Monday, April 13, 2026

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

 The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)


6章 破壊の法則

このページの目次
〈必要な破壊と不当な破壊〉


――破壊も自然法則の一つでしょうか。


「形あるものは別の存在物の材料となって生まれ変わるために破壊される必要があります。破壊とは変化のことにほかなりません。その目的は生き物の新生と改良です」


――すると生き物には神の配剤として破壊の本能が植えつけられているのでしょうか。


「神の創造物は、神が意図しておられる目的を達成するための道具です。生き物は互いが互いの食糧となるために破壊し合います。それは生産と消費の均衡を保つためであり――生産ばかりでは過剰となります――また外衣としての物質の再利用のためでもあります。あくまでも外衣であり、考える力をもった存在の本質部分、すなわち知的要素は破壊されません。外衣がさまざまな変態を経ていくうちに、その知的要素が鍛練されてまいります」


――新生のための破壊が必要であるならば、なぜ自己保存の本能を授けてあるのでしょうか。


「破壊作用が適切な時期より早すぎることがないようにという配慮からです。破壊の時期が早すぎると知的要素の発達が阻害されます。神が各存在に生き延びようとする力と再生しようとする力とを授けた理由はそこにあります」


――破壊の法則は地球人類には常に必要なのでしょうか。


「物質に対する霊性の優位が高まるにつれて破壊の必要性も減少します。その必然の結果として、知的ならびに精神的発達に破壊の恐怖が伴う理由がお分かりでしょう」


――破壊が必要性と安全性の限度を超えているケースがあります。例えばスポーツとしての狩猟(ハンチング)などは意味がありませんし、殺すことの楽しさ以外の動機は考えられません。どういう見方をすべきでしょうか。


「狩猟は霊性に対する獣性の優位以外の何ものでもありません。生きる上での必要性の限度を超えた破壊は全て神の摂理に違反します。肉食動物でも空腹を満たす以上のことはしません。それと較べて人間は自由意志を持っているために不必要な破壊行為をします。自由意志の乱用は、いずれ神から釈明せよとのお達しがあるでしょう。本来なら抑制すべき本能に負けたのですから」
〈自然災害による破壊〉


――神は何の目的で自然災害という破壊をもたらすのでしょうか。


「人間の進化に拍車をかけるためです。精神的新生のためには破壊も必要です。新しく再生する毎に霊的浄化において新しい一歩を踏み出すのです。何事につけ、その過程を正しく理解するためには、結果を見届けなくてはいけません。人間はとかく我が身に置き代えて判断するために、苦しいことはみな災害と考えがちですが、新たな秩序をもたらすためには思い切った混乱を必要とする時があるのです。それまでの平穏無事の惰性では何世紀も要するような改革が二、三年で成就されることがあります」


――神はそういう破壊の手段以外に何か別の手段を取ることが出来ないのでしょうか。


「取っておられます。日常生活の中での善悪の判断を通じて進化を促すという方法です。ところがこの方法では人間はなかなか向上しません。そこでその高慢の鼻をへし折り、人間の弱さを思い知らせる必要が生じるのです」


――ですが、そうした災害による犠牲は、邪悪な人間だけでなく善良な人間も悲嘆に暮れさせるだけではないでしょうか。


「人間は、地上を旅する間の出来事は、どうしてもその肉体の生存期間を尺度として捉えます。ところが死んで霊界に戻ってくると観点が大きく変わり、地上時代の出来事が実に些細なことであることに気づきます。地上の一世紀は永遠の時の中では一瞬の花火のようなものに思えます。そして、地上の時間にして何日、何か月、何年にもわたる苦しみもどうということはないように思えてくるものです。

どうかこの点を今後のあなた方の生き方の参考にしていただきたい。霊こそ実在であり、全てのものに優先し、全てのものが消滅したあとも残り続けます。その霊の在り方こそ神が何よりも気遣うものであり、肉体は地上を生き抜くための仮の媒体にすぎません。

多くの尊い人命を奪う大災害におけるそうした犠牲者たちは、戦闘後の兵士のようなものです。軍服はボロボロに破れ、あるいは千切れ、あるいは無くなっているかも知れません。が、生命(いのち)は失っていない。その姿を見て将校は軍服のことよりも生命があったことを喜ぶものです。軍服が肉体であり生命が魂です」
〈戦争・殺人・残虐行為〉


――人間を戦争に駆り立てるものは何でしょうか。


「獣性が霊性を凌駕すること、そしてその動物的激情を満足させたいという欲求です。霊性が野蛮な状態では弱肉強食の原理しか通用しません。従って闘うということが通常の状態となるのです。霊性が発達するとともに争いを引き起こす原因が少なくなります。それだけ闘争が少なくなり、仮に闘争が避けられないことがあっても、その闘争の中にも人道的行為が見られるようになります」


――地球上から戦争が無くなる日が来るでしょうか。


「来ます。正義というものを理解し、神の摂理を実践すれば、戦争は無くなります。その時は人類がみな兄弟であるとの理解が行きわたるからです」


――神は何のために戦争を必要と認めたのでしょうか。


「自由と進歩のためです」


――戦争によって自由がもたらされるというのであれば、敗戦国が往々にして隷属させられる結果となるのはなぜでしょうか。


「隷属といっても一時的なことです。それを神が許すのは隷属の状態にうんざりさせて、自由へ向けての急速な進歩を促すためです」


――殺人はいかなるケースでも極悪な罪でしょうか。


「神は常に公正であると申し上げたつもりです。何事につけ、行為そのものよりも、その行為に出る動機ないし意図を審判なさいます」


――正当防衛であれば許されますか。


「絶対的な必要性があった場合にのみ許されます。攻撃を仕掛けられて、我が身を守るために相手の生命を奪うのは、やむを得ないことです」


――戦争における殺人行為にも責任を負わされるのでしょうか。


「命令によって戦わされている以上は責任は問われません。が、戦争によく見られる残虐行為には責任が問われ、人道的行為にはそれなりの報いがあります」


――残虐行為に駆り立てる心情は破壊的本能と関係があるのでしょうか。


「破壊的本能の中でも最も悪質なものです。破壊が必要になることはありますが、残虐行為が必要になることは絶対にありません。邪悪な心情が生み出す結果です」
〈死刑制度〉


――人間界の法律から死刑制度が消える日が来るでしょうか。


「いずれ消えることは間違いありません。それが成就されれば人類にとっての大きな進歩を画することになります。霊性が啓発されるにつれて、地球上の全土から死刑制度が無くなります。人間が人間を裁く必要が無くなるからです。もっとも、ずっと先の話ですが……」


――死刑制度が文明国から消えるということは、文明が開けない時代には必要悪だったということでしょうか。


「必要悪という用語は適切ではありません。人間は他に良い方法が見つからないとすぐに必要悪だと決めつけます。霊性が開発されるにつれて正しいことと正しくないこととの分別が明確になってきます。そして無知な時代に正義の名のもとに行った誤った慣習をやめます」

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch
ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



三章 魂の自由と解放

 「私たちは時には冗談を言っては笑い、楽しい雰囲気の中で会を進めておりますが、こうしたささやかな集まりの背後に大きな、そして深刻な目的が託されております。出席される皆さんも、自分たちの力でどれほど多くの人々が光明を得ているかをご存じないでしょう。

この霊媒の口から出る言葉は高い界から送られてくるメッセージの一部を私が取り次いでいるのですが、これも皆さんにはすっかりお馴染となりました。皆さんの生活の背景として、ごく当たり前の位置を占めるに至っております。

もはや皆さんにとって私の述べることに取り立てて耳新しいことや革命的なものはなくなりました。

 十数年前、あなた方は精神的ならびに霊的な自由を手にされました。永い間尋ね求め、あれを取りこれを拒否し、神から授かった理性で試し検討した末に、ついに私の述べるメッセージを真実のものと認められたわけです。今では私の説く単純素朴な訓えこそ永遠の真理であることを得心しておられます。

しかし一方には、永いあいだ暗闇と懐疑と苦悩の中でさ迷っている人、こうした真理が魂の解放のメッセージとなるべき人が大勢いることを忘れてはなりません。

気の毒な環境から救い出してあげなければなりません。霊的真理には一人ひとりの人間を束縛から解放する意図が託されているのです。私どもの仕事は必ず一個の人間から始めます。

人類全体も個が集まって構成されているからです。一人また一人と非常にゆっくりとした根気のいる仕事ではありますが、それ以外に方法がないのです。大勢の人を一度に変えようとしても必ず失敗します。暗示が解け、ふつうの感覚に戻った時、すべてが忘れ去られます。そうした一時の興奮から目覚めた者は気恥ずかしささえ味わうものです。

 ですから私どもは、あらゆる反抗と敵意と妨害の中にあっても、点滴岩をも穿つの譬えで、一人また一人と光明が射し真理を悟ってくれることを信じて、素朴ながらも繰り返し繰り返し説いてまいります。

その訓えの意味を十分に理解し価値を評価してくださる方は、それ以後は後ろ髪を引かれる思いをすることもなく、それまで永いあいだ魂を束縛してきた古い因襲的信仰にきれいさっぱりと訣別することでしょう。暗闇から這い出て光明の世界へとたどり着いたのです。真実の光を見出したのです。

それを理性で確認したのです。私どもの言説には人間の理性が納得する筋が通っていること、人間の常識を怒らせる要素がないこと、人間の知性を反撥させるものではないことを皆さんはご存じです。むしろ皆さんはこれほど明々白々たる真実が何故受け入れられないか───そのことに悩まされておられるくらいです。

 われわれに反抗する大きな勢力がまだまだ存在することを忘れてはなりません。その中でも特に警戒を要するのがキリスト教会という宗教のプロが有する既得の権力です。彼らはそれを振りかざしてわれわれの使命を阻止せんとすることでしょう。彼らにはもはや何ら新しい恩恵は持ち合わせないのです。

持ち出すものといえばカビの生えたような古い教説ばかりです。彼らは身は今の世にあっても精神は古き時代に生活し、その過去の栄光を現代に甦らせようとします。今の彼らには他に何の持ち合わせもないからです。教会堂はもはや倒れかけた墓の如く陰うつな空虚さに満ち、およそ神の霊の宿るところでは無くなっております。

そういう宗教家がわれわれを非難し悪魔の手先である───信心深いお人好しや妄想に取りつかれ易い人間を騙そうと企んでいると宣伝します。私どもはそういう宗教家を見て情けなく思わずにはいられません。

彼らは往々にして自分でもそうと気づかずに宗教家としての職責を裏切り、民衆を神へ導くことをせぬどころか神との間に垣根を立て、ただの書物にすぎないもの、ただの教義にすぎないもの、ただの建造物に過ぎないものに自らの魂を縛られ、それを真理より大切なものであると信じ切っております。

 私どもが酷しい言葉でその非を指摘するのは、そうした宗教家に対してです。彼らは宗教家として落第したのです。この苦しみと悲しみの海にさ迷う無数の人々を導く資格を失っているのです。もはや彼らにとっては宗教がその真の意味を失っているのです。

神学という粗悪品を混入して、イエスがせっかくこの世にもたらした素朴な啓示の言葉を忘れてしまっております。私どもが説く宗教とはお互いがお互いのために尽くし合う宗教です。人のために役立つことが霊の通貨なのです。

神の子である同胞のために自分を役立てるということは、取りも直さず神のために役立てることであり、それを実行した人は立派に宗教的人間と言えます。


─── 伝統的宗教に対するわれわれの態度は寛容的であるべきでしょうか、厳しい態度で臨むべきでしょうか。

 「相手が誰であろうと、恐れず真実を述べることです。あなたも神の僕の一人です。間違いは排斥し虚偽は論破すべきです。恐れてはいけません。恐れる必要は少しもありません。

大堂伽藍を建て、妙なる音楽を流し、ステンドグラスで飾り、厳かな儀式を催したからといって、それだけで宇宙を創造した大霊が心を動かされるものではありません。宇宙の大霊すなわち神を一個の建物の中に閉じ込めることは出来ないのです」

 これに関連した質問を受けてさらにこう述べた。
 「大衆に目隠しをして暗闇に閉じ込めようと思えば出来ないことはありません。かなり永い年月にわたってそうすることも可能です。しかし、いつかは大衆も自分たちが本来は光の子であることを思い出して真理の光明を求めはじめます。その時期を権力によって遅らせることはできます。

妨害もできます。しかし、最後には真理が真理としてあるべき位置に落ち着きます。あなた方人間も霊的存在です。肉体だけの存在ではないのです。無限の可能性を秘め、神性を宿すが故に、その霊的可能性が発現を求めはじめます。

一時的に無視することはできても、永遠に抹殺してしまうことは出来ません。だからこそ真理の普及が急務なのです。人間が霊的存在であるということは、内部に宿る霊はこの驚異に満ちた大宇宙を創造した力の一部であるということです。いかなる宗教的権力をもってしても、霊の声を永遠に封じ込めることはできません」


 再び伝統的宗教の失敗と新しい世界の誕生の問題に言及してこう述べている。

 「いま地上では古い体制の崩壊と衰亡が進行し、かつて我がもの顔だった説教者たちも、もはやこれでは民衆の心を捉えることはできないことを認めはじめております。

あまりの永きにわたって盲目の民を好きに操った盲目の指導者たち、自分たちの拵えた教義を押し付け、自分たちが創造した神のみを崇拝すべしと説いてきた者たち、真実の行進に抵抗し、現代に生きる聖霊の力の存在を否定せんとしてきた者たち(心霊現象や心霊治療が霊の力によることを認めないこと───訳者)

そうした者が今その代償───霊的法則の存在を認めようとしなかったことへの代償を払わされつつあります。

 そこに、あなた方にも肝に銘じていただきたい教訓があります。真理の為に闘う者は最後は必ず勝利を収めるということです。善の勢力を全て封じ込めることは絶対にできないからです。一時的に抑えることはできます。

邪魔することもできます。進行を遅らせることもできます。しかし真理を永遠に破壊したり、あるべき位置に落ち着くことを阻止し続けることは誰にもできません。

これは宗教に限ったことではありません。人生のあらゆる面に言えることです。何ごとにつけ誤った説に抵抗し、偽の言説を論破し、迷信に反対する者は決してうろたえてはいけません。全生命を支え、最後の勝利を約束してくれる永遠にして無限の霊力に全幅の信頼を置かなければいけません。

 死を隔てた二つの世界の交信を可能にしてくれる霊的法則の存在を知った多くの人にとって、こうした戦争によって惹き起こされる不利な条件の中で真理を普及していくことがいかに困難であるかは、私もよく承知しております。しかし、何が何でもこの霊的真理にしがみついて行かねばなりません。

やがて真理に飢え魂の潤いを渇望する者が次第に増え、いつかは知識の水門が広く開かれる時機が熟します。その時に備えておかねばなりません。対立紛争が終わった時、戦火が消えた時、無数の人々が、今度は知識を土台とした生き方の再構築を望むことでしょう。

彼らは宗教の名のもとに押しつけられた古い神話にはうんざりしております。戦争という過酷な体験をし、人生の意義を根本から問い直し───つまり、〝なぜ生れて来たのか〟〝いかに生きるべきなのか〟〝いつになったら〟という疑問に直面させられた者は、それを何とか知りたいと思い始めます。

真理を渇望し始めます。その時あなた方は、そうした不満の中に渇望を抱いて訪れる魂に理性と確信と論理性と真理と叡知でもって対応し、新しい世界の住民としての生き方を教えてあげられる用意が出来ていなければなりません。

 過ぎ去ったことは、そこから教訓を学ぶためでなければ、つまり失敗をどう正すか、二度と過ちを犯さない為にはどうすべきかを反省するためでなければ、むやみに振り返るべきものではありません。

未来に目をやり、今日行うことを、これから訪れるより立派な日のための下地としなければなりません。世界中があなた方を必要とする時代が来ます。無数の人々が希望と慰めとインスピレーションと指導を求めて、あなた方に目を向ける日が来ます。もう教会へは足を運びません。聖職者のもとへは訪れません。牧師のもとへは行きません。

皆さん方へ足を向けます。なぜなら死と隣り合わせの体験をし、その酷しい現実の中である種の霊的体験をした者は、心の目が開いているからです。目の前を遮っていた靄が晴れたのです。真理を受け入れる用意が出来たのです。ならば、あなた方はそれを授けてあげる用意ができていなければなりません。


───新しい世界が生まれつつあるというのは何を根拠におっしゃるのでしょうか。

 「私には厳とした計画、神の計画が見て取れるのです。私は霊の力こそ宇宙最大の力であると信じています。人間がその働きを歪め、遅らせることは出来るでしょう。妨害し押し止めることは出来るかも知れません。しかし永遠にその地上への顕現を阻止することは出来ません。」

あなた方が霊的真理についての知識を手にしたということは、人類が抱えるすべての問題を解くカギを手にしたことを意味します。こう申しても、私は決して世に言う社会改革者たち───義憤に駆られ、抑圧された者や弱き者への已むにやまれぬ同情心から悪と対抗し、不正と闘い、物的な神の恵みが全ての人間に平等に分け与えられるようにと努力している人々をないがしろにするつもりは毛頭ありません。

ただその人たちは問題の一部しか見ていない───物的な面での平等のために闘っているに過ぎないということです。もちろん精神的にも平等であるべきことも理解しておられるでしょう。が人間は何よりもまず〝霊〟なのです。大霊の一部なのです。

宇宙を創造した力の一部なのです。決して宇宙の広大な空間の中で忘れ去られている取るに足らぬ存在ではないのです。宇宙の大霊の一部として、常に無限の霊性に寄与しているのです。

 その霊力の息の根を止めることは誰にもできません。いつかは必ず表に出てきます。残酷な仕打ちにも憎しみの行為にも負けません。棍棒で叩かれても、強制収容所へ入れられても、独裁政治で抑えられても、決して窒息死することはありません。

なぜならば人間の霊は人間が呼吸している空気と同じように自由であるのが本来の在るべき姿なのです。それが生来の、神から授かった、霊的遺産なのです。その理想像の素晴らしさを理解した人々、新しい世界の在るべき姿を心に画いた人々は、当然そうあらねばならないことを十分に得心しています。

なぜなら、それが人間に息吹を与えて動物から人類へと進化させた、その背後の目的の一部だからであり、それはさらに人間を神的存在に向上させていくものです。あなた方の使命はその松明を引き継ぎ、新しい炎を燃え立たせ、次の世代にはより大きな光明が道を照らすようにしてあげることです。

基盤はすでに出来あがっているのです。何年も前からこちらの世界で基盤作りは終わっているのです。ゆっくりと、苦痛は伴いながらも、各界の名士あるいは名もなき男女が、永遠の霊の存在の証言に立ちあがり、神の計画の一刻も早い実現のために刻苦したのです。新しい世界は必ず実現します」


───その新しい世界はわれわれ人間がみずからの努力によって実現しなければならないはずなのに、なぜその基盤作りがあなたの世界で行われたのでしょうか。

 「あなた方の世界は影です。光はこちらから出ているのです。あなた方はこちらで立てられたプランを地上で実行し実現させて行きつつあるところです。オリジナルの仕事───と呼ぶのが適切か否かは別として───は全てこちらで行われます。

なぜなら全てのエネルギー、全ての原動力は物質から出るのではなく霊から出るのです。皆さんは、意識するしないにかかわらず、霊力の道具なのです。受信して送信する道具なのです。霊的影響力をどこまで受け止められるかによって、成功するしないが決まるのです」


───と言うことは結局、そちらからの援助を得て私たちが努力することから新しい世界が生まれるということでしょうか。

 「その通りです。何ごとも人間一人では成就し得ません。人間が何かを始める時、そこには必ずこちらからの援助が加味されます。私達は常に道具を探し求めております。人間の方から波長に合わせる努力をしていただかねばなりません。完璧は決して望めません。つねに困難を克服し邪魔を排除する仕事は永遠に続きます」


───私たち自身の努力で地上の新しい世界を招来しなければならないわけですね。

 「努力して初めて得られるのです。私から申し上げられることは、神の計画の一部として成就しなければならないことはすでに決まっているのです。が、それがいつ実現されるかはあなた方人間の協力次第ということです。計画はできているのです。

しかしその計画は自動的に実現されるわけではありません。それはあなた方人間の自由意志に任されております。あなた方は自由意志を持った協力者です。ロボットでも操り人形でもないのです。宇宙の大霊の一部なのです」


───新しい世界が来るとおっしゃっても、私たちにはそれらしい兆しが見当たらないのですが・・・・・・

 「古い秩序が崩壊していくのと同じ速さで新しい秩序が生まれます。現にその目でその崩壊の過程をご覧になったばかりではありませんか。大帝国が崩れ去りました。お金の力が絶対でなくなりました。利己主義では割に合わないことが証明されました。

(戦争体験によって)普通一般の男女の力の本当の価値が証明されました。どうか私に対して〝進歩が見られない〟等とおっしゃらないでいただきたい。教訓はあなた方の前にいくらでもあります。別に霊眼は必要としません。肉眼で見えるところにあります(これほどの切実な体験をした)現代の人々に新しい世界が訪れて当然です。

もしその新しい世界の恩恵に浴せないとしたら、その人はまだ内部の霊的な力を使用するまでに至っていないということです。それだけの努力をした人々は、その犠牲と引き替えに恩恵を受けておられます。私はそれが機械的なプロセスで与えられると申しているのではありません。

それだけの用意が整っていると言っているのです。それを受け取るには、あなた方の方でやっていただかねばならない仕事があります。それは一方では霊的知識を広め、他方で古い権力構造の面影に貪欲にしがみついている因襲的既得権に対して飽くなき闘いを挑むことです」


 別の日の交霊会で同じく人類の真の自由の獲得のための闘争についてこう語っている。

「私達はなくもがなの無知に対して闘いを挑まなくてはなりません。神は、内部にその神性の一部を宿らせたはずの我が子が無知の暗闇の中で暮らし、影と靄の中を歩み、生きる目的も方角も分らず、得心のいく答えはないと思いつつも問い続けるようには意図されておりません。

真に欲する者には存分に分け与えてあげられる無限の知識の宝庫が用意されておりますが、それは本人の魂の成長と努力と進化と発展を条件として与えられます。魂がそれに相応しくならなければなりません。精神が熟さなくてはなりません。心がその受け入れ態勢を整えなくてはなりません。

その時初めて知識がその場を見出すのです。それも、受け入れる能力に応じた分しか与えられません。

目の見えなかった人が見えるようになったとしても、その視力に応じて少しづつ見せてあげなくてはなりません。一気に全部を見せてあげたら、かえって目を傷めます。霊的真理も同じです。梯子を一段一段上がるように、一歩一歩、真理の源へ近づき、そこから僅かずつを我がものとしていくのです。

 いったん糸口を見出せば、つまり行為なり思念なりによって受け入れ態勢が出来ていることを示せば、その時からあなたは、その辿り着いた段階にふさわしい知識と教訓を受け入れる過程と波長が合いはじめます。そのあとは、もう、際限がありません。

これ以上はダメという限界がなくなります。なぜなら、あなたの魂は無限であり、知識もまた無限だからです。しかし闘わねばならばならない相手は無知だけではありません。

永い間意図的に神の子を暗闇に住まわせ、あらゆる手段を弄して自分たちのでっち上げた教義を教え込み、真の霊的知識を封じ込めてきた既成宗教家とその組織に対しても闘いを挑まなければなりません。

過去を振り返ってみますと、人間の自由と解放への闘争のためにわれわれが霊界からあらゆる援助を続けてきたにもかかわらず、自由を求める魂の自然な欲求を満足させるどころか、逆に牢獄の扉を開こうとする企てを宗教の名のもとに阻止しようとする勢力と闘わねばなりませんでした。

 今日なおその抵抗が続いております。意図的に、あるいはそうとは知らずに、光明の勢力に対抗し、われわれに対して悪口雑言を浴びせ、彼らみずから信じなくなっている教義の誤りを指摘せんとする行為を阻止し、勝手な神聖不可侵思想にしがみつき、

自分で勝手に特権と思い込んでいるものがどうしても捨て切れず、擦り切れた古い神学的慣習を後生大事にしている者がまだまだ存在します。

そこで私どもが人間のすぐ身のまわりに片時も休むことなく澎湃(ほうはい)として打ち寄せる、より大きく素晴らしい霊の世界があることを教えに来るのです。そうした障害を破壊し、莫大な霊力、全てに活力を与えるダイナミックな生命力を全ての人間が自由に享受できるようにするためです。

その生命力がこれまでの人類の歴史を通じて多くの人々を鼓舞してきました。今でも多くの人々に啓示を与えております。そして、これから後も与え続けることでしょう。
 
 荒廃に満ちた世界には、これから為さねばならないことが数多くあります。悲哀に満ち、悲涙にむせぶ人、苦痛に喘ぐ人にあふれ、何のために生きているのかを知らぬまま、首をうなだれ行く先が分からずにさ迷っている人が大勢います。

こうした人々にとって、目にこそ見えませんが、霊の力こそ真の慰めを与え、魂を鼓舞し、元気づけ、導きを必要とする人々に方向を指し示してあげる不変の実在であることを、その霊力みずからが立証します。

 そこにこそ、霊的知識を授かった人々の全てが参加し、自由の福音、解放の指導原理を広め、人生に疲れ果て意気消沈した人々の心を鼓舞し、魂の栄光をしらしむべく、この古く且つ新しい真理普及の道具として、一身を捧げる分野が存在します。

私たちが提供するのは、〝霊の力〟です。あらゆる困難を克服し、障害を乗り越えて、真理の光と叡知と理解力を顕現せしめ、神の子等に恒久的平和を築かせることができるのは、霊の力を措いてほかに無いのです」
              

Sunday, April 12, 2026

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

 The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



5章 自己保存の法則

このページの目次
〈自己保存の本能〉


――自己保存の本能も自然法則の一つでしょうか。


「もちろんそうです。知的発達の水準に関係なく、全ての生き物に賦与されています。ある生物では純粋に機械的にすぎないものもありますが、理性と直結したものもあります」


――神が全ての生き物に自己保存の本能を授けた目的は何でしょうか。


「神の計画の成就にとって不可欠だからです。生きる意欲を与えているのもそのためです。その上、生きているということが進化にとっての不可欠の条件です。そのことを理解はしていなくても本能的に知っているということです」


――人間にも生きる意欲を授けている以上、神は生きるための手段も授けてくださっているのでしょうか。


「その通りです。その手段を人間が見出せないとすれば、それは周りに存在する始源の利用法を知らないからにすぎません。神が、生命への愛を植えつけておいて、その生命を維持する手段は与えないということは有り得ません。だからこそ生物の全てに生殖本能を授けて生命維持のための必要物が十分に得られるようにしてあるのです。ただし必要分だけです。有り余りすぎるものは益になりません」


――しかし、必ずしも人類の全てが必要物を十分に得ているとは言えません。なぜでしょうか。


「それは素晴らしい母なる大地を粗末にして感謝の念を忘れているからです。さらに、人間は自分の技術の未熟さや先見の明の無さを棚に上げて自然界の不毛のせいにしています。人間が“足れるを知る”生き方に徹すれば、生きるために必要なものは大地が必ず与えてくれます。必要なものが十分に手に入らないのは、必要の限度を超えたものを要求しているからです。

砂漠のアラブ人をご覧なさい。あの不毛の土地においてさえ生きるに必要なものはちゃんと手に入っています。余計な人工的文化生活を取り入れないからです。文明国の人間は他愛もない欲望を満たすために地球の産物の半分を無駄にしながら、少しの天候不順で欲しいものが手に入らなくなると困った困ったと不満をかこちます。なぜそういう時のために、節約して備えないのでしょうか。くり返します――自然が供給しないのではありません。人間がその恵みの使用を賢明に規制しないからです」


訳注――本書の原典の出版が一九世紀末であるという事実を思い合わせると、現代はこの通信霊が警告する人工的文化はとっくに限度を超えていると言えるであろう。


――この豊かな物質文明の中にありながら、生計を立てる手段が得られない人がいますが、どこに間違いがあるのでしょうか。


「利己主義がそういう結果を生んでいることがあります。が、最も多いのは、本人の意欲が不足している場合です。イエスは“求めよ、さらば見出さん”と言いましたが、これは地面に目を注いで欲しいものを探し歩きなさいと言っているのではありません。必要なものを真剣に、そして忍耐強く求め、障害に遭遇しても落胆しないことです。そうした障害は往々にして志操の堅固さ、忍耐力、そして決意のほどを試す手段として霊団側が用意することがあります」


――しかし、意志は強固でも、置かれた環境の中ではどうしても生計手段が得られない人もいるのではないでしょうか。


「そういうケースはあります。しかしそうした環境は再生に先立ってあらかじめ自分で選んで覚悟を決めていた試練です。いくら知恵をしぼっても苦境から脱し切れない時は、神の意思に全てをゆだねる覚悟にこそ、その人間の究極の偉さが生きてきます。このまま進むと死に至ると覚悟した時は、慌てず騒がず、いよいよ肉体の束縛から解放される時が来たことを喜び、自暴自棄に陥ることは折角の悟りを台なしにしてしまうことになることを知るべきです」


――極端な飢えの状態で生き残った者たちが仲間を食い合う話があります。これは罪でしょうか。仮に罪だとしても、自己保存の法則の極端な例として罪の重さが割り引かれるのではないでしょうか。


「人生の全ての試練に対しては勇気と克己心で対処すべきであると述べましたが、ご質問に対する答えもその中に含まれていると思います。今おっしゃった例には殺人の罪と自然に対する罪が含まれています。二重の罪には二重の罰が適用されます」


――人間の肉体よりも純度の高い身体で生活している天体上でも食糧は必要なのでしょうか。


「必要です。ですが、その身体の性質に応じたものです。その天体上の食物ではあなた方の身体は養えません。また、あなた方の食物は彼らの身体では消化できません」
〈大地の恵みの享受〉


――人間には大地の恵みを楽しむ権利があるのでしょうか。


「それは権利というよりも、生きる上での必要性が生み出す結果です。神は、義務を与えておいてその義務を果たす上で必要な手段は与えないというような理不尽なことはなさいません」


――その物的な恵みになぜ神は“魅力”を添えたのでしょうか。


「一つには、その義務の遂行に拍車がかかるように、もう一つは、その魅惑によって試すためです」


――何の目的で試すのでしょうか。


「度を超さないように自制する理性的判断力を発達させるためです」


――物的満足にも適度の限界というものが自然にそなわっているのでしょうか。


「必要性と幸せとが一致する限界が設けられています。その限界を超えると飽き飽きしてきます。その限界を超えた分だけ罰をこうむることになります」


――その限界はどのようにして知るのでしょうか。


「賢者は直観で知ります。体験で知る人もいます。つまり痛い目に遭って」
〈修行としての窮乏生活〉


――物的生活をエンジョイすることはいけないことでしょうか。


「物的な幸せを求めるのは人間として極めて自然なことです。神が禁じているのは過度の享楽です。自己保存の目的にとって有害だからです。楽しさを求めるのは、それが他人の犠牲を強いるものでなく、かつ又、当人の精神的ならびに身体的エネルギーを衰えさせるものでないかぎり、罪ではありません」


――自発的な罪障消滅を目的とした窮乏生活は神の目から見ていかがでしょうか。


「人のために役立つことをする――この心掛けでの平凡な日常生活の方が、自ら求めて窮乏生活をするよりも立派です」


――清貧の生活に甘んじること自体は良いことではないでしょうか。


「無用の贅を無くすることは良いことです。それだけ物質への執着を少なくし、魂の意識を高めます。節度を超えた贅への誘惑と無益な道楽を慎むということは立派なことです。自分の必要分を削って足らない人に分けてあげるということが基本的理念です。しかし、そうした修行の裏側に見栄が潜んでいたら、それは単なる心のオシャレであり偽善です」


――古来どの民族にも禁欲的修行者がいますが、どう見るべきでしょうか。


「そういう生活が誰にとって有益なのかを問うてみれば、自ずと答えが出るはずです。もしも自分にとっての修行であり人のために役立つ要素が無いとすれば、いかに弁明しようとそれは一種の利己主義です。本当の苦行とは人のために役立つことをするために自ら節約し克苦することです」


――動物性食品を摂取するのは自然法則に反しますか。


「地上の人間の体質からすれば、体力を維持するためには動物性食品は摂取する必要があります。それを欠くと体力が衰えます。自己保存の法則は健康と体力を維持する義務を要求します。そうしないと仕事の法則が成就できないからです。身体器官の必要性に応じた食品を摂取すべきです」


――人間は地上生活での苦難を通じて向上しているのであれば、自らに苦行を課することによって向上することも有り得るのではないでしょうか。


「人間の霊性を高める苦難は自然の成り行きで遭遇するものに限られます。神が用意したものだからです。人間が自らの考えで自らに課したものは、結果的に人のために役立つことに寄与しないかぎり無意味です。

考えてもご覧なさい。超人的な苦行をするヨガの行者やイスラム教の托鉢僧、ヒンズー教の苦行者、さらにはどこかの宗教の狂信者たちは、それによって一体どれだけ霊性が向上したというのでしょう? そんなことをしている暇があったら、なぜ地上の貧しい同胞のために慈悲を施さないのでしょうか。着るものにも事欠く人に衣類を与え、喪の悲しみの中にある人に慰めの言葉を与え、食べるものにも事欠く人のために自分のものを分けてあげ、そのために自分は断食もあえてする――そういう生活こそ有意義であり、神の意思に適っております。自分のためだけに修行をする者は一種の利己主義者です。他人のために自分が苦しんでこそ慈悲の法則を実践したことになります。それがイエスの教えです」

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch
ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 
近藤 千雄 訳



二章 悲しい時、苦しい時こそ 

    同じく第二次大戦のさなかでの交霊会においてシルバーバーチはこう語った。

 「何もかもが危険にさらされているこうした時期こそ霊的真理を教えてあげる必要があります。信仰という信仰がことごとく片隅に追いやられ、すべてが混乱の渦中にある今こそ、こうした単純な霊的真理を説くことによって自分を役立てることができるのです。その真理だけは不変です。なぜならば不変の自然法則の働きを土台としているからです。

あなた方は大規模な混乱と破滅を目のあたりにされています。他の国ではさらに大規模な、そして見るも無惨な光景が繰りかえされています。混乱と残酷、裏切りと暴虐が大手を振ってのし歩いております。まさに野獣のごとき暴力が我が物顔に振る舞っております。あたかも自由の灯が完全に消され、全てが闇と化したかの如く思われる国が数多く見られます。

 こうした時こそ、われわれ霊的法則の働きを知った者が、霊的真理こそが人間にかつて想像もしなかった高い視野を与えてくれること、心の中に消そうに消せない炎を灯してくれること、最後は霊的光明が勝ち、自由を我が物とすることができることを説いて聞かせるべき時です。

それは霊の本来の資産なのです。いかに粉砕しても絶対に存在を失わない究極的な存在である〝霊〟が所有していなければならないものです。霊性が怖じけづき、縮こまることはありましょう。が、

決して征服されてしまうことはありません。霊界にいる私どもがぜひともお教えしなければならない大きな真理は、地上にいるあなた方も霊的存在であるということです。

物質で出来たものは破壊することができます。肉体は死なせることができます。いじめることもできます。しかし霊的なものは絶対に存在を失いません。なぜなら、霊的なものは永遠なるもの、宇宙の大霊、無限にして不滅の存在、すなわち神の所有物だからです。

皆さんがスピリチュアリズムと呼んでいるものは自然法則の働きの一部ですが、これが人間にも霊が宿っていることを証明しました。

その証拠は、視野を曇らされず理性に従い何の捉われもなく自由な思考をめぐらすことの出来る人には、人間が本来霊的存在であることが議論の余地のない事実であることを雄弁に物語っております。そしてその基本原則から次々と重大な意味が湧き出てきます。

その一つ一つがそれを受け入れる用意のできた人々に、こうしてはいられない、何とかしなくては、というせっぱつまった衝動を覚えさせます。

 いったん人間が霊であることを悟ると、この地上世界もその霊性を存分に発揮される環境であらねばならないとの認識が生まれます。すべての悪習、すべての罪悪、すべての悪徳、すべての既得権、すべての利己主義、貪欲、そして残虐性、こうしたものを一掃しなければならないということです。

それらは全てせっかく自己開発のために地上に降りた霊───いずれは当り前の生活の場となる霊界でのより素晴らしい生活に備えるために生まれてきた霊の成長を妨げることになるからです。それが声を大にして叫びたい私たちからのメッセージです。

すなわち霊媒を通じて与える死後存続という素朴な真理から始まって、そこから生活を一変させる数知れない重大な意味を発見していることです。

そして、こうして人類がその宿命の成就のために闘っている時、言いかえれば霊的教説がその真価を問われている時、その背後では、かつて地上で革命家、殉教者、指導者と呼ばれ、今なお新たな力を携えて霊界で研さんを重ねている見えざる大軍が、その持てる力を総結集して援護に当っている事実を知らねばなりません」


───昨今の混乱ぶりは目に余るものがありましょう。(大戦の焦点が日米決戦の様相を呈して来たころのこと───訳者)

 「それは(比較的戦乱の少ない)英国の国民でさえ受けている精神的ストレス───多分自分では実感していなくても大きなストレスを受けている、英国に限りません。地上の大気そのものが嘆きと悲しみと苦痛の絶叫に満ち、それに付随してさまざまな不協和音を生んでおります。

その上忘れてならないのは、何千何万という人間が何の備えも無く霊界へ送り込まれてきている霊界の現実です。その一人一人が本人は気づかなくても、私たち霊団の仕事に困難を加えていきます。声には出さずとも、一人一人が休みなく何らかの要求をしているからです。

大変な数の人間が無知のまま、あるいは誤った信仰をもったままやってまいります。無知と偏見、これは私たちが闘わねばならない双子の敵です。

地上のみなさんはひたすらに真理を広め、知識を広め、叡智を広め、光明を広め、一人でも多くの人の心に感動を与えることです。往々にしてその努力の結果はあなた方自身には分らないでしょう。が、それはどうでもよろしい。かまわず進んでください。

世間の批難、中傷にはかまわず、ひたすらにご自分の心の中の光に忠実に従うことです。それ以上のことは要求しません。敵対するものがいかに大きかろうと、最後はかならず勝利を収めます。自由───精神と霊と身体の自由はかならず勝ちます。

 個人について言えることは国家についても言えます。個人にもそれぞれに成就すべき神聖な宿命があるように、国家にもそれぞれの宿命があります。

これまで何度も申し上げてきましたように、あなた方の国(英国)は世界をリードする宿命───暗闇に光明をもたらすために霊的真理の松明(たいまつ)をかかげて世界の先頭を歩むべき宿命を背負っております。今その偉大なる仕事が徐々に成就されつつあるのがお判りでしょう」

 大戦が長引き、ますます激烈となり、もはや前途に光明が見出せないかに思えた時期に、シルバーバーチはこう語った。

 「真の信仰を身につける好機はすべてのことが順調に行っている時ではありません。そんな時に信仰を口にするのは誰にでもできることです。暗黒の時に身につけたものこそ本当の信念と言えます。

太陽がさんさんと輝き、何の苦労もなく、前途に何の心配もない生活を送っている時に私は神を信じますと言うのは容易なことです。しかし、そんな呑気な生活の中での信仰の告白には何の価値もありません。

 困難の中にあって怖じけず、いかなる緊張の中にあっても動ぜずに次のように宣言できる人の信念にこそ本当の価値があります───風が吹こうが嵐が狂おうが、世界がいかに混乱し全てが暗黒に包まれ絶望的になろうと、宇宙の全生命を創造し神性を賦与した力は決して自分をお見捨てにならないと信じる。知識と経験による不動の基盤の上に築いた完璧な信念に安住して、私は絶対に動じない、と。

 宇宙の大霊すなわち神の力はあなた方人間を通して流れるのです。もし人間が確固たる不動の冷静さを保ち得ずに怖じけづいてしまえば、その力は発揮されません。あなた方一人ひとりが神なのです。神はあなた方から切り離された何か別の存在ではないのです。

宇宙の大霊というのは何か形のない、遠い宇宙の果てにふわふわと浮いている靄のような存在ではありません。人間の内奥に宿された霊的な資質を発揮すればするほど、それだけ宇宙の大霊をこの世に顕現させていることになります。これはぜひ学んでいただきたい教訓です。

霊が進化するということはそのことを言うのです。そうやって個性が築かれていくのです。成長するということはそういうことなのです。


 まだまだ地上の人類は、悲しみ、苦しみ、艱難、辛苦が存在することの理由を理解しておりません。その一つひとつが霊的進化の上で大切な機能を果たしているのです。

ご自分の人生を振り返ってごらんなさい。最大の危機、最大の困難、お先まっ暗の時期が、より大きな悟りを開く踏み台になっていることを知るはずです。

日向でのんびりと寛ぎ、何の心配も何の気苦労も何の不安もなく、面倒なことが持ち上りそうになっても自動的に解消されてあなたに何の影響も及ぼさず、足もとに石ころ一つなく、自分でやらねばならないことが何一つ無いような人生を送っていては、向上進化は少しも得られません。

困難に遭遇し、それに正面から立ち向かって自らの力で克服していく中でこそ成長が得られるのです。知識を広める必要があるのは無知という名の暗闇が生み出す無意味な残虐行為、無駄な苦労を一掃するためです。

自然の摂理に反することをしでかしておいて、それが生み出す結果への対処に無駄なエネルギーを費やすという愚かさを無くすために霊的真理の普及が必要なのです。

 同じ苦しみにも無くもがなの苦しみがあります。困難にも無くもがなの困難があります。が、それも霊的な成長と進化、光明へ向けての歩みにとっての糧とすることができます。

失敗も災難もみな薬です。何かを教えてくれます。結局人間は宇宙という大きな学校の生徒というわけです。これでよいという段階はけっして来ません。成長すればするほど、まだまだ開発し磨いていかねばならないものがあることに気づくものだからです」

 そうした人生において大切な心掛けとして、シルバーバーチはこれまで繰りかえし注意してきたことを再び説いた。

 「絶対に許してならないことは不安の念を心に居座わらせることです。取越苦労は魂を朽ちさせ、弱らせ、蝕みます。判断力を鈍らせます。理性を曇らせます。事態を明確に見きわめることを妨げます。いかなる人間も自分で解決できないほどの問題はけっして与えられません。

克服できないほど大きな障害は生じません───内在する神性が発揮されるような心掛けをしておればの話ですが・・・・・・。地上の人間は、少数の例外を除いて、まだまだ本当の意味で生きているとは言えません。

内在する霊的属性のごくごく一部しか発揮しておりません。よくよくの危機、よくよくの非常事態において、その霊力が呼び覚まされて勇気と知恵とを与えてくれますが、本来はいつでも引き出せるものです。

病気を治し、迷いの時に指針を与え、悩みの時には指導を与え、疲れた時には力を与え、視野が遮られている時には洞察力を与えてくれます。それを可能にするのはあなた方の心掛け一つにかかっております」


 あまりの戦火の激しさに、こんな情況ではささやかなサークルのメンバーが少しばかり真理を説いても無意味のように思われるとの一メンバーの考えを聞かされたシルバーバーチは、こう述べて力づけた。

(訳者注───この頃はまだシルバーバーチの霊媒がサイキック・ニューズ社の社長兼主筆であるバーバーネルであることは内密にされていたほどで、いきおい普及活動も範囲が限られていた。

一九三〇年代初期はまだ霊言がサイキック・ニューズ紙上にも掲載されていなかった。嫌がるバーバネルを説き伏せてハンネン・スワッハーがそれを紙上に連載させ、一九四七年にはついに霊媒がバーバネルその人であることまで公表されるに及んで、ようやく普及活動に弾みがつき世界的に普及しはじめたのだった。)

 「さまざまな出来ごとがありましたが、霊的真理の光は今なおこの小さな島(英国)に生き続けております。一度も消えたことはありません。こののちも、ますます広がり続けて、いずれは世界のすみずみにまで行きわたることでしょう。その恩恵を受けた数知れぬ人々から、あなた方は敬愛され祝福を受けることでしょう。

その貢献を誇りに思わなくてはいけません。胸を張って生きられるがよろしい。まだまだこれから成就しなければならない大きな宿命があなた方を待ち受けております。

 私たちには授けるべきメッセージがあります。今日ほどそれを必要とする時代はありません。今の地上こそ私たちの奮闘を必要とする土地です。慰めを必要とする人が大勢います。

悲しみに打ちひしがれ知識と援助を叫び求める人々が大勢おります。私たちに代わってそういう人たちを救うことのできる説教者や指導者が一体どこにいるでしょうか。授けるものとして一体何があるでしょうか。遠い過去の愛用句でしょうか。

使い古された教義でしょうか。信じる者のいなくなった教説でしょうか。それとも誤ったドグマでしょうか。本人みずからその信用性に自信のない者がそんな太古の物語を引き合いに出して、はたして現代人を慰めることができるのでしょうか。

 英国中、いや世界中いたるところで、闇夜に救いを求める人がいます。その祈り───声に出しての祈りも声なき祈りも───ただならぬ窮地で指針を求める魂の叫びが私どものところまで響いてまいります。そういう人たちこそわれわれが手を差しのべてあげなければなりません。

道に迷っている人々です。その多くは自分が悪いのではありません。闇に囲まれ悲しみに打ちひしがれ、目に涙をうかべて〝死〟の意味を知りたがっています。なぜ愛する者がこうも呆気なく奪い去られるのかと尋ねます。が、教会はそれに対応する答えを持ち合わせません。

悲しみの杯をなめ苦しみのパンをかじらされた者は、〝処女懐胎〟だの〝エデンの園〟だの〝使徒信条〟だのについての説教はどうでもよいのです。真実の知識が欲しいのです。事実が知りたいのです。確証が欲しいのです。

 彼らは素直にこう考えます───もしもこの世に救いになるものがあるとすれば、それは今の自分、苦しみの渦中にある自分たちをこそ救えるものであるべきだ、と。そこで私たちはあらゆる不利な条件、あらゆる障害をいとわず、そうした絶望の底に喘ぐ人々を慰めようと必死になるのです。

これまでも幾度か申し上げてきたことですが、皆さんはこうしたささやかなサークルが僅かの間ここに集まって私たちのために力を貸してくださるそのことが、どれほど大きな意味があるのか、そしてそのおかげでどれほど遠く広く真理を広めることができているかをご存じないようです。

私どもが述べる僅かな真理の言葉───僅かとはいえ永遠の実在を土台とした不易の叡知なのですが───それが受け入れる用意のできた人々の心、霊的に成熟した魂に根づいていく。

これは実に偉大な仕事というべきです。その真理を語るわれわれが成るほど神の使徒であることを証明するには、ひたすらに人の役に立つことをするしかありません。

つまり脅しや恐怖心や心配の念を吹き込まず、ただただ、薄幸の人々に救いの手を差しのべたいと望んでいる者であることを身をもって証明していくしかありません。(訳者注───古来宗教が信者に恐怖心を吹き込むことによって存続を謀ってきた歴史を踏まえて述べている)


 ここでシルバーバーチは、そのころ英国内の何人かの霊媒に対し、それぞれの支配霊と議論したいという挑戦状を送りつけている人物の名前をあげて、このサークルにも同じものが送られてきているらしいが、そんな人間と会うつもりはない旨を述べ、その理由をこう述べた。

 「その人物を恐れているのではありません。挑戦ならこれまでも地上からさんざん受けております。私に理解できないのは、この悲しみと苦しみの惨状のさなか、われわれの援助を大いに必要としている最中に、自分の信じてきたことしか信じようとしない人間との議論になぜ貴重な時間を費やさねばならないのかということです。

私をさらし者にしたいのでしたらいつでもなってあげましょう。私たちは(一八四八年のスピリチュアリズムの勃興以来)すでに百年近くも、私たちの仕事を阻止しようとする勢力の敵対行為に遭ってきました。

教会と科学と唯物主義による挑戦です。彼らによってどれだけの霊媒がさらし者にされたことでしょう。そしてそのつど彼らは霊の仕業などというのはウソである───霊など存在しないことを〝完全に証明した〟と決めつけました。

が、敵意と嘲笑と虚偽の陳述によって私たちの仕事が阻止されたことは一度もありません。霊界からの働きかけの成果がますます世界中に広がり、敵対する勢力は退却するか作戦の変更を余儀なくさせられています。

 スピリチュアリズムを非難する教会も今やその真理がはじめて地上へ啓示された時にみずから説いていた教説を説いてはいません。科学もほぼ百年前に説いていた学説を今は説いていません。我がもの顔だった唯物主義者さえ譲歩し、視点を変え、思いもよらなかった新たな要素を考慮せざるを得なくなっております。

それに引きかえ、私たちがこれまで説いてきたものを髪の毛一本ほどでも改めたり逸脱したりしたことがあるでしょうか。どこか私の霊訓で以前と違うところを指摘できるでしょうか。地上の事情が変わったために修正しなければならなくなった箇所が一つでもあるでしょうか。

物質界での新しい発見が為されたために、それまで私どもが絶対ですと断言してきた基本的真理を改正せざるを得なくなったところがあるでしょうか。

 あるわけがありません。自然法則を取り消したり変更したりしなければならなくなることは決してありません。生命活動に付随する環境条件の全ての可能性を認識しているからです。

〝生〟の現象にも、あなた方のいう〝死〟の現象にも、自然法則やその働きを改めなければならないものは絶対に生じません。私どもが説く真理に死はありません。正真正銘の真理だからです。霊的実在こそ真の実在です。だからこそ存在し続けるのです。永遠に残る叡知の宝石です。受け入れる用意のある者を導く永遠の真実です」


 次に〝死を悼む〟という人類に共通した情が話題にのぼった。メンバーの一人が、永年シルバーバーチの訓えを聞いてきた者でも仲間のメンバーが死ぬと悲しみを禁じ得ないのはなぜだろうかと尋ねた。すると別のメンバーがそれは〝死んだ〟者に対する悲しみの情ではなく、後に残された自分を悲しむ一種の利己的な情から生じるのでしょうと述べると、シルバーバーチはこう答えた。

 「いったい何を悲しむというのでしょう。死に際して悲しみを抱くということは、まだ進化が足りないことを意味します。本当は地上に留まること自体が苦痛であり、地上を去ることは苦痛から解放されることであり、暗黒の世界から出て光明の世界へ入ることであり、騒乱の巷から平和な境涯へと移ることを意味することを思えば、尚のことです。霊的知識を得た者がなぜその知識と矛盾する悲哀に心を傷めるのか、私は理解に苦しみます。

 もう一歩話を進めてみましょう。霊的真理についての知識を初めて手に入れた時、それは目も眩まんばかりの啓示として映ります。それまでの真っ暗闇の混乱、わけの分らなかった世界がぱっと明るく照らし出される思いがします。が、その新しい理解がいかに大きいものであっても、やがて納まるべきところに納まり、その人の在庫品の一つとなっていきます。

しかし知識は使うためにあるのです。その知識のお陰で視野が広がらなくてはいけません。理解力が増さなくてはいけません。洞察力、同情心、寛容心、善意がいっそう大きくならなくてはいけません。せっかく知識を手にしながら、それをある限られた特別の機会のために取っておくことは許されません。

それは人生のあらゆる側面における考えを改めるために使用されるべきものです。皆さんがこれまでに学び、観察し、体験してきたことに幾ばくかでも真理があったとすれば───もし学んできたことが霊的な価値を有するものであれば、その価値はそれを実際に使用し実生活に適用することによって少しでも多くの霊的自我を発揮させることで生かせるのです。

 身近な人の死に直面した時、あの馴染の顔、姿、あの言葉、あの笑顔がもう見られなくなったことを悲しむのではないと断言なさるのなら、あなたは絶対に悲しむべきではありません。

この交霊会での知識は週に一度わずか一時間あまりの間だけの知識として取っておいていただいては困ります。皆さんの日々の生活の中で使用していただかないと困ります。

その霊的な価値は工場において、仕事場において、事務所において、商いにおいて、専門職において、天職において、奉仕的仕事において、家庭内において、その絶対的基盤としなければなりません。

あなた方の生活のすべての行為における光り輝く指標とならなければなりません。それが知識というものの存在価値なのです。

と言うことは、スピリチュアリストを自認する方はスピリチュアリズムというものを───これも霊的真理の一側面に付した仮の名称にすぎませんが───身内の人を失って悲しむ人のためにだけ説いて、それ以外の時は忘れているということであってはならないということです。

私どもが教えんとしていること、駆使しうる限りの力を駆使して示さんとしていることは、この宇宙が霊的法則によって支配された広大な世界であること、そしてその法則は、人間みずから見えることより見えないことを望み、聞こえることより聞こえないことを望み、物が言えることよりも言えないことを望み、常識より愚昧(ぐまい)を好み、知識より無知を好むことさえなければ、決して恩恵をもたらさずにはおかないということです。

 知っているということと、それを応用することとは別問題です。知識は実生活に活用しなくてはなりません。死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上生活だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。

つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来ごとがあり、他方にはそれとまったく異質の、霊的な世界だけの出来ごとがあって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習性から卒業しなくてはいけません。

あなた方は今そのままの状態ですでに立派に霊的な存在です。死んでから霊的になるのではありません。違うのは、より霊的になるという程度の差だけであって、本質的に少しも変わりません。あなた方にも霊の財産であるところの各種の才能とエネルギーが宿されているのです。

今からあなたのものなのです。肉体に別れを告げたあとで配給をうけて、それを霊体で発揮し始めるというのではありません。

今日、いまこうしている時からすでにそれを宿しておられるのです。言わば居睡りをしながら時おり目を覚ます程度でしかありませんが、ちゃんと宿していることには違いありません。

霊的知識を手にしたあなた方は人生のあらゆる問題をその知識の光に照らして考察し、そうした中で霊の所有物、才能の全てを発揮できるようにならなければなりません。


 悪いと知りつつ罪を犯す人は───〝罪を犯す〟という言い方は私は好きではありませんが(他のところで〝摂理に背く〟と言いたいと述べている。訳者)───知らずに犯す人よりはるかに悪質です。盗むことは悪いことですが、霊的知識を手にした人がもし盗みを働いたら、それは千倍も悪質な罪となります。

恨みを抱くことは悪いことですが、霊的知識を知った人がもし誰かに恨みを抱くようなことがあったら、それは千倍も悪質な罪となります。知識はすべてのことに厳しさを要求するようになります。

私がいつも〝知識は責任を伴う〟と申し上げているのはそういう意味です。霊的なことを知っていながらそれが実生活における行為にまるで反映していない人が多すぎます。難しいことかもしれませんが、人間は一人の例外も無く今この時点において霊の世界に住んでいること、決して死んでから霊になるのではないということをしっかりと認識して下さい。

死ぬということはバイブレーションの問題、つまり波長が変わるということにすぎないことを認識して下さい。知覚の仕方が変わるだけのことと言ってもよろしい。日常生活で固くてしっかりしていると思っているものとまったく同じ、いえ、もっともっと実感のあるものが、たとえあなた方の目に見えなくても、立派に存在しております」


 最後に霊界から見た〝死〟の意味をこう語った。
 「〝生〟を正しい視野で捉えていただきたい。その中で〝死〟が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間はあまりに永いあいだ死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。

私どもはぜひとも無知───死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れとみなす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。

死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。

 死の関門を通過した人はカゴから放たれた小鳥のようなものです。思いも寄らなかった自由を満喫して羽ばたいて行くのです。人間が死と呼ぶところの看守によって肉体という名の監獄から出させてもらい、(原則として)それまでの肉体に宿っているが故に耐え忍ばねばならなかった不平等も不正も苦しみも面倒もない、

より大きな生へ向けて旅立ったのです。霊本来の限りない自由と崇高なよろこびを味わうことになるのです。

 苦痛と老令と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探究心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。

その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。

それは間違いです。もしも霊的真理に目覚め、無知の翳(かす)みを拭い落した目でご覧になれば、愛するその方の光り輝く姿が見えるはずです。死は決して愛する者同士を引き離すことはできません。

愛は常に愛する者を求め合うものだからです。あなた方の悲しみは無知から生じております。知識があれば愛する者が以前よりむしろ一段と身近な存在となっていることを確信できるはずです。霊的実在を悟ることから生じるよろこびを十分に味わうことができるはずです。

 皆さんもいずれは寿命を完うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ捨てる時が来ます。霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると自然にはげ落ちるわけです。

土の束縛から解放されて、死の彼方で待ち受ける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです」

  

Saturday, April 11, 2026

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

 The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)


4章 生殖の法則
このページの目次
〈地球の人口問題〉
〈繁殖の人工的抑制の是非〉
〈結婚と禁欲〉
〈地球の人口問題〉



――生きものの生殖作用は自然の法則でしょうか。


「まさしく自然法則です。生殖作用が途絶えれば物質界の生物は絶滅します」


――これまでのような割合で地球の人口が増え続ければ多くなり過ぎるのではないでしょうか。


「そういう心配はいりません。神の配剤によって常に均衡が保たれるようになっています。神は何事につけても無駄は許しません。人間の視野には宇宙の全パノラマのほんの一部しか入りません。それゆえ全体にハーモニーが行き届いていることは知覚できません」


――現時点でも地上の幾つかの民族が明らかに減少しつつあります。それは最終的には地上から消滅してしまうのでしょうか。


「その通りです。ですが、代わって別の民族が生まれます。あなた方の民族もいずれは新しい民族と入れ替わるのです」


――現在の地上人類はまったく新しく創造されたものでしょうか、それとも原始的人類の進化した子孫でしょうか。


「霊系は同じです。それが新しい身体に宿り何度も再生し進化して行きつつあるところです。ですが、まだまだ完成からは程遠い段階にあります。いずれにしても現在の人類は人口の増加によって地球全土に広がり、消滅しかかっている民族と取って代わって行きますが、やがてそれも減少傾向に入り、消滅してしまいます。そして別の、もっと完成度の高い民族によって取って代わられますが、それも現人類の子孫です。ちょうど現在の文明人も粗野な原始人の子孫であるのと同じです」


〈繁殖の人工的抑制の是非〉
――人間は法律や慣習によって繁殖を防ぐ方法を講じていますが、これは自然法則に反することでしょうか。


「自然界の営みを妨げることは全て摂理に違反します」


――しかし動物や植物には繁殖しすぎると他の種属に害を及ぼし、巡りめぐって人類の破滅にもなりかねないものがあります。それを人間が抑制するのは間違いでしょうか。


「神は、地球上の生物全体の管理人的立場にある人間に、良きに計らうべき力を与えています。が、乱用は許されません。繁殖作用を必要性に応じて抑制するのは結構ですが、必要以上に阻止すべきではありません。人間の知的活動は大自然のエネルギーの均衡を保持するために神が用意した錘(おもり)のようなものです。そこにも人間が動物と大きく異なる点があります。つまり大自然全体の均衡のために人間は、自らを行使して、洞察力を働かせて協力しますが、動物は本性的に与えられている破壊の本能によって無意識のうちに協力しているのです。動物は自己の種の保存のためにのみ生きていながら、あまり繁殖しすぎると危険でさえある動物や植物を餌として食し、結果的に調和の維持に貢献しています」


〈結婚と禁欲〉
――結婚、つまり一対の男女が一個の単位となって生涯を送ることは自然法則に反したことでしょうか。


「人類が成就した進歩の一つです」


――もし一夫一婦制の結婚形態が廃止されたら人間社会はどうなるでしょうか。


「野獣の生活に戻ります」


――離婚の絶対禁止は自然法則に適っているでしょうか、それとも人間のこしらえた法律にすぎないのでしょうか。


「人間がこしらえた法律であり、自然法則に完全に違反します。しかし、人間は法律を少しずつ書き変えています。神の摂理のみが不変絶対です」


――禁欲生活は神の目から見て立派なことでしょうか。


「立派なこととは言えません。利己的な動機から独身生活を送ることは、神はお喜びになりません。社会の一員としての義務を果たしていないからです」


――同じく禁欲生活でも人類の福祉のために一切をなげうつという犠牲的精神から発している場合はいかがでしょうか。


「それはまったく話が別です。私がいけないと言っているのは“利己的な動機”に発している場合です。犠牲的精神から発しているものは、その目的が人のために役立つものであれば称讃に値します。犠牲が大きいほど功績も大きくなります」


訳注――ここでいう“利己的な動機”というのは性欲を諸悪の根源とするキリスト教の教えにこだわって、己の潔癖のみを守る生き方を言っているものと察せられる。


これは真理探究者がうっかりはまる落とし穴で、表面上の意識、つまり頭の中で考えていることの奥に、自分にも気がつかない、自己中心的な思惑が潜んでいることがある。“汝自らを知る”ということは実に難しいことである。

霊の書(3部) アラン・カルデック(編)

 The Spirits' Book

第3部 摂理と法則
アラン・カルデック(編) 近藤千雄(訳)



3章 仕事の法則

このページの目次
〈仕事の必要性〉

――仕事の必要性も自然法則でしょうか。


「自然法則の一つです。そのことは、仕事は自然の成り行きでどうしてもせざるを得ないこと、そして文明が進むほど必需品と娯楽が増え、それだけ仕事の量も増えるという事実からも立証されます」


――“仕事”という用語は物的性格の労働と理解してよろしいでしょうか。


「それは違います。霊も仕事をしています。役に立つことは、いかなる性格のものでも仕事と言えます」


――なぜ人類に仕事が課せられているのでしょうか。


「物的生活の必然の結果です。罪滅ぼしの要素もありますが、同時に知性を発達させるための手段でもあります。もしも働くということが無かったら、人類は幼稚な知性のままでしょう。そこで食べるものを獲得し、安全を保ち、健康を維持するために働き活動をするようになっているのです。力の要る労働のできない虚弱な人には、それを補うだけの知性が授けられています。知性の活動も仕事です」


――地球よりも高度に発達した天体でも同様の仕事の必要性があるのでしょうか。


「仕事がどういう性格のものであるかは、その天体の必要性と関連してきます。物質性が少なければ仕事も物質性が少なくなります。だからといって活動がなくなり、何もしなくなるわけではありません。することが無いということは有り難いどころか、苦痛です」


――働こうにも働けない人がいるのではないでしょうか。そういう人の人生はまったく無駄なのでしょうか。


「神は常に公正です。神が罰するのは意図的に無為の人生を送る者だけです。それは他人の世話になるだけの一生に終わるからです。各自がその才能に応じて意義ある存在となるように神は配剤しておられます」
〈仕事の限度と休息〉


――仕事の後には休息が必要であるからには休息も自然の法則の一つではないでしょうか。


「もちろんそうです。休息によって体力が回復し、同時に身体が休むということは精神が自由になることであり、物的束縛から一時的に解放されます」


――仕事の限度は何が目安でしょうか。


「体力の限界です。ですが、神はその点については人間に自由を与えています」


――雇い人のような弱者に権力者が過激な労働を科するのは罪でしょうか。


「重大な罪の一つです。権力を振り回す者は、理不尽な程度に及ぶ時は、それに対する責任を取らされます。神の摂理を侵犯しているからです」


――仕事をしなければ生きて行けないのに、老齢で働けない場合はどうすればよいのでしょうか。


「元気な者が弱った人のために働くべきです。家族の援助が得られない場合は社会が面倒を見るべきです。それが慈悲の法則です」

シルバーバーチの霊訓(三)

Wisdom of Silver Birch
ハンネン・スワッファー・ホームサークル編 近藤 千雄 訳




まえがき

 ハンネン・スワッハー・ホームサークルの支配霊シルバーバーチの霊言集はすでに何冊か出ているが、本書はその好評に応えて新たに編纂したものである。

 シルバーバーチは今や世界で最も有名な〝死者〟の一人となっている。その霊言の価値は平凡な日常生活に応用できるという点にある。それがまず第一のメリットであるが、もう一つ、シルバーバーチが一貫して説き続けているのは絶対的な道徳的摂理の存在───全大宇宙のすみずみまで支配し、

いかなる嘆願、後悔、懺悔、そのほか自分の所業がもたらす結果から逃れんとするいかなる方便によっても影響されない法則が存在することを指摘している点である。その法則そのものが自動的にそれに相応しい結果をもたらすと説くのである。

 本書の編纂に当って苦心したのは、膨大な資料の中からどれを削るかということであった。その取捨選択に当って私が心がけたことは、シルバーバーチという古代霊を人類の指導者の名に相応しい存在として浮き彫りにすること───人間の進むべき方向を示し、その道中に生じる困難を避けるのではなく、それと取り組み、それを自らの手で克服していくための心構えを教えてくれる、真の指導者であることを明らかにすることである。

 今は私もレギュラーメンバーの一人であるが、本書に収められた霊言は私がまだメンバーでなかった頃のものである。が、私もその後十分に霊言に親しみ、その真髄が、さまざまな進化の階梯にあるすべての人間が理解し応用することのできる単純素朴な訓えを通して最大限の貢献をすることにある、ということを十分に得心している。古代の哲学者と近代の哲学者との差はたいして大きくはない。

古代の哲学者の方が単純素朴であり、インスピレーションの源を意識していた者が多かったということくらいなものである。が、これから紹介する人物は真理の不滅性と不変性、そしてそれが誰にでも理解できる形で表現できるものであること、そして又その表現法の違いを除いては決して改める必要がないという事実の生き証人である。

つまりシルバーバーチはその訓えを通じて死後の意識的生活の存続を証明し、霊的教訓は決して失われることはないこと、この世とあの世の区別なく人間的体験のエッセンスであること、そして人間の霊性に秘められた可能性が無限であることを教え示すのである。

 良き時代を体験し〝悪しき〟時代にはこの古代霊の叡智の導きを受けた人間の一人として、私はその叡智の抜粋を紹介できることを心からうれしく思う。

私はたいていの思想に親しみ、新旧の宗教のほとんどすべてに通暁しているつもりであるが、素朴さと真実味と実用性の点においてこの霊訓に匹敵するものにでくわしたことが無い。またその説得力の素晴らしさは他の追随を許さないものをもっている。

それはインスピレーションの源に少なくとも一段階、他よりも近いからにほかならない。

 本書の目的は地上の暗闇に光をもたらし、人間に背負わされた重荷を軽減し、生命の大機構を説き明かし、魂の死後存続を証明し、地上世界を美しく且つ祝福された生活の場として再構築することである。それは今まさに読まれんとするこの霊的知識を応用することによってのみ実現されることであろう。
       一九四四年  編者


 訳者注───全十一冊の中で本書だけが〝編者〟 The Editor としてあって氏名が記されていない。表題を H・S・(ハンネン・スワッハー)ホームサークル編としたのは、それが版権の所有者だからである。このシリーズに関するかぎり誰が編纂したかはどうでもよい問題であろう。

要はシルバーバーチの霊言そのものである。私もその点に鑑みて一つの章を内容上から二つに分けたり、前巻でカットしたものを加えたりして日本人向けに理解の便を図ってある。

表題も内容に相応しいものに改めてある。老若男女がいつどこで読んでもすっと理解できるように、というのが私の本シリーズの翻訳に当っての基本方針であり、それがシルバーバーチ霊団の基本的態度でもあるからである。

 以上、英語の勉強もかねて原書で読みたいとおっしゃる方が増えているのでお断りさせていただいた。なお全巻の書名と出版社名は『古代霊は語る』の巻末に紹介してある。(※印は絶版)丸善、紀伊国屋等の洋書部から取り寄せられる。疑問の点、お迷いの点があれば、遠慮なく訳者に問い合わせていただきたい。できるだけの便宜を図ってあげたいと思っている。

 
    
  一章 戦時下の交霊会から

 他の数多くの霊団と同じようにシルバーバーチ霊団も第二次世界大戦中は平和時にくらべて地上との交信にさまざまな困難を味わっている。

メンバーの一人がスペインやエチオピア、中国などでの紛争の時にはとくに目立った問題は起きなかったように記憶するが、なぜ今回の大戦中はそんなに交信が妨げられるのかと質したのに対し、シルバーバーチはこう語った。

(本書の出版は一九四四年であるから、収められた霊言の大半が世界的規模の戦乱の真っ最中であった───訳者)

 「人間が次から次へと死に、しかも地上の愛する者との連絡が取れない状態では、全体の雰囲気が不満に満ちた感情で埋めつくされ、それが霊界との交信の障害となります。私たちは今こうして地上に来ております。その地上の人間が次々と死んでは地上との縁を求めようとすることが障害となるのです。

つまり問題は私たちがこうして地上にいる間のことです。他界した数知れぬ人間が地上との縁を求めます。が、それを受け入れる用意が地上にはありません。そのことが、戦争そのものが生み出す残虐な感情とは別に、大気に不協和音を作り出します。交信がうまく行くのは雰囲気が平静さと調和、受容的な心に満ちている時です。

 残念ながらそういう人は稀です。そこで私たちはこうしたサークル───霊的実在に目覚め、障害となる思念や欲望や感情によって雰囲気を乱すことのない人々の集まりから発生する霊的なエネルギーを頼りとすることになります。私がいつも皆さんに自信を持ちなさい、心配はいけません。

不安を抱いてはいけませんと言い、毅然(きぜん)とした平静さと不屈の精神で困難に対処するように説き、そうした雰囲気の中にあってはじめてお互いが援助し合う条件が整うことを知ってほしいとお願いするのはそのためです。

 私たちは物的な存在ではありません。物的世界との接触を求めているところの霊的な存在です。霊の世界と物の世界には懸隔(ギャップ)があり、それを何らかの媒介によって橋渡しする必要があります。私たちが厄介な問題に遭遇するのはいつもその橋渡しの作業においてです。

それを容易にするのも難しくするのも人間側の精神的状態です。雰囲気が悪いと、私と霊媒とのつながりが弱くなり、私と霊界との連絡も次第に困難となります。わずか二、三本の連絡線によってどうにか交信を保つということもあります。
 
そのうち霊媒が反応をみせなくなります。そうなると私は手の施しようがなくなり、すべてを断念して引き上げざるを得なくなります。私があなた方の忍耐を有難く思い、変わらぬ忠誠心を維持してくださっていることに感謝するのは、そういう理由からです。

 私は当初から、つまり大戦勃発後間もなく交霊会を再開した時からすでに、こうした問題の生じることは覚悟しておりました。一時は果たしてこのまま地上の接触を維持することが賢明か否かを(霊団内で)議論したこともありました。

しかし私は、たとえわずかとはいえ私が携えてきた知識を伝えることにより、力と希望と勇気を必要としている人々にとって私の素朴な霊訓が生きる拠り所となるはずだと決断しました。今私は、もし私たちの霊訓がなかったら今なお困難と絶望の中で喘いでいるかも知れない人々に慰めと力になってあげることが出来たことを知って、うれしく思っております。

しかしそれは決してそう易々とできたことではありません。私たちはこれまでの成果を私たちの功績として誇る気持ちは毛頭ありませんが、これまで私たちを悩ませてきた数多くの困難がいかなるものであったかを皆さんにぜひ認識していただきたいと思って申しあげるのです。

 インスピレーションの全部が伝わることなどおよそ期待できないように思えたことも幾度かありました。そういう時に際して大切なことは、いつの日か、より鮮明な視野が開けるとともにより大きな理解力が芽生えることを信じて、忍耐強く待つことです。我慢することです。

私たちがお教えしたことをひたすらに実践なさることです。私たちにとって、とても辛い時期でした。しかし私は力のかぎりを尽くしてきました。活用できるかぎりの手段を駆使して、少しでも役立つように、少しでも力になってあげられるようにと努力してまいりました。皆さんは地上にいるかぎりこうした皆さんとの協力関係がどこまで成功したかはお判りにならないことでしょう。

魂の底からの感動を覚えた人の数、皆さんの協力によって成し遂げた成果がどの程度のものであるかは、お判りにならないでしょう。が、せめて私の次の言葉だけは信じてください。世界の多くの土地において無知の闇が取り除かれ、大勢の人々の心に新しい確信が宿されたということです」

 
 次に戦争の犠牲者となった人々の霊界での受け入れ態勢について聞かれて────「霊界は実にうまく組織された世界です。各自が持って生まれた才能───地上ではそれが未開発のままで終わることが多いのですが───それが自然な発達の過程を経て成熟し、それぞれに最も相応しい仕事に自然に携わることになります。

(受け入れ態勢のことですが)まず戦争の恐怖が地上を揺さぶっていない平和時においては、不可抗力の死の関門を通ってひっきりなしに霊界入りする者を迎える仕事に携わる男女の霊が大勢おります。迎え方はその人間の種類によってさまざまです。

死後のことについて知っている人の場合、知らない人の場合、知っているといっても程度の差があり、間違っている場合もあります。そうした事情に応じてそれなりの扱い方を心得た者が応対します。そして初め新しい環境に戸惑っていたのが次第に馴染んでくるまでその仕事に携わります。

 実は神の叡智の一つとして各自は地上にいる時から死後の環境に少しずつ慣れるように配慮されております。毎夜眠りに落ちて肉体が休息し、まわりの生活環境が静寂を取り戻すと、その肉体から霊体が脱け出て本来味わうべきよろこびの体験をします。

しかしその体験は(肉体に戻った時は)大半の人間が忘れております。一段と高い素晴らしい世界で、愛する人、愛してくれている人とともに過ごしたことがまったく脳の意識に感応しません。

しかし死という大きな変化を経て新しい世界へ来ると、親和力の働きによって、そういう形で地上時代から馴染んでいた環境へ赴き、霊的本性に印象づけられていた体験を思い出しはじめます。

最初はゆっくりと甦ってきます。そうなるまでの期間は永い人もいれば短い人もいます。一人ひとり違います。それは霊的知識の発達程度によって異なります。言いかえれば、霊的実在についての認識の程度によって異なります。


 正しい認識をもち、すでに地上時代から死後の世界を当然のことと考えていた人は死後、あたかも手袋に手を入れるように、すんなりと新しい環境に馴染んでいきます。

死後に何が待ちかまえているかを知らずに来た者、あるいは間違った固定観念に固執していた者───大勢の案内者を差し向けなければならないのはこの類の人たちです。

各自の必要性に応じて適当な指導霊がつけられます。まったく知らない人であることもありますが、実は永いあいだ地上生活の面倒を見てきた背後霊の一人であることがよくあります。また血縁関係の絆で引き寄せられる霊もいます。霊的な親和性に刺戟されてやって来る場合もあります。

 さて、以上はすべて平和時の話です。これが戦時下になると、いろいろと問題が厄介となります。なにしろ何の準備もできていない、何の用意もしていない人間が大挙して霊界へ送り込まれてくるのですから。みんな自分が死んだことすら知りません。気の毒ですが、その大半はしばらく好きにさせておきます。意識が霊界よりもはるかに地上に近いからです。

手出しができないと観念して側でじっと見つめているのは、私たちにとっても悲しいものです。実に心苦しいものです。しかし、事情が事情だけに、彼らの方に受け入れ態勢が整うまでは、いかなる援助もムダに終わってしまうのです。言わば完全に目隠しをされているのと同じで、われわれの存在が見えないのです。

死んだことにも気づかずに死んだ時と同じ行為を続けております。地上戦で死んだ者は地上戦を、海上戦で死んだ者は海上戦を、空中戦で死んだ者は空中戦を戦い続けます。そしてそのうち───期間は各自まちまちですが───様子が少し変だということに気づき始めます。

 全体としては以前と変わらないのに、気をつけて見るとどうも辻褄が合わない。奇妙な、あるいは無意味なことが繰り返されていることに気づきます。殺したはずの相手が死んでない。

銃を撃ったはずなのに弾丸が飛んで行かない。敵の身体に体当たりしても相手は少しも動かない。触っても気がつかない。大声で話しかけても知らん顔をしている。そしてその光景全体に霧のような、靄のような、水蒸気のようなものが立ち込めていて、薄ぼんやりとしている。

自分の方がおかしいのか相手の方がおかしいのか、それも分らない。時には自分が幻影に迷わされているのだと思い、時には相手の方が幻影の犠牲者だと考えたりします。

が、そのうち───霊的意識の発達程度によってそれが何分であったり何時間であったり何日であったり何ヶ月であったり何年であったり何世紀であったりしますが───いつかは自覚が芽生えます。その時やっと援助の手が差しのべられるのです。

 一人ひとりその接触の仕方、看護の仕方が異なります。自分が死んだことがどうしても信じられない者にもいろんな方法が講じられます。地上と隣接する界層へ連れていき、そこで地縛霊を扱っている霊団にあずけることもあります。

本人の知っている人間ですでに他界していることもよく知っている人のところへ連れて行くこともあります。疑う余地がないわけです。このように同じ目的を達成するにも、さまざまな方法を講じるのです。

 さらには一時的にエーテル体つまり霊的身体を傷められたために看護をしてやらねばならない人がいます。いわゆる爆弾ショックのようなものを受けた者です。

意識が朦朧としており、手当が必要です。こちらにはそういう患者のための施設が用意してあり、そこで適切な手当てをして意識を取り戻させ、受けた打撃を取り除いてやります。あくまで一時的な傷害です。そのことをぜひ強調しておきたいと思います。

地上での死因がいかなるものであれ、それが霊体に永久的な傷害を与えることがあるように誤解されては困るからです。そういうことは絶対にありません。そうした傷害はショックの後遺症にすぎません。正しく矯正すれば跡形もなく消えてしまいます。完全に回復します。 

 もう一つ強調しておきたいことは、みずから望まないかぎり、何の看護もされないまま放っておかれる人は一人もいないということです。迎えに来てくれる人が一人もいないのではないかなどという心配はご無用です。縁故のある人がいますし、それとは別に愛の衝動から援助の手を差しのべようと待機している人も大勢います。

誰一人見捨てられることはありません。誰一人見失われることはありません。誰一人忘れ去られることもありません。素晴らしい法則が全ての人間を管理し、どこにいてもその存在は認知されており、然るべき処置が施されます。地理上の問題は何の障害にもなりません。

こちらには距離の問題がないのです。霊界全体が一つの意識となって、全てを知り尽くしております。地上と霊界との親和力の作用によって、今どこそこで誰が死の玄関を通り抜けたかが察知され、直ちに迎えの者が指し向けらます」


 ───爆弾で死亡した子供はどうなるのでしょうか。

 「子供の場合は大人に比べて回復と本復までの期間がずっと長くかかります。が、いったん環境に適応すると、こんどは大人より進歩がずっと速いのです。回復期は魂にとって夜明け前の薄明かりのような状態ですが、けっして苦痛は伴いません。

そういう印象をもっていただいては困ります。一種の調整期間なのですから・・・・・・つまり魂が新しい身体で自我を表現していくための調整です。それには地上時代の体験が大きく影響するのですが、子供の体験は限られています。そこで本復までの期間が長びくわけです。

そして、念のために申し添えておきますが、たとえば母親が地上に生き残り子供だけが他界した場合でも、地上時代に子供がいなくて母性本能が満たされずに終わった女性がその看護にあたります。こちらへ来てその母性本能を十分に発揮するチャンスが与えられるわけです」


 ─── 地上では子供の方が新しい環境への適応が速いですが・・・・・・
  
 「それは純粋に物的要素に関しての話です。今お話ししているのは霊に関ることです。霊が霊的世界へ適応していく場合のことです。霊的世界は多くの点で物的世界とは大きく異なっており、同時によく似た面もあります。問題は〝自覚〟です。それがすべてであることを理解しなくてはいけません。自覚がすべてのカギです。

私がいつも知識こそ霊にとって掛けがえのない宝であると申し上げていることはよくご存じと思いますが、その知識が自覚を生むのです。こちらは精神の世界です。小さな精神(幼児)もそれなりの適応をしなくてはなりません。

もう一つの要素として償いの問題がありますが、子供の場合は償いというほどのものはありません。子供は地上的体験に欠けていますが、同時に地上的な穢れもないからです」


 ─── 美徳による向上も得られませんね。

 「そこに子供としての埋め合わせの原理が働いているわけです。つまり、良いにつけ悪いにつけ地上的体験がない。しかし、もし長生きしていたら犯していたであろう罪に対する償いをさせられることもないということです」

 ───その埋め合わせもすぐに行われるのでしょうか。

 「それは一概には言えません。子供一人一人で事情が異なります。私はいま償いの法則があることを指摘しているだけです」


 ───もしも子供に地上的な悪の要素が潜在している場合、それはそちらへ行ってから芽を出すのでしょうか。

 「そのご質問の仕方は感心しません。子供に地上的な悪の要素が潜在するというのは事実に反します。何か例をあげてみてください」


 ───例えば大人になったら欲深い人間になったであろうと思われる人間が早世した場合、そちらへ行っても同じように欲深な人間になっていくのでしょうか。

 「問題を正しい視野で捉えないといけません。こちらの世界で自覚が芽生えると、その時からその人は向上の道を歩むことになります。自覚が芽生えるまでは地上で満たされなかった欲望の幻影の中で暮らしています。いったん自覚すると、その〝自覚した〟という事実そのものが、それまでの自我の未熟な側面を満足させたいという欲求に訣別したことを意味します。

〝正しい視野で捉えなさい〟と言ったのはそういう意味です。欲が深いということは、まだ自覚が芽生えていないということを意味し、自覚するまでは、その欲望が満たされると満足するわけです」


 ───でも幼い子供はまだまだ未熟です。

 「私が言わんとしているのは、幼い子供は魂を鍛えるための地上的体験が不足しているために未熟な状態でこちらへ来ますが、同時に彼らには大人になって出たであろう穢れで魂が汚されていない。そうした事情の中で子供なりの埋め合わせの原理が働くということです。子供は性格に染み込んだ穢れを落とす手間が省けるということを言っているのです」


 ───善を知るために地上で悪の体験をしに来るのではないのでしょうか。

 「違います。善を知る目的で悪いことをしに来るのではありません」


 ───でも、私たちは聖人君子の状態で生れてくるわけではないでしょう?

 「それはそうです。しかし恨みを晴らすために、あるいは思い切り貪欲をむさぼることを目的に生れてくるのと、善悪を知らない言わば〝原料〟の状態で生まれてきて一個の製品となっていくのとは意味が違います」

 ───その違いを〝悪行を犯す、犯さない〟で説明できないでしょうか。

 「できないことはありません。ただ私はあなたの表現の仕方に賛成できないのです。私は人間の魂の発達の目標をあなたのおっしゃる〝聖人君子〟となることだとは思いませんし、又、罪悪の恐ろしさを知るために地上へやってきて人類みんなで悪いことをし合うことだとは考えません。

その考えは絶対に間違っています。たしかに中にはある種の悪だくみを抱いて地上へやってくる者もいないではありません。しかし、その数はきわめて限られています。真の悪人といえる人間は、幸いにしてきわめて少数です。罪悪の大半は───それを罪悪と呼ぶならばの話ですが───無知、間違った育ち方、誤った教育、迷信等から生まれているものです」


 ───地上で欲の深かった子供は霊界でもしばらくは欲深で、その意味で地上的体験をしたことにならないでしょうか。

 「あなたがおっしゃるのは、もし子供が生れつき欲が深い場合は、死後もその貪欲性が意識に刻み込まれたままか、ということでしょうか。もしそうでしたら、それは有りうることです。ですが、寿命が短かければその貪欲性の発現するチャンスも少ないわけですから、それだけ矯正が容易ということになります。

地上でほとんど発現しなかった貪欲性と、五十年も七十年も生きて完全にその人の本性の一部となってしまった貪欲性とでは大へんな差があります」

 ここで少し話題が変わって、空襲でいっしょに死亡した家族は霊界でもいっしょかという質問が出た。すると───

 「それは一概には言えません。これは答え方に慎重を要する問題です。落胆される方がいては困るからです。一つには再びいっしょになることを望むか望まないかに掛かっています。

死後の世界での結びつきは結ばれたいという願望が大切な絆となるということ、そして地上では死後あっさりと消滅してしまう絆によって結ばれている家族がいるということを理解ください。

もし家族の間に何か共通したものがあれば───たとえば自然な愛とか情とか友愛といったものがあれば、それによってつながっている絆は切れません。夫婦関係と同じです。地上には結婚というしきたりだけで夫婦である場合がたくさんあります。

霊的には結ばれていないということです。こうした夫婦の場合は死が決定的な断絶を提供することになります。が、反対に霊的次元において結ばれている場合は、死がより一層その絆を強くします。事情によっていろいろと異なる問題です」


 ───死んだことに気づかない場合はどうなりますか。

 「死んだことに気づかない場合はそれまでと同じ状態が続きます。が、こうしたご質問に対しては一概にイエスともノーとも言えないことがたくさんあります。ほかにもいろいろと事情があるからです」

(訳者注──ここではこれ以上のことは述べていないが、他の箇所ではその〝事情〟として、その時点での各自の霊格の差、その後の霊的向上の速さの違い、償わねばならない地上生活の中身───それが原因ですぐさま再生を必要とする場合もありうる───等々があると述べている。

これは他の霊界通信の多くが異口同音に説いていることで、シルバーバーチがさきの答えの中で〝落胆される方がいては困るから〟慎重を要する問題だと言ったのは、総体的に言えば家族的な絆はそう永続きするものではないのに、現段階の人類はあまりに情緒的な絆が強すぎて、むしろそれが向上の妨げにさえなっている事情を踏まえてのことであることを理解すべきである。この問題は断片的にではあるが今後もよく出てくる。)
 

 ───戦死の場合でも、誰がいつ死ぬということは霊界では前もって分っているのでしょうか。

 「そういうことを察知する霊がいます。が、どれくらい先のことが察知できるかはその時の事情によって異なります。愛の絆によって結ばれている間柄ですと、いよいよ肉体との分離が始まると必ず察知します。そして、その分離がスムーズに行われるのを手助けするためにその場に赴きます。

霊界のすべての霊に知られるわけではありません。いずれにせよ、死んだ時───地上からみた言い方ですが───ひとりぼっちの人は一人もいません。かならず、例外なくまわりに幾人かの霊がいて、暗い谷間を通ってくる者を温かく迎え、新しい、そして素晴らしい第二の人生を始めるための指導に当たります」