Tuesday, December 31, 2024

シアトルの冬 創造は無窮です

Chapter 10: Creation is Unlimited



  1. シルバーバーチの霊訓―スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ



シルバーバーチの顕著な特徴は、どんなに難解な問題、どんなに曖昧な問題について質問しても、それに対して見事な解答が即座に返ってきたことである。たいていの指導霊が避けたがる難題をシルバーバーチは気持ちよく歓迎した。その潔(いさぎよ)さは時おり“質問を受ける会”を設けたことにも出ている。

ジャーナリストで、何年間かサークルのメンバーでもあり、二冊の霊言集(※)の編纂者でもあるA・W・オースティンが、ある日の“質問会”でシルバーバーチにかなり突っ込んだ質問をした。本章ではその一問一答を紹介しよう。


※――『Teachings of Silver Birch』、『More Teachings of Silver Birch』の二冊で、前者はスピリチュアリズム普及会から『シルバーバーチの教え』(近藤訳)として、潮文社から『シルバーバーチ霊言集』(桑原啓善訳)として出ている。後者は潮文社から『シルバーバーチの霊訓(五)』として出ている。

「今日の地上世界で要請されている最も急を要する改革は何だとお考えでしょうか」


「これは難問ですね。と言いますのは、いま地上全体には、改善が叫び求められている不公正、矯正が叫び求められている間違い等々、どこから手をつけたらよいか分からないほど沢山の、悪疫ともいうべき文明の汚点が存在するからです。

しかし、その中でも一ばん急を要する改善は、わたしに言わせれば、数え切れないほどの人間を苦しめている無くもがなの貧困、悲惨、窮乏です。全体としては十分なものが用意されているのに、物的生活の基本的必需品にも事欠く人がいるということは間違ったことです。

有り余るほど持っている者と不足している人たちとの間の隔差を修正すること、これこそが現在の地上の焦眉(しょうび)の急です。内部の神性を発揮しようにも、肝心の身体が惨めなほど疲弊し衰弱している魂に対して、いったい自我の発見などということが説けるのでしょうか。わたしたちは決して人間の身体上の必需品について無関心でいるわけではありません。身体と精神と霊とが自然な状態で生活する上で“本当に大切なもの”を見出すことができるような、そういう生活環境を築くことこそわたしたちに課せられた使命なのです」

「もしもあなたが独裁者となったら真っ先に何を改革されますか」


「地球の住民を操り人形のように扱う立場に置いてみることは、このわたしにはできません。それは、わたしが理解している“摂理”に反することだからです。地上の平和と調和と幸福は独裁的権威でもって恐怖と戦慄(りつ)の中で従わせる強制的な命令によって招来されるものではありません。

一刻の猶予も許さない布告を矢つぎばやに出すというやり方では、地上は改善されません。何百年も何千年も積み重ねられてきた混乱状態は、時間をかけて徐々に片づけていくほかはありません。それも善意をもって、つまり指導者の立場にある人たちが真に同胞のためを思う心でもって行わなければなりません。

わたしだけでなく、霊的指導の任を預かる他の霊たちも、独裁的態度は思いも寄らないことでしょう。地上の浄化を目的として派遣されているわたしたち霊団の使命は、うたた寝をしている道義心の目を覚まさせ、惰眠をむさぼっている霊を呼び起こして、大霊からの遺産である内部の神性を開発させることです。そうする以外に平和と調和と幸福を地上にもたらす方法はありません。地上のいかなる大人物も、絶対に誤ることのない権威でもって絶対的命令を布告して絶対的に支配する資格はもっておりません」

「英国にとって対外関係でもっとも大切な政策は何だとお考えでしょうか」


「イギリスという国は大きな使命を担っております。いま多くの国を脅かしている災害を未然に食い止め平和をもたらす、そのリーダーとして活躍する宿命を背負っております。しかし地上に平和を招来するには、その前に自己犠牲と互助の精神が無ければなりません。洞察力をもつ人たちの多い国が譲歩して、自国の生活と福祉にとって必要でないものをそれを必要とする国に与えて、あとは自力で問題を解決させるという関係――その中でのリーダーとして活躍しなければ、あなたの国は使命を果たしていないことになります。

有り余るほど持っている国があり、窮乏している国があります。イギリスは多くの面で恵まれているのですから、それを窮乏している国へ与えることによって、血を流さなくても問題を解決する方法が見出せるはずです。ただし、そこに尊大さ――“オレたちのものはオレたちのものだ”といった思い上がった態度があってはなりません」

「植民地のことを念頭においておっしゃってるのでしょうか」


「そうです。ほかにもいろいろあります。土地、海、空――こうしたものは、どこの国の所有物でもありません。大霊のものです。その霊性がすべての子等を通じて表現されているのです。ですから、すべての子等が当然の遺産として、幸福と発達と開発と日常生活にとって必要なものを等しく受ける権利があるのです。そうした人生を送ってはじめて、いよいよ死期が訪れた時に気持ちよく重荷を下ろし、より大きな霊の世界への準備が整った状態で死んでいけるのです」

「創造は永遠に続くものであり、したがって再生してくる霊とは別に“新しい”霊が常に生まれているという考えは正しいでしょうか」


「大霊は無限です。ですから創造の過程も永遠に続きます。不完全から完全へ、未熟から成熟へ向けて、無数の進化の階梯を通りながら千変万化の表現の中を進化していきます。それには“時間”というものはありません。初めもなく終わりもありません。無限だからです。無限の大霊の一部であり、それが人間的生命として、無数の発達段階で顕現しているのです。ですが、あなたのおっしゃる“新しい霊”とは、前に存在しなかったものという意味でしょうか」

「そうです」


「それは有り得ないことです。すべての生命にはそれに先立つ生命があるからです。生命が生命を生み、さまざまな形態での表現を絶え間なく続けております。地上の人間的生命は、それまで物質との接触がなかったが故に発現していなかった霊が、肉体という器官を通して表現するのです。その器官は霊の進化にとって大切な地上的教訓が得られるように、実にうまくでき上がっております。

ですから、地上的生命としては新しいといえますが、地上に誕生してくる前に霊として存在していなかったという意味で新しいということではありません。霊とは全生命が創り出される原料です。造化活動の根本的素材です。霊としてはずっと存在しており、これからも永遠に存在し続けます。

もちろん、いっそうの体験を求めて戻ってくる霊の場合は別です。しかし、そうした再生する霊は別として、初めて地上へ誕生してくる霊に限って言えば、そうした霊には地上での表現を始めるまでは個体性つまり人間的意識は所有しておりません。人間的意識は地上への誕生とともに始まります。霊が個的意識として自我を認識する上で決定的な媒体を提供してくれるのは物的身体です」

「地上へ誕生してくる者の中での“新しい霊”と“古い霊”との割合はどれくらいでしょうか」


「そういうご質問にはおよその数字すら出すことは不可能です。ですが、多分、ほぼ同じくらいの割合ではないでしょうか」

「となると、地上には常に進化の程度の高い霊と低い霊とがいることになりますね」


「当然そうなります。そうでなかったら進化が存在しないことになります。生命は生命であるが故に静止していられない――万が一静止したら、それは停滞を意味する、ということをよく理解してください。生命とは律動(リズム)です。運動です。進歩です。開発です。発達です。つまり完全へ向けての絶え間ない歩みです。もしも生命に規則的な階梯がなかったら、もしもはしごを一段一段と上がっていく規則的な旅がなかったら、生命は生命でなくなります。多種多様の発達段階での進化のバリエーションの中においてのみ、生命が生命で有り得るのです。

もしもすべての人間が同じ発達段階にあるとしたら――もしも完全性が成就されて、もうこれ以上の努力の必要性も新しい目標もより大きな顕現の余地もなくなったとしたら、生きようとする意欲、何かを成就せんとする意欲は途絶えてしまうでしょう。生命の生命たるゆえんは絶え間ない向上にあります。今の段階では手の届かないものを何とかして手に入れようと努力するところにあります。その努力――何かを征服せんとする努力、困難を克服せんとする努力の中でこそ霊は真実の自我を見出し、神性が働くようになるのです」

「進化の程度の低い魂が世の中の問題のタネとなり進歩を遅らせることになるのでしょうか」


「それはそうです。ただ、次のことを忘れないでください。あなたのおっしゃる“程度の低い魂”というのは、その魂より程度が高い魂に較べて低いというに過ぎません。あなた自身の判断の基準が高まれば、それまで高いと思われた人が高いとは思えなくなります。

地上世界の厄介な問題、および霊界の下層界の問題のすべてが、さまざまな形での利己主義、強欲、貪欲などの私利私欲によって引き起こされているというふうに考えればよろしい。原因はそれしかありません。

いつの時代にも、他に較べて程度の低い人間が存在することは当然の結果です。それ以外にどうあればよいというのでしょう。人類のすべてを同じ時点で同じ進化の段階に到達させればよいのでしょうか。一人の例外もなく、みんなが同じ時点で同じ進化の段階を歩むように、同じパターンにはめ込めばよいのでしょうか。すべての生命がまったく同じ進化の程度という単調な状態にしてしまえばよいのでしょうか。

光だけがあって影はない方がよいのでしょうか。晴天ばかりで雨の日はない方がよいのでしょうか。美徳ばかりで邪悪なものはない方がよいのでしょうか。笑いばかりで泣くことがない方がよいのでしょうか。無限の種類の表現があってこそ人生がうまく調整されていくのではないでしょうか」

これを聞いてオースティン氏が、進化にそうしたさまざまな段階がなければならないとすると、シルバーバーチがよく口にする“新しい世界”は楽観的すぎるように思うという意見を出した。

するとシルバーバーチが――


「いいえ、新しい世界はすでに生まれているのです。産みの苦しみと、涙と哀しみの洗礼を受けて生まれているのです。すでに存在するのです。その朝日が今地上の霧を通して射し始めております。

しかし、その新しい世界においても、何もかもが成就されるというわけではありません。修正しなければならないこと、改善しなければならないこと、強化しなければならないことが沢山あります。まだまだ未熟なところがあります。取り除かねばならない障害があります。しかし、人生の新しい規律がどんどん行きわたります。無用の悲劇、無用の残虐行為、無用の飢餓がなくなるでしょう。人生の基盤が変わります。利己主義が次第に影をひそめ、代わって互助の精神が行きわたることでしょう」

「でも結局は各自が受けるに足るものしか受けられないのではないでしょうか」


「その通りです。わたしたちが皆さんの協力を得ようとする努力を促進してくださる人が増えるか、それとも妨げる人が増えるかによって、新しい世界の秩序の到来が早くもなり遅くもなります。受けるに足るもの以上のものは得られませんし、それ以下のものも得られません。摂理の働きは完璧ですから、天秤は必ず平衡(つりあい)が保たれております。右にも左にも傾きません。

わたしが指摘しているのは、これから生じていく変化を今すでに操作している秩序、そしてこれ以後も操作しつづける新しい原理のことです。これから刈り取っていく収穫は、人類の福祉の促進のために捧げられた何世代にもわたる多くのパイオニア、理想主義者、改革者の犠牲の賜物(たまもの)であることを忘れてはなりません」

「同じく“新しい魂”として生まれてくるのに、あとから生まれてくる魂の方がずっと恵まれた環境に生まれてくるというのは、私には不公平に思えるのですが……」


「確かに恵まれた環境に生まれてくることになりますが、しかし、彼らには結果としてそれだけ多くのものが要請されることになります。先輩たちが苦闘しなければならなかったものが免除されるのですから……。要は比較上の問題です。

大霊の摂理をごまかせる者は一人もいない――受けるべきものを髪の毛一本ほども変えることはできない、ということを常に忘れないようにしてください。賞と罰とは各自の行為によってきちんと決められており、変えることはできないのです。えこひいきもありませんし、裏をかくこともできません。大霊の公正は完璧です。各自が受けるべきものは、かっきり受けるに足るものだけ――かけらほども多すぎず、かけらほども少なすぎることがありません」

「そうであってほしいと思うようにならないといけないのでしょうね?」


「勇気ある者ならば自らそうであることを求めるべきなのです。努力もせずに報酬を得ること、身に覚えのない罰を受けることを堂々と拒否すべきなのです。もちろん受けるべき罰は堂々と受けて耐え忍び、自ら生み出した責務は自らの肩に背負うべきです。バイブルにもこうあります――“自分を欺いてはいけません。しょせん神の目はごまかせないのです。自分で蒔いたタネは自分で刈り取るのです”と。わたしにはこれ以上うまく表現することができません。

人間のこしらえた法律は一部の者を不当に優遇したり、ある者を不必要に罰したりすることがあります。地位や肩書きや階級に物を言わせた特権というものも存在します。しかし霊界ではそういうことは絶対にないのです。あらゆる面が斟酌(しんしゃく)されます。地上生活によって到達した進化の程度が魂に刻み込まれています。それより高すぎもせず低すぎもしません。死があなたを別の世界へ誘いに来た時、あなたはそれまでに自らこしらえた自分をたずさえて、地上をあとにするのです」

「精神統一(瞑想)をしていると、霊的と思える示唆がいろいろと浮かんでくるのですが、これにはどう対処したらよいのでしょうか」


「いかに高級な霊でも、自分の教えを考察も熟考も吟味もせずに受け入れてくれることは望みません。言われたことを機械仕掛けのように行うロボットであっては欲しくないのです。むしろわたしたちの使命は、各自の責任感を増幅し、内部の神性を刺激して、理性的判断力が行使できるように指導することです。神性はあなたの霊を通して働くだけではありません。あなたの精神を通しても働きます。“神の御国は各自の中にある”という言葉は真実ですが、それは同時に精神の中にもある――そうあらねばならないのです。

理性が反発するものは決して行ってはなりません。理性を第一の指針とすることです。あなたの分別心が承服しないものを無理にも実行しなさいとは申しません。わたしたちの使命は協調態勢を基本にしているからです。

そのためにはまず霊に内在する無限の能力を自覚させることに努力します。その多くが居眠りをしていて、日常生活で発揮されていないのです。わたしたちは皆さんに本当の自分を見出してほしいのです。日常の生活の中で神性が発揮されるにはそれが第一条件だからです。

精神統一中に示唆を受けた時、たとえそれが何かのお告げのようなものであっても、あなたの良識が許さない時は実行に移してはなりません。統一中に浮かぶアイディアの中から“これぞ本物のインスピレーション”と直観できるのは、ある一定の霊格を身につけた人だけです。

しかし、そういう独自の判断力で行動するよりも、こうした形で交わることで皆さんがわたしたちを信頼してくださり、わたしたちの使命が皆さんに奉仕することによって人類に奉仕することであることを得心してくださった上で、わたしたちの道具となってくださる方が賢明です。

そこで、わたしたちはこれまで、わたしたちが霊的摂理に通じていること、目的としているのは霊的真理の豊かさを皆さんの手の届くところまでお持ちすることであることを立証しようと努力してまいりました。“正真”の折り紙つきの知的存在と協力して仕事をする方が、何の導きもなしにただ一人で未知の世界へ突入していくよりも無難なのではないでしょうか」

「自分が交信している相手がどの程度の霊であるかは必ず確認した方がよろしいでしょうか」


「当然です。そして、確かに聞くに足る教えを説いていると確信したら、大いにその霊に指導を仰ぐべきです。霊界から自分を鼓舞し指導しようとする霊団の存在に気づく段階に到達したら、その人にはもはや克服できない困難はなくなります。しかし人類はみな一人ひとり発達段階が異なることを忘れてはなりません」

「生命の尊厳ということがよく言われますが、私はこれにも限界があるように思うのです。この論理を極端におし進めると、病原菌も生命の一種だから神聖であるということになって、人間の生命を危険にさらすという愚かなことになりかねないと思うのです」


「意識はどの段階から始まるかがポイントです。病原菌に意識があるでしょうか。ヘビに意識があるでしょうか。ノミやシラミに意識があるでしょうか。微生物に意識があるでしょうか。

もちろん一般に言われる意識、つまり自我意識という意味での意識はありません。意識とは自分が何であるか、誰であるかについての認識のことです。これは菌類にはありません。が、意識的生命のあるところには造化活動があります。ですから、その意識に干渉して顕現の自由を妨げることをするのは間違いです」

「しかし動物には今おっしゃったような自我意識はないのに、屠殺はいけないとおっしゃってます」


「動物の世界には個的意識はなくても、その奥には類魂としての意識が存在します。動物よりさらに下がると類魂の意識もなくなります。微生物には意識はありません」

「微生物には痛みを感じる機能がありますか」


「ありません」

「では、殺すということに痛みが伴うか否かで判断すべきでしょうか」


「“意識”を指標とすべきです。意識があるかぎり、それを殺すことは間違いです。人類は死という“解放者”が訪れるまでに、内在する霊の豊かさを発揮する自由を心ゆくまでエンジョイすることが許されております。しかし、しょせん地上世界は発展途上にある未熟な世界です。それゆえ、同胞のためと思ってすることが他の生命の権利に干渉する事態がどうしても生じます。そこでわたしは動機――誠実に、純心に、そして正直に人のためと思って行うという心がけを重視するのです。

今わたしは生体解剖を念頭において申し上げております。わたしから見れば生体解剖は間違いです。残酷ですし、無意味ですし、その上、それによって何一つ成就されません。ただ、それを行う人たちの中には、動物に苦痛を与えるのが面白いのではなく、真実、人類を病魔から解放したい一心の人が大勢いることも、わたしはよく知っております。そうした実験によって人類の病気を撲滅するための知識が得られると信じてやっているのです。その動機は誠実です。

が、それとは別に、無益な殺生が行われています。食料とするための大量の屠殺、スポーツという名のもとでの狩猟――こうしたものには弁解の余地はありません。生命は神聖です。大霊のものだからです。生命に意識が芽生え、そして人間的形態をとれば――いえ、それ以前の動物形態の段階においてさえも――尊厳をもって取り扱われるべきです。生命を安っぽく取り扱ってはなりません。生命の一つひとつが大霊の表現なのです。人間には生命をこしらえる力はありません。ならば、その生命が顕現しようとする身体を破壊することが人間に許されるはずがありません。

忘れないでいただきたいのは、皆さんからの質問に対して“イエス”とも“ノー”とも答えられない時は、わたしたちは、正直に、一つの視点を提供するだけに留めます。独断的態度はわたしたちの取るところではないからです。皆さんのためになればそれで良いのですから……。これまで、さまざまな事情のもとでさまざまな視点からお答えしてきましたので、中には一見すると矛盾するかに思えるものがあるかも知れません。しかしそれは、同じ問題を違った側面から扱っているからであることを理解してください。

それからもう一つ、このわたしが絶対に間違ったことは申しませんとは言っていないことも忘れないでください。知識と叡智の頂上を極めたとは申しておりません。皆さんと同じく、わたしも相変らず人間的存在です。わたしも完全を求めて努力しているところです。克服しなければならない弱点がいくつもあります。磨かねばならないものがあります。わたしの申し上げることが最終的な真理であるとは申しておりません。

わたしが確証をもって知っているかぎりのことを申し上げ、確証が得られないことに関しては、わたし自身がこうと信じるかぎりのことを申し上げております。万が一わたしの申し上げたことが皆さんの納得を得られない時は、それはそれで結構なことです。お互いに考えをぶつけ合うことになるからです。そうすることで皆さんはわたしに知恵をくださり、お互いの視点から議論して理解を深め合うことができるわけです。

協力ということは、わたしたちの方から一方的に援助するということばかりを意味するのではありません。皆さんの方からわたしたちを援助してくださることでもあるのです。一つの問題が生じた時に“それならシルバーバーチに相談しなさい。レッドクラウド(※)に聞きなさい。ホワイトホーク(※)がいいですよ。それで決まりですよ”といった態度は困ります。そういうものではないのです。持ち合わせるかぎりの知恵はお授けしますが、それで一件落着と受け止める態度はいけません。わたしたちも絶対ではないのです。皆さんが自ら考え判断するという方向へ指導することができなかったら、わたしたち霊団の者は課せられた使命を全うしていないことになります。


※――いずれもシルバーバーチと同時代に他の霊媒の指導霊(ガイド)ないし支配霊(コントロール)として活躍した霊で、肖像画を見ると、いずれもインディアンの顔をしている。その他にもブラッククラウドとかローンスターとかの呼び名が多いが、言うまでもなく仮の名である。

続いてオースティンは、死後にも生命があることを知って、浅はかな人間は地上的生命を軽んじることにならないだろうかという意見を述べた。するとシルバーバーチが――


「知識が増えるにつれて責任も大きくなることをわたしが繰り返し説いてきたことはご存知でしょう。霊的知識を手にすれば、その時点からその活用の仕方に責任が付加されます。その知識の分だけ生活水準が高まらないといけません。高まらなかったら、その代償を支払わされます。ごまかしは利きません。知識を授かったからには、言い逃れは許されません。宇宙の機構がわかり、生命の秘密が明かされたからには、隣人に対して、世の中に対して、そして自分自身に対して、より大きな責任を付加されたことを自覚しないといけません。生活が豊かとなり、神聖さを増し、人のために役立ちたいという願望が内部で燃えさからないといけません。

もしもそうならなかったら、その知識はその人のものになり切っていないことを意味します。素通りしていっただけだったことになります。知識がそこにあることを知りつつそれを活用することができないでいると、それによって逆にその人の霊性が弱められ、害をこうむることになりかねません。

大霊の摂理はごまかせません。たとえ高等そうな理屈を並べてもダメです。皆さんがスピリチュアリズムと呼んでいる霊的知識は、この宇宙という生命機構の中で人類がどういう位置を占めているかを自覚させてくれます。もしそれが正しく自覚できなかったら、その人はせっかくの教訓を学ばなかったことになり、その代償を支払わされることになります。それを真理のせいにしてはいけません。自分が悪いのです。たとえ自分を素通りしたにすぎなくても、真理は真理です。真理は理屈で歪(ま)げられるものではありません。真理は真理であるがゆえに真理なのです」

続いてオースティンはバーサ・ハーストという霊媒による交霊会に出席した時と同じ質問をした。それは、人間と守護霊とは何を原理として結びつくのかというもので、バーサ・ハーストの指導霊は正直に、その問題については勉強していないと述べて答えなかったという。が、シルバーバーチは間髪を入れずにこう答えた。


「それは霊的親和性(アフィニティ)による結びつきです。たまには血縁関係が縁になることもありますが、大部分は血縁はありません。霊的親類(※)どうしの親和力を縁として、相互間に利益のある二つの霊が結びつけば、そこに引力が生じて守護霊ないし指導霊――どう呼ばれても結構です――が影響を行使できるようになります。霊的親和力が強ければ強いほど結びつきも緊密なものとなります」


※――日本でいう“産土(うぶすな)神”(氏神)を中心霊として、おびただしい数の霊が大集団、いわば霊的家族を構成している。女性霊媒のジェラルディン・カミンズを通じて学究的な自動書記通信を送ってきているフレデリック・マイヤースはこれを“類魂(グループソウル)”と呼んでいるが、シルバーバーチはある日の交霊会で「あなたのいう霊的親類というのはマイヤースのいう類魂のことですか」と問われて「まったく同じものです」と答えている。

さらにオースティンは、シルバーバーチが“意識”についての答えの中で“個的意識は物質界へ誕生するまでは存在しない”と述べたことに言及して、意識のない霊がどうやって霊的関係をつくり出すことができるのかを尋ねた。この質問にシルバーバーチは――


「地上の言語ではとても説明しにくいことなのですが、受胎の瞬間に両者の間にいわく言い難い絆が生じるのです。ご存知のように、母胎の中で精子と卵子とが結合すると、そこに身体の元になるものができ上がりますが、その目に見えないほど小さなものの中に、その後の成長とともに発現されていく資質のすべてが宿されているわけです。それと同じで、霊の内部にそのあと発現されていく霊的資質のすべてがミニチュアの形で宿されているのです」

「ということは、われわれ人間の進化はすでに一定の進行方向というものが決められている――ただし、自由意志によってそのスピードを速めたり遅らせたりすることはできる、ということでしょうか」


「いくつかの要素はあらかじめ決まっています。霊の宿る身体の“体質”がありますし、その身体に宿る霊の“霊質”があります。“新しい霊”の場合でも“再生してくる霊”の場合でも、身体への霊の浸入にはそれを支配する法則があり、それが大きく霊の発現を決定づけます。何もかもあらかじめ決められていると受け取っていただいては困るのですが、法則というものによって営まれている世界である以上、人間的生命も法則に従わざるを得ません。いろいろとバリエーション(変化・変形)はありますが、おおよそのことは決まっていないといけません。

進化の速度は本質的には当人の自由意志にかかっていますが、地上生活にはおのずと限界というものがあります。チャンスの活用次第とはいえ、各自に能力的な限界があります。しょせん完全は望めないところにその宿命的な限界があります。

霊には高級霊にのみわかる特質があり、守護霊の任命はその特性を考慮して、両者の進化にとっての利益の共通性を主眼として行われます」

「やはり守護霊も他の誰かによって任命されるもので、守護霊自身が人間を選ぶわけではないということですか」


「その通りです。必ず任命によって行われます。こちらの世界にはこちらなりの法則があり、それは地上よりはるかに厳格です。守護霊と人間との関係がうまく行くのは、当初において霊の資質のすべてが知れているからです。学校と同じです。学校長はあずかった生徒の潜在的特質を知りつくし、教師の才能を知りつくせば、どの生徒はどの教師のクラスが適切であるかが適確に判断できます。

不幸にして地上ではそうした要素のすべてが知れるとは限らないというだけです。が、こちらの世界ではすべてが知れるのです」

祈り


皆さんとともに生命の大霊の祝福を祈願いたしましょう。

ああ、真白き大霊よ。

宇宙の森羅万象があなたへの賛歌を奏でております。あなたの法則があらゆる生命現象を支え、律動の一つひとつがあなたの表現なのでございます。

ああ、大霊よ。

あなたは全生命の中心にあらせられます。それは霊の世界の最高の界層においても、物質の世界の最低の界層においても、少しも違いはございませぬ。あなたはすべてを包摂したまいます。あなたの叡智がすべてを支配しているからでございます。

あなたはいつの時代にもあなたの愛と叡智と知識の使者を物質の世界へ送り込まれてきました。あなたの霊の生きた証(あかし)として、あなたの真理の光を人間の心の暗闇に届け、全人類をあなたの無限なる叡智と愛の輝きによって啓蒙するためでございます。

ああ、大霊よ。

あなたはこの度ふたたび地上の子等にあなたとあなたの摂理についての知識を届けんがために、わたしどもをあなたの使者として遣わされました。それによって彼らがあなたとのつながりを理解し、そこから彼ら自身ならびに、あなたが彼らを物質の世界に誕生せしめた目的を理解しはじめることになればとの配慮からでございます。

わたしたちは、地上にあってあなたの霊的な働きかけに敏感に反応し、その目、その耳、その精神、その心、その魂がより大きな生命の波長に順応し、わたしたちを通じて届けられるあなたのメッセージを素直に受け入れてくれる人たちとの交わりを今こうして得ていることを、あなたに深く感謝申し上げます。

Monday, December 30, 2024

シアトルの冬 真理探究と向上の中に真の幸福がある。

True happiness lies in truth-seeking and improvement.


十 節

 〔不服だったので私は書かれた通信を時間をかけてじっくり吟味してみた。それは当時の私の信仰と正面から対立する内容のものだったが、それが書かれている間じゅう、私は心を昂揚させる強烈な雰囲気を感じ続けていた。反論する前に私は何とかしてその影響力を排除してしまいと思った。

 その反論の機会は翌日訪れた。私はこう反論した。あのような教義はキリスト教のどの教派からも認められないであろう。またバイブルの素朴な言葉とも相容れない性質のものであり、普通なら反キリスト的なものとして弾劾裁判にもかけられかねないところである。更にまた、そのような何となく立派そうな見解──当時の私にはそう映った──は信仰のバックボーンを抜き取ってしまう危険性がある、といったことだった。すると次のような回答がきた──〕


 友よ、良き質問をしてくれたことを嬉しく思う。われらが如何なる権能を有する者であるかについてはすでに述べた。われらは神の使命を帯びて来たる者であることを敢えて公言する。そして時が熟せばいずれそれが認められることを信じ、自信をもってその日の到来を待つ。

それまでに着実なる準備を為さねばならぬし、たとえその日が到来しても、少数の先駆者を除いては、われらの訓えを全て受け入れ得る者はおらぬであろうことも覚悟はできている。それはわれらにとって格別の驚きではないことを表明しておく。

考えてもみるがよい! より進歩的な啓示が一度に受け入れられた時代が果たしてあったであろうか。いつの時代にも知識の進歩にはこれを阻止せんとする勢力はつきものである。愚かにも彼らは真理は古きものにて事足れりとし、すべては試され証明されたりと絶叫する。一方、新しきものについては、ただそれが新しきものなること、古きものと対立するものとなること以外は何一つ知らぬのである。

 イエスに向けられた非難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解きわまる神学を打ち立てた者たち──その訓えはその時代に即応したそれなりの意義があったとは言え、時代とともにより高き、より霊性ある宗教にとって代えられるべきものであったが、彼らは後生大事にその古き訓えを微に入り細を穿ちて分析し、ついに単なる儀式の寄せ集めと化してしまった。

魂なき身体、然り! 生命なき死体同然のものにしてしまった。そしてそれを盾に彼らの神の冒涜者──不遜にも彼らは人類の宗教の救世主をそう呼んだのである───はモーセの律法を破壊し、神の名誉を奪う者であると絶叫した。

律法学者①とパリサイ人②、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを非難した。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号をまっ先に浴びせたのが彼らであった。

 イエスが神の名誉を奪う者でないことは汝のよく知るところである。イエスは神の摂理を至純なるものとし、霊性を賦与し、生命力と力を吹き込み、活力を与え、新たな生命を蘇らせんがために人間的虚飾を破壊せんとしたに過ぎぬ。

 親へのうわべだけの義務──愛の心を欠き、わずかな、しかも渋々ながらの施しのみの義務──を説く侘しき律法に代わって、イエスは愛の心より湧き出る子としての情愛、身体の授け親と神に対する無償の惜しみなき施しの精神を説いた。

うわべのみの慣例主義に代わって衷心より施しを説いた。いずれが正しく、より美しいであろうか。後者は前者を踏みにじるものであったろうか。むしろ前者の方が、生命なき死体が生ける人間に立ち向かうが如く、後者に執拗に抵抗したに過ぎぬのではなかったか。

にもかかわらず、軽蔑をもって投げ与えられた わずかな硬貨で、子としての義務を免れて喜ぶ卑しき連中が、イエスを旧(ふる)き宗教を覆さんと企む不敬者として十字架にかけたのであった。

 その新しき福音を喜ばず、かつ、それを受け入れる用意もなき世に厳然と立ち向かったイエスの弟子たちにしつこく向けられし非難もやはり、新しき教義をもって旧き信仰を覆さんとしているというものであった。そうして何とかして彼らを告発すべき恐ろしき罪状を見出さんと策を弄した。

が、〝四面楚歌〟の新しき信仰に対する如何なる非難をも甘受するその弟子たちの説く訓えに何一つ不埒(ふらち)千万なるものを見出し得なかった。彼らは確かに非合法の集団であった。が、ユダヤ教信仰と〝時の権力〟には忠実に従っていた故に、告発せんとして見守る者たちも、その謂れを見いだすことが出来なかった。

彼らは次々と新しき無垢の信者を集めていった。みな愛の心に満ちた優しきイエスの後継者たる彼らの訓えには、何一つ不埒千万なるものはなかった。汝らも今まさに、何とかしてわれらの訓えと使命の信頼性を失墜させるものばかりを好んで信じようとしているが・・・・・・

 しかし、いつの時代もそうだったのではなかろうか。新しきものが非難され、信頼を得られぬのは、宗教において、科学において、有限なる人間の為すことの全てにおいて、いつの時代にも変わらぬ物語である。それが人間的知性の特性の一つなのである。

すなわち、見慣れたものが気に入られ、目新しく見慣れぬものが懐疑と不信の目で眺められるのである。

 それ故われらはスピリチュアリズム的キリスト教観を説くに当たり、劈頭(へきとう)より懐疑の目をもって迎えられることに些(いささ)かの驚きも感じぬ。いずれは全ての者がその訓えの美しさと神聖さを認める日が到来するであろう。

 われらの説くところが人間の言説と衝突することは、別に驚くには当たらぬ。否むしろ、遠き過去において霊能の発達程度を異にする霊媒を通じて得られた訓えと矛盾せぬことのほうがおかしい。

バイブルの中にも、それが当時の霊媒を通じて得られた誤りだらけの混ぜものであるために、それらの訓えと融合し得ぬものが見出されることを敢えて指摘せぬわけにはいかないのである。この点についてはすでに述べたので繰り返す必要はあるまい。

 バイブルの啓示にも神についての知識に進歩のあとが見られぬわけでもないが、細部において不合理きわまる自家撞着を少なからず含んでいる。その上、霊媒を通過する際に紛れ込める人間的誤謬もまた少なしとせぬ。その中より真相を読み取るにはバイブル全体の流れを読むほかはない。

その全体像を無視して選び出した個々の言説は、それ自体の価値はあるにせよ、信仰の対象としての価値は些かも認められぬ。

そもそも幾世紀も昔の教説を今なお金科玉条として永遠の至上命令の如く考えること自体が愚かというべきである。その種の考えは自家撞着を含み、また同じバイブルの中の他の言説、あるいはそれと対立する言説とも矛盾する。

 申すまでもなく、汝らが神の声と呼ぶ書を筆記者たちが記録した時代においては、イエスは神なりとの信仰が広まり、それを否定せんとする者には厳しい批難が浴びせられた。

またそう信じた者たちは同時に、イエスが地上人類を裁くために霊妙不可思議なる方法にて雲間にその姿を表す──それもその世紀の人類が滅びる前である。と信じた。両者とも間違いであった。そうしてその時以来少なくとも一八〇〇年が過ぎ去ったが、イエスは再臨しておらぬ。このことに関連して今少し述べておく必要があろう。

 われらが汝に理解を望むことは、神の啓示といえども、所詮は汝自身に与えられた〝光〟にて判断せねばならぬということである。説教者の言葉を鵜呑みにすることなく、それを全体像の中で捉え、一言一句の言い回しにこだわることなく、その精神、その流れを汲み取るよう心がけねばならぬ。

われら自身、およびわれらの説教を判断するに際しても、得体の知れぬ古き予言に合うの合わぬだのと言う観点からではなく、汝の真に求むるもの、汝と神とのつながり、そして汝の魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断せねばならぬ。

 つまるところ一体われらは何を説かんとしているのか、その説くところがどこまで理性を納得せしむるか。神について何と説いているか。汝の魂にとってそれがどこまで有益か。そう問いかけねばならぬ。

 汝らが正統派教会より教え込まれた教義によれば、神はその一人子を犠牲(いけにえ)とすることで人間と和解し、さらにその中の選ばれし少数の者を天国へ招き入れ、そこで時の果つることなく永遠に、単調この上なく、神を称える歌をうたい続けるのだという。

その恩寵にあずからぬ他の人類は全て天国に入ることを許されることなく、言語に尽くし難き苦しみを永遠に受け続けるという。

 この至福にあずかれぬ哀れな者たちは、ある者は信仰なきが故であり、ある者は堕落せる環境のせいであり、ある者は恐ろしき煩悩の誘惑に負け、罪を犯せるが故である。さらにある者は多情多淫の肉体をもって生まれ、その激情に抗し得ざりしためである。

また何を為すべきかを知らぬ者もいた。もし知っておれば喜んで努力したであろうに。救われたくば是非信ぜねばならぬと説かれた教義が、知性的に受け入れ得なかった者もいる。さきに述べた如く、死後、天国への保証を確保してくれると説く言説に同意せざりし者もいる。

その者たちは永遠に破滅の道を歩み続け、その哀れなる者たちを、祝福されし者たちが平穏無事の高所より眺め下ろし、心安らかな満足を得るという。その実彼らの多くは地上にて悲しむべき堕落の生活を送りながら、ただドグマ的教説への信仰を告白せるが故に救われたというに過ぎぬ。

 肉欲と怠惰と、あらゆる法に違反せる生活も、信仰の告白という一つの行為によって全てが帳消しになる、と汝らは教え込まれてきた。いかに粗野にして肉体に狂える無法者も、死の床にてイエスへの信仰を告白すれば、それまでの生活そのものが冒瀆していたはずの神の許へ一気に招かれるという。不純にして卑しき堕落者が、聖純にして気高き聖人と共に完全無垢なる神のもとにかしづけるとは!

 指摘すれば枚挙にいとまなしであるが、われらの説くところと比較対照するには以上の指摘で十分であろう。われらは決してそのような神──理性が身震いし、父性的本能が嫌悪の念を催す神の概念は説かぬ。

同じく愛の神とはいえ、さような偏れる愛の神をわれらは知らぬ。それは人間の発明せる神であり、われらは知らぬ。さような人間的偶像は野蛮なる精神の哀れなる戯言(たわごと)に過ぎぬことを指摘せずにはいられぬ。至純至聖なる神を滑稽化するその不敬きわまる無知と愚かさに、汝もわれらと共に驚きを感じてほしく思うのである。

友よ、そのような神の観念を抱くようでは、人間はよくよく霊性が堕落していたものと推察される。今、そうした言説に厳然と意義を唱える者こそ、われらの説く福音を切望している者に相違あるまい。

 われらが知るところの神、そして汝に確信をもって説ける神こそ、真の意味での愛の神──その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲は全ての創造物に及びて尽きることを知らぬ。いかなる者に対しても分け隔てせず、全てに断固たる公正をもって臨む。その神と汝らとの間には無数の天使が階梯をなして待機し、神の愛の言葉を携え、神の意志を時に応じて啓示する。

この天使の働きにより神の慈悲は決して途切れることなく人類に及ぶ。これこそわれらが説く神──摂理によって顕現し、天使を通じて作用するとこころの神である。

 では汝ら人間についてわれらは何を説くか。たった一度の改心の叫び声、たった一つの懺悔の言葉、筋の通らぬ恐ろしき教義への信仰の告白行為一つにて、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしき体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の意味での不滅の魂なのか。否、否。汝らはより高き霊的生活への鍛練を得るべく、ほんの僅かな期間を肉の衣に包まれて地上に在るに過ぎぬ。

その霊の世界にあっては地上生活にて自ら蒔いた種子が実をつけ、自ら育てた作物を刈り取る。汝らを待ちうけているのは永遠の無活動の天国などという悪戯に類する夢幻の如き世界ではなく、より価値ある存在を目指し、絶え間なく向上進化を求める活動の世界である。

 その行為・活動の結果を支配するのは絶対不変の因果律である。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は逆に堕落させ、進歩を遅らせる。真の幸福とは向上進化の中、すなわち一歩一歩と神に近づく過程の中にこそ見出される。

神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂の喜びを味わう。ものぐさな怠惰を貪る者など一人もおらぬ。より深くより高き真理への探究心を失う者などおらぬ。人間的情欲、物欲、願望のすべてを肉体と共に棄て去り、純粋と進歩と愛の生活に勤しむ。これぞ真実の天国なのである。

 地獄──それは個々の魂の中を除いて他のいずこにも存在せぬ。未だに浄化も抑制もされぬ情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪業の報いとして容赦なく湧き出ずる魂の激痛に苛まれる。これぞ地獄である。その地獄より脱け出る道はただ一つ──辿り来る道を今一度あと戻りし、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にない。

 罪に対してはそれ相当の罰のあることは固(もと)よりであるが、その罰とは怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではない。

悪と知りつつ犯せる罪悪に対し、苦痛と恥辱の中にありて心の底より悔い改め、罪の償いの方向へと導くための自然の仕組みにほかならず、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしきドグマへの口先のみの忠誠を誓うが如き、退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてない。

 幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間なき日々の生活において、理性に叶い宗教心より発する行いをなす者すべてが手にすることができるものである。神の摂理を意識的に犯す者に必ず不幸が訪れる如く、正しき理性的判断は必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を棄てたる霊との区別はない。

 霊的生命の究極の運命についてはわれらも何とも言えぬ。何も知らぬのである。が、われらをして現在までに知り得たかぎりにおいて言わしむれば、霊的生命は汝ら肉体に宿る者もわれら霊も共に、等しく神の因果律によりて支配され、それを順守する者は幸福と生き甲斐を覚え、それを犯せるものは不幸と悔恨への道を辿るということだけは間違いなく断言できる。

 神に対する責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この三つの根本的責務についてはすでにその大要を述べた。よってここでは詳説はせぬ。いずれ敷衍して説く時機も到来しよう。

以上述べたところを篤と吟味せられたい。われらが当初より宣言せる主張──すなわち、われらの訓えが純粋にして神聖でありイエスの訓えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知るには、それで充分であろう。

 それは果たして正統派の教義に比して明確さを欠き曖昧であろうか。そうかも知れぬ。汝らに反発心を起こせしめる箇所については詳細を欠いているかも知れぬ。が、全体を通じて崇高にして清純なる雰囲気が漂っているであろう。

高尚にして神聖なる宗教を説いていよう。神性のより高き神を説いていよう。実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもない。そう映るのは、敬虔なる心の持ち主ならば浅薄な詮索をしたがらぬであろう課題を扱っているからに他ならぬ。

知り得ることは知り得ることとして措き、決して勝手な憶測はせぬ。全知全能の神についていい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのである。

 もしも人智を超えた神にベールをかけることをもって曖昧と呼ぶならば、確かにわれらの教えは曖昧であり、明確さに欠けるであろう。しかしもしも知り得たかぎりのこと、理解し得るかぎりのことしか述べぬこと、憶測するより実践すること、ただ信じるより実行することが賢明なる態度であるならば、われらの態度こそ叡智の命ずるところに従い、理性を得心させ神の啓示に与(あずか)れるものであると言えよう。

 われらの訓えには理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性がある。遠き未来においてもその価値を些かも失わず、数知れぬ魂を鼓舞し続けることであろう。一方これに異を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ぬことになろう。

それは、その信念を携えて進みし無数の霊を幸福と向上の道へ導き、一方、その導きを拒否せる者は、朽ち行く肉体と同じ運命を辿ることであろう。愚かなる無知からわれわれの訓えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信ずる者を悪魔の手先と非難しようとも、その訓えは存在し続け、信ずる者を祝福し続けることであろう。
                        ♰イムペレーター

──おっしゃることは筋が通っており、立派な訓えだと思います。また曖昧であるとの神の批判に対しても納得のいく答えをいただきました。しかし、一般の人はあなたの説くところを、事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。

そこで私がお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくに、それが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。


 それについては、いずれ時機をみて説くとしよう。今は控える。先を求むる前に、これまでわれらが述べたところを篤と吟味されたい。汝を正しく導く御力をわれらに給わらんことを!
♰イムペレーター


〔註〕
  (1) the Scribes 旧約聖書の筆写・編集・解釈を仕事としたユダヤ教の学者。
(2)the Pharisees 儀式・慣習等の慣習を重んじたユダヤ教の一派。独善的形式主義者を意味することがある
 

シアトルの冬 霊は全生命の精髄(エッセンス)です

Spirit is the essence of all life.


  1. シルバーバーチの霊訓―スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

ローマカトリックでは“水”による洗礼のほかに“血”の洗礼(殉教)と“望み”の洗礼(洗礼を望みつつ果たされなかった人の遺志)というものを認めているが、本当の意味での洗礼を忘れている。ある日の交霊会でシルバーバーチはそのことに言及してこう述べた。



「ここにいらっしゃる皆さんは本当の意味での洗礼、すなわち霊力による洗礼を受けておられるのです。霊的に蘇(よみがえ)ったのです。魂が真実の自我を見出す道へ導かれ始めたと言ってもよろしい。

霊的なものが皆さんの生活の中核となり、実在感とともに確信というものを覚えるようになります。その確信が精神のすみずみまで行きわたり、魂が安らぎを覚え、心が愛に満たされます。それが大霊が最高に顕現した時の状態です」

ここで、シルバーバーチの祈りの中によく出てくる語句についての質問が出された。

「大霊は本当にすべてのもの、たとえば石ころにも宿っているのでしょうか」


「大霊はすべてのものに宿っております。大霊から離れて存在できるものは何一つありません」

「では地震も大霊の仕業でしょうか」


「大霊とは法則のことです。すべてのものを支配している法則です。法則がすべてを支配しているのです。その法則の支配を受けないものはこの宇宙には一つも存在しません」

この説明ではまだ納得のいかない質問者が「なぜ地震なんかが起きるのだろうと、よく思うのです」と言うと、シルバーバーチが――


「地震・嵐・稲妻といった自然現象が人間の頭脳を悩ませてきたことは、わたしもよく知っております。しかし、それもみな宇宙の一部なのです。宇宙そのものも進化の途上にあります。その宇宙の中で生活している生命が進化の途上にあるのと同じです。物質の世界は完全からはほど遠い段階にあります。同時にまた、完全というものは達成されないのです。完成度がますます高められていくことの連続なのです」

「ということは大霊も進化しているということでしょうか」


「いいえ、大霊とは摂理であり、その摂理は完全です。しかし現在この物質の世界に顕現している部分は、その顕現の程度においてまだ進化の余地があるということです。

いいですか、地球は今も進化しているのです。あなたが理解できないとおっしゃる現象もみな、その進化活動の現れなのです。火焔と暴風雨の中で生まれて、今なお完成へ向けて進化しつつあるのです。

日の出と日没の美しさ、天空に輝く無数の星、楽しい小鳥のさえずりは大霊のもので、嵐や稲妻、雷鳴や雨は大霊のものではないなどとは言えないのです。すべてが大霊の摂理の一環として生じているのです。

こう言うと、では人間が堕落したり他人に害を及ぼしたりするのも大霊の責任なのかとおっしゃるかも知れません。が、人間の一人ひとりに、その人の霊的進化の程度に応じた範囲での自由意志が与えられております。霊的階段を高く昇るほど、より大きな自由意志が行使できるようになります。

これを言いかえれば、現在のあなたがあなた自身の限界であるということです。しかし、あなたも大霊の一部なのですから、人生の困難や障害のすべてを克服できるのです。霊は物質に優るからです。霊が王様で物質は召使いです。霊がすべてを支配しているのです。霊は全生命の精髄(エッセンス)です。霊は生命そのものであり、生命は霊そのものと言ってもよいのです」

「各自の自由意志に限界があるのは、各自の生活に一定のパターンがあるからなのでしょうか」


「生活にはいろいろなパターンがあり、いろいろな波長があります。しかし絶対的な支配力をもつものは何一つありません。地上にはさまざまな放射物があり、さまざまな影響力が飛び交っております。そして、その多くがあなたの運命を左右する可能性を秘めております。しかし大霊はあなたに分霊(わけみたま)をお授けになっているのです。それは、あなたが自由意志でもって現在の進化の程度に応じた正しい選択をすれば、前途に生じる困難のすべてを克服する力を秘めているのです。あなたは大霊なのであり、大霊はあなたなのですから……」

“死者”との交信はその霊の進歩を遅らせ迷惑を及ぼすと信じている人の話が出されて――


「その“死者”の一人であるこのわたしは地上の皆さんの声の響きが大好きです。とても幸せな気持ちにさせてくれます。皆さん方もきっとわたしの声を聞いて喜んでくださっていると信じます。こうして語り合うことによってお互いに学びあえるのですから……。わたしは地上世界からいろいろなことを学ぼうとしております。それがわたしの知識を増し、さらに大きく役立つことができるからです。

今わたしたちが携わっている計画を推進する上で、いろいろとしなければならないことが生じます。大事業なのですから当然のことです。このために多くの高級霊がその生活のすべてを捧げているのです。

その事業の一環がこのサークルで成就されてまいります。皆さんはすでにその一部をご覧になりました。この小さな英国だけでなく世界中の国において大勢の人々の魂に感動を覚えさせてあげることができました」

そう述べて、この交霊会に世界各地からすでに大勢の人が招待され、ここで得た感動を糧にそれぞれの国でホームサークルをこしらえている事実に暗に言及した。そしてさらに言葉を継いで――


「こうした仕事は霊力の活動が活発になるにつれて、ますます大きく発展してまいります。どうか、これ以後も忠実に仕事に励んでください。そして、この仕事のために捧げられた“時”は一瞬たりとも無駄にはならないことを確信してください。ここでこうして交わり合うということは、物質界の皆さんにも、その物質界の束縛から解放されているわたしたちにも、豊かな祝福をもたらすことになるからです。それは自分のためではなく同胞のためという動機に発しているからこそなのです」

さて、洗礼と同じくキリスト教では結婚の重要性を力説している。これを霊界ではどう観ているのであろうか。ある日の交霊界で、かつてはメソジスト派の牧師で今はサークルのメンバーの一人となっているバーノン・ムーア氏と、永年シルバーバーチの霊言の速記を担当してきた婚約者のフランシスに向かってこう述べた。


「まずお二人はこれから冒険中の冒険に出発されようとしていることを知っていただきたいと思います。これまで別々の人生コースを歩んできた者が、これからは一体となった人生を送るのですから……。愛――はるか高遠の世界から届けられる愛があなた方を霊的真理の道へ導いたごとく、こんどは同じ愛がお二人を結びつけました。間もなく司祭が一冊の本からの数行を読み上げ、お二人はキリスト教流に言えば“聖なる結婚の絆”によって結ばれることになっております。しかし、わたしに言わせれば、愛と情によって結ばれないかぎり、そこには絆というものはありません。本当のつながりは愛と情がないところには存在しないのです。

男女が生活を共にするということを物質の側面からだけ考えてはいけません。あなた方は二つの霊的存在であることを忘れてはなりません。二つとも大霊の一部であり、霊界からの愛がお二人のために尽力したように、お互いにいたわり合い、愛し合い、尽くし合うとの誓約のもとに一緒になられるわけです。これから二つの魂が冒険の旅に出るために一緒になられるのです。その意味でわたしたちは物的な側面よりも霊的な側面の方を見つめております。わたしたちにとってはその方が永遠の実在だからです。

時には寂しさや悲しみ、困難、試練が訪れることは覚悟しなければなりません。それもお二人の進化にとっての糧となるのですから……。それが生じた時――きっと生じます――その時は潔く対処し、それがお二人の人間性を磨き、絆をいっそう強くする上で大切なものであることを理解なさってください。

今こちらの世界では大勢の者が教会で行う結婚式に相当する祝典を心待ちにしております。祝典といっても、こちらでは言葉で行うのではなく、霊的な結びつきによって行います。その方がはるかに永続性があります。口先での誓いの言葉は、無言の魂の誓いに較べたら物の数ではありません。

お二人は豊かな祝福を受けていらっしゃいます。何と言っても霊的知識をお持ちだからです。わたしの近くにいる大勢の霊に代わってわたしからお二人に、人生の荒波を越えて幸せと喜びにあふれた安全な航海をお祈りすると同時に、親しい方々からの一層の愛を得て地上の同胞への奉仕に励み続けられることを期待します。

俯(うつむ)いてはなりません。見上げるのです。そして本当の力は上から、そして自分の内部から来ることを自覚してください。そこから自信を得て、万事はきっとうまく行くこと、愛のあるところには絶対に禍事(まがごと)は生じないとの信念をもって将来に対処してください。

大霊の祝福が常にお二人とともにあり、新しい人生のすべての側面で導きをうけ、そしてお二人を取り巻く愛の存在をお忘れにならないよう祈ります」

ムーア夫妻は一九八一年にバーバネルが他界して交霊会が行われなくなるまでサークルのメンバーだった。ある日の交霊会でムーア氏がこんな素朴な質問をした。

「大自然の摂理から叡智を学ぶにはどうしたらよいのでしょうか」


「叡智はあなた自身の霊性の進化とともに学んでいくのです。そのためにはまず第一に、誤った知識と信仰、理性が承服しないもの、大霊の愛と叡智とは思えないもののすべてを捨て去ることができなければいけません。

つまり、新しいものを学ぶ前に古いものを学び直さないといけません。精神の自然な思考を妨げるものは全部捨て去らないといけません。そこから魂が開発され、霊性が進化し、より高い叡智を受け入れる準備が整うわけです。皆さんはこの場に集い合っている間にも魂が開発されております。そして大霊の叡智が入手しやすくなっております。

この場で皆さんは心霊現象を演出する法則の働きを学ばれると同時に、日常の生活を支配している摂理の働きについても学んでおられるのです。そして進歩した分だけ、より高い叡智を身につけていかれるのです。

もっとも、皆さんからシルバーバーチと呼ばれているこのわたしがお届けするのは、高級界の無限の叡智のホンの一かけらにすぎません。皆さんがさらに進化なされば、わたしよりさらに偉大な霊がより高い知識と叡智を届けてくれることでしょう」

「この地上世界を救うには、われわれがこの教えをすべての人に広めないといけないのでしょうか」


「“地上世界を救う”ですか。救うのはわれわれではありません。地上の人間の一人ひとりが自らの努力で救わねばなりません。既成の手段というものはありません。有り合わせの手段ではだめなのです。

そのためにはまず、生命現象と呼ばれているものの背後に“霊”という永遠の実在があることを学び、従って地上世界の人間はただの物的存在ではなく、その物的身体を通して自我を表現している霊的存在であることを認識する必要があります。

そうなると、物的身体は大霊が意図された通りに生活に必要なものを必要な時に必要なだけ手に入れて、常に健康であらねばならないことになります。そして精神はあらゆる宗教的ドグマと教義による束縛から解放されて、実質的価値のないもの、霊的価値のないものに忠誠を尽くすような愚かなことはせず、真実のものだけに精を出すようにならないといけません。教義やドグマのことで論争したり口論したり、はては戦争にまで発展するような幼稚なことは止めないといけません。

わたしたちは大霊を共通の父とする地上の全民族の霊的同胞性を説きます。その障害となっているのは地上的概念であり、間違った知識の上に築かれた宗教であり、特権の独占であり、高慢と権力にあぐらをかく、つまらぬ暴君です」

ここで列席者の一人が「有り難うございました」と言うと、例によってシルバーバーチが自分への感謝は無用であり大霊にこそ感謝しなければいけないことを述べた。そこで別のメンバーが「私たちは一種の習慣として“有り難う”という言葉を使うのです」と言うと、慈父のごとき口調で――


「それくらいのことはわたしも知っておりますよ。ですが、そのつど注意して大霊の摂理の存在を指摘しておかないと、そのうち誰かがわたしを崇めるようになり、またぞろ過去の過ちを繰り返すことになりかねないのです」

話題が変わって、その日の霊界側の出席者にはどんな顔ぶれが揃っているかという質問が出された。すると――


「今夜だけで五千人もの霊が集まっております。皆さんと地上で顔見知りだった人も来ておりますし、この交霊を見学に来ている人もいます。こうして地上の人間と対話が交わせることを教えてあげるために連れてくることもあります。こんなことができるとは思ってもみない霊がいるのです。

世界各地で交霊会を催すために、ここでわたしたちの霊団がどういう具合にして地上と交信しているのか、その要領を勉強に来ている高級霊もいます。地上だけでなく霊界でも大変な規模で布教活動が行われているのです。暇つぶしや面白半分で来ているのではありません。

こうした催しによってわたしたちは、霊力をどのように活用すれば有効に人間の精神に感応できるかを学ぶことができますし、皆さんは、わたしたちがお教えする霊的摂理を理解することによって一段と霊力を受け易くなられます。皆さんは自分では意識していなくても霊界から大変なインスピレーションを受けていらっしゃるのです。

地上には偉大な科学者、偉大な発明家、偉大な教育家と呼ばれている人が大勢いますが、実際はこちらの世界からの情報の媒体にすぎないのです。真理とか発明とかは地上に届けられればそれでよいのでして、誰がそれを伝達するかはどうでもよいことなのです。

いかなる経験にも必ず利得と損失とがあるものです。魂が浄化するほど霊的に向上していきます。しかし反面、それはその先にさらに向上しなければならない余地があることを知らされることでもあります。不満が増すことであり、それは、いわば、損失です。美的センスが鋭くなるほど醜いものに対する反応が大きくなります。高く上がるほど落差も大きくなります。

人生は日向と日陰、静寂と嵐というふうに二面性から成り立っています。一本調子にはできておりません。幸せと喜びの生活にも時には悲しい出来事が生じます。その極端な差異を味わってこそ性格が伸びるのです。かくして悲しみからも、人生の嵐からも、苦痛からも教訓を学び取ることができます。その必要性が理解できない人は神に不平を言いますが、日陰の生活を味わってこそ日向の生活の有り難さがわかるのです。

魂は比較対照の中にあってこそ本当の意味で生きることを始めます。もしもあなたの体験が良いこと、楽しいこと、美しいことばかりだったら、その人生は空虚なものとなることでしょう。そこには深みというものがないからです。

賢い人間は自分を待ちうける体験のすべてが大霊へ近づく無限の道において手引きとなる叡智を教えてくれるとの覚悟で一日一日を迎えます」

「交霊会の支配霊は霊力を無制限に使用できるのでしょうか」


「支配霊に使用できる霊力は、その霊の進化の程度と、それを受けそして活用する霊媒の能力いかんによります。まず支配霊の霊格によって扱える霊力の分量が決まります。そしてこんどは、それが霊媒を通して地上へ注がれる分量が決まります。そうした要素が霊界からの霊力の配給をつかさどっているのです」

「では霊力そのものは無限に存在するわけですね?」


「そうです。無限の大霊を源としているからです」

「そうなると、交霊会を見てますと霊力を無駄にしないように支配霊が気を配っているようですが、それは必要ないことになりませんか」


「心霊実験会(※)に何度も出席なさればおわかりになりますが、霊力の使用がある一定限度を超えると、出席者が体力と気力を消耗して衰弱します。せっかく霊力の証としての現象を見に来られた人の健康を損ねることになるのは、わたしたちの望むところではありません。

しかし実際はむしろその逆で、健康が増進するはずのものです。と申しますのは、ふだん抑え込まれている力が活発に動き始めるからです。忘れないでくださいよ、もともとわたしたちがお届けしている霊力は賦活作用をもった生命エッセンスなのです」


※――同じく霊が催す会でもシルバーバーチのように霊言を主体とするものを“交霊会”といい、物理的現象を主体とするものを“心霊実験会”という。後者の場合は霊媒だけでなく列席者からもエネルギーを取るので疲労を覚えたり睡気を催したりすることがある。“健康を増進するはずのもの”と言っているのは交霊会の場合である。もっともそれも高級霊に支配されている場合に限られる。

そう述べた段階では交霊会の時間はまだ半分も過ぎていないムードだったが、シルバーバーチがもうそろそろ時間ですと言った。そして霊媒のバーバネルが意識を回復した時はあと五分しかなかった。いよいよ霊媒の身体を離れる前に、シルバーバーチはこう述べた。


「わたしはこれまで一貫して、わたしが皆さんの友だちであり指導霊であることを証明すべく努力してまいりました。わたしがいつも皆さんの近くにいること、わたしにも性格上のクセがいろいろとあっても、それが皆さんとの親しいお付き合いの妨げにはなっていないこと、皆さんの悩みごとや難しい問題にも決して無関心ではなく、いつでもわたしに可能なかぎりの手助けをする用意があることを実感をもって知っていただきたいと思ってまいりました。

どうか、このわたしが永遠の真理をお教えし、霊的威力をお見せしようとしている教師であると同時に、皆さんのお一人お一人の友だちであることを忘れないでください。わたしには皆さんへの親密なる情愛があり、持てる力と能力のかぎりを尽くしてご援助しようとしているのです。

どうぞ、いつでもどんなことでもよろしい、難しい問題が生じたらここへお持ちください。わたしがお役に立つことであればそう努力しますし、もしもわたしには手出しを許されないことであれば、皆さんがその十字架を背負っていかれるための力をお貸しいたしましょう」

祈り


これよりわたしは全生命の大霊にお祈りを捧げます。その輝きがわれわれの全存在を満たし、その光がわれわれの進む道を照らし、その愛がわれわれの心を通じて流れ、その意志をわれわれの意志とせんがためです。

霊の世界と物質の世界とのつながりをより緊密なものとし、物質の世界に住める者が永遠の霊的真理についての理解をより一層深める上での障害と制約のすべてを取り除こうとするわれわれに、大霊の強大なる霊力を授けていただくために、わたしはこれよりお祈りを捧げます。

大霊よ、わたしたちは人類の永き歴史において澄み切った霊視力と霊聴力をそなえた霊能者、予言者、先見者、そして賢人・聖人を通して啓示されてきたあなたの霊力を今改めて地上へ届けんと努力しているところでございます。それを豊富に顕現せしめることによって、今なお無知と煩悩の暗闇の中にいる人々の心を鼓舞し、魂を奮い立たせて、真実の自由と悟りをもたらさんとしているのでございます。

わたしたちは霊的真理と霊的叡智と霊的知識の光明を、それを必要とする人たちにもたらし、その高級界の影響力によって勇気づけられ鼓舞され元気づけられて、彼らが一層の改革に精励し、あなたがふんだんに用意なさっておられる恩恵が子等に等しく行きわたるのを妨げている不正・不公正・障害物のすべてを取り除くことができるようにと刻苦しているところでございます。

わたしたちは真理と自由と公正の道に立ちはだかる既得権力のすべてに闘いを挑みます。地上の汚点ともいうべき混とんと病いと苦しみと飢えをなくするためです。そうしたものは本来あなたのご計画の中には存在せず、権力を握る者たちがその自由意志の行使を誤り、あなたのご意志にそった使い方をしていないがために生じているのでございます。

わたしたちは善意の人々、人のために役立ちたいとの願いを抱く者のすべてを結束させんと努力いたしております。受け入れる用意のある者、あなたの御国を生命の全界層に実現せしめんとして努力する者のすべてに、わたしたちのメッセージをもたらしたいと願っております。

その目的のためにわたしたちは祈り、そして刻苦します。何とぞあなたの霊力が常にわたしたちを導き、一層の奉仕へ向けて鼓舞したまわんことを。

ここに、人に役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

シアトルの冬 キリストの使命と霊団の使命は同一

Christ's mission and the mission of the spirit community are identical.


九 節


〔前節に述べられた説にはまるで私に訴えるものが見られなかったので、私はそれが正統派の教会の教説を全く相容れぬものであること、しかも畏れ多くもキリスト教の根本教理を幾つかを侵犯するものであると反論した。

そしてあの通信は途中で不純なものが混入しているのではないか、それに私が求めている肝心なものが脱落しているのではないかと述べた。もしあれをもって人生の指針として完璧だというのなら、私にはそれに反論する用意があった。すると次のような返答が書かれた。〕


 われらが述べたるところは凡その指針に過ぎぬが、それなりに真実である。ただし全てを尽くしているとは言わぬ。きわめて大まかな原則であり、不鮮明なる点、欠落していることが少なからずある。が本質的には間違っておらぬ。

確かに汝らが霊的救いにとって絶対不可欠と教え込まれたる教義を多くの点で犯していることは認める。また何の予備知識をもたぬ者には新しき説のように響き、古き信仰形体を破壊する者の如く思われるかもしれぬ。が実際はそういうものではない。

いやしくも宗教的問題を思考する者ならば、先入観に束縛されず、かつ新たな真理探究に怖れを抱きさえしなければ、原則的にはわれらの霊訓を受け入れることが出来るであろう。古き偏見によって足枷をはめられることさえなければ、全ての人間に薦められるべきものと信ずる。前(さき)にわれらは、まず夾雑物を取り除かねばならぬと述べた。

破邪が顕正に先立つことを述べた。古きもの、不用のものをまず取り払う必要があると述べた。要するに建設のための地ならしをせねばならぬと述べたのである。


──その通りですが、私から観てあなたが取り払おうとされているらしき夾雑物は、実はキリスト教徒が何世紀にも亙って信仰の絶対的基本としてきたものです。

 違う。必ずしもそうではない。汝の言い分にはいささか誇張がある。イエスの地上生活についての記録はきわめて不完全である。その記録を見れば、汝らのキリスト教会が無理やりに押しつけて来たイエスの位置・立場について、イエス本人は一言も語っておらぬことが判るであろう。


真実のイエスはそのイエスの名を冠する教会の説くイエスより遥かにわれわれの説くイエスに近き存在であった。


──そんな筈はありません。それに例の贖罪説──あれをどう思われますか。

 ある意味では間違ってはいない。われらが許せぬのは神を見下げ果てたる存在──わが子の死によって機嫌を取らねばならぬが如き残忍非情なる暴君に仕立て上げた幼稚きわまる言説である。

イエスの名のもとに作り上げた不敬きわまる説話──そのために却ってイエスの生涯の素朴なる偉大さ、その犠牲的生涯の道徳的垂訓を曇らせる結果となった誤れる伝説をわれらが否定したからとて、それはいささかもイエスの偉大さを減ずることにはならぬ。

そうしたドグマの発生と、それが絶対的教義として確立され、挙句の果てに、それを否定、あるいは拒絶することが大罪とされるに至れる過程については、いずれ詳しく語る時節もこよう。

 もしも神が人間と縁なき存在であり、全てを人間の勝手に任せているのであれば、神がその罪深き人間のために、我が子に大権を委ねて地上へ派遣した事実を否定することが永遠の火刑もやむを得ぬ大罪とされても致し方ないかも知れぬ。

キリスト教会のある教派はイエスの贖罪について絶対的不謬性を主張し、それを受け入れぬ者は生きては迫害、死しては永遠の恥辱と苦痛の刑に処せられると説く。これは汝らキリスト教会においても比較的新しき説である。が全てのドグマはこうして作られてきた。

かくして、人間の理性のみでは神の啓示と人間のこじつけとを見分けることが困難、いや、不可能となる。同時にまた、その夾雑物を取り除かんとする勇気ある者が攻撃の的とされる。いつの時代にもそうであった。われらがより高き視点より人間的夾雑物を指摘し、それを取り除くべく努力したからとして、それが誤れる行為として非難される筋合いはないのである。


──そうかもしれません。しかしキリストの神性と贖罪の信仰は人間が勝手に考え出したドグマとは言えないでしょう。現にあなたも署名の頭にかならず十字を冠しておられます(十 Imperator)。

私の推測ではあなたも地上では私たちと同じ教義を信じておられたに相違ありません。もう一人の通信者のレクターも同じように署名に十字を冠します(十 Rector)。あの方などは絶対と言いませんが恐らくキリスト教の教義のために死なれた殉教者に相違ありません。その辺に矛盾のようなものを感じるのです。

つまり、もしその教義が不要のもの、あるいは真理を履き違えたもの──もしくは完全な誤り──であるとしたら、私はどう結論づけたらよいのでしょうか。あなたは死後ご自身の信仰を変えられたのでしょうか。

あるいは、一体あなたは地上でクリスチャンだったのでしょうか、そうでなかったのでしょうか。もしそうでなかったとしたら、なぜ十字を付けられるのでしょうか。もしクリスチャンだったとしたら、なぜ信仰をかえられたのでしょうか。

問題は地上であなたがどういう方であったか、それ一つに関わっています。現在のあなたの言説と地上時代に抱いておられた信仰がどこでどう繋がるのか、そこが判らないのです。おっしゃることは確かに純粋であり、美しい教説だとは思いますが、明らかにキリスト教の教えとは違っています。またどう見ても署名に十字を付ける人が説く教えではありません。少なくとも私にはそう思えるのです。

 この苦悶がもしも私の無知ゆえであるならば、どうかその無知を啓発していただきたい。もしも私がただの詮索好きに過ぎぬのなら、それはどうかご寛恕ねがいたい。私にはあなたの言葉と態度以外に判断の拠り所がないのです。

私が判断しうるかぎりにおいては、あなたの言説と態度は確かに高潔であり高貴であり、また純粋であり、合理的です。しかしキリスト教的ではありません。現在の私の疑問と苦悶を取り除いてくれるような、納得のいく根拠をお示し願いたいと申し上げるのみです。


いずれ述べるとしよう。この度はこれにて終わりとする。



〔私は真剣に返答を求め、何とかして通信を得ようと努力したが、六月二十日まで何も出なかった。右の通信は十六日に書かれたものである。そしてようやく届いた返答は次のようなものだった〕





 友よ、これより汝を悩ませ続けて来た問題について述べるとしよう。十字架がわれらの教えとどう関わるかを知りたいのであろう。それを説くとしよう。

 友よ、主イエス・キリストの教えとして今地上にて流布している教えには、主の生涯と使命を表象するかの十字架に相応しからぬものが少なからずあるという事実をまず述べたい。各派の狂信家には字句にのみこだわり、意味を疎かにする傾向がある。

執筆者一人一人の用語に拘泥し、その教えの全体の流れを疎かにしてきた。真理の探究と言いつつも実はあらかじめ説を立て、その説をこじつけて、それを真理と銘うっているに過ぎぬ。汝らの言う聖なる書(バイブル)の解説者をもって任じる者が、その中より断片的なる用語や文句を引用しては勝手なる解説を施すために、いつしかその執筆者の意図せぬ意味をもつに至っている。

またある者はいささかの真理探究心もなしに、ただ自説をたてるためにのみバイブルより用語や文句を借用する。彼らはそれはそれなりに目的を達するであろう。がそうすることによって徐々に、用語や表現の特異性をいじくり回すことにのみ喜悦を覚える者、自説を立てそれをこじつけることをもって佳しとする者たちによって、一つの体系が作り上げられていく。いずれもバイブルというテキストより、一歩も踏み出せぬことになる。

 前(さき)にわれらは、これより説くべく用意している教えは多くの点において汝らのいう神の啓示と真っ向より対立すると述べた。

 正統派のキリスト者たちは、一人の神秘的人物──三位一体を構成する一人が一握りの人間の心を捉え、彼らを通じて真理の全てを地上にもたらしたと説く。それが全真理であり、完全であり、永遠なる力を有すると言う。神の教えの全体系がそこにあり、一言一句たりとも削ることを許されず、一言一句たりとも付け加えることも許されぬ。

神の語れる言葉そのものであり、神の御心と意志の直接の表現であり、顕在的にも潜在的にも全真理がその語句と言い回しの中に収められているという。ダビデ、パウロ、モーセ、ヨハネ、こうした予言者の訓えは神の意志と相通じるものであるのみならず、神の思念そのものであると言う。

彼らの言葉は神の裁可を受けたものであると同時に、神自ら選択したものであると言う。

要するに、バイブルはその内容においても形体においても神の直接の言葉そのものなのである。英語に訳されたものであっても等しくその一言一句が神の言葉であり、汝らが為せる如く細かく分析・解釈するに値するものとする。なぜなら、その翻訳に携われる者も、またその驚異的大事業の完成のために神の命を受けし者であるとしているからである。

 かくして単なる用語と表現の上に、かの驚くべき教義と途方もなき結論が打ち出されることになる。無理もないことかも知れぬ。なぜなら、彼らにとってはその一言一句が人間的謬見に犯されぬ聖なる啓示であるからである。然るにその実彼らの為せることは、己の都合よき文句のみ引用し、不都合なるところは無視して勝手なドグマを打ち立てているに過ぎぬ。が、とにかく彼らにとってバイブルは神の直接の言葉なのである。

 他方、こうした考えを潔く棄てた者たちがいる。彼らはバイブルの絶対性を打ち砕くことより出発し、ついに辿り着きたるところが他ならぬわれわれの説くところと同じ見解である。彼らもバイブルを神の真理を説く聖なる記録として敬意を払うが、同時にそれはその時代に相応しきものが啓示されたものであり、故に今なお現代に相応しき啓示が与えられつつあると観る。

バイブルは神と霊の宿命に関する人間の理解の発展過程を示すものとしてこれを読む。無知と野蛮の時代には神はアブラハムの友人であり、テントの入口にて共に食し共に語り合った。次の時代には民族を支配せる土師であり、イスラエル軍の先頭に立って戦いし王であり、幾人かの予言者の託宣によって政治を行える僭王であった。

それがやがて時代の進歩と共に優しさと愛と父性的慈悲心を具えた存在となっていった。

心ある者はこうした流れの中に思想的成長を見出し、その成長は決して終息せぬこと、人間の理解力は真理への渇仰を満たす手段を絶え間なく広げつつあるとの信念に辿り着く、故に真理探究者は少なくともその点についてのわれわれの教えを受け入れる備えはある筈である。われらが求めるのはそういう人物である。

すでに完璧なる知識を手にしたと自負する者に、われらは言うべき言葉をもたぬ。彼らにとっては先ず神と啓示に関わる問題についての無知を覚(さと)ることが先決である。それなくしては、われらが何を説こうと、彼らは固く閉じ込められた己の無知と自負心とドグマの壁を突き抜けることはできぬ。

彼らには、これまで彼らの霊的成長を遅らせ未来の霊的進歩の恐ろしき障害となるその信仰の誤りを、苦しみと悲しみの中に思い知らされる外に残されたる道はない。汝がこれまでわれらの述べたるところを正しく理解すれば、これより更に一歩進めて、啓示の本質と霊感の特性について述べることにしよう。

 われらに言わしむれば、バイブルを構成するところの聖なる書、及びその中に含まれていない他の多くの書はみな、神が人間に啓示する神自身についての知識の段階的発達の記録に過ぎぬ。その底流にある原理はみな同じであり一つである。

それと同じ原理がこうした汝とわれらとの交わりをも支配しているのである。人間に与えられる真理は人間の理解力の及ぶ範囲にかぎられる。いかなる事情のもとであろうと、それを超えたものは与えられぬ。人間に理解し得るだけのもの、その時代の欲求を満たすだけのものが与えられるのである。

 さて、その真理は一個の人間を媒体として啓示される。よって、それは大なり小なりその霊媒の思想と見解の混入を免れぬ。と言うよりは、通信霊は必然的に霊媒の精神に宿されたものを材料として使用せざるを得ぬ。つまり初期の目的に副ってその材料に新たな形体を加えるのである。その際、誤りを削り落とし、新たな見解を加えることになるが、元になる材料は霊媒が以前より宿せるものである。したがって通信の純粋性は霊媒の受容性と、通信の送られる際の条件が多いに関わることになる。

 バイブルのところどころに執筆者の個性と霊的支配の不完全さと執筆者の見解による脚色のあとが見られるのはそのためである。またそれとは別に、その通信が意図した民族の特殊なる必要性による特有の色彩が見られる。もともとその民族のために意図されたものだったからである。

 そうした例ならば汝には幾らでも見出せるであろう。イザヤ①がその民に霊の言葉を告げし時、彼はその言葉に己の知性による見解を加え、その民の置かれた当時の特殊な事情に適合させたのであった。申すまでもなく、イザヤの脳裏には唯一絶対の神の観念があった。

しかしそれを詩歌と修辞的比喩でもって綴った時、それはエゼキエル①がその独特の隠喩的修辞でもって語ったものとは遥かに異なるものとなった。ダニエル①にはダニエル独自の神の栄光の心象があった。エレミヤ①にはエレミヤを通じて語れる〝主〟の観念があった。

ホセア①には神秘的象徴性があった。そのいずれも同じ神エホバを説いたのであり、知り得た通りを説いたのである。が、その説き方が異なっていたのである。

 のちの時代の聖なる記録にも同じく執筆者の個性が色濃く残されている。パウロ②然り。ペテロ②然り。同一の真理を全く異なる角度より観ているのも已むを得ぬことである。真理なるものは二人の人間が異なる観点より各々の手法にて説いたからとて、いささかもその価値を減ずるものではない。

相違と言うも、それは霊感の本質にはあらず、その叙述の方法にあるに過ぎぬからである。霊感はすべて神より発せられる。が、受ける霊能者はあくまでも人間である。

 故に、バイブルを読む者はその中に己れ自身の心──いかなる気質であれ──の投影を読み取るということにもなる。神についての知識はあまりに狭く、神聖についての理解はあまりに乏しい。故に過去の啓示にのみ生き、それ以上に出られず、かつ出る意志も持たぬ者は、バイブルにその程度の心の反映しか見出さぬであろう。

彼はバイブルに己れの理想を見出さんとする。ところが、どうであろう、その心に映るのは彼と同じ精神的程度の者のための知識のみである。一人の予言者の言葉で満足せぬ時は他の予言者の言葉の中より己れの気に入る箇所を選び出し、他を棄て、その断片的知識をつなぎ合わせ、己れ自身の啓示をつくりあげる。

 同じことが全ての教派について言えよう。各派がそれぞれの理想を打ち立て、それを立証せんがために、バイブルより都合よき箇所のみを抜き出す。もとより、バイブルの全てをそのまま受け入れらる者は皆無である。何となれば全てが同質のものとは限らぬからである。各自が己れの主観にとって都合よき箇所のみを取り出し、それを適当に組み合わせ、それをもって啓示と称する。

他の箇所を抜き出した者の啓示と対照してみる時、そこに用語の曲解、原文の解説(と彼らは言うのだが)と注釈、平易なる意味の曖昧化が施され、通信霊も説教者も意図せざる意味に解釈されていることが明らかとなる。かくして折角の霊感が一教派のドグマのための方便と化し、バイブルは好みの武器を取り出す重宝なる兵器庫とされ、神学は誤れる手前勝手な解釈によって都合よく裏づけされた個人的見解となり果てたのである。

 汝らは、かくの如くして組み立てられたる独りよがりの神学に照らして、われらの説くところがそれと異なると非難する。確かに異なるであろう。われらはそのような神学とは一切無縁なのである。それはあくまで地上の神学であり、俗世のものである。

その神の観念は卑俗かつ低俗である。魂を堕落させ、神の啓示を標榜しつつ、その実、神を冒瀆している。さような神学にわれらは何の関わりも持たぬ。汝らの神学と矛盾するのは当然至極のことであり、むしろ、こちらより関わり合いを拒否する。

その歪める教えを修正し、代わりて神と聖霊についてより真実の、より高尚なる見解を述べることこそわれらの使命なのである。

 バイブルより出でし神の観念がかくも汝らの間にはびこるに至った今一つの原因は、霊感の不謬性を信じるあまり、その一字一句を大切にしすぎるのみならず、本来霊的な意味を象徴的に表現しているに過ぎぬものを、あまりに字句どおりに解釈しすぎたことにある。

人間の理解の及ばぬ観念を伝えるに当たっては、われらは人間の思考形式を借りて表現せざるを得ぬことがある。正直のところ、その表現の選択においてわれらもしばしば誤りを犯す。表現の不適切なるところもある。霊的通信のほとんど全てが象徴性を帯びており、とくに正しき観念に乏しき神の概念を伝えようとすれば、その用語は必然的に不完全であり、不適切であり、往々にして選択を誤れる場合が生ずるのは免れぬ。

いずれにせよ、所詮象徴的表現の域を出るものではなく、そのつもりで解釈してもらわねばならぬ。神につきての霊信を字句どおりに解釈するのは愚かである。

 さらに留意すべきは、神の啓示はそれを授かる者の理解力の程度に合わせた表現に授けられるものであり、そのつもりで解釈せねばならぬということである。バイブルをいつの時代にも適用すべき完全な啓示であると決めてかかる人間は一字一句を字句どおりに受けとめ、その結果、誤れる結論を下すことになる。

衝動的性格の予言者が想像力旺盛にして熱烈な東方正教会③の信者に説き聞かせたる誇張的表現は、彼らには理解できても、思想と言葉を大いに、あるいは完全に異にせる他民族にその字句どおりに説いて聞かせては、あまりに度が過ぎ、真実から外れ、徒に惑わせることになりかねぬ。

 神についての誤れる冒瀆的概念も多くはそこに起因しているとわれらは観るのである。もともと言語なるものが不備であった。それが霊媒を通過する際に大なり小なり色づけされ、真理からさらに遠く逸(そ)れる。それがわれらが指摘せる如く後世の者によって字句どおりに解釈され、致命的な誤りとなって定着する。

そうなってはもはや神の啓示とは言えぬ。それは神について人間が勝手に拵えたる概念であり、しかも未開人が物神に対して抱ける概念と同じく、彼らにとっては極めて真実味をもつものである。

 繰り返すが、そのような概念にわれらは同意できぬ。それどころか、敢えてその誤りを告発するものである。それに代わる、より真実にして、より崇高なる知識を授けることが、われらの使命なのである。またその使命の遂行に当たっては、われらは一つの協調的態勢にて臨む。先ず一人の霊媒に神的真理の一部を授ける。

それがその霊媒の精神において彼なりの発達をする。正しく発展する箇所もあれば、誤れる方向へ発展する箇所もある。若き日に培われたる偏見と躾の影響によって歪められ曇らされる部分もあろう。では、より正しき真理を植えつけるに当たって、いっそうのことその雑草を根こそぎ取り除くべきか。精神より一切の先入観念を払拭すべきか。

それはならぬ。われらはそうした手段は取らぬ。万一その手段をとらんとすれば、それには莫大な時間を要し、下手をすればその根気に負けて、霊媒の精神を不毛の状態のまま放置することになりかねぬ。

 そのようなことは出来ぬ。われらは既に存在する概念を利用し、それを少しでも真理に近きものに形づくっていくのである。いかなるものにも真理の芽が包蔵されているものである。もしそうでなければ一挙に破壊してもよかろう。が、われらはそうしたささやかな真理の芽に目をつけ、それに成長と発達を与えんとする。

われらには汝ら人間が大切に思う神学的概念がいかに無価値なるものかがよく判る。が、それもわれらが導く真理の光を当てれば自然崩壊するものと信じて、他の重要なる問題についての知識を提供していく。取り除かねばならぬのは排他的独断主義である。これが何よりも重大である。単なる個人的見解は、それが無害である限り、われらは敢えて取りあわぬ。

 そういう次第であるから、在来の信仰がトゲトゲしさを和らげてはいるものの、それは形の上でのことであり、極めて似た形で残っていることが多々ある。そこで人は言うのである──霊は霊媒自身の信仰をくり返しているに過ぎぬではないかと。

そうではない。今こうして汝に述べていることがその何よりの証拠である。確かにわれらは霊媒の精神に以前より存在するものを利用する。

が、それに別の形を与え、色調を和らげ、当座の目的に副ったものに適合させる。しかもそれを目立たぬように行う。汝らの目にその違いが明瞭となるほどの変化を施すのは、その信仰があまりにドグマ的である時に限られる。 

 仮にここに神も霊も否定し目に見え手で触れるものしか存在を認めぬ者がいるとしよう。この唯物主義者が神への信仰を口にし、死後の生活を信じると言い出せば、汝はその変わりように目を見張ることであろう。それに引きかえ、人間性が和らげられ、洗練され、純化され、崇高味を増し、また粗野で荒々しき信仰が色調を穏やかなものに塗り替えられていった場合、汝らにはその変化が気づかぬであろう。

その変化が徐々に行われ、かつ微妙だからである。が、われらに取りては着々と重ねたる努力の輝ける成果なのである。荒々しさが和らげられた。

頑(かたくな)にして冷酷、かつ陰湿なるところが温められ愛の生命を吹き込まれた。純粋さに磨きがかけられ、崇高さが一掃輝きを増し、善性が威力を増した。かくして真理を求める心が神と霊界についてより豊かなる知識を授けられたことになるのである。

 人間の見解が頭ごなしに押さえつけられたことはない。それに修辞を施し変化を与えたのみである。その霊的影響力は現実に汝らのまわりに存在している。汝らは全くそれに気づいておらぬが、霊的使命の中でも最も実感のある有難き仕事なのである。

 故に、霊は人間の先入観を繰り返すのみと人が言う時、それはあながち誤りとも言えぬことになる。その見解は害を及ぼさぬものであるかぎり、そのまま使用されているからである。ただ汝らに気づかれぬように修飾を施してある。有害とみたものは取り除き抹消してしまう。

 とくに神学上の教義の中でも特殊なるものを取り扱うに当たっては、可能なかぎり除去せずにそれに新しき意義を吹き込むべく努力する。なぜなら、汝には理解できぬかもしれぬが、信仰というものはそれが霊的にして生命あるものであれば、その形態は大して意味を持たぬものだからである。

それ故われらは既に存在する基盤の上に新たなものを築かんとするのである。とは言え、その目的の達成ためには、いまも述べた如く真理の芽をとどめている知識、あるいは知性の納得のいくものであるかぎり、大筋においてそのまま保存はするものの、他方において、ぜひ取り除かねばならなぬ誤れる知識、あるいは人を誤らせる信仰もまた少なしとせぬ。

そこで建設の仕事に先立って破壊の仕事をせねばならぬ。魂にこびり付きたる誤れる垢を拭い落とし、出来うるかぎり正しき真理に磨きをかけ純正なものにする。われらが、その頼りとする人間にまずその者が抱ける信仰の修正を説くのはそのためである。

 さて、かく述べれば、すでに汝には今の汝の苦悶の謂(いわ)れが判るであろう。われらは汝が抱ける神学上の見解を根こそぎにしようというのではない。それに修正を加えんとしているのである。振り返ってみるがよい。曾ての狭隘なる信仰原理が徐々に包括的かつ合理的なものへと広がって来た過程が判るであろう。

われらの指導のもとに汝は数多くの教派の神学に触れてきた。そうしてその各々に程度こそ違え、真理の芽を見て来た。ただその芽が人間的偏見によって被い隠されているに過ぎぬ。またキリスト教世界の多くの著書を汝自ら念入りに読んで来た。

そこに様々な形態の信仰を発見して汝自身の信仰の行き過ぎが是正され、荒々しさが和らげられた。太古の哲学の研究に端を発し、各種の神学体系に至り、そこから汝に理解し得るものを吸収するまで、実に長き、遅々たる道程であった。

 すでに生命を失い、呼吸することなきドグマで固められし東方正教会の硬直化せる教義、人間的用語の一字一句にこだわる盲目的信仰に痛撃を浴びせしドイツの神学者たちによる批判、汝の母国と教会における高等思想の思索の数々、その高等思想ともキリスト教とも無縁の他の思想の数々──汝はこうしたものを学び、汝にとって有用なるものを身につけて来た。

長く、そして遅々とした道程ではあったが、われらはこれより更に歩を進め、汝をいよいよ理想の真理──霊的にして実感に乏しくとも、汝の学びしものの奥に厳然と存在する真理へと案内したく思う。地上的夾雑物を拭い去り、真実の霊的実在を見せたく思うのである。

 まず汝に知ってほしいことは、イエス・キリストの霊的理想は、神との和解だの、贖罪だのと言う付帯的俗説も含めて、汝らが考えているものとは凡そ本質を異にするものであるということである。それは恰も古代ヘブライ人が仔牛を彫ってそれを神として崇めた愚かさにも似ていよう。われらは汝の理解し得るかぎりにおいて、汝らが救い主、贖い主、神の子として崇めるイエスの生涯に秘められたる霊的事実を知らしめたく思う。

イエスがその地上生活で身をもって示さんとした真の意味を教え、われらが取り除かんとする俗説がいかに愚劣にして卑劣であるかを明らかにしたく思うのである。

 汝はそうしたわれらの訓えがキリストの十字架の印とどう係わりがあるかと尋ねた。友よ、あの十字架が象徴するところの霊的真理こそ、われらが普及を宣誓するところの根本的真理なのである。己れの生命と家庭と地上的幸福を犠牲にしてでも人類に貢献せんとする滅私の愛──これぞ純粋なるキリストの精神であるが、これこそわれらが神の如き心であると宣言するものである。

その心こそ卑しさと権力欲、そして身勝手なる驕りが生む怠惰から魂を救い、真実の意味での神の御子とする、真実の救いである。

この自己犠牲と愛のみが罪を贖い、神の御心へと近づけしめる。これぞ真実の贖いである! 罪なき御子を犠牲(いけにえ)として恐れる神に和解を求むるのではない。本性を高め、魂を浄化する行為の中にて償い、人間性と神性とがその目的において一体となること(4)──身は地上にありても魂をより一層神に近づけていくこと──これぞ真実の贖いである。

 キリストの使命もその率先垂範にあった。その意味において、キリストは神の一つの発現であり、神の御子であり、人類の救い主であり、神との調停者であり、贖い主であった。その意味においてわれらはキリストの後継者であり、こののちも引き続きその使命を遂行していく。十字架のもとに働き続ける。

キリストの敵──たとえ正統派の旗印とキリストの御名のもとであっても、無明の故に、あるいは強情のゆえにキリストの名を汚す者たちに、われらは厳然と戦いを挑むものである。

 ある程度霊的真理に目覚めた者にとっても、われらの説くところには新しく且つ奇異に感じられるところが少なくなかろうと想像される。が、いずれはキリストの真実の訓えがわれらの説くところと本質において一体であるとの認識に到達する時代(とき)が訪れるであろう。その暁には、それまで真実を被い隠せる愚劣かつ世俗的夾雑物は取り払られ、無知の中に崇拝してきたイエスの生涯とその教えの荘厳なる真実の姿を見ることであろう。

その時のイエスへの崇敬の念はいささかも真実味を減ずるどころか、より正しき認識によって裏づけされる。すなわち、われらが印す十字架は不変なる純粋性と人類への滅私の愛の象徴なのである。汝らにその認識を得さしむることこそ、われらの真摯なる願いである。願わくばこれを基準として、われらの使命を裁いてもらいたい。

われらは神の使命を帯びて参った。その使命は神の如く崇高であり、神の如く純粋であり、神の如く真実である。人類を地上的俗信の迷いより救い出し、汚れを清め、霊性と神性とに溢れたる雰囲気へと導いてまいるであろう。

 われらの述べたるところをよく吟味されたい。そうして導きを求めよ。われらでなくともよい。その昔、かのイエスという名の無垢と慈悲と滅私の霊を地上に送りし如く、今われらを地上に送りし神に祈れ!

 イエスを今なおわれらは崇める。

その御名をわれらは敬う。
 その御ことばをわれらは繰り返す。
 その御訓えが再びわれらの中に生き返る。
 イエスもわれらも神の使いである。
 そしてその御名のもとにわれらは参る。
                       ♰ イムペレーター


〔註〕
(1)いずれも旧約聖書に出てくる予言者。
(2)いずれも新約聖書に出てくるイエスの弟子。
(3)Eastern Church 東ヨーロッパ、近東、エジプトを中心とするキリスト教会の総称。
(4)贖いを意味する英語 atonement が語原的に at-one-ment すなわち、〝一体となること〟を意味することを示唆しながら説いている。

Sunday, December 29, 2024

シアトルの冬 絶望してはなりません

Do not despair!


今から半世紀もさかのぼる一九三六年に、時の英国王エドワード八世が二度の離婚歴をもつ米国人女性ウォリス・シンプソンとの結婚のため王位を放棄することを宣言して、英国全土が危機的な事態に陥った。近代になって英国の君主制がこれほどの試練と動乱に遭遇したことはかつてなかった。

その話題は当然のことながらハンネン・スワッファー・ホームサークルにおいても持ち出された。意見を求められてシルバーバーチが述べた。


「大変困難な事態が続きましたが、今やっと収拾へ向かいはじめました。この度の事件には学ぶべき大きな教訓があることを申し上げたいと思います。

いかなる事態にあっても、永遠なるもの、霊的なものから目を逸らしてはなりません。この場合もあまり英国の王政や王権にこだわった考え方ではなく、神の統治する国ということを念頭に置いた考え方をしなくてはいけません。地上世界はまだまだそれからは程遠いのです。

しょせんは一個の人間にすぎない者に過度の崇敬を向けてはなりません。宇宙にはたった一人の王、全生命の王しか存在しないことを忘れないでください。その王の御国においてはすべての住民が等しく愛され、豊かな恩寵が欲しいだけ分け与えられるのです。

王室の華麗さに魅惑されて肝心な永遠の実在から目を逸らしてはなりません。他方には悲劇と暗黒の中にいる人、その日の食べものにも事欠く人、太陽の光も届かない場所で生活している人――要するに大霊が用意された恩恵に十分に浴せない人たちがいることを忘れてはなりません。

王室一個の問題よりもっと大きな仕事、もっと大きな問題へ関心を向けてください。涙ながらに苦境を訴えている一般庶民のことを忘れてはなりません。その痛み、その苦しみ、その悲しみは、王室一個の難事よりもはるかに、はるかに大きいのです」

ここで司会のハンネン・スワッファーが「私がサイキックニューズ紙に発表した論評は読者から指摘されている通り辛辣(らつ)すぎたでしょうか」と尋ねた。スワッファーの記事を読んですぐに抗議の手紙を寄せた人が何人かいたのである。そのうちの一人は“これほど薄情な意見を読んだことがない”と書き、もう一人は“非紳士的で男らしくなく、度量に欠け、しかも非キリスト教的である”と決めつけていたのである。するとシルバーバーチが答えた。


「そんなことはありません。真実を述べれば、それは必ずや人の心に訴えるものです。時には迷信と偏見による抵抗にあうことはあっても、そうした壁はそのうち崩れていきます。あなたの論評は昔だったらとても公表できなかったでしょう。しかし今あなたは現実に公表しました。

もとより、反論する人はいるでしょう。しかし、その数は取るに足りません。そういう人はまだ精神構造の中に古い伝統的な概念がしつこく残っている人たちです。論理と分別心とで判断できない人です。あなたはそういう人に自然の摂理の存在を教えたことになります。その摂理こそ、唯一、大切なものです。

感情的ないちずさから胸をたぎらせても、その熱が冷めると否応(いやおう)なしに現実に直面せざるを得なくなります。そこに地上でのあなた方の役割があるのです。すなわち、幻影のベールを剥ぎ取り実相を明らかにするのです。中には真理の光のまばゆさに耐えきれない人もいます。しかし構うことはありません。そういう人はまだそれを受け入れる用意ができていないということなのですから。

真理がすべてに優先します。真理が近づくと無知は逃げ去ります。いつかは必ずわれわれが優位を占めるのは、われわれの主張が真実だからこそです。もとより“われわれが優位を……”と言っても、“道具”であるわたしや皆さんのことを言っているのではありません。われわれが道具となって代弁しているもの、すなわち大霊の愛の大きさ、大霊の恩寵の無限性、全人類に分け隔てなく配剤されている愛と叡智と知識のことです。

そうした大霊の顕現を妨げるものはすべて排除しなければなりません。人工の教義への隷属状態はすべて解きほぐさないといけません。あらゆる障害物を取り除かないといけません。それが、皆さんとともにわたしたちが携わっている仕事なのです。

わたしは自分がこれまでに学んできたものの中から実に素朴なものを幾つか述べているだけです。たとえそれが何でもない人間生活の基本的原則のおさらいをさせるに過ぎなくても、やはりそれが何より大切であると確信するからです。

日常の仕事にあくせくとし、次から次へと生じるゴタゴタに係わっていると、皆さんもうっかりすると人生の基本である永遠の霊的原理を忘れがちです。そこでわたしが改めてそれを認識させてあげれば、皆さんはぼやけた焦点を回復し調和を取りもどして、一段と大きな奉仕に励むことができるわけです。

地上世界はまだまだ学ばねばならないことが沢山あります。が、皆さんの義務が大きいだけ、それだけ多くの犠牲を強いられることになります。手にされた知識が大きいだけに、責任もそれだけ大きくなります。しょせん代価なしには何も手に入れることはできません。支払うべき代価というものがあるのです」

その日から一カ月さかのぼった一九三六年十一月初旬に、シルバーバーチが第一次大戦の休戦記念日(十一月十一日)の恒例となっているメッセージを述べた。そのメッセージと、さらに一年のちのメッセージとを紹介し、その内容についての一問一答を併せて紹介して参考に供したい。


「あと数日もすれば英国全体の思いが戦争で物的身体を犠牲にした大勢の人々に注がれますが、この時に当ってわたしから皆さんに申し上げたいことがあります。それは、その日は数知れない大霊の子が今なお為政者によって裏切られ続けていることを思い起こさせる日でもあるということです。

彼らの犠牲が結局は無駄になっているということです。この聖なる日を迎えるたびに皆さんの一人ひとりが、地上に平和と調和と幸せを招来する道はいたって単純な原理をいくつか実行すればよいことを思い起こすことが大切です。

つまり地上世界は何かにつけて貪欲と利己主義が優先しているから戦争と貧困、飢餓と悲劇、災難と混乱が絶えないのです。せっかく届けられた大霊からのメッセージもそのうち忘れ去られ、無視されます。本来なら率先して説かねばならない立場にある聖職者すらそれを無視するようになります。そのくせ困ると神に祈ります。

一時的に権力を握ったところで、そんなものは霊的実在の前では物の数ではありません。霊的なことを口にすると一笑に付す人がいますが、地上のトラブルの解決法は、すべての人間が善意の精神で霊的真理を物的問題に適用するようにならないかぎり見出せません。

現在の地上の状態は休戦が宣告された時(一九一八年)よりも更に凶事に近づいております。実に深刻で恐ろしい事態に近づきつつあります。流血の争い、大規模な流血へ向けて一目散に突っ走っております。

わたしには確信があるからこそ、厳粛な気持ちでそう申し上げるのです。未然に防ぐ可能性がまったくないわけではありません。しかし、それはお互いがお互いのためを願う人たちみんなの努力――オレがという思い上がった気持ちは別です――それが貪欲と利己主義の勢力に打ち勝った時でしかありません。

戦争から平和は生まれません。悲劇から幸福は生まれません。悲哀の涙から愉(たの)しい笑いは生まれません。地上にはすべての人に行きわたるだけのものが用意されているのです。しかし、そこに貪欲が立ちはだかります。剣にて支配せんとする者は剣にて滅びます。それは今でも同じです。

しかし、真っ暗い闇の中にも一条(すじ)の希望の光が見えております。絶望してはなりません。皆さんはこれぞ真理と確信するものにしがみつくことです」

それから一年後の“休戦記念メッセージ”でシルバーバーチは、スペインの内乱(一九三六~三九)に言及した。それというのも実はバーバネルが夫人とともにたまたまスペインへ行っていてその内乱に巻き込まれ、兵士によってフランス国境まで護送されるというハプニングがあったのである。シルバーバーチは語る――


「毎年この日を迎えるごとに、戦争による犠牲の空しさを痛感させられます。あなた方はたった二分間を“英霊”のために捧げて黙祷して、そのあと一年間は忘れております。そして一年後にまた棚から下ろしてホコリをはたくということを繰り返しております。

戦死者の犠牲はまったく無意味でした。言うなれば、これまでの十九年間ずっと磔刑(はりつけ)にされ続けているようなものです。“大いなる戦い”(※)などとおっしゃいますが、その“大”とは殺りくの量、無益な殺人の多さでしかありません。“すべての戦争を終わらせるための大いなる戦い!”(第一次大戦はそれを大義名分として戦った)――なんと空虚な、なんと都合のよい言葉でしょう!

皆さんは地上にあって可能なかぎりの犠牲、時には生命を捨てることも辞さなかった人たちが死後ずっと幻滅の時を過ごしてきていることに思いを馳せたことがありますか。彼らは地上生活での青春の真っ盛りに生命を断たれたのです。まだ霊界の生活に十分な備えができていないうちに送り込まれたのです。もとより文明を守るという一つの理想に燃えて喜んで死んでいったのですが、それがずっと裏切られ続けているのです。

今もって地上から戦争はなくなっておりません。たとえ前回の戦争の“戦死者”に称賛の手向(たむ)けをしても、東洋においても、今またスペインにおいても戦乱の止む時がなく、これからも二分間の休みもなく、殺し合いが続くことでしょう。

真の平和は物的な問題に霊的摂理を適用するようにならないかぎり訪れないということが、なぜ地上の人には解らないのでしょうか。戦争、そしてその結果としての流血と悲劇と涙、さらには混乱と騒乱と災禍と破綻の原因は、元はといえば利己主義にあるのです。

その利己主義を互助の精神と置き替えてはじめて平和が到来すること、物量主義と権力を第一に考える古い概念と国威発揚の野望を捨て、それに代わってお互いが助け合って生きようとする精神――強い者が弱い者を助け、余るほど持っている人が足らない人に分けてあげるという関係にならなくてはいけません。

これ以外の方法はすべて試みられ、そして失敗に終わっています。霊的真理の適用という方法のみがまだ試みられておりません。それが実行されないかぎり地上には戦争と流血は跡を絶たず、それは最終的には、地上人類が誇りとしている文明を破壊してしまうことになるでしょう」


※――英語では第一次および第二次世界大戦のことを文字どおりWorld War Ⅰ、World War Ⅱと呼ぶのが一般的であるが、第一次大戦だけを Great War“大いなる戦い”と呼ぶことがある。これは、このあとに出ている“すべての戦争を終わらせるための大いなる戦い”という大義名分から自然にそう呼ばれるようになったのであろう。

「文明とは何かについてお話いただけませんか」


「一方に天賦の資質としての自由意志があり、これを正しく使用しないと代償を支払わされます。そして他方には、従わねばならない摂理というものがあります。摂理にのっとった生き方をしていれば恩恵という形での収穫があります。逆らった生き方をすれば、それ相当の結果を刈り取らねばなりません。一方は平和と幸福と豊かさをもたらし、他方には悲劇と争いと流血と混とんをもたらします。

わたしたちは、本来ならばその人たちこそ大霊の子を導くべきである立場の人たちから軽蔑されております。大霊の御名とその愛をたずさえて来ているのですから本当は歓迎してくれるべきなのですが、なぜか嫌われております。そうした中にあっても、わたしたちは地上人類のためを思う一心から、自らの力で地上を救う方法を教えてくれるものとして、その摂理と霊力の存在を説き明かそうと努力しているのです。

霊的な無知に浸りきり、まわりを儀式と祭礼で固め、しかも今現在でも大霊の力(聖霊)が降りることを否定している人たちは、いつかはその代償を支払わねばならなくなります。

わたしたちは人のために役立ちたいと願う人たちにとっては味方であり、伝統的な規範に合わないものはすべて破壊せんとする人たちにとっては大敵です。わたしたちは愛と奉仕の翼にのって地上へ舞い下り、いつどこでもお役に立つ用意ができております。それがわたしたちに課せられた大きな仕事なのです。

地上人類は古い伝統を、ただ古くからあるものというだけで大事にしすぎます。真理と時代とは必ずしも手を取り合って進むものではありません。幼児の頃から教え込まれた大事な信仰を捨て去ることの難しさは、わたしにもよく解ります。しかし、魂は理性が拒否するものをすべて捨て去ってはじめて自由になれるのです。それを潔く実行できる人が果たして何人いることでしょう」

「信仰を理性で検証するなどということは思いも寄らない人が多いのではないでしょうか」


「まったくその通りです。危険をはらんだ未知の世界へ踏み込むよりも、勝手を知った隠れ家にじっとしている方が良いというわけです。そして、もう一つ忘れてならないのは、地上では先覚者はあまり歓迎されないのです。大てい非難を浴びております」

「あなたは“霊的計画”をよく口にされますが、私たちには一向にそれらしき成果は見えないのですが……」


「物質の目でごらんになっているから見えないのです。皆さんは短い地上人生を尺度として進歩ぐあいを計っておられますが、わたしたちは別の次元から見つめております。

わたしたちの目には霊的知識の普及、霊的真理の理解の深まり、寛容精神の盛り上がり、善意の増大、無知と迷信と恐怖心と霊的隷属状態という障壁の崩壊が見えております。

瞠目(どうもく)するような急激な変革を期待してはいけません。そういうことは絶対に有りえないのです。霊的成長はゆっくりとした歩みの中で得られるものだからです。

絶望すべき要素はどこにも見当りません。もっとも、強まる一方の物量第一主義の風潮を見ていると絶望したくもなるでしょう。が、他方には霊的真理の光が物的利己主義のモヤを突き抜けていくにつれて、希望もまた強まりつつあります。知識が広がり続けるかぎり、勝利はきっと真理の上に輝きます。

だからこそ、こうした席でのメッセージが大切なのです。わたしたちにとって大切なのではありません。皆さんにとって大切なのです。わたしたちはただ、このまま放置しておくと地上世界はその利己主義、野蛮ともいうべき無知、そして故意の残虐行為の代償を支払わされる大変な事態になることを知っていただきたいと思って、こうして頑張っているのです。ひたすら皆さんのためを思っているのです。援助したいのです。なぜなら、わたしたちには無私の愛があるからです。

わたしたちは地上人類を破滅の道へ誘い込もうとしている悪霊の集団ではありません。人間の尊厳を傷つけたり、無慈悲なことや罪なことを言うようなことはいたしません。それどころか、皆さんの内部に潜在する神性、大霊の力を認識していただき、互助の精神を実行して大霊の計画の推進に協力してほしいと願っているのです」

「これまでの文明を破壊してしまうという考えはいかがでしょうか」


「たとえ悪い面はあっても、現代の文明を引き継ぐ方がはるかに賢明です」

「こうまでおかしくなってしまった以上、いっそのこと破壊して一からやり直した方がよいとは思われませんか」


「思いません。なぜなら、今や霊的真理の光が世界中に浸透しつつあるからです。霊力が浸透する通路があるかぎり、その世界が存在し続けるためのエネルギーが届けられます。何事も霊の貯蔵庫があるからこそ存在していることを知らないといけません」

別のメンバーが、この前の戦争で戦死した人たちの犠牲がすべて無駄に終わったというのは少し酷ではないか――それを聞いて心を傷める人もいるのでは、といった主旨のことを述べた。するとシルバーバーチが――


「純粋無垢の真理は時として苦(にが)く、また心を傷つけることがあるものです。しかし、あくまでも真実なのですから、いずれは良い結果を生みます」

「その犠牲からほんとに何一つ良い事は生まれなかったのでしょうか」


「わたしには何一つ見出せません。地上世界は“大いなる戦い”が始まった時よりもさらに混とんへ近づき、破滅的様相を呈しております」

「あれほどの英雄的行為が無駄に終わるということが有りうるのでしょうか。霊的な反響はないのでしょうか」


「犠牲になった兵士の一人ひとりにはそれなりの報いがあります。動機が純粋だったからです。しかし忘れてならないのは、地上世界全体としては彼らを裏切っていることです。犠牲が何一つ報われていないということです。相も変わらず物質第一主義がはびこっております」

「こうした休戦記念行事を毎年催すことは意義がありますでしょうか」


「たとえ二分間でも思い出してあげることは何もしないよりはましでしょう。ですが、ライフルや銃剣、軍隊、花火、そのほか戦争と結びついたもので軍事力を誇示することによって祝って、いったい何になるのかと言いたいわけです。なぜ霊的な行事で祝えないのでしょうか」

別のメンバーが――

「スピリチュアリズム的な行事を催すことには賛成ですか」


「真実が述べられるところには必ず徳が生まれます。もちろんそれが奉仕的精神を鼓舞するものであればのことです。大見得を切った演説からは何も生まれません。またそれを聴く側も、いかにも自分たちが平和の味方であるかの気分に浸るだけではいけません。

わたしは“行為”を要求しているのです。人に役立つことをしてほしいのです。弱者を元気づけることをしてほしいのです。病気の人を癒してあげてほしいのです。喪の悲しみの中にいる人を慰めてあげてほしいのです。住む家もない人に宿を貸してあげてほしいのです。地上世界の恥ともいうべき動物への虐待行為を止めさせてほしいのです。

平和は互助の精神からしか生まれません。すべての人が奉仕的精神を抱くようになるまでは、そしてそれを実行するようになるまでは、平和は訪れません」

不戦主義、すなわち参戦を拒否する一派の運動をどう思うかと問われて――


「わたしはいかなる派にも与(くみ)しません。わたしにはラベルというものがないのです。わたしの眼中には人のために役立つ行為と動機しかありません。お題目に眩惑されてはいけません。何を目的としているか、動機は何かを見極めないといけません。なぜなら、反目し合うどちらの側にも誠意の人と善意の人がいるからです。わたしが述べる教えはいたって簡単なことばかりですが、それを実行に移すには勇気がいります。

霊的知識と霊的摂理を知ることによって断固とした決意をもつに至った時、そして日常生活のあらゆる分野で私利私欲をなくし互助の精神で臨むようになった時、地上に平和と和合が訪れます。

それは一宗一派の主義・主張から生まれるのではありません。大霊の子のすべてが霊的真理を理解してそれを日常生活に、政策に、経営に、政治に、そして国際問題に適用していくことから生まれるのです。

わたしはこれこそ真実であると確信した宇宙の原理・原則を説きます。だからこそ、これを実行に移せばきっとうまく行きますということを自信をもって申し上げられるわけです。皆さんは物質の世界にいらっしゃいます。最終的には皆さんに責務があります。わたしたちはただ誠意をもってご指導し、皆さんが正しい道から外れないように協力してあげることしかできません。

地上には古いしきたりから抜け出せない人が大勢います。それが宗教的なものである場合もありますし、政治的なものである場合もありますし、自分の想像力でこしらえた小さな精神的牢獄である場合もあります。

魂は常に自由でないといけません。自らを牢の中に閉じ込めてはいけません。まわりに垣根を張りめぐらして、新しいものを受け入れなくなってはいけません。真理は絶え間なく探求していくべきものです。その境界は限りなく広がっていきます。魂が進化するにつれて精神がそれに呼応していくからです」

「その魂の自由はどうすれば得られるのでしょうか」


「完全な自由というものは得られません。自由の度合は魂の成長度に呼応するものだからです。知識にも真理にも叡智にも成長にも限界というものがないことを悟れば、それだけ自由の度合が大きくなったことになります。心の中で間違いだと気づいたもの、理性が拒否するもの、知性が反発するものを潔(いさぎよ)く捨てることができれば、それだけ多くの自由を獲得したことになります。新しい光に照らして間違いであることが判ったものを恐れることなく捨てることができたら、それだけ自由になったことになります。それがおできになる方が果たして何人いることでしょう」

そう言われてメンバーの一人が、経済的な事情からそれが叶えられない人もいるのではないでしょうかという意見を出すと――


「それは違います。経済的事情は物的身体を束縛することはあっても、魂まで束縛することはできません。束縛しているのは経済的事情ではなくして、その人自身の精神です。その束縛から解放されるための叡智は、受け入れる用意さえあればいつでも得られるようになっております。しかしそれを手に入れるための旅は自分一人で出かけるしかないのです。

果てしない旅となることを覚悟しなければなりません。恐怖や危険も覚悟しなくてはなりません。道なき道を行くことになることも覚悟しなければなりません。しかも真理の導くところならどこへでも付いて行き、間違っていることは、それがいかに古くから大事にされているものであっても、潔く拒絶する用意ができていなければなりません」

祈り


ああ、真白き大霊よ。

あなたの愛の崇厳さ、あなたの叡智の無限性、あなたの真理とインスピレーションの豪華さはどう表現すればよろしいのでしょうか。あなたは全生命の大法則――宇宙に展開する大パノラマの中に顕現している極大の生命も、想像を絶する極微の生命も包摂する大摂理にあらせられます。

あなたの摂理は生命のあらゆる現象を通して絶対的に支配しております。摂理としてすべての存在の中に表現されており、何一つとしてあなたを離れては存在し得ぬのでございます。昇っては沈む太陽の美しさの中に、淡い月の光の中に、夜空に輝く星の光の中に、小鳥のさえずりの中に、風にそよぐ花や松の梢(こずえ)に、小川のせせらぎに、そして寄せては返す大海のうねりの中にあなたが存在したまうのでございます。

またあなたは稲妻の中にも雷鳴の中にもいらっしゃいます。上にも下にも内にも外にもいらっしゃいます。あなたは生命の大霊にあらせられ、すべての愛、すべての力、すべての現象があなたに包摂されているのでございます。

さて、あなたの道具としてあなたからのメッセージを託されたわたしたちは、今なお肉の宮に閉じ込められている子等があなたの霊性の領域を見出し、彼らもあなたの霊の一部にほかならぬこと、彼らの一人ひとりにあなたの分霊が吹き込まれている事実を認識せしむべく、あなたの真実の姿を説き明かしたく存じます。

ああ、大霊よ。

暗闇と混とん、不信と嫉妬心、猜疑心と争いに満ちたこの地上にあって、わたしたちは、あなたの啓示の水門が開かれて霊の威力が、あなたのメッセージを地上の全民族へもたらさんとしている善意と愛に満ちた同志に届けられ、人類が一国の利害を超えてお互いのために生きそして地上にあなたの御国を実現する、その理想へ一歩でも近づいてくれることを祈るものです。

願わくばあなたのインスピレーションを受ける通路(チャンネル)(霊媒・霊覚者)が俗信に捉われず俗物に汚されることなく、彼らを通じてあなたのメッセージがふんだんに流入して、ますます多くの子等があなたの真理のイルミネーションの中へ導かれんことを。

また願わくば子等が自分を包む霊力の何たるかをますます認識することになりますように。

願わくば子等が、これまでも彼らにインスピレーションと導きを授け、人に役立つ道を歩ませてきたあなたの強大なる威力(背後霊)の存在に気づき、内在するあなたの霊性を存分に発揮することになりますように。

Saturday, December 28, 2024

シアトルの冬 神と同胞と自己への責務

Responsibility to God, fellow man, and self


〔翌日、前回の通信に関連した長い入神談話があったあと、イムペレーターと名のる同じ霊がいつものレクターと名のる筆記者を使って、再び通信を送って来た。それが終わってから交霊会が開かれ、その通信の内容についての議論が交わされた。

その中で新たな教説が加えられ、私が出しておいた反論に対する論駁が為された。当時の私の立場から観ればその教説は、論敵から無神論的ないし悪魔的と言われても致し方ないように思われた。私なら少なくとも高教会派的①と呼びたいところである。そこで私はかなりの時間をかけてキリスト教の伝統的教説により近い見解を述べた。

 こうして始まった論争を紹介していくに当たって、当時の私の立場について少しばかり弁明しておく必要がある。私はプロテスタント教会の厳格な教理を教え込まれ、ギリシャ正教会およびローマ正教会の神学をよく読み、国教会の中でもアングリカン②と呼ばれる一派も、それまでに私が到達した結論に最も近い教義として受け入れられていた。

その強い信仰は自動書記通信によってある程度は改められていたが、本格的には国教会の教義を厳格に守る人、いわゆる高教会派の一人をもって任じていた。

 が、この頃からある強烈な霊的高揚を覚えるようになった。これに関してはこれから度々言及することになると思うが、その高揚された霊的状態の中で私は一人の威厳に満ちた霊の存在とその影響を強く意識するようになり、さらにそれが私の精神に働きかけて、ついには霊的再生とも言うべき思想的転換を惹き起こさせられるに至った。〕


 汝はわれらの教説を汝らの伝統的教説と相容れぬものとして反駁した。それに関して今少し述べるとしよう。
 そもそも魂の健全なる在り方を示す立場にある宗教は二つの側面をもつ。一つは神へ向かう側面であり、いま一つは同胞へ向けての側面である。ではわれらの説く神とは如何なる神か。

 われらは怒りと嫉妬に燃える暴君の如き神に代わりて愛の神を説く。名のみの愛ではない。行為と真理においても愛であり、働きにおいても愛を措いてほかの何ものでもない。最下等の創造物に対しても公正と優しさをもって臨む。

 われらの説く神は一片のおべっかも要らぬ。法を犯せるものを意地悪く懲らしめたり、罪の償いの代理人を要求したりする誤れる神の観念を拒否する。況や天国のどこかに鎮座して選ばれし者によるお世辞を聞き、地獄に落ち光と希望から永遠に隔絶されし霊の悶え苦しむさまを見ることを楽しみとする神など、絶対に説かぬ。

 われらの教義にはそのような擬人的神の観念の入る余地はない。その働きによってのみ知り得るわれらの神は、完全にして至純至誠であり、愛であり、残忍性や暴君性等の人間的悪徳とは無縁である。罪はそれ自らの中にトゲを含むが故に、人間の過ちを慈しみの目で眺め、且つその痛みを不変不易の摂理に則ったあらゆる手段を講じて和らげんとする。

光と愛の根源たる神! 秩序ある存在に不可欠の法則に則って顕現せる神! 恐怖の対象でなく、敬慕の対象である神! その神についてのわれわれの理解は到底汝らには理解し得ぬところであり、想像すら出来ぬであろう。

しかし神の姿を見た者は一人もおらぬ。覗き趣味的好奇心と度を越せる神秘性に包まれた思索によって、神についての人間の基本的概念を曖昧模糊(あいまいもこ)なるものとする形至上的詭弁も、またわれらは認めるわけには参らぬ。われらは真理を覗き見するが如き態度は取らぬ。

すでに汝に述べた神の概念ですら(神学より)雄大にして高潔であり、かつ崇高である。それより更に深き概念は、告げるべき時期の到来を待とう。汝も待つがよい。

 次に、神とその創造物との関係について述べるが、ここにおいてもまたわれらは、長き年月に亙って真理のまわりに付着せる人間的発想による不純物の多くをまず取り除かねばならぬ。神によって特に選ばれし数少なき寵愛者───そのようなものはわれらは知らぬ。選ばれし者の名に真に値するのは、己の存在を律する神の摂理に従いて自らを自らの努力によりて救う者のことである。

 盲目的信仰ないしは軽信仰がいささかでも効力を示した例をわれらは知らぬ。ケチ臭き猜疑心に捉われぬ霊の理解力に基づける信頼心ならば、われらはその効力を大いに認める。それは神の御心に副うものだからであり、したがって天使の援助を引き寄せよう。

が、かの実に破壊的なる教義、すなわち神学的ドグマを信じ同意すれば過ちが跡形もなく消される───生涯に亙る悪徳と怠惰の数々もきれいに拭い去られる───わずか一つの信仰、一つの考え、一つの思いつき、一つの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われらは断固として否定し且つ告発するものである。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ぬ。

 またわれらは一つの信仰を絶対唯一と決め込み他の全てを否定せんとする態度にも、一顧の価値だに認めぬ。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねる。いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。

汝らは気付くまいが、一個の人間を特殊なる信仰へ傾倒させていく地上的環境がわれらには手に取るように判る。それはそれなりに価値があることをわれらは認める。優れたる天使の中にさえ、かつては誤れる教義のもとに地上生活を送る者が数多くいることを知っている。

われらが敬意を払う人間とは、たとえ信じる教義が真理より大きく外れていても、真理の探求において真摯なる人間である。人間が喜ぶ枝葉末節の下らぬ議論には、われらは関知せぬ。汝らの神学を色濃く特徴づけているところの、理性的理解を超越せる神秘への覗き趣味には、われらは思わずあとずさりさせられる。われらの説く神学は極めて単純であり、理性的理解のいくものにかぎられる。

単なる空想には価値を求めぬ。派閥主義にも興味はない。徒(いたずら)に怨恨と悪意と敵意と意地悪の感情を煽るのみだからである。

 われらは宗教なるものを、われらにとっても汝らにとっても、より単純な形で関わるものとして説く。修行場として地上生活の中に置かれた人間──われらと同じく永遠不滅の霊であるが──は果たすべき単純なる義務が与えられ、それを果たすことによって一層高度な進歩的仕事への準備を整える。

その間、不変の摂理によって支配される。その摂理は、もし犯せば不幸と損失をもたらし、もし遵守すれば進歩と充足感を与えてくれる。

 同時に人間は、曾て地上生活を送れる霊の指導を受ける。その霊たちは人間を指導監督すべき任務を帯びている。ただしその指導に従うか否かは人間の自由意思に任せられる。人間には善意の判断を下す基準が先天的に具わっており、その判断に忠実に従い、迷うことさえなければ、必ずや真理の道へと導いてくれはずのものである。

善悪の判断を誤り背後霊の指導を拒絶した時、そこには退歩と堕落があるのみである。進歩が阻止され、喜びの代わり惨めさを味わう。罪悪そのものが罰するのである。
</address>
正しき行為の選択には背後霊の指示もあるが、本来は霊的本能によりて知ることが出来るものである。為すべきことを為していれば進歩と幸福が訪れる。魂が成長し完成へ向けてより新しく、より充実せる視野が開け、喜びと安らぎをもたらす。

 地上生活は生命の旅路の一過程に過ぎぬ。しかし、その間の行為と結果は死後にもなお影響を残す。故意に犯せる罪は厳しく裁かれ、悲しみと恥辱の中に償わねばならぬ。


 一方善行の結果もまた死後に引き継がれ、霊界にてその清き霊を先導し高級霊の指導教化を受け易くする。

 生命は一つにして不可分のものである。ひたすらに進歩向上の道を歩むという点において一つであり、永遠にして不易の法則の支配下にある点においても一つである。誰一人として特別の恩寵には与(あずか)れぬ。

また誰一人として不可抗力の過ちのために無慈悲なる懲罰を受けることもない。永遠なる公正は永遠なる愛と相関関係にある。ただし〝お情け〟は神的属性ではない。そのようなものは不要である。何となれば、お情けは必然的に刑罰の赦免を意味し、それは罪障を自ら償える時以外には絶対に有り得ぬことだからである。哀れみは神の属性であり、情けは人間の属性である。

 徒に沈思黙考に耽り、人間としての義務を疎かにする病的信仰は、われらは是認するわけにはいかぬ。そのような生活によって神の栄光はいささかも高められぬことを知るからである。われらは仕事と祈りと崇拝の宗教を説く。

神と同胞と己れ自身(の魂と身体)への義務を説く。神学的虚構をいじくり回すことは、無明の暗闇の中にてあがく愚か者に任せる。われらが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次の如く要約できよう。


父なる神を崇め敬う(崇拝)・・・・・・神への義務
同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)・・・・・・隣人への義務

 


身体を大切にする(肉体的養成)
知識の獲得に努力する(知的進歩)
より深き真理を求める(霊的開発)
良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)
祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊
的修養) 自己への義務








 以上の中に地上の人間としての在るべき大凡(おおよそ)の姿が示されておる。いかなる教派にも偏ってはならぬ。理性の容認できぬ訓えに盲目的に従ってはならぬ。一時期にしか通用せぬ特殊な通信を無批判に信じてはならぬ。神の啓示は常に進歩的であり、いかなる時代によっても、いかなる民族によっても独占されるものではない。神の啓示は一度たりとも〝終わった〟ことはないのである。

その昔シナイ山にて啓示を垂れた如く③、今なお神は啓示を送り続けておられる。人間の理解力に応じてより進歩的啓示を送ることを神は決してお止めにならぬ。

 またこれも今の汝には得心しかねることであろうが、全ての啓示は人間を通路としてもたらされる。故に多かれ少なかれ、人間的誤謬によって着色されることを免れないのである。いかなる啓示も絶対ということは有り得ぬ。

信頼性の証は合理的根拠の有無以外には求められぬ。故に新たなる啓示が過去の一時期に得られた啓示と一致せぬからとて、それは必ずしも真実性を疑う根拠にはならないのである。いずれもそれなりに真実なのである。ただその適用の対象を異にするのみなのである。正しき理性的判断よりほかに勝手な判断の基準を設けてはならぬ。

啓示をよく検討し、もし理性的に得心が行けば受け入れ、得心が行かぬ時は神の名においてそれを捨て去るがよい。そして、あくまで汝の心が得心し、進歩をもたらしてくれると信じるものに縋(すが)るがよい。いずれ時が来れば、われらの述べたことが多くの人々によってその価値を認められることになろう。われらは根気よくその時節を待とう。

そして同時に、汝と共に、神が人種の隔てなく真理を求むる者すべてに、より高くより進歩的なる知識と、より豊かにして充実せる真理への洞察力を授け給わらんことを祈るものである。

 神のお恵みの多からんことを!


〔註〕

High Church 英国国教会内部の一派で、教会という組織の権威、支配、儀式等を重んじる。
Anglican カトリックとプロテスタントの両要素をもちながら、どちらにも偏らない要素を備えた一派で、総体的には高教会派的。
モーセの十戒。
(1)
(2)

(3)



 

シアトルの冬 ああ、真白き大霊よ

 Oh, Great Spirit of True White!



  1. シルバーバーチの霊訓―スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ




最近ではシルバーバーチの交霊会の様子がカセットテープに録音され、世界中の数え切れない人々によって愛聴されているが、古くさかのぼると、かつては蓄音機用に何枚か吹き込まれたこともあったのである(*今では廃盤となっている)。

最初のレコーディングはできぐあいから言うと失敗だった。マイクの位置が遠すぎたためであるが、シルバーバーチは一言も文句を言わないどころか、ではもう一枚いきましょうと言った。最初のは身内を失った人たちへの慰めのメッセージだったが、「こんどは何にしましょうか」とシルバーバーチの方から言うので、司会のスワッファーが「“新しい時代”について述べられては?」と提案した。

するとシルバーバーチは一瞬のためらいもなく「では始めます」と言って、合図とともに語り始めた。そして、ぎりぎりの時間内で終わった。残念ながらそのレコードはもう手に入らない。

こうしてその日は全部で四枚の録音を行った。祈りが二枚とメッセージが二枚だった。なんと、その四枚とも一秒の違いもない、同じ長さだった。

録音の要領は、スタートを知らせるために列席者の一人が一から九まで数えて、十のところで係の者がスイッチを入れ、それと同時にシルバーバーチが語り始め、終わる三十秒前に霊媒の身体に手を触れる。するとピッタリ最後の一秒のところで終わった。霊界でリハーサルをしてきたわけではないとのことだった。

では当日の録音の中身を紹介しよう。


「まず初めに生命の大霊に祈りを捧げます。

王の中の王、造化の大霊、完全なる摂理の背後の無限なる知性にあらせられるあなた――あなたは全知にして全能なる存在におわします。あなたは無始無終に存在したまいます。なぜなら、あなたの霊は全宇宙に満ち、すべてがあなたの反映だからでございます。

しかし同時にあなたの神性はおのれを人のために役立てんと努める者の人生の中にも示されております。なぜなら、そこにあなたの神性が本来の表現の場を見出し、発現すればするほど既得の権力、憎悪、残虐、迷信、そして無知と闘うことになるからでございます。

わたしたちは完全なる愛と叡智の権化にあらせられるあなたに敬虔なる讃仰の気持ちを捧げ、あなたを荘厳なる存在そのままに啓示せんと努めているところでございます。これまで幾世紀にもわたってあなたは、直観力と洞察力とをそなえた少数の者を例外として、人類によって誤解されてまいられたからでございます。

あなたは復讐心を燃やす嫉妬ぶかい暴君ではございませぬ。あなたは全生命の大霊にあらせられます。なぜなら、あなたの霊は全宇宙のすべての子らに宿りたまい、永遠にあなたと結びついているからでございます。あなたの霊ありてこそ子らの存在があるのでございます。あなたの霊ありてこそ子らは死の彼方の世界にも存在し続けるのでございます」

この祈りの長さは三分だった。二分半が経過し、レコードはあと三十秒しかないという時点での印象では、まだ半分しか終わっていないような雰囲気だった。が、ぴったり最後の一秒で終わった。

では次に、録音としては失敗に終わった、身内の人を失った人たちへの慰めのメッセージを紹介しよう。


「皆さんからシルバーバーチと呼ばれている霊から、死によって愛する人を永遠に奪われたと信じて嘆き悲しみ、目に涙を浮かべておられる人たちへ、慰めのメッセージを贈りましょう。

自ら死を体験したのち三千年の霊界生活を体験してきたこのわたしから是非とも申し上げたいのは、死は愛する者どうしを裂くことは絶対にできないということです。愛はすべての障害を打ち砕きます。愛は必ずやその愛する相手を見つけ出すということです。

愛する人がこの残虐と誤解と無知の世界から、内部の神性がより豊かに発現される世界へと連れて行かれたことを泣いて悲しむのはお止めなさい。神があなたの庭から一本の花を抜き取って神の庭へ植え代えられたことを悲しんではなりません。その庭で、あらゆる制約と束縛とから解放されて、内在する香りをより多く放つことになるのです。

死も生命の法則の一環であることを理解してください。生と死はともに大霊のものであり、ともに大霊の摂理を教えるために使用されているのです。涙をお拭きなさい。悲しむのは間違いです。なぜなら、愛する人は今もなおあなたの身近にいらっしゃるのです。死は愛を滅ぼすことはできないのです。大霊が永遠であるごとく愛も永遠なのです」

終わると係の者が

「今のをお聞きになってみられますか。一度だけなら傷つけずにおかけできますよ」と言うとシルバーバーチが――


「せっかくならこの霊媒が入神から覚めてからにしましょう。彼にも聞かせてやりたいですから……」と言った。

が、係の者は「二度かけても大丈夫ですよ」と言ってさっそくかけてみると、音声が低すぎてうまく録音されていないことがわかった。

マイクの位置が遠すぎたためだった。

係の者が「もう一度同じものをお述べになることができますか」と聞くと――


「いえ、それはできません。でも別のものならすぐに始められますよ」と言うので、さっそく次の録音に取りかかった。それは次のような祈りだった。


「真白き大霊に祈りを捧げます。

ああ、大霊よ。

聖なる創造主、王の中の王、全生命の背後の無限なる知性にあらせられるあなたを、わたしたちは在るがままのお姿、すなわち完全なる摂理として説き明かさんとしております。

あなたは幾世紀にもわたって誤解され、誤って崇拝されてまいりました。ある人種はあなたのことを残忍にして血に飢え、復讐をたくらみ、嫉妬ぶかく、自分への忠誠を誓う者のみを愛する神として崇めてまいりました。そして彼らはその神罰に恐れおののきつつあなたへ近づいておりました。

わたしたちはあなたを完全なる愛と叡智の権化として啓示いたします。それが完全なる摂理の働きを通して顕現しているのです。その摂理の中に、子等が生命の充実感と豊かさと限りない恩寵を見出すようにとの、あなたの深遠なる配慮がなされているのでございます。

わたしたちの望みはその摂理を地上へもたらし、それによって善意の子等がいっそうの努力と奉仕に励み、地上世界からあらゆる不平等と不正、あなたの王国の地上への実現を阻むものすべてをなくすことです。その目的へ向かってわたしたちは祈り、そして奮励いたします」

これでA面が終わり、続いてB面を始めたところ、シルバーバーチには珍しく発音を間違えるというハプニングが起きた。surface(サーフィス)というべきところをservice(サービス)と言ってしまったのである。


「失敗しました」

シルバーバーチはそう言って、新しいレコードに替えてもらった。用意ができるとすぐに語り始めた。


「地上世界が暗黒に満ち、恐怖心が多くの人間の心を支配し、導きと慰めをいずこに求めるべきかに迷っている今、より高き界層に住み物質の境界を超えて見通すことのできるわたしたちは、自信をもって皆さん方に“万事うまく行っております”と申し上げます。

皆さんは新しい秩序の誕生を今まさに目撃しておられるのです。辺りをご覧になれば、利己主義と物質偏重と貪欲と強欲と残酷の上に築かれた古い世界が滅亡しつつあるのが分かります。スピリチュアリストをもって任じておられる皆さんは、大いなる真理の管理人でいらっしゃいます。前哨地を守る番兵として新しい時代の構築に協力してくださっているのです。

ご自分のことを戦(いくさ)の中の戦に参戦している大霊の兵士とお考えください。悲劇と混乱と破綻とをもたらした無知という暗黒の勢力を撃破するための仕事を支援なさっているのです。

子等が大霊の用意されている恩寵を心ゆくまで満喫できる新しい世界の構築に、皆さんも参加しておられるのです」

Friday, December 27, 2024

シアトルの冬 ダービーによる悪影響

Adverse Effects of the Derby



〔この頃ホーム氏①と会った。その日はたまたまダービーの日で、ホーム氏を通じて、ダービーのために霊的状態が悪く、仕事にならないと言ってきた。そこで翌日(五月二十九日)その点を質してみたところ、いろんなことを述べたあと次のように書いた。〕


 そうした催しは道徳的雰囲気を乱し、われらを近づき難くする。そこにはわれらに敵対心をもつ邪霊が集結し、物欲を満たさんとして集まれる人間に取り入る隙を窺うのである。昨日はそうした物欲に燃える者が大挙して集結した。

邪霊たちにとって彼らは格好の標的である。アルコールが入り、野獣の如く肉欲に燃える者。大金を当てにして興奮する者。その当てが外れて絶望の淵に落とされる者、等々がいる。邪霊の誘いにもっとも乗り易い者はこの最後に挙げた人種である。

たとえそこまで落ち込まぬとしても、道徳的感覚が狂い、感情を抑え邪霊からの攻撃の盾となるべき冷静さと心の平衡が崩れ、つけ入る隙を与えることになる。絶対的悪とまでは行かぬが、自制心を失い狂乱状態に陥れる精神が攻撃の恰好の条件を用意することになる。

こうしたものは須(すべか)らく避けねばならぬ。そうした心は霊的悪影響、未熟にして有難からぬ邪霊にまんまんと罹り易い。興奮のあまり節度と理性を失える精神にはくれぐれも用心されたい。

 以上の如き理由のため、汝が質せるような日は善の使者の努力が最も要請されることになる。総攻撃をしかけんとして集結せる邪悪な未熟霊の計画を不首尾に終わらせんがためである。


──しかし、そうなると全ての祝日もいけないことになりませんか。

 必ずしもそうではない。祝日の雰囲気が感情の手綱(たずな)をゆるめさせ、喉を焼くアルコールと、欲情の満足と、霊を忘れた振る舞いに追いやることになれば、その祭日は許し難きものといえよう。手綱を奪われた肉体が霊の思うがままの支配下に置かれることになるからである。

 しかし祝日が身体に休息を与え、魂に憩のひと時を与えることになれば、話はまた別である。過労によって疲弊し身体が心地よき適度な休息によって生気を回復するであろう。毎日の気苦労と煩事に悩み苦しめられている精神も、適度な娯楽に興じることによって緊張がほぐれ、しばし煩わしさを忘れることになろう。

そうした心地よき気分転換がむしろ精神を引き締め、刺激することになるのである。そうしているうちに穏やかな静けさが魂を支配し、それが何にもまして天使の温かき支配を容易にする。かくして天界の使者の威力が強化され、いかに強力なる悪霊の計画も効を奏さぬこととなる。

祝日を人間の堕落の日とせぬためには、汝らが善霊の働きと汝らの義務についての認識を深めねばならぬ。暴動と放蕩、肉欲とギャンブル、邪念と絶望しか生まぬ祝日はわれらにとり少しも祝うべき日どころではなく、恐るべき日であり、警戒と祈りを忘れぬ日である。

 神よ、無文別なる愚行に耽る理由なき魂を救い、守り給わんことを!


〔そのころ催した実験会がどうやらいい加減な現象によって邪魔されていたらしく、通信霊の心霊写真を撮ろうとした試みも失敗に終わった。写っていた霊は自らはレクターだと名のったが、友人の判断でわれわれとは何の係りもない、いい加減な霊で、出席者の誰も知らないことが判った。私は何か通信を得たいと思って机に向かったが、一向にまともな通信が得られないので、やむなく諦めた。

 その翌日いつもの受け身的な精神状態を取り戻した。すると、こちらから求めないうちに向こうから(ドクターが)通信を送ってきた。私は前日の実験会のことに言及して、あのような場合われわれの方で為すべきことはどんなことか尋ねた。〕



 








 レクターは汝の混乱した精神状態のために、通信を送ることが出来なかった。汝の混乱は実験会でのエネルギーの負担が大きすぎる所為(せい)である。あの実験会での霊言は全く当てにならぬ。汝の精神状態は異常なほど反抗的であった。

写真に写った人物をレクターと思ったらしいが、レクターはあの種の現象には不慣れなので、汝の度の過ぎた興奮が今述べた精神状態と相まって通信を不可能にしている事実までは彼自身も気づいておらぬ。

あのような精神状態を感じた時は、いかなる話題についても通信を求めてはならぬ。そのような時に得た通信は当てにならず、不完全であり、往々にして危険でもある。



〔私の当惑は大きかった。そこであのような現象を度々見せられては私のささやかな信念がすっかり失われてしまうと不平を述べた。それまでは一度も体験したことがなかったからである。すると──〕

 


  
 汝はこれまで、われらのうちの誰かが付き添い、注意と保護を与え得る時以外は、あのような実験会には出席していない。昨日の実験会には物質的成分を操る霊しかいなかった。その結果あのような混乱となったのである。

あの時も前もって注意を与えたが、ここで改めて警告しておく。あの時の汝の反抗的精神状態では到底レクターには支配できぬ。汝の興奮状態が通信を不可能にしたのである。


〔それ以来私は身体の調子が悪い時や、どこかに痛みのある時、あるいは精神的な悩みや心配事のある時、さらにまた、そうした人が近くにいる時や、混乱を来しそうな雰囲気の中にいる時は、絶対に自動書記をしないように慎重を期した。

その所為だと私は思うのであるが、その後の通信は実に規則正しく、且つ落ち着いた感じを与える。大体において筆致は驚くほど流暢で、書かれたノートを見ても一カ所の削除も訂正も見当たらない。内容の論調も全然ムラがなく一貫している。〕











 可能なかぎり精神を受け身に、霊性に保つことである。仕事で過労ぎみの時、心配事で気分が苛立っている時、あるいは滅入りたる時、こうした時はわれらとの交信を求めてはならぬ。交霊会に新たなメンバーを加えてはならぬ。

調子を狂わせ、妨げにしかならぬ。余計な干渉をせず、すべてを任せて欲しい。メンバーの構成について変更すべきところはわれらから助言するであろう。会合する部屋を変更せぬように。そして出来るだけ受容性に富める心構えと健康体をもって出席してもらいたい。


──確かに、一日中身体と頭を働かせたあとは条件としてよくないとは思いますが、日曜日はさらに良くないように見受けます。

 日曜日はわれらにとっても好ましくない。なんとなれば、汝の心身から緊張が消え失せ、魂が行動する意欲を失い、休息を求めんとするために、われらの働きかけに反応しなくなるのである。こうなると、われらは汝に新たな現象を試みることに恐れを感じる。汝への危険を恐れて物理的実験を手控えるのである。

 理由はそれのみに限らぬ。物理現象はわれらの本来の目的ではなく、補助的なものに過ぎぬからでもある。これまで述べてきたわれらの使命の証として見せているのであり、それのみに安住してもらっては困る。

 日曜が好ましからぬ特殊な事情がもう一つある。汝らは気づかぬであろうが、平日と条件が変わることによってわれらが被る困難である。前にも述べたことであるが、食事のすぐあとに交霊会に臨むことは好ましくない。

われらが求める身体的条件は、受動性と反応の敏速性である。その受容性も、怠惰と無気力から生じるものであってはならぬ。アルコール類と共に腹一杯食した後の、あの眠気と無気力状態ほど交霊にとって危険なものはない。アルコールの飲用が物理現象を促す場合もなきにしもあらずであるが、われらにとっては障害でしかない。

より物質的に富める霊の侵入を許し、われらの霊力が妨害されるのである。これまでもそうした妨害を頻繁に受けて参った。汝はその点をよく考慮し、われらとの交信を求めるに際しては、何事につけ度を過ごさぬよう注意を払うがよい。

身体が刺激物でほてり、食べ過ぎで倦怠感を覚えるようであってはならぬ。精神が眠気を催し、不活発となるのも良くない。いずれの状態もわれらにとっては思うように仕事が出来ぬ。状態そのものが醸(かも)し出す影響力がわれらにも及び、われらのエネルギーを大いに阻害する。出席者の中に一人でもそうしたメンバーがいる時、もしくは身体を病み苦しむ者がいても、われらには如何ともし難き状態が発生するのである。


──しかし栄養不足による虚弱な心身では仕事にならぬと思いますが。

 われらは節制を説いているまでである。食事によって体力をつけねばならぬが、食したものが消化するまでは交霊に入ってはならぬ。日常の仕事のためには適度に刺激物を摂ることも必要であるが、それも常に用心して摂取すべきであり、まして、われらとの交霊は先に述べた条件を厳守した上でなければ絶対に始めてはならぬ。

心また身体が眠気を覚えたり注意を持続できぬような時、もしくはどこかを病んでいたり痛みを感じている時は、こちらからの指示がないかぎり机に向かってはならぬ。同じく、満腹している時は低級霊の活動が優勢となることが予想され、われらには近づけぬ。

そのような条件のもとでは物理現象も質が低下し、粗暴となり、好条件のもとで行われる時の如き品の良き美しき現象は望めぬ。

 われらにとっては極端が困るのである。断食で衰弱しきった身体ではもとより仕事にならぬが、飽食によって動けぬほど詰め込まれたる身体もまた用を為さぬ。節制と中庸、これである。友よ、汝らが少しでもわれらの仕事をやり易くし、最良の成果を望むのであれば、交霊会には是非とも感覚明晰にして鋭敏なる身体と、柔軟にして受容性に富める精神状態にて臨んでもらいたい。

そうすれば汝らの期待以上のものが披露できよう。列席者全員が調和し構成が適切であれば現象は一層上質となり、述べられる教訓も一層垢抜けし、信頼性に富むものとなろう。

先に汝の言及せる光──〔当時よく交霊会で無数の燐光性の発光体が見られた。〕あれも好ましき条件のもとでは淡く澄み曇りが見られぬ。好ましからぬ条件の時は、鈍く薄汚く曇って見えるであろう。


〔しばしば交霊会に出現していた夫婦の霊が、別の仕事の境涯へ向上して行ったと聞いていたので、夫婦の絆は永遠のものかどうかを尋ねた。〕

 それはひとえに霊的嗜好の類似性と霊格の同等性による。その両者が揃えば二者は相寄り添いて向上できる。われらの世界には共通の嗜好をもつ者、同等の霊格をもち互いに援助し合える者同士の交わりがあるのみである。われらの生活においては魂の教育が全てに優先し、刻一刻と進化している。同質でなければ協同体は構成されぬ。

したがって当然互いの進化にとって利益にならぬ同士の結びつきは長続きせぬ。地上生活において徒らに魂を傷つけ合い、向上を妨げるのみであった夫婦の絆は、肉体の死と共に終わりを告げる。

逆に互いに支え合い援助し合う関係にあった結びつきは、肉体より解放されたのちも、さらにその絆を強め発展していく。そして二人を結ぶ愛の絆が互いの発達を促す。かくの如く両者の関係が永続するのは、それが地上で結ばれた縁であるからというのではなく、相性の良さゆえに、互いが互いの魂の教育に資するからである。

かくの如き結婚の絆は不滅である。ただしその絆は親友同士の関係程度の意味である。それが互いの援助と進化によって一層強化されていく。

そして互いに資するところがあるかぎり、その関係は維持されていく。やがてもはや互いに資するものがなくなる時期が到来すると、両者は分かれてそれぞれの道を歩み始める。そこにはなんの悲しみもない。なぜなら相変わらず心を通じ合い、霊的利益を分かち合う仲だからである。

もしも地上的縁が絶対永遠のものであるとすれば、それは悲劇までも永遠であることを意味し、向上進化が永遠に妨げられることになる。そのような愚行は何ものにも許されていない。


──それは分かります。しかし私の観たかぎりでは、知的にも道徳的にも同等とは思えない者同士が互いに深く愛し合っているケースがあるように思えるのですが。

 愛し合う者同士を引き裂くことは絶対に出来ぬ。汝らはとかくわれら霊同士の関係を時間と空間の観念にて理解せんとするが故に納得がいかぬのである。霊同士は汝らの言う空間的に遠く離れていても親密に結び合うことが出来るということが理解できぬであろう。

われらには時間も空間も存在せぬ、われらは知性の発達程度が完全に同一でない限り直接の交流は有り得ぬ。それはわれらには全くあり得ぬことなのである。が、たとえわれらの言う同一の発達程度まで到達していなくても、真実の愛があれば、その絆によって結ばれることは可能である。

愛は距離をいかに隔てても霊同士を強く結びつける。それは地上に置いても見られることである。離ればなれになった兄弟も、たとえ海を隔てて、別れて何年経ようとも、兄弟愛はいささかも失われぬ。求めるものは異なるかも知れぬ。

物の考え方も違うであろう。が共通の愛は不変である。夫に虐待され死ぬ思いに耐えつつ、なおその夫を愛し続ける妻もいる。

 肉体の死は妻をその虐待の苦しみから救ってくれる。そして天国へと召される。一方地上の夫はさらに地獄の道を下り続けるであろう。が、たとえ二人二度と結ばれることはなくとも、夫への妻の愛は不滅である。その愛の前に空間は消え失せるのである。

われらにとっても空間は存在せぬ。これで汝も朧気(おぼろげ)ながらも理解が行くことと思うが、われらにとっての結合関係とは発達程度の同一性と、嗜好の共通性と、進化の協調性を意味するのであり、汝らの世界の如き一体不離の関係などというものは存在せぬ。


──では聖書の「天国では嫁を貰うとか嫁にやるとかいうことはなく、すべて神の使いとして暮らすのみである」という言葉は真実ですか。

 その言葉どおりである。先にわれらは進歩の法則と交わりの法則について述べたが、その法則は不変である。現在の汝にとって立派と思えることも、肉体の死とともに捨ててしまうであろうことが数多くある。地上という環境が汝の考えを色づけしているのである。

よってわれらとしても、比喩を用い、地上的表現を借りて説明せざるを得ぬことが多々ある。それ故われらの世界にのみ存在して汝らの世界に存在せず、現在の汝の知識を超越し、従って地上の言語によって大凡のことを伝えるほかなき事情のもとで用いた字句にあまりこだわりすぎてはならぬわけである。


──なるほど。それで霊界通信に食い違いが生じることがあるわけですか・・・・・・

 そうした食い違いは通信を送る霊の無知から生ずる場合、それから霊媒を通じて伝える能力に欠けている場合、さらにまたその時の交霊の状態が完全さを欠く場合などによく生ずる。他にも原因はある。その一つが、人間側が単なる好奇心から下らぬ質問をするために、つい霊の方も人間の程度に合わせて下らぬ返答をしてしまう場合である。


──しかし高級霊ならば〝愚か者の愚かな質問に答える〟ことをせずに、その質問者を諭せばいいでしょう。

 無論出来ることならそうしたい。しかし愚かしき精神構造はそうした配慮を受けつけようとせぬものである。類は類を呼ぶ。一時の気まぐれや愚かな好奇心の満足、あるいはわれらを罠にはめんとする魂胆からしか質問せぬ者は、同程度の霊と感応してしまう。

そのような心構えではわれらとの交信は得られぬ。敬虔にして真摯なる精神ならば、その受容性に応じた情報と教訓を自ら引き寄せる。

自惚れが強く、軽薄で、無知で、ふざけた質問しかせぬ者は、似たような類の霊しか相手にせぬ。もとよりわれらは相手にせず、たとえ相手にしても、適当にあしらっておく。そうした連中は避けるがよい。下らぬ愚か者ばかりである。


〔註〕

 D・D・Home (1833~1886)心霊史上最大・最高と評される英国の霊媒で、霊能の種類においても驚異性においても他に類を見ない。とくに空中浮揚現象は有名で、いつでもどこでもやってみせた。
(1)



 注ーと世界心霊法典Ⅰ℘72に載っているが、DDホームは米国出身で後に英国、ヨーロッパへ渡り、話題は空中浮遊。一切の金銭をいただかず全て無料に徹した。──