Saturday, November 22, 2025

シアトルの秋 霊媒の書 第2部 本論

The Mediums' Book
3章 知的要素の加わった物理現象



前章で紹介した物理現象を検討したかぎりでは、格別に超自然的な力のせいにすることはない――電気とか磁気、あるいはそれに類する流動的エネルギーの作用で片付くのではないかと思われるかも知れない。

確かに当初はそれが代表的な説であり、一応合理的であるかに思われていた。が、やがて、それでは十分でないことを示す事実が明らかとなった。その現象が知的なメッセージを伝達していることが分かったのである。

知的なメッセージなら、当然、知的存在が発しているはずである。となると、かりに電気や磁気のようなものが働いていることは認めるとしても、その奥では知的存在も係わっていることを認めねばならないことになる。

では、その知的存在とは何であろうか。

現象に知的要素が加わっていることの証拠としては、必ずしもその述べていることが雄弁であるとか、ウィットに富んでいるとか、高尚である必要はない。その動きが自在で自発的で何らかの意図がうかがわれ、まとまった考えを伝えたり、こちらの考えにまともな反応をすれば、それで十分である。

譬え話で説明しよう。風見鶏は風に吹かれて方向を右に左に変えるが、それが機械的な動きであることは誰でも知っている。が、もしその動きの中に意図的なもの、つまり何かを伝えようとする信号のようなものが読み取れたら――たとえば「右を向け」と命令したら右を向き、「左を向け」と命令したら左を向き、「ゆっくり動け」と言ったらゆっくりとなり、「速く動け」と言ったら速くなったとしたら――それは風見鶏そのものに知性があるのではなくて、何らかの知的存在によって風見鶏が操られていると考えてよいであろう。

テーブル現象についても全く同じことが言える。我々が見た例を挙げれば、いったん上昇したテーブルの四本の脚のうちのどれかが出席者の要求に従って床を叩く――どの脚で、何回、という細かい要求を出してもその通りにする。また部屋中をぐるぐる動き回るその途中で「右へ」「こんどは左へ」「前へ」「こんどは後ろへ」と命令すると、その通りに動いた。

テーブルの脚を使ってメッセージを伝える現象となると一段と知性の働きが顕著となる。一般に“叩音(ラップ)”と呼ばれているものにもいろんな種類があり、ドラムを叩くような音から一斉射撃のような物凄いもの、のこぎりでゴシゴシ切るような音、ハンマーで叩いているような音、誰でも知っている曲の楽器演奏まである。それだけでも十分に知的作用の証拠と言えるが、テーブルの脚が床を叩くその回数で符丁を取り決めて、質疑応答をやり取りするようになると、内容が完全に知的次元のものとなって、興味が一段と増してくる。

ところが、その知的反応をしているのは何ものなのかという問題になると、これまた、あきれるほど乱暴な説が出されてきた。

まず最初に出されたのは、当然のことながら霊媒か、質問を提出する者か、サークルのメンバーの知性の総合体のいずれかであるという説だった。が、その知性にはラップが伴うのである。そのラップは霊媒も質問者もサークルのメンバーも出していないことを確認するのは容易である。それが確認されると、では霊媒の想念体であろうということになった。

しかし、霊媒の想念体がテーブルに反応して音を出したり部屋中を動き回らせるという発想は、もはや現象そのものよりも奇っ怪である。しかもアルファベットを符丁にしてメッセージを受け取ってみると、その言語が霊媒も質問者もサークルのメンバーも知らないものである場合があるのである。

伝えられるメッセージの内容も、霊媒を始め出席者の誰一人として知らないことである場合もある。一例を挙げると、こんな話があった。

フランス海軍の軍艦がシナ海に停泊中のことである。将校を始めボーイまでが毎晩のように集まって交霊会を開き、テーブル現象を楽しんでいた。

ある日の交霊会で二年前に同艦の副艦長だったという人物からのメッセージが届けられた。それは、実は在世中に艦長からお金を借りたことがあるのだが、お返しできないまま死んでしまって申し訳なく思っている。済まないが幾ら幾らを払ってあげてくれないだろうか、という内容のもので、金額まできちんと述べた。

意外なメッセージにみんな戸惑った。霊媒や出席者はむろんのこと、当の艦長までがそんな記憶はないというのである。そこで念のために艦長が古い出納簿を調べてみたところ、確かにその通りの事実が記載されており、額まで一致していた。

想念体の反射説を唱える人は、これを誰の想念の反射と言いたいのであろうか。

テーブルラップによる通信は、このように最初は脚で床を叩くという原始的な方法で始まった。符丁も、一度叩けば「イエス」、二度叩けば「ノー」といった単純なものからアルファベットを使用するようになって、かなり内容の深い通信が交わされるようになったが、まわりくどくて手間が掛かった。

そのうち霊側から通信方法について提案が出されるようになり、小さなオモチャのテーブルを使ったり、俗にプランセット(ウィージャ盤とも)と呼ばれているものを使ったりした時期もあった。そして最後に自動書記と呼ばれる、霊媒の手または腕を道具として“綴る”ようになった。

その他に直接書記というのもあるが、それについては“霊界通信”の項で扱うことにしたい。


訳注――テーブル現象は複数の人間が参加するので比較的危険が少ないとされている。が、次章で霊団の最高統括霊の“聖(セント)ルイ”(十三世紀の名君ルイ九世)も述べているが、物理現象に携わるのは地上的波動から脱し切っていない低級霊であることはスピリチュアリズムの常識で、面白半分にやるのはやはり危険である。まして一人でやるプランセットや日本の“こっくりさん”などは発狂した例が少なくないという報告もあるので、絶対にやってはならない。

では、カルデックやスワッファーのサークルでは交霊会の初めにテーブル現象をよくやったのはなぜかと言えば、その交霊会の霊的磁場を強固なものにするためで、何の問題も生じなかったのは、その背後に高級霊団が控え、邪魔が入らないように万全の対策を講じていたからである。

しかも――これが一番肝心な点であるが――そうしたサークルには、いずれは地球人類全体にも及ぶであろう霊的使命があったことを見落してはならない。

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch Edited by A.W. Austen
七章 動物は死後どうなるか




  動物は死後どうなるのか───これは誰しも一度は考えてみたことのあるテーマであろう。ある日の交霊会で、そのテーマを本格的に扱った本を執筆中のシルビア・バーバネル女史がシルバーバーチに集中的に質問した。

(訳者注───のちにそれが、When Your Animal Dies と題されて出版され、スピリチュアリストに限らず動物問題に関心のある人たちの間でも大反響を呼んだ。それを読んで人間の死後の存在に確信を持つに至った人も少なくないという。オースティンの原典にはその日の交霊会の記録の十分の一程度しか紹介されていないので、本章にはバーバネル女史の原典からそっくり引用させていただいた)


問 「動物は死後もずっと飼い主と一緒に暮らすのでしょうか。それともいずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」

 「どっちとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛が関っているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かはその動物に対する飼い主の愛一つにかかっているのです。もしも動物とその飼い主───この飼主(Owner)という言葉は好きではありません。

他の生命を我がものとして所有する(own)などということは許されないのですから───その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼い主のところで暮らします。愛のある場所が住拠となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は住処がありますから動物界へ行く必要はありません。

 動物界に住むのは飼主より先に霊の世界へ来た動物に限られます。誰かに世話をしてもらわなくてはならないからです。さもないと、心を温めてくれただけでなく一時的にせよ〝不滅性〟の要素を吹き込んでくれた〝愛〟から切り離されて、動物といえども心を取り乱すことがあるのです。

地上で人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けた飼主より先に他界した場合は、その主人が来るまで、動物界へ行ってそこで面倒をみてもらいます。それはちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家に預けるのと同じで、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」


問 「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

 「長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは、法則の働きによって動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身に付けたわけです。

すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが目覚めるには神の息吹きが必要でした。

 さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込む能力を具えています。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。

愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同志でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。人間が可愛がる動物───犬、猫、その他のペット類───へ向けられる愛は死と共に終わるのではありません。愛があればこそ生命は進化するのです」


問 「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」

 「いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違います。より大きな光明へ向けて絶え間なく向上していく人間のペースについて行けなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、言いかえれば自分を地上と結びつけていた絆が切れたことを自覚すると、向上進化を求める欲求、内部の神性を発揮しようとする欲求が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力を他の生命の進化を援助する方向へと発揮しようとします。

そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はそのスピードについて行けなくなり、やがて死後も燃え続けた愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます。


問 「すると動物の場合は個性を失ってしまうということですか」

 「その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体として未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間の段階に到達したことになります。ペットとして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び越えて人間と一緒に暮らすわけですから、その愛の糸が切れてしまえば、もとの類魂の中に戻るほかはありません」


問 「せっかく人間との接触で得たものが消えてしまうのでは愛がムダに終わったことになりませんか」

 「そんなことはありません。類魂全体に対して貢献をしたことになります。類魂全体としてその分だけ進化が促進されたことになるのです。共通の蓄えに対する貢献です。今までその類魂に無かったものが加えられたわけです。全体のために個が犠牲になったということです。

そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて、人間の形体での個体としての存在が可能な段階へと進化していきます」


問 「その時点で人間界へと誕生するわけですか」

 「人間界への誕生には二種類あります。古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と〝新しい霊〟が物質界で個体としての最初の段階を迎える場合です」


問 「一人の人間としてですか」

 「そうです。双方とも霊魂(スピリット)です。双方とも自我意識を持った霊であり個性を持った霊的存在です。ただ、一方がベテランの霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上へやってくるのに対し、他方は、やっと人間の段階にまで達した新入生です。

直前まで動物だった類魂が人間界への仲間入りをしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階をへて、今ようやく人間へと達したのです」


問 「セオソフィー(神智学)の教えと同じですね」

 「何の教えでもよろしい。私に対して、学派だの宗派だのを口にするのは止めて下さい。私はそういうものに一切関心がありません。世の評論家というのはアレコレとよく知っていることをひけらかすだけで、その実、素朴な真理を何一つ知りません。

それはさて措いて、あなた方はまさか蜘蛛を家の中に持ち込んでペットして飼ったりはしないでしょう。カブト虫に温かい人間愛を捧げるようなことはしないでしょう。それはあなたと、そういう昆虫との間の隔たりを意識するからです。進化の道程において遥かに遅れていることを本能的に直感するからです。

一方、犬とか猫、時に猿などをペットとして可愛がるのは、一種の親近感を意識するからです。もうすぐ人間として生まれ代わってくる段階まで近づいて来ているために、動物の方でも人間の愛を受け入れようとするのです」


問「では下等動物が人間に飼われるということは、その動物はもうすぐ人間に生まれ代わるということを意味するのでしょうか」

 「進化にも、突然変異的な枝分かれ、いわゆる前衛と、後戻りする後衛とがあります。つまり前に行ったり後ろに下がったりしながら全体として進化していきます。中には例外的なものも生じます。動物で知的な面でずいぶん遅れているものもいれば、小鳥でも犬より知的に進化しているものがいたりします。しかしそうした例外と、全体の原理とを混同してはいけません」


問 「動物の類魂は同じ種類の動物に何回も生まれ代わるのですか、それとも一回きりですか」

 「一回きりです。無数の類魂が次々と生まれ代わっては類魂全体のために体験を持ち帰ります。動物の場合それぞれ一度ずつです。全体として再生する必要はありません。それでは進化になりません」


問 「われわれ人間としては、犬や猫などのペットと同じように、生物のすべてに対して愛情を向けることが望ましいのでしょうか」

 「それはそうです。しかし同じ反応を期待してはいけません。愛情は愛情を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶというのが原則ですが、進化の程度が低いほど反応も少なくなります。

あなたの心に怒りの念があるということは、それはあなたの人間的程度の一つの指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。あなたの心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります」


問 「動物がようやく人間として誕生しても、その人生がみじめな失敗に終わった場合は、再び動物界へ戻るのでしょうか」

 「そういうことはありません。一たん人間として自我意識を具えたら、二度と消えることはありません。それが絶対に切れることのない神との絆なのです」


問 「屠殺とか動物実験等の犠牲になった場合の代償───いわゆる埋め合わせの法則はどうなっていますか」

 「もちろんそれにもそれなりの埋め合わせがありますが、一匹とか一頭とかについてではなく、その動物の属する類魂全体を単位として法則が働きます。

進化の程度が異なる動物と人間とでは因果律の働きが違うのです。特に動物の場合は原則として死後は類魂の中に個性を埋没してしまうので、個的存在とは条件が異ります。類魂全体としての因果律があるのですが、残念ながら人間の言語では説明のしようがありません。譬えるものが見当たりません」


問 「シラミとかダニの寄生虫は人間の邪心の産物だという人がいますが、本当でしょうか。あれはホコリとか病気などの自然の産物ではないかと思うのですが・・・」

 「そのホコリや病気は一体何が原因で生じるのでしょうか。原因を辿れば人間の利己心に行きつくのではありませんか。その利己心はすなわち邪心と言えます。たしかに直接の原因は衛生の悪さ、不潔な育児環境、ホコリとか病気、直射日光や新鮮な空気の不足とかにありますが、さらのその原因を辿れば、そういう環境を改めようとしない、恵まれた環境にある人たちの同胞への利己心、同胞への非人間性に行きつきます。

これは一種の邪心であり、私に言わせれば人間の未熟性を示しています。そういう利己心を棄て、弱者を食いものにするようなマネをやめ、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります」

問 「それは、たとえばハエのようなものには当てはまらないでしょう」

 「いいですか。大自然全体は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何によって左右されており、人類が進化すればするほど、自然界の暗黒が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。

人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。双方の進化は大体において平行線を辿っています。人間は神によって創造されたものであると同時に、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家をも司配する自然法則に影響を及ぼします。

 私は今、人間と自然界の進化は大体において平行線を辿ると言いました。両者にはどうしても少しずつズレが出てくるのです。なぜなら、過去の世代が残した業は必ず処理していかねばならないからです」

問 「今おっしゃったことは恐ろしい野獣についてもあてはまるのでしょうか」

 「一応当てはまります。ただ忘れないでいただきたいのは、進化というのは一定の型にはまったものではないことです。いろいろと変化をしながら永遠に続くのです。原始的なものからスタートして低い段階から高い階段へと進むのですが、かつては低いところにいたものが次第に追い抜いて今では高いところにいたり、今高い所に位置しているものが、将来は低い方になることもあります」


問 「では進化にも後戻りということがあるわけですか」

 「それを後戻りと呼ぶのであればイエスという答えになりましょう。というのは、進化というのは一種の円運動(サイクル)、現代の思想家の言葉を借りれば螺旋(スパイラル)を画きながら進むものだからです。どちらの言い方でも構いません。要は進化というものが常に一直線に進むものではないことを理解していただけばよろしい。一歩進んでは後退し、二歩進んでは後退し、ということを繰り返しながら延々と続くのです」

問 「動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は動物実験をやってはいけないのでしょう」

 「それが人間の進化の指標だからです。人間が進化すればするほど地上から残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎった時、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと小羊が仲良く寄りそうようになります」

問 「しかし動物の残忍性も動物としての発達の表れではないでしょうか」

 「あなたもかつては動物だったのですよ。それがここまで進化してきた。だからこそ太古に較べれば動物界でも随分残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したのもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです」

問 「おとなしい動物の中にも絶滅したものもがいますが・・・」

 「進化の一番の指標が残忍性に出るといっているのです。太古でも進化上の枝分かれが幾つもありました。それらは進化の先進者とでも言うべきものです。進化というのはどの段階においても一定の型にはまったものではありません。優等生もおれば劣等性もおり、模範生もおれば反逆児もおります。おとなしい動物はさしずめ〝火を吐く怪獣〟を追い抜いた優等生だったわけです」

問 「寄生虫の類も動物と同じ類魂の中に入って行くのですか」

 「違います」

問 「動物の類魂は一つだけではないということですか」

 「各種属にそれぞれの類魂がいます」

問 「それが更に細分化しているわけですか」

 「そうです。細分化したものにもそれぞれの類魂がおります。新しい霊───初めて人間の身体に宿る霊は、動物の類魂の中の最も進化した類魂です」


問 「やはりサイクルを画きながら進化していくのでしょうか」

 「そうです。すべてサイクル状に進化します」

問 「動物で一番進化しているのは何ですか」

 「犬です」

問 「寄生虫の類魂の存在は害を及ぼしますか」

 「別に害はありません。全体のバランスから見て、殆ど取るに足らぬ勢力ですから。でもこれは普段あまり触れることのない深入りした質問ですよ」

問 「動物の類魂の住処はやはり動物界にあるのですか」

 「私にはあなたより有利な点が一つあります。それは地理を学ばなくてもいいということです。場所とか位置が要らないのです。霊的なものは空間を占領しないのです。地上的な位置の感覚で考えるからそういう質問が出てくるのです。

魂には居住地はいりません。最も、形体の中に宿れば別です。類魂そのものには形体はありません。もしも形体をもつとなれば、何らかの表現形態に宿り、その形態で自己表現できる場が必要になります」


問 「動物の類魂は地球上に対して何か物質的なエネルギーを供給しているのでしょうか。地球にとってそれなりの存在価値があるのでしょうか」

 「進化の過程においての存在価値はあります。ただ気をつけていただきたいのは、どうもあなた方は物的なものと霊的なものとを余りに区別しすぎるきらいがあります。地上に存在していても立派に類魂の一部でありうるわけで、死ななければ類魂の仲間入りが出来ないわけではありません」


問 「ペットも睡眠中に霊界を訪れますか」

 「訪れません」


問 「では死んでからいく世界にまるで馴染がないわけですか」

 「ありません。人間の場合は指導霊が手を引いて案内してくれますが、動物の場合はそれが出来るのは飼主だけです。飼主が地上にいれば案内できません」


問 「飼主が先に死んだ場合はどうなりますか」

 「その場合は事情が違ってきます。いま述べたのは一般的な話です」


問 「人間より動物の方が心霊能力がすぐれている場合があるのはどうしてですか」

 「〝進化〟の観点からいえば、まだ人間となる段階には到達していませんが、人間がいま送っているような〝文化生活〟を体験していないからです。人間がもしも文化生活の〝恩恵〟に浴さなかったら、もっと早い段階で心霊能力が普段の生活の一部となっていたはずです。

つまり人間は文明と引き替えに心霊能力を犠牲にしたわけです。動物には人間のような金銭問題もなく、社会問題もないので、本来なら人間が到達すべきであった段階へ人間より先に到達したのです。人間の場合は物的生活の必要性から本来の心霊能力が押さえ込まれてしまったわけです。いわゆる霊能者というのは進化のコースの先駆者です。いずれは人間の総てが発揮するはずの能力をいま発揮しているわけです」


問 「動物にはいわゆる第六感というのがあって災害を予知したり、知らないところからでもちゃんと帰って来たりしますが、これも心霊能力ですか」

 「そうです。霊能者にも同じことが出来ます。ただ動物の場合はその種属特有の先天的能力である場合があります。これも一種の進化の先駆けで、その能力だけがとくに発達したわけです。ハトのようにどんな遠くからでも帰って来る能力もそれです。本能と呼ばれていますが、一種の〝先見の明〟です」


問 「死んだばかりの犬が別の犬と連れだって出て来ている様子を霊能者が告げてくることがありますが、犬同士でも助け合うことがあるのですか」

 「ありません。ただし地上でその二匹が一緒に暮らした経験があれば連れだって出ることはあります」


問 「その手助けをする人間の霊がかならずいるのでしょうか」

 「そうです。高い者が低い者を援助することになっているのです。それが摂理です」


問 「動物界にはどんな種類の動物がいるのでしょうか」

 「地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間と殆ど同等に扱われて知性や思考力を刺戟された動物のすべてがおります。そうした動物は飼い主の手から離れたことでさびしがったり迷ったりするといけないので、動物界に連れてこられて、他の動物と一緒に暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。

その専門家は永いあいだ動物の研究をしてきていますので、その正しい対処の仕方を心得ており、自然な情愛の発露を動物へ向けることが出来るのです。そこには動物をよろこばせるものが何でも揃っており、やりたいことが何でも出来るので、イライラすることがありません。そして時には地上にいる飼主の家の雰囲気内まで連れてこられ、しばしその懐かしい雰囲気を味わいます。

心霊知識のない人でも自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言ってさわぐのはそんな時です。なんとなくあの辺にいたような気がするといった程度に過ぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達しているからです」


問 「動物界で世話をしている人間が連れてくるわけですか」

 「動物界でその管理に当たっている人たちで、それ以外の人について戻ってくることはありません。ところで、その世話をしている人はどんな人たちだと思いますか。動物が大好きなのに飼うチャンスがなかった人たちです。

それはちょうど子供が出来なくて母性本能が満たされなかった女性が、両親に先立って霊界へ来た子供の世話をするのといっしょです。犬とか猫、その他、人間が可愛がっている動物が飼主に先立ってこちらへ来ると、動物が大好きでありながら存分に動物との触れ合いが持てなかった人間によって世話をされるのです。

もちろん獣医のような動物の専門家がちゃんと控えております。それもやはり地上で勉強したことがそのまま霊界で役に立っているわけです。知識は何一つ無駄にはされません」


問 「病気で死亡した動物の場合も人間と同じように看護されるのですか」

 「そうです。そうしたチャンスを喜んで引き受けてくれる人が大勢います」


問 「動物界は種類別に分けられているのですか、それとも全部が混り合っているのですか」

 「種族の別ははっきりしています」


問 「動物界は一つでも、それぞれの境界があるということですか」

 「そうです。とにかく自然に出来あがっております。一つの大きなオリの中に飼われているのではありません」


問 「猫は猫、犬は犬に分けられているわけですか」

 「その通りです」


問 「特に仲の良かったものは別でしょう。その場合は互いに境界の近くに来るわけですか」

 「そういうことです。すべてが至って自然に出来あがっていると考えて下さい」


問 「犬の次に進化している動物は何ですか。猫ですか猿ですか」

 「猫です」


問 「なぜ猿ではないのでしょう。人間と非常によく似ていると思うのですが」

 「前にも述べましたが、進化というのは一本道ではありません。かならず優等生と劣等性とがいます。人間は確かに猿から進化しましたが、その猿を犬が抜き去ったのです。その大きな理由は人間が犬を可愛がったからです」


問 「犬が人間の次に進化しているから可愛がるのだと思っていましたが・・・」


 「それもそうですが、同時に人間の側の好き嫌いもあります。それからこの問題にはもう一つの側面があるのですが、ちょっと説明できません。長い長い進化の道程において、猿はいわば足をすべらせて後退し、残忍にはならなかったのですが、ケンカっぽく、そして怠けっぽくなって歩みを止めてしまい、結局類魂全体の進化が遅れたのです。

それと同時に、というより、ほぼその時期に相前後して、犬の種族が進化してきました。猿よりも類魂全体の団結心が強く、無欲性に富んでいたからです。しかしどうも話が複雑になりすぎたようです」


問 「猿の種族が法則を犯したのでしょうか」

 「法則を犯したというのではなく、当然しなければならないことをしなかったということです」


問 「では猿と同じように、将来、犬が進化の段階を滑り落ちるということもありうるのでしょうか」

 「それはもう有り得ないでしょう。というのは、すでに何百万年もの進化の過程を辿って来て、地上の種がすっかり固定してしまったからです。種の型が殆ど定型化して、これ以上の変化の生じる可能性はなくなりつつあります。物質的進化には限度があります。形体上の細かい変化はあるかも知れませんが、本質的な機能上の変化は考えられません。細かい変化は生じても、すっかり形体が変わることはありません。

 たとえば人間の場合を考えてごらんなさい。現在の型、すなわち二本の腕と脚、二つの目と一つの鼻が大きく変化することは考えらません。これが人間の標準の型となったわけです。もちろん民族により地方によって鼻とか目の形が少しずつ違いますが、型は同じです。動物の場合はこの傾向がもっと強くて、霊界の類魂に突然変異が発生することはあっても、それが地上の動物の型を大きく変化させることはまずないでしょう」


問 「猿の転落もやはり自由意志に関連した問題ですか」

 「それは違います。自由意志は個的存在の問題ですが、動物の場合は類魂全体としての問題だからです」


問 「動物に個体としての意識がないのに、なぜ類魂全体としての判断が出来るのですか」

 「本能による行動と本能の欠如による行動の違いがあります。個々には理性的判断力のない動物でも、働くか怠けるかを選ぶ力はあります。必要性に対して然るべく対処するかしないかの選択です。そこで種としての本能が伸びたり衰えたりします。個々には判断力は無くても、長い進化の過程において、種全体として然るべき対処を怠るという時期があるわけです」


問 「それは植物の場合にも言えるわけですか」

 「言えます」


問 「それは外的要因によっても生じるのではないですか」

 「それはそうですが、あなたのおっしゃる外的というのは実は内的でもあるのです。それに加えて更に、霊界からコントロールする霊団の存在も考慮しなくてはいけません。その霊団もまた法則、進取性、進歩といった要素に支配されます」


問 「たとえば猿の好物であるナッツが豊富にあれば、それが猿を怠惰にさせるということが考えられませんか」

 「そういうことも考えられますが、ではナッツがなぜ豊富にあったのかという点を考えると、そこには宇宙の法則の働きを考慮しなくてはいけません。つまり人間の目には外的な要因のように見えても、霊界から見れば内的な要因が働いているのです。私の言わんとしているのはその点なのです。

人間はとかく宇宙の法則を何か生命の無い機械的な、融通性のないもののように想像しがちですが、実際は法則と法則との絡まり合いがあり、ある次元の法則が別の次元の法則の支配を受けることもありますし、その根源において完全にして無限なる叡知によって支配監督されているのです。

法則にもまず基本の型というものがあって、それにいろいろとバリエーション(変化)が生じます。といっても、その基本の型の外に出ることは絶対に出来ません。どんなに反抗してみたところで、その法のワクはどうしようもなく、結局は順応していくほかはありません。

しかし同じ型の中にあって、努力次第でそれを豊かで意義あるものにしていくことも出来るし、窮屈で味気ないものにしてしまうことも出来ます。別の言い方をすれば、その法則に調和した色彩を施すのも、あるいはみっともない色彩を塗りつけてしまうのもあなた次第ということです。いずれにせよ、最後は型に収まります」


 別の日の交霊会で動物実験が道徳的側面から取り上げられた。

問「動物実験がますます増えておりますが、どう思われますか。これを中止させようと運動している団体もありますが、霊界からの援助もあるのでしょうか」


 「ためになる仕事をしようと努力している人は必ず霊界から鼓舞し支援し霊力をもたらそうとしている人たちの援助を受けます。神の創造物に対して苦痛を与えることは、いかなる動機からにせよ許されません。ただ、動物実験をしている人の中には、人類のためという一途な気持ちでいっしょうけんめいなあまり、それが動物に苦痛を与えていることに全く無神経な人がいることも忘れてはなりません。しかし摂理を犯していることに変りありません」


問 「でもあなたは動機が一番大切であると何度もおっしゃっています。人類のためと思ってやっても罰を受けるのでしょうか」

 「動機はなるほど結構なことかもしれませんが、法の原理を曲げるわけにはいきません。実験で動物が何らかの苦痛を受けていることが分っていながらなお意図的に苦しみを与えるということは、それなりの責務を自覚しているものと看做(みな)されます。

動機は人のためということで結構ですが、しかしそれが動物に苦痛を与えているわけです。そうした点を総合的に考慮した上で判断が下されます。いずれにせよ私としては苦痛を与えるということは賛成できません」


問 「動物は人類のために地上に送られてきているのでしょうか」

 「そうです。同時に人類も動物を助けるために来ているのです」


問 「動物創造の唯一の目的が人類のためということではないと思いますが」

 「それはそうです。人類のためということも含まれているということです」


問 「動物の生体解剖は動機が正しければ許されますか」

 「許されません。残酷な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませて、何が正義ですか。それは私どもの教えとまったく相容れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです」


問 「動物を実験材料とした研究からは、たとえばガンの治療法は発見できないという考えには賛成ですか」

 「神の摂理に反した方法からは正しい治療法は生まれません。人間の病気にはそれぞれにちゃんとした治療法が用意されています。しかしそれは動物実験では発見できません」


問 「そうしたむごい実験を見ていながら、なぜ霊界から阻止していただけないのでしょうか」

 「宇宙が自然法則によって支配されているからです」


 さらに別の交霊会で、キツネ狩りに参加した人が自分は間違ったことをしたのでしょうかと尋ねた。すると───

 「すべての生命のあるものは神のものです。いかなる形にせよ、生命を奪うことは許されません」

問 「でもうちのにわとりを二十羽も食い殺したんですが・・・・・・」

 「では、かりに私がそのキツネに銃を与えて、二十羽も鶏を食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなります。すべての地上の生命にとって必要なものは神がちゃんと用意してくださっています。

人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなく、人間自身が勝手な考えを持つからです。地上の人間が向上進化すれば、そうしたあくどい欲望はなくなります。キツネやにわとりをあなたがこしらえたのなら、これをあなたが食べても誰も文句は言いません。

人間がにわとりやキツネを殺していいというのが道理であるとしたら、あなたの同胞を殺してもいいという理屈になります。生命は人間のものではありません。神のものです。生命を奪うものは何時かはその責任を取らなくていけません」


問 「オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっておりますが、これについてどうでしょうか」

 「人間は本来そこにあるべきでないところに勝手に持ってきて、それがもたらす不都合について文句を言います。

私の地上の故郷である北米インデアンについても同じです。インデアンはもともと戦争とか、俗に言う火酒(ウイスキー、ジン等の強い酒)、そのほか不幸をもたらすようなものは知らなかったのです。

白人が教えてくれるまでは人を殺すための兵器は何も知らなかったのです。そのうち人間も宇宙のあらゆる生命───動物も小鳥も魚も花も、その一つ一つが神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを知るようになるでしょう」


 更に別の日の交霊会で───

問 「イエスの教えの中には動物に関するものが非常に少ないようですが何故でしょうか」

 「その当時はまだ動物の幸不幸を考えるほど人類が進化していなかったからです」


問 「ほかの国の霊覚者の訓えにはよく説かれているようですが・・・・・・」

 「それは全部とは言いませんが大部分はイエスよりずっと後の時代のことです。それはともかくとして、あなた方はイエスを人類全体の模範のように考えたがりますが、それは間違いです。イエスはあくまで西欧世界のための使命を担って地上へ降りてきたのであって、人類全体のためではありません。

イエスにはイエスの特殊な使命があり、イエス個人としては動物を始めとする全ての生命に愛情をもっていても、使命達成の為に、その教えを出来るだけ制限したのです。その使命というのは、当時の西欧世界を蝕んでいた時代遅れの腐敗した宗教界にくさびを打ち込んで、人生の照明灯(サーチライト)として難解なドグマに代わる単純明快な人間の道を説くことでした」


問 「下等動物への愛を説かない教えは完全とは言えないではないでしょうか」

 「もちろんそうです。ただイエスの場合はその教えをよく読めば動物への愛も含まれています。イエスは例の黄金律を説きました。すなわち〝汝の欲するところを人に施せ〟ということですが、この真意を理解した人なら、他のいかなる生命にもむごい仕打ちは出来ないはずです」

Friday, November 21, 2025

シアトルの秋 霊媒の書 第2部 本論

 The Mediums' Book

2章 テーブル現象




我々が物理的心霊現象と呼んでいるのは、物体そのものの動きや移動(一つの部屋の中での移動ではなく、別の部屋またはどこか分からない場所からの搬入)、あるいは物体によって出される音などのことであるが、それには日常での突発性のものと、それを目的とした実験会において見られるものとがある。これから扱うのは後者の実験会において見られるものについてである。

本章ではその中でも実験会が開かれるようになった当初からよく観察されてきたものの一つで、しかも現象として最も単純である“テーブル現象”を取り上げる。

物体が動くという現象ならどの物体でもよいのであるが、日常的に使用しているテーブルが扱いやすいことから自然に試みる人が多くなり、物理現象の中でもごく一般的な現象となっている。

この現象が当初からよく観察されてきたというその“当初”とは、ハイズビル現象が騒がれた一九世紀半ばのことであり、学者による研究・調査を目的とした実験で観察されたのであるが、突発的ないし自然発生的な心霊現象ならば太古から語られているし、西暦二~三世紀の神学者テルトゥリアヌスが書き記したものにテーブル現象のことが出ていることからも、間違いない事実である。

このテーブル現象は、当初は学者だけでなく、どこの家庭でも応接間などで気軽に行われたものだった。それが次第に行われなくなったのであるが、それには二つの理由があった。一つは、面白半分にやっていた者がすぐに飽きていったこと。その本当の意義も知らずにすぐに飛びつく人間は、何をやっても長続きしないものである。

もう一つの理由は、真剣な態度で臨んだ学者や知識人は、そのテーブルによって伝えられたメッセージの内容にただならぬものを感じて、テーブル現象そのものよりも、その現象を演出している霊たちそのものへと関心の焦点が移っていったことである。要するに霊の世界とはどういう所なのか、地上生活との因果関係はどうなのかといった思想的なものへと変わっていったのである。

思想面については改めて扱うとして、テーブルという道具は単純であり、そして、それによる現象も幼稚そのものに思えるが、それがその後、空前絶後といってよい大思想の誕生の基盤となっていたことは事実で、その意味でこのテーブル現象がいかなるものであったかを見ておく必要があるであろう。それがその後の複雑な現象の解明のカギを提供してくれるからでもある。

テーブル現象を発生させるには特殊な体質をした人物、いわゆる霊媒が一人ないし二人必要である。それ以外の出席者は、証言者ないし観察者としては別として、現象に関するかぎりは必ずしも存在しなくてもよい。

と言っても、十人も十二人もいれば、その中の何人かは霊媒体質をしていて、自覚なしに協力していることがあることも事実である。それ以外の人物は、人間的性格ないし身体的体質によっては、サークルに悪影響を及ぼすことすら有り得る。

一口に霊媒といっても、いろいろなタイプがある。パワーがすごくて普通の霊媒を二十人集めたよりも驚異的な現象が見られる霊媒がいる。そういう霊媒だと、出席者は一切関与せず、霊媒一人が手を置くだけでテーブルがすぐに動き出し、上昇し、一回転したり、物凄い勢いでスピンしたり(コマのように回る)、そこら中を動き回ったりする。

霊媒的素質があるかどうかは外観を見ただけでは分からない。実際にやってみないと分からない。だから、最初は出席者全員が両手の掌(てのひら)を下にしてテーブルに置く。きつく押さえたり筋肉を使ったりしないで、そっと置くだけでよい。

実験会が催されるようになった当初は、まだ原因が解明されていないこともあって、さまざまな工夫がなされた。たとえば男女が交互に座るとか、隣どうしが小指をつなぎ合って輪をつくるといったことだった。輪を作るのは人体の電磁気がエネルギーを出すのではないかとの推察からだった。

が、結局は何の工夫も要らない――必要なのは“忍耐”であることが分かった。つまり、現象が起きるまでに二、三分の場合もあれば三十分の場合もあり、時には一時間も掛かることがあるが、それは霊媒の力量と出席者の体質に係わることで、小手先の工夫でどうなるというものではないのである。

また、テーブルの形とか材質、時間帯、照明の強弱、さらには貴金属類や衣類の天然・合成の別といったことも関係ない。唯一問題となるのはテーブルの重さであろう。つまり霊媒のパワーが弱すぎると重いものは動かせないであろう。が、これも相対上の問題で、幼い年齢の霊媒でも、パワーがすごくて、途方もなく重いテーブルを軽々と動かすことがある。

テーブルが動き始める前にかすかに軋(きし)む音がしたり、木材の繊維が震えているような感じが掌に伝わってくることがある。

そのあと、いかにも動こうと努力しているような雰囲気がして、やがてゆっくりと旋回しはじめ、その動きに従って、手を置いている出席者もいっしょに回るのであるが、時にはついて行けないほどのスピードになることがある。そうなると手を離さざるを得ず、テーブルだけが回転しながら自在な動きをする。

また、空中でテーブルが片方に傾き、そのまま降下して、まず一本の脚で床に立ち、次にもう一本の脚を下ろし、そして最後に残りの二本の脚も置いて、元の位置にきちんとおさまる、ということもある。

時には、まるで船がタテにヨコに揺れるのを真似しているような動きをすることがある。そうかと思うと――これは霊媒がよほどパワーがある場合にかぎられるが――重いテーブルが天井近くまで浮揚して静止し、その下に出席者が立って見上げたり通り抜けたりしたあと、まるで紙切れがひらひらと落ちるような感じでゆったりと揺れながら降下したり、反対に猛烈な勢いで落下して大音響を立てたり、その衝撃で砕けたりする。

オーク材やマホガニー材でできた重いテーブルがである。この事実だけでも、テーブル現象を目の錯覚とする説が論外であるとするに十分である。

いわゆる叩音(ラップ)現象については次章で言及する。

Thursday, November 20, 2025

シアトルの秋 霊媒の書 第2部 本論    

The Mediums' Book

1章 物質界への霊の働きかけ

第一部で見た通り、唯物的否定論は理性的にも事実上からも筋が通らないものとして片づけられた。本章からは人間の魂が、他界後に霊として、地上の生者にどのように働きかけるかを見てみたい。

そもそも先祖の霊が地上の人間に働きかけるということは世界のいずこの民族においても、またいつの時代においても、ごく当たり前の事実として直観的に信じられていたものである。それほど世界的に共通した直観であり、しかも人間生活に影響を及ぼしてきた信仰に、それなりの根拠が無かったはずはない。

それは聖書の中にも初期キリスト教時代の教父たちの証言の中にも見出すことができるが、それを“迷信”のカテゴリーの中に放り込んだのは、近代の唯物的懐疑思想であった。

ではその懐疑思想の横暴を許したのは何だったのか。いろいろと要因はあろうが、近代に至って物質科学が大幅な発展を遂げ、何事にも“なぜ?”、“いかなる原理で?”ということが明確でないものは事実として認めないという風潮を生んだことが最大の要因だった。

それまでは直覚的に目に見えない霊の存在とその働きかけを信じていたのが、物質科学の範疇に入らないというところから、それを無視するようになっていったのは当然の成り行きだった。

つまるところ、霊的現象を理解できなくさせているのは“霊”そのものについての間違った概念なのである。現象は霊が物質に働きかけるからこそ生じているのであるが、霊は目に見えない存在であるから、それが物質に働きかけるはずはないことになる。その辺の理屈に実は根本的な誤りがあるのである。

目に見えないということは、実体のない抽象的存在ということではない。霊にはれっきとした実体があり、形態もあるのである。それが肉体に宿っている魂を構成しているのが地上の人間で、肉体から脱け出たあとも、ちゃんと人間的形態をそなえているという。現に物質化して出現するときは地上時代と同じ姿をしている。

霊視力で人間の死の直後の様子を観察すると、肉体から脱け出た魂は、しばらく困惑状態にあるのが分かる。感覚的におかしくなっていると言ってもよい。と言うのは、目の前に自分の肉体が横たわっている。きれいな姿をしている場合もあろうし、事故などで無惨な姿になっていることもあろう。が、自分はちゃんと存在しており、自我意識もある。一体どうなっているのだろうと思って困惑する。

中には死んだという自覚がなく、地上時代と同じ感覚で生活を続ける者もいる。その自覚が芽生えるまでには、新しい環境での体験が必要なのである。

その体験を必要とせず、一瞬の戸惑いはあっても、すぐに死を悟って、死体に何の未練も持たずに、空中に舞い上がるごとくに霊界を上昇して行く者もいる。

いずれにしても、肉体の死によって個性も自我意識も一切失われることはない。しかも、肉体そっくりの身体もちゃんとそなわっている。地上時代の肉体のように飲食によって養う必要もないし、病気もしない。地上時代の障害も消えている。

数え切れないほどの実験と観察、そして名状し難い事実(のちほど詳しく説明)によって、我々は次のような結論に達している。すなわち人間は三つの要素から成り立っている。第一が魂または霊で、道義的感覚を有する知的原理である。第二が肉体。荒けずりな物的身体で、神の配剤によるある目的のために魂が一時的に宿って地上生活を営むための道具である。そして第三がダブルと呼ばれる半物質的媒体で、魂と肉体との接着剤のような役目をしている。

死というのはそのうちの肉体が破滅または分解する現象である。その際、脱け出て行く魂はダブルもいっしょに携えていく。魂には何らかの媒体が必要なのである。

ダブルは流動性の蒸気のような媒体で、通常の状態では人間の肉眼には映じないが、本質的には物質に近い性質をしている。が、今までのところ、それを分析するまでには至っていない。(それはカルデックの時代だけでなく現代に至っても同じである。が、英国のジョージ・チャプマンという心霊治療家は、トランス状態に入るとウィリアム・ラングという、地上時代に眼科医だった霊が乗り移って、患者のダブルを手術するという方法で多くの患者を治していた。私も実際にその治療法で治してもらった生々しい体験がある。潮文社刊・拙訳『霊体手術の奇跡』参照――訳注)

“魂の衣服”ともいうべきダブルは、当然地上生活中も存在している。魂と肉体との仲介役ないし中継者で、魂の内的状態が肉体に伝わり、肉体の外的状態が魂に伝わる。言うなれば“思念を伝える電線”のような役目をしていて、その具体的な働きは神経の波動として捉えられている。

人体の生理機能としては極めて重要な役割を演じているのであるが、その働きが神秘的で名状し難いために、生理学でも病理学でも明確な研究対象とされていない。もし解明されれば、いま謎とされている多くの事実が説き明かされるであろう。(これも百年後の現代にもそのまま当てはまる。神経作用は肉体的にきわめて敏感に反応するので物的なものと考えられがちで、医学もその考えのもとに扱っているが、謎とされている事実が多い。たとえばニューロンと呼ばれる細胞がつながって信号を伝えるのであるが、数百億個もあるニューロンとニューロンは実は直接はつながっていない――わずかながら隙間があり、それをシナプスと呼ぶ。脳全体のシナプスの数は数千兆個という天文学的な数値に達するが、いかに性能のいいコンピューターでもちょっとした接触不良で作動しなくなるのに、神経系統はそれだけのシナプスがありながら、なぜか情報が瞬時に伝わるのである。そこで医学では“神経伝達物質”というものの存在を指摘しているが、ずいぶん窮屈な説である。そこへいくとヨガでは神経を物質の範疇に入れていない。ダブルにあるチャクラという生命力の中枢から発せられる生命力が常に神経繊維に沿って伝わっており、神経の情報はそれを媒体として伝達されるとしている。霊的にもそれが正解であり、神経そのものの働きではないことを昔のヨガ僧は体験的に直感していたのである。“神経”という用語は“神気の経脈”という意味で、日本における最初の西洋医学の翻訳書『解体新書(ターヘル・アナトミア)』の中で用いられたものである。直接翻訳に携わった前野良沢――杉田玄白ではない――は余ほど霊感の鋭い人物であったことが、その訳語一つから窺える。――訳注)

ダブルの存在は、科学の世界でよく出される“仮説”ではなく、霊による証言もあるし、このあと紹介する我々の観察によっても確かめられている。差し当たっては、地上生活中も、そして他界後も、魂とダブルは常に一体となっていると理解していただけばよい。

霊視すると霊は炎とか火花として映じることが昔から言われている。が、肉体に宿っている魂は知的ならびに倫理的原理として機能しており、その形態は認識できない。しかし、霊性の進化がどの段階にあろうと、魂は常にダブルによって包(くる)まれており、ダブルそのものの精妙度は霊性の進化にともなって高まっていく。

このように、ダブルは肉体が人間の不可欠の要素であるように霊にとって不可欠の要素である。と同時に、肉体そのものがその人ではないように、ダブルそのものが霊ではない。あくまでも霊の道具である。

死を境にして肉体から解放されたダブルは、それまで肉体にはめられていたためにでき上がった人間的形態が崩れて、霊の意念に応じて広がったり、縮まったり、その他、その時の必要性にしたがって自在に変形する。出現した霊が地上時代の姿とそっくりであるのも、あるいは傷とか障害などの特徴を見せることができるのも、このダブルがあるからである。

魂は物質とはまったく異質の存在で、その本質はまったく知られていない。その魂が、死後、霊としてこの物質界に働きかけることができるのは、ダブルがあるからこそである。つまり霊が物質界に働きかけてその存在を知らしめるためには、物質的媒体が必要ということである。我々人間が肉体という媒体によって物質界と接触しているのと何ら変わるところはない。

こう見てくると、心霊現象も自然現象の範疇に属し、何ら奇跡的な要素はないことがお分かりであろう。超自然現象であるかに思えるのは、上に述べたような事実を知らないからで、それが分かってしまえば驚異でも何でもなく、原因は半物質体のダブルにあることになる。新たに発見された次元の事実が新たな法則によって説明されたというに過ぎず、一連の自然法則であることには変わりない。電信による交信の事実に今どき驚く人がいないように、いずれは常識となる日が来るであろう。

その理屈は分かるにしても、半物質とはいえ目に見えない精妙な媒体によって重いテーブルが天井高く持ち上げられたりするのは信じられないとおっしゃる方もいるであろう。

しかし、では電気が巨大なモーターを回転させ、稲妻となって巨木を八つ裂きにしてしまうのを見て、その威力には驚いても、それを信じないという人はいないのはなぜか。そういう事実を日常において見ているからである。

我々が呼吸している空気でも突風となって家屋を吹き飛ばすし、爆風となって人間を死に至らしめることもある。それと同じで、ダブルというエーテル質の媒体も、他の条件が加わることによってテーブルを持ち上げるようにもなるし、生前の姿を再現して見せることもできるのである。


訳注――ここで“ダブル”と訳したのは原文ではperispiritとなっている。periという接頭語は“周囲”の意味があり、ここでは“霊を取り囲むもの”といった意味あいの新造語である。通信霊の一人で、ラメネーと名のる霊が次のように説明している。


《ここでペリスピリットと呼んでいるのは通信霊によっては“魂の流動性の外皮”と呼ぶ者もいる。それを構成している流動性のものは、霊にとっては感性の伝達に融通性を与え、また見解や観念の伝達に広がりを与える。といっても、それはある程度まで進化した霊にとっての話で、低級霊の場合はペリスピリットに地上臭が残っており、言わば物的なので、空腹とか寒さも感じる。高級霊になるとペリスピリットも純化されているので、そういう地上的なものは感じない。

魂が進化するには何らかの媒体を必要とする。媒体のない魂は“無”に等しく、人間には概念がつかめないであろう。人間のように一定の型にはまっていない我々にとってペリスピリットは、人間の身体を使って間接的に(自動書記などで)通信を送るか、あるいは人間のペリスピリットを使って直接的に(インスピレーション的に)交信する上で欠かすことのできない媒体である。その使用法しだいで、霊媒にも霊媒を使っての交信にも、さまざまな種類が生じるわけである。

ただし、ペリスピリットの科学的分析となると話は別である。魂とは何かが我々とて分かってはいない。人間がペリスピリットを研究しているように、我々も魂とは何かを探究中である。お互いに忍耐が必要である。》

この通信を受け取ったのが正確に何年であるかは記されていないが、本書の序文が一八六一年に書かれているから、それよりそう古くはないであろう。

こんなことを詮索するのは、手もとにあるウィリアム・クルックスの破天荒の研究書『Researches in the Phenomena of Spiritualism』が出版されたのが一九二六年である。が、これは一八七〇年頃から始まったクルックスの本格的な心霊研究の成果を一冊にまとめたもので、その中に、科学誌に発表された「サイキック・フォースと近代スピリチュアリズム」という論文が見える。それが一八七一年十二月号であるから、本書の出版から十年後ということになる。

私はこの“サイキック・フォース”こそ物理現象の主要エネルギーで、これに霊界の化学成分を混合して、いわゆるエクトプラズムをこしらえるのだと結論づけている。エクトプラズムの研究では第一人者であるJ・E・ライト氏は“エクトプラズミック・フォース”という言い方をしている。同じものである。

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(五)

六章 イエスはいま何をしているか

More Teachings of Silver Birch Edited by A.W. Austen





 ナザレのイエスは今どういう仕事に携っているのだろうか。ある日の交霊会でシルバーバーチは、イエスは今すっかり教義とドグマと権力という雑草におおわれてしまった霊的真理の本来の姿をいま一度明らかにするための霊界からの地球的規模の働きかけの最高責任者であると述べた。

 そのことについて別の日の交霊会で次のように述べた。

 「ほぼ二千年前にイエスは磔刑(はりつけ)にされました。それはただ、当時の祭司たちがイエスを憎んだからにすぎません。イエスを通して霊力のほとばしりを見せつけられたからでした。まさに神の子に相応しい人物だったからにほかなりません。このままでは自分達の立場が危ないと思ったのです。

私たちが今それとまったく同じ反抗に遭っております。宗教界がこぞって〝真理〟を磔刑にしようとしております。しかし、それは不可能なことです。真理は、ただ真理であるが故に、あらゆる反抗、あらゆる敵対行為の中でも厳然と存在しつづけます。

キリスト教会の外部では次々と霊力が顕現しているにもかかわらず、空虚で侘しい限りの巨大な建造物の中には、その陰気な暗闇を照らす霊力の光は一条も見られません」

───そういうキリスト教は死滅してしまった方がましだとおっしゃるのでしょうか。

 「私はレンガとモルタル、祭壇と尖塔で出来た教会には何の興味もありません。何の魅力も感じません。建造物にはまるで関心が無いのです。私が関心を向けるのは〝魂〟です。

それで私は神とその子の間に横たわる障壁を取り除くことに奮闘しているのですが、不幸にして今日では教会そのものがその障壁となっているのです。これほど大きな罪悪があるでしょうか。宇宙の大霊である神は一個の教会に局限されるものではありません。

一個の建造物の中に閉じ込められるものではないのです。神の力は人間各自がその霊性を発揮する行為の中に、すなわち自我を滅却した奉仕の行為、困窮せる無力な同胞のために一身を捧げんとする献身的生活の中に顕現されるのです。そこに宇宙の大霊の働きがあるのです。

 確かにキリスト教会にも奇特な行いをしている真摯な人材がそこここに存在します。が、私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かねばならないからです。

真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。同胞の為に自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそのことを何度申し上げてきたことでしょう。

然るに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。

新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません」

 
 ───イエスの意気込みが察せられます。

 「誤解され、崇められ、今や神の座にまつり上げられてしまったイエス───そのイエスは今どこにおられると思われますか。カンタべリー大聖堂ではありません。セントポール寺院でもありません。ウェストミンスター寺院でもありません。実はそうした建造物がイエスを追い出してしまったのです。

イエスを近づき難い存在とし、人類の手の届かぬところに置いてしまったのです。神の座にまつり上げてしまったのです。単純な真理を寓話と神話を土台とした教義の中に混ぜ合わせてしまい、イエスを手の届かぬ存在としてしまったのです。

 今なおイエスは人類のために働いておられます。それだけのことです。それを人間が(神学や儀式をこしらえて)難しく複雑にしてしまったのです。しかし今こうして同じ真理を説く私たちのことを天使を装った悪の勢力でありサタンの声であり魔王のそそのかしであると決めつけております。

しかし、すでにキリスト教の時代は過ぎました。人類を完全に失望させました。人生に疲れ、絶望の淵にいる地上世界に役立つものを何一つ持ち合わせていません」



 シルバーバーチによると、イエスは年二回、イースターとクリスマスに行われる指導霊ばかりの会議を主宰しているようである。その時期には交霊会も二、三週間にわたって休暇となる。時おりその前後の交霊会で会議の様子を説明してくれることがある。次に紹介するのは休暇に入る前の最後の交霊会での霊言である。

 「この機会は私にとって何よりの楽しみであり、心待ちにしているものです。この時の私は、わずかな期間ですが、本来の自分に立ち帰り、本来の霊的遺産の味を噛みしめ、霊界の古き知己と交わり、永年の向上と進化の末に獲得した霊的洞察力によって実在を認識することのできる界層での生命の実感を味わうことができます。

自分だけ味わってあなた方に味わわせてあげないというのではありません。味わわせてあげたくても、物質界に生きておられるあなた方、感覚が五つに制限され、肉体という牢獄に閉じ込められて、そこから解放された時の無上のよろこびをご存じないあなた方、

たった五本の鉄格子の間から人生をのぞいておられるあなた方には、本当の生命の何たるかを理解することはできないのです。霊が肉体から解放されて本来の自分に帰った時、より大きな自分、より深い自我意識に宿る神の恩寵をどれほど味わうものであるか、それはあなた方には想像できません。

 これより私はその本来の自分に帰り、幾世紀にもわたる知己と交わり、私が永い間その存在を知りながら地上人類への奉仕のために喜んで犠牲にしてきた〝生命の実感〟を味わいます。

これまでに大切に仕舞ってきたものをこの機会に味わえることを私がうれしくないと言ったらウソになりましょう。ご存じのとおり、この機会は私にとって数あるフェスティバル(うれしい催し)の中でも最大のものであり、あらゆる民族、あらゆる国家、あらゆる分野の者が大河をなして集結して一堂に会し、それまでの仕事の進歩具合を報告し合います。

その雄大にして崇高な雰囲気はとても地上の言語では表現できません。人間がインスピレーションに触れて味わう最大級の感激も、そのフェスティバルで味わう私どもの実感に較べれば、まるで無意味な、ささいな出来ごとでしかありません。

 その中でも最大の感激は再びあのナザレのイエスにお会いできることです。キリスト教の説くイエスではありません。偽りに伝えられ、不当に崇められ、そして手の届かぬ神の座にまつり上げられたイエスではありません。

人類のためをのみ思う偉大な人間としてのイエスであり、その父、そしてわれわれの父でもある神のために献身する者すべてにその偉大さを分かち合うことを願っておられるイエスです」

 休憩に入る直前の交霊会では、シルバーバーチがサークルのメンバーにそれまでの成果を語って協力に感謝するのが常である。

 「あなた方と私たち霊団との愛の親密度が年とともに深まるにつれて私は、それがほかならぬ大霊の愛のたまものであると感謝していることを知っていただきたいと思います。すなわち大霊の許しがあったればこそ私はこうして地上の方々のために献身できるのであり、たった週に一度あなた方とお会いし、

それも、私の姿をお見せすることなく、ただこうして語る声としてのみ存在を認識していただいているに過ぎないにもかかわらず、私を信じ、人生のすべてを委ねるまでに私を敬愛して下さる方々の愛を一身に受けることができるのも、大霊のお力があればこそだからです。

そのあなた方からの愛と信頼を私はこの上なく誇りに思います。あなた方の心の中に湧き出る私への熱烈な情愛───私にはそれがひしひしと感じ取れます───を傷つけるようなことだけは絶対に口にすまい、絶対に行うまい、といつも誓っております。

 私たちのそうした努力が大きな実りを生んでいることが私はうれしいのです。私たちのささやかな仕事によって多くの同胞が真理の光を見出していることを知って私はうれしいのです。無知を打ち負かし迷信を退却せしめることができたことが私はうれしいのです。

真理が前進していること、そしてその先頭に立っているのがほかならぬ私たちであることがうれしいのです。絶え間なくしかけてきた大きな闘いにおいてあなた方が堅忍不抜の心を失わず挫折することがなかったことをうれしく思います。

役割を忠実に果たされ、あなた方に託された大きな信頼を裏切ることがなかったことをうれしく思います。私の使命があなた方の努力の中に反映して成就されていくのを謙虚な目で確かめているからこそ、私はあなた方のその献身をうれしく思うのです」


 このあと、いつもの慣例に従ってメンバーの一人ひとりに個人的なメッセージを送り、そのあとこう述べて別れを告げた。

 「さて、別れを惜しむ重苦しい気持ちの中にも、再びお会いできる日を心待ちにしつつ、私はみなさんのもとを去ります。これより私は気分一新のために霊的エネルギーの泉へと赴きます。高遠の世界からのインスピレーションを求めに赴きます。

そこで生命力を充満させてから再び一層の献身と、神の無限の恩寵の一層の顕現のために、この地上へ戻ってまいります。あなた方の情愛、今ひしひしと感じる私への餞(はなむけ)の気持ちをいただいて、私はこれより旅立ちます。そうして再び戻って来るその日を楽しみにいたしております。どうか常に希望と勇気を失わないでいただきたい。

冬の雪は絶望をもたらしますが、再び春がめぐってくれば大自然は装いを新たにしてほほ笑みかけてくれます。希望に胸をふくらませ、勇気を持って下さい。いかに暗い夜にも必ず登りゆく太陽の到来を告げる夜明けが訪れるものです。

 では、これにてお別れします。神は常にあなた方を祝福し、その無限の愛がふんだんにもたらされております。神の霊があなた方すべての人々の霊に行きわたり、日々の生活の中に誇らしく輝いております。

 これより地上の暗闇をあとにして高き世界の光明を迎えに参ります。そしてお別れに際しての私の言葉は、再び訪れる時の挨拶の言葉と同じです───神の祝福の多からんことを」


 こうして地上を去って霊界での大集会に列席したあと、再び戻ってきたシルバーバーチはこう述べた。

 「その会合において私はかつての私の栄光の幾つかを再び味わってまいりました。地上世界の改善と進歩のために奮闘している同志たち、人類の福祉のために必要な改革の促進に情熱を傾ける同志たちによる会議に私も参加を許されました。

これまでの成果がこと細かに検討され、どこまで成功しどの点において失敗しているかが明らかにされました。そこで新たに計画が立て直され、これから先の仕事───地上人類の進化の現段階において必要な真理を普及させる上で為さねばならない仕事のプログラムが組まれました。

 地上世界のために献身している大勢の人々───死によって博愛心を失うことのなかった人々ともお会いしました。そして、ちょっぴり私ごとを言わせていただけば───こんなことは滅多にないのですが───過去数か月間においてささやかながら私が成し遂げたことに対してお褒めの言葉を頂戴いたしました。

もとより私はお褒めにあずかる資格はないと思っております。私は単なる代弁者にすぎないからです。私を派遣した高級霊団のメッセージを代弁したにすぎず、それをあなた方が広めてくださったのです。

 ともあれ、こうして私たちの説く真理が人生に迷っている人々、心は重く悲しみに満ち、目に涙をためた大勢の人々に知識と慰めと激励をもたらしていることは確かです」

Wednesday, November 19, 2025

シアトルの秋 霊媒の書  第1部 序説       4章 さまざまな説

The Mediums' Book



……心霊現象が教えるもの


スピリチュアリズムが勃興して心霊実験会というものが催され、奇っ怪な現象が見られるようになった時――これは言うなれば太古からあった突発的心霊現象の実験的再演にすぎないのだが――それを目にしあるいは耳にした者が真っ先に抱いたのは「トリックではないか?」という猜疑であり、トリックではないとしたら「ではそれを起こしているのは一体何ものだろうか?」という疑問だった。

その後の調査・研究によって、そうした現象が実在すること、そしてそれが霊による演出であることが完璧に証明されたのであるが、その一方では自分の勝手な考えや信仰、あるいは偏見によって思いつき程度の説を立てる者が出ている。

スピリチュアリズムに真っ向から敵対する者は、そうした説の多様性を指摘して「スピリチュアリズム自体が混乱しているのではないか」と難詰する。が、これは皮相な見解である。いかなる科学も最初は諸説があって定まらないのが普通で、そのうち事実が積み重ねられて、きちんとした筋道が立てられるに至る。その積み重ねの中で早まった結論が排除され、全体を統一する理論が生まれる。全体といっても最初のうちは基本的な問題に限られ、完璧とまではいかないかも知れない。

スピリチュアリズムも例外ではなく、当初は、現象の性質上、解釈の仕方が諸説紛々となりがちだった。が、その後の発展の仕方は科学の先輩である物質科学にくらべても速い方だった。物質科学のどの分野においても今なお最高の頭脳の持ち主による反論や否定説が存在することを知るべきである。(これは十九世紀末の時点での事実を述べているが、二十世紀も終わろうとしている現在でもなお、物理学では「相対性理論」が、天文学では「ビッグバン説」や「ブラックホール説」が、進化論では「ダーウィニズム」が痛烈な批判を浴びている。要するに人間は大自然について本当のことはまだ何も分かっていないということである――訳注)

さて、心霊現象には二つの種類がある。すなわち物理的現象と精神的ないし知的現象である。この世に物質以外の存在を認めないがゆえに霊の存在を認めようとしない者は、当然のことながら現象に知性の働きがうかがわれるという事実は頭から否定する。

彼らなりの見地から提示する説をまとめると次の四つに分類できそうである。
一、詐術説


すべてはトリックであると決めつける者が多い。あの程度のものなら手品師にでもできるというのがその理由である。ということは、我々が霊と呼んでいる者はいかさま師の手先であり、霊媒はみんないかさま師ということになる。

我々も、心霊現象にトリックは一切ないとは言わない。心霊現象と称してトリックや奇術によって金儲けをたくらむ者はどこにでもいる。が、本物があるから偽物があるのである。自分が見たものが実はトリックだったからといって、この世に本物はないと決めつける理屈は通らない。
二、低能説


否定論者の中にはトリック説までも否定する者がいる。ではどういう説の所有者なのか。スピリチュアリズムにたずさわっている者は騙しているのではなく、騙されているのだというのである。これは我々スピリチュアリストを“お人好しのおバカさん”と決めつけているのと同じで、もっと言えば、知能が低いと言っていることになる。ということは、自分たちは正常な頭脳の持ち主だと思っているわけであるが、我々の側から見れば、まったく正当性の根拠の出せないその程度の説で満足できる彼らこそ、あきれた頭脳の持ち主としか思えない。
三、幻覚説


ちょっぴり科学性の色彩が見られるものに、心霊現象はすべて幻覚であるとする説がある。その説によると――「実験会の出席者は立派な方たちなのであろうが、実際に見えていないものを見たと思っているだけである。たとえばテーブルが浮揚して、何一つ支えるものがないのに中空にとどまっているという場合、実際はテーブルは少しも動いていない――一種の蜃気楼ないしは光の屈折現象を見ているにすぎない。星などが水面に映っているのと同じで、その場に無いものを有るように錯覚しているのである。」

確かにその種の幻覚も有り得ないことではない。が、実験会に出席した者は、その中空に浮いているテーブルの下を通り抜けてみているのである。もしテーブルが床にあって、浮いて見えるのが蜃気楼だとしたら、テーブルの下を通ろうとしたらテーブルに蹴つまずくはずである。

さらに、浮いていたテーブルが落下して壊れたことが何度もあるのである。目の錯覚でそんなことが有り得るだろうか。

人間の身体上の機能のせいで静止しているものが動いたように見えることは確かにあるし、目まいのする人は、じっとしていても自分が動いたように錯覚するものだが、実験会の出席者は一人ではなく数名ないし十数名で注視しているのである。その出席者全員が同じ錯覚に陥るということが有り得るだろうか。
四、人工音説


実験会には叩音(ラップ)現象というのが伴う。音の種類はさまざまで、必ずしも叩くような音ばかりではなく、楽器が奏でられたり、鈴が鳴ったり、家全体が揺すられたりすることもある。

それを、さる高名な学者が、全て霊媒が筋肉を無意識に、あるいは意図的に収縮させて出しているという、乱暴この上ない説を学会で発表したことがある。

霊媒が背のびをしても届かない天井や壁の高いところ、遠く離れた位置にあるテーブルから聞こえるのに、どうしてそんなことが出来よう。まして、テーブルが上下して、その脚の一本で床を叩いて(モールス信号のような符丁を使って)知的な内容の通信(メッセージ)を伝えるなどということは絶対に不可能である。

その学者は、ご苦労なことに、人間の筋肉の構造を細かく解説して、それを操作してドラムの音や聞き慣れた曲まで奏でることができるとおっしゃるのであるが、残念ながらその種の現象は滅多に起きない――出席者にとっては叩音現象は心霊現象のごく一部にすぎないのである。

一方、このラップも幻覚であるとする説もある。が、出席者全員が同じ音や曲、テーブル通信などを幻覚で聞くわけがない。後章で明らかにするように、こうした現象は全て目に見えない知的存在が演出しているのであって、偶発現象でもないし、物的原因によるものでもない。

以上は現象そのものの存在を完全に否定する説であるが、次に、心霊現象というものが存在することは認めるが、その原因は人体にそなわる電気や磁気、その他の未知のエネルギーのせいにする説をみてみよう。
(一)物的エネルギー説


この説は全面的に間違っているわけではない。たとえば出席者が増えると現象も活発になることは事実であり、その事実を有力な根拠としているが、前にも述べたように、真実の理論はあらゆる事実、あらゆる現象を解明するものでなければならない。たった一つでも当てはまらない事実があれば、その説は間違っているか不完全ということになる。

右の説は、物理的現象に関しては一考の余地があるが、心霊現象には知性の働きもうかがわれるのである。たとえば出席者の要求に応じたり、口に出さない思念(疑問など)を読み取っていることが明らかなのである。そうなると、現象を起こしているのは目に見えない知的存在だということになる。少なくとも純粋に物理的な原因によるものではないことは明白である。

そこで肝心なことは、その知性の働きの証拠を得ることであるが、これは根気よく実験を重ねれば確実に得られるものである。
(二)知的エネルギー説


さて知性の働きは認めることができても、その知性の始源は何かを確認する必要が残る。かつて、これにもさまざまな説があった。

その一つは、霊媒ないしは出席者の知的エネルギーが、光の反射のように、現象やメッセージの中に反映しているというものだった。一見もっともらしい説ではあるが、実験に立ち会えば、ひとたまりもなく立ち消えになってしまう。

しかも、この説は唯物説を否定することになることを知るべきである。出席者から発せられる知性が働いて現象を起こすということは、人間はただの肉体のみの存在ではなく、肉体とは別個の働きをする別の原理を所有していることを意味することになるからである。

それにしても、こんな説を出す学者は、その途方もない重大な意味に気づかないのであろうか。もしも思念が肉体に反射して音や動きに転換されるというのが事実であれば、そのこと自体が驚異的なことではなかろうか。科学者がこぞってその検証に当たってしかるべき価値があるのではなかろうか。神経繊維を分析してその特性をコツコツと研究している学者が、心霊現象となるとそうした途方もない説を出して無視しようとする、その態度が理解できないのである。

さきにも述べたように、この説は実験に立ち会えばひとたまりもなく立ち消えになってしまう。そのいちばん良い例が、メッセージが出席者の考えと異なるだけでなく、真っ向から対立する場合があることである。こちらが予期する、あるいは期待するものと異なる場合もある。“白”だと思っていたのに“黒”だという返答が来た場合、それが出席者の思念の反映といえるだろうか。

また、自動書記や入神談話でメッセージが届けられる場合を考えると、霊媒が知らない言語で書かれたり、霊媒がまったく知るはずもない高等な哲学思想に関する質疑応答が為されることがあるが、これなどは霊媒でもなく出席者でもなく、まったく別個の、目に見えない知的存在が係わっているとしか考えられないであろう。

このことは直接書記でメッセージが綴られる場合にさらに鮮明となる。エンピツもペンも使わず、トリック防止にあらゆる配慮をした上で用紙に文章が書かれるのであるが、そのこと自体が目に見えない知的存在の働きの何よりの証拠であり、ましてやこちらから出された質問に対する回答が意外なものだったり、まったく無関係のことに言及している場合には、出席者の思念の反映などという説は問題にならない。
(三)集団的精神作用説


これは右の知的エネルギー説と同類とみてよい。この説によると、霊媒から出た精神が他の数人の人間――その場にいる人だけでなく、その場にいない人の場合もある――の精神と合体して集団的人格をこしらえ、その精神作用で才能や知識や知性を発揮するという。

が、他の多くの説と同様、この説は個人的見解であって、これに賛同する人はほとんどいない。
(四)夢遊病説


この説にはかつて多くの支持者がいたし、今でも、少なくなったとは言え、いることは事実である。基本的には上の説と同じく、すべての通信の始源も霊媒の精神とするのであるが、では霊媒の能力を超えているものはどう説明するかとなると、それを集団的精神作用とせずに、知力の一時的な超興奮状態、いわば夢遊病的恍惚状態における知性の増幅現象であるとする。

確かに人間は時として(火事場の馬鹿力のように)興奮状態において超人的なことをしでかすことがあることは否定しないが、何度も言うように、本物の説は全ての現象を説明できるものでないといけない。ただの興奮状態では説明のできない現象がいくらでもあることは、一度実験会に出席してみると分かる。

そもそも霊媒は必ずしもトランス状態に入るとは限らない。どちらかというとトランス状態に入るのは例外に属する。たとえば自動書記の場合、霊媒によっては手だけはすごいスピードでメッセージを綴っているのに、本人はそのメッセージの内容にはまったく無頓着で、まわりにいる出席者とおしゃべりをし、時には笑い出したりすることもある。(本書の出版からほぼ二十年後に英国で出版された、スピリチュアリズムを代表する霊界通信の一つ『霊訓』『Spirit Teachings』の霊媒ステイントン・モーゼスは、書かれていくメッセージが自分の意志とは別個のものであることを確かめるために、わざと難解な哲学書を読んだり、ペンを左手に持ちかえたりしたが、そんなことにはお構いなく、達筆の文章で、しかも神学者としてのモーゼスのキリスト教説と対立する内容のメッセージが、猛烈な勢いで書かれていった――訳注)
(五)悪魔説


霊媒とは別個の知的存在の仕業であることを認める者の中に、それを全て悪魔(デーモン)の仕業とする人がいる。今ではほとんど聞かれなくなったが、かつてはかなりの支持者がいたものである。

スピリチュアリズムの立場から見ればとんでもない説であるが、見方を変えれば、まんざら敵対視するには及ばないことに気づく。と言うのは、悪魔であろうと天使であろうと、目に見えない世界の存在であることには変わりないわけで、従ってかりに悪魔からの通信であるとすることは目に見えない霊界、少なくともその一部との交信が可能であることを認めることになるからである。

問題は、通信の全てを悪魔からのものとする点にある。明らかになったところによると、霊というのは他界した人間の魂なのであり、地上の人間にも善人もいれば悪人もいるように、その中には確かに悪魔のような霊もいるかも知れないが、あの優しかった祖父母や父母、親しかった友人、あるいは愛(いと)しい我が子が、死んで悪魔の手先になっているとは、いったい誰が信じられよう。

キリスト教徒の中にこの悪魔説を本気で信じている人がいることは事実であるが、スピリチュアリズムに深入りさせまいとして、一種の脅しとしてそういう説を吹聴する者がいることも我々は知っている。「さわっちゃダメだ。やけどをするぞ!」と言うのに似ている。

実はそれが逆効果を生むこともあるのである。人間には禁じられるとやってみたくなる性分があり、悪魔がどんなことを言うか聞いてみたくなる人がいる。ところが実際に交霊会に出席してみると、少しも怖くも何ともない。こうしてその人は真実に目覚めることになる。

霊の述べることが自分の宗教の教説と異なるからという理由で、それを悪魔の仕業とする人もいる。コーランの教えと異なるからというマホメット教信者、モーゼの教えと異なるからというユダヤ教信者、ローマ法王の説教と違うからというカトリック信者、等々。

カトリックの場合は霊の説くところが慈善と寛容と隣人への愛、そして俗世的欲望の抑制という、まさにキリストの教えそのままであるのに、それを悪魔のそそのかしだというのであるが、その辺の矛盾をどう説明するのであろうか。

何度も言うように、霊といっても、もともとは人間の魂であり、人間は不完全な者ばかりだから、霊も不完全ということになり、それはその述べるところに如実に反映する。

中には確かに邪悪な霊もいるし、狡猾な霊もいるし、あきれるほど偽善者的な霊もいる。だから、我々は警戒心を怠ってはならないが、そういう霊がいるからという理由で全てを排斥するのは、社会に悪い人間がいるからといって隠遁の生活に入るのと同じで、賢明とはいえない。

神は、人間を識別するのと同じように霊を識別する理性と洞察力を与えてくださっている。スピリチュアリズムにつきものの煩わしさから逃れる道は、全面的にそこから逃れるのではなく、正しい理解と判断力を持つことである。

以上、さまざまな説を見てきたが、現象を見もしないで頭ごなしに否定するのは論外として、現象ないし事実を一応検討した者の間でも、なぜこうまで諸説が出るのであろうか。

その原因は単純である。かりに一軒の家があって、前半分を白く塗り、裏側は黒く塗ってあるとしよう。それを前から眺めた人は「あの家は白かった」と言い、裏側だけを見た人は「あの家は黒かった」と言うであろう。両方とも正しいが、両方とも間違っている。表と裏の両方から見た人だけが本当の意味での正しい答えが出せる。スピリチュアリズムにも同じことが言える。

現象の一部だけを見て立てた説は、それなりに正しいかも知れないが、それだけでは片づけられない現象がいくらでもある。だから、全体から見るとその説は間違いということになる。

スピリチュアリズムを正しく理解するには時間をかけて、ありとあらゆる現象を細かく検討しなければならない。大ていの人は自分の体験をもってそれが全てであると錯覚し、その観点から自説を立てる。そこに間違いの原因がある。

では心霊現象が教えるところを十項目に分けて解説しておこう。

1、心霊現象は超物質的知性すなわち“霊”が演出している。

2、見えざる世界は霊によって構成されていて、至るところに存在する。無辺の宇宙に霊が実在している。我々人間の身のまわりにも存在し、そのうちの幾人かと常に親密な関係にある。(背後霊のこと――訳注)

3、霊は絶えず物質界に働きかけており、精神活動にも影響を及ぼしている。自然界のエネルギーの一種と見なしてよい。

4、霊は本質において我々人間と変わるところはない。かつて地球上または他の天体上で物的身体をたずさえて生活したことのある魂であり、今はその物的身体を脱ぎ捨てているというに過ぎない。従って人間の魂は“肉体に宿っている霊”であり、いずれは肉体の死によって霊になる、ということになる。

5、霊といっても千差万別で、善性においても邪悪性においても、理解力の程度においても無知の程度においても、無数の段階がある。

6、霊も進化の法則によって拘束されている。ただし他方において自由意志も与えられているから、努力と決意の程度によって進化の速度が異なる。しかし、いつかは完成の域に到達する。

7、霊界における霊の幸不幸は、地上時代における善悪の所業と霊性の進化の程度によって決まる。完全にして無垢の幸福感、いわゆる至福の境涯は、完全な霊性を極めた者のみが味わうことができるものである。

8、霊は、ある一定の条件のもとで、人間にその存在を顕現してみせることができる。人間と意思の疎通ができる霊の数に限界はない。

9、霊は霊能者を媒介としてメッセージを伝えることができる。その場合、霊能者は道具であり、通訳のような存在である。

10、メッセージを送ってくる霊の霊性の高さないし低さは、そのメッセージの内容に反映する。高い霊の訓えは善性にあふれ、あらゆる側面にそれが表れている。低い霊の述べることには、どう繕ってみても、偽善と無知と未熟さがうかがえる。


訳注――これだけのことを一般の人々にすぐに理解を求めるのは無理としても、最近のテレビ番組や心霊書を見ていると、チャネラーと自称して多くの客を相手に霊視力や霊聴力あるいはインスピレーションで霊からのメッセージを伝えたり前世を語ったりしている人でも、その言葉の端々から霊的知識が欠落していたり誤解していることが読み取れることが多い。

最近あきれ果てたのは、さる女性霊能者が「霊でも千年くらいは生き続けているのがいますから」云々、と言ったことで、この人にとっては相変わらず物的人間が実在で、霊は副産物的なモヤのようなもので、いつかはどこかへ消滅していくものでしかないらしい。神職や僧籍にある人に意外にその程度の認識の人が多いようである。

もう一人のテレビ出演者が書いた霊界の本を開いてみたら「霊界というところは暗くて寂しいところで、地上界の方がよほどいい」といった文章があった。この人の霊視力はそのレベルまでしか見えていないということを証明している。

自分のことを神界からの使者であるとか仏陀の生まれ変わりであるとか称している人もいる。こういう人は天文学をしっかり勉強して、宇宙の広大無辺さと無限の次元の波動の世界の存在を知ることである。おのれの小ささに気づいて、そんなことは言えなくなるであろう。

霊的な仕事に携わっている人の落とし穴は、自分の霊能にうぬぼれて“学ぶ”ということをしなくなることである。

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch Edited by A.W. Austen 
五章 迷いの過去から悟りの未来へ 

スピリチュアリズムの前途には大きな仕事が待ち受けている。霊的交信の目的はただ単に地上の人間に慰めをもたらすことではない。

ある日の交霊会でシルバーバーチは〝生命の法則について精神的側面、道徳的側面、物的側面、ならびに霊的側面から理解を深めるように指導し、身体的に不健全な人が少なくなると同時に霊的に未熟な人も少なくしていくことが我々の使命の一端です〟と述べて、スピリチュアリズムの目指すべき方向を暗示した。それを別の日の交霊会で次のように敷衍(ふえん)した。

 「私どもは自己中心主義、物質万能主義、無知、暗黒等々、人生の楽しさ、明るさ、安らぎを奪う勢力のすべてを一掃すべく努力しております。地上のため───それだけを望んでおります。それなのに、つまり地上のためになることをのみ望み、何一つ邪なものを持ち合わせず、人間性の中に下品なもの、あるいは低俗なものには決して訴えることがないのに、なぜ人間は私たち霊の働きかけを毛嫌いするのでしょうか。

 より次元の高い真理、より深い悟りの道をお教えしようとしているのです。人生の基盤とすべき霊的原理を理解していただこうと努力しているのです。人間の内部に宿る霊的可能性を認識し、真の自我とその内奥に存在する神性を見出していただきたいと願っているのです。

私たちは人間の理性───人間として最高の判断力に訴えております。一段と次元の高い生命の世界を支配する摂理をお教えし、宇宙の物的側面だけで無く、もっと大きな部分を占めているところの永遠不滅の霊的側面を理解していただこうと願っているのです。

 私たちの努力目標は人類が幻を追い求め影を崇めることのないように、霊的真理の実在を得心させることによって人生観を誤った信仰でなく確実な知識の上に確立し、大自然の法則に基づいた本当の宗教心を持ち、たとえ逆境の嵐が吹き荒れ、環境が酷しく、いずこに向かうべきかが分らなくなった時でも〝事実〟に裏打ちされた信仰心によってあらゆる試練、あらゆる苦難に耐えていけるようにしてあげることです。私たちの使命は霊的使命なのです。

人間が内奥に神すなわち実在の生命を宿していることをお教えし、従って人間は動物ではなく一人ひとりが神であることを自覚し、同じ神性が宇宙の他のすべての生命にも宿っていることを知っていただくことを使命としているのです。

 その認識が行きわたれば地上は一変します。理解が広まるにつれて新しい光が射し込み、永遠の大機構の中での人間の位置を悟ることになります。私たちが訴えるのはややこしい神学ではありません。時代遅れの教説ではありません。

素朴な理性───あらゆる真理、あらゆる知識、あらゆる叡知の真偽を判断する手段に訴えております。

もしも私の述べることにあなた方の知性を侮辱し理性を反撥させるようなものがあれば、それを無理して受け入れることは要求しません。最高の判断基準に訴えることによって人間が真の自分を見出し、真の自分を見出すことによって神を見出してくださることを望んでいるのです。

 真理は決して傷つけられることはありません。決して破壊されることはありません。後退させられることはあります。抑えつけられることもあります。しかし永久に埋もれてしまうことはありません。

真なるものが損なわれることはあり得ません。嘘言を持っていかに深くいかに固く埋め尽くされても、いつかは必ず表に出てきます。真理を永遠に抑えつけることはできません。

いま私たちが旗印としている真理は地上にとって重大な役割を担っております。人間というものは煩悶の時代になると永いあいだしがみついていた教説を改めて検討し、それが果たして苦難と困難のときに慰めとなり力となってくれるであろうかと思いはじめるものです。

 霊的実在についての真理を片隅に押しやることはできません。人間がひとりの例外もなく神の子であり成就すべき霊的宿命を背負った存在であるとの証は、宇宙における人類の本当の位置を認識し無限にして永遠の創造の大業の一翼を担う上で絶対必要なことです。

私たちの存在自体を疑う人がいることでしょう。存在は認めても影響力を疑う人がいることでしょう。もとより私たちは万能を主張するつもりはありません。私たちも常に数々の限界とさまざまな制約に直面していることは、これまでたびたび述べてきたことです。しかし私たちがあなた方を援助することができるという事実に疑う余地はないでしょう。

 私たちには霊力というパワーがあります。これは宇宙の全生命を生み、それに形態を与えている力です。正しい環境と条件さえ整えてくれれば、私たちはそのパワーを活用してあなた方を導き、保護し、援助することができます。

それも決してあなた方だけという限られた目標のためでなく、あなた方を通じて顕現した霊力がさらに他の人へも波及して、その人たちも霊的なパワーを感得できるようになるのです。

前途に横たわる道は決して容易ではありません。しかし協調精神をもって臨み、平和的解決を希求し、慈悲心に裏打ちされた公正を求め、憎しみと復讐心に根ざした観念を完全に排除して臨めば、明るい未来をすぐ近くまで招来することができることでしょう」

 これは一九三九年に第二次大戦が勃発して間もない頃の交霊会での霊言で、最後の部分はその大戦のことを指している(本書の出版は一九四一年──訳者)

 さらにメンバーからの質問を受けてこう語っている。

 「物質の世界に生きておられるあなた方は実在から切り離されております。あなた方自身にとって、そのことを理解することが難しいことは私もよく承知しております。なぜならば、あなた方なりに何もかもが実感があり実質があり永遠性があるように思えるからです。

ご自分を表現しておられるその身体、地上と言う大地、住んでおられる住居、口にされる食べ物───どれをとってもこれこそが実在であると思いたくなります。でも、それはことごとく〝影〟であり〝光〟でないことを申し上げねばなりません。

あなた方は五感に感応しない世界を想像することができません。従ってその想像を超えた世界における活動と生活ぶりを理解することができないのは当然です」


 そうした地上とはまったく異なる世界についての知識を得ているサークルのメンバーの一人に〝その知識はあなたにどういう変革をもたらしましたか〟とシルバーバーチの方から質問したことがあった。それを全部聞き終わったあとこう語った。

 「こうしてお聞きしてみますと、あなた方ひとにぎりの方たちにあっても、わずか二、三年間の霊力との接触によっていかに大きな変革がもたらされたかが分ります。となれば、これを世界中に普及させることによってその数を百万倍にもすることができるということです。

それは無知を一掃し、暗闇の中で進むべき道を見失った人々に灯を与え、全宇宙の背後に存在する大目的を教えてあげることによって達成されることでしょう。
℘71
 人類がいかに永いあいだ道を見失なってきたかご存知でしょうか。人類を先導すべき人たち、霊的指導者であるべき人たちみずからが盲目だったのです。玉石混交の信仰を持って事足れりとしてきました。宗教的体系をこしらえ、その上に教義とドグマで上部構造を築きました。

儀式と祭礼を発明しました。教会(チャーチ)(キリスト教)、寺院(テンプル)(仏教)、礼拝堂(シナゴーグ)(ユダヤ教)、モスク(イスラム教の礼拝堂)等々を建造しました。神とその子等との間に仕切りを設けたのです。それぞれに経典をこしらえ、わが宗教の経典こそ本物で宇宙の真理のすべてを包蔵していると主張し合いました。

かんかんがくがく、宗教家としての第一の心掛けであるべき愛の心を忘れ、その上なお情けないことに、憎悪と敵意を持って論争を繰り返してきました。

 予言者、霊覚者、哲人、聖者の類をすべて追い払いました。真の〝師〟たるべき人々を次々と迫害していきました。神の声の通路であるべき人々の口を塞いでしまいました。腐敗した組織にはもはや神の生きた声が聞かれる場がなくなってしまいました。

開かれたビジョンを閉ざし、すべての権力を聖職者に帰属させ、神へ近づける力は自分たち以外にはないことにしてしまいました。聖職者の中にも高徳の人物は数多くいました。ただ、惜しむらくは、その人たちも(そうした環境の影響のために)宗教の唯一の礎石(いしずえ)であり人類にその本領を発揮せしめる原動力である霊力の働きかけに無感覚となっておりました。
℘72
 人類の歴史において大きな革命を生んできたのは全て霊の力です。素朴な男性または女性が霊感に鼓舞されて素朴なメッセージを威信を持って語り、それを素朴な平凡人がよろこんで聞いたのです。今その霊力が、かつてと同じ〝しるしと奇跡〟を伴って再び顕現しております。

目の見えなかった人に光が戻り、耳の聞こえなかった人が聴覚を取り戻し、病の人が健康を回復しております。邪霊を払い、憑依霊を取り除き、肉親を失った人たちに慰めをもたらしております。

 多くの魂が目を覚まし、霊の大軍が存分にその威力を見せることが出来るようになりました。〝死〟の恐怖を取り除き、〝愛〟が死後もなお続きその望みを成就している事実を示すことができるようになりました。インスピレーションは(イエスの時代に限らず)今なお届けられるものであること、人間の心は(他界した時点のままでなく)死後も改めていくことが出来ること、(宗教的束縛から)

精神を解放することが可能であること、自己改革への道が(宗教的教義に関係なく)開かれていること、(宗教的活動から離れたところにも)自分を役立てる機会はいくらでもあること、霊力に鼓舞されて報酬を求めずこの世的な富への欲望を持たずに〝よい知らせ〟を教えてあげたい一心で、すべての人に分け隔てなく近づく用意の出来た魂が存在している事実を立証しております。

℘73
 これほどまで美しい話、これほどまで分り易い話、人生の本質をこれほど簡明に説き明かしてくれる話に耳を傾けようとしない人が多いのは一体なぜでしょうか。光明を手にすることができるのに一体なぜ多くの人が暗黒への道を好むのでしょうか。なぜ自由よりも束縛を好むのでしょうか。

 しかし、われわれはあなた方が想像される以上に大きな進歩を遂げております。難攻不落と思えた古い壁───迷信、既成権力、ご生大事にされている教義、仰々しい儀式を堅固に守り続けてきた壁が音を立てて崩れつつあります。急速に崩壊しつつあります。

一方では多くの魂が霊的真理に感動し、精神に光が射しこみ、心が受容性を増し、よろこんで私たちの教説に耳を傾けてくれております。過去数年間の進歩ぶりを見れば、われわれの勝利はすでにゴールが目に見えていると宣言してもよい時機が到来したと言えます。

その確信を私は語気を強く宣言します。もはや絶望の戦いではなくなりました。私たちが自己中心の物質第一主義に根ざした古い時代は終わった、新しい時代が誕生している、と述べる時、それは有るがままの事実を述べているのです。

 かつて地上において苦難と犠牲の生涯を送った人々、強者と権力者によって蔑まれる真理を護るためにすべてを犠牲にした人々───その人たちがいま霊界から見下ろし、霊的大軍の前進ぶりを見て勝利を確信しております。
℘74
むろんこれは比喩的に述べたまでです。銃を手にした兵士がいるわけではありません。われわれの弾薬は霊力であり、兵器は理性と良識です。私たちは常に人間の知性に訴えます。もっとも、時としてその知性が無知と迷信と依怙地な強情の下敷きとなってしまっているために、果たして(普遍的判断基準であるべき)知性が存在するのだろうかと迷うこともあるでしょう。

しかし、よく目を見開いて自分でそのしるしを求めることです。あなた方にはその判断力があり、囚われなきビジョンを手にする能力をお持ちです。その力で、暗闇を突き通す光を見届けて下さい。

 われわれはもはや軽蔑の対象とされた曽ての少数派ではありません。片隅で小さくなっていた内気な小集団ではありません。科学的立証を得て、やはり真実だったと確信した堂々たる大軍であり、恥じることない社会的位置を獲得し、霊的事実の福音を誇りを持って説いております。

霊的なことを口にしたからといって軽蔑されることはもうありません。それは過去の無知な人間がしたことです。今はそれを知っていることで尊敬される時代です」

 訳者注───モーゼスの『霊訓』によると、かの 〝十戒〟を授かったモーゼが従えていた七十人の長老はみな霊格の高い人物だったという。これは世界に共通した事実であって、古代においては霊感が鋭くかつ霊的なことに理解のある者が要職につき、いわゆる祭政一致が当然のこととされた。
℘75
 それが物質科学の発達と共に意識の焦点が五感へと移行し、物的なものさしで測れないものが否定されていった。ところが皮肉なことに、その物質科学みずからが物質の本質は常識的に受け止めてきたものとは違ってただのバイブレーションに過ぎないことを突き止めたのと時を同じくして、再び霊的なものへと関心が高まりつつある。

 シルバーバーチはそうした潮流の背後には霊界からの地球的規模の働きかけがあることを指摘している。オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻〝天界の大軍〟篇はそれを具体的に叙述して、その総指揮官がキリストであると述べている。シルバーバーチ霊団も、イムペレーター霊団もその大軍に属し、最前線で活躍していたことになる。