〟も〝低級〟もありません。成長するにつれて神の摂理の働きをより深く理解していくのです。

難解な教えを騒ぎ求めている人たちが、そんなことを止めて地上を少しでも住み良い場所、明るい場所───空腹を抱えた人が飢えを満たし、のどを乾かした人が飲み水にありつき、貧しい人たちがその疲れた身体を横たえる家を得て神の恩恵に浴せるようにしてあげれば、それこそ〝最高の教え〟を実践していることになるのです。


(19)教義による束縛は地上世界の病苦の一つです。疾病よりも大きな害悪をもたらします。身体上の病気による苦痛など物の数ではありません。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に〝目隠し〟をしてしまうのです。


(20)人間はなぜか、神の叡智を見えなくする教義に好んでしがみつきます。不思議なことに、牢の中に閉じこめられている方が幸せと思う人がいます。自由とは、自由の有難さが分かった者だけが手にできるものです。


(21)私は教義も儀式も作法も説きません。神の愛が子等を通して顕現しようとしている事実だけを説きます。いかなる書物や巻き物、ドグマ、特定の指導者や権威、あるいは学識さえも絶対と思ってはなりません。聖遺物を信仰の対象としてはなりません。神の摂理に従うことだけを心掛ければよいのです。それが宇宙で最も大切なものだからです。それが唯一絶対の権威なのです。


(22)宗教的建造物には過去の無知な時代の産物に過ぎないものがたくさんあります。神はいかなる建造物の中にも閉じ込められません。神はどこにでも遍く存在しているのです。

石を積み重ね、高い尖塔を立て、ステンドグラスの窓を取り付ければ神が喜ばれると思っているようですが、そんなものよりも、太陽の恵みが子等の心を明るく照らし、雨が作物を実らせることの方が、神はよほど喜ばれます。

ところが、そうした恵みと子等との間にとかく宗教家と政治家と商売人が介在します。こうしたものこそ取り除かねばなりません。今それが次々と取り除かれつつあります。


(23)霊力の地上への働きかけを過去の話と考えてはいけません。過去の霊覚者を通して働いた霊力が今まさにこうした形で働きかけていることを理解しないといけません。当時の宗教家がその霊力を目の敵にして悪魔の仕業であると決め付けたのと同じように、今日の宗教家はそれとまったく同じ霊力が今まさに働いている事実を認めようとしません。しかし、地上世界もその後進歩したようです。もはや磔刑の手段には出ないからです。


(24)私たちのことを悪魔の福音を説く者と非難する人たちは、二千年前にイエスに対して同じ非難を浴びせた者たちと同列です。私たちはイエスを通して働きかけた大霊の霊力と同じものを携え、同じ霊現象を演出し、そして同じメッセージを説く者です。

すなわち喪の悲しみにある人を慰め、病の人を癒やし、暗闇の中にいる人に光明をもたらし、人生に疲れた人には生きる意欲を持たせ、無知の中で模索している人に知識を授けてあげましょう、ということです。


(25)物質の世界に存在するもの───それが物であろうと人間であろうと、又その人がいかに高い地位にあろうと、それを信仰の対象としてはなりません。物質の世界の彼方にあるものへ目を向けなさい。


(26)私という一個の霊、ただのメッセンジャーに過ぎない者にあまり関心を寄せて下さるのは困ります。私の用事はただメッセージをお届けすることでしかないのです。地上の人間はこれまで余りにも永いこと教えそのものよりも教えを説く人物に関心を向け過ぎております。

そしてその人物を誇大に評価し、祭るべきでない地位に祭り上げ、肝心の教えそのものを忘れております。


(27)私の使命は一個の男女を権威ある地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智を啓示することです。

私の申し上げることに真理の刻印が押してありさえすれば、私という人物が地上で大変高い地位にあった者か卑しい身の上の者であったかはどうでもよいことではないでしょうか。名前・権威・書物、そんなものはもうどうでもよろしい。私が訴えるのは理性のみです。


(28)私たちはもはや書物や人物や権威を拠り所とは致しません。神から授かっている理性、これを拠り所とし、これに訴えかけます。真理というものは〝神聖〟のスタンプを押されている書物から文句を引用することで広まるものではありません。理性が納得しないといけません。

もしも私の述べることがあなたの理性にそぐわない時は、あっさりと拒絶なさってください。しかし同時に、私の申し上げていることが人間の最高にして最上の本能に訴えていること、古い時代からの誤った知識を取り除いて、人間にとって大切な霊的真理をお届しようとしていることも分かっていただけるでしょう。

地上で宗教と呼ばれているものは真理を基盤としなければなりません。そして理性の攻撃に耐えきれないものは棄て去らないといけません。



  シルバーバーチの祈り

 神よ、あなたは法則です。叡智です。愛です。知識です。インスピレーションです。私たちがあなたを讃美するのは、あなたが全生命の大中心であらせられるからにほかなりません。あなたあっての生命であり、あなたなくして生命は存在しません。

あなたは全生命にみなぎり、あなたの法則が全存在を支え、全存在を包摂しております。あなたは私たち人類のすべてにあなたの霊の一部を賦与され、それが地上の人類のすべてをあなたと結びつけております。

 それゆえに、ああ神よ。私たちは決して生まれながらにして罪深き存在などではなく、それゆえの恐れから膝を折ってあなたに阿(オモネ)ることもなく、私たちはあなたの一部であり、同時にあなたは私たちの一部であるとの認識のもとに、浩然の気を持って祈ります。

 あなたの子として私どもはあなたの霊性を宿し、それが常により高い顕現を求めて、私たちを通じて摂理を成就せんと致しております。

 神よ。こうして地上の子等に霊的次元の摂理を啓示する機会をお与え下さったことに深く感謝いたします。この機会のお陰で私たちは地上の子等との協力のもとに、あなたの驚異的計画を披露することができます。全人類に、彼らが地上という物質の世界に置かれていることの意義を理解させてあげることができます。

 正しい知識によって無知をなくさせることができます。霊力によって人間的煩悩を駆逐させることができます。光明によって地上の暗黒を明るく照らし、苦しみと悲劇を喜びと幸福によって置き換えさせることができるのでございます。
                                                    

Wednesday, February 14, 2024

シアトルの冬 無用の悲劇に終止符を……

An end to this needless tragedy...


これより大霊の祝福を求めて、お祈りをいたします。

変幻きわまりない生命現象の背後に控える摂理と目的とを、地上の子等に啓示するための仕事の一環として、わたしたちが知識と叡智と悟りを広めんとする努力は、大霊のご加護なくしては報われません。

宇宙の大霊なるあなたは、これまで子等によって誤解され続け、誤り伝えられてまいりました。

復讐心を燃やし、血に飢え、犠牲(いけにえ)を求め、ある者は可愛がってある者は見捨て、限られた少数の者だけに恩恵を与え、自分に背を向ける大衆は無視する神(ゴッド)として、恐怖の中で崇められてまいりました。

それに代わってわたしたちは、あなたを生命の法則――不変・不滅の自然法則、悠久の過去より存在し悠久の未来へも存在し続ける摂理として啓示いたします。

魂の働きを束縛する迷信という名のくさりを解きほどき、魂の目を見えなくしている目隠しを取り除き、魂の耳栓を取りはずし、心の扉を開いて、天命の全うヘ向けての導き手となるべく、より大きな真理、より大きな叡智、より大きな視野を受け入れる用意を整えさせるのは、その知識をおいて他にないとの認識のもとに、その普及に尽力しているのでございます。

わたしたちは、大自然の摂理についての誤解が生み出す無用の悲劇に終止符をうち、当然の権利として人類が手にすべき平和と調和の障害となっている、あらゆる専制的非道、理不尽な既得権、自己中心主義を排除したいと願っております。

永いあいだ人類の視野を曇らせ、調和と福祉と協調的生活の達成の障害となってきた、無知という名の霧を晴らすべく努力いたしております。

シルバーバーチ



わたしたちは、持てる力とインスピレーションと愛を、受け入れる用意のある者には惜しみなく授けます。いかなる差別もいたしません。子等が神(ゴッド)と呼んでいるところの父なるあなたの存在に触れて、あなたの聖なる力と叡智を我がものとなし、生活の中にそれを顕現させ、かくして無用の悲しみと悩みと苦しみに代わって、新しい知識、新しい目的、新しい悟りの中で暮らすことになってほしいと、ひたすらに祈るものです。

Monday, February 12, 2024

シアトルの冬 モーゼスの霊訓 序 論

Spirit Teachings  William Stainton Moses


    序 論

 本書の大半を構成している通信は、自動書記(1)ないし受動書記(2)と呼ばれる方法によって得られたものである。これは直接書記(3)と区別されねばならない。

前者においては霊能者がペンまたは鉛筆を手に握るか、あるいは、プランセントに手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれる。一方後者においては霊能者の手をつかわず、時にはペンも鉛筆も使わずに、直接的にメッセージが書き記される。

 自動書記というのは、われわれが漠然と〝霊〟(スピリット)と呼んでいる知的存在の住む目に見えない世界からの通信を受け取る手段として、広く知られている。

読者の中には、そんな得体の知れない目に見えぬ存在──人類の遺物、かつての人間の殻のような存在──を霊と呼ぶのはもったいないとおっしゃる方がいるであろうことはよく承知している。が私は霊という用語がいちばん読者に馴染みやすいと思うからそう呼ぶまでで、今その用語の是非について深く立ち入るつもりはない。

とにかく、私に通信を送って来た知的存在はみな自分たちのことを霊と呼んでいる。多分それは私のほうが彼らのことを霊と呼んでいるからであろう。そして少なくとも差し当たっての私の目的にとっては、彼らは〝霊〟(スピリット)でいいのである。

 その霊たちからのメッセージが私の手によって書かれ始めたのはちょうど十年前の一八七三年三月三十日のことで、スピリチュアリズムとの出会いからほぼ一年後のことであった。もっとも、それ以前にも霊界からの通信は(ラップや霊言(5)によって)数多く受け取っていた。

私がこの自動書記による受信方法を採用したのは、この方が便利ということと同時に、霊訓の中心となるべく意図されているものを保存しておくためでもあった。

ラップによる方法はいかにもまどろこしくて、本書のような内容の通信には全く不適当だった。一方、入神した霊媒の口を使ってしゃべると部分的に聞き落とすことがあり、さらに当初のころはまだ霊媒自身の考えが混じらないほど完全な受容性を当てにすることは不可能でもあった。

 そこで私はポケットブックを一冊用意し、それをいつも持ち歩くことにした。すると私の霊的オーラがそのノートに染み込んで、筆記がより滑らかにでてくることが判った。

それは、使い慣れたテーブルの方がラップが出やすく、霊媒自身の部屋の方が新しい部屋よりも現象が起きやすいのと同じ理屈である。スレートを使った通信(6)の専門霊媒であるヘンリー・スレードも、新しいスレートを使ってうまく行かない時は、使い古したものを使うとまず失敗がなかった。

今このことにこれ以上言及しない。その必要がないほど理屈は明瞭だからである。

 最初の頃は文字が小さく、しかも不規則だったので、ゆっくりと丁寧に書き、手の動きに注意しながら、書かれていく文章を後から追いかけねばならなかった。そうしないとすぐに文章が通じなくなり、結局はただの落書きのようなものになってしまうのだった。

 しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきた。文字はますます小さくなったが、同時に非常に規則的で字体もきれいになってきた。あたかも書き方の手本のような観のするページもあった。(各ページの最初に書いた)私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていた。神 Godの文字は必ず大文字で、ゆっくりと、恭しげに綴られた。

 通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図した私的(プライベート)な色彩を帯びていた。

一八七三年に始まって八十年まで途切れることなく続いたこの通信のなかに、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言語、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類は、私の知るかぎり一片も見当たらなかった。

知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわないものはおよそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つが誠実さと実直さと真剣さに満ちあふれていた。

 初期の通信は先に説明した通りの、きちんとした文字で書かれ、文体も一貫しており、署名(サイン)はいつもドクター・ザ・ティ―チャー(7)だった。

通信の内容も、それが書かれ続けた何年かの間ずっと変わらなかった。いつ書いても、どこで書いても筆跡に変化がなく、最後の十年間も、私自身のふだんの筆跡が変わっても、自動書記の筆跡はほとんど変わることがなかった。文章上のクセもずっと同じで、それは要するに通信全体を通じて一つの個性があったということである。

その存在は私にとって立派な実在であり、一人の人物であり、大ざっぱな言い方をさせていただければ、私がふだんつき合っている普通の人間とまったく同じように、独自の特徴と個性を具えた存在であった。

 そのうち別の通信が幾つか出はじめた。筆跡によっても、文体及び表現の特徴によっても、それぞれの区別がついた。その特徴は、いったん定着すると等しく変わることがなかった。私はその筆跡をひと目見て誰からの通信であるかがすぐに判断できた。

 そうしているうちに徐々に判ってきたことは、私の手を自分で操作できない霊が大勢いて、それがレクター(8)と名のる霊に書いて貰っているということだった。

レクターは確かに私の手を自在に使いこなし、私の身体への負担も少なかった。不慣れな霊が書くと、一貫性がない上に、私の体力の消耗が激しかった。そういう霊は自分が私のエネルギーを簡単に消費していることに気づかず、それだけ私の疲労も大きかったわけである。
℘18
 さらに、そうやって代書のような役になってしまったレクターが書いたものは流暢で読み易かったが、不慣れな霊が書いたものは読みずらい上に書体が古めかしく、しばしばいかにも書きづらそうに書くことがあり、ほとんど読めないことがあった。

そう言うことから当然の結果としてレクターが代書することになった。しかし、新しい霊が現れたり、あるいは、特殊なメッセージを伝える必要が生じたときは本人が書いた。


 断っておきたいのは、私を通じて得られた通信の全てが一つの源から出たものではないということである。本書に紹介した通信に限って言えば、同じ源から出たものばかりである。すなわち、本書はイムペレーター(9)と名のる霊が私と係り合った期間中の通信の記録である。

もっともイムペレーター自身は直接書くことをせず、レクターが代書している。その期間、特にイムペレーターとの関係が終わったあとは明らかに別の霊団からの通信があり、彼らは彼らなりの書記を用意した。

その通信は、その霊団との係わりが終わる最後の五年間はとくに多くなっていった。

 通信の書かれた環境はそのときどきでみな異なる。原則としては、私は一人きりになる必要があり、心が受身的になるほど通信も出やすかったが、結果的には如何なる条件下でも受け取ることができた。

最初の頃は努力を要したが、そのうち霊側が機械的に操作する要領を身につけたようで、そうなってからは本書に紹介するような内容の通信が次から次へと書かれていった。本書はその見本のようなものである。

 本書に紹介したものは、初めて雑誌に発表した時と同じ方法で校正が施してある。最初は心霊誌 Spiritualist に連載され、その時は筆記した霊側が校正した。もっとも内容の本質が変えられたところはない。その連載が始まった時の私の頭には、今こうして行っている書物としての発行のことはまったく無かった。

が多くの友人からサンプルの出版をせがまれて、私はその選択に取りかかった。が、脈絡のことは考えなかった。

その時の私を支配していた考えは、私個人の私的(パーソナル)な興味しかないものだけは絶対に避けようということだけで、それは当然まだ在世中の人物に言及したものも避けることにもつながった。私個人に係わることを避けたのは、ただそうしたいという気持ちからで、一方、他人に言及したものを避けたのは、私にそのような権利はないと考えたからである。

結果的には私にとって或る意味で最も衝撃的で感動的な通信を割愛することになってしまった。本書に発表されたものは、そうした、今は陽の目を見ることができないが、いずれ遠い将来、その公表によって私を含め誰一人迷惑をこうむる人のいなくなった時に公表を再考すべき厖大な流の通信の、ほんの見本にすぎないと考えていただきたい。

 通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なほどの配慮をしたつもりである。

最初の頃は筆致がゆるやかで、書かれて行く文をあとから確かめるように読んでいかねばならなかったほどであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも、間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。

でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れれぬ正確さで筆記されていった。

 こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体でつづられているのである。

 だからといって、私は決して私自身の精神が使用されていないというつもりはないし、得られた通信が、それが通過した私という霊媒の知的資質によって形体上の影響を受けていないというつもりもない。

私の知るかぎり、こうした通信にはどこか霊媒の特徴が見られるのが常である。影響がまったく無いということはまず考えられない。

しかし、確実に言えることは、私に送られてきた通信の大部分は私の頭の中にあることとはおよそ縁のないものばかりであり、私の宗教上の信念ともその概念上において対立しており、さらに私のまったく知らないことで、明確で確実で証明可能な、しかもキメの細かい情報がもたらされたことも幾度かあったということである。

テーブルラップによって多くの霊が自分の身許についての通信を送ってきて、それを後にわれわれが確認したりしたのと同じ要領で、私の自動書記によってそうした情報が繰り返し送られてきたのである。

 私はその通信の一つ一つについて議論の形式で対処している。そうすることで、ある通信は私に縁もゆかりもない内容であることが明確に証明され、またある通信では私の考えとまったく異なる考えを述べる別個の知的存在と交信していることを確信することができるわけである。実際、本書に収録した通信の多くはその本質をつきつめれば、多分、まったく同じ結論に帰するであろう。

 通信はいつも不意に来た。私の方から通信を要求して始まったことは一度もない。要求して得られることはまずなかった。突如として一種の衝動を覚える。どういう具合にかは私自身にも判らない。とにかくその衝動で私は机に向かって書く用意をする。

一連の通信が規則正しく続いている時は一日の最初の時間をそれに当てた。私は起きるのが早い。そして起きるとまず私なりの朝の礼拝をする。衝動はしばしばその時に来た。

といってそれを当てにしていても来ないことことがあった。自動書記以外の現象もよく起きた。健康を損ねたとき(後半よく損ねたが)を除き、いよいよ通信が完全に途絶えるまで、何の現象も起きないということは滅多になかった。

 さて、膨大な量の通信の中でもイムペレーターと名のる霊からの通信が私の人生における特殊な一時期を画している。本書の解説の中で私は、そのイムペレーターの通信を受け取った時の魂の高揚、激しい葛藤、求めても滅多に得られなかった心の安らぎに包まれた時期について言及しておいた。

それは私が体験した霊的発達のための教育期間だったわけで、結果的には私にとって一種の霊的新生となった。その期間に体験したことは他人には伝えようにも伝えられる性質のものではない。伝えたいとも思わない。

しかし内的自我における聖霊の働きかけを体験したことのある方々には、イムペレーターという独立した霊が私を霊的に再教育しようとしたその厚意ある働きかけの問題は、それでもう十分解決されたと信じていただけると思う。

表面的にはあれこれと突拍子もないことを考えながらも、また現に問い質すべきいわれは幾らでもあるにもかかわらず、私はそれ以来イムペレーターという霊の存在を真剣に疑ったことはただの一度もない。

 この序論は、私としては全く不本意な自伝風のものとなってしまった。私に許される唯一の弁明は、一人の人間の霊体験の物語は他の人々にとっても有益なものであることを確信できる根拠が私にある、ということだけである。 

これから披露することを理解していただくためには、不本意ながら、私自身について語る必要があったのである。私は、その必要を残念に思いながらも、せめて本書に記載したことが霊的体験の一つの典型として心の琴線に触れる人には有益であると確信したうえで、その必要性におとなしく従うことにした。

真理の光を求めて二人の人間がまったく同じ方法で努力することはまずないであろう。しかし、私は人間各自の必要性や困難には家族的ともいうべき類似性があると信じている。ある人にとっては私のとった方法によって学ぶことが役に立つ日が来るかもしれない。

現にこれまでもそうした方がおられたのである。私はそれを有難いと思っている。

 こうしたこと、つまり通信の内容と私自身にとっての意義の問題以外にも、自動書記による通信の形式上の問題もあるが、これはきわめて些細な問題である。通信の価値を決定づけるのはその通信が主張する内容そのもの、通信の目的、それ本来の本質的真理である。その真理が真理として受け入れられない人は多いであろう。

そういう人にとっては本書は無意味ということになる。また単なる好奇心の対象でしかない人もいるであろう。愚か者のたわごととしか思えぬ人もいるであろう。私は決して万人に受け容れて貰えることを期待して公表するのではない。

 
その人なりの意義を見出される人のために本書が少しでも役に立てば、それで私は満足である。
                  ステイントン・モーゼ ス                           一八八三年三月

シアトルの冬 シルバーバーチ霊団の使命

Mission of the Silver Birch Spirit Group

 自分自身についての単純・素朴な真理───これを本当に理解している人が何と少ないことであろう。ところがその自分みずからを知らない人間がとかく他人のことについては、あたかも深い洞察力を持っている人間であるかのような口を利くものである。

曰く───〝あいつも、もうそろそろ気づいてもよさそうなものだが・・・〟〝いつになったら目が覚めるのだろう〟〝あの人がもし側から見られるように自分で自分を見つめることが出来たら、さぞかし・・・〟等々。他人についての単純な真理を表現したこうした言葉はよく耳にするが、それを口にする本人も自分自身についてはとかく何も知らないものである。

 こうした中にあって、古来、その霊性の高さと教説の崇高さにおいて際立ったものを見せる存在がいる。人間それ自身についての彼らの説くところには永遠の真実味がある。

 ソクラテスがそれであり、イエスがそれであり、そしてこのシルバーバーチがそれである。ロンドンの霊媒(バーバネル)の言語機能を借りて語る、三千年前に地上を去ったという古代霊シルバーバーチは、交霊現象にまつわるあらゆる障壁を乗り越えて、しかも稀れに見る言語感覚の冴えをさりげなく発揮しながら、こう語る。

 「私にできることは永遠・不変の宇宙の原理・原則を指摘することだけです。地上世界のことがすべて探求しつくされ、説明しつくされ、理解されつくしたあとに、なおかつ誰一人として完全に究めることも説明することも出来ない永遠の摂理があります。それは構想においても適応性においても無限です。

人間のすべてが、日々決断を迫られる問題に直面した時に、自分が霊的存在であること、大切なのは物的なもの───それはそれなりに存在意義はあっても───ではなくて、それがあなたの本性、永遠の霊的本性に与える霊的な意義であることを自覚することができるようになれば、どれだけ素晴らしいことでしょう。

 物的なものはいずれ朽ち果て、元のチリに帰ります。野心、欲望、富の蓄積、こうしたものは何の役にも立ちません。所詮はあなた方も霊的存在なのです。真の富はその本性に宿されているものだけであって、それ以上ではありえませんし、それ以下でもありえません。

そのことを生涯を通じて悟っていかなくてはいけません。それを悟った時、あなたは真の自分を見出したことになり、自分を見出したということは神を見出したということになり、そうなった時のあなたこそ真の意味での賢者と言えるのです。

 私の目には、あれこれと〝大事なこと〟があって毎日あっちへ走りこっちへ走りして、忙しく暮らしながらその実〝一番大事なこと〟を見落とし、なおざりにしているために、心が絶望的でヤケになっている大勢の人々の姿が見えます。このあたりに私どもが説く教えの核心があるのですが、お判りになりますか。

その人たちが日々の生活の中に生きるよろこび───神の子として当然味わうべき充足感を見出してくれるようにと願って霊界から舞い戻ってくるそもそもの目的がそこにあることが判っていただけるでしょうか。

 それはいわゆる宗教、教会、信条、教義といったものより大切です。人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱の原因となってきた、その類のもののいずれにもまして大切です。が、それは自分という存在についての(霊的存在であるという)至って単純な事実に過ぎないのです。なのに、それを悟っているのはごく僅かな人たちだけで、大多数の人は知らずにおります」

 さて、こうした霊的啓示をわれわれは、たまたま良い霊媒がいたから得られた、気紛れで無計画なものと受け止めがちである。が、シルバーバーチがこれから明かすように、その背後では幾重にも組織された霊団によって、遠大な計画のもとに推進されている。

(訳者注───シルバーバーチに限っていえば霊媒のバーバネルが誕生する以前から計画を立て英語の習得や心霊現象の研究と準備を重ねてきたというが、同じことが各国・各民族において太古よりそれ独自の形で推進されてきており、これから先には本格的なものが計画されていることであろう。地上人類は言わばケンカや遊びから学ぶ幼児期を終えて、やっと本格的な霊的真理を学ぶ時代に入りつつある───そんな程度の段階にあるのではなかろうか)


 シルバーバーチはこう語っている。
 「私たち霊団の使命はれっきとした目的ないし意義を持つ証拠を提供し、それによって心霊的法則というものが存在することを立証する一方、生きる喜びと霊的教訓を授けるということです。物理的法則を超えた別の次元の法則の存在を証明するだけでなく、霊についての真理を啓示するということです。

 そうした使命を持つ私たちには、真っ向から立ち向かわねばならない巨大な虚偽の組織が存在します。過去幾世紀にもわたって積み重ねられてきた誤りを改めなければなりません。人間が勝手にこしらえた教義を基盤として築き上げられてきた虚飾の大機構を解体しなくてはなりません。

 私たちの努力は常に、物質界の神の子等にいかにして魂の自由を見出し、いかにして霊的真理の陽光を浴び、いかにして教義の奴隷となっている状態から脱け出るかをお教えすることに向けられております。これは容易な仕事ではありません。

なぜなら、いったん宗教という名の足枷をはめられたが最期、迷信という名の厚い壁をつき破って霊的真理が滲透するには永い永い年月を要するからです。

 私たちは霊的真理の宗教的意義をたゆまず説き続けます。その霊的な重要性に目覚めれば、戦争と流血による革命よりはるかに強烈な革命が地上世界にもたらされるからです。

 それは魂の革命です。その暁には世界中の人々が受けて当たりまえのもの───霊的存在としてのさまざまな自由を満喫する権利を我が物とすることでしょう。」


 私たちが忠誠を捧げるのは教義でもなく書物でもなく教会でもありません。宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理です。

 いずれ地上世界に強力な霊の力が注がれます。世界各地において霊的勢力の働きかけが認識されるようになります。これまで蔓延(はびこ)ってきた利己主義と無知に歯止めをかけるための大きな仕事があるからです。それはいつか必ず成就されます。が、その途中の段階においては大きな産みの痛みを味わわなくてはならないでしょう。

 その仕事を支援せんとして私どもの世界から大ぜいのスピリットが馳せ参じております。あなた方の顔見知りの人、血のつながりのある人もいれば、愛のつながりによって引かれて来る人もいます。

背後霊というとあなた方はすぐに顔見知りの名前を思い浮かべがちですが、一方にはまったくあなた方の知らない人たちで、ただ自分の力を役立てることにのみ喜びを覚えて援助してくれている人たちがいることも、どうか忘れないでください。

 聖書にはサウロ(のちのパウロ)がダマスカスへ行く途中、天からの光に包まれ、目が眩んで倒れ、それがきっかけで改心する話がありますが(使徒行伝9・3、22・6)世の中はそんな具合に一気に改まるものではありません。

一人ずつ霊的真理に目覚め、一人ずつ神の道具となっていくという形で、少しずつ光明が広がっていくのです。霊的なものは大事に育て慎重に広めていく必要があることを銘記しなければなりません。急激な改心はえてして永続きしないものです。私たちの仕事は永続性が生命です。

 一個の魂が神の道具となった時、一個の魂が暗闇から光明へ、無知から知識へ、迷信から真実へと目覚めたとき、その魂は世界の進歩に貢献していることになります。 なぜなら、その一人ひとりが言わば物質万能主義の棺に打ち込まれるクギのようなものだからです。

 発達にも二つの種類があることを知ってください。霊そのものの発達と、霊が使用する媒体(※)の発達です。

前者は魂そのものの進化であり、後者は単なる心霊的能力の開発にすぎません。霊的進化を伴わない心霊能力だけの発達では低い次元のバイブレーションしか出ません。両者が相携えて発達したとき、その人は偉大な霊能者であると同時に偉大な人物であることになります。

(※その働きを普段われわれは精神あるいは潜在意識として捉えている。この中にいわゆる超能力が宿されている。シルバーバーチは別のところでそれがいずれは人類の当たり前の能力として日常茶番に使用されることになると述べているが、ここでは、それがすなわち人格の向上を意味するものでないことを指摘し、超能力者だからといってすぐに崇めたがる風潮を戒めている。訳者)

 私たちが携えてくるメッセージは地上人類にとって実に素晴らしい恩恵をもたらします。魂を解放し、神からの遺産(神的属性)の素晴らしさに目を開かせます。あらゆる足枷と束縛を棄てるように教えます。霊的真理の本当の有難さを教えます。

物的生活の生き方と同時に霊的生活の生き方も教えています。美と愛と叡智と理解力と真理と幸福をもたらします。人のために、ひたすら人のために、と説くメッセージです。

 ところが、そのメッセージを携えてくる私たちが、神を正しく理解していない人々、霊の働きかけの存在を信じない人たちによって拒絶されております。それはいつの時代にもよくある話です。

 一方、現在の地上の状態はそうした私たちスピリットの働きかけをますます必要としております。流血につぐ流血、そしてその犠牲になった人々の涙の絶えることがありません。無明ゆえに地上人類は神の摂理に従った生き方をしておりません。暗黒と絶望の道を選択しております。そこで私たちが希望と光明と平和と調和をもたらす知識を携えてきたのです。

無知ゆえに私たちを軽蔑します。私達のメッセージを拒絶します。私たちを背後から導いている強大な力の存在に気づいてくれません。しかし霊的実在を教える大真理は必ずや勝利をおさめます。

 摂理に逆らう者はみずからその苦い実りを刈り取ることになります。摂理に従って生きる者は物的・霊的の両面において豊かな幸せを刈り取ります。

 暗闇が蔓延する地上にあって、どうか希望を失わず、あなた方と共に人類の高揚のために働いている多くの霊、物的世界を改善しようとしている霊の努力は必ず実ることを信じていただきたいのです。その背後に控える霊力は宇宙で最も強力な力だからです。

 価値あるものは苦難と悲哀なしには達成できません。地上は地上なりの教訓の習得方法があるのです。それは避けるわけにいきません。今、霊的勢力が地上全土にわたって活動を開始しつつあり、あらゆる地域の人々に霊的メッセージが届けられ、その心を明るく照らし、その光が広まるにつれて物質万能主義の闇を追い散らしていきます。

 私たちは罰の恐ろしさをチラつかせながら説得することはしません。恐怖心から大人しく生きる、そんな卑屈な臆病者になってほしくはありません。内部に宿る神性を自覚し、それを発揮することによって霊性を高め、一段と崇高な真理と叡知を身につけていただくことを目指しております。

 そのためには、まず、これまでに得たものに不満を抱くようにならなければなりません。なぜなら、今の自分に満足できず、さらに何かを求めようとするところに、より高い知識を得る可能性が生まれるものだからです。満足する人間は進歩が停滞します。満足できない者はさらに大きな自由へ向けて突き進むことになります。

 私たちは決してあなた方に〝理知的に難しく考えず、ただ信じなさい〟とは申しません。逆に〝神から授かった理性を存分に駆使して私たちを試しなさい。徹底的に吟味しなさい。その結果もし私たちが述べることの中に低俗なこと、邪険なこと、道義に反することがあると思われたら、どうぞ拒絶してください〟と申し上げております。

(訳者注ーシルバーバーチがそう述べる時、自分の訓えを押し付けるつもりはないという態度の表明であると同時に、次のような事実を踏まえていることも指摘しておきたい。それは、シルバーバーチの名が広まるにつれてその名を騙(かた)る霊が出没していることである。

これは霊媒のバーバネルの在世中にもあったが、他界後も世界各地であるようである。シルバーバーチは自分が霊媒とは別個の存在であることを証明するために他の霊媒、たとえばロバーツ女史を通してバーバネル夫妻に語ったことはあるが、それもそう約束した上でのことだった。そういう事実を踏まえて、だから、変だと思われたら遠慮なく拒絶してくださいと言うことにもなった。)
 
 私たちはひたすらあなた方に〝より高潔な生活〟自己犠牲と理想主義を志向する生活を説いております。もしそれをお認めいただければ、それは私たちの訓えの中身に神の極印が押されていることを証明するものと言えましょう。

 たった一個の魂でも目覚めさせることができれば、悲嘆に暮れる者をたった一人でも慰めてあげることができれば、怖じ気づいた人の心を奮い立たせ人生に疲れた人に生きる勇気を与えることが出来れば、それだけでも努力の甲斐があったことにならないでしょうか。

 私たちのメッセージを耳にして心に動揺を来し、困惑し、分けが分らなくなりながらも、先入主的信仰によって身動きが取れずにいる人が大ぜいおります。しかしその人たちも、牢獄に閉じ込められた魂へ向けて呼びかける自由の声を耳にして煩悶しています。

 そういう人たちにこそ、私たちのメッセージを届けてあげるべきです。思いも寄らなかったものが存在することを知ってそれを必死に求めようとする、そのきっかけとなります。真理とはすべて踏み石の一つに過ぎません。

 この霊媒の口をついて出る言葉にもしもあなた方の理性に反撥を覚えさせるもの、神の愛の概念と矛盾するもの、愚かしく思えるもの、あなたの知性を侮辱するものがあるとすれば、それは、もはや私の出る幕ではなくなったことを意味します。私の時代は終わったことになります。

 この交霊会もこれまで数え切れないほど催されておりますが、その間私が魂の崇高なる願望と相容れないものを述べたことは、ただの一度もないと確信しております。私たちは常にあなた方の魂の最高の意識に訴えているからです。

 地球人類は地球人類なりに、みずからの力で救済手段を講じなくてはなりません。出来合いの手段はないのです。前もって用意されたお決まりの救済手段というものはないのです。

そのためにはこれが生命現象だと思い込んでいる自然界の裏側に目に見えない霊的実在があること、そして物質界に生活している人間は物的存在であると同時に霊的存在であり、物的身体を通して自我を表現しているという事実をまず理解しなくてはなりません。

 物的身体は、神の意図された通りに、生活上の必需品をきちんと揃えることによって常に完全な健康状態に保たねばなりません。一方、霊はあらゆるドグマと信条による足枷から解放されねばなりません。

そうすることによって実質的価値、つまり霊的に見て意味のないものに忠誠を捧げることなく、真実なるもののためにのみ精を出すことになり、過去幾千年にもわたって束縛してきた信条やドグマをめぐっての戦争、仲違い、闘争を無くすことが出来ます。


 私たちは神を共通の親とする全民族の霊的同胞性を福音として説いております。その理解を妨げるものは地上的概念であり、虚偽の上に立てられた教会であり、特権の横領(※)であり、卑劣な圧制者の高慢と権力です。

(※宗教組織の発達に伴って内部において権力の構造が生まれる。それは人間的産物にすぎないが、それを宇宙の絶対者から授かったものと錯覚し主張しはじめる。それを〝横領〟と表現したのであるー訳者)

 私たちの霊訓が理解されていくにつれて地上の民族間の離反性が消えていくことでしょう。各国間の障壁が取り除かれていくことでしょう。民族的優劣の差、階級の差、肌色の違い、さらには教会や礼拝堂や寺院どうしの区別も無くなることでしょう。

それは、宗教には絶対的宗教というものはなく世界の宗教の一つひとつが宇宙の真理の一部を包蔵しており、自分の宗教にとって貴重この上ない真理が他の宗教の説く真理と少しも矛盾するものでないことを理解するように成るからです。

 そうしていくうちに、表面上の混乱の中から神の意図(プラン)が少しずつ具体化し、調和と平和が訪れます。こう申し上げるのも、あなた方にその神のプランの一部───私たちが霊の世界から携わり皆さんの一人ひとりが地上において果たさなければならない役割を正しく理解していただくためです。

 私たちが説いていることは曽て人類の進歩のために地上へ降りた各時代の革命家、聖者、霊格者、理想主義者たちの説いたことと少しも矛盾するものではありません。彼らは霊的に偉大な人物でしたから、その霊眼によって死後の生命を予見し、その美しさが魂の支えとなって、あらゆる逆境と闘争を克服することが出来たのでした。

彼らは地上世界にいずれ実現される神のプランを読み取り、その日のために物質界の子等の魂を高揚させるべく一身を擲(なげう)ったのでした。

 彼らも悪しざまに言われました。援助の手を差しのべんとしたその相手から反駁(ハンパク)され嘲笑されました。しかしその仕事は生き続けました。それはちょうど、今日世界各地の小さな部屋で行われている、このサークルのような交霊会の仕事が、そのメンバーの名が忘れ去られたのちも末永く生き続けるのと同じです。

強大な霊の力が再び地上世界へ注ぎ込まれ始めたのです。いかなる地上の勢力を持ってしてもその潮流をせき止めることはできません。

 人間は問題が生じるとすぐ流血の手段でカタをつけようとします。が、そんな方法で問題が解決したためしはありません。流血には何の効用もありませんし、従って何の解決にもなりません。

なぜ神から授かった理性が使えないのでしょう。なぜ相手をできるだけ大ぜい殺すこと以外に、解決法が思いつかないのでしょう。なぜ一ばん多くの敵を殺した者が英雄となるのでしょう。地上というところは実に奇妙な世界です。

 地上にはぜひ私たちのメッセージが必要です。霊のメッセージ、霊的真理の理解、自分の心の内と外の双方に霊的法則と導きがあるという事実を知る必要があります。そうと知れば、迷った時の慰めと導きと援助をいずこに求めるべきかが判るでしょう。

 こうした仕事において私たちは、自分自身のことは何一つ求めていません。栄光を求めているのではありません。地上の人たちのために役立てばという、その願いがあるだけです。

永い間忘れられてきた霊的真理を改めて啓示し、新しい希望と生命とを吹き込んでくれるところの霊的なエネルギーを再発見してくれるようにと願っているだけです。

 今や、これまでの古い規範が廃棄され、あらゆる権威が疑問視され、その支配力が衰えつつある中で人類は戸惑っておりますが、そんな中で私たちは絶対的権威者であるところの宇宙の大霊すなわち神の存在を、けっして機能を停止することも誤ることもない法則という形で啓示しようとしているのです。地上世界がその法則に順応した生活規範を整えていけば、きっと再び平和と調和が支配するようになります。

 そうした仕事は、廃棄された信仰の瓦礫の中にいる人類が不信感と猜疑心からその全部を棄ててしまうことなく、真なるものと偽なるもの、事実と神話とを見分け、永いあいだ人類の勝手な想像的産物の下に埋もれてきた真に価値あるもの、すべての宗教の根底にあるもの、霊についての真理を見出すように指導するという、私ども霊団に課せられた大きな使命の一環なのです。


 霊の力───太古において人類を鼓舞し、洞察力と勇気、同胞のためを思う情熱と願望を与えたその力は、今日においてもすぐ身近に発見できる法則の働きの中に求めようとする心掛け一つで我がものとすることが出来るのです。

 教会の権威、聖典の権威、教理の権威───こうしたものが今ことごとく支配力を失いつつあります。次第に廃棄されつつあります。しかし霊的真理の権威は永遠に生き続けます。私がこうして戻ってくる地上世界は騒乱と混沌に満ちていますが、霊の光が隙間から漏れるようなささやかなものでなしに強力な光輝となって地上全土に行きわたれば、そうしたものは立ちどころに治まることでしょう。

 なぜ人間は光明が得られるのにわざわざ暗闇を求めるのでしょう。なぜ知識が得られるのに無知のままでいたがるのでしょう。叡知が得られるのになぜ迷信にしがみつくのでしょう。生きた霊的真理が得られるのに、なぜ死物と化した古い教義を後生大事にするのでしょう。単純・素朴な霊的叡知の泉があるのに、なぜ複雑怪奇な教学の埃の中で暮らしたがるのでしょう。

 外せるはずの足枷を外そうともせず、自由の身になれるはずなのに奴隷的状態のままでいながら、しかもその自ら選んだ暗闇の中で無益な捜索を続けている魂がいるのです。

思うにそういう人は余りに永い間鎖につながれてきたために、それを外すことに不安を覚えるようになってしまったのでしょう。永いあいだカゴの中で飼われた小鳥は、カゴから放たれた時、果たして飛べるかどうか不安に思うものです。

 足枷を外すまではいいのです。が、外した後に自ら歩むべき道がなくてはなりません。何の道しるべもなくて戸惑うまま放置されるようなことになってはいけません。私たちは彼らの魂の解放を望みますが、その自由が手引きしてくれる方向もよく見きわめてほしいのです。

 永いあいだ束縛の中で生きていると、 やっと自由を得た時に、もう何の指図も受けたくないという気持ちを抱きます。そしてこう言います───〝もう指図を受けるのは御免です。疑問と迷いの年月でした。それを振り棄てた今、私はもう宗教と名のつくものとは一切関わりたくありません〟と。
 
 足枷から解放されて迷いが覚めるとともに、激しい反動が起きることもあります。(たとえば神仏の化身として崇めていた教祖がただの人間に過ぎなかったことを知ってー訳者)

そこで私は、私という一個人、ただのメッセンジャー(使いの者) に過ぎない者に過度の関心を寄せられるのを好まないのです。私はメッセージそのものにすべてを賭けております。地上の人間は余りに永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せ過ぎ、超人的地位に祭り上げ、肝心の訓えそのものを忘れてきました。

 私たちの使命はもはやそんな、しょせん人間に過ぎない者を超人的地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡知をお届けするだけです。

私が地上で傑出した指導者であったか、それとも哀れな乞食であったか、そんなことはどうでもよいことです。私の述べていることに真理の刻印が押されていれば、それでよろしい。名前や権威や聖典に訴えようとは思いません。訴えるのはあなた方の理性だけです。

 人間の知性に矛盾を感じさせるようなことは何一つ要求いたしません。人間としての道義に反すること、尊厳に関わること、屈辱感を覚えさせること、人類を軽蔑するようなことは決して説きません。

私たちは全人類の意識を高め、地上における一生命としての位置、宇宙における位置、創造神とのつながり、一つの家族としての地上人類どうしの同胞関係を正しく理解する上で必要な霊的真理を明かそうとしているのです。

 これまでのように何かというと聖典の文句を引用したり、宗教的指導者の名前を持ち出したり、宗教的権威を振りかざしたりすることは致しません。私たちは神から授かっている理性を唯一の拠り所として、それに訴えます。ただ単に聖書に書いてあるからというだけの理由で押し付ける方法は取りません。 理性が反撥を覚えたら拒否なさって結構です。

ただ、よく吟味して下されば、私たちの説くところが霊的存在として最高にして最善の本能に訴えていること、その目標が間違った古い考えを洗い落とし、代わって、後できっと有難く思って下さるはずの大切な真理をお教えすることであることが分っていただけるものと確信します。

地上のいわゆる宗教は真実を基盤とすべきであり、理性の猛攻撃に抗しきれないようなものはすべて廃棄すべきです。

 私たちが霊的真理を説くとき、それは霊的世界の摂理に関わることとしてのみ説いているのではありません。物的世界に関わることでもあるのです。私たちの目から見れば物的世界は神の創造された宇宙の一側面であり、それを無視して、つまり絶望の淵に沈む人類の苦しみに無関心でいて〝宗教的〟ではありえません。

そういう人たちのために援助の手を差しのべる人はすべて偉大なる霊と言えます。真理を普及することのみが人のための仕事ではありません。他にもいろいろあります。

 貧困にあえいでいる人々への物的援助もそうです。病に苦しむ人々の苦痛を取り除いてあげることもそうです。不正と横暴を相手に闘うこともそうです。憎しみ合いの禍根を断ち、人間的煩悩を排除して内奥の霊性に神の意図されたとおりに発現するチャンスを与えてあげる仕事もそうです。


 私が残念に思うのは、本来霊的存在であるところの人間が余りにも霊的なことから遠ざかり、霊的法則の存在を得心させるために私たちスピリットがテーブルを浮揚させたりコツコツと叩いてやらねばならなくなったことです。(巻末〝解説〟参照)

 あなた方も一人の例外もなく神の分霊なのです。ということは、あたかも神があなた方にこう語りかけているようなものです───〝私がすべての法則を用意し、あなた方一人ひとりに私の分霊を授けてあります。宇宙を完全なものにするための道具はすべて用意してあります。

そのすべてを利用することを許しますから、自分にとって良いものと悪いものとをみずから選択しなさい。それを私の定めた法則に順応して活用してもよろしいし、無視してもよろしい〟と。

 そこで神の子等はそれぞれ好きなように選択してきました。しかし他方において、霊界から地上の経綸に当たっている者は神の計画を推進するために、地上において間違いなく神の御心に感応出来る人材を送り込まねばならないのです。

地上の神の子等はこれまで大きく脇道に外れてしまったために霊的なことにすっかり無関心となり、物的なことしか理解できなくなっております。

 しかし冷たい冬の風が吹きまくった後には必ず春の新しい生命が芽生えるものです。地面に雪が積もり、すべてが寒々とした感じを与える時は、春の喜びは分かりません。が春はきっと訪れるのです。そして生命の太陽はゆっくりと天界を回って、いつかは生命の壮観がその極に達する時が参ります。

 今、地上全体を不満の暗雲がおおっています。が、その暗雲を払いのけて夢を抱かせる春、そしてそれを成就させる夏がきっと訪れます。その時期を速めるのも遅らせるのも、あなた方神の子の自由意志の使い方一つに掛かっております。

 一人の人間が他の一人を救おうと努力する時、その背後に数多くのスピリットが群がり寄って、その気高い心を何倍にも膨らませようと努めます。善行の努力が無駄にされることは絶対にありません。奉仕の精神も決して無駄に終わらせることはありません。

誰かが先頭に立って藪を開き、後に続く者が少しでもラクに通れるようにしてあげなければなりません。やがて道らしい道が出来上がり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。
 
 高級神霊界の神が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでおられる姿を時おり見かけます。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられていく人間の愚行を見て、いつかはその愚かに目覚める日が来ることを祈りつつ眺めているのです。

そうかと思うと、うれしさに顔を思い切りほころばせておられるのを見かけることもあります。無名の平凡な人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。

 私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志と共に波長を物質界に近づけて降りてまいりました。その目的は神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることが出来ることを教えてあげたいと思ったのです。

 物質界に降りてくるのは、正直言ってあまり楽しいものではありません。光も無く活気も無く、うっとうしくて単調で生命力に欠けています。たとえてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもがだらしなく感じられます。

どこもかしこも陰気でいけません。したがって当然、生きる喜びに溢れている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。

 私が住む世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真に生きるよろこびが漲り、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、お互いに自分のたらざるところを補い合い、充実感と生命力とよろこびと輝きに満ちた世界です。

 それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せがあるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。

神は必要なものはすべて用意して下さっているのです。問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

 それを取り除いてくれと言われても、それは私どもには許されないのです。私どもにできるのは物質に包まれたあなた方に神の摂理を訓え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通じて運用されるかを教えて差し上げるだけです。今日ここにいらっしゃる方にはぜひ、霊的真理を知ればこんなに幸せになれるのだということを身を持って示していただきたいのです。

 もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えて差し上げることができたら、これにすぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上に降りてきた苦労の一端が報われたことになりましょう。

私たちの霊団は決して本来あなた方人間が果たすべき義務を肩代わりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身を持って悟っていただける生き方をお教えしようとしているだけです。
 
 そう言うとある人はこんなことを言います───〝おっしゃる通りです。だから私たちも施しをします。が、施しを受ける者はまず神に感謝しなければいけません〟と。施しをしたあと、その相手がそのことを神に感謝しようがすまいが、そんなことはどうでも良いことではないでしょうか。

お腹を空かした人がいれば食べ物を与えてあげる───それだけで良いではありませんか。寝るところに困った人に一夜の宿りを提供してあげる。それは良いことですが〝どうぞウチで泊っていってください。ですが、ちゃんと神にお祈りをなさって下さいよ〟などと余計なお説教をしてはいけません。

 スピリチュアリズムの真実を知ったあなた方は、その分だけを物的なもので差し引いて勘定してみたことがおありですか。つまりあなた方は地上的なものでは計れない貴重なものを手に入れられた。霊的真理という掛けがいのない高価なものをお持ちになっている。

自分が霊的に宇宙の大霊と直結していることを悟られた。神の分霊であるという事実を悟られた。その神から遣わされた使者の働きかけを受け止める心掛けも会得された。 

 そうしたことに比べれば、俗世的な宝はガラクタも同然です。あなた方はこれから先も永遠に生き続けるのです。すると、この地上で学んだ知識、体験から得た叡知が、俗世で追い求めている物的なものに比して、その永遠の魂にとっていかに大切であるかがお判りになるはずです。
 
 見かけの結果だけで物ごとを判断してはいけません。あなた方は〝物〟の目でしか見ていないのです。〝霊〟の目でご覧になれば、一人ひとりの人間に完全に公正な配慮がなされていることを知るでしょう。私は時おりあなた方をはじめ他の多くの人間の祈りに耳を傾けることがあります。

そしていつもこう思うのです───もしも神がそのすべてを叶えてあげたら、ゆくゆくはあなた方にとって決してうれしくない結果をもたらすであろう、と。

 地上を去って霊の世界へ来る人たちに私はよく質問して見ることがあるのですが、霊となって自分の地上生活を振り返ってみて、そこに納得のいかないことがあると文句を言う人は一人もいません。

(訳者注ーこれは、すべてなるべくしてそうなっていた、つまり自分が蒔いたタネだったということで、〝文句を言う人は一人もいない〟というのは誰しもその事実関係は認めざるを得ないことを言っているのであるが、だからみんなすぐに反省して殊勝な心掛けに立ち帰るという意味ではない。

頭でそう認めても心が素直に従うとは限らないのは地上でもよくあることで、地上ならば片意地を張って通すことは出来ても霊界ではそうはいかない。その頑な心の奥にある恨みや嫉妬等の悪感情がすぐさま身辺の雰囲気に漂い、環境にそぐわなくなり、親和作業によって同じような感情の中で生きる霊ばかりのいる境涯へと引きつけられていく。そこを地獄という)

 地上世界には今三つの大きな問題があります。一つは無知であり、もう一つは悲劇であり、三つ目は貧困です。この三つは霊についての認識が政治と結びつき、みんながその新しい知識の指し示す方向で思考し、そして生きるようにならない限り、いつになっても無くならないでしょう。

 しかし勝利の潮流は着実に押し寄せてきます。古い秩序が廃れ、新しい秩序にその場を譲っていきます。新しい世界は近づいております。しかし、新しい世界になったら地上から暗い場所が完全に無くなるとは思ってはいけません。相変わらず涙を流す人がいることでしょう。心を痛める人がいることでしょう。大いなる犠牲が求められることもあるでしょう。

 神の計画に関わる仕事は犠牲なしには成就されないのです。取り壊しなしには建て直しは出来ません。人間は大きな悲劇に遭遇して初めて霊的なことに関心を抱きはじめ、その拠ってきたる源を探ろうとします。つまり、あれこれと物的手段を試みてその全てが何の役にも立たないことを知ると、ワラをもつかむ気持ちでどこかの宗教団体にすがりつき、そしてやがて失望します。

 そうしたことの繰り返しの中で霊的真理が台頭し、新しい世界───神の摂理が正しく機能している世界───の建設が始まります。そうなるまでは何かと大きな問題の絶えることはありません。が、いずれにしても、何も言うことのない完全な世界にはなりません。なぜならば完全に近づけば近づくほど、その先により高い完全が存在することを知るからです」


───霊界が地上のスピリチュアリズムの普及に関心があるのなら、なぜもっとマスコミに働きかけないのでしょうか。

 「これは、これは。どうやら貴方は(真理のあり方について)あまり理解がいっていないようですね。知識が普及すること自体は良いことにきまっております。でも、いきなりマスコミを通じての宣伝効果の話を持ち出されるとは驚きました。あなたは魂というものがいついかなる状態で真理に感動するものかをご存じないようです。

 私たちは私たちなりの手段を講じております。計画はちゃんと出来ているのです。後はあなた方地上世界の協力を俟(ま)つのみなのです。

 忘れないでいただきたいのは、私たちは〝魔法の杖〟は持ち合わせていないということです。〝魔法の呪文〟をお教えするのではありません。宇宙の自然の理法を明かして差し上げようとしているだけです。

 その理法を知って魂が目を覚まし、自分も神の分霊であること、自分を通じて神が地上へ働きかけることもあり得ることを理解してもらいたいと願っているのです。そのために私たちなりの普及活動は行っております。が、地上の雑音(マスコミを通じての宣伝)によってそれを行ってみても必ずしも効果は期待できません。

一個の魂、一つの心に感動を与えていくこと、つまり霊とのより密接な一体化を体験させることによって成就していくほかはありません。


───地上の体験、たとえば戦争、苦難、精神的並びに肉体的受難、病気、悲しみ、憎しみ等々は人類の進化と発達にとって不可欠のものとして神の計画の中に組み込まれているのでしょうか。

 「いえ、そんなことはありません。戦争は神が計画されるのではありません。病気は神が与えるのではありません。人類が自由意志の使用を誤ってみずから招来しているのです。その中にも学ぶべき教訓があることは確かです。しかしそれは、何も人類同士で野蛮な行為や恐ろしい残虐行為をし合わなくても学べることです。人間が勝手にやり合っていることを神の行為と取り違えてはなりません」


───今は連邦となっている英国の〝王室〟の存続は有益であると思われますか。

 「そう思います。なぜなら、何であれ国民を一つに結び合わせるものは大切にすべきだからです。世界人類が共存していくための団結の要素を求め、お互いに近づき合うようにならなければいけません。離反、孤立を求めて争うことを私がいけないというのはそこに理由があります。魂が一切の捉われを無くすると、世界中の誰とでも調和した一体化を求めるようになるものです」


───霊界のプランがあることを何度も聞かされておりますが、それらしい明確な証が見当たらないのですが・・・・・・。

 「物的な目を持ってご覧になるから見えないのです。あなた方は全体の進歩というものを自分一人の短い生涯との関連において判断されますが、私たちは別の次元から眺めております。その私たちの目には霊的真理の普及、霊的知識の理解、寛容的精神の向上、善意の増大、無知と迷信と恐怖心と霊的奴隷状態の障壁の破壊が着実に進行しているのが見えます。

進歩は突発的な改革のような形で為されるものではありません。絶対にあり得ません。霊的成長はゆっくりとした歩調で為されねばならないからです。どうか失望なさらないでください。

なるほど物質万能主義の風潮がはびこるのを見ていると失望の要素ばかりが目につきます。が、他方では、霊的真理がそうした物質万能的な利己主義のモヤに浸透していくにつれて、希望の光が射し込みつつあります。正しい認識が広まれば真理が勝利を収めます。
 
 だからこそ私たちのメッセージが大切なのです。私たちにとって大切なのではありません。あなた方にとって大切なのです。私たちは地上の人類がその利己主義に対して、その理不尽な無知に対して、その計画的な残虐行為に対して払わねばならない代償の大きさを認識させるべく努力しているのです。あなた方のために努力してるのです。何とか力になってあげようとしているのです。その動機はあなた方に対する私たちの愛に他なりません。

 私たちは人類を破滅の道へ追いやろうと画策している悪霊の集団ではありません。私たちはあなた方の品性を汚すことや残虐な行為、あるいは罪悪を犯させようとしているのではありません。

それどころか、逆にあなた方の内部に宿る神性、神から授かっている霊的能力を認識させ、それを駆使して自分を他人のために役立てる方法を説き、そうすることによって神の計画の推進に役立たせてあげたいと望んでいるのです」(巻末〝解説〟参照)

シルバーバーチ

Sunday, February 11, 2024

シアトルの冬 “招霊”にまつわる様々な問題

Various problems associated with ”Evocations”


訳注――本章は英語でEvocation(エボケーション)となっている。英和辞典を引いてみられると分かるが、語源的には霊にかぎらず記憶や感情などを呼び起こしたり呼び覚ましたりすることで、スピリチュアリズムでは霊を霊媒に乗り移らせて語らせる、いわゆる“招霊会”をさす。

が、そうした概念は人間側の受け止め方であって、霊側としては祈りなどに感応してその人の身辺に来る場合や生者の霊、つまりすでに再生している人間が幽体離脱して出現する場合も念頭にあるようである。カルデックは前置きで低級霊の場合と高級霊の場合とを区別して詳しく論じているが、煩雑すぎる嫌いがあるので割愛した。日本語では招喚・招請・招聘といった用語が居ながらにしてその違いを適確に表現してくれているので便利である。

この招霊ないし降霊の行事は世界でも日本が遥かに先輩格であると断言できる。大嘗祭などにも純粋な形で取り入れられている。もちろん世界各国で太古からあったが、西洋ではキリスト教が広まってからは忌み嫌われ、魔女狩りなどの原因ともなった。キリスト教には死者の霊は最後の審判の日まで墓地で眠っているという信仰があり、それを無理やり呼び起こしてはいけないとの信仰からで、キリスト教によるスピリチュアリズムへの弾圧はすべてそこから発したと言ってもよいほどである。

しかしその信仰が間違っていることが明らかになった今日では西洋でもよく行われるようになり、ウィックランドの『迷える霊との対話』に見られるような地縛霊の救済活動の一環として、霊界側の主導のもとに行われているものもある。

一方、安直に霊を呼び出してお告げを聞いたり自動書記などを受け取っているサークルが、日本でも西洋でもずいぶんあるようである。が、前にも述べたように、スピリチュアリズム活動の一環として霊団の守護と指揮のもとに行われているもの以外は極めて危険であることを、本章の一問一答からしっかり理解していただきたい。
一問一答


――霊は霊能者でなくても呼び出すことができますか。


「誰にでもできます。客観的に姿を見せることはできなくても、ちゃんと近くにいて、あなた方の要望を聞くことができます。」


――呼ばれたら必ず出るものなのですか。


「それはその時の霊の置かれている条件によって違ってきます。出たくても出られない事情もあります。」


――出られなくする事情はどんなものでしょうか。


「まず第一に本人に出る“意志”があるかどうかの問題があります。次に、すでに再生している場合であれば、その身体の状態(睡眠中か覚醒中か)が問題です。また、再生にそなえて待機している場合であれば、その使命がいかなるものであるかによります。さらには、通信が許されているのにそれが破棄される場合もあります。

現在の霊性の発達程度が地球レベルより低い場合は、通信したくてもできません。また贖罪界に身を置いている場合は、地上の人間にとって有益と見なされた場合にかぎって高級霊の援助を得て出ることが許されますが、通常は出られません。

要するに呼ばれて出るためにはその世界の霊的発達レベルに相応しい霊性を身につけた者でないといけません。そうしないと、たとえ出てもその世界に馴染みがなく、従って親和力によるつながりが取れません。

もっとも、例外として特殊な使命を帯びている者、あるいは高い霊性を有しながら大きな悪行を犯し、その贖罪のために一時的に下層界へ“追放”されている者が出ることを許されることがあります。その豊富な体験的知識が役に立つからです。」


――通信が許されていたのにそれが破棄されるとおっしゃいましたが、どういう理由によるのでしょうか。


「その霊自身もしくは呼び出そうとしている人間のどちらかへの試練ないしは懲罰です。」


――この広大な宇宙にあまねく散在する霊や他の天体上で生活している霊が、どうやってこの遠い地球からの呼び出しに応じられるのでしょうか。


「その霊をよく知っている親和性のある他の霊が前もって察知し、あなた方の意図を伝えます。が、その連絡はあなた方には説明できない霊界特有の方法で行われます。霊の思念による伝達は人間には理解できません。強いて言えば、招霊に際してあなた方が発する思念の衝撃波が、どんなに遠く離れていても一瞬の間にその霊に届き、それが電気ショックのように意識に伝わります。そこでその霊は注意をその方向へ向けます。地上では“話された言葉を聞く”わけですが、こちらでは“思念を聞く”とでも表現しておきましょうか。」


――地上では空気が音の媒体をしているわけですが、そちらでは普遍的流動体(エーテル)が思念の媒体をしていると考えてよろしいでしょうか。


「いいでしょう。ただ違うのは、音が伝わる距離には限界がありますが、思念には限界がない――無辺際だということです。招霊される霊というのは、言うなれば、広大な平原を旅している時に突如として呼び止められて、その声のする方向へ足を向けるようなものです。」


――霊にとって距離が問題でないことは知っております。ですが、招霊会で時おり驚くのは、呼び出すと同時に、あたかもあらかじめ呼ばれることを承知していてそこに待機していたかのように、間髪を入れず出現することです。


「招霊されることが予知されていた時にはそういうことがあります。前にも述べたように、霊によっては招霊されることをあらかじめ察知していて、正式に呼ばれた時にはすでにその場にいるということがよくあります。」


――呼び出す人間の思念は、事情にもよるでしょうけど、その霊に簡単に届くものでしょうか。


「もちろんです。両者の関係が霊的に親和性ないし好感度が高い場合はインパクトが強くなります。親しみ深い声のように響きます。そういうものがない時は“流産”することがあります。霊的摂理にのっとった形で行われた招霊の思念は見事にその霊に突きささりますが、ぞんざいに行われたものは宇宙空間に消滅してしまいます。皆さんでもそうでしょう? ぞんざいな、あるいは無礼な呼びかけられ方をされたら、声は聞こえていても、耳を傾ける気にはならないでしょう。」


――お呼びがかかった霊は自ら進んでそれに応じるのでしょうか。それとも仕方なく出てくるのでしょうか。


「高級霊は常に大霊の意志、つまり宇宙を支配する摂理に従います。ただ、“仕方なく”という言い方は適切ではありません。出るべきかどうかの判断を自ら下しますし、そこに自由意志があります。高級霊でも、自分が出ることに意義があると判断すれば必ず出ます。面白半分に呼ばれた時は絶対に出ません。」


――要請を拒否できるということでしょうか。


「当然です。もし拒否できないとしたら自由意志はどうなりますか。宇宙の全存在が人間の命令に従うべきだとでも思っていらっしゃるのですか。呼ばれる側の立場にご自分を置いてごらんなさい。名前を呼ばれたらいちいち出なければならないとしたらどうなります? 私が今、霊は要請を拒否できる、と申し上げたのは、人間側の勝手な要請のことであって、出るべきでありながら拒否するという意味ではありません。低級霊が招喚された時は、たとえ嫌がっても、高級霊が強制的に出させます。」


訳注――“強制的に出させる”といっても、その関係は高級霊と低級霊との関係だけで成立するものではなく、招霊会の司会者(さにわ)の霊格・霊力がカギとなる。

私は師の間部詮敦氏のもとでさまざまな霊の招霊に立ち会ったが、ワルの親玉みたいのが出た時は恐怖心を覚えたので今でも鮮明に覚えている。霊媒は浅野和三郎氏によって養成された宮地進三という方で、真夏のことなので間部氏は浴衣(ゆかた)姿であぐらをかいて、うちわで扇ぎながら気楽な態度で霊と語っておられた。が、いよいよそのワルが出た時は鬼気迫る雰囲気となった。そして開口一番こう言い放った――

「うーむ、お前には参った。とうとう負けたな。これまでは陰に隠れていて見つからなかったが、今度ばかりはやられた。ところで、まずは一杯酒をくれんか」

すると間部氏は姿勢を正して正座し、手を合わせて瞑目し、

「はい、どうぞ」と言うと、霊はさもうまそうにゴクゴクと飲む仕草をした。むろん本物の酒ではなく、意念でこしらえたものだった。そのあと二言三言交わしてから霊団側に引き渡された。

間部氏は昼間に霊査をして招霊する必要のある霊に目星をつけておき、夜中にそうした処置をしておられた。間部氏の霊力が強かったからこそ霊団側も威力が発揮できたのである。


――招霊会の司会者(さにわ)はどんな霊でも強引に呼び出すことができるのでしょうか。


「とんでもない。霊格の高い霊ないしは同等の霊に対してはそういう権限は許されません。が、霊格の低い霊に対しては許されます。ただし、招霊することがその霊にとって有益である場合に限られます。その場合には霊団による援助が得られるということです。」


――悪霊・邪霊の類いを呼び出すことは感心しないでしょうか。呼び出すことは彼らの影響下にさらす危険を冒すことになるのでしょうか。


「悪霊・邪霊の類いはただ威張り散らすだけですから、高級霊団の援助のもとに行うのであれば何一つ恐れることはありません。イザとなれば霊団の方で抑え込みます。彼らの餌食になる心配はありません。ただし、たった一人で行う時、あるいは出席者がいても初心者ばかりの時は、その種の招霊は控えた方がよろしい。」


――招霊会では何か特別の雰囲気をかもし出す必要がありますか。


「高級霊との対話を求める上で何よりも大切なのは、目的の真摯さと集中力です。そして高級霊を招聘する上で最も強力な力となるのは大霊への信仰心と善を志向する熱意です。招霊に先立っての数分間の祈りを通して魂を高揚し、高き界層の霊と感応し、交霊会へお出でいただくよう取り計らうのです。」


――信仰心は招霊のための不可欠の条件でしょうか。


「大霊への信仰心は必要です。が、真理探求と霊性の向上を志向する真摯なる願望があれば、それは自ずと信仰心を高めることになり、改めて信仰心を意識する必要はありません。」


――思念と動機において一致したサークルでは善霊を呼び寄せる力が増すものでしょうか。


「最高の成果が得られるのは、メンバー全員が慈悲心と善意によって結ばれている時です。人間側の思念と感情の乱れほど招霊を妨げるものはありません。」


――交霊会の初めに全員が手を結び合って輪をつくるのは効果的でしょうか。


「手を結び合うのは物理的行為であり、思念と感情においてつながっていなければ何にもなりません。それよりも大切なのは、お出でいただきたいと願っている高級霊にその願いを発信する上で、全員が思念と動機において一体となることです。人間的煩悩の一切から解放された真摯な求道者が、互いを思いやる心において一体となって忍耐強く努力する時、どれほど素晴らしい成果が得られるか、あなた方はご存じありません。」


――招霊会の日時はあらかじめ決めて表明しておいた方がよろしいでしょうか。


「その方がよろしい。そして、なるべく同じ部屋で催すことが望ましいです。霊が容易に、そして気持ち良く訪れることができます。出席者の真面目さと同時に志操の堅固さも、霊の訪れと交信を容易にします。霊にも仕事があるのです。不意に呼ばれて、人間の下らぬ好奇心のために仕事を放っておいて出てくるわけにはまいりません。

今、同じ部屋が望ましい、と言いましたが、それにこだわる必要はありません。霊はどこへでも行けます。私が言いたかったのは、招霊のために用意した一定の部屋の方が、集まるメンバーの意念の集中が得られやすいということです。」


――魔よけとかまじない札を用いる人がいますが、こうしたものに善霊を引き寄せたり悪霊を追い払ったりする力があるのでしょうか。


「今さらそのような質問をなさることもないでしょう。物には霊に対して何の影響力もないことくらい、ご存じのはずです。少し気の利いた霊ならそんな愚かなことは説きません。お守りの効用は信じやすいお人好しの想像の中にしか存在しません。」


ブラックウェル脚注――そうは言ってもお守りの力を信じるということが、霊に対してではなく当人の意念の集中力を助け、結果的には招霊の力を増すことになるとも考えられるのではなかろうか。


――霊によってはひどく陰湿な場所や、なぜこんな時刻にと思われる時刻を指定してくることがあるのですが、これはどう理解したらよろしいでしょうか。


「人間を困惑させて喜んでいるにすぎません。そういう注文に応じるのは無意味であると同時に、時には危険でさえあります。無意味というのは、担がれるだけで何も得るものがないこと。危険というのは、霊から何かをされるという意味ではなく、そういう理不尽な指定をされることによって、あなた方の脳に悪影響が及ぶからです。」


――霊を招くのに都合の良い日にちや時刻というのがあるのでしょうか。


「物質界の条件で霊にとって重要なことというものは何もありません。日にちや時刻に影響力があるかに考えるのは迷信です。最も都合のよい日時というのは招霊する側(司会者と出席者)に日常的な雑念がなく心身ともに平静な時です。」


――そもそも招霊というのは霊にとって有り難いことでしょうか、迷惑なことでしょうか。呼ばれると喜んで出てくるものでしょうか。


「それはその招霊会の性格と動機しだいです。気高い意義のある目的のためのもので、出席者やその場の波動に親和性を感ずれば、気持ちよく出てくるでしょう。霊の中にはそれを楽しみに待っている者もいるのです。というのも、死後、人間界から見捨てられた気分で悲嘆にくれている者が多いからです。

ですが、前にも述べたことですが、全ては本人の性格によります。人間嫌いもいます。そういう霊はたとえ出てきても不快をあらわにするでしょう。とくに見ず知らずの人間から呼ばれたら、まともには相手にしません。出なければならない理由がないからです。とくに好奇心から招霊された時は、たとえ出ても直ぐに帰るか、初めから出ないこともあります。自分が出ることに何か特別な意義でもあれば別ですが……」


――招霊されて喜ぶのは善霊と邪霊のどちらでしょうか。


「邪霊というのは人間を騙して操る目的で自分から出るもので、招霊されることは喜びません。悪行をとっちめられるのではないかと警戒するからです。ちょうどイタズラをした子供が隠れて出てこないように、呼ばれてもしらばっくれています。が、高級霊が折檻と向上と人間への教訓を目的として強制的に招喚することがあります。

下らぬ目的のための招霊会には高級霊は出たがりません。まったく出ないか、たとえ出ても直ぐさま引き上げます。皆さんでも同じと思いますが、遊び半分の好奇の対象とされることを嫌います。人間は、あの霊はどんな話をするだろうか、地上でどんな生活をしたのだろうかといった、余計なおせっかいと言いたくなるようなことを聞くために霊を呼び出そうとしますが、考えてもごらんなさい。まるで証人席に立たされて尋問されるような立場に置かれるのを快く思うでしょうか。少し目を醒ましていただかないと困ります。地上でされることが嫌なことは霊になっても嫌なものです。」


――霊は招かれないかぎり出ないものでしょうか。


「そんなことはありません。霊は呼ばれなくてもしばしば来ております。自らの意志でです。」


――自ら進んで出る場合は、その述べる身元も信じられるのでしょうか。


「とんでもない。邪霊はしばしばその手を使います。人間を騙しやすいからです。」


――霊を呼び出すのは思念で行うわけですが、自動書記とか霊言その他の現象はなくても来ているのでしょうか。


「現象は霊の実在の証しにすぎません。呼び寄せるのは思念です。」


――出てきたのが低級霊だと判明した時、引き下がってもらうにはどうすればよいでしょうか。


「取り合わないことです。ですが、そもそもそういう低級霊につけ入られるような愚かなことをしていながら、それに感応して出てきた霊がどうして簡単に引き下がりましょう? 人間界と同じで、魚心あれば水心です。」


――神の御名のもとに招霊すれば邪霊の出現は防げるでしょうか。


「全ての邪霊に通用するとはかぎりません。神の御名の響きでたじろぐ者はかなりいるでしょう。信仰心と誠意をもって唱えれば低級霊は逃げますし、それに強烈な信念が加わればさらに効果的でしょう。ただの紋切り型の呪文を唱えるだけではだめですが……」


――名前を呼ぶことによって複数の霊を同時に招霊できますか。


「別に難しいことではありません。またもし三人ないし四人の自動書記霊媒がいれば同時に三人ないし四人の霊からのメッセージが綴られるでしょう。数人の霊媒を用意しても同じことができます。」


――複数の霊を招霊し、霊媒は一人という場合、優先順位はどうなるでしょうか。


「霊媒との親和性がいちばん高い霊が代表して総合的な内容の通信を書きます。」


――逆に一人の霊が同時に二人の霊媒を通して自動書記通信を送ることができますか。


「地上でも複数の書記に同時に書き取らせることができるのと同じです。」


――一人の霊が複数の場所から同時に招霊された場合、同じ質問に同時に答えることができますか。


「できます。高級霊にかぎりますが……」


――その場合、霊は自分を分割するのでしょうか、それとも同時にどこにでも存在する能力があるのでしょうか。


「太陽は一つです。が、その光は全方向へ放射し、桁外れの距離まで届きます。霊も同じです。高級霊から発した想念は閃光のようなもので、一瞬のうちに全方向へ飛散し、どこにいても感得されます。霊性の純粋度が高ければ高いほど遠くまで届き、幅広く飛散します。低級霊は物質性が強いためにそうした能力はなく、一度に一人の質問にしか答えられません。別のところに招霊されている時は出られません。

なお、高級霊が同時に二つの場所から呼ばれた時、双方の霊媒の真摯さと熱意が同等であれば双方に出ますが、大きな差があれば、より真摯で熱意の強い方に出ます。」


――再生の必要がなくなった超高級霊でも出てくださいますか。


「出ます。しかし滅多にないものと思ってください。よほど純粋で真摯な心の持ち主としか語り合いません。高慢さや私利私欲が目立つような人間とは絶対に語り合いません。ですから、大変な高級界からやってきたかのような言説を軽々しく吐くような霊にはよくよく注意が肝要です。低級霊ですから。」


――歴史上の大変な著名人がいたって平凡な人間の招きに応じて簡単に、そして気さくに出てくるのはどう理解したらよいでしょうか。


「人間はとかく霊を人間的尺度で評価しがちですが、それは間違いです。地上時代の地位は肉体の死とともに消滅します。残るのは善性だけです。そして人間を見る尺度も、同じく霊的な善性のみです。善霊は善が行われる所ならどこへでも赴きます。」


――死後どれくらいたつと招霊できるのでしょうか。


「死の直後でもできないことはありません。ですが、霊的意識が混乱していますから、まともな対話はできないでしょう。」


――ということは死後しばらくしてからの方が良いということでしょうか。


「大体においてそうです。死の直後は眠りから覚めたばかりの人間に語りかけるようなものです。ですが、別に問題ないケースもあります。むしろ招霊して語りかけてやった方がその意識の混乱状態から脱け出るきっかけとなることもあります。」


――死ぬ前は自我意識さえ覚束なかったほどの幼な子が、招霊してみるとしっかりとした知性をそなえていることがあるのは、どうしてでしょうか。


「幼児の魂といっても魂そのものが幼いわけではなく、肉体という産着(うぶぎ)でくるまれているために幼く見えるだけです。死によってその束縛から放たれると、本来の霊としての能力を取り戻します。霊には年齢はありません。幼児の霊が大人のような知性で対話に応じることができるということは、その霊はかつて大人にまで成長した前世があるということを意味します。もっとも、死後しばらくは幼児としての個性をいくらか留めてはいるでしょう。」


編者注――死の直前までの状態が死後しばらく尾を引くのは、精神病患者にも見られる。霊そのものは異常ではないのであるが、正常な人間と同様に死んだことに気づかずに地上的波動の中で過ごしているので、精神が正常な働きを取り戻せないでいることがある。その反応は精神病の原因によってさまざまであるが、中には死の直後から完全な精神機能を取り戻す人もいる。


――動物の霊を呼び出すことができますか。


「動物を生かしめている知的原理は、死後“潜伏状態”とでもいうべき状態に入ります。が、それも一時期で、すぐに担当の霊団によって新たな存在の知的原理として活用されます。このように、動物の霊には人間のような、次の再生までの反省期間はありません。これでご質問の答えになると思います。」


――すると動物を呼び出して対話をしたという話はどうなるのでしょうか。


「岩の霊でも呼び出してみられるがよろしい。ちゃんと対話をしてくれます。が、それは岩の霊ではありません。いたずら霊です。霊はそこらじゅうにウヨウヨしているのですから、すぐに出て誰の真似でも何の真似でもします。」


編者注――同じ理由から、神話上の人物や架空の人物が出てしゃべったというのも、いたずら霊の仕業のようである。


――霊が再生してしまうことは招霊にとって致命的障害ですか。


「そんなことはありません。しかし、招霊された時の肉体が霊にとって離脱しやすい状態であることが必要です。再生した天体が進化しているほど離脱しやすいです。進化するほど物質性が希薄になるからです。」


訳注――私の師の間部詮敦氏の実兄の詮信(あきのぶ)氏は霊能の多彩さでは詮敦氏を凌ぐものがあり、日常茶飯事に使っておられた。その詮信氏が育てた物理霊媒の津田江山氏の実験会に出席した時、直接談話現象に「間部(まなべ)です」と言って出現して皆を驚かせた。書にも堪能だった詮信氏は用意しておいた三枚の色紙に真っ暗闇の中で見事な文字を直接書記で揮毫されたが、後でお会いした時に「あの時はどちらにおられたのですか」とお尋ねしたら、福岡の自宅で寝ていたとおっしゃった。幽体離脱して出られたのだった。


――この地上で今生活している人間の霊でも招霊できますか。


「できます。今も述べた通り、他の天体上で生活している霊を招霊できるのと同じです。招霊でなくて幽体離脱して物質化して姿を見せることもできます。」(七章および八章参照)


――招霊されている時の肉体の状態はどうなっているのでしょうか。


「眠っているか、うたた寝をしています。そういう時は霊が自由に活動しやすいのです。」


――霊が留守にしている間に肉体が目を覚ますことができますか。


「できません。もし何らかの事情で起きる必要が生じた時は、霊は強制的に戻らされます。地上生活中は肉体が“我が家”なのですから。それが招霊されて対話中であれば、理由を述べて対話を中断するでしょう。」


――肉体から離れていて、どうやって戻る必要性を知るのでしょう?


「離れているといっても完全に分離しているわけではありません。どんなに遠くへ出かけていても流動性の紐(玉の緒)でつながっていて、それが戻る必要が生じたことを知らせます。この紐は死の瞬間まで切れることはありません。」


編者注――この流動性の紐は霊視能力のある人にも見える。霊の話によると睡眠中などに霊界を訪れる霊にはこの紐がついているので、それが霊界の霊と区別する目印になるという。


――睡眠中ないし霊の留守中に肉体が致命傷を受けた場合はどうなりますか。


「そうなる前に知らせを受け、即座に肉体に戻ります。」


――では、霊の留守中に肉体が死亡し、霊が戻ってみたら“我が家”に入れなくなっていたというような事態は起きないということでしょうか。


「絶対に起きません。もしそんなことが起き得るとしたら、霊と肉体との合体を支配する摂理に反することになります。」


――でも、まったく予期せぬことが突如として起きることも考えられませんか。


「危険が差し迫っている時は、そうならないうちに霊に警告があります。」


訳注――現実問題として睡眠中に地震などで死亡することがあるのであるから、そういう問題よりも、ここでは“霊と肉体との合体を支配する摂理”について、もう少し突っ込んでほしかったところである。カルデックの質問の主旨はよく分かるが、回答している霊は別の捉え方をしているように思えてならない。


――生者の霊と死者の霊とでは、対話をする上で全く同じですか。


「いえ、肉体につながっている以上、大なり小なり物的波動の影響を受けます。」


――呼び出した時点ですでに肉体から離れている時は何か不都合がありますか。


「ないことはありません。たとえば赴いている先から帰りたくない時が考えられます。まして、招霊会の司会者が全く見ず知らずの人間である場合はとくにそうでしょう。」


――普通の覚醒状態で生活している人間の霊を招霊するのは絶対に不可能でしょうか。


「難しいですが、絶対に不可能というわけではありません。というのは、招霊の波動が届いて霊が反応すると、急に眠くなって寝入る人がいます。が、基本的には霊が出て対話をする時は、その肉体にとって霊の知的活動が必要でない時にかぎられます。」


――睡眠中に招霊された時、目覚めてからその間のことを思い出しますか。


「ほとんどの場合、思い出しません。実を言うとあなた方も、ご自分では記憶にないでしょうが、何度か招霊されているのですよ。が、その記憶は霊の意識に残っているだけです。時には夢のようにおぼろげに意識にのぼることもあるでしょうけど……」


――誰が招霊するのでしょうか。私のような無名の人間を……。


「幾つかある前世では結構名の知れた人物だったかも知れませんよ。ということはこの地上ないしは別の天体上で、あなたには記憶はなくても、あなたを知っている人が大勢いるわけです。そういう人が招霊するのです。たとえば前世であなたがこの地上かどこかの天体上にいる誰かの父親だったとします。その人物が今のあなたを呼び出した場合、出て行くのはあなたの霊であり、その霊が対話をするわけです。」


――生者の霊が招霊された時、霊として対応するのでしょうか、それとも通常の意識で対応するのでしょうか。


「それは霊性の進化の程度が問題です。ですが、どっちみち通常意識の状態よりは判断力は明晰で地上的偏見による影響は少ないでしょう。というのは、招霊されている時は夢遊病(セミトランス)的状態に似ており、死者の霊と大差はないからです。」


――セミ・トランスの状態で招霊された場合は通常の状態で招霊された時よりも判断力は明晰でしょうか。


「遥かに明晰でしょう。通常よりは物質による束縛が少ないからです。そうした違いは全て霊が物的身体からどの程度独立しているかに掛かっています。」


――セミ・トランスの状態にある霊が招霊されている時に、遠距離にいる別の人から招霊された場合はそれに応じられますか。


「二つの場所で同時に交信する能力は、物的波動から完全に脱した霊しか持ち合わせません。」


――妊娠中の胎児の霊の招霊は可能でしょうか。


「不可能です。妊娠期間中の霊は意識が混濁していて、対話はできません。」


編者注――霊は受胎の瞬間から活動を開始するが、意識は混濁している。その混濁は誕生が近づくにつれて増幅し、自意識を完全に失った状態で誕生する。


――招霊された霊に代わっていたずら霊が出現することは有り得ますか。


「有り得るどころではありません。しょっちゅうやっています。とくに興味本位でやっている招霊会ではほとんどがそうだと思ってよろしい。」


――生者の霊を招霊することに何か危険がありますか。


「危険が全くないとは言えませんが、問題があるとすれば体調です。何か病気があれば招霊によって悪化する恐れがあります。」


――絶対にいけないことといえば、どういうことでしょうか。


「幼児、少年少女、重病人、虚弱体質の人、老人――要するに体力の弱い人は絶対に招霊してはいけません。」


――ということは、招霊中の霊の活動が身体を疲れさせるのでしょうか。(この質問に対して、実際に招霊された霊がこう述べた。)


「私の霊はまるで柱につながれたバルーンのようです。身体が柱で、バルーンにぐいぐい引っぱられて揺すられます。」


――生者を不用意に招霊することが危険であるとなると、死者の霊のつもりで呼び出したら、すでに再生していたという場合も害を及ぼすことになりませんか。


「いえ、その場合は条件が異なります。そういう場合の霊は招霊に対応できる者にかぎられます。それに、すでに忠告したはずですが、招霊会を催す時は、あらかじめ霊団側にお伺いを立てないといけません。」


――眠くなるはずもない時に急に睡魔におそわれた時は招霊されていることも有り得るわけですか。


「理屈の上ではそういうケースも十分に考えられます。が、実際問題としては純粋に身体上の反応に過ぎないことがほとんどでしょう。つまり身体が休息を求めているか、もしくは霊が自由を求めているかのどちらかです。」


――遠く離れた二人の人間がお互いに招霊し合い、想念を交換し合うという形での交信も可能なのでしょうか。


「まさに可能です。そうした、言うなれば“人間電信”が当たり前の通信法となる日が必ず来ます。」


――現在ではできませんか。


「できないわけではありませんが、ごく限られた人だけです。地上の人間が身体から自由自在に離脱できるようになるには、霊性が純粋でなければなりません。霊性が高度な発達を遂げるまでは、そうした芸当は一握りの、純粋で物質臭を克服した魂にしかできないでしょう。そうした魂は現段階の地上では滅多にお目に掛かれません。」

Saturday, February 10, 2024

シアトルの冬 霊の身元と霊格の問題

The Identity and Spirituality of the Spirit

霊媒の書
アラン カデラック

一、生前の身元の証明はどこまで可能か


スピリチュアリズムの難問の中でも霊の地上時代の身元ほど異論の多い問題はない。その原因は、問題の性質上、確実な証拠とすべきものが霊側から提供できないということ、そしてまた、時として適当な氏名を名乗る霊がいるということである。

そうした理由から、霊の身元の確認は憑依現象に次いで、スピリチュアリズムの現象面における難題の一つである。もっとも、身元が絶対に間違いないか否かは二次的な意味しかなく、実質的な価値はほとんど無いということを念頭に置いておく必要がある。とくに高級霊になると尚さらである。なぜか。

霊は、霊性が純化されてそれ相応の界層へと進化向上して行くにつれて、本来の個性は変わらないが、言うなれば霊的資質の完成度の均一性において、互いに融合していく。我々が“高級霊”と呼んでいる段階がそうであるが、さらに進化した“純白霊”になると尚さらで、その段階にまで至った霊について、それまでに数知れず体験したであろう物的生活(地球以外の天体上の生活も含めて)の一つに過ぎない地上時代の姓名などを詮索しても意味はないであろう。

さらに留意すべきことは、霊はその霊性の親和性によって互いに引き合い引かれ合って一つの大きな霊的集団ないしは霊的家族(類魂団)を構成する。そうなると、我々人間との交信において、我々が知っていると思われる名前をその同族の中の誰かから借用して間に合わせることをする。

と言うのも、無数にいる同族霊の中には人類の歴史にその名を残している者よりも、まったく知られていない者の方が遥かに多い。その“無名”の高級霊が人間と交信をして高等なメッセージを送る時に氏名を述べる必要が生じたとしよう。その時まったく知られていない氏名を名乗っても意味がない。そこでそのメッセージの内容に相応しい名前を選んで使用するのである。

従って、かりに誰かの守護霊が“聖ペテロ”と名乗っても、それは必ずしもキリストの使徒だったあのペテロであるとは限らないのである。もしかしたら人類には全く知られていない人物で、今はあのペテロが属している霊団の一人なのかも知れないのである。

その場合、こちらから何という名で呼び出してもその霊が出てくるであろう。と言うのは、霊との交信はあくまでも“思念”で行われるので、ペテロと呼ばれようがパウロと呼ばれようが、その霊が出てくる。すでに交信状態ができ上がっているからである。それゆえ高等な通信に関するかぎり、その通信霊が地上時代に誰であったかは意味がないのである。

それが地上を去ってあまり年月が経っていない霊、つまり地上感覚から脱け切っていなくて記憶も習性もあまり変化していない霊となると、警戒すべきことが二つある。

一つは、そういう霊が歴史上の大人物や神話・伝説上の神仏の名を騙(かた)る場合、もう一つは、肉親や友人・知人の声色や話振りを真似て、人間を喜ばせたり感激させたりして面白がるケースである。

そうしたケースでその霊の身元を確認する方法の一つは、「神に誓ってそのお名前に偽りはございませんね?」と尋ねてみることである。中には平然と振る舞う曲者もいるが、大抵はすぐに怒り出すか、自動書記であれば用紙を破ったりエンピツを放り投げたりする。また平然とした態度を装う者に対しては、その述べるところに矛盾撞着がないかを見極めて、その点を突っ込んでいくことである。たとえば――

ある自動書記でいきなり「私は神(ゴッド)である」と名乗ってきたことがあった。霊媒は嬉しくて、一も二もなく信じた。そこでその霊を霊言霊媒を使って招霊して、さきほど述べたように

「神に誓って神様であることに偽りはございませんね?」と尋ねたところ、少し動揺した様子を見せ、

「神様であるとは言っておらぬ。神の子である」と言い出した。そこで、

「では、イエス様でいらっしゃるわけですか。神に誓ってイエス・キリストであることに偽りはございませんね?」と聞き返すと、さすがに畏れ多いと思ったのか、

「イエスであるとは言っておらぬ。神の息子だと言っているまでである。なんとなれば神に創造されたものだからである」と、わけの分からぬことを言ってきた。

低級霊の集団には、世界各地の交霊会に出没しては、出席者と縁故のある霊の声色を使ったり話し方を真似て、感激的な再会の場面を演出することを得意とする者がいる。その場合、名前や住所、家族名などを確かめても何にもならない。その程度の情報なら低級霊にも簡単に入手できるからである。

また証拠などが得られない高級霊の場合の身元の判断の材料は、名乗って出てくる名前や歴史上の史実ではなく、“言っていること”そのものの内容である。
二、霊格の程度と正邪の見分け方


霊の身元の証明は多くの場合、とくに高級霊の場合は二次的な問題でほとんど意味がないとしても、その霊が善霊か邪霊か、高級か低級かの判断はきわめて重大な問題である。というのは、その述べるところが一体何という名の霊からのものであるかは、事情によってはどうでもよいことであるが、その内容つまり何を述べているかということは、それを送ってくる霊の信頼度を計る唯一の手掛かりとなるからである。

今も述べたように、通信霊がいかなる霊格の持ち主であるかは、人間の人格を推し量る時と同じように、その言っていることによって判断しなくてはならない。かりに見知らぬ人々から二十通の手紙が届いたとしよう。その一通一通について文体と内容その他、こまごまとした特徴から、どの程度の人物からのものであるかは大よその見当がつくはずである。

霊からの通信についても同じことが言える。一度も会ったことのない霊からメッセージを受け取ったら、その文体と内容から大よそどの程度の霊格の持ち主であるかの見当をつけるべきで、立派そうな名前のサインがしてあるからというだけで有頂天になってはいけない。霊格はその言葉に表れる――これは間違いない尺度であって、まず例外は有り得ないと思ってよい。

高級霊からのメッセージはただ内容が素晴らしいというだけではない。その文体が、素朴でありながら威厳に満ちている。低級霊になると、やたらに立派そうな派手な用語を用いながら、訴える力がこもっていない。

用心しなければならないのは、知性である。ふんだんに知識をひけらかしているからといって高級霊と思ってはならない。知性は必ずしも徳性ないし霊性の証明ではないのである。非常に霊性の高い霊でも哲学的には深いことを語らないことがあるし、博覧強記で、知らないものはないかに知識を披露しても、霊格の低いことがある。

そうしたことから推察できる事実として、通信霊が地上時代に著名な科学者だったからといって、その後もその分野でますます高度の知識を蓄えているとは限らないことである。霊性の発達が遅れているために相変わらず地上的波動から脱け切れず、地上時代に名声を博した理論をいつまでも後生大事にして、それが進歩の足枷となっていることに気がつかない。

もちろん全ての科学者がそうだと言うつもりはない。ただ、これまでにそうした霊を数多く招霊しており、地上時代の名声は必ずしも霊性の高さの証明とはならないことを指摘しておくまでである。

繰り返すが、霊的通信を受け取った時は、内容的に見て理性と常識に反するものはないか、文章や言葉に品位があるか、偉ぶったところや尊大な態度は見られないか、といった点を徹底的に検証しないといけない。そうした態度に出られて、もしも機嫌を損ねるようであったら、それは低級霊・未熟霊・邪霊の類いと思って差し支えない。高級霊ないし善霊は絶対に機嫌を損ねないどころか、むしろそうした態度を歓迎する。何一つ恐れる必要がないからである。
一問一答


――通信霊の優劣は何を手掛かりに判断すればよいのでしょうか。


「文章(自動書記の場合)ないし言葉づかい(霊言の場合)です。人間の場合と同じです。すでに述べたように、高級霊の述べることには矛盾撞着がなく、全体が善性で貫かれております。善への志向しか持ち合わせないからです。それが高級霊の思念と行為の目的なのです。

低級霊はいまだに地上的感覚に支配されています。その語るところに無知と不完全さがさらけ出されます。知識の崇高さと冷静な判断力、これが高級霊のみの属性です。」


――優れた科学的知識は霊格の高さの指標でしょうか。


「そうとは言い切れません。その霊が今も地上的波動の中で生きているとすれば、人間的な煩悩と偏見を留めているはずです。地上を去ってすぐにそうした煩悩を捨て去ることができると思いますか。とんでもありません。こちらへ来ても相変わらず高慢で嫉妬ぶかく、その波動が地上時代と同じように魂を覆っています。

低級霊というのは、ただ単に無知である者よりも、なまじ知性が発達した者の方が始末に負えないものです。その生半可な知性にずる賢さと高慢とが結合するからです。彼らは大威張りで、怪しむことを知らない人間や無知な人間を標的にして働きかけます。また働きかけを受けた人間もそれを躊躇することなく受け入れます。

無論そうした誤った論説は最終的には真理には勝てませんが、一時的には混乱を引き起こし、スピリチュアリズムの発展を阻害します。霊能者は無論のこと、スピリチュアリズムの普及に携わる人々は、その点をしっかりと認識して、真理と虚偽とを明確に選り分けるように努力すべきです。」


――通信霊の中には歴史上に名を留めている聖人や有名人の名を名乗る者が多いのですが、どう対処すべきでしょうか。


「歴史に名を残している聖人や大人物がいったい何人いるというのでしょう? 通信を送る高級霊の中で地上の人間にその名を知られている者の数はたかが知れています。知られていない霊の方が遥かに多いのです。地上時代の氏名を聞かれても名乗りたがらない者が多いのは、そのためです。ところが、人間はそれでは承知せず、しつこくせがみます。そこでやむを得ず適当な人物の名を使用することにもなるのです。」


――それは一種の“詐称”と見なされるのではありませんか。


「邪霊が騙す目的でそういうことをすれば詐称と言えるでしょう。ですが、高級霊がそういうことをすることは、同じ霊格を持つ霊団の中では許されていることなのです。思想上の同一性と責任の連帯意識があるからです。」


――そうなると、霊団の一人がたとえば“聖パウロ”だと名乗っても、あのキリストの使徒のパウロだとは限らないということですか。


「その通りです。自分の守護霊は聖パウロだと言われた人が何千何万といる事実を見れば分かるはずです。が、霊格がパウロと同じ程度であれば名前はどうでもいいではありませんか。ですが、あなた方はすぐに地上時代の名前を知りたがります。そこで霊の方では適当な名前を選んで、それを自分の“呼び名”にするのです。それはちょうど地上の家族が同じ姓のもとで呼び名をつけて区別にするのと同じです。時にはラファエルとかミカエルといった大天使の名をつけて、問題が生じない範囲で用いることもあります。

さらに言えば、霊格が高まれば高まるほど、その影響力の及ぶ範囲も広がります。そこで、一人の高級霊が地上の何百何千という人間の面倒を見ることもあります。地上には弁護士というのがいて何十人何百人という人の世俗的問題の処理に当たりますが、それと同じと思えばよろしい。霊的な側面から面倒を見るわけです。」


訳注――マイヤースの“類魂説”でいうと、類魂団の親に当たる“中心霊”がいて、それが幾つでも分霊を出して地上その他の天体に生みつけ、その一人一人を類魂の中の誰かに面倒を見させるという。中心霊が全体を統括しながら個々の人間にも守護霊を付けているようである。「一人の高級霊が地上の何百何千という人間の面倒を見る」というのは“統括している”という意味に取るべきであろう。


――通信霊が聖人の名を使うことが多いのはなぜでしょうか。


「通信を受け取る側の人間の信仰上の慣習に合わせて、最も感銘を与えやすい名を選びます。」


ブラックウェル脚注――聖人に列せられている名を使うのはカトリック系の国に多く、プロテスタントの国では歴史上に名を残した人物や科学界の著名人の名を用いる傾向がある。


――高級霊は招霊されると自ら出てくるのでしょうか、それとも代理の者を差し向けることもあるのでしょうか。


「出られる場合は自ら出ます。出られない場合は代理の者を送ります。」


――その代理の霊は高級霊の代理として申し分ないだけの資格を身につけているのでしょうか。


「高級霊が自分の代理として選ぶのですから、十分にその資格をそなえた者にきまっています。さらに言えば、霊格が高まるほど霊団内の思想に緊密度が増しますから、その中の誰が出ても大して変わりはないのです。

お聞きしていると、地上の歴史に名を残している人物でないとその通信に価値がないかに思っておられる節がありますね。どうやらあなた方は、自分たち地上の人間だけがこの宇宙の住民であるかのように思い込み、そこから先が見えないようですが、そんなことでは、まるで孤島で暮らしている原始人と同じで、その島が全世界であると思い込んでいるようなものです。」


――重大な内容の通信の場合であれば異論はありませんが、低級霊が道を誤らせるような内容の通信を送ってくる時に聖人の名を騙るのをなぜ高級霊は許すのでしょうか。


「別に許しているわけではありません。地上と同じで、そういう騙しの行為をした霊は罰せられます。それは確かです。そしてまた、その騙しの悪辣さに応じて罰が酷しくなることも確かです。

しかし一方、もしもあなた方が完全な人間であれば常に善霊に取り囲まれていることでしょうが、万が一騙された時は、それはあなた方がまだまだ不完全であることの証左であると受け取るべきでして、その場合の責任は人間側にもあることになります。

そういう事態が生じるのは、一つには天の配剤としての試練であり、また一つには真実と虚偽との見分けが必要であることを教えることによって啓発するためでもあります。それでも啓発されなかったら、それはあなた方の霊性が十分に進化していない証拠であり、まだまだ失敗による教訓を必要としていることを物語っています。」


――霊格はあまり高くなくても真理の普及と向上心に燃える霊を、通信法の練習の機会を与える目的で、本来の高級霊に代わって出させることはありますか。


「スピリチュアリズムの大計画に基づく交霊会では絶対にそのようなことはさせません。もともとそうした重大な交霊会に出現する高級霊は自らその難しい仕事を買って出るものだからです。中には霊格は高くても、たとえば自動書記であれば“書く”という練習も兼ねることがあり、霊媒の知識の不足もあって、最初のうちは通信内容が粗悪である場合が少なくありません。が、プライベートな内容の通信の場合を除いて、代理の者に書かせることはしません。」


訳注――本書の二十年後に出たモーゼスの『霊訓』では、レクターその他の複数の霊が最高指揮霊インペレーターの“書記”をつとめている。また、さらに五十年後に出現したシルバーバーチはインディアンをマウスピースとして使用している。時代とともに変遷しているようである。


――お粗末きわまる通信の中に時としてびっくりするような名文が出てくることがありますが、この不合理をどう理解すべきでしょうか。霊格の異なる複数の霊が入れ替わり立ち替わり書いたように見受けられるのですが……。


「低級霊ないしは無知な霊が大した内容もない文章を綴ることがあります。地上でもそうではないでしょうか。文筆家がみな立派な人ばかりとは限らないのと同じです。が、その程度の霊と高級霊とが共同で書くようなことはしません。高級霊からの通信には一貫して崇高さが窺われます。」


――霊が間違ったアドバイスをして、それがもとで人間が誤りを犯した場合、そこには必ず意図的な作為があるのでしょうか。


「そんなことはありません。善意に満ちた霊でも真理に無知なことがあり、真実と思い込んで間違ったアドバイスをすることがあります。ただし自分の誤りに気づくと、それからは用心して間違いない範囲に限るようにします。」


――間違った内容の通信を送ってくる場合、良からぬ意図に発しているのでしょうか。


「これもそうとは言い切れません。霊でもよく軽はずみなことを述べてしまうことがあるものです。誤解しているわけでもなく、これといった意図があるわけでもないのですが、明確に理解していないことをいかにも分かっているかのごとき態度でまくし立て、煙(けむ)に巻くことがあります。」


――霊が声色を使ったり話し方を真似たりすることができるとなると、姿を偽装することによって霊視能力者をごまかすこともできるのでしょうか。


「そういうことが時おりあります。しかし霊言や自動書記でごまかすよりも難しく、しかも高級霊による配慮で、その霊能者を戒める目的で特別に雇われた霊だけに許されることです。その場合、霊自身は高級霊に雇われていることには気づきません。また霊視能力者もそうした軽薄な低級霊が見えてもごまかされていることには気づきません。霊聴能力で話を聞き取り自動書記で綴るのと同じことです。いたずら霊はそうした霊媒能力を逆手に取って偽装した姿を見せるのですが、それが可能かどうかは霊能者自身の霊性の程度に掛かっています。」


――騙されないようにするには真面目な心掛けが肝心なのでしょうか、それとも、どんなに真面目な真理探求者でも騙されるものなのでしょうか。


「真面目であればあるほど騙されることが少ないということは言えます。しかし、いかなる人間にもどこかに弱点があり、それが邪霊につけ入らせることになります。本当は弱いくせに自分では強いと思っている人がいます。自惚れや偏見はないと思っている人でも、自分で気づいていないだけの人がいます。霊能者はそうした点を十分に反省せずに霊的な仕事に携わるために、そこがいたずら霊のつけ入るスキとなります。自惚れや偏見を煽ればいい気になって、思うツボにはまることを彼らは知っているのです。」


――なぜ神はそういう邪(よこしま)な下心をもつ霊が人間に通信を送ることを許すのでしょうか。


「いかに邪悪な霊からの通信にも教訓を垂れるという目的がもくろまれているのです。そこから教訓を引き出し、それを有益な体験としていくことです。正邪を区別し、それを鏡として自分を映して反省するために、ありとあらゆる程度と種類の通信に当たってみる必要があるのではないでしょうか。」


――霊は通信の中に邪な猜疑心を煽るようなことを含ませて、サークルを仲違いさせるようなこともできるのでしょうか。


「根性のひねくれた妬み深い霊は、地上の悪人がするのと同じあらゆる悪事を企むことができます。常に油断を怠らないようにする必要があります。

高級霊が人間に仕置きをする時は、慎重さと節度を弁えた上で行います。決して非難のつぶてを投げるようなことはしません。警告はしますが、そこに優しさがあります。仮に二人のメンバーが今は会わない方がいいと判断した時は、会えなくなるような事情を生じさせて会わないようにします。トラブルや不信を生じさせるような通信は、どんな立派な署名がしてあっても、邪霊の仕業と思って間違いありません。ですから、メンバーの中の誰かを揶揄(やゆ)するようなことを述べている時は用心しないといけません。そして自分自身を厳しく反省し、偏見のないように心掛けることを忘れてはなりません。

霊界通信に関するかぎり、知性と良心に悖(もと)ることのない、上品で寛大で合理的な内容のものだけを受け取ることです。」


――それほどまでに邪霊・悪霊がつけ入りやすいとなると、霊界通信はどれ一つとして安心して受け取れないことになりそうですが……。


「その通りです。だからこそ理性という判断力が与えられているのです。仮に一通の手紙を読んだ時、それが悪逆非道の人物からのものか、育ちの良い人物からのものか、教養があるかないかは、一読しただけで分かるはずです。霊からの通信も同じです。

遠く離れた古い友人から久しぶりに便りが届いたとしましょう。それが間違いなくその友人からものであることをどうやって確認しますか。筆跡と内容で、とおっしゃるかも知れません。が、筆跡を真似たりプライベートなことを覗き見する者はいくらでもいます。が、直観的判断で間違いなくあの友人だと確信させる何ものかがその文面にはあるはずです。霊界通信も同じです。」


――高級霊がその気になれば、邪霊が偽名を使うのを阻止できるのではないでしょうか。


「もちろんできます。が、邪悪性が強い者ほど、その執拗性も強く、しつこく抵抗して容易に止めようとしません。それに、こういうことも知っておいてください。高級霊はその判断力でもって、成り行きに任せる場合と全力をあげて守る場合とがあります。高級霊が全力で守護する場合はいかなる邪霊も無力です。」


――そういう差別をする動機は何でしょうか。


「差別ではありません。公正です。言うことを素直に聞いて向上を心掛ける霊能者にはそれに相応しいことをします。言わば高級霊のお気に入りであり、いろいろと援助します。口先だけ立派なことを言いながら実行の伴わない者には、高級霊はまず構いません。」


――高貴な人物の名を騙るという冒涜行為を神はなぜ許すのでしょうか。


「そういう質問をなさるのなら、なぜ地上にはウソつきや不敬を働く者がいるのかを質問なさるがよろしい。人間と同じく霊にも自由意志があるのです。そして神の公正は善行についても悪行についても、きちんと働きます。」


――そういう邪霊を(悪魔払いのような)儀式で追い払うことはできませんか。


「儀式はあくまでも形式的なものです。大霊を志向した真摯な思念の方が遥かに効果があります。」


――ある霊が、自分たちには誰にも真似のできない図形的な標章をこしらえることができると言い、それを用いることによって絶対的な確実性をもって高級であることを証明できると言うのですが、本当でしょうか。


「高級霊であることの標章は説くところの思想とその言葉の崇高性以外にはありません。図形的な標章ならどんな霊にでも似たものをつくることができます。低級霊が幾ら悪知恵を働かせても、その素性を隠すことはできません。幾らでもボロを見せているのですが、それでも騙される人間はよほど物を見分ける目がないとしか言いようがありません。」


――低級霊は高級霊の思想まで真似ることができるのではないでしょうか。


「できるといっても、それは映画のスクリーンに映る大自然の風景がまがいものであるのと同じ程度のものです。」


――注意して観察すれば化けの皮はすぐに剥がれるということでしょうか。


「そうですとも。騙される人間は自ら騙されることを許しているのです。低級霊が騙すのはそういう人間だけです。本物かニセ物かを見分けるには宝石商のような鑑識眼を持たないといけません。自分で見分けられない時は鑑定家のところへ持って行って見てもらうことです。」


――勿体ぶった言説に簡単に参ってしまう程度の人間、つまり思想よりも美辞麗句に弱い人間は、反対に崇高なものは陳腐で下らぬものと見誤りがちです。こうした人間は、霊どころか、人を見抜く目も持たないと思えるのですが、どうしたらよいでしょうか。


「その人が本当に謙虚であれば自分の無力さを自覚して、都合のいい判断は下さないはずです。高慢で、自分がいちばん賢いと思い込んでいる人間は、自らその自惚れを生み出す結果を招きます。

純心ではあるが教養に欠ける者と、知識と教養は豊富ではあるが自惚れの強い者とがいるものですが、案外前者の方が騙されることが少ないものです。邪霊は、その自惚れ屋の感情をくすぐることによって好きに操るのです。」


――霊能者の中には霊が接近してくる時の雰囲気で善霊か悪霊かの判断をする人が多いようですが、けいれんを伴った興奮状態やイライラといった不快な反応は、間違いなく、働きかけている霊の邪悪性の証拠とみてよろしいでしょうか。


「霊能者は働きかける霊の精神状態を敏感に察知します。霊が幸福感に満ちていれば霊能者も冷静で心も軽やかで穏やかです。不快感を抱いていれば霊能者もイライラしたり興奮したりします。そしてそのイライラは当然霊能者の神経組織にも悪影響を及ぼします。人間と同じです。心に何一つやましいところがなければ沈着冷静です。腹に一物ある人間は落ち着きがなく、とかく興奮しがちです。」