Monday, July 21, 2025

シアトルの夏 聖職者の使命

Lift Up Your Hearts 
 Compiled by Tony Ortzen



 
 シルバーバーチが伝来の組織的宗教に批判的であることはよく知られている。したがって、キリスト教の位階の中でも高位の〝キャノン〟でありながらスピリチュアリズムにも理解のあるジョン・ピアスヒギンズ氏がゲストとして出席した時は、さぞかし見ものだったことであろう。その様子を次の対話から窺い知ることができそうである。

 まずシルバーバーチから述べる。
 「あなたほどの霊的真理を手にされ、新しい理解への道を歩んでおられる方が、今さらこの私に何のご用があるというのでしょうか」

キャノン───レンガ塀を取り壊す方法をお教え願えまいかと思いまして・・・。実は今、私は大きな壁に突き当たっているのです。

「旧約聖書にあるのではありませんか───ヨシュアという男が大声で怒鳴ったら、城壁が崩れ落ちたという話が・・・・・・。あなたも、一つ、大声で怒鳴って見られてはいかがですか」

キャノン───これはまた恐れ入った話で・・・・・・。崩れ落ちる破片で私自身がケガをしなければいいですが・・・・・・

「それは大丈夫です。あなたはこれまでずっと守られてきております。イザという時は援助の手が差しのべられております」

キャノン───あなたの助言を頂くのが一番だと聞かされてやってまいりました。

「私も、あなたと同じく一個の人間的存在に過ぎません。あなたより少しばかり長く生きてきたというだけです。ただ私には、あなたとは別の次元での生活体験があります。

その生活によって宇宙の摂理がどういう具合に働いているか、それを背後から霊的にどう操っているかについて、いくばくかの知識を得ることが出来ました。

そこで私は、これまで辿ってきた道を後戻りしてこの地球圏に舞い戻り、受け入れる用意の出来た人にその知識を分けて差し上げているところです。

〝馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることまではできない〟という諺があります。ナザレのイエスも豚に真珠を投げ与えるような愚かなことをしてはいけないと戒めております。霊的真理というものは、それを理解する能力が具わっていない人には、どう押し付けても無駄であることを教えているのです」

キャノン───それはよく分かります。

「正直に言わせて頂きますが、不幸にしてそういう人がキリスト教の牧師の中に多く見受けられます。そういう人は霊的なものを見ることも、聞くことも、語ることもできないのです。知識だけは大変なものをお持ちです。

神学・ドグマ・教義・儀式典礼・・・それはそれはよく勉強していらっしゃいます。が、所詮は物質界に関わったことばかりです。霊の世界に関わったものは何一つご存知ありません。

 さて、地上に生を受ける全ての人間がそうであるように、あなたも、この物質界に誕生するに当たって、今歩んでおられるようなコースを自ら選択なさっておられます。信じていただけないかも知れませんが、それは構いません。

人間にとって理解し難い問題であることは確かです。でも、たとえ信じていただけなくても、私としては事実は事実として述べるほかはありません」

キャノン───私は信じます。

「勇猛な闘士はロートス(※)を食べたいとは思いませんし、バラ色の人生を送りたいとも思わないものです。すすんで困難に満ちた人生コースを選んで生まれ、精神力をよりタフに、より厳しく鍛え上げます。だからこそ、あらゆる困難を克服できるのです」

 ※───ギリシャ神話で、その実を食べると現世の苦悩を忘れさせたと言う想像上の植物───訳者

 困難に打ち克つ方法はいろいろとあるでしょう。勇猛果敢にぶち当たるのも一つの方法でしょう。じっくりと耐えて、徐々に克服していくのも一つの方法でしょう。

もっと穏やかに、祈りと瞑想の中で解決法を見出すという方法もあります。あなたほどのお方になれば、どんなことがあっても、この道から外れるようなことはないでしょう。あなたには大事な仕事があります。

それは、霊的知識による啓発を受けるべき人々(聖職者)にそのチャンスを与えることです。使命を自覚するということの本当の意味を悟ってもらわねばなりません。

 聖職者の使命は、宇宙で最も崇高な力の中継役となることです。教会や礼拝堂を〝白塗りの墓〟とせず、彼ら自らが霊力の流れる生きた殿堂となることです。

霊的真理に飢えた人が彼らの言葉によって魂の渇きを癒やされ、魂の空腹を満たされ、身体の病を、イエスの時代と同じように、霊的治癒力によって癒やされるべきなのです。この原理は今も昔も同じです。奇跡というものはありません。自然法則の顕現に過ぎません。

 じっくりと時を待つことです。人間のいちばんいけない点は、何でも性急に求めすぎるということです。その態度を見ていると、まるで大霊に代わって自分が早く片付けてしまいたいと思っているかのようです。

何年もの間モグラのように暗闇の中にいたのが、ある日ふと見上げて〝光〟というものがあることを知ります。すると、もう、それに夢中になって、今すぐにでも世の中を変えてしまわないと気が済まないような態度を取り始めます。

 そう簡単にいくものではありません。霊に関わることは、ゆっくりと、霊妙に、しかし確実に進化するものです。霊的成長、霊的感性、霊的理解力というものは、アクセルを踏んで一気に進めるわけには行かないものです。霊力を強制的に操ることはできません。

無理やりに注入するわけには行きません。それに適した通路が要ります。地上に顕現されるための手段です。

キャノン───そうだと思います。

「霊的成長がもしも努力なしに得られるものだったら、それは神の公正が愚弄されることになります。罪深き人間が簡単に聖人になれることになります。それでは公正の原理が存在の意義を失います。霊的成長はゆっくりと、しかし確実に進行するしかありません。

次の一歩を踏み出すに先立って、今の足場をしっかりと踏み固めないといけません。成長と発達は無限に続くのですから、焦ることはありません」

キャノン───我慢しろとおっしゃるわけですね?

「何度も申し上げておりますように、ドアをそっと押してみて、もし開かなかったら、無理して開けようとなさらないことです。カギのかかったドアをこじ開けようとしてはいけません。が、もしもドアが気持ちよく開いたら、その方向へ行かれることです。機が熟せば、霊の力がひとりでに顕現するものです。

 高級霊に秘められた創案と実現の能力は、たぶんあなた方人間の想像力を絶しております。機が熟し、用意万端が整えば、すべてが納まるところに納まります。盲目的な信仰は愚かですが、霊的知識に基づいて築かれた信仰は、人生哲学と将来への展望を構築する上での確固たる基盤となります。

 人間は、今置かれている環境条件からいって、全知識と全叡知の所有者となることは不可能です。ですから、これまで導かれてきたように、これからもきっと導かれていくとの信念を持つことです。霊の力が挫折してしまうことはありません。

大霊は絶対に挫折しません。すべては定められた摂理に従って顕現し続けます。これまでに啓示していただいたものに感謝し、そして、後のことは辛抱強く待つことです」

キャノン───私の背後霊として集まるのは霊的真理をよく理解した霊ばかりでしょうか。

「もちろんです。ただし、援助を必要とする霊があなたのもとに連れて来られることはありますよ」

キャノン───その種の霊には手を焼かされますね。

まったくです。でも、そういう迷える霊を暗闇から光明へと導いてあげる上で手助けとなることは、とても光栄なことです。気の毒な霊たちでして、すでに死んでいるのに、波動的には霊界よりも地上世界の方に近いのです。

苦境に陥って不安になった時は、気持ちが未来へ向かうのを制して過去を振り返り、これまでに遭遇した、人生の節目となった体験のことを思い起こしてみられることです。万事休すと思えた時───とても解決は無理と思え、どちらを向いても頼るものがなくて途方に暮れた時のことを思い出してみられることです。

不思議にも道が開け、絶体絶命と思えたものが克服されていったように、霊の力はこれからも導き続けます。

 
 キャノンという要職にあるあなたは、他の人にはない、真理普及の絶好のチャンスに恵まれています。大霊の道具であること───その恩寵と愛と叡知と霊力を届ける通路となるチャンスに恵まれていることに感謝しなくてはいけません。

ミニチュアの形で内部に神性を宿していながらこの事実にまったく無知でいる人が、実に多いのは悲しいことです。その意味でもあなたは感謝しなければなりません。収支勘定をすれば、きっとあなたは貸しよりも借りの方が多いと思いますよ。

キャノン───間違いなくそうでしょう。

「もっとも、私が見ているのは霊的なバランスシートですけどね・・・・・・」

キャノン───さぞかし、ひどい状態でしょうね?

「そんなことはありません。人間としてはきわめて健全です。要するにあなたは、まだまだ果たさねばならない仕事が残っているということです」

キャノン───施す以上に施しを受けているようです。

「そういうものです。サービスを施せば、必ず霊界からそれ以上の施しを受け、時にはあふれるほどにもなることがあります」

牧師として、キャノンも数え切れないほどの祈りを捧げてきたことであろうが、シルバーバーチも、ハンネン・スワッファー・ホームサークルによる交霊会において、開会の祈りと閉会の祈りを捧げるのが慣例となっていた。次の祈りは開会の祈りの典型的な例である。

≪日ごろの重荷・心配・不安・悩みごとや取り越し苦労のすべてを、しばし、わきへ置いていただきましょう。可能なかぎり高度な調和状態を成就するように努めましょう。知識と霊的成長を少しでも促進する目的をもとに、向上心をいやが上にも高めましょう。

 至尊至高の創造主たる大霊を超えるものは、この宇宙には存在しません。私たちはその大霊に似せて創造されております。生命そのものを賦与し、聖なる息吹を吹き込み、無限の神的属性を授けて下さった、その大霊とのより緊密なる調和を求めて祈りましょう。

 これまでに啓示していただいた霊的知識によって私たちは、全生命の裁定者、宇宙の全機構の創造者、そしてその完全なる叡知によって全存在を治め、調整し、規制するための摂理を考案なされた絶対的霊力について、より明確なる心像を抱くことができるようになりました。

 その崇高なる霊力の大きさは、到底、私たちには測り知ることはできませんが、その影響力は心臓の鼓動ほどに身近に存在し、永遠なる生命のいかなる側面においても、切っても切れぬ絆によって結ばれているのでございます。

 その大霊の力は、ある時はインスピレーションとなり、ある時は啓示となり、ある時は叡智となり、ある時は真理となって届けられ、またある時は支援の力となり治癒力となって届けられます。それが神性を帯びたものであることは、各種の媒体を通して顕現された時に、それを受け入れた者へ及ぼす絶大なる影響そのものが物語っております。


 私たちはその媒体として、喪の悲しみの中にある人には慰めを与え、病に苦しむ人を癒やし、弱き者に力を与え、悩める人に導きを与え、かくして、手の届くかぎりの範囲において、不幸な人々を助けることができるという測り知れない名誉に浴することができるのでございます。この名誉を大霊に感謝し、更に大きな貢献の道具となることを祈るものです。

 ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます≫

Sunday, July 20, 2025

シアトルの夏 一章  組織と綱領

Lift Up Your Hearts
Compiled by Tony Ortzen



 スピリチュアリズム思想の真実性を信じている人のことを、便宜上、スピリチュアリストと呼ぶ。そのスピリチュアリストの英国最大の統一組織 SNU (Spiritualists National Union) が掲げる七つの綱領は、大部分の会員がそれを受け入れ、座右の信条としていることであろう。

 これは心霊誌 Two Worlds を創刊したビクトリア時代の女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンを通じて、霊界から霊言で届けられたものとされている。ある日の交霊会でその綱領についての評釈を求められたシルバーバーチは、建設的ではあるが非常に手厳しい評価を下している。


 訳者付記──折にふれて〝組織〟の弊害を戒めるシルバーバーチは、組織の代表を自分の交霊会に招くことは度々あったが、組織から招かれて講演したことは、私の知るかぎりでは皆無である。その最初となるべき一九八一年の世界スピリチュアリスト連盟の総会での特別講演が、その直前のバーバネルの急死によって実現しなかったのは皮肉だった。なお《サイキック・ニューズ》紙はいかなる組織からも独立した立場を取っている。


 1、神は全人類の父である。
「これは、用語が適切さを欠いております。神(ゴット)、私のいう大霊は、みなさんがお考えになるような意味での〝父〟ではありません。これでは、愛と叡智の無限の力、全生命の造化の大霊を、人間の父親、つまり男性とすることになります。かくしてそこに、偉大なる男性であるところの人間神というイメージができ上がります。

 大霊には男性と女性のすべての属性が含まれます。すべてを支配する霊である以上は、必然的に生命の全表現───父性的なもの・母性的なもの・同胞的なもの───を含むことになります。ありとあらゆる側面が大霊の支配下にあるのです」



 2、人間はみな兄弟である。

「ここでもまた用語が問題となります。〝人間〟を表わす英語の man は女性にも使えないことはありませんが、本来は男性中心の観念の強い用語です(女性は woman という)。 また、〝兄弟〟というのは〝姉妹〟に対する男性用語です。ですから、性別の観念を取り除いて、世界中の民族を一つの霊的家族とする観念を打ち出さないといけません」


 3、霊界と地上界との間に霊的交わりがあり、人類は天使の支配を受ける。

「またしても表現に問題があり、定義が必要となります。〝霊的交わり〟よりは〝霊的感応と通信〟とした方がよろしい。
 次の〝天使の支配〟も問題があります。〝天使〟とは一体何なのでしょう? 人間の形体をまとったことのない、翼のある存在のことでしょうか。地上の人間とは何の関係もない、まったく別個の存在なのでしょうか。この項目は表現がとても不適切です。

 霊的な支配は確かにあります。が、それは地上的な縁によってあなたと繋がっているスピリット、または特別な縁はなくても、あなたを通路として、地上に指導と支援と手助けと愛情を授けたいと願っているスピリットが行なっているのです」


 4、人間の魂は死後も存続する。

「この事実に例外はありません。人間の魂(個性)は大霊の一部であるがゆえに、地上で自我を表現するための道具だった物的身体がその役割を終えると同時に、そのままいっしょに滅んでしまうものではありません。魂は本質的に永遠不滅の存在なのです。だからこそ生き続けるのです」


 5、自分の行為には自分が責任を取らねばならない。

「これも、その通りです。議論の余地はありません。私たちが地上のみなさんに説き聞かせているあらゆる教えの中核に、この〝自己責任〟の概念があります。

原因と結果の法則、いわゆる因果律を、何か魔法でもかけたように欺くことができたり、自分の行為が招く結果をだれかに背負わせて利己主義が生み出す苦しみを自動的に消してしまうことができるかに説く教えは、すべてこの項目に違反します。

 スピリチュアリズムの教えの核心に、この〝各人各個の責任〟の観念があります。自分がこしらえた重荷は自分が背負わねばならないという、基本的原理を知らねばなりません。

それは、自分の人間的不完全さを取り除き、内部の神性をより大きく発揮させるためのチャンスであると受け取るべきだということです。いかなる神学的教義、いかなる信条、いかなる儀式典礼をもってしても、罪人を聖人に変えることはできません」


 6、地上での行為は、死後、善悪それぞれに報いが生じる。

「これまた用語の意味が問題です。人間の容姿をした神様が立派な玉座に腰かけていて、こいつには賞を、こいつには罰を、といった調子で裁いていくかに想像してはなりません。そんな子供騙しのものではありません。

 原因と結果の法則、タネ蒔きと刈り取りの原理が働くまでのことです。自動的であり機械的です。かならず法則どおりになっていくのです。あなたが行なったことが必然的にそれ相当の結果を生み出していくのです。報賞も罰も、あなたの行為が生み出す結果にほかなりません」



 7、いかなる人間にも永遠の向上進化の道が開かれている。

「生命は、霊的であるがゆえに永遠なのです。誰であろうと、何であろうと、どこにいようと、あるいは、現在すでに到達した進化の段階がどの程度であろうと、これから先にも、永遠へ向けての無限の階段が続いているのです。不完全さを無くするためには永遠の時が必要です。

完全というのは、どこまで行っても達成されません。どこまで行っても、その先にもまだ達成すべき進化の段階があることを認識することの連続です。無限に続くのです」

 続いて質疑応答に入る。

───あなたから見て、われわれ人間が心掛けるべき信条として一つだけ選ぶとしたら、どういうことを説かれますか。無理な注文かも知れませんが・・・・・・

「いえ、無理ではありません。実に簡単なことです。すでに何度も説いていることです。〝自分に為しうることを精いっぱい行なう〟───これです。転んでも、また起きればよろしい。最善を尽くすということ───これがあなた方人間に求められていることです。

 霊的真理の自覚が深まるほど、それだけあなたの責任も重くなります。自覚していながら、知らなかったとシラを切ってみても、無駄です」


───スピリチュアリズムの綱領の中には動物についての教えもあってよいはずだと思うのですが・・・・・・

「その通りです。私もそう思います。私だったらこう表現します───〝全人類は、地上で生活を共にしているあらゆる生物と隣人に対して責任がある〟と」


───ジャーナリストが霊媒やスピリチュアリズムを軽蔑する記事を書いたりした場合、そのジャーナリストはこの地上生活中に何らかの罰が当たるのでしょうか。

「罰が当たるというようなことは、そちらの世界でもこちらの世界でもありません。すべては 原因に対する結果という形で進行するだけです。罰は間違った行為の結果であり、タネ蒔きと刈り取りの関係です。

 問題は〝動機〟に帰着します。つまり、そのジャーナリストは自分の記事の内容を本当にそう信じて書いたのか、それとも正直とか公正とか真理探求といった高尚な問題の範疇に属さない、何か別の単純な動機から書いただけなのかといった要素が結果に影響します。蒔いたタネが実を結ぶのです。

 その結果がそちらの世界で出るかどうかの問題は、また別の問題です。出る場合もあれば出ない場合もあります。それに関わる霊的原理によって決められることです」

───台風のような自然災害によって死亡した場合、それは偶発事故による死ということになるのでしょうか。それともやはりそれがその人の運命だったのでしょうか。

「もしもその〝偶発事故〟という用語が、因果律のリズムの範囲外でたまたま発生したという意味でしたら、私はそういう用語は使いたくありません。事故にも、それに先立つ何らかの原因があって生じているのです。原因と結果とを切り離して考えてはなりません。

 圧倒的多数の人間の地上生活の寿命は、あらかじめ分かっております。ということは、予定されている、ないしは運命づけられている、ということです。同時に、自由意志によってその〝死期〟を延ばすことができるケースも沢山あります。

そうした複雑な要素の絡み合いの中で人生が営まれているのですが、基本的には自然の摂理によって規制されております」


───人間が動物の肉を食することは霊的に見て間違っているというのであれば、なぜ動物が動物を食い殺すことは許されているのでしょうか。なぜ神は肉を食べなくても済むようにしてくださらなかったのでしょうか。

「そういうご質問は私にでなく大霊にお尋ねになっていただけませんか。大霊の無限の叡知が全大宇宙のあらゆる側面に責任をもっております。人間は、身体的進化の点では、この地上における全創造物の頂点に立っています。他の創造物よりも進化しているということは、それらの創造物に対して先輩としての責任があるということです。

 進化の階梯において高い位置にあるということは、その事実に付随して生じるもろもろの意味あいを知的に、そして霊的に理解できるところまで進化しているということを意味します。

より高い者がより低い者を援助し、より高い者はさらにその上の者から援助を受ける───かくして、霊的発達というものは自己滅却(サービス)の精神と、思いやりと、慈しみを増すことであり、それが霊の属性なのです。

 人間は動物を食するために地上に置かれているのではありません。身体的構造をみてもそれが分かります。全体としてみて、人間は肉食動物ではありません。

 動物界にも進化の法則があります。歴史を遡ってごらんなさい。有史以前から地上に生息して今日まで生き延びている動物は、決して他の動物を食い荒らす種類のものではないことがお分かりになるはずです。

 ですから、これは人間の責任に関わる問題です。人間が進化して、その当然の結果として霊性が発揮されるようになれば、イザヤの言葉(旧約聖書・イザヤ書第十一章)が現実となります。すなわちオオカミが小ヒツジとともに寝そべり、仲良く安らかに暮らします。人間も、その霊的原理を実行に移せば、みんな仲良く平和に暮らせるようになるのです」


───核エネルギーも、それが善用されるか悪用されるかは、地上界の人間の責任ということになるのでしょうか。

「核エネルギーをどう利用するか───善用するか悪用するかは、もちろん深刻な問題です。戦争のための必要性に駆られて発明されたものが、実は霊的にはまだ正しく使いこなせない巨大なエネルギーだったことに、その深刻さの根があります。

 知的な発明品が霊的成長を追い越したということです。科学も、本当は霊的に、倫理的に、あるいは宗教的にチェックを受けるべきなのに、それが為されなかったところに、こうした途方もない問題が生じる原因があります。

人類は今まさに、莫大な恩恵をもたらすか、取り返しのつかない破壊行為に出るかの選択を迫られているのです。

 これはまた、自由意志の問題に戻ってまいります。これには逃れようにも逃れられない責任が伴います。大霊はその無限の叡知によって、地上の人間のすべてに、精神と霊と、モニターとしての道義心を賦与しておられます。もしも自由意志がなければ、人間はただのロボットであり、操り人形に過ぎないことになります。

 自分の行為への責任の履行なしには、神の恩恵は受けられません。その責任が課せられている人にしか解決できない問題というものがあるということです。

 核への恐怖が一種の戦争抑止力としての役割を果たしているという意見も出されるに相違ありません。たしかに物的観点からすればそうかも知れません。が、いずれにせよ、人間の為し得る破壊にも、限界というものがあります」


───責任の問題ですが、生まれつき知性が正常でない者の場合はどうなるのでしょうか。自分で物事が判断できない人の場合です。

 「道義心による警告に反応できない場合は、それだけ責任の程度が小さくなることは勿論です。脳の機能の異常による制約を受けているからです。神の公正は完璧です。そういう人にも向上進化の手段が用意されております。地上生活は、永遠の生命の旅路のホンの短いエピソード(語り草)にすぎないことを忘れてはなりません」


───自分の遺体を医学のために提供した場合に、何か霊的な影響がありますか。

「動機さえ正しければ、その提供者の霊には何ら影響は及びません」


───あなたはイエスのことを〝ナザレ人(ビト)〟とお呼びになります。別のサークルの指導霊のホワイトイーグル(※)はふつうに〝イエス〟と呼んでいるのですが、何か特別の理由があるのでしょうか。

※───シルバーバーチがバーバネルを霊媒として語り始める少し前から、女性霊媒グレイス・クックを使って語っていたインディアンで、クックが一九七九年に他界したあと、娘のジョーン・ホジソンを通して今なお語り続けている───訳者。

「同志の一人であるホワイトイーグルには彼なりの考えがあってのことでしょう。私はただ混乱を避けるために〝ナザレ人〟と呼んでいるまでのことです。

地上の人々は忘れてしまったか、あるいはご存知ないようですが、 Jesus (イエス)という名前は当時ではごく一般的な男性名で、たくさんのイエスがいたのです。そこで The Nazarene (ザ ナザレン) といえば〝あのナザレのイエス〟ということで、はっきりします。それでそう呼んでいるまでのことです」


───瞑想によって意識を高め、霊界の高い界層とコンタクトを取る方法があるのでしょうか。

「通常の意識では届かない界層と一時的に波動を合わせる瞑想法はいろいろとありますが、ご質問の意味が、通常の霊的意識の発達の過程を飛び越えて一気に最高級の程度まで霊格を高めることができるかというのであれば、それは不可能です。

 霊的進化はゆっくりとしたものです。それを加速する特別の方法というものはありません。段階を一つずつ上がっていくしかありません。途中の階段をいくつも飛び越えて近道をするというわけにはまいりません。成長というものはなだらかな段階を踏んでいくものです。そうでないと本来の進化の意味をなしません」


───三位一体説をどう思われますか。

「私は〝霊〟(スピリット)と〝精神〟(マインド)と〝身体〟(ボディ)による三位一体しか知りません。キリスト教神学でいうところの三位一体説───創造主が男性神つまり〝父〟で、その息子が贖い主としての特別の〝子〟で、それが、〝聖霊〟によって身ごもったとする説には根拠はありません」

───Witchcraft (ウィッチクラフト)(魔法・魔術・妖術)をどうお考えでしょうか。

「まず用語の定義をはっきりさせないといけません。一般の通念としては、相手の心身に危害を及ぼす目的をもって、不気味な手段によって邪悪なエネルギーを行使するということのようです。

 しかし語源をたどってみますと(witch は wise 〈賢い・知恵のある〉の女性形で、それが craft 〈術〉と結びついたもの)、けっきょくは、〝賢い術、およびそれを使う人〟という意味です。

それが〝魔法使い〟と呼ばれるようになったのですが、もともとは霊能者のことでした。形式はよほど原始的だったことでしょうが、その術には一種類ないしは複数の霊的能力が伴っておりました。

 当時は無知と迷信がはびこっておりましたから、次第に誤解されるようになりました。時には国家権力や宗教を覆す策謀があるのではないかとの嫌疑で罰せられたり、拷問にあったり、処刑されたりしました。しかし本来は霊的能力を使って病気治療や人生相談の相手をする人でした」


───死刑廃止論が多いようですが、何の罪もない人間を巻き添えにしたテロ行為が多発している現状を考えると、尋常な防止手段では効果がないように思えます。そうした罪もない犠牲者を出さないためにも、死刑という厳しい処罰も考慮すべきではないでしょうか。

「死刑制度のお蔭で一般の人々の生命が守られたという明確な証拠でもあれば、あなたのご意見も一理あることになるでしょうが、そういう事実があるとは私には思えません。原則として人間が人間の生命を奪うのは間違いです。なぜなら、人間には生命を創造する力はないからです。

 私は、死刑制度によって事態は少しも改善されないと信じます。殺人行為を平気で行なう者が、絞首刑その他の処刑手段に怯えて行為を思い止まるようなことは、まず有り得ないと考えます。いずれにせよ、死刑に処することは正義からではなく報復心に駆られているという意味において、間違いです。

 いかなる場合においても、生命の基本である霊的原理から外れないようにしなくてはなりません。殺人者を殺すことによって、殺された人は少しも救われません」


───これから犠牲者となるかも知れない罪なき人々を救うことにならないでしょうか。

「ならないと思います。これまでの永いあいだ同僚たちと話し合ってきた挙句の結論として私は、地上社会の司法と行政が、霊的存在としての最高の知識に基づいたものとなるべきであることを、ここで強く訴えるものです。国家による殺人では問題の解決にならないということです。

 生命は神聖なるものです。そのことをあらゆる機会に訴えないといけません。地上の人間としてはこれしかないと思えることも、全体像のごく一部としてしか見ていないものです。霊的にはちゃんとした埋め合わせと懲罰とがなされているのです。

大霊をごまかすことはできません。すなわち、無限の知性と無限の叡知から編み出された摂理が、無比の正確さをもって働くのです。

 そのことに十二分に得心がいくようになってはじめて、地上の社会組織が改められていきます。テロ活動を行なう者には、その間違いを思い知らせるような体験をさせられる仕組みになっているのです。それを野蛮な手段で片づけてはいけません。

地上的生命を奪うような手段は絶対に許されません。生命の絶対的原理に照らした手段に訴えないといけません」


 ───今の時代になぜ暴力沙汰が絶えないのでしょうか。

「振子と同じです。因襲的なものや伝統的なものに対する不満が、今の時代に至って爆発しているのです。それに加えて、物量第一主義の台頭が貪欲と強欲と自分中心主義を生み出しております。

 しかし、振子は大きく振れたあと、かならず元に戻ります。そして、前よりは進歩した形で調和をもたらします。物質中心の思考が人類の意識を支配しているかぎり、それが生み出す不快な結果が自動的に生じます」



 霊媒としての厳しい試練

 SNU(英国スピリチュアリスト同盟)のゴードン・ヒギンソン氏は、これまでも何度かこのサークルに招待されているが、一九七一年にベテランの霊言霊媒レスリー・フリント氏(※)を伴って出席した。

 ※───フリント氏は直接談話を得意とした霊媒で、入神もせず、ただ腰掛けているだけで、その部屋のあちこちからスピリットの声がする。学者による厳しいテスト、たとえば口にガムテープをはられるなどされたが、それにお構いなく、入れ替り立ち替わりスピリットの声がした。著書には自伝的内容の Voices in the Dark がある。現在は老齢のため霊媒活動はしていない───訳者。


 まずシルバーバーチはフリント氏に声を掛け、ヒギンソン氏には「あなたにも関係のある話なので、よく聞いてほしい」と言ってから次のように述べた。
「霊媒という仕事が、列席者の目に映っている外見からはおよそ想像のつかない厳しい道を歩まされ、大きな犠牲を強いられるものであることは、私が他の誰よりもよく知っております。

 あなたの背後に素晴らしい霊団が控えていることは、ご存知と思います。叡知に富む高級なスピリットばかりです。ロンドン訛りのある若者(※)がいますが、それをもって教養が低いと思ってはなりません。あの若者は霊界側の霊媒でして、高級なスピリットの意志を取り次いでいるのです。

最初に聞こえる独特の言い回しは、会場の雰囲気を和らげて、最高のコミュ二ケーションを得る上で必要なバイブレーションを生み出すために、わざと行なっているのです。たぶんあなたはご存知と思いますが・・・・・・」

 ※───ミッキーという呼び名の進行役のことで、〝最初に聞こえる独特の言い回し〟がどういうものかは著書 Voices in the Dark にも出ていない───訳者。

フリント───もちろん知っております。

「あのシーンに出てくるスピリットは、言ってみれば梯子の下の段に相当します。いちばん下の段に位置する地上の霊媒、つまりあなたと、いちばん上の段に位置する中心的指導霊とのつなぎ役、いわば霊界の霊媒役(※)をつとめているのです」

 ※───シルバーバーチを霊視したマルセル・ポンサンによる肖像画は北米インディアンに描かれていて、表向きはそれがシルバーバーチということになっている。が、これは霊界の霊媒であって、シルバーバーチその人でない。

 シルバーバーチと名のる中心的指導霊については、三千年前に地上で生活したことがあるということ以外は、姿はおろか、地上時代の姓名も国籍もわかっていない。六十年に及んだ交霊会で何度となくそれを訊ねられたが〝そんなことはどうでもいいことです。大切なのは私が述べている教えです〟と言って、ついに明かさずに終わった。

 この事実、つまり高級霊ほど地上時代のことを明かそうとしないということの重大性がどこまで理解できるかが、その人の霊的理解力の尺度であると私は見ている───訳者。

 引き続きシルバーバーチが「こんなことを申し上げるのは、これまでにあなたが辿られた道がどんなに辛く、石ころだらけで、およそラクな暮らしとはいえないものだったとしても───」と言いかけると、

フリント氏が「火打石(フリント)のようでした───ただの石ころよりも酷しかったです」と、シャレを引っかけて言う。


「でも、どうしようもない窮地に陥ったことはないはずです。生きるために必要な最低限のものは、最後の最後まで忍んでいれば必ず用意されてきております。他人のために尽くす行為をする人は他人から尽くされる、というのが霊的摂理の一環なのです。そして、他人のためになる行為が大霊の目に止まらないことは絶対にありません。

 しかし同時に、アクセルとブレーキの操作も絶え間なく行なわれていることも知らないといけません。促進と抑制とでうまく調整しながら、あなたが使命と心得てこの世に生まれてきた道から外れることのないようにするのです。

振り返ってごらんになれば、なんだかんだと言いながらも、何とか切り抜けてきておられることがお分かりでしょう。あなたの生活レベルは、地上の尺度で見れば決して裕福とはいえないかも知れませんが、霊的視野から見れば、大変恵まれていらっしゃいます。

 悲哀の極にある人に慰めを与えてあげる仕事は、誰にでも出来るというものではありません。キリスト教会にも為し得ない、何ものかが必要なのです。

キリスト教信者は〝信仰〟を自負しますが、ただの信仰というものは頼りないものでして、何事もない時は間に合うかも知れませんが、愛する者を奪い去られる体験をした人には、何の役にも立ちません。

 霊の力があなたを通して働くのです。その結果として悲哀の涙が、霊的知識がもたらす穏やかな確信と置き換えられます。かくして、この地上世界に、霊的悟りを手にした人が一人増えることになります。暗黒と悲哀の中にいるかに思える体験も、実は神の意図があるからこそであることを悟った人が一人増えるのです。

 あなたも困難のさ中にあって、よく〝なぜこんな体験をさせられるのだろうか。これにも意味があるのだろうか〟と自問されることと思いますが、ちゃんと意味があるのです。そして、その困難に耐えて行く上で支えになるのが、確固とした知識が生み出す霊力なのです」


 フリント───はい、よく分かります。

「千々に乱れた心を癒してあげることができたら、愛する者を失って片腕をもぎ取られたような思いをしている人に慰めを与えてあげることができたら、病身の人に健康を取り戻させてあげることができたら、それがたった一人であっても、その行為の価値は絶大です。

そういう行為こそ、こちらの最高級界に淵源を発する地球浄化の大事業計画にもくろまれている目的の一環なのです。

 その界層においては、進化せる高級霊たちが、一人でも多くの地上の人間に霊的存在としての本来の生き方を悟らせ、美しさと荘厳さと崇高さを身につけさせる上での不可欠の知識を授ける計画の推進に当たっているのです。

 あなたは、授けられた使命を立派に果たしておられます。このことを感謝しないといけません」



 
 SNU会長としての苦労

ここでヒギンソン氏に向かって───

「お聞きになられましたね? あなたにとってもこれまでの道は平担ではありませんでした。しかし、価値の高い仕事を託された人は、その仕事を担うに足る霊力を試すための、さまざまな試練と試金石とが与えられるものです。

あなたも、ご自分で自覚しておられる以上に、人のために役立つ仕事をなさっておられます。そして、まだまだこれからも、貢献すべきあなたならではの分野が残されております」

 何か質問がありますかと問われて、まずフリント氏が尋ねた。

───最近は物理霊媒がとみに少なくなったようです。聞くところによれば、物理的心霊現象の時代は終わって、これからは精神的心霊現象の時代だそうですが、スピリチュアリズムが今日のような基盤を築くことができたのは(十九世紀末から二十世紀初頭にかけての)著名な科学者による物理現象の研究のお蔭であることは間違いない事実です。

 その意味で、物理霊媒を養成する努力が十分になされていないことを残念に思います。そのための時間を割くのが容易でなくなったという一面もあるようです。私たちは何年も掛けたものです。スピリチュアリズムが本格的な市民権を得るためには、もっと多くの物理現象を見せる必要があると私は考えます。

それによって地上の全人類に霊界とのつながりの真実性を得心させることができるのではないでしょうか。


「この私に何を言ってほしいのでしょうか」

フリント───霊界側にとっても物理霊媒が欲しいに違いないと思うのですが・・・・・・

 これにはすぐ答えずに、シルバーバーチはヒギンソン氏に意見を求めた。ヒギンソン氏は霊視能力を得意とする霊能者でもあるが、物理実験会を催したこともある。


 ヒギンソン───私が思うに、問題は現代生活のスピード化にあるようです。小人数による交霊会を催しても、最も大切な要素である〝和気あいあい〟の雰囲気が出にくくなってきたようです。霊界側がわれわれ人間に何を望んでいるかが知りたいのです。

大切なものは、そちらの方がこちらより、よくお分かりのはずです。やはり現代は物理的なものより精神的なものの方が要求される時代なのでしょうか。


「私も、私より上の界層の方たちから教わったことしか申し上げられません。地球浄化の計画の一環として、毛を刈り取られた小羊への風当たりを和らげてあげる仕事が与えられております。それを地上の、その時どきの現実の条件のもとで可能なかぎり行わねばなりません。

 おっしゃる通り、一昔前に物理現象が科学者の関心を呼んだ時期がありました。もちろん、それも計画の一環でした。従来の物理的法則では解釈のつかない現象を、あくまでも科学的手段によって、その実在性を立証するという目的がありました。

 歴史を振り返ってごらんになれば、物理現象が盛んに見られた時代というのは、きまって物質科学が優勢となって、伝統的宗教が基盤を失いかけていたことがお分かりと思います。

宗教と科学とは常に対立してきました。物的証拠のない分野のことは宗教が独自の教義を説き、物理的に証明できるものしか扱わない科学は、そうした教義を拒否しました。


 科学の発達によって宗教的思想が完全に消滅してしまうような事態になっては危険です。そこで、物質科学が万能視されはじめたあの時代に、物理現象による盛んな挑戦を受けることになったのです。

 しかしその後、科学の世界にも大きな変化が生じております。今や科学みずからが不可視の世界へと入り込み、エネルギーも生命もその根源は見かけの表面にはなく、目に見えている物質のその奥に、五感では感知できない実在があることを発見しました。

 原子という、物質の最も小さい粒子は、途方もない破壊力を発揮することができると同時に、全人類に恩恵をもたらすほどのエネルギーを生み出すこともできます。科学はすっかり展望を変えました。

なぜなら、かつてはもうこれ以上は分解できないと思われていた原子を、さらに細かく分裂させることができることを知り、それが最後の粒子ではないとの認識をもつようになったからです。

 そうなると、地上界へのこちら側からのアプローチの仕方も必然的に変ってきます。心霊治療が盛んになってきたのは、その一つの表われです。身体の病気を治すという意味では物質的ですが、それを治すエネルギーは霊的なものです。

現代という時代の風潮は、そういう二重の要素を必要としているのです。現代の人類は、そういうものでないと治せないほど病的になっているということでもあります。

 それは、物理霊媒はもう出なくなるという意味ではありません。まだまだ生命を物質的な目でしか見つめられない人がいる以上、そういう人に対処したレベルでのデモンストレーションも必要です。

 しかし同時に、さきほどご指摘なさった通り、生活のテンポが速くなったことも見逃せない要素です。それが精神を散漫にさせ、かつての家族だんらんというものを、ほとんど破壊しつつあります。

 さらに、ラジオ・テレビ・その他の娯楽が簡単に手に入るようになり、才能を発達させようという意欲を誘う刺激が、霊媒能力に対してはもとより、一般的な分野でも減ってきております。ピアノやバイオリンなどの器楽能力の鍛錬でも、かつてほどの根気がありません。

 何につけても、スピードと興奮を求めようとする傾向があります。こんな時代に、霊媒のような犠牲を強いられるものを目指して努力する人など、多く出るはずがありません。まして、霊媒現象の歴史が〝詐術〟の嫌疑との闘いの連続だったことを知ると、なおさらのことです」


ヒギンソン───私自身はそんな観方はしていませんでした。世の中の風潮に合わせて、できるだけ要求に合わせることに努力してきました。

「時代が変わったのです。今日の宇宙観は一世紀前とは、まるきり違います」


ヒギンソン───ということは、科学者も、その調子で物質的なアプローチの仕方から高次元のアプローチの仕方へと進歩する、ということでしょうか。

「みずからの論理でそうせざるを得なくなるでしょう。どうしても目に見えない世界へと入り込み、その莫大な未知の潜在力の研究へと進むでしょう。霊的に成長すれば、その莫大なエネルギーを善用する方法も分かるようになります。そうなれば、自我に秘められた霊的能力の発達にも大いに関心を向けるようになります。

 目に見えている外面は、内面にあるものが形態をもって顕現したにすぎません。生命力というものは切り刻むことはできません。根元は一つであり、それが無限の形態で顕現しているのです。原子に秘められた生命も、人間・動物・花・樹木などの生命と本質的には同じものです」


ヒギンソン───現代の科学者はそういうことが理解できるレベルにまで到達しているのでしょうか。

「全体としてはまだです。が、到達している人もいます。オリバー・ロッジなどはその典型といえるでしょう。現象界の奥にある実在を認識した科学者の模範です」


ヒギンソン───その事実は、現代という時代において、スピリチュアリズム思想へ向かっての曲がり角におけるパイオニアが用意されているということを意味しているのでしょうか。

「その通りです。ちゃんとしたプランがあり、それぞれに果たすべき役割があるということです。大霊は無限の存在であり、全知・全能です。何一つ忘れ去られることがありませんし、誰一人として見落とされることがありません。神の計画は完ぺきに実行に移されます。

完全性の中で編み出されたものだからです。今も完全性によって支配されております。そこに過ちというものは有り得ないのです。
 
 しかし、その計画の中にあって、あなた方にはその一部を構成している存在としての自由意志が与えられております。神の計画を促進させる方向を選択し、無限の創造活動に参加する好機をものにするか、拒否するか、それはあなたの自由ということです。

 霊的存在としての人間は、どこにいても、それぞれに果たすべき役割というものがあります。その一人ひとりの生涯において、いわば曲がり角、危機、発火点といったものに立ち至ります。

その体験が触媒となって魂が目覚め、自分が物的身体を通して機能している霊的存在であることを悟ります。

 自我とは、霊をたずさえた身体ではなく、身体をたずさえた霊なのです。実在は霊なのです。身体は外形です。殻です。機械です。表面です」


ヒギンソン───現在のスピリチュアリズムは正しい方向へ向かっていると思われますか。私には非常に混乱したイメージしかありません。どこへ足を運んでも、そこにはまた違った考えをもった人たちがいます。

正しい理解が行きわたるまでには、どれくらいの年月が掛かるのでしょうか。進むべき道はどちらにあるのでしょうか。


「率直に申し上げて、スピリチュアリズムの最大の敵は、外部ではなく内部にいる───つまり、生半可な知識で全てを悟ったつもりでいる人たちが、往々にして最大の障害となっているように見受けられます。

 悲しいことに、見栄と高慢と煩悩が害毒を及ぼしているのです。初めて真理の光に接した時の、あの純粋なビジョンが時の経過とともに色あせ、そして薄汚くなっていくのを見て、何時も残念に思えてなりません。一人ひとりに果たすべき役目があるのですが・・・

 私たちはラベルやタイトル、名称や組織・団体といったものには、あまりこだわりません。私自身、スピリチュアリストなどと自称する気にはなれません。

大切なのは暗闇と難問と混乱に満ちた地上世界にあって、霊的知識を正しく理解した人が一人でも多く輩出して、霊的な灯台となり、暗闇の中にある人の道案内として、真理の光を輝かせてくださることです。

 霊的真理を手にした時点で、二つのことが生じます。一つは、霊界との磁気的な連結ができ、それを通路としてさらに多くの知識とインスピレーションを手にすることができるようになるということです。

もう一つは、そうした全生命の根元である霊的実在に目覚めたからには、こんどはその恩恵を他の人々に分け与えるために、自分がその為の純粋な通路となるように心がけるべき義務が生じることです。

 人のために役立つことをする───これが他のすべてのことに優先しなくてはなりません。大切なのは〝自分〟ではなく〝他人〟です。魂の奥底から他人のために良いことをしてあげたいという願望を抱いている人は、襲いくる困難がいかに大きく酷しいものであっても、必ずや救いの手が差しのべられます。道は必ず開けます。

 自信を持って断言しますが、われわれ霊界の者が人間を見放すようなことは絶対にありません。残念なことに、人間側がわれわれを見放していることが多いのです。われわれは霊的条件のもとで最善を尽くします。が、人間の側にも最善を尽くすように要求します。

こちらもそちらも、まだまだ長所と欠点を兼ねそなえた存在であり、決して完全ではありません。完全性の達成には永遠の時を必要とします。

 ですから、その時その時の条件下で最善を尽くせばよいのです。転んだらまた起きればよろしい。転ぶということは起き上がる力を試されているのです。

自分がしようとしていることが正しいと確信しているなら、思い切って実行すればよろしい。袂を分かつべき人とは潔く手を切り、その人の望む道を進ませてあげればよろしい。そのうち、あなたの目に霊の力が発揮される場合がいろいろと見えてまいります。

そうなっていくことが肝心なのです。組織とか教会、協会、寺院、その他の建造物は、霊力の顕現の場としてのみ存在意義を持つのです。

教会はスピリットが働きかける聖なる場所として以外には、何の価値もありません。莫大な費用をかけて豪華にしてみても、そこに霊力というものが通わなければ、ただの〝巨大な墓〟にすぎません。霊力の働きかけが何よりも大切なのです。

 あなたが会長をしておられるSNU(英国スピリチュアリスト同盟)という組織の中に〝人のために役立ちたい〟という真情に燃えた人が集まれば、その人達の周りには自動的に、霊界において同じ願望に溢れる自由闊達なスピリットが引き寄せられます。

その両者が一致協力して、他の手段では救えない人の救済に努力します。悲しいかな、地上にはそういう気の毒な人が多いのです。

 人間は(組織・団体に属さなくても)人のために役立つ仕事(サービス)ができるという特典があります。サービスこそ霊の通貨なのです。何度も申し上げておりますように、人のために役に立つということは崇高なことです。

 私たちが忠誠を捧げねればならないのは、宇宙の大霊と、その大霊の意志の働きとしての永遠不変の摂理です。
 以上のお答でよろしいでしょうか」


ヒギンソン───結構です、有り難うございました。

「私に対する礼は無用です。感謝はすべからく大霊に捧げましょう。私達は互いにその大霊の忠実な使者たらんと努力しているのですから」


ヒギンソン───(SNU に所属している)スピリチュアリスト・チャーチを訪ねて回ることがあるのですが、こんな程度のものなら閉鎖してしまった方がいいのではないかと思うことがあります。要は霊力を顕現させるための場であることが本来の目的だと思うのです。

「霊界側が何時も待ち望んでいるのは、霊力が働きかける為の通路(チャンネル)です。霊力とは神性の顕現そのものなのです。それをあなた方は神(ゴッド)と呼び、私は大霊(グレイト・スピリット)と呼んでいるわけです。

宇宙にはこれに優る力はなく、絶対的な愛に裏打ちされた無限の力なのですから、それに顕現の場を与えずにおくのは勿体ない話です。

 霊とは摂理であり、生命であり、愛です。愛はバイブルにもありますように、摂理の実行にほかなりません。あなたの心が愛と慈悲に満ちていれば、あなたのもとを訪れる人の力になってあげることができます。

反対に不快・不信・怨みなどを抱いているようでは、霊力のチャンネルとはなり得ません。そうした低級感情は霊力の流れの妨げとなるからです」



    
 物理現象も霊的教訓も大切

ヒギンソン───SNUは一個の組織ですが、かつてのキリスト教と同じパターンにはまっていると思われますか。礼拝の進め方などが似ているので戸惑う人がいるようです。改めるべきでしょうか。

「改めるべきところは改めないといけません。優秀なチャンネル(霊媒・霊能者)さえ用意されれば、進むべき方向が示されます」

ヒギンソン───優秀なチャンネルであれば、あなたご自身も働きかけるのですね?

「当然です。大霊の力は、それを顕現させる能力をそなえた人を通してしか発現できません。それが霊媒現象の鉄則です。霊媒能力は神からの授かりものであり、努力して発揮させねばなりません。発揮するほどにますます発達し、実り多いものとなってまいります。豊かさと成熟度を増せば、それだけ受容度が増します。

 霊力は無限です。地上の霊媒を通して届けられる霊力は、使用されるのを待っている霊力の、ごくごく一部に過ぎません。その意味でも、われわれの働きかけに制限を加えるようなことがあってはなりません。

 あなたの率いる SNU は今後も生き残るでしょう。しかし、いろいろと改革が必要です。あなたが正しいと思うことを実行なさることです。あなたの良心、つまり神の監視装置が命じているのはこれだ、と確信するところに従って行動し、他の者が何と言おうと気になさらぬことです」

 ここでヒギンソン氏が各地のスピリチュアリスト・チャーチが取っている方法に高度な霊性が欠けていることに不満を表明してから

「物理現象の方に関心が偏り過ぎて、霊的教訓がおろそかにされております。これでよろしいものでしょうか」と付け加えた。するとシルバーバーチが───

「どちらも間違っておりません。高度なものであれば、現象を求めること自体は少しも悪いことではありません。いけないのは、霊媒が未熟で、いい加減で、品性が劣る場合です。

 現象は物理的であろうと精神的であろうと構いません。霊媒が能力的に優秀で質の高いものが披露できるのであれば、それはそれなりに有用です。要は交霊会で霊的能力が最高に発揮されれば、後はその能力の顕現が何を意味するかをしっかりと検討することです。

 霊的真理は、霊的意識の芽生えていない人にはなかなか理解してもらえません。そこで現象的なものが必要となるのです。しかし、いったん現象に得心がいったら、それをオモチャのようにいつまでも玩(モテアソ)んではいけません。

霊的な意義を考える生活へと切り換えないといけません。その人なりの悟りがきっと芽生えてまいります。魂の琴線に触れる体験がないといけません。これは、あなたの組織内の全ての指導者について言えることです」


ヒギンソン───失敗したスピリチュアリスト・チャーチの多くは、現象面に偏り過ぎたためということは考えられないでしょうか。霊界からのメッセージをもっと多く摂り入れれば生き残れるはずだが、と思えるところがあります。私が大きな関心を寄せているのはそこです。〝指導者会議〟の開催を提唱している理由の一つにそれがあるのです。

 「霊力が地上に届けられる目的は、明日はどうなるかを教えてあげるためではありません。日常生活において警告すべきことや援助すべきことがあれば、それは各自の背後霊が面倒を見てくれます。教会というものをこしらえて、そこを霊力の顕現する聖殿としたいのであれば、低俗なものを拒否し、高級なものを志向すべきです。

霊媒現象がただのサイキック(※)なものに止まるのであれば、せっかく教会を設立した意味がなくなります。
 
 ぜひともスピリチュアル(※)なレベルにまで上げないといけません。みなさんに知っていただきたいのは、霊の資質は、下等なものから高等なものへと、段階的に顕現させることができるということです。
それを、最下等のサイキックなレベルで満足しているということは、進歩していないということになります。停滞しているということです。自然は真空を嫌うものです」

※───サイキックとスピリチュアルの違いは、今はやりの超能力を例に取れば、スプーンを曲げたり硬貨をいったん気化して再び物質化して見せる───右の手に握っていた硬貨を左手に移したり、テーブルを貫通させて下に落とすなど───といったレベルがサイキックで、人体の腫瘍を溶解したり骨髄を再生したりする、いわゆる心霊治療になると、スピリチュアルのレベルとなる。高級なスピリットの働きが加わって人類のためになることをするものがスピリチュアルと考えればよい───訳者。



ヒギンソン───どうすればそれが理解してもらえるでしょうか。

「そういう方向へ鼓舞する、何か動機づけとなるものを与え、進むべき道を明示する必要があります。一つの基準を設ければ、みんなそれに従うようになるでしょう。従わないものは脱落していくでしょう。霊力というものは、ただの面白半分では顕現しなくなります。

 思い切って突き進みなさい。問題はおのずから解決されていきます。あなたは決して一人ぽっちにはされません。進むべき道が見えてきて、援助の手が差しのべられます」

そう述べて、その先駆者の名前をいくつか挙げてから、さらに言葉を継いで───
「こうしたスピリットたちが霊力をたずさえて、あなたのまわりに控えているのです。あなたが一人ぽっちでいることは決してありません」


シルバーバーチの交霊界は、インボケーションという神の加護を求める祈りで始まって、感謝の祈りのベネディクションで終る。その日のベネディクションは次のようなものだった。


 《無限にして初めも終りもなき存在である大霊への祈りに始まった本日の会も、同じ大霊への祈りで終ることに致しましょう。

  大霊からの愛の恵みを授かるべく、心を高く鼓舞いたしましょう。ふんだんに授かっている叡智と真理と知識に感謝いたしましょう。

 大霊の意志をわが意志とし、わが心が宇宙の心と調和して鼓舞するように、生活を規律づけましょう。
すべてを支配する力との調和と親交を求め、大霊の愛のマントに包まれていることを実感できるようになりましょう。

 皆さんに大霊の恵みの多からんことを》


訳者付記───SNUの会長、ゴードン・ヒギンソン氏は一九九三年一月に他界し(享年七十四歳)、エリック・八ットン氏(写真)が後任に選出されている。
 なおSNUよりさらに大きな団体であるISF(世界スピリチュアリスト連盟)の会長だったロビン・スティーブンス氏も同年六月に、わずか五十一歳で急死している。後任にはライオネル・オーエン氏(写真)が選ばれている。


   
クリスチャン・スピリチュアリスト協会の会長を招いて

 ヒギンソン氏が率いるSNUは英国の数あるスピリチュアリズムの組織の中心的存在であるが、同じくスピリチュアリズムを標榜していても、ちょっぴり毛色の違う団体もある。

 〝クリスチャン・スピリチュアリスト協会 〟The Greater World Christian Spiritualist Association(※)もその一つで、一九七七年に当時の会長ノラ・ムーア女史が招待されて、シルバーバーチと語っている。

(※)───〝クリスチャン〟を冠していることからも窺われるように、〝スピリチュアリズムを摂り入れたキリスト教〟といった色彩が強く、ヒギンソン氏などは〝都合のいい折衷思想〟として、事あるごとに批難している。が、シルバーバーチは〝組織〟とか〝名称〟にはこだわらず招待して、真理を語り合っている───訳者。

 
 当日、ムーア女史とともに招待されていたベテラン霊媒のネラ・テーラー女史が、霊媒としての仕事を通じて人のためにお役に立つことができてうれしく思っていることを述べると、シルバーバーチが───

「縁あって自分のもとを訪れる人たちに、生き甲斐を見出させてあげ、地上生活の目的を理解し、日常の体験の中から意義を悟るように、物の見方を変えるお手伝いができることほど大きな喜びはありません。

 私にとっては、そういう仕事をなさっている〝霊の道具〟をお招きすることができることを光栄に思います。お招きする理由は、霊媒が遭遇するさまざまな困難や難題がよく分かっておりますので、時には霊界側から直接励ましの言葉を述べて、今たずさわっておられる仕事がいかに大切であるかを再認識して頂く必要があるからです。霊媒も人間である以上は、やはり迷いがあります。

 一人間として生きて行くからには、世俗的な苦難に耐え切れなくなる時もあります。そんな時には、あなたが手にしておられる崇高な霊的真理にしがみつくことです。きっと世間の荒波を耐え忍ぶための堅固な心の支えになってくれるはずです」


テーラー ───分かりました。さよう心得てまいります。

「ご自分がこの地上で為し遂げるべきものが何であるかを自覚しているかぎり、本来の霊的自我に危害が及ぶような事態は、この地上には何一つ生じません。
 ですから、大胆不敵な魂を失ってはなりません。毅然たる姿勢を保ち、まぎれもなく大霊の使者であることを人に示すことです」

続いてムーア女史に向かって───
「前回お会いした時に比べて、ずっと明るくなられましたね。ご自分の身の処し方を会得なさったようですね?」

ムーア───そう思います。これも(夫君で前会長の)フレッドを始めとする霊団側のお力添えがあってのことと存じます。


「ご主人はあなたのもとを去ってはいないことが、これでお分かりでしょう?」

ムーア───よく分かりました。


「真実の愛によって結ばれた者どうしは決して離ればなれにはなりません。死は愛と生命に対して何も為し得ません。生命と愛は死よりも強いのです。人間的な愛も、無限なる愛の一つの表現です。あなたはこの宇宙の中の誰よりも身近かな存在である方からの愛をずっと受け続けておられる、大変お幸せな方です。

 ご主人は今なお、地上でたずさわっておられた仕事を続けておられ、彼なりの貢献をなさっておられます。その必要性をよく認識しておられます」

ムーア───はい、私もそう信じております。ただ、わたしたちは今、世俗的な面で多くの難題に直面しております。

「これはまた捨ておけない課題を提供してくださいましたね。あなたは真理と霊力とがもたらす威力を知らずにいる人たちにそれを知らしめる仕事をなさっている、大変恵まれた方です。生き甲斐のある生き方を教えてあげることほど偉大な仕事は、ほかにありません。

 あなたにとっての悩みは、永遠不変の霊的真理を理解する人がこの地上においては極めて少数派であることから生じております。

 でも、やはり霊的真理こそが、今日の地上世界でいちばん求められている〝霊的意識の回復〟という大仕事にとって、その手段を提供してくれる生命線なのです。

 そこで私は、常づね、同志の方に申し上げております───愛する者を奪われた人をたった一人でも慰めてあげることができたら、病をかかえた人をたった一人でも治してあげることができたら、苦悩のさ中にある人に解決策を見出させてあげることができたら、それだけであなたの全人生が無駄でなかったことになるということです。

 地上世界には暗闇が多すぎます。無知が多すぎます。利己主義が多すぎます。物質偏重の度が過ぎます。そうした中にあって、こうした崇高な仕事に携わっていることを光栄に思わないといけません。

 さて、あなたのおっしゃる物的側面での問題ですが、霊的な側面をきちんと整えておけば、物的な面もきちんと整います。なぜならば、物質は霊の反映に過ぎないからです。物質には独自の存在はないのです。霊なくしては物質の存在は有り得ないのです。全存在を動かし、生命を賦与しているのは、霊なのです。あなたはその霊の力を使ってお仕事をなさっているのです」



ムーア───ですばらしいことだと思います。

「これは大変なことなのです。ところが、あなたも人間として生きて行く上での必需品のことにかまけて、つい、その事実を忘れてしまいがちです。現代の生活はとくに、経済的要素が厳しくなっております。

 しかしバイブルには〝まず神の王国とその義を求めよ。さらば、それらのものはおのずから整うべし〟とあります。また、〝地球とそれに満つるものとは、みな主のものなり〟とも言っております。こうした言葉は、優先させるべきものを優先させ、霊的摂理と物的法則にかなった生き方をしていれば、すべてがきちんと整うことを教えているのです。

 次の言葉もご存知でしょう。

 〝野のユリはいかに育つかを思え。労することもせず、紡(ツム)ぐこともせざるなり。されど、われ汝らに告ぐ。栄華を極めたるソロモンの服装(ヨソオイ)も、そのユリの花一つにも及ばざりき〟

 これは、自然の摂理に調和した生き方をしていれば、必要なものはその摂理が用意してくれるという意味です。病気も、見た目には肉体が病んでいるように思えても、精神と霊と肉体とが調和していないことから生じているのです。その意味では、何も思い煩うことはないのです。

 こう言うと、〝あなたは地上の人間でないから、そんなきれいごとが言えるのですよ〟と言われそうですね」


ムーア───私たちとは異なる視点からご覧になるからでしょう。

「でも、こうして地上界へやってきて、全生命の基本的原理を説くことをしなかったら、私たちは使命を果たしていないことになります。私たちは決して、物的側面での義務までもおろそかにしなさいとは申しておりません。物質面にはそれなりの存在意義があります。それを無視してはなりません。

しかし、何よりも大切である霊的原理を無視するのも同じく間違いです。根元的には全てがそれによって生じているのですから。
 ほかに何かお聞きになりたいことがありますか?」


ムーア───いっぱいあるのですが、これまでのお話で自然に解決してしまったものが幾つかあります。とにかく私は、私自身を役立てるチャンスが与えられることを、何よりも有り難く思っております。言葉で言い表せないほど感謝しております。私には使命があると言い聞かされております。

 「それを果たすまでは地上を去ることは許されませんよ。人のために役立つことをすること(サービス)が最高の宗教です。サービスは霊の通貨です。崇高な通貨です。すでに何度も申し上げてきたことですが、何度でも繰り返すだけの価値があるのです。

 あなたは霊的真理の生ける証人です。これまでに啓示された知識に忠実に生きていれば、全てのことが収まるべきところに収まります。そのことに関連して私がいつも同志の方たちに申し上げているのは、スピリチュアリズムのお蔭で信仰に知識を加えることができたとはいえ、時には、知識に信仰を加えないといけないことがあるということです。地上にあるかぎり全てのことを知ることはできないからです。

 これまでに手にしたものに感謝し、毎日を不安の念ではなく素晴らしい霊的可能性を秘めたものとして、大いなる期待の念をもって迎えてください。

 同志の方たちにもよろしくお伝えください。今たずさわっている霊的真理普及の仕事に献身しておられる方たちに対して、私たちはいつも尊敬の念を抱いていると伝えてください。

素直な心の持ち主ばかりで、霊界からの援助に浴していらっしゃいます。あなたと同じように、まだまだ果たすべき仕事がたくさん残っております」

 今は亡き夫君のフレッド・ムーア氏のことに言及してムーア女史が「あの人は生涯をこの仕事とともに生きた人でした」と言うと

 「今でもそうですよ。彼にとってはあなたがこの仕事そのものなのですから・・・この仕事は何ものにも代え難い大切なものだと、今おっしゃっていますよ」

ムーア───私と彼とは互いに一つの魂の片割れだと、彼が言ったことがあります。

 「そうです、アフィニティ(※)どうしがいっしょになったのです。類魂が地上生活で出会って結ばれるということは、そう滅多にあることではありません」

※───affinity 同系統の魂の集まりを類魂 group souls と呼ぶが、その中でも最も親しい関係にある魂どうしのこと。語原的には〝親和性の強い関係〟といった意味であるが、そのことと、人間的に好きになったり愛を感じたりすることとは必ずしも一致しない。

前世の問題と同じで、事実としては存在しても、脳という物質を通しての知性であげつらうべきものではないと私は考えている───訳者。



 
 メキシコのスピリチュアリストと語る

 その日のもう一人の招待客は、今は亡きメキシコのスピリチュアリズムの指導者、ケネス・バ二スター氏の娘ミリアム・リアリー女史だった。バニスター氏がスピリチュアリスト・センターを設立した時に、シルバーバーチがその開所式でお祝いの言葉(霊言)を贈ったいきさつがある。

リアリー ───私たちセンターの者はあなたのことを親愛の情をもって思い出しております。その後もずっとあなたの霊訓を心の支えにしております。あなたに対して一種の愛情を抱いております。

 「私の方こそセンターのみなさんに愛情を抱いております。ゆっくりではありますが、着実に仕事が進行し、障害が取り除かれていきつつあることを大変うれしく思っております。お父さんが計画なさった通りに進行しております」

 リアリー ───素晴らしいことです。きっと父も援助してくれているものと確信しております。それを実感しております。

 「当然のことです。あなたはその若さでこうして霊的知識を手にされて、大変お幸せな方です。だからこそ目に見えない霊力によって導かれていることが自覚できるのです。

 メキシコはまだまだ課題が山積しております。私が連絡を取り合っている地上の多くの国の中でも、暗黒部分の多い国に入ります。しかし、霊の世界からの働きかけの存在を自覚する人が増えるにつれて、事態は少しずつ改善へ向かっております」


リアリー ───あなたは、霊的に正しければ物的な側面も自然に収まるとおっしゃっていますが、動物の世界のことはどう理解したらいいのでしょうか。霊的には少しも悪いことはしていないのに、人間によって虐待され、屠殺され、悪用されております。

 「動物と人間とは、その属する範疇が違うのです。人間には正しい選択をする責任が与えられているという点において〝自由意志〟 の行使が許されているということです。その使い方次第で進化の計画を促進する力にもなれば妨害することも有り得ます。

そこに、この地球という天体を共有する他の生物をどう扱うかを選択する自由意志の行動範囲があります。もちろん限界はありますが・・・・・・。


 現在の地上世界はその自由意志の乱用が多すぎます。その中でも無視できないのが、動物の虐待行為と、食用のための乱獲です。しかし、そういう事態になるのも、人間に自由意志が授けられている以上やむを得ない、進化の諸相の一面として捉えないといけません。自由意志を奪ってしまえば、個性の発達と進化のチャンスが無くなり。そこが難しいところです」


リアリー ───どうしてそういう事態の発生が許されるのかが私たちには理解できないのです。

「〝どうして許されるのか〟という言い方をなさるということは、人類から自由意志を奪ってしまった方がいいとおっしゃっていることになります。

繰り返し申し上げますが、自由意志を奪ってしまえば、人類はただの操り人形になってしまうことになり、内部の神性を発揮することができなくなってしまいます。霊的な属性が進化しないとなると、地上に生まれてきた意味がすべて失われます。

 地上世界はある人にとっては託児所であり、ある人にとっては学校であり、ある人にとってはトレーニング・センターです。いろいろな事態に直面し、それを克服しようと四苦八苦するところに意義があるのです」


サークルのメンバー───われわれ人間の目に不公平に思えるのは、人間がそうやって自由意志で行っていることが間違っている場合に、その犠牲になっているのが無抵抗の動物たちであることです。人間が過ちを犯し、そのツケを動物が払うという関係は、どこか間違っているように思えるのです。

「では、あなたはどうあればよいとおっしゃるのでしょうか」


───人間が間違いを犯した以上は、動物ではなくて人間みずからがツケを払うということでないとおかしいと思うのです。

「埋め合わせと償いの法則というのがあります。人間はその行為によって、善悪それぞれに、霊的にそして自動的に影響を受けます。因果律というのは逃れようにも逃れられません。不当な行為を受ければ埋め合わせがあり、その行為者は償いをさせられます。それが自然界の摂理なのです。

 身に覚えのないことで不当な苦しみを受けた人には、それなりの埋め合わせがあるように、人間の身勝手な行為の犠牲になっている動物にも、ちゃんとした埋め合わせがあります」


別のメンバー───この調子では動物への虐待行為を人類が思い止まる日は来そうにないように思えるのですが・・・・・・

「いえ、そうとも言えませんよ。人類は、徐々にではありますが、他の創造物への義務を自覚していくでしょう。一夜にして残虐行為を止めるようになるとは申しておりません。みなさんは進化の途上にある世界において進化しつつあるところです。

一見すると同じことの繰り返しのようで、全体としては少しずつ進化しております。進化とはそういうものなのです。無限の叡知と愛によって、地上のあらゆる存在に対してきちんとした配慮がなされていることを理解なさらないといけません」

別のメンバー───現在の動物の残酷な扱われ方は、どうみても間違っております。が、徐々にではありますが、動物の肉を食べ過ぎているのではないかという反省が生まれつつあるようです。


リアリー───そういう行為が残酷であることを立ちどころに思い知らせるようであって欲しいのです。人間はその辺をうまく擦りぬけているように思います。

「罰を擦り抜けられる者は一人もいません。法則は必ず法則どおりに働くのです。地上生活中にその結果が出なくても、こちらへ来て償いをさせられます。いかなる手段をもってしても、因果律を変えることはできないのです。不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があれば必ず結果が生じるのです。

 誰ひとり、悪行の結果を擦り抜けられる者はいません。もしそれが可能だとしたら、大霊が大霊であるゆえんである〝公正〟というものが崩れてしまいます。

 こうした問題においていつも私が強調しているもう一つの側面があります。それは、残念ながら人間には長期間の展望がもてないということ、いつも目先のものしか目に入らないということです。みなさんには地上での結果しか見えないのですが、こちらの世界へ来れば、すべてがきちんと清算されていることが分かります」

リアリー ───人間はせっかちなのです。

「その点は先刻承知しております。一人でも多くの人が人類としての義務を自覚できるように、みなさんに可能な限りの努力をなさることです。オオカミが小ヒツジといっしょに寝そべる日が一日も早く到来するように祈ることです。進化は必ずやその目的を成就することになっているのです」 

ムーア───人間がもっと自然で神の意志に適った生き方ができるようになれば、あれほどまで多くの動物を実験材料に使わなくなると思うのです。

「おっしゃる通りです。ですから、われわれ真理を知った者は、いつどこにいてもその真理の普及と啓発のための努力を怠らないようにしなくてはなりません。

障害を一つ取り除くごとに祝盃を上げるべきです。霊力はゆっくりとした進化によって地上に根づいていくものでして、急激な革命によって一気に行なわれるものではありません。

 大自然の摂理から外れて、奥に秘められた莫大なエネルギーから遠ざかるようなことをしていては、いつかはその代償を支払わなければならなくなります。人間は霊的属性、霊的潜在力、霊的可能性を秘めた霊的存在なのです。自分以外の地上の生命、特に動物がそれ本来の生き方ができるように指導する力量をそなえているのです。

 神の計画は必ずや成就されることになっています。それを人間の愚行によって遅らせたり邪魔だてしたりすることはできても、完全に挫折させてしまうことは絶対にできないのです」


 シルバーバーチの交霊会の恒例として、最後にサークルのメンバーの一人ひとりから個人的な悩みごとの相談を受けることになっていた。それが終わったあと、出席者全員に向かって次のようなメッセージを述べた。

「 みなさんが遭遇する問題について、私はそのすべてを知っております。とくに何人かの方とは、地上的表現でいう〝ずいぶん永いお付き合い〟を続けております。生活上でもいろいろと変化があり、悩みごとや困難、避けられない事態に対処していかれる様子をこの目で拝見してまいりました。

ですが、今こうしてお会いしてみて、魂に何一つ傷を負うことなく、そのいずれをも見事に克服してこられたことが分かります。

 遭遇する問題の一つひとつを、あなたへの挑戦と受け止めないといけません。障害の一つひとつが挑戦なのです。ハンディキャップの一つひとつが挑戦なのです。

地上生活では挑戦すべき課題が次から次へと絶え間なく生じます。しかし、いかに強烈でも、いかに強大でも、あなたの進化を妨げるほどのものは絶対に生じません。大切なのは、それにどう対処するか───その心の姿勢です。

 自分の霊性の発達にとって、どういう体験が大切であるかの判断は、あなた方自身にはできません。大きな全体像の中のごく限られた一部しか目に入らないために、あなた方自身が下す判断はどうしても歪められたものとなります。

 ですから、体験の価値をうんぬんしていないで、とにかくそれを克服していくのです。きっと克服できます。克服するごとに霊性が強化されていきます。身体は不完全であり、弱さを持っております。あまりのストレスに負けて、体調を崩すことがあるかも知れません。

 しかし、あなた方の宿る霊性は大霊の一部なのです。霊は、潜在的には完ぺきです。すべてを克服していく資質を秘めております。その認識のもとに対処すれば、きっと克服できます。このことを語気を強めて申し上げるのは、それが私たちの教えの中枢だからです。

 私の教えによって救われたという感謝の言葉をよく聞かされます。が、私の教えではないのです。私よりはるかに叡知に富んだ高級界の存在から私が預かったものなのです。しかし、地上界にそういう教えを受け入れてくださる方がいることを知ることは、大変うれしいことです。

そういう方は霊的な受け入れ態勢が整っていたことを意味し、これから後も大霊の無限の恵みに浴していかれることでしょう。

 私も含めて、ここに集まっておられる人たちは大変な光栄に浴していることを知らねばなりません。これまでに啓示していただいた叡知を、大霊に感謝いたしましょう。しかし同時に、それだけの啓示に浴することができたのなら、もっともっと多くの啓示に浴せる可能性が待ち受けていることも知ってください」

シアトルの夏 モーゼスの霊訓 

 The Spirit Teachings

    ステイントン・モーゼス(著)
    近藤千雄(訳)



    〔世界の歴史においても特異な意味を持つこの時期とその特徴について述べたあと、さらにこう綴った──〕


     今まさに新しき真理の普及のために特別の努力が為されつつある。神の使徒による働きかけである。それが敵対者の大軍による曾てなき抵抗に遭遇している。世界の歴史は常に善と悪との闘争の物語であった。

    片や神と善、片や無知と悪徳と邪悪──霊的邪悪、精神的邪悪、そして物的邪悪である。そこで、時として──今がまさにその時期のひとつであるが──尋常ならぬ努力が払われることがある。

    神の使徒が一段と勢力を強めて集結し、人間を動かし、知識を広める。目的達成の時も間近い。恐るべきは真理からの逃亡者であり、生半可者であり、日和見(ひよりみ)主義者である。かくの如き人種に惑わされてはならぬ。が、神の真理ゆえに迷うことがあってもならぬ。



    ──解ります。しかし何をもって神の真理とするか、その判断に迷う者はどうすればよいのでしょう。真剣に求めながらなお見出せぬ者が多いのです。

     切に求める者にして最後に見出せぬ者はおらぬ。その道のりの長く久しき者もあろう。さよう、地上を去り、高き界へ到りてようやく見出す者もあるやも知れぬ。神はすべての者を試される。そして相応しき者にのみ真理を授けられる。一歩進むにもそれ相当の備えが為されねばならぬ。それが進歩の鉄則である。適性ありての前進である。忍耐の必要なる所以である。


    ──それは解るのですが、内部の意見の衝突、証拠を納得して貰えないこと、偏見、その他もろもろの要因から来る障害はどうしようもないように思えます。

     汝にそう思えるというにすぎぬ。一体何故に神の仕事に抵抗せんとするのか。もろもろの障害 ‼  われわれが過去において遭遇せる障害に比べれば、汝らの障害など物の数でないことを汝は知らぬ。

    かのローマ帝政の末期──放蕩と肉欲と卑俗と悪徳とに浸り切った地域から聖なるものがすべて恐れをなして逃げ去った、あの暗黒の時代にもし汝が生を享けておれば、悪が結束した時の恐ろしさを思い知らされたことであろう。

    その非情さは絶望のそれであり、その陰気さは墓場のそれであった。肉欲、ただ肉欲のみであった。天使はその光景を正視できずに逃げ去り、その喘ぎを和らげてやることなど到底及びもつかなかった。実に、あるのはただ不信のみ。

    否、それよりさらに悪かった。世をあげてわれらを侮蔑し、われらの行為を貶(さげす)み、すべての徳をあざ笑い、神を愚弄し、永遠の生命をののしり、ただ食べて飲んだりの放蕩三昧の日を送るのみであった。まさしく堕落しきった動物同然の生活であった。

    さほどの悪の巣窟さえ神とその使者は見事に掃き清められしものを、ああ、汝はわずかな障害を前にして、これを〝どうしようもない〟と嘆くとは!


    〔このあとも、地上人類のための計画が人間みずからの無知と強情ゆえに何度も挫折してきた経緯が述べられた。そこで私はこのたびも失敗に終わりそうなのかと尋ねた。〕


     神は汝の想像以上に働きかけを強めておられる。地上の各地に神の真理普及のための拠点ができ、魂の渇きを潤し知性を納得せしめる真理がふんだんに地上に注がれている。むろん中には古き訓えのみにて足れりとし、新たなる真理を受け入れようとしない者もあろう。われらはそうした人種を構うつもりはない。それはそれでよい。

    が古き啓示を十分に学び尽し、さらに深き真理を渇望しているものが大勢いる。そうした者に神はそれなりの手段をもって啓示を授けられる。

    それが彼らを通じて縁ある人々へと波及し、やがて山上の垂訓の如く、われらが公然と全人類へ向けての啓示を垂れる日も到来しよう。見よ! 神の隠密は地上の低き階層にて研鑽を重ね、その知識と体験をもって真理を唱道する。

    その隠れたる小さき泉がやがて多くの流れを集めて大河を成す。測り知れぬエネルギーを宿すその真理の大河は激流となって地上に溢れ、その時は、いま汝を悩ませる無知も不信も、愚かなる思想も罪も一気に押し流してしまうことであろう。


    ──その〝新しき啓示〟ですがそれは〝古き啓示〟と矛盾していませんか。その点で二の足を踏む者が多いのですが。

     啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾するということは有り得ない。ただしその真理は常に時代の要請と、その時代の人間の受け入れ能力に応じたものが授けられる。

    一見矛盾するかに映ずるのは真理そのものではなく、人間の心に原因がある。人間は単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。時の経過と共にいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなってしまう。

    矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなり果てる。やがてまた新しき啓示が与えられる。がその時はもはやそれをそのまま当てはめる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り崩さねばならぬ。

    新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾はない。が矛盾する如く思わせる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を顕わさねばならぬ。人間は己に宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。

    理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達した人間は無知なる者や、偏見に固められた人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。神は決して真理の押し売りはせぬ。

    この度のわれらによる啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊なる啓示と思えばよい。これまでも常にそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。

    歴史上の改革者をみるがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押しつけはせぬ。用意のある者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者は拒絶する。それでよいのである。

    汝の嘆く意見の衝突も相違も単なる正邪の選り分けの現れにすぎぬ。しかも取るに足らぬ原因から起こり、邪霊によって煽られている。結束せる悪の勢力の働きかけも予期せねばならぬ。が、足もとのみに捉われてはならぬ。常に未来に目を向け、勇気を失わぬことである。


    ──背後霊(1)のことですが、どういう具合にして選ばれるのでしょうか。

     背後霊は必ずしも指導する目的のみでつくのではない。そういう場合がいちばん多いのではあるが、時には背後霊自身にとっての必要性から付くこともある。が、その場合でも人間を教え導くという傾向は自然に出てくる。

    また時には特殊な使命を帯びた霊がつくこともある。性格に欠けたものがあって、それを補ってやるために、その欠けたものを豊富に有する霊が選ばれることもある。反対に霊の側に欠けたものがあり、それを身につけるために適当なる人間を選ぶという場合もある。

    これは高級なる霊が好む手段である。己の霊的向上のために、敢えて指導が困難で不愉快な思いをさせられる人間につくことを自ら希望する霊もいる。

    その人間と苦労を共にしつつ向上していくのである。中には霊的親和力によって結ばれる場合もある。地上的縁の名残で結ばれることもある。何ら特殊な使命を帯びていない人間の背後霊は、魂が向上するに従い背後霊が入れ替わることがしばしばある。


    ──そうやって地上に戻ってくる霊はどの程度の霊ですか。

     主として地球に最も近き下層の三界(2)の者たちである。地上の人間との連絡が取り易いからである。高級霊の場合は汝らの言う霊媒的素質に似たものを持つ者に限られる。

    このことについてはあまり多くは語れぬ。われらの通信を正しく伝え得る霊媒を見いだすことは至難の業であるということ以上は今は語れぬ。通信を望む霊は実に多い。が適切な霊媒が見当たらぬことと、それを求めてあたら無駄な時を費やすのを嫌う故に、彼らは地上との接触を断念する。

    ここにも霊界通信の内容に矛盾の生じる要因がある。汝らが時おり発見する間違いは必ずしもわれら側の落ち度とは限らぬ。そのうち、通信に影響を及ぼす事情につきて更に多くを語る時期もこよう。


    ──神に敵対する霊のことを述べられましたが、それはどういう霊ですか。

     われらの使命を阻止せんとする邪霊のことである。彼らはいかにもわれらと同じ勢力、同じ仕事仲間であるかに装いつつわざとしくじり、人間及び霊にわれらへの反抗心を煽るのである。哀しい哉、彼らは善性を求める心を魂の奥へ押し込め、邪悪の道に快感を求め、一段と悪の要素の強烈なる霊を首領として集結し、われらに憎悪を抱き、仕事を邪魔せんとする。

    彼らは悪戯に長け、ある時は人間の悪感情を煽り、ある時はわれらと同じ仕事仲間であるかの如く装いつつわざとヘマをやっては、半信半疑の真面目の徒を迷わせ、就中(なかんずく)、崇高にして高雅なるものを授けんとするわれらの努力の裏をかき、真摯なる学徒に下劣にして卑俗なるものを与えんと企む。神の敵であり、人間の敵と言うべきである。善の敵であり悪の使者である。彼らに対してわれわれは飽くなき闘いを挑むものである。


    ──そうした悪の組織の存在は聞くだに恐ろしいことですが、一方には悪の存在を否定し、全ては善であり、悪に見えるものも善が悪を装っているに過ぎないと説く人がいますが。

     ああ、哀れなる哉! 哀れなる哉! 善に背を向け、悪への道を選びし霊たちほど哀れなものはない。汝はその邪霊たちが群れをなしてわれらの使命を阻止せんとすることが驚異だと言うが、それなどまだまだ驚くには当たらぬ。

    実情はそれどころではない。人間は霊界へ来たからとて、地上時代といささかも変わるものではない。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪をそのまま携えて来るのである。

    変わるのは肉体を棄てたということのみである。低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたとてその本性が変わるものではない。それは、誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死と共に俗悪なる魂に一変することが有り得ぬのと同じである。

    汝らがその事実を知らぬことこそ、われらにとって驚異と言うべきである。考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂が汝らの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できできようか。

    然るに彼らは、神を憎み善に背を向け肉欲に溺れし罪深き魂も、懺悔一つにて清められ天国に召されると説く。前者がありえぬ如く後者も絶対に有り得ぬ。魂の成長は一日一日、一刻一刻の歩みによって築かれるのである。すぐに剥げ落ちる上塗りではない。

    魂の本性に織り込まれ、切り離そうにも切り離せぬ一部となりきること───それが向上であり成長である。そうして築かれたる本性がもしも崩れるとすれば、それは長き年月にわたる誤れる生活によりて徐々に朽ちるのであり、織物を乱暴に切り裂くがごとく一夜にして崩れることはない。ない、ない、断じてない! 習い性となり、魂に深く染み込みて個性の一部となりきるのである。

    肉体の煩悩に負け続けた魂はやがてその奴隷となる。そうなったら最期、純なるもの聖なるものを嫌い、死後もかつての地上の遊び場に赴いて肉の快楽に耽る。魂の本性となり切っているが故である。これで汝も納得がいくであろう。

    悪の軍団とはかくの如き未発達、未熟なる霊のことであり、それが聖なるもの善なるものへの反抗心によって結束する。彼らに残されたる更生の道はただ一つ。高級なる霊の教唆によりて道義心に目覚め、懺悔のうちに一つ一つ過去の罪を償いつつ、歪める心を正し、苦しみの中に一歩一歩向上することのみである。かくの如き低級霊は実に多い。

    それが全てわれらの敵なのである。善に対抗し真理の普及を妨げんとする悪の組織の存在を否定する言説こそ、汝らを迷わせんとする彼らの策謀であることを心すべである。


    ──その首謀者と言うべきいわゆる〝悪魔〟がいるのでしょうか。

     彼らを扇動する首領は多い。が、キリスト教神学の説く如き〝悪魔〟は存在せぬ。善良なる霊も、邪悪なる霊も全て善悪を超越せる宇宙神の支配下にある。




    〔註〕
    (1) 地上に生をうけた霊(人間)の使命達成と罪障消滅を目的として陰から守護・指導・援助する霊を指す総合的な用語。本人の魂の親である守護霊:ガーディアン:(類魂の一人)を中心として複数の指導霊: ガイド:と支配霊:コントロール:が含まれる。その意図は本文の説明どおり各自まちまちであるが、守護霊の許しを得て、その監督のもとに働いている点においては同じである。

    (2)イムペレーターによると、宇宙は大きく三階層に分かれており、各階層が更に七界ずづに分かれている。地球は最下層の階層の最上界に属するという。三節参照
     



シアトルの夏 霊訓 序論

 The Spirit Teachings

    ステイントン・モーゼス(著)
    近藤千雄(訳)

  • 序論

本書の大半を構成している通信は、自動書記(1)ないし受動書記(2)と呼ばれる方法によって得られたものである。これは直接書記(3)と区別されねばならない。前者においては霊能者がペンまたは鉛筆を手に握るか、あるいは、プランセントに手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれる。一方後者においては霊能者の手を使わず、時にはペンも鉛筆も使わずに、直接的にメッセージが書き記される。


自動書記というのは、われわれが漠然と“霊(スピリット)”と呼んでいる知的存在の住む目に見えない世界からの通信を受け取る手段として、広く知られている。読者の中には、そんな得体の知れない目に見えぬ存在――人類の遺物、かつての人間の殻のような存在――を霊と呼ぶのは勿体ないとおっしゃる方がいるであろうことはよく承知している。が、私は霊という用語が一番読者に馴染みやすいと思うからそう呼ぶまでで、今その用語の是非について深く立ち入るつもりはない。とにかく、私に通信を送って来た知的存在はみな自分たちのことを霊と呼んでいる。多分それは私のほうが彼らのことを霊と呼んでいるからであろう。そして少なくとも差し当たっての私の目的にとっては、彼らは“霊(スピリット)”でいいのである。

その霊たちからのメッセージが私の手によって書かれ始めたのはちょうど十年前の一八七三年三月三十日のことで、スピリチュアリズムとの出会いからほぼ一年後のことであった。もっとも、それ以前にも霊界からの通信は(ラップ(4)や霊言(5)によって)数多く受け取っていた。私がこの自動書記による受信方法を採用したのは、このほうが便利ということと同時に、霊訓の中心となるべく意図されているものを保存しておくためでもあった。ラップによる方法はいかにもまどろこしくて、本書のような内容の通信にはまったく不適当だった。一方、入神した霊媒の口を使ってしゃべると部分的に聞き落とすことがあり、さらに当初のころはまだ霊媒自身の考えが混じらないほど完全な受容性を当てにすることは不可能でもあった。

そこで私はポケットブックを一冊用意し、それをいつも持ち歩くことにした。すると私の霊的オーラがそのノートに染み込んで、筆記がより滑らかに出てくることが判った。それは、使い慣れたテーブルのほうがラップが出やすく、霊媒自身の部屋のほうが新しい部屋より現象が起きやすいのと同じ理屈である。スレートを使った通信(6)の専門霊媒であるヘンリー・スレードも、新しいスレートを使ってうまく行かない時は、使い古したものを使うとまず失敗がなかった。今このことにこれ以上言及しない。その必要がないほど理屈は明瞭だからである。

最初の頃は文字が小さく、しかも不規則だったので、ゆっくりと丁寧に書き、手の動きに注意しながら、書かれていく文章をあとから追いかけねばならなかった。そうしないとすぐに文意が通じなくなり、結局はただの落書きのようなものになってしまうのだった。

しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきた。文字はますます小さくなったが、同時に非常に規則的で字体もきれいになってきた。あたかも書き方の手本のような観のするページもあった。(各ページの最初に書いた)私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていた。神 God の文字はかならず大文字で、ゆっくりと、恭(うやうや)しげに綴られた。

通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図した私的(プライベート)な色彩を帯びていた。一八七三年に始まって八〇年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言説、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類いは、私の知るかぎり一片も見当たらなかった。知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわないものはおよそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つが誠実さと実直さと真剣さに満ちあふれていた。

初期の通信はさきに説明した通りの、きちんとした文字で書かれ、文体も一貫しており、署名(サイン)はいつもドクター・ザ・ティーチャー(7)だった。通信の内容も、それが書かれ続けた何年かの間ずっと変わらなかった。いつ書いても、どこで書いても筆跡に変化がなく、最後の十年間も、私自身のふだんの筆跡が変わっても、自動書記の筆跡はほとんど変わることがなかった。文章上のクセもずっと同じで、それは要するに通信全体を通じて一つの個性があったということである。その存在は私にとって立派な実在であり、一人の人物であり、大ざっぱな言い方をさせていただければ、私がふだんつき合っている普通の人間とまったく同じように、独自の特徴と個性を具えた存在であった。

そのうち別の通信が幾つか出はじめた。筆跡によっても、文体および表現の特徴によっても、それぞれの区別がついた。その特徴は、いったん定着すると等しく変わることがなかった。私はその筆跡をひと目見て誰からの通信であるかがすぐに判断できた。

そうしているうちに徐々に判ってきたことは、私の手を自分で操作できない霊が大勢いて、それらがレクター(8)と名のる霊に書いて貰っているということだった。レクターは確かに私の手を自在に使いこなし、私の身体への負担も少なかった。不慣れな霊が書くと、一貫性がない上に、私の体力の消耗が激しかった。そういう霊は自分が私のエネルギーを簡単に浪費していることに気づかず、それだけ私の疲労も大きかったわけである。

さらに、そうやって代書のような役になってしまったレクターが書いたものは流暢で読み易かったが、不慣れな霊が書いたものは読みづらい上に書体が古めかしく、しばしばいかにも書きづらそうに書くことがあり、ほとんど読めないことがあった。そういうことから、当然の結果としてレクターが代書することになった。しかし、新しい霊が現れたり、あるいは、特殊なメッセージを伝える必要が生じた時は本人が書いた。

断っておきたいのは、私を通じて得られた通信の全てが一つの源から出たものではないということである。本書に紹介した通信にかぎって言えば、同じ源から出たものばかりである。すなわち、本書はインペレーター(9)と名のる霊が私と係わり合った期間中の通信の記録である。もっともインペレーター自身は直接書くことをせず、レクターが代書している。その他の期間、とくにインペレーターとの関係が終わったあとは明らかに別の霊団から通信があり、彼らは彼らなりの書記を用意した。その通信は、その霊団との係わりが終わる最後の五年間はとくに多くなっていった。

通信の書かれた環境はそのときどきでみな異なる。原則としては、私は一人きりになる必要があり、心が受身的になるほど通信も出やすかったが、結果的にはいかなる条件下でも受け取ることができた。最初の頃は努力を要したが、そのうち霊側が機械的に操作する要領を身につけたようで、そうなってからは本書に紹介するような内容の通信が次から次へと書かれていった。本書はその見本のようなものである。

本書に紹介したものは、初めて雑誌に発表した時と同じ方法で校正が施してある。最初は心霊誌『Spiritualist』に連載され、その時は筆記した霊側が校正した。もっとも内容の本質が変えられたところはない。その連載が始まった時の私の頭には、今こうして行なっている書物としての発行のことはまったく無かった。が、多くの友人からサンプルの出版をせがまれて、私はその選択に取りかかった。が、脈絡のことは考えなかった。その時の私を支配していた考えは、私個人の私的(パーソナル)な興味しかないものだけは絶対に避けようということだけで、それは当然まだ在世中の人物に言及したものも避けることにもつながった。私個人に係わることを避けたのは、ただそうしたいという気持からで、一方、他人に言及したものを避けたのは、私にそのような権利はないと考えたからである。結果的には私にとって或る意味で最も衝撃的で感動的な通信を割愛することになってしまった。本書に発表されたものは、そうした、今は陽(ひ)の目を見ることができないが、いずれ遠い将来、その公表によって私を含めて誰一人迷惑をこうむる人のいなくなった時に公表を再考すべき厖大な量の通信の、ほんの見本にすぎないと考えていただきたい。

通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なほどの配慮をしたつもりである。最初の頃は筆致がゆるやかで、書かれて行く文をあとから確かめるように読んでいかねばならなかったほどであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも、間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていった。

こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体で綴られているのである。

だからといって、私は決して私自身の精神が使用されていないと言うつもりはないし、得られた通信が、それが通過した私という霊媒の知的資質によって形体上の影響を受けていないと言うつもりもない。私の知るかぎり、こうした通信にはどこか霊媒の特徴が見られるのが常である。影響がまったく無いということはまず考えられない。しかし、確実に言えることは、私に送られて来た通信の大部分は私の頭の中にあることとはおよそ縁のないものばかりであり、私の宗教上の信念ともその概念上において対立しており、さらに私のまったく知らないことで、明確で確実で証明可能な、しかもキメの細かい情報がもたらされたことも幾度かあったということである。テーブルラップによって多くの霊が自分の身許についての通信を送ってきて、それを後にわれわれが確認したりしたのと同じ要領で、私の自動書記によってそうした情報が繰り返し送られて来たのである。

私はその通信の一つ一つについて議論の形式で対処している。そうすることで、ある通信は私に縁もゆかりもない内容であることが明確に証明され、またある通信では私の考えとまったく異なる考えを述べる別個の知的存在と交信していることを確信することができるわけである。実際、本書に集録した通信の多くはその本質をつきつめれば、多分、まったく同じ結論に帰するであろう。

通信はいつも不意に来た。私の方から通信を要求して始まったことは一度もない。要求して得られることはまずなかった。突如として一種の衝動を覚える。どういう具合にかは私自身にも判らない。とにかくその衝動で私は机に向かって書く用意をする。一連の通信が規則正しく続いている時は一日の最初の時間をそれに当てた。私は起きるのが早い。そして起きるとまず私なりの朝の礼拝をする。衝動はしばしばその時に来た。といってそれを当てにしていても来ないことがあった。自動書記以外の現象もよく起きた。健康を損ねた時(後半よく損ねたが)を除き、いよいよ通信が完全に途絶えるまで、何の現象も起きないということは滅多になかった。

さて、厖大な量の通信の中でもインペレーターと名のる霊からの通信が私の人生における特殊な一時期を画している。本書の解説の中で私は、そのインペレーターの通信を受け取った時の魂の高揚、激しい葛藤、求めても滅多に得られなかった心の安らぎに包まれた時期について言及しておいた。それは私が体験した霊的発達のための教育期間だったわけで、結果的には私にとって一種の霊的新生となった。その期間に体験したことは他人には伝えようにも伝えられる性質のものではない。また伝えたいとも思わない。しかし内的自我における聖霊の働きかけを体験したことのある方々には、インペレーターという独立した霊が私を霊的に再教育しようとしたその厚意ある働きかけの問題は、それでもう十分解決されたと信じていただけると思う。表面的にはあれこれと突拍子もないことを考えながらも、また現に問い質すべきいわれは幾らでもあるにもかかわらず、私はそれ以来インペレーターという霊の存在を真剣に疑ったことはただの一度もない。

この序論は、私としてはまったく不本意な自伝風のものとなってしまった。私に許される唯一の弁明は、一人の人間の霊体験の物語は他の人々にとっても有益なものであることを確信できる根拠が私にある、ということだけである。これから披露することを理解していただくためには、不本意ながら、私自身について語る必要があったのである。私は、その必要性を残念に思いながらも、せめて本書に記載したことが霊的体験の一つの典型として心の琴線に触れる人には有益であると確信した上で、その必要性におとなしく従うことにした。真理の光を求めて二人の人間がまったく同じ方法で努力することはまずないであろう。しかし、私は人間各自の必要性や困難には家族的とも言うべき類似性があると信じている。ある人にとっては私のとった方法によって学ぶことが役に立つ日が来るかも知れない。現にこれまでもそうした方がおられたのである。私はそれを有難いと思っている。

こうしたこと、つまり通信の内容と私自身にとっての意義の問題以外にも、自動書記による通信の形式上の問題もあるが、これは極めて些細な問題である。通信の価値を決定づけるのはその通信が主張する内容そのもの、通信の目的、それ本来の本質的真理である。その真理が真理として受け入れられない人は多いであろう。そういう人にとっては本書は無意味ということになる。また単なる好奇心の対象でしかない人もいるであろう。愚か者のたわごととしか思えぬ人もいるであろう。私は決して万人に受け入れて貰えることを期待して公表するのではない。その人なりの意義を見出される人のために本書が少しでも役立てば、それで私は満足である。

ステイントン・モーゼス

一八八三年三月

Saturday, July 19, 2025

シアトルの夏 霊的真理は不変です

The teachings of Silver Birch 
A guide to spiritual evolution through spiritualism

シルバーバーチの霊訓
スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 

    残念ながらシルバーバーチは地上時代の身元を最後まで明かしてくれなかった。わかっているのは間違いなく大変な高級霊であること、そして地上と交信するための中継役として、かつて地上で北米インディアンだった人物を霊界の霊媒として使用していたということだけである。「地上時代のわたしは沢山の神様(ゴッド)を崇拝の対象としておりました」というのが、唯一、自分の地上時代のことに言及した言葉である。

そう述べた日の交霊会は次の言葉で始まった。


「生半可な知識は危険であるとよく言われますが、時として知識が多すぎても危険であることがあります。その知識が間違っている場合はとくにそうです。

ある種の知識が脳を占領してしまうと、知性がその脳を通して自由に思考するゆとりがなくなります。その意味で、学び直すべきことや捨てなければならないことが沢山ある“聖職者”を、わたしは気の毒に思います。その思想は人工の砂を基盤としているために、霊的真理の攻勢を受けて、今、揺らぎはじめたその砂上の楼閣を守ろうと必死になっております。

建て方を間違っているのです。ナザレ人イエスのまわりに作り話を寄せ集め、ついに生命の大霊の座に祭り上げてしまいました。しかし、基盤そのものが間違っておりますから、いつかはそれを改めなければならない事態に至ります。が、イザ改めようとすると恐怖心が湧いて出ます。そこで、彼らはキリスト教の教義には何一つ改めるべきものは残されていない――そんなものは有り得ないと言い張っているのですが、それは“事実”ないしは“自然の法則”を基盤としている場合にのみ言えることです。

わたしたちが、地上へ舞い戻ってきた理由はそこにあります。すなわち、いかなる人物であろうと、いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、いかなる指導者であろうと――それが地上の存在であっても霊界の存在であっても――たった一つのものに盲従してはいけないこと、それよりも大霊が定められた大自然の摂理に従いなさい――これだけは絶対に誤ることがなく、絶対に正しいから、ということを説くためです。

わたしたちが大自然の摂理、それのみを説く理はそこにあります。それをスピリチュアリズムとお呼びになるのは結構です。ただし、あくまでもそれが大霊の定められたものであること、その働きは地上の物的生命も死後の霊的生命も含めた宇宙のあらゆる界層に及んでいることを理解した上ならば、ということです。

地上人類は指導者(リーダー)というものを必要以上に重んじすぎます。そしてその真価を超えた誇張をしてしまいます。そこから神学という厄介なもの――科学者にとって、思想家にとって、そしてまた、本来ならば自由闊達で理性が承知しないものは受け入れたくない誠実な人にとって、大変厄介なものをこしらえてしまったのです。

わたしたちが大霊の摂理を強調する理由はそこにあります。それを正しく理解することによって、すべての知識が生かされるのです。それだけは決して科学者や哲学者や自由思想家、その他いかなる分野の人の知性も反発させることはありません。永遠にして不変・不易の大霊の働きを基盤としているからです。

皆さんは今、霊界での審議会で用意された叡智がこのわたしを通して届けられるのをお聞きになっていらっしゃるのです。それを広めることによって地上人類の叡智と理解力とが増すにつれて、生活が大霊の御心にそったものとなるでしょう。摂理にのっとったものとなるでしょう。地上世界の悲劇と飢餓、苦労と心痛は、すべてその摂理に従った生き方をしていないところから生じていることを悟るようになるでしょう。その理解が深まるにつれて大霊の庭の美しさを見えなくしている醜い雑草がなくなっていくことでしょう。

それを目標としてわたしたちは、人類の魂を解放し、精神を自由闊達にするだけでなく、物的身体も自然の法則と調和した健康を享受(エンジョイ)できるようにしてあげようと努力しているのです」

ここでシルバーバーチは、自分がほぼ三千年前に地上生活を終えて霊界入りしてからの体験について興味ぶかい話をした。


「わたし自身、そういう考えに到達するまでには、ずいぶん長い年月が要りました。それというのも、地上時代のわたしは沢山の神様(ゴッド)を崇拝の対象としていたのです。その考えを改めて、この宇宙には唯一絶対の大霊が存在し、それが果てしない全大宇宙のあらゆる生命現象をコントロールする永遠・不変の摂理として顕現しているという考えを否応なしに認めざるを得なくなったのです。

こうした教えが地上に行きわたれば、人間界のすべての分裂が無くなります。国家間の障壁がなくなります。人種・階級・肌の色による差別、(英国教会系の)教会(チャーチ)、(非国教会系の)教会堂(チャペル)、(キリスト教以外の)聖堂(テンプル)、(イスラム教系の)寺院(モスク)、(ユダヤ教系の)礼拝堂(シナゴーグ)といった区別がなくなります。それぞれが大霊の真理の一部を宿しており、他の宗教が真髄としているものは自分の宗教が真髄としているものと少しも矛盾しないことが少しずつ解ってくるからです。

かくして表向きは混乱しているかに見えても、その中から霊的な原理が形を整え、調和と平和を生み出します。こうしたことを申し上げるのは、ここにお集まりの皆さんには、そうした大霊の大計画をぜひとも理解していただきたいからです。それは、わたしたち霊界から戻ってきた者が果たさねばならない役目であると同時に、皆さんのお一人お一人が地上生活を終えるまでに果たさねばならない役目でもあります」

シルバーバーチはイエスの復活を“奇跡”とするキリスト教の教えを否定するが、時あたかもその復活を祝うイースターの交霊会で次のように述べた。


「キリスト教界では“死者”から蘇った一人の人間、死後その姿を見せ“死”の彼方にも生命があることを証明してみせた人物に、最大級の敬意を表しております。イエスはその現象によって自分がほかならぬナザレ人イエスであることを証明するために、処刑された時の傷あとまで見せました。一度だけではありません。その後も何度か姿を見せております。

キリスト教界ではそうしたことのすべてを、その証拠はないのに事実であると信じております。そして、それはイエスのみの奇跡であったと主張します。

実はわたしたちもイエスが使用したのと同じ心霊法則によって地上へ戻り、“死”の彼方の生命の実在を証明しております。すなわち大霊はイエスの時代も今の時代もいささかも変わらず、その法則の働きも不変であり、当時の一個の人間が蘇ったごとくに今もすべての人間が蘇ることを証明しております。復活というのは生命の大霊の摂理の一環であるからにほかなりません」

メンバーの一人が「イエスの復活は聖書に述べられている通りだったのでしょうか」と尋ねた。


「大体あの通りでした」

「石の蓋は本当に取り去られたのですか」


「本当です」

「なぜ取り除く必要があったのでしょうか」


「あれはただ蘇りを象徴するためにしたことです」

「イエスの死体はどうなったのでしょうか」


「分解されてしまいました(※)。もっとも、その現象も含めて、霊の姿が見えるとか声が聞こえるとかの物的現象は大して重要なことではありません。それよりもっと大切なことは、あなた方自身の霊性を開発することです。毎週一回この会に出席することによって皆さんは霊的波長が高まり、それだけ高度な叡智を受け入れやすくなっておられます。霊的叡智はいかに高度なものでも常に物質界へ流入しようとしてその機をうかがっているのです。奉仕(サービス)の法則がそうさせるのです。しかし実際は地上界へ流入するには、その波長に感応してくれる道具が必要となります。

また、皆さんの霊性が開発されて波長が高まるにつれて、より高度でより大きな霊的エネルギーを捉えることができるようになります。それは、皆さんの目で見ることも耳で聞くこともできませんが、永遠の霊的実在の世界のものなのです。

それこそが実在なのです。人間は一日の大半を影を追い求め、幻影を捉えようとし、束の間のものにしがみつこうとしています。しかし本当は静寂の中においてこそ、調和と愛の中においてこそ、魂は成長しているのです。遅々としてはいますが、しかし確実であり着実です。それは皆さんの一人ひとりの内部に潜在する大霊が開発され進化するということです。その点、皆さんは毎週一回この一つの場所に一つの信念のもとに集うことによって、霊性がますます発揮されることになります。

イエスも二千年も前に、二人または三人の者が集えば、そこに父の聖霊が降りるという意味のことを述べております(祈祷(きとう)書)。わたしたちも、それとまったく同じことを説いているのですが、キリスト教の聖職者はそれを否定します。

真理は変わらないのです。人間の考えは変わりますが、真理は不変です。なぜなら真理には事実という知識の土台があり、知識は大霊から届けられるからです。大霊こそあらゆるインスピレーションの中心であり始源です。話はいたって簡単であり誰にでも理解できることです。ところが地上世界ではそれが大変ややこしいものになってしまったのです」


※――心霊現象の一つに物品引寄(アポーツ)というのがある。すぐ隣の部屋からでも一キロ先からでも海の向こうからでも物品を実験室のなかへ持ち込むという現象で、実験室のドアは完全に密閉されているから、その物品はいったん分解(非物質化)されてエネルギーの状態で実験室へ持ち込まれ、そこで元の形に再物質化されているとしか考えようがない。イエスの死体が分解されたのも同じ心霊法則によるものであり、法則に従っている以上はシルバーバーチが言うように奇跡ではないわけである。ちなみに空飛ぶ円盤などの未確認飛行物体、いわゆるUFOは遠い星から飛来していると推測されているが、私は、これも地上的距離の常識を超えた空間を飛来するからにはアポーツと同じ原理を利用していると考えている。

シルバーバーチはこのイースターとクリスマスに開かれる霊界における大審議会に出席を許されている高級指導霊の一人であるが、その日もそのことに言及してこう述べた。


「そこには高遠の世界においてのみ味わえる喜び、この大事業にたずさわっている光り輝く存在――地上生活を終えたのち幾世紀にもわたる開発と進化の末に“指導する”資格を身につけた高級霊のみが味わうことのできる喜び、それが満ち満ちております。

しかし、それにも増してわたしは、その大審議会を主宰される、かつて地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれた人物が、わたしたちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励ましてくださる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し、聞き、そして感じ取らせてあげられればと思うのですが、それができないのが残念です。

もとよりそれはキリスト教によって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない霊を通して人類に働きかけておられる一個の偉大なる霊なのです。

その本来の界層に留まっているのは短い期間なのですが、わたしはその間に改めて生命力あふれる霊力、力強さと美しさとにあふれるエネルギーに浸ります。それに浸ると、生命とは何かがしみじみと感じ取れるのです。わたしはこのことをあくまで謙虚な気持ちで、あるがままに申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなど、ひとかけらもございません。

かりに世界最高の絵画のすべて、物質界最高のインスピレーションと芸術的手腕、それに大自然の深遠にして壮大な美を全部集めて一つにまとめてみても、わたしの本来の所属界の荘厳美麗な実在に較べれば、いたってお粗末な反映ていどのものでしかありません」

そうした真と善と美にあふれた世界での生活をお預けにして、霊団を引き連れて地上世界の霊的覚醒という大事業にたずさわってきたシルバーバーチは、その成果について感慨をこめて次のように語った。


「そうした努力の甲斐あって、今や地上世界全体にその成果が行きわたりつつあることをわたしたちは誇りに思っております。悲しみに沈んでいた心が明るさを取り戻しております。陰気な暗闇に光明の光が射し込みました。無知が存在するところに知識がもたらされました。臆病な心に勇気をもたらし、人生に疲れた人に力を与え、道を見失った人たちを鼓舞し、大霊とその子等のために献身する人たちの背後には強力な霊の集団が控えてそれを応援してくれている事実を認識させました。

さらにわたしが嬉しく思うのは、皆さんが永遠に失ったと思い込んでおられた愛する人、あなたを愛してくれていた人が今も健在であることを証明してあげることができたことです。それによって皆さんは、生命がこの宇宙から消えてなくなってしまうことが絶対にないこと、死は愛と情と友愛によってつながっている者を切り離すのではなく、反対に、霊的には一段と親密なものとする事実を認識することができます。

それにしても、わたしがつくづく残念に思うのは、わたしたち霊団の影響力がどれほど大きいかをお見せできないことです。どれほどの障壁を破壊し、どれほど多くの障害を取り除き、どれほど多くの霊的知識をお届けしたことでしょう。地上世界は今こそそれを必要としているのです。いたって単純で素朴な真理ではありますが、それが霊的自由と精神的自由と物的自由とを地上にもたらすことになるのです。

ご存知のように、生きるということはお互いがお互いのために役立つことです。地上人類が救われる道は互助の精神を実践することそれ一つにかかっており、それ以外にはないのです。

聖霊の働きを“昔の話”と思ってはいけません。イエスを通じて働いた力が今ふたたび働いているのです。当時のユダヤ教の指導者がイエスを通して働いた大霊の力を信じないでそれを悪魔の力と決めつけたのと同じように、現代のキリスト教指導者も同じ大霊の力が今日も働いていることを信じようとしません。しかし、われわれを磔刑(はりつけ)にしようとしないだけ、人類も進歩したようです。

イエスの崇高な偉大さは二千年前だけで終わったのではありません。現代でもなお続いているのです。イエスは今どこにいらっしゃると思われますか。イエスの物語はエルサレムで終わったとお考えでしょうか。地上世界が苦しみと痛みと困難とに満ち満ちている今、あの偉大なる霊はどこでどうしておられると思われますか。

わたしたちを軽蔑し悪魔の使いであると決めつける人たちは、二千年前にナザレ人イエスに同じ非難の言葉を浴びせた者たちと同列です。わたしたちは同じ大霊の力をたずさえて参っているのです。同じ霊現象と同じメッセージ、すなわち“喪の悲しみの中にいる人を慰め、病いの人を癒し、暗闇の中にいる人に光明をもたらし、人生に疲れた人に力を与え、無知の人に知識を授けてあげなさい”という教えをたずさえてきているのです。

わたしたちも大霊の使いです。地上生活を終えたのちの永い体験によって地上人類としては他の霊に較べて少しばかり進化を遂げました。そこで、その体験をたずさえて引き返してきたのです。互いに扶助し合うということが生命の大原則だからです。互助のないところには荒廃があるのみです。互助のあるところには平和と幸福があります。地上世界も互助の精神によって新しい秩序を生み出さないといけません。いたって簡単なことなのです。が、それを人間が難しくしているのです」

別の日の交霊会で――


「地上というところは妙な世界です。霊の目をもってご覧になれば、人間が愚かなことばかりしていることに呆(あき)れるはずです。いずれはチリと化してしまう、どうでもよいものを後生大事にし、永遠の宝である霊的なものは疎(おろそ)かにしております。霊的な価値が理解できないのです。その場かぎりの愉しみや喜びばかり求め、その物的欲望に埋もれて、肝心の霊性が顕現する機会がほとんどありません。

しかも、そうした地上かぎりの所有物を多く蓄積した者が“偉大な人”とされます。どうせ滅びてしまうものを集めようとする人と、永遠に残るものを集めようとする人のどちらが“偉大な人”でしょうか」

「イエスもそのことを言ってますね」とメンバーの一人がマタイ伝に出てくる砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家の譬え話を持ち出した。


「そうです。またイエスは、虫にも食われず錆つくこともない天国の宝の話もしております。にもかかわらず、そのイエスへの忠誠を告白している聖職者みずからが大邸宅を構え俗世的なものを大切にしております。

皆が皆そうだと言っているのではありません。中には自分を忘れて人のためにという燃えるような情熱に駆られて奉仕活動に献身している人がそこここにいらっしゃいます」

話題が心霊治療に変わって――

「霊界の治療家は治癒力をどうやって地上の治療家を通して患者に流入させるのでしょうか。地上の治療家は体質的にふつうの人間と違うのでしょうか」

この質問に対してシルバーバーチは、前置きとして、ここでは磁気療法その他の方法は除外して霊的エネルギーによる治療にのみ限ることにしますと述べてから――


「人間のすべてが例外なく霊的資質を宿しております。ただそれが発現しやすい段階にまで来ているか否かの差があるだけです。いずれにしても努力次第でそれが開発されて背後霊とのつながりが一層緊密なものとなります。調和が高まり、緻密となり、そして緊密となるわけです。

治療家と背後霊団の双方から出る霊的放射線が美事に調和し、その調和状態が頂点に達した時は一本の霊光となります。その頂点へ少しでも近づけば、それだけ治癒力もより高いもの、より大きいもの、より強力なものが霊団と治療家を通して流入するようになります」

お別れのメッセージ


惜別の涙の中にも霊界でわたしを待ちうける喜びを秘めて、わたしは皆さんのもとを去ります。(*“惜別の涙”はただの美辞ではなく、実際に霊媒の頬を涙がつたわったという)。

今夜はことのほか重々しい空気に包まれております。こうしてお別れを言いに出てくるのはあまり気が進まないのですが、しかしもう帰らねばならないのです。皆さんとお別れするのは辛いのですが、同時にわたしには喜びにあふれた本来の住処(すみか)に帰れるという愉しみもあります。

できることなら皆さんも一所にお連れしたいのです。そうすれば人間の目には隠されている美しいものを見、霊の実在を目(ま)のあたりにし、この仕事にたずさわっている高級霊にもお会いになれるのですが、残念ながらそれができません。

実は皆さんの睡眠中に途中まではお連れしているのです。ですが、その間の記憶を肉体を通しての意識に留めることがおできにならないのです。

肉体に閉じ込められ、五つの粗末な感覚でしか表現できない皆さん方には、霊の自由とはいかなるものかは到底実感できません。その自由を満喫し、より大きい世界の美しさ、そこに満ちあふれる生命力、目も眩まんばかりの景観と荘厳なる響き、その詩情、その音楽、その愛を味わえることの喜びは、到底皆さんには実感できません。

お別れは辛いのですが、そこがわたしの本来の住処なのです。そこへ戻って、しばしの間、本来の喜びに浸ります。地上からのおみやげとして、皆さんからいただいた愛――われわれを結びつけ一体化している、掛け替えのない愛をたずさえてまいります。その愛が今なおひしひしとわたしに届いてくるのが感じられ、わたしからも、持てる愛のすべてをお返しいたします。

ではしばしの間お別れいたしましょう。有り難くも授かることができた霊的真理を大霊に感謝して、改めて勇気を奮い起しましょう。

その恩典に感謝するとともに、さらに次元の高い界層へ近づくべく精進いたしましょう。そして強大なる霊の力に浸ってください。

常に大霊へ向けて歩みましょう。心を大霊の愛で満たし、精神を大霊の知識と叡智とで満たしてください。

常に大霊の意志に波長を合わせるように心がけてください。大霊とその摂理と一体となるのです。そして物質界に顕現している大霊の律動(リズム)と調和(ハーモニー)の中で生きるのです。


シアトルの夏 第三部 モーゼス自身の体験と所見

──続『霊訓』──インペレーターの霊訓

  More Spirit Teachings

Further Examples of Remarkable Communication from Beyond



(一)珍しい現象

〇音楽現象
 ベンジャミン・フランクリンが初めて出現した時から聞かれはじめた鈴の音について、スピーア夫人が次のように述べている。

 「それは何とも言えない妙(たえ)なる音楽で、丁度オルゴールを聞くような、それを一段と霊妙にそして音色を甘美にしたようなものでした。その頃はよく私たちの身近なところで聞かれました。夜おそく庭に出ている時などにとくによく聞かれました。

 交霊会が終わったあとは開き窓を開け放って芝生へ出るのが通例でしたが、そんな時、大てい真夜中でしたが、樹木の間から聞こえてきました。何とも言えない美しさで、この世のものとは思えませんでした」


 別の記事でもこう述べている。

「今夜は交霊会を始める前に庭を散歩している時から霊の鈴の音が聞こえていました。はるか遠くのニレの木のてっぺんから、まるで星とたわむれているかと思われるような感じで聞こえたかと思うと、今度はすぐ近くまで近づいて来て、私たちが交霊の部屋へ入るのを後からついて来ました。(〝私たち〟は通常スピーア夫妻と友人のバーシバル氏の三人で、これに時おり招待客が加わる程度だった。《解説》参照─訳者)

 私たちが着席したあともずっと部屋の四隅や、私たちが囲んでいるテーブルの上などで鳴り続けていました。こちらから音階や和音を要求するとすぐに応じ、主人(スピーア博士)が口ずさんだ曲をうまく真似て演奏しました。部屋には楽器類は何も置いてありませんでした。モーゼスが入信すると音が大きくなり、ピアノを弾いているような目覚ましい響きになりました」


〇物品移動現象
 部屋の家具や物品が移動する現象はとくにワイト島に滞在中に起きた。モーゼス自身次のように書いている。

 「教会での礼拝から帰って一階の応接間に隣接した寝室に入ってみると、化粧用テーブルの上に置いてあったものが無くなって、ベッドの上に大ざっぱな十字形に置いてあった」

 その日の午後には今度は旅行用の化粧道具入れの中から幾つか取り出されて、その十字形が完全な形にされていた。ある時は王冠の形に置かれていたこともあったという。


〇宝石類の製造
 パージバル氏が概略次のように叙述している。

 モーゼス氏と食事を共にした後で開かれた交霊会でのことである。突然ガス灯が消され、二、三分してまたついた。その間の暗闇の中でテーブルの上に強い光が見えたのでモーゼス氏が近づいて見ると、小さなルビーがあった。そのあとまたガス灯が消され、入神したモーゼス氏をメンターと名のる霊が支配した。そしてパーシベル氏の腕を突つついてから、その手を取って何かを握らせて席に戻った。その席でメンターは〝それはトルコ石であなたのために特別にこしらえたものです〟と述べ、さらに、交霊会でこしらえる宝石類は人間界でいう〝本物〟ではなく、売り買いの対象になるようなものは霊は製造を許されていない、と付け加えた。またその次の交霊会ではその製造法にふれ、霊は大気中から自然な工程で結晶体をこしらえることが出来ることを述べた。

 これもパーシバル氏の話であるが、スピーア夫人の誕生日に四人で食事をしている最中にモーゼスが入神し、ソファまで歩いて行って掛け布の内側を探り始めた。そして間もなく小さなルビーを見つけて、それ敬々しげにスピーア夫人にプレゼントした。それからまたソファへ行って、同じように手探りで二つ目を見つけた。そのあとさんざん探してようやく三つ目を見つけて席に戻り、そこで入神から覚めた。モーゼス自身はその間のことは何一つ知らなかったという。

 それより以前の話であるが、交霊会のあとモーゼスが飲んでいたソーダ水のグラスの中にルビーが入っていたこともあった。


〇芳香現象
 ある日、交霊会が始まると、いきなり、大小さまざまなパールが雨のように降ったことがあり、明かりをつけて拾い集めるように言われた。その交霊会が終了した時のことである。モーゼスが列席者の一人一人を回って片手を頭部に置くと、そこに芳香が漂った。

 別の日の交霊会で更に素晴らしい芳香現象が起きた。その時はいろんな発生の仕方をして見せた。まず列席者の頭のあたりに漂ったかと思うと、今度はふいごで吹き付けているみたいに強烈な勢いで吹いた。続いて今度は霧雨のように天井から降りそそいで来た。そして最後は列席者が上に向けていた手のひらに芳香を含んだ水滴が注がれた。これには大変な技術が要るという説があり、その日の芳香現象には五十名以上の霊が関わったということだった。最後にパーシバル氏の手の上にティーポットの口から注いだみたいに芳香性の水が落ちてきた。後で調べて見るとテーブルの上に幾つかのシミが見られたという。

  
 (二)体外遊離による体験


〇背後霊団との面会
 ある日モーゼスが部屋を暗くしてベッドに横になると、例の鈴の音が聞こえ、続いて光球がいくつも見えた。と思っているうちに意識を失い、次に目が覚めた時は真夜中だった。彼はみずからの意思でなしに無理やりに起こされて、次のような記事を書いた。

 「意識が消えていく時のことは何一つ記憶にない。が、暗さが次第に明るさを増し、徐々に美しい光景が展開し始めた。私が立っていたのは確か湖のヘリで、その向こうに真緑の小高い丘がいくつも連なり、ほのかなモヤが漂っていた。雰囲気はイタリヤにいる感じで、穏やかに澄みわたっていた。湖の水は波一つ立てず、見上げると雲一つない青空が広がっていた。

 その岸辺を歩きながら景色の美しさに見とれていると、一人の男性が近づいてきた。メンターだった。モスリンのような薄い生地で出来た真珠のような白さのロープをまとっていた。肩に濃いサファイアブルーのマントを掛け、頭部には幅の広い深紅の帯のように見える宝冠(コロネット)をつけており、それに黄金の飾り環が付いていた。あごひげを生やし、顔に慈悲と叡智をたたえていた。

 そのメンターが鋭い、きっぱりとした口調でこう述べた。〝ここは霊界です。これより霊界の一シーンをご覧に入れよう〟。そう言って向きを変え、私とともに湖にそって歩いて行くと、山の麓の方へ行く道との分岐点に来た。その道に沿って小川が流れており、その向こうには新緑の草原が広がっていた。地上のように畑で仕切られておらず、見渡すかぎりゆるやかな起伏が一面に広がっていた。

 二人はイタリヤの田園でよく見かける邸宅に似た一軒の家に近づいた。地上では見かけない種類の木の繁みの中にある。木というよりは巨大なシダに近い。その玄関の前にさまざまな色彩と種類の花が咲き乱れている花園があった。メンターに促されて後について入り、大きなホールまでくると、その中央に花とシダの植え込みがあり、その真ん中で噴水が盛んに水を散らせていた。ホール全体に素敵な香気が漂い、また、優しく慰めるような音楽が流れていた。

 ホールのまわりにはバルコニーのようなものが付いていて、そこから住居へ通じる出入り口がいくつか見えた。壁面に模様が描かれていて、よく見ると私がそこに来るまでに通って来た景色の延長になっていた。天井はなく、雲一つない青空が見えていた。

 見るものすべてが美しいので私が見とれていると、出入り口の一つのドアが開いて誰かが私の方へ近づいてきた。インペレーターだった。一度見たことがあるのですぐに分かった。頭部には七つの尖塔の付いた王冠をいただき、その尖塔の先端に目も眩まんばかりの光輝を発する星が付いており、一つ一つ色が違っていた。表情には真剣さと仁愛と高貴さが満ちあふれていた。私が想像していたような年老いた感じはなく、敬虔さと厳粛さに優しさと威厳とが交り合った風貌だった。全体に漂う雰囲気と物腰には堂々あたりを払う威風があった。

 身体にはまばゆいばかりの白の長いロープをつけていた。あたかも露のしずくで出来ていて、それが朝日に照らされているみたいであった。そうした容姿全体の光輝があまりに強烈で、私にはじっと見詰めていることができなかった。イエスが変容した時の姿もかくばかりかと思った。私は本能的に頭を垂れた。すると柔和でしかも真剣な声が不思議な、憂いを込めた抑揚で私の耳にささやいた──〝来るがよい。そなたの知人に会わせるとしよう。そしてその不信に満ちた心を癒して進ぜよう〟と。そういって手を差し出した。見るとその手に宝石が散りばめてあり、内部から燐光性の光輝を発しているように思えた。

 私が啞然として見つめていると、何とも言えない荘厳な調べが耳に入ってきた。続いて私のすぐわきの出入り口が開かれ、その調べがいちだんと近づいて聞こえ、長い行列の先頭を行く者の姿が目に入った。純白のロープを着ており、それを深紅の帯で締めていた。行列の全員がそうだった。帯の色だけがさまざまで、ロープは全員が純白だった。先頭の者は黄金の十字架を高々と掲げもっており、頭部には〝聖〟の文字を記した飾り帯を巻いていた。そのあとを二列に並んだ聖歌隊が賛美歌を歌いながらやってくる。その行列がわれわれの前までさしかかると一たん停止し、インペレーターの方を向いて敬々しくお辞儀をした。インペレーターは私より二、三歩前でそれを受けた」

 モーゼスはその行列の中に数人の見覚えのある顔を見つけた。指導霊のメンター、レクター、ブルーデンス、フィロソファス、それにスエーデンボルグもいた。さらに友人のウィルバーフォース、ジョン・キーブル、アーネスト・ニール等々の顔も見えた。長い長い行列が続いたあと、その中から六人が進み出てモーゼスの方へ近づいた。そのうちの五人は地上で顔見知りの人物だったという。ホールを取り囲むバルコニーはすでにいっぱいになっていた。モーゼスは最後にこう書いている。

 「その全員がホールの中央のインペレーターの方へ顔を向けた。そこでインペレーターが敬々しく神への祈りを捧げた。と同時にふたたび厳かな讃美の調べが響きわたり、全員が行列を作って今来た方向へ戻っていった」


〇右のシーンについてのインペレーターの解説(自動書記)
──あれは実際のシーンだったのでしょうか。

 「今貴殿の目に映っている現実と同じく実際にあったことである。貴殿の霊が肉体から分離していたのである。その間わずかに一条の光によってつながっていた。その光線は生命の流れそのものである」


──壁が少しも障害にならずに一瞬のうちに光景が展開したように思います。その場がそのまま霊界になりました。

 「霊界は肉眼には映じなくても貴殿のいる場所に存在している。霊眼が開けば霊の世界のものが見え、地上のものが見えなくなる」

──では、霊の界層はわれわれ人間の身のまわりに存在するのでしょうか。

 「人間のいる場所にも周囲にも存在している。空間と呼んでいるところには幾つもの界層が互いに浸透し合って存在している。このたびのことは貴殿に霊界の実在を見せんがために行ったことで、私の要請を受けてメンターがあれだけの霊を第二界に集めてくれたのである。さまざまな界層と境涯から特別の目的のために集まってもらったのである」

──全員が白のロープだったのに、ひとり私の友人だけが緑色の混ざったロープを着ていましたが・・・・・・

 「貴殿の目につくように、あのロープを着ていたのである。緑色はまだ完全に抜けきっていない地上的状態を表しており、紫色は進歩のしるしである。

 われわれの世界はすべてが象徴的に出来ている。天井のないあの建物は何一つ向上心を妨げるもののない霊の住処の象徴である。美しい花と景色は愛の神が各自の宿命に注がれる慰めとよろこびを表している。讃仰の行列は進歩的な霊の向上の行進を示している。先頭を行く者が掲げていた十字架は神聖さと自己犠牲の象徴である。純白のロープは清浄の象徴であり、ハーブの調べは不断の讃仰の象徴である。色とりどりの帯は各自の犠牲と、たずさわっている仕事を示し、頭部の王冠と飾り帯は霊格の象徴である」

──あなたはいつも私が拝見した通りの姿をしておられるのでしょうか。あのまばゆいばかりのロープは忘れようにも忘れられません。

 「貴殿が見られたのは他の霊がいつも私を見ているのと同じ姿である。が、私はいつも同じ姿をしているわけではない。私が本来の界でまとう姿は貴殿には凝視できないであろう。現在の状態では無理であろう」


〇自動書記をしている自分を観察
 
 〝サークルメンバーの向上心の高さが、訪れる霊の性格を決める。出席者の精神的波動は霊界まで波及し、その程度によって集まる霊の程度も決まる。この事をすべての人に分かってもらえば有難いのであるが・・・・・・〟

 これは直接書記によって綴られたインペレーターの通信で、書記役のレクターがそれを操作している様子をモーゼスが体外遊離の状態で観察した。この様子をモーゼスが次のように記述している。

 「その日は一人で自分の部屋にいた。ふと書きたい衝動を感じて机に座った。それほど強烈に感じたのはほぼ二カ月ぶりである。まず最初の部分を普通の自動書記で書いた。どうやらその時点で無意識状態に入ったようである。

 気がつくと、自分の身体のそばに立っている。例のノートを前にしてペンを右手にして坐っている自分のそばである。その様子と辺りの様子とを興味深く観察した。自分の身体が目の前にあり、その身体と自分(霊的身体)とが細い光の紐によってつながっている。部屋の物的なものがことごとく実体のない影のように見え、霊的なものが固くて実体があるようにみえた。

 その私の身体のすぐ後ろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方をペンを握っている私の右手にかざしている。さらにインペレーターと、これまで永い間私に影響を及ぼして来た霊が数人いた。そのほかに私に見覚えのない霊が出入りして、その様子を興味ぶかそうに見守っていた。天井を突き抜けて柔らかい心地よい光が注がれており、時おり青みを帯びた光線が何本か私の身体へ向けて照射されていた。

そのたびに私の身体がギクリとし、震えを見せた。生命力が補給されていたのであろう。さらに気がつくと、外の光も薄れて窓が暗く感じられた。したがって部屋の中が明るく見えるのは霊的な光線のせいだった。私に語りかける霊の声が鮮明に聞こえる。人間の声を聞くのと非常によく似ているが、その響きは人間の声より優美で、遠くから聞こえてくるような感じがした。

 インペレーターが、これは実際のシーンで、私に霊の働きぶりを見せるために用意したと述べた。レクターが書いているのであるが、私の想像とは違って、私の手を操っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンにあてているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意思が伝わり、それがペンを動かしているのだった。私の手は単なる道具にすぎず、しかも必ずしもなくてはならぬものでもないことを示すために、光線がそのペンを私の手から放し、用紙の上に立たせ、さらに驚いたことに、それが用紙の上を動きはじめ、冒頭に掲げた文章を綴ったのである。出だしの部分を除いて、ほとんどが人間の手を使用せずに書かれたものである。インペレーターの話によると、人間の手を使用せずに直接書くのは容易なことではなく、そのため綴りに幾つか誤りも見られるとのことだった。事実その通りだった。

 そのあと私は、一体ここにいる(人種の異なる)霊はどうやって通じ合うのだろうという疑問を抱いた。するとその疑問に答えて数人の霊が代わるがわる違う言語でしゃべって見せた。私にはさっぱり判らなかったがインペレーターが通訳してくれた。その上さらに霊がいかなる要領で思念の移入によって通じ合うかを実演して見せてくれた。またインペレーターは音も物的媒体なしに出すことが出来ることを説明してくれた。その時に例の鈴の音が聞こえ、又部屋中に霊妙な芳香が漂った。

 その場にいた霊はみな前に見た時と同じ衣装をしていた。そして、まわりの物体には何の関係もなく動きまわっていた。そのうちの何人かは、私の身体が向かっている机を取り囲んでいた。私自身も白のロープに青の帯をしているように見えた。さらに、どうやらその上に紫の布、一種のオーバーロープを羽織っていたように思う。どの霊も自然発光的に輝いており、へやの中は非常に明るかった。

 そのうち私は、戻ってこのことを書き留めるように言われた。肉体に戻るまでのことは意識しないが、部屋で観察したことに関しては絶対に確信があり、それを素直に、そして誇張を交えずに綴ったつもりである」


 (三)心霊誌の記事から

 一八八九年八月号のライト誌から──
 「本誌で『霊訓』を公表しはじめてからというもの、私は無意識の自我の存在をさんざん聞かされ、私自身が気がつかなくともその潜在自我のどこか奥深いところに隠されているかも知れない可能性について、多くの考察をお聞かせいただいている。が、私が受け取っている一連の通信がそういう曖昧な説によって説明できるとするか、それとも、もっと単純にそして自然に、つまり私を教化しようとしている知的存在が主張している通りであるとするかは、読者にお任せするほかはない。そうした存在は自分たちのことを霊と呼び、私の生命と意識とは別個の存在であるとしている。私もそのように受け止めている。

 通信文は間違いなく私の意識とは何の関係もなしに綴られている。その多くは、綴られていくのをこの目で見ないように異常なまでの注意をしている中で筆記されたものである」


 次も同じライト誌に掲載されたもので、日常生活における異常体験をある知人にこう書き送っている。

 「私自身には何の記憶もないことをしていたり、とくに、言った記憶がないのに間違いなく言っていることがよくあります。たとえば、翌日の講話の準備をしないまま床につきます。翌朝目を覚ましていつものように行動し、いつもより流暢な講話をし、すべきことをきちんと済ませ、知人と談話まで交わしたのに、その記憶がまったくないということがあるのです。特別に親しい人だけが、目のうつろさから私が入神していることを察知しているだけです。講話を聞いてくださった人のノートを見るとその内容が実に緻密で正確で明快なのです。

 知人たちは私が何となくボケっとしていたとか、ぶっきらぼうだったとか、言葉がぞんざいだったという程度には感じてはいても、他はふだんと少しも変わらなかったと言います。私自身は意識が戻った時には何の記憶もありません。もっとも、時おり何となく思い出すことはあります。

 こうした体験から私は、人間は完全に〝パイプ役〟に成り切ることが出来ること、つまり霊の道具にすぎないことを実感として理解しはじめているところです。それにしても、一見したところごく普通に行動している人間が実は霊界の知的存在の道具になっていて、個的存在を持たないということがあり得るものなのでしょうか。もしかしたら私の霊は遠くに行っていて、別個の霊的生活を送りながら、私の肉体の方は他の知的存在に憑依されて別の行動をしているということなのでしょうか。

 たとえば最近のことですが、ワイト島にいる間に内部の霊的能力が目を覚まし、外部の肉体的感覚がいっさい失われてしまいました。私は一日と一晩、ずっと別の世界に居て、物的環境はおぼろげにしか意識しませんでした。知人も家も部屋も気色も見えることは見えるのですが、おぼろげなのです。身体の方はいつものように行動しているのですが、私の意識には霊的環境や他界した友人、あるいは全く面識のない霊の姿の方がはるかに鮮明に鑑識されるのです。あたりに見える光景も地上の景色より鮮明に見えました。もっとも、どことなく両者が重複して視えることがありました。その間、私は話す気になれず、そうした環境の中にいてただ見つめるだけで満足しておりました」


 同じくライト誌に珍しい心霊写真の話が出ている。
 モーゼスのもとにあるフランス人から一通の手紙が届き、米国にいる妹とその家族の心霊写真が睡眠中にパリで撮れたと述べてあった。妹の家族の写真を撮りたいと心の中で念じたところ、一枚の乾板には三人の娘といっしょに、もう一枚には二人の息子といっしょに写っていたというのである。

 これにヒントを得て、モーゼスはパリの友人に日曜日の朝十一時に写真を撮ってもらうように依頼し、その写真に自分も霊として映るようにしてみることにした。当日の朝、教会の鐘の音を聞いたころに無意識状態に入り、気がついたら十一時四十七分だった。実験は成功で、モーゼスの顔が睡眠中と同じように目を閉じたまま写っていた。同じ乾板に霊団の一人でプルーデンスと名のる霊(地上では紀元三世紀の哲学者だったププロティノス)も写っていた。

 そのあとの交霊会でインペレーターは、モーゼスを慎重に入神させ、複数の背後霊がロンドンからパリまで運んだと語った。霊体と肉体とをつないでいるコードもそれだけ延びていたとのことだった。


  スピリチュアリズムの意義について──
 「スピリチュアリズムは霊界の存在と霊との交信の可能性という二つの事実以外にも実に多くのことを教えている。間違いなく言えることとして私が付け加えたいのは、人間の運命の決定者は自分自身であり、自分の性格も自分が形成し、将来の住処(死後に落着く環境)を地上で築きつつあるということである。道徳的向上心を鼓舞するものとしてこれほど素晴らしいものは無いし、それをスピリチュアリズムほど強烈に所有している宗教思想を私は他に知らない。

 人間は地上生活で築いた人間性そのままをたずさえて死後の生活を開始すること、他界した肉親・友人・知人は今なお自分を愛し、見守ってくれていること、罪悪も過ちも必ず自分で償わねばならないこと、いかに都合のよい教義をでっちあげても無罪放免とはならないこと──以上のことを立証し、さらにまた多くのことを立証して行けば、スピリチュアリズムは現代に対して計り知れない宗教的影響力の根源を秘めていることになる」

 日常生活の大切さについて──
 「人間は日常生活での行為と習慣によって刻一刻と魂を築いている。それが霊的本性であり、現段階でこそ幼稚で不完全であるが、永遠に不滅であり、未来永劫に進化する可能性を秘めている。それが真実の自分であり、永遠の存在である。死後の状態の責任はすべて、根源的に、そして何よりもまず、自分自身にある。自分の運命の決定者は自分であり、自分が自分の将来の開拓者であり、自分の人生の最後の裁き人も自分である。

 こうした教えが説教壇から聞かされることが少なすぎる。が、その重要性は実に遠大である。これを知ることは全ての人間にとって極めて重要である。道徳と宗教の全分野において、その影響力は計り知れないものがある」
℘224  
 霊的知識の普及を祝して──
 「霊界からの霊的真理普及のための働きかけがいよいよ頻繁となってきたことは慶賀に堪えない。このことは見えざる指導者たちが、思いもよらないさまざまな方面で、通信を地上へ送るための通路を求めているとの確信を与えてくれる。真理のすべてが一人の霊媒のみを通じてもたらされることはあり得ない。無数の側面を持つ真理がたった一個の精神で理解できるわけがない。そうしたさまざまなチャンネルを通じてもたらされる真理になるべく多く耳を傾ける者が一ばん多くを得ることになる。もうすべてを知り尽くしたと思う者が実は一ばん真理を学んでいない。

 〝真理の太陽〟の光が千々に砕けてわれわれの周囲に輝いている。それを拾い集めて一つの理想的体系を整えるべき機が熟している。今ほとんど世界各地であらゆる観点から、その体系づくりのための作業が進行中である。

 私がこの思想の将来に希望を託し、かつ信頼を抱いているのは、これからの宗教は今さかんに心霊学者やスピリチュアリストによって立証されつつある科学的知識の上に基盤を置くべきであり、いずれは科学と宗教とが手をつなぐことになると信じるからにほかならないのである」

 (注──原典にはこのほかに各種のテーマについてのモーゼスの意見が掲載されているが、そのすべてが、当然のことながら、インペレーターその他による通信の内容と同じなので割愛することにした。☆




 (四)モーゼスへの賛辞
 
 モーゼスの死に際して心霊誌ライトにモーゼスへの賛辞が寄せられた。
 「氏は生まれついての貴族であった。謙虚さの中にも常に物静かな威厳があった。これは氏が手にした霊的教訓と決して無縁ではなかった。氏ほどの文学的才能と、生涯を捧げた霊的教訓と、稀有の霊的才能は、死を傲慢不遜にしいらだちを生み嫌悪感を覚えさせても決しておかしくないところである。が、氏にとってそれは無縁だった。常に同情心に満ち、優しく、適度の同調性を具えていた」


 スピーア博士の子息でモーゼスが七年間も家庭教師をしたチャールトン・スピーア氏は、モーゼスの人間性の深さ、性格の優しさ、真摯な同情心、そして今こそ自分を犠牲にすべきと見た時の徹底した没我的献身ぶりを称えてから、こう結んでいる。

 「真理普及への献身的態度は幾ら称賛しても称賛しきれない。氏はまさに燃える炎であり、輝く光であった。恐らくこれほどの人物は二度と現れないであろう」

 モーゼスを最初にスピリチュアリズへ手引きしたスピーア夫人はこう語っている。

 「自然を愛する心と、気心の合った仲間との旅行好きの性格、そして落ち着いたユーモア精神が、地名や事物、人物、加えてあらゆる種類の文献に関する膨大な知識と相まって、氏を魅力ある人物に造り上げていました。

 二年前の病さえなければ『霊訓』をもう一冊編纂して出版し、同時に、絶版となっている氏の他の著作が再版されていたことでしょう。健康でさえあったら、それはいずれ成就されていた仕事です。霊界の人となった今、氏は、あとに残した同志たちが、氏が先鞭をつけた仕事を引き継いでくれることを切望しているに相違ありません」




 解説  W・S・モーゼス──生涯と業績──  ナンド―・フォドー
              (Nandor Fodor: An Encyclopedia of Psychic Science より)

〇 青年牧師として赴任するまで
 ウィリアム・ステイントン・モーゼスは一八三九年に公立小学校の校長を父親として、イングランド東部のリンカーン州ドニントンに生まれた。十三歳の時にパブリックスクール(私立中・高等学校)へ入学するために家族とともにイングランド中部の都市ベッドフォードへ移転した。

 そのころ時おり夢遊病的行動をしている。一度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩にまとまらなかったある課題についての作文を書き、再びベッドに戻ったことがあった。が、その間ずっと無意識のままだった。書かれた作文はその種のものとしては第一級のものだったという。が、それ以外には幼少時代の心霊体験は残っていない。

 その後オックスフォード大学へ進学したが、在学中に健康を害して一時休学し、ギリシャ北東部のアトス半島へ渡り、そこの修道院の一つで六か月間の療養生活を送っている。やがて健康を回復したモーゼスはオックスフォード大学へ復学し、卒業後、英国国教会の牧師に任ぜられた。そして最初に赴任したのがマン島だった。(アイルランド海の中央に浮かぶ小さな島。政治的には自治区)

 当時は二十四歳の青年牧師だったが、教区民から絶大な尊敬と敬愛を受け、とくに天然痘が猛威を振るった時の献身的な勇気ある行動は末永く語り継がれている。


〇 スピーア博士一家との縁
 その後同じマン島内の別の教区へ移ったが、三十歳の時に重病を患い、医師のスピーア博士 Dr. Stanhope Templeman Speer の治療を受け、回復期を博士宅で過ごした。これがその後のモーゼスとスピーア博士家との縁の始まりである。

 翌一八七〇年にイングランド南西部ドーセット州へ赴任したが、すぐまた病気が再発し、それを機に牧師としての仕事を断念した。

 病気が縁となってその後七年間にわたってモーゼスはスピーア博士の子息の家庭教師をすることとなった。その間にロンドンの学校教師の職を得て、他界する三年前までの十八年間にわたって勤続したが、痛風を患っているところへインフルインザを併発し、それに精神的衰弱も加わって、ついに一八九二年九月に他界した。五十三歳の若さだった。


〇 スピリチュアリズムとの出会い
 ロンドンの学校の教師となった翌年の一九七三年からの十年間は、インペレーターを最高指導霊とする霊団の霊力がモーゼスを通じて注ぎ込まれた時代であり、モーゼスのそれまでの偏狭なキリスト教的信仰と教理は完全に打ち砕かれてしまった。

 当初モーゼスはスピリチュアリズムが信じられず、心霊現象のすべてをまやかしであると考えた。後に親交をもつに至るD・D・ホームの霊現象に関する書物を読んだ時も、〝こんな退屈なたわごとは読んだことがない〟と一蹴していた。が、スピーア夫人の勧めで、たまたまその時イギリスに来ていたロティ・ファウラー Lottie Fowler というアメリカの女性霊視能力者による交霊会に出席した。

 交霊会への出席はそれが最初だった。が、その時の霊信の中に他界した友人についての生々しい叙述があり、心を動かされた。続いて同じくアメリカ人の物理霊媒ウイリアムズ夫人 H.A. williams による交霊会に出席し、それから D・D・ホームによる交霊会に出席するなどして、半年後には死後の存続と交信の可能性について確信を得るに至っている。


〇 物理現象のかずかず
 やがてモーゼス自身にも霊能の兆候が出はじめ、次第に驚異的に、かつ、ひんぱんになっていった。種類も実に多彩で、強烈なものとしては部屋中が揺れどおしということもあった。また、大人が二人してやっと一インチしか上げられないほどの重いテーブルが、白昼、軽々と宙に浮いて右に左に揺れていたこともある。

 モーゼス自身が浮揚したことも何度かある。二度目の時は右に述べたテーブルの上にいったん乗せられてから、さらにその向こうに置いてあるソファへ放り投げられた。が、モーゼスの身体には何の異常も起こらなかった。

 アポーツ(物品引寄現象)もしばしば起きている。部屋を閉め切っていても、他の部屋に置いてある物品が持ち込まれた。大抵モーゼスの頭越しだった。また、モーゼスの家に置いてない品、例えば象牙の十字架像、サンゴ、真珠、宝石の類が持ち込まれたこともある。

 さまざまな形と強度の光がよく見られた。モーゼスが入神している時の方が強烈だった。ただし、出席者全員に見えたわけではない。

 香気が漂うこともしばしばだった。ジャコウ、クマツヅラ、干草の香がよく漂った。が、一つだけ得体のしれない香気があった。霊側の説明によると、これは霊界にある香だという。時には香りをたっぷりと含んだそよ風が部屋中を流れることもあったという。

 楽器類は何も置いていないのに、実にさまざまな音楽が演奏された。その他にも直接書記、直接談話、物体貫通現象、そして物質化現象と、多彩な現象が見られた。最も物質化現象といっても発光性の手先とか、人体の形をした光がうっすらと見えるという程度にとどまっていた。

 いずれにしても物理的心霊現象そのものは霊団としては二次的意義しか考えておらず、第一の目的はモーゼスならびに立会人に霊の存在と霊力の凄さを得心させることにあった。


〇 評価と中傷と
 モーゼスの交霊会のレギュラーメンバーはスピーア博士夫妻ともう一人パーシバル F.M. percival という男性の三人だけで、それに、時おりウイリアム・クルックス卿やD・D・ホーム、そのほか数名が入れ替わり立ち替わり出席する程度だった。勝手に新しい客を連れて来ると霊側がひどく嫌がったという。

 フレデリック・マイヤースは<S・P・R・会報>の中で次のように述べている。
 「道義上の動機を考えても、あるいはモーゼス氏が一人でいるときでも頻繁に発生したという事実から考えても、これらの現象がスピーア博士および他の列席者によって詐術的に行われたものでないことは完全に立証されたと私は見ている。モーゼス氏自身がやっていたのではないかという観方も、道義的ならびに物理的にみてまずあり得ないことと私は考えている。氏が前もって準備して置いてそれを入神状態で演出するなどということは物理的に考えてもまず信じられないことで、同時にそれは、氏自身および列席者の報告の内容と相容れないものである。それゆえ私は、報告された現象が純粋な超常的な方法で実際に起きたものであると見なす者である」

 モーゼスの人格の高潔さは誰しも認めるところであったために、心霊著述家の A・ラング Andrew Lang は詐術説を主張する者に対して〝道徳的奇跡か物理的奇跡かのいずれかの選択である〟(モーゼスが人を騙すという飛んでもないことをしたと決めつけるか、心霊現象が実在したと認めるかの二つに一つ)という警告まで発した。が、本気で道徳的奇跡の方を選んだのはポドモア Frank Podmore ただ一人だったようである。(訳者注─ポドモアはマイヤースと同時代の心霊研究家で、S・P・Rの評議員を二十七年間も勉めた人物であるが、最初の頃は霊魂説を信じていたのが次第に懐疑的になって行き、最後はすべてを詐術と決めつけるに至った。とくにモーゼスに対しては抽象的な態度が目立った)


〇 自動書記通信とその通信霊の身元
 有名な自動書記通信は『霊訓』Spirit Teachings と『霊の身元』Spirit Identity の二著と、一八九二年から心霊誌 Lignt に公表を開始した詳細な報告記事が、その内容を知る手掛かりの全てである。

 自動書記現象は一八七三年に始まり、一八七七頃から少なくなり、一八八三年に完全に途絶えた。その記録は二十四冊のノートに筆記されており、そのうちの二冊が紛失したほかは今なお The college of Psychc Studies に保管されている。(訳者注──原典では London Spiritualist Alliance となっているが、今では The College に移されている。なお国書刊行会発行の拙訳『霊訓』のグラビアに、そのノートから八ページが掲載されている。フォドーは〝自由にコピーが入手できる〟と書いているが、それは今は許されない。掲載された八ページ四枚は私が The College 専属の写真業者に依頼して撮ってもらったもので、一枚につきいくらと使用量が定められている)

 自動書記による霊信はそのほとんどがモーゼスが普通の覚醒状態にある時に綴られたものである。その途中で直接書記で簡単なメッセージが入ることが時おりあった。

 霊側のモーゼスに対する態度はあくまでも礼儀正しく、敬意に満ちていた。が、その通信の中に時おり当時生存していた人物に対する批判的な言及が見られた。モーゼスが二十四冊のノートを他人に見せたがらなかった理由はそこにある。

 また、どうやらもう一冊、非常に暗示に富んだメッセージが綴られたノートがあったことを推測させる文章が見られるのであるが、そのノートは多分破棄されたに相違ない。

 通信は対話形式で進められている。通信霊の身元はモーゼスの在世中は公表されなかった。公的機関に寄贈される前に通信ノートを預かったマイヤースも公表しなかった。それが The controls of Stainton Moses <ステイントン・モーゼスの背後霊団>の題名で A. W. Trethewy によって出版されたのはずっと後のことである。

 が、その多くがバイブルや歴史上の著名人であったことを考えると、モーゼスが生存中にその公表を渋ったのは賢明であったと言えよう。もし公表していたら、軽蔑を込めた非難を浴びていたことであろう。

 それにもう一つ、実はモーゼス自身が永い間その身元に疑問を抱いていたことも、公表を渋らせた理由に挙げられる。通信の中にはその猜疑心と信頼心の欠如を霊側がしばしば咎めている箇所がある。

 それはともかく、明らかにされた限りでの霊団の主要人物の生前の氏名をいくつかあげれば、リーダー格のインペレーターは紀元前五世紀のユダヤの霊覚者で旧約聖書のマラキ書の筆者とされるマラキ(マラカイとも)、その指揮のもとにハガイ(同じく旧約聖書のハガイ書の筆者)、ダニエル(同じくダニエル書の筆者)、エゼキエル(同じくエゼキエル書の筆者)、洗礼者ヨハネ、等々がいた。その他にも、プラトン、アリストテレス、プロティノスなど、古代の哲学者や聖賢と呼ばれた人物が十四人いた。

 結局モーゼスは四十九名の霊団の道具であったことになるが、実はその上にもう一人、紀元前九世紀の霊覚者エリヤが控えていて、インペレーターに直接的に指示を与え、同時に又直接イエスと交信していたと言われる。

 こうした背後霊団の身元についてモーゼスが得心するに至ったのは、二十四冊のノートのうち十四冊目に入ったころからだったという。


〇 通信の〝質〟の問題
 『霊訓』の<序論>の中でモーゼス自身こう述べている。
 「・・・・・・神 God の文字は必ず大文字で、ゆっくりと恭(うやうや)しげに綴られた。通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図したプライベートな色彩を帯びていた。一八七三年に始まって八十年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言説、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類は、私の知る限り一片も見当たらなかった。知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわぬものはおよそ見掛けられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在(神の使い)であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つに誠実さと実直さと真剣さがあふれていた」

 が、そのモーゼスも、現象が弱まり出したころには再び猜疑心に襲われ、戸惑いを見せている。所詮霊の身元というのは完全な立証は不可能なのである。インペレーターに言わせれば、立証不可能な(古代霊の)ケースも、他の(近代の)霊のケースが立証されればそれで真実と受け止めてもらわないと困るという。確かにその通りで、近代の霊で身元が立証されたケースが幾つかあるのである。

 通信の内容そのものについてモーゼス自身は、霊媒という立場から非常に慎重な見方をしている。同じ<序論>の中でこう述べている。

 「通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは、確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なまでの配慮をしたつもりであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていった。

 こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体でつづられているのである」

 それほどの用心も潜在意識を完全に排除するに至らなかったことが、死後モーゼス本人からのメッセージによって裏書きされている。明らかに間違っている部分をいくつか指摘しているのである。しかし、そうした点を差し引いても、ステイントン・モーゼスの生涯とその業績はスピリチュアリズムに測り知れない影響を及ぼしている。いくつかのスピリチュアリズムの組織で指導的役割を果たし、一八八四年から他界するまでロンドン・スピリチュアリスト連盟の会長を務めた。英国S・P・Rの設立もモーゼスによる交霊会が機縁となっており、モーゼス自身も評議員の一人として活躍したが。が、霊媒エグリントン William Eglinton の調査においてとった S・P・Rのアラ探し的態度に抗議して辞任している。

 著者としては『霊訓』のほかに Spirit Identity(霊の身元)、The Higher Aspects of Spiritualism (スピリチュアリズムの高等な側面)、Psychography(念写)がある。その他、二、三の心霊誌におびただしい量の記事を掲載して啓蒙に努めている。(それを一冊にまとめたのが本書である─訳者)

                    完

Friday, July 18, 2025

シアトルの夏 霊的真理は不変です

The teachings of Silver Birch 
A guide to spiritual evolution through spiritualism

シルバーバーチの霊訓
スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ




残念ながらシルバーバーチは地上時代の身元を最後まで明かしてくれなかった。わかっているのは間違いなく大変な高級霊であること、そして地上と交信するための中継役として、かつて地上で北米インディアンだった人物を霊界の霊媒として使用していたということだけである。「地上時代のわたしは沢山の神様(ゴッド)を崇拝の対象としておりました」というのが、唯一、自分の地上時代のことに言及した言葉である。

そう述べた日の交霊会は次の言葉で始まった。


「生半可な知識は危険であるとよく言われますが、時として知識が多すぎても危険であることがあります。その知識が間違っている場合はとくにそうです。

ある種の知識が脳を占領してしまうと、知性がその脳を通して自由に思考するゆとりがなくなります。その意味で、学び直すべきことや捨てなければならないことが沢山ある“聖職者”を、わたしは気の毒に思います。その思想は人工の砂を基盤としているために、霊的真理の攻勢を受けて、今、揺らぎはじめたその砂上の楼閣を守ろうと必死になっております。

建て方を間違っているのです。ナザレ人イエスのまわりに作り話を寄せ集め、ついに生命の大霊の座に祭り上げてしまいました。しかし、基盤そのものが間違っておりますから、いつかはそれを改めなければならない事態に至ります。が、イザ改めようとすると恐怖心が湧いて出ます。そこで、彼らはキリスト教の教義には何一つ改めるべきものは残されていない――そんなものは有り得ないと言い張っているのですが、それは“事実”ないしは“自然の法則”を基盤としている場合にのみ言えることです。

わたしたちが、地上へ舞い戻ってきた理由はそこにあります。すなわち、いかなる人物であろうと、いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、いかなる指導者であろうと――それが地上の存在であっても霊界の存在であっても――たった一つのものに盲従してはいけないこと、それよりも大霊が定められた大自然の摂理に従いなさい――これだけは絶対に誤ることがなく、絶対に正しいから、ということを説くためです。

わたしたちが大自然の摂理、それのみを説く理はそこにあります。それをスピリチュアリズムとお呼びになるのは結構です。ただし、あくまでもそれが大霊の定められたものであること、その働きは地上の物的生命も死後の霊的生命も含めた宇宙のあらゆる界層に及んでいることを理解した上ならば、ということです。

地上人類は指導者(リーダー)というものを必要以上に重んじすぎます。そしてその真価を超えた誇張をしてしまいます。そこから神学という厄介なもの――科学者にとって、思想家にとって、そしてまた、本来ならば自由闊達で理性が承知しないものは受け入れたくない誠実な人にとって、大変厄介なものをこしらえてしまったのです。

わたしたちが大霊の摂理を強調する理由はそこにあります。それを正しく理解することによって、すべての知識が生かされるのです。それだけは決して科学者や哲学者や自由思想家、その他いかなる分野の人の知性も反発させることはありません。永遠にして不変・不易の大霊の働きを基盤としているからです。

皆さんは今、霊界での審議会で用意された叡智がこのわたしを通して届けられるのをお聞きになっていらっしゃるのです。それを広めることによって地上人類の叡智と理解力とが増すにつれて、生活が大霊の御心にそったものとなるでしょう。摂理にのっとったものとなるでしょう。地上世界の悲劇と飢餓、苦労と心痛は、すべてその摂理に従った生き方をしていないところから生じていることを悟るようになるでしょう。その理解が深まるにつれて大霊の庭の美しさを見えなくしている醜い雑草がなくなっていくことでしょう。

それを目標としてわたしたちは、人類の魂を解放し、精神を自由闊達にするだけでなく、物的身体も自然の法則と調和した健康を享受(エンジョイ)できるようにしてあげようと努力しているのです」

ここでシルバーバーチは、自分がほぼ三千年前に地上生活を終えて霊界入りしてからの体験について興味ぶかい話をした。


「わたし自身、そういう考えに到達するまでには、ずいぶん長い年月が要りました。それというのも、地上時代のわたしは沢山の神様(ゴッド)を崇拝の対象としていたのです。その考えを改めて、この宇宙には唯一絶対の大霊が存在し、それが果てしない全大宇宙のあらゆる生命現象をコントロールする永遠・不変の摂理として顕現しているという考えを否応なしに認めざるを得なくなったのです。

こうした教えが地上に行きわたれば、人間界のすべての分裂が無くなります。国家間の障壁がなくなります。人種・階級・肌の色による差別、(英国教会系の)教会(チャーチ)、(非国教会系の)教会堂(チャペル)、(キリスト教以外の)聖堂(テンプル)、(イスラム教系の)寺院(モスク)、(ユダヤ教系の)礼拝堂(シナゴーグ)といった区別がなくなります。それぞれが大霊の真理の一部を宿しており、他の宗教が真髄としているものは自分の宗教が真髄としているものと少しも矛盾しないことが少しずつ解ってくるからです。

かくして表向きは混乱しているかに見えても、その中から霊的な原理が形を整え、調和と平和を生み出します。こうしたことを申し上げるのは、ここにお集まりの皆さんには、そうした大霊の大計画をぜひとも理解していただきたいからです。それは、わたしたち霊界から戻ってきた者が果たさねばならない役目であると同時に、皆さんのお一人お一人が地上生活を終えるまでに果たさねばならない役目でもあります」

シルバーバーチはイエスの復活を“奇跡”とするキリスト教の教えを否定するが、時あたかもその復活を祝うイースターの交霊会で次のように述べた。


「キリスト教界では“死者”から蘇った一人の人間、死後その姿を見せ“死”の彼方にも生命があることを証明してみせた人物に、最大級の敬意を表しております。イエスはその現象によって自分がほかならぬナザレ人イエスであることを証明するために、処刑された時の傷あとまで見せました。一度だけではありません。その後も何度か姿を見せております。

キリスト教界ではそうしたことのすべてを、その証拠はないのに事実であると信じております。そして、それはイエスのみの奇跡であったと主張します。

実はわたしたちもイエスが使用したのと同じ心霊法則によって地上へ戻り、“死”の彼方の生命の実在を証明しております。すなわち大霊はイエスの時代も今の時代もいささかも変わらず、その法則の働きも不変であり、当時の一個の人間が蘇ったごとくに今もすべての人間が蘇ることを証明しております。復活というのは生命の大霊の摂理の一環であるからにほかなりません」

メンバーの一人が「イエスの復活は聖書に述べられている通りだったのでしょうか」と尋ねた。


「大体あの通りでした」

「石の蓋は本当に取り去られたのですか」


「本当です」

「なぜ取り除く必要があったのでしょうか」


「あれはただ蘇りを象徴するためにしたことです」

「イエスの死体はどうなったのでしょうか」


「分解されてしまいました(※)。もっとも、その現象も含めて、霊の姿が見えるとか声が聞こえるとかの物的現象は大して重要なことではありません。それよりもっと大切なことは、あなた方自身の霊性を開発することです。毎週一回この会に出席することによって皆さんは霊的波長が高まり、それだけ高度な叡智を受け入れやすくなっておられます。霊的叡智はいかに高度なものでも常に物質界へ流入しようとしてその機をうかがっているのです。奉仕(サービス)の法則がそうさせるのです。しかし実際は地上界へ流入するには、その波長に感応してくれる道具が必要となります。

また、皆さんの霊性が開発されて波長が高まるにつれて、より高度でより大きな霊的エネルギーを捉えることができるようになります。それは、皆さんの目で見ることも耳で聞くこともできませんが、永遠の霊的実在の世界のものなのです。

それこそが実在なのです。人間は一日の大半を影を追い求め、幻影を捉えようとし、束の間のものにしがみつこうとしています。しかし本当は静寂の中においてこそ、調和と愛の中においてこそ、魂は成長しているのです。遅々としてはいますが、しかし確実であり着実です。それは皆さんの一人ひとりの内部に潜在する大霊が開発され進化するということです。その点、皆さんは毎週一回この一つの場所に一つの信念のもとに集うことによって、霊性がますます発揮されることになります。

イエスも二千年も前に、二人または三人の者が集えば、そこに父の聖霊が降りるという意味のことを述べております(祈祷(きとう)書)。わたしたちも、それとまったく同じことを説いているのですが、キリスト教の聖職者はそれを否定します。

真理は変わらないのです。人間の考えは変わりますが、真理は不変です。なぜなら真理には事実という知識の土台があり、知識は大霊から届けられるからです。大霊こそあらゆるインスピレーションの中心であり始源です。話はいたって簡単であり誰にでも理解できることです。ところが地上世界ではそれが大変ややこしいものになってしまったのです」


※――心霊現象の一つに物品引寄(アポーツ)というのがある。すぐ隣の部屋からでも一キロ先からでも海の向こうからでも物品を実験室のなかへ持ち込むという現象で、実験室のドアは完全に密閉されているから、その物品はいったん分解(非物質化)されてエネルギーの状態で実験室へ持ち込まれ、そこで元の形に再物質化されているとしか考えようがない。イエスの死体が分解されたのも同じ心霊法則によるものであり、法則に従っている以上はシルバーバーチが言うように奇跡ではないわけである。ちなみに空飛ぶ円盤などの未確認飛行物体、いわゆるUFOは遠い星から飛来していると推測されているが、私は、これも地上的距離の常識を超えた空間を飛来するからにはアポーツと同じ原理を利用していると考えている。

シルバーバーチはこのイースターとクリスマスに開かれる霊界における大審議会に出席を許されている高級指導霊の一人であるが、その日もそのことに言及してこう述べた。


「そこには高遠の世界においてのみ味わえる喜び、この大事業にたずさわっている光り輝く存在――地上生活を終えたのち幾世紀にもわたる開発と進化の末に“指導する”資格を身につけた高級霊のみが味わうことのできる喜び、それが満ち満ちております。

しかし、それにも増してわたしは、その大審議会を主宰される、かつて地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれた人物が、わたしたちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励ましてくださる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し、聞き、そして感じ取らせてあげられればと思うのですが、それができないのが残念です。

もとよりそれはキリスト教によって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない霊を通して人類に働きかけておられる一個の偉大なる霊なのです。

その本来の界層に留まっているのは短い期間なのですが、わたしはその間に改めて生命力あふれる霊力、力強さと美しさとにあふれるエネルギーに浸ります。それに浸ると、生命とは何かがしみじみと感じ取れるのです。わたしはこのことをあくまで謙虚な気持ちで、あるがままに申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなど、ひとかけらもございません。

かりに世界最高の絵画のすべて、物質界最高のインスピレーションと芸術的手腕、それに大自然の深遠にして壮大な美を全部集めて一つにまとめてみても、わたしの本来の所属界の荘厳美麗な実在に較べれば、いたってお粗末な反映ていどのものでしかありません」

そうした真と善と美にあふれた世界での生活をお預けにして、霊団を引き連れて地上世界の霊的覚醒という大事業にたずさわってきたシルバーバーチは、その成果について感慨をこめて次のように語った。


「そうした努力の甲斐あって、今や地上世界全体にその成果が行きわたりつつあることをわたしたちは誇りに思っております。悲しみに沈んでいた心が明るさを取り戻しております。陰気な暗闇に光明の光が射し込みました。無知が存在するところに知識がもたらされました。臆病な心に勇気をもたらし、人生に疲れた人に力を与え、道を見失った人たちを鼓舞し、大霊とその子等のために献身する人たちの背後には強力な霊の集団が控えてそれを応援してくれている事実を認識させました。

さらにわたしが嬉しく思うのは、皆さんが永遠に失ったと思い込んでおられた愛する人、あなたを愛してくれていた人が今も健在であることを証明してあげることができたことです。それによって皆さんは、生命がこの宇宙から消えてなくなってしまうことが絶対にないこと、死は愛と情と友愛によってつながっている者を切り離すのではなく、反対に、霊的には一段と親密なものとする事実を認識することができます。

それにしても、わたしがつくづく残念に思うのは、わたしたち霊団の影響力がどれほど大きいかをお見せできないことです。どれほどの障壁を破壊し、どれほど多くの障害を取り除き、どれほど多くの霊的知識をお届けしたことでしょう。地上世界は今こそそれを必要としているのです。いたって単純で素朴な真理ではありますが、それが霊的自由と精神的自由と物的自由とを地上にもたらすことになるのです。

ご存知のように、生きるということはお互いがお互いのために役立つことです。地上人類が救われる道は互助の精神を実践することそれ一つにかかっており、それ以外にはないのです。

聖霊の働きを“昔の話”と思ってはいけません。イエスを通じて働いた力が今ふたたび働いているのです。当時のユダヤ教の指導者がイエスを通して働いた大霊の力を信じないでそれを悪魔の力と決めつけたのと同じように、現代のキリスト教指導者も同じ大霊の力が今日も働いていることを信じようとしません。しかし、われわれを磔刑(はりつけ)にしようとしないだけ、人類も進歩したようです。

イエスの崇高な偉大さは二千年前だけで終わったのではありません。現代でもなお続いているのです。イエスは今どこにいらっしゃると思われますか。イエスの物語はエルサレムで終わったとお考えでしょうか。地上世界が苦しみと痛みと困難とに満ち満ちている今、あの偉大なる霊はどこでどうしておられると思われますか。

わたしたちを軽蔑し悪魔の使いであると決めつける人たちは、二千年前にナザレ人イエスに同じ非難の言葉を浴びせた者たちと同列です。わたしたちは同じ大霊の力をたずさえて参っているのです。同じ霊現象と同じメッセージ、すなわち“喪の悲しみの中にいる人を慰め、病いの人を癒し、暗闇の中にいる人に光明をもたらし、人生に疲れた人に力を与え、無知の人に知識を授けてあげなさい”という教えをたずさえてきているのです。

わたしたちも大霊の使いです。地上生活を終えたのちの永い体験によって地上人類としては他の霊に較べて少しばかり進化を遂げました。そこで、その体験をたずさえて引き返してきたのです。互いに扶助し合うということが生命の大原則だからです。互助のないところには荒廃があるのみです。互助のあるところには平和と幸福があります。地上世界も互助の精神によって新しい秩序を生み出さないといけません。いたって簡単なことなのです。が、それを人間が難しくしているのです」

別の日の交霊会で――


「地上というところは妙な世界です。霊の目をもってご覧になれば、人間が愚かなことばかりしていることに呆(あき)れるはずです。いずれはチリと化してしまう、どうでもよいものを後生大事にし、永遠の宝である霊的なものは疎(おろそ)かにしております。霊的な価値が理解できないのです。その場かぎりの愉しみや喜びばかり求め、その物的欲望に埋もれて、肝心の霊性が顕現する機会がほとんどありません。

しかも、そうした地上かぎりの所有物を多く蓄積した者が“偉大な人”とされます。どうせ滅びてしまうものを集めようとする人と、永遠に残るものを集めようとする人のどちらが“偉大な人”でしょうか」

「イエスもそのことを言ってますね」とメンバーの一人がマタイ伝に出てくる砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家の譬え話を持ち出した。


「そうです。またイエスは、虫にも食われず錆つくこともない天国の宝の話もしております。にもかかわらず、そのイエスへの忠誠を告白している聖職者みずからが大邸宅を構え俗世的なものを大切にしております。

皆が皆そうだと言っているのではありません。中には自分を忘れて人のためにという燃えるような情熱に駆られて奉仕活動に献身している人がそこここにいらっしゃいます」

話題が心霊治療に変わって――

「霊界の治療家は治癒力をどうやって地上の治療家を通して患者に流入させるのでしょうか。地上の治療家は体質的にふつうの人間と違うのでしょうか」

この質問に対してシルバーバーチは、前置きとして、ここでは磁気療法その他の方法は除外して霊的エネルギーによる治療にのみ限ることにしますと述べてから――


「人間のすべてが例外なく霊的資質を宿しております。ただそれが発現しやすい段階にまで来ているか否かの差があるだけです。いずれにしても努力次第でそれが開発されて背後霊とのつながりが一層緊密なものとなります。調和が高まり、緻密となり、そして緊密となるわけです。

治療家と背後霊団の双方から出る霊的放射線が美事に調和し、その調和状態が頂点に達した時は一本の霊光となります。その頂点へ少しでも近づけば、それだけ治癒力もより高いもの、より大きいもの、より強力なものが霊団と治療家を通して流入するようになります」

お別れのメッセージ


惜別の涙の中にも霊界でわたしを待ちうける喜びを秘めて、わたしは皆さんのもとを去ります。(*“惜別の涙”はただの美辞ではなく、実際に霊媒の頬を涙がつたわったという)。

今夜はことのほか重々しい空気に包まれております。こうしてお別れを言いに出てくるのはあまり気が進まないのですが、しかしもう帰らねばならないのです。皆さんとお別れするのは辛いのですが、同時にわたしには喜びにあふれた本来の住処(すみか)に帰れるという愉しみもあります。

できることなら皆さんも一所にお連れしたいのです。そうすれば人間の目には隠されている美しいものを見、霊の実在を目(ま)のあたりにし、この仕事にたずさわっている高級霊にもお会いになれるのですが、残念ながらそれができません。

実は皆さんの睡眠中に途中まではお連れしているのです。ですが、その間の記憶を肉体を通しての意識に留めることがおできにならないのです。

肉体に閉じ込められ、五つの粗末な感覚でしか表現できない皆さん方には、霊の自由とはいかなるものかは到底実感できません。その自由を満喫し、より大きい世界の美しさ、そこに満ちあふれる生命力、目も眩まんばかりの景観と荘厳なる響き、その詩情、その音楽、その愛を味わえることの喜びは、到底皆さんには実感できません。

お別れは辛いのですが、そこがわたしの本来の住処なのです。そこへ戻って、しばしの間、本来の喜びに浸ります。地上からのおみやげとして、皆さんからいただいた愛――われわれを結びつけ一体化している、掛け替えのない愛をたずさえてまいります。その愛が今なおひしひしとわたしに届いてくるのが感じられ、わたしからも、持てる愛のすべてをお返しいたします。

ではしばしの間お別れいたしましょう。有り難くも授かることができた霊的真理を大霊に感謝して、改めて勇気を奮い起しましょう。

その恩典に感謝するとともに、さらに次元の高い界層へ近づくべく精進いたしましょう。そして強大なる霊の力に浸ってください。

常に大霊へ向けて歩みましょう。心を大霊の愛で満たし、精神を大霊の知識と叡智とで満たしてください。

常に大霊の意志に波長を合わせるように心がけてください。大霊とその摂理と一体となるのです。そして物質界に顕現している大霊の律動(リズム)と調和(ハーモニー)の中で生きるのです。