Monday, August 4, 2025

シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

十三節

再び著者の反論と苦衷の開陳──回答──忍耐と祈りの必要性──祈りとは──霊側から観た祈りの効用──イムペレーター、著者を叱咤する──死せる過去より生ける未来に目を向けよ──新しい真理に対する世間の態度



〔これまでに受け取った一連の自動書記通信を読み返してみて、私は文体といい内容といい、その美しさにこれまでになく心を打たれた。それというのも、私には何ら意識的思考のないまま、猛烈な勢いで書かれていくその速さ、それでいて文法上の構成に一点の誤りも見当たらないこと、さらに全編を通じて一箇所の挿入も訂正も行われていないこと等を考え合わせると、ただただその美しさに驚きを覚えるばかりだった。

 がその主題の問題となると私は相変わらず受け入れに躊躇せざるを得なかった。共鳴するものも多かったが、同時に、もし受け入れたらキリスト教界の信仰が根底から覆されることになるという危惧を拭いきれなかった。

どう言い換えたところで、そうなることは日を見るよりも明らかである。用語と同時に、その根本理念を受け入れれば、キリスト教徒が絶対的箇条として信じることを誓ったものを数多く棄て去らなくてはならない。特にその中心的ドグマが崩れてしまうように思えた。

各種の神学上の著作──ギリシャ正教、ローマ・カトリック、国教会、プロテスタント、とくに近代ドイツ神学──に幅広く親しんできた私には、その各説の枝葉末節における矛盾はあまり問題にしないだけの心の準備はできていた。

こうした宗教的内容のものには多少の矛盾は避け難いことを認識していたのである。また神の啓示の奥深い神秘の前には、個人的見解は大した価値はないことも認識していた。要するに私はこの種の問題に関しては少々のことでは動揺しないだけの心の準備はできているつもりでいたのである。

 ところがイムペレーターの言葉は全く問題が別であった。集中砲火を浴びているのはキリスト教の根幹にかかわることばかりであった。それをスピリチュアライズする、つまり霊的解釈を施すということは、私の信じている如何なる啓示にも致命傷を与えかねないように思えた。

じっくりと考えに考え抜いた末の結論がどうしてもそこに落着する。しかもそれが私のよく知らない、知ろうにも知り得ない知的存在による〝独断〟である。これはとても受け入れるわけには行かない。私は今少し考える時間をもたねばならぬと考えた。

とにかく、たとえ内容的にはどんなに美しくあろうと、キリスト教ほどの証拠性もなく偶像破壊的でもない教義を受け入れるには、まだ私の心が熟していないと感じた。こうした趣旨のことを述べると次のような通信がきた──〕



 良いことを述べてくれた。かくの如く重大なる問題については、深く考えるために十二分に時間(とき)を費やす必要がある。われらはいずれは汝が理解しその重大性を認識してくれるものとの確信のもとに説いてきた教説を汝の熟考にまかせよう。

疑問があれば何なりと聞くがよい。われらも喜んで答えよう。これまでの通信を十二分に考察するまでは、他の通信は敢えて押しつけぬことにする。すべからく忍耐と真摯なる祈りが肝要である。

 寒々として霊性を寄せつけぬ地上にあっては、汝らの魂と、その欲求を叶えしめんとして待機せる背後霊との間の磁気的霊交が、真摯なる祈りによって如何に強く促進されるものであるかを汝は知らぬ。その絆は使うほどに強化され、交わるほどにその親密度を増す。祈りというものが如何に豊かなる霊的恵みをもたらすかを知れば、汝もより多く祈るようになることであろう。

博学なる神学者は祈りの価値についてその核心を知らぬまま論議を重ね、迷路をさ迷い続けている。かれらは神を求める魂の真の欲求を聞き届けんとして待ちうける背後霊の存在を知らぬ。もっとも無理からぬことではある。

現時点における科学では立証できぬ性質のものだからである。そこで彼らは、愚かにも祈りの効用をその結果によって計らんとする。結果を分析し、統計の収集によってその効用を評価せんとするのである。が、それでもなお彼らは迷路をさ迷い続けている。

何となれば、そうした努力によって掴みうるのは形骸のみであり、その真相は彼らの視界へは入らぬからである。

祈りの結果はそのようなことでは計ることは出来ぬ。人間の科学では捉えられぬものなのである。それはあくまでも霊的なものであり、個々の祈りによって結果もさまざまな形式をとる。背後霊が異なる如く祈りの結果の現われ方も異なるのである。

 無言の願いが叶えられぬままであることが実は魂にとりては最高の恵みであることが往々にしてあるものである。虚空に向けて発せられたる悩める魂の叫び──悲しみによって絞り出されたる叫び──それ自体が魂の救済であることがある。

が、待機せる背後霊がその重荷に苦しめる魂に同情と慰めの芳香を注ぎ込まんと努力している姿を見れば、魂が覚える何とも不思議な安らぎと、神への確信がいずこから来るかが理解できるであろう。それをもって祈りが叶えられたというのである。魂の奥底からの叫びが背後とのつながりをもたらし、苦しみと悲しみに悶える心が慰められるのである。

 緊密なる関係にある者に注がれるこの磁気性の芳香は、神を探し求める魂の切実なる叫びがもたらす恩恵の一つなのである。真の霊交はそれ以外の条件下では実現せぬ。天使の住める〝神秘の間〟に入る者はよほどの霊性を開いた者にかぎられる。

同時に、われらの側より最も近づき易き魂は普段より霊的交わりを重ねている者である。友よ、これには例外はない。それが汝らの世界とのつながりを支配する不変なる法則の一つである。すなわち霊性に目覚めた魂が豊かな霊的恵みを受けるのである。

 願いごとへの真の回答は必ずしも人間がその無知ゆえに勝手に期待するとおりのものとはかぎらぬ。往々にして、その願いごとを叶えてやることが当人に害を及ぼすことにもなりかねないのである。当人は真相を知らぬまま、せっかちに、愚かなる願いごとをする。

当然その祈りは無視される。が、切実に祈れるその心の姿勢が、待機せる背後霊との連絡路を開き、その必要性に鑑みて力と慰めとを授けてくれる。

 人間がもっと祈りの生活をしてくれば、と思う。もっともその祈りとは、為すべき義務を怠り、貴重なる試練の生活を病的ともいうべき自己分析、不健全きわまる自己詮索、怠惰なる瞑想、あるいは無理強い的、かつ非現実的哀願のみに費やす礼拝一途の生活ではない。それは真の礼拝とは言えぬ。真の祈りの生活はそれとは全く別のものである。

 真実の祈りは、守護せんとして待機する背後霊への魂の奥底からの叫びの、直情的発露であらねばならぬ。気まぐれな要求に応えて、変え得べからざる筈の法則を喜んで変えてくれるが如き神への他愛なき幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっている。

そのようなことを信じてはならぬ! 祈り──魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして遥か上界との連絡の労を取らんとして待機せる背後霊を通じての直情的叫び──これは形式の問題ではない。一語一語述べる必要もない。ましてや宗教的慣習、紋切り型の用語等によって拘束する必要などさらさらない。

真の祈りとは魂と魂と直接の交わりであり、日頃より交信せる見えざる仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じてその要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつその回答が思念の如き速さで送り返される。その一連の営みをいうのである。

 言い換えるならば、悩める魂を、慰め癒やすことの出来る霊の手にあずけることである。それには言葉も身構えも形式もいらぬ。むしろそうしたものへのこだわりが消えた時こそ最も真実味を帯びる性質のものである。必要なのは背後霊の存在の認識と、それとの霊交を求めんとする直情的衝動のみである。そのためには、日頃の訓練が望まれる。

さもなければ、日頃の使用を怠れる手足の如く、その衝動に反応を示さなくなる。それ故、日頃より霊性に目覚めたる生活を営む者ほど霊的世界の深奥に深入り出来ることになる。その種のものにはわれらの方からも近づき易い。

外界の喧噪に影響されることなく、その者のみが有するところの、われらにのみ反応する奥深き琴線に触れることを得るのである。彼らは地上に在りながら極めて高い霊性を発揮する。何となれば、日頃より霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しつつあるからである。彼らには物的生活に埋もれる者に閉ざされた霊的真理の秘密の扉が開かれている。

そして不断の祈りによって彼らは、少なくとも、地上生活においては苦しみも悲しみも魂の成長にとって必要不可欠であることを悟りつつ、なおそれに超然とした生活を送ることができるのである。

 ああ、かくの如き素晴らしい摂理を地上の人間が知らぬとは何と悲しきことであることか! この真相が今少し理解されれば、人間は聖純にして気高き霊の雰囲気の中で暮らせるものを! 霊性の自覚によって、覗き趣味的好奇心に駆られ、己れの分際も顧みずに心霊の世界に深入りせる者を悩ませ、また時には、悲しいかな、真摯なる探求者をも悩ませる、かの邪悪霊の影響から免れることを得るであろう。

たとえ完全に免れ得ずとも、その真理の普及は少なくとも危険からの保護を提供し、且つ人間に為しうる他のいかなる手段にも増して、われらの力となるであろう。それはわれらの行為の正当性を是認し、動機の純粋性の証となり、霊界通信の真実性を不滅のものとする最も有効なる力となるであろう。

 故に、ひたすらに祈るがよい。但し、心のこもらぬ紋切り型の哀願とならぬよう心せよ。魂と魂の触れ合いの中でのわれわれとの交わりを求めよ。ひたすらに魂に係る問題にのみ心を向けよ。他のことは収まるべくして収まる。

神学上の難解にして煩わしき問題は捨ておき、汝の魂の安寧に関わる核心的真理に集中せよ。単純素朴なる霊的真理が人間の無益なる混沌によって幾重にも取り巻かれている。

その収拾に汝が係る必要はない。またその中のいずれが汝にとって不可欠か、いずれが不必要かの問題も、今の汝には係わる必要はない。今の汝には絶対重要と思える教説も、こののちには、その教説が啓示された一時代にのみ適用さるべき一面的教説に過ぎぬことを悟る日も来よう。結論を焦るのは人間の弱点である。むしろ歩を緩めるがよい。ゴールへと焦らず、初期の段階にてじっくり時間をかけねばならぬ。すべての秘密に通暁する前に、汝が学ばねばならぬことは幾らでもある。

 このことについてはなお言うべきことがあるが、差し当たって必要なことは述べたつもりである。願わくば神がわれらと汝とを護り給い、われらが首尾よく汝を導き、暗闇に迷う汝の魂に真理の光をともし、安寧をもたらすことを得さしめ給わんことを。
                             ♰ イムペレーター


〔右の通信に対して、私はすぐには抗弁せず、その内容に思いをめぐらした。そしてやがて聞いてみたいことが浮かんだのでそれを書き留めようとした。そのとたん、私の手は強制的にストップさせられた。そして代わってその手が激しい勢いで別のことを書きはじめ、信じられない速さで次のようなことを述べてきた。その間ただの一度も手を休めることがなかった。あまりの激しさに私は書き終えるまで半入神状態となっていた。〕










待つのじゃ! 焦るでない! 待つのじゃ! 今は議論の時ではない。真理を繰り返し吟味するのじゃ。汝はせっかちにすぎる。しかも下らぬことばかり思いをめぐらしている。われらの述べることが他の信仰と相容れぬからとて、一体それが汝に何の意味があるというのか。

何故に躊躇するのか。信仰とは大なり小なり他の信仰と相容れぬものではないのか。否、元来信仰とはそれ自体の中に矛盾の要素を含むものではないのか。

それすら理解できぬようでは先へ進む資格はない。かの古き教義や信仰──当時としてはそれなりに価値はありながら、往々にして未熟であったものに人間は慰めを求めてきた。自分に都合のよき言説を拾い求めてきた。あるはずもないものを態々求めに赴いたのである。なぜ無いのか。魂がそうした古き言説──今の時代には生命を失いたる言説を超えて成長したからこそである。それはもはや汝の益にはならぬ。

汝の魂はもはやそのようなものでは感動せぬ。語りかける言葉を持ち合わせぬ。心を癒す力を持たぬ。かつて或る者にとっては生々しき声として聞こえながら、今の汝には無意味に響く、遠くかすかなこだまに過ぎぬ。

 然るに何故に汝はそのようなものに心を煩わせるのか。何故に汝はすでに汝にとって何の意味も持たぬものから意義を見いだそうと無益なる努力を続け、さ迷うのか。なぜ霊の世界より語るわれらの生々しき、燃えるが如き、真実味あふれる生きた声に耳を傾けようとせぬのか。滅びつつあるもの、あるいはすでに死物と化せるものの代わりに真実なるもの、霊的なるもの、崇高なるものを説くわれらの声になぜに耳を傾けようとせぬのか。

一時の気まぐれとは言え、何故に生命なき過去の遺物を有難がり、生々しき現在、霊との交わり──神および汝らの宿命について崇高なる真理を語る霊団との縁を切らんとするのか。

 これは明らかに狂気の沙汰であり、魂を堕落させ地上へ引きずり下ろすことを楽しみとする邪霊の影響に外ならぬ。われらの啓示が古き啓示と相容れぬからとて、一体それが汝にとって何の係わりがあると言うのか。われらの啓示は生々しき響きを以って汝の魂に訴えている。それは汝にも判るであろう。

汝はそれにて喉を潤し、その有難き力に浴している。古き啓示はもはや汝にとっては死物である。生命なき形骸のまわりを何故にうろつきまわるのか。かつては神の啓示に満ちた生ける存在でありながら、今や朽ち衰えんとしている死骸に何故にすがりつくのか。

 聖書にも、イエスの墓のまわりに集まれる悲しみの者たちの霊耳に霊がこう語りかけたことが記されておろう──〝何故に汝らは死者の中に生者を求むるや。彼はすでにここにはいない。彼は甦れり①〟と。そこでわれらも汝に言う──何故に死せる過去、埋葬されたる真理の墓をうろつきまわり、もはや存在せぬものを無益に求めるのか、と。

それはもはやそこには存在せぬ。蘇ったのである。かつて変転きわまりなき時代に神の真理を包蔵せしドグマのもとを去ったのである。残れるは空ろなる宝石箱のみ。宝石はもはやそこには存在せぬ。生命は蘇ったのである。そして、見よ! われらは汝にその蘇れる崇高なる真理、より気高き教義、より聖なる神を説いているのである。

 かの古き時代に神の命(めい)を担いし地上の使者とその世代に語りかけた同じ声が、今、汝と汝の世代に語りかけている。いつの時代にも同じなのである。神は今も昔も全く同じように人間を扱われる。すなわち、より多くの光、より高き真理へ導かんとされる。

その神の声に従うか否かは人間の意志に任される。神を求める崇高なる志の者にとっても、古きもの、親しめるもの、歴史あるものは棄て難き魅力があり、それが一つの関所となる。その最初の迷いの中で彼らは古きもの、大切にせるものを全て葬り、新しきもの、未知なるものを受け入れねばならぬと悟る。

それは一つの死を意味するかに思える。然して人間は死を恐れる。確かにそれはまさに死である。が生へ向けての死である。暗き墓場を通り抜け、生と希望へ辿り着く通路である。

肉体の死によりて霊がその束縛より放たれて自由になる如く、古き信仰の束縛より解放された魂は自由へと飛躍する。それはまさしくイエスの言える唯一人間を自由にするところの真理による自由②である。汝には今は理解できぬかもしれぬ。が、いずれ悟る日も来よう。

 これがわれらの切なる声である。汝は何故に死せる過去へ目を向けるのか。生気溢れる現在、そして輝ける未来があり、豊かな祝福を約束しているではないか。われらの述べるところが古(いにしえ)の教えと矛盾するからとて、それが汝に何の係わりがあると言うのか。

古き教えにはすでに汝にとって生命はなく、その失われたる生命を再び吹き込むことは出来ぬ。それは今なおその教えに意義を見いだす者に任せるがよい。そして汝はより高き真理へ向けて、神の植えつけ給いし真理探求心の衝動に従いて迷うことなく歩を進めるがよい。死せる過去と決別せよ。それは新しき現在を通過し未知の未来へ進む、その通路でしかない。

 もっとも今の汝にとっては、そうとも言えぬようじゃ。汝にとってはその過去が未だに魅惑があり、われらの説く新しき教説は古き信仰を根本より破壊するとの説に加担している。イエスがそう述べたとでも言うのであろうか。

イエスはモーセの訓えの全廃を説いたのであろうか。前にも述べた如く、われらの教説は、イエスの訓えがモーセの訓えに比して取り立てて、驚異的ではなかったように、イエスの訓えに比して取り立てて驚くほどのものではない。

われらが汝に理解を要求しているのは古き教説との矛盾ではなく、その完成である。より十全なる成長である。より広き知識の発展である。

 イエスがその新しき信仰を説いた時の時代的背景をよく考察すれば、多くの点において今日と共通したものを見いだすであろう。繰り返すことになるが、かのパリサイ派の形式主義やサドカイ派③の無関心主義に比して、イエスの訓えが取り立てて驚くべきものではなかった如く、われらの説く教説は決して今日宗教として流布しているものに比して取り立てて驚くべきものではない。当時は当時なりに新しき啓示を必要とした。

そして今は今なりの新しき啓示を必要としている。ただ、古きものを愛し、慣れ親しみたる道に波風の立つことを望まぬ者にとってわれらの言説が忌々しきものである如く、当時の宗教家にとってイエスの訓えがけしからぬものであったまでである。


 今も同じであるが、当時その時代的要請にあわせて授けられた啓示のまわりに夾雑物がこびりつき、せっかくの啓示が意味も生命もなき、ただの宗教的儀式の寄せ集めとなり果てていた。以来、久しく神の声は聞かれることがなく、人間は新たなる啓示の出現を待ち望んだ。今日とまさに同じである。

古き信仰は死物と化し、人間は新たなる生ける神の声を聞かんと欲した。それがイエスによってもたらされた。人々の想像もせぬ人物──およそ学究的パリサイ派からは敬意を払われず、傲慢なるサドカイ派に容れられる見込みなき人物から神の声がもたらされた。

そしてそれが全世界に広がり、一八〇〇年間にも亙ってキリスト教会の宗教的生活を動かしてきた。然るにその教義は今や堕落し果てた。が、イエスが身をもって示せる犠牲的精神は今なお生き続けている。

今こそ要請されるのはその精神に新たなる息吹を吹き込むことである。さすれば金科玉条と思い込んできた夾雑物が取り除かれた量だけ一層真理の輝きを増すことであろう。


 われらの啓示の源は民衆によって〝ナザレの大工〟と蔑(サゲス)まれたイエスの使用せる霊力の源と少しも違わぬ。民衆はイエスに思いのたけ侮蔑を浴びせた。大衆はいつの時代にもそうである。新しきものを嘲笑するのである。

彼らはイエスのおこす奇跡には目を見張った。目に見える驚異を見んと大挙して押し寄せた。が、その現象が意味するところの霊的教訓を理解するほどの霊性は目覚めていなかった。

それは今でも同じことである。われらの演出する交霊会の現象にはイエスの時代の民衆と同じ驚きをもって興味を示す。が彼らは十字架上のイエスに向いて〝その十字架から降りてみてはどうか。もし降りられたらお前を信じてもよい〟と言い放ちて、証の上にさらに証を求めた如く、今の民衆も完璧なる確信を得るためのテストを次から次へと求める。

民衆はイエスを〝ペテン師めが!〟と罵った。罵声を浴びせてその地域より追い出した。イエスが彼らの中にいることを忌み嫌ったのである。確かに新らしき訓えであったことは事実である。が、その中身は従来と変わらぬ神の真理であった。

その説き方、その理解の仕方を改めたにすぎぬ。われらの説く教説もまた今の時点においては新しきものかも知れぬ。が、いずれ時の経過と共に、それが従来と同じ神の真理を復活させ、永遠の息吹を吹き込んだに過ぎぬことが理解される日も到来しよう。

 われらの説く神の真理は、イエスがあの時代──地位と身分ある教養人すなわち〝パリサイ派や為政者〟の中に一人でもお前の言うことを信じる者がいるかと冷笑的に言われた時代──に説ける真理と同じく、汝らにとっていささかも奇異なるものではない。

どちらも連綿たる同じ真理の流れを汲むものであり、それを希求するものの要求と渇望に合わせて説かれているに過ぎぬ。ニコデモ④の気持ちを察するがよい。

そして、それを汝らの時代の同じ立場にある人々のそれと比べてみるがよい。ユダヤの死せる信仰に新生の息吹を吹き込み、神の観念をより鮮明に啓示せる同じ霊力が、今まさに瀕死の瀬戸際にあるキリスト教信仰に新しき生命を吹き込み、神の観念をより鮮明に啓示せる同じ霊力が、今まさに変死の瀬戸際にあるキリスト教信仰に新しい生命を吹き込み、エネルギーと活力とを蘇らせることが出来ることを信ずるがよい。

 全知全能なる神の導きと祝福のあらんことを。
                            ♰ イムペレーター



〔註〕
(1)ルカ24‐5
(2)ヨハネ 8‐32
(3)the Sadducees パリサイ派と対立するユダヤ教の一派で、モーセの律法を字句どおりに解釈し、霊魂の存在を認めなかった。
(4)Nicodemus パリサイ派の一人で議員でもありながら、イエスの隠れた弟子でもあった。




シアトルの夏 永続性があるのは唯一、愛の絆だけです

シルバーバーチの霊訓―霊的新時代の到来
The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)




数十年にわたる交霊会でシルバーバーチに出された質問は、ありとあらゆる分野にわたっていて、文字どおり数え切れないほどであるが、本章が証明するように、シルバーバーチはそれらに対して実に当意即妙に応答している。念のために付け加えておくが、霊媒のバーバネルはその質問について前もって知らされたことは一度もない。


さて、シルバーバーチの霊言はすでに何冊か読んでいるというその日のゲストが、睡眠中にどんなことが起きているのかを尋ねた。するとシルバーバーチが間髪を入れずこう答えた。


「睡眠中の皆さんは、ただの生理的反応から霊的な活動にいたるまで、さまざまな体験をしておられます。あまりにも多種多様であるために、その中から特定して、これは生理的なもの、これは霊的なもの、といったはっきりした判断ができないだけのことです。

睡眠の目的そのものは単純です。身体は一種の機械です。実にすばらしい機械で、地上のいかなる技術者にもこれほど見事な機械はつくれませんが、機械である以上は休ませることが必要です。そうしないと機能を維持することができません。

大切なのはその身体の休息中に、霊がその身体から脱け出て活動しているということです。まさに、人間は毎晩死んでいるといってもいいのです。わずかに銀色の紐(シルバーコード)(魂の緒)によってつながってはいても、霊は完全に身体から脱け出ています。そのコードは実に柔軟な性質をしていて、霊はその束縛なしに完全に肉体から解放されています(※)。

その間におもむく先は、それぞれの霊的成長と進化の程度に似合った環境です。が、それがどこであれ、そこでの体験は地上世界の時間と五感の範囲からはみ出たものばかりですから、脳という物的器官では認識できないのです。

シルバーコードが完全に切れて霊界の住民になってしまえば、そうした睡眠中の体験のすべてを思い出すことができるようになりますが、今は断片的にしか思い出せません。霊界ではそれが通常となるわけです」


※――ここで言っているのは心身ともに健全な状態での話であって、病気だったり心配事が根強いと魂の緒が硬直して伸びきらないために、霊体が脱け切れずにウトウトとした状態が続いたり、完全な不眠症になったりする。

「霊界ではお互いをどう呼びかけ合うのでしょうか」


「こちらへ来て、完全に地上圏から脱すると、それまでの霊的成熟度に似合った名称が与えられます(※)。したがって、その名称で霊的成長と進化の程度が知れるわけです。が、名前そのものにこだわることはありません。お互いに有るがままに認識し合っています」


※――シルバーバーチがこんなことを言うのは初めてであるが、名前といっても音声と文字で表現されている地上の姓名とは本質的に異なる。それと同じ意味でのことばも、実は、ある。シルバーバーチが霊界ではことばはいりませんと言っているのは、誤解を避けるためである。『ベールの彼方の生活』の中で通信霊が霊界での名前が地上のことば(この場合は英語のアルファベット)でうまく表現できなくて困る場合がよくあり、各界層に特有のことば、つまり観念や意志の伝達手段があることを明確に述べている。

「人間は現在の人種と異なる人種に生まれ変わることがあるというのは本当でしょうか。もしも本当だとすると、愛する者とも別れ別れになることになり、大変な悲劇に思えるのですが……」


「そういう考え方は、再生というものの真相を正しく理解していないところから生じるのです。決して悲劇的なことは生じません。そもそも地上的な姻戚関係というのは、必ずしも死後にも続くとはかぎらないのです。イエスが地上にいた時、まわりの者が「お母さんがお見えになってますよ」と言ったのに対して、「いったい本当の母とは誰なのでしょう? 本当の父とは誰なのでしょう?」と問うたのをご存知でしょう。

自我のすべてが一度に物質界へ生まれ出てくることは絶対にありません。地上で“自分”として意識しているのは、本来の自我のほんの一かけらにすぎません。全部ではないのです。その小さなかけらの幾つかが別々の時代に別々の民族に生まれ出るということは有り得ることです。すると、それぞれに地上的血縁関係をこしらえることになり、中には幽体の次元での縁戚すらできることもありますが、それでも、霊的な親和関係は必ずしも存在しないことがあるのです。

永続性があるのは、唯一“愛の絆”だけです。血のつながりではありません。愛があり、血のつながりもある場合は、そこには魂が求め合う絆がありますので、両者の関係は死後も続きます。が、血のつながりはあっても愛の絆がない場合は、すでに地上にある時から霊的には断絶しており、こちらへ来ても断絶のままとなります」

「支配霊や指導霊は生涯を通して同じなのでしょうか、それとも霊的成長にともなって入れ替わるのでしょうか」


「それは仕事の内容によって異なります。たとえば支配霊――わたしたちはグループないしは霊団を組織していますから、その中心になる支配霊がいます――は言わば代弁者(スポークスマン)として選ばれた霊で、ある特定の霊媒現象を担当して、当人の寿命のあるかぎりその任に当たります(※)。成長過程の一時期だけを指導する霊は、その段階が終わって次の段階に入ると、入れ替わって別の指導霊が担当します」


※――ここは自分のケースを念頭において述べている。シルバーバーチはバーバネルの守護霊ではない。このあとの守護霊に関する注釈を参照。

「あなたは大霊は“摂理”であるとおっしゃりながら、祈りの中では“あなた”と呼びかけておられます。これは人間的存在を意味する用語ですから“矛盾”と受け取る人も多いのではないでしょうか」


「その辺がことばの難しさです。無限で、言語を超越しているものを、限りある言語で表現しようとするのですから……。そもそも霊とは物質を超越したものですから、物質界の言語では表現できないのです。小は大を兼ねることができません。

わたしたちにとって大霊とは、この全大宇宙とそこに存在するもの全てに責任を担う摂理であり、知性であり、力です。男性でも女性でもありません。皆さんが想像するような人格性はありませんが、かといって人間と無縁の存在という意味での非人格的存在でもありません。

あなた方もお一人お一人が大霊の不可欠の要素であり、大霊もあなた方の不可欠の要素なのです。その辺を理解していただこうとすれば、どうしても地上的な表現を用いざるを得ないわけですが、用いているわたしの方では、ことばを超えたものを表現することの限界を、いつも痛感させられております」

「創造主である大霊は、自分が創造したものの総計よりも大きいのでしょうか」


「そうです。ただし、創造は今なお続いており、これからも限りなく続きます。完結したものではありません。これからも永遠に続く営みです」

「ということは、大霊も完成へ向けて進化しているということでしょうか」


「進化という過程で顕現している部分はその過程を経なくてはなりません。なぜなら、宇宙は無限性を秘めているからです。その宇宙のいかなる部分も大霊と離れては存在できません。それも大霊の不可欠の要素だからです。とてもややこしいのです」

「死んで霊界入りする日(寿命)は何によって決まるのでしょうか。定められた日よりも長生きできないとしたら、心霊治療でも治らないことがあるのも、その辺に理由があるのでしょうか」


「おっしゃる通り、それも理由の一つです。霊がいつ物質に宿り、いつ物質から離れるかは、自然の摂理によって決まることです。とくに死期は故意に早めることが可能ですが、それは自然の摂理に反します。

人間は、脳の意識ではわからなくても、いつ生まれいつ死ぬかは、霊の意識ではわかっております。肉体から離れるべき時――これは生命の法則の一環として避けることはできません――が訪れたら、いかなる治療も効果はありません。一般論としての話ですが。

忘れないでいただきたいのは、心霊治療というのはきわめて複雑な問題でして、根本的には身体の病気を癒やすのが目的ではなく、魂の成長を促すためのものだということです。魂の体験としては病気も健康も必要です。物議をかもしかねない問題ですね、これは」

「病気も必要というところが引っ掛かります。病気を知らない生活が送れるほど完成された時代も到来すると私は信じます。あなたのおっしゃる病気とは、摂理を犯すこと、と受け止めてよろしいでしょうか」


「人間はいつになっても摂理に違反した行為をいたします。もしも完全に摂理と調和した地上生活を送ることができれば、それは地上で完全性を成就したことになりましょうが、完全性の成就は地上では有り得ないのです。なぜなら地球そのものが不完全だからです。

地球は学習のために通う“学校”です。その学習は、比較対象の体験による以外には有り得ません。日向(ひなた)と陰、嵐と凪(なぎ)、愛と憎しみ、善と悪、健康と病気、楽しみと苦しみといった相反する体験を通して学習していくのです。相対的体験と、その中での試行錯誤の努力を通して、魂が磨かれていくのです」

「そちらから人間をご覧になると、われわれが肉眼で見ているのと同じように見えるのでしょうか、それとも、肉体は見えずに霊体だけが見えるのでしょうか」


「有り難いことに、肉眼で見るようには見えません。わたしたちの目には皆さんは霊的存在として映じております。肉体は薄ぼんやりとしています。こうして霊媒の身体に宿って、その肉眼を通して見る場合は別です。その間は物質の次元にいるわけですから」

「ある人は霊界には無数の“界層”があると言い、ある人は七つしかないと言うのですが、どちらが本当でしょうか」


「霊的なものを物的な用語で定義することはもともと不可能なのですが、この“界層”という用語も誤解を招きます。霊界には地理的な仕切りはありません。“意識の状態”があって、魂が進化するにつれて意識が高まる、ないしは深まっていくことの連続です。一つの意識状態と次の意識状態とは自然に融合しております。そこに仕切り線のようなものはありません。進歩とか開発とか進化というのは、一足跳びにではなく、粗野な面が少しずつ取り除かれて、霊的な側面が表に出てくるということの連続なのです。

むろん未開な時代には、死後の世界は地上と同じように平面的な場所で、地上より高い界層と低い界層があるといった説き方をしたのはやむを得なかったことです。が、死後の世界は宇宙空間のどこかの一定の場所に存在するのではありません」

「病苦がカルマのせいだとすると、それが心霊治療によって治った場合、そのカルマはどうなるのでしょうか」


「そのご質問は論点がズレております。病苦がカルマのせいであれば、そのカルマが消滅するまでは病苦は除かれません。それ以外には考えようがありません」

「ある敬虔(けいけん)なクリスチャンで、とても立派だった女性が、死後、ある霊媒のところへ戻ってきて、ずっと薄闇の中にいて堪(たま)らないと、救いを求めておりました。あれほどの立派な方がなぜ薄闇の中にいるのか不思議でならないのですが、死後の存続の事実を知るチャンスがなかったからなのでしょうか」


「もしもその霊の出現が本もので、ほんとに暗闇ないしは薄闇の中に閉じ込められているとしたら、それは自分の魂の進化の程度の反映です。摂理はごまかせません。そして、“永遠不変の善”の規準は必ずしも“地上の善”とは一致しません。地上には、人間が“悪”だと決めつけているものでも、霊的観点からすれば“善”に思えるものが沢山ありますし、逆に、人間は“善”だと思っているものでも、わたしたちから見れば“悪”だと言いたいものが沢山あります。

たとえばキリスト教では、自分たちで勝手にこしらえた教義を盲目的に受け入れた人のことを善人のような言い方をします。が、実は、それは人間の宗教性の本質を窒息死させる行為にも等しいものです。なぜかと言えば、それではその後の人生は何をやっても“善人”であることを保障することになるからです。自分では正しいと信じていても間違っております。

そういう人工的な規準とはまったく関係のない“基本的善性”というものが存在します。あとに残るのはその基本的善性の方です。倫理・道徳には二種類あります。政治的道徳、経済的道徳、伝統的道徳といった類が一つ。もう一つは霊的要素によって決まる道徳です。あとに残るのは霊的要素のみです」

「“聖痕(スティグマ)”などの現象をスピリチュアリズム的にどう解釈したらよいのでしょうか」


「これは、大体においてその人のサイキ(※)の領域に属する現象です。熱烈な信仰心が精神に宿る心霊的要素を動かして、キリストのはりつけの時の傷跡などが斑点となって、その人の肉体に現れることがあります。物質的なものでないという意味では超常現象といえますが、霊の世界とは何の関係もありません」


※――Psyche元来は精神ないしは心の意味であるが、精神のもつ不思議な力をさすことが多い。これからサイキック(心霊的)という用語ができたのであるが、シルバーバーチはそれをスピリチュアル(霊的)と区別し、どちらかというとサイキックなものへの過度の関心を戒めている。スプーン曲げとか硬貨の溶解現象といった、最近、日本ではやっている超能力現象は純然たるサイキの領域に属するもので、未開人によるまじないや雨乞いに作用するエネルギーと同次元のものである。スピリチュアルなものと違って霊格や人格とは何の関係もなく起きるものであるから、そういう能力をもつ人を尊敬したり、自分にそういう能力があることを知って偉くなったような気持ちになるのは危険である。

「霊界通信には、内容的に正反対のことを言っているのがありますが、なぜそうなるのでしょうか」


「霊とはいえ人間的存在です。叡智の頂上をきわめた大天使と交信しているのではないことを知ってください。霊界にはさまざまな発達段階の存在がいて、それぞれに体験が異なりますから、当然、伝える情報も異なってきます。同一の霊からの通信でも、その後の体験によって違ったことを言うことも有り得ます。

他界する際に霊界についてある種の固定概念をもってくる人がいます。そういう人は、その固定観念を抱いているかぎり、そういう環境の中にいますから、交霊会などで意見を述べる機会があれば、その段階での見解を述べることになります。しかし、基本的なことに関するかぎり、矛盾はないはずです」

「スピリチュアリストの中にも相変わらずイエスは神の代理人で救世主であると信じている人がいます。これはスピリチュアリズムの七大綱領(※)と矛盾しませんか」


※――英国の女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンの霊言で述べられたもので、(一)神は全人類の父である。(二)人類はみな同胞である。(三)霊界と地上との間に霊交がある。(四)人間の霊は死後も存続する。(五)人間は自分の行為に自分が責任を取らねばならない。(六)地上での行為には、死後、善悪それぞれに報賞と罰が与えられる。(七)いかなる霊も永遠に進化する。以上の七つのうちの(二)と(五)に矛盾すると言っているのであろう。


「わたしは、何事にも寛容的で自主性を重んじるべきであるとの考えから、いかなる信条であれ、そう信じるのだという人にはその道を歩ませ、そうでないという人には、その人の信じる道へ行かせてあげればよいと考えています。信条はどうでもいいのです。教義は大切なものではありません。大切なのは“真実”です。が、地上であれ、霊界であれ、無限の真理のすべてを知り尽すことはできません。ほんの一部しか見えないのです。そして、知れば知るほど、まだまだ知らねばならないことが沢山あることを自覚します。そこで、ますます寛容的になっていくのです」

「バイブルには“神を恐れよ”とありますが、なぜ恐れねばならないのでしょうか」


「“おそれる”という用語の解釈の問題でしょう。神を怖がりなさいという意味ではないと思います。“畏(おそ)れ敬(うやま)う”という意味もあります」

「同じくバイブルの〈主の祈り〉に“悪魔の誘惑に負けませんように”とありますが、これをどう思われますか」


「これは間違いです。悪魔が誘惑するのではありません。自分にそういう要素があるから悪の道にはまるのです。

ここで一言、わたしが感じていることを述べさせていただきますが、こうした質問をお聞きしていると、まだまだ霊的真理がわかっていらっしゃらないようです。いまだに用語や書物や教会に縛られています。わたしたちはそういうものには一切こだわりません。本来が霊的存在である皆さんは、大霊と同じく無限の存在であり、そういう子供っぽい概念から早く脱け出ないといけないと申し上げているのです。

永遠に変わることのない真理を理解しないといけません。それは、古い言い伝えにこだわり、教義や用語や書物を手放すのを恐れているかぎり、できません。そこで、オモチャは幼児の段階では役に立っても、大人になったら、いち早く片付けないといけません」

「霊能開発の修行中の者が霊の救済活動に手をかけることについてはいかがでしょうか」


「未熟な霊媒がそういう重大な仕事に手をつけるのは実に危険で、感心できません。暗闇の中で迷っている霊を救うには、高度な霊能を身につけた霊媒を必要とします。未熟な霊媒だと、その霊媒自身が憑依されて、いろいろと厄介なことになりかねません」

「守護霊についてお話し願えませんか」


「霊が地上へ誕生してくるに際しては、一人の守護天使(※)がつけられます。それは地上でいう“家系”を同じくする者である場合もあれば、“霊的親和性”(霊系)によって選ばれる場合もあります。いずれにしても、両者を結びつける何らかの共通の利益というものに基づいております。

しかし、両者の関係がどこまで親密となるかは、地上の人間の霊的成長しだいで決まることです。守護霊の働きかけをまったく感受できない場合は、霊力を使用して外部環境から操作せざるを得ません。意識的協力が不可能な場合は、無意識のうちにでも協力関係をもたねばなりません。霊界からの働きかけは霊的にしかできませんから、いつどこであろうと、条件が揃った時にその影響力が届けられるように配慮するわけです」


※――Guardian Angel 日本では守護霊と呼び、その守護霊の守護霊、そのまた守護霊とたどっていくと、そうした“類魂”の大もとに行き着く。これを守護神と呼ぶことがある。

いずれにせよ、英語でも日本語でも“守護”という用語が使われているために、何でもかでも“守ってくれる”と誤解されがちであるが、地上にいる当人の成長と進化が絶対的な目標であるから、そのために最も効果的な手段を取ろうとする。それが当人にとっては辛く苦しい体験に思えることもある。

もう一つの誤解は、じっと付き添って見つめてくれているかに想像することである。実際は高級霊ほど仕事が多くて一刻の休みもなく活動している。その中で守護霊としての仕事を引き受けるのであるから、それは兼務の形になり、直接的な仕事は指導霊にまかせることが多い。それでいて当人の心の動きの一つ一つに通じている。

シルバーバーチは霊言現象のための指導霊であり支配霊であって、バーバネルの守護霊ではない。守護霊は別にいたはずで、“わたしよりはるかに霊格の高い方たちの指示により……”といったセリフが見えるので、たぶんその中の一人であろうと私は見ているが、六十年間、一度も表に出なかった。ここにも、シルバーバーチ霊団の次元の高さがうかがえる。

「霊界でも子供の出産があるのでしょうか」


「わたしは一度も見たことがありません。誕生といえるものならあります。しかし、それは霊的復活のことです。出産は地上だけの出来事です。地上は学校だからです」

「ホメオパシー(※)の謎について教えてくださいませんか」


※――Homeopathy 同種療法・同毒療法と訳されている医学用語で、病気の原因物質と同じものを少量だけ使う治療法。


「“謎”というべきものではありません。よくわからないだけのことです。生命の営みについて、われわれもあまり多くを知りません。造化の秘密もまだわかっておりません。何事も、究極のところまでくると“なぜか”はわからないのです。

ホメオパシーも究極的には一種の霊的エネルギーに基づいております。すべてがそうだとは言い切れませんが、突きつめていくと、無限小の世界へ入って行きます。そして、行きつくところまで行きつくと、やはり全生命の根源にたどりつきます。結局それが根源です。

別の側面からみると、この問題も、作用と反作用とは同じであると同時に正反対である、という科学的原則に基づいております。同種と異種とは作用と反作用であり、同じであると同時に正反対、つまり同じ棒(ポール)の両端ということです。“ゲッセマネの園”(※1)は同じポールの一方の端であり、もう一方の端が“変容の丘”(※2)というわけです。両者とも同じ一本のポールなのです」


※1――イエスが苦悩と裏切りにあったオリーブ山のふもとの丘で、人生における最大の苦難の象徴。


※2――イエスがモーセとエリヤの霊と交霊した丘のことで、その時イエスはこの世の人間とも思えない神々しい姿になったという。物的なもの、世俗的なものを克服した霊的勝利の象徴。

「人を殺(あや)めた人が、その後バチが当って殺されたとします。この場合、その人は死んでから改めて殺人行為の償いをさせられるのでしょうか」


「残念ながらご質問者は、霊的生命についてよくご存知ないようです。宇宙は、変えようにも変えられない絶対的な自然法則によって支配されております。その中でも原因と結果の法則(因果律)が基本となっております。つまり結果にはそれ相当の原因があり、原因のない結果というものは有り得ない――言いかえれば、原因はそれに先立つ原因の結果であり、その結果が原因となって新たな結果を生んでいくということです。

このように、各自の運命は自然法則によって決められていくのです。その法則の働きは当人の魂に刻み込まれた霊的成長度に反応します。あなたは今あるがままのあなたです。こうありたいと装ってみてもダメです。地上生活中に行ったことが、すべて、真の自我に刻み込まれています。その行為の価値が魂を豊かにもし、貧しくもします。あなたみずから行ったことが、そういう結果を生んでいくのです。

死によって物的身体から離れると、魂はそれまでに到達した進化の程度をスタートラインとして、新しい生活に入ります。それより高くもなっていませんし、それより低くもなっていません。自然の摂理があらゆる要素を認知しているからです。公正が行きわたるように摂理が自動的に働くのです。

罰せられるのも報われるのも、すべてあなたの行為一つ一つが生み出す結果の表れです。自分の行為によって成長する場合と、成長を阻害される場合とがあるということです。以上がわたしたちの説く教えの核心です」

「天体が人間の宿命や日常生活に影響を及ぼすという占星術の考えを肯定なさいますか、否定なさいますか。もともと占星術は運命判断を目的としたものではないという認識の上での話ですが……」


「わたしは、地球上の天体も、地球上の人間の生命に影響を及ぼしている事実は認めますが、それは、あくまでも物的影響力をもつ放射物に限られています。

その放射物が何であれ、それが霊力をしのぐほど強烈であったり強大であったりすることは有り得ないと信じます。あくまでも霊は物質より上である――霊が王様で物質は従僕である、というのがわたしの考えです。

宿命とおっしゃいましたが、何もかもあらかじめ定められているという意味での宿命はないと考えています。これも用語の問題――宿命という用語をどう定義するかの問題です。宇宙はあくまでも秩序によって支配されていて、人間生活の重大な出来事もその計画の一部であるという意味では、あらかじめ定められていると言えると思います。

そうした宿命的な出来事を生み出す波動や放射物、そしてそれらが人間各自に及ぼす影響を正確に計算しようと思えばできないことはないはずですが、最終的にはやはり霊が絶対優位にあり、物的なものは霊的なものに従属したものであると主張いたします」

「よく問題となる霊と物質との結合の時期を一応受胎の瞬間であるとした場合、その受胎までは霊ないし意識体はどこで何をしていたのでしょうか。そもそも意識体というのは何なのでしょうか」


「生まれ変わり(再生)のケースは別として、霊は、物質と結合する以前から存在していても、その時はまだ個体性はそなえていないということです。物質と結合してはじめて人間的個性(パーソナリティティー)が発生するのです。そして、そのパーソナリティーの発達とともに内部の個的大我(インディビジュアリティー)が顕現されてまいります。

したがって、ご質問に対する答えは、霊は無始無終に存在していますが、物的身体と結合してはじめて個別性というものを持つことになるということです。ただし、最初に断りましたように、例外として、物的身体との結合が初めてでないケースがあります」

「もしそれが事実で、物質の結合以前には個性がないとなると、霊としてのそうした新しい現象をどうやって意識できるのでしょうか」


「パーソナリティーとインディビジュアリティーとを区別して理解しないといけません。パーソナリティーというのは、永遠の実在であるインディビジュアリティーが地上生活中に見せる特殊な側面にすぎません。インディビジュアリティーとしては霊的意識体は無始無終に存在しております。が、それが地上に顕現するためにはパーソナリティーという地上的形態を持たねばなりません。つまりパーソナリティーというのはインディビジュアリティーが物的身体を通して顕現している部分で、いわばマスクであって、本当の顔ではありません。あくまでも地上だけの人物像であり、内的実在の物的表現にすぎません」

「となると、再生する目的は、そのパーソナリティーを大きくするためでしょうか、インディビジュアリティーの方ではなくて……」


「必ずしもそうとは言えません。再生するのはインディビジュアリティーの別の部分であることがあるからです。その新しい部分による地上体験によって、全体のインディビジュアリティーの開発が促進されるわけです。インディビジュアリティーはパーソナリティーよりはるかに大きいのですが、この“大きい”というのは霊的な意味でのことでして、その意味はどう説明したところで、地上の人間には理解していただけません」

「では、あなたの知っている方で、この地上へ再生して行った人がいますか」


「います、沢山います。ですが、(上の説明でもわかる通り)それを証明してあげるわけにはいきません。わたしの言葉を信じていただくほかはありません。もちろん、否定なさってもかまいません。真理は、否定されたからといって、いささかも影響はうけません」

「キリスト教的伝統の中で生まれ育ちながら、なお真実を求めている人は、キリストをどう理解したらよいのでしょうか」


「ここでもまた用語が問題となります。どの宗教にせよ、一つの宗教的伝統の中で生まれ育った人は、すでに無意識のうちに偏見というものを持ち合わせていますから、そうした問題を不偏不党の立場で論じるのは至難のことです。

“キリスト”という用語はもともとは“油を注がれた人”という意味であって、これまでに油を注がれた人を数え上げれば大変な数にのぼります。が、ご質問者が“ナザレのイエス”のことをおっしゃっているのであれば、あの二千年前の時代と地域環境の中で、人間としての正しい生き方を霊的に、心霊的に、そして物質的に範(はん)を垂(た)れた、すぐれた人物として敬意を表すべきです。

しかし、イエスなる人物は大霊だったわけではありません。大霊がイエスとなって出て来たのではありません。もしも神学で説かれているように、イエスは大霊が物的身体をまとって出現したのだと信じたら、せっかくのイエスの存在価値はなくなり、無意味となります。

かりに完全無欠の大霊がそっくり人間の形態をとって出現したとすれば、その人物が完全無欠の人生を送ったとしても当たり前の話であって、尊敬には値しません。が、皆さんと同じ一個の人物が皆さんと同じように自然の摂理にしたがって生まれ、しかも人間として最高の人生を送ったとなれば、それは人間の模範として、すべての人間の敬意を表するに値する人物であることになります。

啓示というものは、一つの時代、一つの言語に限られたものではありません。あらゆる啓示の始源は一つあるだけです。無限の叡智の宝庫があるのです。太古から現代に至るまでのあらゆる時代に、その国、その民族の条件に合わせて、必要なだけの叡智と知識を啓示する努力が、絶えずなされてきております。その意味でも、過去の啓示にばかり目を向けるのは間違っていることになります。

今この時点で、今いるその場で、永遠の泉からの啓示に浴することができるという事実をよく理解しないといけません」

「今あなたは、大霊だったら完全無欠の人生を送るのは簡単であるとおっしゃいましたが、その言い分だと、神も一個の人間的存在であるという理屈になりませんか」


「ご質問の意味が、神ご自身が人間的形体をまとって出現した――それが、第一だか第二だか第三だか知りませんが、とにかく“三位一体”のいずれかの“位(くらい)”を占めているという神学上の説のことをおっしゃっているのであれば、それは完全無欠の神の化身なのでしょうから、完全無欠の人生を送るのは容易かも知れないが、そんな人生には価値はないと申し上げているのです。ナザレ人イエスの使命の肝心なものが消滅してしまいます。

大霊は人間的な姿格好をしているのではありません。大霊はあらゆる人間的人物像を超越した存在です。ですが、それを人間に説明するためには、わたしは、限りある人間に理解していただける範囲でのことばを使用する以外に方法がないのです」

「“ナザレ人イエス”というのは、結局、何だったのでしょうか。並はずれた霊的才能を持ち、言うこと為すことすべてが背後霊に導かれていた、一個の人間だったのでしょうか。それとも、きわめて霊格の高い高級霊が降臨したのでしょうか」


「どちらも真実です。問題は、イエスの生涯に関する記録はきわめて乏しく、断片的で、その上ずいぶん書き換えられているということです。

イエスの生涯の最大の価値は、心霊的能力と霊的能力(P29参照)を見事に使いこなしてみせたことにあります。心霊的法則と霊的法則を私利私欲や邪(よこしま)なことに使用したことは一度もありませんでした。時には人間性をむき出しにしたこともありましたが(※)、霊的摂理というものを完全に理解しておりました。

歴史的に見れば、彼のような生身の人物による啓示を必要とする時代だったから出現した、と理解すべきです。が、彼がその啓蒙のために使用した霊力は、今あなた方の時代に顕現している霊力とまったく同じものだったのです」


※――不正や邪悪なものを前にした時に見せた激しい怒りのことを言っている。いわゆる義憤であるが、シルバーバーチに言わせれば、動機が何であれ、憤(いきどお)るということは人間的感情であって、その意味でイエスは完全無欠の人生を送ったとは言えないと、別のところで述べている。常識的に考えれば当たり前のことであるが、キリスト教ではイエスを無理やり完全無欠な人物にしようとするからそういう言い方をすることにもなったわけである。

「霊能開発に際して、真面目な霊を引き寄せ、邪霊を追い払うにはどうしたらよいでしょうか」


「類は類を呼ぶといいます。あなたの動機が真面目なものであれば、つまり常に最高のものを求め、邪心をもたず、利己的な下心がなければ、親和力の作用そのものが同じような霊を引き寄せます。また、そこには危険性もないことになります。

要するにあなたから出ている雰囲気が、異質なものを近づけなくするわけです。もしも聖人君子に愚かしい霊がつくとしたら、宇宙には摂理がないことになります」

「あなたは、愛する者がいつも私たちといっしょにいてくれているとおっしゃいましたが、その時、彼らは本来の自我の一部ではないかと思いますが……」


「そうです。愛する霊は地上の者を見守りつつ、同時に霊界での生活を営むことができるのです。皆さんのように一個の身体に縛られていないからです。こちらの世界では、意識というものに地上のような制約がありません。皆さんは英国と南アフリカに同時にいることはできませんが、わたしたちにはそれが可能なのです。距離とか行程とかの問題がないからです。

愛する者にとっては、皆さんのもとに来るのは決して辛いことではありません。愛がなければいっしょにいる気にはなれません。愛があればこそ、歩調を合わせて見守る気にもなるわけです」

「霊的な援助は必ず背後霊を通して届けられるのでしょうか――大霊が直接関与するのではなくて」


「大霊による直接の関与などというものは絶対にありません。あなた方が想像なさるような意味での人間的存在ではないのです。

そうではなくて“ヤコブのはしご”(旧約聖書)の話に象徴されているように、最低のものから最高のものへと至る霊的階梯があって、そこに無数の中間的存在がいるのです。上へあがるほど、より神性を帯びた意志と叡智を表現しております。

ですから、人間が心を開き、霊性を開発し、向上するにつれて、より大きな霊力、より大きな知識、より大きな理解力をそなえた高級な存在と連絡が取れるようになるわけです。みな大霊の僕(しもべ)として、この全大宇宙の人間的存在の向上を援助する仕事に、自発的にたずさわっているのです。こちらの世界では、進化向上が進むほど、自分が得たものを他に施すべきであるとの自覚が強くなるのです。

以上がご質問に対するわたしの答えです」

「霊界にも学問のための建造物があるのでしょうか」


「もちろん、ありますとも。こちらの教育システムはいたって単純です。ありとあらゆる分野の知識が得られるように、各種のホール、専門学校、総合大学等が用意されています。そこで教える資格をもつ者は、教育者としての才覚をそなえた人にきまっています。

この無限の宇宙の中のありとあらゆるテーマについての知識が得られるようになっていて、教師も、それぞれの分野にふさわしい資格をもっている者が揃っており、受け入れる用意のある人に分け隔てなく与えられます。どの分野だけ、といった制約はありません。受け入れる用意のある人には何でも与えられます。つまり、唯一の条件は魂の受け入れ態勢です。

地上の皆さんでもその知識に与(あずか)ることができます。皆さんにとって興味のあること、成長と開発と進歩にとって必要な情報と知識を得るのは至って簡単なのです」

「“愛”に発した貢献(サービス)と“責務への忠誠心”に発した貢献とでは、どちらが上でしょうか」


「それは、その“貢献”がどういう性質のものであるかによって違ってきます。その動機を探らなくてはなりませんし、それに、あなたのおっしゃる“愛”とは何かが問題です。愛の最高の形での表現は神性を帯びたものとなりますが、最低の形での表現は利己主義の極致となります。

どんなものであっても、サービスはサービスです。その価値の尺度は、そのサービスを受けた人への作用と、施した人への反作用です。責務への忠誠心に発したものであれば、それはそれなりに立派ですし、愛に発したものも、その愛の対象のみに偏らない、無私・無欲の愛によるものであれば、これまた、動機は立派です」

「心霊治療は別として、スピリチュアリズムの活動は物理的現象を必要としない段階に入ったと言えるでしょうか」


「いえ、いつの時代にも、自分の目で確かめ、手で触れないと気が済まない人、つまり物的次元での証拠を必要とする人のための物的現象が必要です。それは物質以外のものの存在が信じられない人だけに限ったことではなく、五感の領域を超えたものの実在が理解できないように洗脳された科学者についても言えることです。

むろん同じく物的現象でも、時代によって形式の変化はあるかも知れません。が、物的な側面での何らかの形での演出は、いつの時代にも必要です。寄せては返す波のように、歴史はくり返します」

「公開交霊会(※)などで壇上の霊視家が霊からのメッセージを伝える時に“この列の何番目の席の方”といった指摘の仕方でなしに、その方の名前が言えるようになれば、なお証拠性が高まると思うのですが……」


※――シルバーバーチの交霊会のように限定された少人数で行うのを“家庭交霊会(ホームサークル)”といい、広いホールなどで大勢の会衆を前に行うのを“公開交霊会(デモンストレーション)”という。


「もちろん、それに越したことはありません。ですが、バイブルにもありますように、見えるといい聞こえるといっても、人間の能力には限度があります。ご質問者は、霊媒現象というものがその時その場での条件次第で良かったり悪かったりするものであることをご存知ないようです。まず第一に、それまでの霊媒自身の霊格の発達程度がありますし、霊的能力の開発程度がありますし、通信霊が霊媒のオーラとどこまで感応できるかの問題もありますし、支配霊と霊媒との一体関係の程度にもよります。

一つの霊視現象には以上のような要素が絡んでいるのです。問題は、どうすべきかではなくて、その時の条件下でいかにして最高のことを行うかです」

「あなたは、われわれ人間は大霊のミニチュアないしは縮図、未開発の大霊である、といった意味のことをおっしゃったことがあります」こう述べて、続けて質問に入ろうとするとシルバーバーチが――


「あなたは神、わたしのいう大霊であり、大霊はあなたです。発達程度の違いがあるだけです。大霊が所有しているものはすべて、本性(エッセンス)の形であなたにも宿されています。大霊は神性の極致であり、あなたにも同じ神性が宿されています。神性の本質の違いではなく、その神性の発達程度の違いがあるだけです」

「で、その人間がひどい苦痛をともなう精神的障害によって表現機能を奪われているケースがありますが、そんな時は、むしろ早く死なせてあげた方がよいのではないでしょうか」


「その人がいつ死ぬべきであるということを、一体どなたがお決めになるのでしょうか。その責任はだれが取るのでしょうか。この人は二度と正常に戻れませんという判断は、一体だれに下せるのでしょうか。精神と霊とが正常な連絡関係を取り戻して精神的障害が治ってしまう――そういう霊的革新が起きないとは、だれに断言できるのでしょう。

わたしはそういう考えには賛同しかねます。人間が生命をこしらえるのではない以上、その生命を勝手に終わらせる権利は、人間にはありません。次の進化の過程にそなえた体験を積むために割り当てられた期間は、最後まできちんと生きるべきです。ほんのわずかな地上生活でもって永遠の時を査定なさろうとすると、この無限の宇宙について、至ってお粗末でひがんだ観方(みかた)しか生まれてきません」

「そういう行為は、魂に霊的資質を失わせることも有り得るのでしょうか」


「いえ、失うということは有り得ません。表現の器官を失うことによって開発のチャンスを失うことにはなっても、本来の霊的資質を失うことは有り得ません。その分、つまり失われた開発のチャンスは、埋め合わせの原理によって、他の何らかの手段によって与えられることになるでしょう」

「“単純”ということが神の属性であると信じているわたしたちからすれば、霊界の通信者はなぜもっと単純な表現をしてくれないのだろうかと、疑問に思うのです。高級界の神霊のことになると、なぜか直接的な表現を避けるところが見受けられます。たとえば“神”のことを私たちはGod(ゴッド)という用語を用いますが、あなた方はそれを使用せずにGreat White Spirit(グレイト ホワイト スピリット)などと、ややこしい言い方をなさいます」


「複雑で深遠な問題を扱うには、そう単純に片づけられないことがあるのです。たとえば“神”のことをあなた方はゴッドと呼び、わたしたちはグレイト・ホワイト・スピリットと呼びますが、どこがどう違うのか。

わたしにとっては、宇宙の背後に控える無限の力は、“ゴッド”のように、世界中の億単位の人間がそれぞれにまったく異なる概念で使用している用語を用いるよりは、グレイト・ホワイト・スピリット(真白き大霊、ないし無色の大霊、の意)の方が、より正確にその本性を伝えていると考えるのです。単純ということは、それで済まされる場合には大切な要素となりますが、この問題に関するかぎり、わたしはゴッドという単純な用語を避けても非難されるいわれはないと信じます。

高級神霊のことですが、これもなかなかうまい表現が見当たらないのです。わたしが知るかぎり、地上には譬えられるものが存在しません。あなたはご自分と似たような容姿の人間ばかりを見慣れていらっしゃいますが、わたしが光栄にも時おり連絡を取り合うことを許されている高級霊になると、その容姿をどう表現したところで、あなたには理解していただけないでしょう。

“存在”というと、人間的容姿をそなえたものしか想像できない人間に、全身これ光、ないしは炎のかたまり、といった存在をどう表現したらよいのでしょう。伝えようにも、それをうまく表現する用語が見当たらないのです。秘密にしておこうという魂胆があるわけではありません。現在の地上人類の進化の段階では、それとは途方もなく隔たりのある段階の存在は、とても理解できないからにすぎません」

「私の家でサークルをこしらえて、そこへあなたがお出になって人生相談に乗っていただくというのは可能でしょうか」


「それをこの家で行いましょうということで、これまで努力してきたわけです。このわたしを頼りにしてくださるのは有り難いのですが、こうしてしゃべるための霊媒を養成するのに、ずいぶん永い年月が掛かったのです。それがこうして成就されたというのに、また新たな霊媒のために永い年月を掛けるということは、計画の中に組み込まれてはいないようですよ」

「私は霊視能力が欲しいのですが、これまでのところ、うまくいっておりません。熱意が不足しているのでしょうか」


「熱意というのは、あまり強すぎると、えてしてバイブレーションを乱すことがあるものです。健全な能力の開発は、サイキックなものであれスピリチュアルなものであれ、完全な受容性と安らぎと静寂の中で行われるものです」

「献血という行為には何か霊的な意味があるのでしょうか。また、肉体以外にも何か影響はないものでしょうか」


「わたしは、ここで改めて輸血という医療行為に不賛成を表明せざるを得ません。そのわけは、輸血に際して注入されるのは血液だけではなくて、それに付随した幽質の要素も含まれているからです。それは献血者の人間性の一部です。つまり輸血によってその献血者の存在の本性にかかわるさまざまな要素までもが他人に移されることになり、これは、場合によっては好ましくないケースも有り得ます。

人間というのは実に複雑な要素が一個の統一体となった存在でして、入り組んだメカニズムの中で、全体ががっちりとうまく組み合わさっているのです。その大切な要素の一部を他の人間に譲るということは、自然の摂理に反します。なぜなら、肉体と精神と霊の三つの要素の正しい関係の最大の条件である“調和”を乱すことになるからです」

「でも、それによって生命が救われたケースがあるようですが……」


「わたしの気持ちとしては、いかなる方法にせよ、患者を救うという行為の尊さを割り引くようなことは言いたくないのですが、それでも一言だけ言わせていただけば、現在の医学で行われている治療法を絶対と思うのは間違っております。

どうも、医学の世界に不謬(ふびゅう)性のようなものがあるかに考える傾向があるようですね。病気を治す、あるいは生命(いのち)を永らえさせるにはこうするしかないと医者が言えば、それで最終的な断が下されたことになるかに思われているようですが、わたしはそうは思いません。

わたしに言わせれば、人間は本来が霊的存在であり、すべての治療法はその霊性の優位性を考慮すべきであるという原則に立てば、無数といってよいほどの治療法が用意されているのです。肉体というのは霊が使用する機械としての存在しかないのです。

とにかく生命さえ取り止めればいいのだ、という考えに立てば、今の医療行為も正当化されるかも知れませんが、では、そのために行われている身の毛もよだつような恐ろしい、そして人間の霊性にもとる行為は許されるのか、という疑問が生じます」

「生体実験のことでしょうか」


「そうです。目的は必ずしも手段を正当化しません」

「移植手術については、いかがでしょうか」


「患者自身の身体の一部を他の部分に移植するのであれば、結構なことです。生理的要素も幽質的要素もまったく同一のものだからです。ですが、それを他人に移植するとなると、必ずしも感心しません。(人道上はともかくとして)その移植片そのものが問題を生み出すからです。肉体そのものには生命はなく、霊と呼ばれている目に見えない実在の殻または衣服にすぎないことを理解することが、この問題を解決するカギです」

「眼の移植手術をすれば見えるようになるという場合でも、それをしないで、見えないままでいるのが望ましいということになるのでしょうか」


「個々の問題にはそれなりの事情がありますから、それを無視して一般論で片づけるわけにはまいりませんが、わたしたちからすれば、目が見えないというのは、あくまでも相対的な問題としてしか考えておりません。霊的な盲目という問題をどうお考えになりますか。

地上人類の霊的覚醒を使命としているわたしたちの立場からすれば、無数にいる霊的に盲目の人の方をむしろ見下したくなります。そこでわたしは、この問題も当人の魂の進化の程度による、とお答えします。霊的覚醒の段階まで到達している人にとっては、目が見えないということは、別に障害とはならないでしょう。ただ物が見えるというだけの視力よりもはるかに素敵な視野を得ていることでしょう。

皆さんはこうした問題をとかく物的身体の観点からのみ捉えて、永遠という概念を忘れがちです。といって、そのことを非難するつもりはありません。無理もないことだからです。たしかに、目が見えなければ春の華やかさと美しさはわかりません。が、そんなものは、霊の華やかさと輝きに較べれば、物の数ではありません」

「でも、私たちは、今なおこの世界にいるのです」


「その通りですね。ですが、俗世にありながら俗世に染まらない生き方もできることを知ってください」

祈り

愛の絆は死によって切断されることはなく……


ああ、大霊よ。あなたの限りなき愛の深さを誰が測り得ましょう。あなたの奇しき恩恵を誰が説き明かせましょう。あなたの神々しき尊厳を誰が正しく描写し得ましょう。

あなたは限りある理解力を超えた存在にあらせられます。あらゆる限界と束縛とを超越した存在にあらせられます。あなたは無限なる霊――かつて存在したものと、これから存在するであろうもののすべての根源にあらせられるのでございます。

あなたの霊性が“愛”に存在を与え、あらゆる意識的存在にあなたの神性の属性を賦与なされました。人間を理想主義と自己犠牲と奉仕の精神に燃え立たしめるのも、内部に湧き立つあなたの霊性にほかなりません。

このことは、あなたが人間の内部に顕現しておられるということであり、その意味において人間は極微の形態をとった大霊と言えるのでございます。

わたしたちはあなたの子等に、その霊性に秘められた資質と属性と才能のすべてを自覚させてあげたいと望んでおります。その認識なくしては、人間は無知の中に生きていることになるのでございます。武器を持たずに戦場へおもむくのにも似ておりましょう。

それに引きかえ、自己の存在の実相に目覚めた者は、万全の装備を整えたことになり、生きるということの中に美しさと愉(たの)しさと充実感と輝きとを見出すことができるのでございます。

さんさんと輝く陽光のもとに生きられるものを、実在によって映し出される影の中で生きている者が多すぎます。安定性と落ち着きと自信をもたらしてくれるはずの知識を欠くがゆえに煩悶の絶えない人、内なる嵐にさいなまれ続けている人が多すぎます。

わたしどもがこの地上という物質の世界にもたらしたいのは、その霊的実在についての“知識”でございます。それによって地上の子等が真実の自我を理解し、あなたとのつながり、および同胞とのつながりについて理解し、愛の絆は死によって切断されることはなく、情愛によるつながりも血縁によるつながりも、死後もなお存続するものであることを知ることになりましょう。

それもわたしたちの使命の一環なのでございます。その目的のために、これまで一身を捧げてまいりました。少しでも広く真理を普及させることでございます。子等が知識によって武装し、理性によって導かれ、永遠なる霊力の理解のもとに生きることができますように……そう祈るからでございます。



Sunday, August 3, 2025

シアトルの夏  編者まえがき  巻頭のメッセージ

『The Spirit Speaks』Tony Ortzen(1988)




編者まえがき

けさ私は、犬を連れて散歩に出かけた。
「それがどうかしましたか」――そんな声が聞こえてきそうな、どこにでもある話だが、とにかく話の先を聞いていただこう。

私は近くの海岸に沿って歩いた。早朝のことで、はるか彼方の水平線上にかすかにモヤが掛かっている。が、それもやがて日の出とともに消えていく運命にある。

人影はまばらだ。私と同じように犬を連れて散歩を楽しんでいる人が、そこここに見える程度である。が、海上にはカモメが群れ飛んでいる。水面スレスレを飛ぶもの、上空から急降下するもの、大きく翼を広げて旋回をくり返すもの……それらが出す、あの特有の悲しげな鳴き声が、早朝の冷たい風に混じって聞こえてくる。

しかし、そうした小さな動きがくり広げられている、この海という舞台には、泰然自若(たいぜんじじゃく)として、事もなげな趣きがある。そうしたものに超然とした、何か大きな営みを続けている感じがする。それでいて、目に見えるのは寄せては返す穏やかな波の動きばかりで、その波に身をまかせて、赤茶けたのやクリーム色など、色とりどりの小石が退屈そうに行ったり来たりしている。

すっかり日が昇ってから、私はこんどは公園の広場へ出た。ベンチに腰かけて辺りを眺めていると、一羽の蝶が陽光の中でダンスをしているかのように舞っている。辺り一面に季節の気配がする。スイセンが黄色い顔を太陽へ向けている。スイカズラの葉が風に揺れている。チューリップが地面を押し上げて顔をのぞかせている。小鳥が甘くささやき合っている。澄み切った青空を綿のような雲がゆっくりと流れていく。

やがて陽が傾き、たそがれが急ぎ足で近づいてくる。もうすぐ一日もおしまいだ。弱い夕陽の陽だまりで猫がまるくなっている。犬も、今日ばかりはよく歩かせてもらい、よく食べさせてもらったからか、満足そうな顔でしゃがみ込んでいる。が、私の脳裏には、こうした一日の散歩での教訓がよぎる。

何が起きようと、海は満ちては引いていく。太陽は昇り、温もりを惜しげもなく与えては、静かに沈んで、その場をこうこうたる月に譲る。蝶が舞い、小鳥がさえずる。スイセンが、チューリップが、スイカズラが、そのほか無数の植物が大自然の呼び声に合づちを打つかのように、花を咲かせる。犬も猫も、われわれ人間と同じように生まれ、四季おりおりの生活を楽しんでは、遠いようで近い、あの世へ行ってしまう。

私が言いたいのは、要するところシルバーバーチが巧みに、力強く、そしてくり返し説いているように、生命活動はすべて大自然の法則によって支配されているということである。その法則を超えるものは、何一つ、誰一人いないということである。

さて、本書は私にとって(前シリーズから数えて)五冊目になる。編纂しただけであるから、私自身に帰すべき功績は何もない。例によって前シリーズからの抜粋に、“サイキックニューズ”の資料室から新たに取り出して加えた。主として質疑応答の形を取っているものを選んである。

これに私はThe Spirit Speaks(霊は語る)というタイトルを付けた。文字どおり霊が語っているからである。霊媒のモーリス・バーバネルが他界した一九八一年をもって、半世紀にのぼるシルバーバーチ霊の使命も終わったが、その教えは、当時よりむしろ多くの国において、より多くの人々によって読まれていることであろう。

なぜなら、シルバーバーチの教えは、その背景としての根本理念に俗世的な地臭も、宗派的偏見も、人工的障壁も、みじんも見られないからである。

トニー・オーツセン



                                     ~  **  ~  

巻頭のメッセージ

今やこの地上にも、霊力がしっかりと根づいております。その影響力の徴候をそこここに見ることができるようになりました。もう二度と地上から追い出される心配はありません。

過去幾世紀にもわたって、地上に霊力を根づかせようとする努力がくり返し試みられてまいりました。人類のすべてが大霊に近づき、その無限の叡智と知識と愛による恩恵に浴せるようにとの願いからでした。それが、今世紀に至ってようやく成就されたのです。

幾多の障害・障壁・ままならぬ条件が克服されてまいりました。地上世界の至るところに、揺ぎない霊力の砦(とりで)が築かれております。法王が何と言おうと、僧侶が何と言おうと、政治家が何と言おうと、その影響力が地上から消えることは断じてありません。

霊力そのものは永遠・不変に存在しております。それが、その時、その場所、その条件によって、地上への流入が多くなったり少なくなったりいたします。霊力にも満ち引きがあるということです。

が、いついかなる時も、守護霊の任を引き受けた霊との愛の絆があなた方に霊力を引き寄せ、温かく包みこんでいることを忘れないでください。

シルバーバーチ

Saturday, August 2, 2025

シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

十二節

著者の苦衷と不信──回答──根源的過ちは神と人間との関わりについての誤解  悪魔──邪霊は自らが招く


〔本質においてプライベートなことを公表するのは決して私の本意とするところではないが、それを敢えてこうした形で公表するのは、一人の人間の思想的経験が他の大勢の人々の経験となり得るであろうし、私が辿って来た精神的ないし霊的葛藤の過程が、同じような過程を辿っている人々にとって参考になるかも知れないと考えたからである。

 さて、その後数日間、そうした霊による宗教上の教訓の問題に関する通信が途絶えていたが、私の胸には以前にも増してさまざまな疑念が湧き起こり、それを遠慮なく書かせて貰った。

当時の私の心境を思い起こすと、イムペレーターの通信を読んで途方に暮れ、茫然自失の状態にあったようである。そんな目新しいものを受け入れる余裕はとてもなかった。そして私にとって最も気がかりだったのは〝霊の身元〟であった。

その時の私の考えでは、霊の教説を云々するよりも、霊の地上時代の身元を明かしてくれる方が先決のように思えたのである。またそれ位のことは出来るはずだと信じていたので、それが叶えて貰えないことに焦燥を覚えたのである。

今でこそ理解できるが、先ず獲得すべきなのは〝確信〟であって、私が期待したような形だけの身元の証明ではその確信は得られないことが、当時の私には理解できなかったのである。

 私を悩ませたのは、いわゆる霊界通信の多くが決して有害とまでは言わないにしても、愚かしく且ついい加減なものであると言う印象を拭いきれないことであった。私はそれをキリスト教の思想家の教説と比較してみたが、やはり後者の方が上であった。

また私には霊の見解の中に大きな矛盾があり、あらゆる思想が混ざり合っているようにも思えた。個人的にもその殆どに共鳴できないし、それを受け入れる人にプラスになるとも思えなかった。これを信じるものは狂信家か熱狂者の類であると想像し、不快感さえ感じていた。

内容的にも、また交霊会における現象にも大して魅力を覚えず、私は先に述べた疑問点を書き連ねた。それは主として地上時代の身元の証明に関するものと、神と人間との関係(つながり)、及びスピリチュアリズムの一般的性格とその成り立ちに関するものであった。次がそれに対する回答である──〕


 友よ、再び汝と対話を交えることを嬉しく思う。そして、たとえこの機会に汝の質問の全てに答えることが出来ず、またすべてを解決し得ずとも、神と人間との関係並びにわれらの背負える使命について汝が抱いている誤解の幾つかを解くことが出来るであろう。

 汝の誤解の根源は神及び神と人間との関係についての誤れる概念に在るやに観ぜられる。人類の歴史を通じ、唯一にして同一の神の啓示が一貫して流れていることに間違いはない。が、人間がその啓示を理解せんとするうちに、愚かにもその本性と働きについて真実より大きくかけ離れた奇々怪々な概念を想像するに至った。

 太古においては、そのお粗末なる概念は物体の形を取り、祈りが叶えられれば畏敬され、叶えられぬ時は即座に棄て去られることの繰り返しであった。彼らは、目の前の物体そのものはなんの霊力も持たず、背後に霊が控えて筋の通れる祈りはこれを叶えさせんとしている事実を知らなかった。

彼らにはそれ以上の神の概念は思いつかなかったのである。目に見え手に触れるものにしか神の概念を託し得なかった。この点を篤と注意するがよい。

彼らの神の概念を託したのである。神そのものではなく、彼らが精一杯想像し得た未熟な概念だったのである。いい加減な占いの結果より情報を引き出し、これを基準に勝手に祭礼の規範を拵え、挙句にはそれを以って神を裁くに至った。

自分らの想像せる神を裁いたのである。彼らは同族の者たちの間で畏敬の的とされる人間的属性を神の属性と考えた。人間から切り離せぬ幾つかの弱点を神も有するものと考えたのである。

 かくして出来あがれる神は全てに先んじて己れの名誉の維持に腐心する神であり、時に我慢強く、時には優しい慈悲心をもつ神であった。所詮は神を語る者がその時に神はかく在るべきと想像せるものであった。

要するにそれは栄光を授けられたる人間──普遍絶対性と全知全能を具えた人間であった。彼らはそういう神を想像し、そういう神ならば斯くするであろうと考えたのであった。かくの如くして、いつの時代においても神の概念にはその時代の特色が反映している。それは人間の成長とともに進歩する。

その知的発達と洗練の度合いに応じて進歩したものとなっていく。ほかでもない。その通路となる霊媒が無知の足枷より解放され、光と知識へ向けて進歩しただけ、それだけ神についての正しき概念を把握することが可能となるが故である。

 神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるということは、これまでも度々述べてきた。当然そうあらねばならぬ。神も人間の霊媒を通じて啓示する以上、その霊媒の受容能力に応じたものしか啓示されぬのが道理である。

神につきての知識が人間の受容度を越えることは有り得ぬ。仮に今われらがより完璧に近き神学を述べたとしよう。それは汝には奇異に響き、理解することは不可能であろう。

故にこれ以後もわれらは徐々に汝の受容度に応じて真理を注入していくであろう。そしていずれは現代の汝の観念の誤りに気づく日も来よう。が、今はまだその時機ではない。神について各自が抱ける概念がすなわちその者にとっての神である以上、啓示がその受容度を越えることは絶対有り得ぬ。事の本質上それは不可能なのである。

 それ故汝が神の働きの真意にまで言及して〝そのようなことは絶対に有り得ない。それでは神の本質に反することになる。神がそのような行為に出られるはずがない。

なぜならあの時も神はそのような行為に出られなかったからである〟と述べるということは、言い換えれば〝私の神の観念はかくかくしかじかであるから、今それ以外の観念は 受け入れるわけにはいかぬ。私の信じるところによれば、私の神はそのような挙には出られないはずである〟と述べていることになる。

われらが指摘せんとするのはまさにそこである。汝は汝自身の神を拵え、汝自身が相応しいと考える通りの働きを神に強要している。そのうち──この地上にせよ死後にせよ──汝の視野が広がるにつれて新たなる光が射し込み、〝なるほど自分は間違っていた。神は自分の想像していたものとはまるで違う。なぜ自分はあのような愚かな観念を抱いていたのであろう〟と述懐する日も到来しよう。

 これは全ての進歩的人間に言えることである。その目覚めの時は必ずしも地上生活中に到来するとはかぎらぬ。ある者は死後の新たな生活まで待たねばならぬ。が、この地上にて洪水の如き知識の恩恵に浴する者もいる。

魂が古き信仰に魅力を失い、無味乾燥に思え、新たな、より真実味のある啓示を求める。干天の慈雨の如く、生命を生き返らせる何ものかを求めんとする。

 さて汝は汝なりの啓示を得た。いや、今まさに手にしつつある。観方によればこれは汝の精神が広がり、その受容力に応じた神の観念の入る余地が出来たしるしと言えよう。が、さらに観方を変えれば、外部より新たにして豊かなる神の啓示──人類の歴史を通じて得られた啓示と同じ根源からの啓示──が流入したと言うこともできよう。

 それはどちらでも構わぬ。啓示と理解力、知識と受容力とは常に相関関係にある。受容力が備わるまでは知識は授からぬし、精神がその不足を意識するほど進化するまでは、より高き啓示は得られぬ。その理由は単純である。精神そのものが啓示を受ける通路だからである。

 汝の抱ける神の観念は、全て人間の精神を濾過器として地上にもたらされたものである。神を求める人間的渇仰の具象化である。未熟なる精神の産物であり、その精神の欲求は必ずしも汝の欲求とは一致せず、したがってその神は──と言うよりは、神についての見解は、汝の見解とは異なる。

それを汝はどうにかして汝の思想構造に適合させんとするが、所詮それは叶わぬことである。何となれば、その観念たるや発達程度を異にするさまざまな人間による産物の混合物だからである。

 よく考えるがよい。汝はわれらの述べるところの観念が、汝が聖なる記録より引き出したる観念と相容れぬことを理由に、われらを神の使徒とは認めぬという。では聞くが、われらの説く神が一体どの神と異なると言うのか。

アダムと共に人間の姿で地上を歩き、何も知らぬ者たちの犯せる罪──今では些細なる過ちに過ぎぬとされている罪──に恐ろしき報復をしたと、まことしやかに語られているその神のことか。それとも、忠実なる友にその一人子を供物として捧げることを命じたという神のことか。

あるいは君主としてイスラエルを支配し、公衆衛生法規の発令と礼拝堂の建立に意を注ぎ、イスラエル軍と共に戦場に赴き、罪なき無抵抗の他民族を全滅させるための残忍この上なき法律と法規を発令したという神のことか。

もしかしてその神は、イスラエル軍が流血と修羅場の中でもうあと数時間戦えるよう、ヨシュアに特別の力を与えて宇宙の運行を止まらせ、太陽系を麻痺させたと言う神のことであろうか。それとも、自分が選べる民イスラエル人が目に見える君主を要求したことに腹を立て、以後何百年にも亙って手を変え品を替えて報復し続けたという、あの神のことか。

 さらに、われらの教えは汝らの言う大予言者の説ける神々のうちのいずれと相容れぬというのか。イザヤの神か。エゼキエルの神か。それともエレミヤの病的な心の産物であるあの陰気なる神か。それともかのダビデの神──半ば父の如く、半ば暴君の如く、残忍さと従順さとを交互に見せ、いつも矛盾と不合理に満ちた神か。

それともヨエルの神か、ヨハネの神か。それともパウロのカルヴァン①主義的な、あの身の毛もよだつ天命と地獄と選抜、それに白日夢の如き物憂げな天国等の幻想のことか。そのいずれと矛盾すると汝は言いたいのか。パウロかヨハネかそれともイエスか。

 改めて述べるまでもなく、神の啓示はいつの時代にもその時代の人間の受容能力に応じたものが授けられ、それがさらに人間の精神によって色づけされている。言い換えれば、神の観念は鮮明度の差こそあれそれを受けた霊感者の考えであったとも言える。


精神に印象づけられた霊示がその霊感者を取り囲む精神的環境によって形を賦与されていった。すなわちその霊感者の受容度に応じた分量の真理が授けられ、それが霊感者の考えによって形を整えたのである。

 真理の全てを授かれる者は一人としておらぬ。みなその時代、その民族の特殊なる要請に鑑みて必要なる分量のみが授けられた。今も引き合いに出せる如く、神の観念が種々様々であるのはそのためである。無論われらとわれらの説く神は、ヨシュアとその神ではない。パウロとその神でもない。

もっともわれらは、その神を最も正しく理解しその真近に生活せるイエス・キリストによって、何も知らぬ民に寓話に託して説かれた曨気な神の観念を、われらの説く神と同列に置いて比較しようとは思わぬ。イエスは弟子の誰よりも鮮明に神を認識していた。

その説くところは極めて単純にして平易であり、真摯であった。その神の教えもまた同じく平易そのものであった。〝天に在しますわれらが父〟──無知なる人間が勝手に神の属性を決めつけ、他愛なき要求を神に押しつけている神学上の学説に比して、これはまた何と言う違いであろう!

 神! 汝は神を知らぬ! そのうち汝も、その目を遮るベールの内側に立てる時、汝が愚かにも想像せる神の観念の誤りを知って驚くことであろう。真実の神はおよそ汝の想像せるものとは異なる。もしも神が汝らの説くとおりのものであるとすれば、その神は創造者としてあるまじき侮辱を受けたとして、それを最初になすりつけたる傲慢無礼な人物に報復すべきところである。

 が、神はさようなものではない。人間のお粗末なる奴隷根性などにて捉えられる性質のものではない。神はそうした卑屈なる想像しか出来ぬ愚昧なる人間の無知を哀れみ、赦される。決して咎め立てはなさらぬ。無知は故意でさえなければ決して恥ではない。が、

神は低劣なる観念をいつまでも御生大事にする愚かさ──己れの偶像を宿す暗くカビ臭き心に、新たなる光を入れようとせぬ態度をこそお咎めになる。

闇を好み、光を嫌い、いつまでも過去の未熟なる幻想にしがみつき、イエスの説ける単純素朴にして雄大なる神に美を見出し得ず、その崇高なる概念に未開時代の神人同形同性説を継ぎ木せねば承知できぬ者たちをこそ咎められるのである。

そうした類の、より崇高なる教えを受け入れられぬ者たちは、今なお決して少なくはない。が、汝はまさかその類ではあるまい!

 もしも汝が軽率にもわれらの教えを旧約聖書のそれと矛盾すると決めつけるのであれば、われらとしてはこう答えるほかはあるまい。すなわち、確かにわれらの教えは、神をあのような腹を立て嫉妬するが如き人間的暴君に仕立てたる、古き不愉快きわまる教説とは大いに矛盾しよう。

が、イエスを通じて授けられたる神聖そのものの啓示とは完全に軌を一にする。ただ人間はそのイエスの教えを身勝手なる欲求によって余りに堕落させ、悲しいかな、その真の信奉者まで背を向けしむるに至ったのである、と。

 もしもわれらの述べる神及び死後の生命についての言説に何一つ汝の心に訴えるものを見いだし得ぬとすれば、それは汝の魂がかつて喉を潤せるより雄大にしてより単純素朴なる概念に魅力を覚えなくなったということであるに相違ない。たぶん汝の魂が邪霊の策略にかかり、地上と神との間を遮る暗雲が汝に恐ろしき影響を及ぼしつつあるということであるに相違ない。

願わくはわれらがその暗雲を取り払い、今一度感化と安らぎの光を汝の魂に注ぎ込むことが出来ればと思う。永遠に拭えぬほどの危害が汝に及ぶとは危惧しておらぬ。汝がこれまでの知識の基盤を総ざらいすることを、われらは別に残念とは思わぬ。それも無益ではあるまい。

 さしたる意味もなき些細なる問題に捉われることは止めることである。大いなる問題、神についてのより明瞭なる啓示の必要性、神およびわれら神の使徒について、今地上を席巻しつつある冷ややかなる無知と無関心の問題、われらの説く崇高なる教義、そしてわれらが明かす生命躍如たる来世等を十分に検討するがよい。
   
想像の産物に過ぎぬ〝悪魔〟の問題で心を悩ますことは止めることである。真摯なる者、純真なる者、誠意ある者にとっては神学がまことしやかに説く悪魔も閻魔も存在せぬ。

悪は近づけぬのである。邪霊は逃げ去り、悪の勢力も彼らの前では無力となる。そのまわりは天使によりて保護され、明るき霊の支配を受け、進むべき正しき道へと導かれる。

 彼らの前途にはかぎりなき知識と、彼らの知性を昂揚し気高くする全てのものが待ちうけている。悪魔などは、自ら創造せぬ限り、恐れるに足らぬ。善性への親和力が善なるものを引き寄せるのである。まわりには守護に当る霊が控え、自ら求めぬかぎり邪霊の餌食とはならぬ。悪の誘惑や罠が特別免除というのではない。

試練の時に味わわされる雰囲気も免れることは出来ぬ。魂が悲しみと懊悩の暗雲に被われ、罪の重荷に打ちひしがれるやも知れぬ。すなわち、あたりに見る不幸と悪に己れの無力さを感じ、良心の呵責に苦しめられることもあろう。が悪魔が彼らを囚(とりこ)にし、あるいは地獄へと引きづり下ろすなどということは絶対にない。

そうした懊悩も悲しみも良心の呵責も、所詮は魂の経験の一部であり、その体験の力を摂取して、魂は一段と向上して行く。それは進歩の手段として守護霊が用意せる試練であり、故に細心の注意をもって悪の勢力から保護してくれているのである。

 悪を好み、霊性の発達を欠き、肉体的欲望に偏れる者のみが、肉体を棄てたのちもなお肉体的欲望を棄て切れぬ同質の未発達霊を引き寄せるのである。悪の侵入の危険に曝されているのは、そうした類の人間のみである。その性壁そのものが悪を引き寄せる。

招かれた悪が住みつくのである。そうした人間が、地上近くをうろつきまわり、好きを見ては侵入し、われらの計画を邪魔し、魂の向上のための仕事を挫折させんとする霊を引き寄せるのである。さきに汝は軽率にも霊界通信なるものがいい加減にして益になるとは思えぬと述べたが、それは全てそうした低級なる邪霊の仕わざである。

 友よ、汝はその点の理解を誤っている。低級なる人間が自ら招いたる霊の仕わざをもってわれらを咎めてはならぬ。咎めらるべきは聖純なるものや高尚なるものを嫌い、低俗にして下劣なるものを好む他愛なき人間的愚行の方である。

かの愚かなる法律をまず咎めよ。単なる風習と流行によって助長されたにすぎぬ愚行と罪状によって行く手を阻まれ堕落への道と引きづり下ろされた数多くの人間を、何の準備もなきまま死後の世界へと追いやる法律をまず咎めるべきである。さらには酒場、精神病院、牢獄、そしてそういうものによって増幅されたる情欲と悪魔の如き強欲を咎めよ。

無数の霊が永遠の火刑に処せられるとは実にこのことである。汝らの想像せる物的炎ではない。死後もなお消えやらぬ業欲が炎の如く魂を焼き続けるのである。燃えるだけ燃え、その強欲を焼き尽くして、ようやく魂が清められる。さよう、咎めらるべきは善霊を偽りて汝をごまかし、軽薄と誤りによって汝を翻弄せんと企てる低級霊たちである。

 これ以上のことはまたの機会としよう。すでにわれらは予定せるもの以上のことを述べた。それに、余の耳に神への礼拝の時の到来を告げる声が聞こえる。これより余もその礼拝の儀式に参列する。願わくば余の祈りが慈悲ぶかき神の御胸に届き、そこより流れ出る御恵みの流れの一すじが汝にも届き、和みと静かなる確信が汝の悩める魂を癒し、慰めとならんことを祈る。
                              ♰ イムペレーター

 〔註〕
(1) John Calvin 十九世紀の神学者。宗教改革家。カルビンとも。

Friday, August 1, 2025

シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

十一節 

霊団による著者への支配の強化──著者によるキリスト教の弁護──回答──正直な疑問は無批判の信仰に勝る──絶対的証拠にも限界──〝果実によって木を知るべし〟──人間的見解は無価値──宗教は単純素朴なもの──真理は一個人一宗教の占有物にあらず──アテノドラスからアキリーニに至る真理の系譜──霊同士の見解の相違は説き方の相違──霊団による段階的思想操作──イムペレーター霊団は神の計画遂行のために派遣された多くの霊団の一つ ──啓示の源は一つ ──神は真理を提供するのみ──その諾否は各自の理性的判断と自由意思に任される──イエス・キリストの位置づけ


   〔この頃には迫ってくる例の影響力が一段と強くなり、他の通信が一切締め出されてしまった。七月二十四日に私のほうからいつもの霊に通信を求めたがダメだった。その影響力には不思議と精神を昂揚させるものがあり、それが精神活動を完全に支配していた。日常生活はいつもの通りに行っていたが、その合間に一分一秒でも割いて、その影響力と、私にとって目新しい訓えのことを考えた。

考え始めるとすぐにその影響力が中に割りこんできて、かつて感じたことない力と物静かな美しさで迫ってくる感じがした。それまで私は神学を長年に亙って広く深く勉強してきたが、数ある教説もあら探しをする意図のもとに読んだことは一度もなかった。辻褄が合わない点も、批判するよりむしろうまく繋ぎ合わせるようにしたものである。

ところが今や私にとって全く新しい考え──それまで金科玉条として受け入れて来たものの多くを根底から覆しかねない思想を突き付けられている。七月二十六日、私は前回のイムペレーターの通信に再び言及してこう述べた──〕

──あなたの述べられた事柄についていろいろと考え、日頃尊敬している同僚に読んで聞かせたりもしました。何と言っても私たちが信仰の基本として教え込まれて来たキリスト教の教義が、事もあろうに、十字架の象徴(しるし)のもとに否定されていることに驚きを禁じ得ません。

私の置かれた窮地は言葉で尽くせるものではありませんが、敢えて表現させていただけば、確かにあなたのおっしゃることは知的には理解できても、過去一八〇〇年以上もの長きに亙って存在し続けて来たキリスト教信仰が、たとえ理屈では納得できるとは言え、これといった権威ある立証もない教説によって軽々しく覆されては耐(たま)らないという心境です。

一体あなたはイエス・キリストをどう位置付けるのか、またイエスの名のもとに訓えを説くとかと思えば否定し、古い福音に替えて新たな福音を説いたりする行為を、一体いかなる権能のもとに行うのか、お尋ねしたい。

またあなた自身の地上での身元の確認と、あなたが公言される使命の真実性を証明するに十分な証拠をお示し願いたい。合理的思考力を具えた者なら誰もが得心する証拠です。

天使であろうと人間であろうと霊であろうと、またそれが何と名のろうと、何の立証もない者から送られた言葉だけで、神の起原とその拘束力についてのこれほど致命的変化を受け入れるわけにはいきません。

またそのように要求される謂れもないように思われます。その変化には徐々にではあっても歴然たる相違点が発見されます。またあなたの同僚である複数の霊からの通信の内容にも食い違いがあるようです。そうした統一性のないものから送られる思想には強力な団結性が無いものと判断せざるを得ません。


 友よ、これほど真摯にして理性的質問を汝より引き出し得たことは、われらにとって大いなる喜びである。真摯に、そして知的に真理を求めんとする心──その出所が何であろうと単なるドグマはこれを拒否し、すべてを正しき理性によりて検討し、その理性的結論には素直に従う用意のある心、これこそ神意に叶うものであることだけは信じて欲しく思う。われらはそうした態度に異議を唱えるどころか、それを受容性のある真面目な心の証として称賛する。

従来の信仰をそれ相当の根拠なしには棄てず、一方新しき言説は形而上的ならびに形而下的に合理的な証拠さえあれば喜んで受け入れる。そうした懐疑と煩悩のほうが、もっともらしく色づけされたものを無批判に鵜呑みにする軽信的態度より遥かに価値がある。

思想的風雨にさらされても何の内省も生まれず、そよ風にも能面の如き無表情をほころばせることもなく、いかなる霊的警告も通じぬ無感動と無関心の魂よりも遥かにはるかに貴重である。

 汝の抱く懐疑の念はむしろわれらの指導の成功の証として称賛する。汝らがわれらに挑む議論は、神の使者として述べたる言説を全面的に検討してくれていることの知的証拠として歓迎する。汝の煩悶せる問題については、いずれ、われらの力の及ぶかぎりにおいて回答を授けるであろう。われらには証を提示することの不可能な、ある越えられぬ一線がある。それはわれらも十分承知している。

われらは汝らの世界で言うところの証人を立てることが出来ぬという大きな不利な条件のもとで難儀している。われらは地上の人間ではない。故に法廷にもちだす類の証拠を提示するわけには参らぬ。汝らにはただわれらの証言を聞いてもらい、理解してもらう───証拠によりて明らかにし得ぬものは知性にまかせ、公正に判断してもらうほかはないのである。

 それは、われらの言説がわれらと共にこの仕事に携われる者を除いては、先ずもって、これを支持してくれる者がいないからでもある。実際にはわれらの同僚の多くが地上時代の身元を明かしている①。そうして、その名をもつ実在の歴史的人物の地上生活についても、汝は決定的とも言い得るものを事細かく知り尽くしている。

汝があくまでもそれでは納得できないと言うのであれば──もしもそれを偽りの霊の仕業であるとし、汝を欺くために集めたる情報に過ぎぬというのであれば、われわれとしては汝とのこうした霊的交わりをもつ霊的雰囲気に注目し、〝木はその実によりて知らるべし。茨より無花果(いちじく)を取らず、薊(アザミ)より葡萄を収めるなり②〟とイエスが述べたる判断の基準を思いだして貰いたい。われらの訓えが神意に適うものであることの証を全体の雰囲気の中に必ずや見出すであろうことを断言して憚らぬ。

 しかし、これ以上この点について弁明することはわれらの使命の沽券に係ろう。汝がこの点に言及したことにわれらは微塵も驚きを感じぬ。が、もしも右の弁明でもなお得心がいかぬとなれば、われらとしてはもはやこれ以上付け加えるものを持ち合わせず、後は汝がこれを納得してくれる日の到来を忍耐強く祈るほかはない。

 それまでは決して押しつけがましきことは言わぬ。辛抱強く待つとしよう。

 われらの霊団の各霊──地上時代に異なる国、異なる時代に生き、神及び死後についての見解も異にした者たちの結びつきについては多くを語ることが出来るが、それはまた別の機会に譲るとしよう。

 差し当たりここで汝らの地上生活には避け難き誤解を指摘しておきたい。それは地上の人間はいわゆる〝自説(オピニオン)〟というものが殆ど無価値であることを知らぬことである。死の過程を経て肉体から離れる。すると目かくしをされていたベールが取り払われ、それまで金科玉条としていた信仰がいかに愚にもつかぬ他愛なき幻想に過ぎぬものであったかを思い知らされるが、目かくしをされている今はそれが判らぬ。

一方程度こそ違えすべての神学的教義にはその奥に本質的にきわめて類似せる真理の芽が宿されていることも知らぬ。

 ああ、友よ、汝ら人間は宗教をむやみに難解なるものにしたがるが、本来宗教とは決して難解なものではない。人間に授けられたるかぎりある知性によって十分に包括し得るものである。かの神学的産物──神の啓示を被い隠せる気まぐれなるドグマは徒らに人間を迷わせ、当惑させ、真摯に道を求める者を無知と迷信の霧の中へ迷い込ませる以外に何の役にも立たぬ。

向上進化を求める魂の特徴である暗中模索の真理探究は、いつの時代も同じであった。枝葉の点においては異なっても、本質においては少しも変わらぬ。目の見えぬ者が光を求める如く、迷える魂が必死に真理を求める。が、迷信という名の迷路がある。

無知という名の霧がある。曲がりくねった道をよろめきつつ、躓きつつ進み、時に路上に倒れて邪霊に踏みつけられる。が、すぐまた立ち上がり、手を差しのべつつなおも光を求める。

 かくの如き彷徨える魂は汝の目にはみな同じように映るかも知れぬ。がわれら霊界の者には実に多くの相違点があることが判る。古来、人間的ドグマの迷路の中にあって必死に光源を求めて喘ぎ進む魂は、外側より見る目にはみな一様に見えるであろう。

がわれらより見れば、汝らが教会と呼ぶ各教派を特徴づける神学上の教説は、汝らが考えるほど同一ではない。われらの目にはその質的な差異が見て取れる。またわれらは未知なるものについて全く同一の理解をもつ魂は二つと存在せぬことを知っている。いかなる魂も大なり小なり他の魂と同じ見解を抱いてはいても、決して同一ではない。

 その迷いの霧が晴れるのは、死のベールを通過したのちでしかない。人間的詮索は肉体と共に滅び、個人的見解は取り除かれ、かくして曇りなき目にそれまで朧気に抱いていた真相が姿を顕し、鋭さを増した判断力によって地上での印象を修正していく。

そのとき悟るのは全てに真理の芽が宿されていること、それが在る者においては受容性豊かな心と霊的洞察力によって成長を促進され、また或る者においては束縛された知性と卑しき肉体ゆえに、成長を阻害されるということである。

しかし、神と、己れの辿る運命についての真理を求めてやまぬ魂においては、死と共に地上時代の誤れる信仰は速やかに影をひそめ、みなその低劣さと非真実性を悟っていくものである。いつまでも地上のままを維持し続ける者は真理への欲求を欠く者にかぎられる。

 これで汝にも判るであろう。真理はいかなる宗教の専有物でもない。それは古代ローマにおいて霊の浄化と禁欲を求めたアテノドラス③の思想の底流にも見出すことが出来る。

ギリシャのヒポリタス③が朧気ながら垣間見ていた実在の世界を信じて地上生活を犠牲にし、神との一体を求めたその信仰の中にも見出すことが出来る。同じ真理への希求がローマの哲学者プロティノス③をして地上にありながらすでに地上界を超越せしめた。

アラビアの神学者アルガザ―リ③には教説そのものには誤りがありながらも、その奥底に正しき理解があった。その同じ神的真理の芽がアレッサンドロ・アキリーニ③の思想を照らし、その教説の言葉に力と真実を賦与した。

 かくの如く彼ら全ての指導者の教説には同じ純粋なる宝石が輝いている。その光が彼らをして人間が神より授かれる真理の堆積物を清め、神及び聖霊の宿命についてのより霊的な解釈を施すことによって、人間の歩むべき道を一層気高く一層崇高なるものにするという共通の目的のために一丸となって働くことに邁進せしめたのである。

 彼らにとって今や地上時代の教説の相違は取るに足らぬことである。そうした夾雑物は疾(と)うの昔にかなぐり棄て、かつて地上にて魂の目を曇らせ進歩の妨げとなった人間的偏見などは跡形もない。それは今や完全に葬り去られ、ひとかけらの悔いも残っておらぬ。復活の信仰も見当たらぬ。疾うの昔に棄て去っている。

がその信仰の奥底に秘められたる宝石は一段と輝きを増し、永遠にして不滅である。その啓発的影響力──ただ存在するだけで魂を鼓舞するその影響力に、かつて地上においては教説を異にする霊たちを結びつける神秘なる親和力の絆が存在するのである。

 彼らが今、より崇高にして純粋なる宗教的知識を広めんが為に、共同の仕事に一団となって奉仕していることが決して汝が考えるほど不可能なことでないことの理由が、これで汝にも得心が行くことであろう。そのための地上の道具として最も適切とみて汝を選んだのである。その判断に誤りはない。

われらの述べたるところを根気よく熟読玩味すれば、いずれ汝もその合理性に得心が行くであろうことを確信する。その絶対的証拠は、と言うのであれば、それは汝自身が死のベールを突き破り、一点曇りなき目をもってわれらの仲間入りするまで待つより外はあるまい。今のわれらとしては、精々、汝が少しづつわれらに対する確信を築き上げてくれることを望むのみである。

どうかイエスが人を裁くときに使用せる判断の基準──己れが裁かれんと欲する如くに人を裁くべし、という神の摂理をわれらにも適用して欲しく思う。

  われらの教説に矛盾があるやに思うのは誤りである。これまで汝と交信せる様々な霊によって種々な形での論議が為され、その取り挙げたる論点もまた多様であった。確かにわれらは汝をわれらが伝えんとする根源的教説へ徐々に導かんとして、取り敢えず汝の観念に深く根差しわれらの教説と正面衝突することが明らかなものは無論のこと、差しあたって必須でないものは避けてきた。それは否定せぬ。

われらの基本方針は、汝の心に存在する特異な部分をいくじるよりも、その中に見出される真理の芽を発達させることにあった。それを目差して幾つかの接点を確保し、大切にして参った。一方それとは関わりなき問題点を避けてきた。

そうしたこれまで看過してきた点、論議を避けてきた諸点についてはこれ以後に取り挙げることになろう。が、これまでも汝のほうより、われらが明らかに誤りがあり何時までも放って置けぬと観た見解について批判を求めてきた時は、われらとしては遠慮なく啓発してきたつもりである。

 われらの目には、汝の心に想念の潮流が発生し、それが汝の魂にとってもはや安全ではなくなった古き停泊所より汝を運び出さんとする動きがよく見て取れる。

それを見てわれらは汝をその潮流と風の為すがままに放置し座礁するに任せておくに忍びず、われらがその水先案内をする。その際われらは教説という名のロープを一本一本少しずつ穏やかに緩め、より安全にして確実な港へ係留してきた。

もしも一気にその港へ引っ張り込んでおれば、古きロープは切れ、汝の魂は疑問と煩悶の嵐の中に巻き込まれ、舵(かじ)を取る者もなく、立ち寄るべき港も見当たらず、ただ風波に翻弄され、救われる見込みはなかったであろう。

われらが予(あらかじ)め衝突を避けられるものは避け、荒波を立えぬよう配慮したことを咎めるのは当たらぬ。致し方なきことであった。汝の思う方角へ向けて援助することも出来ぬでもない。が、仮に援助してそのロープを締めていたならば、汝の魂は私物と化せる遠き過去へ一層強く繋がれることになっていたであろう。

汝の心の態度一つでわれらは汝をその嵐から超然とさせ、新たなる生命あふれる信仰を携えて、より静かにしてより広き海原に乗り出さしめ、地上という試練の場と、死後の安らぎの港との間に横たわる苦難の海を乗り切れるよう援助することであろう。

 こうした作業において、われらは汝に過激な衝撃を与えぬよう慎重の上にも慎重を期してきた。いかなる点においても指導を誤ったことはない。汝をごまかしたこともない。

汝に与えたわれらの教説には予め徹底した吟味が為されている。われらはなるべくなら汝の精神に宿る思想を取り出し、敷衍し発展させるよう心がけた。そうしてその中により新しくより且つ真実に近き見解を育み、導き、注入するよう努めたが、いかなる点においても為れるもの、歪めたるもの、あるいは指導を誤れるものは何一つない。

 われらがこれまで述べてきた教説には実質上の齟齬(ソゴ)は何一つない。万に一つそう思えるものが存在しても、それは通信上の難しさと汝の精神による種々の影響の所為である。つまり通信霊の未経験に起因する場合もあるであろうし、就中(なかんずく)、汝自身の先入観の影響が大いにある。

汝の精神が受け付けようとせぬものは、われらも伝えることは出来ぬ。そこでわれらとしては、いつか汝が曇りなき目で見るであろうところの真理を、象徴的に大まかに伝えるしかない。

霊媒の魂が煩悶している時、身体が苦痛に苛まれている時、あるいは精神状態が病的になっている時も、明確なる通信を伝えることは出来ぬ。否、荒れ模様の天気、電気的障害、あるいは近隣の人々の非友好的態度ですら通信に反映し、明確に、そして十分に意を尽くすことを妨げるのである。それが汝の綿密なる目には矛盾として映るのであろう。

が、それも些細なことであり、また数も取るに足らぬ。それらは障害が取り除かれると同時に雲散霧消することであろう。そして、ここぞという困難と危険に際して、高邁なる霊的洞察力が汝を導いていたことを知るであろう。

 汝はわれらの説く訓えが一般に受け入れられる見込みは乏しいと言うが、その点についても汝は真相を知らぬ。お粗末な継ぎ接(は)ぎだらけの朽ちかけたる古き信仰が、より高尚にして崇高なる信仰──対抗するものではなく補足補充するもの──と置き換えられ、イエスの説きし福音がより高き次元において理解される日は、汝が思うよう遥かに近く迫りつつある。

 友よ、よく心するがよい。今われら従事せるが如き神の計画が、人間の必要性との関連を無視して不用意に授けられることは絶対にない。われらの仕事も神の一大計画のほんの一部門に過ぎぬ。他にも数多くの霊団がそれぞれの使命に邁進している。

その訓えは徐々にそして着実に、それを受け入れる用意のある者に受け入れられていくであろう。それが神の計画なのである。神の時を地上の時で以って考えてはならぬ。

またわれらの視界は汝らの視界の如く狭くかぎられたものではない。いずれもわれらの意図せる通りの知識が地上に広まる日も来よう。その間、それに備えた進歩的魂は着々と教育を受けている。貴重なる種子が蒔かれつつある。やがてその収穫の時期も到来しよう。その時を汝もわれらも共に待たねばならぬ。

 われらの述べたるところを心して読めば、われらが提供しつつある状況証拠などより遥かに明確にその本質を読み取ることが出来るはずである。繰り返すが、神は決して福音の押し売りはせぬ。神はただ提供するのみである。

それを受け入れるか拒否するかは汝の選択に任されている。が、汝およびわれらが係わり合える人々の全てが、いずれ、その神性を確信してくれるであろう。それをあくまでも否定する者は浅薄なる頑迷の綱にかかり、神学という名の足枷をはめられ、鉄の如きドグマによって束縛された者たちのみであろう。

そうしたドグマ主義者、頑固なる迷信家、偏狭なる信者・独善家はわれらの取り合うところではない。否、魂に染み込みたる古き信仰に何よりの安心立命を見いだす者もまた、われらの取り合うところではない。神の御名にかけて彼らにはそのまま古きものに縋らせておくとしよう。彼らにもいずれ進歩の時が訪れよう。今はその時ではない。

汝および汝と志を同じくする進歩的求道者には、われらが決して悪魔の使いでもなければ悪魔的意図も持たぬことを、これ以上弁明する必要はあるまい。

 また啓示についてのわれらの言説を熟読玩味すれば、要するにわれらの教説も神に関する知識の段階的進歩の一つの階梯に過ぎぬことを理解するであろう。すなわち神を人間と同一と観た神人同形同性説の時代から、人間的煩悩や感情を神の属性とすることの不合理を徐々に悟り始めた現在に至るまで、神的啓示も人間の進歩とともに徐々に向上しつつあるということである。

本質においては、われらの啓示も、それに先立つ啓示と何ら異ならぬ。ただ、人間の知識と同様に、一歩向上したというにすぎぬ。その根源は同じであり、それを授ける手段も同じである。今も昔もあくまで人間であり、完璧は期し難く、時には誤りを犯す。人間を通信手段とする以上、それは免れぬことである。

 さらには、われらが明言せる態度を思い出していただきたい。われらの一貫せる態度は、かの伝統的教説──単に古き時代のものという意味での伝統的教説──を金科玉条とする盲目的信仰に代わりて汝の理性に訴えるということである。

軽信に代わって合理的知性的検討を勧め、確信に基づける容認を要求する。われらが神の使者というだけで、われらの教説──単に今の時代に授けられたという意味での新しき教説──を信じても貰おうなどとは、さらさら思わぬ。

理性の天秤にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶するがよい。十二分に得心するまで決して同意することも行為に出ることも求めぬ。

 それ故、霊的教義の内容は正しき理性を得心させるべきものであると同時に、われらが汝にその受け入れを求める根拠もまた合理的且つ論理的思考を完全に満足せしめるものである。

道を誤りたるとはいえ真摯なる求道者はもとよりのこと、進歩的人間の真面目な生活において過去一八〇〇年以上もの永きに亙りて後生大事にされてきた教義に対し、われらが功を焦るあまり、いたずらに彼らを反目せしめる結果となることは神が許されぬ。

それほど永きに亙りて大事にされた事実そのものが、彼らの崇敬を受けるに足る資格を物語っていよう。ただ、われらの広き視野より見る時、その説くところが古き蒙昧なる時代ならいざ知らず、この開け行く時代には、それなりに視野を広げ霊性を賦与しなければならぬと思われるのである。

とは言え、われらとしては急激なる改革によって混乱を来すことは望まぬ。今あるものに磨きをかけ、新しき解釈を施したく思う。ひきずり下ろし、足で踏みにじるようなことはせぬ。シナイ山にて嵐の如き口調にて啓示されたる戒め④に代えて、イエスが慈愛と滅私の純心さをもって、より崇高なる信仰を説いた如く、われらはそれをさらに新しきこの時代の受容能力と必要性に鑑みて説かんとするものである。

〝そのようなものはわれらの信仰が受けつけぬ〟と申されるか。なるほど、それもよかろう。われらとしては少なくともこうした見解の存在を知らしむるだけのことはした。

それを受け入れる者は、古き信仰に比してその影響力が一段と明るきものであることを感ずるものと確信する。一つの真理が始めて語られ、それが最終的に受け入れられるに至るまでの道程は、しばしば永き年月を要するものである。 

収獲にはまず種子蒔きの時期があらねばならぬ。その後、雨に打たれ霜に埋もれ、寒々とした冬の季節はいかにも長く感ぜられよう。が、やがて暖かき太陽の光に照らされて種子が芽を出し、真夏の恵みを受けて豊かに実をつけ、そして収獲の季節を迎える。

耕作の時期は長いかも知れぬ。種子を蒔いたあとの待つ時期は暗く憂鬱かも知れぬ。が、収穫の季節は必ず来る。その到来を遅らせることは出来ぬ。

収穫時に手を貸すことは出来よう。種子蒔きに手を貸すことも出来よう。が手を貸す貸さぬに係わりなく、あるいは、たとえそれを阻止せんとしても、神の時節(とき)は必ず到る。その時、神の言葉を受け入れるか拒否するかの問題は、本質的には個人の問題でしかない。受け入れる者は進歩し、拒否する者は退歩する。

そしてそれに関われる天使があるいは喜び、あるいは悲しむ。それだけのことに過ぎぬ。

 次に汝はわれらがイエス・キリストを如何なる地位(くらい)に位置づけるかを問うている。われらとしては、さまざまな時代に神に派遣されたるさまざまな指導者について興味本位の比較をすることは控えたい。未だその時期ではない。

但し今このことだけは明白である。すなわち、人類の歴史においてイエスほど聖純にして気高く、神の祝福を受け且つ人に祝福を与えた霊はいないということである。その滅私の愛によってイエスほど人類の敬愛を受くるに相応しき霊はいない。

イエスほど人類に祝福をもたらせる霊はいない。要するに、イエスほど神のために働きたる霊はいないということである。

 が、神より遣わされたる偉大なる指導者を比較し論じる必要をわれらは認めぬ。われらとしてはその一人一人に称讃を賜り、克己と犠牲と愛の生涯を、それぞれの時代の要請せる手本として賞揚したく思う。

キリストの例にしても、もしも人類がその際立てる素朴さと誠実さ、愛的献身と真摯なる目的、自己犠牲と聖純さの模範として仰いでおれば、かの宗教的暗黒時代の神学者たち──汝らに呪いの遺産ともいうべき愚か極まる思索の産物を残せる者たちも、今少し有意義なる存在となり、人類の呪いとはならず、むしろ祝福となったことであろう。

神の尊厳を傷つけることもなく、キリストの素朴なる福音を素直に受け入れていたであろう。然るに彼らは神人同形同性説的神学を丹念に築き上げ、それがキリストの素朴なる訓えより一層遠ざけることになっていった。

今やその名と教義は派閥間の争いの戦場と化し、その訓えは滑稽な物真似となり下がってしまった。その有様を聖なるキリストの霊は衷心より悲しみ、哀れに思っておられる。

 友よ、神の摂理と人間的解釈とは截然と区別せねばならぬ。われらは主イエスの威厳の前にひれ伏すが、人間が勝手に解釈し、それをイエスの名において説く教説──イエス自ら否認されるであろう教説を黙認することによってイエスの面目を汚すようなことは潔しとせぬ。さようなことは絶対にせぬ。

主はもとより、主の父であり全存在の父である神の面目を真に辱しめるのは、バイブルを正しく理解せずその心を掴み損ねて、ただ字句どおりの解釈に固執する余り、無知の為せる業とは言え、逆に神への不敬を働いている者たちなのである。われらではない。

彼らこそ真に神の名誉を傷つけているのである。たとえ長年の慣用の歴史を有するとは言え、またたとえその字句を彼らが聖なるものと断定せる書からの引用によりて飾ろうと、さらにまたそれらの書に、そこに述べられたことへ意義を唱える者への呪いの言葉が見出されようとも、真に神を冒瀆する者はわれらにあらず、彼らなのである。

 われらはその呪いの言葉を哀れの情なくしては見つめることが出来ぬ。われらとしては、差し当たり実害なき誤りはこれを敢えて覆そうとは思わぬ。しかし神を冒瀆し魂の向上の妨げとなる言説はこれを赦しておくわけにはいかぬ。

本来ならば神に帰すべき名誉をイエスなる一人物に押しつけ、神に対する個人的敬意と愛を疎かにすることは、神に対する人間としての義務を無視することにほかならぬ。狭隘(きょうあい)にして冷酷きわまるドグマをその一言一句に至るまで頑なに遵守せんとする態度は魂を束縛し、霊性を歪め、進歩を遮り、成長を止める。

〝義父は殺す。されど霊は活かす〟⑤とある。それ故われらは火炎地獄の如き作り話に見られる神の観念を否定する。贖罪説の如き伝統的教説に代わってわれらは、より清き、より理性的教説を主張する。要するにわれらは霊性を基盤とする宗教を説くものである。

死物と化せる形式主義、生命も愛もなき教条主義より汝らを呼び戻し、霊的真理の宗教、愛に満ちた天使の象徴的教訓、高き霊の世界へ誘(いざな)わんとするとするものである。

そこには物的なものの入る余地はなく、過去の形式的ドグマも永遠に姿を消す。

 以上、われらは事の重大性に鑑みて、細心の注意をもって語ったつもりである。汝も細心の注意をもって良く熟読されたい。ひたすらに真理を求むる心をもって検討し、隔てなき神の御加護を祈り求められんことを希望する。
                      ♰ イムペレーター


〔註〕
(1)巻末「解説」参照。
(2)ルカ 6 - 44
(3)ここに引用された古代の思想家、及び宗教家はすべてイムペレーター霊団に属してる。「解説」参照。
(4)モーセの「十戒」。
(5)コリント後 3 - 6
 


  

シアトルの夏 幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものです

   シルバーバーチの霊訓―地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



生誕後はや二千年もたった今日でさえ、イエスなる人物の正しい位置づけが、スピリチュアリズムにおいても時おり論議の的となる。ある者はイエスも一人間だった――ただ並はずれた心霊的能力を持ち、それを自在に使いこなした勝れた霊覚者だったと主張するし、またある者は、やはりイエスは唯一の“神の子”だったのだと主張する。

当然のことながら、毎回ほぼ一時間半も続いたシルバーバーチの交霊会においても、たびたびその問題ならびに、それに付随した重大な問題が提出されてきた。出席者は異口(いく)同音に、その一時間半があっという間に過ぎた感じがするのが常だったと言う。

さて、そんなある日の交霊会で、一牧師からの投書による質問が披露された。“シルバーバーチ霊はイエスを宇宙機構の中でどう位置づけておられるのでしょうか。また〈人間イエス〉と〈イエス・キリスト〉とは、どこがどう違うのでしょうか”というのがそれである。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「ナザレのイエスは、地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜(※)の、最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて、霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。


※――メルキゼデク→モーセ→エリヤ→エリシャ→イエスという系譜のことを言っているのであるが、こうした霊的系譜は各民族にある。ただ、世界的視野でみた時、イエスが地上人類としては最大・最高の霊格と霊力をそなえていたことは間違いない事実のようで、モーゼスの『霊訓』の中でもインペレーター霊がまったく同じことを述ベている。今スピリチュアリズムの名のもとに繰り広げられている地球浄化と真理普及の運動は、民族の別を超え、そのイエスを最高指導霊とした、世界的規模で組織された霊団によるものである。

イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と少しも変わらない一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質界へやってきて、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが大量に流入したことは、前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦(が)れきの下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

そのために彼は、まず自分へ注意を引くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して、心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。偉かったのは、それを一度たりとも私的利益のために使わなかったことです。

またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も、廃止も、干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を引くようになると、こんどは、人間が地球上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊覚者が説いてきたのと同じ、単純で、永遠に不変で、基本的な霊的真理を説くことを開始したのです。

それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する正しい記録はきわめて乏しいのですが、その乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くの、ありもしないことが書き加えられています。したがって聖書に書かれていることには、マユツバものが多いということです。できすぎた話はみな割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから……。

もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後さらに開発され威力を増した霊力を駆使して、愛する地上人類のために働いておられるのです。イエスは“神”ではありません。全生命を創造し人類に神性を賦与した、宇宙の大霊そのものではありません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、“イエス”と“神”とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にひざを折り、平身低頭して仕える必要はないのです。それよりも、イエスの生き方を自分の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。

以上、大変大きな問題について、ほんの概略を申し上げてみました」

メンバーの一人「“キリストの霊” Christ Spiritとは何でしょうか」


「ただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを誇示するために、聖なる油を注がれた時代がありました。それは大抵王家の生まれの者でした。“キリスト”という言葉は“聖油を注がれた”という意味です。それだけのことです。(※)」


※――イエスの死後、イエスこそそれに相応しい人物だったという信仰が生まれ、それでJesus Christと呼ばれるようになり、それがいつしか固有名詞化していった。

「イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったというのが、私には理解できません」


「わたしは決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。わたしが申し上げたのは、地上へ降りた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊覚者の系譜の中で、イエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。イエスの生活が完全だったとは一度も言っておりません。それはあり得ないことです。なぜなら、彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」

「イエスの教えは最高であると思われますか」


「不幸にして、イエスの教えはその多くが汚されております。わたしはイエスの教えが最高であるとは言っておりません。わたしが言いたいのは、説かれた教えの精髄(エッセンス)は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど強力に、そして純粋に心霊的法則を使いこなした例は、地上では空前絶後であるということです」

「イエスの教えがその時代の人間にとっては進みすぎていた――だから理解できなかった、という見方は正しいでしょうか」


「おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに、彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は、彼らにとって成功であることが時代的にみれば失敗であり、彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」


※――George Lansburyは一九三一年~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じて、ヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppardは生前キリスト教の牧師だったこと以外は不明。なおこの当時二人ともシルバーバーチ霊団のメンバーだったことは他の資料によって確認されている。

「イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の始原であると考えてよろしいでしょうか」


「それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは、霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し、かつそれを自在に使いこなすことができたからです。

ぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた愚行が多かったにもかかわらず、あれほどの短期間に全世界に広まり、そして今日まで生き延びてこれたのは、イエスの言動が常に霊力と調和していた(※)からだということです」


※――ここでは背後霊団との連絡が緊密だったという意味。『霊訓』のインペレーター霊によると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。地上生活中のイエスは早くからその事実に気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体で離脱し、その背後霊団と直接交わって、連絡を取り合っていたという。

かつてメソジスト派の牧師だった人が尋ねる――

「いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできませんか」


「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。教えそのものと、その教えを取り違え、しかもその熱烈な信仰によってかえってイエスを磔刑(はりつけ)にするような間違いを何度も犯している信奉者とを混同しないようにしないといけません。

イエスの生涯を見て、わたしはそこに物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完璧で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった――自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも、みずから課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的のために利用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

どうもうまく説明できないのですが、イエスも、生をうけた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味では完全ではあり得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派な、そして大きな仕事ができる時代が来るとイエス自身が述べている意味がなくなります。

イエスという人物を指さして“ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時は、これほどの仕事ができるのですよ”と言える、そういう人物だったと考えればよいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。しかもそのイエスは、わたしたちの世界においても今、わたしの知るかぎりでの最高の霊格をそなえた霊(※)であり、自分を映す鏡として、イエスに代わる霊はいないと考えております。


※――地球神界での話。『ベールの彼方の生活』では“各天体にキリストがいる”と述べられている。要するに神庁の最高位の霊のことで、イエスなる人物はそのすべてではないが直接の表現だったということであろう。

わたしがこうしてイエスについて語る時、わたしはいつも“イエス崇拝”を煽(あお)ることにならなければよいが、という懸念があります。それは、わたしがよく“指導霊崇拝”に警告を発しているのと同じ理由からです。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな、永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は、理性と常識と知性をもって行わないといけません。それは書物からでも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人がすすめるから、良いことを言ってるから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断規準です。

このわたしとて、無限の叡智の所有者などではありません。霊の世界のことを一手販売しているわけではありません。地上世界のための仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。完全であるとか、間違ったことは絶対に言わないなどとは申しません。みなさんと同様、わたしも至って人間的な存在です。ただ、みなさんよりは生命の道をほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が、わたしに少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしもわたしの言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線をわたしといっしょに眺めませんかと、お誘いしているわけです」

霊言の愛読者の一人から“スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して〈最後の晩餐〉の儀式を行うべきでしょうか”という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません。わたしにとっても何の益にもなりません。まったくなりません。霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛(じゅばく)から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

イエスに対する最大の貢献は、イエスを模範と仰ぐ人々が、その教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病に苦しむ人々を癒し、疑念と当惑に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人々すべてに手を差しのべてあげることです。

儀式よりも生活の方が大切です。宗教は儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。“聖なる書”と呼ばれている書物から、活字のすベてを抹消してもかまいません。讃美歌の本から“聖なる歌”をぜんぶ削除してもかまいません。儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に“宗教的人間”でありうるのです。そういう生活こそ、内部の霊性を正しく発揮させるからです。

わたしとしては、みなさんの関心を儀式ヘ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく、生活そのものです。生活の中で何を為すかです。どういう行いをするかです。〈最後の晩餐〉の儀式がイエスの時代よりさらに遠くさかのぼる由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」

別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて――


「人のためになることをする――これがいちばん大切です。わたしの意見は単純・明快です。宗教には“古い”ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関わりもないものばかりです。

わたしにとって宗教とは、何かを崇拝することではありません。祈ることでもありません。会議を開いて考え出した形式的セレモニーでもありません。わたしはセレモニーには興味はありません。それ自体はなくてはならないものではないからです。

しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事をなくてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、それを無理して止めさせる理由はありません。

わたし自身としては、幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との交渉、地上的障害を超越して、次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係――これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません」

祈り

あなたの目の前に人類は一つ……


これより皆さんとともに、可能なかぎりの最高のものを求めて、お祈りいたしましょう。

ああ、大霊よ、わたしどもは、あなたをあるがままの姿、広大なこの大宇宙機構の最高の創造主として、子等に説き明かさんとしております。あなたは、その宇宙の背後の無限の精神にあらせられます。あなたの愛が立案し、あなたの叡智が配剤し、あなたの摂理が経綸しているのでございます。

かくして、生命現象のあらゆる側面があなたの摂理の支配下にあります。この摂理は可能なかぎり、ありとあらゆる状況に備えたものであり、一つとして偶発の出来事というものは起きないのでございます。

あなたはこの宇宙に、あなたの神性の一部を宿した個的存在を無数に用意なさいました。その神性があればこそ、崇高なるものを発揮することができるのでございます。その神性を宿せばこそ、すべての人間はあなたと、そして他のすべての同胞と霊的につながっていることになるのでございます。民族の別、国家の別、肌の色も階級も教義も超えて、お互いに結ばれているのでございます。あなたの目の前に人類は一つなのです。

誰一人として忘れ去られることも見落とされることもございません。誰一人として無視されることも、あなたの愛が届かぬこともございません。孤独な思いに沈むのは、あなたの絶妙な摂理というものが存在し、心がけ一つで誰でもその恩恵にあずかることができることを知らぬからにほかなりません。

子等が霊の目と耳とを開きさえすれば、高級界からの美と叡智と豊かさとが、ふんだんに注がれるのでございます。その高級界こそが、すべてのインスピレーション、すべての啓示、すべての叡智、すべての知識、すべての愛の始原なのでございます。

わたしたちの使命は、子等に内部の神性と霊的本性に気づかせ、地上はいっときの仮住まいであって、永遠の住処(すみか)は霊界にあること、地上生活の目的は、そうした崇高なる霊的起原と誉れ高き宿命に恥じないだけの霊格を身につけることであることを理解せしめて、しかるべき導きを与えることでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。


訳者あとがき


一九二〇年に始まったシルバーバーチの霊言は、当初は霊媒のバーバネル自身が乗り気でなかったこともあって、記録として残す考えはまったくなく、したがって何も残されていない。また、記録として残すほどの内容でもなかったらしい。言ってみればシルバーバーチの練習(リハーサル)に費やされていたようなもので、ハンネン・スワッファーが司会者となってホームサークルを結成してから正式に速記録の係を置くようになり、さらに後になってテープに録音されるようになった。

私の訳で潮文社から出ている全十二巻のシリーズは、八人のサイキックニューズのスタッフが、その記録の中から互いに重複しない箇所をテーマ別に抜粋して構成したもので、その手間の大変さは、思い半ばに過ぎるものがある。が、今こうしてオーツセン一人による新シリーズを訳していきながら気づいたことは、その十二巻に編纂されたもの以外にも、まだまだ素晴らしい霊言、胸を打つ言葉がたくさん残っているということである。

が、そうした言わば“取り残し”の部分だけを断片的に拾い出しただけでは、全体としての筋がまとまらないという弊害が生じる。そこでオーツセンは、すでに前シリーズに出ているものでも敢えて削除せずに、その前後の霊言といっしょに引用するという形で新しい趣向をこらしている。前シリーズと異なって、自分一人で編纂した新シリーズを出すことにしたオーツセンの意図が、その辺から読み取れる。

確かに、こうして形を変え角度を変えて読むと、三十年以上も読み続け、そして翻訳までしてきた私でさえ、何かしら新しいものを読む感じがするから不思議である。同時に、一瞬ドキッとさせられる鋭い言葉が出てきて、襟を正させられることがある。つい先ごろ届いたオーツセンからの手紙によると、いま五冊目を手がけているとのことである。一冊でも多く出してくれることを、日本のシルバーバーチファンを代表してお願いしておいた。

さて、ご存知の方も多いことであろうが、私は本書の前に、コナン・ドイルの『妖精物語』を出している。これは俗に“コッティングレー事件”と呼ばれている衝撃的な妖精写真を扱ったものであるが、これが注目を集めたのが一九一七年から三年間ほどのことで、ドイルがその経緯をまとめて出版したのが一九二二年であるから、時期的にはシルバーバーチが出現しはじめた頃と、ほぼ一致する。

と言って、その二つの現象の間に直接のつながりはないであろう。意義の重大性の点でも、かなりの開きがあるであろう。が、一八四八年の米国における“ハイズビル事件”に始まる、地球の霊的浄化活動――これをスピリチュアリズムと呼ぶ――の気運に乗った、計画的なものであることは間違いないと私は見ている。

こうした気運は、今日、当時よりさらに勢いを増して世界的規模で広がりつつある。心霊治療家や、霊言・自動書記等のいわゆる霊界通信の輩出がそれを物語っている。私がこの道に関心を抱きはじめた昭和三十年頃は、霊的なことを口にするのも憚(はばか)られたものであるが、それを思うと、大きな時代の流れを痛感する。

しかし同時にそうなったらそうなったで、また別の問題が生じている。いかがわしい霊媒・霊能者、そして、いかがわしい霊界通信の氾らんである。ほんものが出ると必ずまがいものが出るのは世の常であるから、これもやむを得ないことかも知れないが、私が今もっとも懸念しているのは、テレビジョンという素晴らしい発明品も、テレビ局のスタッフの良識いかんによっては、社会に害毒をもたらすような内容の情報やドラマが、無差別に茶の間に持ち込まれることがあるように、言論・出版の自由をよいことに、“売れる”ことのみを当てこんで、理性的に考えればあろうはずもないような霊言や自動書記通信が、無節操に出版されはじめていることである。

危険性の伴う機械には何段階もの安全装置が取り付けられているように、社会の仕組みにもチェック機能があってしかるべきであろう。出版にかぎって言えば、その第一のチェックは出版社に求められるべきであろう。さらには、それを売りさばく書店にもその機能の一端を果たしてもらいたいところである。買う人がいるから売る、といった態度では、倫理・道徳は地に落ちてしまう。もっとも、現在の出版界全体の事情のもとでは、あまり高度な理解を求めるのは無理なのかも知れない。

結局、最後で最大のチェック機能をもつのは“自分自身”ということになる。レッテルやタイトルは何とでもつけられる。中身も、それらしいことを書けば格好はつく。霊言と銘うっているものを、まるで駄菓子でもつまむような調子で読みあさるのが趣味という人は、それはそれでよいが、真実のものを求めているつもりの人のために、次の二つのシルバーバーチの言葉を再び引用しておきたい。

「“光”を差し出されても、結構です、私は“闇”で結構です、というのであれば、それによって傷ついても、それはその人の責任です」

「その(神の)働きの邪魔だてをしているのは、ほかならぬ自分自身なのです。自分の無知の暗闇を追い出し、正しい知識の陽光の中で生きなさい」

短いが、深遠な意味を含んだ言葉である。

平成元年五月

近藤干雄