The Spirits' Book
スピリチュアリズムの真髄「思想編」
近藤千雄(訳)
1章 自然法則
このページの目次〈自然法則の特性〉 〈自然法則の理解〉〈自然法則の特性〉――自然法則とは何でしょうか。「神の摂理です。人間の幸せを保証する絶対的な摂理です。それが人間の為すべき事と為すべきでない事を示しており、それに逆らう者は苦しむのみです」――神の摂理は永遠ですか。「神ご自身と同じく永遠にして不変です」――神の摂理は人間の倫理・道徳面だけに係わるものでしょうか。「自然界の法則も全て神の摂理です。神が全存在の創造主だからです。科学の探求者は自然界の理法を研究し、善性の探求者はそれを魂の中に求め、そして実践します」――人間はその全摂理に通暁できるのでしょうか。「できます。ただし、たった一度や二度の地上生活では無理です」――摂理は宇宙の全天体にわたって同一なのでしょうか。「理性的に考えれば、当然、各天体の特殊性とそこに住む存在の発達程度に応じたものであるに決まっています」〈自然法則の理解〉――物的身体に宿る前の霊は、宿った後よりも神の摂理を明確に理解しているのでしょうか。「到達した霊性の発達レベルに応じた理解をしており、身体に宿った後も直覚的な回想力を保持していますが、低劣な人間的本能がそれを忘れさせます」――その摂理の理解は霊のどこに刻み込まれているのでしょうか。「良心(善悪の分別力)です」――良心に刻み込まれたものを、なぜ改めて啓発する必要があるのでしょうか。「低劣な本能のせいで忘却したり誤解したりしているからです。人間がそれを思い出してくれるようにというのが神の御意志です」――神はそうした摂理を外部から啓示する使者を派遣しておられるのでしょうか。「もちろんです。あらゆる時代にその使命を授かった者がいます。霊性の高い霊で、人類の発達を促進する目的で地上へ降誕しています」――そうした使者の中で模範とすべき最も完全に近い人物は誰でしょうか。「ナザレのイエス」訳注――カルデックの背後霊団がスピリチュアリズム、すなわち地球浄化の大事業の一翼を担っていたことは改めて指摘するまでもないであろう。巻頭の《カルデックへの霊団からのメッセージ》に「イエスの偉大なる愛の原理のもとに集える我々は」云々……とあるのを見ても明らかである。スピリチュアリズム運動の最高責任者がほかならぬあのナザレのイエスであることはシルバーバーチもインペレーターも明言している。そのイエスは一体どういう風貌をしていたのだろうか。数多いインディアンの指導霊の一人であるホワイト・ホークが叙述しているところを紹介しておくと「体格はすらりとして品があり、髪はコーン色(浅黄)、顔は色白で卵形、わずかに頬が張り、髪よりも黒みがかったクリ色のアゴひげをたくわえていた。腕はほっそりとしていたが強靭で、容貌は優しさの中に憂いをたたえ、いつも紫色のマントをまとっていた。」〈善と悪〉――道徳的摂理とはどう定義づけたらよいでしょうか。「道徳的摂理とは正しい行為を判断するための規準です。言い変えれば、実践において善と悪とを分別するための規準です。神の摂理の遵守が基本です。行為の動機と規準が善を志向するものであれば、その行為は正しいと言えます。神の摂理を遵守したことになるからです」――善と悪との分別は何を規準にしたらよいのでしょうか。「善とは神の摂理に適ったものであり、悪とは神の摂理から逸脱したものです。正しい行為とは神の摂理に適ったことをすることであり、過った行為とは神の摂理を侵害することです」――人間には自ら善悪を弁(わきま)える能力がそなわっているのでしょうか。「その両者を弁別するための直観的判断力(良心)が授けられています」――自分では正しいと思っても間違っていることがあります。「イエスが言っております――“自分がしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい”と。道徳的摂理の要諦はこの言葉に尽くされております。これを行動の規準にすることです。決して間違えることはありません」――それは言わば相互依存の関係であり、自分自身に対する個人的な行為には当てはまらないと思うのです。自分自身への行為の善悪にも判断の規準があるのでしょうか。「食べ過ぎると胃腸の調子がおかしくなります。神はその不快感をもって各自の限度の規準としています。その限界を超えると神が罰するということです。同じことが他の全てのことについて言えます。何事にも摂理によって必要限度というものが設定されており、それを超えると自動的に苦しみが生じて罰せられます。“それで十分”という神の声に人間が耳を傾けるようになれば、天災と思い込んでいる地上の災害の大半が未然に防げるはずです」――善と悪は全ての人間にとって絶対的なものでしょうか。「神の摂理は全ての人間に分け隔てなく働きます。が、罪悪はその実行に当たっての魂の欲望の中に潜んでいます。善はあくまでも善であり、悪はあくまでも悪であり、地位や職権には関係ありません。異なるのは責任の度合いです」訳注――シルバーバーチは「罪は動機によって決まる」と一貫して述べている。ここでは「その実行に当たっての欲望」という難しい表現をしているが、煎じつめれば“動機”という用語に含まれているのではなかろうか。誉れ高き地位や名声を手にすると、善悪の判断に際してそれを失うまいとする欲望が先走り、良心との葛藤が渦巻く。しかし、シルバーバーチ曰く――「良心が命じることは、たとえその方向へ進むと物的には不遇になることが分かっていても、迷わず従いなさい。最後はきっと良いようになります。難しく考えることはないのです。これほど簡単な話はありません。」とは言え、肉体をまとって地上の人間になってしまうと、それがそう簡単に行かない。“低劣な人間的本能”が邪魔をするのであるが、逆に考えると、だからこそ地上の物的生活の意義もあるのではなかろうか。――すでに罪悪のタネが蒔かれていて、たまたま置かれた地位や立場上その責任を負わざるを得ないことがあります。この場合、最大の咎めを受けるのは誰でしょうか。「最初にタネを蒔いた者です。罪悪そのものに対して責任を取らされるだけでなく、図らずもそのトラブルに巻き込まれた者がこうむった苦しみに対しても責任を問われます」――反対に、自分は直接手を染めなかったけれどもその罪悪によって利益を得た者は、直接参加した場合と同じ罪に問われるのでしょうか。「その通りです。罪による利益を手にした者は、罪を犯したのと同じです。仮に気が咎めて直接犯罪行為に加わらなかったとしても、実際に犯罪が実行され、その結果として得られた分け前を懐にすれば、直接参加したのと同じです」――心に罪悪の思念を宿すということは、それを実行した場合と同じ罪に値するのでしょうか。「それはそのケースによりけりです。犯意を抱きながらも、やはりいけないと必死に抑制した場合、これは立派です。しかし、同じく実行しなかった場合でも、実行するチャンスが無かったというのでは、これは罪を犯したのと同じです」――置かれた立場上、善行のチャンスがないという人はいないでしょうか。「善行のチャンスがない人間は一人もいません。もしいるとすれば、それは利己主義者のみです。人間関係が全く無いというのならともかく、毎日のように他人と接するチャンスがある生活環境においては、よほどの利己主義者を除いて、何らかの善行のチャンスはあります。善行というのは人に物を上げることを言っているのではありません。どんな形でもよろしい、他人の役に立つことをすることです」――試練として悪徳の巷に生をうけた場合、悪への誘惑が抗し切れないものとはならないでしょうか。「強烈ではあっても抗し切れないことはありません。悪徳の環境の中で徳性の高い行いを実践してみせる人はいます。そういう人は霊格の高い霊の生まれ変わりで、その程度の誘惑に負けないだけの霊力を身につけていますから、試練に打ち克つと同時に、周囲の人々に気高い影響力を行使する使命も果たします」――徳行の価値の高さは、それを実行する環境の厳しさによって計られるものなのでしょうか。「有徳の行為の価値は、実行の困難さによって決まります。克己も奮闘努力もなしに簡単に成就できるものは何の価値もありません。神は金持ちによる山ほどの供物よりも貧者による一切れのパンの方を嘉納されます。それをイエスは“寡婦の賽銭”の寓話で語っております」(新約聖書マルコ伝12)2章 祈りの法則このページの目次 〈讃仰(さんごう)の祈り〉
――讃仰の祈りとはどのような祈りでしょうか。
「思念の波動を神に近づけるための祈りです。その祈りを通して神に近づくのです」
――それは内部の感性の発露でしょうか、それとも祈りの言葉による産物でしょうか。
「宇宙の大霊の存在への信仰と同じく、内部の感性の発露です」
――やはり自然法則の範疇に入るのでしょうか。
「自然法則の一つです。なぜなら、人間の内部の感性の発露だからです。だからこそ、形式は異なっても、世界中の民族に見られるのです」
――表現形式は不可欠のものでしょうか。
「真実の祈りは心の中での働きです。いかなる形式を用いるにせよ、神の目が常に注がれていることを忘れないことです」
――と言うことは形式も無用ではないということでしょうか。
「見せかけのものでなければ無用ではありません。わざとらしい仰々しい態度や見せかけだけの敬虔な振る舞いを伴った祈りでは、人々を欺くと同時に、想像以上の弊害をもたらします」
――祈りは一人よりも集団で行う方が好ましいのでしょうか。
「思念と感情において親和性のある人々が集まれば善霊を呼び寄せる強力な波動が出せることはご存じと思いますが、それと同じで、祈りの波動も強力となります。だからといって一人での祈りは感心しないという意味に受け取ってはいけません。各自の思念の中において神を崇めることができるのですから」
――生涯を俗世から離れ、悪とも無縁で、ひたすら神を求めて瞑想三昧で過ごす生き方は、神の目から見て賞讃に値するものがあるのでしょうか。
「ありません。そういう人生では他人へ悪事を働くこともないでしょうが、善行もしません。しかも他人への善行がないということそれ自体が悪です。神は子等が神の存在を忘れないように配剤しておられますが(良心の声など)、同時に同胞に対しても果たすべき義務も与えておられます。精神統一と瞑想の行に費やす人生は、神の目から見て賞讃には値しません。そういう人生はその人だけのものであり、人類にとって何の益にもならないからです。いずれ神から、無為に終わらせた人生の穴埋めをするようにとのお達しがあるでしょう」
〈祈願〉
――一般的な意味での祈願とは何でしょうか。
「祈願も讃仰の祈りの一つです。神に祈るということは神の存在を意識することであり、神に近づくことであり、内的自我が神とコミュニケーションを持つことです。祈るということには三つの要素があることを認識してください。すなわち神を讃(たた)えること、神に何かを求めること、そして神に感謝すること、この三つです」
――よくお祈りをする人の中に、時として無愛想だったり、嫉妬深かったり、慈しみや忍耐心に欠ける人、極端な場合は悪徳の固まりのような人すら見かけますが、どう理解したらよろしいでしょうか。
「大切なのはたくさん祈るのではなく正しく祈ることです。今おっしゃったような人は祈りとは長々と言葉を述べることと思い込み、それを自分の欠点とは無関係と思っているのでしょう。彼にとっては言わば日課にすぎず、自己反省の要素は皆無です。効き目がないのは薬ではなく、その使い方を間違っているからです」
――自分の過ちを許してくださいと祈ることには何か意義があるのでしょうか。
「神の目には善か悪かは一目瞭然です。祈ったからといって神の目をごまかせるものではありません。過ちの許しを求める方法は、行いを改めるしかありません。善行が最高の祈りです。行為は言葉に優ります」
――他人のために祈ることに効用があるでしょうか。
「他人のためを思って祈る人の霊力が、力になってあげたいという欲求を通して影響を及ぼします。祈る人の波動によって善霊が引き寄せられ、その善行に加勢します」
――死者の霊および霊界で苦しんでいる霊のために祈ることは意義があるでしょうか。もしあるとすれば、その祈りがどういう形で苦痛を和らげ、あるいは苦しむ期間を短くしてあげることになるのでしょうか。祈りには摂理さえ変える力があるのでしょうか。
「神の摂理そのものは祈りによって何の影響も受けません。しかし、人間から送られてくる祈りの念によって霊の心が慰められます。孤独な霊にとっては自分に関心を向けてくれる人がいることの証であり、その思いが何よりの慰めとなるのです。が、それだけで終わっては何にもなりません。そこから高級霊の出番となります。慰めを得た霊に罪を悔い改め善性を志向する心が芽生えます。その一瞬を狙って高級霊が善性志向を増幅させ、結果的には苦悶の期間を短縮することになります」
〈生(い)け贄(にえ)〉
――祈りにつきものとして太古から生け贄を捧げる儀式がありますが、人類はなぜこんな残酷なことで神を喜ばせようとしたのでしょうか。
「まず第一は、神の概念が幼稚だったこと。第二に、ただの品物よりも生きたものの方が価値があると考え、始めのうちは動物を、やがて人間を捧げるようになりました。あなた方が贈り物をする時、高価なものほど受け取る人は喜ぶと考えるのと基本的にはいっしょです」
――すると、“人身御供(ひとみごくう)”というのは必ずしも残酷なこととは思われていなかったのでしょうか。
「その通りです。その方が神の怒りを鎮める効果が大きいと考えたのです。もちろん誤った神の概念から生まれたことですが……」
――動物の生け贄よりも果物のお供えの方が本当は神の目から見て喜ばしいわけですね?
「血なまぐさい生け贄よりも大地が生み出した果実の方がいいに決まっています。何度も言うように神が嘉納されるのは心です。形ある供物はどうでもよろしい。心の底から発せられた祈りの方が、山と積まれた供物よりも、遥かに神に通じます。くり返します――何事も心が大切です。形式はどうでもよろしい」
3章 仕事の法則
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〈仕事の必要性〉
――仕事の必要性も自然法則でしょうか。
「自然法則の一つです。そのことは、仕事は自然の成り行きでどうしてもせざるを得ないこと、そして文明が進むほど必需品と娯楽が増え、それだけ仕事の量も増えるという事実からも立証されます」
――“仕事”という用語は物的性格の労働と理解してよろしいでしょうか。
「それは違います。霊も仕事をしています。役に立つことは、いかなる性格のものでも仕事と言えます」
――なぜ人類に仕事が課せられているのでしょうか。
「物的生活の必然の結果です。罪滅ぼしの要素もありますが、同時に知性を発達させるための手段でもあります。もしも働くということが無かったら、人類は幼稚な知性のままでしょう。そこで食べるものを獲得し、安全を保ち、健康を維持するために働き活動をするようになっているのです。力の要る労働のできない虚弱な人には、それを補うだけの知性が授けられています。知性の活動も仕事です」
――地球よりも高度に発達した天体でも同様の仕事の必要性があるのでしょうか。
「仕事がどういう性格のものであるかは、その天体の必要性と関連してきます。物質性が少なければ仕事も物質性が少なくなります。だからといって活動がなくなり、何もしなくなるわけではありません。することが無いということは有り難いどころか、苦痛です」
――働こうにも働けない人がいるのではないでしょうか。そういう人の人生はまったく無駄なのでしょうか。
「神は常に公正です。神が罰するのは意図的に無為の人生を送る者だけです。それは他人の世話になるだけの一生に終わるからです。各自がその才能に応じて意義ある存在となるように神は配剤しておられます」
〈仕事の限度と休息〉
――仕事の後には休息が必要であるからには休息も自然の法則の一つではないでしょうか。
「もちろんそうです。休息によって体力が回復し、同時に身体が休むということは精神が自由になることであり、物的束縛から一時的に解放されます」
――仕事の限度は何が目安でしょうか。
「体力の限界です。ですが、神はその点については人間に自由を与えています」
――雇い人のような弱者に権力者が過激な労働を科するのは罪でしょうか。
「重大な罪の一つです。権力を振り回す者は、理不尽な程度に及ぶ時は、それに対する責任を取らされます。神の摂理を侵犯しているからです」
――仕事をしなければ生きて行けないのに、老齢で働けない場合はどうすればよいのでしょうか。
「元気な者が弱った人のために働くべきです。家族の援助が得られない場合は社会が面倒を見るべきです。それが慈悲の法則です」
4章 生殖の法則
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〈地球の人口問題〉
――生きものの生殖作用は自然の法則でしょうか。
「まさしく自然法則です。生殖作用が途絶えれば物質界の生物は絶滅します」
――これまでのような割合で地球の人口が増え続ければ多くなり過ぎるのではないでしょうか。
「そういう心配はいりません。神の配剤によって常に均衡が保たれるようになっています。神は何事につけても無駄は許しません。人間の視野には宇宙の全パノラマのほんの一部しか入りません。それゆえ全体にハーモニーが行き届いていることは知覚できません」
――現時点でも地上の幾つかの民族が明らかに減少しつつあります。それは最終的には地上から消滅してしまうのでしょうか。
「その通りです。ですが、代わって別の民族が生まれます。あなた方の民族もいずれは新しい民族と入れ替わるのです」
――現在の地上人類はまったく新しく創造されたものでしょうか、それとも原始的人類の進化した子孫でしょうか。
「霊系は同じです。それが新しい身体に宿り何度も再生し進化して行きつつあるところです。ですが、まだまだ完成からは程遠い段階にあります。いずれにしても現在の人類は人口の増加によって地球全土に広がり、消滅しかかっている民族と取って代わって行きますが、やがてそれも減少傾向に入り、消滅してしまいます。そして別の、もっと完成度の高い民族によって取って代わられますが、それも現人類の子孫です。ちょうど現在の文明人も粗野な原始人の子孫であるのと同じです」
〈繁殖の人工的抑制の是非〉
――人間は法律や慣習によって繁殖を防ぐ方法を講じていますが、これは自然法則に反することでしょうか。
「自然界の営みを妨げることは全て摂理に違反します」
――しかし動物や植物には繁殖しすぎると他の種属に害を及ぼし、巡りめぐって人類の破滅にもなりかねないものがあります。それを人間が抑制するのは間違いでしょうか。
「神は、地球上の生物全体の管理人的立場にある人間に、良きに計らうべき力を与えています。が、乱用は許されません。繁殖作用を必要性に応じて抑制するのは結構ですが、必要以上に阻止すべきではありません。人間の知的活動は大自然のエネルギーの均衡を保持するために神が用意した錘(おもり)のようなものです。そこにも人間が動物と大きく異なる点があります。つまり大自然全体の均衡のために人間は、自らを行使して、洞察力を働かせて協力しますが、動物は本性的に与えられている破壊の本能によって無意識のうちに協力しているのです。動物は自己の種の保存のためにのみ生きていながら、あまり繁殖しすぎると危険でさえある動物や植物を餌として食し、結果的に調和の維持に貢献しています」
〈結婚と禁欲〉
――結婚、つまり一対の男女が一個の単位となって生涯を送ることは自然法則に反したことでしょうか。
「人類が成就した進歩の一つです」
――もし一夫一婦制の結婚形態が廃止されたら人間社会はどうなるでしょうか。
「野獣の生活に戻ります」
――離婚の絶対禁止は自然法則に適っているでしょうか、それとも人間のこしらえた法律にすぎないのでしょうか。
「人間がこしらえた法律であり、自然法則に完全に違反します。しかし、人間は法律を少しずつ書き変えています。神の摂理のみが不変絶対です」
――禁欲生活は神の目から見て立派なことでしょうか。
「立派なこととは言えません。利己的な動機から独身生活を送ることは、神はお喜びになりません。社会の一員としての義務を果たしていないからです」
――同じく禁欲生活でも人類の福祉のために一切をなげうつという犠牲的精神から発している場合はいかがでしょうか。
「それはまったく話が別です。私がいけないと言っているのは“利己的な動機”に発している場合です。犠牲的精神から発しているものは、その目的が人のために役立つものであれば称讃に値します。犠牲が大きいほど功績も大きくなります」
訳注――ここでいう“利己的な動機”というのは性欲を諸悪の根源とするキリスト教の教えにこだわって、己の潔癖のみを守る生き方を言っているものと察せられる。
これは真理探究者がうっかりはまる落とし穴で、表面上の意識、つまり頭の中で考えていることの奥に、自分にも気がつかない、自己中心的な思惑が潜んでいることがある。“汝自らを知る”ということは実に難しいことである。
5章 自己保存の法則
このページの目次
〈自己保存の本能〉
――自己保存の本能も自然法則の一つでしょうか。
「もちろんそうです。知的発達の水準に関係なく、全ての生き物に賦与されています。ある生物では純粋に機械的にすぎないものもありますが、理性と直結したものもあります」
――神が全ての生き物に自己保存の本能を授けた目的は何でしょうか。
「神の計画の成就にとって不可欠だからです。生きる意欲を与えているのもそのためです。その上、生きているということが進化にとっての不可欠の条件です。そのことを理解はしていなくても本能的に知っているということです」
――人間にも生きる意欲を授けている以上、神は生きるための手段も授けてくださっているのでしょうか。
「その通りです。その手段を人間が見出せないとすれば、それは周りに存在する始源の利用法を知らないからにすぎません。神が、生命への愛を植えつけておいて、その生命を維持する手段は与えないということは有り得ません。だからこそ生物の全てに生殖本能を授けて生命維持のための必要物が十分に得られるようにしてあるのです。ただし必要分だけです。有り余りすぎるものは益になりません」
――しかし、必ずしも人類の全てが必要物を十分に得ているとは言えません。なぜでしょうか。
「それは素晴らしい母なる大地を粗末にして感謝の念を忘れているからです。さらに、人間は自分の技術の未熟さや先見の明の無さを棚に上げて自然界の不毛のせいにしています。人間が“足れるを知る”生き方に徹すれば、生きるために必要なものは大地が必ず与えてくれます。必要なものが十分に手に入らないのは、必要の限度を超えたものを要求しているからです。
砂漠のアラブ人をご覧なさい。あの不毛の土地においてさえ生きるに必要なものはちゃんと手に入っています。余計な人工的文化生活を取り入れないからです。文明国の人間は他愛もない欲望を満たすために地球の産物の半分を無駄にしながら、少しの天候不順で欲しいものが手に入らなくなると困った困ったと不満をかこちます。なぜそういう時のために、節約して備えないのでしょうか。くり返します――自然が供給しないのではありません。人間がその恵みの使用を賢明に規制しないからです」
訳注――本書の原典の出版が一九世紀末であるという事実を思い合わせると、現代はこの通信霊が警告する人工的文化はとっくに限度を超えていると言えるであろう。
――この豊かな物質文明の中にありながら、生計を立てる手段が得られない人がいますが、どこに間違いがあるのでしょうか。
「利己主義がそういう結果を生んでいることがあります。が、最も多いのは、本人の意欲が不足している場合です。イエスは“求めよ、さらば見出さん”と言いましたが、これは地面に目を注いで欲しいものを探し歩きなさいと言っているのではありません。必要なものを真剣に、そして忍耐強く求め、障害に遭遇しても落胆しないことです。そうした障害は往々にして志操の堅固さ、忍耐力、そして決意のほどを試す手段として霊団側が用意することがあります」
――しかし、意志は強固でも、置かれた環境の中ではどうしても生計手段が得られない人もいるのではないでしょうか。
「そういうケースはあります。しかしそうした環境は再生に先立ってあらかじめ自分で選んで覚悟を決めていた試練です。いくら知恵をしぼっても苦境から脱し切れない時は、神の意思に全てをゆだねる覚悟にこそ、その人間の究極の偉さが生きてきます。このまま進むと死に至ると覚悟した時は、慌てず騒がず、いよいよ肉体の束縛から解放される時が来たことを喜び、自暴自棄に陥ることは折角の悟りを台なしにしてしまうことになることを知るべきです」
――極端な飢えの状態で生き残った者たちが仲間を食い合う話があります。これは罪でしょうか。仮に罪だとしても、自己保存の法則の極端な例として罪の重さが割り引かれるのではないでしょうか。
「人生の全ての試練に対しては勇気と克己心で対処すべきであると述べましたが、ご質問に対する答えもその中に含まれていると思います。今おっしゃった例には殺人の罪と自然に対する罪が含まれています。二重の罪には二重の罰が適用されます」
――人間の肉体よりも純度の高い身体で生活している天体上でも食糧は必要なのでしょうか。
「必要です。ですが、その身体の性質に応じたものです。その天体上の食物ではあなた方の身体は養えません。また、あなた方の食物は彼らの身体では消化できません」
〈大地の恵みの享受〉
――人間には大地の恵みを楽しむ権利があるのでしょうか。
「それは権利というよりも、生きる上での必要性が生み出す結果です。神は、義務を与えておいてその義務を果たす上で必要な手段は与えないというような理不尽なことはなさいません」
――その物的な恵みになぜ神は“魅力”を添えたのでしょうか。
「一つには、その義務の遂行に拍車がかかるように、もう一つは、その魅惑によって試すためです」
――何の目的で試すのでしょうか。
「度を超さないように自制する理性的判断力を発達させるためです」
――物的満足にも適度の限界というものが自然にそなわっているのでしょうか。
「必要性と幸せとが一致する限界が設けられています。その限界を超えると飽き飽きしてきます。その限界を超えた分だけ罰をこうむることになります」
――その限界はどのようにして知るのでしょうか。
「賢者は直観で知ります。体験で知る人もいます。つまり痛い目に遭って」
〈修行としての窮乏生活〉
――物的生活をエンジョイすることはいけないことでしょうか。
「物的な幸せを求めるのは人間として極めて自然なことです。神が禁じているのは過度の享楽です。自己保存の目的にとって有害だからです。楽しさを求めるのは、それが他人の犠牲を強いるものでなく、かつ又、当人の精神的ならびに身体的エネルギーを衰えさせるものでないかぎり、罪ではありません」
――自発的な罪障消滅を目的とした窮乏生活は神の目から見ていかがでしょうか。
「人のために役立つことをする――この心掛けでの平凡な日常生活の方が、自ら求めて窮乏生活をするよりも立派です」
――清貧の生活に甘んじること自体は良いことではないでしょうか。
「無用の贅を無くすることは良いことです。それだけ物質への執着を少なくし、魂の意識を高めます。節度を超えた贅への誘惑と無益な道楽を慎むということは立派なことです。自分の必要分を削って足らない人に分けてあげるということが基本的理念です。しかし、そうした修行の裏側に見栄が潜んでいたら、それは単なる心のオシャレであり偽善です」
――古来どの民族にも禁欲的修行者がいますが、どう見るべきでしょうか。
「そういう生活が誰にとって有益なのかを問うてみれば、自ずと答えが出るはずです。もしも自分にとっての修行であり人のために役立つ要素が無いとすれば、いかに弁明しようとそれは一種の利己主義です。本当の苦行とは人のために役立つことをするために自ら節約し克苦することです」
――動物性食品を摂取するのは自然法則に反しますか。
「地上の人間の体質からすれば、体力を維持するためには動物性食品は摂取する必要があります。それを欠くと体力が衰えます。自己保存の法則は健康と体力を維持する義務を要求します。そうしないと仕事の法則が成就できないからです。身体器官の必要性に応じた食品を摂取すべきです」
――人間は地上生活での苦難を通じて向上しているのであれば、自らに苦行を課することによって向上することも有り得るのではないでしょうか。
「人間の霊性を高める苦難は自然の成り行きで遭遇するものに限られます。神が用意したものだからです。人間が自らの考えで自らに課したものは、結果的に人のために役立つことに寄与しないかぎり無意味です。
考えてもご覧なさい。超人的な苦行をするヨガの行者やイスラム教の托鉢僧、ヒンズー教の苦行者、さらにはどこかの宗教の狂信者たちは、それによって一体どれだけ霊性が向上したというのでしょう? そんなことをしている暇があったら、なぜ地上の貧しい同胞のために慈悲を施さないのでしょうか。着るものにも事欠く人に衣類を与え、喪の悲しみの中にある人に慰めの言葉を与え、食べるものにも事欠く人のために自分のものを分けてあげ、そのために自分は断食もあえてする――そういう生活こそ有意義であり、神の意思に適っております。自分のためだけに修行をする者は一種の利己主義者です。他人のために自分が苦しんでこそ慈悲の法則を実践したことになります。それがイエスの教えです」