Friday, August 8, 2025

シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

十七 節

著者の不満と要望──拒絶とその理由──これまでの霊訓の復習──著者に反省を求めるために霊団の一時総引上げを示唆──数学的正確さをもつ証拠は提供不可能──キリストの〝父と私は一つである〟の真意──著者の旅行先での霊信──性急な要求は事を損ねる──猜疑心の及ぼす影響──著者の忍耐と理性的判断を重ねて要請






〔思うに、私がこうして執拗に霊信に反撥しているのを知友たちはさぞかし満足に思っていたことであろう。しかし私としては激しく私の魂を揺さぶるこの不思議な通信を徹底的に究明すること以外に、それに忠実な道が見出せなかったというに過ぎない。私はどうしても得心がいかないし、得心できぬままでいることも出来なかった。

そこで再び論争を挑んだ。イムペレーターの通信が終わると私はそれを細かく読み、二日後(一八七三年七月十四日)にその中にどうしても受け入れかねる点について反論した。それは次の三点であった。

(一)イムペレーターの地上時代の身元、(二)イエス・キリストの本質と使命、(三)通信の内容の真実性を示す証拠。私のこの三点について私以外の霊媒を通じて通信するよう要求し、その霊媒を指定しようと思うがどうかと述べた。


同時にこれまででの通信の内容について、いろいろと反論したが、それは今ここで取り挙げるほどのものではない。とにかく、私はその時点での私の確信を正直に表明したが、今にして思えば私の反論は不十分な知識の上で為されていたことが判る。

それはその後順次解決されていき、解決されていないものもやがて解決されるであろうとの確信がもてるまでになった。そうは言っても当時の私の心境はおよそ満足といえるものからは程遠く、私は忌憚なくその不満を打ち明けた。以下がそれに対する回答である──〕


 






















   
 友よ。汝の述べることには素直さと明快さが窺えて喜ばしく思う。もっとも汝はわれらの述べることにそれが欠けていると非難するが・・・・・・。汝の(われらの身元についての)要求については、汝がそう要求する心境は判らぬでもないが、それに応ずるわけにはいかぬし、たとえ応じても何の益にもならぬ。

申し添えるが、汝の要求の全てにわれらがすぐに応じぬからとて、われらの側に汝に満足を与える意志がないわけでは決してない。われらとて汝の心に確信を植えつけんと切に願っている。がそうするためにはわれらの側にもその手段と時期に条件がある。

計画の一部たりとも阻害され、あるいは遅延のやむなきに至ることは、われらにとってこの上なく残念なことであり遺憾に思う。汝にとってもわれらにとっても残念なことである。が結果としてこうなった以上は致し方あるまい。われらとて全能ではない。

これまで通りの論議と証言の過程による以外に対処する手段はないのである。その論議も証言も今のところ汝の心に得心がいかぬとみえる。ということは、汝にそれを受け入れる備えが出来ておらぬということと観て、われらはそれが素直に汝の心に安住の地を見いだす日を忍耐強く待つとしよう。

 汝の提出する疑問についてはその殆どに答える必要を認めぬ。現時点にて必要とみたものについてはすでに回答を与えてあるからである。すでに回答を与えたものについて改めて述べても意味があるとは思えぬ。

単なる見解の相違の問題について深入りするのは無意味であろう。われらの述べたるところがこれまでのわれらの言動に照らしてみて、果たして一致するか否かといったことは些細な問題である。汝の今の心境はそうした問題について冷静なる判断を下せる状態ではない。

また、いわゆるスピリチュアリズムなる思想が究極においてわれらの言う通りのものとなるか、それとも汝が主張する如きものとなるかは、これまたどうでもよい問題である。

われらはその問題については一段と高き視野に立って考察しており、それは今の汝には理解の及ばぬところである。汝の視野は限られており、それに比してわれらは遥かに広き視野のもとに眺めている。また汝がわれらの訓えをキリスト教の論理的展開の一つと見るか否かも取るに足らぬ問題である。その道徳的崇高性は汝も認めている。

その論理的根拠についてはここで論ずる必要を認めぬ。汝が信じようが信じまいが、地上人類が絶対必要としているものであり、汝が受け入れるか否かに関わりなく、遅かれ早かれ感謝の念をもって人類に受け入れられていく訓えである。汝がわれらの存在を認め、その布教に手を貸す貸さぬにお構いなく、きっと普及していく訓えである。

 われらとしては、汝のことを良き霊媒を得たと喜んでいた。そして今もそう思っている。何となれば、今の汝の混乱する心境は一時的な過程に過ぎず、やがて疑うだけ疑った暁に生まれる確信へと変わっていくことであろう。

が、万一そうではなく汝が失敗したとなれば、われらは再び神の命令を仰ぎ、われらに託されたる使命達成のために新たなる手段を見出さねばならぬことになる。もっとも霊媒はわれらの究極の目的にとって必ず不可欠というものでもない。が使用する以上は良き霊媒であることが望ましい。

われらがこの上なく嘆かわしく思うのは、汝が汝自身にとっても啓発と向上の絶好の手段となるべきものを無視せんとする態度に出ていることである。が、それもわれらの手の及ぶところではない。

自由意志による判断に基づきて汝があくまで拒否すると言うのであれば、われらとしてはその決断を尊重し、汝が精神的にわれらの提供せるものを受け入れる用意のなかったことを残念に思うほかあるまい。

 われらの身元についてであるが、汝の要求するが如き押しつけがましき方法で証明せんとすることは無益というより、徒に混迷を大きくするのみであろう。

 そのような試みは結局は失敗に終わることであろう。そして絶対的確信を得ることは出来ぬであろう。間接的証拠ならば折々提供していくことも出来ぬではない。好機があればその機を利用するに吝(やぶさ)かではない。われらとの縁が長びけば、それだけそうした機会も多く、証拠も多く蓄積されていくことであろう。

が、わららの教説はそのようなもので価値を増すものではない。そのような実態なき基盤の上に成り立つものではない。そのような証拠では〝時〟の試練には耐え切れぬであろう。われらは精神的基盤の上に訴えるものである。地上的なものでは、一時的にしておよそ得心のいくものでないことを汝もそのうち悟る日がくることを断言しておく。

 とは言え、今の汝の精神状態は得心のいく証拠を要求できる状態ではない。われらは神の味方か、それとも悪魔か、そのいずれかであろう。もしもわれらが自ら公言している如く、神の味方であるとすれば、汝が言うが如き、世間から嘲笑をもって受け止められるような言説をわざわざでっち上げる気遣いはあるまい。

が、もしもわれらが汝の思いたがるように悪魔の手先であれば、その悪魔の述べる言説が明らかに崇高な神性を帯びているのは何故か、汝自ら問い直してみるがよかろう。

われらとしては、このような問題にこれ以上関わろうとは思わぬ。これまでわれらが述べてきたところを正しく吟味検討してくれさえすれば、それが悪魔の言葉と結論づけられる気遣いは毛頭ない。関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではない。

 われら自身のことはどうでも良いことである。大事なのは神の仕事であり、神の真理である。今の汝にとって最も大事な問題は汝自身のことであり、汝の未来のことである。

そのことを時間をかけてじっくり考え、とくと反省するがよい。汝を中心として得られた啓示の顕れ方がいささか急激に過ぎ、目を眩ませたようである。言いたいことも多々あろうが、今は黙して真摯に、そして厳粛に熟考するがよい。

われらも暫し身を引き、汝にその沈思黙考に耽る余裕を与えたく思う。と言うことは汝を一人置き去りにすると言うことではない。より一層の警戒心を持つ複数の守護の霊と、より経験豊かなる同じく複数の指導の霊が汝のそばに待機するであろう。

その方がわれらにとっても得策であるように思う。と言うのも、事態がかくの如くなった以上は、果たしてこれより後もこの仕事を続行すべきや否や、それともこれまでの努力が無駄であったとして改めて仕事を始めからやり直すべきや否やを〝時〟が判断してくれるかも知れぬからである。

いずれにせよ、これほど多くの努力と、これほど多くの祈りを傾注せる仕事が実を結ぶことなく地に落ちるとは、何とも悲しき失望であることには相違なかろう。しかし、われらも汝もあくまで内に宿せる道義の光に照らして行動せねばならぬ。

これまでの経緯に関するかぎり責任はすべてわれらの側にある。故にわれらは問題を解決すべく何らかの手を打たねばならぬ。これまでより一層多くの祈りを、一層の熱意を込めて汝に送るとしよう。きっと一層の効果を上げるであろうことを確信する。

 では、これにてさらばである。神の加護と導きのあらんことを。
                                ♰イムペレーター



〔このあと私は数回に亙って通信を試みた。また始めに示唆した通りに、一面識もない霊媒のところへ行ってみた。そして私の背後霊についての情報、とくにイムペレーターの身元の確認を得ようと、出来るかぎりのことを試みた。が、無駄だった。得られた情報は、私についている霊は ZOUD と名のるロシア人の歴史家だということだけだった。帰宅すると私はさっそくそのことを書いて通信を求めた。すると、その霊媒の述べたことは間違いであると断言してからこう綴った①───〕








 われわれとしては、そのような霊言を信じることはとても勧められない。信頼が置けないからである。われわれの忠告を無視して一面識もない、しかもわれわれと何の協力関係もない霊たちと通信を試みれば、信のおけぬ通信を受け取り事態をますます混乱させることになろう。



〔この忠告にも私は強く反撥し、あの機会を利用してくれておれば私の合理的要求を満たすことは容易に出来たはずだと述べた。すると同じ霊が───〕




 それは違う。われわれとしても満足を与えたい気持ちは山々である。が、あの会場への出現は(イムペレーターから)止められたのである。しかもわれわれは汝の出席は阻止できなかった。あのような体験は今の汝には毒になるばかりである。

禍いを招くことにしかならぬ故に今後一切あのような招霊会には出席せぬよう厳重に忠告しておく。いま必要なことは耐えることである。性急に無理強いすることは徒にわれわれにとって迷惑と困惑を生じさせるのみである。それよりも静かに心を休め、待つことの方が遥かによい。全てイムペレーターが良きに計らって下さる。早まった行動は誤りのもとである。


───しかし(と私は反抗的に述べた)あなたたちこそグルになって私を迷わせているようにしか思えません。私の要求には何一つ応じられないというのですか。




 友よ。汝の要求するが如き数学的とも言うべき正確なる証拠は、得ようとしても所詮無理である。われらとしても、汝の求むる通りのものを授けることは出来ぬ。たとえ出来たとしても、それが汝にとって益になるとは思えぬ。全てはわれらの側にて良きに計らってある。


〔これはイムペレーターである。私はとても気持ちが治まらないので、やむなく通信を一たん中止した。そして七月二十四日に神学上の問題について幾つかの質問を提出した。

その一つは例の「私と父は一つである」②という有名な文句に言及したものだった。以前、霊言による対話の中で私は、イムペレーターの言説がこの文句と相容れないものであることを主張したことがあったのである。そういう経緯もあって質問することになったのであるが、それに対してこう回答してきた───〕










 汝の引用せる文句は前後の脈絡の中において理解せねばならぬ。その時イエスはエルサレムでハヌカー祭③に出席していた。その折そこに集まれる民衆が〝もしあなたがキリスト神だと言うのであれば、その明確な証を見せてほしい〟とイエスに迫った。

彼らは今の汝と同様に疑念を晴らすための何らかの〝しるし〟を求めたのである。そこでイエスはわれらと同じく、自分の説く訓えとその訓えによってもたらされる業(わざ)の中に神のしるしを見てほしいと述べた。  

またそれを理解する備えのある者───イエスの言う〝父のひつじたち〟───はその訓えの中に父の声を聞き、それに答えたも同然であると述べた。

が質問者たちはそのような回答を受け入れることが出来なかった。なぜなら、彼らにはそれが理解できず、信じる心の準備が出来ていなかったからである。備えある者はイエスの言葉に従って永遠なる生命と進歩と生き甲斐を得た。それこそが神の意図するところであり、誰もそれを妨げることは出来ぬ。

彼らは父のもとに預けられたのであり、彼のみならず、人類の全てに新たなる息吹を吹き込んだのである。すなわち、父なる神と、その真理の教師たるイエスが一体となった───「私と父は一つである。」


 イエスはそう述べたのである。がそのユダヤ人たちはそれを神の名誉を奪うものであるとして非難のつぶてを投げつけた。しかし、イエスの弁明は正しかった。どう正しかったか。己の神性を認め、神の子であることを弁明した点において正しかったのである。

それが余にも弁明できるかとな? それは出来ぬ。がその心に陰日向の一かけらもなきイエスは、その非難に驚き、こう聞き返した───一体自分の行える奇跡のどれをもって非難するのかと。非難者たちは答えた。奇跡のことを非難しているのではない。完全な神と一体であるなどと公言するその傲慢不遜の態度を非難するのであると。

そう言われたイエスはこれを無視して取り合わなかった。なぜか。聖書にもある如く、イエスは自分と神とが一体であるとの言葉を霊性に目覚めた者すべてに適用し、「あなたたちも神である」と述べていたからである。

ならばイエスほどの特殊なる使命を背負える人物が自分は神の子であると述べて、果たしてそれを不遜なる言葉と言えるであろうか。疑うのなら私の為せる業をみよ、とも言っている。そこには自分こそが神であるなどと言う意味は一かけらもない。むしろその逆である。




〔翌二十五日、私が霊媒となって霊言による交霊会を開き、イムペレーターがしゃべった④。が、これといって私の精神状態に触れたものは出なかった。他の列席者は私の抱える事情には全く関心がなく、私を通じて彼らなりの問題を提出し彼らなりの解決を得た。

その間私の意識は休止状態なので霊言そのものには影響はなかった。そのあと最近他界したばかりの知人が出て私しか知らない事実に言及し、確かな身元の確証が得られた。これには私も感心したが、満足は得られなかった。

 それから夏休暇⑤に入り、私はロンドンを発ってアイルランドへの旅に出た。行った先でロンドンの病床にある友人に関する興味深い通信を得たが、私の一番の悩みを解決するものではなかった。アイルランドからこんどはウェールズへ向かった。そして八月二十四日にイムペレーターからの別の通信を受け取った。

これは紹介しておく必要があると思うのでこのあと紹介するが、このときも私は懸命に私の要求に対する回答を引き出そうとしたが、どうしてみたところで私の為にはならぬという警告を受けた。その時の私の体調があまり勝れず、精神状態は混乱していた。先のことをあまり考えずに、これまでの経過をよく復習するようにとの忠告を受けた。〕 





















 これまで辿れる道をよく振り返ってみることである。われらに許された範囲で汝のために尽せるもろもろのことを細かく吟味し直すことである。その上で今汝が目の前にしているものの価値を検討してみるがよい。その価値を正しく評価し、われらの言説の崇高性に注目してもらいたい。われらは汝の今の精神状態が産み出す疑問そのものを咎めはせぬ。

汝が何もかも懐疑的態度でもって検討することはやむを得ぬ。人間は自分と対立する意見はとかく疑ってかかるものだからである。ただ、汝の性急な性格があまりにも結論をあせり過ぎることを注意しているのである。精神的に混乱するのもその所為である。

何かと面倒が生ずるのもその所為である。それは咎めはせぬ。われらが指摘しているのは、そのような心の姿勢では公平無私なる判断は下せぬということである。

その性急な態度を和らげ、結論をあせる気持ちを抑え、一方ではアラ探し的な批判をやめ、われらの言説の中に建設的な面を見出してもらいたい。今のところ汝はあまりに破壊的過ぎるのである。

 さらに友よ、汝の抱ける疑問と混乱は、それが取り除かれるまでは、われらの今後の進展にとっても障害となることを忘れてはならぬ。これまでも大いに障害となり、進展を妨げて来た。がそれは(仕事の性質上)止むを得なかったと言えよう。

がこれ以後は思い切り心を切り換え、判断を迷わせる原因となってきたわだかまりを、きれいさっぱりと洗い流してほしい。暫しの休息と隔離のあと、是非そうなってくれることを期待している。われらが出る交霊会も、出席者が和気あいあいたる精神に満ちていることが何より大切である。

湧き出る疑念は、旅人を迷わせる靄と同じく、われらの行く手を阻む。靄の中では仕事は出来ぬ。是非とも取り除かねばならぬ。先入観を棄てて正直に過去を点検すればきっと取り除かれるであろうことを信じて疑わぬ。汝の心の地平線に真理の太陽が昇れば、立ちどころに消滅するであろう。そして眼前に広がる新たなる視野に驚くことであろう。

 ムキにならぬことである。汝にとって目新しく聞き慣れぬものも、ただそれだけの理由で拒絶することはやめよ。汝の判断の光に照らして吟味し、必要とあらばひとまずそれを脇へ置き、もう一歩進んだ啓発を求めるがよい。

真摯にして真っ正直な心には、時が至れば全てが叶えられる。今の汝にとって目新しく聞き慣れぬことも、いつかはしっくりと得心のいく段階に到達するであろう。ともかく、汝の知らぬ新しき真理、これより学ばねばならぬ真理、改めねばならぬ古き誤りがまだまだ幾らでも存在するという事実を忘れぬことである。
                           ♰イムペレーター


〔註〕


(1)イムペレーターの指揮下にある別の霊による。


(2)ヨハネ福音書10..30
(3)Hanukkah 古代シリアのアンチオコス四世によって奪われたエルサレム神殿を、ユダヤの独立運動の指導者マカベウスが奪回したことを記念する祭。
(4)スピーア博士宅ではこの霊言が多かったが、モーゼス自身は入神状態なので記憶がなく、したがって客観的証拠とはなっていない。


(5)当時モーゼスは学校の教師をしていた。












 十八 節


〔八月二十六日。私はこれまでの通信を読み返し、それが象徴している意味についてあれこれと思いを巡らした。私は自分の解釈が字句にこだわり過ぎているのだろうかと考えて、その点を霊側に質してみた。するとまだ私の精神状態は通信をするのに相応しい状態になっていないという返事であった。

このように交信の難しさをはっきりと言ってきたことは何度もあった。私は気分の転換が必要であることを指摘された。生憎(あいにく)その日は空模様の鬱陶しい憂鬱な日であった。

私の身は見知らぬ土地にあり、健康も勝れなかった。私は言われるまま気分転換になることをしたあと机に向かった。すると始めのうち少し書き辛く速度もゆっくりだったが、やがて楽に筆が運ぶようになった。〕


 












 状態はまだ十全とは言えぬが、前よりは良好となってきた。通信を求むるに際しては、精神と肉体の双方を整えることが肝要である。満腹状態の身体が操作し難いことは前に述べたが、逆に機能の低下せる弱々しき身体もまたわれらの目的に適さぬことをここに指摘しておく。

飽食と泥酔はもとより感心できぬが、度の過ぎたる節制による体力の低下も感心せぬ。われらは全てに判断の及ぶかぎりの中庸を説く。極端なる節制も、節度なき放縦も、ともに好ましからぬ結果を招く。

中庸こそ身体機能を自由に働かしめ、一方精神的能力を曇りなく且つ激することなく自在に発揮させる。われらが求むるのは明晰にして元気はつらつとし、それでいて興奮することなき精神と、活力に溢れ、その活力を使い過ぎもせず欠乏もせぬ身体である。


各自がその思慮分別に基いて、己に課せられた地上の仕事に勤しむ上でより一層適切なる身体を具え、同時にその援助のために派遣されたる背後霊からの指示を素直に受け取れる精神を整えてくれることが大いに望まれるところであるが、日常生活における習慣は往々にして感心せぬものが多く、徐々に心身を蝕んでいく。

尤もわれらとしては一般的原則としての注意と節制を説く以上のことは出来ぬ。当人にとって何がもっとも適切であるかは当人と深く関わってみなければ判らぬものである。自分のことは自分で判断して最も適切と思うものを決めることである。

 われらの使命はもとより魂の宗教を説くことにあるが、その一部として身体の宗教も説かねばならぬ。汝に、そして全ての人間に宣言するが、身体の健康管理は魂の成長にとりて不可欠の要件である。

魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿るかぎりは、その肉体によって魂が悪影響を受けぬよう、これを正しく管理していくことが必須である。

ところが衣食の選択と日常の生活習慣に賢明なる配慮が為されることは実に稀である。今の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上の全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものは全て真の霊的生活にとっては障害であり妨害となる。

 汝の質問であるが、これまで幾度も述べたる如く、われらは汝の精神の中に存在するものを取り出し、付属せる夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なるもの、真実にあらざるものは放棄する。

古き言説については、イエスがユダヤの律法を扱える如くに扱う。イエスはその字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たなる崇高なる意味を賦与した。

われらが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、並びにラビ的①学説を扱える如くに扱う。イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説いた。

これはいつの時代にも同じであり、われらも聖書の言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす②、と述べておこう。律法の字句にあまりに厳密にこだわることは肝心の意味を疎かにすることと同じ、と言うよりは、次第に疎かにさせて行くものである。

儀文の一つ一つを几帳面に遵守する信仰態度は高慢不遜にして鼻もちならぬ独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に巻き込まれて、自分は他の者とは違うとの特殊意識を抱き、その意識で神に感謝するようになる。

 こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対して、われらは断固たる闘いを挑むものである。人間の勝手な産物である神学の中に束縛されるよりは、たとえ迷いは多くとも、きっと神を見いだすとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索する方が、真理を求むる魂にとってどれほどよいか知れぬ。

神学は神への道を規定する。その道へ入る狭き門は神学という名の鍵なくしては開かぬことになっている。が、それのみに留まらぬ。神学が神そのものを規定するのである。かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、霊性の一片もなき機械的信仰生活へと落ちぶれ果てる。

 確かに、汝らの仲間の中には、高位高階の者ばかりとも限らぬが、宗教の深き哲学に関しては出来合いの信仰教義でなければならぬ者がいる。彼らにとって、その教義から逸脱して自由に思いを巡らすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味する。

目も眩む高所に登り、隠れたる秘密を覗き込み、曇りなき真理の太陽の輝きを目のあたりにすることなどは思いもよらぬ。永遠の真理の横たわる深き谷間を見おろす高き峰に登ることは、彼らには出来ぬ。

落ちることを恐れて覗き込むことが出来ぬ。その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのである。そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通れる、より安全なる常道を選ぶことになる。その道は両側に高き壁がそそり立ち、その外側を見ることは出来ぬ。油断なく一歩一歩、転ばぬよう、全ての起伏を避けつつ歩む。

そうするようにと教会の教説が説いているのである。疑うことは破壊を意味する。思考すること結局は迷いに終わる。信じることが唯一の安全策である。故に信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい───そう説くのであるが、彼らにはそれが素直には受け入れられぬ。受け入れられる筈がないのである。

彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解することが出来ぬのである。ならば真理を秘納せる奥の院までどうして入ることを得ようか。

 中にはまた、神の真理の全てであると教え込まれた古来の神学と相容れぬ教説を受け入れる能力に欠けると同時に、それを喜ばぬ者もいる。

 キリスト教の聖徒にとってはその神学で十分であった。殉教者はその信仰ゆえに笑顔をもって刑台に上がり、死の床にあっても心の慰めを得て来た。それは今も昔も変わらぬ。その信仰は先人たちの残してくれた大切な教義であり、母親の口から聞かされた救いの福音であった。

それは言わば真理の遺産として受け継いだものであり、それを是非とも今度は自分たちが子供たちに譲渡していかねばならぬものであり、代わってその子供たちがさらにその子供たちへと引き継いでいくことであろう。そうなれば当然彼らの心はその信仰、それほどの伝統的な繋がりと思い出をもつ信仰と少しでも衝突するものには目もくれぬことになる。

彼らはその伝統的信仰の擁護者をもって任じているのである。その心の中には殉教者の情熱が燃え続けている。われらの語りかける言葉は彼らの耳には届かぬ。われらとしても、それほどまで居心地よき安住の世界に敢えて踏み込もうとは思わぬ。

万一踏み込むとなれば、彼らが作り上げた信仰の殿堂を根底より突き崩さねばならぬであろう。それほどまで大切にせる信仰に対して宣戦布告し、容赦なく切りつけねばならぬことになろう。

彼らにとっての絶対神、型にはまりたる宗教、それは何世代にも亙って些かも変わらず、また変わりようもないのであるが、これに攻撃を挑み、たとえ神の観念は変わらずとも人間の心は変化し過去の世代には事足りたものも次の世代には十分ではないかも知れず、現に満足できなくなっている事実を指摘せねばならぬ。

また彼らが露ほども気づかずにいる啓示の進歩性、思想の自由の度合いに応じた人間の啓発、そして彼らが〝神の啓示〟と銘うって崇めている夥(おびただ)しき量の人間的創作に反省を迫られることであろう。

が、これも所詮は徒労に終ることであろう。われらは、そうと知りつつ敢えて試みるほど愚かではない。彼らは地上とは別の(死後の)世界において必要なる知識を得るほかはあるまい。

 これとは種類を異にし、こうした問題について一切思考を巡らさぬ者もいる。宗教とは名ばかりにて、一種の世間体としての意味しか持たぬ者たちである。故にその信仰心は極めて薄く、慣習としての場を除いては意識することもない。いわばよそ行きの衣服であり、単なる見せかけ以上のものではない。遠くより見てそれらしく見えればそれで良いのである。こうした人種、及びこれに類する人種はわれらにとって難敵である。

彼らにとっては、宗教について思索を強いられること自体がすでに退屈であり迷惑なのである。不愉快きわまる問題であり、慣習によりやむを得ず軽く体裁を繕う程度にしか係わろうとせぬ。人間としてどう在るべきかは牧師が決めてくれるものと考え、言われるままに信じるのみなのである。

ましてや古き信仰の欠点を指摘され、新しき信仰の美点を説き聞かされることは彼らにとっては二重手間であり、有難迷惑なのである。そのいずれも理解できぬであろう。

相変わらず古きものにすがり、その中にて生き続けるのみである。今のままで結構なのである。進歩はご免こうむりたいのである。自由などは思いもよらず、精々、自由とは所詮は服従に近づくことであるとの教えしか念頭にはない。

彼らにとって自由なる思索は懐疑心と不信感と無信仰を意味する。そのいずれも彼らにとって有難からぬものであり、一種の社交的誤りを犯すことになる。進歩することは国策上からも宗教上からも恐るべきことなのである。

単に尻込みするに留まらず、機嫌と侮蔑とをもって自由を観る。彼らの理想は全て古き良き時代に大切に仕舞い込まれている。その良き古き時代には自由だの進歩だのという問題は一切語られていない。故にそれは彼らにとって邪悪なるものであり避けねばならぬものなのである。

 以上の三種の人間にわれらが一切の係わりをもたぬことは汝にも明白であることを疑わぬ。同時にその中間に存在し、能力もなければやる気もなく、さりとて堂々と反抗的態度に出るでもない人種にもわれらは関知せぬ。

それがわれらの選択を超えた問題であることは、いずれ汝にも判る時が来よう。たとえ手を出したくとも出せぬのである。

 神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件の一つを犯していること、こうしたことをわれらは教えんとしている。神への道を閉ざし、その門戸に鍵をかけ、己の説く道へ進むことを強要する権利を有する者は一人もおらぬと言うのである。

硬直化せる神学、人間の発明せる用語にて勝手に規定せる頑(かたくな)な信仰、その道より外れし者は神より見放されると説き、一字一句たりとも動かし難き教説───これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたかんとする魂を引き留め、地上にくぎ付けにせんとする拘束物であると言うのである。

そのような宗教を教え込まれるまま受け入れ、自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として自ら迷い、自ら祈り、自ら思考し、自ら道を切り開くことによって真理の日の出を見るに至るほうが、どれだけよいか知れぬ。

その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、且つ心を満たしてくれずとも良い。

冷たき風に吹きさらされ、嵐に吹きまくられ、身の細る思いをするほうが、息苦しく風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込めれ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても、与えられるものが石ころの如き古き教説であり、化石の如き人間的無知の産物でしかない生活よりは、遥かに良い。

複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴であっても背後霊の直接の働きかけによって、自分なりの神の観念のもとに生き、神の息吹を受ける方がどれほど良いか知れぬ。

己に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探究における第一の条件である。これなくしては魂は羽ばたくことが出来ぬ。そしてこれさえあれば必ず進歩する。

 このことを主イエスに示されたる規範の中に今少し見てみなければならぬ。

 霊性に目覚めた人間のとるべき態度はどうあるべきかについてはすでに述べた。幸いにして勇気をもって因習より脱け出し、神を求むる旅に発てる者は必ずや、聖書の字句どおりのドグマ的解釈に代わりて、われが説くところの崇高なる霊的信仰へと導かれる。

霊の啓示には目に映る形而下的意味と同時に霊的意味も含まれているからである。物的傾向の色濃き時代にはこの霊的解釈が完全に疎かにされる。かくして人間はイエスの教説のまわりに、推論と憶測と形而下的解釈によって作り上げた壁をはりめぐらした。

それはパリサイ派の学者がモーセの律法のまわりにめぐらせる壁と同じである。こうした傾向は人間が霊界の存在を忘れるに比例して強くなる。かくして今やわれらの目に映るのは、本来なら霊性を吹き込み物的儀式を排除すべく意図されたはずの教説より導かれた、硬直化せる冷ややかなる物質偏重の教説である。

 われらの任務はイエスがユダヤ教のために行えるのと同じことを汝らのキリスト教のために行うことである。すなわち古き形式に霊的意味を賦与し、新しき生命を吹き込むことである。排除しようというのではない。復活させることこそわれらの望むところである。

繰り返すが、イエスが地上にもたらせる教えの一かけらたりともわれらは排除はせぬ。排除するのは人間の勝手な産物であり、それも、その奥に隠されて見失える霊的意味を表に出して見せるためである。

われらは汝を肉体的支配下の日常生活より少しでも救い出し、そこに浸透せる霊的生活の象徴的意義をより一層理解させんと務めている。字句にこだわって批難する者は、われらの教説の皮相的解釈しかできぬ人種である。

われらは汝を身体中心の生活より引き上げ、肉体を棄てたるのちの生活に相応しき生き方へ導かんと願っている。目下のところ、それには程遠き状態である。が、いずれ汝にも、この地上にありながらも真の霊的生活の尊厳と、そこに満ち溢れる隠れたる神秘を見ることを得る日も到来するであろう。それは今の汝の精神状態ではわれらも説明することは困難である。

 その時が到来するまでは、すべてに霊的意義が秘められていること、聖書もその霊的意義に溢れていること、神学に見られる人間的解釈も定義も注釈も、霊的真理の核心を包蔵せる形而下的〝殻〟に過ぎぬことを知るだけにて佳しとせねばならぬ。

もしもわれらがその殻を一気にはぎ取る挙に出れば、その核心が萎(しお)れ、生命を失うであろう。そこでわれらとしても汝の理解力の届く範囲において、汝の長く親しめる形而下的教説の下に隠れたる生きた真相を指摘する程度にて満足せねばならぬ。


 キリストの使命もそこにあった。律法を廃止することでもなく、削除することでもなく、正しく成就せしむることこそわが使命であると公言したのである。モーセの戒律の根底に潜む真理を指摘した。

パリサイ派の儀式にまつわる夾雑物を取り除き、ユダヤ学者の空想空論を排除し、その奥底に横たわる霊的真理───人間が埋葬しかかっていた崇高なる原理を白日のもとに曝したのであった。キリストは宗教改革者であると同時に社会改革者でもあった。

その生涯の大事業は人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面を剥ぎ取ることであり、暴君より逃れんとしてあがく魂をその魔手より救い出すことであり、そして神より託された真理の徳によって人間を解放することであった。イエスはいみじくも述べた───〝汝らに真理を知らしめん。真理は汝らを解き放たん。然して汝らは自由の身とならん③〟と。

 キリストは生と死と永遠の生命について説いた。人間の真の尊厳を説いた。神について進歩的知識を説いた。律法の偉大なる体現者として地上へ降りた。律法の意図されたる真の目的すなわち人類の改革者を身をもって実践する人間として地上へ来たのである。

民衆に心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして行為のすべてを唯一の尺度、つまりそれがもたらすところの結果によって価値を判断するよう説いた。常に謙虚に、慈悲を忘れず、誠実で純真で私心なく、己に正直であれと説いた。そして自らそれを実践してみせたのであった。

 イエスは偉大なる社会改革者であった。その目的は死後の幸福を説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することであった。イエスは言うなれば日常の宗教を説いたのである。より高き真理を求める日々の生活の中においての霊性の道徳的向上の必要性を説いた。

過去の過ちを反省し、償い、そして向上する───そこにイエスの訓えのほぼ全てが要約されている。イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧政下にあった。

そこでイエスは信仰と政治の双方の自由を説いた。がその自由とは気儘の自由ではなかった。神と自己に対する責任を持つ自由であり、置かれた環境における同胞への責任を持つ自由であった。イエスは人間の真の尊厳を示さんと努力した。

真理の尊厳───人間性を束縛から解き放す真理の偉大さを民衆に知らしめんとした。身分にはこだわらなかった。同志も伝道者も身分の低き貧しき階層の者の中より選んだ。そして庶民と共に生きた。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとった。

そして人間として必須の、しかも彼らに理解し得る、素朴なる訓えを説いた。伝統的信仰と高貴なる社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長けた者たちの中には滅多に足を運ばなかった。慣習的に教え込まれた信仰より少しでも気高く少しでも崇高なる真理を求めんとする情熱を庶民の心に沸かしめた。そしてその真理を手にする方法をも説いたのであった。

 人類にとって真の福音と言うべきはイエス・キリストの福音である。これこそ人間にとって唯一にして必須の真理である。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音である。

 われらはそれと同じ福音をイエスより引き継ぎて説くものである。イエスを地上に送りし神と同じ神の命令を受け、同じ神の権威と霊示を受け、今まさに同じ福音を説きに参ったのである。イエスの説いた真理と同じものをわれらは説く。人間的無知と誤解による夾雑物を払い落して、改めて説く。物欲的生活の下に埋もれた真理を蘇らせんと望むものである。

 人間が墓場へ葬れる霊的真理を掘り起こし、それが未だ生き続けていることを、聞く耳をもつ者に教えんと欲しているのである。人間の進歩性と、人間への神の絶え間なき係わり合い、そして昼夜を分かたぬ天使の看護と言う、単純にして荘厳なる真理を教えたいと願っているのである。

 独善的宗教家集団が背負わせた荷はわれらが風に吹き飛ばさせよう。魂の成長を妨げ向上心の足を引っ張るドグマはわれらが引き裂きて魂を解き放とう。われらの使命は人間があまりに歪め過ぎた古き教えの真の姿を継承することである。その源は同一であり、その辿る道も同じであり、その向かうところもまた同じである。



〔イムペレーターの指揮のもとに続けられているこの教化事業はイエス・キリストの命によるものと理解してよいかとの問いに対して───〕



 その通りである。先に余は、余の使命が〝動〟の世界より〝静〟の世界へと突入せる一柱の霊より授けられ今なおその指令下にあると述べた・・・・・・ イエス・キリストは過去に蓄積せる誤れる信仰を払い清めると同時に、これより一段と啓示を押し進めんがために天使を招集する計画を用意されつつあるところである。

 ───他の交霊会でもこれに類する話を耳にしましたが、これが〝キリストの再来〟ということですか。

 キリストの再来とは霊的再来のことである。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではない。使徒を通じて聞く耳をもつ者に語りかけるという意味での再来である。イエス自身もかく述べているであろう───「聞く耳をもつ者は聞くがよい。受け入れ得る者は受け入れるがよい④」と。

 ───こうした通信は多くの人々にもたらされているのでしょうか。

 さよう。神がこの時期にとくに影響力を強めておられることを大勢の者に知らしめているところである。が、今はこれ以上は述べぬ。神の祝福のあらんことを。
                                ♰イムペレーター


 〔註〕
 (1)ユダヤ律法学者。空理空論を振り回す人の意にも用いる。
 (2)コリント後3・・6
 (3)ヨハネ8・・32
 (4)マタイ11・・15、19・・12

シアトルの夏 すべての病気にそれなりの治療法があります

 シルバーバーチの霊訓―霊的新時代の到来

The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)




シルバーバーチにとっては、霊媒と心霊治療家と語り合うことほど楽しいことはなかったようである。霊媒は愛する人を失った者に死後の存続の証拠を提供し、治療家は、医学がどう試みても治せない患者を完治させ、あるいは幾らかでも改善してあげることができるからである。

世界にその名を知られていたハリー・エドワーズ氏が当時の助手のバートン夫妻とともにハンネン・スワッファー・ホームサークルを訪れた時も、シルバーバーチは温かく迎えた。氏は今はもうこの世の人ではないが、氏の名前を冠した治療所Harry Edwards Healing Sanctuaryはブランチ夫妻Ray and Joan Branchに引き継がれて、今も同じShere,Surreyで治療活動を行っている。

まずシルバーバーチから語りかけた。


「これまでに成し遂げられたことは確かに立派ですが、まだまだ頂上は極められておりません。あなた方のこれまでの努力が、今まさに花開かんとしております。これまでのことは全てが準備でした。バプテスマのヨハネがナザレのイエスのために道を切り開いたように、これまでのあなた方の過去は、これから先の仕事のため、つまり、より大きな霊力が降下してあなた方とともに活動していくための準備期間でした。

ほぼ完璧の段階に近づいている、あなた方三人の信頼心と犠牲的精神とそれを喜びとする心情は、それみずからが実りをもたらします。霊の力と地上の力との協調関係がますます緊密となり、それがしばしば“有り得ぬこと”を成就しております。条件が整った時に起きる、その奇跡的治癒のスピードに注目していただきたいと思います」

エドワーズ「何度も目(ま)のあたりにしております」


「大いなる進歩がなされつつあること、多くの魂に感動を与え、それが誘因となって、さらに多くの人々にも、その次元での成功(※)をおさめる努力がなされつつあります。目標をいつもその一点に置いてください。すなわち魂を生命の実相に目覚めさせることです。それがすべての霊的活動の目標――大切な目標です。


※――病気快癒の体験が魂の琴線に触れ、生命の実相に目覚めること。


ほかのことは一切かまいません。病気治療も、霊的交信を通じての慰めも、さまざまな霊的現象も、究極的には人間が例外なく大霊の分霊であること、すなわち今この時点においても霊的存在であるというメッセージに目を向けさせてはじめて意義があり、大霊から授かった霊的遺産を我がものとし、天命を成就するためには、ぜひともその理解が必要なのです。

それが困難な仕事であることは、わたしもよく承知しております。が、偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです。霊的な悟りを得ることは容易ではありません。とても孤独な道です。それは当然でしょう。もしも人類の登るべき高所が、いとも簡単にたどり着くことができるとしたら、それは登ってみるほどの価値はないことになります。安易さ、呑気、怠惰の中では魂は目を開きません。刻苦と奮闘と難渋の中にあってはじめて目を覚ますのです。これまで、魂の成長がラクに得られるように配慮されたことは一度もありません。

あなた方が治療なさっている様子を見て、いとも簡単に行っているかに思う人は、表面しか見ていない人です。今日の頂上に到達するまでには、その背景に永年の努力の積み重ねがあったことは、人は知りません。

治療を受ける者が満足しても、あなた方は満足してはなりません。一つの山を極めたら、その先にまた別の山頂がそびえていることを自覚しないといけません。いかがでしょう、わたしの話は参考になりますでしょうか。あなた方はすでによくご存知のことばかりでしょう」

エドワーズ「わかってはいても、改めて認識することは大切なことだと思います」


「こうした交霊の場は、地上の人間でないわたしたちが、あなたたち地上の人間に永遠の原理、不滅の霊的真理、顕幽の別なく全ての者が基盤とすべきものについて、認識を新たにさせることに意義があります。物質界に閉じ込められ、物的身体にかかわる必要性や障害に押しまくられている皆さんは、ともすると表面上の物的なことに目を奪われて、その背後の霊的実在のことを見失いがちです。

肉体こそ自分である、今生きている地上世界こそ実在の世界であると思い込み、実際は地上世界は影であり、肉体はより大きな霊的自我の道具にすぎないことを否定することは、いたって簡単なことです。刻々と移りゆく日常生活の中にあって正しい視野を失わず、問題の一つ一つを霊的知識に照らしてみることを忘れなければ、どんなにか事がラクにおさまるだろうにと思えるのですが……残念ながら現実はそうではありません。

こうした霊界との協調関係の中での仕事にたずさわっておられる人でさえ、ややもすると基本的な義務を忘れ、手にした霊的知識が要求する規範にかなった生き方をしていらっしゃらないことがあります。知識は大きな指針となり頼りになるものですが、手にした知識をどう生かすかという点に大きな責任が要請されます。

治療の仕事にたずさわっておられると、さまざまな問題――説明できないことや当惑させられること――に遭遇させられることでしょうが、それは当然のことです。わたしたちは地上と霊界の双方の人間的要素に直面させられどおしです。治癒の法則は完全です。が、それが不完全な道具を通して作用しなければなりません。その、人間を通して働かねばならない法則がいかなる結果をもたらすかを、数学的正確さをもって予測することは不可能ということになります。

最善の配慮をもって立てた計画さえも挫折させるほどの、思わぬ事情が生じることがあります。この人こそと思って選んで開始した何年にもわたる準備計画が、本人の自由意志による我儘(わがまま)によって、水の泡となってしまうこともあります。

しかし、全体としては、霊力の地上への投入が大幅に増えていることを喜んでよいと思います。現実にあなた方が患者の痛みを和らげ、あるいは完治してあげることができているという事実、苦しむ人々を救うことができているという事実、お仕事が広がる一方で衰えることがないという事実、たとえワラをもつかむ気持ちからではあっても、あなたたちのもとへ大勢の人が救いを求めてくるという事実――こうした事実はみな、霊力がますます広がりつつあることの証拠です。

霊力によって魂がいったん目を覚ましたら、その人は二度と元の人間には戻らないという考えがありますが、わたしもそう考えている一人です。言葉では説明しがたい影響、忘れようにも忘れられない影響を受けているものです」

エドワーズ「その最後の段階で、病気の治癒と真理の理解とがうまく噛み合ってほしいのですが、霊的高揚というのはなかなか望めないように思います」


「見た目にはそうです。が、目に見えない影響力がつねに働いております。霊力というのは磁気性があり、いったんでき上がった磁気的なつながりは、決して失われません。一個の人間があなたの手の操作を受けたということは――“手”といったのは象徴的な意味で用いたまでです。実際には身体に触れる必要はありませんが――その時点でその人との磁気的なつながりができたということです。つまり霊の磁力がその人の“地金(じがね)”を引きつけたということで、その関係は二度と切れることはありません。

その状態を霊の目、すなわち霊視力で見ますと、小さな畑の暗い土の中で小さな灯りがともされたようなものです。理解力の最初の小さな炎でしかありません。種子が芽を出して、土中から頭をもたげたようなものです。暗闇の中から初めて出て来たのです。

それがあなた方の為すべき仕事です。からだを治してあげるのは、もとより結構なことです。それに文句をつける人はいません。が、魂に真価を発揮させること、バイブルの言い方を借りれば、魂におのれを見出させることは、それよりはるかに大切です。魂を、本当の悟りの道に導いてあげることになるからです」

サークルのメンバーの一人「心霊治療で治った人の中には、魔術的な力が働いたと考える人がいます。つまり治療家を一種の魔術師と考え、神の道具とは考えないわけです」


「それは困ったことだと思います。なぜかと言いますと、そういう受け取り方は、せっかくのチャンスによる、もっと大切な悟りの妨げになるからです。霊的な力が治療家を通して働いたのだということを教えてあげれば、病気が治ったということだけで全てが終わらずに、それを契機にもっと深く考えるようになるところですが……」

エドワーズ「治療後も霊的な治癒力が働き続けている証拠として、時おり、治療時には効果が見えなかった人から、一年もたってから“あれ以来、次第に良くなってきました”という手紙を受け取ることがあります」


「当然そういうことがあるはずです。霊的な成長だけは、はたからはどうしようもない問題なのです。このことに関しては以前にも触れたことがありますが、治療の成功・不成功は、魂の進化という要素によって支配されております。それが決定的な要素となります。いかなる魂も、治るだけの霊的資格がそなわらないかぎり、絶対に治らないということです。からだは魂の僕です。主人ではありません」

「未発達の魂は心霊治療によって治すことができないという意味でしょうか」


「そういうことです。わたしが言わんとしていることは、まさにそのことです。ただ“未発達”unevolvedという用語は解釈の難しいことばです(※)。わたしが摂理の存在を口にする時、たった一つの摂理のことを言っているのではありません。宇宙のあらゆる自然法則を包含した摂理のことを言います。それが完璧な型(パターン)にはめられております。ただし、法則の裏側にはまた別の次元の法則があるというふうに、幾重(いくえ)にも重なっております。しかるに宇宙は無限です。誰にもその果てを見ることはできません。それを支配する大霊と同じく無窮なのです。すると摂理も無限であり、永遠に進化が続くということになります。

物質界の人間は肉体に宿った魂です。各自の魂は進化のいずれかの段階にあります。その魂には過去があります。それを切り捨てて考えてはいけません。それとの関連性を考慮しなくてはなりません。肉体は精神の表現器官であり、精神は霊の表現器官です。肉体は霊が到達した発達段階を表現しております。もしもその霊にとって、次の発達段階にそなえる上での浄化の過程として、その肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、あなた方治療家を通していかなる治癒エネルギーが働きかけても、絶対に治りません。いかなる治療家にも治すことはできないということです。

苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部として組み込まれているのです。痛み、悲しみ、苦しみ、こうしたものはすべて摂理の中に組み込まれているのです。話はまた、わたしがいつも述べていることに戻ってきました。日向と日陰、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は宇宙の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません」


※――用語にあまりこだわらないシルバーバーチは質問者の用語をそのまま用いているが、シルバーバーチが好んで用いるのはundevelopedである。霊性の開発が進んでいないという意味であるが、ここでは肉体的苦痛となって現れている霊的罪障(カルマ)が取り除かれる段階まで浄化されていないという意味であるから、unpurifiedつまり“未浄化”が一番適切であろう。霊的浄化が終了すれば、肉体的苦痛となって現れていたカルマが霊性開発の触媒としての用を終えて、その苦痛を取り除いてくれる人との縁を呼び込むという。その辺に奇跡的治癒のメカニズムがある。

メンバーの一人「苦しみは摂理を破ったことへの代償なのですね?」


「摂理を“破る”という言い方は感心しません。“背(そむ)く”と言ってください。たしかに人間は、時として摂理への背反を通して学ぶしかないことがあります。あなた方は完全な存在ではありません。完全性の種子を宿してはいますが、それは、人生がもたらすさまざまな境遇に身を置いて、はじめて成長します。痛みも、嵐も、困難も、苦しみも、病気もないようでは、魂は成長しません。

摂理が働かないことは絶対にありません。もしも働かないことがあるとしたら、大霊は大霊でなくなり、宇宙に調和もリズムも目的もなくなります。その大自然の摂理の正確さと完璧さに全幅の信頼を置かないといけません。なぜなら、人間には、宿命的にこれ以上知ることのできないという段階があり、それは信仰心でもって補うほかはないからです。

わたしは、知識を論拠として生まれる信仰はけっして非難しません。わたしが非難するのは、何の根拠もないのに信じてしまう、浅はかな信仰心です。人間は知識のすべてを手にすることができない以上、どうしてもある程度の信仰心で補わざるを得ません。

といって、その結果、同情心も哀れみも優しさも敬遠して、“ああ、これも自然の摂理なのだ。仕方ない”などと言うようになっていただいては困ります。それは間違いです。あくまでも人間としての最善を尽すべきです。そう努力する中において、本来の霊的責務を果たしていることになるのです」

続いて幾つかの質問に答えたあと――


「魂はみずから道を切り開いていくものです。その際、肉体機能の限界が、その魂にとっての限界となります。しかし、肉体を生かしているのは魂です。この二重の関係がつねに続けられております。ただし、優位に立っているのは魂です。魂は絶対です。魂とは、あなたという存在の奥に宿る神であり、神が所有しているものは全てあなたもミニチュアの形で所有しているのですから、それは当然のことです」

エドワーズ「それはとても基本的なことであるように思います。さきほど心霊治療によって治るか治らないかは、患者自身の魂の発達程度にかかっているとおっしゃいましたが、そうなると、治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであるということになるのでしょうか」


「訪れる患者の魂に働きかけられないとしたら、ほかに何に働きかけられると思いますか」

エドワーズ「まず魂が癒やされ、その結果として肉体が癒やされるということでしょうか」


「そうです。わたしはそう言っているのです」

エドワーズ「では、私たち治療家は通常の精神面をかまう必要はないということでしょうか」


精神はあくまでも魂の道具にすぎません。したがって魂が正常になれは、おのずと精神状態も良くなるはずです。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達していなければ、肉体への反応も起こりません。魂がさらに発達する必要があります。つまり魂の発達を促すための、さまざまな体験をしなければならないわけです。それには苦痛が伴います。魂の進化は安楽の中からは得られないのです」

エドワーズ「必要な段階まで魂が発達していない時は、霊界の治療家にも治す方法はないのでしょうか」


「その点は地上も霊界も同じです」

メンバーの一人「クリスチャン・サイエンス(※)の信仰と同じですか」


※――十九世紀半ばに米国女性メアリー・ベーカー・エディによって創始された宗教で、信仰の力一つで治すことを説き、医薬品を禁じ、霊の働きかけも認めない。


「真理は真理です。その真理を何と名付けようと、わたしたち霊界の者には何の違いもありません。要は中身の問題です。かりにクリスチャン・サイエンスの信者が霊の働きかけを得て治り、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のお蔭だと信じても、それはそれでいいのです」

エドワーズ「私たち治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、治療家を通して患者の魂にまで影響を及ぼすというのは、とても難しいことです」


「あなた方は、少しどころか、大いに貴重な役割を果たしておられます。第一、あなた方地上の治療家がいなくては、わたしたちも仕事になりません。霊界側から見れば、あなた方はわたしたちが地上と接触するための通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーのような存在です。霊波が流れる、その通路というわけです」

エドワーズ「流れるというのは、何に流れるのでしょうか。肉体ですか、魂ですか」


「わたしたちは肉体には関知しません。わたしの方からお聞きしますが、たとえば腕が曲がらないのは、腕の何が悪いのでしょう?」

エドワーズ「生理状態です」


「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのでしょう?」

エドワーズ「なくなっています。病気に負けて病的状態になっています」


「その活力が再びそこを流れるようになったらどうなりますか」

エドワーズ「腕の動きも戻ると思います」


「その活力を通わせる力はどこから得るのでしょうか」

エドワーズ「私たちの意志ではどうにもならないことです。それは霊界側の仕事ではないかと思います」


「腕をむりやり動かしてみてもダメでしょう?」

エドワーズ「力ではどうにもなりません」


「でしょう。そこで、もしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れられていた機能が回復すれば、腕は自然に良くなるということです」

メンバーの一人「治療家の役目は、患者が生まれつき具わっている機能にカツを入れるということになるのでしょうか」


「そうとも言えますが、それだけではありません。というのは、患者は肉体をまとっている以上、当然、波長が低くなっています。それで、霊界からの高い波長の霊波を注ぐには、いったん治療家というコンデンサーにその霊波を送って、患者に合った程度にまで波長を下げる必要があります。そういう過程をへた霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治療効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇跡のようなことが起きるわけですが、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢ができていない時は、何の効果も生じません。たとえば曲がったまま硬直している脚を真っすぐに伸ばしてあげるのは、あなた方ではありません。患者自身の魂の発達程度です」

別のメンバー「神を信じない人でも治ることがありますが……」


「あります。治癒の法則は、神を信じる信じないにおかまいなく働くからです」

「さきほど治癒は魂の進化の程度と関係があるとおっしゃいましたが……」


「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡(たか)で測れるものではありません。行為によって測るべきです。

いいですか、あなた方は治るべき条件の整った人を治しているだけです。が、喜んでください。あなた方を通じて、知識と理解と光明へ導かれる人は大勢います。全部は治せなくても、そこには厳然とした法則があってのことですから、気になさらないことです。

と言って、それで満足して、努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言っておりますように、大霊の意志は愛の中だけでなく、憎しみの中にも表現されております。晴天の日だけが神の日ではありません。嵐の日にも神の法則が働いております。成功にも失敗にも、それなりの価値があります。失敗なくしては成功もありません」

「信仰心が厚く、治療家を信頼し、正しい知識をもった人でも意外に思えるほど治療に反応を示さない人がいますが、なぜでしょうか。やはり魂の問題でしょうか」


「そうです。最後は同じ問題に帰着します。信仰心や信頼や愛の問題ではありません。魂そのものの問題であり、その魂が進化の過程で到達した段階の問題です。その段階で受けるべきものを受け、受けるべきでないものは受けないということです」

エドワーズ「治療による肉体上の変化は私たちにもわかるのですが、霊的な変化は目で確かめることができません」


「霊視能力者を何人集めても、全員が同じ治療操作を見ることはないでしょう。それほど複雑な操作が行われているのです。かりそめにも、簡単にやっているかに思ってはなりません。物質と霊との相互関係は奥が深く、かつ複雑です。肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者ともそれぞれにとても複雑なのですから、その両者をうまく操る操作は、それはそれは複雑になります。むろん全体に秩序と調和が行きわたっておりますが、法則の裏に別の次元の法則があり、そのまた裏側にさらに別の次元の法則があり、それらが複雑にからみ合っております」

バートン夫人(※)「肉体上の苦痛は魂に影響を及ぼさないとおっしゃったように記憶しますけど……」


※――オリーブ・バートン女史は夫君のジョージ・バートン氏とともに永年エドワーズ氏のもとで助手として活躍し、今は第一線を退いているが、多彩な霊能の持ち主で、エドウィーナという女の子が生まれる直前にその子の守護霊からインスピレーションによる童話を受け取り、それが「子供のための心霊童話」のタイトルで出版され、今なおロングセラーを続けている。いずれ紹介する予定でいる。


「そんなことを言った覚えはありません。肉体が受けた影響はかならず魂にも及びますし、反対に魂の状態はかならず肉体に表れます。両者を切り離して考えてはいけません。一体不離の関係にあります。つまり肉体も自我の一部と考えてよろしい。肉体なしには自我の表現はできないのですから。本来は霊的存在です。肉体に生じたことは霊にも及びます」

バートン夫人「では、肉体上の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う方法がないとみたら、魂への悪影響を防ぐために故意に死に至らしめるということも、そちらでなさることがあるのでしょうか」


「それは患者によります。実際は人間の気まぐれから、自然法則の順序を踏まずに、無理やり肉体から分離させられていることの方が多いのですが、それさえなければ、霊は、摂理にしたがって、死ぬべき時に自然に肉体から離れるものです」

バートン夫人「明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われるケースがありますけど……」


「あります。しかし、それは“埋め合わせ(バランス)の法則”にのっとって、周到な配慮の上で行っていることです。それでもなお、魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが……」

バートン夫人「肉体を離れるのが早すぎたために生じるショックですか」


「そうです。物事にはかならず償いと報いとがあります。不自然な死をとげると、かならずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。それがどういう形を取るかは個人によって異なります。あなた方治療家の役目は、患者の魂にそれだけの資格ができている場合に、苦痛を和らげてあげることです。その間に調整がなされ、言わば衝撃が緩和されて、魂がしかるべき状態に導かれます」

エドワーズ「絶対に生き永らえる望みなしと判断した時、少しでも早く死に至らしめるための手段を講じることは許されることでしょうか、許されないことでしょうか」


「わたしはあくまで“人間は死すべき時が来て死ぬべきもの”と考えております」

エドワーズ「肉体の持久力を弱めれば死期を早めることになります。痛みと苦しみが見るに見かね、治る可能性もない時、死期を早めてあげることは正しいでしょうか」


「あなた方の辛い立場はよく理解できます。また、わたしとしても好んで冷たい態度を取るわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど、柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。

わたしはあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。たとえば、薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体は本来そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。そういう観点から考えていけば、どうすればよいかは、おのずと決まってくると思います。

何事も自然の摂理の範囲内で処理すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によっても、その摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てば、それなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いことか悪いことかは、霊的法則にどの程度まで適(かな)っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば、肉体にとっても最善であるに違いありません」

同じくエドワーズ氏とバートン夫妻が出席した別の日の交霊会で、シルバーバーチはこう強調した。


「霊力の本当の目的は、病気が縁となってあなた方のもとを訪れる人たちの魂を目覚めさせることにあります。自分が本来は霊的な存在であり、物的身体は自分ではないことに気づかないかぎり、その人は実在に対してまったく無関心のまま地上生活を送っていることになります。言わば影の中で幻影(まぼろし)を追いかけながら生きていることになります。実在に直面するのは、真の自我すなわち霊的本性に目覚めた時です。

地上生活の目的は、帰するところ自我を見出すことです。なぜなら、いったん自我を見出せば、それからは(分別のある人ならば)内部に宿る神性をすすんで開発しようとするからです。残念ながら地上の人間の大半は、真の自分を知らず、したがって不幸や悲劇にあうまでは、自分の霊的本性に気づかないのが実情です。光明の存在に気づくのは人生の闇の中でしかないのです。

あなた方がお会いになるのは、大半が心身に異常のある方です。もしも治療を通じてその人たちに自分が霊的存在であるとの自覚を植えつけることができたら、もしもその人たちの霊的本性を目覚めさせることができたら、もしも内部の神性の火花を点火させることができたら、やがてそれが炎となって、その明かりが生活全体に輝きをもたらします。

もとよりそれは容易なことではありません。でも、たとえ外(はず)れた関節を元どおりにしてあげるだけのことであっても、その治療を通じてその人に自分が肉体をそなえた霊であり、霊をそなえた肉体ではないことを理解させることに成功すれば、あなた方はこの世で最大の仕事をしていることになるのです。

わたしたちは肉体そのものよりも、その奥にある霊の方により大きな関心を向けていることを、よく理解していただかねばなりません。霊が正常であれば肉体も健康です。霊に異常があれば、つまり霊と精神と肉体との関係が一直線で結ばれていなければ、肉体も正常では有り得ません。この点をよく理解していただきたいのです。なぜなら、それはあなた方がご苦労なさっているお仕事において、あなた方自身にも測り知ることのできない側面だからです。完治した人、痛みが和らいだ人、あるいは回復の手応えを感じた人があなた方へ向ける感謝の気持ちも礼も、魂そのものが目覚め、内部の巨大なエネルギー源が始動しはじめた事実にくらべれば、物のかずではありません。

あなた方は容易ならざるお仕事にたずさわっておられるのです。犠牲と献身を要求される仕事です。困難の最中において為される仕事であり、その道は容易ではありません。しかし、先駆者のたどる道はつねに容易ではありません。奉仕的な仕事には障害はつきものなのです。かりそめにもラクな道、障害のない道を期待してはなりません。障害の一つ一つ、困難の一つ一つが、それを乗り越えることによって、霊の純金を磨き上げるための試練であると心得てください」

エドワーズ「魂の治療の点では、私たち治療家の役割よりも霊界の治療家の役割の方が大きいのでしょうか」


「当然そうなりましょう」

エドワーズ「そうすると、私たちが果たしている役目は小さいということでしょうか」


「小さいとも言えますし、大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて、治療には二通りの方法があります。一つは治癒エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家に届けます。それを再び活エネルギーに還元して、あなた方治療家が使用するという方法です。もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的にそなわっている治癒力を刺激して、魂の不調、すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう?」

エドワーズ「いえ、理屈はよく分かります。ただ、現実に適用するとなると……」


「では、説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかと言うと、生命とは本質において物質と異なるものであり、いわゆる理化学的研究の対象とはなり得ないものだからです。

で、わたしはよく、生命とは宇宙の大霊のことであり、大霊とはすなわち大生命のことだと申し上げるのですが、その意味は、人間が意識をもち、呼吸し、歩き、考える、その力、また樹木が若葉をつけ、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後にひそむ力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。同じ霊力の一部であり、一つの表現なのです。

あなた方が今ここにこうして生きていらっしゃる事実そのものが、あなた方も霊であることを意味します。ですから、同じく霊である患者の霊的進化の程度に応じたさまざまな段階で、その霊力を注入するというのが心霊治療の本質です。

ご承知の通り、病気には魂に起因するものと、純粋に肉体的なものとがあります。肉体的なものは治療家が直接手を触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を活用します。ただし、この方法にも限界があります。あなた(エドワーズ)の進化の程度、協力者のお二人(バートン夫妻)の進化の程度、それに治療を受ける患者自身の進化の程度、この三つが絡みあって自然にできあがる限界です。また、いわゆる因縁(カルマ)というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにおかまいなく働きます」

エドワーズ「魂の病にもいろいろあって、それなりに肉体に影響を及ぼしていると思いますが、そうなると、病気一つ一つについて質の異なる治癒エネルギーが必要なのではないかと想像されますが……」


「まったくおっしゃる通りです。人間は三位一体の存在です。一つは今のべた霊(スピリット)、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、すべてがそこから出ます。次に、その霊が精神(マインド)を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって、肉体(ボディ)を支配します。この三者が融合し、互いに影響しあい、どれ一つ欠けても、あなたの地上での存在はなくなります」

エドワーズ「一方通行ではないわけですね?」


「そういうことです。霊的ならびに精神的発達の程度にしたがって肉体におのずから限界が生じますが、それを意識的鍛練によって、信じられないほど自由に肉体機能を操ることができるものです。インドの行者などは、西洋の文明人には想像もできないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思いどおりに操れるように鍛練したまでのことです」

エドワーズ「心霊治療が魂を目覚めさせるためのものであり、霊が第一原理であれば、霊界側からの方がよほどやり易いのではないでしょうか」


「そう言えそうですが、逆の場合の方が多いようです。というのは、死んでこちらへ来た人間でさえ霊的波長よりは物的波長の中で暮らしている霊が多いという事実からもお分かりの通り、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、たいていは物的波長にしか反応を示さず、わたしたちが送る波長にはまったく感応しないものです。そこであなた方地上の治療家の存在が必要となってくるわけです。霊的波長にも物的波長にも感応する連結器というわけです。

治療家にかぎらず、霊能者と呼ばれている人が、つねに心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。霊的に向上すれば、それだけ仕事の範囲が広がって、より多くの価値ある仕事ができるようになります。そのように法則ができ上がっているのです。

ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は、必然的に孤独な旅を余儀なくさせられます。ただ一人、前人未踏の地を歩みながら、のちの者のための道しるべを立てて行くことになります。あなたにはこの意味がよくお分かりでしょう。すぐれた特別の才能には、それ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」

エドワーズ「さきほど治癒エネルギーのことを説明された時、霊的なものが物的なものに転換されるとおっしゃいましたが、その転換はどこで行われるのでしょうか。どこかで行われているはずですが……」


「使用するエネルギーによって異なります。信じられない方もいらっしゃるかも知れませんが、いにしえの賢人が指摘している“第三の目”とか太陽神経叢などを使用することもあります(※)。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する“場”なのです。これ以外にも患者の潜在意識を利用して、健康な時と同じ生理反応を起こさせることによって、失われた機能を回復させる方法があります」


※――いずれもヨガでいうチャクラに相当し、全部で七つある。この分野ではセオソフィーの研究が進んでいる。

エドワーズ「説明されたところまでは分かるのですが、その“中間地帯”がどこにあるかがよく分かりません。どこで物的状態と霊的治癒エネルギーとつながるのか、もっと具体的に示していただきたいのです。どこかで何らかの形で転換が行われているに違いないのですが……」


「そんな具合に迫られると、どうも困ってしまいますね。弱りました。わかっていただけそうな説明がどうしてもできないのです。強いてたとえるならば、さっきもいったコンデンサーのようなことをするのです。コンデンサーというのは電流の周波を変える装置ですが、大体あんなものが用意されていると想像してください。エクトプラズムを使用することもあります。ただし、実験会での物質化現象や直接談話などに使用するものとは形態が異なります。もっと微妙な、目に見えない……」

エドワーズ「一種の“中間物質”ですか」


「そうです。霊の念波を感じやすく、しかも物質界でも使用できる程度の物質性をそなえたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のもつエネルギーが結合してコンデンサーの役をするのです。そこから患者の松果体(※)や太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。その活エネルギーは全身に行きわたります。電気的な温もりを感じるのはその時です。

知っておいていただきたいのは、とにかくわたしたちの治療法には決まった型というものはないということです。患者によってみな治療法が異なるのです。また、霊界から次々と新しい医学者が協力にまいります。そして新しい患者は新しい実験台として臨み、どの放射線を使用したらどういう反応が得られたかを、細かく検討します。なかなか捗(はかど)らなかった患者が急に快方へ向かいはじめることがあるのは、そうした霊医の研究成果の表れです。また、治療家のところへ行く途中で治ってしまったりすることがあるのも、同じ理由によります。実質的な治療というのは、あなた方が直接患者に接触する以前にすでに霊界側で大部分が済んでいると思って差しつかえありません」


※――脊柱の先端と二つの大脳葉にはさまれた、直径四ミリ、長さ六ミリほどの円柱形の器官で、霊界との連絡に大切な機能を果たしている。松果腺とも。詳しくはルース・ウェルチ著『霊能開発入門』参照。

エドワーズ「そうすると、もう一つ疑問が生じます。いま霊界にも大勢の医者がいると申されましたが、一方で遠隔治療を受けながら、別の治療家のところへ行くという態度は、治療にたずさわる霊医にとって困ったことになりませんか」


「結果をみて判断なさることです。治ればそれでよろしい」

エドワーズ「なぜそれでいいのか、理屈が分からないと、われわれ人間は納得できないのですが……」


「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、まったく支障にならないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから、一概に言い切るわけにはまいりません。

あなただって、患者を一目見ただけで、これは自分に治せる、とは判断できますまい。治せるか否かは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分どおりしか治せない患者でも、他の治療家のところへ行けば全治するかも知れません。条件が異なるからです。

その背景、つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと、断定的な言葉は使えなくなるはずです。宇宙の法則には無限の奥行きがあります。あなた方人間の立場としては、正当な動機と奉仕の精神にもとづいて、精いっぱい人事を尽くされればいいのです。こうすれば治る、これでは治らない、といった予断のできる者はいません」

エドワーズ「細かい点はともかくとして、私たちが知りたいのは、霊界の医師は、必要とあらばどこのどの治療家にも援助の手を差しのべるのかということです」


「霊格が高いことを示す一番の指標は、人を選り好みしないということです。わたしたちは、必要とあらばどこへでも出かけます。それが高級神霊界の鉄則なのです。あなた方も患者を断るようなことは決してなさってはいけません。精神的にも霊的にも、すでに本質において永遠の価値をもった成果をあげておられます。人間的な目で判断してはいけません。あなた方には物事のウラ側を見る目がないのです。したがって、ご自分のなさったことがどんな影響を及ぼしているかもお分かりになりません。

しかし実際には、ご自分で考えておられるよりはるかに大きな貢献をなさっております。あなた方の貢献は、地上で為しうる最大のものに数えられることに自信をもってください。一生けんめい治療なさってもなお反応がなくても、それはあなたの責任ではありませんし、協力者(バートン夫妻)の責任でもありません。すべては自然の摂理の問題です。ご承知のように、奇跡というものは存在しません。すべては無限の愛と無限の叡智によって支配されているのです。

あなたと、協力者のお二人に申し上げます。常に、霊の光に照準を当てるように心がけてください。この世的な問題(※)に煩わされてはなりません。これまでに幾つもの困難に遭遇し、これからも行く手に数々の困難が立ちはだかることでしょうが、奉仕の精神に徹しているかぎり、克服できない障害はありません。すべてが克服され、奉仕の道はますます広がっていくことでしょう。

あなた方のお仕事は、人々に苦痛の除去、軽減、解放をもたらすだけではありません。あなた方の尊い献身ぶりを見て、それを見習おうとする心を人々に植えつけています。そしてそれが、あなた方をさらに向上の道へと鼓舞することになります。わたしたちは、まだまだ霊的進化の頂上をきわめたわけではありません。まだまだ、先ははるかです。なぜなら、霊の力は大霊と同じく無限の可能性を秘めているからです」


※――エドワーズの治療所は治療費を取らず自発的な献金でまかなっていたために、慢性的な資金不足の問題をかかえ、借り入れ金の返済も滞(とどこお)りがちで、運営の危機に直面したことが何度かある。

サークルのメンバー「患者としては、あくまでも一人の治療家のお世話になるのが好ましいのでしょうか」


「それは一般論としてはお答えしにくい問題です。なぜかと言いますと、大切なのはその患者の霊的状態と治療家の霊的状態との関連性だからです。治療法にも、いろいろと種類があることを忘れてはなりません。霊的な力をまったく使用しないで治している人もいます。自分の身体のもつ豊富な生体エネルギーを注入することで治すのです。霊の世界とは何の関わりもありません。それも治療法の一つというにすぎません。

ですから、患者の取るべき態度について戒律をもうけるわけにはいかないのです。ただし、一つだけ好ましくない態度を申せば、次から次へと治療家を渡り歩くことです。それでは治療家にちゃんとした治療を施すチャンスを与えていないことになるからです。わたしたち霊界の者が何とか力になってあげたいと思って臨んでも、そういう態度で訪れる人のまわりには一種のうろたえ、感情的な迷いの雰囲気が漂い、それが霊力の働きかけを妨げます。ご承知のように、霊力が一番働きやすいのは、受け身的な穏やかな雰囲気の時です。その中ではじめて魂が本来の自分になりきれるからです」

エドワーズ「一人の治療家から直接の治療を受けながら、別の治療家から遠隔治療を受けるというのはいかがでしょうか」


「別に問題はありません。現にあなたがそれを証明しておられます。他の治療家に治療してもらっている人をあなたが治されたケースがいくつもあります」

バートン氏「私は祈りの念が霊界へ届けられる経路について考えさせられることがよくあります。祈り方にもいろいろあり、とくに病気平癒の祈願がさかんに行われております。その一つとして祈念する時間が長いほど効果があると考えている人がいます。いったい祈りは霊界においてどういう経路で届いているのかを知りたいのです」


「この問題も、祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご承知のとおり宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇跡とかは絶対に起こりません。もしもその祈りが利己心から発したものであれば、それはそのままその人の霊格を示すものであり、そんな人の祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。

反対に、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きますし、自動的に治癒効果を生む条件をつくり出す力もそなわっています。要するに祈る人の霊格によって決まることです」

バートン氏「祈りはその人そのものということでしょうか」


「そういうことです」

バートン氏「大主教による仰々(ぎょうぎょう)しい祈りよりも、素朴な人間の素直な祈りの方が効果があるということでしょうか」


「地位には関係ありません。肝心なのは祈る人の霊格です。大主教が霊格の高い人であれば、その祈りには霊力がそなわっていますが、どんなに立派な僧衣をまとっていても、筋の通らない教義に凝り固まった人間でしたら、何の効果もないでしょう。

もう一ついけないのは、集団で行う紋切り型の祈りです。意外に効果は少ないものです。要するに大霊は肩書や人数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは、祈る人の霊格です。

祈りとは、本来、波長をふだんより高めるための霊的な行為です。波長を高め、人のために役立ちたいと祈る行為は、それなりの効果を生み出します。あなたが抱える問題は、大霊は先刻ご承知です。宇宙の大霊であるがゆえに、宇宙の間の出来事のすべてに通じておられます。大霊とは大自然の摂理の背後の叡智です。したがって、その摂理をごまかすことはできません。大霊をごまかすことはできないのです。あなた自身さえごまかすことはできません」

バートン夫人「治療の話に戻りますが、患者が信仰心をもつことが不可欠の条件だという人がいますし、関係ないと主張する人もいます。どうなのでしょうか」


「心霊治療にかぎらず、霊的なことには奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言い切れないことばかりです。信仰心があった方が治りやすい場合がたしかにあります。霊的知識にもとづいた信仰心は、魂が自我を見出そうとする一種の憧憬ですから、魂に刺激を与えます。あくまで自然の摂理に関する知識にもとづいた信仰のことであって、何か奇跡でも求めるような盲目の信仰ではダメです。反対に、ひとかけらの信仰心がなくても、魂が治るべき段階まで達しておれば、かならず治ります」

バートン夫人「神も仏もいないと思っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって、不思議でならないことがあります」


「その線引きは魂の霊格によって決まります。人間の観察はとかく表面的になりがちで内面的でないことが多いことを忘れてはなりません。魂そのものが見えないために、その人がそれまでにどんなことをしてきたかが判断できないのです。治療の効果を左右するのは、あくまでも患者の魂です。

ご承知のとおり、わたしも何千年か前に地上でいくばくかの人間生活を送ったことがあります。そして、死後こちらでそれよりはるかに長い霊界生活を送ってまいりましたが、その間、わたしが何にもまして強く感じているのは、大自然の摂理の正確無比なことです。知れば知るほどその正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりです。一分(ぶ)の狂いも不公平もありません。地上だけではありません。わたしたちの世界でも同じです。差引勘定をしてみれば、きちんと答えが合います。

迷わず、ただひたすら心に喜びを抱いて奉仕の精神に徹して仕事をなさることです。そして、あとのことは全て大霊にお任せすることです。それから先のことは人間の力の及ぶことではないのです。誰が治り誰が治らないかは、あなた方が決めるのではありません。いくら願ってみても、それは叶わないことです。あなた方は、所詮、わたしたちスピリットの道具にすぎません。そして、わたしたちもまた、さらに高い神霊界のスピリットの道具にすぎません。自分より偉大なる力がすべてを良きに計らってくださると信じて、すべてをお任せすることです」

最後に、別の日の交霊会でふたたび心霊治療が話題となった時にシルバーバーチが述べた注目すべき霊言を紹介しておこう。

パキスタンから招待された人がこう尋ねた。

「一見なんでもなさそうな病気がどうしても治らないことがあるのはなぜでしょうか」


「不治の病というものはありません。すべての病気にそれなりの治療法があります。宇宙は単純にして複雑です。深い奥行きがあるのです。法則の奥にまた法則があるのです。知識は新しい知識へ導き、その知識がさらに次の知識へと導きます。理解には際限がありません。叡智も無限です。こんなことを申し上げるのは、いかなる質問にも簡単な答えは出せないということを知っていただきたいからです。すべては魂の本質、その構造、その進化、その宿命にかかわることだからです。

地上の治療家から、よくこういう言い分を聞かされます――“この人が治ったのに、なぜあの人は治らないのですか。愛と、治してあげたい気持ちがこれほどあるのに治らなくて、愛を感じない、見ず知らずの人が簡単に治ってしまうことがあるのは、なぜですか”と。

そうしたことはすべて法則によって支配されているのです。それを決定づける法則は魂の進化と関係しており、魂の進化は現在の地上生活だけで定まるのではなく、しばしば前世での所業が関わっていることがあります。

霊的な問題は地上的な尺度では計れません。人生のすべてを物質的な尺度で片づけようとすると誤ります。しかし、残念ながら、物質の中に閉じ込められているあなた方は、とかく霊の目をもって判断することができず、それで、一見したところ不正と不公平ばかりが目につくことになります。

大霊は完全なる公正です。その叡智は完璧です。なぜなら、完全なる摂理として作用しているからです。あなた方の理解力が一定の尺度に限られている以上、宇宙の全知識をきわめることは不可能です。

どうか“不治の病”という観念はお持ちにならないでください。そういうものは存在しません。治らないのは、往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵(あんど)、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業(カルマ)の法則が働いているということです。こう申し上げるのは、あきらめの観念を吹聴(ふいちょう)するためではありません。たとえ目に見えなくても、何事にも摂理というものが働いていることを指摘したいからです」

祈り

無知に代わって知識が支配し……


ああ、大霊よ。あなたはあらゆる定義と説明を超越した存在にあらせられます。なぜならば、あなたの本性は窮まるところを知らないからでございます。いかなる書物も、いかなる教会も、いかなる建造物も、いかなる言語も、あなたのすべてを包摂することはできませんし、あなたのすべてを説き明かすこともできません。

遠い過去において、特殊な才能に恵まれた数少ない人たちは、見えざる世界からのインスピレーションを受け取り、天上界とその住民の生活を垣間(かいま)見ることができました。しかし、それにも、その霊能者たちの知的ならびに霊的進化の程度による限界があり、したがってあなたについての理解には歪(ゆが)みがあり、不正確であり不完全でした。

今わたしどもは、少数ではなく大勢の霊能者を通して、全大宇宙の背後に控える無限なる精神についての、より実相に近い概念を啓示せんと努力しているところでございます。それは、絶対的支配力を有する大自然の摂理であり、その摂理には例外もなく、変更もなく、廃止もございません。

その絶対的摂理が全生命を管理しているとわたしたちは説くのです。物質の世界に顕現している部分だけに限りません。生命活動のあらゆる側面を統御し、すべてがその支配下にあると説いているのでございます。

かくして無限なる精神によって創案され、愛と叡智を通して働いている摂理は、宇宙的生命活動のすべてを認知していることになり、地上に生活する人類もまた、その例外ではございません。しかも、全生命を創造したあなたの霊が地上の子等の一人一人に例外なく宿っているのでございます。その絆は永遠です。子等をあなたと結びつけている絆は、墓場を超えて彼岸の霊界においてもなお続くのでございます。

もしも幸いにしてあなたの子等があなたを正しく理解すれば、彼らみずからを理解することになり、自分自身の存在の中にあなたの完全性のひな型が写し出されていることを知ることになるのですが、それがまだ実現される段階に至っていないのが残念でなりません。より大きな表現へ向けて呼び覚まされるのを待ちながら居眠りの状態で潜在している、言葉では言い表せないミニチュアのあなたなのでございます。

生命の法則をより多く知るにつれて、あなたの子等はその内部の神性をより大きく発現できるような生活が営めることになりましょう。

霊の資質を開拓することにより、高遠の世界の進化せる霊との、より豊かな交わりが得られ、それまでに蓄積した知識と教養と叡智をふんだんにもたらしていただき、地上をより公正に、より豊かに、そしてより美しくする上で力となってくださることでしょう。

そうなることが、無意味な悲劇と不幸と悩みとをなくすことになりましょう。なぜなら、無知に代わって知識が支配し、健康が病気を駆逐し、慰めが悲哀と所を代え、永きにわたって暗黒が支配してきた場所に真理の光が灯されることになるからでございます。

その目標に向かってわたしどもは、同じく地上の子等のために献身する他の霊団とともに、努力しているところでございます。

ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。



Thursday, August 7, 2025

シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

  十六 節
これまでの霊信の総括──恐怖を吹き込む教義は魂を委縮させる──宗派の別は些細な問題──どの宗教にも真理と誤謬が混在する──真理を独占する宗教は皆無──キリスト教神学は諸悪の根源──キリストの福音は生命の不滅性の証明──それが宗教の根幹



〔思いつくまま反論を試みようとしたところ、制止されて逆に次のような通信がきた。〕

これまで述べてきたところをまとめる意味で今少し述べてみたく思う。汝は宗教というものが人類全体としては大した影響を持たぬことを十分に理解しておらぬ。

そしてむしろわれらの述べる言説の方が人類の必要性と願望を満たする要素を持つことも理解しておらぬ。どうやら、今汝が置かれている交友関係とその精神状態では明確に理解し得ぬものをここで指摘しておく必要がありそうである。

 人間界に蔓延せる死後の問題の無頓着さが何を意味するかを汝は理解しておらぬようである。死後はどうなるかについて関心を示す者が辿り着いた結論は、これまでの来世観では曖昧にして愚劣であり、矛盾撞着があり、とても得心がいかぬということである。

つまり理性的に観れば、神の啓示が全てであるとする聖書には、人間の混ぜものが歴然としており、純然たる人間的産物に適用される判断基準さえも耐え切れぬこと、そしてまた、理性は啓示の判断基準に他ならぬ故に、啓示はすべからく知的判断の範囲外に置き、ただひたすらに信ぜよとの牧師の言葉は、実は決して誤らぬはずの福音の中に数多く発見される誤りと、矛盾を被い隠すための巧妙なる言い逃れの手段であることは容易に知れる。

理性という試金石を使用すれば、その程度のことはたちどころに知れる。理性をもたぬ者のみが盲目的信仰へと避難し、狂信的、偏狭的、そして非合理きわまる盲目的信奉者となっていく。

そして教え込まれた通りの因習的教義に凝り固まり、そこから一歩も出ようとせぬ。それもただ、それに疑義をはさむことが恐ろしいからに他ならぬ。

 宗教上の問題について、理知的思考を禁ずることほど精神を拘束し、魂の発育を歪めるものはない。それは思考の自由を完全に麻痺させ、魂の成長をほぼ完全に阻害する。魂というものはその欲求を満たすと満たさぬとに係わりなく、一つの因習的宗教によって縛りつけられるものである。

魂の生命の糧を自ら選択する自由が皆無となるからである。遠き祖先にとってはそれで良かったかも知れぬことも、時代を異にして苦悩する魂にとっては全く無意味なことも有り得る。故にその自由を奪われては魂の栄養は誕生する時代と土地とによって決定づけられてしまうことになろう。

キリスト教徒となるのも、マホメット教徒となるのも、あるいは汝らの言う異教徒になるのも、そこに本人の自由選択を行使する余地は皆無ということになる。

その神がインディアンの言う大霊となるも、未開人の呪物となるも、あるいはその予言者がキリストとなるも、マホメットとなるも、孔子となるも───要するに、その宗教的観念が世界の東西南北いずれの地域のものであろうと、それが宿命的拘束力をもつことになる。

何となれば、いずれの国にあっても古来その国なりの神学を生み出し、それが子孫に対して、魂の救済において絶対不可欠の拘束力をもつに至っているからである。

 この事実は汝にとって熟考を要する問題である。いかなる宗教と言えども、地上の一つの国の民族に訴えることはあっても、唯一その宗教のみが神の啓示の全てを包含すると考えるのは、人間の虚栄心と思い上がりが生む作り話に過ぎぬ。

いま地上にて全盛を誇る宗教も、あるいは曾て全盛をきわめた宗教も、どれ一つとして真理を独占するものなどは存在せぬ。完全なる宗教などはどこにも存在せぬ。

その発生せる土地、そしてまたそれを生み出した者の必要性を満たすそれなりの真理を幾つか具えてはいても、それには同時にそれなりの誤りも多く含まれており、精神構造も違えば霊的必要性も異なる他の民族に押し付けられるべきものではない。

それは神よりその民族のために与えられた霊的栄養なのである。それをもって絶対性を主張すること自体がすでに人間らしき弱点をさらけ出している。人間はとかく自分のみが特別の真理の所有者であると思いたがるものである。

その妄想にしがみつき、われこそは神の真理を授かれる者なりと思い上がり、世界各地に宣教師を派遣して他の土地、他の民族にもその万能薬を広めねばならぬと真剣に思い込みたる者を見ると、われらはそのけなげなる気持ちに微笑まずにはおれぬ。もっともその思い上がりを笑われ、その思想を蔑まれるのが落ちであるが・・・・・・

 秀れた学識を具えている筈の神学者が、自分に届けられた真理の光をもって唯一無二の真理と思い込み、それに無用の手を加えて折角の輝きを曇らせているが、その光は、これまで地上に注がれた数多くの真理の太陽の光の一条に過ぎぬことに今まで気づかずにきたこと、そして今なお気づかずにいることは、われらにとりて驚異というほかはない。

神の真理は太陽の如く、あまりに強烈であり、そのままではとても人間の目では直視できぬ。それは是非とも地上の霊媒を通すことによって和らげる必要がある。

すなわち、光に慣れぬ目を眩まさぬように、人間的伝達手段を通すことによって幾分か光度を落とさねばならぬ。その中間的介在物を通さずに直接真理の光を見出せるようになるのは、肉体を棄て天上高く舞い上がった時である。

 地上の全ての民族にそれ相当の真理の光が授けられている。それを各民族なりに最高の形で受け取り、それなりに立派に育て上げられたものもあれば、歪められてしまったものもある。いずれにせよ結局はその民族なりの必要性に応じて変形されてきた。

故に地上のいかなる民族と言えども、真理の独占を誇り、あるいはそれを他民族に押しつけんとする無益な努力が許される道理はない。

地球が存続してきたかぎりにおいて、全ての宗教───バラモン教もマホメット教もユダヤ教もキリスト教も、それ独自の特異な真理を授かってきたのであり、ただ勝手にそれを真理の全てであると思い込み、わが宗教こそ神の遺産の相続者であると自負したに過ぎぬ。その過ちを最も顕著に示しているのが他ならぬキリスト教である。

教会こそ神の真理の独占者であると思い込み、地上全土にそのランプの光を持ち歩かねばならぬと信じておりながら、その実、教会内部において相対立する宗派が最も多いのもキリスト教であるという事実が、それを何よりも雄弁に物語っていよう。

キリスト教界内の分裂、その支離滅裂の教義、互いに神の愛を独占せんとして罵り合う狂気の沙汰の抗争、こうしたことはキリスト教こそ神の真理の独占者であるという愚かなる自負にたいする絶好の回答である。

 が、この人間的無知の霧に新たな光が射し込む日が近づきつつある。その新しき啓示の普及による啓発の前に、そうした宗閥的勢力争いも消滅するであろう。人類は汝が想像する以上にその啓示を受け入れる用意が出来ているのである。

その暁には、各宗教には中心的太陽とも言うべき神の光の一条のみが与えられているに過ぎぬこと、しかもその光が人間の無知によって曇らされていること、しかしその奥には真理の芽が隠されていることを知るであろう。

故に人間は他民族の信仰の中にも真理を見出し、それなりの教訓を学びとり、邪を棄て善を摂取し、人間的過ちの中にも神を見出し、これまで己の欲求にそぐわぬと思えたものの中にも神聖なるものを認識せねばならぬ。

 われらがその普及を使命としているところの壮大なる霊的教訓は、理性的観点からすれば、合理的にして且つ崇高なるものであり、その普及によって、これまで宗教の名を辱め、神学を世間の嘲笑の的としてきたところの宗閥的嫉妬心と神学的暴言、憎悪と悪意、怨恨と偽善が地上より払拭される日も間近い。

それにしても、何たる醜態であることか! 本来ならば神の本性を明らかにし、そうすることによって神の愛を少しでも魂に吹き込むべき神学であるものを。

ああ、それが事もあろうに宗派と分派の戦場と化し、児戯に類する偏見と見苦しき感情をむき出しにする不毛の土地と化し、神についての無知を最もあらわにさらけ出し、神の本質と働きについて激しく非難し合う侘しき荒地と化してしまうとは! 神学! これはもはや汝らキリスト者の間でさえ侮辱をもって語られるに至っているではないか。

神についての無知の証とも言うべき退屈きわまる神学書は、見苦しき悪口雑言、キリスト者としてもっともあるまじき憎悪、厚顔無恥の虚言の固まりである。

神学! 聖なる本能の全てを掻き消し、敵に向けるべき攻撃の手を同士に向け、聖者の中の聖者とも言うべき霊格者を火刑に処し、拷問にかけ、八つ裂きにし、礼遇すべきであった人々を流刑にしあるいは追放し、人間として最高の本能を堕落させ、自然の情緒を掻き消すことを正当化するための口実とされてきたではないか。

何たる悲しきことであることか。そこは今なお人間として最低の悪感情が大手を振って歩く世界であり、その世界より一歩でも出ようとする者を押し止めんとする。

〝退がれ! 退がれ! 神学のあるところに理性の入る余地などあるものか。〟これが神学者の態度である。真摯なる人間を赤面せしめる人間的煩悩の殆ど全てがそこにあり、自由なる思索は息切れし、人間はあたかも理性なき操り人形と化している。

 本来ならば神について語るべき叡知を人間はそのような愚劣なる目的のために堕落させて来たのである。

 しかし、友よ、われらの目的成就の日も間近い。神学による悪癖をいつまでも放置しておくわけにはいかぬ。今はまさにイエス・キリスト降臨前と同じである。夜明け前の漆黒の闇と同じである。無知という名の夜が足早に過ぎ去りつつある。

聖職の機能によりてがんじがらめにされた魂がその束縛を断ち切り、常軌を逸せる愚行、無知が生む偽善、そして曖昧模糊たる思索の産物に代わって、理性を得心させる宗教と信仰を手にする日が訪れよう。その時は神についてのより豊かな概念と、人間の義務と宿命についてのより正しき見解を手にするであろう。

汝らの言う死者が今なお汝らと共に生き続けていること、それも汝らより一段と生命の実感をもって生きていること、しかも地上時代と変わらぬ情愛をもって加護に当っていることを知るであろう。

 キリストは地上に生命と不滅性をもたらしたと聖書にある。その言葉は筆記者が意味したより広き意味にて真実である。キリストによる黙示の成就は───今まさに成就されんとしているのであるが───真実の意味における〝死〟の観念の撲滅であり、生命の不滅性の実証に他ならぬ。その偉大なる真理、すなわち、人間は永遠に死なぬということ、たとえ死にたくとも死ぬことが出来ぬという事実の中に、未来への鍵が託されている。

信仰の一つとしてでなく、教義の一項目としてでもなく、生きた知識と現実の事実の一つとして、生命の不滅性は未来の真の宗教の基調であらねばならぬ。われらの説く深遠なる真理も、崇高なる義務の概念も、壮大なる宿命の観念も、人生の真実の悟りも、全てその生命の不滅性の上に成り立つのである。

 今の汝には理解できぬかも知れぬ。炎に慣れぬ汝の魂は目が眩むことであろう。が、やがてわれらの言葉の中に真理のしるし───神性の一面を認めるようになる日も来よう。
                          ♰ イムペレーター

Wednesday, August 6, 2025

シアトルの夏 愛こそがすべてのカギで

シルバーバーチの霊訓―霊的新時代の到来
The Spirit Speaks
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)





世界の主な宗教はみな死後の生命の実在を説いている。が、その証拠を交霊会で他界した先輩から提供してもらっているのは、スピリチュアリズムだけである。

しかし、ご存知の通り、交霊というものは必ずしもうまく行くとはかぎらない。時には完全な失敗に終わることもある。なぜか。

易しい真理をわかりやすく説くことをモットーとしているシルバーバーチが、ある日の交霊会の開会と同時にこう切り出した――


「今夜は招待客がいらっしゃらないようですので、ひとつ、この機会に皆さんがふだん持て余しておられる疑問点をお聞きすることにしましょう。易しい問題はお断りです。今夜にかぎって難問を所望(しょもう)しましょう」

そこで出された最初の質問は、最近ある霊媒による交霊会が失敗した話を持ち出して、その原因についてだった。すると――


「それは霊媒としての修行不足、見知らぬ人を招待して交霊会を開くだけの力がまだ十分にそなわっていない段階で行ったためです。あの霊媒は潜在意識にまだ十分な受容性がそなわっておりません。霊媒自身の考えが出しゃばろうとするのを抑えきれないのです。支配霊がいても、肝心のコントロールがうまくいっておりません。

支配霊が霊媒をコントロールすることによって行う現象(霊言ならびに自動書記)においては、よほど熟練している場合は別として、その通信には大なり小なり、霊媒自身の考えが付着しているものと考えてよろしい。そうしないと通信が一言も出ないのです」

「潜在意識の影響をまったく受けない通信は有り得ないということでしょうか」


「その通りです」

「すべてが脚色されているということでしょうか」


「どうしてもそうなります。いかなる形式であろうと、霊界との交信は生身の人間を使用しなくてはならないからです。人間を道具としている以上は、それを通過する際に大なり小なり着色されます。人間である以上は、その人間的性質を完全に無くすことは不可能だからです」

「神が完全な存在であるのなら、なぜもっと良い通信手段を用意してくれないのでしょうか」


「本日は難しい質問を所望しますと申し上げたら、本当に難しい質問をしてくださいましたね。結構です。

さて、わたしたちが使用する用語には、それをどう定義するかという問題があることをまず知っていただかねばなりません。おっしゃる通り、神、わたしのいう大霊は完全です。ですが、それは大霊が完全な形で顕現されているという意味ではありません。大霊そのものは完全です。つまり、あなたの内部に種子(たね)として存在する神性は完全性をそなえているということです。ですが、これは必ずしも物質的形態を通して完全な形で表現されてはいません。だからこそ無限の時間をかけて絶え間ない進化の過程をへなければならないのです。

進化とは、内部に存在する完全性という黄金の輝きを発揮させるために、不純物という不完全性を除去し、磨きをかけていくことです。その進化の過程においてあなたが手にされる霊的啓示は、あなたが到達した段階にふさわしいものでしかありません。万一あなたの霊格よりずっと進んだものを先取りされても、それはあなたの理解力を超えたものなのですから、何の意味もないことになります」

「では、人間がさらに進化すれば、機械的な通信手段が発明されるかも知れないのでしょうか」


「その問題についてのわたしの持論はすでにご存知のはずです。わたしは、いかなる機器が発明されても、霊媒を抜きにしては完全とはなり得ないと申し上げております。

そもそも何のためにわれわれが、こうして霊界から通信を送るのかという、その動機を理解していただかねばなりません。それは、何よりもまず“愛”に発しているのです。肉親・知人・友人等々、かつて地上で知り合った人から送られてくるものであろうと、わたしのように人類のためを思う先輩霊からのものであろうと、霊的メッセージを送るという行為を動機づけているものは、愛なのです。

愛こそがすべてのカギです。たとえ完全でなくても、何らかの交信がある方が、何もないよりはいいでしょう。それが愛の発現の場を提供することになるからです。しかし、それを機器によって行うとなると、どう工夫したところで、その愛の要素が除去されてしまいます。生き生きとした愛の温もりのある通信は得られず、ただの電話のようなものになってしまいます」

「電話でも温かみや愛が通じ合えるのではないでしょうか」


「電話機を通して得られるかも知れませんが、電話機そのものに温かみはありません」

「大切なのはそれを通して得られるものではないでしょうか」


「この場合は違います。大切なのは霊媒という電話機と、それを通してメッセージを受ける人間の双方に及ぼす影響です。それに関わる人びと全部の霊性を鼓舞することに意図があります」

「霊媒も含めてですか」


「そうです。なぜなら、最終的には、いつの日か地上人類も、霊と霊とが自然な形で直接交信できるまでに霊性が発達します。それを、機械を使って代用させようとすることは、進化の意図に反することです。進化はあくまでも霊性の発達を通して為されねばなりません。霊格を高めることによって神性を最高に発揮するのが目的です」

「ということは、最高の証拠を得たいと思えば、霊性の発達した霊媒を養成しなければならないということでしょうか」


「わたしは今、“証拠”の問題を念頭において話しているのではありません。人類の発達ということを念頭において話しているのです。人生はらせん状のサイクルを描きながら発達するように計画されており、その中の一つの段階において次の段階のための霊性を身につけ、その積み重ねが延々と続けられるのです。おわかりでしょうか」

「はい、わかります」


「最高の成果を得るためには、顕幽両界の間に互いに引き合うものがなければなりません。その最高のものが愛の力なのです。両界の間の障害が取り除かれていきつつある理由は、その愛と愛との呼びかけ合いがあるからです」

「霊媒の仕事が金銭的になりすぎるとうまく行かなくなるのは、そのためでしょうか」


「その通りです。霊媒は、やむにやまれぬ献身的精神に燃えなければなりません。その願望そのものが霊格を高めていくのです。それが何よりも大切です。なぜなら、人類が絶え間なく霊性を高めていかなかったら、結果は恐ろしいことになるからです。霊がメッセージをたずさえて地上へ戻ってくる、そもそもの目的は、人間の霊性を鼓舞するためであり、潜在する霊的才能を開発して、霊的存在としての目的を成就するためです」

「他界した肉親が地上へ戻ってくる――たとえば父親が息子のもとに戻ってくる場合、その根本にあるのは戻りたいという一念でしょうか、それとも今おっしゃった目的で霊媒を通じてメッセージを送りたいからでしょうか」


「戻りたいという一念からです。ですが、一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望も愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ、父親はあらゆる障害を克服して戻ってくるのです。困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって、息子は、父親の他界という不幸を通して魂が目を覚まし、霊的自我を見出します。かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが、霊的発達のスタートという形で終わることになります」

「なるほど、そういうことですか。言いかえれば、神は、進化の計画のためにありとあらゆる体験を活用するということですね?」


「人生の究極の目的は、地上も死後も、霊性を開発することにあります。物質界に誕生してくるのもそのためです。その目的に適った地上生活を送れば、霊はしかるべき発達を遂げ、次の生活の場に正しく適応できる霊性を身につけた時点で死を迎えます。そのように計画されているのです。こちらへお出になっても同じ過程が続き、そのつど霊性が開発され、そのつど古い身体から脱皮して霊妙さを増し、内部に宿る霊の潜在的な完全性に近づいてまいります」

「人間の容貌を見ても、その人の送っている邪悪な生活が反映しているのがわかることがあります」


「当然そうなります。心に思うままがその人となります。その人の為すことがその人の本性に反映します。死後のいかなる界層においても同じことです。身体は精神の召使いではなかったでしょうか。はじめは精神によってこしらえられたのではなかったでしょうか」

「霊界の視点からすれば、心で犯す罪も、行為で犯す罪と同じでしょうか」


「それは一概にはお答えできません。霊界の視点とおっしゃるのは、進化した霊の目から見て、という意味でしょうか」

「そうです。ある一つの考えを抱いた時、それを実行に移したのと同じ罪悪性をもつのでしょうか」


「とても難しい問題です。何か具体的な例をあげていただかないと、一般論としてお答えできる性質の問題ではありません」

「たとえば、誰かを殺してやりたいと思った場合です」


「それは、その動機が問題です。いかなる問題を考察する際にも、まず“それは霊にとっていかなる影響をもつか”ということを考慮すべきです。ですから、この際も、“殺したい”という考えを抱くに至った動機ないし魂胆は何かということです。

さて、この問題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいと思っても、手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでには至らない――いわば臆病なのです。心ではそう思っても、まずもって実際の行為には至らないというタイプです。

そこで、殺してやりたいと心で思ったら、実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せば、その霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけでは、そういうことにはならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは、罪悪性が異なります。

しかし、これを精神的次元で捉えた場合、嫉妬心・貪欲・恨み・憎しみといった邪念は、身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方が、はるかに強烈です。このように、この種の問題はその時の事情によって答えが異なります」

「誰かを殺してやりたいと思うだけなら、実際の殺人行為ほどの罪悪性はないとおっしゃいました。でも、その念を抱いた当人にとっては、殺人行為以上の実害がある場合が有り得ませんか」


「有り得ます。これもまた、場合によりけりです。その邪念の強さが問題になるからです。忘れないでいただきたいのは、根本において支配しているのは“因果律”だということです。地上における身体的行為が結果を生むのと同じように、精神的ならびに霊的次元において、それなりの結果を生むように仕組まれた自然の摂理のことです。邪念を抱いた人が自分の精神ないしは霊に及ぼしている影響は、あなた方には見えません」

「誰かを、あるいは何かを、“憎(にく)む”ということは許されることでしょうか。あなたは誰かを、あるいは何かを憎むということがありますか」


あとのご質問は答えが簡単です。わたしは誰も憎みません。憎むということができないのです。なぜなら、わたしは大霊の子すべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいは、わずかしか発揮できずにいる人を見て、いつも気の毒に思うからです。

ですが、許せない制度や強欲に対しては、憎しみを抱くことはあります。強欲・悪意・権勢欲等が生み出すものに対して、怒りを覚えます。それに伴って、さまざまな思い、あまり褒(ほ)められない想念を抱くことはあります。ですが、忘れないでください。わたしもまだまだ人間味をそなえた存在です。ただ、人間に対しては、そうした想念を抱かないところまでは進化しておりますが……」

「いけないと知りつつも感情的になることがありますか」


「ありますとも」

別のメンバーが「生意気を言うようですが、今おっしゃったことは私にも理解できます。憎むということは恐ろしいことです」と言うと、さきのメンバーが「人を平気で不幸にする邪悪な人間がいますが、私はそういう人間に対しては、どうしても憎しみを抱きます」と言う。するとシルバーバーチが――


「わたしは憎しみを抱くことはできません。摂理を知っているからです。大霊は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来られてから、支払わされます。いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対しては、その人自身が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかに見すぼらしくても、卑(いや)しくとも、大霊からいただいた衣をまとっている同胞を憎むということは、わたしにはできません。ですが、不正行為そのものは憎みます」

「でも、実業界には腹黒い人間がたくさんいます」


「でしたら、その人たちのことを哀れんであげることです」

「私はそこまで立派にはなれません。私は憎みます」

別のメンバーが「私はそれほどの体験はないのですが、動物の虐待を見ると腹が立ちます」と言うと、シルバーバーチが――


「そういう行為を平気でする人間は、みずからの進化の低さの犠牲者であり、道を見失った哀れな盲目者なのです。悲しむべきことです」

さきのメンバーが“腹黒い実業家”を念頭に置いて「ああいう連中の大半は高い知性と頭脳の持ち主です。才能のない人間を食いものにしています。それで私は憎むのです」と言う。


「そういう人たちは必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時が来るのです。あなたとわたしとの違いは、あなたは物質の目で眺め、わたしは霊の目で眺めている点です。わたしの目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受けるべき苦しみが見えるのです。暗闇の中で悶(もだ)え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものが、その人の悪業にふさわしい罰なのです」

「でも、いま現実に他人に大きな苦しみをもたらしております」


「では一体、どうあってほしいとおっしゃるのでしょう。人間から自由意志を奪って、操り人形のようにしてしまえばよいのでしょうか。自由意志という有り難いものがあればこそ、努力によって荘厳な世界へ向上することもできれば、道を間違えて、奈落の底へ落ちることも有り得るのが理にかなっているのです」

別のメンバーが「邪悪な思念を抱いてそれを実行に移した場合、それを実行に移さなかった場合とくらべて、精神的にどういう影響があるのでしょうか」と尋ねた。


「もしもそれが激しい感情からではなく、冷酷非情な計算ずくで行った場合でも、いま申し上げた邪悪な人間と同じ運命をたどります。なぜなら、それがその魂の発達程度、というよりは発達不足の指針だからです。たとえば心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行に移したとすれば、途中で思いとどまった場合にくらべて、はるかに重い罪を犯したことになります」

「臆病であるがゆえに思いとどまる場合もあるでしょう?」


「臆病者の場合はまた別です。わたしは今、邪悪なことを平気で実行に移せる人間の場合の話をしたのです。初めに申し上げたとおり、この種の問題は一つ一つに限定して論じる必要があります。心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行できる人と、“あんな憎たらしい奴は殺してやりたいほどだ”と思うだけの人とでは、霊的法則からいうと、前者の方がはるかに罪が重いと言えます」

「あなたご自身にとって何かとても重大で、しかも解答が得られずにいる難問をおもちですか」


「解答が得られずにいる問題で重大なものと言えるものはありません。ただ、わたしはよく、進化は永遠に続く――どこまで行ってもこれでおしまいということはない、と申し上げておりますが、なぜそういうおしまいのない計画を大霊がお立てになったのか、そこのところがわかりません。いろいろとわたしなりに考え、また助言も得ておりますが、正直いって、これまでに得たかぎりの解答には得心がいかずにおります」

「大霊それ自体が完全でないということではないでしょうか。あなたはいつも大霊は完全ですとおっしゃっていますが……」


「ずいぶん深い問題に入ってきました。かつて踏み入ったことのない深みに入りつつあります。

わたしには、地上の言語を使用せざるを得ない宿命があります。そこで“神”のことも、どうしても、わたしが抱いている概念とはかけ離れた、男性神であるかのような言い方をしてしまいます(※)。わたしの抱いている神の概念は、完璧な自然法則の背後に控える無限なる叡智です。その叡智が無限の現象として顕現しているのが宇宙です。が、わたしはまだ、その宇宙の究極の顕現を見た、と宣言する勇気はありません。これまでに到達したかぎりの位置から見ると、まだまだその先に別の頂上が見えているからです。

わたしなりに見てきた宇宙に厳然とした目的があるということを、輪郭だけは理解しております。まだ、その細部のすべてに通暁しているなどとは、とても断言できません。だからこそわたしは、皆さんもわたしと同じように、知識の及ばないところは信仰心で補いなさいと申し上げているのです。

“神”と同じく、“完全”というものの概念は、皆さんが不完全であるかぎり完全に理解することはできません。現在の段階まで来てみてもなお、わたしは、もしかりに完全を成就したらそこで全てが休止することを意味し、それは進化の概念と矛盾するわけですから、完全というものは本質的に成就できない性質のものであるのに、なぜ人類がその成就に向かって進化しなければならないのかが理解できないのです」


※――“大霊” the Great Spiritを使用しても“神” Godを使用しても、二度目からは男性代名詞の“彼” “彼の” “彼を”He His Himを使用していることを言っている。

「こうして私たちが問題をたずさえてあなたのもと(交霊会)へ来るように、あなたの世界でも相談に行かれる場所があるのでしょうか」


「上層界へ行けば、わたしよりはるかに叡智を身につけられた方がいらっしゃいます」

「こうした交霊会と同じものを催されるのですか」


「わたしたちにも助言者や指導者がいます」

「やはり入神して行うのですか」


「プロセスは地上の入神とまったく同じではありませんが、やはりバイブレーションの低下、すなわち高い波長をわたしたちにとって適切な波長に下げたり光輝を和らげたりして、ラクにしてくださいます。一種の霊媒現象です。こうしたことが宇宙のあらゆる界層において段階的に行われていることを念頭においてくだされば、上には上があって、“ヤコブのはしご”には無限の段がついていることがおわかりでしょう。その一番上の段と一番下の段は、誰にも見えません」

「霊媒を通じて語りかけてくる霊は、われわれが受ける感じほどに実際に身近な存在なのでしょうか。それとも、霊媒の潜在意識も考慮に入れなければならないのでしょうか。そんなに簡単に話せるものなのでしょうか。私の感じとしては、想像しているほど身近な存在ではないような気がしています。少し簡単すぎます」


「何が簡単すぎるのでしょうか」

「思っているほど身近な存在であるとは思えないのです。多くの霊媒の交霊会に出席すればするほど、しゃべっているのは霊本人ではないように思えてきます。時にはまったく本人ではない――単にそれらしい印象を与えているだけと思えるものがあります」


「霊が実在する――このことを疑っておられるわけではないでしょうね? 次に、わたしたち霊にも個性がある――このことにも疑問の余地はありませんね? では、わたしたちは一体誰か――この問題になると、意見が分かれます。そもそも“同一性(アイデンティー)”とは何を基準にするかという点で、理解の仕方が異なるからです。わたし個人としては、地上の両親がつける名前は問題にしません。名前と当人との間には、ある種の相違点があるからです。

では一体わたしたちは何者なのかという問題ですが、これまた、アイデンティティーを何を基準にするかによります。ご存知のとおり、わたしはインディアンの身体を使用しておりますが(※)、インディアンではありません。こういう方法が一番わたし自身をうまく表現できるからそうしているまでです。このように、背後霊の存在そのものには問題の余地はないにしても、物質への霊の働きかけの問題は実に複雑であり、通信に影響を及ぼし内容を変えてしまうほどの、さまざまな出来事が生じております。




※――地上とコンタクトするための“変圧器”のような役目をしているインディアンのことで、言わば霊界の霊媒である。ふだんは一応これをシルバーバーチということにしており、“祈り”の末尾でも“あなたの僕インディアンの祈りを捧げます”と述べているが、“わたし”と言っている一番奥の通信霊が誰であるかは、“いつかは明かす日も来るでしょう”と言いつつ、六十年間、ついに明かされることはなかった。


通信がどれだけ伝わるか――その内容と分量は、そうしたさまざまな要素によって違ってきます。まして、ふだんの生活における“導き”の問題は簡単には片づけられません。なぜかと言えば、人間はその時点での自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には、叶えてあげる必要がまったくないものがあるからです。一番良い導きは、本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合が、しばしばあるのです。

この問題は要約して片づけられる性質のものではありません。意識の程度の問題がからんでいるからです。大変な問題なのです。わたしはよく人間の祈りを聞いてみることがありますが、要望に応(こた)えてあげたい気持ちは山々でも、そばに立って見つめているしかないことがあります。時にはわたしの方が耐え切れなくて、何とかしてあげようと思って行動に移りかけると、“捨ておけ!”という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画の枠の中で行動する約束ができている以上、わたしの私情は許されないのです。

この問題は容易ではないと申しましたが、それは困難なことばかりだという意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ、理解しておいていただきたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが、わたしたちから見れば光(幸せ)であることがあり、人間にとって光であるように思えることが、わたしたちから見れば影であることがあるということです。

人間にとって青天のように思えることが、わたしたちから見れば嵐の予兆であり、人間にとって静けさに思えることが、わたしたちから見れば騒音であり、人間にとって騒音に思えることが、わたしたちから見れば静けさであることがあるものです。

あなた方が実在と思っておられることは、わたしたちにとっては実在ではないのです。お互いに同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ、支配されております。霊の目で見ることができないために、つい、現状への不平や不満を口にされます。わたしはそのことを咎(とが)める気にはなれません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることはできないのです。

わたしたちスピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこのわたしがまっ先に認めます。やりたいことが何でもできるとは限らないことは否定しません。しかし、そのことは、わたしたちがあなた方の心臓の鼓動と同じくらい身近な存在であるという事実とは、まったく別の問題です。あなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤ、それ以上に、わたしたちはあなた方の身近な存在です。

わたしの愛の活動範囲にある方々は、わたしたちの世界の霊と霊との関係と同じく、わたしと親密な関係にあります。それを物的な現象によってお見せできないわけではありませんが、いつでもというわけにはまいりません。霊的な理解(悟り)という形でもできます。が、これまた、人間としてやむを得ないことですが、そういう霊的高揚を体験するチャンスというものは、そう滅多にあるものではありません。そのことを咎めるつもりはありません。これから目指すべき進歩の指標がそこにあるということです。

あなたのご意見は、ちょっと聞くと正しいように思えますが、近視眼的であり、すべての事実に通暁しておられない方の意見です。とは言え、わたしたち霊界からの指導者は常に寛大な態度で臨まねばなりません。教師は生徒の述べることに一つ一つ耳を貸してあげないといけません。意見を述べるという行為そのものが、意見の正しい正しくないに関係なく、魂が成長しようとしていることの指標だからです。

まじめな意見であれば、わたしたちはどんなことにも腹は立てませんから、少しもご心配には及びません。大いに歓迎します。どなたがどんなことをおっしゃろうと、またどんなことをなさろうと、みなさんに対するわたしの愛の心がいささかでも減る気づかいはいりません」

「私たちも、あなたに対して同じ気持ちを抱いております。要は求道心の問題に帰着するようです」


「今わたしが申し上げたことに、批判がましい気持ちはみじんも含まれておりません。われわれはみんな大霊であると同時に人間でもあります。非常に混み入った存在――一見すると単純のようで、奥の深い存在です。魂というものは開発されるほど単純さを増しますが、同時に奥行きを増します。単純さと深遠さは、同じ一本の棒の両端です。作用と反作用は、科学的にいっても正反対であると同時に同一物です。

進歩は容易には得られません。もともと容易に得られるようになっていないのです。われわれはお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識という杖が、困難に際して支えになってくれます。その杖にすがることです。霊的知識という杖です。それを失っては進化の旅は続けられません」

「私たちはあまりに霊的知識が身近すぎて、かえってその大切さを見失いがちであるように思います」


「わたしは、常づね二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み入る時は、その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。それからもう一つは、つねに理性を忘れないようにということです。理性による合理的判断力は大霊からの授かりものです。

あなたにとっての合理性の基準にそぐわないものは、遠慮なく拒否なさることです。理性も各自の成長度というものがあり、成長した分だけ判断の基準も高まるのです。一見すると矛盾しているかに思える言葉がいろいろとありますが、このテーマもその一つであり、一種の自家撞着(パラドックス)を含んでおります。が、パラドックスは真理の表象でもあるのです。

理性が不満を覚えて質問なさる――それをわたしは少しも咎めません。むしろ結構なこととして、うれしく思うくらいです。疑問を質(ただ)そうとすることは魂が活動していることの証拠であり、わたしにとってそれは喜びの源泉だからです。

さて、わたしは何とか皆さんのご質問にお答えできたと思うのですが、いかがでしょうか」

そう述べてから、その日の中心的質問者だった、かつてメソジスト派の牧師だった人の方を向いて、笑顔でこう述べた。


「いかがでしょう、わたしの答案用紙に“思いやりあり”“人間愛に富む”とでも書き込んでくださいますか?」

祈り

気弱さと煩悩の最中にあるとき……


ああ、大霊よ。あなたは、形態のいかんを問わず、全生命の創造主にあらせられます。あなたの摂理は全生命を支える無限なる摂理であり、あなたの計画は宇宙の生命活動の全側面に配慮した完璧なる計画であり、そのすべてをあなたの愛が育(はぐく)んでいるのでございます。

幾百億という数知れない生命現象をみせるこの宇宙にあっても、あなたの摂理が認知しないものは何一つございません。その存在の扶養と維持と管理にとって不可欠のものは、すべて用意されております。各側面が全体の一部としての機能を果たしつつ、宇宙が一大調和体として活動するための手段も、すべて用意されているのでございます。

その不変・不易にして絶対的な支配力を有する摂理に対して、わたしどもは深甚なる敬意を表します。なぜなら、この果てしなき宇宙にあっても、その摂理の範囲を超えて、いかなる事態も生じ得ないことを知っているからでございます。

わたしどもは、そうした摂理が存在することの意義についてのより深い理解を、あなたの子等にも得さしめたいと念願するものでございます。その摂理の理解によって、自己の存在の目的とあなたとのつながりをより鮮明に認識し、この霊的宇宙機構の中での自己の果たすべき役割を知ることになるからでございます。

それと同時にわたしどもは、あなたの霊性――意識を有し、呼吸し、思考し、生きていることの根源である霊性が子等のすべてに内在しており、それこそが本当の実在であることを知らしめたいのでございます。

あなたによって用意された自我の深奥を知り、あなたとの霊的な絆を理解すれば、子等も内なる霊力を発揮できることになります。それは波涛のごとく湧き出て、あなたの顕現をより大きなものとすることでございましょう。

かくして各自の霊的資質がより大きく発揮され、明るさを増したイルミネーションが生活の中にみなぎり、それまで真理を見る目を曇らされていた暗闇を取り除いてくれることでございましょう。

わたしたちは、援助を必要とする者すべてに手を差しのべ、彼らを悩ます問題のすべてに解決をもたらす知識と悟りの道へ導き、気弱さと煩悶の最中にあるときに元気づけてくれる力を与え、あなたが常に彼らとともにおられることを知らしめてあげたいと祈るものです。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Tuesday, August 5, 2025

シアトルの夏 第Ⅰ巻 霊 訓  ステイントン・モーゼス

十五 節
スピリチュアリズムの宗教性──絶対的真理は存在せず──〝最後の審判〟は無し──罪はそれ自らの中に罰を含み、犯した瞬間より責任を求める──キリスト教的天国地獄観を論駁──交霊現象に関する誤解を正す──悪とは──スピリチュアリズムは地球規模の啓示



 〔こうした議論がその後も非常な迫力と強力な影響力のもとに、殆ど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたこの影響力がいかに崇高にして強烈なものであったか──それを正しく伝えることは拙い私の筆ではとても出来ない。〕


『スピリチュアリズムの宗教的教訓』

 汝はわれらの教説が理神論であるか、純粋なる有神論であるか、はては無神論ではないかとまで問うている。普段の思考においては正確にして知識に事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく汝らの無知の見本を見る思いがする。

全ての人間の心に通じる神、いかに堕落せる人間の魂でさえ感応し得るところの神の存在を否定せんとする、その侘しきかぎりの不毛なる思想について、われらはもはや言うべき言葉を知らぬ。人間が自らの目を被い隠すことをするものであることを万一知らずにおれば、われらは汝らが一体何故にかくも愚かなることを考えるのか理解に苦しむところであろう。

 疑いもなくわれらは全ての存在を支配する絶対神の存在を説く。それは、人間が勝手に想像せるが如き気まぐれな顕現の仕方はせぬ。

人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされて来た存在───もっと厳密に言うならば、人間の心の中に神の概念とその働きについての、より真実に近き見解を植えつけんとして働きかけてきた存在である。

イエスと同様われらは宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純なる神を説く。人間の想像するが如き人格を持たぬ神ではなく、真の意味における父なる存在である。エネルギーの化身でも具現でもない。真に生ける実在である。ただしその存在の本質と属性はその働きと汝らの心の中に描ける概念としてしか捉えることは出来ぬ。

汝の抱ける概念の中より全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつまた、差し当たって問題とするに当たらぬ神学的教説を一応残しつつ、われらは神について以上の如く説いてきたのである。

 われらの教説を読みてそこに絶対的真理が見られぬと汝が言うのであれば、われらはむしろ、われらがそこまで理解して貰えるに至ったことを有難く思う次第である。

絶対的完全性が有り得ぬ如く、今の汝の未完成の状態においては絶対的真理などというものは望むべきもない。汝はまさか、最高級の霊にしてもなお目を眩(くら)まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届け得ることを期待はすまい。

限りあるその精神でまさか無限なるもの、不可知なるもの───地上より遥かに掛け離れたわれらにとってもなお、遠くより拝(おうが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が理解できるとは期待すまい。万一できると思うとすれば、それこそ汝の置かれたる発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかない。

汝にとって真理はまだ断片的であり、決して全体像を捉え得るものではなく、また細目まで行き亙ることは叶わず、あくまでベールを通して大まかなる輪郭を垣間見る程度に過ぎぬ。われらとしても決して真理の全てを汝に啓示しようなどとは思いも寄らぬ。

われら自らがまだまだ無知であり、神秘のベールに被われたる多くのものを少しでも深く理解せんと願っているものである。われらに為し得ることは精々その神の概念───これまで汝らが絶対的啓示と思い込みたる概念よりは幾分か真理に近きものを仄(ほの)めかす程度に過ぎぬ。

 これまでのところわれらは、汝が筋の通れる美しく崇高なるものと認め、かつ汝の精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功した。それ以上のものを求めようとは思わぬ。われらは崇拝と敬意の対象としての神を啓示した。

神と人類と汝自身に対する合理的かつ包括的義務を披露した。道徳的規範として、汝の聞き慣れた天国と地獄説による脅しの説教ではなく、無理強いせず自然に理解せしめる性質の見解を確立した。

 われらの教説を目的なき宗教と言うに至りては、理解に苦しむ誤解と言うほかはない。地上生活というこの種子蒔(たねま)きの一つ一つの行為がそれ相当の実りをもたらすとの訓え───悪と知りつつ犯せる故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならぬという訓え───過ちを犯せる魂が曾ての己の過ち故にもたらせる〝縺(もつ)れ〟を必ず自らの手で解(ほど)かねばならぬとの教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説と言うのであろうか。

 われらは、人間の言動は池に投げ入れられた小石の如く、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には最後まで自分が責任を負わねばならぬこと、故に一つの言葉、一つの行為には、その結果と影響とに計り知れぬ重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐の源泉となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨の内に責任を取らされると説くのであるが、これが果たして下らぬ教説であろうか。

 またその賞罰は遥か遠き未来の死にも似たる休眠状態の末まで延ばされるのではなく①、因果律の法則によってその行為の直後より始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのであるが、これも愚にもつかぬ言説であろうか。

 これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならぬであろうか。そうしたわれらの教説と、汝らの信じる教説、すなわち己の思いのままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒瀆し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずかし)めた人物が、たった一度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場限りの精神的変化によって、

眠気を催すが如き天国への資格を獲得するとの汝らの説、しかもその天国での唯一の楽しみが魂の本性が忌々しく思う筈のものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よき仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘ってくれるであろうか。

堕落せる魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によって知られる知られぬに係わりなく、いつかは悔い改めねばならぬ時が来ること、そして他力ではなく、自力で償わねばならぬこと、そうなることによって少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえぬとの訓えであろうか。

それとも、何をしようと天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか一度の叫び声によって魔法の如く魂が清められ、遠き未来に訪れる審判の日を経て神の御前に召され、そこにて退屈この上なく思う筈の礼拝三昧の生活を送るとの教えの方であろうか。

 このいずれが人間の理性と判断力に訴えるか。どちらが罪を抑制し、さ迷えるものを確実に正義の道に誘うか。それはわれらと同様、汝にも明々白々である。なのに汝はわれらの説くところが断固たるものを曖昧なるものに、確固たる賞罰の体系を何の特色もなきものに置きかえんとするものであると言う。

否! 否! われらこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしの如き天国や残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはせぬ。

汝らはいつのことやも知れぬ遠き未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の人間でさえも、その者自身理解も信仰も有難味も見出し得ぬ教義に合意すれば、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得ると説く。

 敢えて言おう。われらの説く信仰の方が遥かに罪を抑圧すべく計算され、人間に受け入れ易く説かれている。人間の死後について遥かに合理的な希望を与え、人類史上かつて無き現実性に富む包括的信仰を説いている。繰り返すが、これぞ神の訓えである。

神の啓示として汝に授けられているのである。われらはこれが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待せぬ。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢が出来ぬかぎり、それは叶わぬことである。その時節の到来をわれらは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。

いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間は曾ての如きケチくさき救済を当てにせるが故の罪を犯すことも減り、より知的にして合理的来世観によって導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいて動機の源は、甘き天国と恐ろしき地獄などというケチくさき体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言する。

子供騙しの地獄極楽説は、これをまともに考察すれば呆気なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠なき、非合理にして愚劣なるものとして、灰塵に帰されることであろう。


〔相対的に観てスピリチュアリズムの影響は好ましくない───少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して一八七三年七月十日に次のような回答が届けられた───〕






 その点についてわれらも述べたいことが多々ある。これより汝の陥れる誤解を解き明かすべく努力してみたく思う。まず第一に汝は人間の宿命とも言うべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その汝の目に映りたる限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムの全てであると思い込んでいる。

その点において汝は、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムの全てであると見なす一部の連中と同類である。

見よ、彼らは結果によってのみ知らるべき静かなる流れがその見えざる底流を音もなく進行していることに気づかぬ。汝の耳に入るのは騒々しき無秩序なる連中のみである。さして多くはないが、よく目立つのである。

汝が世の中を再生せしむるのはそうした連中ではあり得ぬと言うのはもっともなのである。汝の知性はそうした無責任なる言説にしりごみし、果たして斯くの如き近寄り難きものが神のものであり、善の味方であろうかと訝(いぶか)るのであるが、実は汝の目にはそうした一部のみが目に入り、しかもその一部についても明確に理解しているとは言えぬ。


そうした連中にも彼らなりに必要なる要素が幾つかあり、それが彼らにとって最も理解し易き手段にて神より授けられている───そうした表に出ぬ静かなる支持者たちの存在については汝は何も知らぬ。汝の視界に入らぬのである。

入らぬのであるが、しかし現に汝のまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに彼らもまた霊界よりこのスピリチュアリズム普及のために一役買う日が来るのを待ちうけているのである。

 かくの如く汝は一方に喧噪、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会のゆえに狭隘なる見解しか持ち得ず、およそ見本とは言えぬ小さき断片をもって全体と思い違いをしている。これよりわれらは、汝が下せるスピリチュアリズムの影響につきての結論を細かく取り挙げたく思う。そして同時に、汝にはその究極の問題について断定的意見を述べる立場にないことを指摘したく思う。

 と申すのも、一体真理とは何かということである。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず他のすべての分野においても、不偏平等である。地上には善と悪とが混在している。平凡なる霊にて事足りる仕事に偉大なる霊を派遣するが如き愚を神はなさらぬ。

未発達の地縛霊の説得に神々しき高級霊を当てたりはなさらぬ。絶対になさらぬ。自然界の成り行きにはそれ相当の原因がある。巨大な原因から無意味なる結果が出るようなことはない。霊的関係においても同じことである。知能程度が低く、その求むるところが幼稚にして高きものを求めようとせぬ魂の持ち主には、その種の者に最も接触し易き霊が割り当てられる。

彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟なる知性に訴えるために物理的手段を講ずる。精神的・霊的に無教養で未発達なる者には、その程度に応じた最も分かり易き言葉によって語りかける。死後の生活の存在を得心させるためには目に映ずる手段を必要とする者がかなり、いや、大勢いるのである。

 この種の人間は、高き天使の声───いつの時代においてもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高なる霊の声───によりて導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち───その欲求と精神的性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に最も訴え、最も受け入れ易き証を提供することの出来る霊によりて導かれる。

さらに心得ておくべきことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることである。本来進歩性に富める魂も、その宿れる肉体によって進歩を阻害され、歪める精神的教育によって拘束を受けることもあり得る。

同じ啓示が全ての魂の耳に届くとはかぎらぬ。同じ証が全ての魂の目に見えるとはかぎらぬ。肉体的性向を精神的発達の欠陥によって地上生活における発達を阻害された霊が死後その不利な条件が取り除かれてのち、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくないのである。

 というのも、本性は魔法の杖にて一度に変えるというわけにはいかぬものなのである。性癖というものは徐々に改められ、一歩一歩向上するものなのである。故に生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後の絶え間なく教養を積める者の目には、当然のことながら、無教養にして無修養の者のために用意せる手段はあまりに粗野にして愚劣に映ずるであろう。否、その前に彼らが問題とせるものそれ自体が無意味に思えるであろう。

その声は耳障りであろう。その熱意は分別に欠けるであろう。が、彼らは彼らなりにその本性が他愛なき唯物主義、あるいはそれ以上に救いがたき無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感ずる新たな視野に一種の情熱さえ覚えるようになる。

彼らの洩らす喜びの叫びはアカ抜けはせぬが、彼らなりに真実の喜びである。汝の耳には不愉快に響くかも知れぬが、父なる神の耳には、親を棄てて家出せる息子が戻って発する喜びの声にも劣らず、心地よきものである。その声には真実が籠っている。

その真実の声こそわれらの、そして神の、期待するところである。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われらの耳には届かぬ。

 かくの如く、霊的に未発達なる者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではない。それでは無駄に終わるのである。まず霊的事象に目を向けさせ、それを霊的に鑑識するように指導する。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのである。

物理的演出については汝もすでに馴染んでおろう。そして、そうした物的手段の不要となる日も決して来ぬであろう。いつの時代にもそうした手段によって霊的真理に目覚める者がいるからである。目的にはそれなりの手段を選ばねばならぬ。

そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く視野の狭き者である。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことである。それはあくまで手段に過ぎぬ。霊的発達への足掛かりとして意図され、或る者にとっては価値ある不可欠の手段なのである。

 そこでわれらはこれより、汝が腹に据えかねている右の例以上に顕著なる例、すなわち、粗野にして無教養なる未発達霊の仕業について述べるとするが、汝にとって左程までに耳障りにして、その行為に不快を覚えさせる霊を汝は〝悪〟の声であると想像しているようであるが、果たして如何(いかが)なものであろうか。

 悪の問題についてはすでに取り挙げたが、また改めて説くこともあろう。が、ここでわれらは躊躇なく断言するが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いては、大抵の場合、汝の想像するが如き悪の仕業ではない。

 悲しい哉、悪は多い。そして善に敵対する者が一掃され勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはあるまい。故にわれらは、決してわれらと汝を取り巻く危険性を否定も軽視もせぬ。が、それは汝が想像するようなものではない。見た目に常軌を逸する者、垢抜けせぬもの、粗野なるものが必ずしも不健全とは言えぬ。

そうした観方は途方もない了簡違いと言うべきである。真に不健全なるものはそう多くは存在せぬ。むしろ汝らの気付かぬところに真の悪が潜むものである。霊的にはまだ未熟とは言え、真剣に道を求むる者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上はこの地上における精神的、身体的、霊的発達にかかっていることを理解しつつある。

それ故彼らは身体を大切にする。酒浸りの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控える。そしてその熱意のあまり同じことを全ての者に強要する。彼らは人それぞれに個人差があることまでは気が回らぬ。そして往々にしてその熱意が分別を凌駕してしまうのである。

しかも、洗練された者に反撥を覚えさせるそうした不条理さと誇大なる言説をふり回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され身体は肉欲に汚され道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも霊的に不健全であろうか。

そうではないことは汝にも判るであろう。前者は、少なくとも己の義務と信念とに目覚め必死に生きている。今や曾ての希望も目的もなき人間とはわけが違う。死者の中より蘇ったのである。その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのである。

その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補いて余りあるではないか。その叫びは確信の声であり、死にも譬えるべき無気力より目覚めた魂の叫びなのである。

それは生半可なる信仰しか持たぬ者が、紋切り型の眠気を催すキザな言い回しで化粧し、さらには〝ささやき〟程度のものでも世間に不人気なものは避けんと苦心するお上品ぶりよりも遥かにわれらにとりて、そして神にとりて、価値あるものである。

何となればそれは新たに勝ち得た確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われらの使命にとりても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかぬのである。

 汝は俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬという。断言するが、汝の意見は見当ちがいである。適確さと上品さには欠けるが、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他の何ものよりも大衆に訴える力がある。

野蛮なる投石器によって勢いよく放たれた荒削りの石の方が、打算から慣習に迎合し体裁を繕いたる教養人の言説よりもよほど説得力がある。荒削りであるからこそ役に立つのである。現実味のある物的現象を扱うからこそ、形至上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのである。

 霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。〝物〟にしか反応を示さぬ唯物主義者には物的法則を超越せる目に見えぬ力の存在の証拠を提供する。固苦しき哲理よりも、肉身の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦み合いの生活への信念を培う。

筋の通れる論証の過程を経なければ得心できぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素を持つ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神聖の秘奥と人間の宿命についての啓示を垂れさせる。

かくの如く人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されてきたのである。

 今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き単なる見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムに他ならぬ。が、実はそれだけと見なすのも片手落ちである。

汝にとって、そしてまた汝と同じ観点より眺める者にとってはそれで良いかも知れぬ。が、他方には意識の程度の低き者、苦しみに喘ぐ者、悲しみに打ちひしがれし者、無知なる者がいる。彼らにとってはスピリチュアリズムはまた別個の意味を持つ。

それは死後における肉身との再会の保障であり、言うなれば個人的慰安である。実質的には五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋である。肉体を捨てた者も肉体に宿れる者と同様に、その発達程度はさまざまである。そこで、地上の未熟なる人間には霊界のほぼ同程度の霊があてがわれる。

故にひと口にスピリチュアリズムの現象と言うも、程度と質とを異にする種々さまざまなものが演出されることになる。底辺の沈殿物が表面に浮き上がることもあり、それのみを見る者には奥で密かに進行しているものが見えぬということにもなる。

 今こそ汝にも得心がいくであろうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生する〝しるし〟を見れば、それが決してわれらの運動のみに限られたものとの誤解に陥ることもあるまい。

それは人間の魂をゆさぶる全てのものに共通する、人間本来の性分が要求するのである。

イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせぬ要素であった。

人類の歴史において新しき時代が画されるときにはかならず付随して発生し、そして今まさに霊的知識の発達にもそれが付随しているのである。が、それをもって神の働きかけの全てであると受け取ってはならぬ。政治的暴動がその時代の政治的理念の全てではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれらの仕事の見本と考えてはならぬ。

 常に分別を働かせねばならぬ。その渦中に置かれた者にとっては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今汝を取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。

 汝の提示せる問題についてはいずれまたの機会に述べるとしよう。此の度はひとまずこれにて───さらばである。
                          ♰ イムペレーター




〔註〕
(1) 死者はこの世の終わりに神が下す最後の審判の日まで休眠状態におかれるとのキリスト教の信仰を指す。