著者の不満と要望──拒絶とその理由──これまでの霊訓の復習──著者に反省を求めるために霊団の一時総引上げを示唆──数学的正確さをもつ証拠は提供不可能──キリストの〝父と私は一つである〟の真意──著者の旅行先での霊信──性急な要求は事を損ねる──猜疑心の及ぼす影響──著者の忍耐と理性的判断を重ねて要請
〔思うに、私がこうして執拗に霊信に反撥しているのを知友たちはさぞかし満足に思っていたことであろう。しかし私としては激しく私の魂を揺さぶるこの不思議な通信を徹底的に究明すること以外に、それに忠実な道が見出せなかったというに過ぎない。私はどうしても得心がいかないし、得心できぬままでいることも出来なかった。
そこで再び論争を挑んだ。イムペレーターの通信が終わると私はそれを細かく読み、二日後(一八七三年七月十四日)にその中にどうしても受け入れかねる点について反論した。それは次の三点であった。
(一)イムペレーターの地上時代の身元、(二)イエス・キリストの本質と使命、(三)通信の内容の真実性を示す証拠。私のこの三点について私以外の霊媒を通じて通信するよう要求し、その霊媒を指定しようと思うがどうかと述べた。
同時にこれまででの通信の内容について、いろいろと反論したが、それは今ここで取り挙げるほどのものではない。とにかく、私はその時点での私の確信を正直に表明したが、今にして思えば私の反論は不十分な知識の上で為されていたことが判る。
それはその後順次解決されていき、解決されていないものもやがて解決されるであろうとの確信がもてるまでになった。そうは言っても当時の私の心境はおよそ満足といえるものからは程遠く、私は忌憚なくその不満を打ち明けた。以下がそれに対する回答である──〕
友よ。汝の述べることには素直さと明快さが窺えて喜ばしく思う。もっとも汝はわれらの述べることにそれが欠けていると非難するが・・・・・・。汝の(われらの身元についての)要求については、汝がそう要求する心境は判らぬでもないが、それに応ずるわけにはいかぬし、たとえ応じても何の益にもならぬ。
申し添えるが、汝の要求の全てにわれらがすぐに応じぬからとて、われらの側に汝に満足を与える意志がないわけでは決してない。われらとて汝の心に確信を植えつけんと切に願っている。がそうするためにはわれらの側にもその手段と時期に条件がある。
計画の一部たりとも阻害され、あるいは遅延のやむなきに至ることは、われらにとってこの上なく残念なことであり遺憾に思う。汝にとってもわれらにとっても残念なことである。が結果としてこうなった以上は致し方あるまい。われらとて全能ではない。
これまで通りの論議と証言の過程による以外に対処する手段はないのである。その論議も証言も今のところ汝の心に得心がいかぬとみえる。ということは、汝にそれを受け入れる備えが出来ておらぬということと観て、われらはそれが素直に汝の心に安住の地を見いだす日を忍耐強く待つとしよう。
汝の提出する疑問についてはその殆どに答える必要を認めぬ。現時点にて必要とみたものについてはすでに回答を与えてあるからである。すでに回答を与えたものについて改めて述べても意味があるとは思えぬ。
単なる見解の相違の問題について深入りするのは無意味であろう。われらの述べたるところがこれまでのわれらの言動に照らしてみて、果たして一致するか否かといったことは些細な問題である。汝の今の心境はそうした問題について冷静なる判断を下せる状態ではない。
また、いわゆるスピリチュアリズムなる思想が究極においてわれらの言う通りのものとなるか、それとも汝が主張する如きものとなるかは、これまたどうでもよい問題である。
われらはその問題については一段と高き視野に立って考察しており、それは今の汝には理解の及ばぬところである。汝の視野は限られており、それに比してわれらは遥かに広き視野のもとに眺めている。また汝がわれらの訓えをキリスト教の論理的展開の一つと見るか否かも取るに足らぬ問題である。その道徳的崇高性は汝も認めている。
その論理的根拠についてはここで論ずる必要を認めぬ。汝が信じようが信じまいが、地上人類が絶対必要としているものであり、汝が受け入れるか否かに関わりなく、遅かれ早かれ感謝の念をもって人類に受け入れられていく訓えである。汝がわれらの存在を認め、その布教に手を貸す貸さぬにお構いなく、きっと普及していく訓えである。
われらとしては、汝のことを良き霊媒を得たと喜んでいた。そして今もそう思っている。何となれば、今の汝の混乱する心境は一時的な過程に過ぎず、やがて疑うだけ疑った暁に生まれる確信へと変わっていくことであろう。
が、万一そうではなく汝が失敗したとなれば、われらは再び神の命令を仰ぎ、われらに託されたる使命達成のために新たなる手段を見出さねばならぬことになる。もっとも霊媒はわれらの究極の目的にとって必ず不可欠というものでもない。が使用する以上は良き霊媒であることが望ましい。
われらがこの上なく嘆かわしく思うのは、汝が汝自身にとっても啓発と向上の絶好の手段となるべきものを無視せんとする態度に出ていることである。が、それもわれらの手の及ぶところではない。
自由意志による判断に基づきて汝があくまで拒否すると言うのであれば、われらとしてはその決断を尊重し、汝が精神的にわれらの提供せるものを受け入れる用意のなかったことを残念に思うほかあるまい。
われらの身元についてであるが、汝の要求するが如き押しつけがましき方法で証明せんとすることは無益というより、徒に混迷を大きくするのみであろう。
そのような試みは結局は失敗に終わることであろう。そして絶対的確信を得ることは出来ぬであろう。間接的証拠ならば折々提供していくことも出来ぬではない。好機があればその機を利用するに吝(やぶさ)かではない。われらとの縁が長びけば、それだけそうした機会も多く、証拠も多く蓄積されていくことであろう。
が、わららの教説はそのようなもので価値を増すものではない。そのような実態なき基盤の上に成り立つものではない。そのような証拠では〝時〟の試練には耐え切れぬであろう。われらは精神的基盤の上に訴えるものである。地上的なものでは、一時的にしておよそ得心のいくものでないことを汝もそのうち悟る日がくることを断言しておく。
とは言え、今の汝の精神状態は得心のいく証拠を要求できる状態ではない。われらは神の味方か、それとも悪魔か、そのいずれかであろう。もしもわれらが自ら公言している如く、神の味方であるとすれば、汝が言うが如き、世間から嘲笑をもって受け止められるような言説をわざわざでっち上げる気遣いはあるまい。
が、もしもわれらが汝の思いたがるように悪魔の手先であれば、その悪魔の述べる言説が明らかに崇高な神性を帯びているのは何故か、汝自ら問い直してみるがよかろう。
われらとしては、このような問題にこれ以上関わろうとは思わぬ。これまでわれらが述べてきたところを正しく吟味検討してくれさえすれば、それが悪魔の言葉と結論づけられる気遣いは毛頭ない。関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではない。
われら自身のことはどうでも良いことである。大事なのは神の仕事であり、神の真理である。今の汝にとって最も大事な問題は汝自身のことであり、汝の未来のことである。
そのことを時間をかけてじっくり考え、とくと反省するがよい。汝を中心として得られた啓示の顕れ方がいささか急激に過ぎ、目を眩ませたようである。言いたいことも多々あろうが、今は黙して真摯に、そして厳粛に熟考するがよい。
われらも暫し身を引き、汝にその沈思黙考に耽る余裕を与えたく思う。と言うことは汝を一人置き去りにすると言うことではない。より一層の警戒心を持つ複数の守護の霊と、より経験豊かなる同じく複数の指導の霊が汝のそばに待機するであろう。
その方がわれらにとっても得策であるように思う。と言うのも、事態がかくの如くなった以上は、果たしてこれより後もこの仕事を続行すべきや否や、それともこれまでの努力が無駄であったとして改めて仕事を始めからやり直すべきや否やを〝時〟が判断してくれるかも知れぬからである。
いずれにせよ、これほど多くの努力と、これほど多くの祈りを傾注せる仕事が実を結ぶことなく地に落ちるとは、何とも悲しき失望であることには相違なかろう。しかし、われらも汝もあくまで内に宿せる道義の光に照らして行動せねばならぬ。
これまでの経緯に関するかぎり責任はすべてわれらの側にある。故にわれらは問題を解決すべく何らかの手を打たねばならぬ。これまでより一層多くの祈りを、一層の熱意を込めて汝に送るとしよう。きっと一層の効果を上げるであろうことを確信する。
では、これにてさらばである。神の加護と導きのあらんことを。
♰イムペレーター
〔このあと私は数回に亙って通信を試みた。また始めに示唆した通りに、一面識もない霊媒のところへ行ってみた。そして私の背後霊についての情報、とくにイムペレーターの身元の確認を得ようと、出来るかぎりのことを試みた。が、無駄だった。得られた情報は、私についている霊は ZOUD と名のるロシア人の歴史家だということだけだった。帰宅すると私はさっそくそのことを書いて通信を求めた。すると、その霊媒の述べたことは間違いであると断言してからこう綴った①───〕
われわれとしては、そのような霊言を信じることはとても勧められない。信頼が置けないからである。われわれの忠告を無視して一面識もない、しかもわれわれと何の協力関係もない霊たちと通信を試みれば、信のおけぬ通信を受け取り事態をますます混乱させることになろう。
〔この忠告にも私は強く反撥し、あの機会を利用してくれておれば私の合理的要求を満たすことは容易に出来たはずだと述べた。すると同じ霊が───〕
それは違う。われわれとしても満足を与えたい気持ちは山々である。が、あの会場への出現は(イムペレーターから)止められたのである。しかもわれわれは汝の出席は阻止できなかった。あのような体験は今の汝には毒になるばかりである。
禍いを招くことにしかならぬ故に今後一切あのような招霊会には出席せぬよう厳重に忠告しておく。いま必要なことは耐えることである。性急に無理強いすることは徒にわれわれにとって迷惑と困惑を生じさせるのみである。それよりも静かに心を休め、待つことの方が遥かによい。全てイムペレーターが良きに計らって下さる。早まった行動は誤りのもとである。
───しかし(と私は反抗的に述べた)あなたたちこそグルになって私を迷わせているようにしか思えません。私の要求には何一つ応じられないというのですか。
友よ。汝の要求するが如き数学的とも言うべき正確なる証拠は、得ようとしても所詮無理である。われらとしても、汝の求むる通りのものを授けることは出来ぬ。たとえ出来たとしても、それが汝にとって益になるとは思えぬ。全てはわれらの側にて良きに計らってある。
〔これはイムペレーターである。私はとても気持ちが治まらないので、やむなく通信を一たん中止した。そして七月二十四日に神学上の問題について幾つかの質問を提出した。
その一つは例の「私と父は一つである」②という有名な文句に言及したものだった。以前、霊言による対話の中で私は、イムペレーターの言説がこの文句と相容れないものであることを主張したことがあったのである。そういう経緯もあって質問することになったのであるが、それに対してこう回答してきた───〕
汝の引用せる文句は前後の脈絡の中において理解せねばならぬ。その時イエスはエルサレムでハヌカー祭③に出席していた。その折そこに集まれる民衆が〝もしあなたがキリスト神だと言うのであれば、その明確な証を見せてほしい〟とイエスに迫った。
彼らは今の汝と同様に疑念を晴らすための何らかの〝しるし〟を求めたのである。そこでイエスはわれらと同じく、自分の説く訓えとその訓えによってもたらされる業(わざ)の中に神のしるしを見てほしいと述べた。
またそれを理解する備えのある者───イエスの言う〝父のひつじたち〟───はその訓えの中に父の声を聞き、それに答えたも同然であると述べた。
が質問者たちはそのような回答を受け入れることが出来なかった。なぜなら、彼らにはそれが理解できず、信じる心の準備が出来ていなかったからである。備えある者はイエスの言葉に従って永遠なる生命と進歩と生き甲斐を得た。それこそが神の意図するところであり、誰もそれを妨げることは出来ぬ。
彼らは父のもとに預けられたのであり、彼のみならず、人類の全てに新たなる息吹を吹き込んだのである。すなわち、父なる神と、その真理の教師たるイエスが一体となった───「私と父は一つである。」
イエスはそう述べたのである。がそのユダヤ人たちはそれを神の名誉を奪うものであるとして非難のつぶてを投げつけた。しかし、イエスの弁明は正しかった。どう正しかったか。己の神性を認め、神の子であることを弁明した点において正しかったのである。
それが余にも弁明できるかとな? それは出来ぬ。がその心に陰日向の一かけらもなきイエスは、その非難に驚き、こう聞き返した───一体自分の行える奇跡のどれをもって非難するのかと。非難者たちは答えた。奇跡のことを非難しているのではない。完全な神と一体であるなどと公言するその傲慢不遜の態度を非難するのであると。
そう言われたイエスはこれを無視して取り合わなかった。なぜか。聖書にもある如く、イエスは自分と神とが一体であるとの言葉を霊性に目覚めた者すべてに適用し、「あなたたちも神である」と述べていたからである。
ならばイエスほどの特殊なる使命を背負える人物が自分は神の子であると述べて、果たしてそれを不遜なる言葉と言えるであろうか。疑うのなら私の為せる業をみよ、とも言っている。そこには自分こそが神であるなどと言う意味は一かけらもない。むしろその逆である。
〔翌二十五日、私が霊媒となって霊言による交霊会を開き、イムペレーターがしゃべった④。が、これといって私の精神状態に触れたものは出なかった。他の列席者は私の抱える事情には全く関心がなく、私を通じて彼らなりの問題を提出し彼らなりの解決を得た。
その間私の意識は休止状態なので霊言そのものには影響はなかった。そのあと最近他界したばかりの知人が出て私しか知らない事実に言及し、確かな身元の確証が得られた。これには私も感心したが、満足は得られなかった。
それから夏休暇⑤に入り、私はロンドンを発ってアイルランドへの旅に出た。行った先でロンドンの病床にある友人に関する興味深い通信を得たが、私の一番の悩みを解決するものではなかった。アイルランドからこんどはウェールズへ向かった。そして八月二十四日にイムペレーターからの別の通信を受け取った。
これは紹介しておく必要があると思うのでこのあと紹介するが、このときも私は懸命に私の要求に対する回答を引き出そうとしたが、どうしてみたところで私の為にはならぬという警告を受けた。その時の私の体調があまり勝れず、精神状態は混乱していた。先のことをあまり考えずに、これまでの経過をよく復習するようにとの忠告を受けた。〕
これまで辿れる道をよく振り返ってみることである。われらに許された範囲で汝のために尽せるもろもろのことを細かく吟味し直すことである。その上で今汝が目の前にしているものの価値を検討してみるがよい。その価値を正しく評価し、われらの言説の崇高性に注目してもらいたい。われらは汝の今の精神状態が産み出す疑問そのものを咎めはせぬ。
汝が何もかも懐疑的態度でもって検討することはやむを得ぬ。人間は自分と対立する意見はとかく疑ってかかるものだからである。ただ、汝の性急な性格があまりにも結論をあせり過ぎることを注意しているのである。精神的に混乱するのもその所為である。
何かと面倒が生ずるのもその所為である。それは咎めはせぬ。われらが指摘しているのは、そのような心の姿勢では公平無私なる判断は下せぬということである。
その性急な態度を和らげ、結論をあせる気持ちを抑え、一方ではアラ探し的な批判をやめ、われらの言説の中に建設的な面を見出してもらいたい。今のところ汝はあまりに破壊的過ぎるのである。
さらに友よ、汝の抱ける疑問と混乱は、それが取り除かれるまでは、われらの今後の進展にとっても障害となることを忘れてはならぬ。これまでも大いに障害となり、進展を妨げて来た。がそれは(仕事の性質上)止むを得なかったと言えよう。
がこれ以後は思い切り心を切り換え、判断を迷わせる原因となってきたわだかまりを、きれいさっぱりと洗い流してほしい。暫しの休息と隔離のあと、是非そうなってくれることを期待している。われらが出る交霊会も、出席者が和気あいあいたる精神に満ちていることが何より大切である。
湧き出る疑念は、旅人を迷わせる靄と同じく、われらの行く手を阻む。靄の中では仕事は出来ぬ。是非とも取り除かねばならぬ。先入観を棄てて正直に過去を点検すればきっと取り除かれるであろうことを信じて疑わぬ。汝の心の地平線に真理の太陽が昇れば、立ちどころに消滅するであろう。そして眼前に広がる新たなる視野に驚くことであろう。
ムキにならぬことである。汝にとって目新しく聞き慣れぬものも、ただそれだけの理由で拒絶することはやめよ。汝の判断の光に照らして吟味し、必要とあらばひとまずそれを脇へ置き、もう一歩進んだ啓発を求めるがよい。
真摯にして真っ正直な心には、時が至れば全てが叶えられる。今の汝にとって目新しく聞き慣れぬことも、いつかはしっくりと得心のいく段階に到達するであろう。ともかく、汝の知らぬ新しき真理、これより学ばねばならぬ真理、改めねばならぬ古き誤りがまだまだ幾らでも存在するという事実を忘れぬことである。
♰イムペレーター
〔註〕
(1)イムペレーターの指揮下にある別の霊による。
(2)ヨハネ福音書10..30
(3)Hanukkah 古代シリアのアンチオコス四世によって奪われたエルサレム神殿を、ユダヤの独立運動の指導者マカベウスが奪回したことを記念する祭。
(4)スピーア博士宅ではこの霊言が多かったが、モーゼス自身は入神状態なので記憶がなく、したがって客観的証拠とはなっていない。
(5)当時モーゼスは学校の教師をしていた。
十八 節
〔八月二十六日。私はこれまでの通信を読み返し、それが象徴している意味についてあれこれと思いを巡らした。私は自分の解釈が字句にこだわり過ぎているのだろうかと考えて、その点を霊側に質してみた。するとまだ私の精神状態は通信をするのに相応しい状態になっていないという返事であった。
このように交信の難しさをはっきりと言ってきたことは何度もあった。私は気分の転換が必要であることを指摘された。生憎(あいにく)その日は空模様の鬱陶しい憂鬱な日であった。
私の身は見知らぬ土地にあり、健康も勝れなかった。私は言われるまま気分転換になることをしたあと机に向かった。すると始めのうち少し書き辛く速度もゆっくりだったが、やがて楽に筆が運ぶようになった。〕
状態はまだ十全とは言えぬが、前よりは良好となってきた。通信を求むるに際しては、精神と肉体の双方を整えることが肝要である。満腹状態の身体が操作し難いことは前に述べたが、逆に機能の低下せる弱々しき身体もまたわれらの目的に適さぬことをここに指摘しておく。
飽食と泥酔はもとより感心できぬが、度の過ぎたる節制による体力の低下も感心せぬ。われらは全てに判断の及ぶかぎりの中庸を説く。極端なる節制も、節度なき放縦も、ともに好ましからぬ結果を招く。
中庸こそ身体機能を自由に働かしめ、一方精神的能力を曇りなく且つ激することなく自在に発揮させる。われらが求むるのは明晰にして元気はつらつとし、それでいて興奮することなき精神と、活力に溢れ、その活力を使い過ぎもせず欠乏もせぬ身体である。
各自がその思慮分別に基いて、己に課せられた地上の仕事に勤しむ上でより一層適切なる身体を具え、同時にその援助のために派遣されたる背後霊からの指示を素直に受け取れる精神を整えてくれることが大いに望まれるところであるが、日常生活における習慣は往々にして感心せぬものが多く、徐々に心身を蝕んでいく。
尤もわれらとしては一般的原則としての注意と節制を説く以上のことは出来ぬ。当人にとって何がもっとも適切であるかは当人と深く関わってみなければ判らぬものである。自分のことは自分で判断して最も適切と思うものを決めることである。
われらの使命はもとより魂の宗教を説くことにあるが、その一部として身体の宗教も説かねばならぬ。汝に、そして全ての人間に宣言するが、身体の健康管理は魂の成長にとりて不可欠の要件である。
魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿るかぎりは、その肉体によって魂が悪影響を受けぬよう、これを正しく管理していくことが必須である。
ところが衣食の選択と日常の生活習慣に賢明なる配慮が為されることは実に稀である。今の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上の全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものは全て真の霊的生活にとっては障害であり妨害となる。
汝の質問であるが、これまで幾度も述べたる如く、われらは汝の精神の中に存在するものを取り出し、付属せる夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なるもの、真実にあらざるものは放棄する。
古き言説については、イエスがユダヤの律法を扱える如くに扱う。イエスはその字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たなる崇高なる意味を賦与した。
われらが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、並びにラビ的①学説を扱える如くに扱う。イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説いた。
これはいつの時代にも同じであり、われらも聖書の言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす②、と述べておこう。律法の字句にあまりに厳密にこだわることは肝心の意味を疎かにすることと同じ、と言うよりは、次第に疎かにさせて行くものである。
儀文の一つ一つを几帳面に遵守する信仰態度は高慢不遜にして鼻もちならぬ独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に巻き込まれて、自分は他の者とは違うとの特殊意識を抱き、その意識で神に感謝するようになる。
こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対して、われらは断固たる闘いを挑むものである。人間の勝手な産物である神学の中に束縛されるよりは、たとえ迷いは多くとも、きっと神を見いだすとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索する方が、真理を求むる魂にとってどれほどよいか知れぬ。
神学は神への道を規定する。その道へ入る狭き門は神学という名の鍵なくしては開かぬことになっている。が、それのみに留まらぬ。神学が神そのものを規定するのである。かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、霊性の一片もなき機械的信仰生活へと落ちぶれ果てる。
確かに、汝らの仲間の中には、高位高階の者ばかりとも限らぬが、宗教の深き哲学に関しては出来合いの信仰教義でなければならぬ者がいる。彼らにとって、その教義から逸脱して自由に思いを巡らすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味する。
目も眩む高所に登り、隠れたる秘密を覗き込み、曇りなき真理の太陽の輝きを目のあたりにすることなどは思いもよらぬ。永遠の真理の横たわる深き谷間を見おろす高き峰に登ることは、彼らには出来ぬ。
落ちることを恐れて覗き込むことが出来ぬ。その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのである。そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通れる、より安全なる常道を選ぶことになる。その道は両側に高き壁がそそり立ち、その外側を見ることは出来ぬ。油断なく一歩一歩、転ばぬよう、全ての起伏を避けつつ歩む。
そうするようにと教会の教説が説いているのである。疑うことは破壊を意味する。思考すること結局は迷いに終わる。信じることが唯一の安全策である。故に信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい───そう説くのであるが、彼らにはそれが素直には受け入れられぬ。受け入れられる筈がないのである。
彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解することが出来ぬのである。ならば真理を秘納せる奥の院までどうして入ることを得ようか。
中にはまた、神の真理の全てであると教え込まれた古来の神学と相容れぬ教説を受け入れる能力に欠けると同時に、それを喜ばぬ者もいる。
キリスト教の聖徒にとってはその神学で十分であった。殉教者はその信仰ゆえに笑顔をもって刑台に上がり、死の床にあっても心の慰めを得て来た。それは今も昔も変わらぬ。その信仰は先人たちの残してくれた大切な教義であり、母親の口から聞かされた救いの福音であった。
それは言わば真理の遺産として受け継いだものであり、それを是非とも今度は自分たちが子供たちに譲渡していかねばならぬものであり、代わってその子供たちがさらにその子供たちへと引き継いでいくことであろう。そうなれば当然彼らの心はその信仰、それほどの伝統的な繋がりと思い出をもつ信仰と少しでも衝突するものには目もくれぬことになる。
彼らはその伝統的信仰の擁護者をもって任じているのである。その心の中には殉教者の情熱が燃え続けている。われらの語りかける言葉は彼らの耳には届かぬ。われらとしても、それほどまで居心地よき安住の世界に敢えて踏み込もうとは思わぬ。
万一踏み込むとなれば、彼らが作り上げた信仰の殿堂を根底より突き崩さねばならぬであろう。それほどまで大切にせる信仰に対して宣戦布告し、容赦なく切りつけねばならぬことになろう。
彼らにとっての絶対神、型にはまりたる宗教、それは何世代にも亙って些かも変わらず、また変わりようもないのであるが、これに攻撃を挑み、たとえ神の観念は変わらずとも人間の心は変化し過去の世代には事足りたものも次の世代には十分ではないかも知れず、現に満足できなくなっている事実を指摘せねばならぬ。
また彼らが露ほども気づかずにいる啓示の進歩性、思想の自由の度合いに応じた人間の啓発、そして彼らが〝神の啓示〟と銘うって崇めている夥(おびただ)しき量の人間的創作に反省を迫られることであろう。
が、これも所詮は徒労に終ることであろう。われらは、そうと知りつつ敢えて試みるほど愚かではない。彼らは地上とは別の(死後の)世界において必要なる知識を得るほかはあるまい。
これとは種類を異にし、こうした問題について一切思考を巡らさぬ者もいる。宗教とは名ばかりにて、一種の世間体としての意味しか持たぬ者たちである。故にその信仰心は極めて薄く、慣習としての場を除いては意識することもない。いわばよそ行きの衣服であり、単なる見せかけ以上のものではない。遠くより見てそれらしく見えればそれで良いのである。こうした人種、及びこれに類する人種はわれらにとって難敵である。
彼らにとっては、宗教について思索を強いられること自体がすでに退屈であり迷惑なのである。不愉快きわまる問題であり、慣習によりやむを得ず軽く体裁を繕う程度にしか係わろうとせぬ。人間としてどう在るべきかは牧師が決めてくれるものと考え、言われるままに信じるのみなのである。
ましてや古き信仰の欠点を指摘され、新しき信仰の美点を説き聞かされることは彼らにとっては二重手間であり、有難迷惑なのである。そのいずれも理解できぬであろう。
相変わらず古きものにすがり、その中にて生き続けるのみである。今のままで結構なのである。進歩はご免こうむりたいのである。自由などは思いもよらず、精々、自由とは所詮は服従に近づくことであるとの教えしか念頭にはない。
彼らにとって自由なる思索は懐疑心と不信感と無信仰を意味する。そのいずれも彼らにとって有難からぬものであり、一種の社交的誤りを犯すことになる。進歩することは国策上からも宗教上からも恐るべきことなのである。
単に尻込みするに留まらず、機嫌と侮蔑とをもって自由を観る。彼らの理想は全て古き良き時代に大切に仕舞い込まれている。その良き古き時代には自由だの進歩だのという問題は一切語られていない。故にそれは彼らにとって邪悪なるものであり避けねばならぬものなのである。
以上の三種の人間にわれらが一切の係わりをもたぬことは汝にも明白であることを疑わぬ。同時にその中間に存在し、能力もなければやる気もなく、さりとて堂々と反抗的態度に出るでもない人種にもわれらは関知せぬ。
それがわれらの選択を超えた問題であることは、いずれ汝にも判る時が来よう。たとえ手を出したくとも出せぬのである。
神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件の一つを犯していること、こうしたことをわれらは教えんとしている。神への道を閉ざし、その門戸に鍵をかけ、己の説く道へ進むことを強要する権利を有する者は一人もおらぬと言うのである。
硬直化せる神学、人間の発明せる用語にて勝手に規定せる頑(かたくな)な信仰、その道より外れし者は神より見放されると説き、一字一句たりとも動かし難き教説───これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたかんとする魂を引き留め、地上にくぎ付けにせんとする拘束物であると言うのである。
そのような宗教を教え込まれるまま受け入れ、自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として自ら迷い、自ら祈り、自ら思考し、自ら道を切り開くことによって真理の日の出を見るに至るほうが、どれだけよいか知れぬ。
その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、且つ心を満たしてくれずとも良い。
冷たき風に吹きさらされ、嵐に吹きまくられ、身の細る思いをするほうが、息苦しく風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込めれ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても、与えられるものが石ころの如き古き教説であり、化石の如き人間的無知の産物でしかない生活よりは、遥かに良い。
複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴であっても背後霊の直接の働きかけによって、自分なりの神の観念のもとに生き、神の息吹を受ける方がどれほど良いか知れぬ。
己に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探究における第一の条件である。これなくしては魂は羽ばたくことが出来ぬ。そしてこれさえあれば必ず進歩する。
このことを主イエスに示されたる規範の中に今少し見てみなければならぬ。
霊性に目覚めた人間のとるべき態度はどうあるべきかについてはすでに述べた。幸いにして勇気をもって因習より脱け出し、神を求むる旅に発てる者は必ずや、聖書の字句どおりのドグマ的解釈に代わりて、われが説くところの崇高なる霊的信仰へと導かれる。
霊の啓示には目に映る形而下的意味と同時に霊的意味も含まれているからである。物的傾向の色濃き時代にはこの霊的解釈が完全に疎かにされる。かくして人間はイエスの教説のまわりに、推論と憶測と形而下的解釈によって作り上げた壁をはりめぐらした。
それはパリサイ派の学者がモーセの律法のまわりにめぐらせる壁と同じである。こうした傾向は人間が霊界の存在を忘れるに比例して強くなる。かくして今やわれらの目に映るのは、本来なら霊性を吹き込み物的儀式を排除すべく意図されたはずの教説より導かれた、硬直化せる冷ややかなる物質偏重の教説である。
われらの任務はイエスがユダヤ教のために行えるのと同じことを汝らのキリスト教のために行うことである。すなわち古き形式に霊的意味を賦与し、新しき生命を吹き込むことである。排除しようというのではない。復活させることこそわれらの望むところである。
繰り返すが、イエスが地上にもたらせる教えの一かけらたりともわれらは排除はせぬ。排除するのは人間の勝手な産物であり、それも、その奥に隠されて見失える霊的意味を表に出して見せるためである。
われらは汝を肉体的支配下の日常生活より少しでも救い出し、そこに浸透せる霊的生活の象徴的意義をより一層理解させんと務めている。字句にこだわって批難する者は、われらの教説の皮相的解釈しかできぬ人種である。
われらは汝を身体中心の生活より引き上げ、肉体を棄てたるのちの生活に相応しき生き方へ導かんと願っている。目下のところ、それには程遠き状態である。が、いずれ汝にも、この地上にありながらも真の霊的生活の尊厳と、そこに満ち溢れる隠れたる神秘を見ることを得る日も到来するであろう。それは今の汝の精神状態ではわれらも説明することは困難である。
その時が到来するまでは、すべてに霊的意義が秘められていること、聖書もその霊的意義に溢れていること、神学に見られる人間的解釈も定義も注釈も、霊的真理の核心を包蔵せる形而下的〝殻〟に過ぎぬことを知るだけにて佳しとせねばならぬ。
もしもわれらがその殻を一気にはぎ取る挙に出れば、その核心が萎(しお)れ、生命を失うであろう。そこでわれらとしても汝の理解力の届く範囲において、汝の長く親しめる形而下的教説の下に隠れたる生きた真相を指摘する程度にて満足せねばならぬ。
キリストの使命もそこにあった。律法を廃止することでもなく、削除することでもなく、正しく成就せしむることこそわが使命であると公言したのである。モーセの戒律の根底に潜む真理を指摘した。
パリサイ派の儀式にまつわる夾雑物を取り除き、ユダヤ学者の空想空論を排除し、その奥底に横たわる霊的真理───人間が埋葬しかかっていた崇高なる原理を白日のもとに曝したのであった。キリストは宗教改革者であると同時に社会改革者でもあった。
その生涯の大事業は人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面を剥ぎ取ることであり、暴君より逃れんとしてあがく魂をその魔手より救い出すことであり、そして神より託された真理の徳によって人間を解放することであった。イエスはいみじくも述べた───〝汝らに真理を知らしめん。真理は汝らを解き放たん。然して汝らは自由の身とならん③〟と。
キリストは生と死と永遠の生命について説いた。人間の真の尊厳を説いた。神について進歩的知識を説いた。律法の偉大なる体現者として地上へ降りた。律法の意図されたる真の目的すなわち人類の改革者を身をもって実践する人間として地上へ来たのである。
民衆に心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして行為のすべてを唯一の尺度、つまりそれがもたらすところの結果によって価値を判断するよう説いた。常に謙虚に、慈悲を忘れず、誠実で純真で私心なく、己に正直であれと説いた。そして自らそれを実践してみせたのであった。
イエスは偉大なる社会改革者であった。その目的は死後の幸福を説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することであった。イエスは言うなれば日常の宗教を説いたのである。より高き真理を求める日々の生活の中においての霊性の道徳的向上の必要性を説いた。
過去の過ちを反省し、償い、そして向上する───そこにイエスの訓えのほぼ全てが要約されている。イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧政下にあった。
そこでイエスは信仰と政治の双方の自由を説いた。がその自由とは気儘の自由ではなかった。神と自己に対する責任を持つ自由であり、置かれた環境における同胞への責任を持つ自由であった。イエスは人間の真の尊厳を示さんと努力した。
真理の尊厳───人間性を束縛から解き放す真理の偉大さを民衆に知らしめんとした。身分にはこだわらなかった。同志も伝道者も身分の低き貧しき階層の者の中より選んだ。そして庶民と共に生きた。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとった。
そして人間として必須の、しかも彼らに理解し得る、素朴なる訓えを説いた。伝統的信仰と高貴なる社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長けた者たちの中には滅多に足を運ばなかった。慣習的に教え込まれた信仰より少しでも気高く少しでも崇高なる真理を求めんとする情熱を庶民の心に沸かしめた。そしてその真理を手にする方法をも説いたのであった。
人類にとって真の福音と言うべきはイエス・キリストの福音である。これこそ人間にとって唯一にして必須の真理である。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音である。
われらはそれと同じ福音をイエスより引き継ぎて説くものである。イエスを地上に送りし神と同じ神の命令を受け、同じ神の権威と霊示を受け、今まさに同じ福音を説きに参ったのである。イエスの説いた真理と同じものをわれらは説く。人間的無知と誤解による夾雑物を払い落して、改めて説く。物欲的生活の下に埋もれた真理を蘇らせんと望むものである。
人間が墓場へ葬れる霊的真理を掘り起こし、それが未だ生き続けていることを、聞く耳をもつ者に教えんと欲しているのである。人間の進歩性と、人間への神の絶え間なき係わり合い、そして昼夜を分かたぬ天使の看護と言う、単純にして荘厳なる真理を教えたいと願っているのである。
独善的宗教家集団が背負わせた荷はわれらが風に吹き飛ばさせよう。魂の成長を妨げ向上心の足を引っ張るドグマはわれらが引き裂きて魂を解き放とう。われらの使命は人間があまりに歪め過ぎた古き教えの真の姿を継承することである。その源は同一であり、その辿る道も同じであり、その向かうところもまた同じである。
〔イムペレーターの指揮のもとに続けられているこの教化事業はイエス・キリストの命によるものと理解してよいかとの問いに対して───〕
その通りである。先に余は、余の使命が〝動〟の世界より〝静〟の世界へと突入せる一柱の霊より授けられ今なおその指令下にあると述べた・・・・・・ イエス・キリストは過去に蓄積せる誤れる信仰を払い清めると同時に、これより一段と啓示を押し進めんがために天使を招集する計画を用意されつつあるところである。
───他の交霊会でもこれに類する話を耳にしましたが、これが〝キリストの再来〟ということですか。
キリストの再来とは霊的再来のことである。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではない。使徒を通じて聞く耳をもつ者に語りかけるという意味での再来である。イエス自身もかく述べているであろう───「聞く耳をもつ者は聞くがよい。受け入れ得る者は受け入れるがよい④」と。
───こうした通信は多くの人々にもたらされているのでしょうか。
さよう。神がこの時期にとくに影響力を強めておられることを大勢の者に知らしめているところである。が、今はこれ以上は述べぬ。神の祝福のあらんことを。
♰イムペレーター
〔註〕
(1)ユダヤ律法学者。空理空論を振り回す人の意にも用いる。
(2)コリント後3・・6
(3)ヨハネ8・・32
(4)マタイ11・・15、19・・12