Friday, December 5, 2025

シアトルの冬 霊媒の書 第2部 本論

The Mediums' Book
16章 霊に尋ねる質問の規範




――尋ねてよいこと・いけないこと


このページの目次

(一)一般論として
(二)未来のことに関する質問について
(三)過去世および来世に関する質問について
(四)世俗的問題に関する質問について
(五)他界後の霊の状況について
(六)健康に関する質問について
(七)発明・発見に関する質問について
(八)他の天体ならびに死後の界層に関する質問について

(一)一般論として


――霊は、出された質問には喜んで答えるものでしょうか。


「それは質問の内容によりけりです。向上心から出た真剣な真理探求のための質問には、高級霊は喜んで応じるでしょう。下らぬ質問には無関心です。」


――真剣な態度で尋ねた質問には真剣な返答が返ってくると思ってよろしいでしょうか。


「そうとばかりも言えません。一つには返答する霊の霊格の程度によって返答の程度が決まるからです。」


――真剣な質問はふざけた霊を追い払いますか。


「ふざけた霊を追い払うのは質問ではありません。質問する人間の霊格です。」


――真面目な霊にとって特に不愉快な質問とはどんなものでしょうか。


「意味のない質問、あるいは面白半分から出る質問です。取り合わないというよりは、不快感を覚えます。」


――反対に低級霊が特に不愉快に思うのはどういう質問でしょうか。


「彼らの無知あるいは狡猾さがあばかれるような質問です。騙そうとしているからです。そういう気遣いのない質問には、本当かどうかに無頓着に、適当に答えます。どんな質問にでも。」


――面白半分に霊界通信を求める者、あるいは俗世的利害関係のからんだ質問をする者はどうでしょうか。


「低級霊を喜ばせるだけです。自分たちも面白半分にやっているのであり、人間を手玉に取って好きに操って喜んでいるのです。」


――ある質問に霊が答えなかった場合、それは答えたくないからでしょうか、それとも高級霊から止められるのでしょうか。


「両方のケースが考えられます。その段階では教えてはならないことというのがあります。また霊が知らなくて答えられないこともあるでしょう。」


――強く求めれば霊も折れて答えてくれることもあるでしょうか。


「ありません。答えてはならないと判断した場合にしつこく求められると、霊は引き上げます。その意味でも、しつこく返答を求めてはいけないのです。真面目な霊は引き上げますから、代わって低級霊がつけ入るチャンスを与えることになるのです。」


――人間から出される問題はどんな霊にでも理解できるのでしょうか。


「そんなことはありません。未熟霊には理解できない問題が沢山あります。しかし、だからといって未熟霊が答えないというわけではありません。地上でも、知りもしないくせに、さも知った風な態度で答える人間がいるのと同じです。」
(二)未来のことに関する質問について


――霊には未来の予知ができるのでしょうか。


「もしも未来のことが分かってしまうと人間は現在のことを疎(おろそ)かにするでしょう。なのに人間がいちばん知りたがるのは未来のことです! こうした傾向は間違いです。スピリチュアリズムは占いではありません。もし未来のこと、あるいは何か他のことについて断固として求めれば、教えてくれるでしょう。知恵のない低級霊が(高級霊が引き上げたスキをついて出て)適当なことをしゃべるでしょう。これは口が酸っぱくなるほど言ってきたつもりですが……」


――でも、こちらから要求していないのに霊の方から予言して、事実その通りになったということがありますが……。


「もちろん霊には未来のことが予知できることがあり、それを知らせておいた方が良いと判断する場合もあれば、高級霊から伝達するように言いつけられる場合もあります。しかし、将来のことを軽々しくあげつらう時は大体において眉唾物とみてよろしい。そういう予言の大半は低級霊が面白半分にやっていることです。予言の信頼度の判断はありとあらゆる事情を考慮して初めてできることです。」


――絶対に信じられない予言はどんな場合でしょうか。


「一般の人々にとって何の役にも立たない場合です。個人的なことは、まずもってまやかしと思ってよろしい。」


――そういうまやかしの予言をする目的は何なのでしょうか。


「大ていは、すぐに信じ込む人間の習性をもてあそんで、脅かしたり安心させたりして喜ぶだけです。が、時として高級霊がわざとウソの予言をして、どういう反応を見せるか――善意を見せるか悪意を見せるか――をテストすることがあります。」


編者注――たとえば遺産がころがり込むといった予言をして、欲の深さや野心をテストする場合などのことであろう。


――真面目な霊が予言をする時に滅多に日時を明確に言わないのはなぜでしょうか。言えないのでしょうか、わざと言わないのでしょうか。


「両方のケースがあるでしょう。ある出来事の発生を予知し、それを警告します。が、それがいつのことかは時として知らせることを許されないことがあり、時として知らせられないこともあります。分からないのです。出来事自体は予知できても、その正確な日時は、まだ発生していない他の幾つかの事情もからんできます。これは全知全能の神にしか分かりません。

そこへ行くと軽薄な霊は人間がどうなろうと一向に構わないのですから、何年何月何日何時何分に、などと好きなことが言えるわけです。その点から言って、あまりに細かい予言は当てにならないと考えてよろしい。

改めて申し上げますが、我々の霊団は人間の霊的向上を促進し、完全へ向けての進化の道を歩むように指導することを使命としているのです。我々との係わりにおいて霊的叡智のみを求めるかぎり、低級霊にたぶらかされることはありません。人間の愚かな欲求や運勢占いに時間を無駄に費やすのにお付き合いさせられるのはご免こうむります。そうした児戯に類することは、そんなことばかりして愉快に過ごしている低級霊に任せます。

そもそも人間に知らしめてよいことには大霊の摂理によって一定の枠が設けられております。その辺の摂理に通じている高級霊は、返答すべきでないことにはあくまでも沈黙を守ります。そうした事情を弁(わきま)えずにしつこく返答を求めることは、低級霊につけ入るスキを与えることになります。彼らは実にもっともらしい口実をこしらえて、人間が有り難がるように話をもっていきます。」


――未来の出来事を予知する能力を授かっている人もいるのではないでしょうか。


「います。物質による束縛を断ち切る力を有している人がいて、その状態において未来の出来事を見ることができます。一種の啓示を受けるのです。そしてその啓示が人類にとって有益と見なされれば、公表することを許されます。しかし、そういう人は例外に属します。一般に予言者と称して災害や不幸を安直に予言している人間はイカサマ師でありハッタリ屋だと思って間違いありません。

ただ言えることは、人類の進化とともに今後ますます予知能力が一般化して行くでしょう。」


――人の死亡年月日の予言を得意にしている霊がいますが、どう理解すべきでしょうか。


「非常に趣味の悪い霊の集団で、その程度のことで人間を感心させて得意になっている低級霊です。相手にしてはいけません。」


――自分の死を予知する人がいますが、これはいかがでしょうか。


「霊が肉体から離れている間に死期が近いことを感知し、それが肉体に戻ってからも意識に残っているケースです。それほどの人になると、その予知によって恐れを抱くことも戸惑うこともありません。一般に“死”と呼んで恐れているものを、ただの“変化”と見なし、譬えて言えば厄介な重苦しいオーバーコートから軽やかなシルクのコートに着替えるのだと考えます。スピリチュアリズムの知識が普及するにつれて死の恐怖は薄らいでいくことでしょう。」
(三)過去世および来世に関する質問について


――霊には人間の過去世が簡単に分かるのでしょうか。


「大霊は、時として、ある特殊な目的のために、いくつかの前世を啓示することを許すことがあります。あくまでも、それを知らせることが当人の教化と啓発に役立つと判断された時にかぎられます。そうした場合は必ず何の前ぶれもなく自然発生的に見せられます。ただの好奇心から求めても絶対に許されません。」


――では、こちらからの要求に喜んで応じていろいろと語ってくれる霊がいるのはなぜでしょうか。


「それは、人間側がどうなろうと意に介さない低級霊のすることです。

一般的に言って、特に大切な意味もない過去世を物語る時は、すべて作り話と思ってよろしい。低級霊は前世を知りたがる人間が有頂天になるように、前世では大金持ちだったとか大変な権力者であったかのような話をこしらえて語ります。また出席者も、あるいは霊媒も、聞かされた話をすべて真実として受け止めます。その時、当人のみならず霊自身もけちくさい虚栄心にくすぐられて、そんな前世と現世との間に何の因果関係もないことまでは思いが至りません。実質的には大金持ちや大権力者だった前世より平凡な今の方が向上していると考える方が理性的であり、進化の理論に適っており、本人にとって名誉なことであるはずなのです。

過去世の啓示は、次の条件下においてのみ信用性があります。すなわち思いも寄らない時に突如として啓示された場合、まったく顔見知りでない複数の霊媒によって同じ内容のものが届けられた場合、そして、それ以前にどんな啓示があったか全く知られていない場合。これだけの条件が揃っていれば信じるに足るものと言えます。」


――かつての自分がいかなる人物であったかが知り得ないとなると、どういう人生を送ったか、また性格上の長所と欠点についても知り得ないことになりましょうか。


「そうとばかりも言えません。知らされる場合がよくあります。それを知ることが進歩を促進すると見なされた場合です。が、およそのことは現在のご自分を分析すればお分かりになるのではありませんか。」


――来世、つまり死後また再生して送る人生について啓示を受けることは有り得るでしょうか。


「有り得ません。有り得るかのごとく述べる霊の言うことは全てナンセンスと思って差し支えありません。その理由は、理性的に考えればお分かりになるはずです。次の物的生活は現在の人生での行いと死後における選択によって決まることであって、今から決まっていることではないからです。

概念的に言えば、罪滅ぼしの量が少ないほどその一生は幸せでしょう。しかし、次の物的生活の場(天体)がどこで、どういう経過をたどるかを予知することは不可能です。ただし、滅多にない例外として、重大な使命を帯びている霊の場合はあらかじめ予定が組まれていますから、予知することは可能です。」
(四)世俗的問題に関する質問について


――霊に助言を求めることは許されますか。


「もちろんです。善良な霊が、真摯に求めてくる者を拒絶することは絶対に有り得ません。とくに“生き方”に関して真剣に意見を求める場合はそうです。あくまでも真剣でないといけません。実生活ではいい加減な生き方をしながら、交霊の場では真剣な振りをする偽善者は受けつけません。」


――プライベートな悩みごとに関してのアドバイスも求めてよろしいでしょうか。


「アドバイスを求める動機と、相手をする霊によっては、許されることがあります。プライベートな悩みごとは普段から親しく係わり合っている指導霊が最も適切です。指導霊は身内のようなものであり、当人の秘めごとにまで通じているからです。だからといって、あまり甘えた態度を見せると引き上げてしまいます。

街角で出会った人に相談を持ちかけるのが愚かであるのと同じで、いくら善良な霊でも、あなたの日常生活について何も知らない霊に助言を求めるのは筋違いというものです。また質問者の霊格と回答霊の霊格とが違いすぎでも、良い結果は得られません。さらに考慮しなければならないのは、いくら親(ちか)しい指導霊であっても、根本的に邪悪性の強い人間には邪霊がついていますから、そのアドバイスも決して感心したものではありません。何らかの体験をきっかけとして善を志向するようになればその霊に代わって別の、より善性の強い霊が指導霊となります。類が類を呼ぶわけです。」


――背後霊は私たちの物的利益のために特別の知恵を授けてくれるものでしょうか。


「授けることを許されることがないわけではありません。事情次第では積極的に援助します。が、ただの金儲けや卑しい目的のためには、善霊は絶対に係わり合わないと思ってください。そういう時に積極的に知恵を授けるのは邪霊です。巧みに誘惑して、あとで欺くのです。

ご注意申し上げますが、霊的浄化のために仮にあなたが艱難辛苦をなめる必要があると見た時、あなたの守護霊や指導霊は、それに対処する心構えを支え、あまり過酷すぎる時に少し和らげることはしても、艱難辛苦そのものを排除するようなことは許されていません。それに耐えることこそあなたのためであり、長い目で見た時はその方が良いからです。守護霊というのは叡智と真の愛情をもった父親のようなものです。欲しがるものを何でも与えるようなことはしませんし、為すべきことを避けるようなことも許しません。」


――仮にある人が相続の問題の最中に死亡したとします。そして、その人が残した遺産の在り処が判らず、公正な解決のためにはその人から情報を得る必要があるとします。そんな時、その霊を呼び出して聞き出すことは許されるでしょうか。


「そういう質問をお聞きしていると、あなたは死というものが俗世的労苦の種からの解放であることをお忘れのようですね。地上への降誕によって失われていた自由をやっと取り戻して喜んでいる霊が、多分その霊の他界によって遺産がころがり込むと期待している遺族の貪欲を満たしてやるために、もはや何の係わりもなくなった俗事の解決に喜んで出てくると思いますか。

“公正な解決”とおっしゃいましたが、世俗的な貪欲に燃える者のために大霊が用意している懲罰の手初めとして、その貪欲な思惑の当てが外れるということにも公正さがあっても良いのではないでしょうか。

もう一つの考え方として、その人の死によって引き起こされる問題は、それに係わる人々の人生の試練の一つなのかも知れません。そうなると、どの霊に尋ねても解決法は教えてもらえないでしょう。大霊の叡智から発せられた宿命として、その者たちに課せられた宿題なのですから。」


――埋蔵された財宝の在り処を教えてもらうのはいけませんか。


「霊格の高い霊はそうした話題にはまったく関心がありません。が、いたずら霊がいかにも霊格が高そうな態度で、ありもしない財宝の話をしたり、実際に隠されている財宝についてはわざと違う場所を教えたりしてからかいます。

そうした行為を大霊が許していることには意味があるのです。本当の財産は働くことによって得るものであることを教えるためです。もしも隠し財宝が発見される時期が来れば、それはごく自然な成り行きで見つかるように配慮されるでしょう。霊が出てきて教えるという形では絶対に発見されません。」


――隠し財宝にはそれを監視する霊がついているというのは本当でしょうか。


「地臭の抜け切らない霊がそういうものに執着しているというケースはあるでしょう。守銭奴が財産を隠したまま死亡して、霊界からそれを油断なく見張っていることはよくあります。それが発見されて奪われてしまうことで味わう無念残念は、蓄財の愚かさを教えるための懲罰です。

それとは別に、地中に住んでいる精霊が自然界の富の監理人のように物語られることがあります。」


ブラックウェル脚注――カルデックが編纂の仕事を託された通信には霊団側によって大きく制約が設けられていて、この精霊の問題もその一つであった。ここではノームとかコボールドと呼ばれる地の精のことを指している。人類とは別の進化のコースをたどっている精霊で、鉱夫や霊視能力者によってその実在が証言されている。思うに、世界各地の伝説で語られているフェアリーとかエルフとかサラマンダーと呼ばれている“原始霊(エレメンタリー)”も同系統に属するものではなかろうか。


訳注――もう一冊の『霊の書』にもいくつかの質問が出ているが、その回答には、あまり深入りしないように、といった感じの配慮がうかがえ、「それはいずれ明らかにされる日も来るでしょう」と述べている箇所がある。
(五)他界後の霊の状況について


――死後どうしているかを尋ねるのは許されますか。


「許されます。ただの好奇心からでなく、思いやる心、あるいは参考になる知識を得たいという願望に発したものであれば、霊は喜んで応じます。」


――霊が自分の死後の苦痛や喜びを語ることは許されているのでしょうか。


「もちろんです。そういう啓示こそ地上の人間にとって大切この上ないものです。死後に待ちうける善悪両面の報いの本質が分かるからです。それまで抱いていた間違った見解を破棄して、死後の生命についての信仰と神の善性への確信を深めようとするようになります。(“神の善性”というと“清浄と穢れ”の観念の強い日本人には奇異の感じを与える。私も訳語に抵抗を覚えるが、“神(ゴッド)”と“悪魔(サタン)”の観念の根強いキリスト教国では“神は善”という捉え方が普通であることに配慮したのであろう――訳注)

スピリチュアリズムの真髄が地上の人間の霊的覚醒にあることを忘れてはいけません。また、そのようにして霊が死後の情報を披瀝することを許されるのは、ひとえにその目的のためであり、さまざまな体験から学んでもらうためのものであることを忘れないでください。死後に待ちうける霊的世界の事情にくわしく通じるほど、現在自分が置かれている、思うにまかせない身の上を嘆くことが少なくなるはずです。そこにこそスピリチュアリズムという新しい啓示の真髄があるのです。」


――招霊した霊がすでに他界した霊なのか生者の霊なのかが明確でない時、そのことをその霊から聞き出すことは許されますか。


「許されます。ただし、そういうことに興味をもつ人間への試練として、知ろうとしても曖昧のままで終わることがあります。」


――もしも他界している霊であれば、自分の死の前後の状況について明確な証拠性のある証言ができるでしょうか。


「死の前後の状況がその霊にとって格別な意味があれば証言できるでしょうが、そうでなければ語りたがらないでしょう。」
(六)健康に関する質問について


――健康についてのアドバイスを求めてもよろしいでしょうか。


「地上生活における仕事の成就には健康であることが第一ですから、霊は人間の健康問題に係わることを許されていますし、しかも皆喜んで勉強しています。しかし、何事にも言えることですが、できの良い霊と悪い霊とがいます。できの悪い霊の言うことを何でも信じるのは考えものです。」


――地上で医学者として名声を博した霊だったら間違いがないでしょうか。


「地上時代の名声というのは全く当てにならないものです。しかも死後も地上的謬見(びゅうけん)を引きずっていることがしばしばです。死んだら直ぐに地上的なものが無くなるわけではありません。地上の学問というのは霊界に比べればチリほどのものでしかありません。上層界へ行くほど学問は深みを増します。そういう世界には地上の歴史にまったく痕跡をとどめていない霊が大勢います。

もっとも、博学であるというだけが高級霊の条件ではありません。皆さんもこちらへ来れば、あれほどの大学者が……と思って驚くほど、低界層で迷っている人が大勢いることが分かります。地上の科学の大先駆者だった人でも、霊性において低かった人は、霊界でも低い界層に所属し、したがってその知識もある一定次元以上のものではありません。」


――地上の科学者が間違った説を立てている場合、そのまま霊界へ行けばその間違いに気づくでしょうか。


「ですから、死後順調に霊性が開発されて自分の不完全さに気づけば、学問上の間違いにも気づき、潔(いさぎよ)くその非を認めるでしょう。が、地上的波動を引きずっているかぎり、地上的偏見から脱け出せません。」


――医者が自分が診察したことのある患者の霊を呼び出して、本当の死因について聞き出し、その間違いを確認することによって医学的知識を広げるということは許されるでしょうか。


「許されることですし、とても有益な勉強になることでしょう。高級霊団の援助が得られればなおさらのことです。ですが、そのためには前もって霊的真理について行き届いた勉強をし、真摯に、そして不幸な人々に対する純真な慈悲心をもって臨む必要があります。労少なくして医学的論文の資料や収入を目当てにするようではいけません。」
(七)発明・発見に関する質問について


――霊が学者の研究や発明に関与することは許されているのでしょうか。


「学問の研究成果が真実であるか否かの確認は、学者の天賦の才に係わる仕事です。人間はあくまでも勤勉と努力によって進歩することが建前ですから、学問も人間自身の労力によって発展しなくてはいけません。努力もせずに結論だけを霊から教わっていては、人間としての功績はどうなりますか。ろくでなしでも労せずして大科学者になれることになりませんか。

発明・発見についても同じことが言えます。しかも新しい発見には有効なタイミングというものがあり、また人間の精神にそれを受け入れる準備ができていないといけません。もしも高級霊にお伺いを立てれば何でも教えてもらえるとしたら、人類の精神的発達に合わせた物事の発生の規律が乱れてしまいます。

旧約聖書にも、神はこう述べたとあります――“額に汗してパンを食せよ”と。この比喩は低次元の界層に属する人類の有るべき姿を見事に表現しております。人間は進化・向上すべき宿命を背負っており、それは努力によって獲得しなければなりません。必要なものが既製服を買うような調子で何の努力もなしに手に入るとしたら、知性の存在価値はどうなりますか。宿題を親にやってもらう小学生のようなものです。」


――でも、学者も発明家も霊界からの援助を受けているのではないでしょうか。


「ああ、それはまた話が別です。ある発見がなされるべき時機が到来すると、人類の進化を担当する霊団がその受け皿になってくれる人物を探し、首尾よく地上にもたらされる上で必要なアイディアをその人物の精神に吹き込みます。もちろん本人は自分のアイディアのつもりです。霊団の方でもその人物の功績となるように仕向けます。というのは、最終的にそれを完成させるのは確かに当人だからです。

人類の発達史における発明・発見は全てそうやって地上に届けられてきたのです。といって、誰でもよいというわけではありません。土地を耕す者、タネを蒔く者、そして穫り入れる者と、それぞれに分担が違います。宇宙の秘中の秘を、それを受け取る資格のない者に簡単に授けるようなことはしません。大霊の計画の推進者として適切な者にのみ、その計画の一端が啓示されます。

あなた方も、好奇心や野心から、スピリチュアリズムの目的から外れた、知らずもがなの宇宙の秘密の探求へ誘惑されるようなことのないよう気をつけないといけません。いたずらに神秘主義的になって、挙げ句には失望・落胆の落とし穴にはまってしまいます。」
(八)他の天体ならびに死後の界層に関する質問について


――他の天体や死後の世界に関する霊界通信にはどの程度の信憑性があるのでしょうか。


「それは通信霊の霊性の発達程度によりけりです。発達程度の低い霊は自分の国から一歩も出たことのない人間と同じで、何も知りません。あなた方はよくその程度の霊にしきりに尋ねています。よしんばその霊が善性が強くて真面目であっても、その述べていることの信憑性は別問題です。ましてそれが意地の悪い霊だと、ただの想像の産物にすぎないことを、さも知った風な態度で述べます。

だからといって信頼のおける情報が絶対に得られないと決め込むのも間違いです。霊性の発達した霊が、後輩である人間の進歩・向上のために、自分が知り得たかぎりでの情報を喜んで提供することがあります。」


――それが間違いない情報であることの証拠は何でしょうか。


「多くの情報をつき合わせてみて全てが一致するということが最大の証拠です。ですが、それ以前の問題として、そういう情報は地球人類の霊性の向上という目的にそって提供されるものであること、したがって、たとえば他の天体の物的ないしは地質学的情報そのものよりも、その天体上の知的存在の霊性面についての情報の方が大切であることを忘れてはなりません。というのも、地質学的なものは、たとえ情報そのものは正確な事実であっても、現段階の地球人類には理解できないでしょう。そんな理解困難な情報は人類の霊性の向上には何の役にも立ちません。どうしても知りたければ、その天体へ再生すればよろしい。」

シアトルの初冬 シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips
八章 真理には無限の側面がある


    作家としても出版業者としても成功をおさめている男性と、心霊知識の普及に健筆を揮っている女性(両者とも氏名は紹介されていない。手掛かりになるものもない──訳者)が招かれた時の様子を紹介する。

 この男性は交霊会は今回が初めてであるが、スピリチュアリズムには早くから親しんでいた。そこでシルバーバーチがこう挨拶した。

 「私はあなたを見知らぬ客としてではなく待ちに待った友として歓迎いたします。どうかサークルの皆さんと思い切り寛いだ気分になっていただき、お互いに学び合ってまいりましょう。

 これまであなたもずいぶん長い道のりを歩んでこられました。けっして楽な道ではありませんでした。石ころだらけの道でした。それをあなたは見事に克服してこられました。あなたご自身にとって、またあなたの愛する方たちにとって重大な意味をもつ決断を下さねばならなかった魂の危機を象徴する、忘れ難い出来ごとが数多くあります」


 これを聞いてその男性は 「少しピンと来ないところがあるのですが」 と述べてから、自分が霊的に飢えていたと言うのはどういう意味かと尋ねた。すると───
p139
 「(通常意識とは別に)あなたの魂が切望していたものがありました。あなたの内部で無意識に求めていたものですが、あなたはその欲求を満たしてやることが出来なかった。

永い間あなたは何かを成就したい、やり遂げたい、我がものにしたいという絶え間ない衝動───抑えようにも抑え難い、荒れ狂ったような心の渇望を意識し、それがしばしば精神的な苦痛を生みました。〝一体自分の心の安らぎはどこに求めたらいいのか。

自分の心の港、心の避難場所はどこにあるのか〟と心の中で叫ばれました。次々と難問は生じるのに回答は見出せませんでした。ですが、いいですか、その心の動乱は実はあなた自身の魂の体質が生んでいたのです。

水銀柱が急速に上昇するかと思えば一気に下降します。あなたは暴発性と沈着性という相反するものを具えたパラドックス的人間です。いかがです、私の言っていることがお分かりになりますか」


───よく分ります。おっしゃる通りです。私なりに偉大な思想家から学ぼうと努力してきたつもりですが・・・・・・

 「私にも真理のすべてをお授けすることはできません。真理は無限であり、あなたも私も同様に有限だからです。
℘140
われわれも無限なるものを宿していることは事実ですが、その表現が悲しいほど不完全です。完全の域に達するまでは真理のすべてを受け入れることはできません。真理とは無限の側面を持つダイヤモンドです。無限の反射光を持つ宝石です。

その光は肉体に閉じ込められた意識では正しく捉らえ難く、その奥の霊の持つ自然の親和力によって手繰り寄せられた部分をおぼろげに理解する程度です。私には〝さあ、これが真理ですよ〟と言えるものは持ち合わせません。あなたが求めておられるものの幾つかについて部分的な解答しかお出しできません。

 あなたは感受性のお強い方です。男性のわりには過敏でいらっしゃいます。それはそれなりの代償を支払わされます。普通の人間には分からないデリケートで霊妙なバイブレーションを感知できるほどの感受性を持っておれば、当然、他の分野でも過敏とならざるを得ません」


───そのことを痛切に思い知らされております。

 「感受性が強いということは喜びも悲しみも強烈となるということです。幸福の絶頂まで上がれるということは奈落の底まで落ちることも有り得るということです。強烈な精神的苦悶を味わわずして霊的歓喜は味わえません。
℘141
二人三脚なのです。私があなたのお役に立てることといえば、たとえ苦境にあってもあなたは決して泥沼に足を取られてにっちもさっちも行かなくなっているのではないこと、何時も背後霊によって導かれているということを理解させてあげることです。

一人ぼっちであがいているのではないということです。幸いなことにあなたは度を過して取り乱すことのない性格をしていらっしゃいます。時には目先が真っ暗に思えることがあっても、自分が望むことは必ず叶えられるとの確信をお持ちです。

 どうぞ自信をもってください。あなたが生きておられるこの宇宙は無限なる愛によって創造され、その懐の中に抱かれているのです。その普遍的な愛とは別に、あなたへ個人的な愛念を抱き、あなたを導き、援助し、利用している霊の愛もあります。それは、よくよくのことがないかぎり自覚していらっしゃいません。私の申し上げたことが参考になりましたでしょうか」


───とても参考になりました。

   ※ ※ ※

 話は前後するが、この交霊会より早く、女性の文筆家が二度招かれていた。この夫人はスピリチュアリズム普及のためにいろいろと書いておられる。が、最近ご主人に先立たれた。シルバーバーチが歓迎の言葉をこう述べた。
℘142
 「あなたのペンの力で生き甲斐を見出してから他界した大勢の人に代わって、私が歓迎の言葉と感謝の気持ちを述べる機会を持つことができて、とてもうれしく思います。私たちにはあなたから慰めを得た人々の心、あなたの健筆によって神の恵みに浴することができた魂が見えるのです。

道を見失える者、疲れ果て困惑しきってあなたのもとを訪れる人々に、あなたは真心を込めて力になってあげられました。自分を人のために役立てること、これが私たちにとって最も大切なのです」


───ご理解いただいているように、ともかく私は人のためにお役に立ちたいのです。

 「私たちの価値判断の基準は地上とは異なります。私たちは、出来ては消えゆく泡沫のような日々の出来ごとを、物質の目でなく魂の知識で見つめます。その意味で私たちは、悲しみの涙を霊的知識によって平静と慰めに置きかえてあげる仕事にたずさわっている人に心から拍手喝采を送るものです。

地上の大方の人間があくせくとして求めているこの世的財産を手に入れることより、たった一人の人間の魂に生甲斐を見出させてあげることの方がよほど大切です。
℘143
 有為転変(ういてんぺん)きわまりない人生の最盛期において、あなたはその肩に悲しみの荷を負い、暗い谷間を歩まねばならないことがありましたが、それもすべては、魂が真実なるものに触れてはじめて見出せる真理を直接(じか)に学ぶためのものでした。

大半の人間がとかく感傷的心情から、あるいはさまざまな魂胆から大切にしたがる物的なものに、必要以上の価値を置いてはいけません。そうまでして求めるほどのものではないのです。いかなる魂をも裏切ることのない中心的大原理即ち霊の原理にしがみつかれることです」
 
 さらにシルバーバーチはその文筆家が主人を亡くしたばかりであることを念頭におきながらこう続けた。

 「あなたが今こそ学ばねばならない大切な教訓は、霊の存在を人生の全ての拠りどころとすることです。明日はどうなるかという不安の念を一切かなぐり捨てれば、きっとあなたも、そのあとに訪れる安らぎと静寂とともに、それまで不安に思っていた明日が実は、これから辿らねばならない道においてあなたを一歩向上させるものをもたらしてくれることに気づかれるはずです。

非常に厳しい教訓ではあります。しかし、すべての物的存在は霊を拠りどころとしていることはどうしようもない事実なのです。
℘144
物的宇宙は全大宇宙を支配する大霊の表現であるからこそ存在し得ているのです。そしてあなたもその身体に生命と活力を与えている大霊の一部であるからこそ存在し得ているのです。物的世界に存在するものはすべて霊に依存しております。言わば実在という光の反射であって、光そのものではないのです。

 私たちとしては、あなた方人間に理想を披歴するしかありません。言葉をいい加減に繕うことは許されません。あなたがもし魂の内部に完全な平静を保つことができれば、外部にも完全な平静が訪れます。

物的世界には自分を傷つけるもの、自分に影響を及ぼすものは何一つ存在しないことを魂が悟れば、真実、この世に克服できない困難は何一つありません。かくして、訪れる一日一日が新しい幸せをもたらしてくれることになります。いかに優れた魂にとっても、そこまでは容易に至れるものではないでしょう。

 しかし人間は苦しい状態に陥ると、それまでに獲得した知識、入手した証拠を改めて吟味しなおすものです。本当に真実なのだろうか、本当にこれでいいのだろうか、と自問します。しかし、これまで何度も申し上げてきたことですが、ここでまた言わせていただきます。万事がうまく行っている時に信念を持つことは容易です。が、

信念が信念としての価値を持つのは暗雲が太陽をさえぎった時です。が、それはあくまでも雲にすぎません。永遠にさえぎり続けるものではありません」
℘145
(訳者注───このあとに続く部分は第四巻の八章「質問に答える」の中で質問(四)として引用されている。次の問答はその続きとしてお読みいただきたい)

───最近の大規模な疎開政策によって家族関係が破壊され、それが責任意識に欠けた若者を生む原因になっていると私は考えるのですが、いかがでしょうか。

 「そういうことも考えられます。が、それがすべてというわけではありません。元来家庭というのは子供の開発成長にとっての理想的単位であるべきなのですが、残念ながらこれにも多くの例外があります。

私が思うに、暴力行為を誘発すると同時に道徳基準を破壊してしまうという点において、やはり何といっても戦争が最大の原因となっております。一方で相手を殺すことを奨励しておいて、他方で戦争になる前のお上品さを求めても、それは無理というものです」

───結局、社会環境を改善するしかないように思います。
℘146
 「そのために霊的実在についての知識を普及することです。自分が霊的存在であり物的存在ではないこと、地上生活の目的が霊性の開発と発達にあることをすべての人間が理解すれば、これほど厄介な野獣性と暴力の問題は生じなくなることでしょう」


 これにサークルのメンバーが 「そうなれば当然戦争などは起こり得ないですね」 と相づちを打つと、シルバーバーチが───

 「人類の全てが霊性を認識し、人類という一つの家族の一員としてお互いの間に霊という不変の絆がありそれが全員を家族たらしめているということを理解すれば、地上から戦争というものが消滅します」


 別のメンバーが 「それがいわゆる不戦主義者の態度なのですね?」と述べると───

 「私はラベルには関心はありません。私はなるべく地上のラベルには係わり合わないようにしております。理想、理念、動機、願望───私にとってはこうしたものが至上の関心事なのです。たとえば自らスピリチュアリストを持って任じている人が必ずしもスピリチュアリズムを知らない人よりも立派とは言えません。

不戦主義者と名のる人がおり、その理念が立派であることは認めますが、問題は結局その人が到達した霊的進化の程度の問題に帰着します。
℘147
不完全な世の中に完全な矯正手段を適用することは出来ません。時には中途半端な手段で間に合わせざるを得ないこともあります。世の中が完全な手段を受け入れる用意が出来ていないからです。

こちらの世界では高級な神霊はまず動機は何かを問います。動機がその行為の指標だからです。もしその動機が真摯なものであれば、その人の願望はまるまる我欲から出たものではないことになり、したがって判断の基準も違ってきます」

(訳者注───最後に述べている〝まるまる我欲から出たものではない〟というセリフは注目すべきであろう。前巻でも注釈しておいたことであるが、シルバーバーチは〝利己性〟をすべていけないものとは見ていない。

霊的なものに目覚めた当初はとかく完全な純粋性を求め、それが叶えられない自分を責めがちであるが、肉体という〝悲しいほど不自由な牢〟に閉じ込められている人間に、そのような完全性を求めるつもりはさらさらないようである。だから〝動機さえ正しければ〟ということになるのである)


 ここで先ほどの女性が 「立派な兵士と真面目な不戦主義者とがともに正しいということもあり得るのですね」 と述べると───
℘148         
 「その通りです。二人の動機は一体何かを考えればその答えが出ます。何ごとも動機がその人の霊的発達の程度の指標となります」

───こういう場合には自分だったらこうするだろうということは予断できないと思うのです。

 「そうなのです。なぜかと言えば、人間はその時点までに到達した進化の程度によって制約されていると同時に、地上生活での必需品として受け継いだ不可避の要素(前世からの霊的カルマ、肉体の遺伝的要素などが考えられる───訳者) の相互作用の影響も受けるからです。ですから、常に動機が大切です。

それが、どちらが正しいかを判断する単純明快な基準です。かりに人を殺めた場合、それが私利私欲、金銭欲、その他の利己的な目的が絡んでいれば、その動機は浅はかと言うべきでしょうが、愛する母国を守るためであれば、その動機は真摯であり真面目です。

それは人間として極めて自然な情であり、それが魂を傷つけることにはなりません。ただ残念なことに、人間は往々にしてその辺のところが曖昧なことが多いのです」

 別のメンバーが 「でも、もちろんあなたは人を殺めるということそのものを良いことだとは思われないでしょう」 と言うと、
℘149
 「もちろんです。理想としては殺し合うことは間違ったことです。ですが、前にも述べたことがありますように、地上世界では二つの悪いことの内の酷くない方を選ばざるを得ないことがあるのです」

(訳者注─── この後の死刑制度についての問答は同じく第四巻の 「質問に答える」 の質問(四)の最後に引用されているが、これをカットすると脈絡が取れにくくなるので再度掲載しておく)


───死刑制度は正しいとお考えですか。

 「いえ、私は正しいと思いません。これは〝二つの悪いことの酷くない方〟とは言えないからです。死刑制度は合法的殺人を許していることでしかありません。個人が人を殺せば罪になり国が人を処刑するのは正当という理屈になりますが、これは不合理です」


───反対なさる主たる理由は、生命を奪うことは許されないことだからでしょうか。それとも国が死刑執行人を雇うことになり、それは雇われた人にとって気の毒なことだからでしょうか。
℘150
 「両方とも強調したいことですが、それにもう一つ強調しておきたいのは、いつまでも死刑制度を続けているということは、その社会がまだまだ進歩した社会とは言えないということです。なぜなら、死刑では問題の解決にはなっていないことを悟る段階に至っていないからです。それはもう一つの殺人を犯していることにほかならないのであり、これは社会全体の責任です。それは処罰にはなっておりません。ただ単に別の世界へ突き落しただけです」


───そのうえ困ったことに、そういう形で強引にあの世へ追いやられた霊による憑依現象が多いことです。地上の波長に近いためすぐに戻って来て誰かに憑依しようとします。

 「それは確かに事実なのです。霊界の指導者が地上の死刑制度に反対する理由の一つにそれがあります。死刑では問題を解決したことになりません。さらに、犯罪を減らす方策───これが方策と言えるかどうか疑問ですが───としても実にお粗末です。そのつもりで執行しながら、それが少しもその目的のために役立っておりません。
℘151
残虐行為に対して残虐行為を、憎しみに対して憎しみを持って対処してはなりません。常に慈悲心と寛恕と援助の精神を持って対処すべきです。それが進化した魂、進化した社会であることの証明です」


───そこまで至るのは大変です。

 「そうです、大変なのです。しかし歴史のページを繙けば、それを成就した人の名が燦然たる輝きを持って記されております」


───憑依現象のことですが、憑依される人間はそれなりの弱点を持っているからではないかと思っています。つまり、土の無いところにタネを蒔いても芽は出ないはずなのです。

 「そうです。それは言えます。もともとその人間に潜在的な弱点がある、つまり例によって身体と精神と霊の関係が調和を欠いているのです。邪霊を引きつける何らかの条件があるということです。アルコールの摂り過ぎである場合もありましょう。薬物中毒である場合もありましょう。
℘151
度を越した虚栄心、ないしは利己心が原因となることもあります。そうした要素が媒体となって、地上世界の欲望を今一度満たしたがっている霊を引きつけます。意識的に取り憑く霊もいますし、無意識のうちに憑っている場合もあります」


 その日の交霊会の終りに、最近一人娘を失ったばかりの母親からの手紙が読み上げられた。その手紙の主要部分だけを紹介すると───

 〝私は十九歳のひとり娘を亡くしてしまいました。私も夫も諦めようにも諦めきれない気持ちです。私たちにとってその娘が全てだったのです。私たちはシルバーバーチの霊言を読みました。シルバーバーチ霊はいつでも困った人を救ってくださるとおっしゃっています。

(肢体不自由だった)娘は十九年間一度も歩くことなく、酷しい地上人生を送りました。その娘が霊界でぶじ向上しているかどうか、シルバーバーチ霊からのメッセージがいただけないものでしょうか。地上で苦しんだだけ、それだけあちらでは報われるのでしょうか。私は悲しみに打ちひしがれ、途方に暮れた毎日を生きております〟


 これを聞いたシルバーバーチは次のように語った。
℘153
 「その方にこう伝えてあげてください。神は無限なる愛であり、この全宇宙における出来ごとの一つとして神のご存知でないものはありません。すべての苦しみは魂に影響を及ぼして自動的に報いをもたらし、そうすることによって宇宙のより高い、より深い、より奥行きのある、側面についての理解を深めさせます。

娘さんもその理解力を得て、地上では得られなかった美しさと豊かさをいま目の前にされて、これからそれを味わって行かれることでしょう。

 また、こうも伝えてあげてください。ご両親は大きなものを失われたかもしれませんが、娘さん自身は大きなものを手にされています。お二人の嘆きも悲しみも悼みも娘さんのためではなく実はご自身のためでしかないのです。ご本人は苦しみから解放されたのです。

死が鳥かごの入り口を開け、鳥を解き放ち、自由に羽ばたかせたことを理解なされば、嘆き悲しむことが少しも本人のためにならないことを知って涙を流されることもなくなるでしょう。やがて時が来ればお二人も死が有難い解放者であることを理解され、娘さんの方もそのうち、死によって消えることのない愛に満ちた、輝ける存在となっていることを証明してあげることができるようになることでしょう」

 こう述べてから、次の言葉でその日の交霊会を結んだ。

 「地上で死を悼んでいる時、こちらの世界ではそれを祝っていると思ってください。あなたがたにとっては〝お見送り〟であっても、私たちにとっては〝お迎え〟なのです」

℘154
 さて次の交霊会にも同じ女性文筆家が出席した。シルバーバーチは開会早々こう述べた。

 「今あなたを拝見して、前回の時よりオーラがずっと明るくなっているのでうれしく思います。少しずつ暗闇の中から光の中へ出てこられ、それとともにすべてが影に過ぎなかったという悟りに到達されました。本当は今までもずっと愛の手があなたを支え、援助し、守っていてくださったのです。同じ力が今なお働いております。

 今のあなたには微かな光を見ることができ、それが暗闇を突き破って届いてるのがお分かりになります。その光はこれから次第に力を増し、鮮明となり、度合いを深めていくことでしょう。あなたは何一つご心配なさることはありません。愛に守られ、いく手にはいつも導きがあるとの知識に満腔の信頼を置いて前進なさることです。

 来る日も来る日もこの世的な雑用に追いまくられていると、背後霊の働きがいかに身近なものであるかを実感することは困難でしょう。しかし事実、常に周りに存在しているのです。あなた一人ぼっちでいることは決してありません」
℘155
───そのことはよく分かっております。なんとかして取越苦労を克服しようと思っています。

 「そうです敵は心配の念だけです。心配と不安、これはぜひとも征服すべき敵です。日々生ずる一つ一つにきちんと取り組むことです。するとそれを片付けていく力を授かります。

 今やあなたは正しい道にしっかりと足を据えられました。何一つ心配なさることはありません。これから進むべき道において必要な導きはちゃんと授かります。私にはあなたの前途に開けゆく道が見えます。もちろん時には暗い影は過(よぎ)ることがあるでしょうが、あくまでも影にすぎません。

 私たちは決して地上的な出来ごとに無関心でいるわけではありません。地上の仕事にたずさわっている以上は物的な問題を理解しないでいるわけにはまいりません。現にそう努力しております。しかし、あくまでも霊の問題を優先します。

物質は霊のしもべであり主人ではありません。霊という必須の要素が生活を規制し支配するようになれば、何ごとが生じても、きっと克服できます。

 少しも難しいことは申し上げておりません。きわめて単純なことなのです。が、単純でありながら、大切な真理なのです。
℘156
満腔の信頼、決然とした信念、冷静さ、そして自信───こうしたものは霊的知識から生まれるものであり、これさえあれば、日々の生活体験を精神的ならびに霊的成長を促す手段として活用していく条件としては十分です。

地上を去ってこちらへお出でになれば、さんざん気を揉んだ事柄が実は何でもないことばかりだったことを知ります。そして本当にためになっているのは霊性を増すことになった苦しい体験であることに気づかれることでしょう」

 最後に同じく夫を悲劇の中に失った未亡人に対して次のように述べた。

 「あなたからご覧になれば、私がこうして教訓やメッセージをお伝えできることから、私にはどんなことでも伝えられるかに思われるかも知れませんが、私には私なりにどうしても伝えきれないもの、私に適性が欠けているものがあることを常に自覚しております。

なにしろ私たちには五感では感識できない愛とか情とか導きとかを取り扱わねばならないのです。こうしたものは地上の計量器で計るような具合には参りません。

それでも尚、その霊妙な力は、たとえ地上的な意味では感識できなくても、霊的な意味ではひしひしと感識できるものです。愛と情は霊の世界では人間の想像をはるかに超えた実在です。あなたが固いとか永続性があるとか思っておられるものよりずっとずっと実感があります。
℘157
私が今ここで、あなたのご主人はあなたへの愛に満ちておられますと申し上げても、それは愛そのものをお伝えしたことにはなりません。言葉では表現できないものをどうしてお伝えできましょう。そもそも言葉というのは実在を伝えるにはあまりにお粗末です。情緒や感情や霊的なものは言語の枠を超えた存在であり、真実を伝えるにはあまりに不適切です」


 ここで未亡人が「主人が今私に何を告げたいかは私の心の中で理解しているとお伝えください」と言うと、

 「次のことをよく理解してください。これは以前にも申し上げたことですが、地上を去って私たちの世界へ来られた人はみな、思いも寄らなかった大きな自己意識の激発、自己開発の意識のほとばしりに当惑するものです。肉体を脱ぎ棄て、精神が牢から解放されると、そうした自己意識のために地上での過ちを必要以上に後悔し、逆に功徳は必要以上に小さく評価しがちなものです。

 そういうわけで、霊が真の自我に目覚めると、しばらくの間は正しい自己評価ができないものです。こうすればよかった、ああすべきだったと後悔し、せっかくの絶好のチャンスを無駄にしたという意識に苛(さいな)まれるものです。実際にはその人なりに徳を積み、善行や無私の行為を施しているものなのですが、その自覚に到達するには相当な期間が必要です」

Thursday, December 4, 2025

シアトルの初冬 霊媒の書 第2部 本論

The Mediums' Book
15章 “招霊”にまつわる様々な問題



訳注――本章は英語でEvocation(エボケーション)となっている。英和辞典を引いてみられると分かるが、語源的には霊にかぎらず記憶や感情などを呼び起こしたり呼び覚ましたりすることで、スピリチュアリズムでは霊を霊媒に乗り移らせて語らせる、いわゆる“招霊会”をさす。

が、そうした概念は人間側の受け止め方であって、霊側としては祈りなどに感応してその人の身辺に来る場合や生者の霊、つまりすでに再生している人間が幽体離脱して出現する場合も念頭にあるようである。カルデックは前置きで低級霊の場合と高級霊の場合とを区別して詳しく論じているが、煩雑すぎる嫌いがあるので割愛した。日本語では招喚・招請・招聘といった用語が居ながらにしてその違いを適確に表現してくれているので便利である。

この招霊ないし降霊の行事は世界でも日本が遥かに先輩格であると断言できる。大嘗祭などにも純粋な形で取り入れられている。もちろん世界各国で太古からあったが、西洋ではキリスト教が広まってからは忌み嫌われ、魔女狩りなどの原因ともなった。キリスト教には死者の霊は最後の審判の日まで墓地で眠っているという信仰があり、それを無理やり呼び起こしてはいけないとの信仰からで、キリスト教によるスピリチュアリズムへの弾圧はすべてそこから発したと言ってもよいほどである。

しかしその信仰が間違っていることが明らかになった今日では西洋でもよく行われるようになり、ウィックランドの『迷える霊との対話』に見られるような地縛霊の救済活動の一環として、霊界側の主導のもとに行われているものもある。

一方、安直に霊を呼び出してお告げを聞いたり自動書記などを受け取っているサークルが、日本でも西洋でもずいぶんあるようである。が、前にも述べたように、スピリチュアリズム活動の一環として霊団の守護と指揮のもとに行われているもの以外は極めて危険であることを、本章の一問一答からしっかり理解していただきたい。
一問一答


――霊は霊能者でなくても呼び出すことができますか。


「誰にでもできます。客観的に姿を見せることはできなくても、ちゃんと近くにいて、あなた方の要望を聞くことができます。」


――呼ばれたら必ず出るものなのですか。


「それはその時の霊の置かれている条件によって違ってきます。出たくても出られない事情もあります。」


――出られなくする事情はどんなものでしょうか。


「まず第一に本人に出る“意志”があるかどうかの問題があります。次に、すでに再生している場合であれば、その身体の状態(睡眠中か覚醒中か)が問題です。また、再生にそなえて待機している場合であれば、その使命がいかなるものであるかによります。さらには、通信が許されているのにそれが破棄される場合もあります。

現在の霊性の発達程度が地球レベルより低い場合は、通信したくてもできません。また贖罪界に身を置いている場合は、地上の人間にとって有益と見なされた場合にかぎって高級霊の援助を得て出ることが許されますが、通常は出られません。

要するに呼ばれて出るためにはその世界の霊的発達レベルに相応しい霊性を身につけた者でないといけません。そうしないと、たとえ出てもその世界に馴染みがなく、従って親和力によるつながりが取れません。

もっとも、例外として特殊な使命を帯びている者、あるいは高い霊性を有しながら大きな悪行を犯し、その贖罪のために一時的に下層界へ“追放”されている者が出ることを許されることがあります。その豊富な体験的知識が役に立つからです。」


――通信が許されていたのにそれが破棄されるとおっしゃいましたが、どういう理由によるのでしょうか。


「その霊自身もしくは呼び出そうとしている人間のどちらかへの試練ないしは懲罰です。」


――この広大な宇宙にあまねく散在する霊や他の天体上で生活している霊が、どうやってこの遠い地球からの呼び出しに応じられるのでしょうか。


「その霊をよく知っている親和性のある他の霊が前もって察知し、あなた方の意図を伝えます。が、その連絡はあなた方には説明できない霊界特有の方法で行われます。霊の思念による伝達は人間には理解できません。強いて言えば、招霊に際してあなた方が発する思念の衝撃波が、どんなに遠く離れていても一瞬の間にその霊に届き、それが電気ショックのように意識に伝わります。そこでその霊は注意をその方向へ向けます。地上では“話された言葉を聞く”わけですが、こちらでは“思念を聞く”とでも表現しておきましょうか。」


――地上では空気が音の媒体をしているわけですが、そちらでは普遍的流動体(エーテル)が思念の媒体をしていると考えてよろしいでしょうか。


「いいでしょう。ただ違うのは、音が伝わる距離には限界がありますが、思念には限界がない――無辺際だということです。招霊される霊というのは、言うなれば、広大な平原を旅している時に突如として呼び止められて、その声のする方向へ足を向けるようなものです。」


――霊にとって距離が問題でないことは知っております。ですが、招霊会で時おり驚くのは、呼び出すと同時に、あたかもあらかじめ呼ばれることを承知していてそこに待機していたかのように、間髪を入れず出現することです。


「招霊されることが予知されていた時にはそういうことがあります。前にも述べたように、霊によっては招霊されることをあらかじめ察知していて、正式に呼ばれた時にはすでにその場にいるということがよくあります。」


――呼び出す人間の思念は、事情にもよるでしょうけど、その霊に簡単に届くものでしょうか。


「もちろんです。両者の関係が霊的に親和性ないし好感度が高い場合はインパクトが強くなります。親しみ深い声のように響きます。そういうものがない時は“流産”することがあります。霊的摂理にのっとった形で行われた招霊の思念は見事にその霊に突きささりますが、ぞんざいに行われたものは宇宙空間に消滅してしまいます。皆さんでもそうでしょう? ぞんざいな、あるいは無礼な呼びかけられ方をされたら、声は聞こえていても、耳を傾ける気にはならないでしょう。」


――お呼びがかかった霊は自ら進んでそれに応じるのでしょうか。それとも仕方なく出てくるのでしょうか。


「高級霊は常に大霊の意志、つまり宇宙を支配する摂理に従います。ただ、“仕方なく”という言い方は適切ではありません。出るべきかどうかの判断を自ら下しますし、そこに自由意志があります。高級霊でも、自分が出ることに意義があると判断すれば必ず出ます。面白半分に呼ばれた時は絶対に出ません。」


――要請を拒否できるということでしょうか。


「当然です。もし拒否できないとしたら自由意志はどうなりますか。宇宙の全存在が人間の命令に従うべきだとでも思っていらっしゃるのですか。呼ばれる側の立場にご自分を置いてごらんなさい。名前を呼ばれたらいちいち出なければならないとしたらどうなります? 私が今、霊は要請を拒否できる、と申し上げたのは、人間側の勝手な要請のことであって、出るべきでありながら拒否するという意味ではありません。低級霊が招喚された時は、たとえ嫌がっても、高級霊が強制的に出させます。」


訳注――“強制的に出させる”といっても、その関係は高級霊と低級霊との関係だけで成立するものではなく、招霊会の司会者(さにわ)の霊格・霊力がカギとなる。

私は師の間部詮敦氏のもとでさまざまな霊の招霊に立ち会ったが、ワルの親玉みたいのが出た時は恐怖心を覚えたので今でも鮮明に覚えている。霊媒は浅野和三郎氏によって養成された宮地進三という方で、真夏のことなので間部氏は浴衣(ゆかた)姿であぐらをかいて、うちわで扇ぎながら気楽な態度で霊と語っておられた。が、いよいよそのワルが出た時は鬼気迫る雰囲気となった。そして開口一番こう言い放った――

「うーむ、お前には参った。とうとう負けたな。これまでは陰に隠れていて見つからなかったが、今度ばかりはやられた。ところで、まずは一杯酒をくれんか」

すると間部氏は姿勢を正して正座し、手を合わせて瞑目し、

「はい、どうぞ」と言うと、霊はさもうまそうにゴクゴクと飲む仕草をした。むろん本物の酒ではなく、意念でこしらえたものだった。そのあと二言三言交わしてから霊団側に引き渡された。

間部氏は昼間に霊査をして招霊する必要のある霊に目星をつけておき、夜中にそうした処置をしておられた。間部氏の霊力が強かったからこそ霊団側も威力が発揮できたのである。


――招霊会の司会者(さにわ)はどんな霊でも強引に呼び出すことができるのでしょうか。


「とんでもない。霊格の高い霊ないしは同等の霊に対してはそういう権限は許されません。が、霊格の低い霊に対しては許されます。ただし、招霊することがその霊にとって有益である場合に限られます。その場合には霊団による援助が得られるということです。」


――悪霊・邪霊の類いを呼び出すことは感心しないでしょうか。呼び出すことは彼らの影響下にさらす危険を冒すことになるのでしょうか。


「悪霊・邪霊の類いはただ威張り散らすだけですから、高級霊団の援助のもとに行うのであれば何一つ恐れることはありません。イザとなれば霊団の方で抑え込みます。彼らの餌食になる心配はありません。ただし、たった一人で行う時、あるいは出席者がいても初心者ばかりの時は、その種の招霊は控えた方がよろしい。」


――招霊会では何か特別の雰囲気をかもし出す必要がありますか。


「高級霊との対話を求める上で何よりも大切なのは、目的の真摯さと集中力です。そして高級霊を招聘する上で最も強力な力となるのは大霊への信仰心と善を志向する熱意です。招霊に先立っての数分間の祈りを通して魂を高揚し、高き界層の霊と感応し、交霊会へお出でいただくよう取り計らうのです。」


――信仰心は招霊のための不可欠の条件でしょうか。


「大霊への信仰心は必要です。が、真理探求と霊性の向上を志向する真摯なる願望があれば、それは自ずと信仰心を高めることになり、改めて信仰心を意識する必要はありません。」


――思念と動機において一致したサークルでは善霊を呼び寄せる力が増すものでしょうか。


「最高の成果が得られるのは、メンバー全員が慈悲心と善意によって結ばれている時です。人間側の思念と感情の乱れほど招霊を妨げるものはありません。」


――交霊会の初めに全員が手を結び合って輪をつくるのは効果的でしょうか。


「手を結び合うのは物理的行為であり、思念と感情においてつながっていなければ何にもなりません。それよりも大切なのは、お出でいただきたいと願っている高級霊にその願いを発信する上で、全員が思念と動機において一体となることです。人間的煩悩の一切から解放された真摯な求道者が、互いを思いやる心において一体となって忍耐強く努力する時、どれほど素晴らしい成果が得られるか、あなた方はご存じありません。」


――招霊会の日時はあらかじめ決めて表明しておいた方がよろしいでしょうか。


「その方がよろしい。そして、なるべく同じ部屋で催すことが望ましいです。霊が容易に、そして気持ち良く訪れることができます。出席者の真面目さと同時に志操の堅固さも、霊の訪れと交信を容易にします。霊にも仕事があるのです。不意に呼ばれて、人間の下らぬ好奇心のために仕事を放っておいて出てくるわけにはまいりません。

今、同じ部屋が望ましい、と言いましたが、それにこだわる必要はありません。霊はどこへでも行けます。私が言いたかったのは、招霊のために用意した一定の部屋の方が、集まるメンバーの意念の集中が得られやすいということです。」


――魔よけとかまじない札を用いる人がいますが、こうしたものに善霊を引き寄せたり悪霊を追い払ったりする力があるのでしょうか。


「今さらそのような質問をなさることもないでしょう。物には霊に対して何の影響力もないことくらい、ご存じのはずです。少し気の利いた霊ならそんな愚かなことは説きません。お守りの効用は信じやすいお人好しの想像の中にしか存在しません。」


ブラックウェル脚注――そうは言ってもお守りの力を信じるということが、霊に対してではなく当人の意念の集中力を助け、結果的には招霊の力を増すことになるとも考えられるのではなかろうか。


――霊によってはひどく陰湿な場所や、なぜこんな時刻にと思われる時刻を指定してくることがあるのですが、これはどう理解したらよろしいでしょうか。


「人間を困惑させて喜んでいるにすぎません。そういう注文に応じるのは無意味であると同時に、時には危険でさえあります。無意味というのは、担がれるだけで何も得るものがないこと。危険というのは、霊から何かをされるという意味ではなく、そういう理不尽な指定をされることによって、あなた方の脳に悪影響が及ぶからです。」


――霊を招くのに都合の良い日にちや時刻というのがあるのでしょうか。


「物質界の条件で霊にとって重要なことというものは何もありません。日にちや時刻に影響力があるかに考えるのは迷信です。最も都合のよい日時というのは招霊する側(司会者と出席者)に日常的な雑念がなく心身ともに平静な時です。」


――そもそも招霊というのは霊にとって有り難いことでしょうか、迷惑なことでしょうか。呼ばれると喜んで出てくるものでしょうか。


「それはその招霊会の性格と動機しだいです。気高い意義のある目的のためのもので、出席者やその場の波動に親和性を感ずれば、気持ちよく出てくるでしょう。霊の中にはそれを楽しみに待っている者もいるのです。というのも、死後、人間界から見捨てられた気分で悲嘆にくれている者が多いからです。

ですが、前にも述べたことですが、全ては本人の性格によります。人間嫌いもいます。そういう霊はたとえ出てきても不快をあらわにするでしょう。とくに見ず知らずの人間から呼ばれたら、まともには相手にしません。出なければならない理由がないからです。とくに好奇心から招霊された時は、たとえ出ても直ぐに帰るか、初めから出ないこともあります。自分が出ることに何か特別な意義でもあれば別ですが……」


――招霊されて喜ぶのは善霊と邪霊のどちらでしょうか。


「邪霊というのは人間を騙して操る目的で自分から出るもので、招霊されることは喜びません。悪行をとっちめられるのではないかと警戒するからです。ちょうどイタズラをした子供が隠れて出てこないように、呼ばれてもしらばっくれています。が、高級霊が折檻と向上と人間への教訓を目的として強制的に招喚することがあります。

下らぬ目的のための招霊会には高級霊は出たがりません。まったく出ないか、たとえ出ても直ぐさま引き上げます。皆さんでも同じと思いますが、遊び半分の好奇の対象とされることを嫌います。人間は、あの霊はどんな話をするだろうか、地上でどんな生活をしたのだろうかといった、余計なおせっかいと言いたくなるようなことを聞くために霊を呼び出そうとしますが、考えてもごらんなさい。まるで証人席に立たされて尋問されるような立場に置かれるのを快く思うでしょうか。少し目を醒ましていただかないと困ります。地上でされることが嫌なことは霊になっても嫌なものです。」


――霊は招かれないかぎり出ないものでしょうか。


「そんなことはありません。霊は呼ばれなくてもしばしば来ております。自らの意志でです。」


――自ら進んで出る場合は、その述べる身元も信じられるのでしょうか。


「とんでもない。邪霊はしばしばその手を使います。人間を騙しやすいからです。」


――霊を呼び出すのは思念で行うわけですが、自動書記とか霊言その他の現象はなくても来ているのでしょうか。


「現象は霊の実在の証しにすぎません。呼び寄せるのは思念です。」


――出てきたのが低級霊だと判明した時、引き下がってもらうにはどうすればよいでしょうか。


「取り合わないことです。ですが、そもそもそういう低級霊につけ入られるような愚かなことをしていながら、それに感応して出てきた霊がどうして簡単に引き下がりましょう? 人間界と同じで、魚心あれば水心です。」


――神の御名のもとに招霊すれば邪霊の出現は防げるでしょうか。


「全ての邪霊に通用するとはかぎりません。神の御名の響きでたじろぐ者はかなりいるでしょう。信仰心と誠意をもって唱えれば低級霊は逃げますし、それに強烈な信念が加わればさらに効果的でしょう。ただの紋切り型の呪文を唱えるだけではだめですが……」


――名前を呼ぶことによって複数の霊を同時に招霊できますか。


「別に難しいことではありません。またもし三人ないし四人の自動書記霊媒がいれば同時に三人ないし四人の霊からのメッセージが綴られるでしょう。数人の霊媒を用意しても同じことができます。」


――複数の霊を招霊し、霊媒は一人という場合、優先順位はどうなるでしょうか。


「霊媒との親和性がいちばん高い霊が代表して総合的な内容の通信を書きます。」


――逆に一人の霊が同時に二人の霊媒を通して自動書記通信を送ることができますか。


「地上でも複数の書記に同時に書き取らせることができるのと同じです。」


――一人の霊が複数の場所から同時に招霊された場合、同じ質問に同時に答えることができますか。


「できます。高級霊にかぎりますが……」


――その場合、霊は自分を分割するのでしょうか、それとも同時にどこにでも存在する能力があるのでしょうか。


「太陽は一つです。が、その光は全方向へ放射し、桁外れの距離まで届きます。霊も同じです。高級霊から発した想念は閃光のようなもので、一瞬のうちに全方向へ飛散し、どこにいても感得されます。霊性の純粋度が高ければ高いほど遠くまで届き、幅広く飛散します。低級霊は物質性が強いためにそうした能力はなく、一度に一人の質問にしか答えられません。別のところに招霊されている時は出られません。

なお、高級霊が同時に二つの場所から呼ばれた時、双方の霊媒の真摯さと熱意が同等であれば双方に出ますが、大きな差があれば、より真摯で熱意の強い方に出ます。」


――再生の必要がなくなった超高級霊でも出てくださいますか。


「出ます。しかし滅多にないものと思ってください。よほど純粋で真摯な心の持ち主としか語り合いません。高慢さや私利私欲が目立つような人間とは絶対に語り合いません。ですから、大変な高級界からやってきたかのような言説を軽々しく吐くような霊にはよくよく注意が肝要です。低級霊ですから。」


――歴史上の大変な著名人がいたって平凡な人間の招きに応じて簡単に、そして気さくに出てくるのはどう理解したらよいでしょうか。


「人間はとかく霊を人間的尺度で評価しがちですが、それは間違いです。地上時代の地位は肉体の死とともに消滅します。残るのは善性だけです。そして人間を見る尺度も、同じく霊的な善性のみです。善霊は善が行われる所ならどこへでも赴きます。」


――死後どれくらいたつと招霊できるのでしょうか。


「死の直後でもできないことはありません。ですが、霊的意識が混乱していますから、まともな対話はできないでしょう。」


――ということは死後しばらくしてからの方が良いということでしょうか。


「大体においてそうです。死の直後は眠りから覚めたばかりの人間に語りかけるようなものです。ですが、別に問題ないケースもあります。むしろ招霊して語りかけてやった方がその意識の混乱状態から脱け出るきっかけとなることもあります。」


――死ぬ前は自我意識さえ覚束なかったほどの幼な子が、招霊してみるとしっかりとした知性をそなえていることがあるのは、どうしてでしょうか。


「幼児の魂といっても魂そのものが幼いわけではなく、肉体という産着(うぶぎ)でくるまれているために幼く見えるだけです。死によってその束縛から放たれると、本来の霊としての能力を取り戻します。霊には年齢はありません。幼児の霊が大人のような知性で対話に応じることができるということは、その霊はかつて大人にまで成長した前世があるということを意味します。もっとも、死後しばらくは幼児としての個性をいくらか留めてはいるでしょう。」


編者注――死の直前までの状態が死後しばらく尾を引くのは、精神病患者にも見られる。霊そのものは異常ではないのであるが、正常な人間と同様に死んだことに気づかずに地上的波動の中で過ごしているので、精神が正常な働きを取り戻せないでいることがある。その反応は精神病の原因によってさまざまであるが、中には死の直後から完全な精神機能を取り戻す人もいる。


――動物の霊を呼び出すことができますか。


「動物を生かしめている知的原理は、死後“潜伏状態”とでもいうべき状態に入ります。が、それも一時期で、すぐに担当の霊団によって新たな存在の知的原理として活用されます。このように、動物の霊には人間のような、次の再生までの反省期間はありません。これでご質問の答えになると思います。」


――すると動物を呼び出して対話をしたという話はどうなるのでしょうか。


「岩の霊でも呼び出してみられるがよろしい。ちゃんと対話をしてくれます。が、それは岩の霊ではありません。いたずら霊です。霊はそこらじゅうにウヨウヨしているのですから、すぐに出て誰の真似でも何の真似でもします。」


編者注――同じ理由から、神話上の人物や架空の人物が出てしゃべったというのも、いたずら霊の仕業のようである。


――霊が再生してしまうことは招霊にとって致命的障害ですか。


「そんなことはありません。しかし、招霊された時の肉体が霊にとって離脱しやすい状態であることが必要です。再生した天体が進化しているほど離脱しやすいです。進化するほど物質性が希薄になるからです。」


訳注――私の師の間部詮敦氏の実兄の詮信(あきのぶ)氏は霊能の多彩さでは詮敦氏を凌ぐものがあり、日常茶飯事に使っておられた。その詮信氏が育てた物理霊媒の津田江山氏の実験会に出席した時、直接談話現象に「間部(まなべ)です」と言って出現して皆を驚かせた。書にも堪能だった詮信氏は用意しておいた三枚の色紙に真っ暗闇の中で見事な文字を直接書記で揮毫されたが、後でお会いした時に「あの時はどちらにおられたのですか」とお尋ねしたら、福岡の自宅で寝ていたとおっしゃった。幽体離脱して出られたのだった。


――この地上で今生活している人間の霊でも招霊できますか。


「できます。今も述べた通り、他の天体上で生活している霊を招霊できるのと同じです。招霊でなくて幽体離脱して物質化して姿を見せることもできます。」(七章および八章参照)


――招霊されている時の肉体の状態はどうなっているのでしょうか。


「眠っているか、うたた寝をしています。そういう時は霊が自由に活動しやすいのです。」


――霊が留守にしている間に肉体が目を覚ますことができますか。


「できません。もし何らかの事情で起きる必要が生じた時は、霊は強制的に戻らされます。地上生活中は肉体が“我が家”なのですから。それが招霊されて対話中であれば、理由を述べて対話を中断するでしょう。」


――肉体から離れていて、どうやって戻る必要性を知るのでしょう?


「離れているといっても完全に分離しているわけではありません。どんなに遠くへ出かけていても流動性の紐(玉の緒)でつながっていて、それが戻る必要が生じたことを知らせます。この紐は死の瞬間まで切れることはありません。」


編者注――この流動性の紐は霊視能力のある人にも見える。霊の話によると睡眠中などに霊界を訪れる霊にはこの紐がついているので、それが霊界の霊と区別する目印になるという。


――睡眠中ないし霊の留守中に肉体が致命傷を受けた場合はどうなりますか。


「そうなる前に知らせを受け、即座に肉体に戻ります。」


――では、霊の留守中に肉体が死亡し、霊が戻ってみたら“我が家”に入れなくなっていたというような事態は起きないということでしょうか。


「絶対に起きません。もしそんなことが起き得るとしたら、霊と肉体との合体を支配する摂理に反することになります。」


――でも、まったく予期せぬことが突如として起きることも考えられませんか。


「危険が差し迫っている時は、そうならないうちに霊に警告があります。」


訳注――現実問題として睡眠中に地震などで死亡することがあるのであるから、そういう問題よりも、ここでは“霊と肉体との合体を支配する摂理”について、もう少し突っ込んでほしかったところである。カルデックの質問の主旨はよく分かるが、回答している霊は別の捉え方をしているように思えてならない。


――生者の霊と死者の霊とでは、対話をする上で全く同じですか。


「いえ、肉体につながっている以上、大なり小なり物的波動の影響を受けます。」


――呼び出した時点ですでに肉体から離れている時は何か不都合がありますか。


「ないことはありません。たとえば赴いている先から帰りたくない時が考えられます。まして、招霊会の司会者が全く見ず知らずの人間である場合はとくにそうでしょう。」


――普通の覚醒状態で生活している人間の霊を招霊するのは絶対に不可能でしょうか。


「難しいですが、絶対に不可能というわけではありません。というのは、招霊の波動が届いて霊が反応すると、急に眠くなって寝入る人がいます。が、基本的には霊が出て対話をする時は、その肉体にとって霊の知的活動が必要でない時にかぎられます。」


――睡眠中に招霊された時、目覚めてからその間のことを思い出しますか。


「ほとんどの場合、思い出しません。実を言うとあなた方も、ご自分では記憶にないでしょうが、何度か招霊されているのですよ。が、その記憶は霊の意識に残っているだけです。時には夢のようにおぼろげに意識にのぼることもあるでしょうけど……」


――誰が招霊するのでしょうか。私のような無名の人間を……。


「幾つかある前世では結構名の知れた人物だったかも知れませんよ。ということはこの地上ないしは別の天体上で、あなたには記憶はなくても、あなたを知っている人が大勢いるわけです。そういう人が招霊するのです。たとえば前世であなたがこの地上かどこかの天体上にいる誰かの父親だったとします。その人物が今のあなたを呼び出した場合、出て行くのはあなたの霊であり、その霊が対話をするわけです。」


――生者の霊が招霊された時、霊として対応するのでしょうか、それとも通常の意識で対応するのでしょうか。


「それは霊性の進化の程度が問題です。ですが、どっちみち通常意識の状態よりは判断力は明晰で地上的偏見による影響は少ないでしょう。というのは、招霊されている時は夢遊病(セミトランス)的状態に似ており、死者の霊と大差はないからです。」


――セミ・トランスの状態で招霊された場合は通常の状態で招霊された時よりも判断力は明晰でしょうか。


「遥かに明晰でしょう。通常よりは物質による束縛が少ないからです。そうした違いは全て霊が物的身体からどの程度独立しているかに掛かっています。」


――セミ・トランスの状態にある霊が招霊されている時に、遠距離にいる別の人から招霊された場合はそれに応じられますか。


「二つの場所で同時に交信する能力は、物的波動から完全に脱した霊しか持ち合わせません。」


――妊娠中の胎児の霊の招霊は可能でしょうか。


「不可能です。妊娠期間中の霊は意識が混濁していて、対話はできません。」


編者注――霊は受胎の瞬間から活動を開始するが、意識は混濁している。その混濁は誕生が近づくにつれて増幅し、自意識を完全に失った状態で誕生する。


――招霊された霊に代わっていたずら霊が出現することは有り得ますか。


「有り得るどころではありません。しょっちゅうやっています。とくに興味本位でやっている招霊会ではほとんどがそうだと思ってよろしい。」


――生者の霊を招霊することに何か危険がありますか。


「危険が全くないとは言えませんが、問題があるとすれば体調です。何か病気があれば招霊によって悪化する恐れがあります。」


――絶対にいけないことといえば、どういうことでしょうか。


「幼児、少年少女、重病人、虚弱体質の人、老人――要するに体力の弱い人は絶対に招霊してはいけません。」


――ということは、招霊中の霊の活動が身体を疲れさせるのでしょうか。(この質問に対して、実際に招霊された霊がこう述べた。)


「私の霊はまるで柱につながれたバルーンのようです。身体が柱で、バルーンにぐいぐい引っぱられて揺すられます。」


――生者を不用意に招霊することが危険であるとなると、死者の霊のつもりで呼び出したら、すでに再生していたという場合も害を及ぼすことになりませんか。


「いえ、その場合は条件が異なります。そういう場合の霊は招霊に対応できる者にかぎられます。それに、すでに忠告したはずですが、招霊会を催す時は、あらかじめ霊団側にお伺いを立てないといけません。」


――眠くなるはずもない時に急に睡魔におそわれた時は招霊されていることも有り得るわけですか。


「理屈の上ではそういうケースも十分に考えられます。が、実際問題としては純粋に身体上の反応に過ぎないことがほとんどでしょう。つまり身体が休息を求めているか、もしくは霊が自由を求めているかのどちらかです。」


――遠く離れた二人の人間がお互いに招霊し合い、想念を交換し合うという形での交信も可能なのでしょうか。


「まさに可能です。そうした、言うなれば“人間電信”が当たり前の通信法となる日が必ず来ます。」


――現在ではできませんか。


「できないわけではありませんが、ごく限られた人だけです。地上の人間が身体から自由自在に離脱できるようになるには、霊性が純粋でなければなりません。霊性が高度な発達を遂げるまでは、そうした芸当は一握りの、純粋で物質臭を克服した魂にしかできないでしょう。そうした魂は現段階の地上では滅多にお目に掛かれません。」

シアトルの初冬 シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips
六章 婚約者を不慮の事故で失って




映画女優のマール・オべロンには婚約者(フィアンセ)がいた。そのフィアンセを空港で見送った数秒後にオべロンの人生に悲劇が訪れた。フィアンセを乗せた飛行機が爆発炎上したのである。事故の知らせを聞いて当然のことながらオべロンは芒然自失の状態に陥った。

 その後間もなく、ふとしたきっかけでハンネン・スワッハーの My Greatest Story (私にとって最大の物語)という本を手に入れ、その中に引用されているシルバーバーチの霊言を読んで心を動かされた。たった一節の霊訓に不思議な感動を覚えたのである。

 オべロンはさっそくスワッハーを訪ねて、出来ればシルバーバーチとかいう霊のお話を直接聞きたいのですがとお願いした。その要請をスワッハーから聞いたシルバーバーチは快く承諾した。

そして事故からまだ幾日も経たないうちに交霊会に出席するチャンスを得た。その後さらに幾人かの霊媒も訪ねてフィアンセの存続を確信したオべロンは、その霊的知識のお陰で悲しみのどん底から抜け出ることができた。では、そのシルバーバーチの交霊会に出席した時の様子を紹介しよう。

 当日スワッハーが交霊会の部屋(バーバネルの書斎)へオべロンを案内し、まずシルバーバーチにこう紹介した。

 「ご承知と思いますが、この方は大変な悲劇を体験なさったばかりです。非凡な忍耐力を持って耐えていらっしゃいますが、本日はあなたのご指導を仰ぎに来られました」


 するとシルバーバーチがオべロンに向かってこう語りかけた。

 「あなたは本当に勇気のある方ですね。でも勇気だけではだめです。知識が力になってくれることがあります。是非理解していただきたいのは、大切な知識、偉大な悟りというものは悲しみと苦しみという魂の試練を通して初めて得られるものだということです。

人生というものはこの世だけでなく、あなた方があの世と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。

光と影の両面が無ければなりません。光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇が無ければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは闇でなくなります。同じように、困難と悲しみを通してはじめて魂は自我を見出していくのです。

もちろんそれは容易なことではありません。とても辛いことです。でもそれが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜならば地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ち受ける次の段階の生活に備えて、それに必要な霊的成長と才能を身につけることにあるからです。

 あなたがこれまでに辿られた道もけっしてラクな道ではありませんでした。山もあり谷もありました。

そして結婚という最高の幸せを目前にしながら、それが無慈悲にも一気に押し流されてしまいました。あなたは何事も得心がいくまでは承知しない方です。

生命と愛は果たして死後にも続くものなのか、それとも死を持ってすべてが終わりとなるか、それを一点の疑問の余地もないまで得心しないと気が済まないでしょう。そして今あなたは死がすべての終りでないことを証明するに十分なものを手にされました。

ですが、私の見るところでは、あなたはまだ本当の得心を与えてくれる事実の全てを手にしたとは思っていらっしゃらない。そうでしょう?」


オベロン「おっしゃる通りです」

 「こういうふうに理解なさることです───これが私にできる最大のアドバイスです───われわれ生あるもの全ては、まず第一に霊的存在であるということです。霊であるからこそ生きているのです。霊こそ存在の根元なのです。生きとし生けるものが呼吸し、動き、意識を働かせるのは霊だからこそです。

その霊があなた方のいう神であり、私のいう大霊なのです。その霊の一部、つまり神の一部が物質に宿り、次の段階の生活に相応しい力を身につけるために体験を積みます。それはちょうど子供が学校へ行って卒後後の人生に備えるのと同じです。

 さて、あなたも他の全ての人と同じく一個の霊的存在です。物的なものはその内色褪せ、朽ち果てますが、霊的なものは永遠であり、いつまでも残り続けます。物質の上に築かれたものは永続きしません。物質は殻であり、入れ物に過ぎず、実質ではないからです。

地上の人間の大半が幻を崇拝しています。キツネ火を追いかけているようなものです。真実を発見できずにいます。こうでもない、ああでもないの連続です。本来の自分を見出せずにいます。

 神が愛と慈悲の心からこしらえた宇宙の目的、計画、機構の中の一時的な存在として人生を捉らえ、自分がその中で不可欠の一部であるとの理解がいけば、たとえ身に降りかかる体験の一つ一つの意義は分からなくても、究極においてすべてが永遠の機構の中に組み込まれているのだという確信は得られます。霊に関わるものは決して失われません。死は消滅ではありません。

霊が別の世界へ解き放たれる為の手段に過ぎません。誕生が地上生活へ入る為の手段であれば、死は地上生活から出るための手段です。あなたはその肉体ではありません。その頭でも、目でも、鼻でも、手足でも、筋肉でもありません。

つまりその生物的集合体ではないのです。それはあなたではありません。あなたという別個の霊的存在があなたを地上で表現していくための手段に過ぎません。それが地上から消滅したあとも、あなたという霊は存在し続けます。

 死が訪れると霊はそれまでに身につけたものすべて───あなたを他と異なる存在たらしめているところの個性的所有物のすべてを携えて霊界へ行きます。意識、能力、特質、習性、性癖、さらには愛する力、愛情と友情と同胞精神を発揮する力、こうしたものはすべて霊的属性であり、霊的であるからこそ存在するのです。

真にあなたのものは失われません。真にあなたの属性となっているものは失われません。そのことをあなたが理解できるできないに関わらず、そしてまた確かにその真相のすべてを理解することは容易ではありませんが、あなたが愛する人、そしてあなたを愛する人は、今なお生き続けております。得心がいかれましたか?」

オベロン 「はい」

 「物的なものはすべてお忘れになることです。実在ではないからです。実在は物的なものの中には存在しないのです」

オベロン 「私のフィアンセは今ここにきておりますでしょうか」

 「来ておられます。先週も来られて霊媒を通じてあなたに話しかけようとなさったのですが、これはそう簡単にいくものではないのです。ちゃんと話せるようになるには大変な訓練がいるのです。

でも、諦めずに続けて出席なさっておれば、その内話せるようになるでしょう。ご想像がつくと思いますが、彼は今のところ非常に感情的になっておられます。まさかと思った最期でしたから感情的になるなという方が無理です。とても無理な話です」


オベロン 「今どうしているのでしょう。どういう処にいるのでしょう。元気なのでしょうか」

 この質問にシルバーバーチは司会のスワッハーの方を向いてしみじみとした口調で
 「このたびの事故はそちらとこちらの二人の人間にとって、よほどのショックだったようですな。まだ今のところ霊的な調整が出来ておりません。あれだけの事故であれば無理もないでしょう」と述べてから、再びオベロンに向かって言った。

 「私としては若いフィアンセがあなたの身近にいらっしゃることをお聞かせすることが、精一杯あなたの力になってあげることです。彼は今のところ何もなさっておりません。ただお側に立っておられるだけです。

これから交信の要領を勉強しなくてはなりません。霊媒を通じてだけではありません。ふだんの生活において考えや欲求や望みをあなたに伝えることもそうです。それは大変な技術を要することです。それがマスターできるまでずっとお側から離れないでしょう。

 あなたの方でも心を平静に保つ努力をしなくてはいけません。それができるようになれば、彼があなたに与えたいと望み、そしてあなたが彼から得たいと望まれる援助や指導が確かに届いていることを得心なさるでしょう。よく知っておいていただきたいのは、そうした交信を伝えるバイブレーションは極めて微妙なもので、感情によってすぐに乱されるということです。

不安、ショック、悲しみといった念を出すと、たちまちあなたの周囲に重々しい雰囲気、交信の妨げとなる壁をこしらえます。心の静寂を得ることが出来れば、平静な雰囲気を発散することができるようになれば、内的な安らぎを得ることができれば、それが私たちの世界から必要なものをお授けする最高の条件を用意することになります。

感情が錯乱している状態では、私たちも何の手出しも出来ません。受容性、受身の姿勢、これが私たちがあなたに近づくための必須の条件です」

     
 この後フィアンセについて幾つかプライベートな質疑がなされた後、シルバーバーチはこう述べた。

 「あなたにとって理解しがたいことは、多分、あなたのフィアンセが今はこちらの世界へ来られ、あなたはそちらの世界にいるのに、精神的には私よりもあなたの方が身近かな存在だということでしょう。理解出来るでしょうか。彼にとっては霊的なことよりも地上のことの方が気がかりなのです。

問題は彼がそのことについて何も知らずにこちらへ来たということです。一度も意識にのぼったことがなかったのです。でも今ではこうした形であなたが会いに来てくれることで、彼もあなたが想像なさる以上に助かっております。大半の人間が死を最期と考え、こちらへ来ても記憶の幻影の中でのみ暮らして実在を知りません。

その点あなたのフィアンセはこうして最愛のあなたに近づくチャンスを与えられ、あなたも、まわりに悲しみの情の壁をこしらえずに済んでおられる。そのことを彼はとても感謝しておられますよ」


オベロン 「死ぬ時は苦しがったでしょうか」

 「いえ、何も感じておられません。不意の出来ごとだったからです。事故のことはお聞きになられたのでしょう」

オベロン 「はい」

 「あっという間の出来ごとでした」

スワッハー 「そのことはこの方も聞かされております」

 「そうでしょう。本当にあっという間のことでした。それだけに永い休養期間が必要なのです」

オベロン「どれくらい掛かるのでしょう?」

 「そういうご質問はお答えするのがとても難しいのです。と申しますのは私たちの世界では地上のように時間で計るということをしないのです。でも、どのみち普通一般の死に方をした人よりは永く掛かります。

急激な死に方をした人はみなショックを伴います。いつまでも続くわけではありませんが、ショックはショックです。もともと霊は肉体からそういう離れ方をすべきものではないからです。そこで調整が必要となります」

 ここでさらにプライベートな内容の質疑があったあと───
オベロン 「彼は今しあわせと言えるでしょうか。大丈夫でしょうか」

 「しあわせとは言えません。彼にとって霊界は精神的に居心地がよくないからです。地上に戻ってあなたと一緒になりたい気持ちの方が強いのです。それだけに、あなたの精神的援助が必要ですし、自身の方でも自覚が必要です。これは過渡的な状態であり、彼の場合は大丈夫です。霊的に危害が及ぶ心配がありませんし、その内調整が為されるでしょう。

 宇宙を創造した大霊は愛に満ちた存在です。私たち一人一人を創造して下さったその愛の力を信頼し、すべてのことはなるべくしてそうなっているのだということを知らなくてはいけません。

今は理解できないことも、その内明らかになる機会が訪れます。決して口先で適当なことを言っているのではありません。現実にそうだからそう申し上げているのです。あなたはまだ人生を物質の目で御覧になっていますが、永遠なるものは地上の尺度では正しい価値は分かりません。

そのうち正しい視野をお持ちになられるでしょうが、本当に大事なもの───生命、愛、本当の自分、こうしたものは何時までも存在し続けます。死は生命に対しても愛に対しても、まったく無力なのです」


 訳者注───「本章は不慮の事故死をテーマとしているが、普通一般の死後の問題についてもいろいろと示唆を与えるものを含んでいる。そのすべてをここで述べる余裕はないが、一つだけ後半のところで〝霊的に危害が及ぶ心配がありませんし〟と述べている点について注釈しておきたい。

 これは裏返していえば霊的に危害が及ぶケースがあるということであり、ではその危害とはどんなものかということになる。これを「ベールの彼方の生活」第四巻の中の実例によって紹介しておく。

 通信霊のアーネルが霊界でのいつもの仕事にたずさわっていた時(霊界通信を送るようになる前)あるインスピレーション的衝動に駆られて地上へ来てみると、一人の若い女性が病床で今まさに肉体から離れようとしていた。ふと脇へ目をやると、そこに人相の悪い男の霊が待ち構えている。

アーネルにはその男がこの女性の生涯をダメにした(多分麻薬か売春の道へ誘い込んだ)因縁霊であると直感し、霊界でも自分達の仲間に引きずり込もうと企んでいることを見て取った。そこで奪い合いとなったが、幸いアーネルが勝ってその身柄を引き取ることが出来、その後順調に更生して、今では明るい世界へ向上しているという。

そのインスピレーションを送ったのは守護霊で、波長が高すぎて返って地上のことには無力なために、地上的波長への切り換えに慣れているアーネルに依頼したのだった。

 この実例でお分かりのように、いかなる死に方にせよ、死後ぶじ霊界の生活に正しく順応していくことは必ずしも容易ではないのである。そこには本人自身の迷いがあり、それに付け込んでさまざまな誘惑があり、また強情を張ったり見栄を捨てきれなかったりして、いつまでも地上的名誉心や欲望の中で暮らしている人が実に多いのである。

 では、そうならないためにはどういう心掛けが大切か───これは今さら私から言うまでもなく、それを教えるのがそもそもシルバーバーチ霊団が地上へ降りてきた目的なのである。

具体的なことはこうして霊言集をお読みいただいている方には改めて申し上げるのは控えるが、ただ私から一つだけ付け加えたいことは、あちらへ行って目覚めた時に、必ず付き添ってくれる指導霊の言うことに素直に従うことが何よりも大切だということである」

シアトルの初冬 シルバーバーチの霊訓(六)

Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips

七章 難しい質問に答える




    「今夜は招待客がいらっしゃらないようですので、ひとつこの機会に、皆さんがふだん持て余しておられる疑問点をお聞きすることにしましょう。易しい問題はお断わりです。今夜にかぎって難問を所望(しょもう)しましょう」

 易しい真理を平易に説くことをモットーとしているシルバーバーチが、ある日の交霊会の開会と同時にこう切り出した。さっそく次々と質問が出されたが、その中から興味深いものをいくつか紹介してみよう。

 最初の質問は最近ある霊媒による交霊会が失敗した話を持ち出して、その原因について質した。するとシルバーバーチは───


 「それは霊媒としての修業不足───見知らぬ人を招待して交霊会を開くだけの力がまだ十分に具わっていない段階で行ったためです。あの霊媒は潜在意識にまだ十分な受容性が具わっておりません。霊媒自身の考えが出しゃばろうとするのを抑えきれないのです。支配霊がいても肝心のコントロールがうまくいっておりません。

支配霊が霊媒をコントロールすることによって行う現象(霊言ならびに自動書記通信)においては、よほど熟練している場合は別として、その通信には大なり小なり霊媒自身の考えが付着しているものと考えてよろしい。そうしないと通信が一言も出なくなります」
℘113
(訳者注───このあとに続く問答とともに、これは、今後ますます霊的なことが受け入れられていくことが予想される日本において極めて大切な警告と受け止めるべきである。

専属の支配霊にしてその程度なのである。ましてや、呼ばれてすぐに出てくる霊がそう簡単にしゃべったり書いたりできるものではないのである。すぐに身元を明かす霊は徹底的に疑ってかかるべきである。疑われて腹を立てるような霊は相手にしない方がよい。それが霊を見分ける一つの尺度である)


───潜在意識の影響をまったく受けない通信は有り得ないということでしょうか。

 「その通りです」


───すべてが脚色されているということですか。

 「どうしてもそうなります。いかなる形式をとろうと、霊界との交信は生身の人間を使用しなくてはならないからです。人間を道具としている以上は、それを通過する際に大なり小なり着色されます。人間である以上その人間的性質を完全に無くすことはできないからです」


───神が完全なる存在であるならば、なぜもっとよい通信手段を用意してくれないのでしょうか。

 「本日は難しい質問をお受けしますと申し上げたら本当に難しい質問をして下さいましたね。結構です。さて、私たちが使用する用語にはそれをどう定義するかという問題があることをまず知っていただかねばなりません。

 おっしゃる通り神は完全です。ですがそれは神が完全な形で顕現されているという意味ではありません。神そのものは完全です。つまりあなたの内部に種子(タネ)として存在する神は完全性を具えているということです。ですが、それは必ずしも物質的形態を通して完全な形で表現されてはいません。

だからこそ無限の時間をかけて絶え間ない進化の過程をへなければならないのです。進化とは内部に存在する完全性という黄金の輝きを発揮させるために不純物という不完全性を除去し磨いていくことです。その進化の過程においてあなたが手にされる霊的啓示は、あなたが到達した段階(霊格)にふさわしいものでしかありません。

万一あなたの霊格よりずっと進んだものを先取りされても、それは所詮あなたの理解を超えたものですから、何の意味もないことになります」


───では人間がさらに進化すれば機械的な通信手段が発明されるかもしれないわけですか。

「その問題についての私の持論は既にご存知のはずです。私は、いかなる器機が発明されても霊媒をヌキにしては完全とはなり得ないと申し上げております。そもそも何のためにこうして霊界から通信を送るのかという、その動機を理解していただかねばなりません。

それは何よりもまず〝愛〟に発しているのです。肉親、知人、友人といった曽て地上で知り合った人から送られてくるものであろうと、私のように人類のためを思う先輩霊からのものであろうと、霊的メッセージを送るという行為を動機づけているものは愛なのです。

 愛こそがすべてのカギです。たとえ完全でなくても、何らかの交信がある方が何もないよりは大切です。なぜなら、それが愛の発現の場を提供することになるからです。しかしそれを機械によって行なうとなると、どう工夫したところで、その愛の要素が除去されることになります。生き生きとした愛の温もりのある通信は得られず、ただの電話のようなものになります」

℘116
───電話でも温かみや愛が通じ合えるのではないでしょうか。

 「電話器を通して得られるかもしれませんが、電話機そのものに温かみはありません」


───大切なのはそれを通して得られるものではないでしょうか。

 「この場合は違います。大切なのは霊媒という〝電話機〟と、メッセージを受ける人間に及ぼす影響です。それに関わる人ぜんぶの霊性を鼓舞することに意図があります」


───霊媒を含めてですか。

 「そうです。なぜなら最終的にはいつの日か人類も霊と霊とが自然な形で直接交信できるまでに霊性が発達します。それを機械を使って代用させようとすることは進化の意図に反することです。進化はあくまで霊性の発達を通してなされねばなりません。霊格を高めることによって神性を最高に発揮するのが目的です」

℘117
───ということは、最高の(死後存続の)証拠を得たいと思えば霊性の発達した霊媒を養成しなければならないということでしょうか。

 「私は今〝証拠〟の問題を念頭に置いて話しているのではありません。人類の発達ということを念頭において話しているのです。人類は螺旋状のサイクルを描きながら発達するように計画されており、その中の一つの段階において次の段階のための霊性を身につけ、その積み重ねが延々と続けられるのです。お分かりでしょうか」


───はい、分ります。

 「最高の成果を得るためには顕幽両界の間にお互いに引き合うものがなければなりません。その最高のものが愛の力なのです。両界の間の障害が取り除かれていきつつある理由は、その愛と愛との呼びかけ合いがあるからです」
℘118
───霊媒の仕事が金銭的になりすぎるとうまく行かないのはそのためでしょうか。

 「その通りです。霊媒はやむにやまれぬ献身的精神に燃えなければなりません。その願望そのものが霊格を高めていくのです。それが何より大切です。なぜなら、人類が絶え間なく霊性を高めて行かなかったら、結果は恐ろしいことになるからです。

霊がメッセージを携えて地上へ戻って来るそもそもの目的は人間の霊性を鼓舞するためであり、潜在する霊的才能を開発して霊的存在としての目的を成就させるためです」


───他界した肉親が地上へ戻って来る───たとえば父親が息子のもとに戻ってくる場合、その根本にあるのは戻りたいという一念でしょうか。それとも今おっしゃった目的で霊媒を通じてメッセージを送りたいからでしょうか。

 「戻りたいという一念からです。ですが一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望は愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ父親はあらゆる障害を克服して戻って来るのです。
℘119
困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって息子は、父親の他界という不幸を通じて魂が目を覚まし霊的自我を見出します。かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが霊的発達のスタートという形で終わることになります」


───なるほど、そういうことですか。言いかえれば神は進化の計画のためにありとあらゆる体験を活用するということですね?

 「人生の究極の目的は、地上の死後も、霊性を開発することにあります。物質界に誕生するのもその為です。その目的に適った地上生活を送れば霊はしかるべき発達を遂げ、次の生活の場に正しく適応できる霊性を身につけた時点で死を迎えます。

そのように計画されているのです。こちらへ来てからも同じ過程が続き、その都度霊性が開発され、その都度古い身体から脱皮して霊妙さを増し、内部に宿る霊の潜在的な完全さに近づいてまいります」


───人間の身体を見てもその人の送っている邪悪な生活が反映している人をよく見かけます。
℘120
 「当然そうなります。心の思うままがその人となります。その人の為すことがその人の本性に反映します。死後のいかなる界層においても同じことです。身体は精神の召使いではなかったでしょうか。はじめは精神によってこしらえられたのではなかったでしょうか」


───霊界の視点からすれば心で犯す罪は行為で犯す罪と同じでしょうか。

 「それは一概にはお答えできません。霊界の視点から、とおっしゃるのは進化した霊の目から見てという意味でしょうか」

───そうです。ある一つの考えを抱いた時、それは実行に移したのと同じ罪悪性を持つものでしょうか。

 「とても難しい問題です。何か具体的な例をあげていただかないと、一般論としてお答えできる性質のものではありません」
℘121

───例えば誰かを殺してやりたいと思った場合です。

 「それはその動機が問題です。いかなる問題を考察するに際しても、真っ先に考慮すべきことは〝それは霊にとっていかなる影響を持つか〟ということです。ですから、この際も〝殺したいという考えを抱くにいたった動機ないしは魂胆は何か〟ということです。

 さて、この問題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいとは思っても手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでに至らない───言わば憶病なのです。心ではそう思っても、実際の行為には至らないというタイプです。

 そこで、殺してやりたいと心で思ったら実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せばその霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけではそういうことにならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは罪悪性が異なります。

 しかしそれを精神的次元で捉えた場合、嫉妬心、貪欲、恨み、憎しみといった邪念は身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方がはるかに強烈です。このように、この種の問題は事情によって答えが異なります」
℘122
───誰かを殺してやりたいと思うだけなら、実際の殺人行為ほどの罪悪ではないとおっしゃいました。でも、その念を抱いた当人にとっては殺人行為以上に実害がある場合があり得ませんか。

 「あり得ます。これも又、場合によりけりです。その邪念の強さが問題になるからです。忘れないでいただきたいのは、根本において支配しているのは因果律だということです。

地上における身体的行為が結果を生むのと同じように、精神的及び霊的次元においてそれなりの結果を生むように仕組まれた自然の摂理のことです。邪念を抱いた人が自分の精神又は霊に及ぼしている影響は、あなた方には見えません」


───誰かを、あるいは何かを憎むということは許されることでしょうか。あなたは誰かを、あるいは何かを憎むということがありますか。
℘123
 「あとのご質問は答えが簡単です。私は誰も憎みません。憎むことができないのです。なぜなら私は神の子のすべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいはほんのわずかしか発揮できずにいる人をみて、いつも気の毒に思うからです。ですが、許せない制度や強欲に対しては憎しみを抱くことはあります。

残虐行為を見て怒りを覚えることはあります。強欲、悪意、権勢欲などが生み出すものに対して怒りを覚えます。それにともなって、さまざまな思い───あまり褒められない想念を抱くことはあります。でも忘れないでください。私もまだきわめて人間味を具えた存在です。誰に対しても絶対に人間的感情を抱かないというところまでは進化しておりません」

───いけないと知りつつも感情的になることがありますか。

 「ありますとも」

 別のメンバーが〝憎むということは別の問題で、これは恐ろしい行為です〟と言うと、先のメンバーが〝人を平気で不幸にする邪悪な人間がいますが、私はそういう人間にはどうしても憎しみを抱きます〟と言う。するとシルバーバーチが―
℘124
 「私は憎しみを抱くことは出来ません。摂理を知っているからです。神は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来てから支払わせられます。

いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対してその人が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかに見すぼらしくても、いやしくても、神の衣をまとっている同胞を憎むということは私にはできません。ですが、不正行為そのものは憎みます」


───でも実業界には腹黒い人間は沢山います。

 「でしたら、その人たちのことを哀れんであげることです」

───私はそこまで立派にはなれません。私は憎みます。

℘125
 別のメンバーが〝私はそれほどの体験はないのですが、動物の虐待を見ると腹が立ちます〟と言うとシルバーバーチが────

 「そういう行為を平気でする人はみずからの進化の低さの犠牲者であり、道を見失える哀れな盲目者なのです。悲しむべきことです」


 先のメンバーが〝そういう連中の大半は高い知性と頭脳の有(も)ち主です。才能のない人間を食い物にしています。それで私は憎むのです〟と言う。(この人は〝腹黒い〟実業家を念頭に於いて述べている───訳者)

 「そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時が来るのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め私は霊の目で眺めている点です。私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです」


───でも、いま現実に他人に大きな苦しみをもたらしております。
℘126
 「では一体どうあってほしいとおっしゃるのでしょう。人間から自由意志を奪い去り操り人形にしてしまえばよいのでしょうか。自由意志という有難いものがあればこそ、努力によって荘厳な世界へ向上することも出来れば道を間違えて奈落の底へ落ちることもあり得るのが道理です」

 別のメンバーが〝邪悪な思念を抱いて実行した場合、それを実行に移さなかった場合と比べて精神にどういう影響があるでしょうか〟と尋ねる。

 「もしそれが激しい感情からではなく、冷酷非情な計算ずくで行った場合でも、 いま申し上げた邪悪な人間と同じ運命をたどります。なぜなら、それがその魂の発達程度、というよりは発達不足の指針だからです。たとえば心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行に移したとすれば、途中で思いとどまった場合に比べて、遥かに重い罪を犯したことになります」


───臆病であるがゆえに思いとどまることもあるでしょう。
℘127
 「臆病者の場合はまた別です。私はいま邪悪なことを平気で実行に移せる人間の場合の話をしたのです。始めに申し上げたとおり、この種の問題は一つ一つ限定して論ずる必要があります。心に殺意を抱きしかも平気で実行出来る人と、〝あんな憎たらしい奴は殺してやりたいほどだ〟と思うだけの人とでは、霊的法則からいうと前者の方が遥かに罪が重いといえます」

───あなたご自身にとって何か重大でしかも解答が得られずにいる難問をお持ちですか。

 「解答が得られずいる問題で重大なものといえるものはありません。ただ、私はよく進化は永遠に続く───どこまで行ってもこれでお終いということはありません、と申し上げておりますが、なぜそういうお終のない計画を神がお立てになったのかが分かりません。いろいろ私なりに考え、また助言も得ておりますが、正直言って、これまでに得たかぎりの解答には得心がいかずにおります」


───神それ自体が完全でないということではないでしょうか。あなたはいつも神は完全ですとおっしゃってますが───
℘128
 「随分深い問題に入ってきましたね。かつて入ってみたことのない深みに入りつつあります。
 私には地上の言語を使用せざるを得ない宿命があります。そこでどうしても神のことを私が抱いている概念とは懸け離れた男性神であるかのような言い方をしてしまいます。

(〝大霊〟the Great Spirit を使用しても〝神〟God を使用しても二度目からは男性代名詞の He, His, Himを使用していることを言っている───訳者)

私の抱いている神の概念は完璧な自然法則の背後に控える無限なる叡智です。その叡智が無限の現象として顕現しているのが宇宙です。が、私はまだその宇宙の最高の顕現を見たと宣言する勇気はありません。これまでに到達したかぎりの位置から見ると、まだまだその先に別の頂上が見えているからです。

 私が私なりに見てきた宇宙に厳然とした目的があるということを輪郭だけは理解しております。私はまだその細部の全てに通暁しているなどとはとても断言できません。

だからこそ私は、私と同じように皆さんも、知識の及ばないところは信仰心でもって補いなさいと申し上げているのです。〝神〟と同じく〝完全〟というものの概念は、皆さんが不完全であるかぎり完全に理解することはできません。
℘129
現在の段階まで来てみてもなお私は、もしかりに完全を成就したらそれはそれにて休止することを意味し、それは進化の概念と矛盾するわけですから、完全というものは本質的に成就できないものであるのに、なぜ人類がその成就に向かって進化しなければならないのかが理解できないのです」


───こうして私たちが問題をたずさえてあなたのもと(交霊会)へ来るように、あなたの世界でも相談に行かれる場所があるのでしょうか。
     
 「上層界へ行けば私より遥かに叡知を身につけられた方がいらっしゃいます」


───こうした交霊会と同じようなものを催されるのですか。

 「私たちにも助言者や指導者がいます」


───やはり入神して行うのですか。
℘130         
 「プロセスは地上の入神とまったく同じではありませんが、やはりバイブレーションの低下、すなわち高い波長を私たちに適切な波長に転換したり光輝を和らげたりしてラクにして下さいます。

一種の霊媒現象です。こうしたことが宇宙のあらゆる界層において段階的に行われていることを念頭において下されば、上には上があってヤコブのはしご(※)には無限の段が付いていることがお分かりでしょう。その一ばん上の段と一ばん下の段は誰にも見えません」
   (※ ヤコブが夢で見たという天まで届くはしご。創世記28・12──訳者)

───霊媒を通じて語りかけてくる霊はわれわれが受ける感じほどに実際に身近な存在なのでしょうか。それとも霊媒の潜在意識も考慮に入れなければならないのでしょうか。 そんなに簡単に話しかけられるものでしょうか。私の感じとしては、想像しているほど身近な存在ではないような気がしています。少し簡単すぎます。

 「何が簡単すぎるのでしょうか」

───思っているほどわれわれにとって身近な存在であるとは思えないのです。多くの霊媒の交霊会に出席すればするほど、
p131
しゃべっているのは霊本人ではないように思えてきます。時にはまったく本人ではない───単にそれらしい印象を与えているだけと思われるのがあります。

 「霊が実在する───このことを疑っておられるわけではないでしょうね ? 次に、われわれにも個性がある───このことにも疑問の余地はありませんね? ではわれわれは一体誰か───この問題になると意見が分かれます。

なぜかといえば、そもそも同一性(アイデンテイテイ)とは何を基準にするかという点で理解の仕方が異なるからです。私個人としては地上の両親が付けた名前は問題にしません。名前と当人との間にはある種の相違点があるからです。

 では一体われわれは何者なのかという問題ですが、これまたアイデンティティを何を基準とするかによります。ご承知の通り私はインディアンの身体を使用していますが、インディアンではありません。こうするのが私自身を一ばんうまく表現できるからそうしているまでです。

このように、背後霊の存在そのものには問題の余地はないにしても、物質への霊の働きかけの問題は実に複雑であり、通信に影響を及ぼし内容を変えてしまうほどの、さまざまな出来ごとが生じております。
℘132
 通信がどれだけ伝わるか───その内容と分量は、そうしたさまざまな要素によって違ってきます。まして、ふだんの生活における〝導き〟の問題は簡単には片づけられません。

なぜかというと、人間側はその時々の自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には叶えてあげる必要が全くないものがあるからです。一ばん良い導きは本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合がしばしばあるのです。

 この問題は要約して片付けられる性質のものではありません。これには意義の程度の問題、つまり本人の霊的進化の程度と悟りの問題が絡んでいるからです。大変な問題なのです。人間の祈りを聞くことがよくありますが、要望には応えてあげたい気持は山々でも、側に立って見ているしかないことがあります。

時には私の方が耐えきれなくなって何とかしてあげようと行動に移りかけると〝捨ておけ!〟という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画のワクの中で行動する約束ができている以上、私の勝手は許されないのです。

 この問題は容易でないと申しましたが、それは困難なことばかりだという意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ、理解しておいていただきたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが私たちから見れば光(幸福)であることがあり、
℘133
人間にとって光であるように思えることが私たちから見れば影であることがあるということです。人間にとって青天のように思えることが私たちから見れば嵐の余兆であり、人間にとって静けさに思えることが私たちから見れば騒音であり、人間にとって騒音に思えることが私たちから見れば静けさであることがあるものです。

 あなた方が実在と思っておられることは私たちにとっては実在ではないのです。お互い同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ支配されております。

霊の目で見ることが出来ないために、つい、現状への不平や不満を口にされます。私はそれを咎める気にはなりません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることはできないのです。

 私たちスピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこの私がまっ先に認めます。やりたいことが何でもできるとはかぎらないことは否定しません。しかしそのことは、私たちがあなた方自身の心臓の鼓動と同じくらい身近な存在であるという事実とは全く別の問題です。

私たちはあなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤそれ以上にあなた方の身近な存在です。私の愛の活動範囲にある人は私たちの世界の霊と霊との関係と同じく親密なものです。
℘134
それを物的な現象によってもお見せ出来ないわけではありませんが、いつでもというわけにはまいりません。霊的な理解(悟り)という形でもできます。が、これ又、人間としてやむを得ないことですが、そういう霊的高揚を体験するチャンスというのは、そう滅多にあるものではありません。

そのことを咎めるつもりはありません。これから目指すべき進歩の指標がそこにあるということです。

 あなたのご意見はちょっと聞くと正しいように思えますが、近視眼的であり、すべての事実に通暁しておられない方の意見です。とは言え、私たち霊界からの指導者は常に寛大な態度で臨まねばなりません。教師は生徒の述べることに一つ一つ耳を貸してあげないといけません。意見を述べるという行為そのものが、意見の正しい正しくないに関係なく、魂が生長しようとしていることの指標だからです。

真面目な意見であれば私たちはどんなことにも腹は立てませんから、少しもご心配なさるには及びません。大いに歓迎します。どなたがどんなことをおっしゃろうと、またどんなことをなさろうと、皆さんに対する私の愛の心がいささかでも減る気遣いはいりません」

───私たちもあなたに対して同じ気持ちを抱いております。要は求道心の問題に帰着するようです。
℘135
 「いま私が申し上げたことに批判がましい気持ちはみじんも含まれておりません。われわれはみんな神であると同時に人間です。ひじょうに混み入った存在─── 一見単純のようで奥の深い存在です。魂というものは開発されるほど単純さへ向かいますが、同時に奥行きを増します。単純さと深遠さは同じ棒の両端です。

作用と反作用とは科学的に言っても正反対であると同時に同一物です。進歩は容易に得られるものではありません。もともと容易に得られるように意図されていないのです。われわれはお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識という杖が困難に際して支えになってくれます。

その杖にすがることです。霊的知識という杖です。それを失っては進化の旅は続けられません」


───私たちは余りに霊的知識に近すぎて、かえってその大切さを見失いがちであるように思います。

 「私はつねづね二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み込むときは、
℘136
その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。それからもう一つは、つねに理性を忘れないようにということです。理性による合理的判断力は神からの授かりものです。


あなたにとっての合理性の基準にそぐわないものは遠慮なく拒否なさることです。理性も各自に成長度があり、成長した分だけ判断の基準も高まるものです。

一見矛盾しているかに思える言説がいろいろとありますが、この合理性もその一つであり、一種のパラドックス(逆説)を含んでおりますが、パラドックスは真理の象徴でもあるのです。

(訳者注───この場合のパラドックスとは次章の〝真理には無限の側面がある〟と同じ意味に解釈すべきであろう)

 理性が不満を覚えて質問なさる───それを私は少しも咎めません。私はむしろ結構な傾向としてうれしく思うくらいです。疑問を質そうとすることは魂が活動しているからこそであり、私にとってはそれが喜びの源泉だからです。

 「さて私は何とか皆さんのご質問にお答えできたと思うのですが、いかがでしょうか」と言ってから、その日の中心的な質問者であった曽てのメソジスト派の牧師の方を向いて笑顔でこう述べた。

 「私の答案用紙に〝思いやりあり〟 〝人間愛に富む〟 とでも書き込んでくださいますか」
               

        

シアトルの初冬 シルバーバーチの霊訓(六)

   Silver Birch Speaks Again  Edited by S. Phillips

五章 老スピリチュアリストとの対話

 
    英国のみならず広く海外でも活躍している古くからのスピリチュアリスト(※)が招待され、シルバーバーチは「霊的知識に早くから馴染まれ、その道を一途に歩まれ、今や多くの啓示を授かる段階まで到達された人」 として丁重にお迎えした。

(※ 名前は紹介されていない。推測する手掛かりも見当たらない。霊言集にはこのように名前を明かしてもよさそうなのに、と思えるケースがよくあるが、多分、公表は控えてほしいとの本人の要望があるのであろう。これもシルバーバーチの影響かもしれない───訳者)

シルバーバーチ 「思えば長い道のりでした。人生の節目が画期的な出来ごとによって織りなされております。しかし、それもすべて、一つの大きな計画のもとに愛によって導かれていることをあなたはご存知です。

暗い影のように思えた出来ごとも、今から思えば計画の推進に不可欠の要素であったことが分かります。あなたがご自分の責務を果たすことが出来たのは、あなた自身の霊の感じる衝動に暗黙のうちに従っておられたからです。

 これより先、その肉体を大地へお返しになられるまでにあなたに課せられた仕事は、とても意義深いものです。これまで一つ一つ階段を追って多くの啓示に接してこられましたが、これから先さらに多くの啓示をお受けになられます。

これまではその幾つかをおぼろ気に垣間みてこられたのであり、光明のすべて、啓示のすべてが授けられたわけではありません。それを手にされるには、ゆっくりとした発達と霊的進化が必要です。私の言わんとするところがお分かりでしょうか」


 「よく分ります」

シルバーバーチ 「これは一体どういう目的があってのことなのか───あなたはよくそう自問してこられましたね?」

 「目的があることは感じ取れるのです。目的があること自体を疑ったことはありません。ただ、自分の歩んでいる道のほんの先だけでいいから、それを照らし出してくれる光が欲しいのです」


シルバーバーチ 「あなたは〝大人の霊〟です。地上へ来られたのはこの度が最初ではありません。それは分かっておられますか」

 「そのことについてはある種の自覚を持っております。ただ、今ここで触れるつもりはありませんが、それとは別の考えがあって、いつもそれとの葛藤が生じます」


シルバーバーチ 「私にはその葛藤がよく理解できます。別に難しい問題ではありません。その肉体を通して働いている意識と、あなたの本来の自我である、より大きな側面の意識との間の葛藤です。有象(うぞう)無象のこの世的雑念から離れて霊の力に満たされると、魂が本来の意識を取り戻して、日常の生活において五感の水際に打ち寄せてしきりに存在を認めてほしがっていた、より大きな自我との接触が得られます。

 さきほどおっしゃった目的のことですが、実は霊の世界から地上へ引き返し、地上人類のために献身している霊の大軍を鼓舞し動かしている壮大な目的があるのです。無知の海に知識を投入すること、それが目的です。暗闇に迷う魂のために灯火(ともしび)を掲げ、道を見失える人々、悩める人々、安らぎを求める人々に安息の港、聖なる逃避所の存在を教えてあげることです。

私たちを一つに団結させている大いなる目的です。宗教、民族、国家、その他ありとあらゆる相違を超越した大目的なのです。その目的の中にあってあなたもあなたなりの役目を担っておられます。そしてこれまで多くの魂の力になってこられました」

 「ご説明いただいて得心がいきました。お礼申し上げます」

シルバーバーチ 「私たちがいつも直面させられる問題が二つあります。一つは惰眠をむさぼっている魂に目を覚まさせ、地上で為すべき仕事は地上で済ませるように指導すること。

もう一つは、目覚めてくれたのはよいとして、まずは自分自身の修養を始めなければならないのに、それを忘れて心霊的な活動に夢中になる人間を抑えることです。神は決してお急ぎになりません。宇宙は決して消滅してしまうことはありません。

法則も決して変わることはありません。じっくりと構え、これまでに啓示されたことは、これからも啓示されていくことがあることの証明として受け止め、自分を導いてくれている愛の力は自分が精一杯の努力を怠りさえしなければ、決して自分を見捨てることは無いとの信念に燃えなくてはいけません」


 実はこの老スピリチュアリストは今回の交霊会に備えて三つの質問を用意していた。その問答を紹介しておく。

 「私の信じるところによれば人間は宇宙の創造主である全能の神の最高傑作であり、形態ならびに器官の組織において大宇宙(マクロコズム)のミクロ的表現であり、各個が完全な組織を具え、特殊な変異は生まれません。しかし一体その各個の明確な個性、顔つきの違い、表情の違い、性向の違い、その他、知性、身振り、声、態度、才能の差異も含めた一人一人の一見して区別できる個性を決定づける要因は何なのでしょうか」


シルバーバーチ 「これは大変な問題ですね。まず物質と霊、物質と精神とを混同なさらないでください。人間は宇宙の自然法則に従って生きている三位一体の存在です。

肉体は物的法則に従い、精神は精神的法則に従い、霊は霊的法則に従っており、この三者が互いに協調し合っております。かくして法則の内側に法則があることになり、時には、見た目に矛盾しているかに思えても、その謎を解くカギさえ手にすれば本質的には何の矛盾も無いことが分ります。

法則のウラ側に法則があると同時に、一個の人間のさまざまな側面が交錯し融合し合って、常に精神的・霊的・物的の三種のエネルギーの相互作用が営まれております。

そこには三者の明確な区別はなくなっております。肉体は遺伝的な生理的法則に従っておりますし、精神は霊の表現ですが、肉体の脳と五官によって規制されております。つまり霊の物質界での表現は、それを表現する物質によって制約を受けるということです。

かくしてそこに無数の変化と組み合わせが生じます。霊は肉体に影響を及ぼし、肉体も又霊に影響を及ぼすからです。これでお分かりいただけるでしょうか」

 「だいぶ分かってきました。これからの勉強に大いに役立つことと思います。では次の質問に移らせていただきます。人間はその始源、全生命の根元から生まれてくるのですが、その根元からどういう段階を経てこの最低次元の物質界へ下降し、物的身体から分離した後(死後)今度はどういう段階を経て向上し、最後に〝無限なる存在〟と再融合するのか、その辺のところをお教えいただけませんか」


シルバーバーチ 「これもまた大きな問題ですね。でも、これは説明が困難です。霊的生命の究極の問題を物的問題の理解のための言語で説明することはとても出来ません。霊的生命の無辺性を完全に解き明かせる言語は存在しません。ただ単的に、人間は霊である、但し大霊は人間ではない、という表現しかできません。

 大霊とは全存在の究極の始源です。万物の大原因であり、大建築家であり、王の中の王です。霊とは生命であり、生命とは霊です。霊として人間は始めも終りも無く存在しています。それが個体としての存在を得るには、地上にかぎって言えば、母胎に宿ってた時です。物的身体は霊に個体としての存在を与えるための道具であり、地上生活の目的はその個性を発現させることにあります。

 霊の世界への誕生である死は、その個性を持つ霊が巡礼の旅の第二段階を迎えるための門出です。つまり霊の内部に宿る全資質を発達、促進、開発させ、完成させ、全存在の始源により一層近づくということです。

人間は霊である以上、潜在的には神と同じく完全です。しかし私は人間は神の生命の中に吸収されてしまうという意味での再融合の時期が到来するとは考えません。神が無限である如く(生命の旅も)発達と完全へ向けての無限の過程であると主張する者です」


 「よく分かります。お礼申し上げます。次に三つ目の質問ですが───今おっしゃられたことがある程度まで説明して下さっておりますが───人間は個霊として機械的に無限に再生を繰り返す宿命にあると輪廻転生論者がいますが、これは事実でしょうか。

もしそうでないとすれば、最低界である地上へ降りてくるまでに体験した地上以外での複数の前生で蓄積した個性や特質が、今度は死後、向上進化していく過程を促進もし渋滞もさせるということになるのでしょうか。私の言わんとしていることがお分かりいただけますでしょうか」

シルバーバーチ 「こうした存在の深奥に触れた問題を僅かな言葉でお答えするのは容易なことではありませんが、まず、正直に申して、輪廻転生論者がどういうことを主張しているのかは私は知りません。が私個人として言わせて頂けば───絶対性を主張する資格は無いからこういう言い方をするのですが───再生というものが事実であることは私も認めます。それに反論する人たちと議論するつもりはありません。

理屈ではなく、私は現実に再生してきた人物を大勢知っているのです。どうしてもそうしなければならない目的があって生まれ変わるのです。預けた質を取り戻しに行くのです。

 ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物とは申しておりません。一個の人間は氷山のようなものだと思って下さい。海面上に顔を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのはその海面上の部分だけです。死後再び生まれて来た時は別の部分が海面上に顔を出します。

潜在的自我の別の側面です。二人の人物となりますが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。霊界で向上進化を続けると、潜在的自我が常時発揮されるようになっていきます。再生問題を物質の目で理解しようとしたり判断しようとなさってはいけません。霊的知識の理解から生まれる叡知の目で洞察してください。そうすれば得心がいきます」
             

Wednesday, December 3, 2025

シアトルの初冬 霊媒の書 第2部 本論

The Mediums' Book
14章 霊の身元と霊格の問題




一、生前の身元の証明はどこまで可能か


スピリチュアリズムの難問の中でも霊の地上時代の身元ほど異論の多い問題はない。その原因は、問題の性質上、確実な証拠とすべきものが霊側から提供できないということ、そしてまた、時として適当な氏名を名乗る霊がいるということである。

そうした理由から、霊の身元の確認は憑依現象に次いで、スピリチュアリズムの現象面における難題の一つである。もっとも、身元が絶対に間違いないか否かは二次的な意味しかなく、実質的な価値はほとんど無いということを念頭に置いておく必要がある。とくに高級霊になると尚さらである。なぜか。

霊は、霊性が純化されてそれ相応の界層へと進化向上して行くにつれて、本来の個性は変わらないが、言うなれば霊的資質の完成度の均一性において、互いに融合していく。我々が“高級霊”と呼んでいる段階がそうであるが、さらに進化した“純白霊”になると尚さらで、その段階にまで至った霊について、それまでに数知れず体験したであろう物的生活(地球以外の天体上の生活も含めて)の一つに過ぎない地上時代の姓名などを詮索しても意味はないであろう。

さらに留意すべきことは、霊はその霊性の親和性によって互いに引き合い引かれ合って一つの大きな霊的集団ないしは霊的家族(類魂団)を構成する。そうなると、我々人間との交信において、我々が知っていると思われる名前をその同族の中の誰かから借用して間に合わせることをする。

と言うのも、無数にいる同族霊の中には人類の歴史にその名を残している者よりも、まったく知られていない者の方が遥かに多い。その“無名”の高級霊が人間と交信をして高等なメッセージを送る時に氏名を述べる必要が生じたとしよう。その時まったく知られていない氏名を名乗っても意味がない。そこでそのメッセージの内容に相応しい名前を選んで使用するのである。

従って、かりに誰かの守護霊が“聖ペテロ”と名乗っても、それは必ずしもキリストの使徒だったあのペテロであるとは限らないのである。もしかしたら人類には全く知られていない人物で、今はあのペテロが属している霊団の一人なのかも知れないのである。

その場合、こちらから何という名で呼び出してもその霊が出てくるであろう。と言うのは、霊との交信はあくまでも“思念”で行われるので、ペテロと呼ばれようがパウロと呼ばれようが、その霊が出てくる。すでに交信状態ができ上がっているからである。それゆえ高等な通信に関するかぎり、その通信霊が地上時代に誰であったかは意味がないのである。

それが地上を去ってあまり年月が経っていない霊、つまり地上感覚から脱け切っていなくて記憶も習性もあまり変化していない霊となると、警戒すべきことが二つある。

一つは、そういう霊が歴史上の大人物や神話・伝説上の神仏の名を騙(かた)る場合、もう一つは、肉親や友人・知人の声色や話振りを真似て、人間を喜ばせたり感激させたりして面白がるケースである。

そうしたケースでその霊の身元を確認する方法の一つは、「神に誓ってそのお名前に偽りはございませんね?」と尋ねてみることである。中には平然と振る舞う曲者もいるが、大抵はすぐに怒り出すか、自動書記であれば用紙を破ったりエンピツを放り投げたりする。また平然とした態度を装う者に対しては、その述べるところに矛盾撞着がないかを見極めて、その点を突っ込んでいくことである。たとえば――

ある自動書記でいきなり「私は神(ゴッド)である」と名乗ってきたことがあった。霊媒は嬉しくて、一も二もなく信じた。そこでその霊を霊言霊媒を使って招霊して、さきほど述べたように

「神に誓って神様であることに偽りはございませんね?」と尋ねたところ、少し動揺した様子を見せ、

「神様であるとは言っておらぬ。神の子である」と言い出した。そこで、

「では、イエス様でいらっしゃるわけですか。神に誓ってイエス・キリストであることに偽りはございませんね?」と聞き返すと、さすがに畏れ多いと思ったのか、

「イエスであるとは言っておらぬ。神の息子だと言っているまでである。なんとなれば神に創造されたものだからである」と、わけの分からぬことを言ってきた。

低級霊の集団には、世界各地の交霊会に出没しては、出席者と縁故のある霊の声色を使ったり話し方を真似て、感激的な再会の場面を演出することを得意とする者がいる。その場合、名前や住所、家族名などを確かめても何にもならない。その程度の情報なら低級霊にも簡単に入手できるからである。

また証拠などが得られない高級霊の場合の身元の判断の材料は、名乗って出てくる名前や歴史上の史実ではなく、“言っていること”そのものの内容である。
二、霊格の程度と正邪の見分け方


霊の身元の証明は多くの場合、とくに高級霊の場合は二次的な問題でほとんど意味がないとしても、その霊が善霊か邪霊か、高級か低級かの判断はきわめて重大な問題である。というのは、その述べるところが一体何という名の霊からのものであるかは、事情によってはどうでもよいことであるが、その内容つまり何を述べているかということは、それを送ってくる霊の信頼度を計る唯一の手掛かりとなるからである。

今も述べたように、通信霊がいかなる霊格の持ち主であるかは、人間の人格を推し量る時と同じように、その言っていることによって判断しなくてはならない。かりに見知らぬ人々から二十通の手紙が届いたとしよう。その一通一通について文体と内容その他、こまごまとした特徴から、どの程度の人物からのものであるかは大よその見当がつくはずである。

霊からの通信についても同じことが言える。一度も会ったことのない霊からメッセージを受け取ったら、その文体と内容から大よそどの程度の霊格の持ち主であるかの見当をつけるべきで、立派そうな名前のサインがしてあるからというだけで有頂天になってはいけない。霊格はその言葉に表れる――これは間違いない尺度であって、まず例外は有り得ないと思ってよい。

高級霊からのメッセージはただ内容が素晴らしいというだけではない。その文体が、素朴でありながら威厳に満ちている。低級霊になると、やたらに立派そうな派手な用語を用いながら、訴える力がこもっていない。

用心しなければならないのは、知性である。ふんだんに知識をひけらかしているからといって高級霊と思ってはならない。知性は必ずしも徳性ないし霊性の証明ではないのである。非常に霊性の高い霊でも哲学的には深いことを語らないことがあるし、博覧強記で、知らないものはないかに知識を披露しても、霊格の低いことがある。

そうしたことから推察できる事実として、通信霊が地上時代に著名な科学者だったからといって、その後もその分野でますます高度の知識を蓄えているとは限らないことである。霊性の発達が遅れているために相変わらず地上的波動から脱け切れず、地上時代に名声を博した理論をいつまでも後生大事にして、それが進歩の足枷となっていることに気がつかない。

もちろん全ての科学者がそうだと言うつもりはない。ただ、これまでにそうした霊を数多く招霊しており、地上時代の名声は必ずしも霊性の高さの証明とはならないことを指摘しておくまでである。

繰り返すが、霊的通信を受け取った時は、内容的に見て理性と常識に反するものはないか、文章や言葉に品位があるか、偉ぶったところや尊大な態度は見られないか、といった点を徹底的に検証しないといけない。そうした態度に出られて、もしも機嫌を損ねるようであったら、それは低級霊・未熟霊・邪霊の類いと思って差し支えない。高級霊ないし善霊は絶対に機嫌を損ねないどころか、むしろそうした態度を歓迎する。何一つ恐れる必要がないからである。
一問一答


――通信霊の優劣は何を手掛かりに判断すればよいのでしょうか。


「文章(自動書記の場合)ないし言葉づかい(霊言の場合)です。人間の場合と同じです。すでに述べたように、高級霊の述べることには矛盾撞着がなく、全体が善性で貫かれております。善への志向しか持ち合わせないからです。それが高級霊の思念と行為の目的なのです。

低級霊はいまだに地上的感覚に支配されています。その語るところに無知と不完全さがさらけ出されます。知識の崇高さと冷静な判断力、これが高級霊のみの属性です。」


――優れた科学的知識は霊格の高さの指標でしょうか。


「そうとは言い切れません。その霊が今も地上的波動の中で生きているとすれば、人間的な煩悩と偏見を留めているはずです。地上を去ってすぐにそうした煩悩を捨て去ることができると思いますか。とんでもありません。こちらへ来ても相変わらず高慢で嫉妬ぶかく、その波動が地上時代と同じように魂を覆っています。

低級霊というのは、ただ単に無知である者よりも、なまじ知性が発達した者の方が始末に負えないものです。その生半可な知性にずる賢さと高慢とが結合するからです。彼らは大威張りで、怪しむことを知らない人間や無知な人間を標的にして働きかけます。また働きかけを受けた人間もそれを躊躇することなく受け入れます。

無論そうした誤った論説は最終的には真理には勝てませんが、一時的には混乱を引き起こし、スピリチュアリズムの発展を阻害します。霊能者は無論のこと、スピリチュアリズムの普及に携わる人々は、その点をしっかりと認識して、真理と虚偽とを明確に選り分けるように努力すべきです。」


――通信霊の中には歴史上に名を留めている聖人や有名人の名を名乗る者が多いのですが、どう対処すべきでしょうか。


「歴史に名を残している聖人や大人物がいったい何人いるというのでしょう? 通信を送る高級霊の中で地上の人間にその名を知られている者の数はたかが知れています。知られていない霊の方が遥かに多いのです。地上時代の氏名を聞かれても名乗りたがらない者が多いのは、そのためです。ところが、人間はそれでは承知せず、しつこくせがみます。そこでやむを得ず適当な人物の名を使用することにもなるのです。」


――それは一種の“詐称”と見なされるのではありませんか。


「邪霊が騙す目的でそういうことをすれば詐称と言えるでしょう。ですが、高級霊がそういうことをすることは、同じ霊格を持つ霊団の中では許されていることなのです。思想上の同一性と責任の連帯意識があるからです。」


――そうなると、霊団の一人がたとえば“聖パウロ”だと名乗っても、あのキリストの使徒のパウロだとは限らないということですか。


「その通りです。自分の守護霊は聖パウロだと言われた人が何千何万といる事実を見れば分かるはずです。が、霊格がパウロと同じ程度であれば名前はどうでもいいではありませんか。ですが、あなた方はすぐに地上時代の名前を知りたがります。そこで霊の方では適当な名前を選んで、それを自分の“呼び名”にするのです。それはちょうど地上の家族が同じ姓のもとで呼び名をつけて区別にするのと同じです。時にはラファエルとかミカエルといった大天使の名をつけて、問題が生じない範囲で用いることもあります。

さらに言えば、霊格が高まれば高まるほど、その影響力の及ぶ範囲も広がります。そこで、一人の高級霊が地上の何百何千という人間の面倒を見ることもあります。地上には弁護士というのがいて何十人何百人という人の世俗的問題の処理に当たりますが、それと同じと思えばよろしい。霊的な側面から面倒を見るわけです。」


訳注――マイヤースの“類魂説”でいうと、類魂団の親に当たる“中心霊”がいて、それが幾つでも分霊を出して地上その他の天体に生みつけ、その一人一人を類魂の中の誰かに面倒を見させるという。中心霊が全体を統括しながら個々の人間にも守護霊を付けているようである。「一人の高級霊が地上の何百何千という人間の面倒を見る」というのは“統括している”という意味に取るべきであろう。


――通信霊が聖人の名を使うことが多いのはなぜでしょうか。


「通信を受け取る側の人間の信仰上の慣習に合わせて、最も感銘を与えやすい名を選びます。」


ブラックウェル脚注――聖人に列せられている名を使うのはカトリック系の国に多く、プロテスタントの国では歴史上に名を残した人物や科学界の著名人の名を用いる傾向がある。


――高級霊は招霊されると自ら出てくるのでしょうか、それとも代理の者を差し向けることもあるのでしょうか。


「出られる場合は自ら出ます。出られない場合は代理の者を送ります。」


――その代理の霊は高級霊の代理として申し分ないだけの資格を身につけているのでしょうか。


「高級霊が自分の代理として選ぶのですから、十分にその資格をそなえた者にきまっています。さらに言えば、霊格が高まるほど霊団内の思想に緊密度が増しますから、その中の誰が出ても大して変わりはないのです。

お聞きしていると、地上の歴史に名を残している人物でないとその通信に価値がないかに思っておられる節がありますね。どうやらあなた方は、自分たち地上の人間だけがこの宇宙の住民であるかのように思い込み、そこから先が見えないようですが、そんなことでは、まるで孤島で暮らしている原始人と同じで、その島が全世界であると思い込んでいるようなものです。」


――重大な内容の通信の場合であれば異論はありませんが、低級霊が道を誤らせるような内容の通信を送ってくる時に聖人の名を騙るのをなぜ高級霊は許すのでしょうか。


「別に許しているわけではありません。地上と同じで、そういう騙しの行為をした霊は罰せられます。それは確かです。そしてまた、その騙しの悪辣さに応じて罰が酷しくなることも確かです。

しかし一方、もしもあなた方が完全な人間であれば常に善霊に取り囲まれていることでしょうが、万が一騙された時は、それはあなた方がまだまだ不完全であることの証左であると受け取るべきでして、その場合の責任は人間側にもあることになります。

そういう事態が生じるのは、一つには天の配剤としての試練であり、また一つには真実と虚偽との見分けが必要であることを教えることによって啓発するためでもあります。それでも啓発されなかったら、それはあなた方の霊性が十分に進化していない証拠であり、まだまだ失敗による教訓を必要としていることを物語っています。」


――霊格はあまり高くなくても真理の普及と向上心に燃える霊を、通信法の練習の機会を与える目的で、本来の高級霊に代わって出させることはありますか。


「スピリチュアリズムの大計画に基づく交霊会では絶対にそのようなことはさせません。もともとそうした重大な交霊会に出現する高級霊は自らその難しい仕事を買って出るものだからです。中には霊格は高くても、たとえば自動書記であれば“書く”という練習も兼ねることがあり、霊媒の知識の不足もあって、最初のうちは通信内容が粗悪である場合が少なくありません。が、プライベートな内容の通信の場合を除いて、代理の者に書かせることはしません。」


訳注――本書の二十年後に出たモーゼスの『霊訓』では、レクターその他の複数の霊が最高指揮霊インペレーターの“書記”をつとめている。また、さらに五十年後に出現したシルバーバーチはインディアンをマウスピースとして使用している。時代とともに変遷しているようである。


――お粗末きわまる通信の中に時としてびっくりするような名文が出てくることがありますが、この不合理をどう理解すべきでしょうか。霊格の異なる複数の霊が入れ替わり立ち替わり書いたように見受けられるのですが……。


「低級霊ないしは無知な霊が大した内容もない文章を綴ることがあります。地上でもそうではないでしょうか。文筆家がみな立派な人ばかりとは限らないのと同じです。が、その程度の霊と高級霊とが共同で書くようなことはしません。高級霊からの通信には一貫して崇高さが窺われます。」


――霊が間違ったアドバイスをして、それがもとで人間が誤りを犯した場合、そこには必ず意図的な作為があるのでしょうか。


「そんなことはありません。善意に満ちた霊でも真理に無知なことがあり、真実と思い込んで間違ったアドバイスをすることがあります。ただし自分の誤りに気づくと、それからは用心して間違いない範囲に限るようにします。」


――間違った内容の通信を送ってくる場合、良からぬ意図に発しているのでしょうか。


「これもそうとは言い切れません。霊でもよく軽はずみなことを述べてしまうことがあるものです。誤解しているわけでもなく、これといった意図があるわけでもないのですが、明確に理解していないことをいかにも分かっているかのごとき態度でまくし立て、煙(けむ)に巻くことがあります。」


――霊が声色を使ったり話し方を真似たりすることができるとなると、姿を偽装することによって霊視能力者をごまかすこともできるのでしょうか。


「そういうことが時おりあります。しかし霊言や自動書記でごまかすよりも難しく、しかも高級霊による配慮で、その霊能者を戒める目的で特別に雇われた霊だけに許されることです。その場合、霊自身は高級霊に雇われていることには気づきません。また霊視能力者もそうした軽薄な低級霊が見えてもごまかされていることには気づきません。霊聴能力で話を聞き取り自動書記で綴るのと同じことです。いたずら霊はそうした霊媒能力を逆手に取って偽装した姿を見せるのですが、それが可能かどうかは霊能者自身の霊性の程度に掛かっています。」


――騙されないようにするには真面目な心掛けが肝心なのでしょうか、それとも、どんなに真面目な真理探求者でも騙されるものなのでしょうか。


「真面目であればあるほど騙されることが少ないということは言えます。しかし、いかなる人間にもどこかに弱点があり、それが邪霊につけ入らせることになります。本当は弱いくせに自分では強いと思っている人がいます。自惚れや偏見はないと思っている人でも、自分で気づいていないだけの人がいます。霊能者はそうした点を十分に反省せずに霊的な仕事に携わるために、そこがいたずら霊のつけ入るスキとなります。自惚れや偏見を煽ればいい気になって、思うツボにはまることを彼らは知っているのです。」


――なぜ神はそういう邪(よこしま)な下心をもつ霊が人間に通信を送ることを許すのでしょうか。


「いかに邪悪な霊からの通信にも教訓を垂れるという目的がもくろまれているのです。そこから教訓を引き出し、それを有益な体験としていくことです。正邪を区別し、それを鏡として自分を映して反省するために、ありとあらゆる程度と種類の通信に当たってみる必要があるのではないでしょうか。」


――霊は通信の中に邪な猜疑心を煽るようなことを含ませて、サークルを仲違いさせるようなこともできるのでしょうか。


「根性のひねくれた妬み深い霊は、地上の悪人がするのと同じあらゆる悪事を企むことができます。常に油断を怠らないようにする必要があります。

高級霊が人間に仕置きをする時は、慎重さと節度を弁えた上で行います。決して非難のつぶてを投げるようなことはしません。警告はしますが、そこに優しさがあります。仮に二人のメンバーが今は会わない方がいいと判断した時は、会えなくなるような事情を生じさせて会わないようにします。トラブルや不信を生じさせるような通信は、どんな立派な署名がしてあっても、邪霊の仕業と思って間違いありません。ですから、メンバーの中の誰かを揶揄(やゆ)するようなことを述べている時は用心しないといけません。そして自分自身を厳しく反省し、偏見のないように心掛けることを忘れてはなりません。

霊界通信に関するかぎり、知性と良心に悖(もと)ることのない、上品で寛大で合理的な内容のものだけを受け取ることです。」


――それほどまでに邪霊・悪霊がつけ入りやすいとなると、霊界通信はどれ一つとして安心して受け取れないことになりそうですが……。


「その通りです。だからこそ理性という判断力が与えられているのです。仮に一通の手紙を読んだ時、それが悪逆非道の人物からのものか、育ちの良い人物からのものか、教養があるかないかは、一読しただけで分かるはずです。霊からの通信も同じです。

遠く離れた古い友人から久しぶりに便りが届いたとしましょう。それが間違いなくその友人からものであることをどうやって確認しますか。筆跡と内容で、とおっしゃるかも知れません。が、筆跡を真似たりプライベートなことを覗き見する者はいくらでもいます。が、直観的判断で間違いなくあの友人だと確信させる何ものかがその文面にはあるはずです。霊界通信も同じです。」


――高級霊がその気になれば、邪霊が偽名を使うのを阻止できるのではないでしょうか。


「もちろんできます。が、邪悪性が強い者ほど、その執拗性も強く、しつこく抵抗して容易に止めようとしません。それに、こういうことも知っておいてください。高級霊はその判断力でもって、成り行きに任せる場合と全力をあげて守る場合とがあります。高級霊が全力で守護する場合はいかなる邪霊も無力です。」


――そういう差別をする動機は何でしょうか。


「差別ではありません。公正です。言うことを素直に聞いて向上を心掛ける霊能者にはそれに相応しいことをします。言わば高級霊のお気に入りであり、いろいろと援助します。口先だけ立派なことを言いながら実行の伴わない者には、高級霊はまず構いません。」


――高貴な人物の名を騙るという冒涜行為を神はなぜ許すのでしょうか。


「そういう質問をなさるのなら、なぜ地上にはウソつきや不敬を働く者がいるのかを質問なさるがよろしい。人間と同じく霊にも自由意志があるのです。そして神の公正は善行についても悪行についても、きちんと働きます。」


――そういう邪霊を(悪魔払いのような)儀式で追い払うことはできませんか。


「儀式はあくまでも形式的なものです。大霊を志向した真摯な思念の方が遥かに効果があります。」


――ある霊が、自分たちには誰にも真似のできない図形的な標章をこしらえることができると言い、それを用いることによって絶対的な確実性をもって高級であることを証明できると言うのですが、本当でしょうか。


「高級霊であることの標章は説くところの思想とその言葉の崇高性以外にはありません。図形的な標章ならどんな霊にでも似たものをつくることができます。低級霊が幾ら悪知恵を働かせても、その素性を隠すことはできません。幾らでもボロを見せているのですが、それでも騙される人間はよほど物を見分ける目がないとしか言いようがありません。」


――低級霊は高級霊の思想まで真似ることができるのではないでしょうか。


「できるといっても、それは映画のスクリーンに映る大自然の風景がまがいものであるのと同じ程度のものです。」


――注意して観察すれば化けの皮はすぐに剥がれるということでしょうか。


「そうですとも。騙される人間は自ら騙されることを許しているのです。低級霊が騙すのはそういう人間だけです。本物かニセ物かを見分けるには宝石商のような鑑識眼を持たないといけません。自分で見分けられない時は鑑定家のところへ持って行って見てもらうことです。」


――勿体ぶった言説に簡単に参ってしまう程度の人間、つまり思想よりも美辞麗句に弱い人間は、反対に崇高なものは陳腐で下らぬものと見誤りがちです。こうした人間は、霊どころか、人を見抜く目も持たないと思えるのですが、どうしたらよいでしょうか。


「その人が本当に謙虚であれば自分の無力さを自覚して、都合のいい判断は下さないはずです。高慢で、自分がいちばん賢いと思い込んでいる人間は、自らその自惚れを生み出す結果を招きます。

純心ではあるが教養に欠ける者と、知識と教養は豊富ではあるが自惚れの強い者とがいるものですが、案外前者の方が騙されることが少ないものです。邪霊は、その自惚れ屋の感情をくすぐることによって好きに操るのです。」


――霊能者の中には霊が接近してくる時の雰囲気で善霊か悪霊かの判断をする人が多いようですが、けいれんを伴った興奮状態やイライラといった不快な反応は、間違いなく、働きかけている霊の邪悪性の証拠とみてよろしいでしょうか。


「霊能者は働きかける霊の精神状態を敏感に察知します。霊が幸福感に満ちていれば霊能者も冷静で心も軽やかで穏やかです。不快感を抱いていれば霊能者もイライラしたり興奮したりします。そしてそのイライラは当然霊能者の神経組織にも悪影響を及ぼします。人間と同じです。心に何一つやましいところがなければ沈着冷静です。腹に一物ある人間は落ち着きがなく、とかく興奮しがちです。」