Saturday, January 10, 2026

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(三)

 The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen

五章 生前と死後


 
1 一兵士の例  
一九一七年十二月七日 金曜日


 地球を取り巻く暗闇──光明界から使命を帯びて降りてくる霊のすべてがどうしても通過せざるを得ない暗闇を通って、地上という名の〝闘争の谷〟から光明と安らぎの丘へと、人間の群れが次から次へと引きも切らずにやってまいります。

これからお話しするのは、その中でも、右も左も弁えない無明の霊のことではなく、〝存在〟の意味、なかんずく自分の価値を知りたくてキリストの愛を人生の指針として生きてきた者たちのことです。彼らは地上においてすでに、その暗闇と煩悩の薄暮の彼方に輝く太陽が正義と公正と愛の象徴であることを知っておりました。

 それゆえ彼らはこちらへ来た時に、過ちではなかろうかと気にしながらも生きてきたものを潔く改める用意と、天界へ向けての巡礼の旅において大きく挫折しあるいは道を見失うことのないよう蔭から指導していた背後霊への信頼を持ち合わせているのです。

 それはそれなりに事実です。が、彼らにしてもなお、いよいよこちらへ到来してその美しさと安らぎの深さを実感した時の驚きと感嘆は、あたかもカンバスの上に描かれた光と蔭だけの平面的な肖像画と実物との差にも似て、その想像を超えた躍動する生命力に圧倒されます。


──判ります。私にはその真実性をすべて信じることが出来ます、リーダーさん・・・・・・あなたがそちらでそう呼ばれていることをカスリーンから聞いております・・・・・・
 でも、何か一つだけ例をあげていただけませんか。具体的なものを。

 無数にある例の中から一つだけと言われても困りますが、では最近こちらへ来たばかりの人の中から一人を選んでみましょう。現段階では吾々の班は地上界との境界近くへ行って新参の案内をする役目は仰せつかっていませんが、それを仕事としている者と常に連絡を取り合っておりますので、その体験を参考にさせてもらっています。

では、つい先ごろ壁を突き抜けてきたばかりで、通路わきの草地に横になっていた若者を紹介しましょう。


──〝壁〟というのは何でしょうか。説明していただけませんか。

 貴殿らの住む物質界では壁といえば石とかレンガで出来ていますが、吾々のいう壁は同じく石で出来てはいても、その石はしっかりと固いという意味で固形をしているのではありません。

その石を構成しているところの分子は、地上の科学でも最近発見されたように常に波動の状態にある。そしてその分子の集合体も地上でエーテルと呼ぶところの宇宙に瀰漫する成分よりもさらに鈍重な波動によって構成されている。

そもそも〝動〟なるものは意念の作用の結果として生じるものであり、また意念を発するのは意識を持つ存在です。

したがって逆に考えれば次のようなことになりましょう。まず一個の、または複数の意識的存在がエーテルに意念を集中するとそこに波動が生じる。そしてその波動から分子が構成される。

それがさらに別のグループ(天使団と呼んでもよい)の意念の働きによって濃度の異なる凝固物を構成し、あるいは水となり、あるいは石となり、あるいは樹木となる。

それゆえ、あらゆる物質は個性的存在である意念の物質化現象であり、その個性的存在の発達程度と、働きかけが一個によるか複数によるかによって、構成と濃度が異なるわけです。つまり意念の不断の放射がその放射する存在の発達程度に相応しい現象を生み出すわけです。

 霊界と物質界との間には常にこうした一連の摂理が働いているのです。

 さきの〝壁〟は実は地上界から放射される地上独特の想念が固まってでき、それが維持されているものです。すなわち天界へ向けて押し寄せてくる地上の想念が地上に近い界層の想念によって押し返される。

これを繰り返すうちに次第に固さが増して一種の壁のようなものを形成する。その固さと素材は吾々霊界の者には立派に感触があるが、地上の人間には一種の精神的状態としてしか感識できません。

貴殿らがよく〝煩悶の暗雲〟だの〝霊的暗黒〟だのと漠然と呼んでいる、あれです。

 従って吾々が〝その壁は地上の人間の想念によって作られている〟と言うとき、霊の想像力の文字どおりの意味において述べているのです。全ての霊に創造力があり、肉体に宿る人間は本質的には霊です。

そしてその一人ひとりが吾々と同じく宇宙の大霊の一焦点なのです。それゆえ霊界との境界へ向けて押し寄せてくるこの想念の雲は霊的創造物であり、それを迎えうって絶えず押し返し続け地上圏内に止めているところの霊界の雲と同じです。

本質において、あるいは種類において同じということです。程度において異なるのみです。つまり程度の高い想念体と低い想念体との押し合いであり、その時々の濃度の割合によって霊界の方へ押し込んで来たり、また地上近くへ押し返されたり、を繰りかえしている。

が、それにも限界があり、全体としてみればほぼ定位置に留まっており、決して地上圏からそう遠ざかることはありません。

 さて、貴殿の質問が吾々に一つの大きなテーマを課す結果になりました。今日の地上においては未だ科学の手の届いていない領域の一つを無理して地上の言語で語ることになってしまいました。

いずれ科学が領域を広げた暁には地上の誰かが人間にとってもっと馴染みやすい用語で、もっと分かり易く説明してくれることでしょう。


──大体の流れは掴めました。どうも済みませんでした。

 さてその男は道路わきの芝生に横になっていましたが、その道は男を案内して来た者たちの住居の入り口に通じる通路でした。間もなく男は目を開いて、あたりの明るい様子に驚きの表情を見せたが、目が慣れてくると彼を次の場所まで案内するために待機している者たちの姿が見えてきた。

 最初に発した質問が変わっていた。彼はこう聞いたのである──「私のキット(*)はどうしたのでしょうか。失くしてしまったのでしょうか」(*ふつうは身の回り品のことであるが、ここでは兵士の戦闘用具──訳者)

 すると、リーダー格の者が答えた。「その通り、失くされたようですね。でも、その代りとして私たちがもっと上等のものを差し上げます」

 男が返事をしようとした時あたりの景色が目に入り,こう尋ねた。「それにしてもこんなところへ私を連れてきたのはどなたですか。この国は見覚えがありません。敵の弾丸(たま)が当たった場所はこんな景色ではありませんでしたが・・・・・・」

そう言って目をさらに大きく見開いて、今度は小声で尋ねた。「あの、私は死んだのでしょうか」

 「その通りです。あなたは亡くなられたのです。そのことに気づかれる方はそう多くはありません。私たちはこちらからずっとあなたを見守っておりました。

生まれてから大きく成長されていく様子、職場での様子、入隊されてからの訓練生活、戦場で弾丸が当たるまでの様子、等々。あなたが自分で正しいと思ったことをなさってきたことは私たちもよく知っております。

すべてとは言えないまでも、大体においてあなたはより高いものを求めてこられました。ではこれから、こちらでのあなたの住居へご案内いたしましょう」

 男は少しの間黙っていたが、そのあとこう聞いた。「お尋ねしたいことがあります。よろしいでしょうか」

 「どうぞ、何なりとお聞きください。そのためにこうして参ったのですから・・・・・・」

 「では、私が歩哨に立っていた夜、私の耳に死期が近づいたことを告げたのはあなたですか」

 「いえ、その方はここにいる私たちの中にはおりません。もう少し先であなたを待っておられます。もっとしっかりなさってからご案内しましょう。ちょっと立ってみてください。歩けるかどうか・・・・・・」

 そういわれて男はいきなり立ち上がり、軍隊のクセで直立不動の姿勢をとった。するとリーダー格の人が笑顔でこう言った。

「もう、それはよろしい。こちらでの訓練はそれとはまったく違います。どうぞ私たちを仲間と心得てついてきて下さい。いずれ命令を授かり、それに従うことになりますが、当分はそれも無いでしょう。

その時が来れば私たちよりもっと偉い方から命令があります。あなたもそれには絶対的に従われるでしょう。叱責されるのが怖くてではありません。偉大なる愛の心からそうされるはずです」


 男はひとこと「有難うございます」と言って仲間たちに付いて歩み始めた。いま聞かされたことや新しい環境の不思議な美しさに心を奪われてか、黙って深い思いに耽っていた。

 一団は登り道を進み丘の端を通り過ぎた。その反対側には背の高い美しい樹木の茂る森があり、足元には花が咲き乱れ、木々の間で小鳥がさえずっている。その森の中の小さく盛り上がったところに一人の若者が待っていて、一団が近づくとやおら立ち上がった。

そして彼の方からも近づいてくだんの兵士のところへ行って、片腕で肩を抱くようにしていっしょに歩いた。互いに黙したままだった。

 すると突如として兵士が立ち止まり、その肩にまわした腕をほどいて若者の顔をしげしげとのぞき込んだ。次の瞬間その顔をほころばせてこう叫んだ。「なんと、チャーリーじゃないか。思ってもみなかったぞ。じゃあ、あの時君はやはりダメだったのか?」

 「そうなんだ。助からなかったよ。あの夜死んでこちらへ来た。すると君のところへ行くように言われた。君にずっと付いて回って、出来るだけの援助をしたつもりだ。が、そのうち君の寿命が尽きかけていることを知らされた。

僕は君にそのことを知らせるべきだと思った。と言うのも、僕が首に弾丸を受けた時君が僕を陣地まで抱きかかえて連れて帰ってくれたが、あのとき君が言った言葉を思い出したんだ。

それで君が静かに一人ぼっちになる時を待って(死期の迫っていることを知らせるべく)できるだけの手段を試みた。あとでどうにか君は僕の姿を見るとともに、もうすぐこちらへ来るぞという僕の言葉をおぼろげながら聞いてくれたことを感じ取ったよ」

 「なるほど〝こちらへ来る〟か・・・・・・もう〝あの世へ行く〟(*)じゃないわけだ」(*第一次大戦ごろから〝死ぬ〟ということを英語で俗に go west 〝西へ行く〟と言うようになった。ここでは死後の世界から見れば〝行く〟ではなく〝来る〟となるので come west と言ったわけである──訳者)

 「そういうわけだ。ここで改めてあの夜の君の介抱に対して礼を言うよ」

 こうした語らいのうちに二人だけがどんどん先を歩んだ。と言うのも、他の者たちが気をきかして歩調を落とし、二人が生前のままの言葉で語り合うようにしてあげたのである。

 さて吾々が特にこの例を挙げたことにはいろいろとわけがあるが、その中で主なものを指摘しておきたい。

 一つは、こちらの世界では地上での親切な行為は絶対に無視されないこと。人のために善行を施した者は、こちらへ来てからその相手から必ず礼を言われるということです。

 次に、こちらへ来ても相変わらず地上時代の言語をしゃべり、物の言い方も変わっていないことです。ために、久しぶりで面会した時にひどくぶっきらぼうな言いかたをされて驚く者もいる。今の二人の例に見られるように軍隊生活を送った者がとくにそうです。

 また、こちらでの身分・階級は霊的な本性に相当しており、地上時代の身分や学歴には何の関係もないということです。この二人の場合も、先に戦死した男は軍隊に入る前は一介の労働者であり、貧しい家庭に育った。

もう一人は世間的には恵まれた環境に育ち、兵役に就く前は叔父の会社の責任のあるポストを与えられて数年間それに携わった。が、そうした地位や身分の差は、負傷した前者を後者が背負って敵の陣地から連れて帰った行為の中にあっては関係なかった。こちらへ来てからは尚のこと、何の関係もなかった。

 こういう具合に、かつての知友はこちらで旧交を温め、そしてともに向上の道に勤しむ。それというのも、地上において己れの義務に忠実であった者は、美と休息の天界において大いなる歓迎を受けるものなのです。

そこでは戦乱の物音一つ聞こえず、負傷することもなく、苦痛を味わうこともない。地上の労苦に疲れた者が避難し、生命の喜びを味わう〝安らぎの境涯〟なのです。

シルバーバーチの霊訓(十一)

 More Philosophy of Silver Birch Edited by Tony Ortzen


二章 霊媒的能力     
            霊的知識を得るための必須の手段

    霊媒的能力は霊界側の真理普及の計画にとって欠かすことの出来ないものである。霊媒なくしては地上界と霊界との連絡は不可能である。いかなる教訓も、いかなる証拠も提供できないであろう。その大切さをシルバーバーチが改めて説く───

 霊媒は人間が霊的宿命を持つ霊的存在であることを証明してくれるものです。狂暴性に満ちたこの病める地上世界に是非とも必要な霊的真理を普及させる上で協力してくださる方にこうしてお会いできることは、私にとって大きな喜びであり、光栄なことでもあります。人助けのチャンスはその心掛けのある人には何処にでも見つかります。

 実はあなた方みずからが、ここぞという時に陰から援助を受けておられることを必ずしも気づいていらっしゃいません。死は情愛によって一度つながりのできた人との間を裂くことはできません。

そのことはあなた方みずから説いていらっしゃることですから、日常の生活においてもそれを常に念頭に置いた心掛けが大切です。

 本来なら最も緊密な同志であるべき人たちの敬意と協力が必ずしも得られるとはかぎらないものです。その時は、せっかく徳積みのチャンスを目の前にしながらそれをつかみ損ねた人のことを気の毒に思ってあげないといけません。

 霊的大事業の計画が挫折することはありません。霊の力が退散させられることは絶対にありません。すでに始まった躍進の歩みが止まるようなことは決してありません。築かれた橋頭堡は着々と強化されております。機会と条件さえ整えば、これからもますます拡大し増強されていくことでしょう。


───片づけなければならない障害や、どうしても避けられない困難や反抗があるようです。

 だからいいのです。挑戦・障害・困難・失望・焦燥といったものに遭遇しないといけないのです。その中には本来そういうものを引き起こしてはならないはずの人たちみずからが引き起こしているものも、よくあります。しかし、同じ問題で私たち霊団の者も常に悩まされているのです。

 〝天使も涙する〟という文句をご存知でしょう。私たち霊は、難しい条件の中にあって地上の人間のために心を砕いているからこそ、思わず涙を流すことにもなるのです。せっかくの貢献度の高い道を歩みかけながら、ふと脇道へそれて絶好のチャンスを取り逃がしているのです。しかし、それでも計画は進行しています。


───私が気掛かりなのは、かつてはこの道の仕事に献身する素晴らしい人が大勢いたのに、もっと多くを必要とする今、そういう人が見出せないことです。

 なぜそうなってきたかと言うと、挑戦すべきことや克服すべき障害が少なすぎるからです。だからこそ私は、そういうものを歓迎しなさいと申し上げているのです。こちらへお出でになってから地上生活を振り返ってご覧になれば、ラクだったことには何の感慨も覚えずに、むしろ苦しかったことに感謝なさるはずです。ラクだったことはどうでもよかったことばかりです。


───霊媒が次々と他界していきました。スピリチュアリズムは霊媒能力が頼りです。新しい霊媒は準備されているのでしょうか。

 われわれの仕事の背後には高級界の神庁において企画された総合的な計画があることを認識しなくてはいけません。私も何度かその神庁における会議に出席させていただいておりますが、その計画には、考えうるかぎりの有りとあらゆる要素が考慮されております。

青写真(ブループリント)はちゃんと出来ているのです。それが地上で着々と実施されてまいります。

 無限の叡智を具えた大霊は相対的な自由意志をもつ存在として人間を創造されました。ということは、人間は自分よがりの物的な欲望ばかり追い求めたければ、それも許されるということです。

そこに選択の余地があるということですが、今私は、〝相対的な自由意志〟という言い方を意図的に使用しました。私が〝無限の創造活動〟と呼んでいるものを一時的に邪魔したり遅らせたり妨害したりすることはできても、完全に阻止することはできないということです。神の計画の地上での実現を阻止することはできないのです。

 今あなたは霊媒の不足を口にされました。しかし人類の現在の進化の段階において必要な霊媒は十分に用意されております。もっと必要な段階がくれば、さらに多くの霊媒が用意されることでしょう。

 もっとも、そうした配慮がなされているという事実が必ずしもスピリチュアリズムの組織の視界に入るとはかぎりません。ささやかなホームサークルの形を取ったり、個人で独自の手段で行われる場合もあります。

そういう人たちは自分のことをスピリチュアリストであるとか、霊媒であるとか、霊能者(超能力者)であるとは思っていないかも知れません。

 この仕事において援助を求める声、知識を広めたいと願う心は、私たちに関する限り絶対に無視されることはありません。私たちには皆さんの霊的な必需品、精神的必需品、および物質的必需品は先刻承知しております。

その時点において是非とも必要とみたものは必ず用意してあげます。ただし、それは私達霊界側の法則にのっとって私たちの判断でタイミングを計って行います。人間界の都合に合わせて行うわけにはいかないのです。

 こう申しては失礼かも知れませんが、霊力をいつ行使するのが適切かの判断は、あなた方人間にはできません。すべて当人の魂の発達程度によって決められるのです。もし受け入れる用意ができていると見た時はただちに行います。もし受け入れる段階ではないと見た時は、私たちにはなすすべがないのです。

 地上に霊的教育が欠如していることは間違いありません。また虚栄心、自惚れ、指導霊崇拝がはびこっていることも残念ながら事実です。基本的な真理がおろそかにされて、実質的には地上に何の益ももたらさない脇道が開拓されております。

 が、あなたがもし私と同じ位置に立って眺められたら、明日はどうなるかについての一切の心配も恐れも不安も消えてしまうことでしょう。あなたの背後には宇宙最大の霊力が控えているのです。その力は決して裏切りません。

 
───迷いながらも自分で決断を下さなければならないことがあるのです。

 そこにあなたの自由意志の要素があるわけです。ご自分で精一杯のことをする───私たちから皆さんに要求するのはそれだけです。もしもあなたが完ぺきに振舞える方だったら今この地上にはいらっしゃらないでしょう。

 あなたは他人のために役立つことができるという測り知れない光栄に浴していらっしゃいます。それがあなたにとって地上における最大の貢献です。あなたはそのために生まれて来られたのです。

 地上へ誕生してくる魂には例外なく自我の開発のための機会が用意されております。誰一人として放ったらかしにならないように摂理ができあがっているのです。それは絶対不変ですし、しくじるということがありません。

 四季は間違いなく巡ります。潮は数学的正確さをもって満ち引きします。花、小鳥、樹木、自然界の全生命がその素晴らしい配剤を生んだ背後の大霊への讃歌を奏でております。

 私たちも決して皆さんを放ったらかしにはいたしません。引き上げてしまうようなことはいたしません。 霊力はすでに地上にしっかりと根づいております。それを打ち消せるものは何一つ存在しません。必ずや所期の目的を成就します。

 これまでの永い人類の歴史において、散発的に何度か霊力の奔流が地上へ流れ込みましたが、さまざまな原因からいずれも一過性のもので終わりました。が、このたびばかりは違います。

 地上世界は今、進化の過程における一つの危機に差し掛かっております。一触即発の状態にあると言ってもよいでしょう。しかし、人類はこれをきっと切り抜けることでしょう。地球の最期、人類の終焉が近づきつつあるかの予言や警告に耳を貸してはなりません。

 神は地上の人間によってもたらされる破壊や損害にも限界をもうけております。地球全体を破滅させるほどの力は地上には存在しません。人類全体を殺りくするほどの力は存在しません。人間がいかに複雑で性能のいい科学技術を発明しても、それによって為しうることにはおのずから限界があります。

 霊的な力は人間が製造しうるいかなる物的な力よりも強大です。物質は本性そのものが霊に劣るのです。霊が王様で物質は召使いです。霊こそ実在であり、物質は霊の働きかけがあるからこそ存在できているのです。霊が引っ込めば物質は分解します。人類がその危機的段階を首尾よく切り抜ける上で霊が圧倒的な支えとなります。

 あなたの人生思想の根幹となるべき霊的知識にまず絶対的自信を置くことです。そしてその知識だけでは処理できない事態が生じた時は、それに信仰(信念)を加えるのです。

手にされた知識を根拠とした信仰です。信仰心も、筋が通っていて論理性があり、納得のいくものであれば、それなりの効用はあるものです。

 背後霊の存在を信じることです。機が熟した時に必要な援助があります。条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果を生じさせる力があります。私たちもそれを何度もお見せしてきました。これからも必要に応じて行使します。

霊的知識を人に説く時は、背後霊は決して見棄てないことをよく言って聞かせてください。ですから、人間の方から背後霊を見棄てないように、ということも言い添えて下さい。

 お金が足りなければ工面してあげます。せっかくの奇特な行為のチャンスが資金がないために失われるようなことには決してなりません。その点をあなたはどう思われますか。必要なだけの資金は不思議にどこからか入るものだと思われたことはありませんか。

霊の道具としての仕事に励んでいる者は、物的生活の必需品に事欠くことには決してなりません。こちらから用意してあげます。飢えに苦しむようなことにはなりません。渇きに苦しむようなことにはなりません。きっと何とか切り抜けられるものです。

 ラテン語の sursum corda (スルスム コルダ)という言葉をご存知でしょうか。〝汝ら心を上げよ〟 という意味です。霊の崇高な力、宇宙最高の力、光輝と美と荘厳さと威力に満ちたエネルギーについてはすでに十分な証しをお見せしております。それは絶対に裏切ることはありません。

あなた方は人間としての最善を尽くしておればよいのです。それ以上のことは要求いたしません。そして今のラテン語の通り、決して悲観的にならないことです。

 皆さんは太陽の光をご覧になられたのです。もしもそれが雲によって遮られた時は、その雲はいつか消えて、また明るい太陽が顔をのぞかせるのだと自分に言い聞かせるのです。あなたの目に見えなくても太陽は常に照り輝いているのです。

      ※         ※                         

 初めて交霊会に出席したある女性霊媒に温かい歓迎の挨拶をしてから、こう述べた───

 あなたのために私が何かのお役に立てば、あなたが神から授かった霊的能力を使って天命を全うしておられるように、私も私の天命を全うしていることになります。


───私はとても幸せ者だと思っております。

 そうです。私たちはみんな幸せ者です。自分を豊かな存在としてくれている霊的知識の所有者だからです。ことにあなたのような、霊の道具として働いておられる方にお会いすると、私は大へん幸せな気持ちになります。

なぜなら、私にはその仕事の大変さ、遭遇する困難の厳しさがよく分かるからです。懐疑と困難と絶望から、知識と確信と啓発への巡礼の旅をしてこられた、その大変さを私はよく理解しております。

 霊的指導者の人生は全て同じパターンをたどります。むごい仕打ちを受ける試練の時期があります。基盤としていたものが全て瓦礫したかに見えて、悲哀が身に染み煩悶する危機的な時期もあります。もはや導きと理解を求めるところはいずこにも無いかに思うことがあるものです。

 いやしくも人のために生涯を捧げる使命をもつ者は、過酷な試練を体験しなければならないのです。もはやこれ以上は耐え切れないと思うギリギリの淵まで追いつめられ試されなければならないのです。地上のいかなる者からも救いの手は差し伸べてもらえないと思える深淵まで落ちてみなければならないのです。

 それに至って初めて魂が目を覚まし、霊界から届けられる豊かさと力と導きと叡智と愛とを受け入れる用意が整うのです。過酷な体験の目的は慈悲の心を芽生えさせることにあるのです。

なぜかと言えば、慈悲の心なくしては霊覚者も治療家も真の意味で人を救う仕事はできないからです。

 それしか方法がないのです。太陽が燦々と輝き、何不自由ない安楽な生活の中で、果たして自我の開発が望めるものでしょうか。試練を経ずして魂の崇高性が発揮されるでしょうか。何一つ学ぶことのない生活を送っていて、一体どういう精神的発達が望めるでしょうか。

 そのうちあなたも地上生活を振り返って〝厄介な問題こそ有難かったのだ。あの苦労があったからこそ人生の目的を悟り自我の開発の道が見出せたのだ〟と思われる日が来ることでしょう。

 人生の出来事の一つ一つに償いがあり、差引き勘定がきちんと行われるようになっております。神には絶対に手違いというものがありません。過去を振り返ってご覧になれば、この道にたずさわる他の全ての同志と同じく、あなたの人生も間違いなく霊の導きにあずかっていることがお分かりになります。

 他に類のない地上最強のエネルギーの通路となっておられることは名誉なことです。あなたを通じてそのエネルギーが流れるのです。あなたを鼓舞するのです。そのお陰で、寄る辺ない身の上をかこつ人々を元気づけてあげることが出来るのです。

あなた自身もかつてその援助にあずかったのです。それは牧師にも科学者にも思想家にも出来ないことです。なぜなら彼らには、悲しいかな、霊の働きかける余地がないからです。

 あなたがたった一人の人間に自我を見出させてあげることができたら、たった一人の人間を喪の悲しみから救い出してあげることができたら、たった一人でも病の人を癒してあげることができたら、それだけであなたの人生は価値をもつことになるのです。

 それを可能にさせる力があなたの身の回りに存在し、あなたを包み、守り、指示を与え、あなたの大切な財産である神性と霊的能力の開発を続けさせてくれていることを認識しておられるあなたは、何と恵まれた方でしょう。


───優れた霊媒になるためには苦しまねばならないのでしょうか。苦労の連続で生涯を終えている霊媒を数多く知っております。私はスピリチュアリストとしての生活を心掛けてきましたが、霊媒になりたいとは思いませんでした。それが子供を失ってからその気になりはじめました。

 光を見出すのは暗闇の中にあってこそです。人生は全て両極性です。苦労なしには魂は自我を見出すチャンスがありません。苦難がその触媒となるのです。霊的に向上し、霊的資質をより多く具え、喜んで人のために自分を犠牲にする覚悟ができるようになる、その手段として用意されるのです。


───霊媒は霊媒としての素質を具えて生まれてくるほかはないのでしょうか。つまり素質がなければ、いくら鍛錬しても無駄なのでしょうか。

 能力そのものは生まれながらに具わっていなければだめです。それは授かりものです。しかし人間は、霊の属性を具えているという意味においては、みんな霊媒です。

(訳者注───日本語で〝霊媒〟という場合は物理現象を起こしたり自動書記通信を書いたり霊言を告げたりする為の〝霊の媒体〟という意味にかぎる傾向があり、心霊治療家や霊視能力者などは含まれない。が、英語では霊的な能力を持った人をひっくるめて medium (ミーディアム)つまり霊媒と呼ぶことが多い。

私はそうした日本での傾向を踏まえて、その時々に応じて訳し分けているが、ここでシルバーバーチが言っていることが ミーディアム の本来の意味である。

 モーゼスの 『霊訓』 の続編である 『インペレーターの霊訓』 に参考になる部分があるので引用しておきたい。これはシルバーバーチと同じくインペレーターが入神したモーゼスの口を借りて語った霊言である。

≪人間とは何か。人間とは所詮はインスピレーションの媒体にすぎません。地上で崇められているいかに立派な人物も、神がその叡智のうち、人間にとって適切とみたごくわずかな一部を伝達するための道具にすぎません。そのなすところのものは、偉大なるものも、気高きものもすべて守護霊の影響でないものはありません。

 霊媒が特別の能力ゆえに選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示のための適切な道具として選ばれ、その啓示が託されたというにすぎません。霊媒自身の功績とすべきものではないということです。

 また真に忠実な僕としての心得のある者ならば、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具に過ぎません。その栄誉も霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕───神のメッセージの受け皿として選ばれたという意味において、われわれの側にとって有難い存在ということです。


 その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去ってのち、こんどは自分が神のメッセンジャーとして地上の霊媒にメッセージを届ける役目にふさわしい人物として成長していきます。その受け皿はおのずと気高い芳香に満ちております。

その神の僕として仕えれば仕えるほど、その気高さを増していきます。神の真理という名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けるに足る存在となってまいります。

 しかし万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし神のみに帰すべき栄光を私(ワタクシ)せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、

さらには又、俗世への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害を被ることになります。

 それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任を伴うということです。善行の絶好機を手にしながら無為に過ごした者、あるいはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りながらその実践を怠った僕としての禍いが降りかかります。

前者が向上するところを後者は下降します。霊的能力は没収され、道徳的にもまた知的にも堕落していきます。栄誉を投げ棄て、そして、恩恵に代わって禍いが降りかかります。

 それ故、そうした経歴の持ち主が他界した後にもし通信を送ってくるとすれば、その通信は、その人物の地上での評判から想像されるものより必然的に低いものとなりましょう。

地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる霊の言葉でした。が、今や神より授かった霊的能力は没収されています。彼の語る言葉は、親和力によって引かれ行く低次元の世界に似つかわしいものとなっています≫


───物質中心の考えをしているために、一生涯、霊的なものに気づかずに終わる人が大勢います。

 そういう人のことを気の毒に思ってあげないといけません。せっかくの地上人生を無駄にしたのです。真の自我を見出せずに終わったのです。それはちょうど正規の義務教育を受けながらそれが身につかず、卒業後の大人の人生に何の備えもないまま学校生活を終えたのと同じです。

 地上は死後に否応なしに始まる次の段階の生活にとって不可欠の準備をさせてくれるところです。一つ一つの体験が進化していくために支払う代価なのです。地上人生は一本調子ではありません。光があれば影があり、日和の日があれば嵐の日がなければなりません。

 両極端があり、対照となるものがあるからこそ人生の意義が理解できるのです。作用と反作用は正反対であると同時に相等しいと言われます。人を憎むことの出来る者はそのエネルギーを愛に転換することができるのです。愛と憎しみとは同じコインの表と裏です。どちらを選ぶかはあなた次第です。

 摂理の働きは完ぺきです。一つ一つの行為に褒賞があるように、天罰もあります。その摂理をごまかすことはできません。地上では自分を偽り他人をごまかすことができます。しかし死がその化けの皮をはがし、魂のあるがままの姿がさらけ出されます。もはや見せかけは通用しません。

地上にあっても、霊視能力をもった人には仮面の内側の本当の顔が見えます。地上にはマスクをかぶった人が多すぎます。

 でも、あなたは今そうした人たちを救ってあげているのです。人間として正しい道を教えてあげているわけです。人間の可能性を見せてあげているわけです。それから先のこと、つまりその知識を日常生活の中においてどう活用するかは、その人自身の責任です。

あなたが考え込むことはありません。常に堂々と胸を張って生きることです。なさねばならないことが沢山あります。悲しいことですが、霊的真理を知らない人が無数におります。その人たちをわれわれが何とかしてあげないといけません。

 あなたは、霊的能力を開発していない他の人々には出来ない貢献ができるという、測り知れない光栄を担っておられます。毎日のように到来する素晴らしい好機を前に、あふれんばかりの喜びを覚えてしかるべきです。

 しかし同時に、知識には責任が伴うことを忘れてはなりません。あなたには崇高な真理が託されているだけではありません。崇高な力、神の力、あらゆる可能性をもった生命力そのものも託されているのです。

 自分を改造し、生きる意欲を覚えさせてあげる、そういうお手伝いをするということは、大変な責任を伴う仕事です。ですから、あなたが迷うことがないように霊界からの導きがあります。きっと道は示されます。迷うことなく突き進みなさい。一日一日が霊的高揚の源泉となる奉仕的仕事の機会をもたらしてくれます。

 あなた方も私たちも、ともに大いなる事業に参加しております。地上にはなさねばならないことが山ほどあります。これまでにも多くを成し遂げてまいりましたが、これからなさねばならないことに較べれば、まだまだわずかなものです。

 頑張らないといけません。そして訪れる機会を逃さず、どこででも人のためになることができるようでないといけません。そして又、霊力というものが、それをみずから手にしてそこから恩恵を摂取した人の生活を本当の意味で豊かにしてくれることを立証するために、お互いの役割を果たさないといけません。

 あなたのお仕事は人のために役立つからこそ尊いのです。さらに大きな徳積みのためにもっと大きな力、もっと多くの叡智を求めて神に祈りなさい。そして又、こうして協力している私たちの姿が見えず声は聞こえずとも、私たちはこれからもあなたを見守り、導き、元気づけ、支援していくことを信じて下さい。

 かくしてお互いの協力によって、神の子のすべてに生きる道を教えるべく意図された計画を成就していくことができるのです。そしてその仕事に勤しめば勤しむほど、大霊の絶対的な力にいっそう調和していくのです。

        ※          ※                              

 別の日の交霊会である霊媒に次のような励ましの言葉を述べた───


 この私について、いささか誇張されたことが喧伝されておりますが、私は全知でも全能でもありません。あなたと同じく一個の人間的存在です。ただ私は、あなたより少しばかり永い人生を歩み、霊的進化の道をずっと先まで進んでおります。

 その結果として私はより多くの知識を獲得し、これこそ地上人類を悩ます問題の多くを解決する上で最も啓発性に富んでいることを知りました。そこで、これまでの道を後戻りして、その知識を、受け入れる用意のある人たちと分かち合いたいと思ったのです。

 あなたの場合、こうした真理がダマスカスへ向かうパウロの場合のような目を眩ます光としてではなく、理性的で、知性を侮辱することのない形で届けられたという点において幸せであったと言えます。

それによってあなたはより広い人生の視野を開かれ、地上への誕生の目的を知り、この地上生活を終えたあとに待ちうける、より大きい、より豊かな生命の世界に備えるためには何をすべきかを理解されました。

 その知識を授けられたのは、あなたにそれを受け入れる用意ができた時でした。それまでのあなたには解決を迫られる危機的状態や問題がいくつもありました。もはや地上にはその解決策は見出せないかに思える中で、あなたはなおもそれを一心に求めておられました。

 そのカギは魂の覚醒にあるのです。大部分の人間の魂は居眠りをしております。活動していないということです。内在する神性の火花を煽らないことには魂の啓発はできないのです。

その点火の触媒となるのが危機的体験であり、悲しみであり、別離であり、病気なのです。

 人生は相対性の原理ででき上がっております。スペクトルの両極、コインの両面、あなた方が〝善〟と呼んでいるものと〝悪〟と呼んでいるもの、という具合です。

いかなる経験にも魂を目覚めさせる上で役立つものを含んでおります。バラ色の人生ではだめなのです。先ほど述べたような触媒によって魂の琴線に触れるところまで行かないとだめなのです。

 あなたは心霊治療の能力を未発達の状態でお持ちになっています。それを他人のために役立てるところまで発達させることができます。あなたにはなすべきことがいろいろ用意されております。

そのための道が今開かれつつあるところです。すでになすべきことは終わったと思われるかも知れませんが、実際はまだまだ新しいサイクルが始まったばかりであり、それが多くの精神的ならびに霊的褒賞をもたらしてくれることでしょう。

 あなたの前途は大いなる可能性に満ちております。あなたにとってのみならず他の人々にとっても測り知れない恩恵をもたらす精神的ならびに霊的冒険へ誘ってくれます。奥さんとのご縁はそのために結ばれたのですよ、ご存知ですか。

お二人は常に導かれ霊感を受けておられることを自覚なさらないといけません。少なくとも扉が開かれ道が示されたことだけはお気づきと思いますが・・・・・・

 ここにお集りの同志の方にいつも申し上げていることですが、私たちは私たちのやり方で私たちのタイミングで事を運ぶしかないのです。魂が自覚するのを辛抱強く待たねばなりません。

それには何十年も掛かることがあります。そして、その甲斐あってやっと受容力を発揮しはじめると、とたんに人間の方が高慢になって〝さあ、どしどしやろう〟といった調子で性急に事を運ぼうとします。

 私たちがそれまで辛抱強く時機の熟するのを待ったことをご存知ないのです。私たちは霊的な世界から物的な世界へ向けて影響力を行使しなければなりません。

そのための通路として霊媒を使用しなければなりません。もしも適当な霊媒が見当たらなければ、霊感的に導き指示を与えて、せっかくの通路を無意識のうちにでも塞いでしまうことのないように細心の注意をもって監視しなければなりません。これが又とても厄介な仕事なのです。

 確固たる霊的知識に裏打ちされた完ぺきな信頼と自信と信仰(信念)とがある時はその通路が開いており、受容性が高いのですが、そこへ不安の念が入り込むと、とたんに雰囲気が乱れて、通路を塞いでしまう要素が生まれます。

取り越し苦労は無知の産物です。霊的知識をたずさえた者が不安の念を抱くようなことがあってはなりません。同じく、悩みの念も、その中身が何であれ、成就されるはずのものを成就されなくしてしまいます。

私は何時も交霊会の開会に際してこう述べています─── 〝心配、悩み、疑い、不安の念のすべてを、しばし、わきへ置きましょう〟と。霊力が存分に、そして自由に流入するのを、そうした念が妨げるからです。

 私たちを信頼してください。きっと道をお教えします。扉を開いて差し上げます。閉め切られた扉をノックしてみて開かない時は、あきらめることです。ノックしてみてすぐに開いた時は、真っ直ぐに突き進まれるがよろしい。

それがあなたにとって正しい道なのです。私たちとしてはそういう形でしか援助できないのです。良い知恵を絞って導いてあげるということでしか援助できないのです。(人間的努力の範囲まで踏み込むわけにはいかないということ───訳者)

 あせってはなりません。快く私達の協力者となってくれるだけでよいのです。そうすれば私たちなりの役割を果たします。

           ※          ※

 霊聴能力を持っている人に勇気づけの言葉を述べる───

 背後霊があなたの存在を忘れてしまうようなことは絶対にありません。かつてあなたがいずこへ向かうべきかを悩んだ時、あたかも絶望の淵に落ち込んでしまったかに思えた時にもしっかりと保護され導かれていたように、前途に横たわるこれからの日々にも霊の力がきっと支援してくれます。

 無限なる叡智を具えた大霊からいただいた能力を存分に発揮し続けて下さい。かつて霊力が顕現したことのない所でそれを発揮し、受け入れる用意のある人にもたらす光明をますます増していってください。

 あなたのお蔭で人生の視野が一変することによってどれほどの恩恵がもたらされるか、あなたご自身にはお分かりになりません。あなたのお蔭で霊的知識という掛けがえのない啓示がもたらされております。

そのあなたが落胆したり明日はどうなるかなどという不安をいささかでも宿すようなことがあってはなりません。あなたはすでにこれまでも数々の危機をくぐり抜けてこられました。これからもイザとなれば必ず道が開けます。

 あなたは霊力の通路なのです。あなたが存在することによって成し遂げられてきたことを誇りに思うべきです。同時に、あなたの協力のもとにこれから成し遂げられていく仕事を自覚なされば、なお一層誇りに思うべきところです。

 あなたも生計を立てていくための費用がいります。地上世界ならではの必要品を備えないといけません。衣服を着なければなりません。その他、物質の世界であるがゆえの費用を支払わねばなりません。そのことは私もよく存じております。私が申し上げているのは、そうしたことを悩みのタネとしてはいけないということです。責任は大いに自覚すべきです。が、心配の念はいささかも抱いてはなりません。

 私も今では現代社会ならびにそこでの生活の仕組みをよく知っております。時には(生活費など)物的なものが手に入るよう、ある程度の物的法則を操作しなければならなかったこともあります。

 私が何時も強調していること───むろん聞く耳を持つ人に対してのことですが───物的なものは実在の投影もしくは殻に過ぎないということです。

物質は霊によって活力を与えられているからこそ存在しているのです。霊が正常であれば、つまり霊と精神と身体とが調和して機能しているかぎり、物的生活に必要なものは必ず手に入ります。

 霊が主人であり物質は従僕です。霊は殿様であり物質は家臣です。霊の方が物質に勝るのです。地上生活に必要な物的必需品まで無視しなさいと言うのは愚かなことですが、それに心を奪われて精神と霊にとって必須のものを疎かにするのも同じく愚かしいことです。

 このことは現在の地上の人間にとってぜひとも心しなければならない重大な教訓です。大半の人間が物質を優先させ、霊に関わることにはほとんど関心を向けておりません。

 霊的実在についての知識を手にした者は、不安・心配・悩みの念を宿すようなことがあってはなりません。この種の感情は陰湿な性質を帯びております。活力に満ちた霊的エネルギーが届けられる通路を塞いでしまいます。生き甲斐ある人生にとっての必須の要素が流入する上で不可欠な調和状態を妨げ、乱してしまいます。

 視点を何時も永続性のある価値をもつものに置くことが大切です。そして、受け入れる用意のできた人に、いかに生きれば、本来自分のものであるべき生命の豊かさを味わい、地上に借りを残さずに済むかを教えてあげる必要があります。

 地上を見渡してみますと、霊的に貧しい人が無数におります。物的な貧しさゆえに悲しい思いをすることがあるのは地上の常ですが、霊的な貧しさを見るのも同じく悲しいものです。

 心をいつも開放的にして精神に宿された能力を開発しさえすれば、霊の持つ栄光、光輝、威厳、崇高さ、気品に満たされるようになっているのです。そうしてあげること、つまり地上人生を生きていく上において何を優先させるべきかを認識してくださるように配慮するのが私たち霊団の使命なのです。

 その点あなたは無限なる叡智を備えた大霊からの霊的才能のいくつかを授かっておられる、実に恵まれた方です。そのお陰で主教や牧師よりもはるかに宗教的な仕事をなさっておられます。

悲しみに暮れる人の涙を拭い、精神的ならびに霊的に弱った人に力を与え、病いの人を癒やし、人生に迷っている人に道を教えてあげてこられました。その人たちは、かつてのあなたと同じように、もはやこの世には自分の力になってくれる人はいないと思い込むほどの絶望的段階にあったのです。

 そういう人助けをするための霊的才能を授かるには、みずから苦しみと悲しみを味わうという条件が付きものなのです。霊の道具としての自覚をもつに至るには苦を体験しなければならないということです。

苦の体験の本質は霊的才能を手段として仕事をする者の試金石です。それを耐え抜いて初めて自分のもとを訪れる人の力になってあげることができるのです。

 霊の僕であることを自覚する者は安楽な人生を期待してはなりません。霊的使命を帯びた仕事にたずさわっている者は、それが決してラクな道でないことを覚悟しないといけません。もしもラクな道であれば、無理してその道に踏み入るほどの価値はないでしょう。

 霊の褒章は刻苦勉励の末に手に入れなくてはなりません。しかし一度手にしたら絶対に失われることはありません。霊の富は永遠です。

地上で得られる富は地上時代だけの一時的なものでしかありません。霊的な熟練はそう簡単に達成されるものではありません。霊的褒賞もまたそう簡単に手に入るものではありません。

 あなたはこの道に献身するために生まれてこられました。これまで立派に献身され、今も献身なさっておられます。そうした素晴らしい霊の力の通路となっておられる方とお話しできることは私にとってこの上なくうれしいことです。

その通路のお陰で霊力が、受け入れる用意のある人に豊かな恩恵をもたらします。受け入れる用意ができていなければ、その通路としてのあなたにも為す術がありません。

 ある人があなたのもとへ導かれてきたということは、その方にとって掛け替えのない、真の自我発見のチャンスが目の前にあるということです。もしうまく行けば、あなたも大いに喜ばれるがよろしい。万が一失敗に終われば、せっかくのチャンスが失われたことに密かに涙を流してあげなさい。

 あなたにはまだまだ仕事があります。あなたは今まさに天命を全うしつつあります。霊的な仕事に献身できていることをこの上ない幸せと思わないといけません。

 残念ながら地上には存在の根源である霊的実在について何一つ知らない人間が無数におります。何のために生きているのか、天命を全うするにはどうすべきか、他人に天命を全うさせてあげるために自分の才能や能力をどう活用すべきか、そうしたことについてまったく無知なのです。


 そうした現実の中にあって、たった一人でも魂が感動し、ゆっくりではあっても真の自我に目覚めていく、その手段となるたびに、あなたは貴重な貢献をしていることになるのです。

 私たち霊団の者が四苦八苦の末にこうして地上へ戻ってくる理由もそこにあります。地上人生は道を見失い、物的利己主義と貪欲と強欲の沼地に足を取られ、それが戦争と暴力と憎しみを生んでおります。

 霊の優位性を認識し、人間が肉体をたずさえた霊であることに得心がいく───言いかえればすべての人間が神の分霊であり、それゆえに人類はみな兄弟であり姉妹であり、神を父とし母とした一大家族であることに理解がいった時、その時初めて戦争も暴力も憎しみも無くなることでしょう。代わって愛と哀れみと慈悲と寛容と協調と調和と平和が支配することでしょう。

 人間世界だけではありません。この惑星を共有する動物の世界にもそれが行きわたることでしょう。かくして地上の汚点である動物への虐待行為も影をひそめることでしょう。それが私たちの努力の背後に託された目的なのです。

 皆さんは気落ちしたり悲観したりする必要はどこにもありません。信念に基づいた希望に胸をふくらませて、常に楽観的であらねばなりません。その信念が盲目的であってはなりません。

理性的検討を加えずに安直に信じているのではいけません。生命が永遠の霊的実在であるとの、もはや争う余地のない事実を基盤とした信念であらねばなりません。


───〝なせば成る〟 の教えを説くある指導者が、物的なものであろうと霊的なものであろうと 〝必ずそうなるのだ〟 と信じて行えば何ごとも成就すると述べています。これは心霊的能力(サイキック)の悪用になるのでしょうか。

 何もかもが自分の思い通りになるわけがない以上、その指導者の言葉は言い変える必要があります。人間にできることというのは自然法則によって一定の限界というものが設けられております。

もしもそうした限界がなかったら、この地球を始めとして物的宇宙全体が基盤としている原理のすべてを人間が破壊してしまうこともできることになります。

 私はその〝なせば成る〟式の生き方の背景にある積極的な物の考え方そのものに反対しているわけではありませんが、そのつもりになれば何もかも自分の思い通りになると考えるのは愚かです。例えば人間に太陽が思い通りになるでしょうか。

 
───(霊媒能力が出始めたばかりの人) ごく自然な状態で能力を発揮したいと思っているのですが、昼間はなかなか思うにまかせません。やり始めたばかりですので、いろいろと解決しなければならない問題があります。そのうちうまく行くようになると思っておりますが・・・・・・

 何ごとも自然ということが大切です。気負わず、受身の心境になり、迷ったり不安に思ったりせず、信念を持つことです。ここまで導いてくれた霊の力はこれから先も裏切ることはしません。あなたをしっかりと保護している愛の腕がほどかれて、あなたをおっぽり出すようなことは致しません。

 あなたはあなたなりに自然に振舞ってください。そうすれば霊側としての役目を果たします。その準備としてまず、〝静寂の時〟を持つように心掛けて下さい。日常生活の喧騒から離れた状態へ身を引くのです。すると内部の霊力がより大きく顕現して、人のために仕事をする上で必要な落着きと調和と愛と寛容が整います。

 あせってはいけません。じっくりと構えるのです。背後霊があなたをここまで導くのにもずいぶん時間が掛かったのです。そのうちあなたも、この道にも総合的な計画があって、我々にもそれに即応した役目があるということが分かるようになります。

最後は人間にとってだけでなく私たち霊側にとっても好都合に展開するようになっているのです。

        ※           ※

 別の日の交霊会で、かつては物理的心霊現象が盛んに見られたのが今日では珍しくなってきたのはどういうわけかと尋ねられて───

 それは物的側面の進化の法則だけでなく霊的側面の進化もあるからです。地上世界の思想的動向は当初と今とでは大きく変化しております。霊的実在を物的手段で証明して見せなければならない時代には物理的心霊現象が必要でした。当時の科学者は物的ものさしで計れないものを受け入れる用意ができていなかったのです。

 今や核融合という目に見えない化学反応を利用して大災害も大恩恵も被ることができることを知りました。唯物科学の根底が崩れてしまいました。物質の究極と思っていた原子も、さらに細かく分解されてしまいました。今や科学者も物質は固体でなく、実在は見えざる世界にあることを認めています。

 そうした思想的動向と歩調を合わせて、霊的治療が発達し発展しております。それによっても物質を超えた霊力の存在を証明することが出来ます。


───心霊能力を軍事面に利用しようとする実験が、とくにソ連において行われていると聞いておりますが、このまま行くと実際に心霊能力が好ましからざる方面で使用される危険がありそうです。

 私は少しも心配しておりません。私は皆さん方のどなたよりも永く生きてまいりました。その間に見聞し理解したことによって私は、無限なる叡智と愛をもって全星雲、全天体を包摂する大宇宙機構を考案した大霊に対して、大いなる崇高と畏敬と感嘆の念を禁じ得ないのです。

 すべての人間、すべての事柄が自然の摂理によって規制されております。それには手落ちというものがなく、数学的正確さをもって働き、絶対に間違いを犯しません。宇宙間のありとあらゆる存在がその中に包摂されていますから、何一つ、誰一人として排除されたり忘れ去られたり無視されたりすることがないのです。

壮大なものから微細なものに至るまで、単純な物から複雑なものに至るまで、あらゆる存在を自然の摂理が支配し支え規制しているのです。

 地上での人間の行為にも制約というものがあります。その自然の制約に背いたことはできません。人間がなしうる害悪と破壊の程度にも、その制約による限界が設けられているのです。

 そういう次第で私は楽観主義者であり、悲観的な考えは持ち合わせません。今おっしゃった実験は軍事的な利用価値を検討するものですが、それによっていかなる害悪がもたらされようと、他方において科学的技術その他あらゆる力を駆使して人類に恩恵をもたらさんとしている人たちによってもたらされる利益の方が大です。

 心配してはいけません。心配の念はロクなものをもたらしません。心配の念は魂を蝕みます。心配の念は精神も錆びつかせます。心配の念はせっかくの霊的援助の通路を塞いでしまいます。地球をはじめとして宇宙間のあらゆる天体の責任者は大霊なのです。いつかは善が悪を駆逐します。


───するとあなたは、心霊能力が邪悪な目的に使用される可能性があることは否定なさらないわけですね。

 大霊はあなた方人間をロボットや操り人形になさりませんでした。一定範囲内の自由意志、選択の自由を与えて下さっています。が、それにも制約があり、限度があります。その摂理に背いたことはできません。

 心霊能力というものを持ち合わせる以上は、それを悪用しようと思えば出来ないことはありません。ただし、それには責任が伴います。いかなる知識もそれ相当の責任というものが付加されずして手に入れることはできません。
                                                             

Friday, January 9, 2026

ベールの彼方の生活(三)

 The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen

四章 サクラメントの秘義


3 死              
  一九一七年十二月六日  木曜日

 これまで述べたことはごく手短に述べたまでであって、十分な叙述からほど遠い。述べたくても述べられないのです。たとえ述べても分量が増えるばかりで、しかもそれが貴殿の自由な精神活動の場を奪い、真意の理解を妨げることになるでしょう。

吾々としては取りあえず貴殿が食するだけのケーキの材料として程よい量の小麦を提供する。

それを貴殿が粉にしてケーキを作り、食べてみてこれはいけると思われれば、今度はご自分で小麦を栽培して脱穀し粉にして練り上げれば、保存がきくのみならず、これを読まれる貴殿以外の人へも利益をもたらすことになる。では吾々の叙述を進めましょう。

 前回の通信で婚姻が進化の過程における折り返し点であると述べましたが、この表現も大ざっぱな言い方であって、精密さに欠けます。そこで今回はこの問題の細かい点に焦点をしぼり、その婚姻の産物たる子供──男児あるいは女児──について述べてみましょう。

 生まれくる子供に四つの要素が秘められていることは(前回の通信を理解すれば)貴殿にも判るでしょう。父方から受ける男性と女性の要素と、母方から受ける女性と男性の要素です。

父方における支配的要素は男性であり、母方における支配的要素は女性です。この四つの要素、と言うよりは、一つの要素の四つの側面、もっと正確に言えば二つの主要素と二つの副次的要素とが一個の子孫の中で結合することにより、性の内的原理の外的表現であるところのそうした諸要素がいったん増加して再び一つになるという、一連の営みが行われるわけです。

 かくしてその子も一個の人間として独自の人生を開始する──無限の過去を背負いつつ無限の未来へ向けて歩を進めるのです。

 どうやら貴殿は洗礼とそれに続く按(あん)手礼(手を信者の頭部に置いて祝福する儀式)について語るものと期待しておられたようですが、そういう先入主的期待はやめていただきたい。吾々の思う通りに進行させてほしい。

貴殿からコースを指示されて進むよりも、貴殿の同意を得ながら吾々の予定通りに進んだ方が、結局は貴殿にとっても良い結果が得られます。

吾々には予定表がきちんと出来上がっているのです。貴殿は吾々の述べることを素直に綴ってくれればよいのであって、今夜はどういう通信だろうか、明日はなんの話題であろうかと先のことを勝手に憶測したり期待してもらっては困るのです。

吾々としては貴殿の余計な期待のために予定していない岬を迂回したり危険な海峡を恐る恐る通過することにならないように、貴殿には精神のこだわりを無くしてほしく思います。

吾々の方で予定したコースの方がよい仕事ができます。貴殿に指示されるとどうもうまく行かないのです。


──申しわけありません。おっしゃる通り私は確かに次は洗礼について語られるものと期待しておりました。サクラメントの順序を間違っておられるようです──聖餐式(せいさんしき)、それから婚姻と。でも結構です。次は何でしょうか。

(訳者注──本来の順序は洗礼が第一で聖餐式がこれに続き、婚姻はずっとあとにくる)


 〝死〟のサクラメントである。貴殿にとっては驚きでしょう。もっとも人生から驚きが無くなったらおしまいです。それはあたかも一年の四季と同じで、惰性には進歩性がないことを教えようとするものです。進歩こそ神の宇宙の一大目的なのです。

 〝死〟をサクラメントと呼ぶことには貴殿は抵抗を感じるでしょう。が、吾々は〝生〟と〝死〟を共に生きたサクラメントと見なしています。

〝婚姻〟をサクラメントとする以上はその当然の産物として〝誕生〟もサクラメントとすべきであり、さらにその生の完成へ向けての霊界への誕生という意味において〝死〟をサクラメントとすべきです。

 誕生においては暗黒より太陽の光の中へ出る。死においてさらに偉大なる光すなわち神の天国の光の中へと生まれる。どちらが上とも、どちらが下とも言えない。

〝誕生〟においては神の帝国における公権を与えられ、〝洗礼〟によって神の子イエスの王国の一住民となり、〝死〟によって地上という名のその王国の一地域から解放される。

 誕生は一個の人間としての存在を授ける。それが洗礼によって吾が王の旗印のもとに実戦に参加する資格を自覚させる。そして死によってさらに大いなる仕事に参加する───地上での実績の可なる者は義なる千軍万馬の古兵(ふるつわもの)として、〝良〟なる者は指揮官として、〝優〟なる者は統治者として迎えられるであろう。

 したがって〝死〟は何事にも終止をうつものではなく、〝誕生〟を持って始まったものを携えていく、その地上生活と天界の生活との中間に位置する関門であり、その意味において顕幽両界を取り持つ聖なるものであり、それで吾々はこれを吾々の理解する意味においてサクラメントと呼ぶのです。

 これで結果的には〝洗礼〟についても述べたことになるでしょう。詳しく述べなかったのは、主イエスの僕としての生涯におけるその重大な瞬間を吾々が理解していないからではありません。他に述べるべきことが幾つかあるからです。

そこで〝死〟のサクラメントについてもう少し述べて、それで今回は終わりとしたい。貴殿にも用事があるようですから。

 いよいよ他界する時刻が近づくと、それまでの人生の体験によって獲得しあるいは生み出してきたものの全てが凝縮し始める。これはそれまでの体験の残留エキス──希望と動機と憧憬と愛、その他、内部の自我の真の価値の表現であるところのものの一切です。

ふだんは各自の霊体と肉体の全存在を取り巻き、かつ滲み渡っている。それが死期が近づくにつれて一つに凝縮して霊体に摂り入れられ、そしてその霊体が物的外被すなわち肉体からゆっくりと脱け出て自由の身となる。それこそが天界の次の段階で使用する身体なのです。

 しかし時として死は衝撃的に、一瞬のうちに訪れることがある。そのとき霊体はまだ霊界の生活に十分な健康と生命力を具えるに至っていない。そこで肉体から先に述べた要素を抽出し霊体に摂り入れるまで上昇を遅らせる必要が生じる。

実際問題としてその過程が十分に、そして完全に終了するまでは、真の意味で霊界入りしたとは言い難い。

それは譬えてみれば月足らずして地上へ誕生してくる赤子のようなもので、虚弱であるために胎内にて身につけるべきであった要素を時間をかけてゆっくりと摂取していかねばならない。

 そういう次第で吾々は〝死〟は立派なサクラメントであると言うのです。きわめて神聖なものです。

 人類の歴史において、そのゆるやかな物体の過程──人間の目にはそれが死を意味するのですが──を経ずに肉体を奪われた殉教者がいる。貴殿が想像する以上に大勢いました。が、いずれの過程を経ようと、本質においては同じです。

主イエスは死が少しも恐るべきものでないことを示さんとして、地上的生命から永遠の生命への門出を従容(しょうよう)として迎えた。

その死にざまによって主は、人間の目にいかなる形式、いかなる価値として映じようが、死とは〝神の心〟より流れ出る〝生命の河〟の上流へ向けて人類がたどる、ごく当たり前の旅のエピソードであることを示したのでした。

ベールの彼方の生活(三)

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四章 サクラメントの秘義


2 婚 姻   
一九一七年十二月五日 水曜日

 昨夜はサクラメントの中でもとくに深遠な意味をもつものを取り上げました。今夜はそれよりは重要性は劣るものの、キリストを主と仰ぎ絶対と信じる者の生活において見逃せない意義を持つものを取り上げたい。

吾々がサクラメントと言う時、それはキリスト教界における狭い宗教的意味で用いているのではなく、霊力の始源に一層近い位置においてその働きをつぶさに観察することのできる吾々の境涯における意味で用いております。


 まず最初に、創造的機能を具えた二つの存在の結合としての婚姻について述べましょう。人間はこれを二つの〝性〟のたどるべき自然な成り行きとして捉え、男性と女性とが一体となることで成就されると考えます。

実はそれは絶対不可欠の条件ではありません。ただそれだけのことであれば、人間を両生動物(単性生殖動物)とすればよかったことになります。

が、今日のごとき理想的形態での物的存在が確立されるよりはるか以前、最高神界において議(はか)られしのちに神々は創造の大業を推進するための摂理の一つを定められた。

それは貴殿や地上の思想家が考えるような、人類が男女二つの性に分かれるという単なる分裂としての発達ではなく、性というものを物質という存在形態への霊の発展進出のための一要素とすることであった。霊は物的形態以前から存在する。

それが物的形態に宿ることによって個性が誕生し、物的形態の進化と共にその個性を具えた自我が発達して互いに補足し合うことになった。性はあくまでも一つなのです。それが二種類から成るというまでの話です。

肉と血液とで一個の人体が構成されるように、男と女とで一個の性を構成するわけです。

 神がなぜそう決定したか。吾々の知り得たかぎりにおいて言えば、それは自我をいっそう深く理解するためである。もっとも、これは大いなる謎です。吾々とてその全貌を知るカギは持ち合わせていません。

が、男性と女性の二つの要素を創造することによって〝統一性〟の真意がいっそう理解しやすくなったと解釈しています。つまり統一が分裂して霊の世界より物質の世界へと誕生し、やがて再び霊の世界へと回帰して元の統一体を回復することにより、その統一性への理解を得るということです。

神という絶対的統一体に含まれる二大原理が、それを一つとして理解し得ない者のために、二つに分離して顕現したわけです。

男性が女性を知るということは結局は自我をいっそう明確に理解することであり、女性が男性を知るのも同じく自我への理解を深めることになります。

なぜなら両者はこの物質という形態の中での生活の始まる以前においては別個の存在ではなかったのであり、したがって物質界を後にした生活において、いずれは再び一体となるべき宿命にあるのです。

 つまり天界の深奥を支配するその絶対的統一性が下層界へも及ぶためには、地上人類を構成すべき個々の存在にその二つの原理を包含させる必要があった。かくして婚姻が生じた。実にこの婚姻は人類のたどるべき宿命の折り返し点なのです。

 〝静〟の大根源が無限の発展という目的をもって〝動〟へ顕現したとき、全体を支配した基調はただ一つ〝多様性〟であった。かくしてその無数の存在の中に個性を特質と形態の原理が導入されるに至った。その多様性の最後の、そして究極の作用となったのが、貴殿らがセックスと呼んでいるところの生殖機能としての二つの性の創造であった。

 その段階において再び一体化へ向けて進化せんとする反動的衝動が生まれる。絶対的統一体すなわち神へ向けての第一歩が踏み出されるのです。

 かくして物的意味における両性と同時に霊的意味における両性の融合から、その両性を一つに体現した第三の要素が誕生する。主イエスこそ人類としてのその完璧な体現者であり、その霊的本質は男性的徳性と女性的徳性のほどよく融合せるものでした。

 その大原理は身体上にも同じくあてはまります。男性の胸にはかつての女性の象徴が二つ付いているであろう。生理学者に尋ねてみるがよい。体質的にも女性的なものが含まれており、それが男性的なものと一体となって人間という一個の統一体をこしらえていることを証言してくれるであろう。

 この両性の一体化された完全無欠の人間は、これより究極の完全状態へ向けての無限の奮闘努力を通じて、己れを空しくし他を愛し他へ施しをすることが実は己れを愛し己れに施すことになること、そして又、己れの下らなさを自覚する者ほど永遠の天界において恵みを受けるという叡智に目覚めることであろう。

この叡智を説いた人を貴殿はよく知っている。わざと妙なこと、謎めいた原理を語ったわけではありません。貴殿も吾々も今なおその崇高なる叡智を学びつつあるところであり、その奥義にたどり着くまでにはまだまだ果てしない道が前途に横たわっています。が、主イエスはすでにそこへ到達されたのです。

 

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四章 サクラメントの秘義




1 聖体拝領(最後の晩餐)        
  一九一七 年十二月四日 火曜日

  貴殿は受け取った観念を文章に綴ってくれればそれで宜しい。そしてそれが吾々の霊団からのものであることに疑念を抱かれる必要はまったくありません。

と言うのも、一方において吾々は貴殿が筆記されている間は貴殿の身柄をしっかりと確保し、他方において吾々の通信を横取りして自分たちの通信に使用せんとする狡賢(ずるがしこ)い霊の集団を排除すべく努力をしているからである。

それが可能なのも、カスリーンを通じて実際に貴殿との通信を始めるずっと以前から貴殿について準備し、また吾々の側の準備をも着々と積み重ねてきたからです。

 さて今夜はキリスト教の聖なる儀式の問題について語ってみたい。キリスト教界において今なお行われており、キリストを主と仰ぐ者にとって大いに関心を持つべきものだからです。中でも聖体拝領の儀式(マタイ26)はキリストを主と仰ぐ者にとって生涯にわたる意味を秘めている。

これには数々の意味が含まれてるので、これより少しばかり述べてみたい。まず、その由来について。

 現存する聖典から推察されるように、キリストの生涯については過去幾世紀にもわたって伝えられてきたものよりも記録されずに終わったものの方がはるかに多い。大ざっぱに読んでもそれが推察できるであろう。

しかも残っている記録も、本質においては相通じるものがあっても、細かい点になると曖昧なところが多い。残っている記録は数多くあったものの中のごく一部に過ぎないことを知らねばならない。

他の記録は完全に地上から消滅したか、未だどこかに残っていて、いつの日か陽の目を見ることになるかもしれない。が、こちらの世界にはその全記録が保存されており、吾々もこの度それを勉強したところです。これから述べることはそれを根拠にしています。

(訳者注──その一例が自動記霊媒カミンズ女史を通じて書き記された The Scripts of Cleophas で聖書の欠落した部分やその後の歴史を物語る通信が見事な散文体で書かれている。これは第一級の聖書研究家やキリスト教の聖職者によって〝正真正銘〟の折紙がつけられている)

 そのとき主イエスは肉体を具えた存在から肉体なき存在へと変化を目前にしていた。死期の迫ったことを知ったイエスは、十二人の弟子との会合の中で、自分の死後もこの弟子たち並びに自分の教えに従う者との霊的交わりを強化し、自分を生命力の源とさせるための、思い出と霊交の儀式を行ったのです。

ここで前回に述べた霊交の三つの型を思い出していただきたい。最高界より流れくるところの脈動する生命力は、その鋭敏さゆえに、主の王国全体(*)に張り巡らされている特殊な組織への針の先でつついたほどの衝撃さえ中心的始源まで波及し、即時に反応が返ってくることが理解していただけよう。


その反応と緻密性(ちみつせい)と即時性を具体的に説明せんとしても、地上にはそれを譬えるべきものが何一つ見当りません。ここではせめて〝運動する粒子はその速度が速ければ速いほどそれに加えられる外的刺激による反応が大きい〟という法則を思い出していただくに留めてきましょう。

(*最高界といい王国というも地球的規模における話。イエスは普遍的キリスト神の地球的表現すなわち地球の守護神の部分的表現である。六章でその詳しい説明が出る─訳者)

 父なる神より湧き出た生命の流れがまず主に至り、主の霊性を加味されて御国のすみずみにまで放散されるのは、その組織があるからこそです。その組織への衝撃が例の〝主の祈り〟(マタイ・6)とともにパンとぶどう酒による儀式によって与えられる。

すると会衆の前に並べられた品々にその生命の流れが注がれ、主の生命と融合し、主みずから述べられた如くに、それが主の聖体とおん血に変わる。貴殿らが使用する祈りは〝祈願〟であると同時に主の生命を受け入れることへの会衆の〝同意〟を意味します。

何となれば、同意なくしてはいかなる恩恵といえども人間に押し付けることは許されないからです。その同意は必ずしも声に出す必要はない。要は〝心〟です。

それが地球へ向けて流れくる主の生命力の流れに遭遇し、オリーブ山を越えてサレムへ来られるイエスを迎えに集まった者たちと同じように、そこで合流し主の流れの即時的反応を受けて再び元の会衆へ戻ってくる。

 こうして与えられる恵みは三つの形を取る。まず第一は霊と霊との交わり、すなわち祈願する者と主との交わりです。第二はその霊を包むところの身体すなわち霊体の健康と活力の増進です。そして第三がその二種類の作用の自然な結果、つまり内的活力と肉体との融合です。

 これを吾々はキリストの総身(*)の活性化と呼びます。すなわち根源からの生命の流れと合流し、一人ひとりが活力を得ることによってキリスト自身も活力を増進していくのです。

(*顕幽にわたる地球規模の自然界そのものをさす。第六章で詳しく解説──訳者)

 この聖体拝領の儀式にはもう一つの意味が秘められています。が、その説明は簡略なものに留めざるを得ません。何となれば、いかに努力してみたところで、その真相の全てを伝えることは無理だからです。吾々にも吾々の言語があるのですが(*)、それでは貴殿の方が理解できず、さりとて地上の言語では全く用を為さない。

その真相は地上の言語の痕跡を留めない上層界にわたることであり、最高界に近い崇高な界層の言語でしか伝え得ないものです。  

(*死後の世界では言語は使用されないと言われるが、音声による形態の言語は無いという意味であって、地上の各民族によって言語が異なる如く、各界層によってその表現形式の異なる言語があるようである──訳者)

 聖書にあるごとくパンとぶどう酒という二つのありふれた品物はイエスの聖体とおん血に変わる。

従ってそれはその言葉(マタイ26・26~29)を発したイエスの一部となったことになります。このことに関してこれまで、一体なぜ肉と骨と血でできた身体をまとっているイエスにそれが出来たのかという疑問があったようですが、実は人間は一人の例外もなく、生涯を通じてひっきりなしに、外部の物体と霊的に反応し合っている。

身にまとったものには、その人の個性が泌みこむ。手を触れるものにも住まう家にも個性が伝わり、それは永遠に消えることがない。そういう性質を生まれながらにして具えているのです。(心霊学でいうサイコメトリ現象がそれを証明している──訳者)

 イエスは、ユダヤとガリラヤにおいて病める人や不自由な者をその生命力で癒したごとく、また弟子たちに霊力を吹き込みその生命力で鼓舞したごとく、そのパンとぶどう酒に生命力の流れを注ぎ、かくしてそれは真実の意味においてイエスの身体(からだ)となり血となったのです。

 今日とて同じです。イエスは晩餐が終わればあとは十字架にかけられるのを最後に、すべてが終わりとなる身であった。そのような身の上の者が自分とからだと血を永遠のものとして授けるはずはありません。

そうではない。その時のパンとぶどう酒、十二人の弟子たち、並びにそこに参集せる者たちへ注がれたのは、その時のイエスが束の間の地上生活のためにまとい、やがて使い古した衣服のごとく棄てられる肉体と血ではなかった。

また、始源から流れくる生命力の流れの通路となったイエスの霊体でもなかった。それはイエスの霊そのもの、今も昔も変わらぬ永遠なるキリストの生命そのものであり、それは肉体があろうと無かろうと同じことであった。

なぜなら霊力や霊的エネルギーに関する限り、そうした形式は問題ではないからです。表現形式はどうあろうと、表現されるもの自体は少しも変わりません。

 それ故、最後の晩餐においてパンとぶどう酒が主の願いと意図のもとに生命力の貯蔵庫となり、その意味において主の聖体とおん血となったと言うのは正しいわけです。

そして又、イエスのからだがこの世から消えたからといって、そのことは主の働きかけを阻止するどころか、むしろ一つの媒体がなくなったことによって、より一層容易にそして直接的に働きかけることが可能となったと言えます。

少なくとも肉体が無いということは、主より流れ出る生命力がパンとぶどう酒に注がれることを妨げることにはなりません。

 それゆえ司祭が会衆の同意のもとに、パンとぶどう酒を食卓に並べ置き高き天界の在(おわ)す主の犠牲を祈願する時、それは実質において主の御胸に手を置き、高き天使の在す天上界へ目を向け、父なる神の顔を見つめ、人類のためにその子イエスの愛と認識を嘆願していることになるのです。

もしその司祭が素直にして幼子の如き心の持ち主であるならば、今日でさえその手の下に主の御胸の静かなる生命の鼓動を感じ取ることができるでしょう。その生命力による援助のもとに、その祈りの念は聖にして純なる天界へと送り届けられ、主の祈りそのものとして嘉納されることになるのです。

シルバーバーチの霊訓(十一)

More Philosophy of Silver Birch Edited by Tony Ortzen


まえがき

 明日から週末となる寛いだ金曜日の夜のことだった。家の電話がけたたましく鳴った。テスター氏からだった。

 「彼が行っちゃったよ」テスター氏があっさりとそう言った。
 「行った?病院ですか?」
 「違う!連れて行かれたんだよ」
 「連れて行かれた?どこへですか?」

 そう聞き返しているうちにテスター氏の言葉の衝撃がやっと伝わってきた。動転したのか、気が付いたら私は数週間前から止めていた煙草に火をつけていた。そして、もうタイプライターに向かっていた。パチパチという音と、時折通り過ぎる車の音以外は何も聞こえない、静かな永い永い夜がこうして始まった。

 一九八一年七月十七日のことだった。
 他のスタッフに次々と衝撃のニュースを伝えてから、私はサイキックニューズ社の事務所へ向かった。気が重かった。そして顔は幾分ほてっていた。

 しかし今は瞑想したり思い出に耽っている場合ではなかった。電話をしなければならない。電報を打たねばならない。明日のサイキックニューズ紙を組み替えないといけない。
 そうした用事をひと通り済ませた後、また重い足を引きずりながら家に帰った。

もう夜明けも近い。私は孤独感を噛みしめながらモーリス・バーバネルの死亡記事を書いた。本人の承諾も得ずに、また求められもしないのに、若輩の私がその大切な仕事を引き受けて、恐縮の気持ちを禁じ得なかった。

 その日が明けて再びサイキックニューズ社へ出向いてから私は、書庫の中からバーバネルが〝最後に出すべき記事〟として用意しておいた原稿(日本語版(十)「シルバーバーチと私」)を取り出して読んだ。

 六十年余りにわたって氏は数え切れないほどの交霊会や心霊的な行事で常に最前列席(リングサイド)に座り続け、〝ミスター・スピリチュアリズム〟のニックネームをもらっていた。その彼が今、その存在を自ら必死に擁護し賛美し訴えてきた霊界へと旅立ってしまった。

 その現実を目の前にして私は、ふと、数年前にその原稿を預かった時のことを思い出した。それを一読した時、〝今度これを読む時はもうこのご老体はあの世へ行ってしまっているんだな〟という感慨がよぎったものである。それが今まさに現実となってしまった。霊は肉体の束縛から離れ、その肉体も今は静かに横たわっている。

 不思議なことに、数週間前にボス(と我々スタッフは情愛をこめて呼んだものである)が私に若かりし頃のことをしみじみと語ってくれた。私には大きな明かりが消えたような思いがした。どうしようもない孤独感と心もとなさが襲ってきた。目の前でドアが閉じられた感じで、これから先、サイキックニューズ社はどうなるのか、誰も知る由もなかった。

 私がはじめてボスと会ったのは私がまだ二十歳の、ジャーナリストとしての駆け出し時代だった。以来私は彼から多くのことを学んだ。ジャーナリズムのことだけでなく人生そのものについて教えてもらった。

四十歳ほどの差があったので、お互いの関係には祖父と孫のようなものがあった。私が見当違いのことを口にすると、度の強いメガネ越しにじっと見つめ、ほんの一言二言注意するだけで、すべてを若気の至りにしてくれていたようである。

 またサイキックニューズ社は五時半が終了時刻で、スタッフは必ずバーバネルの部屋まで来て〝帰っても宜しいでしょうか〟と言うしきたりになっていたが、私だけはただドアをほんの少し開けて頭を首まで突っ込むだけで、何も言わなくてもよかった。ボスの方もちらっと私の方へ目をやってニッコリと笑って頭をコクンとするだけだった。

 バーバネルほど精力的に仕事をした人間を私は知らない。いつも誰よりも早く来て、帰るのはいつも最後だった。そうした中にあっても部下の誕生日をちゃんと覚えていて、上等のタバコをプレゼントする心遣いを忘れない人だった。

 私の人生を運命づけた二十歳の誕生日のことを今も鮮明に思い出すことができる。ボスが昼食をご馳走してくれると言うので一諸に出かけると、珍しくパブ(ビールと軽食の出る社交場)へ行った。

アルコールは滅多に口にせず、こういう場所へは一度も来たことのない人なので私は驚いたが、さすがに自分はトマトジュースと〝ピクルス抜き〟のサンドイッチを注文した。そして私への誕生日のプレゼントとして、今夜シルバーバーチの交霊会へ招待しよう、と言った。それが私にとって最初のシルバーバーチとの出会いだった。

 シルバーバーチがこの病める、お先真っ暗の、混乱した地上世界にもたらした慰安と高揚の大きさは到底言葉で尽くせるものではない。あらゆる民族、あらゆる時代、あらゆる文化に通用する永遠、不変の真理である。

 しかしそれは同時に霊媒モーリス・バーバネルとその献身的な伴侶だったシルビア・バーバネルの功績でもあった。この二人の〝神の僕〟は真に勇気ある魂だった。今もそうであろう。そしてこれからもずっとそうであろう。二人は任されたブドウ園でコツコツと酷しい仕事に精励して、次の仕事場へ旅立っていった。

 バーバネルにもいろいろと欠点があった。われわれもみな同じである。彼みずからよく言ったものである。

 「ラクダに自分のコブは見えないものだよ」
 が、彼は何ものも恐れず、何ものにも媚びることなく、神の計画の推進のためにシルバーバーチと共に大きな役割を果たした。

このコンビは文字通り地球の隅々の無数の人々に声をかけ、人生に疲れ悩める人々に希望を、暗く沈んだ心に一条の光明を、そして混乱と疑念の渦巻くところに平穏と確信をもたらした。

 今二人は霊界にいる、差し当たっての地上での使命を全うしたばかりである。図太い神経と決意と確信を持って説いた霊界の美しさと恵みと叡智をゆっくりと味わっていることであろう。

 引き続いて二人の旅の無事を祈る。そして、ささやかながら、われわれからの愛と敬意と賞賛の気持ちを手向けよう。                              トニー・オーツセン




 訳者注ーこれは全十巻のシリーズが完了したあとすぐに始まった、オーツセン編集による新シリーズの第一巻 Silver Birch Companion<シルバーバーチの友>の〝まえがき〟(要約)である。

 その後さらに二冊出版されているが、この第一巻はなぜか前シリーズのうちの Wisdom of Silver Birch (日本語版「三」巻)と More Teachings of Silver Birch (同「五」)からの抜粋ばかりで構成されており(〝まえがき〟の中でもそう断っている)、したがって改めて訳出する意味がない。が、

今お読みになられてお分かりの通り、その〝まえがき〟はバーバネルの人柄を偲ばせる内容になっており、同じオーツセン編の本書の〝まえがき〟として代用させていただいた次第である。  
                             近 藤 千 雄
 


 一章 シルバーバーチの自己紹介       

 私の名はシルバーバーチではありません。これは私がバイブレーションを下げて地上世界とコンタクトすることを可能にしてくれる一種の変圧器の役目をしている、かつて地上でインディアンだった霊の名前です。

 いずれにしても名前はどうでもよいことです。私に関するかぎり名前は何の価値もありません。これまで一度も地上時代の名を明かしたことはありません。

 地上時代の私はレッド(アメリカン)インディアンではありません。このインディアンよりはるかに古い時代の別の民族の者です。霊的進化の末に二度と地上へ生身に宿って戻ってくる必要のない段階まで到達いたしました。

 霊界の上層部には〝神庁〟とでも呼ぶべきものが存在します。それに所属するのは格別に進化をとげた霊、高級神霊です。その仕事は立案された創造進化の計画を円満に進展させることです。

 その神庁から私にお呼びが掛かり、これまでの進化で私が得たものを一時お預けにして可能な限り地上圏に近づき、その高級指導霊たちのメッセンジャーとして働いてくれないかとの要請を受けたのです。

 私の役目はその指導霊たちの教えを取り次ぎ、一人でも多く、受け入れる用意のできた人間にお届けすることです。私は喜んでその要請をお引き受けしました。それが半世紀近くにもわたってたずさわってきた私の使命なのです。

 その仕事のために私はこの国の言語である英語を学ばねばなりませんでした。私が地上でしゃべっていた言語は英語ではありませんでした。そこで、出発に際して指導霊から、地上で仕事をするには英語をしっかりマスターすること、その文法と構文をよく勉強しておかないといけないと言われました。

 私にとって困ったことが一つありました。地上との接触(コンタクト)には霊界の霊媒が必要だということです。私自身が直接地上の霊媒と接触することは不可能だったのです。それは、私が到達した進化の階梯と霊媒のそれとが違いすぎて波長が合わないからです。そこで私はもう一人、変圧器(トランス)に相当する者を必要としたのです。

 指導霊たちが用意してくれたトランスは地上でレッドインディアンに属していた霊の霊体でした。私に授けられる教えを地上へ伝達するための中間の媒体として、それが一番適切だったのです。

 私はインディアンの文明の方が白人の文明よりも勝れていると思っておりますが、決して欠点や残忍な要素がまったく無いとは申しません。しかし極悪非道の文明を移入したその責任は大体において白人に帰さねばならないと考えます。

 もとより完全な人種というものは存在しません。完全であったら地上には存在しないでしょう。インディアンにも欠点はありましたが、その人種ならではの貢献をしました。倫理・道徳は高度なものを持っておりました。自然の大切さをよく知り、霊的摂理をよく理解し、人種間の同胞意識には非常に強いものがありました。

 インディアンは心霊的法則(サイキック)をよく知っており、その作用についてよく理解しておりました。また霊的法則(スピリチュアル)については更に深い認識がありました。霊界入りする人間すべてについて言えることですが、インディアンも因果律に直面させられ、地上生活での出来事のすべてについて償いと罰とを受けました。

 自然の摂理から逃れられる人はいません。あらゆる民族、あらゆる国家、あらゆる文化が、地上世界を良くする上でそれなりの貢献をしております。言ってみれば大オーケストラの様なものです。一つ一つの楽器がそれぞれの演奏をして全体として美事なハーモニーを出しているのです。

 いかに未開あるいは野蛮に思える民族も、開けゆく大機構の中でそれなりの役割を持っているのです。地上のどこにいようと、いかなる人間であろうと、霊的存在であることには変わりありません。

一人の例外もなく霊的本性を宿しており、それが全人類を大霊の家族として一つにまとめているのです。肌の色の違い、言語の違い、民族の違い、国家の違いなどは、霊性という基盤における一体性に比べれば物の数ではありません。

 私は絶対に過ちを犯さない、進化の頂上を極めた霊ではありません。そういうことは有り得ないことです。進化というのは永遠に続く過程だからです。これで完全です、というピリオドはないのです。向上すればするほど、まだその先に向上すべき余地があることを知るのです。

 私たちがお届けするのは神の叡智とインスピレーションの宝庫から取り出した崇高な真理です。といって私たちはそれを無理にも信じていただこうとは思っておりません。私たちの言う通りにしなさいとは申しません。宇宙の大霊との調和にとってこれ以上のよい方法はないと断言しているのでもありません。

 私たちが断言すること、私達の精一杯の思いを込めて断言するのは、霊の真理はいかに厳しい理性と知性と体験によって試されても、それに耐え得るものであるということです。私の述べることに対して皆さんが何と反論なさろうと、それによって罰が当たる心配はご無用です。

 神は人間に一定限度内の自由意志を与えて下さっています。操り人形ではないのです。知性をお持ちです。理性をお持ちです。自分で判断し、決断し、反省し、自分の意見を形成し、体験から知恵を学んでいく能力をお持ちです。

 私たちはその能力を通して皆さんの賛同と協力を得たいのです。反発を覚えながらでは困るのです。理性は神から授かった大切な能力の一つだからです。

 人生には何ごとにも二面性があります。光があれば闇があります。安らぎがあれば苦労があります。もしも晴天の日ばかりだったら、晴天の有難さは分からないでしょう。時にはイヤな思いをさせられる体験を通して、ある事を学ばされることがあります。

いずれ皆さんもこちらへお出になって地上生活を振り返った時は、きっとこう思われることでしょう。〝いちばん大切な教訓を学んだのは生活がラクだった時ではなく、嵐が吹きまくり雷鳴が轟き稲妻が走り太陽が雲にさえぎられて、すべてが暗く絶望的に思えた時だった〟と。


 魂が内在する可能性を発揮するのは逆境の中にある時こそです。のんきな生活の中では霊性は磨かれません。苦しい道こそ有難いのです。その道を歩み続けるうちに、見慣れた道路標識や目印(伝統的な宗教儀式、迷信的概念、生活慣習等)が後へ後へと残されていきます。が、

心の奥では自ら見出して真理を土台とした信念がますます深まりゆくものです。(別のところでは〝霊的進化の旅は孤独なものです。が、行くほどに内なる喜びで心が満たされてまいります〟と述べている───訳者)

 過ぎ去ったことは忘れることです。すでに後ろのものとなりました。前にあるものが大切です。言うまでもなく、今あなたが味わっている結果を生み出した原因は過去にあります。しかし同時にあなたは、これから結果を生み出す原因を今作りつつあるのです。良いタネを蒔くように努力なさることです。

月並みなことを申すようですが、やはり真実です。取り越し苦労はいけません。心配は無知から生じます。真理の光の中で生きることです。

  地上というところは、あなたがこれまで大勢の人にいろいろとお世話になったように、他人のために自分を役立てるためのチャンスを与えてくれるようになっております。道は必ず開かれます。あなたは人間である以上いろいろと間違いを犯します。弱点をお持ちです。

長所ばかりではありません。人間味の本質は欠点があるということなのです。だからこそ地上へ来ているのです。
 
 その地上において完全を成就するということは不可能です。しかし、いずれは生活することになる次の世界に備えて、その地上にいるうちに教訓を身につけていくのです。

(ここでその日のゲストの二人がお礼の言葉を述べかけると、それを制して〝私への感謝は無用です〟と言い、その理由をこう説明する───)

 私が感謝をお断りするのは、私が非常にいけないと思っている傾向をたびたび見てきているからです。いわゆる指導霊信仰というのがそれです。指導霊というのは崇拝の対象とされることを望まないものなのです。唯一崇拝の対象とすべきものは宇宙の大霊すなわち神です。

無限なる霊であり、至高の創造主であり、光と愛と叡智と真理とインスピレーションの極致です。本来はそれに向けられるべき崇拝の念を私の様なお門違いのところへ向けられては困るというに過ぎません。

 私は全知識の所有者ではありません。霊的進化の終点まで到達したわけではありません。まだまだ辿らねばならない道が延々と続いております。ただ、あなた方地上の人間に比べれば幾らかは年季が入っておりますので、私を豊かにしてくれることになった霊的真理を幾つか知っております。

 その知識を受け入れる用意のできている地上の人たちと分かち合うために、私はこれまで辿ってきた道を後戻りしてまいりました。私はまだまだ完全ではありません。

相変わらず人間味を残しておりますし、間違いも犯します。しくじることもあります。しかし私は、授かった真理をなるべく多くの人たちにお届けするために、私なりの最善を尽くす所存です。

 こうして人のために役立つ仕事にたずさわれるのは光栄なことです。幸いなことに私は、地球浄化の大事業の推進に当たっている霊団からの指示を仰ぎつつ真理を語ることを許されています。

その霊団がいわば大本営なのです。霊界の政庁に属する高級神霊たちであり、造化の大霊の意志の推進という重責を担っているのです。その手先である私を通じて、たった一人でも真理の光を見出すことができれば、私にとって大きな喜びです。


──あなたがもう一度肉体をまとって誕生なさる可能性はありますか。

 ありません、私はもう二度と再生はしません。私にとって地上の年季奉公はもう終わっています。こうして戻ってきたのは皆さんを始め地上の人々の力となり、絶対に裏切ることのない霊的摂理と真理とをお教えするためです。

人間が地上を仮の宿とした霊的存在であることをお教えして元気づけてあげたいと思っているのです。その真理の啓示を受けられた皆さんは幸せ者です。その啓示によって人生の視野が一変したことを感謝しなくてはいけません。

 私も幸せ者です。お届けする高級界からの教えを受け入れて下さる方をこれほど多く見出すことができたのですから。その教えの中には貴重な真理がぎっしりと詰まっているのですが、問題はその価値を知るにはそれだけの受け入れ準備ができていなければならないということです。

           ※          ※

 霊媒をしている人が孤独感を口にすると次の様な意外な返事が返ってきた───


 私の方があなたよりはるかに孤独を味わっております。

 私は本来は今この仕事のために滞在している地上界の者ではありません。私の住処は別の次元にあります。あらゆる面での生活条件が地上よりはるかに恵まれ、交わる相手や仲間はみな 〝光り輝く存在〟 です。が、その高級霊達と会えるのは、指導を仰ぎにこの地上圏を後にした時だけなのです。地上というところは私たちにとって何一つ魅力のない世界です。

 その指導霊達との相談を終えると、私は再びこの憎しみと強欲と愚かさに満ちた世界へやってまいります。その時に味わう何ともいえない冷ややかさを温めてくれるのは、私へ理解と愛の心を向けて下さる同志の皆さんです。それが何とかこの仕事をやり甲斐あるものにしてくれるのです。

 そうした同志をこれほど多く獲得できた私はほんとに幸せ者だと思っております。私がお届けしているのは、私がこれこそ基本的真理であると見ているものばかりでして、それを地上の受け入れる用意のできた方が理解しやすいように、英語で表現しているだけです。

 その中には人間の知性を侮辱したり理性に反発を覚えさせたりするものは何一つありません。すべては愛に発しているからです。愛こそが霊の正貨なのです。愛に発した奉仕が一番尊いのです。これに勝る宗教はありません。


───(心霊ジャーナリスト)いつの日かあなたが地上時代の身元を明かされる時が来るのでしょうか。

 今のあるがままの私が私です。名前は大切ではありません。大切なのは人の力になってあげられるということです。私は自分が役に立っていること、そしてお陰で大勢の同志ができたということを大変光栄に思っております。

 私にもこれまで数多くの挑戦すべき課題と困難とがありました。しかし、私はそれを堂々と受け止めてまいりました。なぜなら、背後に控えてくださっている霊の力をもってすれば何事も必ず克服できると信じたからです。

 あなたも人の力になってあげられる得異な立場にいらっしゃいます。教会や礼拝堂といった施設よりも、あるいは科学者や経済学者などよりも大きな貢献ができるお仕事です。宇宙の崇高なエネルギーである霊力の通路となる、掛け替えのない贈物を手にしていらっしゃいます。

霊力は生命の大霊から届けられるのです。霊なくして宇宙には何も存在できません。無限の生命現象を生んでいるのは霊なのです。その霊の力のもとで人に役立つ仕事にたずさわれる身の上を幸せに思ってください。

        ※         ※                

 クリスマス休暇を前にした最後の交霊会のしめくくりの言葉としてシルバーバーチが次のようなお別れの挨拶をした───

 ご存知のように、この時期は私が一時的に地上にお別れを告げて、私の本来の住処である霊界へ帰る季節です。私にとって皆さんとお別れするのは辛いことです。しかし、これ以後まだまだ続く仕事に備えて霊的バッテリーを充電するために、この地上で得られないものを摂取しに帰ることがどうしても必要となるのです。

 霊界へ戻ると、これまでの私の仕事の成果、予定していた計画をどこまで成し遂げたかが分かります。今の私に断言できるのは、その後同志の数がさらに多くなっているということです。これが私にとって一つの大きな慰めであることは申すまでもありません。

 しっかりと背筋を伸ばすのです。うなだれてはいけません。霊力は決して見棄てません。私の声はしばしのあいだ消えることになりますが、私の愛は皆さんとともに留まっております。

 次にお会いした時───地上の区切りで言えば新年になりますが───またこれまで通りの厳粛な仕事を再開することになります。

 可能なかぎり高い波長に合わせるように努力いたしましょう。大霊が子等にお授け下さるもの───限りなき愛と力と内的安らぎを少しでも多く感得できるように努力いたしましょう。

 皆々さまに大霊の祝福のあらんことを。
                                            
                                         

Thursday, January 8, 2026

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓 (十)

  Light from Silver Birch Edited by Pam Riva 





十二章 シルバーバーチと私  
    モーリス バーバネル 

私と心霊との係わりあいは前世にまで遡ると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッドクラウドは死後存続の決定的証拠を見せつけてくれた恩人であり、その交霊会において 『サイキック・ニューズ』 紙発刊の決定が為されたのであるが、そのレッドクラウドの話によると、私は、今度生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯を捧げるとの約束したそうである。

 私の記憶によればスピリチュアリズムなるものを始めて知ったのは、ロンドン東部地区で催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた十八歳の時のことで、およそドラマチックとは言えないことがきっかけとなった。

 クラブでの私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、これをどうにか大過なくやりこなしていた。それは多分にその名士たちが、ロンドンでも最も暗いと言われる東部地区でそういうシャレた催しがあることに興味をそそられたからであろう。

 私のもう一つの役目は、講演の内容のいかんに係わらず、私がそれに反論することによってディスカッションへと発展させていくことで、いつも同僚が、なかなかやるじゃないかと、私のことを褒めてくれていた。

 実はその頃、数人の友人が私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん始めてのことで、私は大真面目で出席した。ところが終わって始めて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。そんなこともあって、たとえ冗談とは言え、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。

 同時にその頃の私は他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教に背を向けていた。母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が教会での儀式に一人で出席するのはみっともないから是非同伴してほしいと懇願しても、頑として聞かなかった。

二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。理屈の上では必ずと言ってよいほど父の方が母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それから更に不可知論へと変わって行った。

 こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただく上で、その背景として必要だと考えたからである。

 ある夜、これといって名の知れた講演者のいない日があった。そこでヘンリー・サンダースという青年がしゃべることになった。彼はスピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終わると私の同僚が私の方を向いて、例によって反論するよう合図を送った。

 ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近ニセの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないと述べ、従ってそれをまったく持ち合わせない私の意見では価値がないと思う、と言った。

これには出席者一同、驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。

 終わるとサンダース氏が私に近づいて来て、〝調査研究の体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もしも本気でおっしゃったのなら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか〟 と尋ねた。

 〝ええ〟 私はついそう返事をしてしまった。しかし〝結論を出すまで六ヶ月の期間がいると思います〟 と付け加えた。日記をめくって見ると、その六ヶ月が終わる日付がちゃんと記入してある。もっとも、それから半世紀たった今もなお研究中だが・・・・・・。

 そのことがきっかけで、サンダース氏は私を近くで開かれているホームサークルへ招待してくれた。定められた日時に、私は、当時婚約中で現在妻となっているシルビアを伴って出席した。行ってみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。若い者も老人もいる。余り好感は持てなかったが、真面目な集会であることは確かだった。

 霊媒はブロースタインという中年の女性だった。その女性が入神状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。そして事実そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。少なくとも私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが〝死者〟である、ということを得心させる証拠は何一つ見当たらなかった。

 しかし私には六ヶ月間勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。ところが会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり 〝居眠り〟 をしてしまった。目を覚ますと私はあわてて非礼を詫びた。ところが驚いたことに 〝居眠り〟 をしている間、私がレッドインディアンになっていたことを聞かされた。

 それが私の最初の霊媒的入神だった。何をしゃべったかは自分には全く分からない。が、聞いたところでは、シルバーバーチと名告る霊が、ハスキーでノドの奥から出るような声で、少しだけしゃべったという。その後現在に至るまで、大勢の方々に聞いていただいている。地味ながら人の心に訴える(と皆さんが言って下さる)響きとは似ても似つかぬものだったらしい。

 しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホームサークルが出来た。シルバーバーチも、会を重ねるごとに私の身体のコントロールがうまくなっていった。コントロールするということは、シルバーバーチの個性と私の個性とが融合することであるが、それがピッタリうまく行くようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。

 始めのうち私は入神状態に余り好感を抱かなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が私自身には分からないのは不当だ、という生意気な考えのせいであったろう。

 ところが、ある時こんな体験をさせられた。交霊会を終わってベットに横になっていた時のことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声つまり私の霊言と共に、ビデオのように映し出されたのである。そんなことがその後もしばしば起きた。

 が、今はもう見なくなった。それは他ならぬハンネン・スワッハーの登場のせいである。著名なジャーナリストだったスワッハーも、当時からスピリチュアリズムに彼なりの理解があり、私は彼と三年ばかり、週末を利用して英国中を講演して回ったことがある。延べにして二十五万人に講演した計算になる。

一日に三回も講演したこともある。こうしたことで二人の間は密接不離なものになっていった。

 二人は土曜日の朝ロンドンをいつも車で発った。そして月曜日の早朝に帰ることもしばしばだった。私は当時商売をしていたので、交霊会は週末にしか開けなかった。もっともその商売も一九三二年に心霊新聞 『サイキック・ニューズ』を発行するようになって、事実上廃業した。それからスワッハーとの関係が別な形をとり始めた。

 彼は私の入神現象に非常な関心を示すようになり、シルバーバーチをえらく気に入り始めた。そして、これほどの霊訓をひとにぎりの人間しか聞けないのは勿体ない話だ、と言い出した。元来が宣伝好きの男なので、それを出来るだけ大勢の人に分けてあげるべきだと考え、『サイキック・ニューズ』 紙に連載するのが一番得策だという考えを示した。

 初め私は反対した。自分が編集している新聞に自分の霊現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、随分議論した挙句に、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。

 が、もう一つ問題があった。現在シルバーバーチと呼んでいる支配霊は、当初は別のニック・ネームで呼ばれていて、それは公的な場で使用するには不適当なので、支配霊自身に何かいい呼び名を考えてもらわねばならなくなった。そこで選ばれたのが 「シルバーバーチ」 Silver Birch だった。

不思議なことに、そう決まった翌朝、私の事務所にスコットランドから氏名も住所もない一通の封書が届き、開けてみると銀色(シルバー)の樺の木(バーチ)の絵はがきが入っていた。

 その頃から私の交霊会は、「ハンネン・スワッハー・ホームサークル」と呼ばれるようになり、スワッハー亡き後今なおそう呼ばれているが、同時にその会での霊言が 『サイキック・ニューズ』 紙に毎週定期的に掲載されるようになった。当然のことながら、霊媒は一体誰かという詮索がしきりに為されたが、かなりの期間秘密にされていた。

しかし顔の広いスワッハーが次々と著名人を招待するので、私はいつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して、ついに事実を公表する記事を掲載したのだった。

 ついでに述べておくが、製菓工場で働いていると甘いものが欲しくなくなるのと同じで、長い間編集の仕事をしていると、名前が知れるということについて、一般の人が抱いている程の魅力は感じなくなるものである。

 シルバーバーチの霊言は、二人の速記者によって記録された。最初は当時私の編集助手をしてくれていたビリー・オースチンで、その後フランシス・ムーアという女性に引き継がれ、今に至っている。シルバーバーチは彼女の事をいつも the scribe (書記)と呼んでいた。

 テープにも何回か収録されたことがある。今でもカセットが発売されている。一度レコード盤が発売されたこともあった。いずれにせよ会のすべてが記録されるようになってから、例のベッドで交霊会の様子をビデオのように見せるのは大変なエネルギーの消耗になるから止めにしたい、とのシルバーバーチからの要請があり、私もそれに同意した。

 私が本当に入神しているか否かをテストするために、シルバーバーチが私の肌にピンを突き刺してみるように言ったことがある。血が流れ出たらしいが、私は少しも痛みを感じなかった。

 心霊研究家と称する人の中には、われわれが背後霊とか支配霊とか呼んでいる霊魂(スピリット)のことを、霊媒の別の人格に過ぎないと主張する人がいる。私も入神現象にはいろいろと問題が多いことは百も承知している。

 問題の生じる根本原因は、スピリットが霊媒の潜在意識を使用しなければならないことにある。霊媒は機能的には電話器のようなものかもしれないが、電話器と違ってこちらは生き物なのである。

従ってある程度はその潜在意識によって通信内容が着色されることは避けられない。霊媒現象が発達するということは、取りも直さずスピリットがこの潜在意識をより完全に支配できるようになることを意味するのである。

 仕事柄、私は毎日のように文章を書いている。が、自分の書いたものを後で読んで満足できたためしがない。単語なり句なり文章なりを、どこか書き改める必要があるのである。ところが、シルバーバーチの霊言にはそれがない。

コンマやセミコロン、ピリオド等をこちらで適当に書きこむ他は、一点の非のうちどころもないのである。それに加えてもう一つ興味深いのは、その文章の中に私が普段まず使用しないような古語が時折混ざっていることである。

シルバーバーチが(霊的なつながりはあっても)私とまったくの別人であることを、私と妻のシルビアに対して証明してくれたことが何度かあった。中でも一番歴然としたものが初期のころにあった。

 ある時シルバーバーチがシルビアに向かって、〝あなた方が解決不可能と思っておられる問題に、決定的な解答を授けましょう〟 と約束したことがあった。当時私達夫婦は、直接談話霊媒として有名なエステル・ロバーツ女史の交霊会に毎週のように出席していたのであるが、シルバーバーチは、次のロバーツ女史の交霊会でメガホンを通してシルビアにかくかくしかじかの言葉で話しかけましょう、と言ったのである。

 むろんロバーツ女史はそのことについては何も知らない。どんなことになるか、私たちはその日が待ち遠しくて仕方がなかった。いよいよその日の交霊会が始まった時、支配霊のレッドクラウドが冒頭のあいさつの中で、私たち夫婦しか知らないはずの事柄に言及したことから、レッドクラウドは既に事情を知っているとの察しがついた。

 交霊会の演出に天才的うまさを発揮するレッドクラウドは、そのことを交霊会の終わるぎりぎりまで隠しておいて、わざとわれわれ夫婦を焦らさせた。そしていよいよ最後になってシルビアに向かい、次の通信者はあなたに用があるそうです、と言った。暗闇の中で、蛍光塗料を輝かせながらメガホンがシルビアの前にやってきた、そしてその奥から、紛れもないシルバーバーチの声がしてきた。間違いなく約束した通りの言葉だった。

 もう一人、これは職業霊媒ではないが、同じく直接談話を得意とする二―ナ・メイヤー女史の交霊会でも、度々シルバーバーチが出現して、独立した存在であることを証明してくれた。

私の身体を使ってしゃべったシルバーバーチが、今度はメガホンで私に話しかけるのを聞くのは、私にとっては何とも曰く言い難い、興味ある体験だった。

 ほかにも挙げようと思えば幾つでも挙げられるが、あと一つで十分であろう。私の知り合いの、ある新聞社の編集者が世界大戦でご子息を亡くされ、私は気の毒でならないので、ロバーツ女史に、交霊会に招待してあげてほしいとお願いした。名前は匿しておいた。が、女史は、それは結構ですが、レッドクラウドの許可を得てほしいと言う。

そこで私は、では次の交霊会で私からお願いしてみますと言っておいた。ところがそのすぐ翌日、ロバーツ女史から電話が掛かり、昨日シルバーバーチが現われて、是非その編集者を招待してやってほしいと頼んだというのである。

 ロバーツ女史はその依頼に応じて、編集者夫妻を次の交霊会へ招待した。戦死した息子さんが両親と 〝声の対面〟 をしたことは言うまでもない。

訳者付記

 ここに訳出したのは、モーリス・バーバネル氏の最後の記事となったもので、他界直後に、週刊誌『サイキック・ニューズ』の一九八一年七月下旬号、及び月刊誌『ツー・ワールズ』の八月号に掲載された。



   
 訳者あとがき

 本書は原題を Light from Silver Birch といい、 そのまま訳せば、シルバーバーチからの光、ないしは光明ということになる。これまでの霊言集の表題は〝シルバーバーチの教え〟〝シルバーバーチの導き〟〝シルバーバーチの叡智〟〝シルバーバーチの哲学〟といったパターンになっているが、意味するところは皆同じである。

 編者パム・リーバ女史とは二度会っている。最初はバーバネルの秘書をしていた時で、社長室のある三階から下りてきて私を迎え、折り返し三階まで案内してくれた。その時の東洋人的な、いかにも貞淑な物腰が印象に残っただけで、顔は後で思い出せるほどはっきりは覚えていなかった。

 二度目に会った時はバーバネル亡き後で、サイキックニューズ社のスタッフの一人として働いていた。私のことを覚えていてくれて、私が来ていることを知ってわざわざ二階の編集室から下りてきてくれた。その時初めてとても美しい方であることを知った。ハデな美しさではなく、奥に何かを秘めて清楚な美しさで、才色兼備とはこういう人に使う言葉であろうと思ったりした。

 私が「今シルバーバーチを訳しているけど、そのうちあなたの編集したものも訳しますよ」と言ったら Oh, lovely !(まあ、素敵!)と言って、まるで童女のようなあどけない仕ぐさで、嬉しそうにしたのが印象的だった。

 本文の一三六頁でシルバーバーチが「この霊媒と奥さんと私とは一個のインディビジュアリティに所属しております」と述べている。つまり霊的な親族(アフィニティ)、いわゆる類魂同士であるという意味であるが、私は永年バーバネルの秘書を務めたこのリーバ女史もアフィニティの一人として計画の推進のために生まれてきていると思う。スワッハーもしかり、速記係のムーア女史も然りである。

 話を戻して、続いて私が「その後バーバネルから何か通信がありますか」と尋ねたところ、自動書記とか霊聴という形ではないけど、霊感的に近くにバーバネルの存在を感じることはよくあるといった主旨のことを語ってくれた。バーバネルは今でもサイキックニューズをはじめとしてスピリチュアリズム関係の仕事を霊界から援助してくれていることは、当然想像できるところである。

 さて本書にはバーバネルが他界する直前の霊言も収められており、一九三八年に始まった原典シリーズも本書が最後となる。日本語シリーズとしてはオーツセンの More Philosophy の残り半分を主体として構成したものを次の第十一巻とし、最終巻は全霊言集のほかにサイキックニューズ紙やツーワールズ誌に引用されている珠玉の言葉や祈りをもれなく集めて〝総集編〟としたいと考えている。

 もちろんそれでシルバーバーチの霊言がすべて出つくすわけではない。分量としてはむしろ残されているものの方が多いのではないかと推測している。現に最近の情報では、すでに次のシリーズを企画中のようである。シルバーバーチファンにとっては嬉しい限りであるが、それはそれとして、本シリーズは全十二巻をもって完結としたい。

 実は二年ほど前に別々の機会に二度〝この後シルバーバーチを新たに出す予定はあるのか〟と尋ねたことがあるが、二度ともその予定はないと言っていた。それが今になって新しい企画がされたということは、シルバーバーチの霊言がその後も世界的にますます注目されていることの表われであり、それは言い変えれば、現代人がこうした霊的な叡智を要求し始めているということであろう。

 『古代霊は語る』がきっかけとなってついに十二巻もの霊言集が出せることになった。振り返ってみると、これまでの展開ぶりは私自身にとっても〝まさか〟の一語につきるもので、これも潮文社の理解なくしては不可能なことだったことは言うまでもないが、その背後に大規模な霊界からの働きかけがあることを痛切に感じている。私も一個の道具としてその計画の中に組み込まれているのであろう。

 今後の計画がどう進展するかは知る由もないが、〝すべては良きに計られる〟とのシルバーバーチの言葉を信じて地道に歩んで行きたいと思っている。 

     一九八七年十一月           近藤 千雄