Tuesday, October 15, 2024

 シアトルの秋 質問に答える (三) ──倫理・道徳・社会問題── 

Answering questions (3) ──Ethics, morals, and social issues──

More Philosophy of Silver Birch
Edited by Tony Ortzen


 「私は、自分で正しいと信じて行動するかぎりそれは許されるという考えに賛成です。人間には例外なく神の監視装置(モニター)が組み込まれております。道義心(良心)と呼んでおられるのがそれです。それがあなたの行動が正しいか間違っているかを教えてくれます」

 本章では今日の倫理、道徳ならびに社会問題を扱うが、上の引用文がその冒頭を飾るのに最も適切であろう。過去十年あまりのうちに社会的通念が大きく変革しており、それに対して例によって賛否両論がある。まずそのことに関連して質問が出された。


 人種問題
───現代社会の風潮について心配し、あるいは困惑している人が大勢いるのですが、スピリチュアリストとしてはこうした時代の潮流にどう対処すべきでしようか。

 「真理を手にした者は心配の念を心に宿すようなことがあってはなりません。地上社会にはずっとトラブルが続いております。霊的な原理が社会秩序の拠って立つ基盤とならないかぎり、トラブルは絶えないでしょう。

唯物的基盤の上に建てようとすることは流砂の上に建てようとするようなものです。内部で争いながら外部に平和を求めるのは無理な話です。憎しみと暴力と敵意をむき出しにして強欲と怠慢をむさぼっている者が群がっている世界に、どうして協調性が有り得ましょう。

 愛とは神の摂理を成就することです。お互いが霊的兄弟であり姉妹であり、全人類が霊的親族関係をもった大家族であることを認識すれば、お互いに愛し合わなければならないということになります。

そのためにこそ神は各自にその神性の一部を植えつけられ、人類の一人ひとりが構成員となってでき上がっている霊的連鎖が地球を取り巻くように意図されているのです。

 しかし今のところ、根本的には人間も霊的存在であること、誰一人として他の者から隔離されることはないこと、進化はお互いに連鎖関係があること、ともに進み、ともに後退するものであるという永遠の真理が認識されておりません。

 それはあなた方スピリチュアリストの責任です。常づね言っておりますように、知識はそれをいかに有効に生かすかの責任を伴います。いったん霊的真理に目覚めた以上、今日や明日のことを心配してはなりません。

 あなた方の霊に危害が及ぶことはけっしてありません。自分の知っていること、これまでに自分に明かされた真理に忠実に生きていれば、いかなる苦難がふりかかっても、いささかも傷つくことなく切り抜けることができます。

地上で生じるいかなる出来ごとも、あなた方を霊的に傷つけたり打ちのめしたりすることはできません。ご自分の日常生活をご覧になれば、条件が整ったときの霊の威力を証明するものがいくらでもあるはずです。

 残念ながらこうした重大な意味をもつ真理に気づいている人は少数であり、まだ多数とは言えません。大多数の人間は物量、権力、支配、暴虐、隷属(させること)こそ力であると思い込んでおります。しかし神の子はすべて身体と精神と霊において自由であるべく生まれているのです。

 霊的真理が世界各地に広がり浸透していくにつれて、次第に地上の神の子もより大きな自由の中で生活するようになり、その日常生活により大きな光輝が見られるようになることでしょう。まだまだ、英国はもとより他のいかなる国においても、話が終わったわけではありません。

進化へ向けての神の力が、これからゆっくりと、そして少しずつ、その威力を見せはじめます。それを地上の人間が一時的に阻止し、阻害し、遅らせることはできます。が、それによって神が意志を変更なさることはありません。

 もしそのくらいのことで神の意志が覆(くつがえ)されるようなことがあるとしたら、この地球はとっくの昔に破滅しているでしょう。霊は物質に優ります。神の霊、大霊こそが宇宙の絶対的支配力なのです。そこで私はいつも申し上げるのです───心を強く持ち、背筋を真っすぐに伸ばして歩みなさい。この世に、そして霊の世界にも、恐れるものは何一つありません、と。最後はきっとうまくいきます」


───われわれ真理を語る者は、人種差別や動物への虐待行為といった間違ったことに、もっと攻撃の矛先を向けるべきでしょうか。

 「そうです。ただ、その際に大切なことは、そうした残虐行為や不和、差別といったものを攻撃するのは、それが物的観点からではなく霊的観点からみて間違ったことだからであることを前面に押し出すことです。その点、霊的真理を手にされたあなた方はとくに恵まれた立場にあります。

人間は霊ですから、その霊の宿としてふさわしい身体をもたねばなりません。となると、そのための教育が必要となります。霊的観点からみて適切な生活環境、適切な家屋、適切な衣服、適切な食事を与えねばならないからです。

 動物を虐待することは霊的観点からみて間違ったことなのです。民族差別や有色人種蔑視は霊的観点からみて間違っているのです。魂には色はありません。黄色でも赤銅でも黒色でも白色でもありません。この霊的真実を前面に押し出して説くことが、もっとも大切な貢献をすることになります」


───私が言いたかったのは、マスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)が有色人種への嫌悪感をあおって、洗脳しようとする危険から身を守らねばならないということです。

 「ですから、霊的真理に目覚めれば霊的同胞を毛嫌いすることはできなくなると申し上げているのです」


───より多くを知っているわれわれがしっかりしなくてはならないと思います。

 「そうです。知識(の価値)が大きければ大きいほど大きな責任を伴います」


  愛と寛容
───それと、真理に目覚めた者は寛大であらねばならないと思います。

「寛容性は霊性の神髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません」



───寛大であれと言うのは結構だと思うのですが、現実の世界において何に寛大であるべきかをよく見きわめる必要があると思います。残虐行為や邪悪な行為に対してはいかなるものでも寛大であってはならないはずです。

 「それに、悪とは何かということも見きわめる必要があります。地上生活の究極の目的は〝死〟と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。

開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐みを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。

 人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。

それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。真の意味での寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません」


───愛と寛容は優しさから生まれます。情愛でつながった者に対しては、われわれはその欠点に対して寛大になります。私はこの寛大さ、これは愛といってもよいと思うのですが、これが現代の世の中に欠けていると思うのです。愛と寛容とを結びつけることができれば人類はさらに高揚されると思うのですが・・・・

 「同感です。バイブルにも愛とは摂理を成就することである、とあります。愛とは摂理のことです。神の御心です。なぜなら、神そのものがすなわち愛だからです。したがって神の御心に適った生き方をしていれば、それは愛を表現していることになります。

私のいう〝愛〟とは慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために自分の能力の範囲内で精いっぱい援助しようとする心を言います。自分のことをかえりみず、助けを必要とする人のために出来るかぎりのことをしてあげようとする心、それが愛なのです」


  真の道徳の基準
───現代社会ほど不道徳が露(あら)わな時代はないと主張する人がいます。霊界でもそう見ておられるのでしょうか。そう主張する人たちは、五十年あるいは百年前の時代を例にとって、当時は子供が煙突掃除のような仕事にいっしょうけんめい従事していたものだと言います。

 「不道徳とはいったい何なのでしょう。あなた方が道徳的だと考ていらっしゃることが私たちから見ると大へん非道徳的である場合もあります。そこに物の見方の問題があります。

私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようとすることであり、人の心を思いやることです。

 もとよりそれは人の心を傷つけたり感情を害することではありません。いかなる形においても人の進歩を阻害することであってはならないことになります。後になって恥ずかしく思ったり、自分が手にした真理に忠実でなかったと思うようなことをしてはいけないということになります。

 私が理解している道徳とはそういうものです。説くとすればそう説きます。今の社会がこれまでに較べて道徳的か非道徳的かの問題は、道徳というものについての解釈次第で違ってきます。本質において、ある面では経済的ならびに霊的に向上していながら、別の面では遅れていることもあります。進化というものは一直線に進むものではないからです」


───今の世の中は物質中心だと言われています。でも家族を養っていくためにはある程度は物質中心にならざるを得ません。あまりにスピリチュアリズム的になりすぎると経済的に苦しくなることが懸念されるのですが、その境目をどこに設けたらよいのでしょうか。

「まず神の御国と神の義を求めよ。しからば全てそれらのもの汝らに加えらるべし」(マタイ6・33)


───両方とも可能だということですね?

 「当然です。が、優先すべきものをちゃんと優先させ、霊的真理を忘れなければ、物質面をおろそかにすることはないはずです。私は物質界に生きる人間としての責務を回避すべきであるかに説いたことは一度もありません。

霊的存在として優先すべきものをちゃんと優先させ、その上で物的人間としての責務も忘れないということであらねばなりません。霊をおろそかにしてもいけませんし、精神をおろそかにしてもいけませんし、身体をおろそかにしてもいけません。責任をもつべきことを回避してはいけません」


  人工中絶と避妊
 その日のゲストの一人が産児制限の話を持ち出した。

───人間の誕生は自然法則によって支配されているとおっしゃっておられますが、そうなると産児制限はその自然法則に干渉することになり、間違っていることになるのでしょうか。

 「いえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この問題でも動機が大切です。何ごとも動機が正当であれば、正しい決着をみます。出産を制限することもその動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。

しかし、霊の世界には地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ちかまえている事実を忘れないでください」


 続いて妊娠中絶の話題が持ち出されると、同じゲストが尋ねた。

───それはどの段階からいけないことになるのでしょうか。

 「中絶行為をしたその瞬間からです」


───妊娠してすぐでもいけないのでしょうか。

 「とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなたがた人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。

その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。

中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児のせっかくの自然の生長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。

 私の住む世界の高級霊で人工中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことなのですが・・・・・・

 あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがってその生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に滅ぼすべきではありません。

もしも中絶を行っている人たちが、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題ではないこと、いつの日かその人たちは(医師も含まれる──訳者)その中絶行為のために地上に誕生できなかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなるものと私は考えております。

妊娠の瞬間からそこに一個の霊としての誕生があり、それは決して死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです」


───今地上で行われている実情を思うと、これは大変なことをしていることになります。

 「それが現実なのです」


───堕胎された霊はいつかまた誕生してくるのでしょうか。

 「そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、そのせっかくの機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生してきます」


  植物人間と安楽死
 もう一人のゲストが脳障害のために植物同然となり病院でただ機械につながれて生きながらえている人たちの問題を持ち出して、こう尋ねた。

───そうやって生きながらえさせることは神の摂理にもとるのではないでしょうか。その人たちの霊はどうなっているのでしょうか。肉体につながれたままなのでしょうか。睡眠と同じ状態なのでしょうか。解放してやるべきなのでしょうか。

 「地上生活の目的は霊が死後に迎えるより大きな生活に備えることです。自然の摂理と調和した生活を送っていればその目的は成就され、時が熟し肉体がその目的を果たし終えれば、霊はその肉体から離れます。たびたび申し上げておりますように、リンゴは熟すと自然に木から落ちます。それと同じように、霊もその時を得て肉体を離れるべきです。

 あなたのおっしゃる脳に障害のある人のケースですが、それは、患者の生命を維持させようとしてあらゆる手段を講じる医師の動機にかかわることです。昔の医師はそれが自分の全職務の究極の目的であるという趣旨の宣誓をしたものです。

今でも、地上のいかなる人間といえども、霊は時が熟してから身体を離れるべきであるという摂理に干渉することは、霊的な意味において許されません。特殊な事情があって医師がその過程を早めることをする場合がありますが、動機さえ純粋であればその医師を咎めることはできません。

 脳に障害を受けた患者は、たとえば動力源が故障したために受信・送信が不能になった機械のようなものです。正常の機能のほんの一部が働いているだけです。脳が障害を受けたために〝霊の脳〟ともいうべき精神が本来の表現ができなくなっているわけです。脳に障害があるからといって精神に障害があるわけではありません。

タイプライターを打っていてキーが故障した場合、それは使えなくなったというだけであって、タイピスト自身はどこも異状はありません。それと同じです。

 要するに精神が大きなハンディキャップを背負っているわけです。正常な生活を送れば得られたはずの成長をその分だけ欠くことになります。その結果こちらへ来てみると魂はその欠けた分の埋め合わせをしなくてはならない状態にあります。言ってみれば小児のような状態です。しかし個霊としては霊的に何の障害も受けておりません。

 霊が身体を生かしめているかぎり、両者のつながりは維持されます。霊と身体とをつないでいる〝玉の緒〟───胎児と母胎とをつないでいる〝へその緒〟と同じです───が切れると、霊は身体から解放されます。身体の死を迎えた人にとっては霊的生活の始まりであり、地上へ誕生してきた霊にとっては物的生活の始まりです」

───今にも死ぬかに思える人が機械によって生きながらえている例をよく耳にします。

 「霊が身体から離れるべき時期がくれば、地上のいかなる機械をもってしても、それ以上つなぎとめることはできません。いったんコードが切れたら地上のいかなる人物も、霊をもう一度つなぎとめる力は持ち合わせません。その時点で肉体の死が生じたのです」

 ここからいわゆる安楽死の問題が持ち出された。ゲストの一人が尋ねる。

───交通事故に遭った人の話をよく記事で読むのですが、病院へ運び込まれたあと一命を取り止めてもそのまま植物状態となって、自分の力では何一つできなくなっている人がいます。そのような状態で生きていても霊的に何の成長もないと思うのですが、なぜ地上に居続けねばならないのでしょうか。なぜ安楽死させることが許されないのでしょうか。

 「バイブルのどこかにこんな言葉があります〝神が与え、神が奪われる。ありがたきかな神の御名〟(ヨブ記1・21。 バイブルでは〝奪われた〟とあるが引用文は現在形になっている───訳者)

 私がこの文句を引用したのは真実そのとおりだからです。人間は生命を創造することはできませんし滅ぼすこともできません。生命が機能するための機関を提供することはできます。その機関を破壊することもできます。しかし生命は神からの贈りものであり、人間のものではありません。生命は神が人間に託した責務です。

 なぜ? というご質問ですが、それについては、物的尺度だけで判断を下さないように注意しないといけません。霊の問題は物的尺度では計れないのです。

植物同然となってしまった一個の人間をご覧になれば、自然の情として哀れ、同情、慈悲、憐憫をさそわれるのも無理はありません。しかし植物にも生命があり、地上で果たすべき役目があります。そうでなければ存在しないはずです。

 一人の人間が事故で負傷する。機能の損傷がひどくて霊が自我を表現できなくなった。この問題をあなたは身体上の問題としてみますか、それとも霊的な問題とみますか。霊的にはそこに果たすべき目的があり、学ぶべき教訓があり、忍ぶべき体験があるのです。たしかに見たところ身体的にはまったく動きが止まっています。

しかし霊的な目をもって見ることができるようになるまでは、つまり永遠の価値基準を理解できるようにならないかぎり、あなたの判断はどうしても誤りに基づいたものとなります。

 私はいわゆる植物人間を安楽死させることには全面的に、そして文句なしに反対です。ただし、そこにやむを得ない動機がありうることは認めます。しかしそれは問題を解決したことにはなりません。

あなたがもし安楽死を実行する時期の決断を誰かに任せたら、それは本来その人が持つべきことの出来ない権利を与えたことになります。その人にはそういう決断を下す義務も与えるべきではないのです」


 サークルのメンバーの一人が尋ねる。

─── 一人の人間が苦しんでいる時、それ以上苦しまないようにしてあげる義務が私たちにあるのではないでしょうか。

 「病気とか異状あるいは虚弱といった身体上のことをおっしゃっているのであれば、現代医学で治すことも改善することもできないものがあることは認めます。しかし、すばらしい効果のある、そして現に成果をあげている治療方法がほかにもいろいろあります。医学的診断のみを判定基準にしてはいけません。

そのことをしっかり認識しなくてはいけません。医師が〝不治〟と診断したものが心霊治療によって完治、または改善されたケースがたくさんあることを皆さんは良くご存知なのですから。

苦しみにはそれ相当の目的があります。苦しみは無くてはならない大切なものなのです。なぜなら、それを通じて魂が目が開かされ、隠れた力を呼び覚まされ、その結果として霊的に、時には身体的に、いっそう強力になってまいります。そうなるべきものなのです。

多くの人にとって苦しみは、全人生をまったく別の視点から見つめさせる大きな媒体となっています。

 いかなる症状の患者であっても、簡単に〝不治〟と片付けてはいけません。その態度は間違っています。地上の格言にも〝生命あるかぎりは希望がある〟というのがありますが、これは真実です。

霊が宿っているかぎり元気を回復させ、再充電し、ある程度まで機能を回復させることができます。摂理が自然に働くようにしさえすれば、身体は死すべき時機がくれば自然に死にます。霊に身体から離れる準備が出来たからです」


───私が知っているあるガン患者はそろそろ痛みを覚えはじめており、症状は良くないようです。

 「でも痛みを和らげることは可能です。医学的にも手段はあります。ですから痛みだけを問題にするのであれば、それはなんとかなります。そして、たとえ症状が耐えきれない段階に達しても、私たちから見るかぎり、それをもって最終的な宣告を下してはならないと私は主張いたします。

精神構造が限られた分野の教育しか受けていない者(医師・医学者)による宣告が最終的なものであると私がもし申し上げたら、それはこれまで私が説いてきたすべての教説を裏切ることになりましょう」


 ここで別のメンバーが 「私たちの経験でも手術不能のガン患者が心霊治療によって痛みが取れた例がたくさんあります」と指摘する。

 すると先のメンバーが「それは私も認めます。しかし痛みが取れない例もたくさんあります」と反論する。

 「結局われられは霊力についてもっと幅広い知識を求め、より多くを活用し、いざという時のために霊力を貯えておくべきだということではないでしょうか」


 「でも、それでは今私が言っている患者を救うことはできません」

  ここでシルバーバーチが答える。
 
 「皆さんはいつでも治療を施してあげることができます。祈ることによっても助けになってあげることができます。祈りの念にも効果を生むだけの力が秘められているからです。とにかく、いくら医師が理知的であっても、その視野は地縛的ですから、そんな人による悲劇的な宣告をまともに受けとめてはなりません」


 さきのメンバーの一人が「苦難が人間性を磨くことをたびたびおっしゃってますが、そうでないケースもしばしば見受けます」と異議をはさむと───

 「私は、苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれるとは決して申しておりません。苦難は地上にいるかぎり耐え忍ばねばならない、避けようにも避けられない貴重な体験の一つで、それが人間性を磨くことになると言っているのです。

たびたび申し上げておりますように、青天の日もあれば雨天の日もあり、嵐の日もあれば穏やかな日もあるというふうに、一方があれば必ずもう一方があるようになっているのです。

もしも地上生活が初めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それはもはや幸せとは言えません。幸せがあることがどういうことであるかが分からないからです。悲しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです。

苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、病気、危機、死別、こうしたものを体験してはじめて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達するための手段となっているケースがたくさんあります」


───残念なことなのですが、苦難に遭うと不幸だと思い、邪険になり、卑屈になっていく人が多いようです。

 「それは結局のところその人の人生に確固とした土台がないからです。人生観、宗教観、それに物の観方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはないはずです。これも人生の一こまだ、すべてではなくホンの一部にすぎないのだという認識ができるからです」


───結局のところ私が思うに、苦難はその意義が理解できる段階まで到達した人だけが受ければよいということになりそうです。

 「そのようなことは神と相談なさってください。この私に言えることは、これまで幾つもの存在の場で生活してきて、自然の摂理は厳格な正確さをもって働いており、絶対に誤ることはないことを知ったということ、それだけです」


 別のメンバーが論議に加わる。

───死にたくない患者も大勢いるはずです。たとえ医師が安楽死させる権利を与えられても、その人たちはまず死にたがらないだろうと思われます。

 「安楽死の決定権はもともと医師などに与えるべきものではないのです。現実の事実を直視してみてください。大半の医師の物の観方は唯物的です。その医学的知識は人間が身体のほかに精神と霊とから成っていることを認識していない唯物思想を基礎としています。

少なくとも医学界においては人間は脳を中枢とする身体、それに多分ある種の精神的なものをも具えた物的存在であり、霊というものについての認識はゼロに等しいのです。そうした、人生でもっとも大切なことについてまったく無知な人たちに、そのような生死にかかわる決定権がどうして預けられましょうか」


───万一事故で身体が不自由になった場合は死を選びます、と言う宣誓書にサインをする人がいます。

 「それはその人の自由意志によって行なう選択です」


───その要請に基づいて医師が実行した場合はどうなりますか。

 「問題はありません」


───患者が自由意志によって死を選んだ場合でもやはり因果律が働くのでしょうか。

 「いついかなる場合でも因果律が働いています。あなたのこのたびの地上への誕生も因果律が働いたその結果です。これから訪れるあなたの死も因果律の自然な働きの結果であるべきです。それを中断(ショート)させる、つまり余計な干渉をするということは、自然な因果関係を破壊することですから、当然その償いをしなければならなくなります。

 何度も申し上げておりますように、死は霊に準備ができた時に訪れるべきものです。それはリンゴが熟すると木(が)から落ちるのと同じです。まだ熟し切らないうちにもぎ取れば、そのリンゴは食べられません。霊も十分な準備ができないうちに身体から無理やり離されると、それなりのペナルティが課せられます。それを因果律というのです。


 人間の判断は物的観察だけに基づいておりますが、人生の目的はもともと霊的なものなのです。人間の勝手な考えで地上から連れ去ってはいけません。人間には全体像が見えません。物的側面しか見えません。一人ひとりに生まれるべき時があり死ぬべき時があります。それもすべて自然の摂理の一環なのです。

あなた方が生命を与えるのではありません。ですから勝手に奪うことも許されません。生命は神のものなのです。

 神はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように摂理を用意しておられます。その永遠のいとなみを、この地上生活という一かけらでもって判断しようとすると誤ります。あなた方は霊というもの、およびその霊への反応というものを推し量る手段を何一つ持ち合わせていないのです。

 苦しみが魂にとって薬になることがあります。それによって魂の本質が試されることになります。潜在する資質が呼び覚まされます。鋼(はがね)は炎の中においてこそ鍛えられるのです。黄金は破砕と練磨によってはじめて真の姿を現すのです。

 地上生活の出来ごとには必ず目的があります。哀れな姿を見て同情なさるお気持ちは私にも分かります。ですが、地上生活には偶然というものは何一つないのです。それに、いったい誰に、生殺与奪の権利を握る資格があるのでしょうか。医師が判断を誤ることは十分に有りうることです。数々の誤診を犯している現実をごらんになれば分かります。

 私たちはあなた方と正反対の観方をすることがあります。肉体の死は霊の誕生という観方をします。混乱状態を進歩と見なし、人間が進歩と思っていることを禍いのタネと見なすことがあります。永遠を物的なものさしで計っても満足のいく解答は得られません。

 たとえば、なぜ苦しみがあるのか。いたいけない子供がなぜ苦しまねばならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それもすべて霊の進化という永遠の物語の一部なのです。

その中には地上に誕生してくる前に、みずから覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。

 こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気づくのは暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というのがあります。神は厳正なる審判者です。差引勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成するときが来てみると帳じりがきっちりと合っています。

 どうか同情心はこれからも持ち続けてください。しかし同時に、見た目に気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するようにつとめてください。

 永遠の時の流れの中にあっては、数時間や数日は大して意味はありません。大切なのは魂に及ぼす影響です。たぶんご存知と思いますが、実際は患者よりも側で見ている人の方が苦しみが大きいことがよくあります。患者自身は単に身体上の反応を見せているだけで、あなたがさぞかしと思いやっておられる苦しみは味わっていないものです。

 魂に及ぶものが一ばん大切です。と言って、身体上のことに無神経になりなさいと言っているのではありません。身体は霊が地上で自我を表現する媒体です。両者はつねに反応し合っております。身体は霊に影響を及ぼし、霊は身体に影響を及ぼしています。しかし、どちらが上かと言えば、文句なしに霊の方です。霊が王様であり身体は召使いです。

 身体にいくら薬品を注ぎ込んでも、別に霊には影響ありません。それによって最終的な身体との分離の時期を少しばかり遅らせることはできるかも知れませんが、霊はいつかは身体を離れなければならないという摂理を変えることはできません。不老不死の妙薬や治療法をいくら求めても無駄です。自然の摂理によって支配されているからです」


  自殺の問題
 人為的な死のもう一つのタイプに自殺があるが、レギュラーメンバーによる次の質問をきっかけに、それが続いての話題となった。

───外的な手段によって生命を断つことを非難されるのは当然ですし、私もその通りだと思うのですが、外的な手段を用いずに、心で死のうと決意して死期を待つことも可能です。それも一種の自殺でしょうか。

 「各人各個の責任は変えようにも変えられません。因果律は絶対です。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じます」


───死後の生命を信じるがゆえに死を歓迎することもあるかも知れません。肉体が手の施しようのない状態となり、そうなった以上もはや医学的手段でいたずらに生命を維持するのを潔しとせず、死を覚悟するのです。

 「ならばその時の動機づけが大切なポイントになります。同じ行為でも動機づけによって正当性が違ってきます」


───自殺者のそちらでの状態は不幸で、右も左も分からなくなり、みじめであるということですが、自殺する時の精神状態がすでにそうであったはずですから、死後も同じ状態に置かれても不思議はないと思うのです。では仮に真のよろこびと幸せを感じながら自殺したらどうなるでしょうか。

 「その場合は動機が自己中心的ということになります。自然の摂理をごまかすことはできません。こればかりは例外がありません。蒔いたものは自分で刈り取らねばなりません。それ以外にありようがないのです。

動機がすべてを決定づけます。その時点において良心が善いことか悪いことかを告げてくれます。もしもそこで言い訳をして自分で自分をごまかすようなことをすれば、それに対して責任を取らされることになります」


 ここでゲストの一人が思いがけない角度からの質問をした。

───食べすぎ飲みすぎ吸いすぎは自殺行為だと医者がよく言いますが、これも一種の自殺と見なされるのでしょうか、それとも死というのはあらかじめ定められているのでしょうか。

 「答えはご質問の中に暗示されております。もしもあらかじめ定められているのであれば、それが自殺行為であるか否かの問題ではなく、そうなるように方向づけられていたことになります。ですから、それが宿命であれば、そうなるほかはなかったということです。魂そのものはそれと自覚していることも有り得ます」


───私は死が誕生時から知られているのかどうか、また、その後の行いによって変えることができるのかどうか、その辺が確信できません。

 「知られているというのは、誰にですか」


───おそらく生まれてくる本人、あるいはそちらに残していく仲間の霊かと思います。

 「知られていることは事実です。しかしそれが(脳を焦点とする意識を通して)表面に出て来ないのです。地上生活期間を永遠で割ると無限小の数字になってしまいます。その分数の横線の上(分子)にどんな数字をもってきても、その下のあるもの(分母)に較べれば顕微鏡的数字となります。小が大を兼ねることはできません。

魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります。

 人間には相対的条件下での自由意志が認められております。定められた人生模様の枝葉末節なら変えることができますが、その基本のパターンそのものを変えることはできません。定められたコースを自分で切り抜けていかねばなりません。

ただ、地上の人間は、一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵にあずかる機会が与えられております。みずから求めるのでないかぎり、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。何よりも動機が最優先されます。その行為が正しいか間違っているかは動機いかんに掛かっているのです。その摂理は動かしようがありません」


  死刑の是非
 最後に、いつの時代にも社会・道徳・霊的の視点から問題となっている死刑制度がある。それについてシルバーバーチは次のような見解を述べている。

 「霊の教訓として私が躊躇なく述べていることは、殺人を犯したからといってその犯人を殺してよいということにはならないということです。地上の人間は正義と復讐とを区別しなくてはいけません。

いかなる理由にせよ、霊的に何の用意もできていない魂から肉体を奪って霊界へ送り込むことは、最低の人間的感情を満足させることにはなっても、何一つ意義のあることは成就されません。

正当な裁きを下すべきです。死刑によって一個の人間を霊界へ送り込んでも、その霊を一かけらも進化させることにはなりません。逆に、一段と堕落させ、〝目には目を、歯には歯を〟の激情に巻き込みます。

 われわれは生命は肉体の死後も生き続けるという動かし難い事実を基盤とした原理を堅持しなくてはいけません。何の準備もできていない人間を霊界へ送り込むことは、ますますトラブルのタネを増やすことになるのです。時には誤審による死刑も行われており、正当な裁きが為されておりません。

 生命は神聖なるものです。その生殺与奪の権利は人間にはないのです。それをいかに扱うかにあなた方の責任があります。生命は物質から生まれるのではありません。物質が生命によってこしらえられ、存在が維持されているのです。生命とは霊に所属するものです。宇宙の大霊から出ているのです。

生命は神性を帯びているのです。ですから、生命および各種の生命形態を扱うに際しては、憐憫と慈愛と同情という最高の倫理的規範に照らさなくてはなりません。何事をするにも、まず動機に間違いがないようにしなくてはいけません。」

Monday, October 14, 2024

シアトルの秋  シルバーバーチの霊訓8巻 まえがき

preface



More Philosophy of Silver Birch
Edited by Tony Ortzen


  まえがき

 本書はハンネン・スワッハー・ホームサークルでの過去七年におけるシルバーバーチの霊言の速記録を読み返し、ふるいにかけ、そしてまとめ上げたものである。夏期を除いて、交霊会は月に一回の割合で開かれた。

 私のねらいはシルバーバーチの哲学と教訓を個人的問題、社会的問題、および国際的問題との関連においてまとめることである。選んだ題目はなるべく多岐にわたるよう配慮した。

シルバーバーチはとかく敬遠されがちな難題、異論の多い問題を敢えて歓迎する。それを、ぎこちない地上の言語の可能性を最大限に発揮して、わかり易い、それでいて深遠な響きを持った言葉で解き明かしてくれる。

 私はこの穏やかな霊の聖人から受けた交霊会での衝撃をひじょうに印象ぶかく思い出す。開会直前のバーバネル氏の落着かぬ様子を見るに見かねて目を外らすことがしばしばだった。

いつもはジャーナリズムとビジネスの大渦巻のど真ん中に身を置いて平然としている、この精力的でエネルギッシュ過ぎるほどの人物がシルバーバーチに身をゆだねんとして、その訪れを待っている身の置き所のなさそうな何分間かは、本人にとっては神の裁きを待っている辛い瞬間のようで、私には痛々しく思えるのだった。

 しかし、シルバーバーチの訪れはいたって穏やかである。そしてそのメッセージはいたって単純素朴であるが、今崩壊の一途をたどりつつあるキリスト教の基盤にとっては、あたかもダイナマイトのような衝撃である。十八歳の青年だった懐疑論者のバーバネルをある交霊へ誘って入神させて以来ほぼ半世紀たった今、その思想は一貫して変わっていない。

 変わっていないということは進歩がないということではない。その間にいくつかの世界的危機と社会的変革がありながら、それを見事に耐え抜いてきたということは、その訓えの本質的な強固さと実用性を雄弁に物語っていると言えよう。

 これからシルバーバーチに登場していただくお膳立てのつもりのこの前書きも、結局はシルバーバーチの霊言を引用するのが一ばん良いように思われる。ある日の交霊会でシルバーバーチがこの私にこう語ったことがある。

  「活字になってしまった言葉の威力を過小評価してはいけません。活字を通して私たちは海を越えて多くの人とのご縁ができているのです。読んでくださる私の言葉、と言っても、高級界の霊団の道具として勿体なくもこの私が取り次いでいるだけなのですが、それが、読んでくださった方の生活を変え、歩むべきコース、方角、道しるべとなっております。

無知が知識と取って代わり、暗闇が光明に変わり、模索が確信に代わり、恐怖が平静と取って代わります。地上の人間としての義務である天命の成就に向かって踏み出しております。

 それほどのことが活字によって行われているのです。それにたずさわるあなたは光栄に思わなくてはいけません。話し言葉はそのうち忘れてしまうことがありますが、活字にはそれがありません。永久にそこにあります。何度でも繰り返して読むことができます。理解力が増すにつれて新しい意味を発見することにもなります。

 かくして私たちは、この世には誰一人、また何一つ希望を与えてくれるものはないと思い込んでいた人々に希望の光を見せてあげることが出来るのです。あなたも私も、そして他の大勢の人々が参加できる光栄な仕事です。

それはおのずと、その責任の重さゆえに謙虚であることを要求します。その責任とは、自分の説く霊的真理の気高さと荘厳さと威厳をいささかたりとも損なうようなことは行わないように、口にしないように、伝達しないように慎むということです」

 そういう次第で、本書には私個人の誉れとすべきものは何一つない。関係者一同による協力の産物である。では、主役の古代霊、穏やかな老聖人、慈愛あふれる支配霊にご登場願うことにしよう。
     トニー・オーツセン


 訳者注──本書はシリーズの中で一ばんページ数が多く、一ばん少ない第一巻に較べると倍以上の霊言が収められている。しかも〝再生〟の章を除いて、重複するところがまったくない。そこで、ぺージ数をほぼ平均にしたいという潮文社の要望も入れて、わたしはこれを二冊に分けることにした。

というのは、オーツセンが編集したものがもう一冊あるが、これが本書とうって変わってその九〇パーセントが他と重複するものばかりであること、さらに本書の後半が全霊言集の中から名文句を断片的に厳選して収録してあることから、それとこれとを一緒にして最終巻としたいと考えている。




 なおサイキックニューズ紙とツーワールズ誌には今なお断片的ながらシルバーバーチの霊言が掲載されている。その中には霊言集に出ていないものもある。最終巻にはそうしたものも収録してシルバーバーチの〝総集編〟のようなものにしたいと考えている。 

Saturday, October 12, 2024

シアトルの秋 天使による地上の経綸 ー 霊界の霊媒カスリーン

Chapter 1: Earthly administration by angels.
Spiritual medium Kathleen of the spirit world



一章 天使による地上の経綸   1霊界の霊媒カスリーン            一九一七年九月八日 土曜日

 私(※)は今あなたの精神を通して述べております。感応したままを綴っていただき、評価はその内容をみて下してください。そのうち私の思念をあなたの思念と接触させることなく直接書き留めることが出来るようになるでしょう。

そこでまず述べておきたいのは、こうした方法による通信を手掛ける人間は多くいても、最後まで続ける人が少ないことです。それは人間の思念と私たちの思念とが正面衝突して、結果的には支離滅裂なことを述べていることになりがちだからです。

 ところで私が以前もあなたの手を使って書いたことがある──それもたびたび──と聞かされたら、あなたはどう思われますか。実は数年前この自動書記であなたのご母堂とその霊団が通信を送ってきた時に、実際に綴ったのはこの私なのです。

あれは、あの後の他の霊団による通信のための準備でもありました。今夜から再び始めましょう。あっけない幕開きですが・・・・・・。書いていけば互いに要領が良くなるでしょう。

(※ここで〝私〟と言っているのはカスリーンである。第一巻並びに第二巻の通信も実はこのカスリーンが霊界の霊媒として筆記していたのであるが、未発表のものは別として少なくとも公表された通信の中では、カスリーンの個性が顔をのぞかせたことは一度もなかった。

それが、本書ではこうして冒頭から出て来てみずからその経緯を述べ、このあと署名(サイン)までしている。しかし回を追うごとに背後の通信霊による支配が強くなっていき、八日付けの通信では途中でオーエン氏が〝どうも内容が女性のお考えになることにしては不似合のように感じながら綴っているのですが、やはりカスリーンですか〟と、確かめるほどになる。

そして第二章になるとリーダーと名告(なの)る男性の霊が前面に出て来る。─訳者)


「神を愛する者には全てのこと相働きて益となる」(ロマ8・28) ───この言葉の真実性に気づかれたことがありますか。真実なのですが、その真意を理解する人は稀です。人間の視野が極めて限られているからです。〝全てのこと〟とは地上のことだけを言っているのではなく、こちらの霊の世界のことも含まれております。

しかもその〝全てのこと〟が行き着く先は私どもにも見届けることが出来ません。それは高き神庁まで送り届けられ、最後は〝神の玉座〟に集められます。が、働きそのものは小規模ではありますが明確に確かめることが出来ます。

右の言葉は天使が天界と地上界の双方において任務に勤しんでいることを指しているのであり、往々にして高き神庁の高級霊が最高神の命のもとに行う経綸が人間の考える公正と慈悲と善性の観念と衝突するように思えても、頂上に近い位置にある高級霊の視野は、神の御光のもとにあくまでも公正にして静穏であり、私たちが小規模ながら自覚しているように、その〝神の配剤の妙〟に深く通じているのです。

 今日、人間はその神の使徒に背を向けております。その原因はもしも神が存在するならこんなことになる筈がないと思う方向へ進んでいるかに思えるからです。

しかし深き谷底にいては、濃く深く垂れこめる霧のために、いずこを見ても何一つ判然とは見えません。あなたたちの地上界へは霊的太陽の光がほとんど射し込まないのです。

 このたびの(第一次)大戦も長い目で見ればいわば眠れる巨人が悪夢にうなされて吐き出す喘(あえ)ぎ程度のものに過ぎません。安眠を貪(むさぼ)る脳に見えざる光が射し込み、音なき旋律がひびき、底深き谷、言わば〝判決の谷〟(ヨエル書)にいて苛立(いらだ)ちの喘ぎをもらすのです。これからゆっくりと目を覚まし、霧が少しずつ晴れ、

(眠っている間に行われた)殺戮(さつりく)の終わった朝、狂気の夜を思い起こしては驚愕(きょうがく)することでしょうが、

それに劣らず、山頂より降り注ぐ温かき光に包まれたこの世の美しさに驚き、つい万事が愛によって経綸されていること、神はやはり〝吾らが父〟であり、たとえそのお顔は沸き立つ霧と冷たき風と谷底の胸塞ぐ死臭に遮られてはいても、その名はやはり〝愛〟であることを知ることでしょう。

 それは正にこの世の〝死〟を覆い隠す帳であり、その死の中から生命が蘇るのです。その生命はただただ〝美しい〟の一語に尽きます。なぜならば、その生命の根源であり泉であるのが、ほかならぬ〝美〟の極致である主イエス・キリストその人だからです。

 ですから、神の働きは必ずしも人間が勝手に想像するとおりではないこと、その意図は取り囲む山々によって遮られるものではなく、光明と喜悦の境涯より届けられることを知らねばなりません。私たちの進むべき道もそこにあるのです。では今夜はこれまでにします。

 これも道を誤った多くの魂の暗き足元を照らすささやかな一条(ひとすじ)の光です。

 願わくば神が眠れる巨人をその御手にお預かり下さり、その心に幼な子の心を吹き込まれんことを。主の御国は幼な子の心の如きものだからです。そして、その安眠を貪り、何も見えず何も聞こえぬまま苛立つ巨人こそ、曽て主が救いに降りられた人類そのものなのです。                                カスリーン

Friday, October 11, 2024

シアトルの秋 イエス・キリストの出現

The Appearance of Jesus Christ





 一九一四年一月二日  金曜日

 ここで再び私の界へ心の中で戻ってもらいたい。語り聞かせたいことが幾つかある。神とその叡智の表われ方について知れば知るほど吾々は、神のエネルギーが如何に単純にして同時にいかに複雑であるかを理解することになる。

これは逆説的であるが、やはり真実なのである。単純性はエネルギーの一体性とそのエネルギーの使用原理に見出される。

 例えば創造の大事業のために神から届けられるエネルギーの一つ一つは愛によって強められ、愛が不足するにつれて弱められていく。この十界まで辿りつくほどの者になれば、それまで身につけた叡智によって物事の流れを洞察することが可能となる。

〝近づき難き光〟すなわち神に向けて歩を進めるにつれて、全てのものが唯一の中心的原理に向かっており、それがすなわち愛であることが判るようになる。愛こそ万物の根源であることを知るのである。

 その根源、その大中心から遠ざかるにつれて複雑さが増す。相変わらず愛は流れている。が、創造の大事業に携わる霊の叡智の低下に伴い、必然的にそれだけ弱められ、従って鮮明度が欠けていく。

その神の大計画のもとに働く無数の霊から送られる霊的活動のバイブレーションが物的宇宙に到達した時、適応と調整の度合が大幅に複雑さを増す。

この地上にあってさえ愛することを知る者は神の愛を知ることが出来るとなれば、吾々に知られる愛がいかに程度の高いものであるか、思い半ばに過ぎるものであろう。

 しかし、吾々がこれより獲得すべき叡智はある意味ではより単純になるとは言え、内的には遥かに入り組んだものとなる。なぜならば吾々の視野の届く範囲が遥かに広大な地域にまで及ぶからである。

一界一界と進むにつれて惑星系から太陽系へ、そして星団系へと、次第に規模が広がっていく世界の経綸に当たる偉大な霊団の存在を知る。その霊団から天界の広大な構成について、あるいはそこに住む神の子について、更には神による子への関わり、逆に子による神への関わりについて尋ね、そして学んでゆかねばならない。

 これで、歩を進める上では慎重であらねばならないこと、一歩一歩の歩みによって十全な理解を得なければならないことが判るであろう。吾々に割り当てられる義務はかぎりなく広がってゆき、吾々の決断と行為の影響が次第に厳粛さを帯びてゆき、責任の及ぶ範囲が一段と広い宇宙とその住民に及ぶことになるからである。

 しかし今は地球以外の天体には言及しない。貴殿はまだそうした地球を超えた範囲の知識を理解する能力が十分に具わっていない。

私および私の霊団の使命は、地球人類が個々に愛し合う義務と、神を一致団結し敬愛する義務についての高度な知識を授け、さらに貴殿のように愛と謙虚さをもって進んで吾々に協力してくれる者への吾々の援助と努力──つまり吾々はベールのこちら側から援助し、

貴殿らはベールのそちら側で吾々の手となり目となり口となって共に協力し合い、人類を神が意図された通りの在るべき姿──本来は栄光ある存在でありながら今は光乏しい地上において苦闘を強いられている人間の真実の姿を理解させることにあるのである。

 では私の界についての話に戻るとしよう。

 ある草原地帯に切り立つように聳える高い山がある。あたかも王が玉座から従者を見下ろすように、まわりの山々を圧している。その山にも急な登り坂のように見える道があり、そのところどころに建物が見える。四方に何の囲いもない祭壇も幾つかある。

礼拝所もある。そして頂上には全体を治める大神殿がある。この大神殿を舞台にして時おりさまざまな〝顕現〟が平地に集結した会衆に披露される。


──前に話されたあの大聖堂のことですか(五章4)

 違う。あれは都の中の神殿であった。これは〝聖なる山〟の神殿である。程度において一段と高く、また目的も異なる。そこの内部での祈りが目的ではなく、平地に集結した礼拝者を高揚し、強化し、指導することを主な目的としている。

専属の聖職者がいて内部で祈りを捧げるが、その霊格はきわめて高く、この十界より遥かに上の界層まで進化した者が使命を帯びて戻って来た時にのみ、中に入ることが許される。

 そこは能天使(※)の館である。すでにこの十界を卒業しながら、援助と判断力を授けにこの大神殿を訪れる。そこには幾人かの天使が常駐し、誰ひとり居なくなることは決してない。が、私は内部のことは詳しくは知らない。

霊力と崇高さを一団と高め、十一界、十二界と進んだ後のこととなろう。(※中世の天使論で天界の霊的存在を九段階に分けた。ここではその用語を用いているまでで、用語そのものに拘わる必要はない。──訳者)

 さて平地は今、十界の全地域から召集された者によって埋め尽くされている。地上の距離にしてその山の麓から半マイルもの範囲に亘って延々と群がり、その優雅な流れはあたかも〝花の海〟を思わせ、霊格を示す宝石がその動きに伴ってきらきらと輝き、色とりどりの衣装が幾つもの組み合わせを変えて綾を織りなしてゆく。

そして遠く〝聖なる山〟の頂上に大神殿が見える。集まった者たちは顕現を今や遅しと期待しつつ、その方へ目をやるのであった。

 やがてその神殿の屋根の上に高き地位(くらい)を物語る輝く衣装をまとった一団が姿を現わした。それから正門と本殿とをつなぐ袖廊(ポーチ)の上に立ち並び、そのうちの一人が両手を上げて平地の群集に祝福を述べた。

その一語一語は最も遠方にいる者にも実に鮮明に、そして強い響きをもって聞こえた。遠近に関わりなく全員に同じように聞こえ、容姿も同じように鮮明に映じる。

それから此の度の到来の目的を述べた。それは、首尾よくこの界での修行を終え、さらに向上していくだけの霊力を備えたと判断された者が間もなく第十一界へ旅立つことになった。そこで彼らに特別な力を授けるためであるという。

 その〝彼ら〟が誰であるのか──自分なのか、それとも隣にいる者なのか、それは誰にも判らない。それはあとで告げられることになった。そこで吾々はえも言われぬ静寂のうちに、次に起きるものを待っていた。ポーチの上の一団も無言のままであった。

 その時である。神殿の門より大天使が姿を現わした。素朴な白衣に身を包んでいたが、煌々と輝き、麗わしいの一語に尽きた。頭部には黄金の冠帯を付け、足に付けておられる履き物も黄金色に輝いていた。

腰のあたりに赤色のベルトを締め、それが前に進まれるたびに深紅の光を放つのであった。右手には黄金の聖杯(カリス)を捧げ持っておられる。

左手はベルトの上、心臓の近くに当てておられる。吾々にはその方がどなたであるかはすぐさま知れた。他ならぬイエス・キリストその人なのである。(※)いかなる形体にせよ、あるいは顕現にせよ、愛と王威とがこれほど渾然一体となっておられる方は他に類を求めることが出来ない。

その華麗さの中に素朴さを秘め、その素朴さの中に威厳を秘めておられる。それらの要素が、こうして顕現された時に吾々列席者の全ての魂と生命とに秘み込むのを感じる。

そして顕現が終了した後もそれは決して消えることなく、いつまでも吾々の中に残るのである。(※その本質と地上降誕の謎に関しては第三巻で明かされる。──訳者)

 今そのイエス・キリストがそこに立っておられる。何もかもがお美しい。譬えようもなくお美しい。甘美にして優雅であり、その中に一抹の自己犠牲的慈悲を漂わせ、それが又お顔の峻厳な雰囲気に和みを添えている。

その結果そのお顔は笑顔そのものとなっている。といって決して笑っておられるのではない。そしてその笑みの中に涙を浮かべておられる。悲しみの涙ではない。

己の喜びを他へ施す喜びの涙である。その全体の様子にそのお姿から発せられる実に多種多様な力と美質が渾然一体となった様子が、側に控える他の天使の中にあってさえ際(きわ)立った存在となし、まさしく王者として全てに君臨せしめている。

 そのイエス・キリストは今じっと遠くへ目をやっておられる。吾々群集ではない。吾々を越えた遥か遠くを見つめておられる。やがて神殿の数か所の門から一団の従者が列をなして出てきた。男性と女性の天使である。その霊格の高さはお顔と容姿の優雅さに歴然と顕れていた。

 私の注目を引いたことが一つある。それを可能なかぎり述べてみよう。その優雅な天使の一人一人の顔と歩き方と所作に他と異なる強烈な個性が窺われる。同じ徳を同じ形で具えた天使は二人と見当たらない。霊格と威光はどの方もきわめて高い。が、一人一人が他に見られない個性を有し、似通った天使は二人といない。

その天使の一団が今イエス・キリストの両脇と、前方の少し低い岩棚の上に位置した。するとお顔にその一団の美と特質と霊力の全てが心地よい融和と交わりの中に反映されるのが判った。一人一人の個性が歴然と、しかも渾然一体となっているのが判るのである。

さよう、主イエスは全ての者に超然としておられる。そしてその超然とした様子が一層その威厳を増すのである。

 以上の光景を篤と考えてみてほしい。このあとのことは貴殿が機会を与えてくれれば明日にでも述べるとしよう。主イエスのお姿を私は地上を去ってのち一度ならず幾度か拝してきたが、そこには常に至福と栄光と美とが漂っている。

常に祝福を携え、それを同胞のために残して行かれる。常に栄光に包まれ、それが主を高き天界の玉座とつないでいる。そしてその美は光り輝く衣服に歴然と顕れている。

 しかも主イエスは吾々と同じく地上の人間と共にある。姿こそお見せにならないが、実質となって薄暗い地上界へ降り、同じように祝福と栄光と美をもたらしておられる。が、そのごく一部、それもごく限られた者によって僅かに見られるに過ぎない。

地球を包む罪悪の暗雲と信仰心の欠如がそれを遮るのである。それでもなお主イエスは人間と共にある。貴殿も心を開かれよ。主の祝福が授けられるであろう。  ♰

Thursday, October 10, 2024

シアトルの秋 憎しみと愚かさの中にも

In the midst of all the hate and stupidity.



真白き大霊よ。

あなたは全存在の太源におわします。

あなたは太初(たいしょ)です。

あなたは終極です。

すべてのものに存在し、すべての相(すがた)に顕現しておられます。

霊の世界の最高界であろうと、物質の世界の最低界であろうと、そこに何ら相違はございません。

あなたは光明の中に存在すると同時に暗黒の中にも存在します。

春に存在すると同時に秋にも存在します。

夏に存在すると同時に冬にも存在します。

日和(ひより)の中に存在すると同時に嵐の中にも存在します。

あなたは稲妻の中にも雷鳴の中にも存在なさっております。

そよ風の中にも、あなたが存在します。小鳥のさえずりの中にも、あなたが存在します。

嵐に揺れるこずえにも、小川のせせらぎの中にも存在します。

高き山の頂きにも大海の深き底にも存在します。

無数の太陽の集まる星雲の中にも、きらめく星の一つ一つにもあなたが存在いたします。

あなたは愛の中にも憎しみの中にも存在します。

叡智の中にも愚かさの中にも宿っておられます。

内側にも外側にも存在しておられます。

何となれば、あなたは絶対的な大霊にあらせられ、その摂理なくしては何一つ存在しえないのでございます。

ああ、真白き大霊よ、あなたの大きさは到底、地上の言語では表現できませぬ。

地上のいかなる進化せる人物によっても、あなたの全体像を理解することはできませぬ。

あなたはいつの時代にも人間の信仰の対象とされ、あらゆる言語によって讃美されてまいりました。

多くの人間によって、あまたの聖なる書の中に啓示されてまいりました。

物質の霧を突き抜けて〝霊の目〟をもって見通せる者を通じて、あなたは分け隔てなく、それぞれの時代にあなたの摂理を啓示なさってこられました。


ああ神よ、あなたは今まさに地上世界へ新たにあなたの使者を遣わされ、子らを一層あなたの身近き存在となし、子らがあなたを少しでも多く理解し、あなたの霊力を活用することによって、物質の世界へ安らぎと豊かさと幸福をもたらすための新たな啓示を行っておられます。

その道具としてあなたのお役に立つことを願う私どもは、地上の子らとの協力によって暗黒の世界へあなたの光明をもたらし、あなたの力、あなたの愛、あなたの摂理を物的宇宙のすみずみまで顕現せしめんと望むものです。

ここに、あなたの子らに仕えることによってあなたに仕えんとするあなたの僕の祈りを捧げます。

<『シルバーバーチの霊訓(12)9章より』>


Wednesday, October 9, 2024

シアトルの秋 女性ばかりの霊団

An all-female spirit group



  一九一三年十二月三十日  火曜日

 前回の続きである。

 女性の一団は私の前に立っていた。そこで私がこの度の訪問の目的を述べようとしたが、私自身にはそれが判らない。そこで領主の方へ目をやると、こう説明してくださった。

「この女性たちは揃ってこの界へ連れてこられた一団です。これまでの三つの界を一団となって向上して来た者たちです。一人として他の者を置き去りにする者はおりませんでした。進歩の速すぎる者がいると、遅れがちな者の手を取ってやるなどして歩調を合わせ、やっとこの界で全員が揃ったところです。

そして今この界での修養も終えて、さらに向上して行く資格もできた頃と思われるのですが、その点についてザブディエル様のご判断をお聞かせいただきたい。彼女たちはその判断のために知恵をお借りしたいのです。

と申しますのも、十分な資格なしに上の界へ行くと却って進歩を阻害されることが、彼女たちもこれまでの体験で判ってきたのです。」

 この詳しい説明を聞いて私自身も試されていることを知った。私の界の領主がそれを故意に明かさずにおいたのは、こうして何の備えもなしに問題に直面させて、私の機転を試そうという意図があったのである。

これはむしろ有難いことであった。なぜならば、直面する問題が大きいほど喜びもまた大きいというのがこちらの世界の常であり、領主も、私にその気になれば成就する力があることを見抜いた上での配慮であることを知っておられるからである。

 そこで私は速やかに思考をめぐらし、すぐさま次のような案を考えついた。女性の数は十五人である。そこでこれを三で割って五人ずつのグループに分け、すぐさま都市へ出て行って各グループ一人ずつ童子を連れて来ること。その際にその子がぜひ知っておくべき教訓を授け、それがきちんと述べられるようにしておく、というものであった。

 さて、話は進んで、各グループが一人ずつ計三人の童子を連れて帰って来た。男児二人と女児一人であった。

 全員がほぼ時を同じくして入ってきたが、全く同時ではなかった。そのことから、彼女たちが途中で遭遇することがなかったことを察した。と言うのは、彼女たちの親和力の強さは、いったん遭遇したら二度と離れることが出来ないほどのものだったからである。

私は三人の子どもを前に立たせ、まずその中の男の子にこう尋ねた。「さあ坊や、あの方たちからボクがどんなことを教わったか、この私にも教えてくれないだろうか。」

 この問いにその子はなかなかしっかりとこう答えた。

 「お許しを得て申し上げます。ボクは地球というところについて何も知らずにこちらへ来ました。お母さんがボクに身体を地上に与える前にボクの魂を天国へ手離したからです。

それでこのお姉さま方が、ここへ来る途中でボクに、地球がこちらの世界の揺りかごであることを知らねばならないと教えて下さいました。地球には可哀そうな育てられ方をしている男の子が大勢います。

そしてその子たちは地球を去るまではボクたちのような幸せを知りません。でも、地球もこの世界と同じように神様の王国なので、あまり可哀そうな目に遭っている子や、可哀そうな目に遭わせている親のために祈ってあげないといけません。」

 この子は最後の言葉を女性たちから聞かされてからずっと当惑していたのか、そのあとにこう付け加えた。「でも、ボクたちはいつもお祈りをしています。それがボクたちの学校の教課の一つなのです。」

 「そうだね、それはなかなかよい教課だね」───私はそう言い、さらに、それは学校の先生以外の人から教えられても同じように立派な教えであることを述べて、今の返答がなかなかよく出来ていたと褒めてあげた。

 それからもう一人の男の子を呼び寄せた。その子は私の足もとへ来て、その足を柔らかい可愛らしい手で触ってから、愛敬のある目で私の顔を見つめ「お許しを頂き、優しいお顔の天使さまに申し上げます」と述べ始めた。が私は、もう感動を抑え切れなくなった。

私は屈み込んでその子を抱いて膝に置き頬に口づけをした。私の目から愛の喜びの涙が溢れた。その様子をその子は素直な驚きと喜びの混ざり合った表情で見つめていた。

私が話を続けなさいと言うと、下におろしてくれないと話しにくいと言う。これにはこんどは私の方が驚いて慌てて下ろしてあげた。

 するとその子は再び私の衣服の下から覗いている足に手を置き、ひどく勿体ぶった調子で、先の言葉をきちんとつないで、こう述べた。

 「天使のおみ足は見た目に美しく、触れた手にも美しく感じられます。見た目に美しいのは天使が頭と心だけでなく、父なる神への仕え方においても立派だからであり、触れた手に美しいのは、優しくそっと扱われるからです。

過ちを犯した人間が心に重荷を感じている時にはそっとお諫(いさ)めになり、悲しみの中にいる人をそっと抱いてこの安らぎと喜びの土地へお連れになります。

ボクたちもいつかは天使となり、子供でなくなります。大きく、強く、そして明るくなり、たくさんの叡智を身に付けます。その時にそうした事を思い出さないといけません。

なぜなら、その時は霊格の高いお方が、勉強と指導を兼ねてボクたちを地上へ派遣されるからです。ボクたちのように早くこちらへ来た者には必要のないことでも、地上にはそれを必要としている人が大勢いるのです。

お姉さま方からそのように教わりました。教わった通りであると思います。」

 童子の愛らしさには私はいつもほろりとさせられる。正直を申して、その時もしばし頭を下げ、顔を手でおおい、胸の高まりと苦しいほどの恍惚状態に身を任せていたのである。それから三人の子供を呼び寄せた。

三人とも顔では喜びつつも足は遠慮がちに近づいて来た。そして二人の男の子を両脇に、女の子を膝の前に跪かせた。三人に思いのたけの情愛を込めて祝福の言葉を述べ、可愛らしくカールした頭髪に口づけした。

それから二人の男の子を両脇に立たせ、女の子を膝に乗せて、お話を聞かせてほしいと言った。

「で・は・お・ゆ・る・し・を・い・た・だ・い・て」と言い始めたのであるが、一語一語を切り離して話しますので、私は思わず吹き出してしまった。

と言うのも、さきの男の子の時のように、私が感激のあまり涙を流して話が中断するようなことにならないように、〝優しいお顔の天使さま〟といった言い方を避けようとする心遣いがありありと窺えたからである。

「お嬢ちゃん、あなたはお年よりも身体の大きさよりも、ずっとしっかりしてますね。きっと立派な女性に成長して、その時に置かれる世界で立派な仕事をされますよ。」

 私がそう言うと、けげんな顔で私を見つめ、それから、まわりで興味深くその対話を見つめている人たちを見まわした。私が話を続けるように優しく促すと、さきの男の子と同じようにきちんと話を継いでこう話した。

 「女の子はその懐(ふところ)で神の子羊を育てる母親となる大切なものです。でも身体が大きくそして美しくなるにつれて愛情と知恵も一緒に成長しないと本当の親にはなれません。ですから、あたしたち女の子は、宿されている母性を大切にしなくてはなりません。

それは神様があたしたちがお母さんのお腹の中で天使に起こされずに眠っている間に宿して下さり、そしてこの天国へ連れてきて下さいました。

あたしたちの母性が神聖なものであることには沢山の理由があります。その中でも一ばん大切なのは次のことです。

あたしたちの救いの主イエス・キリスト(と言って、くぼみのある可愛らしい両手を組み合わせて恭(うやうや)しく頭を下げ、ずっとその恰好で話を続けた)も女性からお生まれになり、お生みになったその母親を愛され、その母親もイエス様を愛されたことです。

あたしたちは今お母さんがいなくても、お母さんと同じように優しくしてくださる人がいます。でも、あたしたちと同じようにお母さんがいなくて、しかも優しくしてくれる人がいない人のことを、大きくなってから教わるそうです。

その時に、自分が生んだ子供でない子供で、今のあたしのように、お母さんの代わりをしてくれる人を必要としている子供たちのお母さん代わりをする気があるかどうかを聞かれます。その時あたしははっきりとこう答えるつもりです。

〝どうかこのあたしをこの明るい世界からもっと暗い世界へ行かせて下さい。もしあたしにその世界の可哀そうな子供たちを救い育てる力があれば、あたしはその子供たちと共に苦しみたいのです。なぜならば、その子供たちも主イエス様の子羊だからです。

その子供たちのためにも、そして主イエス様のためにも、あたしはその子供たちを愛してあげたいと思います〟と。」

 私はこの三人の答えに大いに感動させられた。全部を聞き終わるずっと前から、これらの女性たちは上級界へ向上していく資格が充分あるとの認識に到達していた。

 そこでこう述べた。「皆さん。あなた方は私の申し付けたことを立派に果たされました。三人の子供もよくやりました。とくに私が感じたことは、あなた方はもうこの界で学ぶべきものは十分に学び、次の界でも立派になって行けるであろうということです。

同時にあなた方は、やはりこののちも、これまで同様いっしょに行動されるのがよいと判断しました。三人の子供を別々に教えても答えは同じ内容───地上の子供たちのことと、その子供たちの義務のことでした。これほど目的の一致するあなた方は、一人一人で生きるよりも協力し合った方が良いと思います。」

 そこで全員に祝福を与え、間もなく吾々四人が帰る時にいっしょに付いて来るように言った。

 実はその時に言うのを控え、いっしょに帰る途中で注意したことが幾つかあった。その方が気楽に話せると考えたからである。その一つは、彼女たち十五人が余りに意気投合しすぎるために、三人の子供への教えの中に義務と奉仕の面ばかりに偏りが見られることである。

三人の子供ならびに死産児としてこちらへ来る子供の全てが、いずれは地上の子供たちの看護と守護の仕事に携わることになるが、その子どもたちは本来なら地上で為さねばならない他のもろもろのことを失っていることを知らなければならない。

さらにもう一つは、実際に地上へ赴くのは彼らの中のごく僅かな数に過ぎないということである。その理由は性質的にデリケートすぎるということで、そういう子どもには実際に地上に来るよりも、ほかにもっと相応しい仕事があるのである。

 が、今はこれ以上は述べないことにする。神の愛と祝福が貴殿と貴殿の子羊とその母親の上にあらんことを、神の王国にいる守護者は優しき目をもって地上の愛する者を見つめ、こちらへ来た時に少しでも役に立つものを身につけさせんと心を砕いている。このことをよく心に留め、それを喜びとするがよい。 


Tuesday, October 8, 2024

シアトルの秋 宇宙の深奥を覗く

 Peek into the depths of the universe



一九一三年クリスマス・イブ

 以上、私は天界の高地における科学について語ってみたが、この話題をこれ以上続けても貴殿にとりてはさして益はあるまい。何となればそこで駆使される叡智も作業も貴殿には殆ど理解できぬ性質のものだからである。

無理をして語り聞かせてもいたずらに困惑させるのみで、賢明とは思えない。そこで私はもう少し簡単に付け加えた後別の話題へ進もうと思う。

 あのあと私は次の階へ上がってみたが、そこでは又ひきも切らぬ作業の連続で、夥しい数の人が作業に当たっていた。各ホールを仕切っている壁はすべて情報を選別するため、ないしはそれに類似した仕事に役立てられている。地上の建物に見る壁のように、ただのっぺりとしているのではない。

様々な色彩に輝き、各種の装置が取り付けられ、浮彫り細工が施されている。すべてが科学的用途を持ち、常に監視され、操作の一つ一つが綿密に記録され検討を加えられた上で所期の目標へ送り届けられる。その建物の中の他の部門だけに限らない。必要とあれば上の界へも下の界へも届けられる。

 案内の方が屋上へも案内して下さった。そこからは遠くまでが一望のもとに見渡せる。下へ目をやれば私が登ってきた森が見える。その向こうには高い峰が連なり、それらが神々しい光に包まれて、あたかも色とりどりの宝石の如くキラキラと輝いて見える。

その峰の幾つかは辺りに第十一界から届く幽玄な美しさが漂い、私のような第十界の者の視力に映じないほど霊妙化された霊的存在に生き生きと反応を示しているようであった。

 そうした霊は第十一界から渡来し、第十界のための愛の仕事に携わっていることが判った。それを思うと、吾が身を包む愛と力に感激を禁じ得ず、ただ黙するのみであった。それが百万言を弄するより遥かに雄弁に私の感激を物語っていたのである。

 こうして言うに言われぬ美を暫し満喫していると、案内の方がそっと私の肩に手を置いてこう言われた。

 「あれに見えるのが〝天界の高地〟です。あの幽玄な静寂にはあなたの魂を敬虔と畏敬と聖なる憧憬で満たしてくれるものがあるでしょう。あなたは今あなたの現時点で到達しうるぎりぎりの限界に立っておられます。ここへ来られて、今のあなたの力では透徹し得ない境涯を発見されたはずです。

しかし私たちは聖なる信託として、そして又、思慮分別をもって大切に使用すべきものとして、ベールで被われた秘密を明かす力を授かっており、尋常な視力には映じないものを見通すことが出来ます。如何ですか。あなたもしばしの間その力の恩恵に浴し、これまで見ることを得なかった秘密を覗いてみたいと思われませんか。」

 私は一瞬返事に窮した。そして怖れに似たものさえ感じた。なぜなら、すでにここまで見聞きしたものですら私にとってはやっと耐え得るほどの驚異だったからである。

しかし、しばらく考えた挙句に私は、すべてが神の愛と叡智によって配剤されているからには案ずることは絶対に有るまいとの確信に到達し、〝全てお任せいたします〟と申し上げた。その方も〝そうなさるがよい〟と仰せられた。

 そう言うなり、その方は私を置き去りにして屋上に設けられた至聖所の中へ入られた。そしてしばし(私の推察では)祈りを捧げられた。

 やがて出て来られた時にすっかり変身しておられた。衣装はなく、眉のあたりに宝石を散りばめた飾り輪を着けておられるほかは何一つ身につけておられない。あたりを包む躍動する柔らかい光の中に立っておられる姿の美しいこと。

光輝はますます明るさを増し、ついには液体のガラスと黄金で出来ているような様相を呈してきた。私はその眩しさに思わず下を向き、光を遮ったほどであった。

 その方が私に、すぐ近くまで来るようにと仰せられた。言われるまま前に立つとすぐ私の後ろへ回られ、眩しくないようにと配慮しつつ私の両肩に手を置いて霊力を放射しはじめた。

その光はまず私の身体を包み、さらに左右が平行に延びて、それが遠方の峰から出ている光と合流した。つまり私の前に光の道ができ、その両側も光の壁で仕切られたのである。その空間は暗くはなかったが、両側の光に較べれば光度は薄かった。

 その光の壁は言うなれば私のすぐ後ろを支点として扇状に広がり、谷を横切り、山頂を越えて突き進み、私の眼前に広大な光の空間が広がっていた。その炎の如き光の壁は私の視力では突き通すことは出来なかった。

 そこで背後から声がして〝空間をよく見ているように〟と言われた。見ていると、これまで数々の美と驚異とを見てきた、そのいずれにも増して驚異的な現象が展開し始めた。

 その二本の光の壁の最先端が、針の如くそそり立った左右の山頂に当たった。するとまずその左手の山頂に巨大な神殿が出現し、その周りに、光の衣をまとった無数の天使が群がり、忙しく動き回っている。さらに神殿の高いポーチの上に大天使が出現し、手に十字架を携え、それをあたかも遠くの界の者に見せるように高々と持ち上げている。

その十字架の横棒の両端に一人ずつ童子が立っており、一人はバラ色の衣装をまとい、もう一人は緑と茶の衣装をまとっている。その二人の童子が何やら私に理解できない歌を合唱し、歌い終わると二人とも胸に両手を当て、頭を垂れて祈った。

 次に右方向を見るように促されて目をやると、今度は全く別の光景が展開した。遥か彼方の山腹に〝玉座〟が見えたのである。光と炎とが混じりあった赫々(カクカク)たる光輝の中に女性の天使が坐し、微動だにせぬ姿で遥か彼方へ目をやっておられる。

薄地の布を身にまとい、それを通して輝く光は銀色に見える。が頭上にはスミレ色に輝くものが浮いており、それが肩と背中のあたりまで垂れ下がり、あたかもビロードのカーテンを背景にした真珠のように、その天使を美しく浮き上がらせていた。

 そのまわりと玉座のたもとにも無数の男女の霊の姿が見える。静かに待機している。いずれ劣らぬ高級霊で、その光輝は私よりも明るいが、優雅な落ち着きの中に座しておられる女性天使の輝きには劣る。

お顔に目をやってみた。それはまさに愛と哀れみから生じる緻密な心遣いが漂い、その目は高き叡智と偉力の奥深さを物語っていた。両の手を玉座の肘掛けに置いておられ、その両腕と両脚にも力強さが漂っていたが、そこにはおのずから母性的優しさが程よく混じっていた。

 その天使が突如として動きを発せられた。そこを指さし、あそこを指さし、慌てず、しかし機敏に、てきぱきと命令を下された。

 それに呼応して従者の群れが一斉に動き始めた。ある一団は電光石火の勢いで遥か遠くへ飛び、別の一団は別の彼方へ飛ぶ。馬に跨って虚空へ飛翔する一団もいる。流れるような衣装をまとった者もいれば、鎧の如きもので身を固めた者もいる。

男性のみの一団もあれば女性のみの一団もあり、男女が入り混じった一団もある。

それら各霊団が一斉に天空を翔けて行く時の様子は、あたかも一瞬のうちに天空にダイヤモンドとルビーとエメラルドを散りばめたようで、その全体を支配する色彩が、唖然として立ちすくむ私に照り返ってくるのであった。

 こうして私の前に扇形に伸びる光が地平線上を一周して照らし出して行くと、いずれの方角にも必ず私にとって新しい光景が展開された。

その一つ一つが性格を異にしていたが、美しさは何れ劣らぬ美事なものであった。こうして私は、曽て見てきた神の仕事に携わる如何なる霊にも勝る高き神霊の働く姿を見せていただいた。

そのうち、その光が変化するのを見て背後にいた案内の方が再び至聖所へ入られたことを悟った時、私はあまりの歓喜に思わず溜め息を洩らし、神の栄光に圧倒されて、その場にしゃがみ込んでしまった。

吾々が下層界のために働くのと同じように、高き神霊もまた常に吾々を監視し吾々の需要のために心を砕いて下さっている様を目のあたりにしたのであった。

 かくして私が悟ったことは、下界の全界層は上層界に包含され、一界一界は決して截然と区別されておらず、どれ一つとして遠く隔離されていないということである。私の十界には下層界の全てが包含され、同時にその第十界も下層界と共に上層界に包含されているということである。

この事実は吾々の界まで瞭然と理解できる。が、さらに一界又一界と進むにつれて複雑さと驚異とを増して行き、その中には、僅かずつ、ほんの僅かずつしか明かされない秘密もあると聞く。私は今やそのことに得心がゆき、秘密を明かしていただける段階へ向けての一層の精進に真一文字に邁進したいものと思う。

 ああ、吾らが神の驚異と美と叡智! 私がこれまでに知り得たものをもって神の摂理の一欠けらに過ぎぬと言うのであれば、その全摂理は果たしていかばかりのものであろうか。そして如何に途方もないものであろうか。

 天界の低い栄光さえも人間の目にはベールによって被われている。人間にとっては、それを見出すことは至難のわざである。が、それでよいのである。秘宝はゆっくりと明かされて行くことで満足するがよい。なぜなら、神の摂理は愛と慈悲の配慮をもって秘密にされているからである。

万が一それが一挙に明かされようものなら、人間はその真理の光に圧倒され、それを逆に不吉なものと受け取り、それより幾世紀にも亘って先へ進むことを恐れるようになるであろう。私はこの度の体験によってそのことを曽てなかったほど身に沁みて得心したのである。

佳きに計らわれているということである。万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。 ♰