Saturday, October 17, 2026

霊訓〈完訳・下〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






31節

本節の内容
*著者の友人の自殺の波紋 *自殺霊の運命
*利己的人生の破滅性   *悔恨が向上の第一歩
*天使の救い *浄化の炎 *己の罪は己が償う
*人生は“旅”、そのよろこびは“向上進化”
*生活の三つの側面(自己反省と祈り、神への崇敬と讃仰、三種の敵との葛藤)


『生と死――進歩と堕落』


〔一八七六年四月二十八日。本節で紹介する通信は通信霊の身元が強力な証拠によって確認されたケースに関するものである。数多い同類のケースの中でもこれが一段と際立っており、こうしたケースがとかく騙され易く、かつその可能性が十分あり得る点を考慮しても、果たしてこれほど一貫した完璧な一連の証拠が単なる詐称や自己欺瞞といった説で説明がつくであろうかと考えると、まずそれは不可能であるとしか言いようがない。通信は私が生涯親しくしていた友人の気の毒な死に関するものである。ある時ハドソン氏(1)邸での交霊会でその友人の映像が写真に出て、その後ずっと私の身辺にいるのを霊視し、かつ感じ取ってもいた。その写真を撮った時、私は入神していた。撮り終わってから別の霊がその霊の名前を教えてくれて、その像の乾板上の位置まで指摘してくれたが、現像してみるとその通りに写っており、映像は良くなかったが、その会に出席する前から脳裏をかすめていた友人の面影が容易に見て取れた。実はこのケースにはもう一つ特徴的な要素が付随しているのであるが、残念ながら内容上それは公表できない。とにかく映像的にも性格的特徴の点においても、その友人であるとの確認が得られたと述べるに留めさせて頂く。

この写真に関して最初に得た通信は、心霊写真の製造方法についてのものであった。それによると、一人の霊が私の周りで活撥に動いて、複数の霊界の技術者に指示を与えていたという。像の周りの例の被(おお)いのようなものは時間とエネルギーを節約するための処置だということで、頭部は完全に形を整えていたが、他の部分は言わば“スケッチ”ほどのものだという。そうした部分的物質化という機械的な仕事にも、それなりの勉強を積んだ大勢の技術者が携わるという。一人の心霊写真霊媒が撮る写真の映像が全体的にどれも似た傾向があるのはそのためだという。

インペレーターとしては二度と物理的心霊現象には関わりたくなかったし、協力するのはどうしても協力せざるを得ぬ時のみに限って来たので、この度のこともインペレーターの意向にそったものではないとの説明があった。

その友人の霊は生前ずっと私の仲間であり、当日その交霊会に出たのには特殊な理由があった。従って彼の方が他の誰よりも写真に出るのが容易であった。もっとも私は二人の友人を伴い、その二人のための証拠を得ることが目的だったのであって、私個人のためではなかった。

そういうわけで、その友人はM霊の世話でその会に出席し、M霊が技術者を指揮して顔を整え、被(おお)いをスケッチしたというのである。面影は霊質の素材で拵え、実際にポーズを取り、それから撮影した。

こうした通信のあとインペレーターが次のように述べた。〕


これよりそなたの友人のことについて述べる。が、その前に一言申しておくが、われらはそなたが再び物理的現象に関わるのを防がんとして出来得るかぎりのことをした。ようやく落ち着いて来た正常なエネルギーが再びその方面へ駆り立てられるのを望まなかったからである。そこでわれらは、そなたがその気持にさせられる環境に置かれるのを阻止せんとした。以前にも説明したが、われらはそなたがいつまでも物理的段階に留まっているのを不可として交霊会を中止した。友人がそなたに付きまとうのも好ましからぬことと観ていた。彼は霊性が低い。故になるべくなら彼のことを構わずにいて欲しかった。が、一旦こうして関わった以上は、彼を向上の道へ向けて手助けしてやらねばならぬ。M霊はそなたが○○との交際と会話を通じてその友人へ強く思いを寄せたことで、彼の境涯へ引きつけられたと説明していたが、その通りである。霊と霊との間の親和力の法則である。そなたも知っていよう。


――知ってます。ですが親和力は必ずしも法則どおりに働いていないし、むしろ、その通りの結果が現実に見られるのは稀なように見受けられます。で、彼は今幸せではないのですか。


彼がどうして幸せで有り得よう。神が進歩と発展を願いてその魂を宿した聖なる神殿(2)に向かいて冒とく行為(3)を働いたのである。霊的成長の機会を無駄にし、己自身であるところの神の火花の宿る聖殿を思いのかぎり破壊した。そして今、魂に何の用意も出来ておらぬ見知らぬ土地へ、道連れもなしに一人で旅立ったのである。父なる神の前から逃亡したも同然である。その彼がどうして幸せであり得よう。死しては不敬にして不遜、かつ強情であり、生きては無分別にして怠惰、かつ利己的であり、更には寿命を全うせずして他界することによりて、地上的縁故の人々に苦痛と悲しみをもたらした。その彼にどうして心の安らぎが見出せよう。無益に過ごせる生活がその代償を求める。長年にわたりて培われた利己性が今なお彼を支配し、心の落着きを見出せぬようにする。生活そのものが利己的であり、地上で目指せるものが利己的であり、今なお自己中心にしか考えぬ。哀れにして分別を欠き、未熟であり、さような者には、悔恨の情が目覚め精神的再生に至るまで、心の安らぎは得られぬ。今彼はまさしく“宿無し”の身である。


――向上の望みはあるのでしょうか。


有る。望みはある。すでに魂の奥に罪の意識が目覚めつつある。霊的暗闇を通して、朧気ながら地上時代の愚かさと邪悪性が見えつつある。幽(かす)かながらも、己の置かれた荒廃せる状態についての知識に目覚め、光を求め始めている。そなたの近くに留まっているのはそのためである。そなたは犠牲を払ってでも彼を救ってやらねばならぬ。


――それは喜んで……ですが、どういう具合に?


まず祈ってあげることである。祈りの力によりて高き世界の曙を招来してあげることである。不幸なる魂に働くことの楽しき雰囲気を味わわせてあげることである。彼の魂は、聖純にして爽快なる雰囲気が如何なるものであるかを知らぬ。そなたにとりては彼の存在は不快かも知れぬが、そなたがそれを教えてやらねばならぬ。そもそもそなたが彼を呼び寄せたのである。そして彼はそなたの誘いに素直に従っている。彼の存在は我慢せねばならぬ。われらの警告と願いを無視してやったことであり、最早や取り返しはつかぬ。せめてもの慰めは、かくすることによりてそなたも神の聖なる仕事に携われるということである。


――私が呼び寄せたと言うのはどうかと思います。でも、私は何でも致します。彼は精神に異常を来していたのであり、責任を問うわけには行かないと思います。


責任は問われるべきであったし、今なお問われて然るべきである。彼自身も今そのことに気づき始めている。彼が自らを殺(あや)めた最後の罪業(4)の種子は怠惰な無為の生活の中にすでに蒔かれていた。彼は病的とも言うべき内向的性癖を培い助長していた。自己のみを考察した。それも進歩や発展のためではなく、欠点を反省し、徳を培うためでもなく、利己的排他性の中で行なった。いわば歪められた利己主義の暗闇に包まれていた。それが彼に病をもたらし、挙句には霊界の誘惑者の餌食となり、破滅へと追いやられた。霊界より鵜の目鷹の目で見張る邪霊に身を曝してしまった。その意味において彼はそなたの言う如く狂っていた。が、その狂気の行為も彼のそれまでの所業の結果に他ならぬ。しかも、彼は今その死によって心に傷を負わせた縁故者に同じ邪悪な影響を及ぼしている。己自身への災禍(わざわい)が今や他の愛する人々ヘの災禍となっているのである。


――本当に恐ろしいことです! 天罰の厳しさを見せつけられる思いです。怠惰で利己的な人生がいかに霊的な病を生むかがよく判ります。利己的な罪悪の根源であるように思えます。


利己主義は魂の病巣であり、そなたが想像する以上に多くの魂がこれに蝕まれている。まさしく魂を麻痺させるものである。その上さらにその利己主義が内向的となれば、いよいよもって致命的となる。利己主義にも極めて毒性の少ないものがある。つまり活動性によってその毒性が中和され、場合によっては善性につながる行為の原動力となることすらある。たとえば他人から褒められたいとの欲求から善行に励む利己主義もある。やかましく言われまい、面倒を起こすまいとの配慮から善行に励み、それで満足する程度の利己主義もある。あくまで余計な気遣いを避けんが為にいかなる指図にも従う。いずれも魂の進歩にとりては障害となるものであり、褒められるべきものではないが、魂を蝕み、破滅と死へ追いやる悪疫とは言えぬ。

彼の場合はいかなる善行も、いかなる活動も伴わぬ卑劣なる利己主義であった。怠惰にして無益、自己満足以外の何ものでもなかった。否、自己満足以上でさえあった。何となれば全生涯が病的な自己詮索によって曇らされ、汚され、その輪郭が侵蝕されていたからである。この種の利己主義は己にとりても縁ある人々にとりても残酷なる影響を及ぼす。罪にも段階がある。彼の罪はとりわけ深かった。これは彼の話であるが、他人事(ひとごと)としてでなく、そなた自身のこととして聞くがよい。が、暫し休むがよい。その間にわれらがそなたの心より邪気を取り除いておこう。


〔私は大いに動揺した。が、やがて入神に似た深い眠りに落ち、その間に、ある心和(なご)む光景を見せられ、目を覚ますとすっかり気分が爽快になっていた。〕


いま彼の無益なる人生を事細かく詮索する必要はあるまい。魂が異常なる利己主義によって蝕まれ、その終末は自我意識の破壊であった。そなたのいう意味では確かに狂っていった。が、その狂える精神が支配するかぎり自殺の手を押し止めることは何者にも出来得なかった。平衡感覚を失い、取り巻く誘惑霊の餌食となっていったのである。

が、そなたの罪の評価は幼稚である。あの状態を誘発したのは彼自身なのである。魂そのものが己を敵に売り渡し、破壊するに任せたのである。彼の場合は遺伝的精神病が正しき判断と行為を狂わせたのとは異なる。自殺は利己的怠惰の所産に他ならぬ。理性の力を奪い、自殺という罪へ追いやったのは誘惑の魔手であった。その誘惑は人によりては別の形を取ることもある。が、自己破滅にせよ他人への危害にせよ、その他いかなる形の自己満足にせよ、その根源は同一である。

授かれる才能の使用を怠り、行為の生活を欠き、病と苦痛を自ら想像してそれに没入し、病的快感を覚えるが如き魂は間違いなく病を得る。存在の原理は働くことにある――神のため、同胞のため、そして自己のためにである。一人のためでなく全ての人のためにである。その摂理を犯す時、必ず悪が生ずる。停滞する生活は腐敗し、周囲への腐敗をもたらす。邪悪にして有毒である。同胞の精神をも骨抜きにし、悪徳の中枢たる堕落の素地を築く。悪がいかなる形態を取るかは問題ではない。根源は同じなのである。彼の場合は個人的危害の形をとり、無益なる生涯をご破算にした。悲しみと恥辱の中での終焉であり、縁ある人々の心をも傷つけることになった。

生命の糸(5)が切れた時、彼は暗黒と苦痛の中に自分を見出した。生命の糸が切れても当分肉体から離れることが出来なかった。自ら殺めた魂の宮が墓地へ葬られた後も、そのまわりを漂っていた。無意識のまま、自ら動く力もなく、衰弱し、傷つき、困惑していた。落着く場がない。招かれざる世界には歓迎される場はないのである。一面暗闇に包まれ、その暗闇の中に、彼と同様自ら破滅を招き、寄るべなき孤独の中に閉じ込められし同類の霊が次々と薄ぼんやりとした姿を見せる。彼らが近づくと、半醒半夢の彼の不快さが一段と強化されていく。

その悲劇――本人は悲劇であることを半分も自覚しておらぬが――それを少しでも和らげ魂を癒すための手段が講じられることになったのは、良心の苛責の初めての身震いが天使に届いた時であった。暗闇の中で良心が目を覚ました時、天使はすぐさま近づいてその麻痺せる良心の回復を加速せしめ、悔恨の情を目覚めさせるべく手段を講じた。見た目には残酷に映るかも知れぬが、天使は敢えて彼の置かれた惨めな状態に気づかしめ、その罪の深さを映像として眼前に写し出す手段に出たのである。悔恨の門をくぐり抜けずして、魂の安住の地へは辿り着けぬ。故に苦痛という犠牲を払ってでも良心の回復を加速せねばならぬ。

その努力も暫し効を奏さなかった。が、徐々にではあるが、ある程度まで罪の意識を目覚めさせることに成功し、彼は今や嫌悪さえ覚えるに至ったその悲劇より抜け出る道を手探りで求め始めた。が、しばしば元へ引き戻されたりもした。誘惑霊が周りを取り囲んでそうするのである。が、そうした経緯の中にも彼の罪に対する当然の報いが容赦なく計算されていたのである。霊たちはそれとは気づかぬ。彼らはただその低劣きわまる本能の赴くままに動いているに過ぎぬ。が、その実、彼らも因果律の行使者なのである。

彼が救出される道はただ一つ、何らかの善行への欲求が芽生え、その行為を通じて自らの救済に勤しむことである。そこに辿り着くまでには悔恨と不愉快な労苦の道を旅せねばならぬ。それを措いて他に魂の清められる道はない。利己主義は自己犠牲によりて拭わねばならぬ。怠惰は労苦によりて根絶せねばならぬ。彼の魂は苦難によりて清められねばならぬ。それが向上進歩の唯一の道である。その道は過去の誤れる生活によりて歩行困難、否、ほぼ不可能にされている。が、努力によりてたとえ一歩でも進まねばならぬ。しばしば転倒することであろう。後戻りすることもあろう。が、それによりて、これでもか、これでもかと徹底的に忍耐力を試されるのである。一歩一歩と、悲しみと悔恨と恥辱の中に、時には意気消沈し、時には絶望の底から叫びつつも、その道を歩まねばならぬ。しかも、回りを取り巻く誘惑――向上せんとする魂を挫折させんとする邪霊の囁きと闘いつつ歩まねばならぬ。言うなれば“火の洗礼”を受けつつ進まねばならぬ。これを罰というのである。それが、他のいかなる手段によりても得られぬ、天国への唯一の道なのである。

むろん天使の援助の手は片時たりとも控えられることはない。向上せんとする霊を援助し、挫折しかける霊を元気づけることが、彼らにとりて光栄ある使命なのである。とは言え、たとえ慰めることは出来ても、当人の痛み一つたりとも代わりに贖(あがな)うことは出来ぬ。背反の天罰を一分(ぶ)たりとも和らげてやるわけには参らぬ。代償として支払うべき余徳などもない。友人といえども重荷を肩代わりすることは出来ぬし、疲れ果てたる肩よりそれを下ろしてやるわけにも行かぬ。衰え行く精力を補い扶助するための補助的援助は与えられても、その重荷はあくまでも罪を犯せる本人が背負わねばならぬ。

これは、無為に過ごせる人生の避け難き天罰である。これによりて半ば消えかかれる火花が再び点火され、魂を導く灯として大きく燃え上がることになるかも知れぬ。あるいはそうした天使の声に耳を貸さず、相も変わらず暗闇と孤独の中をさ迷い、奮い立つ気力も持たず、繰り返される煉獄の苦痛に苛(さいな)まれることによりてのみ、魂の毒々しさが浄化されることになるかも知れぬ。そうした罪障消滅に費される期間(とき)は、永遠の如く感じられるかも知れぬ。あるいは状況が固定化する以前に魂が目覚め奮い立つこともある。そうして必死の努力によりて光明へと近づき、自ら進んで浄化のための苦難を求め、残れる気力を以って地上の悪癖をかなぐり捨て、新たな生命に目覚めることになるかも知れぬ。

それは有り得ることではある。が、そう滅多にあるものではない。性癖はそう簡単に変えられるものではない。浄化の炎も、そう易々と燃え立つものでもない。利己主義、あるいは不徳の中に死を迎えたる者は往々にして死後もなお利己的であり、不道徳であり、死後の環境が地上生活の証でしかない。幽(かす)かながらも向上心の芽生えた彼に援助の力の授からんことを祈るがよい。光が暗闇を照らし、迷える魂が天使の働きかけによりて慰められんことを祈るがよい。彼の病にとりてはそうした祈りこそ最良の薬である。


〔右の通信を読んだ時、私はこれでは向上のために努力しようとする者の気勢を殺(そ)ぐことになりはしないか――人間にとっては理想が余りに高すぎる、と述べた。〕


否! 否! われらの述べたるところもまだまだ実情の全てではない。また、いささかの誇張も潤色も施しておらぬ。彼の如き無為の生涯が招来する孤独的荒廃と悲劇の境遇の真の恐ろしさは、われらにはとてもその全てを語ることは出来ぬ。そうした生涯の後に魂が抱く悔恨の情が如何に痛烈なるものであるかは、とても言葉では言い尽くせぬ。その後に魂が辿る過程は、いかに立派な理屈をもってしても、われらにも如何ともし難きことである。われらとしては永遠にして不変なる因果律の働きを述べることしか出来ぬ。身に染みた利己主義と犯せる罪悪が完全に焼き清められるまでは、悲惨と悔恨の情から免れることは出来ぬ。われらがそう定めたのではない。永遠にして全知全能なる神の定めた摂理なのである。そなたの身近に証を見ることの出来る法則の働きを指摘したまでである。何時(いつ)のことかも判らぬ死後の遠い遠い先の或る日、全人類が召集され“記録天使”が“審判の書”を提出し、それを手にキリスト神が一人一人に判決を下し、罪人は永遠の火刑に処せられるなどということはない。断じてない。が、行為の一つ一つが確実に魂に刻み込まれ、思念の一つ一つが記録され、全ての性癖が死後の性格の要素として持ち越されるという形での審判はある。そのことを人間が忘れがちであるために指摘したく思ったのである。罪状の評決には参考とすべき手回り品も何も要らぬ。魂そのものの深奥に静かに進行するものであることを教えたく思うのである。審判者は魂自身なのである。魂が己と語り合い、己自身の命運を読み取るのである。参考とすべき書類は道義の記録のみである。地獄とは魂自らが罪悪を焼き尽くさんとする悔恨の炎のことである。

しかもそれは全人類が他界せる遠い遠い先にて一斉に行なわれるのではなく、死と同時に、良心の目覚めと同時に、新たなる生命への再生と同時に始まるのである。気絶状態でもあるまいが、遠き彼方のうっすらとした靄の如き光の中で行なわれるのではなく、確固にして確実、瞬時にして必定なのである。なぜかく申すかと言えば、われらについて世間では、われらの述べる霊訓は宗教から恐怖心を取り除き、人間は動機によりてのみ支配され、いかなる行為を為そうと、いかなる教義を信じようと、全ての者が無条件に救われると説いているかに宣伝されているからである。われらはそのような無分別きわまる教理を説いているのではない。今はそなたもその点を理解していよう。が、そなたもそこに至るまでは繰り返し繰り返し説かねばならなかった。すなわち、人間は自らの将来を自ら築き、自らの性格に自ら押印し、自らの罪悪の報いに自ら苦しみ、自ら救済して行かねばならぬということである。

われらがこうした人生の暗黒面を取り挙げたのは、彼の生涯がまさにその見本のようなものであったからに過ぎぬ。気品と美と天使の支配に満ちた明るき面については、これまで度々言及してきた。神の溢れんばかりの慈悲と愛、その神と人間との間を絶え間なく取りもつ天使の優しき心くばりについては、改めて述べるまでもなかろう。時にはこうした暗き一面――孤独と荒廃、邪霊の誘惑の存在に意識を向けるのも無駄ではあるまい。

理想が高すぎると言うが、そのようなことはない。もしも高すぎるということになれば、高き理想は向上心に燃える魂のみを鼓舞するためにしか役立たぬことになる。確かに向上心なき魂にとりては高すぎるであろう。が、人生が利己主義と罪悪によりて蝕まれておらぬ者、熱誠に燃え、ますます向上せんと心がける魂にとりては決して高すぎることはない。友よ、いかなる者にも逃がれ得ぬ摂理というものがあることを明記するがよい。人生とは旅であり、闘争であり、発展である。その旅は常に上り坂であり、しかも道中は茨(いばら)に満ち、難路の連続である。闘争は目的成就まで絶え間なく続く。発展は低次元より高次元への霊的向上であり、地上の幼児的人格よりキリスト的霊格への発達である。この摂理だけは曲げることは出来ぬ。悪との闘争なくしては完全なる善への到達は叶わぬ。己を取り巻く邪悪との葛藤を通して純化されて行くのが永遠の必然性である。神より放たれし火花がその父なる神のもとに帰り、その御胸に安住の地を見出すに至る道なのである。

真の幸福は最高の理想を目指して生きることによりてのみ獲得されることをそなたは今さら説き聞かされることもあるまいと思うが如何? 怠惰なる者、無精者はそれを知らぬこと、邪悪なる者――自ら選び自ら好んで悪事を働く者には縁なきものであることは改めて説くには及ぶまいと思うが如何? 地上の幸福は天上界を目指す魂の中にのみ湧き出ずるものであり、その道程において克服せる危険と困難を振り返ることの中に見出されるものであることも改めて述べるまでもなかろうと思われるが如何? 天使は常にそうした魂を補佐せんとして見守っていること、天使はそれを名誉と心得ていること、そして理想に燃える魂は決して致命的危害は被らぬものであることを改めて説くまでもあるまいと思うが如何? たとえ勝利の宣言が為されても、闘争もなく、利己的かつ恥ずべき安逸の中に得られたものは真の勝利とは言えぬ。勝利は葛藤の末に得られるもの。平和は艱難の後に得られるもの。そして発展は着実なる成長の末に得られるものである。


〔私は当然そうであると思うと答え、人生の準備期においては出来るだけ多くの知識を蓄え、出来るだけ多く仕事をし、その上で叶うかぎりの平和を享受すべきであると思う、と述べた。しかし仕事と知識、とくに神そのものと未来のことについての知識が、平和または安息の前提条件である以上、十分な瞑想の余裕がなくなることになる、と述べた。〕


違う。人生には三つの要素がある。瞑想と祈り、崇拝と讃仰、そして三種の敵(6)との葛藤である。瞑想の生活は自己認識にとりて必須のものである。着実なる成長の重要素である。それには当然祈りが伴う。すなわち肉体に閉じ込められし魂と父なる神及びわれら神の使者との霊的交わりである。次に魂が己を見出し行く無数の局面――神の声なき声に耳を傾ける静かなる孤独、あるいは神の物的表現であるところの大自然との触れ合い、あるいは人間のしつらえたる厳(おごそ)かな神殿にて神を恭(うやうや)しく讃える聖歌の斉唱、さらにまた、言葉に出ず、他人の耳にも届かざる魂の奥底からの止むに止まれぬ向上心――こうしたものを通じて、神によりて植えつけられし讃仰の本能がその捌(は)け口を求めるのである。これは絶え間なき悪との闘争に欠くべからざるものである。われらはそれを過小評価するどころか、その必要性を主張する者である。そなたも今少し安らかな思索の時をもつよう配慮することを勧める。そなたの生活は静寂を欠いている。


――彼の無節操な行為の中には、必ずしも彼の責任に帰すべきでないものもあったことをお認めになるでしょう。


無論である。人間の身体に欠陥のある場合、あるいは調子を狂わせている場合があり、そのためにそこに宿れる魂の意思に反した行為に出ることがある。狂気が脳の病から来ている場合も多い。その場合は魂に責任はない。事故による傷害によって精神に異常を来すこともあり、先天的異常の場合もあり、過度の不幸や懊悩による場合もある。そうした原因に由来する時は誰にも咎められることはない。ましてや公正なる神による咎めは絶対にない。神は霊的動機と意図によりて審判を下すからである。

われらがそなたの友を咎めたのは、あの不幸なる結末が生涯にわたる罪悪の生み出せるものであるからに他ならぬ。それに関しては彼に責任があったし、今もなお責任がある。そして彼も今そのことに気づき始めている。

全能なる神よ、叡智を育み授け給え。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)F.A.Hudson 英国最初の心霊写真霊媒。
(2)肉体。(3)自殺。
(4)いかなる形での自殺かは述べていない。
(5)霊的身体と肉体とを結びつけている帯状の紐。
(6)30節。イースターメッセージ一

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks
AgainEdited by S. Phillips
近藤千雄訳



九章 良心の声

 More Wisdom of Silver Birch (次の第七巻として翻訳の予定───訳者) を読んだ読者からサークル宛に長文の手紙が寄せられた。その大要を紹介すると───

 〝私の知っている人の中には神を畏(おそ)れ教会を第一主義とする信心深い人が大勢います。その人たちは確かに親切心に富み喜んで人助けをする人たちで、教会が善いこと正しいこととして教えるものを忠実に守っております。

ところが何でもないはずの霊的事実を耳にすると、それを悪魔のしわざであるとか罪深きこととか邪悪なことと言って恐れます。その無知は情けなくなるほどです。

 ところで、こうした人たち及びこれに類する、言わば堅実に生きる善人は、私の考えでは、偏見のない良心と、何世代にもわたって教え込まれてきた幼稚な教説によって汚染された良心との区別がつかなくなっているのだと思います。

たとえば日曜日に教会へ出席しなかっただけで悩んだりします。彼らにとっては礼拝に出席することが神の御心に適ったことであり、善であり、正しいことであり、したがって欠席することは間違ったことであり、罪深いことであるかに思えるのです。

 そうした思考形式が魂に深く植えつけられた場合、いったいどうすれば正常に戻すことが出来るでしょうか。彼らが呵責(かしゃく)を覚えているのは本当はシルバーバーチ霊がおっしゃる偏りのない良心ではありません。
℘161
一種の偏見によって本当の良心が上塗りをされております。そこでシルバーバーチ霊にお願いしたいのは、本当の良心とは何か、それと見せかけの良心とを見分けるにはどうしたらよいかを教えていただきたいのです〟云々・・・


 この手紙の主旨を聞かされたシルバーバーチは次のように答えた。

 「地上においても霊界においても、道徳的、精神的ないし霊的問題に関連してある決断を迫られる事態に直面した時、正常な人間であれば〝良心〟が進むべき道について適確な指示を与える、というのが私の考えです。神によって植えつけられた霊性の一部である良心が瞬間的に前面に出て、進むべきコースを指示します。

 問題は、その指示が出たあとから、それとは別の側面がでしゃばりはじめることです。偏見がそれであり、欲望がそれです。良心の命令を気に食わなく思う人間性があれこれと理屈を言い始め、何かほかに良い解決方法があるはずだと言い訳を始め、しばしばそれを〝正当化〟してしまいます。しかし、いかに弁明し、いかに知らぬふりをしてみても、良心の声がすでに最も正しい道を指示しております」
℘162
 サークルの一人 「この手紙にはスピリチュアリズムは間違いであると思いこんでいる実直で真面目な教会第一主義の信心家のことが述べられておりますが・・・」


 「それはもはや良心の問題ではなく、精神的発達の問題です。問題が全く別です。それは間違った前提に立った推理に過ぎません。私のいう良心は内的な霊性に関わる問題において指示を必要とする時に呼び出されるものです」


───でも、良心は精神的発達と密接につながっていませんか。

 「つながっている場合とつながっていない場合とがあります。私は良心とは神が与えた霊的監視装置で、各自が進むべき道を的確に指示するものであると主張します」


─── 一人の人間は正しいと言い、別の人間は間違いだと言う場合もあるでしょう?

 「あります。が、そのいずれの場合においても、自動的に送られてくる良心による最初の指示が本人の魂にとってもっとも正しい判断であると申し上げているのです。
℘163
問題はその指示を受けたあとで、それに不満を覚え、ほかにもっとラクで都合のいい方法はないものかと、屁理屈と正当化と弁解を始めることです。

しかしモニターによってすでに最初の正しい指示が出されているのです。この説はあまり一般受けしないかも知れませんが、私の知る限り、これが真実です」


───東洋の宗教は古くから人間の内部に宿る神を強調していますね。

 「私なら神の内部に宿る人間を強調したいところです。私に言わせれば〝人間の中の大霊〟といっても〝大霊の中の人間〟と言ってもまったく同じことです。神と人間とは永遠の繋がりがあります。神は絶対に切れることのない愛の絆によって創造物と繋がっております。

進化の程度において最下等のものから最高の天使的存在にいたるまでの全存在が神の愛と生命の活動範囲の中におさまっています。程度が低すぎて神から見放されることもなければ、高すぎて神を超えてしまうこともあり得ません」
℘164
───すべてが大霊の一部だからですね。


 「そうです。〝一部〟といっても説明が困難ですが、人類のすべてが神性の一部を有しております。これは大切な真理で、これさえ理解され生活の規範とされるようになれば、世界のすべての人間が霊的な威力を呼び覚まし、日々生じる問題について新しい視野で対処できるようになることでしょう」


───神はすべての界層において平等に顕現しているのでしょうか。それとも地上の人間だけがそれを悟れないでいる、あるいは捉らえ損ねているのでしょうか。それとも人間が死後の界層を進化していくにつれて神の顕現の分量が増していくのでしょうか。

 「それは要するに受容力の問題です。神は無限です。無限なるものには際限がありません。制限がありません。神の恵みは果てしなく広がっています。知りつくすということは絶対にできません。人間はいつまでも進化し続ける存在です。進化するにつれて受容力が増します。受容力が増すにつれて理解力が増し、かくしてその分だけ神を理解できることになります」
℘165      
───ここに二人の人間がいて、一人は元気盛りでもう一人は死期を迎えて肉体との関係が稀薄になっているとします。この場合、後者の方が霊的な影響を受けやすいのでしょうか。


 「必ずしもそうとは言い切れません。肉体から離れるということは必ずしも進化を決定づけるものではありません。私の世界にも地上の人間より進化の程度の低い霊がそれはそれは大勢います。たしかに肉体はその本性そのもののために人間の精神の表現を制約しておりますが、人類全体として言えば、地上のいずれにおいても霊性の発達のための余地がふんだんに存在します」


───その発達の為に努力することが霊のためになるのだと思います。そうでなかったら地上に存在する意味が無いことになるからです。肉体というハンディを背負いながら成長しようと刻苦することが魂にとって薬になるのだと思います。

 「もちろんですとも。困難を克服しようと努力するとき、次々と振りかかる障害に必死に抵抗していくとき、不完全さを補い完全へ向けて努力するとき、そのときこそ神性が発揮されるのです。それが進化の諸相なのです」

℘166
───地上というとこは魂の修行場としていろんな面で有利であるといった趣旨の話をよく耳にします。地上的闘争をくぐり抜けねばならないということそれ自体が地上の良さでもあると言えると思うのです。

 「おっしゃる通りです。当然そうあらねばなりません。もしそうでなかったら地上へ生れてくることもないでしょう。宇宙の生命の大機構の中にあって、この地上もそれなりの役割があります。地上は保育所です。訓練所です。いろんなことを学ぶ学校です。身支度をする場です。

潜在している才能が最初に目を出す場であり、それを人生の荒波の中で試してみる所です。そうした奮闘の中ではじめて真の個性が形成されるのです。闘争もなく、反抗もなく、困難もなく、難問もないようでは、霊は成長しません。進化しません。奮闘努力が最高の資質、最良の資質、最大の資質、最も深層にある資質を掘り起こすのです」


───若くして他界した場合はどうなるでしょうか。
℘167
 「そうくると思ってました」


───これには二つのケースがあると思うのです。一つは、もしそれがその人の寿命であれば、それまでに霊的にはすでに他界する準備が出来ていた場合。もう一つは死後その埋め合わせのために物質界との接触を通じて進化を得る場合です。

 「あなたは親切な方ですね。質問なさると同時に二つも答えを用意して下さいました。ご質問に対する答えは、古くからある恐怖の輪廻転生思想と、私の説く再生説即ち前回の地上生活での不足分を補う為に地上のどこかに誕生するという、この二つの説のうちのどちらかをお選びください。

あなたの気に入られた方をお取りになればよろしい。私の説はすでによくご存じでしょう。しかし、ここで強調しておきたいのは次の点です。

 よく分らないことが沢山あります。私たちも所詮すべての知識は持ち合わせておりません。しかし同時に、矛盾を恐れずに申し上げれば、神は完全であるゆえに摂理も完全です。

(訳者注───すべての知識は持ち合せないといいながら神は完全であると断定するのは明らかに矛盾しているが、第十章の後半で、過去三千年の体験からそう信じるに足るだけの証を手にしているのだと述べている)
℘168
いかなる困難が生じても、そして、たとえそれに対して私たちがあなたに満足のいく回答をお授けすることができなくても、それは神の計画に欠陥があるということではありません。絶対にそういうことはありません。〝愛〟が宇宙を支配しているのです。無限の範囲と適用性を持つ愛です。

いったんその愛があなたを通じて働くようになれば、あなたは一変し、あなたに生を与えた霊力と一体になります」(先に述べた矛盾を超越してなるほどと実感を持って得心できるということ───訳者)


───こうした問題は限られた人間的理解力を超えているというのは本当でしょうか。私たちは宿命的に理解不可能なのでしょうか。

 「無限の顕現を持つ宇宙を理解しようとするとき人間の肉体的構造が一つの限界となることは、一般的に言って事実です(霊覚者は別ということ───訳者)。決して知識欲に水を差すつもりで申し上げるのではありません。が、

私たちはあくまでも現実を見失ってはなりません。幾十億と知れぬ人間が生活する地上に目を向けてみましょう。その大半がここにいらっしゃる方が当たり前と思っている霊的真理にまったく無知なのです。その知識からあなた方が得ている喜びが彼らには保証されていないのです。
℘169
その生活は悲劇と哀しみに満ちております。しかも、いずこに救いを求めるべきかも知らずにおります。ならば、私たちこそ、これまでに得た知識を少しでもそういう人たちに分けてあげることでお役に立つことができるのではないでしょうか。そうすることが知識を獲得した者が担う責任、つまりそれをさらに他の人々にも分けてあげるという責任を遂行することになるのではないでしょうか」


───それこそが、こうして私たちがこの部屋に集まっているそもそもの目的だと思います。

 「そうです。それが目的でここに集まっているのです。それこそが私たちの双肩に掛かっている仕事です。あらんかぎりの力を尽くしてその遂行に当たらなければなりません。われわれにとって可能な限りの人数を達成するまでは気を抜いて安心してはなりません」


 ここで話題が変わって、もう一人の招待客が 「夜空に見える星はただの物体でしょうか。それとも生命が存在するのでしょうか」と尋ねた。
℘170
 「どうやら少し深みに入ってきたようですね。地上世界の知識もまだまだ限界に到達しておりませんが、私たちの世界にいたっては遥かに限界からほど遠い状態です。宇宙には最高界の天使的存在から、意識がようやく明滅する程度の最低の魂に至るまでの、さまざまな意識的段階にある生命が無数に存在します。

意識的生命が地球だけに限られていると思ってはなりません。地球は数限りなく存在する天体のうちの、たった一つに過ぎません。無限なる叡知を持つ宇宙の大霊が、無限なる宇宙において無限なる意識的段階にある無数の生命に無限の生活の場を与えることができないはずがありません。

有機的生命の存在する天体は無数にあります。ただし、その生命は必ずしもあなた方が見慣れている形態をとるわけではありません。以上の説明が私としては精一杯です」


───それもやはり人間的存在なのでしょうか。

 「今私は、少し深みに入ってきたと申し上げました。ある種の形態、すなわち形と大きさと運動を持ち、環境に働きかけることができる意識的存在という意味では人間と同じ組織的存在ですが、例外はあるにしても、そのほとんどはあなた方が親しんでおられる形態の組織体と同じではありません。どうやらこれ以上の説明は無理のようです」

℘171
───あなたはそうした存在を御覧になったり話を交わしたことがおありですか。

 「私の方からその天体にまで赴いて話をしたことはありませんが、あなた方の死に相当する過程を経たあと霊的形態に宿って話を交わしたことはあります。ですが、忘れないでいただきたいのは、あなた方が地上の生命とまったく類似性のない生命に言及されると、それをなぞらえるべき手段を見出すのが困難なのです」

訳者注───地球人類が他の天体上の意識的生命をうんぬんするとき、とかく人間的身体と同じ形態を具えたものを想像しがちであるが、各種の霊界通信から推察すると、むしろ地球人類の方が特殊な部類に属し、幾千億と知れぬ天体上には人間の想像を超える形態を具えた存在が躍如たる生命活動を営んでいるようである。

シルバーバーチが説明困難といったのは、なぞらえるべきものが見当たらないのも一つの理由であるが、うっかり説明し始めるとつい〝深み〟にはまり込んでしまって、にっちもさっちもいかなくなるという危惧があるようである。むろんそれ以前に、今の人類にそんなものは必要ないという配慮もあることであろう。
                

        
  十章 あらためて基本的真理を
℘174
 シルバーバーチが霊媒を招待した時はいつも温かい歓迎の言葉で迎えるが、古くからの馴染の霊媒であればその態度はいっそう顕著となる。これから紹介する女性霊媒とご主人はハンネン・スワッハー・ホームサークルの結成当初からのメンバーで、最近は永らく自宅で独自の交霊会を催しておられ、今回は久しぶりの出席である。

 夏休みあとの最初の交霊会となったこの日もシルバーバーチによる神への祈願によって開始され、続いて全員にいつもと同じ挨拶の言葉を述べた。

 「本日もまた皆さんの集まりに参加し、霊界からの私のメッセージをお届けすることができることをうれしく思います。

 僅の間とはいえ、こうして私たちが好意を抱きかつ私たちに好意を寄せてくださる方々との交わりを持つことは、私たちにとって大きな喜びの源泉です。こうした機会に自然の法則にしたがってお互いが通じ合い、お互いの道において必要なものを、よろこびと感謝のうちに学び合いましょう。

 もとより私は交霊会という地上世界と霊界との磁気的接触の場のもつ希少価値はよく理解しており、私が主宰するこの会の連絡網の一本たりとも失いたくない気持ちですが、次のことは一般論としてもまた私個人にとっても真実ですので、明確に述べておきます。
℘175
それは、私はしつこい説教によって説き伏せる立場にはないと考えていることです。面白味のない霊的内容の教えを長い説教調で述べることは私の望むところではありません。

 そのやり方ではいかなる目的も成就されません。私が望むやり方、この交霊会で私がせめてものお役に立つことができるのは、ここに集われたすべての方に───例外的な人は一人もいません───ともすると俗世的な煩わしさの中で見失いがちな基本的真理を改めて思い起こさせてあげることです。

物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ、その解決に迫られたとき、言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばならないときに、本来の自分とは何か、自分はいったい何者なのか、なぜ地上に生活しているかといったことを忘れずにいることは困難なことです。


 そこで私のような古い先輩───すでに地上生活を体験し、俗世的な有為転変に通じ、しかもあなた方一人一人の前途に例外なく待ち受けている別の次元の生活にも通じている者が、その物的身体が朽ち果てたのちにも存在し続ける霊的本性へ関心を向けさせていただいているのです。それが基本だからです。

あなた方は霊的な目的のためにこの地上に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫(うたかた)のようなものに過ぎません。
℘176
 といって、地上の人間としての責務を疎かにしてよろしいと言っているのではありません。その物的身体が要求するものを無視しなさいと言っているのではありません。大切なのは正しい平衝感覚、正しい視点を持つこと、そして俗世的な悩みや心配ごとや煩わしさに呑み込まれてしまって自分が神の一部であること、ミニチュアの形ながら神の属性の全てを内蔵している事実を忘れないようにすることです。

そのことを忘れず、その考えを日常生活に生かすことさえできれば、あなた方を悩ませていることがそれなりに意義を持ち、物的、精神的、霊的に必要なものをそこから摂取していくコツを身につけ、一方に気を取られて他方を忘れるということはなくなるはずです。

 こう言うと多分〝あなたにとってはそれで結構でしょう。所詮あなたは霊の世界の人間です。家賃を払う必要もない、食料の買い出しに行く必要もない、衣服を買いに行かなくてもよい。そういうことに心を煩わせることがないのですから〟とおっしゃる方がいるかもしれません。たしかにおっしゃる通りです。

しかし同時に私は、もしもあなた方がそうしたことに気を取られて霊的なことを忘れ、霊の世界への備えをするチャンスを無駄にして、身につけるべきものも身につけずにこちらへ来られた時に果たしてどういう思いをなさるか、それも分かっているのです。こんな話はもう沢山ですか?」

℘177
 「とんでもございません。いちいちおっしゃる通りです」とその女性霊媒が答えると、

 「私の言っていることが間違いでないことは私自身にも確信があります。地上の全ての人にそれを確信させてあげれば視野が広がり、あらゆる困難に打ち克つだけの力が自分の内部に存在することを悟って取越苦労をしなくなり、価値ある住民となることでしょうが、なかなかその辺が分かって頂けないのです。

霊の宝は神の子一人一人の意識の内部に隠されているのです。しかし、そうした貴重な宝の存在に気づく人が何と少ないことでしょう。あなたはどう思われますか」と言って、今度はご主人の方へ顔を向けた。


 「まったく同感です。ただ、そのことをいつも忘れないでいることが出来ない自分を情けなく思っています」と御主人が答えると、
 
 「それが容易でないことは私も認めます。しかし、もしも人生に理想とすべきもの、気持ちを駆り立てるもの、
℘178
魂を鼓舞するものがなかったら、もしも目指すべき頂上が無かったら、もしも自分の最善のものを注ぎ込みたくなるものが前途に無かったら、人生はまったく意味が無くなります。もしもそうしたものが無いとしたら、人間は土中の中でたくる虫ケラと大差ないことになります」


 「本当に良い訓えを頂きました」

 「そう思っていただけますか。私には、してあげたくてもしてあげられないことが沢山あるのです。みなさんの日常生活での出来事にいちいち干渉できないのです。

原因と結果の法則の働きをコントロールすることはできないのです。また、あなた方地上の人間は大切だと考え私は下らぬこととみなしている事柄が心に重くのしかかっていることがありますが、その窮状を聞かされても私はそれに同情するわけにはいかないのです。

 私にできることは永遠不変の原理をお教えすることだけです。物質の世界がすみずみまで理解され開拓され説明しつくされても、宇宙にはいかなる人間にも完全に知りつくすことのできない神の自然法則が存在します。それは構想においても適応性においても無限です。
℘179
もしも日常生活に置いて決断を迫られた際に、あなた方のすべてが自分が霊的存在であること、大切なのは物的な出来事ではなく───それはそれなりに存在価値はあるにしても───そのウラ側に秘められた霊的な意味、あなたの本性、永遠の本性にとっていかなる意味があるかということです。

 物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。と言うことは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです。一方あなたという存在は死後も霊的存在として存続します。あなたにとっての本当の富はその本性の中に蓄積されたものであり、あなたの価値はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもありません。

そのことこそ地上生活において学ぶべき教訓であり、そのことを学んだ人は真の自分を見出したという意味において賢明なる人間であり、自分を見出したということは神を見出したということになりましょう。

 地上生活を見ておりますと、あれやこれやと大事なことがあって休む間もなくあくせくと走りまわり、血迷い、ヤケになりながら、その一ばん大切なことを忘れ、怠っている人が大勢います。私たちの説く教訓の中でもそのことが一ばん大切ではないでしょうか。

それが、いったん霊の世界へ行った者が再び地上へ戻って来る、その背後に秘められた意味ではないでしょうか。
℘180
それを悟ることによって生きる喜び───神の子として当然味わうべき生き甲斐を見出してもらいたいという願いがあるのです。

 それは、いわゆる宗教あるいは教会、教義、信条の類い、これまで人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱を生んできたものより大切です。少しも難しいことではありません。自分という存在の本性についての単純きわまる真理なのです。なのに、それを正しく捉えている人はほんの僅かな人だけで、大方の人間はそれを知らずにおります」


 再び霊媒である奥さんが、自分の支配霊も心霊治療を行うことがあると述べ、遠隔治療によって本人の知らないうちに治してあげていることもある事実を取り上げて、こう尋ねた。

 「そういう場合はなぜ治ったかを本人に教えてあげるべきだと思うのです。つまりそれを契機として、自分が神の子であることを知るべきだと考えるのですが、私の考えは正しいでしょうか、それとも多くを望みすぎでしょうか」

 「理屈の上では正しいことです。が、とりあえずあなたの治療行為が成功したことに満足し、そのことを感謝し、同時にその結果としてその人の魂を目覚めさせてあげるところまで行かなかったことを残念に思うに留めておきましょう。
℘181
大切なのは、まず病気を治してあげることです。その上に魂まで目覚めさせてあげることはなお一層大切なことです。が、一方は成就できても他方は成就出来ない条件のもとでは、その一方だけでも成就して、あとは〝時〟が解決してくれるのを待ちましょう。魂にその準備が出来るまでは、それ以上のものは望めないからです。

 肉体は治った。続いて魂の方を、ということになるべきところですが、そこから進化という要素が絡んできます。魂がそれを受け入れる段階まで進化していなければ無駄です。しかし、たとえ全面的に受け入れてもらえなくても、何の努力もせずにいるよりは何とか努力してみる方が大切です。それは私たちすべてが取るべき態度です。

ともかくも手を差しのべてあげるのです。受け入れてくれるかどうかは別問題として、ともかく手をさしのべてあげることです。努力のすべてが報われることを期待してはなりません。

 病気が治り魂も目覚める、つまり治療の本来の意義が理解してもらえるのが最も望ましいことです。次に、たとえ魂にまで手が届かなくても、病気だけでも治してあげるという段階もあります。さらにもう一つの段階は、たとえ治らなくても治療行為だけは施してあげるという場合です。
℘182
 要請された以上はそう努力しなければなりません。が、たとえ要請されなくても施すべき場合があります。受けるよりは施す方が幸いです。施した時点を持ってあなたの責任は終わります。そして、その時点からそれを受けた人の責任が始まります。


 「人間は自分の前生を思い出してそれと断定できるものでしょうか」

 「もしその人が潜在意識の奥深くまで探りを入れることが出来れば、それは可能です。ですが、はたして地上の人間でその深層まで到達できる人がいるかどうか、きわめて疑問です。その次元の意識は通常意識の次元からは遥かにかけ離れていますから、そこまで探りを入れるには大変な霊力が必要です」


 「そうした記憶は現世を生きている間は脇へ置いておかれるとおっしゃたことがあるように思いますが」

 「それなりの手段を講ずることが出来るようになれば、自分の個性のすべての側面を知ることができます。
℘183
しかし、あなたの現在の進化の段階においては、はたして今この地上においてそれが可能かとなると、きわめて疑問に思えます。つまり理屈ではできると言えても、あなたが今までに到達された進化の段階においては、それは不可能だと思います」

  
 「神は特別な場合に備えて特殊な力を授けるということをなさるのでしょうか」 と、かつてのメソジスト派の牧師が尋ねた。

 「時にはそういうこともなさいます。その人物の力量次第です。最も、神が直接干渉なさるのではありません」

 「神学には〝先行恩寵〟という教義があります」 (苦を和らげるために前もって神が人の心に働きかけて悔悟に導くという行為のこと───訳者)

 「ありますね。神は毛を刈り取られた羊への風を和らげてあげるという信仰です(※)時にはそういうこともあることは事実です。が、神といえども本人の受け入れ能力以上のものを授けることはできません。
℘184
それは各個の魂の進化の問題です。私がそういう法則をこしらえたわけではありません。法則がそうなっていることを私が知ったということです。

 みなさんもいつかは死ななくてはなりません。霊の世界へ生まれるために死ななくてはなりません。地上の人にとってはそれが悲しみの原因になる人がいますが、霊の世界の大勢の者にとってそれは祝うべき慶事なのです。要は視点の違いです。 私たちは永遠の霊的観点から眺め、あなた方は地上的な束の間の観点から眺めておられます」

(※ 英国の小説家ロレンス・スターンの小説の中の一節で、弱き者への神の情けを表現する時によく引用される───訳者)


 ここでサークルの二人のメンバーが身内や知人の死に遭遇すると無常感を禁じ得ないことを口にすると、シルバーバーチはこう述べた。

 「霊に秘められた才覚のすべてが開発されれば、そういう無常感は覚えなくなります。が、これは民族並びに個人の進化に関わる問題です。私にはそのすべての原理を明らかにすることはできません。私とて、すべてを知っているわけではないからです。あなた方より少しばかり多くのことを知っているだけです。

そしてその少しばかりをお教えすることで満足しております。知識の総計と較べれば微々たるものです。が、私は神の摂理が地上とは別個の世界においてどう適用されているかをこの目で見て来ております。
℘185
数多くの、そしてさまざまな環境条件のもとでの神の摂理の働きを見ております。そして私がこれまで生きてきた三千年の間に知り得たかぎりにおいて言えば、神の摂理は知れば知るほどその完璧さに驚かされ、その摂理が完全なる愛から生まれ、完全なる愛によって管理され維持されていることを、ますます思い知らされるばかりなのです。

 私も摂理のすみずみまで見届けることはできません。まだまだすべてを理解できる段階まで進化していないからです。理解出来るのはほんの僅かです。しかし、私に明かされたその僅かな一部だけでも、神の摂理が完全なる愛によって計画され運営されていることを得心するには十分です。

私は自分にこう言い聞かせているのです───今の自分に理解できない部分もきっと同じ完全なる愛によって管理されているに相違ない。もしそうでなかったら宇宙の存在は無意味となり不合理な存在となってしまう。

もしこれまで自分が見てきたものが完全なる愛の証であるならば、もしこれまでに自分が理解してきたものが完全なる愛の証であるならば、まだ見ていないもの、あるいはまだ理解できずにいるものも又、完全なる愛の証であるに違いない、と。

 ですから、もしも私の推理に何らかの間違いを見出されたならば、どうぞ遠慮なく指摘していただいて結構です。私はよろこんでそれに耳を傾けるつもりです。私だっていつどこで間違いを犯しているか分からないという反省が常にあるのです。無限なる宇宙のほんの僅かな側面しか見ていないこの私に絶対的な断言がどうしてできましょう。

ましてや地上の言語を超越した側面の説明は皆目できません。こればかりは克服しようにも克服できない、宿命的な障壁です。そこで私は、基本的な真理から出発してまずそれを土台とし、それでは手の届かないことに関しては、それまでに手にした確実な知識に基づいた信仰をおもちなさい、と申し上げるのです。

 基本的真理にしがみつくのです。迷いの念の侵入を許してはなりません。これだけは間違いないと確信するものにしがみつき、謎だらけに思えてきた時は、ムキにならずに神の安らぎと力とが宿る魂の奥の間に引き込もることです。そこに漂う静寂と沈黙の中にその時のあなたにとって必要なものを見出されることでしょう。

 常に上を見上げるのです。うつ向いてはなりません。うなだれる必要はどこにもありません。あなたの歩む道に生じることの一つ一つがあなたという存在を構成していくタテ糸でありヨコ糸なのです。これまでにあなたの本性の中に織り込まれたものはすべて神の用意された図案(パターン)にしたがって織られていることを確信なさることです。

 さて本日もここから去るに当たって私から皆さんへの愛を置いてまいります。私はいつも私からの愛を顕現しようと努力しております。お役に立つことならばどんなことでも厭わないことはお分かりいただけてると思います。

しかし、楽しく笑い冗談を言い合っている時でも、ここにこうして集い合った背後の目的をゆめゆめ忘れないようにいたしましょう。神は何を目的としてわれわれを創造なさったのかを忘れないようにいたしましょう。

その神との厳粛なつながりを汚すようなことだけは絶対にしないように心がけましょう。こうした心がけが、神の御心に適った生き方をする者にかならず与えられる祝福、神の祝福を受けとめるに足る資格を培ってくれるからです」

(訳者注───本章は一見なんでもないことを述べているようで、その奥に宇宙の厳粛な相(すがた)を秘めたことを何の衒(てらい)もなく述べた、シルバーバーチ霊言集の圧巻であるように思う。特に〝私は自分にこう言い聞かせているのです〟で始まる後半の部分は熟読玩味に値する名言で、その中にシルバーバーチの霊格の高さ、高級霊としての証が凝縮されているように思う。

霊格の高さを知る手掛かりの一つは謙虚であるということである。宇宙の途方もない大きさと己れの小ささ、神の摂理の厳粛さと愛を真に悟った者はおのずと大きなことは言えなくなるはずである。

 反対に少しばかり噛(かじ)った者ほど大言壮語する。奥深い厳粛なものに触れていないからこそ大きな口が利けるのであろう。それは今も昔も変わらぬ世の常であるが、霊的なことが当然のこととして受け入れられるようになるこれからの世の中にあっては、人を迷わせる無責任きわまる説が大手を振ってのさばることが予想される。そうしたものに惑わされないためにはどうすべきか。

 それはシルバーバーチが本章で述べている通り、基本的真理にしがみつくことである。われわれ人間は今この時点においてすでに霊であること、地上生活は次の段階の生活に備えて霊的資質を身につけることに目的があること、人生体験には何一つ無駄なものはないこと、ただそれだけのことを念頭において地道に生きることである。

 本章を訳しながら私はシルバーバーチの霊訓の価値を改めて認識させられる思いがしてうれしかった)

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks 
AgainEdited by S. Phillips
近藤千雄訳 


 

八章 真理には無限の側面がある


 作家としても出版業者としても成功をおさめている男性と、心霊知識の普及に健筆を揮っている女性(両者とも氏名は紹介されていない。手掛かりになるものもない──訳者)が招かれた時の様子を紹介する。

 この男性は交霊会は今回が初めてであるが、スピリチュアリズムには早くから親しんでいた。そこでシルバーバーチがこう挨拶した。

 「私はあなたを見知らぬ客としてではなく待ちに待った友として歓迎いたします。どうかサークルの皆さんと思い切り寛いだ気分になっていただき、お互いに学び合ってまいりましょう。

 これまであなたもずいぶん長い道のりを歩んでこられました。けっして楽な道ではありませんでした。石ころだらけの道でした。それをあなたは見事に克服してこられました。あなたご自身にとって、またあなたの愛する方たちにとって重大な意味をもつ決断を下さねばならなかった魂の危機を象徴する、忘れ難い出来ごとが数多くあります」


 これを聞いてその男性は 「少しピンと来ないところがあるのですが」 と述べてから、自分が霊的に飢えていたと言うのはどういう意味かと尋ねた。すると───
p139
 「(通常意識とは別に)あなたの魂が切望していたものがありました。あなたの内部で無意識に求めていたものですが、あなたはその欲求を満たしてやることが出来なかった。

永い間あなたは何かを成就したい、やり遂げたい、我がものにしたいという絶え間ない衝動───抑えようにも抑え難い、荒れ狂ったような心の渇望を意識し、それがしばしば精神的な苦痛を生みました。〝一体自分の心の安らぎはどこに求めたらいいのか。

自分の心の港、心の避難場所はどこにあるのか〟と心の中で叫ばれました。次々と難問は生じるのに回答は見出せませんでした。ですが、いいですか、その心の動乱は実はあなた自身の魂の体質が生んでいたのです。

水銀柱が急速に上昇するかと思えば一気に下降します。あなたは暴発性と沈着性という相反するものを具えたパラドックス的人間です。いかがです、私の言っていることがお分かりになりますか」


───よく分ります。おっしゃる通りです。私なりに偉大な思想家から学ぼうと努力してきたつもりですが・・・・・・

 「私にも真理のすべてをお授けすることはできません。真理は無限であり、あなたも私も同様に有限だからです。
℘140
われわれも無限なるものを宿していることは事実ですが、その表現が悲しいほど不完全です。完全の域に達するまでは真理のすべてを受け入れることはできません。真理とは無限の側面を持つダイヤモンドです。無限の反射光を持つ宝石です。

その光は肉体に閉じ込められた意識では正しく捉らえ難く、その奥の霊の持つ自然の親和力によって手繰り寄せられた部分をおぼろげに理解する程度です。私には〝さあ、これが真理ですよ〟と言えるものは持ち合わせません。あなたが求めておられるものの幾つかについて部分的な解答しかお出しできません。

 あなたは感受性のお強い方です。男性のわりには過敏でいらっしゃいます。それはそれなりの代償を支払わされます。普通の人間には分からないデリケートで霊妙なバイブレーションを感知できるほどの感受性を持っておれば、当然、他の分野でも過敏とならざるを得ません」


───そのことを痛切に思い知らされております。

 「感受性が強いということは喜びも悲しみも強烈となるということです。幸福の絶頂まで上がれるということは奈落の底まで落ちることも有り得るということです。強烈な精神的苦悶を味わわずして霊的歓喜は味わえません。
℘141
二人三脚なのです。私があなたのお役に立てることといえば、たとえ苦境にあってもあなたは決して泥沼に足を取られてにっちもさっちも行かなくなっているのではないこと、何時も背後霊によって導かれているということを理解させてあげることです。

一人ぼっちであがいているのではないということです。幸いなことにあなたは度を過して取り乱すことのない性格をしていらっしゃいます。時には目先が真っ暗に思えることがあっても、自分が望むことは必ず叶えられるとの確信をお持ちです。

 どうぞ自信をもってください。あなたが生きておられるこの宇宙は無限なる愛によって創造され、その懐の中に抱かれているのです。その普遍的な愛とは別に、あなたへ個人的な愛念を抱き、あなたを導き、援助し、利用している霊の愛もあります。それは、よくよくのことがないかぎり自覚していらっしゃいません。私の申し上げたことが参考になりましたでしょうか」


───とても参考になりました。

   ※ ※ ※

 話は前後するが、この交霊会より早く、女性の文筆家が二度招かれていた。この夫人はスピリチュアリズム普及のためにいろいろと書いておられる。が、最近ご主人に先立たれた。シルバーバーチが歓迎の言葉をこう述べた。
℘142
 「あなたのペンの力で生き甲斐を見出してから他界した大勢の人に代わって、私が歓迎の言葉と感謝の気持ちを述べる機会を持つことができて、とてもうれしく思います。私たちにはあなたから慰めを得た人々の心、あなたの健筆によって神の恵みに浴することができた魂が見えるのです。

道を見失える者、疲れ果て困惑しきってあなたのもとを訪れる人々に、あなたは真心を込めて力になってあげられました。自分を人のために役立てること、これが私たちにとって最も大切なのです」


───ご理解いただいているように、ともかく私は人のためにお役に立ちたいのです。

 「私たちの価値判断の基準は地上とは異なります。私たちは、出来ては消えゆく泡沫のような日々の出来ごとを、物質の目でなく魂の知識で見つめます。その意味で私たちは、悲しみの涙を霊的知識によって平静と慰めに置きかえてあげる仕事にたずさわっている人に心から拍手喝采を送るものです。

地上の大方の人間があくせくとして求めているこの世的財産を手に入れることより、たった一人の人間の魂に生甲斐を見出させてあげることの方がよほど大切です。
℘143
 有為転変(ういてんぺん)きわまりない人生の最盛期において、あなたはその肩に悲しみの荷を負い、暗い谷間を歩まねばならないことがありましたが、それもすべては、魂が真実なるものに触れてはじめて見出せる真理を直接(じか)に学ぶためのものでした。

大半の人間がとかく感傷的心情から、あるいはさまざまな魂胆から大切にしたがる物的なものに、必要以上の価値を置いてはいけません。そうまでして求めるほどのものではないのです。いかなる魂をも裏切ることのない中心的大原理即ち霊の原理にしがみつかれることです」
 
 さらにシルバーバーチはその文筆家が主人を亡くしたばかりであることを念頭におきながらこう続けた。

 「あなたが今こそ学ばねばならない大切な教訓は、霊の存在を人生の全ての拠りどころとすることです。明日はどうなるかという不安の念を一切かなぐり捨てれば、きっとあなたも、そのあとに訪れる安らぎと静寂とともに、それまで不安に思っていた明日が実は、これから辿らねばならない道においてあなたを一歩向上させるものをもたらしてくれることに気づかれるはずです。

非常に厳しい教訓ではあります。しかし、すべての物的存在は霊を拠りどころとしていることはどうしようもない事実なのです。
℘144
物的宇宙は全大宇宙を支配する大霊の表現であるからこそ存在し得ているのです。そしてあなたもその身体に生命と活力を与えている大霊の一部であるからこそ存在し得ているのです。物的世界に存在するものはすべて霊に依存しております。言わば実在という光の反射であって、光そのものではないのです。

 私たちとしては、あなた方人間に理想を披歴するしかありません。言葉をいい加減に繕うことは許されません。あなたがもし魂の内部に完全な平静を保つことができれば、外部にも完全な平静が訪れます。

物的世界には自分を傷つけるもの、自分に影響を及ぼすものは何一つ存在しないことを魂が悟れば、真実、この世に克服できない困難は何一つありません。かくして、訪れる一日一日が新しい幸せをもたらしてくれることになります。いかに優れた魂にとっても、そこまでは容易に至れるものではないでしょう。

 しかし人間は苦しい状態に陥ると、それまでに獲得した知識、入手した証拠を改めて吟味しなおすものです。本当に真実なのだろうか、本当にこれでいいのだろうか、と自問します。しかし、これまで何度も申し上げてきたことですが、ここでまた言わせていただきます。万事がうまく行っている時に信念を持つことは容易です。が、

信念が信念としての価値を持つのは暗雲が太陽をさえぎった時です。が、それはあくまでも雲にすぎません。永遠にさえぎり続けるものではありません」
℘145
(訳者注───このあとに続く部分は第四巻の八章「質問に答える」の中で質問(四)として引用されている。次の問答はその続きとしてお読みいただきたい)

───最近の大規模な疎開政策によって家族関係が破壊され、それが責任意識に欠けた若者を生む原因になっていると私は考えるのですが、いかがでしょうか。

 「そういうことも考えられます。が、それがすべてというわけではありません。元来家庭というのは子供の開発成長にとっての理想的単位であるべきなのですが、残念ながらこれにも多くの例外があります。

私が思うに、暴力行為を誘発すると同時に道徳基準を破壊してしまうという点において、やはり何といっても戦争が最大の原因となっております。一方で相手を殺すことを奨励しておいて、他方で戦争になる前のお上品さを求めても、それは無理というものです」

───結局、社会環境を改善するしかないように思います。
℘146
 「そのために霊的実在についての知識を普及することです。自分が霊的存在であり物的存在ではないこと、地上生活の目的が霊性の開発と発達にあることをすべての人間が理解すれば、これほど厄介な野獣性と暴力の問題は生じなくなることでしょう」


 これにサークルのメンバーが 「そうなれば当然戦争などは起こり得ないですね」 と相づちを打つと、シルバーバーチが───

 「人類の全てが霊性を認識し、人類という一つの家族の一員としてお互いの間に霊という不変の絆がありそれが全員を家族たらしめているということを理解すれば、地上から戦争というものが消滅します」


 別のメンバーが 「それがいわゆる不戦主義者の態度なのですね?」と述べると───

 「私はラベルには関心はありません。私はなるべく地上のラベルには係わり合わないようにしております。理想、理念、動機、願望───私にとってはこうしたものが至上の関心事なのです。たとえば自らスピリチュアリストを持って任じている人が必ずしもスピリチュアリズムを知らない人よりも立派とは言えません。

不戦主義者と名のる人がおり、その理念が立派であることは認めますが、問題は結局その人が到達した霊的進化の程度の問題に帰着します。
℘147
不完全な世の中に完全な矯正手段を適用することは出来ません。時には中途半端な手段で間に合わせざるを得ないこともあります。世の中が完全な手段を受け入れる用意が出来ていないからです。

こちらの世界では高級な神霊はまず動機は何かを問います。動機がその行為の指標だからです。もしその動機が真摯なものであれば、その人の願望はまるまる我欲から出たものではないことになり、したがって判断の基準も違ってきます」

(訳者注───最後に述べている〝まるまる我欲から出たものではない〟というセリフは注目すべきであろう。前巻でも注釈しておいたことであるが、シルバーバーチは〝利己性〟をすべていけないものとは見ていない。

霊的なものに目覚めた当初はとかく完全な純粋性を求め、それが叶えられない自分を責めがちであるが、肉体という〝悲しいほど不自由な牢〟に閉じ込められている人間に、そのような完全性を求めるつもりはさらさらないようである。だから〝動機さえ正しければ〟ということになるのである)


 ここで先ほどの女性が 「立派な兵士と真面目な不戦主義者とがともに正しいということもあり得るのですね」 と述べると───
℘148         
 「その通りです。二人の動機は一体何かを考えればその答えが出ます。何ごとも動機がその人の霊的発達の程度の指標となります」

───こういう場合には自分だったらこうするだろうということは予断できないと思うのです。

 「そうなのです。なぜかと言えば、人間はその時点までに到達した進化の程度によって制約されていると同時に、地上生活での必需品として受け継いだ不可避の要素(前世からの霊的カルマ、肉体の遺伝的要素などが考えられる───訳者) の相互作用の影響も受けるからです。ですから、常に動機が大切です。

それが、どちらが正しいかを判断する単純明快な基準です。かりに人を殺めた場合、それが私利私欲、金銭欲、その他の利己的な目的が絡んでいれば、その動機は浅はかと言うべきでしょうが、愛する母国を守るためであれば、その動機は真摯であり真面目です。

それは人間として極めて自然な情であり、それが魂を傷つけることにはなりません。ただ残念なことに、人間は往々にしてその辺のところが曖昧なことが多いのです」

 別のメンバーが 「でも、もちろんあなたは人を殺めるということそのものを良いことだとは思われないでしょう」 と言うと、
℘149
 「もちろんです。理想としては殺し合うことは間違ったことです。ですが、前にも述べたことがありますように、地上世界では二つの悪いことの内の酷くない方を選ばざるを得ないことがあるのです」

(訳者注─── この後の死刑制度についての問答は同じく第四巻の 「質問に答える」 の質問(四)の最後に引用されているが、これをカットすると脈絡が取れにくくなるので再度掲載しておく)


───死刑制度は正しいとお考えですか。

 「いえ、私は正しいと思いません。これは〝二つの悪いことの酷くない方〟とは言えないからです。死刑制度は合法的殺人を許していることでしかありません。個人が人を殺せば罪になり国が人を処刑するのは正当という理屈になりますが、これは不合理です」


───反対なさる主たる理由は、生命を奪うことは許されないことだからでしょうか。それとも国が死刑執行人を雇うことになり、それは雇われた人にとって気の毒なことだからでしょうか。
℘150
 「両方とも強調したいことですが、それにもう一つ強調しておきたいのは、いつまでも死刑制度を続けているということは、その社会がまだまだ進歩した社会とは言えないということです。なぜなら、死刑では問題の解決にはなっていないことを悟る段階に至っていないからです。それはもう一つの殺人を犯していることにほかならないのであり、これは社会全体の責任です。それは処罰にはなっておりません。ただ単に別の世界へ突き落しただけです」


───そのうえ困ったことに、そういう形で強引にあの世へ追いやられた霊による憑依現象が多いことです。地上の波長に近いためすぐに戻って来て誰かに憑依しようとします。

 「それは確かに事実なのです。霊界の指導者が地上の死刑制度に反対する理由の一つにそれがあります。死刑では問題を解決したことになりません。さらに、犯罪を減らす方策───これが方策と言えるかどうか疑問ですが───としても実にお粗末です。そのつもりで執行しながら、それが少しもその目的のために役立っておりません。
℘151
残虐行為に対して残虐行為を、憎しみに対して憎しみを持って対処してはなりません。常に慈悲心と寛恕と援助の精神を持って対処すべきです。それが進化した魂、進化した社会であることの証明です」


───そこまで至るのは大変です。

 「そうです、大変なのです。しかし歴史のページを繙けば、それを成就した人の名が燦然たる輝きを持って記されております」


───憑依現象のことですが、憑依される人間はそれなりの弱点を持っているからではないかと思っています。つまり、土の無いところにタネを蒔いても芽は出ないはずなのです。

 「そうです。それは言えます。もともとその人間に潜在的な弱点がある、つまり例によって身体と精神と霊の関係が調和を欠いているのです。邪霊を引きつける何らかの条件があるということです。アルコールの摂り過ぎである場合もありましょう。薬物中毒である場合もありましょう。
℘151
度を越した虚栄心、ないしは利己心が原因となることもあります。そうした要素が媒体となって、地上世界の欲望を今一度満たしたがっている霊を引きつけます。意識的に取り憑く霊もいますし、無意識のうちに憑っている場合もあります」


 その日の交霊会の終りに、最近一人娘を失ったばかりの母親からの手紙が読み上げられた。その手紙の主要部分だけを紹介すると───

 〝私は十九歳のひとり娘を亡くしてしまいました。私も夫も諦めようにも諦めきれない気持ちです。私たちにとってその娘が全てだったのです。私たちはシルバーバーチの霊言を読みました。シルバーバーチ霊はいつでも困った人を救ってくださるとおっしゃっています。

(肢体不自由だった)娘は十九年間一度も歩くことなく、酷しい地上人生を送りました。その娘が霊界でぶじ向上しているかどうか、シルバーバーチ霊からのメッセージがいただけないものでしょうか。地上で苦しんだだけ、それだけあちらでは報われるのでしょうか。私は悲しみに打ちひしがれ、途方に暮れた毎日を生きております〟


 これを聞いたシルバーバーチは次のように語った。
℘153
 「その方にこう伝えてあげてください。神は無限なる愛であり、この全宇宙における出来ごとの一つとして神のご存知でないものはありません。すべての苦しみは魂に影響を及ぼして自動的に報いをもたらし、そうすることによって宇宙のより高い、より深い、より奥行きのある、側面についての理解を深めさせます。

娘さんもその理解力を得て、地上では得られなかった美しさと豊かさをいま目の前にされて、これからそれを味わって行かれることでしょう。

 また、こうも伝えてあげてください。ご両親は大きなものを失われたかもしれませんが、娘さん自身は大きなものを手にされています。お二人の嘆きも悲しみも悼みも娘さんのためではなく実はご自身のためでしかないのです。ご本人は苦しみから解放されたのです。

死が鳥かごの入り口を開け、鳥を解き放ち、自由に羽ばたかせたことを理解なされば、嘆き悲しむことが少しも本人のためにならないことを知って涙を流されることもなくなるでしょう。やがて時が来ればお二人も死が有難い解放者であることを理解され、娘さんの方もそのうち、死によって消えることのない愛に満ちた、輝ける存在となっていることを証明してあげることができるようになることでしょう」

 こう述べてから、次の言葉でその日の交霊会を結んだ。

 「地上で死を悼んでいる時、こちらの世界ではそれを祝っていると思ってください。あなたがたにとっては〝お見送り〟であっても、私たちにとっては〝お迎え〟なのです」

℘154
 さて次の交霊会にも同じ女性文筆家が出席した。シルバーバーチは開会早々こう述べた。

 「今あなたを拝見して、前回の時よりオーラがずっと明るくなっているのでうれしく思います。少しずつ暗闇の中から光の中へ出てこられ、それとともにすべてが影に過ぎなかったという悟りに到達されました。本当は今までもずっと愛の手があなたを支え、援助し、守っていてくださったのです。同じ力が今なお働いております。

 今のあなたには微かな光を見ることができ、それが暗闇を突き破って届いてるのがお分かりになります。その光はこれから次第に力を増し、鮮明となり、度合いを深めていくことでしょう。あなたは何一つご心配なさることはありません。愛に守られ、いく手にはいつも導きがあるとの知識に満腔の信頼を置いて前進なさることです。

 来る日も来る日もこの世的な雑用に追いまくられていると、背後霊の働きがいかに身近なものであるかを実感することは困難でしょう。しかし事実、常に周りに存在しているのです。あなた一人ぼっちでいることは決してありません」
℘155
───そのことはよく分かっております。なんとかして取越苦労を克服しようと思っています。

 「そうです敵は心配の念だけです。心配と不安、これはぜひとも征服すべき敵です。日々生ずる一つ一つにきちんと取り組むことです。するとそれを片付けていく力を授かります。

 今やあなたは正しい道にしっかりと足を据えられました。何一つ心配なさることはありません。これから進むべき道において必要な導きはちゃんと授かります。私にはあなたの前途に開けゆく道が見えます。もちろん時には暗い影は過(よぎ)ることがあるでしょうが、あくまでも影にすぎません。

 私たちは決して地上的な出来ごとに無関心でいるわけではありません。地上の仕事にたずさわっている以上は物的な問題を理解しないでいるわけにはまいりません。現にそう努力しております。しかし、あくまでも霊の問題を優先します。

物質は霊のしもべであり主人ではありません。霊という必須の要素が生活を規制し支配するようになれば、何ごとが生じても、きっと克服できます。

 少しも難しいことは申し上げておりません。きわめて単純なことなのです。が、単純でありながら、大切な真理なのです。
℘156
満腔の信頼、決然とした信念、冷静さ、そして自信───こうしたものは霊的知識から生まれるものであり、これさえあれば、日々の生活体験を精神的ならびに霊的成長を促す手段として活用していく条件としては十分です。

地上を去ってこちらへお出でになれば、さんざん気を揉んだ事柄が実は何でもないことばかりだったことを知ります。そして本当にためになっているのは霊性を増すことになった苦しい体験であることに気づかれることでしょう」

 最後に同じく夫を悲劇の中に失った未亡人に対して次のように述べた。

 「あなたからご覧になれば、私がこうして教訓やメッセージをお伝えできることから、私にはどんなことでも伝えられるかに思われるかも知れませんが、私には私なりにどうしても伝えきれないもの、私に適性が欠けているものがあることを常に自覚しております。

なにしろ私たちには五感では感識できない愛とか情とか導きとかを取り扱わねばならないのです。こうしたものは地上の計量器で計るような具合には参りません。

それでも尚、その霊妙な力は、たとえ地上的な意味では感識できなくても、霊的な意味ではひしひしと感識できるものです。愛と情は霊の世界では人間の想像をはるかに超えた実在です。あなたが固いとか永続性があるとか思っておられるものよりずっとずっと実感があります。
℘157
私が今ここで、あなたのご主人はあなたへの愛に満ちておられますと申し上げても、それは愛そのものをお伝えしたことにはなりません。言葉では表現できないものをどうしてお伝えできましょう。そもそも言葉というのは実在を伝えるにはあまりにお粗末です。情緒や感情や霊的なものは言語の枠を超えた存在であり、真実を伝えるにはあまりに不適切です」


 ここで未亡人が「主人が今私に何を告げたいかは私の心の中で理解しているとお伝えください」と言うと、

 「次のことをよく理解してください。これは以前にも申し上げたことですが、地上を去って私たちの世界へ来られた人はみな、思いも寄らなかった大きな自己意識の激発、自己開発の意識のほとばしりに当惑するものです。肉体を脱ぎ棄て、精神が牢から解放されると、そうした自己意識のために地上での過ちを必要以上に後悔し、逆に功徳は必要以上に小さく評価しがちなものです。

 そういうわけで、霊が真の自我に目覚めると、しばらくの間は正しい自己評価ができないものです。こうすればよかった、ああすべきだったと後悔し、せっかくの絶好のチャンスを無駄にしたという意識に苛(さいな)まれるものです。実際にはその人なりに徳を積み、善行や無私の行為を施しているものなのですが、その自覚に到達するには相当な期間が必要です」

霊訓〈完訳・下〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






30節

本節の内容
*イースター・メッセージ(一八七四年)キリストに学べ
真の信仰とは
*イースター・メッセージ(一八七五年)“復活”の真意
*キリストの身体とその生涯が意味するもの
*各種祭日の意義(クリスマス、レント、グッドフライデー、イ ースター、ペンテコステ、アセンション)
*イースター・メッセージ(一八七六年)再びキリストの生涯
*三種の“敵”(俗世、肉体、悪魔)
*イースター・メッセージ(一八七七年)再びキリストに学ぶ
*俗世に在りて俗世に超然とせよ
*苦難の時こそ進歩の時


〔霊は何かと祝祭日が好きである。その所為でキリスト教の祝祭日に関する特別のメッセージが数多く寄せられている。一例として三年連続して送られて来たイースターメッセージを紹介しておく。一八七四年のインペレーターによるメッセージに較べると、一八七五年に別の霊がサインしたものが雰囲気も異なり観点も異なる点に気づかれるであろう。〕

〔イースター。一八七四年。前の年の同日にドクターとプルーデンスから送られた通信に言及したところ、次のようなメッセージが書かれた。〕


あの通信が届けられた頃のそなたの心境と現在の知識とを較べれば、そなたの進歩のよき指標となろう。重大なる問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めたかがよく判るであろう。あの頃われらはいわゆる“復活”が肉体の復活ではなく“霊”の復活であることを説いた。遠い未来ではなく死の瞬間における霊の蘇(よみがえ)りの真相を説明した。その時点におけるそなたにとりては初耳であった。が、今は違う。当時理解に苦しんだことについて今は明確な理解がある。イエスの地上での使命と、今その使者を通じて進行中の仕事についても説いた。イエスの真の神性――そなたらが誤って崇拝してきた“主”の本来の偉大さについても説いた。イエス自ら述べた如く、イエスがそなたらと同じ一個の人間であったこと、ただ比類なき神性を体現する至純至高の人間の理想像であったことを説いた。愚かなる人間的神学が糊塗せるイエスの虚像を取り除くことによりて、そこに地上の人間の理想像としての人間イエス・キリストの実像を明らかにすることが出来た。

イエスは肉体を持って昇天したのではなかった。が、決して死んでしまったわけでもない。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説いた。われらも同様のことをする日が来るかも知れぬ。

今そなたが見ているのはこれから始まる新しき配慮――人間が空想し神学者が愚かにも説ける人類の最後の審判者としての“主”の出現ではなく、われら使者を通じての新たなる使命(実は古き真理の完成)、地上への新しき福音の啓示という形による“主”の出現の前ぶれとしての“しるしと奇跡(1)”なのである。すでに地上に進行しつつあるその働きの一環をわれらも担っている。イエス・キリストの指揮のもとに新しき福音を地上にもたらすことがわれらの使命なのである。今はまだその一部しか理解できぬであろう。が、いずれ、のちの時代にそれが神より授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることであろう。

このところそなたの精神の反抗性が減り、受容的態度が増したことにより、われらは直接的働きかけが目立って容易となってきた。これに加えて忍耐力と同時に祈りの気持ちと不動の精神をぜひ堅持してもらいたい。われらの目指す目的から目をそらせてはならぬ。今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージを繰り返しじっくりと噛みしめることである。進歩の妨げとなる障害物をつとめて排除せよ。もっとも、日々の勤めを疎かにしてもらっては困る。そのうち今より頻繁にそなたを利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではない。そのためにはまだまだ試練と準備とが必要である。友よ、その時期までにそなたは火の如き厳しき鍛練を必要とすることを覚悟せよ。地上的意識を超えて高級霊の住める高き境涯へと意識を高めねばならぬぞ。これがわれらからの復活祭(イースター)のメッセージである。死せるものより目覚め、魂を蘇らせよ。地上世界の低俗なる気遣いより超脱せよ。魂を縛り息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。死せる物質より生ける霊へ、俗世的取越苦労より霊的愛へ、地上より天界へと目を向けよ。地上生活にまつわる気苦労より霊を解放せよ。これまでの成長の補助的手段に過ぎなかった物的証拠並びに物理的現象を捨て去り、興味の対象を地上的なものより霊的真理の正しき理解へ向けよ。イエスが弟子たちに申したであろう――「この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ(2)」と。次の聖書の言葉も心の糧とせよ。「汝ら、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん。(3)」


――私がこの世的なことに無駄な時間を費して来たとおっしゃっているように聞こえますが。


そうは言っておらぬ。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことは為さねばならぬと言って来たつもりである。が、われらの願いはそうした客観的証拠がもはや必要とせぬ段階においては、そこより霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることである。向上心を要求しているのである。そしてそなたに求めることを全ての人間に求むるものである。


〔さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世的な仕事に全く不向きとなり、ガラスケースにでも入れておく他ないほど繊細となる――つまり霊界との関係にのみ浸り切り世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのかと尋ねた。〕


霊媒には環境も背後霊も異なる別のタイプがある。その種の霊媒にとりてはそうなって行くことが理想であろう。そなたもいずれはそのように取り扱うことになろう。もともとそなたを選んだのはそうした目論見(もくろみ)があってのことである。それ故にこそ、自制心に欠け邪霊の餌食となり易き人間となるのを防がんとして、時間を犠牲にしてきたのである。時間を掛けるだけ掛ければ疑念と困難が薄れ、代わりて信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのである。焦ったからとてその時期の到来が早まるものではない。たとえ早まるとしても、われらは焦らぬ。が、霊的向上心の必要性だけは、われらの仕事に関わる全ての人間に促してきた。同時に、物理的基盤が確立した以上、こんどは霊的構築の段階に入るべきであることも常に印象づけてきたつもりである。


〔ここで私はかつて述べたことがあることを再度述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行なわれているものの多くが無価値で、時に有害でさえあること、霊媒現象というものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、無闇に利用すると危険であるといったことであった。さらに私は、信念が必要であることは論を俟(ま)たないが、私には私なりの十分な信念が出来ていること、これ以上いくら物的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。〕


そなたの信念が十分に確立されていると思うのは間違いである。信念が真に拡充され純粋さを増した時、今そなたが信念と呼んでいるところの冷ややかにして打算的かつ無気力なる信念とはおよそ質を異にするものとなるであろう。今の程度の信念では本格的な障害に遭遇すれば呆気なく萎(しぼ)むことであろう。まだまだそなたの精神に染み込んでおらぬ。生活の重要素となっておらぬ。ある種の抵抗に遭うことで力を付けることはあろうが、霊界の邪霊集団の強力なる総攻撃に遭えば、ひとたまりもないであろう。真実の信念とは“用心”の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越せる無条件の“あるもの”によりて鼓舞されたものであらねばならぬ。魂の奥底より燃えさかる炎であり、湧き出ずる生命の源泉であり、抑えようにも抑え難きエネルギーであらねばならぬ。イエスが“山をも動かす(4)”と表現せる信念はこのことだったのである。それは死に際しても拷問に際しても怯(ひる)まぬ勇気を与え、長く厳しき試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成への道程にふりかかる幾多の危険の中を首尾よくゴールへ向けて導いてくれる筈のものである。

この種の信念をそなたは知らぬ。そなたの信念はまだ信念とは言えぬ。ただの論理的合意に過ぎぬ。自然に湧き出ずる生きた信念にはあらずして、常に知的躊躇を伴う検討のあげくに絞り出した知的合意に過ぎぬ。安全無事の人生を送るには間に合うかも知れぬが、山をも動かすには覚束(おぼつか)ぬ。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れぬが、魂を鼓舞し元気づけるだけの力はない。知的論争における後ろ楯としての効用はあろうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為と崇高なる目的の遂行において圧倒的支配力を揮うところの、魂の奥底より絶え間なく湧き出ずる信念ではない。そなたにはその認識が皆無である。が、案ずるには及ばぬ。そのうちそなたも過去を振り返り、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、かつまた、その及び腰の信念でもって神の真理の扉の開かれるのを夢想したものであると驚き呆れる時も到来しよう。その時節を待つことである。その時節が到れば、信念に燃え崇高なる目的に鼓舞された生ける身体の代わりに、大理石の彫像を置くこともせぬであろう。そなたにはまだ信念はない。


――あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくても、些(いささ)か希望を挫けさせるものがあります。それにしても“信仰は神からの授かりもの(5)”である以上、私のどこが責められるべきなのか理解に苦しみます。私は“拵えられた”ものです。


違う。今のそなたは内と外より影響を受けつつ自ら造り上げて来たものである。外なる環境と内なる偏向と霊的指導の産物である。そなたには誤解がある。われらが批難したのは、その名に値せぬものを信念であると広言したことに過ぎぬ。案ずるには及ばぬ。そなたはより崇高なる真理への道を歩みつつある。(なるべくならば)現象的なものを控え、内的なるもの、霊的なるものの開発を心がけよ。信念を求めて祈れ。そなたがいみじくも“神からの授かりもの”と呼べるものが魂に注がれ、その力によりてより高き知識へと導かれるよう祈れ。そなたのそのあらぬ気遣いがわれらを妨げる。

(†インペレーター)


〔イースター。一八七五年。午前中かなりの数の霊が集まっているのを感じていた。そのことに言及した後、それまでとは全く異質の影響力のもとに次のようなメッセージが書かれた。但し筆記者はいつもの霊である。〕


すでに述べたように、われわれもよく祭日を祝う。イースターも貴殿たちと同じようにわれわれにとっても祭日である。尤もわれわれは祝う理由が異なり、その意義についての知識も次元が異なる。われわれにとってもイースターは復活を祝う日であるが、肉体の復活ではない。われわれにとっては物質の復活ではなく、物質からの復活であり、霊の復活である。それのみではない。物的信仰と物的環境からの復活であり、用を終えた死せる肉体から霊が昇天するように、地上的・物的なものから魂が解放されることである。

全ての物的存在に霊が内在するように、何事にも霊的な意味があることは貴殿も学んだ。その意味においてキリスト教が祝うこの復活の教理は、われわれにとっても格別の意味をもつ。キリスト教徒は主イエスの死の支配からの脱出を祝う。その際、それを肉体のままの復活であると信ずるのは誤りであるが、霊にとっては死は存在せぬという偉大なる真理を、無知の中にも祝ってはいる。それはわれわれにとっては、人間が真理を部分的にせよ霊的に理解していることを喜ぶ日であり、さらにまた、この日に結実せるイエスの大使命の成就を喜ぶ気持はさらに大である。貴殿たちが信じたがるように、死が征服されるというのではない。生命の永遠性について朧気ながら理解し始めたということである。


〔私はイエス・キリストの身体の体質と、その生涯の霊的意義について尋ねた。〕


人類救済のために偉大なる霊が地上に降誕することはイエス一人に限られたことではない、と言うに留めておこう。そうした救世主によって人類が得る救いは、その時代の必要性に応じたものである。そうした特殊な降誕については、こののち更に述べることになろう。差し当たっては、人間の身体にも民族性によって程度の差があるように、そうした救世主にも平凡な人間とは異なる次元において程度の差があると言うに留めておく。俗性と官能性とを多分に具えた者もいれば、霊性高き洗練された者もいる。中でもイエスは最も洗練された霊性高き身体を具え、しかもそれが僅か三年の活動に備えて三十年もの鍛練と修養を重ねたのであった。〔この時私の脳裏に、三年のために三十年を費すのは不釣合だ――勿体ないという思いが走った。〕

救世主の為せる仕事が地上生活の期間にのみかぎられていると思うのは間違いである。イエスの場合に見られるように、真の影響はその死後の余波にある場合がよくある。イエスの仕事はその三年の間に始まったのであり、そして今なお続いているのである。

イエスの生活の特質は威厳と謙虚の合体であった。威厳さと平凡さとの結合にあった。威厳さが発揮されたのは誕生時と死亡時、その他、ヨルダンにおいて霊がイエスを試し、その使命を神聖なるものと認めた時等(6)、その生涯の節目にいくつか見られる。住民はイエスがその生誕より死に至るまで尋常の人間でないことに気づいていた。その生涯が俗世間の社会生活や家族的関係によって束縛されるべき人物でないことを知っていた。と言っても、イエスを取り巻く生活の和気あいあいたる雰囲気は、イエスにとって心地良きものであった。それを住民は理解していた。聖書はそうしたイエスと住民との関わりについての叙述がきわめて不十分である。イエスの言葉と行為が住民に及ぼした影響に関する言及が余りに少なく、一方、いつの時代にもあるように、新しき真理に楯ついた当時の学者並びに貴族階級の愚かなる誤解についての言及が余りに多すぎる。律法学者、為政者、パリサイ派、並びにサドカイ派の学者は挙(こぞ)ってイエスの敵にまわった。今もしイエスが当時の真の姿のまま教えを説いたならば、現代の知識人、博士、神学者、科学者と呼ばれる階層の者も挙ってイエスを嫌い、あるいは迫害することであろう。

仮に貴殿がわれわれのこうした仕事について語ることになった時、貴殿はまさかそうした階層の人たちから証言を得ようとは思わぬであろう。イエスの言行についての記録がそうした無知なる知識階層による迫害の叙述に偏り、平凡なる住民と共に暮らせる生活の中で見せた道徳的気高さについての叙述が余りに少な過ぎるところに問題がある。編纂者たちはイエスの直接の教えを受けた者との接触がなく、当時の風聞(うわさ)をもとに間接的に資料を得た。それではあたかも何世紀ものちになって歴史を編纂するのにも似ていよう。その点をよく心しておくがよい。

イエスの生涯は世間に知られているかぎりでは三年と数か月であった。それまでの三十年間はそのための準備期間であった。その間イエスはずっとその使命達成に意欲と愛を寄せる天使の一団(7)からの指示を受けていた。イエスは常に霊界と連絡を取っていた。その身体が霊の障害とならなかっただけ、それだけ自然に天使の指導を受け入れることが出来たのである。

地上の救済のために遣わされる霊はそのほとんどが肉体をまとうことによって霊的視覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常である。が、イエスは例外であった。その肉体の純粋さ故に霊的感覚を鈍らせることがほとんどなく、同等の霊格の天使たちと連絡を取ることが出来た。天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における地位まで記憶していた。天使としての生活の記憶はいささかも鈍らず、一人の時は、ほとんど常時、肉体を離れて天使と交わっていた。長時間に亙る入神も苦にならなかった。そのことは聖書に幾つか例を見ることが出来よう――荒野の誘惑の話、瞑想の習慣の話、山上における祈り、あるいはゲッセマネの園での苦悶。いずれも誤り伝えられてはいるが。

さらにまた、イエスが語ったという天地創造以前の神の栄光の中での生活の回想についても、すでに貴殿もわれわれが授けた知識によって思い当たるものがあろう。そうしたものが数多くあるのである。

イエスにとっては肉体が殆ど束縛とならず――それはまさに仮の上着であり物質界と接触する時にしか必要でなく――その生涯は普通一般の人間とは質こそ同じであったが程度において異なっていた。より清らかにして素朴であり、より崇高にして情愛に満ち、また人々から愛される人間であった。そうした生活は同時代の者には決してその真価を理解されることは有り得なかった。誤解され、曲解され、誹(そし)られ、思い違いをされるのは当然の結果であった。それは大なり小なり一般より抜きん出た者に共通して言えることであるが、イエスにおいてはまた格別であった。

その聖なる生活は人間の無知と悪意とによって、その半ばにして終焉を迎えた。キリスト教徒がイエスは地上人類の犠牲となるために降誕したと述べる時、彼らはその真実の意味を理解していない。確かにイエスは人類の犠牲となるために来た。が、その意味は熱烈なるキリスト教徒の説く意味とは異なる。カルバリの丘(8)でのあの受難のドラマは人間の為せる業であり、神の意図せるものではなかった。使命遂行に着手したばかりの時点においてイエスを葬ることは、神の悠久の目的の中にはなかった。それは人間の為せる行為であり、邪悪にして憎むべき、かつ忌まわしき出来ごとであった。

イエスは、他のすべての改革者が救世主であったのと同じ意味において(程度は他に抜きん出ていたが)人類のために死にに来た。そして至上の目的のために己の肉体を犠牲にしたのである。その意味においては確かにイエスは人類を救い、人類のために死ぬために地上に降りた。しかし、あの愚かしきカルバリの丘での終末のシーンがあらかじめ神によって予定されていたという意味においては、イエスはそのような目的をもって来たのではなかった。これは重大なる意味をもつ問題である。

もしイエスが地上生活を全(まっと)うしておれば人類がいかに大きな恩恵をこうむっていたか、それは計り知れぬものがある。が、時期尚早であった。当時の人間はその施された恵みを僅かに味わっただけで棄て去った。それを受け入れる用意が出来ていなかったのである。同じことが全ての偉大なる指導者について言える。まわりの人間は理解し得るものだけを取って残りを後の世へ遺し、あるいは性急のあまり脇へ押しやって目を呉れようともしない。そして後世の人間がその時期尚早に過ぎた霊を崇め敬慕することになる。これまた由々しき問題である。

受け入れの機が熟さぬうちに真理を押しつけることは、われわれには許されていない。否、それは神ご自身の計画の中にもなかろう。神の統(おしな)べる全宇宙は整然たる進化と組織的発展の中に営まれねばならない。今も同じである。今もし人類にわれわれの授ける真理を受け入れる用意があれば、地上はかつて天使が神の真理の光を届けた時以来の全啓示に浴することが出来ることであろう。が、今はまだその時期ではない。僅か一握りの備えある者のみが、後の世の者が喜んで喉の渇きを潤すであろう真理を受け入れるのみである。その意味においてイエスの地上での生涯は失敗であり、後世への潜在的影響力となることで終わってしまったと言えよう。

のちにキリストの名を標榜する教会が天使の影響のもとにイエスの生涯が象徴する真理をかき集めた。が、悲しい哉、今やその真理も、長き慣習によって慢性化し、真の威力を失うに至った。

貴殿も知る如く、キリスト教界の三大勢力(9)はイエスの生涯の出来ごとの幾つかを祝う点においては一致している。その三大勢力以外に精進日と祭日を祝うことを拒否する派があるが、これは感心しない。彼らは真理の一部を自ら切り取ったも同然である。が、教会は主イエスの記念として、クリスマス、エピファニー、イースター、アセンション、ペンテコスト等を祝う。これらはイエスの生涯の節目であり、各々が霊的意義を秘めた出来ごとなのである。

クリスマス(キリスト降誕祭(10))――これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿りとし、人類愛から己を犠牲にする。われわれにとってクリスマスは無私の祭日である。

エピファニー(救世主顕現祭(11))――これはその新しき光の地上への顕現を祝う祭日であり、われわれにとっては霊的啓発の祭日である。すなわち、地上に生まれ来るすべての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人一人に持ち運び与えるのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めて来るように、高揚するのである。

レント(受難節(12))――これはわれわれにとっては真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの時節は絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日である。

グッドフライデー(聖金曜日(13))――これはわれわれにとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤の末に訪れる目的成就、すなわち“死”を象徴する。但し新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生涯の認識と達成の祝日である。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。

イースター(復活祭(14))――これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克てる霊、そしてまた打ち克つベき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた蘇れる生命の祭りである。

ペンテコステ(聖霊降臨祭(15))――キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけているが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日である。それはキリストの生涯の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさから、自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を授かる。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日である。

アセンション(昇天祭(16))――これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生涯の終焉である。使命の完遂の祭りである。

以上がキリスト教徒の祝日に秘められた霊的な意味である。われわれ及びわれわれの仕事の最高指揮者であられる霊(インぺレーター)がキリスト教的独善主義の壁を打ち崩し、迷信に新たな光を当てて下さったおかげで、われわれが今こうして全ての行事に秘められた真理の芽を披露することを許されたのである。人間的誤謬が取り除かれれば、それだけ多くの神の真理が明らかにされるのである。

われわれは貴殿がこれまでに授かった教訓を補足し、完成せしめたいと望んできた。これまでは破壊することが必要であったが、今や構築を必要とする段階となった。神の子羊、人類の救い主イエス・キリストがユダヤの無知と迷信の中から神の真理を救い出したように、今度はわれわれが同じ真理を人間的神学の破壊的重圧から救い出さねばならない。イエスは真理を求めて喘ぐ魂を地上的煩悩より救い出し、邪霊の支配から解き放った。われわれは魂を人間的ドグマの束縛より解放し、自由の真理を高揚して人間に知らしめ、それが神からの啓示であることを悟らしめんと思うのである。

イースターメッセージ。一八七六年。

『磔刑(たくけい)と復活――自己犠牲と新生』


〔私は“死”と“生命”の問題、とりわけ霊性に係わる象徴的側面について一層踏み込んだ教えを請うた。質問の中で私は“死”と“復活”との霊的関係に言及し、肉体の死は新たな生への入口を象徴し、霊的な死は霊的新生ヘの道であると考えて良いかと尋ねた。(17)〕


その件に関しては昨年のイースターに述べたことを参照するがよい。そなたの言う象徴性が説明されている。すなわち、物質からの復活であり、物質の復活ではないということである。キリスト教会が祝い続けて来たさまざまな祭日のもつ霊的意義についても説明してある。参照するがよい。


〔言われるまま私は一八七五年のイースターメッセージを読んだ。教会の祭日が象徴的に解説してある。クリスマスは自己否定、顕現祭は霊的啓発、受難節は霊的葛藤、聖金曜日は愛の勝利、復活祭は蘇れる生命、聖霊降誕祭は豊かな霊的真理、昇天祭は使命の成就を意味するとある。〕


その通りである。理想的人間像の手本であったイエスの生涯は、地上に始まれる生命の進歩的発展が(そなたらの用語で言えば)天国にて完成される――自己否定の中に誕生し昇天の中に終焉を迎えることを象徴している。人間はイエスの生涯の中に霊の肉体との結合と解放の過程を一つの物語を読む如くに読み取ることが出来よう。天使の加護のもとでの三十年余の準備期間はイエスの使命にとりて相応しきものであり、三年の短かき期間も、人間の受け入れ能力に相応しきものを行使する上では十分であった。人間の霊もその発達過程においては、教会が祝う祭りに象徴される過程を辿る。すなわち自己否定の誕生に始まり、完成された生命の祝福に終わる。自己否定の中に誕生せる生命が犠牲的生活の中にて進化を遂げつつ、敵対するもの(日常生活、自己、及び敵の中に見出される反作用の原理)との不断の葛藤の中に成長し、ついに物的なるものより超脱し、イースターの朝、物質の墓より昇天し、それを機に豊かなる聖霊の洗礼を受けて新しき生命として生まれ変わり、ついに地上生活の徳性によりて用意された境涯(18)へと進む。

これぞ霊の進化であり、磔刑(はりつけ)と復活によりて端的に象徴された霊的新生の過程と言えよう。古き自我が死に、その墓場より新たな自我が誕生する。肉体的欲求に縛られて来た自我が十字架にかけられ、新たなる自我が神聖なる霊的生活を送るべく昇天する。肉体的生活の終焉は霊の新生である。そしてその過程が自我の磔刑――パウロの言う“日毎(ひごと)の死(19)”である。霊的進化の生活に停滞があってはならぬ。麻痺があってはならぬ。不断の成長であリ、日々の生活における真理の体得であらねばならぬ。地上的なもの、物質的なものの抑制と、それに呼応せる霊的なるもの、天上的なるものの啓発であらねばならぬ。言い換えるならば、美徳を積むこと、そして人間生活の模範として示されたイエスの生涯につきての理解を深めることである。物質的なるものからの超脱と霊的なるものへの発展――あたかも火によりて、全てを焼き尽くすほどの熱誠によりて焼き払う如く、物的汚れを清めて行くことである。それは自我と自我にまつわる全てのものとの闘いであり、神の真理の終わりなき悟りのための行(ぎょう)である。

これを除いて他に霊の浄化の方法はない。鍛練の炉は自己犠牲である。これに例外はない。ただ、霊的“炎”が一段と大きく燃えさかる偉大なる霊においては、その過程が急速であり、かつ一時期に凝縮されることがある。一方鈍重なる霊においては、その炎がくすぶり、浄化の過程も延々と幾度も繰り返されることになる。いち早く地上的なるものより脱し、浄化の炎を有難く受け入れる者は幸いである。そうした者は進化も急速であり浄化も確実である。


――その通りだと思います。が、その闘争は厳しくて何から克服して行くべきか迷います。


先ず自己より始めよ。古(いにしえ)の賢人は魂の敵の表現において見事であった。魂には三つの敵がある――自分自身とそれを取り囲む物的環境、そして向上を阻止せんとする邪霊集団である。これを古人は“俗世”と“肉体”と“悪魔”と表現している。

まず自己すなわち“肉”の克服より始めよ。肉体的欲求と感情と野心の奴隷とならぬよう、そして自我を殺し、隠者的独房より出でて宇宙的同胞主義の自由なる視野の中に生き、呼吸し、そして行動すべく、まず己自身を克服せよ。これが第一歩である。まず己を十字架にかけよ。そうすれば、己を埋葬せる墓地より、束縛なき魂が自由に羽ばたくことであろう。

これさえ成就すれば、その魂にとりて目に映じる物を忌み永遠なる価値に憧れるに至るのはさして困難ではない。真理は永遠なるものの中にのみ発見されるものであることを悟り、そう悟ったかが最後、それ以後は外界の物的形体を真理の影――人を迷わせ真の満足を与えぬ外敵として、ひたすらそれとの闘争を続けることになろう。物質は殻であり、それを剥ぎ取って始めて真理の核が得られることを知るであろう。また物質は往々にして人を誤らせる儚(はかな)き幻影であり、その奥に悟れる者のみが見出せる霊的真理が隠されている。そう悟れる魂にとりては最早や、物的なるものを避けその殻を通して内部の真理を求めよと、改めて説く必要はない。その魂にとりては、表面上(うわべ)の意味がいわば霊的理解力において幼児の段階にある者のためのものであること、その奥に象徴的なる霊的真理が潜んでいることを悟っている。物質と霊との相関関係を理解し、その表面的事象が幼児のささやかなる理解力に適う真理を伝えるための粗末な証でしかないことも理解している。その魂にとりては真実の意味において“身を棄ててこそ浮かぶ瀬(20)”もあるのである。その生活は魂のための生活である。何となれば、すでに“肉”を征服し、“世間”も最早や魅力はないからである。

が、霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて邪霊の敵対行為も目立ってくる。不倶戴天の敵とも言うべき邪霊集団が行く手を阻み、この試練の境涯を通じて絶え間なく煩悶の種子を蒔き散らす。信仰厚き魂はその一つ一つを首尾よく克服して行くことであろう。が、地上生活においてそれが完全に絶える時はついぞ訪れぬであろう。何となればそれはより高級なる霊的才能を発達させるための手段なのであり、より幸せな境涯へ向上する資格を得るための踏台だからである。

以上が、簡単ではあるが、進歩的人間の辿る生活である。すなわち、己を十字架にかける自己犠牲と、世間の誘惑に打ち克つための自制と、邪霊との対抗に耐えるための霊的葛藤の生活である。そこに停滞は許されぬ。休息もない。そして終息もない。一日一日が死であり、そこより新たなる生活が始まる。不断の闘争であり、そこより止まることなき進歩が得られる。魂に内在せる霊的ともしびが徐々にその光度を増し、ついに完全なる光輝となるための絶え間なき闘争である。そなたらの言う天国はこうした厳しき闘争の末においてのみ得られるものである。


――Sic itur ad astra.(21)これこそがキリスト教において、仏教において、それから神秘学においても中心的思想となっています。キリストの言葉の中にも生涯キリスト自身を鼓舞し続けたその思想が随所に見られます。問題はいかにしてその理想をこの俗世で生かすかということです。


そこに、キリストの言える如く、地上の住民とならず地上を旅する者であらんとするための闘争があるわけである。この高度な理想は日常の雑務に心を奪われている者にはまずもって実現不可能である。だからこそわれらはそなたの関心を出来るかぎり物理的交霊実験より逸(そ)らさんとしてきたのである。危険と見たのである。物理的現象より超脱するよう努力せねばならぬ。構わず放っておくがよい。その種の交霊は隠遁生活でも送れる者にのみ相応しかろう。


――ずっと以前に私は、霊媒に徹しようとすれば世俗的生活と相容れなくなると思うと述べたことがあります。つまり霊的過敏性が急速に発達していくために世間との接触に適応できなくなる。あるいは、とにかくその霊媒の性格が普通の生活をし難くさせるものとなり、そういう種類の影響力ばかりを惹き寄せるようになる、と。


そうした傾向は多分にある。だからこそわれらは余りに物質的すぎる現象を控え、危険性の少なき精神現象を発達させてきたのである。とにかく、われらが全てを良きに計らっていると信ずるがよい。危険なのは背後霊が背後霊としての仕事がやり難くなった時である。そうなりたる時の危険性は深刻である。が、案ずるには及ばぬ。そなたの歩むべき道は見通しがついている。ただ、今は闇の力がはびこる暗黒の時期に差しかかっている。辛抱づよく待つことである。

(†インペレーター)


〔イースター。一八七七年〕


神の祝福のあらんことを! この時節の恒例として、生命の復活と再生について述べたく思う。

このキリスト教の祭日のもつ素朴なる象徴的意義については述べぬ。すでに述べてあるからである。すなわち葛藤の後に得られる勝利について説いてある。そなたも人間イエス・キリストの生涯の中にいかに霊の向上進歩が象徴的に表現されているかを学んだことであろう。その認識を改めて促しておきたい。

さて救世主イエスは神の使命を帯びて、至福の天界における霊的生活より地上へと降りられた。至純なる霊が一個の人体に宿り、ベツレヘムの飼い葉おけの中にて誕生した。ありとあらゆる不完全さと煩悩を具え、進歩のための唯一の手段である悲しみと誘惑と試練から遁れることの出来ぬ一個の人間となられたのである。

そこに進歩の唯一の手段としての霊から物質への降誕の一つの典型を読み取って貰いたい。遠き過去より存在し続け、必要かつ十分なる発達を遂げたる霊が、他の手段にては絶対に得られぬ進化に不可欠の葛藤と試練を求めて、いよいよ物質的身体による生活の場に降りたということである。

かくして人類の境涯へと誕生せるイエスは、たちまちにして“この世の君(22)”悪魔(サタン)による迫害に身を曝された。時の権力者たちは一斉にイエスに敵対し、神の子であることの証を要求した。そして遂に磔刑に処する命令を下した。イエスの説くところが彼らの主張するところと相容れなかったからである。

すでに述べた如く、向上進歩の道程において新たな段階に差しかかる毎に天使の一団が見守っているのであるが、その恩恵は格闘と煩悶〔のちに葛藤の意味であるとの説明があった〕の末でなくしては得られぬ。危険を冒すこともなく、必死の努力もせずに、ただのんびりと夢見る如き生活の中からは得られぬ。もし得られるとすれば、それはもはや恩恵とは言えぬ。葛藤の中にこそ恵みがあるのであり、敵対するものを克服し、闘い抜いた末の勝利の中にこそ存在するのである。このことをよく心するがよい。肉体を持ちて生を享けた霊には常にこれを滅ぼさんとする霊が付きまとうことを知るがよい。

幼な子イエスもそうした外敵の危険を察知する両親によりて安全の地を求めてエジプトへと連れて行かれた。そしてイエスはその地にて豊かなる霊的知識を身につけることになる。エジプトは太古より神秘的知識の宝庫であり、のちにイエスが披露せる知識の多くはそのエジプトにて摂取したものであった。

そなたにとりてはもはやそうした闘争の意味について改めて深く探る必要もあるまい。敵に取り囲まれ、怯えるその霊は、エジプトを措いて他のいずこに避難と武装の場所を求めるべきか。先人が苦闘の中に蓄積せる神秘的知識と体験の記録の中に求めたのは蓋(けだ)し賢明であった。神秘的知識の豊富なるエジプトこそ、闘う霊が悪との闘争に備えて知識を身につけ徳性を涵養して霊的武力を具える兵器庫であった。と言うのも、実を言えばエジプトへの脱出には二つの意味があったのである。一つには安全の地への逃避であったが、今一つは教育のための一時的逗留の意味もあった。すなわち徳性を涵養し、その中より霊的闘争の武器を身につけんがために、エジプトという深遠なる神秘的哲学の地へ隠棲したのであり、一方、他の地に比して平穏無事の雰囲気の中にて安らぎと憩いを求めたのである。瞑想、徳育、そして霊的闘士としての成長――イエスもそのか弱き幼少時代より青年期に至る時代をこうして過ごし、体力の増強と並行して獲得せる知識の中に徳性を涵養して行ったのである。まさに叡智と身体の双方の増強の時代であった。

救世主イエスの象徴的生涯の一つの典型とも言うべき時代がこれにて終わる。準備期が終わり公的生活が始まる。大衆の求むるものを遙かに超えた進歩と発達を限られた地上時代に成就すべく自らを鼓舞し続ける霊に、いよいよ第二の時期――われらのいう伝道期間に入るに先立ち、その準備を整える時期を与えられ、摂取し得るかぎりの真理を摂取するということである。そなたには改めて説くまでもなかろうが、霊的進歩にとりては、ありとあらゆる形式の利己主義を粉砕し、才能を己の利益のために使用せず、生活の全てにおいて“惜しみなく授かれる者は惜しみなく与えよ(23)”の戒律を厳守することが必須の条件なのである。

故に己に与えられたものは、それを求むる者と分かち合わねばならぬ。真理は、少なくとも通俗的なものは、世の人々に等しく分け与えられねばならぬ。が、より深く、より天上的なる真理は、イエスが一人山頂にこもりて孤独なる瞑想の中に己自身と対峙し、背後霊団(24)との交わりの中に霊的生気を取り戻さんとした如く、その葛藤の合間の魂の憩いとすべく、大切に、純粋のまま取っておかねばならぬ。その時のイエスには仲間はいなかった。ただ一人霊体に宿りて地上を遠く高く離れた(25)。その時の真相は、一人を除いて、弟子たちにも見ることを得なかった。その一人だけは幾度か神の使徒イエスを包むその最高の霊的現象を見る栄誉に浴したのだった。


〔のちに、その一人とは聖ヨハネ(26)であるとの説明があった。いつ、どこで、という指摘はなかったが、ヨハネはたびたびイエスの光輪現象(27)を目撃している。〕


この意味において、背後霊との交わりと同時に地上の同志との交わりの中に霊的真理の救いと喜びを分かち合うことを得る者は幸いである。霊的真理は分かち合うことによりて些かもその恩恵が減少するものではない。一途なる目的と、真摯にして完全なる共感の絆さえあれば、見る者が増えたからとて真理の光が減少するものではない。しかし、求道の世界には、たとえ同じ道を歩もうとも、二人三脚はそう滅多に望めるものではない。たとえ目指すものは同じでも、それぞれに辿る道があることを知り、それぞれに瞑想と祈りのための山頂をもち、一人そこに引きこもる時を持たねばならぬ。

その宗教的向上心の生活と相まてる陶冶(とうや)の生活は来るべき奉仕的社会生活への準備なのである。

救世主イエスは、エジプトにて霊的知識を身につけ、瞑想の生活によりて霊性を涵養し、純粋性をまとい、慈悲心に駆り立てられ、熱意に燃えて隠遁の生活よりようやく福音を授けるべく大衆の中へと入って行った。彼は真理に対する不敵なる信念に燃えていた。が、決して破壊主義者ではなかった。破壊することではなく真理を成就することこそ彼の眼目であった。荒れ果てた荒野とすることではなく、実りをもたらし花を咲かせんが為に土地を掘り起こし、耕作し、種子を蒔くことであった。材料は手もとにあるものを使用し、その垢を取り除き、生命を失える儀式も彼のまことの言葉の魔法にふれて生きた真理の象徴と化した。骨と皮ばかりの痩せこけた人間が生気を取り戻し、死体に霊が戻り、死者が蘇り、そして立ち上がったのである。

誠実なる目をもってすれば、こうした流れの中に突然の断絶も、一時期の粗暴なる終焉も、現在と過去との懸隔もなかったことが判るであろう。すべては推移であり、緩やかなる目覚めであり、それは今もなお自然界に見る通りである。一年の終わりと始まりとに急激なる断絶はない。人間の目には前年に埋められし墓の石蓋が如何なる力によりて取り除かれて来たかが判らぬ。ある時は全てが冷ややかにして生気なく、陰うつであり、もはや過去のものとなるかに思える栄光を悲しむ。が、やがて変化が生じる。人間的武力や権力によるのではなく、目に見えぬ霊力によりて起こされるのである。太陽が再び光を放つ。その光は死せる年が閉じ込められた牢獄のカギを開け、花が芽を出し、恥ずかしげに、そして半ば恐怖を抱きつつ頭をもたげる。やがて足もとはエメラルドの絨毯(じゅうたん)と化し、緑の平野が広がり、見よ! 痩せ細れる者が生気を取り戻す復活の季節(とき)が勢いよく訪れる。と言うよりは、死せる過去が静かに地上に戻る。これが大自然に年毎に黙示される霊的再生の寓話なのである。

同じ教訓を救世主イエスの生涯の中にも読み取らねばならぬ。伝道のために祖国に戻りし時、ユダヤの民の生活はあたかも冬の木々の如く霊性の全てを失い、寒々としていた。樹液がその流れを止めたかに見えた。枝に一葉も見られず、無気味ささえ漂っていた。疲れし旅人の喉を潤す果実一つなく、目を楽しませる一輪の花すら見当たらなかった。まさしく死の疫病が全てに蔓延していた。そうした中に“神の使者”、“選ばれし救世主”イエス、“正義と真理の太陽(サン)”――これは“息子(サン)”でもあった(28)、両者に差異はない――が、死せるが如き裸の枝に啓蒙の光と暖かさを注いだ。そして、見よ、その変化を! 空虚なる形式主義が霊的真理に輝き、冷ややかなる説教が健全なる生命によりて生気を取り戻す。古き時代につきての説話に新たなる奥深き意義がもたらされる。社会生活は向上し、改められ、尊さを増していく。宗教はかつてなく高度にその霊性を増す。イエスは形式に代わりて霊的意義を、けばけばしき儀式に代わりて静かなる人知れぬ祈りを、見せびらかし的宗教――人に見せんがための行事――に代わりて、人目につかぬ隔離された部屋での、己と神との二人きりの交わりを説いた。これを要するに、野蛮にして空虚、高慢にして偽りだらけの形式主義を排し、代わりて温順にして霊性に富める求道の生活を説いたのである。その真実の例証は騒々しき市場にはなく、静かなる個室にあり、パリサイ派にあらずして収税吏にあり(29)、大衆の目にあらずして神の監視の中にあった。

大自然とイエスの生涯に寓された教訓は魂の旅路にも見られる。学び得たかぎりの知識を携え、徳性を培える魂は、試練の生活ののちに新たなる生命の旅へと旅立つ。形式と儀式にこだわれる過去が霊性を賦与されて新たなる道が開ける。信仰に目覚めし魂の目には、それまで単なる現象であったものの裏に秘められた霊的意味が見える。むき出しの枝が緑の衣をまとう。死せる如く放置された儀式の形骸が霊性を賦与されて新たな生命の息吹きを取り戻す。古きものが廃棄されるのではない。質が変えられるのである。為すべき義務が免除されるのではない。逆に、より鋭き熱意と配慮をもって果たすことになるのである。憂き世の苦労の繰り返しが短縮されるのではない。その長き過程がささやかな善行の霊的意義によりて楽しく、かつ誇り高きものと感じられるようになるということである。

あまりの冷たさ、あまりの生気のなさに絶望し、“ああ、主よ、この形骸に果たして生命はありや”と幾度も叫ばしめた無味乾燥の儀式が復活霊の息吹きによりて生命と温(ぬく)もりと現実味を帯びる。それなりの効用を果たせる古き儀式が新たなる環境に適応せる生活へと再生される。古き生命力より一層強き生命力をもち、過去の美わしさより一段と霊性を増せる美わしさをもって新生される。若さを取り戻したのである。霊的に啓発された目をもって見れば、真理はひとかけらたりとも滅びることはなく、必要に応じて神の研究室にて再化合され再生されて行くものであることを知るのである。

要するに魂はそれを取り巻く自然界全体の復活に参加するのである。生命を新たにし、高き知識を獲得し、奥深き真理を悟り、そうして貯えた力を携えて、啓発と発展と成長のための手段を授けに同胞のもとに赴くのである。その時は最早や平凡なる人間とは物の観方が異なる。行為も異なる。何の変哲もなき外観の内側に神的可能性を見る。如何ともし難き厄介物といえども、剪定によりて発育を促し、枯れ枝の刈り込みによりて若き枝が成長すると観れば、これを見捨てることはせぬ。かくして同胞のための公共的奉仕の生活に勤みつつ、一方においては絶え間なく霊的向上のための生活――真理への憧れと発展、霊との交わり、物質的・地上的なものからの超脱によりて一歩でも主イエスの完全なる模範に近づかんとする修養を怠らぬ。

この隠れた霊的向上の生活こそ、同胞への伝道の生活の源泉なのである。

主イエスの地上生活の終末のシーンもまた象徴的意義を秘めている。それは敵意と侮蔑と迫害を煽(あお)るところの時代的偏見と闘う伝道者の宿命であり、気に入らぬ真理に対する地上的報復なのである。イエスの生涯の記録を歴史的事実として理解できるそなたには、その悲劇的最期に至る一連の迫害の生涯が当然予想されるものであり、それ以外の生涯は到底有り得べくもなかったことに理解がいくことであろう。恐れることを知らぬ革命家イエスの出現に危惧を覚えた卑劣なる学者たちは、民衆をけしかけて一勢にイエスを攻撃させた。そうしなければ自分たちがその虚飾の姿を赤裸々に曝されることになっていたかも知れぬ。尊大にして虚飾に満ちたパリサイ主義は、若しもパリサイ人をしてイエスに対する怨恨を抱かしめなかったならば、イエスがマグダラのマリヤ(30)と収税吏を戒めた以上の厳しき言葉で糾弾されていたかも知れぬ。見せかけのみの儀式主義に堕落し、金の力にて容易に地位と権力を獲得できた当時のユダヤ教は、もしもそうした地位と権力を有する者が、聖櫃(31)にさえ不敬をはたらく忌まわしきナザレ人を憎むべき人物に仕立てなかったならば早晩大革命が生じ、律法学者やパリサイ派教徒よりも収税吏や売春婦のほうが高き地位と権力とを手中にすることになっていたかも知れぬ――が、こうしたことは到底有り得なかったであろうことは、そなたにも理解がいくであろう。

イエスの至純さと至善は怨恨を呼ばずにはおかなかった。妥協を排する真摯なる態度は嫉妬心を惹起せずにはおかなかった。その説くところの教義は余りに厳しく、一般民衆には付いて行けなかった。その生活上の戒律は余りに霊的に過ぎ、放縦と安逸の時代にはそぐわなかった。詰まるところ、そうした高度の訓えを受け入れる用意のない時代がイエスを十字架にかけたのであった。空虚と不純の時代が、罪悪の首謀者たちの立てた恥辱の木にイエスを磔(はりつけ)にすることにより、至純至聖なる“真理の子”に報復したのであった。

そういう次第であった。今なお、形而下的にはともかく、形而上的には多くの例証を見ることが出来る。中には神の使者の活動の波がちょうど通過せし時代にその波に乗って時代相応の真理を説き、それが首尾よく世に入れられ、その功ゆえに名誉と賞讃を得た改革者がいた。また中には、さらに多くの世俗的叡智と分別に長(た)け、より多く世の為に尽くした人物もいた。が、そうした指導者は稀である。大抵の指導者はイエスの如く真理の代償として屈辱と恥辱の中に死を迎える。真理を説ける指導者には死が与えられる。が、その訓えには復活と新たな生命が与えられる。そしてその指導者の姿がこの世より消えて始めて、その訓えの真価が理解される。その例は改めて長々と説くまでもなかろう。

キリストが十字架にかけられた時、そこには実に少数の同志しか居合わせなかった。悲劇の底にありてもなお鋭き直感と情愛が変わることのなかった二、三の女性と、公然と信仰の告白をせず最も臆病でさえありながら、実は最も忠実なる側近であった隠れた弟子のヨセフ(32)とニコデモ(33)の二人のみであり、他はすべて逃走したのだった。そして新しき真理の伝道者、新たなる福音の宣教師――彼は今いずこに在りや。身罷(みまか)ったのである。そして彼の説ける福音はいずこに在りや。これ又どうみても葬られたとしか思えなかった。それ故、誰一人として福音のこともイエスのことも思い出さず注意すら払わなかった。しかしそれは、人間の性急なる判断であった。かの埋葬場所の入口の蓋を取り除いたのは誰なのかは知るよしもなかった。ただ時おり地上に新生をもたらす“霊”の力が石を取り払い、死せる肉体に生命を吹き込んだとのみ信じた。それは実は天使の仕業であった。それと同じ力――完全に死せるものと思い埋葬せる肉体に新たな生命を吹き込める同じ力が、イエスの福音に生気を吹き込み、善悪さまざまな風説の中で育て上げ、ついに諸国にまで波及させ、当時の霊的真理の強大なる動力とならしめたのであった。

これを個々の革命家に当てはめてみよ。辿るベき宿命は同じである。神の真理として説くところがその時代の心に訴えようが訴えまいが、あるいは仮に訴えたとして、それが時宜を得たものとして喜んで受け入れられようが、それとも余計なことをする革新者のおせっかいと受け取られようが、真理は真理として受け入れられるべく闘いの道を歩まねばならぬ。それが神の選別の手段なのである。そして抵抗が大なれば大なるほど、それだけ真理普及に対する意気込みも大となる。踏みつけられれば踏みつけられるほど、信念は深く固く根を下ろす。その闘いの生涯がイエスの如き終焉を迎えるか、あるいは信念の弱さ、または慎重なる配慮によりてその悲劇的運命が避けられるか、それは大した問題ではない。真理の言葉そのものが最後の勝利へ向けて首尾よく闘争をくぐり抜けることが肝要なのである。それはちょうど修行時代において孤独と瞑想の生活の中に誘惑者と敵対者と闘い、苦悩の中に身を修め、受難の末に勝利を手にしたのと同じである。

修行時代を終え、新たなる生命を携えて公的生活に入ったのちのイエスの生涯は、覚醒せる魂に訪れる変化の象徴であった。この世に在りつつこの世の住民とならぬ生活――地上への“訪問者”としてこの世の慣習に順応しつつ、しかもそれに隷属せぬ生き方をイエスは示した。常に、全ての霊的影響力に見られる、かの最も強力なる原理すなわち“愛の摂理”によりて鼓舞され続けた。イエスがその姿を現わす時、あるいは何か事を為す時、それは常に愛に発していた。そなたらの手に残された記録は乏しく、かつ誤謬に満ちているとは言え、その原理を示す事象は十分に盛り込まれている。イエスは愛の摂理を成就し、そして相応しき境涯へと昇天して行った。二度と御姿を拝することも、じかに接することも出来ぬ。もはや形体を具えた存在ではない。今や霊的恩寵の源泉であり、“影響力”としての存在となっている。

自らの発意によりて地上界を訪れる霊はことごとくその愛に鼓舞されているのである。言い換えれば彼らの使命はイエスと同じ愛の原理に発しているのである。人間的情愛にせよ、宇宙的博愛にせよ、その愛は高級霊界の存在を惹き寄せる。そして果たすべき使命を終えれば、彼らもまた父なる神、普遍的宇宙神のもとへ帰って行く。

希望に燃えよ! そなたはとかく真理の枯渇を嘆き過ぎる。暗く寒き冬にありてはその寒さに震え、冬の後には必ず春が訪れている事実を忘れる。つまり“死”ありてこそ“再生”があり、新たなる生活、より広き視野と有用性と崇高なる目標と真実の意図を具えた生活へと導かれるものであることを忘れている。そうした生活には必ず死が先立つものであること――人間が死と呼ぶところのものは、神的真理に関するかぎり、豊かなる実りをもたらす必須条件としての“種子の死”に過ぎぬことをそなたは知らぬ。生へ向けての死――これこそが魂のモットーなのである。より高き生へと昇華され行く死である。墓場における勝利であり、死を通じての勝利である。霊的真理を扱うに当たりては、このことを忘れてはならぬ。

輝きと静けさの中にある時に恐れを抱くのは構わぬ。空気は淀み、焼けつく炎熱の時、潤いが渇き切り、太陽が容赦なく照りつける時、か弱き植物はしぼみ萎(しな)びていく。故に安逸と安楽の時、事が順調に運ぶ時、そして世を挙げて“真理の言葉”を賞讃する時、その時こそ、やがてそれが萎び、輪郭が翳(かげ)り、伝来の世俗的信仰の中に埋没して行くことを恐れる必要があるのである。全ての者が無条件に真理を受け入れる時こそ、その真理もやがて改められる必要が生じ、より深き真理が要求される時が到来しつつあるものと思うがよい。それとは逆に、強烈なる抵抗の中にある時こそ大いに意を強くするがよい。何となれば、その産みの痛みによりてこそ頼もしき後継者が誕生し、その気力と精力とによりて抵抗を跳ね除け、神の規範を一層有利なる戦いの場へと導いてくれるであろうからである。

救世主イエスの誕生から復活への生涯の過程にはそうした趣旨が込められている。これは永遠に変わることなき比喩である。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)使徒行伝2:43。
(2)Be in the world,but not of the world. 身はこの世にあっても“この世的”人間になるな、ということ。この通りの言葉は聖書に見当たらないが、多分ヨハネ17の場面で実際に述べたのであろう。
(3)エペソ5:14。(4)マタイ17:20。(5)聖書全体に流れる基本的教説。
(6)マタイ3~4その他。
(7)医師のスピーア博士宅で行なわれた霊言現象の中でインペレーターが「主イエスはかつて一度も物質界に生を受けたことのない霊団によりて支配され元気づけられていた」と述べている。日本で言う自然霊である。
(8)Calvary ゴルゴタGolgothaのラテン名。キリストが十字架にかけられた土地の名。
(9)カトリック、プロテスタント、東方教会。(10)Christmas.(11)Epiphany.
(12)Lent.(13)Good Friday.(14)Easter.(15)PentecostまたはWhitsuntide.
(16)Ascension.(17)インペレーターが回答。
(18)人間は日常生活において、死後に落着く環境を築きつつあるというのが高級霊界通信に共通した説である。
(19)コリント前15-31。(20)“to die has been gain”.
(21)ローマの詩人バージルの叙事詩「アエネイス」の中の名句で、星への道すなわち不滅への道はかくの如し、という意味。(ラテン語)
(22)the Prince of the World(ヨハネ12-31その他)。(23)マタイ10-8。
(24)西洋でいう天使、日本でいう自然霊によって構成されていたという。注(7)参照(25)幽体離脱現象。
(26)イエスの弟子のヨハネ。前出のバプテスマのヨハネとは別。
(27)俗に後光がさす、と言っているもので、一種の変容、または変貌現象。
(28)Sun(太陽)とSon(息子)は語源も発音も同じ。
(29)当時の民衆の尊敬を得ながら、現実は空理空論を弄んでいるに過ぎないパリサイ派の宗教学者よりも、人に嫌われ軽蔑される職業でありながら、社会にとってなくてはならぬ存在である収税吏のほうが上であるということ。
(30)伝説的にはかつて売春婦でイエスの教えで信仰に目覚めた女性とされる。(ルカ7-37~50)
(31)モーセの律法の巻物が納めてあるもので、イエスは平気で手を触れたりした。
(32)Joseph of Arimathea(マタイ27-57~60)イエスの死体を手厚く葬ったという。
(33)(前出)ヨセフと共にイエスの死体を葬ったという。


霊訓〈完訳・下〉

  The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






29節

本節の内容
*低級霊に関する警告
*現実の裏側の怖るべき実情
*邪悪霊・堕落霊・復讐霊・偽善霊
*物質文明と大都会の悪弊
*興味本位の心霊実験の危険性
*物理的心霊現象の価値
*物的次元より霊的次元への脱皮の必要性
*氏名を詐称する霊の危険性
*いたずら霊の存在
*個人的関心事は避けるが賢明


〔一八七四年三月十五日。この頃までに他人の名を詐称する霊が出没しているから注意せよとの警告がしきりに出され、その特殊なケースが実際に他のサークルで起きたことで一段としつこくなっていた。その問題に関連して数多くの通信が送られて来たが、その中で唯一普遍的な内容のものを紹介する。〕


このところわれらの要請がしつこくなっているが、それは人間を騙さんとして他人の名を詐称する霊にはめられる危険性について、これまでも再三警告してきたことを改めて繰り返す必要を痛感しているからである。そうした連中も“未熟霊”の中に入る。その種の霊による面倒や困惑の危険性がそなたの身辺に迫っており、その餌食とならぬようにと、最近特に注意を促したばかりであろう。如何にもわれらに協力せんとしているかに見せかける霊が存在することをわれらは確かめている。その目的とするところはわれらの仕事に邪魔を入れ進行を遅らせることにある。

この点については十分に説明しておく必要がある。すでに聞き及んでいようが、今そなたを中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われらの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによりて煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに、程度を異にする未熟な霊が全てこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われらを始めとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。

そなたにそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状がそなたの肉眼に映らぬからであるようである。となれば、そなたの霊眼が開くまではその大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達霊の類である。彼らにとりて地上生活は何の利益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとりては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的喜びには何の反応も示さぬ。かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによりて、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。

肉欲の中に生き、肉欲のためにのみ生き、今その肉体を失える後も、肉欲のみは失うことの出来ぬこの哀れなる人間は、地上に感応しやすき同類を求め、深みに追いやることをもって生きる拠り所とする。それを措いて他に愉しみを見出し得ぬからである。地上では肉体はすでに病に蝕まれ精神はアルコールによりて麻痺されていた。それが、かつての通い慣れた悪徳の巣窟をさ迷い歩き、取り憑きやすき呑んだくれを見つけてはけしかける。けしかけられた男らは一段と深みにはまる。それが罪もなき妻や子の悲劇を広げ、知識と教養の中心たるベき都会の片隅に不名誉と恥辱の巣窟を生む。そうすることに彼らは痛快を覚え、満足の笑みをもらすのである。こうした現実がそなたらの身のまわりに実在する。それにそなたらは一向に気づかぬ。かくの如き悪疫の巣がある――あるどころか、ますます繁栄しのさばる一方でありながら、それを批難する叫び声は一体地上のいずこより聞こえるであろうか。何故どこからも批難の声が上がらぬのであろうか。何故か? それも邪霊の働きに他ならぬ。その陰湿なる影響によりて人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならぬ。その悪疫は歓楽街のみに留まらぬ。そこを中心として周囲一円に影響を及ぼし、かくして悪徳が絶えることがないのである。かつての呑んだくれは――人間の目には死んだと思えようが――相も変わらず呑んだくれであり、その影響もまた、相も変わらず地上の同類の人間の魂を蝕み続けているのである。

一方人間の無知の産物である死刑の手段によりて肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつきまわり、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ――その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼らはその哀れなる犠牲者なのである――を抱き、その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪を唆(そそのか)し、己が犠牲となりしその環境の永続を図る。人間は一体いつになれば毎日の如く、否、時々刻々と処罰している罪悪が実は混雑せる都会生活の産み出す必然の副産物に過ぎぬことを悟るのか。根本の腐敗の根源をそのままにして、何故に醜き枝葉のみを切り落とすのか。協同責任において生み出せる哀れむべき仲間を何故に無慈悲に処分するのか。そなたらは実は利己主義者なのである。その利己主義者が何故に憎悪に燃える霊を敵にまわす行為をしでかすのか。ああ、友よ、そなたらの旧時代的刑法が誤れる認識の上に成り立っており、犯罪防止よりむしろ悪用を生んでいることに気づくまでには、そなたら人間はまだまだ幾多の苦難を体験せねばならぬであろう。

かくの如く、地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上に舞い戻るこうした邪霊は当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖にして善なる霊に変り得るであろうか。肉欲の塊りが至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるものであろうか。それが有り得ぬことくらいはそなたにも判るであろう。彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍と共に、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗に遭うのは彼らの存在の所為であり、そなたにそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し彼らの攻撃にスキを見せることがあってはならぬ。

この警告はいくら強調しても強調しすぎることはない。その働きが常に潜行的であり、想像を超えた範囲に行きわたっているだけに、なおのこと危険なのである。地上の罪悪と悲劇の多くはそうした邪霊が同種の人間に働きかけた結果に他ならぬ。地上の名誉を傷つけ、体面を辱しめるところの、文明と教養の汚点とも言うべき戦争と、それに伴う数々の恐怖もまた、彼らの仕業である。大都会を汚し、腐敗させ、不正と恥辱の巷(ちまた)と化す犯罪を醸成するのも彼らなのである。

そなたら文明人は知識の進歩を誇り、芸術と科学の進歩を誇り、文化と教養の進歩を誇る。文明を誇り、己の国を飾り立て高揚するキリスト教を地上の僻地にまで広めんと大真面目で奔走する。のみならず、それをそなたらのみに授けられた神の万能薬として、彼らに押しつけんとする。その押しつけんとする宗教と文明がそなたらにもたらす現実については、彼らには言わぬが華であろう。われらが繰り返し説ける如く、そなたらの説く宗教は、真のキリスト教の名に値する単純素朴にして、純粋なる信仰の堕落による退廃的所産に他ならぬ。そなたらの誇りとする文明も文化もうわべのみの飾りに過ぎず、化膿せる傷口は到底隠し切れず、霊眼には歴然として正視できぬ。それが人間性に及ぼす影響に至りては、その本来の崇高なる感覚を汚し、空虚さと偽瞞と利己主義しか産み出さぬ。その点においては、人間本来の感性を文明によりて矮小化されず麻痺されることのなかった砂漠の民のアラブ人、あるいはアメリカ・インディアンの方が、人を出し抜き、ペテンにかけることに長けた狡猾なる商人、あるいは文化的生活に毒された巧妙なる弁舌家や淫乱きわまる文明人より遙かに高潔であることが、往々にして見受けられるのである。

地上の大都会はまさに悪徳と残忍と利己主義と無慈悲と悲劇のるつぼである! 魂は真理に飢え途方に暮れている。霊的影響力を受けつけぬ雰囲気の中で暮らす彼らは、より清く、より平静なる雰囲気を求めて悶え苦しむ。が、その悶えも、取り囲む闇の帳(とばり)を突き抜けることが出来ぬ。必死の向上心も繰り返される悪の誘いに打ち砕かれる。折角の決意も邪霊に奪われる。かくして彼らは次第にそうした邪霊の働きかけへの抵抗力を失う。その段階まで至れば、自暴自棄の念を吹き込むのはいとも簡単である。それが悪徳を大きく助長し、救いへの正道がほぼ完全に閉ざされる。

では、そうした不純と淫乱と懊悩の巷――実はすぐ目と鼻の先のそなたらの同胞の住める都会であり、そこでは金さえあれば少なくとも身体的労苦からは逃れられるが――そうした巷より霊界入りする人間はその後いかなる経過を辿るであろうか。彼らの住める環境は、見た目には霊と肉を堕落させる恥ずべき環境とは思えぬ。が、そこに漂う霊的雰囲気は俗悪臭に満ち溢れている。金儲けのみが人生であり、愉しみと言えば飲食と酒色である。雰囲気は金銭欲と権力欲、その他ありとあらゆる形の利己心である。そうした環境にて暮らせる人間の魂が死後いかなる状態に置かれるか――そなたは一度でも想像してみたことがあるであろうか。魂の糧となるべきものを知らず、成長もなく、携わるベき仕事も持たぬ。発育は歪(いびつ)となり、落着くところは古巣の地上でしかなく、金と欲の巷に舞い戻ったところを、待ち受けていた邪霊に掴まり、唆(そそのか)され、欲望を一層掻き立てられ、われらには近づき難き存在となる。そうなるが最後、悪徳の巣窟である歓楽街の酒色に溺れる霊と同じく、われらは手を施す術(すべ)を知らぬ。辺りはむせ返る雑踏――そこでは金のみが物を言い、利己心と貪欲と盗みが横行する。そこは邪霊集団の行動の中心地であり、そこより毒々しき影響力が発散されていく。

が、人間はそれに一向に気づかぬ。諸悪の根源に無知であり、その諸悪に恰好の場を提供している点において愚か極まる。悪の環境を永続させるのはその愚かさに他ならぬ。そして地上に生命が誕生し発達し霊性を開発していく、その本来の原理・原則を理解せしめんとするわれらの努力を一層困難なものにする。これまでにも結婚生活のもつ重大なる意義について理解せる高邁なる改革者が幾人かいた。われらもそなたに理解し得る範囲での見解を述べてきた。世の中がさらに進歩した時点において説くべきものが、まだまだ数多く残っている。が、今はその時期ではない。差し当たり、われらとしては、結婚生活というものが病いと犯罪と貧困と精神病等の重大なる問題と密接に結びつける問題であることを指摘しておく。それが人間との係わりにおいてわれらを悩ませ混乱せしめている。その多くが結婚生活にまつわる愚劣なる思想、さらには無謀きわまる犯罪的処罰――犯罪的であると同時に、より一層愚かでもある法律に帰されるべきである。そのことは無知・無教養の階層に劣らず教養ある上流階級についても言えることである。否、むしろその最大の罪は富める階層にあるであろう。そなたらはこれまで抱いて来た結婚にまつわる観念を大いに改めねばならぬ。結婚の美名のもとに行なわれる退廃と堕落の大根源を抹殺するにはまず、それまでそなたらが佳しとして来たものに代わりて、幸福と進歩のための、より真実にして神聖なる規範を学ばねばならぬ。われらを誤解してはならぬ! われらは放縦を唱道する者ではない。世に言う社会的自由の伝道者ではない。愚か者は自由と放縦とを履き違えて堕落する。その墜落せる観念をわられは軽蔑をもって拒否する。かの恥ずべき人身売買――最も神聖なる生命の法則の侮辱とも言うべき社会的奴隷制度を軽蔑する以上に、われらは結婚の美名のもとに行なわれる人身売買を軽蔑するものである。

そなたは未だに肉体が霊の道具であること、その肉体の発達を促す健康の法則と条件が、霊が肉に宿って送る地上生活にとりて必須のものであることを理解しておらぬ。それについては前にも述べたが、ここで一言だけ付け加えるならば、他の面においても同じことであるが、この問題においてもそなたらはわれらの敵に味方する結果となっている。そなたらがその独占者を以て任じているところの純粋にして崇高なる霊的福音が地上にもたらされて早や十九世紀の歳月が流れた。然るにそなたらは真の向上に資する面においても、叡智においても、真の宗教性においても、殆ど成長らしき成長をしておらぬ。それどころかむしろイエスがその修業時代を過ごせるエッセネ派(1)にも及ばぬ。イエスに最も辛辣なる非難を浴びせし律法学者やパリサイ派と同列である。

そなたは知らぬ。肉体と霊の問題――この世のみならず死後の生活にも関わる重大なる意味をもつこの問題について、そなたはまるで判っておらぬ。

以上、かつて言及しておいた、われらに敵対する邪霊集団について、その幾つかを明らかにしてみた。彼らは勢力を結集してわれらの仕事を挫折させ悩ませ傷つけんとスキを窺っている。しかも人間の無知ゆえに堕落していく霊によりて時々刻々その勢力を拡充していきつつある。

これまでわれらはもう一方の集団、すなわち人類のため、人類の発展のために力のかぎりに努力している霊の集団については述べずにおいた。人類を救済し、未来に希望をもたせる犠牲と献身の行為、素朴にして気高き生きざま、心豊かな行為については敢えて述べずにおいた。それは、われらの目下の仕事がその反対の暗黒面を描いてみせることにあるからである。出来るだけその方向へそなたの注意を仕向けてきた。言っておくが、われらはその内面の姿を有るがままに描いているのである。われらの通信の底流をなす深刻なる真理、すなわち善と悪との対立、その悪の勢力を助長する人間の過ちは、われらが担(にな)える仕事の今後の進展に大きく係わる重大な事実だからである。今しがた述べたことも、われらに敵対する組織的集団についてかつて述べたことを繰り返し述べたに過ぎぬ。が、これ以後ますます繁くなるであろうことが予想される特殊な敵対手段については、述べることを控えておいた。それは、客観的心霊現象が頻繁となり、それを求める欲求が募るにつれて、邪霊集団が意図的に手の込んだ策を弄し、肝心の霊的真理に対する不信感を煽る企みのために多くの霊媒が利用される可能性が大きくなるということである。これは特殊な敵対手段であり、最も大なる危険性を秘めている。と言うのは、程度の低き霊ほど物的なものへの働きかけが強力であり、巧妙であり、時として憎悪に満ちている。彼らは、目を見張る心霊現象を起こす霊媒を養成し、超自然力に興味をもつ者を得心させようと強力に働きかけている。いったん得心させれば、あとは容易である。トリックとペテンを弄し、同時に真面目な道徳的説教も交えつつ、徐々に疑念を誘い、初め霊の存在に向けられた不信感と猜疑心とが次第に心霊現象そのものと道徳的教訓にまで広がっていく。

心霊現象は単に人間の目を見張らせ、面白がらせるためのものではない。肝心の目的は霊的教訓にある。それに対する不信感を煽る手段としてこれに勝る巧妙なるものはない。人間は最後にこう言い始める――われわれは色々とやってみた。自らも実験してみた。そして真相が判った。結局はペテンか愚劣にして不道徳きわまる教説を説くか、あるいは間違いだらけか、要するに悪魔の仕業である、と。そう考え始めた連中に正と邪を見分けるようにと説いても最早や無駄である。揺らぎ始めた信頼がそれを許さぬ。初め信じてかかったものがニセであることが証明されたわけであり、信頼の殿堂は瓦礫となって辺りに散乱する。基礎が十分でなく、建造物を支えることが出来なかったということである。

繰り返し述べるが、これほどわれらの仕事を麻痺させる悪魔的策謀はない。われらは厳粛なる気持ちをもって警告するものである。必ずわれらの警告に従って行動して貰いたい。次から次へと無闇に派手な現象を演出してみせてくれる時は用心するがよい。そうしたものは大体において低級にして未発達なる霊の仕業である。その演出には往々にして招かれざる客が携わっている。驚異的現象も余り度を越すと、ことに結成したばかりのサークルにおいては大いに危険がある。心霊実験も必要である。われらは決してある種の人間にとりての効用を過小評価する者ではない。求むる者全てに納得のいく証拠を提供してあげたいとは思う。が、そうした物理的現象のみの興味、魂の成長に殆ど役に立たぬうわべの興味にのみ終始して貰っては困る。そうした現象にしか興味を抱かぬ者の目には、われらの為すことが時として人間のすることよりお粗未に映ることすらあろう。が、現象そのものを目標としているのではない。目標は一段高き次元にある。また、この世のものとは別の存在がこの世の法則に干渉できることを証明して満足しているわけでもない。もしもそれが全てであるとするならば、そうした事実を知ることは害にこそなれ、益にはならぬであろう。われらは唯一絶対の至上命令を下されている。その使命達成のために地上に戻ってきた。それ以外に用はない。その使命はそなたにも判っていよう。信仰心が冷却し、神の存在と霊魂不滅への信仰が衰えかけた時、われらは人間が神の火花を宿すが故に永遠不滅であることを証しにくる。旧き時代の信仰の誤りを指摘し、向上進化をもたらす人生を説き、発達と向上の未来永劫ヘと目を向けさせる。

われらが、不本意ながらも、物質を操る霊の威力の発達のために、その本来の目標を脇へ置くことがあるが、それは決して人間の好奇心を喜ばせるためではない。あくまでも目的の為のやむを得ぬ手段として必要と見たからであり、決して望ましきことと考えているわけではない。仮に無害であるとしても、われらは同じ忠告をするであろう。が、現実にはわれらが最も恐るべき反抗集団による攻撃手段とされるが故に、そうした物的現象を無闇に求めたり、それをもってわれらとの交霊の目的とすることを、われらは声を大にして警告するものである。

心霊現象はあくまでも確信を得させるための手段に過ぎぬものと心得よ。その一つ一つを霊の世界より物質の世界ヘの働きかけの証と受けとめよ。それだけのものに過ぎぬと理解し、それを霊的神殿を建立するための基礎として活用せよ。現象はどういじくってみたところでそれ以上の価値は出て来ぬ。それに、霊側がこれ以上は無駄と見た時は、そうした現象をより得意とする霊に譲って引き上げてしまう。かくして折角の奥深き啓示の機会が逃げ去ることになる。あくまでも現象を基礎として、そこより一歩踏み出さねばならぬ。現象に携わる知的存在の本性は一体何であるのか、いずこより来るのか、その意図は、等々を知ろうとせねばならぬ。きっとそれが神の計画であり、その拠って来る根源も意図も至純にして必ずや何らかの恩恵をもたらすものであるとの確信を得たいと思うことであろう。魂の辿る道程と、人間が死と呼ぶところの変化に最も有効に対処できる心がけについて納得のいく指針を得たく思うことであろう。それは当然の成り行きである。何となれば、万が一われらが人類と同類でないとすれば、われらの体験が人類に一体何の役に立つというのであろうか。万が一そなたら人間の不滅性を語れぬとすれば、われらがこうして存在し続けていることを幾ら徹底的に証明してみたところで、一体何の意味があろう。妙な話になりはせぬか。これほど奇妙な話もあるまい。

そなたが首尾よく現象的なものを超えて真理のための真理探求にまで進めば――要するにわれらの意図を信じてくれれば――その暁には、未だそなたが知らずにいる世界に案内することが出来よう。その世界についてはそなたの国(2)以外の国の真摯なる探求者にはすでに、遙かに奥深きことが啓示されている。そなたらの国ではまだその恩恵に与れる者は僅かである。こうした自動書記による通信も、テーブルラップ(3)その他のぎこちなき手段に較べればよほど進んでいるかに思えるであろうが、そうした物理的手段を経ぬ直接的な霊と霊との感応に較べればその比ではない。スピリチュアリズム勃興の地である米国においては、地上と霊界の二重の生活を送れるまでに霊感が発達し、霊界との交信を日常茶飯事としている者が大勢いる。英国民の精神の不信心性と、興味の唯物性と、雰囲気の低俗性の故に、われらの思うに任せぬことが米国では着々と成果を挙げて行きつつある。われらの仕事は俗事を処理するようなわけには参らぬ。われらは心を読み取ってしまう。故に人間が実際には興味を覚えぬくせに、つまり真にやる気を持たぬのに、いかにもそれらしく装ってみたところで――心底より信じぬままわれらの仕事に手を貸してくれたところで、何の益にもならぬ。いつの時代にも、いずこの国においても常にそうであった。高級なる霊的真理を地上へ送り届けんとする努力が時おり為される。が、まだ時期尚早であることを悟って手を引くことがある。もっともこの度われらが述べんとするのはそのことではない。心霊実験にまつわる危険性について警告し、物的現象はいち早く卒業して霊的知識へと進むよう忠告せんとしているまでである。進歩には受け入れ態勢が先行せねばならぬ。が、われらとしてはそなたが少しでも早く物的束縛より脱け出て、ひたすら霊的真理の追求に専心する日の到来を望み祈る気持でいる。そなたはその目標に向かって迷わず一意専心せねばならぬ。有象(うぞう)無象の意見を振り切り、地上の生活者として出来得るかぎり物的感覚より脱け出なければならぬ。

永遠なる父よ! 私たちはあなたの御名のもとに勤しみ、あなたの真理の啓示のために遣わされました。その真理が私たちの語りかける者の心を高め、そして清め、地上的なものを超えて霊的感覚を目覚めしめ、私たちの説くところを悟らしめます。願わくば彼ら地上の者の心に信仰を育み給え。それが真理への渇望を生み、地上的利害を超えて霊的啓示を学ばしめることになればと願えばこそでございます。

(†インペレーター)


〔私は右に述べられたことが全て真実であることに疑いは挟まないが、そういう邪霊の働きを抑制するための法や秩序が霊界にないのが理解できないと述べた。読んでいると何だか彼らは好きに振舞い、何の支配も受けていない感じがするのである。同時に彼らが他人の名を騙(かた)るという事実が不思議に思える。何故そんなことに興味を覚えるのかが理解できないと述べた。〕


われらの世界に法も秩序もなきが如くに想像するのは誤りである。人間の側にて整えるべき条件を整えてくれぬことがわれらの秩序ある努力を挫折させているに過ぎぬ。交霊会を催すに際してはまずそれなりの条件を整えねばならぬ。それさえ励行してくれれば、これまでの如き悪戯や混乱の半分は除去されるであろう。もっともそなたらの言う悪の要素が完全に抹殺される日は来ぬ。何となれば、そうした体験も霊的鍛錬の一つであるからであり、われらとてそなたの進歩的発達を促すこの過程を免除してやるわけには参らぬのである。そなたにはその過程を通過する必要があるのである。まだまだ学ばねばならぬことが多々ある。こうした実際に即した体験もその勉強の一つと心得るがよい。

邪霊が他人の名を騙る問題については、これ以後多くを知ることになろうが、取り敢えず述べておけば、こちらにはそうした悪戯を愉しみとする低級霊がおり、ある条件下において実に手の込んだ詐術を弄する才能を持っているということである。人間が望んでいるとみた人物の名を騙り、いかなる人物でも実にうまく真似て応対する。こうした霊は交霊会が用心を怠らず、霊側で守護の任に当たる者が鋭く睨みを利かせれば、大抵は締め出すことが出来る。無闇に交霊会を催し、新参者を不用意に参加させ、霊的条件への配慮を怠り、それが為に霊側の厳戒態勢が整わぬようでは、彼らの侵入を許す危険が大である。われらの知るかぎりでは、大半の交霊会ではその種の悪戯(いたずら)霊の侵入を許していると見てよかろう。単なる好奇心から現象を求める。霊界の知人・友人を次々と呼び寄せる。それが本当に当人なのか騙(かた)りなのかを見分ける用心を怠る。あれこれと愚にもつかぬ質問をし、その返事を大まじめで聞いて鵜呑みにする。これでは低級霊がそれを愉しみとして何の不思議があろう。


――そんなことでは、これで絶対大丈夫という確信を得ることが出来ませんし、立派で筋の通ったものと思い込んでいたものが結局はトリックだったということにならない保証はどこにもないのではありませんか。背後にそうした邪悪な勢力が存在する以上、絶対安全と言える人がいるでしょうか。


その問いに対しては、すでに述べたことを繰り返すのみである。われらの信頼性と誠意と客観的存在については、そなたにはすでに証明済みである。証拠の上に証拠を重ねてきた。われらの道徳的意識の程度は全ての面に一貫する誠意――そなたに授けた教訓に一貫する基調を以て証明してきたつもりである。それはそなた自らの判断にて評価されたい。そなたの評価を得て始めて世の全ての人に至純にして至善なる教訓として公開されることになろう(4)。今すでにそなたはそれを全体の傾向として崇高にして善なるものであることは認めておろう。われらの身元、われらの仕事、そしてわれらの目的に関してそなたは、一個の人間について評価を下すのと同じように評価を下せるだけの情報を手にしているに相違ない。


――おっしゃる通りです。この通信の最初に私が指摘した霊などは、もし引っ掛かっておれば、容易に信念を揺るがせかねなかったと思われます。


それは十分に有り得たことである。万一の場合われらがその働きにどこまで対抗できたかは判らぬ。が、そのような危険に足を踏み入れることはわれらはご免蒙る。あの場合にしても、どう警告したところで彼らはそれに対抗して巧みに操り、うまく人の名を騙って、挙句には、ただでさえ心もとなき信念に致命的打撃を与えたことであろう。そなたにとりてそれは真実危険である。何にもまして、矛盾せる偽りの言説は、そなたに猜疑心を誘発せしめることであろう。その猜疑心は遂にはわれらへの信頼を覆し、われらは退散のやむなきに到るであろう。


――確かにこれは、係わり合うと実に危険な存在であるように思われます。


何事にせよ、乱用は感心せぬ。正用は結構であり、それを常に心がけるべきである。軽薄なる心でもって霊界と係わりをもつ者、単なる好奇心の対象に過ぎぬものに低俗なる動機からのめり込む者、見栄っ張りの自惚れ屋、軽率者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、おしゃべり――この種の者にとりては危険が実に大である。われらとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに係わることは勧められぬ。賢明にして強力なる背後霊に守られ、その指示によりて行動する者のみがこの道に携わるべきであり、それも細心の注意と誠心からの祈りの念を持って臨むべきである。不用意な係わり合いは断じて許せぬ。また、円満な精神と平静な感情の持ち主にあらざれば、とても霊界との安全なる係わり合いは不可能であり、己の地上生活に禍の種子を持ち込むのみである。節度なき精神、興奮しやすき感情、衝動的かつ無軌道な性格の持ち主は低級霊にとりて恰好の餌食となる。その種の人間が霊的なことに係わることは危険である。特にその求むるところが単なる驚異的現象、好奇心の満足、あるいは虚栄心の慰めに過ぎぬ場合はなおのことである。その種の人間には神の訓えは耳に届かぬ。願わくば聞く耳を持つ者が低級霊の干渉を首尾よく切り抜け、低級界を後にして高級界のより聖純なる大気の中へと進んでくれることを望むこと切なるものがある。


――それはしかし、世間一般の人にとっては要求が高すぎるのではありませんか。大方の者は何となく取っ付きにくい教訓めいた話よりは、頭をコツンと叩かれたり(5)、椅子が浮揚するのを見る方を好むものです。


確かにその通りである。それはわれらも十分に承知している。が、現在の段階はあくまで通過すべき段階であらねばならぬ。われらの仕事にも物理現象は付随する。が、それは真の目的ではない。われらが期待している真の発展の地ならし程度であらねばならぬ。これより後も、各地で一層盛んに見られるようになるであろう。われらはそれに伴うところの危険性について警告しつつも、現在そなたが置かれている知的段階においては、それも必要であることを決して偽りはせぬ。遺憾には思うものの、その必要性は認める。この件については付言すべきことがまだあるが、今は控える。しばし休息せよ。


〔僅かばかりの休息の後に、次のような通信が追加された。〕


邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはりわれらにとりて面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えぬ。肉体より離れて行く人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。そして、地上に近き界層を一気に突き抜けて行くほど進化せる霊は、特別の使命でもないかぎり、地上へは戻って来ぬものである。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。

言い残せるものにもう一種類の霊団がある。それは悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙(けむ)に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて如何にも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては面白がっているに過ぎぬ。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあるとそなたに言わしめる要因がそこにある。茶目っ気や悪戯半分の気持から如何にも真面目くさった演出をしては、それを信ずる人間の気持を弄(もてあそ)ぶ霊の仕業がその原因となっている。列席者が望む肉親を装って如何にもそれらしく応対するのも彼らである。誰にでも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在の所為である。最近、誰それの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、そのほとんどは彼らの仕業である。通信にふざけた内容、あるいは、ばかばかしい内容を吹き込むのも彼らである。彼らは真の道徳的意識は持ち合わせぬ。求められれば、いつでも如何なることでも、ふざけ半分いたずら半分にやってみせる。その時々の面白さ以上のものは何も求めぬ。人間を傷つける意図はもたぬ。ただ面白がるのみである。

人の道を誤らせ、邪(よこしま)な欲望や想念を抱かせるのも彼らである。霊媒を密かに操り、高尚な目的を阻止せんとする。高尚にして高貴な目的が彼らには我慢ならず、俗悪なる目的を示唆する。要するにその障害物、妨害とならんとする。係わるのは主として物理的現象である。通例その種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆をもって、混乱を惹き起こさせる現象を演出する。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによりて惹き起こされる当惑の様子を見てほくそえむ。憑依現象を始めとする数々の心霊的障害は往々にして彼らの仕業に起因する。いったん付け入れば如何ようにでも心理操作が出来るのである。個人的に霊を呼び出して慰安を求める者たちを愚弄するのも彼らである。如何にもそれらしく応対し、嬉しがらせるような言葉を述べて欺く。間違いなく本人が出て、しっかりとした意志の疎通が行なわれることはある。が、次の会では巧みに本人を出し抜いて悪戯霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながら、その中に辻褄の合わぬ話を織り混ぜたり、全くの作り話を語ったりする。そなたもそうした霊に付け入られぬためにも、一身上の話題はなるべく避けるが賢明である。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)the Essenes ユダヤ教の一派で禁欲・独身・財産共有を特徴とし、心身の清廉を説き、実践した。
(2)英国。
(3)テーブルがひとりでに傾斜して、一本の脚が床を叩き、その符牒によって通信を交わす。
(4)本書の形での公表は、霊側は当初より意図していたことが窺われる。
(5)霊がメガホンなどで列席者の頭や肩を叩いてまわることがよくある。訳者にも体験がある。人情的にはなぜか「うれしい」ものである。