Monday, February 23, 2026

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


2節

本節の内容真の博愛主義者
真の哲学者
永遠の生命

善と悪との葛藤
戦死霊、自殺霊、死刑霊の影響
犯罪人の扱い方の問題点
集団収容と絞首刑の弊害
更生を目的とした処罰
死刑は復讐心を増幅させる
神の認識の誤り
慈悲と愛
新しい霊的福音の必要性


〔本章の通信も前章と同様インペレーターからのものである。地上という人格養成学校における最も望ましい生活はいかなる生活かという質問から始まった。インペレーターは頭脳と同様に心の大切さを強調し、身体と知性と愛情の調和の取れた発育が望ましいことを説いた。要するにバランスの欠如が進歩を妨げる大きな要因であると言う。そこで私は博愛主義者が理想的人間像なのかと尋ねた。すると――〕


真実の博愛主義者、全てに先んじて同胞の利益と進歩を慮(おもんぱか)る人こそ真実の人間、真の神の子である。なぜなら神こそ真の博愛主義者だからである。真の博愛主義者とは時々刻々と神に近づきつゝある者のことである。絶え間なき努力によりて永遠にして不滅の同情心を広げつつ、その不断の同情心の行使の中に、汲めども尽きぬ幸福感を味わう。博愛主義者と哲学者、すなわち人類愛に燃える人間と偏見なき道理探求者こそ神の宝――比類なき価値と将来性に満ちた珠玉である。前者は民族の違い、土地の違い、教義の違い、名称の違い等の制約に捉われることなく、一視同仁、全人類を同胞としてその温かき心の中に抱き込む。全ての人間を、友としてまた兄弟として愛するのである。思想の如何を問わず、ひたすらにその者の必要とするものを洞察し、それに相応(ふさわ)しい進歩的知識を授けることに無上の喜びを覚える。これぞ真の博愛主義者である。もっとも、しばしば似て非なる博愛主義者がいる。己の名声を広めんがために己に同調する者、それに媚(こ)びへつらい施しをする者のみを愛する。かくの如き似非(えせ)博愛主義者はその真実の印である“博愛”を傷つける者である。

一方哲学者は一切の宗教、いかなる教派のドグマにも媚びず、一切の偏見を捨て、いかなる真理でも、いやしくも証明されたものは潔(いさぎよ)く受け入れる。即ち、かくあるべき――従ってかくあらねばならぬという固定観念に捉われることなく、神的叡智の探求に邁進し、そこに幸せを見出す。彼には宝庫の尽きることを懸念する必要はない。何となれば神の真理は無限だからである。生命の旅を通じてひたすらに、より豊かな知識の宝の蒐集に喜びを見出す。言い換えれば神についてのより正しき知識の蒐集である。

この二者の結合、すなわち博愛主義者的要素と哲学者的要素とが一体となりし時、そこに完璧なる理想像ができあがる。両者を兼ね備えし魂は片方のみを有する魂より大いなる進歩を遂げる。


――“生命の旅”と言われましたが、これは永遠ですか。


然り。生命は永遠である。そう信ずるに足る十分なる証(あかし)がある。生命の旅には二つの段階がある。即ち進歩的“動”の世界と超越的“静”の世界である。今なお“動”の世界にあり(そなたらの用語で言えば)幾十億年――限りある知性の範囲を超えて事実上無限の彼方までも進化の道程を歩まんとするわれらとて、超越界については何一つ知らぬ。が、われらは信ずる――その果てしなき未来永劫の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。過去の全てを捨て去り、神の光を浴びつつ宇宙の一切の秘密の中に寂滅(じゃくめつ)する、と。が、それ以上は何一つ語れぬ。あまりに高く、あまりに遠すぎるのである。そなたたちはそこまで背伸びすることはない。生命には事実上終末はなきものと心得るがよい。そしてその無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院に通じる遥か手前の門に近づくことを心がけておればよい。


――無論そうであろうと思います。あなたご自身は地上に居られた時より神について多くを知ることを得ましたか。


神の愛の働き、無限なる宇宙を支配し導く暖かきエネルギーの作用についてはより多くを知ることを得た。つまり神については知ることを得た。が、神そのものを直接には知り得ぬ。これより後も、かの超越界に入るまでは知り得ぬであろう。われらにとっても神はその働きにより知り得るのみである。


〔ひき続いての対話の中で私は再び善と悪との闘いに言及した。それに対して、と言うよりは、その時の私の脳裏にわだかまっていた疑問に対して、長々と返答が書かれた。そして、これから地上に霊的な嵐が吹きすさび、それが十年ないし十二年続いて再び一時的な凪(なぎ)が訪れると語った。予言めいたことを述べたのはこれが最初である。次に掲げるのは、内容的にはその後も繰り返し語られたことであるが、その時に綴られたまゝを紹介しておく。〕


そなたが耳にせるものは、これよりのちも続く永くかつ厳しい闘いのささやき程度に過ぎぬ。善と悪との闘いは時を隔てて繰り返し起きるものである。霊眼をもって世界の歴史を読めば、善と悪、正と邪の闘いが常に繰り返されて来たことを知るであろう。時には未熟なる霊が圧倒的支配を勝ち得た時期があった。ことに大戦のあとにそれがよく見られる。機の熟せざるうちに肉体より離れた戦死者の霊が大挙して霊界へ送り込まれるためである。彼らは未だ霊界への備えができておらぬ。しかも戦いの中で死せる霊の常として、その最期の瞬間の心は憤怒に燃え、血に飢え、邪念に包まれている。死せるのちもなお、その雰囲気の中にて悪のかぎりを尽くす。

霊にとりて、その宿れる肉体より無理やりに離され、怒りと復讐心に燃えたまま霊界へ送られることほど危険なるものはない。いかなる霊にとりても、急激にそして不自然に肉体より切り離されることは感心せぬ。われらが死刑を愚かにして野蛮なる行為であるとする理由もそこにある。死後の存続と進化についての無知が未開人のそれに等しいが故に野蛮であり、未熟なる霊を怨念に燃えさせたまま肉体より離れさせさらに大きな悪行に駆り立てる結果となっているが故に愚かと言うのである。そなたらはみずから定めた道徳的並びに社会的法律に違反せる者の取り扱いにおいてあまりに盲目的であり無知である。幼稚にして低俗なる魂が道徳を犯す。あるいは律法を犯す。するとそなたらはすぐにその悪行の道を封じる手段に出る。本来ならばその者を悪の力の影響から切り離し、罪悪との交わりを断ち切らせ、聖純なる霊力の影響下に置くことによって徐々に徳育を施すべきところを、人間はすぐに彼らを牢獄に閉じ込める。そこには彼と同じ違反者が群がり、陰湿なる邪念に燃えている。それのみか、霊界の未熟なる邪霊までもそこにたむろし、双方の邪念と怨恨とによって、まさに巣窟と化している。

何たる無分別! 何たる近視眼! 何たる愚行! その巣窟にわれらが入ろうにも到底入ることを得ぬ。神の使者はただ茫然として立ちすくむのみである。そうして、人間の無知と愚行の産物たる悪の集団(人間と霊の)を目(ま)のあたりにして悲しみの涙を流す。そなたらが犯す罪の心は所詮癒せぬものと諦めるのも不思議ではない。何となればそなたら自らが罪の道に堕ちる者を手ぐすね引いて待ちうける悪霊にまざまざと利用されているからである。いかに多くの人間が自ら求めて、あるいは無知から、悪霊の虜(とりこ)にされ、冷酷なる心のまま牢獄より霊界へ送り込まれているか、そなたらは知らぬし、知り得ぬことでもあろう。が、もしも人間が右の如き事実を考慮して事に臨めば、必ずや功を奏し、道を踏みはずせる霊、悪徳の世界に身を沈めし霊に計り知れぬ救いを授けることになろう。

罪人は訓え導いてやらねばならぬ。罰するのはよい。われらの世界でも処罰はする。が、それは犯せる罪がいかに己自身を汚し、いかに進歩を遅らせているかを悟らせるための一種の見せしめであらねばならぬ。神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らを置き、罪を償い、真理の泉にて魂を潤すことを体験させてやらねばならぬ。そこには神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、暖かき霊波を注ぎ込んでくれることであろう。然るにそなたらは罪人を寄せ集め、手を施す術(すべ)なき者として牢に閉じ込めてしまう。その後、さらに意地悪く、残酷に、そして愚か極まる方法にて処罰する。かくの如き扱いを受けし者は、刑期を終えて社会に復したのちも繰り返し罪を犯す。そしてついに最後の、そして最も愚かなる手段に訴えるべき罪人の名簿に書き加えられる。即ち死刑囚とされ、やがて斬首される。心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界へ来る。それまでは肉体という足枷(あしかせ)があった。が、今その足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔の如き邪念に駆られて暴れまわるのである。

人間は何も知らぬ! 何も知らぬ! 己の為すことがいかに愚かであるか一向に知らぬ。己こそ最大の敵であることを知らぬ。神とわれらと、そしてわれらに協力せる人間を邪魔せんとする敵を利することになっていることを知らぬ。

知らぬと同様に、愚かさの極みである。邪霊がほくそえむようなことに、あたら努力を傾けている。凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したに過ぎぬ者に復讐的刑罰を与える。厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化している。断じて間違いである。しかも、かくして傷つけられし霊が霊界より復讐に出ることをそなたらは知らぬ。神の優しさと慈悲――堕落せる霊を罪悪と憤怒の谷間より救い出し、聖純と善性の進歩の道へ導かんとして、われら使者を通じて発揮される神の根本的原理の働きを知らねばならぬ。右の如き行為を続けるのは神の存在を皆目知らぬが故である。そなたらは己の本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら判らぬ高き所より人間を座視し、己の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、己の創造物については、己に媚び己への信仰を告白せる者のみを天国へ召して、その他に対しては容赦も寛恕もなき永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔の如き神をでっち上げた。そうした神を勝手に想像しながら、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えもなき言葉を吐かせ、暖かき神の御心には到底そぐわぬ律法を定めた。

何たる見下げ果てたる神! 一時の出来心から罪を犯せる無知なるわが子に無慈悲なる刑を科して喜ぶとは! 作り話にしてもあまりにお粗末。お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟なる心の産物に過ぎぬ。そのような神は存在せぬ! 絶対に存在せぬ! われらには到底想像の及ばぬ神であり、人間の愚劣なる心の中以外のいずこにも存在せぬ。

父なる神よ! 願わくは無明(むみょう)の迷える子らに御身を啓示し、御身を知らしめ給え。子らが御身につきて悪夢を見ているに過ぎぬこと、御身につきて何一つ知らぬこと、御身につきてのこれまでの愚かなる概念を拭い去らぬかぎり真の御姿を知り得ぬことを悟らしめ給え。

然り。友よ、そなたらが設けたる牢獄、法的殺人、その他、罪人の扱い方の全てにおいて、その趣旨がことごとく誤りと無知の上に成り立っている。

戦争および大量虐殺に至っては尚のこと恐ろしきことである。本来同胞として手を繋ぎ合うべき霊たち――われらは身体にはかまわぬ。一時的に物的原子をまとえる“霊”こそわれらの関心事である――その霊たちの利害の対立をそなたらは戦闘的手段によりて処理せんとする。血に飢えし霊たちは怨念と憤怒を抱きつつ肉体より引き裂かれ、霊界へと送り込まれる。肉体なき霊たちは燃えさかる激情にさらに油を注がれたる如き激しさをもって地上界を席巻し、残虐と肉欲と罪悪に狂う人間の心を一層駆り立てる。然るにその拠(よ)って来るそもそもの原因は単なる野心の満足、一時のきまぐれ、あるいは王たる資格に欠ける王子の愚かなる野望に類するものであったりする。

ああ、友よ、人間は何も知らぬ。まだまだ知らねばならぬことばかりである。しかもそれを、これまで犯せる過ちを償うため、苦くかつ辛き体験を通じて知らねばならぬ。人間は何よりもまず、愛と慈悲こそ報復的処罰に勝(まさ)る叡智なることを知らねばならぬ。かりにもし神がそなたたちが想像せる如く、人間が同胞を処罰する如くに人間を扱うとすれば、そなたたち自らも間違いなくそなたらの想像せる地獄へ堕ちねばならぬ。神につきて、われら神の使者につきて、そして自身(みずから)につきて、そなたたちはまだまだ知らねばならぬ。それを知った時はじめて真の進歩が始まり、邪霊を利する行為でなく、われら神の使者の使命達成のために協力することになろう。

友よ、もしもわれのメッセージの有用性と利益につきて問う者があれば、それは無慈悲と残虐と怨念の産物に代わりて、優しさと慈悲と愛の神を啓示する福音であると告げよ。神ヘの崇敬の念と共に、愛と慈悲と憐憫(れんびん)の情をもって全生命を人間のために尽くさんとする霊的存在につきて知らしめんがためであると告げよ。人間が己の過ちを悟り、神学的教義の他愛なさに目覚め、知性を如何にして己の進歩のために使用するかを学び、与えられたる好機を己の霊性の向上のために活用し、死してのち同胞と再会せる時に、地上での言動を非難されることのなきよう、常に同胞のために生きることを教えるものであることを告げよ。これこそがわれらの使命であることをその者たちに告げるがよい。これを聞いてもし彼らが嘲笑し、己のお気に入りの説にて事足れりと自負するならば、その者たちには構わず、真理を求めてやまぬ進取的霊に目を向けるがよい。そして彼らに地上生活の改革と向上を意図せる神のメッセージを告げるがよい。そして彼ら真理に目覚めぬ者のために祈れ。死して目を覚ませる時、己の惨憺(さんたん)たる光景に絶望することのなきよう祈ってあげるがよい。

Sunday, February 22, 2026

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings

序論


内容自動書記について

文体の特徴

通信霊について
通信が来る時の状況
霊媒による脚色の問題
霊媒が意志を行使できる限界
インペレーター霊の使命
著者モーゼスの意図


本書の大半を構成している通信は、自動書記(1)ないし受動書記(2)と呼ばれる方法によって得られたものである。これは直接書記(3)と区別されねばならない。前者においては霊能者がペンまたは鉛筆を手に握るか、あるいは、プランセントに手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれる。一方後者においては霊能者の手を使わず、時にはペンも鉛筆も使わずに、直接的にメッセージが書き記される。

自動書記というのは、われわれが漠然と“霊(スピリット)”と呼んでいる知的存在の住む目に見えない世界からの通信を受け取る手段として、広く知られている。読者の中には、そんな得体の知れない目に見えぬ存在――人類の遺物、かつての人間の殻のような存在――を霊と呼ぶのは勿体ないとおっしゃる方がいるであろうことはよく承知している。が、私は霊という用語が一番読者に馴染みやすいと思うからそう呼ぶまでで、今その用語の是非について深く立ち入るつもりはない。とにかく、私に通信を送って来た知的存在はみな自分たちのことを霊と呼んでいる。多分それは私のほうが彼らのことを霊と呼んでいるからであろう。そして少なくとも差し当たっての私の目的にとっては、彼らは“霊(スピリット)”でいいのである。

その霊たちからのメッセージが私の手によって書かれ始めたのはちょうど十年前の一八七三年三月三十日のことで、スピリチュアリズムとの出会いからほぼ一年後のことであった。もっとも、それ以前にも霊界からの通信は(ラップ(4)や霊言(5)によって)数多く受け取っていた。私がこの自動書記による受信方法を採用したのは、このほうが便利ということと同時に、霊訓の中心となるべく意図されているものを保存しておくためでもあった。ラップによる方法はいかにもまどろこしくて、本書のような内容の通信にはまったく不適当だった。一方、入神した霊媒の口を使ってしゃべると部分的に聞き落とすことがあり、さらに当初のころはまだ霊媒自身の考えが混じらないほど完全な受容性を当てにすることは不可能でもあった。

そこで私はポケットブックを一冊用意し、それをいつも持ち歩くことにした。すると私の霊的オーラがそのノートに染み込んで、筆記がより滑らかに出てくることが判った。それは、使い慣れたテーブルのほうがラップが出やすく、霊媒自身の部屋のほうが新しい部屋より現象が起きやすいのと同じ理屈である。スレートを使った通信(6)の専門霊媒であるヘンリー・スレードも、新しいスレートを使ってうまく行かない時は、使い古したものを使うとまず失敗がなかった。今このことにこれ以上言及しない。その必要がないほど理屈は明瞭だからである。

最初の頃は文字が小さく、しかも不規則だったので、ゆっくりと丁寧に書き、手の動きに注意しながら、書かれていく文章をあとから追いかけねばならなかった。そうしないとすぐに文意が通じなくなり、結局はただの落書きのようなものになってしまうのだった。

しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきた。文字はますます小さくなったが、同時に非常に規則的で字体もきれいになってきた。あたかも書き方の手本のような観のするページもあった。(各ページの最初に書いた)私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていた。神 God の文字はかならず大文字で、ゆっくりと、恭(うやうや)しげに綴られた。

通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図した私的(プライベート)な色彩を帯びていた。一八七三年に始まって八〇年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言説、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類いは、私の知るかぎり一片も見当たらなかった。知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわないものはおよそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つが誠実さと実直さと真剣さに満ちあふれていた。

初期の通信はさきに説明した通りの、きちんとした文字で書かれ、文体も一貫しており、署名(サイン)はいつもドクター・ザ・ティーチャー(7)だった。通信の内容も、それが書かれ続けた何年かの間ずっと変わらなかった。いつ書いても、どこで書いても筆跡に変化がなく、最後の十年間も、私自身のふだんの筆跡が変わっても、自動書記の筆跡はほとんど変わることがなかった。文章上のクセもずっと同じで、それは要するに通信全体を通じて一つの個性があったということである。その存在は私にとって立派な実在であり、一人の人物であり、大ざっぱな言い方をさせていただければ、私がふだんつき合っている普通の人間とまったく同じように、独自の特徴と個性を具えた存在であった。

そのうち別の通信が幾つか出はじめた。筆跡によっても、文体および表現の特徴によっても、それぞれの区別がついた。その特徴は、いったん定着すると等しく変わることがなかった。私はその筆跡をひと目見て誰からの通信であるかがすぐに判断できた。

そうしているうちに徐々に判ってきたことは、私の手を自分で操作できない霊が大勢いて、それらがレクター(8)と名のる霊に書いて貰っているということだった。レクターは確かに私の手を自在に使いこなし、私の身体への負担も少なかった。不慣れな霊が書くと、一貫性がない上に、私の体力の消耗が激しかった。そういう霊は自分が私のエネルギーを簡単に浪費していることに気づかず、それだけ私の疲労も大きかったわけである。

さらに、そうやって代書のような役になってしまったレクターが書いたものは流暢で読み易かったが、不慣れな霊が書いたものは読みづらい上に書体が古めかしく、しばしばいかにも書きづらそうに書くことがあり、ほとんど読めないことがあった。そういうことから、当然の結果としてレクターが代書することになった。しかし、新しい霊が現れたり、あるいは、特殊なメッセージを伝える必要が生じた時は本人が書いた。

断っておきたいのは、私を通じて得られた通信の全てが一つの源から出たものではないということである。本書に紹介した通信にかぎって言えば、同じ源から出たものばかりである。すなわち、本書はインペレーター(9)と名のる霊が私と係わり合った期間中の通信の記録である。もっともインペレーター自身は直接書くことをせず、レクターが代書している。その他の期間、とくにインペレーターとの関係が終わったあとは明らかに別の霊団から通信があり、彼らは彼らなりの書記を用意した。その通信は、その霊団との係わりが終わる最後の五年間はとくに多くなっていった。

通信の書かれた環境はそのときどきでみな異なる。原則としては、私は一人きりになる必要があり、心が受身的になるほど通信も出やすかったが、結果的にはいかなる条件下でも受け取ることができた。最初の頃は努力を要したが、そのうち霊側が機械的に操作する要領を身につけたようで、そうなってからは本書に紹介するような内容の通信が次から次へと書かれていった。本書はその見本のようなものである。

本書に紹介したものは、初めて雑誌に発表した時と同じ方法で校正が施してある。最初は心霊誌『Spiritualist』に連載され、その時は筆記した霊側が校正した。もっとも内容の本質が変えられたところはない。その連載が始まった時の私の頭には、今こうして行なっている書物としての発行のことはまったく無かった。が、多くの友人からサンプルの出版をせがまれて、私はその選択に取りかかった。が、脈絡のことは考えなかった。その時の私を支配していた考えは、私個人の私的(パーソナル)な興味しかないものだけは絶対に避けようということだけで、それは当然まだ在世中の人物に言及したものも避けることにもつながった。私個人に係わることを避けたのは、ただそうしたいという気持からで、一方、他人に言及したものを避けたのは、私にそのような権利はないと考えたからである。結果的には私にとって或る意味で最も衝撃的で感動的な通信を割愛することになってしまった。本書に発表されたものは、そうした、今は陽(ひ)の目を見ることができないが、いずれ遠い将来、その公表によって私を含めて誰一人迷惑をこうむる人のいなくなった時に公表を再考すべき厖大な量の通信の、ほんの見本にすぎないと考えていただきたい。

通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なほどの配慮をしたつもりである。最初の頃は筆致がゆるやかで、書かれて行く文をあとから確かめるように読んでいかねばならなかったほどであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも、間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていった。

こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体で綴られているのである。

だからといって、私は決して私自身の精神が使用されていないと言うつもりはないし、得られた通信が、それが通過した私という霊媒の知的資質によって形体上の影響を受けていないと言うつもりもない。私の知るかぎり、こうした通信にはどこか霊媒の特徴が見られるのが常である。影響がまったく無いということはまず考えられない。しかし、確実に言えることは、私に送られて来た通信の大部分は私の頭の中にあることとはおよそ縁のないものばかりであり、私の宗教上の信念ともその概念上において対立しており、さらに私のまったく知らないことで、明確で確実で証明可能な、しかもキメの細かい情報がもたらされたことも幾度かあったということである。テーブルラップによって多くの霊が自分の身許についての通信を送ってきて、それを後にわれわれが確認したりしたのと同じ要領で、私の自動書記によってそうした情報が繰り返し送られて来たのである。

私はその通信の一つ一つについて議論の形式で対処している。そうすることで、ある通信は私に縁もゆかりもない内容であることが明確に証明され、またある通信では私の考えとまったく異なる考えを述べる別個の知的存在と交信していることを確信することができるわけである。実際、本書に集録した通信の多くはその本質をつきつめれば、多分、まったく同じ結論に帰するであろう。

通信はいつも不意に来た。私の方から通信を要求して始まったことは一度もない。要求して得られることはまずなかった。突如として一種の衝動を覚える。どういう具合にかは私自身にも判らない。とにかくその衝動で私は机に向かって書く用意をする。一連の通信が規則正しく続いている時は一日の最初の時間をそれに当てた。私は起きるのが早い。そして起きるとまず私なりの朝の礼拝をする。衝動はしばしばその時に来た。といってそれを当てにしていても来ないことがあった。自動書記以外の現象もよく起きた。健康を損ねた時(後半よく損ねたが)を除き、いよいよ通信が完全に途絶えるまで、何の現象も起きないということは滅多になかった。

さて、厖大な量の通信の中でもインペレーターと名のる霊からの通信が私の人生における特殊な一時期を画している。本書の解説の中で私は、そのインペレーターの通信を受け取った時の魂の高揚、激しい葛藤、求めても滅多に得られなかった心の安らぎに包まれた時期について言及しておいた。それは私が体験した霊的発達のための教育期間だったわけで、結果的には私にとって一種の霊的新生となった。その期間に体験したことは他人には伝えようにも伝えられる性質のものではない。また伝えたいとも思わない。しかし内的自我における聖霊の働きかけを体験したことのある方々には、インペレーターという独立した霊が私を霊的に再教育しようとしたその厚意ある働きかけの問題は、それでもう十分解決されたと信じていただけると思う。表面的にはあれこれと突拍子もないことを考えながらも、また現に問い質すべきいわれは幾らでもあるにもかかわらず、私はそれ以来インペレーターという霊の存在を真剣に疑ったことはただの一度もない。

この序論は、私としてはまったく不本意な自伝風のものとなってしまった。私に許される唯一の弁明は、一人の人間の霊体験の物語は他の人々にとっても有益なものであることを確信できる根拠が私にある、ということだけである。これから披露することを理解していただくためには、不本意ながら、私自身について語る必要があったのである。私は、その必要性を残念に思いながらも、せめて本書に記載したことが霊的体験の一つの典型として心の琴線に触れる人には有益であると確信した上で、その必要性におとなしく従うことにした。真理の光を求めて二人の人間がまったく同じ方法で努力することはまずないであろう。しかし、私は人間各自の必要性や困難には家族的とも言うべき類似性があると信じている。ある人にとっては私のとった方法によって学ぶことが役に立つ日が来るかも知れない。現にこれまでもそうした方がおられたのである。私はそれを有難いと思っている。

こうしたこと、つまり通信の内容と私自身にとっての意義の問題以外にも、自動書記による通信の形式上の問題もあるが、これは極めて些細な問題である。通信の価値を決定づけるのはその通信が主張する内容そのもの、通信の目的、それ本来の本質的真理である。その真理が真理として受け入れられない人は多いであろう。そういう人にとっては本書は無意味ということになる。また単なる好奇心の対象でしかない人もいるであろう。愚か者のたわごととしか思えぬ人もいるであろう。私は決して万人に受け入れて貰えることを期待して公表するのではない。その人なりの意義を見出される人のために本書が少しでも役立てば、それで私は満足である。

ステイントン・モーゼス

一八八三年三月


〔注〕

(1)


Automatic Writing


(2)


Passive Writing


(3)


Psychography又はDirect Writing


(4)


Rapping 文字どおり叩く音によって通信する方法であるが、一番多いのはテーブルが傾斜して、上下運動をしながら一本の脚が床を叩いて通信する。したがってモールス信号のような符牒を取り決めておく必要がある。


(5)


Trance Speaking 入神した霊媒の発声器官を使って霊がしゃべる。


(6)


Slate Writing 二枚のスレートを合わせて置いておくだけで、その片面または両面に通信が書かれる。一種の直接書記。


(7)


Doctor, the Teacher 巻末「解説」参照。


(8)


Rector 巻末「解説」参照。


(9)


Imperator 巻末「解説」参照。

霊訓 ステイントン・モーゼス(著)

The Spirit Teachings

1節

本節の内容新しい霊的真理普及の時代
これを阻止せんとする勢力の存在
神の啓示
その進歩的連続性
人間による歪曲
破邪と顕正
背後霊とは
地上に戻ってくる霊
邪霊集団とその働き
悪とは
地上時代の性格の存続
個性の発達
死後その霊性に相応しい境涯に落着く
悪魔


〔世界の歴史においても特異な意味をもつこの時期とその特徴について述べたあと、さらにこう綴った――〕


今まさに新しき真理の普及のために特別の努力が為されつつある。神の使徒による働きかけである。それが敵対者の大軍による曾てなき抵抗に遭遇している。世界の歴史は常に善と悪との闘争の物語であった。片や神と善、片や無知と悪徳と邪悪――霊的邪悪、精神的邪悪、そして物的邪悪である。そこで、時として――今がまさにその時期の一つであるが――尋常ならぬ努力が払われることがある。神の使徒が一段と勢力を強めて集結し、人間を動かし、知識を広める。目的達成の時も間近い。恐るべきは真理からの逃亡者であり生半可者であり、日和見(ひよりみ)主義者である。かくの如き人種に惑わされてはならぬ。が、神の真理ゆえに迷うことがあってもならぬ。


――解ります。しかし何をもって神の真理とするか、その判断に迷う者はどうすればよいのでしょう。真剣に求めながらなお見出せぬ者が多いのです。


切に求める者にして最後に見出せぬ者はおらぬ。その道のりの長く久しき者もあろう。さよう、地上を去り、高き界へ到りてようやく見出す者もあるやも知れぬ。神は全ての者を試される。そして相応(ふさわ)しき者にのみ真理を授けられる。一歩進むにもそれ相当の備えが為されねばならぬ。それが進歩の鉄則である。適性ありての前進である。忍耐の必要なる所以である。


――それは解るのですが、内部の意見の衝突、証拠を納得して貰えないこと、偏見、その他もろもろの要因から来る障害はどうしようもないように思えます。


そなたにそう思えるというにすぎぬ。一体何故に神の仕事に抵抗せんとするのか。もろもろの障害!? われらが過去において遭遇せる障害に比べれば、そなたたちの障害など物の数でないことをそなたは知らぬ。かのローマ帝政の末期――放蕩と肉欲と卑俗と悪徳とに浸り切った地域から聖なるものすべてが恐れをなして逃げ去った、あの暗黒の時代にもしそなたが生を享けておれば、悪が結束した時の恐ろしさを思い知らされたことであろう。その非情さは絶望のそれであり、その陰気さは墓場のそれであった。肉欲、ただ肉欲のみであった。天使はその光景を正視できずに逃げ去り、その喘ぎを和らげてやることなど到底及びもつかなかった。実に、あるのはただ不信のみ。否、それよりさらに悪かった。世をあげてわれらを侮蔑し、われらの行為を貶(さげす)み、すべての徳をあざ笑い、神を愚弄し、永遠の生命をののしり、ただ食べて飲んだりの放蕩三昧の日を送るのみであった。まさしく堕落しきった動物同然の生活であった。さほどの悪の巣窟さえ神とその使者は見事に掃き清められしものを、ああ、そなたはわずかな障害を前にして、これを“どうしようもない”と嘆くとは!


〔このあとも、地上人類のための計画が人間みずからの無知と強情ゆえに何度も挫折してきた経緯が述べられた。そこで私はこのたびも失敗に終わりそうなのかと尋ねた。〕


神はそなたの想像以上に働きかけを強めておられる。地上の各地に神の真理普及のための拠点ができ、魂の渇きを潤し知性を納得せしめる真理がふんだんに地上に注がれている。むろん中には古き訓えのみにて足れりとし、新たなる真理を受け入れようとせぬ者もあろう。われらはそうした人種を構うつもりはない。それはそれでよい。が、古き啓示を十分に学び尽くし、さらに深き真理を渇望している者が大勢いる。そうした者に神はそれなりの手段をもって啓示を授けられる。それが彼らを通じて縁ある人々へと波及し、やがて山上の垂訓の如く、われらが公然と全人類へ向けての啓示を垂れる日も到来しよう。見よ! 神の隠密は地上の低き階層にて研鑽を重ね、その知識と体験をもって真理を唱道する。その隠れたる小さき泉がやがて多くの流れを集めて大河を成す。測り知れぬエネルギーを宿すその真理の大河は激流となって地上に溢れ、その時は、今そなたを悩ませる無知も不信も、愚かなる思想も罪も一気に押し流してしまうことであろう。


――その“新しき啓示”ですが、それは“古き啓示”と矛盾していませんか。その点で二の足を踏む者が多いのですが。


啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾するということは有り得ぬ。ただし、その真理は常に時代の要請と、その時代の人間の受け入れ能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに映ずるのは真理そのものではなく、人間の心に原因がある。人間は単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。時の経過と共にいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなってしまう。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなり果てる。やがてまた新しき啓示が与えられる。が、その時はもはやそれをそのまま当てはめる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り崩さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾はない。が、矛盾する如く思わせる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を顕さねばならぬ。人間は己に宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達した人間は無知なる者や、偏見に固められた人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。神は決して真理の押し売りはせぬ。この度のわれらによる啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊なる啓示と思えばよい。これまでも常にそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者を見るがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押しつけはせぬ。用意のある者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者は拒絶する。それでよいのである。そなたの嘆く意見の衝突も相違も単なる正邪の選り分けの現れにすぎぬ。しかも取るに足らぬ原因から起こり、邪霊によって煽られている。結束せる悪の勢力の働きかけも予期せねばならぬ。が、足もとにのみ捉われてはならぬ。常に未来に目を向け、勇気を失わぬことである。


――背後霊(1)のことですが、どういう具合にして選ばれるのでしょうか。


背後霊は必ずしも指導する目的のみで付くのではない。そういう場合が一番多いのではあるが、時には背後霊自身にとっての必要性から付くこともある。が、その場合でも人間を教え導くという傾向は自然に出てくる。また時には特殊な使命を帯びた霊が付くこともある。性格に欠けたものがあって、それを補ってやるために、その欠けたものを豊富に有する霊が選ばれることもある。反対に霊の側に欠けたものがあり、それを身につけるために適当なる人間を選ぶという場合もある。これは高級なる霊が好む手段である。己の霊的向上のために、敢えて指導が困難で不愉快な思いをさせられる人間に付くことを自ら希望する霊もいる。その人間と苦労を共にしつつ向上していくのである。中には霊的親和力によって結ばれる場合もある。地上的縁の名残りで結ばれることもある。何ら特殊な使命を帯びていない人間の背後霊は、魂が向上するに従い背後霊が入れ替わることがしばしばある。


――そうやって地上に戻ってくる霊はどの程度の霊ですか。


主として地球に最も近き下層の三界(2)の者たちである。地上の人間との連絡が取り易いからである。高級霊の場合はそなたたちの言う霊媒的素質に似たものをもつ者に限られる。このことについては余り多くは語れぬ。われらの通信を正しく伝え得る霊媒を見出すことは至難のわざであるということ以上は今は語れぬ。通信を望む霊は実に多い。が、適切な霊媒が見当たらぬことと、それを求めてあたら無駄な時を費すのを嫌う故に、彼らは地上との接触を断念する。ここにも霊界通信の内容に矛盾の生じる要因がある。そなたたちが時おり発見する間違いは必ずしもわれらの側の落度とは限らぬ。そのうち、通信に影響を及ぼす事情につきてさらに多くを語る時期も来よう。


――神に敵対する霊のことを述べられましたが、それはどういう霊ですか。


われらの使命を阻止せんとする邪霊のことである。彼らはいかにもわれらと同じ勢力、同じ仕事仲間であるかに装いつつわざとしくじり、人間及び霊にわれらへの反抗心を煽るのである。悲しい哉、彼らは善性を求める心を魂の奥へ押し込め、邪悪の道に快感を求め、一段と悪の要素の強烈なる霊を首領として集結し、われらに憎悪を抱き、仕事を邪魔せんとする。彼らは悪戯(いたずら)に長(た)け、ある時は人間の悪感情を煽り、ある時はわれらと同じ仕事仲間であるかの如く装いつつわざとヘマをやっては、半信半疑の真面目の徒を迷わせ、就中(なかんずく)、崇高にして高雅なるものを授けんとするわれらの努力の裏をかき、真摯なる学徒に下劣にして卑俗なるものを与えんと企(たくら)む。神の敵であり、人間の敵と言うべきである。善の敵であり悪の使者である。彼らに対してわれらは飽くなき闘いを挑むものである。


――そうした悪の組織の存在は聞くだに恐ろしいことですが、一方には悪の存在を否定し、全ては善であり、悪に見えるものも善が悪を装っているに過ぎないと説く人がいますが。


ああ、哀れなる哉! 哀れなる哉! 善に背を向け、悪への道を選びし霊たちほど哀れなるものはない。そなたはその邪霊たちが群れをなしてわれらの使命を阻止せんとすることが驚異だと言うが、それなどまだまだ驚くには当たらぬ。実状はそれどころではない。人間は霊界へ来たからとて、地上時代といささかも変わるものではない。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪をそのまま携えて来るのである。変わるのは肉体を棄てたということのみである。低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたとてその本性が変わるものではない。それは、誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死と共に俗悪なる魂に一変することが有り得ぬのと同じである。そなたたちがその事実を知らぬことこそ、われらにとって驚異と言うべきである。考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂がそなたたちの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。然るにそなたたちは、神を憎み善に背を向け肉欲に溺れし罪深き魂も、懴悔一つにて清められ天国に召されると説く。前者が有り得ぬ如く後者も絶対に有り得ぬ。魂の成長は一日一日、一刻一刻の歩みによって築かれるのである。すぐに剥(は)げ落ちる上塗りではない。魂の本性に織り込まれ、切り離そうにも切り離せぬ一部となりきること――それが向上であり成長である。そうして築かれたる本性がもしも崩れるとすれば、それは長き年月にわたる誤れる生活によりて徐々に朽ちるのであり、織物を乱暴に切り裂くが如くに一夜にして崩れることはない。ない、ない、断じてない! 習い性となり、魂に深く染み込みて個性の一部となりきるのである。肉体の煩悩に負け続けた魂はやがてその奴隷となる。そうなったが最期、純なるもの聖なるものを嫌い、死後もかつての地上の遊び場に赴いて肉の快楽に耽る。魂の本性となり切っているが故である。これでそなたも納得がいくであろう。悪の軍団とはかくの如き未発達、未熟なる霊のことであり、それが聖なるもの善なるものへの反抗心によって結束する。彼らに残されたる更生の道はただ一つ。高級なる霊の教唆によりて道義心に目覚め、懴悔のうちに一つ一つ過去の罪を償いつつ、歪める心を正し、苦しみの中に一歩一歩向上することのみである。かくの如き低級霊は実に多い。それらが全てわれらの敵なのである。善に対抗し真理の普及を妨げんとする悪の組織の存在を否定する言説こそ、そなたらを迷わせんとする彼らの策謀であることを心すべきである。


――その首謀者と言うべきいわゆる“悪魔”がいるのでしょうか。


彼らを煽動する首領は多い。が、キリスト教神学の説くが如き“悪魔”は存在せぬ。善良なる霊も、邪悪なる霊も、全て善悪を超越せる宇宙神の支配下にある。


〔注〕

(1)


地上に生をうけた霊(人間)の使命達成と罪障消滅を目的として陰から守護・指導・援助する霊を指す総合的な用語。本人の魂の親である守護霊(ガーディアン)(類魂の一人)を中心として複数の指導霊(ガイド)と支配霊(コントロール)が含まれる。その意図は本文の説明どおり各自まちまちであるが、守護霊の許しを得て、その監督のもとに働いている点においては同じである。


(2)


インペレーターによると、宇宙は大きく三階層に分かれており、各階層が更に七界ずつに分かれている。地球は最下層の階層の最上界に属するという。三節参照。

Friday, February 20, 2026

古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortze


巻頭言   

 あなたがもし古い神話や伝来の信仰をもって、これで十分と思い、あるいは、すでに真理の頂上を極めたと自負されるならば、本書は用はありません。

 しかし、もし人生とは一つの冒険である事、魂は常に新しい視野、新しい道を求めてやまないものである事をご承知ならば、是非本書をお読み頂いて、世界の全ての宗教の背後に埋もれてしまった必須の真理を見出して頂きたい。

 そこには、全ての宗教の創始者によって説かれた教えと矛盾するものは何一つありません。地上生活と、死後にもなお続く魂の旅路に必須不可欠の霊的知識が語られています。もしもあなたに受け入れる用意があれば、それはきっとあなたの心に明かりを灯し、魂を豊かにしてくれることでしょう。                              シルバーバーチ

    
                    

  古代霊シルバーバーチと霊媒モーリス・バーバネル  訳者  近藤 千雄

  〇 霊言が始まるまで

一九二〇年から六〇年もの長きにわたってシルバーバーチと名のる〝霊〟の霊媒をつとめることになるモーリス・バーバネルは、その年までは霊的なものに関心もなければ、特別な霊的体験もない、ごく普通の人間だった。それどころか、むしろ宗教とか信仰とかいったものを嫌悪する傾向すらあった。

 というには、母親は敬虔なクリスチャンで教会通いも欠かすことがなかったが、父親はそういうことにはまったく無関心で、それを咎める母との間で口ゲンカが絶えなかったからである。

それが、自然、そういう性向を生んだのだろうと、自伝風の記事の中で述べている。従ってバーバネルは、生涯、バイブルと言うものを一度も繙いたことがなかったという。

 そのことが、実は、後に大きな意味をもつことになる。通常意識の時はかたことも出てこないバイブルのことばが、シルバーバーチが語り始めると、とうとうと出てくるのである。

それはつまり両者がまったく別人格であること───言いかえれば、シルバーバーチはバーバネルの潜在意識でないことの証拠となるわけである。絶対的証拠とは言えないまでも、有力な証拠であることは間違いないであろう。

 そのバーバネルが霊的なことに関わり合いを持つに至ったのは十八歳のときで、無報酬で司会役をしていた文人ばかりの社交クラブで当日の講演者がスピリチュアリズムの話題を持ち出したことがきっかけだった。講演のあとバーバネルはその講演者からロンドンの東部地区で催されているという〝交霊会〟なるものに誘われた。

 妻のシルビアと共に訪れてみると、霊媒はブロースタインという中年の女性で、トランス状態 (昏睡または無意識状態) に入ると、その人の口を使って代るがわる、いろんな国の死者の〝霊〟がしゃべる───そう説明された。が、当時のバーバネルにはそんなことがまるで信じられず、バカバカしく思えて仕方がなかったという。

 ところが、二度目に訪れた時、バーバネルはうっか〝居眠り〟をしてしまった───自分ではそう思った。そして、目覚めると慌てて非礼を詫びた。すると他の出席者たちから 「あなたは今居眠りをなさってのではありません。インディアンがあなたの口を使ってしゃべりました」 と聞かされた。

 もちろんバーバネルにはその記憶はない。が、その後、そういうことが頻繁に起きるようになった。そしてその口を使ってしゃべるインディアンも次第に英語が上手になり、やがて、シルバーバーチ (日本語に置きかえれば〝白樺〟) と名のるようになった。

それが一九二〇年のことで、それから十年余りはバーバネルのアパートの応接間で不定期に数人の知人、友人が聞くだけで、その霊言を速記するとこも録音することもしなかった。

 が、当時〝フリート街の法王〟と呼ばれて英国ジャーナリスト界のご意見番的存在だったハンネン・スワッファーという演劇評論家がその会に出席してから、変化が生じた。シルバーバーチの霊言のただならぬ質の高さに感銘したスワッファーは、会場を自宅に移して、

毎週金曜日の夜に定期的に催すことにし、その会の正式名を〝ハンネン・スワッファー・ホームサークル〟とした。そしてその時から霊言を記録することになった。(その後テープ録音も併用された。)

 それがまとめられて 『シルバーバーチの教え』 Teachings of Silver Birch のタイトルで刊行されたのが一九三八年のことで以来、今日(一九九三年)までに十六冊が刊行されている。

 何しろ一九八一年にバーバネルが他界するまでの六十年間、ほぼ週一回 (一回が約一時間半) の割で語り続けたのであるから、記録を残さなかった最初の十年分を差し引いても、速記と録音による霊言の量は、厖大なものであろうと察せられる。

それを文章に起こしてまとめるのは大変な作業であるが、英米はもとより、ヨーロッパやアフリカに至るまでのシルバーバーチフアンの要望は絶えることなく、これからの刊行しされ続けることであろう。


  〇 シルバーバーチのアイデンティティ

 では、シルバーバーチの霊言の魅力と特色はどこにあるのか───これは、シルバーバーチの〝正体〟はいったい何なのかを説明することによって、おのずと明らかになるであろう。

 本人の語るところによれば、今からほぼ三千年前、すなわちイエスの時代より更に一千年前も前に、地上生活を送ったことがあるという。それがどこの民族の、どの国家の、どういう地位の人物としてであったかは、六十年間、ついに明かされることなく、終わっている。

サークルのレギラーメンバーをはじめ、招待客によって、何回も、何十回も、もしかしたら何百回も問い質されたはずなのであるが、シルバーバーチはそのつど

 「それを明かす事が、一体、私の教えにどれだけプラスになるというのでしょうか。大切なのは、語っている私が何者であるかではなくて、私が語っている教えが何であるかです」

 といった主旨のことを繰り返すだけで、人間がとかく地位や肩書(ラベル)や名声にこだわることの間違いを指摘するのが常だった。

 彼はインディアンでなかったとおっしゃる方がいるであろうが、実は巻頭に掲げたマルセルポンサンによる肖像画に描かれているインディアンは通信衛星のようなもので、いうなれば〝霊界の霊媒〟なのである。地上の霊媒であるバーバネルは各家庭の受信アンテナのようなものと思えばよい。

 当初はそのシルバーバーチもインディアンであることに徹し、祈りの最後も必ず 「神の僕インディアンの祈りを捧げます」 という言葉で締めくくっていたが、サークルのメンバーの理解が深まった段階で 「実は・・・・・・」 と言って、本当は自分はインディアンではなく、地球を取り巻く霊界の中でも指導的地位にある霊団に所属していることを打ち明けた。

 その界層にまで進化していくと、波動の原理から、地上界と直接のコンタクトが取れなくなり、それで中継役を必要とすることになる。その役がインディアンなのだという。もしそれが事実だとすると、シルバーバーチと名のるその霊はよほどの高級霊であると推察してよいであろう。

そして、ほぼ三千年前の地上時代の地位も名声も、余ほど高いものであったはずである。なぜなら、もしも無名で平凡な地位の人間だったならば、その名前と地位を明かしてもよかったはずだからである。

 それを明かさなかったということは、人間の好奇心におもねることによって、純粋な霊的真理に世俗的な雑念がこびりつくことを案じたからではなかろうか。


〇 霊言の種類

 ところで、霊言現象は霊が人間の発声器官を使って語る現象であるが、これには、大別して二つの種類がある。一つは電話式とでもいうべきもので、高級霊でも低級霊でも、善霊でも悪霊でも、乗り移ってしゃべることができるタイプで、したがって霊媒と異なる国籍の霊が乗り移れば、通常意識での霊媒には全くしゃべれない言語を流暢にしゃべることになる。

 もう一つは〝専属〟タイプで、支配霊(コントロール)と呼ばれる特定の霊しかしゃべらない───しゃべらせないのである。言ってみれば、名匠と言われる人が楽器や道具を絶対に他人に使わせないのと同じで、自分だけのものとして、そのクセと特徴を知り尽くしている。

シルバーバーチとバーバネルの関係はこのタイプに属し、バーバネルがシルバーバーチ以外の霊団に支配されることもなかったし、シルバーバーチがバーバネル以外の霊媒を通してしゃべったこともなかった。

(例外として一度だけあった。シルバーバーチがバーバネルのコントロールとして交霊会を始めたのとほぼ同じ頃から、レッド・クラウドと名のるインディアンがエステルロバーツという女性霊媒のコントロールとして毎週のように交霊会に出現していた。

バーバネル夫妻はその常連として欠かさず出席していたが、ある日、そのロバーツ女史の口を借りてシルバーバーチがバーバネル夫妻に語りかけた。バーバネルは、自分はいつもこんな調子で語っているのかと思って、いわく言い難い気分になったという。 シルビアバーバネル著 「ペットは死後も生きている」 ハート出版)参照

 シルバーバーチ自身が打ち明けたところによると、〝地球を霊的に浄化する〟ための計画の一環として、地球へ戻って霊的真理を語って欲しいという要請を受けた時は、バーバネルはまだ地上に誕生してもいなかったという。

そこで、〝霊界の記録簿〟の中にある、これから誕生する人物の中から最も適切と思える人物を物色して、それが地上に誕生するチャンスを窺い、いよいよ母体に宿った瞬間から、霊言霊媒として育てるための準備に取りかかったという。と同時に、英語の勉強も始めたという。

 こうしたことは多分、霊界の霊媒であるインディアンの役目だったはずでシルバーバーチ本人はそのインディアンとの打ち合わせの方に重点を置いて準備をしていたことであろう。

そして一九二〇年のある日、ブロースタインの交霊会に出席中にバーバネルをトランス状態に誘って語ったのが、地上との最初のコンタクトとなるのであるが、この時点でもまだインディアンとバーバネルとの関係が主体であって、シルバーバーチ本人はその様子を観察していた程度ではなかったろうかと察せられる。

 一九二〇年と言えば第一次大戦が終結して間もない頃で、一応戦火は消えていた。が、ハンネン・スワッファー・ホームサークルが発足した頃は再び世界情勢は険悪となり始めた時期で、それから間もなく第二次大戦の口火が切られている。

そして一九四五年日本の降伏をもって終戦を迎えるのであるが、そうした険悪な情勢の中にあっても、バーバネルは交霊会を中止しなかった。 とは言え、霊団側の苦心は並大抵のものではなかったようである。その時の苦労をシルバーバーチはこう語っている。

 「私たちは物的存在ではありません。物的世界との接触を求めているところの霊的存在です。霊の世界と物の世界との間に大きな懸隔(ギャップ)があり、それを何らかの媒介によって橋渡しする必要があります。

私が厄介な問題に遭遇するのはいつもその橋渡しの作業においてです。それを容易にするのも難しくするのも、人間側の精神的状態です。

 雰囲気が悪いと、私と霊媒とのつながりが弱くなり、私と霊界との連絡も困難となります。わずか二、三本の連絡網によってどうにか交信を保つということもあります。そのうち霊媒が反応を見せなくなります。そうなると私は手の施しようがなくなり、すべてを断念して引き上げざるを得なくなります。

 私は当初から、こうした問題が生じるとこは覚悟しておりました。一時は、果たして、このまま地上との接触を維持することが賢明か否かを、霊団の者たちと議論したこともありました。

しかし私は、たとえわずかとはいえ、私が携えてきた知識を伝えることにより、力と希望と勇気を必要としている人々にとって、私の素朴な霊訓が生きる拠り所となるはずだと決断しました。

 今、私は、もしも私たちがお届けした霊的真理が無かったら今なお苦難と絶望の中で喘いでいるかもしれない人々の慰めと力になってあげることができたことを、うれしく思っております」



  〇 地球浄化の大計画───スピリチュアリズム

 右の言葉の中に〝霊団の者たちと・・・・・・〟という表現があるが、シルバーバーチがこの仕事のために組織した霊団のメンバーが何名で、どういう顔ぶれがいたかは、断片的には分かっていても、その全ては分かっていない。

リンカーンもいたらしいが、その他にシルバーバーチが挙げた何人かの名前は日本人には全く馴染みのない人ばかりである。それが本当であろう。前世とか守護霊とかの名前が歴史上の著名人ばかりであるのは、土台おかしな話である。

 尚シルバーバーチは〝私は〟という言い方と〝私たちは〟という言い方の二通りを用いている。これは、もちろん自分自身の場合と霊団を代表している場合との違いであるが、もう一つの観方としては、シルバーバーチが所属する高級霊界に立ち戻って述べている場合があることに注意する必要がある。

 どうやら霊界の上層部では、支配霊の仕事をしている高級霊ばかりの集会が年に何回か開かれて、反省と計画の修正が行われ、その界層の更に高い界層の霊から助言を受けていたらしいのである。その中の一柱で、総指揮者的な立場にあった (今もあると推察される) のが地上でイエスと呼ばれた人物であると、シルバーバーチは言う。

もちろん地上時代よりははるかに高い霊格を備えていることであろう。というよりは、本当は、もともと神とも仰ぐべきほどの霊格、すなわち神格を具えた存在だったのが、ある計画にそって物質界へ降誕したと見るのが妥当であろう。

その〝ある計画〟というのがほかでもない、地球を霊的に浄化するための一連の活動、すなわちスピリチュアリズムだった。

 むろんその計画は今なお進行中であり、バーバネル亡きあとも、シルバーバーチ霊団そのものは、たぶんバーバネル自身も加わって、地球人類のために活動していることであろう。このたび装いも新たに本書が刊行されることになったことにも、シルバーバーチ霊団働きかけがあるものと、私は信じている。



℘23
 一章  人生でいちばん大切なこと

 シルバーバーチの霊言には、一貫して説かれている珠玉の教えが幾つかある。その一つが〝人のために役立つことをしなさい〟という教えである。これをシルバーバーチは〝サービス〟という一語で表現することがある。〝リップサービス〟(口先だけのお上手や見せかけの好意) ではなく、

日常生活の中での実のある親切がなかなか難しいものであることを知っていればこそ、そうした、まるで三歳の童子に説くような、簡単そうで実はなかなか実行できない素朴な教えを、繰り返し説くのである。

 シルバーバーチの交霊会はバーバネルの三十歳代に〝ハンネン・スワッファー・ホ-ムサークル〟の名称のもとに発足して、毎週一回、金曜日の夜に開かれていた。が、それも五十歳の声を聞く頃から二週間に一回、さらには月一回となり、七十歳代には不定期となっていった。

 が、交霊会に臨むバーバネルの態度は一貫して変ることがなかった。儀礼的なものは何もしない。応接間のソフア―に無造作に腰掛けると、メガネをはずし、グラスの水を飲み干してから、瞑目する。するとその顔の形相が巻頭のインディアンの肖像画そっくりに変貌し始める。

そして、鼻に掛ったいびきのような声を発しながら、何やらムニャムニャと一人ごとを言ったあと、「では始めることに致しましょう」と言って、インボケ―ションという〝開会の祈り〟の言葉を述べ始める。

時には
 「もう少し待って下さい。霊媒のトランス状態をもうすこし深めますので・・・・・・」 と言って静かにしていることもある。その意味するところ、極めて深長である。


 その日の交霊会も同じような要領で始まり、次第に〝サービス〟の大切さへと話が発展し、

 「いかなる分野の仕事にたずさわっていても同じことです。人に役立つことをするチャンスは決して見逃してはなりません」

と述べてさらにこう続けた。

 「私がこれまで皆さんにお教えしたかった教訓はそのことに尽きるのではないでしょうか。サービスこそ〝霊の正貨〟であること、それが霊の唯一の財産であること、それは天下の回り物であり、一人が独占すべきものではないということを理解していただこうと苦心してきたのです。

 知識には責任が伴います。このことを私は何度申し上げてきたことでしょう。責任とは、自分が手にした知識をタンスにしまい込んでいてはいけない───賢明にそして上手に使用するということです。

 霊の世界からこうして地上に戻ってくるのは、ただ単に皆さんを喜ばせるためではありません。死んだと思っていた人たちが別の世界で生き続けている事実を知ることによって魂が目を覚まし、生きる意欲を鼓舞され、それがひいては同胞のために役立つことをしたいという願望を抱かせることになることを望んでいるのです。

 それは何も、公開交霊会で大勢の聴衆を前にしてデモンストレーションをやったり、こうして家庭的な交霊会で少数の出席者を相手に語るといった形のものでなくてもいいのです。人さまのためになることをしてあげるチャンスなら日常生活に幾らでも転がっております。

高級界の神霊が地上人類に対して抱いている愛は、みなさんが日常生活において、本当に困っている人に手を差し伸べようとする時に抱く愛と同じものなのです。

 世の中を見回してごらんなさい。心の痛みに耐えている人、困り果てている人、悲しみに暮れている人、人生に疲れ、当てもなく戸惑っている人、信仰の基盤が揺さぶられ、今まで大事にしてきたものが全て無価値であることを知り、

しかもそれに代わる導きも手助けも希望も見いだせずにいる人、そういう人たちがいかに多いことでしょう。そういう人たちのために為すべきことがいくらでもあります。
℘26
 それとは別に信仰が足枷となっている人、教義やドグマ、儀式や慣習によって自らの牢獄をこしらえてしまっている人がいます。そういう人たちには、自由を見出す方法、魂の解放の手段を教えてあげないといけません。

 現在の地上には、正しい知識を手にした人による援助を必要としている人が無数におります。間違った信仰、盲目的信仰、迷信、独りよがり、商売根性にしがみついている人がいるかぎり、みなさんが活動する場があるということになります。

同じ大霊の子でありながら霊的真理について何も知らない人がいるかぎり、みなさんにも私たちにも、為すべき仕事があるということです。

 それこそが、私たちが使命と心得てたずさわっている仕事です。要するに真理を広めるということです。霊的真理に浴し、間違いと迷信、その背後の原因である無知によって生み出されている暗黒を打ち払わないといけません。

 その一方には、そうした仕事を阻止しようとする勢力がいます。昨日、今日の話ではありません。幾世紀にもわたって私たちに戦いを挑んできております。それを退治するのも仕事の一つです。

一時的には後退のやむなきに至ることはありますが、計画は着実に進歩し、反抗勢力は次第に勢力を失いつつあります。
℘27
 人間の魂は、いつまでも牢獄に閉じ込められたままでは承知しません。永遠に暗闇の中で暮らす者はいません。いつかは魂が光明を求めるようになります。神性を秘めた魂が、暗い沈滞状態に不快を覚えるようになります。自由を求めるようになるのです。

束縛された状態に嫌気を覚えるようになるのです。そうした段階に至った人たちのために、できるだけ多くの霊的真理を普及させる仕事を続けていないといけないのです。

 それが又、いつかは必ず受け入れられる日が来るとの信念のもとに、理想を掲げ続けなければならない理由でもあるのです。愚かな敵対者による蔑みの声も耳に入るでしょうが、そうしたものにも耐え抜かないといけません。

弱みを見せない限り、そんなものによって傷つくようなことはありません。相手にしないことです。いかなる相手にも憎しみを抱くことなく、全ての人に愛を持って、艱難を征服し、そして勝利しなくてはなりません。

 それが霊的教訓の基調なのです。最も大切な教えとして、しっかりと心に植え付けて置かないといけません。一冊の書物でもよろしい。優しい言葉一つでもよろしい。心強い握手でもよろしい。

不自由な身体の人の手を取ってあげることでもよろしい。心温まる贈り物を届けてあげるだけでもよろしい。サービスのコインはいつでも差し出せるように用意しておいてください」



 別の日の交霊会で、地上時代の名を聞かれたシルバーバーチは───

 「私は荒野に呼ばわる声(※)です。神の使徒以外の何者でもありません。私が誰であるかということに、いったい何の意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは、私の行為で判断していただきたい。

私の言葉が、私の誠意が、私の判断が、要するに今こうして人間界で私がたずさわっている仕事が、暗闇に迷える人々の心の灯火となり慰めとなったら、それだけで私はうれしいのです」


  ※───マタイ伝に出てくる、世に容れられない警世家のこと───訳者。

 シルバーバーチがインディアンでないこと、本来の高次元の世界と地上との間の橋渡しとしてインディアンの幽体を使用している高級霊であることまでは、われわれも知っている。

が、これまで、好奇心から幾度地上時代の実名を訊ねても、一度も明かしてくれていない。肩書よりも仕事の成果の方を重んずるのである。自分個人に対する賛美を極度に嫌い、次のように述べる。

 「私は一介の神の僕に過ぎません。今まさに黎明を迎えんとしている新しい世界での一役を担うものとして、これまで忘れ去られてきた霊的法則を蘇らせるために私を地上へ遣わした一団の通訳にすぎません。私のことを常に〝代弁者〟(マウスピース)としてお考えください。地上に根づこうとしている霊力、刻一刻と力を増しつつある霊団の声を代弁しているにすぎません。

 私の背後には延々と幾重にも連なる霊団が控え、完全なる意思の統一のもとに、一丸となって臨んでおります。私がこの霊媒(バーバネル)を使用するごとく、彼らも私を使用し、長いあいだ埋もれてきた霊的真理───それが今まさに掘り起こされ、無数の男女の生活の中で本来の場を得て行きつつあるところですが───それを地上の全土に広げんとしているのです」


───でも、あなたは私たちにとっては単なるマウスピースではなく、実在の人物です。
℘30
 「私は何も、この私には個性がないと言っているのではありません。私にもちゃんと個性はあります。ただ、こちらの世界では〝協調〟ということが大原則なのです。一つの大きなプランがあり、それに従って、共通の利益のために各自が持てるものを貢献し合うということです。

 身分の高い低いも関係ありません。差があるとすれば、それまでに各自が積み上げてきた霊的成長だけです。開発した霊的資質と能力とを自分より恵まれない人のために惜しみなく活用し、代わってその人たちも自分よりも恵まれない人の為に、持てるものを提供する。

かくして地上の最低界 (※) から天界の最高界に至るまで、連綿として強力な霊的影響力が行きわたっているのです」

 ※───地上の人間から見れば他界した人間はみんな霊界の存在と思いがちであるが、目に見えなくなったからそう思えるまでのことであって、波動の原理から言えば、相変らず地上的波動から抜けだせない者がいて、地上生活から持ち越した感覚、感情のままで生活を続けている。その種の霊を〝自縛霊〟という。

ここでいう〝最低界〟とはその種の霊が類をもって集まっている界層のことで、古くから〝地獄〟とか〝暗黒界〟とかいわれているのがこれに相当する。神や悪魔がこしらえたのではなく、波動の原理で自然に出来上っているもので、霊性が高まって波動が変われば、それ相当の界層へ行くことになる───訳者
℘31  

───地上もそういうことになれば素晴らしいことですね。

 「いずれはそうなるでしょう。神の意志は必ずや成就されていくものだからです。その進行を邪魔し遅らせることはできます。しかしその完成・成就を阻止することはできません」

 この件に関して別の日の交霊会で次のように述べている。

「これまで私は、あなた方の友として、守護者として、指導者として接してまいりました。いつもすぐ側に待機していること、私がいかなる霊格をそなえた存在であろうと、

それはあなた方人間との親密な接触を妨げることにならないこと、あなた方の悩みや困難に関心を抱き、出来うるかぎりの援助の手を差しのべる用意があることを知っていただきたいと思ってまいりました。
℘32
よろしいですか、私は確かに一方では永遠の真理を説き、霊力の存在を明かさんとしている教師的存在ですが、他方、あなた方お一人お一人の親しい友でもあるのです。あなた方に対して親密な情愛を抱いており、持てる力で精一杯お役に立ちたいと努力いたしております。

 どうぞ困ったことがあれば、どんなことでもよろしい。この私をお呼びください。もし私に出来ることがあれば、ご援助いたしましょう。もし私に手出しの出来ないことであれば、あなた方自らが背負わねばならない試練として、それに耐えていくための力をお貸しいたしましょう」


 さらに別の交霊会でもこう語っている。

 「これまでの長い霊界での生活、向上進化をめざして励んできた魂の修行の旅において私がみずから学んできたこと、あるいは教わったことは、すべて、愛の心をもって快く皆さんにお教えしております。神はそれをお許しくださっていると信じるからです。

 ではその動機とは何か───それは、私のこうした行為を通じて私があなた方のどれほど情愛を感じているか、いかにあなた方のためを思っているかを分かっていただき、そうすることによって、あなた方の背後に控えている力には神の意図が託されていること、霊の豊かさと実りを何とかしてもたらしてあげようとしている力であることを認識していただくことにあります。

要するに、あなた方への愛がすべてを動かし、神から発せられるその愛をあなた方のために表現していくことを唯一の目的と致しております。

 私たち霊団の者は、功績も礼も感謝もいっさい求めません。お役に立ちさえすればよいのです。争いに代わって平和を見ることができれば、涙にぬれた顔に代って幸せな笑顔を見ることができれば、涙と痛みに苦しむ身体に代わって健康な身体となっていただくことができれば、

悲劇をなくすことができれば、意気消沈した魂に巣食う絶望感をぬぐい去ってあげることができれば、それだけで私たちは、託された使命が達成されつつあることを知って喜びを覚えるのです。

 願わくは神の祝福のあらんことを。願わくは神の御光があなた方の行く手を照らし給い。神の愛があなた方の心を満たしたまい、その力を得て、代わってあなた方がこれまで以上に同胞のために献身されんことを、切に祈ります」

 このようにシルバーバーチは、自分自身ならびに自分を補佐する霊団の並々ならぬ情愛を、よく披歴する、盛夏を迎え、これで交霊界もしばし休会となる (※) 最後の交霊会で次のような感動的な別れの挨拶を述べた。

℘34
 ※───ここでは夏休みのことを言っており、これは人間界の慣習に従って休みとするだけであるが、それ以外にも霊界側の慣習に従って休会とする時期が二度ある。イースターとクリスマスである。これは人間界の、しかもキリスト教の慣習という認識が一般的であると思うが、シルバーバーチを始めとする信頼のおける高級霊の一致した意見として、

本当は霊界の高級神霊によって催される審議と讃仰の大集会が地上に反映したものだという。日本でいう春分から立夏、すなわち三月から四月にかけてと、立冬から冬至、すなわち十一月から十二月掛けての時期に相当するようである。

私個人の考えを言わせていただけば、神道の祝詞にある 「八百万の神たちを神集(かむつど)へに集い賜え、神議(かむはか)りに議り賜ひて・・・・」 とあるのは、これに類するものではないだろうか───訳者。


 「この会も、これよりしばらくお休みとなりますが、私たちは、無言とはいえ、すぐお側にいて、ひき続きあなた方に可能なかぎりのインスピレーションと力と導きをお授けいたします。

 一日の活動が終わり、夜の静寂を迎えると、あなた方の魂は本来の自分を取り戻し、物質界の乱れたバイブレーションを後にして、ほんの束の間ですが、本当の我が家へ帰られます。その時のあなたがは、私たちと共に、いつの日か恒久的にあなた方のものとなる喜びのいくつかを体験されます。

 しかし、これまでの努力のお陰で、こうして数々の障害を克服して語り合えるようになりましたが、ふだんは物質というベールによって隔てられております。でも霊的には、いついかなる時も身近にいて、情愛を持って力になってあげていることを知ってください。

私たちがお届けする力は、宇宙最高の霊力であることを心強く思って下さい。私たちは、最も身近で最も親密な存在であるあなた方のために尽くすことによって神に奉仕する僕に過ぎません。

 私のことを、ほんの一、二時間薄明かりの中でしゃべる声としてではなく、いつもあなた方の身の回りにいて、あなた方の能力の開発と霊的進化のために役立つものなら何でもお持ちしようとしている、躍動する生命にあふれた、生きた存在としてお考えください。

語る時にこうして物的感覚(聴覚)に訴える方法しかないのは、まだるい限りですが、私はいつも身近に存在しております。必要な時はいつでも私をお呼び下さい。私にできることなら喜んで援助致しましょう。私が手を差しのべることを渋るような人間でないことは、皆さんはもう、よくご存じでしょう。

℘36
 樹木も花も、山も海も、小鳥も動物も、野原も小川も、その美しさを謳歌するこれからの夏を満喫なさってください。神を讃えましょう。神がその大自然の無限の変化に富む美しさをもたらしてくださっているのです。

その内側で働いている神の力との交わりを求めましょう。森の静けさの中に、その風のささやきの中に、小鳥のさえずりの中に、風に揺れる松の枝に、よせては返す潮の流れに、花の香に、虫の音に、神の存在を見出しましょう。

 どうか、そうした大自然の背後に秘められた力と一体となるようにつとめ、それを少しでも我がものとなさってください。神はさまざまな形で人間に語りかけております。教会や礼拝堂の中だけではありません。予言者や霊媒を通してだけではありません。

数多くの啓示が盛りこまれている聖典だけではありません。大自然の営みの中にも神の声が秘められているのです。大自然も神の僕です。私はそうした様々な形───語りかける声と、声なき声となって顕現している神の愛を皆さんにお伝えしたいのです」


 こう述べたあと、最後に、これまでサークルとともに、そしてサークルを通して、世界中の人々のために推進してきた仕事における基本的な理念を改めて説いて、会を閉じた。

 「私は、あなた方の愛の絆によって一丸となるように、これまでさまざまな努力をしてまいりました。より高い境涯、より大きな生命の世界を支配する法則をお教えしようと努力してまいりました。

また、あなた方に自分と言う存在についてもっと多くを知っていただく───つまり霊的にいかに素晴らしく出来上っているかを知っていただくべく努力してまいりました。

 さらに私は、あなた方に課せられた責任を説き、真理を知るということは、それを人のために使用する責任を伴うことをお教えしてまいりました。宗教的儀式のうわべに囚われずに、その奥にある宗教の核心、すなわち援助を必要とする人々のために手を差し伸べるということを忘れてはならないことを説いてまいりました。

 絶望と無気力と疑問と困難に満ちあふれた世界にあって私はあなた方に霊的真理を説き、それをあなた方が、まず自ら体現することによって同胞にもその宝を見出させ、ひいては人類全体に幸福をもたらすことになる───そうあってほしいと願って努力してまいりました。
℘38
 私はかつて一度たりとも、卑劣な考えを起こさせるような教えを説いたことはありません。一人たりとも個人攻撃をしたことはありません。私は終始〝愛〟をその最高の形で説くべく努力してまいりました。

常に人間の理性と知性に訴えるよう心掛け、私たちの説く真理がいかに厳しい調査、探求にも耐え得るものであることを主張してまいりました。

 そうした私に世界各地から寄せられる暖かい愛の念を有難く思い、私の手足となって仕事の推進に献身してくださるあなた方サークルの方々の厚意に、これからも応えることができるように神に祈りたいと思います。

 私たちは間もなく会を閉じ、通信網を引っ込めます。ふたたびお会いできる日を、大いなる期待をもって心待ちに致しましょう。もっとも、この霊媒の身体を通して語ることを中止するというまでのことです。けっして私という霊が去ってしまうわけではありません。

 もしあなた方の進む道を、影がよぎるようなことがあれば、もし何か大きな問題が生じたときは、もしも心に疑念が生じ、そして迷いが生じた時は、どうぞそれらは実在ではなくて影にすぎないことを自分に言い聞かせて、羽根を付けて一刻も早く追い出してしまうことです。

 忘れないでください。あなた方はお一人お一人が神であり、神はあなた方お一人お一人なのです。この動的宇宙を顕現せしめ、有機的・無機物の区別なく、あらゆる生命現象を創造した巨大な力───恒星も・惑星も、太陽も月も生み出した力───物質の世界に生命をもたらした力

───人類の意識に神性の一部を宿らせた力───完璧な法則として顕現し、すべての現象を細大もらさず経綸しているところの巨大な力───その力は、あなた方が見放さないかぎり、あなた方を見放すことはありません。

 その力を我が力とし、苦しい時の隠れ場とし、憩いの場となさることです。そしていついかなる時も神の衣があなた方の身を包み、その無限の抱擁の中にあることを知って下さい。

 シルバーバーチとお呼びいただいている私からお別れを申し上げます。ごきげんよう」



シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)



10章 幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものです


生誕後はや二千年もたった今日でさえ、イエスなる人物の正しい位置づけが、スピリチュアリズムにおいても時おり論議の的となる。ある者はイエスも一人間だった――ただ並はずれた心霊的能力を持ち、それを自在に使いこなした勝れた霊覚者だったと主張するし、またある者は、やはりイエスは唯一の“神の子”だったのだと主張する。

当然のことながら、毎回ほぼ一時間半も続いたシルバーバーチの交霊会においても、たびたびその問題ならびに、それに付随した重大な問題が提出されてきた。出席者は異口(いく)同音に、その一時間半があっという間に過ぎた感じがするのが常だったと言う。

さて、そんなある日の交霊会で、一牧師からの投書による質問が披露された。“シルバーバーチ霊はイエスを宇宙機構の中でどう位置づけておられるのでしょうか。また〈人間イエス〉と〈イエス・キリスト〉とは、どこがどう違うのでしょうか”というのがそれである。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「ナザレのイエスは、地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜(※)の、最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて、霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。


※――メルキゼデク→モーセ→エリヤ→エリシャ→イエスという系譜のことを言っているのであるが、こうした霊的系譜は各民族にある。ただ、世界的視野でみた時、イエスが地上人類としては最大・最高の霊格と霊力をそなえていたことは間違いない事実のようで、モーゼスの『霊訓』の中でもインペレーター霊がまったく同じことを述ベている。今スピリチュアリズムの名のもとに繰り広げられている地球浄化と真理普及の運動は、民族の別を超え、そのイエスを最高指導霊とした、世界的規模で組織された霊団によるものである。

イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と少しも変わらない一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質界へやってきて、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが大量に流入したことは、前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦(が)れきの下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

そのために彼は、まず自分へ注意を引くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して、心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。偉かったのは、それを一度たりとも私的利益のために使わなかったことです。

またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も、廃止も、干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を引くようになると、こんどは、人間が地球上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊覚者が説いてきたのと同じ、単純で、永遠に不変で、基本的な霊的真理を説くことを開始したのです。

それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する正しい記録はきわめて乏しいのですが、その乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くの、ありもしないことが書き加えられています。したがって聖書に書かれていることには、マユツバものが多いということです。できすぎた話はみな割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから……。

もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後さらに開発され威力を増した霊力を駆使して、愛する地上人類のために働いておられるのです。イエスは“神”ではありません。全生命を創造し人類に神性を賦与した、宇宙の大霊そのものではありません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、“イエス”と“神”とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にひざを折り、平身低頭して仕える必要はないのです。それよりも、イエスの生き方を自分の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。

以上、大変大きな問題について、ほんの概略を申し上げてみました」

メンバーの一人「“キリストの霊” Christ Spiritとは何でしょうか」


「ただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを誇示するために、聖なる油を注がれた時代がありました。それは大抵王家の生まれの者でした。“キリスト”という言葉は“聖油を注がれた”という意味です。それだけのことです。(※)」


※――イエスの死後、イエスこそそれに相応しい人物だったという信仰が生まれ、それでJesus Christと呼ばれるようになり、それがいつしか固有名詞化していった。

「イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったというのが、私には理解できません」


「わたしは決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。わたしが申し上げたのは、地上へ降りた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊覚者の系譜の中で、イエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。イエスの生活が完全だったとは一度も言っておりません。それはあり得ないことです。なぜなら、彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」

「イエスの教えは最高であると思われますか」


「不幸にして、イエスの教えはその多くが汚されております。わたしはイエスの教えが最高であるとは言っておりません。わたしが言いたいのは、説かれた教えの精髄(エッセンス)は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど強力に、そして純粋に心霊的法則を使いこなした例は、地上では空前絶後であるということです」

「イエスの教えがその時代の人間にとっては進みすぎていた――だから理解できなかった、という見方は正しいでしょうか」


「おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに、彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は、彼らにとって成功であることが時代的にみれば失敗であり、彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」


※――George Lansburyは一九三一年~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じて、ヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppardは生前キリスト教の牧師だったこと以外は不明。なおこの当時二人ともシルバーバーチ霊団のメンバーだったことは他の資料によって確認されている。

「イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の始原であると考えてよろしいでしょうか」


「それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは、霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し、かつそれを自在に使いこなすことができたからです。

ぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた愚行が多かったにもかかわらず、あれほどの短期間に全世界に広まり、そして今日まで生き延びてこれたのは、イエスの言動が常に霊力と調和していた(※)からだということです」


※――ここでは背後霊団との連絡が緊密だったという意味。『霊訓』のインペレーター霊によると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。地上生活中のイエスは早くからその事実に気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体で離脱し、その背後霊団と直接交わって、連絡を取り合っていたという。

かつてメソジスト派の牧師だった人が尋ねる――

「いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできませんか」


「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。教えそのものと、その教えを取り違え、しかもその熱烈な信仰によってかえってイエスを磔刑(はりつけ)にするような間違いを何度も犯している信奉者とを混同しないようにしないといけません。

イエスの生涯を見て、わたしはそこに物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完璧で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった――自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも、みずから課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的のために利用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

どうもうまく説明できないのですが、イエスも、生をうけた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味では完全ではあり得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派な、そして大きな仕事ができる時代が来るとイエス自身が述べている意味がなくなります。

イエスという人物を指さして“ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時は、これほどの仕事ができるのですよ”と言える、そういう人物だったと考えればよいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。しかもそのイエスは、わたしたちの世界においても今、わたしの知るかぎりでの最高の霊格をそなえた霊(※)であり、自分を映す鏡として、イエスに代わる霊はいないと考えております。


※――地球神界での話。『ベールの彼方の生活』では“各天体にキリストがいる”と述べられている。要するに神庁の最高位の霊のことで、イエスなる人物はそのすべてではないが直接の表現だったということであろう。

わたしがこうしてイエスについて語る時、わたしはいつも“イエス崇拝”を煽(あお)ることにならなければよいが、という懸念があります。それは、わたしがよく“指導霊崇拝”に警告を発しているのと同じ理由からです。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな、永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は、理性と常識と知性をもって行わないといけません。それは書物からでも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人がすすめるから、良いことを言ってるから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断規準です。

このわたしとて、無限の叡智の所有者などではありません。霊の世界のことを一手販売しているわけではありません。地上世界のための仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。完全であるとか、間違ったことは絶対に言わないなどとは申しません。みなさんと同様、わたしも至って人間的な存在です。ただ、みなさんよりは生命の道をほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が、わたしに少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしもわたしの言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線をわたしといっしょに眺めませんかと、お誘いしているわけです」

霊言の愛読者の一人から“スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して〈最後の晩餐〉の儀式を行うべきでしょうか”という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません。わたしにとっても何の益にもなりません。まったくなりません。霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛(じゅばく)から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

イエスに対する最大の貢献は、イエスを模範と仰ぐ人々が、その教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病に苦しむ人々を癒し、疑念と当惑に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人々すべてに手を差しのべてあげることです。

儀式よりも生活の方が大切です。宗教は儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。“聖なる書”と呼ばれている書物から、活字のすベてを抹消してもかまいません。讃美歌の本から“聖なる歌”をぜんぶ削除してもかまいません。儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に“宗教的人間”でありうるのです。そういう生活こそ、内部の霊性を正しく発揮させるからです。

わたしとしては、みなさんの関心を儀式ヘ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく、生活そのものです。生活の中で何を為すかです。どういう行いをするかです。〈最後の晩餐〉の儀式がイエスの時代よりさらに遠くさかのぼる由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」

別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて――


「人のためになることをする――これがいちばん大切です。わたしの意見は単純・明快です。宗教には“古い”ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関わりもないものばかりです。

わたしにとって宗教とは、何かを崇拝することではありません。祈ることでもありません。会議を開いて考え出した形式的セレモニーでもありません。わたしはセレモニーには興味はありません。それ自体はなくてはならないものではないからです。

しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事をなくてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、それを無理して止めさせる理由はありません。

わたし自身としては、幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との交渉、地上的障害を超越して、次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係――これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません」

祈り

あなたの目の前に人類は一つ……


これより皆さんとともに、可能なかぎりの最高のものを求めて、お祈りいたしましょう。

ああ、大霊よ、わたしどもは、あなたをあるがままの姿、広大なこの大宇宙機構の最高の創造主として、子等に説き明かさんとしております。あなたは、その宇宙の背後の無限の精神にあらせられます。あなたの愛が立案し、あなたの叡智が配剤し、あなたの摂理が経綸しているのでございます。

かくして、生命現象のあらゆる側面があなたの摂理の支配下にあります。この摂理は可能なかぎり、ありとあらゆる状況に備えたものであり、一つとして偶発の出来事というものは起きないのでございます。

あなたはこの宇宙に、あなたの神性の一部を宿した個的存在を無数に用意なさいました。その神性があればこそ、崇高なるものを発揮することができるのでございます。その神性を宿せばこそ、すべての人間はあなたと、そして他のすべての同胞と霊的につながっていることになるのでございます。民族の別、国家の別、肌の色も階級も教義も超えて、お互いに結ばれているのでございます。あなたの目の前に人類は一つなのです。

誰一人として忘れ去られることも見落とされることもございません。誰一人として無視されることも、あなたの愛が届かぬこともございません。孤独な思いに沈むのは、あなたの絶妙な摂理というものが存在し、心がけ一つで誰でもその恩恵にあずかることができることを知らぬからにほかなりません。

子等が霊の目と耳とを開きさえすれば、高級界からの美と叡智と豊かさとが、ふんだんに注がれるのでございます。その高級界こそが、すべてのインスピレーション、すべての啓示、すべての叡智、すべての知識、すべての愛の始原なのでございます。

わたしたちの使命は、子等に内部の神性と霊的本性に気づかせ、地上はいっときの仮住まいであって、永遠の住処(すみか)は霊界にあること、地上生活の目的は、そうした崇高なる霊的起原と誉れ高き宿命に恥じないだけの霊格を身につけることであることを理解せしめて、しかるべき導きを与えることでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Thursday, February 19, 2026

シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)




9章 霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活――これが最高の生き方です


「霊界にも組織的な反抗勢力の集団がいるのでしょうか」――この問いに対するシルバーバーチの答えの中で、スピリチュアリズムの敵は地上だけでなく、霊界にもいるという事実が明かされた。シルバーバーチはこう答えたのである。


「いるのです。それがわれわれにとって悩みのタネの一つなのです。組織的反抗といっても、聖書にあるような天界から追放された堕落天使の反乱の話を想像してはなりません。あれは象徴的に述べられたまでです。

残念ながら霊界にも真理と叡智と知識の普及をこころよく思わぬ低級霊の勢力がいるのです。そして、スキあらば影響力を行使して、それを阻止しようとするのです。こうした交霊会のほとんどすべてが、その危険下にあるといってよろしい。ただし、和気あいあいの交霊会――地上のメンバーとこちらの霊団との間の協調関係がしっくりいっているかぎり、彼らのつけ入るスキはありません。

彼らにとって最もつけ入りやすい条件は、交霊会のメンバーの間に意見の衝突があって、雰囲気が乱れている時です。この交霊会も当初はそうでしたが、次第に改善されていきました。


訳注――当初はバーバネル自身が入神させられることを嫌っており、メンバーも奥さんのシルビアのほかに心霊的知識のない知人が二、三人といった状態で、シルバーバーチも試行錯誤の連続だったようである。(*詳しくは『霊性進化の道しるべ』巻末のバーバネルの遺稿《シルバーバーチと私》を参照してください。)

霊媒を通して届けられるメッセージに矛盾が多いのは、そのせいです。一種の妨害行為のせいですから、常に警戒が必要です。霊能開発を一人でやるのが感心しないのも、そこに理由があります。たった一人では、支配霊も指導霊も、邪霊やイタズラ霊を排除しきれないからです。

霊界というところは、一度は地上で生活したことのある人間(霊)で構成されていると考えてよろしい(※)。決して聖なる天使ばかりがいるわけではありません。霊性の粗野なものから至純至高の高級霊にいたるまで、実にさまざまな霊格をそなえた、かつての人間のいる世界です。みんな地上世界から来た者です。ですから、地上世界のすべての人間が清潔で、無欲で、奉仕的精神で生きるようになるまでは、霊の世界にも厄介な者、面倒を見てやらねばならない者が何割かはいることになります。そういう次第なのです」


※――地球に霊界があるように各天体に霊界がある。当然、太陽にも霊界があり、太陽系全体としての霊界があり、銀河系星雲にも霊界がある。さらに何段階もの霊界があって、最後は宇宙全体の霊界があるのであろうが、そこまでいたると、もはやスペキュレーションの域に入る。地上人類にとっては太陽系が事実上の宇宙であり、シルバーバーチも宇宙とか森羅万象といった用語をその意味で用いている。ここでいう“霊界”も地球の霊界の話である。

レギュラーメンバーの一人「でも、せっかくの計画を台なしにするような厄介者を、あなたほどの方でも、どうにもならないのでしょうか」


「可能なかぎりの手は尽くします。しかし、その中には、わたしたちとの接触が取れない者が大勢いることを知ってください。関係が生じないのです。霊性が向上して受け入れる用意が整った時にはじめて、われわれの影響力に触れるようになるのです。

誤解のないようにお願いしたいのは、そうした反抗勢力は本来のわたしたち(上層界の霊)には何の害も及ぼせないということです。彼らの勢力範囲は地上界にかぎられています。霊的状態が地上的波動に合うからです。

ですから、彼らが厄介な存在となるのは、わたしたちが波動を下げて地上圏へ近づいた時です。つまり低級勢力が幅をきかしている境涯へ足を踏み入れた時に問題が生じているだけです」

「この地上世界ですと、面倒ばかり起こしている者がいると、何とか手段を講じて更生させようとしますが、そちらではそういうわけにはいかないのですね?」


「それは、たとえば逮捕して、場合によっては死刑に処するということでしょうが、そういう手段では、こちらの世界へツケを回すようなものです」

「でも、場合によっては過ちを悟らせることによって立派に更生させることができます」


「それが思うようにならない場合もあるのではありませんか」

ここで別のメンバーが「懲役という方法もありますが、これだけでは精神の歪みを正し非行を改めさせることはできません。服役はどうやら矯正手段ではなさそうです。それによって心を入れかえさせることに成功するのは、きわめて稀です」と言うと、シルバーバーチが――


「実は地上世界では、そうした非行の元凶を突き止めるのが容易でないのです。自分はうまくすり抜けておいて、罪を他人におっかぶせることができるわけです。

が、こちらではそうは行きません。霊性の進化に応じた界層にしか住めないのです。地上世界ではさまざまな霊格の者が同じ平面上で生活しております。もっとも、だからこそ良い、という側面もありますが……。

いずれにしても、そうした妨害や反抗の勢力の存在をあまり大ゲサに考えるのは禁物です。善性の勢力に較べれば大したものではありません。ただし、存在することは確かです。それよりもっと厄介な存在として、地上時代の宗派の教えを死後もなお後生大事に信じて、それを地上の人間に広めようとして働きかける狂信家がいます」

「それが一ばん厄介な存在ということになるのでしょうか」


「いえ、総体的にみれば大したことはありません。彼らの中で死後の自分の身の上の真相に気づいている者は、きわめて少数だからです。大半の者は地上時代にこしらえた固定した精神構造の中に閉じ込められたまま、一種の夢幻の世界で生きております」

別の日の交霊会で、ローマカトリックの信者からの投書が読み上げられた。その筆者はまずスピリチュアリズムに対するローマカトリック教会としての否定的見解を引用したあと、“しかし、もしも霊界との交信が真実であるとしたら、それは地上人類にとって素晴らしいことです”という自分の見解を述べ、さらに“死後存続が証明されれば地上に愛が増え、罪悪と戦争が減ることでしょう”と結んであった。

これを聞いてシルバーバーチはこう述べた。


「今一人の人間が、難しい環境の中で少なくとも微かな光を見出し、これまで真実であると思い込んできたものとの関連性を理解しようと努力している事実を、まず喜びたいと思います。

この方は、疑問に思うことを少なくとも正直に尋ねてみるという行為に出ておられます。この段階まで至れば、真理探究が緒(ちょ)についたことを意味します。どうかこの方に、疑問は徹底的に追求し、証明を求め、証明されたものにしっかりとしがみつき、証明されていないもの、理性が承服しないものは、勇気をもって捨て去るようにお伝えください。

この方に伝えていただきたいことが、もう一つあります。お手紙の中にいくつかの引用文がありますが、この方は本当にそれを信じていらっしゃるのでしょうか。それが果たして真実かどうかの証拠がないものについては、“果たして筋が通っているだろうか”と一度はご自分の理性で疑ってみることが大切です。大霊からの授かりものであるその理性が納得しないものは、そこできっぱりと捨て、いかなるテストにも追求にも検査にも批判にも疑念にも耐えてなお残るものだけを基盤として、自分の宗教を打ち立てるのです。

一つ一つ取り挙げると時間がかかりますので、例として一つだけ取り挙げてみましょう。この方は“神はモーゼにかく言えり……”という文を引用しておられますが、神がモーゼに言ったことが事実であるという証拠はどこにあるのでしょうか。その証拠がないかぎり、あるいは少なくとも信じてよいと断定できるだけの理由が揃わないかぎりは、それを引用してはなりません。理性による判断はそれからのことです。それに、ついでに言えば、かりにそれが証明されたとしても、一体それが今日の時代に適用できるかどうかの問題もあります。

理性による検査と探求をなされば、かつては真実と思い込んでいたものの多くが、何の根拠もないことがわかり、間違いない事実だけを根拠としてご自分の宗教を打ち立てることになります。それならば、疑念の嵐が吹き荒れても、揺らぐことはありません。知識は岩盤のようなものだからです。その方に、わたしからの愛の気持ちを届けてあげてください。そして、頑張り通すようにと励ましてあげてください」

続いての投書は女性からのもので、いかに小さな体験にも、行為にも、あるいは言葉にも、思念にも、それなりの影響力があるとのシルバーバーチの言葉を引用して、“では一体どうすれば自分の言動に自信が持てるようになるのでしょうか”というものだった。シルバーバーチが答える。


「その方にこうお伝えください――精神的にも霊的にも自己を厳しく修養し、生活のすべての側面を折目正しく規制し、自分は本来は霊であるという意識をもって、行動のすべてに霊の優位性を反映させなさい、と。

霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活――これが最高の生き方です。既成のテキストはいりません。魂の成長ということだけを心がければいいのです。大霊からいただいている霊力が顕現し、人間が勝手にこしらえた教義への盲目的信奉者とならずにすみます」

次の質問は、スピリチュアリズムというものが、ただ単に他界した身内の者との交霊だけに終始して、本来の意義と責任を忘れてしまう危険性はないかというものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「知識の使い道を誤るという問題は常に存在します。何事にも正しい使い方と間違った使い方とがあるものです。これは誰しも直面させられる問題の一つです。

自分の個人的な不幸の慰めを交霊会に見出す人がいることは確かです。そして、悲しむ人がその悲しみを慰められること自体、少しも悪いことではありません。死別の嘆きが軽減され、涙を流さなくなるということは結構なことです。喪の悲しみに暮れる人にとって、交霊会が慰めの場となるのを、いけないことと非難するのはよくありません。むしろ必要なことですし、それがその人にとって人生の大きな転機になることもあります。

問題は、胸の痛みが癒え、涙が消え、陰うつさが晴れ、重荷が軽くなってから後のことです。言い変えれば、死後の存続という知識を手にしたあともなお、いつまでも私的な交信の範囲にとどまっているようでは、これは重大な利己主義の罪を犯すことになります。

それがなぜ罪なのか――互いに慰め合うことがなぜいけないのか――そう問われれば、確かにそれ自体少しも悪いことではないのですが、わたしの考えを言えば――これも例によって一般論として申し上げることで、例外はあるかも知れませんが―― 一人の霊媒を通じての霊界との交信が確立されドアが開かれたなら、他の人々にもそのチャンネルを使用させてあげて、多くの人々を啓発する方向で活用すべきです。

三千年におよぶ永い体験によってわたしは、“人を裁くなかれ”という教えが確かに真実であることを確認しております。他人の欠点を指摘することは容易なことです。もっとも、残念ながら、批判されてもやむを得ないだけの条件が揃っているケースもあることは認めますが……。地上の人たちが他人の利己主義に文句を言うのをやめて、自分の欠点を反省し、どうすればそれが改められるかに関心を向けるようになれば、地上はもう少しは進歩することでしょう」

ところで、シルバーバーチの交霊会、正式に言うとハンネン・スワッファー・ホームサークルは、霊媒のバーバネルが入神(トランス)状態に入ることで開会となるが、それに先立って出席者の間である話題について論議が交わされることがある。それをシルバーバーチは霊界で聞いている。やがてバーバネルがトランス状態に入ると、その身体に乗り移ってしゃべるわけであるが、ある日の交霊会に先立って金銭(マネー)の問題が話題になったことがある。やがて入神したバーバネルの口を借りてシルバーバーチがこう語った。


「地上世界で成就しなければならないことは、それを決意した霊性、人間の霊性が原動力となって成就されていくのです。表面的な意識が自覚するとしないとにかかわりなく、内部に秘められた神性の火花が発現を求める、その衝動によるのです。人類の歴史を飾ってきた先駆者はみな、その力を物的なものからではなく、霊的なものから――それは内部からの絶え間ない衝動である場合もあれば、外部からのインスピレーションである場合もありますが――それから得ていたのです。

残念ながら地上世界は、今なお物質万能主義の悪弊から脱け切れずにいます。すべてを金銭的感覚で捉えようとします。財産の多い人ほど偉い人と見なします。人間性ではなく財産と地位と肩書きと家柄によってランクづけします。実際にはまったく永続性のないものばかりです。虚飾にすぎません。実在ではないのです。

本当の価値の尺度は霊的成長度です。それは、その人の生活、日常の行為・言動によって、みずから成就していくもので、それがすべてであり、それしかないのです。お金で徳は買えません。お金で霊的成長は買えません。お金で霊格は高められません。そうしたものは各自が各自の努力で獲得しなければなりません。粗末な家で生まれたか、御殿のような家で生まれたかは、霊的成長には何の関係もありません。

霊的実践の場は、すべての人間に平等に存在します。死んでこちらへ来られると、意外に思えることが沢山あります。地上的な虚飾がすべて取っ払われて、魂が素っ裸にされます。その時はじめて自分の本当の姿を知ります。自分はこうだと思い込んでいたり装(よそお)ったりしていたものとは違います。

といって、わたしは、お金持ちはすべて貧乏人より霊的に劣ると言っているのではありません。そう言うつもりは毛頭ありません。お金は霊的成長とは何の関係もないこと、進化は各自の生活そのものによって決まっていくのであり、それ以外にないことを言いたいのです。困ったことに、地上の人間は、直面する物的問題に心を奪われて、つい間違った人生観をもってしまいがちですが、いついかなる時も、霊的真理を忘れないようにしないといけません。これだけは永続性のある霊的な宝であり、いったん身につけると、二度と奪われることはありません。永遠の所有物となります。

わたしは、霊力が今日のように少数の特殊なチャンネルを通してではなく、当り前の日常生活の一部として、無数のチャンネルを通して地上世界へ注がれる日の到来を、楽しみに待ち望んでおります。その時は“あの世”と“この世”との間の障害物がなくなります。すべての人間に潜在する霊的資質が、ごく当り前のものとして、学校教育の中で磨かれるようになります。生命は一つであるという事実が理解されるようになります。

わたしはそういう世界――地上世界が広大な宇宙の一部であることを認識し、すぐ身のまわりに高次元の世界の生活者を霊視できるような世界――の到来を待ち望んでおります。何と素晴しい世界でしょう!」

ここで質問が出た。

「まったくの赤の他人にスピリチュアリズムの教えを説くにはどうすればよいでしょうか」

これに対してシルバーバーチが「難しい質問ですね」と言うと、司会のハンネン・スワッファーが「それは相手によって違いますよ」と口添えする。するとシルバーバーチが改めてこう説いた。


「人それぞれに要求するものが異なることを、まず理解しないといけません。霊的成長度が一人ひとり異なるからです。ある人は聞かれなくなった声を聞きたい(霊言)と思い、触れられなくなった手をもう一度しっかりと握りしめたい(物質化現象)と思います。今なお愛が続いていることを確認したいのです。そういう人にとっては、自分を愛する人だけが関心の的であり、それはそれなりに、やむを得ないことです。

また一方には、自分の個人的なことよりも、科学的な関心を寄せる人もいます。宗教的観点から関心をもつ人もいます。哲学的な観点から関心をもつ人もいます。まったく関心を見せない人もいます。こうした人それぞれに対応した答え方があります。

わたしたちの側から申し上げられることは、次のことだけです。生命は墓の向こうでも続いていて、あなたは個性をもった霊としてずっと存在し続ける――このことは間違いない事実であり、筋の通ったものであれば、どんな手段を講じてもよいから、わたしたちの言っていることが本当かどうかを試されるがよろしい。最終的には、理性ある人間ならば誰しも納得がいくはずです。理性を欠いた人間には、つける薬はありません、と」

「現代の霊的教訓はイエスの教えに匹敵するものでしょうか」


「そもそも現代の人たちがなぜ遠い昔の本に書いてあることを信じたがるのかが、わたしには理解できないのです。それが真実であることを証拠だてるものは何一つ存在せず、ただの人間が述べたことの寄せ集めにすぎず、しかも現代にはそぐわない形で表現されているにもかかわらず、それに絶対的な権威があるかのごとく後生大事にしています。実際は、いつの時代にも通用するという保証はひとかけらもないのです。そのくせ、愛する人が生前そっくりの姿を見せ(物質化現象)そして語る(霊言)ことがある話をすると、そういうことは昔の本には出ていないから、という理由で信じようとしないのです」

出席者の一人が「それを信じたら、それまでの信仰を大々的に変更せざるを得なくなるので、しりごみする人がいるようです。それを批難するわけではないのですが、その試金石にあえて立ち向かう道義的勇気に欠けているのだと思います」という意見を述べた。するとシルバーバーチが――


「だとすると、その人は自分を傷つけているだけでなく、自分が愛する人たちをも傷つけていることになります。世の中には、正しい知識を知るよりも嘆き悲しんでいる方がいいという人がいるものです。知識は大霊からの授かりものです。その知識を拒否する人は、自分自身を傷つけることになるのです。“光”を差し出されても、結構です、私は“闇”で満足です、というのであれば、それによって傷ついても、それはその人の責任です」

別の出席者「まず受け入れる用意がいるとおっしゃる理由はその辺にあるわけですね?」


「そうです。わたしの使命には二つの要素があるとみています。一つは純粋に破壊的なもので、もう一つは建設的なものです。長いあいだ人間の魂の息を詰まらせてきた雑草――教会による虚偽の教え、宗教の名のもとに説かれてきた意味のない、不快きわまる、時には冒涜的でさえある教義を破壊するのが第一です。そうしたものは根こそぎ一掃しなければいけません。人生が本来の意義を果たすのを妨げるからです。それが破邪の要素です。

建設的要素は、正しい知識を提供して、受け入れる用意のできた人にとって、それがいかに自然で、単純で、美しく、そして真実味があるかを説くことです。両者は相たずさえて進行します。大切にしている教えの間違いを指摘されると不快な態度を見せるような人は、わたしはご免こうむります。そういう態度でいるとどういう結果になるかを、そちらでもこちらでも、さんざん見てきているからです。

わたしたちにとって、地上世界で仕事をするのは容易なことではありません。しかし今の地上世界は、わたしたちの努力を必要としているのです。どうか、霊の自由と魂の解放をもたらす基本的な霊的真理にしっかりとしがみついてください。精神がのびのびと活動できるようになり、二度と再び、歪んだ、ひねくれた、いじけた生き方をしなくなったことを喜ばないといけません。がんじがらめの窮屈な生き方をしている魂が多すぎます。本来の自我を存分に発揮できなくされているのです。

そこでわたしたちが、無知の牢獄の扉を開くカギをお持ちしているのです。それさえ手にすれば、暗闇の中から這い出て、霊的真理の陽光の中へと入ることができるのです。自由が束縛にまさるのは自明の理です。束縛は間違いであり、自由が正しいにきまっています。教義への隷属を強いる者は明らかに間違っています。自由への戦いを挑む者は明らかに正道を歩んでいる人です。

いかなる人間も、いつかは実在を見出さねばならなくなる時期がまいります。我儘(わがまま)からその時期を遅れさせることはできます。が、永久に避け通すことはできません」

「ということは、人間はすべて――今のところはどんなに品性の下劣な人間でも――そのうちいつかは、霊的に向上していくということでしょうか」


「そうです――永劫の時をへてのことですが……。わたしたちの関心は生命の実在です。影には真の安らぎも幸せも見出せないことをお教えしようとしているのです。影は光があるからこそ存在するのであり、その光とは霊的実在です。無限なる霊の莫大な可能性、広大な宇宙を支配しているだけでなく、一人ひとりの人間に少量ずつ存在している霊性に目を向けてほしいと願っているのです。

本当の宝を見出すのは自分の“内部”なのです。窮地にあって、物的手段が尽きたあとに救ってくれる力は、内側にあるのです。地上の友だちがすベて逃げ去り、自分ひとり取り残され、誰もかまってくれず、忘れ去られたかに思える時でも、背後霊の存在を知る者は、霊の世界からの温もりと親密さと愛があることを思い起こすことができます」

続いての質問に答えて、出席者全員に次のような勇気づけの言葉を述べた。


「皆さんが携わっておられる大いなる闘いは、これからも続きます。こうした霊的真理の絡んだ問題で、意見の衝突や論争が生じるのを恐れてはなりません。いずれは必ず人類の大多数によって受け入れられていくのですが、相手が間違っていることがわかっていながら、論争を避けて大人しく引っ込んだり、妥協したり、口先をごまかしたりすることなく、いかなる犠牲を払っても真理は真理として守り抜くという覚悟ができていないといけません。

結果を怖がるような人間は弱虫です。そんなことでは性格は鍛えられません。霊の世界の道具たらんと欲する者は、迫害されることをむしろ誇りに思うようでなくてはなりません。あらゆる攻撃を、それがどこから来ようと、堂々と迎え撃つのです。胸を張って生き、その毅然(きぜん)たる態度、その陰ひなたのない言動によって、いつでもどこでも試される用意があることを見せつけるのです」

時あたかも春だった。シルバーバーチは春という季節が永遠の希望を象徴するものであることを述べてから、こう結んだ。


「さて、最後に申し上げたいのは、この春という季節は喜ばしい成就の時節だということです。新しい生命が誕生してくるからです。今こそ、まさしく甦りの季節なのです。無数の形態を通して新しい美が息づく時、それは聖なる創造主の見事な芸術をご覧になっているのです。

皆さんは今まさに、自然界の生命の喜びの一つとして定期的に訪れる、新しい創造の夜明けをご覧になろうとしておられます。それには再活性化と、力と、太陽光線の増幅が伴います。絶対的摂理の上に築かれた希望と自信と信頼をもたらす、この新しい生命でご自分を満たされるがよろしい。それは、生命がいかに永い眠りの後でも必ず甦ること、森羅万象を生んだ力は永遠なる存在であること、そして、それと同じものが皆さんの一人ひとりに宿っていることの証(あかし)だからです。

ですから、取り越し苦労や悲観論、うんざりや投げやりの気持ちなどを抱く根拠はどこにもないのです。絶対的な自然法則の確実性に根ざした霊的知識に、すべてをゆだねることです。

大霊の祝福のあらんことを!」

同じく春の季節に行われた交霊会で、次のような、素朴でしかも厳粛さのただようメッセージを述べたことがあった。


「皆さんは今、大自然の華麗なページェントの一シーンをご覧になっているところです。春の美に飾られた大自然をご覧になっているわけです。新しい生命が神なる創造者への賛歌を奏(かな)でているところです。

いずこを見ても、永遠なる摂理の不変性の証にあふれております。雪に埋もれ、冬の暗闇の中で眠りつづけていた生命が目を覚ましはじめます。春の息吹がいたるところに見られます。神なる園丁(えんてい)が人間には真似ることすらできない腕の冴(さ)えを披露いたします。そしてやがて、つぼみが花と開き、美しさが一面に広がります。

春のあとに夏がつづき、夏のあとに秋がおとずれ、秋のあとに冬がめぐってきます。その永遠のサイクルに進化の要素が伴ってまいりました。これからも進化を伴いつつめぐりつづけます。同じように、皆さんも生命の冬の季節から春を迎え、やがて夏に向かって内部の神性を花開かせてまいります。

こうした規則正しい自然の流れの中に、大霊の働きの確実性を見て取ってください。その大霊の力があなたを通して働くように仕向けさえすれば、言い変えれば、大霊の道具として役立てる用意さえ整えれば、確実な知識にもとづく叡智とともに、豊かな恩恵をわがものとすることができるのです。

地上の人間には失望させられることがあるかも知れません、信頼していた同志から裏切られることがあるかも知れません。国がこしらえた法律や条令によって欺(あざむ)かれた思いをさせられることがあるかも知れません。しかし、大霊は絶対に裏切りません。なぜなら、完全なる摂理として働いているからです。

その働きの邪魔だてをしているのは、ほかならぬ自分自身なのです。自分の無知の暗闇を追い出し、正しい知識の陽光の中で生きなさい。そうすれば、この地上にあって天国の喜びを味わうことができるのです」

祈り

無限にして無尽蔵の霊の宝庫を……


大霊の恩寵が皆さまがた全てに下されますように!

これより皆さんとともに、全生命を生みたまい、その全側面を愛の抱擁の中に収めたもう崇高なる力に向けて、心を一つにいたしましょう。

ああ、大霊よ。わたしたちはあなたについて語らんと欲し、お粗末な表現ながらも、この果てしなき宇宙のすみずみまで浸透せるあなたの崇高さ、あなたの神性、あなたの絶対的法則を啓示するための言葉を探し求めております。

心を恐怖で満たされ、精神を不安で曇らされている男女が、あなたに至る道を知り、あなたを見出し、そして万事はよきに計らわれていること、あなたの配剤に間違いはないとの確信を得ることができますように、わたしたちがあなたの豊かな宝のいくつかを明かしてあげたいのでございます。

これまであなたの真実の姿、一分の狂いも休むことも弱まることもなく働く、完全なる法則としてのあなたを理解することを妨げてきた偽りの教義、愚かな間違い、無知と誤解のすべてを取り払うのも、わたしたちの仕事の一環でございます。わたしたちの目に映る宇宙は、生物であろうと無生物であろうと、ありとあらゆる存在にあなたの配剤があり、同時に、そこに生じるあらゆる事態にも十全なる備えがなされているのでございます。

あなたの目の届かぬ所は一つとしてございません。秘密も謎もございません。あなたは全てをご存知です。なぜなら、全てはあなたの法則の支配下にあるからでございます。わたしたちが指摘するのは、その法則の存在でございます。無窮の過去より作用し、これからも永劫(えいごう)に作用し続ける摂理でございます。

地上の子等がその摂理と調和した生活を送ることによって、すべての暗黒、すべての邪悪、すべての混乱と悲劇が消え、代わって光明が支配することになりましょう。

愛に死はなく、生命は永遠であり、その不滅の愛によって結ばれている者は、墓場で別れ別れになることはないこと、愛が求め合い霊力が働くところには、乗り越えられない障害も、取り壊せない障壁もないことを教えてあげるのも、わたしたちの仕事の一環でございます。

各自がその霊性を磨き、天命として与えられている役割を果たす段階に至るのを待ちうけている、無限にして無尽蔵の霊の宝庫を子等に明かしたいのでございます。

ここに、己を役立てることを求めるあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Wednesday, February 18, 2026

シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編) 近藤千雄(訳)



8章 魂の挫折感を誘発するのは、精神上の倦怠感と絶望感です


今世紀最大の劇作家の一人としてジョージ・バーナード・ショウ(※1)を挙げることに異論を唱える人はいないであろう。この辛辣(しんらつ)な風刺家が“フリート街の法王”(※2)の異名をもつ、同じく劇作家のハンネン・スワッファーのインタビューを受けた――これだけでも大変なニュースだった。


※1――George Bernard Shaw(1856~1950)アイルランド生まれの英国の劇作家・評論家。一九二五年にノーベル文学賞を受賞。辛辣な批評と風刺で知られた。一度来日したことがあり、その時に日本の印象を聞かれて「ああ、日本にも家があるなと思いました」と答えたという。禁煙運動について意見を求められて「タバコを止めるのは簡単だよ。私なんか何度も止めたよ」と答えている。


※2――フリート街というのは英国の新聞社が軒をつらねている所で、つまりは英国ジャーナリズム界の御意見番的存在の意味。ショウとの年齢差は二十五歳で、スワッファーにとっては大先輩だった。

そのインタビューは、ショウが《タイム》誌上で、奥さんの死に際して寄せられた多くの悔やみ状に対する感謝の意を表明したあとに準備されたものだった。

当時すでに八十七歳だったショウは、スワッファーに「こんどは自分の番だ。もう悟り切った心境で待ってるよ」と言い、続けて、

「わたしなんか、もうどうでもいいという気分だ。あんたもわたしも似たような仕事をしてる。人さんにいろいろと物語ってあげてるわけだ。それはそれで結構なことだが、それで世の中がどうなるというものでもないよ」と付け加えた。

スワッファーが「あなたもいずれ死なれるわけですが、死んだらどうなると思っていらっしゃいますか」と尋ねると――

「死ねばこの世からいなくなっちまうということだ。わたしは死後の存続は信じたことはないし、今も信じていない。死後も生きてると信じている人間で、それがどういうことを意味するかが本当にわかっている人間がいるなんて、わたしには考えられないね」

ここではスピリチュアリズムに関係したものだけを紹介したが、ショウ対スワッファーの対談は大変なセンセーションを巻き起こした。同じ頃に催されたシルバーバーチの交霊会でも当然その話題が持ち出され、興味ある質問が出された。それを紹介しよう。

まず最初の質問は「ショウのようなタイプの人物を待ちうける環境はどんなものでしょうか」というものだった。シルバーバーチは例によって個人の問題にしぼらずに、普遍的なものに広げて、こう語った。


「洞察力に富む人間は、無意識のうちに、さまざまな形で実在に触れておりますから、待ちうける新しい体験を喜びの中に迎えることになります。死んだつもりがまだ生きていることに、最初はショックを受けますが、新しい環境での体験を重ねるうちに、精神的能力と霊的能力とが目覚めて、その素晴らしさを知るようになります。

叡智・知識・教養・真理、それに芸術的作品の数々が、ふんだんに、それも地上よりはるかに高度のものが入手できることを知って喜びを覚えます。肉体の束縛から解放されて今やっと本来の自我が目を覚まし、自分とは何かを自覚しはじめ、肉体の制約なしにより大きな生活の舞台での霊妙な愉しみが味わえる――それがいかなるものであるかは、とうてい地上の言語で説明できる性質のものではありません。

とにかく、どの分野に心を向けても――科学であろうと哲学であろうと、芸術であろうと道徳であろうと、その他いかなる知識の分野であろうと、そこには過去の全時代のインスピレーションが蓄積されているばかりでなく、それを受け入れる用意のある者にはいつでも授けるべく、無数の高級霊が待ちうけているのです。

飽きることのない楽しい冒険の世界が待ちうけております。他界して間もないころは、個人的な縁による結びつき、たとえば先に他界している家族や知人、地上に残した者との関係が優先しますが、そのうち、地上界のごとき物的制約を受けることなく広がる自然の驚異に触発されて、目覚めた霊性が急速に発達してまいります」

ショウ対スワッファーという劇的な対面がさまざまな話題を生み、それに関連したさまざまな質問に答えたあと、シルバーバーチはこうしめくくった。


「真理がすべてに優先します。真理が普及すれば虚偽が退散し、無知と迷信が生み出した霧と陰が消えてまいります。現在の地上にもまだ、生活全体をすっぽり包み込む、無知という名の闇の中で暮らしている人が無数におります。

いつの時代にも、霊の力が何らかの形で、その時代の前衛たる者――パイオニア、改革者、殉教者、教育家等々、輝ける真理の旗を高々と掲げた人々の心を鼓舞してまいりました。地上に存在するあらゆる力を超越した霊妙な何かを感じ、人類の未来像を垣間(かいま)見て、彼らはその時代に新たな輝きを添えたのでした。彼らのお蔭で多くの人々が暗闇のべールを突き通して、光明を見出すことができたのでした。彼らのお蔭で、用意のできていた者が、みずからの力で足枷を解きほどく方法(すべ)を知ったのでした。暗い牢獄からみずからの魂を解き放す方法を知ったのです。生活全体に行きわたっていた、うっとうしい空気が消えました。

地上世界の全域に、啓発の勢力が徐々に、実に牛の歩みではありますが、行きわたりつつあります。それにつれて無知の勢力が退却の一途をたどっております。今や地上人類は進軍の一途をたどっております。さまざまな形での自由を獲得しました――身体の自由、精神の自由、霊の自由です。偏見と迷信と無知の勢力から人類を解き放す上での一助となった人はみな、人類の永い歴史の行進を導いてきた、輝ける照明です。

魂の挫折感を誘発するのは、精神上の倦怠感と絶望感です。精神が明るく高揚している時こそ、魂は真の自我を発揮し、他の魂を永遠の光明へ向けて手引きするほどの光輝を発するのです」

さらに“生命力”の問題にふれて――


「生命力が存在することに疑問の余地はありません。生命は、それにエネルギーを与える力があるからこそ存在します。それが動力源です。その本質が何であるかは、地上の人間には理解できません。いかなる科学上の器具をもってしても検査することはできません。化学的分析もできません。物的手段による研究は不可能なのです。

人間にとっては“死”があり、そして“生命”がありますが、わたしたちから見れば“霊”こそ生命であり、生命はすなわち“霊”であるというふうに、きわめて単純に理解できます。物質界というのは永遠の霊の光によって生じた影にすぎません。物質はただの“殻”であり、実在は霊なのです。

意識のなかったところに生命を与えたのが霊です。その霊があなたに自分を意識させているのです。霊こそ大霊によって人間に吹き込まれた息吹、神の息吹であり、その時点から自我意識をもつ生きた存在となったのです。

人間に神性を与えているのは、その霊なのです。その霊が人間を原始的生命形態から今日の段階へと引き上げてくれたのです。ただの禽獣(きんじゅう)と異なるのは、その霊性です。同胞に有徳の行為をしたいと思わせるのも、その霊性です。自分を忘れ、人のためを思う心を抱かせるのも、その霊性です。少しでも立派になろうと心がけるようになるのも、その霊性のお蔭です。良心の声が聞こえるのも霊性があるからこそです。あなたはただの物質ではありません。霊なのです。この全大宇宙の運行と、そこに生活する全生命を経綸している力と同じものなのです。

人間は、その宇宙霊、その大生命力が個別性をそなえて顕現したものです。人間は個的存在です。神性を帯びた炎の小さな火花です。みなさんのいう神、わたしのいう大霊の、不可欠の一部分を占めているのです。その霊性は死によっていささかも失われません。火葬の炎によっても消すことはできません。その霊性を消す力をもったものは、この全大宇宙の中に何一つ存在しません」

さて、当時のジャーナリズム界の第一線で活躍していたスワッファーは、その知名度を生かして、当時の各界の著名人をよく交霊会に招待した。招待された人は、シルバーバーチとの対話もさることながら、まずはスワッファーというジャーナリズム界の大物に直接会えることを光栄に思って出席した人が多かったのも事実である。

その中でも、これから紹介する人は特異な人物の部類に入るであろう。無声映画時代に“世界の恋人”と呼ばれて人気を博した米国の女優メアリ・ピックフォードで、その交霊会の様子はスワッファーによって《サイキックニューズ》紙に発表された。以下はその全文である。

映画でも演劇でも芸術作品でも、それが真実を表現し、大勢の人々の心に触れるものをもっておれば、霊界からみれば実に大きな存在価値をもつものであることは、これまで各界で活躍している人を招待した時にシルバーバーチがたびたび強調していることであるが、このたびもまた、そのことを改めて確認することになった。以下は、先日催された交霊会の速記録から、興味ぶかい箇所を抜粋したものである。まずシルバーバーチから語りかけた――


「さて、海を渡って(米国から)お出でくださったお客さんに申し上げましょう。今日ここに出席しておられる方々があなたの大ファンでいらっしゃること、またいわゆる死の彼方にいる人たちからも守られていることを、あなたはずっと感じ取ってこられたことはご存知と思いますが、いかがですか」

ピックフォード「よく存じております」


「その愛、その導きがあなたの人生において厳然たる事実であったことを、あなたは幾度も体験しておられます。窮地に陥り、どちらへ向かうべきかがわからずに迷っていた時に、はっきりとした形で霊の導きがあり、あなたは迷うことなく、それに従われました。おわかりでしょうか」

ピックフォード「おっしゃる通りです」


「ですが、実際には、情愛によって結ばれた大勢の人々の愛を、これまで意識なさった以上に受けておられるのです。もしもその全てが認識できたら、あなたのこれまでの生涯がもったいないほどの導きを受けていることがわかるでしょう。またもし、この地上生活であなたに託された使命の全てを一度に見せられていたら、とても成就できないと思われていたことでしょう。それほどのものが、右足を一歩、左足を一歩と、着実に歩んでこられたからこそ、今日まで維持できたのです。

ある程度まではご存知でも、まだ全てはご存知ないと思いますが、わたしたちの世界――そちらの世界から移住してくる霊の世界から見ると、真実の宗教は人のために役立つことをすること、これしかないことがわかります。無私の善行は霊の通貨なのです。すなわち、人のために精一杯の努力をする人は、その誠意によって引きつけられる別の人によって、そのお返しを受けるのです。

あなたは、これまでの人生で大勢の人々の生活に幸せと理解力と知識とをもたらしましたが、その分だけあなたは地上の人だけでなく、はるか昔に地上を去り、その後の生活で身につけた叡智をあなたを通じて地上へもたらしたいと願う、光り輝く霊も引き寄せております。わたしの言っていることがおわかりでしょうか」

ピックフォード「はい、よくわかります」


「こちらの世界では、あなたのような存在を大使(アンバサダー)の一人と考えております。つまり一個の仲介者、大勢の人間との間を取りもつ手段というわけです。目に見えない世界の実在という素朴な福音を、あなたは熱心に説いてこられました。これまで物的障害が再三にわたって取り除かれ、首尾よく前進してこられたのも、あなたのこうした心がけがあったからです。

そこで、わたしから良いことをお教えしましょう。遠からずあなたは、これまでのそうしたご苦労に有終の美を飾られる――栄誉を賜り、人生の絶頂期を迎えられるということです。あなたの望まれたことが、これからいよいよ結実をみることになります」

ここで、私(スワッファー)が出席する会には必ず出現しているノースクリッフ卿(※)が、シルバーバーチと入れ替ってピックフォードに挨拶を述べた。私は直接は知らないが、ピックフォードが夫君のフェアバンクスと連れだって初めてロンドンを訪れた時、ファンの群れでどこへ行ってもモミクチャにされるので、ノースクリッフがひそかに二人を私邸に泊めたといういきさつがあるのである。


※――英国の有名な新聞経営者で、《デイリーメール》紙の創刊者。死後、スワッファーがよく出席していたデニス・ブラッドレーの交霊会に出現して決定的な身元確認の証拠を提供した。スワッファーがスピリチュアリズムの真実性を確認したのはこの体験による。そしてその体験記を『ノースクリッフの帰還』と題して出版、大反響を呼んだ。

そのあと、かつての夫君フェアバンクスも出現して、二人の結婚生活の不幸な結末を残念に思っていることを述べた。ここでは、その件についてはこれ以上深入りしないでおこう。とにかく、それを聞いたピックフォードが、シルバーバーチにこう述べた。

「私はかつて地上の人間にも他界した方にも、恨みを抱いたことは一度もありません。恨みに思ったのは、過ちを犯した時の自分に対してだけです」


「ご自分のことをそうダメ人間のようにお考えになってはいけません。今もしあなたの人生の“元帳”を整理することができたら、いわゆる“過ち”といえるほどのものは、無私の徳行や善行に較べると、いたって少ないことがおわかりになるはずです。多くの人々にどれほど良いことをなさってこられたかは、こちらへお出でになるまではおわかりにならないでしょう。

あなたは、数え切れないほどの人々に愉しみを与えてこられました。しばしの間でも悲しみを忘れさせ、心の悩みや痛みを忘れさせ、トラブルやストレスを忘れさせ、人生の嵐を忘れさせてあげました。あなた自身の願望から、あなたなりの方法で人のために役立つことをなさってこられました。人のために役立つということが何よりも大事なのです。

他のすべてのものが忘れ去られ、剥(は)ぎ取られ、財産が失われ、権力が朽(く)ち、地位も生まれも効力を失い、宗教的教義が灰に帰したあとも、無私の人生によって培(つちか)われた性格だけはいつまでも残り続けます。わたしの目に映るのは身体を通して光り輝く、その人格です。

わたしは、そうした善行を重ねてきた魂にお会いできることを大きな喜びとしております。以上が、あなたがみずから“過ち”とおっしゃったのを聞いて私が思ったことです。あなたは何一つ恐れるに及びません。真一文字に進まれればよろしい。あなたも率直なところをお聞きになりたいでしょう?」

ピックフォード「ええ」


「あなたは大金を稼ぐのは趣味ではなさそうですね。あなたの願望は、できるだけの善行を施すことのようです。違いますか」

ピックフォード「おっしゃる通りです」


「その奇特な心がけが、それなりの報酬をもたらすのです。自動的に、です。その目的は、とどのつまりは、あなたに確信を与えるということにあります。何一つ恐れるものはないということです。心に恐怖心を宿してはいけません。恐怖心はバイブレーションを乱します。バイブレーションのことはご存知でしょう?」

ピックフォード「ええ、少しは存じております」


「恐怖心は霊気を乱します。あなたの心が盤石の確信に満ちていれば、霊的知識を手にしたがゆえの揺るぎない決意に燃えていれば、この無常の地上において、その心だけは失意を味わうようなことは断じてありません。

物質界に生じるいかなる出来事も、真のあなた、不滅で、無限で、永遠の霊性をそなえたあなたに、致命的な影響を及ぼすことはできません。あなたは、背後にあってあなたに導きを与えている力が宇宙最大の力であること、あなたを大霊の計画の推進のための道具として使用し、その愛と叡智と真理と知識を、何も知らずにいる人々に教えてあげようとする愛の力であるという、万全の知識をたずさえて前進することができます。

あなたはこれまでに何度か、自分が間違ったことをしたと思って、ひそかに涙を流されたことがあります。しかし、あなたは決して間違ってはおりません。あなたの前途には栄光への道がまっすぐに伸びております。目的はきっと成就されます。わたしの申し上げたことがお役に立てば幸いです」

ピックフォード「本当にありがとうございました」


「いえ、わたしへの礼は無用です。礼は大霊に捧げるべきものです。わたしどもは、その僕(しもべ)にすぎないのですから。わたしはこの仕事の完遂に努力しておりますが、いつも喜びと快(こころよ)さを抱きながらたずさわっております。もしもわたしの申し上げたことが少しでもお役に立ったとすれば、それはわたしが大霊の御心にそった仕事をしているからにほかなりません。あなたとは、またいつかお会いするかも知れませんが、その時はもっとお役に立てることでしょう。

その時まで、どうか上を向いて歩んでください。下を向いてはなりません。無限の宝庫のある無限の源泉から、光と愛がふんだんに流れ込んでいることを忘れてはなりません。その豊かな宝庫から存分に吸収なさることです。求めさえすれば与えられるのです。著述の方もお続けください」

最後にサークルのメンバー全員に向けて、次のような祈りのメッセージを述べた。


「どうか、皆さんを鼓舞するものとして、霊の力が常に皆さんとともにあり、先天的に賦与されている霊的能力をますます意識され、それに磨きをかけることによって幸せの乏しい人たちのために役立て、そうすることによって皆さんの人生が真に生き甲斐あるものとなることを、切に祈ります」

そう述べて、いよいよバーバネルの身体から離れる直前、そろそろエネルギーが尽きかけているのを意識しながら、ピックフォードにこう述べた。


「ご母堂が、あなたに対する愛情が不滅であることを得心してもらえるまでは、このわたしを行かせない(霊媒から離れさせない)と言っておられます。ご母堂はあなたから受けた恩は決して忘れておられません。今その恩返しのつもりで、あなたのために働いておられます。どうしてもわたしを行かせてくれないのですが……」

ピックフォード「でも、私こそ母に感謝いたしております。十回生まれ変わってもお返しできないほどです」


「あなたはもうすでに十回以上、生まれ変わっておられますよ」

ピックフォード「猫より多いのでしょうか。十八回でも生まれ変わるのでしょうかね。こんどこそ、この英国に生まれてくることでしょうよ」


「いえ、いえ、あなたはすでに英国での前生がおありです。が、これはまた別の話ですね」

ピックフォード「あと一つだけ……私のその英国での前生について、何かひとことだけでも……」


「二世紀以上もさかのぼります。それ以上のことはまたの機会にしなくてはなりません。もう行かねばなりません。わたしはこれ以上霊媒を維持できません」

どうやらピックフォードは、その二世紀あまり前に少女として英国で生活した前生のことを、ずっと以前から信じていたらしいふしがある。その理由(わけ)はこの私には記憶がない。

とにかく、グラディス・スミスという名でカナダのトロントに生を受けた彼女は、血統が英国人であることを誇りに思っていることだけは確かである。

ハンネン・スワッファー

祈り

人生の本来の在り方としての大冒険に……


ああ、大霊よ。わたしどもは全生命を支える力に波長を合わせ調和せんとする努力の一環として、ここに祈りを捧げさせていただきます。

わたしたちはその力の背後に、絶対的な支配力をもつ知性の存在を認識しております。それは、人間的形態をそなえたものではございません。全大宇宙のありとあらゆる側面の活動を規制する絶対的な摂理でございます。いかなる側面を研究しても、いかなる秘密を掘り起こしても、いかに高く、あるいは、いかに深く探求のメスを入れても、そこにも必ず摂理が存在するのでございます。

新たに見出されたものも、必ずあなたの自然法則の枠組みの中に組み込まれていたものでございます。その意味において、超自然的現象も奇跡的現象も生じ得ないのでございます。法則と秩序によって規制され、その全パノラマがあなたの聖なる霊に抱かれているのでございます。

その霊こそ生命の根源であると認識するわたしたちは、地上の子等にその霊という実在と、その背後の霊的摂理に目を向かしめたいと願っております。その作用(はたらき)を理解することこそ、この物質の世界に新しい光、新しい悟り、新しい希望をもたらす素地となるのであり、それが地上世界を豊かにするのでございます。

地上の多くの人間がそうした霊的実在の素晴らしさと喜びに全く無知のまま、せっかくの人生を無為に過ごしております。その知識があれば、悲哀の多くをなくすことができるのです。喪の涙を拭うことができるのです。心の痛みを取り除くことができるのです。肩の荷を軽くすることができるのです。確信と目的意識をもって、人生の本来の在り方としての大冒険に、より賢明に備えることができるのでございます。

それ故にこそ、わたしどもは受け入れる用意のできている人たちのために霊的知識を広め、自分が一人ぼっちでいることは片時もないこと、霊の力の宝庫はいつでも誰にでも出入りできること、崇高なる愛が万事を良きに計らってくれるとの知識から、新たな生きる勇気を得てくれることを望むものです。それがわたしどもの仕事なのでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。