Monday, May 11, 2026

スピリティズムによる福音  アラン カルデック著

 本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。
────アラン・カルデック



第2章 私の国はこの世のものではありません。

一、ピラトは再び官邸に入ると、自分の前にイエスを呼んで、尋ねた、「おまえはユダヤの王なのか」イエスは答えられた、「私の国はこの世のものではありません。もし私の国がこの世のものであったとしたら、人々は戦って、私がユダヤ人の手にわたることを阻止したでしょう。しかし、私の国はこの世のものではありません」

するとピラトは言った、「おまえは王か」。イエスは答えられた、「あなたの言う通り、私は王です。私がこの世に来たのは真実の証をするためです。真実につく者は私の声を聞くでしょう」(ヨハネ 第十八章  三十三 三十六 三十七)


 未来における生活
二、こうした言葉によって、イエスははっきりと未来における生活に付いて触れていますが、イエスはその生活が、いかなる場合においても、人類の目指す目標であり、地上における人間はその生活のことを最大の関心事と捉えるべきであると示しています。イエスの金言はすべて、未来における生活が存在するというこの大きな原則に基づいているのです。

未来における生活がなければ、イエスの道徳上の教訓のほとんどは、どんな根拠も存在しなくなってしまうため、未来における命を信じない者たちは、イエスが現在の生活についてのみ語っているのだと考え、その教えを理解できずに、無益なものだと考えたのです。

 したがって、この教義はキリストの教えの中心軸となるものであり、そのために本書の初期の章に挿入されました。この教えは人類全ての目標とならなければならないのです。この教えだけが、地上における生活で生じる不平等の正当性を、神の正義に基づいて明らかにしてくれるのです。


三、ユダヤ人たちが未来における生活に付いて抱いていた考えは、ただ不明確なものでしかありませんでした。天使を信じていましたが、それらは創造主によって特権を与えられた存在であると考えていました。

人類がいつの日か天使となり、その幸せを分かち合うことができるようになるのだということは知り得なかったのです。彼らは神の法を遵守すれば、その報いとして地上で富を得たり、自分たちの国を優勢に導いたり、敵に勝利することが出来ると考えていました。

災害や敗北を被ることはすなわち、神の法を破ったことによって与えられる罰であったのです。モーゼは何よりもまず、この世の物事に心を動かされてしまう無知な牧人たちに、それ以上のことを伝えることはできませんでした。

時が過ぎ、イエスは神の正義が支配する別の世界があることを示しました。そしてイエスはこの世界の存在を神の戒めを守る者たちに約束し、そこで善き人々は相応の報いを受けることが出来るとしたのです。

そこがイエスの支配する国なのです。この地上を後にして戻っていくその国に、イエスの栄光が存在するのです。


 しかし、イエスは当時の人類の状況を鑑み、完全なる光を彼らに与えても、理解されず、当惑させてしまうだろうと察し、そうすべきではないと考えました。そしてまさしくイエスは、未来における生活をあくまでも原則として示し、その作用から誰も逃れることはできない自然の法なのだというにとどめたのです。

よって、全てのキリスト教徒は必然的に未来における生活を信じています。しかし、多くの人々のそれに対する考えは曖昧で不完全であり、それ故に多くの点において誤っています。多くの人々にとって、それは単なる信仰箇条以上の何ものでもなく、絶対的な確信を欠いているというところから疑問と不信心が生まれるのです。

 スピリティズムは、そのように不十分なキリストの教えを補うために、人類がその真実を学ぶに足りるだけの発達段階に十分達した時期に登場したのです。スピリティズムがもたらされることによって、未来における生活は信仰の単なる一箇条でも、単なる仮説でもなくなります。

それは事実によって裏付けられた、実体ある現実のものとなるのです。なぜなら、未来における生活のすべての側面を、すべての出来事において描写しているのは、自からそれを目撃した証人たちであるからです。

そのためにこの事柄に対するどんな疑問を抱くこともできないばかりか、普通の知性の持ち主であれば未来の生活について、ある詳細な描写を読むことによって、ある国のことを誰もが想像できるように、その真の姿を想像することができるのです。

未来の生活の描写はとても細かく説明されており、彼らがそこで幸せなのか、不幸なのか、彼ら自身の生活がどうなのかが分かります。合理的なその状況は、彼ら自身が生みだしたものです。ここにいる私たち各々は、いやでもその状況が、理にかなっていることを認め、自分に言い聞かせることになりますが、そこに神の真なる正義の存在が明かされているのです。
 

 イエスの王位
四、イエスの国がこの世のものではないことはみな理解するところですが、地上においてもイエスには王位があるのではないでしょうか。王というのは、一時的に権力を行使する人物に限りません。

この称号は、いかなる分野であっても、その素質によって第一等の頂点に昇り、その時代を支配し、人類の進歩に寄与するとみなが認めた者に与えられるものです。だからこういう意味で、私たちは、優れた哲学者、芸術家、詩人、作家などを「王」または「王子」と呼ぶことがあります。

こうした個人の功績から来る王座や、子孫によって神聖化された王座は、多くの場合、実際に王冠を持つ王位よりも優勢なものとして映ってはいないでしょうか。前者の王座は消滅し得ないものですが、後者の王位には盛衰があります。また、前者に対してはいつの世も賞賛しますが、後者に対しては、ののしることもしばしばあります。

地上での王位は命とともに終結します。道徳的な王位はその力を永続し、死後においても支配します。このような点でイエスは、地上において権利を与えられた王よりも偉大な権威を有しているとは言えないでしょうか。ピラトに対して「私は王です。しかし、私の国はこの世のものではありません」と言ったのにはこうした意味が込められていたのです。


   視点
五、未来における生活を明確かつ詳細に認識することは、未来に対する揺るがぬ確信を形成することになり、その、確信が、地上において人間を取り巻く生活に対する視点を完全に変えてしまうため、人類の道徳観念に多大な影響を及ぼします。

その思考において自分を無限の霊的な生活に置くことが出来る者にとっては、肉体を持つ生活は単なる一過性のもの、不幸な国での一時的な滞在となります。

その生活における一連の盛衰や混乱は一時のものであり、その後により幸せな生活が訪れることが判っているので、じっと耐え忍んでいればいいような出来事に過ぎないのです。死はもはや虚無に対して開かれた恐れをもたらす扉ではなく、解放へと通じる扉となり、流刑者たちはそこを通って、平和と至福の家に入っていくことができるようになるのです。

この世での滞在が永遠のものではなくて一時的なものだということを知っているので、人生の心配事にも大した関心を抱くことなく霊的な平静をもたらし、悲哀の多くを取り除くことになります。

 未来における生活を疑うという単純なことから、人間はそのあらゆる考えを地上における生活に差し向けます。地上における富以上に貴重な富を見つけることがでず、自分のおもちゃ以外何も目に入らぬ子供のようになります。そして唯一本物として映る地上の富を獲得するために、どんなことでも行います。

そうした富のほんの少しでも失おうものなら、過失、失望、満たされぬ野心、不正の犠牲となること、傷つけられた自尊心や虚栄心と言った数々の苦痛が、人生においていつまでも続く苦悩と化すのです。

このように人間は、いつも真の拷問を自らに科していることになります。自分が実際にあると考える物質世界に視点を置くと、自分の周りにあるものがその視野すべてを占めることになります。そうした目には、自分のもとに訪れる悪や、他の者を動かす善などが、大きな重要性を持つように映ってしまいます。都会の中にいる者にはすべてが大きく見えます。

高い地位に辿り着いた者にとって、その記念碑は、とても大きく見えるものです。しかし、山に登って見下ろすと、人も物も小さく見えるようになります。未来における生活に重点を置いて地上の生活を送る人にはこのような視点があります。

 人類は、天にある星と同じように、無限に広がる空間の中では小さすぎて見分けがつかなくなります。すると蟻塚の上にいる蟻のように、大きなものも小さなものも混同してしまっていることに気づきます。無産者も主権者も同じ背丈であることがわかります。

悲しいことに、これらのはかない生き物たちは、彼らを殆ど向上させることのない、とても短い時間しか持続しない、その居場所を勝ち取るために、大変な苦労に身を投じているのです。このことから、私たちが地上の財産に与える重要性が、常に未来における生活への確信から来る重要性とは相反しているのだと考えるようになるのです。
 

六、すべての者がこのように考えるようになっては、誰も地上のことに気を取られなくなってしまい、地上のものはすべて危険にさらされてしまうのではないでしょうか。しかし、実際にはそうはなりません。

人間は本能的に快適な生活を求め、その場所に短時間しかいないことが確実であったとしても、そこに最も良い状態で、もしくは可能な限り悪の少ない状態でいようとします。手に棘が触れた時、それに刺されないようにとその手をどけない人はいません。

快適さへの欲求は、人間にすべてを改善させることを強要しますが、それは自然の法の中にある、進歩と保存の本能によるものです。故に人間は必要性や嗜好、または義務によって働くことで神の意に叶うことが出来、また神もそうした目的の為に人類を地上に送ったのです。

端的に言えば、未来に心を託し今日に対して必要以上に関心を持たない者は、失敗しても、自分を待ち受ける未来について考えて、容易に自分を慰めることが出来るのです。

 神は地上の楽しみを非難することはありません。しかし魂に損害を与えるまでこの楽しみに溺れることを非難します。イエスの言った次の言葉を自分自身に応用させることができる者は、こうした楽しみの濫用を予防することができます。「私の国はこの世のものではありません」。

未来における生活を自分の身に起こることとして考えることができる者は、少額を失うことに動揺せぬ金持ちのような人です。地上の生活ばかりに考えを集中させる者は、持つものをすべて失い途方に暮れてしまう貧乏な人のようです。


七、スピリティズムは思考を広げ、新しい地平線を切り開きます。現世ばかりに集中した、狭苦しいほどの小さな視野は、地上に住む一瞬だけを唯一のはかない未来の基軸と考えさせますが、スピリティズムはそれとは違い、現世というものが、調和のとれた壮大な創造主の一連の業の一端に過ぎないのだということを示してくれます。

同じ存在同士、同じ世界に住むすべての存在同士、全ての世界のあらゆる存在同士の生活を結びつける連帯関係を示してくれます。それによって宇宙全体の兄弟愛の存在の理由と基礎が与えられます。

一方で魂は一人一人の肉体が生まれる時に創造されるのだという教義では、すべての存在がお互いに知らぬ者同士だということになってしまいます。

単一の全体に属する各部を結びつけるこの連帯感は、ある一部分だけを考慮に入れたのでは一見説明しようがない事柄をも解説することになります。キリストの時代、人類はこの全体の繋がりについて理解することができませんでしたが、そのためにイエスはそのことが理解されることを後の時代に残しておいたのです。
 





   霊たちからの指導

  地上における王位

八、「私の国はこの世のものではありません」とイエスが言われたことの本当の意味を、一体誰が私以上に理解することが出来るでしょうか。私は地上で暮らす間、自尊心によって自分を見失っていました。

地上での王位と言うものが、こちらでは何の役にも立たないということを、女王であった私が言っているのです。地上の国から、私はこちらに何を持ってくることが出来たでしょうか。

何一つ持ってくることは出来ませんでした。それどころか地上の墓にさえも持ってくることが出来なかったということは、このことを理解させてくれる痛ましい現実でした。人間たちの間で女王でいる者は、天の国へ行っても女王であり続けるものだと信じていました。

しかし何と言う誤解であったことでしょう。最高なる者として迎えられる代わりに、私より上に、はるか上に、地上では高貴な血を引いていないからといって、身分の低いものとして軽んじていた人たちを見た時の恥ずかしさ。

ああ、やっとその時、自分の高慢さと、地上で人類が貪欲に求める「高い地位」のつまらなさを知ることが出来ました。

 こちらの国で必要なものは、献身、つつましさ、慈善、全ての人に対する慈悲深さです。あなたが地上で何であったか、どんな身分でいたかは問われません。あなたがどのような善を働いたか、どれだけ涙を乾かしてあげることが出来たかが問われるのです。

 ああ、イエスよ、あなたの国はこの世のものではないと言われました。それは、天に辿り着くには苦しまなければならないからです。そしてこの世の王位など持っていくことは出来ないからです。人生の苦しい道のりが天へ導いてくれるのです。だから花の中にではなく、棘の中に道を求めなければならないのです。

 人間はそれをあたかも永遠に自分のものとすることが出来るかのように地上の富を追いかけます。しかし、こちらにはそのような幻想は存在しないことを知り、こちらの国の扉を開く唯一の、確実で長続きするものをそれまで軽んじて、影ばかりを追い続けていたのだということにすぐに気づくのです。

 天の国の王位を得ることの出来なかった者を哀れんでください。あなたたちの祈りによって、彼らを助けてあげてください。なぜなら祈りは人を神に近づけ、地上と天を結ぶものだからです。どうかそのことを忘れないでください。(あるフランスの女王 ルアーブル、一八六三年)

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen




十一章 青年牧師との論争

 ある時メソジスト教派(※)の年次総会が二週間にわたってウェストミンスターのセントラルホールで開かれ、活発な報告や討論がなされた。が、その合間での牧師たちの会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりにささやかれた。

(※メソジストというのはジョン・ウェスレーという牧師が主唱し弟のチャールズと共に一七九五年に国教会から独立して一派を創立したキリスト教の一派で、ニューメソッド、つまり新しい方式を提唱していることからその名があるが、基本的理念においては国教会と大同小異とみてよい───訳者)

 そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッハーを訪ね、一度交霊会というものに出席させてもらえないかと頼んだ。予備知識としてはコナン・ドイルの The New Revelation (新しい啓示) という本を読んだだけだという。が、スワッハーは快く招待することにし、

 「明日の晩の交霊会にご出席ください。その会にはシルバーバーチと名告る霊が入神した霊媒の口を借りてしゃべります。その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得のいかないところは反論し、分からないところは遠慮なく質問なさることです。その代わり、あとでよそへ行って、十分な議論がさせてもらえなかったといった不平を言わないでいただきたい。質問したいことは何でも質問なさって結構です。

その会の記録はいずれ活字になって出版されるでしょうが、お名前は出さないことにしましょう。そうすればケンカになる気遣いもいらないでしょう。もっともあなたの方からケンカを売られれば別ですが」という案内の言葉を述べた。
 
 さて交霊会が始まると、まずシルバーバーチがいつものように神への祈りの言葉を述べ、やおら青年牧師に語りかけた。


 「この霊媒にはあなた方のおっしゃる〝聖霊〟の力がみなぎっております。それがこうして言葉をしゃべらせるのです。私はあなた方のいう〝復活せる霊〟の一人です」

(訳者注ー聖霊というのはキリスト教の大根幹である三位一体説すなわち父なる神キリスト、子なる神イエス、そして聖霊が一体であるという説の第三位にあるが、スピリチュアリズム的に見ればその三者を結びつける根拠はない。キリスト教とスピリチュアリズムの違いは実にそこから発している。シルバーバーチもその点を指摘しようとしている)


牧師 「死後の世界とはどういう世界ですか」

 「あなた方の世界と実によく似ております。但し、こちらは結果の世界であり、そちらは原因の世界です」

(訳者注───スピリチュアリズムでは霊界が原因の世界で地上は結果の世界であるといっているが、それは宇宙の創造過程から述べた場合のことで、ここでシルバーバーチは因果律の観点から述べ、地上で蒔いたタネを霊界で刈り取るという意味で述べている)

牧師 「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」

 「ありません。私たちインディアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりましたから、あなたが属しておられる宗派の創立者ウェスレーも同じです。あの方も霊の力に動かされておりました。そのことはご存じですね?」

牧師 「おっしゃる通りです」

 「ところが現在の聖職者たちは〝霊の力〟に動かされておりません。宇宙は究極的には神とつながった一大連動装置によって動かされており、一ばん低い地上の世界も、あなた方のおっしゃる天使の世界とつながっております。どんなに悪い人間もダメな人間も、あなた方のいう神、私のいう大霊と結ばれているのです」


牧師 「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか」

 「地上ではどうやって認識し合いますか」

牧師 「目です。目で見ます」

 「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ていることになるでしょう」

牧師 「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」

 「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊が見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影に過ぎません。光源は霊です」


牧師 「地上での最大の罪は何でしょうか」

 「罪にもいろいろあります。が、最大の罪は神への反逆でしょう」
 ここでメンバーの一人が 「その点を具体的に述べてあげて下さい」と言うと、

 「神の存在を知りつつもなおそれを無視した生き方をしている人々、そういう人々が犯す罪が一番大きいでしょう」
 
 別のメンバーが 「キリスト教はそれを〝聖霊の罪〟と呼んでおります」と言うと、
 「あの本(聖書)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」

牧師 「〝改訳聖書〟をどう思われますか。〝欽定訳聖書〟と比べてどちらがいいと思われますか」


 「文字はどうでもよろしい。いいですか。大切なのはあなたの行いです。神の真理は聖書だけでなく他のいろんな本に書かれています。それから、人のために尽くそうとする人々の心には、どんな地位の人であろうと、誰であろうと、どこの国の人であろうと、立派に神が宿っているのです。それこそが一ばん立派な聖書です」


牧師 「改心しないまま死んだ人はどうなりますか」

 「〝改心〟とはどう言う意味ですか。もっと分かりやすい言葉でお願いします」

牧師 「たとえば、ある人間は生涯を良くないことばかりしてそのまま他界し、ある人は死ぬまえに反省します。両者には死後の世界でどんな違いがありますか」

 「あなた方の本(聖書)から引用しましょう。〝蒔いた種は自分で刈り取る〟のです。これだけは変えることができません。今のあなたにそのままを携えてこちらへ参ります。

自分はこうだと信じているもの、人からこう見てもらいたいと願っていたものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへお出でになれば分ります」

 そう言ってからシルバーバーチはスワッハーの方を向いて、この人には霊能があるようだと述べ、「なぜ招待したのですか」と尋ねると、スワッハーは 「いや、この人の方から訪ねて来たものですから」と答えた。するとシルバーバーチは再びその牧師に向かって、

 「インディアンが聖書のことをよく知っていて驚いたでしょう」と言うと牧師が「よくご存じのようです」と答えた。すると別のメンバーが「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えした。牧師はすぐに年代を計算して「ダビデをご存知でしたか」と尋ねた。ダビデは紀元前一〇〇〇年頃のイスラエルの王である。


 「私は白人ではありません。レッドインディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなた方のおっしゃる野蛮人というわけです。しかし私はこれまで、西洋人の世界に三千年前のわれわれインディアンよりはるかに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます」

牧師 「そちらへ行った人はどんな風に感じるのでしょう。やはり後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」

 「いちばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらへお出でになれば分ります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのにやらなかったこと、そうしたことが逐一分かります。逃してしまった好機(チャンス)が幾つもあったことを知って後悔するわけです」

牧師 「キリストへの信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納(かのう)されるのでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣(なら)うことになると思うのですが」

 「主よ、主よ、と何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行いです。それがすべてです。口にする言葉や心に信じることではありません。頭で考えることでもありません。

実際の行為です。何一つ信仰というものを持っていなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇にいる人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です」

 ここで列席者の一人がイエスは神の分霊なのか問うと───

 「イエスは地上に降りた偉大な霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、ついに十字架にかけました。


いや、今なお十字架にかけ続けております。イエスだけでなく、すべての人間に神の分霊が宿っております。ただその分量が多いか少ないかの違いがあるだけです」

牧師 「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物がウソをつくはずがありません。キリストは言いました───〝私と父とは一つである。私を見た者は父を見たのである〟と。これはキリストが即ち神であることを述べたのではないでしょうか」

 「もう一度聖書を読み返してごらんなさい。〝父は私よりも偉大である〟とも言っておりませんか」

牧師 「言っております」

 「また、〝天に在しますわれらが父に祈れ〟とも言っております〝私に祈れ〟とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が〝天に在しますわれらが父〟であるわけがないでしょう。〝私に祈れ〟とは言っておりません。〝父に祈れ〟と言ったのです」

牧師 「キリストは〝あなたたちの神〟と〝私の神〟という言い方をしております。〝私たちの神〟とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列に置いていません」

 「〝あなたたちの神と私〟とは言っておりません。〝あなたたちは私より大きい仕事をするでしょう〟とも言っております。あなた方キリスト者にお願いしたいのは、聖書を読まれる際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をなさらぬことです。

霊的実相に照らして解釈しなくてはなりません。存在の実相が霊であるということが宇宙の全ての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を多用したのはそのためです」

牧師 「神は地球人類を愛するがゆえに唯一の息子を授けられたのです」と述べて、イエスが神の子であるとのキリスト教の教義を弁護しようとする。

 「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年もたってから例の二ケーア会議でそんなことが聖書に書き加えられたのです」

牧師 「二ケーア会議?」

「西暦三二五年に開かれております」

牧師 「でも私がいま引用した言葉はそれ以前からあるヨハネ福音書に出ていました」

「どうしてそれが分ります?」

牧師 「いや、歴史にそう書いてあります」

 「どの歴史ですか」

牧師 「どれだかは知りません」

 「ご存じのはずがありません。いったい聖書が書かれる、そのもとになった書物はどこにあるとお考えですか」

牧師 「ヨハネ福音書はそれ自体が原典です」

 「いいえ、それよりもっと前の話です」

牧師 「聖書は西暦九〇年に完成しました」

 「その原典になったものは今どこにあると思いますか」

牧師 「いろんな文書があります。例えば・・・・・・」と言って一つだけ挙げた。

 「それは原典の写しです。原典はどこにありますか」
 牧師がこれに答えられずにいると───


 「聖書の原典はご存じのあのバチカン宮殿に仕舞い込まれて以来一度も外に出されたことがないのです。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典の写し(コピー)の写しの、そのまた写しなのです。

おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。

ところが、いつになっても再臨しないので、ついに諦めて記憶を辿りながら書きました。イエス曰く───と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは書いた本人も確かでなかったのです」

牧師 「でも、四つの福音書にはその基本となったいわゆるQ資料(イエス語録)の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的な事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが・・・・・・」


 「私は別にそうしたことが全然起きなかったと言っているのではありません。ただ、聖書に書いてあることの一言一句までイエスが本当に言ったとは限らないと言っているのです。聖書に出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用が随分入っていることを忘れてはいけません」

牧師 「記録に残っていない口伝のイエスの教えが書物にされようとしていますが、どう思われますか」

 「イエスの関心は自分がどんなことを述べたかといったことではありません。地上のすべての人間が神の摂理を実行してくれることです。人間は教説のことで騒ぎ立て、行いの方をおろそかにしています。

〝福音書〟なるものを講義する場に集まるのは真理に飢えた人たちばかりです。イエスが何と言ったかはどうでもよいことです。大切なのは自分自身の人生で何を実践するかです。

 地上世界は教説では救えません。いくら長い説教をしても、それだけでは救えません。神の子が神の御心を鎧(よろい)として暗黒と弾圧の勢力、魂を束縛するものすべてに立ち向かうことによって初めて救われるのです。その方が記録に残っていないイエスの言葉より大切です」

牧師 「この世になぜ多くの苦しみがあるのでしょうか」

 「神の真理を悟るには苦を体験するしかないからです。苦しい体験の試練を経てはじめて人間世界を支配している摂理が理解できるのです」

牧師 「苦しみを知らずにいる人が大勢いるようですが・・・・・・」

 「あなたは神に仕える身です。大切なのは〝霊〟に関わることであり、〝肉体〟に関わることでないことくらいは理解できなくてはいけません。霊の苦しみの方が肉体の苦しみより大きいものです」

メンバーの一人が 「現行制度は不公平であるように思えます」と言うと、

 「地上での出来ごとはいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかはご自分の天秤を手にされてバランスを調節する日がまいります。

自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることはできません。罪が軽くて済んでる者がいるようにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の豊かさを見抜く力がないからそう思えるのです。

 私がいつも念頭に置いているのは神の法則だけです。人間の法則は念頭においていません。人間のこしらえた法律は改めなければならなくなります。変えなければならなくなります。が、神の法則は決してその必要がありません。

地上に苦難がなければ人間は正していくべきものへ注意を向けることが出来ません。痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、神の分霊であるところのあなた方人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。

 もしもあなたがそれを怠っているとしたら、あなたをこの世に遣わした神の意図を実践していないことになります。宇宙の始まりから終わりまでを法則によって支配し続けている神を、一体あなたは何の資格を持って裁かれるのでしょう」

牧師 「霊の世界ではどんなことをなさっているのですか」

 「あなたはこの世でどんなことをなさっておられますか」

牧師 「それは、その、あれこれや読んだり・・・・・・、それに説教もよくします」

 「私もよく本を読みます。それに、今こうして大変な説教をしております」

牧師 「私は英国中を回らなくてはなりません」

 「私の方は霊の世界中を回らなくてはなりません。それに私は、天命を全うせずにこちらへ送り込まれてきた人間がうろついている暗黒界へも下りて行かねばなりません。それにはずいぶん手間がかかります。

あなたに自覚していただきたいのは、あなた方はとても大切な立場にいらっしゃるということです。神に仕える身であることを自認しながら、その本来の責務を果たしていない方がいらっしゃいます。ただ壇上に上がって意味もない話をしゃべりまくっているだけです。

 しかし、あなたが自らを神の手にゆだね、神の貯蔵庫からインスピレーションを頂戴すべく魂の扉を開かれれば、古(いにしえ)の予言者たちを鼓舞したのと同じ霊力によってあなたの魂が満たされるのです。そうなることによって、あなたの働かれる地上の片隅に、人生に疲れ果てた人々の心を明るく照らす光をもたらすことができるのです」

牧師 「そうあってくれればうれしく思います」

 「いえ、そうであってくれればではなくて、真実そうなのです。私はこちらの世界で後悔している牧師にたくさん会っております。みなさん地上での人生を振り返って自分が本当の霊のメッセージを説かなかったこと、聖書や用語や教説ばかりこだわって実践を疎かにしたことを自覚するのです。

そうして、できればもう一度地上へ戻りたいと望みます。そこで私はあなたのような(目覚めかけている)牧師に働きかけて、新しい時代の真理を地上にもたらす方法をお教えるのです。

 あなたは今まさに崩壊の一途を辿っている世界にいらっしゃることを理解しなくてはいけません。新しい秩序の誕生───真の意味の天国が到来する時代の幕開けを見ていらっしゃるのです。生みの痛みと苦しみと涙が少なからず伴なうことでしょう。

しかし最後は神の摂理が支配します。あなた方一人ひとりがその新しい世界を招来する手助けができるのです。なぜなら、人間のすべてが神の分霊であり、その意味で神の仕事の一翼を担うことができるのです」

 その牧師にとっての一回目の交霊も終わりに近づき、いよいよシルバーバーチが霊媒から去るに当たって最後にこう述べた。

 「このあと私もあなたが説教なさる教会へいっしょに参ります。あなたが本当に良い説教をなさったとき、これが霊の力だと自覚なさるでしょう」

牧師 「これまでも大いなる霊力を授かるよう祈ってまいりました」

 「祈りはきっと叶えられるでしょう」

 以上で第一回目の論争が終わり、続いて第二回の論争の機会が持たれた。引き続いてそれを紹介する。


牧師 「地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能でしょうか。すべての人間を愛することは可能なのでしょうか」

 これが二回目の論争の最初の質問だった。

 「それは不可能なことです。が、努力することはできます。努力することそのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれてくるのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」

牧師 「イエスは〝天の父の完全であるごとく汝らも完全であれ〟と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

 「ですから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活で目指すべき最高の理想なのです。すなわち、内部に宿る神性を開発することです」

牧師 「私がさっき引用した言葉はマタイ伝第五章の終わりに出ているのですが、普遍的な愛について述べたあとでそう言っております。また、〝ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝らは完全であれ。神の子なればなり〟とも言っております。神は全人類を愛して下さる。

だからわれわれもすべての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」

 この質問にシルバーバーチは呆れたような、あるいは感心したような口調でこう述べる。

 「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさろうとするんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な生活を送ったと思いますか」

牧師 「そう思います。完全な生活を送られたと思います」

 「一度も腹を立てたことがなかったとお考えですか」

牧師 「当時行われていたことを不快に思われたことはあると思います」

 「腹を立てたことは一度もないとお考えですか」

牧師 「腹を立てることはいけないことであると言われている、それと同じ意味で腹を立てられたことはないと思います」

 「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなた方は何でも正当化なさるんですから・・・・・・」

 ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出した。

 「私が言いたかったのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチを持って追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。

怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情をそなえていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスもまた一個の人間であった───ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、というふうに考えることが大切です。わかりましたか」

牧師 「わかりました」

 「私はあなたのためを思えばこそこんなことを申し上げるのです。誰の手も届かないところに祭り上げたらイエスさまがよろこばれると思うのは大間違いです。イエスもやはりわれわれと同じ人の子だったと見る方がよほどよろこばれるはずです。

自分だけ超然とした位置に留まることはイエスはよろこばれません。人類とともによろこび、ともに苦しむことを望まれます。一つの生き方の手本を示しておられるのです。

イエスが行ったことは誰にでもできることばかりなのです。誰もついていけないような人物だったら、せっかく地上へ降りたことが無駄だったことになります」


 話題が変わって───

牧師 「人間にも自由意志があるのでしょうか」

 「あります、自由意志も神の摂理の一環です」

牧師 「時として人間は抑えようのない衝動によってある種の行為に出ることがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志で行っているのでしょうか」

 「あなたはどう思われますか」

牧師 「私は人間はあくまで自由意志を持った行為者だと考えます」

 「人間には例外なく自由意志が与えられております。ただしそれは神の定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。これは神の愛から生まれた法則で、神の子すべてに平等に定められており、それを変えることは誰にもできません。その規則の範囲内において自由であるということです」

牧師 「もし自由だとすると罪は恐ろしいものになります。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強制的にやらされる場合より恐ろしいことに思えます」

 「私に言えることは、いかなる過ちもかならず本人が正さなくてはならないということ、それだけです。地上で正さなかったら、こちらへ来て正さなくてはなりません」

牧師 「感心できないことをしがちな強い性癖を先天的に持っている人がいるとは思われませんか。善いことをしやすい人とそうでない人がいます」

 「難しい問題です。と申しますのは、各自に自由意志があるからです。誰しも善くないことをすると、内心では善くないことであることに気づいているものです。その道義心をあくまでも無視するか否かは、それまでに身に付けた性格によって違ってくることです。罪というものはそれが結果に及ぼす影響の度合に応じて重くもなり軽くもなります」

 これを聞いてすかさず反論した。

牧師 「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」

 「罪は罪です。からだが犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれも罪は罪です。あなたはさっき衝動的に犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこからくると思いますか」

牧師 「思念です」

 「思念はどこからきますか」

牧師 「(少し躊躇してから)善なる思念は神から来ます」

 「では悪の思念はどこから来ますか」

牧師 「わかりません」(と答えているが実際は〝悪魔から〟と答えたいところであろう。シルバーバーチはそれを念頭において語気強くキリスト教の最大の矛盾を突く──訳者)

 「神はすべてに宿っております。間違ったことの中にも正しいことにも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。

空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。お分かりになりますか。神とは〝これとこれだけに存在します〟というふうに一定の範囲内に限定できるものではないのです。

全宇宙が神の創造物であり、そのすみずみまで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台無しにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。

神はすべてに宿ります。あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。

もしもあなたが、あなたのおっしゃる〝完全な生活〟を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。私の言っていることがお分かりですか」


牧師 「おっしゃる通りだと思います。では、そういう煩悩ばかりを抱いている人間が死に際になって自分の非を悟り〝信ぜよ、さらば救われん〟の一句で心に安らぎを覚えるという場合があるのをどう思われますか。キリスト教の〝回心の教義〟をどう思われますか」


 「よくご存じのはずの文句をあなた方の本から引用しましょう。〝たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益かあらん〟(マルコ8・36)〝まず神の国とその義を求めよ。

しからばこれらのものすべて汝らのものとならん〟(マタイ6・33)この文句はあなた方はよくご存じですが、はたして理解していらっしゃるでしょうか。

それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。〝神を侮(あなど)るべからず。己の蒔きしものは己れが刈り取るべし〟(ガラテア6・7)これもよくご存じでしょう。

 神の摂理は絶対にごまかせません。暴若無人(ぼうじゃくぶじん)の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一度に洗い落とせると思われますか。

無欲と滅私の奉仕的精神を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言ですべてが赦されるとしたら、はたして神は公正であるといえるでしょうか。いかがですか」

牧師 「私は神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ・・・ 」

 「お待ちなさい。私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。率直にお答えいただきたい。本に書いておる言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか私には分っております。私は、あなた自身がどう思うかと聞いているのです」

牧師 「確かにそれでは公正とは言えないと思います。しかしそこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです」

 「この通りを行かれると人間の法律を運営している建物があります。もしその法律によって生涯を善行に励んできた人間と罪ばかりを犯してきた人間とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思われますか」

牧師 「私は、生涯を真っ直ぐな道を歩み、誰をも愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じた人が・・・私は───」

 ここでシルバーバーチがさえぎって言う。

 「自分が種を蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る。この法則から逃れることは出来ません。神の法則をごまかすことは出来ないのです」

牧師 「では悪の限りを尽くした人間がいま死にかかっているとしたら、その償いをすべきであることを私はどうその人間に説いてやればいいのでしょうか」

 「シルバーバーチがこう言っていたとその人に伝えて下さい。もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになれるはずです。自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持ちがどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない。ただの臆病者だと、そう伝えて下さい」

牧師 「しかし、罪を告白するということは誰にでもはできない勇気ある行為だとは言えないでしょうか」

 「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。

元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が休まったとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いた種は自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です」

牧師 「しかしイエスは言われました。〝労する者、重荷を背負える者、すべて我れに来たれ。汝らに安らぎを与えん〟 (マタイ11・28)」

 「〝文は殺し霊は生かす〟(コリント後3・6)というのをご存じでしょう。あなた方(聖職者)が聖書の言葉を引用して、これは文字どうりに実行しなければならないのだと言ってみても無駄です。今日あなた方が実行していないことが聖書の中にいくらでもあるからです。私の言っていることがお分かりでしょう」

牧師 「イエスは〝善き羊飼いは羊のために命を捨つるものなり〟(ヨハネ10・11)と言いました。私はつねに〝赦し〟の教を説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの心が自分を支配していることを暗黙のうちに認める者は、それだけでその人生が大きな愛の施しとなるという意味です」

 「神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する───それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。

 前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとはかぎらないのです。そのうちの多くはのちの人が書き加えたものなのです。イエスがこうおっしゃったとあなた方が言う時、それは〝そう言ったと思う〟という程度のものでしかありません。

そんないい加減なことをするよりも、あの二千年前のイエスを導いてあれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知ってほしいのです。

 あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡知、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。なにも、神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。今ここに在しますのです。二千年前とまったく同じ神が今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は今も決して多くはありません。

しかし何ゆえにあなた方キリスト者は二千年前のたった一人の霊能者にばかりすがろうとなさるのです。なぜそんな昔のインスピレーションだけを大切になさるのです。なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです」

牧師 「私は私の心の中にキリストがいて業をなしていると説いています。インスピレーションを得ることは可能だと思います」

 「何ゆえにあなた方は全知全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです。宇宙の大霊が一個の人間あるいは一冊の書物で全部表現できるとでもお考えですか。私はクリスチャンではありません。

イエスよりずっと前に地上に生を受けました。すると神は私に神の恩恵に浴することを許して下さらなかったということですか。

 神のすべてが一冊の書物の中のわずかなページで表現できるとお思いですか。その一冊が書き終えられた時を最後に神は、それ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとお考えですか。聖書の最後の一ページを読み終わった時、神の真理の全てを読み終えたことになるというのでしょうか」

牧師 「そうであってほしくないと思っています。時おり何かに鼓舞されるのを感じることがあります」

 「あなたもいつの日か天に在します父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応わしい住処に住まわれます。神に仕える者としてのあなたに分かっていただきたいことは、神を一つのワクの中に閉じ込めることはできないということです。神は全ての存在に宿るのです。

悪徳の固まりのような人間も、神か仏かと仰がれるような人と同じように神とつながっているのです。あなた方一人ひとりに神が宿っているのです。あなたがその神の心をわが心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力と安らぎとが、あなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」

牧師 「今日まで残っている唯一のカレンダーがキリスト暦(西暦)であるという事実をどう思われますか」

 「誰がそんなことを言ったのでしょうか。ユダヤ人が独自のカレンダーを使用していることをお聞きになったことはないでしょうか。多くの国が今なおその国の宗教の発生と共に出来たカレンダーを使用しております。私は決してイエスを過小評価するつもりはありません。

私は現在のイエスがなさっておられる仕事を知っておりますし、ご自身は神として崇められることを望んでいらっしゃらないこともよく知っております。イエスの生涯の価値は人間が規範とすべきその生き方にあります。イエスという一個の人間を崇拝することをやめないかぎり、キリスト教はインスピレーションにはあまり恵まれないでしょう」

牧師 「キリストの誕生日を西洋歴の始まりと決めたのがいつのことだかよく分っていないのです。ご存じでしょうか」

 「(そんなことよりも)私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランドの)北部の町へ行き、大勢の神の子と共に過ごしました。高い地位の人たちではありません。

肉体労働で暮らしている人たちで、仕事が与えられると───大てい道路を掘り起こす仕事ですが───一生けんめい働き、終わると僅かばかりの賃金をもらっている人たちです。その人たちが住んでいるのはいわゆる貧民収容施設です。これはキリスト教文明の恥辱ともいうべき産物です。

 ところが同じ町にあなた方が〝神の館〟と呼ぶ大聖堂があります。高く聳えていますから太陽が照ると周りの家はその影になります。そんなものが無かった時よりも暗くなっています。これで良いと思われますか」

牧師 「私はそのダーラムにいたことがあります」

 「知っております。だからこの話を出したのです」

牧師 「あのような施設で暮らさねばならない人たちのことを気の毒に思います」

 「あのようなことでイエスがおよろこびになると思われますか。一方にはあのような施設、あのような労働を強いられる人々、わずかな賃金しかもらえない人々が存在し、他方にはお金のことには無とん着でいられる人が存在していて、それでもイエスはカレンダーのことなどに関わっていられると思われますか。

 あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、大聖堂のための資金のことやカレンダーのことや聖書のことなどにイエスが関わられると思いますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と名告るこの国にそんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、いったいあなた方は何と心得ていらっしゃるのですか。 

 あなたは経典のことで(改訳聖書と欽定訳聖書とどっちがいいかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりもっと大切な、そしてもっと大きな仕事があるはずです。神はその恩寵を全ての子に分け与えたいと望んでおられることが分りませんか。

飢え求めている人がいる生活物質を、世界のどこかでは捨て放題の暮らしをしている人たちがいます。他ならぬキリスト者が同じことをしていて、果たしてキリスト教を語る資格があるでしょうか。

 私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主の目に涙を見たことがあります。キリスト者をもって任ずる者が、聖職に在る者の多くが、その教会の陰で進行している恥ずべき事態に目を瞑っているのをご覧になるからです。

その日の糧すら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館のつもりで建立した教会を宝石やステンドグラスで飾り、その大きさを誇っているのを見て一体だれが涼しい顔をしていられましょう。

 その人たちの多くは一日の糧も満足に買えないほどの僅かな賃金を得るために一日中働き続け、時には夜更かしまでして、しかも気の毒にその疲れた身体を横たえるまともな場所もない有様なのです。あなたを非難しているのではありません。

私はあなたに大きな愛着を覚えております。お役に立つことならどんなことでもしてあげたいと思っております。が、私は霊界の人間です。そしてあなたのように、社会へ足を踏み入れて間違いを改めていくための一石を投じてくれるような人物とこうして語るチャンスが非常に少ないのです。

 あなたに理解していただきたいことは、聖書のテキストのことをうんぬんするよりも、もっと大切なことがあるということです。主よ、主よ、と叫ぶ者がみな敬虔なのではありません。神の意思を実践する者こそ敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日なおあなた方は、それが一番大切であることをなぜ信者に説けないのでしょうか。

 戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業、こうした現実に知らぬふりをしている限りキリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。

 あなたは(メソジスト教の)総会から抜け出て来られました。過去一年間、メソジスト教会の三派が合同して行事を進めてまいりましたが、せっかく合同しても、そうした神の摂理への汚辱を拭う為に一致協力しない限り、それは無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解を受けては困るからです」

牧師 「数年間に私たちは派閥を超えて慈善事業を行い、その時の収益金を失業者のための救済資金として使用しました。大したことは出来ませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか」

 「あなたが心掛けの立派な方であることは私も認めております。そうでなかったら二度もあなたと話をしに戻って来るようなことはしません。あなたが役に立つ人材であることを見て取っております。あなたの教会へ足を運ぶ人の数は確かに知れています。

しかしイエスは社会のすみずみにまで足を運べと言っていないでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなた方から足を運ばなければならないのです。

 教会を光明の中心となし、飢えた魂だけでなく飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡知の言葉だけでなくパンと日常の必需品を与えてあげられるようでないといけません。

魂と肉体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための身体も救ってあげないといけません。教会がこぞってそのことに努力しなければ、養うものを得られない身体は死んでしまいます」

 そう述べてから最後にその牧師のために祈りを捧げた。

 「あなたがどこにいても、何をされても、常に神の御力と愛が支えとなるように祈ります。常に人のためを思われるあなたの心が神の霊感を受け入れられることを祈ります。

願わくは神があなたにより一層の奉仕への力を吹き込まれ、あなたの仕事の場を光と安らぎと幸せの中心となし、そこへ訪れる人々がそこにこそ神が働いておられることを理解してくれるようになることを祈ります。

 神が常にあなたを祝福し、支え、神の道に勤(いそ)しませ給わんことを。願わくは神の意図と力と計画について、よりいっそう明確なる悟りを得られんことを。
 では神の祝福を。御機嫌よう」
             

シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch 

 Edited by A.W. Austen



十章 二人の幼児と語る

 サークルの正式のメンバーではないが、シルバーバーチの〝お友だち〟として毎年クリスマスが近づくと交霊会に招待されて、シルバーバーチと楽しい語らいを持っている子供がいる。ルース(女児)とポール(男児)の二人で、ともに心霊ジャーナリストの P・ミラー氏のお子さんである。

これから紹介するのはそのミラー氏がサイキックニューズ紙に発表したその日の交霊会に関する記事である。


 まずシルバーバーチが次のような祈りの言葉を述べた。
 「神よ、なにとぞ私たちにあなたの愛、あなたの叡知、あなたの慈悲を知る力を授けたまえ。素朴さと無邪気さの中にあなたに近づき、童子のごとき心をもつ者のみに示される真理を悟らしめ給わんことを。あなたは不変にしてしかも変転きわまりなき大自然の栄光の中のみならず、童子の無邪気さの中にも顕現しておられるからでございます」

 そして二人に向かい、あたかも慈父のごとき口調で、目にこそ見えなくてもたびたび二人の家を訪れていることを述べ、さらに、

 「私はあなた達と遊んでいるのですよ。妖精や天使たちといっしょに、そして、とくにあなたたちに霊の世界のすばらしさを教えようとしている人たちといっしょに、あなたたちのお家(うち)を訪れているのですよ」
と述べた。

 すると最近になって霊視力が出始めたルースが寝室で見かける〝光〟は何かと尋ねた。ポールもルースといっしょにいる時に同じものを見かけることがある。シルバーバーチはそれが妖精と天使が見せてくれているものであることを説明してからルースに向かって、

 「あの光はその妖精たちが携えてくる〝守護の光〟で、あなたたちを取りまいております」と述べ、今度はポールに向かって、

 「霊の世界には地上で遊ぶチャンスが与えられないうちに連れてこられた子供がそれはそれはたくさんいるのです。そういう子供たちをあなたたちと遊ばせるために連れ戻すことがあります。あなたたちとの遊びを通して、まだ一度も体験したことのないものを得ることができるのです」


 ルースがシルバーバーチにこうして霊界からお話をしに戻って来てくれることにお礼を言うと、シルバーバーチは、

 「いえ、いえ、あなたたちこそ私の話を聞きに来てくれてありがとう。こうしてお話をしに来ることによって私は、みなさんが私のお話から得られる以上のものを頂いているのです。お二人の心には私の本当の住処である高い境涯の純粋さが反映しております。

その純粋さは地上近くで仕事をしている霊にとって、とても大切なものなのです。それをお二人の心の中に見つけて、いつも慰められております」

ルース 「霊界のお友達に会いに戻られるのは楽しいですか」

 「もちろん楽しいですとも、ルースちゃんがもしお家から遠く離れて暮らし永いことお父さんお母さんに会わずにいたら、いよいよお家へ帰ることになったと聞かされた時はうれしくないですか。

私はもうすぐ〝多くの住処〟のある私の本当の〝父の家〟に帰って(※)そこで大勢の私の愛する霊、私を愛してくれてる霊、私にこの使命を授けて下さった霊と会うことになっております。ですが、それは、人生の旅を理解するための知識を必要としている地上のさらに大勢の人たちのお役に立つための力をいただくためです」

(※ヨハネ14・2 〝わが父の家には住処多し〟───霊界にもさまざまな生活の場があるということ。訳者)

ルース 「私も妖精を見るのが楽しみです」

 「そういう楽しみをさずかったことを感謝しなくてはいけませんよ。何も感じない人が大ぜいいるのですから」

 
 ここで二人が霊媒のびざに座ってシルバーバーチに口づけをさせてほしいと言う。それが終わると今度は霊界について何か楽しいお話をしてほしいと頼んだ。するとシルバーバーチは───

 「霊界にも広い広い動物の王国があることをご存知ですか。そこでは動物のあらゆる種類が───動物も小鳥も───襲ったり恐がったりすることなくいっしょに暮らしております。ライオンが小羊と並んで寝そべっても、ケンカもせずえじきになることもありません。

美しい花園もたくさんあります。そこに咲いている花々はそれぞれの種類に似合った色彩、濃さ、形をしています。地上では見られない色彩がたくさんあります。

また美しい湖、山々、大きな川、小さな川、豪華な羽毛と目の覚めるような色彩をした小鳥がたくさんいます。昆虫も綺麗な種類のものがたくさんおります。地上で見かけるものよりは変異しています。(物質界という)さなぎの段階を通過して、本当の美しい姿を見せているからです」

ポール 「地上でもし小羊がライオンのそばに寝そべったら、まるごと食べられてしまいます」

 「地上のことではありませんよ。こちらの世界のお話ですから大丈夫です」

ルース 「シルバーバーチさんのお家はきれいでしょうね」

 「それはそれは美しくて、とても言葉では言い表せません。絵かきさんが描こうとしても、ぜんぶの色あいを出す絵の具が地上にはありません。音楽でその美しさを表そうにも、地上の楽器では出せない音階があります。〝マーセルおじさん〟───シルバーバーチの肖像画を描いた心霊画家のマーセル・ポンサン氏でその日も出席していた───に聞いてごらんなさい。

あの人は絵かきさんです。時おりインスピレーションで見ている霊界の美しさを描く絵の具が無いとおっしゃるはずですよ」


ルース 「寝ている間に霊界へ行ったことを覚えていないのですけど・・・・」

 「大きな精神で体験したことが人体の小さな脳に入りきれないからです」

ポール 「シルバーバーチさんは英語がはっきりと話せるのですね」(ふだんのバーバネルよりもっとゆっくりと、そして一語一語はっきりと発音してしゃべる───訳者)


 「そのことを有がたいと思っています。こうなるまでにずいぶん永い時間がかかりました。ポール君がおしゃべりできるようになるのとほぼ同じ位の年数がいりました。このぎこちない地上の言葉をしゃべるようになるために私はずいぶん練習しました。

私の世界ではそんな面倒がいりません。言葉はしゃべらないのです。こちらは思念の世界です。あるがままが知れてしまうのです」

ポール 「ウソをついても知られないようにすることができますか」


 「ウソというのが存在できないのです。神様の摂理(おきて)をごまかすことはできないからです。あるがままの姿が映し出されるのです。見せかけも、ごまかしも、ぜんぶはぎ取られてしまい、そのままの姿がみんなに見られるのです。でも、それを恐がるのは自分のことしか考えない人たちだけです」

ルース 「いまイエスさまが話そうと思えば霊媒を通じて話すことができますか」

 「いいえ。イエス様は王様が家来の者を使うように私たちを使っていらっしゃいます。私たちはイエス様の使節団なのです。イエス様のお考えを地上の人たちに伝え、地上の人たちの考えをイエス様にお伝えするのです。でも、イエス様の霊はいつも私たちとともにあります。けっして遠くにいらっしゃるのではありません。

前にもお話ししたことがありますが、私がイエス様のところに行く時は───もうすぐ参りますが───ルースとポールという名前の二人の良い子の考えと言葉と愛とをたずさえて参ります。ご存じのようにイエス様は子供が大好きなのです」

 二人がこの言葉の意味を考えている少しの間沈黙が続いた。やがてルースが言った。

ルース 「霊や妖精がいることを信じることができてうれしいです。いつまでも信じていたいと思います」


 「そうですとも、その信仰を忘れてはいけませんよ。人に笑われても気にしてはいけません。こんなすてきな信仰が持てて幸せだなあと、それだけを思っていればよろしい。それを笑う人は何も知らないのです」

 こう述べてからシルバーバーチはサークルのメンバーに 「この子は心の中で妖精を見たいという念をしきりに抱いているので、いま見せてあげようとしているところです」と述べ、妖精はバイブレーションが高いので普通の人間の目には見えないけど、いつか皆さんにも(物質化して)お見せできるでしょうと言った。


 ここで私(ミラー)が誰か私の友人が来ていますかと尋ねるとシルバーバーチは、
 「人間というのは面白いですね。よくそういう質問をなさいますが、愛の繋がりのある人はいつもそばにいてくれているのです。けっして遠くへ行ってしまうのではありません。みなさんは肉体という牢に閉じ込められているからそれに気づかないだけです。

霊の世界には時間もありませんし距離もありません。意識の焦点を合わせさえすればいいのです。私はこれから遠くへ参りますが、あい変らずここにいると言ってもいいのです。この問題はここでは深入りしないでおきましょう。二人の子供が混乱しますから」

ポール 「僕たちはどのようにして物事を思い出すのでしょうか。」

 「一つのことを知ると、それは〝記憶の部屋〟にしまわれます。そしてその知識が必要になると、知りたいという欲求がテコになって(タイプライターのキーのように)その知識を引き出します。すると記憶がよみがえってきて、使用されるのを待ちます。使用されるとまた記憶の部屋へ戻っていきます。一度学んだことは決して失われません。いったん憶えたことは決して忘れません」

ルース 「じゃ、あたしたちが考えていることが全部そちらから分るのですか」

 「親しい間柄の霊には分ります。人間の心の中は開いた本のようなものです。親しい人にはみな読み取れます。親しくない人には分かりません。近づけないからです」

ルース 「あたしはシルバーバーチさんが大好きです。どう説明してよいのか分らないくらい好きです」と言って、ポールと一緒に霊媒の顔をじっと見つめた。

 「私だってルースちゃんとポール君が大好きですよ。この気持ちは愛の大中心からくる愛、世界全体を支配している愛、宇宙全体を動かしている愛、全部の生命を優しく抱きしめ、たった一人の子供も、どこにいようと何をしようと、絶対に見放すことのない愛と同じものなのです。

それが、宇宙が始まる前から、そして宇宙が終わった後も、永遠に霊を一つに結びつけるのです。それは永遠に変わることのない神さまの愛であり、愛の神さまです。その愛の心をお二人が出すたびに神さまの心が発揮され、宇宙の創造の仕事が続けられるのを助けることになるのです」

  この対話にサークルの全員が涙を流した。

 続いて話題がシルバーバーチのインディアンとしての地上時代の生活に移った。まず山ふところでの〝水〟に左右された生活の様子を語った。

その生活は素朴で、現代生活にありがちな問題や、せかせかしたところがなかったこと、日が暮れると子供の霊がやって来て、良い子はもう寝る時間ですよと告げてくれたこと、寝入ると霊の世界へ遊びに行ったことなどを話して聞かせた。そして最後にこう述べた。

 「ではもう一つだけお話ししてお別れすることにいたしましょう。私は間もなく地上を離れ、いくつもの界を通過して私の本当の住処のある境涯へ行き、そこで何千年ものあいだ知り合っている人たちとお会いします。地上のために働いている人たちばかりです。しかもたびたび苦しい思いをさせられています。私はこれからそこへ行って、かつて身に付けた霊力を取り戻してきます。

 そこへ行って私はこれから先の計画を教えていただき、これまでに私が仰せつかった仕事をちゃんとやり遂げているかどうか、どこまで成功しどこが失敗したか、それを次の機会にやり直すことが出来るかどうかをお聞きします。

それからみんなで揃って大集会に出席して、そこであなたたちがイエスさまと呼んでいる方とお会いします。するとイエスさまは美しさとやさしさと理解と同情にあふれたお言葉を掛けてくださいます。 

そのとき私たちは神さまのマントで包まれます。愛の衣で包まれます。そして神さまの尊い力で身を固めて一人ひとりに授けられた新しい使命に向かって出発します。

お二人のような子供から〝シルバーバーチさんが大好き〟と言われるごとに私は〝ああ良かった〟と思います。なぜなら私たちの仕事は愛を得てはじめて成し遂げられるものであり、愛の反応を見出してはじめて仕事がうまく行っていることを知るからです」

 どうかその天界の光が皆さんの毎日の生活に反映されることを祈ります。神の恵みがいつもみなさんとともにあることを祈ります。ここにおいでのみなさんは今まさに神が託した霊団の保護のもとにいらっしゃいます」

 かくして二人の子供にとってその年で最高の一日が終わった。霊媒が意識を取り戻してふだんのバーバネルに戻り、二人に話りかけると、二人は驚いた様子で見つめていた。そして娘のルースは私に抱きつき、涙を流しながら言った───〝シルバーバーチさんとお友達になれて、あたし、ほんとにしあわせよ〟と。
     

Sunday, May 10, 2026

スピリティズムによる福音 アラン・カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。
────アラン・カルデック



第1章  私は法を破る為に来たのではありません

一、私が法を破ったり、予言者たちを否定しに来たのだと思ってはなりません。それらを破りに来たのではなく、成就しに来たのです──よって誠に言います。天地が滅びゆくまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのです。(マタイ 第5章 十七、十八)


 モーゼ
二、モーゼの戒律は、二つの異なった部分からなっています。シナイ山で宣言された神の法と、モーゼによって定められた民の法、または規律の法です。一方は変化し得ないもので、もう一方は国民の習慣や性格に適合したものであり、時とともに変化します。神の法は次の十戒の中に定められています。


ⅰ、私は、あなたたちを奴隷のすみかであるエジプトから救った神であり、あなたたちの主です。私の前に他の神は存在しません。天の上にあるものについても、地上にあるものについても、彫刻された像や、地上の水の中にあるものについても、いかなる偶像も創ってはなりません。それを崇拝したり、それらに対して儀式を行ってはなりません(→FEB版注1)。
ⅱ、あなたたちの神である、主の名前をみだりに唱えてはなりません。
ⅲ、土曜の日を聖日とすることを覚えなさい。
ⅳ、主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい。
Ⅴ、殺してはなりません。
ⅵ、姦淫を犯してはなりません。
ⅶ、盗んではなりません。
ⅷ、あなたたちの隣人に偽証を行ってはなりません。
ⅸ、あなたたちの隣人の妻を求めてはなりません。
Ⅹ、あなたたちの隣人の家や奴隷、しもべ、牛、ろば、またなんであれ、彼らに属するものを羨ましがってはなりません。(十戒 出エジプト 第二十章 二~五、七、八、十二~十七)


 あらゆる時代の全ての国にこの法は存在し、それ故に、その性格は神意を持つものであるのです。それら以外のものは全てモーゼが定めた法で、騒々しく規律の無いその民の間で、エジプトにおいて奴隷となっていた時に染まってしまった偏見や悪癖を根絶する必要があり、民は恐れからその内容に従ったのです。

その法の権威を示すためには、原始的な立法者が皆そうしたように、それらの起源が神にあるという意味合いを持たせることが必要でした。人間の権威は神の権威に頼る必要があったのです。しかし、無知な人々に強い印象を与えることができたのは、恐ろしい姿をした神の観念のみで、未発達な人々は、その中に道徳観や真っ直ぐな正義感を見出すことができたのです。

「殺してはなりません。隣人を害してはなりません」と言う部分を自分の戒律に含めたモーゼ自身が、殺すことを義務として、自分自身に矛盾するわけにはいかなかったのは明らかです。つまり、いわゆるモーゼの律法は、基本的に暫時的な性格を持つものだったのです。


 キリスト
三、イエスは法を破る為に来たのではありませんが、その法とは神の法のことです。その法を成就しに来た、つまり、その法を発展させ、その真なる意味を与え、それを人間の進歩の度合いに合わせ、適応させるためにやって来たのです。

ですからこの法の中には、教義の基本である神と隣人に対する私たちの義務の原則が顕われています。厳密に言うところのモーゼの法では、それらは内容においても、表現においても、大きく変えられています。

常に外見的な習慣や誤った理解を打ち消そうとしましたが、それらを要約するには、次の言葉以上に核心的なものとすることはできませんでした。「自分を愛するように、神をなににも増して愛しなさい」。また、その中にはすべての法と預言が存在すると付け加えています。

「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることは無く、ことごとく全うされるのです」という言葉によって、イエスは、神の法が完全に守られること、つまり地上に置いてその法が完全にその純粋さを保たれ、すべての広がりと重要性において実践されることが必要だと述べたかったのです。

しかし、ある種の人間、もしくはある単一の民族だけの特権を形成するためにその法が宣言されたのであったとすれば、実際なんの役に立つことができたでしょうか。神の子である人類の全てが、全く区別されることなく、同じように配慮されているのです。


四、しかし、イエスの役割と言うのは、その言葉に排他的な権威を持つ単なる道徳的立法者となることではありませんでした。イエスの到来の預言を遂行することがその役割であったのです。イエスには、神から与えられた使命と、その霊として特別な性格による権威があったのです。

イエスは、単なる命というものが地上において起こるものではなく、天の国において生きる命がそうであることを人類に教えに来たのです。この天の国へと導く道や、いかに神と調和するかの手段を人々に教え、また人間の運命の実現のために訪れる事柄の流れの中に、その手段を感知することを人々に教えたのです。

しかしながら、全てを述べたのではなく、多くの点に関しては、イエス自身が述べたように、まだ理解されないであろう事柄について真実の種を蒔くにとどまったのでした。すべてについて触れながらも、言葉の裏に隠した形で伝えました。

その言葉の幾つかに隠された意味が学び取られるには、新しい考えや新しい知識によって、それを理解するのに不可欠な鍵がもたらされることが必要でしたが、そうした考えというものは、人類の霊がある程度の水準に成熟しなければ顕すことが出来なかったのです。

そうした考えを登場させ、発展させるために、科学は大いに貢献する必要がありました。従って科学が進歩するまで時間を与える必要があったのです。


  スピリティズム 
五、スピリティズムは霊界の存在とその様相、及びその物質界との関わりを、否定できない方法で証明することによって人類に示す新しい科学です。スピリティズムの中では、霊を超自然のものとして示すのではなく、自然界で絶え間なく働く生きた力の一つとして捉え、今日においても理解の不足から驚異と空想の産物として軽視されている様々な霊現象の根源としています。

キリストはこうした関係について、多くの場面において言及しましたが、彼の述べたことの多くは理解されなかったり、誤って解釈されたりしてしまいました。スピリティズムは、すべてをより容易に解説するための鍵なのです。


六、旧約聖書の法はモーゼによって具現化されました。新約聖書の法はキリストによって具現化されました。スピリティズムは神の法の第三の啓示ですが、どんな個人にも具現化されていません。なぜならそれは、人間によって与えられた教えではなく、霊たちによって与えられた教えの結果であるからで、それは無数の媒介者の協力によって地上のあらゆる場所に伝えられた天の声なのです。

別の言い方をすれば、それが集合的な存在であるということができ、それは霊界の存在者の集合によって形成され、その個々が人類に対して光の捧げものをもたらし、霊界を知らしめ、人類を待ち受ける運命を教えてくれているのです。


七、キリストが「法を破りに来たのではなく、成就するために来たのです」と言うように、スピリティズムも「キリストの法を破るために来たのではなく実行するために来たのです」と言うことができます。

キリストが教えたことに反する教えは一つもなく、それをさらに発展させ、補足し、例え話の形でしか述べられていなかったことを、誰にとっても明解な言葉によって解説しています。予言されたときにキリストが宣言したことを遂げる為に、そして未来の出来事に対する準備をするためにやって来たのです。

したがって、スピリティズムはキリストの業であり、その宣言のとおり、世を更生し、地上における神の国を準備するための指揮を取っているのです。

℘54   
 科学と宗教の同盟

八、科学と宗教は、人類の知性における二つの梃子(テコ)の役割を果たしています。一方は物質界の法を明らかにし、もう一方は道徳の世界を示します。しかし、これらの法は神と言う同一の原理のもとで矛盾することはできません。

もし一方が他方を否定するのであれば、必然的にどちらかが誤っていて、どちらかが真実であることになりますが、神は自らの創造物の破壊を意図しているはずがありません。

これら二種類の考え方の間に存在すると考えられる不一致は、一方の他方に対する誤った観察や、過度の排他主義からくるものでしかありません。そこから衝突が生じ、不信や偏狭が生まれました。

 キリストの教えが完成されなければならない時代が到来したのです。その教えの幾つかの部分に掛けられたベールが取り去られなければならない時が来たのです。科学は排他的に唯物的であることを止め、霊的要素を考慮に入れなければなりません。

宗教は有機的な法や、物質の普遍な法則を無視することを止め、一方が他方を補い合う二つの力として、友に歩み、相互に協力しなければなりません。そうすることで宗教は、事実に基づいた非の打ち所のない論理を確立することになり、科学に否定されることの無い理性に従った不動の力を得ることになります。

 科学と宗教が今日までお互いを理解できなかったのは、それぞれが排他的な視点を持って対立し、お互いを拒絶していたからです。両者を隔てる空間を埋め、両者を近づけるための統合の絆が欠けていました。

この統合の絆は、霊的宇宙を支配する法や、その物質界との関わりに関する知識の中に存在します。この法とは普遍の法であり、あらゆる存在や天体の動きを支配するもののことです。

こうした関係が経験により証明されると新たな光が生まれました。信仰は理性へと進み、理性は信仰の中に不合理を見出さず、かくして唯物主義は打破されたのです。

しかしすべてにおいてそうであるように、一般的な動きによって引っ張られて行くようになるまでには、それに遅れる人々が存在します。そうした人たちはその考えについて行こうとせず、それを踏みにじり、抵抗します。

今起こるすべての革命に霊たちが働き操作しています。十八世紀以上続いた一つの準備を経て、その実現の時が到来し、人類の生活における新しい時代を画すことになるのです。

その結果を予見することは容易です。社会関係に避けて通ることのできない変革を引き起こすことになり、それに対して誰も、抵抗することはできなくなるでしょう。なぜならそれは神意の内に存在し、神の法である進歩の法から生じる出来事であるからです。





    霊たちからの指導
   新しい時代

九、神は唯一であり、そのことをヘブライ人のみならず、多神教の民にも知らしめるため、その使命を託されて神によって送られた霊がモーゼです。ヘブライの民は、モーゼや預言者たちによって神の啓示を受けることで神に対して仕えた道具であり、この民族が経験した苦しみは、一般に人々の注目を集め、神意を人類の目から隠していたベールを取り除くためのものだったのです。

 モーゼを仲介して与えられた神の戒めは、広義におけるキリストの道徳の種を含んでいます。ところがそれらを純粋に実行してもその意味が理解できなかったために、聖書では意味を狭めて解説されています。しかし、そうであるからと言って神の十の戒めが、人類が通らねばならない道を明るく照らす灯台としての輝かしい姿を失うわけではありません。

 モーゼが教えた道徳は、更生を促す人々の当時の進化のレベルに適切なものでした。こうした人々は、魂の完成度においては半原始的で、生贄を使わずに神を崇拝したり、敵を赦すといったことを理解できませんでした。

彼らの知性の遅れは、物質的観点から見た芸術や科学において、また、道徳性においてもみられ、完全な霊的な宗教に改宗していたわけではありませんでした。ヘブライ人たちの宗教がそうであったように、半物質的な形で見せつけられることが必要であったのです。神の考えが霊たちに響くのと同じように、生贄が彼らの感情に訴えました。

 キリストはより純粋でより崇高な道徳、キリストの福音の創始者であり、それは世界を革新し、人類を兄弟として近づけるものです。人類の全ての心の中に慈善と隣人への愛を芽生えさせ、人類の間に共通の連帯感を生み出すものです。

その道徳はいずれ地球を変革し、今日そこに住む霊たちよりも優れた霊たちのすみかとすることでしょう。自然界を支配する進化の法は成就し、スピリティズムは、人類が前進するために神が用いる梃子の役割を果たすのです。

 神意にある進歩が実現するにはさまざまな考えが発展しなければならない時がやってきました。自由の観念やその先駆けとなった考え方が通った道と同じ道を辿ることになります。しかし、このような新しい考えの発展が戦いなしに達成されると考えてはなりません。

そうです、そうした考えが成熟するためには動乱や議論の対象となることが必要で、その結果大衆の注意を引くことになります。

一度それが達成されたなら道徳の神性さと美しさが霊たちの心を動かし、人々は永遠の幸せが約束される未来の生活の扉を開く鍵を与えてくれる科学を、受け入れることになります。モーゼが道を開き、イエスがその事業を継承しました。スピリティズムはそれを完成させることになります。(あるイスラエルの霊 ミュールーズ、一八六一年)


十、ある時神は、その尽きぬ慈悲により、真実が闇を追い払うのを人類が目にすることを許しました。その日、キリストが到来しました。生きた光が去り、再び闇が戻ってきました。真実か闇かの選択肢が与えられた後、世界は再び道に迷いました。

すると旧約聖書の中の預言者たちのように、霊たちがあなたたちに注意を促すために話し始めました。世界はその根本から動揺しています。雷が鳴り響いています。覚悟をしてください。

 スピリティズムは自然界の法そのものに則し、神の命令に従うものであり、神の命令に従う者はすべて、偉大で有益な目的を伴っていることを確信してください。あなたたちの世界は迷っています。

科学は道徳を犠牲にして発展し、あなたたちを物質的な豊かさへと導きましたが、それが原因で、闇の霊たちがあふれるようになりました。キリスト教徒たちが知るように、心と愛は科学とともに歩まねばならないのです。

ああ、十八世紀が過ぎ、多くの殉教者たちが血を流したにもかかわらず、キリストの国はまだ到来していないのです。キリスト教徒たちよ、あなたたちを救おうとしている師のもとへ戻ってください。信じ愛することを知る者にとってはすべてが容易なことです。

愛はそうした者を言い表しようのない喜びで満たします。親愛なる子供たちよ、この世は混乱しています。善霊たちはあなたたちに何度も言います。

嵐の訪れを告げる突風に身をかがめ、風によって地に倒されないようにしてください。つまり、予期せずに夫が戻ってきて打たれた、愚かな処女たちと同じ目に遭わないように準備をしてください。

 準備が進められている革命とは、物質的な革命というよりも道徳的な革命です。神のメッセンジャーである偉大なる霊たちは、信心の風を吹かせ、明晰で熱意にあふれた労働者であるあなたたちすべてが、自分の謙虚な声を聞くようにし向けるのです。

あなたたちは砂の粒ですが、砂の粒なしに山は存在しないのです。「私たちは小さい」というだけでは事足りないのです。一人一人に使命があり、それぞれの仕事が与えられています。蟻たちはその共同生活の巣を作り、取るに足らない微生物は大陸を創り上げているではありませんか。

新しい十字軍のはじまりです。宇宙の平和の使徒たちよ、戦争によってではなく、現代の聖ベルナルドとして、前を見つめ前進してください。世界の法とは進歩の法です。(フェヌロン ポアチエ、1861年)


十一、聖アウグスティヌスはスピリティズムの最も偉大な伝導者の一人です。ほぼすべての場所にその姿を現します。その理由は、この偉大なるキリスト教哲学者の生涯の中に見ることができます。

彼は教会の創始者たちの集団に属しており、そこから彼のキリスト教への忠誠とその強固な支えを得ています。他の多くの者がそうであるように、彼は多神教から去り、より正確に言うならば、深い不信仰から真実の輝きへと導かれました。

過度の贅沢に身を任せていると、彼を我に返らせる特別な魂の響きを感じ、幸せとははかなく無気力を誘う快楽の中にではなく、別のところに存在しているのだということに気づかされたのです。そして、ダマスカスへ向かう道の途中、「サウロよ、サウロよ。

なぜ私を迫害するのですか」と言ったのと同じ聖なる声をついに聞かされたのです。神よ、神よ、お赦しください。信じます、私もキリスト教徒です」。そしてそれ以来、福音を支えるもっとも強い者の一人となりました。

この輝かしい霊が残した注目すべき告白を読むと、彼の性格が読み取れるとともに、聖アウグスティヌスの母、聖モニカの死後、彼が語った預言的な言葉の内容を知ることができます。「私は、私の母親が私に会いに来て、忠告をくれ、未来の生活においてなにが私たちを待ち受けているのかを明らかにしてくれることを確信しています」。

なんと大切な教えがこの言葉の中に含まれていることでしょうか。来たるべき教義の予告が、何と激しく響いていることでしょうか。

聖アウグスティヌスがさまざまなところに姿を現すのは、古来より予感された真実を布教する時が到来したことを悟り、啓示を求めるすべての者に、熱意をもって応えようとしているからなのです。(聖パウロの弟子エラストゥス パリ、1863年)


<備考>聖アウグスティヌスは積み上げたものを崩すためにやって来たのでしょうか。もちろんそうではありません。その他の多くの者がそうであるように、彼は人間として生きていた間見ることができなかったものを、霊の目で見ているのです。

魂は解放され、新しい光をかいま見て、以前理解していなかったことを理解したのです。新しい考えが幾つかの金言の本当の意味を彼に示すことになりました。地上においては、その時持ち合わせていた知識に従って物事を評価して居ました。

しかし、新しい光が彼を照らすと、それらをより賢明に評価できるようになりました。こうしてそれまで霊に対して抱いていた考えや、反対者の論理に対して浴びせていた非難を捨てることになったのです。

キリスト教の純粋さのすべてが顕れた今日、キリストの使徒であることを放棄することなく、彼は幾つかの点について、生きていた時とは違う方法で考えることが出来るのです。自分の信心を否定することなく、スピリティズムの布教者となり、予言されたことを達成しに来たのです。

スピリティズムを布教することにより、現代に生きる私たちがその記録をより適切に論理的に解釈できるように導いてくれるのです。同様の立場にある他の霊たちにも同じことが起きています。

●FEB版注1
 アラン・カルデックは第一の戒めの最も重要なところだけを引用し、それに続く次の文は記載しませんでした。
「あなたの神、主である私は、ねたむ神であるから、私を憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、私を愛し、私の戒めを守るものには、恵みを施して千代にいたるであろう」。(出エジプト 第二十章 5、6)

 カトリック教会やプロテスタントによるこの戒めの翻訳は、魂がたった一度だけ受肉するという教義と一致させるため、削除されました。また、「三、四代に及ぼし」という箇所はブラジル版の聖書によると、Zamenhof の訳で、文章を「三、四代まで」と変更しています。カトリックのIgrejaAnglicana教会やプロテスタントのAlmeidaやその他に見られる、こうして手を加えられた文章は、神の正義を恐ろしいものにしてしまっています。

つまり、息子、孫、ひ孫、又その次の代の者が、父、祖父、ひいおじいさん、の罪により罰せられることになってしまうのです。これは一度限りの命の考え方に法をあてはめた失敗の例です。──FEB一九四七

スピリティズムによる福音 序 章           アラン カルデック著

本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。
揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。────アラン・カルデック



序 章 

Ⅰ、 本書の目的

福音書に記された内容は五つの部分に分類することができます。
1、キリストの生涯における出来事。  2、奇跡。 3、預言。 4、教会の教義を確立させるために用いられた言葉。 5、道徳的な教え。

 最初の四つの部分は議論の対象となってきましたが、最後の一つに関して異議を唱える者は誰もいません。この神聖なる法の前には、不信心さえも屈するのです。

道徳的な教えは、すべての宗教が交わるところであり、この法の旗のもとには、信仰の対象がどのように違っていようとも、万人が宿ることができます。

教義の違いが引き起こす、様々な宗教的論争の対象にはなり得ないものなのです。もし、これについて議論しようとするならば、その宗派は、自らに対する非難に出遭うことになるでしょう。また、そのような宗派はほとんどの場合、一人一人の改革を強いる道徳的な部分よりも、神秘的な部分に執着しているものです。

 キリストの道徳的な教えとは、人類の個人的・社会的生活のあらゆる状況における行動の規則であり、最も厳格な正義によって築かれた、全ての社会関係の原則となるものです。

幸福を手に入れるために何よりも間違いのない道であり、ベールに覆い隠された未来の生活の一端を垣間見せてくれるものなのです。本書を発刊する極めて重要な目的はこの部分にあります。

 誰もが福音の道徳に感心し、その崇高さと必要性を唱えます。多くの人が、他人が言ったことを信じたり、格言と化した教えの言葉を用いたりしていますが、その深い意味を知る者は非常に少なく、そこから結果を引き出すことが出来る人は更に少ないといえます。

それはほとんどの場合、読み方が難しくて、多くの人が福音を理解できないからです。これでは、意味を理解することなく祈りを唱えるのと同じで、全く無益なことになってしまいます。福音の朗読が、義務感から強要されて行われるものになってしまっていることは否めません。

 福音を理解できない原因の一つとしてあげられるのが、装飾的な表現や意図的に神秘性を加えられた言葉の多用です。方々に散らばった道徳の規律は、物語の間に入り混じっているために見失われてしまい、全体を一つとして理解し、朗読の対象となるものと、熟考の対象となるものとに区別することができなくなってしまうのです。

 これまでにも、福音の道徳に関するさまざまな専門書が確かに書かれてはいます。しかし、その現代的で文学的なスタイルは、素朴な簡潔さを失ったことで本来の魅力と威厳を薄れさせ、中には、最も際立った教えを、格言的な表現に簡略化してしまったものさえあります。

簡略化された教えは気の利いた格言に過ぎず、その教えが伝えられた時の状況や場面の説明が伴っていないために関心が奪われてしまっているのです。

 こうした不具合を避けるために、本書では信仰する宗教が何であるかに関わらず、全世界共通の道徳の法として構成することのできる条項を集めました。

引用については、その考えを発展させるために有効な箇所は残し、テーマに関連しない部分だけを除外しました。また、筋の分割に関しても、サシ―(sacy)による翻訳に正確に従いました。(→和訳注1)。

しかしながら、教えを年代順に追うことが不可能なこと、また、そうすることによって得られる実質的な利点がないことから、相応する性格に従って系統的に分類し、一つ一つの教えがつながっていくよう、出来る限り努めました。章の番号と節の番号を付したことにより、必要に応じて一般的な分類で調べることもできます。

 しかし、これは本書の物理的な特徴であり、二次的な目的でしかありません。最も肝心なことは、曖昧な部分をきちんと解説し、生活のあらゆる条件にあてはまることを考えながら、教えを充分に展開させて、皆の手の届くところにおくことです。

本書では、私たちを見守ってくれている善霊たちの助けを借りながら、そうすることを試みました。

 福音書や聖書など、一般的な聖典には不明瞭な部分が多く、中には本当の意味を理解するための鍵が見当たらないために、道理にかなっていないのではないかと誤解を受けるようなものもあります。スピリティズムにはこのような鍵が完全な形で存在しています。

教義を真剣に研究した者たちを納得させたように、後になれば、その鍵がどれほど役立つものかを知ることが出来るでしょう。スピリティズムは、太古より人類のあらゆる時代、そしてすべての場所に存在してきました。文献、信仰、記念碑等、あらゆるものの中にその形跡を見つけることができます。

曖昧さを解く鍵と長い歴史の中で育まれた英知が、未来へ向けて新しい地平線を拓くと共に、過去の謎に明るい光を投じるのです。

 各々の戒律について、補足として幾つかの指導を選択して加えてありますが、それは様々な国でさまざまな霊媒を通して霊たちが伝えたものです。つまり一箇所だけから得られたものではないということです。従って特定の個人やそれを伝えた者たちの影響を受けているというものではありません。

このさまざまなところから得られたという事実は、霊たちが国や人種を超えて同じ教えを伝えていること、また、そうした教えによってどんな特権を受けた者もいないのだということを証明するものでもあります。(→備考1)

 本書はすべての者のためにあります。本書からすべての者が、キリストの道徳に則して行動する方法を知ることができます。その方法とはスピリティストにとっては特に関係の深いものです。人間と不可視の世界との関係が今後も永遠に成り立っていくお蔭で、霊たちが全ての国々に教えてくれた福音の法は、もはや死語ではなくなるのです。

なぜなら、一人一人がそれを理解することによって指導霊たちの忠告に従い、継続してそれらを実践することを強いられることになるからです。霊たちによってもたらされるこうした指導はまさしく天の声であり、人類の謎を解き明かし、福音の実践へと導いてくれるものなのです。

●備考1
 それぞれのテーマに関して本書の中で引用されたもの以外にも、他の町や他のスピリティスト・センターにおいて多くの通信が受けられていたことが勿論考えられます。しかし、無意味な繰り返しによって単調になることを防ぐ必要があったため、また、基調と形式において本書の計画に最も適当なものに選択を絞らねばならなかったため、本書に記すことのできないものについては今後の出版のために取っておくことにしました。

 霊媒たちに関しては、彼らの名前を記すことは避けました。なぜなら、名前を記すことは自尊心を満足させることでしかなく、彼らはそのようなことにはまったく価値を見出さないからです。本当に真剣な霊媒は、霊たちと通信するという自分の役割が、単に受動的なものであり、自分の価値を高めるものではないということをよく理解しています。この知性的な仕事に自分は機械的に協力したに過ぎず、おごってしまうことが愚かであることを知っているのです。


  Ⅱ、スピリティズムの教義の権威  霊たちによる教えの普遍的管理

 もし、スピリティズムの教義が、全く人間だけの考えによって成り立ったものであったとしたら、この教義を実際に思いついた人を啓発すること以外に、なんの保証もすることはできなかったでしょう。この世における唯一絶対の真理を手に入れようと考えることは誰にもできません。

 また、もし霊たちが、啓示をたった一人の人間にだけもたらしていたとすれば、その啓示がどこから来たのかを誰にも保証することはできないでしょう。なぜなら、霊たちから教えを受けたと主張する者一人だけの言葉を、私たちは信じなければならないからです。

その教えを、いやしくも私たちがこの上なく誠実に受け止めたとしても、その者ができることは、せいぜい自分の周囲にいる人々を納得させることくらいでしょう。一つの宗派を設立することが出来たとしても、世界中の人々を集結させることはできません。

 神は新しい啓示がもっとも早く正当な方法によって人類に届くことを望んだため、地球の端から端まで啓示が運ばれて行くよう霊たちに託し、霊たちはあらゆる場所で啓示を残しました。
 
特定の人間だけにその言葉を聞く特権を与えるようなことはありませんでした。啓示を受けるものが一人であれば騙されたり、間違えたりします。しかし何百万もの人々が同じことを見たり聞いたりした時には、そうではありません。
 
さらに言うならば、一人の人間を消すことはできても、すべての人を消すことはできないのです。そして、本を焼却することはできても、霊たちを燃やすことはできません。

たとえすべての本を焼却したとしても、教義の源は無尽蔵であり続けます。それは教義の源が地上にあるのではなく、どのような場所にも表れる霊たちの中にあるからで、誰もがそこに胸の渇きを癒すことが出来るのです。

 あとは教義を普及させる人々がいればよいのです。霊たちは、常にすべての人々に対して働きかけているのですが、そうした霊たちの存在にすべての人が気づくわけではありません。そのため、霊たちは無数の霊媒の力を借りて教義の布教を行っているのであり、世界中のさまざまな場所から教えを示してくれているのです。

 もし、ただ一人の紹介者しか存在しなかったとしたら、その通訳の内容がどんなによいものであっても、スピリティズムはこれほどまでに知られることにはならなかったでしょう。その通訳者がどんな階級に属していようとも、多くの人々から警戒され、すべての国々で受け入れられることはなかったと思われます。

 霊たちは、地球上のあらゆる場所で、すべての国の人々や宗派、すべての政党に対して通信してくれるので、誰もがそれを受け入れることができます。スピリティズムには国境がありません。又既存の宗教の一部をなすものでもありません。誰もが他界した家族や友人から指導を受けることができるのですから社会階級を問うこともありません。

そうでなければ、スピリティズムが人類すべてを兄弟愛へと導くことができないからです。中立的な立場を維持しなければ、不和を鎮めるどころか勢いづけることになってしまいます。スピリティズムの力と、その大変速い普及の理由は、こうした遍在性ある霊たちが普及させているということにあります。


 たった一人の人間の言葉でしかなければ、出版という力を借りたとしても、すべての人々に知れわたるまでには何世紀もかかることでしょう。それを、幾千もの声が地球上のあらゆる場所で、最も無知な者から最も博学なものまで、誰もがそれを受け継ぐことができるように、同じ原理を同時に宣伝してくれるのです。

これは、今日まで生まれたいずれの教義も享受したことがなかった有利な点です。したがってスピリティズムが真理であるならば、人間に嫌われたり、道徳的な革命が起こったり、あるいは地球が物理的に崩壊したりすることがあったとしても、その影響が霊たちのもとまで及ぶことはないのですから、恐れることは無いのです。
 
 このような特別な立場にあることからスピリティズムに与えられた有利な点は、こればかりではありません。スピリティズムには、人々の野心や、霊同士の矛盾から生じるどんな意見の違いからも攻撃されることはないという保証があります。

意見の相違がおこることが障害となることは間違いありませんが、善と悪とは隣合わせですから、その障害自体が、その障害を取り除く薬を持ち合わせているのです。

 霊たちは、自分たちの能力には差異があって、真理のすべてを手にすることはとてもできないということを自覚しています。ある種の謎については、限られた霊にしか知ることが許されておらず、一人一人の霊の知識は、各々の浄化の程度に応じているのです。

 平凡な霊たちは、多くの人間が知る以上のことを知ることはありません。しかし中には、人間同様、自分の知らぬことを知っていると思い込んで、うぬぼれたり知ったかぶりをする者がいるのです。

自分の考えが真実であると思い込む者もいます。また、自分たちが描く理想郷を真の理想郷だと信じ込ませようと、自分たちよりも高級な分類に属する霊の名前を平然と名のって、人を騙そうとする霊がいることも知られています。

結局のところ、現世的な偏見や考えを捨て去っているのは、物質的な観念から完全に脱却し、より高級な分類に属する霊たちだけなのです。


 ですから、啓示を得たとしても、それが道徳的な教えの範疇からはずれたものである場合はすべて、その啓示が個人的な性格を持った不確実なものであると疑う必要があります。このような啓示は一人の霊の個人的な意見として捉えるべきであり、それを絶対的な真実として軽率に広めては、慎重さに欠けることになります。

 その啓示が確実なものかどうかを証明するための第一の分析方法は、霊から伝えられたすべてのことを、もれなく理性によって分析することです。良心や厳格な理論、すでに得られている肯定的な事実に矛盾する理論は、それがどんなに表敬に値する名前によって署名されていたとしても、すべて否定されるべきです。

しかしながらこの分析方法は、自分自身に対して絶対的な自信を持っていない限り、行うのが難しいと言えます。実際、知識が欠けていたり、自尊心の強い傾向にある人が多かったりすることから、多くの場合、この分析方法だけでは不十分でしょう。では、他にどんな方法があるのでしょうか?

大勢の人々の見解を求め、それを自分の意見の指針とすればよいのです。これは、霊たちが私たちに与えてくれている方法でもあるのです。

 霊たちは、さまざまな場所で複数の人間に、同じ教えを示します。霊たちからの教えが一致していることが、最良の真偽の証明になるのです。しかし、それがある決められた条件下で示されたものであることが大切です。例えば、ある疑わしき事項について、一人の霊媒がさまざまな霊に対して尋ねるというのでは、証明する力が弱くなります。

なぜなら、
その霊媒が憑依のもとにある場合、もしくは人を騙す霊と結びついている場合、その霊が同じことを様々な名前を用いて述べるに違いないからです。

また、一つの集会所でさまざまな霊媒を通じて得られた教えが一致したとしても、やはり、霊媒たちが同じ影響下にある可能性があるため、それが確実な啓示であることを十分に証明することにはなりません。

 霊たちの教えの唯一の保証が存在します。お互いに知らない多数の霊媒たちを通じ、さまざまな場所で霊たちによって自発的に伝えられた啓示が一致していることです。

 これは、二次的な関心事に関する通信についてではなく、教義の原理に関した通信についてそうであるということに注意してください。経験によりある新しい原理が述べられる時、それは自発的にさまざまな場所で、同時に、その形式や真意までも同じ方法で伝えられるということが判っています。

ですから、もしある霊が、風変わりな方法で自分の意見を全面に出して真実を除外するようであれば、その意見は広まることなく、あらゆる場所において伝えられる確実な真理の教えの前に、必ずや崩されることになるでしょう。そのような事例は、これまでにも沢山あります。

スピリティズムの始まりにおいて、可視の世界と不可視の世界との関係を支配する法が知られる以前には、こうした不一致を排除する方法が、部分的に現れた、霊現象に対する個々の独自の説明を崩していったのです。

 教理の原理を確立する際に、私たちはこうした不一致を排除する方法に頼りました。霊たちの教えの一致です。私たちの考え方の一致ではありません。真実は私たちが作り上げたものではないのです。

ですから、「信じてください。なぜなら私たちが信じなさいと言っているのですから」などと、私たちが至上の真実の裁定者であるかのように主張することは決してありません。

私たちの意見は個人的な意見にしか過ぎず、それが真実であるにせよ偽りであるにせよ、他の考え方と比べて絶対に確実であるとも考えていません。私たちがそのことを真実としているのは、単にある原理が教えられたからではなく、一致した容認を受けたからなのです。
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 地上のあらゆる場所に、霊たちからの通信を受ける、千に近い敬虔なスピリティズムの集会所があり、それぞれの受けた啓示が一致することで、どんな原理を確立しているかを観察する条件が、私たちには備わっています。この観察が、今日まで私たちを導いてきたのです。

そしてまた今後も、スピリティズムが新たに開拓しなければならない分野へと導いてくれるでしょう。

なぜなら、フランス国内を始め、諸外国からきた通信を注意深く観察すると、それぞれの啓示には共通した特別なメッセージが込められており、スピリティズムが新しい方向に進もうと、前へ向かって大きく踏み出す時が来たことを示唆しているからです。

 これらの啓示は、隠された言葉によってなされることが多いため、それらを受けた人たちにもしばしば見逃されてきました。また、自分たちだけが啓示を得られるのだと、勘違いしてしまう人もいました。

霊たちから送られる啓示は、一つ一つを個別に受け取ったというだけでは、私たちにとってどんな価値も持ち得ません。それらの通信内容が一致していることで初めて、重要性を持つことになるのです。

各々が同じ意味の通信を受けていたことは、後に公開されて知ることになります。こうした全体的な動きについて、どう扱うかの判断を助けてくれている私たちの指導霊たちに助力を受けながら、私たちは観察・研究したのです。

 こうして世界的に証明されることは、スピリティズムの未来永劫の普遍性を保証し、それに矛盾する全ての理論を打ち消すことになります。それを実現することができるようになった時こそ、スピリティズムは、真実の基準となり得るのです。

「霊の書」「霊媒の書」に著された教義が継承され続けてきたのは、人々がこれらの本に書かれたことを証明する啓示を、あらゆる場所で霊たちより直接受けたからです。万一、霊たちがこれらの本の内容と矛盾することを世界各地に出没して伝えていたとしたら、他の空想的な概念の全てが被ったように、これらの書物はとうに支持されなくなっていたことでしょう。

そうなるといくら出版社が本を出したところで無駄な努力です。しかしながら、そもそも『霊の書』『霊媒の書』は、出版社から助けを得ることができませんでした。

それでも道を閉ざされることなく、速い速度で広まって行きました。そこには霊たちの助力があったのであり、彼らが充分な意思をもって普及させたことにより、人間の悪意をも圧倒したのです。いかなる思想も、霊たちから発せられたものであれ、人間から発せられたものであれ、あらゆる対決の試練に耐え抜くことが、誰にも反対できない力の存在を示すことになるのです。
 
 
 仮に、本書に対抗する内容の本を書くことに喜びを感ずる霊がいたとしましょう。そして敵意をもって、スピリティズムの教義の信用を失わせようと、偽の通信を引きおこしたとします。

しかし他のすべての霊が、その霊と反対のことを言っていたとすれば、その霊が書いた書物が本書に一体どんな影響を及ぼすことができるでしょうか。どんな考え方であれ、自分の名を名乗って掲げるのであれば、このように多くの霊たちとの合意を得ようとしないことには、それが存続するための保証を得ることはできません。

たった一人の唱える主義主張とみなが唱えるものとの間には、一瞬から永遠までの距離があります。何百万もの友好的な声が届き、それが宇宙のすみずみから家庭の中にまで聞こえわたる時、それを汚し、その価値を失わせようとする論議に何ができるというのでしょうか。
 
この理論については、何もできないということをすでに実証済みです。スピリティズムを倒そうと意図して、これまでに書かれた無数の出版物はどうなったでしょうか。そのうち一冊でも、スピリティズムの歩みを遅らせることができたのでしょうか。
 
現在に至るまで、そのようなことが重要な問題として議論されたことはありません。いずれの書物も、それぞれが勝手な考えを伝えたのに過ぎず、霊たちが伝える真の啓示に従ったものではなかったのです。

 一致の原則は、スピリティズムが特定の個人の都合のいいように変更を加えられたり、利益目的の宗派に変えられたりしないように保証するものでもあります。根本的な神意を曲げようとする者は、成功することはないでしょう。なぜなら、霊たちの教えは普遍的なものであり、霊たちは、真実から遠ざけようとするいかなる変更をも地に倒そうとするからです。

 こうしたことのすべてから根本的な真実が導かれます。すでに確立され公認されている考えに対抗しようとする者は、確かに、ごく限られた場所で一時的に動揺をもたらすことが出来るかもしれません。しかしその時においても、また、未来においても、全体を支配することは決してできないのです。

 また、霊たちによって与えられた指導であっても、それがまだ教義によって解説されていないことに触れており、孤立して存在しているうちは、それが法をなすものでないのだということを強調しておきます。ゆえに、結局のところそうした指導は、今後解明されることが必要なものと言う制限つきで、受け入れられなければなりません。

 これらの指導を公表するか否かについては、この上なく慎重に吟味する必要があります。そしてそれを公表してもよいと判断された時には、必ず、それが正確な啓示であるという確認を事前に取ったうえで、まだ一致による容認を受けていない、個人的な意見に過ぎないものとして公開することが大切です。

軽率であるとか、浅はかな信心だと非難されたくなければ、ある主義主張を絶対的な真実であると公開する前に、その確認が取れるのを待つことです。

 人智を超越した英知によって、優秀な霊たちは啓示を行います。教義の大きな問題については、知性がより高い水準の真実を理解することができるようになるに従って、またその状況がその新しい考えを送信するにふさわしくなった時、徐々に伝達していきます。

このような計画があったので、最初から一度にすべてのことを伝えなかったのです。今日においてもいまだすべてを伝えられてはおらず、だからと言って、機が熟していないうちから啓示を求めたところで、与えられるものではないのです。神が其々の事柄に対して割り当てた時間を早めようとすることは、無駄なことです。

なぜなら、時間を早めようとしたとき、本当に真剣な霊たちはそれに同調することを拒むからです。軽率な霊は、真実に囚われることなく、全てのことに返事をします。そのために、機の熟していないあらゆる質問には、いつも矛盾した答えが返ってくるのです。

 この原則は、個人的な理論によってもたらされたものではありません。霊たちがおかれている状況から必然的にもたらされたものなのです。ある一人の霊があることをある場所で言う一方で、何百万もの別の霊がその反対のことをどこかで言うのであれば、押し量られる真実とは、たった一人、もしくはほぼ一人とみられる者が持つその考えの中にあるはずはありません。

誰か一人が、その他すべての者に反対されながら、理に適っていると主張しようとすることは、人間の間で理屈に合わないと同様に、霊たちの間でも理屈に合いません。


本当に思慮深い霊たちは、ある問題に関して十分に理解しているという自信がない限り、自分が絶対に正しいと主張して、その問題を解決することは決してありません。彼らは、自分の個人的な観点からその問題を扱っていることを宣伝し、その確認を待つことを勧めます。

 その考えがどんなに美しく、正しく、偉大であったとしても、啓示を受けたばかりの時は、あらゆる意見を集約することが不可能です。従って、複数の意見が衝突するのは避けられないことです。
 
しかし、複数の意見を衝突させることは、真実をより際立たせるためには必要なことであり、偽りの考えがすぐに取り除かれるためにも、早くからおきた方が良いことなのです。

ですからスピリティストはこれに関して恐れを抱く必要は全くありません。孤立したあらゆる思い上がった考えは、普遍性を持つ偉大で強力な基準の前に、自ら淘汰されることになるのです。

 ある一人の意見に他人が集まるのではなく、異口同音に発せられる霊たちの声に集まるのです。それは一人の人や、私たちや、スピリティズムの正当性を確立させることになる別の誰かでもありません。または誰であれ、一人の霊が強要しに来るのでもありません。

それは神の指示により、地球のあらゆる場所において通信する霊たちの教えの普遍性に集まるのです。それがスピリティズムの教義の根本的な性格であり、その力であり、権威です。神はその法が揺るがぬ基礎の上に君臨することを望み、そのために一人のはかない頭をその基礎としなかったのです。

 派閥や妬み深い競争相手、宗派、国家さえも存在しない、それほど強力な審判の前には、あらゆる反対意見も、野心も、個人的な優位性に立ったうぬぼれも崩壊してしまいます。私たちが自分自身の考えによって至上の法を変更しようとすれば、自らを破滅させることになってしまうのです。

神のみが論争すべき問題を決定し、異論者には閉口させ、道理にかなう者にはその正当性を与えるのです。こうした天からの威厳あるあらゆる声の前に、一人の人間や霊の意見に何ができるというのでしょうか。一つの意見、それは海の中に落ちて消滅する一滴の水や、嵐によって打ち消される子供の声よりも小さなものなのです。

 普遍的な意見こそが最高の審判であり、それは最後の時に発せられることになるのです。普遍的な意見はあらゆる個人的な意見によって形成されています。もしそのうちの一つが真実であれば、秤にはその相対的な重量しか示されないことになります。それが偽りであれば、その他の意見に対して勝ることはありません。

この広大な集合の中に全ての個人的な偏った考えが消えて行くことになり、人類の自尊心(→和訳注2)はここでも生き延びることが出来ないのです。

 神の意志のもとに働く霊たちの動きはすでに出来上がっているのです。今世紀は、その働きが輝くことにより、不確実な部分を明らかにすることなしに終わることは無いでしょう。すでに土地は十分に耕されているため、今からその時までは使命を受けた力強い声が、人類を一つの旗のもとに集めることになります。

それが実現するまでの間、二つの相対する主義の間をさ迷う人には、一般的な考えがどちらの方向に向かって形成されて行くのかを観察することができるでしょう。その方向を正しく示すのは、さまざまな場所において通信する霊たちの大半が発言することであり、それが、二つの主義の内のどちらが生き残るかを示す確かなしるしとなります。


℘29   
  Ⅲ、歴史的背景
 福音のくだりには、当時のユダヤ人社会の習慣を特徴づける語彙がしばしば用いられている個所があることから、より理解を深めるためには、そうした語彙が持つ正しい意味を知っておく必要があります。

いずれも今日では、もはや当時と同じ意味を持たないために、その意味を誤って解釈されることが多く、不確実性をもたらす原因になっているのです。これらの語彙の意味を正確に理解することにより、これまで妙だと感じられていたような金言についても、その真の意味を知ることが出来るでしょう。


サマリア人──十部族の分裂の後、サマリアはイスラエルから分裂した王国の首都となった。幾度も破壊されては再建され、ローマ時代には、パレスチナの四つの分割された地区の一つであるサマリア国の長となった。偉大なるエロデは、贅沢なモニュメントによりサマリアを美化し、アウグストゥスを讃え、彼をギリシア語でセバステと命名した。

 サマリア人たちは、ほとんどいつもユダの王たちと戦争状態にあった。分裂の時代以来、深い敵意が二つの民族の間に持続されることになり、お互いに避け合うような関係になっていった。

その溝はさらに広がり、宗教的な祭を祝う時でさえ、エルサレムに行かなくてもいいように、自分たちだけの宮を建て、教義に幾つかの変革を加えた。彼らはモーゼの法が記された『モーゼ五書』だけを用い、それらにあとで付け加えられたその他のいずれの書物も用いなかった。

彼らの聖典は最も古いヘブライ語で書かれていた。正統派のユダヤ人にとって彼らは異教徒であり、それ故に蔑視され、敵視され、迫害されることになった。お互いに信仰の起源は同じであったにもかかわらず、二つの国家の間に根強く浸透した敵意は、宗教的な意見の不一致によるものであった。当時のプロテスタントたちである。

 今日に至っても、ナブルス及びジャファといったレバンテの一部の地域には、サマリア人が存在する。彼らは他のユダヤ人たちよりも厳格にモーゼの律法を守り、サマリア人同士で結婚をする。

ナザレ人──古代の法において、一生涯、もしくは一時的にでも純粋さを完全に保つことを誓約したユダヤ人の人々に与えられた呼び名。彼らは貞節を守り、アルコールを飲むことを避け、髭を伸ばしていた。サムソン、サムエル、バプテスマのヨハネはナザレ人であった。

 イエスがナザレ出身であったことにちなみ、後になってユダヤ人たちは初期のキリスト教徒たちにこの呼び名を与えた。

 また、この呼び名は、西暦初期200~300年に存在した異教の宗派にも与えられた。この宗派はエボナイト派と同様に幾つかの原則を持っており、モーゼの法とキリストの教義の実践の両方を混在させていたが、四世紀に消滅した。

パブリカン(徴税官)──古代ローマ時代において、所得税を始めとするあらゆる税金の徴収を引き受けていた人々を指して言う呼び名。ローマを始め、ローマ帝国全土でこのように呼ばれていた。アンシャン・レジーム時代のフランスで見られた競売人や賃借人のような人々であり、その姿は今日も目にすることが出来る。
 
彼らは、一部の者から不当に徴税するなど、不正な手段によって利益を得ていたが、危険を伴う職務であったことから、人々は彼らが蓄えた富に対して目をつむっていた。

パブリカンという名は後になって、公的資金を管理する人々や、それに従属して働く代理人までをも指すようになった。

今日では、慎重さに欠ける財政官や代理人の代名詞として、軽蔑の意味を込めて用いられている。不当な手段によって富を得た人を指して、「パブリカンのように貪欲である」とか「パブリカンのように金持ちである」という表現が使われることもある。

 ローマの支配下において、ユダヤ人はなかなか税金徴収を受け入れずパブリカンを大いに苛立たせていた。やがてユダヤ人の中に多くの反発が生まれ、そこから宗教的な問題に転化し、税金を徴収することを法に反するものであると考えたのである。

そして、ゴロニテのユダと呼ばれた者を中心に、税金を支払わないことを原則とする強大な政党までもが組織された。結果としてユダヤ人たちは、
税金とそれを徴収する任務にあったものを嫌い、あらゆる種類のパブリカンを嫌悪するようになった。

パブリカンの中には尊敬すべき人物がいたにもかかわらず、その職務ゆえに蔑視され、また、彼らと関係を持っていた人々までもが同じ非難を受けた。ユダヤ人の有力者たちは、こうした人々と親しくなることは、わが身に危険を招くことだと考えていた。

関税徴収人──階級の低い税徴収者たちで、主に町に入るための税金の徴収を行っていた。その役割は、関税の徴収を行う税関職員の職務内容にほぼ相当する。当時は、パブリカン(徴税官)が一般的に反感を受けていたために、関税徴収人も同じように非難を受けざるを得なかった。

福音の中で、しばしば関税徴収人が罪深い人々の表現として用いられているのは、このような理由からである。罪深い人々とはいっても、堕落した者や浮浪者という意味は含まれていなかった。関税徴収人は、「悪い仲間を持つ人々」の同意語であり、他の人々と共に生活するにふさわしくない人々という意味で用いられていた。

ファリサイ人(ヘブライ語で分離・区別を意味する「parush」がその後源)──ユダヤ人の神学の中で、伝統は重要な位置を占めていた。その神学は、聖典の意味に従って代々継承された解釈を教義の条項として採用し、編集されたものから成り立っていた。
 
博士たちの間では、もっとも単純な言葉や形式の問題について、中世におけるスコラ学派の神学的議論に類するような、終わりのない論議がしばしば交わされた。そこからさまざまな宗教が生まれ、各々が真理を独占しようとして、お互いを憎み合うようになった。

 この時に生まれた宗派のうち、最も影響力を持っていたのはファリサイ人たちであったが、その長であるヒレル(Hillel)(→FEB版注1)は、バビロニアに生まれ、有名な学校を設立し、そこでは聖書のみに信仰を抱くべきであると教えた。ファリサイ人の起源は紀元前180~200年にさかのぼる。

ファリサイ人たちはさまざまな時代において迫害されたが、中でも激しかったのは、ユダヤの王であり教皇であったヒルカノ(Hircano)と、シリアの王であるアリストブーロスとアレクサンドロスの時代であった。

しかし、後者がファリサイ人たちに名誉を与え財産を補償したことから過去の勢力を回復し、
西暦70年頃にエルサレムが没落するまでそれを維持することになった。没落後はユダヤ人たちが離散したためにその名は消えていった。

ファリサイ人たちは宗教論争に積極的に参加した。外見的な儀式や習慣を厳格に守る人々であった。ユダヤ教を改革しようという熱意に満ちた革新者たちを敵視し、その主義を厳格なまでに貫き通す人々でもあった。しかしこれらは、細心の注意を払った熱心な見せかけにしか過ぎず、実際は、ふしだらな習慣には目をつむり、自尊心が強く、何よりも支配することに過剰なまでの欲望を抱いていた。

彼らにとって宗教とは、誠実な信仰の対象というよりも、自分たちの欲望を満たすための手段に過ぎなかったのである。見せかけや目立ちたがること以外に、どんな美徳をも有していなかった。しかし、中には民衆に大きな影響を与える者もいて、民衆からは聖なる人々であると見られていた。そんなことからファリサイ人たちは、エルサレムにおいて大きな勢力を持っていたのだった。

 神を信じていたというのではなく、せいぜい神や魂の不滅、永遠の罰、死者の復活(→第四章 四)を信じているふりをしていただけである。イエスは法の中で何よりも簡素さや魂の質を重んじており、殺す学問よりも生を与える魂を重要視したため、その使命の間に彼らの偽善を暴こうとした。

そのため、ファリサイ人たちの中に残忍なイエスの敵が現れた。ファリサイ人たちは主要な聖職者たちと同盟を結び、民衆が反乱を起こしてイエスを消すようにけしかけたのである。

書記官──主にユダヤの王の秘書やユダヤ軍の監督官に与えられた呼び名。後にモーゼの律法を民衆に解説する博士たちの呼び名として用いられるようになった。彼らの従う主義及び改革者たちに対する敵対心には、ファリサイ人たちと共通している点があることから、イエスはファリサイ人たちを戒めるにあたって、対象者として彼らをも含めた。

シナゴーグ集合、集会を意味するギリシア語の「synagogê」がその語源──ユダヤの国には、エルサレムのソロモンの宮一つしかなかったが、そこでは宗教のさまざまな儀式が行われた。ユダヤ人は毎年そこへ行き、過越祭り、奉納の祭り、神殿の祭りといった主要な祭りがあるたびに巡礼した。

こうした機会には、イエスもそこへ行くことがあった。その他の町には宮がない代わりにシナゴーグがあった。そこではユダヤ人が毎週土曜日に集まり、長老や書記官、律法学者たちが指揮を取って公式に祈った。またそこでは聖典の朗読も行われ、続いて解説や説教が行われ、誰もが参加することが出来た。
 
そうしたことから、イエスは司教ではなかったが、土曜日になると、シナゴーグで教えを説いたのであった。エルサレムが没落してユダヤ人が分散した後、シナゴーグは、ユダヤ人たちが生活を続けた町で、その宗派の祭りを行う寺院となった。

サドカイ派──紀元前248年頃に形成されたユダヤの宗派であり、その名は創始者のサドックに由来する。不死と復活を信じず、良い天使と悪い天使をも信じない。とはいえ、彼らは神を信じていた。死後に待ち受けるものは何もないので、一時的な報酬だけを目的に神に仕えていたのである。

彼らによれば、その報酬は神の意志により決められているという。サドカイ派は、このように考えることによって、肉体的な感覚を満たすことを人生の根本的な目的としたのである。法典については、旧法に従った。
 
伝統やいかなる解釈をも受け入れなかった。善の行いをし、法を簡素かつ純粋に守ることを、外見的な儀式の実践よりも上に置いていた。

彼らは当時における唯物主義者、多神教者、官能主義者であったのだ。宗派に属する人は少数であったが、幹部に重要な人物が何人かいたため、ファリサイ人と敵対する政党となった。


エッセ二ア人──紀元前150年頃、マカベウの時代に創設されたユダヤ人の宗派の一つ。修道院のような場所に住み、道徳的・宗教的結社として活動していた。その寛大な習慣や厳格さを特徴とし、神と隣人に対する愛と霊魂の不滅を教え、復活を信じていた。
 
独身生活を営み、奴隷制と戦争を非難し、その財産を分かち合い、農業に従事した。不死を否定した官能主義者のサドカイ派や、見せかけだけの美徳や単に表面的にだけ厳しい習慣を持っていたファリサイ人とは違って、エッセ二ア人たちは宗派論争に決して参加することはなかった。

彼らの説く道徳原則の内容と生活様式が、初期のキリスト教徒たちのそれと似通っていることから、イエスはその任務を開始する前は、エッセ二ア人の社会に属していたのではないかと多くの人々に思わせることになった。
 
イエスがエッセニア人たちのことを知っていたことは確かであるが、その社会に属していたことを証明するものは何も存在せず、それについて書かれたものはすべて仮説に過ぎない→備考2

セラペウタ(「仕える、面倒を見る」を意味するギリシャ語「therapeuein」が転じて「神に仕える、治療者」を意味する「therapeutai」になった)──キリストと同時代のユダヤの宗派で、特にエジプトやアレクサンドリアに存在した。エッセニア人との関係が深く、あらゆる美徳の実践を受け入れた。

食事は極端に質素であった。また、独身主義であり、独立した生活を送ることをよいと考え、宗教結社を形成していた。アレクサンドリアのユダヤ人でプラトン主義哲学者のフィロンはセラペウタをユダヤ教の一宗派と考えた最初の人であった。
 
一方、エウセビオス、(聖)ヒエロ二モス、及びその他教会の司教たちは、彼らをキリスト教徒であると考えた。実際にそうであったか否かは別にせよ、エッセニア人と同様にセラペウタも、ユダヤ教とキリスト教を統合させた面影を残していることは明らかである。

備考2
 エッセニア人によって書かれたと言われる「イエスの死」は全くの偽りの書物であり、その唯一の目的はある考えを支えることに過ぎない。その著書自体の中に、それが現代に書かれたものであることが証明されている。

 
℘36 
  Ⅳ、ソクラテスとプラトン。キリスト教思想及びスピリティズムの先駆者たち

 イエスがエッセニア人の宗派を知っていたからといって、イエスが自分の教義をそこから取り込んで生みだしたと結論づけることは誤りであり、またそうであったとすれば、もしもイエスが別の環境に生まれていたとしたら、別の主義を唱えていたことになってしまいます。

偉大な考えと言うものは、決して突然登場することはありません。真実の上に位置する考えというものにはいつも先駆者がいて、分担して道を切り開く準備をして行きます。

後になって、その時がやってくると、神はその考えを要約し、整え、散らばった要素を補い、それらを教義の幹としてまとめる者を送ることになります。このようにその考えは突然現れるのではないため、登場した時には受け入れる準備の出来た霊たちに出会うことができるのです。

キリスト教思想でもこのような事が起こり、イエスやエッセニア人の何世紀も前には、その主な先駆者としてソクラテスとプラトンがいました。

 ソクラテスはキリストと同様になにも記しませんでした。少なくともなにも書き残しませんでした。当時の信仰を攻撃し、偽善や偶像の上に真なる美徳を掲げ、いわば、宗教的な偏見を打ち破ったため、キリストのように狂信者の犠牲となり、罪人として死を遂げました。

ファリサイ人たちによって、その教えが民衆を堕落させていると非難されたイエスと同じように、ソクラテスも当時のファリサイ人に当たる人々に非難されました。神の唯一性、霊魂の不滅と未来の命についての教義をとなえて非難された人々は、いつの時代においても存在したのです。

イエスの教義をその使徒たちの書き残した者によってのみ知ることが出来るように、ソクラテスの教義も、その弟子プラトンによる記述によってのみ知ることができます。

ここで、最も重要な点について要約し、ソクラテスの教義とキリストの教えの原則、双方の一致している部分を示すことは有意義であると考えました。

 これらの二つの教義を対照することを不敬であると考え、多神教者の教義とキリストの教義の間に共通点がある筈がないと考える人々に対しては、ソクラテスが多神教者ではなく、彼の目的は多神教を崩すことにあったのだと申し上げておきます。

より完全で浄化されたキリストの教義は、その比較において何も失うものはありません。神意によって送られたキリストの使命の偉大さが減じられることはありません。ゆえに、その他のことについては、誰にも打ち消すことのできなかった歴史的事実として扱われるのです。

人類は、升の上に自ら光を灯す時代にまでたどりついています。人類は充分成熟し、それに真正面から向かい合うことが出来るようになり、聞く耳を持とうとしない者にとってはより難しい時がやって来ました。

物事をより広く、崇高に考える時代がやって来ており、もはや宗派や階級による狭い心に制限された視野で見る時代ではありません。

 さらに、このことは、ソクラテスとプラトンがキリストの思想を予感していたのであれば、その記述の中にスピリティズムの基本的な原則をも見出せることを証明してくれるでしょう。 


 
ソクラテスとプラトンの教義の要約    

、人間とは肉体を持って生まれる魂である。肉体を持って生まれる以前はその本質的なもの、真理、善、美の考えに属していた。そこから肉体を得て分離するが、その過去を覚えているために、そこへ戻ろうとする欲求に大なり小なり苦しめられる。

  知性的な根本と物質的な根本との区別と、その独立性を、これ以上明確に表現することは出来ません。さらに魂が存在するという教えについても同様です。

人間は、熱望するもう一方の世界に対する曖昧な直感──つまり死の後に、肉体の滅亡を超えて存在し続けることや、肉体を受けて生まれるために霊界から出てくること、そして再び同じ世界へ戻っていくこと──を抱き続けています。そして最終的には堕落した天使の教義にたどり着きます。

 

 魂は、肉体を使ってある目的を達成しようとすると動揺する。移りゆくものに執着するために、酔ったようなめまいを起こす。

一方で、自らの本質を見つめる時には純粋で永遠、不死なるものに向かうが、魂の性質がそうであるために出来る限り長くそこに繋がれようとする。すると、普遍的なものと結びつくために、道に迷わなくなる。その魂の状態を英知と言う。

 このように物事を地上においてしか考えることの出来ない人間は錯覚を起こしているのであって、物事を正確に観賞するには高い所から、つまり霊的な視点から見なければなりません。

ゆえに本当の英知を有する者は肉体と魂とを分離させ、霊の眼によって物事を見なければならないのです。それはスピリティズムが教えることと同様です(→第二章 五)


、私たちの肉体と魂がこの堕落の中に存在するうちは、私たちの望む真実を手に入れることはできない。私たちには肉体の面倒を見る必要があるため、そこから幾千もの障害が生じてくる。

それに加え、肉体は欲望や、貪欲、恐れ、数知れぬ妄想や、つまらぬことによって私たちを満たし、そのために、肉体を持っている間に、分別を持つことは、ほんの一瞬の間でさえ不可能となる。

しかし、魂が肉体に結びついている間、私たちは何も純粋な形で物事を知ることが出来ないのであれば、選択は二つに一つである。つまり真実を決して知ることができないか、死後それを知ることになるかのいずれである。
 
肉体の狂気から解放されれば、同様に解放された人々と会話をし、私たちは物事の本質を自ら知ることになるのだ。こうした理由によって真なる哲学者は死の準備をするのであり、彼らにとって死は決して恐怖ではないのである。

 肉体の器官によって弱められた魂の能力が、死後になって広がるのだ、という基本的な考え方がここにはあります。しかしそれはすでに浄化された魂に起こることであり、不浄の魂に同様なことが起きることはありません。(→『天国と地獄』第一部  第二章、第二部  第一章)
 

、不純な魂は、その状態に置いて抑圧された状態にあり、不可視で非物質的であることによって、可視の世界に引きずられて行くことになる。すると人々は、遺跡や墓石の周りで不気味な亡霊をみると、それらが肉体を後にしながら、いまだに完全に浄化されていないために、物質的な姿をひきずっているもので、それが人間の目に見えるのだと間違えてしまう。

実際には、それらは善なる魂ではなく、悪しき魂であり、こうした場所にさ迷うことを余儀なくされ、自分と共に生前の罰を引きずりながら、その物質的な姿に伴う欲求が再び別の肉体に反映されるまでさ迷い続けるのである。そして疑いもなく、最初の人生において有していた習慣を再び身に付け、それがその魂の執着となる。

 再生(リインカーネイション)(→和訳注3)の原則ばかりか、スピリティリズムにおいて霊との通信によって見られるような、肉体の枷のもとにある魂の状態までもがここに明確に表現されています。さらに、肉体への再生は魂の不浄の結果であり、浄化された魂は再生することから免れているとされています。

まったく同じことを、スピリティズムは述べていないでしょうか。付け加えるのであれば、霊界において善い決意を持った魂は、再生する際に、すでに有する知識とより少ない欠点、より多くの美徳や直感的な考えを、その前の人生の時より多く持ち合わせているのです。こうすることによって、一回ごとの人生は知性的、道徳的な進歩をもたらすことになるのです(→『天国と地獄』第二部 例)


、私たちの死後、生きている間任務にあった妖精(ダイモン、デビル)は、ハデス(地獄)へ行かなければならない者をすべて集めて連れて行き、そこでは審判が下される。魂たちは、ハデスにおいて必要な時間を過ごすと、複数回にわたる長い人生に再び導かれる。

 これは守護霊、もしくは保護霊の教義と、霊界におけるある程度の時間の感覚を置いた、連続的な再生の教義に外なりません。

 
、ダイモンは地上と天を分ける空間に存在する。その空間とは、すべてを自分自身に統合する偉大なる絆である。神が人間に直接通信をすることは決してなく、それはダイモンを介して行われ、ゼウス(神々)は彼らと取り決めを行い、起きている間も寝ている間もそれに従事する。

 ダイモンと言う言葉はディーモン(悪魔)の語源となっていますが、昔は現代のように悪者と考えられてはいませんでした。悪意のある者だけではなく、一般的な霊を指し、その中にはゼウス(神々)と呼ばれる優秀な霊たちも、人間と直接通信する劣った霊、つまりいわゆるディーモン(悪魔)も含まれていたのです。スピリティズムでも霊たちが宇宙空間に住んでいると言います。

神は純粋な霊たちを介してのみ人類と通信し、それらの霊たちは神の意志を伝えることを任されるのです。起きている間も寝ている間も霊たちは人間と通信します。ダイモンと言う言葉の箇所に霊と言う言葉を置き換えれば、スピリティズムの教義がそこにあることが判ります。天使という言葉に置き換えると、そこにキリストを読み取ることができます。


、(ソクラテスやプラトンの考えにもとづく)哲学者たちの不断の関心事は、魂に対して最も多くの注意を払うことであり、一時しか続くことの無い現在の人生には多くの関心を持たず、永遠を視野に置くことである。魂は永遠なのであるから、永遠を見据えて生きる方が賢明ではないか。


  キリスト教とスピリティズムは同じことを教えている

Ⅷ、魂が非物質であるならば、この人生の後には同様に不可視で非物質の世界を通らねばならず、それは肉体が分解して物質へと戻るのと同じである。しかしその時、神のように思考や科学によって自らを養う純粋で真に非物質の魂と、物質の不純さによる汚点を残した魂で、神に向かって昇って行くことを拒み、地上において存在した場所に残留する者たちとを区別することが大切である。

 この通り、ソクラテスとプラトンは、魂の非物質化の程度の違いを完全に理解していたのでした。その純粋さの程度により状況が多様化することを主張したのです。彼らが直感的に述べたことを、スピリティズムは私たちに無数の例を通じて証明しています(→『天国と地獄』第二部)


Ⅸ、死が人間の完全なる消滅であったのであれば、悪人は死によって多くを得ることになるであろう。何故なら、同時に肉体や魂、悪癖からも自由になることが出来るからである。外見的な装飾ではなく、適切なものによって魂を飾ることが出来た者だけが別の世界へ旅立つ時を平穏に待つことができる。

 これは唯物主義が、死の後には無が待っているということで、これまでのあらゆる責任を白紙にし、結果的に悪を助長することになるのだと言っているのに等しいのです。悪は無によってすべてにおいて得をすることになります。
 
悪癖を捨て美徳によって豊かになった人だけが、別の人生に目覚めるのを安心して待つことが出来るのです。スピリティズムは、毎日私たちに示してくれる例を用いて悪人にとって、この人生から別の人生、未来の人生への入り口へと移っていくことがどんなに苦しいことかを教えてくれます→『天国と地獄』第二部 第一章
 

Ⅹ、肉体はそれが受けた手当てや遭遇した事故の痕跡をはっきりと保っている。同じことが魂にも言える。肉体に別れを告げると、魂はその性格の明白な形跡やその愛情、人生の間に残したあらゆる行動の跡を保つことになる。そのために、人間において起こりうる最悪の不幸とは、別の世界へ罪に覆われた魂を持って移っていくことである。

あなたと同じように、カリクレスもボルックスも、ゴルギアスも別の世界へ行ったときに有益となるような別の人生を歩まなければならないのだということを証明することはできない。
 
これほどに多くの意見の中でも唯一揺らぐことのないことは、悪を働くよりも悪を受ける方が良いことであり、何よりも私たちは外見においてではなく、内面において善の人とならなければならないということである。(牢におけるソクラテスの弟子との対話より

 ここに私たちは、今日科学によって裏付けされたもう一つの重要な点を見出すことができます。すなわち浄化されていない魂は地上で持っていた考えや、傾向、性格、情熱を抱き続けるということです。
 
悪を働くより悪を受ける方が価値があるという金言は、まったくキリスト教の考えと等しいではありませんか。同じ考えをイエスは次の表現で表しました。「彼が一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい」→第十二章 7、8


、二つに一つ。死が絶対的な破滅であるか、魂が別の場所へ移行するのであるか。もしすべてが消滅するのであれば、死とは夢も見ず、自分自身の意識もなしに過ごすまれな夜のようなものである。しかし、もし死が生きる場所の変更に過ぎず、そこに死者たちが集まるのであれば、そこで知人に出会う喜びの何と大きいことか。

私の最大の喜びとはその別の場所の住人を近くで観察し、自分を何であると唱える人たちのうち、誰がそれにふさわしく誰がふさわしくないのかを知ることである。しかしいまは私たちに別れる時が来た。私は死へ、あなたたちは生へ。判事に対するソクラテスの言葉

 ソクラテスによると、地上に生きたものは死後に出合い、お互いを認識し合います。スピリティズムは、生きている間に人々がお互いに築いた関係は継続し、それ故に死は人生の中断でも、終わりでもなく、継続性のある避けることのできない変遷であると示しています。

 その五百年後に広められたキリストの教えや今日スピリティズムが広める教えをソクラテスとプラトンが知っていたとしても、彼らは別の言い方をすることはなかったでしょう。偉大なる真実は永遠で、進歩した霊がそれを地上に来る前に知り、地上にもたらしたのであると考えれば、それは驚くことではありません。

すなわちソクラテスやプラトンのような当時の偉大なる哲学者たちは、後の時代において、まさしく他人に比べ崇高な教えをよりよく理解する条件を備えていたために、キリストの神聖なる使命に従って、偉大なる真実をもたらすために選ばれた可能性があります。

そしてついには、同じ真実を人類に教える役割を担う霊の集団に加わっていると考えることができます。


、私たちに与えた損害がなんであろうと、それに対して不義によって報いたり、誰かに悪を働いたりしてはならない。しかし、この原則を受け入れる者は少なく、彼らとそれを理解しない者たちとは、疑いもなくお互いを蔑視することになるであろう。

 悪を悪によって報いず、敵を赦すことを教える慈善の原則が、ここに書かれているのではないでしょうか。


ⅩⅢ、果実によって木を知るのである。いかなる行動もそれがもたらすものによって評価されなければならない。そこから悪がもたらされるとき、それを悪と判別し、善の源となって居る時には善であると判断する。

 「果実によって木を知る」という金言は福音の中に繰り返し記載されています。


ⅩⅣ、富は大きな危険である。富を愛する者は皆、自分自身をも自分自身に属するものをも愛さない。その者に属するものよりも慣れないものを愛しているのである。


ⅩⅤ、最も美しい祈りも、最も美しい供え物も、神に同化しようと努力する徳の高い魂ほどに神を喜ばすことはできない。神々が私たちの魂よりも私たちの供え物に関心を抱くと考えたとしたらそれは重大な誤りである。
 
そうしたことが起きたのであれば、より責任を負う者が、都合よくなることができるようになってしまう。しかし、そうではない。言葉と行動において真に正当で公正な者だけが、神々や人々に対して負う義務を遂行する。→第十章 7,8

 
ⅩⅥ、魂よりも肉体を愛する者を悪習の者と呼ぶ。愛は自然のあらゆる場所に存在し、私たちが知性を使うことを促してくれる。天体の動きの中にも愛は見いだせる。その愛とは、自然を装飾する豊かな絨毯のようなものである。
 
愛は花が咲き芳香が漂うところを飾り、そこに存在する。人間に平和を与え,海を鎮め、風を静まらせ、痛みを和らげるのも愛である。

 一つの兄弟愛の絆によって人類を結びつける愛とは、自然の法としての宇宙の愛に関するプラトンの理論の結論です。

「愛は一つの神でも、一人の死すべき人間でもなく、一人の偉大なダイモンである」とソクラテスは言いましたが、つまり、宇宙の愛に生きる偉大なる霊の存在のことであり、この結論を唱えたために彼は罪人として罪を負わされたのです。


℘46
ⅩⅦ、美徳は教えられるものではない。神の賜としてそれを有する者に与えられる。
 
 これはほとんど、恵みについて教えるキリストの教えと同等です。しかし、美徳が神の賜であるならば、それは特別な待遇であり、なぜそれがすべての者に与えられていないのか質問をすることができます。他方で、それが賜であるのだとすれば、それを有する者の功労は失われてしまいます。

スピリティズムはより明解であり、美徳を有する者は、それを連続した人生の中で自らの努力によって、少しずつ不完全性を捨てながら手に入れたのだと教えています。恵みとは、悪を追放し善を行おうという意志のある者に神が与える力のことなのです。
 

ⅩⅧ、他人の欠点よりも、私たち自身の欠点に気づくことが少ないのは、私たちすべてにあてはまる自然の傾向である。

 福音には記されています「あなたの隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」→第十章 9、10)。

 
ⅩⅨ、成功しない医師がいるのであれば、それは病気のほとんどを治療する時、肉体は治療しても、魂を治療していないからである。すべてが善い状況になければ、病人の一部が善くなることも不可能である。
 
 スピリティズムは魂と肉体との関係の鍵を与え、一方が他方に対して絶え間なく作用していることを証明しています。これにより、科学の新しい道を開いています。いくつかの病気の真の原因を示すことにより、それと戦う手段をより容易なものとします。肉体の営みにおける霊的要因の作用を科学が考慮するようになれば、医師たちの失敗も少なくなることでしょう。


ⅩⅩ、どんな人間も、その幼い時代から善よりも多くの悪を働く。

 ソクラテスのこの文は、地上における悪の優勢という重大な問題に触れています。この問題は世界の複数性や、人類のほんの一部が住む地球の運命についての知識なしには解決できないものです。この問題はスピリティズムだけが解決できますが、それは後の第一、二、三章に記されています。


ⅩⅩⅠ、知らないことについては知っているふりをしない方が賢明である。

 この言葉は、基本的な事項さえも知らずに批判する人々に差し向けられます。プラトンは、ソクラテスのこの考えに補足して次のように言いました。

 「まず最初に、可能であれば、言葉をより誠実に受け止めてみる。そうでないのであれば、彼らは気をかけず真実だけを求めればよい。私たち自身を教化することを心がけ、彼らを侮辱してはいけない」。

 スピリティズムも、悪意の有無にかかわらずそれに対して反論する者たちに対して、このように接しなければいけません。プラトンが、今日再び生きることになれば、自分の時代とほとんど同じ状態の物事を見て同じ言葉を使うことでしょう。また、ソクラテスもその霊に対する信念をあざける人々に出合うことになり、弟子プラトンとともに狂人として扱われるでしょう。

 こうした原則を唱えたためにソクラテスは嘲笑の対象となり、後に不信心の罪に問われ毒を飲まされたのでした。確かに多くの関心や偏見に取り組むことになる偉大な新しい真実は、戦いや殉教者なしには定着することはないのです。


FEB版注1
 このファリサイ人の宗派を設立したヒレルと、その二百年後に生き、ヒレリズムとして知られる忍耐と愛の宗教的社会的原則を築いた同名のヒレルを混同してはならない。──FEB一九四七      

和訳注1
 和訳においては、ここに記されたSacyによる翻訳を参照することができないため、FEB版のポルトガル語訳の内容と日本聖書協会発行の聖書(旧約聖書 一九五五年改訳、新約聖書 一九五四年改訳)を参照し、聖書の引用としました。
和訳注2
 「自尊心」という言葉には「自分の人格を大切にする気持ち」という肯定的な意味もあります。しかしながら、自分の人格が他人と比べてより優れているとの思いから、「自尊心」が過ちの原因となってしまっているのも事実です。また、本書では神の基準から見た道徳性を扱っており、その前には不完全な人間が尊いと信じることも小さく映ってしまう場合があります。したがって本書では「自尊心」という言葉が克服すべきものという意味で使われています。
和訳注3
 再生(リインカ―ネイション)──魂が新たな肉体を授かり物質界に生まれること。