Tuesday, September 30, 2025

7シアトルの秋  「スピリティズムによる福音」     アラン・カルデック著

 The Gospel According to Spiritism: Allan Kardec (Author), 

第8章 心の清い者は幸いです



素朴さと心の清さ

一、心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ 第五章 8)


二、さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちをみもとに連れてきた。ところが、使徒たちは彼らを叱った。イエスはそれをご覧になって憤り、彼らに言われた、「子どもたちを私のもとへ来させなさい。止めてはいけません。

神の国は、このような者たちのものです。誠に言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」。そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(マルコ 第十章 13-16)


三、素朴さや慎ましさと心の清さは切り離すことができません。いかなる利己的な考えや自尊心をも取り除かねばなりません。だからイエスは、慎ましさと同じように、心の清さの象徴として子どもを例に取り上げるのです。

しかし、子どもの霊であっても、その霊が歳を取っており、肉体を持った生活に生まれ変わった時点で、その前世において脱することのできなかった不完全性を持ち合わせていると考えた場合、心の清さと子どものたとえは矛盾するように見えます。

完全性を達成した霊だけが本当の心の清さと言うものを私たちに教えてくれることが出来るのだと言えます。それはまったく正しい考え方です。しかし、現在の人生の視点から見た場合、子供のうちと言うのはまだ非道徳的な意図を示すことも出来ず、私たちの目には無邪気で純粋な姿に映ります。

そのことからも明らかなように、イエスは天の国が子どもたちのためにあると言ったのではなく、子どもたちのように心の清い者のためにあると言ったのです。


四、子どもの霊が、すでに過去において地上に生きたことがあるのであれば、なぜ生まれたその時から、その霊がどのような霊であるかを示さないのでしょうか。神のなされる業は常に最高の英知であることを忘れてはなりません。
℘157           
子どもには、母親の優しさだけが与えることが出来る特別な心遣いが必要です。同時に、その母親の優しさは、子どもの無邪気さと弱さのためにさらに増すものです。母親に取ってその子どもは常に天使であり、また、そうあるべきなのです。

それにより子どもは母親の配慮を引きつけることが出来るのです。もし母親がその子どもの飾り気のない恵みを受ける代わりに、その子どもの幼稚な振る舞いの中に大人のような性格や考えを感じ取り、ましてやその子どもの過去を知ってしまったら、その母親は同じように献身的に子どもを世話することはできないでしょう。

 一方で、極端に早熟な子どもの肉体はその霊の大きな活動に耐えられないことから、知性の活動は肉体の弱さと釣り合っていなければなりません。再生が近づくに従って霊は変化し、少しずつ自分自身の認識を失っていき、ある一定の期間一種の眠りの様な状態になり、あらゆる能力が潜在的なものとだけなってしまうのはそのためです。

この変化する状態は、霊が新たな出発点に立ち、その新しい人生において妨げとなるものは忘れてしまうために必要なのです。しかし、その者の過去はその者の上に働きます。そのため、獲得された経験から得た直感によって支えられ、助けられ、道徳的にも知性的にもより大きく、より強く、生まれ変わるのです。

 生まれたときから霊の思考は、その器官が発達するに従って徐々に刺激を受けていくのですが、最初の何年間かは、その霊の性格の基盤を築く考えがまだ眠っている状態にあり、その霊は本当に子どもの状態にあるということができます。

子どもの本能が無意識の間、その霊は従順な状態に在り、その霊を進歩させる本質を変化させる印象を受け易く、その間、親にとってはその課された任務を行い易くなっているのです。
 このように、霊は一時的に無垢の衣をまとうことになります。それ故イエスは、魂のもつ過去に関わらず、子どもを清さと素朴さの象徴とし、真実を示したのです。

℘158      
  思考による罪。姦淫
五、「姦淫してはならない」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。ある女を見つめ、その女に対し情欲を抱くのであれば、心の中ではその女と姦淫を犯したことになるのです。(マタイ 第五章 27,28)


六、ここで使われている「姦淫」と言う言葉は、決してその言葉が持つ通常の意味だけによって理解されてはならず、もっと広義に捉える必要があります。イエスは幾度もこの言葉の意味を広げ、悪、罪、すべての悪い考えを示すために使いました。

たとえば、「誰でも、この罪深い邪悪な世代にあって、私と私の言葉を恥じるものに対しては、人の子もまた、聖なる使いたちと共に父の栄光のうちに到来する時、その者を恥じるでしょう」(マルコ 第八章 38)

真の清さは行動の中だけにあるのではありません。それは思考の中にも存在し、心の清い者は悪いことを考えることさえもないのです。イエスが言いたかったのはそのことです。イエスは思考による罪をも非難するのです。なぜならそれは不純のしるしだからです。


七、この考え方から、自然と次の疑問が出てきます。「どんな行動も伴わない悪い思考の影響を、私たちは受けているのでしょうか」。

 ここで重要な区別をする必要があります。霊の世界において、魂がその進歩の過程を進んでいくと、悪の道に導かれていた魂も、向上しようとする意欲を示すに従って、その自由意思によって少しずつその不完全性を失っていきます。

どんな悪い考えも魂の不完全性がもたらします。しかし、浄化しようとして抱く欲求の強さによっては悪い考えさえもその魂の進歩のための機会となります。

なぜなら、その魂はその悪い考え方を精力的に拒絶しようとするからです。悪い考えを拒絶することは、汚点を消そうとする努力のしるしです。その場合、悪い欲望を満たす機会が現れても、それに負けまいとします。それに耐えることが出来ると、その勝利によってより強く、より満足を得ることができるでしょう。

 反対に、悪い考えを拒絶しようという正しい決心をすることができない者は、悪い行動を実現させる機会を求めます。たとえ実現しなかったとしても、その者の意志によってではなく、実現の機会が不足したからなのです。したがって、彼は、実現していた時と同等に罪深いことになるのです。

 要約するならば、悪い考えを心に抱くことさえも望まない者は、すでにある程度の進歩が実現していると言えます。また、悪い考えが浮かびながらも、それを追い払おうとする者にとっては、進歩は実現しつつあります。

そして、悪い思考を抱き、それに喜びを感じるものにとっては、悪がその完全な形のまま、いまだに存在しているということができます。

一方の者たちにおいては、なされるべきことはすでに行われていますが、もう一方の者たちにおいてまだこれから始めなければなりません。正義である神は、人間の思考や行動に対する責任を問う時、こうしたすべての段階的な変化を考慮するのです。
      
 
   真なる清さ。洗っていない手
八、その頃、ファリサイ人たちと律法学者たちが、エルサレムからイエスの許に来て言った、「なぜあなたの使徒たちは昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」。

 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために神の戒めを破っているのですか。神は『父母を敬いなさい』また、『父母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言われています。しかし、あなたたちはこう言います。

『父または母に向かって、あなたたちに差し上げるべきものは、神への供え物にします、と言えば、父または母を敬わなくてもよい』。こうして、あなたたちは自分たちの言い伝えによって、神の言葉を無にしています。

偽善者たちよ、イザヤはあなたたちのことをうまく預言したものです。『この民は私を口先で敬うが、その心は私から遠く離れています。人間の戒めを教えながら私を無駄に崇めています』」。
℘160     
 それからイエスは群集を呼び寄せて言われた。「このことを聞き、よく理解してください。人間を汚すものは口から入るものではありません。人間の口からでるものが人を汚すのです」

 すると使徒たちがイエスに近づいて言った、「いま言われたことをファリサイ人たちが聞いて、つまずいたことをご存知ですか」。イエスは答えて言われた、「天の父が植えられなかった木はすべて引き抜かれます。盲人を案内する盲人はそのままにしておきなさい。盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちてしまうでしょう」(マタイ 第十五章 1-14)

 しかし、口からでるものは心の中より出ており、それが人間を不純にするのです。悪い考え、すなわち、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、冒涜、悪口は心の中から出ているのです。これらのことが人間を不純にするのです。手を洗わないで食事をしたからと言ってその者が不純になるわけではありません。(マタイ 第十五章 18-20)


九、イエスが話をされていた時、あるファリサイ人が食事に招待した。イエスはその家に行き、食卓につかれた。ファリサイ人も家に入ると、イエスを見て不審に思った、「イエスは食事をする前になぜ手を洗わなかったのだろうか」。

するとイエスは言われた、「あなたたちファリサイ人たちは、杯や皿の外側をきれいにすることには大変気を遣います。しかし、あなたたちの心の内側は強欲と悪意に満ち溢れています。あなたたちは愚かな者たちです。外側を造った神は内側も造られたのではありませんか」。(ルカ 第十一章 37-40)


十、ユダヤ人たちにとって、人間の定めた規則を実践し、その規則を厳重に守ることが重要であったため、彼らは神の本当の戒めを破ったのです。単純な物体は形が崩れると消滅してしまいます。

道徳的に改善するよりも表面的に行動する方がより簡単であるように、心を清めるよりも手を洗う方が易しいのです。人間は人間の決めた規則を、何をどうするべきか教えられた通りに実践すれば、それ以上神に求められることはなく、神との約束を果たしていると自分で錯覚してしまうのです。

それを指して預言者は言いました。「この民が人間の戒めを教えながら、口先で私を崇めても無駄です」。
℘161          
 キリストの道徳的教義の中にも、同じことを確かめることができます。しかし、それは置き去りにされ、その結果、多くのキリスト教徒が、昔のユダヤ人たちのように、神の救いは道徳的な実践よりも外見的な実践によって保証されると思っているのです。

こうした神の法に人間が付け加えたことに対して、「天の父が植えられなかった木はすべて引き抜かれます」とイエスは言ったのです。

 宗教の目的は人間を神のもとへ導くことです。それは、人は完成しなければ神のもとへ届くことはできないからです。一方、人間を善に向かって向上させない宗教は、どんな宗教であれ、その目的を果たすことが出来ないことになります。人間が悪を働く為の拠り所とするものは、偽りか、あるいはその根本から歪んでいることになります。

外見上の行いが信念よりも先行してしまっている宗教がそれにあたります。外見的な偶像を信じても、それが殺人、姦淫、強奪、中傷、隣人に対して損害を与えることなどの妨げとならないのであればその効力は皆無です。そのような宗教は迷信、偽善者、狂信者を生み、善なる人を生みません。

 見かけだけが清いだけでは足りません。なによりも心の清さを持たなければならないのです。
            
      
 恥。もしあなたの手が恥の原因となっているのであれば、切り落としてしまいなさい
十一、もし誰かが、私を信じるこの小さい者を恥じるのであれば、ロバがまわしている臼を一つ首にかけられて、海の底深く沈められる方が、その者にとって益となります。恥じることばかりの世の中は不幸です。なぜなら、恥じるべきことは行われなければならないからです。

しかし、恥ずべき行動をとってしまう者たちのかわいそうなことよ。この小さい者たちの誰をも見くびることが無いように充分に気をつけなさい。誠に言います。彼らの天使たちは天にいる私の父と、いつも顔を向い合せているのです。
℘162         
もしあなたの片手か片足が恥の原因となっているのであれば、それを切り落として、あなたから遠く離れたところへ投げ捨ててしまいなさい。あなたたちにとって、片手あるいは片足だけで生きる方が、両手両足を持ちながら永遠の炎の中に投げ込まれるよりもいいのです。

そしてもし、あなたの片方の目が恥の原因となっているのであれば、その目をえぐり取ってあなたから遠く離れたところへ投げ捨てなさい。あなたたちにとって片方の目だけで生きる方が、両眼が揃ったままで地獄の火に投げ入れられるよりも良いのです。(マタイ 第十八章 6-10 第五章 29,30)

℘162
十二、一般的な意味において、恥とはある表面的な方法で道徳や品行に反するすべての行動を指します。

恥とはその行動そのものの中にではなく、その行動がもたらす反響の中にあるのです。恥と言う言葉はいつも、多くの非難を浴びるものであるという意味を含んでいます。多くの人は恥をかくことから免れたことに満足します。

なぜなら恥をかくことによって自尊心は傷つき、その者に対する人からの敬意が低下してしまうからです。もし、自分の恥が見逃されたならば、それだけで良心は落ち着くのです。イエスの言葉によれば、こうした人たちは「外見的には真っ白だが中身は腐敗に満ちた墓、外側は綺麗だが内側は汚れた壷」なのです。

 福音の中で数多く用いられている恥という言葉の意義はより広く、したがって、場合によってはその意味が理解しがたいことがあります。他人の良心を咎めるものという意味として、悪癖や不完全性がもたらすすべてのことを指し、反響の有無を問わず、ある個人から個人への悪い作用を意味します。恥とはこの場合、悪徳のもたらす結果のことなのです。


十三、この世では「恥じるべきことは行われなければならない」とイエスは言いました。なぜなら、地上の人間は不完全であり、悪い木が悪い実を結ぶように、悪を働く傾向にあるからです。したがって、このイエスの言葉から、悪とは人間の不完全性の結果であり、人間にとって行わなければならないものではないということを理解しなければなりません。


十四、「恥じるべきことは行われなければならない」。なぜなら人間は、地上で自分の罪を償おうとする中で、自分自身の悪癖に接し、その悪癖の第一の犠牲者となることによって、自らに罰を与え、その悪さを理解するようになるからです。

悪の中で苦しむことに疲れた時、善の中にその薬を求めることになるのです。こうした悪癖に対する反応は、ある者には罰となり、ある者には試練となります。この様にして、神は悪の中から善を浮かび上がらせ、人間に自らの悪や値打ちの無いことをも利用させるのです。


十五、そうであるならば、悪は必要であり、永久に続くのだということができるかもしれません。なぜなら、もし悪が消滅してしまったら、神は罪ある者たちを罰する強力な手段を奪われてしまい、よって、人間が向上することは無意味なのだと言われるかもしれません。しかし、その時、すでに罪ある者がいなくなっていたとしたら、罰することさえも必要なくなるのです。

仮に、人類がみな、善なる人間に変わったとしてみましょう。皆が善人なのですから、誰も隣人に悪を働こうとはせず、みなが幸せになることができます。悪の追放されたより進歩した世界とはそのような状態なのです。

そして、地球もさらに十分に進歩すればそのようになるのです。しかし、幾つかの世界が前へ進んでいく間、一方ではより原始的な霊によって他の世界が形成されていきます。

そして、そうした世界は、幸せになった世界から拒絶され、悪に固まった反抗的な不完全な霊たちを追放する世界、または、不完全な霊たちが報いを受けるための世界となるのです。


十六、「しかし恥ずべき行動をとってしまう者たちの可哀想なことよ」とはつまり、いつまでたっても悪であり続け、その悪い本能を利用されて無意識のうちに神の正義の道具となったとしても、そのことによって悪が軽く見られることは無く、彼らは罰せられなければならないのだということです。

たとえば、ある恩知らずな息子は、その子を育てなければならない父親にとっては罰、あるいは試練です。なぜなら、その父親は多分、過去において彼の父親を苦しませた悪い息子であったからで、だから報復の罰を与えられているのです。

しかし、その息子は許される訳ではなく、彼の順番が来た時には、自分自身の息子によって、あるいは別の方法によって罰せられなければなりません。


十七、「もし、あなたの手が恥の原因となっているのであれば、切り落としてしまいなさい」。この激しい表現を文字通り理解してしまっては馬鹿げており、これは、自分のうちにある恥の原因、つまり悪を破壊してしまうことが必要なのだということを意味しているのです。

あなたの心から、全ての不純な気持ちや悪癖の源を根絶することです。さらには、人間にとって手を切り落とす方が、その手が悪い行動のための道具として使われるより、そして盲目である方が、ある物を見た時に悪い考えを与える目を持つことよりも、ましなのだということを意味しています。

イエスは、その言葉の持つ深い例えの意味を理解する者に対しては、何もばかげたことなど言っていません。しかし多くの事柄は、スピリティズムが与えてくれる鍵なしには理解することができないのです。





 霊たちからの指導
 
  子供たちを私のもとへ来させなさい
十八、キリストは、「子どもたちを私のもとへ来させなさい」と言いました。簡単でありながら深い意味を持つこの言葉は、単に子供たちへ向けられた呼びかけなのではなく、希望のない不幸が支配する、より劣った世界にいる魂たちへ向けられた呼びかけなのです。

イエスは人類のうちの弱者、奴隷、悪徳な者たちのように、知性的に幼少なものを自分のもとへ呼んだのです。物質的な制約を受け、本能のくびきにつながれ、まだ、自分の中や周りに働く理性と意志の秩序を守ることが出来ない肉体的に幼少な者たちには、イエスは何も教えることはできませんでした。

 イエスは、愛嬌のある姿によって、母親である女性すべての心を征服してしまうよちよち歩きの子どもが、母親を信頼し母親の方へ向かっていくように、人類に、イエスのことを信じて寄ってきてほしかったのです。そのような魂たちはイエスの優しく神秘的な権威に従うことが出来たのです。

イエスは暗闇を照らすたいまつであり、人々の目を覚ます夜明けの光であったのです。彼はスピリティズムの開始者であり、その周りには子供たちではなく、やる気を持った大人たちが集まるのです。雄々しい行動は始まりました。もはや本能的に信じたり、機械的に従うのではないのです。人類は、普遍性を示す英知の法に則ることが必要なのです。

 愛する者たちよ、説明されることによって偽りが真実となる時はすでに到来したのです。あなたたちにイエスのたとえ話の本当の意味とその教え、過去のものと現在のものとの間に存在する強い相互関係を示しましょう。私は真実を伝えます。

霊たちの出現は地平線を広げ、それは人類へ送られた使者として、山頂の太陽のように輝くのです。(伝道者ヨハネ パリ、1863年)


十九、子供たちを私のもとへ来させてください。私のもとには弱い者を強くする母乳があります。いたわりと慰めを必要としている臆病で弱い者をみな、私のもとへ来させてください。無知な者を、光を与えるために私のもとへ来させてください。

不幸な者たち、苦悩する者たちの群れ、苦しむ者をみな、私のもとへ来させてください。
人生の悪を和らげる偉大なる薬を私が教えてあげましょう。そして、あなたたちの傷を治す秘密を明らかにしましょう。

あらゆる心の病を治し傷口をきれいにする、それほど多くの美徳を持ったその崇高なる香油とは、なんなのでしょうか。それは愛であり、慈善であるのです。
℘166             
あなたがこれらの神聖なる火を手にしているのであれば、何を恐れる必要があるのでしょうか。生きている間、絶え間なく、次のように言いましょう。

「父よ、私の意志ではなく、あなたの意志の通りに行われますように。あなたを喜ばすことであるならば、痛みと苦しみによって私をお試しください。そのことが祝福されますように。それが私のためになるのであれば、私の上にかざされたあなたの手は、振り下ろされるのだということを私は知っています。

主よ、あなたを喜ばすことであるならば、弱い者に慈悲を与え、その者の心に健全な喜びをお与えください。それにより、更に祝福されますように。しかし、神の愛が魂の中に眠ってしまわないようにしてください。感謝の気持ちの証として、その愛が絶え間なく魂をあなたの足元まで引き上げてくれますように。

 あなたに愛があるなら、地上に望まれる全てのものを有していることになります。あなたを憎み、迫害するためにあなたを取り囲む者たちの悪意や、どんな事件さえも奪い去ることが出来ない、貴重な真珠を手にしていることになるのです。

 あなたに愛があるならば、あなたの宝を蝕まれることの無い場所にしまえることになり、あなたの魂からはあなたの魂を不純にするあらゆるものを消すことができるようになるのです。愛があれば日々、物質の重みは軽減していくのを感じ、それは空を舞う鳥たちが地上のことを忘れてしまったように、そのまま天に昇っていき、やがてあなたの魂は主の胸元で生命力に満たされ、陶酔することになるでしょう。(ある守護霊 ボルドー、1861年)


  目が閉じている者は幸いです
二十、良き友よ、なぜ私を呼んだのですか。ここにいるかわいそうな苦しむ者の上に手をかざし、病を治すためですか。ああ、善き神よ、何と言う苦しみでしょう。彼女は視力を失い、暗闇に包まれてしまいした。可哀想な子よ、祈り、待つのです。

私はよき神の意志なしに、奇跡を起こすことはできません。私が行うことが可能であった、あなたたちの知っているすべての治療は、私たちみなの父である神によるものです。
℘167            
あなたたちが苦しむ時には、いつも目を天に向け、心の底からこう言いなさい。「父よ、私の病を治してください。しかし、私の魂の病が、肉体の病よりも先に治されるようにしてください。必要であるならば、私の肉体が罰せられ、それによって私の病んだ魂が、創造されたときと同じように純白になってあなたのもとへ引き上げられますように」。

良き友よ、善なる神は何時も聞いてくださり、この祈りの後、力と勇気があなたたちに与えられ、また恐る恐る願った治療も、あなたたちの献身への代償として与えられるかもしれません。

 しかし何よりも、今ここに学ぶことを目的とした集会に参加して、視力を奪われた者は、幸いにも報いの機会が与えられたと考えるべきなのだと私は申し上げます。目が邪魔になっているのであれば、目をえぐり取ってしまいなさい、それがあなたの堕落の原因になっているのであれば、火の中に投じた方が良い、とキリストが言ったのを思いだしてください。

ああ、地上に生きる者のうちで、いつか暗闇の中で、光を見てしまったことを苦しむ者がどれだけいるでしょうか。おお、そうです、報いとして、目を罰せられた者は何と幸いなことでしょうか。

もうその目は恥や堕落の原因となることは無く、その者は完全に魂の世界に生きることができ、視力の良い者よりも良く見ることができるのです。私がこうしたかわいそうな苦しむ者の瞼を開き、再び光のもとへ戻すことを神が許されるときには、この様に申し上げます。

「愛しき魂よ、なぜ思慮と愛に生きる霊としてのすべての喜びを知ろうとしないのですか。それを知ることが出来れば、盲目のあなたを暗闇に包む、不純で、重たい像を見ようと頼んだりはしないでしょう」。

 おお、神と共に生きようとする盲目の者は幸いです。ここにいるあなたたちよりも、彼は幸せを感じ、それに触れることが出来るのです。魂に会い、地上での運命を定められた者たちには見ることができない霊の世界へ、共に飛び立っていくことが出来るのです。

開かれた目は何時も魂を堕落させる原因となります。閉じられた目は、反対に、いつも魂を神のもとへ引き上げることができます。
℘168        
親愛なる友よ、私を信じてください。盲目は、ほとんどいつも心の真なる光をもたらしてくれます。一方で視力はほとんどいつも、魂を死に追いやる恐ろしい使いなのです。

 今度は、かわいそうな、苦しむあなたのために言葉を送ります。勇気を持って待つのです。「娘よ、あなたの目は開かれるのです」と、もし私が言えば、あなたはどんなに喜ぶことでしょう。しかしその喜びがあなたの大きな損失となるということを誰が知っているでしょうか。

幸福を作りながら、苦しみと言うものを認めた、善なる神を信じてください。あなたのためになることはすべて致します。しかし、あなた自身も祈らなければいけません。そして、何よりも私が来て申し上げることすべてについて考えてみて下さい。

 ここを去る前に、ここにいるあなたたちすべてに、私からの祝福がもたらされますように。(聖ウ“ィアンネー パリ、1863年)



<備考>ある苦しみが現世の行いの結果でないのであれば、その原因は前世に求めなければなりません。運命のいたずらと私たちが呼ぶものは、神の正義の行いに過ぎないのです。神は仲裁的な罰は与えません。なぜなら、過ちと罰との間には、必ず相互関係が存在しなければならないからです。

神がその善意によって、私たちの過去の行いをベールで覆い隠したとしても、次のような言葉によって私たちの道を指してくれるのです。

「剣によって人を殺したものは、剣によって殺される」。この言葉は、「私たちはつねに犯した過ちと同じ方法によって罰せられるのだ」と、解釈することができます。ですから、もし、誰かが視力を失うことによって苦しんでいるならば、その者にとって視力は堕落の原因であったからなのです。

他人の視力を失ったことが原因であったのかもしれません。重すぎる仕事を強制したことで誰かを失明させたのかもしれません。あるいは、他人を悪く扱ったり、注意不足によって失明させたのかもしれません。だから今、報復の罰に苦しんでいるのです。

盲目な者自身が、自分を省みた時、この報いを選んだのかもしれません。その時その者は、「もし、あなたの目が恥の原因であるならば、えぐり取ってしまいなさい」というイエスの言葉を自分自身に当てはめていることになるのです。
(この通信はある盲目の人のために呼び起こされたアルスの司祭聖ウ“ィアンネーの霊Curê d',Arsによって伝えられた)
   

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓

 Guidance from Silver Birch(2-8) Edited by Anne Dooley 

八章 背後霊の仕事



    ある日の交霊会で、霊媒の背後霊の中にはわれわれ人間でも知っているようなことを知らない霊がいるのはなぜか、と言う質問が出された。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「背後霊にもいろんな種類があります。目的がいろいろとあるからですが、その霊がすべて同じレベルにあるわけではありません。交霊会において各々に割り当てられる仕事は成長と発達の度合いによって異なります。

宇宙の機構について詳しい霊がいても、あくまでその時点までのその霊の経験の結果としての知識を述べるのであって、まるで知らないことについては答えられません。知らないことは何一つないような霊は決していません。

 たとえば物理実験会で門番のような役をしている霊は高等な思想上の問題はよく知りませんし、高等な思想・哲学を説くことを使命としている霊は物質化現象をどうやって起こすかといったことは、まるで知りません。霊をぜんぶ同一水準に置いて考えることは禁物です」

 「どんな霊が背後霊となるのでしょうか」

 「血縁関係のある霊もいれば、地上的な縁故関係はまったくなくて、果たさんとする目的において志を同じくする者、言ってみれば霊的親近感によって結ばれる場合もあります。そこには民族や国家の違いはありません。地上を去り、地上的習性が消えていくと、民族性や国民性も消えていきます。魂には民族も国家もありません。あるのは肉体上の差異だけです」

 「背後霊として選ばれる基準は何でしょうか」

 「地上世界の為に為すべき仕事があることを自覚して、みずから買って出る霊もいますし、ある霊的な発達段階まで来ている霊が、人類啓発の使命を帯びた霊団から誘いをかけられる場合もあります。

 私はその誘いを受けた一人です。自分から買って出たのではありません。が、やってみる気はないかと言われた時、私はすぐに引き受けました。正直言ってその仕事の前途は、克服しなければならない困難によって〝お先まっ暗〟の状態でした。しかし、その困難は大体において克服され、まだ残されている困難も、取り除かれたものに比べれば、きわめて小さいものばかりです」

 「誘われた場合は別として、自分から申し出た場合、その適性をテストする試験官のような人がいて合否を決めるのでしょうか」

 「ズバリそうだとは言えませんが、それに似たことは行われます。こちらの世界は実にうまく組織された世界です。人間には想像できないほど高度に組織化されております。それでいて、その仕事を運用するには、こうした小さな組織が必要なのです。私たちの霊団の中にはあなた方も名前をよくご存知の方が何人かいます。

ところが、どういうわけか、揃って遠慮がちな性格の人ばかりで、私が出なさいとけしかけても、何時も〝あなたからお先に〟と言って後ろへ引っ込むのです。

 さて、たとえばあなたが自分の霊団を組織したいと思われても、霊の方があなたの仕事に共鳴して集まってくれなくてはだめですし、また呼び寄せるだけの霊力を発揮できる段階まであなたが進化していなくてはなりません。こちらの世界ではその人の人間性が全てを決します。絶対的実在は霊なのです。

それには仮面も変装も口実もごまかしもききません。何一つ隠せないのです。全てが知れてしまうのです」


 「その人の適性が霊性にはっきり出ているということでしょうか」
 「そのとおりです。なぜかと言えば、その人のオーラ、色彩、光輝がその人の本性を示しているからです。教える資格もない者が先生ヅラをしてもすぐにバレます。

その人には教えられないことが明らかなのですから。ですから、あなたが人類のための仕事に志を抱く霊を呼び寄せようとしても、あなたご自身が霊的成長によって霊を引きつける力を具えていなければ、それは叶えられないということです。お判りになりますか」

 「私が知りたいのは、そういった十分に成長していない霊が霊団の一員として働かせてもらえないのは、どういう経緯でそうなるのかということです」

 「働けないから、というに過ぎません。資格のない者にはやりたくても出来ないのが道理でしょう。その霊には霊力もエネルギーも放射線も人間も引き寄せることは出来ません。それを手にするに値するだけの鍛錬がまだ足らないということです。霊媒をコントロールするには人間側の協力も必要なのです。

実に入り組んだ過程を経なければなりません。うまく行っている時は簡単そうに見えますが、うまく行かなくなった時に、その一見単純そうな過程のウラ側の複雑な組織がちょっぴり分かります」

 質問者はさらに突っ込んで、通信霊が他人の名を騙ることがある事実を上げて、なぜそれが霊団の方で阻止できなかったのか、本物かどうかを見分ける方法はないかと尋ねた。すると───
 「実によりて木を知るべし(マタイ7・20)と言います。もし仮にこの家のドアを開けっ放しにして門番も置かなかったらどうなります?誰彼なしに入り込んできて好き勝手な文句を言うことでしょう。そこで時刻を決めてドアを開け、門番を置いて一人一人チェックすることにしたらどうなります?まったく話は違ってくるでしょう」

 「おっしゃる通りです。ということはレギラーメンバーで定期的に開くのが安全ということでしょうか」

 「そうです。むろんです。ぜひそうあらねばなりませんし、それに、身元のはっきりした専属の支配霊がいて、その霊の存在を確認しない限り通信は許さないということにすることです。私どもの世界も至って人間的な世界です。最低から最高までのありとあらゆる程度の人間がいて、その中にはしきりに地上に戻りたがっている者が大勢います。

その全てが指導する資格を持っているわけではなく、教える立場にあるわけでもなく、聖人君子でもありません。至って人間くさい者がいて、人間界への働きかけの動機にも霊的なところがない場合があります」


 「きちんとした組織をもった交霊会では通信霊のチェックが行われるのでしょうか。他人の名を騙ってしゃべることは不可能でしょうか」

 「きちんとした交霊会では不可能です。この交霊会は始まってずいぶん長くなりますが、その間ただの一度もそういうことは起きておりません」

 「霊界に組織があって、通信霊本人が述べる証拠とは別に、その組織が身元を保証してくれるようなことがあるのだろうかと思っておりましたが・・・」
 「保証には二つあります。一つは通信霊が出す証拠に自然に具わっているものです。いつかは必ず正体を見せます。もう一つは、これはとくに初めてしゃべる霊あるいは、せいぜい二度目の霊に言えることですが、その会を指揮している支配霊による身元の保証です。

私のみる限り、何年も続いている有名な交霊会の支配霊は信頼できます。もっとも、だからと言って───私の話しはいつもこのことに帰着するのですが───そうした交霊会に出席している人が一瞬たりとも理性的判断をおろそかにしてよいと言っているのではありません。これは神からの贈物です。

支配霊が誰であろうと、通信霊が誰であろうと、もし言っていることが自分の理性に反発を感じさせたら、それはきっぱりと拒絶するのが絶対的義務です。

 私たちの仕事の基本は〝協調性〟にあります。あくまでも人間側の自由意志と腹蔵の無い同意のもとに手をつなぎ合って進まないと成功は得られません。しばしば言ってきたことですが、私の言うことがどうも変だと思われたら、どうぞ受け入れないでください。拒絶してください。

私は絶対に誤りを犯さないとか叡知の全てを所有しているなどとは思っておりませんから、同意が得られない時はいっしょに考え合って、お互いに勉強していきましょう。

 そういう方法で行けばきっと成功します。威圧したり強制したりして仕事を進めるやり方は私たちは取りません。神から授かった理性の光で導き、一歩一歩みずからの意志で踏み出すように仕向けます。

 私たちが絶対に誤りを犯さないとは申しません。もっとも、故意の偽りを述べることとは全く別問題です。実によりて木を知るべし───これは実に良い判断方法です。

もし利己主義や欲得を煽るような、あるいは世間への義務を疎かにさせたり、汚ない考えや隣人への思いやりに欠ける言葉を吐くようなことがあったら───もしも慈悲の心を忘れさせ自己本位の生き方を勧めるようなことがあったら、それが立派な罪悪性の証拠と言えます。

 が、私たちの訓え、私たちの説く思想は、こちらの世界から発せられる全てのものの底流にある唯一の動機、すなわち〝人のために自分を役立てる〟ということを第一に強調するものです。皆さんも互いに扶け合い、自分が得たものを他人に分け与え、かくして神の恩寵が世界中に広がるように努力していただきたいのです。

実によりて人を知るべし───これが最後に勝利を収める方法です。なぜなら、それが神の御心であり、その神は愛と叡知によって動かされて、大自然の法則を通じて働いているからです」


 実はその日の交霊会の初めに、交霊会で使用されるエネルギーについての質疑応答があった。その中でシルバーバーチは、前回の交霊会はあまりうまく行ったとは言えませんと述べ、その理由をこう説明した。

 「私がエネルギーを使い果たし、保存してあるものの一部まで使ってしまったからです。でも今夜はその心配はありません。私は全身に力が漲り、いただいた分量を全部たくわえております」

 「貯蔵庫が満タンということですね」

 「はい、満タンです。溢れ出ているほどです。私どもにそのエネルギーに浸らせて下さい。そしてその一部を頂戴させて下さい」

 「どこから摂取するのですか」

 「あなた方からです」

 「私たちだけではないでしょう」

 「いえ、皆さん全員からです。皆さんが仕入れ先です。私と貯蔵庫とをつなぐエネルギーを提供してくれるのが皆さん方ということです」

 「むろん霊媒からも得ているわけですね」

 「もちろん。霊媒の持つ力によって私があなた方と話し、いろいろと無理難題を申し上げているわけです」

 「摂取するのは私たちがここに集まってからですか、それともそれぞれ別のところにいる時ですか」
  
 「ここに居られる間に摂取いたします。ここが一ばんやり易いのです。お一人から少しずつ摂取するのですが、少しずつを沢山集めれば分量も多くなります。それを混ぜ合わせ、それに別の要素を加えることによって必要とするものが出来上がります。簡単です。もう皆さんはお分かりでしょう」

 「エクトプラズムと同じものですか」

 「同じです。ただし、質をずっと精妙化して使用します」

 「でも本質的には同じものでしょう」

 「皆さんから摂取するのは同じ物質です。エネルギーという謎めいた用語がよく使用されますが、これは要するに宇宙の生命力の一部であり、あなた方の言うエクトプラズムもその一つの変形にすぎません」

 「でもエクトプラズムは後で全部本人に戻されると思っていましたが・・・」

 「そうなのですが、必ずそのごく一部分だけが戻されずに残ります」

 「貯蔵庫が空になった時は戻さずに取っておくわけですか」

 「そうです。それに霊界で調合したもの───その調合にも同質の物質、全く同じものではありませんが、ほぼ同質のものを列席者から抽出しますが───を混ぜ合わせて、一回の交霊会に必要な分量をこしらえて、いざという時のためにその一部を取っておきます。生命力の一部です。大体こんな説明しかできませんが・・・」

 「余分を取っておかないと仕事ができないのでしょうか」

 「できないことはありませんが、霊媒に大きな負担を掛けることになります。もしかしたら話す力まで奪われてしまうかも知れません。そうなると何もできないことになります」

 「別に私は余分に取っておくのがけしからんと言っているのではありません。なぜかを知りたかっただけです」

 「私の方には、お答えする場合に余り多くを語りすぎないようにとの配慮があるのです」

 「なぜでしょう。なぜ全てを教えてくれないのですか」

 「一つには、お教えしたくても出来ないということ、もう一つは、語ることを許されていないこともあるということです。それを知ることを許されるには、ある一定の霊的成長が指標となります。そこまで進化しないと、その知識をもつことを許されないのです」

 「たとえ理解できても、身体に宿っているとその知識を間違ったことに使用する可能性があるということでしょうか」

 「そういうことです。もっとも、私どもの世界からのちゃんとした協力が得られれば別です。が実際にはいったん高度な知識を手にすれば、それを間違って使用することはないでしょう。と言うのは、その知識を得たということは、その正しい使用法を心得る段階まで向上していることを意味するからです。

 全ては摂理によって規制されているのです。入れ替わり立ち替わりしゃべりたがる低級霊の場合は別として、名の知れた支配霊が道徳的に首をかしげたくなるようなことを言った例は決してないはずです。非難したり中傷したり陰口を言ったり、つまり低俗な人間のするようなことを支配霊がしたためしはないはずです。

人類を導く者としての資格があるか否かを見極める仕事をしている霊を得心させるだけの器量が無くてはならないからです。自分がコントロールできない者がどうして他人を正しい道へ導くことができましょう。でも、最後はあなた方自身が判断なさることです。

 私たちに設けられた基準は実に高度なものです。何しろ混迷する人類を導くという使命に携わっているのです。指導者として十分な器量を具えていなければなりません。そこでこの仕事に携わる者は厳重な監視下に置かれます。また成果を報告し、細かい吟味を受け、仕事を更に進展させるための再調整が為されます。

私がいつもあなた方に、全てを安心して霊の世界の者にお任せしなさい、と申し上げるのはそのためです。あなた方に敬愛をもち、あなた方のために働き、さらにあなた方を通じて他の人々へ援助の手を差しのべたいと願っているスピリット、それだけを唯一の願いとしているスピリットであることは十分に証明済みのはずです」


 さて、支配霊は優れた霊媒をもつ交霊会を何年催していても、常に新しい体験をさせられるものである。その一端を見せたのが、霊媒に憑っている間は物が見えてないのか、耳は聞こえてないのかという質問が出された時だった。

そんな質問が出たのは、ある日の交霊会の進行中にスワッハーが遅れて入って来て、列席者の一人がスワッハーのために席を移動したことにシルバーバーチが気がつかなかったからである。その質問に対してシルバーバーチはこう答えた。

 「幾分そういう傾向があります。それは私が霊媒の器官をどの程度までコントロールし、一方、霊界との連絡網が何本使用できるかに掛かっています。全部が使える時、つまり一、二本で四苦八苦するような状態でなければ、コントロールが完全ですから、その間は私は霊媒になり切っており、霊媒の体験することはみな私も体験します。

 ですが連絡網が制限され、わずかに残ったもので何とか交霊を維持しなければならない時は、必然的に霊媒との接触の仕方が弱くなり、必要最少限の中枢網しか使っていませんから、その分だけふだんよりはコントロールできていないことになります」

 「となりますと、交霊会の始まる前に霊媒がどこの席に誰が座っているということを知っていても、入神した霊媒を完全にコントロール出来ない時は、あなたには誰がどこにいるということは判らないということになりませんか」

 「細かく説明しましょう。何であれ物事の事情というものは、うまく説明できると面白いものです。私があなた方に話をしていると〝回線良好〟との信号が出ます。そこでこの回線に繋ぐと情報が入ります。その情報を私が皆さんに伝えるわけです。その操作にはかなりの集中力を要しますが、それは、重大なことほど余分に注意力が要ることを意味しています。

 さて、あの時スワッハーが入ってきたので私は〝ああ、スワッハーですね〟と言いましたが、どこに座るかは注意していませんでした。それで、誰かが私のすぐ近くに来る音がした時てっきりスワッハーだと思い、その方向を向いて〝ようこそ〟と言ったわけです」

 ここでその席に移った本人が〝そうでしたね〟と相づちを打つと、シルバーバーチはさらにこう続けた。

 「するとあなた(相づちを打った人)が挨拶をされたその声で、あなたがスワッハーに席を譲られたことを知ったわけです。聞く能力は完全でしたが、見る能力はあの時は十分ではありませんでした。それで私は音のする方向を向いて〝ようこそ〟とは言いましたが、せっかくの良好な回線を乱したくないので、それ以上は言葉を交わさなかったわけです。これで謎は解けたと思いますが・・・・」

 「もし誰かがこっそりと部屋を出て行ったら分かりますか」

 「それはいつ出るかによります。今でしたら分かります。集中力を要する回線に合わせている時、中枢網だけでやっと霊媒との関係を維持している時は、他のことには構っておれません。私はその時その時の大事なこと、基本的なことに目を向けておりますので・・・」

 「誰かが途中で入って来たら交霊の状態が乱れますか」

 「常連(レギュラー)であればそういうことはありません。ふだんからその人のオーラを通じて霊力を供給してきており、その融合が交霊に必要なエネルギーとなっているからです。初めての人がいきなり入って来ると話は別です。まったく新しい要素ですから。

 出席者が常連であれば、入神状態に関するかぎり、明りがついていようが消えていようが、皆さんが脚を組まれてようが開かれようが、関係ありません。霊的エネルギーがコントロールされ安定しているからです。が、初めての人ばかりの集まりだとすると、入神談話のための条件を改めて整える必要が生じるでしょう」

Monday, September 29, 2025

7シアトルの秋  「スピリティズムによる福音」     アラン・カルデック著

 The Gospel According to Spiritism: Allan Kardec (Author), 

第7章 魂の貧しい者は幸いです



 魂が貧しいとはどういうことか

一、魂の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ 第五章 三)

二、魂の貧しい者は幸いです。信心のない者は、他の多くの金言と同様に、この金言を理解せず、ばかにします。しかし、イエスは知性に貧しい者を意味したのではなく、慎ましい者を意味したのです。天の国は慎ましい者のためであり、傲慢な者のためではないと言ったのです。

 教養があり、知性的な人は、この世を見る限り一般的には自分たちを高く評価し、その優秀さを強調し、神のことなどその関心に値しないと考えています。彼ら自身のことだけが心配で、神のことまでその考えを持ち上げることができません。

このように自分たちをあらゆるものより優秀であると考える傾向は、自分たちを優秀と考えるために自分たちを低くするものを否定し、しばしば神さえも否定します。

あるいは神を認める時には、自分を最も優秀な神の属性のうちの一人と考えるのです。天命を受けこの世のことだけに対し働きかけることで、この世を統治するのは十分であるとうぬぼれているのです。

自分の知性を宇宙の知性の大きさを持つと考え、何事も理解することができると信じ、理解できないこともあり得るのだということを認めることが出来ないのです。彼らは何かについて発言する時、彼らの判断に対する反論を受けつけないのです。

 見えない世界と人類を超えた力を認めないのは、それらが手の届かないところにあるからではなく、彼らの考えの土台を掘り崩してしまうような、立脚することのできない観念に対して自尊心が反発するからです。だから、目に見え、手に取ることのできる世界以外のものに対しては、軽蔑の笑みを見せることしかできないのです。

そうしたことを信じるには、自分たちの知性は高過ぎ、多くの知識を持っており、彼らの考えるには、そうしたことは無知な人々に向いているのであり、そうした人を魂の貧しい者とみなしているのです。しかし、何を言おうと、いつかは他の人たちと同じように皮肉を込めて馬鹿にしている目に見えない世界に入らねばならないのです。

その時、彼らは目を開き、過ちに気づくのです。しかし、公平である神は、その力を認めなかった者たちを、神の法を慎み深く守った者たちと同じように迎えるわけにはいかず、同じ者として割り当てることもできません。

℘141
素朴な者だけに神の国があるという言葉のなかで、イエスは、心の純真さと魂の慎ましさがなければ神の国で認められることはないと教えたのです。これらの資質を持った無知な者の方が、神よりも自分を信じる賢人よりも好ましいのです。

いかなる場合に置いてもイエスは、神に近づける徳として慎ましさを、神から遠ざける欠点として傲(おご)りを述べています。慎ましさは神に対する服従の態度であり、傲りとは神に対する反発のしるしであるという、とても自然な理由からです。

したがって、人間の幸せのためには、この世で言う、魂が貧しくとも、道徳的な資質に富んでいることがより大切なのです。

   
 自分を高くする者はさげられます

三、その時、使徒たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか」。そこで、イエスは小さい子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて言われた、

「誠に言います。悔い改めて子どもたちのようにならない限り、天の御国には入れないでしょう。だから、この子どものように、自分を謙遜し自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです。また、誰でも、このような一人の子どもを私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのです」。(マタイ 第十八章 1-5)


四、その時、ゼベダイの子どもたちの母が、子どもたちと一緒にイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った、「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるようにお言葉を下さい」。

イエスは答えて言われた。「あなたたちは自分が何を求めているのか、分かっていないのです。私の飲もうとしている杯を飲むことができますか」。

彼らは「できます」と言った。イエスは言われた、「あなたたちは私の杯を飲みはします。しかし、私の右と左に座ることは、この私の許すことではなく、私の父によって備えられている人々にだけ許されることなのです」。このことを聞いた他の十人は、この二人の兄弟たちのことで腹を立てた。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたたちも知っているとおり異邦人の支配者たちはその民を支配し、偉い人たちはその民の上に権力をふるいます。あなたたちの間ではそうであってはなりません。あなたたちの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

あなたたちの間で人の先に立ちたいと思う者は、しもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人のための救済の代価として、自分の命を与えるためであるのと同じです」。(マタイ 第二十章 20-28)


五、ある安息日に、食事をしようとして、ファリサイ人のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。招かれた人々が上座を選んでいる様子をご覧になっておられたイエスは、彼らにたとえを話された。「婚礼の披露宴に招かれた時には、上座に座ってはいけません。

あなたより身分の高い人が招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』とあなたに言うなら、その時あなたは恥入って、末座に着くことになるでしょう。

招かれるようなことがあって行ったなら、末座に着きなさい。そうすればあなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上座にお進みください』というでしょう。その時は満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。(ルカ 第十四章 1、7-11)


六、これらの金言は、神に選ばれた者に約束された幸せを得るための根本的な条件として、イエスが絶えず教えている慎ましさの原則から生まれたもので、イエスは次の言葉にそれをまとめて示しました。

「魂の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。イエスは純心であることの象徴として子どもを選び、「子どものように自分を謙遜し、自分を低くする者が、天の御国で、一番偉いのです」と言ったのです。それは上の者や強い者に媚びを売るということではありません。

 同じような基本的な考え方が、別の金言に結びつきます。「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。

 スピリティズムは実例によって理論を確認し、私たちに、地上で小さくあった者たちの霊界における偉大さを教えてくれます。そして多くの場合、地上において最も偉大で強い権力を持っていた者たちが、霊界においてはとても小さいのです。これは、霊界において彼らを偉大にさせる、決して失われることの無い美徳を、人間は死んでも持ち続けるからです。

一方で、富、地位、栄光、生まれた家族の高貴さなど、地上で人間を偉大にしていたものは、別の世界へ持って行くことが出来ないのです。それら以外に何も持っていなかった者は、別の世界へ入ると、着るものまでも失った遭難者のようにすべてを失います。

自尊心だけを失いきれずにいることが、地上において軽蔑していた者たちが自分より上に、栄光に輝いて置かれているという新しい位置づけを、更に屈辱的なものにします。

 スピリティズムは同じ原理の応用を、連続する人生と言う視点から別の方法で示しています。ある人生において最も高い地位にあった者は、野心や自尊心を克服できなかったのであれば、次の人生において最も低い地位に降ろされます。

ですから、強制的に次の人生において地位を下げられたくないのであれば、地上において一番高い地位を求めたり自分を他人より高い地位においてはなりません。

反対に、最も慎ましく、質素な地位を求めなさい。あなたがより高い地位におかれるに値するのであれば、神は天においてより高い場所を与えてくれるでしょう。

℘144         
 博学な者や知識人に隠された謎
七、その時イエスは声を上げて言われた、「天と地の主なる父よ、これらのことを博学の者や知識のある人には隠し、素朴で小さい者たちに顕してくださったことを称賛いたします」。(マタイ 第十一章 25) 


八、これらのことを魂の貧しい、素朴で小さい者たちに見せてくれたことをイエスが感謝しているのは、少し不思議に感じられるかもしれません。

なぜなら、見かけ上は博学な者や知識人の方がこれらのことを理解し易いように見えるからです。しかし私たちは、この慎ましい者とは、神の前で自分を低め、他人に対して自分が優れていると感じない者のことであるということを理解しなければなりません。

また、一方の自尊心の高い者とはこの世における知識によってうぬぼれてしまい、自分が賢者であると思い、そのために神の存在を否定したり、あるいは神を否定しないまでも、昔、知識人が賢者であるつもりになって話したように、自分を神と同様に扱う者のことであるということを理解しなければなりません。そのため、神は地上の秘密の探求を知識人たちに任せ、神の前に屈服する慎ましい者たちに天の秘密を見せてくれるのです。


九、スピリティズムによって今日明らかにされた偉大なる真実についても同様です。信心のない人たちは、彼らを納得させ、改心させようとする霊たちの側の努力が不足しているのだと言います。

しかし、それは、霊たちにとっては、強い信仰と慎ましさをもって光を求める者たちのことの方が、もうすでにすべてを知っていると信じていて、神がその存在を証明して彼らを神の方向へ導くことが出来れば神は喜ぶであろうと考えている者たちのことよりも、気にかかるからなのです。

 神の力は、大きな物にも小さな物にも示されています。神はその光を隠すのではなく、あらゆるところへ放っています。盲目な者たちはそれを見ることが出来ないのです。

神は彼らの目を無理やり開こうとはしません。なぜなら、彼ら自身が目を閉じていることを好んでいるからです。しかし自ら目を開く時が来る前に、暗闇にあることの苦しさを感じ、神の存在を認識し、彼らの自尊心が必然的に傷つけられる時が来なければなりません。

不信心な者たちに神の存在を示すために、神は彼ら一人一人にそれぞれあった方法を取ります。しかし不信心である者が「私を納得させるにはどれそれをやってください。いつ、どうしてください。そうすれば私は納得します」というように、何をし、何を言うべきなのかを決めるのではありません。

 神や、神の意志を伝える霊たちが、こうした不信心な者たちの要望に応えてくれないからと言って驚いてはいけません。そうではなく、もし自分の最も身分の低い家来に何かを強要されたとしたら、何と応えるかを考えてみるべきです。

神が条件を決めるのであり、神が条件を強要されるのではありません。神は慎ましく求める者には温かく耳を傾けてくれますが、神より勝っていると考える者たちのことは聞いてはくれません。


十、最も神を信じない者までもが屈してしまうような奇蹟的な証拠によって、神は不信心な者たちに個人的に触れることができないのかとよく訊かれます。それが可能であることに、まったく疑う余地はありません。しかしそのようにしたとして、そうすることの価値はどこにあるでしょうか。

更に、それが何の役に立つと言えるでしょうか。彼らは、毎日あらゆる証拠を見せられていながらそれを受け入れず、「見ることはできたが信じることはできない。なぜならそのようなことは不可能であることを知っているからだ」とまで言うのです。

真実を認めることを拒否するのは、それを理解するその者の霊も、それを感じるその者の心も、まだそうなるところまで発達しきっていないからです。

自尊心は彼らの目を覆う目隠しのようなものです。盲目の者の前に光をかざしてどうなるというのでしょうか。したがって、まず悪の原因を治すことが必要です。

そうであるからこそ、優秀な医者のように、神はまず傲りを罰します。神が迷う子供たちを見捨てることはありません。なぜなら、遅かれ早かれ彼らの目は開かれることを知っているからです。

しかし神はそれが各々の自分の意志によって開かれることを望んでいるのです。そうなれば、不信心であったことによって受けた苦しみに打ち勝ち、父親に赦しを求めた放蕩息子の様に、自ら神の腕の中にやってきます。


   



  霊たちからの指導

℘146 自尊心と慎ましさ  
十一、親愛なる友よ、神があなたたちに平安をもたらしますように。あなたたちが正しい道を進むことができるように励ましにやって参りました。

 神は、その昔地上で慎ましく生きた霊たちに、あなたたちを教化する任務を与えられました。あなたたちの進歩を助ける機会という恵みをお与えくださいました。神の名が崇められますように。

聖なる霊が私に光を与え、私を助けてくれることによって、私の言葉が分かり易いものとなり、それらの言葉がすべての人たちのもとに届きますように。光に出逢うことのできないあなたたちすべての人間の目の前に、光を輝かせることができるように神の意志が私を助けてくれることをお願いいたします。

 慎ましさは、あなたたちの間では忘れ去られてしまった一つの美徳です。あなたたちに与えられた大きな模範は、ほんの少ししか守られていません。しかし慎ましさなしに、隣人に対する慈善の気持ちを持つことが出来るでしょうか。ああ、できるわけがありません。

なぜなら、慎ましさこそが人間を平等にするからです。あなたたちは兄弟であり、それ故にお互いに善に向かって助け合わなければならないのです。自分たちの身体の不恰好さを隠すために衣装をまとっているかのように、慎ましさに欠けるあなたたちは持ちもしない美徳で身を飾ります。

私たちを救ってくれた者のことを思いだしてください。彼を偉大にしたその慎ましさが、あらゆる預言者たちよりも彼を上に位置づけたのです。

 自尊心は慎ましさにまったく相反するものです。キリストが最も貧しい者たちに天の国を約束したのは、地上の偉大なる者たちが名誉や豊かさとは自分自身の功労に対して与えられるものだと考え、自分たちを貧しい者たちよりも純粋な存在だと考えていたからなのです。

それゆえ彼らは、名誉や豊かさを自分たちのためのものであると信じ、神が自分たちを地上から連れ去ると、神は不当であると不満を言うのでした。おお、何というおかしなことでしょう。

なにも見えていないのです。神はあなたたちの身体を見て区別するでしょうか。貧しい者と豊かな者の肉体は同じではありませんか。創造主は二種類の人間を作ったのでしょうか。神の造られたものすべてが賢く偉大なのです。

自尊心の強いあなたたちの頭から生まれる考えを、神に属するものであるなどと決して考えてはなりません。

 ああ、富める者たちよ。寒さから守られた金の屋根の下であなたたちが眠る間、何千人ものあなたたちとまったく同じ兄弟たちが藁の上に横たわっているのを知っていますか。飢えに苦しむ不幸な者たちは、あなたたちと同類の者たちではありませんか。

こうした言葉にあなたたちの自尊心が反発することを私はよく知っています。施しを与えることに同意することはあっても、その貧しい者の手を兄弟愛をもって握りしめることはありません。

「高貴な血縁のもとに生まれた、地上における偉大なる私が、そのぼろをまとった惨めな者たちと同じだなんて。それは偽哲学者の作り上げた、つまらぬ理想郷のことだ。もし、私たちが彼らと同じならば、何故神は私をこんなに高いところに置き、彼らをあんなに低いところに置いたのだ」。

富める者たちの衣装は、貧しい者たちのそれとは似ても似つかぬことは事実です。しかしそれらが奪われてしまったら、両者の間にどんな違いがあるというのでしょうか。

それにもかかわらず、血筋が高貴なのだと言うのかも知れません。しかし、今日まで科学は高貴な者と平民との間に、または、奴隷の主人と奴隷との間に血液の違いを発見していません。あなたが過去においても彼と同じように惨めで哀れな状態でなかったと、誰が断言できるでしょうか。
℘148
あなたも物乞いをしたことがあるのではないでしょうか。あなたが今日軽蔑している相手に、未来においては物乞いをする可能性がないと誰が言い切れるでしょうか。富とは永遠なるものでしょうか。

あなたの霊を取り巻くはかない覆いである肉体が消滅すれば消えてしまうものではありませんか。ああ、もう少し慎ましくあってください。この世の現実に目を向け、何が人を偉大さに導き、何が人の価値を下げるのかに目を向けてください。死は誰をも残してくれないように、あなたをも残してはくれません。

今日にでも、明日にでも、いつ襲ってくるか判らない死の攻撃から、あなたの地位はあなたを守ってはくれません。もしあなたがその自尊心の中に埋もれ続けるのであれば、ああ、私にとってそれは大変悲しいことです。あなたは深い同情を受けるに値します。

 傲慢な者よ。高貴で、強い権力を持つようになる以前、あなたは誰であったのでしょうか。もしかしたら、あなたの召使いの内の最も下層の者よりも低いところにいたのかもしれません。ですから、あなたの誇り高い額を下げるのです。なぜなら、あなたたちが額を最も高く上げた時、神はあなたたちにその額を下げさせるようにすることができるからです。

神の秤の上で、人類はみな平等です。一人一人の持つ美徳だけが、神の目には区別されるのです。全ての霊が同じ素から成っており、全ての肉体が同じ物質から造られています。名声や地位はあなたのどこも変えることはできません。

名声や地位は墓の中に残され、選ばれた者たちに与えられる幸運を享受するためには何の役にも立ちません。選ばれた者たちの高潔な地位とは、慎ましさと慈善の行いによってのみ築かれるものなのです。

 かわいそうな者よ。あなたは苦しむ子供の母親なのです。寒さに震え、飢えを訴えている彼らのために、パンのかけらを手に入れるため、重い十字架を背負い、頭を下げに出ていきなさい。

おお。あなたの前に私は頭を下げます。私にとってあなたは何と高貴で尊いことでしょうか。祈り、待つのです。至福は今だこの世のものではありません。神を信じる抑圧された貧しい者たちのために、神は天の国をあたえてくれるのです。

℘149
 労働と剥奪の前に放り出された、まだ子供でしかない娘よ。どうしてそんなに悲しむのですか。なぜ泣くのですか。慈悲深く穏やかな神のもとへあなたの目を向けてみて下さい。神は小鳥たちにも食べ物を与え、あなたたちを信じてくれています。神はあなたたちを見放されることはありません。

宴に響く笑い声や、この世の喜びにあなたの胸は高く鳴ります。髪を花で飾り、地上の幸運な者たちとともに交わりたいと思うでしょう。屈託なく楽しそうに笑いながら通り過ぎる女たちを見て、私も同じように豊かになれるのだと呟くでしょう。おお、そのようなことを言うのはおやめなさい。

それらの飾られた衣装の下に、どれだけの涙と語りきれない苦しみが隠されていることか、どれだけすすり泣く声がその騒がしい話し声にかき消されていることか。

あなたは自分の貧しさと慎ましい小屋の方がよほど好ましいと思うに違いありません。あなたを守る天使が、その白い羽の下に顔を隠しながら神の元へ戻って行ってほしくないなら、神の目にいつまでも純潔に映ることができるように自分を保ってください。

案内人がいなくなったことを後悔し、次の世界において罰を受けるのを待ちながら、道に迷ってこの世に何の支えもなしに残されるのが嫌なのであれば。

 そして、人間の不当さに苦しめられているあなたたちはみな、あなたの兄弟たちの過ちに対し、あなたたち自身も過ちから免れることはできないのだということを自分に言い聞かせ、彼らに対し寛大であってください。それは慈善の行為であり、慎ましさの証でもあります。もし中傷にあったなら、その試練の前に頭を下げてください。

この世の中における中傷が、あなたにとっていったいどんな意味を持つというのでしょう。あなたの行いが正しいのであれば、神によって報われるではありませんか。人の侮辱を勇気を持って耐えるということは、慎ましく生き、神のみが偉大で万能であることを理解することです。

 おお、神よ。彼らが忘れてしまったあなたの法を教えるために、再びキリストがこの世にあらわれることが必要なのでしょうか。
℘150
礼拝のためだけに存在する、あなたの家を汚しに寺院に集まる行商人たちを、キリストは又追い払わなければならないでしょうか。

誰に否定することができましょうか。ああ、人類よ。神がもしキリストの再来という許しをあなたたちに与えてくれたとしても、あなたたちは前回と同じようにキリストを棄て、キリストを冒涜者と呼んでいたかも知れません。

なぜなら、キリストは現在のファリサイ人たちの自尊心を辱めることになるからです。あなたたちは、再びキリストにゴルゴタへの道を歩ませることになるでしょう。

 モーゼが神の戒めを受けるためにシナイ山へ登って行ってしまっている間、イスラエルの民は自分たちだけになると、真なる神を棄て、男も女も持っていた宝石や金を、偶像を造るために捧げたのでした。あなたたち文明人は、その繰り返しを行っているのです。

キリストはその教義をあなたたちに伝えました。あなたたちにすべての美徳の模範を示したにもかかわらず、あなたたちは模範も規律も全て放棄してしまったのです。一人一人がその感情にかられ、望み通りの神を造り上げているのです。

ある者によればその神は恐ろしく残忍で、また別の者によれば地上の関心事に夢中になっています。あなたたちが造り上げた神とは、あなたたち一人一人の考えや趣味に合わせた金の子牛でしかないのです。

  兄弟たちよ、友よ、目を覚ましてください。霊たちの声があなたたちの心にこだましますように、見栄を張ることなく、寛大で、慈悲深くあってください。つまり、慎ましく善を行いなさないということです。自尊心を奉りあげた祭壇を、一人一人が少しづつ取り崩していくことができますように。

一言で言うならば、本当のキリスト教徒となり、真実の国を手に入れなさいということです。神の善意の証はこれほど多く存在するというのに、神の善意を疑い続けることは止めてください。

私たちは預言が実現する道のりを準備するために参りました。未来において神の寛大さがあなたたちの間に響き渡る時、神によって送られた使いたちは、あなたたちがすでに大きな家族を作り始めているのを見ることができるでしょう。あなたたちの優しく慎ましい心が、神のもたらしてくれる天の言葉を聞くにふさわしいものとなりますように。
℘151
選ばれた者たちの道のりには、善、慈善、同胞愛に返ることによってのみ敷かれる棕櫚(しゅろ)の葉を見ることができますように。そうすれば、あなたたちの世界は地上の楽園と化すことでしょう。

しかし、文明化され、科学が発達していながらも、気高い感覚に乏しい社会を革新し、浄化する為に送られてきた霊たちの声に対して、あなたたちが鈍感であり続けるのであれば、ああ、あなたたちにできることはもはや、その運を嘆き苦しみ、泣くことだけでしょう。

しかし、そうあってはなりません。あなたたちの父である神の方へ向き直ってください。神の意志を達成するために貢献してきた私たちすべてが、恩恵の賛美歌に調子を合わせ、尽きることの無い神の善意に感謝し、幾世期が経とうとも、神の栄光を讃えましょう。そうでありますように。 (ラコルデール コンスタンティーヌ、1863年)


十二、人類よ、なぜあなたたちは自分たちで頭の上に積み上げた災いに対して不平をいうのですか。キリストの聖なる神の道徳をあなたたちは軽んじているのです。だから非道がその杯からあらゆる方向へ溢れ出しても、驚いてはなりません。

 問題は広がっています。いつも自分たち同士でお互いをつぶし合おうとしているあなたたちを責めずにいったい、誰を責めればよいのでしょう。お互いの慈悲心なしには、あなたたちは幸せになることはできません。

しかし、慈悲心と自尊心がどう共存することが出来るでしょうか。自尊心とはあなたたちの悪の全ての根源です。自尊心がもたらす悲しい結果を長引かせたくないのであれば、それを打ち壊すことに精を出してください。

そのためにあなたたちが身を捧げる唯一の失敗することのない方法があります。キリストの法をあなたの行動の不変の規則とすることです。あなたたちが自分たちの勝手な解釈によって拒否したり、偽物にしてしまったあのキリストの法です。

 あなたたちはなぜ、心に訴えるものよりも目に輝いて映るものに重きを置かなければならないのですか。なぜ、裕福さの中にある不徳に媚び、卑しいものの中にある真なる価値のあるものを軽蔑するのですか。
℘152
肉体も魂も失ってしまった堕落した金持ちには、何処においてもあらゆる扉が開かれ、すべての関心が注がれる一方で、自分の仕事に精を出す真面目な人に対しては、あなたたちは勿体ぶり、挨拶さえもしようとしません。

他人への配慮が、その者のもつ金の量や、その者の使う名前によって計られるのであれば、彼らにとってその欠点を治すことに、何のおもしろみがあると言えるのでしょうか。

 もし、世の中の意見が、金をまとった者の不徳を、ぼろ服をまとった不徳と同じようにこらしめたとしたら、大きく違ってくるでしょう。しかし、自尊心は裕福な者の不徳に媚を売ることには寛大です。


現代は貪欲さと金の時代なのだ、と言われるでしょう。それは疑いようもありません。しかし、どうして物質的な関心に良心と理性を支配させてしまうのでしょうか。なぜ、みなが自分たちの兄弟よりも上に立とうとするのでしょうか。今日の社会はこうしたことがもたらす影響を受けています。

 そのような状態はいつも間違いなく道徳的堕落のしるしであることを忘れないでください。極端なまでに自尊心が膨らんでいることは、近く落ちぶれる兆候です。神は高慢な人間を罰しないことはありません。

神が彼らを持ち上げられることに同意する時は、彼らに熟考する時間を与え、注意を促すために時々訪れる、自尊心にうち響く出来事によって、自分を改めることができるようにするときです。

しかしその時、彼らは自分を辱めるよりも、反抗します。すると、杯は溢れ、神は完全にその者を高いところから降ろすのです。彼が自分を高く持ち上げていればいるほど、下落は彼にとって恐ろしいものとなります。

 エゴイズムによってすべての習慣を堕落させてしまった可哀想な人類よ、なによりもまず、改める勇気を出してください。神はその無限なる慈悲によって、あなたたちの欠点を治す強力な薬を送ってくれ、それは惨めな状態にあるあなたにとって、思いがけない救済となるでしょう。光に向けて目を開きなさい。そこには、もう地上には存在しない魂たちが、あなたを本当の任務につかせようと呼びに来てくれています。
℘153               
彼らは虚栄心や一時的な地上での生活における偉大さと言うものが、無限の世界の前にどれだけつまらないものであるかということを、彼らの持つ経験を通じて教えてくれるでしょう。地上で兄弟を最も強く愛した者は、天においても最も愛されることになるでしょう。

権威を濫用する地上の権力者は、自分の召使いたちに従わなければならないように下げられるでしょう。慎ましさと慈善の気持ちは手を取り合う姉妹のようなもので、永遠なる神の前に恵みを受けるための、最も有効な手段なのです。(アルジェの司教アドルフ マルマンド、1862年)



 地上における知性的な者の役割
十三、あなたの知識によって鼻を高くしてはなりません。あなたの知識とは、あなたの住む世界における非常に狭い範囲の中に限られたものなのです。この地球上で、あなたがその知性によって非常に重要な人物であったとしましょう。しかし、そうであったとしても、あなたはそのことによってうぬぼれる権利を持つわけではありません。

神がその意向により、あなたの知性を発達させることが出来る環境にあなたが生まれることを可能にしたのは、あなたがその知性をみなのために使うことを望んだからです。

あなたの手にはあなたが発展させることの出来る道具を与え、あなたの周りにはより遅れた知性の持ち主を送り、あなたが彼らを神の方向へ導くことが出来るようにすることによって、あなたに地上における任務を与えたのです。

与えられたその道具には、どのような使い方をするべきなのかが示されてはいませんか。庭師がその助手に鍬を手渡す時、それは土を耕せと示しているのではありませんか。その助手が仕事をする代わりに、その鍬を振り上げ、主人を傷つけようとしたら、あなたは何と言うでしょうか。恐ろしいことだ、その助手を解雇するべきだ、と言うでしょう。

兄弟たちの間において、神とその意志に関する考えを打ち崩すことにその知性を利用する者に対しても、同じことが言えるのではありませんか。土地を耕すために与えられた鍬を、主人に対して振り上げていることになりませんか。
℘154                
彼に約束された賃金をもらう権利があるでしょうか。それどころか、その庭から追放されるべきではないでしょうか。彼が全てを負っている神の前に頭を下げるようになるまで、疑いもなく、屈辱にあふれた惨めな人生を過ごさなければならないでしょう。

 知性には未来のためになる価値があふれています。ただし、それは正しく使われた場合です。もし人類すべてが神の意志に沿って知性を使うのであれば、霊たちにとって人類を進歩させる任務は容易に達成することが出来るでしょう。

しかし、悲しいことに、多くの者が自尊心を強め、知性を自分自身を破壊する道具にしてしまっています。人間は他の能力と同じように知性をも濫用します。しかし、知性を与えてくれた強力な神の手は、人類に与えたものを剥奪することができるのだということを教えてくれる出来事は、数えきれぬほど見ることができるはずです。(守護霊フェルディナン ボルドー、1862年)

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓

Guidance from Silver Birch(2-7) Edited by Anne Dooley 

七章 霊媒が入神している時


    入神中の霊媒をコントロールしているとき支配霊はどんな苦労をしているのだろうか。これから紹介するのは時おり催される〝質疑応答だけの交霊会〟の席でシルバーバーチが語ったことである。

 最初の質問は、出席者からの質問を聞いてそれに答えるときは霊媒の耳と口を使用しているのかということだった。


 「そうです。この霊媒に憑っているときは全ての点でこの霊媒自身になり切っております。潜在意識を活用して必要な部分を全部コントロールしております」


 「ということは、この霊媒に憑っている間は霊界との連絡は絶たれているということでしょうか」

 「そうではありません。うまくコントロールするコツ───やはりコツがあるのです───は霊媒を操りながら同時に霊界との連絡をいかにして維持するかという点にあります。一方で通信網を保ちながら、他方で情報の供給源との接触を維持しなければなりません。

 戦時中はその通信線が一、二本に制限されてしまったという話をしたことがあります。その意味は、この霊媒のコントロールに関する限り状態が非常に良くなかったので、通信網を一本また一本と断念しなければならなかったのです」

 「時おり〝また一本切れました〟とおっしゃってましたね」 

 「そうなのです。コントロールしている最中に邪魔が入ったのです。故意にやられる場合もあれば意図的でない場合もありますが、とにかく私は生命線の一本を失ったようなもので、修理班を派遣しておいてコントロールだけは維持しなければなりませんでした。

実に入り組んだ原理で行われており、電話で話をするのとは比べものにならないほど複雑です。電話の場合は少なくとも対話する人は同じ次元におります。私たちはまったく異なる次元で通信しなければならないのです。

 そういうわけで霊格の高い支配霊はある程度その本来の個性を犠牲にすることになります。と言いますのは、その本来の質の高い個性のままでは鈍重な地上界とは感応しませんので、調整のために波長を下げなければならないのです」


 次の質問は「入神中の霊媒は何か特殊な感じを覚えているのでしょうか」ということだった。
 「入神中は何の感覚もありません。入神の前と後にはありますが、入神中はありません。そのわけは、そもそも入神するということは周囲の出来ごとに無感覚になることを意味するからです。もちろん入神にも浅いもの、意識がぼんやりとする程度のものから完全に無意識になってしまうものまであります。

その完全な状態まで入神したら、まったく感覚が無くなります。そこまで至る初期の段階では住々にして何らかの感覚を覚えます。それは霊媒の意識が身体と連動して機能していないことによります。

 その時の感覚もさまざまです。外界の明るさを感じる人がいます。遠くまで行く、というよりは、行ったような気がする人もいます。自分の口で語られていることを遠くで聞いているような感じがする人もいます。実にいろいろです」


 別の交霊会ではこうも語っている。

 「私たちの仕事には二つの段階があります。第一は、これは非常に難しいことですが、私たちの仕事を地上に根づかせることです。これがいかに難しいか、皆さんにはお判りいただけないと思います。

物質の世界との直接の接触なしに影響力を行使する───純粋に精神のみの働きかけ、意念の集中、思念の投射を地上の一人の人間に向けて行います。本人はそれを無意識で受け、自分の考えのつもりで交霊会の行われている場所へ足を運びます。

 これは実に難しく、何年も何年も要します。私の場合はこの霊媒が生まれる前から準備を開始したほどです。その段階が終わると、第二の段階はさほど困難は伴いません。

すでに道具、霊媒、チャンネルが出来ているのですから、あとはそれを通じて言いたいことを述べるだけです。伝わり具合の問題がありますが、少なくとも磁気的なつながりができたわけで、それは容易に切れるものではありません。

 それをきっかけに霊的影響力をいくらでも増すことができます。言わば霊力の通風孔をどんどん大きくしていくことが出来るわけですが、唯一の限界は霊媒の受容力にあります。それが私たちの協力関係における制約となっております。とかく問題が生じても、全てその要因は私たちの方にあるのでなく、私たちが使用する道具にあります。

なぜ霊はこうしてくれないのか、ああしてくれないのか、とよく言われますが、それに対する答えは、霊媒という道具がそれを可能にしたり不可能にしたりしているということです。

 それはともかくとして、磁気的なつながりが出来あがってしまってからは、事がずっと簡単になります。私たちの世界を通して高い界からの霊力が地上へ届くようになるからです。人間の方から進んで内的自我を開発する意識に目覚めてくれれば、死の関門を通過するまで待たなくても、今すぐからその真の自我を発揮することになります。

 そうなると、時の経過とともに霊的な交わりがいっそう緊密に、豊かに、そして効果的になってまいります。そうなってからは、前もって計画されているさまざまな人たちを一堂に呼び集めることは、さほど難しくはありません。

こう申し上げるのは、今日ここにお集まりの方々が、一人の例外もなく、霊力を受けやすいこの場に導かれて来ていることを知っていただきたいからです。それを受けられたあなた方は、自分がそうしてもらったように他の人々へそれを伝達する手段となることができます。

 こうして、結局は最初に申し上げた話に戻ってきました───私に礼を述べないで下さいということです。皆さんが明日を思い煩うことなく人生を歩めるのは、皆さん自身がみずからの自由意志で、霊力の働きの範囲内に連れて来られる段階を踏んできたからこそなのです。

 皆さんの生活の中に霊的知識がもたらされたことを常によろこばなくてはいけません。それがさらに、地上世界の恩恵だけでなく、その背後にある、より大きな恩恵まで思いのままに受けさせてくれる霊的知覚の存在を認識させてくれます。

 あなた方は地上だけでなく私たちの世界からも愛を受けていること、血縁とは別の縁で結ばれている霊がいて、血縁同様にあなた方を愛し、能力の限り指導に当たってくれていることを喜ばなくてはいけません」

 そう述べてもなお古くからのメンバーが繰り返し感謝の言葉をシルバーバーチに向けると───

 「いえ、私への礼は無用です。このことは極力みなさまに判っていただきたいと願っていることです。私がそう申し上げるとき、決して口先だけの挨拶として言っているのではありません。皆さんは私を実際に見たことがありません。

この霊媒の身体を通して語る声としてしかご存知ないわけです。ですが私も実在の人間です。感じる能力、知る能力、愛する能力をもった実在の人間です。

 この仕事に携わる者の特権として私には幾つもの段階をへて送られてくる莫大な霊力を使用する手段が授けられております。必要とする人々へ分け与えるために使用することが私に許されているのです。私たちの世界こそ実在であり、あなた方の世界は実在ではありません。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことでしょう。

 あなた方は幻影の中で生きておられます。全て〝影〟なのです。光源はこちらの世界にあります。実質の世界です。こちらへ来て始めて生命とは何かということがお分かりになります。その真実味があまりに強烈であるために、かえってお伝えすることができないのです。

どうか、私のことをあなた方の兄貴だと思ってください。あなたを愛し、いつも側にいて、精一杯あなたを守り導きたいという願望をもって腐心している兄貴と思ってください。

 私はあなた方が気づいておられる以上にしばしばそれぞれのお家を訪れております。私に敬愛を覚えてくださっている家庭を私の地上での家庭であると思っているのです。状態がどうも良くないとき───地上での仕事にはよくそういう時があるのです───そんな時に敬愛に満ちたあなた方の光輝で温めてもらいに来ることができるということは大いなる慰安の源泉です。

 私たちは、やっていただいたことに対しては必ずそれなりの支払いを致します。いつもこう申し上げているのです───施しをする人は必ずそれ以上の施しをしてもらっており、差引勘定をすればいつも戴いたものの方が多くなっていると。施す者が施しを受けるというのが摂理なのです。

なぜなら、施しをしようとすることは魂の窓を開き、精神を広げ、心を大きくすることであり、その広くなったチャンネルを通して愛と導きと保護の力が流れ込むことになるからです。ですから、私に礼をおっしゃることはないのです。私がしていることは実に些細なことに過ぎないのですから」


 ここでメンバーの一人が第二次世界大戦中にシルバーバーチへの信頼心が大きな支えになったことを告げると、シルバーバーチは、

 「私のことを私の背後に控える大きな存在の表象、代弁者、代理人と思って下さい。その大きな力があなた方を包み、支え、その力があなた方を導いているのです。どこにいてもその知識を携え霊の世界との協力関係を確立した人は、イザという時にその豊かな力を呼び寄せることができます。

 皆さんのような方が怖れたり、取越苦労をしたり心配したり狼狽したりする必要はまったくありません。完璧な信仰は完璧な愛と同じく全ての恐怖心を追い払うものだからです。人間が恐れを抱くとまわりの大気を乱す波長を出し、それが援助しようとする霊を近づき難くします。

霊的な力が地上において本来の働きをするためには、静かで穏やかな確信───全ての恐怖心が消え、より大きな生命力と調和した光輝が漂い、何が起きようと必ず切り抜けられることを信じ切った、そういう確信が無ければなりません」

 「ですから、これまで成就出来たことは全てあなたのお蔭だと申し上げているのです」とメンバーの一人が言うと、心霊治療で救われた別の一人が、

 「ほんとに大きなお蔭をいただいたと感謝しております」と述べた。するとシルバーバーチが述べた。

 「確かにあなたの場合は格別に霊力の見事さを見せつけられた生き証人ということが出来るでしょう。といって私たちは盲目的な信仰、理性が同意できない信仰、不可能なことを要求し奇跡を期待するような信仰をお持ちなさいと言うつもりはありません。

現段階での人類は全ての知識を手に入れることは期待できません。一人一人の受容力と、能力と、霊的発達程度に応じただけの知識が授けられております。

 さて、その知識を人生哲学の基礎とすれば、これまでに受けた恩恵の大きさに艦みて、これからも背後に控える力があなた方を見離すはずはないとの〝信仰〟をもつことができます。

 ある程度は〝信じる〟ということがどうしても必要です。なぜなら全てを物的な言葉や尺度で表現することは出来ないからです。霊の世界の真相の全てを次元の異なる物質界に還元することは出来ないのです。

しかし、ある程度は出来ます。それを表現する能力を具えた道具(霊媒・霊覚者)が揃った分だけは出来ます。それを基礎として、他の部分は自分で合理的と判断したものを受け入れて行けばよいわけです。

 いつも申し上げているように、もしも私の言っていることが変だと思われたら、もしもそれがあなたの常識に反発を覚えさせたり、あなたの知性を侮辱するものであれば、どうか信じないでいただきたい。私がいかなる存在であるかについては、これまでにも必要なときに、そしてそれを可能にする条件が許す範囲で、明らかにしてきたつもりです。

それ以上のことは、あなたの得心がいくかぎりにおいて、あなたの私への信任にお任せします。ですが、これだけはぜひ申し上げておかなければなりません。

これまでを振り返ってご覧になれば、あなた方の生活の中に単なる偶然では説明のつかないものが数々あること、私ども霊団とのつながりができてからというものは、援助の確証が次々と得られていることを示す具体的例証を発見されるはずだということです。

 私は本日ここに集まっておられる方々の背後で活躍しているスピリットのあなた方への心遣いについて、いちいち申し上げようとは思いません。とても短い時間ではお話しできないでしょう。ですから、せめて次のことを素直に受け入れていただきたい。

すなわち背後霊はみなこうした機会を通じて皆さん方が愛の不滅性───こうして志を同じくする者が集まった時に心に湧き出る大いなる愛の情感は、墓場を最後に消えてしまうものではないということを改めて認識してほしいということです」

 そして最後に出席者全員にこう挨拶を述べた───「本日こうして皆さんとの交わりを通じて、私がいつも皆さんの身近にいることを改めて認識していただくことができたことを深く感謝いたします」

 すると一番古くからのメンバーが「私たち一同、とても大きな慰めをいただきました」と言うと、すかさずシルバーバーチは次のように述べて会を閉じた。

 「あなた方こそ私たち霊団にとって大いなる慰めです。どうかこれまでと変わらぬ堅固な意志をもって歩んでください。皆さんはすでに数々の困難を切り抜けて来られました。試練の炎が猛り狂ったこともありました。しかし一つの傷を負うこともなく、その中をくぐり抜けて来られました。

恐怖心を抱いてはいけません。これは私が繰り返し繰り返し述べているメッセージです。あなた方を支援する力はこれから先も決して見棄てることはありません。

無限の力が何時もご自分の身のまわりにあり、愛によって導かれ、必要な時はいつでも無限の叡知に与(あずか)ることができるとの認識をもって、恐れることなく、不安に思うことなく、まっすぐに突き進んでください。

皆さんも私たちも、世界を愛と美と寛容心と同情心と正義と慈悲の心で満たしたいとの願いの元に手をつなぎ合っている神の僕です。その神の御力を少しでも遠く広く及ぼすことができるよう、心を大きく開こうではありませんか。その御力の感動、その確証、その温かさを自覚できる人は大勢いるのです。

 こうして神の使者として、みずからの生きざまを通して、私たちこそ神の御心に適った存在であり、その御心が私たちの行為の全てに反映していることを示す機会を与えていただいたことを素直によろこぼうではありませんか」

Sunday, September 28, 2025

シアトルの秋  「スピリティズムによる福音」     アラン・カルデック著

  The Gospel According to Spiritism: Allan Kardec (Author),

第6章 救い主キリスト



  軽いくびき 

一、苦しむ者、重荷を負っていると思う者は、みな私のところへ来なさい。私があなたたちの苦しみを和らげてあげます。私のくびきを負い、私が心優しく、へりくだっているのだということを学びなさい。そうすれば、あなたたちの魂は休まることができるでしょう。なぜなら、私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。(マタイ 第十一章 28-30)


二、キリストが人類に教えてくれた通り、貧困、落胆、肉体的苦痛、愛する者の死など、全ての苦しみの慰めは、未来を確信し、神の正義を信じることによって受けることができます。

反対に、この人生の向こう側には何も期待せず、あるいはそれに疑問を持っている者の苦しみは、そうした者の上に重くのしかかってくることになり、その苦しさを和らげる望みは一切なくなってしまいます。このことが「疲れた者は私のところへ来なさい。私が疲れを和らげてあげます」とイエスに言わせたのでした。

 しかし、イエスは、イエスの救援と苦しむ者が幸せを約束されるための条件を決めています。その条件とは、イエスが教えてくれた神の法そのものです。イエスのくびきとはこの法を守ることです。しかし、そのくびきは軽く、その法はやさしいのです。なぜなら、その法は愛と慈善の実践を義務とする法だからです。


  約束された救い主 
三、もしあなたたちが私を愛するなら、あなたたちは私の戒めを守るべきです。私は父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の救い主をあなたたちにお与えになります。その救い主が何時までもあなたたちとともにおられるためにです。その方は真実の霊です。

世はその方を受け入れることができません。世はその方を見ようともせず、知ろうともしないからです。しかし、あなたたちはその方を知っています。その方はあなたたちとともにおり、あなたたちの内におられるからです。(ヨハネ 第十四章 15,17)

 しかし、救い主、すなわち、父が私の名によってお遣しになる聖霊は、あなたたちにすべてのことを教え、また、私があなたたちに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ 第十四章 26) 


四、イエスはもう一人の救い主の出現を約束しています。それは、当時の世界がまだ知ることのできなかった真実の霊です。世界はそのことを理解するにはまだ未熟であったのです。神はすべてのことを教え、キリストが述べたことを思いださせるため、真実の霊を送るのです。

真実の霊が、後になってすべてを教えるために現れるということは、イエスはすべてを教えることができなかったことになります。キリストが述べたことを思いださせるために出現するということは、イエスの教えが忘れ去られてしまったか、あるいは間違って理解されてしまったからです。

 スピリティズムは決められた時代にキリストの約束を守るために現れました。真実の霊がその確立を指導しています。彼は人間に法を守ることを呼び掛けています。キリストがたとえ話でしか話さなかったことを理解できるよう、全てを教えてくれています。

キリストは「聞く耳を持つ者が聞きなさい」と言いました。スピリティズムは目や耳を開くために現れました。なぜなら、スピリティズムは偶像や装飾を通じて話すのではないからです。

意図的にベールで覆われた神秘の謎を解き明かしてくれ、地上で見放された者や苦しむ者すべてに、すべての苦しみには正当なる理由と有益な目的があることを示すことによって、最高の慰安をもたらしてくれるのです。

 キリストは「苦しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」といいました。しかし、なぜ苦しまなければいけないかを知らされずに、どうして苦しむことにより幸せになることが出来るでしょうか。スピリティズムは、その理由が過去の人生と、人類が過去の償いを行う場所としての地球自体の行方の中に存在するということを明らかにしています。

また苦しみの目的とは、療法となる有益な手段となり、未来の人生における幸せを得るための浄化の手段となることであると示しています。人間は自分が苦しむに値することを理解し、苦しみを正当であると認めることができるようになります。

その苦しみが自分の進歩を助けることを知っているので、報酬を約束された労働に取り掛かる者のように、不満をこぼすことなく苦しみを受け入れることが出来るのです。スピリティズムは、未来に対する揺らぐことの無い確信を人間に与え、それによってその魂からは疑いの余地さえ失われてしまいます。

人間に物事を高い視点から見下すことを教えてくれ、地上での盛衰の重要性など、スピリティズムの示す光輝く広い地平線の彼方に消え去ってしまうのです。そして未来に待つ幸せへの希望は、道を最後まで歩み続けるための忍耐、甘受の気持ち、勇気を人間に与えてくれるのです。

 このように、人間がどこから来て、どこへ向かい、そしてなぜ地球上に生まれたのか教え、真なる神の法の原理を思いださせ、信仰と希望による慰安を与えてくれることによって、スピリティズムはイエスが約束した救い主を現実のものとしてくれるのです。





  霊たちからの指導
 
  真実の霊の出現
五、かつて道に迷えるイスラエルの民に真実をもたらし、闇を払おうとしたときと同じように、私はやってまいりました。私の言うことを聞いてください。

私の言葉が過去においてそうしたように、スピリティズムは無神論者たちに、彼らの頭上には普遍の真実、すなわち、草花を芽生えさせ、波を起こす善なる神、偉大なる神が君臨しているのだということを教えなければなりません。

私は神の教義を示し、また、それを収穫する者として、人間に散らばった善を束にまとめ、「苦しむ者よ、私のところへお出でなさい」と申したのです。

 しかし、恩知らずな人たちは、私の父の君臨する国へつながる広く真っ直ぐ延びる道から外れ、険しい不信仰の小道に迷ってしまったのです。私の父は、人類を全滅させようとしているのではありません。

父はあなたたちが、生きる者も死ぬ者もお互いに助け合い、救い合うことを望んでいるのです。死ぬ者とは、肉体の死んでしまった者のことです。なぜなら死は存在しないからです。そして、預言者や伝道者に耳を傾けるのではなく、地上にもはや存在しない者たちがこう叫ぶ声を聞いてください。

「祈り、信じなさい。死とは生き返ることです。人生とは選択された試練なのです。その試練の中であなたたちの耕す美徳というものが、杉の木が伸びるように育ち、発展するのです」

 弱く、自分の知性の闇を知っている者は、温厚なる神が手渡してくれた灯を遠ざけてはいけません。その灯はあなたの道を照らし、迷える子供たちをその父親の懐へ導いてくれるのです。

 あなたたちの惨めさや、また、天国を見上げながら過ちのどん底に落ち、道に迷ってしまった不幸な者たちに手を差し伸べようともしないあなたたちのあまりの弱さに、私は深い同情を抱いています。

あなたたちの目の前で明らかにされることを信じ、愛し、熟考してください。良い種と悪い種とを混ぜてはいけません。夢想と現実とを取り違えてはいけません。

 スピリティズムを学ぶ者よ、お互いに愛し合いなさい。これが最初の教えです。自分を教育しなさい。これが第二の教えです。全ての真実がキリストの教えの中に存在します。

キリスト教の中に根付いてしまった誤りは、全て人類が生みだしたものなのです。ですから、あなたたちが何も存在しないと考えていた墓の向こうから、あなたたちに向かって訴えてくるのです。「兄弟たちよ、何事も消滅するものはないのです。イエスキリストはすべての悪に打ち勝ったのです。あなたたちは、不信仰に打ち勝たねばならないのです」と。(真実の霊 パリ、1860年)

℘136          
六、私は、可哀想な、見捨てられた貧しい者たちを慰め、教えるために参りました。あなたたちの甘受の気持ちを試練のレベルまで引き上げよと伝えにきたのです。あなたたちの痛みはオリーブの園にて神聖なものとされたのですから泣いてもよいのです。

泣いて待てば良いのです。慰安のための天使たちが、あなたの涙を拭きに来てくれるからです。

 働く者たちよ、あなたの道のりを計画してください。前日の厳しい道のりを、再びその次の日も歩み続けてください。あなたたちの手によってなされる労働は、あなたたちの肉体に地上の糧を与えてくれます。しかし、あなたたちの魂も忘れられてはいません。

なぜなら神聖なる庭師である私は、あなたたちの思考の静まっている時、あなたたちの魂の手入れを行っているからです。あなたたちの休む時間がやってきてその日の日課から解放され、目をその日の光に対して閉じた時、私の蒔く貴重な種があなたの中で芽生えるのを感じ取ることができるでしょう。

 私たちの父の国では、何も失われるものはありません。あなたたちの汗、あなたたちの苦しみは、より進んだ世界においてあなたたちを豊かにしてくれる宝となるのです。その世界では、光が闇にとって代わり、あなたたちの中で最も質素な者がきっと最も輝かしくなるでしょう。(真実の霊 パリ 1861年)

 誠に言います。自分たちの重荷を背負い、その兄弟たちを助ける者たちこそが私の愛する者たちです。反抗による過ちを消し、人間の試練の崇高なる目的を教えてくれる貴重な教義をもって自分自身を教育してください。

風が吹いて埃を追い払うように、霊たちの一吹きによって地上の富を得た者たちに対するあなたたちの羨みが吹き飛ばされて行きますように。

地上の富を得た者たちとは、たいていもっとも惨めな者たちであるのです。なぜなら、彼らの試練はあなたたちの試練に比べて、より危険であるからです。私はあなたたちと共にあります。私の使徒たちはあなたたちに教えます。

愛の生きた泉に愛を求めてください。人生に拘束された者たちよ、あなたたちの完成のためにあなたたちを弱く造られた者のもとへ、いつの日か、自由と喜びを持って向かっていくことができるよう、その準備をしてください。

造形しやすい粘土を自分たちの手で形作り、自ら不滅の自分を創り上げることを神は望まれているのです。(真実の霊 パリ 1861年)

℘137       
七、私は魂の医者です。あなたたちを必ず治すことのできる薬をもってきました。弱い者、苦しむ者、病にかかった者は私の特に愛する子供たちであり、私は彼らを救いに来たのです。私の許においでなさい。苦しみ、悩むあなたたちは皆、慰められ、楽になることが出来るのです。別の場所に力と慰めを求めてはなりません。

なぜなら、この地上の世界ではそれを与えることが出来ないからです。神はスピリティズムを通じて、あなた達の心に最高の救いを投げかけてくれるのです。耳を傾けてください。無慈悲、偽り、誤ち、不信心があなたたちの痛ましい心から根絶されますように。

こうしたものこそがあなたたちの血液の純粋な部分を吸い上げ、あなたたちをほとんど死にまで至らせる傷を負わせる怪物なのです。未来において、創造主に慎ましく服従することできるように、神の法を実践してください。

愛し、祈ってください。主より送られてくる霊たちの教えを、素直に受け止めることができますように。神を心の底から叫んでください。そうすれば、主はあなたたちに素晴らしい言葉を伝え、教授してくれる、神の愛する子を送ってくれるでしょう。私はここにいます。あなたたちが私を呼んだので、私はここにいるのです。 (真実の霊 ポルドー 1861年)


八、神は慎ましい者たちを慰め、神の力を嘆願する苦しむ者たちに力を与えます。神の力は地球上のすべての場所に及び、流される一つ一つの涙のそばには慰安の薬を用意してくれています。自己を犠牲にし、献身して生きるということは、途絶えることなく祈っているようなものであり、そこには深い教えが含まれています。

人類の知恵はこの二つの言葉の中に生きているのです。痛みや道徳的な苦しみに対し、不平を訴えるのではなく、それらが地上で生きるために与えられたわけ前であるという真実を、苦しむ霊たちが理解することができますように。

献身と自己犠牲──これらの二つの言葉を標語として掲げ、強く生きてください。なぜならこれらの言葉には、慈善と慎ましさを実践するために必要な全ての義務が込められているからです。

義務を果たすことができた時の達成感は、あなたたちの心に平安と甘受の気持ちを与えてくれます。心臓はよりよく響き、魂は落ち着き、肉体は衰弱しなくなります。だから、霊が深く痛めつけられるほど、肉体は同じように苦しむのです。 (真実の霊 ルアーブル 1863年)

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓

 Guidance from Silver Birch(2-6) Edited by Anne Dooley 

六章 霊媒現象の原理


    ある日シルバーバーチのファンから寄せられた手紙に幾つかの質問が列記してあった。その質問とシルバーバーチの回答を紹介する。


質問 ㈠ ──霊媒というのは心霊能力のバッテリーを所有している人で、それが現象を起こさせるのでしょうか。

 「バッテリーと呼ぶのはどうかと思います。霊媒とは霊の世界を感識する能力を具えた人で、地上にあって霊的身体の能力を使用し、その結果として霊界のバイブレーションに合わせることが出来る人です。

 文字からも分かるように霊媒は一つの媒体であり道具であり中継者です。その機能が果たせるのは心霊的能力が発達しているからです。すぐ表面近くに存在するために作用するのが容易なのです。

 そこで当然、では心霊能力とは何か、霊の力とは何かという問題が出てきます。しかしこれはとても説明が困難です。霊的実在を表現する用語を見つけるのが容易でないからです。

 大ざっぱに言えば霊力とは生命力であると言えます。本質的にはありとあらゆる意識的活動を生み出すところのものと同じです。宇宙を支えている創造的エネルギーと同じものです。程度こそ違え、質においては同類に属します」


質問㈡ ──心霊能力はどうすれば身につけることができるのでしょうか。

 「心霊能力は何か持ち物を手に入れるような具合に自分の所有物とするのではありません。心霊能力が働くその通路となるということです。心霊能力は例外なく(潜在的に)全ての人間に宿されております。それは肉体を去ったのちの生活で自我を表現するための手段です。それを未発達の状態で所有しているのです。ふだん一般の人は使用していませんが、霊媒が使用して見せているわけです。

 と言っても、各自の能力がみな一様に同じ発達段階にあるわけではありません。潜在意識の表面まで来ている人は霊媒になろうと思えばなれます。霊視能力というのは霊体の目で見ることであり、霊聴能力というのは霊体の耳で聞くことです」


質問㈢ ──治病能力は心霊的エネルギーとは別のものでしょうか。

 「使用されるものは全て心霊的エネルギーですから、治病能力だけ別のものということはありませんが、数ある特質の一つであることは確かです。生命の根源はいかなる物的探求によっても捉えることは出来ません。地上の科学者の誰一人として、その根源、意識の起源を突き止めた人はいません。最高の頭脳をもってしても尚突き止められない神秘なのです。

 実を言えば霊こそ生命であり、又生命こそ霊なのです。地上界、霊界、宇宙のあらゆる世界におけるエネルギー、原動力、駆動力はその〝霊〟なのです。生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。

 皆さんが地上生活を営めるのは霊的存在だからです。もし肉体から霊的本質が撤退してしまったら、物質界はまったく感識できなくなります。人間は毎晩死んでいるようなものだと言われますが、再びその身体に戻って来れるのは〝生命の糸〟(※)によって繋がっているからです。

睡眠中に万一切れるようなことがあったら、生命力は二度とその身体に活力を与えることができなくなります。(※日本では古くから〝霊の緒(たまのお)〟〝魂の緒〟〝玉の緒〟という字を当てて生命そのものの代名詞としても用いている。霊視すると銀色に輝いてみえるところから西洋では〝銀色の紐〟(シルバーコード)と呼ぶこともあるー訳者)

 肉体は霊の力によって動かされている機械です。あなたは肉体ではありません。地上にいる間だけその肉体に宿って自我を表現している〝霊〟なのです。肉体の用事が終われば霊は去っていきます。

 霊は無限の可能性を秘めていますから、その表現形態もまた無限です。これでおしまいという限界が無いのです。霊そのものに限界が無いからです。肉体器官を通して表現しているものの中で人間が馴染んでいるものとしては、考える、推理する、判断する、決断する、反省する、考察する、調査する、熟考するといった知的能力と、見たり聞いたり感じたり動いたり触れたりする感覚的能力があげられます。これらは肉体を通して自我を表現している霊の属性の一部です。

 肉体という制約から解き放たれると、霊はさらに広範囲の表現形態を通じて自我を表現することが可能になります。霊媒、すなわち霊界からの影響力を感識してそれを地上で再現することの出来る人をみれば、それがどの程度のものであるかが、ある程度まで判るでしょう。 

 どれほど多くのものを再現できるか、その質、その高さがどの程度のものになるかは、その霊媒の感受性一つに掛かっており、その感受性は他の要素すなわち心霊能力のその時の状態、霊的進化の程度、健康状態、天候、それに列席者の協力いかんに掛かっています。

 霊媒を通して霊的威力をさまざまな形で地上にもたらすことが出来ます。その時、物理法則とは別個の法則に従います。一見すると物理法則と矛盾しているかに思えますが、本質的には矛盾していません。

 治病能力というのはその霊的エネルギーの一つなのです。生命力の一部であるそのエネルギーを地上に作用させるのです。これにもいくつかの種類があります。そういうわけで、ご質問に対する答えは、簡単に言えば、治病力も霊の一部、一つの側面ということになります」

質問㈣ ──心霊能力は進化のある一定の段階まで到達すると自然に発揮されるのでしょうか。言いかえれば、人間はみな進化のある段階まで来ると超能力者になっていくのでしょうか。

 「答は〝イエス〟です。なぜならば人類の進化は潜在している資質を高めることに他ならないからです。ヒトは身体的進化はすでに頂点にまで達しております。次は精神的進化と霊的進化です。長い年月をかけて徐々に全人類が自己の心霊能力にますます目覚めていくことでしょう。

 しかし、ここで〝ただし書き〟が必要です。心霊能力を発揮するようになることが必ずしも霊的進化の程度の指標とはならないということです。霊的身体の持つ能力を全部発揮しても、魂そのものは少しも進化していないということも有り得ます。

本当の意味で霊的に進化し始めるのは、人のために役立つ仕事を目的として、霊界のスピリットの協力を得ながら心霊能力を開発した時です」

    ※         ※         ※

 別の日の交霊会にある有能な女性霊媒がご主人とともに出席した。この人は病気のために霊媒としての仕事をしばらく休んでおり、一日も早く再開したいと望んでいる。この方へのシルバーバーチのアドバイスには霊能者はもとより、これから霊能を開発したいと望んでいる人にとっても為になることが多いので紹介しておこう。まずシルバーバーチがこう挨拶した。

 「何年たっても霊的真理への忠誠心が少しも曇ることのない古い同志をお迎えすることは嬉しい限りです」

 「病気をしてからというもの、私は何だか背後霊との連絡が〝遮断〟されたみたいなのです。私の唯一の望みは人のお役に立つことなのですが・・・」

 「そのうち道が開けます。あなたにとって霊界の存在は他の多くの人々よりはるかに実感があります。霊界の驚異、よろこび、美しさ、光輝を数多く見てこられているので、もはやその実在は人には説明できないほどのものとなっております」


 「確かに実感をもって認識しているのですが、何かひとこと、背後霊からの導きの言葉が欲しくて仕方がないのです」

 「どの霊媒の場合も同じですが、霊能の行使が身体に害を及ぼすとみた場合は遮断せざるを得ないのです。それはあなたも理解出来るでしょう。本来の健康状態でない時は霊力が一時的に引っ込められることがあることを予期しなければなりません。でも、あなたはすでに苦難の時期を脱しておられます。

 これまで永い間あなたは霊界と交わって来られましたが、その間一度たりとも霊の影響範囲から迷い出られたことはありません。実はこれには非常に難しい問題が含まれております──例の自由意志の問題です。霊によるインスピレーションと指導とが、常にあなたの自由を犯しているのです。と言っても、すべては相対的な問題にすぎませんが・・・・・・

 あなたが今日あるのはその霊界との交わりの結果です。あなたはまさに協調の人生を送っておられます。あなたには自分一人の生活というものが無い。それは霊の方も同じです。その協調の仕事が始まった時から、厳密な意味での自由意志というものは存在していません。

なぜならば二つの世界の影響力が混じり合い、融合し、協調し合って、言わば互いに侵し合っているのです。そういう次第ですから、あなた一人が心配なさることはないのです。たとえ直接のメッセージは届かなくても、これまでに身につけられた知識を逸脱するようなことは決して生じないとの信念で、着実に歩まれることです」

 「よく判ります。冷静さを保ち、メッセージがないことを気にせず、ひたすら前向きに進めとおっしゃるのでしょうけど、私はいつも何か確証を求めるのです。いけないことかも知れませんが、用心の上にも用心をするに越したことはないと思うのです」

 「でも、今のあなたには心配なさることは何一つありませんよ。結婚なさってからというもの、お二人はずっと霊の世界から導かれています。これまでたどってきた道を振り返ってご覧になれば、常に導きを受けておられることがお判りになるでしょう。

 霊界からの導きによって全ての悩みが消えてしまうとか、足元の石ころがぜんぶ取り除かれると言っているのではありません。霊界の援助を得て事にのぞめば、あなた方お二人にとって大きすぎて解決できないような問題は決して生じないと言っているのです。

 振り返ってごらんになれば、霊の指先が道を指示してくれていることがお判りになるはずです。それが歴然としているものもあれば、あまりはっきりと認識できないものもありますが、常に進むべき道を指し示しております。難問で四方を取り囲まれていた時でも、結局は無キズのまま平然と切り抜けて来られ、一度も挫折したことはありません。

 これまでの長い年月を霊界で過ごして来た私は、地上の同胞を導く仕事に携わるスピリットが採用するさまざまな手段を知るところとなりました。それで判ったことは、それには一つの型(パターン)があり、私どもに協力してくださるスピリットの全てがそれに当てはめられているということです。そのパターンは仕事を開始するに先立って、きちんと取り決められます。

 手を差しのべてよい範囲があり、出しゃばってはならない限界があり、しゃべってはならない時があり、今こそしゃべる時があり、それに加えて必ず、その時どきの環境条件による制約があります。しかしそのパターンは厳然としており、指導に当たるスピリットはすべからくそのパターンに従わなくてはなりません。

前もってそういう取り決めがしてあるからです。私も、私よりはるかに霊格の高い霊団によって計画されたワクの外に出ることは許されません。そもそも地上で成就すべきものと判断を下した、もしくは計画したのは、その高級霊団だからです」

 「それはどういう霊ですか」とご主人が尋ねた。

 「光り輝く存在、高等審議会、神庁、天使団───どう呼ばれても結構です。要するに私どものする全仕事に対して責任をもつ、進化せる高級霊の集団です。私にはもうすぐその方たちとお会いする喜びが待ちうけております。

その時まず私の方からそれまでの成果をご報告申し上げ、同時に、私がどの程度まで成功しどの点において失敗しているかについて言い渡され、それによってこれから先の私の為すべきことを判断することになるのです。

 その霊団の上にはさらに高級な霊団が控え、その上にも又さらに高級な霊団が控えており、連綿として事実上無限に繋がっているのです。

 さて、(先ほどの説明に戻って)こうした指導体制は私たちに協力して下さる人々すべてに当てはまります。断言しますが、この仕事に携わるに至るまでの厳しい試練を潜り抜けた人が生活に困ったり、見捨てられたり裏切られたり、スピリットに対して抱いていた信頼心が挫けたり確信を失ったりすることは決してありません。

 それは絶対に有り得ないことです。そうした地上の協力者を通じて働いているスピリットを背後から指揮している力は、人間を悩ませる程度の試練や困難を乗り越えさせるくらいのことは何でもないことだからです。

ただし、そうした際に最も大切なのは〝確信〟です。背後の力に対する不動の確信───日常生活にとって必要なものは必ず授けてくださるという静かな確信です」

 ここでその女性霊媒から出た最初の質問に戻ってシルバーバーチが「あなたは、霊界からのインスピレーションではなくて自分の考えを述べているに過ぎないかも知れないと心配なさっておられるわけですか」と聞くと

 「それに、もっとお役に立てないものかと思って・・・」

 「あなたの使命はまだまだ終わってませんよ。授かっている能力がこれからも人のために、援助と指導と勇気を与えるために使用され続けることでしょう。まだまだお仕事は残っております。終わってはいません。

 許されるものなら、あなたの支配霊について、その方が霊界でいかに大きな存在であるか、これまでの体験でいかに崇高な資質を身につけておられるかをお伝えしたいと思うのですが、残念ながら許されておりません。

ただし、これだけは言えます。地上へ戻ってくる霊の中であなたの支配霊ほどの高級な霊はそう多くはいないということです。その霊格、その功績に対して私たちは崇高の念を禁じ得ません。

 実に偉大なる霊です。それほどの霊の愛と信頼を得たことをあなたは誇りに思わなくてはいけません。もうしばらく待たれれば再び霊媒能力を使用することができるでしょう。その時、前よりも一段と強力なものとなっていることを知られるはずです」

 この日の交霊界はクリスマスシーズンに入る直前のもので、毎年このあとしばらく交霊会は休会となる。シルバーバーチは最後にメンバー全員にこう挨拶した。


 「大きな困難の時に当たって私に示された敬愛の念に対して深く感謝いたします。あなた方の不断の忠誠心が常に私に誇りを持たせ、それに応えるべく私に為し得るかぎりのことをさせていただいたつもりです。

 これまでの協調の仕事ぶりは実に見事でありました。お互いがお互いに対して抱いている信頼感を損なうようなことは誰一人として行わなかったことが、その何よりの証です。

私は、私に向けて下さる敬愛の念をいつも嬉しく思っております。それが仕事をやり易くしてくれました。自分の携わっている仕事によって心の支えを得られた人たちが情愛を向けてくださっているのだと思えば自然とそうなるのです

 どうか私たちが誇りに思っている霊的知識は、それを知らずにいる人々にも分け与えてあげなければならないものであることを忘れないように致しましょう。私たちが手を伸ばすべき分野がまだまだあること、人生に疲れ果て、生きる希望も頼りとすべきものもなく、慰めと光を求めている人が無数にいることを忘れないように致しましょう。

 そういう人々のうちの幾人かは私たちが心の支えとなってあげ、日々の生活の中に確信を───人生を生き甲斐あるものにする確信をもたらしてあげることができます。

 人生を嘆き、慰めとなるものを未だに見出し得ず、心は悲しみに溢れ、目に涙を溜めている無数の人々のことを忘れないように致しましょう。

 病を得ている人がいること、その多くは霊の力によって治してあげることができることを忘れず、神の子が一人でも多く父なる神の愛と叡知に目覚めるように、こうした霊的知識の普及に努力いたしましょう。

 では、またお会いする日まで。私はいつも愛の心を携えて訪れ、愛の心を携えて帰ってまいります」

Saturday, September 27, 2025

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓

 Guidance from Silver Birch(2-5) Edited by Anne Dooley 
五章 映画女優と語る


 シルバーバーチの交霊会を訪れる著名人の顔ぶれは実に多彩であるが、本章で紹介するのはその中でも特異な人物の部類に入るであろう。招待されたのは無声映画時代に〝世界の恋人〟と呼ばれて人気を博した米国の女優メアリ・ピックフォードで、司会のハンネン・スワッハー氏もそれを記事に書いて心霊紙に発表した。それをそのまま転載する。

 ※         ※        ※

 映画でも演劇でも芸術作品でも、それが真実を表現し、大勢の人々の心に触れるものをもっておれば、霊界からみれば実に大きな存在価値を持つものであることは、これまでシルバーバーチが各界で活躍している人々を招待した時にたびたび強調していることであるが、このたびも又、そのことを改めて確認することになった。
 以下は先日の交霊会の速記録からの興味深い箇所の抜粋である。


シルバーバーチ「さて、海を渡って(米国から)お出でくださったお客さんに申し上げましょう。今日ここに出席しておられる方々があなたの大ファンであること、またいわゆる死の彼方にいる人たちからも守られていることを、あなたはずっと感じとってこられたことはご存知と思いますが、いかがですか」

 ピッグフォード「よく存じております」

 シ「その愛、その導きがあなたの人生において厳然たる事実であったことを、あなたは何度も何度も体験しておられます。窮地におちいり、どちらへ向かうべきかが判らずに迷っていた時、はっきりとした形で霊の導きがあり、あなたは迷うことなくそれに従われました。お判りでしょうか」

 ピ「おっしゃる通りです」

 シ「ですが、実際には情愛によって結ばれた大勢の人々の愛を、これまで意識された以上に、もっともっと受けておられるのです。もしその全てが認識が出来たら、あなたのこれまでの生涯が勿体ないほどの導きを受けていることが判るでしょう。

もしもこの地上生活であなたに託された使命の全てを一度に見せられていたら、とても成就出来ないと思われたことでしょう。それほどのものが、右足を一歩、左足を一歩と、着実に歩んで来られたからこそ今日まで維持できたのです。

 ある程度はご存知でもまだ全てはご存知ないと思いますが、私たちの世界───あなた方の世界から移住してくる霊の住む世界から見ると、真実の宗教は人のために役立つこと、これしかないことが判ります。無私の善行は霊の通貨なのです。

 すなわち人のために精一杯の努力をする人は、その誠意によって引きつけられる別の人によってそのお返しを受けるのです。これまでの人生であなたは大勢の人々の生活に幸せと理解力と知識とをもたらしましたが、その分だけあなたは地上の人だけでなく、はるか昔に地上を去り、その後の生活で身につけた叡智をあなたを通じて地上にもたらさんと願う光り輝く霊も引き寄せております。私の言っていることがお判りでしょうか」

 ピ「はい、よく判ります」

 シ「こちらの世界ではあなたの存在を大使(アンバサダー)の一人と考えております。つまり一個の仲介者、大勢の人間との間を取り持つ手段というわけです。目に見えない世界の実在という素朴な福音をあなたは熱心に説いてこられました。これまで物的障害が再三にわたって取り除かれ首尾よく前進できたのも、あなたのそうした心掛けがあったからです。

 そこで、私から良いことをお教えしましょう。あなたは遠からず、これまでのそうしたご苦労に有終の美を飾られる───栄誉を給わり、人生の絶頂期を迎えられるということです。あなたの望まれたことが、これからいよいよその結実をみることになります」

ここで、私(スワッハー)が出席する会には必ず出現するノースクリッフ卿(※)がシルバーバーチと入れ替わってピックフォードに挨拶を述べた。

私は直接は知らないが、ピックフォードが夫君のフェアバンクスと連れだって初めてロンドンを訪れた時、フアンの群れでどこへ行ってももみくちゃにされるので、ノースクリッフがひそかに二人を私邸に泊めたという経緯があるのである。

(※英国の有名な新聞経営者で、デイリーメール紙の創刊者、死後スワッハーがよく出席したデニス・ブラッドレーの交霊会に出現し、スワッハーがその記録を『ノースクリッフの帰還』と題して出版、大反響を呼んだ──訳者)

 そのあと、かつての夫君フェアバンクスが出現して二人の結婚生活の不幸な結末を残念に思っていることを述べた。が、その件についてはそれ以上深入りしないでおこう。とにかくそれを聞いてピックフオードがシルバーバーチにこう述べた。

 ピ「私はかつて地上の人間にも他界した方にも恨みを抱いたことは一度もありません。恨みに思ったのは過ちを犯した時の自分に対してだけです」
 シ「ご自分のことをそうダメな人間のようにお考えになってはいけません。今もしあなたの人生の〝元帳〟を整理することが出来たら、いわゆる〝過ち〟といえるほどのものは、無私の行いや善行に比べて至って少ないことがお分かりになるはずです。多くの人々のどれほど良いことをしてこられたかは、こちらへお出になるまではお判りにならないでしょう。

 あなたは数え切れないほどの人々に愉しみを与えて来られました。しばしの間でも悲しみを忘れさせ、心の悩みや痛みを忘れさせ、トラブルやストレスを忘れさせ、人生のあらしを忘れさせてあげました。あなた自身の願望から、あなたなりの方法で人のために役立ってこられました。人のために役立つことが一番大事なのです。

 他の全てのものが忘れ去られ、あるいは剥ぎ取られ、財産が失われ権力が朽ち、地位も生まれも効力を失い、宗教的教義が灰燼に帰したあとも、無私の人生によって培われた性格だけはいつまでも残り続けます。私の目に映るのは身体を通して光り輝くその性格です。

私は幾許かの善行を重ねた魂にお会いできることを大きな喜びとしております。以上があなたがみずから〝過ち〟とおっしゃったのを聞いて私が思ったことです。あなたは何一つ恐れるには及びません。真一文字に進まれればよろしい。あなたも素直なところをお聞きになりたいでしょう?」


 ピ「ええ」

 シ「あなたは大金を稼ぐのは趣味ではなさそうですね。あなたの願望は出来る限りの善行を施すことのようです。違いますか」

 ピ「おっしゃる通りです」

 シ「その奇特な心がけがそれなりの報酬をもたらすのです。自動的にです。その目的はとどのつまりはあなたに確信を与えるということにあります。何一つ恐れるものはないということです。心に恐怖心を宿してはいけません。恐怖心はバイブレーションを乱します。バイブレーションのことはご存知でしょう?」

 ピ「ええ、少しは存じております」

 シ「恐怖心は霊気を乱します。あなたの心が限りない、そして弛むことのない確信に満ちていれば、霊的真理を手にしたがゆえの不屈の決意に燃えていれば、この無常の地上においてその心だけは決して失意を味わう事はありません。

 物質界に起きるいかなる出来ごとも真のあなた、不滅で無限で永遠のあなたに致命的な影響を及ぼすことはできません。あなたは、背後にあってあなたを導き支えている力が宇宙最大の力であること、あなたを神の計画の推進のための道具として使用し、その愛と叡智と真理と知識を何も知らずにいる人々に教えてあげようとしている愛の力であるとの、万全の知識を携えて前進することが出来ます。

 あなたはこれまで幾度か自分が間違ったことをしたと思ってひそかに涙を流されたことがあります。しかし、あなたは間違ってはおりません。あなたの前途には栄光への道がまっすぐに伸びております。目的はきっと成就されます。私の申し上げたことがお役に立てば幸いです」

 ピ「本当にありがとうございました」

 シ「いえ、私への礼は無用です。礼は神に捧げるべきものです。私どもはその僕に過ぎないのですから。私はこの仕事の完遂に努力しておりますが、いつも喜びと快さを抱きながら携わっております。もしも私の申し上げたことが少しでもお役に立ったとすれば、それは私が神の御心に副(そ)った仕事をしているからにほかなりません。あなたとはまたいつかお会いするかも知れませんが、その時はもっとお役に立てることでしょう。 

 その時までどうか上を向いて歩んでください。下を向いてはいけません。無限の宝庫のある無限の源泉から光と愛がふんだんに流れこんでいることを忘れてはいけません。その豊かな宝庫から存分に吸収なさることです。求めさえすれば与えられるのです。著述の方もお続け下さい」


 最後にサークル全員に向かって次のような祈りのメッセージを述べた。

 「どうか皆さんを鼓舞するものとして霊の力が常に皆さんとともにあり、先天的に賦与されている霊的能力をますます意識され、それに磨きをかけることによって幸せの乏しい人々のために役立て、そうすることによって皆さんの人生が真に生き甲斐あるものとなることを切に祈ります」

 そう述べて、いよいよ霊媒(バーバネル)の身体から離れる直前にピックフォードにこう述べた。

 シ「ご母堂が、あなたに対する愛情が不滅であることをあなたが得心してくれるまで私を行かせないと言っておられます。ご母堂はあなたから受けた恩は決して忘れていらっしゃいません。今その恩返しのつもりであなたのために働いておられます。どうしても行かせてくれないのですが・・・・」

 ピ「でも私こそ母に感謝しております。十回生まれ変わってもお返しできないほどです」

 シ「あなたはすでに十回以上生まれ変わっておられますよ」
 ピ「猫より多いのでしょうか。十八回でも生まれ変わるのでしょうね。今度こそこの英国に生まれることでしょうよ」

 シ「いえ、いえ、あなたはすでに英国での前生がおありです。が、これは別の話ですね」

 ピ「あと一つだけ・・・・・・私のその英国での前生について何かひとことだけでも・・・」
 シ「二世紀以上も前にさかのぼります。それ以上のことは又の機会にしなくてはなりません。私はもう行かなければなりません。これ以上霊媒を維持できません」

 どうやらピックフォードはその二世紀あまり前に少女として英国で生活した前生のことをずっと前から信じていたらしいふしがある。その理由(わけ)については私の記憶にない。とにかくグラディス・スミスという名でトロントに生を受けた彼女は、血統が英国人であることを誇りに思っていることは確かである。
                ハンネン・スワッハー
  

Friday, September 26, 2025

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓

 Guidance from Silver Birch(2-4) Edited by Anne Dooley 

四章 政治家とジャーナリストを招待して

 
    シルバーバーチの交霊会にはありとあらゆる階層の人々が〝叡知の言葉〟を聞きに訪れる。ある日の交霊会に英国労働党の下院議員が招待された。まずシルバーバーチがこう語る。

 「私が地上へ戻ってきたのは基本的な霊的真理をほんのわずかだけ述べるためです。私から見れば──地上の年令で言えば私は大変な年寄りです──あなた方の世界が必要としているのは、神学という名の仰々しい抽象的な教義の寄せ集めではなくて、霊の力に動かされた古の賢聖によって説かれた、宗教の根幹であるところの二、三の単純な真理、すなわち人類はお互いがお互いの一部であること、そして肌の色の違いの内側にはすべてを結びつける共通の霊的な絆があるということ、これだけです。

 お互いの血管を同じ血液が流れている────つまり同じ霊が各自の本性に潜んでいるということです。宇宙の大霊が私たちを一つの家族にしたのです。子供である人間が互いに差別をつけ、潜在する一体性に気づかず、かくして私どもが戻って来て、地上のいかなる組織・団体もそこに霊的実在の認識がないかぎり真の進歩は得られないことを教えてあげなければならないことになるのです。

 四海同胞、協調、奉仕、寛容───こうした精神こそ人生の基本であり、これを基礎としない限り真の平和はあり得ません。持てる者が持たざる者に分け与えることによって互いに奉仕しあい、睦みあい、援助しあうこと───この単純な真理は繰り返し繰り返し強調しなければなりません。

これを個人としての日常生活において、民族としての生活において、そして国家としての在り方の中において実践する者こそ、人間としての本来の生き方をしていることになる───これだけは断言できます。」

 ここでその議員が公僕としての選ぶべき道を尋ねると───

 「要求されたことが正しいと思われればおやりになればよろしい。いけないことだと思われれば、私が述べたことにはお構いなく、おやりにならないことです。ただし、間口は広いものです。辿って行けば、さらに大きなものへと導かれて行くことでしょう」

 この議員は開会頭初に「私は今、にっちもさっちもいかない板ばさみの状態なのです」と述べて、政治上の問題での決断を迫られていることを告白していた。そこでシルバーバーチはこう続けた。

 「人間は無言のうちに苦しみ、悲哀と苦痛も味わわなければなりません。これは人類の永年の伴侶なのです。遠い遠い昔、どうみても何一つ苦労はなかったであろうと思われる昔からです。

 あなたはそれに勇敢に対処して来られました。いつも正面から取り組み〝これでいいのだろうか〟という単純素朴な問いかけを忘れませんでした。そして、正しいと信じたら、ためらうことなくその方向へ突き進まれました。そうした中で一つだけあなたの人生で最大の悲しい出来ごとがありましたが、それはここで触れるのは適当でないでしょう。

 あなたがこの地上に生をうけたのは、果たすべき宿命があるからです。地上を去るまでに成就すべきことがあるからです。あなたは実に大きな貢献をなす立場におられます。

多くの恵まれない人々が光明を見出す───つまり理解力を身につける一助となり、より大きな自由を獲得させてくれる霊的エネルギーの存在に目覚めさせてあげる仲立ちとなることができるからです。その役目に徹することです。そうすれば他のすべてのことも自然にうまく行きます。

 あなたは何一つ心配なさることはありません。あなたを包み、あなたを導いてくれる愛が鉄壁の守りを固めており、あなた自身のわがままから間違った方向へ進まないかぎり、あなたほどの知識と理解力があれば決して道に迷われることはないでしょう。

 いかがですか、自分を包みこむ大きな愛の力を意識されることがありますか」

 「いつも忝く思っております」

 「あなたは私どもの世界から大いなる愛を受けておられます。かつて偉大なる奉仕の生活を送った霊で、私たちが〝光り輝く存在〟と呼んでいる人たちによって守られております。

 私が時おり思うことは、地上の人間───その中でもせめてこうした霊的知識を手にされた方々にその〝光り輝く存在〟をひと目ご覧に入れてあげられたら、ということです。人間の進歩をわがことのように喜び、挫折をわがことのように嘆き悲しみながらも、人間の霊的進化とその豊かな実りの時期(とき)の到来を確信して、日夜守護し支援しております。

 あなたもコツコツとよく頑張ってこられました。いろいろと苦労されました。涙を流されたこともありました。悩み苦しまれたこともありました。すべてに見放され、誰からも顧みられず、絶望の状態に置かれた時の魂の孤独がいかなるものであるかも知っておられます。

また一方、滅多に味わう人のない高い魂の高揚も味わってこられました。絶望の底ものぞかれました。魂と言うものは〝ゲッセマネの園〟を耐え忍ぶまでは〝変容の丘〟にのぼり着くことはできないのです」

 そう述べてから、かつての労働党創設者の一人キア・ハーディからのメッセージをこう伝えた。

 「あなたのことをとても誇りに思っているとおっしゃっていますよ。正しいと信じた大義───人間にとって物的にも精神的にも霊的にも最善と信じたことのためには絶対に世間に阿(おも)ねずに身を捧げる人すべてを誇りに思っておられます。

彼は物的水準を高めるためだけでなく、霊性の発達を促し、精神の持つ芸術性を培うために、人間のすべての願望を叶えさせてあげたいという一念に徹している人を尊敬しておられます。それがあなたの唱道しておられる福音でもあるとおっしゃっていますが、そうなのでしょうね?」

 「そうありたいものと願っております」

 このあとシルバーバーチは司会者のハンネン・スワッハーに向かってこう語った。

 「いま地上世界では物的身体をもつ人類としての基本的人権が次々と認められつつあります。しかし、目に見える形にこそなっておりませんが、霊的人間としての人権も徐々に認められつつあります。今あなた方は画期的な新しい時代───一人でも多くの人間がより大きな自由を享受する新しい時代の夜明けに立っておられます。

 死の境界を通過して私どもの霊の世界へ来られた方は、ある種のエネルギー、莫大なエネルギーを発揮するようになります。そのエネルギーが不幸に泣いている人々、物的生活の喜びを味わえずにいる人々のために役立ちたいと願う人々の活性剤となります。

 人間はその本来の霊的属性を発揮しようとする行為が妨げられることはありません。妨げとなるのは自分自身の貪欲であり、強欲であり、利己心です。それが霊の本来の権利であるところの自由を求めようとする怒涛のような魂のうねりを妨げるのです。が、今や霊力の莫大な威力の援助を得て、その霊的本性が地上界において発揮されつつあります。

 それは物的分野、政治的分野、経済的分野といった、人間がとりわけ関心の強い分野でのみ発揮されつつあるのではありません。その霊力の奔流の影響を受けて、私たちスピリットの道具となる新しい人材が次々と輩出されることでしょう。

 こうした人たちの手によって悲しみの底に沈んでいる人が慰められ、病人が癒されるだけでなく、いわゆる霊的啓示(インスピレーション)が大規模にもたらされることでしょう。スピリチュアリズムに関心を向ける人が増え、この訓えこそが悩みの時に導きを、困難にあっては慰めを、取越苦労と煩わしさの中にあっては安らぎと確信を与えてくれるものであることを知ることでしょう」

 そして次の言葉をもってその日の交霊会を閉じた。

 「そういう次第ですから、みなさんとともにホンの僅かな時だけでも精神の活動を止め、まわりに霊力の存在を意識し、より大きな仕事を成就せんとして私たちを援助し鼓舞してくださっている偉大なる存在を認識いたしましょう。

そうした偉大なる存在にとって、神に仕えることは神の子のために働くことにほかならず、しかもその多くが、いずこへ向かうべきかも知らずにさ迷っているのです。

 願わくばあなた方と私たちとが一致協力して迷える人々を導き、苦難のさ中にある人々を勇気づけ、背負える重荷を重荷として感じないよう、ものの観方を啓発してあげることができますように。そして又、私たちがなるほど神の使者であることを行為によって顕示し、神の一部としてその名に恥じない存在であらしめ給わんことを」


 別の日の交霊会に、さる大手の新聞社の編集長が招かれた。それが二度目だった。その編集長に対しシルバーバーチは終息したばかりの第二次世界大戦に言及して次のように述べた。

 「恐ろしい戦争による苦悩と災禍と悲劇と窮乏、目をおおう流血と混沌と動乱が終わっても、今度はそれを体験してこちらへ来た犠牲者たちにそれとまったく同じ精神的ならびに霊的騒乱が生じるものです。

 そうして、その激変のさ中で実は、真理の光に照らして思考することを知らない者によって幾世紀ものあいだ金科玉条とされてきた思想・信仰───宗教的打算からしか物を考えない者によって形づくられ、いじくりまわされてきた教説がすべて粉砕されることにもなりました。

 唯物主義の根幹が破壊され、致命傷を負っております。もっとも、いかにも仰々しい教説を説きながらも、その実、自己の打算によってのみ動き、人間の福祉など眼中にない小さなグループがそこかしこに存在しております。

 その中には唯物主義的体制───地上特有の機構───を牛耳り戦時の苦悩と圧迫の中で培ったところの、より明るく、より幸せで、より良い世界を実現していく可能性の発現を妨げんとする派もいくつか見受けられます。

 しかし新しい世界、より良い世界───数知れぬ人間が霊的自由、精神的自由、そして身体的自由を見出すであろう世界の建設に携わる者は、同じ目的のために活躍している無数の死者(と、あなた方が呼んでおられる人たち)を呼び寄せます。

 同時に、はるか上層の世界から同じく人類の霊的覚醒の為に心を砕き、地上生活から得られる生き甲斐と豊かさと美を存分に得させようと活躍している数多くの高級霊をも呼び寄せます。

 かくして人類の福祉のために働く人々は、予期した以上の成果を得ることになるのです。人類の福祉がかつて真の意味での成果を克ち得たことは一度もありません。いつも裏切られ、好機を奪われ、邪魔が入り、その神聖なる使命の達成を阻止されて来ました。その使命とは、人類の全てに一人の例外もなく宿されているところの神性を最大限に発揮させることです。

 少し大げさに響くかも知れませんが、私の言わんとするところはお判りでしょう?」

 「判ります。よく判ります」

 「本当に必要なのは単純で素朴な真理なのです。新しい大真理ではなく、驚異的な啓示でもなく、新しい神勅でもありません。その素朴な真理はいつの時代にも、いかなる国においても、必要性と理解力の程度に応じたものが授けられてきております。

かならず霊覚を具えた男性及び女性がいて、その人たちを通じて霊力が地上に注がれ、先見の明をもって人々を導き、癒やし、慰めてきました。これからもそうでありましょう。

 それと同じ霊力があなた方の今の時代にさらに一段と強化されて注がれております。キリスト教で〝聖霊〟と呼ばれているスピリットの降下に伴って生じる各種の心霊現象を繰り返し演出して、古くから説かれている同じ真理、すなわち生命に死はないこと、霊は不滅であることを説き、人間の霊性、その根源、宿命、存在の目的、宇宙の大霊とのつながり、隣人とのつながり、そうして、そこから派生する驚異的な意味を力説しているのです。

 その霊力が今まさに奔流となって注がれ、そうした真理が改めて説かれております。確かに古くから説かれてきた真理なのですが、地上人類は今新しい進化の周期を迎えて、その古い真理を改めて必要としているのです。

一宗一派に片寄った古い、勿体ぶった、因習的教義へはもはや何の敬意も払う必要はありません。権威に対して盲目的に従う必要はありません。ドグマを崇拝する必要はもうなくなりました。

 そうした類のものは全て無力であることが証明され、人間は成長せんとする精神と進化せんとする魂の欲求を満たしてくれるものを求めてまいりました。こうした霊力の顕現に伴ってかならず人生の純粋に物的な分野においてもより大きな覚醒が生まれ、同時に、正義と同胞精神が世界のすみずみにまで行きわたってほしいとの願いが生じるのは、そのためなのです。

 それは一か月や一年はおろか、十年や百年でも達成されないでしょう。しかし、人類はみずから目覚め、真の自我を見出していかねばならないという宿命的法則があります。従って、重責を担う立場の人、人類に道標を残して行くべき使命を負う者は、それを忠実にそして立派に果たすべき重大な任務があることになります。

 いつの日かあなたも、あなたご自身の〝事務報告〟を提出しなければならない時がまいります。あなただけではありません。すべての人間が自分自身の事務報告の提出を要請されます。その際、あたら好機を逸したことに対する後悔を味わうこともありましょうし、為すべきことを成し遂げたとの自覚に喜びを味わうこともありましょう。

 相変わらず絶望感が支配し暗黒の多い地上世界にあっては、光明と真理のために闘う人々が不安や疑念を抱くようなことがあってはなりません。強力な霊力、宇宙最大のエネルギーがその献身的な仕事を通して守護し援助してくれているからです。正しい道を歩んでいる限り勝利はきっとあなたのものとなります」

 このあと、その編集長の同僚で最近他界したばかりの霊からのメッセージを伝えてから、再び本題に戻ってこう語った。

 「私があなた方の世界での仕事を始めてからずいぶん長い年月になります。あれやこれやと煩わしい問題が生じることにもすっかり慣れました。そして、あなたのようなお仕事をしておられる方が来て下さり私が少しでもお役に立つこともうれしく思っております。

それが私を通じて霊の力が働いていることの証であるからこそうれしいのです。これまでの全体験によって私は、霊の力はその忠実な通路さえあればきっと事を成就していくことを学んでおります。

 いかなる反抗勢力、いかなる敵対行為、いかなる中傷、いかなる迫害をもってしても、悲しみに満ちた人々の魂の琴線に触れ、病める身体を治し、迷える人々に光明を見出す道を教え、人生に疲れた人々を元気づけることのできる献身的な通路がある限り、その仕事が挫折することは決してありません。

 本来なら、こうしたことが逸(と)うの昔に教会という権威を担った人々によって成就されていなければならないところです。それが現実には成就されていません。というよりは、その肝心なものが置き去りにされているのです。そして今や霊的にも物的にも、その担い手は教会とは何の縁もない普通一般の人たちとなっております。

もし教会関係の人々が自分たちの本来の存在意義を自覚すれば、もし自分たちの本質がその神性にあることを理解すれば、そしてもし自分の身のまわりに存在する莫大な知識の宝庫、霊力、エネルギーを自覚すれば、それを活用して新しい世界をわけなく建設することができるところなのですが・・・。

 しかし、それは是が非でも成就していただかねばならないのです。なぜならば私たち霊界の実情を言わせていただけば、毎日毎日ひきも切らず地上から送り込まれてくる不適応者、落伍者、放蕩者、社会のクズともいうべき人達───要するに何の備えも無い、何の用意も無い、何の予備知識も持たなくて一から教えなければならない人間の群れには、もううんざりしているのです。

本当はこちらへ来てすぐからでも次の仕事に取り掛かれるよう、地上での準備をしておくべきなのですが、現実にはまるで生キズの絶えない子供を扱うように看護し、手当てをしてやらねばならない者ばかりなのです。

 そういう次第で、あらゆる形での霊的知識の普及がぜひとも必要です。人類が霊的事実を理解してくれないと困るのです。真理に導かれる者は決してしくじることはありません。

真理は理解力をもたらし、理解力は平和と愛をもたらし、心に愛を秘めた者には解決できない問題は何一つありません。人類の指導者が直面するいかなる難題も、霊的真理と霊的叡知と霊的愛があればきっと消滅していくものです。私の見解に賛同してくれますか?」

 「ええ、もちろんですとも」

 「その目的のために、あなたはあなたなりの方法で、私は私なりの方法で、そのほか真理を幾らかでも普及できる立場にある人すべてが、その人なりの方法で努力しなければなりません。そうすることが世界を、あるいは少なくとも自分の住む地域を豊かにすることになるのです」

 このあと編集長と交霊会の常連との間で、その他界したジャーナリストの人物評に花が咲いた。するとシルバーバーチがこう述べた。

 「皆さんは人間が他界して私たちの世界へ来ると、その人の評価の焦点がまったく異なったところに置かれることをご存知ないようですね。皆さんはすぐに地上時代の地位、社会的立場、影響力、身分、肩書といったものを考えますが、そうしたものはこちらでは何の意味もありません。

そんなものが全てはぎ取られて魂が素っ裸にされたあと、身をまとってくれるのは地上で為した功績だけです。

 しかしこの方は地上で本当に人類のために貢献されました。多くの人から愛されました。その愛こそが死後の救いとなり、永遠の財産となっております。金銭はすべて地上に置き去りにしなければなりません。

地上的財産はもはや自分のものでなくなり、愛、情愛、無私の行為だけが永遠の資質となるのです。魂が携えて行くのはそれだけであり、それによって魂の存在価値が知れるのです。

 したがって同胞からの愛と尊敬と情愛を受ければ、それが魂を大きくし、進化を促すことになります。真の判断基準によって評価される界層においては、そうした要素が最も重要視されます。肝心なのはいかなる人間であるかであり、何を為してきたかです」

 このあと新聞とジャーナリストのあり方について長い議論があり、その中で編集長がシルバーバーチに尋ねた。

 「他界したジャーナリストたちはその後も我々のことを心配してくれているでしょうか」

 「心配しておられます」
 
 「でも資金の面についてではないでしょう」と言ってから、他界したばかりの同僚はその生涯を捧げた新聞社のことを案じてくれているかどうかを尋ねると、シルバーバーチは、まだ他界して間がないので地上のことをあれこれと案じているだろうけど、そのうち霊界の事情に順応して行くでしょうと語って、最後にこうしめくくった。

 「地上で学ぶべきことは人のために役立つということ、これに尽きます。それはさまざまな能力によって実践できます。光明を授けることもそうですし、生活に彩りを添えてあげるのもそうですし、しょげかえっている人を元気づけてあげるのもそうですし、真理を見出す道案内をしてあげるのもそうです。人のために役立つ手段はいくらでもあります」
             

Thursday, September 25, 2025

シアトルの秋  「スピリティズムによる福音」     アラン・カルデック著

  The Gospel According to Spiritism: Allan Kardec (Author),

第5章 苦しむ者は幸いです



一、悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満たされるからです。義のために迫害されてきた者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ第5章 4、6、10)


二、貧しい者は幸いです。神の国はその人のものとなるからです。いま飢えている者は幸いです。その人たちは、やがて飽き足りるようになるからです。(ルカ 第6章 20、21)

 しかし、富んでいるあなたたちは、憐れな者です。慰めをすでに受けてしまっているからです。いま食べ飽きているあなたたちは、憐れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたたちは、憐れな者です。やがて嘆き悲しむようになるからです。(ルカ 第6章 24、25)

 
 苦しみの正当性

三、地上で苦しむ者にイエスが約束してくれる償いは、未来の生活でしか受け取ることが出来ません。未来への確信を持たねば、これらの金言は意味を持たなくなってしまうか、あるいは人をだます偽りの言葉となってしまいます。

未来への確信を持っていたとしても、苦しむことによって幸せを得るということを理解するのは大変難しいことです。苦しむことにより、より価値のある幸せを得ることができるようになるのだという人がいます。しかし、それならばなぜ、ある人は別の人より多く苦しまなければならないでしょうか。

なぜ理由を明らかにされることなく、一部の人々は貧しい生活を強いられ、他の人々は贅沢な暮しをすることが出来るのでしょうか。なぜ、すべてがうまくいかない人々がいる一方で、すべてがうまくいき、笑って過ごせる人々がいるのでしょうか。

さらに理解できないのは、なぜ幸と不幸が、美徳と悪徳の両側に不均等に散らばっているかということです。徳の高い人たちが、はびこる悪者たちの間で苦しんでいるのを見ることができるのはなぜでしょうか。未来を信じることにより、慰めを得たり、辛抱を得ることが出来ます。

しかしながら、こうした普通とは違った考え方も、その理由を教えてもらえないのであれば、それは、神の不公平さを認めているようなものです。しかし、神の存在を認めるのであれば、その永遠の完全性を考慮に入れずに考えることは不可能です。

神は万能、完全なる正義、善良であり、そうでなければ神とはなり得ません。そして、もし神が至上の善と正義を持つのであれば、気まぐれやエコひいきによって行動するわけはありません。

人生の苦しみには理由があり、神が公平である以上、その理由も正当である筈です。このことをすべての人々が納得できるように、人類がこの原因を理解できるよう、神はイエスの教えに託して人類を導いてくれました。

そして今日、人類はその教えを理解するのに十分成熟したため、神はスピリティズムを通じ、霊たちの声に託し、この原因を完全な形で示してくれたのです。


   現世に存在する苦しみの原因

四、人生の苦しみには二通りあります。言い換えるならば、二つの全く違った種類の原因があります。一種類目の原因とは現世の中にあり、もう一種類は現世以外のところに存在します。

 地球上で私たちが体験する苦しみを遡れば、その原因の多くは苦しんでいる人自身の性格、あるいはその人自身の行いの中にあることが分ります。

 しかしそれでは、どのくらいの人が自分自身に原因があるということを認めることが出来るのでしょうか。どのくらいの人が自分自身のプライド、野心、不注意の犠牲となっているのでしょうか。

どのくらいの人がその規律のなさ、根気のなさ、不適切な行動、きりのない欲求によって惨めな思いを強いられているのでしょうか。

 本心を無視し、私欲、虚栄心の計算のもとに結ばれ、不幸を迎える夫婦が何組あるでしょうか。もう少し慎重に行動し、怒りをこらえることを知っていれば、何組もの不和、口論、致命的な言い争い、離別を防ぐことが出来たのではないでしょうか。

 不節制や、すべてにおける行きすぎた行いがどれだけの身体が不自由な状態や病気をもたらしているでしょうか。幼い時からのしつけを怠った為に、子供との関係がうまくいかなくなってしまった親が何人いるでしょうか。

子どもに対する弱さと無関心が子供の中に自惚れやエゴ、虚栄心の種を植えつけ、渇いた心を作ってしまうのです。しばらくして、その植え付けた種を収穫する時、親に対し尊敬を欠いた恩知らずな子どもを見て驚き悲しむのです。

 人生の変遷による失望によって心を傷つけられた者は、自分自身の良心に問うて見て下さい。あなたの苦しみの原因を一歩一歩辿ってゆけば、殆どの場合、それがあなた自身の中に存在することを知り、「これをやっていなければ」とか「あれをやっていればこんなことにはならなかった」等と言うことが出来なくなるでしょう。

 自分自身のせいでないとすれば、一体誰のせいで苦しまねばならないというのでしょうか。人間はこのように、ほとんどの場合、自ら自分の不幸の主要原因を作っているのです。

しかしながら実際はその人自身の怠惰であるのにもかかわらず、自分の自尊心が傷つかないように、そのことを認めずに、運命や神、チャンスの不足のせいにしたり、あるいは星とは自分の不注意であるにも関わらず、星などのせいにしてしまった方がより容易なのです。

 こうした態度は、必ず人生の中に無数の苦しみを生みだすことになります。人間は、その道徳的、知性的な自己の改善によってのみ、これらの苦しみからのがれることができるでしょう。
 
    
五、人間の法律は悪に応じて罰を与えるようになっています。悪を働き処罰される者は自らの行った悪行の報いを受けることになります。しかし、法律はすべての悪や罪を扱えるわけではありません。法律は社会的な損害を与える罪を処罰するようにできており、過ちを犯す者個人に損害をもたらす罪を処罰するようにはなっていません。

しかし、神はすべての人間の進歩を見守ってくれています。ですから、正しい道から逸れると、どんな小さな過ちであっても神は罰するのです。如何に小さな過ちであっても、神の法に反していれば、多かれ少なかれ、避けることのできない悲しい結果を必ず得ることになります。

小さな罪であれ、大きな罪であれ、人間はその犯した罪に応じて罰せられます。だから罪を犯した結果として現れる苦しみは、罪を犯したのだという警告なのです。苦しみはその人に善悪の区別を体験として教え、将来の不幸の源となり得るものを改める必要性を教えてくれるのです。

そうした動機がなければ、人間は自分を改めようとはしません。罰は与えられないのだと信じていれば、その人の向上は遅れ、更に幸福な人生への到達も遅れてしまいます。

 そうした改善の必要性を認識させてくれるような経験は、時には少し遅れてくることもあります。生命がすでに消耗され、混乱に陥り、苦しみがもはやその人を向上させるために効力を持たなくなった時、人は概してこう言います。

「もし、人生のスタートからこうなることを知っていたら、どれだけの過ちを未然に防ぐことができただろう。もし、やり直すことができたら、私は全く別の生き方をしていただろうに。でも、もう時間はない!」。その人は、怠惰な労働者が、「今日は何もせずに一日が終わってしまった」と言うように、「人生を無駄にしてしまった」ということになるでしょう。

しかし、その翌日、労働者の頭上にはまた太陽が輝き、新しい日が始まり、失った時間を取り戻すことができるように、人生においても、墓の中で過ごす夜が過ぎると、新しい太陽が輝くのです。その、新しい人生の中で、過去の経験や、未来へ向けて固めた決意を生かすことが出来るのです。
    

℘101    前世に存在する苦しみの原因

六、しかし、その人自身が原因となっている苦しみが現世に存在する一方で、他にも少なくとも見かけはその人の意思とは全く関係なく、宿命のように訪れる苦しみもあります。

例えば、親愛なる人や、家庭を支える者の死のように。誰にも防ぐことのできない事故、まったく手の打ちようのない富の没落、自然の災害、生まれつきの病気、特に、その不幸な者から働いて生計を立てる手段を得る可能性をも剥奪してしまうような病気、身体の障害、知的障害。

 こうした状態で生まれる者は、現世においては、そのような悲しい運命に遭わねばならないようなことはなにもしていないし、その償いを受けることも出来ません。

またそれを避けることは出来ず、それを変えることも出来ず、社会の慈悲の恩恵を受けることになります。なぜ、同じ屋根の下の同じ家族だというのに、この哀れな者の横には、すべての知覚においてその者より優れている人々が居るのでしょうか。

 早く死んで行った子供は、結局、苦しみしか味わうことができなかったのでしょうか。こうした問題のいずれに対しても、どの哲学も未だに答えを出していません。どんな宗教も正しい明解な理由を説明することが出来ていません。

肉体と魂が同時に生まれ、地球上で少しの時間を過ごした後、取り消すことのできない決められた運命をたどるということであれば、こうした不幸や異常は神の良心、正義、意志を否定するものなのでしょうか。

神の手元から離れて行ったこのような不幸な人たちは一体なにをしたのでしょうか。現世においてこれほど惨めな思いを強いられ、良い道も悪い道も選択することが出来ないのであれば、すでに決められた償いか罰をまた将来にも受けなければならないのでしょうか。

 すべての結果には原因が存在するという公理から、これらの苦しみにもなにか原因があっての結果であると言えるはずです。正義に溢れる神の存在を信じるのであれば、この原因も正当であると考えられるに違いありません。

いつでも原因は結果の先に立つものですが、原因が現世に見当たらないのであれば、その原因は現世以前、すなわち、前世に存在すると考えねばなりません。一方で、神は善行や、行ってもいない悪行を罰する筈がありません。もし私たちが罰せられるのであれば、私たちが悪行を働いたからであるはずです。

とすれば、もし、現世で悪行を行っていないのであれば、前世においてそれを行っているということになります。現世か前世のいずれかにおいて苦しみの原因が存在するということは、免れることのできない事実なのです。このように、私たちの道理は、そうした事実の中に働く神の正義というものがいかなるものかを教えてくれるのです。
℘103 
 つまり人間は現世の間に犯した過ちだけ罰せられているわけでも、また現世のうちに完全に罰せられて終わるわけでもありません。過去における原因が生んだ結果から逃げることなく最後まで従う必要があるのです。悪人の繁栄は一時的なものでしかありません。

もしその人が今日償うことが出来なければ、明日償わねばならないのです。すなわち今日苦しむ者は、過去における過ちに対する償いを行っているのです。

一見その人にとってふさわしくない苦しみも、その存在理由があるのです。苦しむ者はいつもこのように言うべきです。「神よ、過ちを犯した私をお許しください」と。
   
     
七、前世に存在する原因から来る苦しみや、または現世に始まった原因による苦しみは、常に人生におけるその人自身の過ちから来るものです。厳しく、公平に行き亘る正義によって、人は他人を苦しめた方法と同じ方法で苦しむのです。

冷たく非人間的な人は、冷たく非人間的に扱われることになります。自尊心の高すぎる者は屈辱的な経験をさせられるでしょう。

ケチで利己的な人、物質的な富を悪用する人は、その有り難さや必要性を感じさせられることになるでしょう。悪い息子であれば、自分の子どもに苦しめられる、というようにさまざまです。

 このように、人生の多様性や、償いの世界としての地球上での運命が、地上の善人と悪人の間に不均一に分配された人間の幸、不幸の理由を説明してくれます。この不均等性は単なる見掛け上のものでしかありません。なぜなら私たちは現世においてしか各々の問題を見ることが出来ないからです。

しかし、思考によって心を持ちあげ、連続性のある人生を考えてみれば、霊の世界において決められているとおりに、各々にはその人にふさわしい人生が与えられているということを理解することができ、そこに神の正義が欠けることはないということが分ります。

 人間は低級な世界に生きているということを忘れてはなりません。人間がそこに存在するのは、人間の不完全性のためなのです。苦しみに出遭うたびに、そのような苦しみも、より高級な世界へ行くことが出来れば味わうことがないのだということを思いだし、また、地上へ再び戻ってくるかどうかということは、各々の努力とその向上にかかっているのだということを認識しなくてはなりません。


八、人生における苦労は、強情な霊や無知な霊に与えられます。それにより、そうした霊は自分が何をしているのかを自覚した上で正しい選択をすることができるようになります。

本当の苦しみを心から体験することによって欠点を改め、向上しようという意志を持った霊によって、自発的に選択され、受けとめられる苦労があるのです。課された任務をうまく成し遂げることができなかった霊は、その任務に付くことによって得ることが出来た筈のメリットを逃さないよう、改めて最初からその任務が課されることを望みます。

こうした任務としての苦しみは、過去の過ちへの償いであると同時に将来へ向けての試練なのです。だからこそ、人間に改善の可能性を与え、最初の過ちを永久に非難することなく、人間を絶対に見放すことの無い神の好意に感謝しようではありませんか。


九、しかし、人生の苦しみの全てがある特定の過ちの証であると信じてはなりません。多くの場合、苦しみとは、自分の浄化と進歩の速度を早めるために、霊自身が選らんだ道であることがあります。そのような場合、苦しみとは償いとしてだけではなく、試練としての意味を持つのです。しかし、試練は必ずしも償いであるとは限らないのです。

完全性を得ることのできた者は試される必要はないのですから、試練に立たされたり、償いの場が与えられるということは、その霊がまだ劣等であることの証明にかわりはありません。

しかし、ある段階への進歩を成し得た霊が、さらに上の段階へ進歩を望むことによって、苦しみに打ち勝った分の報酬として向上しようと、その向上に値するだけの苦境での任務を神に求めることがあります。

善行を、生まれた時からすでに身につけ、高揚した魂を持ち、高潔な感覚を持ち、過去からの悪をどこにも引きずっていないような人で、キリストのように苦しい境遇に対し忍従し、不満をこぼすこともなく、神の加護を求める人がいるならば、その人はこのような場合にあてはまるということができるでしょう。

反対に、その人にとって不満の原因となったり、その人の神への反感の原因となるような苦しみとは、過去の過ちへの償いであるということができます。

 ある苦しみがその人に不満をもたらさなかったのであれば、その苦しみは間違いなく試練であると考えられます。そうした苦しみは、霊自身が自発的に求めたものであり、過ちへの償いとして強要されたものではありません。すなわちそうした苦しみは、その霊の強い決意の証しであり、進歩のしるしなのです。


℘105
十、霊は、完成することなく完全なる幸福を求めることはできません。どんな小さな汚点があっても、その霊が不完全であれば至福の世界へ入ることはできません。ある伝染病が広まった船に閉じこめられた乗組員たちが、どの港に到着しても、伝染病に感染していないことが証明されるまでは上陸の許可が下りないのと同じことです。

霊は幾度にも亘る再生によって、不完全性から少しずつ脱却していくのです。人生における試練は、うまく乗り越えることが出来れば、霊を進化させます。償うことにより、過去の罪を清算し、霊は浄化されます。

それらは傷を癒し、病人を治すための薬であり、重症であればあるほど、薬も強いものである必要があります。つまり多く苦しむ者は多くの罪を償う必要があるのであり、早く治してくれる薬が与えられたことを喜ぶべきでしょう。

その苦しみに忍従することによってそれを有益なもとし、その苦しみがその人にもたらしてくれたものを、不満をこぼすことによって失ってしまうことがないように出来るかどうかは、その人自身にかかっているのです。

そうすることが出来ないのであれば、再び同じような苦しみを繰り返さねばならないでしょう。
   
      
℘106 過去の忘却
十一、過去の人生のことを覚えていないから、過去の経験を生かすことが出来ないと考えることはつまらぬことです。神が過去をベールで覆うことにしたのは、その方が有益と考えられたからに違いありません。過去を覚えていたとしたら、実際に多くの不都合を生じるでしょう。

過去の事実によってひどく恥ずかしめられることもあるでしょうし、また、過大な自尊心をもつようになってしまうこともあるでしょう。私たちの過去は、私たちの自由意志を束縛することになるでしょう。いずれの場合であれ、過去を覚えていたとしたら、社会関係おいて必ず大きな混乱を招くことになります。

 霊はよく過去に過ちを犯した相手に償うために、過去に生活した時と同じ環境、同じ人間関係の中に生まれ変わります。もし、こうした関係の中で、過去に憎んでいた人が再び存在しているとわかってしまったら、また憎しみが湧いてくるでしょう。もし過去に攻撃した相手を前にしたらいたたまれない気持ちになることでしょう。

 神は私たちの向上のために、私たちが必要とするものを、ちょうど足りるだけ与えてくれているのです。すなわち神は私たちに良心の声と本能的な習性を与えてくれました。私たちに不利益になるものを私たちから取り除いてくれたのです。

 人間は生まれた時から、それまでに獲得したものを持って生まれます。生まれるものは、過去に生きていた通りに生まれ変わるのです。一回一回の人生のすべてが新たな出発点です。過去がどうであったかというのは、重要なことではありません。もし罰せられているのであれば、過去に過ちを犯したからです。

その人の現在の悪い習性は、その人自身がまだどこを正さねばならないかを示しているのです。そうであるからこそ、そうした自分自身の悪い性癖を見逃さないよう、その人は注意しなければなりません。

なぜなら、すでに完全に正された悪は表に出てこないからです。良心の声が善と悪との区別を警告し、悪の誘惑に乗らないようにする力を与えてくれる時、人は善なる決断を下すことができるのです。

 過去の忘却は、地上で生活している間だけのものです。霊の世界へ戻れば、自分の過去を思いだすことになります。したがって、過去の忘却とは、一時的な記憶の中断に過ぎません。それは私たちが寝ている間、地上での生活の記憶に一時的な中断があるにもかかわらず、次の日、寝た前日やそれ以前の記憶を失っていないのと同じことです。

 過去の記憶を取り戻すのは、死後だけのことではありません。霊は過去の記憶を失うことはなく、人間は睡眠中、身体の寝ている間、霊はある種の自由を得ることが出来、また、過去の人生の記憶を持っているということを経験は証明しています。

従って霊はなぜ苦しむのかを知っており、またその苦しみが正当なものであるということも知っています。過去の記憶は、霊が地上で寝ずに活動している間だけ消えています。

その霊にとっては苦しく、社会的に生活する上で不利益ともなり得る過去の細かな記憶を消されているということが、その解放の時間をうまく利用することができる霊にとっては、新しい力を得ることが可能になるのです。


  甘受しなければいけない理由
十二、「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」という言葉で、イエスは、苦しむ者が受けるべき代償と、苦しみと言うものが病める私たちの回復の始まりであって、私たちは苦しみを有難く受け止めなければならないことを同時にのべています。

 これらの言葉は次のように言い換えることができます。苦しむことを幸せに感じなければいけません。何故なら、この世におけるあなたたちの苦しみは、あなたたちの過去の過ちに負うものであるからです。

これらの痛みは、地上で辛抱強く耐えられるのであれば、未来の何世紀にも及ぶ生活への蓄えとなるのです。したがって、神が、現生においてあなたたちに義務を果たす機会を与えてくれ、未来での平和を約束し、義務を軽減してくれているのだと言うことを感謝しなければなりません。

 苦しむ者とは、多大な借金を抱えたような者です。その者に対して、借金を取りたてる者が、「今日中に百分の一でも払ってくれるのなら、残りは全て水に流してあげましょう。もし、払わないのであれば、最後の一円まで、取りたてようと追い回すことになります」と言ったとします。

借金を負う者は、全てを掛けて百分の一だけを支払って負債から逃れた方が幸せでしょう。このように言ってくれる取立人には文句を言うどころか、感謝をするのではないでしょうか。

 これが「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」と言う言葉の意味するところです。苦しむ者はその借金を返済することが出来るのですから幸いなのです。

なぜなら、支払いを終えれば自由になるからです。しかし、その借金を払いながらも、また別の方から借金をするならば、永久に負債から逃れることはできません。新しい過ちを犯す度に負債は増えるのです。

なぜならいかなる過ちであれ、避けることのできない罰が与えられないものは何一つないからです。もし今日支払うのでなければ、明日は支払わねばなりません。現世で支払うのでなければ、来世において支払うことになるでしょう。神の意志に対する甘受の気持ちの欠如も、まず一番目にこうした過ちの内に含めなければなりません。

なぜなら、もし、私たちが苦労や苦しみに対し不満を持ち、私たちに相応しいものを受け入れず、神を不公平であると非難するのであれば、苦労が与えてくれる利益を失い、新たな債務を負うことになるからです。

それは私たちを追い立て苦しめる債権者に少しずつ支払いながら、同時に又新たな債務を負い、また、新しい支払いを始めなければならないのと同じことです。

 霊の世界へ入った人間とは、報酬を受け取りに現れた労働者のようなものです。そのうちの何人かに雇い主は言います。「あなたの働いた分の報酬です」。

しかし、地上で満たされた者、怠惰な生活をし、幸せを自分勝手な私欲や自尊心のために、また世俗的な快楽に求めてきた者に対して雇い主は言います。「なにも支払うものはありません。何故なら、あなたたちは地上ですでに報酬を受け取っているからです。行きなさい、あなたたちの仕事をやり直しなさい」。


十三、人は人生のとらえ方次第で、与えられた試練を軽く感じたり、重く感じたりします。試練の期間が長いと感じれば感じるほど、そこから来る苦しみも増します。霊の世界に視点をおいて、地上での物質的な人生というものが、永遠の生命の中のある一瞬でしかないと見ることのできる者には、その人生の短さを理解することができ、苦しみもすぐに過ぎ去ってしまうのだということが分かるでしょう。

近い将来に必ず幸せがやってくるであろうと言う確信は、苦しむ者に勇気を与え、苦しむ者の支えとなります。苦しむのではなく、彼を進歩させてくれる痛みを、天に向かって感謝することになります。


物質的な人生しか目に入らない者には、それがいつまで立っても終わらないものであるかのように思え、苦しみは重くのしかかってきます。霊の世界から人生を見れば、この世のあらゆるものの重要性は薄れてしまいます。人間的な欲望を和らげることによっておかれた立場への満足を得ることができます。

人の身分を羨むことがなくなれば、悲運や失望もあまり感じなくなるでしょう。そうした人は、心の平静と甘受の気持ちを持つことができるようになり、その気持ちは身体の健康にとっても、また、魂にとっても大変良い影響を及ぼします。

一方羨みや野心は、短い人生の惨めさや苦しみを増大させ、そのものを苦境に導きます。


  自殺と狂気
十四、地上での人生に対する視点を変えることによって得られる心の平静、甘受の気持ち、将来への信念は、霊に心の落ち着きを与えるのですが、そうした心の落ち着きとは、自殺や狂気への最良の予防薬となります。

狂気のほとんどは、人間が耐えることのできない苦しみが原因となっています。スピリティズムが教えているように、高い視点からこの世を見ることができるようになると、普通であれば、大きな落胆の原因となるような悲運や失敗を前にしても、それらを冷静に、時には喜びさえ感じて受け止めることができるようになります。

同時に、こうした苦しみを乗り越えさせてくれる力が、人間を精神的な動揺から守ってくれるのです。

℘110
十五、自殺に関しても同じことが言えます。無意識の自殺と考えられる、泥酔や狂気によって起きる自殺を除けば、各々の直接の動機が何であれ、殆どの自殺の原因は人生に対する不満であるということができます。苦しみがたった一日だけのものであり、次の日には必ず幸せが来るのだと確信できる人は、容易に耐えることが出来ます。

そうした人は、この世の苦しみに終わりがないと思わない限り、絶望することはありません。永遠の生命の中で、人間の一生とはどのようなものなのでしょうか。

それは、ほんの一日よりもさらに短いものなのです。それにもかかわらず、自分の生命とともにこの世の中の全てのことが終わると考えて、いやなことや失敗を悲観し、永遠の生命を信じない者は、死ぬことのみによって苦しみから救われると考えるのです。

そして、この世におけるどんな解決も期待できないまま、苦しみを自殺によって短縮することが自然で論理的であると考えるのです。


十六、神を信じなかったり、将来への単純な疑問や唯物主義的な考えを持つことは、人を自殺に導く大きな動機となり得ます。なぜなら、そうした考えは、道徳の弱体化をもたらすからです。

自分の知識の権威に支えられたある有能な人が、人間の死後にはなにも存在しないということを、彼の聴衆や読者たちに対して納得させようとしているとしたら、それは、「不幸であるのなら自殺してしまいなさい」と言っているのと同じことではないでしょうか。

この有能な人は、彼の聴衆や読者たちが自殺しないために何と言ってあげることが出来るでしょうか。自殺しないことによって、何を得ることができると教えてあげることが出来るでしょうか。どんな希望を与えることが出来るのでしょうか。

「無」以外何もありません。不幸な者に与えられる英雄的な唯一の救いであり希望が「無」なのであれば、苦しみが増す前に、すぐにでも「無」の中に身を投じた方が利口であると、必然的に結論が出てしまいます。


℘111
したがって、唯物主義的な考えは、自殺の肯定を多くの人に伝えることになる毒なのです。そして唯物主義者たちは重大な責任を負うことになるのです。スピリティズムの考えでは、生命に謎を抱くことができなくなるために、人生の様相は変わります。

スピリティズムを信じる者は、生命は死を超え、まったく新しい形で、無限に続くということを知っています。このように理解することが、私たちに忍耐と甘受の気持ちを与えてくれ、私たちを自然に自殺から遠ざけてくれます。また、そこから私たちの中に道徳的な勇気が生まれるのです。


十七、スピリティズムは、自殺の問題に関して、もう一つの有益で、より決定的な結論をもたらします。スピリティズムは、自殺した人の死後の不幸な状態を見せることで、誰も罰せられることなく神の法則を破ることはできないのだということを証明してくれます。

神は、人間が自分に与えられた人生を短縮することを禁じています。自殺した者の味わう苦しみは永遠ではなく、一時的なものですが、だからと言って、それが恐ろしいものではないということではありません。

神の命令が下る前にこの世を去ろうとする者がその実態を知ることが出来れば、誰もがもう一度考え直したくなるような恐ろしいものなのです。スピリティズムを信じる者は、この様に自殺に反対する多くの理由を持っています。地球上に生きる間に甘受し、耐え忍んだ苦しみが大きければ大きいほど、幸せにすることのできる未来の生命への確信。

人生を短縮することが、期待する結果とは全く反対の結果を生むという確信。苦しみから逃れても、更に恐ろしく、長引くことになる苦境へ追いやられるだけであるという確信。

自分を死に追いやれば、より早く天国へ行けると考えることが誤っているという確信。自殺は霊の世界で愛する者と再会する上で障害となるという確信。これらすべてのことが、自殺は失望しかもたらさず、自分たちの関心とは相反しているものであると結論付けてくれるのです。

スピリティズムが改心させる自殺願望者の数は非常に大きなものです。もし、すべての人がスピリティズムの考えを信じるようになれば、意識的な自殺者はいなくなるでしょう。

自殺に関して、唯物主義とスピリティズムの教義のそれぞれがもたらす結果を比べるならば、一方の理論は自殺を促し、一方の理論は自殺を防ぐのだということが判り、そのことは経験からも証明されています。





   霊たちからの指導
℘112
  善い苦しみ、悪い苦しみ
十八、キリストは「苦しむ者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と言いましたが、それは苦しむ者すべてについて触れたものではありません。なぜなら、地球上に生きる者は、ワラの上に寝ようと、王位につこうと、その度合いは違っていても、みな苦しむからです。

しかし苦しむべきことに、善い苦しみを知る者はあまりにも少なすぎます。試練をよく耐え抜いて初めて天の御国に導かれるのだということを、ほんの一握りの人たちしか理解していません。苦しみの前に落胆してしまうことは誤りであり、神は勇気に欠けるものを慰めてはくれません。

祈りは魂を支えてくれますが、それだけでは十分ではありません。厚い信仰の基礎には神の優しさによせる固い信頼がなければなりません。神は弱い肩の上に重荷を置くことはない、ということを何度も聞かされたことがあるでしょう。重荷は常にそれに耐える力に応じて置かれるのです。

それは甘受と勇気に応じて報いが得られるのと同じです。苦しみが多ければ多いほど、得ることのできる報いも大きくなります。しかし、その報いを受けるには、私たち自身がそれに値しなければなりません。だからこそ、人生には試練が溢れているのです。

戦線に送りこまれない兵士は、基地に待機し、休憩をしていては昇進できないという不満を持ちます。そのような兵士たちのようになりなさい。身体を衰弱させ、魂を麻痺させてしまうだけの休息を望んではなりません。神があなたを戦いへ送りこんだのであれば、満足しなければなりません。

なぜなら、その戦いとは、戦場での戦いではなく、人生の苦しさとの戦いのことだからです。そこでは、流血の戦いよりも勇気が必要となる場合があります。

なぜなら、そこでは、戦場でしっかりと敵の前に立てる者でさえ、道徳的な痛みに苦しめられると、屈してしまうからです。こうした勇気に対して、人間は地上で報酬を受けることはできません。しかし神は勲章や栄光のある場所を用意し、待っていてくれるのです。

心配や不満のきっかけとなる苦しみに捕まってしまったら、それを乗り越えようと努力してください。耐え切れないほどの激しい苦しみである怒りや落胆を克服した時には、自信を持って、「私の方が強かったのだ」と言い聞かせましょう。

 「苦しむ者は幸いです」は、次のように理解することができます。「その信仰の強さ、決心の固さ、辛抱強さ、そして神の意志に従うことを試された時に、それを証明できた者は幸いです。なぜなら、そうした者は地上で逃すことになる喜びを百倍にして与えられるからです。そして、働いたのちには、休憩できる時があたえられるでしょう」(ラコルデール ルアーブル,1863年)

 
  悪とその薬
十九、地球は、喜びと楽しみに溢れる楽園なのでしょうか。預言者たちの声はもうあなたの耳には残っていないのでしょうか。イエスはこの苦しみの谷に生まれる者には、涙を流し、歯ぎしりをしなければならない時が来るということを宣告しませんでしたか。

そうなのであれば、ここに住む者は誰もが苦い涙と苦しみを覚悟しなければなりません。

その苦しみがどんなに深く鋭くとも、天を見上げ私たちに試練を与えることを望んでいる神に感謝しようではありませんか。人類よ、神があなたの身体の傷を癒し、あなたの送る日々を美と富とで飾ってくれた時以外に、神の偉大なる力を認めることができますか。

あなたを栄光で飾り、輝きと潔白を与えてくれた時以外に、神の愛を感じることができますか。あなたは模範として与えられた者の真似をするべきでしょう。イエスは、惨めさと悲しみのどん底にあった時、肥しの山の上に身体を横たえて神に言いました。

「主よ、私は富むことの全ての喜びを知りました。そして、全くの貪窮に私を送ってくださいました。ありがとうございます。あなたの僕を試そうとしていただき、ありがとうございます」。

死によって限りある地平線ばかりをいつまであなたは見つめているのですか。あなたの魂はいつになれば棺の向こう側に向かっていくのですか。一方、もしこの生涯を、苦しみ、泣き続けたとしても、甘受、信仰、愛を持って苦しむ者に与えられる永遠の栄光に比べれば、それが一体何になるというのでしょうか。

神が準備してくれる未来への慰めを求めましょう。また、あなたの苦悩の原因を過去に求めましょう。そして、最も苦しんだと感じる者は、祝福された者であると感じましょう。

 死者として、宇宙をさ迷っていた時、あなたは自分が耐え切れるであろう試練を選択したのです。なぜ今になって不満を言わなければならないのですか。あなたは誘惑と戦い、克服しようと望み、富と栄光を求めたのです。

精神的、肉体的な悪に対し、全身全霊で戦いたいと望み、その試練が大きければ大きいほど、勝利を得た時の栄光は偉大であることを知っていた筈です。

たとえ身体は肥しの山の上に終わり、死を迎えたとしても、勝利を収めることができたならば、苦悩と悲しみによる洗礼を受けた潔白に輝く魂を放つことになるのです。

 残酷な憑依、死に追い詰めるような悪に攻撃された者にどんな薬を与えてあげることが出来るのでしょうか。間違いなく効く薬は、たった一つしかありません。それは天に通じる信仰を持つことです。

もっとも激しく痛ましい苦しみの真っただ中で神への賛美の歌を口ずさんでください。そうすれば、あなたの横にいる天の使いが、救いの道とあなたがいずれたどり着くことになる場所を示してくれます。

信仰こそが苦しみの唯一の薬です。信仰は常に永遠なる地平線の方向を示してくれ、現在の日々を幾日も覆っていた雲を追い払ってくれます。病気、傷、試練、苦労の薬を求めてはなりません。信じる者は信仰という薬によって力づけられ、その薬の効力を信じない者は、例え一瞬であっても、直ちに苦痛や悲しみを味わい、罰を受けることになるのです。

 神は神を信じる者には目印を付けています。キリストは、信仰だけで山をも動かすことが出来ると言いました。私は言います。苦しんでいようと、自分自身を支えるだけの信仰がある者は神の加護を受け、苦しみを感じなくなります。最大の痛みの時間が、永遠の喜びの前奏のように聞こえてきます。

魂はそうやって身体から離れていき、後からくる者がまだ地上でもがき苦しんでいる時、天の国に滑り込み、天の使いたちと、一緒に神の栄光と神への感謝を賛美して歌うのです。

 苦しみ、涙を流す者は幸いです。神が祝福を積んでくれるので彼らの魂は幸せです。(聖アゴスティーヌ パリ、1863年)

℘115      
  幸せはこの世のものではありません
二十、私は幸せではない、幸せとは私のためにあるものではない、と一般に人はどんな社会的階層に属していても訴えます。親愛なる子どもたちよ、このことは、「コへレトの言葉」の金言「幸せはこの世のものではありません」が真実であることを、どんな推論よりもはっきりと示しています。

誠に、どんな財産も、どんな権力も、青春の盛りも、幸せの本質的な条件ではありません。多くの人が切望するように、たとえこれらを三つとも持っていたとしても幸せにはなれないでしょう。

というのも、特権階級の中でさえも、いろいろな年齢の人がその置かれた生活環境を嘆いているからです。

こうした事実があるにもかかわらず、労働者階級の人々が、富に恵まれた階級に非常に強く憧れ羨むのは何とも理解しがたいものです。この世においては、どんな人にもそれぞれに与えられた労苦と貧困があり、苦しみと誤りが分配されるのです。

そのことから、地球とは試練と償いの場所であるという結論に辿り着くのは容易なことです。

 そうであるならば、地球が人類にとって唯一のすみかであり、そこでの一回の人生において、自分の持ち合わせた可能性の中での最大限の幸せを得ることが許されているのだと信じる者は、騙されているのであり、その者に耳を傾ける者をも騙すことになるのです。

何世紀にもわたる経験からも、この地球上で人間の完全なる幸せを得るための必要条件が揃うことは異例である、ということを思いだしてください。

 一般的に、幸せとは理想郷(ユートピア)を意味し、何世代にもわたって探し続けたところで決して辿り着けないところであると考えられます。この世で思慮深い人を探すのは難しいことですが、本当に幸せな人を見つけるのは更に大変なことです。

 地上で、分別を持って生きて行かない者にとって、幸せとは非常にはかないものです。一年、一ヶ月、一週間の完全な満足を感じたとしても、残りの人生は苦しみや落胆の連続となるでしょう。

親愛なる子供たちよ、私は、一般の人が羨む地上での幸福について述べているのだということを覚えておいてください。

したがって、地上でのすみかが試練と償いの場であるならば、この世の他にも、人間の霊が依然として物質的な身体の拘束を受けながらも、人間の生活に固有の喜びを完全な状態で味わうことが出来るような、より素晴らしいすみかが存在することを認めなければなりません。

だからこそ、神は星雲の彼方に、より高等で美しい惑星を作ったのです。そこへ行くにふさわしくなるまで浄化され、完成されたとき、あなたたちはその努力とその性向によってその星にひきつけられていくことになるのです。

 しかし、私の言葉から地球は悔悟だけのために存在するのだと結論づけないでください。決してそうではないのです。将来、地球がどれほど進歩し得るのか、やがて訪れることになる、新しく豊かに改められた社会とはどのようなものなのか、地球が過去においてすでに成し遂げた進歩や、社会的な向上からそれらを想像することは容易なことです。

地球を進歩させること、これが、霊たちによって明らかにされた新しい教義であるスピリティズムの持つ大きな役割なのです。

 親愛なる子どもたちよ、聖なる競争心に刺激され、あなたたち一人一人が精力的に自己の改革に取り組めますように。すでにあなた自身を更生しつつあるスピリティズムを広めることに全身を捧げなさい。

この神聖なる光の中にあなたの兄弟たちを招き入れることがあなたに課された任務です。親愛なる子どもたちよ、仕事に取り掛かりましょう。この厳粛な集まりにおいて、あなたたちの心を一つにし、将来を担う未来の世代のために、幸せという言葉が無駄にならないような世の中を築きあげるという大きな目標を掲げるのです。(モロー枢機卿フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ 1863年)



  愛する人の死、早すぎた死
二十一、死があなたたちの家族を襲い、年齢の区別なしに若い者を年老いた者より先に連れて行った時、あなたたちはよく次のように言います。

「神は不公平だ。まだ先の長い、強いものを連れて行き、もう長い年月を生き、落胆ばかりしてきた者が置いていかれてしまった。役に立つものが連れて行かれ、もう役に立たなくなってしまった者が取り残されてしまった。喜びのすべてであった罪のない子どもを奪い、母親の心を傷つけた」と。

 人類よ、このようなことに対してこそ、あなたたちはその考えを引き上げ、最善なことというものが多くの場合あなたたちの見逃している、死すべき運命の中に存在しているのだということを理解する必要があります。

なぜあなたたちの基準で神の正義を計ろうとするのですか。宇宙の神がその気まぐれで、あなたたちに残酷な苦しみを与えるなどと考えられますか。何事も知的な目的なくして行われることはなく、すべてのできごとにはその理由があるのです。

あなたに降りかかるすべての困難をよりよく調べてみることが出来れば、そこには必ず神の決めた理由、あなたに改心を促す理由があることがわかります。

それを理解することができれば、あなたたちの惨めな関心ごとというものが、比して二次的な物であることが分かり、あなたはその優先順位を下げることが出来るでしょう。


 私が述べることを信じてください。二十歳の者であっても、尊敬すべき家系の面目をつぶしたり、母親を悲しませ、父親の頭髪を早く白くさせてしまうような不品行を働くようであれば、死が選択されてしかるべきものなのです。早すぎる死はほとんどの場合、神によって与えられる恩恵であり、それによってその者を人生の惨めさや、破滅に導くような誘惑から遠ざけてくれるのです。人生のまっ盛りにある者の死は、運命の犠牲者ではなく、神がこれ以上地上にいるべきでないと判断したことによるものなのです。

 希望に満ちあふれる者の命が余りにも早く断ち切られてしまうことは悲劇である、とあなたたちはいうでしょう。しかし、その希望とは、どんな希望のことを言っているのですか。地上の希望、その経歴と富を築くことによって輝く希望のことですか。

常に物質的な世界から脱却することの出来ない狭い視界でものごとをとらえているのではありませんか。希望に溢れていたとあなた方がいうその人の運命が実際にどうであったのか、あなた方は知っているのですか。

それが苦しみに溢れたものではなかったと、どうして言いきることが出来るでしょうか。未来における生活への希望を見ずに、後に残した地上での束の間の人生の方に希望を託すのですか。

至福の霊達が住む世界で獲得することになる地位よりも、人間の世界で獲得する地位の方が大切だと考えるのですか。

 この惨めな谷底から、神があなたの子供を連れて行っても、泣くのではなく、喜ぼうではありませんか。その子供に、私たちと一緒に苦しむために残れと言うのは、自分勝手ではないでしょうか。

ああ、信心を持たぬ者の抱く苦しみ、死を永遠の別れだと考える者の苦しみ。しかし、あなたたちスピリティズムを学ぶ者は、魂は肉体という被いから解放された時の方が、より生き生きすることを知っています。母親たちよ、あなたの愛する子は、あなたのすぐ近くにいるのです。

すぐ近くにいて、そのフルイドの体があなたを取り巻き、その子の思考はあなたを守ってくれているのです。

あなたが抱くその子の良い思い出は、その子を満足させます。しかし同時にあなたの持つ苦しみは、その子を悲しませる原因となるのです。何故なら、それはあなたが信心に欠けていることの証拠であり、神意に反することであるからです。

 霊界での生活を理解するあなたたちは、愛する者たちを呼ぶとき、あなたの心臓の鼓動に耳を傾けてみて下さい。あなたが彼らに対する神の祝福を願う時、あなたの涙を乾かしてくれる心強い慰めをあなたの中に感じることができるでしょう。そして、その偉大なる熱望は神に約束された未来を見せてくれるでしょう。(元パリ・スピリティスト教会のメンバー、サンソン 1863年)

℘119  
  善人であれば死んでいた
二十二、ある危険から逃れた悪者を見て、善人であれば死んでいた、などとよく言います。これは確かに真実だということが出来るでしょう。

なぜなら、神は多くの場合、善い霊にはその功労の代償として、出来るだけ短い試練を与えるのに対し、若い進歩しつつある霊には、より長い試練を与えるからです。しかし、だからといってこのようにいうことは神に対する冒涜です。  

 悪者の隣りに住むある善人が死んだとします。あなたたちは「あっちが死んでいればよかったのに」等とすぐ言います。その時あなたは大きな間違いを犯しているのです。

死んでいく者はその任務を終えたのであり、残った者はおそらく、その任務を開始してさえもいないのです。それなのになぜ悪者にその任務を終わらせるための時間が与えられないことを望み、善人がこの地上にとどまることを望むのですか。

刑期を終えたのに刑務所に残らなければならない囚人と、一方で権利を持たないのに自由を与えられた囚人を見て何を考えますか。本当の自由とは肉体からの解放であり、地上にいる間は、収容所にいるのだということを覚えておかなければなりません。 

 理解できないことについてとやかく言うのは止めましょう。すべてにおいて公平である神を信じましょう。あなたたちに悪く見えることが、しばしば善いことであり得ます。

しかし、あなたたちの能力はあまりにも制限されているため、あなたたちの鈍い感覚ではおおきな全体像をすべて捉えることが出来ないのです。あなたたちの考えによって、この小さな地球を乗り越えられるように努力しましよう。

考えを高く持ち上げるにつれて、地上の重要性というものがだんだん小さくなっていきます。なぜなら、この地上における人生とは、霊としての真なる唯一の永続的な命の前には、単なる小さな一つの出来事でしかないからです。(フエヌロン サンス 1861年)

℘120       
  志願して受ける苦痛
二十三、人間は絶え間なく幸せを求めていますが、その幸せはいつも逃げて行ってしまいます。それは、地上において純粋な幸せが存在しないからです。しかし、生きている間にも、避けて通ることのできないさまざまな出来事をもたらす人生の浮き沈みはあるものの、相対的な幸せというものは得ることができます。

ところが、そうした幸せも、最高の幸せをもたらす不滅の魂の喜びの中に求めずに、消滅し得るものや物質的な満足の中に求めるのであれば、それもまた、人生の浮き沈みの犠牲となってしまいます。

この世の真なる幸せである心の平静を求めずに、動揺と負担をもたらすものに幸せを求めていることになるのです。そう考えると、興味深いことに、人間は自分だけの力で避けることができたはずの苦痛を、自ら招いているのだということが判ります。

 羨みや妬みによって生まれる苦痛ほど苦しいものがあるでしょうか。羨ましがる者、嫉妬深い者は、苦痛から休まる暇はありません。どちらも絶え間なく引くことの無い熱に悩まされます。

他人のものを欲しがることは不眠の原因となります。ライバルの成功には気を惑わされます。他人を上回ることにしか関心が無く、同じように妬み深い他人に、自分に対する嫉妬を抱かせることによってその人は喜びを得ているのです。可哀想な、愚かな者たちよ。

その者の人生を毒する嫉妬の対象となっている無益なものを、もしかしたら明日、すべて失わなければならなくなるかもしれないということを忘れてしまっているのです。

「苦しむ者は幸いです。なぜなら、慰められるからです」という言葉は彼らには当てはまりません。なぜなら、彼らの関心事は天に置いて報われるものではないからです。

 反対に、すでに得た物によって満足することを知っている者は、何と多くの苦悩を避けることが出来ることでしょうか。自分の所有しないものを羨むことなしに見ることが出来、実際の自分以上に自分を見せようとはしません。

自分の上を見るのではなく、常に自分より少なく所有している者、つまり自分より下を見るので、いつも豊かであると感じることが出来るのです。馬鹿げた欲求を生み出したりはせず、いつも平静を保つことができるのです。

人生の苦悩の合間に感じることのできるそうした心の平静は、ある種の幸せだと言うことができるのではないでしょうか。(フェヌロン リヨン、1860年)

℘121        
  本当の不幸  
二十四、すべての人が不幸について語ります。すべての者がそれを経験したことがあり、そのさまざまな様相を知っていると思っています。しかし、あなたたちに申し上げます。

ほとんどすべての人が誤解をしているのです。なぜなら、本当の不幸とは、人間が考えるもの、つまり、不幸と感じている人々が考えるものと、まったく違っているからです。

貧しく惨めな生活、火のともらぬ暖炉、せきたてる債権者、明るく微笑んでいた赤ん坊のいなくなったゆりかご、涙や、悲しむ心に見送られる棺、裏切られた苦しみ、高貴な衣装に身を包みたくとも貧しさに妨げられ、その貧しい身体に見栄を纏うプライドの高い者、これらすべてを、また、これら以外にも多くのことを、人間の言葉では、不幸と呼びます。

まったく、現在しか見ることのできない者にとっては、それは不幸であることに違いはありません。しかし、本当の不幸とはそのこと自体ではなく、それがもたらす結果の中に存在するのです。

今の瞬間には最も幸せな出来事が、後になって不幸な結果をもたらすのだとすると、見かけは不幸でも後に善いことをもたらすことに比べ、実際にはより不幸であるということが出来るのではないでしょうか。

木々をなぎ倒しながら、死を招くような不健康な有毒ガスを散らし、その環境を清める嵐は、不幸と言うよりは幸いであるということが出来るのではないでしょうか。


 ある出来事を判断する時には、その出来事のもたらす結果についてみることが必要です。人間にとってなにが本当に幸せで、なにが本当に不幸であるのかを知るには、この世の向こう側まで行ってみなければなりません。

なぜなら、地上での出来事の結果と言うものは、そこへ行ってから現れることになるからです。つまり、あなたの狭い視野に不幸として映るものは、人生の終わりとともに消滅し、その償いを未来の人生において受けることが出来るのです。

 新しい形の不幸、つまり、あなたの錯覚した魂がそのすべての力を使って求める、美しく、華々しい出来事に隠された不幸と言うものを示しましょう。

不幸とは、喜び、満足、名声、不毛な心配、良心を窒息させ、考えを圧迫し、人の未来と言うものに疑問を持たせるような、虚栄心を満たす大胆な満足のことです。不幸とは、人間が最も強烈に求める、忘却のアヘンのことなのです。


 泣く者よ希望を持ちなさい。笑うものは、震えなさい。なぜなら、肉体で満足を得ているからです。神を欺くことはできません。誰もその行き先から逃れることは出来ません。

試練は、貧困に耐えられずに後を追いかけてくる浮浪者よりも非情な取立人のように、あなたたちの後を追ってきます。

あなたたちが休息時間と錯覚している間にも、攻撃してくる時を狙っており、突然あなたたちを本当の不幸に陥れ、エゴと無関心によって弱められたあなたたちの魂を驚かすのです。

 スピリティズムの真なる光が、あなたたちの無知によってひどく変形されてしまった真実と偽りを、はっきりと元どおりに示してくれますように。

そうすればあなたたちは、栄光も進歩ももたらすことのない平和よりも、危険な戦いを望む勇敢な兵士のように行動することができるようになるのです。

栄光の勝利を得ることが出来るのであれば、戦闘中に武器、装備、衣類を失ったとしても、その兵士にとって何だというのでしょうか。

未来を信じる者にとって、その魂が天の国へ入り、輝くことが出来るのであれば、戦場に命を落とし、財産、肉体を失うことがなんだというのでしょうか。(デルフィ-ヌ・デュ・ジラルダン パリ 1861年)


 憂鬱
二十五、あなたたちは、なぜ時々、心の中に苦しみが押し寄せてきて、人生がとても苦いものに感じられるのかを知っていますか。それはあなたたちの霊が幸福と自由を熱心に求めようとしても、牢屋のような肉体に閉じ込められているため、そこから解放されたくとも解放されず、無駄な努力を繰り返すことにくたびれてしまうからなのです。

そうした努力をすることが無意味であることを知ると、やる気を失い、すると、その影響は肉体にもおよび、虚脱感、意気消沈、無気力に占拠され、あなたたちは不幸に陥ってしまうのです。

 私が言うことを信じ、あなたの意欲を弱体化させるこうした気持ちに、精力的に抵抗してください。よりよい人生を熱望する気持ちは、すべての人間の霊に生まれつき備わっているものですが、それをこの世に求めてはなりません。

今日、神はあなたたちのために善霊たちを送り、あなたたちのために用意された幸せを教えてくれるようにしてくれたのです。自由の天使を辛抱強く待つのです。

彼らはあなたたちの霊を拘束し続けるものから解放してくれるのです。あなたたちが地球上にいる間は、家族のために身を捧げたり、神によって与えられたさまざまな義務を行うといった、もはや疑ってはならない、あなたに任された使命を果たさねばならないのだと考えなければならないのです。

そしてもしこの試練の間、あなたたちの役割を遂行する途中に、心配、不安、苦悩が降りかかってくるのであれば、強く勇気を持ってそれに耐えなければなりません。

決断を固め、立ち向かっていきなさい。きっとそれは短期間に終わり、その結果、あなたたちの到着を喜んで迎え、ともに泣いてくれる友たちのところへあなたたちを導いてくれるでしょう。そして彼らはあなたたちの前に腕を広げ、地上の苦しみが届かないところまで、あなたたちを連れて行ってくれるでしょう。(フランソワ・デュ・ジュネーブ ポルドー)


  志願した試練、本当の苦行
二十六、試練を優しくすることは許されているのですか、とあなたたちは尋ねます。この質問は次のような質問を思いださせます。

「溺れる者が助かろうとすることが許されていますか」
「棘に刺された者はその棘を抜こうとすることが許されていますか」
「病気にかかった者が医者を呼ぶことが許されていますか」。

降りかかる試練はあなたたちにその忍耐、甘受の気持ちだけでなく、知性をも働かせることを目的としているのです。ある人は悲痛で困難な状況に生まれてきますが、そのことはまさにその人に困難に打ち勝つ方法を考えさせることになります。

避けることの出来ない困難がもたらした結果に不満をこぼすことなく耐え、戦い続け、それがうまくいかなかったとしても挫折してしまわないところに、試練を受けることのメリットがあるのです。

いかなることにも手を施すことなく、そのままにするのでは、それは美徳と言うよりは怠慢でしかありません。

 同じ質問は、さらにもう一つの質問を思い起こさせます。すなわち、「イエスが『苦しむ者は幸いです』といったのであれば、自ら志願し、さらに苦しみを強めることにメリットはありますか」。この質問に対し、私ははっきりと答えます。

「ハイ、そうした苦しみというものが隣人のためのものなのであれば、それは大きなメリットです。なぜなら、それは自分を犠牲にした慈善の行いであるからです。しかし、そうした苦しみというものが、自分だけのためであるならば、メリットはありません。

なぜなら、そうした苦しみとは、熱狂することによって生まれる、単なるエゴイズムの結果でしかないからです」。こうした無益な苦しみと受け入れるべき苦しみとを大きく区別する必要があります。あなたたち自身は、神によって与えられた試練を有難く受け入れねばならないのですが、すでに重く感じているものをさらに重くする必要はありません。

不平ではなく、信心をもってそれらを受け入れてください。神があなたたちに望んでいることは、すでにあなたたちが受けているものだけなのです。無駄な喪失や目的のない苦行によってあなたたちの身体を痛めつけてはなりません。

なぜなら、あなたたちは地上における任務を遂行するために、全身の力を必要としているからです。あなたたちを支え、強めてくれるあなたたちの身体を痛めつけ、自発的に自分を苦しめることは、神の法を犯すことです。

何事も濫用することなく使わねばなりません。それが神の法なのです。優れたものを濫用することは罰に値し、避けることのできない結果を生みます。

 一方で、隣人の苦しみを軽減してあげるために受ける苦しみがあります。自分は寒さと飢えに耐え、必要としている者に衣服を与え、飢えを癒してあげることが出来るのであれば、あなたの身体はそのことによって苦しみますが、その犠牲は神によって祝福されます。居心地の良いあなたたちの家を出て、汚れ、荒れ果てた小屋まで慰めを運んで行ってください。

あなたたちの繊細な手を、病む者を治すことによって汚してください。眠気をこらえ、病気の兄弟の枕元で夜通し看病をしてあげてください。あなたたちは、その健康な身体を善行に捧げることになり、そのことによって本当の苦行を行ったことになるのです。

その苦行は、神の祝福を得ることが出来る本当の苦行です。なぜなら、あなたたちの心の涙は、この世の喜びによって乾かされることは無いからです。

あなたたちは魂を弱める富がもたらす大きな喜びに溺れるのではなく、貧しい者に慰安を与える天使となったのです。

 では誘惑を避けるために孤独に生きようとこの世を逃れた者にとって、その者の地球上での役目は何なのでしょうか。

試練に立ち向かう勇気はどこにあるのですか。戦いから避け、葛藤から逃れているのではありませんか。苦行を行いたいのであれば、あなたの肉体でではなく、魂で行わなければなりません。あなたたちの身体ではなく、魂を制してください。

あなたたちのプライドに鞭を打ち、不平をいわずに辱しめを受けてください。自分への愛を痛めつけてください。肉体の痛みよりきつい、侮辱や中傷の痛みに耐え、無感覚となってください。それが本当の苦行です。

そこで負う傷は神によって数えられています。なぜなら、それは神の意志に従おうとするあなたの意欲と勇気を証明するものだからです。(ある守護霊 パリ 1863年)

℘126
二十七、隣人の試練は、可能であれば終わりにしてあげるのが良いでしょうか。それとも、神の意志を重んじ、その隣人にその試練を受けさせてあげるのがよいのでしょうか。

 すでにあなたたちには申し上げ、幾度も繰り返しました。あなたたちは償いの世界において受けるべき試練を遂行しようとしているのです。そこで起きるすべてのことがあなたたちの過去の人生がもたらした結果であり、払い残した債務なのです。

しかし、このことからある一部の人たちは、不幸な結果をもたらすことになる、避けるべきつまらぬ考えを持ちます。

 ある一部の人たちは、地球上に償いのために生きている以上、さまざまな試練が計画されたとおりに実行されることが必要なのだと考えています。また、一方で、それらの試練を軽減させるどころか、より有益となるように、それらよりきついものにするべきだと考えるのです。しかし、それは大きな間違いです。

確かにあなたたちの試練は神の計画されたとおりに実行されるべきものです。しかし、あなたたちは神がどのような計画を立てたのか知っているのですか。それらの試練がどこまで続くものなのか知っているのですか。

あなたたちの慈悲深い父は、あなたの兄弟が苦しむのを見て、「それ以上苦しむ必要はありません」と言ってくれるのだとしたらどうでしょうか。

虐待の手段として、罪を負う者をさらに苦しめるためではなく、苦しむ者のために慰安の薬となり、あなたたちの正義によって開いた傷口を塞いで上げるために、神はあなたたちを選んだのだということを知っていますか。だから傷ついた兄弟を見て、「神の正義によって苦しんでいるのだ。それに従いなさい」などと言うことがあってはなりません。

そうではなく、反対に、「慈悲深い父は、兄弟を助けるためにどのような方法を私に与えてくれたのだろう。私の道徳的な慰め、物質的な援助、忠告によって、力、忍耐、甘受の気持ちを与え、その試練に打ち勝てるようにしてあげることはできないだろうか。

神はその苦しみに終わりをもたらすものとして、私をここに遣わしたのではないだろうか」と言わなければなりません。「私にとっても試練や償いとして、その苦しみを葬り、平和の祝福と置き換える力を与えてくれたのではないだろうか」と。

 お互いの試練において、お互い助け合って下さい。決して拷問の手段となってはなりません。心の優しい者はみな、特にスピリティズムを学ぶ者であるならばこのように考えなければなりません。

なぜなら、スピリティズムを学ぶ者は、他の者に増して、神の無限なる善意の広がりを理解しなければならないからです。スピリティズムを学ぶ者は、その人生は愛と献身の実践でなければならず、神の決意に反する時には、神の正義によって処されるのだと考えなければなりません。

スピリティズムを学ぶ者は、恐れることなく全力で試練の苦しみを軽減するように努めなければなりません。なぜなら、神だけが試練を終わりとするべきか延長すべきか判断することのできる存在であるからです。

 傷口にさえも銃を突きつける権利があると考えるのは、人間の高過ぎる自尊心の表れであると言えるのではないでしょうか。試練であるという口実のもとに、苦しむ者にさらに多くの毒を盛ってはいませんか。

ああ、あなたたちは苦しみを和らげる手段として選ばれたのだと思って下さい。次のようにまとめることができます。「すべての人が償うためにこの地球にいるのです。しかし、

あなたたちの兄弟の受ける苦しみは、愛と慈善の法に沿って、いかなる苦しみをも例外なく和らげてあげることができるよう全力を尽くしてください」(守護霊 ベルナルダンボルドー、1863年)

℘127      
  治癒する望みのない病人の命を短縮することは合法でしょうか
二十八、ある人が苦悶し、残酷な苦しみの餌食となっています。その人はすでに絶望的な状況に追い込まれていることがわかります。苦悶の時間から少しでも逃れることができるように、その人の最期を短縮してあげることが許されていますか。


 神の計画を予知する権利を、だれがあなたに与えてくれるとお思いですか。ある人を墓の一歩手前まで歩ませ、その後すぐにそこから引き戻すことによって、その人が自ら考えを改めるようにさせることが、神にできることではないでしょうか。

瀕死の人が、死のどれだけ手前に行っていようと、誰にもはっきりとその人の最期の到来を断言することはできません。これまでに科学が、その予知を間違えたことがありませんでしたか。


 理性によって、絶望的と考えられるケースが存在することはよく知っています。しかし、命や健康を完全に取り戻さなかったとしても、息を引きとる直前に突然回復し、少しの間、活力と感覚を取り戻すことが良くありませんか。そうです。その病人に与えられるその貴重な一瞬は、彼にとって最も重要な時間となり得るのです。

苦痛に痙攣する間、その人の霊が省みるものが何であるのか、また、そうした間の一瞬の反省が、その人をどれだけの苦しみから解放してくれるのか、あなたたちは知ろうとしないのです。

 肉体のことしか考えない唯物主義者には、魂の存在など考慮に入れることはできず、以上のようなことを理解することが出来ません。しかし、スピリティズムを学ぶ者は、墓の向こうに何があるのかを知っており、最期の思いの重要性というものを知っています。

最期の苦痛を出来る限り和らげてあげてください。しかし、たとえ一分であったとしても、命を短縮させてあげようなどという考えは遠ざけてください。なぜなら、その最期の一分によって、その人は将来多くの涙を流さずに済むことになるかもしれないからです。(聖王ルイ パリ 1860年)

℘128
  自らの命を犠牲にすること
二十九、生きることが嫌になってしまった者が、自殺はしないまでも、自分の死を何かの役に立てようと、死を求めて戦場へ出かけて行くことに罪はありますか。

 ある人が自殺しようと、自分を人に殺させようと、何れにしてもその目的は人生を短縮することにあります。それゆえ、実際に自殺しなくとも、意図的な自殺をしたことになり得るのです。自分の死がなにかの役に立つだろうなどという考えは錯覚でしかありません。

それは単なる言い訳であって、罪深い行動であることを隠し、自分自身の目をごまかして責任逃れをしているに過ぎないのです。もしその人が真剣に母国のために身を捧げたいのであれば、母国を守るために生き延びようとする筈であり、死のうとはしません。

なぜなら、一度死んでしまえば、もう何の役にも立たないからです。本当の献身とは、役に立とうとするときに死を恐れずに危険に立ち向かい、必要であれば、命を捨てることに前もってこだわることもなく、その犠牲をも捧げることです。

しかし、最初から死を求め、危険な場所、危険な任務に自分を置くのであれば、その行動に真なる功労はないことになります。(聖王ルイ パリ、1860年)


三十、ある人の命を救おうとし、死ぬことを覚悟で切迫した危険に身を投じることは、自殺と考えることはできますか。

 そうした時、そこに死を求める意思がないのですから、自殺とは考えられません。死ぬ確信があったとしても、そうさせるものは献身と無我の気持ちです。しかし、この死ぬ確信と言うものも、誰が持つことができるでしょうか。危篤の状態となった時、神の意が予期せぬ救いの方法を与えてくれないとも限りません。

その神意は大砲の砲口に立たされた者さえも救うことが出来るのではないでしょうか。また、多くの場合、神意は忍従の気持ちを試すために人を最期の限界まで追い詰め、予測していなかった状況において、致命的な一撃を遠ざけてくれるのです。(聖王ルイ パリ 1860年)


 他人のために感じる苦しみの利益
三十一、自分の苦しみを甘受し、自分の未来の幸福のために神の意志に服従する者が、自分だけのために働いても、他人のためにはならないのではありませんか。自分の苦しみを他人のために有益なものとすることができますか。

 そうした苦しみは、物質的にも道徳的にも他人のために有益なものとなり得ます。働くことによって、その人の喪失や犠牲が他人に安楽を与えるのであれば、物質的に有益となることができます。

神の意志に服従する態度は、他人への模範となり、道徳的に有益となることができます。スピリティズムを学ぶ者が模範となって示す信仰の力は、不幸な者に甘受の気持ちを持つことを教え、彼らを未来における絶望的な状況や不幸な結果から救うことになるのです。(聖王ルイ パリ 1860年)