Saturday, May 16, 2026

シルバーバーチの霊訓(六)

 Silver Birch Speaks AgainEdited 

by S. Phillips


  
四章 ジョン少年との対話

人間の目と霊の目

 十一歳のジョン君にとってこれが最初の交霊会だった。幼い時に妹を失い、こんどは父親を不慮の事故で失って母親と二人きりとなったが、母親がシルバーバーチを通じて聞いた二人からのメッセージをいつもジョン君に語っていたので、十一歳の少年ながら、すでに死後の世界の存在を自然に信じるようになっていた。

 まずシルバーバーチの方からお父さんと妹がここに来てますよと言い、二人ともジョン君と同じようにわくわくしていると言うと、

ジョン「ぼくは妹のことをよく知らないんです」

「でも妹の方はジョン君のことをよく知っておりますよ」

ジョン「ぼくがまだちっちゃかった時に見たきりだと思います」
℘69
 「いいえ、そのちっちゃい時から今のように大きくなるまで、ずっと見てきております。ジョン君には見えなくても、妹の方からはジョン君がよく見えるんです。同じように二つの目をしていても、ジョン君とはまったく違う目をしています。壁やドアを突き通してみることができるんですから」

ジョン「そうらしいですね。ぼく知っています」

 「ジョン君のような目をもっていなくても、よく見えるんです。霊の目で見るのです。霊の目で見ると、はるか遠い遠い先まで見えます」



  霊に年齢はない
ジョン「いま妹はいくつになったのですか」

 「それはとても難しい質問ですね。なぜ難しいかを説明しましょう。私たち霊の成長のしかたはジョン君たちとは違うのです。
℘70
誕生日というものが無いのです。歳が一つ増えた、二歳になった、というような言い方はしないのです。そういう成長のしかたをするのではなく、霊的に成長をするのです。言いかえれば、完全(パーフィクト)へ向けて成長するのです」


ジョン「パーフェクトというのは何ですか」

 「パーフェクトというのは魂の中のすべてものが発揮されて、欠点も弱点もない、一点非のうちどころのない状態です。それがパーフェクトです」

ジョン「言いかえればピースですか」

(訳者注───Peace(ピース)には戦争に対する平和という一般的な意味以外に、日本語でうまく表現できない精神的な意味が幾つかある。ここでは悟り、正覚(しょうがく)、といった意味であるが、少年がそのような難解な意味で使うのはおかしいし、さりとて平和の意味でもないので、原語のままにしておいた。たぶん何の悩みも心配もないことを言っているのであろう)

 「そうです。パーフェクトになればピースが得られます。しかし実を言うと〝これがパーフェクトです〟と言えるものは存在しないのです。どこまで到達しても、それは永遠に続く過程の一つの段階にすぎないのです。いつまでも続くのです。終りというものが無いのです」
℘71


  死は悲しいことではない
ジョン「でも、パーフェクトに手が届いたらそれで終りとなるはずです」

 「パーフェクトには手が届かないのです。いつまでも続くのです。これはジョン君には想像できないでしょうね? でも、ほんとにそうなのです。霊的なことには始まりも終りもないのです。ずっと存在してきて、休みなく向上していくのです。

ジョン君の妹も大きくなっていますが、地上のように身体が大きくなったのではなくて、精神と霊が大きくなったのです。成熟したのです。内部にあったものが開発されたのです。発達したのです。でも身体のことではありません。いくつになったかは地上の年齢の数え方でしか言えません。

 そんなことよりもジョン君に知ってほしいことは、もう分かってきたでしょうけれど、妹とお父さんはいつも側にいてくれてるということです。これはまだまだ知らない人が多い大切な秘密です。
℘72
いつもいっしょにいてくれているのです。ジョン君を愛し力になってあげたいと思っているからです。このことを人に話しても信じてくれませんよね? みんな目に見えないものは存在しないと思っているからです。

このことを理解しないために地上では多くの悲しみが生じております。理解すれば〝死〟を悲しまなくなります。死ぬことは悲劇ではないからです。あとに残された家族にとっては悲劇となることがありますが、死んだ本人にとっては少しも悲しいことではありません。新しい世界への誕生なのです。

まったく新しい生活の場へ向上して行くことなのです。ジョン君もそのことをよく理解して下さいね。妹のことは小さい時に見たことがあるからよく知ってるでしょう?」


ジョン「今この目で見てみたいです」

 「目を閉じれば見えることがあると思いますよ」

ジョン「この部屋にいる人が見えるようにですか
℘73    
「まったく同じではありません。さっきも言ったように〝霊の目〟で見るのです。霊の世界のものは肉眼では見えません。同じように霊の世界の音は肉体の耳では聞こえません。今お父さんがとてもうれしいとおっしゃってますよ。もちろんお父さんはジョン君のことを何でも知っています。いつも面倒をみていて、ジョン君が正しい道からそれないように導いてくれているのですから」



  考えることにも色彩がある
ジョン「僕に代わって礼を言って下さいね」

 「今の言葉はちゃんとお父さんに聞こえてますよ。ジョン君にはまだちょっと理解は無理かな? でも、ジョン君がしゃべること、考えてることも、みなお父さんには分るのです。フラッシュとなってお父さんのところに届くのです」

ジョン「どんなフラッシュですか」
℘74
 「ジョン君が何か考えるたびに小さな光が出るのです」

ジョン「どんな光ですか。地上の光と同じですか。ぼくたちの目には見えないのでしょうけど、マッチをすった時に出るフラッシュのようなものですか」

 「いえ、いえ、そんなんじゃなくて、小さな色のついた明かりです。ローソクの明かりに似ています。でも、いろんな色があるのです。考えの中身によってみな色が違うのです。地上の人間の思念はそのように色彩となって私たちのところに届くのです。

私たちには人間が色彩のかたまりとして映ります。いろんな色彩をもった一つのかたまりです。訓練のできた人なら、その色彩の一つ一つの意味を読み取ることができます。ということは、隠しごとはできないということです。その色彩が人間の考えていること、欲しがっているもの、そのほか何もかも教えてくれます」



℘75   スピリチュアリズムはなぜ大切か
ジョン「スピリチュアリズムについて知るとどういう得をするのでしょうか」

 「知識はすべて大切です。何かを知れば、知らないでいる時よりその分だけ得をします。知らないでいることは暗やみの中を歩くことです。ジョン君はどっちの道を歩きたいですか」

ジョン「光の中です」

 「でしたら少しでも多くを知らなくてはいけません。知識は大切な財産です。なぜならば、知識から生きるための知恵が生まれるからです。判断力が生まれるからです。知識が少ないということは持ち物が少ないということです。分かりますね?

ジョン君はいま地球という世界に住んでいます。自分では地球という世界は広いと思っていても、宇宙全体から見ればほんのひとかけらほどの小さな世界です。その地球上に生まれたということは、その地球上の知識をできるだけ多く知りなさいということです。それは次の世界での生活に備えるためです。

 さてスピリチュアリズムのことですが、人生の目的は何かを知ることはとても大切なことなのです。なぜなら、人生の目的を知らないということは何のために生きているかを知らずに生きていることになるからです。
℘76
そうでしょ?ジョン君のお母さんは前よりずっと幸せです。なぜなら、亡くなったお父さんや妹のことについて正しい知識を得たからです。そう思いませんか?」

ジョン「そう思います。前よりも助けられることが多いです」

「ほらジョン君の質問に対する答えがそこにあるでしょ? さて次の質問は?」



  原子爆弾は善か悪か (本書の出版は一九五二年───訳者)
ジョン「地上の人間が発明するものについて霊の世界の人たちはどう思っていますか。たとえば原爆のことなんかについて」

 「これは大きな質問をされましたね。地上の人たちがどう考えているかは知りませんが、私が考えていることを正直に申しましょう。

℘77   
 地上の科学者たちは戦争のために実験と研究にはっぱをかけられ、その結果として原子エネルギーという秘密を発見しました。そしてそれを爆弾に使用しました。

しかし本当はその秘密は人間が精神的、霊的にもっと成長してそれを正しく扱えるようになってから発見すべきだったのです。もうあと百年か二百年のちに発見しておれば地上人類も進歩していて、その危険な秘密の扱い方に手落ちがなかったでしょう。

今の人類はまだまだうっかりの危険性があります。原子エネルギーは益にも害にもなるものを秘めているからです。ですから、今の質問に対する答えは、地上人類が精神的、霊的にどこまで成長するかにかかっています。分かりますか?」


ジョン「最後におっしゃったことがよく分かりません」

 「では説明のしかたを変えましょう。原子エネルギーの発見は時期が早すぎたということです。人類全体としてまだ自分たちが発見したものについて正しく理解する用意ができていなかったために、それが破壊の目的のために使用されてしまったのです。もしも十分な理解ができていたら、有効な目的のために利用されたことでしょう。

℘78
 そこで最初の質問に戻りますが、もしも地上の科学者のすべてが正しい知識、霊的なことについての正しい知識をもっていれば、そうした問題について悩むこともなかったでしょう。出てくる答えは決まっているからです。霊的な理解力ができていれば、その発見のもつ価値を認識し、その応用は人類の福祉のためという答えしか出てこないからです」


ジョン「それが本当にどんなものであるかが分かったら正しい道に使うはずです」

 「その通りです。自分の発明したものの取り扱いに悩むということは、まだ霊的理解力が出来ていないということです」



  幽霊と霊との違い
ジョン「幽霊と霊とはどう違うのですか」

「これはとてもいい質問ですよ。幽霊も霊の一種です。が、霊が幽霊になってくれては困るのです。
℘79
地上の人たちが幽霊と呼んでいるのは、地上生活がとてもみじめだったためにいつまでも地上の雰囲気から抜け出られないでいる霊が姿を見せた場合か、それとも、よほどのことがあって強い憎しみや恨みを抱いたその念がずっと残っていて、それが何かの拍子にその霊の姿となって見える場合の、いずれかです。

幽霊さわぎの原因は大てい最初に述べた霊、つまり地上世界から抜け出られない霊のしわざである場合が多いようです。死んで地上を去っているのに、地上で送った生活、自分の欲望しか考えなかった生活がその霊を地上に縛りつけるのです」


ジョン「もう質問はありません」

 「以上の私の解答にジョン君は何点をつけてくれますか」


ジョン「ぼく自身その答えが解らなかったんですから・・・」

 「私の答えが正しいか間違っているかがジョン君には分からない───よろしい! 分からなくても少しもかまいません。
℘80
大切なのは次のことです。ジョン君は地上の身近な人たちによる愛情で包まれているだけではなく、私たち霊の世界の者からの大きな愛情によっても包まれているということです。目には見えなくても、ちゃんと存在しています。

触わってみることができなくても、ちゃんと存在しています。何か困ったことがあったら、静かにして私かお父さんか妹か、誰でもいいですから心に念じて下さい。きっとその念が通じて援助にまいります]


 別の日の交霊会で同じ原爆の問題が取り上げられ次のような質問が出された。

───国家が、そして人類全体が原爆の恐怖に対処するにはどうすればよいでしょうか。

 「問題のそもそもの根元は人間生活が霊的生活によって支配されずに、明日への不安と貪欲、妬みと利己主義と権勢欲によって支配されていることにあります。残念ながらお互いに扶け合い協調と平和の中に暮したいという願望は見られず、我が国家を他国より優位に立たせ、他の階層の者を犠牲にしてでも我が階層を豊かにしようとする願望が支配しております。

すべての制度が相も変わらず唯物主義の哲学を土台としております。唯物主義という言葉は今日ではかなり影をひそめてきているかも知れませんが、実質的には同じです。
℘81
誰が何と言おうとこの世はやはりカネと地位と人種が物を言うのだと考えています。そしてそれを土台としてすべての制度をこしらえようとします。永遠の実在が無視されております。人生のすべてを目で見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わえる範囲の、つまりたった五つの感覚で得られるほんの僅かな体験でもって判断しようとしています。

 しかし生命は物質を超えたものであり、人間は土くれやチリだけで出来ているのではありません。化学、医学、原子、こうしたもので理解しようとしても無駄です。生命の謎は科学の実験室の中で解かれる性質のものではありません。魂をメスで切りさいたり化学的手段で分析したりすることはできません。

いかなる物的手段によって解明しようとしても、生命を捉(と)らえることはできません。なのに物質界の大半の人間は(生命を物質と思い込んで)霊的実在から完全に切り離された生活を営んでおります。最も大切な事実、全生命の存在を可能ならしめているところの根元を無視してかかります。

 地上の全生命は〝霊〟であるがゆえに存在しているのです。あなたという存在は霊に依存しているのです。実在は物質の中にあるのではありません。その物的身体の中には発見できません。存在のタネは身体器官の中を探しても見つかりません。あなた方は今の時点において立派に霊的存在なのです。
℘82   
死んでこちらへ来てから霊的なものを身につけるのではありません。母胎に宿った瞬間からすでに霊的存在であり、どうもがいてみても、あなたを生かしめている霊的実在から離れることはできません。地上の全生命は霊のおかげで存在しているのです。霊なしには生命は存在しません。なぜなら生命とはすなわち霊であり、霊とはすなわち生命だからです。

 死人が生き返ってもなお信じようとしない人は別として、その真理を人類に説き、聞く耳をもつ者に受け入れられるように何らかの証拠を提供することが私どもの使命の大切な一環なのです。

人間が本来は霊的実在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。今日は原爆が不安のタネですが、明日はそれよりさらに恐ろしい途方もないものとなるでしょう (水爆、さらにはレーザー兵器のことを言っているのであろう───訳者)。

が、地上の永い歴史を見れば、力による圧政はいずれ挫折することは明らかです。独裁的政治は幾度か生まれ、猛威をふるい、そして消滅していきました。独裁者が永遠に王座に君臨することは有り得ないのです。

霊は絶対であり天与のものである以上、はじめは抑圧されても、いつかはその生特権を主張するようになります。魂の自由性 freedom (※)を永遠に束縛することはできないのです。魂の自在性 liberty (※)を永遠に拘束し続けることもできません。
℘83      
自由性と自在性はともに魂がけっして失ってはならない大切な条件です。人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在以上のものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。人間的知性ではその果てを測り知ることのできない巨大な宇宙の中での千変万化の生命現象の根元的要素である霊とまったく同じ不可欠の一部なのです。

(※ freedom と liberty は英語においても共通性の多い単語で、日本語訳でもその違いが曖昧であるが、私はここでは freedom とは外部からの束縛がないという意味での自由性、liberty とは内部での囚れがないと意味での自在性と解釈してそう訳した───訳者)

 以上のような真理が正しく理解されれば、すべての恐怖と不安は消滅するはずです。来る日も来る日も煩悶と恐れを抱き明日はどうなるのだろうと不安に思いながら歩むことがなくなるでしょう。霊的な生得権を主張するようになります。なぜなら霊は自由の陽光の中で生きるべく意図されているからです。内部の霊的属性を存分に発揮すべきです。

永遠なる存在である霊が拘束され閉じ込められ制約され続けることは有り得ないのです。いつかは束縛を突き破り、暗闇の中で生きることを余儀なくさせている障害のすべてを排除していきます。正しい知識が王座に君臨し無知が逃走してしまえば、もはや恐怖心に駆られることもなくなるでしょう。ですからご質問に対する答えは、とにもかくにも霊的知識を広めることです。
℘84   
すべての者が霊的知識を手にすれば、きっとその中から、その知識がもたらす責務を買って出る者が出てくることでしょう。不安のタネの尽きない世界に平和を招来するためには霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて他に手段はありえません」

      

  真理普及は厳粛な仕事
 「ストレスと難問の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は真理の使節としての自覚を持たねばなりません。残念ながら、豊かな知識を手にし悲しみの中で大いなる慰めを得た人が、その本当の意義を取り損ねていることがあります。霊媒能力は神聖なるものです。

いい加減な気持で携わってはならない仕事なのです。ところが不幸にして大半といってよい霊媒が自分の能力を神聖なるものと自覚せず、苦しむ者、弱き者、困窮せる者のために営利を度外視して我が身を犠牲にするというところまで行きません。

 また、真理の啓示を受けた者───永いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って目も眩まんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行し滅私の観念が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。まだまだ精進が足りません。
℘85
まだまだ霊的再生が必要です。真理普及の仕事を託された者に私が申し上げたいのは、現在の我が身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけていないか。今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか。

時の流れとともに煤けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか。そう反省してみることです。霊力の地上への一層の顕現の道具として、己の全生活を捧げたいという熱誠にもう一度燃えて頂きたいのです」

Friday, May 15, 2026

シルバーバーチの霊訓(六)

 Silver Birch Speaks Again

Edited by S. Phillips


三章 自分の責任・他人の責任

 熱心なスピリチュアリストである実業家がある交霊会で質問した。

───背後霊や友人(の霊)に援助を要求するのはどの程度まで許されるのでしょうか。

 「生身(なまみ)の人間である霊媒との接触によって仕事をしている私どもは、地上生活における必要性、習慣、欲求といったものを熟知していなければなりません。物的必要性について無頓着ではいられません。現実に地上で生きている人間を扱っているからです。

結局のところ霊も肉体も神の僕です。霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙という機構の中での役割を果たすための一定の義務というものがあります。

肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。それを得るためには地上世界の通貨(コイン※)であるお金が必要です。そのことはよく承知しております。しかし次のことも承知しております。(シルバーバーチは口グセのように〝奉仕は霊のコインである〟と言っている。それになぞらえている───訳者)

 霊も肉体も神の僕と申し上げましたが、両者について言えば霊が主人であり肉体はその主人に仕える僕です。それを逆に考えることは大きな間違いです。あなた方は本質的には霊なのです。それが人間が潜在的に神性を宿していると言われるゆえんです。つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。
p55           
宇宙という大生命体を機能させている偉大な創造原理があなた方一人ひとりにも宿っているのです。意識をもった存在としての生をうけたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。

全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫から必要なものを引き出すことができるのです。

 そのためには平静さが必要です。いかなる事態にあっても心を常に平静に保てるようになれば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することが出来ます。

 それに加えて、背後霊の愛と導きがあります。困難が生じた時は平静な受身の心になるよう努力なさることです。そうすればあなた自身の貯蔵庫から───まだ十分に開発されていなくても───必要な回答が湧き出てきます。きっと得られます。

われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のあなたの発達程度いかんによっては十分なものが得られないことがあります。が、その場合もまた慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。

 求めるものが正しいか間違っているかは、単なる人間的用語の問題にすぎません。私たちからみて大切なのは〝動機〟です。
p56       
いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、私たちが第一に考慮するのはその動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、けっして無視されることはありません。

それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものがその祈りへの回答を生み出す原理を作用させております」


 ここでメンバーの一人が、学識もあり誠実そのものの人でも取越苦労をしていることを述べると───


 「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たして、しかも何の取越苦労もしないで生きていくことは可能です。

義務に無とん着であってもよろしいと言っているのではありません。かりそめにも私には、そんな教えは説きません。むしろ私は、霊的真理を知るほど人間としての責務を意識するようになることを強調しております。しかし、心配する必要などどこにもありません。霊的成長を伴わない知的発達もあり得ます」

p57      
───あからさまに言えば、取越苦労性の人は霊的に未熟ということでしょうか。

 「その通りです。真理を悟った人間はけっして取越苦労はしません。なぜなら人生には神の計画が行きわたっていることを知っているからです。まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。

無用の心配をするということそのことが霊的成長の欠如の示標といえます。たとえ僅かでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。もし確信があれば心配の念は出てこないでしょう。偉大なる魂は泰然自若(たいぜんじじゃく)の態度で人生に臨みます。

確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺することはありません。このことだけは絶対に譲歩するわけにはいきません。なぜなら、それが私たちの霊訓の土台であらねばならないからです」
   


───たとえば50人の部下がいて、その部下たちが良からぬことをしたとします。その場合は気苦労のタネになってもやむを得ないように思いますが・・・
p58     
 「責任は個々において背負うというのが摂理です。摂理のもとにおいては、あなたは他人の行為に責任を負うことはありません」


───文明社会においては責任を負わざるを得ないことがあるでしょう?。

 「文明はかならずしも摂理に適ったものではありません。摂理は完全です。機能を中止することはありません。適確さを欠くこともありません。間違いを犯すこともありません。あなたには自分のすること、自分の言うこと、自分の考えることに責任があります。

あなたの成長の指標が魂に刻まれているからです。したがって他人の魂のすることに責任を負うことはできません。それが摂理です。もしそうでなかったら公正が神の絶対性を欠くことになります」


───もし私がある人をそそのかし、その人が意志が弱くてそれを実行した場合、それでも私には責任はないでしょうか。
    
 「その場合はあります。他人をそそのかして悪いことをさせた責任があります。それはあなたの責任です。
p59      
一種の連鎖反応を起こさせたことになります。何ごとも動機が第一に考慮されます。私はけっして自分以外のことに無とん着になれと言っているのではありません。


魂がある段階の偉大さを身につければ、自分の責任を自覚するようになり、やってしまったことはやってしまったこと───自分が責を負うことしかないと深く認めるようになるものなのです。いったんその段階まで到達すれば、何ごとにつけ自分にできる範囲で最善を尽くし、これでよいという確信をもつようになります」


───自分で理解しているかぎりの摂理にしたがっておればのことですか。

 「いいえ、(摂理をどう理解しているかに関係なく)原因と結果の法則は容赦なく展開していきます。その因果関係に干渉できる人はいません。その絶対的法則と相いれないことが起きるかのように説く教説、教理、教訓は間違っております。原因と結果の間にはいかなる調停も許されません。

あなた自身の責任を他人の肩に背負わせる手段はありませんし、他人の責任があなたの肩に背負わされることもあり得ません。各自が各自の人生の重荷を背負わねばなりません。そうあってはじめて正直であり、道徳的であり、倫理的であり、公正であると言えます。

それ以外の説はすべて卑劣であり、臆病であり、非道徳的であり、不公平です。摂理は完璧なのです」

p60      
───広い意味において人間は他のすべての人に対して責任があるのではないでしょうか。世の中を住み良くしようとするのはみんなの責任だからです。

 「おっしゃる通りです。その意味においてはみんなに責任があります。同胞としてお互いがお互いの番人(創世記4・9)であると言えます。なぜなら人類全体は〝霊の糸〟によって繋がっており、それが一つに結びつけているからです。

しかし責任とは本来、自分が得た知識の指し示すところに従って人のために援助し、自分を役立て、協力し合うということです。

しかるに知識は一人ひとり異なります。したがって他人が他人の知識に基づいて行ったことに自分は責任はないことになります。しかしこの世は自分一人ではありません。お互いが持ちつ持たれつの生活を営んでおります。

すべての生命が混り合い、融合し合い、調和し合っております。そのすべてが一つの宇宙の中で生きている以上、お互いに影響を与え合っております。だからこそ知識に大きな責任が伴うのです。知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人より重い責任を取らされます。
p61       
その行為がいけないことであることを知っているということが罪を増幅するのです。霊的向上の道は容易ではありません。

知識の受容力が増したことは、それだけ大きい責任を負う能力を身に付けたことであらねばならないのです。幸と不幸、これはともに神の僕です。

一方を得ずして他方を得ることは出来ません。高く登れば登るほど、それだけ低くまで落ちることもあるということであり、低く落ちれば落ちるほど、それだけ高く登る可能性があることを意味します。それは当然のことでしょう」


 その日の交霊会には二人の息子を大戦で失った実業家夫妻が招待されていた。その二人にシルバーバーチは次のような慰めの言葉を述べた。

 「霊の力に導かれた生活を送り、今こうして磁気的な通路(霊媒)によって私どもの世界とのつながりを持ち、自分は常に愛によって包まれているのだという確信をもって人生を歩むことができる方をお招きすることは、私どもにとって大いに喜ばしいことです。

お二人は神の恵みをふんだんに受けておられます。悲しみの中から叡知を見出されました。眠りのあとに大いなる覚醒を得られました。犠牲の炎によって鍛えられ清められて、今お二人の魂が本当の自我に目覚めておられます。
p62          
 お二人は悲痛の淵まで下りられました。魂が謀反さえ起こしかねない酷しい現実の中で人間として最大の悲しみと苦しみを味わわれました。しかし、その悲痛の淵まで下りられたからこそ喜びの絶頂まで登ることもできるのです。

〝ゲッセマネの園〟と〝変容の丘〟は魂の体験という一本の棒の両端です。一方がなければ他方もあり得ません。苦痛に耐える力は深遠な霊的真理を理解する力と同じものです。

悲しみと喜び、闇と光、嵐と好天、こうしたものはすべて神の僕であり、その一つひとつが存在価値をもっているのです。魂が真の自我に目覚めるのは、存在の根源が束の間の存在である物的なものにあるのではなく永遠に不変の霊的なものにあると悟った時です。

地上的な財産にしがみつき、霊的な宝をないがしろにする者は、いずれ、この世的財産は色あせ錆つくものであることを思い知らされます。

霊的成長による喜びこそ永遠に持続するものです。今こそあなた方お二人は真の自我に目覚められ、霊界の愛する人々とのつながりがいっそう緊密になっていく道にしっかりと足を踏まえられました。

 ご子息が二人とも生気はつらつとして常にあなた方のお側にいることを私から改めて断言いたします。昼も夜も、いっときとしてお側を離れることはありません。みずから番兵のつもりでお二人を守り害が及ばないように見張っておられます。

といってお二人のこれからの人生に何の困難も生じないという意味ではありません。そういうことは有り得ないことです。
p63       
なぜなら人生とは絶え間ない闘争であり、障害の一つ一つを克服していく中に個性が伸び魂が進化するものだからです。

いかなる困難も、いかなる苦難も、いかなる難問も、あなた方を包んでいる愛の力によって駆逐できないものはありません。それはみな影であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。訪れては去っていく影にすぎません。

悲劇と悲しみをもたらしたのはすべて、あなたのもとを通り過ぎていきました。前途に横たわっているのは豊かな霊的冒険です。あなた方の魂を豊かにし、いま学びつつある永遠の実在に一段と近づけてくれるところの、驚異に満ちた精神的探検です。

 お二人がこれまで手を取り合って生きて来られたのも、一つの計画、悲しみが訪れてはじめて作動する計画を成就するためです。そうした営みの中でお二人は悲しみというものが仮面をかぶった霊的喜悦の使者であることを悟るという計画があったのです。悲しみは仮面です。本当の中身は喜びです。仮面を外せば喜びが姿を見せます。

 どうかお二人の生活を美しさと知識、魂の豊かさで満たして下さい。魂を本来の豊かさの存在する高所まで舞い上がらせて下さい。そこにおいて本来の温もりと美しさと光沢を発揮されることでしょう。魂が本来の自我を見出した時は、神の御心と一体であることをしみじみと味わい不動の確信に満たされるものです。
p64      
 私たちの述べることの中にもしもあなた方の理性に反すること、叡知と相入れないように思えることがあれば、どうか受取ることを拒否なさってください。良心の命令に背いてはいけません。自由意志を放棄なさってはいけません。私どもは何一つ押しつけるつもりはありません。強要するものは何一つありません。

私たちが求めるものは協調です。ご自分で判断されて、こうすることが正しくかつ当然であるという認識のもとに、そちらから手を差しのべて協力して下さることを望みます。

理性をお使いになったからといって少しも不快には思いません。私どもの述べたことに疑問を持たれたからといって、いささかも不愉快には思いません。その揚げ句に魂の属性である知性と理性とがどうしても納得しないということであれば、それは私たちはあなた方の指導霊としては不適格であるということです。

 私はけっして盲目の信仰、無言の服従は強要いたしません。それが神が自分に要求しておられることであることを得心するがゆえに、必要とあらば喜んで身を捧げる用意のある、そういう協力者であってくれることを望みます。

それを理想とするかぎり、私たちの仕事に挫折はありません。ともに神の使いとして手に手を取り合って進み、神の御心を日頃の生活の中で体現し、われわれの援助を必要とする人、それを受け入れる用意のある人に手を差しのべることができるのです」
p65
 そしてその日の交霊会を次の言葉でしめくくった。

 「始まりも終りもない力、無限にして永遠なる力に見守られながら本日も又、開会した時と同じ気持ちで閉会致しましょう。神の御力の尊厳へ敬意を表して、深く頭を垂れましょう。その恵みをお受けするために、いっときの間を置きましょう。その霊光を我が身に吸い込み、その光輝で我が身を満たし、その御力で我が身を包みましょう。

無限の叡知で私たちを導き、自発的な奉仕の精神の絆の中で私たちを結びつけようとなさる神の愛を自覚致しましょう。かくして私たちは意義ある生活を送り、一段と神に近づき、その無限なる愛の衣が私たちを、時々刻々、温かく包んでくださっていることを自覚なさることでしょう」

Thursday, May 14, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第5章 苦しむ者は幸いです

一、悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満たされるからです。義のために迫害されてきた者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ第5章 4、6、10)


二、貧しい者は幸いです。神の国はその人のものとなるからです。いま飢えている者は幸いです。その人たちは、やがて飽き足りるようになるからです。(ルカ 第6章 20、21)

 しかし、富んでいるあなたたちは、憐れな者です。慰めをすでに受けてしまっているからです。いま食べ飽きているあなたたちは、憐れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたたちは、憐れな者です。やがて嘆き悲しむようになるからです。(ルカ 第6章 24、25)

 
 苦しみの正当性

三、地上で苦しむ者にイエスが約束してくれる償いは、未来の生活でしか受け取ることが出来ません。未来への確信を持たねば、これらの金言は意味を持たなくなってしまうか、あるいは人をだます偽りの言葉となってしまいます。

未来への確信を持っていたとしても、苦しむことによって幸せを得るということを理解するのは大変難しいことです。苦しむことにより、より価値のある幸せを得ることができるようになるのだという人がいます。しかし、それならばなぜ、ある人は別の人より多く苦しまなければならないでしょうか。

なぜ理由を明らかにされることなく、一部の人々は貧しい生活を強いられ、他の人々は贅沢な暮しをすることが出来るのでしょうか。なぜ、すべてがうまくいかない人々がいる一方で、すべてがうまくいき、笑って過ごせる人々がいるのでしょうか。

さらに理解できないのは、なぜ幸と不幸が、美徳と悪徳の両側に不均等に散らばっているかということです。徳の高い人たちが、はびこる悪者たちの間で苦しんでいるのを見ることができるのはなぜでしょうか。未来を信じることにより、慰めを得たり、辛抱を得ることが出来ます。

しかしながら、こうした普通とは違った考え方も、その理由を教えてもらえないのであれば、それは、神の不公平さを認めているようなものです。しかし、神の存在を認めるのであれば、その永遠の完全性を考慮に入れずに考えることは不可能です。

神は万能、完全なる正義、善良であり、そうでなければ神とはなり得ません。そして、もし神が至上の善と正義を持つのであれば、気まぐれやエコひいきによって行動するわけはありません。

人生の苦しみには理由があり、神が公平である以上、その理由も正当である筈です。このことをすべての人々が納得できるように、人類がこの原因を理解できるよう、神はイエスの教えに託して人類を導いてくれました。

そして今日、人類はその教えを理解するのに十分成熟したため、神はスピリティズムを通じ、霊たちの声に託し、この原因を完全な形で示してくれたのです。


   現世に存在する苦しみの原因

四、人生の苦しみには二通りあります。言い換えるならば、二つの全く違った種類の原因があります。一種類目の原因とは現世の中にあり、もう一種類は現世以外のところに存在します。

 地球上で私たちが体験する苦しみを遡れば、その原因の多くは苦しんでいる人自身の性格、あるいはその人自身の行いの中にあることが分ります。

 しかしそれでは、どのくらいの人が自分自身に原因があるということを認めることが出来るのでしょうか。どのくらいの人が自分自身のプライド、野心、不注意の犠牲となっているのでしょうか。

どのくらいの人がその規律のなさ、根気のなさ、不適切な行動、きりのない欲求によって惨めな思いを強いられているのでしょうか。

 本心を無視し、私欲、虚栄心の計算のもとに結ばれ、不幸を迎える夫婦が何組あるでしょうか。もう少し慎重に行動し、怒りをこらえることを知っていれば、何組もの不和、口論、致命的な言い争い、離別を防ぐことが出来たのではないでしょうか。

 不節制や、すべてにおける行きすぎた行いがどれだけの身体が不自由な状態や病気をもたらしているでしょうか。幼い時からのしつけを怠った為に、子供との関係がうまくいかなくなってしまった親が何人いるでしょうか。

子どもに対する弱さと無関心が子供の中に自惚れやエゴ、虚栄心の種を植えつけ、渇いた心を作ってしまうのです。しばらくして、その植え付けた種を収穫する時、親に対し尊敬を欠いた恩知らずな子どもを見て驚き悲しむのです。

 人生の変遷による失望によって心を傷つけられた者は、自分自身の良心に問うて見て下さい。あなたの苦しみの原因を一歩一歩辿ってゆけば、殆どの場合、それがあなた自身の中に存在することを知り、「これをやっていなければ」とか「あれをやっていればこんなことにはならなかった」等と言うことが出来なくなるでしょう。

 自分自身のせいでないとすれば、一体誰のせいで苦しまねばならないというのでしょうか。人間はこのように、ほとんどの場合、自ら自分の不幸の主要原因を作っているのです。

しかしながら実際はその人自身の怠惰であるのにもかかわらず、自分の自尊心が傷つかないように、そのことを認めずに、運命や神、チャンスの不足のせいにしたり、あるいは星とは自分の不注意であるにも関わらず、星などのせいにしてしまった方がより容易なのです。

 こうした態度は、必ず人生の中に無数の苦しみを生みだすことになります。人間は、その道徳的、知性的な自己の改善によってのみ、これらの苦しみからのがれることができるでしょう。
 
    
五、人間の法律は悪に応じて罰を与えるようになっています。悪を働き処罰される者は自らの行った悪行の報いを受けることになります。しかし、法律はすべての悪や罪を扱えるわけではありません。法律は社会的な損害を与える罪を処罰するようにできており、過ちを犯す者個人に損害をもたらす罪を処罰するようにはなっていません。

しかし、神はすべての人間の進歩を見守ってくれています。ですから、正しい道から逸れると、どんな小さな過ちであっても神は罰するのです。如何に小さな過ちであっても、神の法に反していれば、多かれ少なかれ、避けることのできない悲しい結果を必ず得ることになります。

小さな罪であれ、大きな罪であれ、人間はその犯した罪に応じて罰せられます。だから罪を犯した結果として現れる苦しみは、罪を犯したのだという警告なのです。苦しみはその人に善悪の区別を体験として教え、将来の不幸の源となり得るものを改める必要性を教えてくれるのです。

そうした動機がなければ、人間は自分を改めようとはしません。罰は与えられないのだと信じていれば、その人の向上は遅れ、更に幸福な人生への到達も遅れてしまいます。

 そうした改善の必要性を認識させてくれるような経験は、時には少し遅れてくることもあります。生命がすでに消耗され、混乱に陥り、苦しみがもはやその人を向上させるために効力を持たなくなった時、人は概してこう言います。

「もし、人生のスタートからこうなることを知っていたら、どれだけの過ちを未然に防ぐことができただろう。もし、やり直すことができたら、私は全く別の生き方をしていただろうに。でも、もう時間はない!」。その人は、怠惰な労働者が、「今日は何もせずに一日が終わってしまった」と言うように、「人生を無駄にしてしまった」ということになるでしょう。

しかし、その翌日、労働者の頭上にはまた太陽が輝き、新しい日が始まり、失った時間を取り戻すことができるように、人生においても、墓の中で過ごす夜が過ぎると、新しい太陽が輝くのです。その、新しい人生の中で、過去の経験や、未来へ向けて固めた決意を生かすことが出来るのです。
    

℘101    前世に存在する苦しみの原因

六、しかし、その人自身が原因となっている苦しみが現世に存在する一方で、他にも少なくとも見かけはその人の意思とは全く関係なく、宿命のように訪れる苦しみもあります。

例えば、親愛なる人や、家庭を支える者の死のように。誰にも防ぐことのできない事故、まったく手の打ちようのない富の没落、自然の災害、生まれつきの病気、特に、その不幸な者から働いて生計を立てる手段を得る可能性をも剥奪してしまうような病気、身体の障害、知的障害。

 こうした状態で生まれる者は、現世においては、そのような悲しい運命に遭わねばならないようなことはなにもしていないし、その償いを受けることも出来ません。

またそれを避けることは出来ず、それを変えることも出来ず、社会の慈悲の恩恵を受けることになります。なぜ、同じ屋根の下の同じ家族だというのに、この哀れな者の横には、すべての知覚においてその者より優れている人々が居るのでしょうか。

 早く死んで行った子供は、結局、苦しみしか味わうことができなかったのでしょうか。こうした問題のいずれに対しても、どの哲学も未だに答えを出していません。どんな宗教も正しい明解な理由を説明することが出来ていません。

肉体と魂が同時に生まれ、地球上で少しの時間を過ごした後、取り消すことのできない決められた運命をたどるということであれば、こうした不幸や異常は神の良心、正義、意志を否定するものなのでしょうか。

神の手元から離れて行ったこのような不幸な人たちは一体なにをしたのでしょうか。現世においてこれほど惨めな思いを強いられ、良い道も悪い道も選択することが出来ないのであれば、すでに決められた償いか罰をまた将来にも受けなければならないのでしょうか。

 すべての結果には原因が存在するという公理から、これらの苦しみにもなにか原因があっての結果であると言えるはずです。正義に溢れる神の存在を信じるのであれば、この原因も正当であると考えられるに違いありません。

いつでも原因は結果の先に立つものですが、原因が現世に見当たらないのであれば、その原因は現世以前、すなわち、前世に存在すると考えねばなりません。一方で、神は善行や、行ってもいない悪行を罰する筈がありません。もし私たちが罰せられるのであれば、私たちが悪行を働いたからであるはずです。

とすれば、もし、現世で悪行を行っていないのであれば、前世においてそれを行っているということになります。現世か前世のいずれかにおいて苦しみの原因が存在するということは、免れることのできない事実なのです。このように、私たちの道理は、そうした事実の中に働く神の正義というものがいかなるものかを教えてくれるのです。
℘103 
 つまり人間は現世の間に犯した過ちだけ罰せられているわけでも、また現世のうちに完全に罰せられて終わるわけでもありません。過去における原因が生んだ結果から逃げることなく最後まで従う必要があるのです。悪人の繁栄は一時的なものでしかありません。

もしその人が今日償うことが出来なければ、明日償わねばならないのです。すなわち今日苦しむ者は、過去における過ちに対する償いを行っているのです。

一見その人にとってふさわしくない苦しみも、その存在理由があるのです。苦しむ者はいつもこのように言うべきです。「神よ、過ちを犯した私をお許しください」と。
   
     
七、前世に存在する原因から来る苦しみや、または現世に始まった原因による苦しみは、常に人生におけるその人自身の過ちから来るものです。厳しく、公平に行き亘る正義によって、人は他人を苦しめた方法と同じ方法で苦しむのです。

冷たく非人間的な人は、冷たく非人間的に扱われることになります。自尊心の高すぎる者は屈辱的な経験をさせられるでしょう。

ケチで利己的な人、物質的な富を悪用する人は、その有り難さや必要性を感じさせられることになるでしょう。悪い息子であれば、自分の子どもに苦しめられる、というようにさまざまです。

 このように、人生の多様性や、償いの世界としての地球上での運命が、地上の善人と悪人の間に不均一に分配された人間の幸、不幸の理由を説明してくれます。この不均等性は単なる見掛け上のものでしかありません。なぜなら私たちは現世においてしか各々の問題を見ることが出来ないからです。

しかし、思考によって心を持ちあげ、連続性のある人生を考えてみれば、霊の世界において決められているとおりに、各々にはその人にふさわしい人生が与えられているということを理解することができ、そこに神の正義が欠けることはないということが分ります。

 人間は低級な世界に生きているということを忘れてはなりません。人間がそこに存在するのは、人間の不完全性のためなのです。苦しみに出遭うたびに、そのような苦しみも、より高級な世界へ行くことが出来れば味わうことがないのだということを思いだし、また、地上へ再び戻ってくるかどうかということは、各々の努力とその向上にかかっているのだということを認識しなくてはなりません。


八、人生における苦労は、強情な霊や無知な霊に与えられます。それにより、そうした霊は自分が何をしているのかを自覚した上で正しい選択をすることができるようになります。

本当の苦しみを心から体験することによって欠点を改め、向上しようという意志を持った霊によって、自発的に選択され、受けとめられる苦労があるのです。課された任務をうまく成し遂げることができなかった霊は、その任務に付くことによって得ることが出来た筈のメリットを逃さないよう、改めて最初からその任務が課されることを望みます。

こうした任務としての苦しみは、過去の過ちへの償いであると同時に将来へ向けての試練なのです。だからこそ、人間に改善の可能性を与え、最初の過ちを永久に非難することなく、人間を絶対に見放すことの無い神の好意に感謝しようではありませんか。


九、しかし、人生の苦しみの全てがある特定の過ちの証であると信じてはなりません。多くの場合、苦しみとは、自分の浄化と進歩の速度を早めるために、霊自身が選らんだ道であることがあります。そのような場合、苦しみとは償いとしてだけではなく、試練としての意味を持つのです。しかし、試練は必ずしも償いであるとは限らないのです。

完全性を得ることのできた者は試される必要はないのですから、試練に立たされたり、償いの場が与えられるということは、その霊がまだ劣等であることの証明にかわりはありません。

しかし、ある段階への進歩を成し得た霊が、さらに上の段階へ進歩を望むことによって、苦しみに打ち勝った分の報酬として向上しようと、その向上に値するだけの苦境での任務を神に求めることがあります。

善行を、生まれた時からすでに身につけ、高揚した魂を持ち、高潔な感覚を持ち、過去からの悪をどこにも引きずっていないような人で、キリストのように苦しい境遇に対し忍従し、不満をこぼすこともなく、神の加護を求める人がいるならば、その人はこのような場合にあてはまるということができるでしょう。

反対に、その人にとって不満の原因となったり、その人の神への反感の原因となるような苦しみとは、過去の過ちへの償いであるということができます。

 ある苦しみがその人に不満をもたらさなかったのであれば、その苦しみは間違いなく試練であると考えられます。そうした苦しみは、霊自身が自発的に求めたものであり、過ちへの償いとして強要されたものではありません。すなわちそうした苦しみは、その霊の強い決意の証しであり、進歩のしるしなのです。


℘105
十、霊は、完成することなく完全なる幸福を求めることはできません。どんな小さな汚点があっても、その霊が不完全であれば至福の世界へ入ることはできません。ある伝染病が広まった船に閉じこめられた乗組員たちが、どの港に到着しても、伝染病に感染していないことが証明されるまでは上陸の許可が下りないのと同じことです。

霊は幾度にも亘る再生によって、不完全性から少しずつ脱却していくのです。人生における試練は、うまく乗り越えることが出来れば、霊を進化させます。償うことにより、過去の罪を清算し、霊は浄化されます。

それらは傷を癒し、病人を治すための薬であり、重症であればあるほど、薬も強いものである必要があります。つまり多く苦しむ者は多くの罪を償う必要があるのであり、早く治してくれる薬が与えられたことを喜ぶべきでしょう。

その苦しみに忍従することによってそれを有益なもとし、その苦しみがその人にもたらしてくれたものを、不満をこぼすことによって失ってしまうことがないように出来るかどうかは、その人自身にかかっているのです。

そうすることが出来ないのであれば、再び同じような苦しみを繰り返さねばならないでしょう。
   
      
℘106 過去の忘却
十一、過去の人生のことを覚えていないから、過去の経験を生かすことが出来ないと考えることはつまらぬことです。神が過去をベールで覆うことにしたのは、その方が有益と考えられたからに違いありません。過去を覚えていたとしたら、実際に多くの不都合を生じるでしょう。

過去の事実によってひどく恥ずかしめられることもあるでしょうし、また、過大な自尊心をもつようになってしまうこともあるでしょう。私たちの過去は、私たちの自由意志を束縛することになるでしょう。いずれの場合であれ、過去を覚えていたとしたら、社会関係おいて必ず大きな混乱を招くことになります。

 霊はよく過去に過ちを犯した相手に償うために、過去に生活した時と同じ環境、同じ人間関係の中に生まれ変わります。もし、こうした関係の中で、過去に憎んでいた人が再び存在しているとわかってしまったら、また憎しみが湧いてくるでしょう。もし過去に攻撃した相手を前にしたらいたたまれない気持ちになることでしょう。

 神は私たちの向上のために、私たちが必要とするものを、ちょうど足りるだけ与えてくれているのです。すなわち神は私たちに良心の声と本能的な習性を与えてくれました。私たちに不利益になるものを私たちから取り除いてくれたのです。

 人間は生まれた時から、それまでに獲得したものを持って生まれます。生まれるものは、過去に生きていた通りに生まれ変わるのです。一回一回の人生のすべてが新たな出発点です。過去がどうであったかというのは、重要なことではありません。もし罰せられているのであれば、過去に過ちを犯したからです。

その人の現在の悪い習性は、その人自身がまだどこを正さねばならないかを示しているのです。そうであるからこそ、そうした自分自身の悪い性癖を見逃さないよう、その人は注意しなければなりません。

なぜなら、すでに完全に正された悪は表に出てこないからです。良心の声が善と悪との区別を警告し、悪の誘惑に乗らないようにする力を与えてくれる時、人は善なる決断を下すことができるのです。

 過去の忘却は、地上で生活している間だけのものです。霊の世界へ戻れば、自分の過去を思いだすことになります。したがって、過去の忘却とは、一時的な記憶の中断に過ぎません。それは私たちが寝ている間、地上での生活の記憶に一時的な中断があるにもかかわらず、次の日、寝た前日やそれ以前の記憶を失っていないのと同じことです。

 過去の記憶を取り戻すのは、死後だけのことではありません。霊は過去の記憶を失うことはなく、人間は睡眠中、身体の寝ている間、霊はある種の自由を得ることが出来、また、過去の人生の記憶を持っているということを経験は証明しています。

従って霊はなぜ苦しむのかを知っており、またその苦しみが正当なものであるということも知っています。過去の記憶は、霊が地上で寝ずに活動している間だけ消えています。

その霊にとっては苦しく、社会的に生活する上で不利益ともなり得る過去の細かな記憶を消されているということが、その解放の時間をうまく利用することができる霊にとっては、新しい力を得ることが可能になるのです。


  甘受しなければいけない理由
十二、「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」という言葉で、イエスは、苦しむ者が受けるべき代償と、苦しみと言うものが病める私たちの回復の始まりであって、私たちは苦しみを有難く受け止めなければならないことを同時にのべています。

 これらの言葉は次のように言い換えることができます。苦しむことを幸せに感じなければいけません。何故なら、この世におけるあなたたちの苦しみは、あなたたちの過去の過ちに負うものであるからです。

これらの痛みは、地上で辛抱強く耐えられるのであれば、未来の何世紀にも及ぶ生活への蓄えとなるのです。したがって、神が、現生においてあなたたちに義務を果たす機会を与えてくれ、未来での平和を約束し、義務を軽減してくれているのだと言うことを感謝しなければなりません。

 苦しむ者とは、多大な借金を抱えたような者です。その者に対して、借金を取りたてる者が、「今日中に百分の一でも払ってくれるのなら、残りは全て水に流してあげましょう。もし、払わないのであれば、最後の一円まで、取りたてようと追い回すことになります」と言ったとします。

借金を負う者は、全てを掛けて百分の一だけを支払って負債から逃れた方が幸せでしょう。このように言ってくれる取立人には文句を言うどころか、感謝をするのではないでしょうか。

 これが「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」と言う言葉の意味するところです。苦しむ者はその借金を返済することが出来るのですから幸いなのです。

なぜなら、支払いを終えれば自由になるからです。しかし、その借金を払いながらも、また別の方から借金をするならば、永久に負債から逃れることはできません。新しい過ちを犯す度に負債は増えるのです。

なぜならいかなる過ちであれ、避けることのできない罰が与えられないものは何一つないからです。もし今日支払うのでなければ、明日は支払わねばなりません。現世で支払うのでなければ、来世において支払うことになるでしょう。神の意志に対する甘受の気持ちの欠如も、まず一番目にこうした過ちの内に含めなければなりません。

なぜなら、もし、私たちが苦労や苦しみに対し不満を持ち、私たちに相応しいものを受け入れず、神を不公平であると非難するのであれば、苦労が与えてくれる利益を失い、新たな債務を負うことになるからです。

それは私たちを追い立て苦しめる債権者に少しずつ支払いながら、同時に又新たな債務を負い、また、新しい支払いを始めなければならないのと同じことです。

 霊の世界へ入った人間とは、報酬を受け取りに現れた労働者のようなものです。そのうちの何人かに雇い主は言います。「あなたの働いた分の報酬です」。

しかし、地上で満たされた者、怠惰な生活をし、幸せを自分勝手な私欲や自尊心のために、また世俗的な快楽に求めてきた者に対して雇い主は言います。「なにも支払うものはありません。何故なら、あなたたちは地上ですでに報酬を受け取っているからです。行きなさい、あなたたちの仕事をやり直しなさい」。


十三、人は人生のとらえ方次第で、与えられた試練を軽く感じたり、重く感じたりします。試練の期間が長いと感じれば感じるほど、そこから来る苦しみも増します。霊の世界に視点をおいて、地上での物質的な人生というものが、永遠の生命の中のある一瞬でしかないと見ることのできる者には、その人生の短さを理解することができ、苦しみもすぐに過ぎ去ってしまうのだということが分かるでしょう。

近い将来に必ず幸せがやってくるであろうと言う確信は、苦しむ者に勇気を与え、苦しむ者の支えとなります。苦しむのではなく、彼を進歩させてくれる痛みを、天に向かって感謝することになります。


物質的な人生しか目に入らない者には、それがいつまで立っても終わらないものであるかのように思え、苦しみは重くのしかかってきます。霊の世界から人生を見れば、この世のあらゆるものの重要性は薄れてしまいます。人間的な欲望を和らげることによっておかれた立場への満足を得ることができます。

人の身分を羨むことがなくなれば、悲運や失望もあまり感じなくなるでしょう。そうした人は、心の平静と甘受の気持ちを持つことができるようになり、その気持ちは身体の健康にとっても、また、魂にとっても大変良い影響を及ぼします。

一方羨みや野心は、短い人生の惨めさや苦しみを増大させ、そのものを苦境に導きます。


  自殺と狂気
十四、地上での人生に対する視点を変えることによって得られる心の平静、甘受の気持ち、将来への信念は、霊に心の落ち着きを与えるのですが、そうした心の落ち着きとは、自殺や狂気への最良の予防薬となります。

狂気のほとんどは、人間が耐えることのできない苦しみが原因となっています。スピリティズムが教えているように、高い視点からこの世を見ることができるようになると、普通であれば、大きな落胆の原因となるような悲運や失敗を前にしても、それらを冷静に、時には喜びさえ感じて受け止めることができるようになります。

同時に、こうした苦しみを乗り越えさせてくれる力が、人間を精神的な動揺から守ってくれるのです。

℘110
十五、自殺に関しても同じことが言えます。無意識の自殺と考えられる、泥酔や狂気によって起きる自殺を除けば、各々の直接の動機が何であれ、殆どの自殺の原因は人生に対する不満であるということができます。苦しみがたった一日だけのものであり、次の日には必ず幸せが来るのだと確信できる人は、容易に耐えることが出来ます。

そうした人は、この世の苦しみに終わりがないと思わない限り、絶望することはありません。永遠の生命の中で、人間の一生とはどのようなものなのでしょうか。

それは、ほんの一日よりもさらに短いものなのです。それにもかかわらず、自分の生命とともにこの世の中の全てのことが終わると考えて、いやなことや失敗を悲観し、永遠の生命を信じない者は、死ぬことのみによって苦しみから救われると考えるのです。

そして、この世におけるどんな解決も期待できないまま、苦しみを自殺によって短縮することが自然で論理的であると考えるのです。


十六、神を信じなかったり、将来への単純な疑問や唯物主義的な考えを持つことは、人を自殺に導く大きな動機となり得ます。なぜなら、そうした考えは、道徳の弱体化をもたらすからです。

自分の知識の権威に支えられたある有能な人が、人間の死後にはなにも存在しないということを、彼の聴衆や読者たちに対して納得させようとしているとしたら、それは、「不幸であるのなら自殺してしまいなさい」と言っているのと同じことではないでしょうか。

この有能な人は、彼の聴衆や読者たちが自殺しないために何と言ってあげることが出来るでしょうか。自殺しないことによって、何を得ることができると教えてあげることが出来るでしょうか。どんな希望を与えることが出来るのでしょうか。

「無」以外何もありません。不幸な者に与えられる英雄的な唯一の救いであり希望が「無」なのであれば、苦しみが増す前に、すぐにでも「無」の中に身を投じた方が利口であると、必然的に結論が出てしまいます。


℘111
したがって、唯物主義的な考えは、自殺の肯定を多くの人に伝えることになる毒なのです。そして唯物主義者たちは重大な責任を負うことになるのです。スピリティズムの考えでは、生命に謎を抱くことができなくなるために、人生の様相は変わります。

スピリティズムを信じる者は、生命は死を超え、まったく新しい形で、無限に続くということを知っています。このように理解することが、私たちに忍耐と甘受の気持ちを与えてくれ、私たちを自然に自殺から遠ざけてくれます。また、そこから私たちの中に道徳的な勇気が生まれるのです。


十七、スピリティズムは、自殺の問題に関して、もう一つの有益で、より決定的な結論をもたらします。スピリティズムは、自殺した人の死後の不幸な状態を見せることで、誰も罰せられることなく神の法則を破ることはできないのだということを証明してくれます。

神は、人間が自分に与えられた人生を短縮することを禁じています。自殺した者の味わう苦しみは永遠ではなく、一時的なものですが、だからと言って、それが恐ろしいものではないということではありません。

神の命令が下る前にこの世を去ろうとする者がその実態を知ることが出来れば、誰もがもう一度考え直したくなるような恐ろしいものなのです。スピリティズムを信じる者は、この様に自殺に反対する多くの理由を持っています。地球上に生きる間に甘受し、耐え忍んだ苦しみが大きければ大きいほど、幸せにすることのできる未来の生命への確信。

人生を短縮することが、期待する結果とは全く反対の結果を生むという確信。苦しみから逃れても、更に恐ろしく、長引くことになる苦境へ追いやられるだけであるという確信。

自分を死に追いやれば、より早く天国へ行けると考えることが誤っているという確信。自殺は霊の世界で愛する者と再会する上で障害となるという確信。これらすべてのことが、自殺は失望しかもたらさず、自分たちの関心とは相反しているものであると結論付けてくれるのです。

スピリティズムが改心させる自殺願望者の数は非常に大きなものです。もし、すべての人がスピリティズムの考えを信じるようになれば、意識的な自殺者はいなくなるでしょう。

自殺に関して、唯物主義とスピリティズムの教義のそれぞれがもたらす結果を比べるならば、一方の理論は自殺を促し、一方の理論は自殺を防ぐのだということが判り、そのことは経験からも証明されています。





   霊たちからの指導
℘112
  善い苦しみ、悪い苦しみ
十八、キリストは「苦しむ者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と言いましたが、それは苦しむ者すべてについて触れたものではありません。なぜなら、地球上に生きる者は、ワラの上に寝ようと、王位につこうと、その度合いは違っていても、みな苦しむからです。

しかし苦しむべきことに、善い苦しみを知る者はあまりにも少なすぎます。試練をよく耐え抜いて初めて天の御国に導かれるのだということを、ほんの一握りの人たちしか理解していません。苦しみの前に落胆してしまうことは誤りであり、神は勇気に欠けるものを慰めてはくれません。

祈りは魂を支えてくれますが、それだけでは十分ではありません。厚い信仰の基礎には神の優しさによせる固い信頼がなければなりません。神は弱い肩の上に重荷を置くことはない、ということを何度も聞かされたことがあるでしょう。重荷は常にそれに耐える力に応じて置かれるのです。

それは甘受と勇気に応じて報いが得られるのと同じです。苦しみが多ければ多いほど、得ることのできる報いも大きくなります。しかし、その報いを受けるには、私たち自身がそれに値しなければなりません。だからこそ、人生には試練が溢れているのです。

戦線に送りこまれない兵士は、基地に待機し、休憩をしていては昇進できないという不満を持ちます。そのような兵士たちのようになりなさい。身体を衰弱させ、魂を麻痺させてしまうだけの休息を望んではなりません。神があなたを戦いへ送りこんだのであれば、満足しなければなりません。

なぜなら、その戦いとは、戦場での戦いではなく、人生の苦しさとの戦いのことだからです。そこでは、流血の戦いよりも勇気が必要となる場合があります。

なぜなら、そこでは、戦場でしっかりと敵の前に立てる者でさえ、道徳的な痛みに苦しめられると、屈してしまうからです。こうした勇気に対して、人間は地上で報酬を受けることはできません。しかし神は勲章や栄光のある場所を用意し、待っていてくれるのです。

心配や不満のきっかけとなる苦しみに捕まってしまったら、それを乗り越えようと努力してください。耐え切れないほどの激しい苦しみである怒りや落胆を克服した時には、自信を持って、「私の方が強かったのだ」と言い聞かせましょう。

 「苦しむ者は幸いです」は、次のように理解することができます。「その信仰の強さ、決心の固さ、辛抱強さ、そして神の意志に従うことを試された時に、それを証明できた者は幸いです。なぜなら、そうした者は地上で逃すことになる喜びを百倍にして与えられるからです。そして、働いたのちには、休憩できる時があたえられるでしょう」(ラコルデール ルアーブル,1863年)

 
  悪とその薬
十九、地球は、喜びと楽しみに溢れる楽園なのでしょうか。預言者たちの声はもうあなたの耳には残っていないのでしょうか。イエスはこの苦しみの谷に生まれる者には、涙を流し、歯ぎしりをしなければならない時が来るということを宣告しませんでしたか。

そうなのであれば、ここに住む者は誰もが苦い涙と苦しみを覚悟しなければなりません。

その苦しみがどんなに深く鋭くとも、天を見上げ私たちに試練を与えることを望んでいる神に感謝しようではありませんか。人類よ、神があなたの身体の傷を癒し、あなたの送る日々を美と富とで飾ってくれた時以外に、神の偉大なる力を認めることができますか。

あなたを栄光で飾り、輝きと潔白を与えてくれた時以外に、神の愛を感じることができますか。あなたは模範として与えられた者の真似をするべきでしょう。イエスは、惨めさと悲しみのどん底にあった時、肥しの山の上に身体を横たえて神に言いました。

「主よ、私は富むことの全ての喜びを知りました。そして、全くの貪窮に私を送ってくださいました。ありがとうございます。あなたの僕を試そうとしていただき、ありがとうございます」。

死によって限りある地平線ばかりをいつまであなたは見つめているのですか。あなたの魂はいつになれば棺の向こう側に向かっていくのですか。一方、もしこの生涯を、苦しみ、泣き続けたとしても、甘受、信仰、愛を持って苦しむ者に与えられる永遠の栄光に比べれば、それが一体何になるというのでしょうか。

神が準備してくれる未来への慰めを求めましょう。また、あなたの苦悩の原因を過去に求めましょう。そして、最も苦しんだと感じる者は、祝福された者であると感じましょう。

 死者として、宇宙をさ迷っていた時、あなたは自分が耐え切れるであろう試練を選択したのです。なぜ今になって不満を言わなければならないのですか。あなたは誘惑と戦い、克服しようと望み、富と栄光を求めたのです。

精神的、肉体的な悪に対し、全身全霊で戦いたいと望み、その試練が大きければ大きいほど、勝利を得た時の栄光は偉大であることを知っていた筈です。

たとえ身体は肥しの山の上に終わり、死を迎えたとしても、勝利を収めることができたならば、苦悩と悲しみによる洗礼を受けた潔白に輝く魂を放つことになるのです。

 残酷な憑依、死に追い詰めるような悪に攻撃された者にどんな薬を与えてあげることが出来るのでしょうか。間違いなく効く薬は、たった一つしかありません。それは天に通じる信仰を持つことです。

もっとも激しく痛ましい苦しみの真っただ中で神への賛美の歌を口ずさんでください。そうすれば、あなたの横にいる天の使いが、救いの道とあなたがいずれたどり着くことになる場所を示してくれます。

信仰こそが苦しみの唯一の薬です。信仰は常に永遠なる地平線の方向を示してくれ、現在の日々を幾日も覆っていた雲を追い払ってくれます。病気、傷、試練、苦労の薬を求めてはなりません。信じる者は信仰という薬によって力づけられ、その薬の効力を信じない者は、例え一瞬であっても、直ちに苦痛や悲しみを味わい、罰を受けることになるのです。

 神は神を信じる者には目印を付けています。キリストは、信仰だけで山をも動かすことが出来ると言いました。私は言います。苦しんでいようと、自分自身を支えるだけの信仰がある者は神の加護を受け、苦しみを感じなくなります。最大の痛みの時間が、永遠の喜びの前奏のように聞こえてきます。

魂はそうやって身体から離れていき、後からくる者がまだ地上でもがき苦しんでいる時、天の国に滑り込み、天の使いたちと、一緒に神の栄光と神への感謝を賛美して歌うのです。

 苦しみ、涙を流す者は幸いです。神が祝福を積んでくれるので彼らの魂は幸せです。(聖アゴスティーヌ パリ、1863年)

℘115      
  幸せはこの世のものではありません
二十、私は幸せではない、幸せとは私のためにあるものではない、と一般に人はどんな社会的階層に属していても訴えます。親愛なる子どもたちよ、このことは、「コへレトの言葉」の金言「幸せはこの世のものではありません」が真実であることを、どんな推論よりもはっきりと示しています。

誠に、どんな財産も、どんな権力も、青春の盛りも、幸せの本質的な条件ではありません。多くの人が切望するように、たとえこれらを三つとも持っていたとしても幸せにはなれないでしょう。

というのも、特権階級の中でさえも、いろいろな年齢の人がその置かれた生活環境を嘆いているからです。

こうした事実があるにもかかわらず、労働者階級の人々が、富に恵まれた階級に非常に強く憧れ羨むのは何とも理解しがたいものです。この世においては、どんな人にもそれぞれに与えられた労苦と貧困があり、苦しみと誤りが分配されるのです。

そのことから、地球とは試練と償いの場所であるという結論に辿り着くのは容易なことです。

 そうであるならば、地球が人類にとって唯一のすみかであり、そこでの一回の人生において、自分の持ち合わせた可能性の中での最大限の幸せを得ることが許されているのだと信じる者は、騙されているのであり、その者に耳を傾ける者をも騙すことになるのです。

何世紀にもわたる経験からも、この地球上で人間の完全なる幸せを得るための必要条件が揃うことは異例である、ということを思いだしてください。

 一般的に、幸せとは理想郷(ユートピア)を意味し、何世代にもわたって探し続けたところで決して辿り着けないところであると考えられます。この世で思慮深い人を探すのは難しいことですが、本当に幸せな人を見つけるのは更に大変なことです。

 地上で、分別を持って生きて行かない者にとって、幸せとは非常にはかないものです。一年、一ヶ月、一週間の完全な満足を感じたとしても、残りの人生は苦しみや落胆の連続となるでしょう。

親愛なる子供たちよ、私は、一般の人が羨む地上での幸福について述べているのだということを覚えておいてください。

したがって、地上でのすみかが試練と償いの場であるならば、この世の他にも、人間の霊が依然として物質的な身体の拘束を受けながらも、人間の生活に固有の喜びを完全な状態で味わうことが出来るような、より素晴らしいすみかが存在することを認めなければなりません。

だからこそ、神は星雲の彼方に、より高等で美しい惑星を作ったのです。そこへ行くにふさわしくなるまで浄化され、完成されたとき、あなたたちはその努力とその性向によってその星にひきつけられていくことになるのです。

 しかし、私の言葉から地球は悔悟だけのために存在するのだと結論づけないでください。決してそうではないのです。将来、地球がどれほど進歩し得るのか、やがて訪れることになる、新しく豊かに改められた社会とはどのようなものなのか、地球が過去においてすでに成し遂げた進歩や、社会的な向上からそれらを想像することは容易なことです。

地球を進歩させること、これが、霊たちによって明らかにされた新しい教義であるスピリティズムの持つ大きな役割なのです。

 親愛なる子どもたちよ、聖なる競争心に刺激され、あなたたち一人一人が精力的に自己の改革に取り組めますように。すでにあなた自身を更生しつつあるスピリティズムを広めることに全身を捧げなさい。

この神聖なる光の中にあなたの兄弟たちを招き入れることがあなたに課された任務です。親愛なる子どもたちよ、仕事に取り掛かりましょう。この厳粛な集まりにおいて、あなたたちの心を一つにし、将来を担う未来の世代のために、幸せという言葉が無駄にならないような世の中を築きあげるという大きな目標を掲げるのです。(モロー枢機卿フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ 1863年)



  愛する人の死、早すぎた死
二十一、死があなたたちの家族を襲い、年齢の区別なしに若い者を年老いた者より先に連れて行った時、あなたたちはよく次のように言います。

「神は不公平だ。まだ先の長い、強いものを連れて行き、もう長い年月を生き、落胆ばかりしてきた者が置いていかれてしまった。役に立つものが連れて行かれ、もう役に立たなくなってしまった者が取り残されてしまった。喜びのすべてであった罪のない子どもを奪い、母親の心を傷つけた」と。

 人類よ、このようなことに対してこそ、あなたたちはその考えを引き上げ、最善なことというものが多くの場合あなたたちの見逃している、死すべき運命の中に存在しているのだということを理解する必要があります。

なぜあなたたちの基準で神の正義を計ろうとするのですか。宇宙の神がその気まぐれで、あなたたちに残酷な苦しみを与えるなどと考えられますか。何事も知的な目的なくして行われることはなく、すべてのできごとにはその理由があるのです。

あなたに降りかかるすべての困難をよりよく調べてみることが出来れば、そこには必ず神の決めた理由、あなたに改心を促す理由があることがわかります。

それを理解することができれば、あなたたちの惨めな関心ごとというものが、比して二次的な物であることが分かり、あなたはその優先順位を下げることが出来るでしょう。


 私が述べることを信じてください。二十歳の者であっても、尊敬すべき家系の面目をつぶしたり、母親を悲しませ、父親の頭髪を早く白くさせてしまうような不品行を働くようであれば、死が選択されてしかるべきものなのです。早すぎる死はほとんどの場合、神によって与えられる恩恵であり、それによってその者を人生の惨めさや、破滅に導くような誘惑から遠ざけてくれるのです。人生のまっ盛りにある者の死は、運命の犠牲者ではなく、神がこれ以上地上にいるべきでないと判断したことによるものなのです。

 希望に満ちあふれる者の命が余りにも早く断ち切られてしまうことは悲劇である、とあなたたちはいうでしょう。しかし、その希望とは、どんな希望のことを言っているのですか。地上の希望、その経歴と富を築くことによって輝く希望のことですか。

常に物質的な世界から脱却することの出来ない狭い視界でものごとをとらえているのではありませんか。希望に溢れていたとあなた方がいうその人の運命が実際にどうであったのか、あなた方は知っているのですか。

それが苦しみに溢れたものではなかったと、どうして言いきることが出来るでしょうか。未来における生活への希望を見ずに、後に残した地上での束の間の人生の方に希望を託すのですか。

至福の霊達が住む世界で獲得することになる地位よりも、人間の世界で獲得する地位の方が大切だと考えるのですか。

 この惨めな谷底から、神があなたの子供を連れて行っても、泣くのではなく、喜ぼうではありませんか。その子供に、私たちと一緒に苦しむために残れと言うのは、自分勝手ではないでしょうか。

ああ、信心を持たぬ者の抱く苦しみ、死を永遠の別れだと考える者の苦しみ。しかし、あなたたちスピリティズムを学ぶ者は、魂は肉体という被いから解放された時の方が、より生き生きすることを知っています。母親たちよ、あなたの愛する子は、あなたのすぐ近くにいるのです。

すぐ近くにいて、そのフルイドの体があなたを取り巻き、その子の思考はあなたを守ってくれているのです。

あなたが抱くその子の良い思い出は、その子を満足させます。しかし同時にあなたの持つ苦しみは、その子を悲しませる原因となるのです。何故なら、それはあなたが信心に欠けていることの証拠であり、神意に反することであるからです。

 霊界での生活を理解するあなたたちは、愛する者たちを呼ぶとき、あなたの心臓の鼓動に耳を傾けてみて下さい。あなたが彼らに対する神の祝福を願う時、あなたの涙を乾かしてくれる心強い慰めをあなたの中に感じることができるでしょう。そして、その偉大なる熱望は神に約束された未来を見せてくれるでしょう。(元パリ・スピリティスト教会のメンバー、サンソン 1863年)

℘119  
  善人であれば死んでいた
二十二、ある危険から逃れた悪者を見て、善人であれば死んでいた、などとよく言います。これは確かに真実だということが出来るでしょう。

なぜなら、神は多くの場合、善い霊にはその功労の代償として、出来るだけ短い試練を与えるのに対し、若い進歩しつつある霊には、より長い試練を与えるからです。しかし、だからといってこのようにいうことは神に対する冒涜です。  

 悪者の隣りに住むある善人が死んだとします。あなたたちは「あっちが死んでいればよかったのに」等とすぐ言います。その時あなたは大きな間違いを犯しているのです。

死んでいく者はその任務を終えたのであり、残った者はおそらく、その任務を開始してさえもいないのです。それなのになぜ悪者にその任務を終わらせるための時間が与えられないことを望み、善人がこの地上にとどまることを望むのですか。

刑期を終えたのに刑務所に残らなければならない囚人と、一方で権利を持たないのに自由を与えられた囚人を見て何を考えますか。本当の自由とは肉体からの解放であり、地上にいる間は、収容所にいるのだということを覚えておかなければなりません。 

 理解できないことについてとやかく言うのは止めましょう。すべてにおいて公平である神を信じましょう。あなたたちに悪く見えることが、しばしば善いことであり得ます。

しかし、あなたたちの能力はあまりにも制限されているため、あなたたちの鈍い感覚ではおおきな全体像をすべて捉えることが出来ないのです。あなたたちの考えによって、この小さな地球を乗り越えられるように努力しましよう。

考えを高く持ち上げるにつれて、地上の重要性というものがだんだん小さくなっていきます。なぜなら、この地上における人生とは、霊としての真なる唯一の永続的な命の前には、単なる小さな一つの出来事でしかないからです。(フエヌロン サンス 1861年)

℘120       
  志願して受ける苦痛
二十三、人間は絶え間なく幸せを求めていますが、その幸せはいつも逃げて行ってしまいます。それは、地上において純粋な幸せが存在しないからです。しかし、生きている間にも、避けて通ることのできないさまざまな出来事をもたらす人生の浮き沈みはあるものの、相対的な幸せというものは得ることができます。

ところが、そうした幸せも、最高の幸せをもたらす不滅の魂の喜びの中に求めずに、消滅し得るものや物質的な満足の中に求めるのであれば、それもまた、人生の浮き沈みの犠牲となってしまいます。

この世の真なる幸せである心の平静を求めずに、動揺と負担をもたらすものに幸せを求めていることになるのです。そう考えると、興味深いことに、人間は自分だけの力で避けることができたはずの苦痛を、自ら招いているのだということが判ります。

 羨みや妬みによって生まれる苦痛ほど苦しいものがあるでしょうか。羨ましがる者、嫉妬深い者は、苦痛から休まる暇はありません。どちらも絶え間なく引くことの無い熱に悩まされます。

他人のものを欲しがることは不眠の原因となります。ライバルの成功には気を惑わされます。他人を上回ることにしか関心が無く、同じように妬み深い他人に、自分に対する嫉妬を抱かせることによってその人は喜びを得ているのです。可哀想な、愚かな者たちよ。

その者の人生を毒する嫉妬の対象となっている無益なものを、もしかしたら明日、すべて失わなければならなくなるかもしれないということを忘れてしまっているのです。

「苦しむ者は幸いです。なぜなら、慰められるからです」という言葉は彼らには当てはまりません。なぜなら、彼らの関心事は天に置いて報われるものではないからです。

 反対に、すでに得た物によって満足することを知っている者は、何と多くの苦悩を避けることが出来ることでしょうか。自分の所有しないものを羨むことなしに見ることが出来、実際の自分以上に自分を見せようとはしません。

自分の上を見るのではなく、常に自分より少なく所有している者、つまり自分より下を見るので、いつも豊かであると感じることが出来るのです。馬鹿げた欲求を生み出したりはせず、いつも平静を保つことができるのです。

人生の苦悩の合間に感じることのできるそうした心の平静は、ある種の幸せだと言うことができるのではないでしょうか。(フェヌロン リヨン、1860年)

℘121        
  本当の不幸  
二十四、すべての人が不幸について語ります。すべての者がそれを経験したことがあり、そのさまざまな様相を知っていると思っています。しかし、あなたたちに申し上げます。

ほとんどすべての人が誤解をしているのです。なぜなら、本当の不幸とは、人間が考えるもの、つまり、不幸と感じている人々が考えるものと、まったく違っているからです。

貧しく惨めな生活、火のともらぬ暖炉、せきたてる債権者、明るく微笑んでいた赤ん坊のいなくなったゆりかご、涙や、悲しむ心に見送られる棺、裏切られた苦しみ、高貴な衣装に身を包みたくとも貧しさに妨げられ、その貧しい身体に見栄を纏うプライドの高い者、これらすべてを、また、これら以外にも多くのことを、人間の言葉では、不幸と呼びます。

まったく、現在しか見ることのできない者にとっては、それは不幸であることに違いはありません。しかし、本当の不幸とはそのこと自体ではなく、それがもたらす結果の中に存在するのです。

今の瞬間には最も幸せな出来事が、後になって不幸な結果をもたらすのだとすると、見かけは不幸でも後に善いことをもたらすことに比べ、実際にはより不幸であるということが出来るのではないでしょうか。

木々をなぎ倒しながら、死を招くような不健康な有毒ガスを散らし、その環境を清める嵐は、不幸と言うよりは幸いであるということが出来るのではないでしょうか。


 ある出来事を判断する時には、その出来事のもたらす結果についてみることが必要です。人間にとってなにが本当に幸せで、なにが本当に不幸であるのかを知るには、この世の向こう側まで行ってみなければなりません。

なぜなら、地上での出来事の結果と言うものは、そこへ行ってから現れることになるからです。つまり、あなたの狭い視野に不幸として映るものは、人生の終わりとともに消滅し、その償いを未来の人生において受けることが出来るのです。

 新しい形の不幸、つまり、あなたの錯覚した魂がそのすべての力を使って求める、美しく、華々しい出来事に隠された不幸と言うものを示しましょう。

不幸とは、喜び、満足、名声、不毛な心配、良心を窒息させ、考えを圧迫し、人の未来と言うものに疑問を持たせるような、虚栄心を満たす大胆な満足のことです。不幸とは、人間が最も強烈に求める、忘却のアヘンのことなのです。


 泣く者よ希望を持ちなさい。笑うものは、震えなさい。なぜなら、肉体で満足を得ているからです。神を欺くことはできません。誰もその行き先から逃れることは出来ません。

試練は、貧困に耐えられずに後を追いかけてくる浮浪者よりも非情な取立人のように、あなたたちの後を追ってきます。

あなたたちが休息時間と錯覚している間にも、攻撃してくる時を狙っており、突然あなたたちを本当の不幸に陥れ、エゴと無関心によって弱められたあなたたちの魂を驚かすのです。

 スピリティズムの真なる光が、あなたたちの無知によってひどく変形されてしまった真実と偽りを、はっきりと元どおりに示してくれますように。

そうすればあなたたちは、栄光も進歩ももたらすことのない平和よりも、危険な戦いを望む勇敢な兵士のように行動することができるようになるのです。

栄光の勝利を得ることが出来るのであれば、戦闘中に武器、装備、衣類を失ったとしても、その兵士にとって何だというのでしょうか。

未来を信じる者にとって、その魂が天の国へ入り、輝くことが出来るのであれば、戦場に命を落とし、財産、肉体を失うことがなんだというのでしょうか。(デルフィ-ヌ・デュ・ジラルダン パリ 1861年)


 憂鬱
二十五、あなたたちは、なぜ時々、心の中に苦しみが押し寄せてきて、人生がとても苦いものに感じられるのかを知っていますか。それはあなたたちの霊が幸福と自由を熱心に求めようとしても、牢屋のような肉体に閉じ込められているため、そこから解放されたくとも解放されず、無駄な努力を繰り返すことにくたびれてしまうからなのです。

そうした努力をすることが無意味であることを知ると、やる気を失い、すると、その影響は肉体にもおよび、虚脱感、意気消沈、無気力に占拠され、あなたたちは不幸に陥ってしまうのです。

 私が言うことを信じ、あなたの意欲を弱体化させるこうした気持ちに、精力的に抵抗してください。よりよい人生を熱望する気持ちは、すべての人間の霊に生まれつき備わっているものですが、それをこの世に求めてはなりません。

今日、神はあなたたちのために善霊たちを送り、あなたたちのために用意された幸せを教えてくれるようにしてくれたのです。自由の天使を辛抱強く待つのです。

彼らはあなたたちの霊を拘束し続けるものから解放してくれるのです。あなたたちが地球上にいる間は、家族のために身を捧げたり、神によって与えられたさまざまな義務を行うといった、もはや疑ってはならない、あなたに任された使命を果たさねばならないのだと考えなければならないのです。

そしてもしこの試練の間、あなたたちの役割を遂行する途中に、心配、不安、苦悩が降りかかってくるのであれば、強く勇気を持ってそれに耐えなければなりません。

決断を固め、立ち向かっていきなさい。きっとそれは短期間に終わり、その結果、あなたたちの到着を喜んで迎え、ともに泣いてくれる友たちのところへあなたたちを導いてくれるでしょう。そして彼らはあなたたちの前に腕を広げ、地上の苦しみが届かないところまで、あなたたちを連れて行ってくれるでしょう。(フランソワ・デュ・ジュネーブ ポルドー)


  志願した試練、本当の苦行
二十六、試練を優しくすることは許されているのですか、とあなたたちは尋ねます。この質問は次のような質問を思いださせます。

「溺れる者が助かろうとすることが許されていますか」
「棘に刺された者はその棘を抜こうとすることが許されていますか」
「病気にかかった者が医者を呼ぶことが許されていますか」。

降りかかる試練はあなたたちにその忍耐、甘受の気持ちだけでなく、知性をも働かせることを目的としているのです。ある人は悲痛で困難な状況に生まれてきますが、そのことはまさにその人に困難に打ち勝つ方法を考えさせることになります。

避けることの出来ない困難がもたらした結果に不満をこぼすことなく耐え、戦い続け、それがうまくいかなかったとしても挫折してしまわないところに、試練を受けることのメリットがあるのです。

いかなることにも手を施すことなく、そのままにするのでは、それは美徳と言うよりは怠慢でしかありません。

 同じ質問は、さらにもう一つの質問を思い起こさせます。すなわち、「イエスが『苦しむ者は幸いです』といったのであれば、自ら志願し、さらに苦しみを強めることにメリットはありますか」。この質問に対し、私ははっきりと答えます。

「ハイ、そうした苦しみというものが隣人のためのものなのであれば、それは大きなメリットです。なぜなら、それは自分を犠牲にした慈善の行いであるからです。しかし、そうした苦しみというものが、自分だけのためであるならば、メリットはありません。

なぜなら、そうした苦しみとは、熱狂することによって生まれる、単なるエゴイズムの結果でしかないからです」。こうした無益な苦しみと受け入れるべき苦しみとを大きく区別する必要があります。あなたたち自身は、神によって与えられた試練を有難く受け入れねばならないのですが、すでに重く感じているものをさらに重くする必要はありません。

不平ではなく、信心をもってそれらを受け入れてください。神があなたたちに望んでいることは、すでにあなたたちが受けているものだけなのです。無駄な喪失や目的のない苦行によってあなたたちの身体を痛めつけてはなりません。

なぜなら、あなたたちは地上における任務を遂行するために、全身の力を必要としているからです。あなたたちを支え、強めてくれるあなたたちの身体を痛めつけ、自発的に自分を苦しめることは、神の法を犯すことです。

何事も濫用することなく使わねばなりません。それが神の法なのです。優れたものを濫用することは罰に値し、避けることのできない結果を生みます。

 一方で、隣人の苦しみを軽減してあげるために受ける苦しみがあります。自分は寒さと飢えに耐え、必要としている者に衣服を与え、飢えを癒してあげることが出来るのであれば、あなたの身体はそのことによって苦しみますが、その犠牲は神によって祝福されます。居心地の良いあなたたちの家を出て、汚れ、荒れ果てた小屋まで慰めを運んで行ってください。

あなたたちの繊細な手を、病む者を治すことによって汚してください。眠気をこらえ、病気の兄弟の枕元で夜通し看病をしてあげてください。あなたたちは、その健康な身体を善行に捧げることになり、そのことによって本当の苦行を行ったことになるのです。

その苦行は、神の祝福を得ることが出来る本当の苦行です。なぜなら、あなたたちの心の涙は、この世の喜びによって乾かされることは無いからです。

あなたたちは魂を弱める富がもたらす大きな喜びに溺れるのではなく、貧しい者に慰安を与える天使となったのです。

 では誘惑を避けるために孤独に生きようとこの世を逃れた者にとって、その者の地球上での役目は何なのでしょうか。

試練に立ち向かう勇気はどこにあるのですか。戦いから避け、葛藤から逃れているのではありませんか。苦行を行いたいのであれば、あなたの肉体でではなく、魂で行わなければなりません。あなたたちの身体ではなく、魂を制してください。

あなたたちのプライドに鞭を打ち、不平をいわずに辱しめを受けてください。自分への愛を痛めつけてください。肉体の痛みよりきつい、侮辱や中傷の痛みに耐え、無感覚となってください。それが本当の苦行です。

そこで負う傷は神によって数えられています。なぜなら、それは神の意志に従おうとするあなたの意欲と勇気を証明するものだからです。(ある守護霊 パリ 1863年)

℘126
二十七、隣人の試練は、可能であれば終わりにしてあげるのが良いでしょうか。それとも、神の意志を重んじ、その隣人にその試練を受けさせてあげるのがよいのでしょうか。

 すでにあなたたちには申し上げ、幾度も繰り返しました。あなたたちは償いの世界において受けるべき試練を遂行しようとしているのです。そこで起きるすべてのことがあなたたちの過去の人生がもたらした結果であり、払い残した債務なのです。

しかし、このことからある一部の人たちは、不幸な結果をもたらすことになる、避けるべきつまらぬ考えを持ちます。

 ある一部の人たちは、地球上に償いのために生きている以上、さまざまな試練が計画されたとおりに実行されることが必要なのだと考えています。また、一方で、それらの試練を軽減させるどころか、より有益となるように、それらよりきついものにするべきだと考えるのです。しかし、それは大きな間違いです。

確かにあなたたちの試練は神の計画されたとおりに実行されるべきものです。しかし、あなたたちは神がどのような計画を立てたのか知っているのですか。それらの試練がどこまで続くものなのか知っているのですか。

あなたたちの慈悲深い父は、あなたの兄弟が苦しむのを見て、「それ以上苦しむ必要はありません」と言ってくれるのだとしたらどうでしょうか。

虐待の手段として、罪を負う者をさらに苦しめるためではなく、苦しむ者のために慰安の薬となり、あなたたちの正義によって開いた傷口を塞いで上げるために、神はあなたたちを選んだのだということを知っていますか。だから傷ついた兄弟を見て、「神の正義によって苦しんでいるのだ。それに従いなさい」などと言うことがあってはなりません。

そうではなく、反対に、「慈悲深い父は、兄弟を助けるためにどのような方法を私に与えてくれたのだろう。私の道徳的な慰め、物質的な援助、忠告によって、力、忍耐、甘受の気持ちを与え、その試練に打ち勝てるようにしてあげることはできないだろうか。

神はその苦しみに終わりをもたらすものとして、私をここに遣わしたのではないだろうか」と言わなければなりません。「私にとっても試練や償いとして、その苦しみを葬り、平和の祝福と置き換える力を与えてくれたのではないだろうか」と。

 お互いの試練において、お互い助け合って下さい。決して拷問の手段となってはなりません。心の優しい者はみな、特にスピリティズムを学ぶ者であるならばこのように考えなければなりません。

なぜなら、スピリティズムを学ぶ者は、他の者に増して、神の無限なる善意の広がりを理解しなければならないからです。スピリティズムを学ぶ者は、その人生は愛と献身の実践でなければならず、神の決意に反する時には、神の正義によって処されるのだと考えなければなりません。

スピリティズムを学ぶ者は、恐れることなく全力で試練の苦しみを軽減するように努めなければなりません。なぜなら、神だけが試練を終わりとするべきか延長すべきか判断することのできる存在であるからです。

 傷口にさえも銃を突きつける権利があると考えるのは、人間の高過ぎる自尊心の表れであると言えるのではないでしょうか。試練であるという口実のもとに、苦しむ者にさらに多くの毒を盛ってはいませんか。

ああ、あなたたちは苦しみを和らげる手段として選ばれたのだと思って下さい。次のようにまとめることができます。「すべての人が償うためにこの地球にいるのです。しかし、

あなたたちの兄弟の受ける苦しみは、愛と慈善の法に沿って、いかなる苦しみをも例外なく和らげてあげることができるよう全力を尽くしてください」(守護霊 ベルナルダンボルドー、1863年)

℘127      
  治癒する望みのない病人の命を短縮することは合法でしょうか
二十八、ある人が苦悶し、残酷な苦しみの餌食となっています。その人はすでに絶望的な状況に追い込まれていることがわかります。苦悶の時間から少しでも逃れることができるように、その人の最期を短縮してあげることが許されていますか。


 神の計画を予知する権利を、だれがあなたに与えてくれるとお思いですか。ある人を墓の一歩手前まで歩ませ、その後すぐにそこから引き戻すことによって、その人が自ら考えを改めるようにさせることが、神にできることではないでしょうか。

瀕死の人が、死のどれだけ手前に行っていようと、誰にもはっきりとその人の最期の到来を断言することはできません。これまでに科学が、その予知を間違えたことがありませんでしたか。


 理性によって、絶望的と考えられるケースが存在することはよく知っています。しかし、命や健康を完全に取り戻さなかったとしても、息を引きとる直前に突然回復し、少しの間、活力と感覚を取り戻すことが良くありませんか。そうです。その病人に与えられるその貴重な一瞬は、彼にとって最も重要な時間となり得るのです。

苦痛に痙攣する間、その人の霊が省みるものが何であるのか、また、そうした間の一瞬の反省が、その人をどれだけの苦しみから解放してくれるのか、あなたたちは知ろうとしないのです。

 肉体のことしか考えない唯物主義者には、魂の存在など考慮に入れることはできず、以上のようなことを理解することが出来ません。しかし、スピリティズムを学ぶ者は、墓の向こうに何があるのかを知っており、最期の思いの重要性というものを知っています。

最期の苦痛を出来る限り和らげてあげてください。しかし、たとえ一分であったとしても、命を短縮させてあげようなどという考えは遠ざけてください。なぜなら、その最期の一分によって、その人は将来多くの涙を流さずに済むことになるかもしれないからです。(聖王ルイ パリ 1860年)

℘128
  自らの命を犠牲にすること
二十九、生きることが嫌になってしまった者が、自殺はしないまでも、自分の死を何かの役に立てようと、死を求めて戦場へ出かけて行くことに罪はありますか。

 ある人が自殺しようと、自分を人に殺させようと、何れにしてもその目的は人生を短縮することにあります。それゆえ、実際に自殺しなくとも、意図的な自殺をしたことになり得るのです。自分の死がなにかの役に立つだろうなどという考えは錯覚でしかありません。

それは単なる言い訳であって、罪深い行動であることを隠し、自分自身の目をごまかして責任逃れをしているに過ぎないのです。もしその人が真剣に母国のために身を捧げたいのであれば、母国を守るために生き延びようとする筈であり、死のうとはしません。

なぜなら、一度死んでしまえば、もう何の役にも立たないからです。本当の献身とは、役に立とうとするときに死を恐れずに危険に立ち向かい、必要であれば、命を捨てることに前もってこだわることもなく、その犠牲をも捧げることです。

しかし、最初から死を求め、危険な場所、危険な任務に自分を置くのであれば、その行動に真なる功労はないことになります。(聖王ルイ パリ、1860年)


三十、ある人の命を救おうとし、死ぬことを覚悟で切迫した危険に身を投じることは、自殺と考えることはできますか。

 そうした時、そこに死を求める意思がないのですから、自殺とは考えられません。死ぬ確信があったとしても、そうさせるものは献身と無我の気持ちです。しかし、この死ぬ確信と言うものも、誰が持つことができるでしょうか。危篤の状態となった時、神の意が予期せぬ救いの方法を与えてくれないとも限りません。

その神意は大砲の砲口に立たされた者さえも救うことが出来るのではないでしょうか。また、多くの場合、神意は忍従の気持ちを試すために人を最期の限界まで追い詰め、予測していなかった状況において、致命的な一撃を遠ざけてくれるのです。(聖王ルイ パリ 1860年)


 他人のために感じる苦しみの利益
三十一、自分の苦しみを甘受し、自分の未来の幸福のために神の意志に服従する者が、自分だけのために働いても、他人のためにはならないのではありませんか。自分の苦しみを他人のために有益なものとすることができますか。

 そうした苦しみは、物質的にも道徳的にも他人のために有益なものとなり得ます。働くことによって、その人の喪失や犠牲が他人に安楽を与えるのであれば、物質的に有益となることができます。

神の意志に服従する態度は、他人への模範となり、道徳的に有益となることができます。スピリティズムを学ぶ者が模範となって示す信仰の力は、不幸な者に甘受の気持ちを持つことを教え、彼らを未来における絶望的な状況や不幸な結果から救うことになるのです。(聖王ルイ パリ 1860年)

シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks AgainEdited 
by S. Phillips



二章 心霊治療───その本当の意義

 「これまでに成し遂げてこられたことは確かに立派ですが、まだまだ頂上は極められておりません」

 世界的に知られる心霊治療家のハリー・エドワーズ氏が助手のジョージ・バートン夫妻と共に交霊会を訪れたときにシルバーバーチがそう語りかけた。(訳者注───今はもう三人ともこの世にいないが、〝ハリー・エドワーズ心霊治療所〟Harry Edwards Healing Sanctuary はその名称のままレイ・ブランチ夫妻が引き継ぎ今も治療活動を続けている)

 シルバーバーチは続けてこう語る───

 「あなた方のこれまでの努力がまさに花開かんとしております。これまでのことは全てが準備でした。バプテスマのヨハネがナザレのイエスのために道を開いたように、これまでのあなた方の過去は、これからの先の仕事のため、つまりより大きな霊力が降りてあなた方とともに活動していくための準備期間でした。

 ほぼ完璧の段階に近づいているあなた方三人の信頼心と犠牲的精神とそれを喜びとする心情は、それみずからが結果をもたらします。霊の力と地上の力との協調関係がますます緊密となり、それがしばしば〝有り得ぬこと〟と思えることを成就しております。条件が整った時に起きるその奇跡的治療のスピードに注目していただきたいと思います」

エドワーズ「何度も目のあたりにしております」

 「大いなる進歩がなされつつあること、多くの魂に感動を与え、それがさらに誘因となって他の大勢の人々にもその次元での成功(単なる病気治療にとどまらず魂の琴線に触れさせること)をおさめる努力が為されつつあります。常にその一つに目標をおいて下さい。すなわち魂を生命の実相に目覚めさせることです。

それがすべての霊的活動の目標、大切な目標です。ほかは一切かまいません。病気治療も、霊的交信を通じての慰めも、さまざまな霊的現象も、究極的には人間が例外なく神の分霊であること、すなわち霊的存在であるというメッセージに目を向けさせて初めて意義があり、神から授かった霊的遺産を我がものとし宿命を成就するためには、ぜひその理解が必要です。

 それが困難な仕事であることは私もよく承知しております。が、偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです。霊的な悟りを得ることは容易ではありません。とても孤独な道です。それは当然のことでしょう。

もしも人類の登るべき高所がいとも簡単にたどりつくことができるとしたら、それは登ってみるほどの価値はないことになります。安易さ、吞ん気さ、怠惰の中では魂は目を開きません。刻苦と奮闘と難儀の中にあってはじめて目を覚まします。これまで、魂の成長が安易に得られるように配慮されたことは一度たりともありません。
 
 あなた方が治療なさる様子を見ていとも簡単に行っているように思う人は、表面しか見ていない人です。今日の頂上に到達するまでには、その背景に永年の努力の積み重ねがあったことを知りません。治療を受ける者が満足しても、あなた方は満足してはなりません。

一つの山頂を極めたら、その先にまた別の山頂がそびえていることを自覚しなくてはいけません。いかがでしょう。私の話は参考になりますでしょうか。あなた方はすでによくご存じのことばかりでしょう」


エドワーズ 「分ってはいても改めて認識することは大切なことです」

 「こうした会合の場は、地上の人間でない私どもがあなた方地上の人間に永遠の原理、不滅の霊的真理、顕幽の区別なくすべての者が基盤とすべきものについての認識を新たにさせることに意義があります。物質界に閉じ込められ、物的身体にかかわる必要性や障害に押しまくられているあなた方は、ともすると表面上の物的なことに目を奪われて、その背後の霊的実在のことを見失いがちです。

 肉体こそ自分である、いま生きている地上世界こそ実在の世界であると思い込み、実は地上世界はカゲであり、肉体はより大きな霊的自我の道具にすぎないことを否定することは実に簡単なことです。

もしも刻々と移り行く日常生活の中にあって正しい視野を失わずに問題の一つ一つを霊的知識に照らしてみることを忘れなければ、どんなにか事がラクにおさまるだろうにと思えるのですが・・・・・・残念ながら現実はそうではありません。

 こうした霊界との協調関係の中での仕事にたずさわっておられる人でさえ、ややもすると基本的な義務を忘れ、手にした霊的知識が要求する規範に適った生き方をしていらっしゃらないことがあります。知識は大いなる指針となり頼りになるものですが、手にした知識をどう生かすかという点に大きな責任が要請されます。

 治療の仕事にたずさわっておられると、さまざまな問題──説明できないことや当惑させられること──に遭遇させられることでしょうが、それは当然のことです。私どもは地上と霊界の双方の人間的要素に直面させられどおしです。治療の法則は完全です。が、それが不完全な道具を通じて作用しなければなりません。

人間を通して働かねばならない法則がいかなる結果を生み出すかを、数学的正確さを持って予測することは不可能ということになります。

 たとえ最善の配慮をもってこしらえた計画さえも挫折させるほどの事情が生じることがあります。この人こそと思って選んで開始した何年にもわたる準備計画が、本人の自由意志によるわがままによって水の泡となってしまうことがあります。しかし全体として見れば霊力の地上への投入が大幅に増えていることを喜んでよいと思います。

現実にあなた方が患者の痛みを和らげ、あるいは治癒してあげることができているという事実、苦しむ人々を救うことができているという事実。お仕事が広がる一方で衰えることがないという事実。たとえワラを掴む気持ちからではあっても、あなた方のもとへ大ぜいの人々が救いを求めて来ているという事実、こうした事実は霊力がますます広がりつつあることの証拠です。

霊力によって魂がいったん目を覚ましたら、その人は二度と元の人間には戻らないという考えがありますが、私もそう考えている一人です。言葉には説明しがたい影響、本人も忘れようにも忘れられない影響を受けているものです」


エドワーズ 「その最後の段階で病気の治癒と真理の理解との兼ね合いがうまくいってほしいのですが、霊的高揚というのはなかなか望めないように思います」

 「見た目にはそうです。が、目に見えない影響力がつねに働いております。霊力というのは磁気性をもっており、いったん出来あがった磁気的繋がりは決して失われません。一個の人間があなたの手の操作を受けたということは───〝手〟というのは象徴的な意味で用いたまでです。

実際には身体に触れる必要はありませんから───その時点でその人との磁気的つながりが出来たということです。つまり霊の磁力がその人の〝地金〟を引きつけたということで、その関係は決して切れることはありません。

 その状態を霊の目すなわち霊視力で見ますと、小さな畑の暗い土の中で小さな灯りがともったようなものです。理解力の最初の小さな炎でしかありません。種子が芽を出して土中から頭をもたげたようなものです。暗闇の中から初めて出て来たのです。

 それがあなた方の為すべき仕事です。からだを治してあげるのは結構なことです。それに文句をつける人はいません。が、魂に真価を発揮させること、聖書流に言えば魂に己れを見出させることは、それよりはるかに大切です。魂を本当の悟りへの道に置いてあげることになるからです」

 ここでサークルのメンバーの一人が述べた───「心霊治療で治った人の中には魔術的なものが働いたと考える人がいます。つまり治療家を一種の魔術師と考え、神の道具とは考えません」

 「それは困ったことだと思います。なぜかと言えば、そういう受け取り方はせっかくのチャンスによるもっと大切な悟りの妨げになるからです。霊的な力が治療家を通して働いたのだということを教えてあげれば、病気が治ったということだけで全てが終らずに、それを契機にもっと深く考えるようになるのですが」

エドワーズ 「治療後も霊的な治癒力が働き続けている証拠として、時おり、その時は効果が見えなかった人から一年もたってから〝あれから良くなってきました〟という手紙を受け取ることがあります」

 「当然そうあってしかるべきです。霊的な成長だけは側(はた)からどうしようもない問題なのです。このことに関しては以前にも触れたことがありますが、治療の成功不成功は魂の進化という要素によって支配されております。それが決定的要素となります。いかなる魂も、治るだけの霊的資格が具わらないかぎり絶対に治らないということです。からだは魂の僕(しもべ)です。主人(あるじ)ではありません。」


エドワーズ 「未発達の魂は心霊治療によって治すことができないという意味でしょうか」

 「そういうことです。私が言わんとしているのは、まさにそのことです。ただ、〝未発達〟という用語は解釈の難しいことばです。私が摂理の存在を口にする時、私はたった一つの摂理のことを言っているのではありません。宇宙のあらゆる自然法則を包含した摂理のことを言います。

それが完璧な型(パターン)にはめられております。ただし法則の裏側にまた別の次元の法則があるというふうに、幾重にもなっております。しかるに宇宙は無限です。誰にもその果てを見ることはできません。それを支配する大霊(神)と同じく無窮なのです。すると神の法則も無限であり、永遠に進化が続くということになります。

 物質界の人間は肉体に宿った魂です。各自の魂は進化の一つの段階にあります。その魂には過去があります。それを切り捨てて考えてはいけません。それとの関連性を考慮しなくてはなりません。肉体は精神の表現器官であり、精神は霊の表現器官です。

肉体は霊が到達した発達段階を表現しております。もしもその霊にとって次の発達段階に備える上での浄化の過程としてその肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、あなた方治療家を通じていかなる治癒エネルギーが働きかけても治りません。いかなる治療家も治すことはできないと言うことです。

 苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部に組み込まれているのです。痛み、悲しみ、苦しみ、こうしたものはすべて摂理の中に組み込まれているのです。話はまた私がいつも述べていることに戻ってきました。日向と日蔭、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は神の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません」

メンバーの一人「苦しみは摂理を破ったことへの代償なのですね」

 「〝摂理を破る〟という言い方は感心しません。〝摂理に背く〟と言ってください。確かに人間は時として摂理への背反(ハイハン)を通して摂理を学ぶほかはないことがあります。あなた方は完全な存在ではありません。完全性の種子を宿してはおりますが、それは人生がもたらすさまざまな〝境遇〟に身を置いてみることによってのみ成長します。痛みも嵐も困難も苦しみも病気もないようでは、魂は成長しません。

 摂理が働かないことは絶対にありません。もし働かないことがあるとしたら、神は神でなくなり、宇宙に調和もリズムも目的もなくなります。その自然の摂理の正確さと完璧さに全幅の信頼を置かねばなりません。なぜなら、人間には宿命的に知ることのできない段階があり、それは信仰心でもって補うほかないからです。

私は知識を論拠として生まれる信仰は決して非難しません。私が非難するのは何の根拠もないことでもすぐに信じてしまう浅はかな信仰心です。人間は知識のすべてを手にすることができない以上、どうしてもある程度の信仰心でもって補わざるを得ません。

といって、その結果として同情心も哀れみも優しさも敬遠して〝ああ、これも自然の摂理だ。しかたない〟等と言うようになっていただいては困ります。それは間違いです。あくまでも人間としての最善を尽くすべきです。そう努力する中に置いて本来の霊的責務を果たしていることになるからです。」

 いくつかの質問に答えたあと、さらに───

 「魂はみずから道を切り開いていくものです。その際、肉体機能の限界がその魂にとっての限界となり制約となります。しかし肉体を生かしているのは魂です。この二重の関係が常に続けられております。しかし優位に立っているのは魂です。魂は絶対です。魂はあなたという存在の奥に宿る神であり、神が所有しているものは全てあなたもミニチュアの形で所有している以上、それは当然しごくのことです」

エドワーズ 「それはとても基本的なことであるように思います。さきほど心霊治療によって治るか治らないかは患者自身の発達程度に掛かっているとおっしゃいましたが、そうなると治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであるということになるのでしょうか」

 「訪れる患者の魂に働きかけないとしたら、ほかに何に働きかけられると思いますか」

エドワーズ「まず魂が癒され、その結果肉体が癒されるということでしょうか」

 「そうです。私はそう言っているのです」

エドワーズ 「では私たち治療家は通常の精神面をかまう必要はないということでしょうか」

 「精神もあくまで魂の道具に過ぎません。したがって魂が正常になればおのずと精神状態も良くなるはずです。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達していなければ、肉体への反応も起こりません。魂がさらに発達する必要があります。つまり魂の発達を促すためのいろんな過程を体験しなければならないわけです。それには苦痛を伴います。魂の進化は安楽の中からは得られないからです」


エドワーズ 「必要な段階まで魂が発達していない時は霊界の治療家も治す方法はないのでしょうか」

 「その点は地上も霊界も同じです」


メンバーの一人「クリスチャン・サイエンスの信仰と同じですか」

 「真理は真理です。その真理を何と名付けようと、私たち霊界の者には何の違いもありません。要は中味の問題です。かりにクリスチャン・サイエンスの信者が霊の働きかけを得て治り(クリスチャン・サイエンスではそれを否定する───訳者)、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のおかげだと信じても、それはそれで良いのです」

エドワーズ 「私たち治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、治療家を通じて患者の魂にまで影響を及ぼすというのはとても難しいことです」

 「あなた方は少しどころか大いに貴重な役割を果たしておられます。第一、あなた方地上の治療家がいなくては私たちも仕事になりません。霊界側から見ればあなた方は私たちが地上と接触するための通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーのような存在です。霊波が流れる、その通路というわけです」

エドワーズ 「流れるというのは何に流れるのですか。肉体ですか、魂ですか」

 「私たちは肉体には関知しません。私の方からお聞きしますが、例えば腕が曲がらないのは腕の何が悪いのでしょう」

エドワーズ 「生理状態です」

 「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのでしょう」

エドワーズ 「無くなっています。病気に負けて病的状態になっています」

 「その活力が再びそこを流れはじめたらどうなりますか」

エドワーズ 「腕の動きも戻ると思います」

 「その活力を通わせる力はどこから得るのですか」

エドワーズ 「私たちの意志ではどうにもならないことです。それは霊界側の仕事ではないかと思います」

 「腕をむりやり動かすだけではだめでしょう?」

エドワーズ 「力ではどうにもなりません」

 「でしょう。そこでもしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れられていた機能が回復すれば、腕は自然に良くなるということです」

メンバーの一人「治療家の役目は患者が生まれつき具わっている機能にカツを入れるということになるのでしょうか」

 「そうとも言えますが、それだけではありません。というのは、患者は肉体をまとっている以上とうぜん波長が低くなっています。それで霊界からの高い波長の霊波を注ぐにはいったん治療家というコンデンサーにその霊波を送って、患者に合った程度まで波長を下げる必要があります。

そういう過程をへた霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治癒効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇跡のようなことが起きるわけですが、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢ができていない時は何の効果も生じません。たとえば曲がってた脚を真っすぐにするのはあなた方ではありません。患者自身の魂の発達程度です」


列席者の一人「神を信じない人でも治ることがありますが・・・・・・」

 「あります。治癒の法則は神を信じる信じないにお構いなく働くからです」

───さきほど治癒は魂の進化の程度と関係があると言われましたが・・・・・・

 「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡(たか)で測れるものではありません。行為によって測るべきです。いいですか、あなた方は治るべき条件の整った人を治しているだけです。ですが、喜んでください。あなた方を通じて知識と理解と光明へ導かれる人は大勢います。

みながみな治せなくても、そこには厳とした法則があってのことですから、気になさらないことです。と言って、それで満足して努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言っているように、神の意志は愛の中だけでなく憎しみの中にも表現されています。晴天の日だけが神の日ではありません。

嵐の日にも神の法則が働いております。成功にも失敗にもそれなりの価値があります。失敗なくしては成功もありません」


 ───信仰心が厚く、治療家を信頼し、正しい知識を持った人でも意外に思えるほど治療に反応を示さない人がいますが、なぜでしょうか。やはり魂の問題でしょうか。


 「そうです。必ず同じ問題に帰着します。信仰心や信頼や愛の問題ではありません。魂の問題であり、その魂が進化の過程で到達した段階の問題です。その段階で受けるべきものを受け、受けるべきでないものは受けません」

エドワーズ 「治療による肉体上の変化は私たちにも分かるのですが、霊的な変化は目で確かめることができません」


 「霊視能力者を何人集めても、全員が同じ治療操作を見ることはないでしょう。それほど(患者一人一人に違った)複雑な操作が行われているのです。かりそめにも簡単にやっているかに思ってはなりません。物質と霊との相互関係は奥が深く、かつ複雑です。

肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者ともそれぞれにとても複雑なのですから、その両者をうまく操る操作は、それはそれは複雑になります。無論全体に秩序と調和が行きわたっておりますが、法則の裏に法則があり、そのまた裏に法則があり、それらが複雑に絡み合っております」

バートン夫人 「肉体上の苦痛は魂に影響を及ぼさないとおっしゃったように記憶しますけど・・・」

 「そんなことを言った憶えはありません。肉体が受けた影響はかならず魂にも及びますし、反対に魂の状態はかならず肉体に表れます。両者を切り離して考えてはいけません。一体不離です。つまり肉体も自我の一部と考えてよいのです。肉体なしには自我の表現は出来ないのですから。本来は霊的存在です。肉体に生じたことは霊にも及びます」

バートン夫人 「では肉体上の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う手がないとみたら、魂への悪影響を防ぐために故意に死に至らしめるということもなさるのでしょうか」

 「それは患者によります。実際は人間の気まぐれから自然法則の順序を踏まずに無理やりに肉体から分離させられていることが多いのですが、それさえなければ、霊は摂理に従って死ぬべき時が来て自然に離れるものです」

バートン夫人 「でも、明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われる例がありますけど・・・・・・」

 「あります。しかしそれはバランス(埋め合わせ)の法則にのっとって周到な配慮の上で行っていることです。それでもなお魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが」

バートン夫人 「肉体を離れるのが早すぎたために生じるショックですか」

 「そうです。物事にはかならず償いと報いとがあります。不自然な死を遂げるとかならずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。それがどういうものになるかは個人によって異なります。

あなた方治療家の役目は患者の魂に、それだけの資格ができている場合に、苦痛を和らげてあげることです。その間に調整がなされ、言わば衝撃が緩和されて、魂がしかるべき状態に導かれます」


エドワーズ 「絶対に生き永らえる望みなしと判断したとき、少しでも早く死に至らしめるための手段を講じることは許されることでしょうか許されないことでしょうか」

 「私はあくまで〝人間は死すべき時が来て死ぬべきもの〟と考えています」



エドワーズ 「肉体の持久力を弱めれば死期を早めることになります。痛みと苦しみが見るに見かね、治る可能性もないとき、死期を早めてあげることは正しいでしょうか」

 「あなた方の辛い立場はよく分かります。また私としても好んで冷たい態度をとるわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。私はあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。

たとえば薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体はもともとそんな状態になるようには意図されておりません。そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。

そういう観点から考えていけば、どうすれば良いかはおのずと決まってくると思います。何ごとも自然の摂理の範囲内で処置すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によってもその摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てばそれなりの結果が生じます。

ですが、それが本当に良いことか悪いことかは霊的法則にどの程度まで適っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば肉体にとっても最善であるに違いありません」


 同じくエドワーズ氏とバートン夫妻が出席した別の日の交霊会で、シルバーバーチはこう強調した。

 「霊力の真の目的は(病気が縁となって)あなた方のもとを訪れる人の魂を目覚めさせることです。自分が本来霊的な存在であり、物的身体は自分ではないことに気づかないかぎり、その人は実在に対してまったく関心を向けないまま地上生活を送っていることになります。言わば影の中で幻を追いかけながら生きていることになります。

実在に直面するのは真の自我、すなわち霊的本性に目覚めた時です。地上生活の目的は、帰するところ自我を見出すことです。なぜなら、いったん自我を見出せば、それからというものは(分別のある人であれば)内部に宿る神性をすすんで開発しようとするからです。

残念ながら地上の人間の大半は真の自分というものを知らず、したがって不幸や悲劇に遭うまで自分の霊的本性に気づかないのが実情です。光明の存在に気づくのは人生の闇の中でしかないのです。

 あなた方がお会いになるのは大半が心身に異常のある方たちです。治療を通じてもしその人たちに自分が霊的存在であるとの自覚を植えつけることができたら、もしその人たちの霊的本性を目覚めさせることができたら、もし内部の神の火花を点火させることができたら、やがてそれが炎となってその明かりが生活全体に輝きをもたらします。

もとより、それは容易なことではありません。でも、たとえ外れた関節を元どおりにするだけのことであっても、あるいは何となく不調を訴えた人がすっきりしたというだけのことであっても、そうした治療を通じてその人に自分が肉体を具えた霊的存在であり霊を具えた肉体的存在ではないことを理解させることに成功すれば、あなた方はこの世で最大の仕事をしていることになるのです。

 私どもが肉体そのものよりもその奥の霊により大きな関心を向けていることを理解していただかねばなりません。

霊が正常であれば肉体は健康です。霊が異常であれば、つまり精神と肉体との関係が一直線で結ばれていなければ、肉体も正常ではありえません。この点をよく理解していただきたいのです。なぜなら、それはあなた方がご苦労なさっているお仕事において、あなた方自身にも測り知ることのできない側面だからです。

完治した人、痛みが和らいだ人、あるいは回復の手応えを感じた人があなた方へ向ける感謝の気持も礼も、魂そのものが目覚め、内部の巨大なエネルギー源が始動しはじめた事実にくらべれば、物の数ではありません。

 あなた方は容易ならざるお仕事にたずさわっておられます。犠牲と献身を要求される仕事です。困難のさなかにおいて為される仕事であり、その道は容易ではありません。

しかし先駆者のたどる道はつねに容易ではありません。奉仕的な仕事には障害はつきものです。かりそめにもラクな道、障害のない道を期待してはなりません。障害の一つ一つ、困難の一つ一つが、それを乗り越えることによって霊の純金を磨き上げるための試練であると心得て下さい」



エドワーズ 「魂の治療の点では私たち治療家の役割よりも霊界の治療家の役割の方が大きいのですか」

 「当然そうなりましょう」



エドワーズ 「そうすると私たちが果たす役目は小さいということでしょうか」

 「小さいとも言えますし大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて治療には二通りの方法があります。一つは治癒エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家自身に送ります。それを再度治癒エネルギーに還元してあなた方が使用します。

もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的に具わっている治癒力を刺激して、魂の不調和すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう」



エドワーズ 「いえ、理屈はよく分ります。ただ現実に適応するとなると・・・・・・」

 「では説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかというと、生命とは本質において物質とは異なるものであり、いわゆる理化学的研究の対象とはなり得ないものだからです。

で、私はよく生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識を持ち、呼吸し、歩き、考えるその力、また樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。同じ霊力の一部であり一つの表現なのです。

 あなた方が今そこに生きておられる事実そのものが、あなた方も霊であることを意味します。ですから同じく霊である患者の霊的進化の程度に応じたさまざまな段階で、その霊力を注入するというのが心霊治療の本質です。

ご承知のとおり病気には魂に起因するものと純粋に肉体的なものとがあります。肉体的なものは治療家が直接触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を活用します。が、この方法にも限界があります。

あなた(エドワーズ)の進化の程度、協力者のお二人(バートン夫妻)の進化の程度、それに治療を受ける患者自身の進化の程度が絡み合って自然にできあがる限界です。また、いわゆる因縁(カルマ)というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにおかまいなく働きます」


エドワーズ 「魂の病にもいろいろあってそれなりの影響を肉体に及ぼしていると思いますが、そうなると病気の一つ一つについて質の異なる治癒エネルギーが要るのではないかと想像されますが・・・・・・」
  
 「まったくその通りです。人間は三位一体の存在です。一つは今述べた霊(スピリット)で、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、すべてがそこから出ます。次にその霊が精神(マインド)を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって肉体(ボデイ)を支配します。この三者が融合し、互いに影響し合い、どれ一つ欠けてもあなたの存在は無くなります」


エドワーズ 「一方通行ではないわけですね」

 「そうです。霊的ならびに精神的発達の程度に従って肉体におのずから限界が生じますが、それを意識的鍛錬によって信じられないほど自由に肉体機能を操ることが出来るものです。インドの行者などは西洋の文明人には想像も出来ないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思いどおりに操るように鍛錬したまでのことです」


エドワーズ 「心霊治療が魂を目覚めさせるためのものであり、霊が第一原理であれば、霊界側からの方がよほどやり易いのではないでしょうか」

 「そうも言えますが、逆の場合の方が多いようです。と言うのは、死んでこちらへ来た人間でさえ霊的波長よりは物的波長の中で暮らしている(地縛の)霊が多いという事実からもお分かりの通り、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、たいていは物的な波長にしか反応を示さず、私たちが送る波長にはまったく感応をしないものです。

そこであなた方地上の治療家の存在が必要となってくるわけです。霊的波長にも物的波長にも感応する連結器というわけです。治療家に限らず霊能者と言われている人が常に心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。霊的に向上すればそれだけ仕事の範囲が広がって、より多くの価値ある仕事ができます。

そのように法則ができあがっているのです。ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます。ただ一人、前人未踏の地を歩みながら、後の者のための道しるべを立てていくことになります。あなたにはこの意味がお分かりでしょう。すぐれた特別の才能にはそれ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」


エドワーズ 「さきほど治癒エネルギーのことを説明されたとき、霊的なものが物的なものに転換されると言われましたが、その転換はどこで行われるのでしょうか。どこかで行われるはずですが・・・・・・」

 「使用するエネルギーによって異なります。信じられない方がいらっしゃるかも知れませんが、いにしえの賢人が指摘している〝第三の目〟とか太陽神経叢などを使用することもあります。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する〝場〟なのです。これ以外にも患者の潜在意識を利用して健康な時と同じ生理反応を起こさせることによって失われた機能を回復させる方法があります」


エドワーズ 「説明されたところまでは分かるのですが、その〝中間地帯〟がどこにあるかがよく分りません。どこで物的状態と霊的治癒エネルギーとがつながるのか、もっと具体的に示していただきたいのです。どこかで何らかの形で転換が行われているに違いないのですが・・・・・・」


 「そんなふうに聞かれると、どうも困ってしまいます。弱りました。分かっていただけそうな説明がどうしてもできないのです。強いて譬えるならば、さっきも言ったコンデンサーのようなことをするのです。コンデンサーというのは電流の周波を変える装置ですが、大体あんなものが用意されていると想像してください。

エクトプラズムを使用することもあります。ただし実験会での物質化現象や直接談話などに使用するものとは形態が異なります。もっと微妙な、目に見えない・・・」


エドワーズ 「一種の〝中間物質〟ですか」

 「そうです。霊の念波を感じやすく、しかも物質界でも使用できる程度の物質性を具えたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のもつエネルギーが結合してコンデンサーの役をするのです。そこから患者の松果体ないしは太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。その活エネルギーは全身に行きわたります。電気的な温みを感じるのはその時です。

知っておいていただきたいことは、とにかく私たちのやる治療法には決まった型というものが無いということです。患者によってみな治療法が異なります。また霊界から次々と新しい医学者が協力に参ります。

そして新しい患者は新しい実験台として臨み、どの放射線を使用したらどういう反応が得られたかを細かく検討します。なかなか渉(はかど)らなかった患者が急に快方へ向かいはじめることがあるのは、そうした霊医の研究結果の表れです。

また治療家のところへ行く途中で治ってしまったりすることがあるのも同じ理由によります。実質的な治療というのは、あなた方が直接患者と接触する以前にすでに霊界側において大部分が済んでいると思って差支えありません」


エドワーズ 「そうするともう一つの疑問が生じます。いま霊界にも大ぜいの霊医がいると申されましたが、一方で遠隔治療を受けながら別の治療家のところへ行くという態度は、治療にたずさわる霊医にとって困ったことではないでしょうか」

 「結果をみて判断なさることです。治ればそれでよろしい」


エドワーズ 「なぜそれでいいのか、理屈が分からないとわれわれ人間は納得できないのですが」

 「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、まったく支障にならないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから、一概に言い切るわけにはまいりません。あなただって患者を一目見て、これは自分に治せる、とは判断できますまい。

治せるか否かは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分通りしか治せない患者も、他の治療家のところへ行けば全治するかもしれません。

条件が異なるからです。その背後つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと、断定的な言葉は使えなくなるはずです。神の法則には無限の奥行があります。あなたがた人間としては正当な動機と奉仕の精神にもとづいて、精一杯、人事を尽くせばよいのです。こうすれば治る、これでは治らないとかを予断できる者はいません」


エドワーズ 「細かい点は別として、私たちが知りたいのは、霊界の医師は必要とあらばどこのどの治療家にも援助の手を差しのべてくれるかということです」

 「霊格が高いことを示す一ばんの証明は人を選り好みしないということです。私たちは必要とあらばどこへでも出かけます。これが高級神霊界の鉄則なのです。あなた方も患者を断わるようなことは決してなさってはいけません。

あなたがたはすでに精神的にも霊的にも本質において永遠の価値を持った成果をあげておられます。人間的な目で判断してはいけません。あなたがたには物事のウラ側を見る目がないのです。したがって自分のしたことがどんな影響を及ぼしているかもお分かりになりません。

しかし実際にはご自分で考えておられるよりはるかに多くの貢献をしておられます。あなたがたの貢献は地上で為しうる最大のものの一つであることに自信をもってください。

一生けんめい治療なさって何の反応も生じなくても、それはあなたの責任でもありませんし、あなたの協力者(バートン夫妻───たとえばエドワーズ氏が患者の頭部に手を当てバートン夫妻が左右の手を握って祈念するという形での協同治療のことで、エドワーズ氏に代って夫妻が治療するという意味ではない───訳者)の責任でもありません。

すべては自然の摂理の問題です。ご承知のように奇跡というものは存在しません。すべては無限なる愛と無限なる叡知によって支配されているのです。

 あなたと、協力者のお二人に申し上げます。つねに霊の光に照準をあてるように心がけて下さい。この世的な問題に煩わされてはなりません。(エドワーズ氏は治療費を取らず自発的な献金でまかなっていたために慢性的な資金不足の問題をかかえ、借り入れ金の返済も滞りがちで、運営の危機に直面したことが何度かある───訳者)

これまで幾つもの困難に遭遇し、これからも行く手に数々の困難が立ちはだかることでしょうが、奉仕の精神に徹している限り、克服できない障害はありません。すべてが克服され、奉仕の道はますます広がっていくことでしょう。あなたがたのお仕事は人々に苦痛の除去、軽減、解放をもたらすだけではありません。

あなたがたの尊い献身ぶりを見てそれを見習おうとする心を人々に植えつけています。そしてそれがあなたがたをさらに向上の道へと鼓舞することになります。私たちはまだまだ霊的進化の頂上を極めたわけではありません。まだまだ、先ははるかです。なぜなら、霊の力は神と同じく無限の可能性を秘めているのです」


サークルの一人「患者としてはあくまで一人の治療家のお世話になるのが好ましいのでしょうか」

 「それは一般論としてはお答えしにくい問題です。なぜかと言いますと、大切なのはその患者の霊的状態と治療家の霊的状態との関連だからです。心霊治療にもいろいろと種類があることを忘れてはなりません。霊的な力をまったく使用しないで治している人もいます。自分の身体のもつ豊富な生体エネルギーを注入することで治すのです。

霊の世界はまったく係わっておりません。それは決していけないことではありません。それも治療法の一つというにすぎません。ですから、患者のとるべき態度について戒律をもうけるわけにはまいりません。ただし、一つだけ好ましくない態度を申せば、次から次へと治療家をかえていくことです。それでは治療家にちゃんとした治療を施すチャンスを与えていないことになるからです。

私たち霊界の者は何とか力になってあげたいと臨んでいても、そういう態度で訪れる人の周りには一種のうろたえ、感情的なうろたえの雰囲気が漂い、それが霊力の働きかけを妨げます。ご承知のように、霊力が一番働きやすいのは受身的な穏やかな雰囲気の時です。その中ではじめて魂が本来の自分になりきれるからです」


エドワーズ 「一人の治療家から直接の治療を受けながら別の治療家から遠隔治療を受けるというのはどうでしょうか」

 「別に問題はありません。現にあなたはそれを証明しておられます。他の治療家に治療してもらっている人をあなたが治されたケースが幾つもあります」
    

バートン氏 「私は祈りの念が霊界へ届けられる経路について考えさせられることがよくあります。祈り方にもいろいろあり、特に病気平癒の祈願が盛んに行われています。その一つとして患者へ向けて祈念する時間が長いほど効果があると考えている人がいます。いったい祈りは霊界でどういう経路で届いているのか知りたいのですが」

 「この問題も祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご承知の通り宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇跡とかは絶対に起こりません。もしもその祈りが利己心から発したものであれば、それはそのままその人の霊格を示すもので、そんな人の祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。

ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きますし、自動的に治療効果を生む条件を作り出す力も具わっています。要するに祈る人の霊格によって決まることです」


バートン氏「祈りはその人そのものということでしょうか」

 「そういうことです」

バートン氏「大主教による仰々しい祈りよりも素朴な人間の素朴な祈りの方が効果があるということでしょうか」

 「地位には関係がありません。肝心なのは祈る人の霊格です。大主教が霊格の高い人であればその祈りには霊力が具わっていますが、どんなに立派な僧衣をまとっていても、筋の通らない教義に凝り固まった人間でしたら何の効果もないでしょう。

もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。案外効果は少ないものです。要するに神は肩書や数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは祈る人の霊格です。

 祈りとは本来、自分の波長を普段以上に高めるための霊的な行為です。波長を高め、人のために役立ちたいと祈る行為はそれなりの効果を生み出します。あなたが抱える問題について神は先刻ご承知です。

神は宇宙の大霊であるが故に宇宙間の出来ごとのすべてに通じておられます。神とは大自然の摂理の背後の叡知です。したがってその摂理をごまかすことは出来ません。神をごまかすことは出来ないのです。あなた自身さえごまかすことは出来ません」


バートン夫人「治療の話に戻りますが、患者が信仰心を持つことが不可欠の要素だと言う人がいますし、関係ないと言う人もいます。どうなのでしょうか」

 「心霊治療に限らず霊的なことには奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言い切れないことばかりなのです。信仰心があった方が治りやすい場合が確かにあります。霊的知識に基づいた信仰心は魂が自我を見出そうとする一種の憧憬ですから、魂に刺激を与えます。あくまで自然の摂理に関する知識に基づいた信仰でして、何か奇跡でも求めるような盲目の信仰ではだめです。反対に、ひとかけらの信仰心がなくても、魂が治るべき段階まで達しておれば、かならず治ります」


バートン夫人 「神も仏もないと言っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって不思議に思うことがあります」

 「その線引きは魂の霊格によって決まります。人間の観察はとかく表面的で内面的でないことを忘れてはなりません。魂そのものが見えないために、その人がそれまでにどんなことをしてきたかが判断できません。

治療の結果を左右するのはあくまでも魂です。ご承知の通り私も何千年か前に地上で幾ばくかの人間生活を送ったことがあります。そして死後こちらでそれより遥かに永い霊界生活を送ってきましたが、その間、私が何にもまして強く感じていることは、大自然の摂理の正確無比なことです。

知れば知る程その正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりなのです。一分(いちぶ)の狂いも不公平もありません。地上だけではありません。私どもの世界でも同じです。差引勘定をしてみれば、きちんと答えが合います。

 何事も憂えず、ただひたすら心に喜びを抱いて、奉仕の精神に徹して仕事をなさることです。そして、あとのことは神にお任せすることです。それから先のことは人間の及ぶことではないのです。

あなた方は所詮、私たちスピリットの道具に過ぎません。そして私たちも又、さらに高い神霊界のスピリットの道具に過ぎません。自分より偉大なる力がすべてを佳きに計らってくれているのだと信じて、すべてをお任せすることです」


 最後に、別の日の交霊会で再び心霊治療の話題が取り上げられた時の注目すべき霊言を紹介しておこう。パキスタンから招待された人が〝見たところ何でもなさそうな病気がどうしても治らないことがあるのはなぜでしょうか〟と尋ねたのに対して、シルバーバーチはこう答えた。

 「不治の病というものはありません。すべての病気にそれなりの治療法があります。宇宙は単純にして複雑です。深い奥行きがあるのです。法則の奥に又法則があるのです。知識は新しい知識へ導き、その知識がさらに次の知識へと導きます。理解には際限がありません。叡知は無限です。

こう申し上げるのは、いかなる質問にも簡単な答えは出せないということを知っていただきたいからです。すべては魂の本質、その構造、その進化、その宿命に関わることだからです。

 地上の治療家からよくこういう言い分を聞かされます───〝この人が治ったのになぜあの人は治らないのですか。愛と、治してあげたいという気持ちがこれだけあるのに治らなくて、愛も感じない、見ず知らずの人が簡単に治ってしまうことがあるのはなぜですか〟と。

そうしたことはすべて法則によって支配されているのです。それを決定づける法則は魂の進化と関係しており、魂の進化は現在の地上生活によって定まるだけでなく、しばしば前生での所業が関わっていることがあります。霊的な問題は地上的な尺度では計れません。人生の全てを物質的な尺度で片付けようとすると誤ります。

しかし残念ながら、物質の中に閉じ込められているあなた方は、とかく霊の目を持って判断することができず、そこで、一見したところ不正と不公平ばかりが目につくことになります。

 神は完全なる公正です。神の叡知は完全です。なぜなら完全なる摂理として作用しているからです。あなた方の理解力が一定の尺度に限られている以上、宇宙の全知識を極めることは不可能です。どうか〝不治の病〟という観念はお持ちにならないでください。

そういうものは存在しません。治らないのは往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業(カルマ)の法則が働いているということです。

こんなことを申し上げるのは、あきらめる観念を吹聴するためではありません。たとえ目に見えなくても、何ごとにも摂理というものが働いているという原則を指摘しているのです」

Wednesday, May 13, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


 
第4章 生まれ変わらなければ誰にも神の国をみることはできません

一、ピリボのカイザリア地方へ行ったとき、イエスは使徒たちに尋ねて言われた。「人々は人の子についてどう言っていますか。私が誰だと言っていますか」。彼らは答えた、「ある人たちはあなたがパブテスマのヨハネだと言っています。

他の者はエリアだと言い、他の者はエレミアか、その他の預言者の一人であると言っています」。

イエスは彼らに言われた、「あなたたちは私が誰だと言いますか」。シモンペテロは答えて言った、「あなたはキリスト、生きる神の子です」。するとイエスは彼に向かって言われた、「ヨナの子、シモンよ、あなたは幸いです。なぜならそのことをあなたに顕わしたのは血でも肉でもなく、天にいる私の父だからです」。 (マタイ 第十六章、13-17 マルコ 第八章   27ー30)


二、さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳に入った。ある人々は「パブテスマのヨハネが、死人の中からよみがえったのだ、それであのような力が彼の内に働いているのだ」といい、他の人々は「彼はエリアだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だと」と言った。

ところがヘロデはこれを聞いて、「私が首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。(マルコ 第六章 14-16、ルカ 第九章 7-9)


三、(変容した後に)使徒たちはイエスにお尋ねして言った。「いったい、律法学者たちは、なぜエリアが先に来るはずだと言っているのですか」。答えて言われた、「確かに、エリアが来て、万事をもとどおりに改めるであろう。しかし、あなたたちに言っておく。エリアはすでに来たのだ。

しかし、人々は彼を認めず、自分勝手に彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。その時、使徒たちは、イエスがパブテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。 (マタイ第十七章 10‐13、 マルコ 第九章 11‐13)


 復活と再生(リインカーネイション)

四、再生は、復活という名によってユダヤ人の教義の一部として存在していました。死とともにすべてが終わると信じていたサドカイ人だけが復活を信じていませんでした。

この点に関するユダヤ人の考えは、その他の事柄に対する考えと同様にあまりはっきりと定まっておらず、なぜならそれは、魂や魂と肉体との結びつきについて、ぼんやりとした不完全な認識しか持っていなかったからです。

正確にどのような方法で、どのようになるのかは知らぬまま、かつて生きていた人が再び生きることが出来ると信じていました。彼らはそれを「復活」と呼んでいましたが、それをスピリティズムではより正確に「再生(リインカーネイション)」と呼んでいます。

「復活」と言う言葉は、すでに死亡した肉体がよみがえるという考えをもたらします。しかし、朽ちた肉体がすでに散乱してしまったり、他の物質に吸収されてしまった後、同じ肉体が再びよみがえるということは物理的に不可能であることを科学では証明しています。

再生とは霊魂が物質的な生活に戻ることですが、過去において用いた肉体とは全く関係のない、その霊のために特別に準備された別の肉体に戻ることです。故に復活という言葉はラザロには適用できますが、エリアやその他の預言者たちには適用できないのです。

ですから、もし使徒たちが信じていたようにパブテスマのヨハネがエリアであったのであれば、ヨハネの肉体はエリアの肉体であったはずはなく、また、ヨハネには子どもの時代があり、その両親も知られていたのです。つまりヨハネは再生したエリアであり得ますが、復活したエリアではないのです。


五、ファリサイ人たちの中に、ユダヤ人の指導者である二コデモという名の者がいた。彼はある夜、イエスのもとへ来て言った、「先生、あなたが神のもとから送られ、師として私たちを指導に来られたことを知っています。なぜならあなたが行うような奇蹟は、神がともにある者でなければ起こすことが出来ないからです」。

イエスは答えて言われた、「誠に言います。生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることはできません」。すると二コデモは言った、「すでに年老いた者がどうすれば生まれ変われるのですか。再び生まれるために母親の胎内に入ることができますか」。

イエスは答えて言われた、「誠に言います。人は水と霊から生まれなければ神の国へ入ることはできません。肉体から生まれるものは肉体であり、霊から生まれるものは霊である。

再び生まれ変わらなければならないとあなたに言ったことに驚いてはなりません。霊は好きなところに息を吹き、あなたたちはその声を聞きますが、あなたはそれをどこから来るのかを知らなければ、それがどこへ行くのかも知りません。

霊から生まれる人にはみな同じことがあてはまります」。二コデモは答えて言った、「そんなことがどうしてあり得ましょうか」。

イエスは彼を見て言われた、「あなたはイスラエルの指導者でありながら、こんなことも分からないのですか。誠に言います。私たちは知ることしか述べず、見たことに対してしか証しません。

それなのにあなたは私の証を受け入れません。私があなたたちに地上のことを言っている時にそれを受け入れないのであれば、私が天のことを言っている時、どうしてそのことを受け入れることが出来るでしょうか」(ヨハネ第三章 1-12)

℘84
六、ヨハネがエリアであったという考えや、預言者たちが再び地球上に生きることが出来るという信仰は、福音の多くの場所に、特に先に引用した部分に見ることができます。もしこの信仰が誤っていたのであれば、イエスは、その他多くの信仰を否定していたようにこの信仰を否定したに違いありません。

しかしそれとは反対に、イエスはその信仰をその権威において全面的に認め、次のように言うことによって必要条件として位置づけました。「生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることはできません」。そして、「再び生まれ変わらなければならないとあなたに言ったことに驚いてはなりません」と付け加えることにより、繰り返しています。


七、「人は水と霊から生まれなければ」と言う言葉は、洗礼の水による精神的生まれ変わりと解釈されてきました。しかし、原文には単純に「水と霊から生まれなければ」と書いてあるだけです。

更には「霊から」と言う言葉は幾つかの翻訳において「聖なる霊において」と言う言葉と置き換えられてしまい、もはや同じことを意味しなくなっています。この重大な点は、福音に対する最初の解釈に端を発していますが、いつかは誤解がなくなり明らかになることでしょう。→FEB版注1


八、この「人は水と霊から生まれなければ」という言葉の真なる意味を理解するには「水」と言う語句の意味に注意しなければなりません。なぜなら、その言葉は本来の意味において用いられていないからです。

 昔の人々が持つ自然科学の知識は非常に不完全なものでした。彼らは地球が水から生まれたと思い、水を絶対的な発生源となる要素であると考えていました。そのことは「創世記」にも「神の霊は水の上に持ち上げられた。水の上に浮いた」と記されています。

「水の中で空が創られ、天の下にある水は一ヵ所に集まり不毛なものが現れる」「水は生きた動物や水の中を泳ぐ動物、地上や空を飛ぶ鳥を生む」。

 この考え方に従えば、水は物質性のシンボルとなり、それは霊が知性のシンボルであると同じです。

「もし人が水と霊から再び生まれなければ」もしくは「水と霊によって再び生まれなければ」と言う言葉は、ゆえに次のような意味を持つことになります。「もし人は肉体と魂によって再び生まれなければ」。元来こうした意味でこれらの言葉は理解されていたのでした。

 こうした解釈は、次の言葉からも正しいことが判ります。「肉体から生まれるものは肉体であり、霊から生まれるものは霊である」。イエスはここに、肉体と霊とをはっきり区別しています。「肉体から生まれるものは肉体」という言葉は、明らかに肉体が肉体のみから発して、霊はそれとは独立しているということを示しています。


九、「霊は好きなところに息を吹き、あなたたちはその声を聞きますが、あなたはそれがどこから来るのか知らなければ、それがどこへ行くのかも知りません」。このことは、望む者に対して命を与える、つまり人間に魂を与える神の霊について述べているのだということを理解することができます。

この最後の「どこから来て、どこへ行くのか」というのは、誰も霊の声を聞くということが何であったか、また霊が何であったかも知らなかったことを意味します。もし、霊もしくは魂が、肉体が創られたのと同じ時にできたのだとすれば、その始まりを知ることを意味するので、それがどこから来たのかが分かることになります。

いずれにしろ、このくだりは魂が以前から存在していたという考え方を神聖化しているのであって、それはつまり存在の複数性を示しているのです。


十、パブステマのヨハネの時代からいままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています。ヨハネまでの預言者たちと律法学者たちはこの様に預言しました。もし私の述べることを理解しようと望むのであれば、彼はまさに来たるべきエリアなのです。聞く耳を持つ者は聞きなさい。(マタイ 第十一章 12-15)


十一、再生の原理は、ヨハネの書に表現されているものに従えば、全く神秘的な意味に解釈されたかも知れませんが、このマタイの一節に同じことはあてはまらず、意味の捉え方を間違えようがありません。「彼はまさに来たるべきエリアなのです」。ここにはたとえも、装飾もありません。

断定の表現です。「パブテスマのヨハネの時代からいままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています」。その時代にはまだパブテスマのヨハネが生きていたのに、この言葉は何を意味しているのでしょうか。

イエスはそれを、「もし私の述べることを理解しようと望むのであれば、彼はまさに来たるべきエリアなのです」と説明しています。つまり、ヨハネがエリア当人であるので、イエスはヨハネがエリアという名で生きていた時代のことを暗示しています。

「いままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています」。これは、従う者に約束された土地、ヘブライ人の楽園を手に入れるために、従わぬ者の根絶を命じたモーゼの律法の暴力性を示しており、一方、新しい律法においては、天の国は慈善と穏和さによって得られることを示しているのです。

そして、「聞く耳を持つ者は聞きなさい」と付け加えました。イエスが何度も繰り返した言葉には、必ずしもすべての人がある種の真実を理解する条件を満たしていたのではなかったことがはっきりと示されています。


十二、あなたたちの民で死を宣告された者は、再び生きることになるでしょう。私の中で死んでいた者は、私を通じて生き返るでしょう。粉塵の中に住む者よ、眠りからさめ、神への賛美を歌いなさい。なぜならあなたたちの上に落ちる露は光の露であるからで、それは亡霊の国の上に降らされるからです。(イザヤ 第二十六章 19)


十三、このイザヤの一節にも大変はっきりと書かれています。「あなたたちの民で死を宣告されたものは、再び生きることになるでしょう」。預言者イザヤがもし霊界における命について、処刑された人々が霊として死んだのではないということを述べたかったのであったなら、「再び生きる」ではなく「まだ生きている」と言ったはずです。

霊的な意味においてこの言葉は理に反します。なぜなら、魂の命の中断の意味を含むことになるからです。道徳的更生という意味においては、死んだ者全てが再び生きるのですから、永遠の罰の否定を意味することになります。


十四、しかし人が一度死に、肉体がその霊から切り離され、消耗してしまうと彼はどうなるのか。一度死んだ人は再び生きることが出来るだろうか。私の人生の上で毎日起こるこの戦いの中で、私が変わることを望む。(ヨブ 第十四章 ⒑、14-Le Maistre ds Sacy の翻訳)

人は死ぬとすべての力を失い、消滅する。その後どこに在るか。人は死ぬと再び生きるのか。何かの変化が訪れるまで、私は毎日の戦いの中で待ち続けるのだろうか。(同前 プロテスタントーOsterwaldの翻訳)

人間は死ぬと、永遠に生きる。地上における私の日々が終わったら、そこへ再び戻るまで、私は待つ。(同前-ギリシャ教会の翻訳)


十五、これら三つの翻訳の中には、存在の複数性が明確に表現されています。ヨブが、全く知る筈もない水の洗礼によって更生することについて言いたかったのだとは誰にも想像できないでしょう。

「人は死ぬと再び生きるのか」。一度死ぬという考えや再び生きるという考えは、何回も生まれたり死んだりするという考えを含んでいます。ギリシャ教会の翻訳にはこの考えがより具体的に表されており、実際にそれが可能であることを示唆しているかのようです。

「地上における私の日々が終わったら、そこへ再び戻るまで、私は待つ」。つまり、地上における生活へ戻るということです。ここで意味することは明白であり、あたかも「私は家を出て行きますが、やがて戻ってきます」と言っているかのようです。

「私の人生の上で毎日起こるこの戦いの中で、私が変わることを望む」。ヨブは明らかに、人生の謎に対する戦いについて触れたかったに違いありません。

「私が変わることを望む」というのは、甘受することです。ギリシャ語の翻訳においては、「私は待つ」とありますが、そのことは、新たな人生があることをより望んでいるかのようです。「地上における私の日々が終わったなら、そこへ再び戻るまで、私は待つ」。それは死の後、一つの人生と次の人生を分けるインターバルの間で、再び戻る時を待つ、とヨブが述べているようです。
                
        
十六、ゆえに復活という名の再生の原理がユダヤ人たちの基本的な信仰の一端であったことは疑いようもありません。イエスや預言者たちが正式な形で確認した事項です。したがって、再生を否定することはキリストの言葉を否定することになります。

しかし、他の多くの事柄に関してもそうであるように、いつかこの言葉が先入観なしで熟考された時には、このことの持つ権威を確認することになるでしょう。
         
      
十七、この宗教的観点から見た権威には、事実の観察から導き出された証拠により、哲学的な権威を加えることができます。結果から原因へと遡る上で、再生は絶対的な必要性として、人類についてまわる条件として現れます。一言で言えば、それは自然の法として現れるのです。

動きが隠された動力の存在を証すように、いわば物質的に、結果によって再生の存在が明らかになります。再生のみが人類に対して「どこから来たのか」「どこへ行くのか」「なぜ地球上に居るのか」を説明し、人生に見られるあらゆる変則や、見かけ上の不公平を正当化することが出来るのです。(→FEB版注2)

 魂の前存在や存在の複数性なくしては、多くの場合福音の教えは理解しがたいものとなってしまい、そのためにこれほどに矛盾した解釈がなされているのです。真なる意味がよみがえるための鍵はこの原理の中にあるのです。



再生が家族の絆を強める一方で、人生が一度限りであれば絆は断たれることになる

十八、再生によって家族の絆はどんな破壊をも被ることはなく、一部の人たちが懸念するようなことはありません。それどころかいっそう絆は強まり固く結ばれることになります。逆に再生しないという考え方においては、絆を破壊してしまうことになります。

 宇宙において霊たちは愛情や好意、意向が似かよっていることによって結びついたグループ、もしくは家族を形成します。ともに出会うことは幸せなことで、こうした霊たちはお互いに相手を探し求めます。肉体を持って生まれることは、一時的に彼らを引き離しますが、霊界に戻ると、旅から戻ってきた友だち同士のように集まります。

お互いに進歩するため努力し合おうと、しばしば肉体を持って生きる世界まで他方を追っていくことがあるため、地上で同じ家族に生まれたり、同じグループに生まれることもあります。

一方が地上に生まれ、他方が生まれて来ないからといって、思考の上での結びつきまでも失うことにはなりません。自由である側は、束縛されたもう一方を守ります。より進歩した側は、遅れた側の進歩のために努力します。

一回毎の人生の後には、みなが完成へ向かう道のりの上で一歩進んでいることになります。物質への執着が少なくなればなるほど、相互の愛情はより生き生きとしたものとなり、それは、愛がより浄化されれば、エゴイズムや情熱の陰に脅かされることが無くなると同じことです。

したがって、この様に、互いに愛情によって結ばれた者同士は、お互いを結びつけるそれぞれの気持ちにいかなる打撃をも受けることなしに、制限されることのない回数の物質界における人生を過ごすことができるのです。


 ここで述べているのが魂と魂を結びつける真なる愛情のことであり、肉体の破壊をも超えて生き続けるものである一方で、この世の人々は霊の世界において、求め合う動機となることのない感情のみによって結びついています。永続し得るのは霊的な愛情だけなのです。

肉体的な愛情は、その愛情の源となった要因がなくなると消滅します。しかし、魂は永遠に存在するのですから、霊の世界においてはこのように消滅してしまうことはありません。お互いの関心事を満たすためだけに結ばれた関係において、一方は他方にたいして、さほど重要ではないため、死はそうした人たちを天と地に分けることになります。


十九、親族の間に存在する絆と愛情は、彼らを近づけた、以前から存在するお互いの思いやりのしるしです。そうしたことから、ある人の人格や趣味、趣向が、肉親や親族に全く似かよっていない時、その人はその家族の人間ではないといわれることがよくあるのです。

そのような言葉は、想像する以上に深い真実を言い表していることになります。家族の中に、このような敵意のある者や見知らぬ者の霊が肉体を持って生まれてくることにより、そのことがある者には試練となり、また他の者にとっては進歩の手段となることを神は許すのです。

そのようにして、悪しき者は善い者たちと接触し、善い者たちが払ってくれる注意によって少しずつ改善されていきます。

悪しき者たちの性格はより穏和になり、その習慣は洗練され、敵意は消えていきます。このように地上において異なった人種や民族が混ざり合うのと同じように、違った分類の霊たちが家族の中に混ざり合うのです。


二十、親族が再生の結果無限に増えて行くのではないかという恐れは、利己的な考えの上に立ったものです。このように考えることは、そうした者に、多くの人たちを迎えるだけの広い愛が欠けていることを証明することになります。

多くの子どもを持つ父親が、その子供たちのうちの一人を愛すとき、例えば一人っ子であった場合に愛する時よりも少ない愛情を持って愛するということがあるでしょうか。

利己的な者たちよ、心を落ち着けてください。そうした恐れに根拠はありません。ある人が十回再生したということは、霊界において十人の父親と母親、十人の妻とその時にできた子どもたちや新しく出来た親族に出会うということではありません。

霊界ではその愛情の対象となった人々に必ず出会いますが、そうした人たちとは地上においてさまざまな続柄で、あるいは、同じ続柄によって結ばれていたに違いないのです。
       
            
二十一、今度は再生を否定する教義がどういう結果をもたらすかを見てみましょう。その教義は必然的に魂の既存性を否定します。魂は肉体と同時に創造されることになり、魂同士の間にはいかなる既存の関係もなく、従って、魂同士は全く見知らぬ者同士ということになります。

子どもにとって父親は親しみのない存在となります。親子関係は、いかなる霊的な関係でもなく、ただの肉体的な親子関係だけに限られてしまいます。そして先祖がどうであったとか、どんなに素晴らしい人であったからといって光栄に思うことは全くなくなってしまいます。

再生の考えにおいては、先祖も子孫も、すでに知り合った者同士で、以前ともに生活し、愛し合った可能性があり、また、その先に置いてもお互いの好感の絆をより強めるために集まることができるのです。
     
     
二十二、以上のことは過去についてのことです。再生のない考え方から生まれた基本的な教義によれば、未来については、魂はたった一度の人生の後、全く悔い改めようのない運命を定められてしまうことになっています。決定的な運命の定めはあらゆる進歩を止めることになります。

なぜなら、幾らかでも進歩があるならば、決定的な運命ではないことになるからです。善く生きたか悪く生きたかによって、魂たちは直ちに至福のすみかか、永遠の地獄へ行くことになります。

直ちに、そして永遠にそうなることによって、霊たちは離れ離れとなり、再び出合う希望も奪われ、父母と子、夫婦、兄弟や友人同士であっても、決して再会を確信することはできなくなります。そこには家族の絆の絶対的な切断が起こります。

再生とそこに見られる進歩によってこそ、愛し合うものはみな地球上でも宇宙においても出会うようになり、ともに神に向かって引かれて行くことになるのです。誰かが途上で衰えてしまえば、その人は進歩と幸福を遅らせることになりますが、すべての希望を失うことではないのです。

その人を愛する者たちによって助けられ、勇気づけられ、守られることによって、いつの日か埋もれたぬかるみから抜け出すことになります。再生によってのみ、永遠の連帯が生者と死者の間に存在することになり、そのことから愛情の絆が強まることになるのです。


二十三、要約すれば、墓石の向こう側の未来について、人間には四つの選択肢が用意されていることになります。

一、唯物主義者の考える無、 二、汎神論者の考える宇宙への合一、 三、教会の教える運命の定められたアイデンティティーの存続、 四、スピリティズムの考える無限の進歩を可能にするアイデンティティーの存続、 最初の二つの考え方においては、家族の絆は死と同時に断ち切られ、未来において魂たちが再会できる希望は残されていません。

三番目の考え方は、魂同士が、天国であれ、地獄であれ、同じ場所へ行く限りは再会する可能性があります。斬新的な進歩と切り離すことが出来ない人生の複数性の考え方においては、愛し合った者同士の関係の継続は確実であり、そうした関係が真なる家族を形成することになるのです。


  



   霊たちからの指導

  受肉(インカーネイション)の限界

二十四、受肉の限界はどこにありますか。

 正しく言うならば、受肉(インカーネイション)に正確な限界はありません。霊の体を構成する被いだけを考慮に入れる場合、その被いの物質性は霊の浄化に従って薄れていくのです。

地球よりも進歩した幾つかの世界においては、その被いの密度は薄れ軽量化し、より希薄であり、結果的には変化を受けにくくなります。より進んだレベルにおいて、その被いは透き通り、ほぼフルイド化した状態になります。徐々に非物質化し、最後にはペリスピリト(→第三章 和訳注1)と間違えるほどになります。

生きるために連れて行かれる世界に応じて、霊はその世界の性質に適当な被いをまとうことになるのです。

 ペリスピリト自体も連続的な変化を遂げていきます。純粋な霊たちの条件となる完全な浄化まで、徐々に純粋化していきます。大きく進歩した霊たちのために特別な世界が存在するのであれば、劣った世界でのように束縛されることはありません。

彼らのある種解放された状態は、彼らがあらゆる場所に行くことを可能にし、必要に応じて各々に託された役割を果たしていくことができるようになるのです。

 物質的な視点のみから受肉を考えるのであれば、地上においてそうであるように、劣った世界にのみ限られるものです。したがって、そこから早く解放されるかどうかは、霊たちの自己の浄化のための努力にかかっているのです。

 また肉体を失っている間、つまり、肉体を持った存在と存在の合間において、霊の状態は、その霊の進度に応じた世界との関係を保っている、ということを考慮に入れなければなりません。したがって、死後の霊界において、霊は多かれ少なかれ幸福で、脱物質化の程度によって、自由となり高尚になるのです。(聖王ルイ パリ、 一八五九年)


 受肉の必要性
二十五、受肉は罰であり、罪を負う霊たちだけがその苦しみを被ることになるのですか。

 霊が肉体の世界で過ごすことは、物質的な行動を通じて神が彼らに託したその意志の実行を遂げるために必要なことなのです。それらは彼らのために必要なことであり、彼らに強いられた活動は彼らの知性の発展を助けることになります。卓越した正義である神は、その子たちにすべてを平等に分配しなければなりません。

そのためすべての子たちのために同一の出発点、同一の能力、遂行すべき同一の義務、進む上での同一の自由を設けたのです。いかなる特権も、これを与えることはひいきとなり、不公平となります。

しかし、受肉は全ての霊にとって一過性の状態に過ぎません。それは人生を開始するうえで神が彼らに強いる任務であり、同時に彼らがその自由意思を行使するための最初の経験なのです。

この任務を熱意を持って遂行する者は速いスピードで、苦しみもより少なく最初の段階を通り過ぎ、自分の苦労のもたらす結果をより早期に味わうことができるようになります。反対に、神が与えてくれた自由を悪用する者はその進歩を遅らせ、そのことは頑固さとなって現れ、受肉の必要性を無制限に引き延ばすことになり、そうなると受肉が罰と化すことになるのです。(聖王ルイ パリ、一八五九年)


二十六、<備考>一般的に知られた次のようなたとえがこの違いを理解しやすくしてくれます。学生は、高等な科学を学ぶようになるには、そこまで導いてくれる一通りの講義を受けなければなりません。こうした講義は、学生がその目的を達成するための手段であり、それがいかなる努力を強いることになろうとも、学生に強要された罰ではありません。

もしその学生が努力家であれば、道を短縮し、それにより、その道のりで出遭う茨も少なくなります。一方で怠惰と無精のために同じ講義を繰り返し受けさせられる人たちの場合、同じようにはいきません。講義における努力が罰となるのではありません。同じ努力を再び開始しなければならないことが罰となるのです。


 同じことが地上の人間にもおこります。霊としての生活を始めたばかりの原始的な霊にとって、受肉は知性を発展させるための手段です。

しかしながら、道徳的な感覚が広く発展した明晰な人にとって、すでに終わりに到達していたであろう時に、苦しみに満ちた肉体生活のステップを踏むことを再び強いられることは、不幸でより劣った世界での滞在を延長しなければならないという意味で、罰となります。

反対に、道徳的進歩のために積極的に努力する者は、物質的な受肉の時間を短縮することができるばかりでなく、より優れた世界と自分を隔てている途中のステップを一度に進んでいくことが出来るのです。

 では、霊たちはある天体に一度だけ生まれ、次の人生は他の天体において過ごすということはないのでしょうか。もし地球上においてすべての人間が知性的にも道徳的にもまったく同じレベルにあったとしたら、同様の見方を認めることが出来るでしょう。

しかし未開人から文明人に至るまでの人々の間に存在する相違は、彼らがどのような段階を登らなければならないかを示しています。ところで、受肉は有益な目的をもっている筈です。では、幼少で亡くなる子供たちのはかない受肉の目的はなんでしょうか。自分にとっても他人にとっても、利益なく苦しんだのでしょうか。

神の法はすべてが卓越した英知に満ちており、なにも無益に行うことはありません。同じ地球上における再生によって、同じ霊たちが、再び接触し、お互いに被った損失を取り戻す機会が与えられることを神は望んだのです。

また、そればかりでなく、以前に会った関係を通じて、自然な法である連帯、兄弟愛、平等により沿い、家族の絆が霊的な土台のもとに確立することを望んだのです。


●FEB版注1
Osterwald の翻訳は原文の通りとなっており、「水と霊から生まれ変わらなければ」となっています。Sacyの翻訳には「聖なる霊」、Lamennaisの翻訳には「聖霊」となっています。

アランカルデックの注釈に、今日ある近代的な翻訳が原文を取り戻しているということをつけ加えておきます。ゆえに、「聖なる霊」ではなく、「霊」と記されています。Ferreirade Almeida のポルトガル語、英語、エスペラントの翻訳を調べると、どれにおいても「霊」とだけ書かれています。

こうした近代的な翻訳に加え、「・・・genitus ex aqua et Spiritu・・・」「・・・et quod genitum est ex Spiritu, Spiritu est 」と書かれた1642年の Theodor de Beza のラテン語の翻訳にもそれを確かめることができます。

アランカルデックが述べるように「聖なる」という言葉が書き加えられたものであるということは疑う余地もありません。──FEB 1947

●FEB版注2
 再生の教義に関する記載、『霊の書』第四章(アランカルデック著)及び Pezzani氏による『存在の複合性について』、『スピリティズムとは何か』第二章(アランカルデック著)参照。

Tuesday, May 12, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック



第3章 私の父の家には多くのすみかがあります。

一、あなたたちの心を乱してはなりません。神を信じ、また、私を信じてください。私の父の家には多くのすみかがあります。もしそうでなかったら、私はそのことをあなたたちに言っておいたでしょう。

私はその場所をあなたたちのために準備しに行くのですから。私が行き、あなたたちの場所を準備した後、再び戻ってきて、あなたたちを私のところに迎えましょう。(ヨハネ 第十四章 1‐3)



 死後の世界における魂のさまざまな状態
二、父の家とは宇宙のことです。様々なすみかとは、無限の宇宙の中で霊たちに生まれる場所を提供する、霊たちの段階に応じて存在する世界のことです。これらのイエスの言葉は、世界の多様性とは別に、死後の世界に存在する霊たちの幸運、または悲運な状態に関してもあてはめることができます。

物質への執着から解放されたか、あるいはある程度浄化しているかどうかということによって、その霊の置かれる状況、そこでの物事のありさま、そこで感じること、そこで所有する感覚が霊によって無限に違ってきます。

ある者が生前住んでいた場所から離れられない一方で、別の者たちは宇宙のいろいろな世界を行き来します。罪のある霊たちが闇の中で過ちを犯す一方で、至福を得た霊たちは光り輝く明るさと無限なる神の崇高な業を享受することが出来るのです。

結局、悪は後悔や苦しみに悩まされ、慰安を受けることもなく、その愛情の対象となっていた者たちから引き離され、多くの場合孤立してしまい、道徳的な苦しみに悲しむことになり、正しい者は愛する者たちと共に生活し、表現し難い幸せの喜びを享受することになります。

だから、場所も示されて居なければ、その区画もされていませんが、そこには多くの住処があることになるのです。


 霊の住む世界のさまざまな分類
三、霊たちによってもたらされた教えから、さまざまな世界の状況は、そこに住む霊たちの進歩または劣等の度合いによってお互いに大きく違っていることがわかります。それらの世界の中には、まだ地球よりも、道徳的にも物質的にも劣っている世界があります。

他には私たちの世界と同じ分類の世界も存在します。また、すべての点において他の世界よりも優れた世界も存在します。劣った世界では、存在は全て物質的であり、感情が全てを支配し、道徳的な生活はほとんど存在しません。

この世界は進歩するに従って物質の影響が減少しますが、そのようにより進んだ世界における生活は、ほとんど霊的であるということが出来ます。


四、中間に位置する世界には善と悪とが混在しており、そこに住む霊たちの持つ進歩の度合いによって、どちらかがその世界を支配することになります。様々な世界を絶対的に分類することは出来ませんが、その世界の状態とその世界が持つ運命に従って、またその世界の最も目立つ特徴をもとに、一般的に次のように分類することが出来ます。

人間の魂の初期の肉体化のための原始的な世界、
悪を克服するための試練と償いの世界、
さらに試練に立ち向かうべき魂が新しい力を吸い込み、闘いの疲れをいやす更生の世界、
善が悪に勝る幸運の世界、
浄化した霊たちの住む善だけが君臨する神の世界。

地球は試練と償いの世界に分類し、だからこそ、そこにはこれ程までの苦しみを抱えた人々が住んでいるのです。


五、ある世界に生まれてきた霊は、いつまでもそこにとどめられるものでもなければ、その世界の中で、完成するまで実現しなければならない進歩のステップのすべてを経るわけでもありません。

霊たちは一つの世界においてその世界が与える進歩のレベルを達成すると、より進んだ世界へと進んで行き、それを純粋な霊の段階に至るまで繰り返していきます。多くのさまざまな滞在地が存在し、それぞれにおいてすでに達成している段階に適した進歩の要素が霊たちに提供されるのです。

彼らにとっては、より進んだ世界へ昇ることが報酬であるように、ある不運な世界での滞在が延長されることや、悪に固執する限り出ることの出来ない世界よりもさらに不幸な世界へ追放されることは罰となります。


 地球の運命──地球の惨めさの原因
六、多くの人々が地球上にこれほど多く存在する悪意や粗雑な感情、あらゆる種類の惨めさと病に驚き、人類とはとても悲しいものだと結論づけてしまいます。こうした狭められた視野から下された判断は、全体に対する誤った考えを彼らに与えてしまいます。

地球上には人類の全てが存在しているのではなく、人類のほんの一部しかいないのです。実際、人類という種は、宇宙の無数の天体に住む、理性をもった存在全てを含めて意味するのです。

では、これらの世界に住む人口に比べ、地球上の人口とはどんなものでしょうか。ある大きな国に比べた、小さな村にも満たないでしょう。地球の運命と、そこに住む人々の本質を知るならば、地球上の人類の物質的、道徳的状況に何も驚くようなことはありません。


七、ある大きな町の郊外の、もっとも卑しく最低な地区の住人によって、その町全ての住人を判断してしまうのは誤った考えとなります。病院には、病気の人や、身体が不自由な人しかいません。刑務所にはあらゆる醜行、悪徳を見ることができます。

不健康な地区では、その住人の大半は青白く、痩せ細り、病的です。ここで、地球を郊外の地区、病院、刑務所の、全てが同時に存在するところだと考えてみれば、なぜ苦しみが喜びに勝って存在するのかを理解することができます。

健康である者を病院へ送ったり、悪いことをしていないのに刑務所に送ったりはしません。又病院や感化院は歓喜のための場所とはなりません。

 しかし、ある町の住人のすべてが病院や刑務所にいることがないように、人類のすべてが地球上に存在しているわけではありません。そして病気が治ると病院を退院し、懲役を済ませば刑務所から出所するのと同じように、人類も道徳的な病を治療した後には地球を去ることになるのです。


   



   霊たちからの指導

  優れた世界、劣った世界

八、劣った世界と優れた世界の性格とは絶対的なものではありません。どちらかというと、大変相対的なものです。ある世界が劣っているか、優れているかということは、進歩の段階の中でその世界の上または下に存在する世界と比べた場合にのみ決まることです。

 地球を例として、劣った世界の住人を私たちの天体の原始的な時代の痕跡である原始的な生活を続ける人々や、いまだ私たちの間に存在する野蛮な人々にたとえてみれば、その劣った世界の状態がどのようであったかを考えることができます。

遅れた世界では、そこに住む者はある意味において原始的です。人間の形をしていても、美しさは存在しません。彼らの本能は、優しさや善意に弱められておらず、正義と不正を区別するほんのわずかな感情を持つまでには至っていません。彼らの間では粗暴な力が唯一の法です。

産業も発明もないため、食物を手に入れることに人生を費やします。しかし神は、そのいかなる創造物をも見捨てることはありません。知性の闇の底には、ぼんやりと神の存在を感じさせるものが潜在的に横たわっています。

この本能は、彼らの間にお互いの優劣を作りだし、より完全な人生へと昇っていく準備をするためには十分なものなのです。というのも、彼らは堕落した存在なのではなく、成長しつつある子供であるからです。

 劣った段階と、より進んだ段階との間には、無数の段階が存在しますが、物質から解放されて、栄光に輝く純粋な霊たちを見て、彼らもかつてはこうした原始的な霊たちであったことを知ることは、人間の成人を見て、その人が胎児であったことを思いだすのと同じように困難なことです。

  
九、優れた段階へ到達した世界においては道徳的、物質的生活の条件は地球上の生活とは非常に違っています。どの場所においてもそうであるように、そこでも体は人類と同じ形をしていますが、その形はより美しく、完成され、何よりも浄化されています。

その体は、地球上でのような物質性を全く持っていないので、あらゆる肉体の必要性に束縛されることもなければ、物質に支配されていることによって生じる病気や肉体の老化に冒されることもありません。

その知覚はより純粋になるため、地上の世界では物質の粗暴さが妨げとなっていた感覚をもとらえることができます。体の特殊な軽快さは、容易で敏速な移動を可能にします。

地面の上を重々しく体を引きずるのではなく、正しく描写するならば、意思以外のなんの力も加えることなしに、表面を滑ってその環境の中を水平移動して行き、それは昔の人々が極楽における死者の霊魂を想像した姿や、天使たちに表される姿と同じです。

人類は自らの意思により過去の人生の面影を残すことが出来、生前に知られていた姿で出現します。しかし、その時には神の光に照らされ、内面の高尚な性格が形を変容させています。苦しみや感情によって打ちひしがれたような青ざめた顔つきではなく、画家たちが聖人の周囲に後光や光輪を描いたように、知性と生命が輝いています。

 すでに多くの進歩を遂げた霊たちによって、物質が与える抵抗は少なく、体は非常に早く発達し、幼年期はほとんどありません。苦しみや心配から免れ、その人生は地上のものよりも均一的でずっと長いものです。第一に寿命はその世界の段階に比例します。

死が肉体の分解という恐怖をもたらすことなどまったくありません。死は恐ろしいどころか、幸せな変容と考えられるため、そこでは未来に対する疑いは存在しません。

そこで人生を送る間、魂はうっとうしい物質に束縛されることがなく心を広げ、ほぼ永久にその魂を自由にさせてくれる光明を享受することが出来、自由に思考を伝達させることを可能にします。


十、こうした幸運な世界では、人々の関係はいつも友情に溢れており、野心によって誰かに妨害されたり、隣人を隷属化しようとしたりする者はなく、戦争が起きることなどありません。奴隷主と奴隷という関係のような、生まれ持った特権などは存在しません。

ただ知性的、道徳的優位性のみが条件の違いを生み、優越を与えるのです。権威はいつもそれを持つ価値のある者だけに与えられ、いつも正義によって行使されるため、すべての人々の敬意を受けることになります。

人々は他人の上に昇ろうとせず、自らを完成させることにとって自分の上に昇ろうとします。その目的は、純粋な霊の分類に向かって駆け昇っていくことで、この欲求によって苦しめられることは無く、高貴な大志となって、熱心に勉強するように導かれます。

そこで繊細に高められた人間的感覚は増し、浄化されています。憎しみや、つまらない嫉妬や、低俗な羨みというものを知りません。

すべての人々を愛と同胞意識の絆がつなぎ、強い者が弱いものを助けます。知性の度合いに応じて、獲得した財産を所有しています。誰も必要な物が不足することによって苦しむことは無く、誰も償いのために存在しているとは考えていません。一言で言うならば、そのような世界に悪は存在しないのです。


十一、 あなたたちの世界では善を敏感に知るために悪が必要です。光をたたえるために闇が必要です。健康の価値を知るために病が必要です。別の世界ではこのような対比は必要ありません。

永遠の光、永遠の美、永遠の魂の平和が永遠の喜びをもたらし、物質的な生活の苦しみによって妨害されることはなく、また、そこには悪が近づくことが出来ないため、悪との接触によって動揺することもありません。そうしたことを人間の霊が理解しようとするのは非常に困難なことです。

人間は地獄の苦しみは大変巧みに描きましたが、天における喜びを想像することは出来ませんでした。なぜでしょうか。それは人間が劣っているため、苦しみや惨めさしか経験をしたことが無く、天の明るさを予感することがなかったからです。

つまり、知らないことについて語ることは出来ないのです。しかし、人間が向上し、浄化されていくに従って、地平線は延び、自分の後に存在する悪を理解したように自分の前に存在する善を理解することになります。


十二、しかし神はそのどの子に対しても不公平を働くことはなく、よって幸福の世界とは、特権を与えられた天体ではありません。そのような世界に到達するために、神はすべての者に対して同じ権利と容易さを与えます。

全てのものが同じ場所から出発し、優れたものが他人よりも恵まれるということはありません。最高の分類へは誰でも到達することが可能なのです。ただ、人間はそれらを働くことによって征服する必要があり、どれだけ早く到達できるか、それとも活動することなく何世紀も人類のぬかるみにとどまるかは、その人次第なのです。(8-12 優秀な霊たちからのすべての指導を要約)


  試練と償いの世界
十三、あなたたちが住む世界を見回してみればわかるのですから、償いの世界について何を言えばいいのでしょうか。あなたたちの間に住む優れた知性の数を見れば、地球が創造主の手元から離れたばかりの霊たちが生まれてくる、原始的な世界では無いことを示しています。

彼らが身につけている生まれつきの性質は、彼らがすでに存在し、ある程度の進歩を遂げていることの証です。

しかし、無数に罪を犯しがちである悪癖は、道徳的な不完全性のしるしです。神があなたたちを骨の折れる世界へ送ったのは、あなたたちがより幸せな惑星へといずれ昇って行くまで、人生の惨めさや苦しい労働を通じて、その世界で過ちを償うためなのです。


十四、しかしながら、地球上に生まれるすべての霊が、償いのためにそこへ行くのではありません。未開と呼ばれるような人種は、まだ幼年期を脱したばかりの霊たちによって構成されており、より進んだ霊たちと接触することによって発展していくために、言うなれば教育を受けているのです。

次に半文明化した人種は、進歩の途上にある霊たちによって構成されています。彼らはある意味で地球の先住民族であり、何世紀もの長い期間をかけて、少しずつ進歩し、その内のある者は、すでにより高尚な人々と同じ知性的完成度にまで到達しているのです。

 償いを行う霊とは、言うなれば、地球にとっては外来の人々です。すでに他の世界で生活したことがあり、そうした世界において悪に固執し自ら悪を行い、善の妨げとなったために追放されたのです。

遅れた霊たちの間で過ごし、すでに獲得している知識の種と発達した知性を用いて彼らを進歩させる任務が与えられたために、ある期間、段階を下げられて生まれなければならなかったのです。

罰せられる霊たちが、より知性的な霊たちの間に存在するのはそのためです。だからこそ、こうした人種にとって、人生の不運は大変苦く感じられます。道徳観が鈍い原始的な人種よりも、彼らの内面はより敏感なので、人生における支障や不快によってより多くを試されるのです。


十五、結果的に、地球は無限に多様化した試練の世界のうちの一つを提供していますが、そうした世界を明らかにしてみると、共通した特徴として、神の法に対して反抗的な霊たちの追放の場所となっています。

これらの霊たちは同時に、そこで人間の不道徳や自然の残酷さと戦わなければならず、それはまた、心と知性の質を発展させる二重の険しい労働なのです。このように、神はその善意によって、罰そのものが霊の進歩をもたらすようにしているのです。(聖アウグスティヌス パリ 1862年)


 更生の世界
十六、青い空の天井に輝く星の中には、神によって試練と償いのために差し向けられた、あなたたちの世界と同じような世界がどれだけあるでしょうか。あなたたちの世界より惨めな世界も、より良い世界も存在すれば、更生の世界と呼ぶことができる、移り変わりにある世界も存在します。

同じ中心の周りを移動する惑星の渦は、それぞれが原始的な世界、追放の世界、試練の世界、更生の世界、幸福の世界を引きずっています。

善と悪についてはまだ無知ではありながらも、その自由意思によって、自分自身を支配する神へ向かって歩む可能性を持った、生まれたばかりの魂が送られる世界についてすでに私たちは話しました。

また、善を行うために幅広い能力が魂に与えられることも明らかにしました。しかし、ああ、気力を失ってしまう者よ。それでも神はそうした霊たちが抹殺されてしまうことは望まず、生まれ変わりを重ねることによって浄化、更生され、彼らが与えられる栄光に相応しい世界に行くことを許すのです。


十七、更生の世界は、償いの世界と幸せな世界の間の変遷の役割を果たします。後悔する魂はそこで平和と休息を得ることが出来、やがて浄化されていきます。疑いもなく、そのような世界では、人間は未だに物質を支配する法に従わなければなりません。

人類はその感覚や欲望を経験しますが、あなたたちが隷属している無秩序な感情からは解放されており、心を黙らせる自尊心、人類を苦しめる嫉妬、息を詰まらせる憎しみもありません。全ての者の額には愛と言う言葉が書かれています。

社会を完全な平等が支配し、全ての者が神を知り、神の法を守りながら神に向かって歩もうとします。

 しかしながら、これらの世界にあるのはまだ完全な幸せではなく、しあわせの兆しなのです。そこに住む人類はまだ肉体を持っているために完全に物質から脱却した人だけが解放されることになる苦しみを、依然として受ける状態にあります。

いまだに試練に耐えなければなりませんが、償いのような痛々しい苦しみはありません。地球に較べるとこうした世界はとても幸せで、あなたたちのうちの多くの者がそこに住むことに喜びを感じるでしょう。

それは、そうした世界が嵐の後の静けさ、残酷な病気から回復した時のようなところだからです。しかしながら、物質にはわずかしか心を奪われていないため、そこに住む人々はあなたたちよりはっきりと未来を見つめることができます。

真なる命を授かるために死が再び彼らの体を滅ぼした時、主によって約束された、彼らに相応しい他の喜びが存在することを理解しています。そして自由となり、魂はすべての地平線の上を旋回します。物質的で粗暴な感覚はありません。

 ペリスピリト(→和訳注1)の純粋で完全な感覚だけが、神自身から直接放射される、その胸の中心から放たれる愛と慈善の香りを吸い込むのです。


十八、ああ、しかし、これらの世界でも、人間はまだ誤りやすく、悪の霊たちも完全にその統治を失ったわけではありません。前進しないことは後退することであり、善の道をしっかりと踏まなければ、償いの世界に再び戻ることになり、そこで新たな恐ろしい試練がその者を待ち受けることになるのです。

ですから、夜になり休み、祈る時、青い夜空をじっと眺め、あなたたちの頭上に輝く無数の天体のことを想い、地球上での償いを終えた後、どの天体があなたたちを神へと導いてくれるのか自分自身に尋ね、また、更生の世界があなた達を迎えるために開かれることを神にお願いしてください。(16ー18 聖アウグスティヌス パリ 1862年)
   
      
  世界の進歩
十九、進歩は自然の法則です。創造された存在は、動物であれ、静物であれ、すべてが拡大し繁栄することを望む神の善意に服従しているのです。

人間にとってはすべての存在の結末と思えるような破壊でさえも、変遷を通じてより完成された状態に辿り着くための手段に過ぎず、それは、すべてが生まれ変わるために死ぬのであって、消滅させられるものが無いことからも判ります。

 すべての存在が道徳的に進歩すると同時に、彼らの住む世界は物質的にも進歩します。最初の原子が差し向けられ、世界を築くために集まって来た時から、ある世界をそのさまざまな段階において見ることができたとしたら、その世界が絶え間なく進歩する階段を駆け昇っているのが見えるでしょう。

その段差は、それぞれの世代の人々にとっては感じることができませんが、彼ら自身が進歩の道を進むにつれ、ますます住みよい世界となっていくのです。

このように、人間、動物、それらを助ける者たち、植物、そしてすみかは並行して進歩していくのであって、自然界において停止し続けるものは何もありません。この創造主の考えのなんと偉大で、その尊厳のなんと高貴なことでしょうか。

それに引き換え、配慮と用心を取るに足りない一粒の砂でしかない地球だけに集中させ、人類を地球に住むほんの僅かな人間だけであると限定してしまうことの、なんとけちで下劣なことでしょうか。

この世界もかつては今日よりも、道徳的にも物質的にも劣った状態にあったのであり、その法に従えば、この二つの側面においてより進歩した段階へと昇ることになるのです。

地球には変遷の時代が到来しており、その時代には償いの天体から、更生の惑星へと変わっていき、そこには神の法が君臨するために、その世界で人間は幸せになれるのです。(聖アグスティヌス パリ 1862年)
●和訳注1 
 ぺリスピリトとは半物質からできた霊の体を指す。地上に生きる霊は肉体の他にこの体を有しており、死後肉体を捨てるとぺリスピリトのみが霊の体となる。


シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again
Edited by S. Phillips




 編者まえがき

一章 神への祈り

編者まえがき

 ハンネン・スワッハー・ホームサークルの指導霊としてあまねく知られているシルバーバーチの霊言集はすでに数冊出版されているが、読者の要望にお応えして新たにこの一冊が加えられることになったのは有難いことである。これが六冊目となる。他に小冊子が二冊、訓えを要約したものと祈りの言葉を精選したものとが出ている。

 もとより活字ではシルバーバーチの温かい人間味が出せないし、ほとばしり出る愛を伝えることはできない。シルバーバーチは実に威厳のある霊であり、表現が豊かであり、その内容に気高さがあり、しかも喜んで人の悩みに耳を傾け、何者をも咎めることをしない。単純素朴さがその訓えの一貫した性格であり、真理の極印を押されたものばかりである。

 交霊会を年代順に追ったものとしては本書が最初である。一章の中に一回の交霊会の始めから終りまでをそっくり引用したものもあるが、他の二、三の交霊会から部分的に引用して構成したものもある。

私はなるべく同じ霊訓の繰り返しにならないようにしようと思ったが、それはしょせん無理な話だった。シルバーバーチの霊訓の真髄は基本的な霊的真理をさまざまな形で繰りかえして説くことにあるからである。内容的には同じことを言っていても煩をいとわず、その時の言葉をそのまま紹介しておいた。

 これまでの霊言集の中でも説明されているように、シルバーバーチの霊言は速記者によって記録されている。が、シルバーバーチは英語を完璧にマスターしているので、引用に際してはただコンマやセミコロン、ピリオドを文章の流れ具合によって付していくだけでよく、それだけで明快そのものの名文ができあがる。これは驚くべきシルバーバーチの文章能力の為せるわざである。

 さらに付け加えておきたいことは、シルバーバーチはその文章をスラスラと淀みなく口に出しているということである。質疑応答となると、質問者が言い終わるとすぐに答えが返ってくる。

そのあまりの速さに、初めて出席した人は、その会が打ち合わせなしのぶっつけ本番であることが信じられないほどである。

 古くからのシルバーバーチファンは本書を大歓迎してくださるであろうし、初めての方も、本書を読まれることによってきっとシルバーバーチを敬愛する数多くの読者の仲間入りをされることであろう。  
                              S ・ フィリップス



 一章 神への祈り
 いつの交霊会でもシルバーバーチはかならず祈りの言葉で開会する。延べにして数百を数える祈りの中には型にはまった同じ祈りは一つもない。しかしその中味は一貫している。次はその典型的なもののひとつである。

 「神よ、いつの時代にも霊覚者たちは地上世界の彼方に存在する霊的世界を垣間みておりました。ある者は霊視状態において、ある者は入神(トランス)の境地において、そして又ある者は夢の中においてそれを捉え、あなたの無限なる荘厳さと神々しき壮麗さの幾ばくかを認識したのでした。

不意の霊力のほとばしりによる啓示を得て彼らはこれぞ真理なり───全宇宙を支配する永遠にして不変・不動の摂理であると公言したのでした。

 今私どもは彼らと同じ仕事にたずさわっているところでございます。すなわちあなたについての真理を広め、子等があなたについて抱いてきた名誉棄損ともいうべき誤った認識を正すことでございます。

これまでのあなたは神として当然のことであるごとく憎しみと嫉妬心と復讐心と差別心を有するものとされてきました。私どもはそれに代わってあなたの有るがままの姿───愛と叡知と慈悲をもって支配する自然法則の背後に控える無限なる知性として説いております。

 私どもは地上の人間一人ひとりに宿るあなたの神的属性に目を向けさせております。そしてあなたの神威が存分に発揮されるにはいかなる生き方をすべきかを説こうと努めているものでございます。

そうすることによって子等もあなたの存在に気付き、真の自分自身に目覚め、さらにはあなたの摂理の行使者として、彼らを使用せんとして待機する愛する人々ならびに高級界の天使の存在を知ることでございましょう。

 私どもはすべての人類を愛と連帯感を絆として一体であらしめたいと望んでおります。そうすることによって協調関係をいっそう深め、利己主義と強欲と金銭欲から生まれる邪悪のすべてを地上からいっそうすることができましょう。

そして、それに代ってあなたの摂理についての知識を基盤とした地上天国を築かせたいのです。その完成の暁には人類は平和の中に生き、すべての芸術が花開き、愛念が満ちあふれ、すべての者が善意と寛容心と同情心を発揮し合うことでしょう。地上を醜くしている悪徳(ガン)が姿を消し、光明がすみずみまで行きわたることでしょう。

 ここに、己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます」