Friday, December 26, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

六章 常夏の楽園


4 九界からの新参(しんざん)を迎える    

一九一三年十二月十五日  月曜日

 さて私は、いずれの日か召されるその日までに成就せねばならない仕事への情熱に燃えつつ、その界をあとにしたのであったが、ああ、その環境ならびに守護霊から発せられた、あの言うに言われぬ美しさと長閑(のど)けさ。仮にそこの住民がその守護霊の半分の美しさ、半分の麗しさしかないとしても、それでもなお、いかに祝福された住民であることか。私は今その界へ向けて鋭意邁進しているところである。

 しかし一方には貴殿を手引きすべき責務がある。もとよりそれを疎かにはしないつもりであるが、決して焦ることもしない。大いなる飛躍もあるであろうが、無為にうち過ごさざるを得ない時もあるであろう。

しかし私が曽て辿った道へ貴殿を、そして貴殿を通じて他の同胞を誘う上で少しでも足しになればと思うのである。願わくは貴殿の方から手を差しのべてもらいたい。私に為し得る限りのことをするつもりである。

 私は心躍る思いの内にその場を去った。そしてそれ以来、私を取り巻く事情についての理解が一段と深まった。それは私が重大な事柄について一段と高い視野から眺めることが出来るようになったということであり、今でもとくに理解に苦しむ複雑な事態に立ち至った折には、その高い視野から眺めるよう心掛けている。

つまりそれは第十一界に近い視野から眺めることであり、事態はたちどころに整然と片づけられ、因果関係が一層鮮明に理解できる。

 貴殿も私に倣(なら)うがよい。人生の縺(もつ)れがさほど大きく思えなくなり、基本的原理の働きを認識し、神の愛をより鮮明に自覚することであろう。そこで私は、今置かれている界について今少し叙述を続けてみようと思う。

 帰りの下り道で例の川のところで右へ折れ、森に沿って曲がりくねった道を辿り、右手に聳える山々も眺めつつ平野を横切った。その間ずっと冥想を続けた。

 そのうち、その位置からさらに先の領域に住む住民の一団に出会った。まずその一団の様子から説明しよう。彼らのある者は歩き、ある者は馬に跨(またが)り、ある者は四輪馬車ないしは二輪馬車に乗っている。

馬車には天蓋(てんがい)はなく木製で、留め具も縁飾りも全て黄金で出来ており、さらにその前面には乗り手の霊格と所属界を示す意匠が施されている。

身にまとえる衣装はさまざまな色彩をしている。が、全体を支配しているのは藤色で、もう少し濃さを増せば紫となる。総勢三百名もいたであろうか。挨拶を交わしたあと私は何用でいずこへ向かわれるのかと尋ねた。

 その中の一人が列から離れて語ってくれたところによれば、下の九界からかなりの数の一団がいよいよこの十界への資格を得て彼らの都市へ向かったとの連絡があり、それを迎えに赴くところであるという。

それを聞いて私はその者に、是非お供させていただいて出迎えの様子を拝見したく思うので、リーダーの方にその旨を伝えてほしいと頼んだ。

するとその者はにっこりと笑顔を見せ、「どうぞ付いて来なさるがよろしい。私がそれを保証しましょう。と申すのも、あなたは今そのリーダーと並んで歩いておられる」と言う。

 その言葉に私はハッとして改めてその方へ目をやった。実は、その方も他の者と同じく紫のチュニックに身を包んでおられたが何の飾りつけもなく、頭部の環帯も紫ではあるが宝石が一つ付いているのみで、他に何の飾りも見当たらなかったのである。

他の者たちが遥かに豪華に着飾り、そのリーダーよりも目立ち、威厳さえ感じられた。

その方と多くは語らなかったが、次第に私よりも霊格の高いお方で私の心の中を読み取っておられることが判って来た。

 その方は更にこうおっしゃった。「新参の者には私のこのままの姿をお見せしようと思います。と申すのは、彼らの中にはあまり強烈な光輝には耐えられぬ者がいると聞いております。そこで私が質素にしておれば彼らが目を眩ませることもないでしょう。

あなたはつい最近、身に余る光栄は益よりも害をもたらすものであることを体験されたばかりではなかったでしょうか。」

 その通りであることを申し上げると、さらにこう言われた。「お判りの通り私はあなたの守護霊が属しておられる界の者です。今はこの界での仕事を仰せつかり、こうして留まっているまでです。

そこで、これより訪れる新参者が〝拝謁〟の真の栄光に耐えうるようになるまでは気楽さを味わってもらおうとの配慮から、このような出で立ちになったわけです。さ、急ぎましょう。皆の者が川に到着しないうちに追い付きましょう。」

 一団にはわけなく追いつき、一緒に川を渡った。泳いで渡ったのである。人間も、馬車も、ワゴンもである。そして向う岸に辿り着いた。そこから私の住む都市を右手に見ながら、山あいの峠道にきた。そこの景色がこれ又一段と雄大であった。

左右に堂々たる岩がさながら大小の塔、尖塔、ドームの如く聳え立っている。そこここに植物が生い繁り、やがて二つの丘を両肩にして、そのあいだに遠く大地が広がっているのが見えて来た。そこにも一つの都市があり、そこに住む愉快な人々の群れが吾々の方を見下ろし、手を振って挨拶し、愛のしるしの花を投げてくれた。

 そこを通り過ぎると左右に広がる盆地に出た。実に美しい。周りに樹木が生い茂った華麗な豪邸もあれば、木材と石材でできた小じんまりとした家屋もある。湖もあり、そこから流れる滝が、吾々がたった今麓を通って来た山々から流れてくる川へ落ちて行く。

そこで盆地が終わり、自然の岩で出来た二本の巨大な門柱の間を一本の道が川と並んで通っている。

 その土地の人々が〝海の門〟と呼ぶこの門を通り抜けると、眼前に広々とした海が開ける。川がそのまま山腹を落ちてゆくさまは、あたかも色とりどりの無数のカワセミやハチドリが山腹を飛び交うのにも似て、様々な色彩と光輝を放ちつつ海へ落ちてゆく。吾々も道を通って下り、岸辺に立った。

一部の者は新参者の到着を見届けるために高台に残った。こうしたことは全て予定通りに運ばれた。

それと言うのも、リーダーはその界より一段上の霊力を身に付けておられ、それだけこの界の霊力を容易に操ることが出来るのである。そういう次第で、吾々が岸辺に下り立って程なくして、高台に残った者から、沖に一団の影が見えるとの報が大声で届けられた。その時である。

川を隔てた海岸づたいに近づいて来る別の女性の一団が見えた。尋ねてみるとその土地に住む人たちで、これから訪れる人々と合流することになっているとのことであった。

 迎えた吾々も、迎えられた女性たちも、ともに喜びにあふれていた。

 丸みを帯びた丘の頂上にその一団の長(おさ)が立っておられる。頭部より足まですっぽりと薄い布で包み、それを通してダイヤモンドか真珠のような生命力あふれる輝きを放散している。その方もじっと沖へ目をやっておられたが、やがて両手で物を編むような仕草を始めた。

 間もなくその両手の間に大きな花束が姿を現わした。そこで手の動きを変えると今度はその花束が宙に浮き、一つなぎの花となって空高く伸び、さらに遠く沖へ伸びて、ついに新参の一団の頭上まで届いた。

 それが今度は一点に集まって渦巻きの形を作り、ぐるぐると回転しながらゆっくりと一団の上に下りて行き、最後にぱっと散らばってバラ、ユリ、その他のさまざまな花の雨となって一団の頭上や身辺に落下した。

私はその様子をずっと見ていたが、新参の一団は初め何が起きるのであろうかという表情で見ていたのが、最後は大喜びの表情へと変わるのが判った。その花の意味が理解できたからである。すなわち、はるばると旅して辿り着いたその界では愛と善とが自分たちを待ち受けていることを理解したのであった。

 さて、彼らが乗って来た船の様子もその時点ではっきりして来た。実はそれはおよそ船とは呼べないもので筏のようなものに過ぎなかった。どう説明すればよかろうか。

確かに筏なのであるが、何の変哲もないただの筏でもない。寝椅子もあれば柔らかいベッドも置いてあり、楽器まで置いてある。その中で一番大きいものはオルガンである。

それを今三人の者が一斉に演奏しはじめた。その他にも楽しむためのものがいろいろと置いてある。その中で特に私の注意を引いたのは、縁(へり)の方にしつらえた 祭壇であった。詳しい説明はできない。それが何のために置いてあるのかが判らないからである。

 さてオルガンの演奏とともに船上の者が一斉に神を讃美する歌を唄い始めた。すべての者が跪づく神、生命の唯一の源である神。太陽はその生命を地上へ照らし給う。天界は太陽の奥の間──愛と光と温もりの泉なり。太陽神とその配下の神々に対し、吾々は聖なる心と忠誠心を捧げたてまつる。そう唱うのである。

 私の耳にはその讃美歌が妙な響きをもっているように思えた。そこで私はその答えはもしかしたら例の祭壇にあるかも知れないと思ってそこへ目をやってみた。が、手掛かりとなるものは何も見当たらなかった。私になるほどと得心がいったのは、すっと後のことであった。

 が、貴殿は今宵はもう力が尽きかけている。ここで一応打ち切り、あす又この続きを述べるとしよう。今夜も神の祝福を。では、失礼する。昼となく夜となく、ザブディエルは貴殿と共にあると思うがよい。

そのことを念頭に置けば、さまざまな思念や思いつきがいずこより来るか、得心がゆくことであろう。ではこれまでである。汝は疲れてきた。 ザブディエル  ♰
 

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch by Stella Storm
            
一章 シルバーバーチはなぜ戻ってきたか

まえがき
 
 十二人の出席者が扇形に席を取った。みんなヒソヒソと話を交わしているが、私の目はソファの右端に座っている小柄で身ぎれいな男性に注がれていて、まわりの人たちの話の内容は分からない。

 その眠気を催すような低音の話声だけを耳にしながら、私はその男性が少しづつ変身していく様子をじっと見守っていた。ふだんは実に弁舌さわやかな人間が、そうした取りとめもない雑談から身を引くように物を言わなくなっていった。

 やがて黒縁の眼鏡と腕時計をはずし、頭を下げ、両目をこすってから、その手を両膝の間で組んだ。顎が、居眠りをしているみたいに腕のところに来ている。

 それから二、三分してから新しい変化を見せ始めた。背をかがめたまま顔を上げた。出席者たちはそんなことにはお構いなしに雑談に耽りながらも、すでに霊媒(ホスト)が肉体を離れていることを感じ取っていた。そして代って主賓(ゲスト)の挨拶の第一声が発せられると同時に、水を打ったように静寂が支配した。

 その霊媒モーリス・バーバネルが肉体を離れ、代わって支配霊のシルバーバーチがその肉体を〝拝借〟して、今われわれの真っ只中にいる。霊媒とは対照的にゆっくりとした、そして幾分しわがれた感じの声で情愛溢れる挨拶をし、いつものように開会の祈りを述べた。

 「神よ、自らに似せて私たちを造り給い、自らの神性の一部を賦与なされし大霊よ。私たちは御身と私たち、そして私たち相互の間に存在する一体関係を一層緊密に、そして強くせんと努力しているところでございます。

 これまでに私たちに得させてくださったものすべて、かたじけなくもお与えくださった叡智のすべて、啓示してくださった無限なる目的への確信のすべてに対して、私たちは感謝の意を表し、同時に、これ以後もさらに大いなる理解力を受けるにふさわしき存在となれるよう導き給わんことを祈るものでございます。

 私たちは、これまであまりに永きに渡って御身をおぼろげに見つめ、御身の本性と意図を見誤り、御身の無限なる機構の中における私たちの位置について誤解しておりました。しかし今ようやく私たちも、御身の永遠の創造活動に参加する測り知れない栄誉を担っていることを知るところとなりました。

その知識へ私たちをお導きくださり、御身について、私たち自身について、そして私たちの置かれている驚異に満ちた宇宙について、いっそう包括的な理解を得させてくださったのは御身の愛に他なりません。

 今や私たちは御身と永遠につながっていること、地上にあっても、あるいは他界後も、御身との霊的な絆が切れることは絶対にないことを理解いたしております。それゆえに私たちは、いかなる時も御身の視界の範囲にあります。

いずこにいても御身の摂理のもとにあります。御身がいつでも私たちにお近づきになられるごとく、私たちもいつでも御身に近づけるのでございます。

 しかし、子等の中には自分が永久に忘れ去られたと思い込んでいる者が大勢おります。その者たちを導き、慰め、心の支えとなり、病を癒し、道案内となる御身の霊的恩寵の運び役となる栄誉を担った者が、これまでに数多くおりました。

 私たちは死のベールを隔てた双方に存在するその先駆者たちの労苦に対し、また数々の障害を克服してくれた人達に対し、そして又、今なお霊力の地上への一層の導入に励んでくださっている同志に対して、深甚なる感謝の意を表明するものでございます。

 どうか私たちの言葉のすべてが常に、これまでに啓示していただいた摂理に適っておりますように。また本日の交霊会によって御身に通じる道を一歩でも前進したことを知ることができますように。
 ここに常に己を役立てることをのみ願うインディアンの祈りを捧げます」


 私(女性)はバーバネル氏のもとで数年間、最初は編集秘書として、今は取材記者(レポーター)として、サイキックニューズ社に勤めている。

 私にとってはその日が多分世界一と言える交霊会への初めての出席だった。英国第一級のジャーナリストだったハンネン・スワッハー氏の私宅で始められたことから氏の他界後もなおハンネン・スワッハー・ホームサークルと呼ばれているが、今ではバーバネル氏の私宅(ロンドンの平屋のアパート)の一室で行われている。

 その日開会直前のバーバネル氏は、チャーチル(元英国首相)と同じようにトレードマークとなってしまった葉巻をくわえて、部屋の片隅で出番を持っていた。一種の代役であるが、珍しい代役ではある。主役を演じるのは北米インディアンの霊シルバーバーチで、今では二つの世界で最も有名な支配霊となっている。

そのシルバーバーチが憑ってくるとバーバネルの表情が一変した。シルバーバーチには古老の賢者の風格がある。一分のスキもなくスーツで身を包んだバーバネルの身体がかすかに震えているようだった。

 そのシルバーバーチとバーバネルとの二つの世界にまたがる連繋関係は、かなりの期間にわたって極秘にされていた。シルバーバーチの霊言が一九三〇年代にはじめてサイキックニューズ誌に掲載された時の英国心霊界に与えた衝撃は大きかった。活字になってもその素朴な流麗さはいささかも失われなかった。

 当初からその霊言の価値を認め、是非活字にして公表すべきであると主張していたのが他ならぬスワッハー氏だった。これほどのものを一握りのホームサークルだけのものにしておくのは勿体ないと言うのだった。

 初めはそれを拒否していたバーバネルも、スワッハー氏の執拗な要請についに条件付きで同意した。彼がサイキックニューズ誌の主筆であることから、〝もし自分がその霊媒であることを打ち明ければ、霊言を掲載するのは私の見栄からだと言う批判を受けかねない〟と言い、〝だから私の名前は出さないことにしたい。

そしてシルバーバーチの霊言はその内容で勝負する〟という条件だった。

 そういう次第で、暫くの間はサークルのメンバーはもとより、招待された人も霊媒がバーバネルであることを絶対に口外しないようにとの要請を受けた。とかくの噂が流れる中にあって、最終的にバーバネル自身が公表に踏み切るまでその秘密が守られたのは立派と言うべきである。

 あるとき私が当初からのメンバーである親友に「霊媒は誰なの?」と密かに聞いてみた。が、彼女は秘密を守りながらも、当時ささやかれていた噂、すなわち霊媒はスワッハーかバーバネルかそれとも奥さんのシルビアだろうという憶測を、否定も肯定もしなかった。

 当時の私にはその中でもバーバネルがシルバーバーチの霊媒としていちばん相応しくないように思えた。確かにバーバネルはスピリチュアリズムに命を賭けているような男だったが、そのジャーナリズム的な性格は霊媒のイメージからは程遠かった。まして温厚な霊の哲人であるシルバーバーチとはそぐわない感じがしていた。

 サイキックニューズとツーワールズの二つの心霊誌の主筆として自らも毎日のように書きまくり、書物も出し、英国中の心霊の集会に顔を出しまわって〝ミスター・スピリチュアリズム〟のニックネームを貰っているほどのバーバネルが、さらにあの最高に親しまれ敬愛されているシルバーバーチの霊媒までしているというのは、私には想像もつかないことだった。

そのイメージからいっても、シルバーバーチは叡智に溢れる指導者であり、バーバネルは闘う反逆児だった。

 今から十年前(一九五九年)、バーバネル自身によるツーワールズ誌上での劇的な打ち開け話を読んだ時のことをよく覚えている。

 〝永い間秘密にされていたことをようやく公表すべき時期が来た。シルバーバーチの霊媒は一体誰なのか。その答えは───実はこの私である〟とバーバネルは書いた。

 「それ見ろ、言った通りだろう!───こうしたセルフがスピリチュアリストの間で渦巻いた。

 シルバーバーチが霊媒の〝第二人格〟でないことの証拠としてあげられるのが、再生説に関して二人が真っ向から対立していた事実である。バーバネルは各地での講演ではこれを頭から否定し、その論理に説得力があったが、交霊会で入神して語り出すと全面的に肯定する説を述べた。が、

バーバネルもその後次第に考えが変わり、晩年には「今では私も人間が例外的な事情のもとで特殊な目的をもって自発的に再生してくることがあることを信じる用意が出来た」と述べていた。

 シルバーバーチの叡智と人間愛の豊かさは尋常一様のものではない。個人を批判したり、けなしたり、咎めたりすることが絶対にない。それに引き換えバーバネルは、自らも認める毒舌家であり、時には癇癪を起すこともある。

交霊会でシルバーバーチの霊言を聞き、他方で私のようにバーバネルと一緒に仕事をしてみれば、二人の個性の違いは歴然としていることが分かる。

 バーバネルは入神前に何の準備も必要としない。一度私が、会場(バーバネルの自宅)へ行く前にここ(サイキックニューズ社の社長室)で少し休まれるなり、精神統一でもなさってはいかがですかと進言したことがあるが、

彼はギリギリの時間まで仕事をしてから、終わるや否や車を飛ばして会場へ駆け込むのだった。交霊会は当時はいつも金曜日の夕刻に開かれていたから、一週間のハードスケジュールが終わった直後と言うことになる。

 私も会場まで車に乗せて頂いたことが何度かある。後部座席に小さくうずくまり、一切話しかけることは避けた。そのドライブの間に彼は、間もなく始まる交霊会の準備をしていたのである。と言っても短い距離である。目かくしをしても運転できそうな距離だった。 

 会場に入り、いつも使用しているイスに腰を下ろすと、はじめて寛いだ様子を見せる。そしてそれでもうシルバーバーチと入れ替わる準備が出来ている。その自然で勿体ぶらない連繋プレーを見ていて私は、職業霊媒が交霊会の始めと終わりに大袈裟にやっている芝居じみた演出と較べずにはいられなかった。

 シルバーバーチが去ることで交霊会が終わりとなるが、バーバネルには疲れた様子は一切見られない。両目をこすり、眼鏡と時計をつけ直し、一杯の水を飲み干す。ややあってから列席者と軽い茶菓をつまみながら談笑にふけるが、シルバーバーチの霊言そのものが話題となることは滅多にない。そういうことになっているのである。

 シルバーバーチを敬愛し、その訓えを守り、それを生活原理としながら、多分地上では会うことの無い世界中のファンのために、シルバーバーチとバーバネル、それにサークルの様子をおおざっぱに紹介してみた。霊言集はすでに八冊が出版され、世界十数か国語に翻訳されている。その世界にまたがる影響力は測り知れないものがある。

 本書はそのシルバーバーチのいつも変わらぬ人生哲学を私なりに検討してみてまとめ上げた、その愛すべき霊の哲人の合成ポートレードである。
                             ステラ・ストーム


  
  一章 シルバーバーチはなぜ戻ってきたか

  《正直言って私は、あなた方の世界に戻るのは気が進みませんでした。地上というのは、いったんその波長の外に出てしまうと、これといって魅力のない世界です。私がいま定住している世界は、あなた方のように物質に閉じ込められている者には理解の及ばないほど透き通り、光り輝く世界です。

 くどいようですが、あなた方の世界は私には魅力ある世界ではありませんでした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなければなりませんでした。地上の同志を見つけて、その協力が得られるよう配慮しなくてはなりませんでした。

 それから私の代弁者となるべき霊媒を養成し、さらにその霊媒を通じて語る真理をできるだけ広く普及させるための手段も講じなくてはなりませんでした。しかし同時に、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証も得ました。そして計画は順調に進められました》                                        シルバーバーチ


 「ずいぶん前の話ですが、私は物質界に戻って霊的真理の普及に一役買ってくれないかとの懇請を受けました。そのためには霊媒と同時に心霊知識をもつ人のグループを揃えなくてはならないことも知らされました。私は霊界にある記録簿を調べあげた上で、適当な人物を霊媒として選び出しました。

それはその人物がまだ母胎に宿る前の話です。私はその母体に宿る瞬間を注意深く見守りました。そしていよいよ宿ったその霊が自我を表現しはじめた時から影響力を行使し、以来その関係が今なお続いているわけです。

 私はこの霊媒の霊と小さな精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる面を細かく観察し、霊的に一体となる練習をし、物の考え方や身体のクセを呑み込むように努めました。要するに私はこの霊媒を、霊と精神と身体の三つの側面から徹底的に研究したのです。

次に私は霊的知識の理解へ向けて指導しなければなりませんでした。まず地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的にはそのすべてに反発させ、いわゆる無神論者にさせました。これで霊媒となるべき準備がひと通り整いました。

 その上で、ある日私はこの霊媒を初めて交霊会へ出席するように手引きしました。そこで、用意しておいたエネルギーを駆使して───いかにもぎこちなく内容も下らないものでしたが、私にとってはきわめて重大な意義をもつ───最初の霊的コンタクトをし、他人の発声器官を通じてしゃべるという初めての体験をしました。

 その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、ごらんの通りになりました。今ではこの霊媒の潜在意識にあるものを完全に支配して、私自身の考えを百パーセント述べることができます。

 要請された使命をお引き受けしたとき私はこう言われました───〝あなたは物質の世界へ入り、そこであなたの道具となるべき人物を見出したら、こんどはその霊媒のもとに心が通い合える人々を集めて、あなたがメッセージを述べるのを補佐してもらわねばなりません〟と。私は探しました。そして皆さん方を見出してここへ手引きしました。

 私が直面した最大の難問は、同じく地上に戻るにしても、人間が納得する(死後存続の)証拠つまり物理現象を手段とするか、それとも(霊言現象による)真理の唱道者となるか、そのいずれを選ぶかということでした。結局私は難しい方を選びました。

 自分自身の霊界生活での数多くの体験から、私は言わば大人の霊、つまり霊的に成人した人間の魂に訴えようと決意したのです。真理をできるだけ解りやすく説いてみよう。常に慈しみの心をもって人間に接し、決して腹を立てまい。そうすることで私がなるほど神の使者であることを身をもって証明しよう。そう決心したのです。

 同時に私は生前の姓名は絶対に明かさないという重荷をみずから背負いました。仰々しい名前や称号や地位や名声を棄て、説教の内容だけで勝負しようと決心したのです。

 結局私は無位無冠、神の使徒であるという以外の何者でもないということです。私が誰であるかということが一体なんの意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは、私のやっていることで判断していただきたい。私の言葉が、私の誠意が、そして私の判断が、暗闇に迷える人々の灯となり慰めとなったら、それだけで私はうれしいのです。

 人間の宗教の歴史を振り返ってごらんなさい。謙虚であったはずの神の使徒を人間は次々と神仏にまつり上げ、偶像視し、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。私ども霊団の使命はそうした過去の宗教的指導者に目を向けさせることではありません。

そうした人たちが説いたはずの本当の真理、本当の知識、本当の叡智を改めて説くことです。それが本物でありさえすれば、私が偉い人であろうがなかろうが、そんなことはどうでもよいことではありませんか。

 私どもは決して真実から外れたことは申しません。品位を汚すようなことも申しません。また人間の名誉を傷つけるようなことも申しません。私たちの願いは地上の人間に生きるよろこびを与え、地上生活の意義はいったい何なのか、宇宙において人類はどの程度の位置を占めているのか、

その宇宙を支配する神とどのようなつながりをもっているのか、そして又、人類同士がいかに強い霊的家族関係によって結ばれているかを認識してもらいたいと、ひたすら願っているのです。

 と言って、別に事新しいことを説こうというのではありません。すぐれた霊格者が何千年もの昔から説いている古い古い真理なのです。それを人間がなおざりにしてきたために、私たちが改めてもう一度説き直す必要が生じてきたのです。要するに神という親の言いつけをよく守りなさいと言いに来たのです。


 人類はみずからの過った考えによって、今まさに破滅の一歩手前まで来ております。やらなくてもいい戦争をやります。霊的真理を知れば、殺し合いなどしないだろうにと思うのですが・・・。

 神は地上に十分な恵みを用意しているのに、飢えに苦しむ人が多すぎます。新鮮な空気も吸えず、太陽の温かい光にも浴さず、人間の住むところとは思えない場所で、生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人が大勢います。欠乏の度合いがひどすぎます。貧苦の度がすぎます。そして悲劇が多すぎます。

 物質界全体を不満の暗雲が覆っています。その暗雲を払いのけ、温かい陽光の射す日が来るか来ないかは、人間の自由意志一つに掛かっているのです。

 一個の人間が他の人間を救おうと努力するとき、その背後には数多くの霊が群がってこれを援助し、その気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善行の努力は絶対に無駄にはされません。奉仕の精神も決して無駄に終わることはありません。

誰かが先頭に立って藪を切り開き、あとに続く者が少しでも楽に通れるようにしてやらないといけません。やがてそこに道ができあがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。

 高級神霊界の神々が目にいっぱい涙をうかべて悲しんでおられる姿を時おり見かけることがあります。今こそと思っていたせっかくの善行のチャンスが、人間の誤解と偏見とによって踏みにじられ無駄に終わってしまうのを見るからです。

そうかと思うと、うれしさに顔を思いっ切りほころばせているのを見かけることもあります。名もない平凡人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。

 私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志とともに、波長を物質界の波長に近づけて降りてまいりました。その目的は、神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることが出来ることを教えてあげたいと思ったからです。

 物質界に降りてくるのは、正直言ってあまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。例えてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもだらしなく感じられます。

どこもかしこも陰気でいけません。したがって当然、生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。

 私が定住している世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心には真の生きるよろこびがみなぎり、適材適所の仕事にたずさわり、奉仕の精神にあふれ、互いに己れの足らざるところを補い合い、充実感と生命力とよろこびと輝きに満ちた世界です。

 それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せであるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。神は必要なものはすべて用意してあるのです。問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

 それを取り除いてくれと言われても、それは私たちには許されないのです。私たちに出来るのは、物質に包まれたあなた方に神の摂理を教え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通じて運用されるかを教えてさしあげることです。ここにお出での方にはぜひ、霊的真理を知るとこんなに幸せになれるのだということを身をもって示していただきたいのです。
 
 もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることができたら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上に降りてきた努力の一端が報われたことになりましょう。

 私たちは決してあなたたち人間の果たすべき本来の義務を肩がわりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとしているだけです。

 今こうして語っている私は、(四十年ほど前に)はじめて語った、あの霊と同じ年輩の霊です。説くメッセージも同じです。古くからある同じ真理です。ただ、語り聞かせる相手は同じ古い世界ではなくなりました。世の中は変わっており、霊的叡智に耳を傾ける人が増え、霊力の受容力が増しております。

 霊的真理も大きく前進しました。私たちの影響力がどれほど行きわたっているか、できることならそれを皆さんにお見せしたいところです。努力がこれほど報われたことを私はとても誇りに思っております。かつては悲しみに打ちひしがれていた心が今ではよろこびを味わいはじめています。

光明が暗闇を突き通したのです。かつては無知が支配していたところに知識がもたらされました。

 うぬぼれているわけではありません。宇宙について知れば知るほど私は、ますます謙虚の念に満たされてまいります。が同時に、導いてくださる霊力の存在も知っているのです。それが私のような者にも頂けるのです。私が偉いからではありません。私が志している真理普及への努力を多としてくださってのことです。

これまでの永い年月を通じて、この交霊関係はずっとその霊的援助を受けてまいりました。これからも皆さんが望むかぎり、与えられ続けることでしょう。

 改めて申し上げますが、私はただの道具にすぎません。地上への霊的真理、霊についての単純な真理、すなわち人間も一人ひとりが神の一部としての霊であるという認識をもたらさんとしている多くの霊のうちの一人にすぎません。

 人間も神の遺産を宿しているのであり、その潜在する神性のおかげで神の恩寵のすべてを手にする資格があります。そのための努力を続ける上において手かせ足かせとなる制度や習慣をまず取り除かないといけません。また私たちの仕事は魂と精神だけの解放を目的としているのではありません。肉体的にも(病気や障害から)解放してあげないといけません。

 それが今私たちが全霊を捧げている仕事なのです。微力ながら奮闘努力している仕事なのです。もしもこの私が一個の道具として皆さんのお役に立つ真理をお届けすることができれば、私はそれを光栄に思い、うれしく思います。

 私が皆さんとともに仕事をするようになって相当な期間になりますが、これからも皆さんとの協同作業によって地上世界にぜひとも必要な援助をお届けしつづけることになるでしょう。皆さんは知識をお持ちです。霊的真理を手にされています。そしてそれを活用することによっていっそう有効な道具となる義務があります。

 私のことを、この交霊会でほんのわずかな時間だけしゃべる声としてではなく、いつも皆さんのお側にいて、皆さんの霊的開発と進化に役立つものなら何でもお届けしようと待機している、脈動する生きた存在とお考え下さい。

 これまで私は、皆さんが愛を絆として一体となるように導いてまいりました。より高い界層、より大きな生命の世界の法則をお教えし、また人間が(そうした高級神霊界の造化活動によって)いかに美事に出来あがっているかを解き明かそうと努力してまいりました。

 また私は、そうして学んだ真理は他人のために役立つことに使用する義務があることをお教えしました。儀式という形式を超えたところに宗教の核心があり、それは他人のために自分を役立てることであることを知っていただこうと努力してまいりました。

 この絶望と倦怠と疑念と困難とに満ちあふれた世界にあって私は、まずはこうして皆さん方に霊的真理をお教えして、その貴重な知識を皆さん方が縁ある人々に広め、ゆくゆくは全人類に幸せをもたらすことになるように努力してまいりました。

 もしも皆さんの行く手に暗い影がよぎるようなことがあったら、もしも困難がふりかかったら、もしも疑念が心をゆさぶり、不安が宿るようなことがあったら、そうしたものはすべて実在ではないことを自分に言い聞かせるのです。翼を与えて追い出してやりなさい。


 この大宇宙を胎動させ、有機物と無機物の区別なく全生命を創造した巨大な力、星も惑星も太陽も月もこしらえた力、物質の世界へ生命をもたらし、あなた方人間の意識に霊性を植えつけてくださった力、完璧な摂理として全生命活動を支配している力、その大いなる霊的な力の存在を忘れてはなりません。

 その力は、あなた方が見捨てないかぎり、あなた方を見捨てることはありません。その力をわが力とし、苦しい時の避難場所とし、心の港とすることです。神の愛が常に辺りを包み、あなた方はその無限の抱擁の中にあることを知ってください」


 一読者の手紙から───

 《文章の世界にシルバーバーチの言葉に匹敵するものを私は知りません。眼識ある読者ならばそのインスピレーションが間違いなく高い神霊界を始源としていることを認めます。一見すると単純・素朴に思える言葉が時として途方もなく深遠なものを含んでいることがあります。その内部に秘められた意味に気づいて思わず立ち止まり、感嘆と感激に浸ることがあるのです》
            

Thursday, December 25, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

六章 常夏の楽園


3 守護霊との感激の対面     

  一九一三年十二月十二日  金曜日

 背後から第十界の光を受け、前方から上層界の光を浴びながら私は例の山頂に立って、その両界の住民と内的な交わりを得ていた。そしてその両界を超えた上下の幾層もの界とも交わることが出来た。

その時の無上の法悦は言語に絶し、絢爛(けんらん)にして豪華なもの、広大にして無辺のもの、そして全てを包む神的愛を理解する霊的な眼を開かせてくれたのである。

 あるとき私は同じ位置に立って自分の本来の国へ目をやっていた。眼前に展開する光の躍動を見続けることが出来ず、思わず目を閉じた。そして再び見開いた時のことである。その目にほかならぬ私の守護霊の姿が入った。私が守護霊を見、そして言葉を交わしたのは、その時が最初であった。

 守護霊は私と向かい合った山頂に立ち、その間には谷がある。目を開いた時、あたかも私に見え易くするために急きょ形体を整えたかのように、私の目に飛び込んできた。事実そのとおりであった。うろたえる私を笑顔で見つめていた。

 きらびやかに輝くシルクに似たチュニック(首からかぶる長い服)を膝までまとい、腰に銀色の帯を締めている。膝から下と腕には何もまとっていないが、魂の清らかさを示す光に輝いている。

そしてそのお顔は他の個所より一段と明るく輝いている。頭には青色の帽子をのせ、それが今にも黄金色へと変わろうとする銀色に輝いている。

その帽子にはさらに霊格の象徴である宝石が輝いている。私にとっては曽て見たこともない種類のものであった。石そのものが茶色であり、それが茶色の光を発し、まわりに瀰漫(びまん)する生命に燃えるような、実に美しいものであった。

 「さ、余のもとへ来るがよい」ついに守護霊はそう呼びかけられた。その言葉に私は一瞬たじろいだ。恐怖のためでは無い。畏れ多さを覚えたからである。

 そこで私はこう述べた。

 「守護霊様とお見受けいたします。その思いが自然に湧いてまいります。こうして拝見できますのは有難いかぎりです。言うに言われぬ心地よさを覚えます。私のこれまでの道中をずっと付き添って下さっていたことは承知しておりました。私の歩調に合わせてすぐ先を歩いて下さいました。

今こうしてお姿を拝見し、改めてこれまでのお心遣いに対して厚く御礼申し上げます。ですが、お近くまで参ることはできません。この谷を下ろうとすればそちらの界の光輝で目が眩み、足元を危うくします。これでは多分、その山頂まで登るとさらに強烈な光輝のために私は気絶するものと案じられます。これだけ離れたこの位置にいてさえ長くは耐えられません。」

 「その通りかもしれぬ。が、この度は余が力となろう。汝は必ずしも気付いておらぬが、これまでも何度か力を貸して参った。また幾度か余を身近に感じたこともあるようであるが、それも僅かに感じたに過ぎぬ。これまで汝と余とはよほど行動を共にして参った故に、この度はこれまで以上に力が貸せるであろう。

気を強く持ち、勇気を出すがよい。案ずるには及ばぬ。これまで度々汝を訪れたが、この度、汝をこの場に来させたそもそもの目的はこうして余の姿を見せることにあった。」

 そう述べたあと暫しあたかも彫像の如くじっと直立したままであった。が、やがて様子が一変しはじめた。腕と脚の筋肉を緊張させているように見えはじめたのである。

ゴース(クモの糸のような繊細な布地)のような薄い衣服に包まれた身体もまた全エネルギーを何かに集中しているように見える。両手は両脇に下げたまま手の平をやや外側へ向け、目を閉じておられる。その時不思議な現象が起きた。

 立っておられる足元から青とピンクの混じりあった薄い雲状のものが湧き出て私の方へ伸びはじめ、谷を超えて二つの山の頂上に橋のように懸かったのである。高さは人間の背丈とほぼ変わらず、幅は肩幅より少し広い。それが遂に私の身体まで包み込み、ふと守護霊を見るとその雲状のものを通して、すぐ近くに見えたのである。

その時守護霊の言葉が聞こえた。「参るがよい。しっかりと足を踏みしめて余の方へ向かって進むがよい。案ずるには及ばぬ」

 そこで私はその光り輝く雲状の柱の中を守護霊の方へと歩を進めた。足元は厚きビロードのようにふんわりとしていたが、突き抜けて谷へ落ちることもなく、一歩一歩近づいて行った。守護霊が笑顔で見つめておられるのを見て私の心は喜びに溢れていた。

 が、よほど近づいたはずなのに、なかなか守護霊まで手が届かない。相変らずじっと立っておられ決して後ずさりされたわけではなかったのであるが・・・・・・

 が、ついに守護霊が手を差し出された。そして、更に二歩三歩進んだところでその手を掴むことが出来た。するとすぐに、足元のしっかりした場所へと私を引き寄せて下さった。

 見ると、はや光の橋は薄れていき、私の身体はすでに谷の反対側に立っており、その谷の向こうに第十界が見える。私は天界の光とエネルギーで出来た橋を渡って来たのであった。

 それから二人は腰を下ろして語り合った。守護霊は私のそれまでの努力の数々に言及し、あの時はこうすればなお良かったかも知れぬなどと述べられた。褒めて下さったものもあるが、褒めずに優しく忠告と助言をして下さったこともある。決してお咎めにはならなかった。

又そのとき二人の位置していた境界についての話もされた。そこの栄華の幾つかを話して下さった。さらに、そのあと第十界へ戻って仕上げるべき私の仕事において常に自分が付き添って居ることを自覚することが如何に望ましいかを語られた。

 守護霊の話に耳を傾けているあいだ私は、心地よい力と喜びと仕事への大いなる勇気を感じていた。こうして守護霊から大いなる威力と高き聖純さを授かり、謙虚に主イエスに仕え、イエスを通じて神に仕える人間の偉大さについて、それまで以上に理解を深めたのであった。

 帰りは谷づたいに歩いたのであるが、守護霊は私の肩に手をまわして力をお貸し下さり、ずっと付き添って下さった。谷を下り川を横切り、そして再び山を登ったのであるが、第十界の山を登り始めた頃から言葉少なになっていかれた。

思念による交信は続いていたのであるが、ふと守護霊に目をやるとその姿が判然としなくなっているのに気づいた。とたんに心細さを感じたが、守護霊はそれを察して、

 「案ずるでない。汝と余の間は万事うまく行っている。そう心得るがよい」とおっしゃった。

 そのお姿は尚も薄れて行った。私は今一度先の場所に戻りたい衝動にかられた。が、守護霊は優しく私を促し、歩を進められた。が、そのお姿は谷を上がる途中で完全に見えなくなった。そしてそれっきりお姿を拝することはなかった。しかしその存在はそれまで以上に感じていた。

そして私がよろめきつつも漸く頂上に辿り着くまでずっと思念による交信を保ち続けた。そうして頂上から遠く谷越えに光輝溢れる十一界へと目をやった。しかし、そこには守護霊の姿はすでに無かった。

 が、その場を去って帰りかけながら今一度振り返った時、山脈伝いに疾走して行く一個の影が見えた。先程まで見ていた実質のある形体ではなく、ほぼ透明に近い影であった。

それが太陽の光線のように疾走するのが見えたのである。やっと見えたという程度であった。そしてそれも徐々に薄れて行った。が、その間も守護霊は常に私と共に存在し、私の思うこと為すことの全てに通暁しているのを感じ続けた。私は大いなる感激と仕事への一層大きな情熱を覚えつつ山を下り始めたのであった。

 あの光輝溢れる界から大いなる祝福を受けた私が、同じく祝福を必要とする人々に、ささやかながらも私の界の恵みを授けずにいられないのが道理であろう。

それを現に同志とともに下層界の全てに向けて行なっている。こうして貴殿のもとへも喜んで参じている。自分が受けた恩恵を惜しみなく同胞へ与えることは心地よいものである。

 もっとも、私の守護霊が行なったように貴殿との間に光の橋を架けることは私にはできない。地上界と私の界との懸隔が今のところあまりに大きすぎるためである。しかし、イエスも述べておられるように、両界を結ぶにも定められた方法と時がある。イエスの力はあの谷を渡らせてくれた守護霊よりはるかに大きい。

私はそのイエスに仕える者の中でも極めて霊格の低い部類に属する。が、私に欠ける聖純さと叡智は愛をもって補うべく努力している。貴殿と二人して力の限り主イエスに仕えていれば、主は常に安らぎを与えてくださり、天界の栄光から栄光へと深い谷間を越えて歩む吾々に常に付き添って下さることであろう。 ♰

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(八)

 More Philosophy of Silver Birch  Edited by Tony Ortzen

七章 愛すべき仲間たち───動物


    毎年毎年、世界中で幾百万とも知れぬ動物が〝万物の霊長〟たることを誇る人間の手によって実験材料にされている。霊的に見れば本来人間の仲間である無抵抗の動物を人間が冷酷非情に虐待することは、人間どうしが故意に苦痛を与え合うこと以上に罪深いことである。

血染めの白衣をまとった科学者や研究者は、人間も動物であるという事実に一度でも思いを馳せたことがあるのだろうか。


───あなたのおっしゃるように、もしも自然の摂理が完全であるならば、その摂理にしたがって生きている動物界になぜ弱肉強食という、むごたらしい生き方があるのでしょうか。

 「おっしゃる通り摂理は完全です。たとえ人間にはその顕現のすべては理解できなくても完全です。(三千年もの)永い経験で私は自然の摂理には何一つ不完全さがないことを知りました。無限の叡智と無限の愛によって生み出されたものだからです。

これまで何度も申し上げておりますように、創造活動のありとあらゆる側面に対応した摂理が用意されており、何一つ、誰一人として忘れられたり、放ったらかされたり、見落されたりすることがないのです。

 その一つである進化の法則は、存在と活動の低い形態から高い形態への絶え間ない進行の中で働いております。低い動物形態においては、見た目には残忍と思える食い合いの形を取ります。が、進化するにつれてその捕食本能が少しずつ消えていきます。先史時代をごらんなさい。

捕食動物の最大のものが地上から姿を消し、食い合いをしない動物が生き残ってきております。これにはもう一つ考慮すべき側面があります。そうした動物の世界の進化のいくつかの面で人類自身の進化がかかわっていることです。

すなわち人類が進化して動物に対する残忍な行為が少なくなるにつれて、それが動物界の進化に反映していくということです」


───(サークルのメンバー)私の観察では、動物の中にも同じ種属の他の仲間より進化していて人間的資質さえ見せているのがいます。

 「それは当然そうあってしかるべきことです。どの種属においてもそうですが、進化の世界では未来において発揮されるものを今の段階で発揮している前衛的存在と、現在の段階で発揮すべきものすら発揮していない後衛的存在がいるものだからです。

 人類について言えば、天才、革命家、聖賢といった存在が霊的資質を発揮して、あすの人類のあるべき姿を示しております。人間として可能な最高の英雄的精神と奉仕的精神の見本を示しているわけですが、動物の世界にもそれに比肩しうるほどの資質を、他の仲間から抜きん出て発揮するのがいます」


───生命活動の目的が愛と慈悲の心を学ぶことがあるのなら、なぜ大自然は捕食動物のような悪い見本を用意したのでしょうか。

  「大自然が悪い見本を用意するようなことはしません。大自然は宇宙の大霊すなわち神が顕現したものです。神は完全です。神の摂理も完全です。大自然は、その本来の仕組みどおりに働けばかならずバランスと調和が取れるようになっているのです。人間が自然と調和して生きれば、地上はパラダイス、神の御国となります。

 たしかに捕食動物はいますが、それは〝適者生存〟の摂理の一環であり、しかも大自然の摂理全体のほんの小さな側面にすぎません。自然界の本質は協調です。共存共栄です。たとえてみれば人間は地球の庭師のようなものです。

植物の本性に合わせて手入れをしておれば庭は美しくなります。今では人間が捕食動物となっています。何百万年もの歴史の中で人間ほど破壊的な生物はおりません」

 生命あるものすべてに敬意を抱いている女性のメンバーが尋ねる。

───マラリヤとか眠り病などを予防するために殺虫剤を使用することは間違いでしょうか。


 「すべての生命に敬意を抱かなければならないのは言うまでもないことですが、これも動機と程度の問題です。特殊な環境において病気の原因となる虫が発生するので殺虫剤を使用するという場合は、その動機は正しいと言えます。

生きるための環境条件を確保する必要を考慮に入れなければいけません。たとえばダニが発生した場合、その家に住む者の健康を確保するという動機からであれば、スプレーして駆除してしまった方がくつろいで暮らせます」


───地上の動物がたとえば気高い情や知性といった人間的要素を発達させた場合でも、死後はやはり動物の類魂の中に帰っていくのでしょうか。それとも遠からず人間界へと進化していくのでしょうか。

 「進化も自然の摂理の一部です。これにも一本の本流とたくさんの支流とがありますが、全体としては同じ摂理の一部を構成しております。あなたがた人間に潜在している霊性と動物のそれとは質的にはまったく同じものです。程度において差があるだけで本質においては差はありません。

霊は無限ですから、可能性としては人間においても動物においても驚異的な発現力を秘めておりますが、霊的には両者とも一本の進化の道に属しております。その道程のどの時点で動物へ枝分かれし、どの段階で人間へ枝分かれするかは、誰れにも断定できません。私はそこに取り立てて問題とすべき要素はないと思います」


───動物も人間と同じコースをたどって進化するのでしょうか。

 「動物には動物としての進化のコースがあります。それも進化活動全体の背後にある同じパターンの一部です。動物の場合は(進化と言うよりは)一種の発達過程です。もしも私から〝子供はみんな両親と同じように進化するのでしょうか〟と尋ねたら、答えは〝イエス〟でもあり〝ノー〟でもあるでしょう。

子供にはそれぞれにたどるべき人生のパターンがあらかじめ定められております。が、そのパターンの範囲内において、それまでに到達した霊的意識の段階によって規制された自由意志の行使が許されております(それが進化の要素となる───訳者)。霊を宿した存在には無限の可能性があります」(45頁参照)

 ここでメンバーどうしで意見を出し合っているのを聞いたあとシルバーバーチはさらにこう続けた。

 「動物には動物なりの、進化の全過程の中で果たすべき役割があり、それを基準とした進化のコースをたどります。やはり因果律が絶対的要素です。今現在あるものはすべて、かつてあったものの結果です。動物も宇宙進化の大機構で欠かすことのできない存在であり、それは山川草木、海、その他自然界のあらゆるものが欠かせない存在であるのと同じです。

 それらを一つにまとめている絆が〝霊〟です。生命は一つなのです。人間は動物とつながっているだけでなく、命あるものなら何とでもつながっているのです。ただし、それらはそれぞれに定められた進化のコースをたどります。

そして、それらがどこまで進化するかは、それぞれの次元での進化の法則によって決まります。花、木、小鳥、野生動物、そして人間と、それぞれに適応した法則があるのです」


───ということは動物にもそれなりの法則を破ることがあるということですね?

 「あなた方人間が摂理に背いたことをするのと同じ意味においてのみ、そう言えます。が、やはり因果律は働いております。人間も、摂理を逸脱した行為をすることはあっても、因果律の働きを阻止するという意味で〝摂理を破る〟ことはできません。ダダをこねてるだけです」

(訳者注───最後の文は Kick over the traces という成句を使用している。traces というのは馬の引き革のことで、人間が摂理に順応できなくてわがままを言うのを、馬が引き革をきゅうくつに思って蹴ってあばれることに喩えている。)


───動物でも霊的に咎められるべきことをすることがありますか。

 「自然法則に逆らったことをすれば、それは有り得ることです。人間に〝ならず者〟がいるように動物にも狂暴化した動物がいます」


───そういう動物は自分が悪いことをしたことを個的意識の中で自覚するのでしょうか。

 「それは知りません。私は動物ではないからです。ともかく善良な動物もいれば邪悪な動物もいるということです。いかなる動物も、いかなる人間も、つまり地上のいかなる存在も完全ではないのです」

 (訳者注───シルバーバーチの答えの中で私が解しかねるものが二、三ある。これがその一つである。自分は動物ではないから知らないという返答は、はっきり言って無責任である。が、シルバーバーチは知らないものは正直に知らないと言う霊であるから、それがこんな素っ気ない返答をすることには何かわけがありそうである。

意識の神秘はとうてい人間には理解できないからということでわざとそういう言い方で茶化したのかも知れないし、深入りしてはならないと命じられている問題の一つなのかも知れない。そのいずれかであろう。


シルバーバーチ自身、そういうものがあることを別のところで述べているし、『霊訓』のイムペレーターも、自動書記の中でも霊言の中でも、〝霊的なことがらの中には人間には知らさない方がよいことも多々ある〟と述べている。)


───動物が死ぬと類魂の中に帰って行くということを多くの霊が述べておりますが、実際には死後もずっと地上のままの姿を留めていることを示す証拠が沢山あります。この矛盾を説き明かしていただけませんか。

 「人間と親密な関係にあった動物にかぎって、個体を具えたままの存続が可能なのです。そうした動物は地上にいる時から、類魂としての本能のまま生きる動物には得られない、個体としての進化が促進されております。それは人間と動物との間で霊的進化を促進し合うという、すばらしい関係の一例といえます。

動物が皆さんとともに同じ環境で過ごすということは、そうでない場合よりもはるかに人間らしい個性的な意識を発達させることになるのです。そうした〝人間的〟表現というものに縁のなかった動物は類魂の中に埋没していきます」


 ここでメンバーの一人が 「私は人間が進歩して動物の生命についてもっと多くを知るということも、動物の進化を促進することになると思うのです。優しい心が動物に良い影響を及ぼすことはよく分かっているからです。

野生の動物の赤ん坊を優しく育てると人間的性質を見せるようになる例がよくあります」と言うと、別のメンバーが「それはすべての生命が一つだからですよ」と言う。するとシルバーバーチが───

 「それも一本の進化の大木の枝のようなものです。進化の道が枝分かれして発展したものです。そこにおいては、優しさが優しさを呼び、哀れみが哀れみを呼び、愛が愛を呼び、憎しみが憎しみを呼びます。ですから、人間は常に最高の理想を目標としなければいけないことになります。

そう努力することの中で、人間と動物とが進化の道程でお互いに促進し合うことになるのです。それはすべての生命が一つだからです。物質的にはさまざまな区別がありますが、霊的には一つです」


───動物は再生しますか。

 「輪廻転生説というのがあるようですが、動物は再生しません」


───動物が死んで、進化を促進してくれた人間との縁が切れたら、その時点から類魂へ帰りはじめるのでしょうか、それとも、どっちつかずの状態に置かれるのでしょうか。

 「人間に可愛がられた動物は、霊界でずっと待っていて、その人が他界してきた時に出迎えます。永遠に消滅することのない個的存在を与えてくれた人ですから、必要なかぎりずっと待っています。存続するのはその個的存在です」


───すべての動物は人間との縁を通じて個的存在を獲得するように意図されているのでしょうか。つまり個としての独自の意識をもつということです。

 「そうです。人間がその思考とその行為において動物に対する愛を発揮すればするほど、動物の方も愛を発揮するようになり、それこそ、聖書の中のオオカミと小ヒツジの話のように、人間と動物とが並んで寝そべるようになります」


───自分の生命を維持するために人間は植物の生命を奪い、動物の卵や乳を横取りし、もっと酷いこととして、動物を殺して食べざるを得ません。こうした強引な言わばドロボー的生き方は、あなたがよく強調なさっている理性を反撥させずにはおかないのですが、これを〝愛の造物主〟の概念とどう結びつけたらよいのでしょうか。

 「自分たちで勝手に動物を殺しておいて、神がそうせざるを得なくしているかにお考えになってはいけません。どちらにするかは、あなた方が決めることです。動物を殺さないと生きて行けないというものではありません。

が、いずれにせよ、答えは簡単です。そうした問題をどう処理していくかによって人類の進化が決まるということです。自分たちのやっていることに疑問を感じるようになれば、その時、あなたの良心が次の答えを出します。

 人間は自分のすることに責任を取ることになっており、その行為の一つ一つが、その人の霊性に影響を及ぼします。その際にかならず考慮されるのが動機です。動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかったという場合は、その行為はあなたの成長にプラスに働きます。

 霊的摂理は原因と結果の関係、タメ蒔きと刈り入れの原理の上に成り立っており、これは絶対にごまかせません。あなたのすること、考えること、口にすることの一つ一つがそれ相応の結果を自動的に生み出します。

そこにごまかしは利きません。悪いと知りつつ間違ったことをした場合は、その結果に対して責任を取らされます。その結果としての苦しみは自分で背負わねばなりません。

 良い行いをする場合でも、それが見栄から出ているのであれば動機がお粗末でいけませんが、魂の自然の発露として善行を施した場合は、そういう行いをしたという事実そのものが、あなたを霊的に向上させます。それが摂理というものなのです。

 私が常づね申し上げているのは、〝殺害〟の観念がつきまとう食糧品はなるべくなら摂取しない方がよいということです。殺すということは絶対にいけないことです。ただし、その動機を考慮しなければならない場合があることは認めます。

 霊的向上を望む者は、いかなる犠牲を払っても大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければなりません。その摂理は霊的なのです。霊が発揮すべき側面はいつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理にしたがって考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。

しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。そのために神は自由意志というものをお与えになっているのです」


───動物に投与している抗生物質などの薬品類がめぐりめぐって人間の体内へ入ってきている事実をどう思われますか。

 「それは、他の生命に害悪を及ぼすと必ずそれに対して責任を取らされるという、大自然の永遠のサイクルの一環です。他の生命に残酷な仕打ちをしておいて、それが生み出す結果を逃れるということは許されません。

貪欲以外に何の理由づけもなしに動物をオリの中で飼育し、動物としての本来の権利を奪うことは、悪循環をこしらえることにしかなりません。

そのサイクルの中で因果律が生み出すものに対して、人間は苦しい代償を支払わねばなりません。動物であろうと花であろうと小鳥であろうと人間であろうと、自然界全体が恵んでくれる最高のものを得るには、慈悲と愛と哀れみと親切と協調しかないのです」


───いわゆる動物実験では本当に役立つものは得られないということを人類が理解する段階はもう来ているのでしょうか。そのことに理解がいけば、それは道徳的ならびに霊的生活における大きな進歩を意味することになるのでしょうか。

 「動物実験によって何一つ役立つものが得られないというわけではありません。が、その手段は間違っていると申し上げているのです。何の罪もない動物に残酷な仕打ちをすることは霊的なことすべてに反するからです。

 人間は自分のすることに責任を取らされます。動機は正しいといえるケースも沢山ありますし、それはそれとして霊的発達に影響を及ぼします。摂理とはそういうものなのです。がしかし、神は、子等が動物への略奪と残忍な行為によって健康になるようには計画しておられません。それは改めて強調する必要を認めないほど明らかなことでしょう。

 学者が道を間違えているのはそこのところです。人間の方が動物より大切な存在である。よってその動物を実験台として人間の健康と幸福の増進をはかる権利がある、という弁解をするのですが、これは間違っております。

 共存共栄こそが摂理なのです。人間がその責任を自覚すれば、哀れみと慈悲の心が生まれてくるはずです。他の生命を略奪しておいて、その結果として自分に及ぶ苦しみから逃れられるものではありません。略奪行為は略奪者自身にとって危険なことなのです。残虐行為はそれを行う人間にとって罪なことなのです。

愛を発揮すれば、それだけ自分が得をするのです。憎しみの念を出せば、それだけ自分が損をするのです。摂理がそういうふうに出来ているのです。

 したがって当然、皆さんは動物への残虐行為を減らし、もっと良い方法、哀れみに満ちた手段を教えるための努力をすべきです。人々に、みずからの生活を規則正しくし自然の摂理と調和して生きる手段を教えてあげれば、みんな元気で健康で明るさいっぱいの人間になれるのです。

 霊的にみて間違っていることは決して許されるものではありません。しかし、不完全な世界においてはある程度の間違いと行き過ぎはやむを得ません。そうした中にあって皆さんが、平和と友好と和合と愛の中で暮らすべき全生命の福祉を促進するために闘うべきなのです。愛とは摂理を成就することなのです。

他の生命に残酷な行為をしているかぎり、愛を成就しているとは言えません。ナザレのイエスは自分の敵に対して向けられる愛を最高のものとしました。もとより、これは生やさしいものではありません。

情愛、共感、近親感を覚える者を愛することは容易です。しかし、とかく敵対関係になる相手を愛することがもし出来れば、それは神の御心の最高の表現であると言えます。

 何ごとにつけ、価値あるものは成就することが困難にできあがっているのです。もしも霊的進化がラクに達成できるとしたら、それは達成するほどの価値はないことになりましょう」


───敵のことをせめて悪く思わないでいられるようになれば、小さくても進歩は進歩だろうと思います。大部分の人間にとってそれが精いっぱいです。

 「おっしゃる通りなのですが、私たちの立場としては、愛と哀れみと寛容の精神を発揮するという理想へ向けて皆さんを導かねばならないのです。それが霊の資質だからです。それが多く発揮されるほど地上は良くなります。

ですから、皆さんには可能なかぎりの最善を尽くしていただかねばなりません。たった一人の人間、たった一頭の動物でも救ってあげれば、それは価値ある仕事と言えます」


───霊的に正しければ物的な側面も正しくなるとおっしゃったことがありますが、地上の動物についてそれをどう当てはめたらよいのでしょうか。人間によって虐待され屠殺され誤用されるために生まれてくるようなものです。動物は霊的に何も間違ったことはしていないはずですが・・・・・・

 「そうではありません。動物の霊は、霊は霊でも人間の霊とは範疇(カテゴリー)が違います。人間には正しい選択をする責任が負わされています。そこに自由意志があります。進化の計画を促進することもできれば遅らせることもできます。

つまり、限られた範囲内においての話ですが、地球という惑星でいっしょに暮らしている他の生命をどう扱うかについて自由意志を行使することが許されております。地上は悪用、濫用、誤用だらけです。

その中でも決して小さいとは言えないのが動物への無用の虐待と略奪です。しかし、人間が進化していくにはそうした過程もやむを得ないのです。もしも人間から自由意志を奪ってしまえば、インディビジュアリティを進化させ発展させていくチャンスが無くなります。そこが難しいところなのです」


───そういう事態が生じることが許されるという、そこのところが理解できないのです。

 「〝生じることが許される〟という言い方をなさるということは、あなたは人間から自由意志を奪い去った方がよいとお考えになっていることになります。くり返しますが、もしも人間が自由意志を奪われたら、ただの操り人形でしかなくなり、内部の神性を発揮することができなくなります。

霊的本性が進化せず、地上生活の目的も果たせません。あなたが地上に生を受けたのは、地上が霊の保育所であり、学校であり、訓練所だからです。さまざまな挑戦にあい、それを克服していく中で自由意志を行使してこそ、霊は進化できるのです」


 ここで別のメンバーがディスカッションに加わる。

───人類が過ちを犯しながら学んでいく、その犠牲になるのが抵抗するすべを知らない動物たちであるというのは、我々の限りある知能では不公平に思えてなりません。人間が悪いことをして動物が犠牲を払うというのは、どこか間違っているように思えます。


 「あなたご自身はどうあるべきだとお考えですか」

───人間が動物に対して間違いを犯せば、その天罰は動物ではなく人間の頭上に降りかかるべきだと考えます。

 「埋め合わせと懲罰の法則というのがあります。あなたが行う善いこと悪いことのすべてが、自動的にあなたに霊的な影響を及ぼします。大自然の因果律は絶対に免れません。

埋め合わせと懲罰の法則はその大自然の中核をなすものです。罪もない人民が支配者の横暴な振舞いによって被る犠牲に対して埋め合わせがあるように、残虐な取り扱いをうけた動物にもそれなりの埋め合わせがあります」


───(別のメンバー)人間はこれから先もずっと動物に酷いことをしつづけるのではないかと思うのですが・・・・・・

 「いえ、そうとばかりも言えません。他の生命に対する責任を徐々に理解していくでしょう。人間は進化しつつある世界での進化しつつある存在です。絶頂期もあれば奈落の底もあり、向上もすれば転落もします。進化というのは螺旋形(スパイラル)を画きながら進行するものだからです。しかし全体としては少しずつ向上しています。

さもないと進化していないことになります。無限の叡智と無限の愛によって、すべてのもの、すべての人間についてしかるべき配慮が行き届くように、ちゃんとした構想が出来あがっていることを認識しなくてはいけません」


 ここでさきのメンバーが〝私が言いたかったのは、動物が酷い扱われ方をしているのは人間の過ちだということです。人間も徐々にではありますが動物を食糧にすべきではないことを自覚しつつあります〟と言うと、その日の招待客の一人が〝残酷なことをしたらすぐにそれと気づくようになっていればいいのですが・・・。

どうも人間はうまく罪を免れているように思えてなりません〟という意見を出した。するとシルバーバーチが───

 「うまく罪を免れる人は誰一人いません。摂理は間違いなく働きます。たとえ地上で結果が出なくても、霊界でかならず出ることを私が断言します。因果律はいかなる手段を持ってしても変えられません。永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があればかならず結果が生じます。

それから逃れられる人は一人もいません。もしいるとしたら、神は神としての絶対的な資格である〝完全なる公正〟を失います。

 そのこととは別に、もう一つ私がいつも強調していることがあります。残念ながら人間は宿命的に(五、七十年という)ほんの短い視野しか目に入らず、永遠の観念で物ごとを考えることができないということです。あなた方には地上で発生していることしか見えませんが、その結果は霊界で清算されるのです」


───人間はせっかちなのです。


 「そのお気持ちは理解しております。人間が人間としての責任に目覚めるよう、皆さんにできるかぎりの努力をお願いします。オオカミと小ヒツジとが並んで寝そべるような時代が少しでも近づくように努力していただきたいのです。進化を成就しなければならないのです」


───われわれ人間がもっと自然な、もっと神の御心にかなった生き方をするようになれば、こうまで無数の動物が実験材料にされることもなくなると思います。

 「その通りです。ですから、われわれは今後とも啓発と真理の普及を、いつどこにいても心掛けなくてはならないのです。その妨げとなるものを一つでも取り除くことができれば、そのたびにそれを喜びとしなければいけません。

霊の力は単なる変革をもたらすのではありません。そこに進化があります。地上の人間が大自然とその背後に秘められた莫大な力から絶縁した行為をすれば、それに対する代償を支払わねばなりません。

 人間は霊的属性、霊的潜在力、霊的才能をたずさえた霊的存在です。自分だけでなく他の存在、とくに動物の進化を促進することになる生き方をする能力を具えているのです。進化の生き方をする能力を具えているのです。

進化の大計画は何としても達成しなければなりません。それを人間が邪魔をして遅らせることはできます。が、完全に阻止することは絶対にできません」


───動物にはよく〝下等〟という言葉が付けられますが、人間より本当に劣っているのでしょうか。まだ人類と同じ進化の段階まで到達していないのでしょうか。と申しますのは、たとえば犬には人間に対する無私の献身と忍耐という資質があります。これはわれわれも大いに学ばされます。進化の道がまったく異なるのでしょうか。

 「いえ、進化は全生命が一丸となって歩むものです。進化の法則はたった一つあるのみで、それが生命活動の全側面を規制しております。

 いつものことながら、用語が厄介です。〝下等動物〟という用語を用いれば、動物は人間と同じ意識段階まで到達していないことを意味します。たしかに動物には人間のような理性、理解力、判断力、決断力をつかさどる機能が仕組まれておらず、大部分が本能によって動かされているという事実から言えばその通りです。

ですから、そうした限られた一つの視点から観れば動物は〝下等〟と考えることができます。しかし、それですべての検証が終わったわけではありません。

 動物に教えられることが多いのは当然のことです。動物は忠誠心、愛着心、犠牲心、献身といった資質をけなげに表現しますが、これは人間が学ぶべきすばらしい手本です。しかし人間はそれらを意識的に、そしてもっと高度に発揮できます。なぜなら、動物よりも意識の次元が高いからです。ただし、ここでは霊的意識のことではありません」


 ここでサークルのメンバーが〝動物が人間よりも気高い行為をした感激的な話がたくさんありますね〟と言うと、別のメンバーが〝超能力をもっている動物もいます〟と言う。 するとシルバーバーチが───

 「それがいわゆる埋め合わせの法則の一例です。ある種の能力が欠けていると、それを埋め合わせる別の能力を授かります。目の不自由な方には正常な人にない鋭敏さが与えられます」


───例えば家で飼われている猫は人間には見えない霊の存在に気づいているのでしょうか。

 「もちろん気づいております。人間に見えなくなったのは、あなた方の文明───時としてそう呼ぶのはふさわしくないことがあるのですが───それが人間生活を大自然から遠ざけたことに原因があります。つまり大自然がもたらしてくれる能力と力から人間が絶縁しているのです。

そのために文明人は大自然と密接につながった生活をしている人種よりも心霊能力が発達を阻害されているのです。

 一般的に言って、家庭で飼われている動物は〝文明の恩恵〟は受けておりません。動物の方がその飼い主よりも自然な超能力を発揮しております。そういうわけで、残念ながら動物の方が霊的存在について人間よりも自然な形で意識しております」

訳者注───このあと動物愛護運動に夫婦ともども生活をささげて最近奥さんに先立たれた人との対話が紹介されているが、私の推察ではこの人は間違いなく英国のテレビ番組≪サファリ≫の制作者デニス氏で、奥さんが健在のころに一度夫婦して招かれて、シルバーバーチから賛辞を受けた時の様子が、ステラ・ストーム女史が編纂したPhilosophy of Silver Birch by Stella Storm に出ている。これは次の第九巻に予定しているが、理解の便を考えて、その部分をあえてここで紹介しておくことにした。

 「あなた方(Michael & Armand Denis) は肉体に閉じ込められているために、ご自分がどれほど立派な仕事をされたかご存じないでしょう。お二人は骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物との間に同類性があり従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。

 大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり(実験で)片端にしたりするのは、人間のすべきことではありません。強き者が弱き者を助け、知識あるものが無知なる者を救い、陽の当たる場所にいる者が片隅の暗闇を少しでもなくすための努力をすることによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。

 その点あなた方は大自然の大機構の中での動物の存在意義を根気よく紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人間の大切な役割の一つなのです。地上の難題や不幸や悲劇の多くが人間の愚かさと自惚れによって惹き起こされていることは、残念ながら真実なのです。

 慈しみの心が大切です。寛容の心を持たなくてはいけません。自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こすとき、その相手が人間どうしであっても動物であっても、結局は人間自身の進化を遅らせることになるのです。人間が動物を敵にまわしているうちは自然界に平和は訪れません。

平和は友好と一致と協調の中にこそ生まれます。それなくしては地上は苦痛の癒える時がなく、人間が無用の干渉を続けるかぎり災害は無くなりません。人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営むとき地上に平和が訪れ、神の国が実現する基礎ができるのです。

 残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が、愛は愛を呼び、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間みずからが破滅の道をたどることになります。ことわざにも〝風を蒔いてつむじ風を刈る〟と言います。悪いことをすればその何倍もの罰を被ることになるのです。

 何ものにも憎しみを抱かず、すべてに、地上のすべての生命あるものに愛の心で接することです。それが地上の限りない創造進化を促進するゆえんとなります。それは、人間がその一部を占めている進化の機構の中で為しうる最大の貢献です。

 挫けてはなりません。あなた方の仕事に対して人はいろいろと言うことでしょう。無理解、無知、他愛ない愚かさ、間抜けな愚かさ、心無い誹謗、等々。これには悪意から出るものもありましょうし、何も知らずに、ただ出まかせに言う場合もあるでしょう。それに対するあなた方の武器は、ほかならぬ霊的知識であらねばなりません 。

所詮はそれがすべての人間の生きる目的なのです。霊的知識を理解すれば、あとは欲の皮さえ突っ張らなければ、神の恩恵に浴することができるのです。

 お二人は多くの才能をお持ちです。まだまだ動物のために為すべき仕事が山ほど残っております。地上の生命は全体として一つのまとまった生命体系を維持しているのであり、そのうちのどれ一つを欠いてもいけません。お二人が生涯を傾けておられる動物は、究極的には人間が責任を負うべき存在です。

なぜならば、人間は動物とともに進化の道を歩むべき宿命にあるからです。ともに手を取り合って歩まねばならないのです。動物は人間の貪欲や道楽の対象ではないのです。動物も進化しているのです。

 自然界の生命はすべてが複雑にからみ合っており、人間の責任は、人間どうしを超えて草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは、ぜひとも阻止しなくてはなりません。

 装飾品にするために動物を殺すことは、神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺生は絶対に止めなくてはなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事にたずさわる者は、常にそうした人間としての道徳的原理に訴えながら闘わなくてはいけません。

小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。

 動物への残忍な行為を見て心を痛め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだという信念のもとに、勇気をもって動物愛護のための仕事を続けてください。多くの残酷な行為が、無知であるがゆえに横行しています。それらは、霊的知識を知って目が覚めればたちどころに消えてしまうのです。

また、一つの霊的知識に目覚めると、その知識のもつ別の意義にも目覚めてくるものです。その時こそ魂が真の自由への道を歩み始めた時でもあるのです。

 動物と人間とは、進化のある段階でどうしても別れ別れにならざるを得なくなります。地上の年数にして何万年にもなるかも知れませんが、動物と人間とでは霊的進化のスピードが違います。より大きな光を求めて絶え間なく成長していく人間の魂についていけなくて、動物は置き去りにされることになります。

 いったん物質のベールをくぐり抜けて霊界入りし霊的生活環境に慣れてくると、つまりあなたを地上に縛りつけていた絆が切れたことを認識すると、進歩しようとする欲求、内部に渦巻く神性を開発しようとする欲求が加速されます。いつどこにいても、修行次第で自分をいっそう役立てることを可能にしてくれる資質を開発しようとします。

その霊的開発の分野において高く昇れば昇るほど、動物はついていけなくなります。そして、死後もなお炎を燃やしつづけた愛が次第に衰えはじめます。やがて炎がチラチラと明滅しはじめ、最後は同じ種族の類魂の中へ融合していきます。

 創造物全体の進化を支配する総合的機構は一つあるだけですが、それぞれの顕現の形態にそれなりの異なった進化のコースがあります。人間が成就している個別的意識をもつに至っていない動物には、種族全体としての類魂があります。もっとも、同じ種族の動物でも人間との接触を通じて個別化を促進されて、人間に似た形態の個別的意識をもつに至っているのもいます。

 全体としての類魂もいつまでも同じ状態にあるのではなく、つねに進化しております。高級界の神霊が人間に対する責任を自覚しているごとくに人間が地上の全創造物に対する責任を自覚するようになれば、動物の進化が加速され個別化が促進されます。

しかし、人間との関係がよほど接近しないかぎり、ある程度まで同一方向ではあっても、進むコースは別々です。進化が進むにつれて類魂の数は少なくなり、個別化された魂が増えてまいります。

 全生命を通じて〝霊〟という共通の近親関係が存在します。生命のあるところには必ず霊が存在します。人間の残忍性は動物の進化を遅らせるという形で反映します。

それは人間の野獣性がみずからの進化を遅らせるのと同じことです。そのプロセスは同じです。全生命は協調、すなわちそれぞれが自分を役立てるということによって互いの進化に貢献し合うように意図されているのです。

 何ごとにつけ動機が重大な要素となります。愛する動物が手の施しようのない状態となっている時、これ以上苦しませるのが忍びなくて地上生命に終止符を打たせる処置を取るのであれば、その動機は正当です。

しかし動物の生得の権利を完全に無視して一かけらの同情心もなしに屠殺するとなると、その動機は利己的です。それは人間自身にとっても動物にとっても良かろうはずはありません。

そこで、殺された動物の霊を何とかしてやらねばならなくなります。人間の場合、死産児や夭折した子の霊は地上で味わうべきであったものについて埋め合わせが行われますが、動物の場合も同じで、地上で得そこなったものについて埋め合わせがあります。

 あなた方はみずからの意志を行使できない生命───その愛情と忠誠心と信頼と献身とが不幸にして、自分たちのしていることがいかに間違ったことであるかを知らない人間による情け容赦ない残虐行為によって皮肉な報復を受けている動物の保護のために献身しておられます。

動物虐待は人間が気取って〝文明〟などと呼んでいるものにとっての大きな汚点であり、邪悪な汚辱です。

 西洋人は私たちレッドインディアンを野蛮人と呼びますが、人間と同じ霊によって生命を与えられ同じ進化の道を歩みながら、一方的に人間によって略奪され苦しめられてきた動物に対するこれまでの人間の態度は、それに劣らず野蛮です。

 お二人がこの道に導かれたのは決して偶然ではありません。霊的熟達の極印は哀れみの情にあるからです。哀れみのないところに霊的進化はありません。すべての存在、すべての動物、あらゆる生物、地上に存在する霊的顕現のすべてに対して哀れみの情を向けなくてはいけません。

進化の道を少し先まで進んだ者は、共有している世界の不可欠の存在であるすべての人間、すべての生物に対して責任があることを自覚するものです。

 抵抗する勢力がいかに強かろうと、障害や困難が見た目にいかに大きかろうと、善いことのために払われた犠牲はけっして無駄にはなりません。今たずさわっておられる闘いは最後には必ずや勝利をおさめます。なぜなら、最後には真実が勝利をおさめるからです。

これからたどられる道もけっして容易ではありません。しかし先駆者たる者、大胆不敵な魂は、気楽な生活を期待したり蓮の台(うてな)の生活を夢見たりするようなことがあってはなりません。魂が偉大であるほど、要請される仕事も大きなものとなるものです。
フランチェスコ   
 申し上げるまでもないことと思いますが、地上であなた方とともにこの道にたずさわっている同志のほかに、私たちの世界でもあなた方に協力せんとして、霊の大軍が控えております。その先頭に立って指揮しているのが地上でアッシジの聖フランチェスコと呼ばれていた人物です。地上時代にもこの悪弊の改善運動に全身全霊を捧げ、今また霊界からたずさわっているパイオニアには長い長い系譜があるのです。

 時として味方であるべき人物が敵にまわることがあります。また時として、悲しいことですが、この道にたずさわっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その人のために蔭で涙を流しておやりなさい。

 私たちから要求することは、あなた方に啓示された光明にひたすら忠実であってくださる───それだけです。自分を役立てるという目的にひたむきでありさえすれば───これ以上の崇高な宗教はないのです───自動的に莫大な霊の力を呼び寄せ、それが数々の障害を取り除き、神の慈愛あふれる意志が地上に顕現されることになるでしょう。

 生命はその全側面において互いに混じり合い依存し合っております。そこに一種の親族関係ともいうべき密接なつながりがあります。生命は無限ですから、その顕現もまた無限の形態をとっております。どの部分も他と切り離されて存在することはできません。

 動物の中には人間との接触を通じて、人間とよく似た個的意識が芽生えているものがいます。もとより人間が動物に個別性を賦与するわけではありません。それは出来ませんが、潜在しているものを加速させることはできます。

それは皆さんが精神統一その他の修行によって内部の霊的能力を開発するのと同じです。感性を具えた存在に永遠の資質を賦与することができるのは宇宙の大霊すなわち神のみです。

 動物の魂も本質においては人間の魂とまったく同じです。双方とも同じ神から出ているのです。違うのは質ではなく程度です。動物と人間とでは発達の法則が同一方向ではあっても別々になっております。地上に生をうけた目的を果たして霊界入りし、他界直後の余波がおさまると、両者は別れ別れになります。

 このように、両者はそれぞれに果たすべき役割があります。人間は地上での人物像、つまり肉体器官を通じての魂の部分的表現が次第に消え、反対に霊的本性が開発され、潜在する完全性がより大きな発現の機会を得ます。

永遠の時をへて成就される完全性へ向けて向上するにつれてパーソナリティが減り、インディビジュアリティが増えていきます(92頁参照)。また動物は人間との愛の絆があるかぎり、目的を果たすまで人間とのつながりを維持します。

 すべての〝種〟に地上界と霊界とで果たすべき役割があります。何の原因もなしに、つまり偶然に存在するものは一つもありません。神の完全なる構想によって、あらゆる創造物、あらゆる生命がそれなりの貢献をするようになっているのです。

用もない種が地上に発生したために絶滅させなければならなくなったなどということは絶対にありません。人間が地上で最大の破壊的動物であってはならない理由はそこにあります。

 野性動物と人間との共存共栄が次第に当たりまえのこととなりつつあります。それは人間の動物への愛が大きくなって恐怖の壁が崩されつつある証拠です。人間がもしもこれまでのように動物を屠殺したり狩猟をしたり威嚇したりすることがなかったら、動物の側に恐怖心というものはおきなかったはずです。

進化の促進のために人間とのつながりを求める動物もいるのです。身体機能上の進化ではなくて心霊的進化です。

 しかし進化とは一直線に進むものでないことを忘れてはなりません。上昇と下降とがあります。スパイラルに進行します。感激的な絶頂にまで上がる時があるかと思えば、悪魔に呪われたようなドン底へ落ちる時もあります。そうした中にも計画は着実に進展し、進化が成就されていくのです。

 愛が愛としての本来の威力を発揮するようになれば、すべての創造物が仲良く暮らせるようになります。地球という生活環境を毒し問題を発生させる不協和音と混沌のタネを蒔くのは、人間という破壊主義者、人間という殺し屋です。すべての問題は人間がこしらえているのです。

神が悪いのではありません。動物が悪いのでもありません。人間が自由意志の行使を誤り、(万物の霊長だなどと)勝手に優越性を誇ったためです」


 奥さんの他界後、一人で出席したデニス氏にシルバーバーチがこう語りかけた。

 「奥さんからの伝言ですが、奥さんはあなたがその後も動物愛護の仕事───あなたとともに生涯をかけた、動物への無用で愚かで邪悪な残虐行為を止めさせるための仕事をずっとお続けになっていることを喜んでおられます。

これはまさに文明の汚点、恥ずべき汚辱です。全生命の同一性を理解しておられる皆さんは、下等な存在と見なされている動物が本来の権利を存分に発揮できるようにしてあげるための闘争に嫌気がさすようなことがあってはなりません。

 虐待、残忍、苦痛、無益な流血への挑戦を続けてください。その価値ある闘争におけるあなたの役割を存分に果たしてください。最後はかならず善意が愚行に打ち勝ちます」

 デニス氏 「どうもこれまでは残虐行為をしている側の方が勝っているように思えるのは不幸なことです」

 シルバーバーチ 「光が闇を征服するように、善はかならず悪を征服します。闇の力は光には勝てませんし、悪の力も善の力には勝てません。気落ちしてはなりません。あなたの背後には、かつて地上で同じ仕事に献身し死後も引き続き地上の生命すべてに自由をもたらすために尽力している霊団が控え、味方になってくれております。

 プランというものがあるのです。あなたはその成就のための仕事に参加する栄誉を担っておられるのです。最後にはかならず成就されるのです。それを邪魔することはできます。遅らせることはできます。妨害することはできます。しかし、それによって神が計画を撤回なさるようなことは絶対にありません」

 デニス氏 「私が理解できないのは、霊界では確固とした協力態勢ができているのに、地上で同じ愛護運動にたずさわっているはずの人たちの間に一致団結が見られないことです」

 シルバーバーチ「一致団結というのは難しいものです。残念ながら地上においては往々にして原理・原則よりも個人的な考えが優先されます。立派な仕事にたずさわっているものの、時が経つにつれて初心を忘れ、一身上のことばかり考えるようになります。人間の煩悩の一つです。

それは、つまるところ霊的理解力の欠如から生まれております。献身的に取り組んではいるものの、それは自分の思うように進んでいるかぎりの話です。自分の考えが正しいと思うのは良いとして、それが最高でそれしかないと自惚れはじめます。これが、地上で同じ仕事にたずさわっていて、こちらへ来てからもその成就のために援助している霊を困らせる問題の一つなのです。

 あなた方に心掛けていただきたいのは、容易なことではありませんが、その種の人間に個人的見解の相違を忘れさせ、基本の原理・原則に立ち帰って、最初にこの仕事に情熱を燃やした時の目標に向かって無心に努力するように指導することです。これは今たずさわっておられる動物愛護の仕事にかぎりません。

他の分野においても言えることです。たとえばスピリチュアリズムと呼ばれている思想運動においても、自己顕示欲が強い人がいて、とかく自惚れが原因となって衝突が起きていませんか?

 私は善のための努力は絶対に無駄にされないと申し上げます。闘いはかならず勝利をおさめます。なぜならば背後に控える霊力は、それくらいのことでは押し止められないほど強大だからです。いかなる抵抗に遭ってもかならず退却せしめます。

 改革は私たちの世界から鼓吹(こすい)されるのですが、同時に強大な霊力を具えた輝ける存在による祝福と協力とが与えられます。あなたは是非とも為さねばならないことへの情熱を失ってはなりません。

善行への励みに嫌気がさしてはなりません。これは大切な事です(嫌気を吹き込み、やる気を無くさせようとする邪霊集団の働きかけがあるから───訳者)勇猛果敢な精神を保持しなければいけません。

あなたには為すべきことが山ほどあります。今のところあなたはそれを立派にやってのけておられます。どうにもならないと思える事態にいたっても必ず道が示されます。

 私の記憶では、ここにお集まりの皆さんの誰一人として、克服できないほどの困難に遭遇された方はいらっしゃいません。時にはギリギリの瀬戸際まで待たざるを得ないことがあるかも知れませんが、きっと道は開けます。

 いかに美しいバラにもトゲがあります。見たところ不潔なものの中からきれいなものが出てくることがあります。大自然は両極性、多様性、付随的対照物、というパターンの中で営まれております。

絶頂があればドン底があり、晴れの日があれば嵐の日があり、無知な人がいれば知識豊かな人がおり、戦争があれば平和があり、愛があれば憎しみがあり、真実があればウソがあり、弱みがあれば強みがあります。それぞれに果たすべき役割があります。

 進化の法則はそうしたパターン以外には働きようがないのです。弱点の中に長所を見出すことがあります。暗闇の中でこそ光明が見出せるのです。困難の中にあってこそ援助が得られるのです。

夜明け前には必ず闇夜があるというのは陳腐な譬えですが、やはり真実です。これも人生のパラドックスの一つです。進化というのはそうしたパターンの中でこそ不易の目的を成就していけるのです。

 こうしたことを知ったからには、あなたは悲観なさる必要などどこにもありません。残虐行為の当事者たちが自分たちのしていることの極悪非道さを知らずにいることであなたが思い悩むことはありません。

あなた自身も気づいていらっしゃらない要素がいろいろとあるのです。あなたも一個の人間に過ぎませんが、内部には神性という黄金の筋金が入っているのです。それこそがあなたの宝庫です。発電所です。イザという時のエネルギー源です。

 同志の中に手を焼かせる者がいたら、その人のことを気の毒に思ってやることです。道を間違えているのです。そういう人間を激しい口調で説き伏せようとしてはなりません。素朴な真理を教えてあげるだけでよろしい。そのうち分かってくれるようになります。

 あなたは今みずからの自由意志で選択した仕事にたずさわっておられます。神から授かったもっとも大切な贈物の一つと言えるでしょう。もしかしたら理性も思考力も挑戦欲も懐疑心も持てない、ただの操り人形、ロボットのような存在となっていたかも知れないのです。

それが、反対にあなたには無限の神性が潜在的に宿されているのです。何かに挑戦することによってそれを引き出すことができるのです。その時の奮闘努力が霊のはがねを鍛えるのです。掛けがえのない絶好機です。霊がその純金の姿をあらわし神性を発揮することになるよう、どうか今こそあなたの気骨を示してください。

 挑戦にしりごみしてはなりません。闘うということは、霊的な目的意識さえ失わなければ、為になるものです。あなたより少しばかり先輩の魂である私から、最後にひとこと激励の言葉を述べさせていただきましょう。いついかなる時も永遠の霊的原理を指標としそれに頑固にしがみついているかぎり、あなたに、絶対に挫折はありません」


 その日もう一人動物愛護運動家が招かれていた。その人に向ってシルバーバーチがこう語りかけた。

 「本日あなたにお出でいただいたことを非常にうれしく思っております。人類の啓発と、感性を具えたあらゆる形態の生命への慈悲心を教える仕事に献身しておられる神の僕をお迎えすることは大いなるよろこびです。

 その仕事が容易ならざるものであること、前途に困難が山積していることは私もよく存じております。しかし、霊の褒章は、困難に直面した時ほど最大限の信念を堅持できる人にしか獲得できないのです。あなたは容易ならざる道を選んでしまわれました。私はけっしてあなたが今それを後悔していらっしゃると申し上げているのではありません。

あなたはこの道をみずからの自由意志で選択なさったことを指摘しているだけです。もう分かっていらっしゃると思いますが、地上で先駆的な仕事にたずさわっている人たちはけっして孤独な闘いを強いられているのではない───霊界から大々的に援助を受けている事実を分かってほしいと思っている霊が大勢います。

 この分野の仕事は困難をきわめます。改めるべきことが沢山あります。が、残虐行為を一つでも終わらせる、ないしは少なくすることに成功すれば、その分だけ永遠の創造活動に参加したことになるのです。

 申し上げるまでのないことと思いますが、地上に共存する動物にも人間と同じように〝奪うべからざる権利〟というものがあります。進化の法則は地上の全生命を包括していること、一つとしてその働きの外にはみ出ることは有り得ないこと、形態はいかにさまざまであっても、すべてが一丸となって前進するものであること、

すべての残酷な行為は、それが人間どうしであっても動物への仕打ちであっても、結局は生命の世界全体の進化を遅らせることになる───こうしたこともすべてあなたはすでにご存知と思います。

  この大切な分野において少しでも進展があれば、それは大きな勝利であるとみなすべきです。私と同様あなたも、人類の進化が動物の世界全体と密接につながっていることをよくご存知です。

献身と忠誠をもって人間に仕えている動物たち、また人間の進化によってその進化が促進されるようにと地上に生をうける動物たちに対する責任を人間が無視しあるいは忘れるようなことがあると、それは人間みずからの進化をも遅らせることになるのです。

 困難、戦争、貪欲、利己主義、こうした物質万能主義の副産物はすべて、人間が愛、情け、哀れみ、慈悲、好意といった霊的資質を発揮しないかぎり地上から無くなることはありません。

そうした資質は神からの授かりものなのです。それが発揮できるようになるまでは、人間はみずからを傷つけることばかりします。乱獲や残虐行為の一つ一つが人間どうし、あるいは動物に対して害を及ぼすのは無論のこと、それが人間みずからの進歩を妨げることになるのです。
   
 地上の動物愛護運動の背後には偉大な霊の集団が控えております。そのリーダーといってよい立場にあるのが(※)地上で〝アッシジの聖フランチェスコ〟と呼ばれた人物です。霊界において活発にこの運動を展開しており、他界後に身につけた霊力をフルに活用してあなた方の仕事の成就を援助しております。

(※ リーダーといってよい立場、というあいまいな言い方をしたのは、その上にも、そのまた上にも高級霊が控えて指揮しているからである。『霊訓』のイムペレーターも四十九名の霊団の頭であるが、その上にはプリセプターと名のる、直接人間界と接触できないほどの高級霊が控えていた。

それは多分紀元前九世紀の予言者エリヤであろうとされているが、いずれにせよ最後に行き着くところは、地球圏に限っていえば、地球の守護神である。なお聖フランチェスコ San Francesco d'Assisi は十三世紀のイタリアのカトリック修道士で、庶民的愛と清貧を主義とするフランシスコ修道会の創始者───訳者)

 問題に直面した時はそれをどう処理するかの決断を下さねばなりませんが、そんな時いちばんお勧めするのは、瞑想状態に入って魂の奥へ引きこもり、神の声に耳を傾けることです。

 今あなたがたずさわっておられる仕事は、あなたご自身がお選びになったのです。この分野にも組織、教会、審議会などがいろいろとありますが、そうしたものは本来の機能を果たせないかぎり存在しても無意味です。

この種の仕事は内奥の生命、霊的実在についての知識に目覚め、他の生命との霊的なつながりを理解した者が、自分を役立てるという動機一つに鼓舞されて仕事に従事するということであらねばなりません。

 以上の私からのメッセージ、といっても、そう伝えるようにと言われたのでお伝えしたまでですが、それが少しでもお役に立てば、その代弁者(マウスピース)となったことを私はうれしく思います。

 あなたのように闘いの最前線に身を置く者は、ひるむことのないよう鍛えられ試される必要があるのです。これまでの数々の体験は、そうした試練の中でも肝心な要素として用意されたものでした。

すなわち霊の純金を磨いて浮き出させて、イザという時に霊力を引き出し、窮地に陥った時に引きこもって安らぎを得るために、その内奥の力、内奥の避難所の存在に目覚めさせることに目的があったのです」


───お言葉はまさに私がいま必要としていることばかりです。きっと、これからの仕事に大いに役立つことと存じます。私たちは時としてどちらの方向を取るべきか迷うことがあるのです。

 「その時点で正しいと思われたことをなさればよいのです。ただし、これが正しいということに確信がなくてはいけません。動機が純粋であれば、その後に派生してくるものも善へ向かいます。

万が一動機が間違っていたことに気がつかれれば、その時は自分が責めを負えばよろしい。が、闘って敗れ、しかも動機にやましいところがなければ、もう一度気を取り直して闘いを挑むのです。

 われわれは闘士なのです。挑まねばならない闘いがある以上は闘士であらねばなりません。しかも、いま挑んでいる闘いは、あらゆる闘いの中でも最大の闘いではないでしょうか。無知と愚行と利己主義と迷信───光明に逆らう闇の勢力すべてとの闘いです。抑圧と残虐と略奪と無用の犠牲(動物実験)に対する闘いです。ぜひとも勝たねばならない大規模な闘いです。

 あなたがもしたった一つの残虐行為でも止めさせることができれば、あなたの全人生が生き甲斐あるものとなります。その無益な残虐行為こそ、地上から完全に駆逐するまでわれわれは何度でも闘いを挑まねばなりません。見た目にいかに抵抗が大きくても、決してひるんではなりません。かならずや勝利はあなた方のものとなります。

 あなた方が望んでいる改革のすべてが、あなたの在世中に成就されるとはかぎりません。しかし、そのうちの一つでも、二つでも、あるいは三つでも成就されれば、あなたが地上に存在した意義があったことになります。

 時どき私は、この仕事に没頭しておられるあなた方に、できることなら私たちの世界の動物が一かけらの恐れも怖じ気もなく安らかに仲良く暮らしているところを一度ご覧に入れたいものだと思うことがあります。そこはまさに動物にとっての天国なのです」

    
   
  解説〝再生〟と〝前生〟についての誤解 ───訳者───

  本書の編者トニー・オーツセンという人はまだ四十そこそこの若い、才覚あふれる行動派のジャーナリストである。この人とは私は二度会っている。一度はバーバネルが健在のころで、そのときはまだ取材記者の一人にすぎなかった。

二度目はバーバネル亡きあと編集スタッフの一員として、生来の才覚と若さと、それにちょっぴりハンサムなところが買われて、BBCなどにも出演したりしていた。そのときはサイキックニューズ社の所在地も現在地に移っていて、一階の書籍コーナーで私がレジの女性に自己紹介してオーツセンに会いたいと言うと、二階の編集室へ電話を入れてくれた。

すると間もなく階段を転げ落ちるようなスピードで降りてくる足音がして、あっという間にオーツセンが顔を見せ〝よく来た!〟と言って握手を求め、すぐに二階へ案内してくれた。こうした行動ぶりから氏の性格を想像していただきたい。もっともその積極性が時おり〝勇み足〟を生むのが玉にキズなのだが・・・・・・

 彼とは今でも月に何度か手紙のやり取りがあるが、つい最近の手紙で彼がついに日本でいう専務取締役、兼編集主任となっていることが分かった。彼もついにかつての親分(バーバネル)のイスに腰掛けたわけである。その昇進ぶりから彼の才覚のほどを察していただきたい。今後の大成を期待している。

 さて本書の原典の第三章は〝再生〟に関する霊言が集めてあるが、これは日本語シリーズ第四巻の三章〝再生の原理〟とほぼ完全に重複しているのでカットした。

ただ次の二つの質問が脱落しているので、ここで紹介してそれを問題提起の糸口としたい。これは第四巻七九ページの「双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう」という質問に続いて出された質問である。


───同じ進化の段階まで到達した双子霊がなぜ別れ別れに地上に誕生するのでしょうか。霊界でいっしょになれた段階で、もうこれでずっといっしょで居続けられる、と思うのではないでしょうか。

 「おっしゃる意味は、霊的に再会しながら肉体的に別れ別れになるということと理解しますが、それとてほんの一時期の話です。アフィニティであれば、魂のやむにやまれぬ衝動が強烈な引力となって霊的に引き合います。親和力の作用で引き寄せられるのです。身体的には二つでも霊的には一つだからです」


───別れ別れに誕生してくるのも双子霊として向上のためと理解すればよいのですね。

 「別れるということに拘っておられるようですが、それは別だん大きな問題ではありません。別れていようと一緒でいようと、お互いが一個の魂の半分ずつであれば、肉体上の違いも人生のいかなる出来ごとも、互いに一体になろうとする基本的なプロセスに影響を与えることはありません。霊的な実在を物的な現象と混同してはいけません。霊にかかわる要素が持続されていくのです」


 オーツセンはその第三章を〝再生───霊の側からの見解〟と題しているが、この〝霊の側からの見解〟という副題に私はさすがはオーツセンという感想をもった。

というのは、現在地上で扱われている再生説や前生うんぬんの問題は、そのほとんどが人間的興味の観点から捉えられたものばかりで、上のシルバーバーチの言葉どおり〝霊的な実在を物的な現象と混同して〟いるからである。そこから大きな誤解が生じているので、本稿ではその点を指摘しておきたい。


 人間には前世は分からない

 第六巻の十章で 〝自分の前生を思い出してそれと断定できるものでしょうか〟 という質問に対してシルバーバーチは、それは理論的にはできますと言えても実際にそれができる人は現段階の地上人類にはまずいませんと述べている。ところが現実には洋の東西を問わず、〝あなたの前生は〇〇です〟とか、みずから

〝私は××の生まれ変わりです〟 と平然と公言する自称霊能者が多く、またそれをすぐに真にうけている信者が実に多いのである。「スピリチュアリズムの真髄」の中で著者のレナードがこう述べている。

 「この輪廻転生に関して意味深長な事実がある。それは、前生を〝思い出す〟人たちのその前生というのが、大てい王様とか女王とか皇帝とか皇后であって、召使いのような低い身分だったという者が一人もいないことである。中でも一ばん人気のある前生は女性の場合はクレオパトラで、男性の場合が大てい古代エジプトの王という形をとる」

 こう述べてからD・D・ホームの次の言葉を引用している。

 「私は多くの再生論者に出会う。そして光栄なことに私はこれまで少なくても十二人のマリー・アントワネット、六人ないし七人のメリー・スコットランド女王、ルイ・ローマ皇帝ほか、数え切れないほどの国王、二十人のアレキサンダー大王にお目にかかっているが、横丁のおじさんだったという人には、ついぞお目にかかったことがない。もしそういう人がいたら、ぜひ貴重な人物として檻にでも入れておいてほしいものである」

 これが東洋になると、釈迦とかインドの高僧とかが人気の筆頭のようである。釈迦のその後の消息が皆目わからないのがスピリチュアリズムの間で不思議の一つとされているが、あの人この人と生まれ変わるのに急がしくて通信を送る暇がなかったということなのだろうかと、と皮肉の一つも言ってみたくなる。

 それにしても一体なぜ高位・高官・高僧でなければいけないのであろうか。なぜ、歴史上の人物でなければ気が済まないのであろうか。マイヤースの通信『個人的存在の彼方』に次のような一節がある。

 「偉大なる霊がまったく無名の生涯を送ることがよくある。ほんの身近な人たちにしか知られず、一般世間の話題となることもなく、死後はだれの記憶にも残らない。その無私で高潔な生涯は人間の模範とすべきほどのものでありながら、それを証言する者は一人としていない。

そうした霊が一介の工場労働者、社員、漁師、あるいは農民の身の上に生をうけることがあるのである。これといって人目につくことをするわけではないのだが、それでいて類魂の中心霊から直接の指導を受けて、崇高な偉大さと高潔さを秘めた生涯を送る。かくして、先なる者が後に、後なる者が先になること多し(マタイ19・30)ということにもなるのである」

 オーエンの『ベールの彼方の生活』第三巻に、靴職人が実は大へんな高級霊で、死後一気に霊団の指揮者の地位に付く話が出ている。地上生活中は本人も思いも寄らなかったので、天使から教えられて戸惑う場面がある。肉体に宿ると前生(地上での前生と肉体に宿る前の霊界での生活の二種類がある)がシャットアウトされてしまうからである。『続霊訓』に次のようなイムペレーターの霊言がある。

 「偉大なる霊も、肉体に宿るとそれまでの生活の記憶を失ってしまうものである。そうした霊にとって地上への誕生は一種の自己犠牲ないしは本籍離脱の行為と言ってよい」

 そうした霊が死後向上していき、ある一定の次元まで到達すると前生のすべてが(知ろうと思えば)知れるようになる、というのがシルバーバーチの説明である。霊にしてその程度なのである。まして肉体に包まれている人間が少々霊能があるからといって、そう簡単に前生が分かるものではないのである。


 たとえ分かっても何にもならない

 ところで、かりに人間にそれが分かるとして、一体それを知ってどうなるというのであろうか。一回一回にそれなりの目的があって再生をくり返し、そのつどシルバーバーチの言うように〝霊にかかわる要素〟だけが持続され、歴史的記録や名声や成功・失敗の物語はどんどん廃棄されていく。

ちょうど我々の食したものから養分だけが摂取され、残滓(ざんさい)は排泄されていくのと同じである。そんな滓(かす)を思い出してみてどうなるというのであろう。

 それが歴史上の著名人であれば少なくとも〝人間的興味〟の対象としての面白味はあるかも知れないが、歴史にまったく記されていない他の無名の人物───ほとんど全部の人間といってよい───の生涯は面白くもおかしくもない、平々凡々としているか、波乱万丈であれば大抵被害者あるいは犠牲者でしかないのである。

人間的体験という点においては何も歴史的事件にかかわった者の生涯だけが貴重で、平凡な人生は価値がないというわけでは絶対にない。その人個人にとっては全ての体験がそれなりの価値があるはずである。が、

人間はとかく霊というものを人間的興味の観点からせんさくしようとするものである。シルバーバーチが本名を絶対に明かさないのは、そんな低次元の興味の対象にされたくないということと、そういうことではいけませんという戒めでもあるのである。


  再生問題は人間があげつらうべきものではない

 再生そのものが事実であることに疑問の余地はない。シルバーバーチは向上進化という霊の宿命の成就のための一手段として、再生は必須不可欠のものであり、事実この目で見ておりますと述べている。私はこの言葉に全幅的信頼を置いている。

 また、それを否定する霊がいるのはなぜかの問いに、霊界というところは地上のように平面的な世界ではなく、内面的に無限の次元があり、ある一定の次元まで進化しないと再生の事実の存在が分からないからだと述べている。

つまりその霊が到達した次元での視野と知識で述べているのであって、本人はそれが最高だ、これが全てだ、これが真実だと思っても、その上にもまた上があり、そこまで行けばまた見解が変わってくる。

だからシルバーバーチも、今否定している人も自分と同じところまで来れば、なるほど再生はあると思うはずだと述べている。イムペレーターも、このあと引用する『続霊訓』の中で、再生の事実そのものは明確に認めている。

そういうわけで私は再生という事実については今さらとやかく述べるつもりはない。その原理については第四巻の三章を参照していただきたい。ただ、世間において、あるいはスピリチュアリズムに関心をお持ちの方の中においても、生まれ変わりというものについて大きな誤解があるようなので、それを指摘しておきたいと思う。
 
 モーゼスの『続霊訓』に次のような一節がある。

 「霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊にしてはじめて論ずることのできる問題である。最高神のご臨席のもとに、神庁において行われる神々による協議の中身については神庁の下層の者にすら知り得ない。正直に言って、人間にとって深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。

神庁において紳議(かむはか)りに議られしのちに一個の霊が再び肉体に宿りて地上へ生まれるべきか、それとも否か、そのいずれの判断が下されるかは誰にも分からない。誰にも知り得ないのである。守護霊さえ知り得ないのである。すべては佳きに計らわれるであろう。

 すでに述べた如く、地上にて広く喧伝(けんでん)されている形での再生(機械的輪廻転生)は真実ではない。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とを携えて地上へ降り人間と共に生活を送ることは事実である。ほかにもわれらなりの判断に基づいて広言を避けている一面もある。

まだその機が熟していないとみているからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならない。そう広言する霊は、みずから己れの虚偽性の証拠を提供しているに他ならない」
(『ベールの彼方の生活』をおもちの方は第四巻第六章3〝神々による廟議〟を参照されたい)

 高級霊にしてこの程度なのに、こうして肉体に包まれ、シルバーバーチ流に言えば〝五本の鉄格子(五感)の間から外界をのぞく〟程度の地上の人間が、少々霊能が芽生えたからといって、そんなもので再生問題を論ずるのは言語道断なのである。

 再生とは少なくとも今の自分と同じ人間がそっくり生まれ変わるという、そんな単純なものではない。心霊学によって人間の構成要素をよく吟味すれば、イムペレーターやシルバーバーチから指摘されなくてもその程度のことは分かるはずである。

 そんな軽薄な興味にあたら時間と精神とを奪われるよりも、五感を中心として平凡な生活に徹することである。そうした生活の中にも深刻な精神的葛藤や身体的苦闘の材料がいくらでもあるはずである。それと一生けんめい取り組んでいれば、ごく自然な形で、つまり無意識のうちに必要な霊的援助を授かるのであり、それがこの世を生きる極意なのである。



  悪ふざけをして喜ぶ低級霊団の存在

 私が声を大にしてそう叫ぶのは、一つにはそこにこそ人間的努力の尊さがあり、肉体をもって生活する意義もそこから生まれると信じるからであるが、もう一つ、生半可な霊能を頼りにすることの危険性として、そうした霊能者を操って悪ふざけをする低級霊がウヨウヨしているという現実があるからである。『霊訓』に次のような一節がある。

 「邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはりわれらにとって面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えない。肉体より離れていく人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。

そして地上に近き界層を一気に突き抜けていくほどの進化した霊は、特別の使命でもないかぎり地上へは舞い戻っては来ないものである。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。

 言い残したものにもう一種類の霊団がある。それは、悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊界へ出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。

邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いていかにも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取って面白がっているに過ぎない。

交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると汝に言わしめる要因もそこにある。茶目っ気やいたずら半分の気持ちからいかにも真面目くさった演出をしては、それを信ずる人間の気持ちを弄ぶ霊の仕業がその原因となっている。列席者が望む肉親を装っていかにもそれらしく応対するのも彼らである。

誰でも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも彼らの存在の所為(せい)である。最近、だれそれの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、そのほどんとは彼らの仕業である。

通信にふざけた内容、あるいは馬鹿げた内容を吹き込むのも彼らである。彼らは真の道義的意識は持ち合わせない。求められれば、いつでもいかなることでも、ふざけ半分、いたずら半分にやってみせる。その時どきの面白さ以上のものは何も求めない。人間を傷つける意図はもたない。ただ面白がるのみである」

 ついでに『続霊訓』からも次の一節を紹介しておこう。これは自動書記通信であるが、モーゼスが「間違った教理を信じ切っている霊が何百年、何千年と、そう思い込んだままの状態でいると聞いて驚きを禁じ得ません。それはよくあることなのでしょうか」と質問したのに対してこう述べている。

 「そう滅多にあるものでないのであるが、霊媒を通じてしゃべりたがる霊は、概してそう高度な悟りに到達していない者たちである。理解力に進歩のない連中である。請われもしないのに勝手に地上へ戻ってくるということ自体が、あまり進歩的でないことの証明といえよう。中でも、人間がこしらえた教理によってがんじがらめにされたままやってくる霊は、もっとも進歩が遅い。

 真実の教理は人間の理解力に応じて神みずから啓示されるものである。数ある地上の教説や信仰は大なり小なり間違っている。ゆえに(それが足枷となって)進歩が遅々としている者が実に多く、しかも自らはその誤りに気づかないのである。

その種の霊が徒党を組み、その誤りがさらに新たな誤りを生んでいくことがしばしばある。かくして無知と偏見と空理空論が下層界に蔓延し、汝らのみならず我らにとりても厄介なことになっている。というのも、彼らの集団も彼らなりの使者を送って人間界を攪乱せんとするのである。

彼らは必ずといってよいほど敬虔な態度を装い、勿体ぶった言葉を用いる。それがいつしか進歩を阻害し、心理を窒息させるように企んでいるのである。魂の自由を束縛し、真理への憧憬を鈍らせるということにおいて、それは断じて神の味方ではなく、敵対者の仕業である」

 五感はたしかに鈍重であるが、それなりの安定性がある。それに引きかえ、霊能というのはきわめて不安定であり、肉体の健康状態、精神的動揺によって波長が変化し、昨日は高級霊からのものをキャッチしていたのが今日は低級霊に騙されているということがある。まさに両刃の剣である。

 ショパンが弾けるというだけの人なら世界中どこにでもいるが、人に聞かせるに足る名演奏のできる人はそう数多くいるものではない。それと同じく、信頼の置ける霊媒、高い霊質と人格と識見とを兼ね具えた名霊媒はそう数多くいるものではない。

その一人がステイントン・モーゼスであり、ヴェール・オーエンであり、ジェラルディン・カミンズであり、モーリス・バーバネルである。そのほか地道にやっている霊能者が世界中にいるはずである。

 そして、こうした霊媒を通じて通信してくる霊が異口同音に言うのが〝宇宙の神秘は奥には奥があって、とても全てを知ることはできない〟ということである。肝に銘ずべきであろう。   
                                                    
                     一九八七年四月     近藤 千雄

Wednesday, December 24, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

 The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

六章 常夏の楽園


2 十界より十一界を眺める   

一九一三年十二月十一日 木曜日

 前回の続きである。

 彫像の立つ空地は実は吾々が上層界からの指示を仰ぐためにしばしば集合する場所である。これより推進すべき特別の研究の方向を指示するために無数の霊の群れを離れて吾々を呼び寄せるには、こうした場所が都合が良いのである。

そこへ高き神霊が姿をお見せになり、吾々との面会が行われるのであるが、その美しい森を背景として、天使の御姿は一段と美しく映えるのである。

 その空地から幾すじかの小道が伸びている。吾々は突き当りで右へ折れる道を取り、さらに歩み続ける。道の両側には花が咲き乱れている。キク科の花もあればサンシキスミレもあり、そうした素朴な花が恰もダリア、ボタン、バラ等の色鮮やかな花々の中に混って咲いていることを楽しんでいるかのように、一段と背高(せいだか)に咲いているのが目に止まる。

このほかにもまだまだ多くの種類の花が咲いている。と言うのは、この界では花に季節がなく、常夏の国の如く、飽きることなく常に咲き乱れているのである。

 そこここに更に別の種類の花が見える。直径が一段と大きく、それが光でできた楯の如く輝き、あたりはあたかも美の星雲の観を呈し、見る者によろこびを与える。

この界の花の美しさは到底言語では尽くせない。すでに述べたように、すべてが地上には見られぬ色彩をしているからである。それは地上のバイブレーションの鈍重さのせいであると同時に、人間の感覚がそれを感識するにはまだ十分に洗練されていないからでもある。

 このように──少し話がそれるが──貴殿の身のまわりには人間の五感に感応しない色彩と音とが存在しているのである。この界にはそうした人間の認識を超えた色彩と音とが満ち溢れ、それが絢爛(けんらん)豪華な天界の美を一段と増し、最高神の御胸において至聖なる霊のみが味わう至福の喜びに近づいた時の〝聖なる美〟を誇示している。

 やがて吾らは小川に出る。そこで道が左右に別れているが、吾々は左に折れる。その方角に貴殿が興味を抱きそうなコロニーがあり是非そこへ案内したく思うからである。

その川から外れると広い眺めが展開する。そこが森の縁(ふち)なのであるが、そこに一体何があると想像されるか。ほかでもない。そこは年中行事を司るところの言わば〝祝祭日の聖地〟なのである。

 地上の人間はとかく吾々を遠く離れた存在であるかに想像し、近接感を抱いていないようであるが、つばめ一羽落ちるのも神は見逃さないと言われるように、人間の為すことの全てが吾々に知れる。

そしてそれを大いなる関心と細心の注意をもって観察し、人間の祈りの中に一しずくの天界の露を投げ入れ、天界の思念によって祈りそのものと魂とに香ばしい風味を添えることまでする。

 このコロニーには地上の祝祭日に格別の関心を抱く天使が存在する。そうして毎年めぐり来る大きい祝祭日において、人間の思念と祈願を正しい方向へ導くべく参列する霊界の指導霊に特別の奉納を行う。

 私自身はその仕事には関わっていない。それ故あまり知ったかぶりの説明はできないが、クリスマス、エピファニー、イースター、ウィットサンデー(※)等々に寄せられる意念がこうした霊界のコロニーにおいて強化されることだけは間違いない事実である。

(※これらは全て霊界の祝祭日の反映であり従って地上の人間の解釈とは別の霊的意義がある。それについてはステイトン・モーゼスの霊界通信『霊訓』が最も詳しい。──訳者)

 また聞くところによれば〝父なる神〟をキリスト教とは別の形で信仰する民族の祝祭日にも、同じように霊界から派遣される特別の指導霊の働きかけがあるということであるが、確かにそういうことも有りえよう。

 かくて地上の各地の聖殿における礼拝の盛り上がりは、実はこうして霊界のコロニーから送られる霊力の流れが、神への讃仰と祈願で一体となった会衆の心に注がれる結果なのである。

 貴殿はそのコロニーの建物について知りたがっているようであるが、建物は数多く存在し、そのほとんどが聳えるように高いものばかりである。

その中でもとくに他を圧する威容を誇る建物がある。数々のアーチが下から上へ調和よく連なり、その頂上は天空高く聳え立つ。祝祭日に集まるのはその建物なのである。

その頂上はあたかも開きかけたユリの花弁がいつまでも完全に咲き切らぬ状態にも似ており、それに舌状の懸花装飾が垂れ下がっている。色彩は青と緑であるが、そのヒダは黄金色を濃縮したような茶色を呈している。

見るも鮮やかな美しさであり、天空へ向けて放射される讃仰の念そのものを象徴している。それは恰も芳香を放出する花にも似て、上層界の神霊ならびに、すべてを超越しつつしかも全ての存在を見届け知りつくしている創造の大霊へ向けて放たれてゆく。

 吾々はこの花にも似た美しい聖殿があたかも小鳥がヒナをその両翼に抱き、その庇護の中でヒナたちが互いに愛撫し合うかのような、美しくも温かき光景を後にする。そしてさらに歩を進める。

 さて、小川の上流へ向けて暫し歩き続けるうちに、道は上り坂となる。それを登り続けるとやがて山頂に至り、そこより遥か遠くへ視界が広がる。実はそこは吾々の界と次の界との境界である。どこまで見渡せるか、またどこまで細かく見極めうるかは、開発した能力の差によって異なるが、私に見えるままを述べよう。

 私は今、連なる山々の一つの頂上に立っている。すぐ目の前に小さな谷があり、その向こうに別の山があり、更にその向うに別の山が聳えている。焦点を遠くへやるほどその山を包む光輝が明るさを増す。が、その光はじっと静かに照っているのではない。

あたかも水晶の海か電気の海にでも浸っているかのように、ゆらめくかと思えば目を眩ませんばかりの閃光を発し、あるいは矢のような光線が走り抜ける。これは外から眺めた光景であり、今の私にはこれ以上のことは叙述できぬ。

 川もあれば建物もある。が、その位置は遥か彼方である。芝生もあれば花を咲かせている植物もある。樹木もある。草原が広がり、その界の住民の豪華な住居と庭が見える。が、私はその場へ赴いて調べることはできない。ただ、こうして外観を述べることしかできない。    

 それでも、その景色全体に神の愛と、えも言われぬ均整美が行きわたり、それが私の心を弾ませ足を急かせる。

なぜなら、その界へ進み行くことこそ第十界における私の生活の全てだからである。託された仕事を首尾よく果たした暁には、その素晴らしき界の、さる有難きお方(※)からの招きを受けるであろう。その時は喜び勇んで参ることであろう。  

(※ザブディエルの守護霊のこと。その守護霊にも守護霊がおり、そのまた守護霊がおり、連綿として最後は守護神に至る。──訳者)

 が、このことは貴殿も同じことではなかろうか。私とその遥か遠き第十一界との関係はまさに貴殿と他界後の境涯と同じであり、程度こそ違え素晴らしいものであることにおいては同じである。

 この界につきてはまだ僅かしか語っていないが、貴殿の心を弾ませ足を急かせるには十分であろう。

 ここで再び貴殿をさきの空地へ連れ戻し、あの彫像の如く常に目をしっかりと上方へ向けるよう改めて願いたい。案ずることは何一つない。足元へ目をやらずとも決して躓くことは無い。高きものを求める者こそ正しい道を歩む者であり、足元には吾々が気を配り事なきを期するであろう。

 万事は佳きに計らわれている。さよう、ひたすらに高きものを求める者は万事佳きに計らわれているものと思うがよい。なぜなら、それは主イエスに仕える吾らを信頼することであり、その心は常に主と共にあり、何人たりとも躓かせることはさせぬであろう。

 では、この度はここまでとしよう。地上生活はとかく鬱陶しく、うんざりさせられることの多いものである。が、同時に美しくもあり、愛もあり、聖なる向上心もある。それを少しでも多く自分のものとし、また少しでも多く同胞に与えるがよい。

そうすれば、それだけ鬱陶しさも減じ、天界の夜明けの光が一層くっきりと明るく照らし、より美わしき楽園へと導いてくれることであろう。

6シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(八)

More Philosophy of Silver Birch  Edited by Tony Ortzen
六章 あすの指導者たち ───若者にどう説くか───


 初めて招待された女性が自分の教会に通う十代の若者にはどう霊的真理を説けばよいかを尋ねた。その教会は英国国教会には属しておらず、バイブル中心の教えは説いていないという。

 シルバーバーチはこう答えた。

 「今日の若者は反抗的なところがありますから、理性と論理に訴えるのが一ばん良いと私は考えます。彼らの気持ちの中には、過去の教えは暗黒の世界をもたらして自分たちを裏切ったという考えがあります。私だったらこうしてお持ちしている霊的真理の背後の理念の合理性を訴えたいと思います。

その際にスピリチュアルリズムとかオカルトとかのラベルや、神秘的、秘教的といった言い方はしない方がよろしい。ただの用語にすぎないのですから。

 それよりも、脳と精神の違い、物質と霊の違いを教え、今すでに自分という存在の中に化学的分析も解剖もできない、物質を超えた生命原理が働いており、それが原動力となって自分が生かされているのだということを説くのです。

人間という存在は最も高度に組織化され、最も緻密で最も複雑なコントロールルームを具えた、他に類をみない驚異的な有機体です。その無数の構成要素が調和的に働くことによって生き動き呼吸できているのです。

しかし実は、その物的身体のほかにもう一つ、それを操作する、思考力を具えた、目に見えない、霊的個性(インディビジュアリティ)が存在していることを説くのです。

 目に見えている表面の奥に、評価し考察し比較し反省し分析し判断し決断を下す精神が働いております。それは物的なものではありません。人間には情愛があり、友情があり、愛があり、同情心がありますが、これらは本質的には非物質的なものです。

愛を計量することはできません。重さを計ることも、目で見ることも、舌で舐めることも、鼻で嗅いでみることも、耳で聞いてみることもできません。それでも厳然として存在し、英雄的行為と犠牲的行為へ駆り立てる最大の原動力となっております。

 あなたの教会へ訪れる若者はまだ、あなたがすでにご存知の霊的真理は何も知らないわけですが、その子たちにまず精神とは何でしょうかと問いかけてみられることです。

それが肉体を超えたものであることは明白ですから、では肉体が機能しなくなると同時にその肉体を超えたものも機能しなくなると想像する根拠がどこにあるか──こういう具合に話を論理的に持っていけば、よいきっかけがつかめると思います。

 それによって何人かでも関心を抱いてくれる者がいれば、その好機を逃してはいけません。嘲笑やあざけりは気になさらないことです。あなたの言葉を素直に受け入れてくれる者が一人や二人はいるものです。その種子はすぐにではなくても、そのうち芽を出しはじめることでしょう。

それであなたは、自分以外の魂の一つに自我を見出させてあげたことになるのです。私たちは地上の人々が正しい生き方を始めるきっかけとなる、真の自我への覚醒と認識をもたらしてあげることに四六時中かかわっております。それが私たち霊団に課された大目的なのです。

人生の落伍者、死後に再び始まる生活に何の備えもない、何の身支度もできていないまま霊界入りする人があまりにも多すぎるからです」


 別の日の交霊会で───

 ───若者に霊的真理へ関心を向けさせるにはどうしたらよいでしょうか。

 「私の考えでは、若者は一般的に言って人生体験、とくに身近かな人を失うことによる胸をえぐられるような、内省を迫られる体験がありませんから、ただ単に霊の世界との交信が可能であることを証明してみせるという形で迫ってはいけないと思います。我が子が死後も生きているといった一身上の事実の証明では関心は引けません。

 私はやはり若者の理性と知性に訴えるべきだと思います。すなわち論理的思考が納得するような霊的真理を提示し、それを単に信じろとか希望を見出せとか要求するのではなく、それが合理的で理性を満足させるものであり、真理の極印が押されたものであることを理解させるために、こちらが説くことを徹底的に疑ってかからせるのです。

 私だったらその霊的真理は不変の自然法則によって統制されている広大な宇宙的構想の一端であることを説きます。生命現象、自然現象、人間的現象のあらゆる側面と活動が、起こりうるすべての事態に備えて用意されている神の摂理によって完全なる統制下に置かれているということです。

 それゆえ地上に起きる出来ごとはすべて法則によって支配されたものであると説きます。つまり原因と結果の法則が働いており、一つの原因には寸分の狂いもない連鎖でそれ相当の結果が生じるということです。奇跡というものはないということです。

法則は定められた通りに働くものであり、その意味ではすべてのことが前もって知れているわけですから、奇跡を起こすために法則を廃棄する必要はないのです。

 そう説いてから、心霊実験による証拠を引き合いに出して、それが、人間は本来が霊であること、肉体は付属物であって、それに生命を吹き入れる霊の投影にすぎないことを証明していることを指摘します。つまり肉体そのものには動力も生命力もないのです。

肉体が動き呼吸し機能できているのは、それを可能ならしめるエネルギーを具えた霊のおかげなのです。霊は物質に優るのです。霊が王様だとすれば物質は従臣です。霊が主人だとすれば、物質は召使いのようなものです。要するに霊がすべてを支配し、規制し、管理し、統制しているのです。

 そう述べてから更に私は、以上のような重大な事実を知ることは深遠な意義があることを付け加えます。これを正しく理解すれば人間的な考えに革命をもたらし、各自が正しい視野をもち、優先させるべきものを優先させ、永遠の実在である霊的本性の開発と向上について、その仮りの宿にすぎない肉体の維持に向けられている関心と同じ程度の関心を向けるようになることでしょう。

 以上のような対応の仕方なら若者も応じてくれるものと私は考えます」


──霊能養成会に参加することはお勧めになりますか。

 「初めからは勧めません。最初は精神統一のためのグループにでも加わることを勧めます。その方が若者には向いているのでしょう。瞑想によってふだん隠れているものに表現のチャンスを与えるのです」


──それはうっかりすると、いわゆる神秘主義者にしてしまいませんか。

 「もしそうなったら、それは方向を間違えたことになります。それも自由意志による選択に任されるべきことです。若者には若者なりの発達の余地を与えてやらねばなりません。受け入れる準備ができれば受け入れます。弟子に準備ができれば師が訪れるものです」


──現代の若者に対して霊界から特別の働きかけがあるのでしょうか。それが血気盛んな若者を刺激して、自分でもわけが分からないまま何かを求めようとさせているのではないでしょうか。

「今日の若者の問題の原因は、一つには第二次世界大戦による社会環境の大変動があります。それが忠誠の対象を変えさせ、過去に対して背を向けさせ、いま自分たちが置かれている状況に合っていると思う思想を求めさせているのです。

 若者は本性そのものが物ごとを何でも過激に、性急に求めさせます。従来の型にはまったものに背を向け、物質のベールに隠されたものを性急に求めようとします。(LSDのような)麻薬を使って一時的な幻覚を味わうとか、時には暴力行為で恍惚(エクスタシー)を味わうといった過激な方法に走るのも、若者が新しいものを求めようとして古いものを破壊している一例と言えます。

 もとより霊的開発に手っ取りばやい方法があるかに思わせることは断じてあってはなりません。それは絶対に有り得ないのです。霊の宝は即座に手に入るものではありません。努力して求めなくてはなりません。霊的熟達には大へんな修行が必要です。それを求める人は、本格的な霊能を身につけるためには長期間にわたる献身的修行を要することを認識しなくてはなりません。

 若者にはぜひとも物質を超えたものを求めさせる必要があります。物質の世界が殻であり、実在はその殻の内側にあることを認識すれば、それが生への新たな視野をもたせることになるでしょう。そうなった時はじめて若者としての社会への貢献ができることになります」


──組織的社会に対するそうした若者の反抗についてお尋ねしたいのですが、その傾向は若者が霊界の波長に合いやすくて、知らず知らずのうちに霊界からの指図に反応しているのだという観方をどう思われますか。

 「私は若者の反抗は別に気にしておりません。私がいけないと言っているのは若者による暴力行為です」


───若者も愛を基本概念とした神を求めております。彼らの思想は愛に根ざしています。教会中心ではなく神を中心としています。そうではないでしょうか。

 「反抗するのは若者の特権です。安易に妥協するようでは若者でなくなります。追求し、詮索し、反逆しなくてはいけません。地上世界はこのたび幾つかの激変を体験し、慣習が変化し、既成の教えに対する敬意を失いました。

 こうした折に若者なりに自分たちの住む世界の統治はかくあるべきだと思うものを求めても、それを非難してはいけません。しかし肝心なのは地上生活もすべて霊的実在が基本となっており物的現実とは違うという認識です。物質にはそれ自身の存在は無いのです。物質の存在は霊のおかげなのです。物質は外殻であり、外皮であり、霊が核なのです。

 肉体が滅びるのは物質で出来ているからであり、霊が撤退するからです。老いも若きも地上の人間すべてが学ばねばならない大切な教訓は、霊こそ全生命活動の基盤だということです。地上生活におけるより大きな安らぎ、より一層の宿願成就のカギを握るのは、その霊的原理をいかに応用するかです。すなわち慈悲、慈愛、寛容心、協調的精神、奉仕的精神といった霊的資質を少しでも多く発揮することです。

 人間世界の不幸の原因は物質万能主義、つまりは欲望と利己主義が支配していることにあります。我欲を愛他主義と置きかえないといけません。利己主義を自己犠牲と置きかえないといけません。

恵まれた人が恵まれない人に手を差しのべるような社会にしないといけません。それが究極的に今より大きな平和、協調性、思いやりの心を招来する道です。

 私は絶対に悲観していません。私はつねに楽観的です。人間世界の諺を使わせていただけば〝ボールはいつも足元に転がっている〟と申し上げます。(フットボールから生まれた言いまわしで、目の前に成功のチャンスが訪れている、といった意味──訳者)


──若者の関心が物的なものに偏っていること、つまりお金と地位だけを目的としている生き方に批判的であるようにお見受けしますが・・・

 「私は若者が悪いと言っているのではありません。彼らは言わば犠牲者です。今日の混乱した世相には何の責任もありません。しかし同時に、彼らが何の貢献もしていない過去からの遺産を数多く相続しております。さまざまな分野でのパイオニアや改革者たちが同胞のために刻苦し、そして豊かな遺産を残してくれているのです。

 見通しはけっして救いようのない陰うつなものではありません。確かに一方には世の中を悪くすることばかりしている連中もいますが、それは全体の中の一部にすぎません。他方には世の中に貢献している人々、啓発と叡智とををもたらし、来るべき世代がより多くの豊かさを手にすることができるようにしようと心を砕いている人たちが大勢いるのです」


──私にも子供がいます。私が大切だと思うアドバイスをしても必ずしも受け入れてくれませんが、そうした努力によって私も未来のために貢献できるのだと思うと慰められます。

 「とても難しいです。この道に近道はないのです。が、あなたもせめて物的自我から撤退して静かな瞑想の時をもち、受け身の姿勢になることはできます。それがあなたの家族を見守っている霊とのより緊密な接触を得る上で役立ちます」


──問題はけっきょく良い環境を作るということでしょうか。

 「若者というのは耳を貸そうとしないものです。若いがゆえに自分たちの方が立派なことを知っていると思い込んでいるのです。それが地上での正常な成長過程の一つなのです。

あなただって若い時は親よりも立派なことを知っていると思っていたはずです。若者が既成の権威に対して懐疑を抱くということは自然な成長過程の一つであるということを認識しなければいけません。

(環境うんぬんではなくて)けっきょく親として一つの手本を示して、その理由づけができるようでなければいけません。それしか方法はありません。若者も霊的存在としての人間の生き方はこうあるべきだという、幾つかの道があることは認めなくてはいけません。しかし、若者がそのことを理解するのは容易なことではありません」


──われわれが真実に間違いないと確信していることでも、それを他人に信じさせることは難しいことです。今こそ必要とされている霊的真理を広く一般に証明してみせるために何とかして霊界から大掛かりな働きかけをしていただけないものでしょうか。それとも、今はその時期ではないということでしょうか。

 「その時期でないのではなく、そういうやり方ではいけないということです。私たちは熱狂的雰囲気の中での集団的回心の方法はとりません。そんなものは翌朝はもう蒸発して消えています。私たちは目的が違います。

私たちの目的は一人ひとりが自分で疑問を抱いて追求し、その上で、私たちの説いていることに理性を反撥させるもの、あるいは知性を侮辱するものがないことを得心してくれるようにもっていくことです。

 私たちは立証と論理によって得心させなければいけません。これはその人たちが霊的に受け入れる用意ができていなければ不可能なことです。そしてその受け入れ準備は、魂が何らかの危機、悲劇、あるいは病気等の体験によって目覚めるまでは整いません。

つまり物質の世界には解答は見出し得ないという認識を得なければなりません。人間の窮地は神の好機であるといった主旨の諺があります。

 私たちはそういう方法でしか仕事ができないのです。一点の曇りもなく霊的真理を確信できた人間は真の自我に目覚め霊的可能性を知ることになると私たちは信じるのです。生命は死後も途切れることなく続くことに得心がいきます。霊的自我に目覚めたその魂にとっては、その時から本当の自己開発が始まるのです。

そして霊的知識に照らして自分の人生を規制するようになります。自然にそうなるのです。それによって内部の神性がますます発揮され、霊的に、そして精神的に、大きさと優雅さが増してまいります。

 あなたのように霊的な知識を手にした人間は、自分のもとを訪れる人にそれを提供する義務があります。ですが、受け入れる用意のできていない人をいくら説得せんとしても、それは石垣に頭を叩きつけるようなもので、何の効果もありません。手を差しのべる用意だけはいつも整えておくべきです。

もしお役に立てば、そうさせていただいたことに感謝の意を表しなさい。もしもお役に立てなかったら、その人のために涙を流してあげなさい。その人はせっかくのチャンスを目の前にしながら、それを手にすることができなかったのですから。

 それ以外に方法はありません。容易な手段で得られたものは容易に棄て去られるものです。霊的熟達の道は長く、遅々として、しかも困難なものです。霊の褒賞は奮闘努力と犠牲によってのみ獲得されるのです。

 霊的卓越に近道はありません。即席の方法というものはありません。奮闘努力の生活の中で魂が必死の思いで獲得しなければなりません。聖者が何年もの修行の末に手にしたものを、利己主義者が一夜のうちに手にすることが出来るとしたら、神の摂理はまやかしであったことになります。それはまさしく神の公正を愚弄するものです。

一人ひとりの魂が自分の努力によって成長と発達と進化を成就しなくてはならないのです。そうした努力の末に確信を得た魂は、もはや霊的真理をおろそかにすることは絶対にありません。

 落胆する必要など、どこにもありません。私たちは前進しつづけております。勝利をおさめつつあります。けっして敗けているのではありません。混乱しているのは(真理の出現に)狼狽している勢力です。霊的真理は途切れることなく前進をつづけております。

 あなたにこの知識をもたらしたのは、ほかならぬ〝悲しみ〟です。あなたは絶望の淵まで蹴落とされたからこそ受容性を身につけることができたのです。が、今はもうその淵へ舞い戻ることはないでしょう。

 それです。それと同じことを他の人々にも体験させてあげるのです。永い惰眠から目を覚まし、受容性を身につけ、神の意図された生き方を始める者が増えるにつれて、徐々にではあっても確実に霊的真理が広がっていっていることを私たちは心からうれしく思っております。

 あなた方が大事に思っておられることが私たちにはどうでもよいことに思えることがあります。反対にあなた方がどうでもよいと思っておられることが私たちからみると大事なことである場合があります。その違いは視野の置きどころの違いから生じます。分数の計算でいえば、人生七十年も、永遠の時で割れば大した数字にはなりますまい。


 ダマスカスへ向かうサウロ(のちのパウロ)を回心させたのが目も眩まんばかりの天の光であったように(使徒行伝9)たった一つの出来ごとが魂の目を開かせる触媒となることがあるものです。それはその時の事情次第です。こうだという厳格で固定した規準をあげるわけにはまいりません。

地上への誕生のそもそもの目的は魂が目を覚ますことにあります。もしも魂が目覚めないままに終われば、その一生は無駄に終わったことになります。地上生活が提供してくれる教育の機会が生かされなかったことになります」



──地上で目覚めなかった魂はそちらでどうなるでしょうか。

 「これがとても厄介なのです。それはちょうど社会生活について何の予備知識もないまま大人の世界に放り込まれた人と同じです。最初は何の自覚もないままでスタートします。地上と霊界のどちらの世界にも適応できません。地上において霊界生活に備えた教訓を何一つ学ばずに終わったのです。何の準備もできていないのです。身支度が整っていないのです」


──そういう人たちをどうされるのですか。

 「自覚のない魂はこちらでは手の施しようがありませんから、もう一度地上へ誕生せざるを得ない場合があります。霊的自覚が芽生えるまでに地上の年数にして何百年、何千年とかかることもあります」


──親しい知人が援助してくれるのでしょう?

 「出来るだけのことはします。しかし、自覚が芽生えるまでは暗闇の中にいます。自覚のないところに光明は射し込めないのです。それが私たちが直面する根本的な問題です」


──彼ら自身が悪いのでしょうか。

 「〝悪い〟という用語は適切でありません。私なりにお答えしてみましょう。魂を目覚めさせるためのチャンスは地上の人間の一人ひとりに必ず訪れています。神は完全です。誰一人忘れ去られることも無視されることも見落とされることもありません。誰一人として自然法則の行使範囲からはみ出ることはありません。

その法則の働きによって、一つ一つの魂に、目覚めのためのチャンスが用意されるのです。

 目覚めるまでに至らなかったとすれば、それは本人が悪いというべきではなく、せっかくのチャンスが活用されなかったと言わねばなりません。私がたびたび申し上げているのをご存知と思いますが、もしも誰かがあなたのもとを訪ねてきて、たとえば病気を治してあげることが出来なかったとか、あるいは他のことで何の力にもなってあげられなかったときは、その人のことを気の毒に思ってあげることです。

せっかくのチャンスを生かせなかったということになるからです。あなたが悪いのではありません。あなたは最善を尽くしてあげるしかありません。もしも相手が素直に受け入れてくれなければ、心の中でその方のために祈っておあげなさい。

 何とか力になってあげようと努力しても何の反応もないときは、その方にはあなたのもとを去っていただくしかありません。いつまでもその方と首をつながれた思いをなさってはいけません。それぞれの魂に、地上生活中に真理を学び自我を見出すためのチャンスが用意されております。それを本人が拒絶したからといって、それをあなたが悪いかに思うことはありません。

あなたの責任はあなたの能力の範囲でベストを尽くすことです。やってあげられるだけのことはやったと確信したら、あとのことは忘れて、次の人のことに専念なさることです。これは非情というのとは違います。霊力は、それを受け入れる用意のない人に浪費すべきものではないのです」


 その日の交霊会には両親がニュージーランドでスピリチュアリズムの普及活動をしている若い女性が出席していた。その女性にシルバーバーチが〝ようこそ〟と挨拶をしてからこう述べた。

 「新参の方にいつも申し上げていることですが、私の教えを (新聞・雑誌で) 世間へ公表してくださる際に、私のことをあたかも全知全能であるかに紹介してくださっているために、私もそれに恥じないように努力しなければなりません。しかし実際は私は永遠の真理のいくばくかを学んだだけでして、それを、受け入れる用意のできた地上の人たちにお分けしようとしているところです。

 そこが大切な点です。受け入れる用意ができていないとだめなのです。真理は心を固く閉ざした人の中には入れません。受け入れる能力のあるところにのみ居場所を見出すのです。真理は宇宙の大霊と同じく無限です。あなたが受け取る分量はあなたの理解力の一つにかかっています。

理解力が増せばさらに多くの真理を受け取ることができます。しかも、この宇宙についてすべてを知り尽くしたという段階には、いつまでたっても到達できません。

 前口上が長くなりましたが、私はあなたのようにお若い方にはいつも、その若さでこうした霊的真理を授かることができたことは、この上なく幸運なことであることを申し上げるのです。これから開けゆく人生でそれが何よりの力となってくれるからです。

それにひきかえ、今の時代においてすら若い時から間違ったことを教え込まれ、精神構造が宗教の名のもとに滑稽ともいうべき思想でぎゅうぎゅう詰めにされている若者が少なくないのは、何という悲しいことでしょう。何の価値もないばかりか、霊的進化を促進するどころかむしろ障害となっているのです。

 神の教えではなく、人間が勝手にこしらえた教説が無抵抗の未熟な精神に植えつけられます。それが成人後オウムのごとく繰り返されていくうちに潜在意識の組織の一部となってしまうケースが余りにも多いのです。それが本当は測り知れない恩恵をもたらすはずの霊的真理を受け入れ難くしております。

 地上生活にとって呪ともいうべきものの一つは、無意味な神学的教説が着々と広まったことだったと断言して、けっして間違っていないと私は考えます。それが統一ではなく分裂の原因となり、お互いの霊的本性の共通性の認識のもとに一体ならしめる基盤とならずに、流血と暴力と抗争と戦争そして分裂へと導いていきました。

 それゆえにこそ私は、あなたがこうして霊的真理を手にされたことは実に恵まれていらっしゃると申し上げるのです。あなたは人生の目的を理解し、無限の愛と叡智から生み出された雄大な構想の中に自分も入っているのだという認識をもって、人生の大冒険に立ち向かうことができます。それは何ものにも替えがたい貴重な財産です。霊的兵器を備えられたのです。  

 あなたは人生での闘いに臆することなく立ち向かい、いかなる事態に置かれても、自分には困難を克服し障害を乗り越え、霊的品格と美質と強靭さを身につけていく力が秘められているとの自信をもつことができます。それであなたも宇宙の大霊に貢献していることになります。

 大霊は無限の多様性をもった統一体です。人間一人ひとり異なっていながら根源においては同じです。同じ大霊によって生命を賦与されているからです。が、顕現の仕方は多岐にわたり、まったく同じ個性は二つと存在しません。しかも、いずれも神の遺産として、発達させれば自分より恵まれない者を救うことのできる能力が賦与されているのです。

 あなたも例外ではありません。その能力を発達させるのがあなたの義務なのです。必ずしも霊的能力にかぎりません。他にもすべての人間が所有し世の中を豊かにする手だてとすることのできる才能がたくさんあります。地上の人間のすべてがそれぞれに授かっている才能や技能を発揮するようになれば、どんなにか世の中が明るくなることでしょう」


 別の日の交霊会で若者の別の側面が話題となった時にこう語った。

 「若者は一筋縄ではいきません。あえて言わせていただきますが、ここにおいでの皆さんの誰一人として、若い時に大人を手こずらせなかった方はいません。大人になるにつれて若者特有の反抗的性格が薄らいでいきますが、若い時は大人が世の中をめちゃくちゃにしている──オレたちが建て直すのだ、という気概に燃えたに相違ないのです。

 が、成長して理解力が芽生えてくると、知らず知らずのうちに恩恵を受けていることが沢山あることに気づいて、それに感謝しなければならないと思いはじめます。こうしたことも両極の原理、バランスの原理の一つなのです。つまり若輩と年輩とがそれぞれの役割をもち、男性と女性の関係と同じように、お互いに補足し合うようになっているのです。

人生のしくみは完全なバランスの上に成り立っております。それぞれの存在が正しく機能を発揮すれば全体が調和するようになっているのです。ですから、年輪を重ねた大人は大らかな心、ゆとりのある態度で、これから数々のことを学んでいく若者を見守ってやることが大切であることになります」

 その日のゲストとして出席していた心霊治療家の意見に対して──

 「発酵素が働いているのです。発酵したエネルギーを若者はどちらへ向けるべきかが分かりません。在来の教えが何の効力も発揮しなかったことに不満を抱き、何かを求めようと必死になります。そして霊的なもの、神秘的なもの、目に見えないもの、無形のものに惹かれます。

無意識のうちに惹かれていることもあります。霊的なものだけが与えてくれる充実感を魂そのものが求めるのです。しかし若いがゆえに、それをわけも分からず性急に求めます。安易な手段で安直な満足を求めてしまいます」


──それでヘロインとかLSDに走るわけですね。

 「大人は大らかでないといけません。若者の心を理解し、力になってやらないといけません。もしもあなたが若者の心に霊力を注ぎ、魂に炎を点火してやることができたら、それだけでこの上なく大きな貢献をしたことになります。その若者の地上での生活全体が根本から違った意義をもつことになるのです」


──LSDを使用している若者は邪霊に取り憑かれているようです。

 「困ったことに、その種の麻薬は地上と接した幽界の最下層の波長に合った心霊中枢を開かせるのです。それに感応してやってくる霊はその若者と同程度のもの、往々にして地上で麻薬中毒あるいはアルコール中毒だった者で、その状態から一歩も脱出できずに、相変わらずその種の満足を求めているのです。地縛状態から解放されていないのです。

 霊的治癒能力は触媒です。身体と霊と幽体との関係が混乱して生じている複雑な状態を解きほぐします。霊と精神と身体の三者が調和すれば健康に向かいはじめます」

 別の日にも次のようなことを述べた。
 「若者は明日の指導者となるべき人たちです。思考の仕方を正しく指導し、生活全体を正しい視野におさめるようにもっていけば、平和をさらに確固たるものにする上で若者なりの大切な役割を果たすことができます」

Tuesday, December 23, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

 The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

六章 常夏の楽園


1 霊界の高等学院 

一九一三年十二月九日  火曜日

 私の望み通り今宵も要請に応じてくれた。ささやかではあるが、これより貴殿を始めとして他の多くの者にとって有益と思えるものを述べる私の努力を、貴殿は十分に受け止め得るものと信ずる。たとえ貴殿は知らなくても、貴殿にそれを可能ならしめる霊力が吾々にあり、それを利用して思念を貴殿の前に順序よく披瀝して行く。

いたずらに自分の無力を意識して挫けることになってはならない。貴殿にとってこれ以上は無理と思える段階に至れば、私の方からそれを指摘しよう。そして吾々も暫時(ざんじ)ノートを閉じて他の仕事に関わるとしよう。

 では今夜も貴殿の精神をお借りして引き続き第十界の生活について今少し述べようと思う。ただ、いつものように吾々の界より下層の世界の事情によってある程度叙述の方法に束縛が加えられ、さらには折角の映像も所詮は地上の言語と比喩の範囲に狭(せば)められてしまうことを銘記されたい。

それは己むを得ないことなのである。それは恰も一リットルの器に一〇リットルの水は入らず、鉛の小箱に光を閉じ込めることが出来ぬのと同じ道理なのである。

 前回のべた大聖堂は礼拝のためのみではない。学習のためにも使用されることがある。ここはこの界の高等学院であり、下級クラスを全て終了した者のみが最後の仕上げの学習を行う。他にもこの界域の各所にさまざまな種類の学校や研究所があり、それぞれに独自の知識を教え、数こそ少ないがその幾つかを総合的に教える学校もある。

 この都市にはそれが三つある。そこへは〝地方校〟とでも呼ぶべき学校での教育を終えた者が入学し、各学校で学んだ知識の相対的価値を学び、それを総合的に理解していく。

この組織は全世界を通じて一貫しており、界を上がる毎に高等となって行く。つまり低級界より上級界へ向けて段階的に進級していく組織になっており、一つ進級することはそれだけ霊力が増し、且つその恩恵に浴することが出来るようになったことを意味する。

 教育を担当する者はその大部分が一つ上の界の霊格を具えた者で、目標を達成すれば本来の界へ戻り、教えを受けた者がそのあとを継ぐ。その間も何度となく本来の上級界へ戻っては霊力を補給する。

かくて彼らは霊格の低い者には耐え難い栄光に耐えるだけの霊力を備えるのである。

 それとは別に、旧交を温めるために高級界の霊が低級界へ訪れることもよくあることである。その際、低級界の環境条件に合わせて程度を下げなければならないが、それを不快に思う者はまずいない。そうしなければ折角の勇気づけの愛の言葉も伝えられないからである。

 そうした界より地上界へ降りて人間と交信する際にも、同じく人間界の条件に合わさねばならない。大なり小なりそうしなければならない。天界における上層界と下層界との関係にも同じ原理が支配しているのである。

 が同じ地上の人間でも、貴殿の如く交信の容易な者もあれば困難なるものもあり、それが霊性の発達程度に左右されているのであるが、その点も霊界においても同じことが言える。

例えば第三界の住民の中には自分の界の上に第四界、第五界、あるいはもっと上の界が存在することを自覚している者もおれば、自覚しない者もいる。それは霊覚の発達程度による。自覚しない者に上級界の者がその姿を見せ言葉を聞かせんとすれば、出来るだけ完璧にその界の環境に合わさねばならない。現に彼らはよくそれを行っている。


 もとより、以上は概略を述べたに過ぎない。がこれで、一見したところ複雑に思えるものも実際には秩序ある配慮が為されていることが判るであろう。

地上の聖者と他界した高級霊との交わりを支配する原理は霊界においても同じであり、さらに上級界へ行っても同じである。

故に第十界の吾々と、更に上層界の神霊との交わりの様子を想像したければ、その原理に基いて推理すればよいのであり、地上に置いて肉体をまとっている貴殿にもそれなりの正しい認識が得られるであろう。


──判りました。前回の話に出た第十界の都市と田園風景をもう少し説明していただけませんか。

 よかろう。だがその前に〝第十界〟という呼び方について一言述べておこう。吾々がそのように呼ぶのは便宜上のことであって、実際にはいずれの界も他の界と重なり合っている。

ただ第十界には自ずからその界だけの色濃い要素があり、それをもって〝第十界〟と呼んでいるまでで、他の界と判然と区切られているのではない。天界の全界層が一体となって融合しているのである。それ故にこそ上の界へ行きたいと切に望めば、いかなる霊にも叶えられるのである。

 同時に、例えば第七界まで進化した者は、それまで辿って来た六つの界層へは自由に行き来する要領を心得ている。かくて上層界から引きも切らず高級霊が降りてくる一方で、その界の者もまた下層界へいつでも降りて行くことが出来るのであり、その度に目標とする界層の条件に合わせることになる。

又その界におりながら自己の霊力を下層界へ向けて送り届けることも出来る。

これは吾々も間断なく行っていることであって、すでに連絡の取れた地上の人間へ向けて支配力と援助とを放射している。貴殿を援助するのに必ずしも第十界を離れるわけではない。もっとも、必要とあらば離れることもある。


──今はどこにいらっしゃいますか。第十界ですか、それともこの地上ですか。

 今は貴殿のすぐ近くから呼びかけている。私にとってはレンガやモルタルは意に介さないのであるが、貴殿の肉体的条件と、貴殿の方から私の方へ歩み寄る能力が欠けているために、どうしても私の方から近づくほかはないのである。

そこでこうして貴殿のすぐ側まで近づき、声の届く距離に立つことになる。こうでもしなければ私の思念を望みどおりには綴ってもらえないであろう。

 では、私の界の風景についての問いに答えるとしよう。最初に述べた事情を念頭に置いて聞いてもらいたい。では述べるとしよう。

 都市は山の麓に広がっている。城壁と湖の間には多くの豪邸が立ち並び、その敷地は左右に広がり、殆どが湖のすぐ近くまで広がっている。その湖を舟で一直線に進み対岸へ上がると、そこには樹木が生い繁り、その多くはこの界にしか見られないものである。

その森にも幾筋かの小道があり、すぐ目の前の山道を辿って奥へ入っていくと空地に出る。

 その空地に彫像が立っている。女性の像で天井を見上げて立っている。両手を両脇へ下げ、飾りのない長いロープを着流している。この像は古くからそこに建てられ、幾世期にも亘って上方を見上げてきた。

 が、どうやら貴殿は力を使い果たしたようだ。この話題は一応これにて打ち切り、機会があればまた改めて述べるとしよう。

 その像の如く常に上方へ目を向けるがよい。その目に光の洗礼が施され、その界の栄光の幾つかを垣間みることができるであろう。 ♰