Tuesday, September 2, 2025

シアトルの晩秋 霊の書 アラン カルデック著

 6章 物質界への再誕

このページの目次〈再生の前兆〉〈魂と肉体の合体〉

〈霊的属性の発達〉〈白痴と錯乱〉〈幼児期〉

〈親しみを感じる人・虫の好かぬ人〉〈過去世の記憶〉




〈再生の前兆〉


――物質界へ再生する時期は予知されるのでしょうか。


「目をつぶっていても火に近づくと体で熱を感じるように、再生する時期が近づくと自然に直感するものです。死を予期するのと同じ調子で、また生まれ変わることを予知します。が、それが正確にいつであるかは知ることはできません」


――近づく再生にそなえての準備もあるのでしょうか。


「一向に気に掛けない者もいますし、何も知らずにいる者もいます。それはその霊の霊性の発達程度による問題です。将来のことが何も分からないという不安な状態に置かれることが罰であることもあります」


――再生の時期を早めたり遅らせたりすることは出来るのでしょうか。


「強烈な意念でもって望めば早めてもらうことは出来るでしょう。待ち受ける試練にしり込みして拒否の態度を続ければ延期してもらうことも出来るでしょう。人間界と同じで、霊界にも臆病者や横着者がいるものです。ですが、延期が叶えられても、それだけの代償は必ず払わされます。病気の治療と同じです。こういう療法で必ず治ると分かっているのにそれを拒否すれば、治るのが遅れるのは当たり前です」


――さすらいの状態にありながらも今の状態が結構楽しくて幸せであると感じている場合は、その状態を無期限に延ばすことは許されるでしょうか。


「無期限にというわけには行きません。向上の必要性は遅かれ早かれどの霊もが感じるものです。霊は例外なく向上しなくてはなりません。それが宿命なのです」


――宿る身体はあらかじめ決まっているのでしょうか。それとも最初の段階で選択するのでしょうか。


「生まれ出る新生児にどの霊が宿るかは決まっています。霊が次の人生で体験することに意を決すると、再生の手続きに入ります。神はその霊について裏も表も全てを知り尽くしていますから、新しい人生も予見して、かくかくしかじかの霊はかくかくしかじかの身体がよいということを判断なさるのです」


――霊には宿る身体を選択する自由はないのでしょうか。


「身体を選ばせてもらえることもあります。なぜなら、障害の多い身体に宿れば大変な試練の人生となりますから、それを選ぶことによって遭遇する苦難を首尾よく克服すれば、それは大いに進歩の多い人生となるからです。ただし、それだけにまた挫折も多いわけですから、一人で勝手に選ぶことは許されません。そういう願いを出して許しを乞うということになります」


――選んだ身体に宿る直前になってそれを拒絶することもできますか。


「もし拒絶した場合は、新たな試練を求めなかった場合よりも多くの苦難をこうむります」


――生まれ出る胎児に宿る霊がいないという事態は起こり得ますか。


「神はあらゆる不慮の事態に備えています。生まれ出る胎児には必ずそれに宿るべき霊も決められています。計画なしに創造されるものは何一つありません」


――肉体に宿りきった瞬間は死後の意識の混乱と同じものを伴うのでしょうか。


「伴います。死後の混乱よりも大きく、とくに期間がずっと長く続きます。死後は肉体への隷属状態からの解放ですが、誕生は再びその状態に入り込むのですから」


――再生する瞬間は霊自身にとって厳粛な気持ちになるものでしょうか。


「譬えてみれば危険な航海に出て行く時の心境です。果たして無事荒海を乗り切ることができるかどうか、大いなる不安の中での船出です」


――その不安というのは新しい人生での試練を無事克服できるかどうかということから生じるのでしょうか。


「そうです。とても不安です。それにどう対処するかによって霊的進化を遅らせることになるか速めることになるかが決まるからです」


――再生する時、見送ってくれる仲間がいるのでしょうか。


「それはどの界層に属するかによって違ってきます。情愛の強い界層であれば、愛する者たちが最後の別れの間際まで付き添い、勇気づけ、再生後もずっと付き添うこともよくあります」


――夢などによく姿を見せながらその容貌に記憶がないということがよくあるのですが、それはその類いの霊でしょうか。


「そうです、そういうことが非常に多いです。牢に入れられた者を見舞うのと同じように、あなたのもとを訪れてくれているのです」
〈魂と肉体の合体〉


――魂が肉体と合体するのはいつでしょうか。


「受胎の瞬間から結合作用が開始されますが、完了するのは誕生の瞬間です。受胎の瞬間に、その肉体に宿ることになっている霊と受胎した細胞とが流動質の紐でつながります。そのつながりは日を追って緊密になり、出産後の産声(うぶごえ)によって地上の人間の一人となったことを告げることになります」


――霊と胎児との結合は受胎の瞬間において確定的なものになるのでしょうか。つまり、結合して間もない頃に霊がその肉体に宿ることを拒否することが出来るのでしょうか。


「両者の結合は、他の霊には絶対に侵入を許されないという意味において確定的と言えます。しかし、物質的なつながりは脆弱(ぜいじゃく)ですから、自ら選択した試練にしり込みして霊が強烈に拒否すれば、そのつながりは切断されます。その場合は胎児は死亡します」


――宿った胎児が何らかの原因で死亡した場合、霊はどうなりますか。


「別の肉体を選びます」


――生後二、三日で死亡するような嬰児に宿って再生することにどんな意味があるのでしょうか。


「その場合、新しい存在としての意義はまだ芽生えていませんから、死そのものの影響はほとんどありません。前にも述べましたが、こうした死は主として両親にとっての試練である場合が大半です」


――霊自身はあらかじめその身体が生き永らえる可能性がないことを知っているのでしょうか。


「知っていることもあります。もし知っていたとすれば、それは新しい人生での試練にしり込みして、そういう身体を選んでいます」


――そうやって、原因は何であれ、せっかくの再生に失敗した場合、すぐに次の再生が準備されるのでしょうか。


「すぐにとは限りません。失敗にそなえて次の再生の準備が整えられていた場合は別として、一般的には新たな選択をするのに時間を要します」


――胎児との結合が確定的となり、もはや拒否することができなくなった時点で霊が後悔することがありますか。


「ご質問の意味が、人間となってからその人生に不平を言ったり、生まれてくるんじゃなかったと思うことがあるかということであれば、そういうことはあるでしょう。が、再生する際の人生の選択を間違えたと後悔することがあるかという意味であれば、そういうことはありません。なぜなら、その時点ではすでに霊としてそういう選択をした記憶は消えているからです。いったん再生してしまうと、霊の時代に意識して選択したことは思い出せません。しかし人生の重荷に耐えかねて絶望することはあります。その場合、自殺ということも起こり得ます」


――受胎から誕生までの期間中に、霊は霊的能力を使用しているのでしょうか。


「妊娠期間中のさまざまな時点で大なり小なり使用しています。新しい物的身体と結合したといっても、まだ合体するまでには至っていないからです。一般的には受胎の瞬間から意識の混濁が始まり、その時点で自分がいよいよ再生の過程に入ったことを直感します。その混濁は日を追って強まり、分娩に至ります。その期間中の霊の意識状態は睡眠状態に近いと思ってよろしい。分娩時が近づくにつれて意識は消え、過去の記憶も消え、それは誕生後もずっと思い出せません。死後霊界に戻ると徐々に記憶が蘇ります」


――いわゆる死産の場合、当初から再生が意図されていなかったケースもあるのでしょうか。


「あります。当初から霊が宿る予定はなく、霊的には何も為されないことがあります。そういうケースは両親にとっての試練としての意義しかありません」


――そういう胎児でも一通りの妊娠期間があるわけですか。


「全てではありませんが、あります。ですが、生きて産まれ出ることはありません」


――堕胎は霊にどういう影響を及ぼすでしょうか。


「無駄に終わったことになり、一からやり直さなければなりません」


――人工中絶はどの段階であっても罪悪でしょうか。


「神の摂理を犯す行為はすべて罪悪です。母親であろうと誰であろうと、生まれ出るべき胎児の生命を奪う者は必然的に罪を犯したことになります。生まれ出る身体に宿って再生し試練の一生を送るはずだった霊から、そのせっかくの機会を奪ったことになるからです」


――かりにその母親の生命が出産によって危機にさらされると診断された場合でも、中絶することは罪になるのでしょうか。


「すでに完成されている人体(母親)を犠牲にするよりも、まだ完成されていない人体(胎児)を犠牲にすべきでしょう」
〈霊的属性の発達〉


――人間の道徳性はどこから生まれるのでしょうか。


「その身体に宿っている霊の属性です。霊が純粋であるほど、その人からにじみ出る善性が際立ってきます」


――そうすると善人は善霊の生まれ変わりで、悪人は悪霊の生まれ変わりということでしょうか。


「それはそうなのですが、悪霊と言わずに“未熟霊”と言い変えた方がいいでしょう。そうしないと常に悪であり続ける霊、いわゆる悪魔が存在するかに想像される恐れがあります」


――非常に知的な人で、明らかに高級霊の生まれ変わりであると思われる人が、一方において極端に非道徳的なことをやっていることがあるのは、どう理解したらよいのでしょうか。


「それはその身体に宿っている霊が道徳的に本当に純化されていないからです。そのためにその人よりも波動的に低い霊の誘惑に負けて悪の道に陥るのです。霊の進化は一本道を上昇していくのではありません。霊のもつ多くの属性が少しずつ進化して行きます。進化の長い旅路において、ある時は知性が発達し、またある時は道徳性が発達するといった具合です」


――霊的属性は物的身体の器官によって制約を受けるのでしょうか。


「肉体器官は霊的属性を発現させるための魂の道具です。ですから、その発現の程度は肉体器官の発達程度によって制約を受けます。名人の腕も道具次第であるのと同じです」


――すると、頭脳の発達程度から道徳的ならびに知的属性の発達程度を推しはかることが出来るのですね?


「原因と結果を混同してはいけません。能力や資質は霊に所属しているのです。肉体器官がそれを生み出すのではなく、それが肉体器官の発達を促すのです」


――その視点から言えば、各自の素質はひとえに霊の発達程度によるのでしょうか。


「“ひとえに”と極言するのは正確ではありません。物質界に再生した霊の資質が持って生まれたものであることに疑いの余地はありません。が、宿った物的身体の影響も考慮に入れなくてはなりません。大なり小なり、内在する資質の発現を阻害するものです」
〈白痴と錯乱〉


――一般に白痴は普通の人間よりも下等と信じられていますが、そう信じてよい根拠があるのでしょうか。


「ありません。人間の魂であることに変わりはなく、実際には外見から想像するより遥かに高い知性を秘めていることがあります。ただ、それを発現させる機能が大きく阻害されているだけです。耳が聞こえない人、物が見えない人がいるのと同じです」


――そういう不幸な扱いを受けている人がいることにも神意があると思うのですが、一体どういう目的があるのでしょうか。


「白痴は大きな懲罰を受けている霊の再生です。そうした発育不全ないしは障害のある器官に拘束され、発現できない状態での苦痛を体験させられているのです」


――白痴のような、善も悪も行えず従って進歩が得られない状態での人生に何のメリットがあるのでしょうか。


「そういう人生は何らかの才能を悪用したその罪の代償として科せられているのです。その霊の進化の旅程の一時的中断です」


――と言うことは、その白痴の人物の身体に宿っている霊は、かつては天才だったということも有り得るのでしょうか。


「大いに有り得ます。天才も、その才能を悪用した時は天罰を受けます」


――その身体に宿っている霊は、霊的にはそれを自覚しているのでしょうか。


「自覚していることがよくあります。自分の行動を阻止しているクサリが試練であり罪滅ぼしであることを理解しているものです」


――精神的錯乱状態の人間の場合、霊はどういう状態になっているのでしょうか。


「霊は、完全に自由な状態(霊界に所属している間)では、全ての機能が自在に働き、物質へも直接的に働きかけることができます(心霊現象を生じさせる場合)が、いったん物質界に再生してしまうと条件が一変し、肉体器官という特殊な媒体を通して能力を発揮することになります。ですから、もしもその器官のどれか一つ、あるいは器官の全てが損傷を受けると、その人間の行為ないしは受信機能が阻害されます。眼球を失えば見えなくなり、聴覚を損なえば聞こえなくなるといった具合です。

そういう次第で、かりに知性や意思の表現を司る機能が部分的に、あるいは完全に阻害されれば、器官はそなわっていても、まったく機能しないか、異常な反応をするために、表向きは錯乱した行動を取ります。霊的には異常であることに気づいていても、どうしようもないのです」


――それが自殺という行為を生むことがあるのはなぜでしょうか。


「今も述べたように霊的次元では本当の自我は異状に気づいていて、その機能不全による拘束状態に苦しんでいます。その拘束を断ち切る手段として自ら死を選ぶのです」


――死後も地上時代の錯乱状態が続くのでしょうか。


「しばらく続くかも知れませんが、そのうち物的波動から抜け出ます。それはちょうど、あなた方が朝目を覚ましてしばらくは意識がぼんやりとしているのと同じです」


――脳の病気がどうして死後の霊にまで影響を及ぼすのでしょうか。


「一種の記憶の残影の影響で、重荷のように霊にのしかかっています。本人には自分の錯乱状態での行為の記憶はありませんので、本来の自分を取り戻すのに普通より時間が掛かります。死後の不安定な状態が地上時代の病的状態の長さによって長かったり短かったりするのはそのためです。霊は肉体から解放されたあとも、多かれ少なかれ、肉体とのつながりによる影響を引きずっているものです」
〈幼児期〉


――霊はなぜ再生の度毎に幼児の段階を経なくてはならないのでしょうか。


「地上へ降誕する目的は霊性の進化です。物的身体に宿った霊は(生長するにつれて物的器官による束縛が大きくなって行くけれども)幼児期は霊的感覚がまだ強く残っているので、指導を任された背後霊団からの印象を受け易く、それが発達を促します」


――最初の意志表示がただ泣くだけということには何か意味があるのでしょうか。


「母親の関心を引きつけて看護に落ち度がないようにするためです。考えてもごらんなさい。もしも赤ん坊がいつも機嫌よく笑い声ばかり立てていたらどうなります? 母親だけでなく周りの者も、その時に必要としているものに気づかずに放っておくはずです。そうした配慮の中にも大霊の叡知を読み取ってください」


――そうした幼児期から成人へ向けて変化して行くのは、内部の霊そのものが変化するからでしょうか。


「霊が、内在する本来の資質を発揮しはじめるのです。

あなた方は表面上の無邪気さの裏に隠された秘密をご存じないようですね。我が子が一体いかなる人間になるのか、生まれる前は何者だったのか、これからどんな人間に成長するかも知らないまま、あたかも自分の分身であるかのごとくに愛撫し、全てを忘れて育て、その愛は海よりも深いと称(たた)えられていますが、他人でさえ感じる幼な子のあの愛らしさ・優しさはどこから来ると思いますか。その始源は何だと思いますか。ご存じないでしょう。では、それをじっくりお聞かせしましょう。

子供は神の許しを得て新しい物的生活の場へ送られてきます。その際、神は、その人生の酷しさが不当であるとの不満を抱くことのないよう、どの霊も表向きは無邪気そのものの赤子として誕生させます。たとえ宿っている霊が極悪非道の過去を持っていても、その悪行に関する記憶はまったく意識されないようにしてあります。無邪気さによって悪行が払拭(ふっしょく)されているわけではありません。一時的に意識されないようにしてあるだけです。その純真無垢の状態こそ霊の本来の姿なのです。だからこそ、それが汚れて行くことについては、その霊が全責任を負わねばならないことが明らかとなるのです。

赤子が純真無垢の状態で生まれてくるのは、それに宿る霊のためだけではありません。その赤子に愛を注ぐ両親のためにも――むしろ両親のためにこそ――神の配慮があるのです。もしも過去の残虐な行為がそのまま容貌に現れたらどうしますか。愛は大きく殺(そ)がれることでしょう。邪気もなく、従って従順だからこそ愛の全てを注ぎ、細心の看護を施すことが出来るのです。

しかし、親による扶養も必要でなくなる十五才あるいは二十才頃になると、本来の性癖と個性が赤裸々に表に出て来ます。もともと善性の強い霊であれば、いわゆる“良い子”に育つでしょう。が、それでも幼少時は見られなかった性癖や性格の陰影が見られるようになります。

生まれてくる子の霊は、親とは全く異なる世界からやってくることを忘れてはいけません。親とは全く異なる感情、性癖、嗜好をもってやって来た者が、いきなり地上世界に馴染めるでしょうか。やはり神の配剤、すなわち純真無垢の幼児期という篩(ふるい)を通過することによって、その準備をするのです。生成発展の過程にある無数の天体が生み出す全想念、全性格、全生命が最終的に入り交じることが出来るのは、この幼児期の篩の過程があるからこそなのです。

無邪気な幼少時代にはもう一つの効用があります。霊が地上生活に入るのは霊性の発達、言わば自己改革のためです。その観点からすれば、幼少時代の物質性の弱さが背後霊による指導に反応しやすくします。その結果、邪悪な性向が抑えられ、問題のある性格がある程度まで改善されます。この抑制と改善は親たるべく神から運命づけられている者にとって、厳粛な使命でもあるのです。

このように、幼児期というのは有用であり必要不可欠であるばかりでなく、それ以上に、宇宙を支配する神の摂理の自然な配剤でもあるのです」
〈親しみを感じる人・虫の好かぬ人〉


――前世で知り合ったり愛し合ったりした二人が次の地上生活で出会った時、それと分かるものでしょうか。


「互いに認識し合うことはできません。しかし互いに親しみを感じるかも知れません。そうした前世での縁が親和力となって次の地上生活で愛情関係へと発展することはよくあることです。偶然としか思えない事情の重なりで一緒になることはよくあることで、それは実は偶然ではなく、このごった返した人間の集まりの中にあって無意識のうちに二人の霊が求め合っていた、その結果です」


――認識し合えればもっと良いのではないでしょうか。


「必ずしもそうとは言えません。過去世の記憶には、あなた方が単純に想像するのと違って、大きな不都合が伴うものです。死後には互いに認識し合い、それまでの過去世を思い出すことになります」


――親しみを感じる場合は決まって前世での縁があるからでしょうか。


「そうとは限りません。人間としての前世での縁がなくても、霊的に親和性がある場合は自然に打ち解けます」


――反対になぜか初対面の時から虫が好かない間柄というのがありますが、何が原因でしょうか。


「霊的な斥力(せきりょく)が働いて、互いに言葉を交わさなくても互いの本性を直感して反発し合うのです」


――その場合、どちらか一方または双方に邪悪な性質があることの表れでしょうか。


「反発を感じるからといって必ずしも邪悪であるとは限りません。反発を感じるのは類似性が欠けているからに過ぎないこともあります。その場合でも互いに霊性が向上すれば相違の陰影が薄れていき、反発心も消えていきます」
〈過去世の記憶〉


――再生した霊はなぜ過去の記憶が消えるのでしょうか。


「神がその無限の叡知によって人間に全てを知ることができないように、また知らしめないようにしているのです。遮ってくれている忘却という名のベールがもし無かったら、暗闇からいきなり直射日光にさらされたように、人間は目が眩んでしまいます。過去世のことを忘れているからこそ自分を確保できているのです」


――地上生活の艱難辛苦は、それもやむを得ないほどの過去の悪事を思い出すことができて初めて納得がいくと思うのです。ところが再生の度に前世を忘れていけば、どの地上人生も初体験と同じであることになります。神の公正はどうなるのでしょうか。


「新しい物的生活を体験するごとに霊は叡知を身につけ、善悪を見分ける感覚が鋭敏になって行きます。そして死の現象を経て本来の生活(霊界での生活)に戻ると、地上での全生活が披露されます。犯した罪、苦しみを生み出した悪行を見せつけられ、同時に、その時どうすればそれが避けられたかも見せられます。その結果各自は、自分に割り当てられた善悪両面の摂理による裁きについて得心がいきます。

そこまで来ると今度は、地上に残してきた罪科の後始末のために、もう一度再生したいという願望が生じます。前回しくじったのと同じ環境条件のもとでの新たな挑戦を求め、先輩霊たちにも援助を要請します。その中には守護霊となるべき霊もいます。守護霊は前回の地上生活での失敗原因を熟知していますから、同じ条件下で遠慮のない試練を与えます。悪想念、罪悪への誘惑によって彼を試します。それに対して、親の躾のお蔭で誘惑に打ち勝ったと思えるケースもあることでしょう。が、実際は彼自身にそなわった善悪判断のモニター、いわゆる良心の声に従ったからなのです。

しかし、その良心の声にこんどこそ従うことが出来たのは、二度と同じ過ちを犯すまいと誓った過去の体験があるからなのです。新たな物的生活に入った霊は、このように堅忍不抜の覚悟で臨み、悪行への誘惑に抵抗し、かくして少しずつ霊性を高めて、霊の世界へ戻った時には一段と向上しているのです」


――そうした過去世についての啓示は地上生活中には得られないのでしょうか。


「誰でもというわけには行きません。どういう人物だったとか、どういうことをしたといった程度のことなら、垣間見ている人は少なくないでしょう。が、それについて語らせたら、奇妙な啓示になってしまうでしょう」


訳注――霊感者とかチャネラーとかが人の前世を語るのを私は、かねがね、霊的原理から言って有り得べくもないことなので奇妙なことだと思っていたが、この回答はそれを見事に指摘してくれていて、すっきりした気分になった。前世についてはシルバーバーチも「一瞬のひらめきの中で垣間見るだけ」と言っているように、人間がとかく想像しがちな、まるでビデオを見ているようなものとは違うのである。

それを、まるで小説でも書くような調子で、さる女優の前世を長編の物語にした米国人チャネラーがいて、それが翻訳されて日本でもベストセラーになったことがあるが、私にとっては一般の人々のいい加減さに幻滅を覚えるだけだった。案の定その後それがチャネラーの作り話にすぎないことが判明して、当の女優も「人を惑わすようなことは二度としたくない」とサイキックニューズ紙で語っていた。確かに“人を惑わすもの”で、これに係わった者は全員、霊的に罪を犯したことになる。


――自分の過去世について漠然とした記憶があって、それが目の前をさっと通り過ぎ、もう一度思い出そうとしても思い出せないという人がよくいるのですが、そういう場合は幻影でしょうか。


「真実の場合もありますが、大体において幻影であり、用心が肝要です。想像力が興奮状態になった時の反映に過ぎないことが多いからです」


訳注――『霊媒の書』に“憑依に至る三つの段階”というのがあるが、これはその第二段階で、低級霊が当人の思考過程の中に入り込もうとしているケースである。だから“用心が肝要”と言っているのである。


――地球より発達した天体上では前世をもっと正確に思い出せるのでしょうか。


「その通りです。まとう身体の物質性が薄らぐにつれて、宿る霊の回想力が鮮明になります。波動の高い天体で生活している者にとっては、過去の記憶は地球の人類より遥かに鮮明です」


――人生の有為転変は過去世の罪滅ぼしであるとなると、その有為転変を見て、その人の前世についておよその推察は可能でしょうか。


「可能なことはよくあるでしょう。受ける罰は犯した悪行に対応するのが鉄則ですから。しかし、それを全てに当てはまる尺度とするのは関心しません。直観的判断の方が確実です。霊にとっての試練は過去の行いに対応すると同時に未来のためを考慮に入れたものなのですから」


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第2部7章 霊の解放

シアトルの初秋 シルバー・バーチの霊訓より     古代霊は語る

Teaching of Silver Birch
第一章 シルバー・バーチの使命


 シルバー・バーチが地上に戻って心霊的真理つまりスピリチュアリズムを広めるよう神界から言いつけられたのは、のちにシルバー・バーチの霊言霊媒となるべき人物すなわちモーリス・バーバネル氏がまだ母体に宿ってもいない時のことでした。

 そもそもこの交霊会の始まったのが一九二〇年代のことですから、シルバー・バーチが仕事を言いつけられたのは一八〇〇年代後半ということになります。

バーバネル氏が霊言能力を発揮しはじめたのは十八才の時でした。正確なことは分からないにしても、とにかく人間の想像を超えた遠大な計画と周到な準備のもとに推進されたものであることは間違いありません。

 さて言いつけられたシルバー・バーチが二つ返事でよろこんで引き受けたかというと、実はそうではなかったのです。

 『正直いって私はあなた方の世界に戻るのは気が進みませんでした。地上というのは、一たんその波長の外に出てしまうと、これといって魅力のない世界です。私がいま定住している境涯は、あなた方のように肉体に閉じ込められた者には理解の及ばないほど透き通り、光に輝く世界です。

 くどいようですが、あなた方の世界は私にとって全く魅力のない世界でした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなくてはなりません。

地上の同志を見つけ、その協力が得られるよう配慮しなくてはなりません。それから私の代弁者となるべき霊媒を養成し、さらにその霊媒を通じて語る真理を出来るだけ広めるための手段も講じなくてはなりません。

それは大変な仕事ですが、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証を得ました。そして計画はすべて順調に進みました。』

 その霊媒として選ばれたのが、心霊月刊誌 Two Worlds と週刊紙 Psychic News を発行している心霊出版社 Psychic Pressの社長であったモーリス・バーバネル氏であり、同志というのは直接的にはハンネン・スワッハー氏を中心とする交霊会の常連のことでしょう。

 スワッハー氏は当時から反骨のジャーナリストとして名を馳せ「新聞界の法王」の異名をもつ人物で、その知名度を武器に各界の名士を交霊会に招待したことが、英国における、イヤ世界におけるスピリチュアリズムの発展にどれだけ貢献したか、量り知れないものがあります。

今はすでにこの世の人ではありませんが、交霊会の正式の呼び名は今でもハンネン・スワッハー・ホームサークルとなっております。

 いま私は「直接的には」という言い方をしましたが、では間接的には誰かという問いが出そうです。


 一八四八年に始まったスピリチュアリズムの潮流は、そのころから急速に加速された物質文明、それから今日見るが如き科学技術文明という、言わば人間性喪失文明に対する歯止めとしての意義をもつもので、その計画の中にモーゼスの「霊訓」のイムペレーターを中心とする総勢五十名から成る霊団がおり、

「永遠の大道」のフレデリック・マイヤースがあり、さらに、これはあまり知られておりませんが、ヴェール・オーエン氏の「ベールの彼方の生活」のリーダーと名告る古代霊を中心とする霊団がおり、

南米ではアラン・カルデックの「霊の書」を産んだ霊団があり、そしてこのシルバー・バーチを中心とする霊団がいるわけです。

 このほかにも大小さまざまな形でその大計画が推進され、今なお進められているわけです。心霊治療などもそのひとつで、中でもハリー・エドワーズ氏などはその代表格(だった)というべきでしょう。日本の浅野和三郎氏などもその計画の一端を担われた一人でしょう。

 が、分野を霊界通信にしぼってみたとき、歴史的にみてオーソドックス(正統)な霊界通信は右に挙げたものが代表格といってよいでしょう。そのうちマイヤースについて特筆すべき点は、こうしたスピリチュアリズムの流れを地上で実際に体験した心霊家としてあの世へ行っていることです。

そしてこのシルバー・バーチについて特筆すべきことは、前四者が主として自動書記通信である(注)のと違って霊言現象の形で真理を説き、質疑応答という形も取り入れて、親しく、身近かな人生問題を扱っていることです。

(注──モーゼスの「霊訓」には「続霊訓」という百ページばかりの続編があり、これには霊言現象による通信も含まれています。その中でイムペレーターを中心とする数名の指導霊の地上時代の本名を明かしております)

 体験された方ならすぐに肯かれることと思いますが、数ある心霊現象の中でも霊言現象が一ばん親しみと説得力をもっています。

 もっとも霊媒の危険性と、列席者が騙されやすいという点でも筆頭かも知れません。が、それは正しい知識と鋭い洞察力を備えていれば、めったにひっかかるものではありません。

 シルバー・バーチも、自分が本名を明かさないのは、真理というものは名前とか地位によって影響されるべきものではなく、その内容が理性を納得させるか否かによって判断されるべきものだからだ、と述べていますが、確かに、最終的にはそれ以外に判断の拠り所はないように思われます。


 こう見てきますと、シルバー・バーチを中心とする霊団がロンドンの小さなアパートの一室におけるささやかなホームサークルを通じて平易な真理を半世紀以上にもわたって語り続けてきたことは、スピリチュアリズムの流れの中にあっても特筆大書に価することと言ってよいでしょう。

 しかし霊団にとっては、それまでの準備が大変だったようです。シルバー・バーチは語ります。

『もうずいぶん前の話ですが、物質界に戻って霊的真理の普及に一役買ってくれないかとの懇請を受けました。このためには霊媒と、心霊知識をもつ人のグループを揃えなくてはならないことも知らされました。私は霊界にある記録簿を調べ上げて適当な人物を霊媒として選びました。

それは、その人物がまだ母体に宿る前の話です。私はその母体に宿る日を注意深く待ちました。そして、いよいよ宿った瞬間から準備にとりかかりました』

 この中に出てくる「霊界の記録簿」というのは意味深長です。

 神は木の葉一枚が落ちるのも見落さないというのですから、われわれ人間の言動は細大もらさず宇宙のビデオテープにでも収められているのでしょうが、シルバー・バーチの場合は、霊媒のバーバネル氏が生まれる前から調べ上げてその受胎の日を待った、というのですから、話の次元が違います。続けてこう語ります。

 『私はこの人間のスピリットと、かわいらしい精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる面を細かく観察し、霊的に一体となる練習をし、物の考え方や身体上のクセをのみ込むよう努めました。要するに私はこの霊媒をスピリットと精神と肉体の三面から徹底的に研究したわけです」

 参考までにここに出た心霊用語を簡単に説明しておきましょう。スピリットというのは大我から分れた小我、つまり、神の分霊です。それ自体は完全無欠です。それが肉体と接触融合すると、そこに生命現象が発生し〝精神〟が生まれます。私たちが普段意識しているのはこの精神で、ふつう〝心〟といっているものです。これには個性があります。

肉体のもつ体質(大きいものでは男女の差)、それに遺伝とか自分自身及び先祖代々の因縁等が複雑に混り合っていて、それが人生に色とりどりの人間模様を織りなしていくわけです。

 シルバーバーチは続けてこう語ります。

 『肝心の目的は心霊知識の理解へ向けて指導することでした。まず私は地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的にはそのいずれにも反発させ、いわゆる無神論者にさせました。それはそれなりに本人の精神的成長にとって意味があったのです。

これで霊媒となるべきひと通りの準備が整いました。ある日私は周到な準備のもとに初めての交霊会へ出席させ、続いて二度目の時には、用意しておいた手順に従って入神させ、その口を借りて初めて地上の人に語りかけました。

いかにもぎこちなく、内容も下らないものでしたが、私にとっては実に意義深い体験だったのです。その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、ごらんの通りの状態になりました。今ではこの霊媒の潜在意識を完全に支配し、私の考えを百パーセント述べることが出来ます。』

 その初めての交霊会の時、議論ずきの十八歳のバーバネル氏は半分ヤジ馬根性で出席したと言います。そして何人かの霊能者が代わるがわる入紳してインデアンだのアフリカ人だの中国人だのと名告る霊がしゃべるのを聞いて〝アホらしい〟といった調子でそれを一笑に付しました。そのとき「あなたもそのうち同じようなことをするようになりますヨ」と言われたそうです。

 それが二回目の交霊会で早くも現実となりました。バーバネル氏は交霊会の途中で〝ついうっかり〟寝込んでしまい、目覚めてから「まことに申し分けない」とその失礼を詫びました。すると列席者からこんなことを言われました。

 「寝ておられる間、あなたはインデアンになってましたヨ。名前も名告ってましたが、その方はあなたが生まれる前からあなたを選んで、これまでずっと指導してこられたそうです。そのうちスピリチュアリズムについて講演をするようになるとも言ってましたヨ」

 これを聞いてバーバネル氏はまたも一笑に付しましたが、こんどはどこか心の奥に引っかかるものがありました。

 その後の交霊会においても氏は必ず入神させられ、はじめの頃ぎこちなかった英語も次第に流暢になっていきました。その後半世紀以上も続く二人の仕事はこうして始まったのです。


 では当のバーバネル氏に登場してもらいましょう。入神中の様子について氏は次のように述べています。

 『はじめの頃は身体から二、三フィート離れた所に立っていたり、あるいは身体の上の方に宙ぶらりんの格好のままで、自分の口から出る言葉を一語一語聞きとることが出来た。シルバー・バーチは英語がだんだん上手になり、はじめの頃の太いしわがれ声も次第にきれいな声──私より低いが気持のよい声──に変わっていった。

 ほかの霊媒の場合はともかくとして、私自身にとって入神はいわば〝心地よい降服〟である。まず気持ちを落ち着かせ、受身的な心境になって、気分的に身を投げ出してしまう。そして私を通じて何とぞ最高で純粋な通信が得られますようにと祈る。

すると一種名状しがたい温かみを覚える、普段でも時おり感じることがあるが、これはシルバー・バーチと接触した時の反応である。温かいといっても体温計で計る温度とは違う。恐らく計ってみても体温に変化はないはずである。やがて私の呼吸が大きくリズミカルになり、そしていびきに似たものになる。

すると意識が薄らいでいき、まわりのことがわからなくなり、柔らかい毛布に包まれたみたいな感じになる。そしてついに〝私〟が消えてしまう。どこへ消えてしまうのか、私自身にもわからない。

 聞くところによると、入神はシルバー・バーチのオーラと私のオーラとが融合し、シルバー・バーチが私の潜在意識を支配した時の状態だとのことである。意識の回復はその逆のプロセスということになるが、目覚めた時は部屋がどんなに温かくしてあっても下半身が妙に冷えているのが常である。

時には私の感情が使用されたのが分かることもある。というのは、あたかも涙を流したあとのような感じが残っていることがあるからである。

 入神状態がいくら長びいても、目覚めた時はさっぱりした気分である。入神前にくたくたに疲れていても同じである。そして一杯の水をいただいてすっかり普段の私に戻るのであるが、交霊会が始まってすぐにも水を一杯いただく。

いそがしい毎日であるから、仕事が終るといきなり交霊会の部屋に飛び込むこともしばしばであるが、どんなに疲れていても、あるいはその日にどんな変わった出来ごとがあっても、入神には何の影響もないようである。あまり疲労がひどく、こんな状態ではいい成果は得られないだろうと思った時でも、目覚めてみると、いつもと変わらない成果が得られているのを知って驚くことがある。

 私の経験では、交霊会の前はあまり食べない方がよいようである。胸がつかえた感じがするのである。又、いろいろと言う人がいるが、私の場合は交霊会の出席者(招待者)については、あらかじめアレコレ知らない方がうまく行く。余計なことを知っていると、かえって邪魔になるのである。』


 バーバネル氏はシルバー・バーチ霊のいわば専属霊媒です。かつては英米の著名人、たとえばリンカーンなども出たようですが、それは一種の余興であって、本来はシルバー・バーチに限られています。いずれにせよ、バーバネル氏が二つの心霊機関紙を発行する心霊出版社の社長兼編集長であることはよく知られていても、霊言霊媒であることは日本はもとより世界でも意外に知られていないようです。

 これは謙虚で寡欲なバーバネル氏が自分からそのことをしゃべったり書いたりすることがまず無いということに起因しています。シルバー・バーチが絶対に地上時代の名前を明かさないという徹底した謙虚さが、そのままバーバネル氏に反映しているのでしょう。

 実は氏は自分の霊言を活字にして公表することにすら消極的だったのです。それを思い切らせたのが他ならぬハンネン・スワッハー氏でした。

 ここで私が直接面会して感じ取ったバーバネル氏の素顔を紹介しておきましょう。

 幸いにも私は一九八〇年の暮れに渡英し、多くの心霊家に面会する機会を得ました。バーバネル氏とは新年早々の五日に心霊出版社で面会し、帰国する前日にお別れの挨拶にもう一度立ち寄りました。

 女性秘書がドアを開けてくれて社長室に入った時、バーバネル氏が意外に小柄なのにまず驚ろきましたが、満面に笑みをたたえて、知性と愛情にあふれたまなざしでしっかりと私の目を見つめ、無言のまま両手を差しのべて固く私の手を握り、左手でどうぞこちらへという仕草をされました。

そしてインターホーンでスタッフや秘書にアレコレと(私のための)指示をされてから、ようやく私に向かって「二通目の手紙は(出発までに)間に合いましたか」という問いかけがあって、ようやく会話が始まりました。

 普通なら「はじめまして」とか「お元気ですか」といった初対面の挨拶があるところですが、そんな形式を超えた、あるいは、そんな形式を必要としない、心と心の触れ合いから入りました。

 その前日に面会したテスター氏(拙訳『背後霊の不思議』の原著者)も、背恰好といい年恰好といいバーバネル氏と実によく似た老紳士で、その応対ぶりもそっくりで、目と目が合っただけで通じ合う感じでした。

 むろんこれはお互いがスピリチュアリズムという思想においてつながっているからでしょうが、私がこれまで接触のあった英米の教育者から実業家に至る多くの外人で人格者といえる人物は、クリスチャンであろうと無神論者であろうと、不思議に東洋的なものを感じさせる雰囲気をもっていたのが印象的です。

 バーバネル氏もテスター氏もまさにその通りで、私は何の違和感もなく、まるで親戚のおじさんにでも会ったような感じでした。二人はまた大の仲良しで、お互いの名前を出すのにミスター(Mr.)を付けずに呼び棄てにします。それが却って親しみを感じさせました。

 ついでに言えば、テスター氏の家の近辺には銀色をしたカバの木がそこかしこに見られます。それを英語でシルバー・バーチと言うのです。バーバネル氏曰く、

 「テスターが二十数年前にあそこに引っ越したのも意味があったんですヨ。」
 テスター氏夫妻は数え切れないほどシルバー・バーチの交霊界に出席しています。


 さてバーバネル氏とテスター氏がよく似通った紳士だと言いましたが、一つだけ大きく違うものがあります。それは声の質です。

 テスター氏の声は風貌に似合わず細く澄んだ声で、かなり早口です。これと対照的にバーバネル氏の声は太くごつい感じで、ゆっくりとしゃべります。これはシルバー・バーチの影響でしょう。

 風貌もシルバー・バーチの似顔絵に非常に似ている感じですが、シルバー・バーチが憑ってくるとその感じが一段と強まり、声がいっそうごつくなります。そして、しゃべり方が一語一語かみしめるようにゆっくりとした調子になり、英語のアクセントとイントネーション(抑揚)が明らかに北米インデアンの特徴を見せはじめます。

 しかし同時に、何とも言えない、堂々として威厳に満ちた、近づきがたい雰囲気が漂いはじめます。ハンネン・スワッハ―氏はこう表現しています。

 「が、いったん活字になってしまうと、シルバー・バーチの言葉もその崇高さ、温かさ、威厳に満ちた雰囲気の片鱗しか伝えることができない。交霊会の出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバー・バーチがどんなに謙虚にしゃべっても、高貴にして偉大なる霊の前にいることをわれわれはひしひしと感じる。決して人を諌めない。そして絶対に人の悪口を言わない。」

 これは十一冊の霊言集のうちの一冊に寄せた緒言の中から抜粋したものですが、同じ緒言の中に興味ぶかいところがありますので、ついでに紹介しておきましょう。

 「霊媒のバーバネル氏が本当に入神していることをどうやって確認するのかという質問をよく受けるが、実はシルバー・バーチがわれわれ列席者に霊媒の手にピンをさしてみるよう言いつけたことが一度ならずあった。

おそるおそる軽く差すと、ぐっと深く差せという、すると当然、血が流れ出る。が入神から覚めたバーバネル氏に聞いてもまるで記憶がないし、そのあとかたも見当たらなかった。

 もう一つよく受ける質問は、霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのか、ということであるが、実はシルバー・バーチとバーバネル氏との間に思想的に完全に対立するものがいくつかあることが、そのよい証拠といえよう。

たとえばシルバー・バーチは再生説を説くが、バーバネル氏は通常意識のときは再生は絶対にないと主張する。そのくせ入神すると再生説を説く。」

 この緒言の書かれたのが一九三八年ですから、すでに四〇年余りも前のことになります。私が面会した時は再生問題は話題にのぼりませんでしたが、晩年はさすが頑固なバーバネル氏も再生を信じ、記事や書物に書いておりました。

℘25    
 本題に戻りましょう。シルバー・バーチが心霊知識普及の使命を言い渡され、不承不承ながらも引き受ける覚悟をきめたことはすでに紹介しましたが、覚悟をきめなければならない重大な選択がもう一つあったのです。それは、知識普及の手段として物理的心霊現象を選ぶか、それとも説教という手段をとるか、ということでした。

 ご承知のとおり物理的心霊現象は見た目には非常にハデで、物めずらしさや好奇心を誘うにはもってこいです。しかしそれは、その現象の裏側で霊魂が働いていること、言いかえれば死後の世界が厳然と存在することを示すことが目的であって、それ以上のものではありません。

 ですから、心霊現象を見て成るほど死後の世界は存在するのだなと確信したら、もうそれ以上の用事のないものなのです。霊界の技術者たちもその程度のつもりで演出しているのです。

 ところが現実にはその思惑どおりには行っていないようです。というのは、現象は見た目には非常に不思議で意外性に富んでいますから、人間はどうしてもうわべの面白さにとらわれて、そのウラに意図されている肝心の意義を深く考えようとしないのです。

 たとえば最近テレビではやっている心霊番組をご覧になればその点に気づかれると思います。怪奇現象を起こしたり写真に写ったりする霊魂について、それが身内の人であるとか先祖霊であるとか地縛霊であるとか浮遊霊であるとか、いろいろ述べるのは結構ですし、その供養まで勧めるのはなお結構なことだとは思うのですが、

しかし話はいつもその辺でストップし、その先の、たとえば死後の世界が存在することの重大性とか、その世界が一体どんな世界なのか、またそういう形で姿を見せない、その他の無数の霊たち、とくにすぐれた高級霊たちはどこでどうしているのか、といった疑問は一般の人からも出ないし、指導する霊能者の方からの解説もありません。

 その点についてひと通りの理解をもった心霊家ならいいとして、何も知らない人が同じ番組を見たら、死後の世界というのは実に不気味で、陰気で、何の楽しみも面白味もない、まるで夜ばかりの世界のような印象を受けるのではないかと案じられます。日本のテレビや雑誌にみる心霊の世界はおしなべてそんな傾向があるようです。

 そこへ行くとスピリチュアリズムは実に明朗闊達、広大無辺、そして自由無礙。人生百般に応用ができて、しかも崇高な宗教心も涵養してくれます。

 しかしそれは心霊を正しく理解した人に言えることであって、実はそこに至るまでが大変なのです。その第一の、そして最大の障害となっているのが、スピリチュアリズムが一般の宗教に見るような御利益的信仰心の入る余地がないということではないかと察せられます。

 人間は誰れしも、理屈はどうでもいい、とにかく今直面している問題──病気、家庭問題、仕事の行きづまり等々を解決してくれればいい、と考えるものです。

 それ自体は決して悪いことでも恥ずべきことでもないのですが、ただそれが解決すればもうそれでおしまいということになると問題です。あるいは、その解決だけを目的としてどこかの宗教に入信する、あるいはどこかの霊能者におすがりする、というのは困りものです。それでは何の進歩もないからです。シルバー・バーチもこんなことを言っています。

 『私がもしも真理を求めて来られた方に気楽な人生を約束するような口を利くようなことがあったら、それは私が神界から言いつけられた使命に背いたことになりましょう。私どもの目的は人生の難問を避けて通る方法を伝授することではありません。

艱難に真っ向から立ち向かい、これを征服し、一段と強い人間に生長していく方法を伝授することこそ私どもの使命なのです。』


 さてシルバー・バーチは最終的に「説教」の手段を選びました。が、これは心霊現象の演出よりはるかに根気と自信のいる仕事です。なぜ困難な方を選んだのか。それをシルバー・バーチ自身に語ってもらいましょう。

 『自分自身の霊界生活での数多くの体験から、私はいわば大人の霊、つまり霊的に成人した人間の魂に訴えようと決意しました。真理をできるだけ解り易く説いてみよう。常に慈しみの心をもって人間に接し、決して腹を立てまい。そうすることによって私がなるほど神の使者であるということを身をもって証明しよう。そう決心したのです。

 同時に私は生前の姓名は絶対に明かさないという重荷を自ら背負いました。仰々しい名前や称号や地位や名声を棄て、説教の内容だけで勝負しようと決心したのです。

 結局私は無位無冠、神の使徒であるという以外の何ものでもないということです。私が誰であるかということが一体何の意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは、私のやっていることで判断していただきたい。私の言葉が、私の誠意が、そして私の判断が、暗闇に迷える人々の灯となり慰めとなったら、それだけで私はしあわせなのです。

 人間の宗教の歴史をふり返ってごらんなさい。謙虚であったはずの神の使徒を人間は次々と神仏の座にまつり上げ、偶像視し、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。私ども霊団の使命は、そうした過去の宗教的指導者に目を向けさせることではありません。

そうした人々が説いたはずの本当の真理、本当の知識、本当の叡智を改めて説くことです。それが本物でありさえすれば、私が偉い人であろうが卑しい乞食であろうが、そんなことはどうでもいいことではありませんか。

 私どもは決して真実からはずれたことは申しません。品位を汚すようなことも申しません。また人間の名誉を傷つけるようなことも申しません。私どもの願いは地上の人間に生きるよろこびを与え、地上生活の意義は何なのか、宇宙において人類はどの程度の位置を占めているのか、

その宇宙を支配する神とどのようなつながりをもっているか、そして又、人類同士がいかに強い家族関係によって結ばれているかを認識してもらいたいと、ひたすら願っているのです。

 といって、別に事新しいことを説こうというのではありません。すぐれた霊覚者が何千年もの昔から説いている古い古い真理なのです。それを人間がなおざりにして来たために私どもが改めてもう一度説き直す必要が生じてきたのです。要するに神という親の言いつけをよく守りなさいと言いに来たのです。

 人類は自分の誤った考えによって今まさに破滅の一歩手前まで来ております、やらなくてもいい戦争をやります。霊的真理を知れば殺し合いなどしないだろうと思うのですが・・・。神は地上に十分な恵みを用意しているのに飢えに苦しむ人が多すぎます。

新鮮な空気も吸えず、太陽の温かい光にも浴さず、人間の住むところとは思えない場所で、生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人が大勢います。欠乏の度合がひどすぎます。貧苦の度が過ぎます。そして悲劇が多すぎます。

 物質界全体を不満の暗雲が覆っています。その暗雲を払いのけ、温かい太陽の光の差す日が来るか来ぬかは、人間の自由意志一つにかかっているのです。

 一人の人間が他の一人の人間を救おうと努力するとき、その背後には数多くの霊が群がってこれを援助し、その気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善行の努力は絶対に無駄にはされません。奉仕の精神も決して無駄に終わることはありません。

誰れかが先頭に立って薮を切り開き、あとに続く者が少しでも楽に通れるようにしてやらねばなりません。やがてそこに道が出来あがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。

 高級神霊界の神々が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでおられる姿を時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが、人間の誤解と偏見とによって踏みにじられ、無駄に終わっていくのを見るからです。

そうかと思うと、うれしさに顔を思い切りほころばせているのを見かけることもあります。無名の平凡人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。

 私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志と共に、波長を物質界の波長に近づけて降りてまいりました。その目的は、神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることが出来ることを教えてあげたいと思ったからです。

 物質界に降りてくるのは、正直言って、あまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。たとえてみれば、弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもがだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。

従って当然、生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。

 私が定住している世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真の生きるよろこびがみなぎり、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、互いに己れの足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。

 それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せであるべき所に不幸があり、光があるべき所に暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。神は必要なものはすべて用意してあるのです。問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

 それを取り除いてくれと言われても、それは私どもには出来ないのです、私どもに出来るのは、物質に包まれたあなた方に神の摂理を教え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通じて運用されるかを教えてさしあげるだけです。ここにおられる方にはぜひ、霊的真理を知るとこんなに幸せになれるのだということを、身をもって示していただきたいのです。

 もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることが出来たら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上に降りて来た努力の一端が報われたことになりましょう。

私ども霊団は決してあなた方人間の果たすべき本来の義務を肩がわりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとするだけです。』


 この物質界は霊界から見てそんなにひどいところなのだろうか───右のシルバー・バーチの言葉を読まれた方の中にはそんな感慨を抱かれた方が少なくなかろうと思います。

 が、シルバー・バーチなどは霊言現象のせいで言葉に気をつけて表現しているほうで、一ばんひどいのになると「地球はまるでゴミ溜めのようなものだ」と書いている霊もいます。

 ここで参考までに有名な霊界通信のマイヤースの「個人的存在の彼方」を開いてみますと、第一部の第一章から地上生活に対して厳しい観察を述べています。

その表現も「このケチくさいチャチな時代」となっているのですから、およその雰囲気は察せられると思いますが、この章は浅野和三郎訳では省略されておりますので、その中から部分的に抜粋して紹介してみましょう。

マイヤースは地上時代は古典学者であると同時に詩人でもありましたから、さすがに表現はおだやかですが、その意味するところは深長なものがあります。

 『健全なる精神と健全なる肉体───古代ギリシャ人が求めた理想、つまり美と力への憧憬を今こそ地球人類はわが理想、わが憧憬としなければならない。私は今、地球を言うなれば山の頂上から眺める立場にある。そこから見る地上は、将来に対する真の洞察、熱慮ある反省ももたぬ盲目同然の群集がただ右往左往するのみである。

 幼児期の思考と夢が既にその子の未来の原型を形成しているという。あたかも陶器が焼窯に入れられて固く仕上げられる以前に既に形が出来ているように、人間の未来も歴史的過去において既に変えがたい形体が造られ、それが〝現在〟という時を通りすぎ、〝永遠〟という名の神の時刻の中に記録されていくのである。

 それ故わたしは、今まさに幼児期にあってこれからの未来を形づくりつつある人類に対し、古代ギリシャ人が求めた夢と理想───心と身体の健全さ、美と力への憧憬を思い出してもらいたいのである。

 私は決して人類に咎め立てする気もなければ、いたずらに迷わせるつもりで言うのではないが、現代人は人間というものを機械から截然(せつぜん)と切り離し、人生を〝金銭〟から切離して考えるよう切望してやまない。

絶え間なく回転し、文化生活とやらの担い手である、あの怪物の如き機械のジャングルの中にあっては、健全なる知識を産み出す静思や瞑想の時も雰囲気も見出せない。いったんその現代の怪物───唯物主義という名の悪魔の最後の権化である機械───の虜になったが最期、いかに深刻な運命が人類を待ち受けているかは、正に知る者のみぞ知る、である。

 二千年あまり前、神の御子イエス・キリストは地上に降りて肉体をまとい、その生きざまによって天上の美をこの世にもたらした。この二十世紀においては唯物主義の申し子である〝機械〟が地上に降り、その教義が今まさに全世界を席巻しつつある、そしてそれを人類は熱心に、熱烈に信仰している。


 が、ここにもう一つの怪物がいる。大都会という名の怪物である。現代の都会は人間の集まりであるより、むしろ一つの機械の如き性格を帯びつつあり、このまま進めば、その機械が人間を振り回すことになりかねない。恐ろしいのは、その人間の集団が一つの集団心理に巻き込まれて、一気に戦争に突入することである。

がそういう極端な形はとらなくても、人口の増加とそれに伴って増えるであろう無能な人間、弱い人間、堕落した人間、そして精神病者等によって不幸が生まれ悲劇が広がる危険性が多分にある。大都会という名の唯物主義の申し子は、ただ盲目的に質よりも量を求める。ただ機械的に人口を増やし、その結果不幸をも増やす。

 私は機械なんかブチ壊してしまえと言っているのではない。機械の本質をよくわきまえてほしいと言っているのである。魂をもたぬ機械は、思考する動物である人間の下僕であるべきであって、断じて主人の座に据えられるべきではない。

言い変えれば人間の生活と心に深刻なまでに影響を及ぼしている機械の力を人間自身がコントロールしチェックできるようでなければならない。その上でならば、人類の霊的進化のために、具われる力を思い切り発揮し、肉体と五感のよろこびを健全に味わいつつ、近代文明がふんだんにもたらしてくれる洪水の如き機械製品の恩恵に浴すればよいのである。』


 この警告が第二次世界大戦前の一九三〇年代に出ていたという事実は、われわれ日本人にもいろいろと示唆を与えてくれます。警告どおり日本は、マイヤースの言葉を借りれば、「丘を駈け下りるように」戦争への道を突進し、そして敗戦を迎えました。

そして一時は目覚ましい復興ぶりを見せますが、今や機械化された現代社会、言いかえれば人間性を喪失した科学技術文明の悪弊に悩まされ始めていることは、心ある人なら先刻お気づきのことでしょう。

 これは日本に限ったことではありません。世界の先進国といわれている近代国家は例外なくそうした文明病に悩まされています。

 なぜでしょう。なぜ人間は間違った方向にばかりに走りたがるのでしょう。シルバー・バーチの霊言に耳を傾ける前に私は、そうした人間の愚かさを批判し警鐘を鳴らしつづけている数多くの良識ある知識人の一人である生化学者のセント・ジェルジ博士 Albert Szent-Gyorgyi の意見を紹介したいと思います。

博士はハンガリー生まれで現在はアメリカに在住していますが、ビタミンCの発見者として知られ、一九三七年にノーベル賞を受賞しています。

 もっとも博士は、受賞で得た〝生涯のんびり食べていけるほどのお金〟を、これは国民の税金だからということで、社会に還元する方向でいっぺんに使い果たしています。

この事実一つだけでも博士の物の考え方がほぼ察しがつくというものですが、私の手許にある著書は特にこれからの若い世代のために書いた The Crazy Ape (狂った猿)という小冊子です。その「まえがき」の中でこう述べています。

 『人類が今まさに歴史始まって以来の最大の危機に直面していること、つまり、このまま行けば人類全体がそう遠からぬ将来においていっぺんに滅亡することも十分ありうるという危険な時期にさしかかっていることに、ほぼ疑いの余地はない。

なぜこんなことになってしまったのか、どうすればその危機から脱することが出来るかについては、数えきれないほどの意見が説かれてきた。軍事的見地から、政治的立場から、社会的観点から、経済的角度から、科学技術的な面から、はたまた歴史的見地から、それなりの分析が為されてきた。

しかしながら、一つだけ大きく見落されている要素がある。それは、人間それ自身───生物学的存在としての人間そのものである。(中略)究極の問題は、はたして人類はおよそまともな人間のすることとは思えない、言わば狂った猿とでもいうべき振舞いをする現状を首尾よく切り抜けられるかということである。』

 そして続く第一章の冒頭でこう述べています。

 『人間はなぜ愚の骨頂ともいうべき振舞をするのか。それが私がこれから取り扱う問題である。ある意味では今日ほど人生をエンジョイできる時代は歴史上かつてなかった。寒さにふるえることもない。空腹を耐えしのぶということもない。病気でコロコロ死んでいくということもなくなった。

つまり生きていく上で最低限必要とされるものが全て充足されたのは現代がはじめてのことであろう。ところが同時に、自らこしらえた爆弾のたった一発で人類全部を絶滅し、あるいは環境汚染によってこの愛すべき母なる大地を住めない場所にしてしまう可能性をもつに至ったのも、歴史上はじめてのことである。』

 さらに次のような興味深い物の観方を提言して第一章をしめくくります。

 『もし人間が真に愚かであるとしたら、一体どうして地球上に発生してからの百万年という歳月を首尾よく生き抜いてこれたのであろうか。この問いに対しては二つの考え方ができるように思う。

一つは、人間は決してそんな愚かな存在ではない。むしろ地球という生活環境の方が人類が適応できないほどまでに変化してしまったのだという考えである。がもう一つ、こうも考えることが出来よう。すなわち人間は今も昔も少しも変わってはいない。人類というのは本来が自己破壊的なのだ。

ただこれまでは、一度に絶滅させるほど強力な武器を持つに至らなかっただけなのだというのである。確かに人間の歴史は無意味な殺し合いと破壊の連続であった。

それが人類絶滅という事態に至らしめなかったのは、殺人の道具が原始的で威力に欠けていたからというにすぎない。だからこそ、どんなに烈しい戦争でも多くの生存者がいたわけである。が現代の科学技術の発達で事情が一変してしまった。今や人類は集団自殺の道しかないのだ。

 この二つの考えのどちらが正しいにせよ、とにもかくにもこの危機を切り抜けて生き延びるためには、一体どこがどう間違ってこんな事態に至ったかを見極め、そこから抜け出る可能性もしくは良い方法があるのかどうかを早急に検討しなければならない。』

 翻訳権の問題がありますのであまり多くを紹介できないのが残念ですが、私があえてスピリチュアリズムに直接関係のない人の意見を紹介したのは、スピリチュアリズムに関係のない、あるいは心霊を知らない人で案外スピリチュアリズム的な透徹した物の考え方をしている人が幾らでもいることを痛感しているからです。

 論語読みの論語知らずという諺がありますが、心霊心霊とやたらに心霊を口にする人、あるいはその道の本まで書いている人がまるで心霊の真髄を理解していないことが多いのにはウンザリさせられます。私は主義として、心霊とかスピリチュアリズムということを口にすることは滅多にありません。

そうしたものは自分の人生観や物の考え方の中で消化醗酵させておけばいいのであって、それが無形のエネルギーとして生きる力となり、人間性や生活態度に反映していくのだと信じているからです。

 やはり人間の全てを決するのはその人の日常生活ではないでしょうか。シルバー・バーチもその点を繰り返し協調しています。

 『唯物主義者や無神論者は死後の世界でどんなことになるのかという質問をよく受けますが、宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を長いこと迷わせて来たようです。実際は必ずしもそうばかりとも言えないのです。

ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。祭壇の前にひれ伏し神への忠誠を誓い〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物主義者とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。

問題は何を信じるかではなくて、これまでどんなことをして来たかです。そうでないと神の公正(Justice)が根本から崩れます。』


 少しわき道にそれたようですが、ではシルバー・バーチは右のセント・ジェルジ博士の提起した問題にどう答えるか、それをみてみましょう。シルバー・バーチは語ります。

 『人間はなぜ戦争をするのか。それについてあなた方自身はどう思いますか。なぜ悲劇を繰り返すのか、その原因は何だと思いますか。なぜ人間世界に悲しみが絶えないのでしょうか。

 その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることが出来ないために、万物の背後に絶対的統一原理である〝神〟が宿っていることを理解できないからです。宇宙全体を唯一絶対の霊が支配しているということです。

ところが人間は何かにつけて〝差別〟をつけようとします。そこから混乱が生じ、不幸が生まれ、そして破壊へと向かうのです。

 前にも言ったとおり、私どもはあなた方が〝野蛮人〟と呼んでいるインデアンですが、あなた方文明人が忘れてしまったその絶対神の摂理を説くために戻ってまいりました。

あなた方文明人は物質界にしか通用しない組織の上に人生を築こうと努力してきました。言いかえれば、神の摂理から遠くはずれた文明を築かんがために教育し、修養し、努力してきたということです。

 人間世界が堕落してしまったのはそのためなのです。古い時代の文明が破滅したように、現代の物質文明は完全に破滅状態に陥っています。

その瓦礫を一つ一つ拾い上げて、束の間の繁栄でなく、永遠の神の摂理の上に今一度文明を築き直す、そのお手伝いをするために私どもは地上に戻ってまいりました。

それは、私どもスピリットと同様に、物質に包まれた人間にも〝神の愛〟という同じ血が流れているからに外なりません。

 こう言うと、こんなことをおっしゃる人物がいるかもしれません。“イヤ、それは大きなお世話だ。われわれ白人は有色人種の手を借りてまで世の中を良くしようとは思わない。白人は白人の手で何とかしよう。有色人種の手を借りるくらいなら不幸のままでいる方がまだましだ〟と。

 しかし、何とおっしゃろうと、霊界と地上とは互いにもたれ合って進歩して行くものなのです。地上の文明を見ていると、霊界の者にも為になることが多々あります。

私どもは霊界で学んだことをあなた方に教えてあげようと努力し、同時にあなた方の考えから成る程と思うことを吸収しようと努めます。その相互扶助の関係の中にこそ地上天国への道が見出されるのです。

  そのうち地上のすべての人種が差別なく混り合う日がまいりましょう。どの人種にもそれなりの使命があるからです。それぞれに貢献すべき役割を持っているからです。

霊眼をもって見れば、すべての人種がそれぞれの長所と、独自の文化と、独自の教養を持ち寄って調和のとれた生活を送るようになる日が、次第に近づきつつあるのが分かります。

 ここに集まられたあなた方と私、そして私に協力してくれているスピリットはみな、神の御心を地上に実現させるために遣わされた〝神の使徒〟なのです。私たちはよく誤解されます。

同志と思っていた者がいつしか敵の側にまわることがしばしばあります。しかしだからといって仕事の手をゆるめるわけにはいきません。神の目から見て一ばん正しいことを行っているが故に、地上にない霊界の強力なエネルギーのすべてを結集して、その遂行に当たります。

徐々にではあっても必ずや善が悪を滅ぼし、正義が不正を駆逐し、真が偽をあばいていきます。時には物質界の力にわれわれ霊界の力が圧倒され、あとずさりさせられることがあります。しかしそれも一時のことです。

 われわれはきっと目的を成就します。自ら犯した過ちから人間を救い出し、もっと高尚でもっと気の利いた生き方を教えてあげたい。お互いがお互いのために生きられるようにしてあげたい。

そうすることによって心と霊と頭脳が豊かになり、この世的な平和や幸福でなく、霊的なやすらぎと幸福とに浴することが出来るようにしてあげたいと願っているのです。

 それは大変な仕事ではあります。が、あなた方と私たちを結びつけ一致団結させている絆は神聖なるものです。どうか父なる神の力が一歩でも地上の子等に近づけるように、共に手を取り合って、神の摂理の前進を阻もうとする勢力を駆逐していこうではありませんか。

 こうして語っている私のささやかな言葉が少しでもあなた方にとって役に立つものであれば、その言葉は当然それを知らずにいる、あなた方以外の人々にも、私がこうして語っているように次々と語りつがれていくべきです。自分が得た真理を次の人へ伝えてあげる──それが真理を知った者の義務なのです。

 私とて、霊界生活で知り得た範囲の神の摂理を、英語という地上の言語に翻訳して語り伝えているに過ぎません。

それを耳にし、あるいは目にされた方の全てが、必ずしも私の解釈の仕方に得心がいくとはかぎらないでしょう。しかし忘れないでください。私はあなた方の世界とはまったく次元の異なる世界の人間です。英語という言語には限界があり、この霊媒にも限界があります。

ですから、もしも私の語った言葉が十分納得できない場合は、それはあなた方がまだその真理を理解する段階にまで至っていないか、それともその真理が地上の言語で表現し得る限界を超えた要素をもっているために、私の表現がその意味を十分に伝え切っていないかの、いずれかでありましょう。

 しかし私はいつでも真理を説く用意ができています。地上の人間がその本来の姿で生きていくには、神の摂理、霊的真理を理解する以外にないからです。盲目でいるよりは見える方がいいはずです。聞こえないよりは聞こえた方がいいはずです。居睡りをしているよりは目覚めていた方がいいはずです。

皆さんと共に、そういった居睡りをしている魂を目覚めさせ、神の摂理に耳を傾けさせてやるべく努力しようではありませんか。それが神と一体となった生活への唯一絶対の道だからです。

 そうなれば身も心も安らぎを覚えることでしょう。大宇宙のリズムと一体となり、不和も対立も消えてしまいましょう。それを境に、それまでとは全く違った新しい生活が始まります。

 知識はすべて大切です。これだけ知っておれば十分だ、などと考えてはいけません。私の方は知っていることを全部お教えしようと努力しているのですから、あなた方は吸収できるかぎり吸収するよう努めていただきたい。

こんなことを言うのは、決して私があなた方より偉いと思っているからではありません。知識の豊富さを自慢したいからでもありません。自分の知り得たことを他人に授けてあげることこそ私にとっての奉仕の道だと心得ているからにほかなりません。

 知識にも一つ一つ段階があります。その知識の階段を一つ一つ昇っていくのが進歩ということですから、もうこの辺でよかろうと、階段のどこかで腰を下ろしてしまってはいけません。人生を本当に理解する、つまり悟るためには、その一つ一つを理解し吸収していくほかに道はありません。

 このことは物質的なことにかぎりません。霊的なことについても同じことが言えるのです。というのは、あなた方は身体は物質界にあっても実質的には常に霊的世界で生活しているのです。

従って物的援助と同時に霊的援助すなわち霊的知識も欠かすことが出来ないのです。ここのところをよく認識していただきたい。あなた方も実際は霊的世界に生きている───物質はホンの束の間の映像にすぎないのだ──これが私たちのメッセージの根幹をなすものです。

 そのことにいち早く気づかれた方々がその真理に忠実な生活を送って下されば、私たちの仕事も一層やりやすくなります。スピリットの声に耳を傾け、心霊現象の中に霊的真理の一端を見出した人々が、小さな我欲を棄て、高尚な大義の為に己れを棄てて下されば、尚一層大きな成果を挙げることが出来ましょう。

 繰り返しますが、私は久しく忘れ去られてきた霊的真理を、今ようやく夜明けを迎えんとしている新しい時代の主流として改めて説くために遣わされた、高級霊団の通訳にすぎません。要するに私を単なる代弁者と考えて下さい。

地上に霊的真理を普及させようと努力している高級霊の声を、気持ちを、そして真理を、私が代弁していると考えて下さい。その霊団を小さく想像してはいけません。それはそれは大きな高級霊の集団が完全なる意志の統一のもとに、一致団結して事に当っているのです。

その霊団がちょうど私がこうして霊媒を使っているように私を使用して、霊的真理の普及に努めているのです。

 決して難解な真理を説こうとしているのではありません。いま地上人類に必要なのは神学のような大ゲサで難解で抽象的な哲学ではなく、いずこの宗教でも説かれている至って単純な真理、その昔、霊感を具えた教祖が説いた基本的な真理、すなわち人類は互いに兄弟であり、霊的本質において一体であるという真理を改めて説きに来たのです。

 すべての人種に同じ霊、同じ神の分霊が宿っているのです。同じ血が流れているのです。神は人類を一つの家族としておつくりになったのです。そこに差別を設けたのは人間自身であり、私どもがその過りを説きに戻ったということです。

 四海同胞、協調、奉仕、寛容──これが人生の基本理念であり、これを忘れた文明からは真の平和は生まれません。協力し合い、慈しみ合い、助け合うこと、持てる者が持たざる者に分けてあげること。こうした倫理は簡単ですが繰り返し繰り返し説かねばなりません。

個人にしろ、国家にしろ、人種にしろ、こうした基本的倫理を実生活で実践するときこそ、神の意図した通りの生活を送っているといえましょう。

 そこで私の使命は二つの側面をもつことになります。すなわち破邪と顕正です。まず長いあいだ人間の魂の首を締めつけてきた雑草を抜き取らねばなりません。

教会が、あるいは宗教が、神の名のもとに押しつけてきた、他愛もない、忌わしい、不敬きわまるドグマの類を一掃しなければなりません。なぜなら、それが人間が人間らしく生きることを妨げてきたからです。これが破邪です。

 もう一方の顕正は、誰にもわかり、美しくて筋の通った真実の訓えを説くことです。この破邪と顕正は常に手に手をとり合って進まねばなりますまい。それを神への冒涜であると息巻いたり尻込みしたりする御仁に係わりあっているヒマはありません。』

 シルバー・バーチ交霊会の全体のパターンは、最初に 「祈りの言葉」 があり、続いて右に紹介したような 「説教」 があり、そのあとに列席者との間の一問一答があり、そして最後にしめくくりの 「祈り」 があります。

 質問は個人的な内容のものから哲学的なものまで種々様々ですが、時にはすでに説教の中で述べたことと重複することもあります。が、シルバー・バーチは煩をいとわず懇切ていねいに説いて聞かせます。

 かつては週一回だった交霊会が晩年には月一回になったとはいえ、半世紀以上にわたる交霊会での応答は大変な量にのぼります。その中から各章に関連のあるものを選んで章の終りに紹介しようと思います。


 一問一答

問「昨今のスピリチュアリズムの動向をどう見られますか」
シルバー・バーチ「潮にも満ち潮と引き潮があるように、物事には活動の時期と静止の時期とがあるものです。いかなる運動も一気にやってしまうわけにはいきません。成るほど表面的にはスピリチュアリズムはかなりの進歩を遂げ、驚異的な勝利をおさめたように見えますが、まだまだ霊的真理について、まったく無知な人が圧倒的多数を占めております。

いつも言っているように、スピリチュアルズムというのは単なる名称にすぎません。私にとってはそれは大自然の法則、言いかえれば神の摂理を意味します。

私の使命はその知識を広めることによって少しでも無知をなくすることです。その霊的知識の普及に手を貸してくださるものであれば、それが一個人であってもグループであっても、私はその努力に対して賞賛の拍手を贈りたいと思います。

神の計画はきっと成就します。私の得ている啓示によってもそれは間違いありません。地上における霊的真理普及の大事業が始まっております。

時には潮が引いたように活動の目立たない時期がありましょう。そうかと思うとブームのような時期があり、そして再び無関心の時期が来ます。普及に努力するのがイヤになる人もおりましょう。が、こうしたことは、神の計画全体からみればホンの部分的現象にすぎません。

その計画の中でも特に力を入れているのが心霊治療です。世界各地で起きている奇蹟的治癒は計画的なものであって決して偶発的なものではありません。その治癒の根源が霊力にあることに目覚めさせるように霊界から意図的に行っているものです。私は真理の普及について決して悲観的になることはありません。

常に楽観的です。というのは、背後で援助してくれている強大な霊団の存在を知っているからです。私はこれまでの成果に満足しております。地上の無知な人がわれわれの仕事を邪魔し、遅らせ、滞らせることはできても、真理の前進を完全に阻むことは決して出来ません。

ここが大切な点です。遠大なる神の計画の一部だということです。牧師が何と説こうと、医者がどうケチをつけようと、科学者がどう反論しようと、それは好きにさせておくがよろしい。時の進展とともに霊的真理が普及していくのをストップさせる力は、彼らにはないのです」


問「死後の世界でも罪を犯すことがありますか」  

シルバー・バーチ「ありますとも! 死後の世界でもとくに幽界というところは非常に地上と似ています。住民は地上の平凡人とほぼ同じ発達程度の人たちで、決して天使でもなければ悪魔でもありません。

高級すぎもせず、かといって低級すぎもせず、まあ、普通の人間と思えばいいでしょう。判断の誤りや知恵不足で失敗もすれば、拭い切れない恨みや憎しみ、欲望等にとらわれて罪悪を重ねることもあります。要するに未熟であることから過ちを犯すのです」


問「人間一人ひとりに守護霊がついているそうですが・・・」

シルバー・バーチ「母体における受胎の瞬間から、あるいはそれ以前から、その人間の守護の任に当たる霊がつきます。そしてその人間の死の瞬間まで、与えられた責任と義務の遂行に最善を尽くします。守護霊の存在を人間が自覚すると否とでは大いに違ってきます。

自覚してくれれば守護霊の方も仕事がやりやすくなります。守護霊はきまって一人ですが、その援助に当たる霊は何人かおります。守護霊にはその人間の辿るべき道があらかじめわかっております。が、その道に関して好き嫌いの選択は許されません。

つまり自分はこの男性にしようとか、あの女性の方がよさそうだ、といった勝手な注文は許されないのです。こちらの世界は実にうまく組織された機構の中で運営されているのです」

日本語流にいえば「産土神の許可を得て・・・」ということになるのでしょうが、この問題は次の質問にある因果律、日本流に言えば因縁の問題もからみ、さらには再生問題にも係わる重大な問題を含んでおります。最後の「こちらの世界は実にうまく組織された機構の中で運営されております」というのはその辺も含めた言葉として解釈すべきです。

問「地上で犯す罪は必ず地上生活で報いを受けるのでしょうか」

シルバー・バーチ「そういう場合もあるし、そうでない場合もあります。いわゆる因果律というのは必ずしも地上生活期間内に成就されるとは限りません。しかし、いつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことは出来ないのです。

しかし、いつ成就されるかという時間の問題になると、それはその原因の性質如何にかかわってきます。すぐに結果の出るものもあれば地上生活中に出ないものもあります。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。

罪を犯すと、その罪がその人の霊に記録され、それなりの結果を産み、それだけ苦しみます。それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはいろんな事情が絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である霊性の進化にあることだけは確かです」

問「霊界のどこに誰れがいるということがすぐにわかるものでしょうか」

シルバー・バーチ「霊界にはそういうことの得意な者がいるものでして、そういう人には簡単に分かります。大ざっぱに分類すると死後の世界の霊は地上に帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。帰りたがっている霊の場合は、有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡がとれます。

が帰りたがらない霊ですと、どこにいるかは簡単につきとめることが出来ても、地上と連絡をとることは容易ではありません。イヤだというのを無理につれてくるわけにもいかないのです」

 俗に拝み屋という、霊魂との取り次ぎのような商売をしている人がいます。頼めばどんな先祖霊でも呼び出してくれるようですが、右のシルバー・バーチの答えを読めば、それが必ずしも信のおけるものでないことがわかります。

シルバー・バーチは霊界にはスピリットの所在を突き止めるのが得意な霊がいると言っておりますが、実はそれとは別に、地上の拝み屋のような低級な霊能者のところをドサ回りのようなことをしながら、声色を使ったりクセをまねたりして、信心深い人間を騙しては面白がっているタチの悪い霊団がいることも忘れてはなりません。

そんな霊にからかわれないためにも、正しい心霊知識を少しでも多く身につけたいものです。

Monday, September 1, 2025

アシトルの初秋 古代霊 シルバーバーチ不滅の真理

Silver Birch Companion   Edited by Tony Ortzen
十二章 さまざまな質問




  残念なことに、かつては素敵だった言葉が乱用されすぎて、その価値を下げてしまったものが少なくない〝愛〟という言葉もその部類に入りそうである。ある日の交霊会でその愛の定義を求められて、シルバーバーチがこう答えている。

 「気が合うと言うだけの友情、趣味が同じということから生まれる友愛から、自己を忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕精神に至るまで、愛はさまざまな形態を取ります。

 地上では愛という言葉が誤って用いられております。愛と言えないものまで、愛だ、愛だと、さかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものまで、愛だと錯覚している人もいます。

が、私が理解しているかぎりで言えば、愛とは、魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主である神とのつながりを悟った時に自然に湧き出てくる欲求のことです。

 最高の愛には一かけらの利己性もありません。つまりその欲求を満たそうとする活動に何一つ自分自身のためという要素がないのです。それが最高の人間的な愛です。

それが人類の啓発を志す人々、困窮する者への救済を志す人々、弱き者への扶助を願う人々、そして人生の喜びを踏みにじる既得権力に戦いを挑む人々の魂を鼓舞してまいりました。

 母国において、あるいは他国へ赴いて、そうした愛他的動機から人類の向上のために、言い替えれば、内部に秘めた無限の可能性を悟らせるために尽力する人は、愛を最高の形で表現している人です。

 愛の表現形態にもさまざまな段階(ランク)があります。愛の対象へ働きかけという点では同じであっても、おのずから程度の差があります。偏狭で、好感を覚える人だけを庇い、そして援助し、見知らぬ者には一かけらの哀れみも同情も慈愛も感じない者もいます。

 しかし、宇宙には神の愛が行きわたっております。その愛が天体を運行せしめ、その愛が進化を規制し、その愛が恵みを与え、その愛が高級霊の魂を鼓舞し、それまで成就したものを全部お預けにして、この冷たく、薄暗い、魅力に乏しい地上へ戻って人類の救済に当たらせているのです」


───その〝神〟のことを子供にはどう説いたらよいでしょうか。

 「説く人自らが全生命の背後で働いている力について明確な認識を持っていれば、それは別に難しいことではありません。

 私だったら大自然の仕組みの見事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドのごとき夜空の星の数々に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝き、名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。あたかも囁きかけるようなそよ風、そしてそれを受けて揺れる松の林に目を向けさせます。

さわやかに流れるせせらぎ、怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの営みが確固とした目的を持ち、法則によって支配されていることを指摘いたします。

 そしてさらに、人間がこれまでに自然界で発見したものは全て法則の枠内におさまること、自然界の生成発展も法則によって支配され規制されていること、その全体に人間の想像を絶した、広大にして複雑な、それでいて調和した一つのパターンがあること、宇宙のすみずみに至るまで秩序が行きわたっており、惑星も昆虫も、嵐もそよ風も、

そのほかありとあらゆる生命活動が、例え現象は複雑をきわめていても、その秩序において経綸されている事実を説いて聞かせます。

 そう説いてから私は、その背後の力、全てを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙のパノラマと、人間にはまだ知られていない見えざる世界までも支配している霊妙(クシビ)な力、それを神と呼ぶのだと結びます」


───自分の思念にはすべて自分で責任を取らねばならないでしょうか。

 「(精神的障害がある場合は別として)一般に正常とみなされている状態においては、自分の言動には全責任を負わねばなりません。これは厳しい試練です。

行為こそが、絶対的な重要性を持ちます。いかなる立場の人間にも、人のために為すべき仕事、自分の霊性を高めるべきチャンスが与えられるものです。

有徳の者や聖人君子だけが与えられるのではありません。全ての人に与えられ、そのチャンスの活用の仕方、疎かにした度合いに応じて、霊性が強化されたり弱められたりします」


───子供はそちらへ行ってからでも成人していくそうですが、交霊会に出てくる子供の背後霊が何年たっても子供だったり、十八年も二十年も前に他界した子供がその時のままの姿格好で出てくるのはなぜでしょうか。


 「地上の人間は、いつまでも子供っぽい人を変だと見るかと思うと、子供の無邪気さを愛するような口を利きます。しかも、人類のために敢えて幼児の段階に留る手段を選んでいる霊のことを、変だとおっしゃいます。

 幼児の方が得をするわけは容易に理解できるでしょう。幼児には大人にありがちな障壁がありません。きわめて自然に、いつも新鮮な視点から物事を眺めることができます。

大人が抱える種類の問題に悩まされることもないので、通信のチャンネルとしては好都合なのです。大人にありがちな、寛容性を欠いた先入観や偏見が少ないので、仕事がスムーズに運びます。

 いつも生き生きとして新鮮味を持って仕事に携わり、大人の世界の煩わしさがありません。煩わされないだけ、それだけ霊的交信に必要な繊細なバイブレーションをすぐにキャッチできるのです。

 しかし、実を言えば、その幼児の個性は大人の霊がその仕事のために一時的にまとっている仮の衣服である場合が多いのです。仕事が終われば、すぐに高い界へ戻って、それまでの生活で開発した、より大きな意識の糸をたぐり寄せることができます。

 変だと決めつけてはいけません。こういう霊のことを〝トプシー〟と言うのです。そういう形で自分を犠牲にして、地上の人々のために働いている愛すべき〝神の道具〟なのです。

 何年も前に他界した子供がそのままの姿で出現するのは、自分の存続の証拠として確認してもらうためです。身元の確認を問題になさる時に忘れないでいただきたいのは、他界した時点での姿や性格やクセをそのまま見せないと、人間の方が承知してくれないということを考慮していることです。

 そこで霊媒(霊視能力者)に映像を見せて、それを伝達させるわけです。言わばテレビの画像のようなものです。霊媒が自分の精紳のスクリーンに映った影像を見て叙述するわけです。

直接談話であれば、映像の代わりに、エクトプラズムで他界当時と同じ発声器官をこしらえます。条件さえうまく整えば、地上時代とそっくりの声が再生できます」


───子供のころから動物に対して残酷なことをして育った場合は、そちらでどんな取扱いを受けるのでしょうか。動物の世話でもさせられるのでしょうか。

 「人間の永い歴史を通じて、動物がいかに人間にとって大切な存在であったかを教えることによって、地上時代の間違った考えを改めさせないといけません。

動物界をあちらこちら案内して、本来動物というものが、動物を本当に愛し理解する人間と接触すると、いかに愛らしいものであるかを実際に見せてやります。

知識が増すにつれて誤った考えが少しずつ改められていきます。結局は残酷を働いたその影響は、動物自身だけでなく、それを働いた人間にも表れるものであることを悟るようになります」


 (別にメンバー)───他界する者の大多数が死後の生活の知識を持ち合わせません。他界直後は目眩のような状態にあって、自分が死んだことに気がつかないといいますが、それは子供の場合も同じでしょうか。それとも本能的に新しい生活に順応していくものでしょうか。

 「それは子供の知識次第です。地上の無知や迷信に汚染されすぎていなければ、本来の霊的資質が生み出す自然な理解力によって、新たな自覚が生まれます」


───人間が寿命を完うせずに他界することを神が許されることがあるのでしょうか。

 「神の意図は、人間がより素晴らしい霊的生活への具えを地上において十分に身につけることです。熟さないうちに落ちた果実がまずいのと同じで、割り当てられた地上生活を完うせずに他界した霊は、新しい世界の備えが十分ではありません」


───子供が事故で死亡した場合、それは神の意図だったのでしょうか。

 「これは難しい問題です。答えとしては、そうですと言わざるを得ないのですが、それには但し書きが必要です。

 地上生活はすべてが摂理によって支配されており、その摂理の最高責任者は神です。しかし、その摂理は人間を通じて作用します。

究極的にはすべて神の責任に帰着しますが、だからといって、自分が間違ったことをしでかしておいて、これは神が私にそうさせたのだから私の責任ではない、などという理屈は通用しません。

 神がこの宇宙を創造し、叡智によって支配している以上は、最終的には神が全責任を負いますが、あなた方人間にも叡智があります。理性的判断力があります。自分が勝手に鉄道の線路の上に頭を置いておいて、神さま何とかして下さい、と頼んでみても何にもなりません」


───いわゆる神童について説明していただけませんか。

 「三つの種類があります。一つは過去世の体験をそのまま携えて再生した人。二つ目は、たとえ無意識ではあっても霊的資質を具えた人で、霊界の学問や叡智。知識・心理などを直接的にキャッチする人。三つ目が、進化の前衛としての、いわゆる天才です」


 シルバーバーチの交霊会にはレギラーメンバーのほかに必ず二、三人のゲストを迎えるのが慣例となっていた。

ゲストと言っても、必ずしもスピリチュアリズムの信奉者とかシルバーバーチの崇拝者にかぎられていたわけではなく、スピリチュアリズムを頭から否定する人や、シルバーバーチと霊媒のバーバネルはペテン師であると決めつけている者もいた。

そのバーバネルの〝化けの皮〟をはがしてやると意気込んで出席する者もいたが、帰る時はすっかり大人しくなっていた。ときには感動のあまり慟哭する者もいたという。

 さて、その日の交霊会では、スピリチュアリズムに批判的な人からの投書が朗読された。その中には〝スピリチュアリズムは危険な火遊びの類に属するものではないか〟とか〝指導霊はなぜシルバーバーチなどという変な名前を名のるのか───そんなことが私の疑念を増幅するのです〟といったことが述べられていた。

 聞き終えたシルバーバーチは、話題を広角的に捉えて、こう述べた。

 「進化のどの段階にある人でも、暗闇を歩むよりは光明の中を歩むのが好ましいに決まっています。無知に降り回されるよりは正しい知識で武装する方がいいにきまっています。知識の追求は理知的な人間にとっての基本的な人生の目的であらねばなりません。

 迷信・偏見・不寛容・頑迷といった低級な性向は、それに反撃し退却せしめるだけの知識がないところでは、傍若無人に振舞います。ですから、学ぶという態度を忘れて〝私はもうここまでで結構です。これ以上は進む気はありません〟などと言ってはなりません。

 知識は掛けがいのない宝です。人生の全体を視界におさめて、いかに生きるべきかを教える羅針盤のようなものです。船には必ず方向を操るための道具や器具が具えつけられています。

人生をいかに生きるべきかを判断する為の道具や器具が具えつけられています。人生をいかに生きるべきかを判断するための道具を持ち合わせないとしたらその人は愚かな人というべきです。

知識はいくらあってもよろしい。絶えず求め続けるべきものです。〝もうこれ以上知りたくありません〟などと言うようになったら、その時から思考力が衰え、鈍り、錆びついていくことを、自ら求めていることになります。

 生命というものは一定の場所にじっとしていることが出来ないものなのです───向上するか下降するかのどちらかです。みなさんは永遠の生命の道を行く旅人です。

今生きておられる地上生活は、その永遠の旅の、実に短い旅程にすぎません。これから先、まだまだ長い進化の旅が待ち受けているのです。

 ですからその旅に備えて知識をたくわえ、いかなる雑路でもしのげるように旅仕度を強化しておく方がいいにきまっています。ただ、その知識には責任が生じることを忘れてはなりません。これも一種バランス (埋め合わせ) の法則です。

 一方において知識を得れば、他方においてはそれを生かして使うべき責務が生じます。そこから先はあなた自身の問題です。

 私たちは、これまでの永い旅の経験で知った霊的法則の働きに基づいて、地上生活に役立つと見た知恵をお届けしてあげるだけです。それが、この私のように、地上界が陥っている泥沼から救い出すために派遣された者の役目なのです。

 全ての人がそれを受け入れる用意が出来ているとは思っておりません。そんなものは要らないと考える人もいるでしょう。そんなものよりも、子供のオモチャのようなものを喜ぶ人もいるでしょう。まだ人生の意義を考える段階にまでは至っていないということです。

 しかし、あなた方にはその背後の計画を包括的に認識していただかねばなりません。地上界は実に永い間、暗黒に包まれてまいりました。その間の身の毛もよだつような残虐行為を、今の時代になってようやく反省し始めております。その根底にあるものは、霊的摂理についての無知なのです。

物質万能の風潮と私利私欲を一掃しない限り、その呪いから免れることはできません。地上世界を見まわしてごらんなさい。窮乏・悲哀・流血・混とん・破たんばかりではありませんか。これら全てが、間違った物質万能主義、言い換えれば、霊的摂理についての無知から生じているのです。

 地上の人間は生活の基盤を間違えております。国家はその政策を自国だけの利益を中心に考えております。独裁者が生まれては、暴虐非道の限りを尽くしました。が、

それは、力こそ正義という間違った信条に取りつかれていたからにすぎません。いまこそ霊的知識が、個人だけでなく、国家だけでもなく、世界全体にとって必要であることに理解が行かないといけません。

 その霊的知識をいち早く我がものとされた皆さんは、それが今の生活にどれほどの豊かさをもたらしてくれているかを吟味してみられることです。もう二度と、それを知らずにいた時の自分に戻りたくないと思われたはずです。

この世のいかなる波風にもしぶとく耐えていくだけの堅固な基盤を与えておられます。自分がただの偶然の産物、あるいは、気まぐれのオモチャなどではなく、無限の力を秘めた大霊の一部であるとの理解があります。

 地上世界はとても病んでおります。恐ろしい病に苦しんでおります。それを治すための妙薬を私がこういう形で伝授しているのです。この霊的知識が世界中に広まれば───この物質の世界の向こうに新しい世界が待ち受けていること、自分の生活の全てに自分が責任を持たねばならないこと (いかなる信仰もそれを償ってはくれないこと)、

万人に完全なる公平さを持って働く永遠不変の摂理が存在することが理解されれば、新しい世界を構築するための基盤ができたことになるのです」

℘238
 〝無知〟と〝間違った信仰〟の恐ろしさについて、さらにこう述べた。

 「スピリチュアリズムは人間が秘めている霊的能力を教え、それを同胞のために役たてるために開発する方法を教えてくれます。たとえば、病気を霊的に治療する能力を持っている人、あるいは死後の存続を証明する証拠を提供する能力を持った人が、そうとは知らずに毎日を無為に過ごしております。

実にもったいないことです。そういう人材を掘り起こすためにも、霊的知識をできるだけ多く広めておくことが、いかに大切であるかがお分かりでしょう。無知は人間の大敵です。精神的にも霊的にも怠惰にしてしまいます。

 ところが、地上には無知と言うエサによって飼いならされている真面目な人間が実に多いのです。ただ信じるだけで良い───信仰は理性に優るのです。

と教え込まれ、スピリチュアリズムは悪魔の仕業であるから、それを説く者は邪霊にそそのかされているのですよと説き聞かされ、バイブルにちゃんとそう書いてありますと結論づけられます。

 そこに無知の危険性が潜んでいるのです。それを信じる者は、ひとりよがりの正義感に浸りながら、本当は怠惰な、間違った宗教的優越感の上にあぐらをかいてしまうのです。

一種の精神的倒錯を生み出し、それが全ての思考を歪め、本物の真理を目の前にしても、それが真理であるとは思えなくしてしまうのです」



 〝豚に真珠を与える勿れ〟と言ったイエスの真意は何だったのでしょうか。

「自分では立派な真理だと思っても、受け入れる用意の出来ていない人に無理やり押し付けてはいけないということです。拒絶されるから余計なことはするなという意味ではありません。それなら、イエスの生涯は拒絶されることの連続でした。

 そんな意味ではなく、知識・心理・理解を広めようとする努力が軽蔑と侮辱を持って迎えられるような時は、そういう連中は見る目がないのだから、むりして美しいものを見てもらおうとはせずに、手を引きなさいという意味です」


─── 一身上の問題で指導を仰ぐことは許されるでしょうか。

 「それは許されます。ただ、霊的なことに興味があっても、神髄を理解していない人に説明する時は慎重を要します。うっかりすると、霊界からの援助を自分の利益のためだけに不当に利用しているかの印象を与えかねません。

 スピリチュアリズムの基本は、つまるところ物的な豊かさよりも霊的な豊かさを求めることにあり、自分自身と宇宙の大霊についての実相を理解する上で基本となるべき摂理と実在を知ることです。むろん物的生活と霊的生活とは互いに融合し、調和しております。

両者の間にはっきりとした一線を画することはできません。霊的なものが物的世界へ顕現し、物的なものが霊的なものへ制約を与え、条件づけております」


───この世に生きる目的は、霊的な顕現を制約するものを少しでも排除し、霊的資質が肉体を通してなるべく多く顕現することだと私は理解しておりますが・・・・・・

 「その通りです。地上生活の目的はそれに尽きます。そうすることによって自分とは何かを悟っていくことです。

自分を単なる肉体だと思っている人は、大きな幻影の中で生活していることになり、いつかは厳しい現実に目覚める日が来ます。その日は地上生活中に訪れるかもしれないし、こちらへ来てからになるかもしれません。

地上にいるうちに悟った方がはるかに有利です。なぜなら、地上には魂の成長と顕現の為の条件が全部揃っているからです。

 人間は地上生活中に身体機能ならびに霊的機能を存分に発揮するように意図されているのです。霊的なことのみに拘って身体を具えた人間としての義務を怠ることは、身体上のことばかりに目を奪われて霊的存在としての義務を疎かにすると同じく、間違っております。

 両者が完全なバランスがとれていなければなりません。その状態の中で始めて、この世にありがちな俗世に染まらない生き方が出来ることになります。

つまり身体は、神性を帯びた霊の〝宮〟として大事にし、管理し、手入れをする。すると進化と成長の過程にある霊が身体を通して成長と進化の機会を与えられる、ということです」


───心霊治療を始めるには、治療家自身がまず健康体でならなければならないのでしょうか。

「むろん、誰しも健康体であるのが望ましいに決まっています。ただ、霊力によって病気を治す人も、霊媒と同じく〝道具〟です。つまり自分が受け入れたものを伝達する機関にすぎません。

その人を通って霊力が流れるということです。いわば“〝通路〟であり、それも、内部へ向けてではなく外部へ向けて送る通路です。

 その人の資質、才能、能力がその人なりの形で顕現しますが、それが霊界との中継役、つまりそれが霊媒としての資格となり、生命力と賦活力と持久力にあふれた健康エネルギーを地上へもたらす役目が果たせるのです。

その際、治療家自身の健康に欠陥があるということ自体は、治療能力の障害にはなりません。治療エネルギーは霊的なものであり、欠陥は身体的なものだからです」


───精神統一によって心の静寂、内的生命との調和を得ることは健康の維持に役立つでしょうか。

 「自然法則と調和した生活を送り、精神と身体との関係を乱すような行為をしなければ、全ての病気に効果があるでしょう。

あるいは、遺伝的疾患のない健全な身体を持って生まれていれば効果があるでしょう。内部に秘められた〝健康の泉〟の活用法を知れば、全ての病気を駆逐することができることは確かです。

 しかし、現実には、地上に病気が蔓延している以上、事は非常に厄介です。限界があるということです。たとえば〝死ぬ〟ということは誰にも避けられません。

 身体は用事が終われば捨てられるのが自然法則だからです。しかし困ったことに、余りに多くの人間が内部の霊性が十分に準備ができないうちに、つまり熟し切らないうちに、肉体を捨てています。魂の鍛錬にとって必要な体験を十分に積んでいないうちにです。

 私は法則をありのままに述べているまでです。人間にとってそれを実践することは容易でないことは、私も承知しております。何しろ地上というところは物質が精神を支配している世界であり、精神が物質を支配していないからです。

本当は精神が上であり、霊がその王様です。しかし、その王国も人間の行為の上に成り立っています」


───心の静寂が得られると肉体器官にどういう影響が現れるのでしょうか。

 「それ本来のあるべき状態、つまり王様である霊の支配下に置かれます。すると全身に行きわたっている精神が、その入り組んだ身体機能をコントロールします。

根源において生命を創造し身体を形づくった霊の指令にしたがっておこなわれます。その時は霊が身体の構成要素のあらゆる分子に対して優位を占めています。

 それが出来るようになれば、完全な調和状態───あらゆる部分が他と調和し、あらゆる調和が整い、真の自我と一体となります。不協和音もなく内部衝突もありません。静寂そのものです。宇宙の大霊と一体となっているからです」


───あなたはなぜそんなに英語がお上手なのでしょう。

 「あなた方西洋人は時折妙な態度をお取りになりますね。自分たちの言語がしゃべれることを人間的評価の一つになさいますが、英語が上手だからといって別に霊格が高いことにはなりません。たどたどしい言葉でしゃべる人の方がはるかに霊格が高いことだってあるのです。

 私はあなた方の言語、あなた方の習性、あなた方の慣習を、長い年月をかけて勉強しました。それは、こちらの世界ではごく当たり前の生活原理である〝協調〟 の一環です。いわば互譲精神を実践したまでのことです。


 あなた方の世界を援助したいと望む以上は、それなりの手段を講じないといけません。その手段の中には人間の側に最大限の努力を要求することになるものがある一方、私たちにとって嫌悪感を感じ得ないほどの、神の子としてぎりぎりの最低線まで下がらなくてはならないこともあります。

 私はこうして英語を国語としている民族を相手にしゃべらねばなりませんので、英語を習得するのに永い歳月をかけました。皆さんからの援助もいただいております。

同時に、かつて地上で大人物として仰がれた人々の援助も受けております。今でも言語的表現の美しさと簡潔さで歴史にその名を残している人々が、数多く援助してくれております」


───心に念じたことは全部その霊に通じるのでしょうか。

 「そんなことはありません。その霊と波長が合うか合わないかによります。合えば通じます。バイブレーションの問題です。私と皆さんとは波長がよく合います。ですから、皆さんの要求なさることが全部読みとれます。

何かを要求なさると、そこにバイブレーションが生じ、その〝波動〟が私に伝わります。それを受け取る受信体制が私に整っているからです。地上と霊界との間は、魂に共鳴関係があれば、思念や願いごとの全てがすぐさま伝わります」


───われわれが死ぬ前と後には、霊界の医師が面倒を見てくれるのでしょうか。

 「見てくれます。霊体をスムースに肉体から引き離し、新しい生活に備える必要があるからです。臨終の床にいる人がよく肉親や知らない人の霊が側に来ていることに気づくのは、そのためです。魂が肉体から抜け出るのを手助けしているのです」


───昨今のような酷い地上環境では、まったく新しいタイプの霊が誕生する方がいいのではないでしょうか。

 「私たちは、人間一人ひとりが果たすべき責任を持って生まれていると説いております。たとえ今は世界が混とんと心配と喧騒に満ち、敵意と反抗心と憎しみに満ちていても、そうした苦闘と悲劇を耐え忍ぶことの中から、新しい世界が生まれようとしております。

そのためには、そのための旗手となるべき人々がいなくてはなりません。その人たちの先導によって、真一文字に突き進まなければなりません。

 霊は苦闘の中で、困難の中で、刻苦の中で自らを磨かねばなりません。平坦な道ではなく、困難を克服しつつ前進し、そして勝利を手にしなくてはなりません。恐怖心が一番の敵です。無知という名の暗黒から生まれるものだからです」




 シルバーバーチの祈り

 ああ、大霊よ、あなたは全生命の背後の摂理にあらせられます。
 太陽の輝きは、あなたの微笑みです。
 天より降り注ぐ雨滴は、あなたの涙です。
 夜空に煌めく星は、あなたの眼差しです。
 夜の帷(とばり)は、あなたのマントです。
 そして、人のためを思いやる心は、あなたの愛にほかなりません。
 あなたの霊は、全存在に内在しております。森羅万象はあなたの霊の顕現にほかなりません。

 美しく咲き乱れる花となり、さえずる小鳥の声となって顕現しておられます。あなたへの思いを抱くものならば、あなたは誰にでも理解できるのでございます。

 ああ、大霊よ、全宇宙を法則によって知ろしめされるあなたは、無窮の過去より存在し、無窮の未来にわたって存在いたします。

 これまでにも、霊の目を持ってみるものに真実の姿を顕示され、愛を教え、叡智を説き、理解し得る範囲において、ご計画を披露してまいられました。

 地上天国を築かんと願う者たちの魂を鼓舞し、霊力が生み出す勇気を持ってあなたの進化の仕事に協力するよう、導かれました。

 また、あなたの使者として私たちを地上へ遣わされ、地上の子等の魂を解放し、あなたがいかに身近な存在であるかを認識させるために、あらたなる光明、新たなる知識、新たなる真理、新たなる叡智をもたらすべく、高揚と、慰安と、教化と、啓示の仕事を託されたのでした。

 願わくはこのサークルをあなたの霊力によって満たし、ここを聖殿としてあなたの真理の輝きを流入せしめ、地上の暗き場所を明るく照らし、平和と幸せと叡智をもたらすことができますように。
                 完  
 





シアトルの初秋 シルバー・バーチの霊訓より     古代霊は語る

 Teaching of Silver Birch


巻頭言 

あなたがもしも古き神話や伝来の信仰を持って足れりとし、あるいは既に真理の頂上を極めたと自負されるならば本書は用はない。がもしも人生とは一つの冒険であること、魂は常に新しき視野、新しき道を求めて已まぬものであることをご承知ならば、ぜひお読みいただいて、世界の全ての宗教の背後に埋もれてしまった必須の霊的真理を本書の中に見出していただきたい。

そこにはすべての宗教の創始者によって説かれた訓えと矛盾するものは何一つない。地上生活と、死後にもなお続く魂の旅路に必要不可欠な霊的知識が語られている。もしもあなたに受け入れる用意があれば、それはきっとあなたの心に明りを灯し、魂を豊かにしてくれることであろう。                                                シルバー・バーチ 


はじめに

 シルバー・バーチ Silver Birch というのは、英国のハンネン・スワッハー・ホームサークル Hannen Swaffer Home Circle という家庭交霊会において、一九二〇年代後半から五十年余りにわたって教訓を語り続けてきた古代霊のことで、紀元前一〇〇〇年ごろ地上で生活したということです。

 もちろん仮りの呼び名です。これまで本名すなわち地上時代の姓名を教えてくれるよう何度かお願いしましたが、その都度、「それを知ってどうしようというのですか。戸籍調べでもなさるおつもりですか」 と皮肉っぽい返事が返ってくるだけです。そして、

 人間は名前や肩書にこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だとわかったら、私がこれまで述べてきたことに一段と箔がつくと思われるのでしょうが、それは非常にタチの悪い錯覚です。前世で私が王様であろうと乞食であろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもよろしい。

私の言っていることが成るほどと納得がいったら真理として信じて下さい。そんなバカな、と思われたら、どうぞ信じないで下さい。それでいいのです」 というのです。今ではもう本名の詮索はしなくなりました。 

 霊視家が画いた肖像画は北米インデアンの姿をしていますが、これには三つの深い意味があります。
 ひとつは、実はそのインデアンがシルバー・バーチその人ではないということです。インデアンは言わば霊界の霊媒であって、実際に通信を送っているのは上級神霊界の高級霊で、直接地上の霊媒に働きかけるには余りに波長が高すぎるので、その中継役としてこのインデアンを使っているのです。

 もう一つは、その中継役としてインデアンを使ったのは、とかく白人中心思考と科学技術文明偏重に陥りがちな西洋人に対し、いい意味での皮肉を込めていることです。

 むろん、それだけが理由の全てではありません。インデアンが人種的に霊媒としての素質においてすぐれているということもあります。

そのことは同じ英国の著名な霊媒エステル・ロバーツ女史 Estelle Roberts の支配霊レッド・クラウド Red Cloud、グレイス・クック女史 Grace Cook の支配霊ホワイト・イーグル White Eagle などがともに(男性の)インデアンであることからも窺えます。

 そして表向きはそのことを大きな理由にしているのですが、霊言集を細かく読み返してみますと、その行間に今のべた西洋人の偏見に対するいましめを読み取ることが出来ます。

 さらにもう一つ注意しなければならないことは、どの霊姿を見る場合にも言えることですが、その容姿や容貌が必ずしも現在のその霊そのものではなく、地上時代の姿を一時的に拵えて見せているにすぎないことが多いことです。シルバー・バーチの場合も、地上に降りる時だけの仮化粧と考えてよいでしょう。

 さて、シルバー・バーチの霊訓は「霊言集」の形でこれまで十一冊も出版されております。ホームサークルの言葉どおり、ロンドンの質素なアパートでの非常に家庭的な雰囲気の中で行われ、したがって英国人特有の内容や、その時代の世相を反映したものが多くみられます。

たとえば第二次世界大戦勃発の頃は 「地上の波長が乱れて連絡がとれにくい」 とか、 「連絡網の調子がおかしいので、いま修理方を手配しているところだ」 といった興味深い言葉も見られます。

 何しろ一九二〇年代に始まり半世紀以上にわたって連綿と続けられてきたのですから、量においても質においても大変なものがあります。

 そこで私は、あまりに特殊で日本人には関心のもてないものは割愛し、心霊的教訓として普遍的な内容のものを拾いながら、同時に又、理解の便を考慮して、他の箇所で述べたものでも関連のあるものをないまぜにしながら、易しくそして親しく語りかける調子でまとめていきたいと思います。「訳編」としたのはそのためです。

 重厚な内容をもつ霊界通信の筆頭は何といってもモーゼスの「霊訓」 Spirit Teachings by S. Moses であり、学究的内容をもつものの白眉としてはマイヤースの「永遠の大道」 The Road to Immortality by F. Myers があげられます。後者には宇宙的大ロマンといったものを感じさせるものがあります。

 私事にわたって恐縮ですが、東京での学生時代やっとのことで両書の原典を英国から取り寄せ、宝物でも手にしたような気持ちで、大学の授業をそっちのけにして、文字通り寝食を忘れて読み耽った時期がありました。

 特に 「永遠の大道」 はその圧巻である 「類魂」 の章に読み至った時、壮大にしてしかもロマンに満ちた宇宙の大機構にふれる思いがして思わず全身が熱くなり、感激の涙が溢れ出て、しばし随喜の涙にくれたのを思い出します。

「霊訓」 は非常に大部でしかも難解です。浅野和三郎訳のものもありますが部分的な抄訳にすぎません。何しろ総勢五十名から成る霊団が控え、その最高指導霊であるイムペレーター(もちろん仮名)紀元前五世紀に地上で生活した人物──実は旧約聖書に出てくる予言者マラキ Malachi ──です。

筆記者すなわち直接霊媒の腕を操った霊はかなり近代の人物が担当していますが、イムペレーターの古さに影響されてか、文章に古典的な臭いがあります。もっともそれが却って重厚味を増す結果となっているとも言えますが・・・・・・。

 それに比べるとシルバー・バーチの霊訓はいたって平易に心霊的真理を説いている点に特徴があります。モーゼスとマイヤースが主として自動書記を手段としたのに対し、霊言現象という手段をとったことがその平易さと親しみ易さの原因と考えてもよいでしょう。

 私はこれを、さきほど述べたように、一冊の原書を訳すという形式ではなく、十一冊の霊言集をないまぜにしながら、平たく分かり易く説いていく形で進めたいと考えます。

 時には前に述べたことと重複することもありましょう。それは原典でも同じことで、結局は一つの真理を角度を変えて繰り返し説いているのです。

 さらに私は、必要と思えば他の霊界通信、たとえば右のモーゼスやマイヤースの通信などからも、関連したところをどしどし引用するつもりです。大胆な試みではありますが、シルバー・バーチの霊訓の場合はその方法が一ばん効果的であるように思うのです。


 ここで、まことに残念なことを付記しなければならなくなりました。本稿執筆中の一九八一年七月、シルバー・バーチの霊言霊媒であったモーリス・バーバネル氏 Maurice Barbanell が心不全のため急逝されたとの報が入りました。

急逝といっても、あと一つで八十歳になる高齢でしたから十分に長寿を全うされ、しかも死の前日まで心霊の仕事に携わっていたのですから、本人としては思い残すことはなかろうと察せられますが、われわれシルバー・バーチ・ファンにとっては、もっともっと長生きして少しでも多くの霊言を残してほしかった、というのが正直な心境です。

 特に私にとっては、その半年前の一月にロンドンでお会いしたばかりで、あのお元気なバーバネルさんが・・・・・・としばし信じられない気持でした。あの時、バーバネル氏の側近の一人が私に 「あなたの背後にはこんどの渡英を非常にせかせた霊がいますね」 と言ったのを思い出します。

その時の私は何のことか分かりませんでしたが、今にして思えば、私の背後霊がバーバネル氏の寿命の尽きかけているのを察知して私に渡英を急がせたということだったようです。

 同時にそれは、私にシルバー・バーチの霊訓を日本に紹介する使命の一端があるという自覚を迫っているようでもあります。氏の訃報に接して本稿の執筆に拍車がかかったことは事実です。

 氏の半世紀余りにわたる文字通り自我を滅却した奉仕の生涯への敬意を込めて、本書を少しでも立派なものに仕上げたいと念じております。

 心霊はコマーシャルとは無縁です。一人でも多くの人に読んでいただくに越したことはありませんが、それよりも、関心をもつ方の心の飢えを満たし、ノドの渇きを潤す上で本書が少しでもお役に立てば、それがたった一人であっても、私は満足です。

シアトルの晩秋 霊の書 アラン カルデック著

5章 霊としての生活
このページの目次〈さすらう霊〉〈一時休憩所〉〈霊の感覚と知覚と苦痛〉
〈試練の選択〉〈生前と死後の人間関係〉〈親和力と反発力〉〈前世の回想〉



〈さすらう霊〉


訳注――wandering spiritsをそのまま訳したのであるが、原語も日本語もともに適切とは思えない。要するに実在に目覚めずに仮相の世界にあって時には地球に、時には他の天体に再生する霊が、その再生するまでの期間を言わば〝放浪〟するわけである。別のところではerraticityという用語を用いているが、これは“住所不定”とか“無軌道”といった意味をもつもので、やはり放浪の状態を指している。要するに仮相の現象界を旅している霊のことで、“旅する霊”という方が言葉としては適切のように思えるが、取りあえず原語のままにしておいた。


――魂は身体から離れた(死亡した)あと直ぐに再生するのでしょうか。


「直ぐに再生するケースも時たまありますが、大多数は長い短いの差はあっても合間の期間があります。それが地球に比して遥かに進化している天体の場合ですと、再生は、ほとんど例外なく、直ぐさま行われます。そういう天体では同じく物的身体といっても精練の度合いが違いますから、再生後も霊的能力のほとんどを使用することができます。強いて譬えればセミトランスの状態が通常の状態です」


――直ぐに再生しない霊は次の再生までの合間はどうなっているのでしょうか。


「新しい運命(さだめ)を求めてさすらいます。その時の状態は“待ち”と“期待”の状態と言えます」


――合間の長さはどれくらいでしょうか。


「短いのでは二、三時間、長いのになると数千年にもなります。厳密に言うと一定のきまりというものはありません。大変な期間に及ぶ場合がありますが、永遠にさすらうということはありません。前回の物的生活の清算をするために、遅かれ早かれ、いつかは再生する機会が与えられます」


――さすらいの期間は霊の意志で決まるのでしょうか、それとも罪の償いの意味もあるのでしょうか。


「結果的には霊自身の自由意志に帰着します。霊が自由意志で行為の選択をする時は、明確な認識をもっております。ところが神の摂理の働きで、ある者は罰として次の再生が延期されることがあり、またある者は、物質身体に宿らない方がより効果的に遂行できる勉強が許されて、霊界に留まれるように配慮してもらえることもあります」


――さすらうということは、その霊が低級であることの証拠でしょうか。


「それは違います。さすらう霊にも低級から高級まであらゆる等級があります。むしろ再生している状態の方が過渡的期間と言えます。霊の本来の状態は物質から離れている時です」


――物質界へ誕生していない霊は全てさすらいの状態にあるという言い方は正しいでしょうか。


「まだ再生すべき段階にある霊についてはその言い方で正しいと言えます。しかし霊性がある一定のレベルまで浄化されつくした霊はさすらってはいません。その状態で完成されているのです」


――さすらう霊はどのような形で学んでいくのでしょうか。


「それまでの全生活を細かく観察し、さらに向上するための手段を求めます。霊的観察力が働きますから、さすらって通過する境涯の現場の状況を観察したり、聡明な霊による講話に耳を傾けたり、高級霊によるカウンセリングを受けたり、といったことを通じて、どんどん新しい教育を身につけていきます」


――霊にも人間的な感情が残っているものでしょうか。


「洗練された霊になると肉体とともに人間的感情も捨ててしまい、善性を求める欲求だけが残ります。が、低級霊は地上的不完全性を留めています。それさえ無ければ、どの霊もみな最高のものを秘めているのですが……」


――ではなぜその低級な感情を死とともに捨ててしまわないのでしょうか。


「いいですか、あなたの知っている人の中にも、例えば極端に嫉妬心の深い人がいると思いますが、その人がこの地上を去ったら、とたんにその悪感情をあっさりと捨ててしまうということが想像できますか。地上を去ったあと、特に強烈な邪悪な感情をもった人には、その感情に汚染されたオーラが付着したまま残っています。霊は死とともに物的生活の影響から抜け出るのではありません。相変わらず地上時代の想念の中にあり、本当はこうでなくてはいけないという正しい心の持ち方を垣間見るのは、ホンの時おりでしかありません」


――霊はさすらいの状態の間にも進化するのでしょうか。


「努力と向上心の強さしだいでは大いに進歩します。ですが、その状態で獲得した新しい概念を本格的に実行して身に沁ませるのは物的生活の中においてです」


――さすらいの状態にあることを霊自身は幸せに感じるでしょうか、不快に思うでしょうか。


「それはその時点での功罪によりけりです。低級感情に負けるその根本的性格がそのままだと幸せとは感じないでしょうし、物的波動から脱すればその分だけ幸せを感じるでしょう。さすらいの状態にある間に霊は、より幸せになるためには何が必要であるかに気づき、それに刺激されて自分に欠けているものを獲得するための手段を求めようとします。その結果それが再生であると悟っても、必ずしもすぐに許されるとは限りません。それがすぐに叶えられずに延期されることが罰であることがあります」


――さすらいの状態にある霊でも他の天体を訪れることが出来るのでしょうか。


「それは霊性の発達の程度しだいです。霊が物的身体から離れたといっても、必ずしも物的波動から脱したわけではありません。相変わらず今まで生活していた天体、あるいはそれと同等の発達程度の天体の波動の中で生活しております。ただし、地上生活中の試練の甲斐あって霊性が飛躍的に発達していれば別です。そうやって物的生活の体験をするごとに霊性が発達するのが本来の目的です。発達がないようではいつまでたっても完成の域には達しません。

それはともかくとして、さすらいの状態にある霊でも地球より程度の高い別の天体を訪れることはできます。しかし、どうも勝手が違うという印象を受けるはずです。結局はその世界の生活風景を垣間見る程度にしか見ることができません。しかし、その体験が刺激となって改善と向上への意欲が促進され、やがてはそこに定住できることにもなるでしょう」


――浄化の程度の高い高級霊が波動の低い天体を訪れることはあるのでしょうか。


「よくあることです。住人の向上を促進するためです。そういうことがなかったら、波動の低い天体は指導する者もいないまま放置されることになります」
〈一時休憩所〉



――さすらう霊が休息をとる場所のようなものがあるのでしょうか。


「あります。当(あ)て所(ど)もなく放浪の旅を続けている霊を迎え入れるための世界があり、みんなそこで一時的に生活を営みます。言うなればキャンパーが一時的にビバークするキャンプ地のようなもので、とかく退屈しがちな放浪の生活の途中で一服して英気を養うわけです。

そうした世界は秩序を異にする世界との中継所的な役割を果たしており、そこへ訪れる霊の程度に応じて幾つかの段階が設けてあります。それぞれに居心地がいいような状態になっています」


――そこを離れたければいつでも離れていいのでしょうか。


「結構です。赴くべき場所が定まれば、いつそこを出ても構いません。そこは譬えで言えば、渡り鳥が途中で翼を休めて次の目的地へ向けて飛び立つためのエネルギーを蓄える島のようなものです」


――そこでの滞在中にも進歩はあるのでしょうか。


「もちろんあります。そもそもそういう世界へやってくる霊は何らかの指示を得たい、より高い界層を訪れる許しが得たい、そして速やかに向上したい、という願望を持っているのです」


――そこは特殊な世界で、永遠にさすらう霊の逗留地として運命づけられているのでしょうか。


「そうではありません。天界の組織の中での位置は一時的なものです」


――その世界の物質界には物的身体をもった者が生活しているのでしょうか。


「いえ、その天体の物的表面は不毛の土地です。その世界に住む者は物的欲望は持ち合わせません」


――不毛とおっしゃいましたが、永遠に不毛なのでしょうか、それとも何らかの原因でそうなったのでしょうか。


「いえ、不毛性は一時的なものです」


――すると、そういう天体は大自然の美などは何もないわけですね?


「“大自然の美”とおっしゃるのは“地上の生命活動の調和の妙”のことでしょう。それに劣らず見事な美によって創造の尽きせぬ豊かさが演出されております」


――そうした天体が一時的なものであるとすると、この地球もいつかはそういう天体となることも有り得るのでしょうか。


「すでにそういう状態の時期がありました」


――いつのことでしょうか。


「生成期のことです」
〈霊の感覚と知覚と苦痛〉



――魂は、肉体から離れて霊の世界へ戻っても、地上時代に使用した感覚をそのまま所有しているのでしょうか。


「所有していますし、地上時代に肉体に遮られて使用しなかったものまで使えるようになります。知性も霊の属性の一つで、肉体の束縛を受けなくなったため自由に顕現します」


――霊の知覚や知識に際限はない――つまり霊は何でも知ることができるのでしょうか。


「完全に近づくにつれて知識も増えていきます。高級界層の霊になるとその知識の範囲は広大となります。低界層の霊は何につけても相対的に無知です」


――時の推移を感知しますか。


「しません。あなた方から日時や時代を特定するように要求された時、我々の返答が今一つ明確でないことがあるのはそのためです」


――霊になれば地上にいた時よりも物事の真相が正確に把握できるようになるのでしょうか。


「地上時代に比べれば昼と夜の差ほどの違いがあります。人間には見えないところまで見透せますから、物事の判断の仕方も違ってきます。ですが、何度も言っているようにそれも霊性の開発の程度によって違ってくる問題です」


――霊は過去に関する知識をどこから仕入れるのでしょうか。無制限に入手できるのでしょうか。


「我々にとって過去のことは、そのことに意念を集中しさえすれば、あたかも現在の出来事のように感得されます。それは地上でも、強烈な出来事に関しては同じではないでしょうか。ただ異なるのは我々は人間の知性を鈍らせる物的なベールに閉ざされていませんので、人間の記憶から完全に消えていることでも鮮明に思い出せることです。ただし霊といえども全てが知れるわけではありません。たとえば我々がいつどうやって創造されたかは、今もって謎です」


――未来が予見できますか。


「これも霊性の発達程度によって違ってきます。大体において部分的にしか見えませんし、かりに明確に見えても、それをみだりに人間に明かすことは許されません。見える時はまさに現在の出来事のように見えます。霊格が高いほど明確に見えます。死後、霊は過去の転生の全てを一望のもとに見せてもらいますが、未来については見せてもらえません。未来を一望できるようになるのは、いくつもの転生を重ねた末に神と一体となった霊のみです」


――完成された霊には宇宙の未来の全てが完全に読み取れるのでしょうか。


「“完全に”という用語は適切ではありません。神のみが絶対的支配者であり、他のいかなる者も神と同等の“完全性”を身につけることはできません」


――その神の姿を拝することは可能でしょうか。


「最高界の霊のみが神のお姿を拝し理解することができます。それより以下の霊はその存在を霊感で感知するのみです」


――神の姿を直(じか)に拝せない程度の霊が、かくかくしかじかのことは神から禁じられているとか許されているとか述べる時、その許可や禁止の命令をどうやって知るのでしょうか。


「神を直接拝することはできなくても、その神威は感じ取れます。何かが為される、あるいは語られる時は、一種の直覚によってその見えざる警告、つまり公表を控えるようにとの命令を感じ取ります。あなたご自身もその種の密かな印象、つまりやってよいとかいけないとかを感じ取ることがあるのではありませんか。我々とて同じです。ただ程度が高いというだけの違いです。お分かりと思いますが、霊としての実体が人間より遥かに精妙になっていますから、神からの訓戒をより純粋に受け取ることができるのです」


――そうした神からの訓戒は神から直接伝達されるのでしょうか、それとも高級霊によって中継されるのでしょうか。


「神から直接ということはありません。神と直接の交信にあずかるには、それなりの資格が要ります。命令は全て叡知と純粋性において高級な霊を中継して届けられます」


――霊の視力も人間のような限られた視界というものがあるのでしょうか。


「ありません。視力は霊の内部から出ていますから」


――光は必要ないのでしょうか。


「霊の内部から発する視力で見るのであって、外部からの光は必要としません。暗闇というものがないのです。あるとすれば、それは犯した罪への罰として閉じ込められる魂の暗闇です」


――霊が二つの箇所を見る時、一箇所を見て、それからもう一つの箇所まで移動するのでしょうか。例えば地球の北半球と南半球とを同時に見ることができますか。


「霊は思念の速さで移動できますから、結果的には幾つの箇所でも同時に見ることができます。また霊は、同時に幾つの箇所へでも思念を発することができます。ただし、その威力は霊的純粋性によって違ってきます。不純であるほど視野が狭くなります。一度に全体を見通せるのは高級霊のみです」


――我々人間と同じように鮮明に見えるのでしょうか。


「人間の視力より鮮明です。霊の視力は全てのものを貫通します。遮るものは何もありません」


――聴力もありますか。


「あります。人間のお粗末な聴力では聞き取れないものまで聞こえます」


――その聴力も視力と同じく霊そのものの内部にそなわっているのでしょうか。


「霊の感覚は本性として霊そのものにそなわっており、その存在の一部を構成しています。その霊が物的身体に宿ると、その身体のそれぞれの器官を通してしか感識できなくなります。死によってその肉体器官の束縛から離れて自由の身になると、視力とか聴力とかの区別なしに、霊の本質的なものとして働きます」


――感覚能力が霊の本質的なものであるとしたら、その能力を出したり引っ込めたりできるのでしょうか。


「見たいと思ったものを見、聞きたいと思ったものを聞きます。ただしこれは正常な状態、とくに高級界での一般的な話として受け止めてください。と言うのは、贖罪界の低級霊は霊的矯正のために効果のあるものを否応なしに見せられ聞かされます」


――霊も音楽に感動しますか。


「地上の音楽のことですか? 天上の音楽に比べて、一体あれが音楽と言えますか? 天上の音楽のハーモニーを譬えるものは地上にはありません。未開人のわめき声と素敵なメロディほどの差があります。もっとも低級霊の中には地上の音楽を好む者がいます。それ以上の崇高なものが理解できないのです。

高級霊にとって音楽は汲めども尽きぬ魅力の泉です。審美的感覚が発達しているからです。私が言っているのは天上の音楽のことです。これほど甘美で麗しいものは、霊的想像力をもってしても、まず考えられません」


――大自然の美しさについてはどうでしょうか。


「自然の美しさといっても各天体によってその美しさの形態が異なりますから、霊もその全てを知っているわけではありません。美しさを味わいそして理解する才能に応じて、それぞれにその自然界の美を感識しておりますが、高級霊になると細部の美しさは視界から消えて、全体としてのハーモニーの美しさを感得します」


――物的な必要性や苦痛を体験することがありますか。


「そういうものがあることを知ってはおります。地上時代に体験しているからです。しかし、人間と同じようには体験しません。霊なのですから」


――霊も疲労を覚えて休息を必要とすることがありますか。


「あなたがおっしゃる意味での疲労は覚えませんし、従って体を休める必要もありません。体力の補給を必要とする器官は持ち合わせないからです。ですが、霊も絶え間なく動き回っているわけではないという意味においては、休息を取ることがあると言えましょう。動くといっても身体を動かすという意味とは違います。霊にとって行動とは百パーセント知的な働きをいい、休息とは心の静寂をいいます。言い変えれば思念活動が静止して特定の目的に向けられていないことがあるということで、これが言うなれば霊の休息です。身体を休めるという意味での休息とは違います。もし疲れを覚えるとすれば、それは霊性の低さの指標であるとも言えます。霊性が高まるほど休息の必要性が無くなるものだからです」


――霊が苦痛を訴えることがありますか。どういう性質の苦痛でしょうか。


「精神的苦悶です。いかなる身体的苦痛にもまして、魂に激痛を与えます」


――霊が寒さや暑さを訴えることがありますが、なぜでしょうか。


「地上時代の体験の記憶によってそう感じ取っているまでですが、本人としては実際に寒さや暑さを感じていることがあります。しかし、よくある例として、自分の魂の苦悶を表現する手段が思いつかなくて、比喩的に寒さや暑さに擬(なぞら)えていることがあります。霊は、地上時代の身体のことを思い浮かべると、あたかも脱ぎ捨てた衣服をもう一度着るように、実際に身体があるかのように感じるものです」
〈試練の選択〉



――霊界でのさすらいの状態にある霊は、新たな物的生活に入る(再生する)前に、それがどのような人生になるかを予見できるのでしょうか。


「遭遇する試練については自分で選択します。そこに霊としての自由意志の行使が認められます」


――すると罰として苦難を科するのは神ではないのですね?


「神の裁可なくして何事も発生しません。宇宙を経綸するための全法則・全摂理をこしらえたのは神なのですから。

あなた方人間の立場から見ると、神はなぜこんな摂理をこしらえたのか――他に方法がありそうなものだが……と疑問に思うこともあることでしょう。実は各霊に選択の自由を与えるに際しては神は、同時に、その行為とその行為が生み出す結果についての一切の責任も担わせているのです。

霊が自ら選んで進もうとするのを遮るものは何もありません。悪の道を歩むのもよし、善の道を歩むのもよし。かりに悪徳の誘惑に負けて悪の道に入っても、もはや取り返しがつかないというようなことにはなっておりません。しくじった人生をもう一度始めからやり直す機会が与えられます。

もう一つ申し上げておきたいのは、神の意志による業(わざ)と、人間の意志による業とを截然と区別しなければならないということです。例えばあなたが危機にさらされたとします。その危機そのものはあなたがこしらえたのではありません。神が用意したのです。しかし、その危機にさらされることを選択したのはあなた自身です。その危機に遭遇することの中に霊的成長の手段を見出して自ら志願し、そして神がそれを裁可したということです」


――霊が地上生活で体験する苦難を自ら選択するということは、あらかじめ自分の一生を予知し選んでいるということになるのですね?


「そういう言い方は正確ではありません。全部が全部あなたが選んだものとは言えないからです。あなたが選ぶのはどういう種類の試練にするかということで、実際に誕生してからの細かい出来事は、置かれた境遇でそれに対処するあなたの態度が生み出します。

具体例で説明しましょう。かりに一人の霊が悪党ばかりがいる境遇に生まれたとしましょう。当然その霊は、そういう境遇でさらされるであろう良からぬ人間関係は覚悟しているはずです。しかし、それが具体的にどういうものであるかは、いちいち予知しているわけではありません。その時その時の対処の仕方、自由意志の行使の結果によって決まります。

このように、霊は再生に際してはあらかじめ一つの人生航路を選び、その人生では大体かくかくしかじかの苦難を体験するであろうと予測します。つまり人生の大まかなパターンを承知の上で再生してきますが、それがどういう形の人間関係や事件・事故となって具体化するかは、置かれた境遇や時の流れの勢いによって決まる性質のものなのです。もっとも、その中には人生の方向を決定づける大きな要素がいくつかあり、それはあらかじめ承知しております。

別の譬えで言えば、目の前にでこぼこ道が横たわっているとします。用心しながら歩かないと転びます。しかし、その道のどのくぼみで転ぶかが決まっているわけではありません。細心の注意をもって歩めば転ばなくても済むかも知れません。ところが一方、足もとにばかり気をつけていると、どこかの屋根の瓦が頭上に落下してくるかも知れません。そうなるように宿命づけられていたのだと考えるのは間違いです」


――悪党ばかりがいる境遇になぜ誕生しなければならないのでしょうか。


「試練には教訓が込められています。ある霊にとってどうしても必要な教訓を学ばせるために、そういう条件をそなえた境遇に生をうける必要が生じるのです。その際、正さなくてはならない欠点と、その霊が置かれる境遇との間に連携的調和がなくてはなりません。例えば略奪強盗の衝動が沁みついている魂は、そういう境遇に再び放り込まれて、とことんその無情を味わう必要が生じる場合があるのです」


――では地上に邪悪な人間がいなくなったら霊は自分の試練のための条件が無くなることになりませんか。


「結構なことではありませんか。なぜそれが不服なのでしょう? あなたのおっしゃるような世界はまさに高級霊の世界です。悪の要素は一切近づけず、従ってそこに住まうのは善霊ばかりです。地上界も一日も早くそういう世界になるように努力なさるがよろしい」


――完全を目指して試練の道を歩んでいる霊は、ありとあらゆる誘惑にさらされなくてはならないのでしょうか。自惚れ、嫉妬、貪欲、色欲、その他もろもろの人間的煩悩を試される環境に身を置かなくてはならないのでしょうか。


「そのようなことはありません。すでに述べた通り、霊の中には当初から順調なコースを歩み、そういう酷しい試練を必要としない霊もいます。しかし、いったんコースを間違えると次から次へと誘惑にさらされることになります。例えば金銭欲に目が眩(くら)んだとします。そして思い通りの大金が入ったとします。その際、その人の性格によってはますます欲の皮がつっぱり、放蕩の生活に入ってしまうことはあるでしょうし、困っている人々に気前よく施しをして有意義に使用することも可能です。ですから、その人が大金を所有したからといって、それゆえに生じる邪悪性の全ての試練にさらされるということにはなりません」


――霊はその原初においては単純で無知で、体験も皆無のはずです。その状態でどうして知的な選択ができるのでしょうか。またその選択に対してどうやって責任を取るのでしょうか。


「神は、霊の原初における未経験さを、ちょうど人間が赤ん坊を揺りかごの中で保護して育てるように、安全無事であるように叡知でもって保護してくださっています。そして、そうした中で芽生えていく自由意志との釣り合いを取りながら、少しずつ“選択の主”となることを許していきます。が、それは同時に選択を誤り、悪の道に入っていく可能性も出てくることを意味します。先輩の霊のせっかくの忠言も無視するようになるのもこの頃です。聖書に言う“アダムとイブの原罪”(人類の堕落)というのはことのことを言っていると考えてもいいでしょう」


――霊が自由意志を所有するに至れば、その後に選ぶ物的生活は百パーセント本人の意思によるのでしょうか、それとも罪滅ぼしとして神が科することもあるのでしょうか。


「時を超越している神は何事にも決して急ぎません。罪滅ぼしも急ぎません。しかしながら、無知にせよ強情からにせよ、本人がそれから先どうすればよいかに気づかないと見た時、そして霊性の浄化と発達にとって物的生活が適し、それが罪滅ぼしのための環境条件を提供すると見た時は、強制的に物質界へ送り込みます」


――霊みずから試練として選択する時の規準はどのようなものでしょうか。


「過去の過ちを償い、同時に霊性の進化を促進するものです。その目的のためにある者はみずから窮乏生活を選び、酷しい環境の中で力強く生き抜く修行をします。またある者は、財力と権力の誘惑の多い環境に生まれて、その誘惑への抵抗力を試す者もいます。貧乏よりもこの方が危険です。とかくそれを悪用しがちですし、それにまつわる邪悪な感情もどぎついものがあるからです。さらには悪徳の栄える巷に身を投じ、その中にありながらも、あくまでも善を志向する決意を強化せんとする者もいます」


――自分の徳性を試すために悪徳の環境に自らをさらす者がいるとなると、同じ口実のもとにそういう環境に生まれて放蕩ざんまいをする者もいるのではないでしょうか。


「確かにそういう者がいます。しかし、それは当然のことながらよほど霊性の低い霊にきまっています。しかも、そういう場合はそれに対する試練が自動的に生じ、しかも長期間にわたって続きます。遅かれ早かれ彼は動物的本能に浸ることが悲惨な結果を招くことに気づきますが、気づいてもすぐにはその悲惨さから抜け切れず、そのまま永遠に続くかに思われます。神は時としてそういう再生の仕方の罪の深さを思い知らせるために、その状態に放置するのです。そのうち自ら志願して本当の試練によってその償いをする決意をするようになります」


――試練の選択に当たってはなるべく苦痛の少ない人生を選ぶのが人情ではないでしょうか。


「人情としてはそうでしょう。しかし霊の観点からは違います。物的束縛から解放されると錯覚から目覚め、まったく違った感覚で考えるようになるものです」


――完全な純粋性に到達するまでは、霊は何度でも試練に遭わなくてはならないのでしょうか。


「理屈の上ではその通りですが、“試練”の意味が違ってきます。地上の人間にとっての試練は物的な辛苦です。が、霊がある一定の純粋性の段階まで到達すると、まだ完全ではなくても、その種の試練は受けなくなります。代わって今度は進化向上のための仕事が課せられ、その責務の遂行が試練となりますが、それには苦痛は伴いません。たとえば他の霊たちの進歩を手助けする仕事などです」


――試練の選択を間違えるということは有り得ますか。


「自分の力量に余るものを選んでしまうことはあります。その場合は挫折に終わります。反対に何の益にもならない人生を選ぶこともあります。怠惰で無意味な人生を送る場合です。こうしたケースでは霊界に戻ってからそのことに気づいて、その埋め合わせをしたいという欲求を覚えます」


――地球より程度の低い天体ないしは地上の最低の人種、たとえば人食い人種などから文明国に生まれ出ることがありますか。


「あります。思い切って霊性の高い環境に挑戦してみようという考えから地球に誕生してくる霊はいます。ですが、どうも場違いという感じを抱きます。前世での本能や習性を携えてきているために、それが新しい社会の通念や慣習と衝突するのです」


――反対に文明国で前世を送った人間が罪滅ぼしとして未開人種の中に再生することがありますか。


「あります。ただし、その罪滅ぼしの中身が問題です。奴隷に対して残酷だった主人は今度は自分が奴隷の身の上に生まれて、同じ残酷な仕打ちをされるかも知れません。理不尽な権力をふるった支配者は今度は自分が権力者の前に跪(ひざまず)く立場に生まれ変わるかも知れません。そうした罪滅ぼしは権力を悪用したことから生じていますが、善霊が程度の低い民族に影響力のある存在として生まれ出ることもあります。その場合は使命となります」
〈生前と死後の人間関係〉



――霊性の発達の違いは上下関係をこしらえるのでしょうか。つまり霊界にも権威による主従関係というものがあるのでしょうか。


「大いにあります。霊格の差による上下関係は厳然としており、霊性の高い者が低い者に対して持つ優位性は絶対的な不可抗力と言えるほどです」


――地上時代の権力や地位は霊界でも通用しますか。


「しません。霊の世界では謙虚な者が高められ、尊大な者は卑められます。聖書を読みなさい」


――高められるとか卑められるとかいうのはどのように理解したらよいのでしょうか。


「霊には、身につけた霊性の差による秩序があるのはご存じのはずです。ですから地上で最高の地位についても、霊性が低ければ霊の世界では低い界層に位置し、その人の従者だった者が高い界層に位置することがあるのです。

まだ納得がいきませんか。イエスも言っているではありませんか――“およそ尊大な者は卑められ、謙虚な者は高められるであろう”と」(ルカ14・マルコ23)


――地上で偉大な人物とされていた者が霊界では低い界層にいた場合、その違いに屈辱感を覚えるでしょうか。


「そういうケースが実に多いのです。高慢で嫉妬心が強かった場合はなおさらです」


――一兵卒だった者が霊界で上官と出会った時、やはり敬意を表するでしょうか。


「肩書は何の意味もありません。本質的な霊的優位性が全てです」


――霊の世界も霊格の異なるさまざまな霊が入り交じっているのでしょうか。


「そうとも言えますし、そうでないとも言えます。つまり互いの目には姿が見えていても、霊格の違いによる隔たりを直感しています。人間社会と同じで、親密感と違和感とによって近づいたり離れたり避けたりしています。霊の世界はさまざまな状況と霊的関係が混然一体となった世界で、地上界はそのおぼろげな反映にすぎません。同じ霊格の者が親和力の作用で引かれ合い、グループをこしらえ、共通の目的で協力し合っております。

それにも善と悪とがあります。善の集団はあくまでも善を志向し、悪の集団はあくまでも悪を志向します。過去の悪行の不面目(ふめんぼく)を意地で打ち消してさらなる悪行を重ね、また自分と同類の集団の中に身を置くことによって気を紛らすのです」


――霊は誰とでも接触できるのでしょうか。


「善霊あるいは高級霊は悪霊あるいは低級霊へ近づくことができます。善性の影響力を行使するためにはそうする必要があるからです。しかし低級霊が高級霊の界層へ近づくことはできません。ですから邪悪な感情で聖域が汚されることはありません」


――善霊と悪霊の関係の本質は何なのでしょうか。


「善霊が悪霊の邪悪な性向を正すべく闘い、少しでも霊性を高めるように援助してやる――つまり善霊にとっては使命となるような関係になっています」


――低級霊はなぜ人間を悪の道に誘って喜ぶのでしょうか。


「嫉妬心が強いからです。しょせん善霊の仲間には入れないと知ると、未熟な霊が順調に幸せになっていくことに嫉妬心を覚え、それを阻止しようとするのです。自分が味わっている辛い状態を彼らにも味わわせてやろうと考えます。同じような人間が地上にもいるのではありませんか」


――霊どうしの交信はどのようにして行われるのでしょうか。


「見ただけで理解し合います。言語は物質界のものです。言語能力は霊の属性の一形態です。普遍的流動体(エーテル)によって霊どうしは常に交信状態にあると言ってよろしい。地上界の空気が音の伝達手段であるように、流動体が思念の伝達手段です。言うなれば宇宙的霊信装置で全天体を結んでおり、霊はどの天体とでも交信ができます」


訳注――“言語能力は霊の属性の一形態”という意味は、見たり聞いたりする能力と同じく意思表示の能力も霊の本性として直接的に働くものであるが、地上という環境条件の中で生活するためには発声器官を媒体としなくてはならない。が、意思表示しているのは霊そのものの本性だということである。現在の生理学でも、なぜ見えるのか、なぜ聞こえるのかは、脳の働きと同じく、その構造を見ただけでは分からないという。シルバーバーチも、目があるから見えるわけではない、耳があるから聞こえるのではない、見るのも聞くのも“霊”です、と言っている。


――心に思っていることを隠すことができますか。また自分の姿を隠すことができますか。


「できません。何一つ隠すことはできません。霊格が完成の域に達した霊の間ではとくにそうです。たとえ面前から退いても、互いに常に見えております。ただし、これを絶対的にそうとばかりも言えません。と言うのは、高級霊になると、自分が身を隠した方がいいと思った時は、低級霊には見えないようにすることができるからです」


――地上時代にいっしょに生活したことのある人であることが認識できますか。たとえば息子は父親を、友だちはその友だちを。


「できます。何代にもわたって認識できます」


――それはどうやって知るのでしょうか。


「霊は自分の過去世を見ることができるのです。自分の友や敵(かたき)の人生を誕生から死に至るまで見ることができます」


――死んで肉体から離れて直ちに親戚や友人の霊と会えるのでしょうか。


「直ちにというのは正確ではありません。前にも述べたと思いますが、魂が霊界に戻って霊的意識を取り戻し物質性を払い落とすには、しばらく時間を要します」


――どのような迎え方をされるのでしょうか。


「まっとうな人生を送った者は待ちに待った愛する友のように迎えられ、邪悪な人生を送った者は侮蔑の目をもって迎えられます」


――同類の邪悪な霊はどういう態度で迎えるのでしょうか。


「自分たちと似て幸福感というものを奪われた仲間が増えたことに満足を覚えます。地上でもヤクザな人間は仲間が増えると満足するのと同じです」


――地上時代の親族や友人とは必ずいっしょに暮らせるのでしょうか。


「それは霊格の要素が絡んだ問題で、時には向上の道を追いかけなければならないことがあります。つまり一方が遥かに向上していて、しかもそのスピードが速い時は、付いて行けません。もちろんホンの一時だけ会うことはできます。が、いっしょに暮らすことができるのは、遅れている方が追い付くか、または両者が完成の域に達してからです。もう一つの見方として、親族も友人も姿を見せてくれないのは、何らかの罪に対する罰であることがあります」
〈親和力と反発力〉



――霊には大ざっぱな意味での類似性のほかに、特殊な情愛の関係もあるのでしょうか。


「あります。人間と同じです。人間のような身体がないだけ、それだけ感情の起伏がありませんから、霊どうしのつながりは強くなります」


――霊どうしでも憎しみの念を抱くことがありますか。


「憎しみは不浄な霊の間にのみ存在するものです。人間どうしの憎み合いや不和のタネを蒔くのは霊界の不浄霊です」


――地上で仇(かたき)どうしだった者は霊界でもずっと憎み合っているのでしょうか。


「そうとは限りません。憎み合うことの愚かさを悟り、憎しみのタネとなったことの他愛なさに気がつく者が大勢います。いつまでも地上時代の怨恨を持ち続けているのはよほど幼稚な霊です。が、そうした者でも霊性が浄化されるにつれて少しずつその迷いから覚めて行きます。人間として物的生活を送っていた時に些細なことから生じた怒りは、その物的波動から抜けるとすぐに忘れていくものです。諍(いさか)いのタネが無くなってしまうと、本質的に霊性が合わない場合は別として、再び仲良くなるものです」


――地上時代にいっしょに悪事を働いた二人が霊界へ行った場合、その悪事の記憶が二人の関係を損いますか。


「損います。疎遠になりがちです」


――悪事の被害者はどんな気持ちでしょうか。


「霊性の高い人であれば、当人が反省すれば赦すでしょう。霊性が低い場合は怨みを持ち続け、時には再生してでも仕返しに出ることがあります。懲罰として神がそれを許す場合があります」


――情愛は死を境に変化するものでしょうか。


「しません。愛は決して相手を違(たが)えません。地上のように偽善者がかぶるマスクはこちらにはありません。ですから、純粋な愛はこちらへ来てもいささかも変化しません。互いをつなぎ合う愛は崇高なる至福の泉です」


――地上で愛し合った二人は霊界でもそのまま続くのでしょうか。


「霊的親和性の上に成り立っている愛であれば永続性があります。物的な要素の方が親和性よりも多い場合は、その物的要素が無くなると同時に終わりとなります。愛は人間どうしの場合よりも霊どうしの間の方が実感があり、かつ永続性があります。物的打算や自己愛による気まぐれの要素に影響されることがないからです」


――宇宙のどこかに自分の片割れがいて、いつかは一体となるように初めから宿命づけられているという説は本当でしょうか。


「二つの魂が宿命的に特別な合体をするというようなことは有り得ません。一体となるのであれば、全ての霊が一体化へ向かって進化しており、それぞれの霊格の段階で融合し合っています。言い変えれば、到達した霊性の完成度に応じた段階で融合が生じます。完成度が高いほど融和性も深まります。人間社会に悪がはびこるのは融和性が欠けているからです。全ての霊が究極において到達する完全な至福の境涯は融和が生み出すのです」


――完全な親和性をもつ二人が霊界で再会した場合、もうそれで二人は永遠に一体なのでしょうか、それとも、いつかは別れて、また別の霊と一体となるのでしょうか。


「霊はそれぞれの霊性の発達段階で誰かと一体となっていると言えます。私が完全な至福の境涯と言ったのは、完全の域に到達した霊のことです。それ以下の段階、つまり低い界層から高い界層へと向上して行く途中の段階においては、霊格の差によって離れてしまった者に対しては、かつてのような親和性は感じません」


――完ぺきな親和性で結ばれた二人は互いに補完し合うのでしょうか、それともその一体化は本質的な霊性の一致の結果なのでしょうか。


「霊と霊とを結びつける親和力は両者の性向と本能とが完全に一致した時に生じる結果です。もし一方が存在しなければ他方が完全になれないというのでは、両者とも個的存在を失うことになります」


――現段階では親和関係のない霊の間にもいずれは親和関係が生ずるのでしょうか。


「そうです。全ての霊がいつかは親和関係で一体となります。かりに二人の霊がいて、かつては一体だったのが、一方の進化が速すぎて、今のところは別れ別れになっているとします。しかし、これから先、進化の遅れている方が急速に進歩して他方に追いつくことも考えられますし、先を歩んでいた者が試練に負けてある界層で停滞を余儀なくさせられている場合には、後から進化してきた者がそれだけ速く追いつくことも考えられます」


――ということは、今は親和関係にあっても、その関係が切れてしまうことも有り得るわけですか。


「当然です。一方の生命力が弱くて、他方がどんどん向上して行くというケースがあります」
〈前世の回想〉



――終えたばかりの地上生活は死の直後にそっくりそのまま再現されるのでしょうか。


「そうではありません。霊的意識が強まるにつれて少しずつ見えるようになります。ちょうど霧が晴れて少しずつ実体が見えてくるような調子と思えばよろしい」


――その気になれば何でも思い出せますか。


「霊には、前世のありとあらゆる出来事の一部始終を、さらには心に抱いた思念までも、思い出す力がそなわっています。ただ、必要でもないものまで思い出すことはしません」


――過去世はどのような形で再現されるのでしょうか。その霊の想像力によるのでしょうか、それとも絵画のように眼前に映るのでしょうか。


「その両方のケースがあります。興味があって思い出したいと思ったことは、まるで現実の出来事のように再現されます。それ以外のことは多かれ少なかれおぼろげか、まったく忘れ去っております。物的波動が薄れるほど物質界での出来事に重要性を置かなくなるからです。あなたにも体験があると思いますが、地上を去ったばかりの霊を招霊してみると、好きだったはずの人の名前や、あなたから見て大切な出来事と思えるものが思い出せないことがあるはずです。それは彼自身は重要視していないために記憶が薄れているからです。反対に、現在の彼の知的ならびに道徳的向上に影響を及ぼした、人生の重要なポイントとなっている出来事は、完全に思い出します」


――今捨て去ったばかりの肉体をどんな気持ちで眺めますか。


「何かにつけて厄介だった不愉快な衣服を見つめるような気持ちです。脱ぎ去ってさっぱりしています」


――腐敗していくのを見てどんな気持ちですか。


「ほとんどの場合、無関心です。どうでもいいものという感じです」


――死後少したってから、埋葬されている遺骸とか、かつての自分の持ち物とかを確認することがありますか。


「時たまそういうことをすることがあります。が、その時はすでに地上的な物を見る目が大なり小なり高度になっています」


――後に残った者たちによって自分の遺品が飾られて遺徳を偲ばれるのは嬉しいものでしょうか。


「いかなる霊でも地上の縁ある人々によって記念の行事が催されるのは嬉しいものです。そうした時に用意される記念物は、それに参加した人々を思い出す縁(よすが)となります。もちろんその記念物そのものではなく、それを発起した人々の思念がそうさせるのです」


――ある人が一連の重要な仕事に関わっていて、その完成を見ずして他界したとします。その場合、霊界で悔やむでしょうか。


「そんなことはありません。そういう重要な仕事は他の有志によって完成されるように計画されていることを知るからです。悔やまないどころか、その完成のために霊界から現界の後継者に働きかけます。そういう人の地上人生は同胞のためという目的に向けられていたのであり、霊界へ来ても少しも変わりません」


――芸術作品や文学作品の遺作は地上時代と同じ感覚で見るものでしょうか。


「霊格によって違いの大きさは異なりますが、地上時代とは別の視点で鑑賞し、往々にしてそのお粗末さに嫌気がさすものです」


――芸術や科学の進歩のために今地上で為されている努力に霊は関心を持つでしょうか。


「霊格の程度によりますし、授かった使命によっても違ってきます。地上の人間には壮大なものに思えるものでも、霊から見るとどうでもよいものがあります。かりに関心を持つとしても、それは高等教育を受けた人が小学校の教育に関心を持つのと同じ程度にすぎないことがあります。地上に再生した者の霊格の程度を細かく調べ、その進歩に注目しています」


――霊は死後も母国への愛着がありますか。


「霊格の高い霊にとっては宇宙全体が母国です。地球にかぎって言えば、いちばん愛着を感じる場所は親和関係の強い人間がいちばん多い所です」


――この地上へ生まれる以前は霊界に住んでいたのに、なぜ死後も生きていることを知って驚くのでしょうか。


「驚くのは一時期だけのことで、それも死後の目覚めに伴う意識の混乱の結果です。意識が落ち着くとともに過去世の記憶が甦ります」
〈葬儀にまつわる問題〉



――地上に残した愛する人々に関する記憶が甦ることで霊は影響を受けますか。


「あなた方が想像する以上に影響を受けます。現在自分が置かれている状態が幸せであれば、その幸福感が増幅されます。もし不幸であれば、その思い出によって慰められます」


――国によっては命日というものを設けて法要が営まれるのですが、その日は特にその場に引き寄せられるものでしょうか。


「法要の日に限らず、情愛を込めて祈念された時は、いつでも引き寄せられます」


――法要の日は埋葬されている場所に赴くのでしょうか。


「大勢の人が集まってくれている時はその想念に引きつけられてそこへ赴きますが、義理で出席しているだけの人には無関心です。心から祈念してくれている人の一人一人のもとを訪れます」


――自宅で祈るよりも墓に詣でる方が喜ぶでしょうか。


「墓まで足を運ぶということは、その霊のことを忘れていないことを示す一つの方法でしょう。しかし、すでに述べたように大切なのは心です。心からの祈りであれば、どこで祈るかは大切ではありません」


――故人を記念した像や石碑が建立されることがありますが、当の霊はその除幕式に出席するものでしょうか。その様子を喜んで見つめるものでしょうか。


「出席できる状態であれば出席します。ですが、そのようにして記念してくれることを名誉と思うよりも、出席者の思いそのものを有り難く思うものです」


――自分の葬儀に出席しますか。


「出席するケースはよくありますが、多くの場合、死に伴う意識の混乱状態の中にあるために、出席していても何のことか分からないものです」


――葬儀で長蛇の列をなしているのを見て、やはり得意な気分になるものでしょうか。


「どういう心情で集まっているかにもよるでしょうけど、大勢の参列者を見て悪い気はしないでしょう」


――遺産相続人の会合には立ち合うものでしょうか。


「必ずといってよいほど立ち合います。当人の教育として、また強欲が受ける懲罰がいかなるものであるかを見せるために、神がそのように計らいます。つまり、彼が生前受けた愛想の良さやお追従(ついしょう)が本当は何が目的であったかを思い知らされ、さらに遺産をめぐる強欲の張り合いを目(ま)のあたりにして、愕然とします。その相続人たちへの懲罰も、そのうち巡ってきます」