Monday, July 15, 2024

シアトルの夏 神──大霊とは

God - What is the Great Spirit?


【Q1】

神とは何でしょうか?

 神とはこういうものですと、ひとまとめにしてお見せすることはできません。無限なる存在だからです。いかなる言語も概念も説明図も有限です。小なるものが大なるものを包含することはできません。ただ、宇宙をご覧になれば私のいう大霊がいかなるものかが、いくらかはおわかりになるでしょう。

あくまで自然法則(注)によって規制され、千変万化の現象のすみずみに至るまで配剤が行き届いています。極微の世界から荘厳をきわめた極大の世界に至るまで、生を営み運動し呼吸するもの、要するに宇宙に存在するものすべてが、大自然の法則によってコントロールされています。

法則の支配を受けないものは何一つ存在しません。季節は一つ一つ順を追ってめぐり、地球は地軸に乗って回転し潮は満ち引きを繰り返します。どんな種をまいても芽を出すのは内部にあったものです。本性が出るのです。

法則は絶対です。新しい発見も、いかなるものであろうと、どこで行なわれようと、同じ法則によってコントロールされています。何一つ忘れ去られることはありません。何一つ見落とされることはありません。何一つ無視されることもありません。

 その法則として働いているものは一体何か?無限なる存在です。旧約聖書に出てくる巨人のような人間ではありません。復讐心に満ち、機嫌を損ねると地上に疫病をまき散らすような、そんな気まぐれで憤怒に燃えた神ではありません。歴史と進化のあとをたどれば、人類社会は未開から徐々に向上進化しており、その背後で働いている力が慈愛を志向する性質のものであることがわかります。

ですから、すべてを支配し、すべてを治め、すべてを監督し、しかもすべてのなかに存在する無限なる愛と英知は、みなさんが霊性の進化に伴って徐々に悟っていくものです。それを私は「大霊」と呼んでいるのです。

                                   
 訳注──「法則」と訳したのは原語では「laws」となっている。最初に出ている「自然法則」は「natural laws」であるが、この用語には「物理的法則」の感じが強い。シルバーバーチが「laws」というときは倫理・道徳でいう「摂理」も含まれているので、その色彩が強いときは「摂理」を用いることにしている。ときには「摂理・法則」と訳すこともある。「man’s laws」となれば「人間が定めた法律」となる。


【Q2】
大霊はいずこにも存在する──私たち人間のすべてにも宿っているとおっしゃるのでしょうか?

 (顕幽にまたがる)全創造物として顕現している大霊の総和とは別個の大霊というものは存在しません。

 人間的存在としての神は、人間がこしらえたもの以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間がこしらえたもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火炎もうもうたる地獄も、人間がこしらえたもの以外には存在しません。そうしたものは限られた視野しかもたない人間の想像的産物に過ぎません。大霊は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。

 なぜなら、すべてが不変にして不滅、完璧にして全能の法則によって治められていることを悟れば、完全無欠の公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構のなかにあって、だれ一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。

【Q3】

大霊とはだれなのでしょうか、あるいは何なのでしょうか?愛の精神ないしは愛の情感でしょうか?

 大霊とは宇宙の自然法則のことです。顕幽にまたがる全生命の背後の創造力です。完全なる愛であり、完全なる英知です。大霊は全宇宙に瀰漫しています。あなた方がご存知のその小さな物的宇宙だけでなく、まだご覧になっていない宇宙にも瀰漫しています。

 大霊はすべての生命に充満しています。あらゆる存在の内部に息づいています。あらゆる法則、あらゆる摂理にも大霊が宿っています。生命であり、愛であり、すべてです。創造された私たちに、どうして創造者が叙述できましょう。無限の壮大さをもつものを、お粗末な概念しか描けない私たちにどうして叙述できましょう。

【Q4】

人類の歴史を通じて大霊が、個としての霊を通してではなく直接語りかけたことがありますか?

 大霊は人物ではありません。神々しい個的存在ではありません。個的存在を超えたものです。摂理と愛と英知と真理の究極的権化です。大霊はこの広大無辺の宇宙で絶えまなく作用している無限の知性です。

【Q5】

その大霊を幼い子どもに、どう説いて聞かせたらよいでしょうか?

 説く人みずからが、全生命の背後で働いている力について明確な認識をもっていれば、それは別にむずかしいことではありません。

 私だったら、大自然の仕組みの見事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドのような夜空の星に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝きと名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。ささやきかけるようなそよ風、それになびいて揺れる松の林に目を向けさせます。さらさらと流れるせせらぎと怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの営みが確固とした目的をもち、法則によって支配されていることを指摘します。

 そしてさらに、人間がこれまで自然界で発見したものはすべて、法則の枠内に収まること、自然界の生成発展も法則によって規制されていること、その全体に広大にして複雑な、それでいて調和のとれた一つのパターンがあること、全大宇宙のすみずみに至るまで秩序が行きわたっており、惑星も昆虫も嵐もそよ風も、その他ありとあらゆる生命活動が、いかに複雑をきわめていても、その秩序によって経綸されていることを説いて聞かせます。

 そう説いてから私は、その背後の力、すべてを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、まだ人間に知られていない見えざる世界までも支配している霊妙な力、それを大霊と呼ぶのだと結びます。

【Q6】

あなたは大霊はすべてのものに宿る──全存在の根源であるから愛にも憎しみにも英知にも不道徳にも宿っているとおっしゃいます。そうなると、過ちを犯す人間も正しいことをする人間と同じように、大霊の摂理のなかで行動していることになります。愛と平和を説く者と同様に、憎悪と戦争を説く者も、摂理のなかで行動していることになります。すべてが大霊の摂理の一部である以上、その摂理に違反する者はいないことになってしまいますが、この矛盾をどう説明されますか?

 完全が存在する一方には、不完全も存在します。が、その不完全も完全の種子を宿しています。完全も、不完全から生まれるのです。完全は、完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。

 生きるということは進化することです。前に向かって進むことであり、上へ向かって努力することであり、発達であり開発であり発展であり進展です。あなた方のおっしゃる善も悪も、その進化の工程における途中の階梯に過ぎません。終わりではありません。

 あなた方は不完全な理解力でもって判断しておられます。その時点においては善であり、その時点においては悪だといっているに過ぎません。それはあなただけに通用する考えです。あなたと何の関わりもなければ、また別の判断をなさるでしょう。いずれにせよ、大霊は全存在に宿っています。

【Q7】

では、大霊は、地震にも責任を負うのでしょうか?

 大霊は法則です。万物を支配する摂理です。宇宙のどこにもその支配を受けないものは存在しません。地震、嵐、稲妻──こうしたものが地上の人間の頭脳を悩ませているのは承知しています。しかし、それらもみな、宇宙間の現象の一部です。宇宙も進化しているのです。そこで生活を営む生命が進化しているのと同じです。

 物質の世界は完全からはほど遠い存在です。しかもその完全は、いつまでたっても達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化していくものなのです。

【Q8】

ということは、大霊も進化しているということでしょうか?

 そうではありません。大霊は法則であり、その法則は完璧にできあがっています。が、物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。地球も進化していることを忘れてはいけません。地震や嵐や稲妻はその進化のあらわれです。地球は火焔と嵐のなかで誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。

 日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、たのしい小鳥のさえずりは大霊のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は、大霊とは関係ないというものではありません。そうしたものもすべて、大霊の絶対的法則によって営まれているのです。
 同じように、あなた方は、堕落した人間や他人に害を及ぼすような人間を、大霊はなんとかしてくれないのかとおっしゃいます。しかし、人間一人ひとりは、自由意志が与えられており、霊性の進化とともにその正しい活用法を身につけていきます。霊的進化の階梯を上がるにつれて、それだけ多くの自由意志が行使できるようになります。言い換えれば、現在のあなたの霊格があなたの限界ということになります。

 しかし、あなたも大霊の一部である以上、人生のあらゆる困難、あらゆる障害を克服することができます。霊は物質に勝ります。霊が王様で、物質は召使いです。霊がすべてに君臨しています。全生命のエッセンスです。霊は生命であり、生命は霊なのです。

【Q9】

大霊は、自分が創造した宇宙とは別個の存在なのでしょうか?

 そうではありません。宇宙は大霊の反映そのものです。つまり、大霊が宇宙組織となって顕現しているのです。
 ハエに人間界のことが理解できるでしょうか?魚が鳥の生活を理解できるでしょうか?犬に人間のような理性的思考ができるでしょうか?星が虚空を理解できるでしょうか?すべての存在を超えた大霊を、あなた方人間が理解できるはずはありません。

 しかし、あなた方も魂を開発することによって、一言も語らずとも、魂の静寂のなかにあって大霊と直接の交わりをもつことができるのです。そのときは、大霊とあなたとが一つであることを悟ります。それは言葉では言い表わせない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂のなかにおいてのみ、味わえるのです。

【Q10】

霊が意識をそなえた個的存在となるには、物質の世界との接触が必要なのでしょうか?

 そうです。意識を獲得するためには、物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。「物(matter)」から「霊(spirit)」へと進化していくのです。つまり、物的身体との結合によって、物的人物像を通して自我を表現することが可能となります。「霊」は「物」に宿ることによって自我を意識するようになるのです。

【Q11】

となると、大霊は、われわれ人間を通して体験を得ているということでしょうか?

 そうではありません。あなた方の進化が、すでに完全であるものに影響を及ぼすことはありません。

【Q12】

でも、われわれは大霊を構成する分子です。部分の進化は全体に影響を及ぼすのではないでしょうか?

 それは、あなた方を通じて顕現している部分に影響を及ぼすだけです。それ自体も本来は完全です。が、あなた方一人ひとりを通じての顕現の仕方が完全ではないということです。霊それ自体は、もともと完全です。

宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹です。それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。

あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されます。あなた方が霊という別個の存在を進化させているのではありません。あなた方自身であるところの霊が顕現する媒体(注)を発達させているのです。

 訳注──これはQ10の回答との関連において理解しなければならない。原語で「bodies」となっているところから、シルバーバーチが「物(matter)」を地上の物質だけに限っていないことがわかる。幽体も霊体も、厳密な意味では「物的身体」である。

【Q13】

霊が自我を表現する媒体も、さまざまな形態の「物」でできているということでしょうか?

 そういうことです。法則は完全です。しかしあなた方は不完全であり、したがって完全な法則があなた方を通して働けないから、あなた方を通して顕現している法則が完全でないということになります。あなた方が完全へ近づくほど、より多く完全な法則があなた方を通して顕現するようになります。
 こう考えてください。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡がお粗末なものであれば光のすべてを反射させることができない。その鏡を磨けば磨くほど、より多くの光を反射するようになります。要するに、すべての存在がよりいっそうの顕現を求めて、絶えまえまなく努力しているのです。前に私は、原石を砕きながらコツコツと宝石を磨いているのが人生だと申しあげたつもりです。原石はいらない、宝石だけがほしい、という虫のいい話は許されません。

【Q14】

でも、人間一人ひとりに、善いものと悪いものの概念があるのではないでしょうか?

 それは、その時点での話です。進化の途上において到達した一つの段階を表現しているだけです。魂がさらに向上すれば、その概念は捨て去られます。あるべき道から逸脱してしまった人間を通して完全な摂理・法則が顕現しようとして生じた、不完全な考えであったわけです。すべてが大切だと申しあげるのは、そこに理由があります。

【Q15】

それでは、大霊は原初においては善ではなかったということになるのでしょうか?

 私は、原初のことは何も知りません。終末のことも何一つ知りません。知っているのは、大霊は常に存在し、これからも常に存在し続けるということだけです。大霊の法則は完璧なかたちで機能しています。(今のたとえで言えば)あなたは完全な光をおもちです。
 ですが、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを「光は不完全だ。光は悪だ」とは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上界で「悪」と呼んでいるものは、不完全な段階で大霊を表現している〝不完全さ〟を意味しているに過ぎません。

Thursday, July 11, 2024

シアトルの夏 不変にして不可変

 Immutable and unchanging



ああ神よ、あなたは大宇宙を創造し給いし無限の知性におわします。

間断なき日々の出来ごとの全パノラマを統御し規制し給う摂理におわします。

全存在を支える力におわします。

物質的形態に生命を賦与し、人間を動物界より引き上げて、いま所有せるところの意識をもつに至らせ給いました。

私たち(霊団の者)は、あなたという存在を絶対的法則────不変にして不可変、そして全能なる摂理として説いております。

あなたの摂理の枠を超えて何事も起こり得ないからでございます。

宇宙の全存在はその摂理の絶対的不易性に静かなる敬意を表しております。

あなたの霊的領域において、より大きな体験を積ませていただいた私たちは、あなたの御力によって支配されている全生命活動の完璧さに対する賞讚の念を倍加することになりました。

私たちは今、あなたの仔細をきわめた摂理の一端でも知らしめんとしている者でございます。それを理解することによって、あなたの子等が、あなたがふんだんに用意されている生命の喜びを味わうことが出来るようにと願うゆえに他なりませぬ。

私たちは又、無知という名の暗闇から生まれる人間の恐怖心を追い払い、生命の大機構における〝死〟の占める位置を理解せしめ、自分の可能性に自覚させることによって、霊的本性の根源である無限の霊としての自我に目覚めさせんものと願っております。

それは同時に彼らとあなたとのつながり、そして彼ら同士のつながりの霊的同質性を理解させることでもございます。

あなたの霊が地球全体をくるんでおります。

あなたの神性という糸が全存在を結び付けております。

地上に生きているものはすべて、誰であろうと、いかなる人間であろうと、何処に居ようと、絶対に朽ちることのない霊的なつながりによって、あなたと結ばれております。

故に、あなたと子等との間を取り持つべき人物などは必要ではないのでございます。

生まれながらにして、あなたからの遺産を受け継いでいるが故に、あなたの用意された無限の叡智と愛と知識と真理の宝庫に、誰でも自由に出入りする事が許されるのでございます。

私たちの仕事は人間の内奥に宿された霊を賦活し、その霊性を存分に発揮せしめることによって、あなたが意図された通りの人生を生きられるように導くことでございます。

かくして人間はいま置かれている地上での宿命を全うすることでしょう。

かくして人間は霊的存在としての義務を果たすことになるでしょう。

かくして戦いに傷ついた世の中を癒し、愛と善意を行きわたらせる仕事に勤しむことでしょう。

かくして人間はあなたの真の姿を遮ってきた暗闇に永遠に決別し、理解力の光の中で生きることになるでしょう。

 ここに、あなたの僕の祈りを捧げ奉ります。

 
<『シルバーバーチの霊訓(3)14章より』>

Tuesday, July 9, 2024

シアトルの夏 動物と人間との関わりあい

Relationships between Animals and Humans

シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A  8章

【Q1】
霊的に正しければ、物的な面もおのずから正されるとおっしゃっていますが、痛みつけられ、大量に殺戮され、酷使されるために生まれてきているとしか思えない動物には、それは当てはまらないように思います。動物は、何も悪いことはしていないのではないでしょうか?

 その見方は間違いです。同じく霊といっても、人間の霊と動物の霊とでは、範疇(カテゴリー)が違うのです。人間には正しい選択をすべき義務が与えられています。

 いい換えれば、そこに自由意志の行使が許されているということです。それによって人間は、宇宙の進化を促進することもあれば、妨害することもあるわけです。この天体上で共存している動物に関しても、それをどう扱うかについて、ある一定範囲で選択する自由が与えられています。

 人間の世界には悪用・誤用が多過ぎます。そのなかでも決して小さいとはいえない問題が、動物への残酷な医学的行為と、食糧としての身勝手な濫用です。しかしこれは、人間が進化するための、一種の必要悪なのです。もしも人間から自由意志を奪ったら、個的存在としての発達と進化を遂げるチャンスがなくなってしまいます。ここに問題の核心があります。


【Q2】
そういう事態が生じることが、なぜ許されるのかが理解できません。

 「生じることが許される」ことに疑問を抱くということは「許されないようにすべきである」とお考えになっていることになりますが、それは人類から自由意志を奪ってしまうことになります。繰り返しますが、自由意志を奪ってしまえば、人類はただの操り人形となってしまい、内部の神性を発現するチャンスがなくなってしまいます。霊的資質が発達せず、地上生活の基本的な目的が失われます。

 地上世界は、霊にとっての保育所であり、学校であり、トレーニング・センターです。さまざまな挑戦に遭遇し、それを克服しようと努力するなかで自由意志を行使してこそ、霊性が進化するのです。


【Q3】
人間が動物に対して間違いを犯せば、その天罰は動物ではなくて、人間の頭上に降りかかるべきだと思うのですが‥‥。

 「埋め合わせと懲罰」の法則があります。あなたが行なう善いこと悪いことのすべてが、自動的に霊的な影響を及ぼします。大自然の因果律を免れることは絶対にできません。

 埋め合わせと懲罰の法則は、その中核をなすものです。罪もない庶民が、支配者の横暴によって被る犠牲に対して埋め合わせがあるように、残虐な取り扱いを受けた動物にも、それなりの埋め合わせがあります。


【Q4】
人類は、これからもずっと、動物に残酷な扱いを続けるのではないかと思うのですが。

 いえ、そうとばかりも言えません。他の生命に対する責任を少しずつ理解していくでしょう。一朝一夕に残虐行為がなくなるとは言いません。人類は進化しつつある世界の、進化しつつある存在です。絶頂期もあれば奈落の底もあり、向上もすれば転落もします。が、進化というのは螺旋状(スパイラル)に進行するもので、一見すると向上しているようには見えなくても、全体として見ると、徐々に向上しているものです。

 そうでないと、進化していないことになります。無限の英知と愛によって、すべての物、すべての人間について、然るべき配慮が行き届くように構成されていることを認識しなくてはいけません。


【Q5】
残酷なことをしたら、その結果がすぐに出るといいのですが‥‥。どうも人類は、うまく罪を免れているように思えてなりません。

 うまく罪を免れる者は一人もいません。摂理は間違いなく働きます。たとえ結果が地上で出なくても、霊界で出ることを断言します。因果律は、いかなる手段をもってしても変えられません。

永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があれば必ず結果が生じます。それから逃れられる者は一人もいません。もしいたら、大霊は大霊としての絶対的な条件である「完全なる公正」を失います。

 そのこととは別にもう一つ、私がいつも強調していることがあります。残念ながら人類は、宿命的に短期間の視野しか目に入らず、永遠の観念でものごとを考えることができないことです。あなた方には、地上で発生していることしか目に入りませんが、その結果は霊界で清算されています。


【Q6】
地上の動物が、気高い情や知性といった人間的資質を発達させた場合でも、死後は、やはり動物のままなのでしょうか?それとも、そのうち人間界へと進化していくのでしょうか?

 進化も自然の摂理の一部です。これにも一本の本流とたくさんの支流とがありますが、全体として同じ摂理の一部を構成しています。あなた方人間に潜在している霊性と動物の霊性とは、質的にはまったく同じものです。進化の度合において差があるだけで、本質においては違いはありません。

 霊は無限ですから、可能性においては、人間でも動物でも驚異的な発現力を秘めていますが、霊的には両者とも、一本の進化の道に属しています。その道程の、どの段階で動物へ枝分かれし、どの段階で人類へ枝分かれするかは、だれにも確言できません。そこに、とりたてて問題となる要素はないと思います。


【Q7】
動物も人間と同じ進化の道程をたどるのでしょうか?

 動物は、動物独自の進化の道程をたどります。といっても、全生命の進化の背後に存在するパターンの一部です。発達と呼んだほうがよいかもしれません。

たとえば、もし私が 「子どもは親と同じ進化の仕方をするものですか?」 と聞いたら、その答えは 「イエス」 でもあり 「ノー」 でもあるでしょう。人類のすべてがたどるパターンは決まっているのですが、その枠内で、意識の発達に伴って自由意志の行使範囲が広がるからです。

 霊を宿したものは、例外なく無限の発達の可能性を秘めています。動物も、進化のパターンのなかで受けもっている役割にしたがった進化の道程をたどります。因果律は絶対です。現在あるものは、過去にあったものの結果です。それ以外にありようがないのです。

 生命の根源は一つです。千変万化の生命現象も、霊的な絆で一つにつながっているのです。が、草花、樹木、小鳥、野獣、あるいは人類が、それぞれの進化の法則によって支配されているように、動物も独自の法則によって、進化が規制されているのです。


【Q8】
動物界にも、高等・下等の差別があるのでしょうか?

 ありません。それぞれの動物に、たどるべき進化の道程があります。生あるものは霊であるがゆえに生きているのです。霊は生命であり、生命は霊です。ですから、創造されたもの───小鳥も魚も花も木も果実も、すべて霊なのです。

 高等・下等の問題ですが、これは無数の生命形態のなかの他の生命と比べて、進化のどの段階にあるかの差に過ぎません。たとえば人間は、魚に比べれば高い段階にあるかもしれませんが、霊界の上層界の存在に比べれば低い段階にあることになります。


【Q9】
動物のなかには、同族の他のものたちより抜きん出て発達していて、人類と同じ資質を発揮しているものがいるように見受けられますが‥‥。

 当然、そうあって然るべきです。なぜかと言いますと、進化の世界においては、進化を先どりした前衛的なものと、その種族の平均的な発達程度から遅れている後衛的なものとがいるものです。それはちょうど、人類においても天才とか改革者、聖人といった霊性を顕著に発揮して、人類の未来の姿を顕示している者がいるのと同じです。

動物のなかにも、同じ種族の者より数段も進化しているものがいて、人間にも匹敵するほどの英雄的行為や献身的行為を見せることがあるのも、同じ範疇に属します。

 資質の発達は、早い側面もあれば遅い側面もありますが、同じ天体上に棲息する生命体のすべての調和(のとれた生命連鎖)を維持するうえで、最終の責任を担っているのは人類です。

 しかし、人類がどのような(間違った)行為をしでかしても、大自然の摂理の一環として、必ずそれに対する埋め合わせの法則が用意されています。人類には、動物がそれなりの進化の道程を順調に歩むように配慮すべき義務があるのです。それを怠ると、それに対する代償を支払わなければなりません。残酷な扱いをしている人間は、その行為のすべてに対して、霊的な代償を支払わねばならなくなるでしょう。


【Q10】
動物に投与している抗生物質などの薬品類が、めぐりめぐって人間の体内へ入ってきている事実をどう思われますか?

 それは、他の生命に害悪を及ぼすと、必ずそれに対して責任をとらされるという、大自然の永遠のサイクルの一環です。他の生命に残酷な仕打ちをしておいて、それが生み出す結果を逃れるということは許されません。

 貪欲以外に何の理由づけもなしに、動物を檻のなかで飼育し、動物としての生得の権利を奪うことは、悪循環をこしらえることにしかなりません。そのサイクルのなかで因果律が生み出すものに対して、人間は苦しい代償を支払わねばなりません。

動物であろうと草花であろうと、小鳥であろうと人間であろうと、自然界全体が恵んでくれる最高のものを得るには、慈悲と愛と哀れみと、親切と協調しかないのです。


【Q11】
自分たちの使命を維持するために、人間は植物の生命を奪い、動物の卵や乳を横どりし、さらにひどいこととして、動物を殺して食べざるを得ません。こうした強盗にも似た生き方は、あなたがよく強調なさっている理性を反発させずにはおかないのですが、これを「愛の造物主」の観念とどう結びつけたらよいのでしょうか?

 人間は、自分たちのすることに責任をとることになっており、その行為の一つ一つが霊性に影響を及ぼします。その際に必ず考慮されるのが動機です。動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかった場合は、その行為はあなたの霊性にプラスに働きます。

 霊的摂理は、原因と結果との関係、種まきと刈り取りの原理のうえに成り立っており、これだけは絶対にごまかせません。あなたのすること、考えること、口にすることの一つ一つが、それ相当の結果を自動的に生み出します。そこに、ごまかしの余地はありません。

 悪いと知りつつ間違ったことをした場合は、その結果に対して責任をとらされます。その苦しみは自分で背負わねばなりません。善い行ないをした場合でも、それが見栄から出ていれば動機がお粗末でいけませんが、魂の自然な発露としての善行であれば、あなたを霊的に向上させます。それが摂理とうものなのです。

 常々申しあげているように、「殺害」の観念がつきまとう食品は、なるべく摂取しないほうがよろしい。殺すということは絶対にいけないことです。ただし、その動機を考慮しなければならないケースがあることは認めます。

 霊的向上をのぞむ者は、いかなる犠牲を払っても、大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければなりません。その摂理は霊的なものです。霊が発揮すべき側面は、いつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理にしたがって考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。

しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。そのために大霊は、自由意志というものをお与えになったのです。


【Q12】
地上界でおそろしい動物虐待が行なわれているのを見ていながら、なぜ霊界から阻止してくれないのでしょうか?

 それは、宇宙が自然の摂理で支配されているからです。(第10章Q1参照)。残念なことに、地上の人間の大半が、霊性の発達の欠如から、自分たちを生かしめているものが、同じ地上の他の生き物のすべてを生かしめているものと同じ「霊」であることを理解していません。つまり、動物も物的身体をたずさえた霊的存在であることに、理解がいかないのです。

 大半の人間は、自分たちが万物の霊長であると信じていながら、だからこそ他の生きものに対して責任があることに気づいていません。高い段階にいる者が、低い段階にいる者に手を差しのべるべきなのです。


【Q13】
生体解剖は許されることでしょうか、間違ったことでしょうか?人類に何らかの益をもたらすでしょうか?

 人間は、動物を解剖するという手段で自分たちの健康が達成されると信じて、何の罪もない動物に無用で残酷な行為や恐怖を与えていますが、これは間違いです。

 私は、動物を使っての実験のすべてに反対です。何一つ正当化する理由が見つからないのです。動物は、人間による保護と管理のもとに生きるべく、地球上に送られてくるのです。ですから、人間には、動物の成長と進化を促進させる義務があります。その動物をむごい目にあわせるのは、動物が人間に見せる愛着や献身や忠誠に報いる行為としては、いささかお粗末過ぎます。

自然界には、人間の病を治す薬効成分がいろいろなかたちで存在し、人間が発見するのを待っています。動物的創造物にそういう無益な干渉をしなくても、大霊は、必要なものはすべて用意してくださっているのです。

 霊界から援助している霊たち、人間の苦痛を軽減する方法を心得ている霊医たち、地上の医者が「不治」の診断を下した病を治すこともできるほど進歩した霊界の医学者たちは、生体解剖の手段はとりません。

山野に自生するハーブや霊的治療エネルギーを使用します。何ものにも苦痛は与えません。宇宙は道義的な意図で満ちあふれています。非道義的な意図は、大霊の摂理に反します。


【Q14】
人類は、生体解剖という手段では救えないということを悟る一歩手前まできているでしょうか?

 私は、生体解剖という手段では何一つ人類に益するものは得られない、と言っているのではありません。そういう痛い目にあわされるいわれのない動物に、残酷なことや苦しい思いをさせることは、宇宙の霊性に反することだから正しくないと言っているのです。そこのところが、医学界が理解できずにいるところです。

 人間は動物よりも大切な存在であるとの先入観で、動物実験を正当化し、それによって人類の健康と幸せを促進する権利があると思い込んでいます。しかし、これは間違いです。霊的に間違っていることは絶対に許されません。

この地球上において仲良く協力しあって、生きるべき者すべての幸せを促進する方向で、努力しなくてはいけません。

愛こそが摂理を成就させるのです(注)。

他の生物に苦しみを与えているようでは、人類に愛があるとは言えません。

訳注───「愛こそが摂理を成就させる(Love is the fulfilling of the law.)」の意味を私なりに解説しておくと───。

 宇宙の摂理は「進化」を志向して無限の次元にわたって構成されている。「良心が痛む」というのが、その顕著なあらわれである。したがって、ここで言う「成就する」とは、進化の方向へ向かって摂理が働くということになる。

 これは、イエスの有名なセリフ「右の頬を叩かれたら左の頬を出してやりなさい」(『マタイ5』)の訓えのなかで最高のかたちで具体化されていると考えられる。叩かれて叩き返していたら「目には目、歯には歯」の報復の繰り返しになって、業(カルマ)の消えるときがない。

どちらかが、その愚かさを悟って叩き返さない態度に出れば、そこで摂理が一段と高められた次元で成就される。その力が、本当の意味での愛であるということであろう。

シアトルの夏 軽いくびき





一、苦しむ者、重荷を負っていると思う者は、みな私のところへ来なさい。私があなたたちの苦しみを和らげてあげます。私のくびきを負い、私が心優しく、へりくだっているのだということを学びなさい。そうすれば、あなたたちの魂は休まることができるでしょう。なぜなら、私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。(マタイ 第十一章 28-30)


二、キリストが人類に教えてくれた通り、貧困、落胆、肉体的苦痛、愛する者の死など、全ての苦しみの慰めは、未来を確信し、神の正義を信じることによって受けることができます。

反対に、この人生の向こう側には何も期待せず、あるいはそれに疑問を持っている者の苦しみは、そうした者の上に重くのしかかってくることになり、その苦しさを和らげる望みは一切なくなってしまいます。このことが「疲れた者は私のところへ来なさい。私が疲れを和らげてあげます」とイエスに言わせたのでした。

 しかし、イエスは、イエスの救援と苦しむ者が幸せを約束されるための条件を決めています。その条件とは、イエスが教えてくれた神の法そのものです。イエスのくびきとはこの法を守ることです。しかし、そのくびきは軽く、その法はやさしいのです。なぜなら、その法は愛と慈善の実践を義務とする法だからです。


  約束された救い主 
三、もしあなたたちが私を愛するなら、あなたたちは私の戒めを守るべきです。私は父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の救い主をあなたたちにお与えになります。その救い主が何時までもあなたたちとともにおられるためにです。その方は真実の霊です。

世はその方を受け入れることができません。世はその方を見ようともせず、知ろうともしないからです。しかし、あなたたちはその方を知っています。その方はあなたたちとともにおり、あなたたちの内におられるからです。(ヨハネ 第十四章 15,17)

 しかし、救い主、すなわち、父が私の名によってお遣しになる聖霊は、あなたたちにすべてのことを教え、また、私があなたたちに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ 第十四章 26) 


四、イエスはもう一人の救い主の出現を約束しています。それは、当時の世界がまだ知ることのできなかった真実の霊です。世界はそのことを理解するにはまだ未熟であったのです。神はすべてのことを教え、キリストが述べたことを思いださせるため、真実の霊を送るのです。

真実の霊が、後になってすべてを教えるために現れるということは、イエスはすべてを教えることができなかったことになります。キリストが述べたことを思いださせるために出現するということは、イエスの教えが忘れ去られてしまったか、あるいは間違って理解されてしまったからです。

 スピリティズムは決められた時代にキリストの約束を守るために現れました。真実の霊がその確立を指導しています。彼は人間に法を守ることを呼び掛けています。キリストがたとえ話でしか話さなかったことを理解できるよう、全てを教えてくれています。

キリストは「聞く耳を持つ者が聞きなさい」と言いました。スピリティズムは目や耳を開くために現れました。なぜなら、スピリティズムは偶像や装飾を通じて話すのではないからです。

意図的にベールで覆われた神秘の謎を解き明かしてくれ、地上で見放された者や苦しむ者すべてに、すべての苦しみには正当なる理由と有益な目的があることを示すことによって、最高の慰安をもたらしてくれるのです。

 キリストは「苦しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」といいました。しかし、なぜ苦しまなければいけないかを知らされずに、どうして苦しむことにより幸せになることが出来るでしょうか。スピリティズムは、その理由が過去の人生と、人類が過去の償いを行う場所としての地球自体の行方の中に存在するということを明らかにしています。

また苦しみの目的とは、療法となる有益な手段となり、未来の人生における幸せを得るための浄化の手段となることであると示しています。人間は自分が苦しむに値することを理解し、苦しみを正当であると認めることができるようになります。

その苦しみが自分の進歩を助けることを知っているので、報酬を約束された労働に取り掛かる者のように、不満をこぼすことなく苦しみを受け入れることが出来るのです。スピリティズムは、未来に対する揺らぐことの無い確信を人間に与え、それによってその魂からは疑いの余地さえ失われてしまいます。

人間に物事を高い視点から見下すことを教えてくれ、地上での盛衰の重要性など、スピリティズムの示す光輝く広い地平線の彼方に消え去ってしまうのです。そして未来に待つ幸せへの希望は、道を最後まで歩み続けるための忍耐、甘受の気持ち、勇気を人間に与えてくれるのです。

 このように、人間がどこから来て、どこへ向かい、そしてなぜ地球上に生まれたのか教え、真なる神の法の原理を思いださせ、信仰と希望による慰安を与えてくれることによって、スピリティズムはイエスが約束した救い主を現実のものとしてくれるのです。





  霊たちからの指導
 
  真実の霊の出現
五、かつて道に迷えるイスラエルの民に真実をもたらし、闇を払おうとしたときと同じように、私はやってまいりました。私の言うことを聞いてください。

私の言葉が過去においてそうしたように、スピリティズムは無神論者たちに、彼らの頭上には普遍の真実、すなわち、草花を芽生えさせ、波を起こす善なる神、偉大なる神が君臨しているのだということを教えなければなりません。

私は神の教義を示し、また、それを収穫する者として、人間に散らばった善を束にまとめ、「苦しむ者よ、私のところへお出でなさい」と申したのです。

 しかし、恩知らずな人たちは、私の父の君臨する国へつながる広く真っ直ぐ延びる道から外れ、険しい不信仰の小道に迷ってしまったのです。私の父は、人類を全滅させようとしているのではありません。

父はあなたたちが、生きる者も死ぬ者もお互いに助け合い、救い合うことを望んでいるのです。死ぬ者とは、肉体の死んでしまった者のことです。なぜなら死は存在しないからです。そして、預言者や伝道者に耳を傾けるのではなく、地上にもはや存在しない者たちがこう叫ぶ声を聞いてください。

「祈り、信じなさい。死とは生き返ることです。人生とは選択された試練なのです。その試練の中であなたたちの耕す美徳というものが、杉の木が伸びるように育ち、発展するのです」

 弱く、自分の知性の闇を知っている者は、温厚なる神が手渡してくれた灯を遠ざけてはいけません。その灯はあなたの道を照らし、迷える子供たちをその父親の懐へ導いてくれるのです。

 あなたたちの惨めさや、また、天国を見上げながら過ちのどん底に落ち、道に迷ってしまった不幸な者たちに手を差し伸べようともしないあなたたちのあまりの弱さに、私は深い同情を抱いています。

あなたたちの目の前で明らかにされることを信じ、愛し、熟考してください。良い種と悪い種とを混ぜてはいけません。夢想と現実とを取り違えてはいけません。

 スピリティズムを学ぶ者よ、お互いに愛し合いなさい。これが最初の教えです。自分を教育しなさい。これが第二の教えです。全ての真実がキリストの教えの中に存在します。

キリスト教の中に根付いてしまった誤りは、全て人類が生みだしたものなのです。ですから、あなたたちが何も存在しないと考えていた墓の向こうから、あなたたちに向かって訴えてくるのです。「兄弟たちよ、何事も消滅するものはないのです。イエスキリストはすべての悪に打ち勝ったのです。あなたたちは、不信仰に打ち勝たねばならないのです」と。(真実の霊 パリ、1860年)

℘136          
六、私は、可哀想な、見捨てられた貧しい者たちを慰め、教えるために参りました。あなたたちの甘受の気持ちを試練のレベルまで引き上げよと伝えにきたのです。あなたたちの痛みはオリーブの園にて神聖なものとされたのですから泣いてもよいのです。

泣いて待てば良いのです。慰安のための天使たちが、あなたの涙を拭きに来てくれるからです。

 働く者たちよ、あなたの道のりを計画してください。前日の厳しい道のりを、再びその次の日も歩み続けてください。あなたたちの手によってなされる労働は、あなたたちの肉体に地上の糧を与えてくれます。しかし、あなたたちの魂も忘れられてはいません。

なぜなら神聖なる庭師である私は、あなたたちの思考の静まっている時、あなたたちの魂の手入れを行っているからです。あなたたちの休む時間がやってきてその日の日課から解放され、目をその日の光に対して閉じた時、私の蒔く貴重な種があなたの中で芽生えるのを感じ取ることができるでしょう。

 私たちの父の国では、何も失われるものはありません。あなたたちの汗、あなたたちの苦しみは、より進んだ世界においてあなたたちを豊かにしてくれる宝となるのです。その世界では、光が闇にとって代わり、あなたたちの中で最も質素な者がきっと最も輝かしくなるでしょう。(真実の霊 パリ 1861年)

 誠に言います。自分たちの重荷を背負い、その兄弟たちを助ける者たちこそが私の愛する者たちです。反抗による過ちを消し、人間の試練の崇高なる目的を教えてくれる貴重な教義をもって自分自身を教育してください。

風が吹いて埃を追い払うように、霊たちの一吹きによって地上の富を得た者たちに対するあなたたちの羨みが吹き飛ばされて行きますように。

地上の富を得た者たちとは、たいていもっとも惨めな者たちであるのです。なぜなら、彼らの試練はあなたたちの試練に比べて、より危険であるからです。私はあなたたちと共にあります。私の使徒たちはあなたたちに教えます。

愛の生きた泉に愛を求めてください。人生に拘束された者たちよ、あなたたちの完成のためにあなたたちを弱く造られた者のもとへ、いつの日か、自由と喜びを持って向かっていくことができるよう、その準備をしてください。

造形しやすい粘土を自分たちの手で形作り、自ら不滅の自分を創り上げることを神は望まれているのです。(真実の霊 パリ 1861年)

℘137       
七、私は魂の医者です。あなたたちを必ず治すことのできる薬をもってきました。弱い者、苦しむ者、病にかかった者は私の特に愛する子供たちであり、私は彼らを救いに来たのです。私の許においでなさい。苦しみ、悩むあなたたちは皆、慰められ、楽になることが出来るのです。別の場所に力と慰めを求めてはなりません。

なぜなら、この地上の世界ではそれを与えることが出来ないからです。神はスピリティズムを通じて、あなた達の心に最高の救いを投げかけてくれるのです。耳を傾けてください。無慈悲、偽り、誤ち、不信心があなたたちの痛ましい心から根絶されますように。

こうしたものこそがあなたたちの血液の純粋な部分を吸い上げ、あなたたちをほとんど死にまで至らせる傷を負わせる怪物なのです。未来において、創造主に慎ましく服従することできるように、神の法を実践してください。

愛し、祈ってください。主より送られてくる霊たちの教えを、素直に受け止めることができますように。神を心の底から叫んでください。そうすれば、主はあなたたちに素晴らしい言葉を伝え、教授してくれる、神の愛する子を送ってくれるでしょう。私はここにいます。あなたたちが私を呼んだので、私はここにいるのです。 (真実の霊 ポルドー 1861年)


八、神は慎ましい者たちを慰め、神の力を嘆願する苦しむ者たちに力を与えます。神の力は地球上のすべての場所に及び、流される一つ一つの涙のそばには慰安の薬を用意してくれています。自己を犠牲にし、献身して生きるということは、途絶えることなく祈っているようなものであり、そこには深い教えが含まれています。

人類の知恵はこの二つの言葉の中に生きているのです。痛みや道徳的な苦しみに対し、不平を訴えるのではなく、それらが地上で生きるために与えられたわけ前であるという真実を、苦しむ霊たちが理解することができますように。

献身と自己犠牲──これらの二つの言葉を標語として掲げ、強く生きてください。なぜならこれらの言葉には、慈善と慎ましさを実践するために必要な全ての義務が込められているからです。

義務を果たすことができた時の達成感は、あなたたちの心に平安と甘受の気持ちを与えてくれます。心臓はよりよく響き、魂は落ち着き、肉体は衰弱しなくなります。だから、霊が深く痛めつけられるほど、肉体は同じように苦しむのです。 (真実の霊 ルアーブル 1863年)

Monday, July 8, 2024

シアトルの夏 憎しみと愚かさの中にも

Even in hatred and immature





 真白き大霊よ。


あなたは全存在の太源におわします。


あなたは太初(たいしょ)です。


あなたは終極です。


すべてのものに存在し、すべての相(すがた)に顕現しておられます。


霊の世界の最高界であろうと、物質の世界の最低界であろうと、そこに何ら相違はございません。

あなたは光明の中に存在すると同時に暗黒の中にも存在します。


春に存在すると同時に秋にも存在します。夏に存在すると同時に冬にも存在します。


日和(ひより)の中に存在すると同時に嵐の中にも存在します。


あなたは稲妻の中にも雷鳴の中にも存在なさっております。

そよ風の中にも、あなたが存在します。


小鳥のさえずりの中にも、あなたが存在します。


嵐に揺れるこずえにも、小川のせせらぎの中にも存在します。


高き山の頂きにも大海の深き底にも存在します。


無数の太陽の集まる星雲の中にも、きらめく星の一つ一つにもあなたが存在いたします。

あなたは愛の中にも憎しみの中にも存在します。


叡智の中にも愚かさの中にも宿っておられます。


内側にも外側にも存在しておられます。


何となれば、あなたは絶対的な大霊にあらせられ、その摂理なくしては何一つ存在しえないのでございます。

ああ、真白き大霊よ、あなたの大きさは到底、地上の言語では表現できませぬ。


地上のいかなる進化せる人物によっても、あなたの全体像を理解することはできませぬ。

あなたはいつの時代にも人間の信仰の対象とされ、あらゆる言語によって讃美されてまいりました。


多くの人間によって、あまたの聖なる書の中に啓示されてまいりました。

物質の霧を突き抜けて〝霊の目〟をもって見通せる者を通じて、あなたは分け隔てなく、それぞれの時代にあなたの摂理を啓示なさってこられました。


ああ神よ、あなたは今まさに地上世界へ新たにあなたの使者を遣わされ、子らを一層あなたの身近き存在となし、子らがあなたを少しでも多く理解し、あなたの霊力を活用することによって、物質の世界へ安らぎと豊かさと幸福をもたらすための新たな啓示を行っておられます。

その道具としてあなたのお役に立つことを願う私どもは、地上の子らとの協力によって暗黒の世界へあなたの光明をもたらし、あなたの力、あなたの愛、あなたの摂理を物的宇宙のすみずみまで顕現せしめんと望むものです。

ここに、あなたの子らに仕えることによってあなたに仕えんとするあなたの僕の祈りを捧げます。


<『シルバーバーチの霊訓(12)9章より』>

Friday, July 5, 2024

シアトルの夏 私の父の家には多くのすみかがあります。

My father's house has many habitats.


一、あなたたちの心を乱してはなりません。神を信じ、また、私を信じてください。私の父の家には多くのすみかがあります。もしそうでなかったら、私はそのことをあなたたちに言っておいたでしょう。

私はその場所をあなたたちのために準備しに行くのですから。私が行き、あなたたちの場所を準備した後、再び戻ってきて、あなたたちを私のところに迎えましょう。(ヨハネ 第十四章 1‐3)

 死後の世界における魂のさまざまな状態
二、父の家とは宇宙のことです。様々なすみかとは、無限の宇宙の中で霊たちに生まれる場所を提供する、霊たちの段階に応じて存在する世界のことです。これらのイエスの言葉は、世界の多様性とは別に、死後の世界に存在する霊たちの幸運、または悲運な状態に関してもあてはめることができます。

物質への執着から解放されたか、あるいはある程度浄化しているかどうかということによって、その霊の置かれる状況、そこでの物事のありさま、そこで感じること、そこで所有する感覚が霊によって無限に違ってきます。

ある者が生前住んでいた場所から離れられない一方で、別の者たちは宇宙のいろいろな世界を行き来します。罪のある霊たちが闇の中で過ちを犯す一方で、至福を得た霊たちは光り輝く明るさと無限なる神の崇高な業を享受することが出来るのです。

結局、悪は後悔や苦しみに悩まされ、慰安を受けることもなく、その愛情の対象となっていた者たちから引き離され、多くの場合孤立してしまい、道徳的な苦しみに悲しむことになり、正しい者は愛する者たちと共に生活し、表現し難い幸せの喜びを享受することになります。

だから、場所も示されて居なければ、その区画もされていませんが、そこには多くの住処があることになるのです。


 霊の住む世界のさまざまな分類
三、霊たちによってもたらされた教えから、さまざまな世界の状況は、そこに住む霊たちの進歩または劣等の度合いによってお互いに大きく違っていることがわかります。それらの世界の中には、まだ地球よりも、道徳的にも物質的にも劣っている世界があります。

他には私たちの世界と同じ分類の世界も存在します。また、すべての点において他の世界よりも優れた世界も存在します。劣った世界では、存在は全て物質的であり、感情が全てを支配し、道徳的な生活はほとんど存在しません。

この世界は進歩するに従って物質の影響が減少しますが、そのようにより進んだ世界における生活は、ほとんど霊的であるということが出来ます。


四、中間に位置する世界には善と悪とが混在しており、そこに住む霊たちの持つ進歩の度合いによって、どちらかがその世界を支配することになります。様々な世界を絶対的に分類することは出来ませんが、その世界の状態とその世界が持つ運命に従って、またその世界の最も目立つ特徴をもとに、一般的に次のように分類することが出来ます。

人間の魂の初期の肉体化のための原始的な世界、
悪を克服するための試練と償いの世界、
さらに試練に立ち向かうべき魂が新しい力を吸い込み、闘いの疲れをいやす更生の世界、
善が悪に勝る幸運の世界、
浄化した霊たちの住む善だけが君臨する神の世界。

地球は試練と償いの世界に分類し、だからこそ、そこにはこれ程までの苦しみを抱えた人々が住んでいるのです。


五、ある世界に生まれてきた霊は、いつまでもそこにとどめられるものでもなければ、その世界の中で、完成するまで実現しなければならない進歩のステップのすべてを経るわけでもありません。

霊たちは一つの世界においてその世界が与える進歩のレベルを達成すると、より進んだ世界へと進んで行き、それを純粋な霊の段階に至るまで繰り返していきます。多くのさまざまな滞在地が存在し、それぞれにおいてすでに達成している段階に適した進歩の要素が霊たちに提供されるのです。

彼らにとっては、より進んだ世界へ昇ることが報酬であるように、ある不運な世界での滞在が延長されることや、悪に固執する限り出ることの出来ない世界よりもさらに不幸な世界へ追放されることは罰となります。


 地球の運命──地球の惨めさの原因
六、多くの人々が地球上にこれほど多く存在する悪意や粗雑な感情、あらゆる種類の惨めさと病に驚き、人類とはとても悲しいものだと結論づけてしまいます。こうした狭められた視野から下された判断は、全体に対する誤った考えを彼らに与えてしまいます。

地球上には人類の全てが存在しているのではなく、人類のほんの一部しかいないのです。実際、人類という種は、宇宙の無数の天体に住む、理性をもった存在全てを含めて意味するのです。

では、これらの世界に住む人口に比べ、地球上の人口とはどんなものでしょうか。ある大きな国に比べた、小さな村にも満たないでしょう。地球の運命と、そこに住む人々の本質を知るならば、地球上の人類の物質的、道徳的状況に何も驚くようなことはありません。


七、ある大きな町の郊外の、もっとも卑しく最低な地区の住人によって、その町全ての住人を判断してしまうのは誤った考えとなります。病院には、病気の人や、身体が不自由な人しかいません。刑務所にはあらゆる醜行、悪徳を見ることができます。

不健康な地区では、その住人の大半は青白く、痩せ細り、病的です。ここで、地球を郊外の地区、病院、刑務所の、全てが同時に存在するところだと考えてみれば、なぜ苦しみが喜びに勝って存在するのかを理解することができます。

健康である者を病院へ送ったり、悪いことをしていないのに刑務所に送ったりはしません。又病院や感化院は歓喜のための場所とはなりません。

 しかし、ある町の住人のすべてが病院や刑務所にいることがないように、人類のすべてが地球上に存在しているわけではありません。そして病気が治ると病院を退院し、懲役を済ませば刑務所から出所するのと同じように、人類も道徳的な病を治療した後には地球を去ることになるのです。




   霊たちからの指導

  優れた世界、劣った世界

八、劣った世界と優れた世界の性格とは絶対的なものではありません。どちらかというと、大変相対的なものです。ある世界が劣っているか、優れているかということは、進歩の段階の中でその世界の上または下に存在する世界と比べた場合にのみ決まることです。

 地球を例として、劣った世界の住人を私たちの天体の原始的な時代の痕跡である原始的な生活を続ける人々や、いまだ私たちの間に存在する野蛮な人々にたとえてみれば、その劣った世界の状態がどのようであったかを考えることができます。

遅れた世界では、そこに住む者はある意味において原始的です。人間の形をしていても、美しさは存在しません。彼らの本能は、優しさや善意に弱められておらず、正義と不正を区別するほんのわずかな感情を持つまでには至っていません。彼らの間では粗暴な力が唯一の法です。

産業も発明もないため、食物を手に入れることに人生を費やします。しかし神は、そのいかなる創造物をも見捨てることはありません。知性の闇の底には、ぼんやりと神の存在を感じさせるものが潜在的に横たわっています。

この本能は、彼らの間にお互いの優劣を作りだし、より完全な人生へと昇っていく準備をするためには十分なものなのです。というのも、彼らは堕落した存在なのではなく、成長しつつある子供であるからです。

 劣った段階と、より進んだ段階との間には、無数の段階が存在しますが、物質から解放されて、栄光に輝く純粋な霊たちを見て、彼らもかつてはこうした原始的な霊たちであったことを知ることは、人間の成人を見て、その人が胎児であったことを思いだすのと同じように困難なことです。

  
九、優れた段階へ到達した世界においては道徳的、物質的生活の条件は地球上の生活とは非常に違っています。どの場所においてもそうであるように、そこでも体は人類と同じ形をしていますが、その形はより美しく、完成され、何よりも浄化されています。

その体は、地球上でのような物質性を全く持っていないので、あらゆる肉体の必要性に束縛されることもなければ、物質に支配されていることによって生じる病気や肉体の老化に冒されることもありません。

その知覚はより純粋になるため、地上の世界では物質の粗暴さが妨げとなっていた感覚をもとらえることができます。体の特殊な軽快さは、容易で敏速な移動を可能にします。

地面の上を重々しく体を引きずるのではなく、正しく描写するならば、意思以外のなんの力も加えることなしに、表面を滑ってその環境の中を水平移動して行き、それは昔の人々が極楽における死者の霊魂を想像した姿や、天使たちに表される姿と同じです。

人類は自らの意思により過去の人生の面影を残すことが出来、生前に知られていた姿で出現します。しかし、その時には神の光に照らされ、内面の高尚な性格が形を変容させています。苦しみや感情によって打ちひしがれたような青ざめた顔つきではなく、画家たちが聖人の周囲に後光や光輪を描いたように、知性と生命が輝いています。

 すでに多くの進歩を遂げた霊たちによって、物質が与える抵抗は少なく、体は非常に早く発達し、幼年期はほとんどありません。苦しみや心配から免れ、その人生は地上のものよりも均一的でずっと長いものです。第一に寿命はその世界の段階に比例します。

死が肉体の分解という恐怖をもたらすことなどまったくありません。死は恐ろしいどころか、幸せな変容と考えられるため、そこでは未来に対する疑いは存在しません。

そこで人生を送る間、魂はうっとうしい物質に束縛されることがなく心を広げ、ほぼ永久にその魂を自由にさせてくれる光明を享受することが出来、自由に思考を伝達させることを可能にします。


十、こうした幸運な世界では、人々の関係はいつも友情に溢れており、野心によって誰かに妨害されたり、隣人を隷属化しようとしたりする者はなく、戦争が起きることなどありません。奴隷主と奴隷という関係のような、生まれ持った特権などは存在しません。

ただ知性的、道徳的優位性のみが条件の違いを生み、優越を与えるのです。権威はいつもそれを持つ価値のある者だけに与えられ、いつも正義によって行使されるため、すべての人々の敬意を受けることになります。

人々は他人の上に昇ろうとせず、自らを完成させることにとって自分の上に昇ろうとします。その目的は、純粋な霊の分類に向かって駆け昇っていくことで、この欲求によって苦しめられることは無く、高貴な大志となって、熱心に勉強するように導かれます。

そこで繊細に高められた人間的感覚は増し、浄化されています。憎しみや、つまらない嫉妬や、低俗な羨みというものを知りません。

すべての人々を愛と同胞意識の絆がつなぎ、強い者が弱いものを助けます。知性の度合いに応じて、獲得した財産を所有しています。誰も必要な物が不足することによって苦しむことは無く、誰も償いのために存在しているとは考えていません。一言で言うならば、そのような世界に悪は存在しないのです。


十一、 あなたたちの世界では善を敏感に知るために悪が必要です。光をたたえるために闇が必要です。健康の価値を知るために病が必要です。別の世界ではこのような対比は必要ありません。

永遠の光、永遠の美、永遠の魂の平和が永遠の喜びをもたらし、物質的な生活の苦しみによって妨害されることはなく、また、そこには悪が近づくことが出来ないため、悪との接触によって動揺することもありません。そうしたことを人間の霊が理解しようとするのは非常に困難なことです。

人間は地獄の苦しみは大変巧みに描きましたが、天における喜びを想像することは出来ませんでした。なぜでしょうか。それは人間が劣っているため、苦しみや惨めさしか経験をしたことが無く、天の明るさを予感することがなかったからです。

つまり、知らないことについて語ることは出来ないのです。しかし、人間が向上し、浄化されていくに従って、地平線は延び、自分の後に存在する悪を理解したように自分の前に存在する善を理解することになります。


十二、しかし神はそのどの子に対しても不公平を働くことはなく、よって幸福の世界とは、特権を与えられた天体ではありません。そのような世界に到達するために、神はすべての者に対して同じ権利と容易さを与えます。

全てのものが同じ場所から出発し、優れたものが他人よりも恵まれるということはありません。最高の分類へは誰でも到達することが可能なのです。ただ、人間はそれらを働くことによって征服する必要があり、どれだけ早く到達できるか、それとも活動することなく何世紀も人類のぬかるみにとどまるかは、その人次第なのです。(8-12 優秀な霊たちからのすべての指導を要約)


  試練と償いの世界
十三、あなたたちが住む世界を見回してみればわかるのですから、償いの世界について何を言えばいいのでしょうか。あなたたちの間に住む優れた知性の数を見れば、地球が創造主の手元から離れたばかりの霊たちが生まれてくる、原始的な世界では無いことを示しています。

彼らが身につけている生まれつきの性質は、彼らがすでに存在し、ある程度の進歩を遂げていることの証です。

しかし、無数に罪を犯しがちである悪癖は、道徳的な不完全性のしるしです。神があなたたちを骨の折れる世界へ送ったのは、あなたたちがより幸せな惑星へといずれ昇って行くまで、人生の惨めさや苦しい労働を通じて、その世界で過ちを償うためなのです。


十四、しかしながら、地球上に生まれるすべての霊が、償いのためにそこへ行くのではありません。未開と呼ばれるような人種は、まだ幼年期を脱したばかりの霊たちによって構成されており、より進んだ霊たちと接触することによって発展していくために、言うなれば教育を受けているのです。

次に半文明化した人種は、進歩の途上にある霊たちによって構成されています。彼らはある意味で地球の先住民族であり、何世紀もの長い期間をかけて、少しずつ進歩し、その内のある者は、すでにより高尚な人々と同じ知性的完成度にまで到達しているのです。

 償いを行う霊とは、言うなれば、地球にとっては外来の人々です。すでに他の世界で生活したことがあり、そうした世界において悪に固執し自ら悪を行い、善の妨げとなったために追放されたのです。

遅れた霊たちの間で過ごし、すでに獲得している知識の種と発達した知性を用いて彼らを進歩させる任務が与えられたために、ある期間、段階を下げられて生まれなければならなかったのです。

罰せられる霊たちが、より知性的な霊たちの間に存在するのはそのためです。だからこそ、こうした人種にとって、人生の不運は大変苦く感じられます。道徳観が鈍い原始的な人種よりも、彼らの内面はより敏感なので、人生における支障や不快によってより多くを試されるのです。


十五、結果的に、地球は無限に多様化した試練の世界のうちの一つを提供していますが、そうした世界を明らかにしてみると、共通した特徴として、神の法に対して反抗的な霊たちの追放の場所となっています。

これらの霊たちは同時に、そこで人間の不道徳や自然の残酷さと戦わなければならず、それはまた、心と知性の質を発展させる二重の険しい労働なのです。このように、神はその善意によって、罰そのものが霊の進歩をもたらすようにしているのです。(聖アウグスティヌス パリ 1862年)


 更生の世界
十六、青い空の天井に輝く星の中には、神によって試練と償いのために差し向けられた、あなたたちの世界と同じような世界がどれだけあるでしょうか。あなたたちの世界より惨めな世界も、より良い世界も存在すれば、更生の世界と呼ぶことができる、移り変わりにある世界も存在します。

同じ中心の周りを移動する惑星の渦は、それぞれが原始的な世界、追放の世界、試練の世界、更生の世界、幸福の世界を引きずっています。

善と悪についてはまだ無知ではありながらも、その自由意思によって、自分自身を支配する神へ向かって歩む可能性を持った、生まれたばかりの魂が送られる世界についてすでに私たちは話しました。

また、善を行うために幅広い能力が魂に与えられることも明らかにしました。しかし、ああ、気力を失ってしまう者よ。それでも神はそうした霊たちが抹殺されてしまうことは望まず、生まれ変わりを重ねることによって浄化、更生され、彼らが与えられる栄光に相応しい世界に行くことを許すのです。


十七、更生の世界は、償いの世界と幸せな世界の間の変遷の役割を果たします。後悔する魂はそこで平和と休息を得ることが出来、やがて浄化されていきます。疑いもなく、そのような世界では、人間は未だに物質を支配する法に従わなければなりません。

人類はその感覚や欲望を経験しますが、あなたたちが隷属している無秩序な感情からは解放されており、心を黙らせる自尊心、人類を苦しめる嫉妬、息を詰まらせる憎しみもありません。全ての者の額には愛と言う言葉が書かれています。

社会を完全な平等が支配し、全ての者が神を知り、神の法を守りながら神に向かって歩もうとします。

 しかしながら、これらの世界にあるのはまだ完全な幸せではなく、しあわせの兆しなのです。そこに住む人類はまだ肉体を持っているために完全に物質から脱却した人だけが解放されることになる苦しみを、依然として受ける状態にあります。

いまだに試練に耐えなければなりませんが、償いのような痛々しい苦しみはありません。地球に較べるとこうした世界はとても幸せで、あなたたちのうちの多くの者がそこに住むことに喜びを感じるでしょう。

それは、そうした世界が嵐の後の静けさ、残酷な病気から回復した時のようなところだからです。しかしながら、物質にはわずかしか心を奪われていないため、そこに住む人々はあなたたちよりはっきりと未来を見つめることができます。

真なる命を授かるために死が再び彼らの体を滅ぼした時、主によって約束された、彼らに相応しい他の喜びが存在することを理解しています。そして自由となり、魂はすべての地平線の上を旋回します。物質的で粗暴な感覚はありません。

 ペリスピリト(→和訳注1)の純粋で完全な感覚だけが、神自身から直接放射される、その胸の中心から放たれる愛と慈善の香りを吸い込むのです。


十八、ああ、しかし、これらの世界でも、人間はまだ誤りやすく、悪の霊たちも完全にその統治を失ったわけではありません。前進しないことは後退することであり、善の道をしっかりと踏まなければ、償いの世界に再び戻ることになり、そこで新たな恐ろしい試練がその者を待ち受けることになるのです。

ですから、夜になり休み、祈る時、青い夜空をじっと眺め、あなたたちの頭上に輝く無数の天体のことを想い、地球上での償いを終えた後、どの天体があなたたちを神へと導いてくれるのか自分自身に尋ね、また、更生の世界があなた達を迎えるために開かれることを神にお願いしてください。(16ー18 聖アウグスティヌス パリ 1862年)
   
      
  世界の進歩
十九、進歩は自然の法則です。創造された存在は、動物であれ、静物であれ、すべてが拡大し繁栄することを望む神の善意に服従しているのです。

人間にとってはすべての存在の結末と思えるような破壊でさえも、変遷を通じてより完成された状態に辿り着くための手段に過ぎず、それは、すべてが生まれ変わるために死ぬのであって、消滅させられるものが無いことからも判ります。

 すべての存在が道徳的に進歩すると同時に、彼らの住む世界は物質的にも進歩します。最初の原子が差し向けられ、世界を築くために集まって来た時から、ある世界をそのさまざまな段階において見ることができたとしたら、その世界が絶え間なく進歩する階段を駆け昇っているのが見えるでしょう。

その段差は、それぞれの世代の人々にとっては感じることができませんが、彼ら自身が進歩の道を進むにつれ、ますます住みよい世界となっていくのです。

このように、人間、動物、それらを助ける者たち、植物、そしてすみかは並行して進歩していくのであって、自然界において停止し続けるものは何もありません。この創造主の考えのなんと偉大で、その尊厳のなんと高貴なことでしょうか。

それに引き換え、配慮と用心を取るに足りない一粒の砂でしかない地球だけに集中させ、人類を地球に住むほんの僅かな人間だけであると限定してしまうことの、なんとけちで下劣なことでしょうか。

この世界もかつては今日よりも、道徳的にも物質的にも劣った状態にあったのであり、その法に従えば、この二つの側面においてより進歩した段階へと昇ることになるのです。

地球には変遷の時代が到来しており、その時代には償いの天体から、更生の惑星へと変わっていき、そこには神の法が君臨するために、その世界で人間は幸せになれるのです。(聖アグスティヌス パリ 1862年)
●和訳注1 
 ぺリスピリトとは半物質からできた霊の体を指す。地上に生きる霊は肉体の他にこの体を有しており、死後肉体を捨てるとぺリスピリトのみが霊の体となる。

Tuesday, July 2, 2024

シアトルの夏 精霊とその守護天使の群れ

A group of spirits and their guardian angels



一九一九年四月六日 木曜日

 さて、地ならしができたところで、お約束の顕現の話に入りましょう。その主旨は吾々にこれから先のコースをいっそう自信を持って進ませるために、現在の地上人類の進化がいかなる目標に向かって進行しつつあるかを示すことにありました。

 吾々の目の前に展開する地球はすでにエーテル的なものと物的なものとが実質的にほとんど同等の位置を占める段階に至っております。

身体はあくまで物質なのですが、精妙化が一段と進んでかつての時代──貴殿の生きておられるこの現代のことです──よりも霊界との関係が活発となっております。

 地球そのものが吾々の働きかけに反応して高揚性を発揮し、地上の植物が母親の胸に抱かれた赤子にも似た感性をもつに至っております。

 その地上にはもはや君主国は存在せず、肌の色が今日ほど違わない各種の民族が一つの連合体を組織しております。

 科学も現在の西欧の科学とは異なり、エーテル力学が進んで人間生活が一変しております。もっとも、この分野のことはこれ以上のことは述べないでおきましょう。私の分野ではないからです。


以上のことはこれから顕現される吾々への教訓を貴殿にできるだけ明確に理解していただくために申し上げているまでです。

 さて地球は地軸上でゆっくりと回転を続けながら内部からの光輝をますます強め、それがついに吾々までも届くようになり、それだけ吾々も明るく照らし出されました。

するとその地球の光の中から、地球の構成要素の中に宿る半理知的原始霊(いわゆる精霊のことで以下そう呼ぶ──訳者)が雲霞のごとく出てきました。奇妙な形態をし、その動きもまた奇妙です。その種のものを私はそれまで一度も見かけたことがなく、じっとその動きに見入っておりました。

個性を持たない自然界の精霊で、鉱物の凝縮力として働くもの、植物の新陳代謝を促進するもの、動物の種族ごとの類魂として働いているものとがあります。

鉱物の精霊はこの分野を担当する造化の天使によって磁力を与えられて活動する以外には、それ本来の知覚らしい知覚はもっておりません。

が、植物の精霊になるとその分野の造化の天使から注がれるエネルギーに反応するだけの、それ本来の確立された能力を具えております。鉱物にくらべて新陳代謝が早く、目に見えて生育していくのはそのためです。

 同じ理由で、人間の働きかけによる影響が通常の発育状態にすぐ表れます。たとえば性質の相反する二つの鉱物、あるいは共通した性質をもつ二つの鉱物を、化学実験のように溶解状態で混ぜ合わせると、融和反応も拒否反応もともに即座にそして明瞭な形で出ます。感覚性が皆無に近いからです。

 ところが植物の世界に人間という栽培者が入ると、いかにも渋々とした故意的な反応を示します。ふだんの発育状態を乱されることに対して潜在的な知覚が不満をもつからです。

しかしこれが動物界になると、その精霊も十分な知覚を有し、かつ又、少量ながら個性も具えています。また造化の天使も整然とした態勢で臨んでおります。

 その精霊たちが地中から湧き出て上昇し、地球と吾々との中間に位置しました。すると今度はその精霊と吾々との間の空間から造化の天使たちが姿を現しました。現実には常に人間界で活動しているのですが、地上にそれに似た者が存在しませんので、その形態を説明することは出来ません。

一見しただけで自然界のどの分野を担当しているかが判る、と言うに留めておきましょう。大気層を担当しているか、黄金を扱っているか、カシの木か、それとも虎か───そうした区別が外観から明瞭に、しかも美事に窺えるのです。

形、実質、表情、衣──そのすべてに担当する世界が表現されております。もっとも衣は着けているのといないのとがあります。

いずれにせよ、その造化の天使たちの壮観には力量の点でも器量の点でも言語を絶した威厳が具わっております。それぞれに幾段階にもわたる霊格を具えた従者をしたがえております。

その従者が細分化された分野を受けもち、最高位の大天使と、動物なり植物なり鉱物なりとの間をつないでおります。

 さて、その天使群が地球の光輝の中から湧き出てきた精霊たちと合流した時の様子は、いったいどう叙述したらよいでしょうか。こう述べておきましょう。

まず従者たちが精霊へ向けて近づきながら最高位の大天使を取り囲みました。かくまうためではありません。ともかく包み込みました。すると精霊たちもそのいちばん外側の従者たちと融合し、その結果、地球のまわりに美しい飾りのようなものが出来あがりました。

 かくして地球はかつてない光輝を発しながら、あたかも玉座を納めたパピリオンのカーテンのごとく、上下四方を包むように飾る、生き生きとした精霊群の真っ只中にありました。今や地球は一個の巨大な美しい真珠のごとく輝き、その表面に緑と金色と深紅と琥珀色と青の縞模様が見えていました。

そしてその内部の心臓部のあたりが崇敬の炎によって赤々と輝いて見え、造化の天使とその配下の無数の精霊に鼓舞されて生命力と幸福感に躍動し、その共鳴性に富む魅力を発散しておりました。  

 その時です。生き生きとしたその飾りの下からキリストの姿が出現しました。完成せるキリストです。かつてのキリストの叙述にも私は難儀しましたが、いま出現したキリストを一体どう叙述したらよいでしょうか。途方に暮れる思いです。

 おからだは半透明の成分でできており、地球ならびにそれを取り巻く無数の精霊のもつ金色彩をみずからの体内で融合させ完全な調和を保っておりました。そのお姿で、煌々たる巨大な真珠の上に立っておられます。

その真珠は足もとでなおも回転し続けているのですが、キリストは不動の姿勢で立っておられます。地球の回転は何の影響も及ぼしませんでした。

 衣服は何も着けておられませんでした。が、その身辺に漂う生命の全部門の栄光が、その造化にたずさわる大天使を通して澎湃(ホウハイ)として押し寄せ、崇敬の念の流れとなって届けられ、それが衣服の代わりとしておからだを包み、お立ちになっている神殿に満ちわたるのでした。

 お顔はおだやかさと安らかさに満ちておりました。が、その眉にはお力の威厳が漂っておりました。神威がマントのごとく両肩を包み、紫がかった光に輝く豊かな起伏を見せながら背後に垂れておりました。

 かくして吾々は地球を囲みつつキリストの上下四方に位置していたことになります。もっとも、キリストにとっては前も後ろも上も下もありません。


吾々のすべてが、吾々の一人一人が、キリストのすべて──前も後もなく、そっくりそのままを見ていたのです。貴殿にはこのことが理解できないことでしょう。でもそう述べるほかに述べようがないのです。その時の吾々はキリストをそのように拝見したのです。

 そう見ているうちに、無数の種類の創造物が各種族ごとに一大合唱団となってキリストへの讃仰の聖歌を斉唱する歌声が響いてきました。それが創造的ハーモニーの一大和音(コード)となって全天界ならびに惑星間の虚空に響きわたり、各天体をあずかる守護の天使たちもそれに応唱するのでした。

 それほどの大讃歌を地上のたった一つの民族の言葉で表現できるはずがないのは判り切ったことです。でも、宇宙の一大コンサートの雄大なハーモニーの流れに吾々の讃仰の祈りを融合させて、その聖歌の主旨だけでも、私にできるかぎりの範囲で表現してみましょう。

「蒼穹の彼方にははたして何が存在するのか、私どもは存じませぬ。地球はあなたの天界の太陽が放つ光の中のチリほどの存在にすぎぬからでございます。

しかし父なる大神のキリストにあらせられるあなたの王国の中のこの領域を見てまいりました私どもは、このことだけは確信をもって信じます──すべては佳きに計らわれている、と。

 私たちの進む道において、この先、いかなることが永却の彼方より私たちを出迎えてくれるや、いかなる人種が住むことになるや、いかなる天使の支配にあずかることになるや──こうしたことも私たちは今は存じませぬ。

それでもなお私たちは恐れることなく進み続けます。ああ、主よ、私たちはあくまでもあなたのあとに付いて参るからでございます。力と愛とが尊厳の絶頂の中で手に手を取ってあなたの両の肩に窺えます。

 父なる神がいかなるお方であるか──それは最愛の御子たるあなたを拝しお慕いしてきて、私どもはよく理解できております。あなたを逢瀬の場として私どもの愛が父の愛と交わります。私どもは父をあなたの中において知り、それにて安んじております。

 主よ、私どもの目に映じるあなたは驚異に満ち、かつ、この上なくお美しい方であらせられます。しかし、それでもなお、あなたの美のすべては顕現されておりませぬ。それほど偉大なお方であらせられます。

 本来の大事業において私どもは心強く、楽天的に、そして恐れることなくこの身を危険にさらす覚悟でございます。叡智と力と創造的愛の完成せるキリスト、私たちはあなたの導かれるところへ迷わずあとに続いてまいります。

 私たちは霊格の序列と規律の中で、あなたへの崇敬の祈りを捧げます。何とぞあなたの安らぎの祝福を給わらんことを」
      アーネル ±                           (完)