Tuesday, April 8, 2025

シアトルの春 シルバーバーチの霊訓(五)        巻頭言 まえがき シルバーバーチの祈り

Preface Preface (editor) The Silver Birch Prayer 



More Teachings of Silver Birch
Edited by A.W. Austen



巻頭言

 あなたがもしも古き神話や伝来の信仰をもって足れりとし、あるいはすでに真理の頂上を極めたと自負されるならば、本書は用はない。が、もしも人生とは一つの冒険であること、魂は常に新しき視野、新しき道を求めてやまぬものであることをご存知ならば、ぜひお読みいただいて、世界のすべての宗教の背後に埋もれてしまった必須の霊的真理を本書の中に見出して頂きたい。

 そこにはすべての宗教の創始者によって説かれた教えと矛盾するものは何一つない。地上生活と、死後にもなお続く魂の旅路に必要不可欠の霊的知識が語られている。もしもあなたに受け入れる用意があれば、それはきっとあなたの心に明りを灯し、魂を豊かにしてくれることであろう。

その中にはあなたの理性を反発させ、あなたの知性を侮辱するものは何一つない。なぜなら、すべては愛の心と奉仕の精神から生まれたものだからである。
シルバーバーチ


 
  まえがき  (編者)

 本書はほぼ一世紀前に(※)霊界において開始された大々的布教活動───すべての宗教の教義の下に埋もれてしまった必須の霊的真理を掘り起こし、その本来の単純素朴な形で地上に蘇らせる活動の一環として出版されるものである。

世界各地で催されている交霊会(ホームサークル)において、民族を異にする霊媒を通じて働きかけている支配霊たちが目的としているのは、人間に霊的実在を教え霊的叡智を授けることによってお互いがお互いのための生活を送り、そうすることによって同胞精神に満ちた新しい世界を招来する一助となるように導くことにある。
  (※一八四八年のスピリチュアリズムの勃興をさす───訳者)

 本書に収められているのは世界的に敬愛されている古代霊からの教訓である。その名をシルバーバーチというが、これは本名ではない。いま彼が所属している世界では名前はどうでもよいのだといって明かそうとしないのである。が、いつかは明かす日が来ることを約束している。


(※)それまでは私も語られた言葉だけで彼がいかなる人物であるかを判断することで満足するとしよう───誰が語っているのかは分からないままそのメッセージを受け入れていくことにしよう。

(※一九八一年バーバネルの死によってそれも果たされないまま終わった。いつかは明かすと言ったは、明かしてもよい時期が来たら明かすという意味で言ったのであろう。が現実にはシルバーバーチという人物像が強烈となるにつれて地上では誰だったのかという興味が次第に薄れ、そのせんさくが無意味に思われるようになっていったというのが実情である───訳者)


 過去九年間ほぼ週に一回の割でこの霊のメッセンジャー(使い)の入神談話を速記してきて───彼は自分のことを上層界の神霊によって派遣されたメッセンジャーに過ぎないと言い、功績を自分のように言われるのを嫌うが───私はシルバーバーチを高貴な個性と明確な視野と表現の流暢さとを兼ね具えた高級神霊の一人として尊敬するようになった。

 冷やかな活字では彼の言葉の温かさ、サークルに出席して個人的に接した者が肌で感じ取る情愛を伝えることはできない。一度も交霊会に出席したことがなく活字によってのみシルバーバーチを知る者には、直接(じか)にその声を耳にしているメンバーほどには彼の人類を思いやる心は感じ取れない。

 われわれメンバーにとってはシルバーバーチは同席しているメンバーとまったく変わらない実在の人物である。

彼が常に訴えるのは理性であり、行いの試金石は動機であり、望みとしているのは自分を役立てることのみである。慈悲の心と思いやりと理解力に溢れるシルバーバーチは決して人を諌めることはしない、しばしば非難の矛先を組織へ向けることはあっても、決して個人へは向けない。
 
援助の要請も絶対に断らない。自分が役に立つ可能性があればいかなる労苦もいとわず、いかに難しい説明も試みてくれる。

 初めて出席した招待者が礼を述べると、シルバーバーチはきまって、礼は神に述べなさいと言う。そして〝私は一介の僕に過ぎず、礼を述べていただくわけにはまいりません。

すべては神へ捧げるべきです〟と述べる。と言うのも、シルバーバーチの主張するところによれば、かつての使者によってもたらされたメッセージがその使者を崇める者たちによって影が薄くなってしまっている。

したがって我々がシルバーバーチに感謝するようになれば、それは何時かはシルバーバーチという使者を崇めてメッセージは二の次となり、ついには本来の使者を台無しにしてしまいかねないというのである。

その本来の使命は各自が自分の力で神との直接の繋がりを待つべきであり神保者(※)は無用であることを教えることにある。 (※キリスト教で説くイエスのように神との仲立ちをする者───訳者)



シルバーバーチの祈り

 これまでシルバーバーチが述べた祈りの言葉は数知れないが、表現はさまざまでもその趣旨に本質的な違いはない。大別すると、開会に際して成功を祈るもの Invocation と閉会に際しての感謝の祈り Benediction とがある。それぞれの典型的なものを紹介する。


○ Invocation

 神よ、私どもはあなたの測り知れぬ愛、限りなき叡智、尽きることなき知識、果てしなき顕現の相をどう説き明かせばよいのでしょうか。永きにわたってあなたを誤解し間違った信仰を抱いてきたあなたの子等にどう説けば、あなたを正しく認識できるのでしょうか。

あなたは決して無知な人間が想像する如き嫉妬深い、横暴な方ではございません。又残忍にして復讐心を抱き、血に飢え、えこひいきをし、選ばれし者のみを愛する方でもございません。

 あなたは全生命の大霊におわします。その息吹が創造を生み、そのリズムが永遠なる宇宙のあらゆる相、あらゆる動き、あらゆる鼓動に表われております。私どもはあなたを完璧なる摂理───絶対に誤らず、絶対に連続性を失うことのない法則として啓示せんものと努めております。

物的世界のみならず霊的世界の最奥をも含む全生命活動を支えるあなたの法則に断絶はあり得ないのでございます。宇宙間の何一つとしてあなたを超えて存在するものは有り得ないのでございます。

なぜならあなたは全存在の中に存在しておられるからです。しかしあなたの霊は、あなたがあなたに似せて創造された人間的存在において最高の形で表現されております。なぜならば、あなたは人間にあなたの霊、あなたの神性を賦与され、あなたの属性の全てを授けておられるからでございます。最下等の動物的存在の位より彼らを引き上げ、いずれはあなたの創造の大業に参加する権利を与えられたのでございます。

 かくして生まれたあなたとのつながりは、切ろうにも切れない宿命となります。なぜならば人間はあなたの一部であり、それは、あなたも人間を離れて存在し得ないことを意味するからでございます。

すなわち、あなたの霊は彼らの全てをお抱きになると同時に彼らの内部にも存在し、自己犠牲と愛他の生活、慈悲と思いやりの行為、老若男女、そしてまた鳥獣に対しても己れを役立てんとする行為において最高の形で顕現なさっておられます。

理想主義に燃え、迷える者に希望を、疲れし者には力を、暗闇にいる者に光を与えんと努力する者の生活にあなたが顕現しておられると理解しております。

 私どもは幾世紀にもわたって忘れ去られてきた摂理───霊眼を開き霊耳を持って聞き霊力の働きかけに素直に従って霊的感受性を鼓舞された少数の者のみが知ることを得た霊的法則を明かすべく努めております。

それを実践することがあなたへの理解を、宇宙についての理解を、そして全人類についての理解を深めることになる、そうした理法を教え、そこに自己の霊性を高めひいてはそれが同胞の霊性を高めることになり、かくして共にあなたのもとへ少しでも近づかしめる手掛かりを見出すことになるよう願っております。
 
 その仕事のために私どもは、同じく霊界にあって一日も早く地上へ新しい秩序をもたらし、新しい世紀を招来せんとして、あらゆる民族、あらゆる教義、あらゆる国家の人間とも協力する上で吾々と同じ立場を取る無数の霊に呼びかけております。

これこそが私どもの祈り───心から、魂の奥底から湧き出る願いであるとともに、可能なかぎり人のために己を役立てることによってそれを実現せんとする祈りでもございます。

その目標へ向けて私どもは真摯なる気持ちでもって自信を持って邁進いたします。あなたを味方とするかぎり決して挫折はないと信じるが故にほかなりません。なぜならば、あなたの力は、私どもの努力を必要とする場において、常に支え、守り、導き、援助し、指示してくださるからでございます。


 ○ Benediction

 いつもながら私は、ささやかなる勤めを可能ならしめる温かき愛を得て、宇宙の大霊に深い感謝の念を覚えつつ、この場を後に致します。この仕事を開始した当初、私どもは多難な条件のもとで何とか推進するために強烈なる祈念と真剣なる誓願をもって臨みました。今その努力が実りつつあることを私どもはこの上なくうれしく存じます。

 私たちすべての者に存在をお与えくださり、神性とその属性のすべてを宿らせ給いし神よ、どうかこののちも、私どものためにでなく真理のために、そしてその真理をぜひとも必要としている人々のために、より一層の成功を得させ給わんことを。

世界各地で行われておりますこの会と同じ交霊会において、そこがあなたの愛を知る機縁(よすが)となるべく、どうかあなたの霊の御力をこの幾層倍にも顕現なされたく、お祈り申しあげます。

あなたの子等が自分自身の中にあなたを見出し、それを生活の中にて発現せんとの決意に燃え、怖れも悲劇も争いもなく、あなたの豊かな恵みを享受できる世の中において、お互いがお互いのために努力し助け合い、平和と調和と一致協力のもとに生きつつ、あなたの御心を体現していくことになるよう、切にお祈り申し上げます。

シアトルの春 ただで受けたのだから、ただで与えなさい

You received it for free, so give it to them for free.
Le Spiritism Allen Kardec

  神より恵まれた病を治す力

一、病人を治し、死者を生き返らせ、ハンセン病人を清め、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ 第十章 八)


二、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とイエスは使徒たちに言いました。この教訓から、ただで受けたものに値段をつけて売ってはならないのだと結論することができます。使徒たちがただで受けたものとは、神から授けられた病を治す力、悪魔即ち悪い霊たちを追い払う力でした。

これらの能力は、苦しむ者を助け、信仰を広めるために、神によってタダで与えられたものでした。イエスは使徒たちに、その能力を商売や投機の手段や、生活するための道具として使ってはならないと言ったのでした。


 支払われた祈り
三、民衆みながイエスの言葉に聞き入っている時、使徒たちにこう言われた、「律法学者たちから身を守りなさい。彼らは、長い衣装をまとって歩き回ったり、広場であいさつをされたりすること、また、会堂の最前列や宴会の上座が好きです。

また、長い祈りを装い、やもめの家を食いつぶします。こういう人たちは、より厳しい裁きを受けるでしょう」。(ルカ 第二十章 45-47、マルコ 第十二章 38-40、マタイ 第二十三章 14)


四、さらにイエスは言いました。あなたたちの祈りに対し、支払いを受けるようなことがあってはなりません。律法学者たちのようであってはなりません。「長い祈りを装い、やもめの家を食いつぶします」とは、その富を手に入れるということです。祈りは慈善の行いであり、心の衝動です。

他人のために神に捧げたものに対して支払いを要求するということは、報酬をもらって働く仲介者になるということです。そのような時祈りは、内容に応じて支払われる処方箋と同じようなものになってしまいます。

神は祈りの価値を、言葉の数によって計るのでしょうか、計らないでしょうか。答えは二つのどちらか一方でしかありません。

もし、たくさんの言葉が必要だったとすれば、少ししかお金を払えない者、あるいはほとんどお金を払うことのできない者はどうなるのでしょうか。それでは慈善の行いとは言えません。もし一つの言葉だけで十分で、その他の言葉は不要であるとしたら、どうして支払いを求めることができるでしょうか。それは背任行為ではありませんか。

 神はその恩恵を売るのではなく、与えるのです。それなのに、神の恩恵を分けてあげられるわけでもなく、それを得られることを保証してあげることさえもできない者が、神によって聞いてもらえないであろうお願いに対して支払いを求めるとは、どういうことでしょうか。

慈悲によってのみ懇願することのできる、神の寛容、恩恵、正義の行いを、神が特定の支払いに従わせることはあり得ません。それ以上に、それらを支払いによって願うのであれば、神は寛容、恩恵、正義の行いを中止します。

私たちの理性、良心、道理は、完璧絶対なる存在である神が、神の正義に値段をつける権利を不完全な者に与える筈などないと教えてくれます。

なぜなら、神の正義は太陽のようなものであり、貧しい者、富む者、すべての者に行きわたるからです。地上の君主の権力を取り引きすることが道徳に反すると考えるのであれば、どうして宇宙の統治者の正義を売ることを合法的と考えることができるでしょうか。

 金で買われた祈りには、他にも不都合があります。祈りを買った者は、大抵の場合、自分で祈ることを忘れ、お金を払ったのだから祈る義務から逃れることができたのだと考えてしまいます。

霊たちは、自分たちに関心を持つ者の熱意に打たれます。第三者にお金を払うことによって自分の代わりに祈ってもらおうとする者の熱意とは、どんなものであり得ましょうか。祈る義務を他人に委任し、それを受けた者はまた他の者に委任することになるのです。

お金の価値によって、祈りの効きめを弱めていることにはなりませんか。



  宮を追われた行商人
五、それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入ると、宮の庭で売り買いしている人々を追い出しはじめ、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また、宮の庭を通り抜けて道具を運ぶことを誰にもお許しにならなかった。

そして彼らに教えて言われた、「『私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるべきである』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまったのです」。

祭司長や、律法学者たちはこれを聞いて、どうにかしてイエスを殺そうと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群集がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。(マルコ 第十一章 15-18、マタイ 第二十一章 12,13)


六、イエスは宮から行商人たちを追い払いました。それによって、神聖なるものの取り引きを、それがどんな形で行われようと、あってはならないことだと非難しました。

神はその恵みも、その赦しも、神の国に入る権利をも売ったりはしません。したがって、人間はそれについて支払いを求める権利は持っていないのです。


 ただで授けられる霊媒性
七、使徒たちにも霊媒性はあったのですが、現代における霊媒というものも、やはり神からただでその能力を授けられているのであり、それは人間を指導し、善の道を教え、神への信仰をもたらしてくれる霊たちの通訳となるためのものなのです。

自分たちのものではない言葉、つまりその霊媒の個人的な努力や研究、あるいは思考などから得たのではない言葉を売るための能力ではありません。

神はその光が全ての人に行きわたることを望んでおり、貧しい家に生まれた人が、「払うお金がなかったから、神への信仰を手に入れることが出来なかった」「私は貧乏だから、神の慈悲を受けることが出来なかった」等と言うことが無いことを望んでいます。

なぜなら、霊媒性というのは特権ではなく、あらゆるところに存在するものだからです。それに対する支払いを要求するということは、天が定めた用途を不当に変えるということなのです。

    
八、善霊が通信をするための条件がどのようなものであるか、また、人間のいかなる利己的な関心も拒絶し、ちょっとしたことでも彼らは集会の場から去ってしまうのだということを知って居る人であれば誰でも、集会で呼び出されるたびに善霊たちが何時でもそれを聞きいれてくれるのだとは考えません。

単純な良識があれば、そのような間違った考えを追い払うことができます。ましてや私たちにとって大切な人や尊敬する人を、お金を取って呼び寄せる等ということは、神への冒涜ではありませんか。

お金を取って呼び寄せたとして、間違いなく心霊現象を引き起こすことはできるでしょう。しかし、そこに誠意が存在するかどうか、いったい誰に証明することが出来るでしょうか。

軽率な霊、嘘つきな霊、悪賢い霊といった劣悪な霊はみな、不真面目であり、お金を取る霊媒に呼び寄せられると何時もそこに現れ、質問されると真偽を問わずその質問に答えます。

ですから、真面目な通信を求める人は、まずそれに相応しい場を慎重に求めなければなりません。そして、その霊媒が霊界のどのような質の者と共感を持っているのかを明らかにしなければなりません。

善霊たちの好意の恩恵を授かる第一条件とは、霊媒の慎ましさ、忠実さ、献身であり、物質的にも道徳的にも、利害関係が一切あってはなりません。


九、道徳的な問題の他にも、それと同じように重要な、霊媒の能力に関する問題があります。真面目な霊媒性とは、生活手段として使うのではなく、生活手段にしようなどと考えさえもしないことです。

なぜなら、そのような場合、その力が道徳的な信頼性を欠くようになり、ただの運勢占い師のようになってしまうばかりでなく、生活手段とするにしても物理的な障害が生じるからです。

霊媒性というのは本質的に非常に不安定な力であり、すぐに消えたり、変わったりするもので、誰にも完全に頼ることができないものです。ですから、その力を生活に用いようとする者にしても、それは非常に不確実な手段であり、最も必要となる時に消滅しかねないものなのです。

それと違うのが、研究と労働によって得た能力であり、努力によって得たものであるからこそ本当の財産となり、そこから利益を得ることについても当然許されています。

それに比べて霊媒性は、芸術でもなければ能力でもありません。だから、生活手段としてはならないのです。霊媒性は、霊たちの協力があってこそ存在するのです。

霊たちが存在しないところに霊媒性はあり得ず、その能力があったとしても、使うことができません。ですから、心霊現象を決まった時に確実に起こすことができる霊媒は、世界中に一人も存在しないのです。霊媒性によって利益を得ようとすることは、確実に自分のものではないものを望むことです。

そうではないと言う者は、お金を払う人を騙しているのです。それだけではありません。心霊現象は霊媒が自由に決めるのではなく、霊たち、すなわち死者の魂が決めるものです。だから、お金を取る霊媒は、そうした霊たちの協力に、値段をつけて売っていることになるのです。

霊媒性を売るということは、本能的に拒絶すべきことです。モーゼがこうした取り引きを禁止したのは、人々の無知や迷信、盲目的な信仰のために、霊媒性がペテン師たちに濫用され、堕落をもたらしたからでした。

現代のスピリティズムは、この問題の重要性を理解した上で、霊媒性で利益を得ることを否定し、霊媒性を使命としてとらえるのです。(→『霊媒の書』第二十八章、『天国と地獄』第十二章)


十、霊媒性は神聖なるもので、慎ましく、信仰のもとに使われなければならないものです。中でも特に、絶対にこうした条件が整わなければ使うことができないのが、治癒の力です。医師は一般に、苦しい犠牲によって得た研究の結果を与えてくれます。

磁気を伝える者は、自分自身のフルイドや、自らの健康を犠牲にすることによって、磁気を伝えてくれます。このような人たちは、その犠牲に対してお金を要求することが出来るでしょう。

しかし、治癒する霊媒は善霊たちの有益なフルイドを伝えるのであり、それを売る権利は持ちません。イエスとその使徒たちは貧しい生活をしていましたが、人々の病を治す時にお金を要求することはありませんでした。

ですから、生活するための手段を持たない者は、霊媒性以外の生活手段を探してください。そして必要であれば、物質的な必要性が満たされた上で、残った時間を霊媒性の活用に捧げてください。善霊たちは、あなたの献身と犠牲を考慮してくれるでしょう。

しかし、霊媒性によって生活を向上させようとする者から善霊たちはかえって遠ざかっていくのです。

シアトルの春  人間の神性を讃える祈り

 Prayer in praise of the divinity of man



Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor


 〇人間の神性を讃える祈り


 「神よ、私たちはあなたの永遠の真理、あなたの無限の力、あなたの不変の摂理の生き証人でございます。あなたの聖なる御業であるところの大自然のパノラマの中に、私どもはあなたの神性の顕現を拝しております。

 私どもは昇りゆく太陽の中に、沈みゆく太陽の中に、夜空のきらめく星の中に、大海の寄せては返す潮(うしお)の中に、そよ風とその風に揺れる松のそよぎに、やさしい虫の音に、澄み切った青空の中に、そのほか移り変わる大自然のあらゆる営みの中に、あなたを見出すことが出来ます。

 また、あなたは生きとし生けるもののすべてに宿る霊の中に見出すことができます。人間においてそれは意識を有する個的存在として顕現しております。あなたとともに宇宙の限りなき創造の大業に携わらしめるために人間をその高き段階へとお引上げくださったのでございます。

 あなたは人間にあなたの聖なる属性を数多くお授けになりました。人間はその霊的資質を有するが故の当然の成り行きとして、物的生命を超えたより精妙なる力、すなわち霊力を知覚せしめるところの霊的能力を有しております。

 人生を営むことを可能ならしめているものは、その霊力にほかなりません。人間を全創造物から超脱せしめているものもその霊力にほかなりません。思考をめぐらし、判断を下し、反省し、決断し、美に感嘆し、美を賞美し、叡智を授かり、その真価を悟り、知識を獲得し、それを大切にする能力も、霊力あればこそでございます。

 より高き世界からのインスピレーションを感受せしめるのも霊力でございます。人生の重荷に耐えかねている者のもとへ赴くことができるのも霊力あればこそでございます。

霊の世界の存在を知覚し、その世界の居住者が人間をより広き奉仕的行為のために使用せんとしている事実を認識することが出来るのも、霊の力ゆえでございます。果てしなき宇宙の大機構の中に置かれた己れの位置を理解せしめるのも霊の力でございます。

私たちは人間にそうした本来の役割を成就せしめるものについての知識、死後に赴く世界にふさわしきものを身につけさせるものについての知識を広めんと希望している者でございます。

 そうなって初めて人間は、いま目を曇らせている暗闇をみずから払いのけることを得ることでございましょう。そうなって初めて叡智と真理と悟りと調和と平和の中に暮らせるようになることでございましょう。

そうなって初めて同胞があなたとの真の繋がりと生きる目的、そして人間が死と呼ぶ扉の向こうに待ち受けている、より大きな生命の世界の存在を理解する上で力となることができることでございましょう」


 〇相互扶助の尊さを讃える祈り 

 「神よ、私たちはあなたの真理、あなたの叡智、あなたの愛、そしてあなたの永遠なる自然法則の理解を広めるために、力の限りあなたの忠実な子供たらんと願っている者でございます。

地上のあなたの子等にあなたの無限の機構の中における存在価値を理解させること───真の霊的自我を見出し、暗黒と冷酷と怒りと憎しみに満ちた世界にあって、あなたから授かった力を発揮するように導いてあげることを願いと致しております。

私たちは霊的実在についての単純素朴な真理───正義と権利と善と美の永遠の基盤であるところの真理を説かんと致しております。

道を見失える者、いずこにあなたを見出すべきかを知らずに迷える者に対しては、あなたが彼ら自身の中に存在すること、あなたの無限なる霊がみずからの存在の内部にあること、まさしく天国は彼らの心の中にある───よろこびと幸せの国、叡智と悟りの国、寛容と正義の国は自分の心の中にあるという事実を教えることを目的と致しております。

 私たちは悲しみにくれる人々、人生に疲れた人々、病める人々、困窮せる人々、肉親を失ったまま慰めを得られずにいる人々、いずこに導きと英知を求めるべきかを知らずにいる人々に近づき、あなたがその人々を決してお見捨てになったのではないことを教えてあげたいと願っている者でございます。

 私たちの使命は地上のすべての地域とその住民に一切の分け隔てなく行きわたっております。あなたの霊は人間界のすみずみまで流れ、雄大なる宇宙のあらゆる現象に現われ、意識的存在の全てに顕現されていると認識するゆえにございます。

 その事実を認識することによって新たな安らぎが得られ、それは、ひいては人間の心と魂と精神を鼓舞してお互いがお互いのために生きる意欲を誘い、あなたの子のすべてに分け隔てなく奉仕することによってあなたに奉仕することになることでございましょう」
 こう祈った後、最後にサークルのメンバーに向かってこう説いた。


 「私たちの訓えの根本は Service(後注)の一語に尽きます。地上の悪弊(ガン)の一つである利己主義に対して、私たちは永遠の宣戦を布告しております。戦争、流血、混乱、破壊へと導くところの物質万能主義を打ち砕かんと努力しております。

 私たちの説く福音は相互扶助、協調、寛容、思いやりの福音です。お互いがお互いのために自分を役立てるようになっていただきたい。そうすることによって持てる者が持たざる者に幾らかでも譲り、豊かな才能に恵まれた者がそれを活用して暗闇の中にいる者を啓発してあげることになるからです。

 地上世界は今、もっともっとService を必要としております。人間の一人ひとりが同じ全体の一部であり、人類のすべてに神の霊が流れている───その意味において万人が神のもとにおいて平等である───その本性に関するかぎり平等である、という認識を広める必要があります。

性格において、霊格において、進化において、そして悟りにおいて一歩先んじている者が、その持てるものを持たざる者に分け与えんと努力するところに偉大なる行為が生まれます。

 霊の世界の働きかけに応じて働く人々、持てる才能を霊団に委ねる人々は、自分を捨てることによっていつも自分が得をしていることに気づくはずです。何となれば、その行為そのものが一つの摂理に適っているからです。収賄行為ではありません。

ご利益目当ての行為でもありません。因果律の作用にほかなりません。すなわち、最も多く施す者が最も多く授かるということです」

Monday, April 7, 2025

シアトルの春 宗教の本質と子供の宗教教育のあり方

The Nature of Religion and the Religious Education of Children

  Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor



 ある日の交霊会で〝宗教〟の定義を求められてシルバーバーチはこう述べた。

 「宗教とは同胞に奉仕することによって互いの親である神に奉仕することです。本来の宗教は地上の世俗的概念とはほとんど何の関係もありません。人間の魂に内在する神性を地上生活において発揮させるものでなければなりません。

自分と神とのつながり、そして自分と同胞とのつながりを大きくするものでなければなりません。自分一人の世界に閉じ込もらずに広く同胞のために自分を役立てるように導くものでなければなりません。宗教とは人のために自分を役立てることであり、自分を役立てることがすなわち宗教です。

 そのほかのこととは何の関わりもありません。肉体が朽ちてしまえば、それまで永いあいだ後生大事にしていたもの、そのために争うことまでした教義のすべてが空虚で無価値で無意味で無目的なものであったことを知ります。魂の成長を微塵も助長していないからです。

魂の成長は自分を役立てることによってのみ促進されるものです。他人のために自分を忘れているうちに魂がその大きさと力を増すものだからです。

 地上にはこれまであまりに永いあいだ、あまりに多くの世俗的宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いております。しかしその宗教がもっとも大事にしてきたものは実質的には何の価値もありません。

過去において流血、虐待、手足の切断、火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義・信条への忠誠心は、人間の霊性を一インチたりとも増しておりません。逆に、いたずらに人類を分裂させ、障壁をこしらえ、国家間、果ては家族間にも無用の対立関係を生みました。論争の原因ともなっております。

分裂と不和を助長することばかりを行ってきました。神の子等を一つに結びつけることに失敗しております。私が宗教的建造物や俗にいう宗教に価値を認めない理由はそこにあります。主義・主張はどうでもよいのです。大切なのは何を為すかです。


 続いて子供の宗教教育のあり方について聞かれて───

 「今日の子供は明日の大人であるという、ごく当たり前の考え方でその問題と取り組んでみましょう。当然それは学校教育を終えたあとの社会生活において、その社会の重要な責務を担う上での備えとなるべきものでなければなりません。

 意識ある社会の一員として、いかなる事態においても、社会のため人類のために貢献できる人物に育てるための知識を授けることが教育の根本義なのです。

それには何よりもまず宇宙の摂理がいかなるものであるかを説いてやらねばなりません。人間が有する偉大な可能性を教え、それを自分自身の生活と、自分の住む地域社会に役立てるために開発するよう指導してやらねばなりません。

 子供は感受性が強いものです。知能的にも、教えられたことが果たして真理であるかどうかを自分で判断することが出来ません。とても従順ですから、教えられたことは何もかも本当のことと信じて、そのまま呑み込んでしまうのです。

 このように、子供を教育することは、実に貴重でしかもデリケートな原料を扱っていることになります。教え込んだことがそのまま子供の性格のタテ糸となりヨコ糸となって織り込まれていくのですから、教育者はまず教育というものの責任の重大さを自覚しなくてはなりません。

子供の潜在意識に関わることであり、教わったことはそのまま潜在意識に印象づけられ、それが子供のその後の思想を築いてゆく土台となるのです。

その意味で、筋の通らぬ勝手な訓えを説く宗教家は、動機がどうあろうと、人類とその文明の将来に大きな障害を築いていくことになり、罪を犯していることになるのです。

 子供に種々さまざまな可能性が宿されていることを知らない人、霊的真理に通じていない人、子供が霊的存在であり神の子であることを知らない人、宇宙における人間の位置を理解していない人───こうした人に育てられた子供は健全な精神的発育を阻害されます。

 ここで子供の物的生活における必須の要素について語るのは私の領分ではありません。それについてはすでに十分な知識が普及しております。あらゆる分野の科学とあらゆる生命現象についての教育、地上なりの豊かな文学と芸術と教養の真価を味わえる精神を培う上で役に立つもの全てを教えてやるべきであることは明白です。

 そこで宗教の問題に絞って申せば、宗教とは個々の魂が人生のあらゆる闘いに堂々と対処し、そして克服していく上での指導原理である以上、教育上極めて重大な意義を有することは明らかです。

子供の一人ひとりが神の一部であり、本質的に霊的存在であるからには〝自由〟がもたらすところのあらゆる恵みを受けて生きるように意図されております。その魂を幼い時期に拘束し自由を奪うようなことをすれば、それは魂の基本的権利を無視することになります。奴隷状態に陥(おちい)らせることです。霊的奴隷としてしまうことです。

 〝自由〟こそが教育の核心です。私の考えでは、宗教についての正しい真理を教わった子供は自由闊達に成長します。

教育に携わる人が子供に自由を与えてやりたいという意図からでなく、古い神話や寓話への忠誠心を植えつけたいという願望から物ごとを教えていけば、それは子供の精神の泉を汚染することになります。

もしも知性があれば拒絶するはずの間違った教義を教え込むことは、宗教的観点からみても教育的観点からみても、その子にとって何の益にもなりません。

 それだけでは済みません。いつかきっと反撥を覚える時期がまいります。無抵抗の幼い時期に間違ったことを教え込んだ人たちみんなに背を向けるようになります。幼い魂は若木のように逞しく真っすぐに生長するように意図されております。それが間違った育て方をされるということは存在の根をいじくり回されることであり、生長が阻害されます。

 霊について、神とのつながりについて正しい真理を教えるのでなく、倒れかかった教会を建て直し、空席を満たそうとする魂胆から誤った教義を押し付けんとする者すべてに対して私は断固として異議を唱えます。

宗教についての真実を申せば、真理の全てを説いている宗教など有りえないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条しか見ておりません。しかも悲しい哉、その一条の光すら永い年月のうちに歪められ、狂信者によって捏造されております。

 子供には宗教とは人のために自分を役立てることであること、ややこしい教義に捉われることなく、真面目で無欲の生活を送り、自分が生活している社会のために尽くすことであること、それが神に対して真に忠実に生きるという意味であることを教えてやらねばなりません」

シアトルの春 質問に答える

answer a question
Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor


 再生の問題、動物実験の是非、犯罪、自殺等々についての質問がシルバーバーチのもとに数多く寄せられる。その中から幾つかを紹介しよう。

質問(一)─── 動物実験は正しいことでしょうか間違ったことでしょうか。
 これによって人類の益になるものが得られるのでしょうか。

「私はかねがね動物を使っての実験のすべてに反対しております。そこに何一つ正当化すべきものは見出せません。動物はあなた方人間が保護し世話すべきものとして地上に存在しているのです。

その成長と進化を促進する責任が、全面的とは言えませんが、人間に託されております。その無力な動物に苦痛を与えることは、動物が人間に示す情愛と献身と忠誠に対するあまりに酷い報復です。

 治癒力は自然界にさまざまな形で存在し、使用されるのを待っております。動物界の創造と進化をそんな形で邪魔しなくてもよいように、必要なものは創造主がちゃんと用意してくださっております。私たちの世界から援助するスピリットは苦痛を軽減したり不治と宣告された病すら治してしまう技術を身につけておりますが、決して生体実験は致しません。

 薬草を使うことがあります。霊波を使うことがあります。いずれも動物に対する残酷な行為は伴いません。宇宙には道義的な意図が行きわたっております。非道義的なものは摂理に反します」

質問(二)───スピリチュアリストの中にはスピリチュアリズムを占星術と同類とみている人がいます。そういう人たちは地上の出来ごとは星によって宿命づけられ操られていると考えています。

 「生命現象は一連のバイブレーション、放射性物質、放散物から成っており、したがって人間も自然界のあらゆる存在ないしは生命体によって影響されていることは確かです。そういったものが影響を及ぼしていることは事実ですが、どれ一つとして、どうしようもない宿命的な力を持ってはおりません。

あなたの誕生日にある星が地平線上にあったからといって、その星によってあなたの生涯が運命づけられていると考えるのは間違いです。

すべての惑星、すべての自然、宇宙間のあらゆる存在、あらゆる生命体が何らかの影響を及ぼします。しかしあなたはあなたの魂の支配者です。あなたには自分で背負わねばならない責任があり、あなたの霊的進歩に応じて自分が運命を定めていくのです。

 占星術でいう惑星には確かに人体に影響を及ぼす放射性物質がありますし、人体に影響を及ぼせば霊も影響を及ぼすことになります。しかし霊は絶対です。全てに優るものです。ですから、いかなる恒星も惑星も星座も星雲も、人体に及ぶ影響を克服するその霊の威力を妨げる力はありません。

 私が言いたいのは、要するにあなた方は神の一部であること、そして神性を宿すがゆえに、創造力を宿すがゆえに、この宇宙を創造した力の一部であるがゆえに、あなた方はその身体を牛耳ろうとする力に打ち克つことができるということです。

 分かりやすく言えば私も影響力の一つです。あなた方が付き合う人たちも何らかの影響を与えます。お読みになる本も影響力を持っております。しかしあくまで影響力にすぎません。それによってあなたが圧倒されることもないし、絶対的に支配されることもないでしょう」


質問(三)───再生は本当にあるのでしょうか。

 「再生は事実です。私はかつて地上へ再生したことのある霊に何人か会っております。 特殊な使命を託された人、預けた質を取り戻したい人がみずからの意志で行うものです。

 ただし再生するのは個的存在の別の側面です。同じ人格がそっくり再生するのではありません。ここに一個の意識的存在があって、そのごく小さな一部がちょうど氷山のように地上に顔を出します。それが誕生です。残りの大きい部分は顕現しておりません。

 次の誕生つまり再生の時にはその水面下の別の一部分が顔を出します。二つの部分に分かれても個的存在全体としては一つです。これが霊界において進化を重ねて行くと、その潜在している部分全体が顕現した状態となります」(表現する身体が精妙となっていき、それだけ神性が発揮しやすくなっていくー訳者)


質問(四)───私は最近、一方において若者による犯罪が激増し、他方においては体罰が禁じられていることについて大いに考えさせられております。暴力以外に青春のはけ口を知らず、けだもの同然となってしまっている若者をどう扱ったらよいのでしょうか。何かよい処罰の方法はないものでしょうか。(第二次大戦後のこと。本書は一九五五年の出版──訳者)

 「戦争が起きると気高い人間的精神(愛国心)が昂揚される半面、敵を殺そうとする、人類の最も残忍な性質が発揮されます。人間精神の極致ともいうべき英雄的行為を生むと同時に、むごたらしい野蛮性も生みます」


───両極端が発揮されるわけですね。

 「そういうことです。しかも、暴力の方は戦争の必然性として大いに奨励されることになります。では戦争が終われば暴力と残忍性がすぐに引っ込むかといえば、そう簡単にはまいりません。

すでに無数の人間が獣性をむき出しにした状態になっております。そうした事態にどう対処すべきかをお尋ねですが、それには二つの方法があります。

 いずれも地上で敬々しく読まれている本(新旧聖書)にはっきりと述べられているものです。古い方は〝目には目を、歯には歯を〟(出エジプト記)と説き、新しい方は〝己を愛するごとく隣人を愛せよ〟(マタイ)と説きます。どちらが良いかは分かり切ったことです。

 前者の方法を取れば解決は得られません。緩和剤、一時しのぎの荒治療にはなっても、罪悪ないし蛮行を根本から無くしたことにはなりません。

後者の方法を取り、そうした邪悪が精神と肉体と霊との不調和から生まれていることを認識し、それを矯正するための適切な手段を講ずれば、彼らもまともな市民となっていくでしょう。私はこの方法をお勧めします」


───それは解るのですが、問題はそうした暴徒にどう近づくか、つまり彼らの従順な側面をどう捉えるかです。

 「従順な側面をとらえるかどうかの問題ではありません。彼らの野獣性を鎮め、本来の姿である霊性を発揮させるような精神的治療を、さらに必要であれば霊的治療をいかに施すかの問題です。言ってみれば彼らは一種の病人であり、肉体と魂とが本来のつながりを失っているのです。

病気を治すにはいろんな方法がありますが、いちばん望ましい方法は身体と精神と霊の狂った関係に終止符を打ち、協調関係を取り戻させることです。すると自動的に健康状態になります。

それと同じで、秀れた心理学の専門家の協力、さらには心霊治療家の参加を得ることが出来れば、きっとうまく行くでしょう。しかし、残念ながら、地上はまだその段階まで来ておりません」


───(別のメンバーが)これは非常に考えさせられる問題です。そういう若者はしっかりと体罰を課せば一応おとなしくなると思うのですが・・・。

 「恐怖心を吹き込むばかりで、病弊の治療にはなりません」

───でも、おとなしくさせることは出来るでしょう。

 「できます。ですが、一個の人間としての問題の解決にはなりません。あなた方は極めて限られた視野で見ておられます。それはちょうど死刑にするのと同じです。

その人間をこの世から抹殺すれば問題は片づくじゃないかとおっしゃるようなものです。たしかに一面から見れば片づいたと言えるでしょう。しかし本人はちゃんと(死後の世界で)生き続けているのです」

(モーゼスの『霊訓』でイムペレーターが死刑にされた人間の霊や戦死者の霊の怨念と激情が地上の犯罪や暴力沙汰に拍車を掛けている事実を生々しく伝えているー訳者)

───一人の堕落者の更生の方が社会全体より大切なのでしょうか。

 「社会は個人が集まって出来あがっているのです。すべての者に注意を向けてやらねばなりません。私が指摘しているのはより良い方法です。つまり暴力に暴力を持って対処するのでなく、理解を持って臨み、凶暴性を鎮めて市民的意識を芽生えさせるということです」

───(さらに別のメンバーが)若者が暴徒と化してしまったことには我々にも責任があります。我々みんなの責任です。

 「私たちみんなに責任があります。なぜなら人類は一つであり、同胞へ及ぼす影響はこの私にも及びます。私たちが生活している宇宙は全生命があらゆる面において互いに依存し合っており、いかなる側面も他と隔絶することは出来ません」


───(最初の質問者)ムチを使うことは一時しのぎであり、単に恐怖心で持っておとなしくさせるに過ぎません。

 「現段階での地上人類はまだ社会悪に対する適切な矯正措置を生み出すところまで至っておりません。これは進化の問題です。かつては羊を一頭盗んだ者でも絞死刑にした時代がありました。死刑にしなかったら残りの羊はどうなるんだという理屈が大真面目でまかり通ったものです」


───未熟な社会では未熟な処罰が許されるのだと思います。

 「より良い方法に目覚めた人が一人でもいる限りは許されません。たとえば恐怖の監獄に放り込むのと、真面目な市民に更生させる目的をもった監獄の改善のために働かせるのと、どちらがより良いでしょうか。たった一人だけ更生に成功して九九人が失敗に終わったとしても、何の更生手段も講じないでいるよりはましです」

───死刑制度は正しいとお考えですか。

 「いえ、私は正しいと思いません。これは〝二つの悪のうちの酷くない方〟とは言えないからです。死刑制度は合法的殺人を許していることにしかなりません。個人が人を殺せば罪になり、国が人を殺すのは正当という理屈になりますが、これは不合理です」


───反対なさる主たる理由は、生命を奪うことは許されないことだからでしょうか。それとも国が死刑執行人を雇うことになり、それはその人にとって気の毒なことだからでしょうか。

 「両方とも強調したいことですが、それにもう一つ強調したいのは、いつまでも死刑制度を続けているということは、その社会がまだまだ進歩した社会とは言えないということです。

なぜなら、死刑では問題の解決になっていないことを悟る段階に至っていないからです。それはもう一つの殺人を犯していることに他ならないのであり、これは社会全体の責任です。それは処罰にはなっておりません。ただ単に、別の世界へ突き落しただけです」


質問(五)───余暇の正しい使い方について教えてください。

 「余暇は精神と霊の開発・陶冶(とうや) に当てるべきです。これはぜひとも必要なことです。なぜかと言えば、身体に関係したことはすでに十分な時間が費やされているからです。

人間は誰しも健康を維持し増進するための食生活には大変な関心を示します。もっとも必ずしも健康の法則に適っておりませんが・・・・・・しかし、精神と霊も発育が必要であることをご存じの方はほとんどいません。

そういう人たちは霊的にみると一生を耳を塞ぎ口をつぐみ目を閉じたまま生きているようなものです。自分の奥に汲めども尽きぬ霊的な宝の泉があることを知りません。

精神と霊が満喫できるはずの美しさを垣間見たことすらありません。誰にも霊的才覚が宿されていることを知らずにおります。それの開発は内的安らぎを生み、人生のより大きい側面の素晴らしさを知らしめます。

 となれば霊性そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライベートな静寂の中において為されるものです。

その静寂の中で、周りに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、インスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することが出来ます。その宝は使われるのを待ち受けているのです」


質問(六)───直感について説明してください。

 「よろしい。ひとことで説明できます。〝霊の即発〟です。直感とは霊が自己を認識する手段です。ふだんの地上的推理の過程を飛躍します。考えに考えた末に到達するような結論でも、電光石火の速さで到達します。

同じ問題について多くの時間と思索ののちにやっと到達することを〝霊の即発〟によって一気に我がものとしてしまう、一種の 〝一体化〟の過程です」


質問(七)───有色人種と白人が結婚して子孫をこしらえることは好ましくないことでしょうか。

 「私も有色人種です。これ以上申し上げる必要があるでしょうか。地上では〝色素〟つまり肌の色で優劣が決まるかのように考えがちですが、これは断じて間違いです。優劣の差はどれだけ自分を役立てるかによって決まることです。ほかに基準はありません。

肌の色が白いから、黄色いから、赤いから、あるいは黒いからといって、霊的に上でもなければ下でもありません。肌の色は魂の程度を反映するものではありません。地上世界ではとかく永遠なるものを物的基準で判断しようとしがちですが、永遠不変の基準は一つしかありません。すなわち〝霊〟です。

 すべての民族、あらゆる肌色の人間が神の子であり、全体として完全な調和を構成するようになっております。大自然の見事なわざをご覧なさい。広大な花園で無数の色彩をした花が咲き乱れていても、そこには、ひとかけらの不調和も不自然さも見られません。すべての肌色の人間が融合し合った時、そこに完璧な人種が生まれます」


質問(八)───現段階の人間社会において、いわゆるハーフカースト(※)の子孫も社会に受け入れられるべきでしょうか。(※宗教または階級を異にする者同士の間の子孫、とくにヨーロッパのキリスト教徒とヒンズー教徒またはイスラム教徒との間の混血児のことー訳者)    

 「偏見を打ち崩し、誤った考えと闘わなければなりません。真理は、いかにその歩みはのろく苦痛を伴っても、真理であるがゆえに、必ず前進するものです。価値あるものほど手に入れるのに困難が伴うものです。成就は奮闘努力の末に得られるものです。

勇気を持って挑戦してそして征服した者こそ称賛に値します。恐怖心から尻込みし困難を避けようとする者に用はありません。人生とは学校です。刻苦と闘争、努力と困難、逆境と嵐の中をくぐってこそ魂は真の自我に目覚めるのです」


シアトルの春 灯りを升の下に置いてはいけない

Do not put lights under the squares.




 升の下の灯り。何故イエスはたとえ話で話すのか

一、灯りを灯して、それを升の下に置く者はいません。むしろ、ランプ台の上に置き、家中のものを照らすようにします。(マタイ 第五章 15)


二、灯りを灯した後、それを壺で覆ったり、ベッドの下に置いたりする者はいません。ランプ台の上に置き、入ってくる者が光を見ることができるようにするのです。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはありません。(ルカ 第八章 16,17)


三、イエスに近づくと、使徒たちは言った、「なぜ彼らにたとえ話で伝えるのですか」。答えて言われた、「なぜなら、あなたたちには天の国の謎が解き明かされましたが、彼らには解き明かされていないからです(→FEB版注1)おおよそ、持つ者により多くを与えれば、より豊かになりますが、持たない者からは、持つものさえも奪われるでしょう。

だから彼らにはたとえ話で伝えるのです。それは彼らが、見えても何も見ず、聞こえても何も聞かず、また理解しないからです。彼らには次のように言ったイザヤの預言が当てはまります。

『あなたたちはその耳で聞くが何も理解せず、その目で見るが何も見えない』。なぜなら、民の心は鈍くなり、耳は聞こえにくくなってしまい、目は閉ざされてしまったからです。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないためです」。(マタイ 第十三章 10-15)


四、たとえ話というベールに隠して、誰にでも理解できるとは限らぬ方法で話したイエス自身が、灯りを升の下に置いてはならないといったのは驚くべきことです。

イエスは使徒たちに次のように言って説明します。「彼らにはたとえ話で伝えます。なぜなら彼らはある種の事柄については理解できる状態にないからです。人々は見て、聞くが理解しません。

だから、今はすべてを伝えることは無益なのです。しかし、これらの謎があなたたちには理解されるので言います」。つまり、イエスは考えの未発達な子どもと対峙するときのように、当時の人々にたいして語りかけたのです。これを理解することで、「灯りを升の下に置いてはなりません。

そうするのではなく、ランプ台の上に置き、入ってくる者誰もが見ることができるようにしなさい」という言葉の本当の意味が見えてきます。この言葉は、なにも考慮せずにすべてのことを示すべきだという意味ではありません。

どんな教えも、指導の対象となる人の知性に合わせて示されるべきです。なぜなら、光が明るすぎると、目がくらんでしまい、啓発されることのない人々もいるからです。

 同じことがある特定の個人にあてはまることもあれば、一般の人々にあてはまることもあります。一つの世代にはその幼少期、青年期、成熟期があります。それぞれの出来事がそれにふさわしいときに起こらなければなりません。季節外れに地上に落ちた種は発芽しません。

しかし、慎重に扱うことによって一時的に隠された内容も、いずれ発見されることになるでしょう。なぜなら、ある程度の発達の度合いに達すると、人類は自ら生きた光を求めることになるからです。

闇は人類にとって負担となるのです。神は人類が地上と天における物事を理解し、その中で進んでいけるように人類に知性を託したため、人はその信仰を理性に照らして合わせることになるのです。

だから灯りを升の下に置いてはならず、なぜなら、理性の光なしには、信仰は衰弱してしまうからです(→第十九章 7)。

    
五、もし神意が、その予見可能な知性によって真理を徐々に啓示していくことにあるのであれば、人類がどのくらいの成熟度に達したかを見極めたうえで、それに見合った真理を知らせることになります。

真理は升の下に置かれるのではなく、将来に向けて温存されるのです。しかし、人類はそうした真理を手に入れると、それを支配してしまおうと、自分が知り得た真理を人々から隠してしまいます。

こうした場合、それはまさに光を升の下に置いていることになるのです。あらゆる宗教にはそうした神秘があり、それを吟味することも禁じられているのです。しかし、そうした宗教が衰退していくのに従って、科学や知性が発達し、秘密のベールを取り除いていきました。

人々は大人になると物事の根底にまで入り込むことを覚え、観察に反する事柄を、その信念によって消去したのです。

 絶対的な謎は存在しえず、人に知られることのない秘密は何もないとイエスの言うことは理にかなっています。隠されたものはいつの日か必ず発見され、人類がいまだに理解できないものは、人類がより浄化した時、進歩した世界において次から次へと明らかにされていくでしょう。ここ地球上では、それらのことがまだ霧中にあるのです。

   
六、「意味が理解されないこれらの多くのたとえ話に、どんな利用価値があるのでしょうか」と聞かれます。しかし、イエスはその教義の、いうならば抽象的な部分についてのみ、たとえ話で表現したことに注目しなければなりません。

救いの基本的な条件を隣人に対する慈善と謙虚さであるとし、これらのことについて言ったことは、少しの曖昧さも残さずにこの上なく明確に示しました。それは行動の規則であり、すべての者がそれを理解し、それに従わなければならなかったために、明確に示す必要があったのです。

「これが天の国を得るために行わなければならないことである」とだけ言ったことが、無知な大勢の人々のために示した本質的な部分であったのです。

その他のことについては、使徒たちにのみその考えを明かしました。彼らが道徳的にも知性的にもより進歩していたため、イエスはより抽象的な真理の知識を伝授することができたのです。その時に言いました。

「すでに持つ者はより多くが与えられ、豊かになるであろう」(→第十八章 15)

 しかし、使徒たちにさえも、多くの点については不明確なままとなり、完全な理解はその後の時代へと持ち越されました。そして、そうした点は、一方で科学が、またもう一方でスピリティズムが自然の新しい法則を明らかにし、その真なる意味が理解されるようになるまで、多様な解釈を生む機会を与えられることになったのです。


七、スピリティズムは今日、多くの不明確な点に光を投じます。しかしむやみに光を投じるのではありません。霊たちは驚くべき慎重さを持って指導を与えます。

教義の中のすでに知られた部分についても、徐々に、しかも継続的に考慮され、その他の部分については、それが明確にされるべき時が訪れるに従って明らかにされるよう残されます。

もし最初から完全な形で示されていたなら、ほんの少数の人々にしかそれに近づくことはできなかったでしょう。それらを受ける準備のない人々はそれに驚いてしまい、その教義の普及には逆効果となってしまうでしょう。

もし、霊たちがいまだにすべてを明らかに伝えていないのであれば、それは教義の中に一部の特権的な者たちだけが知ることのできる謎が存在するからでもなければ、升の下に灯りを置いているからでもありません。

それは一つ一つの事柄が、それを知るのに適した時に現れる必要があるからなのです。

霊たちは一つ一つの考えに対してその後に続く考えを示す前に、機が熟し広まるまで時間を与え、後の続く考えが受け入れるための準備となる出来事がおこることにも時間を与えるのです。


 異邦人たちのところへ行ってはならない
八、イエスはこの十二人をつかわすにあたり、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはなりません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊を探しに行きなさい。そして行った先では、天の国が近づいたことを説きなさい」。(マタイ第十章 5-7)


九、どのような時においても、イエスの目はユダヤの民だけに限って向けられていたのではなく、人類全体に向けられていました。ですから、使徒たちに異教徒のもとへ行ってはいけないと言っているのは、彼らの改宗を軽蔑していたからではないはずです。

さもなければ、それは慈善に反することになってしまいます。ユダヤ人たちはすでに唯一の神を信じ、救世主の出現を待っていたのであり、モーゼの律法や預言者たちによって、使徒たちの言葉を受け入れる準備ができていました。

しかし、異教徒たちにはそうした基礎がなく、行わなければならないことがすべて残されており、使徒たちは異教徒たちに教えを伝える重い任務を果たすほど博学ではなかったのです。だからイエスは次のように言ったのです。

「イスラエルの家の失われた羊を探しに行きなさい」。つまり、すでに教化された土地に種を蒔きに行きなさいということだったのです。イエスは、異邦人の改宗が時とともに進むことを知っていました。後になって使徒たちは、異教の中心部へ十字架を掲げに行ったのです。


十、これらの言葉は、スピリティズムを受け入れ、広めようとする人々にもあてはまります。体系的な不信心者や、それをあざける頑固な者たち、たくらみを持った敵対者たちは、使徒たちにとっての異邦人と同じです。

ゆえに彼らを模範として、第一に、発芽間近な種を持った、光を求める数多くの意欲ある者たちの中に改宗者を探し、見たり聞いたりすることも嫌がるような、自分の改宗に関わる度合いが高くなるほど自尊心によってますます抵抗する人々に、無駄な時間を費やさないようにしなければなりません。

光を求める百人の盲目者の目を開くことの方が、闇にいることを喜ぶ一人の目を開くことよりも価値のあることであり、その方が問題に対する支持者の数を大きな割合で増やすことができるのです。他の者たちをそのままにしておくことは無関心を示すことではなく、より賢明な手段なのです。

その思想が一般の人々の意見として支配するようになった時には、受け入れることを拒んでいた人たちも、その周りにいる人たちから同じことを繰り返し聞かされることになるのです。

そうすれば、彼らは他人からの圧力によってではなく、自らの意志によって、その思想を受け入れることになります。また、種のように扱われるべき思想もあります。

適切な季節が来なければ発芽することができなかったり、前もって準備された土地に蒔かなければ発芽できない種があるため、適切な時期を待ってから種を蒔き、機が熟してから、発芽したものを栽培する方が良く、過度の栽培によって他の発芽を失敗させてしまうことがないようにしなければなりません。

 イエスの時代には、当時、狭い物質的な考え方が支配していたために、すべてが限定された局地的なものでした。イスラエルの国は一つの小さな民族であり、異邦人たちとは、その周辺に存在した別の小さな民族のことを指しました。

今日人々の考えは普遍化され、霊的なものになっています。新しい光は特定の国の特権をなすものではありません。その焦点はあらゆる場所へ向けられており、全人類が兄弟であるために障壁は存在しないのです。

また、異邦人とは特定の民族を指すのではなく、あらゆる場所で出合うさまざまな意見のことを指し、キリスト教が多神教に対して勝利したのと同じように、少しずつ真理が打ち勝っていくことになるのです。それらはもはや武力や戦争によって撃退されるのではなく、思想の強さによって打ち勝っていくのです。


    
 医者を必要としているのは健康な者ではない
十一、イエスがこの者(マタイ)の家で食卓についておられた時、多くの徴税官や罪人たちがやって来て、イエスや使徒たちと同じ食卓についていた。

ファリサイ人たちはそれを見ると使徒たちに言った、「あなたたちの先生はなぜ、徴税官や罪人たちとともに食事をするのですか」。これを聞いてイエスは言われた、「医者を必要としているのは健康な者ではないのです」。(マタイ 第九章 10‐⒓)


十二、イエスは主に貧しい者や資産を持たない者たちに近づきましたが、それは彼らこそが慰安をより必要としている者たちだったからです。イエスに視力を与えてくれるように頼む、信心深く心優しい盲者に近づき、すべての光を有し、なにも必要ではないと考えるうぬぼれ者には近づきませんでした。(→序章 Ⅲ「パブリカン(徴税官)」「関税徴収人」)

この「医者を必要としているのは健康な者ではないのです」という言葉には、その他多くの言葉のように、スピリティズムにもその適用を見つけることができます。

まれに霊媒能力が、それを悪用する可能性のあるような、それにふさわしくない人に授けられていることがあり、驚く人々がいます。そのような貴重な能力は、最もそれにふさわしい人たちに与えられるべきだと言います。

 なによりもまず、霊媒性というものが肉体器官上の性質に付属するもので、どんな人であれ、見たり、聞いたり、話したりする霊媒性を授かることができるということを述べておきます。しかし、人間には自由意志があり、濫用しようと思えばできてしまいます。

たとえば、もし神が、悪い言葉を発言しないような者にしか言葉を与えていなかったとしたら、言葉を話せない人の方が、話せる人の数よりも多くなってしまいます。神は人類に能力を託し、それを利用する自由を与えますが、それを濫用した者は罰せられるのです。

もし霊と通信する能力がそれにふさわしい者たちだけに与えられるのだとすれば、誰があえてそうなることを望むでしょうか。さらには、ふさわしさとそうでないことの境界はどこにあるのでしょうか。

霊媒性は差別なく人々に与えられ、その為に霊たちは貧しい者から裕福な者に至るまで、あらゆる身分や社会階層に光をもたらすことができ、正しく歩む者はさらに善において強くなり、悪癖の多い者はそれを正すことになるのです。この後者が医者を必要とする病人たちではありませんか。

罪人の死を望んでいない神は、その人をぬかるみから引き出すことのできる救済手段をどうして奪うことがあるでしょうか。善霊たちが彼らのもとへ助けにやって来て、直接忠告を与えるのは、間接的に与える場合よりも、より鮮明に印象付けることができるからなのです。

神はその善意によって、人が遠くまで助けを求めに行かなくてもよいように、私たちの手に光を与えます。それを見たくないというのであれば、その責任はその人にあると言えないでしょうか。

自分に対する非難を自分の手で書き、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の口で唱えていながら、光を無駄にすることを自分の無知のせいにすることができるでしょうか。直接与えられた光を有効に利用しないのであれば、託されたその能力を奪われたり、能力が異常となり、罰せられます。

その場合には、悪い霊たちが憑依したり騙そうとしたりして、その能力を利用することになりますが、その苦しみとは、エゴイズムと自尊心によって心の固くなってしまった、神に罰せられた恥ずべき奉仕者が感じる本当の苦しみとはまた別の苦しみとなるのです。

 霊媒性は、必ずしも優秀な霊たちとの習慣的な関わり合いを意味するのではありません。それは一般的に、霊に対しておよそ従順な道具として仕えるための単なる素質に過ぎません。

したがって、よい霊媒とは容易に通信する者のことではなく、善霊たちに同情を引き起こさせる者のことで、善霊たちだけから助けを受ける者のことを指すのです。卓越した道徳性が霊媒能力に万能の影響を与えることができるのは、唯一こうした場合のみなのです。


 信仰の持つ勇気
十三、私のことを人々の前で認める者については、私も天にいる父の前にその者を認めるでしょう。私を人々の前で裏切る者は、私も天にいる父の前でその者を裏切ることになるでしょう。(マタイ 第十章 32,33)


十四、もし誰かが私のことや私の言葉を恥じるのであれば、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる天使の栄光のうちに現れて来る時、その者のことを恥じるでしょう。(ルカ 第九章 26)

   
十五、勇気を持って自分の意見を言うことは、多くの敬意を表されるべきこととして考えられてきました。なぜなら、すべての人々に認められていない考えを恐れを抱かずに公に発表する人は、ほとんどいつも危険や迫害、反発、あるいは単なる皮肉にさらされるからで、それを乗り越えればその功績は讃えられます。

いずれの場合においてもそうであるように、ここでもその功績とはそれを乗り越えた時の状況や、もたらされる結果の重要性に応じています。その考えが引き起こす結果を知る前に、後退したり、それを否定してしまう弱さというものは、いつも存在します。そのような場合、臆病な気持ちが勝り、戦いの途中で逃げ出してしまう場合もあります。

 イエスはその教義にもとづく特別な視点から、こうした臆病さを打ち消すために、イエスの言葉を恥じる者がいれば、その者も恥じられることになるといいました。イエスを裏切る者は裏切られ、人類の前でイエスを認めた者は、天にいる父なる神の前でも認められると言ったのです。

言い換えれば、真実の使徒として自分を認めることに恐れを感じた者は、真実の国において認められるにはふさわしくないのです。支えとする信仰の利益は失われることになります。なぜなら、そうした信仰は、この世で不利益が出ないようにと隠して自分のためだけにしまっておく利己的な信仰となってしまうからです。

一方で、自分の物質的な関心よりも優先させて真実を掲げ、公に宣言する者は、自分自身の未来と他人の未来のために働いていることになります。


十六、スピリティズムを受け入れる者にも、同じことがあてはまります。なぜなら、彼らが行う教義とは福音の適応と発展に他ならず、彼らにもキリストの言葉が差し向けられるからです。彼らは霊界で刈り取るものの種を地上に蒔くのです。霊界では、その勇気か弱さの結果を刈り取ることになります。  


 十字架を背負う。
 命を救いたい者は命を失うことになる
十七、人の子のせいで人々があなたたちのことを憎み、排斥し、あなたたちの名前を悪しき名前としてののしり、汚名を着せる時、あなたたちは幸いです。

その日には喜びにおどりなさい。なぜなら、あなたたちには天において大きな報酬が蓄えられるからです。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのです。(ルカ 第六章 22,23)


十八、民衆や使徒たちを呼びよせると、イエスは言われた、「私について来たいと思う者はみな、自分を捨て、十字架を背負い、私に従って来なさい。なぜなら、自分を救おうと思う者は道に迷うからです。

私と福音のために自分の命を失う者は救われるでしょう。まったく、世界中を征服したとしても自分の命を失ってしまったら、何の得になるでしょうか」。(マルコ 第八章 34-36、ルカ 第九章23-25、マタイ 第十章 38,39、ヨハネ 第十二章 25,26)


十九、「私のせいで人々があなたたちを憎み、あなたたちを迫害するのであれば、そのことは天において報われるので喜びなさい」とイエスは言いました。これらの真実は次のように解釈できます。

「あなたたちに対する悪意によってあなたたちに信仰の誠実さを試す機会を与えてくれたなら、彼らがあなたに行う悪はあなたたちのためになるのだから喜ばしく思いなさい。彼らが盲目であることを悲しんでも、彼らをののしってはいけない」。

その後にはこう付け加えます。「私について来たい者は十字架を背負いなさい」。つまり、あなたちの信仰が引き起こす苦難に勇気を持って耐えなければなりません。なぜなら、キリストを放棄することによって自分の命や財産を救おうとする者は、天の国における利益を失うことになるからです。

一方で、真実の勝利のために、命に至るまでの全てをこの世で失った者は、自ら証明した勇気と忍耐と甘受に対する報酬を得ることになります。反対に、天における富を地上の快楽のために犠牲にしてしまう者に対して神は、「もうすでに報酬は受け取っている」と言うでしょう。

●FEB版注1
フランス語原文にはマタイ 第十三章、十二節が欠落していたのでここに記載しました。ーFEB1948

Sunday, April 6, 2025

シアトルの春 探しなさい、そうすれば見出せるでしょう  

Look for it, and you will find it.  

 あなた自身を助けなさい、そうすれば天があなたを助けてくれます

一、求めなさい。そうすれば与えられるでしょう。探しなさい、そうすれば見出すことができるでしょう。扉をたたきなさい、そうすればあなたたちのために開くでしょう。求めれば与えられ、探せば見出し、扉をたたけば開くでしょう。

 あなたたちのうちで、パンを求める息子に石を与える人がいるでしょうか。魚を求めるのにヘビを与える人がいるでしょうか。あなたたちのように、悪い者であっても、自分の子どもには善いものを与えることを知っているのであれば、天にいるあなたたちの父は、なおさら、求める者に本当の善きものを与えて下さらないことがあるでしょうか。(マタイ 第七章 7-11)


二、地上の視点から見ると、「求めなさい、そうすれば与えられるでしょう」と言う言葉は、自分自身を助ければ、天があなたを助けてくれます、という言葉と同じ意味を持っています。

これは労働の法の原則であり、また労働からは、それを知力を駆使して行うことで進歩がもたらされるため、最終的には進歩の法の原則であると言えます。

 人類の幼少期には、人間は食物を集めたり、悪天候から身を守ったり、敵から身を守るためだけに知性を使っていました。しかし神は、動物に与えるよりも多くを人間に与えました。

それは、向上しようとする絶え間ない欲求で、その欲求は、人間に自分の置かれた立場を向上させる手段を求めることを促し、結果として人間には、発見や発明、自分たちに不足しているものを与えてくれる科学の完成をもたらすことになります。

探求することによって知性は高まり、道徳は浄化します。肉体の充足は霊の充足をもたらします。こうして人は野蛮人から文明人へと変化していくのです。

しかし、その大半においては、一生の間に個人個人が実現する進歩は、非常に小さいか、ほとんどとらえることのできない程度のものです。では、すでに存在する魂が、再び存在することがないとしたら、人類はどれだけの進歩を遂げることができるというのでしょうか。

もし魂が毎日去って行き、再び戻ってこないのだとしたら、人類は絶えず原始的な要素において進歩を再開することを繰り返し、すべてを学ぶためにすべてをやり直さねばならなくなってしまいます。

一回毎の誕生においてすべての知的な作業を再開しなければならないことになるため、そうであれば地球の初期の頃に比べて、今日の人間が進歩していると考える根拠は存在しなくなります。

反対に、すでに成し遂げた進歩とともに魂が戻って来て、そのつど、さらになにかをより多く獲得していけば、魂は徐々に野蛮な世界から物質的文明、そして道徳的文明へと移り住んでいくことになります。


三、もし神が肉体の労働を人間から免除していたとしたら、人間の四肢は退化していたでしょう。知性の労働を免除していたとしたら、その霊は動物の本能の状態、つまり幼年期の状態で居続けたでしょう。

だからこそ神は労働を必要なものとし、「探せば見出せるでしょう。働き、生産しなさい」と言ったのです。この様にして、あなたは自分が行った労働の恩恵を受け、それを自分の功績とし、行ったことに応じた報酬を受け取ることになるのです。


四、こうした原則があるので、霊たちは、人間から探求という仕事を免除するために人間を助けにやって来ることはありません。すでに完成し、使う準備の整ったものや、発見や発明されたものをそのまま人間にもたらすことによって、人間が拾うために身を屈めたり、考えたりするような苦労をせずに、必要なものを手に入れることができるようにするのではありません。

もしそうであったならば、最も怠惰な者が何の苦労もせずに豊かになり、もっとも無知の者が賢くなり、両者とも自分の行っていないことに対して功労を受けることになってしまいます。そうです、霊たちは人類を労働の法から免除するためにやってくるのではありません。

霊たちは、人類が歩むべき道と、達成しなければならない目標を示すためにだけやってくるのであり、次のように伝えているのです。「歩みなさい、そうすれば到着するでしょう。石につまずくでしょう。

その石を自分の目で確かめ、自分自身で遠のけてください。あなたたちが使いたいのであれば、私たちは必要な力をあなたたちに与えます(→『霊媒の書』第二部 第二十六章 291)。


五、道徳的視点から見れば、これらのイエスの言葉は次のことを意味します。「あなたたちを照らす光を求めれば、道はあなたたちに与えられます。悪に抵抗する力を求めれば、その力を得ることができます。

善霊たちの救援を求めれば、彼らはあなたたちに同伴してくれ、トピアスの天使がそうしたように、あなたたちを指導してくれます。善き忠告を求めれば、決してそれが拒絶されることはないでしょう。私たちの扉をたたけば、あなたたちに扉は開かれます。

しかし、信心、信頼、熱意を持って誠実に願って下さい。傲慢にならず、謙虚であってください。さもなければ、あなたたちは自分たちだけの力とともに見捨てられ、その時の失敗があなたたちの自尊心に対する罰となってしまいます。

 これが「探しなさい、そうすれば見出すことができるでしょう。扉をたたきなさい、そうすればあなたたちのために開くでしょう」と言う言葉の意味です。


 空の鳥を見なさい
六、錆がつき、虫が食い、盗人たちが押し入って盗んだりするこの地上で、あなたたちは宝を蓄えてはいけません。錆がつかず、虫も食わず、また、盗人たちが押し入って盗むこともない天において宝を蓄えなさい。あなたたちの宝のあるところには、あなたたちの心も存在します。

 だから誠に言います。あなたたちの命を支える食糧をどこで手に入れようかと心配したり、身体にまとう衣服をどこで手に入れようかと心配してはなりません。命は食糧に勝り、肉体は衣服に勝るではありませんか。

 空の鳥を見て下さい。種を蒔くことも、収穫をすることも、倉に蓄えることもありません。それでも、あなたたちの天の父は彼らを養って下さっています。あなたたちは、鳥たちよりも、はるかにまさっているではありませんか。

あなたたちのうち、誰がその努力によって身長をわずかでも伸ばすことができるでしょうか。

 また、なぜ衣服のことを心配するのですか。野の百合がどう育っているか見て下さい。働くことも、紡ぐこともありません。しかし、誠に言いますが、ソロモンでさえその栄光の時、百合たちほどに着飾ることはありませんでした。

今日生き、明日には炉に投じられる野の草花を着飾ることに、神がこれほどまでにしてくださるのであれば、あなたたちを着飾るのに、これ以上良くしてくださらないことがあるでしょうか。おお、信仰の薄い者たちよ。

 だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、異邦人たちがこれらすべてのものを探し求めるように、心配してはいけません。あなたたちの父は、あなたたちがこれらのものを必要としていることを知っておられるのです。


 まず、神の国とその正義を求めなさい。そうすれば、こうしたものはすべて、添え与えられるでしょう。だから、明日のことで心配をしてはなりません。明日のことは、明日が面倒を見てくれるからです。一日の苦労は、その日だけで十分です。(マタイ 第六章 ⒚-21,25-34)


七、文字通りに解釈すると、これらの言葉はあらゆる用心、労働を否定するものであり、結果として、進歩することを否定するものになってしまいます。こうした考え方に従ったのでは、人間は受動的に待つばかりとなってしまいます。肉体や知性の力は、活動することなく止まることになってしまいます。

仮に、地上の人間が一般的にそうであったとしたら、人間はもはやその原始的な状態から抜け出すことができず、そのように進歩を否定することが今日のための法であったなら、人間には何もせずに生きること以外残されていないことになってしまいます。

イエスの考えがそうであったはずはなく、さもなければ、他のところで自然そのものの法について述べたことに矛盾することになってしまいます。神は人間を、衣服もすみかも与えることなく創造しましたが、それらを生産する知性を与えたのです(→第十四章 6、第二十五章 2)。


 したがって、これらの言葉の中に、信じる者を決して見捨てることはなくとも、彼らが自分のために働くことを望む神意の、誌的なたとえ以外のものを見出してはなりません。神は何時も物質的な補助をもたらすのではありませんが、困難から抜け出せる手段に出合えるような考えを吹き込んでくれるのです。(→第二十七章 8)。

 神は私たちが必要としているものを知っており、必要に応じてそれを与えてくれます。しかし、人間はその欲求を満たすことがないために、手中にあるもので満足するとは限りません。必要なものだけでは人間は不十分なのです。人間は余分なものを求めます。すると神はその人をそのままにしておきます。

人間はしばしば、注意を促す良心を通じて聞こえた声に従わなかったために、自ら不幸になります。神はそのような苦しみを与えることで、それが未来に向けた教訓となるようにするのです。


八、人間が正義と慈善と隣人愛の法に従って、地球がもたらすあらゆるものを管理することを覚えれば、地球はその住人すべてを養うに足りるだけのものを生産するようになります。

一つの国の違った地方に住む人たち同士のように、地球上に住むすべての人たちの間に兄弟愛が広がるようになれば、一方の一時的な余剰は、もう一方の一時的な不足を補うようになり、それぞれが必要なものを手に入れることになります。

裕福な者は、たくさんの種を持った者にたとえることができます。そのたくさんの種を、自分のためだけでなく他人のためにも蒔けば、自分のためにだけ蒔く時の何百倍も生産することになります。

しかし、もしその収穫物を他人に分け与えることなくすべてを一人で食べ、余ったものを無駄にし、駄目にしてしまうのであれば、たくさんの種を蒔いたことによるメリットは何も生まれず、収穫物がすべての人のために行き亘ることはないでしょう。

それを倉庫にしまってしまえば、虫が食ってしまいます。そこにイエスの言った言葉があります。

「錆がつき、虫が食い、盗人たちが押し入って盗んだりするこの地上で、あなたたちは宝を蓄えてはいけません。錆がつかず、虫も食わず、また、盗人たちが押し入って盗むこともない天において宝を蓄えなさい」。

別の言葉で言うならば、「消滅してしまう物質的なものを永遠にある霊的なものよりも重要視してはいけません。そして前者を後者のために犠牲にすることを覚えなければなりません」ということです(→第十六章 7-15)。

 慈善と兄弟愛は法律に定められてはいません。それぞれが心の中に存在しなければ、エゴイズムが何時もそこを支配することになります。慈善と兄弟愛を心の中に浸透させるのはスピリティズムの役割です。


 金を手に入れることに悩んではいけません
九、「財布の中に金、銀または銭を入れて行ってはなりません。旅に出る時は、袋も、二枚の下着も、靴も、杖も持って行ってはなりません。働き人がその食物を得るのは当然のことなのですから」。(マタイ 第十章 9,10)


十、どの町や村に入っても、誰があなたを泊めてくれるのにふさわしい人かを尋ね、再び出発するまでそこにとどまりなさい。その家に入った時には、このように祈ってあげてください。「この家に平和が宿りますように」。

もしその家がそれにふさわしければ、あなたが祈る平和はその家に来るでしょう。そうでないのであれば、その平和はあなたへ帰ってくるでしょう。

もし誰もあなたを迎えてくれず、あなたの言葉を聞いてもくれないのであれば、その家や町を出る時に、足の埃を払い落としなさい。誠に言います。審判の日には、その町はソドムやゴモラよりも厳しく扱われるでしょう。(マタイ 第十章 11-15)


十一、はじめて福音を伝えに使徒たちを送った当時、イエスが使徒たちに向けたこうした言葉に少しも不思議な内容はありませんでした。それらは、旅人がいつもテントに迎えられた東洋の家父長制の習慣に従うものでした。しかし、その頃は旅人もまれでした。

交通の発達によって、近代の人々には新しい習慣が生まれました。昔の習慣は、遠く離れた、大きな人の動きが到達していない場所にだけ残っています。もしイエスが今日戻ってきたとしたら、もはやその使徒たちに「準備なしに出て行きなさい」ということはできないでしょう。

 これらの言葉は、言葉そのものが表わす意味と同時に、非常に深い道徳的な意味を持っています。それらの言葉を唱えることによって、イエスは使徒たちに神を信じることを教えました。

それに加え、何も携帯しなければ、彼らを迎える人たちの欲を目覚めさせずにすみます。それは利己的な者と慈悲深い者とを区別する手段でした。だからイエスは彼らに、「誰があなたを泊めてくれるのにふさわしい人かを尋ね」と言ったのです。

つまり、「支払う金もない旅人に衣服を与えてくれるほど心温かいのは誰か探しなさい。なぜなら、あなたたちの言葉を聞くべき人とは、そうした人であるからです」。その人が行う慈善によって、そうした人を知ることができるのです。

 また、使徒たちのことを迎えたり、聞きいれたりすることを拒んだ人たちに対して、非難したり、暴力やおどしによって強制的に態度を改めさせることを、果たしてイエスは勧めたでしょうか。いいえ。

ただ単に、その場から去って、善意のある人を求めに行くように教えたのでした。

 スピリティズムは今日、同じことをその信徒に伝えます。「誰の良心も害してはいけません」。誰にたいしても、その信仰を放棄させ、あなたの信仰を受け入れさせようと強要してはなりません。

あなたたちと同じように考えない人を排斥してはなりません。あなたたちのもとへやってくる者を迎え、あなたたちを拒む者たちをそっとしておきなさい。キリストの言葉を覚えておいてください。昔、天は暴力によって支配されていました。今は、慈愛によって支配されるのです(→第四章 ⒑,11)

シアトルの春  霊媒を励ます

Encourage mediums

 
Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor


 シルバーバーチの交霊会にはよく霊媒や心霊治療家が招待される。そしてシルバーバーチがその一人ひとりに称賛と激励の言葉を述べる。その中には霊媒現象の裏面に関わることなどが窺われて、同じ仕事に携わる人はもとより、一般の読者にも興味のある話題が豊富である。本章では三人の霊媒と心霊治療家の場合を紹介する。

(本章では前巻の Wisdom of Silver Birchでカットしておいたものを紹介する―訳者)



リリアン・ベイリー女史 Lilian Bailey

シルバーバーチ「あなたは人類の救済のために背後からあなたを使用している素晴らしい霊団が存在している事実を喜ぶべきです。あなたのお蔭でどれほどのことが成し遂げられているか、あなたご自身は(入神しているので)ご存知でありません。

意識が消えて、やがて意識が戻る───あなたにはただそれだけのことのように思えるでしょうけど、実際はその間に誰かの魂が目を覚まし、誰かの心の荷が軽減され、悲しみに暮れる人が慰めを受け、挫折した心が癒され、混乱した精神が安らぎを見出しております。 あなたに感謝の気持ちを抱いている人が長い列をなすほどいらっしゃいます。

私たち霊団としても、神から授かった才能を自分のことを忘れてひたすら人類のために捧げんとする霊媒の存在をどれほど誇りに思っているかを、何とかして言い表わしたいとじれったく思っているところです。 あなたは神の豊かな恩寵を受けられた方です。本当に豊かな恵みを受けておられます。

地上で大物とか大家と言いはやされている人たちより、あなたの方がはるかに立派な仕事をしておられます。残念ながら今のところ一握りの人によってしか活用されていない霊力をあなたは存分に活用しておられます。

それはどしどし活用されるべきものです。 迷信という名の闇を地上から一掃するために、その霊力をできるだけ多くの人間の魂の中で胎動させなければなりません。

それが私たち───あなたと私、そして他のすべての神の道具───が偏見と無知という名の霧とモヤを一掃し、真理という名の光が世界中に射し込むようにするために全身全霊を打ち込んでいる大事な仕事なのです。偉大な仕事です。あなたもその光栄ある仕事の一翼を担っておられるのです。

 私たち神の道具はひたすら前進あるのみです。その道程においてはしばしば落胆させられます。些細ないざこざにうんざりさせられることもしばしばです。歓迎されてよいはずの場でしばしば反撃に会います。

そこで、あなたより少しばかり先の見透しの利く私から申し上げましょう。どうか、そうした邪魔は相手になさらず、かつてあなたに閃いたビジョン(先見の明・理想像・悟り)にすがっていただきたい。そして、あなたの霊的能力を最善に、純粋に、そして最高に活用することのみに専念していただきたい。

それ以外のことは構わないことです。そうしておればきっと愛の恵みが届けられ、ご自分が使用されている能力は神がその発現の通路を求めて間断なく行使しておられる霊力に他ならないことを認識されることでしょう」

 ここでベイリー女史が感謝の言葉を述べかけると、シルバーバーチはそれを制して───

 「私は暗闇に呼ばわる声の一つにすぎません。私を地上へ派遣した高き神霊の仕事を推進せんとしているだけです。私もこれまでに易しい真理を少しばかり学んできて、それを形を変え、言いまわしを変えながら説いておりますが、同じ単純・素朴な真理であることに変わりはありません。 それを地上の方々が受け入れてくだされば、すべての難問が解決されるのですが・・・・・・」と述べてから「このサークルに参加されてどんな感想をお持ちですか」と尋ねた。



ベイリー女史 「素晴らしいと思います。全体にみなぎる力がとても感じが良いです。もっとも、私には少し強すぎるようです。私の意識から離れて作用しているみたいです。この意味お分かりいただければ有難いですが・・・」

 このサークルでも直接談話をはじめ数々の現象が行われており、それぞれに霊媒が揃っている。ベイリー女史は霊視力もあり霊感も鋭いので、その〝舞台裏〟が見えたのである。女史は続けて「このボリューウムあふれるエネルギー、迫りくるパワーは物質化現象に使われるものですね?」と述べた。

シルバーバーチ 「そうです。このサークルにいつも潜在しているものです。今日はそれがあなたの存在によって刺激されております」


ベイリー女史 「何人かのスピリットがそのエネルギーを部屋の中央へ運んで一つの固まりをこしらえているようです。珍しい光景ですね。次の機会にはもっとしっかりと確かめたいものです。どうやら声が出されるみたいです」

シルバーバーチ 「声の準備ですよ。いつも行われているものです。以前はそれを使って発声器官をこしらえていたのですが、戦争の影響で大気が混乱しているためにそれができなくなり、今のところ私の入神談話だけで間に合わせているのです」

ベイリー女史 「私が見たところでは大きな柱のようですね。白い柱です。コチコチに固いものではありません。そこから何本かの紐状のものが伸びてメンバーの一人ひとりとつながろうとしています。各メンバーから何かを摂取しようとしてるみたいです」

 そう述べてからその〝触手〟 を霊界の技師たちが操っている様子を細かく説明した。


シルバーバーチ 「地上の方々はこうした霊界の働きの現実を理解してくださらないのです。いつでも使用できる態勢になってるのです。あなたはその眼でご覧になったのですから、ぜひその事実を伝えて下さらないといけません」


ベイリー女史 「ときどき人間の探求は表面的すぎるという印象を抱くことがあります。ですからその背後に働く単純な現実を理解させるのが難しいのです」

シルバーバーチ 「おっしゃる通りです。しかし私たちの世界には、かつて地上で一見とても勝算はないと思えた逆境の中で、長いこと忠誠心に燃えて戦った古強者が沢山おります。彼らはその仕事が引き継がれ少しずつ成果が実っていくのを見守っております。

 私があなた方にひたすら前進なさいと申し上げるのはそのためです。あなた方はそれだけで(他のことは何も心配しないで)よろしい。霊的知識だけを広めることだけを考えておればよろしい。

理解力を広めるのです。思いやりの心を広めるのです。無知をなくすのです。光明へ向けて進むべき者を引き止めんとする勢力を打ち砕くのです。私たちが掲げる光明は決してささやかなものではありません。

なぜなら、いったん霊の力がいかに働きかけているかを知ったら、いったん死の扉を開くカギを手にしたら、いったん死の向こうに広がる生命躍如たる世界をご覧になったら、その時こそその人は霊的実在を理解し、神の永遠の計画の中における自分の位置を悟ることになるからです。

あなたはひたすらご自分の信じる道を突き進まれることです。後は私が力の限り鼓舞し援助します」


 W・H・リリー氏  W.H. Lilley
 A・リチャーズ氏  Arthur Richards

心霊治療家のリリー氏が同僚のリチャーズ氏を伴って出席したことがある。まずリリー氏が、二人でロンドンに心霊クリニックを設立しようとしているが偏見と無理解から来るさまざまな難問に遭遇している事情を説明してから、面接に出た役人が 〝この連中は一体何者なのか〟といった目つきで二人をじろじろ見つめ回した話をした。

 すると シルバーバーチが───
 
 「この連中はいったい何者か───このセリフは遠い昔にも言われたものです。霊力が一握りの男たちを鼓舞し真理普及のために自分を捨てて邁進させたのは二千年足らず前のことでした。

不変の摂理を啓示し、地上のいかなる力よりも偉大な力───人を導き霊感を注ぐことの出来る力、訓え諭すことの出来る力、病を癒し、傷つき衰弱した身体を回復させる力が存在することを身を持って証明しました。

すると人々は言いました───いったいこの者たちは何者かと。別に耳新しいセリフではありません。これから何度も何度も聞かされることでしょう。

 あなたがこうした光栄ある仕事に携われることになったのは神から才能を授かっておられるからこそです。使用するために授かったのです。私どもの世界から援助せんとする者と全面的に協調する姿勢を持ち続けるかぎり、その才能を行使することを妨げる力は地上にはありません。

問題や障害が立ちはだかっているとおっしゃいましたが、それは克服すべきものとして与えられているのです。ただし、その中にはあなたご自身が自ら招かれた問題もあることを忘れてはなりません。あなた自身が蒔いたタネもあるということです。

と申しますのは、あなたは(操り人形のように)ただ黙って言うなりになる道具ではないからです。(自由意志が尊重されているから過ちも犯しているということー訳者)ですが、背後にはいかなる困難の中をも導きとおす力を具えた霊団、永年の霊界での研鑽によってその能力を立証している霊団が控えております。

これまでも数多くの困難を克服し、数多くの悩みごとを解消してきております。いつか、これまでのあなたの辿って来られた人生を振り返りじっくりと見つめられれば、そこに霊による導きがあったことを明確にお認めになるはずです。

 あなたは心霊治療家です。病を癒す仕事です。それを阻止する力は誰にもありません───あなたご自身が拒否なされば別ですが。ぜひとも使用しなければならない力を授かっておられます。地上の力ではありません。はるか高級界から送られてくる力です。

 それは病に苦しむ数知れぬ人々に恩恵をもたらし祝福を与えることになりましょう。あなたに決意さえあれば、地上にはそれを阻止できる権力はありません。

問題はあなたの心のどこにも心配の念を宿らせないことです。これまで導いてくれた霊団が自分を見放すはずはないという断固たる信念を持たねばなりません。まだまだ越えねばならない険しい道があるからです。

まだまだ献身を必要とする仕事の場がたくさんあるからです。怖じ気づいてはなりません。かつてあなたがもう絶対にダメだと思ったことが霊の力によって克服されてきたように、これから先もきっとその力は凱旋を続け、あとで振り返った時、今のあなたには難問に思えることが他愛ない杞憂にすぎなかったことを知って、にっこりなさることでしょう。

 為さねばならない仕事があるのです。治療の手を必要とする人が大勢いるのです。悩める魂が大勢いるのです。怖(こわ)ごわ生きている人が大勢いるのです。

身体の異状と病に苦しんでいる人が大勢いるのです。あなたはそうした人々を救うことの出来る霊力を授かっている数少ない人間の一人です。いかに祝福された方であり、いかに素晴らしい能力を授かっている方であるか、あなたご自身の想像も及ばないほどです」


 続いてリチャーズ氏が、この交霊会に出席できたことを光栄に思うという挨拶をしたあと次のように述べた。

リチャーズ氏 「私はこれまで、あなたが毎週毎週お説きになっている訓えを忠実に信じておられる患者さんを大ぜい治療しております。そして私自身もあなたのお説きになる思想を細かく読み、それを道しるべとしてまいりました。

私の理解したところを言わせていただけば、あなたは神についての誤った観念を打ち砕き、それに代わって理知的な概念を説き、それを〝無色の大霊〟the Great White Spirit と呼ばれたり〝法則〟と呼ばれたりしております。

私にとって、あなたを始めとする霊団の方々は人間より高等な知的存在であり、したがって個的人格を具えた存在ですが 〝大霊〟 は非人格的存在であるように思えます。この私の理解の仕方はさらに深い理解への中途の段階にすぎないのでしょうか」

シルバーバーチ 「永い間地上を毒し続けてきた無知が私の力によって幾らかでも取り除かれたことを嬉しく思います。しかし、無知を無くしていく仕事はゆっくりとした、時間の要る仕事であることを忘れてはなりません。眼の見えなかった人に視力が戻る時はゆっくりと光に慣れさせていかねばなりません。

真っ暗闇からいきなり真昼の太陽の中に出せば逆に眼をひどく痛めてしまいます。そこで、ある意味で、〝教える〟立場にあるこの私は、教える相手の意識の程度に合わせて、叡智を噛みくだいてあげなければなりません。それは段階を経ながら徐々に行うしかありません。

地上にはこれまで余りにも誤りが多すぎました。間違った神々を信じてきました。あまりに永いあいだ叡智を拒絶してきたために、そのすべての誤りを正すには弛まぬ忍耐を持って臨むしかないのです。

 人格を具えた神の概念は、いつの時代にも個人はもとより民族・人種・国家にもそれを導く霊がいるという信仰にさかのぼります。つまり知識というものが今日ほど広がることのなかった時代にあっては、霊界から時おり姿を見せる指導者を畏怖の心を持って崇めたものです。そしてそれがいつの間にか神の座に祭り上げられていったのです。それだけのことなのです。

地球の歴史において、人類の痕跡のあるところには必ずそうした信仰があるといってよろしい。そして遠くさかのぼればさかのぼるほど、その信仰には神話と寓話がごたまぜになっております。

 さて、神とは法則です。私が思想や観念を述べるにはどうしても地上の言語を使用せざるを得ませんが、実はその言語そのものが障害となり、制約となり、限界となっているのです。

と申しますのは、観念を言語に移しかえる時、言いかえれば大なるものを小なるものに合わせようとする時、必然的に脱落する要素が沢山あるのです。ですから、私が述べたいと思っている思想や考えの符号またはシンボルとして言葉を使用しなければならない───それも往々にしてきわめてぎこちないものです───という事実そのものが、それを聞かれてあなた方が脳裏に画かれるものが必ずしも私が本当に述べたいと思っていることと同じではないことを意味します。お判りでしょうか」

 すると司会者のハンネン・スワッハーが意見を述べた。

スワッハー 「こう解釈してよろしいでしょうか。あなたはアメリカ・イディアンを霊界の霊媒として使用しておられるので、たとえば神のことをインディアンの古い用語である Great White spirit を使用することになる───このほうが国教会で使用されている God よりも自然の摂理の表現として確かに適切です」

シルバーバーチ「それがまさしく私の言わんとしていたことです。どうやらここで詳しく解説しておく必要がありそうですね。このインディアンは私の道具です。ですが、道具とはいえ(さきほど述べたとおり)これを使用している間はその個性によって条件づけられ、したがって私は私の言いたいことを表現する上で役に立つ要素を精一杯活用することになります。

たとえば大自然を支配する法則を私はアメリカ・インディアンの用語である〝大霊〟を使用しますが、それは一つには今なお残っている〝神は人間である───えらく威張った人間である〟とする観念、しかもむろん女性ではなく、自分の言うことを聞く者だけを可愛がりそして特権を与え、気に入らぬ者には腹を立て憎むことすらする男性であるとする、いわゆる神人同形同性説との相違をはっきりさせるためです。

 が、もう一つの理由として、それをどう表現しようと、その用語を超えた観念として私が何とかして明らかにしたい完璧な摂理の働き───あなた方や私の願望にはおかまいなしに働く法則、全宇宙を支配する法則、四季のめぐり潮の満ち引きを調節する法則、地上の生命の生長と活動と運動とリズムを管理している法則の観念があるのです。

その法則は全存在の行為の一つたりとも、言葉の一つたりとも、思念の一つたりとも、観念の一つたりとも見逃すことはありません。表に出る出ないに関わりなく、生活現象の全てを管理しています。その法則こそ私が最高の崇敬を捧げているものです。

それを大霊と呼ぼうと神と呼ぼうと、その他いかなる名称で呼ぼうと、その背後にある意味を理解してくだされば、それはどうでもよいことです。それが全存在をあらしめている力です。

その力なくしては生命は存在しえないのです。いかなる形態を取ろうと、その力なしには存在しえないのです。生命に存在を与えている根源的エネルギーなのです。それを神と呼ぶのも結構でしょう。大霊と呼ぶのも結構でしょう。全知全能の知的存在と呼ぶのも結構でしょう。しかし、いずれも、所詮は言葉にすぎません。

 私がそれを法則として説くのは、人間の意志ではどうしようもない絶対的な理法というものがあることを指摘したいからです。それを正しく認識すれば、そのワク内でお互いが協調的に生きることができ、それに背いて不和と仲違いと利己主義と貪欲と腐敗と戦争を生むことにならなくて済むはずです。

その摂理を理解しさえすれば、人生の図式が分かるようになり、進むべき方向と道しるべと目的が見えるようになります。そして同時にそれに自分を合わせていく方法も分かるようになります。なぜなら、自分も一個の霊、全生命の親である神の一部として、永遠の営みに参加できることを悟るようになるからです」


リリー氏 「病気はすべて治せるのでしょうか」

シルバーバーチ 「病気はすべて治せます。さらに言えば、正しい生き方をしておれば病気にはなりません。病気とは根源からいえば不調和、不協和音、つまり神の摂理に適った生活をしていないことから生じています。が、人類にはさまざまなタイプがあることを考えれば、病気にもさまざまなタイプがあるわけであり、それがさらに細かく変化していきつつあります。

したがって治療に使う霊力もそれぞれのタイプに合わせていく必要があります。あらゆるタイプの病気に効くたった一つのバイブレーションというものはありません。治療が成功するか否かは、それぞれの病気に合ったバイブレーションの霊力を見出せるか否かに掛かっております。

 しかし治療の不成功を単純に霊界側の責任、担当した専門の霊の責任、あるいは治療家の責任と決めつけることは出来ません。数え切れないほどの要素が絡んでいるからです。(訳者注ー別のところで百人の霊視家が見てもすべての要素を見究めることはできないと述べている)。

そこで治療家であるあなたにとって一ばん大切なことはこう考えることです───自分を使用する霊力と完全にそして完璧に一体となるためにはいかなる生き方をすべきか、ということです。言うまでもなくあなたと背後霊団との間にはさまざまな相違点があります。

それを一つでも少なくすることが、治療霊団にとって、一人ひとりの患者に適切なバイブレーションをあなたを通して注ぐことを容易にすることになります。

こちらの世界には莫大な種類の治療エネルギーがあり、かつて地上で病気治療に当たった者や科学者たちが弛まぬ研究を重ねております。しかし無数の治療エネルギーのうちのどれをどれだけ活用できるかは、ひとえに治療家に掛かっているのです。そこにあなたの役割があります。すなわち魂の成長と精神の啓発と身体の管理です」

リチャーズ氏 「心霊治療についての偏見を無くす必要もあると思います」
  
シルバーバーチ 「おっしゃる通りです。だからこそ私たちが援護射撃をしているのではありませんか。数年前でしたらあなた自身も私の言うことなどには耳を貸さなかったでしょう。

それが今はこうして熱心にお聞きになるということは、私たちの働きよって偏見を一つ減らすことができたということです。強烈な体験によって魂が目を覚まし、奉仕的精神を鼓舞された人を一人ずつ私たちの霊力の活動範囲の中に導いていくのです。

あなた方はお一人お一人が私たちの働きかけによる成果の生き証人なのです。そのつど一つの偏見が取り除かれたということです。それだけ私たちの仕事がラクになったということです。

まだまだ取り除くべき偏見が山のように立ちはだかっているという事実に、私どもは別に途方に暮れることはありません。それが私たちの仕事なのです。すなわち神の子がその魂の奥に秘めた霊性を発揮することによって生命の喜びを味わい、当然受けるべき神の遺産を存分に我がものとするように導いてあげることです。

 お二人もその役割を担っておられるのです。ひたすらお仕事に邁進なさることです。数々の困難に遭遇することでしょう。しかし背後に控える霊団がいかなる試練にも荒波にも支えになってくれます。首をうなだれてはなりません。

堂々と背筋を伸ばし、決して自分を見棄てるようなことをしない援助の手によって支えられていること、そして心の奥に芽生えた信念への忠誠心を失わず真摯な気持ちで奉仕し、神に召された今の仕事に良心的に仕えておれば、決して挫折することはないことを確信してください。

あなた方が一心に努力しておれば強力なる霊団が参加し、援助し、偉大な勝利へと導いてくれます。これから為し遂げていく仕事を大いなる期待を持って楽しみにするくらいの気構えが必要です。そしてそのお陰で数知れぬ人々が喜んでくれることを知ってください。

 人のために自分を役立てるということは大いなる特権です。その機会を与えられたことをお二人は誇りに思うべきです。それと同時に、私たちの世界から協力する者にも使命が託されていること、重大な使命、神からの使命が託されていること、そしてあなた方の方から見放さないかぎり決してあなた方を見放すことはないことを信じることです。

これまでも大いなる成果が上がっております。これからもさらに多くの仕事が成就されていくことでしょう」



 パリッシュ夫妻  Mr. and Mrs. Parish

イーストシーン治療所を滅多に離れることのない心霊治療家のパリッシュ氏が夫人を伴って出席した。この交霊会の長老格である。早朝から一六時間もぶっ通しで治療した後なのに、出席者の中でも一番元気そうに見える。シルバーバーチがこう語りかけた。

 「私はあなたとお話できる時はいつも楽しくてなりません。光栄にも私は現在の治療所で微力ながら毎日のように背後よりお手伝いさせていただいておりますが、こうして二人で人間らしく語り合えば、ほかの方々はまた別の意味でよろこばれます。

お二人の献身的なお仕事によって霊の力が着々と広がり、多くの魂が感動して目を覚まし、暗黒の中にいる人々が光を見出していることを私たち霊界の者がどれほどうれしく思い、世界中の人々が(遠隔治療を)どれほど有難く思っているかを知っていただきたいと思います。

 今ではあなた方を通して真理と悟りの光を見出した人が世界のほとんどの国におられます。あなたのこれまでの人生、そして今なお続けておられる毎日の献身的活躍によって巨大な奉仕の金字塔が築かれております。

憶えておいででしょうが、何年か前に初めてお会いした時、私はあなたにこれから後のお仕事の発展ぶり、どういう具合に世界の隅々まで広がり、いかに多くの人々が祝福を受けに来ることになるかを申し上げました。

すべての人が治るとは限りません。それぞれに地上との縁の切れ時(寿命)というものがあります。が、たとえすべての人の病気を治してあげられなくても、わずかな光明、暗闇の中に一条の光を見出させてあげていることを知ってください。

前にも一度申し上げたことがありますが、病気を治してあげることは確かに大切ですが、もっと大切なことは魂を目覚めさせること───真の自分を見出し、自分を見出すことによって生命の大霊であるところの神とのつながりをより緊密にしてあげることです。

 私たち霊界側でも絶え間なく活躍しております。あなた方に協力している高級霊団、あなた方を地上への働きかけの道具としている霊団では常に新しい霊波の研究をしており、また、あなた方が徐々に体験しておられる精神統一における意識の深まりが、治療エネルギーをより多く地上へ注ぎ込む可能性を大きくしてくれております。

治療に入る前にあなた方が背後霊団との完全な連繋態勢と調和を得るために行っておられる心掛けと工夫もその一環となっております。

どういうことかと言えば、精神統一が深まりあなたという個的存在が消滅する直前においての治癒エネルギーとの融合が完全に近づけば近づくほど、そのエネルギーの威力がより多くあなたの身体を通して流れるからです。それは治療所における直接治療の場合でも、世界各地への遠隔治療の場合でも同じです。

(訳者注ー私の師である間部詮敦氏が予言について語ったところによると、精神統一を深めていくと次から次へといろんな情報が飛び込んでくる。が、それにすぐに飛びついてはいけない。どんどん統一が深まっていき、もうすこしで意識が消えるというギリギリのところまで行った時に閃いたものが一番信頼できるということだった。

ある時は地震を何時何分何秒まで正確に当てたことがある。シルバーバーチが別のところで、霊媒の霊格が向上するほど程度の高い叡智を授かるようになると述べているが、これは言いかえれば精神統一の深さの程度のことであり、波長が高くなるということであろう)

 そうは言うものの、時にはうんざりなさることもありましょう。無意味に思えることもあることでしょう。しかしそれも詮ずるところ厳然たる計画と目的を持った仕事の一環です。あなたはそのための道具です。ただ一人で悟りへ向けて、孤独な道、犠牲の道を徐々に手引きされております。

かつても申し上げたことをあるのを覚えておいででしょうが、その道は行くほどに見慣れた景色を一つひとつ後にしていかねばならない寂しい道です。しかしそれしか道がないのです。みずから魂を高揚しなければなりません。高き憧憬を抱き続けねばなりません。

魂の受容性を高めねばなりません。内的意識を拡大していかねばなりません。しかし、それが順調にいくだけ、それだけ多く霊界からの生命力が流れ込むことになるのです。

 あなたとともに大ぜいのスピリットが働いております。地上で医者だった者、病気治療の専門家だった者はもとよりのこと、こちらで永い永い年月にわたって研究を重ね、各種の治癒エネルギーを扱って人間の霊的身体への影響を調べているスピリットもいます。

 ご承知のとおり私たちの世界は決して終局の世界ではありません。すべてのことが分かる世界ではありません。すべてが成就されてしまって、もう何もすることがないという世界ではありません。

私達も実験・研究が必要なのです。が、治療家としてふさわしい身体を持ち、人のためにという願望一つに燃え、大方の人間が追い求めるチャチな物的ぜいたくには目をくれず、ただひたすら魂と精神と身体を完全にマスターするための修行の道に勤む人間がいないことには、私たちとの協力関係も完璧は期しがたいのです。

その修養は一種の霊的浄化の過程です。純金が姿を現わすためには不純物を取り除かねばなりません。あなたも人間である以上、多少の不純物はかならずあります。しかし、あなた方はいま正道を歩んでおられます。そして、それは偉大なことと言うべきです」

 パリッシュ夫人も治療能力を持っておられ、シルバーバーチがその養成についての助言を与えた。夫人も霊の道具として活躍できることのよろこびを語った。

夫妻は霊媒として大望を抱く者にとって一つの模範である。といって、二人の治療がすべて奇跡的な効果を上げているわけではない。シルバーバーチも言っているように〝困難があり、失敗があり、そして心を大いに痛めることもある〟が、それでもお二人は尚も前向きの姿勢を失わない。

 二時間に及んだその日の交霊会の最後に、シルバーバーチはサークル全員にこう励ました。

 「決して弱気になってはいけません。堂々と胸を張り、宇宙の全生命を創造した力、夜空にきらめく星空を支えている力、花に香を添え、太陽を昇らせそして沈ませる力、虹にあの美しい色彩を施し小鳥にあの可憐なさえずりを与えた力、全生命に存在価値を与え、人間に神性を賦与した力、その力がいつもあなた方を支え、守り、そして導いていることを忘れてはなりません」

シアトルの春  聞き慣れない教え

An unfamiliar teaching



聞き慣れない教え

 父母を憎む
一、 イエスの後を大勢の民衆がついてきたので、イエスは振り返って彼らに言われた、「父や母、妻や子、兄弟、姉妹、さらに自分の人生さえも憎むことが無ければ、私の使徒になることはできません。

そして十字架を担ぐのがいやな者は、私についてきても私の使徒にはなれません。このようにあなたたちのうちで持つもののすべてを放棄することができない者は、私の使徒にはなれません」。(ルカ 第十四章 25-27,33)


二、私のことよりも父母を愛する者は、私にとってふさわしい者ではありません。私のことよりも子を愛する者は、私にとってふさわしい者ではありません。 (マタイ 第十章 37)


三、非常にまれですが、キリストのものとされるいくつかの言葉に関して、それがキリストの習慣的な話し方とあまりに異なっているため、私たちは本能的に拒んでしまい、イエスの教義の崇高さを崩さずに、それを文字通りに解釈するのが難しい場合があります。

どの福音書もイエスが生きている間に書かれたものではなく、イエスの死後に記述されたものであるために、このような場合には、イエスの根底にあった考えがうまく表現されなかったか、あるいは、起こり得ることとして、もとの考えがある言葉から別の言語へと伝えられていく中で、なんらかの変更がなされたのではなかったのかと考えられます。

歴史上の出来事においてよくあるように、一度間違えると、それを複写する者には何度も繰り返されてしまうことになります。

「父や母、妻や子、兄弟、姉妹、さらに自分の人生さえも憎むことが無ければ、私の使徒になることはできません」という聖ルカの一節の中の「憎む」という言葉は、こうした可能性の一つとして理解できます。誰もそれをイエスの言葉とすることに同意しないでしょう。

つまり、そのことについて議論したり、ましてや、それを正当化しようとすることは余計なことなのです。第一に重要なのは、イエスがその言葉を発言したのかということで、もしそうであるならば、表現に使われた言語において、問題の言葉が私たちの言語と同じ意味を持っていたのかということです。

「この世においてその人生を憎む者は、永遠の命を保つことになる」という聖ヨハネの一節において、この「憎む」という言葉が私たちの与える意味を表現しているのではないということは疑いようがありません。

 ヘブライ語の語彙は豊富ではなく、その中には多数の意味を持った単語がありました。その例として、創世記の中に創造の段階を記述したものがあります。それは同時にある一定の期間と一日の変化について表現しています。そのことから、後になって「日」と言う言葉の翻訳によって地球は六×二十四時間で造られたという信仰が生まれたのです。

綱がラクダの毛で造られていたことから、「ラクダ」という言葉がラクダと綱の意味を持っていることも同様な例です。それで、針の穴のたとえ話において、綱のことが「ラクダ」という単語で翻訳されたのです(→第十六章 2)。(→備考1)


 その他の場合には、その民族の言語の特別な意味に影響を与える習慣や性格に注意しなければなりません。こうした知識なくしては、言葉の本当の意味がしばしば失われてしまいます。ある言語と別の言語との比較においては、同じ言葉がより大きな力を持っていたり、より小さな力を持っていたりします。

一つの単語がその暗示する意味によって、ある言語においては非道や冒涜を意味し、他の言語においては大した意味を持たないということもあります。同じ言語においても、何世紀も経過する間に幾つかの言葉はその価値を失っていきます。

そのため、厳格な文字通りの直訳が、いつも完全にある考えを表現するとは限らず、その意味の正確さを保つには、時によって、その言葉に直接対応する言葉ではなく、別の同じ価値を持った言葉や、また同意の節を用いなければなりません。

 こうした注意は聖典、特に福音の解釈においてあてはまります。もし、イエスがどのような環境に生きていたのかを考慮に入れなければ、私たちには他人のことを自分のことにあてはめてしまう習慣があるために、いくつかの表現やいくつかの事実は、誤解にさらされることになってしまいます。

いずれにしても、イエスの教えの精神とは相容れないため、「憎む」という言葉の現代的な意味を捨てる必要があります。(→第十四章 5とそれに続く項)


●備考1
 ラテン語の Non odit、ギリシア語の Kai もしくは misei は、「憎む」という意味ではなく、「より少なく愛する」という意味です。中でもギリシア語の misein という動詩は、イエスが用いたヘブライ語の動詞の意味をよりよく表現しています。

この動詞は「憎む」という意味ばかりではなく、「より少なく愛す」、もしくは「人々を同じように愛さない」という意味を持っています。イエスがよく用いたシリア語の方言においては、その意味をよりよく表しています。こうした意味によって「創世記」(第二十九、三十、三十一章)には、

「そしてヤコブはリアよりもラケルを愛したが、エホバはリアが憎まれているのを見ると……」と書かれていますが、ここでの真の意味は「より少なく愛されている」であることは明白です。

このように翻訳されなければなりません。その他の多くのヘブライ語のくだりにおいて、特にシリア語のくだりには、一方を他方と同じように愛さないという意味で用いられており、はっきりと定まった別の意味を持つ「憎む」と言う言葉で訳すと、理解しがたいものとなってしまいます。

マタイの文章はそうした理解の難しさを遠ざけてくれています。(Pezzani氏による注釈)  
    
   
 父母と子を捨てる
四、私の名において、家、兄弟、姉妹、父母、妻、子、畑を捨てた者は、それらすべての幾倍のものを得ることになり、永遠の命を受け継ぐことになるでしょう。(マタイ第十九章 29)   


五、ペテロはイエスに言った、「私たちについては、すべてを捨て、あなたに従っていることがお分りでしょう」。するとイエスは言われた、「誠に言いますが、誰でも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、来るべき世では永遠の生命を受けるのである」。(ルカ 第十八章 28-30)


六、別の者がイエスに言った、「私は主に従ってまいります。しかし、その前に家の者に別れを言いに行くことをお許しください」。イエスは答えられた、「鍬に手をかけながらも後ろを振り向く者は、神の国にふさわしくありません」。(ルカ 第九章 61,62)

言葉についての議論をすることなしに、ここではそれらが明らかに次の考え方であったのだということを、私たちは見出さなければなりません。

「未来の人生に対する関心は人類のあらゆる関心や心配事に勝っている」。なぜなら、この考え方はイエスの教義の根本に即しているからで、家族を放棄することはその教義の否定となってしまうからです。

とは言え、母国への愛のために家族への愛情や関心を犠牲にする時、私たちはこの金言をあてはめているのではないでしょうか。母国の防衛のために行進し、父母や兄弟、妻を捨てる者に対して非難するでしょうか。

逆にある義務を遂行するために、家庭の快適さや友情の絆から自分を断ち切ることは、その功績を讃えられることではないでしょうか。つまり、ある義務に勝る他の義務が存在するのです。

娘はその夫に伴うために、この法をあてはめ、父母を捨てる義務を果たすのではありませんか。世界にはより痛ましい別離が必要な場合が多く存在しています。

しかし、だからと言ってその愛情が断ち切れるわけではありません。遠ざかることは、敬意や、子の父母に対する気遣いや、父母の子に対する優しさまでをも減少させるものではありません。

ゆえに、その言葉を文字通りに理解し、「憎む」ということを行ったとしても、人間にその父母を敬うことや父母の子に対する愛情を説く教えの否定にはならないのです。この言葉を用いたことには極端な表現を通じて、人間が未来の人生に対して心配する義務が如何に大きいかということを示す目的がありました。

ただし、習慣によって家族の絆がより弱かった時代の一民族に対して、その言葉は、道徳的により進んだ文明の中にある者に対してよりも衝撃は少なかったと考えられます。こうした原始的な民族における絆は、感受性や道徳性の発達に伴って強化されます。

別離そのものは進歩に必要です。家族や民族は融合したり、統合されなければ没落していきます。それは自然の法則であり、道徳的な進歩に関する事柄にも、物質的な進歩に関する事柄についても当てはまります。

 ここでは物事が地上からの観点によってのみ考慮されています。スピリティズムは私たちにそれをより高いところから見せてくれ、真の愛情の絆というものが、肉体によって結ばれたものではなく、霊によって結ばれたものであるということを示してくれます。

つまり、そうした絆が別離や肉体の死による死別によって断ち切れることはなく、霊の浄化によって霊界において強化されるということを示してくれ、そのことは真の慰安となり、人類はそこから大きな力を得ることができ、それによって人生の苦しみに耐えていくことができるようになるのです。


 死者を葬ることは死者に任せる
七、別の者に言われた、「私について来なさい」。するとその者が答えた、「主よ、先に私の父を葬りに行かせてください」。イエスは答えて言われた、「死者を葬ることは死者に任せておきなさい。あなたは神の国を伝えに行きなさい」。(ルカ 第九章 59,60)


八、「死者を葬ることは死者に任せておきなさい」という言葉は何を意味しているのでしょうか。

前述のことを考慮に入れれば、まず第一に、この言葉が発せられた状況において、これらの言葉が、自分の父親を葬ろうとすることを子の慈悲であると考える者に対する非難を意味していた筈はないということはわかります。

そうではなく、より深い意味があるのですが、それは霊の生活に関する、より完全な知識によってのみ理解可能となります。霊的生活とは実際の真なる生活であり、霊の普通の生活であり、地上における存在とは一時的な一過性のもので、霊の生活における活動やその輝きに比較すれば、それはある種の死のようなものです。

肉体は一時的に霊を覆う粗い衣服のようなものに過ぎず、まさに地球上につなぎとめる足かせのようなもので、そこから解放された時には幸せに感じるのです。

死者たちに捧げる私たちの敬意は物質によって促されるのではありません。それは不在の霊に関わる思い出によって促されるものなのです。

肉体は、その人が所有していたり触れたりしていた物であり、その者に愛情を抱く者が遺物として保管する物と同じなのです。父親を葬ろうとした者が理解できなかったことはこのことだったのです。イエスは次のように言って教えたのです。

「遺体のことは心配せず、まず霊のことを考えなさい。神の国を教えに行きなさい。人類の母国とは地上ではなく天にあるもので、そしてそこにのみ真なる命が続いているのだということを、人々に教えに行きなさい」。


 平和ではなく分裂をもたらしに来た
九、私が地上に平和をもたらしに来たと考えてはなりません。平和をもたらしに来たのではなく、剣を持って来たのです。ゆえに父からその息子を絶ち、母からその娘を絶ち、姑から嫁を絶ちに来たのです。人々は自分の家に敵を持つことになります。(マタイ 第十章 34-36)


十、私は地上に火を放ちに来ました。すでに火が燃えていたならと、どんなに望むことでしょう。私には受けなければならないパブテスマがあり、それを成し遂げる時をなんと待ち遠しく感じることでしょうか。

 私が地上に平和をもたらしに来たと思うのですか。いいえ、誠に言います。私はむしろ、分裂をもたらしに来たのです。ゆえに今後は、家に五人の人がいれば分裂し、三人対二人、二人対三人とお互いに対立することでしょう。父は息子に、息子は父に、母親は娘に、娘は母親に、姑は嫁に、嫁は姑に、それぞれ対立し合うことでしょう。(ルカ 第十二章 49-53)


十一、優しさの具現化、隣人に対する愛を教えて止むことがなかったイエスが「平和をもたらしに来たのではなく、分裂をもたらしに来た。父親から息子を絶ち、夫から妻を絶ちに来た。地上に火をもたらし、それが早く燃え上がることを望む」と本当に言った可能性があるのでしょうか。

これらの言葉は、その教えに明らかに矛盾していないでしょうか。イエスに血なまぐさい征服者や破壊者の言葉を帰することは冒涜ではないでしょうか。いいえ、冒涜でも矛盾でもありません。

なぜなら、その言葉を発したのはまさにイエス本人であり、そこに高い英知の存在が証明されています。ただ、多少曖昧で、表現の仕方がそこにある考え方を正確に顕していないため、これらの言葉の持つ本当の意味に対して誤解を招いているのです。

文字通りに解釈してしまうと、すべてが平和をもたらすためにあるイエスの使命を、動揺と不和をもたらすものに変えてしまうことになりますが、それはばかげた結論であり、イエスの言うことに矛盾が生じるはずはないため、良識はこの結論を拒むのです。(→第十四章 6)

 
十二、どんな新しい考えも、いやおうなく反対者に出会い、戦うことなくして根付くことはありません。そうした時、その抵抗の強さは常に、予期される結果の重要性に相応しています。なぜなら、重要であればあるほど、それによって損害を受ける者の数は多いからです。

もしある新しい考えが明らかに誤っているものであれば、それが重大な結果をもたらすことはなく、誰もそれに注意を払いません。その考えに活力が欠けていることを確信するため、人々はその考えをそのまま放っておきます。

しかし、もしそれが本物で、確固たる基礎にもとづき、その未来が予見できるものであれば、自分たちが維持に努めている事柄の秩序や、自分たちの存在に危機を与えるのではないかという反対者の内なる予感が、反対者たちに注意を喚起することになります。すると、その考えやその考えに従う者に対抗し始めるのです。

 このことから、ある新しい考えがもたらす結果やその重要性の度合いは、その考えが登場したことによって生まれた感情、抵抗者たちが引き起こす暴力、反対者たちの憤りの度合いや続き具合によって量ることができます。



十三、イエスは、その当時の聖職者、書記官、ファリサイ人たちの収入源となっていた宗教の濫用を土台から一掃する教義をもたらしに来ました。彼らはそのためにイエスを生贄とし、イエスを殺し、その思想をも消そうとしたのです。しかし、その教義は真実であったため生き続けました。

その教義は、神の意志に応えたものであったために広がり、ユダヤの世に知られぬ小さな村落で生まれながらも、その旗じるしを多神教の世界の中心地にまで掲げ、確信よりもむしろ当時の関心によって人々が大いに執着していた何世紀にもわたる信仰を覆したために、この教義を打ち消そうと競った最も残忍な敵対者たちに直面したのです。

そこでは最も恐ろしい戦いが信徒たちを待ち受けていました。その犠牲者の数は計り知れません。しかし、その思想は常に広がり、勝利を得ました。なぜなら、それが真実であるがためにそれまでにあった考えを征服していったからです。
        
    
十四、キリスト教が現れた時、異教は衰えはじめ、理性の光と戦っていたことに注意を払うことが必要です。異教は依然として形式的には実践されていました。しかし、その信仰はすでに消えていました。個人的な利害のみが異教を支えていたのです。

利害によって動く者は頑固で、証拠を前にしても譲歩することはありません。彼らに対立する議論がその誤りを決定的に明らかにすればするほど彼らは苛立ちます。そして誤っていることを知りながら、そのことは彼らの考えを揺るがすことはありません。

すなわち、彼らの魂には真なる信心は存在しないのです。彼らの恐れるものは、盲目者に視力を与える光なのです。誤った考えは、彼らにとって使い道がありました。だからそれに固執し、それを守ったのです。

 ソクラテスの教義は、ある範囲まで、キリストの教義と同様でありませんでしたか。では、なぜソクラテスの時代に、彼の教義は地球上の最も知性的な人々の間で優勢にならなかったのでしょうか。

それはまだ期が熟していなかったからです。ソクラテスは耕されていない土地に種を蒔いたのでした。

当時、異教はまだすたれてはいませんでした。キリストはふさわしい時代にその使命を受けました。もっとも、その時代のすべての人がキリストの考えを受け入れる水準にいたるには、多くのものが欠けていたことは明らかです。

しかし、キリストの時代の人々の間には、キリストの考えに同化する素質が一般的にあり、彼らは世俗的な信仰が魂にもたらす空虚をすでに感じ始めていたのです。

ソクラテスとプラトンは道を切り開き、霊たちを事前に準備したのでした。(→序章Ⅳ ソクラテスとプラトン。キリスト教思想及びスピリティズムの先駆者たち)


十五、残念なことに、新しい教義の信徒たちは、多くの場合、たとえ話や言葉の比喩に暗示された師の言葉の解釈を理解することができませんでした。そのために、すぐに多数の宗派が生まれ、それぞれが排他的に真実の主となろうとし、十八世紀という年月さえ、それらを合意させるには十分ではなかったのです。

神の教えの最も大切な部分であり、イエスがその建築の柱石として据えた、慈善、兄弟愛、隣人愛といった救いの確実な条件を忘れると、そうした宗派はお互いを異端とし合い、責め合い、強いものは弱いものをつぶし、それらを血に染め、拷問を与えたり、火あぶりにしたのです。

異教に対して勝者となったキリスト教徒たちは、それまで迫害されていたのが、自らが迫害者となってしまったのです。キリスト教徒と異教徒の二つの世界において汚点のない子羊たちの十字架を建てるために、鉄と火が用いられたのです。

宗教戦争は政治戦争よりも多くの犠牲者を出しており、より残酷であったということは誰もが知る事実です。その他の戦争においても、これほどまでの残虐行為や非情な行為はありませんでした。

 その責任はキリストの教義にあるのでしょうか。明らかにそうではありません。なぜなら、キリストの教義は暴力を非難するものであるからです。イエスがその使徒たちに、あなたたちと同じようには信じない者を殺害し、全滅させ、焼き払いに行きなさいと言ったことがあったでしょうか。ありません。

反対にイエスは使徒たちにこう言いました。「全人類は兄弟であり、神は至上の慈悲である。隣人を愛しなさい。あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを迫害する者に善を尽くしなさい」。

また、同じように使徒たちにこう言いました。「剣によって人を殺した者は剣によって殺されます」従って、その責任はイエスの教義にあるのではなく、教義を偽って解釈し、自分たちの情熱を満足させるための道具と化した人々にあるのです。

「私の国はこの世のものではありません」という言葉を軽んじた人たちの責任なのです。

 イエスの深い英知には、将来起こりうる出来事に対する先見の明がありました。しかし、そうした出来事とは人類の不完全な性質に帰するものであり、その性質を急に変化させることはできないため、避けることができなかったのです。

キリスト教はこうした長くて残酷な試練を十八世紀の間も受けながら、その力を示さねばならないのでした。しかし、その名によってあらゆる悪が行われたにもかかわらず、キリストの教えは純粋に保たれています。議論の対象となったことがありません。

非難はいつも教えを濫用した者たちの上に降りかかりました。あらゆる狭量の行為に対して、このように言われてきました。「もしキリストの教えがより正しく理解され、実践されていたなら、そのようなことは起こり得ない」と。


十六、「私が地上に平和をもたらしに来たと思ってはなりません。平和をもたらしに来たのではなく、分裂をもたらしに来たのです」とイエスが言った時、その考えは次のようなものでした。

「私の教義が平和のもとに確立すると信じてはいけません。それは私の名のもとに流血の戦いをもたらすでしょう。なぜなら人類は私の考えを理解できないか、あるいは理解したがらないからです。

それぞれの信仰に応じて分裂して兄弟たちはお互いに対して剣を抜き、同じ信仰を分かち合うことのない一つの家族の中には分裂が支配します。

害をもたらす植物を絶やすために野に火を放つのと同じ方法で、偏見を持った者たちの過ちを消滅させるために、私は地上に火を放ちに来たのであり、浄化が早く進むためにその火が早く燃え上がることを望んでいます。

 闘争の後、真実が勝者となるのです。戦いは平和に、分裂の憎しみは全世界の兄弟愛に、狂信の闇は理性的な信心の光に譲ることになります。やがて土地の準備ができたら、私は慰安者である真実の霊を送ります。真実の霊はすべてのものを再建しに、すなわち、私の言葉の真なる意味を教えに来ます。

それにより、より教養のある人々も理解することができるようになり、同じ神の子供たちを分裂させる兄弟殺しの戦いに終止符を打つことになるのです。家族の核心にまで荒廃と動揺ばかりをもたらす、結末のない戦いにようやく疲れ、人類はこの世とその先の世における本当の関心事がどこにあるのかを知るようになるでしょう。

人類はその平安の敵や仲間がどこに居るのかを知ることができるでしょう。そしてすべての者が一つの旗のもとに集まることになります。その旗とは慈善であり、私があなたたちに教えた原則と真実に従って、地上の物事は再建されることになるでしょう」。


十七、スピリティズムは、予期された時代に、キリストの約束を守るために現れました。しかし、あらゆる事柄の濫用を打ち崩すことなくそれを行うことはできません。イエスの時と同じように、スピリティズムは自尊心、エゴイズム、野心、貪欲、盲目的な狂信に直面しますが、それらを最後まで追い詰めると、妨害や迫害を扇動することになります。

ゆえに、スピリティズムも戦わねばなりません。しかし、争いや流血の迫害の時代は終わりました。苦しまねばならないそれらの戦いとは、すべてが道徳的秩序の上に立った戦いであり、その終わりも近い将来には来るでしょう。

最初の戦いは何世紀にも及びました。今度の戦いは何年間しか続くことはありません(→和訳注1)。なぜなら、その光は唯一の光源から放たれるのではなく、地球上のあらゆる地点で現れ、盲目者たちの目をすぐに開いてくれるからです。



十八、したがってこうしたイエスの言葉は、その教義が引き起こす怒りや、それが原因となって引き起こされる一時的な闘争、約束された土地に到着する前にヘブライ人たちにあったような、確固たる地位を得るために耐えぬかねばならない戦いについて言っているのだと理解しなければならず、

先に考えられたように、イエスの言葉が無秩序と混乱を広めようとするものであると理解してはいけないのです。悪は人類から生じるのであり、イエスは治療のために現れた医者のような存在です。しかしその薬は有益な危機をもたらし、病める者の悪しき体液を攻撃するのです。

●和訳注1
 スピリティズムが世に登場して間もない十九世紀後半当時、1861年のスペインでの焚書事件のように、スピリティズムはさまざまな方面から迫害を受けました。それから150年以上たった今日、スピリティズムを支持する人々は世界中に広がっています。

Friday, April 4, 2025

シアトルの春   神が結び合わせたものを引き離してはなりません

What God has knit together, we must not pull apart.
Le Spiritism  Allenardec 

「スピリティズムによる福音」  
アラン・カルデック著  
角 智織訳


解消してはならない結婚

一、ファリサイ人たちがイエスのみもとにやって来て、イエスを試みようとして言った、「何か理由があれば、妻と離別することは律法にかなっているでしょうか」。

イエスは答えて言われた、創造主は、はじめから人を男と女とに造られて、『それゆえに、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、二人の者が一体になるのだ』と言われたのです。それを、あなたたちは読んだことが無いのですか。

それで、もはや二人ではなく、一人なのです。だから、人は、神が結び合わされたものを引き離してはなりません」。

彼らはイエスに言った、「ではモーゼはなぜ、妻と離別する時は離縁状を渡すように定めたのですか」。イエスは彼らに言われた、「モーゼはあなたたちの心が冷たすぎるので、その妻を離別することをあなたたちに許したのです。

しかし、はじめからそうだったのではありません。誠に言います。妻が姦淫を犯したわけでもないのに、その妻と離別し、別の女を妻にする者は、姦淫を犯すことになるのです。また、夫に見放された妻をめとる者も姦淫を犯すことになるのです」。(マタイ 第十九章 3‐9)


二、神から来るもの以外に、普遍的なものは存在しません。人間によってつくられたものはすべて、変化する運命にあります。自然の法則は、いつの時代も、どの国においても同じです。しかし、人間のつくる法は、時代、場所、知性的発展によって変化します。

結婚というのは、その法により夫婦の性が結ばれることを神が定めたもので、その結果、死すべき運命にある人間は新たな生命を与えられることになります。しかし、結婚を規定する条件はあまりにも人間的に決められており、国によってさまざまです。

キリスト教の中でも、まったく同じように取り決める国は二つとなく、また時の流れとともに変更を余儀なくされなかったものは一つもないのです。

民法においては、ある国である時代に合法的とされたことが、他の国で別の時代には違法となり得ます。なぜならば、民法とは家族的な利害を調整することを目的としたものであり、そのような利害は、地域の習慣や必要性によって違ってくるからです。

ある国においては宗教的な結婚だけが法的に認められ、他の国では民法上の結婚だけで十分だということがありますが、これはその一つの例です。


三、しかし、夫婦の性の結びつきを定めるものには、どの国にも同じように人間の法が存在するのと同時に、他のすべての神の法と同じように、普遍の道徳的な神聖なる法、すなわち、愛の法が存在します。神は肉体の上だけではなく、魂の上でも、人間同士が結びつくことを望んでいるのです。

それにより夫婦がお互いの愛をその子どもに伝え、一人ではなく二人でその子どもを愛し、育て、子どもの進歩を助けることができるよう望んでいるのです。普通の結婚では、この愛の法は考慮に入れられているでしょうか。

いいえ、二人がお互いを引きあう気持ちは少しも考慮に入れられてはいません。だから、この気持ちは多くの場合途絶えてしまうのです。そのような結婚で求められているものは心の満足ではなく、自尊心、虚栄心、欲望の満足、つまり、物質的な関心事の満足です。

こうした関心にもとづいてすべてがうまくいくと、結婚とは都合の良いものだと考えられるのです。夫婦の両方が経済的にうまく釣り合っていると、その夫婦は同じように調和し合っており、幸せに違いないと言われるのです。

 しかしどのような民法の規定も、またそのもとに約束されたいかなる決め事も、愛の法が二人の結びつきをつくっているのでなければ、それに勝ることはできません。そのため、しばしば、強制的に結ばれたものは自然と離れていきます。

祭壇の前で単なる決まり文句として宣誓の言葉を唱えたのであれば、その言葉は偽証の言葉となってしまいます。不幸な夫婦の結びつきとはそのようなものであり、罪深いものとなるのです。

これは、結婚する条件として、神の目に認められる唯一の法である愛の法を忘れることが無ければ防ぐことの出来た二重の不幸です。

神が「二人は結ばれて一体となる」と言い、イエスが「神が結び合わされたものを引き離してはなりません」と注意したことは、普通の神の法にもとづいて理解されるべきものであり、人間によってつくられた不安定な法にもとづいて理解されるべきことではありません。


四、では民法は不必要で、自然の結婚に戻らねばならないでしょうか。もちろん違います。民法は、その文明の必要性に応じて、家族的な利害や社会的な関係を調整するために存在するのです。

だから民法は、役に立つ、なくてはならないものである一方で、変化しやすいものなのです。民法は社会の変化を見越したものでなければなりません。なぜなら、人間は野蛮人のように生きていくわけにはいかないからです。

しかし、その民法が神の法に沿ったものとなることを妨げるものは何もありません。神の法に従うための障害となるのは、民法の中ではなく、人々の持つ社会的偏見の中に存在します。その偏見は、とても根強いものですが、この世の高尚な人々はもはや偏見に支配されていません。

道徳的に進歩していけば、偏見も消滅していき、人間は物質的な関心だけによって結ばれることから生じる無数の悪、過ち、罪に対し、目を開くことになるのです。

そしていつかは、共に生きることができない二人の人間を結び止めておくことと、各々が自由を取り戻すのと、どちらがより道徳的、人間的、慈善的だろうか、と問いただすことになるのです。取り消すことのできない拘束が、不正な結婚を増やすことになるのではないかと。


 離婚
五、離婚は人間の法律によって決められたもので、その目的はすでに実際に離別しているものを法律上離別させることにあります。それは神の法に違反することではありません。

なぜなら、離婚とは人間が定めた関係を正すものに過ぎず、神の法が考慮されていなかった場合にのみ適用されるものだからです。もし離婚が神の法に反していたなら、権威と宗教の名において、多くの離婚を決定してきた教会の指導者のことを、教会自体が背任者であると判断しなければならなくなってしまいます。

一方、そうした離婚も愛の法に則るのではなく、物質的関心だけによって決定されていたのであれば、それは二重の裏切りをしたことになってしまいます。

 イエスさえも、結婚が絶対に引き離してはならないものであるとは言ってはいません。「モーゼは、あなたたちの心が冷たすぎるので、その妻を離別することをあなたたちに許したのです」とイエスは言いませんでしたか。

結婚の唯一の動機となる相互の愛がないのであれば、離別することも必要となるということが、モーゼの時代から続いているのだということがこのことからわかります。

しかし、イエスは「はじめからそうだったのではありません」と付け加えています。つまり人類はその起源においては、エゴイズム、自尊心によって堕落しておらず、神の法に従って生きており、その頃の夫婦の関係は虚栄心と野心によってではなく、お互いの好感によって結ばれており、離別の原因となるものは存在しなかったのです。

 イエスはさらに、離別を正当であると考えることができる場合を的確に示しています。それは姦淫が行われた場合です。しかし姦淫は、夫婦相互の誠実な愛が支配する関係が成り立っているところには存在しません。姦淫し、離縁された妻と結ばれることは禁止されています。

しかし、それを理解するには、その時代の習慣と人々の特徴を考慮に入れなければなりません。モーゼの法は、姦淫した者を死刑に処していた習慣を捨て去ろうとして規定されたのです。

ある野蛮な習慣を廃止するには、それに代わる罰則をつくる必要がありましたが、モーゼは二度目の結婚を禁止することによって受ける不名誉をその罰則としたのです。

すべての民法が時の流れとともに変遷していく運命にあるように、一つの法が別の法に置き換えられて行く必要があったのです。

シアトルの春 死んだらどうなるか

What happens when you die

Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor


 ある日の交霊会で死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。この中でシルバーバーチは最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上とそっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。

───幽界がこの世とそっくりであるというのが私には理解できないのですが・・・・・・。

 「地上界の次の生活の場は地上の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に耐え切れないショックを与えるでしょう。ですから、霊界への導入はやさしい段階をへながら行われることになります。こちらへ来てすぐの生活の場は地上と非常によく似ております。自分の死んだことに気づかない人が大勢いるのはそのためです。

 こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念の世界ですから、思念が生活と活動の表現のすべてに形態を与えます。

他界直後の世界は地球のすぐ近くにあり、ものの考え方がきわめて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現もきわめて土臭く、考えることが全て物的感覚によって行われます。

 そういう人たちは〝物〟を離れて存在を考えることができません。かつて一度も生命というものが物的なものから離れた形で意識にのぼったことがないのです。霊的な活動を心に思い浮かべることができないのです。精神構造の中に霊的なものを受け入れる余地が無いのです。 

ですが幽界(※)の生活にも段階があり、意識の開発と共に徐々に、着実に、土臭さが取れていきます。そして生命というものが物的な相を超えたものであることが判りはじめます。

そして自覚が芽生えると次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。こうして死と誕生(に相当するもの)が何度も繰り返されるのです」

(※ここでは〝物的感覚から脱しきれない世界〟のことを指している。これをシルバーバーチが幽界 astral world と呼んだのは質問者が最初にそう呼んだからで、そこは実質的には〝界〟というよりは〝状態〟という方が当たっている。だから霊的な自覚が出来てから赴く世界をシルバーバーチは〝霊界〟 spirit world とは言わず〝霊の世界〟the world of spirit という言い方をするのである。

仏教で〝成仏した〟というのは自縛的状態から脱して霊的自覚が芽生え、本格的な生活が始まる段階に入ったという意味で、そこから地上で身に付けた霊性に相応しい境涯へ赴くことになる。オーエンの『ベールの彼方の生活』では〝区分けの界〟という呼び方をしているー訳者)


───死後の世界での体験は主観的なのでしょうか客観的なのでしょうか。

 「客観的です。なぜかというと、こちらの世界はそれぞれの界で生活している住民の思念で営まれているからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると自然に離れていきます。成長と向上と進化によって霊的資質が身につくと、自然の法則によって次の段階へ移行するのです(※)。

それぞれの界において立派に客観的生活が営まれています」(※ 『ベールの彼方の生活』によると霊性の向上とともに光明の実在へ次第に近づいていく過程は神秘中の神秘で、人間の言語では説明できないし、そもそも人間の理解力を超えているというー訳者)


───ということは夢の世界ではないということですね。

 「そこを通過してしまえば夢の世界だったことになります。そこに生活している間は現実の世界です。それを夢と呼ぶか呼ばないかは観点の違いの問題です。あなた方も夢を見ている間はそれを夢だとは思わないでしょう。夢から覚めて初めて夢だったことを知り〝なんだ、夢だったのか〟と言うわけです。

ですから、夢が夢幻的段階を過ぎてしまうと、その時の体験を思い出して〝夢だった〟と言えるわけです。ですがその夢幻を体験している間は、それがその霊にとっての現実です」


───すべての人間が必ずその低い界層からスタートするのでしょうか。
 
 「いえ、いえ、それはあくまで何の予備知識も持たずに来た者や、幼稚な者にかぎっての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることの出来ない人の場合です。あなた方が幽界と呼んでいるところは霊の世界の中の小さな区域です。

それは低い境涯から高い境涯へと至る無数の段階の一つに過ぎません。きっちりと周囲が仕切られて存在するのではありません。それを〝界〟と呼んでいるのは、あなた方に理解出来る用語を用いるしかないからです」

(訳者注ー夢の説明で夢を見ている時はそれが現実で覚めれば夢であることを知ると言っているのと同じで、その境涯にいる間は現実に境界があり仕切りがあるように思えるが、霊性が向上してその境涯から脱け出ると、それもやはり夢幻であったことを知る。色即是空は地上だけとは限らない)

 霊界での成長について───

 「一つの界から次の界へよじ登っていくのではありません。自然に成長し、自然に進化していくのです。程度の低い要素が高い要素にその場を譲っていくのです。何度も死に、何度も誕生するのです。幽体は肉体の死と同じ過程で失われていくのではありません。

低級なものが消えるにつれて浄化され精妙になっていくのです。それが幽体の死です。そもそも〝死〟とは変化であり復活であり、低いものから高いものへの上昇です。時間と空間にしばられた地上生活のすべての制約から解放された霊の世界を説明しようとすると、何かと困難に遭遇します。

低いものは高いものを理解できません。有限なるものは無限なるものを包含することはできません。小さい器は大きい器を入れることはできません。奮闘努力の生活の中で理解力を増していくほかありません」


───幽界ではたとえば心臓なども残っていてやはり鼓動するのでしょうか。

 「肉体器官が残っているか否かはその霊の自覚の問題です。もし地上生活のあとにも生活があることを知らず、霊の世界など思いもよらない人であれば、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま残っていて、肉体的機能を続けています───あらゆる機能です」


───では霊の世界についての理解を持った人の場合はどうなりますか。

 「幽体の精妙化の過程がスムーズに進行します。ある器官が霊の生活に不要となったことを自覚すると、その器官が退化し始め、そのうち消滅してしまいます」


───死の直後からそういう現象が起きるのでしょうか。それとも、ゆっくりとした過程なのでしょうか。

 「それも自覚の程度によります。程度が高ければそれだけ調整期間が短くてすみます。忘れてならないことは、私たちの世界は精神的な世界、霊の世界であり、そこでは自覚というものが最優先されるということです。

精神が最高の権威を持ち支配しています。精神が指示したことが現実となるのです。昔から、高級界からやってきた霊のことを〝光り輝く存在〟というふうに述べていて、姿かたちをはっきり述べていないことにお気づきになったことはありませんか。外形というものが無くなっていくのです。つまり形による表現が少なくなっていくのです」


───最後にはどういう形態になっていくのでしょうか。

 「美はどういう形態をしているのでしょう。愛はどういう形態をしているのでしょう。光はどんな形態をしているのでしょうか」


───形態を超越してしまうと色彩が認識の基本になるのでしょうか。

 「その通りです。ただし地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私たちの世界にはあなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。私たちは高級界からの霊の姿が発する光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。

形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです」

 他界した身内の者や友人・知人は姿こそ見えなくても、地上にいた時より一層身近な存在となっていることを説いて、こう述べる。

 「その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じようにあなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らはもはや言葉で話しかけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身の回りにいて何かと援助してくれております。

自覚なさることがあるはずですが、実際はもっともっと密接な関係にあります。彼らはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまでを全部読み取っております。そしてあなた方の魂の成長にとって必要なものを地上的体験から摂取するように導いてくれております。

けっして薄ぼんやりとした、影のような、モヤのような存在ではありません。今なおあなた方を愛し、以前よりさらに身近となっている、実体のある男性であり女性なのです」(このあと死後の生活についての質問と答えが続くが、その部分は第二巻の九章ですでに出ているー訳者)

 「私たちが住む霊の世界をよく知っていただけば、私たちをして、こうして地上へ降りてくる気にさせるものは、あなた方のためを思う気持ち以外の何ものでもないことが分っていただけるはずです。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰れが好き好んで降りてまいりましょう。

 あなた方はまだ霊の世界の喜びを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐ形を持って眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。

 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存じない。そして、なお、死を恐れる。

 〝死〟というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んで初めて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。

なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。しかし一方では私たちの仕事が着々と進められています。霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗闇が後退していきます。

 霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなたがたが〝死んだ〟と言って片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。

  この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。地上の言語のようなぎこちない手段を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。

 金銭の心配がありません。生存競争というものが無いのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。

 地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現出来なくなります。正直言って私は地上に戻るのはイヤなのです。なのにこうして戻って来るのはそうした約束をしたからであり、地上の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持ちがあるからです。そして、それを支援してくれるあなた方の、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。

 死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場も無くなっている状態こそ悲劇です。

 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、果たして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駆け巡り、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。

 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律の一節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。

そのうちあなたがたもこちらの世界へ来られます。そしてその素晴しさに驚愕されるでしょう。

 英国は今美しい季節を迎えています。(この交霊会が開かれたのは五月だったー編者)木々は新緑に輝き、花の香が漂い、大自然の恵みがいっぱいです。あなた方は造化の美を見て〝何とすばらしいこと!〟と感嘆します。

 が、その美しさも、霊の世界の美しさに較べれば至ってお粗末な、色褪せた摸作ていどでしかありません。 地上の誰一人見たことのないような花があり色彩があります。その他小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。

その内あなた方もその美しさをじっくりと味わえる日が来ます。その時あなたはいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ真の意味で生きているのです。

 実は今でもあなた方は毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。

肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識を持って見ることが出来ます。その時全ての記憶がよみがえります」


───死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたこと───多分低い世界だろうと思いますが、それを思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか。

 「低い世界へ引きつけられて行くような人はやはり睡眠中にその低い界を訪れております。が、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。なぜかというと、その人の目覚める界は地上ときわめてよく似ているからです。

死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが粗いからです。高くなるほどバイブレーションが細かくなります」


───朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか。

 「睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界に縛りつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。

その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。なぜかというと脳があまりに狭いからです。小は大をかねることは出来ません。ムリをすると歪みを生じます。それは譬えば小さな袋の中にムリやりに物を詰め込むようなものです。袋にはおのずから容量というものがあります。

 ムリして詰め込むと、入るに入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。

実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。私は〝地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですよ〟と言っておくのですが、どうも思い出して下さらないようです。皆さんお一人お一人にお会いしているのですよ。

そして、あちらこちら霊界を案内して差し上げているんですよ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから。」


───死んでそちらへ行ってから役に立つわけですか。

 「そうです。何一つ無駄にはなりません。神の法則は完璧です。長年霊界で生きてきた私どもは神の法則の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものかといった地上の人間のお粗末なタンカを聞いていると、まったく情けなくなります。知らない人間ほど己の愚かさをさらけ出すのです」


───睡眠中に仕事で霊界へ行くことがありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的ですか。
 
 「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの能力を持った人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。

地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをするというのはその辺に理由があるわけです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。

光のまぶしさにまず慣れなければなりません。闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのにずいぶん時間がかかります。それは赤ん坊と同じです。はいはいしながら進むような状態です。地上の体験を思い出すことはあっても、大半は夢見るような状態で思い出します。

しかし地上での体験も霊界での体験も、一つとして失われることもありません。そのことを忘れないでください。あらゆる思念、あらゆる行為、あなた方の心から発した善意の願いは、必ずどこかの誰かの役に立ちます。その願いのあるところには必ずそれを支援する霊が引き寄せられるからです」


───霊的知識なしに他界した者でも、こちらからの思いや祈りの念が届くのでしょうか。

 「死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でもわれわれは無知と誤解と迷信と誤った教義と神学を無くすべく闘わねばならないのです。

それが霊界での目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれない限り、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかはありません。長い長い休息が必要となるのです。

又、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。反対に人のためによく尽くした人、他界に際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます」


───死後の生命を信じず、死ねばお終いと思っている人はどうなりますか。

 「死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかないわけです。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。つまりどれだけ進化しているか、どれだけ新しい環境に順応できるかにかかっています」


───そういう人、つまり死んだらそれでお終いと思っている人の死には苦痛が伴いますか。

 「それも霊格の程度次第です。一般的に言って死ぬということに苦痛は伴いません。大ていは無意識だからです。死ぬ時の様子が自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」


───善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎を受けますか。

 「私にはその善人とか悪人とかの意味が分りませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有った方がましです。がその人の真価は毎日をどう生きてきたかに尽きます」


───愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では嫁に行くとか嫁を貰うといったことはないと言っておりますが・・・・・・。

 「地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとってはより自由な世界への入口のようなものですから、二人の結びつきは地上より一層強くなります。が二人の男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差がある時は、死と共に両者は離れていきます。

それぞれの界へ引かれていくからです。若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことでなく、成長、進化、発達という形で現われます。つまり形体ではなく魂の問題になるわけです。

イエスが嫁にやったり取ったりしないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上がっておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます」

───死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪が一ばん多いですか。

 「もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌に現われて、霊格が下がるのが分ります。

そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、先ほど言ったように、利己主義の罪と呼ぶよりほかに良い表現が見当たりません」


───死後の世界が地球に比べて実感があり立派な支配者、君主または神の支配する世界であることは分りましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか。

 「霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はおりません。霊界の支配者は自然法則そのものなのです。また地上のように境界線によってどこかで区切られているのではありません。

低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて上へ上へと上昇してまいります」


───地上で孤独な生活を余儀なくされた者は死後も同じような生活を送るのですか。

 「いえ、いえ、そんなことはありません。そういう生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁あるものとの再会もあります」


───シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか。

 「とくに愛着を感じ、慕っている人物には、大抵の場合会うことが出来るでしょう。共感の絆が両者を引き寄せるのです」


───この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか。

 「地上よりはるかに実感があり、しっかりしています。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実体感は味わっておられません」


───ということは地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか。

 「だから言ってるでしょう。地上よりもっと実感がある、と。こちらの方が実在なのですから・・・・・。あなたがたはいわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられて、物質という壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外をのぞいているだけです。地上では本当の自分のホンの一部分しか意識していないのです」


───霊界では意念で通じあうのですか。それとも地上の言語のようなものがあるのですか。

 「意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます」


───急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるでしょうか。

 「魂の進化の程度によって違います」

───呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのですか。

 「魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所───病院なり休息所なり───に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます」


───愛し合いながら宗教的因習などで一緒になれなかった人も死後は一緒になれますか。

 「愛をいつまでも妨げることは出来ません」

───肉親や親せきの者とも会えますか。

 「愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません」

───死後の生命は永遠ですか。

 「生命は全て永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです」

───霊界はたった一つだけですか。

 「霊の世界は一つです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側には必ず霊的表現があるのです」

───その分布状態は地理的なものですか。

 「地理的なものではありません。精神的発達程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます」

───ということは、私たち人間の観念でいうところの界層というものもあるということですか。

 「その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような〝地域〟とか〝層〟が存在します(地球に隣接した幽界の下層界のことー訳者」」

───各界層が地球や太陽や惑星を取り巻いているのでしょうか。

 「取り巻いているのではありません。地理的に分けられているのではありません。球体つまり天体のような形で存在しているのでもありません。宇宙という大きな広がりの中の一部としての生活の場を構成しているのです。

宇宙にはあらゆる次元の生活の場があって互いに重なり合い融合し合っています。あなた方はそのうちの幾つかを知られたわけですが、まだまだご存知ない世界がたくさんあります。地上の天文学で知られていない生活が営まれている惑星が他にいくつもあります」


───各界を構成している成分は地球のようにマテリアルなものですか。(material には〝物質的〟〝実質的〟〝実体のある〟等々さまざまな意味があり、それを観念的に理解していただくために敢えて訳さずにおいたー訳者)

 「私という存在はマテリアルでしょうか。男女の愛はマテリアルでしょうか。芸術家のインスピレーションはマテリアルでしょうか。音楽の鑑賞力はマテリアルでしょうか。こうした質問に対する答えはマテリアルという言葉の意味によって違ってきます。

あなたのおっしゃるのが実感があるのか、実体があるのかという意味でしたら答えは〝イエス〟です。なぜなら霊こそ生命の実在そのものであり、あなた方が物質と呼んでいるもの、すなわち物質の世界はその実在を包んでいる殻にすぎません」


───霊界も地球の電磁場あるいは重力場の影響を受けて地球や太陽と運動を共にしているのでしょうか。

 「私たちの世界は地球の回転の影響は受けません。昼と夜の区別がないのです。エネルギーも地球に生命を賦与している太陽から受けているのではありません。引力は物質だけが受けるのであって、霊的なものは影響を受けません。霊的な法則とは関係がありません」


───霊の動く速さに限界がありますか。

 「私たちスピリットの動きに時間・空間による制約はありません。霊界生活に慣れてくるとまったく制約をうけなくなります。この地球のどの地域でも思念の速さで行き着くことができます。思念が私たちにとって現実の存在なのです。ただし、霊的発達段階による制約は受けます。

その段階を超えたことはできません。霊的成長によって到達した段階より速く動くことはできません。それがその霊にとっての限界ということです。ともあれ、霊的生活での霊自身による制約に過ぎません」(地上のように外的条件による制約はないということ―訳者)


───生命の住む天体には必ず霊界もあるのでしょうか。

 「あなた方が霊界と呼んでいるものも宇宙の霊的側面にすぎません。宇宙はあらゆる界層のあらゆる生命を包含します」

Wednesday, April 2, 2025

シアトルの春   偽キリストや偽預言者が現れるであろう  

There will be false Christs and false prophets





果実によってその木を知る

一、悪い果実を結ぶ木は善くないし、善い果実を結ぶ木は悪くない。このように、果実によってその木を知ることができます。茨からイチジクは採れないし、野ばらからぶどうの房を摘むこともありません。

善人はその心の善き宝より善いものを取り出し、悪人はその心の悪しき宝より悪いものを取り出します。ゆえに口は、心を満たしていることを語るのです。(ルカ 第六章 43-45)


二、中身は貪欲な狼でありながら、羊の毛を被り、あなたたちのもとにやってくる偽預言者たちから身を守りなさい。あなたたちは、その果実によって彼らを見分けることができるでしょう。茨からぶどうを採ったり、アザミからイチジクを集めたりすることができるでしょうか。

そのように、善い木には善い果実が実り、悪い木には悪い果実が実るのです。善い木は悪い果実を生むことはなく、悪い木が善い果実を生むこともありません。善い果実を生まない木はみな切られ、火に投じられてしまいます。

このように、あなたたちは、偽預言者をその果実によって見分けるのです。(マタイ第七章15-20)


三、誰にも誘惑されないように気をつけなさい。なぜなら、多くの者が私の名を語って現れ、「私はキリストである」と言うからです。そして多くの人々を誘惑するでしょう。

 多くの偽預言者が現れ、多くの人々を誘惑するでしょう。そして非道徳がはびこり、多くの慈善が冷めてしまうでしょう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。

 ゆえに、もし誰かがあなたに「キリストがここにいる」とか「キリストがあそこにいる」と言っても絶対に信じてはなりません。あるいは偽キリストや偽預言者たちが現れ、大きな奇蹟や驚くべきことを行い、できれば、選ばれた者たちをも誘惑しようとするでしょう。(マタイ 第二十四章 4,5,11‐13,23、24、マルコ 第十三章 5,6,21,22)
   
℘351    
  預言者たちの使命
四、一般に、預言者には未来を予見する才能があるとされるために、預言と予言は同意語のように認識されています。福音上の意味においては、預言者と言う言葉はより広い意味を持っています。

人類を指導する使命を持ち、不可視の事柄や霊的生活の秘密を人類に示す、神より送られたすべての者を指します。ゆえに、未来を予言することが無くとも預言者であり得ます。それがイエスの時代のユダヤ人たちの考え方であったのです。

そしてそのことから、イエスが最高司祭カイファの前へ連れて行かれた時、書記官や長老が集まって、イエスの頬に唾を吐きかけ、イエスを殴ったり打ったりしながら、「キリストよ、私たちに預言し、お前を打ったのは誰か言ってみろ」と言ったのです。

しかしながら、直感的、もしくは神よりの啓示として未来を予知し、人類への報せを伝える預言者も存在していました。そして予言された出来事が実際に起きたことから、未来を予知することが預言者に属する能力の一つとして考えられていたのです。  


 偽預言者たちの奇蹟 
五、「偽キリストや偽預言者たちが現れ、大きな奇蹟や驚くべきことを行い、できれば、選ばれた者たちをも誘惑しようとするでしょう」。この言葉は私たちに、奇蹟と言う言葉の真の意味を教えてくれています。

宗教学的には、奇蹟もしくは奇跡とは、自然の法に反した特別な現象を意味します。それらすべてを神が神だけが行える業としているため、神が望めばそれを取り消すことができるということは、疑いようもありません。

しかし神が、劣等で非道な者たちに神と等しい力を与える筈はなく、ましてや神が成したことをやり変える権利を与えるはずはないと、私たちの良識は即座に訴えます。

こんな原則をイエスが神聖化したはずはありません。もし、この言葉の文字どおり、悪の霊が選ばれた者さえも騙すような奇蹟を引き起こす力を持ち、神が行うようなことを行えるのであれば、奇蹟や奇跡は神から送られてきた者たちだけの特権ではなくなり、聖人の奇蹟と悪魔の奇蹟を区別するものがないことになってしまいます。

よって、これらの言葉の、もっと合理的な意味を見出すことが必要になります。

 一般の無知な人にとって、原因のわからない現象は、すべてが超自然で、すばらしく、奇跡的な現象となってしまいます。その原因が分かれば、その現象は、それがどんなに特異なものに見えても、自然の法則に適合した現象に過ぎないのだと認識するようになります。

こうして、超自然的な事柄の輪は科学の輪の広がりとともに狭まっていきます。どんな時代にも、自らのためにその野心や利害と支配欲によって、超人的な力の持ち主と言う権威を得ようとしたり、自分を神の使いであると思わせようと、所有するある種の知識を悪用した人々が存在しました。

こうした人々が偽キリストであり、偽預言者なのです。光が広がることによって、彼らは信用を失い、結果的にそうした者たちの数は人類が啓発されるに従って減少していきます。

つまり、人々が奇蹟と考えるようなことを行うことは、神からの使いであるしるしとはならず、誰にでも手の届くなんらかの知識や特別な肉体的能力を発揮させたことによる結果であり、それにふさわしくない者にでも、それにふさわしい者と同様にその所有は禁止されていないのです。

真なる預言者は、その真摯な態度や道徳性によってのみ知ることができます。    

    
 全ての霊を信じてはなりません
六、愛する者たちよ、あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい。なぜなら、世には多くの偽預言者が存在するからです。(ヨハネの第一の手紙 第四章1)


七、霊の現象は、一部の人たちが好んでそう言うように、偽キリストや偽預言者を助長するどころか、反対に、彼らに致命的な一撃を与えます。スピリティズムに奇蹟や奇跡を求めてはなりません。

なぜなら、そのようなものが引き起こされることはないと決定的に宣言しているからです。物理学や化学、天文学や地学が物質世界の法を解き明かすのと同様に、スピリティズムは科学にとっての自然の法則のように、その他の知られざる法則、霊の世界と物質世界の関係を支配する法則を解き明かします。

今日にいたるまで理解されていない現象の一種の法則の解説を提供し、依然として驚異の支配下に存在し続ける事柄を破壊します。

このことから、現象を自分自身の利益のために悪用したいと考え、自分を神より送られた救世主に仕立てようとしても、他人の信用を長い間もてあそぶことはできず、じきに仮面を引き剥がされることになるでしょう。

もっとも、すでに述べたように、そうした現象は引き起こすだけでは何を証明することもありません。使命とは道徳的な影響によって証明されるのであり、それは誰にでも引き起こせることではありません。それが、スピリティズムの科学の発展の結果のひとつです。

ある現象の原因を調べることによって、多くの神秘のベールを剥がすことになります。光よりも闇を好む者だけが、スピリティズムをうち消そうとします。しかし、真実とは太陽のようなものです。最も濃い霧をも消失させるのです。

 スピリティズムは、偽キリストや偽預言者よりもずっと危険な分類、すなわち生きた人々の間ではなく、肉体を失った死者の間に存在する分類について明らかにしています。

それは人を騙す霊、偽善的な霊、高慢な霊、知ったかぶりをする霊たちの分類であり、彼らは地上を後にして幽界へ行くと尊敬される名前を名のり、ありとあらゆるばかげた考えをより容易に受け入れさせようと仮面を被ります。

彼らは霊媒の関係について知られる以前は、直感を与えたり、聴覚に訴えたり、無意識のうちに話をさせる霊媒性といった、より目立たぬ方法を通じて行動していました。

さまざまな時代において、そして特に最近では、キリスト、マリア、その母、もしくは神とまで、自分を称する者の数は相当なものです。聖ヨハネは人類がそのような者たちに気をつけるように、次のように言っています。

「愛する者たちよ、あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい。なぜなら、世には多くの偽預言者が存在するからです」。

スピリティズムは、善霊であることを見分ける、常に道徳的で、決して物質的ではない特徴を示すことによって(→FEB版注1)、私たちが霊たちを試す手段を与えてくれています。それは悪い霊と善い霊を区別する方法で、特に次のイエスの言葉をあてはめることができます。

「悪い果実を結ぶ木は善くないし、善い果実を結ぶ木は悪くない。このように、果実によってその木を知ることができます」。ある木を、そこになる果実の質によって判断するのと同様に、霊はそのなす行いの質によってその善悪を判断することが出来るのです。





  霊たちからの指導

 偽預言者 
八、もし誰かが「キリストがここにいる」と言っても、行ってはいけません。反対にその時は注意してください。なぜなら偽預言者が大勢いるからです。イチジクの木の葉が白くなりはじめるのが見えないのですか。多くの芽が花の咲く季節を待ち構えているのが見えないのですか。

また、キリストは「木を果実によって知る」と言いませんでしたか。ゆえに果実が苦ければ、その木が悪い木であることがわかるでしょう。しかし、もしその果実が甘く、健康的であれば、「悪い泉から純粋なものが出るはずがない」と言うでしょう。

 兄弟たちよ、そのように判断することで、なされた行いを試さなければいけないのです。

神からの力を授かったと言う者が高尚な性格を持った使命のしるしを示すのであれば、つまり、愛、慈善、寛大さ、心を和ませる善意といった、永遠のキリストの美徳を最も高いレベルにおいて有しているのであれば、あるいは、言葉に伴った行動を取っているのであれば、「彼らは真に神より送られてきた」ということができます。

 しかし、蜜のように甘く流れる言葉や、公の広場で祈る長い着物をまとったファリサイ人たちや書記官たちを信じてはいけません。真実を独占しようとする者たちを信じてはいけません。

 そうです。キリストはそうした者たちの間にはいません。その聖なる教義を広め、人々を更生させるためにキリストが送る者は、何よりもまず、模範に従って柔和で謙虚な心を持っています。自らの示す模範と豊富な忠告によって人類を救おうと、不信仰のもとへ走り、歪曲した道のあちらこちらを駆けまわる者は、本質的に謙虚で慎み深いのです。

ほんの少しの自尊心でも示す者からは、さわるものすべてを害す伝染性のある病から逃げるように逃げてください。誰もがその額や、特にその行動に、その偉大さ、あるいはその不完全性のしるしを持ち合わせていることを覚えおいてください。


 私の愛する子供たちよ、だから行ってください。背を向けることなく、隠しごとなしに、選択した恵みの道を歩んでください。いつも、恐れることなく行って下さい。永遠の目的への歩みを止めようとするあらゆるものから、注意深く遠ざかってください。

旅人たちよ、永遠の法を啓示し、謎に対するあなたたちの魂の抱くあらゆる願望を満たしてくれる、この優しい教義に心を開くのであれば、試練の痛みと闇の中にいる時間はあと少しだけとなります。

あなたたちの夢の中に一時的に姿を見せ、心には訴えなくとも霊を魅了して去って行く敏速な妖精たちは、実際に存在するのです。愛する者たちよ、もはや死は消滅し、あなたたちの知る光を放つ天使、新しい出会いと再結合の天使にその場所を譲ったのです。

創造主がその被造物に託した使命を正しく遂行したあなたたちは、その正義に対してなにを恐れる必要もありません。なぜなら、彼は慈悲を嘆願する迷える子供たちをいつも赦してくれる父であるからです。だから、止まることなく進み続けてください。

進歩をあなたたちの標語として掲げてください。あらゆるものにおける継続的な進歩を遂げ、最後には、あなたたちの先を行った者すべてが待っていてくれる、幸福な旅の終結を迎えることができますように。(ルイ ボルドー、1861年)



 真なる預言者の特徴 
九、「偽預言者は信じないこと」。この忠告はどの時代においても有益ですが、現代のような人類に変化が起こる変遷の時代においては特に有益で、それは、そのような時代には野心に満ちた策略家たちの大群が、変革者や救世主と自称するからです。

そしてこうしたペテン師たちからは身を守らなければならず、正直な者にはみな彼らの化けの皮を剥がす義務が生まれるのです。あなたたちはきっとペテン師たちをどうすれば知ることが出来るかと尋ねるでしょう。それを示したものがここにあります。

 唯一、自分の軍隊を指揮することのできる有能な将校だけがそうすることができるのです。あなたたちは神が人間よりも慎重さに劣っていると考えるのですか。

神はその任務を遂行する能力があると分かっている者にしか重要な使命を託すことはないのだということを確信してください。なぜなら、偉大なる任務と言うのは重たい衣装のようなもので、それを身につける力に乏しい人間はその任務に押しつぶされてしまうからです。

あらゆることにおいて、師はその弟子よりも多くを知っている必要があります。人類を知性的、道徳的に進歩させるには、知性と道徳性において優れた人が必要なのです。

それゆえに、こうした使命のためには、過去の人生でその試練を果たしてきている、すでに進歩した霊がいつも選ばれますが、というのも、もし行動する環境の中においてより優れていなかったら、その行動が周りに及ぼす結果は皆無となってしまうからです。


 これらのことから、神より送られた真の使節と言うのは、その優位性、その美徳、その偉大さ、そのなす行いの持つ道徳的影響力、その託されているという使命の内容によって、それを証明するのであると結論づけなければなりません。次のことも導きだしてください。

もし、神より送られたと主張する者が、その性格、その美徳、その知性において、その持つ役割や名のる人物よりも劣っているのであれば、それは自分で選んだモデルをまねることさえも知らぬ、程度の低いペテン師に過ぎないのです。

 もう一つの留意点があります。神より送られた真なる使節は、ほとんどの場合、自分がそうであることさえ知りません。彼らはその才能の力によって呼ばれたその使命を遂行し、嫌々ながらも、彼らを導き元気づける見えざる力に助けられますが、あらかじめ考えられた計画は存在しません。

一言で言えば次のとおりです。真なる預言者たちはその行いによってそうであることを示し、そうであることを推測させることができます。一方で、偽預言者たちは自らが神より送られた者だということを示そうとします。

前者は慎み深く謙虚です。後者は自尊心が強く、自信過剰で、偽善者たちがそうであるように高慢な態度で話し、自分を信じてもらえないことを常に恐れているようです。

 こうしたくわせ者たちの幾人かは、キリストの使徒となりすまそうとしたり、キリスト自身になりすまそうとしたりしましたが、恥ずかしいことにも人類の中には、そうした醜行をすっかり信じてしまった人がいました。

しかし、実に単純な思考を巡らせば、盲目者たちの目を開くには十分です。それは、もしキリストが地球上に再生したとすれば、その力とその美徳によってそのことは明らかになるはずだということです。もっとも、キリストが退化したというばかげた考えを認めるのであれば話は変わりますが。

同様に、もし神からそれに帰属するものを一つでも取り去ったとすれば、もはや神は存在しなくなるように、キリストの美徳のうち、たった一つでも取り去るのであれば、それはもはやキリストではなくなります。

「キリストとしてのあらゆる美徳を有しているだろうか」。ここが問われるところです。

彼らを観察し、その考えや行動を分析すれば、何よりもまず、彼らにキリストを特徴づける性格である謙虚さや、慈善が欠けていることがわかり、キリストの有していなかった質である愚かさや自尊心といったものに彼らが支配されていることが分かります。

現在、さまざまな国において、キリストになりすました者、エリアになりすました者、聖ヨハネや聖ペトロになりすました者が多く存在していますが、その誰もが絶対に本物であり得ないことを十分に承知し、彼らが単に他人の信心を利用し、彼らに耳を傾ける人々に頼って生きることが都合が良いと考えている者たちに過ぎないのだということを確信してください。

 ゆえに、現在のような革新の時代には特に、偽預言者たちを疑ってください。なぜなら多くのペテン師たちが、自分が神から送られたというからです。彼らは地上でその虚栄心を満足させようとしているのです。しかし、恐ろしい正義が彼らを待ち受けていることをあなたたちは確信してください。(エラストゥス パリ、1862年)


 幽界における偽預言者たち
十、偽預言者たちは人間の間にばかり存在するのではありません。さらに多くの数の偽預言者たちが自尊心の強い霊たちの間におり、愛と慈善に見せかけながら不和の種を蒔き、霊媒に受け入れられた後、人類にばかげた主義を植え付けようとし、人類の解放の一大事業を遅らせます。

そして騙そうとする相手をさらにうまく魅了し、その理論にもっと重要性を持たせるため、人類が大いに敬意を払ってのみ呼ぶ名前をためらいもなく名のります。

 彼らこそが人類の間に存在するさまざまなグループの間に敵意の原因を広め、個々に孤立し、お互いに警戒し合うようになるように強いるのです。そのことだけでも正体を暴くには十分です。

なぜなら、そのように行動することによって、彼らこそが最初にその意図をはっきりと打ち消すことになるからです。すなわち、そのような粗雑なペテンに騙される人々は盲目なのです。

 しかし、それ以外にもその正体を確認する方法は多くあります。彼らが属するという分類の霊たちはあまり善くないばかりでなく、優れて理にかなっているわけでもありません。では、どうすればよいでしょうか。

彼らを理性と良識のふるいにかけ、何が残るかを見ればよいのです。したがって、人類の悪に対する薬や人類の変革を達成する方法として、幻想的で実現不可能なことや、ばかげたくだらない方法を霊が指示した時には、それは無知でうそつきの霊であるという私に同意してください。

 一方で、個々が必ずしも真実を備えていなくとも、真実は何時も大衆の良識に評価され、そのことが新たな基準となるのだということを信じてください。もし二つの原理が矛盾するのであれば、二つの内のどちらが反響や共感が多いかを確かめることによって、両方の固有の価値の量を知ることができるでしょう。

それ以外にも、信者が次第に減少する教義の方が、信者が継続的に増加する教義よりも信憑性が高いのだと考えるのは不合理であるということはもちろんです。

神は真理がすべてに到達することを望むために、真理を狭い輪の中に託すことはありません。真理をさまざまな違った地点に出現させ、それによってあらゆる場所で闇のとなりに光を存在させるのです。

 孤立と離別を説く、独占的な助言者を装う霊たちに従うことなく拒否してください。彼らはほとんどが虚栄心の強いつまらぬ霊たちで、弱く信心深い人々を騙し、大げさな賛美を尽くさせ、彼らを魅了し、支配しようとします。

彼らは普通、生きている間は社会であれ家庭内であれ、独裁君主となる権力に飢えており、死後も圧制する犠牲者を求めているのです。一般に、神秘で奇異な性格を持った通信や、贅沢な儀式を命じる通信は信じてはいけません。こうした場合には、疑うべき理由が必ず存在します。

 また同様に、人類に対して真理が啓示される時には、真剣な霊媒のいる真剣な団体すべてに通信されるのであって、いうならば、たちどころに通信され、他の団体を排除してこの団体とあの団体だけに通信するというようなことはないということを確信してください。

憑依にあれば、どんな霊媒も完全ではありません。ある霊媒が特定の霊の通信しか受けないのであれば、その霊がどんなに高いレベルを装っても、それは明らかに憑依を示しています。

よって、通信を受けることを特権だと考えたり、迷信的な行いに従う霊媒や団体は、全て疑いようもなく典型的な憑依に支配されており、特に、支配する霊が、生者も死者もが尊ぶべき名によって着飾り、何としてでも衰えを許すまいとするのであればなおさらです。  

 すべての詳細と霊からの通信を理性と論理のふるいにかければ、その過ちや不合理性を拒否するのは容易だということは確実です。一人の霊媒が魅了され、その団体を錯覚させていることもあります。

しかし、他の団体が行う厳格な検証や、実験がもたらした科学、団体の責任者の高い道徳的権威、主要な霊媒が得る通信、理性と最善の霊たちの認証のしるしを持てば、悪意を持った騙す霊の集団から放たれる、うそつきで悪賢い内容に直ちに審判を下せるでしょう(→序章 Ⅱ スピリティズム教義の権威 霊たちによる教えの普遍的管理、「霊媒の書」第二部 第二十三章憑依について)。(聖パウロの弟子エラストゥス パリ、1862年)
        
    
  エレミアと偽預言者たち
十一、万軍の主はこう言われる、「あなたたちに預言をし、あなたたちを騙す預言者たちの声を聞いてはなりません。彼らは、自分たちの心に描くことを公にするだけで、主から学んだことは言わないからです。

彼らは、私を侮る者たちにこう言います、『あなたたちには平和が訪れるでしょう』と。そして、心の堕落してしまった者たちにはこう言います、『あなたたちにはどんな悪いことも起きないでしょう』と」。

 しかし、彼らのうちの誰が、主の忠言を聞いたというのでしょう。彼らのうちの誰が、主を見て、その言うことに耳を傾けたというのでしょう。

「私はこのような預言者を遣わしてはいません。彼らが自ら始めたのです。
 私は彼らにまったく告げてはいません。彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです。

 私は偽りを預言する預言者たちが、私の名を名のり『夢を見た。夢を見た』というのを聞きました。その偽りの預言が、自分たちの心の誘惑に他ならないうそを預言する者たちの心の中に、いったいいつまであるのでしょうか。

 だから、もしこうした人々が、預言者であれ、聖職者であれ、あなたたちに『主の重荷は何ですか』と問うのであれば、このように答えなさい。『主は、あなたたちこそがその重荷であり、遠くへ追いやると言っておられます』と」、(エレミア 第二十三章 16-18、21,25,26,33)
       
 友よ、あなたたちに伝えたいことは、この預言者エレミアの一節のことです。神はその口から言いました。「彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです」。

この言葉は、すでに当時、ペテン師や熱狂者たちが預言の力を濫用し、悪用していたことを明らかに示しています。結果的に、ほぼ盲目的とも言える人々の単純な信心を食いものにし、金、快楽のために預言をしました。

ユダヤの国にはこうした一種の詐欺が一般的であったことから、当時のかわいそうな大衆は、その無知のために善と悪の判断をすることができずにほとんど詐欺師や狂信者に他ならぬ預言者に成りすました者たちに騙され、ばかにされていたということは容易に理解できます。

「私はこのような預言者を遣わしてはいません。彼らが自らはじめたのです。私は彼らにまったく告げてはいません。彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです」と言う言葉以上に重要な言葉はありません。

さらに、「私は偽りを預言する預言者たちが、私の名を名のり『夢を見た。夢を見た』というのを聞きました」と書かれています。ここには、偽預言者たちが詐欺の対象とする人々の信用を食いものにした時の手段が示されています。

いつも信心深かった大衆は、その夢や空想の真実性を確かめようとは思いませんでした。それらを自然であると考え、いつも預言者たちに話してもらおうと招いたのでした。

 預言者の言葉を聞いた後には、使徒ヨハネの賢明な次の忠告を聞いてください。「あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい」。なぜなら、目に見えぬ者たちの間にも、機会があれば人を騙して喜んでいる者たちがいるからです。

騙された者たちとは、おわかりのように十分な用心のない霊媒のことです。疑いもなく、そこには多くの者、特にスピリティズムに接して間もない者が、不幸なことにもつまずいてしまう最大の障害が存在します。

そうしたことには、大いに慎重になることによってのみ、打ち勝てるのだということをあなたたちに証明しています。ゆえに、何よりもまず、善い霊と悪い霊を区別することを学び、あなたたち自身が偽預言者とならないようにして下さい。(守護霊ルオズ カールスルーエ、1861年)

●FEB版注1
 霊の区別の仕方を参照のこと(『霊媒の書』第二部 24章及びその続き)