9章 平等の法則
このページの目次〈さまざまな不平等〉〈貧富による試練〉
〈さまざまな不平等〉
――神はなぜ全ての人間に同じ才能を与えていないのでしょうか。
「全ての霊は神によって平等に創造されています。が、創造されてから今日に至るまでの期間に長短の差があり、結果的には過去世の体験の多い少ないの差が生じます。つまり各自の違いは体験の程度と、意志の鍛練の違いにあり、それが各自の霊的自由を決定づけ、自由の大きい者ほど急速に進化します。こうして現実に見られるような才能の多様性が生じて行きます。
この才能の多様性は、各自が開発した身体的ならびに知的能力の範囲内で神の計画の推進に協力し合う上で必要なことでもあります。ある人にできないことを別の人が行うという形で、全体の中の一部としての有用性を発揮できるわけです。さらには宇宙の全天体が連帯性でつながっていますから、より発達した天体の住民――そのほとんどが地球人類より先に創造されています――が地上に再生して範を垂れるということもあります」
――高級な天体から低級な天体へと転生しても、それまでに身につけた才能は失われないのでしょうか。
「失われません。すでに申しているごとく、進化した霊が退化することは有り得ません。物質性の強さのために以前の天体にいた時より感覚が鈍り、生まれ落ちる環境も危険に満ちた所を選ぶかも知れませんが、ある一定レベル以上に進化した霊は、そうした悪条件を糧として新たな教訓を悟り、さらなる進化に役立てるものです」
――社会の不平等も自然の法則でしょうか。
「違います。人間が生み出したものであり、神の業ではありません」
――最終的には不平等は消滅するのでしょうか。
「永遠に続くものは神の摂理以外にはありません。人間社会の不平等も、ご覧になっていて、少しずつではあっても日毎に改められて行っていることに気づきませんか。高慢と利己主義が影をひそめるにつれて不平等も消えて行きます。そして最後まで残る不平等は功罪の評価だけです。いずれ神の大家族が血統の良さを云々(うんぬん)することを止めて、霊性の純粋性を云々する日が来るでしょう」
訳注――“功罪の評価”の不平等というのは、功も罪も動機や目的によってその報いも違ってくるという意味で、“不公正”とは異なる。逆の場合の例を挙げれば、キリスト教には“死の床での懺悔”というのがある。イエスの信仰を告白して他界すればいかなる罪も赦されるという教義であるが、これは間違った平等であって、不公正の最たるものであろう。
――貧富の差は能力の差でしょうか。
「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。詐欺や強盗にも結構知恵が要りますが、これをあなたは能力と見ますか」
――私のいう能力はそういう意味ではありません。たとえば遺産には悪の要素は無いでしょう?
「どうしてそう断言できますか。その財産が蓄積される源にさかのぼって、その動機が文句なしに純粋だったかどうかを確かめるがよろしい。最初は略奪のような不当行為で獲得したものではないと誰が断言できますか。
百歩譲ってそこまでは詮索しないとしても、そもそもそんな大金を蓄えるという魂胆そのものが褒められることだと思われますか。神はその動機を裁かれます。その点に関するかぎり神は人間が想像するより遥かに厳正です」
――仮に蓄財の当初に不当行為があった場合、その遺産を引き継いだ者は責任まで引き継がされるのでしょうか。
「仮に不当行為があったとしても、相続人はまったく知らないことですから、当然その責任までは問われません。しかし、これから申し上げることをしっかりと理解してください。遺産の相続人は、必ずとは言いませんが、往々にして、その蓄財の当初の不正の責任を取ってくれる者が選ばれるということです。その点を正直に理解した人は幸せです。その罪を最初の蓄財者の名において償えば、その功は、当人と蓄財者の双方に報われます。蓄財者が霊界からそのように働きかけた結果だからです」
〈貧富による試練〉
――ではなぜ貧富の差があるのでしょうか。
「それなりに試練があるからです。ご存じの通り、再生するに際して自分でどちらかを選んでいるのです。ただ、多くの場合、その試練に負けています」
――貧と富のどちらが人間にとって危険でしょうか。
「どちらも同じ程度の危険性があります。貧乏は神への不平不満を抱かせます。一方、富は何かにつけて極端な過ちに陥(おとしい)れます」
――富は悪への誘惑となると同時に善行の手段にもなるはずです。
「そこです。そこに気づいてくれれば意義も生じるのですが、なかなかその方向へは向かわないものです。大抵は利己的で高慢で、ますます貪欲になりがちです。財産を増やすことばかり考え、これで十分という際限が無くなるのです」
〈男女の権利の平等〉
――女性が肉体的に男性より弱くできていることには何か目的があるのでしょうか。
「女性に女性としての機能を発揮させるためです。男性は荒仕事に耐えられるようにつくられ、女性は穏やかな仕事に向いています。辛い試練に満ちた人生を生き抜く上で互いが足らざる所を補い合うようにできています」
――機能的にも男女の重要性はまったく平等なのでしょうか。
「女性の機能の方がむしろ重要性が大きいと言えます。何しろ人間としての生命を与えるのは女性なのですから」
――神の目から見て平等である以上は人間界の法律上でも平等であるべきでしょうか。
「それが公正の第一原理です。“他人からして欲しくないことは、すべからく他人にもすべきではない”と言います」
訳注――これはキリストの“山上の垂訓”の一つである「他人からして欲しいことは、すべからく他人にもそのようにすべし」という有名な“黄金律”を裏返して表現したもの。
――法律が完全に公正であるためには男女の権利の平等を明言すべきでしょうか。
「権利の平等は明言すべきです。機能の平等はまた別問題です。双方がそれぞれの特殊な存在価値を主張し合うべきです。男性は外的な仕事に携わり、女性は内的な仕事に携わり、それぞれの性の特質を発揮するのです。
人間界の法律が公正を期するためには男女の権利の平等を明言すべきであり、どちらに特別の権利を与えても公正に反します。文明の発達は女性の解放を促すもので、女性の隷属は野蛮のレベルに属します。
忘れてならないのは、性の違いは肉体という組織体だけの話であって、霊は再生に際してどちらの性でも選べるという霊的事実です。その意味でも霊は男女どちらの権利でも体験できるわけです」
訳注――この問答を見るかぎりでは、当時はまだ自由と平等の先進国のフランスでも男女の平等は法律で謳われていなかったようで、今日の自由主義国の人間が読むと奇異にすら感じられる。しかし“権利”の平等と“機能”の平等を区別し、機能は平等・不平等次元で論じるべきものではないとしている点は、昨今いささか行き過ぎた平等主張、いわゆる“悪平等”が幅をきかせている、日本を始めとする文明先進国に良い反省材料を提供しているのではなかろうか。
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第3部10章 自由の法則
8章 進歩の法則
このページの目次〈野生と進歩〉
〈滅びゆく民族〉
〈文明の進歩〉
〈社会的法律の進歩〉
〈スピリチュアリズムの役割〉
〈野生と進歩〉
――野生のままの状態と自然の法則とは一致しますか。
「しません。野生のままということは原始的状態のことです。文明は野生の状態とは相容れません。一方、自然の法則は人類の進歩に貢献します」
――人間は進歩を促す力を内部に秘めているのでしょうか、それとも進歩は外部からの働きかけの結果なのでしょうか。
「人間は自らの力で自然に発達します。ただ、全ての人間が同じ速度で同じ形で進歩するわけではありません。従って最も進歩している者が社会という形態の中での接触を通じて他の者の進歩を助ける仕組みになっているのです」
――道徳的進歩は知的発達に続くものでしょうか。
「知的発達の結果として道徳的進歩が生じますが、必ずしもすぐにというわけではありません」
――知的発達がどうして道徳的進歩を促すのでしょうか。
「知的発達によって善と悪とを理解するようになり、続いて、そのどちらかを選択するようになります。知性が発達すると自由意志が発達し、そこから人類の行動の責任が増してきます」
――人間にはそうした進歩を止める力がありますか。
「ありません。もっとも、時おり遅らせることをします」
――人類の進歩のためと思って真剣にやっていることが実際には進歩の邪魔をしているというケースがあるように思えるのですが……。
「あります。大きな車輪の下に小石をばらまく人がいますが、そんなことで進歩が阻止されるものではありません」
――人類の進歩は常にゆっくりとしたペースなのでしょうか。
「時の勢いで必然的に生じる一定の速度の進歩がありますが、それがあまりに遅すぎると、思い切った転換を促すために、時として物理的ないしは精神的ショックを神が用意します」
――進歩の最大の障害は何でしょうか。
「高慢と利己主義です。ただし道徳的進歩に限っての話です。と言うのは、知的進歩は時の勢いで常に進んでおります。そして、一見すると野心や富への欲望といった悪徳を煽るかに見えますが、代わってそれが精神を修養するための探求へ駆り立てます。
このように人間生活の全てが物的のみならず精神的にもどこかでつながっていて、悪と思えるものからでも善が生まれるのです。ただ、そういう形での因果関係は永続性がありません。それよりも、霊性が開眼して地上的享楽のレベルを超えた、限りなくスケールの大きい、そして限りなく永続性のある至福の境涯があることを悟るようになります」(十二章〈利己主義〉参照)
〈滅びゆく民族〉
――進歩性を完全に失ってしまった民族もあるように見受けられるのですが……。
「あります。ただしそれは一度にではなく、日を追って少しずつ人口が減少するという形を取ります」
――究極的には世界の全民族が一つの国家に統一されるのでしょうか。
「一つの国家にはなりません。それは有り得ないことです。気候の違いが多様な慣習と必要性を生み、それが自ずと多様な国民性を生み出します。そしてその一つ一つが特殊な慣習と必要性に適応した法律を必要とします。しかし思いやりの摂理には地域の差はありません。神の摂理にのっとった法律を施行していれば、国家と国家の間にも人間どうしと同じ思いやりによって結ばれ、互いが平和で幸せな生活が送れるようになります。誰一人として他を傷つけたり他を犠牲にして利益を得ようとする者はいなくなるからです」
〈文明の進歩〉
――文明は人類の進歩の現れでしょうか、それとも何人かの学者が言っているように、デカダンスでしょうか。
「進歩には違いありません。が、まだまだ完全からは程遠いです。人類は幼児期から一気に理性の時代へと移行するわけではありません」
訳注――デカダンスというのは、ちょうど本書が編纂されている頃、すなわち一九世紀末にフランスを中心にヨーロッパで広まった官能主義的頽廃思想のことで、現代のアメリカに代表される機械的物質文明とは質を異にする。
――文明をいけないものとする考えはいかがでしょうか。
「文明を悪用する者を非難すべきであって、神の配剤に文句を言うべきではありません」
――いずれは文明も浄化されて、それが生み出していた悪弊も消えるのでしょうか。
「そうです。人間の道徳性が知性と同じ程度にまで発達すればそうなります。花が咲く前に実がなることはありません」
――文明が頂点に達したことは何をもって知ることができるのでしょうか。
「道徳的発達です。あなた方は少しばかり発明や発見をし、立派な家に住んでシャレた服を着るようになると、えらく文明が発達したかに思い込んでいるようですが、本当の意味で“開化”したと言えるのは、不名誉な悪徳が消え、イエスの説く慈悲を実践して兄弟のごとく仲良く暮らせるようになった時です。それまでは“知的に啓発された”だけの国家であって、文明化の初期の段階を通過したにすぎません」
〈社会的法律の進歩〉
――人間社会を治めるには、人間がこしらえた法律の助けなしに自然の法律だけで十分なのでしょうか。
「自然の法則が正しく理解され、それを人間が素直に実践するのであれば、それで十分でしょう。が、社会には無法者がいますから、それに応じた特別の法律が必要となります」
――現段階の人間社会では刑法にも厳しさが必要でしょうか。
「堕落した社会には厳格な刑法も必要ですが、不幸にして現在の刑法は罰することにばかり偏って、悪の発生源を改めることに意を用いていません。人類を啓発するのは教育しかありません。教育さえしっかりすれば現在のような厳しさは必要でなくなります」
――法律を改めるにはどうすればよいでしょうか。
「時勢の流れによっても改められて行きますが、地上界をリードする偉大なる人物の影響によっても改められて行きます。これまでに多くの悪法が改められてきましたし、これからも改められて行くでしょう。焦らぬことです」
〈スピリチュアリズムの役割〉
――スピリチュアリズムはいずれは世間一般に受け入れられて行くのでしょうか、それとも限られた少数派のものであり続けるのでしょうか。
「間違いなく一般に受け入れられて行き、人類史上における画期的な時代が到来するでしょう。本質的に自然界の秩序に属するものであり、人類の知識の一部門として位置づけられるべきものだからです。しかしそれまでには、まだまだ烈しい抵抗に遭うでしょう。それは教義の真偽を問われるというよりも損得から生じる抵抗です。スピリチュアリズムの普及で経済的に被害をこうむる者、虚栄心を守ろうとする者、さらには世俗的面子(めんつ)にこだわる者などがいることを忘れてはなりません。しかしそのうち自分たちが少数派になってしまったことを知ると、恥を承知の上でも、手のひらを返すような態度に出ることでしょう」
――なぜ霊界側は人類発生の初期からこうした真理を説かなかったのでしょうか。
「あなただって大人に教えるようなことを子供に説くようなことはしないでしょうし、赤ん坊が消化しきれないものを食べさせるようなことはしないでしょう。何事にも時期というものがあります。これまでだって全く説かれていないわけではありません。が、その意義が理解されず、あるいは曲解されたりしています。そして今ようやく正しく理解してもらえる段階が到来したということです。が、これまでの教えも、不完全だったとは言え、これから本格的な実りを得るタネ蒔きのための土地を耕してくれていたのです」
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第3部9章 平等の法則
7章 社会生活の法則
このページの目次〈社会生活の必要性〉
〈隠遁生活〉
〈社会生活の必要性〉
――社会生活は自然なことでしょうか。
「もちろんです。神は人間を社会という形態の中で生活するように意図されています。言語を始めとして人間関係に必要な能力を授けてあるのはそのためです」
――すると社会から隔絶した生き方は自然法則に反するのでしょうか。
「そうです。人間は本能的に他の人間との交わりを求めるものであり、お互いがお互いの進歩を援助し合うように意図されているからです」
――他との交わりを求めても結局は利己的な感情に負けるのではないでしょうか。それとも、そうした点にこそ神の配剤があるのでしょうか。
「人間は進化という宿命があります。それは一人だけの生活では達成されません。誰一人として才能の全てを所有してはいないからです。そこに他との接触の必要性が生じます。隔絶した一人の生活では人間らしさが失われ、太陽に当たらない植物のように弱々しくなります」
〈隠遁生活〉
――原則として社会志向の生活が自然であることは理解できますが、その社会から遁(のが)れた生活への志向も、それで本人が満足するのであれば、悪いとは言えないと思うのですが……
「そういう満足は利己的満足だからいけないのです。酒びたりの生活を送っている人がいますが、あなたはそれを、満足しているのだから良いとおっしゃるつもりですか。自分をその立場に置いてみて、自分以外の人に何の意味も持たないと思ったものは、神はお喜びにならないと思ってください」
――不幸な人々のために生涯を捧げる決意をして世を捨てる人々はどう理解すべきでしょうか。
「そういう人は自ら身を低くすることによって魂を高めています。物的享楽を捨てることと、仕事の法則を成就することによる善行の二つの点で大きな功績があります」
――ある種の仕事の成就のために世俗から遁れて静寂の中で生活している人はいかがでしょうか。
「そういう動機からであれば利己的ではありません。実質的には人のためなのですから、社会から隔絶してはおりません」
――ある宗派では“無言の誓い”というのを教義としておりますが、これはいかがでしょうか。
「言語能力が自然な能力であること、神から授かったものであることをお考えになれば、自ら答えが出るはずです。神は能力の悪用は咎めますが、正しい使用は決して咎めません。もっとも、静寂の時を持つこと自体は結構なことです。そういう時こそ本来の自我が顕現し、霊的な自由が増し、背後霊との内的コミュニケーションが持てます。ですから、そういう目的のために自発的な苦行を行うのは、動機の点で有徳の行為と言えます。が、基本的に見てそういう行に終始する生活は、神の摂理を十分に理解していないという点で、やはり間違いです」
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