Thursday, May 28, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック



第11章 自分を愛するように隣人を愛しなさい

最大の戒め 
 
自分にしてほしいと思うことを他人に行う
債権者と債務者の話

一、さて、イエスがサドカイ人たちを黙らせられたことを聞いたファリサイ人たちは、一団となって集まった。そのうちの一人は律法学者であったが、イエスを試そうとして尋ねた、「先生、律法のうちで最大の戒めとはなんですか」。イエスは答えられた、

「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。これが最も大切な第一の戒めです。同様に第二の戒めは、自分を愛するように隣人を愛しなさい。すべての律法がこれら二つの戒めにかかっており、また預言者も同様です」。 (マタイ 第二十二章 34-40) 


二、そして、あなたが人々にそのようにしてほしいと思うことを、あなたも彼らにしてあげなければなりません。なぜならそれが律法であり預言者であるからです。(マタイ 第七章 12)



三、天の国は、王がしもべたちと勘定の精算をするようなところである。勘定の清

そのしもべはひれ伏し、「すべてお支払いしますから、どうぞお待ちください」と懇願した。すると王はその人を憐れに思い、その負債を免除し、自由にしてやった。

ところがそのしもべは出て行くと、自分に百デナリの借金をしていた仲間のしもべに出会ったので、その人ののどもとをつかみ、首を絞め付けながら、「私に借りているものをみな返せ」と言った。

その仲間の奴隷はひれ伏し、「すべてをお支払いしますから、どうぞお待ちください」と言った。しかし、それを聞こうともせず、負債を全て支払うまでその人を獄に閉じ込めるように命じてしまった。

そのしもべの仲間たちは、この様子を見て心を痛め、王にそのことを報告しに行った。すると王は、そのしもべを目の前に連れて来させて、「邪悪なしもべよ、私はお前が懇願したのですべての負債を取り消してやったのだ。

だから、おまえも自分の仲間のことを、私がお前を憐れんでやったのと同じように憐れんでやるべきではなかったのか」と言い、大いに憤り、その負債をすべて支払うまで獄に閉じ込めるように命じた。

 あなたたち一人一人に対して兄弟が行った罪を心の底から赦すのでなければ、天におられる私の父もまた、あなたたちをこのようになさるでしょう。(マタイ第十八章 23-35)

   

四、「自分を愛するように隣人を愛しなさい。他人にしてほしいと思うことを他人のためにしてあげなさい」。ここには、慈善がもっとも完全な形で言い表されています。なぜなら、これらの言葉には私たちが隣人に負う義務が要約されているからです。

他人にするべきことの基準として、この中にある、「自分自身にして欲しいこと」ということ以外に、これほど確実な基準は存在しません。私たちは同胞に対して、私たちの彼らに対する献身、慈悲、寛大さ以上のものを、どうして強要することが出来るでしょうか。この金言を実践することによってエゴイズムは破壊されます。

これらの言葉を人間が行動の基準とし、そのつくりだすあらゆる制度の基盤とすれば、真なる兄弟愛を理解し、平和と正義が人々を治めるようになるでしょう。憎しみや不和はもはや存在しなくなり、調和、統合、相互の慈悲心が生まれることになるでしょう。


  カエサルのものはカエサルに返しなさい
五、ファリサイ人たちは出て行くと、どうにかして言葉でイエスを混乱させようとたくらんだ。そして使徒たちをヘデロ派の人々と共にイエスのもとに行かせ、このように言わせた、

「先生、あなたは真実によって、神の道を、その人が誰であるかに関わらず教えてくれることを知っています。それでは、このことに対してどうお考えか教えてください。私たちは税金をカエサルに納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。

 しかし、イエスは彼らのたくらみに気づき、答えて言われた、「偽善者たちよ、なぜ私を試そうとするのですか。税金を支払う時に使う硬貨を私に見せてください」。そして一デナリの硬貨を見せると、イエスはお尋ねになった、「この肖像と銘刻は誰のものですか」。

彼らは、「カエサルのものです」と答えた。するとイエスは、「そうであるなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われた。彼らはその答えを聞くと驚き、イエスをその場に残して立ち去った。(マタイ 第二十二章 15-22、マルコ 第十二章 13-17)


六、イエスに対する質問は、ローマ人の課する税金を忌み嫌うユダヤ人が、その税金の支払いを宗教的な問題であるとした状況から生まれました。多くの政党がその税金に反対して設立されていました。

その税金の支払いは、彼らの間では当時のいらだたしい問題となっていたのでした。そうでもなければ、このような質問をイエスにすることは無かったでしょう。「私たちは税金をカエサルに支払わなければならないのでしょうか。それとも支払わなくてもよいのでしょうか」。

そこには罠が仕掛けられており、返答によって、ローマの権威か、ユダヤの異論者たちのいずれかが、イエスに対して逆らうことを期待して質問したのでした。

しかし、イエスはその悪意を知っており、それぞれの物が与えられるべき者に与えられなければならないのだという正義の教えを説き、この難題を切り抜けたのです<→序章Ⅲ「パブリカン(徴税官)」>。


七、しかし、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というこの文は、厳密にまったく文字通りに理解されるべきではありません。

イエスのすべての教えの中にあるように、そこには特定の場合における実用的な形で大原則が要約されているのです。この原則は、自分たちに対して行ってほしいと思うように他人に対して行わなければならないという、もう一つの教えの結果なのです。

その教えは、どのような道徳的・物質的損害を他人に与えることも、他人の利益を無視することもとがめています。そして、みなが自分の権利を尊重して欲しいように、一人一人の持つ権利が尊重されるべきであるということを示しています。

一般に、個人に対しても、家族や社会、権威に対しても、このことは同じように広げて考えられます。


℘199



  霊たちからの指導
   
  愛の法
八、霊的に進歩することにより、本能はその進歩のレベルまで引き上げられ、情操へと変化していきますが、そうした情操の最も卓越した形である愛の中に、イエスの教義は完全に要約されています。

人間はその起源においては本能しか持っていません。それがやがて進化し、形が崩されて行くと、感覚に変化していきます。教育され、浄化されると情操に変化します。情操の最もデリケートな部分が愛です。

その愛とは、一般的な低俗な意味のものではなく、内なる太陽のように、人類を超えたあらゆる啓示や熱望を、その焦点に凝縮し集めたものです。愛は人間の個人性を人々との協調性に置き換えます。愛は社会的な貧困を打ち消します。

人間であることを超え、苦しむ兄弟たちを広い愛情によって愛する者は祝福されます。肉体の貧困も魂の貧困も知らない者は祝福されます。そのような者の足取りは軽く、自分の身体を抜け出して移動しているように感じます。イエスが愛という神聖なる言葉を発すると、殉教者たちは希望に酔いしれ、劇場へと降りて行ったのです。

 スピリティズムの到来によって、神の言葉の中の二番目の言葉が伝えられました。注意深く聞いてください。「再生」、この言葉は空になった墓場の墓石を持ち上げ、死と言うものに打ち勝ち、衝撃を受けた人々にその知的財産を示してくれるのです。

それが人間を虐待に導くのではなく、自分自身の存在を認識し、征服し、高尚に変貌することに導いてくれるのです。血は霊を取り戻しましたが、今度は霊が人間を物質から取り戻さねばならないのです。
℘200    
 人間はその起源においては本能しか持っていないのであると私は言いました。ですから、まだ本能によって支配されている者は、目的の地よりも出発点に近いところにいるのです。

目標に向かって進んでいくには、情操を育てるために本能に打ち勝たねばならず、つまり、物質の中に眠る種子を抑制し、情操を完成させる必要があるのです。本能は情操の兆しであり、その種子のようなものです。どんぐりの中にかしの樹が隠されているように、本能の中には進歩が隠されているのです。

進歩の遅れた者とは、さなぎからゆっくり解放されつつも、依然として本能に支配されている者のことです。霊は畑の様に耕さなければなりません。本来における豊かさは、今日の労働によってもたらされます。労働は地上における財産以上に、栄光の向上をもたらします。

その時、全ての存在を統合する愛の法を理解することが可能となり、天における幸せの序曲である魂の優しい喜びをその中に求めることが出来るでしょう。(ラザロ パリ、1862年)


九、愛とは神なる精髄からできたものであり、最も卑しい者から最も高尚な者まで、あなたたちはこの神聖なる火の火花をみな心の底にもっています。誰でもこのことは証明できるに違いありません。

人間は、どんなに卑しく、貧しく、あるいは罪深くとも、誰か、もしくは何かしらの物に対し、生き生きとした熱烈な愛情を抱き、その気持ちはそれを弱めようとするどんな試みに対しても抵抗し、多くの場合、崇高な調和に至ります。

 私が誰か、もしくは何かしらの物と言ったのは、あなたたちの中には愛に溢れる心を持ちながら、その気持ちの富を動物や植物、あるいは物質的な物のために費やしてしまう人たちがいるからです。

そうした人たちは一種の人間嫌いの人たちで、人類一般に対して不満を持ち、自分の周りに愛情と同情を求めようとする自分たちの魂の自然の傾きに抵抗し、愛の法を本能の条件にまで引き下げてしまう人たちのことです。しかしどれだけそうしようとも、神が人類を生んだ時に授けた活発な種子を抑えることはできません。

この種子は道徳性と知性とともに発達し、しばしばエゴイズムによって圧迫されながらも、誠実で長続きする愛情を生み出す甘い聖なる美徳の源となり、人生の険しく荒涼とした道のりを乗り越えるための支えとなってくれるのです。

 自分たちが羨ましいと感じている愛情深い同情を、他人が分かち合いに来るという考えから、再生を受付ない人々がいます。可哀想な兄弟たちよ。あなたたちの愛情はあなたたちをエゴイストにしてしまうのです。あなたたちの愛は親しい親類や友人の輪の中にだけ狭められ、その他の人に対して無関心になってしまいます。

よろしいでしょうか、神の教える愛の法を実践するには、あなたたちの兄弟を無差別に愛するために一歩一歩近づいていかなければなりません。

その任務は長く、困難ですが、いつか達成されるでしょう。神はそうなることを望んでおり、愛の法が、第一の最も重要な規則でなければならないのです。なぜなら、個人的なエゴイズムの他に、血筋中心のエゴイズム、階級的なエゴイズム、国家的なエゴイズムが存在する中で、どのような形であろうと、あらゆるエゴイズムを愛の法はいつの日か滅ぼすことになるからです。イエスは、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言いました。

では隣人とはどこまでを指すのでしょうか。家族でしょうか、宗派でしょうか、それとも国家でしょうか。いいえ、人類全体を指すのです。

より優れた世界においては、相互の愛がそこに住む進歩した霊たちを導き,和を築いていますが、近々著しい進歩を遂げることになっているあなたたちの惑星においては、そこで起きる社会的変化のために、神を映し出すことこの崇高な法を、そこに住む者たちが実践するようになるでしょう。

 愛の法がもたらす結果とは、人類の道徳的向上と、地上における人生の幸福です。この規律の実践がもたらす有益な結果を知ることにより、最も反抗的な者や、最も悪徳な者も自らを改めることになるでしょう。

自分にして欲しくないことを他人にしてはなりません。その反対に、あなたたちが行うことのできる全ての善を他人にしてあげなければなりません。
℘202     
 人類の心の不毛さや冷酷さを信じてはいけません。嫌々ながらもそうした心は、真なる愛の前には譲ることになります。真なる愛とは磁石のようなもので、抵抗することはできないのです。真なる愛との接触は、あなたたちの心の中に潜む愛の種子を発芽させ、活発にさせます。

追放と苦境の天体である地球は、やがてこの聖なる火によって浄化され、その表層に慈善、謙遜、忍耐、献身、甘受、忍従、犠牲といった、すべての愛の産物が実践されるのを見ることができるようになるでしょう。ですから、福音記者ヨハネの言葉に聞きあきることがあってはなりません。

あなたたちが知るように、病と老いによって彼が説法を続けることが出来なくなった時、「子供たちよ、お互いに愛し合いなさい」というこの優しい言葉だけを繰り返しました。

 愛する兄弟たちよ、これらの教えを役に立ててください。それを実践することは難しくとも、魂はそこから多くの益を得ることになります。私を信じ、あなたたちにお願いする崇高なる努力をしてください。

「お互いに愛し合いなさい」。そうすることにより、近い将来、地球は楽園へと変化し、そこには正しい者たちの魂が休みに集まることでしょう。(フェヌロン ボルドー、1861年)


十、親愛なる同胞たちよ、ここにいる霊たちが私を通じ伝えています。「愛されるために、大いに愛しなさい」。この考えはまったく正しく、その中には日々の苦しみを和らげ、慰めてくれるもののすべてを見出すことができます。

分かりやすく言うならば、この知恵ある教えを実践することにより、あなたたちは物質を超えて向上し、地上における肉体の被いを後にする前に霊的に進歩することが可能となるでしょう。

未来を理解するためのスピリティズムの研究を発展させることにより、一つの確信を持つことができるようになるでしょう。あなたたちの魂の熱望に応える約束のすべてが、実現されながら神に向かって歩んでいるという確信です。

ですから、あなたたちは物質に束縛されることなく、自らを高く持って物事を判断しなければならず、神へ考えを寄せることなしにあなたたちの兄弟を非難してはなりません。
℘203      
 愛するということの深い意味は、人間が誠実、正直、良心的に、他人に対して、して欲しい思うことをしてあげるということです。兄弟たちを困らせているあらゆる痛みを自分の周りに探し、それを和らげてあげようと親身になって感じることです。人類全体を自分の大きな家族のように考えることです。

なぜなら、この世界にいる期間が過ぎた後、より進歩した世界において、その家族のすべての者と再会することになるからです。そうした家族を作っている霊とは、あなたたちと同じ、無限の宇宙に向かって向上していく神の子です。だから、寛大な神があなたたちに授けてくれた兄弟を拒んではなりません。

もし兄弟たちがあなたたちの必要としているものを与えてくれていたなら、それはあなたたちに喜ばしいことではありませんか。ですから、いかなる苦しみに対しても、いつも希望と慰安の言葉を持ち、完全なる愛と正義を持つことができるようになってください。

「愛されるために、大いに愛しなさい」という賢明な勧告を信じてください。この言葉は道をひらきます。そしてこの革新的な言葉は、確実で不変の道を辿る言葉です。私の言葉を聞く者は、すでに多くを得ています。なぜなら、あなたたちは百年前に比べれば限りなく良くなっているからです。

あなたたちの利益のために、大いに変化し、過去には拒んでいた自由と同胞愛や、無数の新しい考えを喜んで受け入れることができるようになりました。このように今から百年経った後には、疑いもなく、あなたたちがまだその頭の中に収めることができないことを、同じような容易さによって受け入れるようになっている筈です。

 スピリティズム運動がこれほど大きく前進した今日、スピリティズムの中で何時も変わることなく述べられている正義と確信の考えが、非常に早く知的階層に受け入れられてきたことがわかります。

これらの考えがあなたたちの中に潜む神聖なものすべてに応えます。あなたたちの中には発芽が間もない種子が植えられているからです。
℘204    
その種子とは、一世紀前、地球上の社会の中に植えつけられた偉大なる進歩の考えのことです。そしてすべてが神の方向へ向かって連鎖しているため、授かり、受け入れられた全ての教えは世界的に隣人への愛に置き換えられることになることでしょう。

そのため、人間として受肉している霊たちは、物事をよりよく捉え、理解することが出来るため、地球の隅々にまで手を差し伸べることになります。一人一人がお互いに理解し愛し合い、すべての不正義や、人間同士の不和の原因を滅ぼすために集まることになるでしょう。 

「霊の書」には、スピリティズムによる偉大なる確信の考えが記されています。この規律をよく理解し、適用することによって、あなたは来たるべき世紀の驚異的な奇跡、つまり人類の物質的・精神的なすべての関心を調和させる奇跡を起こすことになるでしょう。「愛されるために、大いに愛しなさい」(元パリ・スピリティスト教会のメンバー、サンスン1863年)

 
  エゴイズム
十一、エゴイズムは人類の大きな傷であり、人類の進歩を妨げるものなので、地上から姿を消さなければなりません。さまざまな世界の階級の中で、人類の階級を上げることが、スピリティズムに託された役割です。

ゆえに、エゴイズムは、真なる信者がその武器であるその力と勇気を差し向ける標的でなければなりません。

勇気、と私が申し上げるのは、多くの人が他人に勝つ前に、自分自身に打ち勝つ必要があるからです。ですから、一人一人がその努力のすべてを、自分の中のエゴイズムと戦うことに費やさねばなりません。

すべての知性をむさぼる怪物、自尊心の産物であるエゴイズムは、地上の世界におけるすべての惨めさの原因であることは確かです。エゴイズムは慈善を否定するものであり、それ故に、人類の幸せにとって最大の障害であると言えます。

 イエスは慈善の模範を示しましたが、ポンティオ・ピラトはエゴイズムの例を示しました。つまり前者、正義なる者が殉教の道を辿ったのに対し、後者には「私には関係のないことだ」と言いながら手を引いたのです。ユダヤ人たちに「この者は正しい者であるのに、なぜ十字架にかけようとするのか」とまで言いながら、処刑を続行させたのです。

 人間の心の弊害であるこの慈善とエゴイズムの対立は、キリストの教えがその任務を完全に果たしていないことによるものです。

高級な霊たちは新しい信仰の使徒であるあなたたちにこの悪を根絶する任務と義務があり、あなたたちの進行を妨げている障害を取り除き、キリスト教に全ての力を注がなければならないのだということを明らかにしているのです。

地球がさまざまな世界の中で向上することができるように、地上からエゴイズムを追放してください。人類はもう大人の服に着替える時期が来ており、そのためには、まずあなたたちの心からエゴイズムを追放しなければならないのです。(エマヌイル パリ、1861年)


十二、もし人類がお互いに愛し合っていたならば、慈善はよりよく実践されていたでしょう。しかし、そのためにはあなたたちが心にまとう鎧から解放され、隣人の苦しみにもっと敏感になれるように努力することが大切です。キリストは、キリストを求める人の誰をも決して軽んじたりはしませんでした。

キリストを求めたものは、誰であっても拒否されることはありませんでした。姦淫した女や罪人もイエスによって助けられましたが、イエスはそのことによって自分自身の名声に傷が付くことを決して恐れたりはしませんでした。

では、あなたたちはいつになればイエスをすべての行動の模範とするようになるのでしょうか。地球上を慈善が支配した時、悪は存続しきれず、恥ずかしがってその姿を消していきます。悪はどこにいても居心地が悪く感じるため、どこかに隠れてしまいます。その時悪は消滅します。そのことをよく理解しておいてください。

 あなたたち自身が模範を示すことから始めてください。すべての人に対し、区別することなく慈善的であってください。あなたたちのことを軽蔑の眼差しで見る人たちのことを気にしないように努力してください。全ての正義は神の手に委ねてください。なぜなら、神は毎日、神の国において麦と雑草とを選別しているからです。
℘206    
 エゴイズムは慈善を否定するものです。慈善なくして社会生活の中に平和はなく、さらには、安全というものがなくなります。

エゴイズムと自尊心は手を取り合って存在していますが、それらによって人生はいつもずるい者だけが勝つことのできる競争となり、もしくは最も尊い愛情もが足もとに踏みにじられ、神聖な家族の絆さえも軽んじられる、利害の対立になってしまいます。(パスカル サンス、1862年)


  信心と慈善
十三、愛する子どもたちよ、人類を幸せにすることのできる社会秩序を人類の間に保つためには、信心の伴わない慈善では不十分であることを私は最近申し上げました。信心無くして慈善を行うことは不可能です。宗教を持たない人々の間にも実際、気前のよい衝動を見ることができます。

しかし、厳密に言う慈善とは、献身と、あらゆる利己的な利害を絶えず犠牲にすることによってのみ実践することができるのであり、そうすることを感得させ、現世の十字架を勇気と忍耐をもって担ぐことを可能にしてくれるのは信心以外にはありません。

 子どもたちよ、喜びに貪欲な人間が、地上での運命に錯覚し、自分の幸せだけを心配することが許されているのだと思い込んでしまうことは人間に取って無益なのです。

永遠の中で神が私たちを幸せにするように創造したことは確かですが、地上での生活は、物質世界と肉体の力を借りることによってより容易に達成することのできる、私たちの道徳的完成のためのみに使われなければなりません。

人生の一般的な苦しみ以外にも、あなたたちそれぞれが持つさまざまな好み、傾向、必要性などもあなたたちが完成するための手段であり、あなたたちに慈善の練習をさせているのです。なぜなら、お互いが犠牲を払ったり譲歩し合ってのみ、これほどまでに多様化した人々の間で調和を保つことが出来るからです。

 しかし、この世の人間に幸せが約束されていることを断言するのも、物質的な喜び以前に、善の実践の中にその幸せを求めるのであれば正しいことになります。キリスト教の歴史は、喜びを感じながら苦しみに向かって行った殉教者たちのことを教えてくれています。

今日、あなたたちの社会においては、キリスト教徒となるために殉教の炎に立ち向かうなど、命を犠牲にする必要はなく、ただ、エゴイズム、自尊心、虚栄心さえ犠牲にすればよいのです。信心によって支えられ、慈善に感得されるのであれば、あなたは勝利を収めることが出来るでしょう。(守護霊クラクフ、1861年)

℘207        
  罪人に対する慈善
十四、 真なる慈善とは、神が世界に教えた最も崇高な教えのうちの一つです。その教義の真なる使徒たちの間には、完全なる同胞愛が君臨しなければなりません。

不幸な者たちや罪人たちを同じ神の創造物として愛さなければならず、それは、彼らにもあなたたちと同じように後悔することにより、神の法を犯した過ちに対する神の赦しと慈悲が与えられるからです。

求める者たちへの赦しと同情を拒むあなたたちは、彼らよりも罪が重く、さらにとがめられるべきなのだと考えてください。なぜなら、殆どの場合、彼らはあなたが知っているような神の存在を知らないのであり、故に彼らに求められるものはあなたたちよりも少ないからです。

 おお、他人を判断しないでください。親愛なる友たちよ、他人を裁かないでください。なぜなら、あなたたちが人を裁く時に用いる判断の基準は、あなたたちを裁くときにはより厳しく用いられることになり、あなたたちが絶え間なく犯した過ちに対する寛容を必要とすることになるからです。

世間では小さな過ちとさえも考えられないような行動であっても、純粋な神の目には罪として映る行動が多く存在することをあなたたちは知らないのですか。

 真なる慈善は施しや、あなたたちとともに生きる人たちへの慰安の言葉だけから成り立っているのではありません。いいえ、神はあなたたちに求めているものはそれだけではありません。

イエスによって教えられた崇高なる慈善とは、あなたたちの隣人に関わるすべてのことに対する不断の慈悲心からも成り立っているのです。この崇高なる美徳を、あなたたちは施しを必要としていない多くの人々に対して行うことができ、愛、慰安、励ましの言葉は彼らを神のもとへ導くことになるでしょう。
℘208      
 もう一度繰り返して申し上げますが、地球に同胞愛が君臨する時は近づいています。人類を統治するのはキリストの法です。その法は節度と希望を与え、魂を至福の国へと導くことが出来るのです。ですから、同じ父の子としてお互いに愛し合って下さい。

あなたたちと不幸な者たちを区別しないでください。なぜなら、神はあなたたちすべてが同じであることを望んでいるからです。誰をも軽んじてはなりません。神はあなたたちの間に、重い犯罪人があなたたちの教師として存在することを認めたのです。

やがて人類が真なる神の法を実践することが可能となった時、これらの教えは不必要になり、劣った霊たちはそれぞれが住むにふさわしいより劣った世界へ散らばって行ってしまうでしょう。
                 
 あなたたちはそうした劣った霊たちに対し、救援の祈りをしなければならないということを私は申し上げます。それは真なる慈善です。ある罪人に対し、「惨めな奴だ。地上から追放されるべきだ。このような者には死だけでは甘すぎる」などと決して言ってはなりません。

そうです、絶対にそのように言ってはなりません。あなたたちの模範となるイエスのことを考えてください。イエスは、そばに不幸な者がいたら何と言うでしょうか。その人のことを悲しみ、多くを必要としている病人のようにとらえ、手を差し伸べるでしょう。

あなたたちは実際には同じことはできないでしょうが、少なくとも不幸な者の為に祈り、その者がまだ地上に生きている間は、霊的な援助を与えてあげることができます。

信心深く祈れば、後悔の念がその者の心を打つかもしれません。罪人も最良の人間と同じようにあなたたちの隣人なのです。道に迷い、反抗的になってしまった魂も、あなたたちの魂と同じように、完成するために創造されたのです。ですから、不幸な者がそのぬかるみからでることができるように助け、その者のために祈ってください。(フランスのイザベル ルアーブル、1862年)

℘209    
  悪人のために命を犠牲にするべきか
十五、 ある人が死の危機に直面しています。彼を助けるには自分自身の命を危険にさらす必要があります。しかし、死に直面している人は悪人で、もし、助かれば再び新しい罪を犯す可能性があります。にもかかわらず、命の危険を冒してまで彼を救うべきでしょうか。



 この問題は非常に重要な問題であり、私たち霊に疑問としておこるのも当然なことです。例え悪人であっても、私たちの命の危険を冒して救うべきかを知ろうとしてここで扱っている以上、私の道徳的進度に応じてこの問題にお答えいたします。

献身は盲目です。敵兵もが助けられるように、社会の敵、つまり悪人をも助けてください。そのような場合において、死だけがその哀れな者の人生を奪おうとしているとあなたは考えますか。

いいえ、恐らくその者の過去の人生すべてが奪おうとしているのです。なぜ考えるのですか。人生の最期の時を奪うその瞬間に、その迷える者は過去の人生を振り返ります。もっと正しく言うならば、過去の人生が彼の前に現れるのです。死は彼にとってとても早く訪れるかもしれません。

再生は恐ろしいものになるかもしれません。だから、人類よ、身を投じてください。スピリティズムの科学によって明らかにされたあなたたちは、身を投じ、彼を危険から救ってください。すると、あなたたちを罵りながら死んで行ったかも知れなかったはずのその悪人は、あなたたちの腕の中に飛び込んでくるかもしれません。

しかし、あなたたちは、彼がそうするかどうかを問うてはならず、援助に走らなければなりません。なぜなら、援助することによってあなたたちの心の中で「あなたには助けることが出来る。彼を助けよ」と叫ぶ声に従うことが出来るからです。(ラムネ― パリ、1862年)

シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell  




十章 質問に答える

(一)──スピリチュアリズムが現代の世界に貢献できるものの中で最大のものは何でしょうか。

 「最大の貢献は神の子等にいろんな意味での自由をもたらすことです。これまで隷属させられてきた束縛から解放してくれます。知識の扉は誰にでも分け隔てなく開かれていることを教えてあげることによって、無知の牢獄から解放します。日蔭でなく日向で生きることを可能にします。

 あらゆる迷信と宗教家の策謀から解放します。真理を求める戦いにおいて勇猛果敢であらしめます。内部に宿る神性を自覚せしめます。地上の他のいかなる人間にも霊の絆が宿ることを認識せしめます。

 憎み合いもなく、肌の色や民族の差別もない世界、自分をより多く役立てた人だけが偉い人と呼ばれる新しい世界を築くにはいかにしたらよいかを教えます。知識を豊かにします。精神を培い、霊性を強固にし、生得の神性に恥じることのない生き方を教えます。こうしたことがスピリチュアリズムにできる大きな貢献です。

 人間は自由であるべく生れてくるのです。自由の中で生きるべく意図されているのです。奴隷の如く他のものによって縛られ足枷をされて生きるべきものではありません。その人生は豊かでなければなりません。

精神的にも身体的にも霊的にも豊かでなければいけません。あらゆる知識──真理も叡知も霊的啓示も、すべてが広く開放されるべきです。生得の霊的遺産を差し押さえ天命の全うを妨げる宗教的制約によって肩身の狭い思い、いらだち、悔しい思いをさせられることなく、霊の荘厳さの中で生きるべきです」


(二)──スピリチュアリズムはこれまでどおり一種の影響力として伸び続けるべきでしょうか、それとも一つの信仰形体として正式に組織を持つべきでしょうか。

 「私はスピリチュアリズムが信仰だとは思いません。知識です。その影響力の息吹は止めようにも止められるものではありません。真理の普及は抑えられるものではありません。みずからの力で発展してまいります。外部の力で規制できるものではありません。

あなた方が寄与できるのは、それがより多くの人々に行き渡るように、その伝達手段となることです。それがどれだけの影響をもたらすかは前もって推し量ることは出来ません。そのためのルールをこしらえたり、細かく方針を立てたりすることはできません。

(そういうことを人間の浅知恵でやろうとすると組織を整え、広報担当、営業担当といったものをこしらえ、次第に世俗的宗教となり下がるということであろう──訳者)

 あなた方に出来るのは一個の人間としての責任に忠実であるということ、それしかないのです。自分の理解力の光に照らして義務を遂行する──人のために役立つことをし、自分が手に入れたものを次の人に分け与える──かくして霊の芳香が自然に広がるようになるということです。一種の酵素のようなものです。

じっくりと人間生活の全分野に浸透しながら熟成してまいります。皆さんはご自分で最善と思われることに精を出し、これでよいと思われる方法で真理を普及なさることです」


(三)──支配霊になるのは霊媒自身よりも霊格の高い霊と決まっているのでしょうか。

 「いえ、そうとはかぎりません。その霊媒の仕事の種類によって違いますし、また、〝支配霊〟という用語をどういう意味で使っているかも問題です。地上の霊媒を使用する仕事に携る霊は〝協力態勢〟で臨みます。

一人の霊媒には複数の霊からなる霊団が組織されており、その全体の指揮に当たる霊が一人います。これを〝支配霊〟と呼ぶのが適切でしょう。霊団全体を監督し、指示を与え、霊媒を通じでしゃべります。

ときおり他の霊がしゃべることもありますが、その場合も支配霊の指示と許可を得たうえでのことです。しかし役割は一人ひとり違います。〝指導霊〟という言い方をすることがあるのもそのためです。

 入神霊言霊媒にかぎって言えば、支配霊は必ず霊媒より霊格が上です。が、物理現象の演出にたずさわるのは必ずしも霊格が高い霊ばかりとはかぎりません。中にはまだまだ地上的要素が強く残っているからこそその種の仕事にたずさわれるという霊もいます。

そういう霊ばかりで構成されている霊団もあり、その場合は必ずしも霊媒より上とはかぎりません。しかし一般的には監督・支配している霊は霊媒より霊格が上です。そうでないと霊側に主導権が得られないからです」

(訳者注──〝霊〟と〝魂〟の違いと同じく、この〝支配霊〟と〝指導霊〟の使い方は英語でも混乱している。と言うよりは勝手な解釈のもとに使用されていると言った方がよいであろう。これは各自の理解力に差がある以上やむを得ないことであり、こうしたことは心霊の分野だけでなく学問の世界ですら一般的である。だからこそ辞引や用字用語辞典が生まれてくるのである。

心霊用語を一定の規範にまとめるべきだという意見も聞かれるが、私は使用する人間にその心得がない以上それは無駄であると同時に、その必要性もないと考えている。要は自分はこういう意味で使用するということを明確にすれば、あるいは文脈上それがはっきりすれば、それでいいと思う。

特に霊界通信になると根本的に人間の用語では表現できないことが多く、通信霊は人間以上にその点で苦労しているのである。

それは私のように英語を日本語に直す仕事以上に大変なことであろう。霊言でも自動書記でも同じである。それが人間の言語の宿命なのである。シルバーバーチが折あるごとに、用語に拘らずその意味をくみ取って欲しいと言っているのもそのためである)


(四)───入神状態(トランス)は霊媒の健康に害はないのでしょうか。
  「益こそあれ何ら害はありません。ただし、それは今までに明らかにされた霊媒現象の原理・法則を忠実に守っていればのことです。あまりひんぱんにしすぎると、たとえば一日に三回も四回も行えば、これは当然健康に悪影響を及ぼします。が、

常識的な線を守って、きちんと期間を置いて行い、霊媒としての日ごろの修行を怠らなければ、必ず健康にプラスします。なぜかというと、霊媒を通して流れるエネルギーは活性に富んでいますから、それが健康増進の効果をもたらすのです。正しく使えば霊媒能力はすべて健康にプラスします。が使い方を誤るとマイナスとなります」


(五)──思念に実体があるというのは本当でしょうか。

 「これはとても興味深い問題です。思念にも影響力がある───このことには異論はないでしょう。思念は生命の創造作用の一つだからです。ですから、思念の世界においては実在なのです。が、それが使用される界層(次元)の環境条件によって作用の仕方が制約を受けます。

 いま地上人類は五感を通して感識する条件下の世界に住んでいます。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信しあえる段階までは進化していないということです。

まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。その条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形体をとるまでは存在に気付かないからです。

 思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が感識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。

 勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野でとらえなければいけません」


──物的活動の動機づけとして活用するのは許されますね?

 「それは許されます。また事実、無意識のうちに使用しております。現在の限られた発達状態にあっては、その威力を意識的に活用することができないだけです」


──でも、その気になれば霊側が人間の思念を利用して威力を出させることも可能でしょう?

 「できます。なぜなら私たちは人間の精神と霊を通して働きかけているからです。ただ、私がぜひ申し上げておきたいのは、人間的問題を集団的思念行為で解決しようとしても、それは不可能だということです。思念がいかに威力があり役に立つものではあっても、本来の人間としての仕事の代用とはなり得ないのです。

またまた歓迎されないお説教をしてしまいましたが、私が観るかぎり、それが真実なのですから仕方がありません」


──大戦前にあれほど多くの人間が戦争にならないことを祈ったのに阻止できませんでした。あれなどはそのよい例だと思います。ヨーロッパ全土───敵国のドイツでもそう祈ったのです。

 「それは良い例だと思います。物質が認識の基本となっている物質界においては、思念の働きにおのずと限界があります。それはやむを得ないことなのです。ですが他方、私は思念の価値、ないしは地上生活における存在の場を無視するつもりはありません」


──善意の人々にとっては思念の力が頼りです。

──米国民への友好心はわれわれ英国人への友好心となって返ってきます。

 「それから、遠隔治療において思念が治療手段の一つとなっています。ただしその時は霊がその仲介役をしていることを忘れないでください。地上の人間は自分の精神に具わっている資質(能力)の使い方をほとんど知らずにいます。

ついでに言えば、その精神的資質が次の進化の段階での大切な要素となるのです。その意味でこの地上生活において思念を行為の有効なさきがけとする訓練をすべきです。

きちんと考えたうえで行為に出るように心掛けるべきです。ですが、思念の使い方を知らない方が何と多いことでしょう。わずか五分間でも、じっと一つのことに思念を集中できる人が何人いるでしょうか。実に少ないのです」


(六)──遠隔治療において患者が(精神を統一するなどして)治療に協力することは治療効果を増すものでしょうか。

 「私の考えでは、それは波長の調整にプラスしますから、大体において効果を増すと思います。異論もあることでしょうが、私はそうみています。知らずにいるよりは知っている方が原則としては治療が容易になります。治療エネルギーを送る側と受ける側とが波長が合えば、治療が一段と容易になります。

 治療を受けていることを知らないでも顕著な治療効果が表れたケースがあることは私もよく知っておりますが、大抵の場合それは患者の睡眠中に行われているのです。その方が患者の霊的身体との接触が容易なのです」

(昼間に送られた治療エネルギーが睡眠中に効き始めるというケースもある───訳者)


(七)──心霊研究をどう思われますか。

 「その種の質問にお答えする時に困るのは、お使いになる用語の意味について同意を得なければならないことです。〝心霊研究〟という用語には、いわゆるスピリチュアリストが毛嫌いする意味が含まれています。(S・P・Rのように資料をいじくりまわすだけに終始して一歩も進歩しない心霊研究をさす───訳者)

こうした交霊会や実験会や養成会も真の意味における〝研究〟であると言えます。というのは、私たちはそうした会を通して霊力がよりいっそう地上へもたらされるための通路を吟味・調査しているからです。

 みなさんは私たちから学び、私たちはみなさんから学びます。動機が純粋の探求心に発し、得られた知識を人類の福祉のために使うのであれば、私は研究は何であっても結構であると思います。が、霊媒を通して得られる現象を頭から猜疑心を持って臨み、にっちもさっちも行かなくなっている研究は感心しません。

動機が真摯であればそれは純粋に〝研究〟であると言えます。真摯でなければ〝研究〟とは言えません。純心な研究は大いに結構です」


(八)──国教会は、スピリチュリズムには何ら世の中に貢献する新しいものがないと言って愚弄しておりますが、それにどう反論されますか。

 「私は少しも愚弄されているとは思いません。私たちがお届けした〝新しいものが〟一つあります。それは、人類史上初めて宗教というものを証明可能な基盤の上に置いたことです。つまり信仰と希望とスペキュレーションの領域から引き出して〝ごらんなさい。このようにちゃんと証拠があるのですよ〟と言えるようになったことです。

しかし、新しいものが無いとおっしゃいますが、ではイエスは何か新しいものを説いたでしょうか。大切なのは新しさとか物珍しさではありません。真実か否かです」


 ここでメンバーたちがシルバーバーチの当意即妙の応答ぶりに感心して口々にそのことを述べると、こう述べた。

 「地上のみなさんは細切れの知識を寄せ集めなければなりませんが、私たちは地上にない形で組織された知識の貯蔵庫があるのです。どんな情報でも手に入ります───即座に手に入れるコツがあるのです(※)。私たちの世界の数ある驚異の一つは、すべてが見事に、絶妙に組織されていることです。

知識の分野だけでなく、霊にとってのあらゆる資源───文学、芸術、音楽等の分野においてもそうです。すべてが即座に知れ、即座に手に入ります。まだ地上の人間に知られていないことでも思いどうりになります」

(※霊格の高い低いに関係なく、そのコツさえ会得すれば誰にでも知れる。だからこそ歴史上の人物を名のって出る霊は警戒を要するのである。つまり、その人物の思想や地上時代の情報はいとも簡単に───あたかもコンピューターの情報のように、あるいはそれ以上に簡単に、しかも詳細に知れるので、〝それらしいこと〟を言っているからといってすぐに信じるのは浅はかである。

他界したばかりの霊を呼び出す場合も同じで、それらしく見せかけるのは霊にとっては造作もないことである。そんなことを専門にやって人間を感動させたり感激させたりしている低級霊団がいて、うまく行くとしてやったりと拍手喝さいして喜んでいる。別に危険性はないが、私には哀れに思えてならないのである───訳者)


(九)──大霊(神)を全能でしかも慈悲ある存在と形容するのは正しいでしょうか。

 「何ら差し支えありません。大霊は全能です。なぜならその力は宇宙及びそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。大霊より高いもの、大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。宇宙は誤ることのない叡知と慈悲深き目的を持った法則によって統括されています。

その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化していることは間違いない事実です。

 このことは慈悲の要素が神の摂理の中に目論まれていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力を持ってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。

 いかに霊格の高い霊といえども、一つの原因が数学的正確さを持って結果を生んでいく過程を阻止することは出来ません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、この用語ではその背後に知的で、目的意識を持ったダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。

 私がお伝えしようとしている概念は全能にして慈悲にあふれ、完全で無限なる神であると同時に、地上の人間がとかく想像しがちな〝人間神〟的な要素のない神です。しかし神は無限なる大霊である以上その顕現の仕方も無限です。あなた方お一人お一人がミニチュアの神なのです。

お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。その火花を宿していればこそ存在出来るのです。しかしそれが地上的人間性という形で顕現している現段階においては、みなさんは不完全な状態にあるということです。

 神の火花は完全です。一方それがあなた方の肉体を通して顕現している側面は極めて不完全です。死後あなた方はエーテル体、幽体、又は霊的身体───どう呼ばれても結構です。要するに死後に使用する身体であると理解すればよろしい───で自我を表現することになりますが、そのときは現在よりは不完全さが減ります。

霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから完全といい不完全といい、程度の問題です」


──バラもつぼみのうちは完全とは言えませんが満開となった時に完全となるのと同じですね。

 「全くその通りとも言いかねるのです。厄介なことに、人間の場合は完全への道が無限に続くのです。完全へ到達することができないのです。知識にも叡知にも理解力にも真理にも、究極というものがないのです。精神と霊とが成長するにつれて能力が増します。いま成就出来ないのも、そのうち成就出来るようになります。

はしご段を昇っていき、昨日は手が届かなかった段に上がってみると、その上にもう一つ上の段が見えます。それが無限に続くというのです。それで完全という段階が来ないのです。もしそういうことが有りうるとしたら、進化ということが無意味となります」


 これは当然のことながら議論を呼び、幾つかの質問が出たが、それにひと通り応答した後、シルバーバーチはこう述べた。

 「あなた方は限りある言語を超えたものを理解しようとなさっているのであり、それはぜひこれからも続けていくべきですが、たとえ口では表現できなくても、心のどこかでちらっと捉らえ、理解出来るものがあるはずです。

たとえば言葉では尽くせない美しい光景、画家にも描けないほど美しい場面をちらっと見たことがおありのはずですが、それは口では言えなくても心で感じ取り、しみじみと味わうことは出来ます。それと同じです。あなた方は今、言葉では表現できないものを表現しようとなさっているのです」


──大ざっぱな言い方ですが、大霊は宇宙の霊的意識の集合体であると言ってよいかと思うのですが・・・

 「結構です。ただその意識にも次元の異なる側面が無限にあるということを忘れないでください。いかなる生命現象も、活動も、大霊の管轄外で起きることはありません。摂理──大自然の法則──は、自動的に宇宙間のすべての存在を包含するからです。

たった一つの働き、たった一つのバイブレーション、動物の世界であろうと、鳥類の世界であろうと、植物の世界であろうと、昆虫の世界であろうと、根菜の世界だろうと、花の世界であろうと、海の世界であろうと、人間の世界であろうと、霊の世界であろうと、その法則によって規制されていないものは何一つ存在しないのです。

宇宙は漫然と存在しているのではありません。莫大なスケールを持った一つの調和体なのです。

 それを解くカギさえつかめば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は神の意志が顕現したものだということです。法則が神であり、神は法則であるということです。

 その神は、人間を大きくしたようなものではないという意味では非人格的存在ですが、その法則が霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では人間的であると言えます。要するにあなた方は人類として宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです」



──ということは神の法則は完全な形で定着しているということでしょうか。それとも新しい法則が作られつつあるのでしょうか。

 「法則は無窮の過去からずっと存在しています。完全である以上、その法則の枠外で起きるものは何一つ有り得ないのです。すべての事態に備えられております。あらゆる可能性を認知しているからです。もしも新たに法則を作る必要性が生じたとしたら、神は完全でなくなります。予測しなかった事態が生じたことを意味するからです」


──こう考えてよろしいでしょうか。神の法則は完全性のブループリント(青写真・設計図)のようなもので、われわれはそのブループリントにゆっくりと合わせる努力をしつつあるところである、と。

 「なかなか好い譬えです。みなさんは地上という進化の過程にある世界における進化しつつある存在です。その地球は途方もなく大きな宇宙のほんの小さな一部に過ぎませんが、その世界に生じるあらゆる事態に備えた法則によって支配されております。

 その法則の枠外に出ることは出来ないのです。あなたの生命、あなたの存在、あなたの活動のすべてがその法則によって規制されているのです。

あなたの思念、あなたの言葉、あなたの行為、つまりあなたの生活全体をいかにしてその法則に調和させるかは、あなた自ら工夫しなければなりません。それさえできれば、病気も貧乏も、そのほか無知の暗闇から生まれる不調和の状態が無くなります。

自由意志の問題について問われると必ず私が、自由といっても無制限の自由ではなく自然法則によって規制された範囲での自由です。と申し上げざるを得ないのはそのためです」


(10)──この機械化時代は人類の進化に役立っているのでしょうか。私にはそうは思えないのですが。

 「最終的には役に立ちます。進化というものを一直線に進むもののように想像してはいけません。前進と後退の繰り返しです。立ち上がっては倒れるの繰り返しです。少し登っては滑り落ち、次に登った時は前より高いところまで上がっており、そうやって少しずつ進化して行きます。

ある一時期だけを見れば〝ごらん!この時期は人類進化の黒い汚点です〟と言えるような時期もありますが、それは物語の全体ではありません。ほんの一部です。

 人間の霊性は徐々に進化しております。進化に伴って自我の本性の理解が深まり、自我の可能性に目覚め、存在の意図を知り、それに適応しようと努力するようになります。

 数世紀前までは夢の中で天界の美を見、あるいは恍惚たる入神の境地においてそれを霊視できたのは、ほんのひとにぎりの者にかぎられていました。が今や、無数の人々がそれを見て、ある者は改革者となり、ある者は先駆者となり、ある者は師となり、死して後もその成就の為に立ち働いております。そこに進歩が得られるのです」


──その点に関しては全く同感です。進歩はあると思うのです。が、全体として見た時、地球上が(機械化によって)余り住み良くなると進化にとってマイナスとなるのではないかと思うのです。

 「しかし霊的に向上すると──あなた個人のことではなく人類全体としての話ですが──住んでいる世界そのものにも発展性があることに気づき、かつては夢にも思わなかった豊かさが人生から得られることを知ります。

機械化を心配しておられますが、それが問題となるのは人間が機械に振り回されて、それを使いこなしていないからに過ぎません。使いこなしさえすれば何を手に入れても宜しい──文化、レジャー、芸術、精神と霊の探究、何でもよろしい。かくして内的生命の豊かさが広く一般の人々にも行きわたります。

 その力は全ての人間に宿っています。すべての人間が神の一部だからです。この大宇宙を創造した力と同じ力、山をこしらえ恒星をこしらえ惑星をこしらえた力と同じ力、太陽に光を与え花に芳香を与えた力、それと同じ力があなた方一人ひとりに宿っており、生活の中でその絶対的な力に波長を合わせさえすれば存分に活用することが出来るのです」


──花に芳香を与えた力が蛇に毒を与えているという問題もあります。

 「それは私から見れば少しも問題ではありません。よろしいですか。私は神があなた方のいう〝善〟だけを受け持ち、悪魔があなた方のいう〝悪〟を受けもっているとは申しあげておりません」


──潜在的には善も悪もすべてわれわれの中に存在しているということですね。

 「人間一人一人が小宇宙(ミクロコズム)なのです。あなたもミニチュアの宇宙なのです。潜在的には完全な天使的資質を具えていると同時に獰猛な野獣性も具えております。だからこそ自分の進むべき方向を選ぶ自由意志が授けられているのです」


(十一)──あなたは地球という惑星がかつてより進化しているとおっしゃいましたが、ではなぜ霊の浄化のためになお苦難と奮闘が必要なのでしょうか。

 「なぜなら人間が無限の存在だからです。一瞬の間の変化というものはありません。永い永い進化の旅が続きます。その間には上昇もあれば下降もあり、前進もあれば後退もあります。が、そのたびに少しずつ進化してまいります。

 霊の世界では、次の段階への準備が整うと新しい身体への脱皮のようなものが生じます。しかしその界層を境界線で仕切られた固定した平地のように想像してはなりません。次元の異なる生活の場が段階的に幾つかあって、お互いに重なり合い融合し合っております。

地上世界においても、一応皆さんは地表と言う同じ物質的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別の世界に住んでいると言えるのです」


──これまでの地上社会の進歩はこれから先に為されるべき進歩に較べれば微々たるものに過ぎないのでしょうか。

 「いえ、私はそういう観方はしたくないのです。比較すれば確かに小さいかも知れませんが、進歩は進歩です。次のことを銘記してください。人間は法律や規則をこしらえ、道徳律をうち立てました。文学を豊かにしてきました。芸術の奥義を極めました。精神の隠された宝を突き止めました。霊の宝も、ある程度まで掘り起こしました。

 こうしたことは全て先輩達のお陰です。苦しみつつコツコツと励み、試行錯誤を繰り返しつつ、人生の大渦巻きの中を生き抜いた人たちのお陰です。総合的に見れば進歩しており、人間は初期の時代にくらべて豊かになりました。物質的な意味ではなく霊的・精神的に豊かになっております。そうあって当然でしょう」

Wednesday, May 27, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第10章 憐れみ深い者は幸いです

神があなたを赦してくれるよう、あなたは人を赦しなさい

一、 憐れみ深い者は幸いです 、その人は憐れみを受けるからです。(マタイ 第五章 7)


二、もし人の罪を赦すなら、あなたたちの天の父もあなたたちを赦して下さいます。しかし、人を赦さないなら、あなたたちの父もあなたたちの罪をお赦しになりません。(マタイ 第六章 14,15)


三、もしあなたたちの兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのところで忠告しなさい。もし聞きいれたら、あなたは兄弟を得たことになります。(マタイ 第十八章 ⒖)

 その時、ペテロがみもとに来て言った、「主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」。イエスは言われた、「七度までなどと私は言いません。七度を七十倍するまでと言います」。(マタイ 第十八章 21,22)


四、憐れみ深くない者は、温和で平和を愛することが出来ないことから、憐れみとは温和さを補足するものであると言えます。憐れみは他人の過ちを赦し、忘れることによって成り立ちます。憎しみと怒りは、その魂が小さく、気高くないことの表れです。

攻撃を忘れることは高貴な魂だけに属するもので、そのような魂は、人がその魂に対して行おうとした悪を高所から眺めることが出来るのです。一方は常に落ち着くことが無く、悲しく苦しい感覚です。他方は落ち着いた、慈善と温和さに満ちた感覚です。

 「断じて許すことは出来ない」という人は不幸です。なぜなら、その人は人間によって非難されないとしても、必ず神に非難されることになるからです。

自分自身が他人を赦すことができないのに、自分の過ちを赦してもらう権利があるでしょうか。兄弟を赦す時、七度までではなく、七度を七十倍するまで赦しなさいと言うことによって、イエスは、憐れみは限りないものでなければならないと教えています。
℘181       
しかし、赦し方には違った二つの方法があります。一方は偉大で高尚な、真なる寛大さによって、いかなる下心を持つことなく、その責任の全てが相手に在ったとしても、その人の自己感情と感受性を傷つけないように優しく扱います。

もう一方の方法は、攻撃されたり、攻撃されたと判断すると、相手に屈辱的な条件を強要し、赦したことの重圧を感じさせ、それによって安心を与えるのではなく、苛立ちを与えることになります。

手を差し伸べるのは善意からでは無く、見栄によってであり、そうすることにより皆にたいし、「私が何と寛大であるか見るがよい」と言います。このような場合、何れの側にとっても誠実な和解をすることは不可能です。

それは全くの寛大さではなく、自尊心を満足させる為の手段でしかありません。どのような争いに置いても、和解を求めて、自分自身の利害にかまわずに、慈善と真なる魂の偉大さを見せるものが、必ず公平な人々の同情を得ることが出来るのです。


 敵対者と和解すること
五、あなたの敵対者と道をともにしている時は、直ちに和解しなさい。さもなければ、敵対者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は役人にわたし、あなたは牢屋へ送りこまれてしまうでしょう。誠に言います。最後の一銭を払い終わるまで、そこからでることはできません。(マタイ 第五章25、26)


六、善の行いと同様に、一般に赦しの行いには道徳的な影響ばかりでなく、物質的な影響もあります。私たちの知る通り、死は私たちを敵から解放してはくれません。反逆的な霊はいつも憎しみとともに、その怒りの対象となる者を死後の世界を超えて追いかけていきます。

そのことから、「犬を殺してしまえばその犬の怒りも消える」と言ったことわざを、人間に当てはめるのは間違いであるということになります。悪霊は、悪を働きたい相手に対して、その相手が肉体に収まり続け、それによって自由が余り与えられないままであり続けることを望みます。
℘181   
そうあることでその相手は苦しめ易くなり、その利益や最愛の者を攻撃することが可能となるからです。大多数の憑依、特にかなり重傷な服従的憑依や支配的憑依の原因を、こうした事実の中に見出すことが必要です。憑依された者と支配する者は、殆どの場合、過去の復讐心の犠牲となっており、それがほぼ間違いなくそうした行動の動機となっています。

神は、彼らの行った悪を罰するためか、あるいは悪を行っていないのであれば、寛大さや慈善に欠けたことによって他人を赦すことができなかったことを罰するために、そうした憑依が起こることを許します。

ですから、未来の平安に目を向け、出来るだけ早く隣人に対して行ってきた悪を改め、敵を赦すことによって、死を迎える前に、あらゆる不和の原因、あらゆる過去の恨みの深い動機をも消滅させることが重要なのです。

こうすることにより、一方の世界における敵をもう一方の世界における友とすることが出来たり、少なくとも、赦すことを知る者が復讐を味わうことが無いように神がしてくれるための良い機会となります。

イエスが私たちにできるだけはやく敵と和解するように勧めた時、単に現世での不和を避けるように望んだのではなく、不和が未来の人生においてまでも続くことが無いことを望んだのです。イエスは、「最後の一銭を払い終わるまで」、つまり神の正義が完全に満たされるまで、「そこから出ることはできません」と言ったのです。



神にとって最も喜ばしい犠牲
七、だから、もしあなたが祭壇の前で供え物を捧げようとしたとき、そこで兄弟があなたに対して反感を抱いていることを思いだしたのであれば、その供え物を祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げに来なさい。(マタイ 第五章 23,24)


八、「まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げにきなさい」ということにより、イエスは、神にとって最も喜ばれる犠牲とは一人一人の悪い感情であるということを教えたのです。

神に赦しを求める前に他人を赦すことが必要であり、兄弟に対し何らかの悪を働いているのであれば、それを改めることが必要なのです。そうすることによってのみ、供え物は喜ばれることになります。

なぜなら、供え物はいかなる悪い考えにも汚されていない、純粋な心から送られたことになるからです。ユダヤ人には物質的な供え物を捧げる習慣があり、イエスは人々の習慣に自分の言葉を合わせる必要があったため、この教訓を具現化したのです。

キリスト教徒は供え物を精神化するため、物質的な供え物を捧げたりはしませんが、キリスト教徒に対してこの教訓がなんの力も持たないわけではありません。魂を神に捧げる時には、清らかな形で捧げなければならないのです。神の宮に入るなら、あらゆる憎しみや反感、兄弟に対する悪い考えをも宮の外にやらなければなりません。

そうすることによってのみ、その人の祈りは永遠に神の足元に届くことが出来るのです。もし神に喜ばれたいのであれば「祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行きなさい」と言う言葉を、イエスは教えてくれるのです。


  目の中のおが屑と杭
九、なぜあなたは、あなたの隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の中にある杭が見えないのですか。また、自分の目の中に杭があるというのに、あなたの隣人に対し、「あなたの目の中のおが屑を取り除かせてください」と、どうしていうことが出来るでしょうか。

偽善者よ、まず自分の目の中の杭を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、あなたの隣人の目の中のおが屑を取り除くことが出来るでしょう。(マタイ第7章3-5)


十、人間の悪癖の一つに、自分自身の悪を見つける前に他人の悪を見つけるということがあります。自分自身を判断するには、自分を鏡で見るように、とにかく自分の外へ出て、自分を他人だと思って問うてみなければなりません。「自分が行っていることを他人が行っていたら、それを見て私はどう思うだろうか」。

間違いなく自尊心というものが、肉体的であれ道徳的であれ、人間に自分の欠点を見ぬふりをさせているのです。このような特徴は根本的に慈善に反しています。なぜなら、真なる慈善とは慎ましく、簡素で寛容だからです。誇らしげな慈善など非常識なものです。

なぜならこの二つはお互いに打ち消し合うからです。実際に、自分の人間としての重要性とその性格の優越を信じている自惚(うぬぼ)れの強い人が、同時に、他人の持つ悪によって自分を引き立てる代わりに他人の持つ善を目立たせ、自分を目立たなくさせるだけの自己放棄の気持ちを持つことが出来るでしょうか。

だからこそ、自尊心は多くの悪癖を生みだし、また、多くの美徳を否定するものでもあるのです。自尊心は人間の行動のほとんどにおいて、その根拠もしくは原動力となっています。進歩の一番の障害となる自尊心を、イエスがあれほど打ち消そうとした理由はそこにあるのです。

℘184
 人に裁かれないよう、人を裁いてはいけません。
 罪を負わないものが最初の石を投じなさい
十一、人に裁かれないよう、人を裁いてはなりません。なぜなら、あなたが他人を裁いたのと同じようにあなたが裁かれることになるからです。他人に対して用いる秤と同じ秤で、あなたも量られることになるでしょう。(マタイ 第七章 1,2)


十二、すると、ファリサイ人や書記官たちが、姦通の罪によって捕らわれた女をイエスのところへ連れてきて、人々の前に立たせ、イエスに向かって言った、「先生、この女は姦通によって捕えられたところです。モーゼはその法によって、姦淫する者は石で撃ち殺せと命じています。それについてあなたはどのようにお考えですか」。

イエスを訴える口実を作るため、イエスを試そうとこのように言ったのである。イエスは身をかがめると、地面に指で何かを書かれていた。しかし、人々がしつこく問い続けるのでイエスは立ち上がっていわれた、「あなたたちの中で、罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」。

そして再び身をかがめて地面に物を書き続けられた。イエスに質問をした人々は、イエスの言った言葉を聞くと、年老いた者たちから順番に、次から次へとその場を去って行った。やがてイエスと女だけが広場に残された。

 イエスは立ち上がり、女にお尋ねになった、「女よ、あなたを責めた人たちはどこへ行ったのでしょう。誰もあなたのことを責めなかったのですか」。女「いいえ、誰も」と答えると、イエスは女に言われた、「私もあなたを責めません。さあ行きなさい。今後、再び罪を犯してはいけません」(ヨハネ 第8章 3‐11)


℘185        
十三、「罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」とイエスは言いました。この一言によってイエスは私たちが他人に対して寛容であることを義務としています。

なぜなら、自分自身に対して寛容を必要としない人間は誰一人いないからです。この言葉は、私たちが自分自身を判断する基準以上の厳しさによって他人を判断してはならず、また、自分自身も赦してもらいたいと思うようなことで他人を責めてはならないのだということを私たちに教えてくれています。

誰かをある失敗によって非難する前に、自分について同じような非難が当てはまらないかどうか、見てみなければなりません。

 他人の行動に向けられる非難は、二種類の力によって引き起こされます。悪を抑圧しようという力と、行動が非難されている者に対する不信を強めようという力です。後者であれば、そこに悪意や中傷しか存在せず、弁解の余地はありません。

前者であれば賞賛されるべきものともなり得、特定の場合には、人にやるべきことを指示することができます。なぜなら、そこから結果的に善が生まれる筈だからであり、又そうでなければ社会と言うものは決して悪を排除することが出来ないからです。

人間にとってその同胞の進歩を助けることは必要ないのでしょうか。必要であるがゆえに、「人に裁かれないよう、人を裁いてはなりません」という考えを、全く文字通りに受け取らないことが大切なのです。

 イエス自身が悪と戦い、力のこもった言葉によって私たちに模範を見せてくれたことからも、イエスが悪を非難することを禁止したとは考えられません。しかし、人を非難するだけの権威は、非難する者の道徳的権威にもとづいて存在するのだということを教えたかったのです。

他人を非難したことで自分自身も同じく罪を犯すということは、この権威を放棄することであり、抑制する権利を失うことなのです。ある権威を与えられた者が、その権威によって他人に適用しようとする法や規則を自ら破るのであれば、私たちの内なる本心はそのような者に対する敬意を失い、どのような自発的な服従をも拒むことになります。

善にもとづく規範によって支えられた権威以外に、正当な権威というものは神の目には映りません。このことが同様にイエスの言葉にも強調されているのです。





    霊たちからの指導

  攻撃を赦すということ 
十四、 私の兄弟を何度赦せばよいのでしょうか。七回ではなく、七回の七十倍赦さねばなりません。この言葉はイエスの伝えた言葉の中でも、より強く知性に響き、心の中では最も強く唱えられるべき言葉です。

イエスが使徒たちに教えた簡潔に要約されながらも熱望に満ちた祈りの言葉と、これらの慈悲深い言葉とを比べてみると、いつも同じ考えに辿り着くでしょう。

完全なる正義であるイエスはペテロに答えます。「限りなく人を赦さねばなりません。その攻撃がしばしば行われるものであっても、一つ一つの攻撃を赦さねばなりません。他人からの攻撃、悪行、屈辱によって傷つかずに済むように、あなたの兄弟たちに自分を忘れることを教えなければなりません。

それにより心は優しく、慎ましくなり、自分の温和さを量ろうなどとは決してしなくなります。結局、あなたが天の父にしてほしいと望むことを、あなた自身がしなければならないのです。

天の父はあなたを繰り返し赦してくれているではありませんか。あなたは、何度神の赦しが下り、あなたの過ちが消されたかを数えたことがあるでしょうか」。

 だから、このイエスの答えを聞き入れ、ペテロのように、自分自身に当てはめてください。人を赦し、寛大さをもって、慈悲深く、心を広く、あなたたち自身の愛に気前よくあってください。主が補充してくれるのですから与えて下さい。主が赦してくれるのですから、他人を赦してください。

主があなたを引き上げてくれるのですから、自分を下げてください。主があなたを主の右側に座らせてくれるのですから、自分自身を下げてください。

 愛する者たちよ、天高く輝く主のもとよりあなたたちに送るこの言葉を学び、伝えてください。主は常にあなたたちの方を向き、十八世紀前に開始された骨の折れる仕事を愛を込めて行い続けているのです。あなたもあなたの兄弟たちに赦してもらう必要があるのですから、あなたの兄弟たちを赦してください。

その赦されるべき行いがあなたに個人的な損害を与えたのだとしても、それはあなたが寛大になるためのもう一つの契機であると考えなければなりません。なぜなら、他人を赦すことの真価は赦す悪の重さに比例するからです。あなたの兄弟たちが軽い攻撃しかしていなかったのだとすれば、彼らの過ちを赦すことに何の価値もないことになります。

 スピリティストたちよ、言葉においても、行動においても、他人の侮辱を赦すことが虚空なものとなってはならないことを決して忘れてはなりません。


もしあなたが自分たちのことをスピリティストと呼ぶのであれば、あなたたちが行うことのできる悪を忘れ、実現することのできる善以外のことは考えず、真なるスピリティストとならなければなりません。

その道を歩みだした者は、思考の上でもその道から遠ざかろうとしてはなりません。なぜなら、あなたたちは思考に関して責任を持たねばならず、神はそのことを知っているからです。

思考の中からすべての怒りを奪い去ってください。神は一人一人の心の底にどのような感情があるのかを知っています。私は隣人に対して何の反感もない、と毎晩のように言いながら就寝できる者は幸いです。(シモン ボルドー、1862年)


十五、敵を赦すということは、自分自身の赦しを求めることです。友人を赦すことは友情の証を示すことです。他人の攻撃を赦すことは自分が向上することを示すことです。

友よ、だから神に赦してもらえるよう、他人を赦してください。なぜなら、あなたが強情で、しつこく、頑固であり、軽い攻撃に対しても厳しいのであれば、日ごとにあなたがより多くの赦しを必要としているのだということを、どうして神に忘れてもらおうと望めるでしょうか。

おお、「断じて赦さない」と言う者は、自分自身を咎めていることになるのですから不幸な者です。自分自身の内面を見つめてみれば、あなた自身が攻撃者であったことが判るかもしれません。

軽い失望にはじまり不和に終わるその戦いの、最初の一撃を加えたのはあなたであったのかもしれません。あなたが他人を傷つける言葉を与えたのかもしれません。あなたは必要なだけの温和さを用いましたか。相手が余りにも気性が激しくて、間違いなくその相手に過ちがあるかもしれません。しかし、そうであるからこそ、あなたは寛大でなければならず、相手をあなたの非難の的から外さねばならないのです。

ある場合においては、本当にあなたが他人の攻撃の犠牲者であったと仮定しましょう。しかしその一件の仕返しをしようと考えることによって、本来であれば簡単に忘れ去られて居たかも知れないことを、激しい議論にまで発展させていないでしょうか。

その一件の悪い結末を食い止めることがあなたにできたのであったとすれば、あなたにも責任があったことになります。あなたの行動にまったく非のうちどころがなかったと仮定しましょう。その場合、あなたが寛容であればあるほど、あなたの功労は大きいのです。

 しかし、赦し方には全く違った二つの方法があります。口先だけの赦しと心からの赦しです。多くの人は、その対立した相手に対し、「私はあなたを赦します」といいますが、心の中ではその人に起こる悪を喜び、それをその人が受けるべき報いであると言います。

どれだけの人が「赦す」と言いながら、「しかし、決して仲直りはしない。一生相手の顔も見たくない」と付け加えることでしょうか。このような「赦し」は福音に則った赦しでしょうか。

いいえ。真の赦し、キリストの教える赦しとは、過去をベールで覆う赦しです。神は見せかけだけでは満足しないため、そのような真の赦しだけがあなたたちの功労として数えられるのです。神は心の奥深くや、心に秘めた考えをも調べます。無駄な言葉や見せかけによって神を騙すことは誰にもできません。

完全かつ絶対的に他人の攻撃を忘れることは、偉大な魂だけにできることです。恨みは常に魂の劣等、不完全のしるしです。真の赦しとは言葉よりも行動によって知ることが出来るのだということを忘れないでください。 (使徒パウロ リヨン、1861年)
 
   
  寛大さ
十六、スピリティストたちよ、全ての人間がその兄弟のために持つべき、甘く、兄弟愛に満ちた感情でありながら、ほんの僅かな人たちだけがその使い方を知っている寛大さについて、私たちは今日あなたたちにお話します。

 寛大さというものは、他人の短所を見つけ出すことをせず、また、見つけたとしても、そのことを口に出したり、他人に言いふらしたりしません。反対にその短所を隠し、そのことが自分以外の誰にも知られることがないように努め、もし悪意を持った人たちがそのことを知ったとしても、彼らに対して、いつでも過ちを犯した者をかばうための弁解を用意しています。

その弁解とは、称賛に値すべき本心からのものです。人の過ちについて、表向きには寛大に受け止めるふりをしながら裏で不誠実な証言をするような弁解ではありません。

 寛大さは相手を助けるため以外には、決して他人の悪い行いを気に掛けることはありません。しかし、相手を助ける場合でも、出来る限りその悪い行いを軽くしようとします。衝撃的な注意をしたり、口で相手をとがめたりはしません。忠告だけを、それもそれとないやり方で相手に示します。

もし、相手を非難するのであれば、あなたの言葉はどのような意味を持つことになるでしょうか。あなたは非難しているのですから、同じ過ちを犯すことはなく、つまりあなたは非難した相手よりも価値のある人間であるという結論になります。

おお、人類よ、いつになったらあなたたちは自分の兄弟の過ちを気に掛けることなく、自分自身の心、自分自身の考え、自分自身の行動を咎めることができるようになるのでしょうか。いつになれば自分自身だけに対する厳しい目を持つことが出来るのでしょうか。

 自分自身に対して厳しく、他人に対して寛大でありなさい。一人一人の心に秘められた部分の動きを見ることができ、全ての行動の動機を知っているがために、あなたが見つけたり、非難したり、批判したりする過ちを、何度も赦してくれる、最後の審判を下す者のことを覚えていてください。

大きな声を上げ、「破門だ」と叫ぶあなたたちこそが、より重大な過ちを犯しているのかも知れないのだということを覚えておいてください。

 友よ、寛大であってください。寛大さは人々を引きつけ、穏やかにし、元気づけますが、厳しくすることは、元気を失わせ、人々を遠ざけ、苛立たせます。(守護霊ヨセフ ボルドー、1863年)
   
   
十七、その過ちがどんなものであったとしても、他人の過ちに対して寛大であってください。自分の行動以外を厳しく非難してはなりません。神はあなたたちに対して寛大であり、あなたたちも他人に対してそうであるべきなのです。

 強い者たちは耐えなければなりません。彼らが忍耐強くあるように励ましてあげてください。弱い者たちには、どんな小さな後悔さえも考慮してくれる神の善意を示してあげることによって、彼らを強くしてあげてください。

白い羽を人間の過ちの上に差し延べてくれることによって、何が不純であるのかを見ることができない者たちの目からその過ちを隠してくれる、後悔の天使がいることをすべての人に教えてあげてください。

あなたたちの父の無限の慈悲を理解し、あなたたちの思考や、特にあなたたちの行動において、「私たちを攻撃した人たちのことを赦しますので、私たちの過ちもお赦しください」ということを決して忘れてはなりません。

この言葉のもつ崇高な価値を理解してください。言葉自体が素晴らしいだけでなく、その中に込められた約束も素晴らしいものだからです。


 主にあなたたちの赦しをお願いする時、あなたたちは何を求めていますか。あなたたちの罪を忘れてほしいと思うだけですか。忘れることはあなたたちに何も残してくれません。なぜなら、もし神があなたたちの過ちを忘れることで満足するのであったとしたら、神は罰することもしなければ償ってくれることもしないからです。

行ってもいない善に対して報酬を受けることはできず、悪を行ってしまったのであれば、たとえそのことを忘れてもらうことが出来たとしても、尚更報酬を受けることはできません。

あなたたちの過ちに対して赦しを求め、神の恵みによって再び同じ過ちを繰り返さないように願い、新しい道を進み出すのに必要な力を求めてください。その新しい道とは服従と愛の道であり、その中であなたは、後悔を改善に結びつけることができるようになるでしょう。

 あなたの兄弟を赦す時、単に過ちを忘却のベールで覆うだけで満足してはなりません。このベールはほとんどいつも、あなたたちの目には透明に映ります。あなたたちの赦しに愛を加え、あなたたちが天の父にして欲しいと望むようなことをあなたたちの兄弟にしてあげてください。汚点を残す怒りを愛によって清めてください。

イエスがあなたたちに教えてくれた、疲れを知らない生きた慈善を、模範を示すことによって他人に伝えてください。イエスが地上で生活した間、ずっと行ったように、生きた慈善を肉体の目に見えるように伝え、またそれが霊の目にしか見えなくなってしまった後にも、休むことなく伝えてください。

この神聖なる模範に則って、その足跡に沿って歩んでください。その模範は、あなたたちを戦いの後に、休息を取ることのできる避難所へと導いてくれます。イエスのように十字架を担ぎ、痛々しくとも勇気をもってカルバリオへと登っていってください。その頂上には栄光が待っているのです。 (ボルドーの司教ヨハネ、1862年)


十八、親愛なる友よ、自分たちに対して厳しく、他人の弱みに対して寛大であってください。ほんの少しの人たちしか気づいていませんが、これも聖なる慈善を実践する方法の一つなのです。

あなたたちはみな、克服しなければならない悪癖や、改めなければならない短所、変えなければならない習慣を持っています。あなたたちすべてが重い負担を抱えていますが、進歩の山を登るためにはそれを軽くしなければなりません。それなのになぜ、他人のこととなると頭がはっきりし、自分自身のことになるとそれほどまで盲目になってしまうのですか。

あなたたちは、自分たちを盲目にし、下落の方向へと歩ませている自分の目の中の杭にも気が付かず、いつになればあなたを傷つける兄弟の目の中の些細なものを気にすることをやめるのでしょうか。あなたたちの兄弟である霊たちのことを信じてください。

自分を他の兄弟たちに比べ、その美徳や長所においてより優秀であると考える自尊心の強い人はみな、愚かで罪深いのであり、神の審判が下る時、神に罰せられることになります。

慈善の真なる性格は、慎ましさと謙遜であり、他人の表面的な欠点を探すようなことなく、隣人に、その人の善いところ、徳の高いところを目立たせようとすることから成るのです。なぜなら、例え人間の心が堕落の深淵のようであったとしても、その心の隠れた奥底には、必ず霊の本質の輝く火花の様な善なる感情の種子が存在するからです。


 慰安をもたらす祝福された教義であるスピリティズムを知り、主が送られた霊たちの健全な教えを有効に利用する者は幸いです。こうした者たちにとって教えは明確であり、的を射た方法を教えてくれる次の言葉を、長い道のりの間いつも読むことが出来るのです。

「慈善の実践、自分に対して行うように、隣人に対して慈善を行う」を簡潔に表すならば、すべての人に対して慈善を行い、あらゆるものの上に神に対する愛を抱いてください。

なぜなら、神に対する愛はあらゆる義務を要約しているからです。慈善を行うことなしに神を愛することは不可能であり、神はそのことを全ての創造物のための法としているのです。(ヌウ“ェールの司教デュフェートル ボルドー)
  
℘193          
  他人を叱ることは許されますか。
  他人の不完全性を指摘し、他人の悪を広めることは許されていますか  
十九、
 誰も完全ではないのですから、誰にも隣人を叱る権利はないのだということが出来るのではないでしょうか。


 もちろんそうではありません。なぜならあなたたちは、一人一人が全ての人の進歩のために働かなければならず、また、あなたたちが面倒を見る人のためには特に働かなければならないからです。

しかし、そうであるからこそ、有益な意図によって慎重に人を叱らなければならないのであって、通常ありがちなように、相手を痛めつけることの喜びのためであってはなりません。相手を痛めつけるために叱るのであれば、その人の検閲は悪意でしかなくなります。

有益な意図によって叱るのであれば、それは慈善によって要求された任務として、出来る限りの注意が払われなければなりません。さらに、他人に向けた批判は私たち自身にも向けられることになるので、自分も叱られるべき立場にないかどうかを見なければなりません。
  
    
二十、その人に取って何の益ももたらさない他人の不完全性に気づくことは、そのことを人に広めなかったとしても咎められるべきことなのでしょうか。



 そこにある意図によります。確かに悪が存在するのであれば、その悪を見つけることは禁じられてはいません。全ての場所に善だけしか見ることがなかったとしたら不都合です。それは進歩を妨げることになります。

人の悪に気づき、世間に不必要にその人の悪評を立てることによって、隣人に損害を与えるところに過ちが生じるのです。それに悪意が伴い、他人の欠点を見つけたことに満足しながら行うのであれば、なおさらとがめられるべきことです。

しかし、悪の上をベールで覆い、それを公に知らせまいとし、その悪を研究し、他人の中に非難したことを自ら避けようと、個人的な利益に結び付けるためにのみそれを観察するのであれば、事はまったく逆になります。このような観察は、道徳を学ぼうとする者にとっては有益ではないでしょうか。実例を学ばなければ、どうやって人間の不完全性を表すことが出来るでしょうか。 (聖王ルイ パリ、1860年)



二十一、他人の悪を見つけることが役に立つことがありますか。

 この問題は非常にデリケートでありそれに答えるには、よく理解された慈善に訴える必要があります。もしある人の不完全性がその人にしか損害を与えないのであれば、その不完全性を他人に広めることに何の意味もありません。

しかし、もしその不完全性が他人にも損害を与えるのであれば、一人よりも複数の利益を重視する必要があります。状況に応じて偽善と虚偽の仮面を剥ぐことも一つの任務です。

なぜなら、多くの人が騙され、犠牲者となるよりも、一人だけが罠にはまった方がましであるからです。そのような場合には、利点と不都合をよく秤にかけて見極める必要があります。 (聖王ルイ パリ、1860年)

シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell  


九章 悩み多きインド

 インドのボンベイの新聞〝フリープレス・ジャーナル〟のロンドン特派員シュリダール・テルカール氏がハンネン・スワッハー氏との不思議な出会いからシルバーバーチの交霊会に招かれた。以下はテルカール氏の記事である。

             ※ ※ ※

 われわれの日常生活には不思議なことが起きるものである。なぜそうなったかは必ずしも説明できない。〝ああ、それはそうなるようになってたんだよ〟と言う人がいるであろう。〝それが神の意志だったのさ〟と言って片づけてしまう人もいるであろう。

かくして凡人はそうした〝予期せぬこと〟の背後の重大な意味に気づかないまま毎日を生きている。

 いま私の脳裏に、なぜあの時あんなことになってしまったのだろうかという、ある不思議な体験のことが残っている。今の私には不思議なナゾに包まれたミステリーに思える。私の職業はジャーナリストである。母国インドの新聞に何か新鮮なものを送りたいと思っていつも目を皿のようにしている人間である。

 さて、つい先ごろのことである。インド人の友だちが情報局のプレスルームにひょっこり姿を見せた。思いがけないことだった。〝サボイ・ホテルまで来てくれないか。いい話があるんだ〟と言う。

誘われるまま行ってみると、ストラボルギー卿の記者会見が行われていた。友たちは会見室に入っていきジャーナリストが並んでいる一ばん端に席を取った。が、私は何となく入る気がしなくて外で待っていた。

 ところが突然ストラボルギー卿が席を立って私のところへ歩み寄り、握手を求め〝ま、お入りください〟と言って中へ案内した。そして座らされたテーブルには、なんと、卿夫妻とイスラエル人の他にハンネン・スワッハー氏がいた。

私はスワッハー氏は取材旅行中に何度も見かけたことはあるが、それほど身近に見るのは初めてだった。氏には何かしら私を惹きつけるものを感じていた。

 その瞬間私の脳裏には学生時代のことが浮かんだ。当時はハンネン・スワッハーといえば毒舌をもって鳴らす怖い存在に思えた。が今はじめて言葉を交わして見て、本当は心根の優しい、温かい、真の庶民の味方で、深い人間的理解力を秘めた方であることを知った。

記者会見が終わると私はスワッハー氏に〝かねがねお会いできればと願っておりました〟と挨拶した。すると〝正午に私の家にいらっしゃい〟と言われた。

 訪ねてみるとスワッハー氏は書物と書類に埋もれた〝仕事場〟にいた。氏はそこであの超人的才能で文章を書き上げているのだ。あの辛らつな、容赦ない風刺をきかした文章、スワッハー一流の簡潔な文章──千語が百語に凝縮してしまうのだ。その日私はそのスワッハー氏がその魔術的仕事に携わっているところを見ていて〝ペンは剣より強し〟という古い諺を思い出した。

実はその時の私にはある不満のタネがあった。それを遠慮なく述べると、それをまともに取り上げてくれて、その場であっという間に記事を書き上げてしまった。奇跡としか思えなかった。スワッハーという人はただの毒舌家ではないのだ。

 さて私がそろそろ失礼しようとすると、氏が司会をしているホームサークルに出席してみなさいと言われた。私は英国へ来て十五年余りになるが、スピリチュアリストの集会にも交霊会にも行ってみたことがない。

ジャーナリストである以上──ジャーナリストというのは常に抜け目のない批判的精神の持ち主であると相場がきまっているので──このチャンスを逃すのは勿体ないと考えて、招待に応じた。

 交霊会が催されるこじんまりとした住居(バーバネルの私邸)に到着した時私はいささか興奮していた。とても雰囲気のいい家だった。バーバネル夫妻が温かく迎えてくれた。至って英国らしい家庭である。

が、雰囲気はどこかよそと違うところがある。何となく母国インド人の手厚い歓迎を受けているような錯覚を覚えた。数こそ少ないが、その日そこに集まった人たちとすぐに打ちとけてしまったのである。

初めて会う人たちばかりなのに、あたかも親しい旧友と再会したみたいに愉快に語り合い、冗談を言い合っては笑いが巻き起るのだった。

 壁の肖像画がすぐ目に入った。このハンネン・スワッハー・ホームサークルの支配霊シルバーバーチである。深い洞察力に富んだ眼と顔の輝きがインディアンの聖人を思わせる。私はしばしその画に見入っていた。今にも私に語りかけそうな感じがした。

 談笑はしばらく続いた。私はスワッハー氏の隣に腰かけた。有名な心霊治療家であるパリッシュ氏と向かい合う形となった。やがて急に部屋が静寂に包まれた。時おりヒソヒソと語り合う声がする。私は列席者の顔ぶれに興味のまなこを向けた。スワッハーの横にはもう一人、純情そうな若いジャーナリストがいた。こうして油断を怠らなくさせるのは新聞記者としての私の本能である。

 列席している男女は至って普通の人間ばかりである。奇人・変人の様子はひとかけらも見られない。語り合った印象でも、みな教養豊かな知識人ばかりである。政治問題、社会主義、ガンジーなどが話題に上ったが、どう見ても〝へソ曲がり〟でもなく〝ネコかぶり〟でもなく、〝一風変わった精神病者〟ではあり得なかった。(当時のスピリチュアリストはそういう言葉で形容されていたのであろう───訳者)

 そのうち霊媒のバーバネルが落ち着かない様子を見せはじめた。〝落ち着かない〟という表現は適切ではないのであろうが、私の目にはそう映ったのである。両手でしきりに頬をさすっている。眼はすでに閉じている。氏の身も心も何か目に見えないものによって占領されているように私には思えた。

続いて〝シュー〟という声とともにドラマチックな一瞬が訪れた。全員の目が霊媒の方へ注がれている。ついにシルバーバーチが語り始めたのである。

(訳者注───必ずいびきを伴った息づかいから始まり、それが次第に大きくなっていき、最後に〝フーッ〟と大きく吐き出す。それがそのときの唇の形によって〝シューッ〟となったり〝スーッ〟となったりする。霊媒から離れる時もなぜかいびきを伴った息づかいで終わる)

 最初に祈りの言葉があった。その簡潔でいてしかも深い意味を持つ言葉に私は感銘を受けた。それが淀みなく流れ出るのに深い感動を覚えた。祈りが終わってスワッハー氏が私を(インドの霊覚者)リシーと親交のある人物として紹介すると、シルバーバーチはこう語ってくれた。

 「本日は私たちの会にご出席いただいてうれしく思います。リシーご夫妻には私も深い敬意を抱いております。大きな仕事をなさっておられるからです。暗黒の大陸においては小さな灯でしかないかも知れませんが・・・

 ご夫妻は右に偏ることも左に偏ることもなく、双肩に担わされた神聖な信任に応えるべく真っすぐに歩んでおられます。大陸を相手にたった一人です。自らも遅々として進歩の少ないことを自覚しておられますが、そのたった一人の力で多くの魂が感動し、太古からの誤った教えと古臭い迷信による束縛から脱し、霊的真理の光明へ向かっております。

 どんどん広がってまいります。小さなうねりが次第に大きくなって大河となり、やがて巨大な大洋となることでしょう。きっとなります。宗教についてあれほど多くが語られながら霊についての真実がほとんど理解されていないあなたの大陸においてきっと広がることでしょう。

 私から見るとインドには霊の道具となれる人があふれるほどいます。一人ひとりが福音を広める道具です──道具となれる可能性をもっております。一人の人間が一人の人間に真理をもたらすことができれば、少なくとも倍の真理がもたらされたことになりましょう。

 所詮は短い人生です。その短い人生においてたった一人の人間でもいいから重荷を軽くしてあげることに成功したら、たった一人の人間の涙を拭ってあげることが出来たら、たった一人の人間の悩みを取り除いてあげることが出来たら、それだけでもあなたの生涯は無駄でなかったことになります。

ところが悲しいことに、地上生活の終わりを迎えたときに何一つ他人のためになることをしていない人が実に多いのです。そう思われませんか」

 「まったくです」と私は答えた。

 社会主義者として、また普遍的同胞精神の大切さを信じる者の一人として、そのシルバーバーチの最後の言葉は、苦しむ人類の全てに対するメッセージと言ってよい。その言葉を胆に銘ずべき人がいる筈である。今地上には同胞に対する非人間性がはびこりつつあり、われわれの想像力を悩ませている。


神と真理の名において多くの罪悪が横行している。〝力は善なり〟の風潮がはびこり、宇宙の永遠の摂理が風に吹き飛ばされている。確かにシルバーバーチの言うとおり、もしも〝一人ひとりが福音を広める道具〟となれば、少なくともわれわれの人生は無駄でなかったことになろう。私はシルバーバーチにこう尋ねた。

 「私は人間はすべて自由であるべきだと思います。私の国民は今大きな苦しみを味わっております。インドの魂は悶え苦しんでいると私はみています。今日インドには立派な人がいることはいます。

インド国民の霊的意識を高揚させ、霊力の貯蔵庫の恩恵にあずからせるべく献身的生活をしている霊覚者がいて、インドをイギリスの支配から独立させ、平和と幸福と自由を得るために闘っております。私たちの国民がそこまで到達する方法、あるいは道があるのでしょうか」

 「今ここに素晴らしい方がお見えになってます。その方の詩をあなたも愛読していらっしゃると言えば、もう誰だかお分かりでしょう」

 タゴールである。インド最高の詩人であり、その詩によって無数の国民の魂を鼓舞した人物である。シルバーバーチは続けた。

 「いいですか。インドは今、過去に蒔いたタネを刈り取っているところだということを知ってください。宇宙は法則によって支配されております。原因と結果の法則です。私の声は──そして地上の物的束縛から解放された者たちの声もみなそうですが──自由と解放と寛容の大切さを強調します。が、

血なまぐさい戦争の結果として生じた複雑な問題が一気に解決できるわけがありません。

国民が勝手にこれが自由だと思いこみ、それ以外の自由を望まない国民を安易に解放するわけには行かないでしょう。自由には必ず条件が付きものだからです。何の拘束も無い自由と言うものは無いのです。

〝自由な自由〟というものは無いのです。自由というのは、その自由がもし無条件なものとなったらかえって侵害されかねない〝自由の恩恵〟を味わうために、ある程度の制約が必要なのです。

 インドはこれまで幾世紀にもわたって、勝手にこしらえた信仰に縛られてきたがために生じた暗黒が支配しています。無数の国民が間違った偶像を崇拝し、それに神性と絶対力があるかに思い、それ以外の神々を認めることを拒否します。

それによって人間の霊性が束縛され、隷属させられ、抑圧されております。わけの分らない概念で戸惑わせるばかりの複雑な教義でがんじがらめにされております。

 さて、そうした彼らを救出してあげなければならないのですが、何世紀にもわたって積み重ねられてきたものをたった一日で元に戻す方法はありません。インド民族はまだ寛容の精神が身に付いておりません。

神の前において人類はすべて平等であること、誰一人として神の特別の寵愛を受ける者はいないこと、無私の奉仕に献身した者だけが神の恩寵にあずかるという教えが理解できておりません。

 改めなければならないことが沢山あります。永い間暗闇の中で暮らしてきた者は一度に真理の光を見ることができません。そんなことをしたら目が眩んでしまいます。仕事は一人ひとりが自分の力で、牢獄となってしまった宗教的束縛から脱け出ることから始まります。

その束縛を打ち破ってしまえば、より大きな自由を手にすることが出来ます。すなわち他人の権利を認めてあげられる心のゆとりです。

 人間の霊には教義やカースト(世襲的階級制度)を超えてすべてを結びつける要素があるとこと、民族全体が一つの兄弟関係にあることを理解出来る人が大多数を占めるようになれば、もはやその民族を隷属させる権力者も支配者もいなくなります。

なぜなら、すでにその民族は自らの努力によって獲得した魂の自由を駆使できる段階まで到達している筈だからです。

 まずは献身的奉仕精神に目覚めた、ひとにぎりの誠心誠意の人物が出現すればいいのです。その人たちによって多くの難問解決への道が切り開かれ、暗闇に光明を灯す糸口がつかめるでしょうが、そのためには、その人たちは〝我〟を超越し〝宗派〟を超越し、〝教義〟と〝カースト〟を超越して、インド民族のすべてが広大な宇宙の一員であること、その一人ひとりに存在の意味があることを率直にそして謙虚に認められるようにならなければいけません。

あれほどの宗教国家においてあれほどの暗黒が存在するとは、何という矛盾でしょう!。あれだけの裕福な階級がある一方で、あれほどの貧民階級が存在するとは、何という矛盾でしょう!」


 私は主張した──「でもインドにも偉大な人物が数多く存在します。政治犯として今なお獄中にあるネールを初め、ガンジー、そのほか偉大な人物がいます。インドの国民は、問題は要するに一国家による他国家の占領支配にあると考えています」

 「それは違いますよ」 と優しく諭すようにシルバーバーチは語ってくれた。「いいですか、問題はあなたのおっしゃる一国による占領支配にあるのではありません。何となれば、かりにその占領支配が一気に取り除かれても、それで民族に自由がもたらされるかというと、そうは行かないでしょう。

自由というのは苦労した末に手にすべきものなのです。自分の力で勝ち取らねばならないものなのです。そのための大きな革命がナザレのイエス以来ずっとこの方、個人の力で成就されてきているではありませんか」

(訳者注──イエス時代のイスラエル民族はローマの占領支配下にあり、それと結託したユダヤ政治家や宗教家の腐敗と堕落によって民衆は息も絶えだえの状態にあった。そこに出現したのがイエスであり、腐敗と堕落を極めた宗教家と政治家を相手に敢然として立ち向かった。

イエスは一般にはキリスト教の教祖のように思われているが、世襲的にはユダヤ教徒だった。が、ユダヤ教の誤った教義によって束縛された生活習慣や物の考え方を改めるために新しい霊的真理を説き、その証拠として持ち前の霊的能力を駆使したまでのことで、本質的には社会革命家だった。シルバーバーチの念頭にはインドが当時のイスラエルに似ているという認識がある)

 シルバーバーチの霊言を聞いていて私は、その言葉に深い真理があることに気づいた。その訓え──インド民族への霊的メッセージに秘められた叡知に大きな感動を覚えた。最も、末節的には賛成しかねる部分もあった。

現在のインド民族の大半がヒンズー教徒の信者であるが、今日のヒンズー教徒はべーダとウパニシャッド(ともにバラモン教の根本教典で最高の宗教哲学書とされている──訳者)をもとにした純粋のヒンズー教徒ではなくなっている。べーダとウパ二シャッドの教えはまさにシルバーバーチの訓えそのものなのである。

 ヒンズー教もその内きっと本来のあるべき姿を取り戻す日が来るであろう。それは時間の問題に過ぎない。ガンジーその他の大人物がすでにエネルギーを再生させ、それによって無数のインド人が勇気づけられている。今やインドは蘇ったのである。多くの者が既に邪神と似非(えせ)予言者との縁を断っている。

 この度の英国による政治支配はむろんインド自身の側にもその責任の一端がある。が、こうした事態に至らしめた最大の責任は、片手に銃を、もう一方の手にバイブルを持って攻め込んだ征服者の側にある。それが自分たちの邪神と似非予言者をインドに植え付けたのである。

それが積み重ねられた影響力がインド人の心にますます混乱を引き起こした。打ちひしがれた心が一段と虐げられ、インドの自由精神はほぼ外敵の戦車の車輪につながれてしまっていた。

 今日のインドには世界の他のいかなる国にも劣らない霊的同胞精神がある。人間の霊性が武力の前に恐れおののいているように思えてならない。カーストと教義を超えてインド人は、シルバーバーチの言うように〝すべてが広大な宇宙の一員であること、その一人ひとりに存在の意味がある〟ことを認識している。

 〝大きな革命は個人の力で成就されてきた〟──このシルバーバーチの言葉は至言である。ガンジーもネールも偉大な革命家だった。彼らの政策に批判的な人がいるかも知れない。その経済政策に疑問を持つ人がいるかも知れない。彼らの禁欲主義は度を過ごしていると思う人がいるかも知れない。が、彼らは現実にインドの大衆の心を捉えたのだ。

 彼らこそ宗教的教義のジャングルを切り開き、不幸な私の母国に自由をもたらしてくれることであろう。が、同時に、他の多くの国の偉大な霊もまた、その霊的統一をもたらす上で力となってくれるに違いない。頑丈な体格をしながらも傷ついた人間に小柄な人間が力を貸すことが出来ることもあるのだ。 

 では最後にこう付け加えて本稿を終わろう。私は厳密な意味でのスピリチュアリストではない。が、この度の交霊会への出席は素晴らしい体験だった。今なお私は勉強中であり、研究中であり、指導を求めている。道は遠く、困難をきわめることであろう。が、どうやらその旅の終わりには、それだけの価値のあるものが待ち受けている様な気がする。
シュリダール・テルカール

Tuesday, May 26, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

   本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。

────アラン・カルデック


第9章 柔和で平和をつくる者は幸いです

侮辱と暴力

一、柔和な者は幸いです、その人は地を相続するからです。(マタイ 第五章 5)

二、平和をつくる者は幸いです、その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ 第五章 9)

三、昔の人々に「人を殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、誰でも裁きを受けなければなりません。兄弟に向かって「ラッカ(愚か者)というような者は、審判所に被告人として送られるでしょう。また、「気が狂っている」というような者は、地獄の火へ投げ込まれるでしょう。(マタイ 第五章 21,22)
    
     
四、これらの金言によって、イエスは柔和、温和、親切、忍耐を規律としています。それにより暴力、怒り、同胞に対するいかなる無作法な表現をも非難しています。「ラッカ」とはヘブライ人の間で使われた侮辱の表現で、価値のない人を意味し、頭を横にそらし、唾を吐きながら発音した言葉です。

兄弟に対して「気が狂っている」などという者は、さらにひどく責められることが、地獄の火によって脅かされています。

 いかなる状況でも、同じように、意志が過ちの重大さを増したり、軽減したりするということはここでも明らかです。ではなぜ、たった一言の表現がそれほど重大にとられ、それほどまでに厳しい非難を受けなければならないのでしょうか。

それは、いかなる攻撃的な言葉も、人間同士に和解と協調をもたらすために支配する愛と慈善の法に背いた感情を表現するからなのです。

そうした表現は、人間相互の慈悲心や同胞愛に対して振り下ろされる一撃となります。それは憎しみと恨みをもたらします。いかなるキリスト教徒にとっても、神に対する謙遜の気持ちの次には、隣人への慈善こそが最も重要な規律なのです。
   
℘173            
五、では、人間に対し、この世の富を放棄することによって天の富を約束したイエスが、「柔和な者は幸いです、その人は地を相続するからです」という言葉によって、何を教えようとしたのでしょうか。

 天の富を待つ間、人間は生きるために地上の富を必要とします。イエスは単に、後者を、前者よりも重要視することがあってはならないと教えたのです。

 その言葉により、今のところはまだ地上の富が、柔和で平和をつくる者を犠牲にして、暴力的な者によって独占されていることを示そうとしました。必要なものを過剰に所有している者がいる一方で、柔和で平和をつくる者には多くの場合、必要なものさえも欠けています。

彼らに対して、イエスは、地上においても、天と同じように正義がなされることを約束しています。なぜなら、そうした柔和で平和をつくる者は、神の子と呼ばれるようになるからです。

人類が愛と慈善の法に従うようになれば、誰もわがままを言うことはなくなります。弱くおとなしい者は、もはや搾取されたり、強く、暴力的な者に押しつぶされることはありありません。進歩の法とイエスの約束に従い、悪を遠ざけることによって世界が幸せになった時、地球はそのようになるのです。






   霊たちからの指導
  
  愛想の良さと温和さ
六、隣人への愛がもたらす同胞への好意は、その気持ちを表現しようとする時、愛想の良さと温和さを生みます。しかし、必ずしも見かけだけを信じてはなりません。教育を受けたり、世間慣れすることは、人間にこうした見かけ上の性格を与えます。

善良さが表向きの仮面であったり、内面的な奇形を目立たなくさせる立派な衣装のようなものでしかない人がどれだけいるでしょうか。世の中には、口元には笑みを浮かべ、心には毒を持った人々があふれています。
℘174   
腹立たしいことが無い限りは優しく、しかしどんな小さな矛盾にも噛みついてきます。その言葉は前を向いている間は金色に輝き、後ろを向くと毒の塗られた槍となります。

 外見的には親切でありながら、家庭内では暴君で、家の外で自分自身が押し込められている窮屈な思いに対してうさを晴らすように、家族や彼に従う者を傲慢と独裁の重荷で苦しめる人も、そうした人々と同じ部類に属します。

他人を命令に従わせるだけの権威を持っていないため、少なくとも自分に反抗することのできない者には自分に対して気遣わせようとします。その様な者はうぬぼれて言います。

「ここでは私が命令し、私にみなが従うのだ」。しかしその時、「そして、私はみなに嫌われているのだ」と付け加える必要があるとは思いつかないのです。

 口元からのみ甘い言葉があふれていてもことは足りません。そこに心が伴っていないのであれば、それは偽善でしかありません。見せかけではない愛想の良さと温厚さの持ち主は、矛盾することはありません。社会的にも個人的にも同じです。

そうした者は、それ以上に、見せかけによって人間を騙すことはできても、神を騙すことはできないということを知っているのです。(ラザロ パリ、1861年)


 忍耐
七、痛みは、神によって選ばれた者に贈られる神からの恵みです。だから苦しむとき、不安を感じたらいけません。まず、この世において苦しみを与えることによって天におけるあなたたちの栄光を示してくれた、全能なる神を崇めることです。

 忍耐強くあってください。耐えることも慈善の一つであり、あなたは、神より送られたキリストによって教えられた慈善の法を実践しなければなりません。中でも貧しい人に小銭を与えることは、最も容易な慈善です。しかし、他にも、より苦しく、より賞賛に値する別の慈善があります。

それは、神が私たちの忍耐を試そうと、私たちの歩む道の途中においた人々を赦す、という慈善です。人生が困難であることを、私はよく知っています。
℘175
人生はたくさんの取るに足らないことばかりで満ちており、それらが針でつつくように、私たちを痛めつけるのです。

しかし、私たちに課された義務を行うならば、それが一方ではその代償や忠告を受け取ることになって、痛みに比べれば遥かに多数の恵みとなるのだ、ということを改めて知る必要があります。頭をうなだれた時よりも、頭を上げて上を見上げた時の方が、背負って居る荷は軽く感じられるものです。

 友よ、勇気を出してください。あなたの模範をキリストに求めてください。あなたたちの誰よりもキリストは苦しみましたが、それを悔いることはありませんでした。あなたたちはあなたたちの過去を償い、未来へ向けて強くならなければいけないのです。ですから、忍耐強く、キリストの教えを守る者であってください。それがすべてです。(ある友人の霊 ルアーウ“ル、1862年)


  服従と甘受
八、イエスの教義はすべての箇所において、温和さと切り離すことのできない服従と甘受の気持ちという、とても能動的な二つの美徳を教えていますが、人々は誤って、それを感情と意志の否定と取り違えてしまいます。服従とは理性が同意することです。甘受とは心が同意することです。

どちらも能動的な力であり、反逆的な愚かな者であれば落してしまう、試練の重荷を持ち上げることのできる力なのです。臆病な者は甘受することが出来ず。同様に傲慢な者や利己的な者は服従することができません。イエスはこれらの美徳そのものとして生まれましたが、当時の人々は彼を軽んじました。

イエスはローマの社会が堕落と衰退によって滅びようとしていた頃に生まれました。抑圧された人類の中に、献身と欲情の放棄がもたらす勝利を輝かせるために来たのです。

 どの時代にも、残すか失うかしなければならない、美徳や悪徳のしるしが残されています。あなたの時代の美徳は知性的な活動です。悪徳は道徳的無関心です。

単に「活動」と表現しているのは、天才が自分一人だけで、他の大勢はもっと後になってからしか見ることのできない地平線を見つけることが出来る一方で、「活動」はそれほど輝かしくなくとも、全ての者の努力を集結し、その時代の知性的な向上の証となるような、ある目的を達成することを指すからです。

私たちがあなたたちの霊に与える刺激に従って下さい。偉大なる進歩の法に服従してください。それがあなたたちの時代の言葉です。

怠惰な霊や理解の扉を閉じてしまう霊の可哀想なことよ。ああ、前進する人類の導き役である私たちは、あなたたちに鞭撻(べんたつ)し、また反抗的な心には、二重の作用によって、歯止めをかけたり、拍車をかけたりします。

どんな傲慢な抵抗も遅かれ早かれ負かされてしまいます。しかし、温和な者は幸いです。なぜなら、教えに従順に耳を傾けることができるからです。(ラザロ パリ、1863年)
  
℘176        
 怒り
九、自尊心は、あなたたちを実際以上に偉大であると思い込ませます。あなたが卑しめられるような比較には耐えられなくさせます。

反対に、霊的にも社会的にも、また、個人的な長所においても、あなたは自分の兄弟よりもずっと上にいるのだと考え、下級の者があなたを苛立たせ、がっかりさせるのだと考えるようにさせます。すると何か生まれるでしょうか。そう、あなたは怒りに身を任せることになるのです。

 あなたを凶暴な者と同じくし、冷静さと理性を失わせる、この一時的な狂気に駆られる原因を調べてみて下さい。調べてみればほとんどいつも、傷つけられた自尊心をそこに見つけることが出来るでしょう。

もっともよく熟考された忠告に対して、あなたが苛立ち、拒絶するのは、あなたの自尊心が否認されたこと以外にどんな理由があるというのでしょうか。各々が自分自身を他人より重要であると考えていることが取るに足りない不満の原因となっている辛抱のなさをも生んでいるのです。

 かんしゃくを起すと、怒りっぽい人間はすべてに対して当り散らします。自分の粗暴な性格や、動かぬ物体にあたり、自分の言うことに従わないとそれらを破壊します。ああ、その時、冷静に自分を見つめることが出来たなら、自分自身を恐れるか、あるいは自分自身の愚かさを知ることが出来るでしょう。

その時他人に対してどんな印象を与えたかを想像して見てください。それがたとえ、単なる自分への尊敬の気持ちからくるものでなかったとしても、私たちは自分を憐れみの対象としてしまう傾向には打ち勝つ努力をするべきです。

 怒りはどんな薬でも抑えることが出来ず、健康を害し、命までも危うくするということを考えれば、自分自身が自分の怒りの第一の犠牲者となっていることが認識できるでしょう。しかし何よりも、頭に入れておかなければならないもう一つの考えは、怒ることによって周りにいる人たちを不幸にしてしまうということです。

心を持っているのなら、最も愛する相手を苦しめることは、後悔に値することではないでしょうか。怒りの発作の時、その人を一生嘆き悲しませるような行動を取ってしまったら、私たちの良心はその責任をひどく重く感じることになるでしょう。

 つまり、怒りは、心から良心を奪いはしませんが、私たちにどんな善行をも行うことを妨げ、私たちを悪行に導くのです。そうした理由だけで、人類は怒りというこの悪い特徴を克服する努力をするに十分に値します。

ましてスピリティストであるならば、もう一つの理由によって努力しなければなりません。それは、怒りがキリスト教徒の慎ましさと慈善に反する、という理由です。(ある守護霊 ポルドー、1863年)


十、自分自身の性格は変えることができないという大きく誤った考えは、人をわがままにさせ、多くの忍耐によってのみ根絶することのできる自分の欠点を改める努力は免除されているのだと判断させてしまいます。例えば、怒りっぽい傾向にある人は、大抵それを自分の気質のせいにします。

自分自身の責任であることを認める代わりに、肉体組織のせい、神のせいにし、自分の犯した失敗に対しても同様の態度をとります。これもあらゆる不完全性の一つとして残る自尊心がある結果です。

 気質がより暴力的な行動に結びつくことは疑いようもなく、それは柔らかな筋肉の方が力を出す時によく働くのと同じです。しかし、そこに怒りの本質的な原因が存在するのだと信じてはならず、平和を好む霊は、胆汁質の肉体を持っていても常に平静を保ち、暴力的な霊は粘液質の肉体を持っていても温和ではないということを理解する必要があります。

穏和な時にのみ、暴力は別の性格に変わり、怒りは収縮され、他の場合には怒りは活発になります。肉体は、怒りを持たぬ者には怒りを生まず、同様に他の悪癖も生みません。

いかなる美徳も、いかなる悪癖も、霊に帰するものです。そうでなければ、長所や責任感と言うのはどこに在ると言えるのでしょうか。身体が不自由な者は、それが霊と係わっていないために、元の形に戻ることはできません。

しかし、揺るがぬ意志さえあれば、霊に係ることは変化させることができます。目の前で行われるほんとうに奇跡的な変化を経験したあなたたちスピリティストに、意志の力でどこまで行くことが出来るのかが教えられていないでしょうか。

人間は自分が悪癖を保ちたいと思わなければ、悪癖を保ち続けることはないということを納得してください。自分を改めたいと望む者は必ず改めることが出来るのです。でなければ、進歩の法は人類のために存在しないことになります。(ハンネマン パリ、1863年)

シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell 



八章 大きくなったルースとポール


 ジャーナリストであり作家でもあるP・ミラー氏の二人のお子さん、ルースとポールは、ごく自然な環境の中で、両親から死後の存続を事実として教わっている。

今はもう少年期に入っているが、姉のルースが八歳、弟のポールが六歳の幼児期から(六年間)毎年のようにクリスマスが近づくと交霊会に招かれて、シルバーバーチとお話をしている。従ってシルバーバーチとはまるで家族のような親しい間柄となっている。

 二人が出席するときは大てい幾つかの質問を用意しているが、その質問内容は〝子供らしさ〟あるいは〝少年らしさ〟を尊重して両親をはじめとしてサークルの大人のメンバーの誰からも干渉されていない。交霊会そのものも、大人のメンバーは出席することは許されても口出しは許されない。言わば〝子供のための交霊会〟なのである。

(訳者注───口出しは許されないと言っても、大人にとっても大切な問題になると補足的な質問をしている。なおこのルースとポールの幼少時代の交霊会の様子は日本語版シリーズ第五巻で「二人の幼児と語る」と題して紹介されている。

それから六年たっている。原書では本章は冒頭に子供時代の宗教教育の大切さについてのシルバーバーチの講話が載っているが、これは第四巻で「宗教の本質と子供の宗教教育のあり方」と題して紹介されているので本章ではカットした)

 当日の交霊会の様子については父親のミラー氏の記事があるので、それをそのまま紹介するのが一ばん良いように思われる。次がその全文である。

       ※         ※     ※            

 ハンネン・スワッハー交霊会の支配霊であるシルバーバーチのそばに二人の子供が立っていた。そして二人が代わるがわるクリスマスタイム(十二月二十四日~ 一月六日)のしばしの別れの挨拶をすると、シルバーバーチはまず姉のルースに

 「上品さとたくましさ、愛と叡智を身につけるようにね」と言い、続いてポールに
 「たくましくなりなさい。そして自分の背後には霊の力が控えているのだという確信を忘れないようにね」と言い、 最後に二人に

 「私はいつでも私の存在のすべてをかけ、愛の心と霊の力を傾けてお二人のために尽くしますよ」と述べた。

 確かにそう述べたのであるが、こうして活字にしてしまうと、二人の子供が質問しシルバーバーチが答えるという形で、年一回、六年間も続けられてきた三人の間の情愛の温かさは、その片鱗すら伝えられない。

一時間と二十分、二人は真剣そのもので質問し自分の意見を述べた。若いとはいえ、はやスピリチュアリズムの真理が二人の生活の一部となり切っているようだ。

 二人は質問すべき問題を二人だけで話し合って決め、大人のサゼスチョン(提言・助言)を一切ことわった。その問答が始まった。


 〇〝死に方〟は死後にどう影響するか

ルース 「人間が死ぬときの死に方というのが霊界へ行ってから影響するのかどうかが知りたいのです。つまり自然な死に方の方が霊界へ行きやすいのかということです」

シルバーバーチ 「もちろんです。大きな違いがあります。もしも地上のみんなが正しい知識を持ち自然な生き方をすれば──もしもですよ──そうすれば死に方があっさりとして、少しも苦痛を伴わなくなります。そして又、死後の霊の身体を調節する必要もないでしょう。ところが残念なことに、実際はそんなにうまい具合に行っておりません。

 地上を去って霊界へ来る人のほとんどが自分がこれからどうなるのか、自分というのはいったいどのように出来上がっているのか、霊的な実在とはどんなものなのかについて恐ろしいほど無知なのです。その上、地上で十分な成長をしないうちにこちらへ来る人がそれはそれは多いのです。

そういう人は、私がたびたび言っておりますように、熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。ルースちゃんも知っているように、そんな果物はおいしくありませんね。

 果実は熟せば自然に落ちるものなのです。霊が十分に成長すると自然に肉体から離れるのです。いま私の世界へ、渋いくだものや酸っぱいくだものがぞくぞくとやってきております。

そのため、そういう人たちをこちらで面倒を見たり、監視したり、手当てをしたり、看護をしたりして、霊界に適応させてあげないといけないのです。みんながちゃんとした知識を持ってくれれば、私のように地上の人間の面倒を見ている者はとても手間がはぶけて有難いのですけどね。

ルースちゃんの言う通り、死に方によって大変な違いが生じます。以上のような答えでいいですか」

ルース「ええ、とてもよく分かりました」

(訳者注── ルースが〝死に方〟と言ったときたぶん自然死でない死に方、すなわち事故死、病死、戦死、自殺といったものが念頭にあったはずで、シルバーバーチも一応そのことを念頭に置いていたことは〝霊の身体を調節する必要もないでしょう〟という言葉から窺われるが、もう少し具体的なことを述べてほしいところである。

そこで、最近入手したスカルソープという人のいわゆる〝体外遊離体験〟の書物から霊界の病院を訪れた時の模様を紹介しておく。

 ≪霊界の妻との関係と思われるが、私は妻の勤める霊界の病院へたびたび連れて行かれる。病院といっても地上から霊界入りしたばかりの人を介抱する施設である。

 あるときその施設を妻の案内で見学したのであるが、そこは若い女性ばかりの患者を介抱する施設だった。そこの食堂へ行ってみるとちょうど食事中で、私も妙な食欲を覚えた。テーブルの間を通り抜けながら患者のオーラとコンタクトしてみたが、死因となった事故のショックや恐怖、病床での苦しみや不安の念が根強く残っていた。

 中には地上の病院での消毒液の臭いが漂っている者もいた。事故死した者の腕や首や顔に傷当ての絆創膏の跡がうっすらと残っている人もいた。精神に焼きついた映像がまだ消えていないのである。

 しかしホール全体に穏やかな雰囲気が漂っていて、一人として病人臭さは見せていない。これは高級界から間断なく送られてくる生命力のせいで、こうした特殊な患者にはそれが必要なのである≫

   
 〇〝霊的(スピリチュアル)〟と〝心霊的(サイキック)〟の違い

ポール「インディアンには儀式のようなものをして、雨を降らせることが出来る人がいましたが、それには霊界の人がどのように関係しているのですか。何か関係があるのですか」

 SB「関係ありません。心霊的法則と霊的法則とは少し違うのです。まったく同じではないのです。どちらにでも言いかえることが出来ると思っている人がいますが、同じものではありません。

 さて、かつてインディアンという民族は地上の物的現象に関係した心霊的法則について良く知っておりました。純粋に物的な現象です。そして、腕のいい熟練したまじない師は、儀式によってその心霊的要素を引き寄せる能力を具えていたのです。

 実はこれは簡単に説明するのが難しい質問なのです。とにかく霊界とは何のつながりもないのです。地上の物的な現象と関係した心霊的法則とのつながり方が大きいのです。こんな説明ではポール君にはよく分からないでしょうね?」

ポール「いえ。分かります。ただ、心霊的法則というのはどんなものですか」

 SB「やっぱりそこまで話さないといけませんかね」

 ここで、交霊会の終わりが近づくまでは大人は口出しをしてはいけないというルールを破ってメンバーの一人が「それはサイコメトリのようなものでしょうか。あれは必ずしも霊的法則とは関係ないと思うのですが・・・」

 SB「例ならばいくらでもあげられるのですが、この二人の子供にいちばんよく理解してもらえるものを考えているところです。たとえば霊視能力者の場合を例に挙げてみましょう。霊視がきくと言われている人でも、霊界のものは何も見えない人がたくさんいます。

(日本語ではこれを透視能力という──訳者)この場合は心霊的な能力の一部にすぎません。ですから心霊的法則の支配を受け心霊的な能力で見るだけで、その背後に霊界の人間とのつながりはありません。他界した人の姿も見えません。肉眼に見えない遠くの情景を見ることは出来ます。

予知もできます。未来を覗いたり過去の出来事を当てることもできます。ですが、そうしたことが霊界と全くつながっていないのです。生まれながらに具わっている純粋に心霊的な能力なのです。これでわかりますか」


 二人の子供に変わって母親が「私はそういうことがあるとは思ってもみませんでした。霊界とのかかわりなしに証拠を言い当てたり物事を見抜いたりすることが出来るとは知りませんでした」


 SB「でも、事実、そうなのです。この地上界の範囲だけの心霊的能力というのがあるのです。現に多くの人がそれを使用しております。五感の延長なのです。霊の世界とは何の関係もありません。物的法則とつながった心霊的法則ないし心霊的要素の範囲内の現象です。

易占い──本ものの場合ですが──あるいは本物の水晶占いで霊的な働きかけなしに見たり聞いたりすることが出来るように、心霊的能力を駆使できるまじない師は、ある種の儀式によって物的法則の背後にある力をその心霊能力と調和させて雨を降らせることができたのです。私にできる説明はこんなところですが・・・」

 別のメンバー「実によく分かりました。面白いテーマだと思います。私も、そうした能力がどの程度まで延ばせるのだろうかということに関心がありましたので・・・・・・」

 SB「その可能性は大変なものです。インドにはヨガの修行者ですごいのがいます。それでも霊界とは何のつながりもありません。彼らが霊の姿を見たら、たまげることでしょう」

 別のメンバー「霊を見たらその容姿を述べるのではないかと思いますが・・・・・・」

 SB「その時はすでに波長の次元が違います。霊媒現象というのは霊的なものと心霊的なものとの組み合わせです。その融合作用で霊的通信が行われるのです。霊界と交信する能力は霊媒の持つ心霊能力だけで行われるのではありません。支配霊ないしは指導霊との協力によって行われるのです」

 ポール「すみません。僕は頭が悪いものですからサイキックとスピリチュアルとはどこが違うのか、まだよく分かりません。今までは一緒だと思っていました」

 シ「似てはいますが、まったくいっしょではないのです。心霊的能力のすべてが開発されても、それが高級霊の指導を受けてスピリチュアルな目的のために使用されるようになるまでは、それは霊的能力とは言えないのです。

ポール君は物的身体のほかに霊的身体も具えています。その身体には生まれつきあらゆる心霊能力が潜在していますが、それが開発され、しかも霊界の力と融合した時始めてスピリチュアルと言えるものになるのです」


 〇死後の界層の違いは何で決まるか

 ポール「死後の世界のレベルについて教えてください。シルバーバーチさんはよくその違いについて話しておられますが、どういう違いがあるのですか」

 SB「成長の度合が違うのです。しかしその違いは地上のようにものさしで計れるものとは違います。もし私がポール君に愚かな人と賢い人、あるいは欲張りと聖人との違いを寸法で計りなさいと言っても、そんなことはできませんね?

 しかし、それぞれの界に住む霊の成長には大きな差があるのです。こちらでは魂の成長に応じた界、つまりその人の知性と道徳性と霊性の程度にちょうどよく調和する界に住むようになります。

界の違いはそこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界に住むことになります。

 地上はその点が違います。物質界という同じレベルで生活しているからといって、みんな精神的に、あるいは霊的に、同じレベルの人たちばかりとはかぎりません。身体は同じレベルのもので出来ていますが、その身体つまり物質でできた肉体が無くなれば、魂のレベルに似合ったレベルの界へ行くことになります」


 ポール「はい、よく分かりました。もう少し聞きたいことがあります。この地球はそういう界の一つですか。それとも特別なものですか」
℘131
 SB「いいえ、地上世界も霊的な世界の一部です。なぜかというと、霊の住む世界は全部が重なり合っているからです。宇宙に存在する生活の場のすべてが互いに重なり合い融合し合っており、霊界とか幽界とか物質界というのは一つの宇宙生活の違った側面をそう呼んでいるだけです。ポール君は今物質界にいますが、同時に幽界にもつながっているのです」


 〇知識には責任が伴う
 
ルース 「あたしは (この交霊会での質問の準備をしている時に) シルバーバーチさんはあたしたちよりはるかに多くのことを──あたしたちが夢にも思わないようなことを知っているのだから、あたしたちの方から質問しなくてもちゃんとお話してくださるだろうと思ったりしました」

 SB 「ええ、お話しますよ。でも、だから何の質問もしなくていいということになるのですか」

 ルース 「なりません。あたしが知りたいのは、子供のころからスピリチュアリストとして育てられて、あたしたち二人は得(とく)をしているかどうかということです」

 SB「自分ではどう思っていますか」

 ルース 「わかりません。だってあたしは霊の世界に住んでないでしょ?だから、どんな得をするか、自分ではわかりません」

 母親 「この子はスピリチュアリズムを知らない生活というのを体験していないものですから、比較が出来ないのです。その点シルバーバーチさんは両方ご覧になれます」

 SB 「私は目を閉じていても見ることができます。私が〝自分ではどう思ってますか〟と聞いたのは、ルースちゃんのお友だちには死んでからのことを知らない人がたくさんいるからです。そういうお友だちはルースちゃんと比べて得だと思いますか損だと思いますか」

 ルース 「霊の世界へ行く時に何の準備も出来ていないという点では損だと思います。その知識も体験もないからです。でも、それ以外のことはよく分かりません。すみません」

 ポール「今ルースが最初に言ったことはその通りだと思います。でも、それ以外のことでは損も得もないと思います、死ねばどうなるのかが分っているのは得だけど、それ以外では別に変わりはないと思います」

 SB「答えは簡単なのですよ。知識はすべて得になるということです。ところが、残念なことに、そうとばかりも言えない事態が生じるのです。知識は確かに喜びと幸せと落着きをもたらしてくれますが、今度はそれをどう生かすかという責任ももたらすのです。知識は、無知から生じる愚かな心配を取り除いてくれます。

知識は自分とは何かを自覚させ、これからどうすべきかを教えてくれます。そして、真理を知らずにいる人を見て気の毒だと思うようになります。真理を知らなかったために罪を犯す人は勿論それなりの償いをさせられますが、真理を知っていながら罪を犯す人は、もっと大きな償いをさせられます。

より多くを知っているということが罪を大きくするのです。ポール君は真理を知っているだけ得です。しかし、これからどういう行いをするかが問題です」


 〇魂の成長には試練と経験が大切
 
 メンバーの一人「それだけはあなたもどうしようもないことなのですね?」

 SB「私がその摂理を変えるわけにはいかないのです。私はただ摂理はこうなってますよとお教えするだけです。これまで私は何度か皆さんが困った事態に陥っているのを見て、その運命を何とか肩代りしてあげたい、降りかかる人生の雪と雨と寒さから守ってあげたいと思ったことがあります。しかし、それは許されないことなのです。

なぜなら、そうした人生の酷しい体験をさせている同じ力が、人生に光と温もりをもたらしてくれるからです。一方なくして他方は存在しないのです。試練と体験を通してこそ霊は成長するのです」


 ルース「シルバーバーチさんにもそれが許されないのはいいことだと思います。困ったことがあるたびにシルバーバーチさんが助けてくれたら、いつも誰かに頼らないといけない人間になってしまうからです」

 ポール「人生の目的がなくなってしまいます」

 SB「そうです。でもね、私にとって、それは辛いことなのですよ。そのうちお二人も、本当の意味で〝愛する〟ということがどういうことなのか、愛する人が苦しんでいるのに何もしてあげられないということがどんなに辛いことかが分かる日が来ます。

 そこで、先ほど述べたことにもう一つ付け加えたいことがあります。これはルースちゃん、あなたにお聞かせしたいことです。(スピリチュアリズムを知ったことによって生じる)一ばん大きな違いは、自分が一人ぼっちでいることが絶対にないということを知ったことです。

いつどこにいても霊の世界からの愛と友情と親愛の念を受けているということです。最善を尽くしているときには必ず霊界から導きの力が加わっていること、あなたの持っているものから最善のものを引き出し、あなたの人生から最善のものを学び取ってくれるようにと願っている、友愛と親切心と協力精神に満ちた霊の存在がまわりにいてくれているということです。

このことがスピリチュアリズムがもたらしてくれる一ばん有難いことです。このことを知っただけルースちゃんは、それを知らない人より幸せだということになります」


  〇男性の役割と女性の役割

 ポール「これまでの人類はずっと男性が女性を支配してきたように思えるのですが、なぜですか。原因は何ですか」

 SB「原因は女性があまりに物ごとを知らなすぎたからです」

 ポール「それを改めることができるでしょうか」

 SB「改める必要はありません。これまでも実際は女性の方が男性をリードしてきているからです」

 メンバーの一人「あなたはこれまでそういう捉え方はなさらなかったように思いますが・・・・・・」

 SB「ええ。でも、これにはそれなりの根拠があるのです。男性が狩りに出ていた時代の名残りです。つまり男性が家屋を建て、食料を取りに出かけねばならない時代においては男性が絶対的な支配力を持ち、お腹を空かして疲れたからだで帰ってきた時に女性が優しく迎えて介抱し、食事を用意してあげていました。

男性が行動的で女性が受動的だったために、何かにつけて男性に有利な習慣が出来ていきました。しかし、今それが変化し始め、どちらが上でもどちらが下でもない、お互いが補い合うようになっているという認識が行き亘りつつあります」

 ポール「良く分かりました。有難うございました」


 〇愛は霊にとって酸素のようなもの

 SB「お二人とはずいぶん永いお付き合いですね。二本の小さな苗木がまっすぐに育っていく様子を見てまいりました。そして、お二人が絶え間なく増えていく知識と理解力の中で生きておられるのを見てうれしく思っております。
   
 まだまだ知らねばならないことがたくさんあります。でも、少なくともお二人は霊的な真理に守られて地上生活に立ち向かっており、その目的を理解し、何をしていても誠意さえあれば決して挫けることはないことを知っておられます。私はいつも身近にいて、私にできるかぎりの援助をいたしましょう。

 今日はルースちゃんとポール君の二人が来てくれて、私はほんとにうれしく思っております。私がいつも身近にいることを知っていただくいい機会になるからです。私は決して遠くにいるのではありません。

お二人がお家にいる時も、学校にいる時も、遊んでいるときも、すぐそばにいることがあります。おかしくて笑い出すような光景を見ることもあります。

ですが、地上生活から学び取ることもたくさんあります。私はまだまだ学ぶことが終わったわけではありません。西洋人の生き方や習慣には興味をひかれることがいろいろとあるからです」


 母親「私たちは暖炉に火をくべながら、よくシルバーバーチさんのことを思い出すことがあるのですよ。暖炉を囲んで、シルバーバーチさんは暖炉や炉火はお好きだろうかね、などと語り合うんですよ」

 SB「私はいつも私へ愛情を覚えてくださる方々の愛念によって心を温めております。私にとっては地上で窒息しないために吸入できる唯一の酸素は〝愛〟なのです。地上へ降りて来るために、お預けにされる喜びを補ってくれる最大の慰めは皆さんからの愛なのです。

(私の本来の住処である)高級界の霊的生活の荘厳をきわめた美しさを一度体験されたら──一度でもその世界の恩恵をほしいままにできる生活を体験されたら、悪意と敵意、憎しみと闘争、流血と悲劇に満ちたこの冷たく陰うつな地上生活はもう二度とご免こうむりたいと思われるはずです。

 そんな世界に身を置いている私にとって、皆さん方の真理普及の行為によって魂が目覚めた人々の心に灯された愛念が何よりの慰めとなっております。地上世界での仕事は困難をきわめます。冷え切った心、歪んだ心の持ち主、私たちからの叡智や指導はおろか、自らの愛すら感じなくなっている人々が大勢います。

そうした中にあって親近感や同情心、僚友精神や同志的友情がいかに大きな元気づけとなるものであるか、ご存知でしょうか。みなさんが想像される以上に私にとって力となっております。さらに多くの人々へ手を差しのべていくための糧を供給してくださっていることになるのです。

 ならば、道を見失い、同情の言葉に飢え、導きと慰めと希望の言葉を求めてその日暮らしの生活に明け暮れている気の毒な人たちのことに常に思いを馳せようではありませんか。そういう方たちはみな、この世に自分一人だけ取り残されたような悲哀の中で生きているのです。

そういう人たちこそ私たちが霊力の行使範囲に導くために何とかしてあげなくてはならないのです。物憂い悲嘆の生活を一変させ、希望の光と真理の感触とを生活の中にもたらしてあげることができるのです。

 ご承知の通り私はこれからしばしの間地上を去ります。うしろ髪を引かれる思いがいたしますが、しかし時には高き世界からのエネルギーを再充電し、同じ使命に携わる同輩と協議し、失敗箇所と成功、予定どうりに進行しているところとそうでないところについて指示を仰ぐことがどうしても必要なのです。

そのとき私は皆さんからの愛をたずさえて行き、私からの愛をみなさんにお預けしてまいります。再び戻ってくる日を心待ちにいたしております。

 それでは最後にみなさんとともに宇宙の最高のエネルギー、私たちがその一部を構成しているところの神のエネルギーに波長を合わせましょう。そのエネルギー、神の御力、大霊の息吹の恩恵を改めて意識いたしましょう。

その最高の力を受けるに相応しい存在であるように努力いたしましょう。託された信頼を裏切ることのないように努力いたしましょう。高貴な目的のための道具として恥ずかしくない生き方、考え方、物の言い方を心がけましょう。そして、いかなる事態に遭っても、その神聖なる使命を傷つけることのないように致しましょう。

 双肩に担わされた使命を堂々と遂行いたしましょう。これから降りかかる如何なる受難にも、人のために己を役立てたいと望む者は常に限りない愛を秘めた大霊と一体であるとの信念を燃やして、不撓(ふとう)不屈の決意を持って立ち向かいましょう」

       ※      ※       ※                 

 続いて翌年のクリスマスにもルースとポールの二人が招かれている。シルバーバーチによれば、二人の存在も計画の中に組み込まれており、二人を通して、それなくしては得られない掛けがえのない力を得ているということである。

 このたびの交霊会はクリスマスとはどういう意味があるのかという話題から始まった。というのは、その頃ポールの学校でクリスマスについてのお話があり、ポールはその意味がよく分からなくて、家に帰ってから両親に説明を求めたばかりだったのである。
 
 そのいきさつを聞いたシルバーバーチがこう述べた。


 「その問題に入るに先立って知っておいていただかねばならないことがあります。というのは、永いあいだ地上人類を悩ませてきたつまらない問題からさきに片づけておく必要があるからです。ポール君は神についてどういう点が良く分からないのでしょうか」


 ポール「これまでいろんな人が神についていろんな説き方をしているみたいです。それぞれみんな違っており、これだと得心いくものが一つもないのです」



 〇〝神〟の思想の進歩

 SB「その通りなのです。忘れてならないのは、人間はつねに成長しており、精神の地平線が絶え間なく広がっているということです。言いかえれば、境界線が取り除かれていきつつあるということです。知識が進歩すれば宇宙そのものと、その宇宙に存在するものについて、より大きな理解力がもたらされます。

 太古においては人間は環境についてほとんど知識がなく、自然現象についてはまったく理解していなかったために、何もかも神様の仕業(しわざ)にしておりました。その神様についても人間を大きくしたような存在としてしか想像できませんでした。

そこに犠牲(いけにえ)の思想の原点があります。雷が鳴り稲光がすると神様が怒っておられるのだと思い、その怒りを鎮めるためにいろんなお供えをするようになったのです。

 そうした野蛮な小さい考えも次第に大きく成長し、人間は無知の暗闇から脱し、迷信の霧を突き抜け、知識の夜明けを迎えて、宇宙の根源はどうやら人間の想像を超えたものらしいということに気づきはじめました。

しかし、だからといって古い概念がそう簡単に消えたわけではありません。何かすごく大きな人間の男性のような姿をした神様が宇宙をこしらえたのだという概念が、何十世紀もたった今もなお存在しています。

 さて私たちはさらに一歩進めて、宇宙を創造しそして支配しているものは、男性神でもなく、女性神でもなく、とにかく形ある存在では無いと説いているのです。人間的な存在ではないのです。

宇宙は法則によって支配されており、その法則は規模においても適用性においても無限なのです。それは無限の愛と叡智から生まれたものであり、したがって完璧であり、誤ったり失敗したりすることが絶対にないのです。

 私は生命とは霊のことであり、霊とは生命のことであり、初めもなく終わりもないと説いております。霊を物質の中に閉じ込めてしまうことはできません。物質というのは霊の至ってお粗末な表現でしかありません。

物質界に生きる人間は視覚と聴覚と触覚と嗅覚と味覚の五つの感覚でしか物事を判断することが出来ませんから、その五感を超えた生命の本質を理解することはまず無理なのです。

 そうした限界の中で生きているかぎり、その限界の向う側にあるものが理解できるわけがありません。そこで次のような結論となります。すなわち宇宙は自然法則によって表現されていること、その法則の背後にある叡智は完全であること、しかし人間は不完全であるためにその完全さを理解することができないということです。

人間が個体性を具えた限りある存在である以上、個体性のない無限の存在を理解することは出来ないのです。これはとても難しい問題ですが、少しでも理解の手助けになればと思って申し上げてみました。

 人類の全てが──地球という一個の天体上だけではありません。数え切れないほどの天体上の人間的存在のすべてがそうなのですが──私のいう大霊、皆さんのいう神の一部を構成しているのです。大霊とは全宇宙の霊の総合体だからです。これなら分かるでしょう ?」


 ルース「人間は進歩するほど神について複雑な考え方をするようになり、複雑になるほど真実から遠ざかっていくのではないでしょうか」



 〇ほんとうの進歩とは

 SB「本当の意味での進歩であればそういうことにはなりません。実は〝脳〟ばかり発達して〝精神〟や〝霊〟の発達が伴っていないことがあるのです。すると頭のいい人が多くなりますが、頭がいいということは必ずしも偉大な魂、あるいは偉大な精神の持ち主ということにはならないのです。

 それは脳という物質のみに限られた発達なのです。そういう発達をした人の中には複雑なものほど立派であるかに思っている人がいることは確かですが、本当の発達、精神と魂の発達を伴ったものであれば、霊的なことについてもより深く理解するようになります。

正しい発達とは精神的ならびに霊的な発達のことを言うのです。そういう発達をしている人は古い間違った概念を捨てて、ますます真理に近づいてまいります。

 いつも忘れずにいてほしいのは、無限の存在である大霊のすべてを、限りある言語で説明することは不可能だということです。大きいものを小さいものの中に入れることはできません。これは当たり前のことです。分かってもらえたかな? さてほかに、どんな質問がありますか」



  〇人類最大の発見は?

 ルース「人類による最大の発見は何だと思われますか」

SB「これは難しい問題ですよ。〝最大〟という言葉の意味がいろいろあるからです。どういう意味での〝最大〟なのか──物的にか、精神的にか、霊的にか、それを前もって考えてから質問すべきですね。

 私の考えでは、人類による最大の発見は人間は動物とは違うこと(霊長類であること)を知ったこと、自我意識というものがあることを知ったこと、霊性を自覚したこと、お粗末とはいえ身の回りの現象について知る能力があることを知ったことです。それが他の全ての発見へとつながったからです。

 今〝霊性を自覚したこと〟と言いましたが、その意味は、人間が肉体以上の存在であること、物資を超えた存在であること、やがて朽ち果てて、土に帰っていく物質的容器とは違う存在であることを知ったということです。私はこれが何よりも大きな発見であると思います。

 が、ルースちゃんの質問が私にとっての最大の発見は何かという意味であれば、話はまた違ってきます」



  〇シルバーバーチの最大の発見

 ポール「それを聞きたいです。ぜひ話してください」

SB「私にとっての最大の発見は地上の多くの人たちが善意と情愛と僚友意識と、そして愛までもこんなにたくさん持っておられることを知ったことです。

また、訴え方が正しければ、その愛を本性から呼び覚ますことができるということ、最高の波長にさえ反応してくれるということ、気高い品行を志し、気高い思念を持つことができるということ、自己の利益や打算を超えた、より大きなものに心を動かされうるということ、理想主義、愛他精神、奉仕的精神にも共鳴してくれるものであることを知ったことです。

 この冷たくてうっ陶しい、およそ魅力のない陰うつな地上での仕事に打ち込んできたこれまでの永い年月を振り返ってみて、私は一度もお目にかかったことのない人でありながら、私の訓えで救われたという気持ちから、感謝の愛念を送ってくださる方々が増えることによって、地上にこうまで温かみがもたらされるものかと、驚きの念を禁じ得ません。

それほど多くの愛を頂戴することになろうとは予想もしませんでした。私にとってはそれこそが感謝の源泉であり、それが私を更に鼓舞し、同時に、勿体ないことだという気持ちにもさせられます。なぜなら私はそれに値するほどのことはしていないという自覚があるからです」

 ルースとポールにとって、この答えはさすがに意外だったようである。子供心に、もっと楽しい話を予想していたのであろう。が、二人はかえって興味をそそられ、さらに質問する。

 
  〇物質文化の発達が利己主義を生んだ

 ポール「シルバーバーチさんが地上へ降りてこられてから地上にはどんな変化があり、霊界ではどんな変化がありましたか」

 SB「大ざっぱに言えば、地上における変化は〝文明化〟といわれる過程でしょう。人類は物質的な面で大きく飛躍しました。大自然の仕組みについて多くの発見をしました。山頂を征服し海底を探査するようになりました。大陸と大洋を横断するようになりました。物質的な面では非常に高度なものを成就しました。驚異的な発達ぶりであったと言えましょう。

しかし、同じ発達が精神面と霊的な面に見られないのです。人類は物質と精神と魂のうちの物質面だけが異常に成長してしまいました。他の二つの側面がそれについて行っていないのです。それが利己主義と言う、地上でもっとも厄介な罪を生むことになったのです。

 さて、こうした事実から学ばねばならない教訓があります。それは、物質面での発達を、全面的ではなくてもいいから、霊的ならびに精神的側面にもある程度反映するようにならないかぎり、人類は自らの存在の産物、自らの創造の成果を平和的生活の中で味わえるようにはならないということです。

そうならない限り地上には混沌と無秩序と不協和音が絶えないということです。良いことをしようという意欲を起こさせ、協調と奉仕の仕事へ鼓舞するのは精神と霊の発達なのです。

 精神と霊の発達は利己主義を滅ぼし、代わって霊的教訓をもたらします。精神と霊に宿された才能を開発し、その上で物質的文明の産物を自分一人のためでなく他のすべての人たちのために活用するようになれば、いわゆる地上天国が実現されます。地上世界のすべての人間が自分より不幸な人のために役立てる何らかの才能を具えてるのです。

 さて、その間に霊界ではどんな変化があったかというご質問ですが、これは地上世界のことより、はるかにお答えしにくい問題です。簡単に言ってしまえば、地上とのコミュニケーションの橋を架ける仕事がかつてなく組織的となり、二度と地上世界がチャンネル(霊媒・霊能者)の不足から霊界と絶縁状態となることのないよう、入念な計画が工夫されそして実行に移されているということです。これ以上の説明は難しいです」

(訳者注───シルバーバーチの念頭には多分、オーエンの 『ベールの彼方の生活』第四巻で叙述されているように、天界の大軍がキリストを中心として組織されてゆっくりと降下し、それが今日スピリチュアリズムという名のもとでの霊的浄化運動となっていることがあったのであろう)


 メンバーの一人「霊界においてそうした大きな仕事が成就され、コミュニケーションのための回線が敷設され、計画が順調に推進されていることを知って私たちもうれしく思います。これには秀れた霊媒が要請されることになりますが、今それが非常に不足しております」

SB「道具はそのうち揃います。霊力が多くのチャンネルを通じて恩恵をもたらすようになります。どんどん増えていきます。これまでの成果を見てこの程度のものと思ってはなりません。決してこの程度で終わるものではありません。昨日よりは今日、今日よりは明日と、ますます大きなことが成就されていきます。

それが進歩というものです。我々も進歩していくのです。〝われわれの後は誰が引き継いでくれるのだろう〟──そう心配なさる方が必ずいるものですが、あなた方の仕事が終われば代わって別の人が用意されます。かくして霊力が今日以上に地上へ流れ込みつづけます。それは誰にも阻止できません」


 ルース「今はスピリチュアリズムという形で霊界と地上界との間にコミュニケーションが開かれておりますが、それ以前にも大きなコミュニケーションの時代があったのでしょうか」

 SB「一時的にインスピレーションがあふれ出たことはありますが、長続きしていません。この度のコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理・管督が行き届いており、規律があります。一大計画の一部として行われており、その計画の推進は皆さんの想像も及ばないほどの協調体制で行われております。

背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮がなされております。すべてに計画性があります。

 そうした計画のもとに(一九世紀半ばに)霊界の扉が開かれたのです。このたび開かれた扉は二度と閉じられることはありません」 (訳者注───一八四八年の米国でのフオックス家での心霊現象を皮切りに、地球の一大浄化活動が始まったということ)



  〇睡眠中は何をしているか

 ルース 「あたしたちは眠っている間はどんなことをしているのでしょうか」

SB「みなさんは毎晩その肉体を後にして別の世界へ行きます。訪れた世界での体験は二種類に分けることが出来ます。一つは教育を目的としたもので、もう一つは純粋に娯楽を目的としたものです。教育的体験では、いずれ訪れる霊界生活で使用する霊的身体について教わります。娯楽を目的とした体験の場合は、たとえば霊界で催されているいろいろな会場を訪れます。

 いいですか、ルースちゃん、あなたは昨晩私の世界の庭園へ連れて行ってもらったのですよ。それからポール君は音楽を聞きに行ったのですよ」

 ポール「二人ともそのことを覚えていないなんて、つまんないですね」

 SB「確かに、そう思うのも無理ないかもしれませんね。でも、それは肉体から離れている間の(異次元の)体験を肉体の脳で理解しようとするからなのです。ポットの水ぜんぶをグラスに入れようとしても入りませんね。それと同じです。でも、夢を注意して見ていると好いヒントになるものが見つかるはずですよ」

 ルース「わけの分からない夢はどう理解したらいいのですか」

 SB「変てこな夢のことですか?。あれは(異次元の)体験を脳で思い出そうとするからそうなるのです。脳は小さな袋のようなものです。霊体が肉体に戻ってきて、その間の体験を脳に詰め込もうとするのですが、小さな袋には全部が入り切れないのです。それをムリして押し込もうとするためにあのような変てこな形になるのです。

夢というのは別世界での体験がそのまま現れるのではなく、その断片的な思い出にすぎません」

 ポール「シルバーバーチさんのお仕事でぼくたちにもお手伝いできることがあれば教えてくだい」

 SB「私にあなたたちの愛の念を送ってください。私を信頼し、善意の思念を送ってください。それが私の何よりの食べものであり飲み物なのです。ただただ愛が欲しいのです。善意をいただきたいのです。それさえいただければ私は幸せなのです。しかし、どうぞ私の仕事のことで心配しないでください。自分でちゃんとやりますから」


 ここでいったん話題が外れてメンバーの人たちと話した後再びルースとポールに向かって次のような感動的な教訓を述べた。

 SB「お二人のこれからの人生が日向ばかりだとは申しあげられません。曇りの日もあることでしょう。時には雨に打たれることもあるでしょう。困難なことがあるでしょう。試練に出会うこともあるでしょう。人生は一本調子のものではありません。

色彩もあり変化もあります。障害にも出会うことでしょう。何もかもうまく行く楽しい日々もあれば、すべてが絶望的に思える暗い日々もあることでしょう。そうしたさまざまな体験の中でこそ性格が培(つちか)われるのです。人生を形づくっているさまざまな体験の中で培われるのです。

 もしも人生が初めから終わりまでラクに行ったら、もしも乗り切るべき困難もなく耐え忍ぶべき試練もなく、克服すべき障害もないとしたら、そこには何の進歩も得られないことになります。レースは競い合うからこそ価値があるのです。賞はラクには貰えず一生懸命頑張ったあとにいただくから価値があるのです。

そういう価値ある人間になるように努力なさい。この世に克服できない悩みはありません。ですから、悩んではいけないのです。征服できない困難はないのです。力の及ばないほど大きな出来ごとは何一つ起きないのです。

 一つ一つの経験から教訓を学ぶことです。難しいと思った時は、怯(ひる)まず自分にムチ打つのです。そうすればそれだけ前より強い人間となります。自分が霊であること、それが肉体を通して表現しているのだということ、そして自分という永遠の霊に傷を負わせたり害を及ぼしたりするものは決して生じないということを忘れないことです。

 世間でいう〝成功者〟になるかならないかはどうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じるものに目をつぶることなく、ほんとうの自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。

それさえできれば、世間がどう見ようと、自分は自分として最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ち受ける生活への備えが十分にできているという自信を持って、平然として死を迎えることができます。これが私からのアドバイスです」


 ルース「今のお話で私たちの最後の質問をしなくてもよくなりました」

 SB「さて私はそろそろ行かねばならなくなりました。私の去り難い気持ちはお分かりいただけると思います。せっかくの親しいつながりをしばらくのあいだ絶たねばならないからです。私はもうすっかり地上のお付き合いが好きになってしまいました。

しかし同時に、しばらくこのつながりを絶たないことには、かえって私の存在価値が小さくなることも事実なのです。何となれば、これから先の仕事に必要なエネルギーが摂取できるのは内奥の世界においてのみだからです。

 その世界に戻ると私は地上へ帰りたい気持ちが薄らぎます。そこが私の本来の住処だからです。何しろそこは天上的なよろこびに満ちた光輝あふれる世界なのです。しかし私にはまだまだ為さねばならない仕事があります。

これまで成した仕事がはたしてこれで良かったのかどうかを確かめたいのです。そこでこれから霊のきずなにおいて親密な間柄にある同志たちと会ってきたいのです。

 私が居ない間も私のことを忘れないでくださいね。私の影響力だけはずっと残っていることを知ってください。そのうちまた私がみずから引き受けた仕事の推進のために戻ってまいります。

日常生活において皆さんを絶え間なく見守り付き添ってあげるために戻ってまいります。皆さんと生活をともにすることは私にとって一つの楽しみなのです。お役に立つことが出来ることを光栄に思っているのです。

 では、また会う日までお別れすることにいたしましょう。私はいつも愛を持って訪れ、愛を持って去ります。皆さんに神の御恵みの多からんことを」

Monday, May 25, 2026

シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch

Edited by Sylvia Barbanell


七章 真理は法律では縛れない

 二百年以上も前の一七三五年に施行された〝魔法行為取締法〟がホコリをかぶった公文書保管所から持ち出されて、物理霊媒のヘレン・ダンカンが投獄された。(巻末〝解説〟参照)

 これを契機に次々と霊媒が迫害を受け、交霊会が警察の手で妨害された。スピリチュアリズムがかつてない大きな脅威にさらされた時期だったが、そうした事態の中でシルバーバーチはこう語った。

 「真理の行進を阻止できる力は地上には存在しません。無数の霊媒を通じて地上へ流入しつつある霊力を挫けさせることの出来る者はいません。いかなる官憲の力、いかなる政治力、いかなる国家権力を持ってしても地上から霊力を駆逐することはできません。

 時すでに遅しです、すでに無数の道具すなわち霊媒や霊感者を通じて地上へ霊力が流入しており、慰安と援助と指導と治癒、そして霊的実在についての確信をもたらしております。霊的真理の勢いを阻止しようとしても、もはや時すでに遅しです。いかなる手段を企てても、結局は挫折します。巨大な霊の潮流が地上へ地上へと押し寄せているからです。

 これまでもありとあらゆる弾圧の手段が企てられてきました。磔刑(はりつけ)がありました。宗教裁判がありました。火あぶりの刑がありました。肉体的拷問、精神的拷問、その他、こうして痛めつけられることによって魂が救われるのだという狂気の信仰を抱く偏狭な宗教家によって、身の毛もよだつ手段が次々と案出されました。

しかし、そのいずれも結局は効を奏しませんでした。〝光〟を見た霊覚者が次々と輩出し、導いてくれる霊力を信じ、永遠の真理を喘ぎ求めている人類への使命感に燃えて、その光の指し示すところに忠実に従ったのでした。

 今の時代にはもはや磔刑や火あぶりの刑は無くなりました。が、今あなた方は投獄という刑に直面しております。しかし、これまでにすでに獄舎も霊的真理に対しては無力であることが証明されております。一世紀近くも続いているスピリチュアリズムの運動がそれくらいのことで阻止できると思われますか。絶対に出来ません!

 官憲力にせよ政治力にせよ、霊力を阻止せんとする企てをものともしない忠誠心に燃えた同志がいてくれるかぎり、私たちの仕事に挫折はありません。私たちがこうして地上へ戻ってきたのは、唯物思想が生み出してきた利己主義による不公正と、無知と迷信を助長させてきた誤った宗教的教義に終止符を打つためです。

その両者が結びつくと、人類全体を包み込んでしまうほどの暗黒を生みだすことになります。が今や正しい霊的真理の光が地上に根づき、もはやそれが根絶やしになることは有り得ません。

 闘いの手を緩めてはなりません。真理は必ず勝つのです。どうしても切り抜けなければならない困難はあることでしょう。が、それが何であろうと、きっと克服できます。真理の証を手にした者が、薄暗い片隅をコソコソ歩いたり、首をうなだれヨタヨタした足取りで歩く必要はもう無くなりました。

背筋を伸ばし、霊の使者として人類の霊的再生のために、すべての者が等しく自由と寛容を享受できる〝新しい世界〟を招来するために、神のお召しにあずかったのだという誇りを持ってください。人間の霊性───これは神の霊性そのものなのです───を抑圧し弾圧し、その発現を阻止せんとするものすべてが姿を消してしまうことでしょう」

 さらに霊媒への迫害について───

 「これからも霊の道具に対する攻撃は続くでしょう。心の奥でそういうものの存在を毛嫌いする人がまだまだ多いからです。しかし、そのくらいのことで霊の絶え間ない奔流が阻止できると考えても、もう時すでに遅しです。

満ち潮の急いで押し寄せ、地上の何ものによっても阻止できなくなっております。小さな流れだった時から阻止できなかったものが、大潮流となってから阻止できるはずがありません。

 私が会得した叡智の一つは、全体像を把握するということです。私は〝俗世にあって俗人となるなかれ〟という訓えの通りの立場にあります。あなた方のように目先の出来事に動かされることがありません。あなた方は物質界に身を置いている以上、その日その日の出来ごとに右往左往させられても無理のないことです。

が、私の住処は霊界にあり、あなた方のご存知ない別の次元の摂理の働きを体験しております。その私の目に巨大な霊力が地球へ押し寄せているのが見えます。それで勝利は間違いないと確信しているのです。
  
 苦しい思いをさせられる人もいることでしょう。しかしそれは先駆者として払わねばならない当然の犠牲なのです。どんなことがあっても自分の持ち場を死守し、そこから逃げ出すことがあってはなりません。自分に預けられた真理の宝石を死守するのです。

真理を知った者の勇気ある生き方の手本を示すのです。かりそめにも〝ごらんなさい。霊的真理を吹聴していた人間がこのざまですよ〟などと言われるようなことのないように心掛けてください。

 いかなる事態が生じようと、誰がいかなる攻撃に遭おうと、私たちの仕事は止まることなく続けられます。病に苦しむ人のからだを癒し、悲しみに打ちひしがれた人の心を癒し、インスピレーションと真理を次々と送り届けて。少しでも多くの人々を目覚めさせてまいります。

 それを阻止できる程の力は地上には存在しません。それが宗教という名の外衣をまとったものであろうとなかろうと、もう時すでに遅しです」

 確かにシルバーバーチはスピリチュアリストの集会への妨害行為が続く中にあって俗事を達観する態度を少しも崩さず、こう述べた。


 「良くなる前には悪くなることがあるものです。私は少しも心配しておりません。今は時代が違います。盤石の基礎ができております。そのことは何度も申し上げております。もっともっと不自由な思いをさせられる方が身のためです。それがより大きな自由を得させてくれるからです。

 しかも、その迫害の首謀者がスピリチュアリズムを目の敵にしている連中であることは実は有難いことなのです。一致団結して共同の敵を迎え撃つ態勢を整えさせてくれることになるからです。所詮、神の道具の全てを投獄するわけにはいかないのです。霊的真理普及のために捧げられている集会の門のすべてを閉鎖させることはできないのです。

 教会にはもはや霊的真理を追い払う力はなくなりました。(第三巻九五頁参照)。みなさんは、ひとにぎりの者が権力を振り回したあの暗黒時代(ヨーロッパの中世)に引き戻されるのではありません。それとは事情が異なります。

今は一段と啓発された時代です。男女の区別なく自由を、霊の生命ともいうべき自由を味わっております。その自由はさらに大きくなることはあっても、抑圧されることは有り得ません。

 その自由の炎を燃やし続けさせることが私たちの仕事の一環でもあるのです。魂に訴えて生きる熱情を燃え立たせ、自由を守る意欲に点火し、霊力によって生活態度が一新され活気づけられる、そうした方向へ手引してあげることです。

 いったん束縛から解放された魂は隷属の状態を嫌うようになるものです。(当たり前のことを言っているようであるが、人間は抑圧され続けると何かに隷属している方が気楽に思える病的奴隷根性が芽生えてくる事実を踏まえて述べている──訳者) 

これまで私たちは多くの人間を聖職者の策謀の檻から救い出し、神学の手枷をはずしてあげ、教義の足枷から解き放してあげてきました。もう何ものにも束縛されなくなった自由のよろこびを味わっている人が無数にいます。今や自由の身となったのです。自由の空気を満喫しています。自由解放の陽光の中で生きております。

 ありません!心配のタネは何一つありません。神の道具として目覚めていく霊媒が増えれば増えるほどスピリチュアリズムは勢力を増してまいります。一人でも多くの人を我々の霊力の行使範囲に手引してあげることが目的です。

これは二つの側面を持った仕事です。一つは各自が潜在的に所有する霊的原動力を発動させることであり、もう一つは、その人たちを背後霊の影響力下に置いてあげることです。

 私は、同じ愛でも、家族的な絆に根ざした愛よりも、奉仕的精神に根ざした愛の方がはるかに尊いと信じている者の一人です。奉仕的精神から発動した愛の方がはるかに偉大です。

自分という〝一個〟の存在の心と知性と魂を〝多数〟の人間の運命の改善に役立ようとするとき、そこにはその見返りとしての己れの栄光をひとかけらも望まない〝光り輝く存在〟を引き寄せます。生きる喜びをひとかけらも味わうことを許されない無数の魂の存在を地上に見ているからです。

 もしも皆さんが霊の目を持って見ることが出来れば、宇宙の全次元の存在の場をつないでいる絆をごらんになることが出来るのですが、それがごらんいただけないのが残念です。

それをごらんになれば、地上の誰一人として見棄てられたり取り残されたり無視されたり見落とされたりすることがないこと、霊的なつながりが人間に知りうるかぎりの最低界から人間が想像しうるかぎりの最高界まで連綿として続いていることを理解されることでしょう。

 その全次元を通じて〝光り輝く存在〟が隈なく待機し、連絡網を通じで霊力を一界また一界と段階的に送り届け、最後は物的チャンネル(霊媒・霊能者)を通して地上へ届けられます。それはそれは強大なエネルギーです。 その真の威力は地上の言語による説明の域をはるかに超えております。

 みなさんの協力を得て私たちはずいぶん多くの成果を上げてまいりました。しかし、まだまだ目標には到達しておりません。多くの仕事が為されましたが、これからも多くの仕事が為されることでしょう。そうとは知らずに影響を受けている人が大勢います。

自分では無意識のまま霊力の通路となって役立っている人が大勢います。ご本人は何かしら感じるものがありながらも、それを説明できず、ましてや霊の世界、死後の世界からの働きかけとは思いもよりませんが、しかし、ふだんの生活の中で常識では考えられないことが起きていることに気づいています。

そういう人はみなさんから近づきやすい条件を備えていることになります。

 地上生活が五感のみによって営まれているとする古い概念が打ち破られたことは大きな収穫です。今や新しい概念が地上生活に行きわたりつつあります」


 ここでメンバーの一人が「キリスト教が少しでもその説を改めた形跡は見当りませんが・・・」と言うと

 「少しずつ身を削ぎ落とし古い概念を新しい概念と調和させようとする試みがなされつつある証拠がたくさん見られます。過去一世紀にわたるキリスト教正教の歴史は、固定化した古い教義を新しい知識でもって解釈し直し、それがそれまでに説かれてきたものとは違って象徴的な意味でしかなかった、という受け取り方に向かう努力の長い記録であったと言えます。

よくごらんになれば、それが延々と続けられてきていることがお分かりになると思います。

 先見の明のある牧師たちは〝いや、これはもう通用しない。科学と知識と発明・発見によってこの宇宙は我々の先輩が考えたものよりもはるかに大きいことが分かったのだ〟と言います。

むろん一方には新しいワインを古いポットに注ぎ込もうと一生懸命になる日和見(ひよりみ)主義者もいます。が、全体として物の考え方に柔軟性が出てきております。教義の説き方も過去のお座なりの用語は用いられなくなっております。

 硬直した古い概念から抜け切れない者は次第に勢力を失っていきつつあります。近代的概念を摂り入れようとする者が次第に勢力を伸ばしつつあることを忘れてはなりません。それが進化というものの必然的な結果なのです。

今なおその異常な精神構造のゆえにまったく進歩というものが止まっている人間がいることは事実です。頑迷な形式主義に凝り固まった人間がいることはいます。しかし、それはもはや大多数を占めていません。五十年前とはだいぶ違います。

 キリスト教界にも健全な合理的精神が働きはじめております。知識の進歩とともに、かつての人間味たっぷりの神の概念が姿を引っ込めざるを得なくなりました。宇宙の広大さと複雑な組織、そこに満ち溢れる生命活動、人間の視界を超えた波動と放射線等について明かされた知識が、宗教についての概念を完全に塗り変えました。

科学が四次元世界の存在を指摘している時代に、かつての天国と地獄の話が信じられるわけがありません。
   
 われわれの仕事は必ず勝利を収めます。真理は必ず勝つものだからです。ただ警戒を怠らないでいただきたいのは、真理を求めてあなた方に近づいてくる人たちの中には、自分たちの宗教の一部を補修するのに都合の良いものだけを盗み取ろうとする者がいることです。それを許してはなりません。

私たちが真理普及のための道具、霊的才能を発揮できる者を一人でも多く求めているのは、その霊的真理によって霊的生命がますます勢いを増してくれることを目的としているのです。そこに成長が得られるのです。霊的真理によって真の自我に目覚めた魂は、その真理の意味するところを決して忘れません。

 霊界には、いついかなる時も、インスピレーションによる指導と鼓舞の手段を用意した霊の大軍が控えております。真剣に求めてしかも何一つ手にすることが出来ないということは絶対にありません。求める者には必ず救助と援助と指導とが与えられます。かつて地上のためにこれほど大規模な活動が行われたことはありません。

真摯に求める者のために生きた真理の水を用意し、叡智に満ちた驚異的現象を用意し、霊の貯蔵庫が無尽蔵であること、いかなる要求にも応えられること、誰であろうと、どこにいようと、その恩恵にあずかることができることを知っていただく態勢ができております。

 生まれや地位、身分、職業、民族、国家の別は関係ありません。また仕事で地下に潜っていても、海洋へ出ていても、空を飛んでいても、あるいは列車に乗っていても、船に乗っていても、工場で働いているときも事務所で働いているときも、お店でお客の相手をしている時も、あるいは家で家事に携わっているときも、常に霊の力の恩恵にあずかることができるのです。

 霊的貯蔵庫との波長がうまく調和しさえすれば、その恩恵にあずかることができます。各自が持つ受容能力に似合った分だけを授かります。何とすばらしい真理でしょう。それなのになお地上にはそれを否定する人がいます」


 別の日の交霊会で、古来、迫害行為は決まって逆の効果を生んできていることを指摘して、こう続けた。

 「迫害の手段に出る者は決まって彼らが意図したものとは全く異なる結果を招来するものです。あなた方の時代、このスピリチュアリズムの世紀においても同じことです。あなた方は図らずも多くの敵をこしらえてしまいました。

そして私がしばしば述べておりますように、彼らはスピリチュアリズムを阻止せんとして、ありとあらゆる陰湿な手段を平気で講じます。

 宗教家を持って任じる者、宗教というものがおのずから要求する神聖なる責務を自覚しなければならないはずの聖職者みずからが、あらゆる倫理・道徳の規範にもとる態度を取っています。その態度はまさしく宗教という言葉から連想されるものと正反対です。しかし彼らがいかに力を結集して挑んでも、霊力の地上への降下を阻止することはできません。

 今やいかなる組織をもって霊力の流れを阻止しようとしても、時すでに遅しです。古びた法律や条件を引っぱり出すかもしれません。国家や警察の権力を操るかも知れません。しかし霊力の地上への顕現を阻止することはできません。

 これまでに起きたことはもとより、これから生じるであろう出来ごとも、霊に目覚めた者が不安や恐怖を抱くほどのものは何一つありません。忠誠心と自信とを持ち、背後より支援してくれるその力の存在を忘れることなく、真理はいかなる反抗勢力に遭っても、真理であるがゆえに耐え抜くものであることを確信して邁進すべきです。

 私はいつも、昨日や今日の出来ごとによってすぐに揺らぐようなことのない永遠不変の原理を説いております。永遠の実在───不変の摂理の働きに基礎を持つ実在の一部なのです。この知識を活用することによって、決断に際して不安も恐れもなく、自分がたずさえている真理はかならずや勝利を収めるのだという確信を持つことができます。

 この真理はすでに地上に根づいております。役割を忠実に果たしておられる皆さんの存在が白日のもとにさらされることになりますが、それをむしろ天命として喜んで受けとめるべきです。なぜならば、それはわれわれの説く真理によって困惑すべき者を困惑させて行きつつあることの証左だからです。

本当はとうの昔に取り除かれるべきだったものを今、新しいほうきによって掃き取っているところなのです。その過程にも教訓的要素が意図されております。が、掃き取られる側がそう大人しく引き下がるわけがないでしょう。当然の成り行きとして、そこに闘争が生じます。

 それも栄誉ある闘争の一部です。その背後には霊の大軍が控えております。光り輝く天使の群れの援助を得ているわれわれに絶対に挫折はありません」


 さらに別の機会にもこのたびの投獄事件に関連してこう述べた。

 「かなり前に私はみなさんにこう申し上げたことがあります。われわれに敵対する勢力は古い言いがかりを体(てい)よく飾り、法律と国家権力を盾にして攻撃してくるでしょう、と。

 しかし、時すでに遅しです。それくらいのことで霊力が挫けることはありません。私たちの勢力は、生命が永遠であること、人間は例外なく死後も生き続けること、愛に死はなく、死者への哀悼は無用であること、そして宇宙には誰にでも分け隔てなく与えられる無限の霊的叡智と愛とインスピレーションの泉があることを教えたくて戻ってくる男女によって編成されているのです。

 特別に神から特権を授かる者は一人もいません。真摯なる者、謙虚なる者、ひたすらに真理を求める者、古い伝説や神話をかなぐり棄て、いったん受け入れた真理に素直に従う用意のできた者のみが、新しい世界の価値ある住民としての特権を得るのです。

 教会と言えども、法律と言えども、裁判官と言えども、インスピレーションの泉に蓋をすることはできません。その流れは止めどもなく続きます。みなさんは何者をも恐れることなく、人類を迷信の足枷から解き放し、無知の束縛から救い出す真理の擁護者としての決意を持って邁進しなくてはいけません」