Sunday, November 30, 2025

シアトルの晩秋 霊媒の書 第2部 本論

 The Mediums' Book
10章 自動書記現象の種々相



数ある霊とのコミュニケーションの手段の中でも“書く”ということが最も単純で、最も手軽で、何かと都合がいい。

と言うのは、きちんと時刻を定めて連続して交信することができ、その間の通信の内容や筆跡や態度を見て、通信霊の性格や霊格の程度や思想をじっくりと分析し、その価値判断を下すことができるからである。

体験を重ねるごとに霊的通信の純度が高まるという点でも、自動書記は好ましい手段である。

ここでいう自動書記というのは、その霊能つまり通信霊からのメッセージを受け止めて用紙に書き記すという能力を持った霊媒を中継して得られるものを言うのであって、霊媒を仲介せず、書くための道具もなしに記される直接書記とはメカニズムが異なる。(第八章参照)

自動書記には大別して三つのタイプがあり、霊媒によっては二つのタイプが交じり合っている場合もある。
①受動書記(器械書記)

本書の初めに紹介したテーブルラップやプランセットによる通信、および霊媒が筆記用具を握って書く通信は、このあと紹介する直覚書記や霊感書記と違って、テーブルやプランセットや霊媒の腕または手に霊が直接働きかけて通信を送るもので、例えば霊媒が手で書く場合でも霊媒自身は何が書かれるのか全く関知しないという点で受動的であり、その意味からこれを受動書記または器械書記と呼んでいる。霊媒の手もただの器械にすぎないと見なすわけである。(テーブルラップは物理現象の部類に入れられるのが普通であるが、符丁による通信が文字に置き替えられて綴られるという点では、確かに自動書記現象でもある――訳注)

この受動書記では手が激しく動いて、握っている鉛筆が手から離れて飛んでいったり、鉛筆を握ったまま苛立(いらだ)ったようにテーブルを叩き、鉛筆の芯が折れたりすることがある。霊媒はいっさい関係なく、そうした動きを呆れ顔で見つめている。

こうした現象が生じる時は決まって低級霊の仕業とみてよい。高級霊はあくまでも冷静で威厳が漂い、態度が穏やかである。会場の雰囲気が乱れていると高級霊は直ぐに引き上げる。そして代わって低級霊が出てくる。
②直覚書記(直感書記)

霊は霊媒の精神機能に働きかけることによって思想を伝達する。手や腕に直接働きかけるのではない。その身体に宿っている魂――霊媒が“自分”として活動するための顕在意識と潜在意識の総体――に働きかけ、その間は霊媒と一体となっている。ただし、霊媒と入れ替わっているのではないことに注意しなければならない。

霊の働きかけを受けて霊媒の精神が反応し手を動かして書く。あくまでも霊媒が書いているのであるが、伝達される思想は霊からのもので、霊媒はそれを意識的に綴っている。これを直覚書記または直感書記と呼ぶ。
③半受動書記

①の受動書記と②の直覚書記とが並行して行われる場合があり、頻度としてはこのケースがいちばん多い。

受動書記では“書く”という動作が先行し、その後から思想が付いてくる。直覚書記では思想が先行し、その後書くという動作が伴う。その両者が同時に起こる、あるいは前になったり後になったりするのを半受動書記と呼ぶ。
④霊感書記

通常意識の状態ないしはトランス状態で自分の精神の作用以外の始源から思想の流入を受け取ってそれを書き記すもので、②の直覚書記ときわめてよく似ている。唯一異なる点は、その思想が霊的始源からのものであるとの判断が明確にできないことで、霊感書記の最大の特徴はその自然発生性、つまり霊媒自身はそれをインスピレーションであるとの認識が定かでない点にある。

そもそもインスピレーションというのは、良きにつけ悪しきにつけ、霊界から我々人間に影響を及ぼす霊から送られてくるもので、日常生活のあらゆる側面、あらゆる事態における決断において関与していると思ってよい。

その意味においては我々は一人の例外もなく霊感者であると言える。事実、我々の周りには常に幾人かの霊がいて、良きにつけ悪しきにつけ、リモート・コントロール式に我々を操っている。

その事実から、守護霊を中心とする背後霊団の存在意義を理解しなければならない。人生には右か左かの選択を迫られる時機、何を言うべきかで迷う時があるものだが、そのような時に守護霊からのインスピレーションを求めることができる。自分と最も親和性の強い類魂であるとの知識に基づいた信念をもって祈り、あるいは瞑想によって指示を仰ぐ。

それに対する霊団側の反応は、最高責任者である守護霊の叡智によって一人一人異なる。まるで魔法のごとく名案を授かるかと思えば、何の反応も得られないこともある。そのような時は「待て」の指示であると受け止めるべきである。

よく耳にする話として、格別の霊的能力があるわけでもなく、また通常意識に何の変化があるわけでもないのに、一瞬の間に思想の奔流を受け、時には未来の出来事の予言まで見せられ、本人はただ唖然としてそれを受け止めるといった現象がある。そして終わってみると、それまでの悩みも苦しみも、跡形もなく消えている。

さらに天才と言われる人たち――芸術家、発明家、科学的発明者、大文学者等々――も高級霊の道具として偉大なるインスピレーションを授かるだけの器であったということであり、その意味では霊媒と同じだったわけである。


訳注――私の母は若い頃から火の玉を見たり神棚の御鏡に神々しい姿が映っているのが見えたりしたというから霊能がかなりあったようであるが、その人生は戦前と戦後とで天国と地獄を味わった、波乱に富んだ人生だった。のちに私の師となる間部詮敦氏と初めてお会いして挨拶をした時は「荒れ狂う激流を必死に泳いで、やっと向こう岸にたどり着いた感じがした」と言っていた。

その母が私にぽっつり語ったところによると、苦悶の極みに達すると必ず白い光の玉がぽっかりと浮かんで見え、それが消えると同時に一切の悩みも苦しみも消えていたという。ところが晩年にある人からしつこく意地悪をされたことがあり、私もそれを知っていたが、母が平然としているので、さすがに母だと思っていた。

ところがある日ついに堪忍袋の緒が切れて激怒に及んだ。それきり意地悪もされなくなったが、同時に「あの白い光の玉が見えなくなった」と寂しそうに言っていた。その後また見えるようになって喜んでいたが、この話から私は、いくら正義の憤怒とはいえ波動が乱れては高級な背後霊との連絡も途絶えることを教えられた。

以下は、自動書記の原理に関する霊団との一問一答である。


――インスピレーションとは何でしょうか。


「霊による思念の伝達です。」


――インスピレーションは重大なことに限られているのでしょうか。


「そんなことはありません。日常生活のいたって些細なことについてもあります。例えば、どこかへ行こうと思った時、その方角に危険が予想される場合には行かないようにさせます。あるいは思ってもみなかったことを、ひょっこり思いついてやり始める場合もそうです。一日のうちのどこかで大なり小なりそうした指示を霊感によって受けていない人はほとんどいないと考えてよろしい。」


――作家とか画家、音楽家などがインスピレーションを受ける時は、一種の霊媒と同じ状態にあると考えてよろしいでしょうか。


「その通りです。肉体による束縛が弱まって魂の活動が自由になり、霊的資質の一部が発現します。そんな時に霊団からの思念や着想がふんだんに流入します。」

次の問題として、霊媒の能力が一時的に中断したり急に失われたりすることがある。自動書記現象だけでなく物理現象その他の霊媒でも同じことがある。その問題について一問一答は次の通りである。


――霊媒能力が失われることがあり得ますか。


「よくあります。どんな能力でもあります。が、割合としては、完全に失われてしまうよりも、一時的な中断の方が多く、それも短期間です。再開されるのは中断された時の原因と同じことから発します。」


――それは霊媒の流動体の問題ですか。


「霊的現象というのは、いかなる種類のものであれ、親和性のある霊団の働きなしには生じません。現象が生じなくなった時は、霊媒自身に問題があるのではなく、霊団側が働きを止めたか、あるいは働きかけができなくなった事情がある場合がほとんどです。」


――どんな事情でしょうか。


「高級霊になると、霊媒に関して言えば、その能力の使用法によって大きな影響を受けるものです。具体的に言えば、ふざけ半分にやり始めたり野心が度を超しはじめたら、すぐに見放します。また、その能力を霊的真理の普及のために使用するという奉仕の精神を忘れ、指導を求めて来る人や研究・調査という学術的な目的で現象を求めに来る人を拒絶するようになった時も、高級霊は手を引きます。

大霊は霊媒自身の娯楽的趣味のために能力を授けるのではありません。ましてや低俗な野心を満足させるためではさらさらありません。あくまでも本人および同胞の霊性の発達を促進するために授けているのです。その意図に反した方向へ進みはじめ、教訓も忠告も聞き入れなくなった時に、霊団側はその霊媒に見切りをつけ、別の霊媒を求めます。」


――霊が去った後は別の霊が付くのではありませんか。もしそうであれば、霊媒の能力そのものが一時的に休止してしまうという現象はどう理解すべきでしょうか。


「面白半分に通信を送るだけの霊ならいくらでもいますから、高級霊が去ってしまった後に付く霊には事欠きません。が、優れた霊が霊媒への戒めのために、つまりその霊的能力の行使は霊媒とは別の次元の者(霊)によるものであって霊媒自身が自慢すべきものではないことを悟らせるために、一時的に休止状態にすることはあります。一時的に何もできなくなることによって霊媒は、自分が書いているのではないことを身に沁みて悟ります。もしそうでなかったら書けなくなるはずはないからです。

もっとも、必ずしも戒めのためばかりとも言えません。霊媒の健康への配慮から休息させる目的で中断することもあります。そういう場合には他の霊による侵入の懸念はありません。」


――しかし、徳性の高い人物で健康面でも別に休息の必要もないはずの霊媒が、通信がぷっつりと切れてしまって、その原因が分からずに悩んでいるケースはどう理解すればよいのでしょうか。


「そういうケースは忍耐力と意志の堅固さを試す試練です。その期間がいつまで続くかを知らされないのも同じく試練のためです。

一方、その期間はそれまでに届けられた通信を反芻(はんすう)させるためでもあります。それをどう理解しどう役立てるかによって、その霊媒が我々の道具として本当の価値があるかどうかの判断を下します。興味本位で立ち会う出席者についても同じような判断を下します。」


――何も出ない場合でも霊媒は机に向かうべきでしょうか。


「そうです、そういう指示があるかぎりは何も書かれなくても机に向かうべきです。が、机に向かうのも控えるようにとの指示があれば、止めるべきです。そのうち再開を告げる何らかの兆候が出ます。」


――試練の期間を短縮してもらう方法があるのでしょうか。


「忍従と祈り――そういう事態での取るべき態度はこれしかありません。毎日机に向かってみることです。が、ホンの数分でよろしい。余計な時間とエネルギーの消耗は賢明ではありません。能力が戻ったかどうかを確認することだけが目的です。」


――ということは、能力が中断したからといって必ずしもそれまでに通信を送ってくれた霊団が手を引いたとは限らないということですね?


「もちろんです。そういう時の霊媒は言わば“盲目という名の発作”で倒れているようなものです。が、たとえ見えなくても、実際は多くの霊によって取り囲まれております。ですから、そういう霊との間で思念による交信はできますし、また、それを求めるべきです。思念が通じていることを確認できることがあるでしょう。自動書記という現象は途絶えても、思念による交信まで奪われることはありません。」


――そうすると、霊媒現象の中断は必ずしも霊団側の不快を意味するものではないということでしょうか。


「まさにその通りです。それどころか、霊媒に対する優しい思いやりの証拠ですらあります。」


――霊団側の不快の結果である場合はどうやって知れますか。


「霊媒自身がおのれの良心に聞いてみるがよろしい。その能力をいかなる目的に使用しているか、どれだけ他人に役立てたか、霊団の助言・忠告によってどれだけ学んだか――そう自分に問いかけてみることです。その辺の回答を見出すのはそう難しくはないでしょう。」


――霊媒が自分が書けなくなったので他の霊媒に依頼するということは許されるでしょうか。


「それは、書けなくなったその原因によりけりです。通信霊はひと通りの通信を届けた後は、あまりしつこく質問するクセ、とくに日常生活のこまごまとしたことで相談する傾向を反省させる目的で、しばらく通信を休止することがあります。そういう場合は他の霊媒に代わってもらっても、満足のいくものは得られません。

通信の中断にはもう一つ別の目的があります。霊にも自由意志がありますから、呼べば必ず出てくれるとは限らないことを知らしめるためです。同じく交霊会に出席する人たちにも、知りたいことは何でも教えてもらえるとは限らないことを知らしめるためでもあります。」


――神はなぜ特殊な人だけに特殊な能力を授けるのでしょうか。


「霊媒能力には特殊な使命があり、そういう認識のもとに使用しなくてはなりません。霊媒は人間と霊との仲介役です。」


――霊媒の中には霊媒の仕事にあまり乗り気でない人がいますが……。


「それは、その人間が未熟な霊媒であることの証拠です。授かった恩恵の価値が理解できていないのです。」


――霊媒能力に使命があるのであれば、立派な人間にのみ特権として与えればよさそうに思えますが、現実にはおよそ感心できない人間が持っていて、それを悪用しているのはなぜでしょうか。


「もともとその人間自身にとって必要な修行として、その通信の教訓によって目を開かされることを目的として与えられています。もしもくろみ通りにいかなかった場合には、その不誠実さの結果について責任を問われることになります。イエスがとくに罪深き者を相手に教えを説いたことを思い起こすがよろしい。」


――自動書記霊媒になりたいという誠実な願望を抱いている者がどうしても叶えられない時は、霊団側がその者に対して親愛感が抱けないからと結論づけてよろしいでしょうか。


「そうとは限りません。体質的に自動書記霊媒として欠けたものがあることも考えられます。詩人や音楽家に誰でもなれるとは限らないのと同じです。が、その欠けた能力は、他の、同じ程度の価値のある能力で埋め合わせられていることでしょう。」


――霊の教えを直接耳にする機会のない人は、どうやってその恩恵に浴することができるのでしょうか。


「書物があるではありませんか。クリスチャンには福音書があるのと同じです。イエスの教えを実践するのにイエスが実際に説くのを聞く必要があるでしょうか。」

シアトルの晩秋 シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips
二章 心霊治療───その本当の意義



    「これまでに成し遂げてこられたことは確かに立派ですが、まだまだ頂上は極められておりません」

 世界的に知られる心霊治療家のハリー・エドワーズ氏が助手のジョージ・バートン夫妻と共に交霊会を訪れたときにシルバーバーチがそう語りかけた。(訳者注───今はもう三人ともこの世にいないが、〝ハリー・エドワーズ心霊治療所〟Harry Edwards Healing Sanctuary はその名称のままレイ・ブランチ夫妻が引き継ぎ今も治療活動を続けている)

 シルバーバーチは続けてこう語る───

 「あなた方のこれまでの努力がまさに花開かんとしております。これまでのことは全てが準備でした。バプテスマのヨハネがナザレのイエスのために道を開いたように、これまでのあなた方の過去は、これからの先の仕事のため、つまりより大きな霊力が降りてあなた方とともに活動していくための準備期間でした。

 ほぼ完璧の段階に近づいているあなた方三人の信頼心と犠牲的精神とそれを喜びとする心情は、それみずからが結果をもたらします。霊の力と地上の力との協調関係がますます緊密となり、それがしばしば〝有り得ぬこと〟と思えることを成就しております。条件が整った時に起きるその奇跡的治療のスピードに注目していただきたいと思います」

エドワーズ「何度も目のあたりにしております」

 「大いなる進歩がなされつつあること、多くの魂に感動を与え、それがさらに誘因となって他の大勢の人々にもその次元での成功(単なる病気治療にとどまらず魂の琴線に触れさせること)をおさめる努力が為されつつあります。常にその一つに目標をおいて下さい。すなわち魂を生命の実相に目覚めさせることです。

それがすべての霊的活動の目標、大切な目標です。ほかは一切かまいません。病気治療も、霊的交信を通じての慰めも、さまざまな霊的現象も、究極的には人間が例外なく神の分霊であること、すなわち霊的存在であるというメッセージに目を向けさせて初めて意義があり、神から授かった霊的遺産を我がものとし宿命を成就するためには、ぜひその理解が必要です。

 それが困難な仕事であることは私もよく承知しております。が、偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです。霊的な悟りを得ることは容易ではありません。とても孤独な道です。それは当然のことでしょう。

もしも人類の登るべき高所がいとも簡単にたどりつくことができるとしたら、それは登ってみるほどの価値はないことになります。安易さ、吞ん気さ、怠惰の中では魂は目を開きません。刻苦と奮闘と難儀の中にあってはじめて目を覚まします。これまで、魂の成長が安易に得られるように配慮されたことは一度たりともありません。
 
 あなた方が治療なさる様子を見ていとも簡単に行っているように思う人は、表面しか見ていない人です。今日の頂上に到達するまでには、その背景に永年の努力の積み重ねがあったことを知りません。治療を受ける者が満足しても、あなた方は満足してはなりません。

一つの山頂を極めたら、その先にまた別の山頂がそびえていることを自覚しなくてはいけません。いかがでしょう。私の話は参考になりますでしょうか。あなた方はすでによくご存じのことばかりでしょう」


エドワーズ 「分ってはいても改めて認識することは大切なことです」

 「こうした会合の場は、地上の人間でない私どもがあなた方地上の人間に永遠の原理、不滅の霊的真理、顕幽の区別なくすべての者が基盤とすべきものについての認識を新たにさせることに意義があります。物質界に閉じ込められ、物的身体にかかわる必要性や障害に押しまくられているあなた方は、ともすると表面上の物的なことに目を奪われて、その背後の霊的実在のことを見失いがちです。

 肉体こそ自分である、いま生きている地上世界こそ実在の世界であると思い込み、実は地上世界はカゲであり、肉体はより大きな霊的自我の道具にすぎないことを否定することは実に簡単なことです。

もしも刻々と移り行く日常生活の中にあって正しい視野を失わずに問題の一つ一つを霊的知識に照らしてみることを忘れなければ、どんなにか事がラクにおさまるだろうにと思えるのですが・・・・・・残念ながら現実はそうではありません。

 こうした霊界との協調関係の中での仕事にたずさわっておられる人でさえ、ややもすると基本的な義務を忘れ、手にした霊的知識が要求する規範に適った生き方をしていらっしゃらないことがあります。知識は大いなる指針となり頼りになるものですが、手にした知識をどう生かすかという点に大きな責任が要請されます。

 治療の仕事にたずさわっておられると、さまざまな問題──説明できないことや当惑させられること──に遭遇させられることでしょうが、それは当然のことです。私どもは地上と霊界の双方の人間的要素に直面させられどおしです。治療の法則は完全です。が、それが不完全な道具を通じて作用しなければなりません。

人間を通して働かねばならない法則がいかなる結果を生み出すかを、数学的正確さを持って予測することは不可能ということになります。

 たとえ最善の配慮をもってこしらえた計画さえも挫折させるほどの事情が生じることがあります。この人こそと思って選んで開始した何年にもわたる準備計画が、本人の自由意志によるわがままによって水の泡となってしまうことがあります。しかし全体として見れば霊力の地上への投入が大幅に増えていることを喜んでよいと思います。

現実にあなた方が患者の痛みを和らげ、あるいは治癒してあげることができているという事実、苦しむ人々を救うことができているという事実。お仕事が広がる一方で衰えることがないという事実。たとえワラを掴む気持ちからではあっても、あなた方のもとへ大ぜいの人々が救いを求めて来ているという事実、こうした事実は霊力がますます広がりつつあることの証拠です。

霊力によって魂がいったん目を覚ましたら、その人は二度と元の人間には戻らないという考えがありますが、私もそう考えている一人です。言葉には説明しがたい影響、本人も忘れようにも忘れられない影響を受けているものです」


エドワーズ 「その最後の段階で病気の治癒と真理の理解との兼ね合いがうまくいってほしいのですが、霊的高揚というのはなかなか望めないように思います」

 「見た目にはそうです。が、目に見えない影響力がつねに働いております。霊力というのは磁気性をもっており、いったん出来あがった磁気的繋がりは決して失われません。一個の人間があなたの手の操作を受けたということは───〝手〟というのは象徴的な意味で用いたまでです。

実際には身体に触れる必要はありませんから───その時点でその人との磁気的つながりが出来たということです。つまり霊の磁力がその人の〝地金〟を引きつけたということで、その関係は決して切れることはありません。

 その状態を霊の目すなわち霊視力で見ますと、小さな畑の暗い土の中で小さな灯りがともったようなものです。理解力の最初の小さな炎でしかありません。種子が芽を出して土中から頭をもたげたようなものです。暗闇の中から初めて出て来たのです。

 それがあなた方の為すべき仕事です。からだを治してあげるのは結構なことです。それに文句をつける人はいません。が、魂に真価を発揮させること、聖書流に言えば魂に己れを見出させることは、それよりはるかに大切です。魂を本当の悟りへの道に置いてあげることになるからです」

 ここでサークルのメンバーの一人が述べた───「心霊治療で治った人の中には魔術的なものが働いたと考える人がいます。つまり治療家を一種の魔術師と考え、神の道具とは考えません」

 「それは困ったことだと思います。なぜかと言えば、そういう受け取り方はせっかくのチャンスによるもっと大切な悟りの妨げになるからです。霊的な力が治療家を通して働いたのだということを教えてあげれば、病気が治ったということだけで全てが終らずに、それを契機にもっと深く考えるようになるのですが」

エドワーズ 「治療後も霊的な治癒力が働き続けている証拠として、時おり、その時は効果が見えなかった人から一年もたってから〝あれから良くなってきました〟という手紙を受け取ることがあります」

 「当然そうあってしかるべきです。霊的な成長だけは側(はた)からどうしようもない問題なのです。このことに関しては以前にも触れたことがありますが、治療の成功不成功は魂の進化という要素によって支配されております。それが決定的要素となります。いかなる魂も、治るだけの霊的資格が具わらないかぎり絶対に治らないということです。からだは魂の僕(しもべ)です。主人(あるじ)ではありません。」


エドワーズ 「未発達の魂は心霊治療によって治すことができないという意味でしょうか」

 「そういうことです。私が言わんとしているのは、まさにそのことです。ただ、〝未発達〟という用語は解釈の難しいことばです。私が摂理の存在を口にする時、私はたった一つの摂理のことを言っているのではありません。宇宙のあらゆる自然法則を包含した摂理のことを言います。

それが完璧な型(パターン)にはめられております。ただし法則の裏側にまた別の次元の法則があるというふうに、幾重にもなっております。しかるに宇宙は無限です。誰にもその果てを見ることはできません。それを支配する大霊(神)と同じく無窮なのです。すると神の法則も無限であり、永遠に進化が続くということになります。

 物質界の人間は肉体に宿った魂です。各自の魂は進化の一つの段階にあります。その魂には過去があります。それを切り捨てて考えてはいけません。それとの関連性を考慮しなくてはなりません。肉体は精神の表現器官であり、精神は霊の表現器官です。

肉体は霊が到達した発達段階を表現しております。もしもその霊にとって次の発達段階に備える上での浄化の過程としてその肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、あなた方治療家を通じていかなる治癒エネルギーが働きかけても治りません。いかなる治療家も治すことはできないと言うことです。

 苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部に組み込まれているのです。痛み、悲しみ、苦しみ、こうしたものはすべて摂理の中に組み込まれているのです。話はまた私がいつも述べていることに戻ってきました。日向と日蔭、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は神の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません」

メンバーの一人「苦しみは摂理を破ったことへの代償なのですね」

 「〝摂理を破る〟という言い方は感心しません。〝摂理に背く〟と言ってください。確かに人間は時として摂理への背反(ハイハン)を通して摂理を学ぶほかはないことがあります。あなた方は完全な存在ではありません。完全性の種子を宿してはおりますが、それは人生がもたらすさまざまな〝境遇〟に身を置いてみることによってのみ成長します。痛みも嵐も困難も苦しみも病気もないようでは、魂は成長しません。

 摂理が働かないことは絶対にありません。もし働かないことがあるとしたら、神は神でなくなり、宇宙に調和もリズムも目的もなくなります。その自然の摂理の正確さと完璧さに全幅の信頼を置かねばなりません。なぜなら、人間には宿命的に知ることのできない段階があり、それは信仰心でもって補うほかないからです。

私は知識を論拠として生まれる信仰は決して非難しません。私が非難するのは何の根拠もないことでもすぐに信じてしまう浅はかな信仰心です。人間は知識のすべてを手にすることができない以上、どうしてもある程度の信仰心でもって補わざるを得ません。

といって、その結果として同情心も哀れみも優しさも敬遠して〝ああ、これも自然の摂理だ。しかたない〟等と言うようになっていただいては困ります。それは間違いです。あくまでも人間としての最善を尽くすべきです。そう努力する中に置いて本来の霊的責務を果たしていることになるからです。」

 いくつかの質問に答えたあと、さらに───

 「魂はみずから道を切り開いていくものです。その際、肉体機能の限界がその魂にとっての限界となり制約となります。しかし肉体を生かしているのは魂です。この二重の関係が常に続けられております。しかし優位に立っているのは魂です。魂は絶対です。魂はあなたという存在の奥に宿る神であり、神が所有しているものは全てあなたもミニチュアの形で所有している以上、それは当然しごくのことです」

エドワーズ 「それはとても基本的なことであるように思います。さきほど心霊治療によって治るか治らないかは患者自身の発達程度に掛かっているとおっしゃいましたが、そうなると治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであるということになるのでしょうか」

 「訪れる患者の魂に働きかけないとしたら、ほかに何に働きかけられると思いますか」

エドワーズ「まず魂が癒され、その結果肉体が癒されるということでしょうか」

 「そうです。私はそう言っているのです」

エドワーズ 「では私たち治療家は通常の精神面をかまう必要はないということでしょうか」

 「精神もあくまで魂の道具に過ぎません。したがって魂が正常になればおのずと精神状態も良くなるはずです。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達していなければ、肉体への反応も起こりません。魂がさらに発達する必要があります。つまり魂の発達を促すためのいろんな過程を体験しなければならないわけです。それには苦痛を伴います。魂の進化は安楽の中からは得られないからです」


エドワーズ 「必要な段階まで魂が発達していない時は霊界の治療家も治す方法はないのでしょうか」

 「その点は地上も霊界も同じです」


メンバーの一人「クリスチャン・サイエンスの信仰と同じですか」

 「真理は真理です。その真理を何と名付けようと、私たち霊界の者には何の違いもありません。要は中味の問題です。かりにクリスチャン・サイエンスの信者が霊の働きかけを得て治り(クリスチャン・サイエンスではそれを否定する───訳者)、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のおかげだと信じても、それはそれで良いのです」

エドワーズ 「私たち治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、治療家を通じて患者の魂にまで影響を及ぼすというのはとても難しいことです」

 「あなた方は少しどころか大いに貴重な役割を果たしておられます。第一、あなた方地上の治療家がいなくては私たちも仕事になりません。霊界側から見ればあなた方は私たちが地上と接触するための通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーのような存在です。霊波が流れる、その通路というわけです」

エドワーズ 「流れるというのは何に流れるのですか。肉体ですか、魂ですか」

 「私たちは肉体には関知しません。私の方からお聞きしますが、例えば腕が曲がらないのは腕の何が悪いのでしょう」

エドワーズ 「生理状態です」

 「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのでしょう」

エドワーズ 「無くなっています。病気に負けて病的状態になっています」

 「その活力が再びそこを流れはじめたらどうなりますか」

エドワーズ 「腕の動きも戻ると思います」

 「その活力を通わせる力はどこから得るのですか」

エドワーズ 「私たちの意志ではどうにもならないことです。それは霊界側の仕事ではないかと思います」

 「腕をむりやり動かすだけではだめでしょう?」

エドワーズ 「力ではどうにもなりません」

 「でしょう。そこでもしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れられていた機能が回復すれば、腕は自然に良くなるということです」

メンバーの一人「治療家の役目は患者が生まれつき具わっている機能にカツを入れるということになるのでしょうか」

 「そうとも言えますが、それだけではありません。というのは、患者は肉体をまとっている以上とうぜん波長が低くなっています。それで霊界からの高い波長の霊波を注ぐにはいったん治療家というコンデンサーにその霊波を送って、患者に合った程度まで波長を下げる必要があります。

そういう過程をへた霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治癒効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇跡のようなことが起きるわけですが、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢ができていない時は何の効果も生じません。たとえば曲がってた脚を真っすぐにするのはあなた方ではありません。患者自身の魂の発達程度です」


列席者の一人「神を信じない人でも治ることがありますが・・・・・・」

 「あります。治癒の法則は神を信じる信じないにお構いなく働くからです」

───さきほど治癒は魂の進化の程度と関係があると言われましたが・・・・・・

 「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡(たか)で測れるものではありません。行為によって測るべきです。いいですか、あなた方は治るべき条件の整った人を治しているだけです。ですが、喜んでください。あなた方を通じて知識と理解と光明へ導かれる人は大勢います。

みながみな治せなくても、そこには厳とした法則があってのことですから、気になさらないことです。と言って、それで満足して努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言っているように、神の意志は愛の中だけでなく憎しみの中にも表現されています。晴天の日だけが神の日ではありません。

嵐の日にも神の法則が働いております。成功にも失敗にもそれなりの価値があります。失敗なくしては成功もありません」


 ───信仰心が厚く、治療家を信頼し、正しい知識を持った人でも意外に思えるほど治療に反応を示さない人がいますが、なぜでしょうか。やはり魂の問題でしょうか。


 「そうです。必ず同じ問題に帰着します。信仰心や信頼や愛の問題ではありません。魂の問題であり、その魂が進化の過程で到達した段階の問題です。その段階で受けるべきものを受け、受けるべきでないものは受けません」

エドワーズ 「治療による肉体上の変化は私たちにも分かるのですが、霊的な変化は目で確かめることができません」


 「霊視能力者を何人集めても、全員が同じ治療操作を見ることはないでしょう。それほど(患者一人一人に違った)複雑な操作が行われているのです。かりそめにも簡単にやっているかに思ってはなりません。物質と霊との相互関係は奥が深く、かつ複雑です。

肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者ともそれぞれにとても複雑なのですから、その両者をうまく操る操作は、それはそれは複雑になります。無論全体に秩序と調和が行きわたっておりますが、法則の裏に法則があり、そのまた裏に法則があり、それらが複雑に絡み合っております」

バートン夫人 「肉体上の苦痛は魂に影響を及ぼさないとおっしゃったように記憶しますけど・・・」

 「そんなことを言った憶えはありません。肉体が受けた影響はかならず魂にも及びますし、反対に魂の状態はかならず肉体に表れます。両者を切り離して考えてはいけません。一体不離です。つまり肉体も自我の一部と考えてよいのです。肉体なしには自我の表現は出来ないのですから。本来は霊的存在です。肉体に生じたことは霊にも及びます」

バートン夫人 「では肉体上の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う手がないとみたら、魂への悪影響を防ぐために故意に死に至らしめるということもなさるのでしょうか」

 「それは患者によります。実際は人間の気まぐれから自然法則の順序を踏まずに無理やりに肉体から分離させられていることが多いのですが、それさえなければ、霊は摂理に従って死ぬべき時が来て自然に離れるものです」

バートン夫人 「でも、明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われる例がありますけど・・・・・・」

 「あります。しかしそれはバランス(埋め合わせ)の法則にのっとって周到な配慮の上で行っていることです。それでもなお魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが」

バートン夫人 「肉体を離れるのが早すぎたために生じるショックですか」

 「そうです。物事にはかならず償いと報いとがあります。不自然な死を遂げるとかならずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。それがどういうものになるかは個人によって異なります。

あなた方治療家の役目は患者の魂に、それだけの資格ができている場合に、苦痛を和らげてあげることです。その間に調整がなされ、言わば衝撃が緩和されて、魂がしかるべき状態に導かれます」


エドワーズ 「絶対に生き永らえる望みなしと判断したとき、少しでも早く死に至らしめるための手段を講じることは許されることでしょうか許されないことでしょうか」

 「私はあくまで〝人間は死すべき時が来て死ぬべきもの〟と考えています」



エドワーズ 「肉体の持久力を弱めれば死期を早めることになります。痛みと苦しみが見るに見かね、治る可能性もないとき、死期を早めてあげることは正しいでしょうか」

 「あなた方の辛い立場はよく分かります。また私としても好んで冷たい態度をとるわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。私はあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。

たとえば薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体はもともとそんな状態になるようには意図されておりません。そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。

そういう観点から考えていけば、どうすれば良いかはおのずと決まってくると思います。何ごとも自然の摂理の範囲内で処置すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によってもその摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てばそれなりの結果が生じます。

ですが、それが本当に良いことか悪いことかは霊的法則にどの程度まで適っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば肉体にとっても最善であるに違いありません」


 同じくエドワーズ氏とバートン夫妻が出席した別の日の交霊会で、シルバーバーチはこう強調した。

 「霊力の真の目的は(病気が縁となって)あなた方のもとを訪れる人の魂を目覚めさせることです。自分が本来霊的な存在であり、物的身体は自分ではないことに気づかないかぎり、その人は実在に対してまったく関心を向けないまま地上生活を送っていることになります。言わば影の中で幻を追いかけながら生きていることになります。

実在に直面するのは真の自我、すなわち霊的本性に目覚めた時です。地上生活の目的は、帰するところ自我を見出すことです。なぜなら、いったん自我を見出せば、それからというものは(分別のある人であれば)内部に宿る神性をすすんで開発しようとするからです。

残念ながら地上の人間の大半は真の自分というものを知らず、したがって不幸や悲劇に遭うまで自分の霊的本性に気づかないのが実情です。光明の存在に気づくのは人生の闇の中でしかないのです。

 あなた方がお会いになるのは大半が心身に異常のある方たちです。治療を通じてもしその人たちに自分が霊的存在であるとの自覚を植えつけることができたら、もしその人たちの霊的本性を目覚めさせることができたら、もし内部の神の火花を点火させることができたら、やがてそれが炎となってその明かりが生活全体に輝きをもたらします。

もとより、それは容易なことではありません。でも、たとえ外れた関節を元どおりにするだけのことであっても、あるいは何となく不調を訴えた人がすっきりしたというだけのことであっても、そうした治療を通じてその人に自分が肉体を具えた霊的存在であり霊を具えた肉体的存在ではないことを理解させることに成功すれば、あなた方はこの世で最大の仕事をしていることになるのです。

 私どもが肉体そのものよりもその奥の霊により大きな関心を向けていることを理解していただかねばなりません。

霊が正常であれば肉体は健康です。霊が異常であれば、つまり精神と肉体との関係が一直線で結ばれていなければ、肉体も正常ではありえません。この点をよく理解していただきたいのです。なぜなら、それはあなた方がご苦労なさっているお仕事において、あなた方自身にも測り知ることのできない側面だからです。

完治した人、痛みが和らいだ人、あるいは回復の手応えを感じた人があなた方へ向ける感謝の気持も礼も、魂そのものが目覚め、内部の巨大なエネルギー源が始動しはじめた事実にくらべれば、物の数ではありません。

 あなた方は容易ならざるお仕事にたずさわっておられます。犠牲と献身を要求される仕事です。困難のさなかにおいて為される仕事であり、その道は容易ではありません。

しかし先駆者のたどる道はつねに容易ではありません。奉仕的な仕事には障害はつきものです。かりそめにもラクな道、障害のない道を期待してはなりません。障害の一つ一つ、困難の一つ一つが、それを乗り越えることによって霊の純金を磨き上げるための試練であると心得て下さい」



エドワーズ 「魂の治療の点では私たち治療家の役割よりも霊界の治療家の役割の方が大きいのですか」

 「当然そうなりましょう」



エドワーズ 「そうすると私たちが果たす役目は小さいということでしょうか」

 「小さいとも言えますし大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて治療には二通りの方法があります。一つは治癒エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家自身に送ります。それを再度治癒エネルギーに還元してあなた方が使用します。

もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的に具わっている治癒力を刺激して、魂の不調和すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう」



エドワーズ 「いえ、理屈はよく分ります。ただ現実に適応するとなると・・・・・・」

 「では説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかというと、生命とは本質において物質とは異なるものであり、いわゆる理化学的研究の対象とはなり得ないものだからです。

で、私はよく生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識を持ち、呼吸し、歩き、考えるその力、また樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。同じ霊力の一部であり一つの表現なのです。

 あなた方が今そこに生きておられる事実そのものが、あなた方も霊であることを意味します。ですから同じく霊である患者の霊的進化の程度に応じたさまざまな段階で、その霊力を注入するというのが心霊治療の本質です。

ご承知のとおり病気には魂に起因するものと純粋に肉体的なものとがあります。肉体的なものは治療家が直接触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を活用します。が、この方法にも限界があります。

あなた(エドワーズ)の進化の程度、協力者のお二人(バートン夫妻)の進化の程度、それに治療を受ける患者自身の進化の程度が絡み合って自然にできあがる限界です。また、いわゆる因縁(カルマ)というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにおかまいなく働きます」


エドワーズ 「魂の病にもいろいろあってそれなりの影響を肉体に及ぼしていると思いますが、そうなると病気の一つ一つについて質の異なる治癒エネルギーが要るのではないかと想像されますが・・・・・・」
  
 「まったくその通りです。人間は三位一体の存在です。一つは今述べた霊(スピリット)で、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、すべてがそこから出ます。次にその霊が精神(マインド)を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって肉体(ボデイ)を支配します。この三者が融合し、互いに影響し合い、どれ一つ欠けてもあなたの存在は無くなります」


エドワーズ 「一方通行ではないわけですね」

 「そうです。霊的ならびに精神的発達の程度に従って肉体におのずから限界が生じますが、それを意識的鍛錬によって信じられないほど自由に肉体機能を操ることが出来るものです。インドの行者などは西洋の文明人には想像も出来ないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思いどおりに操るように鍛錬したまでのことです」


エドワーズ 「心霊治療が魂を目覚めさせるためのものであり、霊が第一原理であれば、霊界側からの方がよほどやり易いのではないでしょうか」

 「そうも言えますが、逆の場合の方が多いようです。と言うのは、死んでこちらへ来た人間でさえ霊的波長よりは物的波長の中で暮らしている(地縛の)霊が多いという事実からもお分かりの通り、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、たいていは物的な波長にしか反応を示さず、私たちが送る波長にはまったく感応をしないものです。

そこであなた方地上の治療家の存在が必要となってくるわけです。霊的波長にも物的波長にも感応する連結器というわけです。治療家に限らず霊能者と言われている人が常に心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。霊的に向上すればそれだけ仕事の範囲が広がって、より多くの価値ある仕事ができます。

そのように法則ができあがっているのです。ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます。ただ一人、前人未踏の地を歩みながら、後の者のための道しるべを立てていくことになります。あなたにはこの意味がお分かりでしょう。すぐれた特別の才能にはそれ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」


エドワーズ 「さきほど治癒エネルギーのことを説明されたとき、霊的なものが物的なものに転換されると言われましたが、その転換はどこで行われるのでしょうか。どこかで行われるはずですが・・・・・・」

 「使用するエネルギーによって異なります。信じられない方がいらっしゃるかも知れませんが、いにしえの賢人が指摘している〝第三の目〟とか太陽神経叢などを使用することもあります。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する〝場〟なのです。これ以外にも患者の潜在意識を利用して健康な時と同じ生理反応を起こさせることによって失われた機能を回復させる方法があります」


エドワーズ 「説明されたところまでは分かるのですが、その〝中間地帯〟がどこにあるかがよく分りません。どこで物的状態と霊的治癒エネルギーとがつながるのか、もっと具体的に示していただきたいのです。どこかで何らかの形で転換が行われているに違いないのですが・・・・・・」


 「そんなふうに聞かれると、どうも困ってしまいます。弱りました。分かっていただけそうな説明がどうしてもできないのです。強いて譬えるならば、さっきも言ったコンデンサーのようなことをするのです。コンデンサーというのは電流の周波を変える装置ですが、大体あんなものが用意されていると想像してください。

エクトプラズムを使用することもあります。ただし実験会での物質化現象や直接談話などに使用するものとは形態が異なります。もっと微妙な、目に見えない・・・」


エドワーズ 「一種の〝中間物質〟ですか」

 「そうです。霊の念波を感じやすく、しかも物質界でも使用できる程度の物質性を具えたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のもつエネルギーが結合してコンデンサーの役をするのです。そこから患者の松果体ないしは太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。その活エネルギーは全身に行きわたります。電気的な温みを感じるのはその時です。

知っておいていただきたいことは、とにかく私たちのやる治療法には決まった型というものが無いということです。患者によってみな治療法が異なります。また霊界から次々と新しい医学者が協力に参ります。

そして新しい患者は新しい実験台として臨み、どの放射線を使用したらどういう反応が得られたかを細かく検討します。なかなか渉(はかど)らなかった患者が急に快方へ向かいはじめることがあるのは、そうした霊医の研究結果の表れです。

また治療家のところへ行く途中で治ってしまったりすることがあるのも同じ理由によります。実質的な治療というのは、あなた方が直接患者と接触する以前にすでに霊界側において大部分が済んでいると思って差支えありません」


エドワーズ 「そうするともう一つの疑問が生じます。いま霊界にも大ぜいの霊医がいると申されましたが、一方で遠隔治療を受けながら別の治療家のところへ行くという態度は、治療にたずさわる霊医にとって困ったことではないでしょうか」

 「結果をみて判断なさることです。治ればそれでよろしい」


エドワーズ 「なぜそれでいいのか、理屈が分からないとわれわれ人間は納得できないのですが」

 「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、まったく支障にならないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから、一概に言い切るわけにはまいりません。あなただって患者を一目見て、これは自分に治せる、とは判断できますまい。

治せるか否かは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分通りしか治せない患者も、他の治療家のところへ行けば全治するかもしれません。

条件が異なるからです。その背後つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと、断定的な言葉は使えなくなるはずです。神の法則には無限の奥行があります。あなたがた人間としては正当な動機と奉仕の精神にもとづいて、精一杯、人事を尽くせばよいのです。こうすれば治る、これでは治らないとかを予断できる者はいません」


エドワーズ 「細かい点は別として、私たちが知りたいのは、霊界の医師は必要とあらばどこのどの治療家にも援助の手を差しのべてくれるかということです」

 「霊格が高いことを示す一ばんの証明は人を選り好みしないということです。私たちは必要とあらばどこへでも出かけます。これが高級神霊界の鉄則なのです。あなた方も患者を断わるようなことは決してなさってはいけません。

あなたがたはすでに精神的にも霊的にも本質において永遠の価値を持った成果をあげておられます。人間的な目で判断してはいけません。あなたがたには物事のウラ側を見る目がないのです。したがって自分のしたことがどんな影響を及ぼしているかもお分かりになりません。

しかし実際にはご自分で考えておられるよりはるかに多くの貢献をしておられます。あなたがたの貢献は地上で為しうる最大のものの一つであることに自信をもってください。

一生けんめい治療なさって何の反応も生じなくても、それはあなたの責任でもありませんし、あなたの協力者(バートン夫妻───たとえばエドワーズ氏が患者の頭部に手を当てバートン夫妻が左右の手を握って祈念するという形での協同治療のことで、エドワーズ氏に代って夫妻が治療するという意味ではない───訳者)の責任でもありません。

すべては自然の摂理の問題です。ご承知のように奇跡というものは存在しません。すべては無限なる愛と無限なる叡知によって支配されているのです。

 あなたと、協力者のお二人に申し上げます。つねに霊の光に照準をあてるように心がけて下さい。この世的な問題に煩わされてはなりません。(エドワーズ氏は治療費を取らず自発的な献金でまかなっていたために慢性的な資金不足の問題をかかえ、借り入れ金の返済も滞りがちで、運営の危機に直面したことが何度かある───訳者)

これまで幾つもの困難に遭遇し、これからも行く手に数々の困難が立ちはだかることでしょうが、奉仕の精神に徹している限り、克服できない障害はありません。すべてが克服され、奉仕の道はますます広がっていくことでしょう。あなたがたのお仕事は人々に苦痛の除去、軽減、解放をもたらすだけではありません。

あなたがたの尊い献身ぶりを見てそれを見習おうとする心を人々に植えつけています。そしてそれがあなたがたをさらに向上の道へと鼓舞することになります。私たちはまだまだ霊的進化の頂上を極めたわけではありません。まだまだ、先ははるかです。なぜなら、霊の力は神と同じく無限の可能性を秘めているのです」


サークルの一人「患者としてはあくまで一人の治療家のお世話になるのが好ましいのでしょうか」

 「それは一般論としてはお答えしにくい問題です。なぜかと言いますと、大切なのはその患者の霊的状態と治療家の霊的状態との関連だからです。心霊治療にもいろいろと種類があることを忘れてはなりません。霊的な力をまったく使用しないで治している人もいます。自分の身体のもつ豊富な生体エネルギーを注入することで治すのです。

霊の世界はまったく係わっておりません。それは決していけないことではありません。それも治療法の一つというにすぎません。ですから、患者のとるべき態度について戒律をもうけるわけにはまいりません。ただし、一つだけ好ましくない態度を申せば、次から次へと治療家をかえていくことです。それでは治療家にちゃんとした治療を施すチャンスを与えていないことになるからです。

私たち霊界の者は何とか力になってあげたいと臨んでいても、そういう態度で訪れる人の周りには一種のうろたえ、感情的なうろたえの雰囲気が漂い、それが霊力の働きかけを妨げます。ご承知のように、霊力が一番働きやすいのは受身的な穏やかな雰囲気の時です。その中ではじめて魂が本来の自分になりきれるからです」


エドワーズ 「一人の治療家から直接の治療を受けながら別の治療家から遠隔治療を受けるというのはどうでしょうか」

 「別に問題はありません。現にあなたはそれを証明しておられます。他の治療家に治療してもらっている人をあなたが治されたケースが幾つもあります」
    

バートン氏 「私は祈りの念が霊界へ届けられる経路について考えさせられることがよくあります。祈り方にもいろいろあり、特に病気平癒の祈願が盛んに行われています。その一つとして患者へ向けて祈念する時間が長いほど効果があると考えている人がいます。いったい祈りは霊界でどういう経路で届いているのか知りたいのですが」

 「この問題も祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご承知の通り宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇跡とかは絶対に起こりません。もしもその祈りが利己心から発したものであれば、それはそのままその人の霊格を示すもので、そんな人の祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。

ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きますし、自動的に治療効果を生む条件を作り出す力も具わっています。要するに祈る人の霊格によって決まることです」


バートン氏「祈りはその人そのものということでしょうか」

 「そういうことです」

バートン氏「大主教による仰々しい祈りよりも素朴な人間の素朴な祈りの方が効果があるということでしょうか」

 「地位には関係がありません。肝心なのは祈る人の霊格です。大主教が霊格の高い人であればその祈りには霊力が具わっていますが、どんなに立派な僧衣をまとっていても、筋の通らない教義に凝り固まった人間でしたら何の効果もないでしょう。

もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。案外効果は少ないものです。要するに神は肩書や数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは祈る人の霊格です。

 祈りとは本来、自分の波長を普段以上に高めるための霊的な行為です。波長を高め、人のために役立ちたいと祈る行為はそれなりの効果を生み出します。あなたが抱える問題について神は先刻ご承知です。

神は宇宙の大霊であるが故に宇宙間の出来ごとのすべてに通じておられます。神とは大自然の摂理の背後の叡知です。したがってその摂理をごまかすことは出来ません。神をごまかすことは出来ないのです。あなた自身さえごまかすことは出来ません」


バートン夫人「治療の話に戻りますが、患者が信仰心を持つことが不可欠の要素だと言う人がいますし、関係ないと言う人もいます。どうなのでしょうか」

 「心霊治療に限らず霊的なことには奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言い切れないことばかりなのです。信仰心があった方が治りやすい場合が確かにあります。霊的知識に基づいた信仰心は魂が自我を見出そうとする一種の憧憬ですから、魂に刺激を与えます。あくまで自然の摂理に関する知識に基づいた信仰でして、何か奇跡でも求めるような盲目の信仰ではだめです。反対に、ひとかけらの信仰心がなくても、魂が治るべき段階まで達しておれば、かならず治ります」


バートン夫人 「神も仏もないと言っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって不思議に思うことがあります」

 「その線引きは魂の霊格によって決まります。人間の観察はとかく表面的で内面的でないことを忘れてはなりません。魂そのものが見えないために、その人がそれまでにどんなことをしてきたかが判断できません。

治療の結果を左右するのはあくまでも魂です。ご承知の通り私も何千年か前に地上で幾ばくかの人間生活を送ったことがあります。そして死後こちらでそれより遥かに永い霊界生活を送ってきましたが、その間、私が何にもまして強く感じていることは、大自然の摂理の正確無比なことです。

知れば知る程その正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりなのです。一分(いちぶ)の狂いも不公平もありません。地上だけではありません。私どもの世界でも同じです。差引勘定をしてみれば、きちんと答えが合います。

 何事も憂えず、ただひたすら心に喜びを抱いて、奉仕の精神に徹して仕事をなさることです。そして、あとのことは神にお任せすることです。それから先のことは人間の及ぶことではないのです。

あなた方は所詮、私たちスピリットの道具に過ぎません。そして私たちも又、さらに高い神霊界のスピリットの道具に過ぎません。自分より偉大なる力がすべてを佳きに計らってくれているのだと信じて、すべてをお任せすることです」


 最後に、別の日の交霊会で再び心霊治療の話題が取り上げられた時の注目すべき霊言を紹介しておこう。パキスタンから招待された人が〝見たところ何でもなさそうな病気がどうしても治らないことがあるのはなぜでしょうか〟と尋ねたのに対して、シルバーバーチはこう答えた。

 「不治の病というものはありません。すべての病気にそれなりの治療法があります。宇宙は単純にして複雑です。深い奥行きがあるのです。法則の奥に又法則があるのです。知識は新しい知識へ導き、その知識がさらに次の知識へと導きます。理解には際限がありません。叡知は無限です。

こう申し上げるのは、いかなる質問にも簡単な答えは出せないということを知っていただきたいからです。すべては魂の本質、その構造、その進化、その宿命に関わることだからです。

 地上の治療家からよくこういう言い分を聞かされます───〝この人が治ったのになぜあの人は治らないのですか。愛と、治してあげたいという気持ちがこれだけあるのに治らなくて、愛も感じない、見ず知らずの人が簡単に治ってしまうことがあるのはなぜですか〟と。

そうしたことはすべて法則によって支配されているのです。それを決定づける法則は魂の進化と関係しており、魂の進化は現在の地上生活によって定まるだけでなく、しばしば前生での所業が関わっていることがあります。霊的な問題は地上的な尺度では計れません。人生の全てを物質的な尺度で片付けようとすると誤ります。

しかし残念ながら、物質の中に閉じ込められているあなた方は、とかく霊の目を持って判断することができず、そこで、一見したところ不正と不公平ばかりが目につくことになります。

 神は完全なる公正です。神の叡知は完全です。なぜなら完全なる摂理として作用しているからです。あなた方の理解力が一定の尺度に限られている以上、宇宙の全知識を極めることは不可能です。どうか〝不治の病〟という観念はお持ちにならないでください。

そういうものは存在しません。治らないのは往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業(カルマ)の法則が働いているということです。

こんなことを申し上げるのは、あきらめる観念を吹聴するためではありません。たとえ目に見えなくても、何ごとにも摂理というものが働いているという原則を指摘しているのです」
   

Saturday, November 29, 2025

シアトルの晩秋 霊媒の書 第2部 本論

 The Mediums' Book

 9章 霊が好む場所・出やすい時刻

昔から霊がよく出没する場所や幽霊屋敷とされているものがあるもので、どこの国でも同じのようである。それに関連した疑問を霊団側に出してみた。


――霊は後に残した者への思いが容易に断ち切れないことがあるようですが、物に対してはどうでしょうか。


「それは霊性の発達程度によって違ってきます。地上的な物件にしつこく執着している霊がいます。例えば守銭奴と呼ばれているような人間は、死後も、ある場所に隠した財産を見張り、気づかれないように守っています。」


――地上には霊が自然に引きつけられる場所というのがあるのでしょうか。


「地縛的な状態から脱した霊は、親和性のある霊の世界へと赴きます。“物”から“霊性”へと関心が変化したからです。それでもなお地上のある場所への執着を残している者もいます。それだけ、まだ霊性の発達が低いことの証拠です。」


――地上の特定の場所への執着が霊性の低さの指標であるとすれば、それは邪霊の類いに属する証拠とみてよいでしょうか。


「とんでもない。それは間違いです。霊性の発達程度は低くても、性格的に悪くない霊がいます。地上でも同じではないでしょうか。」


――霊は廃墟のような場所を好むという言い伝えがありますが、これには何か根拠があるのでしょうか。


「ありません。そういう場所へ行くことはありますが、特にそういう場所を好むからではありません。どこへでも赴きます。そういう言い伝えが生じたのは、廃墟のような場所に漂う哀愁や悲愴感が人間の想像力をかき立てて、霊がさまよっているかに感じるからでしょう。

人間の恐怖心は木の陰を幽霊と思わせ、動物の鳴き声や風の音を幽霊のうめき声と思わせることがよくあるではありませんか。霊はどちらかといえば寂しい場所よりも賑(にぎ)やかな場所の方を好みます。」


――そうはおっしゃっても、霊にもいろいろな性格の者がいますから、中には人間嫌いがいて、人里よりも寂しい場所を好む者もいるのではないでしょうか。


「ですから先程も申し上げたではありませんか――霊は廃墟にも行くが、どこへでも行きますと。孤独の中で暮らしているのはそうしたいからであって、それをもって霊は廃墟を好むとする理由にはなりません。断言できることは、霊は寂しい場所よりも都会のような人間が多く住んでいる場所の方が圧倒的に多いということです。」


――民間の信仰にはおおむね真理の基盤があるものです。幽霊が出没するとされている場所の起原は何なのでしょうか。


「人間の本能的な信仰心――世界のいずこの国、いつの時代にもある信仰心から生まれたものです。が、今も述べた通り、ある場所の無気味さが人間の想像力をかり立て、何か超自然的なものがそこに生息しているかに考えるようになったまでです。それが幼少時代に語り聞かされた他愛ないおとぎ話や空想的な想像力によって、さらにふくらんでいったのです。」


――よく霊が集まることがあるようですが、何日とか何曜日とか何時といった、霊の好む日にちや時間帯がありますか。


「ありません。日にちとか時刻は人間の都合と必要性から生まれた、地上生活特有の取り決めです。霊にはそういうものは必要ありませんし、ほとんど気にも掛けません。」


――霊は夜に出やすいという信仰はどこから来たのでしょうか。


「暗さと静けさから受ける印象が想像力に作用して生まれています。そうした概念はすべて迷信であり、合理性を旗印とするスピリチュアリズムが撲滅していかないといけません。真夜中(丑三つ時)の怖さはお化け話の中にしか存在しません。」


――もしそうだとすると、霊の中に交霊会を真夜中とか特定の曜日を指定する者がいるのはなぜでしょうか。


「それは人間の迷信性を逆手に取って勿体ぶっているだけです。また、オレは魔王であるとか、それらしい仰々しい架空の名を名乗って出てくる霊も、同じく勿体ぶっているだけです。その手は食わんぞという毅然とした態度で臨んでごらんなさい。そんな霊は出なくなります。」


――自分の遺体が埋葬されている場所へは行きたがるものでしょうか。


「身体は言わば衣服にすぎなかったわけで、その身体に宿っていたがゆえに苦しい目に遭わされたのですから、それを脱ぎ捨てた後はもう未練はありません。クサリにつながれていた囚人は、解き放たれた後、そのクサリに未練など持たないのと同じです。心に残るのは自分に愛の心を向けてくれた人々の記憶だけです。」


――埋葬された墓地で祈ってもらうと特別に感じられるものでしょうか。家庭や教会での祈りよりも霊には届きやすいでしょうか。


「ご存じのように、祈りは霊を引き寄せるための魂の行為です。それに熱意がこもり真摯さが強いほど、その影響力は大きくなります。ですから、聖なる葬儀の行われた墓地での祈りは格別の思いを集中しやすいでしょうし、一方、墓石に刻まれた文字を見て故人への情愛を感じやすいという点でも、故人の遺品と同じように、墓地には祈りの気持ちを高めるものがあることは事実です。

ですが、そうした条件下にあっても、霊に祈りを通じさせるのは“思念”であり、物的な遺品ではありません。物的なものは祈る側の人間にとって意念を集中させる上で影響力をもつだけで、霊そのものには大して影響はありません。」


――そうは言っても、幽霊の出没する場所にはまったく根拠がないわけではないと思いますが……。


「すでに述べたように、霊には物的なものへの執着の強い者がいます。そういう霊はある一定の場所へ引きつけられ、引きつける要因が消えるまで、そこに住みついたりすることもあります。」


――“引きつける要因”とは何ですか。


「そこへよく行く人間との親和力の作用もあれば、その者と意思を通じ合いたいという欲求など、いろいろあります。が、いずれにしてもあまり褒めた理由はありません。恨みを抱いて仕返しのチャンスをねらっている低級霊もいます。また、その場所で大きな罪を犯した者が、一種の罰としてそこを徘徊させられている場合もあります。懴悔の念が生まれるまで、その現場を四六時中見せつけられるのです。」


――そこにかつての住居があったというケースも多いのでは?


「多くはありません。仮に前の住人が死後順調に向上していれば、埋葬された遺体に用がないように、何の未練も抱きません。特定の人物との親和力の作用による場合を除いては、大体において低級霊が気まぐれに出没しているにすぎません。」


――人間がそういう場所を恐れるのは理に適っているでしょうか。


「いいえ。そういう場所に出没して何かと話題のタネをまくような霊は、とくに邪悪な意図があるわけではなく、騙されやすい人間や恐がり屋を相手にして面白がっているだけです。

それに、霊はいたる所にいることを忘れてはいけません。どこに居ようと、どんなに静寂な場所であろうと、あなた方の周りには常に霊がいるものと思ってください。霊が出没して騒がれる場所というのは、出現してイタズラをするのに必要な条件が整う場所にかぎられています。」


――そういう霊を追い払う方法がありますか。


「あります。古来その目的で人間がやってきたことは、追い払うより、ますます付け上がらせる結果となっています。

一ばん賢明な方法は、善良な霊に来てもらえるように、人間側が善行に励むことです。そうすれば、そういう低級霊も退散して、二度と来なくなります。善と悪とは相容れないものだからです。心掛けの問題です。善良な心掛けの漂う場所には善良な霊しか来ません。」


――善良な人でも霊に悩まされていることが少なくないようですが……。


「その人が本当の意味で善良な人であれば、そういう悩みは忍耐力を試し、善性をより強固にするための試練かも知れません。」


――いわゆる“悪魔払い(エクソシズム)”の儀式でそういう邪霊は追い払えるでしょうか。


「エクソシズムが成功した話をどれくらいお聞きでしょうか。大ていはますます騒ぎが大きくなってはいませんか。イタズラ霊というのは自分が悪魔扱いにされるのを面白がるものです。

もちろん悪意を持たない霊でも姿を見せたり音を出したりして存在を知らしめようとすることがあります。が、そういう場合の音が人間に迷惑を及ぼすほどになることはありません。死後迷っている霊かも知れません。そうであれば祈りによって救ってあげるべきでしょう。時には親しい間柄の霊が存在を示そうとしている場合もあります。ただのイタズラ霊の場合もあるでしょう。

迷惑を及ぼすような場合は間違いなく低級霊で、することがなくてそうやって遊んでいるだけです。そういう場合は一笑に付して無視することです。何をやっても人間が恐がりもせず大騒ぎもしなくなると、バカバカしくなって止めるでしょう。」

シアトルの晩秋 シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips
一章 神への祈り



   
    ハンネン・スワッハー・ホームサークルの指導霊としてあまねく知られているシルバーバーチの霊言集はすでに数冊出版されているが、読者の要望にお応えして新たにこの一冊が加えられることになったのは有難いことである。これが六冊目となる。他に小冊子が二冊、訓えを要約したものと祈りの言葉を精選したものとが出ている。

 もとより活字ではシルバーバーチの温かい人間味が出せないし、ほとばしり出る愛を伝えることはできない。シルバーバーチは実に威厳のある霊であり、表現が豊かであり、その内容に気高さがあり、しかも喜んで人の悩みに耳を傾け、何者をも咎めることをしない。単純素朴さがその訓えの一貫した性格であり、真理の極印を押されたものばかりである。

 交霊会を年代順に追ったものとしては本書が最初である。一章の中に一回の交霊会の始めから終りまでをそっくり引用したものもあるが、他の二、三の交霊会から部分的に引用して構成したものもある。

私はなるべく同じ霊訓の繰り返しにならないようにしようと思ったが、それはしょせん無理な話だった。シルバーバーチの霊訓の真髄は基本的な霊的真理をさまざまな形で繰りかえして説くことにあるからである。内容的には同じことを言っていても煩をいとわず、その時の言葉をそのまま紹介しておいた。

 これまでの霊言集の中でも説明されているように、シルバーバーチの霊言は速記者によって記録されている。が、シルバーバーチは英語を完璧にマスターしているので、引用に際してはただコンマやセミコロン、ピリオドを文章の流れ具合によって付していくだけでよく、それだけで明快そのものの名文ができあがる。これは驚くべきシルバーバーチの文章能力の為せるわざである。

 さらに付け加えておきたいことは、シルバーバーチはその文章をスラスラと淀みなく口に出しているということである。質疑応答となると、質問者が言い終わるとすぐに答えが返ってくる。

そのあまりの速さに、初めて出席した人は、その会が打ち合わせなしのぶっつけ本番であることが信じられないほどである。

 古くからのシルバーバーチファンは本書を大歓迎してくださるであろうし、初めての方も、本書を読まれることによってきっとシルバーバーチを敬愛する数多くの読者の仲間入りをされることであろう。  
                              S ・ フィリップス


一章 神への祈り

 いつの交霊会でもシルバーバーチはかならず祈りの言葉で開会する。延べにして数百を数える祈りの中には型にはまった同じ祈りは一つもない。しかしその中味は一貫している。次はその典型的なもののひとつである。

 「神よ、いつの時代にも霊覚者たちは地上世界の彼方に存在する霊的世界を垣間みておりました。ある者は霊視状態において、ある者は入神(トランス)の境地において、そして又ある者は夢の中においてそれを捉え、あなたの無限なる荘厳さと神々しき壮麗さの幾ばくかを認識したのでした。

不意の霊力のほとばしりによる啓示を得て彼らはこれぞ真理なり───全宇宙を支配する永遠にして不変・不動の摂理であると公言したのでした。

 今私どもは彼らと同じ仕事にたずさわっているところでございます。すなわちあなたについての真理を広め、子等があなたについて抱いてきた名誉棄損ともいうべき誤った認識を正すことでございます。

これまでのあなたは神として当然のことであるごとく憎しみと嫉妬心と復讐心と差別心を有するものとされてきました。私どもはそれに代わってあなたの有るがままの姿───愛と叡知と慈悲をもって支配する自然法則の背後に控える無限なる知性として説いております。

 私どもは地上の人間一人ひとりに宿るあなたの神的属性に目を向けさせております。そしてあなたの神威が存分に発揮されるにはいかなる生き方をすべきかを説こうと努めているものでございます。

そうすることによって子等もあなたの存在に気付き、真の自分自身に目覚め、さらにはあなたの摂理の行使者として、彼らを使用せんとして待機する愛する人々ならびに高級界の天使の存在を知ることでございましょう。

 私どもはすべての人類を愛と連帯感を絆として一体であらしめたいと望んでおります。そうすることによって協調関係をいっそう深め、利己主義と強欲と金銭欲から生まれる邪悪のすべてを地上からいっそうすることができましょう。

そして、それに代ってあなたの摂理についての知識を基盤とした地上天国を築かせたいのです。その完成の暁には人類は平和の中に生き、すべての芸術が花開き、愛念が満ちあふれ、すべての者が善意と寛容心と同情心を発揮し合うことでしょう。地上を醜くしている悪徳(ガン)が姿を消し、光明がすみずみまで行きわたることでしょう。

 ここに、己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます」

Friday, November 28, 2025

シアトルの晩秋 霊媒の書 第2部 本論

The Mediums' Book
8章 見えざる世界の実験室





霊は、流れるような優美な衣をまとっていることもあれば、ありふれた人間的な服装をしていることもあることはすでに述べた。どうやら前者が一定レベル以上の高級霊の普段の衣装であるように思われる。

いずれにせよ、ではそうした衣装をどこから手に入れるのであろうか。とくに地上時代と同じ衣服をまとって出てくる霊は、それをどこから手に入れるのであろうか。衣服のアクセサリーまでまったく同じなのはなぜなのであろうか。あの世まで持って行ったはずはない。そのことだけは間違いない。なのに、実験会に出現してそれを見せ、時には触らせてくれることもある。一体どうなっているのであろうか。

このテーマは、霊姿を見た者にとって、これまでずっと不可解きわまる謎だった。もちろん単なる好奇心の対象でしかない人も少なくないであろう。

が、これは実はきわめて重大な意義を含んでいて、我々の探求によって、霊界と現界とに等しく当てはまる法則の発見の手掛かりをつかむことができた。それなしにはこの複雑な現象の解明は不可能である。

すでに他界している人間の霊が出現した時に生前そっくりの衣服を着ていても、驚くには当たらない。記憶と想念の作用、つまり霊の創造力の産物とみてよいであろう。が、それをアクセサリーにも当てはめるのには抵抗がある。まして、前章の生者の幽霊現象に出てくる“かぎタバコ入れ”のように、その後ふだんの肉体で訪れた時に持っていたものとそっくりだったという事実は、普通では理解できない。

あの時、すなわち老紳士が病臥の女性の寝室を訪れたのは幽体であったことは理解できるが、かぎタバコ入れはどこから持ってきたのだろうか。杖やパイプ、ランタン、書物などを手にしていることもある。

初めのころ我々はこう考えた――不活性の物体にもエーテル的な流動体があるから、それが凝結して、肉眼には映じない型をこしらえることができる、と。この仮説もまったく真実性が無いわけではないが、これだけでは説明しきれない現象があることが分かってきた。

それまで我々が観察していたのはイメージや容姿ばかりだった。そして流動エネルギーが物質性をそなえることができることも知っていたが、それはあくまでも一時的なものであって、用が済めば消滅してしまうのである。その現象も確かに驚異的であるが、その後それよりさらに驚異的な現象に出会うことになった。いろいろあるが、その中の一つを挙げると“直接書記現象”がある。

これについては改めて章を設けて解説する予定であるが、ここで指摘しておきたい点と深く係わっているので、少しばかり言及しておきたい。

直接書記というのは霊媒の手も鉛筆も使わずに自動的に文章または暗号・符号・図などが書かれる現象である。ということは、用意するのは一枚の用紙だけということで、しかもそれを折り畳んでもいいし、引き出しに入れてもいいし、もちろんテーブルの上に置くだけでもよい。そのあと、ホンのわずかな間を置くだけで、その紙面にメッセージや暗号などが書かれているのである。

そのメッセージなどは鉛筆で書かれていたり、クレヨンで書かれていたり、赤鉛筆だったり普通のインクだったり、時には印刷用のインクだったりする。

用紙といっしょに鉛筆を置いておいたのであれば、霊はその鉛筆で書いたという想像が成り立つが、書くための用具は何一つ置いていないのである。となると霊は霊界でこしらえた何らかの道具で書いたことになる。一体どうやってこしらえるのであろうか。

その点の疑問が、例のかぎタバコ入れの現象に関する聖ルイの回答によって解明された。次がその一問一答である。


――生者の幽霊現象の話の中にかぎタバコが出てきます。そして、あの老紳士は実際にそれをかぐ仕草をしているのですが、あの時、我々がふだん香りをかぐのと同じように嗅覚を使っているのでしょうか。


「香りはありません。」


――あのかぎタバコ入れは老紳士がふだん使っているものとそっくりだったようですが、実物は家に置かれているはずです。手にしていたのは何なのでしょうか。


「外観だけの見せかけです。かぎタバコを見せたのは老紳士であることの状況証拠として印象づけるためと、あの現象が少女の病気による幻覚ではないことを証拠づけるためです。老紳士は自分の存在を少女に確信させたいと思い、リアルに見せるために外観を整えたのです。」


――“見せかけ”とおっしゃいましたが、見せかけには中味がなく、一種の目の錯覚です。我々が知りたいのは、あのかぎタバコ入れは中味のない、ただのイメージだったのかということ、つまり物質性は少しもなかったのかということです。


「もちろん物質性は幾分かはあります。霊が地上時代の衣服と同じものを身につけて霊姿を見せることができるのは、流動エネルギーを使用してダブルに物質性をもたせるからです。」


――ということは、不活性の物体にもダブルがあるということでしょうか。つまり、見えない世界に物質界の物体に形体をもたせる根元的要素があるということですか。言いかえれば、地上の物体にも、我々人間に霊が宿っているように、エーテル質の同じものがあるのでしょうか。


「そうではありません。霊は、宇宙空間および地上界に存在する物的原素に向けて、あなた方には想像もできない性質のエネルギーを放射し、その原素を意念で凝結して、目的に応じて適当な形体をこしらえます。」


――先ほどの聞き方が回りくどかったので、もう一度直截的にお聞きします。霊がまとっている衣服には実体がありますか。


「今の回答で十分その質問の答えになっていると思いますが……流動体そのものが実体のあるものであることはご存じでしょう?」


――霊はエーテル質の物体をどのようにでも変えることができ、かぎタバコの例で言えば、そういうものが霊界にあるのではなく欲しい時に意念の力で瞬間的にこしらえ、用事が終われば分解してしまう。同じことが霊が身につけているもの――衣服・宝石・その他あらゆるもの――について言える、ということでしょうか。


「まさにその通り。」


――問題のかぎタバコ入れは女性の目に見えています。本人は実物だと思ったほど明瞭に見えています。触っても実感があるようにでもできたのでしょうか。


「そのつもりになればできたでしょう。」


――そのタバコ入れを手に持ってみることもできたでしょうか。その場合でも本物と思えたでしょうか。


「そのはずです。」


――そのタバコ入れを彼女が開けたと仮定します。そこにかぎタバコが入っていたと思われますが、それを一つまみ吸ったらクシャミをしたでしょうか。


「したでしょう。」


――すると霊は形体をこしらえるだけでなく、その特殊な性質まで付与することも可能ということでしょうか。


「その気になれば可能です。これまでの質問に肯定的にお答えしたのはその原理に基づいてのことです。霊による物質への強烈な働きかけの証拠なら幾らでもあります。今のところはあなた方の想像力の及ばないようなものばかりですが……」


――仮に霊が有害なものをこしらえて、それを人間が呑み込んだとします。その人間はその毒にやられますか。


「そうした毒物を合成しようと思えばできないことはありません。が、そんなことをする霊はいません。許し難いことだからです。」


――健康に良いもので病気を癒すものも合成できますか。合成したことがありますか。


「ありますとも。しばしば行っております。」


――そうなると身体を扶養するための飲食物も合成できることになりますが、仮に果物か何かをこしらえて、それを人間が食べた場合、空腹が満たされますか。


「当然です。満たされます。ですが、口はばったいようですが、こんな分かりきったことを延々としつこく聞き出そうとするのは、いい加減お止めなさい。

太陽光線一つを取り上げてみても、あなた方のその粗野な肉眼が宇宙空間に充満する物的粒子を捉えることができるのは、その太陽光線のお蔭ではありませんか。空気中に水分が含まれていることはご存じのはずですが、それが凝縮すると元の水に戻ります。ご覧なさい、触ってみることも見ることもできない粒子が液体になるではありませんか。他にももっと驚異的な現象を起こせる物質を、化学者は数多く知っているはずです。

ただ、我々にはそれより遥かに素晴らしい道具があるということです。すなわち意念の力と神のお許しです。」


――そうやって霊によってこしらえられ、意念の力によって感触性を付与された物が、さらに永続性と安定性を得て人間によって使用されることも可能ですか。


「可能かどうかと言えば可能です。が、そんなことは霊は絶対にしません。それは人間界における秩序の摂理を侵害することになるからです。」


――霊はみな等しく感触性のある物体をこしらえる力を持っているのでしょうか。


「霊性が高いほど容易にこしらえるようになります。が、それもその場の条件次第です。低級霊にもそうした力を持った者がいます。」


――出現した霊がまとっている衣装や、我々に差し出して見せる品物が、どうやってこしらえられたのか、その霊自身は知っているのでしょうか。


「そうとは限りません。霊的本能によってこしらえている場合が多いです。十分に霊性が啓発されないと理解できません。」


ブラックウェル脚注――我々の身体の細胞は絶え間なく変化しているが、我々は食したものがどのようなプロセスで血となり肉となり骨となっているのか知らないのと同じであろう。


――霊は、宇宙に遍在する普遍的要素から、あらゆる物体をこしらえる原料を抽出することができ、さらにその一つ一つに一時的な実在性と特殊な性質を持たせることができるという事実から推し量ると、文字や符号を書くための材料もその普遍的要素から抽出できることは明らかですから、直接書記現象のカギもどうやらその辺にある――そう考えてよいでしょうね?


「ああ! やっとその理解に到達しましたね。」


編者注――これまでの質問は全てこの結論に到達することを念頭に置きながら出してきたもので、「ああ!」という感嘆の言葉は、霊側も我々の考えを読み取っていたことを示唆している。


――霊がこしらえるものは一時的なもので永続性がないとおっしゃいましたが、そうなると、直接書記の文字がいつまでも消えずに残っているのはなぜでしょうか。


「あなたは用語にこだわり過ぎます。私は永続性は絶対にないとは言っておりません。私が述べているのは重量のある物体のことです。直接書記の産物は紙面に書かれた文や図形にすぎません。それが保存する必要があればそのような処置を取ります。霊的にこしらえたものは一般の使用には向かないと言っているのです。あなた方の身体のように本来の物質で出来上がったものではないからです。」


訳注①――英文訳者のブラックウェルが最後の脚注で、英国ウェールズ州の“断食少女”を紹介している。が、あまりに簡単で資料としての重みがない。それよりも明治時代に話題をまいた長南年恵(正式にはチョウナントシエであるが、オサナミと呼ばれることが多い)という女性の現象の方が世界的水準からいっても驚異的なので、それを簡潔にまとめて紹介しておきたい。

資料は浅野和三郎氏が実弟の長南雄吉氏に面接して取材したもの。その時には年恵はすでに他界しており、浅野氏は年恵の現象が最高潮だった頃に、自分が「涼しい顔をして英文学なんかをひねくっていた」ことを悔やんでいる。

それにしても、それほどの霊能者がなぜ一時代の不思議話で終わったのか。「御一新(明治維新)の世にそんなバケモノ話があってたまるか!」という言葉に感じられる当時の官憲の悲しいほどの幼稚さが原因なのか、それとも私がいつもモノサシにする高級霊団による計画的援助の無さが原因なのか。どうも私にはその両方だったような気がしてならない。

日本の役人や学者の感性の無さは今も昔も言わずもがなであるが、その後その現象による啓発がどこにも見当たらないことも見逃せない事実である。単なる人騒がせの現象には高級霊団は関与しないからである。が、物理現象としては第一級のものだったことは確かなようで、とくに本章の「霊的にこしらえたもので肉体が養えるか」という疑問に対する絶好の回答であると私は観ている。

年恵は一八五八年、山形県の生まれ。驚異的現象が起き始めたのは三十五歳の時で、その後十五年間続いている。ということは欧米でスピリチュアリズムが最も盛んだった一八九〇年代とほぼ一致することになる。

しかし現象が表面化する前から普通の女性でないことで親を悩ませていたようである。例えば煮たり焼いたりしたものは一切身体が受けつけず、生水とホンの少量の生のサツマイモだけで、トイレに行くことがないばかりか女性の生理も三十五歳になっても一切無く、その顔はまるで十二、三歳の少女のようで、大阪の弟の雄吉の家に同居していた頃は、雄吉の妾ではないかとのうわさが立ったほどである。

雄吉がひそかに湯を沸かして、それを冷ましてから「水だ」と言って飲ませることを何度か試したが、そのたびに吐き出し、ひどい時は血まで吐いたという。

さらに年恵が入神(トランス)状態に入ると家屋全体が振動したり、部屋の中で笛や琴、鈴などによる合奏が聞こえ、そんな時はうわさを耳にした人や警察官などが家を取り巻くように集まって、それに聴き入ったという。

また入神した時は態度も声も変わり、普段は無邪気で無学な少女が凜(りん)とした態度で教えを説き、書画を書き、予言をし、それがことごとく適中したという。

年恵は「人心を惑わす詐欺行為」のかどで二度留置場へ入れられている。が、拘留中も身辺に妙なる音楽が聞こえたり、真夏でも年恵だけは蚊一匹寄りつかず、化粧道具は何一つないのに蝶々髷(まげ)はいつも結い立てのごとく艶(つや)々としていた。本人は「神様が結ってくださいます」と言っていたという。

圧巻は牢内での霊水の実験であろう。普段は自宅の祭壇に栓をした空ビンを十本、二十本、多い時は四十本も供えて、十分間ほど祈祷すると、パッと霊水で満たされる。赤・青・黄、色とりどりで、それぞれの病名に卓効があったという。

面白いのは、病気でもない者が試しに病名を適当に記した空ビンを置いておくと、それだけは何も入っていなかったという。

拘留されたのは二度であるが、法廷に立ったことが一度ある。結局無罪放免になったのであるが、その理由が霊水の実験だった。神戸裁判所でのことだったが、当時は新築中で、弁護士詰め所は電話室ができ上がったばかりで、電話そのものがまだ取り付けられていなくて空っぽだった。それを使って実験をしようということになり、年恵は素っ裸にされて検査をされた後、裁判長みずからが封印をした二合入りの空ビンを一本手にして電話室に入った。そして二分ほどするとコツコツというノックがしたので扉を開けると、茶褐色の水の入った二合ビンが密封されたままの状態で年恵の手に持たれていたのだった。

明治四十年十一月のある日、憑(かか)ってきた霊が「近いうちにあの世へ連れて行く」と予言した通り、間もなくあっさりと他界した。五十歳だった。


訳注②――直接書記現象については「改めて章を設けて解説する予定」とある。確かに「直接書記と霊聴」という見出しで扱われているが、意外に簡単に扱っていて「詳しくは第八章を参照」などと述べている。

確かに本章の説明で十分と思われるのでそこはカットすることにしているが、もう一つの「霊聴」を「直接書記」と並べて扱っているところに面白い視点が見られるので、その核心部分だけを紹介しておく。

私が「霊聴」と訳した用語は原典では“スピリット・サウンド”および“スピリット・ボイス”となっている。カルデックはその原因(声の出どころ)を“内的”と“外的”とに分け、内的なものはまるで“声”を聞いているように思えても聴覚で聞いているのではなく、外的なものは直接談話のようにエクトプラズムでこしらえたボイスボックス(声帯と同じもの)を使ってしゃべっているので聴覚に響く。つまり音声で聞いている。

ブラックウェルも「サークルでは出席者全員に聞こえる」と脚注で述べている。




トルの秋 シルバーバーチの霊訓(五)

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十三章 質問に答える




(一)──戦争になると友情、仲間意識といったものが鼓舞されるという意味では〝宗教心〟をより多く生み出すことになると言えないでしょうか。

 「それはまったく話が別です。それは〝窮地〟に立たされたことに由来するにすぎません。つまり互いの〝大変さ〟を意識し合い、それが同情心を生み、少しばかり寛容心が培われるという程度のことです。団結心にはプラスするでしょう。困った事態をお互いに理解し合う上でもプラスになるでしょう。それまでの感情的わだかまりを吹き飛ばすこともあるでしょう。

しかし真の宗教心はそれよりもっともっと奥の深いものです。魂の奥底から湧き出る〝人のためを思う心〟です。そして今こそ地上はそれを最も必要としているのです。

 何でもない真理なのです。ところが実はその〝何でもなさ〟がかえって私たちをこれまで手こずらせる原因となってきたのです。もっと勿体ぶった言い方、どこか神秘的な魅力を持った新しい文句で表現しておれば、もう少しは耳を傾けてくれる人が多かったのかも知れません。

その方が何やら知性をくすぐるものがあるように思わせ、今までとはどこか違うように感じさせるからです。

 しかし私たちは知識人ぶった人間をよろこばせるための仕事をしているのではありません。飢えた魂に真理の糧を与え、今日の地上生活と明日の霊的生活に備える方法をお教えしているのです。あなた方は永遠の旅路を行く巡礼者なのです。今ほんのわずかの間だけ地上に滞在し、間もなく、願わくば死後の生活に役立つ知識を身につけて、岐れ道で迷うことなく、旅立つことになっております。

あなた方は旅人なのです。常に歩み続けるのです。地上はあなた方の住処ではありません。本当の住処はまだまだ先です。

 人類は余りに永いあいだ真理というものを見せかけの中に、物的形態の中に、祭礼の中に、儀式の中に、ドグマの中に、宗教的慣習の中に、仰々しい名称の中に、派閥的忠誠心の中に、礼拝のための豪華な建造物の崇拝の中に求めてまいりました。

しかし神は〝内側〟にいるのです。〝外側〟にはいません。賛美歌の斉唱、仰々しい儀式───こうしたものはただの〝殻〟です。宗教の真髄ではありません。

 私は俗世から遁れて宗教的行者になれとは申しません。地上生活でめったに表現されることのない内部の霊的自我を開発する為の生き方を説いているのです。

それがよりいっそう、人のため人類のためという欲求と決意を強化することになります。なさねばならないことは山ほどあります。ですが、大半の人間は地上生活において〝常識〟と思える知識ばかりを求めます。余りに永いこと馴染んできているために、それがすでに第二の天性となり切っているからです」


(二)──休戦記念日に当たってのメセージをお願いします。(訳者注──一九一八年に始まった第一次大戦の休戦日で、これが事実上の終戦日となった。毎年十一月十一日がこれに当たり二分間の黙祷を捧げる。こうした行事を霊界ではどうみているか、日本の終戦記念行事と合わせて考えながら読むと興味深い。なおこの日の交霊会は第二次大戦が勃発する一九三九年の一年前である)

 「過去二十年間にわたって地上世界は偉大な犠牲者たちを裏切り続けてきました。先頭に立って手引きすべき聖職者たちは何もしていません。混迷の時にあって何の希望も、何の慰めも、何の導きも与えることができませんでした。

宗教界からは何らの光ももたらしてくれませんでした。わけの分らない論争と無意味な議論にあたら努力を費やすばかりでした。何かというと、神の目から見て何の価値もない古びた決まり文句、古びた教義を引用し、古びた祭礼や儀式を繰り返すだけでした。

 この日は、二分間、すべての仕事の手を休めて感謝の黙祷を捧げますが、その捧げる目標は、色褪せた、風化しきった過去の記憶でしかありません。

英雄的戦没者と呼びながら、実は二十年間にわたって侮辱し続けております。二分間という一ときでも思い出そうとなさっておられることは事実ですが、その時あなた方が心に浮かべるのは彼らの現在の霊界での本当の姿ではなくて、地上でのかつての姿です。

本来ならばそうした誤った観念や迷信を取り除き霊の力を地上にもたらそうとするわれわれの努力に協力すべき立場にありながら、逆にそれを反抗する側に回っている宗教界は恥を知るべきです。

戦死して二十年たった今なお、自分の健在ぶりを知ってもらえずに無念に思っている人が大勢います。それは地上の縁ある人々がことごとく教条主義のオリの中に閉じ込められているからにほかなりません。

 聖俗を問わず、既得権力に対するわれわれの戦いに休戦日はありません。神に反逆する者への永遠の宣戦を布告する者だからです。開くべき目を敢えて瞑(つむ)り、聞くべき耳をあえて塞ぎ、知識を手にすべきでありながら敢えて無知のままであり続ける者たちとの戦いです。

今や不落を誇っていた城砦が崩れつつあります。所詮は砂上に基礎を置いていたからです。強力な霊の光がついにその壁を貫通しました。もう、霊的真理が論駁(ろんぱく)されることはありません。勝利は間違いなくわれわれのものです。

われわれの背後に勢揃いした勢力はこの宇宙を創造しそのすべてを包含している力なのです。それが敗北することは有り得ません。挫折することは有り得ません」


(三)──これほど多数の戦死者が続出するのを見ていると霊的知識も無意味に思えてきます。
   (この頃第二次大戦が最悪の事態に至っていた──編者)

 「死んでいく人たちのために涙を流してはいけません。死に際のショック、その後の一時的な意識の混乱はあるにしても、死後の方がラクなのです。私は決して戦争の悲劇、恐怖、苦痛を軽く見くびるつもりはありませんが、地上世界から解放された人々のために涙を流すことはおやめなさい」

───でも戦死していく者は苦痛を味わうのではないでしょうか。

 「苦しむ者もいれば苦しまない者もいます。一人ひとり違います。死んでいるのに戦い続けている人がいます。自分の身の上に何が起きたかが分からなくて迷う者もいます。が、いずれも長くは続きません。

いずれ永遠への道に目覚めます。むろん寿命を全うして十分な備えをした上でこちらへ来てくれることに越したことはありません。しかし、たとえそうでなくても、肉体という牢獄に別れを告げた者のために涙を流すことはおやめになることです。

その涙はあとに残された人のために取っておかれるがよろしい。こう言うと冷ややかに聞こえるかもしれませんが、とにかく死は悲劇ではありません」


───後に残された者にとってのみ悲劇ということですね。

 「解放の門をくぐり抜けた者にとっては悲劇ではありません。私は自分が知り得たあるがままの事実を曲げるわけにはまいりません。皆さんはなぜこうも物的観点から物ごとを判断なさるのでしょう。

ぜひとも〝生〟のあるがままの姿を知って下さるように願わずにはおれません。いま生活しておられる地上世界を無視しなさいと申し上げているのではありません。そこで生活しているかぎりは大切にしなくてはいけません。

しかしそれは、これから先に待ち受ける生活に較べれば、ほんのひとかけらに過ぎません。あなた方は霊を携えた物的身体ではありません。物的身体を携えた霊的存在なのです。ほんのひと時だけ物的世界に顕現しているにすぎません」


(四)───霊界の指導者は地上の政治的組織にどの程度まで関与しているのでしょうか。

 「ご承知と思いますが、私たちは人間がとかく付けたがるラベルには拘りません。政党というものにも関与しません。私たちが関心を向けるのは、どうすれば人類にとってためになるかということです。

私たちの目に映る地上世界は悪習と不正と既成の権力とが氾濫し、それが神の豊かな恩恵が束縛なしに自由に行きわたるのを妨げております。そこで私たちはその元凶である利己主義の勢力に立ち向かっているのです。永遠の宣戦を布告しているのです。

そのための道具となる人であれば、いかなる党派の人であっても、いかなる宗派の人であっても、いかなる信仰を持った人であっても、時と場所を選ばず働きかけて、改革なり改善なり改良なり───一語にして言えば奉仕のために活用します」


───それには本人の自由意志はどの程度まで関わっているのでしょうか。

 「自由意志の占める要素はきわめて重大です。ただ忘れてならないのは、自由意志という用語には一つの矛盾が含まれていることです。いかなる意志でも、みずからの力ではいかんともし難い環境条件、どうしても従わざるを得ないものによって支配されています。物的要素があり、各国の法律があり、宇宙の自然法則があり、それに各自の霊的進化の程度の問題があります。

そうした条件を考慮しつつ私たちは、人類の進歩に役立つことなら何にでも影響力を行使します。あなた方の自由意志に干渉することは許されませんが、人生においてより良い、そして理に叶った判断をするように指導することはできます。

 お話したことがありますように、私たちが最も辛い思いをさせられるのは、時として、苦境にある人を目の前にしながら、その苦境を乗り切ることがその人の魂の成長にとって、個性の開発にとって、霊的強化にとって薬になるとの判断から、何の手出しもせずに傍観せざるを得ないことがあることです。

各自に自由意志があります。が、それをいかに行使するかは各自の精神的視野、霊的進化の程度、成長の度合いが関わってきます。私たちはそれを許される範囲内でお手伝いするということです」


(五)───各国の指導的立場にある人々の背後でも指導霊が働いているのでしょうか。

 「むろんです。常に働いております。またその関係にも親和力の法則が働いていることも事実です。なぜかと言えば、両者の間に霊的な親近関係があれば自然発生的に援助しようとする欲求が湧いてくるものだからです。

 たとえば地上である種の改革事業を推進してきた政治家がその半ばで他界したとします。するとその人は自分の改革事業を引き継いでくれそうな人物に働きかけるものです。その意味では死後にもある程度まで、つまり霊の方がその段階を卒業するまでは、国家的意識というものが存続すると言えます。

同じ意味で、自分は大人物であると思い込んでいる人間、大酒呑み、麻薬中毒患者等がこちらへ来ると、地上で似たような傾向を持つ人間を通じて満足感を味わおうとするものです」


───指導者が霊の働きかけに反応しない場合はどうなりますか。

 「別にどうということはありません。但し、忘れてならないのは、無意識の反応───本人はそれと気づかなくても霊界からの思念を吸収していることがあるということです。インスピレーションは必ずしも意識的なものとはかぎりません。

むしろ、大ていの場合は本人もなぜだか分からないうちに詩とか曲とか絵画とかドラマとかエッセーとかを思いついているものです。霊の世界からのものとは信じてくれないかも知れません。が、要するにそのアイディアが実現しさえすれば、それでよいのです」


(六)───各国にその必要性に応じた霊的計画が用意されているのでしょうか。

 「すべての国にそれなりの計画が用意されています。すべての生命に計画があるからです。地上で国家的な仕事に邁進してきた人は、あなた方が死と呼ぶ過程を経てもそれをやめてしまうわけではありません。そんなことで愛国心は消えるものではありません。なぜなら愛国心は純粋な愛の表現ですから、その人の力は引き続きかつての母国のために使用されます。

さらに向上すれば国家的意識ないしは国境的概念が消えて、すべては神の子という共通の霊的認識が芽生えてきます。しかし、私どもはあらゆる形での愛を有効に活用します。少なくとも一個の国家でも愛しそれに身を捧げんとする人間の方が、愛の意識が芽生えず、役に立つことを何一つしない人間よりはましです」


(七)───人類の福祉の促進のために霊界の科学者が地上の科学者にインスピレーションを送ることはあるでしょうか。

 「あえて断言しますが、地上世界にとっての恵み、発明・発見の類のほとんど全部が霊界に発しております。人間の精神は霊界のより大きな精神が新たな恵みをもたらすために使用する受け皿のようなものです。しかしその分量にも限度があることを忘れないでください。

残念ながら人間の霊的成長と理解力の不足のために、せっかくのインスピレーションが悪用されているケースが多いのです。科学的技術が建設のためでなく破壊の為に使用され、人類にとっての恩恵でなくなっているのです」


(八)───そちらからのインスピレーションの中には悪魔的発明もあるのでしょう?

 「あります。霊界は善人ばかりの世界ではありません。きわめて地上とよく似た自然な世界です。地上世界から性質(たち)の悪い人間を送り込むことをやめてくれないかぎり、私たちはどうしようもありません。私たちが地上の諸悪を無くそうとするのはそのためです。

こちらへ来た時にちゃんと備えができているように、待ち受ける仕事にすぐ対処できるように、地上生活で個性をしっかりと築いておく必要性を説くのはそのためです」

              


    
 解説 「動機」と「罪」

 本書は Teachings of Silver Birch の続編で、編者は同じくオースティンである。オースティンという人はバーバネルが職業紹介所を通じて雇い入れた、スピリチュアリズムにはまったくの素人だった人で、さっそくある霊媒の取材に行かされて衝撃的な現象を見せつけられ、いっぺんに参ってしまった。

その後例の英国国教会スピリチュアリズム調査委員会による〝多数意見報告書〟の取得をめぐってバーバネルの片腕として大活躍をしている。

最近の消息はわからない。Psychic News′ Two Worlds のいずれにも記事が見当たらないところをみると、すでに他界したのかもしれない。筆者が一九八一年と八四年にサイキックニューズ社を訪れた時も姿は見当たらなかった。

 この人の編纂の特徴は、なるべく多くの話題をとの配慮からか、あれこれと細かい部分的抜粋が多いことである。〝正〟〝続〟とも同じで、時に短かすぎることもある。その極端な例が動物の死後を扱った第七章で、原典に紹介されているのは実際の霊言の十分の一程度である。

記者としては物足らなさを感じるので、シルビア・バーバネルの(霊言集とは関係のない)本に紹介されている同じ交霊会の霊言全部をそっくり引用させてもらった。

 さて、本書には各自が〝思索の糧〟とすべき問題、そしてまた同志との間でも議論のテーマとなりそうな問題が少なくない。また人間としてどうしても理解しかねるものもある。

 たとえば第三章で最後の審判を信じるクリスチャンが何百年、何千年ものあいだ自分の墓地でその日の到来を待っている(実際には眠っている者の方が多い)という話がある。

さぞ待ちくたびれるだろう、退屈だろうと思いたくなるが、シルバーバーチは霊界には時間というものがないから待っているという観念も持たないという。
 
 それを夢の中の体験に譬えられればある程度まで得心がいく。人間にとって一瞬と思える時間で何カ月、あるいは何年にもわたる経験を夢で見ることがあるのは確かである、霊は反対に人間にとって何か月、何年と思える時間が一瞬に思えることがあるらしい。そこがわれわれ人間には理解しにくい。

 が、それを地上で体験する人がいることは事実である。ガケから足を踏み外して転落して九死に一生を得た人が語った話であるが、地面に落ちるまでの僅か二、三秒間に、それまでの三、四十年の人生の善悪にかかわる体験のすべてを思い出し、その一つ一つについて、あれは自分が悪かった、いや、これは自分が絶対に間違っていないといった反省をしたという。

野球の大打者になると打つ瞬間にボールが目の前で止まって見えることがあるという。意識にも次元があり、人間があるように思っている時間は実際には存在しないことが、こうした話から窺える。
℘242
 しかし太陽は東から昇り西に沈むと言う地上では常識的な事実を考えてみると、これは地球が自転していることから生じる人間の錯覚であるが、いくら理屈ではそう納得しても、実際の感じとしてはやはり毎朝太陽は東から昇り西に沈んでいる。

それと同じで、われわれ人間は実際には存在しない時間を存在するものと錯覚して生活しているに過ぎなくても、地上にいるかぎりは時間は存在するし、そう思わないと生きて行けない。こうしたことはいずれあの世へ行けば解決のつく問題であるから、それでいいのである。

 神の概念も今すぐに理解する必要のない問題、というよりは理解しようにも人間の頭脳では理解できない問題であるから、あまりムキになって議論することもないであろう。

 しかし〝動機〟と〝罪〟の問題はあの世へ行ってからでは遅い、現在のわれわれの生活に直接かかわる問題であり、ぜひとも理解しておかねばならない問題であろう。

 筆者個人としては、こうした問題を意識しはじめた青年時代からシルバーバーチその他の霊的思想に親しんできたので、本書でシルバーバーチが言っていることは〝よく分かる〟のであるが、部分的に読まれた方には誤解されそうな箇所があるので解説を加えておくことにした。

 字面(じずら)だけでは矛盾しているかに思えるのは、第十二章で動機が正しければ戦争に参加して敵を殺すことも赦されると言っておきながら、第十一章では罪は結果に及ぼす影響の度合によって重くもなれば軽くもなると述べていることである。
℘243
 シルバーバーチはつねづね〝動機が一ばん大切〟であることを強調し〝動機さえ正しければよい〟といった言い方までしているが、それはその段階での魂の意識にとっては良心の呵責にならない───その意味において罪は犯していないという意味であって、それが及ぼす結果に対して知らぬ顔をしてもよいという意味ではない。たとえその時点では知らぬ顔が出来ても、霊格の指標となる道義心が高まれば、何年たったあとでも苦しい思いをし反省させられることであろう。

 それは自分が親となってみてはじめて子としての親への不孝を詫びる情が湧いてくるのと同じであろう。その時点では親は親としての理解力すなわち愛の力で消化してくれていたことであろうから罪とは言えないであろう。

しかし罪か否かの次元を超えた〝霊的進化〟の要素がそこに入ってくる。それは教会の長老が他界して真相に目覚めてから針のムシロに坐らされる思いがするのと共通している。

 戦争で人を殺すという問題でシルバーバーチは、その人も殺されるかも知れない、もしかしたら自らの生命を投げ出さねばならない立場に立たされることもあることを指摘するに留めているが、第三章でメソジスト派の牧師が〝自分は死後、自分が間違ったことを教えた信者の一人一人に会わなければならないとしたら大変です〟と言うと、
℘244
その時点ではすでに自ら真相に目覚めてくれている人もいるであろうし、牧師自身のその後の真理普及の功徳によっても埋め合わせが出来ているという意味のことを述べている。この種の問題は個々の人間について、その過去世と現世と死後の三つの要素を考慮しなければならないであろうし、そうすればきちんとした解答がそれぞれに出てくることなのであろう。

 さらにもう一つ考慮しなければならない要素として、地球人類全体としての発達段階がある。第四巻で若者の暴力の問題が話題となった時シルバーバーチは、現段階の地上人類には正しい解決法は出し得ないといった主旨のことを述べている。

これは病気の治療法の問題と同じであろう。動物実験も、死刑制度も、人類が進化の途上で通過しなければならない幼稚な手段であり、今すぐにどうするといっても、より良い手段は見出せないであろう。それは例えば算数しか習っていない小学生には数学の問題が解けないと同じであろう。

 ことに社会的問題は協調と連帯を必要とするので、たとえ一人の人間が素晴らしい解決法を知っていても、人類全体がそれを理解するに至らなければ実現は不可能である。シルバーバーチはそのことを言っているのである。

 戦争がいけないことは分り切っている。が、現実に自国が戦争に巻き込まれている以上、そうして又、その段階の人類の一員として地上に生を受けている以上、自分一人だけ手を汚さずにおこうとする態度も一種の利己主義であろう。もしもその態度が何らかの宗教の教義からきているとすれば、それはシルバーバーチのいう宗教による魂の束縛の一例と言えよう。

〝私は強い意志を持った人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくありません〟という第十二章の言葉はそこから出ている。

 これを発展させていくと、いわゆる俗世を嫌って隠遁の生活を送る生き方の是非とも関連した問題を含んでいる。筆者の知るかぎりでは高級霊ほど勇気を持って俗世を生き抜くことの大切さを説いている。

イエスの言う、Be in the world, but not of the world.(俗世にあってしかも俗人になるなかれ)である。このちっぽけな天体上の、たかが五、七十年の物的生活による汚れを恐れていてどうなろう。『霊訓』のイムペレーターの言葉が浮かんでくる───

 「全存在のホンのひとかけらほどに過ぎぬ地上生活にあっては、取り損ねたらさいご二度と取り返しがつかぬというほど大事なものは有り得ぬ。

汝ら人間は視野も知識も人間であるが故の宿命的な限界によって拘束されている。・・・・・・人間は己れに啓示されそして理解し得たかぎりの最高の真理に照らして受け入れ、行動するというのが絶対的義務である。それを基準として魂の進化の程度が判断されるのである」
 
 次に良寛の辞世の句はそれを日本的に表現したものとして私は好きである。


       うらを見せ   おもてを見せて   散るもみじ 良寛                           



  新装版発行にあたって

多くの読者に支持され、版を重ねてきた、このシリーズが、
この度、装いを新たにして出されることになりました。

天界のシルバーバーチ霊もさぞかし喜ばしく思っていてくれていることでしょう。

                   平成十六年一月        近藤 千雄
 

Thursday, November 27, 2025

シアトルの秋 霊媒の書 第2部 本論

The Mediums' Book
7章 生者の幽霊現象と変貌現象


前章では他界した人間の霊がその姿を生身の人間の霊眼に見せる場合と、霊みずからがエクトプラズムという半物質体をまとって肉眼に見せる場合について、そのメカニズムを霊団の通信霊との一問一答によって紹介したが、本章では、今この世に生きている人間、つまり生者の霊が肉体から脱してその容姿を遠距離にいる縁のある人に見せる現象と、生者自身の顔が見る見るうちに変貌して、他界した人間とそっくりになるばかりか、発する声まで同じになるという現象を扱う。

一見すると両者とも奇っ怪な現象のように思えるが、よく調べてみると前章の物質化現象と同じくダブルの特性によるもので、生前と死後とでその反応は変わらないことが分かった。

霊は、肉体をまとっている時も、その肉体を脱ぎ捨てた後も、半物質体でできたダブルという媒体に包まれており、それが条件次第で一時的に可視性と触知性とをそなえることができる。ともかくも実例を挙げてみよう。

さる田舎町に住む女性が重い病気で床に伏していた。ある日の夜の十時頃のことである。寝室に一人の老紳士がいるのに気づいた。同じ町の住人で見覚えはあったが、知り合いではなかった。

その老人はベッドの近くのひじ掛けイスに腰かけ、時おりかぎタバコをつまんでは嗅(か)いでいるが、その目つきはいかにも彼女を見張っているみたいである。

時刻が時刻なので怖くなってきた女性は、一体何しに来たのかと尋ねようとした。すると老人は「物を言ってはいけない」と言わんばかりの仕草をし、さらに「もう寝なさい」と言っているような仕草をする。何度か尋ねようとしたが、そのたびに同じ仕草をくり返す。そのうち彼女は寝入ってしまった。

その後何日かしてその女性がすっかり回復した頃、同じ老紳士が訪ねてきた。こんどは昼間である。衣服は同じで、同じかぎタバコ入れを手にし、態度も同じだった。

間違いないと確信した女性は、病床を見舞ってくれたことについて礼を述べると、老人は驚いた様子で自分は見舞いなんかに来ていないと言う。その夜のことをありありと覚えている女性は間違いないと確信したが、あまり語りたくなかったので「たぶん夢でも見ていたのでしょう」と言いつくろったという。

もう一つの例を紹介しよう。ある町に、なかなか結婚したがらない青年がいて、家族を始め親戚の者は隣の町に住むある女性がちょうど似合いの相手なのだが、と勧めていたが、本人は会ってみる気にもならなかった。

一八三五年のある祝祭日のことだったが、彼の寝室に突然一人の女性が白無垢の装束で現れた。頭には花の冠をのせていて、はっきりとした声で、

「私はあなたの婚約者です」

と言って手を差し出した。彼もとっさに手を差し出してその手を取ると、その指には婚約指輪がはめられていた。が、次の瞬間、その姿は消えていた。

驚いた青年は夢ではないことを確かめてから、家族の者に誰か訪ねてきた人はいないかと聞いてみたが、今日は誰も来客はないという返事だった。

それからちょうど一年後の同じ祝祭日のことである。その青年もついにみんなから盛んに勧められる隣町の女性を一目見てみたいという気持ちになった。

行ってみると折しもお祭り見物から帰ってくる人波の中に、一年前に彼の部屋で見たのとそっくりの女性を見つけて近づいた。装束も同じである。彼が唖然として見つめていると、その女性の方も彼に気がついた。そして真正面から見た瞬間、驚きの声を発すると同時にその場に卒倒してしまった。

意識が戻ってから女性は家族の者に「あの方は私が一年前のこの日に会った人よ」と述べ、かくして始まった二人の不思議な縁は結婚という目出たい結末となった。

一八三五年といえばハイズビル事件の十年余り前のことで、スピリチュアリズムはまだ話題になっておらず、二人ともごく平凡な、そして至って現実的な人間だったという。

次の話に移る前に、きっと出てきそうな疑問に答えておこう。「肉体から霊が脱け出てしまったのに肉体はなぜ死なないのか」という疑問である。

実は、同じく肉体から脱け出るといっても、生者の霊が一時的に肉体から離れる場合、つまり睡眠中とか上の例のような現象は、霊視すると銀色に輝く細い紐(魂(たま)の緒)で結ばれていて、それがいくらでも伸びる。そして、その間に肉体に何らかの刺激が与えられると、瞬時に肉体に戻る。

「死」というのは肉体が老衰・事故・病気などで使用不可能になった時にその銀色の紐(シルバーコード)が切断される現象で、いったん切断されたら二度と生き返れない。

次の例へ進もう。

ローマ・カトリック教会の聖アルフォンソ(一六九六~一七八七)は死後異例の早さで聖者の列に加えられているが、それは他でもない、生前、同時に二つの場所に姿を見せるという“奇跡”を演じて見せることができたからだった。

その聖アルフォンソがかつて無実の罪に沈みかけたことがあった。そしてイタリアのパドヴァで死刑が執行されようとしていた。

その時、スペインへ出張中の息子の聖アントニオが突如その刑場に出現して父親の無実を証言し、真犯人を名指しした。

その事実が明確となって聖アルフォンソは濡れ衣が晴れた。その後、聖アントニオがパドヴァの刑場に姿を現した時は間違いなくその身柄はスペインにあったことが確認されたという。

その聖アルフォンソに我々の交霊会に出ていただくことができた。以下はその時の一問一答である。


――あの生者の遊離現象について説明していただけますか。


「分かりました。霊性の進化の結果として、ある一定の段階の非物質化が可能となった者は、今いるところとは別の場所に自分の姿を見せることができるようになります。その方法は、睡眠状態に入りそうになった時に、ある特定の場所に移動させてくださいと神に祈るのです。その願いが許されると、肉体が睡眠状態に入るとすぐ霊がダブルの一部をともなって、死と境を接する状態にある肉体を離れます。

“死と境を接する状態”と表現したのは、魂が脱けた状態は“死”と同じでも、その肉体には曰(いわ)く言い難い絆(シルバーコード)が残されていて、ダブルと魂とのつながりを保っているからです。そのダブルが魂とともに意図した場所に姿を現すのです。」


――今のお答えでは、なぜ見えるのか、なぜ感触があるかについての説明になっておりませんが……。


「霊が物質による束縛から解き放たれると、物質への特殊な働きかけによって、その霊性の程度に応じて姿を大なり小なり五感に訴えるようにすることができます。」


――それには肉体が睡眠状態に入ることが不可欠なのでしょうか。


「魂は、肉体が置かれている位置とは別の複数の場所に行きたいと思えば、自らを分割してそれぞれの場所に姿を見せることができます。

その時、肉体は必ずしも睡眠状態にならなくてもいいのですが、それは滅多にないことです。仮にごく通常の状態にあるかに見えても、大なり小なりトランス状態にあるものです。」


編者注――魂が自らを分割すると言っても、我々の概念でいう“分割”とは異なる。魂はあくまでも一つなのであるが、鏡を幾つも置けばその数だけ姿があるように映るごとく、複数の方向に映像を放射することができるのである。

次に変貌現象というのを考察してみよう。これは生者の顔が死者とそっくりの顔に変貌する現象である。一八五八年と五九年に起きた、信ずべき証言のある実例から紹介しよう。

話題の主はまだ一五歳の少女で、見る見るうちに顔かたちが変化して、まったく別人の顔になる。女性とは限らない。男性の場合もある。変貌してしまうと完全にその女の子ではなくなり、顔だけでなく声もしゃべり方も、そして背丈も体重もすっかり変わってしまう。

同じ町の医師が何度も目撃して、それが目の錯覚でないことを確認するためにいろいろと実験し、それを全て記録に残している。さらにその子の父親と他の数人の目撃証言も残っている。

いちばん多く出現したのは二十歳で他界したその子の兄で、身長も体重もかなり違っていた。医師は現象が始まる前にその子の体重を計り、兄に変貌した時にも体重計に乗ってもらったところ、ほぼ倍の重さがあったという。

実験は決定的ともいうべき条件が整っており、目の錯覚とする説は完全に退けられている。では一体いかなるメカニズムによって生じているのであろうか。

変貌現象と言われているものの中には明らかに顔の筋肉の収縮にすぎないと思えるものがある。我々の会でも何度となく観察されているが、その場合は“劇的”といえるほどの変貌は見られていない。若い容貌が老(ふ)けて見えたり、老けた容貌が若くみえたり、美貌が平凡な顔になったり、平凡な顔がハンサムになったりする程度で、男性は男性に、女性は女性にというのが普通で、体重が増えたり減ったりすることは、まずなかった。

ところが上の女の子の場合は、そうしたものとは別の次元の要素が加わっている。どうやら物質化現象やアポーツの原理と同じく流動エネルギーにカギがありそうである。

前章までの解説で我々は、霊は自分の流動体に働きかけて、その原子構造を変化させることによって、一時的にではあるが、可視性と触知性を持たせることができる――言いかえれば、透明で存在が認知できないものを人間の目に見え手で触れられるものにすることができるという基本的原理を学んだ。

さらにもう一つの基本的原理として、生者の流動体も肉体から遊離させてエネルギー化できることも分かっている。

そこで、変貌現象について次のように考えてみてはどうだろうか。

変貌する人間の流動体を肉体から遊離させるのではなく、そのままの状態で蒸気のように気化し、さらに半物質の合成体にして肉体を覆わせる。そして、霊が自らのダブルに合わせる。一種の物質化現象で、その背後では目に見えないオペレーターが何人も働いているはずである。

体重の増減の問題であるが、これは実験会での物理現象の原理で説明がつくであろう。つまり本来の体重は変化していないが、見えざる世界からの働きかけによって、少なくともその間だけ、重くなったり軽くなったりしているものと考えられる。


訳注――霊力の凄さはこれまで本書でもいろいろな形で見せつけられているので改めて付言する必要はないと思うが、『ジャック・ウェバーの霊現象』の中に、上の体重の増減の現象の理解に参考になるものがあるので紹介しておきたい。

「霊媒の浮揚現象」という見出しの章の後半に“思いがけない現象”として次のような叙述がある。

《写真No.25には思いがけない現象が写っている。浮揚現象を撮影しようとしていたところ、その“持ち上げる力”が逆の方向に利用されて、椅子が床に降りると同時に、バリバリという何かを破壊するような大きな音がした。ライトをつけてみると、霊媒は無残に砕けた椅子に縛りつけられていた。

霊媒が腰かけていたウィンザー型の椅子は実にどっしりとした造りだった。座の部分は厚さが1.3インチ(三センチ余り)もあったが、それが真ん中で真二つに割れ、四本の脚が支柱もろとも四方に引き裂かれ、肘かけが背もたれからもぎ取られていた。

写真は砕かれかけた一瞬をよく捉えている。霊媒の身体にいささかの緊張感も見られないところに注目していただきたい。

一個の椅子を一瞬のうちにこれほど徹底的に破壊するのに一体どれほどのエネルギーが要るかということも一考の価値がある。力持ちが椅子を持ち上げて思い切り床に叩きつけて、はたして上に述べたような状態に破壊できるか――これは大いに疑問である。》

シアトルの秋 シルバーバーチの霊訓(五)

  More Teachings of Silver Birch Edited by A.W. Austen
十二章 参戦拒否は是か否か


    参戦拒否、徴兵忌避といった不戦主義はスピリチュアリズムにおいてだけでなく、すべての宗教においてその是非が問われ続けている問題である。

 シルバーバーチは常に道義心───魂の奥の神の声───が各自の行為の唯一の審判官であると説き、従ってその結果に対しては各自が責任を取らねばならないと主張している。

その論理から、母国を守る為には戦争も辞さず、必要とあらば敵を殺(あや)めることも一国民としての義務であると考える人をシルバーバーチは咎めない。これが〝矛盾〟と受け止められて批判的な意見が寄せられることがあるが、これに対してある日の交霊会でこう弁明した。

 「批判的意見を寄せられる方は、私がこれまで戦争というものをいかなる形においても非難し、生命は神聖であり神のものであり、他人の物的生命を奪う権利は誰にもないという主張を掲げてきながら、今度は〝英国は今や正義の戦に巻き込まれた。これは聖なる戦いである。聖戦である〟と宣言する者に加担しているとおっしゃいます。

 私は永年にわたってこの霊媒を通じて語ってまいりました。今これまでに私が述べたことを注意ぶかくふり返ってみて、この地上へ私を派遣した霊団から指示されたワクに沿って私なりに謙虚に説いてきた素朴な真理と矛盾したことは何一つ述べていないと確信します。

今も私は、これまで述べてきた通りに、人を殺すことは間違いである、生命は神のものである、地上で与えられた寿命を縮める権利は誰にもないと断言します。前にも述べたことですが、リンゴは熟せば自然に落ちます。もし熟さないうちにもぎ取れば、渋くて食べられません。霊的身体も同じです。

熟さないうちに、つまり、より大きな活動の世界への十分な準備ができないうちに肉体から離されれば、たとえ神の慈悲によって定められた埋め合わせの原理が働くとはいえ、未熟なまま大きなハンディを背負ったまま新しい生活に入ることになります。

 その観点から私は、これまで述べてきたことのすべてをここで改めて主張いたします。これまでの教訓をいささかも変えるつもりはありません。繰り返し(毎週一回)記録されている私の言葉の一語一語を自信を持って支持いたします。同時に私は、いかなる行為においてもその最後に考慮されるのは〝動機〟であることも説いております。

 まだこの英国が第二次世界大戦に巻き込まれる前、いわゆる〝国民兵役〟への準備に国を挙げて一生懸命になっておられた時分に、〝こうした活動に対してスピリチュアリストとしての態度はどうあるべきでしょうか〟との質問に私は〝そうした活動が同胞への奉仕だと信ずる方は、それぞれの良心の命ずるがままの選択をなさることです〟と申し上げました。

 いま英国はその大戦に巻き込まれております。過去にいかなる過ちを犯していても、あるいはいかに多くの憎しみの種子を蒔いても、少なくともこの度の戦争は英国自ら仕掛けたものではないことは確かです。

しかし、それでもやはり戦争をしているという咎めは受けなくてはなりません。後ればせながら英国もこの度は、いくぶん自衛の目的も兼ねて、弱小国を援助するという役目をみずから買って出ております。

もしも兵役に喜んで参加し、必要とあらば相手を殺めることも辞さない人が、自分はそうすることによって世界のために貢献しているのだと確信しているのであれば、その人を咎める者は霊の世界に一人もいません。

 動機が何であるか───これが最後の試練です。魂の中の静かな、そして小さな声が反撥するが故に戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にいざとなれば我が身を犠牲にする覚悟を持って戦場へ赴く人間とは、私たちの世界から見て上下の差はありません。動機が最も優先的に考慮されるのです。

 派閥間の論争も結構ですが、興奮と激情に巻き込まれてその単純な真理を忘れた無益な論争はおやめになることです。動機が理想的理念と奉仕の精神に根ざしたものであれば、私たちはけっして咎めません」

───それでも、やはり人を殺すということがなぜ正当化されるのか、得心できません。

 「必要とあれば───地上的な言い方をすれば───相手を殺す覚悟の人は、自分が殺されるかもしれないという危険をおかすのではないでしょうか。どちらになるかは自分で選択できることではありません。相手を殺しても自分は絶対に殺されないと言える人はいないはずです。もしかしたら自らの手で自らを殺さねばならない事態になるかもしれないのです」

 さらに別の質問を受けてシルバーバーチはその論拠を改めて次のように説明した。


 「私たちは決して地上世界がやっていることをこれで良いと思っているわけではありません。もし満足しておれば、こうして戻って来て、失われてしまった教えを改めて説くようなことはいたしません。

私どもは地上人類は完全に道を間違えたという認識に立っております。そこで、何とかしてまともな道に引き戻そうとしているところです。しかし地上には幾十億と知れぬ人間がおり、みな成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。

すべての者に一様に当てはめられる型にはまった法則、物的ものさし、といったものはありません。固定した尺度を用いれば、ある者には厳しすぎ、ある者には厳しさが足りないということになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪と縁のない人間には何の係りもありません。

 かくして人間それぞれに、それまでに到達した成長段階があるということを考慮すれば、それを無視して独断的に規準をもうけることは許されないことになります。前にも述べましたように、神は人間各自にけっして誤まることのない判断の指標、すなわち道義心というものを与えています。その高さはそれまでに到達した成長の度合いによって定まります。

あなた方が地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自の取るべき手段を判断する力───それが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は例外なく具わっております。

あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度において高いこともありますし低いこともあります。しかし、互いに正反対の考えをしながらも、両方ともそれなりに正しいということも有りうるのです。

 個々の人間が自分の動機に従って決断すればそれでよいのです。すべての言いわけ、すべての恐れや卑怯な考えを棄てて自分一人になりきり、それまでの自分の霊的進化によって培われた良心の声に耳を傾ければよいのです。

その声はけっして誤まることはありません。けっしてよろめくこともありません。瞬間的に回答を出します。(人間的煩悩によって)その声がかき消されることはあります。

押し殺されることはあります。無視されることもあります。うまい理屈や弁解や言いわけでごまかされることもあります。しかし私は断言します。良心は何時も正しい判決を下しています。それは魂に宿る神の声であり、あなたの絶対に誤まることのない判断基準です。

 私たちに反論する人たち、特にローマカトリック教会の人たちは、私たちが自殺を容認している───臆病な自殺者を英雄または殉教者と同等に扱っていると非難します。が、それは見当違いというものです。私たちは変えようにも変えられない自然法則の存在を認めると同時に、同じ自殺行為でも進化の程度によってその意味が異なると観ているのです。

確かに臆病であるがゆえに自殺という手段で責任を免れようとする人が多くいます。しかし、そんなことで責任は逃れられるものではありません。死んでもなお、その逃れようとした責任に直面させられます。

しかし同時に、一種の英雄的行為ともいうべき自殺───行為そのものは間違っていても、そうすることが愛する者にとって唯一の、そして最良の方法であると信じて自分を犠牲にする人もいます。そういう人を卑怯な臆病者と同じレベルで扱ってはなりません。大切なのは〝動機〟です」


 ここでメンバーの一人が、不治の病に苦しむ人が周りの人たちへ迷惑をかけたくないとの考えから自殺した例をあげた。するとシルバーバーチは───

 「そうです。愛する妻に自由を与えてやりたいと思ったのかもしれません。〝自分がいなくなれば妻が昼も夜もない看病から解放されるだろう〟───そう思ったのかもしれません。その考えは間違いでした。真の愛はそれを重荷と思うようなものではないはずです。

ですが、その動機は誠実です。心がひがんでいたのかもしれません。しかし、一生けんめい彼なりに考えたあげくに、そうすることが妻への最良の思いやりだと思って実行したことであって、けっして弱虫だったのではありません」
 

 では最後に〝戦うことは正しいことだと思いますか〟という質問に対するシルバーバーチの答えを紹介しておこう。これは大戦が勃発する前のことであるが、その主張するところは勃発後と変わるところはない。これを〝矛盾〟と受け止めるかどうか───それは読者ご自身が全知識、全知性、全叡知を総動員して判断していただきたい。

 「私はつねづねたった一つのことをお教えしております。動機は何かということが一ばん大切だということです。そうすることが誰かの為になるのであれば、いかなる分野であろうと、良心が正しいと命ずるままに実行なさることです。私個人の気持ちとしては生命を奪い合う行為はあってほしくないと思います。生命は神のものだからです。

しかし同時に私は、強い意志を持った人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくありません。すべからく自分の魂の中の最高の声に従って行動なさればよいのです。ただし、殺し合うことが唯一の解決手段ではないことを忘れないでください」


───例えばもし暴漢が暴れ狂って手の施しようがない時は殺すという手段も止むを得ないのではないでしょうか。

 「あなた方はよく、ある事態を仮定して、もしそうなった時はどうすべきかをお尋ねになります。それに対して私がいつもお答えしていることは、人間として為すべきことをちゃんと行っていれば、そういう事態は起きなかったはずだということです。

人間が従うべき理念から外れたことをしながら、それをどう思うかと問われても困るのです。私たちに出来ることは、真理と叡知の原則をお教えし、それに私たち自身の体験から得た知識を加味して、その原則に従ってさえいれば地上に平和と協調が訪れますと説くことだけです。流血の手段によっても一時的な解決は得られますが、永続的な平和は得られません。


 血に飢えて殺人を犯す人間がいます。一方、自由のための戦いで殺人行為をする人もいます。そういう人の動機に私は異議は唱えません。どうして非難できましょう。明日の子供のために戦っている今日の英雄ではありませんか。

 私にできることは真理を述べることだけです。だからこそ政治的レッテルも宗教的ラベルも付けていないのです。だからこそどこの教会にも属さず、いわゆる流派にも属さないのです。

 人間は自分の良心の命じる側に立って、それなりの役目を果たすべきです。どちらの側にも───敵にも味方にも───立派な魂を持った人がいるものです。ですから、動機とは何か───それが一ばん大切です。こうすることが人のためになるのだと信じて行なうのであれば、それがその人にとって正しい行為なのです。

知恵が足らないこともあるでしょう。しかし、動機さえ真剣であれば、その行為が咎められることはありません。なぜなら魂にはその一ばん奥にある願望が刻み込まれていくものだからです。

 私は常にあなた方地上の人間とは異なる規準で判断していることを忘れないでください。私たちの規準は顕と幽のあらゆる生活の側面に適用できる永遠に不変の規準です。時には悪が善を征服したかに思えることがあっても、それは一時的なものであり、最後には神の意志が全てを規制し、真の公正が行きわたります。

 その日その日の気まぐれな規準で判断しているあなた方は、その時々の、自分が一ばん大事だと思うものを必要以上に意識するために、判断が歪められがちです。

宇宙を大いなる霊が支配していることを忘れてはなりません。その法則がこの巨大な宇宙を支えているのです。大霊は王の中の王なのです。その王が生み神性を賦与した創造物が生みの親をどう理解しようと、いつかはその意志が成就されてまいります。

 地上の無益な悲劇と絶望の有様を見て私たちが何の同情も感じていないと思っていただいては困ります。今日の地上の事態を見て心を動かされなかったら、私たちはよほど浅はかな存在といえるでしょう。しかし私たちはそうした地上の日常の変転極まりないパノラマの背後に、永遠不変の原理を見ているのです。

 どうかその事実から勇気を得て下さい。そこにインスピレーションと力とを見出し、幾世紀にもわたって善意の人々が夢見てきた真理の実現のために働き続けて下さい。その善意の人々は刻苦勉励してあなた方の世代へ自由の松明(たいまつ)を手渡してくれたのです。今あなた方はその松明に新たな炎を灯さなくてはならないのです」(巻末〝解説〟参照)

Wednesday, November 26, 2025

シアトルの秋 霊媒の書 第2部 本論

The Mediums' Book
6章 物質化現象



心霊現象の中でも取りわけ興味深いのは、言うまでもなく霊がその姿を見せる現象であろう。が、これも、これから紹介する一問一答による解説によって、少しも超自然的なものではないことが分かる。複数の霊による回答をまず紹介しよう。


――霊は自分の姿を人間に見せることができるものですか。


「できます。とくに睡眠中が多いです。覚醒中でも見ることができる人がいます。睡眠中ほど頻繁ではありませんが……」


編者注――肉体が休息すると霊は物的束縛から解放されて自由の身となり、霊姿を見たり霊と語り合ったりする。夢はその間の記憶の残像にすぎない(章末の訳注参照)。何も思い出さない時は睡眠中に何もなかったかに思うが、実際には霊眼でいろいろなものを見たり聞いたりして自由を楽しんでいる。が、本章では覚醒中のことに限ることにする。


――霊姿を見せるのは特殊な界層の霊に限られているのでしょうか。


「そんなことはありません。低界層から高級界までのありとあらゆる界層の霊が姿を見せることができます。」


――すべての霊が自分の姿を人間の視覚に映じさせる力を有しているということでしょうか。


「その通りです。ただし、そうする許しが得られるかどうかの問題と、そうしたいと思うかどうかの問題があります。」


――姿を見せる場合、その目的は何なのでしょうか。


「それはその霊によって違ってきます。正当な目的の場合と、良からぬ目的の場合とがあります。」


――え? 良からぬ目的の場合でも許されることがあるとおっしゃるのですか。


「その通りです。その場合は“幽霊”に出られた人間にとっての試練として出現が許されています。霊の意図は良くなくても結果として当人にはプラスになります。」


――良からぬ意図とはどんなことでしょう?


「怖がらせてやろうとか、時には復讐の場合もあるでしょう。」


――正当な意図とは?


「他界したことを悲しみ続けている者を慰めてやること、つまり、ちゃんと生き続けていて、いつも自分がそばにいることを知らせてやること。悩みごとの相談にのってやりたいということもあります。時には逆に自分のことで頼みごとをする場合もあります。」


――いつでもどこでも霊の姿が見えるようになったと仮定した場合、人間生活に何か不都合が生じるでしょうか。どんなに疑い深い人間も死後の生命存続の事実を疑わなくなると思うのですが……。


「霊はいつでもどこにでも存在するわけですから、それがもし見えるようになったら何かとやりにくいであろうし、やる気が無くなるであろうし、自由闊達な動きができなくなるでしょう。人間は誰からも見られていない方が思うような行動が取れるのです。

疑い深い人間のことですが、たとえ見ても信じない者は信じません。何かの幻影でも見ていると考えます。あなた方がそういう人間のことで心を痛めるには及びません。大霊が良きに計らってくださいます。」


――霊の姿が見えると不都合が生じるというのなら、なぜ姿を見せることがあるのでしょうか。


「それは、人間が肉体の死とともに無に帰するのでなく、死後も個性をたずさえて存続していることを証明するためです。そうした数少ない目撃者の証言で十分であり、霊に取り囲まれて気の休まることがないという不便も生じません。」


――地球より進化した天体上では霊との関係は頻繁に行われているのでしょうか。


「霊性が高まるほど霊との意識的交信が容易になります。霊的存在との交わりを困難にしているのは、その物的身体です。」


――いわゆる幽霊を見て人間が怖がることをそちらから見てどう思われますか。


「霊がいかなるものであれ、生身の人間より危険性が少ないことは、少し考えれば分かりそうなものです。霊はどこにでもいます。あなたのすぐそばにもいます。見える見えないには関係ないのです。何か悪さをしようと思えば、別に姿を見せなくてもできますし、むしろ見られない方が確実性があるくらいです。

霊だから危険性があるのではありません。危険性があるとすれば、それは人間の考えに働きかけて密かに影響力を行使し、正しい道を踏みはずさせて悪の道に誘い込むことができることです。」


――霊が姿を見せた時、その霊と対話をしてもいいのでしょうか。


「もちろん結構です。と言うより、ぜひとも対話をすべきです。名前は何と言うのか、何の用事なのか、何か役に立つことがあれば言ってみるように、といったことを問いかけてみることです。辛いこと苦しいことがあるのであれば、それを聞き出して、力になってあげることができますし、逆に高級な霊であれば、何かいいアドバイスを授けるために出現したのかも知れません。」


――そういう場合、霊はどういう方法で対話をするのでしょうか。


「生身の人間のようにはっきりとした言葉で語る場合もありますが、以心伝心(テレパシー)で行う場合が多いです。」


――翼の付いた姿で現れることがありますが、実際に付いているのでしょうか。それとも、ただのシンボルなのでしょうか。


「霊に翼はありません。必要ないからです。霊はどこへでも瞬時に移動できます。ただ、霊が姿を見せる場合には何らかの目的があり、それを効果的に演出するために外見にいろいろな装いをすることがあります。目立たない装いをすることもあれば、優雅な掛け布で身を包むこともあり、翼を付けることもあります。それが霊格の象徴である場合もあります。」


――夢の中に出てくる人物はその容貌どおりの人物と見てよろしいでしょうか。


「あなたの霊眼で見た通りの人物と思ってまず間違いないでしょう。」


――低級霊が生前親しかった誰かの容貌を装って、堕落の道へ誘うということは考えられませんか。


「低級霊でも途方もない容貌を装うことができますし、騙して喜ぶ者がいることも事実ですが、彼らのすることにもおのずから限度があり、やろうにもやらせてもらえないことがあるものです。」


――思念が霊を呼び寄せることは理解できますが、ならばなぜ一心に会いたいと思っている人が出現せずに、関心のない人、思ってもいなかった人が出現することが多いのでしょうか。


「そちらでいくら会いたいと念じても、霊によっては姿を見せる力を持ち合わせないことがあります。その霊の意志ではどうにもならない何らかの要因があって、夢にさえ出現できないのです。それが試練である場合もあります。いかに強烈な意念をもってしても免れることのできない試練です。

関心のない人、思ってもいなかった人とおっしゃいますが、そちらで関心はなくてもこちらに関心がある場合があります。さらに、あなた方には霊の世界の事情がお分かりにならないので無理もありませんが、睡眠中に昔の人や最近他界したばかりの人を含めて、実に多くの霊に会っているのです。それが目覚めてから思い出せないだけです。」


――ある種の情景が病気中に見えることが多いのはなぜでしょうか。


「健康な時でも見えることがありますが、病気の状態では物的な束縛が緩(ゆる)み、霊の自由の度合が増すために、霊との交信がしやすくなることは確かです。」


――幽霊が出たという話がよく聞かれる国とそうでない国とがあります。民族によって能力が違うのでしょうか。


「幽霊とか不思議な音といった現象は地球上どこででも同じように生じます。が、現象によってはその民族の特徴が反映するものがあります。例えば識字率の低い国では自動書記霊媒はあまり輩出しません。従ってそういう国では知的な通信よりもハデな現象の方が多く発生することになります。知的で高尚なものを有り難がりませんし、求められることもないからです。」


――幽霊が大てい夜に出現するのはなぜでしょうか。静けさや暗さが何か想像力に影響を及ぼすからでしょうか。


「それは星が夜の方がよく見えて昼間は見えないのと同じです。昼間の太陽の光がうっすらとした霊の姿をかき消してしまうから見えないまでです。“夜”という時間帯に特別の意味があるかに考えるのは間違いです。幽霊を見たという人の話を総合してみられるとよろしい。大半が昼間に見ているはずです。」


――霊の姿が見えるのは普通の状態の時でしょうか、それとも特殊な状態の時でしょうか。


「まったく普通の状態でも見えますが、トランス(入神)状態に近い特殊な状態にある時の方が多いです。霊視力が働くからです。」


――霊を見たと言う人は肉眼で見ているのでしょうか。


「自分ではそう思うでしょう。が、実際は霊視力で見ています。目を閉じても見えるはずです。」


――霊が自分の姿を見せるにはどんなことをするのでしょうか。


「他の物理現象と同じです。自分の意念の作用で流動体の中からある成分を抜き取り、さまざまな工夫を凝らして使用します。」


――霊そのものを見せることはできないのでしょうか。流動体(エクトプラズム)をまとわないと見えないのでしょうか。


「肉体をまとっているあなた方人間に対しては、半物質体の流動エネルギーの助けを借りないと見えません。流動体は物的感覚に訴えるための媒介物です。夢の中にせよ覚醒時にせよ、白昼にせよ暗闇の中にせよ、見えている姿はその流動体で形態を整えたものです。」


――それは流動体を凝縮して使うのですか。


「凝縮という用語はおよその概念を伝える上での類似語ていどのもので、正確ではありません。別に凝縮させるわけではありません。流動体を幾種類か集めて化合させると、特殊な合成物ができます。これが人間の目に映じるようにするのですが、地上にはこれに類するものは存在しません。」


――その霊姿は手で触ることができますか。例えば腕をつかむことができますか。


「通常はできません。影がつかめないのと同じです。が、人間の手に感触が残る程度にすることはできます。さらには、少しの間に限られますが、しっかりとした肉体と同じ程度にすることもできます。そんな時は合成物質(エクトプラズム)と肉体との間に共通したものがあることの証拠と言えます。」


――人間は本来、霊の姿が見えるようにでき上がっているのでしょうか。


「睡眠中(肉体からの離脱中)はそうです。覚醒中は誰でもというわけではありません。睡眠中はさきほど述べた媒介物がなくても見えます。覚醒中は多かれ少なかれ肉体という器官によって制約されています。睡眠中と覚醒中とでは必ずしも同じでないのは、そういう事情によります。」


――覚醒中に霊が見える、そのメカニズムはどうなっているのでしょうか。


「その人間の肉体という有機体の特質、およびその人が有する流動エネルギーが霊の流動エネルギーと合体しやすいか否かに掛かっています。霊が姿を見せてやりたいと思うだけではダメです。見せてやりたい人間にそういう適性があることを見極める必要があるわけです。」


――そういう能力は訓練によって発揮できるようになるものでしょうか。


「他のすべての能力と同じように、訓練しだいで発揮できます。ですが、なるべくなら自然な発達を待つ方がよい部類に属します。発揮しようとする意欲が強すぎると想像力をかき立てて妄想を生む恐れがあります。霊視力を日常的にいつでも使用できるほどの人は例外に属し、人類の通常の状態では霊視力は働きません。」


――人間の側から霊に向かって出現を要請することは可能でしょうか。


「不可能というわけではありませんが、稀です。霊は必ずといってよいほど自分の方から出現します。権威をもって呼び出すには余ほど特殊な霊的資質をそなえていなければなりません。」(ここでいう“霊”とは“高級霊”のことである。日本の霊界通信には神名を名のる霊からのものが多いが、神格をそなえた高級霊が“自分は神である”などと宣(のたま)うわけがない――訳注)


――人間の容姿以外の形態で出現することはできますか。


「人間の容姿が普通です。人間の容姿をいろいろに装うことはできますが、基本的には常に人間的形態をしています。」


――炎の形態で出現できませんか。


「存在を示すために炎や光をこしらえることはできます。どんな形態でも装うことができるのですから。が、それがすなわち霊そのものと思ってはいけません。炎は流動エネルギーの放射体、いわば幻像にすぎないことがよくあります。それも流動体のごく一部です。どのみち、流動体の現象は一時的な映像の域を出ません。」


――“鬼火”とか“キツネ火”とか呼ばれているものが魂または霊の仕業だという説がありますが、いかがでしょうか。


「ただの迷信にすぎません。無知の産物と言ってもよいでしょう。鬼火が発生する原因はすでに明らかになっているはずです。」(燐と水素が化合して発する青白い炎――訳注)


――霊が動物の形態を装うことはできますか。


「それはできないことではありません。が、そんなことをしてどうするのでしょう? それは余ほど低級な霊のすることです。また、たとえ装っても一時的なものです。本物の動物が霊の化身であるかに信じる愚か者はいないでしょう。動物はあくまでも動物で、それ以上のものではありません。」


――見えたものが幻影・幻覚であることがありますか。たとえば夢か何かで悪魔を見た場合、それは想像上の産物ではないでしょうか。


「そういうことは時おり有り得ます。たとえば強烈な印象を与える物語を読んで、それが記憶に残っていて、精神的に興奮している場合です。そういうものは実在しないのだという理解がいくまで、それが幻覚として見えることがあります。

しかし、前にも述べたことですが、霊は半物質の流動体を使用してどんなものでもどんな形態のものでもこしらえることができます。ですから、イタズラ霊が信じやすい人間をからかうために角(つの)を生やしたり巨大な爪を見せたりすることもできます。さきほども述べた、高級霊が翼をつけたり光輝を放つ容貌を見せたりするのと同じです。」


――半睡半夢の状態において、あるいは目を閉じた瞬間などに顔とかイメージが見えることがありますが、あれも幻覚でしょうか。


「感覚が空(うつ)ろになると霊的感覚が働きやすくなって、肉眼では見えないものが、遠近に関係なく見えるようになります。その時に映じるイメージは往々にして幻覚である場合もありますが、かつて見たある対象物が、音がしばらく耳に残るように、脳に残像を印象づけていて、それが見えることがあります。

霊は、肉体の束縛から解放されると、ちょうど写真のネガに写った影像のように脳に印象づけられたものを見ることがあります。その時、断片的でバラバラになっているものを一つのまとまったものに構成しようとします。それは他愛もない空想的なもので、次の瞬間には、もう少しよく見たいと思っても、崩れていきます。病気の時などによく見る、まったく現実味のない、奇っ怪な幻像もみな、そうした原因から生じていると考えて間違いありません。」


訳注――本章の最初の応答のあとのカルデックの“編者注”の中に「夢というのは睡眠中に霊の目で見たものの記憶の残影にすぎない」という一文があるが、この文章だけでは誤解を生じやすい。上の最後の応答の一節が夢そのものの絶好の説明にもなっているように思う。「病気の時などによく見る……」というのを「病気の時や睡眠中によく見る……」と書き換えてもよいほどである。

夢については心理学や精神医学や精神分析学などでもいろいろと説かれているが、こじつけや乱暴な説ばかりで、これまで納得のいくものに出会ったことがなかった。そして上の一節ですっきりとした気持ちになった。私の体験からもその通りだと思う。

自我のことを“統一原理”と呼んでいる通信があるが、上の回答で「断片的でバラバラになっているものを一つのまとまったものに構成しようとします。それは他愛もない空想的なもので、次の瞬間には、もう少しよく見たいと思っても崩れていきます」とあるのは、霊が物的身体から遊離していて、長年にわたる脳を中枢とした感覚に慣れているために、統一原理としての役目が果たせないのである。

結論としては、本章の最初の“編者注”と最後の回答とを併せて一つにすれば“睡眠中は何をしているのか”“夢とは何なのか”といった千古の疑問への完全な回答となるのではなかろうか。