Thursday, June 26, 2025

シアトルの夏 十章 天上、地上、地下のものすべて (ピリピ2・10、黙次録5・13

べールの彼方の生活(四) G・V オーエン著 

The Life Beyond the Veil
Vol. IV The Battalions of Heaven by G. V. Owen




1 地球進化の未来
一九一九年四月一日  火曜日

 やがて吾々が取り囲む虚空全体にふたたび静寂が行きわたりました。見るとお二人は揃って玉座の中に坐しておられます。女性の方から招き入れたのです。
 すると第十界まで軍団を率いてこられた方で吾々の地球への旅の身支度を指導してくださった大天使のお一人の声が聞こえてきました。玉座より高く、その後方に位置しておられました。こうお述べになりました。

 「余の軍団の者、ならびに、この度の地球への降下に参加を命じられた者に告ぐ。ただ今の顕現はこれよりのちの仕事に理解をもって取り組んでもらうために催されたものである。

その主旨については、指揮を与える余らもあらかじめ知らされてはいたが、今あらためて諸君にお知らせした次第である。よく銘記せられ、前途に横たわる道をたじろぐことなく前進されたい。

父なる神は吾らの最高指揮官たるキリストに託された仕事のための力をお授けくださる。

キリストを通じてその霊力の流れがふんだんに注がれ、使命の達成を可能にしてくださるであろう。吾らが創造主への崇敬の念を片時も忘れまいぞ」

 言い終るのと時を同じくして燦然と輝く霧が玉座に漂い、やがて地球全体をおおいはじめ、もはや吾々の目に地球の姿は見えなくなりました。おおい尽くすと全体がゆっくりと膨張をはじめ、虚空の四分の一ほどにもなったところで膨張を止めました。

すると今度はそれが回転しはじめ、次第に固体性を帯びていくように見えてきました。固いといっても物質が固いというのとは異なります。物的地球が半透明になるまで精妙(エーテル)化した状態を想像されれば、大体のイメージはつかめるでしょう。

 地軸を中心にして回転していくうちに、こんどはその表面に陸と海の形が現れました。今日の地形とは異なります。吾々はいま未来の仕事の場を見せられているのです。現在の地形が変化しているごとく、それも次第に変化していたのですが、変化のスピードは速められていました。

つまり来るべき時代が短縮されて眼前に展開し、吾々はそれを動くモデルとして読み取っていたわけです。

 さらにその上に都市、民族、動物、それにさまざまな用途の機械類が出現しました。かくして全表面を吾々の方角へ向けながら回転し続けているのを見ていると、その進化の様子が手にとるように分かりました。

 たとえば貴殿の国を見てみましょう。最初は二、三年後の姿が目に入りました。やがてそれが視界から消え、そして次に見えた時は沿岸の形状や都市と住民の様子が少し変化しておりました。


こうして地球が回転するごとに陸地をはじめとして人類全体、建築物、交通機関、そのほか何万年、何十万年もの先までの人工の発達の様子が千年を数時間の単位に短縮されて出現しました。私の説明はこうして用語を貴殿の感覚に置きかえなくてはなりません。


吾々にとって年数というのは、地上の人間とは感覚的に同じものではありません。

 もっとも、こうした形で私が人類に代わって遠い未来という深海で漁をしてあげるのは許されないことでしょう。人類は自分の夕食の魚は自分の網で取らなくてはいけません。

それが筋というものです。もっとも、よい漁場を教えてあげることくらいのことは私にも許されています。この私を信頼のおける漁船団長と思ってくださる方は、どうぞ私の海図にしたがって探求の旅へ船出してください。

 さて地球は永い永い年月にわたる航海を続けるうちに、ますます美しさを増してきました。表面の光が増し、大地そのものも内部からの輝きを増しておりました。

また人間は地球上でさほどせわしく東奔西走している様子は見えません。それというのも大自然の摂理との調和が一段と進み、その恩寵にますます敬服し、激情に振り回されることも少なくなり、内省的生活の占める割合が増えているからです。

かくして地球のすべての民族が協調性を増し、同時に霊力と安らかさとを送りやすくなった吾々との一体性も増しております。

 吾々はその一体性が進むのを見ていて、吾々がかつて数々の戦乱の末に獲得した豊かな幸福をこの人類の若き同胞たちが享受してくれていることを知り、興奮さえ覚えるのでした。
 やがて地球そのものも変化しておりました。それを述べてみましょう。

 貴殿をはじめ、最近の人間の精神の中に新しい用語が見られます。サイコメトリという言葉です。これは物体に刻み込まれた歴史を読み取る能力と私は理解しております。

実はそれには人間がエーテルと呼んでいる成分の本性と、その原子に内在するエネルギーを知り尽くすまでは十分に理解できない真相が隠されております。

いずれ人間がこのエーテルという宇宙的安定基剤(コズミックバラスト)を分析的かつ統合的に扱うことができる時代が来ます──地球が回転するのを見ていてそれを明瞭に観察したのです。

その時になれば今人間が液体やガス体を扱うようにエーテル成分を扱うようになるでしょう。しかしそれはまだまだ先の話です。現段階の人間の身体はまだまだ洗練が十分でなく、この強力なエネルギーを秘めた成分を扱うには余ほどの用心がいります。

当分は科学者もそこに至るまでの下準備を続けることになるでしょう。
アーネル ± 


2 宇宙的(コズミック)サイコメトリ
一九一九年四月二日  水曜日

 それ故そうしたサイコメトリ的バイブレーションは──吾々が物質を研究した上での結論ですが──物質に瀰漫(びまん)するエーテルに書き込まれている、ないしは刻み込まれているのです。それだけではありません。

エーテルが物質の成分に作用し、それによって活性化される度合によって、その物質の昇華の度合が決まっていきます。

つまり活性化された成分が外部からエーテルに働きかけ、浸透し、それを物質との媒介物として活用するのです。物質の成分は地上の化学者も指摘するとおりエーテルの中に溶解した状態で存在するわけです。

その点は地上の化学者の指摘は正しいのですが、その辺は大自然の秘奥の門口であって、その奥には神殿があり、さらにその先には奥の院が存在する。

物質科学の範疇を超えてエーテル界の神殿に到着した時、その時はじめて大自然のエネルギーの根源がその奥の院にあることを知ることになります。その奥の院にこそ普遍的〝霊〟が存在するのです。

 これで大自然のカラクリがお分かりになると思います。普遍的な〝霊〟が外部から、つまり基本的成分がエネルギーの量においても崇高性の度合においてもすべてをしのぐ界層から活発にエーテルに働きかけます。その作用でエーテルが活性化され、活性化されたエーテルがさらに物質の基本分子に作用し、そこに物質という成分が生まれます。

 ただし、この作用は機械的なものではありません。その背後に意志が働いているのです。意志のあるところには個性があります。

つまるところエーテルに性格を賦与するのは個性をもつ存在であり、その影響がそのまま物質に反映されていきます。それ故こういうことになります───エーテルを通して物質に働きかける霊的存在の崇高さの程度に応じて、物質の成分の洗練の度合が高くもなり低くもなる、ということです。(第一巻P217参照)

 ということは地球そのもの、および地球上の全存在物を構成している物質の性質は、それに向けて意識的に働きかけている霊的存在の性格と共鳴関係にあるということです。両者は物質に宿っているかいないかの違いがあるだけで、ともに霊(スピリット)なのです。

 したがって地球人類が霊的に向上するにつれて(未来の)地球もそれを構成する成分に働きかける影響力に対して、徐々にではあっても着実に反応していきました。

物質がより洗練され、より精妙化されていきました。内部からの輝きを増していったのはそのためです。これは宇宙規模のサイコメトリにほかなりませんが、本質的にはいま地上に顕現されているものと同一です。

 地球ならびに地球人類の精妙化が進むにつれて霊界からの働きかけもいっそう容易になっていき、顕幽間の交信も今日よりひんぱんになると同時に、より開放的なものとなっていきました(※)。

そして、途中の階段を省いて結論を急げば、顕幽間の交信がごく当たり前のものとなり、且つ間断なく行われる時代にまで到達しました。そしてついにこれからお話する一大顕現が実現することになります。(※シルバーバーチは霊格が向上するほど自由意志の行使範囲が広くなると述べている──訳者)

 が、それをお話する前に述べておきたいことがあります。私の話は太陽およびその惑星系にしぼり、遠い銀河の世界のことは省きます。

 地上の天文学者は自分たちが確認した惑星をすべて〝物的天体〟としております。さらに、それらの惑星を構成する物質がその成分の割合において地球を構成する物質と同一でないことも発見しております。


しかしもう一歩進んで、物質の密度の差を生じさせる原因の一つとして、もう一つ別の要素が存在するところまでは気づいておりません。

それが私がこれまで述べてきた霊的要素で、それが惑星系の進化の長旅において地球より先を歩んでいる天体の進化を促しているのです。

 実はそれ以外に地上の人間の視力では捉えることの出来ない別の種類の惑星が存在するのです。精妙化がすでに物質的段階を超えてエーテル的段階に至っているのです。霊的までは至っていません。物質的状態と霊的状態の中間です。


その種の天体の住民には地球を含む惑星系のすべてが見えます。そして強力な影響力を行使することができます。それは、地球人類より進化はしていても、霊格において霊界の住民よりはまだ地球人類に近いからです。

 それはそれなりに、れっきとした惑星なのです。ところが、それとはまた別の意味でのエーテル的天体がいくつか存在します。その一つが地球を包みこむように重なっております。その天体の構成するエーテルの粗製状態のものが地球に瀰漫しているのです。

と言って、地球のためだけの存在ではありません。また、のっぺらとしたベルト状のものではなく、表面には大陸もあれば海もあり、住民もいます。

その大半はかつて地球上で生活したことのある者ですが、中には一度も地上生活の体験のない者もいます。血と肉とから成る身体としての顕現の段階まで達していないのです。


──いわゆる幽界のことでしょうか。

 その名称は使用する人によって必ずしも同じように理解されておりませんが、貴殿の理解しているものに従って言えば、私のいうエーテル的天体は幽界とは違います。

今お話したとおりのものです。聞くところによれば、そこに安住している人間に似た住民はみな、ずいぶん古くからの生活者で、これから先いつまでそこに住んでいられるか確かなことは不明であるとのことです。彼らは太古の地球人類の一種の副産物なのです。


──あなたがこの地球へ降りてこられる時はそのエーテル的天体を通過してくるわけですか。

 場所的に言えばそういうことになります。が、通過する際にその環境に対して何の反応も感じません。感覚的にはその存在を感じていないということです。私がこれまで第一界、第二界、第三界と呼んできた界層とは何の関係もありません。

造化の系列が別で、実に不可思議な存在です。吾々の行動の場から離れており、したがって詳しいことはほとんど知りません。

さきほど申し上げたことは──あれ以外にもう少し多くのことが判っておりますが──これまでそうした別の要素の存在を知らなかったがために理解に苦しんでいたことを説明するために教えていただいたことです。それでやっと得心がいったことでした。
アーネル ±



3 精霊とその守護天使の群れ

一九一九年四月六日 木曜日

 さて、地ならしができたところで、お約束の顕現の話に入りましょう。その主旨は吾々にこれから先のコースをいっそう自信を持って進ませるために、現在の地上人類の進化がいかなる目標に向かって進行しつつあるかを示すことにありました。

 吾々の目の前に展開する地球はすでにエーテル的なものと物的なものとが実質的にほとんど同等の位置を占める段階に至っております。

身体はあくまで物質なのですが、精妙化が一段と進んでかつての時代──貴殿の生きておられるこの現代のことです──よりも霊界との関係が活発となっております。

 地球そのものが吾々の働きかけに反応して高揚性を発揮し、地上の植物が母親の胸に抱かれた赤子にも似た感性をもつに至っております。

 その地上にはもはや君主国は存在せず、肌の色が今日ほど違わない各種の民族が一つの連合体を組織しております。

 科学も現在の西欧の科学とは異なり、エーテル力学が進んで人間生活が一変しております。もっとも、この分野のことはこれ以上のことは述べないでおきましょう。私の分野ではないからです。


以上のことはこれから顕現される吾々への教訓を貴殿にできるだけ明確に理解していただくために申し上げているまでです。

 さて地球は地軸上でゆっくりと回転を続けながら内部からの光輝をますます強め、それがついに吾々までも届くようになり、それだけ吾々も明るく照らし出されました。

するとその地球の光の中から、地球の構成要素の中に宿る半理知的原始霊(いわゆる精霊のことで以下そう呼ぶ──訳者)が雲霞のごとく出てきました。奇妙な形態をし、その動きもまた奇妙です。その種のものを私はそれまで一度も見かけたことがなく、じっとその動きに見入っておりました。

個性を持たない自然界の精霊で、鉱物の凝縮力として働くもの、植物の新陳代謝を促進するもの、動物の種族ごとの類魂として働いているものとがあります。

鉱物の精霊はこの分野を担当する造化の天使によって磁力を与えられて活動する以外には、それ本来の知覚らしい知覚はもっておりません。

が、植物の精霊になるとその分野の造化の天使から注がれるエネルギーに反応するだけの、それ本来の確立された能力を具えております。鉱物にくらべて新陳代謝が早く、目に見えて生育していくのはそのためです。

 同じ理由で、人間の働きかけによる影響が通常の発育状態にすぐ表れます。たとえば性質の相反する二つの鉱物、あるいは共通した性質をもつ二つの鉱物を、化学実験のように溶解状態で混ぜ合わせると、融和反応も拒否反応もともに即座にそして明瞭な形で出ます。感覚性が皆無に近いからです。

 ところが植物の世界に人間という栽培者が入ると、いかにも渋々とした故意的な反応を示します。ふだんの発育状態を乱されることに対して潜在的な知覚が不満をもつからです。

しかしこれが動物界になると、その精霊も十分な知覚を有し、かつ又、少量ながら個性も具えています。また造化の天使も整然とした態勢で臨んでおります。

 その精霊たちが地中から湧き出て上昇し、地球と吾々との中間に位置しました。すると今度はその精霊と吾々との間の空間から造化の天使たちが姿を現しました。現実には常に人間界で活動しているのですが、地上にそれに似た者が存在しませんので、その形態を説明することは出来ません。

一見しただけで自然界のどの分野を担当しているかが判る、と言うに留めておきましょう。大気層を担当しているか、黄金を扱っているか、カシの木か、それとも虎か───そうした区別が外観から明瞭に、しかも美事に窺えるのです。

形、実質、表情、衣──そのすべてに担当する世界が表現されております。もっとも衣は着けているのといないのとがあります。

いずれにせよ、その造化の天使たちの壮観には力量の点でも器量の点でも言語を絶した威厳が具わっております。それぞれに幾段階にもわたる霊格を具えた従者をしたがえております。

その従者が細分化された分野を受けもち、最高位の大天使と、動物なり植物なり鉱物なりとの間をつないでおります。

 さて、その天使群が地球の光輝の中から湧き出てきた精霊たちと合流した時の様子は、いったいどう叙述したらよいでしょうか。こう述べておきましょう。

まず従者たちが精霊へ向けて近づきながら最高位の大天使を取り囲みました。かくまうためではありません。ともかく包み込みました。すると精霊たちもそのいちばん外側の従者たちと融合し、その結果、地球のまわりに美しい飾りのようなものが出来あがりました。

 かくして地球はかつてない光輝を発しながら、あたかも玉座を納めたパピリオンのカーテンのごとく、上下四方を包むように飾る、生き生きとした精霊群の真っ只中にありました。今や地球は一個の巨大な美しい真珠のごとく輝き、その表面に緑と金色と深紅と琥珀色と青の縞模様が見えていました。

そしてその内部の心臓部のあたりが崇敬の炎によって赤々と輝いて見え、造化の天使とその配下の無数の精霊に鼓舞されて生命力と幸福感に躍動し、その共鳴性に富む魅力を発散しておりました。  

 その時です。生き生きとしたその飾りの下からキリストの姿が出現しました。完成せるキリストです。かつてのキリストの叙述にも私は難儀しましたが、いま出現したキリストを一体どう叙述したらよいでしょうか。途方に暮れる思いです。

 おからだは半透明の成分でできており、地球ならびにそれを取り巻く無数の精霊のもつ金色彩をみずからの体内で融合させ完全な調和を保っておりました。そのお姿で、煌々たる巨大な真珠の上に立っておられます。

その真珠は足もとでなおも回転し続けているのですが、キリストは不動の姿勢で立っておられます。地球の回転は何の影響も及ぼしませんでした。

 衣服は何も着けておられませんでした。が、その身辺に漂う生命の全部門の栄光が、その造化にたずさわる大天使を通して澎湃(ホウハイ)として押し寄せ、崇敬の念の流れとなって届けられ、それが衣服の代わりとしておからだを包み、お立ちになっている神殿に満ちわたるのでした。

 お顔はおだやかさと安らかさに満ちておりました。が、その眉にはお力の威厳が漂っておりました。神威がマントのごとく両肩を包み、紫がかった光に輝く豊かな起伏を見せながら背後に垂れておりました。

 かくして吾々は地球を囲みつつキリストの上下四方に位置していたことになります。もっとも、キリストにとっては前も後ろも上も下もありません。


吾々のすべてが、吾々の一人一人が、キリストのすべて──前も後もなく、そっくりそのままを見ていたのです。貴殿にはこのことが理解できないことでしょう。でもそう述べるほかに述べようがないのです。その時の吾々はキリストをそのように拝見したのです。

 そう見ているうちに、無数の種類の創造物が各種族ごとに一大合唱団となってキリストへの讃仰の聖歌を斉唱する歌声が響いてきました。それが創造的ハーモニーの一大和音(コード)となって全天界ならびに惑星間の虚空に響きわたり、各天体をあずかる守護の天使たちもそれに応唱するのでした。

 それほどの大讃歌を地上のたった一つの民族の言葉で表現できるはずがないのは判り切ったことです。でも、宇宙の一大コンサートの雄大なハーモニーの流れに吾々の讃仰の祈りを融合させて、その聖歌の主旨だけでも、私にできるかぎりの範囲で表現してみましょう。

「蒼穹の彼方にははたして何が存在するのか、私どもは存じませぬ。地球はあなたの天界の太陽が放つ光の中のチリほどの存在にすぎぬからでございます。

しかし父なる大神のキリストにあらせられるあなたの王国の中のこの領域を見てまいりました私どもは、このことだけは確信をもって信じます──すべては佳きに計らわれている、と。

 私たちの進む道において、この先、いかなることが永却の彼方より私たちを出迎えてくれるや、いかなる人種が住むことになるや、いかなる天使の支配にあずかることになるや──こうしたことも私たちは今は存じませぬ。

それでもなお私たちは恐れることなく進み続けます。ああ、主よ、私たちはあくまでもあなたのあとに付いて参るからでございます。力と愛とが尊厳の絶頂の中で手に手を取ってあなたの両の肩に窺えます。

 父なる神がいかなるお方であるか──それは最愛の御子たるあなたを拝しお慕いしてきて、私どもはよく理解できております。あなたを逢瀬の場として私どもの愛が父の愛と交わります。私どもは父をあなたの中において知り、それにて安んじております。

 主よ、私どもの目に映じるあなたは驚異に満ち、かつ、この上なくお美しい方であらせられます。しかし、それでもなお、あなたの美のすべては顕現されておりませぬ。それほど偉大なお方であらせられます。

 本来の大事業において私どもは心強く、楽天的に、そして恐れることなくこの身を危険にさらす覚悟でございます。叡智と力と創造的愛の完成せるキリスト、私たちはあなたの導かれるところへ迷わずあとに続いてまいります。

 私たちは霊格の序列と規律の中で、あなたへの崇敬の祈りを捧げます。何とぞあなたの安らぎの祝福を給わらんことを」
      アーネル ±                           (完)


  訳者あとがき

 前巻の〝あとがき〟の最後のところで私は〝いよいよ翻訳に取りかかる時は、はたして自分の力で訳せるだろうかという不安が過(よぎ)り、恐れさえ覚えるものである〟と述べた。

結局四度この不安と恐れを味わい、いまやっと全四巻を訳し終えた。長い長いトンネルをやっと抜けたといもう事実は事実であるが、そこにホッとした安堵感も満足感もない。


はたしてこんな訳でよかっただろうかという不安とも不満ともつかぬ複雑な感慨が過(よぎ)る。

 とくにこの第四巻は訳が進むにつれて私の置かれている立場の厳粛さと責任を痛感させられることになった。単に英語を日本語に直す訳者としての責任を超えて、天界の大軍が一千有余年の歳月をかけた地球浄化の大事業に末端的ながらも自分も係わっているという自覚から遁れるわけにいかなくなった。

これは自惚れとか尊大とかの次元を超えた、いわく言い難い心境である。本通信の重大性を理解してくださった方ならば、そういう自覚と責任感なしに訳せるものではないことはご理解いただけるであろう。

 この道の恩師である間部詮敦氏(以下先生と言わせていただく)との出会いは私が十八歳の高校生の時で、そのとき先生はすでに六十の坂を越えておられた。

その先生がしみじみと私に語られたのが〝この年になってやっと自分の使命が何であるかが判ってきました〟という言葉であった。私は〝先生ほどの霊格をおもちの方でもそうなのか〟といった意外な気持ちでそれを受けとめていたように思う。

その私が五十の坂を越えて同じ自覚をもつに至った。この心境に至るのに実に三十年の歳月を要したことになる。

 ここで改めて打ち明けておきたいことがある。実はその出会いから間もないころ先生が私の母に、私が将来どういう方面に進む考えであるかを非常に改まった態度でお聞きになられた。(そのとき先生は私の将来についての啓示を得ておられたらしい)

 母が「なんでも英語の方に進みたいと言っておりますけど・・・・・・」と答えたところ、ふだん物静な先生が飛びあがらんばかりに喜ばれ、びっくりするような大きな声で、

 「それはいい! ぜひその道に進ませてあげて下さい」とおっしゃって、私に課せられた使命を暗示することを母に語られた。何とおっしゃたったかは控えさせていただく。ともかくそれが三十年余りのちの今たしかに実現しつつあるとだけ述べるに留めたい。

 母はそのことをすぐには私に聞かせなかった。教育的配慮の実によく行き届いた母で、その時の段階でそんなことを私の耳に入れるのは毒にこそなれ薬にはならないと判断したのであろう。私が大学を終えて先生の助手として本格的に翻訳の仕事を始めるようになってから「実は・・・・・・」といって打ち開けてくれた。

 母は生来霊感の鋭い人間であると同時に求道心の旺盛な人間でもあった。当市(福山)に先生が月一回(二日ないし三日間)訪れるようになって母が初めてお訪ねしたとき、座敷で先生のお姿を一目見た瞬間〝ああ、自分が求めてきた人はこの方だ〟と感じ、〝やっと川の向う岸にたどり着いた〟という心境になったと語ったことがある。

 それに引きかえ父は人間的には何もかも母と正反対だった。〝この世的人間〟という言葉がそのまま当てはまるタイプで、当然のことながら心霊的なことは大きらいであった。

それを承知の母はこっそり父の目を盗んで私たち子供五人(私は二男)を毎月先生のところへ連れていき、少しでも近藤家を霊的に浄化したいと一生けんめいだった。

やがてそのことが父に知れた時の父の不機嫌な態度と、口をついて出た悪口雑言は並大抵のものではなかったが、それでも母は自分の考えの正しいことを信じて連れて行くことを止めなかった。

 そのころ運よく当市で催された津田江山霊媒による物理実験会に、それがいかなる意義があるかも知らないはずの母が兄と私の二人を当時としては安くない料金を払って出席させたのも、今にして思えば私の今日の使命を洞察した母の直感が働いたものと思う。

当時は津田霊媒も脂の乗り切った時期で、『ジャック・ウェーバーの霊現象』に優るとも劣らぬ現象を見せつけられ、その衝撃は今もって消えていない。

 当時のエピソートは数多いが、その中から心霊的にも興味あるものを一つだけ紹介しておきたい。

 当時の母は一方では近藤家のためだと自分に言い聞かせつつも、他方、そのために必要な費用はそのことを一ばん嫌っている主人が稼いでくれているものであり、しかもそれを内しょで使っているということに心の痛みを覚えていた。

そこである夜、先に寝入って横向きになっていびきをかいている父に向かって手を合わせ〝いつも内しょで間部先生のところへ行って済みません。

きっと近藤家のためになると思ってしていることですから、どうかお父さん許してくださいね〟と心の中で言った。すると不思議なことに、熟睡しているはずの父が寝返りをうちながら〝ああ、いいよ〟と言った。それを見て母は〝ああ、今のは守護霊さんだ。

守護霊さんは分かってくださってるんだ〟と思って、それまでの胸のつかえがきれいに消えたという。けだし母の判断は正解であった。私はこの話を母から二度も聞かされたが、この話には母の人間性のすべてが凝縮されているように思う。

〝苦〟と〝忍〟の中にあってなお思いやりの心を忘れないというのは、宗教的な〝行〟の中よりもむしろこうした平凡な日常生活での実践の方がはるかに難しいものである。

シルバーバーチが〝何を信じるかよりも日常生活において何を為すか──それが一ばん大切です〟と述べているのはそこを言っているのである。

 母はこうした心霊的なエピソートがいろいろとあるが、今そのすべてを語っている余裕はない。ともかくそれらのすべてが今私がたずさわっている英国の三大霊訓およびこれから発掘されていくであろう人類の霊的遺産の日本への紹介という仕事につながっていることを、今になってやっと痛感させられているところである。

 私は最近その母のことを生身の背後霊だったとさえ思うようになった。母にも母なりの人生があったことであろうが、その中での最大の使命は私を間部先生と縁づけ、そして以後ずっと勇気づけ父から庇ってくれたことにあったように思う。

あるとき母が少しはにかみながら私に一通の封書を見せてくれた。間部先生からの達筆の手紙だった。読んでいくうちに次の一文があった──〝あなたのような方を真の意味での人生の勝利者というのです・・・・・・〟母にとってこれ以上の慰めとなる言葉はなかったであろう。

 では父はどうかと言えば、最近になって私は、そういう父なかりせば果たして今日の私にこれだけの仕事ができたかどうか疑問に思うことがある。

もしも父が俗に言う人格者(これは大巾に修正を必要とする言葉となってきたが)で聞き分けのいい人間だったら、こうまでこの道に私が情熱を燃やすことにはならなかったのではないかと思われるのである。

 母は真の人生の指導者を求め続けてそれを間部先生に見出した。そしてそれを千載一遇の好機とみて、父から何と言われようと、何とかして子供を先生に近づけようとした。

そして私が大学を終えたのち父の期待を裏切って何の定職にもつかずに先生のもとへ走ったことで父が激高し、その責任を母になすりつけても、母は口応えすることなくじっと我慢して耐えてくれた。

こうしたことの一つ一つが節目となって私はこの道にますます深入りしていった。そうした観点から見るとき、その父の存在もまた神の計画の中に組み込まれていたと考えることができる。今ではそう信じている。

 その父がこの〝あとがき〟を書いている日からちょうど一か月前に八三歳で他界した。

母がいかにも母らしくあっさりと十年前に他界したのとは対照的に、父は二年間の辛い療養生活ののちに息を引き取った。二年前、私の『古代霊は語る』が出て間もないころに脳こうそくで倒れたのであるが、その時はすでに私のその本をひと通り読み通していて、〝すらすらと読めるからつい最後まで読んじゃった。

もう一度読み直そうと思っているよ〟と語っていた。それから一週間もしないうちに倒れて長男の家で療養を続けていたのであった。

 その父が一週間前にやっと私の夢に姿を見せてくれた。白装束に身を包み、元気だった頃とは見違えるほどアクの抜けた顔で立っていたが、私が顔を向けるとうつむき終始無言のままだった。

これから修行の旅にでも出かけるような出で立ちで、ひとこと私に言いたいことがあるような感じがした。

それは口にこそ出さなかったが、かつての父に似合わず小さくなっている態度が私に言葉以上のものを物語っていた。私が他界した時はぜひ母とともに笑顔で迎えてくれることを祈っている。

 父と母と私、それに間部先生の四人によるドラマはすでに終り、私は曲がりなりにも与えられた使命を果たしつつある。その間の数えきれないほどの不愉快な出来ごとも、終ってしまえばすべてが懐かしく、そして何一つ無駄ではなかったことを知らされる。

 あとは、最初に述べたように、果たしてこんな訳でよかったのだろうかという責任感が残るばかりである。その重大性を知るからこそ責任感も痛切なものとなる。

 が、シルバーバーチがよく言うように、人生は、この世にあろうとあの世にあろうと、すべてが途中の階梯である。この霊界通信は通信霊の古さのせいで原典そのものが古風な英語で書かれており、私はこれを原典のそれなりの味を損なわない程度に現代風にアレンジして訳したつもりであるが、それもいつかは古すぎる時代がくるであろう。

それは人間界の常としてやむを得ないことである。その時代にはその時代で有能な人材が用意されていることであろう。そう期待することで一応、訳者としての肩の荷を下ろさせていただきたい。

 訳の是非は別として、この通信そのものは私が改めて解悦するまでもなく、これまでの〝死後の世界〟についての概念に大巾な修正を迫る重大な事実を数多く含んでいると信じる。

日本の神ながらの思想をはじめとして世界各地の古代思想において神話風に語られてきている天地創造の真相を〝霊〟の〝物質〟への顕現としてとらえ、さらに宇宙のチリほどの存在にすぎない地球の過去一千有余年にわたる特殊事情を説き、それが現在のスピリチュアリズムの潮流につながっている事実を示唆している。

 いずれ日本にも日本人に親しみやすい形での〝新しい啓示〟が与えられる日が到来することであろうが、私見によればそれは、こうした西洋的啓示によって日本人特有の〝霊〟についての曖昧かつ摩訶不思議的概念を改められ、霊こそ実在とした合理的かつ論理的概念を十分に摂取してからのちのことになるであろう。その辺に本通信の日本人にとっての意義があると私は観ている。

 最後に、こうした特異な通信を快く出版してくださった潮文社に対して深い感謝の意を表したい。                    (一九八六年)



 新装版発行にあたって

「スケールの大きさに、最初は難解と思ったが繰り返し読むうちに、なるほどと、思うようになりました」こんな読後感が多数、寄せられてきた本シリーズが、この度、装いも新たに発行されることになり、訳者としても喜びにたえません。

    平成十六年二月     
                                 近藤 千雄
 

シアトルの夏 15章 交霊会の舞台裏

Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編) 近藤千雄(訳)




〔シルバーバーチは、物理的心霊現象を引き起こすには霊界サイドの組織体制が不可欠であると述べている。シルバーバーチの交霊会(ホームサークル)の最初の頃には直接談話現象や物質化現象が演出されたが、やがてサークルのメンバーが一新し、それにともないこうした物理的心霊現象は姿を消すことになった。〕


この交霊会には一団の霊が携わっています。それはあらゆる界層の霊たちで、地上近く(幽界下層)からやってきた霊もいます。彼らは物質的反応を演出したり、心霊現象の演出に必要となるもの(エクトプラズム)を供給したりします。

また一方には、光り輝く高級霊たちもいます。彼らは大霊のメッセンジャーです。彼らが活動しているのは、こうして交霊会を催しているときだけではありません。皆さんの睡眠中も活動しています。霊的真理を少しでも多く地上にもたらすために、いろいろと心を砕いているのですが、それでもまだ闇夜に輝くほのかな明かり程度でしかありません。

そうした大霊の使徒が足繁くこの小さな一室に通うのは、ここが荘厳な神殿だからです。それは建物が大きいとか、高くそびえているとか、広いということではありません。ここから地上界に光を注ぐことができるということです。そうして暗闇は真理の炎によって駆逐されるのです。こうしたサークルから、地上世界は新しいエネルギーを得ることになります。そして利己主義や不正・不寛容といった邪悪が一掃されていきます。なぜならそれらは、大霊の摂理に反するものだからです。

この仕事は、これからもずっと続きます。それは大霊の大事業の一環だからです。皆さんがこのサークルの一員として選ばれたのは、一人ひとりが特異な体験を持っており、その特質をうまく融和させると、愛と調和と善意による完全なサークルが形成されることになるからです。それが光の神殿を築くことを可能にするのです。

皆さんは、途方もなく大きな仕事をしています。大霊の神殿を建設しているのです。時として霊界で起きていることを垣間見ることがあるでしょう。そうかと思うと暗闇の中に取り残されて当惑し、疑問を抱くかもしれません。それは霊界からの働きかけに対して、皆さんの理解が及ばないからです。忘れないでいただきたいのは、私たち霊団の者は、暗闇に閉ざされた地上界へ光明をもたらすために片時も休むことなく全力を尽くしているということです。

直接談話現象(メガホンの中に発声器官をこしらえてスピリットがしゃべる現象で、霊言現象とは別。シルバーバーチの交霊会でも初期の頃はよく行われ、いろいろな霊がしゃべった――訳注)を上達させる(鮮明な声で長時間持続させる)には、繰り返し練習するしかありません。言いたいことをどれだけ伝えられるかは、実際にやってみないと分からないものです。ともあれ皆さんは当初からその上達ぶりを目の当たりにしてきた、本当に恵まれた方たちです。

交霊会ではバイブレーションが問題となります。交霊会の成否は、その問題をどの程度まで克服できるかにかかっています。皆さんの側としては語られたものしか聞こえないわけで、語られずに終わったものは、当然のことながらお分かりになりません。

霊界側にとって最も厄介なのは、話したがる者が多すぎるということです。彼らは「ほんの少しだけでいいからしゃべらせてください。一言だけでいいですから」と言って嘆願するのです。そこでやむをえず、彼らに話をさせることになります。

ここに神殿を築く仕事は休むことなく続けられています。エネルギーを蓄えること、いろいろと実験を試みること等々、くる日もくる日も、昼夜の別なく、この部屋での交霊会の準備のために大勢の霊が出入りしています。

あなた方が電話で話をしようとするとき、電話機を製造するために働いている人たちのことは念頭にありません。あなた方は電話口に向かってしゃべるだけで、先方もそれを聞いて受け答えをするだけです。が、実際は大勢の人たちの働きがあるからこそ両者は話が通じるわけです。私たちがやっている通信も、それと同じです。あなた方はこちらがしゃべったことを聞くだけですが、実際には両者の間で多くの仕事がなされているのです。

例えばこちらの化学者は一種の光線を使用します。それを用いて現象を発生させるのですが、その化学的成分は地上のいかなる分析器でも調べることはできません。こちらの化学者は常に忙しく動き回っています。その光線はとても強力なパワーを秘めていますが、このサークルの出席者に危害が及ぶようなことはありません。それは皆さん方の霊的身体がその光線に順応するようになっているからです。そのようにこちらで工夫しているのです。その光線を皆さんは見ることも感じることもできませんが、私たちにははっきりと見えています。

今夜、この部屋には五千人もの霊たちが集まっています。皆さんがよく知っている人で交霊会というものに関心のある霊もいれば、こんなことが本当にできるのだということを今まで知らなかったために、初めて見学に来たという霊もいます。

また、どのようにして霊界から地上界へ接触すべきかを学んだり、霊媒を他の分野でも使用できるかどうかを勉強するために、ここに集まってきている霊もいます。こうしたことは地上界ばかりでなく、霊界にとっても非常に重大な真理普及のための仕事なのです。私たちは、時間とエネルギーを無駄に用いることはしません。私たち霊界の者が学ばなければならない大切なことは、地上人の心に私たちからのメッセージを印象づけるためにはどのように霊力を使用したらよいのか、ということです。霊界サイドの者が霊力を用いるための法則を十分に理解するなら、あなた方の心に影響を及ぼしやすくなります。地上人は知らないうちに、霊界からのインスピレーションの受信者になっているのです。

あなた方の世界には、偉大な科学者、偉大な発明家、偉大な教育者と言われる人たちが数多くいます。実は彼らは、霊界からの知識を伝える道具にすぎません。私たち霊界の者にとって、真理や発見が地上にもたらされるかどうかだけが問題なのであって、地上の誰がインスピレーションを受けるかは、どうでもいいことなのです。

霊界では、一人で仕事をするということはありません。なぜなら、協調こそが大霊の摂理だからです。そのため霊界ではグループを組織します。そして可能なかぎり、全体としての完璧性を目指します。グループの仕事にとって最も必要とされるのは、メンバーのあらゆる特性・長所を一つにまとめ上げることです。それができると、その中の一人がグループ全体のマウスピースになって地上に働きかけます。私も、私が所属する霊団のマウスピースです。霊団の一人として働く方が、自分一人で仕事をするよりもはるかに楽に進みます。達成された仕事の成果は、グループ全体の知力・精神力を総合したものなのです。

仕事の成果が素晴らしければ素晴らしいほど、霊団のメンバーは完璧に一体化しているということです。同様に、霊媒が首尾よく役目を果たしていればいるほど、霊媒と支配霊との調和がとれているということです。そうでないなら、必ずどこかできしみが生じます。

これと同じようなことが、地上界のチームづくりにも言えます。組織者(リーダー)が優れていれば、メンバーの一人ひとりにふさわしい仕事を与え、最高の結果を生み出すことになります。オーケストラでは、楽団員が演奏する楽器は一人ひとり違っていても、ハーモニーがとれるならば一つの立派なシンフォニーができ上がります。しかし、もしそのうちの一人でも音程を間違えるなら、全体は台なしになってしまいます。まさに調和こそが「神の摂理」なのです。
質疑応答


――心霊現象を起こすためには出席者の霊的エネルギーを使うそうですが、部屋にある物体を利用することもあるのでしょうか。


はい、あります。状況によっては、カーペットやカーテン、書物や家具なども利用します。物質に宿っていない私たちは、身近にある物体からエネルギーを引き出して使わざるをえません。と言っても、少しずつです。一度にあまり多く取り過ぎると、物体はバラバラに分解してしまいます。


――物質化現象が起きる部屋のもの、例えばカーテンなどが異常に早く朽ちるのはそのためですか。


そうです、それが原因です。ですが、私たちはその点にずいぶん気を使っています。物質化現象では色彩を必要とするときがありますが、これもその場の物体から抜き取ります。あなた方が私たちの仕事についてもっと知ってくださるなら、私たちが何ひとつ無駄にしていないことが分かっていただけると思います。しかし何よりも大きな力となるのは、あなた方列席者の内部からのエネルギーです。これが最も大切な要素なのです。

霊媒は、霊媒としての能力を向上させるだけでなく、自分の霊力を強化することも心がけないといけません。霊媒自身の霊力が強化されると、その霊媒から出るエクトプラズムの質も向上するのです。私たちが扱っているのは、材木や粘土ではありません。霊媒の体内にある生命のエッセンスを扱っているのです。思想や人間性や精神など、その霊媒のすべてがエクトプラズムに反映します。


――物質化現象は霊媒現象の中で質的に高いものでしょうか、低いものでしょうか。あなたとしては奨励なさいますか。


何事であれ、一人の人間に幸せをもたらし霊的摂理についての知識を与えることになるならば、それはそれなりに目的を達成したことになります。高いとか低いとかの概念で考えてはいけません。それを必要としている人にとって役に立つか否かの観点から考えるべきです。



シアトルの夏  16章 交霊会についての誤解

 Teachings of Silver BirchA.

W.オースチン(編)近藤千雄(訳)



〔交霊会を催しても何ひとつ現象が起きないことがある。すると出席者は時間を無駄に費やしたと、不満に思うものである。ここでのシルバーバーチの言葉は、心霊現象を待ち望む人々に励ましをもたらすことになるであろう。〕



交霊会のような場で、霊的な一体化を求めて過ごす時間が無駄に終わることは決してありません。あなた方が、何か現象が起きないかと辛抱強く待っていることは知っていますが、交霊会としては着々と進展していることを理解していただきたいのです。その間に私たち霊界の者との絆が強化され、出席者の霊的感受性は鋭くなっています。

高次の心霊現象は、出席者の内的な反応、つまり霊性の開発とそれを活用しようとしている力(霊団)によって発現するようになります。

ですから、どういう現象が見られたとか、どんな音が聞こえたのかということは大して重要ではありません。もっと大切なことは、サークルのメンバーの霊性の開発です。あなた方は毎週一回この交霊会に参加していますが、それによってより高度なバイブレーションに波長を合わせ、太古からの霊的叡智にいっそうなじむようになっています。霊的叡智は、地上という物質界に届けられることを待ち続けています。それが実際に地上に届けられるためには、そのバイブレーションに同調できる通路(チャンネル)が必要となります。

あなた方の魂が開発されてより高度なバイブレーションに反応するようになれば、それだけ高度で強力な霊的エネルギーと接触できるようになります。そのエネルギーは目にも見えず耳にも聞こえませんが、永遠の霊的実在の一部です。実はそれこそがあなた方の生命の真実在なのです。ところが、大半の人間は多くの時間を影を追い求めて過ごし、幻影を捕らえようとし、その場かぎりの満足を得ようとしています。

静寂と調和と愛の中で、皆さんの魂は一時(いっとき)も休むことなく開発されています。その速度は遅々としていますが、着実です。各自の内部に宿る大霊(神の分霊)が開発され、進化し、その分だけ神性を発現することが可能になっています。ナザレのイエスがその昔こう言いました――「二人ないし三人の者が集う所には大霊が祝福を授けてくださる」と。私たちも同じことを述べているのですが、誰も耳を貸そうとしません。


訳注――「耳を貸さない」とは、ここではキリスト教会のことを言っている。「大霊が祝福を授けてくださる」というのは霊媒能力によって霊界と地上界との交信が可能になるという意味で、それを実際にやって見せているのに認めようとしない教会を批判している。

真理が変わることはありません。変わるのは人間の心です。真理は不変です。なぜなら真理は正しい知識に基づくものだからです。その正しい知識は大霊から出ています。大霊こそ、すべてのインスピレーションの中心であり始原です。真理はとてもシンプルで、容易に理解できるものなのですが、地上人はそれをきわめて難しいものにしてしまっています。

このサークルの方たちとはすでに何度もお会いしていますので、私たち霊団との絆は強化されています。霊団の中には皆さんの知らない霊、名前を聞かされても分からない霊が大勢いますが、いずれもお役に立ちたいという一心で来ており、彼らは評価も報酬も一切求めてはいません。

そうした霊たちがこの場を訪れるのは、地上界へ霊的知識を届け、真理の普及を促進し、間違ったことを改め、悲しみと迷信を駆逐し、光明を広げ、痛みと苦しみの代わりに幸せと平和と繁栄をもたらす手段(霊媒と出席者)があるからです。

その仕事を推進するうえで、皆さんは大いに役に立っているのです。万一、何の役にも立っていないように思えたときには、どうか次のことを思い出してください。皆さんが人類に対する奉仕への熱い思いを抱いてこの部屋に来て、私たちと一時間ほど共に過ごすということが、ここに霊的神殿を築くための大きな力になっているということです。

この交霊会に出席して大霊と心を一つにしておられる時間は、一時として無駄に終わることはありません。調和と愛の心で集うときに蓄積されるエネルギーが、大いなる架け橋を築くうえで役に立っているのです。その架け橋を通って、新しい光、新しい力、新しい希望を地上界へ届けようとする霊が大挙して降りてきます。どうかそのことを忘れないでください。時には冗談を言って笑いの渦が巻き起こることがあっても、その背後には常に大きな目的が控えているのです。

その目的とは、大霊の摂理が皆さん方一人ひとりを通して地上界で十分に機能するようになることです。皆さんは、その目的のために今日まで献身してこられたのです。その目的を共有し、大霊を受け入れたいとの思いが強くなるほど、それだけ多くの大霊のエネルギーが地上界へもたらされるようになるのです。
質疑応答


――交霊会で笑い声があがるのは、良い影響をもたらすことになるのでしょうか。


心が楽しければ楽しいほど、それだけ大霊の心に近いということを意味します。忘れないでください。あなた方は大霊であり、地上のいかなるものも、あなた方を傷つけることはできません。それは、私がこれまでずっと言い続けてきたことです。この世的なことに煩(わずら)わされているかぎり、その真意は分かっていただけないかもしれません。

この世的なことを無視しなさいと言っているのではありません。なぜなら、あなた方は地上で生活しており、社会の一員としての責任もあります。しかし、次のことだけは決して忘れないでください。あなた方は大霊であり、大霊はあなた方であるということです。あなた方の内にある大霊の霊力は、あなた方があらゆる物的なものに勝利するように導きます。

こうしたことを正しく理解するなら、それはあらゆる邪悪に抵抗し、あらゆる病気を克服し、あらゆる障害に立ち向かう力となるのです。しかしその力を活用している人間は、ほとんどいません。イエスは二千年も前に「神の王国はあなた方の中にある」と教えているのですが……。


――自動書記は心霊現象の中でいちばん信頼性が乏しいようですが、なぜでしょうか。


それはその霊媒の能力の問題です。霊媒が未熟であれば、地上の人間の想念と霊界から送られてくるメッセージとの区別がつきません。能力の発達程度の問題で、ある一定のレベル以上に到達すれば地上界の想念を払いのけ、霊界からのメッセージを受け取りやすくなります。霊媒が未熟なのに、それを霊側の責任にしてはいけません。私たちとしては、そちらから提供してくれる道具で仕事をするしかないのです。


――幽界から霊界へと向上していった霊が地上と交信するときは、幽界まで降りてこなければならないのでしょうか。


いいえ、そんなことはありません。彼らは、メッセージを届けてくれる霊を見つけることができます。地上へ通信を送るための道具(霊界の霊媒)を、いつでも霊界サイドで調達できるのです。ただし、霊界の霊媒となる霊は、幽界を卒業しているだけでなく、そのレベルをはるかに超えていなければなりません。地上界の次の段階である幽界にいる者だけが地上界と交信できるというわけではありません。それより上の界層からでも、地上の霊媒がそのバイブレーションを受け取るだけの能力があれば、直接交信することができるのです。


――霊的な問題についての知識の限度は地上人の受容能力によって決まるそうですが、そうなると霊的知識の理解力に欠ける人間は、霊媒を通して証拠を求めるのが賢明ということになるのでしょうか。


証拠と魂の成長とは何の関係もありません。真理を受け入れる能力は、霊界のどの界層まで至ることが可能か、ということで決まります。魂が真理を理解できる段階まで進化しているかどうかということです。それを証拠の追求と混同してはいけません。証拠の追求と魂の成長は、必ずしも足並を揃えて進んでいくものではありません。生命が死後にも存続する証拠を手にしていながら、霊性に目覚めていない人がいるものです。














Wednesday, June 25, 2025

シアトルの初夏 9章 男性原理と女性原理

ベールの彼方の生活(四) G・V オーエン著




 1 キリストはなぜ男性として誕生したか
 一九一九年三月二十一日  金曜日

 貴殿に興味のありそうな話題は多々あるのですが、話が冗漫(じょうまん)になるといけませんので割愛させていただき、兄弟(けいてい)かきにせめぐ今日の危機(第一次大戦一九一四~一八──訳者)に至らしめた大きな原因について述べようと思います。

 それはつまるところ、霊的なそしてよりダイナミックな活動をさしおいて、外面的な物的側面を高揚する傾向であったと言えます。

その傾向が西洋人の生活のあらゆる側面に浸透し、それがいつしか東洋人の思想や行動意志まで色濃く染めはじめました。それは実際面にも表れるようになり、一般社会はもとより政治社会、さらには宗教界にも表れ、ついには芸術界すらその影響から逃れられなくなりました。

すでにお話した物質と形態へ向けて〝外部へ、下方へ〟と進んできた宇宙(コスモス)の進化のコースを考えあわせていただければ、そのことは別段不思議とは思えないでしょう。

 顕現としてのキリストについてもすでに述べました。私はこう述べました──いかなる惑星に誕生しようと、言いかえれば、地上への降誕と同じ意味でいかなる形態に宿ろうと、キリストはその使命を託された惑星の住民固有の形態を具えた、と。

そのことは降誕する土地についても言えますが、同時に降誕する時代についても言えます。

 ではこれより私は、ガリラヤのイエスとしての前回の地上への降誕について述べてみます。

人間は次の事実すなわち、少なくとも吾々が知るかぎり、神性において性の区別はないこと、男性も女性もないこと、なのにイエスは、いつの時代においても、かのガリラヤにおいても、男性として降誕したという事実のもつ重要性を見落としております。私はこれよりその謎について説明してみます。

 これまでの全宇宙の進化は〝自己主張〟すなわち形体をもって自己を顕現する方向へ向かってまいりました。絶対的精髄である霊は、本来、人間が理解している意味での形体はありません。悠久の(形態上の)進化もようやく最終的段階を迎えておりますが、その間のリーダーシップを握ったのは男性であり、女性ではありませんでした。

それには必然性があったのです。自己主張は本来男性的な傾向であり、女性的ではないからです。男性は個性を主張し、その中に自分の選んだ女性を組み入れて行こうとします。

その女性を他の女性から隔絶して保護し、育(はぐく)み、我がものとしていきます。我が意志が彼女の意志──つまり女性は自分の意志のすべてを男性の意志に従わせます。

その際、男性の性格の洗練度が高いか低いかによって女性に対する自己主張の仕方に優しさと愛が多くもなり少なくもなります。しかし、その洗練というものは男性的理想ではなく女性的理想へ向かうものです。この点をよく注意してください。大切な意味があるのです。

 そこで地球について言えば──このたびは他の天体のことには言及しません──悠久の進化の過程において、身体的にも知性的にも力による支配の原理が表現されてきました。

この二元的な力の表現が政治、科学、社会その他あらゆる分野での進歩の推進的要素となってきました。

それが現代に至るまでの地上生活の主導的原理でした。人類の旗には〝男性こそリーダー〟の紋章が描かれておりました。キリストが女性としてでなく男性として地上へ誕生したのはそのためでした。

 しかし、男性支配の時代はやっとそのクライマックスを過ぎたばかりです。と言うよりは、今まさにそれを越えつつあります。そのクライマックスが外部へ向けて表現されたのが前回の大戦でした。


──その大戦のことはすでに多くを語っていただいております。これからまたその話をなさるのではないでしょうね。

 多くは語るつもりはありません。しかし私がその惨事について黙することは、その大戦で頂点を迎えた、人類の進化に集約される数々の重大な軌跡を語らずに終わることになります。その軌跡が大戦という形で発現したのは当然の成り行きであり不可避のことだったのです。


冷静に見つめれば、自己主張の原理の良い面は男性的生活態度が創造主の面影をほうふつとさせることですが、それは反面において自分一人の独占・吸収という野蛮な側面ともなりかねないことが分かるでしょう。

洗練された性格の男性は女性に対して敬意を抱きますが、野獣的男性は女性に対して優位のみを主張します。同じ意味で、洗練された国家は他の国家に対して有益な存在であることを志向し、相手が弱小国家であれば力を貸そうとするものです。が、

野蛮な国家はそうは考えず、弱小国を隷属させ自国へ吸収してしまおうとする態度に出ます。

 しかし、程度が高いにせよ低いにせよ、その行為はあくまでも男性的であり、その違いは性質一つにかかっております。善性が強ければ与えようとし、邪性が強ければ奪おうとします。が、与えることも奪うことも男性的性向のしからしむるところであり、女性的性向ではありません。


与えることは男性においては美徳とされますが、女性においては至極(しごく)あたりまえのことです。男性は功徳を積むことになりますが、女性はもともとその性向を女性本能の構成要素の中に含んでおります。

 キリストはこの自己主張の原理をみずから体現してみせました。それが人類救済の主導的原理だったのです。男性としてキリストも要求すべきものは要求し、我がものとすべきものは我がものとしました。これは女性のすることではありません。が、

徹底的にその原理を主張してしまうと、こんどは男性の義務として、すべてを放棄しすべてを与えました。が、

その時のキリストは男性としての理想に従っているのではなく女性としての理想に従っているのです。しかも女性としての理想に従っていながら、いっそう完全なる男性でもあるのです。

このパラドックスはいずれ根拠を明らかにしますが、まずはイエス・キリストの言葉を二、三引用し、キリストが身体的には男性でありながら、男性と女性の双方の要素が連帯して発揮されている、完全なる神性の顕現であることをお示ししましょう。

 「人、その友のために己れを棄つる、これに優る愛はなし」(ヨハネ15・13)確かにそうですが、それは男性的な愛です。それよりさらに大なる愛が存在します。

それは敵のために己れの生命を棄てることです。自分を虐待する男になおもしがみつこうとする女性の姿を見ていて私は、そこに女性特有の(友のために捧げる愛よりも偉大な)憎き相手に捧げる愛を見るのです。

イエスは自分を虐待する者たちのために自分の生命(イノチ)を棄てました。私にはそれはイエスの本性に宿る男性的要素でなく女性的要素が誘発したように思えるのです。

 また、なぜ「奪うよりは与える方が幸福」(使徒行伝20・35)なのか。男性にとってはこの言葉は観念的にも実際的にも理解が困難ですが、女性にとっては容易にそして自然に理解がいきます。

男性はそれが真実であることに同意はしても、なお奪い続けようとするものです。女性は与えるという行為の中によろこびを求めます。

受けたものを何倍にもして返さないと気が済まないのです。このことを考え合わせれば、今だに論争が続いている例の奇蹟に敬虔の念を覚えられることでしょう。つまり、わずかなパンを何十倍にも増やして飢えをしのがせた行為も同じ女性的愛から発していたのです。
 しかしこの問題はこれ以上深入りしないでおきましょう。

 私が言いたかったことをまとめると次のようなことになります。つまりこれまでの地上世界はすべての面において英雄的行為が求められる段階にあったということ。

従って〝雄々しい力〟という言葉が誰の耳にも自然な響きをもって聞こえ、〝女々(めめ)しい力〟という言い方から受ける妙な響きはありません。

 しかし男性は神威の一つの側面──片面にすぎないのです。その側面がこれまでの永い地上の歴史の中で存分に発揮されてきました。が、

これより人類が十全な体験を積むためには、もう一方の側面を発揮しなければなりません。これまでは男性が先頭に立って引っぱってきました。そしてそれなりの所産を手にしました。これからの未来にはそれとは異質の、もっと愉しい資質が用意されております。 アーネル ±

      

2 男性支配型から女性主導型へ

 一九一九年三月二十四日  月曜日

 吾々から送られるものをそのまま書き記し、疑問に思えることがあってもいちいち質問しないでいただきたい。全部を書き終わってから読み直し、全体として判断し、部分的な詮索はしないでいただきたい。

このようなことを今になって改めて申し上げるのも、吾々が用意している通信は多くの人々にとって承服しかねるものであろうと思われるからです。ですが、とにかく書き留めていただきたい。

吾々も語るべきことは語らねばなりません。それをこれより簡略に述べてみましょう。

 キリストがガリラヤのイエスとして地上に降誕するまでの人類の進化は、知性においても力においても、男性の〝右腕〟による支配の線をたどっておりました。

それが人類進化における男性的要素でした。他にもさまざまな要素があったにしても、それは本流に対する支流のようなもので、進化の一般的潮流にとっては大して意味はありません。私はこれよりそうした細かいことは脇へ置いて、本流について語ります。

 イエスは地上に降り、人間社会の大混乱を鎮静させるためのオイルを注がれました。聞く耳をもつ者に、最後の勝利は腕力にせよ知力にせよ強き者の頭上に輝くのではなく、〝柔和(ニュウワ)なる者が大地を受け継ぐ〟(詩篇37・11)と説きました。

受け継ぐのです。奪うのではありません。お分かりでしょう。イエスは人類の未来のことを語っていたのです。

 この言葉を耳にした者は実際的であると同時に美しくかく真実であることを認めました。そして以来二千年近くにわたって両者を融合させようと努力してまいりました。


すなわち支配力に柔和さを継ぎ木しようとし、国内問題、国際問題、社会問題その他あらゆる面で両者をミックスさせようとしたのです。が両者は今なお融合するに至っておりません。そこである者はキリスト教は公共問題においては無能であると言います。


その結論は間違っております。キリストの教えは地上の人生において唯一永続性のある不変の真理です。

 人間は暴力と威圧による支配が誤りであったことを認識しました。が、それを改めるためにこれまでに行ってきたことは、その誤った要素はそのまま留めておいて、それを柔和さという穏やかな要素によって柔らげることでした。

つまり一方では男性が相変わらずその支配的立場を維持しつつ、他方では女性的要素である柔和さによってその支配に柔らかさを加味しようと努力したのです。

結果は失敗でした。あとは貴殿にも推察がつくでしょう。唯一残されたコースはその誤った要素を棄て、女性的要素である柔和さを地上生活における第一位の要素としていくことです。
 地球の過去は男性の過去でした。地球の未来は女性の未来です。

 女性は今、自分たちの性の保護のための何か新しいものの出現を期待する概念が体内から突き上げてくるのを感じております。それは感心しません。

ひとりよがりの考えであり、従ってそうあってはならないことだからです。かの昔、一人の女性が救世主を生みましたが、それは女性の救世主としてではなく全人類の救世主として誕生しました。現在の女性の陣痛から生まれるものも同じものとなるでしょう。

 何か新しいものを求める気持の突き上げを感じて女性は子孫への準備に取りかかりました。男児のための衣服を作りはじめております。私は今〝男児〟と言いました。

女性が作りつつある衣服はやはり男性のためのものなのです。そのための布を求めに女性は、男性だけが売買をしている市場へ行って物々交換を申し出ました。

〝私たち女性にだって男性の仕事はできます〟と言います。そのとき女性は自分が新しいブドウ酒を古い皮袋に入れているにすぎないことに気づいていません。いけません。女性が男性の立場に立つことをしては両者とも滅びます。

女性は男性がこれまでに学ばされてきた苦い体験から女性としての教訓を学び取らなくてはいけません。男性はどこに挫折の原因があったかを学びました。

ではどうすべきかが分からぬまま迷っております。片方の手で過去をしっかりと握り、もう一方の手を未来に向けて差し出しています。が、その手にはいまだに何も握られていません。過去を握りしめている手を放さないかぎり空をつかむばかりでしょう。

  女性は今、かつての男性がたどったのと同じ道をたどろうとしています。男性と対等に事を牛耳ろうとしています。しかし女性の未来はその方向にあるのではありません。

女性が人類を支配することにはなりません。単独ではもとより、男性と対等の立場でも支配することにもなりません。これからは女性が主導(リード)する時代です。支配するのではありません。

 前にも述べた通り、これまでの地球の進化は物的なものへ向けての下降線をたどって来ました。そこでは男性が先頭に立ち、荒々しい闘争のために必要な甲冑がよく似合いました。が、


その下降線も折り返し点に到達し、今まさにそこを後にして霊的発達へ向けて上昇を開始したところです。霊の世界には人間が考え出した(神学の)ような、ややこしい戒律(キマリ)による規制はありません。あるのはただ愛による導きのみです。

地上にも、優位の立場からの支配は女性の性(さが)に不向きであることを悟った暁に女性が誘導(ガイダンス)によってリードしていく場があります。

 しかし、その女性主導の未来がどういうものであるかは、いかなる形にせよ説明するのはとても困難です。と言うのも、これまでのそうした主導権の概念は支配する者と支配される者、抑える者と従わされる者、といった二者の対立関係を含んでおりますが、これからの主導権にはそうした対立関係は含まれていないからです。

この〝主導〟という用語からしてすでに一方が先を行き他方がその後に付いていくという感じ、一種の強制観念をもっています。これからの人類を待ちうけていると私が言っている主導はそれとは異なるものです。

 次のように説明すればどうでしょうか。それはイエス・キリストにおいて明白に体現されております。男性としての美質が一かけらの不快さも醜さも伴わずに体現されていると同時に、女性としての優しさが一かけらの弱々しさも伴わずに融合されております。

未来は両者が、すなわち男性と女性とが、いかに完璧に一方が他方を吸収した形であっても、二つの性としてではなく、一つの性の二つの側面という形をとることになります。

 力の支配するところでは〝オレが先だ。お前はあとに付いてこい〟ということになります。愛の支配するところでは言葉は不要です。以心伝心で〝最愛なる者よ、ともに歩もう〟ということになります。


 私の言わんとすることがこれでお分かりと思います。


──分かります。ただ、今日までの慣習に親しんできている者にとっては、一方が(優しく)手引きし他方が(素直に)付いて行くようでなければ進歩が得られないというのは、いささか理解が困難です。

 おっしゃる通りです。今の言いまわしにも苦心のあとがうかがえます。いま貴殿は地上でいう組織や整然とした規制、軍隊や大企業における上下の関係を思わせる語句を使用しておられます。

 もちろん天界においても整然たる序列が存在します。しかしそれは権力の大小ではなく、あらゆる力の背後に控えるもの──愛がそうあらしめるのです。

 実際においてそれが何を意味するかを次の事実から微(カス)かにでも心に描いてみてください。比喩的な意味ではなく実際の事実として、地上でいうところの高い者と低い者、偉大な者と劣等なる者は存在しません。

地上から来たばかりの霊と天使との間にもかならず共通した潜在的要素が存在します。

その意味で、若い霊も潜在的には天使と同じであるのみならず、さらに上の大天使、力天使、能天使とも同じであると言えるのです。

(訳者注──ここではオーエンがキリスト教の牧師であることから神学における天使の分類用語を使用しているまでのことで、実際にそういう名称で呼ばれているわけではない。要するに造化の仕事に直接たずさわっている高級霊と考えればよい)

 さらに、たとえば天使と父との関係について言えば、地上的な観点からすれば当然天使の方が小さい存在ですが、天界全体として考えた時、両者の関係は一つの荘厳なる実在すなわち絶対神の中に吸収されてしまいます。

そこにおいては天使も絶対神と一体となります。〝より大きい〟も〝より小さい〟もありません。それは外部にまとう衣服については言えましょう。

宝石のわく飾りのようなものです。が、内奥の至聖所ではその差別はありません。

 そのことはキリストの顕現の度に思い知らされることです。すなわちキリストはたしかに王であり吾々はその従臣です。しかしキリストはその王国全体と一体であり、その意味において従臣もその王の座を共有していることになるのです。

キリストが命を下し、指揮し、吾々はその命に服し、指揮に従います。が、命じられたからそうするのではなく、キリストを敬慕するからであり、キリストもまた吾々を敬愛なさるからです。お分かりでしょうか。

ともかく、こうした天上的な洞察力の光をいくばくかでも人類の未来へ向けて照射していただきたい。きっとそこに、こうして貴殿に語りかけている吾々に啓示されているものを垣間みることができるでしょう。

 また次のことも銘記してください。理性というものは男性的資質に属し、したがって私のいう未来を垣間みる手段としては不適当であることです。

直感は女性的資質に属し、人間の携帯用望遠鏡のレンズとしては理性より上質です。

思うに女性がその直感力をもって未来をどう読まれるにしても、理性的に得心がいかないと満足しない男性よりは、私が言わんとすることを素直に理解してくださるでしょう。女性は知的理解をしつこく求めようとしません。理屈にこだわらないのです。

あまりその必要性がないとも言えます。直感力が具わっているからです。それで十分間に合いますし、これより先は女性と男性の双方にとってそれがさらに有益となっていくことでしょう。


──例によって寓話をお願いしたいですね。

 ある金細工人が王妃の腕輪(ブレスレット)に付ける宝石としてルビーとエメラルドのどちらにしようかと思案しました。彼は迷いました。ルビーは王様がお好みであり、エメラルドは王妃がお好みだったからです。

思案にあまった彼は妻を呼んで、どう思うかと聞いてみました。すると妻は〝あたしだったらダイヤにする〟と答えました。

〝なぜだ。ダイヤはどっちの色でもないぞ〟と聞くと、〝お持ちになってみられてはいかが?〟と答えます。彼は言われた通りに持参してみることにしました。

 恐るおそる宮殿を訪れてまず王様にお見せしたところ、〝でかしたぞ。このダイヤはなかなかの透明度をしている。ルビーの輝きがあふれんばかりじゃ。さっそく妃(キサキ)のところへ持っていって見せてやってくれ〟と言います。

そこで王妃のところへ持っていくと王妃もことのほか喜ばれ、〝なかなか宝石に目が高いのお。このダイヤはエメラルドの輝きをしている。さっそくそれでブレスレットを仕上げておくれでないか〟とおっしゃいます。

 わけが分からないまま帰ってきた金細工人は妻になぜ王妃はこのダイヤが気に入られたのだろうかと聞いてみました。

すると妻は〝お二人はどんなご様子だったのですか〟と尋ねます。〝お二人とも大そうお気に召されたんだ。王様はなかなか上質でルビー色をしているとおっしゃり、王妃もなかなか上質でエメラルド色をしているとおっしゃった〟と彼は言いました。

 すると妻は答えました。〝でもお二人のおっしゃる通りですよ。ルビー色もエメラルド色も、砕いてみれば何もない無色の中から出ているのであり、ほかにも数多くの色が混ざり合っているのです。

愛はその底にすべての徳を融合させて含んでおり、一つ一つの徳が愛の光線の一条(ヒトスジ)なのです。王様も王妃もその透明な輝きの中にお好みの色をごらんになられたのです。


お二人が違う色をごらんになったからといって別に不思議に思われることはありません。お互いの好みの色はその結晶体の中で融合し、自他の区別をなくして本来の輝きの中に埋没してしまっているのです。それはお二人が深く愛し合う仲だからですよ〟
                            アーネル ± 


3 崇高なる法悦の境地

一九一九年三年二十五日  火曜日

 さて、未来へ向けて矢が放たれたところで一たん出発点へ戻り、これまでお伝えしたメッセージを少しばかり手直しをしておきましょう。私が述べたのは人類の発達途上における目立った特徴を拾いながら大ざっぱな線について語ったまでです。

しかし人類が今入りかけた機構は単純ではなく複雑をきわめております。次元の異なる界がいくつも浸透し合っているように、いくつもの発展の流れが合流して人類進化の大河をなしているのです。

 私がこれからは男性支配が女性の柔和さにその場をゆずると言っても、男性支配という要素が完全に消滅するという意味ではありません。そういうことは有り得ません。

人類の物的形態へ向けての進化には創造主が意図した目的があるのであり、その目的は、成就されればすぐに廃棄されてしまう程度のものではありません。ようやく最終段階を迎えつつある進化の現段階は、男性の霊的資質を高める上で不可欠だったのです。

ですから、その段階で身につけた支配性は、未来の高揚のために今形成しつつある新しい資質の中に融合されていくことでしょう。

 ダイヤからルビーの光が除去されることはありません。もしそうなればダイヤの燦然たる美しさが失われます。そうではなく、将来そのダイヤが新たな角度から光を当てられた時に、その輝きがこれまでよりは抑えられたものになるということです。

かくしてこれからのある一定期間は、そのまたたきが最も顕著となるのはこれまでのルビーではなくエメラルドとなることでしょう。(訳者注──前回の通信の最後の寓話になぞらえて、ルビーが男性的性格、エメラルドが女性的性格を象徴している)

 また遠い過去においてそのルビーに先立って他の色彩が顕著であった時期があるごとく、ダイヤの内奥には、このエメラルドの時代の終ったあと、永遠の時の中で然るべき環境を得て顕現するさらに別の色彩があるのです。

 さらに言えば、私のいう女性の新時代は激流のごとく押し寄せるのではなく、地上の人間が進歩というものを表現する時によく使う言い方に従えば、ゆっくりとした足取りで訪れます。言っておきますが、その時代はまだ誕生しておりません。が、

いずれ時が熟せば誕生します。その時期が近づいた時は──イヤ、(ここで寓話に変わる──訳者)救世主は夜のうちに誕生し、ほとんど誰にも気づかれなかった。

しかも新しい時代の泉となり源となった。それから世の中は平凡なコースをたどり、AUC(ローマ紀元。紀元前七五三年を元年とする)を使用している間は何の途切れもなく続いた。

が今日、かの素性の知れぬ赤子(イエス)の誕生がもとでキリスト教国のすべてがDU(西暦紀元)を採用することになり、AUCは地上から消えた。貴殿は私の寓話を気に入ってくださるので、どうか以上の話から何かの意味を読み取ってください。

 また例の天使の塔におけるキリストの顕現の話を思い出していただきたい。あれはこの地上への吾々の使命に備えるための学習の一環だったのです。

私の叙述から、その学習がいかに徹底したものであったかを読み取っていただけるものと思います。物的宇宙の創造を基盤とし、宇宙を構成する原子の構造を教えてくださったのです。

それが鉱物、植物、動物、そして人間となっていく永くかつ荘厳な生命の進化の過程が啓示されたのです。さらに学習は続き、地球に限定して、その生命を構成する要素を分析して、種類別に十分な検討を加えました。

それから地球の未来をのぞかせていただき、それが終わって今こうして貴殿にメッセージを送っているわけです。


 その人類の未来をのぞかせていただいた時の顕現のすべてを叙述することはとても出来ません。ダイヤモンド(※)の内奥には分光器にかからない性質の光線が秘められているからです。

ですが、その得も言われぬ美と秘密と吾々にとっての励ましに満ちた荘厳なるスペクタクルについて、貴殿にも理解しうる範囲のことを語ってみましょう。(※これも前回の通信の寓話になぞらえて、すべての色彩が完全に融合したときの無色透明な状態を象徴している──訳者)

 地球を取り巻く例の霧状の暗雲が天界の化学によって本来の要素に分析されました。それを個々に分離し、それぞれの専門家の手による作業にまかされました。


その作業によって質を転換され、一段と健康な要素に再調合する過程がほぼ完了の段階に近づいた時に、吾々は各自しばし休息せよとの伝達をうけ、その間は他の霊団が引き受けてくれました。

 そこで吾々は所定の場所へ集合しました。見ると天界のはるか上層へ向けて一段また一段と、無数の軍勢が幾重にも連なっておりました。

得も言われぬ壮麗なる光景で、事業達成への一糸乱れぬ態勢に吾々は勇気百倍の思いがいたしました。その数知れぬ軍勢の一人一人が地球上の同胞の救済のために何らかの役割分担を持ち、その目的意識が総監督たるキリストにおいて具現されているのでした。

 それを内側から見上げれば、位階と霊格にしたがって弧を描いて整列している色彩が、あたかも無数の虹を見るごとくに遙か遠くへと連なっておりました。

 そしてその中間に広がる、一個の宇宙にも相当する大きさの空間の中へ、すでにお話したことのある静寂という実体(一章2)が流れ込んできました。それはすなわち、そこに吾らが王が実在されるということです。

静寂の訪れを感じて吾々はいつものごとく讃仰のために頭(コウベ)を垂れました。崇高なる畏敬の念の中に法悦を味わい、目に見えざる来賓であるキリストを焦点とした愛の和合の中にあって、吾々はただただ頭を垂れたまま待機しておりました。 アーネル ±

 
4 地球の未来像の顕現
 一九一九年三月二十八日  金曜日

 この段階で吾々はすでに、それぞれの天界の住処(スミカ)にふさわしい本来の身体的条件を回復しておりました。それ故、吾々は実際は地球を中心としてそれを取り囲むように位置しているのですが、地球の姿はすでに吾々の目には映じませんでした。

もちろんこのことは私自身の境涯に視点をおいて述べたまでで、私より地球に接近した界層の者のことは知りません。多分彼らにはそれらしきものは見えたことでしょう。これから述べることは私自身の視力で見たかぎりのことです。

 私はその巨大な虚空の内部を凝視しました。すべてが空(クウ)です。その虚空が、それを取り巻くように存在する光輝によって明るく照らし出されているにもかかわらず、その内部の奥底に近づくにつれて次第に暗さが増していきます。

そしてその中心部になるとまさに暗黒です。そう見ているうちに、その暗黒の虚空の中心部から嘆き悲しむ声に似た音が聞こえて来ました。

それが空間的な〝場〟を形成している吾々の方角へ近づくにつれてうねりを増し四方へ広がっていきます。が、その音が大きくなってくるといつしか新しい要素が加わり、さらにまた別の要素が加わり、次々と要素を増していって、ついに数々の音階からなる和音(コード)となりました。

初めのうちは不協和音でしたが吾々に近づくにつれて次第に整い、ついには虚空の全域に一つに調和した太く低い音が響きわたりました。そうなった時はもはや嘆き悲しむ響きではなく、雄々しいダイヤペーソンとなっておりました。

 それがしばらく続きました。するとこんどはそれに軽い音色が加わって全体がそれまでのバス(男声の最低音)からテノール(男性の最高音)へと変わりました。変化はなおも続き、ついに吾々が囲む空間全体に女性の声による明るい合唱が響きわたりました。

 そのハーモニーが盛り上がるにつれて光もまた輝きを増し、いよいよ最高潮に達したとき吾々が取り囲む内部の空間が得も言われぬ色合いを見せる光輝に照らし出されました。

そしてその中央部、すなわち吾々の誰からも遠く離れた位置で顕現が始まっていることが分かりました。それは次のようなものでした。

 まず地球が水晶球となって出現し、その上に一人の少年が立っています。やがてその横に少女が現れ、互いに手を取り合いました。


そしてその優しいあどけない顔を上方へ向け、じっと見つめているうちに二人ともいつしか青年に変身し、一方、立っている地球が膨(フク)れだして、かなりの大きさになりました。

するとその一ばん上部に曲線上に天蓋のついた玉座が出現し、女性の方が男性の手を引いて上がり段のところへ案内し、そこで女性が跪(ひざまず)くと男性だけが上がり段をのぼって玉座の中へ入りました。

 そこへ大ぜいの従臣が近づいて玉座のまわりに立ち、青年に王冠と剣(ツルギ)を進呈し、豊かな刺しゅうを施した深紅のマントを両肩にお掛けしました。それを合図に合唱隊が次のような主旨の祝福の歌をうたい上げました。

 「あなたは地球の全生命の主宰者として、霊の世界よりお出ましになられました。あなたは形態の世界である外的宇宙の中へ踏み込まれ、あたりを見まわされました。

そして両足でしっかりと踏みしめられて、地球がどこかしら不安定なところを有しながらも、よき天体であるとお感じになられました。それから勇を鼓して一方の足を踏み出し、さらにもう一方の足を踏み出され、かくして地上を征服なさいました。

 そこで再び周囲を見渡されて、あなたのものとなったものを点検なさいました。それに機嫌をよくされたあなたは、その中で最も麗しいものに愛をささやかれました。そのとき万物の父があなたのために宝庫よりお出しになられた全至宝の中でも、あなたにとっては女性が最愛の宝物となりました。

 征服者としての権限により主宰者となられたあなたへの祝福として詠唱した以上のことは、その通りでございましょうか」
 青年は剣を膝の上に斜めに置いてこう答えました。

 地上での数々の闘いに明け暮れた私をご覧になってきたそなたたちが歌われた通りである。正しくご覧になり、それを正しく語られた。さすがにわれらの共通の主の家臣である。

 さて私は所期の目的を果たし、それが正当であったことを宣言した。武勇において地上で私の右に出る者はおりませぬ。地球は私が譲りうける。私みずからその正当性を主張し、今それを立証したところである。

 しかし私にはまだ心にひっかかるものがある。これまでの荒々しい征服が終了した今、私は次の目標をいずこへ求めればよいのであろう。永きにわたって不穏であった地球もどうにか平穏を取り戻した。が、まだ真の平和とは言えぬ。


地球は平穏な状態にうんざりとし、明日の平和を求める今日の争いにこれきり永遠に別れを告げて、真の平和を求めている。

 そこで、これまで私を補佐してこられたそなたたち天使の諸君にお願いしたい。幾度も耳うちしてくれた助言を無視して私がこれまでとかく闘いへの道を選んできて、さぞ不快に思われたことであろう。それは私も心を痛めたことであった。

しかし今や私も高価な犠牲を払って叡智を獲得した。代償が大きかっただけ、それだけ身に泌みている。そこで、これより私はいかなる道を選ぶべきか、そなたたちの助言をいただきたい。

私もこれまでの私とは違う。助言を聞き入れる耳ができている。今や闘いも終わり、この玉座へ向けて昇り続けたその荒々しさに、われながら嫌気がさしているところである」

 そう言い終わると従臣たちが玉座の上がり段を境にして両わきに分かれて立ち並び、その中間に通路ができました。するとその中央にさきの女性が青のふちどりのある銀のロープで身を包んで現れました。

清楚に両手を前で組み、柔和さをたたえた姿で立っておられます。が、その眼差しは玉座より見下ろしている若き王の顔へ一直線に向けられています。

 やがて彼はおもむろに膝の上の剣を取り上げ、王冠を自分の頭から下ろして階段をおり、その女性のそばに立たれました。そして女性が差し出した両腕にその剣を置き、冠を頭上に置きました。それから一礼して女性の眉に口づけをしてから、こう告げました。

 「そなたと私とで手を取り合って歩んで来た長い旅において私は、数々の危機に際してそなたの保護者となり力となって来ました。嵐に際しては私のマントでそなたを包んであげました。


急流を渡るに際しては身を挺して流れをさえぎってあげました。が、行く手を阻(ハバ)む危険もなくなり、嵐も洪水も鎮まり、夏のそよ風のごとき音楽と化しました。そして今、そなたは無事ここに私とともにあります。

 しかし、この機をもって私は剣をそなたに譲ります。その剣をもってその王冠を守ってきました。ここにおいてその両者を揃えてそなたに譲ります。

もはや私が所有しておくべき時代ではなくなりました。どうかお受け取りいただきたい。これは私のこれまでの業績を記念する卑しからぬ品であり、あくまで私のものではありますが、それが象徴するすべてのものとともに、そなたにお預けいたします。

どうかこれ以後もそなたの優しさを失うことなく、私が愛をもって授けるこの二つの品を愛をもって受け取っていただきたい。それが私より贈ることのできる唯一のもの───地球とその二つの品のみです」

 青年がそう言い終わると女性は剣を胸に抱きかかえ、右手を差しのべて彼の手を取り、玉座へ向かって階段を上がり玉座の前に並んでお立ちになりました。

そこでわずかな間を置いたあと彼は気を利かして一歩わきへ寄り、女性に向かって一礼しました。すると女性はためらいもなく玉座に腰を下ろされました。彼の方はわきに立ったまま、これでよしといった表情で女性の方を見つめておりました。

 ところが不思議なことに、私が改めて女性の方へ目をやると、左胸に抱えていた剣はもはや剣ではなく、虹の色をした宝石で飾られたヤシの葉と化しておりました。

王冠も変化しており、黄金と鉄の重い輪が今はヒナギクの花輪となって、星のごとく輝く青と緑と白と濃い黄色の宝石で飾られた美しい茶色の髪の上に置かれていました。その種の黄色は地上には見当たりません。

 若き王も変っておりました。お顔には穏やかさが加わり、お姿全体に落着きが加わっておりました。そして身につけておられるロープは旅行用でもなく戦争用でもなく、ゆったりとして長く垂れ下がり、うっすらとした黄金色に輝き、そのひだに赤色が隠れておりました。
 そこで青年が女性に向かってこう言いました。

 「私からの贈りものを受け取ってくれたことに礼を申します。では、これより先、私とそなたではなく、そなたと私となるべき時代のたどるべき道をお示し願いたい」

 これに答えて女性が言いました。

 「それはなりませぬ。私とあなたさまの間柄は、あなたさまと私との間柄と同じだからでございます。これより先も幾久しく二人ともども歩みましょう。ただ、たどるべき道は私が決めましょう。しかるべき道を私が用意いたします。

しかし、その道を先頭きって歩まれるのは、これからもあなたさまでございます」
   アーネル ± 





シアトルの夏 八章 地球浄化の大事業

ベールの彼方の生活(四) G・V オーエン著 
The Life Beyond the Veil by G. V. Owen





1 科学の浄化
一九一九年三月十二日  水曜日

 さて、今やキリストの軍勢に加わった吾々はキリストのあとについて降下しました。いくつかの序列にしたがった配置についたのですが、言葉による命令を受けてそうしたのではありません。

それまでの鍛錬によって、直接精神に感応する指示によって自分の持ち場が何であるか、何が要求されているかを理解することができます。それで、キリストとの交霊によって培われた霊感にしたがって各自が迷うことなくそれぞれの位置につき、それぞれの役割に取りかかりました。

 ではここで、地球への行軍の様子を簡単に説明しておきましょう。地球の全域を取り囲むと吾々は、その中心部へ向けていっせいに降下していきました。こういう言い方は空間の感覚──三次元的空間の発想です。

吾々の大計画の趣旨を少しでも理解していただくには、こうするよりほかに方法がないのです。

 キリストそのものは、すでに述べましたように、遍在しておりました。絶大な機能をもつ最高級の大天使から最下層の吾々一般兵士にいたるまでの、巨万の大軍の一人一人の中に同時に存在したのです。自己の責務について内部から霊感を受けていても、外部においては整然とした序列による戦闘隊形が整えられておりました。

最高の位置にいてキリストにもっとも近い天使から(キリストからの)命が下り、次のランクの天使がそれを受けてさらに次のランクへと伝達されます。

その順序が次々と下降して、吾々はそれをすぐ上のランクの者から受け取ることになります。その天使たちは姿も見えます。姿だけでしたら大体三つ上の界層の者まで見えますが、指図を受けるのは、よくよくの例外を除けば、すぐ上の界層の者からにかぎられます。

 さて吾々第十界の者がキリストのあとについて第九界まで来ると、吾々なりの活動を開始しました。まず九界全域にわたってその周囲を固め、徐々に内部へ向けて進入しました。するとキリストとその従者が吾々の界に到着された時と同じ情景がそこでも生じました。

九界にくらべて幾分かでも高い霊性を駆使して吾々は、その界の弱い部分を補強したり、歪められた部分を正常に修復したりしました。それが終了すると、続いて第八界へと向かうのでした。

 それだけではありません。九界での仕事が完了すると、ちょうど十一界の者と吾々十界の者との関係と同じ関係が、吾々と九界の者との間に生じます。

つまり九界の者は吾々十界の者の指図を受けながら、吾々のあとについて次の八界へ進みました。八界を過ぎると、八界の者は吾々から受けた指図をさらに次の七界の者へと順々に伝達していきます。

 かくしてこの過程は延々と続けられて、吾々はついて地球圏に含まれる三つの界層を包む大気の中へと入っていきました。そこまでは各界から参加者を募り、一人一人をキリストの軍勢として補充していきました。しかしここまで来ていったんそれを中止しました。

と言うのは、地球に直接つながるこの三つの界層は、一応、一つの境涯として扱われます。なぜなら地球から発せられる鈍重な悪想念の濃霧に包まれており、吾々の周囲にもそれがひしひしと感じられるのです。

黙示録にいう大ハルマゲドン(善と悪との大決戦──16・16)とは実にこのことです。吾々の戦場はこの三つの界層にまたがっていたのです。そしてここで吾々はいよいよ敵からの攻撃を受けることになりました。


 その間も地上の人間はそうしたことに一向にお構いなく過ごし、自分たちを取り巻く陰湿な電気を突き通せる人間はきわめて稀にしかいませんでした。が、

吾々の活動が進むにつれてようやく霊感によって吾々の存在を感じ取る者、あるいは霊視力によって吾々の先遺隊を垣間見る者がいるとの話題がささやかれるようになりました。

そうした噂を一笑に付す者もいました。吾々を取り巻く地上の大気に人間の堕落せる快楽の反応を感じ取ることができるほどでしたから、多くの人間が霊的なことを嘲笑しても不思議ではありません。

そこで吾々は、この調子では人間の心にキリストへの畏敬の念とその従僕である吾々への敬意が芽生えるまでには、よくよく苦難を覚悟せねばなるまいと見て取りました。しかしそのことは別問題として、先を急ぎましょう。

 とは言え、吾々の作戦活動を一体どう説明すればよいのか迷います。もとより吾々は最近の地上の出来ごとについて貴殿によく理解していただきたいとは願っております。

すばらしい出来ごと、地獄さながらの出来ごと、さらには善悪入り乱れた霊の働きかけ──目に見えず、したがって顧みられることもなく、信じられることもなく、しかし何となく感じ取られながら、激しい闘争に巻き込まれている様子をお伝えしたいのです。

貴殿の精神の中の英単語と知識とを精一杯駆使して、それを比喩的に叙述してみます。それしか方法がないのです。が、せめてそれだけでも今ここで試みてみましょう。

 地球を取り巻く三層の領域まで来てみて吾々は、まず第一にしなければならない仕事は悪の想念を掃討してしまうことではなく、善の想念へ変質させることであることを知りました。

そこでその霧状の想念を細かく分析して最初に処理すべき要素を見つけ出しました。吾々より下層界からの先遺隊が何世紀も前に到着してその下準備をしてくれておりました。ここでは吾々第十界の者が到着してからの時期についてのみ述べます。

 地球の霊的大気には重々しくのしかかるような、どんよりとした成分がありました。実はそれは地上の物質科学が生み出したもので、いったん上昇してから再び下降して地上の物質を包み、その地域に住む人々に重くのしかかっておりました。

もっとも、それはたとえ未熟ではあっても真実の知識から生まれたものであることは確かで、その中に誠実さが多量に混じっておりました。

 その誠実さがあったればこそ三つの界層にまで上昇できたのです。しかし所詮は物的現象についての知識です。いかに真実味があってもそれ以上に上昇させる霊性に欠けますから、再び物質界へと引き戻されるにきまっています。

そこで吾々はこれを〝膨張〟という手段で処理しました。つまり吾々は言わばその成分の中へ〝飛び込んで〟吾々の影響力を四方へ放散し、その成分を限界ぎりぎりまで膨らませました。膨張した成分はついに物質界の外部いっぱいにまで到着しました。が、

吾々の影響力が与えた刺戟はそこで停止せず、みずからの弾みで次第に外へ外へと広がり、ついに物質界の限界を超えました。

そのため物的と霊的との間を仕切っている明確な線──人間はずいぶんいい加減に仕切っておりますが──に凹凸が生じはじめ、そしてついに、ところどころに小さなひび割れが発生しました──最初は小さかったというまでで、その後次第に大きくなりました。

しかし大きいにせよ小さいにせよ、いったん生じたひび割れは二度と修復できません。

たとえ小さくても、いったん堤防に割れ目ができれば、絶え間なく押し寄せていたまわりの圧力がその割れ目をめがけて突入し、その時期を境に、霊性を帯びた成分が奔流となって地球の科学界に流れ込み、そして今なおその状態が続いております。

 これでお分かりのように、吾々は地上の科学を激変によって破壊することのないようにしました。過去においては一気に紛砕してしまったことが一度や二度でなくあったのです。

たしかに地上の科学はぎこちなく狭苦しいものではありますが、全体としての進歩にそれなりの寄与はしており、吾々もその限りにおいて敬意を払っていました。それを吾々が膨張作用によって変質させ、今なおそれを続けているところです。

 カスリーン嬢の援助を得て私および私の霊団が行っているこの仕事は今お話したことと別に関係なさそうに思えるでしょうが、実は同じ大事業の一環なのです。

これまでの吾々の通信ならびに吾々の前の通信をご覧になれば、科学的内容のもので貴殿に受け取れるかぎりのものが伝えられていることに気づかれるでしょう。大した分量ではありません。それは事実ですが、貴殿がいくら望まれても、能力以上のものは授かりません。

しかし、次の事実をお教えしておきましょう。この種の特殊な啓示のために貴殿よりもっと有能で科学的資質を具えた男性たち、それにもちろん少ないながらも女性たちが、着々と研さんを重ねているということです。道具として貴殿よりは扱いやすいでしょう。

 その者たちを全部この私が指導しているわけではありません。それは違います。私にはそういう資格はあまりありませんので・・・・・・。各自が霊的に共通性をもつ者のところへ赴くまでです。そこで私は貴殿のもとを訪れているわけです。

科学分野のことについては私と同じ霊格の者でその分野での鍛錬によって技術を身につけている者ほどにはお伝えできませんが、私という存在をあるがままにさらけ出し、また私が身につけた知識はすべてお授けします。

私が提供するものを貴殿は寛大なる心でもって受けてくださる。それを私は満足に思い、またうれしく思っております。

貴殿に神のより大きい恩寵のあらんことを。今回の話題については別の機会に改めて取りあげましょう。貴殿のエネルギーが少々不足してきたようです。                           アーネル ±



2 宗教界の浄化
  一九一九年三月十七日  月曜日

 次に浄化しなければならない要素は宗教でした。これは専門家たちがいくら体系的知識であると誇り進歩性があると信じてはいても、各宗教の創始者の言説が束縛のロープとなって真実の理解の障害となっておりました。

分かりやすく言えば、私が地上時代にそうであったように(四章2参照)ある一定のワクを超えることを許されませんでした。そのワクを超えそうになるとロープが──方向が逆であればなおのこと強烈に──その中心へつながれていることを教え絶対に勝手な行動が許されないことを思い知らされるのでした。

その中心がほかでもない、組織としての宗教の創始者であると私は言っているのです。イスラム教がそうでしたし、仏教がそうでしたし、キリスト教もご多分にもれませんでした。

 狂信的宗教家が口にする言葉はなかなか巧みであり、イエスの時代のユダヤ教のラビ(律法学者)の長老たちと同じ影響力を持っているだけに吾々は大いに手こずりました。

吾々は各宗教のそうした問題点を細かく分析した結果、その誤りの生じる一大原因を突きとめました。

私は差しあたって金銭欲や権力欲、狂言という言わば〝方向を間違えた真面目さ〟、自分は誠実であると思い込んでいる者に盲目的信仰を吹き込んでいく偽善、こうした派生的な二次的問題は除外します。

そうしたことはイスラエルの庶民や初期の教会の信者たちによく見られたことですし、さらに遠くさかのぼってもよくあったことです。私はここではそうした小さな過ちは脇へ置いて、最大の根本的原因について語ろうと思います。
 
 吾々は地球浄化のための一大軍勢を組織しており、相互に連絡を取り合っております。が各小班にはそれぞれの持ち場があり、それに全力を投入することになっております。


私はかつて地上でキリスト教国に生をうけましたので、キリスト教という宗教組織を私の担当として割り当てられました。それについて語ってみましょう。

 私のいう一大根本原因は次のようなことです。
 
 地上ではキリストのことをキリスト教界という組織の創始者であるかのような言い方をします。が、それはいわゆるキリスト紀元(西暦)の始まりの時期に人間が勝手にそう祭り上げたにすぎず、以来今日までキリスト教の発達の頂点に立たされてきました。

道を求める者がイエスの教えに忠実たらんとして教会へ赴き、あの悩みこの悩みについて指導を求めても、その答えはいつも〝主のもとに帰り主に学びなさい〟と聞かされるだけです。

そこで、ではその主の御心はどこに求めるべきかを問えば、その答えはきまって一冊の書物──イエスの言行録であるバイブルを指摘するのみです。その中に書かれているもの以外のものは何一つ主の御心として信じることを許されず、結局はそのバイブルの中に示されているかぎりの主の御心に沿ってキリスト教徒の行いが規制されていきました。

 かくしてキリスト教徒は一冊の書物に縛りつけられることになりました。なるほど教会へ行けばいかにもキリストの生命に満ち、キリストの霊が人体を血液がめぐるように教会いっぱいに行きわたっているかに思えますが、しかし実はその生命は(一冊の書物に閉じ込められて)窒息状態にあり、身体は動きを停止しはじめ、ついにはその狭苦しい軌道範囲をめぐりながら次第に速度を弱めつつありました。

 記録に残っているイエスの言行が貴重な遺産であることは確かです。それは教会にとって不毛の時代を導く一種のシェキーナ(ユダヤ教の神ヤハウェが玉座で見せた後光に包まれた姿──訳者)のごときものでした。

しかし、よく注意していただきたいのは、例のシェキーナはヤコブの子ら(ユダヤ民族)の前方に現れて導いたのです。

その点、新約聖書は前方に現れたのではなく、のちになって崇められるようになったものです。それが放つ光は丘の上の灯台からの光にも似てたしかに真実の光ではありましたが、それは後方から照らし、照らされた人間の影が前方に映りました。

光を見ようとすれば振り返って後方を見なければなりません。そこに躓(つまず)きのもとがありました。前方への道を求めて後方へ目をやるというのは正常なあり方ではありません。

 そこに人間がみずから犯した過ちがありました。人間はこう考えたのです──主イエスはわれらの指揮者(キャプテン)である。主がわれらの先頭に立って進まれ、われらはそのあとに付いて死と復活を通り抜けて主の御国へ入るのである、と。

が、そのキャプテンの姿を求めて彼らは回れ右をして後方へ目をやりました。それは私に言わせれば正常ではなく、また合理性にそぐわないものでした。

 そこで吾々は大胆不敵な人物に働きかけて援助しました。ご承知の通りイエスは自分より大きい業(ワザ)を為すように前向きの姿勢を説き、後ろから駆り立てるのではなく真理へ手引きする自分に付いてくるように言いました。(※)

そのことに着目し理解して、イエスの導きを信じて大胆に前向きに進んだ者がいました。

彼らは仲間のキリスト教者たちから迫害を受けました。しかし次の世代、さらにその次の世代になって、彼らの蒔いたタネが芽を出しそして実を結びました。(※ヨハネ14・12)

 これでお分かりでしょう。人間が犯した過ちは生活を精神的に束縛したことです。

生ける生命を一冊の書物によってがんじがらめにしたことです。バイブルの由来と中味をあるがままに見つめずに──それはそれなりに素晴らしいものであり、美しいものであり、大体において間違ってはいないのですが──それが真理のすべてであり、その中には何一つ誤りはないと思い込んだのです。

しかしキリストの生命はその後も地上に存続し、今日なお続いております。四人の福音書著者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)によって伝えられたバイブルの中のわずかな言行は、およそキリスト教という流れの始源などではあり得ません。

その先の広い真理の海へと続く大きい流れの接点で立てているさざ波ていどのものにすぎません。

 そのことに人間は今ようやく気づきはじめています。そしてキリストは遠い昔の信心深き人々に語りかけたように今も語りかけてくださることを理解しはじめております。

そう理解した人たちに申し上げたい──迷わず前進されよ。後方よりさす灯台の光を有難く思いつつも、同時に前方にはより輝かしい光が待ちうけていることを、それ以上に有難く思って前進されよ、と。

なぜなら当時ナザレ人イエスがエルサレムにおられたと同じように今はキリストとして前方にいらっしゃるからです。(後方ではなく)前方を歩んでおられるのです。

恐れることなくそのあとに付いて行かれることです。手引きしてくださることを約束しておられるのです。あとに付いて行かれよ。躊躇しても待ってはくださらないであろう。福音書に記されたことを読むのも結構であろう。が、

前向きに馬を進めながら読まれるがよろしい。〝こうしてもよろしいか、ああしてもよろしいか〟と、あたかもデルポイの巫女に聞くがごとくに、いちいち教会の許しを乞うことはお止めになることです。そういうことではなりません。

人生の旅に案内の地図(バイブル)をたずさえて行かれるのは結構です。進みつつ馬上で開いてごらんになるがよろしい。少なくとも地上を旅するのには間に合いましょう。

細かい点においては時代おくれとなっているところがありますが、全体としてはなかなかうまく且つ大胆に描かれております。しかし新しい地図も出版されていることを忘れてはなりません。ぜひそれを参照して、古いものに欠けているところを補ってください。

しかし、ひたすら前向きに馬を進めることです。そして、もしもふたたび自分を捕縛しようとする者がいたら、全身の筋肉を引きしめ、膝をしっかりと馬の腹に当てて疾駆させつつ、後ろから投げてかかるロープを振り切るのです。

残念ながら、前進する勇気に欠け前を疾走した者たちが上げていったホコリにむせかえり、道を間違えて転倒し、そして死にも似た睡眠へと沈みこんで行く者がいます。

その者たちに構っている余裕はありません。なぜなら先頭を行くキャプテンはなおも先を急ぎつつ、雄々しく明快なる響きをもって義勇兵を募っておられるのです。その御声を無駄に終わらせてはなりません。

 その他の者たちのことは仲間が大勢いることですから同情するには及ばないでしょう。
死者は死者に葬らせるがよろしい(マタイ8・22)。そして死せる過去が彼らを闇夜の奥深くへ埋葬するにまかせるがよろしい。

しかし前方には夜が明けつつあります。まだ地平線上には暗雲が垂れこめておりますが、それもやがて太陽がその光の中に溶け込ませてしまうことでしょう───すっかり太陽が上昇しきれば。そしてその時が至ればすべての人間は、父が子等をひとり残らず祝福すべくただ一個の太陽を天空に用意されたことに気づくことでしょう。

その太陽を人間は、ある者は北から、ある者は南から、その置かれた場所によって異なる角度から眺め、したがってある者にとってはより明るく、ある者にとってはより暗く映じることになります。

しかし眺めているのは同じ太陽であり、地球への公平な恩寵として父が給わった唯一のものなのです。

 また父は民族によって祝福を多くしたり少なくしたりすることもなさりません。地上の四方へ等しくその光を放ちます。それをどれだけ各民族が自分のものとするかは、それぞれの位置にあって各民族の自由意志による選択にかかった問題です。

 以上の比喩を正しくお読みくだされば、キリストがもし一宗教にとって太陽のごときものであるとすれば、それはすべての宗教にとっても必然的に同じものであらねばならないことに理解がいくでしょう。

なんとなれば太陽は少なくとも人間の方から目を背けないかぎりは、地球全土から見えなくなることは有り得ないからです。たしかに時として陽の光がさえぎられることはあります。しかし、それも一時(いっとき)のことです。
アーネル ±



3 キリストについての認識の浄化
  一九一九年三月十八日  火曜日

 前回はキリストについて語り、キリスト教徒がそうと思い込んでいるものより大きな視野を指摘しました。今回もその問題をもう少し進めてみたいと思います。

 実は吾々キリスト教界を担当する霊団はいよいよ地球に近づいた時点でいったん停止しました。吾々の仕事のさまざまな側面をいっそう理解するために、全員に召集令が出されたのです。

集合するとキリストみずからお出ましになり、吾々の面前でその形体をはっきりお見せになりました。中空に立たれて全身を現されました。

 そのときの吾々の身体的状態はそれまで何度かキリストが顕現された時よりも地上的状態に近く、それだけにその時のキリストのお姿も物的様相が濃く、また細かいところまで表に出ておりました。

ですから吾々の目にキリストのロープがはっきりと映りました。膝のところまで垂れておりましたが、腕は隠れておらず何も付けておられませんでした。

吾々は一心にそのロープに注目しました。なぜかと言えば、そのロープに地上の人間がさまざまな形で抱いているキリストへの情感が反映していたからです。

 それがどういう具合に吾々に示されたかと問われても、それは地上の宗教による崇拝の念と教理から放出される光が上昇してロープを染める、としか言いようがありません。言わば分光器のような働きをして、その光のもつ本質的要素を分類します。

それを吾々が分析してみました。その結果わかったことは、その光の中に真の無色の光線が一本も見当たらないということでした。いずれもどこか汚れており、同時に不完全でした。

 吾々はその問題の原因を長期間かけて研究しました。それから、いかなる矯正法をもってそれに対処すべきかが明らかにされました。それは荒療治を必要とするものでした。

人間はキリストからその本来の栄光を奪い取り、代って本来のものでない別の栄光を加えることをしていたのです。が加えられた栄光はおよそキリストにふさわしからぬまがいものでした。やたらと勿体ぶったタイトルと属性ばかりが目につき、響きだけは大ゲサで仰々しくても、内実はキリストの真の尊厳を損なうものでした。


──例をあげていただけませんか。

 キリスト教ではキリストのことを神(ゴッド)と呼び、人間を超越した存在であると言います。これは言葉の上では言い過ぎでありながら、その意味においてはなお言い足りておりません。キリストについて二つの観点があります。

一つの観点からすれば、キリストは唯一の絶対神ではありません。至尊至高の神性を具えた最高神界の数ある存在のお一人です。父と呼んでいる存在はそれとは別です。

それは人間が思考しうるかぎりの究極の実在の表現です。従って父はキリストより大であり、キリストは父に所属する存在であり神の子です。

 しかし別の実際的観点からすれば、吾々にとってキリストは人間が父なる神に帰属させているいかなる権能、いかなる栄光よりも偉大なものを所有する存在です。キリスト教徒にとって最高の存在は全知全能なる父です。

この全知全能という用語は響きだけは絶大です。しかしその用語に含ませている観念は、今こうして貴殿に語っている吾々がこちらへ来て知るところとなったキリストの真の尊厳にくらべれば貧弱であり矮小(わいしょう)です。

その吾々ですらまだ地上界からわずか十界しか離れていません。本当のキリストの尊厳たるや、はたしていかばかりのものでしょうか。

キリスト教ではキリストは父と同格である、と簡単に言います。キリスト自身はそのようなことは決して述べていないのですが、さらに続けてこう言います──しかるに父は全能の主である、と。ではキリストに帰属すべき権能はいったい何が残されているのでしょう。

 人間はまた、キリストはその全存在をたずさえて地球上へ降誕されたのであると言います。そう言っておきながら、天国のすべてをもってしてもキリストを包含することはできないと言います。

 こうしたことをこれ以上あげつらうのは止めましょう。私にはキリストに対する敬愛の念があり、畏敬の念をもってその玉座の足台に跪く者であるからには、そのキリストに対して当てられるこうした歪められた光をかき集めることは不愉快なのです──たまらなく不愉快なのです。

そうした誤った認識のために主のロープはまったく調和性のない色彩のつぎはぎで見苦しくなっております。もしも神威というものが外部から汚されるものであれば、その醜い色彩で主を汚してしまったことでしょう。が、

その神聖なるロープが主の身体を護り、醜い光をはね返し、それが地球を包む空間に戻されたのです。主を超えて天界へと進入する事態には至らなかったのです。下方へ向けて屈折させられたのです。それを吾々が読み取り、研究材料としたのです。

 吾々に明かされた矯正法は、ほかでもない、〝地上的キリストの取り壊し〟でした。まさにその通りなのですが、何とも恐ろしい響きがあります。しかしそれは同時に、恐ろしい現実を示唆していることでもあります。説明しましょう。

 建物を例にしてお話すれば、腕の良くない建築業者によって建てられた粗末なものでも建て直しのきく場合があります。ぜんぶ取り壊さずに建ったまま修復できます。

が一方、ぜんぶそっくり解体し、基盤だけを残してまったく新しい材料で建て直さなければならないものもあります。地上のキリスト観は後者に相当します。本来のキリストのことではありません。

神学的教義、キリスト教的ドグマによってでっち上げられたキリストのことです。今日キリスト教徒が信じている教義の中のキリストは本来のキリストとは似ても似つかぬものです。ぜひとも解体し基礎だけを残して、残がいを片づけてしまう必要があります。

それから新たな材料を用意し、光輝ある美しい神殿を建てるのです。キリストがその中に玉座を設けられるにふさわしい神殿、お座りになった時にその頭部をおおうにふさわしい神殿を建てるのです。

 このこと──ほんの少し離れた位置から私が語りかけていることを、今さらのごとく脅威に思われるには及びません。このことはすでに幾世紀にもわたって進行してきていることです。

ヨーロッパ諸国ではまだ解体が完了するに至っておりませんが、引き続き進行中です。地上の織機によって織られた人間的産物としての神性のロープをお脱ぎになれば、天界の織機によって織られた王威にふさわしいロープ──永遠の光がみなぎり、愛の絹糸によって柔らか味を加え、天使が人間の行状を見て落とされた涙を宝石として飾られたロープを用意しております。

その涙の宝石は父のパビリオンの上がり段の前の舗道に撒かれておりました。それが愛の光輝によって美しさを増し、その子キリストのロープを飾るにふさわしくなるまでそこに置かれているのです。それは天使の大いなる愛の結晶だからです。   
                            アーネル ±



4 イエス・キリストとブッタ・キリスト
 一九一九年三月十九日  水曜日

 キリストについての地上的概念の解体作業はこうして進行していきましたが、これはすでに述べた物質科学の進歩ともある種の関連性があります。とは言え、それとこれとはその過程が異なりました。しかし行き着くところ、吾々の目標とするところは同じです。

関連性があると言ったのは一般的に物的側面を高揚し、純粋な霊的側面を排除しようとする傾向です。この傾向は物質科学においては内部から出て今では物的領域を押し破り、霊的領域へと進入しつつあります。

一方キリスト観においては外部から働きかけ、樹皮をはぎ取り、果肉をえぐり取り、わずかながら種子のみが残されておりました。しかしその種子にこそ生命が宿っており、いつかは芽を出して美事な果実を豊富に生み出すことでしょう。

 しかし人間の心はいつの時代にあっても一つの尺度をもって一概に全世界の人間に当てはめて評価すべきものではありません。

そこには自由意志を考慮に入れる必要があります。ですからキリストの神性についての誤った概念を一挙にはぎ取ることは普遍的必要性とは言えません。イエスはただの人間にすぎなかったということを教えたがために、宇宙を経綸するキリストそのものへの信仰までも全部失ってしまいかねない人種もいると吾々は考えました。

そこで、信仰そのものは残しつつも信仰の中身を改めることにしました。でも、いずれそのうちイエスがただの人間だったとの説を耳にします。そして心を動揺させます。

しかし事の真相を究明するだけの勇気に欠けるために、その問題を脇へ置いてあたかも難破船から放り出された人間が破片にしがみついて救助を求めるごとくに、教会の権威にしがみつきます。

 一方、大胆さが過ぎて、これでキリストの謎がすべて解けたと豪語する者もいます。彼らは〝キリストは人間だった。ただの人間にすぎなかった〟というのが解答であると言います。しかし貴殿もよく注意されたい。

かく述べる吾々も、この深刻な問題について究明してきたのです。教えを乞うた天使も霊格高きお方ばかりであり、叡智に長(た)けておられます。なのになお吾々は、その問題について最終的解決を見出しておらず、高級界の天使でさえ、吾々にくらべれば遥かに多くのことを知っておられながら、まだすべては知り尽くされていないとおっしゃるほどです。

 地上の神学の大家たちは絶対神についてまでもその本性と属性とを事細かにあげつらい、しかも断定的に述べていますが、吾々よりさらに高き界層の天使ですら、絶対神はおろかキリストについても、そういう畏れ多いことはいたしません。それはそうでしょう。

親羊は陽気にたわむれる子羊のように威勢よく突っ走ることはいたしません。が、子羊よりは威厳と同時に叡智を具えております。

 さて信仰だけは剥奪せずにおく方がいい人種がいるとはいえ、その種の人間からはキリストの名誉回復は望めません。それは大胆不敵な人たち、思い切って真実を直視し驚きの体験をした人たちから生まれるのです。

前者からもある程度は望めますが、大部分は少なくとも偏見を混じえずに〝キリスト人間説〟を読んだ人から生まれるのです。むろんそれぞれに例外はあります。私は今一般論として述べているまでです。

 実は私はこの問題を出すのに躊躇しておりました。キリスト教徒にとっては根幹にかかわる重大性をもっていると見られるからです。ほかならぬ〝救世主〟が表面的には不敬とも思える扱われ方をするのを聞いて心を痛める人が多いことでしょう。

それはキリストに対する愛があればこそです。それだけに私は躊躇するのですが、しかしそれを敢えて申し上げるのも、やむにやまれぬ気持からです。

願わくはキリストについての知識がその愛ほどに大きくあってくれれば有難いのですが・・・・・・。と言うのも、彼らのキリストに対する帰依の気持は、キリスト本来のものではない単なる想像的産物にすぎないモヤの中から生まれているからです。

いかに真摯であろうと、あくまでも想像的産物であることに変りはなく、それを作り上げたキリスト教界への帰依の心はそれだけ価値が薄められ容積が大いに減らされることになります。その信仰の念もキリストに届くことは届きます。しかしその信仰心には恐怖心が混じっており、それが効果を弱めます。

それだけに、願わくはキリストへの愛をもってその恐怖心を棄て去り、たとえ些細な点において誤っていようと、勇気をもってキリストの真実について考えようとする者を、キリストはいささかも不快に思われることはないとの確信が持てるまでに、

キリストへの愛に燃えていただきたいのです。吾々もキリストへの愛に燃えております。しかも恐れることはありません。

なぜなら吾々は所詮キリストのすべてを理解する力はないこと、謙虚さと誠意をもって臨めば、キリストについての真実をいくら求めようと、それによる災いも微罰もあり得ぬことを知っているからです。

 同じことを貴殿にも望みたいのです。そしてキリストはキリスト教徒が想像するより遥かに大いなる威厳を具えた方であると同時に、その完全なる愛は人間の想像をはるかに超えたものであることを確信なさるがよろしい。


──キリストは地上に数回にわたって降誕しておられるという説があります。たとえば(ヒンズー教の)クリシュナや(仏教の)ブッタなどがそれだというのですが、本当でしょうか。

 事実ではありません。そんなに、あれやこれやに生まれ変ってはおりません。そのことを詮索する前に、キリストと呼ばれている存在の本性と真実について理解すべきです。

とは言え、それは吾々にとっても、吾々より上の界の者にとってもいまだに謎であると、さきほど述べました。そういう次第ですから、せめて私の知るかぎりのことをお伝えしようとするとどうしても自家撞着(パラドックス)に陥ってしまうのです。

 ガリラヤのイエスとして顕現しそのイエスを通して父を顕現したキリストがブッダを通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。

またキリストという存在が唯一でなく数多く存在するというのも真実ではありません。イエス・キリストは父の一つの側面の顕現であり、ブッダ・キリストはまた別の側面の顕現です。しかも両者は唯一のキリストの異なれる側面でもあるのです。

 人間も一人一人が造物主の異なれる側面の顕現です。しかしすべての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストとブッダ・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。

しかし顕現の大きさからいうとイエス・キリストの方がブッダ・キリストに優ります。

が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この二つの名前つまりイエス・キリストとブッダ・キリストを持ち出したのはたまたまそうしたまでのことで、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、そのすべてに右に述べたことが当てはまります。

 貴殿が神の心を見出さんとして天界へ目を向けるのは結構です。しかしたとえばこのキリストの真相の問題などで思案に余った時は、バイブルを開いてその素朴な記録の中に兄貴としてまた友人としての主イエスを見出されるがよろしい。

その孤独な男らしさの中に崇拝の対象とするに足る神性を見出すことでしょう。差し当たってそれを地上生活の目標としてイエスと同等の完璧さを成就することができれば、こちらへ来られた時に主はさらにその先を歩んでおられることを知ることになります。

天界へ目を馳せ憧憬を抱くのは結構ですが、その時にも、すぐ身のまわりも驚異に満ち慰めとなるべき優しさにあふれていることを忘れてはなりません。

 ある夏の宵のことです。二人の女の子が家の前で遊んでおりました。家の中には祖母(バア)ちゃんがローソクの光で二人の長靴下を繕っておりました。そのうち片方の子が夜空を指さして言いました。

 「あの星はあたしのものよ。ほかのよりも大きくて明るいわ。メアリ、あなたはどれにする?」
 するとメアリが言いました。

 「あたしはあの赤いのにするわ。あれも大きいし、色も素敵よ。ほかの星のように冷たい感じがしないもの」

 こうして二人は言い合いを始めました。どっちも譲ろうとしません。それでついに二人はばあちゃんを外に呼び出して、どれが一ばん素敵だと思うかと尋ねました。ばあちゃんならきっとどれかに決めてくれると思ったのです。ところがばあちゃんは夜空を見上げようともせず、相変わらず繕いを続けながらこう言いました。

 「そんな暇はありませんよ。お前たちの長鞄下の繕いで忙しいんだよ。それに、そんな必要もありませんよ。あたしはあたしの一ばん好きな星に腰かけてるんだもの。これがあたしには一ばん重宝(ちょうほう) しているよ」 アーネル ± 









シアトルの夏 14章 霊界通信の難しさ

Teachings of Silver Birch

A.W.オースチン(編) 近藤千雄(訳)




〔シルバーバーチの交霊会にたびたび出席しているメンバーは、霊界通信の問題点を知っているが、彼らは霊界側があらゆる障壁を打ち破って地上にメッセージを送ってきたという事実にしばしば驚かされる。シルバーバーチは霊媒をコントロールするシステムを見事に進化させてきたために、霊媒を通して彼の思想のすべてを地上に伝えることができると述べている。とは言うもののシルバーバーチは、時に霊媒の潜在意識が通信の妨げになることも認めている。この章では、霊界通信に関するさまざまな問題を取り上げている。〕


あなた方の住む物質界は活気がなく、どんよりとしています。あまりに重苦しくてうっとうしいために、私たちがそれに合わせようとバイブレーションを下げていくうちに高級界との連絡が途切れてしまうことがあります。私の住む光の世界とは対照的に、あなた方の世界は暗くて、冷たくて、じとじとした世界です。

あなた方は、目も眩(くら)まんばかりに神々しく光り輝く霊界の太陽を、まだご覧になったことがありません。あなた方はその色あせた模造を見ているにすぎません。ちょうど月が太陽の光を反射して輝いているように、あなた方の目に映っている太陽は、私たちの太陽のかすかな反射程度にすぎないのです。

こうして地上に降りてきた私は、カゴに入れられた小鳥のようなものです。用事を済ませて地上から去っていくときの私は、鳥カゴから放たれた小鳥のように、果てしない宇宙の彼方(かなた)へ喜び勇んで飛び去っていきます。あなた方の言う“死”とは、鳥カゴという牢獄から解放されることなのです。

あなた方から「知り合いの霊からのメッセージを教えてほしい」と頼まれたときには、私はその霊のレベルに合わせたバイブレーションに切り換えます。そのときの私は、単なるマウスピースにすぎません。状態がよいときは簡単に霊からのメッセージをキャッチできます。しかし、この交霊会が開かれている部屋の近所で何か事が起きると混乱が生じます。突然、通信ルートが途絶えてしまうことがあります。そうしたとき私は、急いで別の通信ルートに切り換えなければなりません。バイブレーションを新しいものに切り換えるということです。

個人的なメッセージを伝えるとき、相手の霊が言っていることが手に取るように聞こえることがあります。それはこうして私が今この霊媒を使って語っているときのように、同じレベルのバイブレーションで通じ合っていることを意味します。

しかし、これが高級界からの啓示を受け取るとなると、そう簡単にはいきません。私は別の意識に切り換えなくてはならないため、同じバイブレーションを使うわけにはいきません。シンボルとか映像、ビジョン、直観といった形で印象を受け取り、それを言語で表現することになります。それは地上の霊能者が啓示に接するのと非常によく似ています。そのときの私は、普段シルバーバーチとして親しんでくださっている意識よりも、一段と高い次元の意識を表現しています。

画家がインスピレーションを受けるときは、いつも使用しているものとは異なるバイブレーションに反応しています。その状態の中で画家は霊力の受け手となり、それを映像に転換してキャンバスの上に描きます。インスピレーションが去ると、それができなくなります。

これと同じで、私が皆さんに霊的真理を伝えようとするときは、高度なバイブレーションに反応できる意識の回路を開き、霊界からのメッセージを表現しなければなりません。そうすることで高級霊は、私を道具として用いることができるのです。

その際、私はこの霊媒の語彙(ごい)(記憶している言葉)の制約を受けるだけでなく、霊媒の魂の進化の程度による制約も受けます。霊媒が霊的に成長すればその分だけ、それまで表現できなかったことが表現できるようになるのです。

今ではこの霊媒の脳のどこにどんな単語があるのかが分かっていますから、それらを何とか駆使して、私の思ったことやここへ来るまでに用意した思想を百パーセント表現することができます。

この霊媒を通じて語り始めた頃は、霊媒の脳の中にある一つの単語を使おうとすると、それとつながった不要な単語まで出てきて困りました。神経、特に脳の中枢全体をコントロールする術(すべ)を身につけなければなりませんでした。それによって必要な単語だけを用いることができるようになりました。現在でも霊媒の影響をまったく受けていないとは言えません。時々、霊媒の言葉が私のメッセージをわずかに着色することがあります。しかし、私の言おうとする内容が変えられることはありません。

あなた方西洋人の精神構造は、私たちとはかなり違います。私たちインディアンの霊が(西洋人の)霊媒をうまく使いこなせるようになるには、相当の年数を要します。霊媒的素質を持った者の睡眠中に、その霊的身体を使って実験を繰り返します。そうした訓練の末に、ようやくこうして霊媒を入神させてその口を使って語ることができるようになるのです。

他人の身体を使ってみると、人間の身体がいかに複雑にできているかがよく分かります。霊媒の心臓をいつものように鼓動させ、血液を循環させ、肺を伸縮させ、適度な刺激によって脳の機能を正常に保つ一方で、彼の潜在意識の流れを止めて、その間に私たちの考えを送り込みます。それは容易なことではありません。

初めのうちは、そうした操作を意識的にやらなければなりません。それが上達の常道というものです。赤ん坊が歩けるようになるには、最初は一歩一歩、足を運ぶことをマスターしなければなりません。そのうち意識しなくても自然に足が出るようになります。私がこの霊媒をコントロールできるようになるまでには、やはり同じような経過をたどりました。しかし、今では自動的にできるようになっています。

他界したばかりの霊が霊媒を通してしゃべるときは、そこまでする必要はありません。霊媒の潜在意識に霊の思念を印象づけるだけでよいのです。それでもかなりの練習が要ります。その練習をこちらの世界の者同士で行いますが、それほど簡単なものではありません。こうして霊媒の口を使って語るよりは、メガホンを使ってしゃべる方がずっと楽です。


訳注――物理的心霊実験で、霊界の技術者がメガホンの中にエクトプラズムで発声器官をつくり、通信霊がそれを口にあててしゃべる。この種の心霊現象は、初期のスピリチュアリズムにおいて盛んに演出された。

人間の潜在意識には、それまでの長年の生活によって決まったパターンが形成されています。考え方や表現方法や用いる概念に、一定の傾向ができ上がっています。その潜在意識を使ってこちらの思想やアイデアや単語を伝えるためには、潜在意識の流れ(回路)をいったん止めて、新しい回路をつくらなくてはなりません。もしも同じような考えが潜在意識にあれば、その回路に切り換えます。それはレコードプレーヤーのようなものです。レコード板のトラック(溝)の上に針を置けば、自動的に曲が出てくるのと同じです。

私がこの部屋に入ってくるのに壁は障害にはなりません。私のバイブレーションにとって壁は硬い物質ではないのです。むしろ霊媒のオーラの方が硬い壁のように感じられます。霊媒のオーラが私のバイブレーションに影響を及ぼすからです。霊媒のオーラは私にとっては牢獄のようなもので、私は霊媒の肉体によって制約を受けます。そのため私はバイブレーションを下げ、霊媒の方はバイブレーションを高めなければなりません。それがうまくいくようになるのに十五年もかかりました。

霊媒のオーラの中にいる間は暗くて何も見えません。霊媒の肉体によって私の能力は制約を受けます。この霊媒は、子供のときから霊媒として必要なすべてのことを身につけなければなりませんでした。そして私は、この霊媒をどのように使用するかを学ばなければなりませんでした。もっとも、足の使い方は知る必要がありませんでした。私には足は用がないからです。必要なのは脳と手だけです。

この霊媒を支配しているときに別の霊からのメッセージが届き、それをそのまま伝えることがありますが、その際は霊媒の耳を使うのではなく私自身の霊耳(れいじ)を使います。これも霊媒のオーラと私のオーラの問題です。私のオーラは霊媒のオーラほど鈍重ではなく、霊媒のオーラの中にいるときでも、他の霊が私のオーラに思念を印象づけることができるのです。

それは譬えてみるなら、皆さんが誰かと電話で話をしながら、同じ部屋にいる別の人の話を聞くのと同じことです。それは二つの異なるバイブレーションを利用しているわけです。二つの行為を同時にすることはできませんが、バイブレーションを切り換えることはできます。
質疑応答


――霊言現象は、霊が霊媒の身体の中に入ってしゃべるのですか。


必ずしもそうではありません。大抵の場合、霊媒のオーラを通じて操作します。


――霊は、霊媒の発声器官を使いますか。


使うこともあります。現に私は今、この霊媒の発声器官を使っています。もし私がそうしようと思えば(エクトプラズムで)私自身の発声器官をつくることも可能ですが、エネルギーの無駄づかいになります。私の場合はこの霊媒の潜在意識を完全に支配していますから、霊媒のすべての肉体器官をコントロールすることができます。言わば霊媒の意志まで私が代行し――本人の同意を得ての話ですが――その間だけ身体を預かるわけです。通信が終わると私はオーラから退き、霊媒は意識が戻って、いつもの状態になります。


――霊媒の霊的身体を使うこともありますか。


ありますが、その霊的身体は常に肉体とつながっています。


――交霊会を邪魔しようとする低級霊集団を排除するためには、参加者にも心の準備が要りますか。


当然、要ります。何よりも大切なことは、あなた方の心と魂を「愛」で満たすことです。そうすれば同じように愛にあふれた霊以外は近づきません。


――交霊会を開くときには、霊界側でもそのための配慮をするのですか。


もちろんです。常に妨げるものがない状態にしておかなければなりません。あなた方との調和もはからなければなりません。最高の成果をあげるためには、あらゆる要素を考慮しなければならないのです。その目的のために私たちは、高度に組織された体制で臨んでいます。


――霊媒は本をよく読んで勉強し、少しでも多くの知識を得た方がよいでしょうか。それとも自分の霊媒能力に自信を持って、それ一つで勝負した方がよいでしょうか。


心霊能力の種類にもよるでしょうが、霊媒は何も知らない方がいいという意見には賛成できません。知識は、ないよりはあった方がいいと思います。知識というのは先人たちの経験の蓄積ですから、勉強してそれを身につけるように努力するのが賢明でしょう。私はそう考えます。


――立派な霊能者になるためには、霊的な生活を送る必要がありますか。


あなたがより良い生活を送れば、それだけ大霊の道具として立派になります。生活態度が高尚であればあるほど、それだけ内部に宿された神性が多く発揮されることになります。日常生活で発揮されているあなた自身の霊性が、あなたをより優れた道具にしていくのです。


――ということは、霊的に向上すればするほど霊能者としても向上すると言ってよいでしょうか。


その通りです。生活面が立派であればあるほど、霊能力も立派になります。自分を犠牲にする覚悟のできていない人間は、価値ある仕事を達成することはできません。これは、こうして霊界での生活を犠牲にして地上へ戻ってきた私たちが身をもって学んできた教訓そのものなのです。


――他界した霊からの援助を受けるにはどうすればよいでしょうか。


かつてあなたが愛し、またあなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てるようなことはありません。あなたは常に彼らの愛に包まれています。彼らにはあなたに対する愛があるため、あなたの傍(そば)を離れることはありません。

時に彼らは、誰よりも身近にいることがあります。彼らは、あなたに対して、自分たちの影響力を及ぼすこともできるのです。あなたは、そうした霊界からの働きかけを受け入れやすいときもあれば、恐怖感・悩み・心配等の念に心がとらわれて壁をつくり、彼らが近づくことを困難にするときもあります。悲しみの涙に暮れていると、その涙であなたを愛する霊たちを遠くへ押しやってしまいます。穏やかな心・安らかな気持ち・希望と信念と自信に満ちた明るい雰囲気に包まれているときには、大勢の霊が寄ってくることを実感するようになります。

私たち霊界の者は、地上の人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どの程度まで接近できるかは、その人の雰囲気、人間的成長の度合、霊的進化の程度によります。霊的なものに一切反応しない人間とは、接触できません。霊的自覚・悟り、ないしは霊的活気のある人間とはすぐに接触が可能となり、一体関係をつくることができます。

それは必ずしもスピリチュアリストとは限りません。知識としてスピリチュアリズムのことは知らなくても、霊的なことが理解できればそれでよいのです。とにかく冷静で受容的な心を保つことです。そうすれば私たち霊界の者は、あなた方に近づくことができるのです。恐れや悩みや心配の念を心に宿してはいけません。それらは心にモヤを生み出し、私たちが近づくことを困難にしてしまいます。


――愛していた人間が他界した場合、こちらから送った愛念はその霊に通じますか。


一概に「イエス」とも「ノー」とも言いかねます。魂の進化のレベルが問題となるからです。双方が精神的ならびに霊的に同じレベルであるならば通じるでしょう。が、あまりにも離れ過ぎていれば、地上からの思いは通じないことになります。


――他界した人のことをあまり心配すると、彼らの向上の妨げになるのでしょうか。


地上の人間に霊界の人間の進歩を妨げる力はありません。霊界の人間は霊界での行為によって進歩するのであって、地上の人間の行為とは関係ありません。


訳注――例によってシルバーバーチは大所高所から、つまり永遠の生命の観点から述べている。が、実際には病的なほど死者を嘆き悲しむ人間がいるのも事実で、その念が死者をいつまでも地上圏に引き留めている例は少なくない。


――どうすれば霊媒や霊視能力者になれるのでしょうか。


大霊のために自分を役立てようとする人間は皆、大霊の霊媒です。いかにして魂を向上させるか――これはもう改めて説くまでもないでしょう。これまで何回となく繰り返し説いてきたことではないでしょうか。

自分を愛するように隣人を愛することです。人のために役立つことをすることです。自我を高めるように努力することです。何でもよろしい、内部に宿る神性を発揮させることです。それが最高の霊媒現象なのです。こうすれば霊視能力者になれるという方法はありません。が、大霊の光が見えるように魂の目を開く方法なら教えられます。それは今述べた通りです。


――世俗から隔絶した場所で瞑想の生活を送っている人がいますが、あれでよいのでしょうか。


「よい」という言葉の意味しだいです。世俗から離れた生活は心霊能力の開発には好都合で、その意味ではよいことと言えるでしょう。が、私の考えでは、世俗の中で生活しつつしかも世俗から超然とした生き方をする方がはるかに上です。つまり努力と忍耐と向上を通して自己を確立したのちに、大霊から授かった霊力を同胞のために役立てるのが、より良い生き方なのです。


――世俗から離れた生活は自分のためでしかないということでしょうか。


いちばん大切なことは、他人のために己(おのれ)を捨てるということです。自分の能力を発達させようとすること自体は間違ってはいませんが、開発した才能を他人のために活用するのは、はるかに大切なことです。


――これからホームサークルをつくりたいと思っている人たちへのアドバイスをいただけますか。


ホームサークルをつくってそこに霊力を顕現させるためには、たいへんな忍耐と交霊会を継続していくための準備が必要となります。

イヤな思いをすることのない、本当に心が通い合う人々が同じ目的を持って一つのグループをつくります。そして週に一回、同じ時刻に集まり、一時間ばかり、あるいはもう少し長くてもよいのですが、祈りから始めて受動的な状態をつくります。各自が前もって、本当に自分たちは目的を達成したいと願っているか、心の内を厳しく見つめ、動機や意欲を問いたださなければなりません。

人のために役立ちたいとの動機から出発しているなら、粘り強くホームサークルを続けていくことです。もし動機が面白半分から出ているとすれば、良い結果は得られません。サークルのメンバーが一つの場所に集い、心を一つにし、霊力を顕現させようと願っているなら、そのとき霊力との触れ合いが始まり、徐々にそれが顕現するようになっていきます。

私たちの目的は、人目を引くことばかりしたがる見栄っ張りを喜ばせることではありません。人類の霊性を引き上げ、使わずに忘れ去られてきた大霊から授かった霊力をもう一度、見いださせてあげることなのです。

 





シアトルの夏  再生(生まれ変わり)

Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編) 近藤千雄(訳)



〔再生は、スピリチュアリズムにおいても異論の多いテーマで、通信を送ってくる霊の間でも意見の食い違いがある。シルバーバーチは再生を全面的に肯定する一人であるが、従来の輪廻転生説のような機械的な生の繰り返しではなく、大きな意識体の別の部分が異なる時に肉体を持って誕生することであると言う。ここでは再生に関する質問にシルバーバーチが答える。〕


――一つの意識が部分に分かれて機能することが可能なのでしょうか。


今の“あなた”という意識とは別に、同じく“あなた”と言える大きな意識体(類魂)があります。そのほんの小さな一部が地球という物質界で発現しているのが、今のあなたなのです。そして、今のあなたの他にも同じ意識体を構成する他の部分が、それぞれの意識層で発現しています。


――個々の部分(霊)は独立しているのでしょうか。


独立はしていません。あなたも他の霊も、一個の「内奥(ないおう)の霊的実在(類魂)」の側面なのです。つまり全体を構成する一部であり、それぞれがさまざまな表現媒体を通して自我を発現しており、時にその霊同士が一体化することもあります。彼らは自我を発現し始めて間もない頃にはお互いの存在に気がつきませんが、そのうちすべての霊が共通の合流点を見いだして、再び統一されます。


訳注――フレデリック・マイヤースはこの時から十数年前に送ってきた最初の通信『永遠の大道』の中で同じ説を「グループ・ソウル」という呼び方で紹介し、スピリチュアリズム思想に飛躍的発展をもたらした。それからさらに十年後、ちょうど本書(原書)が出た頃に二つ目の通信『個人的存在の彼方』でさらに詳しい解説を施してくれた。シルバーバーチは、別のところで「それはマイヤースの言うグループ・ソウルと同じですか」と問われて、「まったく同じものです」と答えている。なお、このグループ・ソウルを浅野氏は「類魂」と訳した。本書も、この訳語に倣っている。


――こうした霊同士が出会っていながら、それに気づかないことがあるでしょうか。


大きな意識体(類魂)を、一つの大きな円として想像してください。大きな円(類魂)を構成する個々の霊は、その円に対して同心円を描いて回転しています。時おりその霊同士が出会い、お互いが共通の大きな円の中にいることを認識します。最後には個々の霊は回転することをやめ、それぞれの場を得て一体化し、元の円(類魂)が完成します。


――二つの霊が連絡し合うことはできますか。


その必要があればできます。


――二つの霊が同時に地上に誕生することがありますか。


ありません。それは全体の目的に反することだからです。個々の霊の再生の目的は、あらゆる界層での体験を得るということです。同じ界層へもう一度戻るのは、それなりの成就すべき(埋め合わせをすべき)ことが残っている場合に限られます。


――類魂では、個々の霊はその進化に自らが責任を負い、他の霊が学んだ教訓による恩恵は受けないというのは本当でしょうか。


その通りです。個々の霊は一つの大きな意識体(類魂)の構成分子であり、さまざまな形態で自我を発現しているわけです。進化するにつれて個々の霊は大きな意識体を自覚するようになります。


訳注――マイヤースは「類魂」の説明の中で他の仲間の体験を自分のものにすることができると述べている。ここでシルバーバーチはそれを否定するかのようなことを述べているが、マイヤースが言及しているのは、地上体験の共有化による霊的成長についてである。それに対し、シルバーバーチがここで述べているのは、個人が犯した罪の償いと霊的成長についての関係である。たとえ同じ類魂の仲間とはいえ、他の霊が地上で犯した罪を代わって償い、霊的成長を促すことはできないという意味に解釈すべきである。


――そして、進化のある一点において、それらの霊が一体となるわけですね?


そうです。無限の時を経てのことですが……。


――個々の霊の地上への誕生は一回きり、つまり大きな意識体(類魂)としては再生の概念が当てはまっても、個々の霊には再生はないという考えは正しいでしょうか。


再生は個々の霊の成就すべき目的に関わる問題です。特殊な使命がある場合など、同じ霊が二度も三度も再生することがあります。


――一つの意識体の異なる部分とは、どういうものでしょうか。


これは説明の難しい問題です。あなた方には「生きている」ということの本当の意味が理解できないからです。あなた方にとっての生命とは、実は最も進化の低い形態で顕現しているものなのです。あなた方の考えが及ぶすべてのものを超越している生命の実相を思い描くことはできません。

宗教家が高次の神秘体験をしたと言い、芸術家が最高のインスピレーションに触れたと言い、詩人が恍惚(こうこつ)たる喜悦に浸ったと言っても、私たち霊界の者からすれば、それは実在のかすかな影を見たにすぎません。あなた方は、物質世界の鈍重さによって自己を表現することを制限されているため、生命の実相を理解することができません。それなのにどうして、「意識とは何か、どのようにしたら自分を意識できるようになるのか」といった問いに答えられるでしょうか。

私の苦労を察してください。譬えるものがあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれがなく、あなた方にはせいぜい、光と影、日向(ひなた)と日陰の比較くらいしかできません。地上界の虹の色は確かに美しいですが、それとて地上人の理解を超えている霊界の色彩と比べることはできません。


――個々の霊の一つひとつを、大きな意識体のさまざまな特性・人間性の側面と考えてもよいでしょうか。


いいえ、それはまったく違います。大きな意識体の別々の側面ではありません。どうもこうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の青く澄み切った空の美しさを説明するようなもので、譬えることができません。


――あなたの言う大きな意識体は、マイヤースの言う「類魂(グループ・ソウル)」と同じものですか。


まったく同じものです。ただし、単なる個々の霊の集まりとは違い、異なる意識から形成された統一体(大きな意識体)で、その全体の進化のために各自が体験を求めて物質界にやって来るのです。


――それぞれの霊は類魂に戻って一体化すると、個性を失ってしまうのでしょうか。


川の水が大海へ流れ込んだとき、その水の存在は失われてしまうでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏しているとき、バイオリンの音は消えてしまうでしょうか。


――なぜ、霊界サイドから再生の証拠を提供してくれないのでしょうか。


こうした「霊言」という手段では説明のしようがない「再生の問題」についての証拠など、示すことができるでしょうか。あなた方の意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になって初めて、それを認めることができるのです。こちらの世界にも“再生はない”と言う者が大勢いますが、それは彼らが、まだ再生の事実を受け入れることができる意識段階に達していないからです。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに説明することができるでしょうか。芸術家がそのインスピレーションの体験をまったく芸術的センスのない人に説明できるでしょうか。意識の段階が違うのです。


――再生するときは、魂(霊)はそれを知っているのでしょうか。


魂自身は直感的に知っていますが、知的にそれを知っているわけではありません。魂(大霊の分霊)は、永遠の時の流れの中で一歩一歩、徐々に自らを発現させていきます。しかしどの段階であっても、発現されていない部分が大半を占めています。


――では、魂は無意識のまま再生するのでしょうか。


それは、魂の進化の程度によります。多くの魂は再生する前にそれを知っていますが、知らない魂もあります。魂は知っていても知的には意識しないまま再生することもあります。これは生命の神秘中の神秘に触れる問題であり、とうてい地上の言語で説明できるものではありません。


――生命がそのように絶え間なく変化し進歩するものであるなら、生まれ変わりが事実だとしても、どのようにしたら霊界へ行ったとき地上で愛し合っていた人々と会い、地上で約束した再会の喜びを味わうことができるのでしょうか。


愛は必ず成就します。なぜなら愛こそが宇宙最大の力だからです。愛する者同士は常に、愛の絆によって引き寄せられます。愛で結ばれた者たちを引き裂くことは、絶対にできません。


――でも、再生を繰り返せば、互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが……。


一致しないのは、あなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念でしょう。宇宙とその法則は大霊によって造られたものであり、大霊の子供であるあなた方がつくったものではありません。賢明な人間は新しい事実を前にすると自分の考えを改めます。自分の思い通りにしようとしても、その事実を変えることはできないことを知っているからです。


――これまで何度も地上生活を体験していることが事実だとすると、もっと進化し、理想的な人間になっているはずだと思うのですが……。


物質界にあっても聖人は聖人であり、最下等の人間は最下等の人間なのです。地上だから、霊界だからということで違いが生じるのではありません。要は魂の進化の問題です。


――これからも、これまでのように苦難の道が無限に続くのでしょうか。


そうです。無限に続きます。苦しみや困難という試練を通して内部の大霊(神性)が開発されます。苦難によって神性は試されるのです。金塊がハンマーで砕かれ精錬されて初めてあの輝きを見せるように、内なる神性も苦難の試練を受けて純化され、強化され、洗練されることになります。


――そうなると、死後に天国があるという考えは意味がないのでしょうか。


今日のあなたには天国のように思えることが、明日は天国とは思えなくなるものです。というのは、真の幸福は今より少しでも高いものを目指して不断の努力をするところにあるからです。


――再生するときは前世と同じ国(民族)に生まれるのでしょうか。例えばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に……。


そうとは限りません。さらなる進化のために最適と思われる国や民族を選びます。


――男性か女性かの選択も同じですか。


はい、同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。


――死後、霊界で地上生活の償いをさせられるだけでなく、地上に再生してからも同じ罪を償わなければならないというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのでしょうか。


それは償うとか罰するとかの問題ではなくて、進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているかどうか、魂の教育と向上という一連の鎖を強化する必要があるかどうかということです。必ずしも罪の償いのためではなく、欠けている部分を埋める目的で再生する場合がよくあります。魂を鍛えるためであったり、前世で学べなかった教訓を学ぶために再生する場合もあります。再生は罪の償いのためだけとは限りません。二度も三度も罰せられるというようなことは決してありません。大霊の摂理を知れば、その完璧さに驚かれるはずです。なぜなら摂理を造られた大霊そのものが、完全な存在だからです。


――自分はこれまでに地上生活を何回経験しているかということが、明確に分かる霊がいますか。


います。それを知ることが必要な段階にまで成長すれば、分かるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることができないのと同じです。名前をいくつか挙げてもけっこうですが、それでは何の証拠にもなりません。何度も言ってきましたが、再生の事実は「説く」だけで十分です。

私は大霊の摂理について私なりに理解したことを述べているのです。知り得たかぎりの真理を述べているにすぎません。私の語ることに得心がいかない人がいても、それはいっこうにかまいません。ありのままの事実を述べているだけですから、受け入れてもらえなくてもかまいません。私と同じだけの年数を生きたなら、その人もきっと考えが変わることでしょう。


――異論の多い再生の問題を避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼることはいかがでしょうか。


闇の中にいるよりは、光の中にいる方がよいでしょう。無知のままでいるよりは、知識を得た方がよいでしょう。大霊の摂理について知らないよりは、知った方がよいでしょう。何もしないでじっとしているよりは、真実を求めて忍耐強く努力する方がよいでしょう。進歩のために努力し続けることが大切なのです。死後にも生命が存続することを知ったからといって、真理探求の道が終わったわけではありません。自分が大霊の分霊であり、それゆえに何の支障もなく死の関門を通過し、すべてが続いていくことを理解したとき、さらなる探求の歩みが始まります。それが本当の意味での出発なのです。


Monday, June 23, 2025

シアトルの夏 睡眠中は何をしているのか

Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編) 近藤千雄(訳)



〔睡眠中に体験したことを翌朝になって思い出せる人が何人いるであろうか。もし睡眠中に霊界で活動しているのなら、肉体に戻ったときにその間のことを少しは思い出してもよさそうなものである。シルバーバーチはここで、なぜ睡眠中の体験が脳に記憶されないのか、その理由を述べている。〕


実は、すべての人間が睡眠中に霊界を訪れています。これは霊的身体を死後の環境に適応しやすくするための大霊の配慮の一つなのです。その体験は、いよいよ肉体との縁が切れたときにショックを和らげてくれます。そして地上時代に霊界を訪れたときの記憶が徐々に蘇り、新しい環境への適応が促進されるようになるのです。それはちょうど地上生活の中で、子供の頃の体験を思い出すようなものです。

物質界では(脳を中枢とする)小さな意識しか持てないため、より大きな霊的意識の中で生じたことを思い出すのは困難です。あなた方は死ぬまで、本当の意味で生きているとは言えないのです。しかし時に地上界でも、覚醒中に背後霊との一体化がなされ、一瞬の間ではあっても物質界では味わえない天上的な至福感に浸ることがあります。

霊性のレベル、いわゆる霊格は、魂の進化の程度によって決まります。霊界では誰もが行きたい所へ行けますが、それには霊性のレベルによる制約があります。ある者は睡眠中に暗い界層へ行きます。この場合、二つのケースが考えられます。一つは、その人の霊性のレベルが低いために、親和力によってそれに見合った環境へ惹きつけられるケースです。もう一つは、霊性の高い人が(低い界層の霊たちを)救済するために、自ら願って出向くケースです。

死後の世界では、肉体に宿った(睡眠中の)地上人の霊が、低級霊の救済に役立つことが多いのです。バイブルにもイエスがいわゆる“地獄”へ降りていった話があります。この場合は睡眠中ではありませんが、原理的には同じことです。

訓練によって睡眠中のことを思い出せるようにすることは、不可能ではありません。しかしそれには、霊的意識を脳の細胞に印象づける訓練をしなければならないため、かなりの努力が要求されます。睡眠中の体験を思い出すことは物的身体と霊的身体との連携がどれほど緊密かによって決まるため、人によって難しさの程度が異なります。睡眠中の体験を容易に思い出せるようになる人は、優れた精神的霊媒(主観的心霊現象に関わる霊媒)になれる素質を持った人と言えます。
質疑応答


――死んでから低い界層に行った人はどんな状態なのでしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたときのこと――多分低い界層だろうと思いますが――を思い出すのでしょうか。そしてそれがその人の死後の世界への適応に役に立つのでしょうか。


低い界層へ惹きつけられていく人は、睡眠中にその界層を訪れているのですが、そのときの記憶は死を自覚するうえでは役に立ちません。なぜならそうした人が目覚める界層は、地上ときわめて似ているからです。死後の世界は低い界層ほど地上によく似ています。バイブレーションが粗いからです。高い界層ほどバイブレーションが精妙になります。


――朝、目覚めて、睡眠中の霊界での体験を思い出すことがあるのでしょうか。


睡眠中、あなた方の霊は肉体から抜け出ていますから、当然、脳から解放されています。脳はあなた方を物質界につなぎ止める肉体器官です。睡眠中、あなた方は魂の発達程度に応じたバイブレーションの世界での体験をします。その時点ではあなた方はそこでの体験を意識しているのですが、肉体に戻って睡眠中の体験を思い出そうとしても思い出すことはできません。それは、霊界での体験の方が地上よりも大きいからです。小さなものは、大きなものを包むことはできません。そのために歪(ゆが)みが生じるのです。

譬えて言うならそれは、小さな袋の中に無理やり多くのモノを詰め込むようなものです。袋には容量があり、無理やり詰め込むと、モノの形は歪んでしまいます。それと同じことが、あなた方が霊的世界から肉体に戻るときに生じるのです。ただし魂がすでに進化しており、意識がある段階に到達している場合には、霊界での体験を思い出せるようになります。脳を訓練することができるからです。

実を言いますと、私はここにおられる皆さんとは、睡眠中によく会っているのです。その際、私は「地上に戻ったら、今体験していることを思い出してください」と言うのですが、どうも思い出してくださらないようです。皆さん方、一人ひとりに会って、あちらこちらを案内しているのです。でも、今は思い出してくださらなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから……。


――こうした霊的体験の記憶は、私たちが死んでそちらへ行ったときに役に立つということでしょうか。


そうです。何ひとつ無駄にはなりません。摂理は完璧です。長年、霊界で生活を送ってきた私たちは、神の摂理の完璧さにただただ驚くばかりです。大霊を非難する地上の人間のお粗末なセリフを聞いていると、まったく情けなくなります。知らない者ほど己の無知をさらけ出すものです。


――睡眠中に仕事で霊界へ行く人もいるのでしょうか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的でしょうか。


仕事をしに来る人は確かにいます。霊界には、地上人が睡眠中に貢献できる仕事があるからです。しかし、大抵は死後の準備のためです。地上界を去った後、霊界ですることになっている仕事の準備のために、睡眠中にしかるべき所へ連れていかれます。そうした準備をしないでいきなり霊界へ来ると、ショックが大きくて回復に時間がかかってしまいます。

地上時代から霊的知識を知っておくと霊界への適応が容易になる、と言われるのはそのためです。霊的知識を知らなかった人は、霊界に適応できるようになるまで長い期間、眠った状態に置かれます。あらかじめ知識があれば地上から霊界への移行がスムーズになされ、新しい自覚が早く得られるようになります。

それはちょうど、ドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光のまぶしさに慣れなければなりません。闇の中にいた人が光に慣れるには時間がかかります。地上の赤ん坊のよちよち歩きと同じです。彼らには地上時代の体験の記憶はあっても、夢を思い出しているような状態なのです。

いずれにしても体験というものは、地上であれ霊界であれ、何ひとつ無駄なものはありません。そのことをよく胸に刻み込んでおいてください。


――夢について説明していただけませんか。どう考えても霊界での体験の記憶とは思えないものがありますが……。


夢には数えきれないほどの種類があります。(幽体離脱中の)脳の残像の反映にすぎないものとか、食べたものの影響など、物理的に説明のつく夢もありますが、そうしたものの他に、霊界での体験が断片的な形として記憶され、それが夢になっているものがあります。

夢が支離滅裂になりがちなのは、肉体の制約から離れて霊界へ行っていた人間が、再び肉体に戻ってその体験を思い出そうとすると、物質的制約の中でそれが歪んでしまうからです。


――睡眠中の人間に働きかける霊は、自分の働きかけがきちんとその人間の意識に印象づけられたかどうか分かるものでしょうか。


いいえ、必ずしも分かってはいません。それはこうした交霊会(入神談話)も同様で、どの程度まで伝わっているかは、その時点で判断がつくとは限りません。睡眠中の体験の印象づけも同じことです。


――もし私たちが、睡眠中に指導霊としばしば会っているとするなら、交霊会での話の中でそれについて言及することが少ないのはなぜでしょうか。


言及しているのです。皆さんはいつか、睡眠中の体験が自分の魂の中に記憶されていることを知るでしょう。たとえ今は脳を介して睡眠中の記憶を思い出せなくても、いずれそのことを知るようになるでしょう。そのうちその記憶が蘇ってくる日がきます。今は分かっていなくても、霊界での体験は事実だからです。


――睡眠中は、私たちの霊は肉体を離れていて、その間の肉体は言わば“空き家”になっているわけですが、そのようなときに地縛霊に侵入されたり憑依されたりしないための仕組みがあるのでしょうか。担当の背後霊が憑依されないように監視してくれているのでしょうか。


当人に憑依される原因がある場合は別として、睡眠中に低級霊に憑依されることがないのは、そのようにならない法則があるからです。

自我の本体である霊は、肉体の中に存在しているのではありません。霊は肉体とはバイブレーションが違っており、内側にあるとか外側にあるというようなものではありませんし、心臓と肺の間に挟まれて小さくなっているというようなものでもありません。本来のあなたは、地上で肉体器官を通して自我を表現している「意識体」なのです。

睡眠中の体験のすべては、その「意識体」が肉体ではなく霊体を通して自我を表現しているのであって、その間は霊界にいるわけです。その間に、その肉体に他の霊が入り込むようなことはありません。肉体のドアを開けて外出している間に別の者が入り込んでドアを閉めてしまうようなことはありません。「意識体」は睡眠中に肉体から霊体へと移行しますが、その際も相変わらず肉体を管理しており、肉体に戻る時間がくれば再び脳とつながった意識をすぐに取り戻します。


――ということは、憑依する霊は憑依される人間の霊の許しを得て侵入するということでしょうか。


そうではありません。憑依されるのはその人間の内部に憑依を引き起こす原因があってのことで、それぞれの人間の問題なのです。

あなた方の心が愛と奉仕の精神に満たされているときは、あなた方を道具として用いようとする高級霊が引き寄せられます。憑依もそれと同じ法則によって発生します。法則は善の方向だけに働くのではなく、悪の方向にも働きます。最高の奉仕のために働く法則は、悪なる行為にも働くのです。あなた方は高く上がることができますが、低く堕ちることもできるのです。どちらも同じ法則(親和性の法則)の働きです。その法則は、あなた方の選択に応じて働きます。


――予知的な夢は、そちら側から伝達されるのでしょうか。


そういうこともあります。愛の絆で結ばれた霊からの警告であることもあります。他に、物的束縛から放たれた霊的身体が未来の出来事を感知して、それを夢の形で持ち帰ることもあります。


――睡眠中は霊が肉体から離れているのに、肉体はどのようにして生気を保ち、死なないようになっているのでしょうか。


霊はシルバーコードで肉体とつながっているため、霊の意識は肉体に反映されるようになっています。シルバーコードが切れて霊と肉体とのつながりがなくなれば、霊は肉体を生かすことはできなくなってしまいます。


――麻酔をかけられている間、霊はどこにいるのでしょうか。


それは分かりません。どこかにいるのでしょう。どれくらい遠くへ行けるか、どんな所へ行くかは、その人の魂の進化の程度によって違ってきます。


――脳の障害によって生じた無意識状態と睡眠中の無意識状態とでは、何か違いがあるのでしょうか。


もちろんです。障害による無意識状態は、霊と肉体との正常な関係が妨げられることによって発生します。一方、睡眠は自然な生理現象で、霊は夜になると肉体のバイブレーションが下がることを知っていて、霊界へ行く準備をします。前者は物的身体に障害を与える異常現象であり、後者は正常な人間の営みの一部です。睡眠の場合は霊は自発的に肉体を離れますが、障害による場合は肉体が正常に機能しないため、霊は無理やり肉体から追い出される状態になります。

Sunday, June 22, 2025

シアトルの夏 死後の世界

Teachings of Silver Birch
A.W.オースチン(編)近藤千雄(訳)




〔シルバーバーチはよく、死後の世界の素晴らしさを語る。さらに、我々地上人が睡眠中にしばしばそこを訪れている事実を明らかにしている。残念なことに大半の人間は目覚めたとき、睡眠中の体験を思い出すことができないと言う。〕


私たちがお届けする霊の世界からの贈り物の意味を正しく理解すれば、私たちが地上界へ降りて仕事をするのは、あなた方に対する愛の思い以外の何ものでもないことがお分かりになるはずです。

あなた方はまだ、霊の世界の本当の素晴らしさを知りません。肉体の牢獄から解放され、望む所へは自由に行け、心で考えたことが形を取って眼前に現れ、好きなことにいくらでも専念でき、お金の心配がない……こうした霊界の生活と比べることができるものは、地上には存在しません。あなた方はまだ霊的世界の喜びを味わったことがないのです。

地上の人間は、美しさの本当の姿を理解することはできません。霊の世界の光、色彩、景色、樹木、小鳥、川、渓流、山、花、こうしたものがどれほど美しいか、あなた方はご存じありません。

地上の人間にとって「死」は、恐怖の最たるもののようです。が、人間は死んで初めて生きることになるのです。あなた方は自分では立派に生きているつもりでしょうが、実際にはほとんど死んでいるも同然です。霊的なことに対しては死人のごとく反応を示しません。小さな生命の灯火(ともしび)が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことにはいっこうに反応を示しません。ただ、徐々にではあっても進歩しています。私たちの働きかけによって、霊的な勢力が物質界に増えつつあります。霊的真理の光が広まることによって、暗闇は後退しつつあります。

霊の世界は地上の言語では表現できません。譬えるものが地上界には見いだせないのです。あなた方が“死人”と言っている霊界の者たちの方が、あなた方よりも生命の実相について、はるかに多くのことを知っています。

こちらの世界に来て、芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることができるようになります。画家も詩人も大きな夢を達成することができます。与えられた才能を思う存分発揮することができるようになるのです。こちらの世界では、あらゆる才能や素質は、お互いに奉仕するために用いられます。霊界における以心伝心の素晴らしさは、ぎこちない地上の言語ではとても表現できません。心に思うことが霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。

こちらには、金銭の心配がありません。生存競争というものがありません。弱者がいじめられることもありません。霊界での強者とは、弱者に手を差し伸べる力があるという意味だからです。失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。教典もありません。あるのは大霊の摂理だけです。

物質圏へ近づくにつれて、霊は思うことが表現できなくなります。正直に言って私も、地上界へ戻るのは気が進みませんでした。それなのにこうして戻ってくるのは、地上界のために役立ちたいとの約束をしたからであり、あなた方地上人に対する愛があるからです。あなた方への奉仕が、私に喜びを与えてくれるのです。

死ぬということは決して悲劇ではありません。むしろ地上で生きている方が悲劇です。大霊の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もない状態になっていることこそ悲劇なのです。

死は、肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由の喜びを満喫するようになることです。苦しみから解放されて霊本来の姿に戻ることが、本当に悲劇でしょうか。天上的色彩を眺め、物質的表現を超越した天上の音楽を聴けるようになることが悲劇でしょうか。痛みのない身体で自己を表現し、一瞬のうちに世界中を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなた方は悲劇と呼ぶのでしょうか。

地上のいかなる天才的画家も、霊の世界の壮大で美しい眺めを絵の具で描き出すことはできません。いかなる天才的音楽家も、その音楽の素晴らしさを音符で表現することはできません。いかなる名文家も、霊界の美の一端さえ地上の言語で書き表すことはできないのです。そのうちあなた方も、こちらの世界へ来られます。そしてそのすべてに驚嘆なさることでしょう。そのときあなた方は、真の意味で霊界を知ることになるのです。

地上は今まさに五月、辺りは美に包まれています。皆さんは大霊の顕現を至るところで目にしています。生命の息吹が辺り一面に広がっています。そして皆さんは花の美しさや芳香に触れて、神の御業(みわざ)は何と偉大なことかと感嘆しています。

しかし、その美しさも霊の世界の美しさと比べるならば色あせて見えます。霊の世界には、地上の誰ひとり見たことがない花があり、色彩があります。地上にはない風景や森があり、小鳥もいれば植物もあります。小川もあれば山もありますが、どれ一つ取っても、地上のそれとは比較にならないほど美しいのです。

そのうち皆さんも、その美しさを味わえる日がきます。そのときは、いわゆる「幽霊」になっています。
質疑応答


――霊的知識がないまま他界した者でも、こちらからの思いやりや祈りの念は届くのでしょうか。


死後の目覚めは理解力が芽生えたときに起こります。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でも私たちは、無知と誤解と迷信、間違った教義と神学をなくすために戦わなければなりません。それらは、死後の目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれるまでは、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかはありません。そのための長い長い休息が必要となります。

また、地上に病院があるように、こちらでも魂に深い傷を負った人たちを看護する施設があります。一方、地上時代に他者への奉仕に励み、他界に際して多くの人々から愛情と祈りを受けるほどの人物は、そうした人々の善意の波動によって目覚めが促進されるようになります。


――死後の生命を信じず、死ねば終わりだと思っている人はどうなりますか。


死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてから死後の世界の事実に直面することになります。目覚めるまでにどのくらい時間がかかるかは、魂の進化の程度によって違います。すなわち霊性がどれだけ発達しているか、新しい環境にどこまで順応できるかにかかっています。


――死ねばすべて終わりだと思っている人の死のプロセスには、困難がともないますか。


それも魂の進化の程度によります。一般的には、地上から霊界への移行に困難はともないません。大抵の人間は、死の瞬間を無意識状態で迎えるからです。死ぬときの様子を自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます。


――善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎(とが)めを受けるでしょうか。


私にはその「善人」とか「悪人」とかの意味が分かりませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、どれだけ内部の神性を発揮したかにかかっています。大切なことはそれだけです。知識はないよりはあるに越したことはありません。が、その人間の真価は、毎日をどう生きたかによって決まるのです。


――霊界では、愛する人と再会したり若返ったりするのでしょうか。イエスは「天国では娶(めと)ったり嫁いだりすることはない」と言っていますが……。


地上で愛し合った男女の間に真実の愛があり、その愛が二人を霊的に一つにし、霊的進化のレベルが同じである場合には、死が二人を引き離すことはありません。死は、魂にとってより自由な世界への入り口のようなものですから、二人の結びつきは地上にいたときよりも、いっそう強くなります。

しかし、二人の結婚が魂の結びつきではなく肉体の結びつきにすぎず、しかも両者の魂の進化のレベルが異なる場合には、死は両者を引き離すことになります。二人はそれぞれの進化のレベルに合った界層へ惹かれていくことになるからです。

もし二人に真実の愛があれば、霊界では若返ったり年を取ったりしないことが分かり、成長・進化・発達という体験をすることになるでしょう。こうしたことは魂の問題であって、肉体の問題ではありません。

イエスが「娶ったり嫁いだりすることはない」と言ったのは、地上のような肉体上の結婚(結びつき)のことを言ったのであって、魂の結婚についてではありません。男女といっても、あくまでも男性に対する女性、女性に対する男性のことです。物質の世界ではこの二元の原理が完璧に貫かれていますが、霊の世界では界層が上がるにつれて男女の差は薄れていきます。


――死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪がいちばん多いですか。


もちろん霊界でも罪を犯すことがあります。霊界における罪とは「利己主義の罪」です。こちらの世界では、それがすぐに表面に出ます。心で思ったことがすぐさま人に知られてしまうのです。原因に対する結果が、地上よりはるかに速く出ます。したがって醜い心(利己的思い)を抱くと、それが瞬時に容貌全体に表れて、霊的に低くなってしまいます。霊界での罪とは何かを地上の言語で説明するのは難しく、「利己主義の罪」と呼ぶ以外によい表現が見当たりません。


――死後の世界は地上界に比べて実感があり、立派な支配者、君主、または神の支配する世界であることは分かりましたが、こうした天界の王国についての歴史は昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか。


霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。しかし、こちらの世界には地上で言うような支配者はいません。霊界の支配者とは唯一、自然法則すなわち「大霊の摂理」だけです。また霊の世界は、境界線によってどこかで区切られているわけではありません。進化のレベルの低い界層から高いレベルの界層へとつながっていて、その間に境界はなく、すべての界層が一つに融合しています。霊格が向上するにつれて、高い界層へと上昇していきます。


――地上で孤独な人生を余儀なくされた者は、死後も同じような人生を送るのでしょうか。


いいえ、そんなことはありません。大霊の摂理は常に完璧です。人間は自分で種を蒔き、その結果を収穫します。摂理に反した種を蒔けば、自ら罰をつくり出すことになるのです。霊界では愛がお互いを引き寄せることになるため、愛によって結ばれた人間同士は、こちらで再会を果たすことになります。


――霊界では、シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロなどの歴史上の天才的人物に会うことができるでしょうか。


特に愛着を感じ慕っている人物には、大抵の場合、会うことができるでしょう。生前、世の中のために役立つことをしたことで人々から愛されてきた人間は、その愛が共感の絆をつくり出し、それが霊界で両者を引き寄せることになります。


――肉体を脱ぎ捨ててそちらへ行っても、霊界には地上世界のようなしっかりとした実感があるのでしょうか。


地上よりはるかに実感があり、しっかりとしています。本当は地上の方が実感がないのです。地上界は霊界の影にすぎません。霊界こそが実在の世界であり、こちらへ来るまでは本当の実在感を理解することはできないのです。


――ということは、地上の環境が地上人の五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊にとっては自然で現実的なものに感じられるということですか。


地上よりもはるかに実感があります。こちらの方が実在なのですから。現在のあなた方は、いわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられ、四方を囲まれています。地上では、本当の自分のほんの一部分しか表現できません。


――霊界では意念で通じ合うのですか、それとも地上の言語のようなものがあるのでしょうか。


意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます。


――急死した場合、新しい環境にすぐに慣れるでしょうか。


魂の進化の程度によります。


――呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのでしょうか。


魂に意識がある場合(霊性が発達している人の場合)は、霊的身体が徐々に肉体から抜け出るのが分かります。すると霊的な目が開き、自分を迎えに来てくれた人たちの姿が見えます。そしてすぐに新しい生活が始まります。

魂に意識がない場合は、看護に来てくれた霊の援助によって適当な場所、例えば病院とか休息所に連れていかれ、そこで新しい環境に慣れるまで手当てを受けます。


――地上で愛し合いながら社会的因習などで一緒になれなかった者も、死後は一緒になれますか。


愛し合う者たちから愛を取り上げることはできません。


――すでに他界している肉親や親戚の者とも会えますか。


彼らとの間に愛があれば会えます。愛がなければ会えません。


――死後の生命は永遠ですか。


生命はすべて永遠です。なぜなら生命とはすなわち大霊のことであり、大霊は永遠の存在だからです。


――あなたが住んでおられる界層は、地球とか太陽とか惑星とかを取り巻くように存在しているのでしょうか。


そのいずれも取り巻いてはいません。霊界の各界層は地理的に区切られているわけではありません。天体とか惑星のような形をしているわけではありません。霊界の界層は、無限の霊界の一部分なのです。それぞれの界層は融合していて、すべての界層でさまざまな形態の生活が営まれています。あなた方は(スピリチュアリズムのお蔭で)そのうちのいくつかを知ったわけですが、まだあなた方には知らされていない生命活動が営まれている界層がたくさんあります。


――霊の世界にも、地球と同じようにマテリアルな中心部というものがあるのでしょうか。


私という存在はマテリアルなものでしょうか。男女の愛はマテリアルなものでしょうか。芸術家のインスピレーションはマテリアルなものでしょうか。音楽の鑑賞力はマテリアルなものでしょうか。こうした問いに対する答えは、あなたのおっしゃる「マテリアル」という用語の意味によって違ってきます。実感のあるもの、実在性を有するものという意味でしたら、霊の世界はマテリアルなものという答えになります。霊とは生命の最奥(さいおう)の実在だからです。あなたがおっしゃるのは「物質的なもの」という意味だと思いますが、それはその実在を包んでいる「殻」のようなものにすぎません。


――霊の世界も中心部は地球と同じ電磁場ないしは重力場の中に存在していて、地球と太陽の動きとともに宇宙空間を運行しながらヘラクレス座の方向へ向かっているのでしょうか。


霊の世界は地球の回転による影響は受けません。したがって霊の世界には、昼と夜の区別はありません。太陽のエネルギーは地球が受けているだけで、私たちには関係ありません。重力(引力)の作用も地上界の物質が受けるだけで、霊の世界とは無縁です。霊的法則とは別のものです。


――霊界での移動のスピードには限界がありますか。


霊界での移動には時間と空間の制約はありません。霊界の生活に慣れた者には、時間と空間の制約はないのです。各自の思念と同じ速さで、どこへでも行くことができます。霊界では、思念は実在性を持っているのです。霊界に住む者にとっての移動のスピードは、各自の霊性の高さによって制約され、自分の霊的レベルを超えることはできません。また、各自は自分が到達した界層よりも高い界層へ行くこともできません。それが霊にとっての限界です。霊的世界における限界なのです。


――人間的存在が居住するすべての天体には、それぞれ別々の霊界があるのでしょうか。


あなた方の言う「霊界」というのは宇宙の霊的側面のことで、それはあらゆる界層において顕現しているすべての生命を包含しています。


――霊界はたった一つだけですか。


霊の世界は一つです。しかし、その表現形態は無限です。地球以外の天体にも、それぞれ霊の世界があります。いずれの天体も物的領域だけでなく、霊的領域を持っているのです。


――その分布状態は地理的なものですか。


地理的なものではありません。精神的段階によるものです。もっとも、ある程度は物的なものによっても影響を受けています。


――霊界での分布とは、霊界の界層と同じ意味でしょうか。


その通りです。霊界では、物的条件によって影響を受けないような進化の段階に至るまでは、皆さんが考えるようなさまざまな「界層」が存在します。


――霊界では、幼くして他界した我が子がすぐに分かるものでしょうか。


分かります。親が我が子だと分かるように、子供の姿を装って見せてくれるからです。子供の方はずっと両親の地上生活を見ていますから様子がよく分かっており、親が他界したときには真っ先に迎えに来てくれます。


――例えば死刑執行人のような罪深い仕事に携わっている人は、霊界でどのような裁きを受けるのでしょうか。


もしもその人が、いけないことだ、罪深いことだと知っていたなら、それなりの報いを受けるでしょう。しかし、悪いことだと思わずにそれをしていたのであれば、別に咎めは受けません。


――動物を殺して食べるということについてはどうでしょうか。


動物を殺して食べるということに罪の意識を覚える段階まで魂が進化した人間であれば、悪いと知りつつやることは、何事であれ許されません。やはりそれなりの報いを受けます。その段階まで進化しておらず、悪いとも何とも感じない人は、別に罰は受けません。知識には必ず代償がともないます。責任という代償です。
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Saturday, June 21, 2025

シアトルの夏 キリスト教の人工的教義の間違

A treasure trove of spiritual wisdom
The teachings of Silver Birch


シルバーバーチの教え


〔英国国教会内部にも教義の解釈についての意見の衝突がある。そこで二十五人の神学者が十五年の歳月を費やして、国教会としての統一見解をまとめる作業を続け、一九三八年一月にようやく「英国国教会の教義」と題する大部の報告書を発行した。その中のいくつかの項目が読み上げられるのを聞いてから、シルバーバーチがその一つひとつにコメントを加えた。〕(太文字が引用文)



「イエス・キリストの復活」は、人類史上におけるきわめて特殊な神の御業(みわざ)である。


そんな結論に達するのに十五年もかかったのですか。ナザレのイエスを裏切っているのは自ら“クリスチャン”を名乗っている人たちであるとは、まさにその通りです。

「復活」は生命の法則の一環です。肉体の死とともに、すべての魂は復活するのです。復活はイエス一人だけのものではなく、大霊の子のすべてに生じるものです。いずれすべての人間が死の関門を通過し、物的身体を捨て去り、霊的身体で新しい生活を始めるようになります。地上人は、すべての時を霊界での生活に備えて過ごしているのです。

イエスは自然法則に反するようなことは一度もしていません。そもそもイエスが地上界へ降りてきたのは、大霊の摂理を実行するためでした。イエスのすべての行為、すべての教えは、大霊の摂理の一部でした。イエス自身こう述べているではありませんか――「こうしたことのすべては、あなた方にもできるし、あなた方はもっと大きなこともできるようになる」と。

イエスを、大霊の子供たちが近づけない天界のはるか高い位置に持ち上げるなら、せっかく彼が地上へ降誕した使命は台なしになってしまいます。なぜならイエスの地上人生の究極の目的は、「地上の人間も内在する大霊を人生の中で顕現させるなら、これほどのことが可能なのだ」ということを証明するところにあったからです。

そしてイエスは霊界へ戻った後、再び同じ姿を取って地上で縁のあった人々の前に現れました。これをキリスト教では「復活」と呼んでいます。イエス以前にも死者が生前の姿で現れた例はたくさんありますし、イエス以後にも数えきれないほどあります。

この宇宙に“特別”というものは存在しません。すべてが大霊の摂理(法則)によって統制されており、常に何かが起きているという事実そのものが、法則が実在することを証明しているのです。


■洗礼は、幼児洗礼であっても、罪を犯させようとする影響力の支配から逃れる手段である。聖人とされる人物でも、もし洗礼を受けていなければ、その意味で欠陥があることになる。


いかなる聖職者(司祭)も魔法の力は持ち合わせていません。水を水以外のものに変える力はありません。赤子の額に水を二、三滴振りかけたからといって、それでその子の人生――地上だけでなく死後も含めて――に何も変化が生じるわけではありません。振りかける前も振りかけた後も、ただの水です。司祭にはその成分を変える力はありませんし、法則と違った結果を生み出す力もありません。

魂は洗礼によって何の影響も受けません。あなたの魂を進化させる力を持った人間はいません。魂の進化は、地上での生活を通して、あなた方自身が達成していくものなのです。自分の行為が生み出す結果を、他人が取り除くことはできません。自分で償い、自分で報いを受けることによって成就していくものなのです。

“聖人”と洗礼とは何の関係もありません。日常生活の中で、可能なかぎり完全に近い行いをすることによって大霊を顕現させ、少しでも多く神性を発揮しようとする人が“聖人”なのです。


■当委員会は、神がその気になれば奇跡を生じさせることができるという点では一致をみたが、果たして奇跡的現象というものが起きるものであるか否かについては意見が分かれた。


さらに十五年も討議すれば、委員会は結論を出せたのでしょうか。何という情けない話でしょう! (聖書にある)盲人が盲人を手引きしているとは、まさにこのことです。その程度の者たちが人類を導いているのです。そして奇跡的な現象が起きるか否かは分からないと、まるで他人事(ひとごと)のように言っています。(原因がないという意味での)奇跡は存在しません。これまで一度も起きておりませんし、これからも絶対に発生しません。

大霊はあくまでも大霊です。大霊の法則の働きは完璧です。それは大霊の完全無欠性によって生み出されたものだからです。その法則が万一機能しなくなったとしたら、宇宙は大混乱をきたします。大霊が予測しなかった事態が生じて創造機構の手直しをしなければならなくなるとしたら、大霊は完全無欠ではなくなります。

(キリスト教で言うように)もしも選ばれた少数の者を寵愛するために奇跡を生じさせるとしたら、大霊は分け隔てをする不公平な神であることになり、全生命の源である無限の存在ではないことになります。委員会のメンバーは、そのお粗末な概念によって、大霊を何とちっぽけな存在に貶(おとし)めていることでしょう。

彼らは高次元の摂理について無知であり、霊力の存在についても知らず、霊界の上層からもたらされる霊力に触れたことがないために、霊媒を通して演出される現象が理解できないのです。

委員会のメンバーは、イエスにまつわる現象(しるしと不思議)が今日の物理法則に矛盾すると思い、“奇跡”というものを考え出さなければならなかったのです。彼らが霊的法則の働きを知れば、大霊は昔も今も未来永劫、不変であることを理解するようになります。地上人生において大霊から授かった霊的資質を発揮するならば、誰もが大霊の力を活用することができるようになるのです。


■もし奇跡が生じるなら、それは秩序の破壊ではなく神の意思の表現であり、それが自然界の新たな秩序を決定づけることになる。それゆえ決して不合理なものでも気まぐれなものでもないのである。


委員会のメンバーは、大霊の法則は無窮(むきゅう)の過去から存在し、無窮の未来まで存在し続けるということを理解していません。地上人類が新しい法則を発見したといっても、それは性能のよい器機の発明によって、それまで知らなかった宇宙の生命活動の一端を知ったというだけで、人間が新しいものを創造したというわけではありません。もともと存在していたものを見つけ出したにすぎません。

あなた方が何かを創造するということは不可能です。すでに存在している被造物の一部を発見することしかできません。また、大霊の法則に反して何かが発生することもあり得ません。人間がその存在を知ると知らないとに関係なく、大霊の法則のすべては、ずっと存在しているのです。

したがって大霊が新たに法則を考案する必要はありません。宇宙の経綸に必要な法則は残らず用意されており、それは未来にわたっても働き続けます。大霊は完全無欠であるがゆえに、あらゆる状況に適応する法則を準備しておられるのです。


■クリスチャンの立場からすれば、聖書は神の特殊な啓示を記録したもので、唯一無二のものである。


何という精神の暗さでしょう! いったいどこまで盲信の暗闇に閉ざされているのでしょう! 彼らを取り囲む壁は何と厚く、盲信の砦(とりで)を守る暫壕(ざんごう)の何と深いことでしょう!

物質界というものが出現して以来、多くの大霊の使徒が地上界へ降誕して啓示をもたらしてきました。それは当然、その時代の言葉で語られました。啓示の内容はその時代の必要性や、その国の事情に応じたものであり、人々の精神的・霊的な発達程度に合わせたものでした。要するにその啓示の意味が理解されやすい形で――レベルが高すぎて手が届かないことにならないようにとの配慮のもとに――与えられました。

一方、進化のプロセスはどこまでも続いていきます。地上人類が成長し進化すれば、それに相応しい新たな指導者、新たな預言者、新たな霊能者が派遣され、その時代が必要とするビジョン、理想、預言、メッセージ、インスピレーション、真理等が授けられます。啓示には終わりというものがありません。なぜなら大霊は完全無欠の存在だからです。

新たな啓示は古い啓示と一貫しており、矛盾していません。今私たちが説いている真理は、ナザレのイエスによって説かれた真理を否定するものではありません。イエスも、モーセの説いた真理を否定してはいません。そして私たちのあとに現れるであろう次代の指導者も、今私たちが説いている真理を否定することはありません。

しかし明日の大霊の子らは、今日の子らよりも一段と高い進化の段階にいますから、彼らに明かされる真理は、今あなた方に説かれている真理よりも一段と進歩的なものになります。


■クリスチャンにとってキリストは、唯一の、そして不可欠の(神との)仲介者である。父(神)とキリストとのつながりは直接的であったが、我々クリスチャンとのつながりはキリストを介して行われる。


これは間違いです。大霊は、あなた方一人ひとりの内に存在しています。同時にあなた方一人ひとりは、大霊の内に存在しているのです。イエスも「神の王国はあなた方の中にある」と述べているではありませんか。クリスチャンはなぜ、こんなにもイエスの教えを理解していないのでしょう!

(クリスチャンだけでなく)いかなる人間も大霊から切り離されることはありませんし、大霊が人間から切り離されることもありません。いかに重い罪を犯した人間であっても、それによって大霊から切り離されることは絶対にありません。人間と大霊とを結んでいる絆は永遠に断ち切ることができないものであり、大霊との関係が失われてしまうようなことは決してないのです。

人間は、内在する神性を日常生活の中で顕現させるにつれて大霊に直接的に接近していくことになります。あなた方一人ひとりに大霊の分霊が宿されているのであり、大霊とあなた方との間に仲介者を立てる必要などありません。

ナザレのイエスは、そんな目的のために降誕したのではありません。人間はいかに生きるべきか、いかにすれば内部の神性を顕現させられるかを教えるために地上界へ降りてきたのです。

キリスト教の神学は、地上世界にとってまさしく“災いのもと”です。人類にとって大きな手かせ・足かせとなっています。人々の魂を牢獄に閉じ込めています。それから逃れるためには、自らを縛っている人工的教義と間違った信条を断ち切り、霊的インスピレーションによって示される本物の真理に目覚めることです。人間の知性は大霊のインスピレーションに優るものではありません。


■「キリストの復活」は、永遠の生命という希望を裏付けるものである。


またしても何というお粗末な認識でしょう! 人間は内部に大霊の分霊を宿しているからこそ存在しているのです。物質は霊によって存在しているのです。霊は永遠の実在であり、破壊できないものです。霊は不滅にして無限なる存在です。

あなた方は霊であるからこそ、墓場を越えて火葬の炎の向こうまで生き続けるのです。物質界にも霊界にも、内部に秘められた神性を破滅させることができるものはありません。人間の内部の神性は、誕生とともに大霊から授かった最も重要な贈り物なのです。

あなた方が今生きているのは霊だからこそです。墓場を越えて生き続けるのも霊だからこそです。霊であればこそどこまでも永遠に生き続けるのです。霊はいかなる指導者とも無関係です。霊は、あなた方が生まれつき持っている権利であり、大霊からの賜物(たまもの)なのです。

なぜかクリスチャンは、宇宙の創造主であり、千変万化の大宇宙の営みを経綸する大霊(神)を限定して考えようとします。彼らのしていることがお分かりでしょうか。物質界でわずか三十三年を生きた人物(イエス)と大霊を同列に扱っているのです。しかも大霊の恩寵(おんちょう)は、イエスを信じた者だけに与えられると説いています。何と情けないことでしょう! 「宗教」という言葉をこれほど辱(はずかし)める教義はありません。イエスご自身がどれほど悲しみと嘆きの涙を流しておられるか、知っているのでしょうか。いまだにクリスチャンは、イエスを磔(はりつけ)に処し続けているのです。

自らを“クリスチャン”と名乗ったからといって、また、教会に所属したからといって、それで「地の塩(模範的人間)」になれるわけではありません。地上で身につけたラベル(名誉ある地位や肩書き)は霊界では通用しません。教義を厳格に守ったからといって大したことではありません。あなた方にとって大切なことはただ一つ――地上にいる間にどれだけ内在する大霊を顕現させたか、それだけなのです。


■キリスト教の「贖罪(しょくざい)」の教義の根本にあるのは、それが本質的に神の御業であり、神がキリストの調停によって人類と和解したとの確信である。


これは、嫉妬と怒りに燃えた神をなだめすかすために、最愛の子を血の犠牲にしなければならなかったという、あの古くからの贖罪説の焼き直しでしょうか。大霊は怒りっぽい人間より、もっと残酷で無慈悲だとでも言うのでしょうか。我が子と和解するのに血の犠牲を要求するとでも言うのでしょうか。大霊とイエスをこれほど哀れな存在に貶める説はありません。

イエスみずからが愛と慈悲と優しさに満ちた“父”のごとき存在と説いた大霊のご機嫌を取るために、なぜ血を流さなくてはならないのでしょうか。地上の人間は一人の例外もなく、自分の努力で人格を形成し、自分の努力で霊的進化を達成するために地上界へ来ているのです。

もし、あなた方が利己的な生き方を選ぶなら、それなりの代償を払わなくてはなりません。人のために役立つ道を選ぶなら、人間性の発達という形で報われます。摂理の働きによってそのようになっているのであり、いかに偉大な指導者といえども、その働きを変えることはできません。

もしも間違いを犯したら、潔くその代価を支払えばいいのです。屁理屈をこねて、他人に責任を転嫁するようなことをしてはいけません。

私たちの世界では利他的で霊性が優れた者は、利己的な者よりも高いレベルの界層にいます。それ以外にありようがないのです。もしも、利己的な生活を送った人が死後、生涯を他人のために捧げた人と同じように高い界層に行けるとしたら、それは大霊と大霊の完全な正義を愚弄(ぐろう)することになります。

もちろん、そんなことはありません。人生は、あなた方自身が形成していくものです。どのような地位にあろうと、職業が何であろうと、家柄が高かろうと低かろうと、問題ではありません。肩書きや階級、人種や民族や国家といったものとは関わりなく、すべての人間に奉仕(サービス)のチャンスは等しく与えられているのです。もし、あなた方がそのチャンスを無視するなら、それ相当の代償を払うことになります。その摂理の働きを妨げられる者はいません。

イエスの言葉を引用して終わります――「自分が蒔いた種は自分で刈り取らなければならない。」


〔当日の交霊会を総括してシルバーバーチが次のように述べた。〕


私は皆さん方に、イエスが説き、私たちが語っているシンプルな真理と、今地上において宗教界のリーダーと目されている人たちが説いている教説とを比較していただきたいのです。

私たちはあなた方に、メッセージをお届けしています。それはあなた方の理性に反することのない、知性を侮辱(ぶじょく)することのないメッセージです。それはシンプルな霊的真理をもたらします。

私たちはまず、あなた方地上人がいちばん求めていること、すなわち他界した愛する人々は今も生き続けており、「死」は永遠の別れではないという証拠を示します。

次に私たちは、霊界からもたらされる霊力は、人類を向上させるために献身している人々を鼓舞しているという事実を明かします。霊力は、人生を生き甲斐のあるものに、そして調和のとれたものにするための“豊かさ”をもたらしてくれるのです。

さらに私たちは、病んでいる人々の苦痛を和らげるために霊的治療エネルギーをもたらします。私たちは、地上の人々に互いに助け合って生きる方法を教えるという神聖な使命を果たすために、力を結集して努力しているのです。

私たちは、これまでの人類の歴史の中で大霊のインスピレーションに触れた者たちが説いたのと同じ真理を繰り返し述べています。神の摂理の存在を強調し、それらがどのような形で働いているかを明らかにしています。そして私たちは同じ法則を使用して、過去に起きた現象を今、再現させているのです。

しかし実際には、本来なら霊力の働きを認めるべき人々(聖職者たち)から拒絶されています。彼らは“神学”という名の隔離された世界に身を隠しています。“教条主義”という名の修道院に閉じこもっています。

彼らは、内心では怖いのです。霊的真理が地上人類の間に広まれば、司祭も牧師も主教も大主教も要らなくなってしまうことを知っているからです。

本日、国教会の「報告書」の一部を聞かせていただき、教条主義が徐々に勢力を失い、代わって私たちの使命が成功しつつあることを改めて確信いたしました。