Wednesday, December 31, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

八章 祝福されたる者よ、来たれ! 



 
1 光り輝く液晶の大門      

 一九一三年 十二月 二九日 月曜日

 例の高地での体験についてはこれ以上は述べない。地上近くで生活する人間や景色について地上の言語で述べるのは容易であるが、上層界へ行くほど何かと困難が生じてくる。私の界は天界においても比較的高い位置にある。そして今述べたことはこの界のさらに高地での話題である。

それ故、前に述べたように、この界の景観も栄華も極めて簡略に、従って不十分な形でしか述べることが出来ない。そこでこれから差し当り今の貴殿にとって重要であり参考となる話題を取り上げようと思う。

 これは私が十界の領主の特命を受けて第五界へ旅立つことになった時の話である。その説明をしよう。

 私はその界の首都を訪ね、領主と面会し、そこで私の訪問の要件を聞かされることになっていた。領主にはすでに私の界の領主からの連絡が届いていたのである。また、私一人で行くのではなく、他に三人のお伴を付けて下さった。

 五界へ到着してその首都を見つけるのは至って簡単であった。曽てその界の住民であった頃によく見聞きしていたからである。それにしても、その後の久しい時の経過と、その間に数々の体験を経た今の私の目に、その首都は何と変わって映じたことであろう。

考えてもみよ。五界を後にして六界へ進み、さらに向上を続けてついにこの十界に至って以来、こうして再び五界へ戻るのはその時が初めてだったのである。

その途中の界層の一つ一つに活気あふれる生活があり、そこでの数々の体験が私を変え発達を促してきた。そして今、久方ぶりにこの界へ戻ってきたのである。

この界での生活は他の界ほど長くはなかったとはいえ、今の私の目には一見全てが物珍らしく映える。が、同時に何もかもが馴染みのあるものばかりである。

物珍らしく映るのは、私が第四界よりこの界へ向上して来た頭初、あまりの栄華に圧倒され目を眩まされた程であったが、今では逆にその薄暗さ、光輝の不足に適応するのに苦労するほどだからである。

 四人は途中の界を一つ通過する毎に身体を適応させて下りてきた。六界までそれを素早く行ったが、五界の境界内に入った時からは、そこの高地から低地へとゆっくりとした歩調で進みつつ、その環境に徐々に慣らしていった。

と申すのも、多分この界での滞在はかなりの長期に及ぶものとみて、それなりの耐久性を身に付けて仕事に当たるべきであると判断したからである。

 山岳地帯から平地へと下って行くのも、体験としては興味あるものであった。行くほどに暗さが増し、吾々は絶えず目と身体とを調整し続けねばならなかった。その時の感じは妙なものではあったが不愉快なものではなかった。そして少なくとも私にとっては全く初めての体験であった。

お蔭で私は、明るい世界から一界又は一界と明るさが薄れてゆく世界へ降りて行く時の、霊的身体の順応性の素晴らしさを細かく体験することとなった。

 貴殿にもしその体験が少しでも理解できるならば、ぜひ想像の翼をさらに広げて、こうして貴殿と語り合うために、そうした光明薄き途中の界層を通過して地上へ降りてくることがいかに大変なことであるかを理解して欲しいものである。

それに理解が行けば、人間との接触を得るために吾々がさんざん苦労し、その挙句にすべてが無駄に終わることが少なくないと聞かされても、あながち不思議がることはあるまい。

貴殿がもしベールのこちら側より観察することが出来れば、そのことを格別不思議とは思わないであろうが・・・・・・吾らにとってはその逆、つまり人間が不思議に思うことこそ不思議なのである。

 では都市について述べよう。

  位置は領主の支配する地域の中心部に近い平野にあった。大ていの都市に見られる城壁は見当たらない。が、それに代って一連の望楼が立ち並んでいる。さらに平野と都市の内部にもうまく配置を考えて点在している。

領主の宮殿は都市の縁近くに正方形に建てられており、その城門は特に雄大であった。

 さて、これより述べることは吾々上層界の四人の目に映った様子ではなく、この界すなわち第五界の住民の目に映じる様子と思っていただきたい。

 その雄大な門は液体の石で出来ている。文字どおりに受け取っていただきたい。石そのものが固くなくて流動体なのである。色彩も刻一刻と変化している。

宮殿内での行事によっても変化し、前方に広がる平野での出来ごとによっても変化し、さらにその平野の望楼との関連によっても変化する。

その堂々たる門構えの見事な美しさ。背景の正殿と見事に調和し、色彩の変化と共に美しさも千変万化する。その中で一個所だけが変わらぬ色彩に輝いている。

それが要石で、中央やや上部に位置し、愛を象徴する赤色に輝いていた。その門を通って中へ入るとすぐに数々の広い部屋があり、各部屋に記録係がいて、その門へ寄せられるメッセージや作用を読み取り、それを判別して然るべき方面へ届ける仕事をしている。

吾々の到着についてもすでに連絡が入っており、二人の若者が吾々を領主のもとへ案内すべく待機していた。

 広い道路を通って奥へ進むと、行き交う人々がみな楽しげな表情をしている。このあたりでは常にそうなのである。それを事さらに書くのは、貴殿が時おり、否、しばしば心の中では楽しく思ってもそれを顔に出さないことがあるからである。吾らにとっては、晴れの日は天気がよいと言うのと同じほど当たり前のことなのであるが・・・

 それから宮殿の敷地内の本館へ来た。そこが領主の居所である。

 踏み段を上がり玄関(ポーチ)を通ってドアを開けると、そこが中央広場(ホール)になっている。そこも正方形をしており、大門と同じ液状石の高い柱で出来ている。それらがまた大門と同じように刻一刻と色調を変え、一時として同じ色を留めていない。

全部で二二本あり、その一本一本が異なった色彩をしている。二本が同じ色を見せることは滅多にない。それがホール全体に快い雰囲気を与えている。それらが天井の大きな水晶のドームの美しさと融合するように設計されており、それが又一段と美しい景観を呈するのであった。

これは貴殿の想像に俟つよりほかはない。私の表現力の限界を超えているからである。

 吾々はそのホールで待つように言われ、壁近くに置かれている長椅子に腰を下ろして色彩の変化の妙味を楽しんでいた。見ているうちにその影響が吾々にも及び、この上ない安らぎと気安さを覚え、この古く且つ新しい環境にいてすっかり寛いだ気分になった。

やがてそのホールに至る廊下の一つに光が閃くのを見た。領主が来られたのである。

吾々の前まで来られるとお辞儀をされ、私の手を取って丁重な挨拶をされた。彼は本来は第七界に所属するお方であり、この都市の支配のためにこの界の環境条件に合わせておられるのであった。

至ってお優しい方である。吾々の旅の労をねぎらったあと、謁見の間へ案内して下さり、ご自分の椅子に私を座らせ、三人の供の者がその周りに、さらにご自分はその近くに席を取られた。

 すぐに合図があって、女性ばかりの一団が白と青の可憐な衣装で部屋へ入ってきて丁寧な挨拶をし、吾々の前に侍(はべ)った。

それから領主が私と三人の供に今回の招待の趣意を説明された。女性たちは吾々上層界の者の訪問ということで、ふだん身につけている宝石を外していた。が、その質素な飾りつけの中に実に可憐な雰囲気を漂わせ、その物腰は数界の隔たりのある吾々を前にした態度に相応しい、しとやかさに溢れていた。

 私はそれに感動を覚え、領主に話を進める前に許しを乞い、彼女たちのところへ下りて行って、一人一人の頭に手を置き祝福の言葉を述べた。その言葉に、そうでなくてもおずおずしていた彼女たちは一瞬とまどいを見せたが、やがて吾々見上げてにっこりと笑微(ほほえ)み、寛ぎの表情を見せた。

 さて、そのあとの会見の様子は次の機会としよう。この度はこの界層の環境と慣習を理解してもらう上でぜひ告げておかねばならないことで手一杯であった。この度はこれにて終わりとする。私はその女性たちに優しい言葉を掛け手を触れて祝福した。そして彼女たちも喜びにあふれた笑顔で私を祝福してくれた。

吾々はこうして互いに祝福し合った。こちらではそれが習慣なのである。人間もかくあるべきである。これは何よりも望ましいことである。

 そこで私も祝福をもって貴殿のもとを去ることとする。礼の言葉は無用である。何となれば祝福は吾々を通して父なる神より与えられるものであり、吾々を通過する時にその恩恵のいくばくかを吾々も頂戴するからである。そのこともよく銘記するがよい。他人を祝福することは、その意味で、自分自身を祝福することになることが判るであろう。 ♰

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen 

八章 祝福されたる者よ、来たれ!



2 女性ばかりの霊団       


一九一三年十二月三十日  火曜日

 前回の続きである。
 女性の一団は私の前に立っていた。そこで私がこの度の訪問の目的を述べようとしたが、私自身にはそれが判らない。そこで領主の方へ目をやると、こう説明してくださった。

「この女性たちは揃ってこの界へ連れてこられた一団です。これまでの三つの界を一団となって向上して来た者たちです。一人として他の者を置き去りにする者はおりませんでした。進歩の速すぎる者がいると、遅れがちな者の手を取ってやるなどして歩調を合わせ、やっとこの界で全員が揃ったところです。

そして今この界での修養も終えて、さらに向上して行く資格もできた頃と思われるのですが、その点についてザブディエル様のご判断をお聞かせいただきたい。彼女たちはその判断のために知恵をお借りしたいのです。

と申しますのも、十分な資格なしに上の界へ行くと却って進歩を阻害されることが、彼女たちもこれまでの体験で判ってきたのです。」

 この詳しい説明を聞いて私自身も試されていることを知った。私の界の領主がそれを故意に明かさずにおいたのは、こうして何の備えもなしに問題に直面させて、私の機転を試そうという意図があったのである。

これはむしろ有難いことであった。なぜならば、直面する問題が大きいほど喜びもまた大きいというのがこちらの世界の常であり、領主も、私にその気になれば成就する力があることを見抜いた上での配慮であることを知っておられるからである。

 そこで私は速やかに思考をめぐらし、すぐさま次のような案を考えついた。女性の数は十五人である。そこでこれを三で割って五人ずつのグループに分け、すぐさま都市へ出て行って各グループ一人ずつ童子を連れて来ること。その際にその子がぜひ知っておくべき教訓を授け、それがきちんと述べられるようにしておく、というものであった。

 さて、話は進んで、各グループが一人ずつ計三人の童子を連れて帰って来た。男児二人と女児一人であった。

 全員がほぼ時を同じくして入ってきたが、全く同時ではなかった。そのことから、彼女たちが途中で遭遇することがなかったことを察した。と言うのは、彼女たちの親和力の強さは、いったん遭遇したら二度と離れることが出来ないほどのものだったからである。

私は三人の子どもを前に立たせ、まずその中の男の子にこう尋ねた。「さあ坊や、あの方たちからボクがどんなことを教わったか、この私にも教えてくれないだろうか。」

 この問いにその子はなかなかしっかりとこう答えた。

 「お許しを得て申し上げます。ボクは地球というところについて何も知らずにこちらへ来ました。お母さんがボクに身体を地上に与える前にボクの魂を天国へ手離したからです。

それでこのお姉さま方が、ここへ来る途中でボクに、地球がこちらの世界の揺りかごであることを知らねばならないと教えて下さいました。地球には可哀そうな育てられ方をしている男の子が大勢います。

そしてその子たちは地球を去るまではボクたちのような幸せを知りません。でも、地球もこの世界と同じように神様の王国なので、あまり可哀そうな目に遭っている子や、可哀そうな目に遭わせている親のために祈ってあげないといけません。」

 この子は最後の言葉を女性たちから聞かされてからずっと当惑していたのか、そのあとにこう付け加えた。「でも、ボクたちはいつもお祈りをしています。それがボクたちの学校の教課の一つなのです。」

 「そうだね、それはなかなかよい教課だね」───私はそう言い、さらに、それは学校の先生以外の人から教えられても同じように立派な教えであることを述べて、今の返答がなかなかよく出来ていたと褒めてあげた。

 それからもう一人の男の子を呼び寄せた。その子は私の足もとへ来て、その足を柔らかい可愛らしい手で触ってから、愛敬のある目で私の顔を見つめ「お許しを頂き、優しいお顔の天使さまに申し上げます」と述べ始めた。が私は、もう感動を抑え切れなくなった。

私は屈み込んでその子を抱いて膝に置き頬に口づけをした。私の目から愛の喜びの涙が溢れた。その様子をその子は素直な驚きと喜びの混ざり合った表情で見つめていた。

私が話を続けなさいと言うと、下におろしてくれないと話しにくいと言う。これにはこんどは私の方が驚いて慌てて下ろしてあげた。

 するとその子は再び私の衣服の下から覗いている足に手を置き、ひどく勿体ぶった調子で、先の言葉をきちんとつないで、こう述べた。

 「天使のおみ足は見た目に美しく、触れた手にも美しく感じられます。見た目に美しいのは天使が頭と心だけでなく、父なる神への仕え方においても立派だからであり、触れた手に美しいのは、優しくそっと扱われるからです。

過ちを犯した人間が心に重荷を感じている時にはそっとお諫(いさ)めになり、悲しみの中にいる人をそっと抱いてこの安らぎと喜びの土地へお連れになります。

ボクたちもいつかは天使となり、子供でなくなります。大きく、強く、そして明るくなり、たくさんの叡智を身に付けます。その時にそうした事を思い出さないといけません。

なぜなら、その時は霊格の高いお方が、勉強と指導を兼ねてボクたちを地上へ派遣されるからです。ボクたちのように早くこちらへ来た者には必要のないことでも、地上にはそれを必要としている人が大勢いるのです。

お姉さま方からそのように教わりました。教わった通りであると思います。」

 童子の愛らしさには私はいつもほろりとさせられる。正直を申して、その時もしばし頭を下げ、顔を手でおおい、胸の高まりと苦しいほどの恍惚状態に身を任せていたのである。それから三人の子供を呼び寄せた。

三人とも顔では喜びつつも足は遠慮がちに近づいて来た。そして二人の男の子を両脇に、女の子を膝の前に跪かせた。三人に思いのたけの情愛を込めて祝福の言葉を述べ、可愛らしくカールした頭髪に口づけした。

それから二人の男の子を両脇に立たせ、女の子を膝に乗せて、お話を聞かせてほしいと言った。

「で・は・お・ゆ・る・し・を・い・た・だ・い・て」と言い始めたのであるが、一語一語を切り離して話しますので、私は思わず吹き出してしまった。

と言うのも、さきの男の子の時のように、私が感激のあまり涙を流して話が中断するようなことにならないように、〝優しいお顔の天使さま〟といった言い方を避けようとする心遣いがありありと窺えたからである。

「お嬢ちゃん、あなたはお年よりも身体の大きさよりも、ずっとしっかりしてますね。きっと立派な女性に成長して、その時に置かれる世界で立派な仕事をされますよ。」

 私がそう言うと、けげんな顔で私を見つめ、それから、まわりで興味深くその対話を見つめている人たちを見まわした。私が話を続けるように優しく促すと、さきの男の子と同じようにきちんと話を継いでこう話した。

 「女の子はその懐(ふところ)で神の子羊を育てる母親となる大切なものです。でも身体が大きくそして美しくなるにつれて愛情と知恵も一緒に成長しないと本当の親にはなれません。ですから、あたしたち女の子は、宿されている母性を大切にしなくてはなりません。

それは神様があたしたちがお母さんのお腹の中で天使に起こされずに眠っている間に宿して下さり、そしてこの天国へ連れてきて下さいました。

あたしたちの母性が神聖なものであることには沢山の理由があります。その中でも一ばん大切なのは次のことです。

あたしたちの救いの主イエス・キリスト(と言って、くぼみのある可愛らしい両手を組み合わせて恭(うやうや)しく頭を下げ、ずっとその恰好で話を続けた)も女性からお生まれになり、お生みになったその母親を愛され、その母親もイエス様を愛されたことです。

あたしたちは今お母さんがいなくても、お母さんと同じように優しくしてくださる人がいます。でも、あたしたちと同じようにお母さんがいなくて、しかも優しくしてくれる人がいない人のことを、大きくなってから教わるそうです。

その時に、自分が生んだ子供でない子供で、今のあたしのように、お母さんの代わりをしてくれる人を必要としている子供たちのお母さん代わりをする気があるかどうかを聞かれます。その時あたしははっきりとこう答えるつもりです。

〝どうかこのあたしをこの明るい世界からもっと暗い世界へ行かせて下さい。もしあたしにその世界の可哀そうな子供たちを救い育てる力があれば、あたしはその子供たちと共に苦しみたいのです。なぜならば、その子供たちも主イエス様の子羊だからです。

その子供たちのためにも、そして主イエス様のためにも、あたしはその子供たちを愛してあげたいと思います〟と。」

 私はこの三人の答えに大いに感動させられた。全部を聞き終わるずっと前から、これらの女性たちは上級界へ向上していく資格が充分あるとの認識に到達していた。

 そこでこう述べた。「皆さん。あなた方は私の申し付けたことを立派に果たされました。三人の子供もよくやりました。とくに私が感じたことは、あなた方はもうこの界で学ぶべきものは十分に学び、次の界でも立派になって行けるであろうということです。

同時にあなた方は、やはりこののちも、これまで同様いっしょに行動されるのがよいと判断しました。三人の子供を別々に教えても答えは同じ内容───地上の子供たちのことと、その子供たちの義務のことでした。これほど目的の一致するあなた方は、一人一人で生きるよりも協力し合った方が良いと思います。」

 そこで全員に祝福を与え、間もなく吾々四人が帰る時にいっしょに付いて来るように言った。

 実はその時に言うのを控え、いっしょに帰る途中で注意したことが幾つかあった。その方が気楽に話せると考えたからである。その一つは、彼女たち十五人が余りに意気投合しすぎるために、三人の子供への教えの中に義務と奉仕の面ばかりに偏りが見られることである。

三人の子供ならびに死産児としてこちらへ来る子供の全てが、いずれは地上の子供たちの看護と守護の仕事に携わることになるが、その子どもたちは本来なら地上で為さねばならない他のもろもろのことを失っていることを知らなければならない。

さらにもう一つは、実際に地上へ赴くのは彼らの中のごく僅かな数に過ぎないということである。その理由は性質的にデリケートすぎるということで、そういう子どもには実際に地上に来るよりも、ほかにもっと相応しい仕事があるのである。

 が、今はこれ以上は述べないことにする。神の愛と祝福が貴殿と貴殿の子羊とその母親の上にあらんことを、神の王国にいる守護者は優しき目をもって地上の愛する者を見つめ、こちらへ来た時に少しでも役に立つものを身につけさせんと心を砕いている。このことをよく心に留め、それを喜びとするがよい。
 

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch by Stella Storm


十一章 三つの出張講演から 

 《このたびこうして私をお呼びいただき、ささやかながら私がたずさえて来た知識を皆さんと分け合うことになったことを光栄に思っております。この新たな体験によって私が何らかのお役に立てば、こうして皆さんの前にお邪魔した甲斐があったことになります。

皆さん方はすでに霊的実在についての知識をお持ちの方ばかりです。したがって私から改めてその重大性、とくに今日の地上世界における不可欠性について強調する必要はないと思います》                シルバーバーチ 
      
                                       
 永年ハンネン・スワッハ―・ホームサークルだけを拠点として語り続けてきたシルバーバーチが、最近になって三つのスピリチュアリストの団体からの招待に応じて、それぞれの本拠地で講演と一問一答を行った。  


 一つはコペンハーゲンで開催された国際スピリチュアリスト連盟 International Spiritualist Federation の総会において、二つ目は英国心霊治療家連盟 National Federation of Spiritual Healers において、三つ目は大英スピリチュアリスト協会 Spiritualist Association of Great Britain において、それぞれの評議会員を前にして行われた。


 ◎ I・S・F (国際スピリチュアリスト連盟) での講演と一問一答

 「私たち霊界側から言わせていただければ、こうした機会をもつことは皆さんの意識の焦点と視野を正しく修正する上でまことに結構なことだと思います。この霊的大事業にたずさわっておられる皆さん方も、ややもすると日常生活の煩雑さや揉めごとに巻き込まれて、こうして地上でいっしょに仕事をしているわれわれを鼓舞している雄大な理想像(ビジョン)の無垢の美しさを、つい忘れがちだからです。

 物質の世界に閉じ込められ、肉体をもつが故の数々の義務を背負っておられる皆さんにとって、自分が本来は霊的存在であることを忘れずにいることは難しいことでしょう。が、皆さんの本性の中を神の力が流れているのです。

また皆さんの中の大勢の方が霊的能力を授かっておられます。それは自分より恵まれていない同胞のために使用することができます。

 皆さん方が進まれる道は決して容易ではありません。それは皆さんが、潜在的な霊的資質を開発するチャンスをみずから欲するだけの器量を具えていらっしゃるからです。神の使節に気楽な人生は有り得ません。進化と向上を求める者、地上の人間として到達しうるかぎりの高級界に波長を合わせんとする者にとって、安易な道は許されません。

近道など有りません。酷しい試練と絶え間ない危険との遭遇を覚悟し、今たずさわっている仕事、それは実は───これがいつも議論のタネになるのですが───皆さんが地上へやってくる前にみずから志願されたものなのですが、それをあくまでも成就させんとする決意を要請されます。それは皆さんがみずから選択された道なのです。

 霊的闘争における勝利はそう簡単には得られません。霊的なものが支配権を握るに至る過程は長くて過酷なものです。が、一度手中にすれば、それは永遠です。決して失われることはありません。

霊の褒章は決して傷つきません。決してサビつきません。決して腐食しません。永遠に自分のものとなります。それは皆さんが、皆さんの一人一人が、みずからの努力で勝ち取らねばならない、永遠の財産なのです。

 皆さんとともに仕事をしている私たち霊界の者が、いくら皆さんを愛し、窮地にあって守り導き、道を教えてあげようと望んでも、所詮は皆さん自身の道なのです。その道を進むのはあなた方自身です。そして一つの困難を克服するごとにあなた方自身が霊性を強化し、霊的な仕事にたずさわる者として、より大きな資格を身につけて行かれるのです。

 ですから、困難の挑戦を大いに歓迎することです。困難を避けたいと思うような者は神の仕事には無用です。闘いの真っ只中、しかも物質万能思想との闘いという最大の闘争において、あまりの激しさに将軍や指揮官が敵前逃亡をするようなことがあっては断じてなりません。耐え忍び、みずから志願したこの神聖なる仕事を成就すべく、鍛えられ、しごかれ、また鍛えられ、しごかれなければならないのです。

 われわれに対抗する勢力は、地上においても霊界においても、実に強力です。しかし、いかに強力といっても、神の意志をしのぐほどの力はありません。永年にわたって地上での仕事にたずさわり、幸にして地上での神の計画の一部を知ることを得た私が絶対的確信をもって申し上げますが、霊力はすでに地上に根づいております。

すでに地上生活に浸透しているその霊力を駆逐する力は、物的世界に帰属する勢力、すなわち宗教界の有力者にも、新聞にも、医師にも、あるいはそうした勢力がいかなる形で結集したものにもありません。

 すぐれた霊の道具(霊能者・霊媒)の出現によって世界各地に霊力の前進基地がすでに設けられ、今その地固めが行われているところです。そこを拠点として、神の子等が一体自分はどこの誰なのか、何者なのか、なぜこの地球上に存在するのか、その存在の目的を成就するには何を為すべきかを、みずから理解して行くことになるのです。

 皆さんはこのたび海山を越えて遠く隔てた国々から集まってこられましたが、皆さんを結集させた力は、ふだん他人のための仕事においてわれわれを鼓舞している力と同じものです。私たちは自分のことは何も欲していません。

名誉も求めません。ひたすらお役に立ちたいと望み、神の子等が、霊と精神と身体とが調和的に機能した時に得られる充足感、豊かさ、美しさ、生きる喜び、こうしたものを味わえるようになる生き方をお教えしようとしているのです。

あなた方は自分を役立てる掛けがえのない好機を手にしていらっしゃいます。そして他人のために自分を役立てることほど偉大な宗教的行為はないのです。

 それは神の愛の働きにほかなりません。このたびこのデンマークの地に世界のスピリチュアリストの代表が総結集し、神の計画の推進のための会議をもつことになったのも、その愛、その叡智、その霊力の働きによるのです。

 ですから、時として闘いが酷しく、長く、ともすると投げやりな気持ちになりそうなことがあっても、決して挫けてはなりません。もしも挫けそうになった時はいったん物質界から身を引くことです。

気持ちの流れを止め、精神を統一して、内部の霊的バッテリーが充電される状態にするのです。一新された生命力、一新された元気、そして一新された目的意識をみなぎらせるのです。かくして元気百倍して物的世界に戻り、仕事を続けるのです。

 本日はこうしたメッセージをお届けする機会をこの私にお与えくださったことを感謝いたします。これは私個人の考えではありません。私をこの地上に派遣した霊団からのメッセージを私が取り次いだまでです。私と同じように他の多くの霊が地上へ派遣されており、皆さんとの協調関係を通じて、いかにわれわれが神の計画において一体であるかを理解していただくように配慮してくださっているのです」


───われわれの運動も内部に大きな問題を抱えております。本来なら団結すべきところでそれがうまく行かず、ために強力な態勢が整いません。何とかそれを改善するよい方法はないかというのが私の大きな関心事なのですが、何かよいコメントをいただけますでしょうか。

 「団結というのはそう簡単には成就できないものです。命令によって強制できる性質のものではありません。理解力の発達とともに徐々に達成していくほかはありません。問題は、人類の一人一人が知的にも道徳的にも霊的にも異なった発達段階にあることです。一つの共通した尺度というものがないのです。

あなた方の仕事においてさえも、各自の霊的進化のレベルが異なるという、その単純な事実に由来する衝突がたくさんあります。

 霊的覚醒というのは霊性の進化とともに深まるものです。となると、あなたが高級霊との一体関係を確立しても、あなたと同じ発達段階に到達していない者がそれに参加することができないのは明白なことです。したがってあなたはあなたとして活用しうるかぎりの手段を駆使して最大限の成果をあげることに努力するしかないわけです。

 この問題は私たち霊界の者にとっても無縁の問題ではありません。私たちも常に同じ問題に直面しているからです。私たちは地上の人間を道具として仕事をするのですが、その中には霊界側として期待している水準にまで達しない者がいます。しかし、それはそれとして最善を尽くすしかないのです。

 そうした事情のもとでも、光明が次第に広がりつつあることに皆さんもいずれ気づかれるはずです。大切なことは、このたびのように伝統も環境も異なる世界各地から、言語も考えも異なる代表が一堂に会する機会をもつことです。その場で、たとえば他の国での成果を知って、それを後れている国の人がよい刺激とすることができます。

  案ずることはありません。あなた方は自分なりの最善を尽くせばよいのです。もうこれ以上はできないというところまで努力したら、それ以上はムキにならず、あとは私たちに任せる気持におなりなさい。人間は自分にできるかぎりの努力をしていればよいのです。それ以上のことは要求しません」


 ───でも、何かよい秘訣のようなものはありませんか。


 「真理を理解するということ以外に秘訣はありません。たとえば再生の問題は人間には解決できない難問の一つです。人間はすぐに〝証拠〟にこだわりますが、再生は証拠によって確信が得られる性質のものではありません。証拠などといっても、ただの用語にすぎません。確信というのは内部から湧き出てくるものです。

魂に受け入れ準備が整えば理解がいきます。その理解こそ大切で、それが唯一の確信です。科学は刻一刻と変っていき、その領域を広げつつあります。知識というものは固定したものではありません。一方、確信というのは真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟りです。

 この再生に関しては地上では、当分の間、意見の一致は見られないでしょう。理解した人にとっては至って単純なことであり、容易に納得がいきます。一方、理解できない人にとっては、ひどく難しく思えるものです。ですから、忍耐強く待つことです。意見の一致が得られないからといって組織がつぶれるわけではありません。

 何につけ、議論することは結構なことです。意見が衝突することは結構なことです。自然は真空を嫌うと言います。惰性は自然の摂理に反します。作用と反作用は正反対であると同時に相等しいものであり、同じエネルギーの構成要素です。立ち止まってはいけません。

大いに議論し討論し合うことです。沸騰した議論がおさまった時、そのつぼの中から真実が姿を現すことでしょう」


 ───再生について今ここで語っていただけませんか。

 「実は私みずからが、みなさん方が体験しておられる難しさを味わっております。私は再生を認めておりますが、このバーバネルは認めようとしません(※)。自分の道具すら説得できないでいて、他の人を説得できるわけがないでしょう」

(※)これはシルバーバーチとバーバネルとが別人であることの証拠としてよく話題にされたものであるが、晩年はバーバネルも得心していた。なおこのコペンハーゲンでの交霊会がいつ行われたかは記されていない───訳者)


───事実か事実でないかだけでもおっしゃっていただけませんか。

 「得心した人にとっては事実です。得心しない人にとっては事実ではありません」(真理の本質をついた名答というべきであるが、それにしてもなぜ要求にまともに応じなかったのか。私が思うに再生問題はスピリチュアリストの間でも異論の多い問題で、肯定派の中にさえさまざまな再生論があって、ここでシルバーバーチが一方的に述べることはISFの内部に余計な波風を立てることになることを案じたのであろう───訳者) 


───異なった信仰に対する態度はどうあるべきでしょうか。われわれに信仰を押しつけようとする者に対して寛大であるべきでしょうか。それとも我が道を行くの態度で相手にしない方がよろしいのでしょうか。

私の考えではスピリチュアリズムはキリスト教に対してその活動については寛大でありつつも、スピリチュアリズムの霊的真理そのものは浸透させて行くべきだと思うのです。真実の信仰に欠ける者にスピリチュアリストが正しい宗教性を植えつけていくべきだと考えます。

 「スピリチュアリズム、スピリチュアリズムとおっしゃっても、それはただの用語にすぎません。私たちは用語には関心はありません。用語とは概念や実在をくるむための道具にすぎません。私たちの関心は霊力、神の力───私はそれを大霊と呼んでいるのですが───それが地上に根づくことです。どこでもよいのです。それが私たちの努力の背後の目的です。

 なぜ霊力を根づかせようとするのか。それは、霊力には魂に感動をもたらし、真の生命に目覚めせる力があるからです。どこであってもよいのです。教会の中であっても、外であっても、家庭内でもいいのです。目的とするのは一人一人の魂です。

 物的惰眠から目覚める段階まできた魂は、あなたの行動範囲にみずからやってくるか、あるいはあなたの方から訪れて、魂のタネが蒔かれることになります。そのように導かれるのです。それでもし失敗したら、ひそかに涙を流してあげなさい。

自分のためにでなくその人のためにです。その人は絶好のチャンスを目の前にしながら、それをとらえ損ねたのです。

 しかし、そうこうしているうちに、そこかしこにタネの根づきやすい魂がいることが分かります。やがて芽を出し、花を咲かせ、急速に美しさと優雅さとを増していきます。そのタネに神性が宿されているからです。かくしてその魂は真の自我を発揮しはじめたことになります。

 地上生活のそもそもの目的は人間が身体的・精神的・霊的の全側面を活用して生活することであり、その三つの側面が機能するに至るまでは本当の意味で生きているとは言えません。身体と精神のみで生きている間は影と幻を追い求め、実在に気づかずにおります。

霊的自我が目覚めてはじめて、驚異的な霊的可能性と冒険への扉が開かれます。地上という物質の世界へ生まれて来たのは、その霊的自我を開発するためです。

 ですから、その目覚めがどこで生じるかは重要ではありません。重要なのは魂が目を覚ますということ、そのことです。地上生活に悩みと苦しみが絶えないのはそのためです。悩み苦しみ抜いた末に、もはや物的なものでは救いにならないと観念した時に、霊的なものへ目を向ける用意ができたことになります。

 〝風は気ままに吹く〟(ヨハネ)と言います。真理の風をどこにでも気ままに吹かせればよいのです。受け入れる用意のある魂にあたった時に存分に力になってあげることです」


───霊媒現象とスピリチュアリズムの活動のあり方をこれからどう改めて行くべきかについて何かアドバイスをいただけますか。

 「つねに新しい側面が台頭しています。物理的心霊現象が徐(おもむろ)に後退し、心霊治療と霊的教訓という高等な側面がそれと取って代わりつつあります。地上の人間の進化のサイクルが変わりつつあるからです。あなた方は霊的に導かれるままに進まれるがよろしい。霊的進歩には型にはまった様式はありません。

今日まで導いてきてくれた力を信じて一身を預けることです。その力こそ、地上のあらゆる物的財産に勝る珠玉の知識をもたらしてくれた力です。ひたすらに前向きに歩まれることです。どこにいても最善のものを施すことです。かならずや導かれ、援助を受けます」



───私は南アフリカのさまざまな言語集団と霊界とのつながりに関心をもっている者ですが、霊界にはこうした集団との接触において使用するバイブレーションの調整システムのようなものがあるのでしょうか。

 「それは問題を抱えている国の人たちがみずからの力で処理すべきことです。言語というのは思想・信念・想像、その他、内的な実在の諸相を表現するための人工的手段にすぎません。実在を適確に表現する言語は、いくら考えても見つかりません。要は魂に訴えるために最善を尽くすことです。

感動を与えるのです。悲しんでいる人を慰め悩んでいる人の心を癒すようなメッセージを届けて、魂を目覚めさせるのです。その魂に受け入れる用意があれば、きっと成果が出ます。受け入れる用意がなければ何の成果も出ません。

 こうした問題には楽な解決策はありません。試行錯誤がほとんどです。私たちとて完全ではないのです。霊的交信、霊力の扱い方、霊媒の成長と進化にともなう各種エネルギーの調整の仕方について、絶え間なく新しいテクニックを開発しております。

固定した形式があるわけではありません。すべてが流動的です。なぜかと言えば、霊そのものが無限であり、したがって無限の顕現の可能性を秘めているからです。

 ご質問に対してご期待にそった答えにならなくて申しわけありませんが、私としては以上のようなお答えしかできません」


─── 一般世間への普及活動において私たちは何か大きな間違いを犯していないでしょうか。もし犯していたらご教示をお願いしたいのですが・・・・・・

 「もしもあなたが何一つ間違いを犯さない人だったら、あなたは今この地上にはいらっしゃらないはずです。間違いを犯す人間だから地上に来ているのです。しくじってはそこから教訓を学ぶのです。もしもしくじらないほど完全な人間だったら、物質界に生まれてくる必要はありません。

勉強のために地上へ来ているのです。しくじっては学ぶ───それが進化の法則の一環なのです。しかも進化はどこかでおしまいとなるものではなく、限りなく続く営みなのです。その目的は完全性の成就です。が、

その完全性がまた無限の性質のものであり、いつまでたっても成就できないのです。完全を成就しているのは大霊のみです。無限なる愛と無限なる叡智の権化なのです。

 完全性が増せば増すほど、さらにその先に成就すべき完全性があることに気づきます。これが完全、という静止した状態ではありません。進化の法則はありとあらゆる段階を通じて働いており、それらがすべて連動しているのです。

人間の身体上の進化も、地上の科学者がどう言おうと、まだ終わったわけではありません。まだまだこれから開発されるべき表現形態があります。

同様に、精神的ならびに霊的進化も、この地上にあってさえ、三位一体の部分的側面として、到達すべき段階に至るにはまだまだ前途遼遠です。

 要するに進化とは地上においても全宇宙においても無限の過程であり、そのこと自体が宇宙の全機構を案出した無限の知性の存在の証明であることを認識してください。その知性が絶対に誤ることのない法則によって統治し、ありとあらゆる側面を導き、支え、そして規制しているのです。

 われわれはその愛と法則と叡智の機構の中に存在しているのです。間違いを恐れてはいけません。そこから学び、刻一刻と霊的に成長していくのです」



◎ N・F・S・H (英国心霊治療家連盟)における講演と一問一答

 「心霊治療の目的はいたって単純です。魂の琴線に触れるということです。身体は癒えても魂が目覚めなかったら、その治療は失敗だったことになります。たとえ身体は治らなくても魂に何か触れるものがあれば、その治療は成功したことになります。

他はいざ知らず、われわれに関するかぎり、霊のもつ才能、霊の力は、神の子の一人一人が有する神性を目覚めさせ、地上に生まれて来たことの意味を理解させるために使用すべきです。

 それが霊的能力の諸相の背後にある目的です。ですから、患者に身体上の好転が見られなくても少しも落胆することはありません。むしろ、身体上の病状は改善したのに、その患者が霊的な実在に何の関心を見せなかった時こそ落胆すべきです。それが病気が治るということの背後に秘められた究極の目的だからです。

 霊界にあっても私たちは一丸となって、地上の各地に拠点をもつ霊力が、受け入れる用意の出来ている者に間違いなく届けられるように地固めをしております。目指す目標は必須の要素すなわち自分とは一体何者なのか、何の目的でこの地上に存在しているのかについての自覚を植えつけることです。

簡単に言えば、自分の霊的宿命を成就するために自分の霊的起原を知ってほしいということです。

 治病能力は霊的身体のみが有する霊的能力の一つです。霊の目で見る霊視能力、霊の耳で聞く霊聴能力と同じです。ですから、治療家としての仕事をするには霊力のお世話にならねばなりません。

 ここで用語についてはっきりさせておきましょう。私が 〝大霊〟 と言う時、それは無限の知性であり、全生命の究極の裁定者であり、叡智と真理と理解力の極致です。人間的存在ではありません。ただ、それを表現する際にどうしても〝彼〟 とか 〝あなた〟 といった人称代名詞を使用せざるを得ませんが、大霊は神格化された人物ではありません。

生命力であり、原動力であり、活性力であり、意識であり、生気です。そうした原理の精髄です。無限なものです。したがって霊力も無限です。それは誰の占有物でもありません。通路となりうる人なら誰にでも流れます。キリスト教やクリスチャン・サイエンスはもとよりのこと、あなた方でも治病能力を独占することはできません。

 それを受け入れる能力をお持ちのあなた方に出来ることは、その能力をさらに発達させること、つまり受容能力を増し波長を高めることだけです。霊力そのものは無限に存在します。それをどれだけ受け入れるかは、あなた方自身の進化と発達の程度によって決まるのです。

あなた方を通じて流れる霊力の限界はその受容能力によって決まるのです。簡単なことなのです。あなた方の受容能力が増せば、それだけ多くの霊力があなた方を通して流れ込み、それだけ大きな成果が得られるということです。

 流入する霊力の分量に限界というものはありません。唯一それに制限を加えているのはあなた方治療家の霊的発達段階であり、それが、どれだけの霊力を受け入れるかを決定づけます。

この聖なる力、神の威力、大霊、生命力、どう呼ばれても結構ですが、それがあなた方を通路として流れるのは、あなた方に受容能力があるからです。それを患者へ届けてあげなければならないわけです。

 改めて初歩的なことを申し上げて恐縮ですが、病気・不快・異状の原因は調和の欠如にあります。健康とは全体の調和が取れている状態のことです。身体と精神と霊との間に正しいリズムとバランスが取れていることです。

三者の連繋がうまく行っていない時、どこかに焦点の狂いが生じている時、自然の生命力の流れが阻害されている時に病的症状が出るのです。霊力が流れず、本来の機能を果たしていないからです。

 人間の病気はサイコソマティック、つまり精神と霊に原因があってそれが身体に表れております。経験豊かな皆さんには私から申し上げる必要はないと思いますが、心配ばかりしていると胃潰瘍になります。が、かいよう部分を切除すれば心配しなくなるわけではありません。ですから心配しないような生き方を教えてあげないといけません。
  
 病気の大半は精神と霊から生じております。いわゆる人身事故でさえ精神ならびに霊的原因から発生していることがあるのです。これは皆さんにとってはとても理解しがたい難題であろうかと思いますが、では治療家としてはどうすべきか。

 患者の意識の中枢である霊に注がれる霊力を、治療霊団から受け取るのが治療家の仕事です。言わばバッテリーです。枯渇している生命力を充電してあげる通路です。それが障害物を取り除くのです。それがバランスを取り戻させるのです。リズムが整い、調和よく機能するようになるのです。

 そのとき治療が効を奏したことになります。霊力が魂にまで及ぶからです。ここが大切な点です。患部に置いた手が治しているのではありません。手をおくことは接触のための手段の一つにすぎません。

 治療家の霊的発達の程度いかんによっては、それが必要である場合もあれば必要でない場合もあります。肝心なのは魂にまで及ぶということです。魂にカツを入れて居眠りの状態から目を覚まさせ、自我の発見という本来の目的を意識させるのです。

 それさえうまく行けば、身体にある自然治癒力が機能を発揮して健康状態を取り戻します。その時はじめて治療家は、大霊すなわち神の通路としてその霊力を受け入れ、それが自分を通過して患者の魂の中の神を呼び覚まし、はじめて真の自我を意識させるという機能を見事に果たしたことになります。

 心霊治療というのはそういうものなのです。ここで改めて皆さんに申し上げます。たいへん改まった真剣な気持ちで申し上げますが、あなた方治療家の責任はきわめて重大です。真理を知るということは、それに伴って責任というものも付加されるのです。神聖な才能を授かるということは、それを本来の神の意志にそって使用するという責任が伴います。

 心霊的(サイキック)な能力と霊的(スピリチュアル)な能力とは違います。心霊治療家にもサイキック・ヒーラーとスピリチュアル・ヒーラーとがあるわけです。後者の場合は生活態度を可能なかぎり理想に近づける努力をしなければなりません。能力はあっても、それをどこまで開発するかは治療家自身の責任です。

それをいかなる目的に使用するかについても責任があります。なぜなら、その能力を授かったということは神の使節の一人であることを意味するからです。

 皆さんはどこの教会、どこの聖堂の司祭よりも、真実の意味での神の司祭でいらっしゃいます。神の霊力があなた方を通過して届けられるという点において、神の名代をつとめておられるのです。これは大へん責任の重い仕事です。それを汚すようなことがあってはなりません。傷つけてはなりません。

不名誉となるようなことをしてはなりません。腐敗させてはなりません。間違った動機から使用してはならないということです。ただひたすら自分を使っていただくという気持ちで、可能なかぎり理想を目指して努力していればよいのです」


 ───霊力がそちらで準備される過程を教えて頂けませんか。患者の特殊な症状に応じて調合される治癒力です。

 「とても説明が困難です。非物質的なエネルギーを表現する適切な用語が見当たらないのです。こう理解してください。霊力とは生命力であり、生命の素材そのものであること、活力であり無限に存在すること、可変性があり、無限の形態をとることができ、無限の置きかえと組み合わせが可能である、ということです。

 こちらの世界にはさまざまな程度の知識と経験と理解力をもつ霊が控えています。地上の化学者、科学者に相当する霊もいます。この生命力、霊のエネルギーのさまざまな性質を、あなたが使用された用語で言えば、特殊な症状に合わせて 〝調合〟 するのです。これはなかなかよい表現です。通路である治療家を通じて可能なかぎり症状に合った調合をする研究を絶えず重ねております。

 これ以上の説明はできそうにありません。治療家のもとを訪れる患者によって、一人一人、治療法が異なります。患者のオーラも大へん参考になります。オーラには病気の根本原理である霊的ならびに精神的状態が正直に表れているからです。それによって調合の仕方を考えます」


 ───それには霊界の担当医たちの精神的(メンタル)な努力を要するのでしょうか。

 「(人間が考える意味での)メンタルという用語は不適切です。実体のある作業だからです。実際に混合するのです。こちらの世界にもあなた方のいう化学物質に相当する霊的素材があります。もちろん精神(マインド)も使用します。霊界では精神がすべてをこしらえる上での実体のある媒体だからです」


 ───遠隔治療が可能であることを考慮すると、直接治療においてその治癒力を受けるのに、治療家の身体または霊体はどの程度まで使用されているのでしょうか。

 「遠隔治療にも治療家の霊体を使用しなければなりません」


 ───その過程を説明していただけませんか。 

 「治療家はテレビジョンとよく似ています。霊的なバイブレーションが治療家に届けられると、治療家(の霊体)を通過する際に半物質的治療光線に転換されて、それが患者に送られます。治療家は変圧器です」


 ───遠隔治療でも同じですか。

 「同じです」


 ───それがどうやって患者に届けられるのでしょうか。 

 「患者が治療を要望したということでつながりが出来ております。思念によって治療家へ向けてのバイブレーションが生じます。そこに絆が出来たわけで、そのバイブレーションに乗って治療力が患者に送られるのです」


 ───自分のために遠隔治療が行われていることを知らない場合はどうなりますか。

 「患者と関わりのある誰かが知っているはずです。そうでなかったらその患者に向けて治療が行われるわけがないでしょう」


 ───治療家がその患者の病状が悪いことを知って一方的に遠隔治療を施してあげる場合もあるでしょう。

 「それだけでもう絆ができております」


 ───でも患者の方から思念が出ていません。

 「いえ、出ております。治療家がその絆をこしらえております。こちらの世界では思念に実体があることを忘れてはなりません。私があなたを見る時、私にはあなたの身体は見えません。霊媒の目を使えば見えるかも知れませんが。

私たちにとって実体があるのは思念の方であり、実体がないのは身体の方です。あなたが思念を出せば、それがたちどころに実在物となるのです。それがバイブレーション───波動をこしらえます。それが遠隔治療で使用されるのです」


 ───心霊治療を受ける上で信仰のあるなしは関係ないということは理解しておりますが、患者が邪悪な思念を抱いていると、それが治療を妨げると考えてよろしいでしょうか。

 「私は信仰をもつこと自体は反対していません。それが理性を土台としていて、盲目的でなければ結構です。スピリチュアリズムの思想を正しく理解された方なら、手にされた真理は全体のほんの一かけらにすぎないことはご存知と思います。

肉体に閉じ込められているあなた方が全真理を手にすることは不可能なことです。霊界へ来ても同じことです。となると、手にした限りの知識を土台とした信仰を持たねばならないことになります。

 さて、そうした知識を土台とした理性的信仰を持っていることは大いに結構なことです。そのこと自体は何ら問題はないと思います。それが治療にとって好ましい楽観的な雰囲気をこしらえるからです。

霊力は明るく楽しい、愉快な精神状態の時にもっとも有効に作用し、反対にみじめで疑い深く、動揺しやすい心は、霊的雰囲気をかき乱して治療の妨げとなります」


 ───オーラを見る能力のない治療家は、治療がうまくいっていることをどうやって知ればよいのでしょうか。

 「治療家に患者のオーラが見えるか否かは問題ではありません。症状の診断ができるか否かも問題ではありません。そういうことにこだわってはいけません。要は霊が使いやすい状態になることです。

道具としてなるべく完全になることを心がけることです。完全な道具としてマイナスの要素となる人間的弱点を極力排除しなくてはなりません。そう努力することで霊力が豊富に流れるようになります。背後霊団との協調関係を決定づけるのは治療家の日常生活です」


 ───サークル活動に参加できる治療家は能力を開発する上で勉強になりますが、そういう機会に恵まれない人のために何かアドバイスをいただけないでしょうか。それと、交霊会に出席することは治療家にとって不可欠でしょうか。

 「あとのご質問からお答えしますと、これにはきっぱりと 〝ノー〟 と申し上げます。霊の能力はあくまで霊の能力です。それを授かって生まれてきたのであり、授かった以上はそれを発達させる責任があります。ピアニストとしての才能をもって生まれた人は練習と鍛錬によってそれを発達させなければならないのと同じです。

では治療能力はどうやって発達させるか。その答えはサークル活動に参加することではありません。それもプラスにはなります。心に宿す動機も発達を促します。日常生活の生き方によっても発達します。可能なかぎりの純粋性と完全性を目標とした心がけによっても発達します。できるだけ良くしてあげたいという願望を大きくしていくことによっても発達します。

 自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、それだけ自分が立派になります。よい治療家になる方法を教えてくれる書物はありません。

ひたすら他人のために役立ちたいと願い、こう反省なさることです───〝神は自分に治病能力を与えてくださったが、果たしてそれに相応しい生き方をしているだろうか〟と。これを原理として生きていれば、治病能力は自然に力を増し質を高めていきます」


 ───治療家によって力に差があるのはなぜでしょうか。

 「話の上手な人と下手な人、ピアノが上手な人と下手な人、文章のうまい人と下手な人がいるのと同じです。才能がそれだけ開発されているということです」


 ───もし治療家が病気になった場合は他の治療家にお願いすべきでしょうか。それとも自分で治す方法があるのでしょうか。

 「他の治療家にお願いする必要はありません。それよりも、いつも使用している霊力を直接自分に奏効させる方法を工夫すべきです。神に祈るのに教会まで行く必要がないように、霊力を自分自身に向けることが出来さえすれば、治療家のところへ行く必要はありません。そのためには自分の心、自分の精神、自分の魂を開かないといけません」



 ───医者は大病にもストレスや仕事上の心配が原因であるものがあると言っております。そうしたケースでは(身体と精神と霊の)不調和はどの程度まで関わっているのでしょうか。

 「あなたがおっしゃったことは私が別の言葉で言っているのと同じことです。あなたは仕事上の心配と呼んでおられますが、それは私のいう不調和状態のことです。精神と肉体と霊とが正しい連繋関係にあれば、仕事上の心配も、そのほか何の心配も生じません。心配する魂はすでに調和を欠いているのです。

霊的実在についての知識を手にした者は心配をしてはなりません。取越苦労は陰湿な勢力です。進化した魂には縁のないものです。あなたはそれを仕事上の心配と呼び、私は不調和状態と呼んでいるのです。自分が永遠の霊的存在であり物質界には何一つ怖いものはないと悟ったら、心配のタネはなくなります」


 ───なぜ治らない人がいるのでしょうか。

 「それはその人が霊的にまだ治る資格がないということです」


 ───いったん遠隔治療のための絆ができても、次の治療の時はまた改めてこしらえる必要があるのでしょうか。

 「いったん出来たら、もうその必要はありません。霊界との絆は磁気的なものです。いったん出来あがったら二度と壊れることはありません」


 ───ということは、どこにいても同じということですね。教会にいても駅にいても。

 「霊の世界には地理的な〝場〟というものがありません。常に身のまわりに存在しております。教会にいるからとか、地中深く掘られた採掘所にいるからとか、あるいは飛行機に乗って空高く上がったからといって、それだけ神に近くなっているわけではありません」


 ───地上世界に具現化するものは、その存在の基盤として思念が先行していると言われております。言えかえれば、われわれは思念的素材を製造していることになるわけですが、すると治療家が患者に対した時には完治するという思念を抱いて、完全な健康のイメージをもつことが治療にプラスになるのでしょうか。

 「大いにプラスになります。なぜなら、思念には実体があるからです。完全な健康状態のイメージを強くもてばもつほど、その成就へ向けて近づくことになります。あなた方もその理想へ向けて不断の努力をすべきです。最高のものを心に画くべきです。絶対に希望を棄ててはいけません。常に朗らかで楽観的な雰囲気を出すべきです。そうした条件が最高の成果を生みます」


 ───さきほど治らない患者はまだ治る資格がないからだとおっしゃいましたが、それだけでは単純すぎるように私には思えるのです。それでは悪人はいつまでたっても治らず、善人はいつでも治るということになるからです。

 「そんな単純なものではありません。それは皮相な見方です。問題を霊の目で見ていらっしゃらないからです。たとえば苦難は人間から見ればイヤなものでしょうが、私たち霊の立場から見れば実に有難いことです。凶事に出遭うと人間は万事休すと思いますが、私たちの目から見ると、それが新たな人生の始まりであることがあります。

 善とか悪とかの用語を物的価値基準に基づいて、あたかも善人という人種、悪人という人種がいるかのような言い方をしてはいけません。私たちの価値基準はあなた方とは必ずしも同じではありません。

私は、治るためにはそれだけの霊的な資格がなければならないと申し上げているのです。善人とか悪人とかは言っておりません。魂が真の自我に目覚めれば治る資格ができたことになります。そのとき治療が効を奏します」


 ───たとえその資格ができていても、純粋に身体上の理由から治らないこともあるのではないでしょうか。たとえば視神経が完全に破損されて眼が見えないという場合です。自然の摂理からすれば、いくら心霊治療でも、まったく新しい視神経をこしらえることはできないと思います。

 「今われわれは奇跡の話をしているのではありません」


 ───おっしゃる通りですが、ただ私は、あなたが 〝不治〟 の場合の理由をあまりに大ざっぱにおっしゃっているように思えたものですから・・・・・・

 「私が申し上げているのは、治る可能性のある病気が治らない場合、それはその患者にまだ治るための霊的資格ができていないからだということです」


 ───赤ん坊が両脚とも奇形である場合に、一方の脚は治ったのにもう一方の脚に何の反応も生じないことがあります。なぜでしょうか。

 「それぞれの脚にそれぞれの原因があって、同じ治療法では治せないということです。一つ一つ治療法が異なります。それぞれの事情に合わせた治療が行われます。それぞれに特徴があります。こうした問題を地上の皆さんのためにできるだけ平易に申し上げようとすると、とても骨が折れます。

他にもいろいろと考慮しなければならない条件があるのです。奥に隠れた原因があってそれに絡んだ霊的摂理が働いており、さらにその奥にも次元の異なる摂理が働いているのです。

 心霊治療は見かけほど単純ではないのです。ただ患部を治せばよいというものではありません。評価されるのは魂に関わることです。魂にいかなる意味が及ぶか、治療がいかなる意味をもつことになるか。なぜその患者は心霊治療家のもとを訪れたのか、その患者は魂が目を覚ます霊的進化の段階に到達しているか。

 こうしたことは物的尺度では測れないことばかりです。が、心霊治療にはそれらがすべて関わっているのです。なぜなら、治療にたずさわっている間は生命力そのものを扱っているからです。ということは、宇宙の永遠の創造活動に参加しているということになります。私が治療家の責任の重大性を強調する理由はそこにあります」


 ───てんかんの原因は何でしょうか。

 「脳に障害がって、それが精神による働きかけを正しく受け取れなくしているのです」


 ───治せるのでしょうか。

 「もちろんです。病気はすべて治せます。〝不治の病〟というものはありません、治してもらえない人がいるだけです」

 
───私が遠隔治療を依頼されたケースが三つないし四つあるのですが、不幸にして成功しませんでした。少なくとも私はそう考えております。いずれの患者もそのまま他界されたからです。

 「それはもしかしたら最高の成功だったと言えるかも知れませんよ。他界に際して何らかの力になることができたら、それは治療として成功といえます。

治療の目的は地上での寿命を引き延ばすことではありません。目的は霊との接触です。それがいちばん大切です。そのいちばん大切なことを第一の目標になさい。大切なのは霊です。霊が正常になれば身体も正常になります」


 ───わずか数分で治してしまう治療家がいると知って驚いているのですが、治療家によっては二時間とか数週間、あるいは数か月、時には何年もかかって、それでも良くならないというケースがあります。なぜでしょうか。
 
 「果を見て木を知るべしです。大切なのは結果です(※)。治療家は背後霊団との最高の調和関係を目指して日常生活を律するべきです。そうすれば必ず良い成果が得られます。あなた方は身を正すことだけを考えて下さい。あとは私たちがやります。援助の要請が拒否されることは決してありません。

霊力を出し惜しむようなことは絶対にいたしません。私たちは常にお役に立つための努力を重ねております。人を選り好みしません。すべての人を歓迎します。霊力はすべての人に恩恵をもたらすべく存在しているのです。私たちが欲しいのは、よろこんでその霊力の通路となってくれる道具です」


(※私が親しくしていた治療家の一人のM・H・テスター氏もこのNFSHの会員で、たぶんこの日の会合にも出席していたものと推察しているが、そのテスター氏が〝奇跡的治療というと人は一発で治る場合を想像するが、たとえ半年かかろうと1年かかろうと、医学的に不治とされたものが治れば、それも立派に奇跡である〟と述べている───訳者)


 ───心霊治療によって回復した人が間もなく他界することがあります。なぜでしょうか。

 「あなた方はなぜ死ぬということをそんなに悪いことのように考えるのでしょう。私たちの世界では仲間が地上へ誕生して行った時に泣くことがあります。地上を去ってこちらへ来ると手を取り合って喜びます。地球を離れることがなぜ悲劇なのでしょう」


───精神に異状のある方は本当に気の毒でならないのですが、治療家として無力であることを痛感させられています。

 「精神上の病も治すことができます。身を私たちにあずける───あなたに要請されるのはそれだけです。ご自分を通して霊力が流れるようにするのです。じかに治療できない人には遠隔治療を施してあげなさい。霊的治療はもはや地上に根づいております。退散することは決してありません。

あなたもあなたなりの貢献ができます。しかも、とても重要な役割です。忘れないでいただきたいのは、無限の進化の計画の中において、あなたも神聖なる通路としての神のお役に立っているということです。光栄この上ない仕事です。が、それだけに責任も重いということです」


 ◎ S・A・G・B (大英スピリチュアリスト教会)における講演と一問一答

 「本日お集まりの皆さんは霊的実在についての知識をお持ちの方ばかりです。ですから私からその大切さ、特に今日の世界における掛けがえのない重要性を強調する必要はありますまい。

 私は可能なかぎり皆さんのお力になるつもりでおります。私の申し上げることのすべてに同意なさらないかもしれませんが、真実の同胞関係というのは、お互いの意見が完全に一致しなくても愛し合えるということです。

皆さんは霊の力がさまざまな形態で顕現していることをよくご存知とはいえ、肉体に閉じ込められているが故の厄介な問題の一つとして、正しい焦点を定めることが難しいことがあげられます。つまり霊力というものが適切な通路を得た時の影響力がいかに実感あふれるものであるかについて、共通の認識が得られないことです。

 もしも私がかりそめにも地上の住民としての義務───家族への責任および共存共栄関係にある他人への責任───から逃れさせるようなことを口にしたら、他にどんなに立派なことを説いても指導霊として落第であることになりましょう。

しかし率直に申し上げさせていただけば───素直に言い合うことが協力の基本だと思うからこそですが───皆さん方は俗世間的な問題に関わりすぎており、そうした問題のすべての解決のカギである霊の力を十分に活用していらっしゃいません。

 このことを私は、私たち霊団の協力者である皆さん方───われわれの関係は主と従ではありません。対等の協力者です───そして地上の使節としてその任に恥じない生き方を望んでおられる皆さん方に、最大限の誠意と謙虚さをもって申し上げたいと思います。皆さんのような霊的知識を手にされた方が悩んだり、心配の念の侵入を許して取越苦労をするようではいけません。

霊的知識があるからこそ、いかなる心配、いかなる悩み、いかなる不安にも、皆さんの精神的・身体的・霊的環境の中への侵入を許してはならないのです。心配、悩み、不安───こうしたものは援助の力の通路そのものを塞いでしまいます。

 哀悼者の悲しみの念が壁となって他界した霊を近づけなくするように、気苦労のバイブレーションに取り囲まれてしまうと精神的・霊的雰囲気が乱されて、ますます霊を近づきにくくします。皆さんは愛に動かされた霊によって導かれているのです。それは地上の血縁や愛情あるいは友情によって結ばれている場合もありますが、それとは別に、

かつて皆さんと同じ道を歩み、今なお皆さんを通してその仕事に関心を持ち続けている霊である場合もあります。そうした霊のさらに背後には無私の博愛心に燃える高級霊の大軍が控えているのです。

 美と豊かさと荘厳さと威厳と光沢と気高さと光輝とにあふれた霊力そのものには際限というものはありません。ただ、人間がこしらえる条件によって制約されるのみです。

どうか信念に裏打ちされた、とらわれのない通路、安易に信じるのでなく、これまでに得た知識を基盤とした信念───進化の現段階では無限の知識を手にすることが不可能である以上どうしても必要となる信念に燃えた通路であってほしいのです。

 知識を基盤とした信念に燃えてください。皆さん方の一人一人が霊の導きによって今日まで苦難と危機と困難を乗り切ってこれたのです。振り返ってごらんになれば、その導きの跡が読み取れるはずです。

そこで、人間的煩悩ゆえに時には背後霊を手こずらせることはあっても、これほどのことをしてくださった背後霊が自分を見放すはずはないとの信念に燃えなくてはいけません。

 われわれは霊的真理の崇高なる啓示にあずかった、本当に祝福された者ばかりです。それ故にこそ、その知識に伴う責任に恥じない仕方をしようではありませんか。

 過去はもう過ぎ去ったのです。これまでに犯した間違いはお忘れになることです。皆さんは間違いを犯しそれから学ぶために地上へやって来たようなものです。過ぎ去ったことは忘れることです。大切なのは今現在です。

今、人のためになることをするのです。どんな形でもよろしい。自分の置かれた物的環境条件から考えて無理でない範囲のことを行えばよろしい。先のことをあまり考え過ぎてはいけません。

皆さんが皆さんの役目を果たしていれば、私たちは私たちの役目を果たします。そして、そうした協調関係の中では絶対に挫折はないことをお約束いたします。

 この建物の中でどれほどのことが為されているかは、皆さんは知ることができません。私たちにとっては神聖な場所です。ここには愛の働きがあり、悲しみの涙が拭われて確信の笑みに変っております。病の人は癒され、悩める魂は内なる静寂の芳香を見出しております。それを皆さん方は測り知ることができません。魂へ及ぶ影響を測るはかりがないからです」


 ───霊の指導によって行われる範囲と人間の努力によって行うべき範囲について教えて下さい。

 「私たちも一定の法則の範囲内で仕事をしなければなりません。霊にもできることとできないこととがあるということです。その法則による制約は人間よりはるかに厳格です。

私がこれまでいちばん辛い思いをしたのは、私の愛する者が危機のさなかにありながら何も手を出さずに一歩さがって控え、自分で工夫するにまかせ、どちらの道を選ぶかをじっと見守っているしかなかった時です。

それがいちばん本人のためであるとの判断があったからです。助言を求められても〝ここは一つご自分の判断でやってごらんなさい。どれだけうまく行くか試してごらんなさい。その判断はあなたの霊的進化の成就のすべてが掛かっているのですよ〟と申し上げなければならないこともよくあるのです。

 私たちの関心は霊的な結果です。きたんなく言わせていただけば、あなた方は物的な結果だけを見つめておられることが多すぎます。この連盟の歴史を振り返ってごらんになれば、霊の導きが決して少なくないことがお分かりになるはずです。

 私たちが基本的原理のいくつかを確信をもって明言できるのは、それらが永遠の実在に基づいているからにほかなりません。もしも地球が地軸上の回転をやめるような事があったなら、あるいは汐が満ちるべき時に満ちてこず引くべき時に引かないようなことがあったなら、あるいは又、星雲が回転のパターンからはずれるようなことがあったら、

私はこれほどの確信をもって説くことはできないでしょう。が、大霊は全知全能であり、その霊力の働きは完全無欠です。そこで私はその霊力に全幅の信頼を置く者に決して挫折はないと確信をもって申し上げるのです」


 ───さきほどあなたは、一歩控えて思いどおりにやらせるほかはないことがあるとおっしゃいました。その人には好きな道を選ぶ自由意志があるわけですが、もしもその人が自由に行動してそれが仕事をぶち壊すようなことになったらどうなるのでしょうか。

 「自由といってもある一定の範囲内での話です。無制限の自由ではありません。その人の霊的成長と進化から生じる一定の条件によって制約されます。完全な自由選択が許された無制限の自由ではありません」


 ───本当の意味での自由意志は存在しないわけですか。

 「ある限界内での自由意志が存在するということです。その段階での判断に基づいて好きな道が選べます。そしてそれがその人の霊的進歩を妨げもすれば促進もするということです」


 ───かりにあなたが代わりに選択してあげたら、それがその人の進歩を妨げることになるかも知れないし促進することになるかも知れないわけですね。

 「それは有り得ることです。ただ、なかなかうまく説明できないのですが、表向きは単純そうでも、その裏面は、法則の内側に法則があり、そのまた内側に法則があり、そのまた内側にも法則があって、実に複雑なのです。しかし、神の叡智は完ぺきですから、絶対に手落ちがないように、すみずみまでバランスが取れております」


 ───せっかくの成果をぶち壊しにするような行為も、全体の計画にとっては大して支障を来たさないということなのでしょうか。

 「とんでもないことをして成果のいくつかをぶち壊しにすることはあっても、全部を台なしにするようなことはないということです。人間の行為が及ぼす被害も多寡が知れてるということです。地上のいかなる人物にも、神の意志を完全に台なしにしたり、計画の推進を完全に阻害するほどの損害を及ぼす力はありません」


 ───ということは、この地球上で発生する災害もすべて神の計画の中で起きているということでしょうか。

 「人間はその神の計画のワク外で行動することはできないという意味で、そう言えます。絶対に免れることの出来ない因果律というものがあるからです。その冷厳な法則が人間に致命的な限界というものを設けております。ぶっきらぼうな言い方をすれば、地上の科学者には宇宙全体を全滅させるほどの破壊力は製造できません。そこに限界があります」


 ───人間の立場からみると悪に思えるものもまったく悪ではないことがあるものでしょうか───高い次元からみればむしろ善といえることが。

 「地上の人間にとって苦しみは悪であり、痛みは歓迎されませんが、実質的には必ずしもそうではありません。苦は楽と同じく神の計画の一部です。苦がなければ楽もなく、暗闇がなければ光明もなく、憎しみがなければ愛もありません。作用と反作用は同じものであると同時に正反対のものです。

一つのコインの両面と思えばよろしい。善と悪はともに不可欠のものであると同時に、相対的なものです。

 地上にはさまざまな道徳的規範があり、国によって異なります。たった一つの絶対的規範というものはありません。私たち霊にとっての価値基準はただ一つ───魂にどういう影響を及ぼすかということです。魂の成長を促すものは善で、成長を遅らせるものは悪です。そこが大切な点です」


 ───あなたは、成長のためのチャンスは平等に与えられるとおっしゃっていますが、私はどうも納得できません。魂の本質は同じかも知れませんが、その本質が発揮される能力は必ずしも平等ではありません。

同じチャンスから必ずしも同じだけのものを摂取できるとはかぎりません。能力の程度によって異ったチャンスが与えられるか、それともチャンスは同じでもそれをうまく活用する能力が平等に与えられていないかのいずれかだと思います。

 「いえ、私はその考えには同意できません。物質界に生まれてくる人間には神性の種子が宿されております。そうでなかったら生まれて来られません。生命とは霊であり、霊とは生命です。あなたにも花開くべき霊性の種子が宿っております。その開花は、成長を促す可能性をもった環境条件への反応次第で違ってきます。

霊性の発達を促すためのチャンスはすべての人間に平等に与えられています。私はすべての人間が同じ霊格を身につけることになるとは言っておりません。そのチャンスが与えられていると言ったのです。金持ちであるか貧乏であるかは関係ありません。他人のためになることをするのに地位や名声、財産といったこの世的なものは必要ありません」

 
 ───身体の機能上の不平等はどうでしょうか。

「奇形もしくは脳に異状のある場合のことをおっしゃりたいのでしょうか。それは別に扱わねばならない複雑な問題でして、これには宿業(カルマ)の要素が入ってきます」


 ───カルマの要素があるということは再生もあるということでしょうか。

 「再生はあります。しかし一般に言われている形(機械的輪廻転生)での生れ変わりではありません。霊界には無数の側面をもった、霊的ダイヤモンドとでもいうべきものがあります。その側面が全体としての光沢と輝きを増すための体験を求めて地上へやってまいります。

これでお分かりのように、地上へ生まれてきたパーソナリティは一個のインディビジュアリティの側面の一つということになります。少しも難しいことではないのですが、人間はそれを勘違いして〝私は前世はだれそれで、次はまた別の人間に生れ変わります〟などと言います。そういうものではありません。

生まれてくるのはダイヤモンド全体に寄与する一つの側面です。その意味での再生はあります。地上で発揮するのは大きなインディビジュアリティのごくごく小さな一部分にすぎません。

 かくして皆さんのおっしゃる類魂(グループソール)というものがあることになります。つまり霊的親族関係を有する霊の集団が一つの統一体を構成しており、それが全体としての進化を目的として、いろんな時代にいろんな土地に生れてその体験を持ち帰るわけです」


 ───インディビジュアリティがパーソナリティのひとかけらなのですか。それともその反対ですか。

 「パーソナリティがインデビジュアリティのひとかけらです」


 ───みんなグループソールに属しているとなると、仲間の良い体験の恩恵をこうむると同時に、良くない体験の悪影響も忍ばねばならないのでしょうか。

 「その通りです。それが全体に寄与するのだと思えば、それも有難い体験です」


 ───ということは、私が今苦しい思いをするのは必ずしも私自身のせいではないわけですね?

 「そう認識なさることで安らぎをお感じになるのであれば、そうお考えになられて結構です。一つだけ秘密のカギをお教えしましょう。叡智が増えれば増えるほど選択の余地が少なくなるということです。増えた叡智があなたの果たすべき役割を迷うことなく的確に指示します。

われわれはみずからの意志でこの道を志願した以上は、使命が達成されるまで頑張らねばなりません。あなた方はこの道をみずから選択なさったのです。ですから他に選択の余地はないことになります。

 叡智というものは受け入れる用意ができた時にのみ与えられるものです。それが摂理なのです。私は使命を要請され、それを受諾しました。本日皆さんがこの私を招待してくださったということは、高級界のマウスピースとして、その叡智を取り次ぐという仕事において幾らかでも成功していることを意味していると受け取らせていただきます。

 肉体的血縁関係が終わっても、永遠に消えることのない霊的親族関係というものが存在します。それは永遠に続きます。結びつける絆は物質ではなく霊です。物質は儚い存在ですが、霊は永遠です」

 《われわれはここで改めて気を引き締めて仕事に邁進し、一人でも多くの人を神の照明のもとに導いてあげないといけません。われわれのもとを訪れる魂が永遠の絆である霊によるつながりを強化するのを手助けして、無限の恩恵の可能性を秘めたその霊力の働きかけを受け止められるようにしてあげないといけません。

それがわれわれ全員がたずさわっている仕事の一環です。生命の原理、霊的真理の基本を忘れないようにしましょう。それさえ確保しておれば、存在の目的を成就していることになるからです。
                                                                                         シルバーバーチ

Tuesday, December 30, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

七章  天界の高地



4 宇宙の深奥を覗く    

 一九一三年クリスマス・イブ

 以上、私は天界の高地における科学について語ってみたが、この話題をこれ以上続けても貴殿にとりてはさして益はあるまい。何となればそこで駆使される叡智も作業も貴殿には殆ど理解できぬ性質のものだからである。

無理をして語り聞かせてもいたずらに困惑させるのみで、賢明とは思えない。そこで私はもう少し簡単に付け加えた後別の話題へ進もうと思う。

 あのあと私は次の階へ上がってみたが、そこでは又ひきも切らぬ作業の連続で、夥しい数の人が作業に当たっていた。各ホールを仕切っている壁はすべて情報を選別するため、ないしはそれに類似した仕事に役立てられている。地上の建物に見る壁のように、ただのっぺりとしているのではない。

様々な色彩に輝き、各種の装置が取り付けられ、浮彫り細工が施されている。すべてが科学的用途を持ち、常に監視され、操作の一つ一つが綿密に記録され検討を加えられた上で所期の目標へ送り届けられる。その建物の中の他の部門だけに限らない。必要とあれば上の界へも下の界へも届けられる。

 案内の方が屋上へも案内して下さった。そこからは遠くまでが一望のもとに見渡せる。下へ目をやれば私が登ってきた森が見える。その向こうには高い峰が連なり、それらが神々しい光に包まれて、あたかも色とりどりの宝石の如くキラキラと輝いて見える。

その峰の幾つかは辺りに第十一界から届く幽玄な美しさが漂い、私のような第十界の者の視力に映じないほど霊妙化された霊的存在に生き生きと反応を示しているようであった。

 そうした霊は第十一界から渡来し、第十界のための愛の仕事に携わっていることが判った。それを思うと、吾が身を包む愛と力に感激を禁じ得ず、ただ黙するのみであった。それが百万言を弄するより遥かに雄弁に私の感激を物語っていたのである。

 こうして言うに言われぬ美を暫し満喫していると、案内の方がそっと私の肩に手を置いてこう言われた。

 「あれに見えるのが〝天界の高地〟です。あの幽玄な静寂にはあなたの魂を敬虔と畏敬と聖なる憧憬で満たしてくれるものがあるでしょう。あなたは今あなたの現時点で到達しうるぎりぎりの限界に立っておられます。ここへ来られて、今のあなたの力では透徹し得ない境涯を発見されたはずです。

しかし私たちは聖なる信託として、そして又、思慮分別をもって大切に使用すべきものとして、ベールで被われた秘密を明かす力を授かっており、尋常な視力には映じないものを見通すことが出来ます。如何ですか。あなたもしばしの間その力の恩恵に浴し、これまで見ることを得なかった秘密を覗いてみたいと思われませんか。」

 私は一瞬返事に窮した。そして怖れに似たものさえ感じた。なぜなら、すでにここまで見聞きしたものですら私にとってはやっと耐え得るほどの驚異だったからである。

しかし、しばらく考えた挙句に私は、すべてが神の愛と叡智によって配剤されているからには案ずることは絶対に有るまいとの確信に到達し、〝全てお任せいたします〟と申し上げた。その方も〝そうなさるがよい〟と仰せられた。

 そう言うなり、その方は私を置き去りにして屋上に設けられた至聖所の中へ入られた。そしてしばし(私の推察では)祈りを捧げられた。

 やがて出て来られた時にすっかり変身しておられた。衣装はなく、眉のあたりに宝石を散りばめた飾り輪を着けておられるほかは何一つ身につけておられない。あたりを包む躍動する柔らかい光の中に立っておられる姿の美しいこと。

光輝はますます明るさを増し、ついには液体のガラスと黄金で出来ているような様相を呈してきた。私はその眩しさに思わず下を向き、光を遮ったほどであった。

 その方が私に、すぐ近くまで来るようにと仰せられた。言われるまま前に立つとすぐ私の後ろへ回られ、眩しくないようにと配慮しつつ私の両肩に手を置いて霊力を放射しはじめた。

その光はまず私の身体を包み、さらに左右が平行に延びて、それが遠方の峰から出ている光と合流した。つまり私の前に光の道ができ、その両側も光の壁で仕切られたのである。その空間は暗くはなかったが、両側の光に較べれば光度は薄かった。

 その光の壁は言うなれば私のすぐ後ろを支点として扇状に広がり、谷を横切り、山頂を越えて突き進み、私の眼前に広大な光の空間が広がっていた。その炎の如き光の壁は私の視力では突き通すことは出来なかった。

 そこで背後から声がして〝空間をよく見ているように〟と言われた。見ていると、これまで数々の美と驚異とを見てきた、そのいずれにも増して驚異的な現象が展開し始めた。

 その二本の光の壁の最先端が、針の如くそそり立った左右の山頂に当たった。するとまずその左手の山頂に巨大な神殿が出現し、その周りに、光の衣をまとった無数の天使が群がり、忙しく動き回っている。さらに神殿の高いポーチの上に大天使が出現し、手に十字架を携え、それをあたかも遠くの界の者に見せるように高々と持ち上げている。

その十字架の横棒の両端に一人ずつ童子が立っており、一人はバラ色の衣装をまとい、もう一人は緑と茶の衣装をまとっている。その二人の童子が何やら私に理解できない歌を合唱し、歌い終わると二人とも胸に両手を当て、頭を垂れて祈った。

 次に右方向を見るように促されて目をやると、今度は全く別の光景が展開した。遥か彼方の山腹に〝玉座〟が見えたのである。光と炎とが混じりあった赫々(カクカク)たる光輝の中に女性の天使が坐し、微動だにせぬ姿で遥か彼方へ目をやっておられる。

薄地の布を身にまとい、それを通して輝く光は銀色に見える。が頭上にはスミレ色に輝くものが浮いており、それが肩と背中のあたりまで垂れ下がり、あたかもビロードのカーテンを背景にした真珠のように、その天使を美しく浮き上がらせていた。

 そのまわりと玉座のたもとにも無数の男女の霊の姿が見える。静かに待機している。いずれ劣らぬ高級霊で、その光輝は私よりも明るいが、優雅な落ち着きの中に座しておられる女性天使の輝きには劣る。

お顔に目をやってみた。それはまさに愛と哀れみから生じる緻密な心遣いが漂い、その目は高き叡智と偉力の奥深さを物語っていた。両の手を玉座の肘掛けに置いておられ、その両腕と両脚にも力強さが漂っていたが、そこにはおのずから母性的優しさが程よく混じっていた。

 その天使が突如として動きを発せられた。そこを指さし、あそこを指さし、慌てず、しかし機敏に、てきぱきと命令を下された。

 それに呼応して従者の群れが一斉に動き始めた。ある一団は電光石火の勢いで遥か遠くへ飛び、別の一団は別の彼方へ飛ぶ。馬に跨って虚空へ飛翔する一団もいる。流れるような衣装をまとった者もいれば、鎧の如きもので身を固めた者もいる。

男性のみの一団もあれば女性のみの一団もあり、男女が入り混じった一団もある。

それら各霊団が一斉に天空を翔けて行く時の様子は、あたかも一瞬のうちに天空にダイヤモンドとルビーとエメラルドを散りばめたようで、その全体を支配する色彩が、唖然として立ちすくむ私に照り返ってくるのであった。

 こうして私の前に扇形に伸びる光が地平線上を一周して照らし出して行くと、いずれの方角にも必ず私にとって新しい光景が展開された。

その一つ一つが性格を異にしていたが、美しさは何れ劣らぬ美事なものであった。こうして私は、曽て見てきた神の仕事に携わる如何なる霊にも勝る高き神霊の働く姿を見せていただいた。

そのうち、その光が変化するのを見て背後にいた案内の方が再び至聖所へ入られたことを悟った時、私はあまりの歓喜に思わず溜め息を洩らし、神の栄光に圧倒されて、その場にしゃがみ込んでしまった。

吾々が下層界のために働くのと同じように、高き神霊もまた常に吾々を監視し吾々の需要のために心を砕いて下さっている様を目のあたりにしたのであった。

 かくして私が悟ったことは、下界の全界層は上層界に包含され、一界一界は決して截然と区別されておらず、どれ一つとして遠く隔離されていないということである。私の十界には下層界の全てが包含され、同時にその第十界も下層界と共に上層界に包含されているということである。

この事実は吾々の界まで瞭然と理解できる。が、さらに一界又一界と進むにつれて複雑さと驚異とを増して行き、その中には、僅かずつ、ほんの僅かずつしか明かされない秘密もあると聞く。私は今やそのことに得心がゆき、秘密を明かしていただける段階へ向けての一層の精進に真一文字に邁進したいものと思う。

 ああ、吾らが神の驚異と美と叡智! 私がこれまでに知り得たものをもって神の摂理の一欠けらに過ぎぬと言うのであれば、その全摂理は果たしていかばかりのものであろうか。そして如何に途方もないものであろうか。

 天界の低い栄光さえも人間の目にはベールによって被われている。人間にとっては、それを見出すことは至難のわざである。が、それでよいのである。秘宝はゆっくりと明かされて行くことで満足するがよい。なぜなら、神の摂理は愛と慈悲の配慮をもって秘密にされているからである。

万が一それが一挙に明かされようものなら、人間はその真理の光に圧倒され、それを逆に不吉なものと受け取り、それより幾世紀にも亘って先へ進むことを恐れるようになるであろう。私はこの度の体験によってそのことを曽てなかったほど身に沁みて得心したのである。

佳きに計らわれているということである。万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。 ♰










シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

七章  天界の高地


5 霊格と才能の調和

一九一三年一二月二七日 土曜日

さて、こうして私の界を遥かに超えた上層界の驚異を目の当たりにすることを許されたことは、実に有難き幸せであった。私はその後いろいろと思いをめぐらせた。

そして私にその体験をさせた意図と動機とをある程度まで理解することができた。が、目の当たりにした現象の中にはどうしても私一人の力では理解できないものが数多くあった。その一つが次のような現象である。

 二つの光の壁によって仕切られた扇形の視界の中に展開したのは深紅の火焔の大渦であった。限りなく深い底から巨大な深紅の炎の波が次から次へと噴出し、その大きなうねりが互いに激突し合い、重なり合い、左右に揺れ動き、光の壁に激突しては炎のしぶきを上げる。

世紀末的大惨事はかくもあろうかと思われるような、光と炎の大変動である。その深紅の大渦のあまりの大きさに私の魂は恐怖におののいた。

 「どうか目を逸らせてください。お願いです。もう少し穏やかなものにして下さい。私にはあまりに恐ろしくて、これ以上耐え切れません。」

 私がそうお願いすると、背後からこういう返答が聞こえた。

 「今しばらく我慢するがよい。そのうち恐ろしさが消えます。あなたが今見ておられるのはこの先の上層界です。その最初が第十一界となります。この光が第何界のものであるかは、後で記録を調べてみないことには、私にも判りかねます。

その記録はこの施設にはなく、もう一つ、ここからかなり遠く離れたところにある別の施設にあります。今あなたが恐怖をもって眺めておられるこの光は第十三界かも知れないし第十五界かも知れない。それは私にも判りません。

ただ一つだけ確かなことは、主イエス・キリストが在(ましま)すのは実にあの光の中であり、あなたの目に映じている深紅の光彩は主と、主に召された者との交わりの栄光の反映であるということです。

しっかりと見つめられよ。これほど見事に見られることは滅多にありません。では私がそのさらに奥の深いところを見させてあげましょう。」

そう言い終わるなり、背後からのエネルギーが強化されるのが感じられ、私もその厚意に応えるべく必死に努力をした。が、空しい努力に終わった。やはり私の力の及ぶところではないことを悟った。

すでに叙述したもの以外に見えたものと言えば、その深紅の光の奥に何やら美しい影が動めくのが見えただけであった。炎の人影である。ただそれだけであった。私は目を逸らせてほしいと再度お願いした。もう哀願に近いものになっていた。

そこでようやく聞き入れて下さった(光が変化したと述べたのはその時である)。それ以後、何も見えなくなった。見たいという気持ちも起きなかった。あたりはそれまでとは対照的に、くすんだ静けさに一変している。

それを見て私は心ひそかに、あの世界へ行かれぬ自分、さぞかし美と生の喜びに満ちあふれていることであろう世界に生きる神霊の仲間入りができない自分を情けなく思ったことであった。それから次第に普段の意識を回復した。

そして案内の方が至聖所から普段のお姿で出てこられた時には、私のような者にこれほどの光栄を給わったことに厚く礼を述べられるほどになっていた。

 さて、その高い楼閣での仕事について述べられるものとして、他に一体何があるであろうか。と言うのは、貴殿もよく心得てほしいことであるが、吾々の生活と出来ごとで人間に理解できることは極めて僅かしかないのである。

それ故、貴殿に明かすものについて私は細心の注意を払わねばならない。つまり貴殿の精神の中において何とか再現し、地上の言語で表現できるものに限らねばならないのである。

 その驚異的現象が終わったあとも二人は暫し屋上に留まり、下方の景色へ目をやった。遥か遠く、第九界の方角に大きな湖が見える。樹木の生い茂った土地に囲まれ、そこここに島々が点在し、木蔭に佇む家もあれば高く聳え立つ楼閣もある。

岸に沿った林の中のそこここに小塔が聳えている。私は案内の方にそこがいかなる居住地(コロニー)であるかを尋ねた。その配置の様子が見事で、いかにも一つのコロニーに見えたからである。

 するとこういう返答であった。実はかなり昔のことであるが、この界へ到来する者の処遇にちょっとした問題が生じたことがあった。

それは、皆が皆、必ずしも全ての分野で平均的に進化しているとは限らない──例えば宇宙の科学においては無知な部門もある・・・・・・いや、どうもこういう説明の仕方ではすっきりしない。もう少し分かり易く説明しよう。

 魂に宿された才能を全てまんべんなく発達させている者も居れば、そうでない者もいる。もとより、いずれ劣らぬ高級霊である点においては異存はない。

だからこそこの第十界まで上昇して来たのである。が中には、もし持てる才能をまんべんなく発達させておれば、もっと速やかにこの界へ到達していたであろう者がいるということである。

 更に、そうした事情のもとでようやく到達したこの界には、それまでの才能では用を為さない環境が待ち受けている。それ故、何れは是が非でも才能をまんべんなく発達させ、より円満にする必要性が生じてくるのである。

 さきのコロニーの設立の必要性を生ぜしめた問題はそこにあった。あそこにおいて他人への援助と同時に自己の修養に励むのである。貴殿にはそれがなぜ問題であるのか不審に思えるかも知れないが、そう思うのは、この界を支配する諸条件が地上とは比較にならぬほど複雑さを持った完全性を具えているからに他ならない。

 あのコロニーの住民の霊格はある面ではこの十界の程度でありながら、他の面ではすでに十一界あるいは十二界の程度まで進化していることもある。そこで次のような厄介な問題が生じる。すなわち霊力と霊格においてはすでに今の界では大きすぎるものを具えていながら、さりとて次の界へは行かれない。

無理して行けば発達の遅れた面が災いして大失策を演じ、それが原因で何界も下層へ後戻りせざるを得なくなるかもしれない。そこはそこで又、居づらいことであろう。

 以上の説明で理解してもらえるであろうか。例えば魚が水から出されて陸(おか)に置かれたら大変である。反対に哺乳動物が森から水中へ入れられたら、これ又死ぬに決まっている。両生類は水と陸の両方があって初めて生きて行ける。陸地だけでは生理に異常を来すし、水の中だけでもやはり異常を来す。

 無論あのコロニーの生活者がこれと全く同じ状態であるというわけではない。が、こうした譬えによって彼らの置かれた特殊な境遇について大よその理解がいくであろう。彼らにとって第十界にいることは、あたかもカゴに入れられた小鳥同然であり、さりとて上層界へ行くことは炎の中へ飛び込む蛾も同然なのである。


──結局どういう取り扱いを受けるのでしょうか。

 自分で自らを律していくのである。私の信じるところによれば、彼らは今まさにその問題点に関する最高の解決策を見出しつつあるところであろう。

首尾よく解決した暁には、彼らはこの十界に対しても貢献したことになり、その功績はこののちのために大切に記録されることであろう。こうしたことが各種の分野において行われており、思うに、彼らは今では自分の得意とする能力に応じて組分けされ、一種の相互補完のシステムによって働くことが可能となっているであろう。

つまり各クラスの者が自分たちの所有している徳と霊力とを、それを欠く他のクラスの者に育ませるように努力するということである。全クラスがそれぞれにそう努力し、そこに極めて複雑な協調的教育が生まれる。

極めて入り組んだ教育組織となっているため、高地に住む者さえ分析不可能なほどである。いずれそこから何ものかが生み出され、機が熟せば、この界の霊力と影響力とを増すことであろう。それも多分、極めて大規模な形で寄与することになるものと私には思えるのである。

 かくして相互的な寄与が行われる。進化の真の喜びは自らの向上の道において同胞を向上の道に誘(いざな)うことの中にこそ味わえるものである。そうではなかろうか。 ♰

 では祝福とお寝みを申上げよう。

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen
七章  天界の高地

4 宇宙の深奥を覗く    

 
一九一三年クリスマス・イブ

 以上、私は天界の高地における科学について語ってみたが、この話題をこれ以上続けても貴殿にとりてはさして益はあるまい。何となればそこで駆使される叡智も作業も貴殿には殆ど理解できぬ性質のものだからである。

無理をして語り聞かせてもいたずらに困惑させるのみで、賢明とは思えない。そこで私はもう少し簡単に付け加えた後別の話題へ進もうと思う。

 あのあと私は次の階へ上がってみたが、そこでは又ひきも切らぬ作業の連続で、夥しい数の人が作業に当たっていた。各ホールを仕切っている壁はすべて情報を選別するため、ないしはそれに類似した仕事に役立てられている。地上の建物に見る壁のように、ただのっぺりとしているのではない。

様々な色彩に輝き、各種の装置が取り付けられ、浮彫り細工が施されている。すべてが科学的用途を持ち、常に監視され、操作の一つ一つが綿密に記録され検討を加えられた上で所期の目標へ送り届けられる。その建物の中の他の部門だけに限らない。必要とあれば上の界へも下の界へも届けられる。

 案内の方が屋上へも案内して下さった。そこからは遠くまでが一望のもとに見渡せる。下へ目をやれば私が登ってきた森が見える。その向こうには高い峰が連なり、それらが神々しい光に包まれて、あたかも色とりどりの宝石の如くキラキラと輝いて見える。

その峰の幾つかは辺りに第十一界から届く幽玄な美しさが漂い、私のような第十界の者の視力に映じないほど霊妙化された霊的存在に生き生きと反応を示しているようであった。

 そうした霊は第十一界から渡来し、第十界のための愛の仕事に携わっていることが判った。それを思うと、吾が身を包む愛と力に感激を禁じ得ず、ただ黙するのみであった。それが百万言を弄するより遥かに雄弁に私の感激を物語っていたのである。

 こうして言うに言われぬ美を暫し満喫していると、案内の方がそっと私の肩に手を置いてこう言われた。

 「あれに見えるのが〝天界の高地〟です。あの幽玄な静寂にはあなたの魂を敬虔と畏敬と聖なる憧憬で満たしてくれるものがあるでしょう。あなたは今あなたの現時点で到達しうるぎりぎりの限界に立っておられます。ここへ来られて、今のあなたの力では透徹し得ない境涯を発見されたはずです。

しかし私たちは聖なる信託として、そして又、思慮分別をもって大切に使用すべきものとして、ベールで被われた秘密を明かす力を授かっており、尋常な視力には映じないものを見通すことが出来ます。如何ですか。あなたもしばしの間その力の恩恵に浴し、これまで見ることを得なかった秘密を覗いてみたいと思われませんか。」

 私は一瞬返事に窮した。そして怖れに似たものさえ感じた。なぜなら、すでにここまで見聞きしたものですら私にとってはやっと耐え得るほどの驚異だったからである。

しかし、しばらく考えた挙句に私は、すべてが神の愛と叡智によって配剤されているからには案ずることは絶対に有るまいとの確信に到達し、〝全てお任せいたします〟と申し上げた。その方も〝そうなさるがよい〟と仰せられた。

 そう言うなり、その方は私を置き去りにして屋上に設けられた至聖所の中へ入られた。そしてしばし(私の推察では)祈りを捧げられた。

 やがて出て来られた時にすっかり変身しておられた。衣装はなく、眉のあたりに宝石を散りばめた飾り輪を着けておられるほかは何一つ身につけておられない。あたりを包む躍動する柔らかい光の中に立っておられる姿の美しいこと。

光輝はますます明るさを増し、ついには液体のガラスと黄金で出来ているような様相を呈してきた。私はその眩しさに思わず下を向き、光を遮ったほどであった。

 その方が私に、すぐ近くまで来るようにと仰せられた。言われるまま前に立つとすぐ私の後ろへ回られ、眩しくないようにと配慮しつつ私の両肩に手を置いて霊力を放射しはじめた。

その光はまず私の身体を包み、さらに左右が平行に延びて、それが遠方の峰から出ている光と合流した。つまり私の前に光の道ができ、その両側も光の壁で仕切られたのである。その空間は暗くはなかったが、両側の光に較べれば光度は薄かった。

 その光の壁は言うなれば私のすぐ後ろを支点として扇状に広がり、谷を横切り、山頂を越えて突き進み、私の眼前に広大な光の空間が広がっていた。その炎の如き光の壁は私の視力では突き通すことは出来なかった。

 そこで背後から声がして〝空間をよく見ているように〟と言われた。見ていると、これまで数々の美と驚異とを見てきた、そのいずれにも増して驚異的な現象が展開し始めた。

 その二本の光の壁の最先端が、針の如くそそり立った左右の山頂に当たった。するとまずその左手の山頂に巨大な神殿が出現し、その周りに、光の衣をまとった無数の天使が群がり、忙しく動き回っている。さらに神殿の高いポーチの上に大天使が出現し、手に十字架を携え、それをあたかも遠くの界の者に見せるように高々と持ち上げている。

その十字架の横棒の両端に一人ずつ童子が立っており、一人はバラ色の衣装をまとい、もう一人は緑と茶の衣装をまとっている。その二人の童子が何やら私に理解できない歌を合唱し、歌い終わると二人とも胸に両手を当て、頭を垂れて祈った。

 次に右方向を見るように促されて目をやると、今度は全く別の光景が展開した。遥か彼方の山腹に〝玉座〟が見えたのである。光と炎とが混じりあった赫々(カクカク)たる光輝の中に女性の天使が坐し、微動だにせぬ姿で遥か彼方へ目をやっておられる。

薄地の布を身にまとい、それを通して輝く光は銀色に見える。が頭上にはスミレ色に輝くものが浮いており、それが肩と背中のあたりまで垂れ下がり、あたかもビロードのカーテンを背景にした真珠のように、その天使を美しく浮き上がらせていた。

 そのまわりと玉座のたもとにも無数の男女の霊の姿が見える。静かに待機している。いずれ劣らぬ高級霊で、その光輝は私よりも明るいが、優雅な落ち着きの中に座しておられる女性天使の輝きには劣る。

お顔に目をやってみた。それはまさに愛と哀れみから生じる緻密な心遣いが漂い、その目は高き叡智と偉力の奥深さを物語っていた。両の手を玉座の肘掛けに置いておられ、その両腕と両脚にも力強さが漂っていたが、そこにはおのずから母性的優しさが程よく混じっていた。

 その天使が突如として動きを発せられた。そこを指さし、あそこを指さし、慌てず、しかし機敏に、てきぱきと命令を下された。

 それに呼応して従者の群れが一斉に動き始めた。ある一団は電光石火の勢いで遥か遠くへ飛び、別の一団は別の彼方へ飛ぶ。馬に跨って虚空へ飛翔する一団もいる。流れるような衣装をまとった者もいれば、鎧の如きもので身を固めた者もいる。

男性のみの一団もあれば女性のみの一団もあり、男女が入り混じった一団もある。

それら各霊団が一斉に天空を翔けて行く時の様子は、あたかも一瞬のうちに天空にダイヤモンドとルビーとエメラルドを散りばめたようで、その全体を支配する色彩が、唖然として立ちすくむ私に照り返ってくるのであった。

 こうして私の前に扇形に伸びる光が地平線上を一周して照らし出して行くと、いずれの方角にも必ず私にとって新しい光景が展開された。

その一つ一つが性格を異にしていたが、美しさは何れ劣らぬ美事なものであった。こうして私は、曽て見てきた神の仕事に携わる如何なる霊にも勝る高き神霊の働く姿を見せていただいた。

そのうち、その光が変化するのを見て背後にいた案内の方が再び至聖所へ入られたことを悟った時、私はあまりの歓喜に思わず溜め息を洩らし、神の栄光に圧倒されて、その場にしゃがみ込んでしまった。

吾々が下層界のために働くのと同じように、高き神霊もまた常に吾々を監視し吾々の需要のために心を砕いて下さっている様を目のあたりにしたのであった。

 かくして私が悟ったことは、下界の全界層は上層界に包含され、一界一界は決して截然と区別されておらず、どれ一つとして遠く隔離されていないということである。私の十界には下層界の全てが包含され、同時にその第十界も下層界と共に上層界に包含されているということである。

この事実は吾々の界まで瞭然と理解できる。が、さらに一界又一界と進むにつれて複雑さと驚異とを増して行き、その中には、僅かずつ、ほんの僅かずつしか明かされない秘密もあると聞く。私は今やそのことに得心がゆき、秘密を明かしていただける段階へ向けての一層の精進に真一文字に邁進したいものと思う。

 ああ、吾らが神の驚異と美と叡智! 私がこれまでに知り得たものをもって神の摂理の一欠けらに過ぎぬと言うのであれば、その全摂理は果たしていかばかりのものであろうか。そして如何に途方もないものであろうか。

 天界の低い栄光さえも人間の目にはベールによって被われている。人間にとっては、それを見出すことは至難のわざである。が、それでよいのである。秘宝はゆっくりと明かされて行くことで満足するがよい。なぜなら、神の摂理は愛と慈悲の配慮をもって秘密にされているからである。

万が一それが一挙に明かされようものなら、人間はその真理の光に圧倒され、それを逆に不吉なものと受け取り、それより幾世紀にも亘って先へ進むことを恐れるようになるであろう。私はこの度の体験によってそのことを曽てなかったほど身に沁みて得心したのである。

佳きに計らわれているということである。万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。 ♰

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch by Stella Storm


十章 質問に答える ───イエス・キリストについて   
       
 地上の歴史の中で最大の論争の的とされている人物すなわちナザレのイエスが、その日の交霊会でも質問の的にされた。


 まず最初に一牧師からの投書が読み上げられた。それにはこうあった。〝シルバーバーチ霊はイエス・キリストを宇宙機構の中でどう位置づけているのでしょうか。また、<人間イエス>と<イエス・キリスト>とはどこがどう違うのでしょうか〟

 これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「ナザレのイエスは地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜の最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。

 イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と変わらぬ一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが地上に流入したことは前にも後にもありません。

イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦礫の下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

 そのために彼はまず自分へ注目を惹くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。彼は一度たりともそれを邪なことに使ったことはありませんでした。

 またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も廃止も干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を惹くようになりました。

そこでイエスは、人間が地球という惑星上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊格者が説いてきたのと同じ、単純で永遠に不変で基本的な霊の真理を説くことを始めたのです。


 それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大へんな改ざんがなされていることです。

ずいぶん多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話はぜんぶ割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから。

 もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後いっそう開発された霊力を駆使して、愛する人類のために働いておられるのです。イエスは神ではありません。全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではありません。

 いくら立派な位であっても、本来まったく関係のない位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんではありません。父なる神の右に座しているとか、〝イエス〟と〝大霊〟とは同一義であって置きかえられるものであるなどと主張しても、イエスは少しもよろこばれません。

 イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にヒザを折り平身低頭して仕える必要はないのです。それよりもイエスの生涯を人間の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。
 以上、大へん大きな問題についてほんの概略を申し上げました」


 メンバーの一人が尋ねる。
   ───〝キリストの霊〟Christ spiritとは何でしょうか。

 「これもただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを示すために聖油を注がれた時代がありました。それは大てい王家の生まれの者でした。キリストと言う言葉は〝聖油を注がれた〟という意味です。

それだけのことです」 (ユダヤでそれに相応しい人物はナザレのイエス Jesus だという信仰が生まれ、それで Jesus Christ と呼ぶようになり、やがてそれが固有名詞化していった───訳者)


───イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったとおっしゃるのが私にはどうしても理解できません。

 「私は決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。私が申し上げたのは地上を訪れた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊格者の系譜の中でイエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。

イエスの生活が完全であったとは一度も言っておりません。それは有り得ないことです。なぜなら彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」



 ───イエスの教えは最高であると思われますか。 

 「不幸にしてイエスの教えはその多くが汚されてしまいました。私はイエスの教えが最高であるとは言っておりません。私が言いたいのは、説かれた教訓の精髄は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど心霊的法則を使いこなした例は地上では空前絶後であるということです」


 ───イエスの教えがその時代の人間にとっては進み過ぎていた───だから理解できなかった、という観方は正しいでしょうか。

 「そうです。おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は彼らにとって成功であることが時代的に見れば失敗であり、逆に彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」

(※ George Lansbury は一九三一~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次世界大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じてヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppard についてはアメリカーナ、ブリタニカの両百科全書、その他の人名辞典にも見当たらない───訳者)


───イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の大根源であると考えてよろしいでしょうか。


 「いえ、それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し自在に使いこなすことができたからです。皆さんにぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、

つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた間違いが多かったにもかかわらず、あれほどの短い期間に全世界に広まりそして今日まで生き延びて来たのは、イエスが常に霊力と調和していたからだということです」


(訳者注───霊力との調和というのは、ここでは背後霊団との連絡がよく取れていたという意味である。『霊訓』のインペレーターによると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。

地上生活中のイエスは早くからそのことに気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体離脱し、その背後霊団と直接交わって連絡を取り合っていたという)


───(かつてのメソジスト派の牧師)いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできます。

 「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異論を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。

教えそのものと、その教えを取り違えしかもその熱烈信仰によってかえってイエスを何度もはりつけにするような間違いを犯している信奉者とを混同しないようにしなければなりません。

  イエスの生涯をみて私はそこに、物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完全で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった───自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。

イエスは一度たりとも自ら課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的に使用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

 どうもうまく説明できないのですが、イエスも生を受けた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味で完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派なそして大きな仕事ができる時代が来ると述べた意味がなくなります。 

 イエスという人物を指さして〝ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時はあれほどのことが出来るのですよ〟 と言える、そういう人間だったと考えればいいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。

しかもそのイエスは私たちの世界においても、私の知るかぎりでの最高の霊格を具えた霊であり、自分を映す鏡としてイエスに代わる者はいないと私は考えております。

 私がこうしてイエスについて語る時、私はいつも〝イエス崇拝〟を煽ることにならなければよいがという思いがあります。それが私が〝指導霊崇拝〟 に警告を発しているのと同じ理由からです(八巻P18参照)。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は理性と常識と知性をもって行わないといけません。

書物からも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人が良いと言ったから、賢明だと言ったから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断基準です。

 例えその後一段と明るい知識に照らしだされた時にあっさり打ち棄てられるかも知れなくても、今の時点でこれだと思うものを採用すべきです。たった一冊の本、一人の師、一人の指導霊ないしは支配霊に盲従すべきではありません。

 私とて決して無限の叡智の所有者ではありません。霊の世界のことを私が一手販売しているわけではありません。地上世界のために仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。私は完全であるとか絶対に間違ったことは言わないなどとは申しません。あなた方と同様、私もいたって人間的な存在です。

私はただ皆さんより人生の道のほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が私に少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしも私の言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線を私といっしょに眺めませんかとお誘いしているわけです」


 霊言の愛読者の一人から「スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して 〝最後の晩餐〟 の儀式を行うべきでしょうか」という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチがこう答えた。

 「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって身体的に、精神的に、あるいは霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれは最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、私自身にはそういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。

そんなことをしたからといってイエスは少しも有難いとは思われません。私にとっても何の益にもなりません。否、霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

 イエスに対する最大の貢献はイエスを模範と仰ぐ人々がその教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人すべてに手を差しのべてあげることです。

 儀式よりも生活の方が大切です。宗教とは儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。〝聖なる書〟 と呼ばれている書物から活字のすべてを抹消してもかまいません。賛美歌の本から 〝聖なる歌〟 を全部削除してもかまいません。

儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に 〝宗教的〟 で有りうるのです。そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。

 私は皆さんの関心を儀式へ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく生活そのものです。生活の中で何をなすかです。どういう行いをするかです。〝最後の晩餐〟 の儀式がイエスの時代よりもさらにさかのぼる太古にも先例のある由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」


 別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて───

 「他人のためになることをする───これがいちばん大切です。私の意見は単純明快です。宗教には〝古い〟ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関係もないものばかりだということです。

 私にとって宗教とは崇拝することではありません。祈ることでもありません。審議会において人間の頭脳が考え出した形式的セレモニーでもありません。私はセレモニーには興味はありません。

それ自体は無くてはならないものではないからです。しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、無理してそれを止めさせる理由はありません。

 私自身としては、幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具はかたづけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係───これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えと何の関係もありません」 


───支配霊や指導霊の中にはなぜ地上でクリスチャンだった人が少ないのでしょうか。

 「少ないわけではありません。知名度が低かった───ただそれだけのことです。地上の知名度の高い人も実はただの代弁者(マウスピース)にすぎないことをご存知ないようです。

つまり彼らの背後では有志の霊が霊団やグループを結成して仕事を援助してくれているということです。その中にはかつてクリスチャンだった人も大勢います。もっとも、地上で何であったかは別に問題ではありませんが・・・・・・」


───キリスト教の教えも無数の人々の人生を変え、親切心や寛容心を培ってきていると思うのです。そういう教えを簡単に捨てさせることが出来るものでしょうか。

 「私は何々の教えという名称には関心がありません。私が関心をもつのは真理のみです。間違った教えでもそれが何らかの救いになった人がいるのだからとか、あえてその間違いを指摘することは混乱を巻き起こすからとかの理由で存続させるべきであるとおっしゃっても、私には聞こえません。

一方にはその間違った教えによって傷ついた人、無知の牢に閉じ込められている人、永遠の苦悶と断罪の脅迫によって悲惨な生活を強いられている人が無数にいるからです。

 わずかばかり立派そうに見えるところだけを抜き出して〝ごらんなさい。まんざらでもないじゃありませんか〟 と言ってそれを全体の見本のように見せびらかすのは、公正とは言えません。

 霊的摂理についてこれだけは真実だと確信したもの、および、それがどのように働くかについての知識を広めることが私の関心事なのです。あなたのような賢明な方たちがその知識をもとにして生き方を工夫していただきたいのです。そうすることが、個人的にも国家的にも国際的にも、永続性のある生活機構を築くゆえんとなりましょう。

 私は過去というものをただ単に古いものだからとか、威光に包まれているからというだけの理由で崇拝することはいたしません。あなたは過去からあなたにとって筋が通っていると思えるもの、真実と思えるもの、役に立つと思えるもの、心を鼓舞し満足を与えてくれるものを選び出す権利があります。

と同時に、非道徳的で不公正で不合理でしっくりこず、役に立ちそうにないものを拒否する権利もあります。ただしその際に、子供のように純心になり切って、単純な真理を素直に見て素直に受け入れられるようでないといけません」


 いわゆる 〝聖痕(スチグマ)〟について問われて───

 「人間の精神には強力な潜在能力が宿されており、ある一定の信仰や精神状態が維持されると、身体にその反応が出ることがあります。精神は物質より強力です。そもそも物質は精神の低級な表現形態だからです。精神の働きによって物質が自我の表現器官として形成されたのです。

精神の方が支配者なのです。精神は王様であり支配者です。ですから、もしもあなたがキリストのはりつけの物語に精神を集中し、それを長期間にわたって強力に持続したら、あなたの身体に十字架のスチグマが現れることも十分可能です」


 〝大霊の愛〟と、〝己を愛する如く隣人を愛する〟という言葉の解釈について問われて───
 
 「私だったら二つとも簡明にこう解釈します。すなわち自分を忘れて奉仕の生活に徹し、転んだ人を起こしてあげ、不正を駆逐し、みずからの生活ぶりによって神性を受け継ぐ者としてふさわしい人物である事を証明すべく努力する、ということです」