Tuesday, May 19, 2026

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips



八章 真理には無限の側面がある

 作家としても出版業者としても成功をおさめている男性と、心霊知識の普及に健筆を揮っている女性(両者とも氏名は紹介されていない。手掛かりになるものもない──訳者)が招かれた時の様子を紹介する。

 この男性は交霊会は今回が初めてであるが、スピリチュアリズムには早くから親しんでいた。そこでシルバーバーチがこう挨拶した。

 「私はあなたを見知らぬ客としてではなく待ちに待った友として歓迎いたします。どうかサークルの皆さんと思い切り寛いだ気分になっていただき、お互いに学び合ってまいりましょう。

 これまであなたもずいぶん長い道のりを歩んでこられました。けっして楽な道ではありませんでした。石ころだらけの道でした。それをあなたは見事に克服してこられました。あなたご自身にとって、またあなたの愛する方たちにとって重大な意味をもつ決断を下さねばならなかった魂の危機を象徴する、忘れ難い出来ごとが数多くあります」


 これを聞いてその男性は 「少しピンと来ないところがあるのですが」 と述べてから、自分が霊的に飢えていたと言うのはどういう意味かと尋ねた。すると───
p139
 「(通常意識とは別に)あなたの魂が切望していたものがありました。あなたの内部で無意識に求めていたものですが、あなたはその欲求を満たしてやることが出来なかった。

永い間あなたは何かを成就したい、やり遂げたい、我がものにしたいという絶え間ない衝動───抑えようにも抑え難い、荒れ狂ったような心の渇望を意識し、それがしばしば精神的な苦痛を生みました。〝一体自分の心の安らぎはどこに求めたらいいのか。

自分の心の港、心の避難場所はどこにあるのか〟と心の中で叫ばれました。次々と難問は生じるのに回答は見出せませんでした。ですが、いいですか、その心の動乱は実はあなた自身の魂の体質が生んでいたのです。

水銀柱が急速に上昇するかと思えば一気に下降します。あなたは暴発性と沈着性という相反するものを具えたパラドックス的人間です。いかがです、私の言っていることがお分かりになりますか」


───よく分ります。おっしゃる通りです。私なりに偉大な思想家から学ぼうと努力してきたつもりですが・・・・・・

 「私にも真理のすべてをお授けすることはできません。真理は無限であり、あなたも私も同様に有限だからです。
℘140
われわれも無限なるものを宿していることは事実ですが、その表現が悲しいほど不完全です。完全の域に達するまでは真理のすべてを受け入れることはできません。真理とは無限の側面を持つダイヤモンドです。無限の反射光を持つ宝石です。

その光は肉体に閉じ込められた意識では正しく捉らえ難く、その奥の霊の持つ自然の親和力によって手繰り寄せられた部分をおぼろげに理解する程度です。私には〝さあ、これが真理ですよ〟と言えるものは持ち合わせません。あなたが求めておられるものの幾つかについて部分的な解答しかお出しできません。

 あなたは感受性のお強い方です。男性のわりには過敏でいらっしゃいます。それはそれなりの代償を支払わされます。普通の人間には分からないデリケートで霊妙なバイブレーションを感知できるほどの感受性を持っておれば、当然、他の分野でも過敏とならざるを得ません」


───そのことを痛切に思い知らされております。

 「感受性が強いということは喜びも悲しみも強烈となるということです。幸福の絶頂まで上がれるということは奈落の底まで落ちることも有り得るということです。強烈な精神的苦悶を味わわずして霊的歓喜は味わえません。
℘141
二人三脚なのです。私があなたのお役に立てることといえば、たとえ苦境にあってもあなたは決して泥沼に足を取られてにっちもさっちも行かなくなっているのではないこと、何時も背後霊によって導かれているということを理解させてあげることです。

一人ぼっちであがいているのではないということです。幸いなことにあなたは度を過して取り乱すことのない性格をしていらっしゃいます。時には目先が真っ暗に思えることがあっても、自分が望むことは必ず叶えられるとの確信をお持ちです。

 どうぞ自信をもってください。あなたが生きておられるこの宇宙は無限なる愛によって創造され、その懐の中に抱かれているのです。その普遍的な愛とは別に、あなたへ個人的な愛念を抱き、あなたを導き、援助し、利用している霊の愛もあります。それは、よくよくのことがないかぎり自覚していらっしゃいません。私の申し上げたことが参考になりましたでしょうか」


───とても参考になりました。

   ※ ※ ※

 話は前後するが、この交霊会より早く、女性の文筆家が二度招かれていた。この夫人はスピリチュアリズム普及のためにいろいろと書いておられる。が、最近ご主人に先立たれた。シルバーバーチが歓迎の言葉をこう述べた。
℘142
 「あなたのペンの力で生き甲斐を見出してから他界した大勢の人に代わって、私が歓迎の言葉と感謝の気持ちを述べる機会を持つことができて、とてもうれしく思います。私たちにはあなたから慰めを得た人々の心、あなたの健筆によって神の恵みに浴することができた魂が見えるのです。

道を見失える者、疲れ果て困惑しきってあなたのもとを訪れる人々に、あなたは真心を込めて力になってあげられました。自分を人のために役立てること、これが私たちにとって最も大切なのです」


───ご理解いただいているように、ともかく私は人のためにお役に立ちたいのです。

 「私たちの価値判断の基準は地上とは異なります。私たちは、出来ては消えゆく泡沫のような日々の出来ごとを、物質の目でなく魂の知識で見つめます。その意味で私たちは、悲しみの涙を霊的知識によって平静と慰めに置きかえてあげる仕事にたずさわっている人に心から拍手喝采を送るものです。

地上の大方の人間があくせくとして求めているこの世的財産を手に入れることより、たった一人の人間の魂に生甲斐を見出させてあげることの方がよほど大切です。
℘143
 有為転変(ういてんぺん)きわまりない人生の最盛期において、あなたはその肩に悲しみの荷を負い、暗い谷間を歩まねばならないことがありましたが、それもすべては、魂が真実なるものに触れてはじめて見出せる真理を直接(じか)に学ぶためのものでした。

大半の人間がとかく感傷的心情から、あるいはさまざまな魂胆から大切にしたがる物的なものに、必要以上の価値を置いてはいけません。そうまでして求めるほどのものではないのです。いかなる魂をも裏切ることのない中心的大原理即ち霊の原理にしがみつかれることです」
 
 さらにシルバーバーチはその文筆家が主人を亡くしたばかりであることを念頭におきながらこう続けた。

 「あなたが今こそ学ばねばならない大切な教訓は、霊の存在を人生の全ての拠りどころとすることです。明日はどうなるかという不安の念を一切かなぐり捨てれば、きっとあなたも、そのあとに訪れる安らぎと静寂とともに、それまで不安に思っていた明日が実は、これから辿らねばならない道においてあなたを一歩向上させるものをもたらしてくれることに気づかれるはずです。

非常に厳しい教訓ではあります。しかし、すべての物的存在は霊を拠りどころとしていることはどうしようもない事実なのです。
℘144
物的宇宙は全大宇宙を支配する大霊の表現であるからこそ存在し得ているのです。そしてあなたもその身体に生命と活力を与えている大霊の一部であるからこそ存在し得ているのです。物的世界に存在するものはすべて霊に依存しております。言わば実在という光の反射であって、光そのものではないのです。

 私たちとしては、あなた方人間に理想を披歴するしかありません。言葉をいい加減に繕うことは許されません。あなたがもし魂の内部に完全な平静を保つことができれば、外部にも完全な平静が訪れます。

物的世界には自分を傷つけるもの、自分に影響を及ぼすものは何一つ存在しないことを魂が悟れば、真実、この世に克服できない困難は何一つありません。かくして、訪れる一日一日が新しい幸せをもたらしてくれることになります。いかに優れた魂にとっても、そこまでは容易に至れるものではないでしょう。

 しかし人間は苦しい状態に陥ると、それまでに獲得した知識、入手した証拠を改めて吟味しなおすものです。本当に真実なのだろうか、本当にこれでいいのだろうか、と自問します。しかし、これまで何度も申し上げてきたことですが、ここでまた言わせていただきます。万事がうまく行っている時に信念を持つことは容易です。が、

信念が信念としての価値を持つのは暗雲が太陽をさえぎった時です。が、それはあくまでも雲にすぎません。永遠にさえぎり続けるものではありません」
℘145
(訳者注───このあとに続く部分は第四巻の八章「質問に答える」の中で質問(四)として引用されている。次の問答はその続きとしてお読みいただきたい)

───最近の大規模な疎開政策によって家族関係が破壊され、それが責任意識に欠けた若者を生む原因になっていると私は考えるのですが、いかがでしょうか。

 「そういうことも考えられます。が、それがすべてというわけではありません。元来家庭というのは子供の開発成長にとっての理想的単位であるべきなのですが、残念ながらこれにも多くの例外があります。

私が思うに、暴力行為を誘発すると同時に道徳基準を破壊してしまうという点において、やはり何といっても戦争が最大の原因となっております。一方で相手を殺すことを奨励しておいて、他方で戦争になる前のお上品さを求めても、それは無理というものです」

───結局、社会環境を改善するしかないように思います。
℘146
 「そのために霊的実在についての知識を普及することです。自分が霊的存在であり物的存在ではないこと、地上生活の目的が霊性の開発と発達にあることをすべての人間が理解すれば、これほど厄介な野獣性と暴力の問題は生じなくなることでしょう」


 これにサークルのメンバーが 「そうなれば当然戦争などは起こり得ないですね」 と相づちを打つと、シルバーバーチが───

 「人類の全てが霊性を認識し、人類という一つの家族の一員としてお互いの間に霊という不変の絆がありそれが全員を家族たらしめているということを理解すれば、地上から戦争というものが消滅します」


 別のメンバーが 「それがいわゆる不戦主義者の態度なのですね?」と述べると───

 「私はラベルには関心はありません。私はなるべく地上のラベルには係わり合わないようにしております。理想、理念、動機、願望───私にとってはこうしたものが至上の関心事なのです。たとえば自らスピリチュアリストを持って任じている人が必ずしもスピリチュアリズムを知らない人よりも立派とは言えません。

不戦主義者と名のる人がおり、その理念が立派であることは認めますが、問題は結局その人が到達した霊的進化の程度の問題に帰着します。
℘147
不完全な世の中に完全な矯正手段を適用することは出来ません。時には中途半端な手段で間に合わせざるを得ないこともあります。世の中が完全な手段を受け入れる用意が出来ていないからです。

こちらの世界では高級な神霊はまず動機は何かを問います。動機がその行為の指標だからです。もしその動機が真摯なものであれば、その人の願望はまるまる我欲から出たものではないことになり、したがって判断の基準も違ってきます」

(訳者注───最後に述べている〝まるまる我欲から出たものではない〟というセリフは注目すべきであろう。前巻でも注釈しておいたことであるが、シルバーバーチは〝利己性〟をすべていけないものとは見ていない。

霊的なものに目覚めた当初はとかく完全な純粋性を求め、それが叶えられない自分を責めがちであるが、肉体という〝悲しいほど不自由な牢〟に閉じ込められている人間に、そのような完全性を求めるつもりはさらさらないようである。だから〝動機さえ正しければ〟ということになるのである)


 ここで先ほどの女性が 「立派な兵士と真面目な不戦主義者とがともに正しいということもあり得るのですね」 と述べると───
℘148         
 「その通りです。二人の動機は一体何かを考えればその答えが出ます。何ごとも動機がその人の霊的発達の程度の指標となります」

───こういう場合には自分だったらこうするだろうということは予断できないと思うのです。

 「そうなのです。なぜかと言えば、人間はその時点までに到達した進化の程度によって制約されていると同時に、地上生活での必需品として受け継いだ不可避の要素(前世からの霊的カルマ、肉体の遺伝的要素などが考えられる───訳者) の相互作用の影響も受けるからです。ですから、常に動機が大切です。

それが、どちらが正しいかを判断する単純明快な基準です。かりに人を殺めた場合、それが私利私欲、金銭欲、その他の利己的な目的が絡んでいれば、その動機は浅はかと言うべきでしょうが、愛する母国を守るためであれば、その動機は真摯であり真面目です。

それは人間として極めて自然な情であり、それが魂を傷つけることにはなりません。ただ残念なことに、人間は往々にしてその辺のところが曖昧なことが多いのです」

 別のメンバーが 「でも、もちろんあなたは人を殺めるということそのものを良いことだとは思われないでしょう」 と言うと、
℘149
 「もちろんです。理想としては殺し合うことは間違ったことです。ですが、前にも述べたことがありますように、地上世界では二つの悪いことの内の酷くない方を選ばざるを得ないことがあるのです」

(訳者注─── この後の死刑制度についての問答は同じく第四巻の 「質問に答える」 の質問(四)の最後に引用されているが、これをカットすると脈絡が取れにくくなるので再度掲載しておく)


───死刑制度は正しいとお考えですか。

 「いえ、私は正しいと思いません。これは〝二つの悪いことの酷くない方〟とは言えないからです。死刑制度は合法的殺人を許していることでしかありません。個人が人を殺せば罪になり国が人を処刑するのは正当という理屈になりますが、これは不合理です」


───反対なさる主たる理由は、生命を奪うことは許されないことだからでしょうか。それとも国が死刑執行人を雇うことになり、それは雇われた人にとって気の毒なことだからでしょうか。
℘150
 「両方とも強調したいことですが、それにもう一つ強調しておきたいのは、いつまでも死刑制度を続けているということは、その社会がまだまだ進歩した社会とは言えないということです。なぜなら、死刑では問題の解決にはなっていないことを悟る段階に至っていないからです。それはもう一つの殺人を犯していることにほかならないのであり、これは社会全体の責任です。それは処罰にはなっておりません。ただ単に別の世界へ突き落しただけです」


───そのうえ困ったことに、そういう形で強引にあの世へ追いやられた霊による憑依現象が多いことです。地上の波長に近いためすぐに戻って来て誰かに憑依しようとします。

 「それは確かに事実なのです。霊界の指導者が地上の死刑制度に反対する理由の一つにそれがあります。死刑では問題を解決したことになりません。さらに、犯罪を減らす方策───これが方策と言えるかどうか疑問ですが───としても実にお粗末です。そのつもりで執行しながら、それが少しもその目的のために役立っておりません。
℘151
残虐行為に対して残虐行為を、憎しみに対して憎しみを持って対処してはなりません。常に慈悲心と寛恕と援助の精神を持って対処すべきです。それが進化した魂、進化した社会であることの証明です」


───そこまで至るのは大変です。

 「そうです、大変なのです。しかし歴史のページを繙けば、それを成就した人の名が燦然たる輝きを持って記されております」


───憑依現象のことですが、憑依される人間はそれなりの弱点を持っているからではないかと思っています。つまり、土の無いところにタネを蒔いても芽は出ないはずなのです。

 「そうです。それは言えます。もともとその人間に潜在的な弱点がある、つまり例によって身体と精神と霊の関係が調和を欠いているのです。邪霊を引きつける何らかの条件があるということです。アルコールの摂り過ぎである場合もありましょう。薬物中毒である場合もありましょう。
℘151
度を越した虚栄心、ないしは利己心が原因となることもあります。そうした要素が媒体となって、地上世界の欲望を今一度満たしたがっている霊を引きつけます。意識的に取り憑く霊もいますし、無意識のうちに憑っている場合もあります」


 その日の交霊会の終りに、最近一人娘を失ったばかりの母親からの手紙が読み上げられた。その手紙の主要部分だけを紹介すると───

 〝私は十九歳のひとり娘を亡くしてしまいました。私も夫も諦めようにも諦めきれない気持ちです。私たちにとってその娘が全てだったのです。私たちはシルバーバーチの霊言を読みました。シルバーバーチ霊はいつでも困った人を救ってくださるとおっしゃっています。

(肢体不自由だった)娘は十九年間一度も歩くことなく、酷しい地上人生を送りました。その娘が霊界でぶじ向上しているかどうか、シルバーバーチ霊からのメッセージがいただけないものでしょうか。地上で苦しんだだけ、それだけあちらでは報われるのでしょうか。私は悲しみに打ちひしがれ、途方に暮れた毎日を生きております〟


 これを聞いたシルバーバーチは次のように語った。
℘153
 「その方にこう伝えてあげてください。神は無限なる愛であり、この全宇宙における出来ごとの一つとして神のご存知でないものはありません。すべての苦しみは魂に影響を及ぼして自動的に報いをもたらし、そうすることによって宇宙のより高い、より深い、より奥行きのある、側面についての理解を深めさせます。

娘さんもその理解力を得て、地上では得られなかった美しさと豊かさをいま目の前にされて、これからそれを味わって行かれることでしょう。

 また、こうも伝えてあげてください。ご両親は大きなものを失われたかもしれませんが、娘さん自身は大きなものを手にされています。お二人の嘆きも悲しみも悼みも娘さんのためではなく実はご自身のためでしかないのです。ご本人は苦しみから解放されたのです。

死が鳥かごの入り口を開け、鳥を解き放ち、自由に羽ばたかせたことを理解なされば、嘆き悲しむことが少しも本人のためにならないことを知って涙を流されることもなくなるでしょう。やがて時が来ればお二人も死が有難い解放者であることを理解され、娘さんの方もそのうち、死によって消えることのない愛に満ちた、輝ける存在となっていることを証明してあげることができるようになることでしょう」

 こう述べてから、次の言葉でその日の交霊会を結んだ。

 「地上で死を悼んでいる時、こちらの世界ではそれを祝っていると思ってください。あなたがたにとっては〝お見送り〟であっても、私たちにとっては〝お迎え〟なのです」

℘154
 さて次の交霊会にも同じ女性文筆家が出席した。シルバーバーチは開会早々こう述べた。

 「今あなたを拝見して、前回の時よりオーラがずっと明るくなっているのでうれしく思います。少しずつ暗闇の中から光の中へ出てこられ、それとともにすべてが影に過ぎなかったという悟りに到達されました。本当は今までもずっと愛の手があなたを支え、援助し、守っていてくださったのです。同じ力が今なお働いております。

 今のあなたには微かな光を見ることができ、それが暗闇を突き破って届いてるのがお分かりになります。その光はこれから次第に力を増し、鮮明となり、度合いを深めていくことでしょう。あなたは何一つご心配なさることはありません。愛に守られ、いく手にはいつも導きがあるとの知識に満腔の信頼を置いて前進なさることです。

 来る日も来る日もこの世的な雑用に追いまくられていると、背後霊の働きがいかに身近なものであるかを実感することは困難でしょう。しかし事実、常に周りに存在しているのです。あなた一人ぼっちでいることは決してありません」
℘155
───そのことはよく分かっております。なんとかして取越苦労を克服しようと思っています。

 「そうです敵は心配の念だけです。心配と不安、これはぜひとも征服すべき敵です。日々生ずる一つ一つにきちんと取り組むことです。するとそれを片付けていく力を授かります。

 今やあなたは正しい道にしっかりと足を据えられました。何一つ心配なさることはありません。これから進むべき道において必要な導きはちゃんと授かります。私にはあなたの前途に開けゆく道が見えます。もちろん時には暗い影は過(よぎ)ることがあるでしょうが、あくまでも影にすぎません。

 私たちは決して地上的な出来ごとに無関心でいるわけではありません。地上の仕事にたずさわっている以上は物的な問題を理解しないでいるわけにはまいりません。現にそう努力しております。しかし、あくまでも霊の問題を優先します。

物質は霊のしもべであり主人ではありません。霊という必須の要素が生活を規制し支配するようになれば、何ごとが生じても、きっと克服できます。

 少しも難しいことは申し上げておりません。きわめて単純なことなのです。が、単純でありながら、大切な真理なのです。
℘156
満腔の信頼、決然とした信念、冷静さ、そして自信───こうしたものは霊的知識から生まれるものであり、これさえあれば、日々の生活体験を精神的ならびに霊的成長を促す手段として活用していく条件としては十分です。

地上を去ってこちらへお出でになれば、さんざん気を揉んだ事柄が実は何でもないことばかりだったことを知ります。そして本当にためになっているのは霊性を増すことになった苦しい体験であることに気づかれることでしょう」

 最後に同じく夫を悲劇の中に失った未亡人に対して次のように述べた。

 「あなたからご覧になれば、私がこうして教訓やメッセージをお伝えできることから、私にはどんなことでも伝えられるかに思われるかも知れませんが、私には私なりにどうしても伝えきれないもの、私に適性が欠けているものがあることを常に自覚しております。

なにしろ私たちには五感では感識できない愛とか情とか導きとかを取り扱わねばならないのです。こうしたものは地上の計量器で計るような具合には参りません。

それでも尚、その霊妙な力は、たとえ地上的な意味では感識できなくても、霊的な意味ではひしひしと感識できるものです。愛と情は霊の世界では人間の想像をはるかに超えた実在です。あなたが固いとか永続性があるとか思っておられるものよりずっとずっと実感があります。
℘157
私が今ここで、あなたのご主人はあなたへの愛に満ちておられますと申し上げても、それは愛そのものをお伝えしたことにはなりません。言葉では表現できないものをどうしてお伝えできましょう。そもそも言葉というのは実在を伝えるにはあまりにお粗末です。情緒や感情や霊的なものは言語の枠を超えた存在であり、真実を伝えるにはあまりに不適切です」


 ここで未亡人が「主人が今私に何を告げたいかは私の心の中で理解しているとお伝えください」と言うと、

 「次のことをよく理解してください。これは以前にも申し上げたことですが、地上を去って私たちの世界へ来られた人はみな、思いも寄らなかった大きな自己意識の激発、自己開発の意識のほとばしりに当惑するものです。肉体を脱ぎ棄て、精神が牢から解放されると、そうした自己意識のために地上での過ちを必要以上に後悔し、逆に功徳は必要以上に小さく評価しがちなものです。

 そういうわけで、霊が真の自我に目覚めると、しばらくの間は正しい自己評価ができないものです。こうすればよかった、ああすべきだったと後悔し、せっかくの絶好のチャンスを無駄にしたという意識に苛(さいな)まれるものです。実際にはその人なりに徳を積み、善行や無私の行為を施しているものなのですが、その自覚に到達するには相当な期間が必要です」

Monday, May 18, 2026

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips




七章 難しい質問に答える

 
 「今夜は招待客がいらっしゃらないようですので、ひとつこの機会に、皆さんがふだん持て余しておられる疑問点をお聞きすることにしましょう。易しい問題はお断わりです。今夜にかぎって難問を所望(しょもう)しましょう」

 易しい真理を平易に説くことをモットーとしているシルバーバーチが、ある日の交霊会の開会と同時にこう切り出した。さっそく次々と質問が出されたが、その中から興味深いものをいくつか紹介してみよう。

 最初の質問は最近ある霊媒による交霊会が失敗した話を持ち出して、その原因について質した。するとシルバーバーチは───


 「それは霊媒としての修業不足───見知らぬ人を招待して交霊会を開くだけの力がまだ十分に具わっていない段階で行ったためです。あの霊媒は潜在意識にまだ十分な受容性が具わっておりません。霊媒自身の考えが出しゃばろうとするのを抑えきれないのです。支配霊がいても肝心のコントロールがうまくいっておりません。

支配霊が霊媒をコントロールすることによって行う現象(霊言ならびに自動書記通信)においては、よほど熟練している場合は別として、その通信には大なり小なり霊媒自身の考えが付着しているものと考えてよろしい。そうしないと通信が一言も出なくなります」
℘113
(訳者注───このあとに続く問答とともに、これは、今後ますます霊的なことが受け入れられていくことが予想される日本において極めて大切な警告と受け止めるべきである。

専属の支配霊にしてその程度なのである。ましてや、呼ばれてすぐに出てくる霊がそう簡単にしゃべったり書いたりできるものではないのである。すぐに身元を明かす霊は徹底的に疑ってかかるべきである。疑われて腹を立てるような霊は相手にしない方がよい。それが霊を見分ける一つの尺度である)


───潜在意識の影響をまったく受けない通信は有り得ないということでしょうか。

 「その通りです」


───すべてが脚色されているということですか。

 「どうしてもそうなります。いかなる形式をとろうと、霊界との交信は生身の人間を使用しなくてはならないからです。人間を道具としている以上は、それを通過する際に大なり小なり着色されます。人間である以上その人間的性質を完全に無くすことはできないからです」


───神が完全なる存在であるならば、なぜもっとよい通信手段を用意してくれないのでしょうか。

 「本日は難しい質問をお受けしますと申し上げたら本当に難しい質問をして下さいましたね。結構です。さて、私たちが使用する用語にはそれをどう定義するかという問題があることをまず知っていただかねばなりません。

 おっしゃる通り神は完全です。ですがそれは神が完全な形で顕現されているという意味ではありません。神そのものは完全です。つまりあなたの内部に種子(タネ)として存在する神は完全性を具えているということです。ですが、それは必ずしも物質的形態を通して完全な形で表現されてはいません。

だからこそ無限の時間をかけて絶え間ない進化の過程をへなければならないのです。進化とは内部に存在する完全性という黄金の輝きを発揮させるために不純物という不完全性を除去し磨いていくことです。その進化の過程においてあなたが手にされる霊的啓示は、あなたが到達した段階(霊格)にふさわしいものでしかありません。

万一あなたの霊格よりずっと進んだものを先取りされても、それは所詮あなたの理解を超えたものですから、何の意味もないことになります」


───では人間がさらに進化すれば機械的な通信手段が発明されるかもしれないわけですか。

「その問題についての私の持論は既にご存知のはずです。私は、いかなる器機が発明されても霊媒をヌキにしては完全とはなり得ないと申し上げております。そもそも何のためにこうして霊界から通信を送るのかという、その動機を理解していただかねばなりません。

それは何よりもまず〝愛〟に発しているのです。肉親、知人、友人といった曽て地上で知り合った人から送られてくるものであろうと、私のように人類のためを思う先輩霊からのものであろうと、霊的メッセージを送るという行為を動機づけているものは愛なのです。

 愛こそがすべてのカギです。たとえ完全でなくても、何らかの交信がある方が何もないよりは大切です。なぜなら、それが愛の発現の場を提供することになるからです。しかしそれを機械によって行なうとなると、どう工夫したところで、その愛の要素が除去されることになります。生き生きとした愛の温もりのある通信は得られず、ただの電話のようなものになります」

℘116
───電話でも温かみや愛が通じ合えるのではないでしょうか。

 「電話器を通して得られるかもしれませんが、電話機そのものに温かみはありません」


───大切なのはそれを通して得られるものではないでしょうか。

 「この場合は違います。大切なのは霊媒という〝電話機〟と、メッセージを受ける人間に及ぼす影響です。それに関わる人ぜんぶの霊性を鼓舞することに意図があります」


───霊媒を含めてですか。

 「そうです。なぜなら最終的にはいつの日か人類も霊と霊とが自然な形で直接交信できるまでに霊性が発達します。それを機械を使って代用させようとすることは進化の意図に反することです。進化はあくまで霊性の発達を通してなされねばなりません。霊格を高めることによって神性を最高に発揮するのが目的です」

℘117
───ということは、最高の(死後存続の)証拠を得たいと思えば霊性の発達した霊媒を養成しなければならないということでしょうか。

 「私は今〝証拠〟の問題を念頭に置いて話しているのではありません。人類の発達ということを念頭において話しているのです。人類は螺旋状のサイクルを描きながら発達するように計画されており、その中の一つの段階において次の段階のための霊性を身につけ、その積み重ねが延々と続けられるのです。お分かりでしょうか」


───はい、分ります。

 「最高の成果を得るためには顕幽両界の間にお互いに引き合うものがなければなりません。その最高のものが愛の力なのです。両界の間の障害が取り除かれていきつつある理由は、その愛と愛との呼びかけ合いがあるからです」
℘118
───霊媒の仕事が金銭的になりすぎるとうまく行かないのはそのためでしょうか。

 「その通りです。霊媒はやむにやまれぬ献身的精神に燃えなければなりません。その願望そのものが霊格を高めていくのです。それが何より大切です。なぜなら、人類が絶え間なく霊性を高めて行かなかったら、結果は恐ろしいことになるからです。

霊がメッセージを携えて地上へ戻って来るそもそもの目的は人間の霊性を鼓舞するためであり、潜在する霊的才能を開発して霊的存在としての目的を成就させるためです」


───他界した肉親が地上へ戻って来る───たとえば父親が息子のもとに戻ってくる場合、その根本にあるのは戻りたいという一念でしょうか。それとも今おっしゃった目的で霊媒を通じてメッセージを送りたいからでしょうか。

 「戻りたいという一念からです。ですが一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望は愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ父親はあらゆる障害を克服して戻って来るのです。
℘119
困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって息子は、父親の他界という不幸を通じて魂が目を覚まし霊的自我を見出します。かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが霊的発達のスタートという形で終わることになります」


───なるほど、そういうことですか。言いかえれば神は進化の計画のためにありとあらゆる体験を活用するということですね?

 「人生の究極の目的は、地上の死後も、霊性を開発することにあります。物質界に誕生するのもその為です。その目的に適った地上生活を送れば霊はしかるべき発達を遂げ、次の生活の場に正しく適応できる霊性を身につけた時点で死を迎えます。

そのように計画されているのです。こちらへ来てからも同じ過程が続き、その都度霊性が開発され、その都度古い身体から脱皮して霊妙さを増し、内部に宿る霊の潜在的な完全さに近づいてまいります」


───人間の身体を見てもその人の送っている邪悪な生活が反映している人をよく見かけます。
℘120
 「当然そうなります。心の思うままがその人となります。その人の為すことがその人の本性に反映します。死後のいかなる界層においても同じことです。身体は精神の召使いではなかったでしょうか。はじめは精神によってこしらえられたのではなかったでしょうか」


───霊界の視点からすれば心で犯す罪は行為で犯す罪と同じでしょうか。

 「それは一概にはお答えできません。霊界の視点から、とおっしゃるのは進化した霊の目から見てという意味でしょうか」

───そうです。ある一つの考えを抱いた時、それは実行に移したのと同じ罪悪性を持つものでしょうか。

 「とても難しい問題です。何か具体的な例をあげていただかないと、一般論としてお答えできる性質のものではありません」
℘121

───例えば誰かを殺してやりたいと思った場合です。

 「それはその動機が問題です。いかなる問題を考察するに際しても、真っ先に考慮すべきことは〝それは霊にとっていかなる影響を持つか〟ということです。ですから、この際も〝殺したいという考えを抱くにいたった動機ないしは魂胆は何か〟ということです。

 さて、この問題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいとは思っても手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでに至らない───言わば憶病なのです。心ではそう思っても、実際の行為には至らないというタイプです。

 そこで、殺してやりたいと心で思ったら実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せばその霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけではそういうことにならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは罪悪性が異なります。

 しかしそれを精神的次元で捉えた場合、嫉妬心、貪欲、恨み、憎しみといった邪念は身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方がはるかに強烈です。このように、この種の問題は事情によって答えが異なります」
℘122
───誰かを殺してやりたいと思うだけなら、実際の殺人行為ほどの罪悪ではないとおっしゃいました。でも、その念を抱いた当人にとっては殺人行為以上に実害がある場合があり得ませんか。

 「あり得ます。これも又、場合によりけりです。その邪念の強さが問題になるからです。忘れないでいただきたいのは、根本において支配しているのは因果律だということです。

地上における身体的行為が結果を生むのと同じように、精神的及び霊的次元においてそれなりの結果を生むように仕組まれた自然の摂理のことです。邪念を抱いた人が自分の精神又は霊に及ぼしている影響は、あなた方には見えません」


───誰かを、あるいは何かを憎むということは許されることでしょうか。あなたは誰かを、あるいは何かを憎むということがありますか。
℘123
 「あとのご質問は答えが簡単です。私は誰も憎みません。憎むことができないのです。なぜなら私は神の子のすべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいはほんのわずかしか発揮できずにいる人をみて、いつも気の毒に思うからです。ですが、許せない制度や強欲に対しては憎しみを抱くことはあります。

残虐行為を見て怒りを覚えることはあります。強欲、悪意、権勢欲などが生み出すものに対して怒りを覚えます。それにともなって、さまざまな思い───あまり褒められない想念を抱くことはあります。でも忘れないでください。私もまだきわめて人間味を具えた存在です。誰に対しても絶対に人間的感情を抱かないというところまでは進化しておりません」

───いけないと知りつつも感情的になることがありますか。

 「ありますとも」

 別のメンバーが〝憎むということは別の問題で、これは恐ろしい行為です〟と言うと、先のメンバーが〝人を平気で不幸にする邪悪な人間がいますが、私はそういう人間にはどうしても憎しみを抱きます〟と言う。するとシルバーバーチが―
℘124
 「私は憎しみを抱くことは出来ません。摂理を知っているからです。神は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来てから支払わせられます。

いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対してその人が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかに見すぼらしくても、いやしくても、神の衣をまとっている同胞を憎むということは私にはできません。ですが、不正行為そのものは憎みます」


───でも実業界には腹黒い人間は沢山います。

 「でしたら、その人たちのことを哀れんであげることです」

───私はそこまで立派にはなれません。私は憎みます。

℘125
 別のメンバーが〝私はそれほどの体験はないのですが、動物の虐待を見ると腹が立ちます〟と言うとシルバーバーチが────

 「そういう行為を平気でする人はみずからの進化の低さの犠牲者であり、道を見失える哀れな盲目者なのです。悲しむべきことです」


 先のメンバーが〝そういう連中の大半は高い知性と頭脳の有(も)ち主です。才能のない人間を食い物にしています。それで私は憎むのです〟と言う。(この人は〝腹黒い〟実業家を念頭に於いて述べている───訳者)

 「そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時が来るのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め私は霊の目で眺めている点です。私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです」


───でも、いま現実に他人に大きな苦しみをもたらしております。
℘126
 「では一体どうあってほしいとおっしゃるのでしょう。人間から自由意志を奪い去り操り人形にしてしまえばよいのでしょうか。自由意志という有難いものがあればこそ、努力によって荘厳な世界へ向上することも出来れば道を間違えて奈落の底へ落ちることもあり得るのが道理です」

 別のメンバーが〝邪悪な思念を抱いて実行した場合、それを実行に移さなかった場合と比べて精神にどういう影響があるでしょうか〟と尋ねる。

 「もしそれが激しい感情からではなく、冷酷非情な計算ずくで行った場合でも、 いま申し上げた邪悪な人間と同じ運命をたどります。なぜなら、それがその魂の発達程度、というよりは発達不足の指針だからです。たとえば心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行に移したとすれば、途中で思いとどまった場合に比べて、遥かに重い罪を犯したことになります」


───臆病であるがゆえに思いとどまることもあるでしょう。
℘127
 「臆病者の場合はまた別です。私はいま邪悪なことを平気で実行に移せる人間の場合の話をしたのです。始めに申し上げたとおり、この種の問題は一つ一つ限定して論ずる必要があります。心に殺意を抱きしかも平気で実行出来る人と、〝あんな憎たらしい奴は殺してやりたいほどだ〟と思うだけの人とでは、霊的法則からいうと前者の方が遥かに罪が重いといえます」

───あなたご自身にとって何か重大でしかも解答が得られずにいる難問をお持ちですか。

 「解答が得られずいる問題で重大なものといえるものはありません。ただ、私はよく進化は永遠に続く───どこまで行ってもこれでお終いということはありません、と申し上げておりますが、なぜそういうお終のない計画を神がお立てになったのかが分かりません。いろいろ私なりに考え、また助言も得ておりますが、正直言って、これまでに得たかぎりの解答には得心がいかずにおります」


───神それ自体が完全でないということではないでしょうか。あなたはいつも神は完全ですとおっしゃってますが───
℘128
 「随分深い問題に入ってきましたね。かつて入ってみたことのない深みに入りつつあります。
 私には地上の言語を使用せざるを得ない宿命があります。そこでどうしても神のことを私が抱いている概念とは懸け離れた男性神であるかのような言い方をしてしまいます。

(〝大霊〟the Great Spirit を使用しても〝神〟God を使用しても二度目からは男性代名詞の He, His, Himを使用していることを言っている───訳者)

私の抱いている神の概念は完璧な自然法則の背後に控える無限なる叡智です。その叡智が無限の現象として顕現しているのが宇宙です。が、私はまだその宇宙の最高の顕現を見たと宣言する勇気はありません。これまでに到達したかぎりの位置から見ると、まだまだその先に別の頂上が見えているからです。

 私が私なりに見てきた宇宙に厳然とした目的があるということを輪郭だけは理解しております。私はまだその細部の全てに通暁しているなどとはとても断言できません。

だからこそ私は、私と同じように皆さんも、知識の及ばないところは信仰心でもって補いなさいと申し上げているのです。〝神〟と同じく〝完全〟というものの概念は、皆さんが不完全であるかぎり完全に理解することはできません。
℘129
現在の段階まで来てみてもなお私は、もしかりに完全を成就したらそれはそれにて休止することを意味し、それは進化の概念と矛盾するわけですから、完全というものは本質的に成就できないものであるのに、なぜ人類がその成就に向かって進化しなければならないのかが理解できないのです」


───こうして私たちが問題をたずさえてあなたのもと(交霊会)へ来るように、あなたの世界でも相談に行かれる場所があるのでしょうか。
     
 「上層界へ行けば私より遥かに叡知を身につけられた方がいらっしゃいます」


───こうした交霊会と同じようなものを催されるのですか。

 「私たちにも助言者や指導者がいます」


───やはり入神して行うのですか。
℘130         
 「プロセスは地上の入神とまったく同じではありませんが、やはりバイブレーションの低下、すなわち高い波長を私たちに適切な波長に転換したり光輝を和らげたりしてラクにして下さいます。

一種の霊媒現象です。こうしたことが宇宙のあらゆる界層において段階的に行われていることを念頭において下されば、上には上があってヤコブのはしご(※)には無限の段が付いていることがお分かりでしょう。その一ばん上の段と一ばん下の段は誰にも見えません」
   (※ ヤコブが夢で見たという天まで届くはしご。創世記28・12──訳者)

───霊媒を通じて語りかけてくる霊はわれわれが受ける感じほどに実際に身近な存在なのでしょうか。それとも霊媒の潜在意識も考慮に入れなければならないのでしょうか。 そんなに簡単に話しかけられるものでしょうか。私の感じとしては、想像しているほど身近な存在ではないような気がしています。少し簡単すぎます。

 「何が簡単すぎるのでしょうか」

───思っているほどわれわれにとって身近な存在であるとは思えないのです。多くの霊媒の交霊会に出席すればするほど、
p131
しゃべっているのは霊本人ではないように思えてきます。時にはまったく本人ではない───単にそれらしい印象を与えているだけと思われるのがあります。

 「霊が実在する───このことを疑っておられるわけではないでしょうね ? 次に、われわれにも個性がある───このことにも疑問の余地はありませんね? ではわれわれは一体誰か───この問題になると意見が分かれます。

なぜかといえば、そもそも同一性(アイデンテイテイ)とは何を基準にするかという点で理解の仕方が異なるからです。私個人としては地上の両親が付けた名前は問題にしません。名前と当人との間にはある種の相違点があるからです。

 では一体われわれは何者なのかという問題ですが、これまたアイデンティティを何を基準とするかによります。ご承知の通り私はインディアンの身体を使用していますが、インディアンではありません。こうするのが私自身を一ばんうまく表現できるからそうしているまでです。

このように、背後霊の存在そのものには問題の余地はないにしても、物質への霊の働きかけの問題は実に複雑であり、通信に影響を及ぼし内容を変えてしまうほどの、さまざまな出来ごとが生じております。
℘132
 通信がどれだけ伝わるか───その内容と分量は、そうしたさまざまな要素によって違ってきます。まして、ふだんの生活における〝導き〟の問題は簡単には片づけられません。

なぜかというと、人間側はその時々の自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には叶えてあげる必要が全くないものがあるからです。一ばん良い導きは本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合がしばしばあるのです。

 この問題は要約して片付けられる性質のものではありません。これには意義の程度の問題、つまり本人の霊的進化の程度と悟りの問題が絡んでいるからです。大変な問題なのです。人間の祈りを聞くことがよくありますが、要望には応えてあげたい気持は山々でも、側に立って見ているしかないことがあります。

時には私の方が耐えきれなくなって何とかしてあげようと行動に移りかけると〝捨ておけ!〟という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画のワクの中で行動する約束ができている以上、私の勝手は許されないのです。

 この問題は容易でないと申しましたが、それは困難なことばかりだという意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ、理解しておいていただきたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが私たちから見れば光(幸福)であることがあり、
℘133
人間にとって光であるように思えることが私たちから見れば影であることがあるということです。人間にとって青天のように思えることが私たちから見れば嵐の余兆であり、人間にとって静けさに思えることが私たちから見れば騒音であり、人間にとって騒音に思えることが私たちから見れば静けさであることがあるものです。

 あなた方が実在と思っておられることは私たちにとっては実在ではないのです。お互い同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ支配されております。

霊の目で見ることが出来ないために、つい、現状への不平や不満を口にされます。私はそれを咎める気にはなりません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることはできないのです。

 私たちスピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこの私がまっ先に認めます。やりたいことが何でもできるとはかぎらないことは否定しません。しかしそのことは、私たちがあなた方自身の心臓の鼓動と同じくらい身近な存在であるという事実とは全く別の問題です。

私たちはあなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤそれ以上にあなた方の身近な存在です。私の愛の活動範囲にある人は私たちの世界の霊と霊との関係と同じく親密なものです。
℘134
それを物的な現象によってもお見せ出来ないわけではありませんが、いつでもというわけにはまいりません。霊的な理解(悟り)という形でもできます。が、これ又、人間としてやむを得ないことですが、そういう霊的高揚を体験するチャンスというのは、そう滅多にあるものではありません。

そのことを咎めるつもりはありません。これから目指すべき進歩の指標がそこにあるということです。

 あなたのご意見はちょっと聞くと正しいように思えますが、近視眼的であり、すべての事実に通暁しておられない方の意見です。とは言え、私たち霊界からの指導者は常に寛大な態度で臨まねばなりません。教師は生徒の述べることに一つ一つ耳を貸してあげないといけません。意見を述べるという行為そのものが、意見の正しい正しくないに関係なく、魂が生長しようとしていることの指標だからです。

真面目な意見であれば私たちはどんなことにも腹は立てませんから、少しもご心配なさるには及びません。大いに歓迎します。どなたがどんなことをおっしゃろうと、またどんなことをなさろうと、皆さんに対する私の愛の心がいささかでも減る気遣いはいりません」

───私たちもあなたに対して同じ気持ちを抱いております。要は求道心の問題に帰着するようです。
℘135
 「いま私が申し上げたことに批判がましい気持ちはみじんも含まれておりません。われわれはみんな神であると同時に人間です。ひじょうに混み入った存在─── 一見単純のようで奥の深い存在です。魂というものは開発されるほど単純さへ向かいますが、同時に奥行きを増します。単純さと深遠さは同じ棒の両端です。

作用と反作用とは科学的に言っても正反対であると同時に同一物です。進歩は容易に得られるものではありません。もともと容易に得られるように意図されていないのです。われわれはお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識という杖が困難に際して支えになってくれます。

その杖にすがることです。霊的知識という杖です。それを失っては進化の旅は続けられません」


───私たちは余りに霊的知識に近すぎて、かえってその大切さを見失いがちであるように思います。

 「私はつねづね二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み込むときは、
℘136
その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。それからもう一つは、つねに理性を忘れないようにということです。理性による合理的判断力は神からの授かりものです。


あなたにとっての合理性の基準にそぐわないものは遠慮なく拒否なさることです。理性も各自に成長度があり、成長した分だけ判断の基準も高まるものです。

一見矛盾しているかに思える言説がいろいろとありますが、この合理性もその一つであり、一種のパラドックス(逆説)を含んでおりますが、パラドックスは真理の象徴でもあるのです。

(訳者注───この場合のパラドックスとは次章の〝真理には無限の側面がある〟と同じ意味に解釈すべきであろう)

 理性が不満を覚えて質問なさる───それを私は少しも咎めません。私はむしろ結構な傾向としてうれしく思うくらいです。疑問を質そうとすることは魂が活動しているからこそであり、私にとってはそれが喜びの源泉だからです。

 「さて私は何とか皆さんのご質問にお答えできたと思うのですが、いかがでしょうか」と言ってから、その日の中心的な質問者であった曽てのメソジスト派の牧師の方を向いて笑顔でこう述べた。

 「私の答案用紙に〝思いやりあり〟 〝人間愛に富む〟 とでも書き込んでくださいますか」
               

Sunday, May 17, 2026

シルバーバーチの霊訓(六)

 Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips

六章 婚約者を不慮の事故で失って

 映画女優のマール・オべロンには婚約者(フィアンセ)がいた。そのフィアンセを空港で見送った数秒後にオべロンの人生に悲劇が訪れた。フィアンセを乗せた飛行機が爆発炎上したのである。事故の知らせを聞いて当然のことながらオべロンは芒然自失の状態に陥った。

 その後間もなく、ふとしたきっかけでハンネン・スワッハーの My Greatest Story (私にとって最大の物語)という本を手に入れ、その中に引用されているシルバーバーチの霊言を読んで心を動かされた。たった一節の霊訓に不思議な感動を覚えたのである。

 オべロンはさっそくスワッハーを訪ねて、出来ればシルバーバーチとかいう霊のお話を直接聞きたいのですがとお願いした。その要請をスワッハーから聞いたシルバーバーチは快く承諾した。

そして事故からまだ幾日も経たないうちに交霊会に出席するチャンスを得た。その後さらに幾人かの霊媒も訪ねてフィアンセの存続を確信したオべロンは、その霊的知識のお陰で悲しみのどん底から抜け出ることができた。では、そのシルバーバーチの交霊会に出席した時の様子を紹介しよう。

 当日スワッハーが交霊会の部屋(バーバネルの書斎)へオべロンを案内し、まずシルバーバーチにこう紹介した。

 「ご承知と思いますが、この方は大変な悲劇を体験なさったばかりです。非凡な忍耐力を持って耐えていらっしゃいますが、本日はあなたのご指導を仰ぎに来られました」


 するとシルバーバーチがオべロンに向かってこう語りかけた。

 「あなたは本当に勇気のある方ですね。でも勇気だけではだめです。知識が力になってくれることがあります。是非理解していただきたいのは、大切な知識、偉大な悟りというものは悲しみと苦しみという魂の試練を通して初めて得られるものだということです。

人生というものはこの世だけでなく、あなた方があの世と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。

光と影の両面が無ければなりません。光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇が無ければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは闇でなくなります。同じように、困難と悲しみを通してはじめて魂は自我を見出していくのです。

もちろんそれは容易なことではありません。とても辛いことです。でもそれが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜならば地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ち受ける次の段階の生活に備えて、それに必要な霊的成長と才能を身につけることにあるからです。

 あなたがこれまでに辿られた道もけっしてラクな道ではありませんでした。山もあり谷もありました。

そして結婚という最高の幸せを目前にしながら、それが無慈悲にも一気に押し流されてしまいました。あなたは何事も得心がいくまでは承知しない方です。

生命と愛は果たして死後にも続くものなのか、それとも死を持ってすべてが終わりとなるか、それを一点の疑問の余地もないまで得心しないと気が済まないでしょう。そして今あなたは死がすべての終りでないことを証明するに十分なものを手にされました。

ですが、私の見るところでは、あなたはまだ本当の得心を与えてくれる事実の全てを手にしたとは思っていらっしゃらない。そうでしょう?」


オベロン「おっしゃる通りです」

 「こういうふうに理解なさることです───これが私にできる最大のアドバイスです───われわれ生あるもの全ては、まず第一に霊的存在であるということです。霊であるからこそ生きているのです。霊こそ存在の根元なのです。生きとし生けるものが呼吸し、動き、意識を働かせるのは霊だからこそです。

その霊があなた方のいう神であり、私のいう大霊なのです。その霊の一部、つまり神の一部が物質に宿り、次の段階の生活に相応しい力を身につけるために体験を積みます。それはちょうど子供が学校へ行って卒後後の人生に備えるのと同じです。

 さて、あなたも他の全ての人と同じく一個の霊的存在です。物的なものはその内色褪せ、朽ち果てますが、霊的なものは永遠であり、いつまでも残り続けます。物質の上に築かれたものは永続きしません。物質は殻であり、入れ物に過ぎず、実質ではないからです。

地上の人間の大半が幻を崇拝しています。キツネ火を追いかけているようなものです。真実を発見できずにいます。こうでもない、ああでもないの連続です。本来の自分を見出せずにいます。

 神が愛と慈悲の心からこしらえた宇宙の目的、計画、機構の中の一時的な存在として人生を捉らえ、自分がその中で不可欠の一部であるとの理解がいけば、たとえ身に降りかかる体験の一つ一つの意義は分からなくても、究極においてすべてが永遠の機構の中に組み込まれているのだという確信は得られます。霊に関わるものは決して失われません。死は消滅ではありません。

霊が別の世界へ解き放たれる為の手段に過ぎません。誕生が地上生活へ入る為の手段であれば、死は地上生活から出るための手段です。あなたはその肉体ではありません。その頭でも、目でも、鼻でも、手足でも、筋肉でもありません。

つまりその生物的集合体ではないのです。それはあなたではありません。あなたという別個の霊的存在があなたを地上で表現していくための手段に過ぎません。それが地上から消滅したあとも、あなたという霊は存在し続けます。

 死が訪れると霊はそれまでに身につけたものすべて───あなたを他と異なる存在たらしめているところの個性的所有物のすべてを携えて霊界へ行きます。意識、能力、特質、習性、性癖、さらには愛する力、愛情と友情と同胞精神を発揮する力、こうしたものはすべて霊的属性であり、霊的であるからこそ存在するのです。

真にあなたのものは失われません。真にあなたの属性となっているものは失われません。そのことをあなたが理解できるできないに関わらず、そしてまた確かにその真相のすべてを理解することは容易ではありませんが、あなたが愛する人、そしてあなたを愛する人は、今なお生き続けております。得心がいかれましたか?」

オベロン 「はい」

 「物的なものはすべてお忘れになることです。実在ではないからです。実在は物的なものの中には存在しないのです」

オベロン 「私のフィアンセは今ここにきておりますでしょうか」

 「来ておられます。先週も来られて霊媒を通じてあなたに話しかけようとなさったのですが、これはそう簡単にいくものではないのです。ちゃんと話せるようになるには大変な訓練がいるのです。

でも、諦めずに続けて出席なさっておれば、その内話せるようになるでしょう。ご想像がつくと思いますが、彼は今のところ非常に感情的になっておられます。まさかと思った最期でしたから感情的になるなという方が無理です。とても無理な話です」


オベロン 「今どうしているのでしょう。どういう処にいるのでしょう。元気なのでしょうか」

 この質問にシルバーバーチは司会のスワッハーの方を向いてしみじみとした口調で
 「このたびの事故はそちらとこちらの二人の人間にとって、よほどのショックだったようですな。まだ今のところ霊的な調整が出来ておりません。あれだけの事故であれば無理もないでしょう」と述べてから、再びオベロンに向かって言った。

 「私としては若いフィアンセがあなたの身近にいらっしゃることをお聞かせすることが、精一杯あなたの力になってあげることです。彼は今のところ何もなさっておりません。ただお側に立っておられるだけです。

これから交信の要領を勉強しなくてはなりません。霊媒を通じてだけではありません。ふだんの生活において考えや欲求や望みをあなたに伝えることもそうです。それは大変な技術を要することです。それがマスターできるまでずっとお側から離れないでしょう。

 あなたの方でも心を平静に保つ努力をしなくてはいけません。それができるようになれば、彼があなたに与えたいと望み、そしてあなたが彼から得たいと望まれる援助や指導が確かに届いていることを得心なさるでしょう。よく知っておいていただきたいのは、そうした交信を伝えるバイブレーションは極めて微妙なもので、感情によってすぐに乱されるということです。

不安、ショック、悲しみといった念を出すと、たちまちあなたの周囲に重々しい雰囲気、交信の妨げとなる壁をこしらえます。心の静寂を得ることが出来れば、平静な雰囲気を発散することができるようになれば、内的な安らぎを得ることができれば、それが私たちの世界から必要なものをお授けする最高の条件を用意することになります。

感情が錯乱している状態では、私たちも何の手出しも出来ません。受容性、受身の姿勢、これが私たちがあなたに近づくための必須の条件です」

     
 この後フィアンセについて幾つかプライベートな質疑がなされた後、シルバーバーチはこう述べた。

 「あなたにとって理解しがたいことは、多分、あなたのフィアンセが今はこちらの世界へ来られ、あなたはそちらの世界にいるのに、精神的には私よりもあなたの方が身近かな存在だということでしょう。理解出来るでしょうか。彼にとっては霊的なことよりも地上のことの方が気がかりなのです。

問題は彼がそのことについて何も知らずにこちらへ来たということです。一度も意識にのぼったことがなかったのです。でも今ではこうした形であなたが会いに来てくれることで、彼もあなたが想像なさる以上に助かっております。大半の人間が死を最期と考え、こちらへ来ても記憶の幻影の中でのみ暮らして実在を知りません。

その点あなたのフィアンセはこうして最愛のあなたに近づくチャンスを与えられ、あなたも、まわりに悲しみの情の壁をこしらえずに済んでおられる。そのことを彼はとても感謝しておられますよ」


オベロン 「死ぬ時は苦しがったでしょうか」

 「いえ、何も感じておられません。不意の出来ごとだったからです。事故のことはお聞きになられたのでしょう」

オベロン 「はい」

 「あっという間の出来ごとでした」

スワッハー 「そのことはこの方も聞かされております」

 「そうでしょう。本当にあっという間のことでした。それだけに永い休養期間が必要なのです」

オベロン「どれくらい掛かるのでしょう?」

 「そういうご質問はお答えするのがとても難しいのです。と申しますのは私たちの世界では地上のように時間で計るということをしないのです。でも、どのみち普通一般の死に方をした人よりは永く掛かります。

急激な死に方をした人はみなショックを伴います。いつまでも続くわけではありませんが、ショックはショックです。もともと霊は肉体からそういう離れ方をすべきものではないからです。そこで調整が必要となります」

 ここでさらにプライベートな内容の質疑があったあと───
オベロン 「彼は今しあわせと言えるでしょうか。大丈夫でしょうか」

 「しあわせとは言えません。彼にとって霊界は精神的に居心地がよくないからです。地上に戻ってあなたと一緒になりたい気持ちの方が強いのです。それだけに、あなたの精神的援助が必要ですし、自身の方でも自覚が必要です。これは過渡的な状態であり、彼の場合は大丈夫です。霊的に危害が及ぶ心配がありませんし、その内調整が為されるでしょう。

 宇宙を創造した大霊は愛に満ちた存在です。私たち一人一人を創造して下さったその愛の力を信頼し、すべてのことはなるべくしてそうなっているのだということを知らなくてはいけません。

今は理解できないことも、その内明らかになる機会が訪れます。決して口先で適当なことを言っているのではありません。現実にそうだからそう申し上げているのです。あなたはまだ人生を物質の目で御覧になっていますが、永遠なるものは地上の尺度では正しい価値は分かりません。

そのうち正しい視野をお持ちになられるでしょうが、本当に大事なもの───生命、愛、本当の自分、こうしたものは何時までも存在し続けます。死は生命に対しても愛に対しても、まったく無力なのです」


 訳者注───「本章は不慮の事故死をテーマとしているが、普通一般の死後の問題についてもいろいろと示唆を与えるものを含んでいる。そのすべてをここで述べる余裕はないが、一つだけ後半のところで〝霊的に危害が及ぶ心配がありませんし〟と述べている点について注釈しておきたい。

 これは裏返していえば霊的に危害が及ぶケースがあるということであり、ではその危害とはどんなものかということになる。これを「ベールの彼方の生活」第四巻の中の実例によって紹介しておく。

 通信霊のアーネルが霊界でのいつもの仕事にたずさわっていた時(霊界通信を送るようになる前)あるインスピレーション的衝動に駆られて地上へ来てみると、一人の若い女性が病床で今まさに肉体から離れようとしていた。ふと脇へ目をやると、そこに人相の悪い男の霊が待ち構えている。

アーネルにはその男がこの女性の生涯をダメにした(多分麻薬か売春の道へ誘い込んだ)因縁霊であると直感し、霊界でも自分達の仲間に引きずり込もうと企んでいることを見て取った。そこで奪い合いとなったが、幸いアーネルが勝ってその身柄を引き取ることが出来、その後順調に更生して、今では明るい世界へ向上しているという。

そのインスピレーションを送ったのは守護霊で、波長が高すぎて返って地上のことには無力なために、地上的波長への切り換えに慣れているアーネルに依頼したのだった。

 この実例でお分かりのように、いかなる死に方にせよ、死後ぶじ霊界の生活に正しく順応していくことは必ずしも容易ではないのである。そこには本人自身の迷いがあり、それに付け込んでさまざまな誘惑があり、また強情を張ったり見栄を捨てきれなかったりして、いつまでも地上的名誉心や欲望の中で暮らしている人が実に多いのである。

 では、そうならないためにはどういう心掛けが大切か───これは今さら私から言うまでもなく、それを教えるのがそもそもシルバーバーチ霊団が地上へ降りてきた目的なのである。

具体的なことはこうして霊言集をお読みいただいている方には改めて申し上げるのは控えるが、ただ私から一つだけ付け加えたいことは、あちらへ行って目覚めた時に、必ず付き添ってくれる指導霊の言うことに素直に従うことが何よりも大切だということである」

Saturday, May 16, 2026

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips



五章 老スピリチュアリストとの対話

 英国のみならず広く海外でも活躍している古くからのスピリチュアリスト(※)が招待され、シルバーバーチは「霊的知識に早くから馴染まれ、その道を一途に歩まれ、今や多くの啓示を授かる段階まで到達された人」 として丁重にお迎えした。

(※ 名前は紹介されていない。推測する手掛かりも見当たらない。霊言集にはこのように名前を明かしてもよさそうなのに、と思えるケースがよくあるが、多分、公表は控えてほしいとの本人の要望があるのであろう。これもシルバーバーチの影響かもしれない───訳者)

シルバーバーチ 「思えば長い道のりでした。人生の節目が画期的な出来ごとによって織りなされております。しかし、それもすべて、一つの大きな計画のもとに愛によって導かれていることをあなたはご存知です。

暗い影のように思えた出来ごとも、今から思えば計画の推進に不可欠の要素であったことが分かります。あなたがご自分の責務を果たすことが出来たのは、あなた自身の霊の感じる衝動に暗黙のうちに従っておられたからです。

 これより先、その肉体を大地へお返しになられるまでにあなたに課せられた仕事は、とても意義深いものです。これまで一つ一つ階段を追って多くの啓示に接してこられましたが、これから先さらに多くの啓示をお受けになられます。

これまではその幾つかをおぼろ気に垣間みてこられたのであり、光明のすべて、啓示のすべてが授けられたわけではありません。それを手にされるには、ゆっくりとした発達と霊的進化が必要です。私の言わんとするところがお分かりでしょうか」


 「よく分ります」

シルバーバーチ 「これは一体どういう目的があってのことなのか───あなたはよくそう自問してこられましたね?」

 「目的があることは感じ取れるのです。目的があること自体を疑ったことはありません。ただ、自分の歩んでいる道のほんの先だけでいいから、それを照らし出してくれる光が欲しいのです」


シルバーバーチ 「あなたは〝大人の霊〟です。地上へ来られたのはこの度が最初ではありません。それは分かっておられますか」

 「そのことについてはある種の自覚を持っております。ただ、今ここで触れるつもりはありませんが、それとは別の考えがあって、いつもそれとの葛藤が生じます」


シルバーバーチ 「私にはその葛藤がよく理解できます。別に難しい問題ではありません。その肉体を通して働いている意識と、あなたの本来の自我である、より大きな側面の意識との間の葛藤です。有象(うぞう)無象のこの世的雑念から離れて霊の力に満たされると、魂が本来の意識を取り戻して、日常の生活において五感の水際に打ち寄せてしきりに存在を認めてほしがっていた、より大きな自我との接触が得られます。

 さきほどおっしゃった目的のことですが、実は霊の世界から地上へ引き返し、地上人類のために献身している霊の大軍を鼓舞し動かしている壮大な目的があるのです。無知の海に知識を投入すること、それが目的です。暗闇に迷う魂のために灯火(ともしび)を掲げ、道を見失える人々、悩める人々、安らぎを求める人々に安息の港、聖なる逃避所の存在を教えてあげることです。

私たちを一つに団結させている大いなる目的です。宗教、民族、国家、その他ありとあらゆる相違を超越した大目的なのです。その目的の中にあってあなたもあなたなりの役目を担っておられます。そしてこれまで多くの魂の力になってこられました」

 「ご説明いただいて得心がいきました。お礼申し上げます」

シルバーバーチ 「私たちがいつも直面させられる問題が二つあります。一つは惰眠をむさぼっている魂に目を覚まさせ、地上で為すべき仕事は地上で済ませるように指導すること。

もう一つは、目覚めてくれたのはよいとして、まずは自分自身の修養を始めなければならないのに、それを忘れて心霊的な活動に夢中になる人間を抑えることです。神は決してお急ぎになりません。宇宙は決して消滅してしまうことはありません。

法則も決して変わることはありません。じっくりと構え、これまでに啓示されたことは、これからも啓示されていくことがあることの証明として受け止め、自分を導いてくれている愛の力は自分が精一杯の努力を怠りさえしなければ、決して自分を見捨てることは無いとの信念に燃えなくてはいけません」


 実はこの老スピリチュアリストは今回の交霊会に備えて三つの質問を用意していた。その問答を紹介しておく。

 「私の信じるところによれば人間は宇宙の創造主である全能の神の最高傑作であり、形態ならびに器官の組織において大宇宙(マクロコズム)のミクロ的表現であり、各個が完全な組織を具え、特殊な変異は生まれません。しかし一体その各個の明確な個性、顔つきの違い、表情の違い、性向の違い、その他、知性、身振り、声、態度、才能の差異も含めた一人一人の一見して区別できる個性を決定づける要因は何なのでしょうか」


シルバーバーチ 「これは大変な問題ですね。まず物質と霊、物質と精神とを混同なさらないでください。人間は宇宙の自然法則に従って生きている三位一体の存在です。

肉体は物的法則に従い、精神は精神的法則に従い、霊は霊的法則に従っており、この三者が互いに協調し合っております。かくして法則の内側に法則があることになり、時には、見た目に矛盾しているかに思えても、その謎を解くカギさえ手にすれば本質的には何の矛盾も無いことが分ります。

法則のウラ側に法則があると同時に、一個の人間のさまざまな側面が交錯し融合し合って、常に精神的・霊的・物的の三種のエネルギーの相互作用が営まれております。

そこには三者の明確な区別はなくなっております。肉体は遺伝的な生理的法則に従っておりますし、精神は霊の表現ですが、肉体の脳と五官によって規制されております。つまり霊の物質界での表現は、それを表現する物質によって制約を受けるということです。

かくしてそこに無数の変化と組み合わせが生じます。霊は肉体に影響を及ぼし、肉体も又霊に影響を及ぼすからです。これでお分かりいただけるでしょうか」

 「だいぶ分かってきました。これからの勉強に大いに役立つことと思います。では次の質問に移らせていただきます。人間はその始源、全生命の根元から生まれてくるのですが、その根元からどういう段階を経てこの最低次元の物質界へ下降し、物的身体から分離した後(死後)今度はどういう段階を経て向上し、最後に〝無限なる存在〟と再融合するのか、その辺のところをお教えいただけませんか」


シルバーバーチ 「これもまた大きな問題ですね。でも、これは説明が困難です。霊的生命の究極の問題を物的問題の理解のための言語で説明することはとても出来ません。霊的生命の無辺性を完全に解き明かせる言語は存在しません。ただ単的に、人間は霊である、但し大霊は人間ではない、という表現しかできません。

 大霊とは全存在の究極の始源です。万物の大原因であり、大建築家であり、王の中の王です。霊とは生命であり、生命とは霊です。霊として人間は始めも終りも無く存在しています。それが個体としての存在を得るには、地上にかぎって言えば、母胎に宿ってた時です。物的身体は霊に個体としての存在を与えるための道具であり、地上生活の目的はその個性を発現させることにあります。

 霊の世界への誕生である死は、その個性を持つ霊が巡礼の旅の第二段階を迎えるための門出です。つまり霊の内部に宿る全資質を発達、促進、開発させ、完成させ、全存在の始源により一層近づくということです。

人間は霊である以上、潜在的には神と同じく完全です。しかし私は人間は神の生命の中に吸収されてしまうという意味での再融合の時期が到来するとは考えません。神が無限である如く(生命の旅も)発達と完全へ向けての無限の過程であると主張する者です」


 「よく分かります。お礼申し上げます。次に三つ目の質問ですが───今おっしゃられたことがある程度まで説明して下さっておりますが───人間は個霊として機械的に無限に再生を繰り返す宿命にあると輪廻転生論者がいますが、これは事実でしょうか。

もしそうでないとすれば、最低界である地上へ降りてくるまでに体験した地上以外での複数の前生で蓄積した個性や特質が、今度は死後、向上進化していく過程を促進もし渋滞もさせるということになるのでしょうか。私の言わんとしていることがお分かりいただけますでしょうか」

シルバーバーチ 「こうした存在の深奥に触れた問題を僅かな言葉でお答えするのは容易なことではありませんが、まず、正直に申して、輪廻転生論者がどういうことを主張しているのかは私は知りません。が私個人として言わせて頂けば───絶対性を主張する資格は無いからこういう言い方をするのですが───再生というものが事実であることは私も認めます。それに反論する人たちと議論するつもりはありません。

理屈ではなく、私は現実に再生してきた人物を大勢知っているのです。どうしてもそうしなければならない目的があって生まれ変わるのです。預けた質を取り戻しに行くのです。

 ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物とは申しておりません。一個の人間は氷山のようなものだと思って下さい。海面上に顔を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのはその海面上の部分だけです。死後再び生まれて来た時は別の部分が海面上に顔を出します。

潜在的自我の別の側面です。二人の人物となりますが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。霊界で向上進化を続けると、潜在的自我が常時発揮されるようになっていきます。再生問題を物質の目で理解しようとしたり判断しようとなさってはいけません。霊的知識の理解から生まれる叡知の目で洞察してください。そうすれば得心がいきます」
             

シルバーバーチの霊訓(六)

 Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips


  
四章 ジョン少年との対話

人間の目と霊の目

 十一歳のジョン君にとってこれが最初の交霊会だった。幼い時に妹を失い、こんどは父親を不慮の事故で失って母親と二人きりとなったが、母親がシルバーバーチを通じて聞いた二人からのメッセージをいつもジョン君に語っていたので、十一歳の少年ながら、すでに死後の世界の存在を自然に信じるようになっていた。

 まずシルバーバーチの方からお父さんと妹がここに来てますよと言い、二人ともジョン君と同じようにわくわくしていると言うと、

ジョン「ぼくは妹のことをよく知らないんです」

「でも妹の方はジョン君のことをよく知っておりますよ」

ジョン「ぼくがまだちっちゃかった時に見たきりだと思います」
℘69
 「いいえ、そのちっちゃい時から今のように大きくなるまで、ずっと見てきております。ジョン君には見えなくても、妹の方からはジョン君がよく見えるんです。同じように二つの目をしていても、ジョン君とはまったく違う目をしています。壁やドアを突き通してみることができるんですから」

ジョン「そうらしいですね。ぼく知っています」

 「ジョン君のような目をもっていなくても、よく見えるんです。霊の目で見るのです。霊の目で見ると、はるか遠い遠い先まで見えます」



  霊に年齢はない
ジョン「いま妹はいくつになったのですか」

 「それはとても難しい質問ですね。なぜ難しいかを説明しましょう。私たち霊の成長のしかたはジョン君たちとは違うのです。
℘70
誕生日というものが無いのです。歳が一つ増えた、二歳になった、というような言い方はしないのです。そういう成長のしかたをするのではなく、霊的に成長をするのです。言いかえれば、完全(パーフィクト)へ向けて成長するのです」


ジョン「パーフェクトというのは何ですか」

 「パーフェクトというのは魂の中のすべてものが発揮されて、欠点も弱点もない、一点非のうちどころのない状態です。それがパーフェクトです」

ジョン「言いかえればピースですか」

(訳者注───Peace(ピース)には戦争に対する平和という一般的な意味以外に、日本語でうまく表現できない精神的な意味が幾つかある。ここでは悟り、正覚(しょうがく)、といった意味であるが、少年がそのような難解な意味で使うのはおかしいし、さりとて平和の意味でもないので、原語のままにしておいた。たぶん何の悩みも心配もないことを言っているのであろう)

 「そうです。パーフェクトになればピースが得られます。しかし実を言うと〝これがパーフェクトです〟と言えるものは存在しないのです。どこまで到達しても、それは永遠に続く過程の一つの段階にすぎないのです。いつまでも続くのです。終りというものが無いのです」
℘71


  死は悲しいことではない
ジョン「でも、パーフェクトに手が届いたらそれで終りとなるはずです」

 「パーフェクトには手が届かないのです。いつまでも続くのです。これはジョン君には想像できないでしょうね? でも、ほんとにそうなのです。霊的なことには始まりも終りもないのです。ずっと存在してきて、休みなく向上していくのです。

ジョン君の妹も大きくなっていますが、地上のように身体が大きくなったのではなくて、精神と霊が大きくなったのです。成熟したのです。内部にあったものが開発されたのです。発達したのです。でも身体のことではありません。いくつになったかは地上の年齢の数え方でしか言えません。

 そんなことよりもジョン君に知ってほしいことは、もう分かってきたでしょうけれど、妹とお父さんはいつも側にいてくれてるということです。これはまだまだ知らない人が多い大切な秘密です。
℘72
いつもいっしょにいてくれているのです。ジョン君を愛し力になってあげたいと思っているからです。このことを人に話しても信じてくれませんよね? みんな目に見えないものは存在しないと思っているからです。

このことを理解しないために地上では多くの悲しみが生じております。理解すれば〝死〟を悲しまなくなります。死ぬことは悲劇ではないからです。あとに残された家族にとっては悲劇となることがありますが、死んだ本人にとっては少しも悲しいことではありません。新しい世界への誕生なのです。

まったく新しい生活の場へ向上して行くことなのです。ジョン君もそのことをよく理解して下さいね。妹のことは小さい時に見たことがあるからよく知ってるでしょう?」


ジョン「今この目で見てみたいです」

 「目を閉じれば見えることがあると思いますよ」

ジョン「この部屋にいる人が見えるようにですか
℘73    
「まったく同じではありません。さっきも言ったように〝霊の目〟で見るのです。霊の世界のものは肉眼では見えません。同じように霊の世界の音は肉体の耳では聞こえません。今お父さんがとてもうれしいとおっしゃってますよ。もちろんお父さんはジョン君のことを何でも知っています。いつも面倒をみていて、ジョン君が正しい道からそれないように導いてくれているのですから」



  考えることにも色彩がある
ジョン「僕に代わって礼を言って下さいね」

 「今の言葉はちゃんとお父さんに聞こえてますよ。ジョン君にはまだちょっと理解は無理かな? でも、ジョン君がしゃべること、考えてることも、みなお父さんには分るのです。フラッシュとなってお父さんのところに届くのです」

ジョン「どんなフラッシュですか」
℘74
 「ジョン君が何か考えるたびに小さな光が出るのです」

ジョン「どんな光ですか。地上の光と同じですか。ぼくたちの目には見えないのでしょうけど、マッチをすった時に出るフラッシュのようなものですか」

 「いえ、いえ、そんなんじゃなくて、小さな色のついた明かりです。ローソクの明かりに似ています。でも、いろんな色があるのです。考えの中身によってみな色が違うのです。地上の人間の思念はそのように色彩となって私たちのところに届くのです。

私たちには人間が色彩のかたまりとして映ります。いろんな色彩をもった一つのかたまりです。訓練のできた人なら、その色彩の一つ一つの意味を読み取ることができます。ということは、隠しごとはできないということです。その色彩が人間の考えていること、欲しがっているもの、そのほか何もかも教えてくれます」



℘75   スピリチュアリズムはなぜ大切か
ジョン「スピリチュアリズムについて知るとどういう得をするのでしょうか」

 「知識はすべて大切です。何かを知れば、知らないでいる時よりその分だけ得をします。知らないでいることは暗やみの中を歩くことです。ジョン君はどっちの道を歩きたいですか」

ジョン「光の中です」

 「でしたら少しでも多くを知らなくてはいけません。知識は大切な財産です。なぜならば、知識から生きるための知恵が生まれるからです。判断力が生まれるからです。知識が少ないということは持ち物が少ないということです。分かりますね?

ジョン君はいま地球という世界に住んでいます。自分では地球という世界は広いと思っていても、宇宙全体から見ればほんのひとかけらほどの小さな世界です。その地球上に生まれたということは、その地球上の知識をできるだけ多く知りなさいということです。それは次の世界での生活に備えるためです。

 さてスピリチュアリズムのことですが、人生の目的は何かを知ることはとても大切なことなのです。なぜなら、人生の目的を知らないということは何のために生きているかを知らずに生きていることになるからです。
℘76
そうでしょ?ジョン君のお母さんは前よりずっと幸せです。なぜなら、亡くなったお父さんや妹のことについて正しい知識を得たからです。そう思いませんか?」

ジョン「そう思います。前よりも助けられることが多いです」

「ほらジョン君の質問に対する答えがそこにあるでしょ? さて次の質問は?」



  原子爆弾は善か悪か (本書の出版は一九五二年───訳者)
ジョン「地上の人間が発明するものについて霊の世界の人たちはどう思っていますか。たとえば原爆のことなんかについて」

 「これは大きな質問をされましたね。地上の人たちがどう考えているかは知りませんが、私が考えていることを正直に申しましょう。

℘77   
 地上の科学者たちは戦争のために実験と研究にはっぱをかけられ、その結果として原子エネルギーという秘密を発見しました。そしてそれを爆弾に使用しました。

しかし本当はその秘密は人間が精神的、霊的にもっと成長してそれを正しく扱えるようになってから発見すべきだったのです。もうあと百年か二百年のちに発見しておれば地上人類も進歩していて、その危険な秘密の扱い方に手落ちがなかったでしょう。

今の人類はまだまだうっかりの危険性があります。原子エネルギーは益にも害にもなるものを秘めているからです。ですから、今の質問に対する答えは、地上人類が精神的、霊的にどこまで成長するかにかかっています。分かりますか?」


ジョン「最後におっしゃったことがよく分かりません」

 「では説明のしかたを変えましょう。原子エネルギーの発見は時期が早すぎたということです。人類全体としてまだ自分たちが発見したものについて正しく理解する用意ができていなかったために、それが破壊の目的のために使用されてしまったのです。もしも十分な理解ができていたら、有効な目的のために利用されたことでしょう。

℘78
 そこで最初の質問に戻りますが、もしも地上の科学者のすべてが正しい知識、霊的なことについての正しい知識をもっていれば、そうした問題について悩むこともなかったでしょう。出てくる答えは決まっているからです。霊的な理解力ができていれば、その発見のもつ価値を認識し、その応用は人類の福祉のためという答えしか出てこないからです」


ジョン「それが本当にどんなものであるかが分かったら正しい道に使うはずです」

 「その通りです。自分の発明したものの取り扱いに悩むということは、まだ霊的理解力が出来ていないということです」



  幽霊と霊との違い
ジョン「幽霊と霊とはどう違うのですか」

「これはとてもいい質問ですよ。幽霊も霊の一種です。が、霊が幽霊になってくれては困るのです。
℘79
地上の人たちが幽霊と呼んでいるのは、地上生活がとてもみじめだったためにいつまでも地上の雰囲気から抜け出られないでいる霊が姿を見せた場合か、それとも、よほどのことがあって強い憎しみや恨みを抱いたその念がずっと残っていて、それが何かの拍子にその霊の姿となって見える場合の、いずれかです。

幽霊さわぎの原因は大てい最初に述べた霊、つまり地上世界から抜け出られない霊のしわざである場合が多いようです。死んで地上を去っているのに、地上で送った生活、自分の欲望しか考えなかった生活がその霊を地上に縛りつけるのです」


ジョン「もう質問はありません」

 「以上の私の解答にジョン君は何点をつけてくれますか」


ジョン「ぼく自身その答えが解らなかったんですから・・・」

 「私の答えが正しいか間違っているかがジョン君には分からない───よろしい! 分からなくても少しもかまいません。
℘80
大切なのは次のことです。ジョン君は地上の身近な人たちによる愛情で包まれているだけではなく、私たち霊の世界の者からの大きな愛情によっても包まれているということです。目には見えなくても、ちゃんと存在しています。

触わってみることができなくても、ちゃんと存在しています。何か困ったことがあったら、静かにして私かお父さんか妹か、誰でもいいですから心に念じて下さい。きっとその念が通じて援助にまいります]


 別の日の交霊会で同じ原爆の問題が取り上げられ次のような質問が出された。

───国家が、そして人類全体が原爆の恐怖に対処するにはどうすればよいでしょうか。

 「問題のそもそもの根元は人間生活が霊的生活によって支配されずに、明日への不安と貪欲、妬みと利己主義と権勢欲によって支配されていることにあります。残念ながらお互いに扶け合い協調と平和の中に暮したいという願望は見られず、我が国家を他国より優位に立たせ、他の階層の者を犠牲にしてでも我が階層を豊かにしようとする願望が支配しております。

すべての制度が相も変わらず唯物主義の哲学を土台としております。唯物主義という言葉は今日ではかなり影をひそめてきているかも知れませんが、実質的には同じです。
℘81
誰が何と言おうとこの世はやはりカネと地位と人種が物を言うのだと考えています。そしてそれを土台としてすべての制度をこしらえようとします。永遠の実在が無視されております。人生のすべてを目で見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わえる範囲の、つまりたった五つの感覚で得られるほんの僅かな体験でもって判断しようとしています。

 しかし生命は物質を超えたものであり、人間は土くれやチリだけで出来ているのではありません。化学、医学、原子、こうしたもので理解しようとしても無駄です。生命の謎は科学の実験室の中で解かれる性質のものではありません。魂をメスで切りさいたり化学的手段で分析したりすることはできません。

いかなる物的手段によって解明しようとしても、生命を捉(と)らえることはできません。なのに物質界の大半の人間は(生命を物質と思い込んで)霊的実在から完全に切り離された生活を営んでおります。最も大切な事実、全生命の存在を可能ならしめているところの根元を無視してかかります。

 地上の全生命は〝霊〟であるがゆえに存在しているのです。あなたという存在は霊に依存しているのです。実在は物質の中にあるのではありません。その物的身体の中には発見できません。存在のタネは身体器官の中を探しても見つかりません。あなた方は今の時点において立派に霊的存在なのです。
℘82   
死んでこちらへ来てから霊的なものを身につけるのではありません。母胎に宿った瞬間からすでに霊的存在であり、どうもがいてみても、あなたを生かしめている霊的実在から離れることはできません。地上の全生命は霊のおかげで存在しているのです。霊なしには生命は存在しません。なぜなら生命とはすなわち霊であり、霊とはすなわち生命だからです。

 死人が生き返ってもなお信じようとしない人は別として、その真理を人類に説き、聞く耳をもつ者に受け入れられるように何らかの証拠を提供することが私どもの使命の大切な一環なのです。

人間が本来は霊的実在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。今日は原爆が不安のタネですが、明日はそれよりさらに恐ろしい途方もないものとなるでしょう (水爆、さらにはレーザー兵器のことを言っているのであろう───訳者)。

が、地上の永い歴史を見れば、力による圧政はいずれ挫折することは明らかです。独裁的政治は幾度か生まれ、猛威をふるい、そして消滅していきました。独裁者が永遠に王座に君臨することは有り得ないのです。

霊は絶対であり天与のものである以上、はじめは抑圧されても、いつかはその生特権を主張するようになります。魂の自由性 freedom (※)を永遠に束縛することはできないのです。魂の自在性 liberty (※)を永遠に拘束し続けることもできません。
℘83      
自由性と自在性はともに魂がけっして失ってはならない大切な条件です。人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在以上のものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。人間的知性ではその果てを測り知ることのできない巨大な宇宙の中での千変万化の生命現象の根元的要素である霊とまったく同じ不可欠の一部なのです。

(※ freedom と liberty は英語においても共通性の多い単語で、日本語訳でもその違いが曖昧であるが、私はここでは freedom とは外部からの束縛がないという意味での自由性、liberty とは内部での囚れがないと意味での自在性と解釈してそう訳した───訳者)

 以上のような真理が正しく理解されれば、すべての恐怖と不安は消滅するはずです。来る日も来る日も煩悶と恐れを抱き明日はどうなるのだろうと不安に思いながら歩むことがなくなるでしょう。霊的な生得権を主張するようになります。なぜなら霊は自由の陽光の中で生きるべく意図されているからです。内部の霊的属性を存分に発揮すべきです。

永遠なる存在である霊が拘束され閉じ込められ制約され続けることは有り得ないのです。いつかは束縛を突き破り、暗闇の中で生きることを余儀なくさせている障害のすべてを排除していきます。正しい知識が王座に君臨し無知が逃走してしまえば、もはや恐怖心に駆られることもなくなるでしょう。ですからご質問に対する答えは、とにもかくにも霊的知識を広めることです。
℘84   
すべての者が霊的知識を手にすれば、きっとその中から、その知識がもたらす責務を買って出る者が出てくることでしょう。不安のタネの尽きない世界に平和を招来するためには霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて他に手段はありえません」

      

  真理普及は厳粛な仕事
 「ストレスと難問の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は真理の使節としての自覚を持たねばなりません。残念ながら、豊かな知識を手にし悲しみの中で大いなる慰めを得た人が、その本当の意義を取り損ねていることがあります。霊媒能力は神聖なるものです。

いい加減な気持で携わってはならない仕事なのです。ところが不幸にして大半といってよい霊媒が自分の能力を神聖なるものと自覚せず、苦しむ者、弱き者、困窮せる者のために営利を度外視して我が身を犠牲にするというところまで行きません。

 また、真理の啓示を受けた者───永いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って目も眩まんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行し滅私の観念が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。まだまだ精進が足りません。
℘85
まだまだ霊的再生が必要です。真理普及の仕事を託された者に私が申し上げたいのは、現在の我が身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけていないか。今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか。

時の流れとともに煤けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか。そう反省してみることです。霊力の地上への一層の顕現の道具として、己の全生活を捧げたいという熱誠にもう一度燃えて頂きたいのです」

Friday, May 15, 2026

シルバーバーチの霊訓(六)

 Silver Birch Speaks Again

Edited by S. Phillips


三章 自分の責任・他人の責任

 熱心なスピリチュアリストである実業家がある交霊会で質問した。

───背後霊や友人(の霊)に援助を要求するのはどの程度まで許されるのでしょうか。

 「生身(なまみ)の人間である霊媒との接触によって仕事をしている私どもは、地上生活における必要性、習慣、欲求といったものを熟知していなければなりません。物的必要性について無頓着ではいられません。現実に地上で生きている人間を扱っているからです。

結局のところ霊も肉体も神の僕です。霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙という機構の中での役割を果たすための一定の義務というものがあります。

肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。それを得るためには地上世界の通貨(コイン※)であるお金が必要です。そのことはよく承知しております。しかし次のことも承知しております。(シルバーバーチは口グセのように〝奉仕は霊のコインである〟と言っている。それになぞらえている───訳者)

 霊も肉体も神の僕と申し上げましたが、両者について言えば霊が主人であり肉体はその主人に仕える僕です。それを逆に考えることは大きな間違いです。あなた方は本質的には霊なのです。それが人間が潜在的に神性を宿していると言われるゆえんです。つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。
p55           
宇宙という大生命体を機能させている偉大な創造原理があなた方一人ひとりにも宿っているのです。意識をもった存在としての生をうけたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。

全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫から必要なものを引き出すことができるのです。

 そのためには平静さが必要です。いかなる事態にあっても心を常に平静に保てるようになれば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することが出来ます。

 それに加えて、背後霊の愛と導きがあります。困難が生じた時は平静な受身の心になるよう努力なさることです。そうすればあなた自身の貯蔵庫から───まだ十分に開発されていなくても───必要な回答が湧き出てきます。きっと得られます。

われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のあなたの発達程度いかんによっては十分なものが得られないことがあります。が、その場合もまた慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。

 求めるものが正しいか間違っているかは、単なる人間的用語の問題にすぎません。私たちからみて大切なのは〝動機〟です。
p56       
いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、私たちが第一に考慮するのはその動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、けっして無視されることはありません。

それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものがその祈りへの回答を生み出す原理を作用させております」


 ここでメンバーの一人が、学識もあり誠実そのものの人でも取越苦労をしていることを述べると───


 「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たして、しかも何の取越苦労もしないで生きていくことは可能です。

義務に無とん着であってもよろしいと言っているのではありません。かりそめにも私には、そんな教えは説きません。むしろ私は、霊的真理を知るほど人間としての責務を意識するようになることを強調しております。しかし、心配する必要などどこにもありません。霊的成長を伴わない知的発達もあり得ます」

p57      
───あからさまに言えば、取越苦労性の人は霊的に未熟ということでしょうか。

 「その通りです。真理を悟った人間はけっして取越苦労はしません。なぜなら人生には神の計画が行きわたっていることを知っているからです。まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。

無用の心配をするということそのことが霊的成長の欠如の示標といえます。たとえ僅かでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。もし確信があれば心配の念は出てこないでしょう。偉大なる魂は泰然自若(たいぜんじじゃく)の態度で人生に臨みます。

確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺することはありません。このことだけは絶対に譲歩するわけにはいきません。なぜなら、それが私たちの霊訓の土台であらねばならないからです」
   


───たとえば50人の部下がいて、その部下たちが良からぬことをしたとします。その場合は気苦労のタネになってもやむを得ないように思いますが・・・
p58     
 「責任は個々において背負うというのが摂理です。摂理のもとにおいては、あなたは他人の行為に責任を負うことはありません」


───文明社会においては責任を負わざるを得ないことがあるでしょう?。

 「文明はかならずしも摂理に適ったものではありません。摂理は完全です。機能を中止することはありません。適確さを欠くこともありません。間違いを犯すこともありません。あなたには自分のすること、自分の言うこと、自分の考えることに責任があります。

あなたの成長の指標が魂に刻まれているからです。したがって他人の魂のすることに責任を負うことはできません。それが摂理です。もしそうでなかったら公正が神の絶対性を欠くことになります」


───もし私がある人をそそのかし、その人が意志が弱くてそれを実行した場合、それでも私には責任はないでしょうか。
    
 「その場合はあります。他人をそそのかして悪いことをさせた責任があります。それはあなたの責任です。
p59      
一種の連鎖反応を起こさせたことになります。何ごとも動機が第一に考慮されます。私はけっして自分以外のことに無とん着になれと言っているのではありません。


魂がある段階の偉大さを身につければ、自分の責任を自覚するようになり、やってしまったことはやってしまったこと───自分が責を負うことしかないと深く認めるようになるものなのです。いったんその段階まで到達すれば、何ごとにつけ自分にできる範囲で最善を尽くし、これでよいという確信をもつようになります」


───自分で理解しているかぎりの摂理にしたがっておればのことですか。

 「いいえ、(摂理をどう理解しているかに関係なく)原因と結果の法則は容赦なく展開していきます。その因果関係に干渉できる人はいません。その絶対的法則と相いれないことが起きるかのように説く教説、教理、教訓は間違っております。原因と結果の間にはいかなる調停も許されません。

あなた自身の責任を他人の肩に背負わせる手段はありませんし、他人の責任があなたの肩に背負わされることもあり得ません。各自が各自の人生の重荷を背負わねばなりません。そうあってはじめて正直であり、道徳的であり、倫理的であり、公正であると言えます。

それ以外の説はすべて卑劣であり、臆病であり、非道徳的であり、不公平です。摂理は完璧なのです」

p60      
───広い意味において人間は他のすべての人に対して責任があるのではないでしょうか。世の中を住み良くしようとするのはみんなの責任だからです。

 「おっしゃる通りです。その意味においてはみんなに責任があります。同胞としてお互いがお互いの番人(創世記4・9)であると言えます。なぜなら人類全体は〝霊の糸〟によって繋がっており、それが一つに結びつけているからです。

しかし責任とは本来、自分が得た知識の指し示すところに従って人のために援助し、自分を役立て、協力し合うということです。

しかるに知識は一人ひとり異なります。したがって他人が他人の知識に基づいて行ったことに自分は責任はないことになります。しかしこの世は自分一人ではありません。お互いが持ちつ持たれつの生活を営んでおります。

すべての生命が混り合い、融合し合い、調和し合っております。そのすべてが一つの宇宙の中で生きている以上、お互いに影響を与え合っております。だからこそ知識に大きな責任が伴うのです。知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人より重い責任を取らされます。
p61       
その行為がいけないことであることを知っているということが罪を増幅するのです。霊的向上の道は容易ではありません。

知識の受容力が増したことは、それだけ大きい責任を負う能力を身に付けたことであらねばならないのです。幸と不幸、これはともに神の僕です。

一方を得ずして他方を得ることは出来ません。高く登れば登るほど、それだけ低くまで落ちることもあるということであり、低く落ちれば落ちるほど、それだけ高く登る可能性があることを意味します。それは当然のことでしょう」


 その日の交霊会には二人の息子を大戦で失った実業家夫妻が招待されていた。その二人にシルバーバーチは次のような慰めの言葉を述べた。

 「霊の力に導かれた生活を送り、今こうして磁気的な通路(霊媒)によって私どもの世界とのつながりを持ち、自分は常に愛によって包まれているのだという確信をもって人生を歩むことができる方をお招きすることは、私どもにとって大いに喜ばしいことです。

お二人は神の恵みをふんだんに受けておられます。悲しみの中から叡知を見出されました。眠りのあとに大いなる覚醒を得られました。犠牲の炎によって鍛えられ清められて、今お二人の魂が本当の自我に目覚めておられます。
p62          
 お二人は悲痛の淵まで下りられました。魂が謀反さえ起こしかねない酷しい現実の中で人間として最大の悲しみと苦しみを味わわれました。しかし、その悲痛の淵まで下りられたからこそ喜びの絶頂まで登ることもできるのです。

〝ゲッセマネの園〟と〝変容の丘〟は魂の体験という一本の棒の両端です。一方がなければ他方もあり得ません。苦痛に耐える力は深遠な霊的真理を理解する力と同じものです。

悲しみと喜び、闇と光、嵐と好天、こうしたものはすべて神の僕であり、その一つひとつが存在価値をもっているのです。魂が真の自我に目覚めるのは、存在の根源が束の間の存在である物的なものにあるのではなく永遠に不変の霊的なものにあると悟った時です。

地上的な財産にしがみつき、霊的な宝をないがしろにする者は、いずれ、この世的財産は色あせ錆つくものであることを思い知らされます。

霊的成長による喜びこそ永遠に持続するものです。今こそあなた方お二人は真の自我に目覚められ、霊界の愛する人々とのつながりがいっそう緊密になっていく道にしっかりと足を踏まえられました。

 ご子息が二人とも生気はつらつとして常にあなた方のお側にいることを私から改めて断言いたします。昼も夜も、いっときとしてお側を離れることはありません。みずから番兵のつもりでお二人を守り害が及ばないように見張っておられます。

といってお二人のこれからの人生に何の困難も生じないという意味ではありません。そういうことは有り得ないことです。
p63       
なぜなら人生とは絶え間ない闘争であり、障害の一つ一つを克服していく中に個性が伸び魂が進化するものだからです。

いかなる困難も、いかなる苦難も、いかなる難問も、あなた方を包んでいる愛の力によって駆逐できないものはありません。それはみな影であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。訪れては去っていく影にすぎません。

悲劇と悲しみをもたらしたのはすべて、あなたのもとを通り過ぎていきました。前途に横たわっているのは豊かな霊的冒険です。あなた方の魂を豊かにし、いま学びつつある永遠の実在に一段と近づけてくれるところの、驚異に満ちた精神的探検です。

 お二人がこれまで手を取り合って生きて来られたのも、一つの計画、悲しみが訪れてはじめて作動する計画を成就するためです。そうした営みの中でお二人は悲しみというものが仮面をかぶった霊的喜悦の使者であることを悟るという計画があったのです。悲しみは仮面です。本当の中身は喜びです。仮面を外せば喜びが姿を見せます。

 どうかお二人の生活を美しさと知識、魂の豊かさで満たして下さい。魂を本来の豊かさの存在する高所まで舞い上がらせて下さい。そこにおいて本来の温もりと美しさと光沢を発揮されることでしょう。魂が本来の自我を見出した時は、神の御心と一体であることをしみじみと味わい不動の確信に満たされるものです。
p64      
 私たちの述べることの中にもしもあなた方の理性に反すること、叡知と相入れないように思えることがあれば、どうか受取ることを拒否なさってください。良心の命令に背いてはいけません。自由意志を放棄なさってはいけません。私どもは何一つ押しつけるつもりはありません。強要するものは何一つありません。

私たちが求めるものは協調です。ご自分で判断されて、こうすることが正しくかつ当然であるという認識のもとに、そちらから手を差しのべて協力して下さることを望みます。

理性をお使いになったからといって少しも不快には思いません。私どもの述べたことに疑問を持たれたからといって、いささかも不愉快には思いません。その揚げ句に魂の属性である知性と理性とがどうしても納得しないということであれば、それは私たちはあなた方の指導霊としては不適格であるということです。

 私はけっして盲目の信仰、無言の服従は強要いたしません。それが神が自分に要求しておられることであることを得心するがゆえに、必要とあらば喜んで身を捧げる用意のある、そういう協力者であってくれることを望みます。

それを理想とするかぎり、私たちの仕事に挫折はありません。ともに神の使いとして手に手を取り合って進み、神の御心を日頃の生活の中で体現し、われわれの援助を必要とする人、それを受け入れる用意のある人に手を差しのべることができるのです」
p65
 そしてその日の交霊会を次の言葉でしめくくった。

 「始まりも終りもない力、無限にして永遠なる力に見守られながら本日も又、開会した時と同じ気持ちで閉会致しましょう。神の御力の尊厳へ敬意を表して、深く頭を垂れましょう。その恵みをお受けするために、いっときの間を置きましょう。その霊光を我が身に吸い込み、その光輝で我が身を満たし、その御力で我が身を包みましょう。

無限の叡知で私たちを導き、自発的な奉仕の精神の絆の中で私たちを結びつけようとなさる神の愛を自覚致しましょう。かくして私たちは意義ある生活を送り、一段と神に近づき、その無限なる愛の衣が私たちを、時々刻々、温かく包んでくださっていることを自覚なさることでしょう」

Thursday, May 14, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第5章 苦しむ者は幸いです

一、悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満たされるからです。義のために迫害されてきた者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ第5章 4、6、10)


二、貧しい者は幸いです。神の国はその人のものとなるからです。いま飢えている者は幸いです。その人たちは、やがて飽き足りるようになるからです。(ルカ 第6章 20、21)

 しかし、富んでいるあなたたちは、憐れな者です。慰めをすでに受けてしまっているからです。いま食べ飽きているあなたたちは、憐れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたたちは、憐れな者です。やがて嘆き悲しむようになるからです。(ルカ 第6章 24、25)

 
 苦しみの正当性

三、地上で苦しむ者にイエスが約束してくれる償いは、未来の生活でしか受け取ることが出来ません。未来への確信を持たねば、これらの金言は意味を持たなくなってしまうか、あるいは人をだます偽りの言葉となってしまいます。

未来への確信を持っていたとしても、苦しむことによって幸せを得るということを理解するのは大変難しいことです。苦しむことにより、より価値のある幸せを得ることができるようになるのだという人がいます。しかし、それならばなぜ、ある人は別の人より多く苦しまなければならないでしょうか。

なぜ理由を明らかにされることなく、一部の人々は貧しい生活を強いられ、他の人々は贅沢な暮しをすることが出来るのでしょうか。なぜ、すべてがうまくいかない人々がいる一方で、すべてがうまくいき、笑って過ごせる人々がいるのでしょうか。

さらに理解できないのは、なぜ幸と不幸が、美徳と悪徳の両側に不均等に散らばっているかということです。徳の高い人たちが、はびこる悪者たちの間で苦しんでいるのを見ることができるのはなぜでしょうか。未来を信じることにより、慰めを得たり、辛抱を得ることが出来ます。

しかしながら、こうした普通とは違った考え方も、その理由を教えてもらえないのであれば、それは、神の不公平さを認めているようなものです。しかし、神の存在を認めるのであれば、その永遠の完全性を考慮に入れずに考えることは不可能です。

神は万能、完全なる正義、善良であり、そうでなければ神とはなり得ません。そして、もし神が至上の善と正義を持つのであれば、気まぐれやエコひいきによって行動するわけはありません。

人生の苦しみには理由があり、神が公平である以上、その理由も正当である筈です。このことをすべての人々が納得できるように、人類がこの原因を理解できるよう、神はイエスの教えに託して人類を導いてくれました。

そして今日、人類はその教えを理解するのに十分成熟したため、神はスピリティズムを通じ、霊たちの声に託し、この原因を完全な形で示してくれたのです。


   現世に存在する苦しみの原因

四、人生の苦しみには二通りあります。言い換えるならば、二つの全く違った種類の原因があります。一種類目の原因とは現世の中にあり、もう一種類は現世以外のところに存在します。

 地球上で私たちが体験する苦しみを遡れば、その原因の多くは苦しんでいる人自身の性格、あるいはその人自身の行いの中にあることが分ります。

 しかしそれでは、どのくらいの人が自分自身に原因があるということを認めることが出来るのでしょうか。どのくらいの人が自分自身のプライド、野心、不注意の犠牲となっているのでしょうか。

どのくらいの人がその規律のなさ、根気のなさ、不適切な行動、きりのない欲求によって惨めな思いを強いられているのでしょうか。

 本心を無視し、私欲、虚栄心の計算のもとに結ばれ、不幸を迎える夫婦が何組あるでしょうか。もう少し慎重に行動し、怒りをこらえることを知っていれば、何組もの不和、口論、致命的な言い争い、離別を防ぐことが出来たのではないでしょうか。

 不節制や、すべてにおける行きすぎた行いがどれだけの身体が不自由な状態や病気をもたらしているでしょうか。幼い時からのしつけを怠った為に、子供との関係がうまくいかなくなってしまった親が何人いるでしょうか。

子どもに対する弱さと無関心が子供の中に自惚れやエゴ、虚栄心の種を植えつけ、渇いた心を作ってしまうのです。しばらくして、その植え付けた種を収穫する時、親に対し尊敬を欠いた恩知らずな子どもを見て驚き悲しむのです。

 人生の変遷による失望によって心を傷つけられた者は、自分自身の良心に問うて見て下さい。あなたの苦しみの原因を一歩一歩辿ってゆけば、殆どの場合、それがあなた自身の中に存在することを知り、「これをやっていなければ」とか「あれをやっていればこんなことにはならなかった」等と言うことが出来なくなるでしょう。

 自分自身のせいでないとすれば、一体誰のせいで苦しまねばならないというのでしょうか。人間はこのように、ほとんどの場合、自ら自分の不幸の主要原因を作っているのです。

しかしながら実際はその人自身の怠惰であるのにもかかわらず、自分の自尊心が傷つかないように、そのことを認めずに、運命や神、チャンスの不足のせいにしたり、あるいは星とは自分の不注意であるにも関わらず、星などのせいにしてしまった方がより容易なのです。

 こうした態度は、必ず人生の中に無数の苦しみを生みだすことになります。人間は、その道徳的、知性的な自己の改善によってのみ、これらの苦しみからのがれることができるでしょう。
 
    
五、人間の法律は悪に応じて罰を与えるようになっています。悪を働き処罰される者は自らの行った悪行の報いを受けることになります。しかし、法律はすべての悪や罪を扱えるわけではありません。法律は社会的な損害を与える罪を処罰するようにできており、過ちを犯す者個人に損害をもたらす罪を処罰するようにはなっていません。

しかし、神はすべての人間の進歩を見守ってくれています。ですから、正しい道から逸れると、どんな小さな過ちであっても神は罰するのです。如何に小さな過ちであっても、神の法に反していれば、多かれ少なかれ、避けることのできない悲しい結果を必ず得ることになります。

小さな罪であれ、大きな罪であれ、人間はその犯した罪に応じて罰せられます。だから罪を犯した結果として現れる苦しみは、罪を犯したのだという警告なのです。苦しみはその人に善悪の区別を体験として教え、将来の不幸の源となり得るものを改める必要性を教えてくれるのです。

そうした動機がなければ、人間は自分を改めようとはしません。罰は与えられないのだと信じていれば、その人の向上は遅れ、更に幸福な人生への到達も遅れてしまいます。

 そうした改善の必要性を認識させてくれるような経験は、時には少し遅れてくることもあります。生命がすでに消耗され、混乱に陥り、苦しみがもはやその人を向上させるために効力を持たなくなった時、人は概してこう言います。

「もし、人生のスタートからこうなることを知っていたら、どれだけの過ちを未然に防ぐことができただろう。もし、やり直すことができたら、私は全く別の生き方をしていただろうに。でも、もう時間はない!」。その人は、怠惰な労働者が、「今日は何もせずに一日が終わってしまった」と言うように、「人生を無駄にしてしまった」ということになるでしょう。

しかし、その翌日、労働者の頭上にはまた太陽が輝き、新しい日が始まり、失った時間を取り戻すことができるように、人生においても、墓の中で過ごす夜が過ぎると、新しい太陽が輝くのです。その、新しい人生の中で、過去の経験や、未来へ向けて固めた決意を生かすことが出来るのです。
    

℘101    前世に存在する苦しみの原因

六、しかし、その人自身が原因となっている苦しみが現世に存在する一方で、他にも少なくとも見かけはその人の意思とは全く関係なく、宿命のように訪れる苦しみもあります。

例えば、親愛なる人や、家庭を支える者の死のように。誰にも防ぐことのできない事故、まったく手の打ちようのない富の没落、自然の災害、生まれつきの病気、特に、その不幸な者から働いて生計を立てる手段を得る可能性をも剥奪してしまうような病気、身体の障害、知的障害。

 こうした状態で生まれる者は、現世においては、そのような悲しい運命に遭わねばならないようなことはなにもしていないし、その償いを受けることも出来ません。

またそれを避けることは出来ず、それを変えることも出来ず、社会の慈悲の恩恵を受けることになります。なぜ、同じ屋根の下の同じ家族だというのに、この哀れな者の横には、すべての知覚においてその者より優れている人々が居るのでしょうか。

 早く死んで行った子供は、結局、苦しみしか味わうことができなかったのでしょうか。こうした問題のいずれに対しても、どの哲学も未だに答えを出していません。どんな宗教も正しい明解な理由を説明することが出来ていません。

肉体と魂が同時に生まれ、地球上で少しの時間を過ごした後、取り消すことのできない決められた運命をたどるということであれば、こうした不幸や異常は神の良心、正義、意志を否定するものなのでしょうか。

神の手元から離れて行ったこのような不幸な人たちは一体なにをしたのでしょうか。現世においてこれほど惨めな思いを強いられ、良い道も悪い道も選択することが出来ないのであれば、すでに決められた償いか罰をまた将来にも受けなければならないのでしょうか。

 すべての結果には原因が存在するという公理から、これらの苦しみにもなにか原因があっての結果であると言えるはずです。正義に溢れる神の存在を信じるのであれば、この原因も正当であると考えられるに違いありません。

いつでも原因は結果の先に立つものですが、原因が現世に見当たらないのであれば、その原因は現世以前、すなわち、前世に存在すると考えねばなりません。一方で、神は善行や、行ってもいない悪行を罰する筈がありません。もし私たちが罰せられるのであれば、私たちが悪行を働いたからであるはずです。

とすれば、もし、現世で悪行を行っていないのであれば、前世においてそれを行っているということになります。現世か前世のいずれかにおいて苦しみの原因が存在するということは、免れることのできない事実なのです。このように、私たちの道理は、そうした事実の中に働く神の正義というものがいかなるものかを教えてくれるのです。
℘103 
 つまり人間は現世の間に犯した過ちだけ罰せられているわけでも、また現世のうちに完全に罰せられて終わるわけでもありません。過去における原因が生んだ結果から逃げることなく最後まで従う必要があるのです。悪人の繁栄は一時的なものでしかありません。

もしその人が今日償うことが出来なければ、明日償わねばならないのです。すなわち今日苦しむ者は、過去における過ちに対する償いを行っているのです。

一見その人にとってふさわしくない苦しみも、その存在理由があるのです。苦しむ者はいつもこのように言うべきです。「神よ、過ちを犯した私をお許しください」と。
   
     
七、前世に存在する原因から来る苦しみや、または現世に始まった原因による苦しみは、常に人生におけるその人自身の過ちから来るものです。厳しく、公平に行き亘る正義によって、人は他人を苦しめた方法と同じ方法で苦しむのです。

冷たく非人間的な人は、冷たく非人間的に扱われることになります。自尊心の高すぎる者は屈辱的な経験をさせられるでしょう。

ケチで利己的な人、物質的な富を悪用する人は、その有り難さや必要性を感じさせられることになるでしょう。悪い息子であれば、自分の子どもに苦しめられる、というようにさまざまです。

 このように、人生の多様性や、償いの世界としての地球上での運命が、地上の善人と悪人の間に不均一に分配された人間の幸、不幸の理由を説明してくれます。この不均等性は単なる見掛け上のものでしかありません。なぜなら私たちは現世においてしか各々の問題を見ることが出来ないからです。

しかし、思考によって心を持ちあげ、連続性のある人生を考えてみれば、霊の世界において決められているとおりに、各々にはその人にふさわしい人生が与えられているということを理解することができ、そこに神の正義が欠けることはないということが分ります。

 人間は低級な世界に生きているということを忘れてはなりません。人間がそこに存在するのは、人間の不完全性のためなのです。苦しみに出遭うたびに、そのような苦しみも、より高級な世界へ行くことが出来れば味わうことがないのだということを思いだし、また、地上へ再び戻ってくるかどうかということは、各々の努力とその向上にかかっているのだということを認識しなくてはなりません。


八、人生における苦労は、強情な霊や無知な霊に与えられます。それにより、そうした霊は自分が何をしているのかを自覚した上で正しい選択をすることができるようになります。

本当の苦しみを心から体験することによって欠点を改め、向上しようという意志を持った霊によって、自発的に選択され、受けとめられる苦労があるのです。課された任務をうまく成し遂げることができなかった霊は、その任務に付くことによって得ることが出来た筈のメリットを逃さないよう、改めて最初からその任務が課されることを望みます。

こうした任務としての苦しみは、過去の過ちへの償いであると同時に将来へ向けての試練なのです。だからこそ、人間に改善の可能性を与え、最初の過ちを永久に非難することなく、人間を絶対に見放すことの無い神の好意に感謝しようではありませんか。


九、しかし、人生の苦しみの全てがある特定の過ちの証であると信じてはなりません。多くの場合、苦しみとは、自分の浄化と進歩の速度を早めるために、霊自身が選らんだ道であることがあります。そのような場合、苦しみとは償いとしてだけではなく、試練としての意味を持つのです。しかし、試練は必ずしも償いであるとは限らないのです。

完全性を得ることのできた者は試される必要はないのですから、試練に立たされたり、償いの場が与えられるということは、その霊がまだ劣等であることの証明にかわりはありません。

しかし、ある段階への進歩を成し得た霊が、さらに上の段階へ進歩を望むことによって、苦しみに打ち勝った分の報酬として向上しようと、その向上に値するだけの苦境での任務を神に求めることがあります。

善行を、生まれた時からすでに身につけ、高揚した魂を持ち、高潔な感覚を持ち、過去からの悪をどこにも引きずっていないような人で、キリストのように苦しい境遇に対し忍従し、不満をこぼすこともなく、神の加護を求める人がいるならば、その人はこのような場合にあてはまるということができるでしょう。

反対に、その人にとって不満の原因となったり、その人の神への反感の原因となるような苦しみとは、過去の過ちへの償いであるということができます。

 ある苦しみがその人に不満をもたらさなかったのであれば、その苦しみは間違いなく試練であると考えられます。そうした苦しみは、霊自身が自発的に求めたものであり、過ちへの償いとして強要されたものではありません。すなわちそうした苦しみは、その霊の強い決意の証しであり、進歩のしるしなのです。


℘105
十、霊は、完成することなく完全なる幸福を求めることはできません。どんな小さな汚点があっても、その霊が不完全であれば至福の世界へ入ることはできません。ある伝染病が広まった船に閉じこめられた乗組員たちが、どの港に到着しても、伝染病に感染していないことが証明されるまでは上陸の許可が下りないのと同じことです。

霊は幾度にも亘る再生によって、不完全性から少しずつ脱却していくのです。人生における試練は、うまく乗り越えることが出来れば、霊を進化させます。償うことにより、過去の罪を清算し、霊は浄化されます。

それらは傷を癒し、病人を治すための薬であり、重症であればあるほど、薬も強いものである必要があります。つまり多く苦しむ者は多くの罪を償う必要があるのであり、早く治してくれる薬が与えられたことを喜ぶべきでしょう。

その苦しみに忍従することによってそれを有益なもとし、その苦しみがその人にもたらしてくれたものを、不満をこぼすことによって失ってしまうことがないように出来るかどうかは、その人自身にかかっているのです。

そうすることが出来ないのであれば、再び同じような苦しみを繰り返さねばならないでしょう。
   
      
℘106 過去の忘却
十一、過去の人生のことを覚えていないから、過去の経験を生かすことが出来ないと考えることはつまらぬことです。神が過去をベールで覆うことにしたのは、その方が有益と考えられたからに違いありません。過去を覚えていたとしたら、実際に多くの不都合を生じるでしょう。

過去の事実によってひどく恥ずかしめられることもあるでしょうし、また、過大な自尊心をもつようになってしまうこともあるでしょう。私たちの過去は、私たちの自由意志を束縛することになるでしょう。いずれの場合であれ、過去を覚えていたとしたら、社会関係おいて必ず大きな混乱を招くことになります。

 霊はよく過去に過ちを犯した相手に償うために、過去に生活した時と同じ環境、同じ人間関係の中に生まれ変わります。もし、こうした関係の中で、過去に憎んでいた人が再び存在しているとわかってしまったら、また憎しみが湧いてくるでしょう。もし過去に攻撃した相手を前にしたらいたたまれない気持ちになることでしょう。

 神は私たちの向上のために、私たちが必要とするものを、ちょうど足りるだけ与えてくれているのです。すなわち神は私たちに良心の声と本能的な習性を与えてくれました。私たちに不利益になるものを私たちから取り除いてくれたのです。

 人間は生まれた時から、それまでに獲得したものを持って生まれます。生まれるものは、過去に生きていた通りに生まれ変わるのです。一回一回の人生のすべてが新たな出発点です。過去がどうであったかというのは、重要なことではありません。もし罰せられているのであれば、過去に過ちを犯したからです。

その人の現在の悪い習性は、その人自身がまだどこを正さねばならないかを示しているのです。そうであるからこそ、そうした自分自身の悪い性癖を見逃さないよう、その人は注意しなければなりません。

なぜなら、すでに完全に正された悪は表に出てこないからです。良心の声が善と悪との区別を警告し、悪の誘惑に乗らないようにする力を与えてくれる時、人は善なる決断を下すことができるのです。

 過去の忘却は、地上で生活している間だけのものです。霊の世界へ戻れば、自分の過去を思いだすことになります。したがって、過去の忘却とは、一時的な記憶の中断に過ぎません。それは私たちが寝ている間、地上での生活の記憶に一時的な中断があるにもかかわらず、次の日、寝た前日やそれ以前の記憶を失っていないのと同じことです。

 過去の記憶を取り戻すのは、死後だけのことではありません。霊は過去の記憶を失うことはなく、人間は睡眠中、身体の寝ている間、霊はある種の自由を得ることが出来、また、過去の人生の記憶を持っているということを経験は証明しています。

従って霊はなぜ苦しむのかを知っており、またその苦しみが正当なものであるということも知っています。過去の記憶は、霊が地上で寝ずに活動している間だけ消えています。

その霊にとっては苦しく、社会的に生活する上で不利益ともなり得る過去の細かな記憶を消されているということが、その解放の時間をうまく利用することができる霊にとっては、新しい力を得ることが可能になるのです。


  甘受しなければいけない理由
十二、「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」という言葉で、イエスは、苦しむ者が受けるべき代償と、苦しみと言うものが病める私たちの回復の始まりであって、私たちは苦しみを有難く受け止めなければならないことを同時にのべています。

 これらの言葉は次のように言い換えることができます。苦しむことを幸せに感じなければいけません。何故なら、この世におけるあなたたちの苦しみは、あなたたちの過去の過ちに負うものであるからです。

これらの痛みは、地上で辛抱強く耐えられるのであれば、未来の何世紀にも及ぶ生活への蓄えとなるのです。したがって、神が、現生においてあなたたちに義務を果たす機会を与えてくれ、未来での平和を約束し、義務を軽減してくれているのだと言うことを感謝しなければなりません。

 苦しむ者とは、多大な借金を抱えたような者です。その者に対して、借金を取りたてる者が、「今日中に百分の一でも払ってくれるのなら、残りは全て水に流してあげましょう。もし、払わないのであれば、最後の一円まで、取りたてようと追い回すことになります」と言ったとします。

借金を負う者は、全てを掛けて百分の一だけを支払って負債から逃れた方が幸せでしょう。このように言ってくれる取立人には文句を言うどころか、感謝をするのではないでしょうか。

 これが「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」と言う言葉の意味するところです。苦しむ者はその借金を返済することが出来るのですから幸いなのです。

なぜなら、支払いを終えれば自由になるからです。しかし、その借金を払いながらも、また別の方から借金をするならば、永久に負債から逃れることはできません。新しい過ちを犯す度に負債は増えるのです。

なぜならいかなる過ちであれ、避けることのできない罰が与えられないものは何一つないからです。もし今日支払うのでなければ、明日は支払わねばなりません。現世で支払うのでなければ、来世において支払うことになるでしょう。神の意志に対する甘受の気持ちの欠如も、まず一番目にこうした過ちの内に含めなければなりません。

なぜなら、もし、私たちが苦労や苦しみに対し不満を持ち、私たちに相応しいものを受け入れず、神を不公平であると非難するのであれば、苦労が与えてくれる利益を失い、新たな債務を負うことになるからです。

それは私たちを追い立て苦しめる債権者に少しずつ支払いながら、同時に又新たな債務を負い、また、新しい支払いを始めなければならないのと同じことです。

 霊の世界へ入った人間とは、報酬を受け取りに現れた労働者のようなものです。そのうちの何人かに雇い主は言います。「あなたの働いた分の報酬です」。

しかし、地上で満たされた者、怠惰な生活をし、幸せを自分勝手な私欲や自尊心のために、また世俗的な快楽に求めてきた者に対して雇い主は言います。「なにも支払うものはありません。何故なら、あなたたちは地上ですでに報酬を受け取っているからです。行きなさい、あなたたちの仕事をやり直しなさい」。


十三、人は人生のとらえ方次第で、与えられた試練を軽く感じたり、重く感じたりします。試練の期間が長いと感じれば感じるほど、そこから来る苦しみも増します。霊の世界に視点をおいて、地上での物質的な人生というものが、永遠の生命の中のある一瞬でしかないと見ることのできる者には、その人生の短さを理解することができ、苦しみもすぐに過ぎ去ってしまうのだということが分かるでしょう。

近い将来に必ず幸せがやってくるであろうと言う確信は、苦しむ者に勇気を与え、苦しむ者の支えとなります。苦しむのではなく、彼を進歩させてくれる痛みを、天に向かって感謝することになります。


物質的な人生しか目に入らない者には、それがいつまで立っても終わらないものであるかのように思え、苦しみは重くのしかかってきます。霊の世界から人生を見れば、この世のあらゆるものの重要性は薄れてしまいます。人間的な欲望を和らげることによっておかれた立場への満足を得ることができます。

人の身分を羨むことがなくなれば、悲運や失望もあまり感じなくなるでしょう。そうした人は、心の平静と甘受の気持ちを持つことができるようになり、その気持ちは身体の健康にとっても、また、魂にとっても大変良い影響を及ぼします。

一方羨みや野心は、短い人生の惨めさや苦しみを増大させ、そのものを苦境に導きます。


  自殺と狂気
十四、地上での人生に対する視点を変えることによって得られる心の平静、甘受の気持ち、将来への信念は、霊に心の落ち着きを与えるのですが、そうした心の落ち着きとは、自殺や狂気への最良の予防薬となります。

狂気のほとんどは、人間が耐えることのできない苦しみが原因となっています。スピリティズムが教えているように、高い視点からこの世を見ることができるようになると、普通であれば、大きな落胆の原因となるような悲運や失敗を前にしても、それらを冷静に、時には喜びさえ感じて受け止めることができるようになります。

同時に、こうした苦しみを乗り越えさせてくれる力が、人間を精神的な動揺から守ってくれるのです。

℘110
十五、自殺に関しても同じことが言えます。無意識の自殺と考えられる、泥酔や狂気によって起きる自殺を除けば、各々の直接の動機が何であれ、殆どの自殺の原因は人生に対する不満であるということができます。苦しみがたった一日だけのものであり、次の日には必ず幸せが来るのだと確信できる人は、容易に耐えることが出来ます。

そうした人は、この世の苦しみに終わりがないと思わない限り、絶望することはありません。永遠の生命の中で、人間の一生とはどのようなものなのでしょうか。

それは、ほんの一日よりもさらに短いものなのです。それにもかかわらず、自分の生命とともにこの世の中の全てのことが終わると考えて、いやなことや失敗を悲観し、永遠の生命を信じない者は、死ぬことのみによって苦しみから救われると考えるのです。

そして、この世におけるどんな解決も期待できないまま、苦しみを自殺によって短縮することが自然で論理的であると考えるのです。


十六、神を信じなかったり、将来への単純な疑問や唯物主義的な考えを持つことは、人を自殺に導く大きな動機となり得ます。なぜなら、そうした考えは、道徳の弱体化をもたらすからです。

自分の知識の権威に支えられたある有能な人が、人間の死後にはなにも存在しないということを、彼の聴衆や読者たちに対して納得させようとしているとしたら、それは、「不幸であるのなら自殺してしまいなさい」と言っているのと同じことではないでしょうか。

この有能な人は、彼の聴衆や読者たちが自殺しないために何と言ってあげることが出来るでしょうか。自殺しないことによって、何を得ることができると教えてあげることが出来るでしょうか。どんな希望を与えることが出来るのでしょうか。

「無」以外何もありません。不幸な者に与えられる英雄的な唯一の救いであり希望が「無」なのであれば、苦しみが増す前に、すぐにでも「無」の中に身を投じた方が利口であると、必然的に結論が出てしまいます。


℘111
したがって、唯物主義的な考えは、自殺の肯定を多くの人に伝えることになる毒なのです。そして唯物主義者たちは重大な責任を負うことになるのです。スピリティズムの考えでは、生命に謎を抱くことができなくなるために、人生の様相は変わります。

スピリティズムを信じる者は、生命は死を超え、まったく新しい形で、無限に続くということを知っています。このように理解することが、私たちに忍耐と甘受の気持ちを与えてくれ、私たちを自然に自殺から遠ざけてくれます。また、そこから私たちの中に道徳的な勇気が生まれるのです。


十七、スピリティズムは、自殺の問題に関して、もう一つの有益で、より決定的な結論をもたらします。スピリティズムは、自殺した人の死後の不幸な状態を見せることで、誰も罰せられることなく神の法則を破ることはできないのだということを証明してくれます。

神は、人間が自分に与えられた人生を短縮することを禁じています。自殺した者の味わう苦しみは永遠ではなく、一時的なものですが、だからと言って、それが恐ろしいものではないということではありません。

神の命令が下る前にこの世を去ろうとする者がその実態を知ることが出来れば、誰もがもう一度考え直したくなるような恐ろしいものなのです。スピリティズムを信じる者は、この様に自殺に反対する多くの理由を持っています。地球上に生きる間に甘受し、耐え忍んだ苦しみが大きければ大きいほど、幸せにすることのできる未来の生命への確信。

人生を短縮することが、期待する結果とは全く反対の結果を生むという確信。苦しみから逃れても、更に恐ろしく、長引くことになる苦境へ追いやられるだけであるという確信。

自分を死に追いやれば、より早く天国へ行けると考えることが誤っているという確信。自殺は霊の世界で愛する者と再会する上で障害となるという確信。これらすべてのことが、自殺は失望しかもたらさず、自分たちの関心とは相反しているものであると結論付けてくれるのです。

スピリティズムが改心させる自殺願望者の数は非常に大きなものです。もし、すべての人がスピリティズムの考えを信じるようになれば、意識的な自殺者はいなくなるでしょう。

自殺に関して、唯物主義とスピリティズムの教義のそれぞれがもたらす結果を比べるならば、一方の理論は自殺を促し、一方の理論は自殺を防ぐのだということが判り、そのことは経験からも証明されています。





   霊たちからの指導
℘112
  善い苦しみ、悪い苦しみ
十八、キリストは「苦しむ者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と言いましたが、それは苦しむ者すべてについて触れたものではありません。なぜなら、地球上に生きる者は、ワラの上に寝ようと、王位につこうと、その度合いは違っていても、みな苦しむからです。

しかし苦しむべきことに、善い苦しみを知る者はあまりにも少なすぎます。試練をよく耐え抜いて初めて天の御国に導かれるのだということを、ほんの一握りの人たちしか理解していません。苦しみの前に落胆してしまうことは誤りであり、神は勇気に欠けるものを慰めてはくれません。

祈りは魂を支えてくれますが、それだけでは十分ではありません。厚い信仰の基礎には神の優しさによせる固い信頼がなければなりません。神は弱い肩の上に重荷を置くことはない、ということを何度も聞かされたことがあるでしょう。重荷は常にそれに耐える力に応じて置かれるのです。

それは甘受と勇気に応じて報いが得られるのと同じです。苦しみが多ければ多いほど、得ることのできる報いも大きくなります。しかし、その報いを受けるには、私たち自身がそれに値しなければなりません。だからこそ、人生には試練が溢れているのです。

戦線に送りこまれない兵士は、基地に待機し、休憩をしていては昇進できないという不満を持ちます。そのような兵士たちのようになりなさい。身体を衰弱させ、魂を麻痺させてしまうだけの休息を望んではなりません。神があなたを戦いへ送りこんだのであれば、満足しなければなりません。

なぜなら、その戦いとは、戦場での戦いではなく、人生の苦しさとの戦いのことだからです。そこでは、流血の戦いよりも勇気が必要となる場合があります。

なぜなら、そこでは、戦場でしっかりと敵の前に立てる者でさえ、道徳的な痛みに苦しめられると、屈してしまうからです。こうした勇気に対して、人間は地上で報酬を受けることはできません。しかし神は勲章や栄光のある場所を用意し、待っていてくれるのです。

心配や不満のきっかけとなる苦しみに捕まってしまったら、それを乗り越えようと努力してください。耐え切れないほどの激しい苦しみである怒りや落胆を克服した時には、自信を持って、「私の方が強かったのだ」と言い聞かせましょう。

 「苦しむ者は幸いです」は、次のように理解することができます。「その信仰の強さ、決心の固さ、辛抱強さ、そして神の意志に従うことを試された時に、それを証明できた者は幸いです。なぜなら、そうした者は地上で逃すことになる喜びを百倍にして与えられるからです。そして、働いたのちには、休憩できる時があたえられるでしょう」(ラコルデール ルアーブル,1863年)

 
  悪とその薬
十九、地球は、喜びと楽しみに溢れる楽園なのでしょうか。預言者たちの声はもうあなたの耳には残っていないのでしょうか。イエスはこの苦しみの谷に生まれる者には、涙を流し、歯ぎしりをしなければならない時が来るということを宣告しませんでしたか。

そうなのであれば、ここに住む者は誰もが苦い涙と苦しみを覚悟しなければなりません。

その苦しみがどんなに深く鋭くとも、天を見上げ私たちに試練を与えることを望んでいる神に感謝しようではありませんか。人類よ、神があなたの身体の傷を癒し、あなたの送る日々を美と富とで飾ってくれた時以外に、神の偉大なる力を認めることができますか。

あなたを栄光で飾り、輝きと潔白を与えてくれた時以外に、神の愛を感じることができますか。あなたは模範として与えられた者の真似をするべきでしょう。イエスは、惨めさと悲しみのどん底にあった時、肥しの山の上に身体を横たえて神に言いました。

「主よ、私は富むことの全ての喜びを知りました。そして、全くの貪窮に私を送ってくださいました。ありがとうございます。あなたの僕を試そうとしていただき、ありがとうございます」。

死によって限りある地平線ばかりをいつまであなたは見つめているのですか。あなたの魂はいつになれば棺の向こう側に向かっていくのですか。一方、もしこの生涯を、苦しみ、泣き続けたとしても、甘受、信仰、愛を持って苦しむ者に与えられる永遠の栄光に比べれば、それが一体何になるというのでしょうか。

神が準備してくれる未来への慰めを求めましょう。また、あなたの苦悩の原因を過去に求めましょう。そして、最も苦しんだと感じる者は、祝福された者であると感じましょう。

 死者として、宇宙をさ迷っていた時、あなたは自分が耐え切れるであろう試練を選択したのです。なぜ今になって不満を言わなければならないのですか。あなたは誘惑と戦い、克服しようと望み、富と栄光を求めたのです。

精神的、肉体的な悪に対し、全身全霊で戦いたいと望み、その試練が大きければ大きいほど、勝利を得た時の栄光は偉大であることを知っていた筈です。

たとえ身体は肥しの山の上に終わり、死を迎えたとしても、勝利を収めることができたならば、苦悩と悲しみによる洗礼を受けた潔白に輝く魂を放つことになるのです。

 残酷な憑依、死に追い詰めるような悪に攻撃された者にどんな薬を与えてあげることが出来るのでしょうか。間違いなく効く薬は、たった一つしかありません。それは天に通じる信仰を持つことです。

もっとも激しく痛ましい苦しみの真っただ中で神への賛美の歌を口ずさんでください。そうすれば、あなたの横にいる天の使いが、救いの道とあなたがいずれたどり着くことになる場所を示してくれます。

信仰こそが苦しみの唯一の薬です。信仰は常に永遠なる地平線の方向を示してくれ、現在の日々を幾日も覆っていた雲を追い払ってくれます。病気、傷、試練、苦労の薬を求めてはなりません。信じる者は信仰という薬によって力づけられ、その薬の効力を信じない者は、例え一瞬であっても、直ちに苦痛や悲しみを味わい、罰を受けることになるのです。

 神は神を信じる者には目印を付けています。キリストは、信仰だけで山をも動かすことが出来ると言いました。私は言います。苦しんでいようと、自分自身を支えるだけの信仰がある者は神の加護を受け、苦しみを感じなくなります。最大の痛みの時間が、永遠の喜びの前奏のように聞こえてきます。

魂はそうやって身体から離れていき、後からくる者がまだ地上でもがき苦しんでいる時、天の国に滑り込み、天の使いたちと、一緒に神の栄光と神への感謝を賛美して歌うのです。

 苦しみ、涙を流す者は幸いです。神が祝福を積んでくれるので彼らの魂は幸せです。(聖アゴスティーヌ パリ、1863年)

℘115      
  幸せはこの世のものではありません
二十、私は幸せではない、幸せとは私のためにあるものではない、と一般に人はどんな社会的階層に属していても訴えます。親愛なる子どもたちよ、このことは、「コへレトの言葉」の金言「幸せはこの世のものではありません」が真実であることを、どんな推論よりもはっきりと示しています。

誠に、どんな財産も、どんな権力も、青春の盛りも、幸せの本質的な条件ではありません。多くの人が切望するように、たとえこれらを三つとも持っていたとしても幸せにはなれないでしょう。

というのも、特権階級の中でさえも、いろいろな年齢の人がその置かれた生活環境を嘆いているからです。

こうした事実があるにもかかわらず、労働者階級の人々が、富に恵まれた階級に非常に強く憧れ羨むのは何とも理解しがたいものです。この世においては、どんな人にもそれぞれに与えられた労苦と貧困があり、苦しみと誤りが分配されるのです。

そのことから、地球とは試練と償いの場所であるという結論に辿り着くのは容易なことです。

 そうであるならば、地球が人類にとって唯一のすみかであり、そこでの一回の人生において、自分の持ち合わせた可能性の中での最大限の幸せを得ることが許されているのだと信じる者は、騙されているのであり、その者に耳を傾ける者をも騙すことになるのです。

何世紀にもわたる経験からも、この地球上で人間の完全なる幸せを得るための必要条件が揃うことは異例である、ということを思いだしてください。

 一般的に、幸せとは理想郷(ユートピア)を意味し、何世代にもわたって探し続けたところで決して辿り着けないところであると考えられます。この世で思慮深い人を探すのは難しいことですが、本当に幸せな人を見つけるのは更に大変なことです。

 地上で、分別を持って生きて行かない者にとって、幸せとは非常にはかないものです。一年、一ヶ月、一週間の完全な満足を感じたとしても、残りの人生は苦しみや落胆の連続となるでしょう。

親愛なる子供たちよ、私は、一般の人が羨む地上での幸福について述べているのだということを覚えておいてください。

したがって、地上でのすみかが試練と償いの場であるならば、この世の他にも、人間の霊が依然として物質的な身体の拘束を受けながらも、人間の生活に固有の喜びを完全な状態で味わうことが出来るような、より素晴らしいすみかが存在することを認めなければなりません。

だからこそ、神は星雲の彼方に、より高等で美しい惑星を作ったのです。そこへ行くにふさわしくなるまで浄化され、完成されたとき、あなたたちはその努力とその性向によってその星にひきつけられていくことになるのです。

 しかし、私の言葉から地球は悔悟だけのために存在するのだと結論づけないでください。決してそうではないのです。将来、地球がどれほど進歩し得るのか、やがて訪れることになる、新しく豊かに改められた社会とはどのようなものなのか、地球が過去においてすでに成し遂げた進歩や、社会的な向上からそれらを想像することは容易なことです。

地球を進歩させること、これが、霊たちによって明らかにされた新しい教義であるスピリティズムの持つ大きな役割なのです。

 親愛なる子どもたちよ、聖なる競争心に刺激され、あなたたち一人一人が精力的に自己の改革に取り組めますように。すでにあなた自身を更生しつつあるスピリティズムを広めることに全身を捧げなさい。

この神聖なる光の中にあなたの兄弟たちを招き入れることがあなたに課された任務です。親愛なる子どもたちよ、仕事に取り掛かりましょう。この厳粛な集まりにおいて、あなたたちの心を一つにし、将来を担う未来の世代のために、幸せという言葉が無駄にならないような世の中を築きあげるという大きな目標を掲げるのです。(モロー枢機卿フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ 1863年)



  愛する人の死、早すぎた死
二十一、死があなたたちの家族を襲い、年齢の区別なしに若い者を年老いた者より先に連れて行った時、あなたたちはよく次のように言います。

「神は不公平だ。まだ先の長い、強いものを連れて行き、もう長い年月を生き、落胆ばかりしてきた者が置いていかれてしまった。役に立つものが連れて行かれ、もう役に立たなくなってしまった者が取り残されてしまった。喜びのすべてであった罪のない子どもを奪い、母親の心を傷つけた」と。

 人類よ、このようなことに対してこそ、あなたたちはその考えを引き上げ、最善なことというものが多くの場合あなたたちの見逃している、死すべき運命の中に存在しているのだということを理解する必要があります。

なぜあなたたちの基準で神の正義を計ろうとするのですか。宇宙の神がその気まぐれで、あなたたちに残酷な苦しみを与えるなどと考えられますか。何事も知的な目的なくして行われることはなく、すべてのできごとにはその理由があるのです。

あなたに降りかかるすべての困難をよりよく調べてみることが出来れば、そこには必ず神の決めた理由、あなたに改心を促す理由があることがわかります。

それを理解することができれば、あなたたちの惨めな関心ごとというものが、比して二次的な物であることが分かり、あなたはその優先順位を下げることが出来るでしょう。


 私が述べることを信じてください。二十歳の者であっても、尊敬すべき家系の面目をつぶしたり、母親を悲しませ、父親の頭髪を早く白くさせてしまうような不品行を働くようであれば、死が選択されてしかるべきものなのです。早すぎる死はほとんどの場合、神によって与えられる恩恵であり、それによってその者を人生の惨めさや、破滅に導くような誘惑から遠ざけてくれるのです。人生のまっ盛りにある者の死は、運命の犠牲者ではなく、神がこれ以上地上にいるべきでないと判断したことによるものなのです。

 希望に満ちあふれる者の命が余りにも早く断ち切られてしまうことは悲劇である、とあなたたちはいうでしょう。しかし、その希望とは、どんな希望のことを言っているのですか。地上の希望、その経歴と富を築くことによって輝く希望のことですか。

常に物質的な世界から脱却することの出来ない狭い視界でものごとをとらえているのではありませんか。希望に溢れていたとあなた方がいうその人の運命が実際にどうであったのか、あなた方は知っているのですか。

それが苦しみに溢れたものではなかったと、どうして言いきることが出来るでしょうか。未来における生活への希望を見ずに、後に残した地上での束の間の人生の方に希望を託すのですか。

至福の霊達が住む世界で獲得することになる地位よりも、人間の世界で獲得する地位の方が大切だと考えるのですか。

 この惨めな谷底から、神があなたの子供を連れて行っても、泣くのではなく、喜ぼうではありませんか。その子供に、私たちと一緒に苦しむために残れと言うのは、自分勝手ではないでしょうか。

ああ、信心を持たぬ者の抱く苦しみ、死を永遠の別れだと考える者の苦しみ。しかし、あなたたちスピリティズムを学ぶ者は、魂は肉体という被いから解放された時の方が、より生き生きすることを知っています。母親たちよ、あなたの愛する子は、あなたのすぐ近くにいるのです。

すぐ近くにいて、そのフルイドの体があなたを取り巻き、その子の思考はあなたを守ってくれているのです。

あなたが抱くその子の良い思い出は、その子を満足させます。しかし同時にあなたの持つ苦しみは、その子を悲しませる原因となるのです。何故なら、それはあなたが信心に欠けていることの証拠であり、神意に反することであるからです。

 霊界での生活を理解するあなたたちは、愛する者たちを呼ぶとき、あなたの心臓の鼓動に耳を傾けてみて下さい。あなたが彼らに対する神の祝福を願う時、あなたの涙を乾かしてくれる心強い慰めをあなたの中に感じることができるでしょう。そして、その偉大なる熱望は神に約束された未来を見せてくれるでしょう。(元パリ・スピリティスト教会のメンバー、サンソン 1863年)

℘119  
  善人であれば死んでいた
二十二、ある危険から逃れた悪者を見て、善人であれば死んでいた、などとよく言います。これは確かに真実だということが出来るでしょう。

なぜなら、神は多くの場合、善い霊にはその功労の代償として、出来るだけ短い試練を与えるのに対し、若い進歩しつつある霊には、より長い試練を与えるからです。しかし、だからといってこのようにいうことは神に対する冒涜です。  

 悪者の隣りに住むある善人が死んだとします。あなたたちは「あっちが死んでいればよかったのに」等とすぐ言います。その時あなたは大きな間違いを犯しているのです。

死んでいく者はその任務を終えたのであり、残った者はおそらく、その任務を開始してさえもいないのです。それなのになぜ悪者にその任務を終わらせるための時間が与えられないことを望み、善人がこの地上にとどまることを望むのですか。

刑期を終えたのに刑務所に残らなければならない囚人と、一方で権利を持たないのに自由を与えられた囚人を見て何を考えますか。本当の自由とは肉体からの解放であり、地上にいる間は、収容所にいるのだということを覚えておかなければなりません。 

 理解できないことについてとやかく言うのは止めましょう。すべてにおいて公平である神を信じましょう。あなたたちに悪く見えることが、しばしば善いことであり得ます。

しかし、あなたたちの能力はあまりにも制限されているため、あなたたちの鈍い感覚ではおおきな全体像をすべて捉えることが出来ないのです。あなたたちの考えによって、この小さな地球を乗り越えられるように努力しましよう。

考えを高く持ち上げるにつれて、地上の重要性というものがだんだん小さくなっていきます。なぜなら、この地上における人生とは、霊としての真なる唯一の永続的な命の前には、単なる小さな一つの出来事でしかないからです。(フエヌロン サンス 1861年)

℘120       
  志願して受ける苦痛
二十三、人間は絶え間なく幸せを求めていますが、その幸せはいつも逃げて行ってしまいます。それは、地上において純粋な幸せが存在しないからです。しかし、生きている間にも、避けて通ることのできないさまざまな出来事をもたらす人生の浮き沈みはあるものの、相対的な幸せというものは得ることができます。

ところが、そうした幸せも、最高の幸せをもたらす不滅の魂の喜びの中に求めずに、消滅し得るものや物質的な満足の中に求めるのであれば、それもまた、人生の浮き沈みの犠牲となってしまいます。

この世の真なる幸せである心の平静を求めずに、動揺と負担をもたらすものに幸せを求めていることになるのです。そう考えると、興味深いことに、人間は自分だけの力で避けることができたはずの苦痛を、自ら招いているのだということが判ります。

 羨みや妬みによって生まれる苦痛ほど苦しいものがあるでしょうか。羨ましがる者、嫉妬深い者は、苦痛から休まる暇はありません。どちらも絶え間なく引くことの無い熱に悩まされます。

他人のものを欲しがることは不眠の原因となります。ライバルの成功には気を惑わされます。他人を上回ることにしか関心が無く、同じように妬み深い他人に、自分に対する嫉妬を抱かせることによってその人は喜びを得ているのです。可哀想な、愚かな者たちよ。

その者の人生を毒する嫉妬の対象となっている無益なものを、もしかしたら明日、すべて失わなければならなくなるかもしれないということを忘れてしまっているのです。

「苦しむ者は幸いです。なぜなら、慰められるからです」という言葉は彼らには当てはまりません。なぜなら、彼らの関心事は天に置いて報われるものではないからです。

 反対に、すでに得た物によって満足することを知っている者は、何と多くの苦悩を避けることが出来ることでしょうか。自分の所有しないものを羨むことなしに見ることが出来、実際の自分以上に自分を見せようとはしません。

自分の上を見るのではなく、常に自分より少なく所有している者、つまり自分より下を見るので、いつも豊かであると感じることが出来るのです。馬鹿げた欲求を生み出したりはせず、いつも平静を保つことができるのです。

人生の苦悩の合間に感じることのできるそうした心の平静は、ある種の幸せだと言うことができるのではないでしょうか。(フェヌロン リヨン、1860年)

℘121        
  本当の不幸  
二十四、すべての人が不幸について語ります。すべての者がそれを経験したことがあり、そのさまざまな様相を知っていると思っています。しかし、あなたたちに申し上げます。

ほとんどすべての人が誤解をしているのです。なぜなら、本当の不幸とは、人間が考えるもの、つまり、不幸と感じている人々が考えるものと、まったく違っているからです。

貧しく惨めな生活、火のともらぬ暖炉、せきたてる債権者、明るく微笑んでいた赤ん坊のいなくなったゆりかご、涙や、悲しむ心に見送られる棺、裏切られた苦しみ、高貴な衣装に身を包みたくとも貧しさに妨げられ、その貧しい身体に見栄を纏うプライドの高い者、これらすべてを、また、これら以外にも多くのことを、人間の言葉では、不幸と呼びます。

まったく、現在しか見ることのできない者にとっては、それは不幸であることに違いはありません。しかし、本当の不幸とはそのこと自体ではなく、それがもたらす結果の中に存在するのです。

今の瞬間には最も幸せな出来事が、後になって不幸な結果をもたらすのだとすると、見かけは不幸でも後に善いことをもたらすことに比べ、実際にはより不幸であるということが出来るのではないでしょうか。

木々をなぎ倒しながら、死を招くような不健康な有毒ガスを散らし、その環境を清める嵐は、不幸と言うよりは幸いであるということが出来るのではないでしょうか。


 ある出来事を判断する時には、その出来事のもたらす結果についてみることが必要です。人間にとってなにが本当に幸せで、なにが本当に不幸であるのかを知るには、この世の向こう側まで行ってみなければなりません。

なぜなら、地上での出来事の結果と言うものは、そこへ行ってから現れることになるからです。つまり、あなたの狭い視野に不幸として映るものは、人生の終わりとともに消滅し、その償いを未来の人生において受けることが出来るのです。

 新しい形の不幸、つまり、あなたの錯覚した魂がそのすべての力を使って求める、美しく、華々しい出来事に隠された不幸と言うものを示しましょう。

不幸とは、喜び、満足、名声、不毛な心配、良心を窒息させ、考えを圧迫し、人の未来と言うものに疑問を持たせるような、虚栄心を満たす大胆な満足のことです。不幸とは、人間が最も強烈に求める、忘却のアヘンのことなのです。


 泣く者よ希望を持ちなさい。笑うものは、震えなさい。なぜなら、肉体で満足を得ているからです。神を欺くことはできません。誰もその行き先から逃れることは出来ません。

試練は、貧困に耐えられずに後を追いかけてくる浮浪者よりも非情な取立人のように、あなたたちの後を追ってきます。

あなたたちが休息時間と錯覚している間にも、攻撃してくる時を狙っており、突然あなたたちを本当の不幸に陥れ、エゴと無関心によって弱められたあなたたちの魂を驚かすのです。

 スピリティズムの真なる光が、あなたたちの無知によってひどく変形されてしまった真実と偽りを、はっきりと元どおりに示してくれますように。

そうすればあなたたちは、栄光も進歩ももたらすことのない平和よりも、危険な戦いを望む勇敢な兵士のように行動することができるようになるのです。

栄光の勝利を得ることが出来るのであれば、戦闘中に武器、装備、衣類を失ったとしても、その兵士にとって何だというのでしょうか。

未来を信じる者にとって、その魂が天の国へ入り、輝くことが出来るのであれば、戦場に命を落とし、財産、肉体を失うことがなんだというのでしょうか。(デルフィ-ヌ・デュ・ジラルダン パリ 1861年)


 憂鬱
二十五、あなたたちは、なぜ時々、心の中に苦しみが押し寄せてきて、人生がとても苦いものに感じられるのかを知っていますか。それはあなたたちの霊が幸福と自由を熱心に求めようとしても、牢屋のような肉体に閉じ込められているため、そこから解放されたくとも解放されず、無駄な努力を繰り返すことにくたびれてしまうからなのです。

そうした努力をすることが無意味であることを知ると、やる気を失い、すると、その影響は肉体にもおよび、虚脱感、意気消沈、無気力に占拠され、あなたたちは不幸に陥ってしまうのです。

 私が言うことを信じ、あなたの意欲を弱体化させるこうした気持ちに、精力的に抵抗してください。よりよい人生を熱望する気持ちは、すべての人間の霊に生まれつき備わっているものですが、それをこの世に求めてはなりません。

今日、神はあなたたちのために善霊たちを送り、あなたたちのために用意された幸せを教えてくれるようにしてくれたのです。自由の天使を辛抱強く待つのです。

彼らはあなたたちの霊を拘束し続けるものから解放してくれるのです。あなたたちが地球上にいる間は、家族のために身を捧げたり、神によって与えられたさまざまな義務を行うといった、もはや疑ってはならない、あなたに任された使命を果たさねばならないのだと考えなければならないのです。

そしてもしこの試練の間、あなたたちの役割を遂行する途中に、心配、不安、苦悩が降りかかってくるのであれば、強く勇気を持ってそれに耐えなければなりません。

決断を固め、立ち向かっていきなさい。きっとそれは短期間に終わり、その結果、あなたたちの到着を喜んで迎え、ともに泣いてくれる友たちのところへあなたたちを導いてくれるでしょう。そして彼らはあなたたちの前に腕を広げ、地上の苦しみが届かないところまで、あなたたちを連れて行ってくれるでしょう。(フランソワ・デュ・ジュネーブ ポルドー)


  志願した試練、本当の苦行
二十六、試練を優しくすることは許されているのですか、とあなたたちは尋ねます。この質問は次のような質問を思いださせます。

「溺れる者が助かろうとすることが許されていますか」
「棘に刺された者はその棘を抜こうとすることが許されていますか」
「病気にかかった者が医者を呼ぶことが許されていますか」。

降りかかる試練はあなたたちにその忍耐、甘受の気持ちだけでなく、知性をも働かせることを目的としているのです。ある人は悲痛で困難な状況に生まれてきますが、そのことはまさにその人に困難に打ち勝つ方法を考えさせることになります。

避けることの出来ない困難がもたらした結果に不満をこぼすことなく耐え、戦い続け、それがうまくいかなかったとしても挫折してしまわないところに、試練を受けることのメリットがあるのです。

いかなることにも手を施すことなく、そのままにするのでは、それは美徳と言うよりは怠慢でしかありません。

 同じ質問は、さらにもう一つの質問を思い起こさせます。すなわち、「イエスが『苦しむ者は幸いです』といったのであれば、自ら志願し、さらに苦しみを強めることにメリットはありますか」。この質問に対し、私ははっきりと答えます。

「ハイ、そうした苦しみというものが隣人のためのものなのであれば、それは大きなメリットです。なぜなら、それは自分を犠牲にした慈善の行いであるからです。しかし、そうした苦しみというものが、自分だけのためであるならば、メリットはありません。

なぜなら、そうした苦しみとは、熱狂することによって生まれる、単なるエゴイズムの結果でしかないからです」。こうした無益な苦しみと受け入れるべき苦しみとを大きく区別する必要があります。あなたたち自身は、神によって与えられた試練を有難く受け入れねばならないのですが、すでに重く感じているものをさらに重くする必要はありません。

不平ではなく、信心をもってそれらを受け入れてください。神があなたたちに望んでいることは、すでにあなたたちが受けているものだけなのです。無駄な喪失や目的のない苦行によってあなたたちの身体を痛めつけてはなりません。

なぜなら、あなたたちは地上における任務を遂行するために、全身の力を必要としているからです。あなたたちを支え、強めてくれるあなたたちの身体を痛めつけ、自発的に自分を苦しめることは、神の法を犯すことです。

何事も濫用することなく使わねばなりません。それが神の法なのです。優れたものを濫用することは罰に値し、避けることのできない結果を生みます。

 一方で、隣人の苦しみを軽減してあげるために受ける苦しみがあります。自分は寒さと飢えに耐え、必要としている者に衣服を与え、飢えを癒してあげることが出来るのであれば、あなたの身体はそのことによって苦しみますが、その犠牲は神によって祝福されます。居心地の良いあなたたちの家を出て、汚れ、荒れ果てた小屋まで慰めを運んで行ってください。

あなたたちの繊細な手を、病む者を治すことによって汚してください。眠気をこらえ、病気の兄弟の枕元で夜通し看病をしてあげてください。あなたたちは、その健康な身体を善行に捧げることになり、そのことによって本当の苦行を行ったことになるのです。

その苦行は、神の祝福を得ることが出来る本当の苦行です。なぜなら、あなたたちの心の涙は、この世の喜びによって乾かされることは無いからです。

あなたたちは魂を弱める富がもたらす大きな喜びに溺れるのではなく、貧しい者に慰安を与える天使となったのです。

 では誘惑を避けるために孤独に生きようとこの世を逃れた者にとって、その者の地球上での役目は何なのでしょうか。

試練に立ち向かう勇気はどこにあるのですか。戦いから避け、葛藤から逃れているのではありませんか。苦行を行いたいのであれば、あなたの肉体でではなく、魂で行わなければなりません。あなたたちの身体ではなく、魂を制してください。

あなたたちのプライドに鞭を打ち、不平をいわずに辱しめを受けてください。自分への愛を痛めつけてください。肉体の痛みよりきつい、侮辱や中傷の痛みに耐え、無感覚となってください。それが本当の苦行です。

そこで負う傷は神によって数えられています。なぜなら、それは神の意志に従おうとするあなたの意欲と勇気を証明するものだからです。(ある守護霊 パリ 1863年)

℘126
二十七、隣人の試練は、可能であれば終わりにしてあげるのが良いでしょうか。それとも、神の意志を重んじ、その隣人にその試練を受けさせてあげるのがよいのでしょうか。

 すでにあなたたちには申し上げ、幾度も繰り返しました。あなたたちは償いの世界において受けるべき試練を遂行しようとしているのです。そこで起きるすべてのことがあなたたちの過去の人生がもたらした結果であり、払い残した債務なのです。

しかし、このことからある一部の人たちは、不幸な結果をもたらすことになる、避けるべきつまらぬ考えを持ちます。

 ある一部の人たちは、地球上に償いのために生きている以上、さまざまな試練が計画されたとおりに実行されることが必要なのだと考えています。また、一方で、それらの試練を軽減させるどころか、より有益となるように、それらよりきついものにするべきだと考えるのです。しかし、それは大きな間違いです。

確かにあなたたちの試練は神の計画されたとおりに実行されるべきものです。しかし、あなたたちは神がどのような計画を立てたのか知っているのですか。それらの試練がどこまで続くものなのか知っているのですか。

あなたたちの慈悲深い父は、あなたの兄弟が苦しむのを見て、「それ以上苦しむ必要はありません」と言ってくれるのだとしたらどうでしょうか。

虐待の手段として、罪を負う者をさらに苦しめるためではなく、苦しむ者のために慰安の薬となり、あなたたちの正義によって開いた傷口を塞いで上げるために、神はあなたたちを選んだのだということを知っていますか。だから傷ついた兄弟を見て、「神の正義によって苦しんでいるのだ。それに従いなさい」などと言うことがあってはなりません。

そうではなく、反対に、「慈悲深い父は、兄弟を助けるためにどのような方法を私に与えてくれたのだろう。私の道徳的な慰め、物質的な援助、忠告によって、力、忍耐、甘受の気持ちを与え、その試練に打ち勝てるようにしてあげることはできないだろうか。

神はその苦しみに終わりをもたらすものとして、私をここに遣わしたのではないだろうか」と言わなければなりません。「私にとっても試練や償いとして、その苦しみを葬り、平和の祝福と置き換える力を与えてくれたのではないだろうか」と。

 お互いの試練において、お互い助け合って下さい。決して拷問の手段となってはなりません。心の優しい者はみな、特にスピリティズムを学ぶ者であるならばこのように考えなければなりません。

なぜなら、スピリティズムを学ぶ者は、他の者に増して、神の無限なる善意の広がりを理解しなければならないからです。スピリティズムを学ぶ者は、その人生は愛と献身の実践でなければならず、神の決意に反する時には、神の正義によって処されるのだと考えなければなりません。

スピリティズムを学ぶ者は、恐れることなく全力で試練の苦しみを軽減するように努めなければなりません。なぜなら、神だけが試練を終わりとするべきか延長すべきか判断することのできる存在であるからです。

 傷口にさえも銃を突きつける権利があると考えるのは、人間の高過ぎる自尊心の表れであると言えるのではないでしょうか。試練であるという口実のもとに、苦しむ者にさらに多くの毒を盛ってはいませんか。

ああ、あなたたちは苦しみを和らげる手段として選ばれたのだと思って下さい。次のようにまとめることができます。「すべての人が償うためにこの地球にいるのです。しかし、

あなたたちの兄弟の受ける苦しみは、愛と慈善の法に沿って、いかなる苦しみをも例外なく和らげてあげることができるよう全力を尽くしてください」(守護霊 ベルナルダンボルドー、1863年)

℘127      
  治癒する望みのない病人の命を短縮することは合法でしょうか
二十八、ある人が苦悶し、残酷な苦しみの餌食となっています。その人はすでに絶望的な状況に追い込まれていることがわかります。苦悶の時間から少しでも逃れることができるように、その人の最期を短縮してあげることが許されていますか。


 神の計画を予知する権利を、だれがあなたに与えてくれるとお思いですか。ある人を墓の一歩手前まで歩ませ、その後すぐにそこから引き戻すことによって、その人が自ら考えを改めるようにさせることが、神にできることではないでしょうか。

瀕死の人が、死のどれだけ手前に行っていようと、誰にもはっきりとその人の最期の到来を断言することはできません。これまでに科学が、その予知を間違えたことがありませんでしたか。


 理性によって、絶望的と考えられるケースが存在することはよく知っています。しかし、命や健康を完全に取り戻さなかったとしても、息を引きとる直前に突然回復し、少しの間、活力と感覚を取り戻すことが良くありませんか。そうです。その病人に与えられるその貴重な一瞬は、彼にとって最も重要な時間となり得るのです。

苦痛に痙攣する間、その人の霊が省みるものが何であるのか、また、そうした間の一瞬の反省が、その人をどれだけの苦しみから解放してくれるのか、あなたたちは知ろうとしないのです。

 肉体のことしか考えない唯物主義者には、魂の存在など考慮に入れることはできず、以上のようなことを理解することが出来ません。しかし、スピリティズムを学ぶ者は、墓の向こうに何があるのかを知っており、最期の思いの重要性というものを知っています。

最期の苦痛を出来る限り和らげてあげてください。しかし、たとえ一分であったとしても、命を短縮させてあげようなどという考えは遠ざけてください。なぜなら、その最期の一分によって、その人は将来多くの涙を流さずに済むことになるかもしれないからです。(聖王ルイ パリ 1860年)

℘128
  自らの命を犠牲にすること
二十九、生きることが嫌になってしまった者が、自殺はしないまでも、自分の死を何かの役に立てようと、死を求めて戦場へ出かけて行くことに罪はありますか。

 ある人が自殺しようと、自分を人に殺させようと、何れにしてもその目的は人生を短縮することにあります。それゆえ、実際に自殺しなくとも、意図的な自殺をしたことになり得るのです。自分の死がなにかの役に立つだろうなどという考えは錯覚でしかありません。

それは単なる言い訳であって、罪深い行動であることを隠し、自分自身の目をごまかして責任逃れをしているに過ぎないのです。もしその人が真剣に母国のために身を捧げたいのであれば、母国を守るために生き延びようとする筈であり、死のうとはしません。

なぜなら、一度死んでしまえば、もう何の役にも立たないからです。本当の献身とは、役に立とうとするときに死を恐れずに危険に立ち向かい、必要であれば、命を捨てることに前もってこだわることもなく、その犠牲をも捧げることです。

しかし、最初から死を求め、危険な場所、危険な任務に自分を置くのであれば、その行動に真なる功労はないことになります。(聖王ルイ パリ、1860年)


三十、ある人の命を救おうとし、死ぬことを覚悟で切迫した危険に身を投じることは、自殺と考えることはできますか。

 そうした時、そこに死を求める意思がないのですから、自殺とは考えられません。死ぬ確信があったとしても、そうさせるものは献身と無我の気持ちです。しかし、この死ぬ確信と言うものも、誰が持つことができるでしょうか。危篤の状態となった時、神の意が予期せぬ救いの方法を与えてくれないとも限りません。

その神意は大砲の砲口に立たされた者さえも救うことが出来るのではないでしょうか。また、多くの場合、神意は忍従の気持ちを試すために人を最期の限界まで追い詰め、予測していなかった状況において、致命的な一撃を遠ざけてくれるのです。(聖王ルイ パリ 1860年)


 他人のために感じる苦しみの利益
三十一、自分の苦しみを甘受し、自分の未来の幸福のために神の意志に服従する者が、自分だけのために働いても、他人のためにはならないのではありませんか。自分の苦しみを他人のために有益なものとすることができますか。

 そうした苦しみは、物質的にも道徳的にも他人のために有益なものとなり得ます。働くことによって、その人の喪失や犠牲が他人に安楽を与えるのであれば、物質的に有益となることができます。

神の意志に服従する態度は、他人への模範となり、道徳的に有益となることができます。スピリティズムを学ぶ者が模範となって示す信仰の力は、不幸な者に甘受の気持ちを持つことを教え、彼らを未来における絶望的な状況や不幸な結果から救うことになるのです。(聖王ルイ パリ 1860年)