霊界の区分けと名称について
訳者 近藤 千雄
本シリーズ(シルバーバーチの霊訓)をお読みくださっている方は、私が死後の世界を〝霊界〟又は〝霊の世界〟という用語で通していることにお気づきと思う。
時に上層界とか高級界、あるいは下層界、低級界といった大ざっぱな言い方をすることもあるが、他の霊界通信に見られるような幽界とか神界、精霊界、地獄といった特定の用語は用いていない。これはシルバーバーチ自身が意図的にそうしており、私もその意図を佳しとして忠実に従っているからに他ならない。
その意図とは何か。それは前巻の解説でも触れたように、今は難解な理屈を捏ねまわしている時ではない───最も基本的な霊的真理を説くことこそ急務であるという認識のもとに、誰もが知っておくべき真理を誰にでも分かる形で説くということである。
その具体的な例が〝死後の世界〟ないし〝霊の世界〟の存在という簡単な事実である。人類は太古よりいずこの民族でも〝死んでもどこかで生き続けている〟という漠然とした信仰を抱いてきた。
本来が霊的存在であることが分かってみればそれは当然のことと言えるが、従来はそれが〝信仰〟という形で捉えられ、しかも地上での生身の生活が実在で、死後の世界は形体も実質も無い世界であるかのように想像したり、地獄や極楽、天国といった人間の恐怖心や願望から生まれるものをそれに当てはめていたが、所詮はそう思う、そう信じるといった程度のものに過ぎなかった。
それが十九世紀半ばに至って、各種の超常的現象、いわゆる心霊現象が五感で確認できる形で実験・観察できるようになり、それによって〝霊〟の存在が信仰から事実へと変わり、その〝霊〟からのメッセージによって死後の世界の真相が次から次へと明かされていった。
その代表的なものを挙げれば、モーゼスの「霊訓」、オーエンの「ベールの彼方の生活」、マイヤースの「永遠の大道」並びに「個人的存在の彼方」、カルデックの「霊の書」、そしてこの「シルバーバーチの霊訓」等々があり、その他にも地味ながら立派なものが豊富に存在する。
その一つひとつに他に見られない特徴があり、従ってどれが一番良いとか悪いとかのランク付けは出来ないし、又すべきことでもないが、その中には死後の世界の段階的区分けに力を入れているものが幾つかある。
中でもマイヤースが一番詳しく、七つに分類して各々に名称まで付けている。同じく七つに分けているものに「霊訓」のインペレーターがいるが、それをマイヤースの七つの界と同じと考えてはならない。
と言うのは、インペレーターは宇宙を大きく三層に分け、それぞれの界に七つずつ界があり、最下層の最高界が地上界で、中間層に七つの〝動〟の世界があり、その後に至福の七つの〝静〟の世界がある、とだけ述べて、各界の特徴については何も述べてはいない。
また〝静〟の世界の内面については何も知らない。つまり究極の実在界の真相は知らないと言う。
その点はオーエンを通じて通信を送ってきている守護霊のザブディエルも同じで、自分は第十界の者であると言い、第十一界との境界でザブディエル自身の守護霊と面会した話が出ている(第二巻)が、それから先はどうなっているのか、何界あるのか、見当もつかないと述べている。
究極のことは何も知らない、と正直に告白するのは筆者がこれまで翻訳・紹介してきた通信の全てに共通した特徴で、筆者は、そう告白出来るか否かがその霊の霊格の高さを占うものさしになるとさえ思っている。
さて日本人にとって一番馴染みやすいのは四界説であろう。これは日本の古代思想である惟神(かんながら)の道の考えに四魂説があるところから来ているのではないかと筆者は考える。
つまり人間には荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)の四つの身体があり、それを一つの霊が使用しているというのであるが、
身体───霊が顕現するための媒体が四つある以上は、その身体で生活する世界も四つある(その一つが物質界)というのは極めて自然な発想であり、確かに西洋でもそれを裏付ける通信が幾つか出ている。
そして浅野和三郎がこれを現界、幽界、霊界、神界と呼んだのは、日本人の心情に照らしてもスピリチュアリズムの光に照らしても、けだし当を得た説であると思う。
ただ問題はその理解の仕方である。これは霊の使用する媒体を中心に考えた分類法であって、霊そのものは決してそのうちのどれか一つに固定されているわけではない点をよく理解しなければならない。
つまり身体は現界にあっても霊の意識の焦点は幽界にある人、霊界にある人、神界にある人等々の区別があり、睡眠中もその世界に出入りし、死後も一気にその界へ赴く。
「霊訓」の続編である「続霊訓」の中でインペレーターが霊言で語っているところによると、イエスは在世中、一人でいる時は何時も肉体を離れ(幽体離脱現象)、一度も物質界に降りたことのない天使───日本流にいえば自然霊───の一団と交わっていたという。
これで判る通り、媒体を基準にした分類法とは別に、霊格を基準にした分類法もあり得るわけで、霊界通信の分類の仕方がまちまちである原因も、その基準の置きどころの違いにあるわけである。霊の言うことが矛盾していることを理由にその信憑性を疑う人がいるが、これは短絡的すぎる。
さてシルバーバーチが死後の世界の事を〝霊界〟the Spirit Worldと言ったり〝霊の世界〟the World of Spirit と言ったりするだけで、それ以上に細かい分類をしないのは決して段階的界層がないことを主張しているからではない。その証拠に(また英語の解説になって恐縮であるが)a Spirit World と言ったり a World of Spiritと言ったりすることがあるからである。
前回の解説でも述べた通り、the を冠している時は普遍的な意味に用い、a 冠している時は個々の界の一つを指している。言えかえれば界が複数あるということを示唆しているわけである。
ではなぜ個々の界を分類的に説明しないのか。これに対する回答も前回と同じく、そんな理屈っぽい知識は霊性の向上にとって何の益にもならない、人類にとって急務でもないということに尽きるようである。
筆者もこの考え方に全面的に賛成である。誤解されそうな箇所では注釈を入れることはあっても、全体的には一貫して〝霊界〟で通している。霊の世界という意味である。
むろん死後の世界の段階的分類が面白いテーマであることを否定するわけではない。私なりの見解も持っているが、少なくともシルバーバーチを翻訳・紹介していく上では、そういう理屈っぽい問題に深入りしないように気を配っている。
どうしてもという方は拙訳「スピリチュアリズムの真髄」(ジョン・レナード著・国書刊行会)を参考にしていただきたい。〝死後の世界〟と〝死後の生活〟とに分けて、そのテーマに関する数々の霊界通信から抜粋が豊富に紹介されていて興味深い上に、レナード自身の解説にも説得力がある。
時に上層界とか高級界、あるいは下層界、低級界といった大ざっぱな言い方をすることもあるが、他の霊界通信に見られるような幽界とか神界、精霊界、地獄といった特定の用語は用いていない。これはシルバーバーチ自身が意図的にそうしており、私もその意図を佳しとして忠実に従っているからに他ならない。
その意図とは何か。それは前巻の解説でも触れたように、今は難解な理屈を捏ねまわしている時ではない───最も基本的な霊的真理を説くことこそ急務であるという認識のもとに、誰もが知っておくべき真理を誰にでも分かる形で説くということである。
その具体的な例が〝死後の世界〟ないし〝霊の世界〟の存在という簡単な事実である。人類は太古よりいずこの民族でも〝死んでもどこかで生き続けている〟という漠然とした信仰を抱いてきた。
本来が霊的存在であることが分かってみればそれは当然のことと言えるが、従来はそれが〝信仰〟という形で捉えられ、しかも地上での生身の生活が実在で、死後の世界は形体も実質も無い世界であるかのように想像したり、地獄や極楽、天国といった人間の恐怖心や願望から生まれるものをそれに当てはめていたが、所詮はそう思う、そう信じるといった程度のものに過ぎなかった。
それが十九世紀半ばに至って、各種の超常的現象、いわゆる心霊現象が五感で確認できる形で実験・観察できるようになり、それによって〝霊〟の存在が信仰から事実へと変わり、その〝霊〟からのメッセージによって死後の世界の真相が次から次へと明かされていった。
その代表的なものを挙げれば、モーゼスの「霊訓」、オーエンの「ベールの彼方の生活」、マイヤースの「永遠の大道」並びに「個人的存在の彼方」、カルデックの「霊の書」、そしてこの「シルバーバーチの霊訓」等々があり、その他にも地味ながら立派なものが豊富に存在する。
その一つひとつに他に見られない特徴があり、従ってどれが一番良いとか悪いとかのランク付けは出来ないし、又すべきことでもないが、その中には死後の世界の段階的区分けに力を入れているものが幾つかある。
中でもマイヤースが一番詳しく、七つに分類して各々に名称まで付けている。同じく七つに分けているものに「霊訓」のインペレーターがいるが、それをマイヤースの七つの界と同じと考えてはならない。
と言うのは、インペレーターは宇宙を大きく三層に分け、それぞれの界に七つずつ界があり、最下層の最高界が地上界で、中間層に七つの〝動〟の世界があり、その後に至福の七つの〝静〟の世界がある、とだけ述べて、各界の特徴については何も述べてはいない。
また〝静〟の世界の内面については何も知らない。つまり究極の実在界の真相は知らないと言う。
その点はオーエンを通じて通信を送ってきている守護霊のザブディエルも同じで、自分は第十界の者であると言い、第十一界との境界でザブディエル自身の守護霊と面会した話が出ている(第二巻)が、それから先はどうなっているのか、何界あるのか、見当もつかないと述べている。
究極のことは何も知らない、と正直に告白するのは筆者がこれまで翻訳・紹介してきた通信の全てに共通した特徴で、筆者は、そう告白出来るか否かがその霊の霊格の高さを占うものさしになるとさえ思っている。
さて日本人にとって一番馴染みやすいのは四界説であろう。これは日本の古代思想である惟神(かんながら)の道の考えに四魂説があるところから来ているのではないかと筆者は考える。
つまり人間には荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)の四つの身体があり、それを一つの霊が使用しているというのであるが、
身体───霊が顕現するための媒体が四つある以上は、その身体で生活する世界も四つある(その一つが物質界)というのは極めて自然な発想であり、確かに西洋でもそれを裏付ける通信が幾つか出ている。
そして浅野和三郎がこれを現界、幽界、霊界、神界と呼んだのは、日本人の心情に照らしてもスピリチュアリズムの光に照らしても、けだし当を得た説であると思う。
ただ問題はその理解の仕方である。これは霊の使用する媒体を中心に考えた分類法であって、霊そのものは決してそのうちのどれか一つに固定されているわけではない点をよく理解しなければならない。
つまり身体は現界にあっても霊の意識の焦点は幽界にある人、霊界にある人、神界にある人等々の区別があり、睡眠中もその世界に出入りし、死後も一気にその界へ赴く。
「霊訓」の続編である「続霊訓」の中でインペレーターが霊言で語っているところによると、イエスは在世中、一人でいる時は何時も肉体を離れ(幽体離脱現象)、一度も物質界に降りたことのない天使───日本流にいえば自然霊───の一団と交わっていたという。
これで判る通り、媒体を基準にした分類法とは別に、霊格を基準にした分類法もあり得るわけで、霊界通信の分類の仕方がまちまちである原因も、その基準の置きどころの違いにあるわけである。霊の言うことが矛盾していることを理由にその信憑性を疑う人がいるが、これは短絡的すぎる。
さてシルバーバーチが死後の世界の事を〝霊界〟the Spirit Worldと言ったり〝霊の世界〟the World of Spirit と言ったりするだけで、それ以上に細かい分類をしないのは決して段階的界層がないことを主張しているからではない。その証拠に(また英語の解説になって恐縮であるが)a Spirit World と言ったり a World of Spiritと言ったりすることがあるからである。
前回の解説でも述べた通り、the を冠している時は普遍的な意味に用い、a 冠している時は個々の界の一つを指している。言えかえれば界が複数あるということを示唆しているわけである。
ではなぜ個々の界を分類的に説明しないのか。これに対する回答も前回と同じく、そんな理屈っぽい知識は霊性の向上にとって何の益にもならない、人類にとって急務でもないということに尽きるようである。
筆者もこの考え方に全面的に賛成である。誤解されそうな箇所では注釈を入れることはあっても、全体的には一貫して〝霊界〟で通している。霊の世界という意味である。
むろん死後の世界の段階的分類が面白いテーマであることを否定するわけではない。私なりの見解も持っているが、少なくともシルバーバーチを翻訳・紹介していく上では、そういう理屈っぽい問題に深入りしないように気を配っている。
どうしてもという方は拙訳「スピリチュアリズムの真髄」(ジョン・レナード著・国書刊行会)を参考にしていただきたい。〝死後の世界〟と〝死後の生活〟とに分けて、そのテーマに関する数々の霊界通信から抜粋が豊富に紹介されていて興味深い上に、レナード自身の解説にも説得力がある。
No comments:
Post a Comment