Friday, October 9, 2026

シルバーバーチの霊訓(四)

Silver Birch Anthology

Edited by William Naylor
Psychic Prees Ltd.





七章  霊媒を励ます

 シルバーバーチの交霊会にはよく霊媒や心霊治療家が招待される。そしてシルバーバーチがその一人ひとりに称賛と激励の言葉を述べる。その中には霊媒現象の裏面に関わることなどが窺われて、同じ仕事に携わる人はもとより、一般の読者にも興味のある話題が豊富である。本章では三人の霊媒と心霊治療家の場合を紹介する。

(本章では前巻の Wisdom of Silver Birchでカットしておいたものを紹介する―訳者)



リリアン・ベイリー女史 Lilian Bailey

シルバーバーチ「あなたは人類の救済のために背後からあなたを使用している素晴らしい霊団が存在している事実を喜ぶべきです。あなたのお蔭でどれほどのことが成し遂げられているか、あなたご自身は(入神しているので)ご存知でありません。

意識が消えて、やがて意識が戻る───あなたにはただそれだけのことのように思えるでしょうけど、実際はその間に誰かの魂が目を覚まし、誰かの心の荷が軽減され、悲しみに暮れる人が慰めを受け、挫折した心が癒され、混乱した精神が安らぎを見出しております。 あなたに感謝の気持ちを抱いている人が長い列をなすほどいらっしゃいます。

私たち霊団としても、神から授かった才能を自分のことを忘れてひたすら人類のために捧げんとする霊媒の存在をどれほど誇りに思っているかを、何とかして言い表わしたいとじれったく思っているところです。 あなたは神の豊かな恩寵を受けられた方です。本当に豊かな恵みを受けておられます。

地上で大物とか大家と言いはやされている人たちより、あなたの方がはるかに立派な仕事をしておられます。残念ながら今のところ一握りの人によってしか活用されていない霊力をあなたは存分に活用しておられます。

それはどしどし活用されるべきものです。 迷信という名の闇を地上から一掃するために、その霊力をできるだけ多くの人間の魂の中で胎動させなければなりません。

それが私たち───あなたと私、そして他のすべての神の道具───が偏見と無知という名の霧とモヤを一掃し、真理という名の光が世界中に射し込むようにするために全身全霊を打ち込んでいる大事な仕事なのです。偉大な仕事です。あなたもその光栄ある仕事の一翼を担っておられるのです。

 私たち神の道具はひたすら前進あるのみです。その道程においてはしばしば落胆させられます。些細ないざこざにうんざりさせられることもしばしばです。歓迎されてよいはずの場でしばしば反撃に会います。

そこで、あなたより少しばかり先の見透しの利く私から申し上げましょう。どうか、そうした邪魔は相手になさらず、かつてあなたに閃いたビジョン(先見の明・理想像・悟り)にすがっていただきたい。そして、あなたの霊的能力を最善に、純粋に、そして最高に活用することのみに専念していただきたい。

それ以外のことは構わないことです。そうしておればきっと愛の恵みが届けられ、ご自分が使用されている能力は神がその発現の通路を求めて間断なく行使しておられる霊力に他ならないことを認識されることでしょう」

 ここでベイリー女史が感謝の言葉を述べかけると、シルバーバーチはそれを制して───

 「私は暗闇に呼ばわる声の一つにすぎません。私を地上へ派遣した高き神霊の仕事を推進せんとしているだけです。私もこれまでに易しい真理を少しばかり学んできて、それを形を変え、言いまわしを変えながら説いておりますが、同じ単純・素朴な真理であることに変わりはありません。 それを地上の方々が受け入れてくだされば、すべての難問が解決されるのですが・・・・・・」と述べてから「このサークルに参加されてどんな感想をお持ちですか」と尋ねた。



ベイリー女史 「素晴らしいと思います。全体にみなぎる力がとても感じが良いです。もっとも、私には少し強すぎるようです。私の意識から離れて作用しているみたいです。この意味お分かりいただければ有難いですが・・・」

 このサークルでも直接談話をはじめ数々の現象が行われており、それぞれに霊媒が揃っている。ベイリー女史は霊視力もあり霊感も鋭いので、その〝舞台裏〟が見えたのである。女史は続けて「このボリューウムあふれるエネルギー、迫りくるパワーは物質化現象に使われるものですね?」と述べた。

シルバーバーチ 「そうです。このサークルにいつも潜在しているものです。今日はそれがあなたの存在によって刺激されております」


ベイリー女史 「何人かのスピリットがそのエネルギーを部屋の中央へ運んで一つの固まりをこしらえているようです。珍しい光景ですね。次の機会にはもっとしっかりと確かめたいものです。どうやら声が出されるみたいです」

シルバーバーチ 「声の準備ですよ。いつも行われているものです。以前はそれを使って発声器官をこしらえていたのですが、戦争の影響で大気が混乱しているためにそれができなくなり、今のところ私の入神談話だけで間に合わせているのです」

ベイリー女史 「私が見たところでは大きな柱のようですね。白い柱です。コチコチに固いものではありません。そこから何本かの紐状のものが伸びてメンバーの一人ひとりとつながろうとしています。各メンバーから何かを摂取しようとしてるみたいです」

 そう述べてからその〝触手〟 を霊界の技師たちが操っている様子を細かく説明した。


シルバーバーチ 「地上の方々はこうした霊界の働きの現実を理解してくださらないのです。いつでも使用できる態勢になってるのです。あなたはその眼でご覧になったのですから、ぜひその事実を伝えて下さらないといけません」


ベイリー女史 「ときどき人間の探求は表面的すぎるという印象を抱くことがあります。ですからその背後に働く単純な現実を理解させるのが難しいのです」

シルバーバーチ 「おっしゃる通りです。しかし私たちの世界には、かつて地上で一見とても勝算はないと思えた逆境の中で、長いこと忠誠心に燃えて戦った古強者が沢山おります。彼らはその仕事が引き継がれ少しずつ成果が実っていくのを見守っております。

 私があなた方にひたすら前進なさいと申し上げるのはそのためです。あなた方はそれだけで(他のことは何も心配しないで)よろしい。霊的知識だけを広めることだけを考えておればよろしい。

理解力を広めるのです。思いやりの心を広めるのです。無知をなくすのです。光明へ向けて進むべき者を引き止めんとする勢力を打ち砕くのです。私たちが掲げる光明は決してささやかなものではありません。

なぜなら、いったん霊の力がいかに働きかけているかを知ったら、いったん死の扉を開くカギを手にしたら、いったん死の向こうに広がる生命躍如たる世界をご覧になったら、その時こそその人は霊的実在を理解し、神の永遠の計画の中における自分の位置を悟ることになるからです。

あなたはひたすらご自分の信じる道を突き進まれることです。後は私が力の限り鼓舞し援助します」


 W・H・リリー氏  W.H. Lilley
 A・リチャーズ氏  Arthur Richards

心霊治療家のリリー氏が同僚のリチャーズ氏を伴って出席したことがある。まずリリー氏が、二人でロンドンに心霊クリニックを設立しようとしているが偏見と無理解から来るさまざまな難問に遭遇している事情を説明してから、面接に出た役人が 〝この連中は一体何者なのか〟といった目つきで二人をじろじろ見つめ回した話をした。

 すると シルバーバーチが───
 
 「この連中はいったい何者か───このセリフは遠い昔にも言われたものです。霊力が一握りの男たちを鼓舞し真理普及のために自分を捨てて邁進させたのは二千年足らず前のことでした。

不変の摂理を啓示し、地上のいかなる力よりも偉大な力───人を導き霊感を注ぐことの出来る力、訓え諭すことの出来る力、病を癒し、傷つき衰弱した身体を回復させる力が存在することを身を持って証明しました。

すると人々は言いました───いったいこの者たちは何者かと。別に耳新しいセリフではありません。これから何度も何度も聞かされることでしょう。

 あなたがこうした光栄ある仕事に携われることになったのは神から才能を授かっておられるからこそです。使用するために授かったのです。私どもの世界から援助せんとする者と全面的に協調する姿勢を持ち続けるかぎり、その才能を行使することを妨げる力は地上にはありません。

問題や障害が立ちはだかっているとおっしゃいましたが、それは克服すべきものとして与えられているのです。ただし、その中にはあなたご自身が自ら招かれた問題もあることを忘れてはなりません。あなた自身が蒔いたタネもあるということです。

と申しますのは、あなたは(操り人形のように)ただ黙って言うなりになる道具ではないからです。(自由意志が尊重されているから過ちも犯しているということー訳者)ですが、背後にはいかなる困難の中をも導きとおす力を具えた霊団、永年の霊界での研鑽によってその能力を立証している霊団が控えております。

これまでも数多くの困難を克服し、数多くの悩みごとを解消してきております。いつか、これまでのあなたの辿って来られた人生を振り返りじっくりと見つめられれば、そこに霊による導きがあったことを明確にお認めになるはずです。

 あなたは心霊治療家です。病を癒す仕事です。それを阻止する力は誰にもありません───あなたご自身が拒否なされば別ですが。ぜひとも使用しなければならない力を授かっておられます。地上の力ではありません。はるか高級界から送られてくる力です。

 それは病に苦しむ数知れぬ人々に恩恵をもたらし祝福を与えることになりましょう。あなたに決意さえあれば、地上にはそれを阻止できる権力はありません。

問題はあなたの心のどこにも心配の念を宿らせないことです。これまで導いてくれた霊団が自分を見放すはずはないという断固たる信念を持たねばなりません。まだまだ越えねばならない険しい道があるからです。

まだまだ献身を必要とする仕事の場がたくさんあるからです。怖じ気づいてはなりません。かつてあなたがもう絶対にダメだと思ったことが霊の力によって克服されてきたように、これから先もきっとその力は凱旋を続け、あとで振り返った時、今のあなたには難問に思えることが他愛ない杞憂にすぎなかったことを知って、にっこりなさることでしょう。

 為さねばならない仕事があるのです。治療の手を必要とする人が大勢いるのです。悩める魂が大勢いるのです。怖(こわ)ごわ生きている人が大勢いるのです。

身体の異状と病に苦しんでいる人が大勢いるのです。あなたはそうした人々を救うことの出来る霊力を授かっている数少ない人間の一人です。いかに祝福された方であり、いかに素晴らしい能力を授かっている方であるか、あなたご自身の想像も及ばないほどです」


 続いてリチャーズ氏が、この交霊会に出席できたことを光栄に思うという挨拶をしたあと次のように述べた。

リチャーズ氏 「私はこれまで、あなたが毎週毎週お説きになっている訓えを忠実に信じておられる患者さんを大ぜい治療しております。そして私自身もあなたのお説きになる思想を細かく読み、それを道しるべとしてまいりました。

私の理解したところを言わせていただけば、あなたは神についての誤った観念を打ち砕き、それに代わって理知的な概念を説き、それを〝無色の大霊〟the Great White Spirit と呼ばれたり〝法則〟と呼ばれたりしております。

私にとって、あなたを始めとする霊団の方々は人間より高等な知的存在であり、したがって個的人格を具えた存在ですが 〝大霊〟 は非人格的存在であるように思えます。この私の理解の仕方はさらに深い理解への中途の段階にすぎないのでしょうか」

シルバーバーチ 「永い間地上を毒し続けてきた無知が私の力によって幾らかでも取り除かれたことを嬉しく思います。しかし、無知を無くしていく仕事はゆっくりとした、時間の要る仕事であることを忘れてはなりません。眼の見えなかった人に視力が戻る時はゆっくりと光に慣れさせていかねばなりません。

真っ暗闇からいきなり真昼の太陽の中に出せば逆に眼をひどく痛めてしまいます。そこで、ある意味で、〝教える〟立場にあるこの私は、教える相手の意識の程度に合わせて、叡智を噛みくだいてあげなければなりません。それは段階を経ながら徐々に行うしかありません。

地上にはこれまで余りにも誤りが多すぎました。間違った神々を信じてきました。あまりに永いあいだ叡智を拒絶してきたために、そのすべての誤りを正すには弛まぬ忍耐を持って臨むしかないのです。

 人格を具えた神の概念は、いつの時代にも個人はもとより民族・人種・国家にもそれを導く霊がいるという信仰にさかのぼります。つまり知識というものが今日ほど広がることのなかった時代にあっては、霊界から時おり姿を見せる指導者を畏怖の心を持って崇めたものです。そしてそれがいつの間にか神の座に祭り上げられていったのです。それだけのことなのです。

地球の歴史において、人類の痕跡のあるところには必ずそうした信仰があるといってよろしい。そして遠くさかのぼればさかのぼるほど、その信仰には神話と寓話がごたまぜになっております。

 さて、神とは法則です。私が思想や観念を述べるにはどうしても地上の言語を使用せざるを得ませんが、実はその言語そのものが障害となり、制約となり、限界となっているのです。

と申しますのは、観念を言語に移しかえる時、言いかえれば大なるものを小なるものに合わせようとする時、必然的に脱落する要素が沢山あるのです。ですから、私が述べたいと思っている思想や考えの符号またはシンボルとして言葉を使用しなければならない───それも往々にしてきわめてぎこちないものです───という事実そのものが、それを聞かれてあなた方が脳裏に画かれるものが必ずしも私が本当に述べたいと思っていることと同じではないことを意味します。お判りでしょうか」

 すると司会者のハンネン・スワッハーが意見を述べた。

スワッハー 「こう解釈してよろしいでしょうか。あなたはアメリカ・イディアンを霊界の霊媒として使用しておられるので、たとえば神のことをインディアンの古い用語である Great White spirit を使用することになる───このほうが国教会で使用されている God よりも自然の摂理の表現として確かに適切です」

シルバーバーチ「それがまさしく私の言わんとしていたことです。どうやらここで詳しく解説しておく必要がありそうですね。このインディアンは私の道具です。ですが、道具とはいえ(さきほど述べたとおり)これを使用している間はその個性によって条件づけられ、したがって私は私の言いたいことを表現する上で役に立つ要素を精一杯活用することになります。

たとえば大自然を支配する法則を私はアメリカ・インディアンの用語である〝大霊〟を使用しますが、それは一つには今なお残っている〝神は人間である───えらく威張った人間である〟とする観念、しかもむろん女性ではなく、自分の言うことを聞く者だけを可愛がりそして特権を与え、気に入らぬ者には腹を立て憎むことすらする男性であるとする、いわゆる神人同形同性説との相違をはっきりさせるためです。

 が、もう一つの理由として、それをどう表現しようと、その用語を超えた観念として私が何とかして明らかにしたい完璧な摂理の働き───あなた方や私の願望にはおかまいなしに働く法則、全宇宙を支配する法則、四季のめぐり潮の満ち引きを調節する法則、地上の生命の生長と活動と運動とリズムを管理している法則の観念があるのです。

その法則は全存在の行為の一つたりとも、言葉の一つたりとも、思念の一つたりとも、観念の一つたりとも見逃すことはありません。表に出る出ないに関わりなく、生活現象の全てを管理しています。その法則こそ私が最高の崇敬を捧げているものです。

それを大霊と呼ぼうと神と呼ぼうと、その他いかなる名称で呼ぼうと、その背後にある意味を理解してくだされば、それはどうでもよいことです。それが全存在をあらしめている力です。

その力なくしては生命は存在しえないのです。いかなる形態を取ろうと、その力なしには存在しえないのです。生命に存在を与えている根源的エネルギーなのです。それを神と呼ぶのも結構でしょう。大霊と呼ぶのも結構でしょう。全知全能の知的存在と呼ぶのも結構でしょう。しかし、いずれも、所詮は言葉にすぎません。

 私がそれを法則として説くのは、人間の意志ではどうしようもない絶対的な理法というものがあることを指摘したいからです。それを正しく認識すれば、そのワク内でお互いが協調的に生きることができ、それに背いて不和と仲違いと利己主義と貪欲と腐敗と戦争を生むことにならなくて済むはずです。

その摂理を理解しさえすれば、人生の図式が分かるようになり、進むべき方向と道しるべと目的が見えるようになります。そして同時にそれに自分を合わせていく方法も分かるようになります。なぜなら、自分も一個の霊、全生命の親である神の一部として、永遠の営みに参加できることを悟るようになるからです」


リリー氏 「病気はすべて治せるのでしょうか」

シルバーバーチ 「病気はすべて治せます。さらに言えば、正しい生き方をしておれば病気にはなりません。病気とは根源からいえば不調和、不協和音、つまり神の摂理に適った生活をしていないことから生じています。が、人類にはさまざまなタイプがあることを考えれば、病気にもさまざまなタイプがあるわけであり、それがさらに細かく変化していきつつあります。

したがって治療に使う霊力もそれぞれのタイプに合わせていく必要があります。あらゆるタイプの病気に効くたった一つのバイブレーションというものはありません。治療が成功するか否かは、それぞれの病気に合ったバイブレーションの霊力を見出せるか否かに掛かっております。

 しかし治療の不成功を単純に霊界側の責任、担当した専門の霊の責任、あるいは治療家の責任と決めつけることは出来ません。数え切れないほどの要素が絡んでいるからです。(訳者注ー別のところで百人の霊視家が見てもすべての要素を見究めることはできないと述べている)。

そこで治療家であるあなたにとって一ばん大切なことはこう考えることです───自分を使用する霊力と完全にそして完璧に一体となるためにはいかなる生き方をすべきか、ということです。言うまでもなくあなたと背後霊団との間にはさまざまな相違点があります。

それを一つでも少なくすることが、治療霊団にとって、一人ひとりの患者に適切なバイブレーションをあなたを通して注ぐことを容易にすることになります。

こちらの世界には莫大な種類の治療エネルギーがあり、かつて地上で病気治療に当たった者や科学者たちが弛まぬ研究を重ねております。しかし無数の治療エネルギーのうちのどれをどれだけ活用できるかは、ひとえに治療家に掛かっているのです。そこにあなたの役割があります。すなわち魂の成長と精神の啓発と身体の管理です」

リチャーズ氏 「心霊治療についての偏見を無くす必要もあると思います」
  
シルバーバーチ 「おっしゃる通りです。だからこそ私たちが援護射撃をしているのではありませんか。数年前でしたらあなた自身も私の言うことなどには耳を貸さなかったでしょう。

それが今はこうして熱心にお聞きになるということは、私たちの働きよって偏見を一つ減らすことができたということです。強烈な体験によって魂が目を覚まし、奉仕的精神を鼓舞された人を一人ずつ私たちの霊力の活動範囲の中に導いていくのです。

あなた方はお一人お一人が私たちの働きかけによる成果の生き証人なのです。そのつど一つの偏見が取り除かれたということです。それだけ私たちの仕事がラクになったということです。

まだまだ取り除くべき偏見が山のように立ちはだかっているという事実に、私どもは別に途方に暮れることはありません。それが私たちの仕事なのです。すなわち神の子がその魂の奥に秘めた霊性を発揮することによって生命の喜びを味わい、当然受けるべき神の遺産を存分に我がものとするように導いてあげることです。

 お二人もその役割を担っておられるのです。ひたすらお仕事に邁進なさることです。数々の困難に遭遇することでしょう。しかし背後に控える霊団がいかなる試練にも荒波にも支えになってくれます。首をうなだれてはなりません。

堂々と背筋を伸ばし、決して自分を見棄てるようなことをしない援助の手によって支えられていること、そして心の奥に芽生えた信念への忠誠心を失わず真摯な気持ちで奉仕し、神に召された今の仕事に良心的に仕えておれば、決して挫折することはないことを確信してください。

あなた方が一心に努力しておれば強力なる霊団が参加し、援助し、偉大な勝利へと導いてくれます。これから為し遂げていく仕事を大いなる期待を持って楽しみにするくらいの気構えが必要です。そしてそのお陰で数知れぬ人々が喜んでくれることを知ってください。

 人のために自分を役立てるということは大いなる特権です。その機会を与えられたことをお二人は誇りに思うべきです。それと同時に、私たちの世界から協力する者にも使命が託されていること、重大な使命、神からの使命が託されていること、そしてあなた方の方から見放さないかぎり決してあなた方を見放すことはないことを信じることです。

これまでも大いなる成果が上がっております。これからもさらに多くの仕事が成就されていくことでしょう」



 パリッシュ夫妻  Mr. and Mrs. Parish

イーストシーン治療所を滅多に離れることのない心霊治療家のパリッシュ氏が夫人を伴って出席した。この交霊会の長老格である。早朝から一六時間もぶっ通しで治療した後なのに、出席者の中でも一番元気そうに見える。シルバーバーチがこう語りかけた。

 「私はあなたとお話できる時はいつも楽しくてなりません。光栄にも私は現在の治療所で微力ながら毎日のように背後よりお手伝いさせていただいておりますが、こうして二人で人間らしく語り合えば、ほかの方々はまた別の意味でよろこばれます。

お二人の献身的なお仕事によって霊の力が着々と広がり、多くの魂が感動して目を覚まし、暗黒の中にいる人々が光を見出していることを私たち霊界の者がどれほどうれしく思い、世界中の人々が(遠隔治療を)どれほど有難く思っているかを知っていただきたいと思います。

 今ではあなた方を通して真理と悟りの光を見出した人が世界のほとんどの国におられます。あなたのこれまでの人生、そして今なお続けておられる毎日の献身的活躍によって巨大な奉仕の金字塔が築かれております。

憶えておいででしょうが、何年か前に初めてお会いした時、私はあなたにこれから後のお仕事の発展ぶり、どういう具合に世界の隅々まで広がり、いかに多くの人々が祝福を受けに来ることになるかを申し上げました。

すべての人が治るとは限りません。それぞれに地上との縁の切れ時(寿命)というものがあります。が、たとえすべての人の病気を治してあげられなくても、わずかな光明、暗闇の中に一条の光を見出させてあげていることを知ってください。

前にも一度申し上げたことがありますが、病気を治してあげることは確かに大切ですが、もっと大切なことは魂を目覚めさせること───真の自分を見出し、自分を見出すことによって生命の大霊であるところの神とのつながりをより緊密にしてあげることです。

 私たち霊界側でも絶え間なく活躍しております。あなた方に協力している高級霊団、あなた方を地上への働きかけの道具としている霊団では常に新しい霊波の研究をしており、また、あなた方が徐々に体験しておられる精神統一における意識の深まりが、治療エネルギーをより多く地上へ注ぎ込む可能性を大きくしてくれております。

治療に入る前にあなた方が背後霊団との完全な連繋態勢と調和を得るために行っておられる心掛けと工夫もその一環となっております。

どういうことかと言えば、精神統一が深まりあなたという個的存在が消滅する直前においての治癒エネルギーとの融合が完全に近づけば近づくほど、そのエネルギーの威力がより多くあなたの身体を通して流れるからです。それは治療所における直接治療の場合でも、世界各地への遠隔治療の場合でも同じです。

(訳者注ー私の師である間部詮敦氏が予言について語ったところによると、精神統一を深めていくと次から次へといろんな情報が飛び込んでくる。が、それにすぐに飛びついてはいけない。どんどん統一が深まっていき、もうすこしで意識が消えるというギリギリのところまで行った時に閃いたものが一番信頼できるということだった。

ある時は地震を何時何分何秒まで正確に当てたことがある。シルバーバーチが別のところで、霊媒の霊格が向上するほど程度の高い叡智を授かるようになると述べているが、これは言いかえれば精神統一の深さの程度のことであり、波長が高くなるということであろう)

 そうは言うものの、時にはうんざりなさることもありましょう。無意味に思えることもあることでしょう。しかしそれも詮ずるところ厳然たる計画と目的を持った仕事の一環です。あなたはそのための道具です。ただ一人で悟りへ向けて、孤独な道、犠牲の道を徐々に手引きされております。

かつても申し上げたことをあるのを覚えておいででしょうが、その道は行くほどに見慣れた景色を一つひとつ後にしていかねばならない寂しい道です。しかしそれしか道がないのです。みずから魂を高揚しなければなりません。高き憧憬を抱き続けねばなりません。

魂の受容性を高めねばなりません。内的意識を拡大していかねばなりません。しかし、それが順調にいくだけ、それだけ多く霊界からの生命力が流れ込むことになるのです。

 あなたとともに大ぜいのスピリットが働いております。地上で医者だった者、病気治療の専門家だった者はもとよりのこと、こちらで永い永い年月にわたって研究を重ね、各種の治癒エネルギーを扱って人間の霊的身体への影響を調べているスピリットもいます。

 ご承知のとおり私たちの世界は決して終局の世界ではありません。すべてのことが分かる世界ではありません。すべてが成就されてしまって、もう何もすることがないという世界ではありません。

私達も実験・研究が必要なのです。が、治療家としてふさわしい身体を持ち、人のためにという願望一つに燃え、大方の人間が追い求めるチャチな物的ぜいたくには目をくれず、ただひたすら魂と精神と身体を完全にマスターするための修行の道に勤む人間がいないことには、私たちとの協力関係も完璧は期しがたいのです。

その修養は一種の霊的浄化の過程です。純金が姿を現わすためには不純物を取り除かねばなりません。あなたも人間である以上、多少の不純物はかならずあります。しかし、あなた方はいま正道を歩んでおられます。そして、それは偉大なことと言うべきです」

 パリッシュ夫人も治療能力を持っておられ、シルバーバーチがその養成についての助言を与えた。夫人も霊の道具として活躍できることのよろこびを語った。

夫妻は霊媒として大望を抱く者にとって一つの模範である。といって、二人の治療がすべて奇跡的な効果を上げているわけではない。シルバーバーチも言っているように〝困難があり、失敗があり、そして心を大いに痛めることもある〟が、それでもお二人は尚も前向きの姿勢を失わない。

 二時間に及んだその日の交霊会の最後に、シルバーバーチはサークル全員にこう励ました。

 「決して弱気になってはいけません。堂々と胸を張り、宇宙の全生命を創造した力、夜空にきらめく星空を支えている力、花に香を添え、太陽を昇らせそして沈ませる力、虹にあの美しい色彩を施し小鳥にあの可憐なさえずりを与えた力、全生命に存在価値を与え、人間に神性を賦与した力、その力がいつもあなた方を支え、守り、そして導いていることを忘れてはなりません」

 

Thursday, October 8, 2026

霊訓〈完訳・上〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。



17節

本節の内容
*著者の不満と要望
*拒絶とその理由
*これまでの霊訓の復習
*著者に反省を求めるために霊団の一時総引き上げを示唆
*数学的正確さをもつ証拠は提供不可能
*キリストの“私と父は一つである”の真意
*著者の旅行先での霊信
*性急な要求は事を損ねる
*猜疑心の及ぼす影響
*著者の忍耐と理性的判断を重ねて要請


〔思うに、私がこうして執拗に霊信に反発しているのを知友たちはさぞかし満足に思っていたことであろう。しかし私としては、激しく私の魂を揺さぶるこの不思議な通信を徹底的に究明すること以外に、それに忠実な道が見出せなかったというに過ぎない。私はどうしても得心がいかないし、得心できぬままでいることも出来なかった。そこで再び論争を挑んだ。インペレーターの通信が終わると私はそれを細かく読み、二日後(一八七三年七月十四日)にその中でどうしても受け入れかねる点について反論した。それは次の三点であった。(一)インペレーターの地上時代の身元、(二)イエス・キリストの本質と使命、(三)通信の内容の真実性を示す証拠。私はこの三点について私以外の霊媒を通じて通信するよう要求し、その霊媒を指定しようと思うがどうかと述べた。同時にこれまでの通信の内容について、いろいろと反論したが、それは今ここで取り挙げるほどのものではない。とにかく、私はその時点での私の確信を正直に表明したが、今にして思えば私の反論は不十分な知識の上で為されていたことが判る。それはその後順次解決されていき、解決されていないものもやがて解決されるであろうとの確信が持てるまでになった。そうは言っても当時の私の心境はおよそ満足と言えるものからは程遠く、私は忌憚なくその不満を打ち明けた。以下がそれに対する回答である――〕


友よ。そなたの述べることには率直さと明快さが窺えて喜ばしく思う。もっとも、そなたはわれらの述べることにそれが欠けていると非難するが……。そなたの(われらの身元についての)要求については、そなたがそう要求する心境は判らぬでもないが、それに応ずるわけには参らぬし、たとえ応じても何の益にもならぬ。申し添えるが、そなたの要求の全てにわれらがすぐに応じぬからとて、われらの側にそなたに満足を与える意志がないわけでは決してない。われらとてそなたの心に確信を植えつけんと切に願っている。が、そうするためにはわれらの側にもその手段と時期に条件がある。計画の一部たりとも阻害され、あるいは遅延のやむなきに至ることは、われらにとりてこの上なく残念なことであり遺憾に思う。そなたにとりてもわれらにとりても残念なことである。が、結果としてこうなった以上は致し方あるまい。われらとて全能ではない。これまで通りの論議と証言の過程による以外に対処する手段はないのである。その論議も証言も今のところそなたの心に得心がいかぬとみえる。ということは、そなたにそれを受け入れる備えが出来ておらぬということと観て、われらはそれが素直にそなたの心に安住の地を見出す日を忍耐強く待つとしよう。

そなたの提出する疑問についてはその殆どに答える必要を認めぬ。現時点にて必要と見たものについてはすでに回答を与えてあるからである。すでに回答を与えたものについて改めて述べても意味があるとは思えぬ。単なる見解の相違の問題につきて深入りするのは無意味であろう。われらの述べたるところがこれまでのわれらの言動に照らしてみて、果たして一致するか否かといったことは些細な問題である。そなたの今の心境はそうした問題について冷静なる判断を下せる状態ではない。また、いわゆるスピリチュアリズムなる思想が究極においてわれらの言う通りのものとなるか、それともそなたが主張する如きものとなるかは、これまたどうでもよい問題である。われらはその問題については一段と高き視野に立って考察しており、それは今のそなたには理解の及ばぬところである。そなたの視野は限られており、それに比してわれらは遥かに広き視野のもとに眺めている。またそなたがわれらの訓えをキリスト教の論理的展開の一つと見るか否かも取るに足らぬ問題である。その道徳的崇高性はそなたも認めている。その論理的根拠についてはここで論ずる必要を認めぬ。そなたが信じようが信じまいが、地上人類が絶対必要としているものであり、そなたが受け入れるか否かに関わりなく、遅かれ早かれ感謝の念をもって人類に受け入れられていく訓えである。そなたがわれらの存在を認め、その布教に手を貸す貸さぬにお構いなく、きっと普及していく訓えである。

われらとしては、そなたのことを良き霊媒を得たと喜んでいた。そして今もそう思っている。何となれば、今のそなたの混乱する心境は一時的な過程に過ぎず、やがて疑うだけ疑った暁に生まれる確信へと変っていくことであろう。が、万一そうではなくそなたが失敗したとなれば、われらは再び神の命令を仰ぎ、われらに託されたる使命達成のために新たなる手段を見出さねばならぬことになる。もっとも霊媒はわれらの究極の目的にとって必ず不可欠というものでもない。が、使用する以上は良き霊媒であることが望ましい。われらがこの上なく嘆かわしく思うのは、そなた自身にとりても啓発と向上の絶好の手段となるべきものを無視せんとする態度に出ていることである。が、それもわれらの手の及ぶところではない。自由意志による判断に基づきてあくまで拒否すると言うのであれば、われらとしてはその決断を尊重し、そなたが精神的にわれらの提供せるものを受け入れる用意のなかったことを残念に思うほかはあるまい。

われらの身元についてであるが、そなたの要求するが如き押しつけがましき方法で証明せんとすることは無益というより、徒に混迷を大きくするのみであろう。

そのような試みは結局は失敗に終わることであろう。そして絶対的確信を得ることは出来ぬであろう。間接的証拠ならば折々に提供していくことも出来ぬではない。好機があればその機を利用するに吝(やぶさ)かではない。われらとの縁が長びけば、それだけそうした機会も多く、証拠も多く蓄積されていくことであろう。が、われらの教説はそのようなもので価値を増すものではない。そのような実体なき基盤の上に成り立つものではない。そのような証拠では“時”の試練には耐え切れぬであろう。われらは精神的基盤の上に訴えるものである。地上的なものでは、一時的にしておよそ得心のいくものでないことを、そなたもそのうち悟る日が来ることを断言しておく。

とは言え、今のそなたの精神状態は得心のいく証拠を要求できる状態ではない。われらは神の味方か、それとも悪魔か、そのいずれかであろう。もしもわれらが自ら公言している如く神の味方であるとすれば、そなたの言うが如き、世間から嘲笑をもって受けとめられるような言説をわざわざでっち上げる気遣いはあるまい。が、もしもわれらがそなたの思いたがるように悪魔の手先であれば、その悪魔の述べる言説が明らかに崇高な神性を帯びているのは何故か、そなた自ら問い直してみるがよかろう。われらとしては、このような問題にこれ以上関わろうとは思わぬ。これまでわれらが述べてきたところを正しく吟味検討してくれさえすれば、それが悪魔の言葉と結論づけられる気遣いは毛頭ない。関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではない。

われら自身のことはどうでもよいことである。大事なのは神の仕事であり、神の真理である。今のそなたにとりて最も大事な問題はそなた自身のことであり、そなたの未来のことである。そのことを時間をかけてじっくり考え、とくと反省するがよい。そなたを中心として得られた啓示の顕れ方がいささか急激に過ぎ、目を眩ませたようである。言いたいことも多々あろうが、今は黙して真摯に、そして厳粛に熟考するがよい。われらも暫し身を引き、そなたにその沈思黙考に耽る余裕を与えたく思う。と言うことはそなたを一人置き去りにするということではない。より一層の警戒心をもつ複数の守護の霊と、より経験豊かなる同じく複数の指導の霊がそなたのそばに待機するであろう。その方がわれらにとりても得策であるように思う。と言うのも、事態がかくの如くなった以上は、果たしてこれより後もこの仕事を続行すベきや否や、それともこれまでの努力が無駄であったとして改めて仕事を始めからやり直すべきや否やを“時”が判断してくれるかも知れぬからである。いずれにせよ、これほど多くの努力と、これほど多くの祈りを傾注せる仕事が実を結ぶことなく地に落ちるとは、何とも悲しき失望であることには相違なかろう。しかし、われらもそなたもあくまで内に宿せる道義の光に照らして行動せねばならぬ。これまでの経緯に関するかぎり責任はすべてわれらの側にある。故にわれらは問題を解決すべく何らかの手を打たねばならぬ。これまでより一層多くの祈りを、一層の熱意を込めてそなたに送るとしよう。きっと一層の効果をあげるであろうことを確信する。

では、これにてさらばである。神の加護と導きのあらんことを。

(†インペレーター)


〔このあと私は数回に亙って通信を試みた。また始めに示唆した通りに、一面識もない霊媒のところへ行ってみた。そして私の背後霊についての情報、とくにインペレーターの身元の確認を得ようと、出来るかぎりのことを試みた。が、無駄だった。得られた情報は、私についている霊はZOUDと名のるロシア人の歴史家だということだけだった。帰宅すると私はさっそくそのことを書いて通信を求めた。すると、その霊媒の述べたことは間違いであると断言してからこう綴った(1)――〕


われわれとしては、そのような霊言を信じることはとても勧められない。信頼が置けないからである。われわれの忠告を無視して一面識もない、しかも、われわれと何の協力関係もない霊たちと通信を試みれば、信のおけぬ通信を受け取り事態をますます混乱させることになろう。


〔この忠告にも私は強く反発し、あの機会を利用してくれていれば私の合理的要求を満たすことは容易に出来たはずだと述べた。すると同じ霊が――〕


それは違う。われわれとしても満足を与えたい気持は山々である。が、あの会場への出現は(インペレーターから)止められたのである。しかも、われわれは貴殿の出席は阻止できなかった。あのような体験は今の貴殿には毒になるばかりである。禍いを招くことにしかならぬ故に今後一切あのような招霊会には出席せぬよう厳重に忠告しておく。今必要なのは耐えることである。性急に無理強いすることは徒にわれわれにとって迷惑と困惑を生じさせるのみである。それよりも静かに心を休め、待つことのほうが遥かによい。全てインペレーターが良きに計らって下さる。早まった行動は誤りのもとである。


――しかし(と私は反抗的に述べた)あなたたちこそグルになって私を迷わせているようにしか思えません。私の要求には何一つ応じられないというのですか。


友よ。そなたの要求するが如き数学的とも言うべき正確なる証拠は、得ようとしても所詮無理である。われらとしても、そなたの求むる通りのものを授けることは出来ぬ。たとえ出来たとしても、それがそなたにとりて益になるとは思えぬ。全てはわれらの側にて良きに計らってある。


〔これはインペレーターである。私はとても気持が治まらないので、やむなく通信を一たん中止した。そして七月二十四日に神学上の問題について幾つかの質問を提出した。その一つは例の「私と父は一つである(2)」という有名な文句に言及したものだった。以前、霊言による対話の中で私は、インペレーターの言説がこの文句と相容れないものであることを主張したことがあったのである。そういう経緯もあって質問することになったのであるが、それに対してこう回答してきた――〕


そなたの引用せる文句は前後の脈絡の中において理解せねばならぬ。その時イエスはエルサレムでハヌカー祭(3)に出席していた。その折そこに集まれる民衆が“もしもあなたがキリスト神だと言うのであれば、その明確な証を見せてほしい”とイエスに迫った。彼らは今のそなたと同様に疑念を晴らすための何らかの“しるし”を求めたのである。そこでイエスはわれらと同じく、自分の説く訓えとその訓えによりてもたらされる業(わざ)の中に神のしるしを見てほしいと述べた。またそれを理解する備えのある者――イエスの言う“父の羊たち”――はその訓えの中に父の声を聞き、それに答えたも同然であると述べた。が、質問者たちはそのような回答を受け入れることが出来なかった。なぜなら、彼らにはそれが理解できず、信ずる心の準備が出来ていなかったからである。備えある者はイエスの言葉に従って永遠なる生命と進歩と生き甲斐を得た。それこそが神の意図するところであり、誰もそれを妨げることは出来ぬ。彼らは父のもとに預けられたのであり、彼らのみならず、人類の全てに新たなる息吹きを吹き込んだのである。すなわち、父なる神と、その真理の教師たるイエスが一体となった――「私と父は一つである」

イエスはそう述べたのである。が、そのユダヤ人たちはそれを神の名誉を奪うものであるとして非難のつぶてを投げつけた。しかし、イエスの弁明は正しかった。どう正しかったか。己の神性を認め、神の子であることを弁明した点において正しかったのである。それが余にも弁明できるかとな? それは出来ぬ。が、その心に陰日向(かげひなた)の一かけらもなきイエスは、その非難に驚き、こう聞き返した――一体自分の行なえる奇跡のどれをもって非難するのかと。非難者たちは答えた。奇跡のことを非難しているのではない。完全な神と一体であるなどと公言するその倣慢不遜の態度を非難するのであると。そう言われたイエスはこれを無視して取り合わなかった。なぜか。聖書にもある如く、イエスは自分と神とが一体であるとの言葉を霊性に目覚めた者すベてに適用し、「あなたたちも神である」と述べていたからである。ならばイエスほどの特殊なる使命を背負える人物が自分は神の子であると述べて、果たしてそれを不遜なる言葉と言えるであろうか。疑うのなら私の為せる業を見よ、とも言っている。そこには自分こそが神であるなどという意味はかけらもない。むしろその逆である。


〔翌二十五日、私が霊媒となって霊言による交霊会を開き、インペレーターがしゃベった(4)。が、これといって私の精神状態に触れたものは出なかった。他の列席者は私の抱える事情には全く関心がなく、私を通じて彼らなりの問題を提出し彼らなりの解決を得た。その間私の意識は休止状態なので霊言そのものには影響はなかった。そのあと最近他界したばかりの知人が出て私しか知らない事実に言及し、確かな身元の確認が得られた。これには私も感心したが、満足は得られなかった。

それから夏休暇(5)に入り、私はロンドンを発ってアイルランドヘの旅に出た。行った先でロンドンの病床にある友人に関する興味深い通信を得たが、私の一番の悩みを解決するものではなかった。アイルランドからこんどはウェールズへ向かった。そして八月二十四日にインペレーターからの別の通信を受け取った。これは紹介しておく必要があると思うのでこのあと紹介するが、この時も私は懸命に私の要求に対する回答を引き出そうとしたが、どうしてみたところで私の為にはならぬという警告を受けた。その時の私の体調があまり勝れず、精神状態は混乱していた。先のことをあまり考えずに、これまでの経過をよく復習するようにとの忠言を受けた。〕


これまでたどれる道をよく振り返ってみることである。われらに許された範囲でそなたのために尽くせるもろもろのことを細かく吟味し直すことである。その上で今そなたが目の前にしているものの価値を検討してみるがよい。その価値を正しく評価し、われらの言説の崇高性に注目してもらいたい。われらはそなたの今の精神状態が生み出す疑問そのものを咎めはせぬ。そなたが何もかも懐疑的態度でもって検討することはやむを得ぬ。人間は自分と対立する意見はとかく疑ってかかるものだからである。ただ、そなたの性急な性格があまりにも結論をあせり過ぎることを注意しているのである。精神的に混乱するのもその所為である。何かと面倒が生ずるのもその所為である。それは咎めはせぬ。われらが指摘しているのは、そのような心の姿勢では公平無私なる判断は下せぬということである。その性急な態度を和らげ、結論をあせる気持を抑え、一方ではアラ探し的な批判をやめ、われらの言説の中に建設的な面を見出してもらいたい。今のところそなたはあまりに破壊的過ぎるのである。

さらに友よ、そなたの抱ける疑問と混乱は、それが取り除かれるまでは、われらの今後の進展にとっても障害となることを忘れてはならぬ。これまでも大いに障害となり、進展を妨げて来た。が、それは(仕事の性質上)やむを得なかったと言えよう。が、これ以後は思い切り心を切り換え、判断を迷わせる原因となってきたわだかまりを、きれいさっぱりと洗い流してほしい。暫しの休息と隔離のあと、是非そうなってくれることを期待している。われらが出る交霊会も、出席者が和気あいあいたる精神に満ちていることが何より大切である。湧き出る疑念は、旅人を迷わせる靄と同じく、われらの行く手を阻む。靄の中では仕事は出来ぬ。是非とも取り除かねばならぬ。先入観を棄てて正直に過去を点検すればきっと取り除かれるであろうことを信じて疑わぬ。そなたの心の地平線に真理の太陽が昇れば、立ちどころに消滅するであろう。そして眼前に広がる新たなる視野に驚くことであろう。

ムキにならぬことである。そなたにとりて目新しく聞き慣れぬものも、ただそれだけの理由で拒絶することは止めよ。そなたの判断の光に照らして吟味し、必要とあらばひとまずそれを脇へ置き、もう一歩進んだ啓発を求めるがよい。真摯にして真っ正直な心には、時が至れば全てが叶えられる。今のそなたにとりて目新しく聞き慣れぬことも、いつかはしっくりと得心のいく段階に到達するであろう。ともかく、そなたの知らぬ新しき真理、これより学ばねばならぬ真理、改めねばならぬ古き誤りがまだまだ幾らでも存在するという事実を忘れぬことである。

(†インペレーター)


〔注〕

(1)インペレーターの指揮下にある別の霊による。
(2)ヨハネ10‥30
(3)Hanukkah 古代シリアのアンチオコス四世によって奪われたエルサレム神殿を、ユダヤの独立運動の指導者マカベウスが奪回したことを記念する祭。
(4)スピーア博士宅ではこの霊言が多かったが、モーゼス自身は入神状態なので記憶がなく、したがって客観的な証拠とはなっていない。
(5)当時モーゼスは学校の教師をしていた。

霊訓〈完訳・上〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。




16節

本節の内容
*これまでの霊信の総括
*恐怖を吹き込む教義は魂を萎縮させる
*宗派の別は些細な問題
*どの宗教にも真理と誤謬が混在する
*真理を独占する宗教は皆無
*キリスト教神学は諸悪の根源
*キリストの福音は生命の不滅性の証明
*それが宗教の根幹


〔思いつくまま反論を試みようとしたところ、制止されて逆に次のような通信が来た。〕


これまで述べてきたところをまとめる意味で今少し述べてみたく思う。そなたは宗教というものが人類全体としては大した影響力をもたぬことを十分に理解しておらぬ。そして、むしろわれらの述べる言説の方が人類の必要性と願望を満たする要素をもつことも理解しておらぬ。どうやら、今そなたが置かれている交友関係とその精神状態では明確に理解し得ぬものをここで指摘しておく必要がありそうである。

人間界に蔓延せる死後の問題の無頓着さが何を意味するかをそなたは理解しておらぬようである。死後はどうなるかについて関心を示す者がたどりついた結論は、これまでの来世観では曖昧にして愚劣であり、矛盾撞着があり、とても得心がいかぬということである。つまり理性的に観れば、神の啓示が全てであるとする聖書には、人間の混ぜものが歴然としており、純然たる人間的産物に適用される判断規準さえも耐えきれぬこと、そしてまた、理性は啓示の判断規準に他ならぬが故に、啓示はすべからく知的判断の範囲外に置き、ただひたすらに信ぜよとの牧師の言葉は、実は決して誤らぬはずの福音の中に数多く発見される誤りと、矛盾を被い隠すための巧妙なる言い逃れの手段であることは容易に知れる。理性という試金石を使用すれば、その程度のことは立ちどころに知れる。理性をもたぬ者のみが盲目的信仰へと避難し、狂信的、偏狭的、そして非合理きわまる盲目的信奉者となっていく。そして教え込まれた通りの因習的教義に凝り固まり、そこから一歩も出ようとせぬ。それもただ、それに疑義をはさむことが恐ろしいからに他ならぬ。

宗教上の問題につきて、理知的思考を禁ずることほど精神を拘束し、魂の発育を歪めるものはない。それは思考の自由を完全に麻痺させ、魂の生長をほぼ完全に阻害する。魂というものはその欲求を満たすと満たさぬとに係わりなく、一つの因習的宗教によりて縛りつけられるものである。魂の生命の糧を自ら選択する自由が皆無となるからである。遠き祖先にとりてはそれで良かったかも知れぬことも、時代を異にして苦悩する魂にとりては全く無意味なことも有り得る。故にその自由を奪われては魂の栄養は誕生する時代と土地とによって決定づけられてしまうことになろう。キリスト教徒となるのも、マホメット教徒となるのも、あるいはそなたらの言う異教徒になるのも、そこに本人の自由選択を行使する余地は皆無ということになる。その神がインディアンの言う大霊となるも、未開人の呪物となるも、あるいはその預言者がキリストとなるも、マホメットとなるも、孔子となるも――要するに、その宗教的観念が世界の東西南北いずれの地域のものであろうと、それが宿命的拘束力をもつことになる。何となれば、いずれの国にありても古来その国なりの神学を生み出し、それが子孫に対して、魂の救済において絶対不可欠の拘束力をもつに至っているからである。

この事実はそなたにとりて熟考を要する問題である。いかなる宗教といえども、地上の一つの国の民族に訴えることはあっても、唯一その宗教のみが神の啓示の全てを包含すると考えるのは、人間の虚栄心と思い上がりが生む作り話に過ぎぬ。いま地上にて全盛を誇る宗教も、あるいは曾て全盛をきわめた宗教も、どれ一つとして真理を独占するものなどは存在せぬ。完全なる宗教などはどこにも存在せぬ。その発生せる土地、そしてまたそれを生み出した者の必要性を満たすそれなりの真理を幾つか具えてはいても、それには同時にそれなりの誤りも多く含まれており、精神構造も違えば霊的必要性も異なる他の民族に押しつけらるべきものではない。それは神よりその民族のために与えられた霊的栄養なのである。それをもって絶対性を主張すること自体がすでに人間らしき弱点をさらけ出している。人間はとかく自分のみが特別の真理の所有者であると思いたがるものである。その妄想にしがみつき、われこそは神の真理を授かれる者なりと思い上がり、世界各地に宣教師を派遣して他の土地、他の民族にもその万能薬を広めねばならぬと真剣に思い込みたる者を見ると、われらはそのけなげなる気持ちに微笑(ほほえ)まずにはおれぬ。もっともその思い上がりを笑われ、その思想を蔑(さげす)まれるのが落ちであるが……

秀れた学識を具えている筈の神学者が、自分に届けられた真理の光をもって唯一無二の真理と思い込み、それに無用の手を加えて折角の輝きを曇らせているが、その光は、これまで地上に注がれた数多くの真理の太陽の光の一条に過ぎぬことに今まで気づかずにきたこと、そして今なお気づかずにいることは、われらにとりて驚異というほかはない。神の真理は太陽の如く、あまりに強烈であり、そのままではとても人間の目では直視できぬ。それは是非とも地上の霊媒を通すことによりて和らげる必要がある。すなわち、光に慣れぬ目を眩まさぬように、人間的伝達手段を通すことによりて幾分か光度を落とさねばならぬ。その中間的介在物を通さずに直接真理の光を見出せるようになるのは、肉体を棄て天上高く舞い上がった時である。

地上の全ての民族にそれ相当の真理の光が授けられている。それを各民族なりに最高の形で受け取り、それなりに立派に育て上げられたものもあれば、歪められてしまったものもある。いずれにせよ結局はその民族なりの必要性に応じて変形されてきた。故に地上のいかなる民族といえども、真理の独占を誇り、あるいはそれを他民族に押しつけんとする無益な努力が許される道理はない。地球が存続してきた限りにおいて、全ての宗教――バラモン教もマホメット教もユダヤ教もキリスト教も、それ独自の特異な真理を授かってきたのであり、ただ勝手にそれを真理の全てであると思い込み、わが宗教こそ神の遺産の相続者であると自負したに過ぎぬ。その過ちを最も顕著に示しているのが他ならぬキリスト教である。教会こそ神の真理の独占者であると思い込み、地上全土にそのランプの光を持ち歩かねばならぬと信じておりながら、その実、教会内部において相対立する宗派が最も多いのもキリスト教であるという事実が、それを何よりも雄弁に物語っていよう。キリスト教界内の分裂、その支離滅裂の教義、互いに神の愛を独占せんとして罵り合う狂気の沙汰の抗争、こうしたことはキリスト教こそ神の真理の独占者であるという愚かなる自負に対する絶好の回答である。

が、この人間的無知の霧に新たな光が射し込む日が近づきつつある。その新しき啓示の普及による啓発の前に、そうした宗閥的勢力争いも消滅するであろう。人類はそなたが想像する以上にその啓示を受け入れる用意が出来ているのである。その暁には、各宗教には中心的太陽とも言うべき神の光の一条のみが与えられているに過ぎぬこと、しかも、その光が人間の無知によりて曇らされていること、しかしその奥には真理の芽が隠されていることを知るであろう。故に人間は他民族の信仰の中にも真理を見出し、それなりの教訓を学び取り、邪を棄て善を摂取し、人間的過ちの中にも神を見出し、これまで己の欲求にそぐわぬと思えたものの中にも神聖なるものを認識せねばならぬ。

われらがその普及を使命としているところの壮大なる霊的教訓は、理性的観点からすれば、合理的にして且つ崇高なるものであり、その普及によりて、これまで宗教の名を辱しめ、神学を世間の嘲笑の的としてきたところの宗閥的嫉妬心と神学的暴言、憎悪と悪意、怨恨と偽善が地上より払拭される日も間近い。それにしても、何たる醜態であることか! 本来ならば神の本性を明らかにし、そうすることによりて神の愛を少しでも魂に吹き込むべき神学であるものを。ああ、それが事もあろうに宗派と分派の戦場と化し、児戯に類する偏見と見苦しき感情をむき出しにする不毛の土地と化し、神につきての無知を最もあらわにさらけ出し、神の本質と働きにつきて激しく非難し合う佗しき荒地と化してしまうとは! 神学! これはもはやそなたらキリスト者の間でさえ侮蔑をもって語られるに至っているではないか。神につきての無知の証とも言うベき退屈きわまる神学書は、見苦しき悪口雑言、キリスト者として最もあるまじき憎悪、厚顔無恥の虚言の固まりである。神学! 聖なる本能の全てを掻き消し、敵に向けるベき攻撃の手を同志に向け、聖者の中の聖者とも言うべき霊格者を火刑に処し拷問にかけ八つ裂きにし、礼遇すべきであった人々を流刑にし或いは追放し、人間として最高の本能を堕落させ、自然の情緒を掻き消すことを正当化するための口実とされて来たではないか。何たる悲しきことであることか。そこは今なお人間として最低の悪感情が大手を振って歩く世界であり、その世界より一歩でも出ようとする者を押し止めんとする。“退(さ)がれ! 退がれ! 神学のあるところに理性の入る余地などあるものか”これが神学者の態度である。真摯なる人間を赤面せしめる人間的煩悩の殆ど全てがそこにあり、自由なる思索は息切れし、人間はあたかも理性なき操り人形と化している。

本来ならば神について語るべき叡知を人間はそのような愚劣なる目的のために堕落させて来たのである。

しかし、友よ、われらの目的成就の日も間近い。神学による悪癖をいつまでも放置しておくわけには参らぬ。今はまさにイエス・キリストの降臨前と同じである。夜明け前の漆黒の闇と同じである。無知という名の夜が足早に過ぎ去りつつある。聖職の権能によりてがんじがらめにされた魂がその束縛を断ち切り、常軌を逸せる愚行、無知が生む偽善、そして曖昧模糊たる思索の産物に代わりて、理性を得心させる宗教と信仰を手にする日が訪れよう。その時は神につきてのより豊かな概念と、人間の義務と宿命につきてのより正しき見解を手にするであろう。人間の言う死者が今なお生き続けていること、それも人間より一段と生命の実感をもって生きていること、しかも地上時代と変わらぬ情愛をもって加護に当たっていることを知るであろう。

キリストは地上に生命と不滅性をもたらしたと聖書にある。その言葉は筆記者が意味したより広き意味にて真実である。キリストによる黙示の成就は――今まさに成就されんとしているのであるが――真実の意味における“死”の観念の撲滅であり、生命の不滅性の実証に他ならぬ。その偉大なる真理、すなわち、人間は永遠に死なぬということ、たとえ死にたくとも死ぬことが出来ぬという事実の中に、未来への鍵が託されている。信仰の一つとしてでなく、教義の一項目としてでもなく、生きた知識と現実の事実の一つとして、生命の不滅性は未来の真の宗教の基調であらねばならぬ。われらの説く深遠なる真理も、崇高なる義務の概念も、壮大なる宿命の観念も、人生の真実の悟りも、すベてその生命の不滅性の上に成り立つのである。

今のそなたには理解できぬかも知れぬ。炎に慣れぬ魂は目が眩むことであろう。が、やがてわれらの言葉の中に真理のしるし――神性の一面を認めるようになる日も来よう。

(†インペレーター)

霊訓〈完訳・上〉

  The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





15節

本節の内容
*スピリチュアリズムの宗教性 
*絶対的真理は存在せず
*“最後の審判”は無し
*罪はそれ自らの中に罰を含み、犯した瞬間より責任を求める
*キリスト教的天国地獄観を論駁
*交霊現象に関する誤解を正す
*悪とは
*スピリチュアリズムは地球規模の啓示


〔こうした議論がその後も非常な迫力と強力な影響力のもとに、殆ど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたこの影響力がいかに崇高にして強烈なものであったか――それを正しく伝えることは拙い私の筆ではとても出来ない。〕

『スピリチュアリズムの宗教的教訓』


そなたはわれらの教説が理神論であるか、純粋なる有神論であるか、はては無神論ではないのかとまで問うている。普段の思考においては正確にして知識に事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく人間の無知の見本を見る思いがする。全ての人間の心に通じる神、いかに堕落せる人間の魂でさえ感応し得るところの神の存在を否定せんとする、その佗(わび)しきかぎりの不毛なる思想について、われらは最早や言うべき言葉を知らぬ。人間が自らの目を被い隠すことをするものであることを万一知らずにおれば、われらはそなたらが一体何故にかくも愚かなることを考えるのか理解に苦しむところであろう。

疑いもなくわれらは全ての存在を支配する絶対神の存在を説く。それは、人間が勝手に想像せるが如き気まぐれな顕現の仕方はせぬ。人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされてきた存在――もっと厳密に言うならば、人間の心の中に神の概念とその働きについての、より真実に近き見解を植えつけんとして働きかけてきた存在である。イエスと同様われらは宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純なる神を説く。人間の想像するが如き人格をもたぬ神ではなく、真の意味における父なる存在である。エネルギーの化身でも具現でもない。真に生ける実在である。ただし、その存在の本質と属性はその働きと人間の心の中に描ける概念としてしか捉えることは出来ぬ。そなたの抱ける概念の中より全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつまた、差し当たりて問題とするに当たらぬ神学的教説を一応残しつつ、われらは神について以上の如く説いてきたのである。

われらの教説を読みてそこに絶対的真理が見られぬと言うのであれば、われらはむしろ、われらがそこまで理解して貰えるに至ったことを有難く思う次第である。絶対的完全性が有り得ぬ如く、今のそなたの未完成の状態においては絶対的真理などというものは望むべくもない。そなたはまさか、最高級の霊にしてもなお目を眩(くら)まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届け得ることを期待はすまい。限りあるその精神でまさか無限なるもの、不可知なるもの――地上より遥かに掛け離れたわれらにとりてもなお、遠くより拝(おうが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が理解できるとは期待すまい。万一できると思うとすれば、それこそそなたの置かれたる発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかない。そなたにとりて真理はまだ断片的であり、決して全体像を捉え得るものではなく、また細目まで行き亙ることは叶わず、あくまでベールを通して大まかなる輪郭を垣間見る程度に過ぎぬ。われらとしても決して真理の全てをそなたに啓示しようなどとは思いも寄らぬ。われら自らがまだまだ無知であり、神秘のべールに被われたる多くのものを少しでも深く理解せんと願っているものである。われらに為し得ることは精々その神の概念――これまでそなたらが絶対的啓示と思い込みたる概念よりは幾分か真理に近きものを仄(ほの)めかす程度に過ぎぬ。

これまでのところわれらは、そなたが筋の通れる美しく崇高なるものと認め、かつそなたの精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功した。それ以上のものを求めようとは思わぬ。われらは崇拝と敬意の対象としての神を啓示した。神と人類とそなた自身に対する合理的かつ包括的義務を披露した。道徳的規範として、そなたの聞き慣れた天国と地獄説による脅(おど)しの説教ではなく、無理強いせず自然に理解せしめる性質の見解を確立した。

われらの教説を目的なき宗教と言うに至りては、理解に苦しむ誤解というほかはない。地上生活というこの種子蒔(たねま)きの一つ一つの行為がそれ相当の実りをもたらすとの訓え――悪と知りつつ犯せる故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならぬという訓え――過ちを犯せる魂が曾ての己の過ち故にもたらせる“縺(もつ)れ”を必ず自らの手で解(ほど)かねばならぬとの教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説と言うのであろうか。

われらは、人間の言動は池に投げ入れられた小石の如く、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には最後まで自分が責任を負わねばならぬこと、故に一つの言葉、一つの行為には、その結果と影響とに計り知れぬ重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐の源泉となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨のうちに責任を取らされると説くのであるが、これが果たして下らぬ教説であろうか。

またその賞罰は遥か遠き未来の死にも似たる休眠状態の末まで延ばされるのではなく(1)、因果律の法則によりてその行為の直後より始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのであるが、これも愚にもつかぬ言説であろうか。

これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならぬのであろうか。そうしたわれらの教説と、そなたらの信じる教説、すなわち己の思いのままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒涜し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずかし)めた人物が、たった一度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場かぎりの精神的変化によりて、眠気を催すが如き天国への資格を獲得するとのそなたらの説、しかもその天国での唯一の楽しみが魂の本性が忌々しく思う筈のものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よき仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘(いざな)ってくれるであろうか。堕落せる魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によりて知られる知られぬに係わりなく、いつかは悔い改めねばならぬ時が来ること、そして他力ではなく、自力で償わねばならぬこと、そうなることによりて少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえぬとの教えであろうか。それとも、何をしようと天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか一度の叫び声によりて魔法の如く魂が清められ、遠き未来に訪れる審判の日を経て神の御前に召され、そこにて退屈この上なく思う筈の礼拝三昧の生活を送るとの教えの方であろうか。

このいずれが人間の理性と判断力に訴えるか。どちらが罪を抑制し、さ迷える者を確実に正義の道に誘うか。それはわれらと同様、そなたにも明々白々である。なのにそなたはわれらの説くところが断固たるものを曖昧なるものに、確固たる賞罰の体系を何の特色もなきものに置き替えんとするものであると言う。否! 否! われらこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしの如き天国や残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはせぬ。キリスト教神学はいつのことやも知れぬ遠き未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の人間でさえも、その者自身理解も信仰も有難味も見出し得ぬ教義に合意すれば、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得ると説く。

敢えて言おう。われらの説く信仰のほうが遥かに罪を抑圧すべく計算され、人間に受け入れ易く説かれている。人間の死後について遥かに合理的な希望を与え、人類史上かつて無き現実性に富む包括的信仰を説いている。繰り返すが、これぞ神の訓えである。神の啓示としてそなたに授けられているのである。われらはこれが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待せぬ。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢が出来ぬかぎり、それは叶わぬことである。その時節の到来をわれらは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間は曾ての如きケチくさき救済を当てにせるが故の罪を犯すことも減り、より知的にして合理的来世観によりて導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいて動機の源は、甘き天国と恐ろしき地獄などというケチくさき体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言する。子供騙しの地獄極楽説は、これをまともに考察すれば呆気(あっけ)なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠なき、非合理にして愚劣なるものとして、灰塵に帰されることであろう。


〔総体的に観てスピリチュアリズムの影響は好ましくない――少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して一八七三年七月十日に次のような回答が届けられた――〕


その点につきてはわれらも述べたいことが多々ある。これよりそなたの誤解を説き明かすべく努力してみたく思う。まず第一にそなたは人間の宿命とも言うべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その目に映りたる限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムの全てであると思い込んでいる。その点においてそなたは、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムの全てであると見なす一部の連中と同類である。見よ、彼らは結果によりてのみ知らるベき静かなる流れがその見えざる底流を音もなく進行していることに気づかぬ。そなたの耳に入るのは騒々しき無秩序なる連中のみである。さして多くはないが、よく目立つのである。そなたが世の中を再生せしむるのはそうした連中ではあり得ぬと言うのはもっともなのである。そなたの知性はそうした無責任なる言説にしりごみし、果たして斯くの如き近寄り難きものが神のものであり、善の味方であろうかと訝(いぶか)るのであるが、実はそなたの目にはそうした一部のみが目に入り、しかもその一部についても明確に理解しているとは言えぬ。そうした連中にも彼らなりに必要なる要素が幾つかあり、それが彼らにとりて最も理解し易き手段にて神より授けられている――そうした表に出ぬ静かなる支持者たちの存在についてはそなたは何も知らぬ。そなたの視界に入らぬのである。入らぬのであるが、しかし現にそなたのまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに彼らもまた霊界よりこのスピリチュアリズム普及のために一役買う日が来るのを待ちうけているのである。

かくの如くそなたは一方に喧噪、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会のゆえに狭隘なる見解しか持ち得ず、およそ見本とは言えぬ小さき断片をもって全体と思い違いをしている。これよりわれらは、そなたが下せるスピリチュアリズムの影響につきての結論を細かく取り挙げたく思う。そして同時に、そなたにはその究極の問題について断定的意見を述べる立場にないことを指摘したく思う。

と申すのも、一体真理とは何かということである。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず他の全ての分野においても、不偏平等である。地上には善と悪とが混在している。平凡なる霊にて事足りる仕事に偉大なる霊を派遣するが如き愚を神はなさらぬ。未発達の地縛霊の説得に神々しき高級霊を当てたりはなさらぬ。絶対になさらぬ。自然界の成り行きにはそれ相当の原因がある。巨大な原因から無意味なる結果が出るようなことはない。霊的関係においても同じことである。知能程度が低く、その求むるところが幼稚にして高きものを求めようとせぬ魂の持ち主には、その種の者に最も接触し易き霊が割り当てられる。彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟なる知性に訴えるために物理的手段を講ずる。精神的・霊的に無教養で未発達なる者には、その程度に応じた最も分かり易き言葉にて語りかける。死後の生活の存在を得心させるためには目に映ずる手段を必要とする者がかなり、いや、大勢いるのである。

この種の人間は、高き天使の声――いつの時代においてもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高なる霊の声――によりて導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち――その欲求と精神的性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に最も訴え、最も受け入れ易き証を提供することの出来る霊によりて導かれる。さらに心得ておくべきことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることである。本来進歩性に富める魂も、その宿れる肉体によりて進歩を阻害され、歪める精神的教育によりて拘束を受けることも有り得る。同じ啓示が全ての魂の耳に届くとはかぎらぬ。同じ証が全ての魂の目に見えるとはかぎらぬ。肉体的性向を精神的発達の欠陥によりて地上生活における発達を阻害された霊が死後その不利な条件が取り除かれてのち、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくないのである。

というのも、本性は魔法の杖にて一度に変えるというわけには行かぬものなのである。性癖というものは徐々に改められ、一歩一歩向上するものなのである。故に生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後も絶え間なく教養を積める者の目には、当然のことながら、無教養にして無修養の者のために用意せる手段は余りに粗野にして愚劣に映ずるであろう。否、その前に彼らが問題とせるものそれ自体が無意味に思えるであろう。その声は耳障りであろう。その熱意は分別に欠けるであろう。が、彼らは彼らなりにその本性が他愛なき唯物主義、あるいはそれ以上に救い難き無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感ずる新たな視野に一種の情熱さえ覚えるようになる。彼らの洩(も)らす喜びの叫びは垢抜けはせぬが、彼らなりに真実の喜びである。そなたの耳には不愉快に響くかも知れぬが、父なる神の耳には、親を棄てて家出せる息子が戻りて発する喜びの声にも劣らず、心地よきものである。その声には真実が篭っている。その真実の声こそわれらの、そして神の、期待するところである。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われらの耳には届かぬ。

かくの如く、霊的に未発達なる者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではない。それでは無駄に終わるのである。まず霊的事象に目を向けさせ、それを霊的に鑑識するよう指導する。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのである。物理的演出についてはそなたもすでに馴染んでおろう。そして、そうした物的手段の不要となる日も決して来ぬであろう。いつの時代にもそうした手段によりて霊的真理に目覚める者がいるからである。目的にはそれなりの手段を選ばねばならぬ。そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く視野の狭き者である。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことである。それはあくまで手段に過ぎぬ。霊的発達への足がかりとして意図され、或る者にとりては価値ある不可欠の手段なのである。

そこでわれらはこれより、そなたが腹に据えかねている右の例以上に顕著なる例、すなわち、粗野にして無教養なる未発達霊の仕業について述べるとするが、そなたにとりて左程までに耳障りにして、その行為に不快を覚えさせる霊をそなたは“悪”の声であると想像しているようであるが、果たして如何(いかが)なものであろうか。

悪の問題につきてはすでに取り挙げたが、また改めて説くこともあろう。が、ここでわれらは躊躇なく断言するが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いては、大抵の場合、そなたの想像するが如き悪の仕業ではない。

悲しい哉、悪は多い。そして善に敵対する者が一掃され勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはあるまい。故にわれらは、決してわれらとそなたを取り巻く危険性を否定も軽視もせぬ。が、それはそなたが想像するようなものではない。見た目に常軌を逸するもの、垢抜けのせぬもの、粗野なるものが必ずしも不健全とは言えぬ。そうした観方は途方もない了見違いと言うべきである。真に不健全なるものはそう多くは存在せぬ。むしろそなたらの気付かぬところに真の悪が潜むものである。霊的にはまだ未熟とは言え、真剣に道を求むる者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上はこの地上における精神的、身体的、霊的発達にかかっていることを理解しつつある。それ故彼らは身体を大切にする。酒浸りの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控える。そしてその熱意のあまり同じことを全ての者に強要する。彼らは人それぞれに個人差があることまでは気が回らぬ。そして往々にしてその熱意が分別を凌駕してしまうのである。しかも、洗練された者に反発を覚えさせるそうした不条理さと誇大なる言説をふり回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され、身体は肉欲に汚され、道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも霊的に不健全であろうか。そうでないことはそなたにも判るであろう。前者は少なくとも己の義務と信念とに目覚め必死に生きている。今や曾ての希望も目的も持たぬ人間とはわけが違う。死者の中より甦ったのである。その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのである。その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補いて余りあるではないか。その叫びは確信の声であり、死にも譬えるべき無気力より目覚めた魂の叫びなのである。それは、生半可なる信仰しか持たぬ者が、紋切り型の眠気を催すキザな言い回しで化粧し、さらには“ささやき”程度のものでも世間に不人気なものは避けんと苦心するお上品ぶりよりも遥かにわれらにとりて、そして神にとりて、価値あるものである。何となればそれは、新たにかちえた確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われらの使命にとりても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかぬのである。

そなたは俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。断言するが、そなたの意見は見当違いである。適確さと上品さには欠けるが、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他の何ものよりも大衆に訴える力がある。野蛮なる投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石のほうが、打算から慣習に迎合し体裁を繕(つくろ)いたる教養人の言説よりもよほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役に立つのである。現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのである。

霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。“物”にしか反応を示さぬ唯物主義者には物的法則を超越せる目に見えぬ力の存在の証拠を提供する。固苦しき哲理よりも、肉親の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦み合いの生活への信念を培う。筋の通れる論証の過程を経なければ得心できぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命につきての啓示を垂れさせる。かくの如く人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されて来たのである。

今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き単なる見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムに他ならぬ。が、実はそれだけと見なすのも片手落ちである。そなたにとりて、そしてまたそなたと同じ観点より眺める者にとりてはそれで良いかも知れぬ。が、他方には意識の程度の低き者、苦しみに喘ぐ者、悲しみに打ちひしがれし者、無知なる者がいる。彼らにとりてはスピリチュアリズムはまた別個の意味をもつ。それは死後における肉親との再会の保証であり、言うなれば個人的慰安である。実質的には五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋である。肉体を捨てた者も肉体に宿れる者と同様に、その発達程度はさまざまである。そこで、地上の未熟なる人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれる。故にひと口にスピリチュアリズムの現象と言うも、程度と質とを異にする種々さまざまなものが演出されることになる。底辺の沈殿物が表面に浮き上がることもあり、それのみを見る者には奥で密かに進行しているものが見えぬということにもなる。

今こそそなたにも得心がいくであろうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生する“しるし”を見れば、それが決してわれらの運動のみに限られたものとの誤解に陥ることもあるまい。それは人間の魂をゆさぶる全てのものに共通する、人間本来の性分が要求するのである。イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせぬ要素であった。人類の歴史において新しき時代が画される時には必ず付随して発生し、そして今まさに霊的知識の発達にもそれが付随しているのである。が、それをもって神の働きかけの全てであると受け取ってはならぬ。政治的暴動がその時代の政治的理念の全てではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれらの仕事の見本と考えてはならぬ。

常に分別を働かさねばならぬ。その渦中に置かれた者にとりては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今そなたを取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。

そなたの提示せる問題についてはいずれまたの機会に述べるとしよう。此の度はひとまずこれにて――さらばである。

(†インペレーター)



〔注〕

(1)死者はこの世の終わりに神が下す最後の審判の日まで休眠状態に置かれるとのキリスト教の信仰を指す。

霊訓〈完訳・上〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。





14節

本節の内容
*目に見えざる師を信ずることの困難さ
*知的難問との葛藤 *著者がたどり着いた結論
*スピリチュアリズムに関する著者の見解
*回答 *“スピリチュアリズムは神の声”
*交霊は科学を超えた法則が支配 *霊媒の管理の不徹底


〔前節の通信は、私に少なからざる影響を及ぼした。即座の反論が出来ず、次の通信まで何日かの間(ま)が必要であった。いよいよその通信をする気になった時、私はまずこう反論した。〕


――キリストの時代と現代との対比は理解できます。サドカイ派の学者が軽蔑の目をもってキリストの言説に耳を傾けている図は私にも容易に想像できます。今の時点で言えばそのサドカイ派の学者は間違っていたことになります。それは判ります。しかし私が思うに、それは実に無理からぬことだったのです。理性の光だけで判断すればキリストの言説は途轍もないものに思えたことでしょう。超自然的なものを認めない当時のサドカイ派の学者が、虚言か妄想としか思えぬものを拒否したのも無理からぬことでしょう。私から見れば、それ以外に取るべき態度はなかったとしか思えません。ただ彼らの場合は、その途轍もないことを言う人間が目の前にいたということ――姿は目に見えるし、声は聞こえるし、説くところの崇高な教説が実生活に体現されているかどうかも、調べようと思えば調べることが出来たということです。その点私の場合は影も形もない、ただの影響力であり、もしかしたら、自分の中だけの心と心の葛藤に過ぎないかも知れない言説が展開されるだけです。まるで掴みどころがないのです。明けても暮れてもスピリチュアリズムで、それも極めて曖昧で、しかも往々にして軽蔑したくなるものばかりです。啓示だと言われても、愚かと言うのが言い過ぎなら、得体が知れないとでも言わざるを得ぬもので、聞いてショックを受けることもしばしばです。私はどうして良いのか判りません。あなたという存在についても、私は何も知らないし、果たして一個の独立した存在なのかどうかも判りません。あなたに関して得心のいく手掛りは何一つありません。たとえ曾て地上で生活したことがあると証言しても、私には大して意味はありません。あなたは一体個性を具えた存在ですか、それとも単なる影響力に過ぎないのでしょうか。私からすれば、あなたをれっきとした個的存在として想像すれば幾分か救われる気がします。しかし、とにもかくにも、出来ることなら私には一切構わないでおいて頂きたい心境です。


〔正直いって、その頃の私は自分の強固な信仰と、強烈にして首尾一貫した影響力との激烈な闘いに疲れ果てていた。感情の相克によって頭が混乱を極めていた。そしてそれが来(きた)るべき段階への一つの準備としての体験であることは明らかであった。〕


友よ、そなたの疑問とするところはよく理解できる。われらとしてもその疑念を解く手助けを致したく思う。まずそなたは例のサドカイ派の学者は目に見えるイエスを相手にしていただけ有利であると言う。なるほどイエスは目に見える存在であった。が、そのことは有利であるどころか、むしろ一層困惑を増すものではなかったであろうか。何となれば、目の前にいるイエスなる若者はナザレの大工の息子である。それを神の新たなる啓示者と結びつけるのは、そなたがわれらを神の使者と結びつけること以上に困難なことではなかったであろうか。サドカイ派の学者にとって“この男は大工ではないか”という蔑(さげす)みの念は、そなたがわれらのことを“これは一体個的存在であろうか”と思う疑念以上に深刻なる問題ではなかったであろうか。イエスを取り巻く環境は目に見え手に触れたることの出来る明白なるもので、しかも、およそ好条件とは言えぬものばかりが揃っていた。生まれは卑しく、交わる友は下層階級の者ばかりであり、世の軽蔑を浴び、その説くところが全ての民衆から背を向けられる。こうしたことは全て現実であり、如何ともし難き不利な条件であった。あからさまに表現すれば、最後通牒をつきつけられても致し方ないほどであった。故に、たとえサドカイ派の学者がイエスの言説を理解し得ず神の使者として認めなかったとしても、その学者には何の咎もない。それは単にその学者が、より成長した折に再び訪れるであろうところの進歩の好機を逸したということに過ぎぬと言えよう。

そなたの場合はそれとは事情が異なる。そなたには目を惑わす困難は何一つない。知的疑念と闘っておればよい。しかもこれまでそなたに語られた言葉が神の使者からのものとして恥ずかしからぬものを有することは、そなたも認めるところであろう。その説くところはそなたが必要性を痛感せるものに満ちあふれ、そなたも認めるところの美しさに溢れ、しかもそれを受け入れる用意のあるものには強烈に訴える道徳的崇高さに満ちている。それがそなた自身以外の源より発していることは十分に得心していよう。何となれば、もしもそなた自身の内部の源より無意識のうちに発したものであれば、それがそなた自身の教説と真っ向より衝突することは有り得ぬくらいのことは当然そなたも認めるであろうからである。もしもわれらの述べるところの言説がそなたの精神より自然に発するものであれば、そなたもその公表に躊躇する余裕をもつことも出来よう。が、事実はそうではない。いかに工夫を凝らそうとも、これが自問自答の結果であるとの説はそなた自ら納得できぬであろう。そうでないことはそなたもすでに得心している。今まさにそなたが体験しつつある不審と疑念の段階は一過性のものであり、永続的影響を及ぼすものではない。やがてその時期を過ぎれば、きっとそなたは、何故われらのことをそなたらと同じく“人間”と呼ぶ形体を具えた知的存在であることを疑ったのであろうかと不思議に思える日も到来しよう。

さよう、いまそなたに必要なものは“時間(とき)”である。根気よく考えるための時間、問題を比較考察するための時間、証拠を評価するための時間、そして結論をまとめるための時間である。かくまでそなたの心を深く――その深さはそなた自らの想像すら超えるが――動かせる言葉は、そなたの思いに通じ、そなたの苦しき立場を理解し、さらにそれに劣らず、いまそなたを悩ます懐疑と疑問に理解をもつ者の言葉である。地上時代、余はイエスの出現に先立てる苦難、いま再び繰り返されつつある苦難の世相の中にて使命を担わされし者である。歴史は巡り来るものである。いつの時代にも人間はその精神構造においては少しも変わらぬ。意識が開発され、進歩し、より深く考えるようになる。が、昼のあとに必ず夜が訪れる如く、神の概念が薄れ、非現実的となる時代が訪れる。すると、より明確なる知識を求める神の火の粉が再び炎となって燃えあがり、天に向いて神のメッセージを求める。そこに新しき啓示の必要が生じる。人間の魂がそれを希求するのである。古きものはそれなりの役目を終え、その灰燼の中より新しきものが芽生える。それは、受け入れる用意のある者にとってはまさに神の慰安と安寧の言葉に外ならぬ。いつの時代にもそうであった。そのことはそなたも知っていよう。こうした神と人類とのつながりは全歴史を通じてたどることが出来る。それが何故に今の時代にそうであってはならぬのか。人類が最もそれを必要としているこの時代に何故に神の声を押し黙らせ、その耳を塞ごうとするのか。

余について何も知らぬから、とそなたは言う。しかし何故にそなたは啓示そのものと啓示を持ち来れる者とを混同するのか。何故に神の訓えと、その訓えを伝える通路に過ぎぬ者とに同一価値を置かねば気が済まぬのであろうか。


〔こうした議論の結果ようやく私は頑固に求めていたものを手にして、それまでの優柔不断の信仰に一つの確信を得ることが出来た。その確信が深まるにつれて、それまで私がこれこそと思って求めてきたものがいかに空虚なものであるかを悟るようになった。それまで理解できなかった霊訓の一連の流れも理解がいき、その霊訓とそれを伝える者(インペレーター)とを区別することも出来るようになった。私はこうした一連の論議――その一部だけで十分と思うので全部は公表しないが――を再度始めから目を通し、そこにまさしく新しき啓示と言えるものをようやく見出すことが出来た。通信者が誰であるかは、その啓示の私自身にとっての重要性の中に埋没してしまった。私はその時に至って初めて燃える炎の如き強烈な確信を覚え、枝葉末節まで細かく分析せんとする気持がその確信の炎にかき消されてしまった。

実はそう思ったのも束の間だった。やはり私の古い分析癖は容易に衝動的熱中を許さなかった。さらに私の若き日の宗教的修業もそれを許さなかった。私の頭には再び神学的見地からの反論が蘇った。その最初の波が去り、二日間の間(ま)を置いて、再度その反論が心の中でぶり返した。その間も私はこれまで公表した通信と、私的すぎて公表できないものを繰り返し丹念に読み返した。どうしても自分の厳格な信仰から離れないままの過去一年間に亙る交霊の経験の価値評価もしてみた。そして次の三つの明確な結論に到達した。すなわち、私に働きかけている“影響力”は(一)私自身とは別個の存在である。(二)その述べるところは真実であり、首尾一貫している。(三)その宗教的教説は純粋であり、崇高さがある。以上の三点は間違いないように思えた。そこで更に私はその身元の確認と主義主張の問題を洗ってみた。その他の問題は後回しにしても良いように思えた。そして、以上の諸点について得心がいくと、古(いにしえ)の誠実な知性は今なお誠実である筈だと強く信じ込む気持になった。が、そこでふと疑念が頭をもたげた。もしかしたら“天使を装ったサタン”が自分の信仰を覆さんと企んでいるのでは……という疑念である。そこで私はこう書いた――〕


――私の判断力の許すかぎりにおいて正直に批判させて頂けば、あなたの教説は取りようによっては理神論(1)にもなり、汎神論(2)にもなり、あるいは(これは言い過ぎでしょうが)無神論にもなり得る性向をもっているとも言えないでしょうか。それは神を単なる一種のエネルギーと見下げることになり、人の心に絶対的なものの存在に疑念を抱かせることにならないでしょうか。つまり神とは宇宙に瀰漫する影響力につけた名称にすぎず、それを異なる民族が異なる時代に異なった形で想像したのだと人は考えはじめます。神の啓示と言っても、それは神から真理が明かされたのではなく、人間の心の中で想像したものに過ぎないことになります。キリスト教もそうして生まれた信仰の一つに過ぎず、したがって多かれ少なかれ誤りを含んだものであることになります。そして、これからも人類は程度の差こそあれ盲目的に自分で勝手に誤った考えを生み続けていくことになります。神はそうした概念の中にのみ存在するわけですから、一人一人が自分だけの特殊な神をもつことになります。数学以外には絶対的な真理が存在しないことになります。結局人間というのは、せいぜい自分なりの霊を宿し、自分の問いかけに自分で回答しては当座しのぎの満足を得ながら、また新たな考えを生んでいく孤独な一単位に過ぎぬことになる――それも知性が硬直化しなければの話です。古き信仰はすでに変化することを止めているだけに不変性があるという皮肉な理屈になります。

こうした味気ない思想は絶対的神性を有するキリスト教の福音に取って代わろうとするものです。キリスト教の教説には寸分の誤りもなく、その道徳性は殆ど誰にも理解のいく崇高性を帯びており、人間の行為に対処する上で欠かせない厳格な賞罰の規律もあります。それほどしっかりとした裏打ちのある福音ですら、おっしゃる通り、人類に完全な道徳性を植えつけることが出来なかったのです。なのに、あなたが説くような善の影程度しか持たぬ哲学――まさに影のみの存在で、漠然として曖昧で掴みどころのない、しかも過去を破壊し、それに代わる未来への建設力を持たぬ教説に、どうしてそれが出来るのでしょう。その程度のもので、道徳律が厳しく、人間的関心事に強く訴え、神に由来し、人類の模範として最高の輝きをもつ宗教のもとですら手を焼いた反抗的民衆の心を捕らえることなど、とても出来るものではないと信じます。

あなたの教説の拠ってくるところが不明瞭であることについてはすでに述べたので繰り返しません。またそれが一般に普及した場合の危険性についても改めて指摘することは控えます。それはまだまだ遠い先のことであり、ここで詳しく述べる必要性を認めません。同時にあなたの教説が広まると道徳的、社会的、宗教的に人類にとって欠かすことの出来ない健全な結びつきを多くの点で緩(ゆる)める結果になるであろうことも見逃せない要素です。万一スピリチュアリズムと呼んでいるものが一般民衆に広まれば、残念ながら社会は狂信者と熱狂者であふれ、確固とした支持を得るどころか、盲目的迷信と浅薄なる軽信の風を巻き起こすことが懸念されます。こうした危惧はまったく私の杞憂に過ぎないかも知れません。が、今の私には切実にそう思われるのです。私にはあなたの教説がこれまでの宗教的信仰の代わりになるものとは思えません。たとえあなたの主張する通りの真正なるものであるとしても、人間はスポンジケーキだけでは生きていけないように、このような教説に従って生きることには耐えきれないでしょう。その最も高尚な点を見ても、それを実生活に生かすとなると疑問がありますし、一方、その愚劣なる面に至っては、ただ単に人心を害し徳性を堕落させるのみであるように思えます。


神の御名においてわれらはそなたを歓迎する。が、今のそなたはわれらの手に余るものがある。われらの述べたところの真意を正しく理解しておらぬようである。襲い来る感情の激動が精神を混乱せしめ、微妙なる点の理解を不可能にしている。それが可能な状態になるためには、とにかく忍耐強く時を稼ぐことである。今のそなたにとっては、じっくりと時の経過に耐えていくことが何よりの修行である。いま理解できぬことも、そのうち判るようになるであろう。衝動と熱情が経験的知識と静なる確信へと変わり行くであろう。これまで、理解して受け入れるというよりは単に譲歩したに過ぎなかった信仰は、いかに崇高であれ、入念なる吟味と論理的分析より生まれた知識の前には影が薄れるであろう。われらの述べたところはその吟味と分析に値するものばかりである。これまで書かれたものを一続きのものとして繰り返し味読する機会をもって貰いたい。そしてそなたとの交信に一貫して流れるものを読み取って貰いたく思う。そしてわれらがいかなる素性の者であるかはそなたとの係わり合いの中で判断して貰いたいのである。前に述べたこととの食い違いを指摘するのも結構であるが、同時にわれらの言葉と態度、われらの説く教説の道徳的印象によって判断して貰いたい。細かき分析によって論理的あら捜しをするのもよいが、それと同時にわれらから受ける霊的雰囲気によって判断して貰いたく思う。

差し当たりては、われらが神の使者であることを厳粛なる気持ちで繰り返し主張するに留めておこう。われらが述べる言葉は神の言葉なのである。それはそなたにも判っているであろう。その弁明に改めて言葉を費すこともあるまい。そなたは決して病める脳の幻想によって誑(たぶら)かされているのではない。悪魔に玩(もてあそ)ばれているのでもない。悪魔ならば神につきてわれらの如き説き方はせぬ。また、人間の脳からはわれらの述べたような教説は出て来ぬし、われらの与えたような証言も出て来ぬ。精神が今少し穏やかになればそなたにもその事実が読み取れるであろう。そなたの精神が今の如き状態でさえなければ、神聖なるものに悪魔的要素を見出さんとしつこく探りを入れることの罪悪性について述べたいところである。それはちょうどイエスが地上の腐敗と災禍の中に在りし時、彼によりて追い払われたる悪魔がユダヤ教の狂信家たちの口をつきてイエスは魔王の手先であると非難したのと同一である。われらはそのような他愛なき非難には係わらぬ。非難そのものの中に立派な反証が見え透いているからである。じっくりと時をかけて熟考すれば、自ずとそなたの疑念に対する回答が出てくるであろう。今のそなたには瞑想と祈りが何より大切である。友よ、祈るのである。真実への道を求めて一心に、そして真摯に祈るのである。

祈ることだけはそなたも拒絶できまい。たとえそれが理屈抜きの激情から発したものでもよい。とにかく、われらと共に、啓発と耐える力を求めて祈ることである。真理を理解する力、そしてその真理に素直に従える気骨を求めて祈るがよい。光を切望するそなたの魂を縛りつけるドグマの足枷から解き放たれるよう祈るのである。そして解き放たれたるのちも堕落することなく、ひたすらに向上の道に導かれるよう祈れ。そなた自身の求めるところと、他人の影響とを截然と区別せよ。そなたにとりて正しきものを選り出し、他人は他人なりに適切なるものを選ぶに任せる大らかな心を求めて祈れ。選択と拒絶の責任を明確に認識し、一方において頑固なる偏見を避け、他方において安易なる軽信に流れることのなきよう祈れ。就中(なかんずく)、正直さと、誠実さと、謙虚さを求め、かりそめにも高慢と頑迷と下劣さによって神の計画を損うことのなきよう祈るがよい。

かくしてわれらの祈りは、神の真理の普及を心待ちにしつつ援助の手を差し伸べんとして待機する高き世界の神の使者の愛と慰めを引き寄せることになろう。スピリチュアリズム普及活動の一般的趣旨に関するそなたの批判につきては、すでにその大半に答えたつもりである。表面的活動の底流にはそなたの目に映じぬ或るものが存在することを述べた。いつの時代であれ、神の知識の発達過程においては、人目につかぬところで密かに新しき啓示を貪(むさぼ)り求め、さらにより高き真理を求めて着実に生長しつつある者が必ずいるものである。今の時代とて同じことである。そなたと同じく、酔狂に心霊現象を弄(もてあそ)ぶ者たちを憂えつつも、それによりて些かも信念を揺るがされることなく、真摯にわれらの霊訓を心の支えとしている者がいる――実に大勢いるのである。

さらにそなたに指摘しておきたきことは、われら霊界の者と地上との霊交は地上の科学の尺度で計れぬ法則によって支配されていることである。われらの働きかけの妨げとなる原因には、そなたはもとよりのこと、われらにすらよく判らぬものが多くある。そなたの保護のために勝手に法則を規定するわけには参らぬ。われら自身の保護すらもままならぬのである。そなたの係われるこの仕事の遠大なる重要性につきては、この仕事に興味を示す者にすら本当のところは殆ど理解されておらぬ。多くの場合、単なる好奇心の程度を出ておらぬ。それより更に下劣なる動機に動かされる者もいる。霊媒の管理が適切を欠いている。ために霊界との連絡のうまく取れていない者、調和を欠いている者、あるいは過労気味の者もいる。交霊会を取り巻く条件はそのつど異なる。われらとしてもその条件の変化に必ずしも対処できるとはかぎらぬ。出席者の構成が適切を欠いていることもある。そうした諸条件の重なり合いが交霊現象を常に同質のものに保ち、規則正しきものとすることを不可能にしているのである。

現象が時として気まぐれとなるのも、大方はこうした点に原因があるのであり、また目立ちたがり屋の出しゃばりによって霊界の同類の霊を呼び寄せることになり、せっかくの交霊会を低劣なものにする要因もそこにある。この問題につきては言うべきことがまだ多くあるが、今はそれ以上に大切なものが迫っている。いま述べたところにより、他の交霊会に見られる愚劣きわまる出来事や、通信を寛恕の目をもって評価せねばならぬ理由の一端が判ってもらえるであろう。偽りの現象の侵入する交霊会に至りては今は述べる言葉を持たぬ。よほど低級なる霊の仕業であり、全て信ずるに足らず、不愉快きわまる。

その点に関してそなたにはわれらの手助けが出来る筈である。愚かなる好奇心と欺瞞とを打ち砕いてくれることくらいはそなたにできる筈である。と申すのは、そなたはわれらのサークルにおいてわれらの指図通りに行ない、現象が徐々に発展して来た経緯を知悉(ちしつ)しているからである。他のサークルの者たちにも同じ指図を与えるがよい。やがて暗雲も晴れることであろう。もっとも交霊会にまつわる問題の原因はわれらの側と同様にそなたたちの側にもあることだけは確かである。

(†インペレーター)


〔注〕
(1)Deism 超自然的啓示を排し、理性と自然のみを頼りとする有神論。
(2)Pantheism 自然のすべてが神であるとする説。

シルバーバーチの霊訓(四)

Silver Birch Anthology

Edited by William Naylor
Psychic Prees Ltd.



六章  潜在意識の機能

 入神(トランス)状態における霊媒はどんな役割を演じているのか───ある日の交霊会でそれが問題となったことがある。そのきっかけはシルバーバーチが霊媒のバーバネルが入神状態から睡眠状態へ移りそうなのでコントロールがしにくくなったと述べたことがある。

そして〝私にはそうなるとまずいのです〟と言うと、サークルの一人が〝なぜですか〟と尋ねた。すると〝私はこの霊媒の身体の全体をコントロールしなければならないからです〟と答えた。

℘152
───霊媒が眠ってしまうとコントロールできないのですか。

 「できません。身体を操るには潜在意識を使用しなければなりません。眠ってしまうと潜在意識が活動を停止します」

───でも、どっちにせよ、霊媒はその身体から出るのではないでしょうか。

 「いえ、霊媒自身が身体の中にいるか外にいるかの問題ではありません。潜在意識とその機能の問題であり、それは中でもなく外でもありません」


───私は霊媒はワキへ押しやられてると思ってました。

 「それはそうなのですが、一時的に身体からは離れているというだけのことです。(身体から離れていても意識状態には関係ないということ―訳者)。それは霊媒がみずから進んで身(潜在意識)を任せている状態で、潜在意識まで引っ込めてしまうのではありません。そうなると睡眠状態になってしまいます。

霊媒現象はすべて霊界と地上との間の意識的な協力関係で行われます。無意識のうちに潜在能力が一時的に使用されるケースが無いわけではありませんが、支配霊と霊媒という関係で本格的な霊的交信の仕事をするとなると、その関係は意識的なものでなければなりません。つまり霊媒現象に関係するあらゆる機能に霊媒が進んで参加することが必要となります」


───睡眠中の霊媒が(支配霊以外の霊によって)使用されて通信が届けられたケースがあったように思いますが・・・・・・。

 「そういうこともあったかも知れませんが、それは通常行われるべきプロセスが逆転した状態です」
(訳者注ー冒頭でシルバーバーチが霊媒が眠ってしまいそうなので通信しにくくなったと述べたが、逆に眠っていた潜在意識が引き戻されて通信を送るということ)


───その場合、睡眠中にそういう形で使用されることを霊媒自身も同意していたということが考えられますか。

 「それは考えられます。ただご承知のように、私どもは霊媒の望みはよほど下らぬことでないかぎりは敬意を払い、然るべき処置をとります。しかし、言うまでもなくこの身体は私どもの所有物ではありません。居住者であるバーバネルのものです。

こうして私どもが少しの間お借りすることを許してくれれば結構なことであり有難いことですが、その許可もなしに勝手に使用することは道義に反します。その身体を通じて働くさまざまな霊的エネルギーに対して霊媒と私たちの双方が敬意を払った上で、気持ちよく明け渡すというのが正しいやり方です」


 その潜在意識がどのように使用されるかを聞かれて───
 「そのことに関してずいぶん誤解があるようです。精神(大半が潜在意識)にはさまざまな機能があります。人間というのは自我意識を表現している存在といってよろしい。意識がすべてです。意識そのものが〝個〟としての存在であり、個としての存在は意識のことです。

意識のあるところには必ず個としての霊が存在し、個としての霊が存在するところには必ず意識が存在します。あなた方の物質界においては自我のすべてを意識することは出来ません。

なぜならば───あなた方に分かりやすい言い方をすれば───自我を表現しようとしている肉体(脳)よりも本来の自我の方がはるかに大きいからです。小は大を兼ねることができません。弱小なるものは強大なるものを収容することができないのが道理です。

人間は地上生活を通じて、より大きな自我のホンの一部しか表現しません。大きい自我は死んでこちらへ来てから自覚するようになります。死んですぐに全部を意識するようになるのではありません。やはりこちらの生活でもそれなりの身体を通して、霊的進化とともに少しずつ意識を広げていくことになります。

 意識的生活のディレクターであり個的生活の管理人である精神は、肉体的機能のすべてを意識的に操作しているわけではありません。

日常生活において必要な機能の多くは自動的であり機械的です。筋肉、神経、細胞、繊維等々がいったん意識的指令を受け、さらに連繋的に働くことを覚えたら、その後の繰り返し作業は潜在意識に委託されます。

 たとえば、物を食べるとき皆さんは無意識の内に口を開けています。それは、アゴが動く前にそれに関連した神経やエネルギーの相互作用があったことを意味します。

すなわち精神の媒体である脳から神経的刺激が送られ、それから口を開け、物を入れ、そして噛むという一連の操作が行われます。すべてが自動的に行われます。

一口ごとにその操作を意識的に行っているわけではありません。無意識のうちにやっております。潜在意識がやってくれているのです。赤ん坊の時はその一つひとつを意識的にやりながら記憶していかねばなりませんでした。しかし今はいちいち考えないで純粋に機械的に行っております。

 こうして皆さんの身体上の、そしてかなりの程度まで精神的機能も、大部分が潜在意識に委託されていることがお分かりになるでしょう。潜在意識というのは言わば顕在意識の地下領域に相当します。たとえば皆さんが本を読んでいて途中で、これはどういうことだろう、と自問すると即座に答えがひらめくことがあります。

それは潜在意識がふだんから顕在意識の思考パターンを知っているので、それに沿って答えを生み出すからです。誰かの話を聞いている時でも同じです。〝あなたはどう思いますか〟と不意に聞かれても即座に潜在意識が答えを出してくれます。

 ところが日常的体験のワク外の問題に直面すると、それは潜在意識が体験したことも、あるいは解決したこともないことですので、そこで新たな意識操作が必要となります。

新しい回線を使用することになるからです。しかしそうした例外、つまりオリジナルな思考───という言い方が適切かどうかは別として───を必要とする場合を除いて、人間の日常生活の大部分は潜在意識によって営まれております。言わば潜在意識は倉庫の管理人のようなものです。

あらゆる記憶を管理し、生きるための操作の大半をコントロールしています。その意味で人間のもっとも大切な部分ということができます。

 その原理から霊媒現象を考えれば、そもそも霊媒現象というのはそれまで身体機能を通して表現してきた自分とは別の知的存在が代わって操作する現象ですから、顕在意識の命令に従って機能することに慣れている潜在意識を操作する方がラクであるに決まっています。

命令を受けることに慣れているわけです。仕事を割り当てられ、それをよほどのことがない限り中断することなく実行することに慣れております。

 霊媒現象のほとんど全部に霊媒の潜在意識が使用されています。その中に霊媒の人物の本当の姿があるからです。貯蔵庫ともいうべき潜在意識の中にその人物のあらゆる側面が仕舞い込まれているのです。

こうした入神現象において支配霊が絶対に避けなければならないことは、支配の仕方が一方的すぎて、霊媒が普段の生活で行っている顕在意識と潜在意識の自動的連係関係がいつものパターンどおりに行かなくなってしまうことです。その連係パターンこそがこの種の現象の一番大切な基本となっているからです」


───霊媒の方が潜在意識をおとなしくさせる必要があるということでしょうか。

 「そうではありません。支配霊の個性と霊媒の個性とが完全に調和し、その調和状態の中で支配霊自身の思念を働かせなければなりません。同時に支配霊は、他方において、ちょうどタイプライターのキーを押すと文字が打たれるような具合に、霊媒の潜在意識の連係パターンをマスターして、

他の知的存在の指令にもすぐさま反応するように仕向けなければなりません。それが支配霊として要求される訓練です。先ほど述べたことを絶対に避けるための訓練といってもよろしい」 
 これで皆さんも容易に得心していただけることと思いますが、霊媒現象は霊媒という生きた人間を扱う仕事であり、霊媒には霊媒としての考えがあり偏見があり好き嫌いがありますから、今も述べたように、〝支配する〟といってもある程度はそうした特徴によって影響されることは免れません。

霊媒を完全に抹殺することはできません。どの程度までそうした影響が除去できるかは、支配霊がどの程度まで霊媒との融合に成功するかに掛っています。もし仮に百%融合出来たとしたら霊媒の潜在意識による影響はゼロということになるでしょう。

 霊媒を抹殺するのではありません。それはできません。融合するのです。霊媒現象の発達とはそれを言うのです。サークル(円座 ───シルバーバーチ交霊界ではバーバネルがふだん使っている書斎の椅子に座り、そこから左右にほぼ円形にメンバーが席をとるー訳者)の形を取るのはそのためです。出席した人たち全員から出るエネルギーがその融合を促進する上で利用されるのです。調和が何より大切ですと申し上げるのはそのためです。

出席者の間に不協和音があるとそれが霊媒と支配霊の融合を妨げるのです。交霊会の進行中は絶え間なく精神的エネルギーが作用しているのです。あなた方の目にお見せできませんが、出席者の想念、思念、意志、欲求、願望のすべてが通信に何らかの影響を及ぼしています。

支配霊が熟練しているほど、経験が豊富であるほど、それだけ霊媒との調和の程度が高く、それだけ潜在意識による着色が少なくなります。


───その説からいうと、霊媒はなるべく支配霊と似通った願望や性格の持ち主がよいことになりませんか。

 「一概にそうとも言い切れません。これは異論の多い問題の一つでして、私どもの世界でも意見の相違があります。忘れないでいただきたいのは、私たちスピリットも人間的存在であり、地上との霊的交信の方法について必ずしもすべての点で意見が一致しているわけではありません。

 たとえば無学文盲の霊媒の方が潜在意識による邪魔が少ないので成功率が高いと主張する者がいます。それに対して、いや、その無知であること自体が障害となる───それが一種の壁をこしらえるのでそれを崩さねばならなくなるのだ、と反論する者がいます。

安物の楽器よりも名匠の作になる楽器の方が良い音楽を生むのと同じで、霊媒は教養があるほどよい───よい道具ほど通信を受けやすいのだと主張するのです。私はこの意見の方が正しいと思います」


───なぜ教養の有る無しが問題とされるのでしょう。人格の問題もあるのではないでしょうか。

 「私は今トランス状態での通信の話をしているのです。人間性の問題はまた別の要素の絡んだ問題です。私は今霊言が送られる過程について述べているのです。

通信の機構(メカニズム) と呼ばれても結構です。それを分かりやすい譬えで言いますと、バイオリニストにとっては名器のストラドバリウスの方が安物よりも弾きやすいでしょう。楽器の質の良さが良い演奏を生むからです。安物では本当の腕が発揮できません。

 霊媒の人間性の問題ですが、これは霊言の場合ですと通信内容に、物理現象の場合ですと現象そのものにその影響が出ます。物理霊媒の場合、霊格が低いほど───程度の問題として述べているだけですが───たとえばエクトプラズムの質が落ちます。

物質的にでなく霊的観点からみてです。霊側と霊媒とをつなぐ霊力の質は霊媒の人間性が決定づけるのです。たとえば地上ならさしずめ聖者とでも言われそうな高級霊が人間性の低い霊媒を通じて出ようとしても(※)、その霊格の差のために出られません。接点が得られないからです」

(※ここでいう〝出る〟とはエクトプラズムでこしらえた発声器官(ボイスボックス)でしゃべる場合───直接談話現象───と、同じくエクトプラズムを身にまとって姿を現わす場合───物質化現象───とがある―訳者)


───物理現象においても霊媒の潜在意識が影響を及ぼすように思えるのですが、その点についてご説明ねがえませんか。

 「交霊会のカギを握っているのは霊媒です。霊媒は電話機ではありません。電信柱ではありません。モールス信号のキーではありません。生きた器械です。その生命体の持つ資質のすべてが通信に影響を及ぼします。

 それで良いのです。もしも霊界と地上との交信のための純粋の通信器械が出来たら───そういうものは作れませんが───それによって得られる通信は美しさと崇厳さが失われるでしょう。いかなる交霊会においてもカギを握るのは霊媒です。

霊媒なしでは交霊会はできません。霊媒の全資質が使用されるのです。たとえばメガホン一本が浮揚するのも、物質化像が出現するのも、その源は霊媒にあります。そして霊媒の持つ資質が何らかの形でその成果に現われます」


───霊が憑ってくると霊媒の脈拍が変化するのはなぜでしょうか。その脈拍は霊の脈拍なのでしょうか。
 
 霊が霊媒を支配している時は霊媒の潜在意識を使用しています。すると当然霊媒の基本的な機能つまり心臓、脈拍、体温、血液の循環等々を支配することになります。

入神すると呼吸が変化するのはそのためです。一時的なことです。ですが一時的にせよその間は、支配霊は物質界と接触して自分の個性を物的身体を通して再現しているわけです。

たとえば私は元アメリカ・インディアンの幽体を使用しています。そのインディアンが霊媒の潜在意識を支配していますから、その間の脈拍はその幽体の脈拍です。このような形(※)で行う方が一から始めるよりも手間が省けます。
(※地上の霊媒と霊界の霊媒を使用して通信を送っており、これであの肖像画に見るインディアンがシルバーバーチその人でないことは明白である―訳者)

 「あなた方の住む物質界は活気がなくどんよりとしています。あまりにうっとうしく且つ重苦しいために、私たちがそれに合わせようと波長を下げていく途中で高級界との連絡が切れてしまうことがあります。私の住む光の世界とは対照的に、あなた方の世界は暗くて冷たい、じとじとした世界です。

 あなた方は太陽の本当の姿、目も眩まんばかりの(太陽の霊体の)光輝をご覧になったことがありません。あなた方が見ておられるのはその粗末な模造にすぎません。ちょうど月が太陽の光を反射して輝くように、あなた方の眼に映っている太陽は私たちの太陽の微かな反射ていどに過ぎません。

 譬えてみれば、こうして地上へ降りてきた私は、カゴに入れられた小鳥のようなものです。用事を済ませて地上から去っていく時の私は、鳥カゴから放たれた小鳥のように、果てしない宇宙の彼方へよろこび勇んで飛び去って行きます。死ぬということは鳥カゴという牢獄から解放されることなのです。

 さて私があなた方と縁のあるスピリットからのメッセージを頼まれる時は、それなりのバイブレーションに切り換えてメッセージを待ちます。その時の私は単なるマウスピースにすぎません。

状態がいい時は連絡は容易にできます。が、この部屋の近所で何かコトが起きると混乱が生じます。突如として連絡網が途切れてしまい、私は急いで別のメッセージに代えます。バイブレーションを切り換えなくてはなりません。

 そうした個人的なメッセージの時はスピリットの言っていることが一語一語聞き取れます。それは、こうして私が霊媒を通じてしゃべっている時のバイブレーションと同じバイブレーションでスピリットがしゃべっていることを意味します。

しかし、高級界からのメッセージを伝えるとなると、私は別の意識にスイッチを切り換えなくてはなりません。シンボルとか映像、直感とかの形で印象を受け取り、それを原語で表現しなくてはなりません。

 それは霊媒がスピリットからの通信を受けるのと非常によく似ております。その時の私は、シルバーバーチとして親しんで下さっている意識よりもさらに高い次元の意識を表現しなければならないのです。

 たとえば画家がインスピレーションを受ける時は、ふだん使用しているのとは別のバイブレーションに反応しています。その状態の中で画家はある霊力の作用を受け、それを映像に転換してキャンバスの上に描きます。インスピレーションが去るとそれが出来なくなります。

それと同じで、私が皆さんに霊的真理をお伝えしようとすると、私の意識の中でも高等なバイブレーションに反応できる回線を開き、高級霊がそれを通路として通信を送ってくる。それを私が地上の言語で表現するわけです。

 とは言え、私は所詮この霊媒(バーバネル)の頭にある用語数の制限を受けるだけでなく、この霊媒の霊的発達程度による制約も受けます。霊媒が霊的に成長してくれれば、その分だけ、それまで表現できなかった部分が表現できるようになるのです。

 今ではこの霊媒の脳のどこにどの単語があるということまで分かっていますから、私の思うこと、というよりは、ここにくる前に用意した思想を全部表現することが出来ます。

 この霊媒を使って語り始めた初期のころは、一つの単語を使おうとすると、それとつながった他のいらない単語まで一緒に出て来て困りました。必要な単語だけを取り出すためには脳神経全体に目を配らなくてはなりませんでした。

現在でも霊媒の影響を全く受けていないとは言えません。用語そのものは霊媒のものですから、その意味では少しは着色されていると言わざるを得ないでしょう。が私の言わんとする思想が変えられるようなことは決してありません。

 あなたがた西洋人の精神構造は、私たちインディアンとはだいぶ違います。うまく使いこなせるようになるまでに、かなりの年数がいります。まずその仕組みを勉強した後、霊媒的素質を持った人々の睡眠中をねらって、その霊体を使って試してみます。そうした訓練の末にようやくこうしてしゃべれるようになるのです。

 他人の身体を使ってみると、人間の身体がいかに複雑に出来ているかがよく分かります。一方でいつものように心臓を鼓動させ、血液を循環させ、肺を伸縮させ、脳の全神経を適度に刺激しながら、他方では潜在意識の流れを止めて、こちらの考えを送り込みます。容易なことではありません。

 初めのうちはそうした操作を意識的にやらなくてはならないのです。それが上達の常道というものです。赤ん坊が歩けるようになるには一歩一歩に全意識を集中します。

そのうち意識しなくても自然に足が出るようになります。私がこの霊媒をコントロールするようになるまで、やはり同じ経過を辿りました。一つ一つの操作を意識的にやりました。今では自動的に働きます。

 最近他界したばかりの霊がしゃべる時はそこまでする必要はありません。霊媒の潜在意識に思念を印象づけるだけでよろしい。しかしそれにもかなりの練習がいります。それをこちらの世界の者どうしで行います。そう易々と出来ることではないのです。こうして霊媒の口を使って思うことを伝えるよりは、メガホンを使ってしゃべる方がずっとラクです。

(訳者注ーメガホンの中に発声器官をこしらえてしゃべる。詳しくは「ジャック・ウェーバーの霊現象」国書肝行会を参照されたい)

 人間の潜在意識はそれまでの生活によって働き方に一つの習性が出来ており、一定の方向に一定の考えを一定のパターンで送っています。

その潜在意識を使ってこちらの思想なりアイディアなり単語なりを伝えるためには、その流れをいったん止めて、新しい流れを作らなくてはなりません。もし似たような考えが潜在意識にあれば、その流れに切りかえます。レコードの様なものです。その流れに乗せれば自動的にその考えが出て来ます。新しい考えを述べようと思えば新しいレコードに代えなくてはならないわけです。

 この部屋に入ってくるのに、壁は別に障害になりません。私のバイブレーションにとって壁は物資ではないのです。むしろ霊媒のオーラの方が固い壁のように感じられます。

私のバイブレーションに感応するからです。もっとも、私の方はバイブレーションを下げ、霊媒の方はバイブレーションを高めています。それがうまく行くようになるまで十五年もかかりました。

 霊媒のオーラの中にいる間、私は暗くて何も見えません。この身体によって私の能力が制限を受けています。この霊媒が赤ん坊のころから身につけていくことを私がいかに使用するかを一つひとつ勉強しなければなりませんでした。もっとも足の使い方は知る必要がありませんでした。私は足には用事がないからです。必要なのは脳と手だけです。

 この霊媒を支配している時に別のスピリットからのメッセージを口うつしに伝えることがありますが、その時は霊媒の耳を使うのではなく私自身の霊耳を使います。全ては霊媒のオーラと私のオーラの問題です。私のオーラは霊媒のオーラほど濃密でなく、

霊媒のオーラの中にいる時でも他のスピリットが私のオーラに思念を印象づけることができます。言ってみれば電話で話をしながら同じ部屋の人の話を聞くのと同じです。二つのバイブレーションを利用しているのです。同時には出来ませんが、切り換えることは出来るわけです」


───霊言現象は霊が霊媒の身体の中に入ってしゃべるのですか。

 「必ずしもそうではありません。大ていの場合オーラを通じて操作します」

───霊媒の発声器官を使いますか。

 「使うこともあります。現に今の私はこの霊媒の発声器官を使っています。拵えようと思えば私自身の発声器官を(エクトプラズムで)拵えることも出来ますが、そんなことをするのは私の場合はエネルギーの無駄です。

私の場合はこの霊媒の潜在意識を私自身のものにしてしまいますから、全身の器官をコントロールすることが出来ます。いわば霊媒の意志まで私が代行し───霊媒の同意を得た上での話ですが───しばらく身体を預かるわけです。終わって私が退くと霊媒の意識が戻って、いつもの状態に復します」

───霊媒の霊体を使うこともありますか。

 「ありますが、その霊体も常に肉体につながっています」

───仕事を邪魔しようとするスピリットから守るために列席者にも心の準備がいりますか。

 「いります。一ばん大切なことは身も心も愛のひとつになり切ることです。そうすれば愛の念に満たされたスピリット以外は近づきません」

───霊界側でもそのための配慮をされるのですか。

 「もちろんです。常に邪魔を排除しなくてはいけません。あなたがた出席者との調和も計らなくてはなりません。最高の成果をあげるために全ての要素を考慮しなければなりません。こちらにはそのために組織された素晴らしい霊団がおります」

───霊媒は本をよく読んで勉強し、少しでも多くの知識を持った方がいいでしょうか。それともそんなことをしないで自分の霊媒能力に自信を持って、それ一つで勝負した方がいいでしょうか。

 「それは霊能の種類にもよるでしょうが、霊媒は何も知らない方がいいという考えには賛成できません。知らないよりは知ってる方がいいに決まっています。知識というのは自分より先に歩んだ人の経験の蓄積ですから、勉強してそれを自分のものにするよう努力した方がいいでしょう。私はそう思います」

 
───立派な霊能者となるには生活面でも立派でなくてはいけませんか。

 「生活態度が立派であれば、それだけ神の道具として立派ということです。ということは、生活態度が高度であればあるほど、内部に宿された神性がより多く発揮されていることになるのです。日常生活において発揮されている人間性そのものが霊能者としての程度を決めます」


───ということは、霊格が高まるほど霊能者としても向上すると言っていいのでしょうか。

 「決りきったことです。生活面で立派であればあるほど霊能も立派になります。自分の何かを犠牲にする覚悟の出来ていない人間にはロクな仕事は出来ません。このことは、こうして霊界での生活を犠牲にして地上に戻ってくる私たちが身を持って学ばされてきた教訓と言ってもいいでしょう」


───他界した肉親や先祖霊からの援助を受けるにはどうすればいいでしょうか。

 「あなたが愛し、あなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てることはありません。いわば愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で常にあなたを見守っています。時には近くもなり、時には遠くもなりましょう。が決して去ってしまうことはありません。

その人たちの念があなたがたを動かしています。必要な時は強く作用することもありますが、反対にあなたがたが恐怖感や悩み、心配等の念で壁をこしらえてしまい、外部から近づけなくしていることがあります。

 悲しみの涙を流せば、その涙が霊まで遠く流してしまいます。穏やかな心、安らかな気持ち、希望と信念と自信に満ちた明るい雰囲気に包まれている時は、そこにきっと多くの霊が寄ってまいります。

 私たち霊界の者は出来るだけ人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人間の雰囲気、成長の度合、進化の程度に掛かっています。霊的なものに一切反応しない人間とは接触できません。

霊的自覚、悟り、ないしは霊的活気のある人とはすぐに接触がとれ、一体関係が保てます。そういう人はスピリチュアリストばかりとは限りません。知識としてスピリチュアリズムのことを知らなくても、霊的なことを理解できる人であればそれでいいのです。

とにかく冷静で受容的な心を保つことです。取越苦労、悩み、心配の念がいちばんいけません。それらがモヤをこしらえて、私たちを近づけなくするのです」


───そういう霊にこちらからの念が通じますか。

 「一概にイエスともノーとも言いかねます。魂の進化の程度が問題になるからです。波長の問題です。もしも双方がほぼ同程度の段階にあれば通じるでしょう。が、あまりに距離がありすぎれば全く波長が反応し合いませんから、通じないでしょう」


───他界した人のことを余り心配すると霊界での向上の妨げになるでしょうか。

 「地上の人間に霊界の人間の進歩を妨げる力はありません。スピリットはスピリット自身の行為によって向上進化します。人間の行為とは関係ありません」(絶対的拘束力はないという意味で述べているー訳者)


───世俗から隔絶した場所で瞑想の生活を送っている人がいますが、あれで良いのでしょうか。

 「〝良い〟という言葉の意味次第です。世俗から離れた生活は心霊能力の発達には好都合で、その意味では良いと言えるでしょう。が私の考えでは、世俗の中で生活しつつ、しかも世俗から超然とした生活の方がはるかに上です。

つまり霊的自覚に基いた努力と忍耐と向上を通じて同胞の為に尽くすことが、人間本来のあるべき姿だと思います」


───世俗から離れた生活は自分のためでしかないということでしょうか。

 「いちばん偉大なことは他人のために己れを忘れることです。自分の能力を発達させること自体は結構なことです。が開発した才能を他人の為に活用することの方がもっと大切です」


───これからホームサークルを作りたいと思っている人たちへのアドバイスを・・・。

 「イヤな思いをすることのない、本当に心の通い合える人々が同じ目的を持って一つのグループをこしらえます。週一回、同じ時刻に同じ部屋に集まり、一時間ばかり、あるいはもう少し長くてもよろしい、祈りから初めて、そのまま瞑想に入ります。目的、動機が一番大切です。面白半分にやってはいけません。

人のために役立たせるために霊能を開発したいという一念で忍耐強く、ねばり強く、コンスタントに会合を重ねていくことです。そのうち同じ一念に燃えたスピリットと感応し、必要な霊能を発揮すべく援助してくれることでしょう。

 言っておきますが、私どもは何かと人眼を引くことばかりしたがる見栄っ張りの連中には用はありません。使われずに居眠りをしている貴重な能力を引き出し、同胞のため人類全体のために有効に使うことを目的とした人の集まりには大いに援助します」


───どうすれば霊媒や霊視能力者になれるでしょうか。

 「神のために自分を役立てようとする人はみな神の霊媒です。いかにして霊を向上させるか───これはもう改めて説く必要はないでしょう。これまで何回となく繰り返し説いてきたことだからです。自分を愛する如く隣人を愛することです。人のために役立つことをすることです。

自分を高めることをすることです。何でもよろしい、内部に宿る神性を発揮させることをすることです。それが最高の霊媒現象なのです。霊視能力者になる方法よりは、神の光が見えるように魂の眼を開く方法をお教えしましょう。それも今述べたのと同じです」




シルバーバーチの霊訓(四)

Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor
Psychic Prees Ltd.




五章 死んだらどうなるか

 ある日の交霊会で死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。この中でシルバーバーチは最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上とそっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。

───幽界がこの世とそっくりであるというのが私には理解できないのですが・・・・・・。

 「地上界の次の生活の場は地上の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に耐え切れないショックを与えるでしょう。ですから、霊界への導入はやさしい段階をへながら行われることになります。こちらへ来てすぐの生活の場は地上と非常によく似ております。自分の死んだことに気づかない人が大勢いるのはそのためです。

 こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念の世界ですから、思念が生活と活動の表現のすべてに形態を与えます。

他界直後の世界は地球のすぐ近くにあり、ものの考え方がきわめて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現もきわめて土臭く、考えることが全て物的感覚によって行われます。

 そういう人たちは〝物〟を離れて存在を考えることができません。かつて一度も生命というものが物的なものから離れた形で意識にのぼったことがないのです。霊的な活動を心に思い浮かべることができないのです。精神構造の中に霊的なものを受け入れる余地が無いのです。 

ですが幽界(※)の生活にも段階があり、意識の開発と共に徐々に、着実に、土臭さが取れていきます。そして生命というものが物的な相を超えたものであることが判りはじめます。

そして自覚が芽生えると次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。こうして死と誕生(に相当するもの)が何度も繰り返されるのです」

(※ここでは〝物的感覚から脱しきれない世界〟のことを指している。これをシルバーバーチが幽界 astral world と呼んだのは質問者が最初にそう呼んだからで、そこは実質的には〝界〟というよりは〝状態〟という方が当たっている。だから霊的な自覚が出来てから赴く世界をシルバーバーチは〝霊界〟 spirit world とは言わず〝霊の世界〟the world of spirit という言い方をするのである。

仏教で〝成仏した〟というのは自縛的状態から脱して霊的自覚が芽生え、本格的な生活が始まる段階に入ったという意味で、そこから地上で身に付けた霊性に相応しい境涯へ赴くことになる。オーエンの『ベールの彼方の生活』では〝区分けの界〟という呼び方をしているー訳者)


───死後の世界での体験は主観的なのでしょうか客観的なのでしょうか。

 「客観的です。なぜかというと、こちらの世界はそれぞれの界で生活している住民の思念で営まれているからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると自然に離れていきます。成長と向上と進化によって霊的資質が身につくと、自然の法則によって次の段階へ移行するのです(※)。

それぞれの界において立派に客観的生活が営まれています」(※ 『ベールの彼方の生活』によると霊性の向上とともに光明の実在へ次第に近づいていく過程は神秘中の神秘で、人間の言語では説明できないし、そもそも人間の理解力を超えているというー訳者)


───ということは夢の世界ではないということですね。

 「そこを通過してしまえば夢の世界だったことになります。そこに生活している間は現実の世界です。それを夢と呼ぶか呼ばないかは観点の違いの問題です。あなた方も夢を見ている間はそれを夢だとは思わないでしょう。夢から覚めて初めて夢だったことを知り〝なんだ、夢だったのか〟と言うわけです。

ですから、夢が夢幻的段階を過ぎてしまうと、その時の体験を思い出して〝夢だった〟と言えるわけです。ですがその夢幻を体験している間は、それがその霊にとっての現実です」


───すべての人間が必ずその低い界層からスタートするのでしょうか。
 
 「いえ、いえ、それはあくまで何の予備知識も持たずに来た者や、幼稚な者にかぎっての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることの出来ない人の場合です。あなた方が幽界と呼んでいるところは霊の世界の中の小さな区域です。

それは低い境涯から高い境涯へと至る無数の段階の一つに過ぎません。きっちりと周囲が仕切られて存在するのではありません。それを〝界〟と呼んでいるのは、あなた方に理解出来る用語を用いるしかないからです」

(訳者注ー夢の説明で夢を見ている時はそれが現実で覚めれば夢であることを知ると言っているのと同じで、その境涯にいる間は現実に境界があり仕切りがあるように思えるが、霊性が向上してその境涯から脱け出ると、それもやはり夢幻であったことを知る。色即是空は地上だけとは限らない)

 霊界での成長について───

 「一つの界から次の界へよじ登っていくのではありません。自然に成長し、自然に進化していくのです。程度の低い要素が高い要素にその場を譲っていくのです。何度も死に、何度も誕生するのです。幽体は肉体の死と同じ過程で失われていくのではありません。

低級なものが消えるにつれて浄化され精妙になっていくのです。それが幽体の死です。そもそも〝死〟とは変化であり復活であり、低いものから高いものへの上昇です。時間と空間にしばられた地上生活のすべての制約から解放された霊の世界を説明しようとすると、何かと困難に遭遇します。

低いものは高いものを理解できません。有限なるものは無限なるものを包含することはできません。小さい器は大きい器を入れることはできません。奮闘努力の生活の中で理解力を増していくほかありません」


───幽界ではたとえば心臓なども残っていてやはり鼓動するのでしょうか。

 「肉体器官が残っているか否かはその霊の自覚の問題です。もし地上生活のあとにも生活があることを知らず、霊の世界など思いもよらない人であれば、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま残っていて、肉体的機能を続けています───あらゆる機能です」


───では霊の世界についての理解を持った人の場合はどうなりますか。

 「幽体の精妙化の過程がスムーズに進行します。ある器官が霊の生活に不要となったことを自覚すると、その器官が退化し始め、そのうち消滅してしまいます」


───死の直後からそういう現象が起きるのでしょうか。それとも、ゆっくりとした過程なのでしょうか。

 「それも自覚の程度によります。程度が高ければそれだけ調整期間が短くてすみます。忘れてならないことは、私たちの世界は精神的な世界、霊の世界であり、そこでは自覚というものが最優先されるということです。

精神が最高の権威を持ち支配しています。精神が指示したことが現実となるのです。昔から、高級界からやってきた霊のことを〝光り輝く存在〟というふうに述べていて、姿かたちをはっきり述べていないことにお気づきになったことはありませんか。外形というものが無くなっていくのです。つまり形による表現が少なくなっていくのです」


───最後にはどういう形態になっていくのでしょうか。

 「美はどういう形態をしているのでしょう。愛はどういう形態をしているのでしょう。光はどんな形態をしているのでしょうか」


───形態を超越してしまうと色彩が認識の基本になるのでしょうか。

 「その通りです。ただし地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私たちの世界にはあなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。私たちは高級界からの霊の姿が発する光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。

形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです」

 他界した身内の者や友人・知人は姿こそ見えなくても、地上にいた時より一層身近な存在となっていることを説いて、こう述べる。

 「その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じようにあなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らはもはや言葉で話しかけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身の回りにいて何かと援助してくれております。

自覚なさることがあるはずですが、実際はもっともっと密接な関係にあります。彼らはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまでを全部読み取っております。そしてあなた方の魂の成長にとって必要なものを地上的体験から摂取するように導いてくれております。

けっして薄ぼんやりとした、影のような、モヤのような存在ではありません。今なおあなた方を愛し、以前よりさらに身近となっている、実体のある男性であり女性なのです」(このあと死後の生活についての質問と答えが続くが、その部分は第二巻の九章ですでに出ているー訳者)

 「私たちが住む霊の世界をよく知っていただけば、私たちをして、こうして地上へ降りてくる気にさせるものは、あなた方のためを思う気持ち以外の何ものでもないことが分っていただけるはずです。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰れが好き好んで降りてまいりましょう。

 あなた方はまだ霊の世界の喜びを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐ形を持って眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。

 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存じない。そして、なお、死を恐れる。

 〝死〟というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んで初めて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。

なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。しかし一方では私たちの仕事が着々と進められています。霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗闇が後退していきます。

 霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなたがたが〝死んだ〟と言って片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。

  この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。地上の言語のようなぎこちない手段を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。

 金銭の心配がありません。生存競争というものが無いのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。

 地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現出来なくなります。正直言って私は地上に戻るのはイヤなのです。なのにこうして戻って来るのはそうした約束をしたからであり、地上の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持ちがあるからです。そして、それを支援してくれるあなた方の、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。

 死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場も無くなっている状態こそ悲劇です。

 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、果たして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駆け巡り、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。

 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律の一節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。

そのうちあなたがたもこちらの世界へ来られます。そしてその素晴しさに驚愕されるでしょう。

 英国は今美しい季節を迎えています。(この交霊会が開かれたのは五月だったー編者)木々は新緑に輝き、花の香が漂い、大自然の恵みがいっぱいです。あなた方は造化の美を見て〝何とすばらしいこと!〟と感嘆します。

 が、その美しさも、霊の世界の美しさに較べれば至ってお粗末な、色褪せた摸作ていどでしかありません。 地上の誰一人見たことのないような花があり色彩があります。その他小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。

その内あなた方もその美しさをじっくりと味わえる日が来ます。その時あなたはいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ真の意味で生きているのです。

 実は今でもあなた方は毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。

肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識を持って見ることが出来ます。その時全ての記憶がよみがえります」


───死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたこと───多分低い世界だろうと思いますが、それを思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか。

 「低い世界へ引きつけられて行くような人はやはり睡眠中にその低い界を訪れております。が、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。なぜかというと、その人の目覚める界は地上ときわめてよく似ているからです。

死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが粗いからです。高くなるほどバイブレーションが細かくなります」


───朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか。

 「睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界に縛りつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。

その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。なぜかというと脳があまりに狭いからです。小は大をかねることは出来ません。ムリをすると歪みを生じます。それは譬えば小さな袋の中にムリやりに物を詰め込むようなものです。袋にはおのずから容量というものがあります。

 ムリして詰め込むと、入るに入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。

実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。私は〝地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですよ〟と言っておくのですが、どうも思い出して下さらないようです。皆さんお一人お一人にお会いしているのですよ。

そして、あちらこちら霊界を案内して差し上げているんですよ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから。」


───死んでそちらへ行ってから役に立つわけですか。

 「そうです。何一つ無駄にはなりません。神の法則は完璧です。長年霊界で生きてきた私どもは神の法則の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものかといった地上の人間のお粗末なタンカを聞いていると、まったく情けなくなります。知らない人間ほど己の愚かさをさらけ出すのです」


───睡眠中に仕事で霊界へ行くことがありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的ですか。
 
 「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの能力を持った人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。

地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをするというのはその辺に理由があるわけです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。

光のまぶしさにまず慣れなければなりません。闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのにずいぶん時間がかかります。それは赤ん坊と同じです。はいはいしながら進むような状態です。地上の体験を思い出すことはあっても、大半は夢見るような状態で思い出します。

しかし地上での体験も霊界での体験も、一つとして失われることもありません。そのことを忘れないでください。あらゆる思念、あらゆる行為、あなた方の心から発した善意の願いは、必ずどこかの誰かの役に立ちます。その願いのあるところには必ずそれを支援する霊が引き寄せられるからです」


───霊的知識なしに他界した者でも、こちらからの思いや祈りの念が届くのでしょうか。

 「死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でもわれわれは無知と誤解と迷信と誤った教義と神学を無くすべく闘わねばならないのです。

それが霊界での目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれない限り、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかはありません。長い長い休息が必要となるのです。

又、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。反対に人のためによく尽くした人、他界に際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます」


───死後の生命を信じず、死ねばお終いと思っている人はどうなりますか。

 「死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかないわけです。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。つまりどれだけ進化しているか、どれだけ新しい環境に順応できるかにかかっています」


───そういう人、つまり死んだらそれでお終いと思っている人の死には苦痛が伴いますか。

 「それも霊格の程度次第です。一般的に言って死ぬということに苦痛は伴いません。大ていは無意識だからです。死ぬ時の様子が自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」


───善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎を受けますか。

 「私にはその善人とか悪人とかの意味が分りませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有った方がましです。がその人の真価は毎日をどう生きてきたかに尽きます」


───愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では嫁に行くとか嫁を貰うといったことはないと言っておりますが・・・・・・。

 「地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとってはより自由な世界への入口のようなものですから、二人の結びつきは地上より一層強くなります。が二人の男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差がある時は、死と共に両者は離れていきます。

それぞれの界へ引かれていくからです。若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことでなく、成長、進化、発達という形で現われます。つまり形体ではなく魂の問題になるわけです。

イエスが嫁にやったり取ったりしないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上がっておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます」

───死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪が一ばん多いですか。

 「もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌に現われて、霊格が下がるのが分ります。

そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、先ほど言ったように、利己主義の罪と呼ぶよりほかに良い表現が見当たりません」


───死後の世界が地球に比べて実感があり立派な支配者、君主または神の支配する世界であることは分りましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか。

 「霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はおりません。霊界の支配者は自然法則そのものなのです。また地上のように境界線によってどこかで区切られているのではありません。

低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて上へ上へと上昇してまいります」


───地上で孤独な生活を余儀なくされた者は死後も同じような生活を送るのですか。

 「いえ、いえ、そんなことはありません。そういう生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁あるものとの再会もあります」


───シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか。

 「とくに愛着を感じ、慕っている人物には、大抵の場合会うことが出来るでしょう。共感の絆が両者を引き寄せるのです」


───この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか。

 「地上よりはるかに実感があり、しっかりしています。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実体感は味わっておられません」


───ということは地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか。

 「だから言ってるでしょう。地上よりもっと実感がある、と。こちらの方が実在なのですから・・・・・。あなたがたはいわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられて、物質という壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外をのぞいているだけです。地上では本当の自分のホンの一部分しか意識していないのです」


───霊界では意念で通じあうのですか。それとも地上の言語のようなものがあるのですか。

 「意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます」


───急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるでしょうか。

 「魂の進化の程度によって違います」

───呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのですか。

 「魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所───病院なり休息所なり───に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます」


───愛し合いながら宗教的因習などで一緒になれなかった人も死後は一緒になれますか。

 「愛をいつまでも妨げることは出来ません」

───肉親や親せきの者とも会えますか。

 「愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません」

───死後の生命は永遠ですか。

 「生命は全て永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです」

───霊界はたった一つだけですか。

 「霊の世界は一つです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側には必ず霊的表現があるのです」

───その分布状態は地理的なものですか。

 「地理的なものではありません。精神的発達程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます」

───ということは、私たち人間の観念でいうところの界層というものもあるということですか。

 「その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような〝地域〟とか〝層〟が存在します(地球に隣接した幽界の下層界のことー訳者」」

───各界層が地球や太陽や惑星を取り巻いているのでしょうか。

 「取り巻いているのではありません。地理的に分けられているのではありません。球体つまり天体のような形で存在しているのでもありません。宇宙という大きな広がりの中の一部としての生活の場を構成しているのです。

宇宙にはあらゆる次元の生活の場があって互いに重なり合い融合し合っています。あなた方はそのうちの幾つかを知られたわけですが、まだまだご存知ない世界がたくさんあります。地上の天文学で知られていない生活が営まれている惑星が他にいくつもあります」


───各界を構成している成分は地球のようにマテリアルなものですか。(material には〝物質的〟〝実質的〟〝実体のある〟等々さまざまな意味があり、それを観念的に理解していただくために敢えて訳さずにおいたー訳者)

 「私という存在はマテリアルでしょうか。男女の愛はマテリアルでしょうか。芸術家のインスピレーションはマテリアルでしょうか。音楽の鑑賞力はマテリアルでしょうか。こうした質問に対する答えはマテリアルという言葉の意味によって違ってきます。

あなたのおっしゃるのが実感があるのか、実体があるのかという意味でしたら答えは〝イエス〟です。なぜなら霊こそ生命の実在そのものであり、あなた方が物質と呼んでいるもの、すなわち物質の世界はその実在を包んでいる殻にすぎません」


───霊界も地球の電磁場あるいは重力場の影響を受けて地球や太陽と運動を共にしているのでしょうか。

 「私たちの世界は地球の回転の影響は受けません。昼と夜の区別がないのです。エネルギーも地球に生命を賦与している太陽から受けているのではありません。引力は物質だけが受けるのであって、霊的なものは影響を受けません。霊的な法則とは関係がありません」


───霊の動く速さに限界がありますか。

 「私たちスピリットの動きに時間・空間による制約はありません。霊界生活に慣れてくるとまったく制約をうけなくなります。この地球のどの地域でも思念の速さで行き着くことができます。思念が私たちにとって現実の存在なのです。ただし、霊的発達段階による制約は受けます。

その段階を超えたことはできません。霊的成長によって到達した段階より速く動くことはできません。それがその霊にとっての限界ということです。ともあれ、霊的生活での霊自身による制約に過ぎません」(地上のように外的条件による制約はないということ―訳者)


───生命の住む天体には必ず霊界もあるのでしょうか。

 「あなた方が霊界と呼んでいるものも宇宙の霊的側面にすぎません。宇宙はあらゆる界層のあらゆる生命を包含します」