これより暫しのあいだ貴殿の精神をお借りし、引き続き悪の問題と善との関係について述べたいと思う。善といい悪といい、所詮は相対的用語であり、地上の人間の観点よりすればいずれも絶対的ということは有り得ない。
双方の要素を兼ね具える者にはそのいずれも完全に定義することが出来ないのが道理で、ただ単に、あるいは、主として、その働きの結果として理解するのみである。
また、忘れてならないことは、ある者にとって善または悪と思えることが必ずしも別の者からみて善または悪とは思えないということである。宗教的教義の違い、民族的思想や生活習慣の違いのある場合にはそれが特に顕著となる。
故に両者の定義の問題においてはその基本的原理の大要を把握することで足れりとし、そこから派生する細部の問題は地上生活を終えたのちに託することが賢明である。
さて、悪とは法則として働くところの神への反逆である。賢明なる者はその法則の流れる方角へ向けて歩むべく努力する。故意または無知ゆえにその流れに逆らう者は、たちまちにしてゆく手を阻まれる。そして、もしもなお逆らい続けるならばそこに不幸が生じる。
生成造化を促進する生命は破壊的勢力と相対立するものだからである。故に、もし仮にその強烈な生命の流れに頑強に抵抗し続け得たとしても、せき止められた生命力がいずれは堰を切って流れ、その者を一気に押し流すことになろう。
が、幸いにして、そこまで頑強に神に反抗する者、あるいは抵抗しうる者はいない。故に、吾々神の子の弱さそのものが、実はそうした完全なる破滅を防ぐ安全弁であると言えるのである。
比較的長期間──往々にして地上の年月にして何千年何万年にも亘って頑固に抵抗し続ける者がいないでもない。が、いかなる人間も永遠にその状態を続けうる者はいない。
そこに父なる創造神が子等の内と外に設けた限界があり、一人として神より見離され永遠に戻れぬ羽目に陥らないようにとの慈悲があるのである。
そこで、そうした神との自然な歩みから外れた生き方を観たからには、こんどはその反対、すなわち全てが然るべき方角へ向かっている状態に目を向けよう。確かに悪は一時的な状態に過ぎない。
そして全宇宙から悪のすべてが拭い去られるか否かは別として、少なくとも個々の人間においては、抵抗力を使い果たした時に悪の要素が取り除かれ、あとは栄光より更に大いなる栄光へと進む輝かしき先輩霊の後に続くに任せることになろう。
この意味において、いつかは神の国より全ての悪が清められる時が到来するであろう。
何となれば神の国も個々の霊より構成されているのであり、最後の一人が招き入れられた時は、いま地球へ向けて行っているのと同じように別の天体へ向けて援助と救助の手を差しのべることになろう。吾々の多くはそう信ずるのである。
こうして地上に降り、今いる位置から吾々の世界と地上との間に掛るベールを透して覗いてみると、一度に大勢の人間が目に入る時もあれば、僅かしか見えない時もある。彼らは各々の霊格に応じてその光輝に差異がみられる。
神より吾々を通して地上界へ流れ来る霊的な〝光〟を反射する能力に応じた光輝を発しているということである。薄ぼんやりと見える者がいるが、彼らはこちらへ来てもそれ相応の、あるいはそれ以下の、薄ぼんやりとした境涯へと赴く。
それ故、そこにいる者は各自その置かれた環境と雰囲気の中できわめて自然に映ることになる。そこがその人の〝似合いの場所〟なのである。譬え話でもう少し判り易く説明しよう。
仮に闇夜にいきなり閃光が放たれたとしよう。暗闇と閃光の対照が余りに際立つために見る者の目に不自然に映る、閃光は本来そこに在るべきものではなかった。ために暗闇に混乱が生じ、すべてのものが一瞬その動きを止める。
暗闇の中を手探りで進みつつあった者は目が眩んで歩みを止め、目をこすり、しばらくして再び歩み始める。夜行性の動物も一瞬ぎょっとして足を止める。
しかし同じ閃光が真昼に放たれたとしたらどうであろう。当惑する者は少なく、更にこれを太陽へ向けて放てば陽光と融合して、そこに何の不調和も生じないであろう。
かくして強い光輝を発する高級霊はその光輝と調和する明るさを持つ高い境涯へと赴く。むろん高級霊の間にもそれなりの差があり、各霊がそれ相応の界に落着く。
反対に霊的体質の粗野な者は、それに調和する薄暗い境涯へ赴き、その居心地良い環境の中で修身に励むのである。むろんそこが真の意味で〝居心地のよい〟環境ではない。
ただ、より高い世界へ行けばその光輝と調和しないために暗い世界より居心地が悪いというに過ぎない。そこに居心地よさを感じるためには、自分の光輝を強めるほかはない。
地上を去ってこちらへ来る者は例外なく厚い霧状のとばりに包まれている。が、その多くはすでに魂の内部において高い界に相応しい努力の積み重ねがある。そうした者はいち早くより明るい境涯へと突入していく。
今、遥か上方へ目をやれば、そこに王の道──地球の守護神の王座の坐(ましま)す聖都へ通ずる道が見える。吾らはその道を一歩一歩進みつつある。そして一歩進むごとに光輝が増し、吾々も、そして吾々と共に歩む同志たちも、美と光輝とを増して行く。
その中途において特別の許しを得て、それまで辿ってきた道を逆戻りし、期間はその必要性によって異なるが、地上の者を吾々の辿って来た光と美の道へと導く仕事に携わることができるのは、吾々の大いなる喜びとするところである。
貴殿の守護霊として私は、貴殿が現在の心の姿勢で臨んでくれるかぎり、吾々霊団と共にこの仕事を続ける所存である。
貴殿はそのつもりであると信じる。が、よくよく心してもらいたいことは、勇躍この仕事に着手はしたものの、新しい真理の光に目が眩み、猜疑心を抱いてより暗い道、つまりは己の魂の視力に相応しい段階へと後戻りする者が多いことである。去る者は追わず。
吾らはその者たちを溜息とともに見送り、新たなる人物、吾々の光輝に耐え得る人物を求める。惜しくも去れる者は、時の経過とともに再び目醒めて戻ってくるまで待つほかはないのである。
願わくば神の御力によって、貴殿が足を踏み外すことなく、また目を曇らされることのなく進まれることを祈る。たとえ地上の言語で書き表せないことも、少しでも多くを綴ってもらうべく吾らとしても精一杯の努力をするであろう。
貴殿を通じて他の多くの者がそれを手中にし、そこに真理を発見し、なお勇気があれば自ら真理の扉を叩き、その光輝と栄光を手にする。その縁(よすが)となればと願うからである。 ♰
双方の要素を兼ね具える者にはそのいずれも完全に定義することが出来ないのが道理で、ただ単に、あるいは、主として、その働きの結果として理解するのみである。
また、忘れてならないことは、ある者にとって善または悪と思えることが必ずしも別の者からみて善または悪とは思えないということである。宗教的教義の違い、民族的思想や生活習慣の違いのある場合にはそれが特に顕著となる。
故に両者の定義の問題においてはその基本的原理の大要を把握することで足れりとし、そこから派生する細部の問題は地上生活を終えたのちに託することが賢明である。
さて、悪とは法則として働くところの神への反逆である。賢明なる者はその法則の流れる方角へ向けて歩むべく努力する。故意または無知ゆえにその流れに逆らう者は、たちまちにしてゆく手を阻まれる。そして、もしもなお逆らい続けるならばそこに不幸が生じる。
生成造化を促進する生命は破壊的勢力と相対立するものだからである。故に、もし仮にその強烈な生命の流れに頑強に抵抗し続け得たとしても、せき止められた生命力がいずれは堰を切って流れ、その者を一気に押し流すことになろう。
が、幸いにして、そこまで頑強に神に反抗する者、あるいは抵抗しうる者はいない。故に、吾々神の子の弱さそのものが、実はそうした完全なる破滅を防ぐ安全弁であると言えるのである。
比較的長期間──往々にして地上の年月にして何千年何万年にも亘って頑固に抵抗し続ける者がいないでもない。が、いかなる人間も永遠にその状態を続けうる者はいない。
そこに父なる創造神が子等の内と外に設けた限界があり、一人として神より見離され永遠に戻れぬ羽目に陥らないようにとの慈悲があるのである。
そこで、そうした神との自然な歩みから外れた生き方を観たからには、こんどはその反対、すなわち全てが然るべき方角へ向かっている状態に目を向けよう。確かに悪は一時的な状態に過ぎない。
そして全宇宙から悪のすべてが拭い去られるか否かは別として、少なくとも個々の人間においては、抵抗力を使い果たした時に悪の要素が取り除かれ、あとは栄光より更に大いなる栄光へと進む輝かしき先輩霊の後に続くに任せることになろう。
この意味において、いつかは神の国より全ての悪が清められる時が到来するであろう。
何となれば神の国も個々の霊より構成されているのであり、最後の一人が招き入れられた時は、いま地球へ向けて行っているのと同じように別の天体へ向けて援助と救助の手を差しのべることになろう。吾々の多くはそう信ずるのである。
こうして地上に降り、今いる位置から吾々の世界と地上との間に掛るベールを透して覗いてみると、一度に大勢の人間が目に入る時もあれば、僅かしか見えない時もある。彼らは各々の霊格に応じてその光輝に差異がみられる。
神より吾々を通して地上界へ流れ来る霊的な〝光〟を反射する能力に応じた光輝を発しているということである。薄ぼんやりと見える者がいるが、彼らはこちらへ来てもそれ相応の、あるいはそれ以下の、薄ぼんやりとした境涯へと赴く。
それ故、そこにいる者は各自その置かれた環境と雰囲気の中できわめて自然に映ることになる。そこがその人の〝似合いの場所〟なのである。譬え話でもう少し判り易く説明しよう。
仮に闇夜にいきなり閃光が放たれたとしよう。暗闇と閃光の対照が余りに際立つために見る者の目に不自然に映る、閃光は本来そこに在るべきものではなかった。ために暗闇に混乱が生じ、すべてのものが一瞬その動きを止める。
暗闇の中を手探りで進みつつあった者は目が眩んで歩みを止め、目をこすり、しばらくして再び歩み始める。夜行性の動物も一瞬ぎょっとして足を止める。
しかし同じ閃光が真昼に放たれたとしたらどうであろう。当惑する者は少なく、更にこれを太陽へ向けて放てば陽光と融合して、そこに何の不調和も生じないであろう。
かくして強い光輝を発する高級霊はその光輝と調和する明るさを持つ高い境涯へと赴く。むろん高級霊の間にもそれなりの差があり、各霊がそれ相応の界に落着く。
反対に霊的体質の粗野な者は、それに調和する薄暗い境涯へ赴き、その居心地良い環境の中で修身に励むのである。むろんそこが真の意味で〝居心地のよい〟環境ではない。
ただ、より高い世界へ行けばその光輝と調和しないために暗い世界より居心地が悪いというに過ぎない。そこに居心地よさを感じるためには、自分の光輝を強めるほかはない。
地上を去ってこちらへ来る者は例外なく厚い霧状のとばりに包まれている。が、その多くはすでに魂の内部において高い界に相応しい努力の積み重ねがある。そうした者はいち早くより明るい境涯へと突入していく。
今、遥か上方へ目をやれば、そこに王の道──地球の守護神の王座の坐(ましま)す聖都へ通ずる道が見える。吾らはその道を一歩一歩進みつつある。そして一歩進むごとに光輝が増し、吾々も、そして吾々と共に歩む同志たちも、美と光輝とを増して行く。
その中途において特別の許しを得て、それまで辿ってきた道を逆戻りし、期間はその必要性によって異なるが、地上の者を吾々の辿って来た光と美の道へと導く仕事に携わることができるのは、吾々の大いなる喜びとするところである。
貴殿の守護霊として私は、貴殿が現在の心の姿勢で臨んでくれるかぎり、吾々霊団と共にこの仕事を続ける所存である。
貴殿はそのつもりであると信じる。が、よくよく心してもらいたいことは、勇躍この仕事に着手はしたものの、新しい真理の光に目が眩み、猜疑心を抱いてより暗い道、つまりは己の魂の視力に相応しい段階へと後戻りする者が多いことである。去る者は追わず。
吾らはその者たちを溜息とともに見送り、新たなる人物、吾々の光輝に耐え得る人物を求める。惜しくも去れる者は、時の経過とともに再び目醒めて戻ってくるまで待つほかはないのである。
願わくば神の御力によって、貴殿が足を踏み外すことなく、また目を曇らされることのなく進まれることを祈る。たとえ地上の言語で書き表せないことも、少しでも多くを綴ってもらうべく吾らとしても精一杯の努力をするであろう。
貴殿を通じて他の多くの者がそれを手中にし、そこに真理を発見し、なお勇気があれば自ら真理の扉を叩き、その光輝と栄光を手にする。その縁(よすが)となればと願うからである。 ♰
No comments:
Post a Comment