Tuesday, January 21, 2025

シアトルの冬 幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものです

After infancy, childish toys are put away


『地上人類への最高の福音』表紙

原書 The Seed of Truth
著者 トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



生誕後はや二千年もたった今日でさえ、イエスなる人物の正しい位置づけが、スピリチュアリズムにおいても時おり論議の的となる。ある者はイエスも一人間だった――ただ並はずれた心霊的能力を持ち、それを自在に使いこなした勝れた霊覚者だったと主張するし、またある者は、やはりイエスは唯一の“神の子”だったのだと主張する。

当然のことながら、毎回ほぼ一時間半も続いたシルバーバーチの交霊会においても、たびたびその問題ならびに、それに付随した重大な問題が提出されてきた。出席者は異口(いく)同音に、その一時間半があっという間に過ぎた感じがするのが常だったと言う。

さて、そんなある日の交霊会で、一牧師からの投書による質問が披露された。“シルバーバーチ霊はイエスを宇宙機構の中でどう位置づけておられるのでしょうか。また〈人間イエス〉と〈イエス・キリスト〉とは、どこがどう違うのでしょうか”というのがそれである。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「ナザレのイエスは、地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜(※)の、最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて、霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。


※――メルキゼデク→モーセ→エリヤ→エリシャ→イエスという系譜のことを言っているのであるが、こうした霊的系譜は各民族にある。ただ、世界的視野でみた時、イエスが地上人類としては最大・最高の霊格と霊力をそなえていたことは間違いない事実のようで、モーゼスの『霊訓』の中でもインペレーター霊がまったく同じことを述ベている。今スピリチュアリズムの名のもとに繰り広げられている地球浄化と真理普及の運動は、民族の別を超え、そのイエスを最高指導霊とした、世界的規模で組織された霊団によるものである。

イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と少しも変わらない一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質界へやってきて、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが大量に流入したことは、前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦(が)れきの下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

そのために彼は、まず自分へ注意を引くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して、心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。偉かったのは、それを一度たりとも私的利益のために使わなかったことです。

またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も、廃止も、干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を引くようになると、こんどは、人間が地球上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊覚者が説いてきたのと同じ、単純で、永遠に不変で、基本的な霊的真理を説くことを開始したのです。

それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する正しい記録はきわめて乏しいのですが、その乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くの、ありもしないことが書き加えられています。したがって聖書に書かれていることには、マユツバものが多いということです。できすぎた話はみな割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから……。

もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後さらに開発され威力を増した霊力を駆使して、愛する地上人類のために働いておられるのです。イエスは“神”ではありません。全生命を創造し人類に神性を賦与した、宇宙の大霊そのものではありません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、“イエス”と“神”とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にひざを折り、平身低頭して仕える必要はないのです。それよりも、イエスの生き方を自分の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。

以上、大変大きな問題について、ほんの概略を申し上げてみました」

メンバーの一人「“キリストの霊” Christ Spiritとは何でしょうか」


「ただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを誇示するために、聖なる油を注がれた時代がありました。それは大抵王家の生まれの者でした。“キリスト”という言葉は“聖油を注がれた”という意味です。それだけのことです。(※)」


※――イエスの死後、イエスこそそれに相応しい人物だったという信仰が生まれ、それでJesus Christと呼ばれるようになり、それがいつしか固有名詞化していった。

「イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったというのが、私には理解できません」


「わたしは決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。わたしが申し上げたのは、地上へ降りた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊覚者の系譜の中で、イエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。イエスの生活が完全だったとは一度も言っておりません。それはあり得ないことです。なぜなら、彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」

「イエスの教えは最高であると思われますか」


「不幸にして、イエスの教えはその多くが汚されております。わたしはイエスの教えが最高であるとは言っておりません。わたしが言いたいのは、説かれた教えの精髄(エッセンス)は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど強力に、そして純粋に心霊的法則を使いこなした例は、地上では空前絶後であるということです」

「イエスの教えがその時代の人間にとっては進みすぎていた――だから理解できなかった、という見方は正しいでしょうか」


「おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに、彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は、彼らにとって成功であることが時代的にみれば失敗であり、彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」


※――George Lansburyは一九三一年~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じて、ヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppardは生前キリスト教の牧師だったこと以外は不明。なおこの当時二人ともシルバーバーチ霊団のメンバーだったことは他の資料によって確認されている。

「イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の始原であると考えてよろしいでしょうか」


「それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは、霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し、かつそれを自在に使いこなすことができたからです。

ぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた愚行が多かったにもかかわらず、あれほどの短期間に全世界に広まり、そして今日まで生き延びてこれたのは、イエスの言動が常に霊力と調和していた(※)からだということです」


※――ここでは背後霊団との連絡が緊密だったという意味。『霊訓』のインペレーター霊によると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。地上生活中のイエスは早くからその事実に気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体で離脱し、その背後霊団と直接交わって、連絡を取り合っていたという。

かつてメソジスト派の牧師だった人が尋ねる――

「いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできませんか」


「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。教えそのものと、その教えを取り違え、しかもその熱烈な信仰によってかえってイエスを磔刑(はりつけ)にするような間違いを何度も犯している信奉者とを混同しないようにしないといけません。

イエスの生涯を見て、わたしはそこに物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完璧で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった――自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも、みずから課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的のために利用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

どうもうまく説明できないのですが、イエスも、生をうけた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味では完全ではあり得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派な、そして大きな仕事ができる時代が来るとイエス自身が述べている意味がなくなります。

イエスという人物を指さして“ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時は、これほどの仕事ができるのですよ”と言える、そういう人物だったと考えればよいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。しかもそのイエスは、わたしたちの世界においても今、わたしの知るかぎりでの最高の霊格をそなえた霊(※)であり、自分を映す鏡として、イエスに代わる霊はいないと考えております。


※――地球神界での話。『ベールの彼方の生活』では“各天体にキリストがいる”と述べられている。要するに神庁の最高位の霊のことで、イエスなる人物はそのすべてではないが直接の表現だったということであろう。

わたしがこうしてイエスについて語る時、わたしはいつも“イエス崇拝”を煽(あお)ることにならなければよいが、という懸念があります。それは、わたしがよく“指導霊崇拝”に警告を発しているのと同じ理由からです。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな、永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は、理性と常識と知性をもって行わないといけません。それは書物からでも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人がすすめるから、良いことを言ってるから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断規準です。

このわたしとて、無限の叡智の所有者などではありません。霊の世界のことを一手販売しているわけではありません。地上世界のための仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。完全であるとか、間違ったことは絶対に言わないなどとは申しません。みなさんと同様、わたしも至って人間的な存在です。ただ、みなさんよりは生命の道をほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が、わたしに少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしもわたしの言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線をわたしといっしょに眺めませんかと、お誘いしているわけです」

霊言の愛読者の一人から“スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して〈最後の晩餐〉の儀式を行うべきでしょうか”という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません。わたしにとっても何の益にもなりません。まったくなりません。霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛(じゅばく)から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

イエスに対する最大の貢献は、イエスを模範と仰ぐ人々が、その教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病に苦しむ人々を癒し、疑念と当惑に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人々すべてに手を差しのべてあげることです。

儀式よりも生活の方が大切です。宗教は儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。“聖なる書”と呼ばれている書物から、活字のすベてを抹消してもかまいません。讃美歌の本から“聖なる歌”をぜんぶ削除してもかまいません。儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に“宗教的人間”でありうるのです。そういう生活こそ、内部の霊性を正しく発揮させるからです。

わたしとしては、みなさんの関心を儀式ヘ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく、生活そのものです。生活の中で何を為すかです。どういう行いをするかです。〈最後の晩餐〉の儀式がイエスの時代よりさらに遠くさかのぼる由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」

別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて――


「人のためになることをする――これがいちばん大切です。わたしの意見は単純・明快です。宗教には“古い”ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関わりもないものばかりです。

わたしにとって宗教とは、何かを崇拝することではありません。祈ることでもありません。会議を開いて考え出した形式的セレモニーでもありません。わたしはセレモニーには興味はありません。それ自体はなくてはならないものではないからです。

しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事をなくてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、それを無理して止めさせる理由はありません。

わたし自身としては、幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との交渉、地上的障害を超越して、次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係――これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません」

祈り

あなたの目の前に人類は一つ……


これより皆さんとともに、可能なかぎりの最高のものを求めて、お祈りいたしましょう。

ああ、大霊よ、わたしどもは、あなたをあるがままの姿、広大なこの大宇宙機構の最高の創造主として、子等に説き明かさんとしております。あなたは、その宇宙の背後の無限の精神にあらせられます。あなたの愛が立案し、あなたの叡智が配剤し、あなたの摂理が経綸しているのでございます。

かくして、生命現象のあらゆる側面があなたの摂理の支配下にあります。この摂理は可能なかぎり、ありとあらゆる状況に備えたものであり、一つとして偶発の出来事というものは起きないのでございます。

あなたはこの宇宙に、あなたの神性の一部を宿した個的存在を無数に用意なさいました。その神性があればこそ、崇高なるものを発揮することができるのでございます。その神性を宿せばこそ、すべての人間はあなたと、そして他のすべての同胞と霊的につながっていることになるのでございます。民族の別、国家の別、肌の色も階級も教義も超えて、お互いに結ばれているのでございます。あなたの目の前に人類は一つなのです。

誰一人として忘れ去られることも見落とされることもございません。誰一人として無視されることも、あなたの愛が届かぬこともございません。孤独な思いに沈むのは、あなたの絶妙な摂理というものが存在し、心がけ一つで誰でもその恩恵にあずかることができることを知らぬからにほかなりません。

子等が霊の目と耳とを開きさえすれば、高級界からの美と叡智と豊かさとが、ふんだんに注がれるのでございます。その高級界こそが、すべてのインスピレーション、すべての啓示、すべての叡智、すべての知識、すべての愛の始原なのでございます。

わたしたちの使命は、子等に内部の神性と霊的本性に気づかせ、地上はいっときの仮住まいであって、永遠の住処(すみか)は霊界にあること、地上生活の目的は、そうした崇高なる霊的起原と誉れ高き宿命に恥じないだけの霊格を身につけることであることを理解せしめて、しかるべき導きを与えることでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Monday, January 20, 2025

シアトルの冬 霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活――これが最高の生き方です

A cultivated life based on the awareness of spiritual superiority - 
this is the best way to live!


「霊界にも組織的な反抗勢力の集団がいるのでしょうか」――この問いに対するシルバーバーチの答えの中で、スピリチュアリズムの敵は地上だけでなく、霊界にもいるという事実が明かされた。シルバーバーチはこう答えたのである。

「いるのです。それがわれわれにとって悩みのタネの一つなのです。組織的反抗といっても、聖書にあるような天界から追放された堕落天使の反乱の話を想像してはなりません。あれは象徴的に述べられたまでです。

残念ながら霊界にも真理と叡智と知識の普及をこころよく思わぬ低級霊の勢力がいるのです。そして、スキあらば影響力を行使して、それを阻止しようとするのです。こうした交霊会のほとんどすべてが、その危険下にあるといってよろしい。ただし、和気あいあいの交霊会――地上のメンバーとこちらの霊団との間の協調関係がしっくりいっているかぎり、彼らのつけ入るスキはありません。

彼らにとって最もつけ入りやすい条件は、交霊会のメンバーの間に意見の衝突があって、雰囲気が乱れている時です。この交霊会も当初はそうでしたが、次第に改善されていきました。


訳注――当初はバーバネル自身が入神させられることを嫌っており、メンバーも奥さんのシルビアのほかに心霊的知識のない知人が二、三人といった状態で、シルバーバーチも試行錯誤の連続だったようである。(*詳しくは『霊性進化の道しるべ』巻末のバーバネルの遺稿《シルバーバーチと私》を参照してください。)

霊媒を通して届けられるメッセージに矛盾が多いのは、そのせいです。一種の妨害行為のせいですから、常に警戒が必要です。霊能開発を一人でやるのが感心しないのも、そこに理由があります。たった一人では、支配霊も指導霊も、邪霊やイタズラ霊を排除しきれないからです。

霊界というところは、一度は地上で生活したことのある人間(霊)で構成されていると考えてよろしい(※)。決して聖なる天使ばかりがいるわけではありません。霊性の粗野なものから至純至高の高級霊にいたるまで、実にさまざまな霊格をそなえた、かつての人間のいる世界です。みんな地上世界から来た者です。ですから、地上世界のすべての人間が清潔で、無欲で、奉仕的精神で生きるようになるまでは、霊の世界にも厄介な者、面倒を見てやらねばならない者が何割かはいることになります。そういう次第なのです」


※――地球に霊界があるように各天体に霊界がある。当然、太陽にも霊界があり、太陽系全体としての霊界があり、銀河系星雲にも霊界がある。さらに何段階もの霊界があって、最後は宇宙全体の霊界があるのであろうが、そこまでいたると、もはやスペキュレーションの域に入る。地上人類にとっては太陽系が事実上の宇宙であり、シルバーバーチも宇宙とか森羅万象といった用語をその意味で用いている。ここでいう“霊界”も地球の霊界の話である。

レギュラーメンバーの一人「でも、せっかくの計画を台なしにするような厄介者を、あなたほどの方でも、どうにもならないのでしょうか」


「可能なかぎりの手は尽くします。しかし、その中には、わたしたちとの接触が取れない者が大勢いることを知ってください。関係が生じないのです。霊性が向上して受け入れる用意が整った時にはじめて、われわれの影響力に触れるようになるのです。

誤解のないようにお願いしたいのは、そうした反抗勢力は本来のわたしたち(上層界の霊)には何の害も及ぼせないということです。彼らの勢力範囲は地上界にかぎられています。霊的状態が地上的波動に合うからです。

ですから、彼らが厄介な存在となるのは、わたしたちが波動を下げて地上圏へ近づいた時です。つまり低級勢力が幅をきかしている境涯へ足を踏み入れた時に問題が生じているだけです」

「この地上世界ですと、面倒ばかり起こしている者がいると、何とか手段を講じて更生させようとしますが、そちらではそういうわけにはいかないのですね?」


「それは、たとえば逮捕して、場合によっては死刑に処するということでしょうが、そういう手段では、こちらの世界へツケを回すようなものです」

「でも、場合によっては過ちを悟らせることによって立派に更生させることができます」


「それが思うようにならない場合もあるのではありませんか」

ここで別のメンバーが「懲役という方法もありますが、これだけでは精神の歪みを正し非行を改めさせることはできません。服役はどうやら矯正手段ではなさそうです。それによって心を入れかえさせることに成功するのは、きわめて稀です」と言うと、シルバーバーチが――


「実は地上世界では、そうした非行の元凶を突き止めるのが容易でないのです。自分はうまくすり抜けておいて、罪を他人におっかぶせることができるわけです。

が、こちらではそうは行きません。霊性の進化に応じた界層にしか住めないのです。地上世界ではさまざまな霊格の者が同じ平面上で生活しております。もっとも、だからこそ良い、という側面もありますが……。

いずれにしても、そうした妨害や反抗の勢力の存在をあまり大ゲサに考えるのは禁物です。善性の勢力に較べれば大したものではありません。ただし、存在することは確かです。それよりもっと厄介な存在として、地上時代の宗派の教えを死後もなお後生大事に信じて、それを地上の人間に広めようとして働きかける狂信家がいます」

「それが一ばん厄介な存在ということになるのでしょうか」


「いえ、総体的にみれば大したことはありません。彼らの中で死後の自分の身の上の真相に気づいている者は、きわめて少数だからです。大半の者は地上時代にこしらえた固定した精神構造の中に閉じ込められたまま、一種の夢幻の世界で生きております」

別の日の交霊会で、ローマカトリックの信者からの投書が読み上げられた。その筆者はまずスピリチュアリズムに対するローマカトリック教会としての否定的見解を引用したあと、“しかし、もしも霊界との交信が真実であるとしたら、それは地上人類にとって素晴らしいことです”という自分の見解を述べ、さらに“死後存続が証明されれば地上に愛が増え、罪悪と戦争が減ることでしょう”と結んであった。

これを聞いてシルバーバーチはこう述べた。


「今一人の人間が、難しい環境の中で少なくとも微かな光を見出し、これまで真実であると思い込んできたものとの関連性を理解しようと努力している事実を、まず喜びたいと思います。

この方は、疑問に思うことを少なくとも正直に尋ねてみるという行為に出ておられます。この段階まで至れば、真理探究が緒(ちょ)についたことを意味します。どうかこの方に、疑問は徹底的に追求し、証明を求め、証明されたものにしっかりとしがみつき、証明されていないもの、理性が承服しないものは、勇気をもって捨て去るようにお伝えください。

この方に伝えていただきたいことが、もう一つあります。お手紙の中にいくつかの引用文がありますが、この方は本当にそれを信じていらっしゃるのでしょうか。それが果たして真実かどうかの証拠がないものについては、“果たして筋が通っているだろうか”と一度はご自分の理性で疑ってみることが大切です。大霊からの授かりものであるその理性が納得しないものは、そこできっぱりと捨て、いかなるテストにも追求にも検査にも批判にも疑念にも耐えてなお残るものだけを基盤として、自分の宗教を打ち立てるのです。

一つ一つ取り挙げると時間がかかりますので、例として一つだけ取り挙げてみましょう。この方は“神はモーゼにかく言えり……”という文を引用しておられますが、神がモーゼに言ったことが事実であるという証拠はどこにあるのでしょうか。その証拠がないかぎり、あるいは少なくとも信じてよいと断定できるだけの理由が揃わないかぎりは、それを引用してはなりません。理性による判断はそれからのことです。それに、ついでに言えば、かりにそれが証明されたとしても、一体それが今日の時代に適用できるかどうかの問題もあります。

理性による検査と探求をなされば、かつては真実と思い込んでいたものの多くが、何の根拠もないことがわかり、間違いない事実だけを根拠としてご自分の宗教を打ち立てることになります。それならば、疑念の嵐が吹き荒れても、揺らぐことはありません。知識は岩盤のようなものだからです。その方に、わたしからの愛の気持ちを届けてあげてください。そして、頑張り通すようにと励ましてあげてください」

続いての投書は女性からのもので、いかに小さな体験にも、行為にも、あるいは言葉にも、思念にも、それなりの影響力があるとのシルバーバーチの言葉を引用して、“では一体どうすれば自分の言動に自信が持てるようになるのでしょうか”というものだった。シルバーバーチが答える。


「その方にこうお伝えください――精神的にも霊的にも自己を厳しく修養し、生活のすべての側面を折目正しく規制し、自分は本来は霊であるという意識をもって、行動のすべてに霊の優位性を反映させなさい、と。

霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活――これが最高の生き方です。既成のテキストはいりません。魂の成長ということだけを心がければいいのです。大霊からいただいている霊力が顕現し、人間が勝手にこしらえた教義への盲目的信奉者とならずにすみます」

次の質問は、スピリチュアリズムというものが、ただ単に他界した身内の者との交霊だけに終始して、本来の意義と責任を忘れてしまう危険性はないかというものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。


「知識の使い道を誤るという問題は常に存在します。何事にも正しい使い方と間違った使い方とがあるものです。これは誰しも直面させられる問題の一つです。

自分の個人的な不幸の慰めを交霊会に見出す人がいることは確かです。そして、悲しむ人がその悲しみを慰められること自体、少しも悪いことではありません。死別の嘆きが軽減され、涙を流さなくなるということは結構なことです。喪の悲しみに暮れる人にとって、交霊会が慰めの場となるのを、いけないことと非難するのはよくありません。むしろ必要なことですし、それがその人にとって人生の大きな転機になることもあります。

問題は、胸の痛みが癒え、涙が消え、陰うつさが晴れ、重荷が軽くなってから後のことです。言い変えれば、死後の存続という知識を手にしたあともなお、いつまでも私的な交信の範囲にとどまっているようでは、これは重大な利己主義の罪を犯すことになります。

それがなぜ罪なのか――互いに慰め合うことがなぜいけないのか――そう問われれば、確かにそれ自体少しも悪いことではないのですが、わたしの考えを言えば――これも例によって一般論として申し上げることで、例外はあるかも知れませんが―― 一人の霊媒を通じての霊界との交信が確立されドアが開かれたなら、他の人々にもそのチャンネルを使用させてあげて、多くの人々を啓発する方向で活用すべきです。

三千年におよぶ永い体験によってわたしは、“人を裁くなかれ”という教えが確かに真実であることを確認しております。他人の欠点を指摘することは容易なことです。もっとも、残念ながら、批判されてもやむを得ないだけの条件が揃っているケースもあることは認めますが……。地上の人たちが他人の利己主義に文句を言うのをやめて、自分の欠点を反省し、どうすればそれが改められるかに関心を向けるようになれば、地上はもう少しは進歩することでしょう」

ところで、シルバーバーチの交霊会、正式に言うとハンネン・スワッファー・ホームサークルは、霊媒のバーバネルが入神(トランス)状態に入ることで開会となるが、それに先立って出席者の間である話題について論議が交わされることがある。それをシルバーバーチは霊界で聞いている。やがてバーバネルがトランス状態に入ると、その身体に乗り移ってしゃべるわけであるが、ある日の交霊会に先立って金銭(マネー)の問題が話題になったことがある。やがて入神したバーバネルの口を借りてシルバーバーチがこう語った。


「地上世界で成就しなければならないことは、それを決意した霊性、人間の霊性が原動力となって成就されていくのです。表面的な意識が自覚するとしないとにかかわりなく、内部に秘められた神性の火花が発現を求める、その衝動によるのです。人類の歴史を飾ってきた先駆者はみな、その力を物的なものからではなく、霊的なものから――それは内部からの絶え間ない衝動である場合もあれば、外部からのインスピレーションである場合もありますが――それから得ていたのです。

残念ながら地上世界は、今なお物質万能主義の悪弊から脱け切れずにいます。すべてを金銭的感覚で捉えようとします。財産の多い人ほど偉い人と見なします。人間性ではなく財産と地位と肩書きと家柄によってランクづけします。実際にはまったく永続性のないものばかりです。虚飾にすぎません。実在ではないのです。

本当の価値の尺度は霊的成長度です。それは、その人の生活、日常の行為・言動によって、みずから成就していくもので、それがすべてであり、それしかないのです。お金で徳は買えません。お金で霊的成長は買えません。お金で霊格は高められません。そうしたものは各自が各自の努力で獲得しなければなりません。粗末な家で生まれたか、御殿のような家で生まれたかは、霊的成長には何の関係もありません。

霊的実践の場は、すべての人間に平等に存在します。死んでこちらへ来られると、意外に思えることが沢山あります。地上的な虚飾がすべて取っ払われて、魂が素っ裸にされます。その時はじめて自分の本当の姿を知ります。自分はこうだと思い込んでいたり装(よそお)ったりしていたものとは違います。

といって、わたしは、お金持ちはすべて貧乏人より霊的に劣ると言っているのではありません。そう言うつもりは毛頭ありません。お金は霊的成長とは何の関係もないこと、進化は各自の生活そのものによって決まっていくのであり、それ以外にないことを言いたいのです。困ったことに、地上の人間は、直面する物的問題に心を奪われて、つい間違った人生観をもってしまいがちですが、いついかなる時も、霊的真理を忘れないようにしないといけません。これだけは永続性のある霊的な宝であり、いったん身につけると、二度と奪われることはありません。永遠の所有物となります。

わたしは、霊力が今日のように少数の特殊なチャンネルを通してではなく、当り前の日常生活の一部として、無数のチャンネルを通して地上世界へ注がれる日の到来を、楽しみに待ち望んでおります。その時は“あの世”と“この世”との間の障害物がなくなります。すべての人間に潜在する霊的資質が、ごく当り前のものとして、学校教育の中で磨かれるようになります。生命は一つであるという事実が理解されるようになります。

わたしはそういう世界――地上世界が広大な宇宙の一部であることを認識し、すぐ身のまわりに高次元の世界の生活者を霊視できるような世界――の到来を待ち望んでおります。何と素晴しい世界でしょう!」

ここで質問が出た。

「まったくの赤の他人にスピリチュアリズムの教えを説くにはどうすればよいでしょうか」

これに対してシルバーバーチが「難しい質問ですね」と言うと、司会のハンネン・スワッファーが「それは相手によって違いますよ」と口添えする。するとシルバーバーチが改めてこう説いた。


「人それぞれに要求するものが異なることを、まず理解しないといけません。霊的成長度が一人ひとり異なるからです。ある人は聞かれなくなった声を聞きたい(霊言)と思い、触れられなくなった手をもう一度しっかりと握りしめたい(物質化現象)と思います。今なお愛が続いていることを確認したいのです。そういう人にとっては、自分を愛する人だけが関心の的であり、それはそれなりに、やむを得ないことです。

また一方には、自分の個人的なことよりも、科学的な関心を寄せる人もいます。宗教的観点から関心をもつ人もいます。哲学的な観点から関心をもつ人もいます。まったく関心を見せない人もいます。こうした人それぞれに対応した答え方があります。

わたしたちの側から申し上げられることは、次のことだけです。生命は墓の向こうでも続いていて、あなたは個性をもった霊としてずっと存在し続ける――このことは間違いない事実であり、筋の通ったものであれば、どんな手段を講じてもよいから、わたしたちの言っていることが本当かどうかを試されるがよろしい。最終的には、理性ある人間ならば誰しも納得がいくはずです。理性を欠いた人間には、つける薬はありません、と」

「現代の霊的教訓はイエスの教えに匹敵するものでしょうか」


「そもそも現代の人たちがなぜ遠い昔の本に書いてあることを信じたがるのかが、わたしには理解できないのです。それが真実であることを証拠だてるものは何一つ存在せず、ただの人間が述べたことの寄せ集めにすぎず、しかも現代にはそぐわない形で表現されているにもかかわらず、それに絶対的な権威があるかのごとく後生大事にしています。実際は、いつの時代にも通用するという保証はひとかけらもないのです。そのくせ、愛する人が生前そっくりの姿を見せ(物質化現象)そして語る(霊言)ことがある話をすると、そういうことは昔の本には出ていないから、という理由で信じようとしないのです」

出席者の一人が「それを信じたら、それまでの信仰を大々的に変更せざるを得なくなるので、しりごみする人がいるようです。それを批難するわけではないのですが、その試金石にあえて立ち向かう道義的勇気に欠けているのだと思います」という意見を述べた。するとシルバーバーチが――


「だとすると、その人は自分を傷つけているだけでなく、自分が愛する人たちをも傷つけていることになります。世の中には、正しい知識を知るよりも嘆き悲しんでいる方がいいという人がいるものです。知識は大霊からの授かりものです。その知識を拒否する人は、自分自身を傷つけることになるのです。“光”を差し出されても、結構です、私は“闇”で満足です、というのであれば、それによって傷ついても、それはその人の責任です」

別の出席者「まず受け入れる用意がいるとおっしゃる理由はその辺にあるわけですね?」


「そうです。わたしの使命には二つの要素があるとみています。一つは純粋に破壊的なもので、もう一つは建設的なものです。長いあいだ人間の魂の息を詰まらせてきた雑草――教会による虚偽の教え、宗教の名のもとに説かれてきた意味のない、不快きわまる、時には冒涜的でさえある教義を破壊するのが第一です。そうしたものは根こそぎ一掃しなければいけません。人生が本来の意義を果たすのを妨げるからです。それが破邪の要素です。

建設的要素は、正しい知識を提供して、受け入れる用意のできた人にとって、それがいかに自然で、単純で、美しく、そして真実味があるかを説くことです。両者は相たずさえて進行します。大切にしている教えの間違いを指摘されると不快な態度を見せるような人は、わたしはご免こうむります。そういう態度でいるとどういう結果になるかを、そちらでもこちらでも、さんざん見てきているからです。

わたしたちにとって、地上世界で仕事をするのは容易なことではありません。しかし今の地上世界は、わたしたちの努力を必要としているのです。どうか、霊の自由と魂の解放をもたらす基本的な霊的真理にしっかりとしがみついてください。精神がのびのびと活動できるようになり、二度と再び、歪んだ、ひねくれた、いじけた生き方をしなくなったことを喜ばないといけません。がんじがらめの窮屈な生き方をしている魂が多すぎます。本来の自我を存分に発揮できなくされているのです。

そこでわたしたちが、無知の牢獄の扉を開くカギをお持ちしているのです。それさえ手にすれば、暗闇の中から這い出て、霊的真理の陽光の中へと入ることができるのです。自由が束縛にまさるのは自明の理です。束縛は間違いであり、自由が正しいにきまっています。教義への隷属を強いる者は明らかに間違っています。自由への戦いを挑む者は明らかに正道を歩んでいる人です。

いかなる人間も、いつかは実在を見出さねばならなくなる時期がまいります。我儘(わがまま)からその時期を遅れさせることはできます。が、永久に避け通すことはできません」

「ということは、人間はすべて――今のところはどんなに品性の下劣な人間でも――そのうちいつかは、霊的に向上していくということでしょうか」


「そうです――永劫の時をへてのことですが……。わたしたちの関心は生命の実在です。影には真の安らぎも幸せも見出せないことをお教えしようとしているのです。影は光があるからこそ存在するのであり、その光とは霊的実在です。無限なる霊の莫大な可能性、広大な宇宙を支配しているだけでなく、一人ひとりの人間に少量ずつ存在している霊性に目を向けてほしいと願っているのです。

本当の宝を見出すのは自分の“内部”なのです。窮地にあって、物的手段が尽きたあとに救ってくれる力は、内側にあるのです。地上の友だちがすベて逃げ去り、自分ひとり取り残され、誰もかまってくれず、忘れ去られたかに思える時でも、背後霊の存在を知る者は、霊の世界からの温もりと親密さと愛があることを思い起こすことができます」

続いての質問に答えて、出席者全員に次のような勇気づけの言葉を述べた。


「皆さんが携わっておられる大いなる闘いは、これからも続きます。こうした霊的真理の絡んだ問題で、意見の衝突や論争が生じるのを恐れてはなりません。いずれは必ず人類の大多数によって受け入れられていくのですが、相手が間違っていることがわかっていながら、論争を避けて大人しく引っ込んだり、妥協したり、口先をごまかしたりすることなく、いかなる犠牲を払っても真理は真理として守り抜くという覚悟ができていないといけません。

結果を怖がるような人間は弱虫です。そんなことでは性格は鍛えられません。霊の世界の道具たらんと欲する者は、迫害されることをむしろ誇りに思うようでなくてはなりません。あらゆる攻撃を、それがどこから来ようと、堂々と迎え撃つのです。胸を張って生き、その毅然(きぜん)たる態度、その陰ひなたのない言動によって、いつでもどこでも試される用意があることを見せつけるのです」

時あたかも春だった。シルバーバーチは春という季節が永遠の希望を象徴するものであることを述べてから、こう結んだ。


「さて、最後に申し上げたいのは、この春という季節は喜ばしい成就の時節だということです。新しい生命が誕生してくるからです。今こそ、まさしく甦りの季節なのです。無数の形態を通して新しい美が息づく時、それは聖なる創造主の見事な芸術をご覧になっているのです。

皆さんは今まさに、自然界の生命の喜びの一つとして定期的に訪れる、新しい創造の夜明けをご覧になろうとしておられます。それには再活性化と、力と、太陽光線の増幅が伴います。絶対的摂理の上に築かれた希望と自信と信頼をもたらす、この新しい生命でご自分を満たされるがよろしい。それは、生命がいかに永い眠りの後でも必ず甦ること、森羅万象を生んだ力は永遠なる存在であること、そして、それと同じものが皆さんの一人ひとりに宿っていることの証(あかし)だからです。

ですから、取り越し苦労や悲観論、うんざりや投げやりの気持ちなどを抱く根拠はどこにもないのです。絶対的な自然法則の確実性に根ざした霊的知識に、すべてをゆだねることです。

大霊の祝福のあらんことを!」

同じく春の季節に行われた交霊会で、次のような、素朴でしかも厳粛さのただようメッセージを述べたことがあった。


「皆さんは今、大自然の華麗なページェントの一シーンをご覧になっているところです。春の美に飾られた大自然をご覧になっているわけです。新しい生命が神なる創造者への賛歌を奏(かな)でているところです。

いずこを見ても、永遠なる摂理の不変性の証にあふれております。雪に埋もれ、冬の暗闇の中で眠りつづけていた生命が目を覚ましはじめます。春の息吹がいたるところに見られます。神なる園丁(えんてい)が人間には真似ることすらできない腕の冴(さ)えを披露いたします。そしてやがて、つぼみが花と開き、美しさが一面に広がります。

春のあとに夏がつづき、夏のあとに秋がおとずれ、秋のあとに冬がめぐってきます。その永遠のサイクルに進化の要素が伴ってまいりました。これからも進化を伴いつつめぐりつづけます。同じように、皆さんも生命の冬の季節から春を迎え、やがて夏に向かって内部の神性を花開かせてまいります。

こうした規則正しい自然の流れの中に、大霊の働きの確実性を見て取ってください。その大霊の力があなたを通して働くように仕向けさえすれば、言い変えれば、大霊の道具として役立てる用意さえ整えれば、確実な知識にもとづく叡智とともに、豊かな恩恵をわがものとすることができるのです。

地上の人間には失望させられることがあるかも知れません、信頼していた同志から裏切られることがあるかも知れません。国がこしらえた法律や条令によって欺(あざむ)かれた思いをさせられることがあるかも知れません。しかし、大霊は絶対に裏切りません。なぜなら、完全なる摂理として働いているからです。

その働きの邪魔だてをしているのは、ほかならぬ自分自身なのです。自分の無知の暗闇を追い出し、正しい知識の陽光の中で生きなさい。そうすれば、この地上にあって天国の喜びを味わうことができるのです」

祈り

無限にして無尽蔵の霊の宝庫を……


大霊の恩寵が皆さまがた全てに下されますように!

これより皆さんとともに、全生命を生みたまい、その全側面を愛の抱擁の中に収めたもう崇高なる力に向けて、心を一つにいたしましょう。

ああ、大霊よ。わたしたちはあなたについて語らんと欲し、お粗末な表現ながらも、この果てしなき宇宙のすみずみまで浸透せるあなたの崇高さ、あなたの神性、あなたの絶対的法則を啓示するための言葉を探し求めております。

心を恐怖で満たされ、精神を不安で曇らされている男女が、あなたに至る道を知り、あなたを見出し、そして万事はよきに計らわれていること、あなたの配剤に間違いはないとの確信を得ることができますように、わたしたちがあなたの豊かな宝のいくつかを明かしてあげたいのでございます。

これまであなたの真実の姿、一分の狂いも休むことも弱まることもなく働く、完全なる法則としてのあなたを理解することを妨げてきた偽りの教義、愚かな間違い、無知と誤解のすべてを取り払うのも、わたしたちの仕事の一環でございます。わたしたちの目に映る宇宙は、生物であろうと無生物であろうと、ありとあらゆる存在にあなたの配剤があり、同時に、そこに生じるあらゆる事態にも十全なる備えがなされているのでございます。

あなたの目の届かぬ所は一つとしてございません。秘密も謎もございません。あなたは全てをご存知です。なぜなら、全てはあなたの法則の支配下にあるからでございます。わたしたちが指摘するのは、その法則の存在でございます。無窮の過去より作用し、これからも永劫(えいごう)に作用し続ける摂理でございます。

地上の子等がその摂理と調和した生活を送ることによって、すべての暗黒、すべての邪悪、すべての混乱と悲劇が消え、代わって光明が支配することになりましょう。

愛に死はなく、生命は永遠であり、その不滅の愛によって結ばれている者は、墓場で別れ別れになることはないこと、愛が求め合い霊力が働くところには、乗り越えられない障害も、取り壊せない障壁もないことを教えてあげるのも、わたしたちの仕事の一環でございます。

各自がその霊性を磨き、天命として与えられている役割を果たす段階に至るのを待ちうけている、無限にして無尽蔵の霊の宝庫を子等に明かしたいのでございます。

ここに、己を役立てることを求めるあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Sunday, January 19, 2025

シアトルの冬 霊の書 第1部 根源 4章 生命素

biogen


〈有機物と無機物〉



――物質の原素を合体させる力は有機物の場合も無機物の場合も同じものですか。


「同じものです。親和性の法則は全てに同じです」


――有機物と無機物とではどこが違うのでしょうか。


「物質でできている点は双方とも同じです。が、有機物においてはその物質が活性化されています」


――その活性化の原因は何でしょうか。


「生命素との一体化です」


――その生命素は何か特殊な作用因子の中に存在するのでしょうか、それとも組織をもつ物体の一要素にすぎないのでしょうか。つまり、それは原因なのか結果なのかということです。


「両方です。生命というのは物質へのある因子の働きかけによって生じた結果です。しかしこの因子も、物質がなければ生命を生み出すことはできませんし、物質もこの因子の働きかけなしには活性化されません。生命素はそれを受け止めて一体化するものに生命を賦与するということです」


――これまで私は霊と物質が宇宙の二大主要構成要素であると思っておりました。この生命素は第三の要素なのでしょうか。


「宇宙を構成する不可欠の要素の一つであることは論をまちません。しかし、その源は普遍的物質の変化にあります。その目的に即して変化したものです。人間にとっては酸素や水素と同じく原素ですが、究極の要素ではありません。人間に知られている原素は全て、究極の原素のように思えても実質は基本的流動体の変化したものです」


――今のご説明ですと、活力というのはそれ自体が独立した因子ではなく、普遍的流動体の特殊な要素で、それがある種の変化を遂げたものということになりそうですが……


「その通りです。これまで述べたことを結論づければ当然そうなります」


――その生命素は人間に知られているあらゆる物体に内在しているのでしょうか。


「その源は普遍的流動体にあります。いわゆる磁気流とか電流と呼ばれているものが活性化されたものです。霊と物質との中間的存在です」


――生命素は有機的存在の全てに共通したものでしょうか。


「同じものですが、種によって変化が加えられています。動きと活動の原動力となっているのがその生命素で、その点がただの物質とは異なるところです。物質も動きますが、自発的な動きではありません。物質は動かされるもので、動きを生み出すことはありません」


――活力はその生命素の不変の属性なのでしょうか、それともその活力を生み出している器官の働きによるのでしょうか。


「活力は生命素が物体とつながることによって初めて生じます。さきほどこの因子(生命素)は物質がなければ生命を生み出せないと申し上げたはずです。生命の生産には両者の合体が必要です」


――生命因子が物体と合流しないうちは活力は潜在状態にあると考えてよろしいでしょうか。


「その通りです」
〈生と死〉


――有機体の死の原因は何でしょうか。


「器官の活力の枯渇です」


――その死を機械が故障して動きが止まった状態になぞらえるのは正しいでしょうか。


「いいでしょう。機械が故障すれば動きが止まります。身体が病に冒されれば生命は引っ込みます」


――心臓病による死亡率が他の臓器よりも高いのはなぜでしょうか。


「心臓は生命を生み出す器官です。ですが死をもたらすのは必ずしも心臓の病気だけではないでしょう。心臓は身体という機械を動かす必須の機関の一つにすぎません」


――有機体の身体と生命素は死後どうなるのでしょうか。


「身体は分解して新しい物体の構成要素として使用されます。生命素は普遍的流動体の海の中へ帰ります」
〈知性と本能〉


――知性は生命素の属性ですか。


「違います。その証拠に、植物は生命を有しながら思考力はありません。有機的生命を有するのみです。知性と物質との間には何の依存性もありません。ただし、物体は知性がなくても存在できますが、知性は物的器官を通じないと意思表示ができません。活性化された物質(肉体)が霊と一体となって初めて知的活動が可能となります」


編者注――それゆえ地上の存在物は三つに大別できる。第一は、物質のみの不活性の存在で、生命も知性もない、無機物の世界。第二は、物質でできた身体と活力を有するが、知性を持たない、動植物の世界。そして第三が活力ある身体と、思考力を生み出す知的原理をそなえた人類。


――知性の始源は何でしょうか。


「普遍的知性です」


――こういう定義はいかがでしょうか。すなわち、知的存在は各自が普遍的始源から知性の一部を引き寄せ、引き寄せつつ吸収し、同時に生命素も吸収する、と。


「そういう定義はおよそ真相から離れています。知性というのは各自その分に応じて授けられる能力で、精神的個性の一部を形成するものです。

さらに言わせていただけば、宇宙には人間に絶対理解できないことがいろいろあります。知性の始源も、現段階の人類にとっては、その中に入ります」


――本能というのは知性とは何の関係もないのでしょうか。


「そう明確に断定することはできません。と言うのは、本能も知性の一種であることには違いないからです。本能は言わば論理的思考力をもたない知性です。進化の階梯の低い段階にある存在は、この本能によって必要性を満たします」


――知性と本能との違いを一線で画すことはできますでしょうか。つまり、ここまでが本能でここからが知性、という具合に。


「できません。双方が混じり合っていることがよくあります。しかし、本能から出た行為と知性から出た行為とは明確に見分けることができます」


――知的能力の発達とともに本能が退化すると考えてよいでしょうか。


「それは違います。本能は本能として存在しつづけます。人間がそれを軽視しているだけです。本能も理性と同じように正しい方向へ導いてくれることがあります。その導きはまず間違いなく感得できるものです。時には理性的判断よりも確かなことがあります。決して脱線することはありません」


――なぜ理性的判断が必ずしも頼りにならないのでしょうか。


「間違った教育、自惚れ、私利私欲によって歪められさえしなければ理性は正しい判断を下します。本能は論理を超えて直覚的に判断を下します。理性は常に選択の余地を残し、人間に自由意志を与えます」

Saturday, January 18, 2025

シアトルの冬 霊の書 第1部 根源 3章 創造

  • The Spirits' Book
  • アラン・カルデック(編)
  • 近藤千雄(訳)

〈天体の形成〉


――物的宇宙は創造の産物でしょうか、それとも神と同じく永遠の過去から存在し続けているのでしょうか。


「もちろん宇宙がみずからをこしらえるはずはありません。もしも神と同じく永遠の過去からの存在であるとしたら、それは神の業(わざ)ではないことになります」


――どのようにして創造されたのでしょうか。


「有名な表現を借りれば“神のご意思によって”です。神が“光よあれ”と言われた。すると光が生まれた。この“創世記”の言葉以外に、全能の神のあの雄大な働きをうまく表現したものはありません」


――天体が形成されていく過程を教えていただけませんか。


「人間の理解力の範囲内でこの命題に答えるとすれば、空間にまき散らされた物質が凝縮して天体となった、と表現するしかありません」


――彗星は、天文学で推測されている通り、その物質の凝縮の始まり、つまり形成途上の天体なのでしょうか。


「その通りです。ただし、彗星にまつわる不吉な影響を信じるのは愚かです。すべての天体には、ある種の現象の発生にそれぞれの役割分担があります」


――完成された天体が消滅し、宇宙のチリとなって再び天体として形成されるということはありませんか。


「あります。神は、天体上の生き物を新しくつくり変えるように、天体そのものも新しくつくり変えます」


――天体、たとえばこの地球が形成されるのに要した時間は分かるでしょうか。


「それは我々にも分かりません。創造主のみの知るところです。いかにも知っているかのごとき態度で長々と数字を並べたりするのは愚か者のすることです」
〈生命体の発生〉


――地球上の生物はいつ頃から生息するようになったのでしょうか。


「天地初発(あめつちはじめ)の時は全てが混乱の状態で、あらゆる原素が秩序もなく混じり合っていました。それが次第に落ちつくべき状態に落ちつき、その後、地球の発達段階に応じて、それに適合した生物が出現して行きました」


――その最初の生物はどこから来たのでしょうか。


「どこからというのではなく、地球そのものに“胚”の状態で含まれていて、発生に都合のよい時期の到来を待っておりました。地球の初期の活動がようやく休止すると、有機的原素が結合して地上に生息するあらゆる生物の胚を形成しました。そして各々の種に生気を賦与する適切な時期の到来まで、その胚はさなぎや種子と同じように、不活性の状態で潜伏していました。やがてその時期が到来して発生し、繁殖して行きました」


――その有機的原素は地球が形成される以前はどこに存在していたのでしょうか。


「言うなれば流動体的状態で空間や霊界、あるいは他の天体に存在し、新しい天体での新たな生命活動を開始すべく、地球の造成を待っておりました」


――今でも自然発生しているものがあるのでしょうか。


「あります。ですが、潜在的には胚の状態で以前から存在しているのです。その例なら身のまわりに幾らでもあります。例えば人間や動物の体には無数の寄生虫が胚の状態で存在していて、生命がなくなると同時に活動を開始して腐敗させ、悪臭を放ちます。人間の一人一人が、言うなれば“眠れる微生物の世界”を内部に含んでいるのです」
〈人類の発生〉


――ヒトの種も有機的原素の一つとして地球に含まれていたのでしょうか。


「そうです。そして創造主の定めた時期に発生したのです。“人間は地のチリから造られた”という表現はそこから来ています」


――そのヒトの発生、および地上の他の全ての生物の発生の時期は確認できるのでしょうか。


「できません。あれこれと数字を並べる霊がいますが、何の根拠もありません」


――人類の胚が有機的原素の中に含まれていてそれが自然発生したとなると、今でも(生殖作用によってでなく)自然発生的にヒトの種が誕生してもよさそうに思えるのですが……


「生命の起原のことは我々にも秘密にされております。ただ断言できることは、最初の人類が発生した時に、すでにその内部に、その後の生殖活動によって繁殖していくために必要な要素を全て所有していたということです。他の全ての生物についても同じことが言えます」


――最初の人間は一人だったのでしょうか。


「違います。アダムは最初の人間でもなく、唯一の人間でもありません」


――アダムが生きていた時代を特定できますか。


「大体“創世記”にある通りです。キリストより四〇〇〇年ほど前です」


編者注――アダムという名で記録にとどめている人物は、当時地球上を襲った数々の自然災害を生き抜いた幾つかの人種の一つの長であろう。
〈人種の多様性〉


――地上の人種に身体的ならびに精神的な差異が生じた原因は何でしょうか。


「気候、生活形態、社会的慣習などです。同じ母親から生まれた二人の子供でも、遠く離れた異なる環境条件のもとで育てられると、それぞれに違った特徴を見せるようになります。とくに精神的には全く違ってきます」


――人類の発生は一か所だけでなく地球上の幾つもの地域で行われたのでしょうか。


「そうです。それも、幾つもの時代に分けて行われました。このことも人類の多様性の原因の一つです。原始時代の人間はさまざまな気候の地域へ広がり、他の集団との混血が行われたので、次々と新しいタイプの人類が生まれて行きました」


――その違いが種の違いを生んだのでしょうか。


「それは断じて違います。全ての民族で人類という一つの家族を構成しています。同じ名前の果実にいろいろな品種があっても、果実としては一つであるのと同じです」


――人類の始祖が一つでなく地球上で幾つも発生したということは、互いに同胞とは言えないことになるのではないでしょうか。


「創造主とのつながりにおいては全ての人種は一つです。同じ大霊によって生命を賦与され、同じ目的に向かって進化しているからです。人間はとかく言葉にこだわり、表現が異なると中身も異なるかに解釈しがちですが、言葉というのは不十分であり不完全なものです」
〈地球外の生息地〉


――宇宙空間を巡っている天体の全てに知的存在が生息しているのでしょうか。


「そうです。そしてその中でも地球は、人間が勝手に想像しているような、知性、善性、その他の全般的な発達において、およそ第一級の存在ではありません。数え切れないほど存在する天体の中で地球だけが知的存在が生息する場である――神は人類のために宇宙をこしらえたのだと豪語する者がいるようですが、浅はかな自惚れもここに極まれりという感じです」


――どの天体も地質的構成は同じなのでしょうか。


「同じではありません。一つ一つが全く違います」


――あれほどの数の天体がありながら、その組成が同じものが二つとないとなると、そこに生息している存在の有機的組成も異なるのでしょうか。


「当然です。地上でも魚は水の中で生きるようにできており、鳥は空を飛ぶようにできているのと同じです」


――太陽から遥か遠く離れた天体は光も熱も乏しく、太陽が恒星(星)の大きさにしか見えないのではないでしょうか。


「あなたは光と熱の源は太陽しかないとでも思っていらっしゃるのですか。また、ある天体上では電気の方が地上より遥かに重要な役割を果たしている事実をご存じですか。そういう世界でも地球と同じように眼球を使って物を見ているとでも思っていらっしゃるのですか」


訳注――カルデックの質問の中には時おり「おや?」と思うようなものが出てきて訳者を戸惑わせることがある。奥さんと共に私塾を開いて天文学、物理学、解剖学といった、当時としては最先端の学問を教えていたようであるが、百年以上も昔のことであるから、その幅も奥行きも現代とは比較にならないものであったことは容易に想像がつく。

この質問も太陽も恒星の一つで銀河系には二〇〇〇億個もの恒星があり、その中でもわが太陽はごく小さい部類に属するので、このような質問はナンセンスである。が、回答の中で眼球を必要としない知的存在がいることを暗示しているので、それが大きな暗示を与えてくれると思って訳出した。コウモリは声帯から出す超音波で一瞬のうちに距離を計って飛び回り、イルカも超音波で信号を出し合って連絡し合っているという。眼球や耳のない人間的存在がいても不思議ではないのである。

シアトルの冬 霊の書 スピリチュアリズムの真髄「思想宇宙を構成する一般的要素

The Spirits' Book
アラン・カルデック(編)
近藤千雄(訳)


〈宇宙空間〉

〈物質の根源的要素〉


――人類は物質の根源的要素についていつかは認識することになっているのでしょうか。


「いえ、地上には人間に理解できないものがあります」


――現在のところ人間には秘密にされていることも、いずれは理解できるようになるのでしょうか。


「魂が純化される度合いに応じてベールが取り払われて行きます。が、ある一定レベル以上のものを理解するには、これまでに開発されていない能力が必要となります」


――人間は科学的探求によって大自然の秘密をあばいて行けるでしょうか。


「科学的研究の才覚は人類の各方面における進歩のための手段として授けられたものです。しかし、現段階における才覚の限界を超えることはできません」


――そうした限界を超えた問題、つまり五感の範疇を超えているがゆえに通常の科学的研究の領域に属さない問題に関して、高級霊界からの通信を受けることは許されるでしょうか。


「許されます。それが有用であるとの判断が下されれば、神は科学では無力とみた範囲のことについて啓発を授けられます」
〈霊と物質〉


――物質は神と同じく永遠の過去から存在しているのでしょうか、それとも、ある特定の時期に創造されたのでしょうか。


「神のみぞ知る、と申し上げておきましょう。ただ、一つのヒントとして、人間の理性でも十分に推理できることを申し上げれば、無始無終の存在である神が一瞬たりともその活動を止めたことはないということです。その活動の始まりを限りなく遠い遠い過去まで溯っていっても、神が一瞬たりとも無活動の状態になった時期があったことを想像することはできません」


――物質とは一般に“広がりがあり”“五感に印象を与え”“貫通できないもの”と定義されておりますが、これで正しいでしょうか。


「人間の観点からすれば正しいと言えます。知り得たものを基準に定義するしかないからです。しかし、物質は人間がまだ知らずにいる状態でも存在できます。例えば人間の感覚で捉えられないほど霊妙な状態で存在し、それでいて物質の範疇に属します。もっとも人間にはそうは思えないでしょうけれど……」


――では、そちら側からはどう定義されますか。


「物質とは霊をつなぎ止めるもので、同時に霊に仕える道具であり、霊の働きかけによって活動するものである、と」


――霊とは何でしょうか。


「宇宙の知的根源素です」


――その究極の本性は何でしょうか。


「霊の本性を人間の言語で説明することは不可能です。人間の感覚には反応しませんから“もの”とは言えないでしょう。しかし我々にとっては“もの”です」


――霊は知性と同義ですか。


「知性は霊の本質的属性の一つです。が、両者は一つの根源素として融合していますから、人間にとっては同一物と言ってよいでしょう」


――霊は物質とは別個の存在でしょうか、それとも、ちょうど色彩が光の特性の一つであり音が空気の特性であるように、物質の特性の一つにすぎないのでしょうか。


「霊と物質とは全く別個の存在です。しかも、物質に知的活動を賦与するためには霊と物質との合体が必要です」


――その合体は霊自体の表現にとって必要なのでしょうか。


「人間にとっては必要です。なぜなら、人間は物質と離れた状態で感識するような有機的構造にはなっていないからです。現段階での人類は物質から独立した次元での感覚をそなえていません」


――物質のない霊、霊のない物質というものが考えられるわけでしょうか。


「もちろんです。ただし観念上のことですが……」


――すると宇宙には霊と物質の二つの要素が存在することになるのでしょうか。


「その通りです。そしてその両者の上に神すなわち万物の生みの親である創造主が君臨しています。この三つの要素が生きとし生けるもの全ての原理、言わば普遍的三位一体というわけです。

しかし、物質には霊との接着剤的媒介の役目をしている普遍的流動体が付属しています。物質と霊との質的差異が大きすぎるために、霊が物質に働きかけるための中間的媒介物が必要なのです。その観点から見るかぎり流動体は物的要素の中に入りますが、いくつかの点で霊的性質もそなえています。これを物質の範疇に入れるのであれば、霊も物的範疇に入れてもよいほど物的性質をそなえています。つまりは中間的存在ということです。

その流動体が物質の特性とさまざまな形で結合し、霊の働きかけを受けて、ご存じの心霊現象を演出しているわけです。それとて可能性のほんの一部にすぎません。この原始的ないし基本的な流動体は、そのように霊が物質に働きかけるための媒体であって、この存在なくしては物質は永久に他の存在と離れたままの存在でしかなく、重量を有するがゆえに(霊の働きかけによって)生ずるさまざまな特性を発揮することはできないでしょう」


――その流動体は我々のいう電流と同じものでしょうか。


「今の回答の中で物質の性質を無数の形で結合すると申しました。地上界でいう電気とか磁気といったものもその流動体の変化したものです。が、厳密に言えば、普遍的流動体はそうしたものよりも純度が高く、霊妙で、それ独自の存在を有していると考えてもよいでしょう」


――霊も“もの”であるからには、これを“知的物体”と呼び物質を“不活性の物体”と呼ぶ方がより正確ではないかと思うのですが……


「用語の問題は我々にとってはどうでもよろしい。人間どうしで通じ合えるような用語をこしらえることです。地上の論争の大半は、五感に反応しないものに関して地上の言語が不完全であるために、用語について共通の同意が欠けていることから生じています」


訳注――穏やかな調子で回答しているが、実際はあきれてまともな返答ができないというのが、この時の霊側の正直な心境であったと推察される。この回答の後にも、また他のほとんどの回答にもカルデックのコメントが付してあるが、スピリチュアリズム勃興の初期にはやむを得なかったにしても、今日ではポイントがズレているので削除した。今後とも、よくよく気の利いたもの以外は訳出しない。読者各自の理解力で読み取っていただきたい。


――密度は物質の本質的属性でしょうか。


「そうです。ただし人間がいう物質の属性であって、普遍的流動体としての物質の属性ではありません。この流動体を構成する霊妙な物質は人間には計量できません。にもかかわらず地上の物質の基本的要素です」


編者注――地上の物質の密度も、あくまでも相対的なものである。天体の表面からある一定の距離以上まで離れると“重量”はなくなる(無重力状態)。“上”とか“下”がなくなるのと同じである。


――物質は一つの要素から成っているのでしょうか、それとも複数の要素で構成されているのでしょうか。


「一種類の基本的要素でできています。とは言え、単純に見える物体も実際は基本的元素そのものでできているのではありません。物体の一つ一つが根源的物質の変化したものです」


――物質のさまざまな特性はどこから生じるのでしょうか。


「各種の基本分子が合体したり、ある条件の作用を受けたりすることによる形態の変化によって生じます」


――その観点から言えば、各種の物体の特性、芳香、色彩、音色、有毒か健康に良いかといったことも皆、たった一つの基本的物質が変化したその結果にすぎないことになるのでしょうか。


「まさしくその通りです。そして、そうしたものを感知するように出来あがっている器官の機能のおかげでもあります」


――同じ基本的物質がさまざまな形態に変化し、さまざまな特性をそなえることが出来るわけでしょうか。


「その通りです。そして“全ての中に全てが存在する”という格言はその事実のことを言っているのです」


――その説は、物質の基本的特性は二つしかない――力と運動であるとし、その他の特性は全て二次的な反応にすぎず、その力の強さと運動の方向によって違ってくる、という説を支持しているように思えますが、いかがでしょうか。


「その説自体に間違いはありません。ただし、それにさらに“分子の配列の形態によって”という条件を付け加えないといけません。例えば不透明な物体が分子の配列しだいで透明になり、その逆にもなることはご存じでしょう」


――物質の分子には形態があるのでしょうか。


「あります。そのことに疑問の余地はありませんが、人間の感覚器官では確認できません」


――その形態は一定不変ですか、それとも変化しますか。


「原始的基本分子は不変ですが、基本分子の団塊である副次的な分子は変化します。地上の科学で分子と呼んでいるものは副次的なもので、まだまだ基本分子とは程遠いものです」


訳注――原始的基本分子を人間の科学では最初“原子”と呼び、その後“素粒子”と呼び、最近では“クォーク”と呼んでいる。これこそ物質の究極の相だろうと思ったものが、こうして次々と覆され、一九九四年には“トップクォーク”の存在が確認されている。が、右の回答は百年前のものとはいえ、このトップクォークでさえまだまだ究極のものではなさそうな感じを抱かせる。いずれにしても物質というものが五感で慣れ親しんでいるものとは全く違うもので、その意味で我々は仮相の世界、言わば錯覚の世界に生きていることがよく分かる。「そうしたものを感知するようにでき上がっている器官のおかげでもあります」というのはその辺を言いたかったのであろう。
〈宇宙空間〉


――宇宙空間は無辺でしょうか、それとも限りがあるのでしょうか。


「無辺です。もしもどこかに境界があるとしたら、その境界の向こうは一体どうなっているのでしょう? この命題は常に人間の理性を困惑させますが、それでも、少なくとも“それではおかしい”ということくらいは理性が認めるはずです。無限の観念はどの角度から捉えてもそうなります。人間の置かれている条件下では絶対に理解不可能な命題です」


――宇宙のどこかに絶対的真空というものが存在するのでしょうか。


「いえ、真空というものは存在しません。人間から見て真空と思えるところにも、五感その他いかなる機器でも捕らえられない状態の“もの”が存在しています」

Friday, January 17, 2025

シアトルの冬 人類は苦しみつつも、一歩一歩、光明へ向けて進化しております  Humanity is suffering, but step by step, we are evolving toward the light.

 
  • The Seed of Truth
  • トニー・オーツセン(編)
  • 近藤千雄(訳)


現代は、科学技術の進歩のおかげで、何秒も数えないうちに、ニュースが地球を一周する。何万キロも離れたところで起きたことが、ほぼ同時にテレビに映し出され、ラジオで報じられ、その日の夕刊に載る。問題なのは、そうした素晴らしい科学技術の恩恵を活用して報じられるニュースの大半が、暴力行為と悲惨な出来事ばかりだということである。

ところがシルバーバーチに言わせると、それでもなお、人類は進化しつつあるという。ある日、二人のゲストを迎えての交霊会で、そのことに言及してこう語った。


「地上世界は、たった一つの重大な原因によって、着実に改善されております。その原因とは、“霊の力”が働きかけているということです。霊力が注がれた場所、有能な道具(霊媒・霊覚者)を通して霊力が顕現したところには、必ずや霊的刷新の仕事が始まり、その仕事を通して物事の価値観が徐々に変わってまいります。

今からほぼ一世紀前(一八四八年のハイズビル事件)に始まった、大々的な組織体制のもとでの霊力の降下がなかったならば、地上世界はもっともっと深刻な事態に陥っていたはずです。潜在的な更生力が全世界に働きかけてきたからこそ、この程度で終わっているのです。

その潜在力も、最初はわずか数滴から始まりました。それが勢力を集めて小川となり、大河をつくり、海となって、今や枯渇する心配などみじんもない分量で地球を包んでおります。歴史の流れをすっかり変えております。人間生活の視野に革新をもたらしております。それは“霊”という要素、永遠に不変の要素が持ち込まれたからです。それなくしては人生は無意味ですし、不合理ですし、目的がないことになります。

科学・哲学・宗教・美術・倫理・道徳・音楽・文学――要するに人間生活の全分野において、人間は死を超えて生き続けるという事実の立証から生まれる“霊”の優越性の認識が、その意義の捉え方を変えてしまいました。時には後退のやむなきに至ったこともありますが、総体的には前進の一途をたどっており、人類は苦しみつつも、一歩一歩、光明へ向けて進化しております」

ゲストの一人「別の考え方として、もしもこの地球という天体が今よりずっと住み良い世界だったら、むしろ存在意義を失ってしまう――より高い界層へのトレーニングの場としての意味がなくなるのではないでしょうか。つまり、進歩を促す要素として、こうした苦難もなければならない……」


「その考えにも一理ありますが、元来人間というものは、いったん霊性に目覚めたら、つまり永遠の実在を垣間見て、微(かす)かであっても宇宙的計画の一端を知り、無限の宇宙機構の中で占める自分の位置を認識したら、大霊と同様、自分みずからも無限の個性を発揮していく永遠の生命を秘めた、無限の存在であることを知ります。それは言いかえれば、前途には永遠に続く進化の道があることを悟る――その頂点は永遠に見ることができない――行けども行けども登り坂が続く、ということです。おわかりでしょうか」

「よくわかります。でも……」と言って、なおも“大霊への帰一”という飛躍した意見を出した。そこでシルバーバーチが――


「話がずいぶん広遠かつ深遠なものになってまいりましたね。われわれは一人の例外もなく、大霊の一部です。あなたという存在全体が、そして、この宇宙間の全生命の総体が大霊を構成しています。生命の総体から離れて大霊の存在はありえないのです。

しかし、そう申し上げても、わたしにはそれを証明する手立てがない以上、いくらでも異論が出てくることでしょう。ですから、ここでは、ともかくわたしの言葉をそのまま受けとめていただくほかはありません。

進化の道は限りなく続きます。ここでお終(しま)いという究極がないということです。その点を理解してくだされば、究極における“神との合一”などというものはありえないことが納得していただけると思います。もしもあなたの個性のすべて――その肉体を通して顕現している小さな一部だけでなく、霊的存在としてのあなたのすべて――が完全の域に達することがあるとしたら、生命活動の計画が何のために案出されたのか、その合理的説明ができなくなります。

生命は永遠にして無限です。不完全な側面を一つまた一つと取り除きつつ、完全へ向けて絶え間なく努力していくのであり、その過程に“終局”はないのです」

「この機械化時代は人類の進化に役立っているのでしょうか。私にはそうは思えないのですが……」


「最終的には役に立ちます。進化というものを一直線に進むもののように想像してはいけません。前進と後退のくり返しです。立ち上がっては倒れるのくり返しです。少し登っては滑り落ち、次に登った時は前よりは高いところまで上がっており、そうやって少しずつ進化していきます。ある一時期だけを見れば、“ご覧なさい。この時期は人類進化の暗い汚点です”と言われるような時期もありますが、それは話のすべてではありません。ほんの一部です。

人間の霊性は徐々に進化しております。進化にともなって自我の本性についての理解が深まり、自我の可能性に目覚め、存在の意図を知り、それに適応しようと努力するようになります。

数世紀前までは夢の中で天界の美を見、あるいは恍惚たる入神の境地においてそれを霊視できたのは、ほんの一握りの者にかぎられていました。が、今や、無数の人がそれを見て、ある者は改革者となり、ある者は先駆者となり、ある者は師となり、死してのちも、その成就のために霊界から働きかけております。そこに進歩が得られるのです」

その点に関してはまったく同感です。進歩はあると思うのです。しかし全体として見た時、地球上が(機械化によって)便利になりすぎると、進化にとってマイナスになるのではないかと考えるのです」


「しかし、霊的進化がともなえば――あなた個人のことではなく人類全体としての話ですが――住んでいる世界そのものにも発展性があることに気づき、かつては夢にも思わなかった豊かさが人生から得られることを知ります。

機械化を心配しておられますが、それが問題となるのは、人間が機械に振り回されて、それを使いこなしていないからに過ぎません。使いこなしさえすれば、何を手に入れてもよろしい――文化・レジャー・芸術・精神と霊の探求、何でもよろしい。かくして内的生命の豊かさが広く一般の人々にも行きわたります。

その力はすべての人間に宿されているのです。すべての人間が大霊の一部だからです。この大宇宙を創造した力と同じ力、山をこしらえ、恒星をこしらえ、惑星をこしらえた力と同じ力、太陽に光を与え、花に芳香を与えた力、それと同じ力があなた方一人ひとりに宿っており、生活の中でその絶対的な力に波長を合わせさえすれば、存分に活用することができるのです」

「花に芳香を与えた力が、ヘビに毒を与えている、という観方もあります」


「わたしに言わせれば、それは少しも問題ではありません。よろしいですか。わたしは大霊があなた方のいう“善”だけを受けもち、悪魔が“悪”を受けもっている、とは申しておりません」

「潜在的には善も悪もすべて、われわれ自身の中に存在しているということですね?」


「人間一人ひとりが小宇宙なのです。あなたもミニチュアの宇宙なのです。潜在的には完全な天使的資質をそなえていると同時に、どう猛な野獣性もそなえております。だからこそ、自分の進むべき方向を選ぶ自由意志が授けられているのです」

「地球という惑星も進化しているとおっしゃいましたが、ではなぜ、霊の浄化のためになお苦難と奮闘が必要なのでしょうか」


「人間が無限の存在だからです。一瞬の間の変化というものは生じません。永い永い進化の旅が続きます。その間には上昇もあれば下降もあり、前進もあれば後退もあります。しかし、そのたびに少しずつ進化していくのです。

霊の世界では、次の段階への準備が整うと、新しい身体への脱皮のようなものが生じます。ですが、その界層を境界線で仕切られた、固定した平地のように想像してはなりません。次元の異なる生活の場が段階的にいくつかあって、お互いに重なり合い融合し合っているのです。地上世界においても、一応みなさんは地表という同じ物的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別々の世界に住んでいるとも言えるのです」

「これまでの地上社会の進歩は、これから先の進歩に較べれば微々たるものに過ぎないのでしょうか」


「いえ、わたしはそういう観方はしたくないのです。比較すれば確かに小さいかもしれませんが、進歩は進歩です。

次のことを銘記してください。人間は法律や規則をこしらえ、道徳律を打ち立てました。文学を豊かなものにしてきました。芸術の奥義をきわめました。精神の隠された宝を突き止めました。霊の宝も、ある程度まで掘り起こしました。

こうしたことは全て、先輩たちのお蔭です。苦しみつつコツコツと励み、試行錯誤をくり返しつつ、人生の大うず巻の中を生き抜いた人たちのお蔭です。総体的にみれば進歩しており、人間は、初期の時代に較べれば豊かになりました。物質的な意味ではなく、霊的に精神的に豊かになっております。そうあってくれないと困ります」

このあと、さらに次のようなコメントを付け加えた。


「嘆かわしいほど無知な人々――自分が霊的存在であることを知らず、したがって“死”の彼方にも生活があることを知らずにいる人々に、そうした基本的な知識を広めるために、われわれがしなければならないことが山ほどあります。

せっかくのこの地上生活を、霊的実在について聞く耳も、語る口も、見る目も持ち合わせないまま終えてしまう、数え切れないほど多くの人たちのことを思うと、何たる悲劇! と叫ばずにはおれません。これは大悲劇です。われわれの努力はそういう人たちに向けられねばならないのです。人生の本当の意義を全うするためには、真実の自分に目覚めないといけないからです」

続いて、もう一人のゲストに向かってこう述べた。女性霊媒として長年の経験をもつ人である。


「今日まであなたを導いてきた力(背後霊)を確信することです。そうすれば、その力の方からあなたを見捨てることはありません。あなたは大変な愛によって包まれております。その愛の力は絶対にあなたを見捨てません。あなたに託されている責務を忠実に果たしているかぎり、その愛の力から見放されることはありません。

愛の力とは何か、どのように作用するのか、どのように規制されているか、どういう摂理のもとに管理されているかは、とうてい言語では説明できません。ただ確実にいえることは、正しい条件――誠実さ、奉仕的精神、知識を基盤とした確信さえあれば、その力があなたを支え、導き、いかなる体験にも力強く対処させ、あなたに託された目的を達成する上で援助してくれるということです」

いよいよその日の交霊会も終わりに近づき、シルバーバーチは最後の締めくくりとして、こう述べた。


「わたしの仕事は、地上へ来てからこしらえた多くの同志――といっても、この声と個性によってしかわたしをご存知ないわけですが――その人たちのお蔭で、ずいぶんラクな思いをさせていただいております。

その同志から送られてくる愛が、わたしにとって大きな力となっているのです。その愛の力こそがこの仕事を続ける上での“資力”なのです。わたしたちの心にあるものは、嘆き悲しんでいる人々、疑念と恐怖にさいなまれている人々のことばかりです。そういう人たちの人生に少しでも安らぎを与えてあげるものをお届けしないことには、わたしたちの心も安まらないのです。

これは大変な仕事です。これを正当な手段で遂行していくことによって、わたしたちも、そして皆さんも、真の意味での大霊の道具となることができるのです。地上世界は“下”からでなく“上”から支配されているのです。地上世界の法律は改正されたり、廃止されたり、無効になったりします。新たな事情が生じて、それに合わせて新たな法律がこしらえられたりします。が、霊の法則は変えられないのです。不変なのです。法則どおりにならないということがないのです。そして、ありとあらゆる事態にそなえられているのです。

ですから、少しも案ずることはありません。そうした絶対的な摂理をこしらえた力、全生命に意義と目的とを与えた力、それがあなたを取り巻いているのです。逆境にあっては、あなたを守るマントとなり、永遠なる愛をもって包み込んでくれる力なのです」

祈り

偽りの神・偽りの教義・偽りの神学に背を向け……


これよりわたしは、古(いにしえ)の予言者を鼓舞し、聖賢や先見者に叡智の輝きに満ちた未来図を見ることを得さしめたのと同じ力を呼び寄せ、人間の無明(むみょう)の心に光明と悟りを与え、迷いを払うべく、完全なる摂理として働くあなたに、深甚なる感謝の祈りを捧げます。

わたしどもが改めて地上に甦(よみがえ)らせたいのは、人間生活を一変せしむるほどの威力、人類を変身せしむるほどの威力を秘めた霊力でございます。それが人間に、あなたの永遠の機構の中で占める位置を理解せしめ、改善と改良と奉仕のために働き、挫折せる者を救い、無力なる者を援助し、飢えに苦しむ者に食を与え、弱き者に力を与え、人類の呪(のろ)いであり文明の汚点である不平等と不公正のすべてを排除すべく、子等に力と勇気と目的意識とを与えてくださるのでございます。

わたしたちは、地上の子等が偽りの神・偽りの教義・偽りの神学に背を向け、あなたの真理の光に導かれて普遍的な宗教を打ち立てることができるように、すなわちあなたを人類全体の父として認識し、人類はすべてあなたの子であるとの理解のもとに、こぞってあなたを崇拝することになるように、あなたの真の姿と彼ら自身についての、より充実せる理解が得られる道へ手引きしたいのでございます。

子等の団結の妨げとなるもの全てを排除したいのでございます。階級の差別、肌色の違い、民族の違いによる分裂をなくし、人間のこしらえた障壁を崩し、新しい光、新しい希望を物質界にもたらしたいのでございます。

同胞の高揚のために心を砕く各界の先駆者や改革者を鼓舞し励まし、彼らが高き霊の世界から導かれていること、その努力には大霊の祝福があることを知らしめたいのでございます。

かくしてわたしどもは、子等を少しでもあなたに近づかしめ、あなたを子等に近づかしめるべく、祈り、そして刻苦するものです。

シアトルの冬 偉大さの尺度は奉仕的精神の度合いにあります

The measure of greatness is the degree of service


シルバーバーチ
地上人類への最高の福音


延べにして六十年にも及んだ地上での使命の中で、シルバーバーチが当惑した様子や不満の色、いらだちの態度を見せたことは一度もなかった。また、招待されて出席した人を個人的に批判することも絶対になかった。本当の意味での老賢人、慈悲深い魂だった。

その日の交霊会にもゲストが出席していた。そして、死後の世界の存在についてまだ本格的な確信が持てずにいることを正直に告白した。それを聞いて述べたシルバーバーチの回答が、さながらスピリチュアリズムの要約の観があるので、それをそのまま紹介しよう。


「わたしたち霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大変な使命です。霊界から見る地上は、無知の程度がひどすぎます。その無知が生み出す悪弊には、見るに耐えないものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれが、ひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。地上の宗教家は、死の関門をくぐった信者は、魔法のように突如として、言葉ではつくせないほどの喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です。

死んで霊界へ来た人は――初期の段階にかぎっての話ですが――地上にいた時と少しも変わりません。肉体を捨てた――ただそれだけのことです。個性は少しも変わっていません。性格はまったくいっしょです。習性も特質も性癖も個性も、地上時代そのままです。利己的だった人は、相変わらず利己的です。貪欲だった人は、相変わらず貪欲です。無知だった人は、相変わらず無知のままです。悩みを抱いていた人は、相変わらず悩んでおります。少なくとも霊的覚醒が起きるまでは、そうです。

こうしたことがあまりに多すぎることから、霊的実在について、ある程度の知識を地上に普及させるべしとの決断が下されたのです。そこで、わたしのような者が永年にわたって霊的生命についての真理を説く仕事にたずさわってきたわけです。霊的というと、これまではどこか神秘的な受け取られ方をされてきましたが、そういう曖昧なものでなしに、実在としての霊の真相を説くということです。そのためには、何世紀にもわたって受け継がれてきた誤解・無知・偏見・虚偽・欺瞞・迷信――要するに人類を暗闇の中に閉じ込めてきた勢力のすべてと闘わねばなりませんでした。

わたしたちは、そうした囚(とら)われの状態に置かれ続けている人類に霊的解放をもたらすという目的をもって、一大軍団を組織しました。お伝えする真埋はいたって単純なのですが、それにはまず、証拠になるものをお見せすることから始めなければなりません。すなわち偏見を捨てて、真摯な目的、真実を知ろうとする欲求をもって臨む者なら誰にでも得心のいくものであることを明らかにしなければなりません。愛する人たちは、そちら側からそのチャンスを与えてくれさえすれば、つまり然るべき通路(霊媒)を用意してくれさえすれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます。

これは空想の産物ではありません。何千回も何万回も、くり返し証明されてきている事実を、ありのままに述べているまでです。もはや議論や論争の枠を超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお、認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。

以上が第一の目的です。“事実なら、その証拠をみせていただこう。われわれはもう信じるというだけでは済まされなくなっている。あまりに長い間、気まぐれな不合理きわまる教義を信じ込まされてきて、われわれは今そうしたものに、ほとほと愛想をつかしてしまった。われわれが欲しいのは、われわれ自身で評価し、判断し、測定し、考察し、分析し、調査できるものだ”――そうおっしゃる物質界からの挑戦にお応えして、霊的事実の証拠を提供するということです。

それはもう十分に提供されているのです。すでに地上にもたらされております。欲しい人は自分で手にすることができます。それこそが、わたしがこれまでにあらゆる攻撃を耐え忍び、これからもその砦(とりで)となってくれる“確定的事実”という、スピリチュアリズムの基盤なのです。もはや“私は信じます。私には信仰というものがあります。私には希望があります”といったことでは済まされる問題ではなくなったのです。“事実なのだから、どうしようもありません。立証されたのです”と断言できる人が、数え切れないほどいる時代です。

人類史上はじめて、宗教が実証的事実を基盤とすることになりました。神学上のドグマは証明しようのないものであり、当然、議論や論争がありましょう。が、死後の存続という事実は、まともな理性をもつ者ならば必ずや得心するだけの証拠が揃っております。しかし、証明された時点から本当の仕事が始まるのです。それでお終(しま)いとなるのではありません。まだその事実を知らない人が無数にいます。その人たちのために証拠を見せてあげなくてはなりません。少なくとも、死後にも生命があるという基本的真理は間違いないのだ、という確証を植えつけてあげる必要があります。

墓の向こうにも生活があるのです。あなたがたが“死んだ”と思い込んでる人たちは、今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。現実に戻ってきているのです。

しかし、それだけで終わってはいけません。死後にも生活があるということは何を意味するのか。どのように生き続けるのか。その死後の生活は、地上生活によってどういう影響を受けるのか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。死の関門を通過したあと、いかなる体験をしているのか。地上時代に心に思ったことや言動は、死後、役に立っているのか障害となっているのか。以上のようなことを知らなくてはいけません。

また死後、地上へ伝えるべき教訓として何を学んでいるのか。物的所有物のすべてを残していったあとに、いったい何が残っているのか。死後の存続という事実は、宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別の問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。

そうです、そういう分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は、永いあいだ人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。

いかがですか、大ざっぱに申し上げた以上の話が、お役に立ちましたでしょうか」

「お話を聞いて、すっきりと理解がいったように思います」


「もう一つ申し上げたいことがあります。そうした問題と取り組んでいく上で、わたしたちは、暗黒の勢力と反抗勢力、そして、そうした勢力に加担することで利益を確保している者たちに対して、間断なき闘いを続けていかねばなりませんが、同時に、不安とか取り越し苦労といった“恐怖心”との闘いをも強(し)いられているということです。

地上と霊界との間には、その関係を容易にする条件と、反対に難しくする条件とがあります。誤解・敵意・無知――こうした障害は後者ですが、これはお互いの努力によって克服していけるものです。そのためには、わたしたちが存分に力を発揮する上で人間側に要求したい、心の姿勢というものがあります。

人間は肉体をたずさえた霊であり、わたしたちは肉体をもたない霊です。そこに共通したものがあります。“霊”というつながりです。あなたも今この時点において立派に“霊的存在”なのです。死んでから霊になるのではありません。死んでから霊体をさずかるのではありません。死はただ単に肉体という牢獄からあなたを解放するだけです。小鳥が鳥カゴを開けてもらって大空へ飛び立つように、死によってあなたは自由の身となるのです。

基本的には、あなたがた人間にも“霊”としてのあらゆる才能、あらゆる属性、あらゆる資質がそなわっております。今のところ、それが未発達の状態で潜在しているわけです。もっとも、わずかながら、すでに発現しているものもあります。未発達のものをこれからいかにして発現していくか、本当のあなたを表現していくにはどうしたらよいか、より大きな自我を悟り、大霊からのすばらしい遺産をわがものとするにはどうすればよいか、そうしたことをわたしたちがお教えすることができるのです。

しかし、いかなる形にせよ、そうした使命を帯びて地上へ戻ってくる霊は、必然的に、ある種の犠牲を強いられることになります。なぜなら、そのためには波長を地上の低い波長に合わさなければならない――言い変えれば、人間と接触するために、霊的な波長を物的な波長へと転換しなければならないからです。

人類の大半はまだ霊的なものを求める段階まで達しておりません。言い変えれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることができないのです。

そこで、わたしたちの方から、言わば階段を下りなければならないのです。そのためには当然、それまでに身につけた霊的なものの多くを、しばらく置き去りにしなければなりません。本当は人間側からも階段を上がってもらって、お互いが歩み寄るという形になれば有り難いのですが、それはちょっと望めそうにありません。

しかし、人間が霊的存在であることに変わりはありません。霊的資質を発揮し、霊的な光輝を発揮することができれば、不安や疑いの念はすべて消滅してしまいます。霊は安心立命の境地においてのみ、本来の力を発揮するものです。

わたしたちが闘わねばならない本当の敵は、実は人間の無用の心配です。それがあまりに多くの人間の心に巣くっているのです。単なる観念上の産物、現実には存在しない心配ごとで悩んでいる人が多すぎるのです。

そこでわたしは、取り越し苦労はおやめなさいと、くり返し申し上げることになるのです。自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物は決して与えられません。しかも、あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれる、あらゆる力を引き寄せることができるのです。

このように、霊的な問題は実に広大な範囲にまたがる、大きな問題なのです。人生のあらゆる側面にかかわりをもっているのです。ということは、これからという段階にいらっしゃるあなたには、探検旅行にも似た愉しみ、新しい霊的冒険の世界へ踏み込む楽しさがあるということでもあるのです。どうか頑張ってください」

「死後どれくらいたってから地上へ戻ってくるのでしょうか」


「それは一人ひとりの事情によって異なります。こちらへ来て何世紀にもなるのに、自分の身の上に何が起きたかがわからずにいる霊もいます」

「自分が死んだことに気づかないのです」とメンバーの一人が口添えする。するとシルバーバーチが――


「一方にはちゃんとした霊的知識をたずさえた人もいます。そういう霊は、適当な霊媒さえ見つかれば、死んですぐにでもメッセージを送ることができます。そのコツを心得ているのです。このように、この問題は霊的知識があるかどうかによって答えが異なる問題であり、単純にこうですとはお答えできません。

わたしたちが手を焼くのは、死後について誤った概念を抱いたままこちらへ来る大勢の人たちです。自分の想像していた世界だけが絶対と思い、それ以外ではありえないと思い込んでいます。一心にそう思い込んでいますから、それが彼らにとって現実の世界となるのです。わたしたちの世界は、精神と霊の世界であることを忘れないでください。思ったことがそのまま現実となるのです」

ここでシルバーバーチは、メンバーの中で心霊治療能力をもっている人に助言してから、再びさきの質問者に向かって――


「この心霊治療も、わたしたちの大切な仕事なのです。治療家を通路として霊界の治癒エネルギーが地上の病的身体に注がれるのです。

このように、わたしたちの仕事はいろいろな側面、いろいろな分野をもった、非常に幅の広い仕事です。初心者の方は面食らうこともあると思いますが、間違いなく真理であり、その真実性を悟られた時に、あなたの生活に革命が起こります。

宗教の世界では“帰依(きえ)”ということを言います。おきまりの宣誓文句を受け入れ、信仰を告白する――それでその宗教へ帰依したことになるというのですが、本当の帰依というのは、霊的真理に得心がいって、それがあなたという存在の中にしっくりと納まることをいうのです。

その時からその人は新しい眼を通して、新しい確信と新しい理解とをもって人生を見つめます。生きる目的が具体的にわかるようになります。大霊が全存在のために用意された計画の一端がわかり始めるからです。

ある人は政治の分野において、生活の苦しい人々、社会の犠牲になっている人々、裏切られている人々、寄るべなき人々のために、その霊的知識を生かそうと奮い立ちます。ある人は宗教の世界へ足を踏み入れて、死に瀕(ひん)している古い教義に新しい生命を吹き込もうとします。ある者は科学の実験室に入り、残念ながらすっかり迷路にはまってしまった科学者の頭脳に、霊的なアイディアを吹き込もうと意気込みます。また芸術の世界へ入っていく人もいることでしょう。

要するに霊的真理は人生のすべての分野に関わるものだということです。それは当然のことなのです。なぜなら、生命とは霊であり、霊とはすなわち生命だからです。霊が目を覚まして真の自分を知った時、つまり霊的意識が目覚めた時、その時こそ自分とは何者なのか、いかなる存在なのか、なぜ存在しているのかといったことに得心がいきます。それからの人生は、その後に宿命的に待ちうける、より豊かで、より大きな生命の世界への身仕度のために、“人のために自分を役立てる”ことをモットーとして生きるべきです。

どうぞ、これからも真理探求の旅をお続けください。求め続けるのです。きっと与えられます。要求が拒絶されることは決してありません。ただし、回答は必ずしもあなたが期待したとおりのものであるとはかぎりません。あなたの成長にとって最善のものが与えられます」

最後に出席者全員に向かって、次のような別れの言葉を述べた。


「われわれは大いなる神の計画の中に組み込まれていること、一人ひとりが何らかの存在価値をもち、小さすぎて用のない者というのは一人もいないこと、忘れ去られたりすることは決してないことを忘れないようにしましょう。そういうことは断じてありません。宇宙の大霊の大事業に誰しも何らかの貢献ができるのです。霊的知識の普及において、苦しみと悲しみの荷を軽くしてあげることにおいて、病を癒してあげることにおいて、同情の手を差しのべることにおいて、寛容心と包容力において、われわれのすべてが何らかの役に立つことができるのです。

かくして各自がそれぞれの道において、温かき愛と、悠然たる自信と、確固たる信念をもって生き、道を見失った人々があなたがたを見て、光明への道はきっとあるのだと感じ取ってくれるような、そういう生き方をなさってください。それも人のために役立つということです。

では、大霊の祝福の多からんことを!」

その日の交霊会はそれで終わり、続いての交霊会に出たシルバーバーチは、その間に帰っていた本来の上層界での話に言及して、こう述べた。


「いつものことながら、いよいよ物質界へ戻ることになった時の気持ちは、あまり楽しいものではありません。課せられた仕事の大変さばかりが心に重くのしかかります。しかし、皆さんの愛による援助を受けて、ささやかながらわたしの援助を必要としている人たち、そしてそれを受け止めてくださる人たちのために、こうして戻ってくるのです。

これまでの暫(しば)しの間、わたしは本来の住処(すみか)において僚友とともに過ごしてまいりましたが、どうやら、わたしたちのこれまでの努力によって何とか成就できた仕事についての評価は、わたしが確かめたかぎりにおいては、満足すべきものであったようです。これからも忠誠心と誠実さと協調精神さえあれば、ますます発展していく大霊の計画の推進に挫折が生じる気づかいは毛頭ありません。

その原動力である霊の力が果たしてどこまで広がりゆくのか、その際限を推し量ることは、このわたしにもできません。たずさわっている仕事の当面の成果と、自分の受け持ちの範囲の事情についての情報は得られても、その努力の成果が果たして当初の計画どおりに行っているのかどうかについては知りませんし、知るべき立場にもないのです。わたしたちの力がどこまで役立ったのだろうか、多くの人が救われているのだろうか、それとも僅(わず)かしかいなかったのだろうか――そんな思いを抱きながらも、わたしたちはひたすら努力を重ねるだけなのです。

しかし、上層界にはすべての連絡網を通じて情報を集めている霊団が控えているのです。必要に応じて大集会を催し、地上界の全域における反応をあらゆる手段を通してキャッチして、計画の進捗(しんちょく)ぐあいを査定し、評価を下しているのです。

かくして、わたしたちにすら知り得ない領域において、ある種の変化がゆっくりと進行しつつあるのです。暗闇が刻一刻と明るさを増していきつつあります。霧が少しずつ晴れていきつつあります。モヤが後退しつつあります。無知と迷信とドグマによる束縛と足枷から解放される人が、ますます増えつつあります。自由の空気の味を噛みしめております。心配も恐怖もない雰囲気の中で、精神的に、霊的に、自由の中で生きることの素晴らしさに目覚めつつあります。

自分がこの広い宇宙において決して一人ぼっちでないこと、見捨てられ忘れ去られた存在ではないこと、無限なる愛の手が常に差しのべられており、今まさに自分がその愛に触れたのだということを自覚し、そして理解します。人生は生き甲斐のあるものだということを、今一度あらためて確信します。そう断言できるようになった人が、今日、世界各地に広がっております。かつては、それが断言できなかったのです。

こうしたことが、わたしたちの仕事の進捗ぐあいを測るものさしとなります。束縛から解放された人々、二度と涙を流さなくなった人々が、その証人だということです。これから流す涙は、うれし涙だけです。心身ともに健全となった人々、懊悩(おうのう)することのなくなった人々、間違った教義や信仰がつくり出した奴隷的状態から逃れることができた人々、自由の中に生き、霊としての尊厳を意識するようになった人々、こうした人たちは皆、われわれの努力、人類解放という気高い大事業にたずさわる人たちすべての努力の成果なのです。

これからも、まだまだ手を差しのべるべき人が無数にいます。願わくば、われわれの手の届くかぎりにおいて、その無数の人々のうちの幾人かでも真の自我に目覚め、それまでに欠けていた確信を見出し、全人類にとって等しく心の拠(よ)り所となるべき、永遠の霊的真理への覚醒をもたらしてあげられるように――更生力に富み、活性力と慰安力とにあふれ、気高い目標のために働きかける霊の力の存在を意識し、代わって彼らもまた、いずれはその霊力の道具となって、同じ光明をますます広く世界中に行きわたらせる一助となってくれるよう、皆さんとともに希望し、祈り、そして決意を新たにしようではありませんか。

真理はたった一人の人間を通じてもたらされるものではありません。地球上の無数の人間を通じて浸透していくものです。霊力の働きかけがあるかぎり、人類は着実に進歩するものであることを忘れないでください。今まさに人類は、内在する霊的遺産を見出しはじめ、霊的自由をわがものとしはじめました。そこから湧き出る思い、駆り立てられるような衝動、鼓舞されるような気持ちは、強烈にして抑えがたく、とうてい抑え通せるものではありません。霊の自由、精神の自由、身体の自由にあこがれ、主張し、そして希求してきた地球上の無数の人々を、今その思いが奮い立たせております。

こうして、やがて新しい世界が生まれるのです。王位は転覆され、権力的支配者は失脚し、独裁者は姿を消してまいります。人類はその本来の存在価値を見出し、内部の霊の光が世界中にさん然と輝きわたることでしょう。

それは、抑え難い霊的衝動の湧出(ゆうしゅつ)によってもたらされます。今まさに、それが更生の大事業を推進しているのです。わたしが決して失望しない理由はそこにあります。わたしの目に、人類の霊的解放というゴールへ向けての大行進が見えるからです」

ここでメンバーの一人が「歴史をみても、人類の努力すべき方向はすでに多くの模範が示してくれております」と言うと――


「そうなのです。訓えは十分に揃っているのです。今必要なのは、その実行者です。

そこで、その実行者たるべきわれわれは、悲しみに打ちひしがれた人々、重苦しい無常感の中にあって真実を希求している無数の人々の身の上に思いを馳せましょう。われわれの影響力の行使範囲にまでたどりついた人々に精一杯の援助を施し、慰めを与え、その悲しみを希望に変え、孤独感を打ち消して、人生はまだお終いではないとの確信をもたせてあげましょう。

無限の宝を秘めた大霊の貯蔵庫から、霊力を引き出しましょう。われわれに存在を与え給い、みずからのイメージに似せて創造したまい、神性を賦与してくださった大霊の道具となるべく、日常生活において、われわれ自身を厳しく律してまいりましょう。

われわれこそ、その大霊の計画の推進者であることを片時も忘れることなく、謙虚さと奉仕の精神と、託された信託への忠誠心をもって臨むかぎり、恐れるものは何一つないこと、いかなる障害物も、太陽の輝きの前の影のごとく消滅していくとの確信をもって、邁進(まいしん)いたしましょう」

別の日の交霊会で――

「心霊的能力の発達は人類進化の次の段階なのでしょうか」


「霊能者とか霊媒と呼ばれている人が進化の先駆けであることに、疑問の余地はありません。進化の梯子の一段上を行く、いわば前衛です。そのうち、心霊能力が人間の当りまえの能力の一部となる時代がきます。地上人類は今、精神的発達の段階を通過しつつあるところです。このあとには、必然的に心霊的発達の段階がきます。

人間が、五感だけを宇宙との接触の通路としている、哀れな動物ではないことをまず認識しないといけません。五感で知りうる世界は、宇宙のほんの一部です。それは物的手段で感識できるものに限られています。人間は物質を超えた存在です。精神と霊とでできているのです。その精神と霊にはそれなりのバイブレーションがあり、そのバイブレーションに感応する、別の次元の世界が存在します。地上にいる間は物的なバイブレーションで生活しますが、やがて死をへて、より高いバイブレーションの世界が永遠の住処(すみか)となる日がまいります」

「霊界のどこに誰がいるということが簡単にわかるものでしょうか」


「霊界にはそういうことが得意な者がおります。そういう霊には簡単にわかります。大ざっぱに分類すれば、他界した霊は、地上へ帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。帰りたがっている霊の場合は、有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡が取れます。しかし帰りたがらない霊ですと、どこにいるかは突き止められても、地上と連絡を取るのは容易ではありません。イヤだというのを、無理やりに連れ戻すわけにはいかないからです」

別の質問に答えて――


「次のことをよく理解しないといけません。こちらの世界には地上の人間への愛、情愛、愛情、同情といったものをごく自然な形で感じている霊が大勢いるということです。精神的なもの、霊的なものによって結びついている時は、それは実在を基盤とした絆で結びついていることになります。なぜなら、精神的な力や霊的な力の方が、地上的な縁よりも強烈だからです。たとえば、地上のある画家がすでに他界している巨匠に心酔しているとします。その一念は当然その巨匠に通じ、それを縁として地上圏へ戻って、何らかの影響力を行使することになります。

もう一つ理解していただきたいのは、地上時代に発揮していた精神的ならびに霊的資質が何であれ、皆さんが“死んで”その肉体を捨ててしまうと、地上時代よりはるかに多くの資質が発揮されはじめるということです。肉体という物質の本質上、どうしても制約的・抑止的に働くものが取り払われるからです。そうなってから、もしも地上に、右の例の画家のように精神的ないし霊的なものを縁としてつながる人が見つかれば、その拡張された能力を役立てたいという気持ちになるものなのです。

その影響力を無意識のうちに受けておられる場合もあります。地上の芸術家はそれを“インスピレーション”と呼んできましたが、それが“霊”から送られていることには気づいておられないようです。つまり、かつて同じ地上で生活したことのある先輩から送られてきているという認識はないようです。

これは、わたしの場合にもいえることです。生命の摂理について皆さんより少しばかり多くのことを学んだわたしが、こうして地上へ戻ってきて、受け入れる用意のある人にお届けしているように、わたしより多くを学んでいる偉大な先輩が、このわたしに働きかけているのです。偉大さの尺度は奉仕的精神の度合にあります。いただくものが多いから偉大なのではなく、与えるものが多いから偉大なのです。

どうか皆さんも、可能なかぎりの美徳を地上にもたらすために皆さんを活用しようとしている高級霊の道具である、というよりは、心がけ一つで道具となれる、ということを自覚なさってください。自分が授かっている資質ないしは才能を人類のために捧げたい――苦悩を軽減し、精神を高揚し、不正を改めるための一助となりたい、という願望を至上目的とした生き方をしていれば、何一つ恐れるものはありません。

何が起きようと、それによって傷つくようなことはありません。目標を高く掲げ、何ものにも屈しない盤石(ばんじゃく)の決意をもって、“最大多数の人々への最大限の徳”をモットーにして仕事に当たれば、それが挫折することは絶対にありません」

その日のゲストには、ぜひとも交信したい相手がいて、どうすればそれが叶えられるかをシルバーバーチに尋ねた。すると次のようなアドバイスが与えられた。


「交霊会に出席する際に、特別な先入観を抱いていると、それが交信の障害となります。地上側はあくまでも受信者ですから、会場の雰囲気は受け身的でないといけません。そこへ強烈な思念を抱いて出席することは、言わばその会場に爆弾を落すようなものです。こうあってほしいという固定観念を放射し、それ以外のことを受け入れる余裕がないような状態では、せっかくの交信のチャンネルを塞いでしまうことになります。交信はあくまでもチャンネルを通して届けられるのです。それを塞いでしまっては、交信ができるはずがありません。開いていないといけません。

わたしたちが皆さんに近づけるのは、皆さんが精神的に共感的で受け身的な状態にある時です。言いかえれば、心のドアを開いて“さあ、受け入れの準備ができました。どうぞ”と言える時です。“自分はかくかくしかじかのものを要求したい。それ以外は断ります”といった態度では、交信のチャンネルを制約し、あなたが求めている霊までが出現しにくくなるのです」

「霊媒の中には、霊の姿まで見えているのに、その霊の地上時代の“姓”はよくわからないという人がいますが、なぜでしょうか」


「それは、その霊媒にとっては、ほかのことに較べて“姓”の観念がにがてというまでのことです。要は波動がキャッチできるかどうかの問題です。よく馴染んでいる波動は伝達が容易です。珍しい名前、変わった名前ほど伝達しにくく、したがって受け取りにくいということになります。

もう一つの要素として、霊界から霊媒や霊能者に届けられる通信の多くは、絵画やシンボルの形で送られることが多く、その点、姓名というのは絵画やシンボルで表現するのはほとんど不可能という事情があります。霊視力や霊聴力の確かな霊媒なら、姓名の伝達もうまく行きます。

ただ、忘れないでいただきたいのは、霊媒としての評価は姓名をよく言い当てるかどうかではなくて、その霊についての確かな存在の証拠を提供できるかどうかであることです」
祈り



地上各地に霊の神殿を設け……


ああ、大霊よ。全生命の無限なる始原にあらせられるあなた。全宇宙を創造し、形態を与え、それぞれに目的を持たせ、その全側面を経綸したまうあなた。そのあなたの分霊(わけみたま)をうけているわたしたちは、その霊性を高め、目的意識を強め、あなたとの絆をさらに強く締め、あなたの叡智、あなたの愛、あなたの力でみずからを満たし、あなたの道具として、より大きくお役に立ち、あなたの子等のために尽くしたいと願うものでございます。

わたしたちは、地上人類に実り多き仕事の機会をもたらす霊的な安らぎと和の雰囲気を回復させ、そのエネルギーを全世界へ福利と協調の精神を広めるために用い、空腹と飢餓、苦悩と悲哀、邪悪と病気、そして戦争という惨劇を永遠に排除し、すべての者が友好と親善の中で生活し、あなたが賦与なされた資質の開発に勤しみ、かくして一人ひとりが全体のために貢献するようになることを願っております。

わたしたちは子等の一人ひとりに潜在しているあなたの神性を呼び覚まし、それを生活の中に自由闊達に顕現せしめたいと念願しております。その神性にこそ、始めも終わりもない、無限の目的と表現をもつ、霊力の多様性が秘められているのでございます。

人間がチリとドロからこしらえられたものではなく、あなたの分霊であることを理解し、その目的のもとに生活を律していくためにも、その霊的資質を甦らせてあげたいのでございます。

愛と理解とをもって悲哀と無知とを追い出し、人間みずからこしらえてきた障害を破壊することによって、生命と同じく愛にも死はなく永遠であることの証を提供したいと望んでいる高き世界の霊が、自由にこの地上へ戻ってこられるようにしたいと願っているのでございます。

地上の各地に霊の神殿(交霊の場)を設け、高き界層からの導きとインスピレーションと叡智と真理が存分に届けられ、人間が人生の目的、物質界に存在することの理由を理解し、宿命的に待ちうける、より高き、より充実せる生命活動の場にそなえて、霊性を鍛えることができるようになることを願うものです。

あまりに永きにわたって霊性を束縛してきた無知と迷信への隷属状態から人間を救い出し、霊的にも、精神的にも、身体的にも自由を獲得し、あなたの意図された通りの生き方ができるようになって欲しいのでございます。