Wednesday, December 10, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen
4 統一性と多様性

    
    
一九一三年十一月十日  月曜日

 今この地上に立って見上げる私の目に、遥か上方まで、そして更にその向こうまでも、延々と天界が存在するのが見える。私はすでにそのうちの幾つかを通過し、今は第十界に属している。

これらの界は地上の〝場所〟とはいささか趣を異にし、そこに住む霊の生命と霊力の顕現した〝状態〟である。貴殿はすでにこうした界層についてある程度の教示を受けている(第一巻・六章)ので、ここではそれについて述べることは控えたい。

それよりも私は別の角度からその光と活動の世界へ貴殿の目を向けさせたいと思う。これよりそれに入る。

 善なるものには二つの方法によって物事を成就する力が滞在している。善人は、地上の人間であれ霊界の者であれ、自分の内部の霊力によって、自分より下層界の者を引きあげることが出来る。

現実にそうしているのであるが、同時に自分より上層界の者を引き下ろすことも可能である。祈りによってもできるが、自分自身の霊力によっても出来るということである。

 さて、これは神の摂理と波長が合うからこそ可能である。と申すのも、神の創造した環境に自らを合わせることが可能なだけ、それだけその環境を通して働くことができる。つまり環境を活用して物事を成就することが出来るということである。

下層界を少し向上しただけの霊によってもそれは可能であり、その完成品がベールを通してインスピレーションの形で地上へ送り届けられた時、人間はその素晴らしさに感心する。

 例を挙げよう。こちらには地球の存在自体を支えるための要素を担当する霊と、地上に繁茂する植物を受け持つ霊とがいる。ここでは後者の働きの説明となる例を挙げてみる。すなわち植物を担当する霊の働きである。

 その霊団は強力な守護神の配下に置かれ、完全な秩序のもとに何段階にも亘って分担が存在する。その下には更に程度の低い存在が霊団の指揮のもとに、高い界で規定された法則に従って造化の仕事に携わっている。これがいわゆる妖精類(エレメンタル)で、その数も形態も無数である。

  今のべた法則はその根源から遠ざかるにつれて複雑さを増すが、私が思うに、源流へ向けて遡(さかのぼ)れば遡るほど数が少なくそして単純となり、最後にその源に辿りついた時は一つに統一されていることであろう。

その道を僅かに遡ったに過ぎない私としては、これまでに見聞きしたものに基いて論ずるほかはないが、敢えて言わせて貰うならば、全ての法則と原理を生み出す根源の法則・原理は〝愛〟と呼ぶのが最も相応しいものではないかと思う。

何となれば、吾らの理解の及ぶかぎりにおいて、愛と統一とは全く同一ではないにしても、さして相違がないと思えるからである。

少なくとも吾々がこれまでに発見したことは、私の属する界層を始めとして地上界へ至る全ての界層において数々の地域と各種の境涯が生じていくそもそもの原因は、最も厳密な意味における〝愛〟が何らかの形で欠如して行くことにある。

 が、この問題は今ここで論ずるには余りに困難が多すぎる。と言うのは地上の環境に見る多様性の全てが、今のべた崩壊作用の所為(と私には思える)でありながら、尚かつ素晴らしくそして美しいのは何故かを説明するのは極めて困難である。

それを愛の欠如という言い方をせず、統一性が一つ欠け二つ欠けして、次々と欠けていくという言い方をすれば、統一性が多様性へと発展していくとする吾々の哲学の一端を窺い知ることが出来るかもしれない。

 こうした下層界の活動の全てが法則によって規制されているのであるが、それなりの枠内における自由はかなりの程度まで存在する。これまた吾々にとって魅力あることである。何となれば、貴殿も同意することと思うが、その多様性に大いなる美が存在すると同時に、植物的生命を活動させる霊の巧みさにも大いなる美が存在するからである。

 精霊界及びその上あたりの界を支配する法則には私に理解しがたいものがまだまだ数多く存在する。中には理解し得るものもあるにはあるが、こんどはそれを言語で伝えることが至難のわざである。が少しばかり伝えることが出来るものがある。それ以上のことは貴殿自身こちらへ来てから、向上の道を歩みつつ学んで行ってもらうことになろう。

 その一つは、一旦ある植物群の発達の計画を立てた以上は、その主要構成分子と本質的成分はあくまでも自然な発達のコースを辿らねばならないということである。群生する劣位種の影響もその不変の原則内に抑えなくてはならない。たとえばカシの木が計画されると、あくまでもカシの木としての発達を遂げさせなくてはならない。

亜種が発生することはあっても、カシとしての本性を失ったものであってはならない──シダになったり海草になったりしてはならないということである。この原則はこれまで大体において貫かれている。

 もう一つの原則は、いかなる霊も他の部門の霊の働きに干渉し台無しにすることがあってはならないということである。足並みが揃わないことがあるかもしれない。

現にしばしばそういうことがあるのであるが、なるべく一時的変異の範囲に留めるよう努力し、他種の発達を完全に無視することになってはならない。それは絶滅を意味することになるからである。

 故に、同じ科の二つの植物を交配すると、雑種又は混成種、あるいは変異種が出来るであろう。が別の科の植物と交配しようとしても成功しない。が、いずれにしても絶滅という結果にはならない。

 また樹木に寄生植物がからみつくことがある。が、樹木はそれに抵抗し、そこに闘争が始まる。大抵の場合、樹木の方が傷められ敗北を喫する。が、簡単に敗けてはいない。延々と闘いが続き、時には樹木の方が勝つこともある。が霊界において寄生植物の概念を発想し、そして実施した霊が大局においては競り勝っていることが認められる。

 こうして植物の世界においても闘争が続けられているわけであるが、これをベールのこちら側から観察していると実に興味深いものがある。

 さて、ここで、先に少し触れたことで貴殿には受け入れ難いとみたことについて述べておかねばならない。こうした生成造化における千変万化の活動の主な原則は全て私自身の界(第十界)より高い界において、高い霊格と強力な霊力を持った神霊が、さらに高い界の神霊の指揮のもとに計画したものであり、その神霊も又更に高い界の神霊の支配下にあるということである。

 私は今〝千変万化〟と言う言葉を用い〝対立的〟とは言わなかった。これは高い神霊界においては対立関係というものが存在しないからである。存在するのは叡智の多様性であり、それが大自然の美事な多様性となって天界より下界へと下り、ついに人間の目に映じる物的自然となって顕現しているのである。

対立関係が生じるのは大源より発した叡智が自由意志を持つ無数の霊の存在する界層を通過する過程において弱められ、薄められ、屈折した界層においてのみである。

 が、しかし、さまざまな容積を具え、幾つもの惑星を従えた星辰の世界を見て貰いたい。地球の自転と他の惑星の引力によって休みなく満ち引きする大海を見てほしい。また、その地表に押し寄せるエネルギーに反応してさらに重い流動体を動かすところの、より稀薄なエーテルの大気を見るがよい。

更には、無数の形態と色彩をもつ草、植物、樹木、花、昆虫類、さらに進化した小鳥や動物たちの絶え間ない活動──他の種族を餌食としながらも互いに絶滅しないように配慮され、各種属が途上での役目を全うしていくその姿──こうしたことや他のもろもろの自然界の仕組みに目をやる時、貴殿は創造神の配剤の妙に感嘆し、その感嘆は取りも直さずその配下の高い神霊の働きへの感嘆に他ならないことを認めずにはおれないであろう。

 その神の御名において貴殿に祝福のあらんことを祈る。 ♰

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch Edited by Sylvia Barbanell
巻頭言  編者まえがき
一章 二つの世界が交わる場所───ある日の交霊会───


巻頭言
 
 頑固(かたくな)な心、石ころのような精神では真理の種子(たね)は芽を出しません。受容性に富む魂───率直に受け入れ、それが導くところならどこへでも付いて行ける魂においてのみ花開くものです。

 あなたがそのような気持ちになるまでには、つまり真理を魂の中核として受け入れる備えができるまでには、あなたはそのために用意される数々の人生体験を耐え忍ばなくてはなりません。

 もしもあなたがすでにその試練を経ておられるならば、その時点においては辛く苦しく無情に思え、自分一人この世から忘れ去られ、無視され、一人ぼっちにされた侘しさを味わい、運命の過酷さに打ちひしがれる思いをされたことでしょう。しかし魂は逆境の中にあってこそ成長するものです。黄金は破砕と精錬を経て初めてその純金の姿を見せるのです。

 あなたがもしもそうした体験をすでに積まれた方ならば、今手にされている本書の中で私が語り明かす真理に耳を傾ける資格があることを、堂々と宣言なさることができます。しかしそのことは私が語ることのすべてを受け入れることを要求するものではありません。あなたの理性が反撥することは遠慮なく拒絶なさってください。あなたの常識的感覚にそぐわないものはどうぞお捨てになってください。

 私もあなた方と少しも変わるところのない一個の人間的存在です。ただ私は、死後もなお続く人生の道を少し先まで歩んできました。今その道を逆戻りしてきて、あなたが死の敷居をまたいだのちに絶対的宿命として直面することになっている新しい、そしてより広大な人生がどのようなものであるかを語ってあげております。

 どうか謙虚に、そして畏敬の念をもって真理を迎えてやってください。謙虚さと畏敬の念のあるところには真理は喜んで訪れるでしょう。そして、せっかく訪れてくれた真理が少しでも長居をしてくれるよう、手厚くもてなしをあげてください。

真理こそがあなたに自信と確信と理解力と、そして何にもまして、永遠に失われることのない、掛けがえのない霊的叡智をもたらしてくれることでしょう。
                               シルバーバーチ
                                         

 編者まえがき    

 私はこれまでシルバーバーチの交霊会に何百回も出席しているが、その霊言を聞き飽きたという感じを抱いたことは一度もない。 

 三千年前に地上で北米インディアンとしての生涯を送ったというシルバーバーチは、現在では大へんな高級霊であるらしいことは容易に察しが付くが、その本来の霊的位階をけっして明かそうとしない。そのわけは、こうして霊界から戻ってくるのは地上人類のための使命を遂行するためであって、自分を崇めてもらうためではないからだという。

 その使命とは、聞く耳を持つ者に永遠不変の霊的真理を説くこと、これに尽きる。その説くところは常に単純・素朴であり、そして単刀直入的である。宗派や信条やドグマにはいっさい囚れない。

その主張するところはきわめて単純・明快である。すなわち、われわれの一人一人に神の火花───完全なる摂理として顕現している宇宙の大霊の一部が宿っているのであるから、お互いがお互いのために尽くし合うのが神に尽くすゆえんとなるというのである。

 そうした内容もさることながら、シルバーバーチが語るときのその用語の巧みさ、美しさ、流暢さは、初めて出席した者が等しく感動させられるところである。美辞麗句を並べるというのではない。用語はきわめて素朴である。それがいかなる質問に対しても間髪を入れずに流れ出てくる。

それを耳にしていて私は時おり、シルバーバーチが初めて霊媒(編者の主人モーリス・バーバネル)の口を使って語り始めた時のことを思い出すことがある。

 もう二十年以上も前のことになるが、私たち夫婦は、あるスピリチュアリストの招きで、ロンドンでも貧民層が集まっている地域のある家で開かれている交霊会に出席した。第一回目の時は女性霊媒を通じていろんな国籍の霊がしゃべるのを聞いて主人はあほらしいといった気持ちしか抱かなかったが、第二回目の時にいきなり入神させられ、何やらわけのわからないことを喋った。

その時はシルバーバーチとは名のらなかったが、今のシルバーバーチと同じ霊である。そのころはぎこちない英語、どうにか簡単な単語をつなぐことしか出来なかったころのことを思うと、今は何という違いであろう。が、ここまでに至るのには大変な時間と経験を要したのである。

 そのシルバーバーチの道具として選ばれた十八歳の青年霊媒は、その後の用意されている仕事の遂行に備えて、さまざまな試練と訓練を耐え忍ばねばならなかった。その目指す目標はただ一つ───シルバーバーチの語る教説を少しでも遠く広く地上に行きわたらせるための機会をもつことにあった。

 良く知る者から見ればシルバーバーチは良き助言者、よき指導者であると同時に、よき友人でもある。決して人類から超然とした態度を取らず、世俗的な問題や人間的煩悩に対しても深い同情心を見せてくれる。

 当初にくらべてシルバーバーチも性格が発達し深みを増した───というよりは、本来の霊的個性がより多く霊媒を通じて発揮できるようになったといった方が適切であろう。最初のころはふざけっぽく、時には乱暴なところさえ見せながらも、つねに愛すべき支配霊という感じだった。

それが次第に今日の如き叡智に長けた、円熟した指導者へと徐々に〝進化〟してきた。声の質も変化して、今では霊媒の声とはまったく異質のものとなった。

 今でも、続けて出席していないと同一霊であるかどうかを疑うかも知れないほどの異質の側面を見せることがある。が、いつも変わらぬ側面がある。特にユーモアのセンスと当意即妙の応答の才能は少しも変わらない。

 シルバーバーチの霊言はサイキック・ニューズ紙にずっと連載されてきており、書物にもなっている。その間には第二次世界大戦が勃発したこともあって各地の戦地においても読まれている。そして陸軍・海軍・空軍の兵士から、苦悶と苦難と疑問の中にあってシルバーバーチの言葉から何ものにも変え難い慰めと勇気を得ることが出来たとの喜びの手紙が数多く寄せられた。そのうちの一つを紹介しておこう。これは陸軍の一下司官からの手紙で、こう述べている。

〝私はたった今〟 More Teachings of Silver Birch (邦訳シリーズ第五巻)を読み終えたところです。終わりの部分はオランダを転戦中に読みました。その壮麗な説得力とさまざまな疑問に対する明快そのものの応答は深い感銘を受けました。

 ぜひシルバーバーチ霊に、こうした戦地においても霊言が愛読され掛け替えのない影響を及ぼしていることを知っていただきたいと思って筆をとりました。どうかシルバーバーチの努力が今後とも何らかの形で認識されていくことを心から願っております。シルバーバーチ霊に神の祝福のあらんことを!

 私はこうした霊的真理を折ある毎に僚友に伝え、それがこの戦地においてさまざまな波紋を呼び起こしております。私がスピリチュアリズムに関心を抱いて十五年にもなりますが、その測り知れない深さと高さを私の魂が身に沁みて味わったのは、やっとこの一、二年のことです云々・・・。

 同じくシルバーバーチを知り尊敬してきた者の一人として、このたび新たに本書を編纂することになったのも、私にとっては愛の行為の結実に他ならない。その編纂の作業が終わったのは(第二次大戦の)戦乱が終わって間もなくのことだった。(それから二か月後に日本が降伏して全面的に終結する───訳者)

 願わくは戦乱によって傷ついた暗い西欧世界にようやく訪れた平和がシルバーバーチのいう〝新しい世界〟の夜明けであってくれればと祈らずにはいられない。シルバーバーチが〝必ず来ます〟と述べ、そのためにわれわれに求めてきた視野も常にその方角である。そこにおいて初めて真の同胞精神が招来される。シルバーバーチの霊訓の基盤もまたそこにあるのである。
        一九四五年六月  シルビア・バーバネル


 訳者注───この〝まえがき〟の原文はかなり長文のものであるが、他のまえがき、特に第一巻の〝古代霊シルバーバーチと霊媒モーリス・バーバネル〟と重複する部分と、重複しなくてもあまり重要と思えない部分とがあり、それよりは霊言そのものを少しでも多く載せた方がよいとの私の判断で、それらは省いてある。 


一章 二つの世界が交わる場所
───ある日の交霊会───

 その日の出席者は六人だった。ロンドンのアパートの一室で小さなテーブルを囲んで座り、全員が両手をそのテーブルの上に軽く置いた。そしてスピリチュアリスト用に作られた、霊力の素晴らしさを讃える讃美歌を歌っているうちにテーブルが動きはじめる。

 そこでシルバーバーチ霊団の各メンバーがかわるがわるそのテーブルを動かすことによって挨拶した。最も、これは誰であるかが明確に分かるのは二人だけで、それ以外は挨拶の仕方にこれといった特徴はないのであるが、霊団を構成しているのが複数の男性のインディアンと英国人、二人のかつての国教会の牧師、著名なジャーナリスト一人、

アラブ人が一人、ドイツ人の化学者が一人、中国人が一人、英国人の女性が二人であることは分かっている。その全員がテーブルによる挨拶を終わるころには、そろそろ霊媒のモーリス・バーバネルの入神(トランス)の用意が整う。

 トランスは段階的に行われる。軽いトランスの段階でシルバーバーチが〝主の祈り〟を述べ、出席者との間で挨拶ていどの会話を交わす。その間によくシルバーバーチは、霊媒をもっと深くトランスさせたいのでもう少し待ってほしい、と述べることがある。

 いよいよ望み通りのトランス状態になるとシルバーバーチはまず祈りの言葉をのべ、それが速記されていく。その日の祈りは次のようなものだった。


 「神よ。私たちは到達しうるかぎりの高く尊く清きものとの調和を求めて祈りを捧げるものです。私たちはあなたの中に完全なる愛と叡知の精髄と、宇宙の全生命活動を支配する永遠不減の大精神の存在を確信いたしております。小さき人間の精神ではあなたのすべてを捉らえることはできませぬ。それゆえに人間が抱くあなたについての概念は、ことごとく真理の全体像のおぼろげな反映にすぎないのでございます。

 しかし同時に私たちは、全宇宙をその愛の中に抱擁し、規律と不変性をもって、過失も欠陥も汚損もなく統括し支配している絶対的摂理の驚異を理解することはできます。

すなわち、あなたはその叡知によって全存在の一つ一つの側面、活動の一つ一つが管理され、すべてが一つのリズムのある、調和のとれた宇宙機構の中で滞ることなく流動しております。その中にあってあなたの子等はそれぞれの定められた位置を有し、全体に対して必須にして不可欠の役割を演じているのでございます。

 その一つ一つの小さな火花があなたの巨大なる炎の存在に貢献いたしております。私どもは各自に潜在する未熟なる霊の萠芽がその始源であるあなたとのつながりに気づき、永遠に切れることのない霊的きずなによって結ばれていることを悟ることによって、その霊性を存分に発揮することになるよう指導いたしております。

 私たちの仕事は、人間が今発揮している資質よりさらに精妙なる霊的資質を発揮することによって、今は手の届かない高所を目指し、待ち受ける霊の宝庫へ一歩でも近づこうとする向上心を鼓舞すべく、力と知識と叡知の源であるあなたの存在を説くことにあります。

 宇宙には、資格ある者なら自由にそして存分にわがものとすることのできる、莫大な霊的宝庫が存在いたします。そして地上よりはるかに広大な生活の場における新たな体験から生み出された叡知によって、地上世界に光明と豊かさをもたらさんとしている進化せる先輩霊もまた無数に存在いたします。

その活動の障害となるのは偏見と歪曲、迷信と無知、そして人間生活の暗黒面に所属するものすべてが蓄積せるものです。

 私たちは地上世界を知識の照明によって満たし、人間がつねに真理によって導かれ、あなたの愛の存在に気づいてくれることを望んでやみませぬ。そうすることがあなたからの豊かな遺産と崇高なる宿命を悟らせ、手にした真理に則った生活を送らせてあげるゆえんとなるからに他なりませぬ。
 ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます」

 少し間を置いてから一同に向かって───

 本日もこうして皆さんとともに一堂に会し、霊の世界からの私の挨拶の言葉と愛をお届けできることをうれしく思います。前回お会いして皆さんの愛の温もりを感じて以来久しぶりですが、またこの部屋を訪れて霊的仕事の回線をつなぎ、地上の人々のためにお役に立つことができることになりました」

 そう述べてから、まず最初に、しばらく病気のために欠席していた女性に向かって、
 「ようこそお出でになりました。あなたのお姿が見えないと、どうも物足りなく思えるのです」と言うと、その女性が、

 「これはまた有難いお言葉をいただいて恐縮です」 と月並みな挨拶をした。するとシルバーバーチが、

 「いえ、事実を申し上げているのです」 と真剣な調子で述べた。 (訳者注───すぐれた指導霊による交霊会ではレギュラーメンバーは何らかの存在価値を持った者が厳選されている。中にはただ出席して椅子に腰かけているだけで好影響を及ぼす人もいる)

 続いてその女性のご主人で、交霊会の速記係をしている人に挨拶をし、それから二言三言出席者と軽いやり取りをしたあと、いよいよ本題へと入っていく。たとえばその日は次のような話をした。

 「ここにおいでの皆さんは人類全体の役に立つ才能、能力をお持ちの方ばかりです。これまで、その能力ゆえに、さらに豊かな才能を持つこちらの世界の者から援助を受けてこられました。

ぜひその能力を実らせて、代わって皆さんが多くの人々によろこびを与え、さらにその人たちが自分にも世の中の役に立つ資質があることに気づいてくれるようになる───こうしてお互いがお互いにのためにという輪がどんどん広がっていきます。

 世間の中傷を気にしてはいけません。反発に動揺してはなりません。嫌悪の態度を見せられても気になさらないことです。あなた方がこの地上に生を受けたそもそもの使命に向かってひたすら努力している限り、そんなものによって困った事態になることはありません。

 地上世界にはまだまだ奉仕の精神が足りません。絶望の淵にあえぐ人が多すぎます。心は傷つき、身体は病に冒され、解決できない問題に苦悶する人が無数にいます。

 そういう人たちを真理の光の届くところまで連れてきてあげれば、悩みへの解答を見出し、乱れた生活を規律あるものにしようとする心が芽生え、すべての人間が平和と調和の中で生きていける環境作りに意欲を燃やすことになりましょう。

 休暇中に私は、長い間住みなれた界層に戻ってまいりました。そこで多くのことを見聞して、それを出来るだけ皆さんにお分けしてあげるべく、こうしてまた帰ってくるのです。

 そのとき私はあなた方のまったくご存知ない霊たち───私が誇りを持って兄弟と呼び姉妹と呼べる進化せる霊たちからの愛と善意をたずさえてまいります。その霊たちも地上の悩める者、苦しむ者、人生に疲れはてた者のために献身している私の仲間であり協力者なのです」


 こう述べてから、一転してシルバーバーチ一流のユーモアを混じえて、

 「ああ、そうそう、うっかり忘れるところでした。あなた方のことをなかなかしっかりした人たちだと感心しておりました」

 「誰がですか」 と一人のメンバーが聞くと
 「ですから、私が話をしてきた上層界の霊たちです」

 「あなたの〝秘密の参謀(ブレーン)〟ですか」 と、別のメンバーが冗談めかして聞いた。

 「いえ、いえ、そんなんじゃありません。〝父の住処〟にいる人たちです」(訳者注───ヨハネ14・2〝わが父の家には多くの住処がある〟からの引用で、これがキリスト教においてどの程度の現実味をもって理解されているか疑問であるが、 『ベールの彼方の生活』 によると、それが地上を最低界とする広大な宇宙を経綸する〝政庁〟とも言うべき実在の世界であることが分かる。

〝秘密のブレーン〟かと聞かれて〝とんでもない〟といった調子で答えているのは、人間からすれば目に見えないから秘密であるかに思えるだけで、シルバーバーチにすればごく当たり前の現実の世界なのである)

  続いて別のメンバーが友人が他界した話を持ち出すと、

 「この会(の霊団)も最初は小さな人数で始めましたが、その後どんどん数が増えて、今では大所帯となってきました。しかし、いくら増えても、これ以上入れられなくなるようなことはありませんから、ご心配なく」とユーモアを交えて述べた。


 交霊会も終わりに近づいて、シルバーバーチは最後に次のようなメッセージを述べた。

 「私はあなた方のすべてに好意を抱き、これからのちも援助の手を引っ込めるようなことは致しません。そして、きっとあなた方も私に対して好意を抱いてくださり、私の意図することに献身して下さるものと信じております。

どうか、どこのどなたであろうと、私に好意をお寄せ下さる方のすべてに私からの愛の気持ちをお伝え頂き、さらに次のメッセージをお届けください。

 私に対して愛念と思念と善意と祝福をお届けくださる大勢の見知らぬ方々に対して、私は喜びと感謝の気持ちをお伝えしたく思います。私は自分がそういう情愛の運び役であることを誇りに思っております。

それは私がその方たちにとって何らかのお役に立っているからこそであると信じるからであり、たとえ私の姿を御覧になることはなくても、私はその方たちのご家庭へお邪魔していることをご承知ください。実際にお伺いしてお会いしているのです。

 私にとっては愛こそが生活であり、人のために自分を役立てることが宗教であるからです。そうした私の考えにご賛同くださり、同じ生活信条を宗(むね)とされる方すべてを心から歓迎するものです」

 そして最後を次の言葉でしめくくった。

 「さて、みなさん、ほんの僅かな時間でもよろしい、時には日常的な意識の流れを止めて、まわりに溢れる霊の力に思いを寄せ、その影響力、そのエネルギー、永遠なる大霊の広大な顕現、その抱擁、その温もり、その保護を意識いたしましょう。

 願わくはその豊かな恵みに応えるべく日常生活を律することが出来ますように。その中で神の永遠なる摂理に適っているとの認識が得られますように。どうか神の道具としての存在価値を存分に発揮し、豊かな祝福をもたらしてくれた真理の光を輝かせて、人々がわれわれの生活をその真理の模範となすことができますように」

 そう言い終わると霊媒がいつものモーリス・バーバネルに戻り、一杯の水を飲み干して、それで会が終わりとなる。以上がある日のホームサークルであり、いつもこれと似たようなことが行われているのである。

Tuesday, December 9, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen
3 神への反逆



       
一九一三年十一月八日  土曜日

 これより暫しのあいだ貴殿の精神をお借りし、引き続き悪の問題と善との関係について述べたいと思う。善といい悪といい、所詮は相対的用語であり、地上の人間の観点よりすればいずれも絶対的ということは有り得ない。

双方の要素を兼ね具える者にはそのいずれも完全に定義することが出来ないのが道理で、ただ単に、あるいは、主として、その働きの結果として理解するのみである。

 また、忘れてならないことは、ある者にとって善または悪と思えることが必ずしも別の者からみて善または悪とは思えないということである。宗教的教義の違い、民族的思想や生活習慣の違いのある場合にはそれが特に顕著となる。

故に両者の定義の問題においてはその基本的原理の大要を把握することで足れりとし、そこから派生する細部の問題は地上生活を終えたのちに託することが賢明である。

 さて、悪とは法則として働くところの神への反逆である。賢明なる者はその法則の流れる方角へ向けて歩むべく努力する。故意または無知ゆえにその流れに逆らう者は、たちまちにしてゆく手を阻まれる。そして、もしもなお逆らい続けるならばそこに不幸が生じる。

 生成造化を促進する生命は破壊的勢力と相対立するものだからである。故に、もし仮にその強烈な生命の流れに頑強に抵抗し続け得たとしても、せき止められた生命力がいずれは堰を切って流れ、その者を一気に押し流すことになろう。

が、幸いにして、そこまで頑強に神に反抗する者、あるいは抵抗しうる者はいない。故に、吾々神の子の弱さそのものが、実はそうした完全なる破滅を防ぐ安全弁であると言えるのである。

 比較的長期間──往々にして地上の年月にして何千年何万年にも亘って頑固に抵抗し続ける者がいないでもない。が、いかなる人間も永遠にその状態を続けうる者はいない。

そこに父なる創造神が子等の内と外に設けた限界があり、一人として神より見離され永遠に戻れぬ羽目に陥らないようにとの慈悲があるのである。

 そこで、そうした神との自然な歩みから外れた生き方を観たからには、こんどはその反対、すなわち全てが然るべき方角へ向かっている状態に目を向けよう。確かに悪は一時的な状態に過ぎない。

そして全宇宙から悪のすべてが拭い去られるか否かは別として、少なくとも個々の人間においては、抵抗力を使い果たした時に悪の要素が取り除かれ、あとは栄光より更に大いなる栄光へと進む輝かしき先輩霊の後に続くに任せることになろう。

 この意味において、いつかは神の国より全ての悪が清められる時が到来するであろう。
何となれば神の国も個々の霊より構成されているのであり、最後の一人が招き入れられた時は、いま地球へ向けて行っているのと同じように別の天体へ向けて援助と救助の手を差しのべることになろう。吾々の多くはそう信ずるのである。

 こうして地上に降り、今いる位置から吾々の世界と地上との間に掛るベールを透して覗いてみると、一度に大勢の人間が目に入る時もあれば、僅かしか見えない時もある。彼らは各々の霊格に応じてその光輝に差異がみられる。

神より吾々を通して地上界へ流れ来る霊的な〝光〟を反射する能力に応じた光輝を発しているということである。薄ぼんやりと見える者がいるが、彼らはこちらへ来てもそれ相応の、あるいはそれ以下の、薄ぼんやりとした境涯へと赴く。

 それ故、そこにいる者は各自その置かれた環境と雰囲気の中できわめて自然に映ることになる。そこがその人の〝似合いの場所〟なのである。譬え話でもう少し判り易く説明しよう。

仮に闇夜にいきなり閃光が放たれたとしよう。暗闇と閃光の対照が余りに際立つために見る者の目に不自然に映る、閃光は本来そこに在るべきものではなかった。ために暗闇に混乱が生じ、すべてのものが一瞬その動きを止める。

暗闇の中を手探りで進みつつあった者は目が眩んで歩みを止め、目をこすり、しばらくして再び歩み始める。夜行性の動物も一瞬ぎょっとして足を止める。

 しかし同じ閃光が真昼に放たれたとしたらどうであろう。当惑する者は少なく、更にこれを太陽へ向けて放てば陽光と融合して、そこに何の不調和も生じないであろう。

 かくして強い光輝を発する高級霊はその光輝と調和する明るさを持つ高い境涯へと赴く。むろん高級霊の間にもそれなりの差があり、各霊がそれ相応の界に落着く。

反対に霊的体質の粗野な者は、それに調和する薄暗い境涯へ赴き、その居心地良い環境の中で修身に励むのである。むろんそこが真の意味で〝居心地のよい〟環境ではない。

ただ、より高い世界へ行けばその光輝と調和しないために暗い世界より居心地が悪いというに過ぎない。そこに居心地よさを感じるためには、自分の光輝を強めるほかはない。

 地上を去ってこちらへ来る者は例外なく厚い霧状のとばりに包まれている。が、その多くはすでに魂の内部において高い界に相応しい努力の積み重ねがある。そうした者はいち早くより明るい境涯へと突入していく。

 今、遥か上方へ目をやれば、そこに王の道──地球の守護神の王座の坐(ましま)す聖都へ通ずる道が見える。吾らはその道を一歩一歩進みつつある。そして一歩進むごとに光輝が増し、吾々も、そして吾々と共に歩む同志たちも、美と光輝とを増して行く。

その中途において特別の許しを得て、それまで辿ってきた道を逆戻りし、期間はその必要性によって異なるが、地上の者を吾々の辿って来た光と美の道へと導く仕事に携わることができるのは、吾々の大いなる喜びとするところである。

 貴殿の守護霊として私は、貴殿が現在の心の姿勢で臨んでくれるかぎり、吾々霊団と共にこの仕事を続ける所存である。

貴殿はそのつもりであると信じる。が、よくよく心してもらいたいことは、勇躍この仕事に着手はしたものの、新しい真理の光に目が眩み、猜疑心を抱いてより暗い道、つまりは己の魂の視力に相応しい段階へと後戻りする者が多いことである。去る者は追わず。

吾らはその者たちを溜息とともに見送り、新たなる人物、吾々の光輝に耐え得る人物を求める。惜しくも去れる者は、時の経過とともに再び目醒めて戻ってくるまで待つほかはないのである。

 願わくば神の御力によって、貴殿が足を踏み外すことなく、また目を曇らされることのなく進まれることを祈る。たとえ地上の言語で書き表せないことも、少しでも多くを綴ってもらうべく吾らとしても精一杯の努力をするであろう。

貴殿を通じて他の多くの者がそれを手中にし、そこに真理を発見し、なお勇気があれば自ら真理の扉を叩き、その光輝と栄光を手にする。その縁(よすが)となればと願うからである。  ♰

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips
十二章 苦難にこそ感謝を



 「私は霊的な目を通して眺めることができるという利点のおかげで真理のさまざまな側面が見える立場にあります。あなた方は残念ながら肉体の中に閉じ込められているという不利な条件のために、私と同じ視点から眺める事ができません」


 これは今スピリチュアリズムを熱心に勉強しはじめた初心者の夫婦を招いた時に、霊と物質という基本的なテーマについて語るにあたっての前置きである。続けてこう語る。

 「あなた方は物質をまとった存在です。身を物質の世界に置いておられます。それはそれなりに果たすべき義務があります。衣服を着なければなりません。家が無くてはなりません。食べるものが必要です。身体の手入れをしなくてはなりません。身体は、要請される仕事を果たすために必要なものをすべて確保しなければなりません。

物的身体の存在価値は基本的には霊の道具であることです。霊なくしては身体の存在はありません。そのことを知っている人が実に少ないのです。身体が存在出来るのはまず第一に霊が存在するからです。霊が引っ込めば身体は崩壊し、分解し、そして死滅します。

 このことを申し上げるのは、多くの人たちと同様に、あなた方もまだ本来の正しい視野をお持ちでないからです。ご自身のことを一時的な地上的生命を携えた霊的存在であるとは見ておられません。
℘201
身体に関わること、世間的なことを必要以上に重大視される傾向がまだあります。いかがですか。私の言っていることは間違っていますか。間違っていれば遠慮なくそうおっしゃってください。私が気を悪くすることはありませんから…」


 「いえ、おっしゃる通りだと思います。そのことを自覚し、かつ忘れずにいるということは大変難しいことです」と奥さんが答える。

 「むつかしいことであることは私もよく知っております。ですが、視野を一変させ、その身体だけでなく、住んでおられる地球、それからその地球上のすべてのものが存在できるのは霊のおかげであること、あなたも霊であり、霊であるがゆえに神の属性のすべてを宿していることに得心がいくようになれば、前途に横たわる困難のすべてを克服していくだけの霊力を授かっていることに理解がいくはずです。

生命の根元、存在の根元、永遠性の根元は霊の中にあります。自分で自分をコントロールする要領(コツ)さえ身につければ、その無限の貯蔵庫からエネルギーを引き出すことができます。

 霊は物質の限界によって牛耳られてばかりはいません。全生命の原動力であり全存在の大始源である霊は、あなたの地上生活において必要なものをすべて供給してくれます。その地上生活の目的は極めて簡単なことです。死後に待ち受ける次の生活に備えて、本来のあなたであるところの霊性を強固にするのです。

身支度を整えるのです。開発するのです。となれば、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の糧となるのです。

 その一つ一つが神の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も───暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが───克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えられないほどの試練や危機に直面させられることはありません。

その事実を何らかの形で私とご縁のできた人に知っていただくだけでなく、実感し実践していただくことができれば、その人は神と一体となり、神の摂理と調和し、日々、時々刻々、要請されるものにきちんと対応できるはずなのです。

 ところが、残念ながら敵があります───取越苦労、心配、不安と言う大敵です。それが波長を乱し、せっかくの霊的援助を妨げるのです。霊は平静さと自信と受容力の中ではじめて伸び伸びと成長します。日々の生活に要請されるものすべてのが供給されます。物的必需品の全てが揃います」

 ここでご主人が 「この霊の道具にわれわれはどういう注意を払えばよいかを知りたいのですが・・・肝心なポイントはどこにあるのでしょうか」と尋ねる。


 「別にむつかしいことではありません。大方の人間のしていることを御覧になれば、身体の必要性にばかりこだわって精神ならびに霊の必要性に無関心すぎるという私の意見に賛成していただけると思います。身体へ向けている関心の何分の一かでも霊の方へ向けて下されば、世の中は今よりずっと住みよくなるでしょう。」


 「霊を放ったらかしにしているということでしょうか。ということは身体上のことはそうまで構わなくてよいということでしょうか。それとも、もっと総体的な努力をすべきなのでしょうか」

 「それは人によって異なる問題ですが、一般的に言って人間は肉体のことはおろそかにしていません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。あなた方が文明と呼んでいるものが不必要な用事を増やし、それに対応するためにまた新たな慣習的義務を背負い込むという愚を重ねております。

肉体にとって無くてはならぬものといえば光と空気と食べ物と運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにあれこれと必要なものではありません。慣習上、必需品となっているだけです。

 私は決して肉体ならびにその必要条件をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するようにとお願いしているのではありません。私は一人でも多くの人間に正しい視野をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。

まだ自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい霊を具えた肉体だと思い込んでいる人が多すぎます。本当は肉体を具えた霊的存在なのです。それとこれとでは大違いです。

 無駄な取越苦労に振り回されている人が多すぎます。私が何とかして無くしてあげたいと思って努力しているのは不必要な心配です。神は無限なる叡智と無限なる愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。

驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない神の摂理によって支配され規制され維持されているのです。その節理の働きは一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。

今存在する自然法則はかつても存在し、これからも永遠に存在し続けます。なぜなら、完璧な構想のもとに全能の力によって生み出されたものだからです。

 宇宙のどこでもよろしい。よく観察すれば、雄大なものから極小のものに至るまでのあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。

途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥、樹木、花、海、山川、湖どれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節の巡りが生まれているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。

種子を蒔けば芽が出る───この、いつの時代にも変わらない摂理(きまり)こそ神の働きの典型です。神は絶対にしくじったことはありません。あなたがたの方から見放さないかぎり神はあなた方を見放すことはありません。

(訳者注───〝神がしくじる〟という言い方はいかにも幼稚にひびくが、われわれが不安や心配を抱き取越苦労が絶えないということは、裏返せば神の絶対的叡智に対する信仰が不足していることを意味し、これを分かりやすく表現すれば神がしくじるかも知れないと思っていることになる)

 私は、神の子すべてにそういう視野を持っていただきたいのです。そうすれば取越苦労もなくなり、恐れおののくこともなくなります。

いかなる体験も魂の成長にとっては何らかの役に立つことを知ります。その認識のもとに一つ一つの困難に立ち向かうようになり、首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。あなた方もいつかは私達の世界へお出でになりますが、こちらへ来れば、感謝なさるのはそういう暗い体験の方なのです。

視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有難く思えなくても、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明して差し上げることはできませんが、こちらへお出でになればみずから証明なさることでしょう。

 こうしたことはあなたにとっては比較的新しい真理でしょうが、これは大へんな真理であり、また多くの側面をもっています。まだまだ学ばねばならないことが沢山あるということです。探求の歩みを止めてはいけません。歩み続けるのです。ただし霊媒の口を突いて出るものを全部鵜呑みにしてはいけません。

あなたの理性が反撥するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶なさい。理に適っていると思えるもの、価値があると確信できるもののみを受け入れなさい。何でもすぐに信じる必要はありません。あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです

 私たちは誤りを犯す可能性のある道具を使用しているのです。交信状態が芳しくない時があります。うっかりミスを犯すことがあります。伝えたいことのすべてが伝えられないことがあります。他にもいろいろ障害があります。

霊媒の健康状態、潜在意識の中の思念、頑なに固執している観念などが伝達を妨げることもあります。その上に、私たちスピリット自身も誤りを犯す存在だということを忘れてはなりません。死によって無限の知識のすべてを手にできるようになるわけではありません。地上時代より少し先が見えるようになるだけです。

そこであなた方より多くを知った分だけをこうしてお授けしたいと思うわけです。私たちも知らないことが沢山あります。が、少しでも多く知ろうと努力を続けております。

 より開けたこちらの世界で知り得た価値ある知識をこうしてお授けするのは、代わってこんどはあなた方が、それを知らずにいる人々へ伝えていただきたいと思うからです。宇宙はそういう仕組みになっているのです。実に簡単なことなのです。私たちは自分自身のことは何も求めません。

お礼の言葉もお世辞も要りません。崇めてくださっても困ります。私たちはただの使節団、神の代理人にすぎません。自分ではその使命にふさわしいとは思えないのですが、その依頼を受けた以上お引き受けし、力の限りその遂行に努力しているところなのです」 
          
 

   
  解説 〝霊〟と〝幽霊〟 
 
 四章の 「ジョン少年との対話」 に出てくる〝霊〟と〝幽霊〟はどう違うかという質問は、シルバーバーチも〝なかなかいい質問ですよ〟と言っているように、西洋ではとかく誤解されがちな問題であるが、現下の日本の心霊事情を見てもその誤解ないしは認識不足によってとんでもない概念が広がっているので、ここでシルバーバーチの答えを敷延(ふえん)する形で解説を施しておきたい。

 誤解には二通りある。〝霊〟を〝幽霊〟と思っている場合と、〝幽霊〟を〝霊〟と思っている場合である。日本人は何かにつけてそうであるが、霊についても極めて曖昧な概念を抱いている。次に紹介する話はそれを典型的に示しているように思う。

 私も時たま墓地の清掃に行くが、同じ墓園に殆ど毎日墓参する人がいる。その人は先祖は家の根であり、根を培わずして子孫の繁栄はないという信仰から供養を欠かさないのだという話を聞かされたことがあるが、その後またいっしょになった時にその信仰をほじくってやろうというイタズラ心から 「やはり霊というのが存在していて、どこかに霊の世界というのがあるのでしょうね」と聞いてみた。すると案の定、言下にこう言い放った。

 「何をおっしゃるんです。人間この肉体が滅びたらもうおしまいですよ。私はその霊を供養しているだけですよ」

 いったいその霊とは何なのであろう。何かしら得体のしれない、実態の無いものを漠然と思い浮かべているらしいのであるが、そんなものを供養してそれが子孫の繁栄になぜ繋がるのか───そんな理屈っぽいことはみじんも考えないところが、いかにも日本人らしいのである。

 が、先日のテレビで〝心霊相談〟にのっている自称霊能者(女性)が古い先祖霊の供養に言及して「霊の中には一千年でも生きている場合がありますから」うんぬんと述べているのを聞いて私は自分の耳を疑った。どの程度の霊能があるのか知らないが、今紹介したような信心深い平凡人ならまだしも、心霊相談にのるためにテレビに出るほどの専門家(プロ)がこの程度の理解しかしていないことに私は唖然とした。

この自称霊能者にとっては相も変わらず肉体が実在であって、霊は一種の〝名残り〟のようなものとしてどこかにふわっと残っていて、やがて消滅していくものらしいのである。そして多分、大方の日本人が大体そんな風に漠然とした認識しか抱いていないのではなかろうか。

 では一体霊とは何なのか───これはシルバーバーチが繰り返し説いていることなので、ここで改めて私から説くことは控えたい。ただ一言だけ述べておきたいのは、知識を持つことと、それを実感を持って認識することとの間にはかなりの距離があるということである。霊には、実体があるのです、

と言われても、それをなるほどと実感するには、その知識を片時も忘れずに念頭において生活しながら、その実生活の中で霊的意識を高めていくほかはない。その内、ふとしたこと───大自然の驚異を見たり何でもない日常の出来ごとを体験して───あ、そうか、という悟りを得るようになる。

それが本当に分かったということであろう。シルバーバーチが単純素朴な真理を繰り返し繰り返し説くのも、そうした霊的意識の深まりを期待しているからであることを銘記していただきたい。

 次に〝幽霊〟を〝霊〟と勘違いしている場合であるが、 これはシルバーバーチの答えの通りであるが、それに付け加えて言えば、いわゆる心霊写真の大半がその類だということである。

 その説明に先だって認識しておいていただきたいのは、人間の想念というものはその人の人相と同じ形体を取る傾向があるということである。次の例からそれを理解していただきたい。

 私の家によく来ていただいている僧侶───ひじょうに霊感の鋭い方である───が仏壇の前でいつものようにお経を上げている最中に、その僧侶には珍しく途中で詰まってお経が乱れ、ややあってからどうにか普通の調子に戻ったことがあった。

 終わってからその僧が私に、今読経している最中にかくかくしかじかの人相の人が目の前に現われたと言って、その人相を説明した。さらにおっしゃるには、その霊は死者の霊ではなく、まだ生きている人だという。いわゆる生霊である。「何か怨みか嫉妬でも買う様なことをされましたか」と僧侶が私に聞いた。

 私はすぐにピンと来た。確かに思い当たる人がいて、私に嫉妬心を抱いてもやむを得ない事情があった。そのせいか、家族中でなんとなく不調を訴えることが多かったが、その僧の処置ですっかり良くなった。

 恩師の間部詮敦氏は 「念は生き物です」 というセリフをよく口にされ、したがって自分から出た念は必ず自分に戻って来るから、何時も良い念を出すように心がけなさいという論法で説教しておられた。

 私がここでそれを付け加えて言いたいのは、その念はその人の人相、時には姿恰好までそっくりの形体を取る傾向があるということである。これは謎の一つで、なぜだかは分らない。

 よく肉親や知人が枕元に立った夢を見て目を覚まし、後で分かってみると、ちょうどその人が死亡した時刻と一致したという話が語られる。この場合すぐに、その死者の霊が自分の死を知らせに来たのだとか別れを言いに来たのだと解釈され、それがいかにもドラマチックなのでそう思い込まれがちであるが、実際問題として、よほどの霊覚者でないかぎり、死んですぐに意識的に自分で姿を見せるような芸当のできる者はいない。

 これには二つのケースが考えられる。一つはその死者の背後霊が本人を装って姿を見せた場合で、これは意外に多いようである。もう一つはその死者の念が最も親和性の強い人のところへ届き、それがその人の姿かたちを取った場合で、私はこのケースがはるかに多いと見ている。

 心霊写真の中で生気が感じられないものは大半が浮遊している念が感応したか、または地上に残された幽質の殻が当人の念の働きを受けて感応したかである。もちろん実際にその場に居合わせた霊───大抵は自分でこしらえた磁場から脱け出られなくてその辺りをうろついている、いわゆる地縛霊であるが───が親和力の作用で近づいたのがたまたま霊能のある人の写真に写ったという場合もあることはあるであろう。

 反対に生気はつらつとして、まるで地上の人間と変わらないような雰囲気で写っている場合は、霊界の写真技術師の指示を受けてエクトプラズムをまとって出た場合であり、A・R・ウォーレスの 『心霊と進化と』 にはその詳しい説明が出ている。

 幽霊話に出てくるのは大抵地上に残した殻───セミの脱け殻とまったく同じと思えば、よい───が何かのはずみで動き出した場合で、不気味ではあっても少しも恐ろしいものではない。

 よく怪談ものを映画や芝居で演じる場合に奇怪な出来ごとが相次ぎ、話が話だけにいやが上にも恐怖心が煽られるが、それを、例えば四谷怪談であればお岩の亡霊がやっていると考えるのは間違いで、単なるイタズラ霊の仕業、西洋でいうポルターガイストに過ぎない。スタッフの中に霊格の高い人がいたらそういう奇怪な現象は起こらない。その人の守護霊がイタズラ霊を抑えてしまうからである。

 こうした解説を施しながら私はいつも、スピリチュアリズム的霊魂観の普及の必要性を痛感せずにはいられない。
                 一九八六年九月    近藤 千雄

Monday, December 8, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン 

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

2 善と悪


 
       
一九一三年十一月四日  火曜日

 神の恵みと安らぎと心の平静のあらんことを。

 これより述べていくことについて誤解なきを期するために、あらかじめ次の事実を銘記しておいてほしい。

すなわち吾々の住む境涯においては、差し当たり重要でないものはしつこく構わず、現在の自分の向上進化にとって緊要な問題と取組み、処理し、確固たる地盤の上を一歩一歩前進していくということである。もとより永遠無窮の問題を心に宿さぬわけではない。

〝究極的絶対者〟の存在と本質及びその条件等の問題をなおざりにしているわけではないが、今置かれている界での体験から判断して、これより先にも今より更に大いなる恩寵が待ち受けてくれているに相違ないことを確信するが故に、そうした所詮理解し得ないこととして措き、そこに不満を覚えないというまでである。

完全な信頼と確信に満ちて修身に励みつつ、向上は喜ぶが、さりとてこれより進み行く未来についてしつこく求めることはしないということである。それ故、これより扱う善と悪の問題においても、吾々が現段階において貴殿に明確に説き得るものに限ることにする。

それは、かりに虹を全真理に譬えれば、一滴の露ほどのものに過ぎぬし、あるいはそれ以下かも知れないことを承知されたい。

 〝悪〟なるものは存在しないかの如く説く者がいるが、これは誤りである。もし悪が善の反対であるならば、善が実在するごとく悪もまた実在する。例えば夜と言う状態は存在しない──それは光と昼の否定的側面に過ぎない、と言う理屈が通るとすれば、悪なるものは存在しない──実在するのは善のみである、と言う理屈になるかもしれない。が、

善も悪も共に唯一絶対の存在すなわち〝神〟に対する各人の心の姿勢を言うのであり、その一つ一つの態度がそれに相応しい結果を生むに至る必須条件となる。ならば当然、神に対する反逆的態度はその反逆者への苦難と災害の原因となる。

 神の愛は強烈であるが故に、それに逆らうものには苦痛として響く、流れが急なれば急なるほど、その流れに逆らう岩のまわりの波は荒立つのと同じ道理である。火力が強烈であればあるほど、それに注ぎ込まれる燃料と供給される材料の燃焼は完全である。

神の愛をこうした用語で表現することに恐怖を感ずる者がいるかも知れないが、父なる神の創造の大業を根源において支えるものはその〝愛〟の力であり、それに逆らう者、それと調和せぬ者には苦痛をもたらす。

 このことは地上生活においても実際に試し、その真実性を確かめることができる。罪悪に伴う悔恨と自責の念の中でも最も強烈なものは、罪を働いた相手から自分に向けられる愛を自覚した時に湧き出るものである。

 これぞ地獄の炎であり、それ以外の何ものでもない。それによって味わう地獄を実在と認めないとすれば、では地獄の苦しみに真実味を与えるものは他に一体何があるであろうか。

現実にその情況を目の当たりにしている吾々は、神の業が愛の行為にあらざるものは無いと悟って悔恨した時こそ罪を犯した者に地獄の苦しみがふりかかり、それまでの苦しみは本格的なものでなかったことを知るのである。

 が、そうなると、つまり悪に真実味があるとなれば、悪人もまた実在することになる。
盲目は物が見えないことである。が物が見えない状態があると同時に、物が見えない人も存在する。また物が見えないという状態は欠如の状態にすぎない。

つまり五感あるべきところが四感しかない状態に過ぎない。が、それでもその欠陥には真実味がある。生まれつき目の見えない者は視覚の話を聞いて始めてその欠陥を知る。

そしてその欠陥の状態について認識するほど欠如の苦しみを味わうことになる。罪もこれと同じである。暗闇にいる者を〝未熟霊〟と呼ぶのが通例であるが、これは否定的表現ではない。〝堕落霊〟の方が否定的要素がある。

そこで私は盲目と罪とを表現するに〝無〟と言わず〝欠如〟と言う。生まれつき目の見えない者は視力が無いのではない、欠如しているに過ぎないのである。

 罪を犯した者も、善を理解する能力を失ったのではない、欠如しているに過ぎない。譬えてみれば災難によって失明した状態ではなく、生まれつき目が見えない人の状態と同じである。

 これは聖ヨハネが〝真理を知る者は罪を犯すことを能(あた)わず〟と述べた言葉の説明ともなろう。但し論理的にではない。実際問題としての話である。と言うのは、真理を悟って光と美を味わったものが、みずから目を閉じて盲目となることは考えられないからである。

 それ故に、罪を犯す者は、真理についての知識と善と美を理解する能力が欠如しているからである。

目の見えない者が見える人の手引きなくしては災害に遭遇しかねないのと同じように、霊的に盲目の者は、真理を知る者──地上の指導者もしくは霊界の指導霊──の導きなくしては罪を犯しかねないのである。

 しかし現実には多くの者が堕落し、あるいは罪を犯しているではないか──貴殿はそう思うかもしれない。その種の人間は視力の弱い者または不完全な者、言わば色盲にも似た者たちである。つまり彼らは物が見えてはいても正しく見ることができない。

そして何らかの機会に思い知らされるまでは自分の不完全さに気がつかない。色盲の人間は多かれ少なかれ視力の未発達な者である。そうした人間が道を誤らないためには〝勘〟に頼るほかはない。それを怠る時、そこには危険が待ち受けることになる。罪を犯す者もまた然りである。

 が、貴殿は当惑するかもしれないが、一見善人で正直に生きた人間が霊界へ来て、自分を未発達霊の中に見出すことが実に多い。意外に思うかもしれないが、事実そうなのである。

彼らは霊的能力の多くを発達させることなく人生を終え、全てが霊的である世界に足を踏み入れて始めてその欠陥に気づく。知らぬこととは言え、永きにわたって疎かにしてきたことについて、それから徐々に理解していくことになる。

それは色盲の人間が自分の視力の不完全さに気づくことなく生活しているのと同じである。しかも他人からもそうと知られないのである。


──何か好い例をお示し願えませんか。

 生半可な真理を説く者は、こちらへきて完全な真理を説かねばならなくなる。インスピレーションの事実を知る者は実に多いが、それが神と人間とのごく普通の、そして不断の連絡路であることは認めようとしない。

こちらへくれば、代わって自分が──資格が具われば──インスピレーションを送る側にまわり、その時初めて自分が地上時代にいかに多くのインスピレーションの恩恵に浴していたかを思い知る。

こうして彼らはまず自分に欠如した知識を学ばねばならない。向上はそれからのことであり、それまでは望めない。

 さて、悪は善の反対である。が、貴殿も知る通り双方とも一個の人間の心に存在する。そのいずれにも責任をとるのはあくまで自由意志に係わる問題である。その自由意志の本質とその行使範囲については又の機会に述べるとしよう。

 神のご加護のあらんことを。アーメン ♰

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips

十一章 みんな永遠の旅の仲間



 ある日の交霊会で、開会を前にして出席者の間で〝実存主義〟についての議論が戦わされたことがあった。(訳者注───霊媒のバーバネルが入神しシルバーバーチが憑ってくると開会となるが、霊団はその前から準備しているので、シルバーバーチはその議論のようすを全部知っている)

  出現したシルバーバーチがこう述べた。
 「ただ今の議論と真理の本質に関するご意見をとても興味ぶかく拝聴いたしました」

───私たちの意見に賛成なさいますか。それとも的外れでしょうか。

 「いえ、ちゃんと的を射ておられます。みなさんには道しるべとなる知識の用意があるからです。ですが、みなさんも人間である以上各自に歩調というものがあります。進化とは絶え間ない成長過程です。成長は永遠に続くものであり、しかもみんなが同時に同じ段階に到達するとはかぎりません。各自が自分の魂の宿命を自分で成就しなければなりません。

それまでに手にした光明(悟り・理解力)と、直面する困難を媒体として、その人独自の教訓を学んでいかねばなりません。それを自分でやらねばならないのです。他人からいくら知恵の援助を受けることができても、魂の成長と開発と発達はあくまで当人が自分の力で成就しなければならない個人的問題なのです。

 真理は永遠不滅です。しかも無限の側面があります。なのに人間は自分が手にした一側面をもって真理の全体であると思い込みます。そこから誤りが始まります。全体などではありません。進化するにつれて理解力が増し、他の側面を受け入れる用意ができるのです。生命活動とは断え間なく広がり行く永遠の開発過程のことです。真理の探究は無限に続きます。

あなた方はそちらの地上において、私はこちらの世界において、真理の公道(ハイウェー)を旅する巡礼の仲間であり、他の者より少し先を歩んでいる者もいますが、究極のゴールにたどり着いた者は一人もいません。

 不完全さが減少するにつれて霊的資質が増し、当然の結果として、それまで手にすることの出来なかった高度の真理を受け入れることができるようになります。人類のすべてが一様に従うべき一個のパターンというものはありません。神の顕現が無限であるからには神の真理に近づく道にも又無限のバリエーションがあることになります。お分かりでしょうか」

 「分かります。その道にも直接的に近づく道と迂回する道とがあるのではないでしょうか」

 「その通りです。直接的なものと迂回的なものとがあります。が、それはその道を歩む本人の発達程度によって決まることです。直接的な道が歩めるようになるまでは、それが直接的な道であることが読み取れません。環境は当人の魂の本性によって条件づけられています。全生命は自然法則によって規制されています。その法則のワクを超えた条件というものは望めませんし、あなた自身そのワクの外に出ることも出来ません。

 かくして、いかなる体験も、これがあなたの住む地上であろうと私の住む霊界であろうと、ことごとく自然法則によって位置付けられていることになります。偶然にそうなっているのではありません。奇跡でもありません。あなたの進化の本質的核心の一部を構成するものです。そうでないといけないでしょう。常に原因と結果の法則によって織りなされているのです」

 「環境条件が自分の進化と無関係のものによってこしらえられることがありますか」

 「それは一体どういう意味でしょうか」

 「もしかしたら私は明日誰かの行為によって災難に遭うかも知れません」

 「そうかも知れません。が、それによって苦しい思いをするか否かはあなたの進化の程度の問題です」

 「でも、その他人がその様な行為に出なかったら私は災難に遭わずに済みます」

 「あなたは永遠の霊的規範を物的尺度で測り、魂の視点からでなく肉体の視点、言いかえれば今物質を通して顕現している精神だけの視点から眺めておられます」

 「それを災難と受け取るのも進化のある一定段階までのことだとおっしゃるのでしょうか」

 「そうです。それを災難と受け取る段階を超えて進化すれば苦しい思いをしなくなります。苦は進化と相関関係にあります。楽しみと苦しみは両極です。同じ棒の両端です。愛と憎しみも同じ力の二つの表現です。

愛する力が憎しみとなり得ますし、その逆もあり得ます。同じく、苦しいと思わせる力が楽しいと思わせることもできます。あなたの体験の〝質〟を決定づけるのはあなたの進化の〝程度〟です。ある段階以上に進化すると憎しみを抱かなくなります。

愛のみを抱くようになります。苦を感じず幸せばかりを感じるようになります。難しいことですが、しかし真実です。苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなります」


 ここで別のメンバーが 「同じ環境に二人の人間を置いても、一方は愛を持って反応し、他方は憎しみを持って反応します」 と言うと、もう一人のメンバーが 「他人のために災難に遭うということもありませんか。例えばイエスは他人のために災難を受けました」と言う。するとシルバーバーチが質問の意味が分からないと述べるので、改めてこう質問した。

 「あなたは先ほど他人の行為によって自分が災難に遭うこともあり得ることを認められました。他人の苦しみを知ることによって自分が苦しむという意味での苦しみもあるのではないでしょうか。それは無視してもよいのでしょうか。そしてそれは良いことなのでしょうか」

 「少しずつ深みに入ってきましたね。でも思い切って足を踏み入れてみましょう。円熟した魂とは人生の有為転変のすべてを体験しつくした魂のことです。苦しみの淵を味わわずして魂の修練は得られません。

底まで下りずして頂上へはあがれません。それ以外に霊的修練の道はないのです。あなた自ら苦しみ、あなたみずから艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することのすべてに通じて初めて進化が得られるのです。進化とは低いものから高いものへの成長過程にほかならないからです。

 さて、苦しみとは一体なんでしょうか。苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神又は魂が苦痛を覚えた時の状態を言います。が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。

なぜなら各人が置かれる環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません」


 「そうだと思います。私もそういう意味で申し上げたのですが、用語が適切でありませんでした」

 「要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。また、すべきではありません」


 別のメンバー「バイブルにはイエスはわれわれのために苦しみを受けたとあります」

 「バイブルには事実でない事が沢山述べられています。いかなる人間も自分以外の者の為に代って苦しみを受けることはできません。自分の成長を管理するのは自分一人しかいない───他人の成長は管理できないというのが摂理だからです。

贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっち上げた教説の一つです。自分が過ちを犯したら、その荷は自分で背負ってそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。そうやって教訓を学ぶのです。もしも誰か他の者が背負ってあげることが出来るとしたら、過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります。

 苦と楽、悲しみと喜び、平静さと怒り、嵐と晴天、こうしたものがみな魂の成長の糧となるのです。そうしたものを体験し教訓を学んで初めて成長するのです。その時はじめて宇宙が無限なる愛によって支配され、その愛から生み出された摂理に間違いはないとの自覚を得ることができるのです。

〝まず神の国と義を求めよ。さらばそれらのものもすべて汝のものとならん〟(マタイ6・33)というのは真実です。

その心掛けになり切れば、つまり宇宙の摂理に不動の、そして全幅の信頼を置くことができるようになれば、人生で挫折することはありません。なぜならばその信念が内部の霊力を湧き出させ、何ごとも成就させずにはおかないからです。

 その霊力を枯渇させマヒさせる最たるものは〝心配〟の念です。全幅の信頼心───盲目的な信仰ではなく知識を土台とした完全なる信念は、人生のあらゆる体験に心配も迷いも不安もなく立ち向かわせます。

神の子である以上は自分の魂にも至聖所があり、そこに憩うことを忘れないかぎり、自分を焼き尽くす火も吹き倒す嵐も絶対にないとの確信があるからです」


 「すばらしいことです」

 「本当にそうなのです。本当にそうなのです。物質に包まれた人間にはその理解はとても困難です。魂そのものは知っていても、その物質による束縛がどうしても押し破れないのです。しかし、それを押し破っていくところに進化があるのです。

人生問題を霊の目で眺めれば、その一つ一つに落着くべき場がちゃんと用意されているのです。地上的な目で眺めるから混乱と困難と誤解が生じるのです。そこで私たちの出番が必要となります。すなわち霊的真理の光をお見せするのです。

 ナザレのイエスが〝神の御国は汝自身の中にある〟と述べたのは寓話ではなく真実を述べたのです。神は全生命の中心です。宇宙は神が内在するがゆえに存在しているのです。地上のあらゆる存在物も神が内在するからこそ存在しているのです。あなた方もミニチュアの神なのです。

あなた方の心掛け次第でその内部の力が成長し、発展し、開花するのです。その成長の度合を決定づけるのはあなた方自身です。他の誰も代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。

 自分も神であることを自覚なさることです。そうすれば神の御国(摂理)は他ならぬ自分の魂の中にあることを悟られるはずです。それは絶対に裏切ることがありません。無限の補給源である神の摂理に調和した生き方をしているかぎり、何一つ不自由な思いも空腹も渇きも感じなくなります。といって必要以上のものはいただけません。

魂の成長の度合にふさわしいだけのものが与えられ、それより多くも、それより少なくも、それより程度の高いものも低いものも受けません。それ以外にありようがないのです」

Sunday, December 7, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン   

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

一章 序 説 1守護霊ザブディエル 



  一九一三年十一月三日  月曜日

 守護霊のザブディエルと申す者です。語りたいことがあって参りました。


──御厚意ありがたく思います。

 ご母堂とその霊団によって綴られてきた通信(第一巻)にようやく私が参加する段取りとなりました。これまでに授けられた教訓を更に発展させるべき時期が到来したということです。貴殿にその意志があれば、ぜひともそのための協力を得たいと思います。


──恐縮に存じます。私にいかなる協力をお望みでしょうか。

 ここ数週間にわたってご母堂とその霊団のために行ってこられた如くに、私のメッセージを今この時点より綴ってほしく思います。


──ということは、母の通信が終わり、あなたがそれを引き継ぐということでしょうか。

 その通りです。ご母堂もそうお望みである。もっとも、時にはその後の消息をお伝えすることもあろうし、直接メッセージを届けさせようとは思っています。


──で、あなたが意図されている教訓はいかなる内容のものとなりましょうか。

 善と悪の問題、ならびにキリスト教界および人類全体の現在並びに将来に係わる神のご計画について述べたいと思う。もっとも、それを貴殿が引き受けるか、これにて終わりとするかは、貴殿の望むとおりにすればよい。

と申すのも、もとより私は、急激な啓示によっていたずらに動揺を来すことは避け徐々に啓発していくようにとの基本方針に沿うつもりではあるが、その内容の多くは、貴殿がそれを理解し、私の説かんとする教訓の論理的帰結を得心するに至れば、貴殿にとってはいささか不愉快な内容のものとなることが予想されるからです。



──私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょうか。あのままで終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。


 さよう、終わりである。あれはあれなりに結構である。もともと一つのまとまった物語、あるいは小説のごときものを意図したものでなかったことを承知されたい。断片的かも知れないが、正しい眼識を持って読む者には決して無益ではあるまいと思う。


──正直言って私はあの終わり方に失望しております。あまりに呆気(あっけ)なさすぎます。また最近になってあの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望はありのままを公表するということでしょうか。

 それは貴殿の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが・・・ただ一言申し添えるが、これまで貴殿が受け取ってきた通信と同様に、今回新たに開始された通信も、これより届けられる一段と高度な通信のための下準備である。それをこの私が行いたく思います。


──いつからお始めになられますか。

 今、ただちにである。これまでどおり、その日その日、可能なかぎり進めればよい。貴殿には貴殿の仕事があり職務があることは承知している。私を相手とする仕事はそれに順じて行うことにしよう。


──承知しました。出来るかぎりやってみます。しかし正直に申し上げて私はこの仕事に怖れを感じております。その意味は、それに耐えて行くだけの力量が私には不足しているのではないかということです。

と言いますのも、今のあなたの言い分から推察するに、これから授かるメッセージにはかなり厳しい精神的試練を要求されそうに思えるからです。


 これまで同様に吾らが主イエス・キリストのご加護を得て、私が貴殿の足らざるところを補うであろう。

──では、どうぞ、まずあなたご自身の紹介から始めていただけますか。

 私自身のことに貴殿の意を向けさせることは本意ではない。それよりも、私を通じて貴殿へ、そして貴殿を通じて今なお論争と疑念の渦中にあり、或いは誤れる熱意を持ってあたら無益な奮闘を続けているキリスト教徒へ向けた啓示に着目してもらいたい。

彼らに、そして貴殿に正しい真理を授けたい。それを更に他の者へと授けてもらいたいと思う。その仕事を引き受けるか否か、貴殿にはまだ選択の余地が残されております。


──私はすでにお受けしています。そう申し上げたはずです。私ごとき人間を使っていただくのは誠に忝(かたじけな)いことで、これは私の方の選択よりそちらの選択の問題です。私は最善を尽くします。誓って言えるのは、それだけです。では、あなたご自身について何か・・・


 重要なのは私の使命であり、私自身のことではない。それはこれより伝えていく思想の中に正直に表れることであろう。世間と言うものは自分に理解できないことを口にする者を疑いの目を持って見るものである。

かりに私が「大天使ガブリエルの顕現せる者なり」と言えばみな信ずるであろう。聖書にそう述べられているからである。が、もし「〝天界〟にて〝光と愛の聖霊〟と呼ばれる高き神霊からのメッセージを携えて参ったザブディエルと申す者なり」と申せば、彼らは果たして何と言うであろうか。

故に、ともかく私にそのメッセージを述べさせてもらいたい。私および私の率いる霊団についてはそのメッセージの中身、つまりは真実か否か、高尚か否かによって判断してもらいたい。貴殿にとっても私にとってもそれで十分であろう。

そのうち貴殿も私の有るがままの姿を見る日が来よう。その時は私についてより多くを知り、そしてきっと喜んでくれるものと信じる。


──結構です。お任せいたします。私の限界はあなたもご存知と思います。霊視力も無ければ霊聴力もなく、いかなる種類の霊能も持ち合わせていないと自分では思っております。しかし、少なくともこれまで綴られたものについては、それが私自身とは別個のものであることは認めます。

そこまでは確信しております。ですから、あなたにその意志がおありであれば私は従います。それ以上は何も言えません。私の方から提供するものは何も無いように思います。


 それでよい。貴殿の足らざるところはこちらで補うべく努力するであろう。
 今回はこれ以上は述べないことにしよう。そろそろ行かねばなるまい。用事があるであろう。
 主イエス・キリストのご加護のあらんことを。アーメン ♰ 

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips

十章 あらためて基本的真理を


    シルバーバーチが霊媒を招待した時はいつも温かい歓迎の言葉で迎えるが、古くからの馴染の霊媒であればその態度はいっそう顕著となる。これから紹介する女性霊媒とご主人はハンネン・スワッハー・ホームサークルの結成当初からのメンバーで、最近は永らく自宅で独自の交霊会を催しておられ、今回は久しぶりの出席である。

 夏休みあとの最初の交霊会となったこの日もシルバーバーチによる神への祈願によって開始され、続いて全員にいつもと同じ挨拶の言葉を述べた。

 「本日もまた皆さんの集まりに参加し、霊界からの私のメッセージをお届けすることができることをうれしく思います。

 僅の間とはいえ、こうして私たちが好意を抱きかつ私たちに好意を寄せてくださる方々との交わりを持つことは、私たちにとって大きな喜びの源泉です。こうした機会に自然の法則にしたがってお互いが通じ合い、お互いの道において必要なものを、よろこびと感謝のうちに学び合いましょう。

 もとより私は交霊会という地上世界と霊界との磁気的接触の場のもつ希少価値はよく理解しており、私が主宰するこの会の連絡網の一本たりとも失いたくない気持ちですが、次のことは一般論としてもまた私個人にとっても真実ですので、明確に述べておきます。
℘175
それは、私はしつこい説教によって説き伏せる立場にはないと考えていることです。面白味のない霊的内容の教えを長い説教調で述べることは私の望むところではありません。

 そのやり方ではいかなる目的も成就されません。私が望むやり方、この交霊会で私がせめてものお役に立つことができるのは、ここに集われたすべての方に───例外的な人は一人もいません───ともすると俗世的な煩わしさの中で見失いがちな基本的真理を改めて思い起こさせてあげることです。

物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ、その解決に迫られたとき、言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばならないときに、本来の自分とは何か、自分はいったい何者なのか、なぜ地上に生活しているかといったことを忘れずにいることは困難なことです。


 そこで私のような古い先輩───すでに地上生活を体験し、俗世的な有為転変に通じ、しかもあなた方一人一人の前途に例外なく待ち受けている別の次元の生活にも通じている者が、その物的身体が朽ち果てたのちにも存在し続ける霊的本性へ関心を向けさせていただいているのです。それが基本だからです。

あなた方は霊的な目的のためにこの地上に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫(うたかた)のようなものに過ぎません。
℘176
 といって、地上の人間としての責務を疎かにしてよろしいと言っているのではありません。その物的身体が要求するものを無視しなさいと言っているのではありません。大切なのは正しい平衝感覚、正しい視点を持つこと、そして俗世的な悩みや心配ごとや煩わしさに呑み込まれてしまって自分が神の一部であること、ミニチュアの形ながら神の属性の全てを内蔵している事実を忘れないようにすることです。

そのことを忘れず、その考えを日常生活に生かすことさえできれば、あなた方を悩ませていることがそれなりに意義を持ち、物的、精神的、霊的に必要なものをそこから摂取していくコツを身につけ、一方に気を取られて他方を忘れるということはなくなるはずです。

 こう言うと多分〝あなたにとってはそれで結構でしょう。所詮あなたは霊の世界の人間です。家賃を払う必要もない、食料の買い出しに行く必要もない、衣服を買いに行かなくてもよい。そういうことに心を煩わせることがないのですから〟とおっしゃる方がいるかもしれません。たしかにおっしゃる通りです。

しかし同時に私は、もしもあなた方がそうしたことに気を取られて霊的なことを忘れ、霊の世界への備えをするチャンスを無駄にして、身につけるべきものも身につけずにこちらへ来られた時に果たしてどういう思いをなさるか、それも分かっているのです。こんな話はもう沢山ですか?」

℘177
 「とんでもございません。いちいちおっしゃる通りです」とその女性霊媒が答えると、

 「私の言っていることが間違いでないことは私自身にも確信があります。地上の全ての人にそれを確信させてあげれば視野が広がり、あらゆる困難に打ち克つだけの力が自分の内部に存在することを悟って取越苦労をしなくなり、価値ある住民となることでしょうが、なかなかその辺が分かって頂けないのです。

霊の宝は神の子一人一人の意識の内部に隠されているのです。しかし、そうした貴重な宝の存在に気づく人が何と少ないことでしょう。あなたはどう思われますか」と言って、今度はご主人の方へ顔を向けた。


 「まったく同感です。ただ、そのことをいつも忘れないでいることが出来ない自分を情けなく思っています」と御主人が答えると、
 
 「それが容易でないことは私も認めます。しかし、もしも人生に理想とすべきもの、気持ちを駆り立てるもの、
℘178
魂を鼓舞するものがなかったら、もしも目指すべき頂上が無かったら、もしも自分の最善のものを注ぎ込みたくなるものが前途に無かったら、人生はまったく意味が無くなります。もしもそうしたものが無いとしたら、人間は土中の中でたくる虫ケラと大差ないことになります」


 「本当に良い訓えを頂きました」

 「そう思っていただけますか。私には、してあげたくてもしてあげられないことが沢山あるのです。みなさんの日常生活での出来事にいちいち干渉できないのです。

原因と結果の法則の働きをコントロールすることはできないのです。また、あなた方地上の人間は大切だと考え私は下らぬこととみなしている事柄が心に重くのしかかっていることがありますが、その窮状を聞かされても私はそれに同情するわけにはいかないのです。

 私にできることは永遠不変の原理をお教えすることだけです。物質の世界がすみずみまで理解され開拓され説明しつくされても、宇宙にはいかなる人間にも完全に知りつくすことのできない神の自然法則が存在します。それは構想においても適応性においても無限です。
℘179
もしも日常生活に置いて決断を迫られた際に、あなた方のすべてが自分が霊的存在であること、大切なのは物的な出来事ではなく───それはそれなりに存在価値はあるにしても───そのウラ側に秘められた霊的な意味、あなたの本性、永遠の本性にとっていかなる意味があるかということです。

 物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。と言うことは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです。一方あなたという存在は死後も霊的存在として存続します。あなたにとっての本当の富はその本性の中に蓄積されたものであり、あなたの価値はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもありません。

そのことこそ地上生活において学ぶべき教訓であり、そのことを学んだ人は真の自分を見出したという意味において賢明なる人間であり、自分を見出したということは神を見出したということになりましょう。

 地上生活を見ておりますと、あれやこれやと大事なことがあって休む間もなくあくせくと走りまわり、血迷い、ヤケになりながら、その一ばん大切なことを忘れ、怠っている人が大勢います。私たちの説く教訓の中でもそのことが一ばん大切ではないでしょうか。

それが、いったん霊の世界へ行った者が再び地上へ戻って来る、その背後に秘められた意味ではないでしょうか。
℘180
それを悟ることによって生きる喜び───神の子として当然味わうべき生き甲斐を見出してもらいたいという願いがあるのです。

 それは、いわゆる宗教あるいは教会、教義、信条の類い、これまで人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱を生んできたものより大切です。少しも難しいことではありません。自分という存在の本性についての単純きわまる真理なのです。なのに、それを正しく捉えている人はほんの僅かな人だけで、大方の人間はそれを知らずにおります」


 再び霊媒である奥さんが、自分の支配霊も心霊治療を行うことがあると述べ、遠隔治療によって本人の知らないうちに治してあげていることもある事実を取り上げて、こう尋ねた。

 「そういう場合はなぜ治ったかを本人に教えてあげるべきだと思うのです。つまりそれを契機として、自分が神の子であることを知るべきだと考えるのですが、私の考えは正しいでしょうか、それとも多くを望みすぎでしょうか」

 「理屈の上では正しいことです。が、とりあえずあなたの治療行為が成功したことに満足し、そのことを感謝し、同時にその結果としてその人の魂を目覚めさせてあげるところまで行かなかったことを残念に思うに留めておきましょう。
℘181
大切なのは、まず病気を治してあげることです。その上に魂まで目覚めさせてあげることはなお一層大切なことです。が、一方は成就できても他方は成就出来ない条件のもとでは、その一方だけでも成就して、あとは〝時〟が解決してくれるのを待ちましょう。魂にその準備が出来るまでは、それ以上のものは望めないからです。

 肉体は治った。続いて魂の方を、ということになるべきところですが、そこから進化という要素が絡んできます。魂がそれを受け入れる段階まで進化していなければ無駄です。しかし、たとえ全面的に受け入れてもらえなくても、何の努力もせずにいるよりは何とか努力してみる方が大切です。それは私たちすべてが取るべき態度です。

ともかくも手を差しのべてあげるのです。受け入れてくれるかどうかは別問題として、ともかく手をさしのべてあげることです。努力のすべてが報われることを期待してはなりません。

 病気が治り魂も目覚める、つまり治療の本来の意義が理解してもらえるのが最も望ましいことです。次に、たとえ魂にまで手が届かなくても、病気だけでも治してあげるという段階もあります。さらにもう一つの段階は、たとえ治らなくても治療行為だけは施してあげるという場合です。
℘182
 要請された以上はそう努力しなければなりません。が、たとえ要請されなくても施すべき場合があります。受けるよりは施す方が幸いです。施した時点を持ってあなたの責任は終わります。そして、その時点からそれを受けた人の責任が始まります。


 「人間は自分の前生を思い出してそれと断定できるものでしょうか」

 「もしその人が潜在意識の奥深くまで探りを入れることが出来れば、それは可能です。ですが、はたして地上の人間でその深層まで到達できる人がいるかどうか、きわめて疑問です。その次元の意識は通常意識の次元からは遥かにかけ離れていますから、そこまで探りを入れるには大変な霊力が必要です」


 「そうした記憶は現世を生きている間は脇へ置いておかれるとおっしゃたことがあるように思いますが」

 「それなりの手段を講ずることが出来るようになれば、自分の個性のすべての側面を知ることができます。
℘183
しかし、あなたの現在の進化の段階においては、はたして今この地上においてそれが可能かとなると、きわめて疑問に思えます。つまり理屈ではできると言えても、あなたが今までに到達された進化の段階においては、それは不可能だと思います」

  
 「神は特別な場合に備えて特殊な力を授けるということをなさるのでしょうか」 と、かつてのメソジスト派の牧師が尋ねた。

 「時にはそういうこともなさいます。その人物の力量次第です。最も、神が直接干渉なさるのではありません」

 「神学には〝先行恩寵〟という教義があります」 (苦を和らげるために前もって神が人の心に働きかけて悔悟に導くという行為のこと───訳者)

 「ありますね。神は毛を刈り取られた羊への風を和らげてあげるという信仰です(※)時にはそういうこともあることは事実です。が、神といえども本人の受け入れ能力以上のものを授けることはできません。
℘184
それは各個の魂の進化の問題です。私がそういう法則をこしらえたわけではありません。法則がそうなっていることを私が知ったということです。

 みなさんもいつかは死ななくてはなりません。霊の世界へ生まれるために死ななくてはなりません。地上の人にとってはそれが悲しみの原因になる人がいますが、霊の世界の大勢の者にとってそれは祝うべき慶事なのです。要は視点の違いです。 私たちは永遠の霊的観点から眺め、あなた方は地上的な束の間の観点から眺めておられます」

(※ 英国の小説家ロレンス・スターンの小説の中の一節で、弱き者への神の情けを表現する時によく引用される───訳者)


 ここでサークルの二人のメンバーが身内や知人の死に遭遇すると無常感を禁じ得ないことを口にすると、シルバーバーチはこう述べた。

 「霊に秘められた才覚のすべてが開発されれば、そういう無常感は覚えなくなります。が、これは民族並びに個人の進化に関わる問題です。私にはそのすべての原理を明らかにすることはできません。私とて、すべてを知っているわけではないからです。あなた方より少しばかり多くのことを知っているだけです。

そしてその少しばかりをお教えすることで満足しております。知識の総計と較べれば微々たるものです。が、私は神の摂理が地上とは別個の世界においてどう適用されているかをこの目で見て来ております。
℘185
数多くの、そしてさまざまな環境条件のもとでの神の摂理の働きを見ております。そして私がこれまで生きてきた三千年の間に知り得たかぎりにおいて言えば、神の摂理は知れば知るほどその完璧さに驚かされ、その摂理が完全なる愛から生まれ、完全なる愛によって管理され維持されていることを、ますます思い知らされるばかりなのです。

 私も摂理のすみずみまで見届けることはできません。まだまだすべてを理解できる段階まで進化していないからです。理解出来るのはほんの僅かです。しかし、私に明かされたその僅かな一部だけでも、神の摂理が完全なる愛によって計画され運営されていることを得心するには十分です。

私は自分にこう言い聞かせているのです───今の自分に理解できない部分もきっと同じ完全なる愛によって管理されているに相違ない。もしそうでなかったら宇宙の存在は無意味となり不合理な存在となってしまう。

もしこれまで自分が見てきたものが完全なる愛の証であるならば、もしこれまでに自分が理解してきたものが完全なる愛の証であるならば、まだ見ていないもの、あるいはまだ理解できずにいるものも又、完全なる愛の証であるに違いない、と。

 ですから、もしも私の推理に何らかの間違いを見出されたならば、どうぞ遠慮なく指摘していただいて結構です。私はよろこんでそれに耳を傾けるつもりです。私だっていつどこで間違いを犯しているか分からないという反省が常にあるのです。無限なる宇宙のほんの僅かな側面しか見ていないこの私に絶対的な断言がどうしてできましょう。

ましてや地上の言語を超越した側面の説明は皆目できません。こればかりは克服しようにも克服できない、宿命的な障壁です。そこで私は、基本的な真理から出発してまずそれを土台とし、それでは手の届かないことに関しては、それまでに手にした確実な知識に基づいた信仰をおもちなさい、と申し上げるのです。

 基本的真理にしがみつくのです。迷いの念の侵入を許してはなりません。これだけは間違いないと確信するものにしがみつき、謎だらけに思えてきた時は、ムキにならずに神の安らぎと力とが宿る魂の奥の間に引き込もることです。そこに漂う静寂と沈黙の中にその時のあなたにとって必要なものを見出されることでしょう。

 常に上を見上げるのです。うつ向いてはなりません。うなだれる必要はどこにもありません。あなたの歩む道に生じることの一つ一つがあなたという存在を構成していくタテ糸でありヨコ糸なのです。これまでにあなたの本性の中に織り込まれたものはすべて神の用意された図案(パターン)にしたがって織られていることを確信なさることです。

 さて本日もここから去るに当たって私から皆さんへの愛を置いてまいります。私はいつも私からの愛を顕現しようと努力しております。お役に立つことならばどんなことでも厭わないことはお分かりいただけてると思います。

しかし、楽しく笑い冗談を言い合っている時でも、ここにこうして集い合った背後の目的をゆめゆめ忘れないようにいたしましょう。神は何を目的としてわれわれを創造なさったのかを忘れないようにいたしましょう。

その神との厳粛なつながりを汚すようなことだけは絶対にしないように心がけましょう。こうした心がけが、神の御心に適った生き方をする者にかならず与えられる祝福、神の祝福を受けとめるに足る資格を培ってくれるからです」

(訳者注───本章は一見なんでもないことを述べているようで、その奥に宇宙の厳粛な相(すがた)を秘めたことを何の衒(てらい)もなく述べた、シルバーバーチ霊言集の圧巻であるように思う。特に〝私は自分にこう言い聞かせているのです〟で始まる後半の部分は熟読玩味に値する名言で、その中にシルバーバーチの霊格の高さ、高級霊としての証が凝縮されているように思う。

霊格の高さを知る手掛かりの一つは謙虚であるということである。宇宙の途方もない大きさと己れの小ささ、神の摂理の厳粛さと愛を真に悟った者はおのずと大きなことは言えなくなるはずである。

 反対に少しばかり噛(かじ)った者ほど大言壮語する。奥深い厳粛なものに触れていないからこそ大きな口が利けるのであろう。それは今も昔も変わらぬ世の常であるが、霊的なことが当然のこととして受け入れられるようになるこれからの世の中にあっては、人を迷わせる無責任きわまる説が大手を振ってのさばることが予想される。そうしたものに惑わされないためにはどうすべきか。

 それはシルバーバーチが本章で述べている通り、基本的真理にしがみつくことである。われわれ人間は今この時点においてすでに霊であること、地上生活は次の段階の生活に備えて霊的資質を身につけることに目的があること、人生体験には何一つ無駄なものはないこと、ただそれだけのことを念頭において地道に生きることである。

 本章を訳しながら私はシルバーバーチの霊訓の価値を改めて認識させられる思いがしてうれしかった)

 

Saturday, December 6, 2025

シアトルの冬 霊媒の書 第2部 本論

The Mediums' Book
17章 通信の内容に矛盾が生じる諸原因
訳者あとがき



霊界から届けられた通信の内容に、時おり矛盾が見出されることがある。その原因とそれが及ぼす影響の大きさは表裏一体の関係にあるようである。

その意味は、我々はともすると霊界を平面的に想像して、霊の言うことならみな同じであるものと考えがちである。が、霊の世界の実情が分かってみると、地上界に近い最低の界層から、物的束縛から完全に解脱した超越界に至るまで、事実上無限の階梯があって、上層界へ行くほど広い視野から眺めるので誤りが少なくなるが、地上の人間に通信を送るのは低界層の霊が多いので視野が狭く、それだけ誤った認識も多くなり、結果的には矛盾点も多いことになる。

では、そうした玉石混交の中にあって本物と偽物、上等と下等を見分けるにはどうすればよいか――本章はその点に的をしぼった質疑応答を集めた。

―同じ霊が二つの交霊会に出て述べたことが矛盾することが有り得るでしょうか。


「その二つの交霊会が思想的に異質であれば支配している霊団が異なるわけですから、その伝達した通信が枉(ま)げられることがあります。通信霊は同じことを述べていても、霊媒を通して届けられるまでに、その場を支配する波動で内容が脚色されるのです。」

―その場合は理解できるのですが、二つの交霊がともに高級霊団によって指導されていて、しかも出席者も真摯な真理探求者である場合でも、高級霊の述べることが食い違うことがあるのはなぜでしょうか。


「その霊団が本当に高級霊団であれば、その言説に矛盾撞着は有り得ません。交霊会の出席者とその場の雰囲気で表現方法に違いが生じることがあっても、実質的には同じことを述べているはずです。仮に矛盾していても表面上のこと、つまり言説よりも述べ方の違い程度にすぎません。じっくりと読めば基本的には同じことを述べているはずです。

しかし、出席者の霊格の程度によっては同じ霊でも違った答え方をすることは有り得ます。例えばあなたが幼児と科学者から同じ質問をされたとします。あなたはその二人に同じ答え方をしますか。それぞれに理解しやすい形で答えるはずです。そして質問者はそれぞれに納得するでしょう。ところが表面上は二つの答え方は全く異なります。それでいながら本質的には同じことを述べていることだってあるわけです。」

―真面目と思える霊がある思想、時には偏見と思えるような言説を、相手によって適当に言い換え、完全に食い違うようなことすらあるのですが、これはどう理解すればよいでしょうか。


「私たちは出席している人間の理解力の程度に応じて表現を変えなければならない立場にあります。例えば何らかの教説について絶対的な信念を抱いている人を相手にした場合、仮にそれが誤りであっても、それを頭ごなしに論駁せずに、穏やかに、そして徐々に改めさせようとします。すると当然その人の信仰の用語を借用し、その教説に共鳴するところがあるかのような印象を抱かせることもします。そうやって相手をムキにならせず、次の会にも出席しようという気持ちにさせるわけです。

間違った先入観に急激なショックを与えるのは賢明とは言えません。そういうことをすると、それっきりこちらの教説に耳を傾けなくなります。そこで我々としては、あらぬ反発を買わないように、出席者の信仰に理解を示す態度で臨むわけです。

さらに言えば、人間から見て矛盾しているかに思えることでも、同じ真理を偏った角度から表現しているにすぎないことがよくあるものです。スピリチュアリズムに係わっている霊団にはそれぞれに大霊からの割り当てがあり、こうして授ける通信が効率よく受け入れられ霊性の進化を促すような方法と状態を工夫して、それぞれの役割分担を遂行しなくてはならないのです。」

―たとえ表現上の違いにすぎないとは言え、矛盾した言説は人によっては疑念を生じさせます。そういう矛盾した通信を正しく理解して、これが真実だという確信を得るにはどうすればよろしいでしょうか。


「真実と誤りとを選り分けるには、手にした通信の内容を時間をかけてじっくり検討することです。そこにはこれまでになかった新しい知識の世界が広がっています。まったく新しい考究課題であり、したがって時間と努力を要します。何でもそうですが……。

その言わんとするところを真剣に考究し、他と比較検討し、奥の奥の核心に至る――真理というものはそれほどの代償を払って初めて手にできるものなのです。考えてもごらんなさい。これまでの狭い通念を後生大事にし、それに照らして簡単に片づけるだけで、どうしてスピリチュアリズムという果てしなく広大な真理の世界が理解できますか。

こうした霊的教訓が世間一般に広まる日はそう遠い先の話ではありません。本質だけでなく、枝葉末節に至るまで、矛盾撞着のない形で広まることでしょう。が、現段階においては、これまでの誤った概念を打破することがスピリチュアリズムの使命です。それも、一つ一つ片づけていくしかないのです。」

―そうした深刻な問題に深く係わる時間も欲求もない者がいる一方には、霊の言うことは何でも彼でも信じる者もいます。そのような形で間違ったものを受け入れていくことは性格に害を及ぼさないでしょうか。


「その人がそれでいいと思うのであればそうすればよろしい。いけないと思えばやらなければよろしい。この自由意志の原理には例外はありません。アラーの神の名のもとであろうとエホバの神の名のもとであろうと、良いものは良い、悪いものは悪いのです。宇宙には大霊という名の神しかいないのですから。」

―知的には相当なレベルと思われる霊でも、問題によっては明らかに間違った考えを抱いていることがあるのは、どうしてでしょうか。


「人間と同じで、霊も独断と偏見を抱いているものです。自惚れて実際よりも賢いつもりでいる霊は、真理についてよく間違った考えや不完全な概念を抱いているものです。人間と少しも変わりません。」

―矛盾した説の中で最も顕著なのが“再生説”です。再生が霊にとって必要不可欠のものであれば、なぜ全ての霊が同じ説を説かないのでしょうか。


「あなたは、霊も人間と同じで、今の自分のことにしか思いが及ばない者が大勢いることをご存じないのですか。現在の自分の感覚だけで物事を捉え、今の状態が永遠に続くと思っているのです。そうした感覚の範囲を超えた先のことまでは思いが至らず、自分は一体どこから来たのか、この後どこへ向かって行くのかといった観念は浮かばないのです。

しかし、摂理は逃れられません。再生するということを知らなくても、再生すべき時機は必ず到来します。その時になって初めて再生があることを知ります。が、そういう霊的進化の仕組みについては何も知りません。」

―未熟な霊には再生問題が理解できないことは分かりました。ただ、そうなると、霊的にも知的にもどうみても低いと思われる霊が自分の前世の話を持ち出して、その間の不行跡を償うためにもう一度再生したいと思っていると述べたりするのは、どう理解したらよいでしょうか。


「霊の世界の事情には地上の人間には理解し難いことが沢山あります。具体的には説明しにくいのですが、例えば地上でも、ある分野の事に関しては造詣が深いのに、別の分野の事については皆目知らないという人、あるいは学問は無くても直観力は鋭い人、判断力は乏しくてもウィットに富んだ頭脳の持ち主など、いろいろなタイプがいるのと同じです。

それに加えて知っておいていただきたいのは、霊の中には自分の優位を保ちたいという浅はかな根性から、人間にわざと教えないでおこうとする者もいることです。つまり人間から真剣に論議を挑まれたら自分の優位が崩れることを知っているので、それを意図的に避けようとして、巧妙に議論をスリ抜けるのです。

むろんそれは低級霊の場合です。が、高級霊による慎重な配慮の結果として、たとえ真理であっても、現段階で急激にそれを広めることはいたずらに目を眩ませるだけで賢明でないとの判断から、わざと差し控えることがあるということです。そして、時と場所と出席者のレベルに応じて小出しにします。

モーセを通して語られなかったものをキリストが語り、そのキリストを通してさえ時期尚早ということで後世へ持ち越されたものがあります。

あなたの疑問は再生が真実ならばなぜ世界の各民族で早くから説かれなかったのかということのようですが、よく考えてみてください。仮に肌の色による差別と偏見の激しい国で説いていたら大変な反発を買ったことでしょう。なぜかはお分かりでしょう。短絡的に受け止める者は、今奴隷の身にある者は来世では主人となり、今主人である者は奴隷となるのだと考えて、怪しからん説だということになるに決まっています。

まずは霊界と現界との間にも交信が可能なのだという基本的事実から始めて、徐々にそうした倫理・道徳の思想的問題へと進めるのが賢明です。大霊の配剤について人間はなんと近視眼的なのでしょう! 大霊の認可なしにはこの宇宙に何一つ発生しないのです。人間には到底推し量ることのできない深遠な叡智があるのです。

すでに述べたことですが、改めて申し上げておきます。スピリチュアリズムの思想はいつかはきっと地球上にあまねく広まります。今は統一性がないかに見えても、人間の霊性の発達とともに徐々にその食い違いは少なくなり、最後は完全に消えて失くなることでしょう。そこに大霊の意思が働いており、究極的にはその意思が成就されます。」

―誤った教説はスピリチュアリズムの発展を阻害しようという策略から行われているのでしょうか。


「人間はとかく困難もなく手間取ることもなく物事が運ぶことを求めがちです。しかし、よく考えてごらんなさい。どんなに立派な庭にも必ず雑草が生え、きれいに保つには一本一本それを手で抜き取らないといけません。誤った教説は地球人類の霊性の低さが生み出す雑草のようなものです。もしも人類が完全であれば高級霊しか近づかないでしょう。

誤りというのは、言うなれば偽のダイヤモンドのようなものです。見る目のない人間には本物に見えるでしょうが、見る目をもった者にはすぐに偽物と分かります。その見分け方を学びたければ年季奉公に出るしかありません。考え方によっては偽物の存在にも意味があるのです。本物と偽物とを見分ける判断力を養う良い試金石です。」

―でも、偽物を信じた者はそのことで進歩が阻害されるのではないでしょうか。


「そういう気遣いは無用です。そもそも偽物をつかまされるようでは本物を見る目がないということです。」

―スピリチュアリズムの実践面でのいちばん不愉快な障害は、そうやって霊に担(かつ)がれることです。これを避ける手段はないものでしょうか。


「それに対する回答はこれまでにお答えしてきたことで十分だと思いますが……方法はあります。しかも極めて簡単です。要するにスピリチュアリズム本来の目的に徹することです。そして、その目的とは人類の霊的啓発、これに尽きます。これを片時も忘れないようにすれば、邪霊にたぶらかされるようなことは決してありません。それこそが真実の人の道だからです。

高級霊は人のために役立つ仕事のためには大いに援助しますが、名誉心や金儲けといった情けない人間の野心の満足のためには絶対に手を貸しません。そういう他愛もないことや人間に伝えることを許されていない事柄についてしつこく要求しないかぎりは、邪霊集団に操られるようなことにはなりません。こうした事実からも、低級霊に騙されるのは騙されるようなことをしている人間に限られるということがお分かりになるはずです。

霊団の仕事は世俗的問題に関するアドバイスを授けることではありません。地上人生を終えた後に訪れる霊的人生に自然に順応するための生き方を指導することです。もちろん世俗的問題に言及することがありますが、それはその時点で必要性があると見なしたからであって、そちらからの要請に応じることは絶対にないと思ってください。霊界通信を運勢判断や魔術と同種のような受け止め方をしていると、低級霊につけ入られます。

また霊界の知識の蒐集のようなことにばかり偏っていると霊的存在としての自由意志が硬直してしまい、大霊によって意図されている人間としての進むべき進化の道を歩めなくなってしまいます。人間は自らの意志で“行為”に出なくてはいけません。こうして我々が地上へ派遣されるのは人間の歩む道を平らにならしてあげるためではありません。来るべき霊的生活に順応するための準備を手助けしてあげるためです。」

―ですが、こちらから世俗的問題を持ち出したわけでもないのに、霊の方から言及してアドバイスを与えてくれて、それに従ったらとんでもないことになった人もいますが……


「そちらから持ち出さなかったとしても、交霊会でそんな俗っぽい問題を霊側が持ち出したという点が問題です。そちらからそれを許したということであって、結果的には同じことです。それを鵜呑みにせず理性的に疑ってかかる態度で臨み、霊界通信の本来の在り方に徹すれば、そう簡単に担がれることはないはずです。」

―真面目な求道者(ぐどうしゃ)がそういう形で担がれることを神はなぜ許すのでしょうか。せっかくの確信をわざと崩すように計算されているみたいです。


「その程度のことで崩れるような信念ではまだ本物とは言えません。そのことでスピリチュアリズムに愛想をつかすようであれば、それはまだスピリチュアリズムを真に理解していないことを示しています。張りぼてだったということです。その種のたぶらかしは、一つには忍耐力の試金石であり、一つには交霊会をご利益の手段に利用する者への懲罰です。」

(完)


訳者あとがき

訳者というのは実質的に原書の価値に関して生殺与奪の権を握っていると言っても過言ではない。少なくとも私はその自覚のもとに“いかなる形に訳すのが原典の真価を伝えるか”で腐心しながら翻訳に着手し、途中で“まずい”と感じたら初めから別の形で訳し直すこともある。さらに下訳をしばらく寝かせておいて第三者の読者になったつもりで読み直して、添削を施してから原稿用紙に浄書するといった配慮もする。内容的に大きく訳し変えるということは滅多にないが、下訳の時には気づかなかった文章上の欠陥がよく発見される。

この度のカルデックの翻訳に当たっては、以上のことに加えて“編修”という作業が必要だった。これについては“まえがき”で若干言及したが、口で言うほど簡単なことではなく、大ゲサに言えば、これまでの半世紀に近いスピリチュアリズムとの係わりにおける体験を土台にして初めてできたことだった。

そんな面倒なことをせずに、あっさり全訳すればよかったのではないか――そうおっしゃる方がいるかも知れない。が、カルデックの書が本格的霊界通信の出版物としてはスピリチュアリズムでは最も古い、というよりは早かった――ハイズビル事件後わずか十年あまり後――ということもあって、既成宗教界、とくにキリスト教界からの非難中傷が激しかったようで、カルデックはそれに対する理論武装に大変な神経と紙面を費やしている。

当時としては止むを得なかったとは言え、その後百年余りたった現在、しかもキリスト教よりはるかにスピリチュアリズムに近い神道(かんながら)的信仰が自然に行き亘っている日本において、さらにシルバーバーチやインペレーターの霊訓に馴染んでいる読者が圧倒的に多いであろうことを念頭に置いて読むと、それをいちいち訳出することは、無益であるばかりでなく煩雑すぎて興味を削(そ)ぐ恐れがあるとの結論に達したのだった。

“編者注”としたカルデックのコメント、“ブラックウェル脚注”とした英国人訳者の付言は、ぜひこれだけは、と思うものに制限し、フランス語圏の人にしか知られていない古い例証は割愛したり、代わりに日本人向けのものを“訳注”で補ったりした。

私が、“英国の三大霊訓”と呼んでいるモーゼスの『霊訓』、オーエンの『ベールの彼方の生活』、シルバーバーチの霊言集とカルデックの霊界通信の唯一の相違点は、霊媒が紹介されていないことである。それというのも、正確な数字は述べられていないが、相当な数の霊媒を通して得られた通信――カルデックが直接入手したものと他の交霊会で入手されてカルデックのもとに持ち込まれたもの――を総合的に編纂して、テーマ別にまとめ、それにカルデック自身のコメントを付け加えたものを『霊の書』と『霊媒の書』とに大別して出版したのだった。

その通信が霊言なのか自動書記なのかも、いちいち断っていない。私が訳しながら得た感触では自動書記の方が多いようであるが、訳し方は霊言のような語り口調に統一した。現象の原理としてはどちらも同じことなので、たぶんカルデックもあまりこだわらず、また霊媒はあくまでも“道具”であるとの認識から、霊媒の氏名も一切挙げていない。

ついでに付言すれば、カルデックのもとに寄せられた通信の中にもかなりいかがわしいものがあり、イエスを筆頭にナポレオンだのパスカルだのジャンヌ・ダルクだのジャン・ジャック・ルソーだのと、フランスらしい顔ぶれが勢揃いしている。カルデックはそれらを最後にまとめて紹介し、“ニセモノ”と断じている。たとえばイエスの署名のある自動書記通信については「あのイエスが(二千年後の今になっても)こんなキザでぎこちない、そしてバカげた表現しかできないのか」と手厳しく批判し、最後に「これら一連の通信はたぶん一人の低級霊が書いたものである」と一刀のもとに切り捨てている。いずこの国にもこうした手合いの霊界通信があるものである。

さて『霊媒の書』を訳し終えた今、私の胸に去来する感慨を披瀝させていただけば、フランスを中心としてラテン系民族の間でバイブルのように愛読されているこの霊界通信までも自分が訳すことになったことを、身に余る光栄と受け止めているところである。

カルデックの二著の英文版は、“英国の三大霊訓”とほぼ同時期に購入していた。そしてその内容には何の違和感も抱かず、折りにふれ無造作にページを開いて読むということを続けていた。最近でもよく繙(ひもと)くことがある。そんな次第で、「心の道場」(現スピリチュアリズム普及会)から翻訳の依頼を受けた時は何の躊躇もなくお引き受けした。

訳している時もそうだったが、訳し終えた今しみじみと思うのは、「訳して良かった――後世に計り知れない影響をもたらすことは間違いない」という確信である。プライベートなサークルによる自費出版であるから、流通機構に乗った出版物と比較して購買の規模は小さいであろう。しかしこの道、すなわちスピリチュアリズム的真理の普及という仕事は、本当に理解した人が一人また一人と増えることによって広げるしかないのであって、華々しく衆目の的となることは期待できない。本質的にそういうものではないのである。

ある出版ジャーナリストがいみじくも言っているが、ベストセラーというのは普段はロクに文字を読むということをしない者までが「そんなに売れてるなら」という、ただそれだけの理由で買って帰るからあれほど売れるのであって、実際に読まれているわけではない、と。スピリチュアリズムには間違ってもそういうことは起こり得ない。

振り返ってみると私の生涯は十八歳の時の一霊覚者との出会いで決定づけられて以来、半世紀近くにわたる孜々(しし)とした地道な努力の積み重ねであった。その間私を支えてくれたのはやはりシルバーバーチだった。この道は孤独なもので、見慣れた風景が次々と過ぎ去って、道なき道を一人で切り開いて行かねばならない。しかし魂の奥ではアフィニティーとの結束がますます強まって、そこに真の生き甲斐を覚えるものである……といった意味の言葉の真実味を味わいながら、人類の宝ともいうべき霊界通信を純粋な形で後世に遺すことだけを心掛けてきた。

そして今六十歳の峠にさしかかった時点でスピリチュアリズム・サークル「心の道場」とのご縁が一気に熟し、カルデックの二著の翻訳の仕事を依頼されると同時に、私が所有する、今はもう絶版となったシルバーバーチの原書全十六巻をはじめ、モーゼスの『霊訓』その他、後世に遺すべき原典三十冊ばかりのものをコピーして保存してくださることになった。真の意味で私の仕事の価値の理解者との出会いが待っていたのである。私にとってこれほど元気づけられることはない。

私がそろそろこの地上生活に終止符を打ってもおかしくない年齢に至って、スピリチュアリズムという名の聖火の若いランナーとの思わぬ出会いがあり、私も負けじと、もう一仕事をしたいと念願しているところである。

最後に、私の原稿をワープロ打ちにする労に当たられた方、出版費用を快く寄付してくださった方々等、本書の出版のために協力してくださった「心の道場」のサークルの皆様に、心からの謝意を表したい。

平成八年六月

近藤千雄

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips
九章 良心の声

    More Wisdom of Silver Birch (次の第七巻として翻訳の予定───訳者) を読んだ読者からサークル宛に長文の手紙が寄せられた。その大要を紹介すると───

 〝私の知っている人の中には神を畏(おそ)れ教会を第一主義とする信心深い人が大勢います。その人たちは確かに親切心に富み喜んで人助けをする人たちで、教会が善いこと正しいこととして教えるものを忠実に守っております。

ところが何でもないはずの霊的事実を耳にすると、それを悪魔のしわざであるとか罪深きこととか邪悪なことと言って恐れます。その無知は情けなくなるほどです。

 ところで、こうした人たち及びこれに類する、言わば堅実に生きる善人は、私の考えでは、偏見のない良心と、何世代にもわたって教え込まれてきた幼稚な教説によって汚染された良心との区別がつかなくなっているのだと思います。

たとえば日曜日に教会へ出席しなかっただけで悩んだりします。彼らにとっては礼拝に出席することが神の御心に適ったことであり、善であり、正しいことであり、したがって欠席することは間違ったことであり、罪深いことであるかに思えるのです。

 そうした思考形式が魂に深く植えつけられた場合、いったいどうすれば正常に戻すことが出来るでしょうか。彼らが呵責(かしゃく)を覚えているのは本当はシルバーバーチ霊がおっしゃる偏りのない良心ではありません。
℘161
一種の偏見によって本当の良心が上塗りをされております。そこでシルバーバーチ霊にお願いしたいのは、本当の良心とは何か、それと見せかけの良心とを見分けるにはどうしたらよいかを教えていただきたいのです〟云々・・・


 この手紙の主旨を聞かされたシルバーバーチは次のように答えた。

 「地上においても霊界においても、道徳的、精神的ないし霊的問題に関連してある決断を迫られる事態に直面した時、正常な人間であれば〝良心〟が進むべき道について適確な指示を与える、というのが私の考えです。神によって植えつけられた霊性の一部である良心が瞬間的に前面に出て、進むべきコースを指示します。

 問題は、その指示が出たあとから、それとは別の側面がでしゃばりはじめることです。偏見がそれであり、欲望がそれです。良心の命令を気に食わなく思う人間性があれこれと理屈を言い始め、何かほかに良い解決方法があるはずだと言い訳を始め、しばしばそれを〝正当化〟してしまいます。しかし、いかに弁明し、いかに知らぬふりをしてみても、良心の声がすでに最も正しい道を指示しております」
℘162
 サークルの一人 「この手紙にはスピリチュアリズムは間違いであると思いこんでいる実直で真面目な教会第一主義の信心家のことが述べられておりますが・・・」


 「それはもはや良心の問題ではなく、精神的発達の問題です。問題が全く別です。それは間違った前提に立った推理に過ぎません。私のいう良心は内的な霊性に関わる問題において指示を必要とする時に呼び出されるものです」


───でも、良心は精神的発達と密接につながっていませんか。

 「つながっている場合とつながっていない場合とがあります。私は良心とは神が与えた霊的監視装置で、各自が進むべき道を的確に指示するものであると主張します」


─── 一人の人間は正しいと言い、別の人間は間違いだと言う場合もあるでしょう?

 「あります。が、そのいずれの場合においても、自動的に送られてくる良心による最初の指示が本人の魂にとってもっとも正しい判断であると申し上げているのです。
℘163
問題はその指示を受けたあとで、それに不満を覚え、ほかにもっとラクで都合のいい方法はないものかと、屁理屈と正当化と弁解を始めることです。

しかしモニターによってすでに最初の正しい指示が出されているのです。この説はあまり一般受けしないかも知れませんが、私の知る限り、これが真実です」


───東洋の宗教は古くから人間の内部に宿る神を強調していますね。

 「私なら神の内部に宿る人間を強調したいところです。私に言わせれば〝人間の中の大霊〟といっても〝大霊の中の人間〟と言ってもまったく同じことです。神と人間とは永遠の繋がりがあります。神は絶対に切れることのない愛の絆によって創造物と繋がっております。

進化の程度において最下等のものから最高の天使的存在にいたるまでの全存在が神の愛と生命の活動範囲の中におさまっています。程度が低すぎて神から見放されることもなければ、高すぎて神を超えてしまうこともあり得ません」
℘164
───すべてが大霊の一部だからですね。


 「そうです。〝一部〟といっても説明が困難ですが、人類のすべてが神性の一部を有しております。これは大切な真理で、これさえ理解され生活の規範とされるようになれば、世界のすべての人間が霊的な威力を呼び覚まし、日々生じる問題について新しい視野で対処できるようになることでしょう」


───神はすべての界層において平等に顕現しているのでしょうか。それとも地上の人間だけがそれを悟れないでいる、あるいは捉らえ損ねているのでしょうか。それとも人間が死後の界層を進化していくにつれて神の顕現の分量が増していくのでしょうか。

 「それは要するに受容力の問題です。神は無限です。無限なるものには際限がありません。制限がありません。神の恵みは果てしなく広がっています。知りつくすということは絶対にできません。人間はいつまでも進化し続ける存在です。進化するにつれて受容力が増します。受容力が増すにつれて理解力が増し、かくしてその分だけ神を理解できることになります」
℘165      
───ここに二人の人間がいて、一人は元気盛りでもう一人は死期を迎えて肉体との関係が稀薄になっているとします。この場合、後者の方が霊的な影響を受けやすいのでしょうか。


 「必ずしもそうとは言い切れません。肉体から離れるということは必ずしも進化を決定づけるものではありません。私の世界にも地上の人間より進化の程度の低い霊がそれはそれは大勢います。たしかに肉体はその本性そのもののために人間の精神の表現を制約しておりますが、人類全体として言えば、地上のいずれにおいても霊性の発達のための余地がふんだんに存在します」


───その発達の為に努力することが霊のためになるのだと思います。そうでなかったら地上に存在する意味が無いことになるからです。肉体というハンディを背負いながら成長しようと刻苦することが魂にとって薬になるのだと思います。

 「もちろんですとも。困難を克服しようと努力するとき、次々と振りかかる障害に必死に抵抗していくとき、不完全さを補い完全へ向けて努力するとき、そのときこそ神性が発揮されるのです。それが進化の諸相なのです」

℘166
───地上というとこは魂の修行場としていろんな面で有利であるといった趣旨の話をよく耳にします。地上的闘争をくぐり抜けねばならないということそれ自体が地上の良さでもあると言えると思うのです。

 「おっしゃる通りです。当然そうあらねばなりません。もしそうでなかったら地上へ生れてくることもないでしょう。宇宙の生命の大機構の中にあって、この地上もそれなりの役割があります。地上は保育所です。訓練所です。いろんなことを学ぶ学校です。身支度をする場です。

潜在している才能が最初に目を出す場であり、それを人生の荒波の中で試してみる所です。そうした奮闘の中ではじめて真の個性が形成されるのです。闘争もなく、反抗もなく、困難もなく、難問もないようでは、霊は成長しません。進化しません。奮闘努力が最高の資質、最良の資質、最大の資質、最も深層にある資質を掘り起こすのです」


───若くして他界した場合はどうなるでしょうか。
℘167
 「そうくると思ってました」


───これには二つのケースがあると思うのです。一つは、もしそれがその人の寿命であれば、それまでに霊的にはすでに他界する準備が出来ていた場合。もう一つは死後その埋め合わせのために物質界との接触を通じて進化を得る場合です。

 「あなたは親切な方ですね。質問なさると同時に二つも答えを用意して下さいました。ご質問に対する答えは、古くからある恐怖の輪廻転生思想と、私の説く再生説即ち前回の地上生活での不足分を補う為に地上のどこかに誕生するという、この二つの説のうちのどちらかをお選びください。

あなたの気に入られた方をお取りになればよろしい。私の説はすでによくご存じでしょう。しかし、ここで強調しておきたいのは次の点です。

 よく分らないことが沢山あります。私たちも所詮すべての知識は持ち合わせておりません。しかし同時に、矛盾を恐れずに申し上げれば、神は完全であるゆえに摂理も完全です。

(訳者注───すべての知識は持ち合せないといいながら神は完全であると断定するのは明らかに矛盾しているが、第十章の後半で、過去三千年の体験からそう信じるに足るだけの証を手にしているのだと述べている)
℘168
いかなる困難が生じても、そして、たとえそれに対して私たちがあなたに満足のいく回答をお授けすることができなくても、それは神の計画に欠陥があるということではありません。絶対にそういうことはありません。〝愛〟が宇宙を支配しているのです。無限の範囲と適用性を持つ愛です。

いったんその愛があなたを通じて働くようになれば、あなたは一変し、あなたに生を与えた霊力と一体になります」(先に述べた矛盾を超越してなるほどと実感を持って得心できるということ───訳者)


───こうした問題は限られた人間的理解力を超えているというのは本当でしょうか。私たちは宿命的に理解不可能なのでしょうか。

 「無限の顕現を持つ宇宙を理解しようとするとき人間の肉体的構造が一つの限界となることは、一般的に言って事実です(霊覚者は別ということ───訳者)。決して知識欲に水を差すつもりで申し上げるのではありません。が、

私たちはあくまでも現実を見失ってはなりません。幾十億と知れぬ人間が生活する地上に目を向けてみましょう。その大半がここにいらっしゃる方が当たり前と思っている霊的真理にまったく無知なのです。その知識からあなた方が得ている喜びが彼らには保証されていないのです。
℘169
その生活は悲劇と哀しみに満ちております。しかも、いずこに救いを求めるべきかも知らずにおります。ならば、私たちこそ、これまでに得た知識を少しでもそういう人たちに分けてあげることでお役に立つことができるのではないでしょうか。そうすることが知識を獲得した者が担う責任、つまりそれをさらに他の人々にも分けてあげるという責任を遂行することになるのではないでしょうか」


───それこそが、こうして私たちがこの部屋に集まっているそもそもの目的だと思います。

 「そうです。それが目的でここに集まっているのです。それこそが私たちの双肩に掛かっている仕事です。あらんかぎりの力を尽くしてその遂行に当たらなければなりません。われわれにとって可能な限りの人数を達成するまでは気を抜いて安心してはなりません」


 ここで話題が変わって、もう一人の招待客が 「夜空に見える星はただの物体でしょうか。それとも生命が存在するのでしょうか」と尋ねた。
℘170
 「どうやら少し深みに入ってきたようですね。地上世界の知識もまだまだ限界に到達しておりませんが、私たちの世界にいたっては遥かに限界からほど遠い状態です。宇宙には最高界の天使的存在から、意識がようやく明滅する程度の最低の魂に至るまでの、さまざまな意識的段階にある生命が無数に存在します。

意識的生命が地球だけに限られていると思ってはなりません。地球は数限りなく存在する天体のうちの、たった一つに過ぎません。無限なる叡知を持つ宇宙の大霊が、無限なる宇宙において無限なる意識的段階にある無数の生命に無限の生活の場を与えることができないはずがありません。

有機的生命の存在する天体は無数にあります。ただし、その生命は必ずしもあなた方が見慣れている形態をとるわけではありません。以上の説明が私としては精一杯です」


───それもやはり人間的存在なのでしょうか。

 「今私は、少し深みに入ってきたと申し上げました。ある種の形態、すなわち形と大きさと運動を持ち、環境に働きかけることができる意識的存在という意味では人間と同じ組織的存在ですが、例外はあるにしても、そのほとんどはあなた方が親しんでおられる形態の組織体と同じではありません。どうやらこれ以上の説明は無理のようです」

℘171
───あなたはそうした存在を御覧になったり話を交わしたことがおありですか。

 「私の方からその天体にまで赴いて話をしたことはありませんが、あなた方の死に相当する過程を経たあと霊的形態に宿って話を交わしたことはあります。ですが、忘れないでいただきたいのは、あなた方が地上の生命とまったく類似性のない生命に言及されると、それをなぞらえるべき手段を見出すのが困難なのです」

訳者注───地球人類が他の天体上の意識的生命をうんぬんするとき、とかく人間的身体と同じ形態を具えたものを想像しがちであるが、各種の霊界通信から推察すると、むしろ地球人類の方が特殊な部類に属し、幾千億と知れぬ天体上には人間の想像を超える形態を具えた存在が躍如たる生命活動を営んでいるようである。

シルバーバーチが説明困難といったのは、なぞらえるべきものが見当たらないのも一つの理由であるが、うっかり説明し始めるとつい〝深み〟にはまり込んでしまって、にっちもさっちもいかなくなるという危惧があるようである。むろんそれ以前に、今の人類にそんなものは必要ないという配慮もあることであろう。

Friday, December 5, 2025

シアトルの冬 霊媒の書 第2部 本論

The Mediums' Book
16章 霊に尋ねる質問の規範




――尋ねてよいこと・いけないこと


このページの目次

(一)一般論として
(二)未来のことに関する質問について
(三)過去世および来世に関する質問について
(四)世俗的問題に関する質問について
(五)他界後の霊の状況について
(六)健康に関する質問について
(七)発明・発見に関する質問について
(八)他の天体ならびに死後の界層に関する質問について

(一)一般論として


――霊は、出された質問には喜んで答えるものでしょうか。


「それは質問の内容によりけりです。向上心から出た真剣な真理探求のための質問には、高級霊は喜んで応じるでしょう。下らぬ質問には無関心です。」


――真剣な態度で尋ねた質問には真剣な返答が返ってくると思ってよろしいでしょうか。


「そうとばかりも言えません。一つには返答する霊の霊格の程度によって返答の程度が決まるからです。」


――真剣な質問はふざけた霊を追い払いますか。


「ふざけた霊を追い払うのは質問ではありません。質問する人間の霊格です。」


――真面目な霊にとって特に不愉快な質問とはどんなものでしょうか。


「意味のない質問、あるいは面白半分から出る質問です。取り合わないというよりは、不快感を覚えます。」


――反対に低級霊が特に不愉快に思うのはどういう質問でしょうか。


「彼らの無知あるいは狡猾さがあばかれるような質問です。騙そうとしているからです。そういう気遣いのない質問には、本当かどうかに無頓着に、適当に答えます。どんな質問にでも。」


――面白半分に霊界通信を求める者、あるいは俗世的利害関係のからんだ質問をする者はどうでしょうか。


「低級霊を喜ばせるだけです。自分たちも面白半分にやっているのであり、人間を手玉に取って好きに操って喜んでいるのです。」


――ある質問に霊が答えなかった場合、それは答えたくないからでしょうか、それとも高級霊から止められるのでしょうか。


「両方のケースが考えられます。その段階では教えてはならないことというのがあります。また霊が知らなくて答えられないこともあるでしょう。」


――強く求めれば霊も折れて答えてくれることもあるでしょうか。


「ありません。答えてはならないと判断した場合にしつこく求められると、霊は引き上げます。その意味でも、しつこく返答を求めてはいけないのです。真面目な霊は引き上げますから、代わって低級霊がつけ入るチャンスを与えることになるのです。」


――人間から出される問題はどんな霊にでも理解できるのでしょうか。


「そんなことはありません。未熟霊には理解できない問題が沢山あります。しかし、だからといって未熟霊が答えないというわけではありません。地上でも、知りもしないくせに、さも知った風な態度で答える人間がいるのと同じです。」
(二)未来のことに関する質問について


――霊には未来の予知ができるのでしょうか。


「もしも未来のことが分かってしまうと人間は現在のことを疎(おろそ)かにするでしょう。なのに人間がいちばん知りたがるのは未来のことです! こうした傾向は間違いです。スピリチュアリズムは占いではありません。もし未来のこと、あるいは何か他のことについて断固として求めれば、教えてくれるでしょう。知恵のない低級霊が(高級霊が引き上げたスキをついて出て)適当なことをしゃべるでしょう。これは口が酸っぱくなるほど言ってきたつもりですが……」


――でも、こちらから要求していないのに霊の方から予言して、事実その通りになったということがありますが……。


「もちろん霊には未来のことが予知できることがあり、それを知らせておいた方が良いと判断する場合もあれば、高級霊から伝達するように言いつけられる場合もあります。しかし、将来のことを軽々しくあげつらう時は大体において眉唾物とみてよろしい。そういう予言の大半は低級霊が面白半分にやっていることです。予言の信頼度の判断はありとあらゆる事情を考慮して初めてできることです。」


――絶対に信じられない予言はどんな場合でしょうか。


「一般の人々にとって何の役にも立たない場合です。個人的なことは、まずもってまやかしと思ってよろしい。」


――そういうまやかしの予言をする目的は何なのでしょうか。


「大ていは、すぐに信じ込む人間の習性をもてあそんで、脅かしたり安心させたりして喜ぶだけです。が、時として高級霊がわざとウソの予言をして、どういう反応を見せるか――善意を見せるか悪意を見せるか――をテストすることがあります。」


編者注――たとえば遺産がころがり込むといった予言をして、欲の深さや野心をテストする場合などのことであろう。


――真面目な霊が予言をする時に滅多に日時を明確に言わないのはなぜでしょうか。言えないのでしょうか、わざと言わないのでしょうか。


「両方のケースがあるでしょう。ある出来事の発生を予知し、それを警告します。が、それがいつのことかは時として知らせることを許されないことがあり、時として知らせられないこともあります。分からないのです。出来事自体は予知できても、その正確な日時は、まだ発生していない他の幾つかの事情もからんできます。これは全知全能の神にしか分かりません。

そこへ行くと軽薄な霊は人間がどうなろうと一向に構わないのですから、何年何月何日何時何分に、などと好きなことが言えるわけです。その点から言って、あまりに細かい予言は当てにならないと考えてよろしい。

改めて申し上げますが、我々の霊団は人間の霊的向上を促進し、完全へ向けての進化の道を歩むように指導することを使命としているのです。我々との係わりにおいて霊的叡智のみを求めるかぎり、低級霊にたぶらかされることはありません。人間の愚かな欲求や運勢占いに時間を無駄に費やすのにお付き合いさせられるのはご免こうむります。そうした児戯に類することは、そんなことばかりして愉快に過ごしている低級霊に任せます。

そもそも人間に知らしめてよいことには大霊の摂理によって一定の枠が設けられております。その辺の摂理に通じている高級霊は、返答すべきでないことにはあくまでも沈黙を守ります。そうした事情を弁(わきま)えずにしつこく返答を求めることは、低級霊につけ入るスキを与えることになります。彼らは実にもっともらしい口実をこしらえて、人間が有り難がるように話をもっていきます。」


――未来の出来事を予知する能力を授かっている人もいるのではないでしょうか。


「います。物質による束縛を断ち切る力を有している人がいて、その状態において未来の出来事を見ることができます。一種の啓示を受けるのです。そしてその啓示が人類にとって有益と見なされれば、公表することを許されます。しかし、そういう人は例外に属します。一般に予言者と称して災害や不幸を安直に予言している人間はイカサマ師でありハッタリ屋だと思って間違いありません。

ただ言えることは、人類の進化とともに今後ますます予知能力が一般化して行くでしょう。」


――人の死亡年月日の予言を得意にしている霊がいますが、どう理解すべきでしょうか。


「非常に趣味の悪い霊の集団で、その程度のことで人間を感心させて得意になっている低級霊です。相手にしてはいけません。」


――自分の死を予知する人がいますが、これはいかがでしょうか。


「霊が肉体から離れている間に死期が近いことを感知し、それが肉体に戻ってからも意識に残っているケースです。それほどの人になると、その予知によって恐れを抱くことも戸惑うこともありません。一般に“死”と呼んで恐れているものを、ただの“変化”と見なし、譬えて言えば厄介な重苦しいオーバーコートから軽やかなシルクのコートに着替えるのだと考えます。スピリチュアリズムの知識が普及するにつれて死の恐怖は薄らいでいくことでしょう。」
(三)過去世および来世に関する質問について


――霊には人間の過去世が簡単に分かるのでしょうか。


「大霊は、時として、ある特殊な目的のために、いくつかの前世を啓示することを許すことがあります。あくまでも、それを知らせることが当人の教化と啓発に役立つと判断された時にかぎられます。そうした場合は必ず何の前ぶれもなく自然発生的に見せられます。ただの好奇心から求めても絶対に許されません。」


――では、こちらからの要求に喜んで応じていろいろと語ってくれる霊がいるのはなぜでしょうか。


「それは、人間側がどうなろうと意に介さない低級霊のすることです。

一般的に言って、特に大切な意味もない過去世を物語る時は、すべて作り話と思ってよろしい。低級霊は前世を知りたがる人間が有頂天になるように、前世では大金持ちだったとか大変な権力者であったかのような話をこしらえて語ります。また出席者も、あるいは霊媒も、聞かされた話をすべて真実として受け止めます。その時、当人のみならず霊自身もけちくさい虚栄心にくすぐられて、そんな前世と現世との間に何の因果関係もないことまでは思いが至りません。実質的には大金持ちや大権力者だった前世より平凡な今の方が向上していると考える方が理性的であり、進化の理論に適っており、本人にとって名誉なことであるはずなのです。

過去世の啓示は、次の条件下においてのみ信用性があります。すなわち思いも寄らない時に突如として啓示された場合、まったく顔見知りでない複数の霊媒によって同じ内容のものが届けられた場合、そして、それ以前にどんな啓示があったか全く知られていない場合。これだけの条件が揃っていれば信じるに足るものと言えます。」


――かつての自分がいかなる人物であったかが知り得ないとなると、どういう人生を送ったか、また性格上の長所と欠点についても知り得ないことになりましょうか。


「そうとばかりも言えません。知らされる場合がよくあります。それを知ることが進歩を促進すると見なされた場合です。が、およそのことは現在のご自分を分析すればお分かりになるのではありませんか。」


――来世、つまり死後また再生して送る人生について啓示を受けることは有り得るでしょうか。


「有り得ません。有り得るかのごとく述べる霊の言うことは全てナンセンスと思って差し支えありません。その理由は、理性的に考えればお分かりになるはずです。次の物的生活は現在の人生での行いと死後における選択によって決まることであって、今から決まっていることではないからです。

概念的に言えば、罪滅ぼしの量が少ないほどその一生は幸せでしょう。しかし、次の物的生活の場(天体)がどこで、どういう経過をたどるかを予知することは不可能です。ただし、滅多にない例外として、重大な使命を帯びている霊の場合はあらかじめ予定が組まれていますから、予知することは可能です。」
(四)世俗的問題に関する質問について


――霊に助言を求めることは許されますか。


「もちろんです。善良な霊が、真摯に求めてくる者を拒絶することは絶対に有り得ません。とくに“生き方”に関して真剣に意見を求める場合はそうです。あくまでも真剣でないといけません。実生活ではいい加減な生き方をしながら、交霊の場では真剣な振りをする偽善者は受けつけません。」


――プライベートな悩みごとに関してのアドバイスも求めてよろしいでしょうか。


「アドバイスを求める動機と、相手をする霊によっては、許されることがあります。プライベートな悩みごとは普段から親しく係わり合っている指導霊が最も適切です。指導霊は身内のようなものであり、当人の秘めごとにまで通じているからです。だからといって、あまり甘えた態度を見せると引き上げてしまいます。

街角で出会った人に相談を持ちかけるのが愚かであるのと同じで、いくら善良な霊でも、あなたの日常生活について何も知らない霊に助言を求めるのは筋違いというものです。また質問者の霊格と回答霊の霊格とが違いすぎでも、良い結果は得られません。さらに考慮しなければならないのは、いくら親(ちか)しい指導霊であっても、根本的に邪悪性の強い人間には邪霊がついていますから、そのアドバイスも決して感心したものではありません。何らかの体験をきっかけとして善を志向するようになればその霊に代わって別の、より善性の強い霊が指導霊となります。類が類を呼ぶわけです。」


――背後霊は私たちの物的利益のために特別の知恵を授けてくれるものでしょうか。


「授けることを許されることがないわけではありません。事情次第では積極的に援助します。が、ただの金儲けや卑しい目的のためには、善霊は絶対に係わり合わないと思ってください。そういう時に積極的に知恵を授けるのは邪霊です。巧みに誘惑して、あとで欺くのです。

ご注意申し上げますが、霊的浄化のために仮にあなたが艱難辛苦をなめる必要があると見た時、あなたの守護霊や指導霊は、それに対処する心構えを支え、あまり過酷すぎる時に少し和らげることはしても、艱難辛苦そのものを排除するようなことは許されていません。それに耐えることこそあなたのためであり、長い目で見た時はその方が良いからです。守護霊というのは叡智と真の愛情をもった父親のようなものです。欲しがるものを何でも与えるようなことはしませんし、為すべきことを避けるようなことも許しません。」


――仮にある人が相続の問題の最中に死亡したとします。そして、その人が残した遺産の在り処が判らず、公正な解決のためにはその人から情報を得る必要があるとします。そんな時、その霊を呼び出して聞き出すことは許されるでしょうか。


「そういう質問をお聞きしていると、あなたは死というものが俗世的労苦の種からの解放であることをお忘れのようですね。地上への降誕によって失われていた自由をやっと取り戻して喜んでいる霊が、多分その霊の他界によって遺産がころがり込むと期待している遺族の貪欲を満たしてやるために、もはや何の係わりもなくなった俗事の解決に喜んで出てくると思いますか。

“公正な解決”とおっしゃいましたが、世俗的な貪欲に燃える者のために大霊が用意している懲罰の手初めとして、その貪欲な思惑の当てが外れるということにも公正さがあっても良いのではないでしょうか。

もう一つの考え方として、その人の死によって引き起こされる問題は、それに係わる人々の人生の試練の一つなのかも知れません。そうなると、どの霊に尋ねても解決法は教えてもらえないでしょう。大霊の叡智から発せられた宿命として、その者たちに課せられた宿題なのですから。」


――埋蔵された財宝の在り処を教えてもらうのはいけませんか。


「霊格の高い霊はそうした話題にはまったく関心がありません。が、いたずら霊がいかにも霊格が高そうな態度で、ありもしない財宝の話をしたり、実際に隠されている財宝についてはわざと違う場所を教えたりしてからかいます。

そうした行為を大霊が許していることには意味があるのです。本当の財産は働くことによって得るものであることを教えるためです。もしも隠し財宝が発見される時期が来れば、それはごく自然な成り行きで見つかるように配慮されるでしょう。霊が出てきて教えるという形では絶対に発見されません。」


――隠し財宝にはそれを監視する霊がついているというのは本当でしょうか。


「地臭の抜け切らない霊がそういうものに執着しているというケースはあるでしょう。守銭奴が財産を隠したまま死亡して、霊界からそれを油断なく見張っていることはよくあります。それが発見されて奪われてしまうことで味わう無念残念は、蓄財の愚かさを教えるための懲罰です。

それとは別に、地中に住んでいる精霊が自然界の富の監理人のように物語られることがあります。」


ブラックウェル脚注――カルデックが編纂の仕事を託された通信には霊団側によって大きく制約が設けられていて、この精霊の問題もその一つであった。ここではノームとかコボールドと呼ばれる地の精のことを指している。人類とは別の進化のコースをたどっている精霊で、鉱夫や霊視能力者によってその実在が証言されている。思うに、世界各地の伝説で語られているフェアリーとかエルフとかサラマンダーと呼ばれている“原始霊(エレメンタリー)”も同系統に属するものではなかろうか。


訳注――もう一冊の『霊の書』にもいくつかの質問が出ているが、その回答には、あまり深入りしないように、といった感じの配慮がうかがえ、「それはいずれ明らかにされる日も来るでしょう」と述べている箇所がある。
(五)他界後の霊の状況について


――死後どうしているかを尋ねるのは許されますか。


「許されます。ただの好奇心からでなく、思いやる心、あるいは参考になる知識を得たいという願望に発したものであれば、霊は喜んで応じます。」


――霊が自分の死後の苦痛や喜びを語ることは許されているのでしょうか。


「もちろんです。そういう啓示こそ地上の人間にとって大切この上ないものです。死後に待ちうける善悪両面の報いの本質が分かるからです。それまで抱いていた間違った見解を破棄して、死後の生命についての信仰と神の善性への確信を深めようとするようになります。(“神の善性”というと“清浄と穢れ”の観念の強い日本人には奇異の感じを与える。私も訳語に抵抗を覚えるが、“神(ゴッド)”と“悪魔(サタン)”の観念の根強いキリスト教国では“神は善”という捉え方が普通であることに配慮したのであろう――訳注)

スピリチュアリズムの真髄が地上の人間の霊的覚醒にあることを忘れてはいけません。また、そのようにして霊が死後の情報を披瀝することを許されるのは、ひとえにその目的のためであり、さまざまな体験から学んでもらうためのものであることを忘れないでください。死後に待ちうける霊的世界の事情にくわしく通じるほど、現在自分が置かれている、思うにまかせない身の上を嘆くことが少なくなるはずです。そこにこそスピリチュアリズムという新しい啓示の真髄があるのです。」


――招霊した霊がすでに他界した霊なのか生者の霊なのかが明確でない時、そのことをその霊から聞き出すことは許されますか。


「許されます。ただし、そういうことに興味をもつ人間への試練として、知ろうとしても曖昧のままで終わることがあります。」


――もしも他界している霊であれば、自分の死の前後の状況について明確な証拠性のある証言ができるでしょうか。


「死の前後の状況がその霊にとって格別な意味があれば証言できるでしょうが、そうでなければ語りたがらないでしょう。」
(六)健康に関する質問について


――健康についてのアドバイスを求めてもよろしいでしょうか。


「地上生活における仕事の成就には健康であることが第一ですから、霊は人間の健康問題に係わることを許されていますし、しかも皆喜んで勉強しています。しかし、何事にも言えることですが、できの良い霊と悪い霊とがいます。できの悪い霊の言うことを何でも信じるのは考えものです。」


――地上で医学者として名声を博した霊だったら間違いがないでしょうか。


「地上時代の名声というのは全く当てにならないものです。しかも死後も地上的謬見(びゅうけん)を引きずっていることがしばしばです。死んだら直ぐに地上的なものが無くなるわけではありません。地上の学問というのは霊界に比べればチリほどのものでしかありません。上層界へ行くほど学問は深みを増します。そういう世界には地上の歴史にまったく痕跡をとどめていない霊が大勢います。

もっとも、博学であるというだけが高級霊の条件ではありません。皆さんもこちらへ来れば、あれほどの大学者が……と思って驚くほど、低界層で迷っている人が大勢いることが分かります。地上の科学の大先駆者だった人でも、霊性において低かった人は、霊界でも低い界層に所属し、したがってその知識もある一定次元以上のものではありません。」


――地上の科学者が間違った説を立てている場合、そのまま霊界へ行けばその間違いに気づくでしょうか。


「ですから、死後順調に霊性が開発されて自分の不完全さに気づけば、学問上の間違いにも気づき、潔(いさぎよ)くその非を認めるでしょう。が、地上的波動を引きずっているかぎり、地上的偏見から脱け出せません。」


――医者が自分が診察したことのある患者の霊を呼び出して、本当の死因について聞き出し、その間違いを確認することによって医学的知識を広げるということは許されるでしょうか。


「許されることですし、とても有益な勉強になることでしょう。高級霊団の援助が得られればなおさらのことです。ですが、そのためには前もって霊的真理について行き届いた勉強をし、真摯に、そして不幸な人々に対する純真な慈悲心をもって臨む必要があります。労少なくして医学的論文の資料や収入を目当てにするようではいけません。」
(七)発明・発見に関する質問について


――霊が学者の研究や発明に関与することは許されているのでしょうか。


「学問の研究成果が真実であるか否かの確認は、学者の天賦の才に係わる仕事です。人間はあくまでも勤勉と努力によって進歩することが建前ですから、学問も人間自身の労力によって発展しなくてはいけません。努力もせずに結論だけを霊から教わっていては、人間としての功績はどうなりますか。ろくでなしでも労せずして大科学者になれることになりませんか。

発明・発見についても同じことが言えます。しかも新しい発見には有効なタイミングというものがあり、また人間の精神にそれを受け入れる準備ができていないといけません。もしも高級霊にお伺いを立てれば何でも教えてもらえるとしたら、人類の精神的発達に合わせた物事の発生の規律が乱れてしまいます。

旧約聖書にも、神はこう述べたとあります――“額に汗してパンを食せよ”と。この比喩は低次元の界層に属する人類の有るべき姿を見事に表現しております。人間は進化・向上すべき宿命を背負っており、それは努力によって獲得しなければなりません。必要なものが既製服を買うような調子で何の努力もなしに手に入るとしたら、知性の存在価値はどうなりますか。宿題を親にやってもらう小学生のようなものです。」


――でも、学者も発明家も霊界からの援助を受けているのではないでしょうか。


「ああ、それはまた話が別です。ある発見がなされるべき時機が到来すると、人類の進化を担当する霊団がその受け皿になってくれる人物を探し、首尾よく地上にもたらされる上で必要なアイディアをその人物の精神に吹き込みます。もちろん本人は自分のアイディアのつもりです。霊団の方でもその人物の功績となるように仕向けます。というのは、最終的にそれを完成させるのは確かに当人だからです。

人類の発達史における発明・発見は全てそうやって地上に届けられてきたのです。といって、誰でもよいというわけではありません。土地を耕す者、タネを蒔く者、そして穫り入れる者と、それぞれに分担が違います。宇宙の秘中の秘を、それを受け取る資格のない者に簡単に授けるようなことはしません。大霊の計画の推進者として適切な者にのみ、その計画の一端が啓示されます。

あなた方も、好奇心や野心から、スピリチュアリズムの目的から外れた、知らずもがなの宇宙の秘密の探求へ誘惑されるようなことのないよう気をつけないといけません。いたずらに神秘主義的になって、挙げ句には失望・落胆の落とし穴にはまってしまいます。」
(八)他の天体ならびに死後の界層に関する質問について


――他の天体や死後の世界に関する霊界通信にはどの程度の信憑性があるのでしょうか。


「それは通信霊の霊性の発達程度によりけりです。発達程度の低い霊は自分の国から一歩も出たことのない人間と同じで、何も知りません。あなた方はよくその程度の霊にしきりに尋ねています。よしんばその霊が善性が強くて真面目であっても、その述べていることの信憑性は別問題です。ましてそれが意地の悪い霊だと、ただの想像の産物にすぎないことを、さも知った風な態度で述べます。

だからといって信頼のおける情報が絶対に得られないと決め込むのも間違いです。霊性の発達した霊が、後輩である人間の進歩・向上のために、自分が知り得たかぎりでの情報を喜んで提供することがあります。」


――それが間違いない情報であることの証拠は何でしょうか。


「多くの情報をつき合わせてみて全てが一致するということが最大の証拠です。ですが、それ以前の問題として、そういう情報は地球人類の霊性の向上という目的にそって提供されるものであること、したがって、たとえば他の天体の物的ないしは地質学的情報そのものよりも、その天体上の知的存在の霊性面についての情報の方が大切であることを忘れてはなりません。というのも、地質学的なものは、たとえ情報そのものは正確な事実であっても、現段階の地球人類には理解できないでしょう。そんな理解困難な情報は人類の霊性の向上には何の役にも立ちません。どうしても知りたければ、その天体へ再生すればよろしい。」

シアトルの初冬 シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips
八章 真理には無限の側面がある


    作家としても出版業者としても成功をおさめている男性と、心霊知識の普及に健筆を揮っている女性(両者とも氏名は紹介されていない。手掛かりになるものもない──訳者)が招かれた時の様子を紹介する。

 この男性は交霊会は今回が初めてであるが、スピリチュアリズムには早くから親しんでいた。そこでシルバーバーチがこう挨拶した。

 「私はあなたを見知らぬ客としてではなく待ちに待った友として歓迎いたします。どうかサークルの皆さんと思い切り寛いだ気分になっていただき、お互いに学び合ってまいりましょう。

 これまであなたもずいぶん長い道のりを歩んでこられました。けっして楽な道ではありませんでした。石ころだらけの道でした。それをあなたは見事に克服してこられました。あなたご自身にとって、またあなたの愛する方たちにとって重大な意味をもつ決断を下さねばならなかった魂の危機を象徴する、忘れ難い出来ごとが数多くあります」


 これを聞いてその男性は 「少しピンと来ないところがあるのですが」 と述べてから、自分が霊的に飢えていたと言うのはどういう意味かと尋ねた。すると───
p139
 「(通常意識とは別に)あなたの魂が切望していたものがありました。あなたの内部で無意識に求めていたものですが、あなたはその欲求を満たしてやることが出来なかった。

永い間あなたは何かを成就したい、やり遂げたい、我がものにしたいという絶え間ない衝動───抑えようにも抑え難い、荒れ狂ったような心の渇望を意識し、それがしばしば精神的な苦痛を生みました。〝一体自分の心の安らぎはどこに求めたらいいのか。

自分の心の港、心の避難場所はどこにあるのか〟と心の中で叫ばれました。次々と難問は生じるのに回答は見出せませんでした。ですが、いいですか、その心の動乱は実はあなた自身の魂の体質が生んでいたのです。

水銀柱が急速に上昇するかと思えば一気に下降します。あなたは暴発性と沈着性という相反するものを具えたパラドックス的人間です。いかがです、私の言っていることがお分かりになりますか」


───よく分ります。おっしゃる通りです。私なりに偉大な思想家から学ぼうと努力してきたつもりですが・・・・・・

 「私にも真理のすべてをお授けすることはできません。真理は無限であり、あなたも私も同様に有限だからです。
℘140
われわれも無限なるものを宿していることは事実ですが、その表現が悲しいほど不完全です。完全の域に達するまでは真理のすべてを受け入れることはできません。真理とは無限の側面を持つダイヤモンドです。無限の反射光を持つ宝石です。

その光は肉体に閉じ込められた意識では正しく捉らえ難く、その奥の霊の持つ自然の親和力によって手繰り寄せられた部分をおぼろげに理解する程度です。私には〝さあ、これが真理ですよ〟と言えるものは持ち合わせません。あなたが求めておられるものの幾つかについて部分的な解答しかお出しできません。

 あなたは感受性のお強い方です。男性のわりには過敏でいらっしゃいます。それはそれなりの代償を支払わされます。普通の人間には分からないデリケートで霊妙なバイブレーションを感知できるほどの感受性を持っておれば、当然、他の分野でも過敏とならざるを得ません」


───そのことを痛切に思い知らされております。

 「感受性が強いということは喜びも悲しみも強烈となるということです。幸福の絶頂まで上がれるということは奈落の底まで落ちることも有り得るということです。強烈な精神的苦悶を味わわずして霊的歓喜は味わえません。
℘141
二人三脚なのです。私があなたのお役に立てることといえば、たとえ苦境にあってもあなたは決して泥沼に足を取られてにっちもさっちも行かなくなっているのではないこと、何時も背後霊によって導かれているということを理解させてあげることです。

一人ぼっちであがいているのではないということです。幸いなことにあなたは度を過して取り乱すことのない性格をしていらっしゃいます。時には目先が真っ暗に思えることがあっても、自分が望むことは必ず叶えられるとの確信をお持ちです。

 どうぞ自信をもってください。あなたが生きておられるこの宇宙は無限なる愛によって創造され、その懐の中に抱かれているのです。その普遍的な愛とは別に、あなたへ個人的な愛念を抱き、あなたを導き、援助し、利用している霊の愛もあります。それは、よくよくのことがないかぎり自覚していらっしゃいません。私の申し上げたことが参考になりましたでしょうか」


───とても参考になりました。

   ※ ※ ※

 話は前後するが、この交霊会より早く、女性の文筆家が二度招かれていた。この夫人はスピリチュアリズム普及のためにいろいろと書いておられる。が、最近ご主人に先立たれた。シルバーバーチが歓迎の言葉をこう述べた。
℘142
 「あなたのペンの力で生き甲斐を見出してから他界した大勢の人に代わって、私が歓迎の言葉と感謝の気持ちを述べる機会を持つことができて、とてもうれしく思います。私たちにはあなたから慰めを得た人々の心、あなたの健筆によって神の恵みに浴することができた魂が見えるのです。

道を見失える者、疲れ果て困惑しきってあなたのもとを訪れる人々に、あなたは真心を込めて力になってあげられました。自分を人のために役立てること、これが私たちにとって最も大切なのです」


───ご理解いただいているように、ともかく私は人のためにお役に立ちたいのです。

 「私たちの価値判断の基準は地上とは異なります。私たちは、出来ては消えゆく泡沫のような日々の出来ごとを、物質の目でなく魂の知識で見つめます。その意味で私たちは、悲しみの涙を霊的知識によって平静と慰めに置きかえてあげる仕事にたずさわっている人に心から拍手喝采を送るものです。

地上の大方の人間があくせくとして求めているこの世的財産を手に入れることより、たった一人の人間の魂に生甲斐を見出させてあげることの方がよほど大切です。
℘143
 有為転変(ういてんぺん)きわまりない人生の最盛期において、あなたはその肩に悲しみの荷を負い、暗い谷間を歩まねばならないことがありましたが、それもすべては、魂が真実なるものに触れてはじめて見出せる真理を直接(じか)に学ぶためのものでした。

大半の人間がとかく感傷的心情から、あるいはさまざまな魂胆から大切にしたがる物的なものに、必要以上の価値を置いてはいけません。そうまでして求めるほどのものではないのです。いかなる魂をも裏切ることのない中心的大原理即ち霊の原理にしがみつかれることです」
 
 さらにシルバーバーチはその文筆家が主人を亡くしたばかりであることを念頭におきながらこう続けた。

 「あなたが今こそ学ばねばならない大切な教訓は、霊の存在を人生の全ての拠りどころとすることです。明日はどうなるかという不安の念を一切かなぐり捨てれば、きっとあなたも、そのあとに訪れる安らぎと静寂とともに、それまで不安に思っていた明日が実は、これから辿らねばならない道においてあなたを一歩向上させるものをもたらしてくれることに気づかれるはずです。

非常に厳しい教訓ではあります。しかし、すべての物的存在は霊を拠りどころとしていることはどうしようもない事実なのです。
℘144
物的宇宙は全大宇宙を支配する大霊の表現であるからこそ存在し得ているのです。そしてあなたもその身体に生命と活力を与えている大霊の一部であるからこそ存在し得ているのです。物的世界に存在するものはすべて霊に依存しております。言わば実在という光の反射であって、光そのものではないのです。

 私たちとしては、あなた方人間に理想を披歴するしかありません。言葉をいい加減に繕うことは許されません。あなたがもし魂の内部に完全な平静を保つことができれば、外部にも完全な平静が訪れます。

物的世界には自分を傷つけるもの、自分に影響を及ぼすものは何一つ存在しないことを魂が悟れば、真実、この世に克服できない困難は何一つありません。かくして、訪れる一日一日が新しい幸せをもたらしてくれることになります。いかに優れた魂にとっても、そこまでは容易に至れるものではないでしょう。

 しかし人間は苦しい状態に陥ると、それまでに獲得した知識、入手した証拠を改めて吟味しなおすものです。本当に真実なのだろうか、本当にこれでいいのだろうか、と自問します。しかし、これまで何度も申し上げてきたことですが、ここでまた言わせていただきます。万事がうまく行っている時に信念を持つことは容易です。が、

信念が信念としての価値を持つのは暗雲が太陽をさえぎった時です。が、それはあくまでも雲にすぎません。永遠にさえぎり続けるものではありません」
℘145
(訳者注───このあとに続く部分は第四巻の八章「質問に答える」の中で質問(四)として引用されている。次の問答はその続きとしてお読みいただきたい)

───最近の大規模な疎開政策によって家族関係が破壊され、それが責任意識に欠けた若者を生む原因になっていると私は考えるのですが、いかがでしょうか。

 「そういうことも考えられます。が、それがすべてというわけではありません。元来家庭というのは子供の開発成長にとっての理想的単位であるべきなのですが、残念ながらこれにも多くの例外があります。

私が思うに、暴力行為を誘発すると同時に道徳基準を破壊してしまうという点において、やはり何といっても戦争が最大の原因となっております。一方で相手を殺すことを奨励しておいて、他方で戦争になる前のお上品さを求めても、それは無理というものです」

───結局、社会環境を改善するしかないように思います。
℘146
 「そのために霊的実在についての知識を普及することです。自分が霊的存在であり物的存在ではないこと、地上生活の目的が霊性の開発と発達にあることをすべての人間が理解すれば、これほど厄介な野獣性と暴力の問題は生じなくなることでしょう」


 これにサークルのメンバーが 「そうなれば当然戦争などは起こり得ないですね」 と相づちを打つと、シルバーバーチが───

 「人類の全てが霊性を認識し、人類という一つの家族の一員としてお互いの間に霊という不変の絆がありそれが全員を家族たらしめているということを理解すれば、地上から戦争というものが消滅します」


 別のメンバーが 「それがいわゆる不戦主義者の態度なのですね?」と述べると───

 「私はラベルには関心はありません。私はなるべく地上のラベルには係わり合わないようにしております。理想、理念、動機、願望───私にとってはこうしたものが至上の関心事なのです。たとえば自らスピリチュアリストを持って任じている人が必ずしもスピリチュアリズムを知らない人よりも立派とは言えません。

不戦主義者と名のる人がおり、その理念が立派であることは認めますが、問題は結局その人が到達した霊的進化の程度の問題に帰着します。
℘147
不完全な世の中に完全な矯正手段を適用することは出来ません。時には中途半端な手段で間に合わせざるを得ないこともあります。世の中が完全な手段を受け入れる用意が出来ていないからです。

こちらの世界では高級な神霊はまず動機は何かを問います。動機がその行為の指標だからです。もしその動機が真摯なものであれば、その人の願望はまるまる我欲から出たものではないことになり、したがって判断の基準も違ってきます」

(訳者注───最後に述べている〝まるまる我欲から出たものではない〟というセリフは注目すべきであろう。前巻でも注釈しておいたことであるが、シルバーバーチは〝利己性〟をすべていけないものとは見ていない。

霊的なものに目覚めた当初はとかく完全な純粋性を求め、それが叶えられない自分を責めがちであるが、肉体という〝悲しいほど不自由な牢〟に閉じ込められている人間に、そのような完全性を求めるつもりはさらさらないようである。だから〝動機さえ正しければ〟ということになるのである)


 ここで先ほどの女性が 「立派な兵士と真面目な不戦主義者とがともに正しいということもあり得るのですね」 と述べると───
℘148         
 「その通りです。二人の動機は一体何かを考えればその答えが出ます。何ごとも動機がその人の霊的発達の程度の指標となります」

───こういう場合には自分だったらこうするだろうということは予断できないと思うのです。

 「そうなのです。なぜかと言えば、人間はその時点までに到達した進化の程度によって制約されていると同時に、地上生活での必需品として受け継いだ不可避の要素(前世からの霊的カルマ、肉体の遺伝的要素などが考えられる───訳者) の相互作用の影響も受けるからです。ですから、常に動機が大切です。

それが、どちらが正しいかを判断する単純明快な基準です。かりに人を殺めた場合、それが私利私欲、金銭欲、その他の利己的な目的が絡んでいれば、その動機は浅はかと言うべきでしょうが、愛する母国を守るためであれば、その動機は真摯であり真面目です。

それは人間として極めて自然な情であり、それが魂を傷つけることにはなりません。ただ残念なことに、人間は往々にしてその辺のところが曖昧なことが多いのです」

 別のメンバーが 「でも、もちろんあなたは人を殺めるということそのものを良いことだとは思われないでしょう」 と言うと、
℘149
 「もちろんです。理想としては殺し合うことは間違ったことです。ですが、前にも述べたことがありますように、地上世界では二つの悪いことの内の酷くない方を選ばざるを得ないことがあるのです」

(訳者注─── この後の死刑制度についての問答は同じく第四巻の 「質問に答える」 の質問(四)の最後に引用されているが、これをカットすると脈絡が取れにくくなるので再度掲載しておく)


───死刑制度は正しいとお考えですか。

 「いえ、私は正しいと思いません。これは〝二つの悪いことの酷くない方〟とは言えないからです。死刑制度は合法的殺人を許していることでしかありません。個人が人を殺せば罪になり国が人を処刑するのは正当という理屈になりますが、これは不合理です」


───反対なさる主たる理由は、生命を奪うことは許されないことだからでしょうか。それとも国が死刑執行人を雇うことになり、それは雇われた人にとって気の毒なことだからでしょうか。
℘150
 「両方とも強調したいことですが、それにもう一つ強調しておきたいのは、いつまでも死刑制度を続けているということは、その社会がまだまだ進歩した社会とは言えないということです。なぜなら、死刑では問題の解決にはなっていないことを悟る段階に至っていないからです。それはもう一つの殺人を犯していることにほかならないのであり、これは社会全体の責任です。それは処罰にはなっておりません。ただ単に別の世界へ突き落しただけです」


───そのうえ困ったことに、そういう形で強引にあの世へ追いやられた霊による憑依現象が多いことです。地上の波長に近いためすぐに戻って来て誰かに憑依しようとします。

 「それは確かに事実なのです。霊界の指導者が地上の死刑制度に反対する理由の一つにそれがあります。死刑では問題を解決したことになりません。さらに、犯罪を減らす方策───これが方策と言えるかどうか疑問ですが───としても実にお粗末です。そのつもりで執行しながら、それが少しもその目的のために役立っておりません。
℘151
残虐行為に対して残虐行為を、憎しみに対して憎しみを持って対処してはなりません。常に慈悲心と寛恕と援助の精神を持って対処すべきです。それが進化した魂、進化した社会であることの証明です」


───そこまで至るのは大変です。

 「そうです、大変なのです。しかし歴史のページを繙けば、それを成就した人の名が燦然たる輝きを持って記されております」


───憑依現象のことですが、憑依される人間はそれなりの弱点を持っているからではないかと思っています。つまり、土の無いところにタネを蒔いても芽は出ないはずなのです。

 「そうです。それは言えます。もともとその人間に潜在的な弱点がある、つまり例によって身体と精神と霊の関係が調和を欠いているのです。邪霊を引きつける何らかの条件があるということです。アルコールの摂り過ぎである場合もありましょう。薬物中毒である場合もありましょう。
℘151
度を越した虚栄心、ないしは利己心が原因となることもあります。そうした要素が媒体となって、地上世界の欲望を今一度満たしたがっている霊を引きつけます。意識的に取り憑く霊もいますし、無意識のうちに憑っている場合もあります」


 その日の交霊会の終りに、最近一人娘を失ったばかりの母親からの手紙が読み上げられた。その手紙の主要部分だけを紹介すると───

 〝私は十九歳のひとり娘を亡くしてしまいました。私も夫も諦めようにも諦めきれない気持ちです。私たちにとってその娘が全てだったのです。私たちはシルバーバーチの霊言を読みました。シルバーバーチ霊はいつでも困った人を救ってくださるとおっしゃっています。

(肢体不自由だった)娘は十九年間一度も歩くことなく、酷しい地上人生を送りました。その娘が霊界でぶじ向上しているかどうか、シルバーバーチ霊からのメッセージがいただけないものでしょうか。地上で苦しんだだけ、それだけあちらでは報われるのでしょうか。私は悲しみに打ちひしがれ、途方に暮れた毎日を生きております〟


 これを聞いたシルバーバーチは次のように語った。
℘153
 「その方にこう伝えてあげてください。神は無限なる愛であり、この全宇宙における出来ごとの一つとして神のご存知でないものはありません。すべての苦しみは魂に影響を及ぼして自動的に報いをもたらし、そうすることによって宇宙のより高い、より深い、より奥行きのある、側面についての理解を深めさせます。

娘さんもその理解力を得て、地上では得られなかった美しさと豊かさをいま目の前にされて、これからそれを味わって行かれることでしょう。

 また、こうも伝えてあげてください。ご両親は大きなものを失われたかもしれませんが、娘さん自身は大きなものを手にされています。お二人の嘆きも悲しみも悼みも娘さんのためではなく実はご自身のためでしかないのです。ご本人は苦しみから解放されたのです。

死が鳥かごの入り口を開け、鳥を解き放ち、自由に羽ばたかせたことを理解なされば、嘆き悲しむことが少しも本人のためにならないことを知って涙を流されることもなくなるでしょう。やがて時が来ればお二人も死が有難い解放者であることを理解され、娘さんの方もそのうち、死によって消えることのない愛に満ちた、輝ける存在となっていることを証明してあげることができるようになることでしょう」

 こう述べてから、次の言葉でその日の交霊会を結んだ。

 「地上で死を悼んでいる時、こちらの世界ではそれを祝っていると思ってください。あなたがたにとっては〝お見送り〟であっても、私たちにとっては〝お迎え〟なのです」

℘154
 さて次の交霊会にも同じ女性文筆家が出席した。シルバーバーチは開会早々こう述べた。

 「今あなたを拝見して、前回の時よりオーラがずっと明るくなっているのでうれしく思います。少しずつ暗闇の中から光の中へ出てこられ、それとともにすべてが影に過ぎなかったという悟りに到達されました。本当は今までもずっと愛の手があなたを支え、援助し、守っていてくださったのです。同じ力が今なお働いております。

 今のあなたには微かな光を見ることができ、それが暗闇を突き破って届いてるのがお分かりになります。その光はこれから次第に力を増し、鮮明となり、度合いを深めていくことでしょう。あなたは何一つご心配なさることはありません。愛に守られ、いく手にはいつも導きがあるとの知識に満腔の信頼を置いて前進なさることです。

 来る日も来る日もこの世的な雑用に追いまくられていると、背後霊の働きがいかに身近なものであるかを実感することは困難でしょう。しかし事実、常に周りに存在しているのです。あなた一人ぼっちでいることは決してありません」
℘155
───そのことはよく分かっております。なんとかして取越苦労を克服しようと思っています。

 「そうです敵は心配の念だけです。心配と不安、これはぜひとも征服すべき敵です。日々生ずる一つ一つにきちんと取り組むことです。するとそれを片付けていく力を授かります。

 今やあなたは正しい道にしっかりと足を据えられました。何一つ心配なさることはありません。これから進むべき道において必要な導きはちゃんと授かります。私にはあなたの前途に開けゆく道が見えます。もちろん時には暗い影は過(よぎ)ることがあるでしょうが、あくまでも影にすぎません。

 私たちは決して地上的な出来ごとに無関心でいるわけではありません。地上の仕事にたずさわっている以上は物的な問題を理解しないでいるわけにはまいりません。現にそう努力しております。しかし、あくまでも霊の問題を優先します。

物質は霊のしもべであり主人ではありません。霊という必須の要素が生活を規制し支配するようになれば、何ごとが生じても、きっと克服できます。

 少しも難しいことは申し上げておりません。きわめて単純なことなのです。が、単純でありながら、大切な真理なのです。
℘156
満腔の信頼、決然とした信念、冷静さ、そして自信───こうしたものは霊的知識から生まれるものであり、これさえあれば、日々の生活体験を精神的ならびに霊的成長を促す手段として活用していく条件としては十分です。

地上を去ってこちらへお出でになれば、さんざん気を揉んだ事柄が実は何でもないことばかりだったことを知ります。そして本当にためになっているのは霊性を増すことになった苦しい体験であることに気づかれることでしょう」

 最後に同じく夫を悲劇の中に失った未亡人に対して次のように述べた。

 「あなたからご覧になれば、私がこうして教訓やメッセージをお伝えできることから、私にはどんなことでも伝えられるかに思われるかも知れませんが、私には私なりにどうしても伝えきれないもの、私に適性が欠けているものがあることを常に自覚しております。

なにしろ私たちには五感では感識できない愛とか情とか導きとかを取り扱わねばならないのです。こうしたものは地上の計量器で計るような具合には参りません。

それでも尚、その霊妙な力は、たとえ地上的な意味では感識できなくても、霊的な意味ではひしひしと感識できるものです。愛と情は霊の世界では人間の想像をはるかに超えた実在です。あなたが固いとか永続性があるとか思っておられるものよりずっとずっと実感があります。
℘157
私が今ここで、あなたのご主人はあなたへの愛に満ちておられますと申し上げても、それは愛そのものをお伝えしたことにはなりません。言葉では表現できないものをどうしてお伝えできましょう。そもそも言葉というのは実在を伝えるにはあまりにお粗末です。情緒や感情や霊的なものは言語の枠を超えた存在であり、真実を伝えるにはあまりに不適切です」


 ここで未亡人が「主人が今私に何を告げたいかは私の心の中で理解しているとお伝えください」と言うと、

 「次のことをよく理解してください。これは以前にも申し上げたことですが、地上を去って私たちの世界へ来られた人はみな、思いも寄らなかった大きな自己意識の激発、自己開発の意識のほとばしりに当惑するものです。肉体を脱ぎ棄て、精神が牢から解放されると、そうした自己意識のために地上での過ちを必要以上に後悔し、逆に功徳は必要以上に小さく評価しがちなものです。

 そういうわけで、霊が真の自我に目覚めると、しばらくの間は正しい自己評価ができないものです。こうすればよかった、ああすべきだったと後悔し、せっかくの絶好のチャンスを無駄にしたという意識に苛(さいな)まれるものです。実際にはその人なりに徳を積み、善行や無私の行為を施しているものなのですが、その自覚に到達するには相当な期間が必要です」