Tuesday, December 30, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

七章  天界の高地



4 宇宙の深奥を覗く    

 一九一三年クリスマス・イブ

 以上、私は天界の高地における科学について語ってみたが、この話題をこれ以上続けても貴殿にとりてはさして益はあるまい。何となればそこで駆使される叡智も作業も貴殿には殆ど理解できぬ性質のものだからである。

無理をして語り聞かせてもいたずらに困惑させるのみで、賢明とは思えない。そこで私はもう少し簡単に付け加えた後別の話題へ進もうと思う。

 あのあと私は次の階へ上がってみたが、そこでは又ひきも切らぬ作業の連続で、夥しい数の人が作業に当たっていた。各ホールを仕切っている壁はすべて情報を選別するため、ないしはそれに類似した仕事に役立てられている。地上の建物に見る壁のように、ただのっぺりとしているのではない。

様々な色彩に輝き、各種の装置が取り付けられ、浮彫り細工が施されている。すべてが科学的用途を持ち、常に監視され、操作の一つ一つが綿密に記録され検討を加えられた上で所期の目標へ送り届けられる。その建物の中の他の部門だけに限らない。必要とあれば上の界へも下の界へも届けられる。

 案内の方が屋上へも案内して下さった。そこからは遠くまでが一望のもとに見渡せる。下へ目をやれば私が登ってきた森が見える。その向こうには高い峰が連なり、それらが神々しい光に包まれて、あたかも色とりどりの宝石の如くキラキラと輝いて見える。

その峰の幾つかは辺りに第十一界から届く幽玄な美しさが漂い、私のような第十界の者の視力に映じないほど霊妙化された霊的存在に生き生きと反応を示しているようであった。

 そうした霊は第十一界から渡来し、第十界のための愛の仕事に携わっていることが判った。それを思うと、吾が身を包む愛と力に感激を禁じ得ず、ただ黙するのみであった。それが百万言を弄するより遥かに雄弁に私の感激を物語っていたのである。

 こうして言うに言われぬ美を暫し満喫していると、案内の方がそっと私の肩に手を置いてこう言われた。

 「あれに見えるのが〝天界の高地〟です。あの幽玄な静寂にはあなたの魂を敬虔と畏敬と聖なる憧憬で満たしてくれるものがあるでしょう。あなたは今あなたの現時点で到達しうるぎりぎりの限界に立っておられます。ここへ来られて、今のあなたの力では透徹し得ない境涯を発見されたはずです。

しかし私たちは聖なる信託として、そして又、思慮分別をもって大切に使用すべきものとして、ベールで被われた秘密を明かす力を授かっており、尋常な視力には映じないものを見通すことが出来ます。如何ですか。あなたもしばしの間その力の恩恵に浴し、これまで見ることを得なかった秘密を覗いてみたいと思われませんか。」

 私は一瞬返事に窮した。そして怖れに似たものさえ感じた。なぜなら、すでにここまで見聞きしたものですら私にとってはやっと耐え得るほどの驚異だったからである。

しかし、しばらく考えた挙句に私は、すべてが神の愛と叡智によって配剤されているからには案ずることは絶対に有るまいとの確信に到達し、〝全てお任せいたします〟と申し上げた。その方も〝そうなさるがよい〟と仰せられた。

 そう言うなり、その方は私を置き去りにして屋上に設けられた至聖所の中へ入られた。そしてしばし(私の推察では)祈りを捧げられた。

 やがて出て来られた時にすっかり変身しておられた。衣装はなく、眉のあたりに宝石を散りばめた飾り輪を着けておられるほかは何一つ身につけておられない。あたりを包む躍動する柔らかい光の中に立っておられる姿の美しいこと。

光輝はますます明るさを増し、ついには液体のガラスと黄金で出来ているような様相を呈してきた。私はその眩しさに思わず下を向き、光を遮ったほどであった。

 その方が私に、すぐ近くまで来るようにと仰せられた。言われるまま前に立つとすぐ私の後ろへ回られ、眩しくないようにと配慮しつつ私の両肩に手を置いて霊力を放射しはじめた。

その光はまず私の身体を包み、さらに左右が平行に延びて、それが遠方の峰から出ている光と合流した。つまり私の前に光の道ができ、その両側も光の壁で仕切られたのである。その空間は暗くはなかったが、両側の光に較べれば光度は薄かった。

 その光の壁は言うなれば私のすぐ後ろを支点として扇状に広がり、谷を横切り、山頂を越えて突き進み、私の眼前に広大な光の空間が広がっていた。その炎の如き光の壁は私の視力では突き通すことは出来なかった。

 そこで背後から声がして〝空間をよく見ているように〟と言われた。見ていると、これまで数々の美と驚異とを見てきた、そのいずれにも増して驚異的な現象が展開し始めた。

 その二本の光の壁の最先端が、針の如くそそり立った左右の山頂に当たった。するとまずその左手の山頂に巨大な神殿が出現し、その周りに、光の衣をまとった無数の天使が群がり、忙しく動き回っている。さらに神殿の高いポーチの上に大天使が出現し、手に十字架を携え、それをあたかも遠くの界の者に見せるように高々と持ち上げている。

その十字架の横棒の両端に一人ずつ童子が立っており、一人はバラ色の衣装をまとい、もう一人は緑と茶の衣装をまとっている。その二人の童子が何やら私に理解できない歌を合唱し、歌い終わると二人とも胸に両手を当て、頭を垂れて祈った。

 次に右方向を見るように促されて目をやると、今度は全く別の光景が展開した。遥か彼方の山腹に〝玉座〟が見えたのである。光と炎とが混じりあった赫々(カクカク)たる光輝の中に女性の天使が坐し、微動だにせぬ姿で遥か彼方へ目をやっておられる。

薄地の布を身にまとい、それを通して輝く光は銀色に見える。が頭上にはスミレ色に輝くものが浮いており、それが肩と背中のあたりまで垂れ下がり、あたかもビロードのカーテンを背景にした真珠のように、その天使を美しく浮き上がらせていた。

 そのまわりと玉座のたもとにも無数の男女の霊の姿が見える。静かに待機している。いずれ劣らぬ高級霊で、その光輝は私よりも明るいが、優雅な落ち着きの中に座しておられる女性天使の輝きには劣る。

お顔に目をやってみた。それはまさに愛と哀れみから生じる緻密な心遣いが漂い、その目は高き叡智と偉力の奥深さを物語っていた。両の手を玉座の肘掛けに置いておられ、その両腕と両脚にも力強さが漂っていたが、そこにはおのずから母性的優しさが程よく混じっていた。

 その天使が突如として動きを発せられた。そこを指さし、あそこを指さし、慌てず、しかし機敏に、てきぱきと命令を下された。

 それに呼応して従者の群れが一斉に動き始めた。ある一団は電光石火の勢いで遥か遠くへ飛び、別の一団は別の彼方へ飛ぶ。馬に跨って虚空へ飛翔する一団もいる。流れるような衣装をまとった者もいれば、鎧の如きもので身を固めた者もいる。

男性のみの一団もあれば女性のみの一団もあり、男女が入り混じった一団もある。

それら各霊団が一斉に天空を翔けて行く時の様子は、あたかも一瞬のうちに天空にダイヤモンドとルビーとエメラルドを散りばめたようで、その全体を支配する色彩が、唖然として立ちすくむ私に照り返ってくるのであった。

 こうして私の前に扇形に伸びる光が地平線上を一周して照らし出して行くと、いずれの方角にも必ず私にとって新しい光景が展開された。

その一つ一つが性格を異にしていたが、美しさは何れ劣らぬ美事なものであった。こうして私は、曽て見てきた神の仕事に携わる如何なる霊にも勝る高き神霊の働く姿を見せていただいた。

そのうち、その光が変化するのを見て背後にいた案内の方が再び至聖所へ入られたことを悟った時、私はあまりの歓喜に思わず溜め息を洩らし、神の栄光に圧倒されて、その場にしゃがみ込んでしまった。

吾々が下層界のために働くのと同じように、高き神霊もまた常に吾々を監視し吾々の需要のために心を砕いて下さっている様を目のあたりにしたのであった。

 かくして私が悟ったことは、下界の全界層は上層界に包含され、一界一界は決して截然と区別されておらず、どれ一つとして遠く隔離されていないということである。私の十界には下層界の全てが包含され、同時にその第十界も下層界と共に上層界に包含されているということである。

この事実は吾々の界まで瞭然と理解できる。が、さらに一界又一界と進むにつれて複雑さと驚異とを増して行き、その中には、僅かずつ、ほんの僅かずつしか明かされない秘密もあると聞く。私は今やそのことに得心がゆき、秘密を明かしていただける段階へ向けての一層の精進に真一文字に邁進したいものと思う。

 ああ、吾らが神の驚異と美と叡智! 私がこれまでに知り得たものをもって神の摂理の一欠けらに過ぎぬと言うのであれば、その全摂理は果たしていかばかりのものであろうか。そして如何に途方もないものであろうか。

 天界の低い栄光さえも人間の目にはベールによって被われている。人間にとっては、それを見出すことは至難のわざである。が、それでよいのである。秘宝はゆっくりと明かされて行くことで満足するがよい。なぜなら、神の摂理は愛と慈悲の配慮をもって秘密にされているからである。

万が一それが一挙に明かされようものなら、人間はその真理の光に圧倒され、それを逆に不吉なものと受け取り、それより幾世紀にも亘って先へ進むことを恐れるようになるであろう。私はこの度の体験によってそのことを曽てなかったほど身に沁みて得心したのである。

佳きに計らわれているということである。万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。 ♰










シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

七章  天界の高地


5 霊格と才能の調和

一九一三年一二月二七日 土曜日

さて、こうして私の界を遥かに超えた上層界の驚異を目の当たりにすることを許されたことは、実に有難き幸せであった。私はその後いろいろと思いをめぐらせた。

そして私にその体験をさせた意図と動機とをある程度まで理解することができた。が、目の当たりにした現象の中にはどうしても私一人の力では理解できないものが数多くあった。その一つが次のような現象である。

 二つの光の壁によって仕切られた扇形の視界の中に展開したのは深紅の火焔の大渦であった。限りなく深い底から巨大な深紅の炎の波が次から次へと噴出し、その大きなうねりが互いに激突し合い、重なり合い、左右に揺れ動き、光の壁に激突しては炎のしぶきを上げる。

世紀末的大惨事はかくもあろうかと思われるような、光と炎の大変動である。その深紅の大渦のあまりの大きさに私の魂は恐怖におののいた。

 「どうか目を逸らせてください。お願いです。もう少し穏やかなものにして下さい。私にはあまりに恐ろしくて、これ以上耐え切れません。」

 私がそうお願いすると、背後からこういう返答が聞こえた。

 「今しばらく我慢するがよい。そのうち恐ろしさが消えます。あなたが今見ておられるのはこの先の上層界です。その最初が第十一界となります。この光が第何界のものであるかは、後で記録を調べてみないことには、私にも判りかねます。

その記録はこの施設にはなく、もう一つ、ここからかなり遠く離れたところにある別の施設にあります。今あなたが恐怖をもって眺めておられるこの光は第十三界かも知れないし第十五界かも知れない。それは私にも判りません。

ただ一つだけ確かなことは、主イエス・キリストが在(ましま)すのは実にあの光の中であり、あなたの目に映じている深紅の光彩は主と、主に召された者との交わりの栄光の反映であるということです。

しっかりと見つめられよ。これほど見事に見られることは滅多にありません。では私がそのさらに奥の深いところを見させてあげましょう。」

そう言い終わるなり、背後からのエネルギーが強化されるのが感じられ、私もその厚意に応えるべく必死に努力をした。が、空しい努力に終わった。やはり私の力の及ぶところではないことを悟った。

すでに叙述したもの以外に見えたものと言えば、その深紅の光の奥に何やら美しい影が動めくのが見えただけであった。炎の人影である。ただそれだけであった。私は目を逸らせてほしいと再度お願いした。もう哀願に近いものになっていた。

そこでようやく聞き入れて下さった(光が変化したと述べたのはその時である)。それ以後、何も見えなくなった。見たいという気持ちも起きなかった。あたりはそれまでとは対照的に、くすんだ静けさに一変している。

それを見て私は心ひそかに、あの世界へ行かれぬ自分、さぞかし美と生の喜びに満ちあふれていることであろう世界に生きる神霊の仲間入りができない自分を情けなく思ったことであった。それから次第に普段の意識を回復した。

そして案内の方が至聖所から普段のお姿で出てこられた時には、私のような者にこれほどの光栄を給わったことに厚く礼を述べられるほどになっていた。

 さて、その高い楼閣での仕事について述べられるものとして、他に一体何があるであろうか。と言うのは、貴殿もよく心得てほしいことであるが、吾々の生活と出来ごとで人間に理解できることは極めて僅かしかないのである。

それ故、貴殿に明かすものについて私は細心の注意を払わねばならない。つまり貴殿の精神の中において何とか再現し、地上の言語で表現できるものに限らねばならないのである。

 その驚異的現象が終わったあとも二人は暫し屋上に留まり、下方の景色へ目をやった。遥か遠く、第九界の方角に大きな湖が見える。樹木の生い茂った土地に囲まれ、そこここに島々が点在し、木蔭に佇む家もあれば高く聳え立つ楼閣もある。

岸に沿った林の中のそこここに小塔が聳えている。私は案内の方にそこがいかなる居住地(コロニー)であるかを尋ねた。その配置の様子が見事で、いかにも一つのコロニーに見えたからである。

 するとこういう返答であった。実はかなり昔のことであるが、この界へ到来する者の処遇にちょっとした問題が生じたことがあった。

それは、皆が皆、必ずしも全ての分野で平均的に進化しているとは限らない──例えば宇宙の科学においては無知な部門もある・・・・・・いや、どうもこういう説明の仕方ではすっきりしない。もう少し分かり易く説明しよう。

 魂に宿された才能を全てまんべんなく発達させている者も居れば、そうでない者もいる。もとより、いずれ劣らぬ高級霊である点においては異存はない。

だからこそこの第十界まで上昇して来たのである。が中には、もし持てる才能をまんべんなく発達させておれば、もっと速やかにこの界へ到達していたであろう者がいるということである。

 更に、そうした事情のもとでようやく到達したこの界には、それまでの才能では用を為さない環境が待ち受けている。それ故、何れは是が非でも才能をまんべんなく発達させ、より円満にする必要性が生じてくるのである。

 さきのコロニーの設立の必要性を生ぜしめた問題はそこにあった。あそこにおいて他人への援助と同時に自己の修養に励むのである。貴殿にはそれがなぜ問題であるのか不審に思えるかも知れないが、そう思うのは、この界を支配する諸条件が地上とは比較にならぬほど複雑さを持った完全性を具えているからに他ならない。

 あのコロニーの住民の霊格はある面ではこの十界の程度でありながら、他の面ではすでに十一界あるいは十二界の程度まで進化していることもある。そこで次のような厄介な問題が生じる。すなわち霊力と霊格においてはすでに今の界では大きすぎるものを具えていながら、さりとて次の界へは行かれない。

無理して行けば発達の遅れた面が災いして大失策を演じ、それが原因で何界も下層へ後戻りせざるを得なくなるかもしれない。そこはそこで又、居づらいことであろう。

 以上の説明で理解してもらえるであろうか。例えば魚が水から出されて陸(おか)に置かれたら大変である。反対に哺乳動物が森から水中へ入れられたら、これ又死ぬに決まっている。両生類は水と陸の両方があって初めて生きて行ける。陸地だけでは生理に異常を来すし、水の中だけでもやはり異常を来す。

 無論あのコロニーの生活者がこれと全く同じ状態であるというわけではない。が、こうした譬えによって彼らの置かれた特殊な境遇について大よその理解がいくであろう。彼らにとって第十界にいることは、あたかもカゴに入れられた小鳥同然であり、さりとて上層界へ行くことは炎の中へ飛び込む蛾も同然なのである。


──結局どういう取り扱いを受けるのでしょうか。

 自分で自らを律していくのである。私の信じるところによれば、彼らは今まさにその問題点に関する最高の解決策を見出しつつあるところであろう。

首尾よく解決した暁には、彼らはこの十界に対しても貢献したことになり、その功績はこののちのために大切に記録されることであろう。こうしたことが各種の分野において行われており、思うに、彼らは今では自分の得意とする能力に応じて組分けされ、一種の相互補完のシステムによって働くことが可能となっているであろう。

つまり各クラスの者が自分たちの所有している徳と霊力とを、それを欠く他のクラスの者に育ませるように努力するということである。全クラスがそれぞれにそう努力し、そこに極めて複雑な協調的教育が生まれる。

極めて入り組んだ教育組織となっているため、高地に住む者さえ分析不可能なほどである。いずれそこから何ものかが生み出され、機が熟せば、この界の霊力と影響力とを増すことであろう。それも多分、極めて大規模な形で寄与することになるものと私には思えるのである。

 かくして相互的な寄与が行われる。進化の真の喜びは自らの向上の道において同胞を向上の道に誘(いざな)うことの中にこそ味わえるものである。そうではなかろうか。 ♰

 では祝福とお寝みを申上げよう。

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen
七章  天界の高地

4 宇宙の深奥を覗く    

 
一九一三年クリスマス・イブ

 以上、私は天界の高地における科学について語ってみたが、この話題をこれ以上続けても貴殿にとりてはさして益はあるまい。何となればそこで駆使される叡智も作業も貴殿には殆ど理解できぬ性質のものだからである。

無理をして語り聞かせてもいたずらに困惑させるのみで、賢明とは思えない。そこで私はもう少し簡単に付け加えた後別の話題へ進もうと思う。

 あのあと私は次の階へ上がってみたが、そこでは又ひきも切らぬ作業の連続で、夥しい数の人が作業に当たっていた。各ホールを仕切っている壁はすべて情報を選別するため、ないしはそれに類似した仕事に役立てられている。地上の建物に見る壁のように、ただのっぺりとしているのではない。

様々な色彩に輝き、各種の装置が取り付けられ、浮彫り細工が施されている。すべてが科学的用途を持ち、常に監視され、操作の一つ一つが綿密に記録され検討を加えられた上で所期の目標へ送り届けられる。その建物の中の他の部門だけに限らない。必要とあれば上の界へも下の界へも届けられる。

 案内の方が屋上へも案内して下さった。そこからは遠くまでが一望のもとに見渡せる。下へ目をやれば私が登ってきた森が見える。その向こうには高い峰が連なり、それらが神々しい光に包まれて、あたかも色とりどりの宝石の如くキラキラと輝いて見える。

その峰の幾つかは辺りに第十一界から届く幽玄な美しさが漂い、私のような第十界の者の視力に映じないほど霊妙化された霊的存在に生き生きと反応を示しているようであった。

 そうした霊は第十一界から渡来し、第十界のための愛の仕事に携わっていることが判った。それを思うと、吾が身を包む愛と力に感激を禁じ得ず、ただ黙するのみであった。それが百万言を弄するより遥かに雄弁に私の感激を物語っていたのである。

 こうして言うに言われぬ美を暫し満喫していると、案内の方がそっと私の肩に手を置いてこう言われた。

 「あれに見えるのが〝天界の高地〟です。あの幽玄な静寂にはあなたの魂を敬虔と畏敬と聖なる憧憬で満たしてくれるものがあるでしょう。あなたは今あなたの現時点で到達しうるぎりぎりの限界に立っておられます。ここへ来られて、今のあなたの力では透徹し得ない境涯を発見されたはずです。

しかし私たちは聖なる信託として、そして又、思慮分別をもって大切に使用すべきものとして、ベールで被われた秘密を明かす力を授かっており、尋常な視力には映じないものを見通すことが出来ます。如何ですか。あなたもしばしの間その力の恩恵に浴し、これまで見ることを得なかった秘密を覗いてみたいと思われませんか。」

 私は一瞬返事に窮した。そして怖れに似たものさえ感じた。なぜなら、すでにここまで見聞きしたものですら私にとってはやっと耐え得るほどの驚異だったからである。

しかし、しばらく考えた挙句に私は、すべてが神の愛と叡智によって配剤されているからには案ずることは絶対に有るまいとの確信に到達し、〝全てお任せいたします〟と申し上げた。その方も〝そうなさるがよい〟と仰せられた。

 そう言うなり、その方は私を置き去りにして屋上に設けられた至聖所の中へ入られた。そしてしばし(私の推察では)祈りを捧げられた。

 やがて出て来られた時にすっかり変身しておられた。衣装はなく、眉のあたりに宝石を散りばめた飾り輪を着けておられるほかは何一つ身につけておられない。あたりを包む躍動する柔らかい光の中に立っておられる姿の美しいこと。

光輝はますます明るさを増し、ついには液体のガラスと黄金で出来ているような様相を呈してきた。私はその眩しさに思わず下を向き、光を遮ったほどであった。

 その方が私に、すぐ近くまで来るようにと仰せられた。言われるまま前に立つとすぐ私の後ろへ回られ、眩しくないようにと配慮しつつ私の両肩に手を置いて霊力を放射しはじめた。

その光はまず私の身体を包み、さらに左右が平行に延びて、それが遠方の峰から出ている光と合流した。つまり私の前に光の道ができ、その両側も光の壁で仕切られたのである。その空間は暗くはなかったが、両側の光に較べれば光度は薄かった。

 その光の壁は言うなれば私のすぐ後ろを支点として扇状に広がり、谷を横切り、山頂を越えて突き進み、私の眼前に広大な光の空間が広がっていた。その炎の如き光の壁は私の視力では突き通すことは出来なかった。

 そこで背後から声がして〝空間をよく見ているように〟と言われた。見ていると、これまで数々の美と驚異とを見てきた、そのいずれにも増して驚異的な現象が展開し始めた。

 その二本の光の壁の最先端が、針の如くそそり立った左右の山頂に当たった。するとまずその左手の山頂に巨大な神殿が出現し、その周りに、光の衣をまとった無数の天使が群がり、忙しく動き回っている。さらに神殿の高いポーチの上に大天使が出現し、手に十字架を携え、それをあたかも遠くの界の者に見せるように高々と持ち上げている。

その十字架の横棒の両端に一人ずつ童子が立っており、一人はバラ色の衣装をまとい、もう一人は緑と茶の衣装をまとっている。その二人の童子が何やら私に理解できない歌を合唱し、歌い終わると二人とも胸に両手を当て、頭を垂れて祈った。

 次に右方向を見るように促されて目をやると、今度は全く別の光景が展開した。遥か彼方の山腹に〝玉座〟が見えたのである。光と炎とが混じりあった赫々(カクカク)たる光輝の中に女性の天使が坐し、微動だにせぬ姿で遥か彼方へ目をやっておられる。

薄地の布を身にまとい、それを通して輝く光は銀色に見える。が頭上にはスミレ色に輝くものが浮いており、それが肩と背中のあたりまで垂れ下がり、あたかもビロードのカーテンを背景にした真珠のように、その天使を美しく浮き上がらせていた。

 そのまわりと玉座のたもとにも無数の男女の霊の姿が見える。静かに待機している。いずれ劣らぬ高級霊で、その光輝は私よりも明るいが、優雅な落ち着きの中に座しておられる女性天使の輝きには劣る。

お顔に目をやってみた。それはまさに愛と哀れみから生じる緻密な心遣いが漂い、その目は高き叡智と偉力の奥深さを物語っていた。両の手を玉座の肘掛けに置いておられ、その両腕と両脚にも力強さが漂っていたが、そこにはおのずから母性的優しさが程よく混じっていた。

 その天使が突如として動きを発せられた。そこを指さし、あそこを指さし、慌てず、しかし機敏に、てきぱきと命令を下された。

 それに呼応して従者の群れが一斉に動き始めた。ある一団は電光石火の勢いで遥か遠くへ飛び、別の一団は別の彼方へ飛ぶ。馬に跨って虚空へ飛翔する一団もいる。流れるような衣装をまとった者もいれば、鎧の如きもので身を固めた者もいる。

男性のみの一団もあれば女性のみの一団もあり、男女が入り混じった一団もある。

それら各霊団が一斉に天空を翔けて行く時の様子は、あたかも一瞬のうちに天空にダイヤモンドとルビーとエメラルドを散りばめたようで、その全体を支配する色彩が、唖然として立ちすくむ私に照り返ってくるのであった。

 こうして私の前に扇形に伸びる光が地平線上を一周して照らし出して行くと、いずれの方角にも必ず私にとって新しい光景が展開された。

その一つ一つが性格を異にしていたが、美しさは何れ劣らぬ美事なものであった。こうして私は、曽て見てきた神の仕事に携わる如何なる霊にも勝る高き神霊の働く姿を見せていただいた。

そのうち、その光が変化するのを見て背後にいた案内の方が再び至聖所へ入られたことを悟った時、私はあまりの歓喜に思わず溜め息を洩らし、神の栄光に圧倒されて、その場にしゃがみ込んでしまった。

吾々が下層界のために働くのと同じように、高き神霊もまた常に吾々を監視し吾々の需要のために心を砕いて下さっている様を目のあたりにしたのであった。

 かくして私が悟ったことは、下界の全界層は上層界に包含され、一界一界は決して截然と区別されておらず、どれ一つとして遠く隔離されていないということである。私の十界には下層界の全てが包含され、同時にその第十界も下層界と共に上層界に包含されているということである。

この事実は吾々の界まで瞭然と理解できる。が、さらに一界又一界と進むにつれて複雑さと驚異とを増して行き、その中には、僅かずつ、ほんの僅かずつしか明かされない秘密もあると聞く。私は今やそのことに得心がゆき、秘密を明かしていただける段階へ向けての一層の精進に真一文字に邁進したいものと思う。

 ああ、吾らが神の驚異と美と叡智! 私がこれまでに知り得たものをもって神の摂理の一欠けらに過ぎぬと言うのであれば、その全摂理は果たしていかばかりのものであろうか。そして如何に途方もないものであろうか。

 天界の低い栄光さえも人間の目にはベールによって被われている。人間にとっては、それを見出すことは至難のわざである。が、それでよいのである。秘宝はゆっくりと明かされて行くことで満足するがよい。なぜなら、神の摂理は愛と慈悲の配慮をもって秘密にされているからである。

万が一それが一挙に明かされようものなら、人間はその真理の光に圧倒され、それを逆に不吉なものと受け取り、それより幾世紀にも亘って先へ進むことを恐れるようになるであろう。私はこの度の体験によってそのことを曽てなかったほど身に沁みて得心したのである。

佳きに計らわれているということである。万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。 ♰

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch by Stella Storm


十章 質問に答える ───イエス・キリストについて   
       
 地上の歴史の中で最大の論争の的とされている人物すなわちナザレのイエスが、その日の交霊会でも質問の的にされた。


 まず最初に一牧師からの投書が読み上げられた。それにはこうあった。〝シルバーバーチ霊はイエス・キリストを宇宙機構の中でどう位置づけているのでしょうか。また、<人間イエス>と<イエス・キリスト>とはどこがどう違うのでしょうか〟

 これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「ナザレのイエスは地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜の最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。

 イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と変わらぬ一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが地上に流入したことは前にも後にもありません。

イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦礫の下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

 そのために彼はまず自分へ注目を惹くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。彼は一度たりともそれを邪なことに使ったことはありませんでした。

 またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も廃止も干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を惹くようになりました。

そこでイエスは、人間が地球という惑星上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊格者が説いてきたのと同じ、単純で永遠に不変で基本的な霊の真理を説くことを始めたのです。


 それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大へんな改ざんがなされていることです。

ずいぶん多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話はぜんぶ割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから。

 もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後いっそう開発された霊力を駆使して、愛する人類のために働いておられるのです。イエスは神ではありません。全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではありません。

 いくら立派な位であっても、本来まったく関係のない位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんではありません。父なる神の右に座しているとか、〝イエス〟と〝大霊〟とは同一義であって置きかえられるものであるなどと主張しても、イエスは少しもよろこばれません。

 イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にヒザを折り平身低頭して仕える必要はないのです。それよりもイエスの生涯を人間の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。
 以上、大へん大きな問題についてほんの概略を申し上げました」


 メンバーの一人が尋ねる。
   ───〝キリストの霊〟Christ spiritとは何でしょうか。

 「これもただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを示すために聖油を注がれた時代がありました。それは大てい王家の生まれの者でした。キリストと言う言葉は〝聖油を注がれた〟という意味です。

それだけのことです」 (ユダヤでそれに相応しい人物はナザレのイエス Jesus だという信仰が生まれ、それで Jesus Christ と呼ぶようになり、やがてそれが固有名詞化していった───訳者)


───イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったとおっしゃるのが私にはどうしても理解できません。

 「私は決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。私が申し上げたのは地上を訪れた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊格者の系譜の中でイエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。

イエスの生活が完全であったとは一度も言っておりません。それは有り得ないことです。なぜなら彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」



 ───イエスの教えは最高であると思われますか。 

 「不幸にしてイエスの教えはその多くが汚されてしまいました。私はイエスの教えが最高であるとは言っておりません。私が言いたいのは、説かれた教訓の精髄は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど心霊的法則を使いこなした例は地上では空前絶後であるということです」


 ───イエスの教えがその時代の人間にとっては進み過ぎていた───だから理解できなかった、という観方は正しいでしょうか。

 「そうです。おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は彼らにとって成功であることが時代的に見れば失敗であり、逆に彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」

(※ George Lansbury は一九三一~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次世界大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じてヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppard についてはアメリカーナ、ブリタニカの両百科全書、その他の人名辞典にも見当たらない───訳者)


───イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の大根源であると考えてよろしいでしょうか。


 「いえ、それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し自在に使いこなすことができたからです。皆さんにぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、

つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた間違いが多かったにもかかわらず、あれほどの短い期間に全世界に広まりそして今日まで生き延びて来たのは、イエスが常に霊力と調和していたからだということです」


(訳者注───霊力との調和というのは、ここでは背後霊団との連絡がよく取れていたという意味である。『霊訓』のインペレーターによると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。

地上生活中のイエスは早くからそのことに気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体離脱し、その背後霊団と直接交わって連絡を取り合っていたという)


───(かつてのメソジスト派の牧師)いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできます。

 「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異論を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。

教えそのものと、その教えを取り違えしかもその熱烈信仰によってかえってイエスを何度もはりつけにするような間違いを犯している信奉者とを混同しないようにしなければなりません。

  イエスの生涯をみて私はそこに、物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完全で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった───自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。

イエスは一度たりとも自ら課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的に使用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

 どうもうまく説明できないのですが、イエスも生を受けた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味で完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派なそして大きな仕事ができる時代が来ると述べた意味がなくなります。 

 イエスという人物を指さして〝ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時はあれほどのことが出来るのですよ〟 と言える、そういう人間だったと考えればいいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。

しかもそのイエスは私たちの世界においても、私の知るかぎりでの最高の霊格を具えた霊であり、自分を映す鏡としてイエスに代わる者はいないと私は考えております。

 私がこうしてイエスについて語る時、私はいつも〝イエス崇拝〟を煽ることにならなければよいがという思いがあります。それが私が〝指導霊崇拝〟 に警告を発しているのと同じ理由からです(八巻P18参照)。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は理性と常識と知性をもって行わないといけません。

書物からも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人が良いと言ったから、賢明だと言ったから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断基準です。

 例えその後一段と明るい知識に照らしだされた時にあっさり打ち棄てられるかも知れなくても、今の時点でこれだと思うものを採用すべきです。たった一冊の本、一人の師、一人の指導霊ないしは支配霊に盲従すべきではありません。

 私とて決して無限の叡智の所有者ではありません。霊の世界のことを私が一手販売しているわけではありません。地上世界のために仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。私は完全であるとか絶対に間違ったことは言わないなどとは申しません。あなた方と同様、私もいたって人間的な存在です。

私はただ皆さんより人生の道のほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が私に少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしも私の言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線を私といっしょに眺めませんかとお誘いしているわけです」


 霊言の愛読者の一人から「スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して 〝最後の晩餐〟 の儀式を行うべきでしょうか」という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチがこう答えた。

 「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって身体的に、精神的に、あるいは霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれは最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、私自身にはそういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。

そんなことをしたからといってイエスは少しも有難いとは思われません。私にとっても何の益にもなりません。否、霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

 イエスに対する最大の貢献はイエスを模範と仰ぐ人々がその教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人すべてに手を差しのべてあげることです。

 儀式よりも生活の方が大切です。宗教とは儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。〝聖なる書〟 と呼ばれている書物から活字のすべてを抹消してもかまいません。賛美歌の本から 〝聖なる歌〟 を全部削除してもかまいません。

儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に 〝宗教的〟 で有りうるのです。そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。

 私は皆さんの関心を儀式へ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく生活そのものです。生活の中で何をなすかです。どういう行いをするかです。〝最後の晩餐〟 の儀式がイエスの時代よりもさらにさかのぼる太古にも先例のある由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」


 別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて───

 「他人のためになることをする───これがいちばん大切です。私の意見は単純明快です。宗教には〝古い〟ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関係もないものばかりだということです。

 私にとって宗教とは崇拝することではありません。祈ることでもありません。審議会において人間の頭脳が考え出した形式的セレモニーでもありません。私はセレモニーには興味はありません。

それ自体は無くてはならないものではないからです。しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、無理してそれを止めさせる理由はありません。

 私自身としては、幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具はかたづけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係───これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えと何の関係もありません」 


───支配霊や指導霊の中にはなぜ地上でクリスチャンだった人が少ないのでしょうか。

 「少ないわけではありません。知名度が低かった───ただそれだけのことです。地上の知名度の高い人も実はただの代弁者(マウスピース)にすぎないことをご存知ないようです。

つまり彼らの背後では有志の霊が霊団やグループを結成して仕事を援助してくれているということです。その中にはかつてクリスチャンだった人も大勢います。もっとも、地上で何であったかは別に問題ではありませんが・・・・・・」


───キリスト教の教えも無数の人々の人生を変え、親切心や寛容心を培ってきていると思うのです。そういう教えを簡単に捨てさせることが出来るものでしょうか。

 「私は何々の教えという名称には関心がありません。私が関心をもつのは真理のみです。間違った教えでもそれが何らかの救いになった人がいるのだからとか、あえてその間違いを指摘することは混乱を巻き起こすからとかの理由で存続させるべきであるとおっしゃっても、私には聞こえません。

一方にはその間違った教えによって傷ついた人、無知の牢に閉じ込められている人、永遠の苦悶と断罪の脅迫によって悲惨な生活を強いられている人が無数にいるからです。

 わずかばかり立派そうに見えるところだけを抜き出して〝ごらんなさい。まんざらでもないじゃありませんか〟 と言ってそれを全体の見本のように見せびらかすのは、公正とは言えません。

 霊的摂理についてこれだけは真実だと確信したもの、および、それがどのように働くかについての知識を広めることが私の関心事なのです。あなたのような賢明な方たちがその知識をもとにして生き方を工夫していただきたいのです。そうすることが、個人的にも国家的にも国際的にも、永続性のある生活機構を築くゆえんとなりましょう。

 私は過去というものをただ単に古いものだからとか、威光に包まれているからというだけの理由で崇拝することはいたしません。あなたは過去からあなたにとって筋が通っていると思えるもの、真実と思えるもの、役に立つと思えるもの、心を鼓舞し満足を与えてくれるものを選び出す権利があります。

と同時に、非道徳的で不公正で不合理でしっくりこず、役に立ちそうにないものを拒否する権利もあります。ただしその際に、子供のように純心になり切って、単純な真理を素直に見て素直に受け入れられるようでないといけません」


 いわゆる 〝聖痕(スチグマ)〟について問われて───

 「人間の精神には強力な潜在能力が宿されており、ある一定の信仰や精神状態が維持されると、身体にその反応が出ることがあります。精神は物質より強力です。そもそも物質は精神の低級な表現形態だからです。精神の働きによって物質が自我の表現器官として形成されたのです。

精神の方が支配者なのです。精神は王様であり支配者です。ですから、もしもあなたがキリストのはりつけの物語に精神を集中し、それを長期間にわたって強力に持続したら、あなたの身体に十字架のスチグマが現れることも十分可能です」


 〝大霊の愛〟と、〝己を愛する如く隣人を愛する〟という言葉の解釈について問われて───
 
 「私だったら二つとも簡明にこう解釈します。すなわち自分を忘れて奉仕の生活に徹し、転んだ人を起こしてあげ、不正を駆逐し、みずからの生活ぶりによって神性を受け継ぐ者としてふさわしい人物である事を証明すべく努力する、ということです」    

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch by Stella Storm



八章 宗教とは

《いま霊の力がいちばん見られなくなっている場所は、皮肉にも、本来そこにこそ存在しなければならないはずの宗教界です。最高の位階に到達した者ですら、宗教の本来の起源であり基盤であるべき霊力に背を向け、われわれには不可解きわまる理由から、生きた霊的真理よりもただの形骸の方を後生大事にしています》 
                        シルバーバーチ


 「この地上世界の危急存亡の時代(とき)に、真理の守衛であるべき者たちが霊の威信をもって語ることが出来ないというのは悲しむべきことです。それは、霊力というものが(イエスの時代だけでなく)今の時代にも顕現できるという事実にまったく気づかないからです。

彼らは霊的真理と完全に疎遠になっているばかりでなく、愚かしい信仰がこびりついているために、それが頑固な壁となって霊的な真理、霊的な叡智、霊的な力を受けつけなくなっているのです。

 そうした偏狭で不毛の儀式とドグマと信条で固まった世界に霊力の入る余地があるわけがありません。現代の教会には霊の力は一かけらもありません。あるのは、またしても白塗りの墓(口に説くことと腹の中とが違う偽善的宗教家)、干からびた骨(真理の豊かさを身につけていない、精神のやせこけた宗教家)、豪華な建造物です。

見た目には華麗でも霊の照明がないために死のごとく冷ややかで不毛で荒涼としております。さらにいけないのは、そうした本来の宗教とは無縁の、干からびた神学的教義の収納所となってしまった教会内に霊が働きかけようとしても、それをまったく受けつけようとしなくなっていることです。

 いささか辛らつすぎたかも知れませんが、しかし何が悲しいといって、本来は先頭に立って指導すべき立場にある者が、こうした大切な霊的真理のこととなると、しんがりに回っているということほど情けない話はありません。みんな善人ばかりです。

罪なき人生を送ろうと心掛けている真面目な人たちです。が、宗教のすべてが基盤とすべき霊的なものに完全に無感覚になっているのです。霊性のないところに宗教はありません。〝文字は殺し霊は生かす〟(コリント)のです。霊のないところに生命は存在しないのです。

 もしも教会がそれ本来の目的を果たしていれば、言いかえれば、もしも神学的教義・儀式・慣習というわき道へそれることがなかったならば、こうして私のような者がわざわざ戻ってきて、神の計画の中での地球の本来の位置を維持する上で不可欠の霊的連絡関係を回復するための努力をする必要もなかったことでしょう。

 神に仕える者と自認する聖職者たちも、今では神について、神の働きについて、あるいはこの巨大な宇宙を支配している大自然の摂理について何も知りません。しかも、霊界からの働きかけに抵抗しようとするのですから、愚かしいとしか言いようがないのです。

 こうした聖職者たちは何世紀も昔の霊の働きかけの物語は信じながら、同じ霊が今日でも顕現できるということを信じようとしないのは、いったいなぜなのでしょう。彼らが説いていることは実はイエスとは何の関係もないことばかりです。

 その点あなた方は他の世界各地の方と同様、イエスみずから言った通りにイエス以上の仕事をすることができる、恵まれた方たちなのですが、そういうあなた方は、彼らからすれば邪教の徒なのです。

キリストの名にちなんで出来たキリスト教会が相も変らずキリストそのものを裏切り続けている事態を見て、キリストご自身がどれほど悲しい思いをされているか、一度その人たちに見ていただきたい気持ちです。

 霊力は一つの計画のもとに働きます。幾世紀にもわたってその時代の宗教を通して顕現しようとして来ました。それを受け入れる霊能者や霊媒は必ずどこかにおりました。その人たちが行ったことを無知な人は〝奇跡〟だと思いましたが、それこそが霊的法則の生々しい顕現のしるしだったのです。

それは今日有能な霊媒による交霊界で見る現象や治療家による奇跡的な治療と同じで、人間を通して霊力が働いたその結果なのです。不変・不滅の大霊から出る同じ霊力なのです。簡単なことなのです。

そうした霊力の激発のたびに、既得権力の座にある教会関係者すなわち教義作成者、神学者、学識者が集まって詭弁を弄しました。そして神からのインスピレーションを自分たちがこしらえた決まり文句と置きかえました。

しかし、いかに頭のいい人がこしらえたものでも、所詮は人間の頭脳から出たものにすぎませんから、それはいつかは力を失う運命にありました。霊が生命を与えるのです。神学は本質そのものが不毛なのです。

 測り知れない努力の繰り返しの末に、霊界の上層部において、もはや地上への流入は既成の宗教界を通じては無理との判断のもとに、宗教界とは無縁の者を通じて行うとの決断が下されました。

そして、ここにお出での皆さんのように何の宗教的肩書も持ち合わせない普通の人々が霊力の受け皿として養成され、各自がイエスと同じように霊の威力を実際に見せ、また同じような現象を演出してみせることになったのです。

 教会、寺院、チャペル(キリスト教の礼拝堂)、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)を通して支配力を行使している者たちが何とわめこうと、霊力はすでに根づいております。もはや、いかなる力をもってしてもこれを消すことはできません。

挫折させることもできません。ますます勢いを増しながら地上世界を元気づけていくことでしょう。ぜひともそうあらねばなりません。何ものによっても阻止されることはありません。

 このように、私は霊的真理と霊的実在についての知識の普及に全面的に賛成ですが、施設や建造物にはまったく関心がありません。私の関心の対象は大霊の子としての人間そのものです。私はその大霊の子等が真の自我を見出し、霊的遺産を理解し、天命を全うするところに、物的宇宙創造の目的があると理解しております。

われわれの仕事は、可能なかぎりの手段を尽くして人間をいちばん望ましい方法で指導し、一刻も早く霊的な受け入れ態勢を整えさせてあげることです。その段階から種子が芽を出しはじめるのです。

 一方には宗教界の指導者の感化を仕事としている霊団もいます。個人的に指導しているのです。何とかして本当の自分自身と、自分に存在を与えている力、存在の意味、そして聖職者として為すべきことについて、地上生活が終わらないうちに理解させる必要があるのです。

 これまで地上には数々の帝国が生まれましたが、いつしか滅んでいきました。独裁者が出現しましたが、やがて消えていきました。宗教が権力をふるったことがありましたが、必ず没落していきました。大霊は歩みを止めることがありません。この霊力はこれからも顕現し続けます。悲観する余地はどこにもありません。

 既成宗教がこのまま真理の光を見出せないままでいると、精彩を失い暗闇に包まれて行きます。ですから、霊的真理を広めることが大切なのです。

ですが、私に啓示された知識のかぎりで言えば───そのかぎりでしか言いようがないのですが─── 一ばん大切なことは(そうした組織ではなく)個人に目を向け、霊力の顕現の窓口となる霊的資質の開発を通じて、一人一人を霊的に甦らせることです。いささかなりとも神の使節としての仕事ができるわれわれは、実に光栄この上ないことです。

この光栄はもはや既成の宗教団体では浴せません。心の奥では自分でも信じられなくなっている古びた決まり文句を平気で口にします。とっくの昔に意義を失っている型どおりの文句と使い古した儀式と慣例を繰り返すのみです。

 そうした教会や大聖堂や寺院は、そこに霊力が機能しなくなったために不毛で荒涼とし死物と化しております。生命を与えるのは霊なのです。彼らはその霊、彼らのいうその聖霊を否定するようなことばかり繰り返しているのです。

そこでその聖霊の方が彼らに見切りをつけ、われわれのように別に風変りな式服をまとわず、説教壇に立つこともせず、ただ霊力の通路として一身を提供する者を活用して、神の計画の中においては誰一人として無視されたり見落とされたりすることがないことを証明せんとしているのです。

 《真実の祈りは心の奥底から油然として湧き出るものです。神に挨拶するための機械的な口上手段ではありません。スピチリチュアリストをもって任じている人も、もし日常生活においてその霊的真理の意味を生かすような生き方をしていなければ、何の徳にもなりません。私たちはラベルは崇めません。

大切なのは、自分はこういう者ですとみずから称していることではなくて、ふだん行っている行為です》 
    シルバーバーチ

  

Monday, December 29, 2025

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch by Stella Storm


七章 魂を癒す───心霊治療の本質

 《心霊治療の本質は〝魂〟に関わることであり、身体に関わるものではありません。魂に受け入れ準備ができていれば、治療は難なく奏効します。摂理としては当然そうなるようになっているのであり、それ以外にはありようがないのです。

霊的治療は物的身体に宿る魂という容器に霊的生命力を注入する作業です。その生命力は肉体の中の生命の中枢へ向けて仕掛けられる霊的刺激剤であり、回復力であり、再活性力です》         シルバーバーチ


 中央アフリカおよびインドを中心に治療活動を続けている二人の治療家が招かれた。二人は Ulyndu(ウーリンドウ)とAmenra(アメンラ)と言う名で知られているが、いずれも仮名である。商業関係の仕事を止めて本格的に治療活動に専念しておられる。奉仕的精神から治療費をいっさい取らないのであるが、その日常生活は〝絶対に裏切らない神の供給源〟の存在を見事に実証している。

 来る日も来る日も治療のための旅を続けていると、時には生活費が底をつき、空腹のためにベルトをさらに締めなければならなくなることもある。にもかかわらず必要なものだけは、お願いしなくても、必ず届けられる。その届けられる経路は驚異としか言いようのないほど思いがけないことがしばしばであるという。

 南アフリカから英国に立ち寄った時に永年の夢が叶ってシルバーバーチの交霊会に出席することができた。二人はシルバーバーチの霊言を生活の指針としてきている。そのシルバーバーチが二人にこう語った。

 「私たちにとって霊の道具として活躍しておられる方のお役に立つことほど大きな喜びはありません。他人のために倦まず弛まず尽力しておられる方が私の述べる言葉を少しでも役に立つと思ってくだされば、私を地上へ派遣した霊団のマウスピースであることを光栄に存じます。

 われわれはお互い同じ使命にたずさわっております。病める地上世界がみずからを癒す事業を援助し、無謀な愚行に走るのを食い止め、無数の人間の悲劇の根源となっている自己中心主義と貪欲の行為を止めさせ、霊がその本来の輝きと美質を発揮するように導くという責務を負っております。

 この道がラクではないことは今さら私から申し上げる必要はありません。バラの花に飾られた優雅な道でないことは申し上げるまでもありません。苦難は進化を促し、魂を調整するための不可欠の要素なのです。魂が真の自我に目覚めるのは苦難の中にあってこそです。

人生のうわべだけを生きている人間には、魂が自己開発する機会がありません。地上的方策が尽き果て、八方塞がりの状態となったかに思える時こそ、魂が目覚めるものなのです。

 言いかえれば、物質が行き詰まった時に霊が目覚め、小さな神性のタネが芽を出し、花を咲かせ、内部の美質を徐々に発揮しはじめるのです。苦難はコインの裏側と思えばよろしい。闇なくしては光もなく、嵐なくしては青天もありません。このことはお二人はすでによく理解しておいでです。

 あなた方は豊かな恩寵に浴していらっしゃいます。奉仕活動に手を染め、すべてを天命にまかせる覚悟をされて以来、お二人は一度たりとも見落とされたり忘れられたり無視されたり、あるいはやりたいように放ったらかされたことはありません。

 この道は、他にその恩恵を知る縁(よすが)のない人々に霊力と光明と癒やしをもたらせることになる、雄大な霊的冒険です。宇宙最大の力の道具として働くことは大へん光栄なことです。大霊より強大な力はこの宇宙には存在しません。

その大霊がお二人に要求しているものは忠誠心であり、協調的精神であり、一途さであり、信頼心であり、そして知識が生み出す信仰心を土台とした絶対的な自信です。

 私から申し上げるまでもないことかも知れませんが、お二人は地上に生を受けるずっと以前からこの仕事を志願していらっしゃいました。またこれも改めて申し上げる必要はないと思いますが、実はそれもこれもまだまだ序の口にすぎません。地上生活は霊としての存在意識を全うするという大目的のために学び鍛える、そのトレーニングの場にほかなりません。

 挫けてはなりません。いかなる事態にあっても、不安の念をカケラほどでも心に宿すようなことがあってはなりません。今日まで支えてきた力は、これからも決して見棄てるようなことはいたしません。

絶対に裏切ることはありません。もしあるとしたら、この宇宙そのものが存在しなくなります。その根源的なエネルギー、存在の支えそのものが不在となることがあることになるからです。

 お二人は霊力という最大の武具を備えていらっしゃいます。それを、ある時は支えとし、ある時は安息所とし、ある時は避難所とし、ある時は至聖所とし、そしていつも変らぬインスピレーションの泉となさることです。道を過らせるようなことは絶対にしません。縁あってあなたのもとを訪れる人に最大限の援助をしてあげられるよう導くことに専念してくれることでしょう。

 物的な必需品はかならず授かるものだということをお二人は体験によってご存知です。飢えに苦しむようなことにはなりません。渇きに苦しむようなことにもなりません。身を包み保護するだけの衣類はかならず手に入ります。ぜいたくなほどにはならないでしょう。が、進化せる霊はぜいたくへの願望は持ち合わせないものです。

 物的身体にはそれなりに最低限の必需品があります。神はその分霊の物質界での顕現の手段として創造された身体にどんなものが必要かはちゃんとご存知です。迷わずに前進なさることです。

今日は今日一日のために生きるのです。そして、過去が霊の導きを証明しているように、未来も間違いなくあなたが志願された使命を全うさせてくれるものと信じることです。

 これまで通りに仕事をお続けになることです。病の人を癒やしてあげるその力が、ほかならぬ霊の力であることを理解させてあげるのです。その結果その人が魂に感動を覚えることになれば、それはあなたが霊的な勝利を収めたことになるのです。

 霊が正常で精神も正常であれば、身体も正常です。摂理として当然そうなるのです。身体は召使いで霊が主人です。身体が従臣で霊が王様です。愚かな人間は身体を主人と思い王様と勘違いしております。そういう人の霊は〝支配する〟という本来の立場を知ることがありません。

 勇気をもって前進なさい。もしも私の申し上げることが勇気づけとなれば、その勇気づけの道具となったことを私は光栄に思います。お二人の背後には私たちの世界でもきわめて霊格の高い霊が控えています。

大へんな霊力と叡智を身につけられたお方で、その悟りの深さがまた深遠です。その方との協調関係を出来うるかぎり緊密にするよう、修養を怠らないでください。

 背負った重荷も、知識から生まれた信仰があれば軽く感じられ、重さが消えてしまうものです。行く手をさえぎる苦難や困難には堂々と立ち向かい、そして克服していくべき挑戦だと思うべきです。きっと克服し、万事がうまく運ぶはずです。
 見た目にいかに大きくても、物的な事態によって圧倒されるようなことがあってはなりません。この物質の世界には、その生みの親である霊の力をしのぐものは何一つ存在しないのです。何ごともきっと克服できます。

そして心が明るく弾むことでしょう。万事が落着くべきところに落ち着きます。時間は永遠なのです。人間はその永遠の時の流れの中にあって、今という時間、その一瞬を大切に生きていけばよいのです」

《本当の霊的治療が功を奏した時はけっしてぶり返しません。法則は不変です。摂理は完全です。もとより私は霊の美質である慈悲心や哀れみの情、親切心、寛容の心を一瞬たりとも失いたくないと思っております。が、摂理は公平無私であり、自動的であり、不可変であり、神によって定められているのです》 
                       シルバーバーチ
           
 
       ※          ※         ※

 Rose Baston(ローズバストン)女史も人生半ばにして霊的治病能力を発揮しはじめた庶民的な家庭婦人である。三十年以上にわたってハンネン・スワッハワー氏とのお付き合いがあり、その縁で、かつてスワッハー氏が住んでいたロンドンの邸宅に治療所を開設した。

つい二、三年前のことで(本書の出版は一九六九年)、その開所式にはシルバーバーチも招かれてお祝の言葉を述べた。久しぶりで面会したバストン女史にシルバーバーチが次のような励ましの言葉を述べた。


 「あなたの治療所の開所式へお招きを受けて祝辞を述べて以来この方、あなたと霊団とのつながりが緊密の度を増しております。治療所は不幸な人々、苦しむ人々を救う目的のために存在しているのです。あなたの人生が常に霊団の導きを受けていることは私から改めて申しあげる必要はないと思います。

 あなたはこの仕事のために生まれて来られたのです。その目的地にたどり着くためにあなたは数々の困難と苦難によって鍛えられ、いばらの道を歩まされました。この仕事にふさわしい人間となるための試練と鍛錬を積まねばなりませんでした。

 さて、これまでを振り返ってごらんになれば、いろいろとあった出来ごとも、みなモザイクの一部であることがお分かりになります。人生には基本的なパターンがあるのです。最初のうちはそれが見分けられませんが、次第に何もかもがそのパターンにそって落着くべきところに落着いていることが分かってきます。

 あなたも今や霊の道具として身体だけでなく、もっと大切なこととして、精神と霊とに慰安と軽減をもたらす仕事にたずさわって、地上生活の目的を成就しつつあることをこの上なく幸せなことと思うべきです。

 これまでと同じく、これからの人生も計画どおりに進展するにまかせることです。決してラクではありません。私が思うに、これまでの人生がもっとラクだったら、あなたはそれを不満に思っていたはずです。試練の末に勝ち取るほうが、何の苦労もなしに手に入れ、したがって潜在する力に気づかないままで終わるよりもいいのです。

 なのに人間は努力もしないでいて自分にない才能を欲しがり、そのために、せっかく手にしてもそれを有難く思わないのです。その点あなたは永い間ご自分の治病能力に気づかれませんでした。はじめてそのことを聞かされた時はびっくりなさいました。

 病状を診察する能力はさして大切なものではありません。診察は往々にして身体的なことだけになりがちです。が、根本的な原因は身体よりも精神と霊とにあります。早く治そうと思ってはいけません。忍耐が大切です。あなたのほうから霊力を強要しても無駄です。

霊力というものはその通路に受け入れる用意ができた時にはじめて流入するのです。しかも病状に応じて調節しなければなりません。それはそれは微妙なプロセスなのです。強制的に扱おうとしても無駄です。

 万が一やる気を無くするようなことがあったら───人間なら時には意気消沈することがあるものです───その時はいったん歩みを止めることです。そしてそれまで奇跡ともいえる形で成し遂げられてきたことを振り返って、これだけのことが成就されてきたのなら、これから先もきっとうまく行くはずだという認識をもつことです。

あなたに要求されることは、そこまであなたを導いてきた霊力に対する絶対的な忠誠心と自信とをもってあなたの責務を全うすること、それだけです。

 あなたなりのベストを尽くすことです。あなたの力の範囲内で出来るかぎりの努力をなさることです。恐れるものは何一つありません。困難はあります。が、それもきっと克服されます。毎朝が新しい霊的冒険の好機なのです。

 これはとても大切なことです。そういう覚悟で仕事に当たっておれば、邪魔が入ることは決してありません。容易でないことは私もよく承知しております。が、忠実な僕がたどる道がラクであることは有り得ないことです。

お名前はローズ(バラ)でもバラの花壇(※)とはまいりません。魂というものは何かの挑戦を受けてはじめて自我に目覚めるものなのです。その時、居眠りをしていた潜在的な力が表面に出て来て発揮されはじめるのです。(※ a bed of roses 安楽な身分、贅沢な生活のこと───訳者)

 が、あなたはこれまで啓示された光に忠実に従ってこられました。ただの一度もあなたに託された信頼を裏切ることがありませんでした。私をはじめ、あなたの霊団の者はみんな、あなたのことを誇りに思っておられます」


《霊の褒賞は奮闘努力の末に手に入るものです。宝くじのような具合に手に入れることはできません。霊の富はそれを手にするにふさわしくなった時に与えられるのです。霊的開発が進むにつれて自動的に、それまでより少しだけ多くのものを身につけていくのです》

                        シルバーバーチ 



         ※       ※        ※   

 心霊治療家の Gordon Turner (ゴードンターナー)氏は病気治療だけでなく、英国心霊治療家連盟の推進者としても有名である。助手の Jo Prince (ジョープリンス)を伴ってはじめてシルバーバーチを訪れた時の感動はひと通りでなかった。シルバーバーチが二人にこう語りかけた。

 「私が永いあいだ地上世界の仕事にたずさわってきて何よりもうれしいのは、霊の僕として働いている同志をここへお招きすることです。あなた方がどうしてもたどらねばならない地上生活のパターンというものがあることは私はよく承知しております。

外部の世界とは無縁の心の痛み、苦難、苦痛、その他もろもろの複雑な感情があることもよく存じております。支払わねばならない代償があることも存じております。それが時には精神的ならびに霊的に十字架を背負わされることになることがあります。

  しかし、それが霊的進化の道なのです。その道での褒章を得るには奮闘努力しかなく、近道はなく、真の向上の一歩一歩が絶対に後戻りを許されない確固たるものでなければならないのです。もしも気楽な人生を望まれるなら、もはやその人生では他人のために自分を役立てることはできません。

魂が自我に目覚め、意図された通りに霊的資質を開発し、縁あってあなたのもとを訪れる人々がその天賦の才能によって恩恵を受けるようになるには、刻苦と苦難と修養と節制の生活しかないのです。

 しかし人生には必ず両面があります。陰気で重苦しい、救い難い闇ばかりではありません。光があれば影があり、寒さがあれば温かさがあり、嵐があれば日和があります。そうでないと進歩は得られません。魂が目覚め、霊の隠れた能力と内的な美質が発揮されればされるほど、それだけ神との調和が緊密となってまいります。

  因果律による当然の結果としての報酬があるということです。それは、いかに石ころだらけで障害が大きく思えても、その道は間違いなく自分に約束された道であり必ずや成就されるという、内的な確信です。


  あなた方は自分が成就しつつあることを測定することが出来ません。地上には魂の成長と霊的成就の結果を測定する器具も装置もありません。しかし、あなた方は暗闇にいる魂に光をもたらしておられます。飢えと渇きに苦しむ魂に霊的な食べものと飲みものを用意してあげておられます。

真の健康を見出す好機を用意された身体と精神と霊に神の力、すなわち生命力そのものを授けておられます。すばらしい仕事です。しかし同時に大へん責任のある仕事でもあります。霊的才能はそう簡単に人間に授けられているのではありません。神からの才能の保管者であるということは、それだけ責任が重いということでもあるのです。

 悲しいかな、あなたが関わっておられるのは人間という気まぐれな存在の集まりです。時には最も緊密な味方であるべき人が最大の敵にまわったりすることがあります。

同じ目的、同じ大義によって団結すべき人たちの中にあってすら、摩擦と誤解の犠牲となることがあります。が、たとえすべての人間が同じ仕事に従事していても、たった一つの視点から眺めるということは、所詮、無理なのです。

 他人がどう言っているか、どう考えているか、どうしようとしているのか、それはあなたには関係ないことです。大切なのはあなた自身が何を述べ、何を考え、何をするかです。神はあなたに他人の行為や言葉や思想にまで責任は取らせません。あなたの責任は、あなたに啓示されたものに照らして生きることです。

光が大きければ、それだけ責任も大きくなります。この神の規約には免除条項というものはありません。

 病気の人があなたのもとを訪れた時、その人は霊的に重大局面を迎えていると考えてください。その人はぎりぎりの決断を迫られているのです。転換期に来ているのです。霊的存在としての本来の生き方を開始するチャンスを目の前にしているのです。病気というのは霊的理解力をもたらすための手段の一つなのです。

そこでもしもあなたが身体の病気は治せても霊的自覚を促すことができなかったら、あなたの責任ではないにしても、その治療は失敗だったことになります。が、もしも魂に感動を覚えさせることができたら、もしも霊的意識に目覚めさせることに成功したら、あなたは医師にも牧師にも科学者にも哲学者にもできないことをなさったことになります。

 内部の神性のタネが芽を出す、そのきっかけを与えたことになります。神性が芽を出せば、魂が霊力の援助を得て顕現を開始し、真の自我を成就してまいります。訪れる人のすべてを救ってあげられないからといって落胆なさってはいけません。あなたのもとを訪れたということは、その人にとっての好機が訪れたということです。

あなたはあなたなりにご自分を役立てることに専念なさっておればよろしい」


 《治療家と患者とがそうした方がよいと思うのであれば、時間を定めて遠隔治療を行うことは可能です。しかし、治療能力が発達して一段と高い次元に到達すれば、それも不要となります。治療霊団との連絡がしっかりと出来上がります。そうなると、いつでも精神を統一して自我を引っ込め、代って治療エネルギーを流入させることが出来ます。

その考えに反対するわけではありませんが、たとえば十時なら十時にしか治療エネルギーが届けられないとすると、一つの制約を設けることになるのです》       
                        シルバーバーチ


      ※       ※        ※

 Kenneth Bannister(ケネス・バニスター)氏はメキシコで心霊治療とスピリチュアリズムの普及活動に献身している有能なスピリチュアリストである。そのバニスター氏がブラジルとフィリッピンで盛んに行われている〝心霊手術〟について一連の質問をした。その問答の様子を紹介する。


───心霊治療がどこまで功を奏するかは患者の霊的発達程度、カルマ、その他もろもろの要素がからんでおりますが、ブラジルとフィリッピンで行われている外科的な〝手術〟の場合はどうなのでしょうか。

 「それもすべて自然の摂理としての因果律の規制を受けます。魂に受け入れ準備が整えばその人は治療してくれる人との縁ができるように導かれていきます。そこでもしも治るべき段階に来ていれば治療は速効的に成功します。

しかし、どういう形での治療であろうと、たとえば腫瘍が取れてラクになったとしても、それだけで自動的に霊性が目覚めることになるわけではありません。霊的にその治療を受け入れる段階にまで到達したというまでのことです。それは同時に内部の神性の火花が大きな炎と燃えあがる、その点火の絶好機でもあるということです。

 ですから、心霊治療には二つの大切な要素が働いております。一つは、患者が霊的治療を受け入れる準備が整ったということ。それで治療を施す人のところへ導かれて来たわけです。もう一つは、奇跡的な治癒体験によって霊的自我が目を覚まし、霊的意識の光の中で生きるようになる、その絶好機が訪れているということです。

もしも霊的自我が目を覚まさなかったら、身体的な治癒は成功しても霊的には失敗だったことになります」


───その治療がいわゆる心霊手術によって行なわれるのは好ましいことでしょうか。

 「〝その果により樹を知るべし〟(マタイ)です。霊力の発現は〝時〟と〝場所〟による制約を受けます。霊媒現象の演出と霊力の顕現はすべて一つの計画に基づく協力態勢での働きかけの一環なのです。

 それは基本的にはそれが適用される民族の身体的、精神的ならびに霊的必要性に合わせて行われます。気候、教育程度、社会環境、理解力を考慮して、最も適切な形を取らねばなりません」


───心霊手術がブラジルとフィリッピンだけで行われて、イギリスで行われないのはなぜでしょうか。

 「霊的風土が異なるからです。精神的環境が異なるからです。繊細な霊的影響力に反応しない精神構造には、見た目にハデにつくやり方が要求されるのです。そのことはこのイギリスで百年ばかり前は霊的なことの理解に物理的心霊現象を必要としたのと似ています。

 今のイギリスにはもう必要ではありません。が、教育水準、文化の程度、価値基準が大きく異なる国においては今でも必要です。そこに住む人間の程度に合わさなくてはならないのです」


───でも、イギリスにもこのタイプの手術をしてもらいたがっていながらそれが叶えられずにいる人が非常にたくさんおります。気候というのはそんなに大切な要素なのでしょうか。

 「イギリスの大気よりも伝導性が高いという点において、気候が関係していると言えます。が、それが全てではありません。イギリス人には根本的に合わないという点から言えば、霊的なものも関係しております。問題はその人がどうしてもらいたいかではなく、その人にとって何が最も適切かということです。

せっかく高い霊的要素を備えていながら、低俗な物的レベルのものばかり求める人が多すぎます。これは進歩、あるいは進化の道ではありません」


───霊媒の純粋性が高ければ高いほど、その霊媒を通してより多くの治癒エネルギーが流れます。このことは心霊手術についても言えることでしょうか。

 「今の表現は正確でありません。純粋性が高いほど多くの治癒エネルギーが流れるわけではありません。純粋でない霊媒でも治癒エネルギーは流入します。純粋性が影響するのはそのエネルギーの〝質〟です。霊力は宇宙の創造主である大霊と同じく無限です。無限であるが故に無数の等級・変異・組み合わせがあります。


 個々の治療家は霊的に受け入れられる段階のものと波長が合います。それよりも高いものとは合いません。受け入れられないからです。ということは、本来ならばそれより低いものも求めようとしないものなのです。


 治療家が到達した発達段階、霊格によって規制されるのはエネルギーの〝質〟であって〝量〟ではありません」


───もし可能ならば全ての治療家が手術を施せるようになることは望ましいことでしょうか。

 「いえ、霊の道具のすべてにたった一つの道が用意されているわけではありません。望ましいのは画一性ではなく、逆に、万能性であり多様性です。霊は無限です。したがって顕現の仕方も無限の可能性を秘めています。その決定的要素となるのは治療家の受容性です。その意味では治療家の気質、育ち、教育、遺伝、環境、さらには前世までも関わっていることになります。

 そうした要素のすべてがからみ合って、治療家を通して注がれる霊力の種類と量とを規制するのです。治療家ぜんぶが同じ道を行くようにはなっていません。バイブルにもこういう言葉があります。〝霊の賜物は種々あるが、霊そのものは一つである〟(コリント)」


───心霊手術を要求されてそれが施してあげられない時はどうしてあげたらいいのでしょうか。

 「心霊治療というものを身体上の結果を見せるという点からばかり考えてはなりません。心霊治療は根本的には霊(魂)に関わることです。目的は患者の魂の琴線に触れることです。その魂の受け入れる機が熟していれば、精神も正常となり身体も正常となります。

本当の心霊治療は霊と精神と身体とが調和して機能するように正しい連繋関係にもっていってあげることです。それが健康であるということの本来の意味であり、健全な状態、融和した状態ということです」

《腫瘍を取り除くことが目的ではありません。本来の目的は魂の琴線に触れることです。その意味で霊のガン患者もいるわけです。そういう人は利己性その他の悪性の腫瘍がしつこく残っていて、それが取り除かれるまでは真の霊的進歩は望めません。地上生活で最も大切なのは霊に関わることです。霊が主導権を握るようになるまでは調和も健康も幸福も生き甲斐も得られません》        
シルバーバーチ


訳者注───本章を翻訳している最中に届いたサイキックニューズ紙(一九八七・六・十三)の一面トップに〝医学校、心霊治療に門戸を開く〟という見出しがあった。イギリスのある医学専門学校が心霊治療家グループに学校内での治療活動を認めたという画期的なニュースである。参考までに大要を紹介しておく。

 「意外な展開の中でミドルセックス医学専門学校が心霊治療家グループに一室を開放して治療活動を許す決定をした。

 またクリーブランドの心霊治療家グループは週一回だけロンドン西部のクリーブランド通りの一室を無料で使用してよいことになった。

 こうした展開の決定的要因となったのは一般開業医連盟と、当医学専門学校講師のコーエン博士の支持があったことである。そのコーエン博士がこう語っている。

 〝私がはじめて心霊治療家グループと接触したのはそのメンバーの一人であるルース・グリーン女史を通してのことでした。私は条件として医学的治療と抵触する行為はいかなるものも行わないことを確認しました〟  

 博士はまた心霊治療家が魔術や空中浮遊のような手品、要するに〝治す〟という信念以外のものは絶対に持ち込まないことを確約させているという。

 〝私が理解したかぎりでは、心霊治療家に私の学校を使用していただくのは理に適っているように思えました。心霊治療はとても大切です。分別と知性を具えた医師の一人として私は、医師は最大限の広い意味での治療を提供すべきだと考えるわけです。多くの患者が心霊治療で助かっているのですから〟

 コーエン博士は心霊治療の本質を理解するために治療家グループのミーティングに出席させてもらっている。


〝そのミーテングに出席して私は非常な感動を覚えました。孤独感に沈んだ人や世の中から見捨てられた思いをしている人たちに何かしら特殊なものを提供していたからです。また身体的に不自由な人たちも確かに治していると確信します〟

 博士もはじめのうちは金儲けが目的ではないかと思っていたという。ところがそこでは治療代を請求していないことが分かり、それがかえって治療を誠心誠意にさせていることを知ったという。

 〝治療家グループの感性の良さと看護ぶりに深い感銘を受けました。ほんとうに人のために尽くしておられ、それで我々も負けずに人のために尽くさねばと決心したわけです。

 正直言って医学校の関係者は当初どうしたものかと迷っておりましたが、心霊治療家にひさしを貸して母屋を取られることがないことを確認した上で、この私が全責任を負うということで踏み切ったわけです〟


 現在までのところ毎週一回水曜日の夕方に治療が行われている。コーエン博士によれば、これまで医師の間から何ら不平不満の声は聞かされていないという。博士は言う。

〝心霊治療を勉強することは医学者にもプラスになるのです。うちの学校がこうした大らかな態度を取ったのは良かったと思っています。いずれ将来は治療の成果について検証がなされるかも知れません。患者を治療前と治療後に診断をすればよいわけです〟

 それについてクリーブランド治療家グループのチーフであるグリーン女史は〝私たちはいかなるテストにもよろこんで応じる用意があります〟と述べ、さらに言う。

 〝ただ私たちは過激なまでに反対している学生には抗議したい気持ちです。彼らの感情的態度が良からぬ雰囲気を生み、治療に悪影響を及ぼすことが考えられるからです。

 別に心霊治療を信じてくれなくてもいいのです。開かれた心をもってくださればいいのです。医学生がテストに参加してくれれば、こんな素晴らしいアイディアはありません。学生に心霊治療の実際を理解していただくチャンスになると思うのです。コーエン博士も学生が見学することを希望していらっしゃいます〟

 現在のところ治療家グループは四人のレギラーで構成されており、すべて英国心霊治療家連盟の会員で、これに時おり他の治療家が参加する程度ということである。
 

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

 The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

七章  天界の高地


3 霊界の情報処理センター     

一九一三年十二月二三日 火曜日

 神に仕える仕事において人間と天使とが協力し合っている事実は聖書に明確に記されているにも拘らず、人間はその真実性が容易に信じられない。その原因は人間が地上的なものに心を奪われ、その由って来たる起原に心を向けようとしないからである。

物質に直接作用している物理的エネルギーのことを言っているのではない。

ベールの彼方においてあたかも陶芸家が粘土を用いて陶器を拵えるように、そのエネルギーを操って造化に携わっている存在のことである。それについては貴殿もすでにある程度の知識を授かっているが、今夜はベールのこちら側から見たその実際を伝えてみようと思う。

 こちらのどの界においても、全ての者が一様に足並みそろえて向上するとはかぎらない。ある者は速く、ある者は遅い。前回の兄弟などはこの十界においては最も遅い部類に入る。ではこれより、それとは対照的に格別の進化を遂げた例を紹介しよう。

 その兄と妹の住む村を離れてさらに旅を続ける途中で、私は他の居住地を数多く訪ねてまわった。その一つに次の第十一界が始まる区域へ連なる山の中に位置しているのがあった。私が守護霊と対面した場所とは異なる。高さは同じであるが、距離的にかなり離れた位置にある。

連山の中に開けた台地へ向けて曲がりくねった小道を行ったのであるが、登り始めた頃から緑色の草の鮮やかさと花々の大きさと豊富さとか目についた。

紫色の花は影に包まれた森の中を通るビロードのような道のまわりには小鳥のさえずりも聞こえる。また多くの妖精たちが明るい笑顔で、あるいは戯れあるいは仕事に勤しんでおり、私の挨拶に気持ちよく応えてくれた。

 そのうち景色が変わり始めた。樹木が彫刻のようなどっしりとした姿になり、数も少なく葉の繁りも薄くなっていった。花と緑の木陰に囲まれた空地に代わって今度は円柱とアーチで飾られた堂々たる聖堂が姿を現わした。

光と影の織りなす美は相変わらず素晴らしかったが、その雰囲気がただの木蔭とは異なり聖域のそれであった。通る道の両側の大部分は並木である。

その並木にも下層界のそれとは異なり、瞑想の雰囲気と遥かに強力な霊力が感じられる。

そして又、登りがけに見かけた妖精とは威厳と聖純さにおいて勝る妖精たちの姿を見かけた。さらに頂上へ近づくと景色が一段と畏敬の念を誘うものへと変わっていった。

それまでの田園風の景色が消え、白と黄金と赤の光に輝く頂上が見えてきた。それは上層界から降下してきた神霊がその台地でそれぞれの使命に勤しんでいることを物語っていた。

 かくて目的地に辿り着いた。そこの様子を可能な限り叙述してみよう。目の前に平坦な土地が開けている。一マイルの四方もあろうかと思われる広大な土地で、一面に大理石(アラバスター)が敷かれ、それが炎の色に輝いている。

その様子はあたかも炎の土地にガラスの床が敷かれ、その上で炎の輝きが遊び戯れ、さらにガラスを通して何百ヤードも上空を炎の色に染めている感じである。むろん炎そのものが存在しているのではない。私の目にそのように映じるのである。

 その中に高く聳える一個の楼閣がある。側面が十個あり、その各々が他と異なる色彩と構造をしている。数多くの階があり、その光輝を発する先端は周囲の山頂──遠いのもあれば近いのもある──の上空へ届けられる光を捉えることができる。

それほど高く、まさに天界の山脈に譬える望楼の如き存在である。その建物が平坦地の八割ほどを占め、各々の側面に玄関(ポーチ)がある。

と言うことは十個の入口が付いているということである。まさに第十界の中で最も高い地域の物見の塔である。が、ただ遠くを望むためのものではない。

 実は十個の側面はその界に至るまでの十個の界と連絡し、係の者が各界の領主と絶え間なく交信を交えているのである。莫大な量の用件が各領主との間で絶え間なく往き来している。資料の全てがその建物に集められ統一的に整理される。

強いて地上の名称を求めれば〝情報処理センター〟とでも呼べばよかろうか。地上圏と接する第一界に始まり、第二界、第三界と広がり、ついには第十界まで至る途方もなく広大な領域内の事情が細大漏らさず集められるのである。

 当然のことながらその仕事に携わる霊は極めて高い霊格と叡智を具える必要があり、事実その通りであった。この界の一般の住民とは異なっていた。常に愛と親切心に溢れる洗練された身のこなしをもって接し、同胞を援助し、喜ばせることだけを望んでいる。が、

その態度には堂々とした絶対的な冷静さが窺われ、接触している界から届けられる如何なる情報に対しても、いささかの動揺も見せない。すべての報告、情報、問題解決の要請、あるいは援助の要請も完璧な冷静さをもって受け止める。

普段とは桁外れの大問題が生じても全く動じることなく、それに対処するだけの力と誤ることのない叡智に自信を持ってその処理に当たる。

 私は第六界と接触している側面の玄関内に腰かけ、その界の過去の出来ごとと、その出来ごとの処理の記録を調べていた。

すると肩越しに静かな声で「ザブディエル殿、もしその記録書で満足できなければどうぞ中へお入りになって吾々のすることをご覧になられたら如何ですか」という囁(ささや)きが聞こえた。振り向くと、物静かな美しいお顔をされた方が見つめておられた。私は肯(うなず)いてその案内に応えた。

 中へ入ると室内は三角形をしており、天井が高い。それが次の界の床(フロア)である。壁のところまで行ってみると床と壁とは直角になっている。

案内の方が私にそこで立ったまま耳を傾けているようにと言う。すると間もなく色々な声が聞こえてきたが、その言葉が逐一聞き分けられるほどであった。

説明によると、今の声は五つ上の階の部屋で処理されたものが次々と階下へ向けて伝達され、吾々のいる部屋を通過して地下まで届けられたものであるという。その地下にも幾つかの部屋がある。私がその原因を聞くとこう説明された。

その建物の屋上に全情報を受信する係の者がいて、彼らがまず自分たちに必要なものだけを取り出して残りをすぐ下の階へ送る。そこでまた同じようにその階で必要なものだけを取って残りを下の階へ送る。

この過程が次々と下の階へ向けて続けられ、私のいる地上の第一階に至る。そこで同じ処理をして最後に地下へ送られる。各階には夥しい数の従業員が休みなく、しかも慌てることなく、手際よく作業に当たっている。

 さて貴殿はこれをさぞかし奇妙に思うことであろう。が実際はもっともっと不思議なものであった。例えば私が言葉を聞いたという時、それは事実の半分しか述べていない。実際はその言葉が目に見えるように聞こえたのである。

地上の言語でどう説明したものであろうか。こうでも述べておこう。例の壁(各種の貴金属と宝石をあしらっており、その一つ一つが地上でいう電気に相当するものによって活性化されている)を見つめていると、どこか遠くで発せられた言葉が目に見えるように私の脳に感応し、それを重要と感じた時は聴覚を通じて聞こえてくる。

この要領でその言葉を発した者の声の音質を内的意識で感得し、さらにその人の表情、姿、態度、霊格の程度、携わる仕事、その他、伝えられたメッセージの意味を正確に理解する上で助けとなるこまごましたものを感識する。

 霊界におけるこうした情報の伝達と受信の正確度は極めて高く、特にこの建物においては私の知る限り最高に完璧である。そこで私が見たものや聞いたことを言語で伝えるのはとても無理である。

なぜなら、全ての情報は地上からこの十界に至るまでの途中の全界層の環境条件の中を通過して到達しており、従って一段と複雑さを増しており、とても私には解析できないのである。そこで案内の方が次の如く簡略に説明して下さった。

 例えば、あるとき第三界で進行中の建造の仕事を完成させるために第六界から援助の一行が派遣された。

と言うのは、その設計を担当したのが霊格の高い人たちであったために、建造すべき装置にその界の要素ではうまく作れないものが含まれていたのである。

これを判り易く説明すれば、例えばもし地上の人間が霊界のエーテル質を物質へ転換する装置を建造するとなったら、一体どうするかを考えてみるとよい。

地上にはエーテル質を保管するほど精妙な物質は見当たらないであろう。エーテル質はいわゆる物質と呼ぶ要素の中に含有されている如何なるエネルギーにも勝る強力かつ驚異的エネルギーだからである。

 第三界においても幾分これと似通った問題が生じ、如何にすればその装置の機能を最大限に発揮させるかについての助言を必要としたのであった。これなどは比較的解決の容易な部類に入る。

 さて、これ以上のことは又の機会に述べるとしよう。貴殿はエネルギーを使い果たしたようである。私の思う通りを表現する用語が見当たらぬようになってきた。

 貴殿の生活と仕事に祝福を。確信と勇気をもって邁進されよ。  ♰

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七章  天界の高地


2 家族的情愛の弊害   

一九一三年十二月二二日  月曜日

 子供のための施設と教育についてはこの程度にして、引き続きその見学旅行での別の話題に移るとしよう。

 そのあと私は数少ない家がそれなりの小さな敷地をもって集落を作っている村に来た。

そうした集落が幾つかあり、それぞれに異なった仕事を持っているが、全体としてはほぼ同程度の発達段階にある者が住んでいる。その領土の長が橋のたもとで私を迎えてくれた。その橋の架かった川は村を一周してから、すでに話の出た例の川と合流している。

挨拶が終わると橋を渡って村に入ったが、その途中に見える庭と家屋がみな小じんまりしていることに気づいた。私はすぐその方にその印象を述べた。


──その方のお名前を教えてください。

 Bepel(べぺル)とでも綴っておくがよい。先を続けよう。

 ところがそのうち雰囲気に豊かさの欠ける一軒が目にとまった。私はすぐにその印象を述べ、その理由(わけ)を訪ねた。と申すのも、この界層においてなお進歩を妨げられるには如何なる原因(わけ)があるのか判らなかったからである。

 ベペル様は笑顔でこう話された。「この家には実は兄と妹が住まっておられる。二人はかなり前に八界と九界から時を同じくしてこの界へ来られたのですが、それ以来、何かというと四界へ戻っている。

そこに愛する人たち、特に両親がおられ、何とか向上させようという考えからそうしているのですが、最近どうも情愛ばかりが先行して、やってあげたいことが環境のせいもあって思うに任せなくなって来ています。

両親の進歩が余りに遅く、あの調子ではこの界へ来るのは遠い先のことになりそうです。

そこで二人は近頃はいっそのこと両親のいる界へ降り、いっしょに暮らすことを許す権限を持つ人の到来を待ち望んでいるほどです。常時そばに居てあげる方が両親の進歩のために何でもしてあげられると考えているようです。」

 「お二人に会ってみましょう」──私はそう言って二人で庭に入って行った。

 こうしたケースがどのような扱いを受けるか、貴殿も興味のあるところであろう。ともかくその後のことを述べてみよう。

 兄は家のすぐ側の雑木林の中にいた。私が声を掛け、妹さんはと尋ねると、家の中にいるという。そこで中へ入らせてもらったが、彼女はしきりに精神統一をしている最中であった。第四界の両親との交信を試みていたのである。

と申すよりは、正確に言えば援助の念を送っていたと言うべきであろう。なぜなら、〝交信〟は互いの働きかけを意味するもので、両親には思念を〝返す〟ことは出来なかったからである。

 それから私は二人と話を交わし、結論としてこう述べた。「様子を拝見していると、あなた方がこの界で進化するために使用すべき力がその下層界の人達によって引き留められているようです。

つまり進歩の遅い両親の愛情によってあなた方の進歩が遅らされている。もしもあなた方がその四界へ戻られ、そこに定住すれば、少しは力になってあげられても、あなた方が思うほど自由にはならない。

なぜかと言えば、いつでもあなた方が身近にいてくれるとなれば尚のこと、今の界を超えて向上しようなどと思うわけがないからです。

ですから、そういう形で降りて行かれるのは感心しません。しかし愛は何より偉大な力です。その愛がお二人とご両親の双方にある以上、これまで妨げになってきた障害を取り除けば大変な威力を発揮することでしょう。そこで私から助言したいのは、あなた方は断じてこの界を去ってはならない。

それよりも、これから私と共に領主のところへ行って、現在のあなた方の進歩を確保しつつ、しかもご両親の進歩の妨げにならない方法を考えていただくことです。」

 二人は私に付いて領主のところまで行った。まず私が面会してご相談申し上げたところ、有難いことに大体において私の考えに賛同して下さった。そして二人をお呼びになり、二人の愛情は大変結構なことであるから、これからは時折この界より派遣される使節団に加わらせてあげよう。

その時は(派遣される界の環境条件に身体を合わせて)伝達すべき要件を伝える。その際は特別に両親にもお二人の姿が見え声が聞こえるように配慮していただこう。

こうすれば両親も二人の吾が子のいる高い界へ向上したいとの気持ちを抱いてくれることにもなろう、ということであった。

 これに加えて領主は、それには大変な忍耐力が要ることも諭された。なぜならば、こうしたことは決して無理な進め方をすべきではなく、自然な発展によって進めるべきだからである。二人はこうした配慮を喜びと感謝を込めて同意した。

そこで領主はイエスの名において二人を祝福し、二人は満足して帰っていった。

 このことから察しがつくことと思うが、上層界においても、地上界に近い界層特有の事情を反映する問題が生じることがあるのである。又、向上の意欲に欠ける地上の人間がむやみに他界した縁故者との交信を求めるために、その愛の絆が足枷となり、いつまでも地上的界層から向上できずにいる者も少なくないのである。

 これとは逆に、同じく地上にありながら、旺盛な向上心をもって謙虚に、しかも聖なる憧れを抱いて背後霊と共に向上の道を歩み、いささかも足手まといとならぬどころか、掛けがえのない援助(ちから)となる者もいる。

 これまでに学んだことに加えて、この事実を篤と銘記するがよい。すなわち地上の人間が他界した霊の向上を促進することもあれば足手まといとなることもあり得る、否、それが必然的宿命ともいうべきものであるということである。

 この事実に照らして、イエスがヨハネの手を通して綴らせた七つの教会の天使のこと(黙示録)を考えてみよ。彼ら七人の天使はそれぞれが受け持つ教会の徳性により、あるいは罪悪性により、自らが責任を問われた。イエスが正確にその評価を下し、各天使に賞罰を与えたのである。

それは人の子イエスが人類全体を同じ人の子として同一視し、その救済をご自分の責任として一身に引き受けられているように、各教会の守護天使はその監督を委ねられた地域の徳も罪も全て吾が徳、吾が罪として一身に責任を負うのである。

共に喜び共に苦しむ。わが事のように喜び、わが事のように悲しむのである。イエスの次の言葉を思い出すがよい。曰く「地上に罪を悔い改める者がいる時、天界には神の御前にて喜びに浸る天使がいる」と。

私は一度ならず二度も三度も、否、しばしばその現実の姿を見ているのである。そこで、それに私からこう付け加えておこう───明るき天使も常にお笑いになっているのではない。高らかにお笑いになるし、よくお笑いになる。

が、天使もまた涙を流されることがある。下界にて悪との闘いに傷つき、あるいは罪に陥る者を見て涙を流し苦しまれることがある、と。

 こうしたことを不審に思う者も多いことであろう。が、構わぬ。書き留めるがよい。吾々がもし悲しむことが無いとすれば、一体何をもって喜びとすべきであろうか。 ♰

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七章  天界の高地


1 信念と創造力

 一九一三年十二月十九日  金曜日

 「神はあなた方の信念に応じてお授けになる」──このイエスの言葉は当時と同じく今もなお生きている。絶対的保証をもってそう断言できる。まず必要なのは信念なのである。信念があれば事は必ず成就される。成就の方法はさまざまであろう。が、寸分の狂いもない因果律の結果であることに変わりはない。

 さて、これは地上世界にかぎられたことではない。死後の向上した界層、そしてこれ以後も果てしなく向上していく界層においても同じである。吾々が成就すべく鋭意努力しているのは、実際の行為の中において確信を得ることである。

確信を得れば他を援助するだけの霊力を身につけ、その霊力の行使を自ら愉しむこともできる。イエスも述べたように、施されることは喜びであるが、施すことの方がより大きな喜びであり愉しみだからである。

 が、信念を行使するに当たり、その信念なるものの本質の理解を誤ってはならない。地上においては大方の人間はそれを至って曖昧に──真実についての正しい認識と信頼心の中間に位置する、何やら得体のしれないものと受け止めているようである。が、何事につけ本質を探る吾々の界層においては、信念とはそれ以上のものであると理解している。

すなわち信念も科学的分析の可能な実質あるエネルギーであり、各自の進化の程度に応じた尺度によって測られる。

 その意味をより一層明確にするために、こちらでの私の体験を述べてみよう。

 あるとき私は命を受けて幾つかに施設(ホーム)を訪ね、各施設での生活の様子を調べ、必要な時は助言を与え、その結果を報告することになった。さて一つ一つ訪ねて行くうちに、森の外れの小じんまりとしたホームに来た。そこには二人の保護者のもとで大勢の子供が生活をしている。

お二人は地上で夫婦だった者で、死後もなお手を取りあって向上の道を歩みつつある。彼らが預かっているのは死産児、つまり生まれた時すでに死亡していたか、あるいは生後間もなく死亡した子供たちである。こうした子供たちは原則として下層界にある〝子供の園〟には行かず、彼ら特有の成長条件を考慮して、この高い界層へ連れて来られる。

これは彼らの本性に地臭が無いからであるが、同時に、少しでも地上体験を得た者、あるいは苦難を味わった子供に比べて体質が脆弱であるために、特殊な看護を必要とするからでもある。

 お二人の挨拶があり、さらにお二人の合図で子供たちが集まって来て、歓迎の挨拶をした。が、子供たちは一様に恥ずかしがり屋で、初めのうちは容易に私の語りかけに応じてくれなかった。

それというのも、ここの子供たちは今述べた事情のもとでそこへ連れて来られているだけに性格がデリケートであり、私もそうした神の子羊に対して同情を禁じ得なかった。そこであれこれと誘いをかけているうちに、ようやくその態度に気さくさが見られるようになってきた。

 そのうち可愛らしい男の子が近づいてきて腰のベルトに手を触れた。その輝きが珍しかったのであろう。もの珍しげに、しげしげと見入っている。そこで私は芝生に腰を下ろし、その子を膝に抱き、そのベルトから何か出して見せようかと言ってみた。すると初めその意味がよく分からない様子であった。そして次に、ほんとにそんなことが出来るのだろうかという表情を見せた。

 が、私がさらに何か欲しいかと尋ねると、「もしよろしかったらハトをお願いします」と言う。なかなか丁寧な言い方をしたので私はまずそのことを褒めてやり、さらに、子供が素直に信じてお願いすれば、神様が良いことだとお許しになったことはかならず思いどおりになるものであることを話して聞かせた。

 そう話してからその子を前に立たせておき、私は一羽のハトを念じた。やがて腰のベルトを留めている金属のプレートの中にハトの姿が見えはじめた。それが次第に姿を整え、ついにプレートからはみ出るほどになった。それを私が取り出した。

それは生きたハトで、私の手のひらでクークーと鳴きながら私の方へ目をやり、次のその子の方へ目をやり、どちらが自分の親であろうかと言わんばかりの表情を見せた。その子に手渡してやると、それを胸のところに抱いて、他の子供たちのところへ見せに走って行った。

 それは実は子供たちをおびき寄せるための一計に過ぎなかった。案の定それを見て一人二人と近づいて来て、やがて私の前に一団の子供たちが集まった。そして何かお願いしたいがその勇気が出せずにいる表情で、私の顔に見入っていた。が、

私はわざと黙って子供たちから言い出すのを待ち、ただニコニコとしていた。と言うのは、私は今その子たちに信念の力を教えようとしているのであり、そのためには子供の方から要求してくることが絶対必要だったのである。

 最初に勇気を出してみんなの望みを述べたのは女の子であった。私の前へ進み出ると、その可愛らしいくぼみのある手で私のチュニックの縁を手に取り、私の顔を見上げて少し臆しながら「あの、できたら・・・・・・」と言いかけて、そこで当惑して言いそびれた。そこで私はその子を肩のところまで抱きあげ、さあ言ってごらん、と促した。

 その子が望んだのは子羊であった。

 私は言った。今お願いしてあるからそのうち届けられるであろう。何しろ子羊はハトに較べてとても大きいので手間が掛かる。ところで、本当にこの私に子羊が作れると信じてくれるであろうか、と。

 彼女の返事は至ってあどけなかった。こう答えたのである。「あのー、皆んなで信じてます。」私は思わず声を出して笑った。そして皆んなを呼び寄せた。すると、翼のついたハトが作れたのだから毛の生えた子羊も作れると思う、と口々に言うのである。(もっとも子供たちは毛のことを毛皮といっていたが)

 それから私は腰を下ろして子供たちに話しかけた。まず〝吾らが父〟なる神を愛しているかと尋ねた。すると皆んな、もちろん大好きです。この美しい国をこしらえ、それを大切にすることを教えてくださったのは父だからです。と答えた。

そこで私はこう述べた。父を愛する者こそ真の父の子である。子供たちが父の生命力と力とを信じ、賢くそして善いものを要求すれば、父はその望みどおりのものを得るための意念の使い方を教えてくださる。動物もみんなで作れるであろうから私がこしらえてあげる必要はない。ただし初めてにしては子羊は大きすぎるから今回はお手伝いしてあげよう、と。

 そう述べてから、子供たちに心の中で子羊のことを思い浮かべ、それが自分たちのところへやってくるように念じるように言った。ところが見たところ何も現れそうにない。実は私は故意に力を控えめにしておいたのである。しばらく試みたあと一息入れさせた。

 そしてこう説明した。どうやら皆さんの力はまだ十分ではないようであるが、大きくなればこれくらいのことは出来るようになる。ただし祈りと愛をもって一心に信念を発達させ続ければのことである、と。そしてこう続けた。

 「あなたたちも力はちゃんとあるのです。ただ、まだまだ十分でなく、小さいものしか作れないということです。では私がこれから実際にやってみせてあげましょう。あとはあなた方の先生から教わりなさい。あなたたちにはまだ生きた動物をこしらえる力はありませんが、生きている動物を呼び寄せる力はあります。このあたりに子羊はおりますか?」

 この問いに皆んな、このあたりにはいないけど、ずっと遠くへ行けば何頭かいる。つい先ごろそこへ行ってきたばかりだという。

 そこで私は言った。「おや、あなたたちの信念と力によって、もうそのうちの一頭が呼び寄せられましたよ。」

 そう言って彼らの背後を指さした。振り向くと、少し離れた林の中の小道で一頭の子羊が草を食んでいるのが目に入った。

 その時の子供たちの驚きようはひと通りではなかった。唖然として見つめるのみであった。が、そのうち年長の何人かが我に帰って、歓喜の声を上げながら一目散に子羊めがけて走って行った。子羊も子供たちを見て、あたかも遊び友達ができたのを喜ぶかのように、ピョンピョンと飛び跳ねながら、これ又走り寄ってきた。

 「わぁ、生きてるぞ!」先に走り寄った子供たちはそう叫んで、あとからやってくる者に早く早くという合図をした。そして間もなくその子羊はまるで子供たちがこしらえたもののようにもみくしゃにされたのであった。自分たちがこしらえたものだ、だから自分たちのものだ、と言う気持ちをよほど強く感じたものと察せられる。

 さて以上の話は読む者の見方次第で大して意味はないように思えるかもしれない。が、重要なのはその核心である。私は自信をもって言うが、こうして得られる子供たちのささやかな教訓は、これから幾星霜を重ねたのちには、どこかの宇宙の創造にまで発展するその源泉となるものである。今宇宙を支配している大天使も小天使も、その原初はこうした形で巨大な創造への鍛錬を始めたのである。

私が子供たちに見せたのが実に〝創造〟の一つの行為であった。そして私の援助のもとに彼らが自ら行ったことはその創造行為の端緒であり、それがやがて私がやってみせたのと同じ創造的行為へと発展し、かくして信念の増加と共に、一歩一歩、吾々と同じくより威力あるエネルギーの行使へ向けて向上進化して行くのである。

 そこに信念の核心がある。人間の目に見えず、また判然と理解できなくても、その信念こそが祈りと正しい動機に裏打ちされて、みずからの成就を確実なものとするのである。

貴殿も信念に生きよ。ただし要心と用意周到さと大いなる崇敬の念も身につけねばならない。信念こそ主イエスが人間に委ねられた、そして吾々には更に大規模に委ねられた、大いなる信託の一つだからであり、それこそ並々ならぬイエスの愛のしるしだからである。

 そのイエスの名に祝福あれ。アーメン ♰

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch by Stella Storm



六章 霊能者の責任

《他人(ひと)のためになることをする人は、いつかはきっと他人から有難いと思うことをしてもらうものです。収支決算をしてみると必ず黒字になっております。一身を捧げている霊媒を私たちは決して見捨てるようなことはいたしません。授けられている霊的能力を最大限に発揮できるよう、常に鼓舞し勇気づけております》
                               シルバーバーチ


 英国が生んだ大霊媒の一人で、シルバーバーチの古くからの馴染でもある ヘレン・ヒューズ女史が他界するわずか二、三か月前のことだった。永いあいだ女史と人生を共にし、そして今、他界を目前にしている女史を懸命に介護している女性が、その日の交霊会に招かれていた。その女性に向かってシルバーバーチがこう語りかけた。

 「ヒューズ女史は今ゆっくりと終焉に近づきつつある弱り切った肉体に閉じ込められた偉大なる霊です。もはや施す手だてはほとんどありません。肉体というのは、生長して本来の機能を発揮しはじめた時点から霊への拘束力を強めていくものです。が、女史はその生涯で見事に霊的自我を発揮されました。

 地上に生を受けた目的を立派に果たされました。数え切れないほどの人々の沈んだ心を奪いたたせ、親族を失った人々の涙を拭い、涙と悲しみと苦悩しか見られなかった顔に確信の笑みをもたらしてあげました。

女史はいついかなる時も霊の力を裏切るようなことはしなかったという自信がありますから、これまで歩んできた永い奉仕の道を満足して見つめることがお出来になります。

 女史こそ霊の道具はかくあるべきという最高の規範です。言葉によっても、行為によっても、あるいは心に宿す思念によっても、託された聖なる信頼を裏切るようなことは何一つなさっておりません。

人々に歩むべき道を教え、やれば到達できる水準を示されました。霊の力は、その地上への顕現に協力してくれる献身的で無欲な道具さえあれば、こういうことまで出来るのだということを見事に示されたのです。

 確かに女史は世俗的な意味では裕福ではないかも知れませんが、霊的な意味では裕福そのものであり、倦むことなく続けられた永い奉仕の人生で身につけられた輝かしい宝石類を沢山お持ちです。

それは永遠に輝きを失うことはありません。どうか私をはじめとして、女史の業績を尊敬し感謝している、本日ここにお集まりの皆さんの気持ちをよろしくお伝えください。

 これまでに女史が美事に発揮し実証してきた霊の力は、これからも女史のもとを離れることはありません。休みなく輝き続けることでしょう。女史ご自身もそれを辺りに感じて、いつもその真っ只中にいることを自覚されることでしょう。

女史のような方がもっともっと大勢いてくれれば、私たちの仕事もどんなにかラクになるのですが、残念ながらイエスが言った通り〝招かれる者は多し、されど選ばれる者は少なし〟(マタイ)です」

 同じ日、ともに霊能者である夫妻が招かれていた。英国人と米国人で、今は米国に住んでおられる。その二人にシルバーバーチはこう語った。

 「霊的資質は永いあいだ潜在的状態を続け、魂が十分に培われた時点でようやく発現しはじめるものです。それが基本のパターンなのです。すなわち悲しみや病気、あるいは危機に遭遇し、この物質の世界には何一つ頼れるものはないと悟った時に、はじめて魂が目を覚ますのです。

 何一つ煩わしいことがなく、空は明るく静かに晴れ上がり、すべてがスムーズにそして穏やかに運んでいるような生活の中では、真の自我は見出せません。すばらしい霊的覚醒が訪れるのは、嵐が吹きまくり、雷鳴が轟き、稲妻が光り、雨が容赦なく叩きつけている時です。

 お二人が歩まれた道もラクではありませんでした。しかし、だからこそ良かったのです。困難にグチをこぼしてはいけません。困難は霊の拍車です。霊的知識をたずさえてそれに立ち向かうことです。霊の力は物質の力に勝ります。

問題に遭遇した時はいったん足を止め、霊的知識に照らして判断し、どんなことがあってもお二人が担って生まれてこられた目的から目をそらさないでください。

 お二人はこれまでずいぶん多くの人々のお役に立ってこられましたが、これからもまだまだお役に立たれます。まさに奉仕の道一筋に生きておられます。教会の高位高僧が───まじめな気持からではあっても───行っていることよりはるかに多くの仕事をなさっておられます。

何も知らずに生きている人たちに霊の真理をもたらしておられます。地上に存在している目的を成就する上で力になってあげておられます。霊的本領を発揮する上で力になってあげておられます。霊的知識を普及しておられます。こうしたことはみな神聖な仕事です。そういう仕事を仰せつかったことを誇りに思うべきです。

 人生は難問だらけです。バラの花は少なく、トゲだらけです。しかし、あなた方を導いている力は宇宙を創造したのと同じ力です。無限の威力を秘めております。物わかりの悪い人を相手にしてはいけません。心ない中傷や嫉妬は無視なさることです。まったく下らぬことです。

 本来の責務を全うしていない霊能者のことは気の毒に思ってあげればよろしい。所詮それは当人の責任なのです。あなた方はあなた方なりに精いっぱい責任を果たしておればよろしい。力量以上のものは要求されません。

力のかぎり大霊の道具としての自分を有効に役立てることです。少しでも多くの霊力があなたを通して地上に顕現し、それを必要としている人たちのために力と導きと愛をもたらしてあげられるように努力してください。

 地上には為さねばならないことが沢山あります。今の時代はとくにそうです。邪悪な勢力がのさばっています。利己主義が支配しています。既得権力が崩れ行くわが城を守ることに懸命です。

こうした中であなた方がたった一つの魂でも真の自我に目覚める上で力になってあげれば、それは大へん価値のあることです。ひたすら前向きに進まれることです。

 われわれが手を取り合うことによって、援助を必要とする人々の力になってあげることができます。受け入れる用意のない人に押しつけてはなりません。みずから求めてわれわれの手の届く範囲にまで訪れた人々に気持ちよく手を差しのべましょう。

その人たちなりの自我の覚醒を促す理解力を身につけてくれるように、われわれが力になってあげましょう。かくして霊の力が広がり続けることになります。

 本日お二人が揃ってお出でくださったことを私の方こそ光栄に思っております。と申しますのは、お二人には大へん高級な背後霊団が控え、お二人を道具として使用しているからです。その威力はこれまでの成果で十分に証明されております。

あなた方は霊力の働きの生きた手本です。お選びになられた道を着実に歩んでおられ、その結果として、縁あって訪れる大勢の人たちの力になってあげていらっしゃいます。

 私から改めて申し上げることは何もありません。お手にされた知識に私から付け加えるものはございません。私の世界でも極めて霊格の高い、そして数々の霊的業積を積んで尊敬されている霊団から授かっておられます。が、こうして別の人間の口からお聞きになるのも、それなりの得心を与えてくれるものです。

 同志として、また協力者として、私がお二人に申し上げておきたいことは、お二人ほどの霊的才能をもってしてもなお、お二人を取り巻いている莫大な霊力の実在を感じ取ることはできないということです。その実体のすべてを把握することは不可能なのです。

 あなた方が実証しておられるのは全生命が基盤としている基本的実在です。人間がみずからを、そしてこの世を救うことのできる唯一の道を公開していらっしゃるのです。霊的実在───生命の世界にあって唯一の不変の要素───を実証することができるということです。

 うっかりすると方角を見失いがちな世界にあって、あなた方は物質中心思想という悪性のガンと闘っている霊の大群に所属しておられます。唯物思想は何としても撲滅しなければならない悪性の腫瘍です。これが人類を肉体的にも精神的にも霊的にも病的にしているのです。

 既成宗教にはそれを撲滅する力はありません。なぜなら、そこには霊力というものが存在しないからです。一時的には勢力を伸ばすことはあっても、霊力というものを持ち合わせません。大霊からの遺産としての霊的資質がもつ影響力に欠けております。

 その点あなた方は喪の悲しみの中にある人には死が有難い解放者であること、魂に自由をもたらすものであり、いずれはその人と再会できるという事実を立証してあげることができます。愛さえあればその真実性を実証してみせることが出来ます。それは今の教会にはできません。

 また医者のすべてが〝不治〟 の宣告を下した患者にも、あなた方はなお希望をもたらすことができます。心霊治療によって、全てではないにしても、健康を回復してあげることができます。たとえ全治はできなくても、痛みを和らげ、快方へ向かわせ、活力を与えることが出来ます。

万一それも不可能となり死を待つばかりという場合でも、その死に際して魂を肉体から安らかに離れるようにしてあげることが出来ます。それも心霊治療家の大切な仕事です。

 幻影ばかりを追いかけている世界において、あなた方は真理の存在場所を教えてあげることが出来ます。口で説かれることを実地に証明してみせることが出来ます。それは誰にでもは出来ないことです。偉大な仕事です。神聖な仕事です。霊による仕事です。大変な奉仕の仕事です。

 時にはうんざりさせられることもあるに違いありません。この物質界にあって霊の僕として働くことは容易なことではありません。強い味方と思っていた人が、愚かで強情な見栄から、敵にまわってしまうこともあります。

そういう人は気の毒に思ってやらねばなりません。せっかく光を見ていながら暗闇の道を選べば、その人はそれ相当の責任を取らされることになるのですから。

 お二人は霊の使節なのです。神の特使なのです。地上のいかなるものにも勝る力の代理人です。そして、それ故に又、お二人の責任も大きいということになります。

 私から申し上げることは、これまで通り突き進みなさい、ということだけです。ラクではないでしょう。が、進化しつつある魂はラクを求めないものです。挑戦を求めるものです。それが内在する力を表面に引き出し、それだけ霊的に強力となっていきます。苦難は必ずそれだけの甲斐があるものです。なさねばならないことが沢山あります。

手を差しのべてあげなければならない魂が大勢います。道を見失っている人が沢山います。そしてそういう人たちはお二人のような霊的真理に目覚めた方にしか救えないのです。

 これからも失敗はあるでしょう。何度もしくじることでしょう。だからこそ地上に生まれてきたのです。もしも学ぶことがなければ、この地上にはいらっしゃらないでしょう。地上は子供が勉強に来る学校なのです。完全な霊だったら物質に宿る必要はないでしょう。

 お二人が住んでおられる巨大な大陸(米国)では、宇宙の大霊である神よりも富の神であるマモンの方が崇拝の対象として大いにもてはやされています。だからこそお二人にはいろいろとしなければならないことがあるわけです。

どこで仕事をなさっても、必ずそこに霊の勢力が待機し、霊の光が輝いています。縁あってお二人のもとに連れてこられる魂の力となってあげることになります」


 会の終了後その感激をご主人が次のような文章に託された。

《予想していた通り、シルバーバーチ霊は深遠な叡智と大へんな謙虚さを感じさせた。語られたことは私たち夫婦にとって、いちいち身にしみて理解できることばかりだったが、私にはその裏側にもっと多くを語る実在感が感じられた。

見ていると、霊媒のバーバネル氏の存在は完全に消えてしまって、シルバーバーチ霊が支配しきっているという感じがした。この道の仕事は確かにうんざりさせられることがありがちである。シルバーバーチ霊は目的への信念を回復させる手段を提供してくれた》

 その日はもう一人、有名な霊媒で心霊治療家としても活躍している人(名前は公表されていない───訳者)のお嬢さんが招待されていた。親の仕事ぶりを見て自分も独自のスピリチュアリストチャーチを設立したいという願望を抱いている。そのことを念頭においてシルバーバーチがこう語った。

 「本日はあなたが最後になってしまったことをまず赦していただかねばなりません。でも〝後なる者が先になるべし〟(マタイ)という名言を述べた先人もいます。あなたを後まわしにしたのは決して礼を失したわけではありません。このほうが私の仕事ぶり、通信の仕方をよく見ていただくことになって勉強になると考えたのです。

 それはそれとして、本日こうして初めてお会いしてみて、あなたが少しも〝場違い〟の感じがしないのは、あなたが幸いにしてすでにこの道の初歩的教育を受けておられるからです。他の人たちにとって不思議で信じられないことが、あなたにとっては至って自然に思われるのです。

と言って、あなたもそれをそう簡単に信じたわけではありません。独立心に富むしっかりした魂はラクを求めないものです。あなたはあなたなりの道を切り開かねばなりませんでした。独自の道をたどり、自分の理性の命ずるところに従うには、それなりの独立心というものを発揮しなければなりませんでした。

 あなたも非常に恵まれたお方です。背後には私と親しい間柄にある偉大な霊が控えていて、あなたはその霊から多くの叡智をさずかっておられます。自覚なさっておられる以上に援助を受けておられます。

なのに尚あなたは現状にいらだちを覚え、ご自分の活動の場を設立したいという願望に燃えていらっしゃる。しかし今はまだその時期ではありません。あなたにはまだドアは開れておりません。が、いずれ開かれる時が来ます。

 ここにお出の皆さんはすでにご存じのことですが、あなたにも、ひとつ、人生の秘訣をお教えしましょう。

 ドアをノックしても開けてくれない時は無理してこじ開けようとしてはいけません。軽く押してみるのです。それでもし開いたら、あなたの進むべき道がそこにあるということです。閉め切られた道は通れません。絶対に開かないドアを叩き続けて無駄な時間と労力を浪費している人間が多すぎます。

 あなたは霊の力がどういう具合に働くかをすでにご存知です。あなたに必要なものが十分に用意されれば、あとはドアをそっと押してみるだけでよくなります。それまではどこにいても人のためになることを心掛けることです。手を差しのべるべき人はどこにでもいます。

けっして大げさな催しをする必要はないのです。悲しみの中にある人にやさしい言葉を掛けてあげるだけでもよろしい。沈んだ人に肩にそっと手を掛けて力づけてあげるだけでもよろしい。病の人に早く治りますようにと祈りの気持ちを送ってあげるだけでもよろしい。むろん実際に治療してあげるに越したことはありません。

 そうしたことがそれまで近づけずにいた霊の力とのつながりをもたせることになるのです。あなたがその触媒となるのです。その結果、あなたの行為が影響力の行使範囲をわずかでも広げたことになります。

 あなたの前途にはいろいろなことが用意されております。ですから、一日一日をすばらしい霊的冒険へのプレリュード(序曲・前ぶれ)として迎えることです。将来、きっとあなたは、与えられていく絶好期に欣喜雀躍なさることでしょう」


 S・A・G・B (the Spiritualist Association of Great Britain スピリチュアリストの総合施設で、十数名の霊能者が常駐し、各種の催しや人生相談にのっている。図書館や食堂も完備している───訳者) の事務長のロシター氏 Ralph Rossiter が奥さん同伴で招待された時のシルバーバーチの霊言も、ここで紹介しておくのが適切のようである。ロシター氏は度重なる病気と闘いながら霊的真理の普及に献身しておられる。

 「あなたや奥さんのような方が私との対話を希望してくださることは私にとって大きな喜びの源泉です。お二人は知識も経験も豊富でいらっしゃるので、私から改めて申し上げることはほとんどありません。

ただ、時には別の通路をへて届けられる言葉に耳を傾けるのも、お二人がご自分で思っていらっしゃるよりはるかに霊の力が身近かな存在であることを確認し自覚なさる上で助けになりましょう。

 日夜スピリチュアリズムの普及のために働いておられる方は、霊的真理があまりに身近かな存在であるために〝木を見て森を見ず〟の弊害に陥ることがあります。時には一服して、自分がどういう位置にあるかを確かめるのも良いことです。残念ながら地上には成果を記録する装置がありませんから、自分たちの努力によってどういうことが成就されつつあるかを正確に推し測ることが出来ないのです。

 あなたの協会には大勢の人が訪れ、そして帰って行きます。ある者は病気が癒えて、ある者は元気づけられて、ある者は啓発されて、逆にある者はがっかりして、ある者は何の反応もなしに帰って行きます。魂にその準備ができていなかったのですから止むを得ません。が、

そうしたことが絶え間なく繰り返されると、つい肝心な基本、すなわち魂に訴えるという目的を忘れてしまいがちです。大切なのは魂の内部に宿る神の火花を燃え立たせ、真の自我に目覚めさせることです。

 地上の悲劇は、霊的真理にまったく無知な人間が無数にいるというところにあります。みずから信心深いと思い込み、せっせと礼拝の場へ通っている人でも、霊的実在と何の関わりも持っていない人が大勢います。

と言うことは、真の豊かさと美しさ、物質という次元を超えた生き方がもたらしてくれる歓喜というものに、まったく無縁ということになります。

 そういう人たちは地上生活の目的が分かっておりません。地上を去るまでにしておかねばならないことについて何の予備知識も持ち合わせません。人生の価値観が間違っておりますから、優先させるものが間違っております。

視野のピントがずれております。物事の判断基準が狂っております。生活は不毛で味気なく、自我の開発などとうてい覚束なく、生きる目的というものがありません。いつも迷路の中に生きており、出口が見出せずにいます。

 あなた方の仕事はそうした地上界にあって一つの灯台となることです。ぐるぐると絶え間なく光線を放射し、それが闇を貫き、受け入れる用意のできた人に真理の在りかを教えてあげるのです。

いつも申し上げていることですが、地上生活の終点に来た時に、たった一人の魂にでも真の自我を見出させてあげることができていたら、それでその人生は十分に生き甲斐があったことになります。

 これまで、たった一人どころでなく数え切れない人々が、あなた方のおかげで生命の秘密を発見し、人生を十分に楽しみ、恐れることなく死後の生活に備えることが出来ていることを思えば、本当にしあわせな方であると言えます。

 叶えられることなら、あなたや同僚の方、それに、さんざん悪しざまに言われている霊媒が行っている仕事の偉大さが実感としてお解りいただければいいのですが・・・・・。あらゆる困難、さまざまな問題、幾多の辛苦、それに費用の問題を抱えながらも、あなたはよくぞそれらを切り抜けてこられました。これからもきっとやり抜かれることでしょう。 

 莫大な霊力と、それを使用して活動している大勢の進化せる霊の存在を知りさえすれば、それが得心していただけます。地上で為し得る最も偉大な仕事なのです。容易でないことは私もよく承知しております。しかし、何事も価値あるものは困難がつきものなのです。

 悲しいかな、数だけは沢山ある現代の教会にも、それはなし得ません。魂に感動を与えることはできません。内部の神性にカツを入れることはできません。が、神の使者には、たった一人でもそれができます。

生まれつき霊的能力を授かっているからです。霊覚を持ち合わせない宗教家は、ありきたりの説教と信条の繰り返しに頼るしかなく、便宜主義へと堕落します。霊的淵源からのインスピレーションとも啓示とも無縁なのです。

 肝心なことは、魂が真の自我を見出し全存在の源に触れることです。神が遠く離れた近づき難い存在ではなく自分の内部にあること、したがって困難や危機に遭遇した時に使用できる霊的な武器、力、貯え、潜在力がちゃんと備わっていることを知るべきです。

 それだけではありません。内部の莫大な潜在力とは別に、外部の無限の霊力の恩恵を受けることもできるのです。進化の階段を一つ一つ昇りながら、その一段ごとにその霊格に似合った霊が待機して援助の手を差しのべてくれるのです。これは大切な事実です。

 これまであなたがたがたどって来られた人生はラクではありませんでした。これからも決してラクではないでしょう。もしも私がラクな人生をお約束したら、それはウソを言うことになります。が、あなたはこの仕事をするために生まれて来られたのです。

支払わねばならない負債を背負って来られたのです。その栄光ある仕事の松明が今あなたに手渡されています。何としてもその明かりを灯し続けて、後を引き継ぐ人に手渡す時には一段と輝きを増しているようにして下さい」


 シルバーバーチの祈りから。

《内部に宿るあなたの霊こそ、私たちが何とかして発揮させてあげたいと願っているものでございます。それを発揮することによって初めて人間は神性をもつ存在としての限りない美質、豊かさ、光輝、威厳、壮大さ、気高さを真にわがものとすることが出来るのでございます。

 そうした資質を自覚することによって人間は自我意識を高め、自分を物的なものに縛りつけている拘束物の幾つかを切断し、未開発の精神と霊の豊かな遺産を手にすることが出来るのでございます。

かくしてインスピレーションと叡智と啓示と真理への窓を開くことになります。それらは高き世界からの恩寵としてこれまでも脈々と流れているのであり、人間の受容力に応じて受け入れられているものでございます。

 その流れは常に壮大にして崇高なる霊力を伴っております。霊力こそ生命の源泉であり、強力にして生命力にあふれ、病の人には健康を、衰弱せる人には元気を、迷える人には導きを、そして今なお暗闇の中にいる人には光明をもたらすのでございます》

Sunday, December 28, 2025

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch by Stella Storm




五章 死別の教訓

《肉親の死に遭遇した時、あの顔、あの姿がもう二度と見られなくなったことを悲しむのならまだしも、死んでいった当人の身の上を悲しむのであれば、それは止めなくてはいけません。

 人生は霊的価値を基盤として考えないといけません。その価値があなたの行為の一つ一つの輝ける指標として、日々の生活の中で発揮されなくてはいけません。スピリチュアリストを自任している方々は、スピリチュアリズムを死という不幸に遭遇した時だけ持ち出して、それ以外の時はどこかに仕舞い込んでおくようなことでは困ります》
                シルバーバーチ  


 その日の交霊会には奥さんを失った男性、二人の子供を失った両親、それにジャーナリストとして有名だったロレンス・イースターブルック氏の奥さんが息子さんといっしょに出席していた。死別の不幸を味わったこの三組の招待客に対してシルバーバーチが次のように語りかけた。

 まず奥さんを失った男性に対して───

 「これまでずいぶん過酷な道を歩んで来られましたが、あなたはこれ以上為すべきことはないというところまで、よく頑張られました。考えうるかぎりのことをおやりになりました。いかに愛しているとはいえ、その人の身体がもはや霊を引き止めておけない状態になってしまえば、それ以上生き永らえてくれることを望むのは酷というものです。

地上の人生にはいつかは別れる時がまいります。頑健な方が居残り、弱った者は先に行った方がよいのです。

 あなたには有難く思うべきことが山ほどあります。大きな危機に、無知のままではなく正しい知識をたずさえて臨むことができました。もしも霊についての知識がなかったら、あなたの人生は今よりどれほど大変なものとなっていたことでしょう。

その意味であなたは貴重な人生のおまけを体験なさったと言えます。そのことをあなたは感謝しなくてはいけません。が、霊を引き止めておけなくなった身体から奥さんが去って行くのは、もはやどうしようもありませんでした。

 あの時の奥さんの心境は複雑でした。もう死んでしまいたいと思ったこともあれば、何とかして生き延びたいと思ったこともありました。が、生き延びたいと思ったのはあなたの立場を思ってのことでして、ご自分の立場からではありませんでした。奥さんにはもう何の苦痛もありません。

老いも病気も衰弱も、そのほか人生の盛りを過ぎた者にかならず訪れる肉体の宿命に苦しむことはなくなりました。肉体が衰弱するほど霊は強くなるものです。

 あなたが楽しくしていれば奥さんも楽しい気分になります。あなたが塞ぎ込めば奥さんも塞ぎ込みます。一人ぼっちになられたのは身体上だけの話であり、霊的には少しも一人ぼっちではありません。奥さんは決して遠くへ離れてはいません。今でもあなたを夫と思い、あなたの住む家を我が家と思っていらっしゃいます。

 あなたは信仰心をお持ちです。ただの信仰心ではなく、あなたに証された〝事実〟を根拠とした現実味のある信仰心です。それが、間違いなく訪れる不幸に備えるために、受け入れ態勢の整った時点でもたらされました。それをあなたの人生の全ての基盤となさってください。

あなたはこれからまだまだこの地上で得るものが沢山あります。あなたの人生はまだ終末に来てはいません。他人のために為すべきことがあり、開発すべき資質があり、成就すべき目的があります。

 神は完全なる公正です。自然の摂理を通して因果応報がきちんと行われております。収支は常に完全なバランスを保っております。あなたは忘れ去られることも見落とされることも無視されることもありません。

あなたを導き、援助し、慈しんでくれる愛があります。それを頼みの綱となさることです。それが、いついかなる事態にあっても不動の信念を維持させてくれることでしょう」


 次に子供を失った夫婦に対して───

 「あなた方お二人が、縁あって訪れてくる人たちにいろいろとお役に立っておられる様子を見て、お子さんはとても誇りに思っておられますよ。大切なのは受け入れる用意のできた土壌に蒔かれるタネです。

あなた方が受け入れられたタネはいま見事な花を咲かせております。お子さんは、お二人の人生に衝撃的な影響を及ぼした霊的真理を自然に受け入れて行かれるのをご覧になって、とてもよろこんでいらっしゃいます。

お二人はその大きな真理を我が子の死という大きな悲しみを通して見出さねばなりませんでした。それはまさしく試金石でした。途方に暮れて、力になってくれるものが誰一人、何一つないかに思えた時に、真の自分を見出させてくれることになった触媒でした。

 魂というものは、その奥底まで揺さぶられ、しかも物的なものでは一縷の望みさえつなげない状態下においてのみ目覚めるものであるというのが、基本的な霊的真理なのです。つまり物質界には頼れるものは何一つないとの悟りで芽生えた時に魂が甦り、顕現しはじめるのです。

 現在のお二人の生活も決して楽ではありません。これまでも楽だったことは一度もありません。が、日常の問題にもちゃんとした摂理があります。それは、人のために自分を役立てる者は決して生活に不自由はしないということです。

基本的に必要とするものは必ず与えられるということです。その際に大切なことは、それまでの体験によって得たものを、日常の生活の中で精いっぱい生かしていくことです。そうすることの中で、神とのつながりを強化して行くことになるからです。そのつながりが強くなればなるほど、援助と力とが流れ込む通路が内面的に奥深くなって行くのです。

真理を理解した人間は沈着、冷静、覚悟が身についております。恐れるということがありません。不安の念の侵入を受けつけず、無知と迷信と悩みが生み出す暗黒を打ち消します。自分に生命を与えてくれた力、宇宙を支配している力、呼吸し活動するところのものに必需品を供給する力は絶対に裏切らないとの信念があるからです。

 大切なのは、ご自分の方から神を裏切らないことです。これまでに得たもの、いま受けつつあるもの、そしてそれから生まれる叡智のおかげでせっかく宿すようになった信頼を裏切るような行為をなさらないように心掛けることです。

 霊的真理にしがみつくことです。これまでに自分たちに啓示されたものを信じて物事に動じないことです。一つ一つの問題に正面から取り組み、精いっぱい努力し、済んだことは忘れることです。援助は必ず与えられます。

なぜなら、お二人を愛する人たち、地上にいた時より一段と親密度を増している人たちが、お二人が難題を切り抜けるように取り計らってくれるからです」


 続いてイースターブルック氏の奥さんに対して───

 「今ここにご主人が来ておられますよ。あなたと息子さんのことをとても誇りに思っていらっしゃいます。試練の時を立派に乗り切られたからです。こうして陰から守り導くことができることをご主人が証明してみせたからには、これからもずっと見守っているものと確信してほしいと希望しておられます。

明日のことを思い煩ってはいけません。心配の念を心に宿してはいけません。地上世界には何一つ怖いものはありません。

 ご主人はいつもあなたのお側にいます(〝解説〟参照)。愛のあるところには必ずご主人がいると思ってよろしい。あなたの心、あなたの家庭からいっときも離れることはありません。物質的には離れてしまいましたが、霊的にはいつもいっしょです。霊的につながっている者はけっして別れることはありません。

そうした霊的次元の愛を知り、理解力を身につけ、そしてお互いに足らざるところを補い合う関係───半分ずつが合わさって統一体を構成する関係、魂の結婚という、地上で滅多に見かけられない真実の霊的関係を成就されたあなた方は、本当におしあわせです。

 あなたはご主人のことを誇りに思うべきです。その啓蒙の光は在世中にもしばしば異彩を放っていた偉大なる霊です。彼ほどに人の心の琴線にふれ、高邁(こうまい)なものに手の届く人はそう多くはいません。

 お二人に対する愛は少しも変わっておりません。その愛が鋼鉄の帯のようにお二人を取り囲んでおります。これからも常にお側におられます。お二人を守り、導き、支えとなり、慈しんでくれることでしょう。あなた方が手にされたこうした知識が他の無数の人々も手にできるようになれば、地上はどんなにか変わることでしょう。

 ですから、毎朝を無限の可能性に満ちた新しい霊的冒険の始まりとして、又、あなたの霊的な輝きと資質を増す機会の到来として、歓喜をもって迎えるのです。毎朝が、霊的成長を促し内部の神性を発達させ全生命の始源へ近づけてくれる好機(チャンス)をもたらしてくれるのです」

(訳者注───次に掲げる霊言は誰に向って述べられたものかが明記されておらず、内容からもその手掛かりが得られないので、一般的なものとして訳出しておく)

 「一人一人の人間が、自分の行為に自分で責任を取ります。それが自然の摂理なのです。いかに愛する人とはいえ、その人に代わってあなたが責任をとるわけにはまいりません。その人の行為の結果をあなたが背負うことはできません。それを因果律というのです。過ちを犯したら、過ちを犯した当人がその償いをする───霊的法則がそうなっているのです。

 地上世界には不正、不公平、不平等がよく見られます。不完全な世界である以上、それはやむを得ないことです。しかし霊的法則は完全です。絶対に片手落ちということがありません。

一つの原因があれば、数学的正確さをもってそれ相応の結果が生じます。原因と結果とを切り離すことはできません。結果は原因が生み出すものであり、その結果がまた原因となって次の結果を生み出していきます。

 その関係が終わりもなく続くのです。もしもその因果関係が人為的に変えられ、利己主義者が博愛主義者と同じように霊的に成長することが可能であるとしたら、それは神の公正を根底から愚弄することになります。自分が蒔いたタネは自分で刈り取る───そうあらねばならないのです。

 あなたはあなた自身の行為に責任を取るのです。その行為の結果を自分が引き受けるのです。これからもあなたは過ちを犯します。そしてそれに対する償いをすることになります。

そうした営みの中で叡智を学んでいくべきなのです。過ちを犯すために地上へ来たようなものです。もしも絶対に過ちを犯さない完全な人間だったら、今この地上にいらっしゃらないはずです。

 過ちも失敗もあなたが不完全であることから生じます。しかし、転んでも起き上がることができます。取り返しのつかない過ちというものはありません。新しい希望と新しい可能性を秘めた新しい一日、新しい夜明けが必ず訪れます。

 うちの宗教の教えを信ずれば罪も赦されるかに説いている宗教がいくつかあるようですが、そういうことは有り得ません。罪をあがなうのはその罪を犯した当人のみです。〝神聖〟とされる文句や言葉をいくら繰り返しとなえても、原因から生じる結果を赦免したり消去したりすることはできません。

 ですから、いくら愛しい人であっても、その人の行為にあなたが責任をとるわけにはまいりません。その人みずから学び、学ぶことによって成長し進化していくのです。それが生命の法則なのです。生命は静止することがありません。絶えず向上を目指して動いております。動くということが永遠の進化のための一つの要素なのです。

完全へ向けての向上に終止符(ピリオド)を打つことはできません。無限の時をかけて完全へ近づくことの連続であり、これでおしまいということがないのです。完全性の達成は無限の過程です。完全なのは大霊のみです。

 思い煩ってはなりません。心配の念はせっかくの援助の通路を塞いでしまいます。私はいつも取り越し苦労はおやめなさいと申し上げております。心配の念は有毒です。悪気を生み出し、それがあなたを取り囲みます。陰湿な雰囲気で包まれてしまいます。その状態になると霊の力も突き通せなくなります」

《われわれは、顕と幽の区別なくいずこに存在しようと、神を父とし、一人ひとりがその子供という関係において一つの広大な霊的家族を構成しております。神性の絆がわれわれのすべてをつなぎ、一体としております。

その意味で私たちは、こうして顕と幽の二つの世界の間に横たわる障害の多くを克服してきたことを、この上ない恩恵として感謝しております。そのおかげで地上世界へ影響力を行使できる聖なる霊が次々と輩出しております》
                             シルバーバーチ     

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

 The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

六章 常夏の楽園

 
6 大天使の励まし   

一九一三年十二月十八日  木曜日

    吾々が通過した土地は丘陵地で、山と呼ぶほどのものは見当らなかった。いずこを見ても円い頂上をした丘が連なり、そこここに住居が見える。が、進み行くうちにハローレン様の様子が徐々に変化し始めた。表情が明るさを増し、衣装が光輝を発しはじめた。

左手にある森林地帯を通過した頃にはもう、その本来の美しさを取り戻しておられた。その様子を叙述してみよう。

まず頂上に光の表象が現れている。赤と茶の宝石を散りばめた王冠のようなもので、キラキラと光輝を発し、その光輝の中に更にエメラルドの光輝が漂っている。

チュニックは膝まである。腕も出ている。腰のあたりに黄金の帯を締め、それに真珠のような素材の宝石が付いている。色は緑と青である。帽子も同じく緑と青の二色から成り、露出している腕には黄金と銀の腕輪がはめられている。

 そうしたお姿でワゴンに立っておられる。そのワゴンは木と金属で出来た美しい二輪馬車でそれが白と栗毛の二頭の馬に引かれている。

私が受けた感じでは全体に茶の色彩が強い。際立つほどではないが、ワゴンの装飾も、見えることは見えるが派手に目立たぬようにと、茶色で抑えられている感じである。

 霊界では象徴性(しんぼりずむ)を重んじ、なにかにつけて活用される。そこで、そうした色彩の構成の様子から判断するに、ハローレン様は元来は茶色を主体とする上層界に属しておられ、この界での使命のためにその本来の茶を抑え、この界でより多く見られる他の色彩を目立たたせておられると観た。

使命成就のためにこの界に長期に滞在をするには、そうせざるを得ないのである。

 が、その質素にしてしかも全体として実に美しいお姿を拝して、私はその底知れぬ霊力を感じ取った。

その眼光には指揮命令を下す地位に相応しい威厳を具えた聖純さがあり、左右に分けこめかみの辺りでカールした茶色の頭髪の間からのぞく眉には、求愛する乙女の如き謙虚さと優しさが漂っている。

低い者には冒し難い威厳をもって威圧感を与え、それでいて心疚(やま)しからぬ者には親しさを覚えさせる。喜んでお慕い申し上げ、その保護とお導きに満腔の信頼の置ける方である。まさしく王者であり、王者としての力と、その力を愛の中に正しく行使する叡智を具えた方だからである。

 さて、吾々は尚も歩を進めた。大して語り合うこともなく、ただ景色の美しさと辺りに漂う安らぎと安息の雰囲気を満喫するばかりであった。

そしてついに新参の一団がそろそろ環境に慣れるために休息しなければならないところまで来た。休息したのちはさらに内陸へと進み、その性格に応じてあの仕事この仕事と、神の王国の仕事に勤しむべく、その地方のコロニーのいずれかに赴くことになる。

 そこでハローレン様から〝止まれ!〟のお声があった。そしてその先に見える丘の向こうに位置する未だ見ぬ都へ案内するに際し、ひとこと述べておきたいことがあるので暫し静かにするようにと述べられた。

 吾々は静寂を保った。すると前方の丘の向こうの或る地点から巨大な閃光が発せられ、天空を走って吾々まで届いた。吾々は光の洪水の中に浸った。が、一人として怖がる者はいない。何となればその光には喜びが溢れていたからである。

そしてその光輝に包まれたワゴンとそこに立っておられるハローレン様は、見るも燦爛(さんらん)たる光景であった。

 ハローレン様はじっと立ったままであった。が、辺りを包む光が次第にハローレン様を焦点として凝縮していった。そしてやがてお姿がそれまでとは様相を変え、言うなれば透明となり、全身が栄光で燃え立つようであった。

その様子を少しでもよい、どうすれば貴殿に伝えることが出来るであろうか。

純白の石膏でできた像に生命が宿り、燦爛たる輝きを放ちながら喜悦に浸り切っているお姿を想像してもらいたい。身に付けられた宝石と装飾の一つ一つが光輝を漲らせ、馬車までが炎で燃えあがっていた。

その辺り一面が生命とエネルギーの栄光と尊厳に溢れていた。二頭の馬はその光輝に浸り切ることなく、それを反射しているようであった。ハローレン様の頭部の冠帯はそれまでの幾層倍も光度を増していた。

 私の目にはハローレン様が今にも天に舞い上がるのではないかと思えるほど透明になり、気高さを増されたが、相変わらずじっと立ったまま、その光の来る丘の向こうに吾々には見えない何ものかを見届けておられるような表情で、真っ直ぐにその光の方へ目を向けられ、その光の中にメッセージを読み取っておられた。

 しかし、次にお見せになった所作に吾々は大いに驚ろかされた。別に目を見張るような不思議や奇跡を演じられたわけではない。逆である。静かにワゴンの上で跪かれ、両手で顔をおおい、じっと黙したままの姿勢を保たれたのである。

吾々にはハローレン様がその光を恐れられる方ではなく、むしろそれを、否、それ以上のものを思うがままに操られる方であることを知っている。

そこで吾々は悟った。ハローレン様はご自分より霊格と聖純さにおいて勝れる方に頭を垂れておられるのである。そう悟ると、吾々もそれに倣って跪き、頭を垂れた。が、そこに偉大なる力の存在は直感しても、いかなるお方であるかは吾々には判らなかった。

 そうしているうちに、やがて美しい旋律と合唱が聞こえてきた。が、その言葉も吾々には理解できない種類のものであった。なおも跪きつつ顔だけ上げて見ると、ハローレン様はワゴンから降りられ吾々一団の前に立っておられた。

そこへ白衣に身を包まれた男性の天使が近づいて来られた。額の辺りに光の飾り輪が見える。それが髪を後頭部で押さえている。

宝石はどこにも見当らないが、肩の辺りから伸びる二本の帯が胸の中央で交叉し、そこを紐で締めている。帯も紐も銀と赤の混じった色彩に輝いている。

お顔は愛と優しさに満ちた威厳をたたえ、いかにも落着いた表情をされている。ゆっくりと、あたかもどこかの宇宙の幸せと不幸の全てを一身に背負っておられるかのような、思いに耽った足取りで歩かれる。そこに悲しみは感じ取れない。

それに類似したものではあるが、私にはどう表現してよいか判らない。お姿に漂う、全てを包み込むような静寂に、それほど底知れぬ深さがあったのである。

 その方が近づかれた時もハローレン様はまだ跪かれたままであった。その方が何事か吾々に理解できない言葉で話しかけられた。その声は非常に低く、吾々には聞こえたというよりは感じ取ったというのが実感であった。

声を掛けられたハローレン様は、見上げてそのお方のお顔に目をやった。そしてにっこりとされた。その笑顔はお姿を包む雰囲気と同じく、うっとりとさせるものがあった。

やがてその天使は屈み込み、両手でハローレン様を抱き寄せ、側に立たせて左手でハローレン様の右手を握られた。それから右手を高々とお上げになり、吾々の方へ目を向けられ、祝福を与え、これから先に横たわる使命に鋭意邁進するようにとの激励の言葉を述べられた。

 力強く述べられたのではなかった。それは旅立つ吾が子を励ます母親の言葉にも似た優しいもので、それ以上のものではなかった。

静かに、そしてあっさりと述べられたのである。が、その響きは吾々に自信と喜びを与えるに十分なものがあり、全ての恐怖心が取り除かれた。実は初めのうちは、ハローレン様さえ跪くほどの方であることにいささか畏怖の念を抱いていたのである。

 そう述べられたままの姿で立っておられると、急に辺りの光が凝縮しはじめ、その方を包み込んだ。そしてハローレン様の手を握り締めたままそのお姿が次第に見えなくなり、やがて視界から消えて行った。光もなくなっていた。あたかもその方が吸収して持ち去ったかのように思えた。

 そこでハローレン様はもう一度跪かれ、暫し頭を垂れておられた。やがて立ち上がると黙って手で〝進め!〟の合図をされた。そして黙ってワゴンにお乗りになり、前進を始めた。吾々も黙ってそのあとに続き、丘をまわり、その新参の一行が住まうことになる土地に辿り着いたのであった。 ♰
 

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch by Stella Storm

四章 不変・不滅・不可避の摂理



 
≪万が一にも大自然の摂理に欠陥が見つかったら、私はこのたびの使命をすべて放棄します。もしどこかに摂理のとおりに行っていないところが見つかったら教えてください。しかし、そういうことは絶対にありません。原因にはかならず結果が伴います。蒔いたタネを刈るのです。それ以外には有りようがないのです≫   シルバーバーチ


 「皆さんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは大自然の法則のことです。神はこの宇宙を不変の法則によって支配し顕現していくように定めました。宇宙のあらゆる側面が法則によって治められているのです。

みなさんが親しんでいる物的地上界であろうと、人間に感知できない、それよりはるかに大きな霊界であろうと、法則が行き届かないというところはどこにもありません。

 この法則を通して神の意志が働いているのです。人間の法律には変更と修正がつきものです。不完全であり、あらゆる情況を考慮に入れていないからです。が、神の法則は、起こりうるあらゆる事態に備えてあります。すべてが規制され、すべてが管理され、神の配剤がすべてに行きわたっております。

 人間には一種の機械としての物的身体が与えられています。あなたはその身体を通して自我を表現している一個の霊なのです。あなたが悩みを抱くと、霊と身体との間の水門が閉ざされ、身体は生命力の補給路を失うことになります。

補給源とのつながりを断たれることになります。そのことに気づいて心構えを改めないかぎり、あなたの身体はその不健康な作用と反作用の法則に従いつづけることになります。

 心配の念はあなたの霊的大気であるオーラの働きを阻害し、その心霊的波長を乱します。 (オーラには磁気性と電気性の二種類がある。詳しくは『母と子の心霊教室』を参照───訳者) 

その障害を取り除くまでは生命力は流れ込みません。泰然自若の境地に至るには長く厳しい修行、過酷な試練、そして心配の念の侵入を許すまいとする不断の努力が要請されます。

 無限の愛と叡智を有する神がこの摂理を創案したのです。完璧に出来あがっており、必ずその通りに作用します。心配することに費やしているエネルギーを建設的な思念へ転換すれば、健康上の問題は生じなくなります。神の計画は完全であり、あなたもその計画の中に組み込まれているのです。

あなたも自分自身を完成しなくてはいけません。そのための機会は日常生活の中にいくらでも用意されております。

 私には自然法則を変える力はありません。因果律という不変の法則に私が干渉することは許されません。たとえばあなたの身体が衰弱している兆候を見つければ、大切にするよう警告してあげることしかできません。

身体は一種の機械です。したがってそれなりの手入れがいります。手入れを怠れば故障するにきまっています。すると休息と修理によって機能を回復させるほかはありません。法則はごまかせないのです。

 あなたはその身体を通して自我を表現しているのです。その身体のすることにも限界があり、それを超えてしまえばバッテリーを補充しなければなりません。それはあなたの責任です。あなたの身体だからです。

 いくら愛があるとはいえ、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念の責任を私が肩代わりしてあげるわけにはまいりません、行為の一つひとつ、言葉の一つひとつ、思念の一つひとつについて、あなた自身が責任を取るのです。
身体はその責任ある自己表現の媒体なのですから、その遂行において支障がないように十分な手入れをしておく必要があります。人体は地上のいかなる機械よりもはるかに入り組んだ、すばらしい組織体です。まさしく驚異というにふさわしい道具です。が、それにも手入れがいります。

 自然の摂理と調和した生き方をしていれば病気も異状も不快感もありません。こうしたものは不調和から生じるのです。摂理に反することをすれば、その代償を払うことになります。摂理の範囲内で生活していれば恩恵を受けます。

 何よりも動機が優先されます。が、摂理に違反したことをすれば、それに対してペナルティが科せられます。自分の気持ちを満足させようとして身体を痛めるところまで行ってしまうか否かは、一人ひとりがその霊的進化の程度にしたがって判断することです。

地上生活にも神の計画の中でのそれなりの役割があります。無理を重ねて次の段階の生活への準備が十分に整わないうちに地上を去るようなことになってはいけません。

 たとえば、ここに人類の福祉に貢献している高潔な人物がいるとしましょう。その人がもしもその道での超人的活動で健康を損ねた場合、それは立派と言えるでしょうか。それも本人自身が判断すべきことです。

ただ残念なことに、そうした決断を下すに当たって必ずしも自分自身に真っ正直になり切っていないということです。どこかに自惚れの要素───オレ以外に出来るヤツはいないのだという考えが潜んでいるものです。

 法則にも、次元の違いによっていろいろあります。物的次元のもの、精神的次元のもの、霊的次元のもの、さらにはそれらが入り組んで作用する場合もあります。悲しいかな、人間は物的次元のことがギリギリの絶望的段階に至るまで、霊的次元の真理が理解できません。

それは実在を無視した生活に終始しているからです。物的なものだけが大切と思い込んでいるからです。

 しかし魂はいつかは真の自我に目覚めなくてはなりません。その時から内在する神性が発現しはじめるのです。それも神が定めた埋め合わせの法則の一環なのです。苦難が大きいだけ、そこから得られる悟りもそれだけ大きいものとなります。

 神は宇宙の会計士のようなものです。生命の帳簿は常に帳尻が合っており、すべてがきちんと清算されております。霊的機構は整然と規制されておりますから、あなたが霊的に受けるものはあなたに相応しい分だけであり、多すぎることもなければ少なすぎることもありません。

その計算はあなたがそれまでの努力によって到達した霊的進化の程度を基準にして行われます。霊的なことは常に完全な清算が行き届いており、ごまかしも見せかけも通用しません。

 法則は無限なる愛と叡智の働きによって完璧に機能しています。各自が受け取るのはそれまでの努力にふさわしい分だけです。私がそのように定めたのではありません。そのようになっていることを私が知ったというだけです。

それを因果律といいます。原因と結果の間にはいかなる者も干渉できません。偶発事故とか不測の事態というものは起きません。すべては自然の摂理でそうなっているのです。

 その摂理が廃止されたり、一時停止されたり、妨害されたりすることは絶対にありません。自然の摂理は絶え間なく作用しており、変わることもなければ修正することもできません。その摂理と調和して生きることです。

すると良い結果が得られます。摂理にひっかからないように上手にすり抜ける方法はありません。その作用は絶対です。宇宙の大霊は摂理の精髄であり、権化であり、哀願も弁解も通用しません」


 《私たちがこれまでに賜った知識のすべて───いま生きている宇宙について、その宇宙を法則によって管理している絶対的な力について、そしてその力と私たちとの関係ならびに私たち相互の関係について、より明確な理解を得させてくれた知識を有難く思っております。

 私たちは宇宙の摂理の働きについてより多くのことを学び、それが一つの手落ちもなく私たちの幸福にとって不可欠のものをいかに美事に用意してくれているか───無限なる叡智によって考案され、無限なる愛によって管理されている摂理が私たちすべてを包摂し、私たちのあらゆる必要性に備え、誰一人としてその支配からはみ出ることがないことを理解しております》                          
                         シルバーバーチ

Saturday, December 27, 2025

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(九)

 Philosophy of Silver Birch by Stella Storm

三章 霊の威力

    《もしも霊力が働かなくなるようなことがあったら、地球は回転を止め、四季は巡ってこなくなることでしょう。もしも霊力が働きを中止したら、太陽の炎は消滅し、月はあの幽玄な輝きを見せなくなるでしょう。もしも霊力がしくじることがあったら、種子は花を咲かせず実を結ばなくなることでしょう。》                    シルバーバーチ


 「私たちは、霊が生命を吹き込んでくれたおかげで共通の絆を与えられているのです。そのことによって全世界の神の子が根源において結ばれていることになるからです。人間が地上でも、そして死後も生き続けることを可能にしているのは、神を共通の親として、全人類を一つの家族に結びつけているのと同じ霊力なのです。

 この崇高な事実こそ私たちが啓示せんとしている真理です。あらゆる物的差違、あらゆる障害、あらゆる障壁を超えるものです。肌の色の違い、言語の違い、国家の違いを超越するものです。物的存在の表面の内側に、断とうにも絶つことのできない同胞性で全人類を結びつけている、共通の霊的属性があることを教えております。

 今の地上世界にはぜひともこの真理が必要です。その理解さえ行きわたれば戦争は無くなります。世界中ではびこり過ぎている利己主義と貪欲と既得の権利が撲滅されます。人間の唯一の、そして真の尊厳すなわち霊性が、今あまりにはびこっている低俗な物的価値基準に対する優位を発揮するようになります。

 その理解が行きわたるにつれて、無限の豊かさと輝きと崇高さと愛と指導力と治癒力とを秘めた霊の力がそれだけ多く発揮され、これまであまりに永いあいだ支配して混沌と災禍をもたらしてきた無知と偏見と迷信を駆逐して行くことでしょう。

 あなた方も、お一人お一人がミニチュアの大霊すなわち神なのです。その霊はあなた方の努力次第で生長と発達と拡大を続け、成熟して開花する可能性を秘めているのです。どこまで発揮できるかを決定づけるのはあなた自身です。他の誰もあなたに代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。

あなたも大霊であることを自覚することです。そうすれば神の王国があなた自身の中にあることに理解がいくはずです。霊力は絶対に裏切りません。

 必需品を永遠に供給していくための摂理があり、それに順応しさえすれば、あなたは必要なものに事欠くことは有り得ません。空腹や渇きに苦しむようなことは決してありません。

しかし、必要以上のものは授かりません。あなたの成長度に合ったものを授かるのであって、多すぎることも少なすぎることもなく、高すぎることも低すぎることもありません。摂理ですから、それ以外に有りようがないのです。

 霊は物質による制約には負けません。全生命の原動力であり、全存在の始源である霊は、あなたが地上生活において必要なものはすべて供給してくれます。その地上生活の目的はいたって単純です。本来のあなたである霊的本性を開発・強化して、死後に待ちかまえる次の生活の身支度をすることです。

となると、ありとあらゆる人生体験───楽しいことも苦しいことも、光も蔭も、有利なことも不利なことも、愛も憎しみも、健康も病気も、その一つ一つがあなたの霊的成長にとって何らかのプラスになるということです。

 真理の顕現には無限の形態があります。真理とは無限なる大霊から出るものであり、顕現の媒体となる人物の進化の程度によってその形態が違ってくるからです。その真理の理解は単純・素朴さを通して行われます。

やたらに綴りの長い単語や聞きなれない難解な用語を用いたからといって、それで真理にハクがつくわけではありません。むしろそれが無知の仮面となっていることがよくあるものです。

 私たちの説く真理は、無辺・無限の大霊の真理です。すべての人のためのものであり、一宗一派、一個人のものではありません。全人類を愛の抱擁の中に包まんとして働きかけております。

 実在は物質の中には見出せません。その肉体の中にも発見できません。存在の種子は物的器官の中には見出せません。あなたは今からすでに霊的存在なのです。私たちの世界へ来てはじめて霊性を身につけるのではありません。

 受胎の瞬間から人間も霊的存在なのです。その存在の源である霊という実在からあなた自身を切り離そうとしても、それは絶対にできません。地上世界のすべてが霊のおかげで存在しているのです。霊なくしては生命はありません。なぜなら生命とは霊であり、霊は生命だからです。

 (物的表面にとらわれず)肝心かなめのものにすがることです。目を逸らしてはいけません。これこそ真実であると確信したものにしっかりとすがることです。そして煩雑な物的生活の中で何が何やらわけが分からなくなった時は、大霊の力と安らぎの住む内部へ退避して、その雑念を忘れることです。

そうすればその静寂の中にあなたにとって必要なものを見出すことでしょう。あなたという存在の組織は必ず神の定めたパターンにしたがって織っていくことが大切です。

 そのためには一体われわれは何の目的で神によって創造されたかを忘れないようにしましょう。その神とのつながりに汚点を残すような行為は絶対にしないようにいたしましょう。そうなることが全生命の根源たる神の意図を正しく理解している者すべてに必ず与えられる恩寵に、われわれも常に浴すことになるのです」


 シルバーバーチの祈りから。



《私たち子等を互いに結び、そして私たちとあなたとを永遠に結びつけているのは、全生命の息吹であるあなたの霊にほかなりません。私たちすべてを霊的大家族としてつないでいるその霊的きずなを断絶させうるものは、地上にも霊の世界にも、何一つ存在いたしません》