Wednesday, August 12, 2026

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)




11章 霊的真理は不変です


残念ながらシルバーバーチは地上時代の身元を最後まで明かしてくれなかった。わかっているのは間違いなく大変な高級霊であること、そして地上と交信するための中継役として、かつて地上で北米インディアンだった人物を霊界の霊媒として使用していたということだけである。「地上時代のわたしは沢山の神様(ゴッド)を崇拝の対象としておりました」というのが、唯一、自分の地上時代のことに言及した言葉である。

そう述べた日の交霊会は次の言葉で始まった。


「生半可な知識は危険であるとよく言われますが、時として知識が多すぎても危険であることがあります。その知識が間違っている場合はとくにそうです。

ある種の知識が脳を占領してしまうと、知性がその脳を通して自由に思考するゆとりがなくなります。その意味で、学び直すべきことや捨てなければならないことが沢山ある“聖職者”を、わたしは気の毒に思います。その思想は人工の砂を基盤としているために、霊的真理の攻勢を受けて、今、揺らぎはじめたその砂上の楼閣を守ろうと必死になっております。

建て方を間違っているのです。ナザレ人イエスのまわりに作り話を寄せ集め、ついに生命の大霊の座に祭り上げてしまいました。しかし、基盤そのものが間違っておりますから、いつかはそれを改めなければならない事態に至ります。が、イザ改めようとすると恐怖心が湧いて出ます。そこで、彼らはキリスト教の教義には何一つ改めるべきものは残されていない――そんなものは有り得ないと言い張っているのですが、それは“事実”ないしは“自然の法則”を基盤としている場合にのみ言えることです。

わたしたちが、地上へ舞い戻ってきた理由はそこにあります。すなわち、いかなる人物であろうと、いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、いかなる指導者であろうと――それが地上の存在であっても霊界の存在であっても――たった一つのものに盲従してはいけないこと、それよりも大霊が定められた大自然の摂理に従いなさい――これだけは絶対に誤ることがなく、絶対に正しいから、ということを説くためです。

わたしたちが大自然の摂理、それのみを説く理はそこにあります。それをスピリチュアリズムとお呼びになるのは結構です。ただし、あくまでもそれが大霊の定められたものであること、その働きは地上の物的生命も死後の霊的生命も含めた宇宙のあらゆる界層に及んでいることを理解した上ならば、ということです。

地上人類は指導者(リーダー)というものを必要以上に重んじすぎます。そしてその真価を超えた誇張をしてしまいます。そこから神学という厄介なもの――科学者にとって、思想家にとって、そしてまた、本来ならば自由闊達で理性が承知しないものは受け入れたくない誠実な人にとって、大変厄介なものをこしらえてしまったのです。

わたしたちが大霊の摂理を強調する理由はそこにあります。それを正しく理解することによって、すべての知識が生かされるのです。それだけは決して科学者や哲学者や自由思想家、その他いかなる分野の人の知性も反発させることはありません。永遠にして不変・不易の大霊の働きを基盤としているからです。

皆さんは今、霊界での審議会で用意された叡智がこのわたしを通して届けられるのをお聞きになっていらっしゃるのです。それを広めることによって地上人類の叡智と理解力とが増すにつれて、生活が大霊の御心にそったものとなるでしょう。摂理にのっとったものとなるでしょう。地上世界の悲劇と飢餓、苦労と心痛は、すべてその摂理に従った生き方をしていないところから生じていることを悟るようになるでしょう。その理解が深まるにつれて大霊の庭の美しさを見えなくしている醜い雑草がなくなっていくことでしょう。

それを目標としてわたしたちは、人類の魂を解放し、精神を自由闊達にするだけでなく、物的身体も自然の法則と調和した健康を享受(エンジョイ)できるようにしてあげようと努力しているのです」

ここでシルバーバーチは、自分がほぼ三千年前に地上生活を終えて霊界入りしてからの体験について興味ぶかい話をした。


「わたし自身、そういう考えに到達するまでには、ずいぶん長い年月が要りました。それというのも、地上時代のわたしは沢山の神様(ゴッド)を崇拝の対象としていたのです。その考えを改めて、この宇宙には唯一絶対の大霊が存在し、それが果てしない全大宇宙のあらゆる生命現象をコントロールする永遠・不変の摂理として顕現しているという考えを否応なしに認めざるを得なくなったのです。

こうした教えが地上に行きわたれば、人間界のすべての分裂が無くなります。国家間の障壁がなくなります。人種・階級・肌の色による差別、(英国教会系の)教会(チャーチ)、(非国教会系の)教会堂(チャペル)、(キリスト教以外の)聖堂(テンプル)、(イスラム教系の)寺院(モスク)、(ユダヤ教系の)礼拝堂(シナゴーグ)といった区別がなくなります。それぞれが大霊の真理の一部を宿しており、他の宗教が真髄としているものは自分の宗教が真髄としているものと少しも矛盾しないことが少しずつ解ってくるからです。

かくして表向きは混乱しているかに見えても、その中から霊的な原理が形を整え、調和と平和を生み出します。こうしたことを申し上げるのは、ここにお集まりの皆さんには、そうした大霊の大計画をぜひとも理解していただきたいからです。それは、わたしたち霊界から戻ってきた者が果たさねばならない役目であると同時に、皆さんのお一人お一人が地上生活を終えるまでに果たさねばならない役目でもあります」

シルバーバーチはイエスの復活を“奇跡”とするキリスト教の教えを否定するが、時あたかもその復活を祝うイースターの交霊会で次のように述べた。


「キリスト教界では“死者”から蘇った一人の人間、死後その姿を見せ“死”の彼方にも生命があることを証明してみせた人物に、最大級の敬意を表しております。イエスはその現象によって自分がほかならぬナザレ人イエスであることを証明するために、処刑された時の傷あとまで見せました。一度だけではありません。その後も何度か姿を見せております。

キリスト教界ではそうしたことのすべてを、その証拠はないのに事実であると信じております。そして、それはイエスのみの奇跡であったと主張します。

実はわたしたちもイエスが使用したのと同じ心霊法則によって地上へ戻り、“死”の彼方の生命の実在を証明しております。すなわち大霊はイエスの時代も今の時代もいささかも変わらず、その法則の働きも不変であり、当時の一個の人間が蘇ったごとくに今もすべての人間が蘇ることを証明しております。復活というのは生命の大霊の摂理の一環であるからにほかなりません」

メンバーの一人が「イエスの復活は聖書に述べられている通りだったのでしょうか」と尋ねた。


「大体あの通りでした」

「石の蓋は本当に取り去られたのですか」


「本当です」

「なぜ取り除く必要があったのでしょうか」


「あれはただ蘇りを象徴するためにしたことです」

「イエスの死体はどうなったのでしょうか」


「分解されてしまいました(※)。もっとも、その現象も含めて、霊の姿が見えるとか声が聞こえるとかの物的現象は大して重要なことではありません。それよりもっと大切なことは、あなた方自身の霊性を開発することです。毎週一回この会に出席することによって皆さんは霊的波長が高まり、それだけ高度な叡智を受け入れやすくなっておられます。霊的叡智はいかに高度なものでも常に物質界へ流入しようとしてその機をうかがっているのです。奉仕(サービス)の法則がそうさせるのです。しかし実際は地上界へ流入するには、その波長に感応してくれる道具が必要となります。

また、皆さんの霊性が開発されて波長が高まるにつれて、より高度でより大きな霊的エネルギーを捉えることができるようになります。それは、皆さんの目で見ることも耳で聞くこともできませんが、永遠の霊的実在の世界のものなのです。

それこそが実在なのです。人間は一日の大半を影を追い求め、幻影を捉えようとし、束の間のものにしがみつこうとしています。しかし本当は静寂の中においてこそ、調和と愛の中においてこそ、魂は成長しているのです。遅々としてはいますが、しかし確実であり着実です。それは皆さんの一人ひとりの内部に潜在する大霊が開発され進化するということです。その点、皆さんは毎週一回この一つの場所に一つの信念のもとに集うことによって、霊性がますます発揮されることになります。

イエスも二千年も前に、二人または三人の者が集えば、そこに父の聖霊が降りるという意味のことを述べております(祈祷(きとう)書)。わたしたちも、それとまったく同じことを説いているのですが、キリスト教の聖職者はそれを否定します。

真理は変わらないのです。人間の考えは変わりますが、真理は不変です。なぜなら真理には事実という知識の土台があり、知識は大霊から届けられるからです。大霊こそあらゆるインスピレーションの中心であり始源です。話はいたって簡単であり誰にでも理解できることです。ところが地上世界ではそれが大変ややこしいものになってしまったのです」


※――心霊現象の一つに物品引寄(アポーツ)というのがある。すぐ隣の部屋からでも一キロ先からでも海の向こうからでも物品を実験室のなかへ持ち込むという現象で、実験室のドアは完全に密閉されているから、その物品はいったん分解(非物質化)されてエネルギーの状態で実験室へ持ち込まれ、そこで元の形に再物質化されているとしか考えようがない。イエスの死体が分解されたのも同じ心霊法則によるものであり、法則に従っている以上はシルバーバーチが言うように奇跡ではないわけである。ちなみに空飛ぶ円盤などの未確認飛行物体、いわゆるUFOは遠い星から飛来していると推測されているが、私は、これも地上的距離の常識を超えた空間を飛来するからにはアポーツと同じ原理を利用していると考えている。

シルバーバーチはこのイースターとクリスマスに開かれる霊界における大審議会に出席を許されている高級指導霊の一人であるが、その日もそのことに言及してこう述べた。


「そこには高遠の世界においてのみ味わえる喜び、この大事業にたずさわっている光り輝く存在――地上生活を終えたのち幾世紀にもわたる開発と進化の末に“指導する”資格を身につけた高級霊のみが味わうことのできる喜び、それが満ち満ちております。

しかし、それにも増してわたしは、その大審議会を主宰される、かつて地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれた人物が、わたしたちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励ましてくださる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し、聞き、そして感じ取らせてあげられればと思うのですが、それができないのが残念です。

もとよりそれはキリスト教によって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない霊を通して人類に働きかけておられる一個の偉大なる霊なのです。

その本来の界層に留まっているのは短い期間なのですが、わたしはその間に改めて生命力あふれる霊力、力強さと美しさとにあふれるエネルギーに浸ります。それに浸ると、生命とは何かがしみじみと感じ取れるのです。わたしはこのことをあくまで謙虚な気持ちで、あるがままに申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなど、ひとかけらもございません。

かりに世界最高の絵画のすべて、物質界最高のインスピレーションと芸術的手腕、それに大自然の深遠にして壮大な美を全部集めて一つにまとめてみても、わたしの本来の所属界の荘厳美麗な実在に較べれば、いたってお粗末な反映ていどのものでしかありません」

そうした真と善と美にあふれた世界での生活をお預けにして、霊団を引き連れて地上世界の霊的覚醒という大事業にたずさわってきたシルバーバーチは、その成果について感慨をこめて次のように語った。


「そうした努力の甲斐あって、今や地上世界全体にその成果が行きわたりつつあることをわたしたちは誇りに思っております。悲しみに沈んでいた心が明るさを取り戻しております。陰気な暗闇に光明の光が射し込みました。無知が存在するところに知識がもたらされました。臆病な心に勇気をもたらし、人生に疲れた人に力を与え、道を見失った人たちを鼓舞し、大霊とその子等のために献身する人たちの背後には強力な霊の集団が控えてそれを応援してくれている事実を認識させました。

さらにわたしが嬉しく思うのは、皆さんが永遠に失ったと思い込んでおられた愛する人、あなたを愛してくれていた人が今も健在であることを証明してあげることができたことです。それによって皆さんは、生命がこの宇宙から消えてなくなってしまうことが絶対にないこと、死は愛と情と友愛によってつながっている者を切り離すのではなく、反対に、霊的には一段と親密なものとする事実を認識することができます。

それにしても、わたしがつくづく残念に思うのは、わたしたち霊団の影響力がどれほど大きいかをお見せできないことです。どれほどの障壁を破壊し、どれほど多くの障害を取り除き、どれほど多くの霊的知識をお届けしたことでしょう。地上世界は今こそそれを必要としているのです。いたって単純で素朴な真理ではありますが、それが霊的自由と精神的自由と物的自由とを地上にもたらすことになるのです。

ご存知のように、生きるということはお互いがお互いのために役立つことです。地上人類が救われる道は互助の精神を実践することそれ一つにかかっており、それ以外にはないのです。

聖霊の働きを“昔の話”と思ってはいけません。イエスを通じて働いた力が今ふたたび働いているのです。当時のユダヤ教の指導者がイエスを通して働いた大霊の力を信じないでそれを悪魔の力と決めつけたのと同じように、現代のキリスト教指導者も同じ大霊の力が今日も働いていることを信じようとしません。しかし、われわれを磔刑(はりつけ)にしようとしないだけ、人類も進歩したようです。

イエスの崇高な偉大さは二千年前だけで終わったのではありません。現代でもなお続いているのです。イエスは今どこにいらっしゃると思われますか。イエスの物語はエルサレムで終わったとお考えでしょうか。地上世界が苦しみと痛みと困難とに満ち満ちている今、あの偉大なる霊はどこでどうしておられると思われますか。

わたしたちを軽蔑し悪魔の使いであると決めつける人たちは、二千年前にナザレ人イエスに同じ非難の言葉を浴びせた者たちと同列です。わたしたちは同じ大霊の力をたずさえて参っているのです。同じ霊現象と同じメッセージ、すなわち“喪の悲しみの中にいる人を慰め、病いの人を癒し、暗闇の中にいる人に光明をもたらし、人生に疲れた人に力を与え、無知の人に知識を授けてあげなさい”という教えをたずさえてきているのです。

わたしたちも大霊の使いです。地上生活を終えたのちの永い体験によって地上人類としては他の霊に較べて少しばかり進化を遂げました。そこで、その体験をたずさえて引き返してきたのです。互いに扶助し合うということが生命の大原則だからです。互助のないところには荒廃があるのみです。互助のあるところには平和と幸福があります。地上世界も互助の精神によって新しい秩序を生み出さないといけません。いたって簡単なことなのです。が、それを人間が難しくしているのです」

別の日の交霊会で――


「地上というところは妙な世界です。霊の目をもってご覧になれば、人間が愚かなことばかりしていることに呆(あき)れるはずです。いずれはチリと化してしまう、どうでもよいものを後生大事にし、永遠の宝である霊的なものは疎(おろそ)かにしております。霊的な価値が理解できないのです。その場かぎりの愉しみや喜びばかり求め、その物的欲望に埋もれて、肝心の霊性が顕現する機会がほとんどありません。

しかも、そうした地上かぎりの所有物を多く蓄積した者が“偉大な人”とされます。どうせ滅びてしまうものを集めようとする人と、永遠に残るものを集めようとする人のどちらが“偉大な人”でしょうか」

「イエスもそのことを言ってますね」とメンバーの一人がマタイ伝に出てくる砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家の譬え話を持ち出した。


「そうです。またイエスは、虫にも食われず錆つくこともない天国の宝の話もしております。にもかかわらず、そのイエスへの忠誠を告白している聖職者みずからが大邸宅を構え俗世的なものを大切にしております。

皆が皆そうだと言っているのではありません。中には自分を忘れて人のためにという燃えるような情熱に駆られて奉仕活動に献身している人がそこここにいらっしゃいます」

話題が心霊治療に変わって――

「霊界の治療家は治癒力をどうやって地上の治療家を通して患者に流入させるのでしょうか。地上の治療家は体質的にふつうの人間と違うのでしょうか」

この質問に対してシルバーバーチは、前置きとして、ここでは磁気療法その他の方法は除外して霊的エネルギーによる治療にのみ限ることにしますと述べてから――


「人間のすべてが例外なく霊的資質を宿しております。ただそれが発現しやすい段階にまで来ているか否かの差があるだけです。いずれにしても努力次第でそれが開発されて背後霊とのつながりが一層緊密なものとなります。調和が高まり、緻密となり、そして緊密となるわけです。

治療家と背後霊団の双方から出る霊的放射線が美事に調和し、その調和状態が頂点に達した時は一本の霊光となります。その頂点へ少しでも近づけば、それだけ治癒力もより高いもの、より大きいもの、より強力なものが霊団と治療家を通して流入するようになります」

お別れのメッセージ


惜別の涙の中にも霊界でわたしを待ちうける喜びを秘めて、わたしは皆さんのもとを去ります。(*“惜別の涙”はただの美辞ではなく、実際に霊媒の頬を涙がつたわったという)。

今夜はことのほか重々しい空気に包まれております。こうしてお別れを言いに出てくるのはあまり気が進まないのですが、しかしもう帰らねばならないのです。皆さんとお別れするのは辛いのですが、同時にわたしには喜びにあふれた本来の住処(すみか)に帰れるという愉しみもあります。

できることなら皆さんも一所にお連れしたいのです。そうすれば人間の目には隠されている美しいものを見、霊の実在を目(ま)のあたりにし、この仕事にたずさわっている高級霊にもお会いになれるのですが、残念ながらそれができません。

実は皆さんの睡眠中に途中まではお連れしているのです。ですが、その間の記憶を肉体を通しての意識に留めることがおできにならないのです。

肉体に閉じ込められ、五つの粗末な感覚でしか表現できない皆さん方には、霊の自由とはいかなるものかは到底実感できません。その自由を満喫し、より大きい世界の美しさ、そこに満ちあふれる生命力、目も眩まんばかりの景観と荘厳なる響き、その詩情、その音楽、その愛を味わえることの喜びは、到底皆さんには実感できません。

お別れは辛いのですが、そこがわたしの本来の住処なのです。そこへ戻って、しばしの間、本来の喜びに浸ります。地上からのおみやげとして、皆さんからいただいた愛――われわれを結びつけ一体化している、掛け替えのない愛をたずさえてまいります。その愛が今なおひしひしとわたしに届いてくるのが感じられ、わたしからも、持てる愛のすべてをお返しいたします。

ではしばしの間お別れいたしましょう。有り難くも授かることができた霊的真理を大霊に感謝して、改めて勇気を奮い起しましょう。

その恩典に感謝するとともに、さらに次元の高い界層へ近づくべく精進いたしましょう。そして強大なる霊の力に浸ってください。

常に大霊へ向けて歩みましょう。心を大霊の愛で満たし、精神を大霊の知識と叡智とで満たしてください。

常に大霊の意志に波長を合わせるように心がけてください。大霊とその摂理と一体となるのです。そして物質界に顕現している大霊の律動(リズム)と調和(ハーモニー)の中で生きるのです。


 
訳者あとがき

 本書は、多分、シルバーバーチ霊言集の最後の一冊となるであろうと予想されている、Lift Up Your Hearts (直訳すれば〝心を奪い立たせなさい〟)の前半で翻訳である。これまでの霊言集のほぼ二冊分がぎっしりと詰められており(すべて新しいものばかり)、ハート出版との相談の結果、これを二冊に分け、そしてタイトルも別にして出版することになった。

 本書の原典は、編者のトニー・オーツセンにとっても訳者の私にとっても、記念すべき一冊となった。オーツセンにとっては、本書の出版のあと、一年間の引き継ぎの期間の後に、編集長のイスを若いティム・ヘイに譲って、サイキック・ニューズ社を円満に退社する、その最後の出版物となったのからである。

 オーツセンは二十歳の時にサイキック・ニューズ社に入り、バーバネルのもとで親分子分のような関係(オーツセンはバーバネルのことを〝ボス〟と呼んでいた)の中で修行し、バーバネル亡きあと、その編集長のイスに座って多忙をきわめる毎日を送ってきた。

 中でもいちばん力を入れたのがシルバーバーチ霊言集の編纂で、彼一人が編集したものだけでも、本書を含めて六冊もある。彼が編集したものはどれもページ数が多いのが特徴であるが、とりわけこの六冊目は(いつもの霊言集の)倍の分量である。

その編集に取りかかった時はすでに退社を表明していたことから推察して、自分が辞めた後はもうシルバーバーチを編集する者はいないとの判断があって、それで、これまでに公表されていないものを出来るだけ多く、と考えたのであろう。もっとも、わずかではあるが重複する部分があり、そこは私の訳では省いた。

 実はこうしたオーツセンの意気込みを生んだ背景には、全世界のシルバーバーチファンから寄せられる、新しい霊言集の出版を期待する声があった。

そして中には、出版費用に当てて下さいと、寄付を同封してくる人もいた。かく言う私もその一人で、そう大きくはない印税収入から必ず一部を寄付に当ててきた。

 そうした支援者への感謝をこめて、実はこの六冊目の巻頭に三十二の個人と団体の名が列記されている。しかも市販のものはペーパーバックなのに、支援者に限ってクロス張りのハードカバーにそれぞれの氏名のイニシャル(私の場合はKK)を刻印してあるものが贈られている。

私にとってこれに優る記念品はない。これまでの翻訳の苦労がこの一冊で全て報われる思いがしたと言っても過言ではない。


 さて本書の翻訳中に、私にとって意味深長な、ある科学者との出会いがあった。九十歳という高齢にもかかわらず今なおかくしゃくとして第一線で活躍しておられる、サイ科学会会長の関英男先生で、紫綬褒章と勲三等瑞宝章を受章しておられる工学博士である。

 昨年(平成五年)の夏ごろから私は、気功を霊的レベルにまで上げて難病を治療し、今世界中から注目を浴びている中川雅仁氏とのご縁があって、これまでに何度か伊豆下田の沖ヨガ道場で毎月開かれている気功師養成講座に講師として招かれているが、

今年の二月十二日に大阪で催された真気光体験会に、関先生と共に講師として招かれて、それぞれ小一時間ずつ講演をしたあと、中川氏も加わって三人でパネル・デスカッションを行なった。

 国内はもとより世界中を駆け回っておられる中川氏のタフぶりにはいつも感服の念を禁じ得ないのであるが、その日初めてお会いした関先生の頭脳明晰ぶりには、九十歳というお年を考えると、ただただ敬服するばかりだった。

 が、それにもまして驚いたのは、霊的なものに関する理解の広さと深さである。いただいた名刺には〝加速学園代表〟とだけ記されているが、その学園はサイ科学、すなわち物質科学を超えた高次元の科学を学び合う科学者の勉強会のようなものとお聞きしている。

 その研究の範囲は死後の世界はもとより、UFOの問題や異星人(宇宙人)からのメッセージにもわたっていて、昨今テレビに出てムキになって超能力の存在を否定している、どこかの大学教授の御説など、小犬の遠吠えのようにしか聞こえないであろう。

 サイと言うのはサイキックの語源でもあるPsi のことで、これを〝心霊〟と訳さずに〝サイ〟で通しておられるのは、私がスピリチュアリズムを〝心霊主義〟と訳さないのと同じ考えからであろう。

 先生の最新著「高次元科学」(ファーブル館)を通読して、スピリチュアリズムと完全に一致していることを知って驚いたが、強いて特徴をあげれば、スピリチュアリズムが地球圏の霊界からのメッセージ、いわゆる霊界通信に重点を置いているのに対して、サイ科学では別の天体、たとえば俗にスバルと呼んでいるプレアデス星団からのメッセージ、幅広くいえばUFOを送ってくる天体からのメッセージにも関心を寄せていることである。

 が、基本的にはスピリチュアリズムと同じであることは次に一節から充分に窺える。
「私のもとには、さまざまな霊能者や超能力者が情報を持ちよって来てくれます。人間がその頭でどう考えても及ばないことが、霊能者や超能力者には分かります。

人間以外のエネルギー体から、いろいろな形でメッセージが届いているのです。ある人には、勝手に手が動いて自動書記という現象で届いたり、ある人には霊言という言葉で届いたり、夢でお告げがあったりといった具合です。

 いい加減な低級霊の仕業ということもありますので、その情報の取捨には慎重になる必要があるのですが、ほとんどの霊能者・超能力者の言葉で共通しているのが、このさまざまな天変地異の意味です。

つまり、今起こっている天変地異は、地球の自浄作用だということです。環境汚染で病んだ地球が、自らを癒すために生命力を働かせているというわけです」

 さきほど〝私にとって意味深長〟と表現したのは、私をスピリチュアリズムに導いて下さったのが間部詮敦という元子爵の稀れにみる霊覚者で、その指導のお蔭で私は四十年間にわたって曲がりなりにもスピリチュアリズムを日本に紹介する仕事に携わり、

その集大成としてつい最近ハート出版から「霊的人類史は夜明けを迎える」という書き下ろしを出したばかりであるが、このたび科学界の重鎮である関先生との出会いで、先生が他の科学者から異端視されながらも平然として説いておられるその著書の内容が、私の著書の内容と基本的に軌を一にしているからである。

 手短に言えば、来るべき二十一世紀は人類にとって輝かしい世紀となるということで、それまでに〝世紀末的〟といわれる大なり小なりの天災や混乱はあっても、それは、関先生の譬えを借りれば漢方医学でいう〝めんげん〟 現象にすぎず、そのあとに地上天国ともいうべき幸せな生活環境が生まれるというのである。

〝めんげん〟は漢字で〝瞑眩〟と書き〝めんけん〟 とも〝めいげん〟とも読む。これは治療がうまくいって病気(とくに長く患っているもの)が好転し始めた時に発熱したり、吐き気を催したり下痢をしたりする現象のことで、一見悪化したように思えるが、その段階を越えると急速に快復する。

 地球もこれから、地球という天体そのものの自然治癒力によって瞑眩反応を起こし、一時的に〝世紀末的〟な現象を呈するが、人類の滅亡などという深刻なものとはならずに、そのあとに明るい世紀が訪れる、というのがスピリチュアリズムの説である。

最近世界各地で頻発する異常気象や地震、山火事といった天災、そして民族紛争などは、地球がすでに瞑眩期に入っていることを物語っていると私はみている。

 UFOに関して私はこれまで言及を避けてきたが、私自身にとっては早くからごく当たり前の存在である。まだ乗船したことはないが、目撃した回数は十指に余る。そのうち、錯覚かも知れないと思えるものを消去していっても、残る三回は私にわざわざ見せてくれたようなもので、その驚異的というか、人間の常識では考えられない飛行をじっくりと観察させてもらっている。

 実は昨年六月に、私の住んでいる福山市で、全国の〝UFOの会〟の会員五十人ばかりが集まって、観察と体験談を語り合う催しが開かれた。

私は会員ではないが、その日の主催者が私の教え子(近くの大学で美術の講師をしている)で、私の心霊関係の話にも興味を抱いている人だったので、私に基調講演を依頼してきたのだった(本人自身も霊的体験があり、UFOの写真も百枚ばかり撮影している)。

 当日のUFOの観察は夜十一時頃から真夜中の三時頃まで続けたが、残念ながらそれらしきものはついに姿を見せてくれなかった。ただの興味本位のことには異星人も関心はないだろうと予想していたので、私はさほど残念にも思わなかったが、わざわざ関東地方から出席した人たちには、ご苦労さんという気持ちだった。

 が、翌日の三人による乗船体験談はその残念を補って余りあるものだった。どの人の話も説得力があり、作り話とは思えなかった。間違いなくUFOに乗っており、又その発進地である異星まで連れて行かれている。多い人は百回以上も乗船しており、操縦席(コックピット)の説明も得心のいくものだった。

 私にとってとくに興味深く思われたのは、幽体離脱の状態で連れて行かれることが多いということで、UFO発進地である天体では、知的生命体が物質の段階から幽質の段階にまで進化していることを窺わせるものだった。その意味で私の講演も参加者全員に理解のいくものだった。

 関先生の説も全く同じで、だからこそ何千、何万、何十万光年も遠く離れた天体からでも一瞬のうちに飛来できるのだとおっしゃる。一種のテレポーテーションで、アポーツ(物品移動)と原理は同じである。

 ではなぜ満天の星の中のスバルでないといけないのかということになるが、実は、第二次大戦終結直後に地球に派遣されてきた宇宙人がメキシコのチャパラ湖畔に一年間住んでいた事実があり、その宇宙人の家(というのが適切かどうかは別として)が今も存在し、スバルとの交信に使用されているというのである。

関先生も、そして建築家の足立育朗氏も、その家を訪れて何枚かの写真に収めておられるからには、間違いない話であろう。

 譬えて言えば、ラジオで最初に受信した周波がスバルからのものだったというだけのことで、これから受信できる周波数がいくらでも増えていくことであろう。

何しろこの銀河系だけでも地球レベルないしそれ以下の知的生命体が存在している星は千百五十億個あり、地球レベル以上の、自然の摂理に適った生活をしている星は七百億個以上もあるというのである。

スピリチュアリズムでいう四界説を当てはめれば、そんな問題は簡単に片づく。地球を取り囲むように幽界・霊界・神界が存在することはスピリチュアリズムではすでに常識であるが、太陽系全体としても幽・霊・神の三つの界が存在し、銀河系全体としても幽・霊・神の三つの界が存在する。

そして地球の幽界の上層部から霊界あたりになると、太陽系および銀河系全体の幽界とも接触できるようになる。

 その段階に至ると、もはや地上的感覚の距離は消滅し、ちょうど衛星中継で地球の反対側の映像がほぼ同時に見られるのと同じように、宇宙のどこで何が起きても、瞬時に分かるようになる。地上にいても、チャンネルさえ合えば何億光年も離れた星からでも通信を受けることが出来るようになる。

 これには伝導の媒体としてのエーテルの存在が前提となる。エーテルの存在はスピリチュアリズムの先駆者である英国の物理学者で哲学者でもあったオリバー・ロッジがしきりに説いていた。が、それが、アインシュタインの相対性理論が出るに及んで否定されるようになった。

 私にとって実はこれは頭の痛い話で、現代の科学者から「エーテルの存在は否定されていますよ」という批判が来ないかと気懸りだった。

ところが最近のサイキック・ニューズ紙や、サイキック・ワールド紙(月刊)に毎号のように寄稿しているロン・ピアスンという理学博士がエーテルの存在を正面きって説くようになり、アインシュタインの相対性理論にも間違いがあることを明言している(ピアスン博士もシルバーバーチの熱心な愛読者)。

 妙なもので(この辺が〝導かれている〟ということなのか)、この稿を書いている合間に書店をのぞいたところ、徳間書店刊の『アインシュタインの相対性理論は間違っていた』というのと、その続編の『「相対論」はやはり間違っていた』の二冊が並んでいた。前者は窪田登司氏によるもの、後者は八人の学者による共著である。

 私には「相対性理論」はどうでもいいのである。要はエーテルの存在が肯定されるか否定されるかが気懸りなので、パラパラとめくっていくと、やはりエーテルの存在に言及した部分があり、「エーテルの存在は否定できない」とあった。

しかし、僭越ながらこの八人の学者に申し上げたいのは、関先生のお話によると、アインシュタインの相対論が間違っていたのではなくて、その解釈を間違えたというのが真相のようである。『高次元科学』の中で先生はこうおっしゃっている。

 「アインシュタインは光速度不変の法則を基本に相対論を展開し、アインシュタイン以前にマイケルソン・モーレーは実験によって、絶対静止空間に対して運動しても光速度に変化がないことを証明しました。このことは、あたかも真空中の超微粒子、エーテルと呼びますが、その存在を否定したことだと解釈されました。

そして、それ以降の科学はエーテルは存在しない、真空中には何もないことを前提に研究が進められてきました。しかし、最近になって、アインシュタインが言ったことは、空間に絶対的に静止したエーテルがないということで、エーテルが存在しないということではないことが明らかになったのです。

霊能者に話を聞きますと、こうした誤解を生んだことを、あの世でアインシュタインは嘆いているそうですが、確かにその誤解が本当の意味で科学の発展を阻害したことは間違いないでしょう」

 ピアスン博士は「科学は間違いだらけ」という記事を書いている。関先生も「科学者は分かったような顔をして説いているだけで、本当のところは何も分かってはいないのですよ」と笑いながらおっしゃっていた。

私は科学者ではないので、そこまではっきりと言える立場にないが、一つだけ断言できることは、これまでに発見された物理化学の法則だけで心霊現象の実在をうんぬんするのは間違いだということである。次元がまったく違うのである。

 十九世紀後半から二十世紀前半にかけて、世界的に名声のある科学者が積極的に心霊現象の研究に参加し、しかも一人の例外もなくその真実性を肯定する結論を出した。のみならず、そうした現象を生ぜしめているのがわれわれの先輩であるという〝霊魂説〟を打ち出した。

 ところが、その後の科学者たち、なかんずくSPR(心霊研究協会)のメンバーが霊魂説に懐疑的になり、本来はスピリチュアリズムの傘下にあるべき立場を逸脱して一人歩きを始め、スピリチュアリズムとの間が敵対関係を呈するほどになった。

 が、最近になって潮流が大きく変わりつつあることが英国の心霊紙にはっきりと出て来た。その最大の動きは、英国SPRの会長であるアーチー・ロイ氏(エディンバラ大学の天文学教授)が最近の講演で英国スピリチュアリスト同盟(SNU)にラブコールを送るとともに、へっぴり腰の科学者をこっぴどく非難していることである。

 一度スピリチュアリズムの傘下からはみ出たSPRが数十年ぶりで戻ってきたという感じがする。

 「心霊研究の進むべき新しい方向」と題する講演をロイ氏はこう締めくくっている。

 《私は、学者としてあるまじき態度で〝安直〟な否定論を振り回す科学者には、SPRが敢然と挑戦すべきだと考える。

 心霊研究は実に興味津々の時代に入りつつあるとというのが私の実感である。SPRの創設当初の、あの、死後の存続という途方もない事実の可能性を前にして、わくわくする思いで研究にいそしんだ時代に戻る態勢が整ってきたように思う。

 現代的手法を駆使して、人間とは何かという命題に向かってSNUと協力できると考える。否定論者に言いたいのは、正面から堂々と取り組むか、さもなくば黙って引っ込んでなさい、ということである》
  (サイキック・ワールド紙より)

 最後に一九九三年四月二十四日付けのサイキック・ニューズ紙に掲載されたベテランの科学者フランク・ニューマン氏の「科学者よ、シルバーバーチを読め!」と題する寄稿文を訳出しておく。

《シルバーバーチの霊訓を読んでいる人でも、その奥の深い意味まで理解している人は案外少ないものだ。それほどシルバーバーチの教えには含畜がある。

 私に言わせれば、むしろ科学者がシルバーバーチを読めば───そしてその奥に秘められた意味を理解すれば、いま科学者を悩ませている難問への解答を見出すに違いない。

 今科学界が到達した宇宙観によれば、どうやらわれわれが認識している世界が宇宙の全てではないらしいこと───今こうして生活している世界と共存の形で、無数の世界が存在しているらしいこと───それらの中にはこの地球と同じ世界もあれば、まったく違う世界もあるらしい、ということである。

 最新の量子論からいっても、そうした別世界(オールタナティブ)は地上界から絶縁した世界ではなく、この物質の世界と接触し合い、互いの原子が押し合いへし合いをしていても、少しもおかしくはないのだ。

 その見えざるオールタナティブにも、われわれ地上人類と同じ精神構造と身体構造をしている存在が生活している───基本的にはその意識的生活は同じであることも、十分に有り得るのだ。

 結局のところ生命とは、たぶん化学的結合をベースとして、宇宙エネルギーが組織的に形体を具えたもの、その定義に辿り着く。この定義は科学者なら誰しも納得がいく。問題は、目に見えざる世界が存在する、その有りようがしっくりと認識できない点にあるといえる。

 そこでシルバーバーチに登場願うことになる。シルバーバーチは平面的な〝場〟を意味するプレイン plane という用語を用いずに〝状態〟を意味するステイツ state を用いている。シルバーバーチは言う────

「すべてが混ざり合った状態にあるのです。無線電信の波動が宇宙に充満しているのと同じ状態です。いろいろな波長があり、いろいろなバイブレーションがあります。

 が、それらが同時に同じ場に共存できるのです。境界というものはありません。波動が異なるだけです。反応する意識の側面が違うのです。」

 このことから考えると、地上生活というのは、脳髄という物質を通して波動する精神をコントロールしている、ある一定レベルの意識での生活の場ということになる。つまり五感でキャッチしたものが、脳と生命の糸(玉の緒)を通して精神ないしは魂へと伝えられて、それぞれの反応を生じる、ということである。

 このことは、さらに、人の為に役立つ心掛けと中庸の生活こそが意識のレベルを高め、精神の活動の場を広げることになる、という考えを生む。

結局〝死〟というのは、肉体から離れた魂がその意識レベルに相当したバイブレーションのオールタナティブへ移動するだけのことということになる。死後の環境に違和感を感じないというのは当然のことなのである。

 その後の進化についてもシルバーバーチは簡明にこう述べる───

「魂が成長すれば、波動のより高い状態に適応できるようになり、自動的により高い界層で生活することになります」

 その界層のもつ電磁波の作用でそうなるのであろう。となると当然、乱れた生活をしている人間は、その乱れた波動に似合った世界へと引きつけられていくことになる。かくして、聖書の言葉どおり、〝麦ともみがらが選りわけられ〟〝多くの住処が〟生じるわけである。

 英国電子音現象研究センターの所長ギルバート・ボナー氏は、かなり広範囲の波動の他界からのメッセージをキャッチすることに成功している。

 科学者による共同研究がさらに進めば、オーディオとビジュアルの双方による他界からの通信が確立されても不思議ではない。いま生身の霊媒を通して行なわれていることが、そうやって器械によってなされるようになるのが、これからの科学者の目指すべき方向であることは間違いない》

 もっとも、これはいかにも科学者らしい発想で、あのエジソンも考えたことがあるらしいのであるが、本文の四章でシルバーバーチが断言しているように、器械が霊媒の代用となることは有り得ないらしい。愛に根ざした人間的情緒は器械では伝えられないということであろう。

 といって、シルバーバーチも、その方面での研究開発を無駄と決めつけているわけではなかろう。私も、かなりの程度まで可能ではないかと想像している。しかし所詮、手書きの手紙とワープロの手紙との違いにも似た、何か人間味の欠けたものとなるであろうことは想像に難くない。

                     平成六年三月  近藤千雄

Tuesday, August 11, 2026

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

  A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)



10章 創造は無窮です


シルバーバーチの顕著な特徴は、どんなに難解な問題、どんなに曖昧な問題について質問しても、それに対して見事な解答が即座に返ってきたことである。たいていの指導霊が避けたがる難題をシルバーバーチは気持ちよく歓迎した。その潔(いさぎよ)さは時おり“質問を受ける会”を設けたことにも出ている。

ジャーナリストで、何年間かサークルのメンバーでもあり、二冊の霊言集(※)の編纂者でもあるA・W・オースティンが、ある日の“質問会”でシルバーバーチにかなり突っ込んだ質問をした。本章ではその一問一答を紹介しよう。


※――『Teachings of Silver Birch』、『More Teachings of Silver Birch』の二冊で、前者はスピリチュアリズム普及会から『シルバーバーチの教え』(近藤訳)として、潮文社から『シルバーバーチ霊言集』(桑原啓善訳)として出ている。後者は潮文社から『シルバーバーチの霊訓(五)』として出ている。

「今日の地上世界で要請されている最も急を要する改革は何だとお考えでしょうか」


「これは難問ですね。と言いますのは、いま地上全体には、改善が叫び求められている不公正、矯正が叫び求められている間違い等々、どこから手をつけたらよいか分からないほど沢山の、悪疫ともいうべき文明の汚点が存在するからです。

しかし、その中でも一ばん急を要する改善は、わたしに言わせれば、数え切れないほどの人間を苦しめている無くもがなの貧困、悲惨、窮乏です。全体としては十分なものが用意されているのに、物的生活の基本的必需品にも事欠く人がいるということは間違ったことです。

有り余るほど持っている者と不足している人たちとの間の隔差を修正すること、これこそが現在の地上の焦眉(しょうび)の急です。内部の神性を発揮しようにも、肝心の身体が惨めなほど疲弊し衰弱している魂に対して、いったい自我の発見などということが説けるのでしょうか。わたしたちは決して人間の身体上の必需品について無関心でいるわけではありません。身体と精神と霊とが自然な状態で生活する上で“本当に大切なもの”を見出すことができるような、そういう生活環境を築くことこそわたしたちに課せられた使命なのです」

「もしもあなたが独裁者となったら真っ先に何を改革されますか」


「地球の住民を操り人形のように扱う立場に置いてみることは、このわたしにはできません。それは、わたしが理解している“摂理”に反することだからです。地上の平和と調和と幸福は独裁的権威でもって恐怖と戦慄(りつ)の中で従わせる強制的な命令によって招来されるものではありません。

一刻の猶予も許さない布告を矢つぎばやに出すというやり方では、地上は改善されません。何百年も何千年も積み重ねられてきた混乱状態は、時間をかけて徐々に片づけていくほかはありません。それも善意をもって、つまり指導者の立場にある人たちが真に同胞のためを思う心でもって行わなければなりません。

わたしだけでなく、霊的指導の任を預かる他の霊たちも、独裁的態度は思いも寄らないことでしょう。地上の浄化を目的として派遣されているわたしたち霊団の使命は、うたた寝をしている道義心の目を覚まさせ、惰眠をむさぼっている霊を呼び起こして、大霊からの遺産である内部の神性を開発させることです。そうする以外に平和と調和と幸福を地上にもたらす方法はありません。地上のいかなる大人物も、絶対に誤ることのない権威でもって絶対的命令を布告して絶対的に支配する資格はもっておりません」

「英国にとって対外関係でもっとも大切な政策は何だとお考えでしょうか」


「イギリスという国は大きな使命を担っております。いま多くの国を脅かしている災害を未然に食い止め平和をもたらす、そのリーダーとして活躍する宿命を背負っております。しかし地上に平和を招来するには、その前に自己犠牲と互助の精神が無ければなりません。洞察力をもつ人たちの多い国が譲歩して、自国の生活と福祉にとって必要でないものをそれを必要とする国に与えて、あとは自力で問題を解決させるという関係――その中でのリーダーとして活躍しなければ、あなたの国は使命を果たしていないことになります。

有り余るほど持っている国があり、窮乏している国があります。イギリスは多くの面で恵まれているのですから、それを窮乏している国へ与えることによって、血を流さなくても問題を解決する方法が見出せるはずです。ただし、そこに尊大さ――“オレたちのものはオレたちのものだ”といった思い上がった態度があってはなりません」

「植民地のことを念頭においておっしゃってるのでしょうか」


「そうです。ほかにもいろいろあります。土地、海、空――こうしたものは、どこの国の所有物でもありません。大霊のものです。その霊性がすべての子等を通じて表現されているのです。ですから、すべての子等が当然の遺産として、幸福と発達と開発と日常生活にとって必要なものを等しく受ける権利があるのです。そうした人生を送ってはじめて、いよいよ死期が訪れた時に気持ちよく重荷を下ろし、より大きな霊の世界への準備が整った状態で死んでいけるのです」

「創造は永遠に続くものであり、したがって再生してくる霊とは別に“新しい”霊が常に生まれているという考えは正しいでしょうか」


「大霊は無限です。ですから創造の過程も永遠に続きます。不完全から完全へ、未熟から成熟へ向けて、無数の進化の階梯を通りながら千変万化の表現の中を進化していきます。それには“時間”というものはありません。初めもなく終わりもありません。無限だからです。無限の大霊の一部であり、それが人間的生命として、無数の発達段階で顕現しているのです。ですが、あなたのおっしゃる“新しい霊”とは、前に存在しなかったものという意味でしょうか」

「そうです」


「それは有り得ないことです。すべての生命にはそれに先立つ生命があるからです。生命が生命を生み、さまざまな形態での表現を絶え間なく続けております。地上の人間的生命は、それまで物質との接触がなかったが故に発現していなかった霊が、肉体という器官を通して表現するのです。その器官は霊の進化にとって大切な地上的教訓が得られるように、実にうまくでき上がっております。

ですから、地上的生命としては新しいといえますが、地上に誕生してくる前に霊として存在していなかったという意味で新しいということではありません。霊とは全生命が創り出される原料です。造化活動の根本的素材です。霊としてはずっと存在しており、これからも永遠に存在し続けます。

もちろん、いっそうの体験を求めて戻ってくる霊の場合は別です。しかし、そうした再生する霊は別として、初めて地上へ誕生してくる霊に限って言えば、そうした霊には地上での表現を始めるまでは個体性つまり人間的意識は所有しておりません。人間的意識は地上への誕生とともに始まります。霊が個的意識として自我を認識する上で決定的な媒体を提供してくれるのは物的身体です」

「地上へ誕生してくる者の中での“新しい霊”と“古い霊”との割合はどれくらいでしょうか」


「そういうご質問にはおよその数字すら出すことは不可能です。ですが、多分、ほぼ同じくらいの割合ではないでしょうか」

「となると、地上には常に進化の程度の高い霊と低い霊とがいることになりますね」


「当然そうなります。そうでなかったら進化が存在しないことになります。生命は生命であるが故に静止していられない――万が一静止したら、それは停滞を意味する、ということをよく理解してください。生命とは律動(リズム)です。運動です。進歩です。開発です。発達です。つまり完全へ向けての絶え間ない歩みです。もしも生命に規則的な階梯がなかったら、もしもはしごを一段一段と上がっていく規則的な旅がなかったら、生命は生命でなくなります。多種多様の発達段階での進化のバリエーションの中においてのみ、生命が生命で有り得るのです。

もしもすべての人間が同じ発達段階にあるとしたら――もしも完全性が成就されて、もうこれ以上の努力の必要性も新しい目標もより大きな顕現の余地もなくなったとしたら、生きようとする意欲、何かを成就せんとする意欲は途絶えてしまうでしょう。生命の生命たるゆえんは絶え間ない向上にあります。今の段階では手の届かないものを何とかして手に入れようと努力するところにあります。その努力――何かを征服せんとする努力、困難を克服せんとする努力の中でこそ霊は真実の自我を見出し、神性が働くようになるのです」

「進化の程度の低い魂が世の中の問題のタネとなり進歩を遅らせることになるのでしょうか」


「それはそうです。ただ、次のことを忘れないでください。あなたのおっしゃる“程度の低い魂”というのは、その魂より程度が高い魂に較べて低いというに過ぎません。あなた自身の判断の基準が高まれば、それまで高いと思われた人が高いとは思えなくなります。

地上世界の厄介な問題、および霊界の下層界の問題のすべてが、さまざまな形での利己主義、強欲、貪欲などの私利私欲によって引き起こされているというふうに考えればよろしい。原因はそれしかありません。

いつの時代にも、他に較べて程度の低い人間が存在することは当然の結果です。それ以外にどうあればよいというのでしょう。人類のすべてを同じ時点で同じ進化の段階に到達させればよいのでしょうか。一人の例外もなく、みんなが同じ時点で同じ進化の段階を歩むように、同じパターンにはめ込めばよいのでしょうか。すべての生命がまったく同じ進化の程度という単調な状態にしてしまえばよいのでしょうか。

光だけがあって影はない方がよいのでしょうか。晴天ばかりで雨の日はない方がよいのでしょうか。美徳ばかりで邪悪なものはない方がよいのでしょうか。笑いばかりで泣くことがない方がよいのでしょうか。無限の種類の表現があってこそ人生がうまく調整されていくのではないでしょうか」

これを聞いてオースティン氏が、進化にそうしたさまざまな段階がなければならないとすると、シルバーバーチがよく口にする“新しい世界”は楽観的すぎるように思うという意見を出した。

するとシルバーバーチが――


「いいえ、新しい世界はすでに生まれているのです。産みの苦しみと、涙と哀しみの洗礼を受けて生まれているのです。すでに存在するのです。その朝日が今地上の霧を通して射し始めております。

しかし、その新しい世界においても、何もかもが成就されるというわけではありません。修正しなければならないこと、改善しなければならないこと、強化しなければならないことが沢山あります。まだまだ未熟なところがあります。取り除かねばならない障害があります。しかし、人生の新しい規律がどんどん行きわたります。無用の悲劇、無用の残虐行為、無用の飢餓がなくなるでしょう。人生の基盤が変わります。利己主義が次第に影をひそめ、代わって互助の精神が行きわたることでしょう」

「でも結局は各自が受けるに足るものしか受けられないのではないでしょうか」


「その通りです。わたしたちが皆さんの協力を得ようとする努力を促進してくださる人が増えるか、それとも妨げる人が増えるかによって、新しい世界の秩序の到来が早くもなり遅くもなります。受けるに足るもの以上のものは得られませんし、それ以下のものも得られません。摂理の働きは完璧ですから、天秤は必ず平衡(つりあい)が保たれております。右にも左にも傾きません。

わたしが指摘しているのは、これから生じていく変化を今すでに操作している秩序、そしてこれ以後も操作しつづける新しい原理のことです。これから刈り取っていく収穫は、人類の福祉の促進のために捧げられた何世代にもわたる多くのパイオニア、理想主義者、改革者の犠牲の賜物(たまもの)であることを忘れてはなりません」

「同じく“新しい魂”として生まれてくるのに、あとから生まれてくる魂の方がずっと恵まれた環境に生まれてくるというのは、私には不公平に思えるのですが……」


「確かに恵まれた環境に生まれてくることになりますが、しかし、彼らには結果としてそれだけ多くのものが要請されることになります。先輩たちが苦闘しなければならなかったものが免除されるのですから……。要は比較上の問題です。

大霊の摂理をごまかせる者は一人もいない――受けるべきものを髪の毛一本ほども変えることはできない、ということを常に忘れないようにしてください。賞と罰とは各自の行為によってきちんと決められており、変えることはできないのです。えこひいきもありませんし、裏をかくこともできません。大霊の公正は完璧です。各自が受けるべきものは、かっきり受けるに足るものだけ――かけらほども多すぎず、かけらほども少なすぎることがありません」

「そうであってほしいと思うようにならないといけないのでしょうね?」


「勇気ある者ならば自らそうであることを求めるべきなのです。努力もせずに報酬を得ること、身に覚えのない罰を受けることを堂々と拒否すべきなのです。もちろん受けるべき罰は堂々と受けて耐え忍び、自ら生み出した責務は自らの肩に背負うべきです。バイブルにもこうあります――“自分を欺いてはいけません。しょせん神の目はごまかせないのです。自分で蒔いたタネは自分で刈り取るのです”と。わたしにはこれ以上うまく表現することができません。

人間のこしらえた法律は一部の者を不当に優遇したり、ある者を不必要に罰したりすることがあります。地位や肩書きや階級に物を言わせた特権というものも存在します。しかし霊界ではそういうことは絶対にないのです。あらゆる面が斟酌(しんしゃく)されます。地上生活によって到達した進化の程度が魂に刻み込まれています。それより高すぎもせず低すぎもしません。死があなたを別の世界へ誘いに来た時、あなたはそれまでに自らこしらえた自分をたずさえて、地上をあとにするのです」

「精神統一(瞑想)をしていると、霊的と思える示唆がいろいろと浮かんでくるのですが、これにはどう対処したらよいのでしょうか」


「いかに高級な霊でも、自分の教えを考察も熟考も吟味もせずに受け入れてくれることは望みません。言われたことを機械仕掛けのように行うロボットであっては欲しくないのです。むしろわたしたちの使命は、各自の責任感を増幅し、内部の神性を刺激して、理性的判断力が行使できるように指導することです。神性はあなたの霊を通して働くだけではありません。あなたの精神を通しても働きます。“神の御国は各自の中にある”という言葉は真実ですが、それは同時に精神の中にもある――そうあらねばならないのです。

理性が反発するものは決して行ってはなりません。理性を第一の指針とすることです。あなたの分別心が承服しないものを無理にも実行しなさいとは申しません。わたしたちの使命は協調態勢を基本にしているからです。

そのためにはまず霊に内在する無限の能力を自覚させることに努力します。その多くが居眠りをしていて、日常生活で発揮されていないのです。わたしたちは皆さんに本当の自分を見出してほしいのです。日常の生活の中で神性が発揮されるにはそれが第一条件だからです。

精神統一中に示唆を受けた時、たとえそれが何かのお告げのようなものであっても、あなたの良識が許さない時は実行に移してはなりません。統一中に浮かぶアイディアの中から“これぞ本物のインスピレーション”と直観できるのは、ある一定の霊格を身につけた人だけです。

しかし、そういう独自の判断力で行動するよりも、こうした形で交わることで皆さんがわたしたちを信頼してくださり、わたしたちの使命が皆さんに奉仕することによって人類に奉仕することであることを得心してくださった上で、わたしたちの道具となってくださる方が賢明です。

そこで、わたしたちはこれまで、わたしたちが霊的摂理に通じていること、目的としているのは霊的真理の豊かさを皆さんの手の届くところまでお持ちすることであることを立証しようと努力してまいりました。“正真”の折り紙つきの知的存在と協力して仕事をする方が、何の導きもなしにただ一人で未知の世界へ突入していくよりも無難なのではないでしょうか」

「自分が交信している相手がどの程度の霊であるかは必ず確認した方がよろしいでしょうか」


「当然です。そして、確かに聞くに足る教えを説いていると確信したら、大いにその霊に指導を仰ぐべきです。霊界から自分を鼓舞し指導しようとする霊団の存在に気づく段階に到達したら、その人にはもはや克服できない困難はなくなります。しかし人類はみな一人ひとり発達段階が異なることを忘れてはなりません」

「生命の尊厳ということがよく言われますが、私はこれにも限界があるように思うのです。この論理を極端におし進めると、病原菌も生命の一種だから神聖であるということになって、人間の生命を危険にさらすという愚かなことになりかねないと思うのです」


「意識はどの段階から始まるかがポイントです。病原菌に意識があるでしょうか。ヘビに意識があるでしょうか。ノミやシラミに意識があるでしょうか。微生物に意識があるでしょうか。

もちろん一般に言われる意識、つまり自我意識という意味での意識はありません。意識とは自分が何であるか、誰であるかについての認識のことです。これは菌類にはありません。が、意識的生命のあるところには造化活動があります。ですから、その意識に干渉して顕現の自由を妨げることをするのは間違いです」

「しかし動物には今おっしゃったような自我意識はないのに、屠殺はいけないとおっしゃってます」


「動物の世界には個的意識はなくても、その奥には類魂としての意識が存在します。動物よりさらに下がると類魂の意識もなくなります。微生物には意識はありません」

「微生物には痛みを感じる機能がありますか」


「ありません」

「では、殺すということに痛みが伴うか否かで判断すべきでしょうか」


「“意識”を指標とすべきです。意識があるかぎり、それを殺すことは間違いです。人類は死という“解放者”が訪れるまでに、内在する霊の豊かさを発揮する自由を心ゆくまでエンジョイすることが許されております。しかし、しょせん地上世界は発展途上にある未熟な世界です。それゆえ、同胞のためと思ってすることが他の生命の権利に干渉する事態がどうしても生じます。そこでわたしは動機――誠実に、純心に、そして正直に人のためと思って行うという心がけを重視するのです。

今わたしは生体解剖を念頭において申し上げております。わたしから見れば生体解剖は間違いです。残酷ですし、無意味ですし、その上、それによって何一つ成就されません。ただ、それを行う人たちの中には、動物に苦痛を与えるのが面白いのではなく、真実、人類を病魔から解放したい一心の人が大勢いることも、わたしはよく知っております。そうした実験によって人類の病気を撲滅するための知識が得られると信じてやっているのです。その動機は誠実です。

が、それとは別に、無益な殺生が行われています。食料とするための大量の屠殺、スポーツという名のもとでの狩猟――こうしたものには弁解の余地はありません。生命は神聖です。大霊のものだからです。生命に意識が芽生え、そして人間的形態をとれば――いえ、それ以前の動物形態の段階においてさえも――尊厳をもって取り扱われるべきです。生命を安っぽく取り扱ってはなりません。生命の一つひとつが大霊の表現なのです。人間には生命をこしらえる力はありません。ならば、その生命が顕現しようとする身体を破壊することが人間に許されるはずがありません。

忘れないでいただきたいのは、皆さんからの質問に対して“イエス”とも“ノー”とも答えられない時は、わたしたちは、正直に、一つの視点を提供するだけに留めます。独断的態度はわたしたちの取るところではないからです。皆さんのためになればそれで良いのですから……。これまで、さまざまな事情のもとでさまざまな視点からお答えしてきましたので、中には一見すると矛盾するかに思えるものがあるかも知れません。しかしそれは、同じ問題を違った側面から扱っているからであることを理解してください。

それからもう一つ、このわたしが絶対に間違ったことは申しませんとは言っていないことも忘れないでください。知識と叡智の頂上を極めたとは申しておりません。皆さんと同じく、わたしも相変らず人間的存在です。わたしも完全を求めて努力しているところです。克服しなければならない弱点がいくつもあります。磨かねばならないものがあります。わたしの申し上げることが最終的な真理であるとは申しておりません。

わたしが確証をもって知っているかぎりのことを申し上げ、確証が得られないことに関しては、わたし自身がこうと信じるかぎりのことを申し上げております。万が一わたしの申し上げたことが皆さんの納得を得られない時は、それはそれで結構なことです。お互いに考えをぶつけ合うことになるからです。そうすることで皆さんはわたしに知恵をくださり、お互いの視点から議論して理解を深め合うことができるわけです。

協力ということは、わたしたちの方から一方的に援助するということばかりを意味するのではありません。皆さんの方からわたしたちを援助してくださることでもあるのです。一つの問題が生じた時に“それならシルバーバーチに相談しなさい。レッドクラウド(※)に聞きなさい。ホワイトホーク(※)がいいですよ。それで決まりですよ”といった態度は困ります。そういうものではないのです。持ち合わせるかぎりの知恵はお授けしますが、それで一件落着と受け止める態度はいけません。わたしたちも絶対ではないのです。皆さんが自ら考え判断するという方向へ指導することができなかったら、わたしたち霊団の者は課せられた使命を全うしていないことになります。


※――いずれもシルバーバーチと同時代に他の霊媒の指導霊(ガイド)ないし支配霊(コントロール)として活躍した霊で、肖像画を見ると、いずれもインディアンの顔をしている。その他にもブラッククラウドとかローンスターとかの呼び名が多いが、言うまでもなく仮の名である。

続いてオースティンは、死後にも生命があることを知って、浅はかな人間は地上的生命を軽んじることにならないだろうかという意見を述べた。するとシルバーバーチが――


「知識が増えるにつれて責任も大きくなることをわたしが繰り返し説いてきたことはご存知でしょう。霊的知識を手にすれば、その時点からその活用の仕方に責任が付加されます。その知識の分だけ生活水準が高まらないといけません。高まらなかったら、その代償を支払わされます。ごまかしは利きません。知識を授かったからには、言い逃れは許されません。宇宙の機構がわかり、生命の秘密が明かされたからには、隣人に対して、世の中に対して、そして自分自身に対して、より大きな責任を付加されたことを自覚しないといけません。生活が豊かとなり、神聖さを増し、人のために役立ちたいという願望が内部で燃えさからないといけません。

もしもそうならなかったら、その知識はその人のものになり切っていないことを意味します。素通りしていっただけだったことになります。知識がそこにあることを知りつつそれを活用することができないでいると、それによって逆にその人の霊性が弱められ、害をこうむることになりかねません。

大霊の摂理はごまかせません。たとえ高等そうな理屈を並べてもダメです。皆さんがスピリチュアリズムと呼んでいる霊的知識は、この宇宙という生命機構の中で人類がどういう位置を占めているかを自覚させてくれます。もしそれが正しく自覚できなかったら、その人はせっかくの教訓を学ばなかったことになり、その代償を支払わされることになります。それを真理のせいにしてはいけません。自分が悪いのです。たとえ自分を素通りしたにすぎなくても、真理は真理です。真理は理屈で歪(ま)げられるものではありません。真理は真理であるがゆえに真理なのです」

続いてオースティンはバーサ・ハーストという霊媒による交霊会に出席した時と同じ質問をした。それは、人間と守護霊とは何を原理として結びつくのかというもので、バーサ・ハーストの指導霊は正直に、その問題については勉強していないと述べて答えなかったという。が、シルバーバーチは間髪を入れずにこう答えた。


「それは霊的親和性(アフィニティ)による結びつきです。たまには血縁関係が縁になることもありますが、大部分は血縁はありません。霊的親類(※)どうしの親和力を縁として、相互間に利益のある二つの霊が結びつけば、そこに引力が生じて守護霊ないし指導霊――どう呼ばれても結構です――が影響を行使できるようになります。霊的親和力が強ければ強いほど結びつきも緊密なものとなります」


※――日本でいう“産土(うぶすな)神”(氏神)を中心霊として、おびただしい数の霊が大集団、いわば霊的家族を構成している。女性霊媒のジェラルディン・カミンズを通じて学究的な自動書記通信を送ってきているフレデリック・マイヤースはこれを“類魂(グループソウル)”と呼んでいるが、シルバーバーチはある日の交霊会で「あなたのいう霊的親類というのはマイヤースのいう類魂のことですか」と問われて「まったく同じものです」と答えている。

さらにオースティンは、シルバーバーチが“意識”についての答えの中で“個的意識は物質界へ誕生するまでは存在しない”と述べたことに言及して、意識のない霊がどうやって霊的関係をつくり出すことができるのかを尋ねた。この質問にシルバーバーチは――


「地上の言語ではとても説明しにくいことなのですが、受胎の瞬間に両者の間にいわく言い難い絆が生じるのです。ご存知のように、母胎の中で精子と卵子とが結合すると、そこに身体の元になるものができ上がりますが、その目に見えないほど小さなものの中に、その後の成長とともに発現されていく資質のすべてが宿されているわけです。それと同じで、霊の内部にそのあと発現されていく霊的資質のすべてがミニチュアの形で宿されているのです」

「ということは、われわれ人間の進化はすでに一定の進行方向というものが決められている――ただし、自由意志によってそのスピードを速めたり遅らせたりすることはできる、ということでしょうか」


「いくつかの要素はあらかじめ決まっています。霊の宿る身体の“体質”がありますし、その身体に宿る霊の“霊質”があります。“新しい霊”の場合でも“再生してくる霊”の場合でも、身体への霊の浸入にはそれを支配する法則があり、それが大きく霊の発現を決定づけます。何もかもあらかじめ決められていると受け取っていただいては困るのですが、法則というものによって営まれている世界である以上、人間的生命も法則に従わざるを得ません。いろいろとバリエーション(変化・変形)はありますが、おおよそのことは決まっていないといけません。

進化の速度は本質的には当人の自由意志にかかっていますが、地上生活にはおのずと限界というものがあります。チャンスの活用次第とはいえ、各自に能力的な限界があります。しょせん完全は望めないところにその宿命的な限界があります。

霊には高級霊にのみわかる特質があり、守護霊の任命はその特性を考慮して、両者の進化にとっての利益の共通性を主眼として行われます」

「やはり守護霊も他の誰かによって任命されるもので、守護霊自身が人間を選ぶわけではないということですか」


「その通りです。必ず任命によって行われます。こちらの世界にはこちらなりの法則があり、それは地上よりはるかに厳格です。守護霊と人間との関係がうまく行くのは、当初において霊の資質のすべてが知れているからです。学校と同じです。学校長はあずかった生徒の潜在的特質を知りつくし、教師の才能を知りつくせば、どの生徒はどの教師のクラスが適切であるかが適確に判断できます。

不幸にして地上ではそうした要素のすべてが知れるとは限らないというだけです。が、こちらの世界ではすべてが知れるのです」

祈り


皆さんとともに生命の大霊の祝福を祈願いたしましょう。

ああ、真白き大霊よ。

宇宙の森羅万象があなたへの賛歌を奏でております。あなたの法則があらゆる生命現象を支え、律動の一つひとつがあなたの表現なのでございます。

ああ、大霊よ。

あなたは全生命の中心にあらせられます。それは霊の世界の最高の界層においても、物質の世界の最低の界層においても、少しも違いはございませぬ。あなたはすべてを包摂したまいます。あなたの叡智がすべてを支配しているからでございます。

あなたはいつの時代にもあなたの愛と叡智と知識の使者を物質の世界へ送り込まれてきました。あなたの霊の生きた証(あかし)として、あなたの真理の光を人間の心の暗闇に届け、全人類をあなたの無限なる叡智と愛の輝きによって啓蒙するためでございます。

ああ、大霊よ。

あなたはこの度ふたたび地上の子等にあなたとあなたの摂理についての知識を届けんがために、わたしどもをあなたの使者として遣わされました。それによって彼らがあなたとのつながりを理解し、そこから彼ら自身ならびに、あなたが彼らを物質の世界に誕生せしめた目的を理解しはじめることになればとの配慮からでございます。

わたしたちは、地上にあってあなたの霊的な働きかけに敏感に反応し、その目、その耳、その精神、その心、その魂がより大きな生命の波長に順応し、わたしたちを通じて届けられるあなたのメッセージを素直に受け入れてくれる人たちとの交わりを今こうして得ていることを、あなたに深く感謝申し上げます。



Monday, August 10, 2026

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)



9章 霊は全生命の精髄(エッセンス)です


ローマカトリックでは“水”による洗礼のほかに“血”の洗礼(殉教)と“望み”の洗礼(洗礼を望みつつ果たされなかった人の遺志)というものを認めているが、本当の意味での洗礼を忘れている。ある日の交霊会でシルバーバーチはそのことに言及してこう述べた。


「ここにいらっしゃる皆さんは本当の意味での洗礼、すなわち霊力による洗礼を受けておられるのです。霊的に蘇(よみがえ)ったのです。魂が真実の自我を見出す道へ導かれ始めたと言ってもよろしい。

霊的なものが皆さんの生活の中核となり、実在感とともに確信というものを覚えるようになります。その確信が精神のすみずみまで行きわたり、魂が安らぎを覚え、心が愛に満たされます。それが大霊が最高に顕現した時の状態です」

ここで、シルバーバーチの祈りの中によく出てくる語句についての質問が出された。

「大霊は本当にすべてのもの、たとえば石ころにも宿っているのでしょうか」


「大霊はすべてのものに宿っております。大霊から離れて存在できるものは何一つありません」

「では地震も大霊の仕業でしょうか」


「大霊とは法則のことです。すべてのものを支配している法則です。法則がすべてを支配しているのです。その法則の支配を受けないものはこの宇宙には一つも存在しません」

この説明ではまだ納得のいかない質問者が「なぜ地震なんかが起きるのだろうと、よく思うのです」と言うと、シルバーバーチが――


「地震・嵐・稲妻といった自然現象が人間の頭脳を悩ませてきたことは、わたしもよく知っております。しかし、それもみな宇宙の一部なのです。宇宙そのものも進化の途上にあります。その宇宙の中で生活している生命が進化の途上にあるのと同じです。物質の世界は完全からはほど遠い段階にあります。同時にまた、完全というものは達成されないのです。完成度がますます高められていくことの連続なのです」

「ということは大霊も進化しているということでしょうか」


「いいえ、大霊とは摂理であり、その摂理は完全です。しかし現在この物質の世界に顕現している部分は、その顕現の程度においてまだ進化の余地があるということです。

いいですか、地球は今も進化しているのです。あなたが理解できないとおっしゃる現象もみな、その進化活動の現れなのです。火焔と暴風雨の中で生まれて、今なお完成へ向けて進化しつつあるのです。

日の出と日没の美しさ、天空に輝く無数の星、楽しい小鳥のさえずりは大霊のもので、嵐や稲妻、雷鳴や雨は大霊のものではないなどとは言えないのです。すべてが大霊の摂理の一環として生じているのです。

こう言うと、では人間が堕落したり他人に害を及ぼしたりするのも大霊の責任なのかとおっしゃるかも知れません。が、人間の一人ひとりに、その人の霊的進化の程度に応じた範囲での自由意志が与えられております。霊的階段を高く昇るほど、より大きな自由意志が行使できるようになります。

これを言いかえれば、現在のあなたがあなた自身の限界であるということです。しかし、あなたも大霊の一部なのですから、人生の困難や障害のすべてを克服できるのです。霊は物質に優るからです。霊が王様で物質は召使いです。霊がすべてを支配しているのです。霊は全生命の精髄(エッセンス)です。霊は生命そのものであり、生命は霊そのものと言ってもよいのです」

「各自の自由意志に限界があるのは、各自の生活に一定のパターンがあるからなのでしょうか」


「生活にはいろいろなパターンがあり、いろいろな波長があります。しかし絶対的な支配力をもつものは何一つありません。地上にはさまざまな放射物があり、さまざまな影響力が飛び交っております。そして、その多くがあなたの運命を左右する可能性を秘めております。しかし大霊はあなたに分霊(わけみたま)をお授けになっているのです。それは、あなたが自由意志でもって現在の進化の程度に応じた正しい選択をすれば、前途に生じる困難のすべてを克服する力を秘めているのです。あなたは大霊なのであり、大霊はあなたなのですから……」

“死者”との交信はその霊の進歩を遅らせ迷惑を及ぼすと信じている人の話が出されて――


「その“死者”の一人であるこのわたしは地上の皆さんの声の響きが大好きです。とても幸せな気持ちにさせてくれます。皆さん方もきっとわたしの声を聞いて喜んでくださっていると信じます。こうして語り合うことによってお互いに学びあえるのですから……。わたしは地上世界からいろいろなことを学ぼうとしております。それがわたしの知識を増し、さらに大きく役立つことができるからです。

今わたしたちが携わっている計画を推進する上で、いろいろとしなければならないことが生じます。大事業なのですから当然のことです。このために多くの高級霊がその生活のすべてを捧げているのです。

その事業の一環がこのサークルで成就されてまいります。皆さんはすでにその一部をご覧になりました。この小さな英国だけでなく世界中の国において大勢の人々の魂に感動を覚えさせてあげることができました」

そう述べて、この交霊会に世界各地からすでに大勢の人が招待され、ここで得た感動を糧にそれぞれの国でホームサークルをこしらえている事実に暗に言及した。そしてさらに言葉を継いで――


「こうした仕事は霊力の活動が活発になるにつれて、ますます大きく発展してまいります。どうか、これ以後も忠実に仕事に励んでください。そして、この仕事のために捧げられた“時”は一瞬たりとも無駄にはならないことを確信してください。ここでこうして交わり合うということは、物質界の皆さんにも、その物質界の束縛から解放されているわたしたちにも、豊かな祝福をもたらすことになるからです。それは自分のためではなく同胞のためという動機に発しているからこそなのです」

さて、洗礼と同じくキリスト教では結婚の重要性を力説している。これを霊界ではどう観ているのであろうか。ある日の交霊界で、かつてはメソジスト派の牧師で今はサークルのメンバーの一人となっているバーノン・ムーア氏と、永年シルバーバーチの霊言の速記を担当してきた婚約者のフランシスに向かってこう述べた。


「まずお二人はこれから冒険中の冒険に出発されようとしていることを知っていただきたいと思います。これまで別々の人生コースを歩んできた者が、これからは一体となった人生を送るのですから……。愛――はるか高遠の世界から届けられる愛があなた方を霊的真理の道へ導いたごとく、こんどは同じ愛がお二人を結びつけました。間もなく司祭が一冊の本からの数行を読み上げ、お二人はキリスト教流に言えば“聖なる結婚の絆”によって結ばれることになっております。しかし、わたしに言わせれば、愛と情によって結ばれないかぎり、そこには絆というものはありません。本当のつながりは愛と情がないところには存在しないのです。

男女が生活を共にするということを物質の側面からだけ考えてはいけません。あなた方は二つの霊的存在であることを忘れてはなりません。二つとも大霊の一部であり、霊界からの愛がお二人のために尽力したように、お互いにいたわり合い、愛し合い、尽くし合うとの誓約のもとに一緒になられるわけです。これから二つの魂が冒険の旅に出るために一緒になられるのです。その意味でわたしたちは物的な側面よりも霊的な側面の方を見つめております。わたしたちにとってはその方が永遠の実在だからです。

時には寂しさや悲しみ、困難、試練が訪れることは覚悟しなければなりません。それもお二人の進化にとっての糧となるのですから……。それが生じた時――きっと生じます――その時は潔く対処し、それがお二人の人間性を磨き、絆をいっそう強くする上で大切なものであることを理解なさってください。

今こちらの世界では大勢の者が教会で行う結婚式に相当する祝典を心待ちにしております。祝典といっても、こちらでは言葉で行うのではなく、霊的な結びつきによって行います。その方がはるかに永続性があります。口先での誓いの言葉は、無言の魂の誓いに較べたら物の数ではありません。

お二人は豊かな祝福を受けていらっしゃいます。何と言っても霊的知識をお持ちだからです。わたしの近くにいる大勢の霊に代わってわたしからお二人に、人生の荒波を越えて幸せと喜びにあふれた安全な航海をお祈りすると同時に、親しい方々からの一層の愛を得て地上の同胞への奉仕に励み続けられることを期待します。

俯(うつむ)いてはなりません。見上げるのです。そして本当の力は上から、そして自分の内部から来ることを自覚してください。そこから自信を得て、万事はきっとうまく行くこと、愛のあるところには絶対に禍事(まがごと)は生じないとの信念をもって将来に対処してください。

大霊の祝福が常にお二人とともにあり、新しい人生のすべての側面で導きをうけ、そしてお二人を取り巻く愛の存在をお忘れにならないよう祈ります」

ムーア夫妻は一九八一年にバーバネルが他界して交霊会が行われなくなるまでサークルのメンバーだった。ある日の交霊会でムーア氏がこんな素朴な質問をした。

「大自然の摂理から叡智を学ぶにはどうしたらよいのでしょうか」


「叡智はあなた自身の霊性の進化とともに学んでいくのです。そのためにはまず第一に、誤った知識と信仰、理性が承服しないもの、大霊の愛と叡智とは思えないもののすべてを捨て去ることができなければいけません。

つまり、新しいものを学ぶ前に古いものを学び直さないといけません。精神の自然な思考を妨げるものは全部捨て去らないといけません。そこから魂が開発され、霊性が進化し、より高い叡智を受け入れる準備が整うわけです。皆さんはこの場に集い合っている間にも魂が開発されております。そして大霊の叡智が入手しやすくなっております。

この場で皆さんは心霊現象を演出する法則の働きを学ばれると同時に、日常の生活を支配している摂理の働きについても学んでおられるのです。そして進歩した分だけ、より高い叡智を身につけていかれるのです。

もっとも、皆さんからシルバーバーチと呼ばれているこのわたしがお届けするのは、高級界の無限の叡智のホンの一かけらにすぎません。皆さんがさらに進化なされば、わたしよりさらに偉大な霊がより高い知識と叡智を届けてくれることでしょう」

「この地上世界を救うには、われわれがこの教えをすべての人に広めないといけないのでしょうか」


「“地上世界を救う”ですか。救うのはわれわれではありません。地上の人間の一人ひとりが自らの努力で救わねばなりません。既成の手段というものはありません。有り合わせの手段ではだめなのです。

そのためにはまず、生命現象と呼ばれているものの背後に“霊”という永遠の実在があることを学び、従って地上世界の人間はただの物的存在ではなく、その物的身体を通して自我を表現している霊的存在であることを認識する必要があります。

そうなると、物的身体は大霊が意図された通りに生活に必要なものを必要な時に必要なだけ手に入れて、常に健康であらねばならないことになります。そして精神はあらゆる宗教的ドグマと教義による束縛から解放されて、実質的価値のないもの、霊的価値のないものに忠誠を尽くすような愚かなことはせず、真実のものだけに精を出すようにならないといけません。教義やドグマのことで論争したり口論したり、はては戦争にまで発展するような幼稚なことは止めないといけません。

わたしたちは大霊を共通の父とする地上の全民族の霊的同胞性を説きます。その障害となっているのは地上的概念であり、間違った知識の上に築かれた宗教であり、特権の独占であり、高慢と権力にあぐらをかく、つまらぬ暴君です」

ここで列席者の一人が「有り難うございました」と言うと、例によってシルバーバーチが自分への感謝は無用であり大霊にこそ感謝しなければいけないことを述べた。そこで別のメンバーが「私たちは一種の習慣として“有り難う”という言葉を使うのです」と言うと、慈父のごとき口調で――


「それくらいのことはわたしも知っておりますよ。ですが、そのつど注意して大霊の摂理の存在を指摘しておかないと、そのうち誰かがわたしを崇めるようになり、またぞろ過去の過ちを繰り返すことになりかねないのです」

話題が変わって、その日の霊界側の出席者にはどんな顔ぶれが揃っているかという質問が出された。すると――


「今夜だけで五千人もの霊が集まっております。皆さんと地上で顔見知りだった人も来ておりますし、この交霊を見学に来ている人もいます。こうして地上の人間と対話が交わせることを教えてあげるために連れてくることもあります。こんなことができるとは思ってもみない霊がいるのです。

世界各地で交霊会を催すために、ここでわたしたちの霊団がどういう具合にして地上と交信しているのか、その要領を勉強に来ている高級霊もいます。地上だけでなく霊界でも大変な規模で布教活動が行われているのです。暇つぶしや面白半分で来ているのではありません。

こうした催しによってわたしたちは、霊力をどのように活用すれば有効に人間の精神に感応できるかを学ぶことができますし、皆さんは、わたしたちがお教えする霊的摂理を理解することによって一段と霊力を受け易くなられます。皆さんは自分では意識していなくても霊界から大変なインスピレーションを受けていらっしゃるのです。

地上には偉大な科学者、偉大な発明家、偉大な教育家と呼ばれている人が大勢いますが、実際はこちらの世界からの情報の媒体にすぎないのです。真理とか発明とかは地上に届けられればそれでよいのでして、誰がそれを伝達するかはどうでもよいことなのです。

いかなる経験にも必ず利得と損失とがあるものです。魂が浄化するほど霊的に向上していきます。しかし反面、それはその先にさらに向上しなければならない余地があることを知らされることでもあります。不満が増すことであり、それは、いわば、損失です。美的センスが鋭くなるほど醜いものに対する反応が大きくなります。高く上がるほど落差も大きくなります。

人生は日向と日陰、静寂と嵐というふうに二面性から成り立っています。一本調子にはできておりません。幸せと喜びの生活にも時には悲しい出来事が生じます。その極端な差異を味わってこそ性格が伸びるのです。かくして悲しみからも、人生の嵐からも、苦痛からも教訓を学び取ることができます。その必要性が理解できない人は神に不平を言いますが、日陰の生活を味わってこそ日向の生活の有り難さがわかるのです。

魂は比較対照の中にあってこそ本当の意味で生きることを始めます。もしもあなたの体験が良いこと、楽しいこと、美しいことばかりだったら、その人生は空虚なものとなることでしょう。そこには深みというものがないからです。

賢い人間は自分を待ちうける体験のすべてが大霊へ近づく無限の道において手引きとなる叡智を教えてくれるとの覚悟で一日一日を迎えます」

「交霊会の支配霊は霊力を無制限に使用できるのでしょうか」


「支配霊に使用できる霊力は、その霊の進化の程度と、それを受けそして活用する霊媒の能力いかんによります。まず支配霊の霊格によって扱える霊力の分量が決まります。そしてこんどは、それが霊媒を通して地上へ注がれる分量が決まります。そうした要素が霊界からの霊力の配給をつかさどっているのです」

「では霊力そのものは無限に存在するわけですね?」


「そうです。無限の大霊を源としているからです」

「そうなると、交霊会を見てますと霊力を無駄にしないように支配霊が気を配っているようですが、それは必要ないことになりませんか」


「心霊実験会(※)に何度も出席なさればおわかりになりますが、霊力の使用がある一定限度を超えると、出席者が体力と気力を消耗して衰弱します。せっかく霊力の証としての現象を見に来られた人の健康を損ねることになるのは、わたしたちの望むところではありません。

しかし実際はむしろその逆で、健康が増進するはずのものです。と申しますのは、ふだん抑え込まれている力が活発に動き始めるからです。忘れないでくださいよ、もともとわたしたちがお届けしている霊力は賦活作用をもった生命エッセンスなのです」


※――同じく霊が催す会でもシルバーバーチのように霊言を主体とするものを“交霊会”といい、物理的現象を主体とするものを“心霊実験会”という。後者の場合は霊媒だけでなく列席者からもエネルギーを取るので疲労を覚えたり睡気を催したりすることがある。“健康を増進するはずのもの”と言っているのは交霊会の場合である。もっともそれも高級霊に支配されている場合に限られる。

そう述べた段階では交霊会の時間はまだ半分も過ぎていないムードだったが、シルバーバーチがもうそろそろ時間ですと言った。そして霊媒のバーバネルが意識を回復した時はあと五分しかなかった。いよいよ霊媒の身体を離れる前に、シルバーバーチはこう述べた。


「わたしはこれまで一貫して、わたしが皆さんの友だちであり指導霊であることを証明すべく努力してまいりました。わたしがいつも皆さんの近くにいること、わたしにも性格上のクセがいろいろとあっても、それが皆さんとの親しいお付き合いの妨げにはなっていないこと、皆さんの悩みごとや難しい問題にも決して無関心ではなく、いつでもわたしに可能なかぎりの手助けをする用意があることを実感をもって知っていただきたいと思ってまいりました。

どうか、このわたしが永遠の真理をお教えし、霊的威力をお見せしようとしている教師であると同時に、皆さんのお一人お一人の友だちであることを忘れないでください。わたしには皆さんへの親密なる情愛があり、持てる力と能力のかぎりを尽くしてご援助しようとしているのです。

どうぞ、いつでもどんなことでもよろしい、難しい問題が生じたらここへお持ちください。わたしがお役に立つことであればそう努力しますし、もしもわたしには手出しを許されないことであれば、皆さんがその十字架を背負っていかれるための力をお貸しいたしましょう」

祈り


これよりわたしは全生命の大霊にお祈りを捧げます。その輝きがわれわれの全存在を満たし、その光がわれわれの進む道を照らし、その愛がわれわれの心を通じて流れ、その意志をわれわれの意志とせんがためです。

霊の世界と物質の世界とのつながりをより緊密なものとし、物質の世界に住める者が永遠の霊的真理についての理解をより一層深める上での障害と制約のすべてを取り除こうとするわれわれに、大霊の強大なる霊力を授けていただくために、わたしはこれよりお祈りを捧げます。

大霊よ、わたしたちは人類の永き歴史において澄み切った霊視力と霊聴力をそなえた霊能者、予言者、先見者、そして賢人・聖人を通して啓示されてきたあなたの霊力を今改めて地上へ届けんと努力しているところでございます。それを豊富に顕現せしめることによって、今なお無知と煩悩の暗闇の中にいる人々の心を鼓舞し、魂を奮い立たせて、真実の自由と悟りをもたらさんとしているのでございます。

わたしたちは霊的真理と霊的叡智と霊的知識の光明を、それを必要とする人たちにもたらし、その高級界の影響力によって勇気づけられ鼓舞され元気づけられて、彼らが一層の改革に精励し、あなたがふんだんに用意なさっておられる恩恵が子等に等しく行きわたるのを妨げている不正・不公正・障害物のすべてを取り除くことができるようにと刻苦しているところでございます。

わたしたちは真理と自由と公正の道に立ちはだかる既得権力のすべてに闘いを挑みます。地上の汚点ともいうべき混とんと病いと苦しみと飢えをなくするためです。そうしたものは本来あなたのご計画の中には存在せず、権力を握る者たちがその自由意志の行使を誤り、あなたのご意志にそった使い方をしていないがために生じているのでございます。

わたしたちは善意の人々、人のために役立ちたいとの願いを抱く者のすべてを結束させんと努力いたしております。受け入れる用意のある者、あなたの御国を生命の全界層に実現せしめんとして努力する者のすべてに、わたしたちのメッセージをもたらしたいと願っております。

その目的のためにわたしたちは祈り、そして刻苦します。何とぞあなたの霊力が常にわたしたちを導き、一層の奉仕へ向けて鼓舞したまわんことを。

ここに、人に役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

Sunday, August 9, 2026

ベールの彼方の生活(二)

第二巻は、著者オーエンの守護霊であるザブディエルからの通信です。彼がいる十界、その先の十一界や下層界である五界や六界の情景について書かれています。


八章 祝福されたる者よ、来たれ!
ザブディエル最後のメッセージ
訳者あとがき

1 光り輝く液晶の大門      

 一九一三年 十二月 二九日 月曜日

 例の高地での体験についてはこれ以上は述べない。地上近くで生活する人間や景色について地上の言語で述べるのは容易であるが、上層界へ行くほど何かと困難が生じてくる。私の界は天界においても比較的高い位置にある。そして今述べたことはこの界のさらに高地での話題である。

それ故、前に述べたように、この界の景観も栄華も極めて簡略に、従って不十分な形でしか述べることが出来ない。そこでこれから差し当り今の貴殿にとって重要であり参考となる話題を取り上げようと思う。

 これは私が十界の領主の特命を受けて第五界へ旅立つことになった時の話である。その説明をしよう。

 私はその界の首都を訪ね、領主と面会し、そこで私の訪問の要件を聞かされることになっていた。領主にはすでに私の界の領主からの連絡が届いていたのである。また、私一人で行くのではなく、他に三人のお伴を付けて下さった。

 五界へ到着してその首都を見つけるのは至って簡単であった。曽てその界の住民であった頃によく見聞きしていたからである。それにしても、その後の久しい時の経過と、その間に数々の体験を経た今の私の目に、その首都は何と変わって映じたことであろう。

考えてもみよ。五界を後にして六界へ進み、さらに向上を続けてついにこの十界に至って以来、こうして再び五界へ戻るのはその時が初めてだったのである。

その途中の界層の一つ一つに活気あふれる生活があり、そこでの数々の体験が私を変え発達を促してきた。そして今、久方ぶりにこの界へ戻ってきたのである。

この界での生活は他の界ほど長くはなかったとはいえ、今の私の目には一見全てが物珍らしく映える。が、同時に何もかもが馴染みのあるものばかりである。

物珍らしく映るのは、私が第四界よりこの界へ向上して来た頭初、あまりの栄華に圧倒され目を眩まされた程であったが、今では逆にその薄暗さ、光輝の不足に適応するのに苦労するほどだからである。

 四人は途中の界を一つ通過する毎に身体を適応させて下りてきた。六界までそれを素早く行ったが、五界の境界内に入った時からは、そこの高地から低地へとゆっくりとした歩調で進みつつ、その環境に徐々に慣らしていった。

と申すのも、多分この界での滞在はかなりの長期に及ぶものとみて、それなりの耐久性を身に付けて仕事に当たるべきであると判断したからである。

 山岳地帯から平地へと下って行くのも、体験としては興味あるものであった。行くほどに暗さが増し、吾々は絶えず目と身体とを調整し続けねばならなかった。その時の感じは妙なものではあったが不愉快なものではなかった。そして少なくとも私にとっては全く初めての体験であった。

お蔭で私は、明るい世界から一界又は一界と明るさが薄れてゆく世界へ降りて行く時の、霊的身体の順応性の素晴らしさを細かく体験することとなった。

 貴殿にもしその体験が少しでも理解できるならば、ぜひ想像の翼をさらに広げて、こうして貴殿と語り合うために、そうした光明薄き途中の界層を通過して地上へ降りてくることがいかに大変なことであるかを理解して欲しいものである。

それに理解が行けば、人間との接触を得るために吾々がさんざん苦労し、その挙句にすべてが無駄に終わることが少なくないと聞かされても、あながち不思議がることはあるまい。

貴殿がもしベールのこちら側より観察することが出来れば、そのことを格別不思議とは思わないであろうが・・・・・・吾らにとってはその逆、つまり人間が不思議に思うことこそ不思議なのである。

 では都市について述べよう。

  位置は領主の支配する地域の中心部に近い平野にあった。大ていの都市に見られる城壁は見当たらない。が、それに代って一連の望楼が立ち並んでいる。さらに平野と都市の内部にもうまく配置を考えて点在している。

領主の宮殿は都市の縁近くに正方形に建てられており、その城門は特に雄大であった。

 さて、これより述べることは吾々上層界の四人の目に映った様子ではなく、この界すなわち第五界の住民の目に映じる様子と思っていただきたい。

 その雄大な門は液体の石で出来ている。文字どおりに受け取っていただきたい。石そのものが固くなくて流動体なのである。色彩も刻一刻と変化している。

宮殿内での行事によっても変化し、前方に広がる平野での出来ごとによっても変化し、さらにその平野の望楼との関連によっても変化する。

その堂々たる門構えの見事な美しさ。背景の正殿と見事に調和し、色彩の変化と共に美しさも千変万化する。その中で一個所だけが変わらぬ色彩に輝いている。

それが要石で、中央やや上部に位置し、愛を象徴する赤色に輝いていた。その門を通って中へ入るとすぐに数々の広い部屋があり、各部屋に記録係がいて、その門へ寄せられるメッセージや作用を読み取り、それを判別して然るべき方面へ届ける仕事をしている。

吾々の到着についてもすでに連絡が入っており、二人の若者が吾々を領主のもとへ案内すべく待機していた。

 広い道路を通って奥へ進むと、行き交う人々がみな楽しげな表情をしている。このあたりでは常にそうなのである。それを事さらに書くのは、貴殿が時おり、否、しばしば心の中では楽しく思ってもそれを顔に出さないことがあるからである。吾らにとっては、晴れの日は天気がよいと言うのと同じほど当たり前のことなのであるが・・・

 それから宮殿の敷地内の本館へ来た。そこが領主の居所である。

 踏み段を上がり玄関(ポーチ)を通ってドアを開けると、そこが中央広場(ホール)になっている。そこも正方形をしており、大門と同じ液状石の高い柱で出来ている。それらがまた大門と同じように刻一刻と色調を変え、一時として同じ色を留めていない。

全部で二二本あり、その一本一本が異なった色彩をしている。二本が同じ色を見せることは滅多にない。それがホール全体に快い雰囲気を与えている。それらが天井の大きな水晶のドームの美しさと融合するように設計されており、それが又一段と美しい景観を呈するのであった。

これは貴殿の想像に俟つよりほかはない。私の表現力の限界を超えているからである。

 吾々はそのホールで待つように言われ、壁近くに置かれている長椅子に腰を下ろして色彩の変化の妙味を楽しんでいた。見ているうちにその影響が吾々にも及び、この上ない安らぎと気安さを覚え、この古く且つ新しい環境にいてすっかり寛いだ気分になった。

やがてそのホールに至る廊下の一つに光が閃くのを見た。領主が来られたのである。

吾々の前まで来られるとお辞儀をされ、私の手を取って丁重な挨拶をされた。彼は本来は第七界に所属するお方であり、この都市の支配のためにこの界の環境条件に合わせておられるのであった。

至ってお優しい方である。吾々の旅の労をねぎらったあと、謁見の間へ案内して下さり、ご自分の椅子に私を座らせ、三人の供の者がその周りに、さらにご自分はその近くに席を取られた。

 すぐに合図があって、女性ばかりの一団が白と青の可憐な衣装で部屋へ入ってきて丁寧な挨拶をし、吾々の前に侍(はべ)った。

それから領主が私と三人の供に今回の招待の趣意を説明された。女性たちは吾々上層界の者の訪問ということで、ふだん身につけている宝石を外していた。が、その質素な飾りつけの中に実に可憐な雰囲気を漂わせ、その物腰は数界の隔たりのある吾々を前にした態度に相応しい、しとやかさに溢れていた。

 私はそれに感動を覚え、領主に話を進める前に許しを乞い、彼女たちのところへ下りて行って、一人一人の頭に手を置き祝福の言葉を述べた。その言葉に、そうでなくてもおずおずしていた彼女たちは一瞬とまどいを見せたが、やがて吾々見上げてにっこりと笑微(ほほえ)み、寛ぎの表情を見せた。

 さて、そのあとの会見の様子は次の機会としよう。この度はこの界層の環境と慣習を理解してもらう上でぜひ告げておかねばならないことで手一杯であった。この度はこれにて終わりとする。私はその女性たちに優しい言葉を掛け手を触れて祝福した。そして彼女たちも喜びにあふれた笑顔で私を祝福してくれた。

吾々はこうして互いに祝福し合った。こちらではそれが習慣なのである。人間もかくあるべきである。これは何よりも望ましいことである。

 そこで私も祝福をもって貴殿のもとを去ることとする。礼の言葉は無用である。何となれば祝福は吾々を通して父なる神より与えられるものであり、吾々を通過する時にその恩恵のいくばくかを吾々も頂戴するからである。そのこともよく銘記するがよい。他人を祝福することは、その意味で、自分自身を祝福することになることが判るであろう。 ♰


  
 2 女性ばかりの霊団       

 一九一三年十二月三十日  火曜日

 前回の続きである。
 女性の一団は私の前に立っていた。そこで私がこの度の訪問の目的を述べようとしたが、私自身にはそれが判らない。そこで領主の方へ目をやると、こう説明してくださった。

「この女性たちは揃ってこの界へ連れてこられた一団です。これまでの三つの界を一団となって向上して来た者たちです。一人として他の者を置き去りにする者はおりませんでした。進歩の速すぎる者がいると、遅れがちな者の手を取ってやるなどして歩調を合わせ、やっとこの界で全員が揃ったところです。

そして今この界での修養も終えて、さらに向上して行く資格もできた頃と思われるのですが、その点についてザブディエル様のご判断をお聞かせいただきたい。彼女たちはその判断のために知恵をお借りしたいのです。

と申しますのも、十分な資格なしに上の界へ行くと却って進歩を阻害されることが、彼女たちもこれまでの体験で判ってきたのです。」

 この詳しい説明を聞いて私自身も試されていることを知った。私の界の領主がそれを故意に明かさずにおいたのは、こうして何の備えもなしに問題に直面させて、私の機転を試そうという意図があったのである。

これはむしろ有難いことであった。なぜならば、直面する問題が大きいほど喜びもまた大きいというのがこちらの世界の常であり、領主も、私にその気になれば成就する力があることを見抜いた上での配慮であることを知っておられるからである。

 そこで私は速やかに思考をめぐらし、すぐさま次のような案を考えついた。女性の数は十五人である。そこでこれを三で割って五人ずつのグループに分け、すぐさま都市へ出て行って各グループ一人ずつ童子を連れて来ること。その際にその子がぜひ知っておくべき教訓を授け、それがきちんと述べられるようにしておく、というものであった。

 さて、話は進んで、各グループが一人ずつ計三人の童子を連れて帰って来た。男児二人と女児一人であった。

 全員がほぼ時を同じくして入ってきたが、全く同時ではなかった。そのことから、彼女たちが途中で遭遇することがなかったことを察した。と言うのは、彼女たちの親和力の強さは、いったん遭遇したら二度と離れることが出来ないほどのものだったからである。

私は三人の子どもを前に立たせ、まずその中の男の子にこう尋ねた。「さあ坊や、あの方たちからボクがどんなことを教わったか、この私にも教えてくれないだろうか。」

 この問いにその子はなかなかしっかりとこう答えた。

 「お許しを得て申し上げます。ボクは地球というところについて何も知らずにこちらへ来ました。お母さんがボクに身体を地上に与える前にボクの魂を天国へ手離したからです。

それでこのお姉さま方が、ここへ来る途中でボクに、地球がこちらの世界の揺りかごであることを知らねばならないと教えて下さいました。地球には可哀そうな育てられ方をしている男の子が大勢います。

そしてその子たちは地球を去るまではボクたちのような幸せを知りません。でも、地球もこの世界と同じように神様の王国なので、あまり可哀そうな目に遭っている子や、可哀そうな目に遭わせている親のために祈ってあげないといけません。」

 この子は最後の言葉を女性たちから聞かされてからずっと当惑していたのか、そのあとにこう付け加えた。「でも、ボクたちはいつもお祈りをしています。それがボクたちの学校の教課の一つなのです。」

 「そうだね、それはなかなかよい教課だね」───私はそう言い、さらに、それは学校の先生以外の人から教えられても同じように立派な教えであることを述べて、今の返答がなかなかよく出来ていたと褒めてあげた。

 それからもう一人の男の子を呼び寄せた。その子は私の足もとへ来て、その足を柔らかい可愛らしい手で触ってから、愛敬のある目で私の顔を見つめ「お許しを頂き、優しいお顔の天使さまに申し上げます」と述べ始めた。が私は、もう感動を抑え切れなくなった。

私は屈み込んでその子を抱いて膝に置き頬に口づけをした。私の目から愛の喜びの涙が溢れた。その様子をその子は素直な驚きと喜びの混ざり合った表情で見つめていた。

私が話を続けなさいと言うと、下におろしてくれないと話しにくいと言う。これにはこんどは私の方が驚いて慌てて下ろしてあげた。

 するとその子は再び私の衣服の下から覗いている足に手を置き、ひどく勿体ぶった調子で、先の言葉をきちんとつないで、こう述べた。

 「天使のおみ足は見た目に美しく、触れた手にも美しく感じられます。見た目に美しいのは天使が頭と心だけでなく、父なる神への仕え方においても立派だからであり、触れた手に美しいのは、優しくそっと扱われるからです。

過ちを犯した人間が心に重荷を感じている時にはそっとお諫(いさ)めになり、悲しみの中にいる人をそっと抱いてこの安らぎと喜びの土地へお連れになります。

ボクたちもいつかは天使となり、子供でなくなります。大きく、強く、そして明るくなり、たくさんの叡智を身に付けます。その時にそうした事を思い出さないといけません。

なぜなら、その時は霊格の高いお方が、勉強と指導を兼ねてボクたちを地上へ派遣されるからです。ボクたちのように早くこちらへ来た者には必要のないことでも、地上にはそれを必要としている人が大勢いるのです。

お姉さま方からそのように教わりました。教わった通りであると思います。」

 童子の愛らしさには私はいつもほろりとさせられる。正直を申して、その時もしばし頭を下げ、顔を手でおおい、胸の高まりと苦しいほどの恍惚状態に身を任せていたのである。それから三人の子供を呼び寄せた。

三人とも顔では喜びつつも足は遠慮がちに近づいて来た。そして二人の男の子を両脇に、女の子を膝の前に跪かせた。三人に思いのたけの情愛を込めて祝福の言葉を述べ、可愛らしくカールした頭髪に口づけした。

それから二人の男の子を両脇に立たせ、女の子を膝に乗せて、お話を聞かせてほしいと言った。

「で・は・お・ゆ・る・し・を・い・た・だ・い・て」と言い始めたのであるが、一語一語を切り離して話しますので、私は思わず吹き出してしまった。

と言うのも、さきの男の子の時のように、私が感激のあまり涙を流して話が中断するようなことにならないように、〝優しいお顔の天使さま〟といった言い方を避けようとする心遣いがありありと窺えたからである。

「お嬢ちゃん、あなたはお年よりも身体の大きさよりも、ずっとしっかりしてますね。きっと立派な女性に成長して、その時に置かれる世界で立派な仕事をされますよ。」

 私がそう言うと、けげんな顔で私を見つめ、それから、まわりで興味深くその対話を見つめている人たちを見まわした。私が話を続けるように優しく促すと、さきの男の子と同じようにきちんと話を継いでこう話した。

 「女の子はその懐(ふところ)で神の子羊を育てる母親となる大切なものです。でも身体が大きくそして美しくなるにつれて愛情と知恵も一緒に成長しないと本当の親にはなれません。ですから、あたしたち女の子は、宿されている母性を大切にしなくてはなりません。

それは神様があたしたちがお母さんのお腹の中で天使に起こされずに眠っている間に宿して下さり、そしてこの天国へ連れてきて下さいました。

あたしたちの母性が神聖なものであることには沢山の理由があります。その中でも一ばん大切なのは次のことです。

あたしたちの救いの主イエス・キリスト(と言って、くぼみのある可愛らしい両手を組み合わせて恭(うやうや)しく頭を下げ、ずっとその恰好で話を続けた)も女性からお生まれになり、お生みになったその母親を愛され、その母親もイエス様を愛されたことです。

あたしたちは今お母さんがいなくても、お母さんと同じように優しくしてくださる人がいます。でも、あたしたちと同じようにお母さんがいなくて、しかも優しくしてくれる人がいない人のことを、大きくなってから教わるそうです。

その時に、自分が生んだ子供でない子供で、今のあたしのように、お母さんの代わりをしてくれる人を必要としている子供たちのお母さん代わりをする気があるかどうかを聞かれます。その時あたしははっきりとこう答えるつもりです。

〝どうかこのあたしをこの明るい世界からもっと暗い世界へ行かせて下さい。もしあたしにその世界の可哀そうな子供たちを救い育てる力があれば、あたしはその子供たちと共に苦しみたいのです。なぜならば、その子供たちも主イエス様の子羊だからです。

その子供たちのためにも、そして主イエス様のためにも、あたしはその子供たちを愛してあげたいと思います〟と。」

 私はこの三人の答えに大いに感動させられた。全部を聞き終わるずっと前から、これらの女性たちは上級界へ向上していく資格が充分あるとの認識に到達していた。

 そこでこう述べた。「皆さん。あなた方は私の申し付けたことを立派に果たされました。三人の子供もよくやりました。とくに私が感じたことは、あなた方はもうこの界で学ぶべきものは十分に学び、次の界でも立派になって行けるであろうということです。

同時にあなた方は、やはりこののちも、これまで同様いっしょに行動されるのがよいと判断しました。三人の子供を別々に教えても答えは同じ内容───地上の子供たちのことと、その子供たちの義務のことでした。これほど目的の一致するあなた方は、一人一人で生きるよりも協力し合った方が良いと思います。」

 そこで全員に祝福を与え、間もなく吾々四人が帰る時にいっしょに付いて来るように言った。

 実はその時に言うのを控え、いっしょに帰る途中で注意したことが幾つかあった。その方が気楽に話せると考えたからである。その一つは、彼女たち十五人が余りに意気投合しすぎるために、三人の子供への教えの中に義務と奉仕の面ばかりに偏りが見られることである。

三人の子供ならびに死産児としてこちらへ来る子供の全てが、いずれは地上の子供たちの看護と守護の仕事に携わることになるが、その子どもたちは本来なら地上で為さねばならない他のもろもろのことを失っていることを知らなければならない。

さらにもう一つは、実際に地上へ赴くのは彼らの中のごく僅かな数に過ぎないということである。その理由は性質的にデリケートすぎるということで、そういう子どもには実際に地上に来るよりも、ほかにもっと相応しい仕事があるのである。

 が、今はこれ以上は述べないことにする。神の愛と祝福が貴殿と貴殿の子羊とその母親の上にあらんことを、神の王国にいる守護者は優しき目をもって地上の愛する者を見つめ、こちらへ来た時に少しでも役に立つものを身につけさせんと心を砕いている。このことをよく心に留め、それを喜びとするがよい。 



 3 女性団、第六界へ迎えられる   

 一九一三年十二月三一日 水曜日

 話を進める前に、前回に述べた面会が行われた都を紹介しておこう。と言うのは、私の知る限りでは、第五界にはこの界特有の特徴が幾つかあるのである。

例えば大ていの界──全てとは言わないが──には中心となる都が一つあるのみであるが、この五界には三つあり、従って三人の領主がおられることになる。

 この三重統治の理由は、この界の置かれた位置が、ここまで辿り着いた者がこのあとどちらの方向に進むかについて重大な選択を迫られる位置にあるからである。一種の区分所のようなものであり、住民はここでの生活中にそれぞれに相応しいグループに配属され、最も相応しい仕事に携わるべく上層界へと進む。

 三つの都は途方もなく広い平坦な大陸の境界域近くに位置し、その三つを線で結ぶと二等辺三角形となる。それ故、それぞれ都から出る何本かの広い道路が扇状に一直線に伸びている。こうして三つの都は互いに連絡し合っている。その三角形の中心に拝殿がある。

森の中央の円形広場に建てられている。各都市から伸びる広い道路は途中で互いに交叉しており、結局全てがこの拝殿とつながっていることになる。そうして、折ある毎に三つの都市の代表を始めとして、その統治下にある住民の代表が礼拝を捧げるために一堂に会する。

 その数は何万あるいは何十万を数え、見るからに壮観である。三々五々、みな連れだって到着し、広場に集合する。そこは広大な芝生地である。そこで大群集が合流するわけであるが、五界にある全ての色彩が渾然一体となった時の美しさは、ちょっとした見ものである。

 が、それ以上に素晴らしいのは多様性の中に見られる一体感である。それぞれの分野でもうすぐ次の界へ向上して行く者がいて、決して一様ではない。が、その大集団全体を通じて〝愛の調べ〟が脈うっている。そしてそれが不変不朽であり、これよりのち各自がいかなる道を辿ろうと、この広き天界のいずこかにおいて相見(まみ)えることを可能にしてくれることを全員が自覚している。

それ故誰一人として、やがて訪れる別れを悲しむ者はいない。そのようなものは知らないのである。愛あるところには地上でいう別れも、それに伴う悲しみもない。それは〝人類の堕罪〟さえなければ、地上においても言えるところである。

人間がその資質を取り戻していくのは容易ではあるまい。が、不可能ではない。なぜなら、今は目覚めぬままであるとは言え、よくよくの例外を除いては、その資質は厳然と人間に宿されているからである。

 さて吾々は旅の次の段階、すなわち例の女性の一団を第六界へと送り届け、そこの領主へ引き渡す用事へ進まねばならぬ。

 いよいよ第六界へ来ると、首都から少し離れた手前で歓迎の一団の出迎えを受けた。あらかじめ第五界との境界の高地において到着の報を伝えておいたのである。歓迎の一団の中には女性たちの曽ての知友も混じっており、喜びと感謝のうちに旧交を温めるのであった。

 女性たちのしばしの住処となるべき市(まち)に到着すると、明るい衣装をまとった男女に僅かばかりの子供の混じった市民が近づいて来るのが見えた。あらかじめ指定しておいた道である。両側に樹木が生い茂り、ところどころで双方の枝が頭上で重なり合っている。

一行はそうした場所の一つで足を止め、吾々の到着を待った。あたりはあたかも大聖堂の如く、頭上高く木の葉が覆い、その隙間を通して差し込む光はあたかも宝石の如く,そして居合わせる者はあたかも聖歌隊の如くであり礼拝者の如くでもあった。

出迎えの人々は新参の女性たちのための花輪と衣装と宝石を手にしていた。それを着飾ってもらうと、それまでのくすんだ感じの衣装が第六界に相応しい新しい衣装に負けて立ちどころに消滅した。それから和気あいあいのうちに全員が睦み合ったところで、出迎えの市民が市の方へ向きを変え、ある者は手にしていた楽器で行進曲を演奏し、ある者は歌を合唱しつつ行進しはじめた。

沿道にも塔にも門前にも市民が群がって歓迎の挨拶を叫び、喜びを一層大きなものにしていった。

新参者は皆こうした体験を経て自分たちへ向けられる歓迎の意向を理解していくのである。そして界を二つ三つと経ていくうちに新しい顔と景色の奇異な点が少しも恐れる必要がないこと──全てが愛に満ちていることを悟るに至るのである。

 さて、門を通過して市中へ入ると、まず聖殿へ向かった。見事な均整美をした卵形の大きな建物で、その形体は二つの球体が合体して出来たものを思わせる。

一つは愛を、もう一つは知識を意味する。それが内部の塔を中央にして融合しており、その組み合わせが実に美事で巧みなのである。照明は先日叙述した液晶柱のホールと同じく一時として同じ色彩を見せず、刻一刻と変化している。全体を支配しているのはたったの二色──濃いバラ色と、緑と青の混じったスミレ色である。

 やがて新参の女性たちが中へ案内された。中にはすでに大会衆が集まっている。彼女たちは中央の壇上に案内され、そこにしばらく立っていた。

すると聖殿の専属の役人がリーダーの先導で神への奉納の言葉を捧げ、すぐそのあと会衆が唱和すると、場内に明るい光輝をした霧状の雲が発生し、それが彼女たちのまわりに集結して、この第六界の雰囲気の中に包み込んでしまった。

 やがてそれが上昇し、天蓋の如く頭上に漂ったが、彼女たちは深く静かな恍惚状態のままじっと立ちつくし、その美しい雲がさらに上昇して他の会衆まで広がるのを見ていた。

すると今度は音楽が聞こえてきた、遥か遠くから聞こえてくるようであったが、その建物の中に間違いなかった。そのあまりの美しさ、柔らかさ、それでいて力強さにあふれた旋律に、吾々は神の御前にいるような崇高さを覚え、思わず頭を垂れて祈り、神の存在を身近かに感じるのであった。

 やがて旋律が終わったが、余韻はまだ残っていた。それはあたかも頭上に漂う光輝性の雲の一部になり切っているように感じられた。実は、貴殿には理解できない過程を経てそれは、真実、雲の一部となっていたのである。

そしてその輝く雲と愛の旋律とが一体となって吾々にゆっくりと降りてきて吾々の身体を包み込むと、聖なる愛の喜びに全会衆が一体となったのであった。

私を除く全会衆にはそれ以上の顕現は見えなかった。が、修行をより長く積んできた私には他の者に見えないものが見え、上層界からの参列者の存在にも気づいていた。

また旋律の流れくるところも判っていた。祝福の時に授けられる霊力がいかなる種類のものであるかも判っていた。それでも他のすべての者はこの上なく満足し、ともに幸せを味わった。十五人の女性たちはいうまでもなかった。



──その間あなたは何をなさっていたのでしょうか。そこではあなたが一ばん霊格が高かったのではありませんか。

 ただお世話をするために同行したに過ぎない私自身について語るのは感心しない。この度の主役は十五人の女性であった。私の界からは他に三名の者が同行し、それより上の界の者は一人もいなかった。吾々四人に全ての人が友好的で親切で優しくしてくれた。

それが吾々にとって大いなる幸せであった。いよいよ十五人が落着くべき住処へ案内されることになった時、彼女たちはぜひもう一度礼を述べたいといって戻ってきて、感謝の言葉を述べてくれた。

吾々も言葉を返し、そのうち再び戻ってその後の進歩の様子を伺い、多分、助言を与えることになろうと約束した。彼女たちからの要請でそうなったのである。

そこに彼女たちの立派な叡智が窺えた。私もそうすることが彼女たちにとって大きな力となるものと確信する。こうした形での助言は普通はあまり見られない。そうたびたび要請されるものではないからである。

 「真理は求める者には必ず与えられる」──このイエスの言葉は地上と同じくこちらの世界にも当てはまることが、これで判るであろう。この言葉の意味を篤と考えるがよい。  ♰



 4 イエス・キリストの出現       

 一九一四年一月二日  金曜日

 ここで再び私の界へ心の中で戻ってもらいたい。語り聞かせたいことが幾つかある。神とその叡智の表われ方について知れば知るほど吾々は、神のエネルギーが如何に単純にして同時にいかに複雑であるかを理解することになる。

これは逆説的であるが、やはり真実なのである。単純性はエネルギーの一体性とそのエネルギーの使用原理に見出される。

 例えば創造の大事業のために神から届けられるエネルギーの一つ一つは愛によって強められ、愛が不足するにつれて弱められていく。この十界まで辿りつくほどの者になれば、それまで身につけた叡智によって物事の流れを洞察することが可能となる。

〝近づき難き光〟すなわち神に向けて歩を進めるにつれて、全てのものが唯一の中心的原理に向かっており、それがすなわち愛であることが判るようになる。愛こそ万物の根源であることを知るのである。

 その根源、その大中心から遠ざかるにつれて複雑さが増す。相変わらず愛は流れている。が、創造の大事業に携わる霊の叡智の低下に伴い、必然的にそれだけ弱められ、従って鮮明度が欠けていく。

その神の大計画のもとに働く無数の霊から送られる霊的活動のバイブレーションが物的宇宙に到達した時、適応と調整の度合が大幅に複雑さを増す。

この地上にあってさえ愛することを知る者は神の愛を知ることが出来るとなれば、吾々に知られる愛がいかに程度の高いものであるか、思い半ばに過ぎるものであろう。

 しかし、吾々がこれより獲得すべき叡智はある意味ではより単純になるとは言え、内的には遥かに入り組んだものとなる。なぜならば吾々の視野の届く範囲が遥かに広大な地域にまで及ぶからである。

一界一界と進むにつれて惑星系から太陽系へ、そして星団系へと、次第に規模が広がっていく世界の経綸に当たる偉大な霊団の存在を知る。その霊団から天界の広大な構成について、あるいはそこに住む神の子について、更には神による子への関わり、逆に子による神への関わりについて尋ね、そして学んでゆかねばならない。

 これで、歩を進める上では慎重であらねばならないこと、一歩一歩の歩みによって十全な理解を得なければならないことが判るであろう。吾々に割り当てられる義務はかぎりなく広がってゆき、吾々の決断と行為の影響が次第に厳粛さを帯びてゆき、責任の及ぶ範囲が一段と広い宇宙とその住民に及ぶことになるからである。

 しかし今は地球以外の天体には言及しない。貴殿はまだそうした地球を超えた範囲の知識を理解する能力が十分に具わっていない。

私および私の霊団の使命は、地球人類が個々に愛し合う義務と、神を一致団結し敬愛する義務についての高度な知識を授け、さらに貴殿のように愛と謙虚さをもって進んで吾々に協力してくれる者への吾々の援助と努力──つまり吾々はベールのこちら側から援助し、

貴殿らはベールのそちら側で吾々の手となり目となり口となって共に協力し合い、人類を神が意図された通りの在るべき姿──本来は栄光ある存在でありながら今は光乏しい地上において苦闘を強いられている人間の真実の姿を理解させることにあるのである。

 では私の界についての話に戻るとしよう。

 ある草原地帯に切り立つように聳える高い山がある。あたかも王が玉座から従者を見下ろすように、まわりの山々を圧している。その山にも急な登り坂のように見える道があり、そのところどころに建物が見える。四方に何の囲いもない祭壇も幾つかある。

礼拝所もある。そして頂上には全体を治める大神殿がある。この大神殿を舞台にして時おりさまざまな〝顕現〟が平地に集結した会衆に披露される。


──前に話されたあの大聖堂のことですか(五章4)

 違う。あれは都の中の神殿であった。これは〝聖なる山〟の神殿である。程度において一段と高く、また目的も異なる。そこの内部での祈りが目的ではなく、平地に集結した礼拝者を高揚し、強化し、指導することを主な目的としている。

専属の聖職者がいて内部で祈りを捧げるが、その霊格はきわめて高く、この十界より遥かに上の界層まで進化した者が使命を帯びて戻って来た時にのみ、中に入ることが許される。

 そこは能天使(※)の館である。すでにこの十界を卒業しながら、援助と判断力を授けにこの大神殿を訪れる。そこには幾人かの天使が常駐し、誰ひとり居なくなることは決してない。が、私は内部のことは詳しくは知らない。

霊力と崇高さを一団と高め、十一界、十二界と進んだ後のこととなろう。(※中世の天使論で天界の霊的存在を九段階に分けた。ここではその用語を用いているまでで、用語そのものに拘わる必要はない。──訳者)

 さて平地は今、十界の全地域から召集された者によって埋め尽くされている。地上の距離にしてその山の麓から半マイルもの範囲に亘って延々と群がり、その優雅な流れはあたかも〝花の海〟を思わせ、霊格を示す宝石がその動きに伴ってきらきらと輝き、色とりどりの衣装が幾つもの組み合わせを変えて綾を織りなしてゆく。

そして遠く〝聖なる山〟の頂上に大神殿が見える。集まった者たちは顕現を今や遅しと期待しつつ、その方へ目をやるのであった。

 やがてその神殿の屋根の上に高き地位(くらい)を物語る輝く衣装をまとった一団が姿を現わした。それから正門と本殿とをつなぐ袖廊(ポーチ)の上に立ち並び、そのうちの一人が両手を上げて平地の群集に祝福を述べた。

その一語一語は最も遠方にいる者にも実に鮮明に、そして強い響きをもって聞こえた。遠近に関わりなく全員に同じように聞こえ、容姿も同じように鮮明に映じる。

それから此の度の到来の目的を述べた。それは、首尾よくこの界での修行を終え、さらに向上していくだけの霊力を備えたと判断された者が間もなく第十一界へ旅立つことになった。そこで彼らに特別な力を授けるためであるという。

 その〝彼ら〟が誰であるのか──自分なのか、それとも隣にいる者なのか、それは誰にも判らない。それはあとで告げられることになった。そこで吾々はえも言われぬ静寂のうちに、次に起きるものを待っていた。ポーチの上の一団も無言のままであった。

 その時である。神殿の門より大天使が姿を現わした。素朴な白衣に身を包んでいたが、煌々と輝き、麗わしいの一語に尽きた。頭部には黄金の冠帯を付け、足に付けておられる履き物も黄金色に輝いていた。

腰のあたりに赤色のベルトを締め、それが前に進まれるたびに深紅の光を放つのであった。右手には黄金の聖杯(カリス)を捧げ持っておられる。

左手はベルトの上、心臓の近くに当てておられる。吾々にはその方がどなたであるかはすぐさま知れた。他ならぬイエス・キリストその人なのである。(※)いかなる形体にせよ、あるいは顕現にせよ、愛と王威とがこれほど渾然一体となっておられる方は他に類を求めることが出来ない。

その華麗さの中に素朴さを秘め、その素朴さの中に威厳を秘めておられる。それらの要素が、こうして顕現された時に吾々列席者の全ての魂と生命とに秘み込むのを感じる。

そして顕現が終了した後もそれは決して消えることなく、いつまでも吾々の中に残るのである。(※その本質と地上降誕の謎に関しては第三巻で明かされる。──訳者)

 今そのイエス・キリストがそこに立っておられる。何もかもがお美しい。譬えようもなくお美しい。甘美にして優雅であり、その中に一抹の自己犠牲的慈悲を漂わせ、それが又お顔の峻厳な雰囲気に和みを添えている。

その結果そのお顔は笑顔そのものとなっている。といって決して笑っておられるのではない。そしてその笑みの中に涙を浮かべておられる。悲しみの涙ではない。

己の喜びを他へ施す喜びの涙である。その全体の様子にそのお姿から発せられる実に多種多様な力と美質が渾然一体となった様子が、側に控える他の天使の中にあってさえ際(きわ)立った存在となし、まさしく王者として全てに君臨せしめている。

 そのイエス・キリストは今じっと遠くへ目をやっておられる。吾々群集ではない。吾々を越えた遥か遠くを見つめておられる。やがて神殿の数か所の門から一団の従者が列をなして出てきた。男性と女性の天使である。その霊格の高さはお顔と容姿の優雅さに歴然と顕れていた。

 私の注目を引いたことが一つある。それを可能なかぎり述べてみよう。その優雅な天使の一人一人の顔と歩き方と所作に他と異なる強烈な個性が窺われる。同じ徳を同じ形で具えた天使は二人と見当たらない。霊格と威光はどの方もきわめて高い。が、一人一人が他に見られない個性を有し、似通った天使は二人といない。

その天使の一団が今イエス・キリストの両脇と、前方の少し低い岩棚の上に位置した。するとお顔にその一団の美と特質と霊力の全てが心地よい融和と交わりの中に反映されるのが判った。一人一人の個性が歴然と、しかも渾然一体となっているのが判るのである。

さよう、主イエスは全ての者に超然としておられる。そしてその超然とした様子が一層その威厳を増すのである。

 以上の光景を篤と考えてみてほしい。このあとのことは貴殿が機会を与えてくれれば明日にでも述べるとしよう。主イエスのお姿を私は地上を去ってのち一度ならず幾度か拝してきたが、そこには常に至福と栄光と美とが漂っている。

常に祝福を携え、それを同胞のために残して行かれる。常に栄光に包まれ、それが主を高き天界の玉座とつないでいる。そしてその美は光り輝く衣服に歴然と顕れている。

 しかも主イエスは吾々と同じく地上の人間と共にある。姿こそお見せにならないが、実質となって薄暗い地上界へ降り、同じように祝福と栄光と美をもたらしておられる。が、そのごく一部、それもごく限られた者によって僅かに見られるに過ぎない。

地球を包む罪悪の暗雲と信仰心の欠如がそれを遮るのである。それでもなお主イエスは人間と共にある。貴殿も心を開かれよ。主の祝福が授けられるであろう。  ♰



 
 5 ザブディエル十一界へ召される   

 一九一四年一月三日  土曜日

主イエスは黙したまましばし恍惚たる表情で立っておられた。何もかもがお美しい。やがて天使団に動きが生じた。ゆっくりと、いささかも急ぐ様子もなく、その一団が天空へ向けて上昇し、イエスを中心にして卵型に位置を取った。後部の者は主より高く、前方の者は主の足より下方に位置している。かくして卵形が整うと、全体が一段と強烈な光輝を発し、吾々の目にはその一人一人のお姿の区別がつかぬほどになった。

今や主の周りは光輝に満ち満ちている。にもかかわらず主の光輝はそれよりさらに一段と強烈なのである。但し、主の足元のすぐ前方に一個所だけ繋がっていないところがある。つまり卵形の一番下部に隙間が出来ているのである。

 その時である。主が左手を吾々の方へ伸ばして祝福をされた。それから右手のカリスを吾々の方へ傾けると、中から色とりどりの色彩に輝く細い光の流れがこぼれ出た。

それが足もとの岩に落ち、岩の表面を伝って平地へと流れ落ちて行く。落ちながら急速に容積を増し、平地に辿り着くと一段と広がり、なおも広がり続ける。今やそれは光の大河となった。その光に無数の色彩が見える。

濃い紫から淡いライラック、深紅から淡いピンク、黄褐色から黄金色等々。それらが大河のそこここで各種の混合色を作りつつ、なおも広がり行くのであった。

  かくしてその流れは吾々の足もとまで来た。吾々はただその不思議さと美しさに呆然として立ちつくすのみであった。今やその広大な平野は光の湖と化した。が、吾々の身体はその中に埋没せず、その表面に立っている。だが、足もとを見つめても底の地面まで見通すことはできない。あたかも深い深い虹色の海のような感じである。

しかも吾々は地面に立つようにその表面にしっかりと立っている。が、表面は常に揺らめき、さざ波さえ立てている。それが赤、青、その他さまざまな色彩を放ちつつ吾々の足元を洗っている。何とも不思議であり、何とも言えぬ美しさであった。

  やがて判ってきたことは、その波の浴び方が一人一人違うことであった。群集のところどころで自分が他と異なるのに気づいている者がいた。そう気づいた者はすぐさま静かな深い瞑想状態に入った。側の者の目にもそれが歴然としてきた。

まず周囲の光の流れが黄金色に変わり、それがまず踝(くるぶし)を洗い、次に液体のグラスのような光の柱となって膝を洗い、更に上昇して身体全体が光の柱に囲まれ、黄金色の輝きの真っ只中に立ちつくしているのだった。

頭部には宝石その他、それまで付いていたものに代って今や十一個の星が付いている。それまた黄金色に輝いていたが、流れの黄金色より一段と強烈な輝きを発し、あたかも〝選ばれし者〟を飾るために、その十一個の星に光が凝縮されたかのようであった。

その星の付いた冠帯が一人一人の頭部に冠せられ、両耳の後ろで留められていた。かくして冠帯を飾られた者はその輝きが表情と全身に行き亘り、他の者より一段と美しく見えるのであった。

 そこで主がカリスを真っ直ぐに立てられた。と同時に流れが消えた。光の流れにおおわれていた岩も今やその岩肌を見せている。平地も次第に元の草原の姿を現わし、ついに光の海は完全に消滅し、吾々群集は前と同じ平地の上に立っていた。

 さて、その〝選ばれし者〟のみが最後まで光輝に包まれていたが、今はもうその光輝も消滅した。が、彼らはすでにもとの彼らではなかった。

永遠に、二度ともとに戻ることは無いであろう。表情には一段と霊妙さが増し、身体もまた崇高さを加え、衣装の色調も周りの者に比して一段と明るさを加え、異った色彩を帯びていた。十一個の星は相変わらず光り輝いている。包んでいた光の柱のみが今は消滅していた。

 その時である。〝聖なる山〟の神殿からもう一人の天使が姿を現わし、優しさを秘めた力強い声で、星を戴いたものはこの山の麓まで進み出るように、と言われた。それを聞いて私を含めて全員が集結し───実は私も星を戴いた一人だったのである───そして神殿の前に立たれる主イエスのお姿を遥かに見上げながら整列した。

 すると主がおよそ次のような趣旨のことを述べられた。「あなた方は託された義務をよくぞ果たされた。父なる神と余に対し、必ずしも完璧とは言いかねるが、出来うるかぎりの献身を為された。これより案内いたす高き界においても、これまでと変わらぬ献身を希望する。では、ここまで上がって来られたい。

あなた方を今や遅しと待ち受ける新たな館まで案内いたそう。さ、来るがよい。」

 そう言われたかと思うと、すぐ前に広い階段が出来あがった。一ばん下は吾々の目の前の平野にあり、一ばん上は遥か山頂に立たれる主の足元まで伸びている。その長い階段を吾々全員が続々と登り始めた。数にして何万人いたであろうか。

が、かなりの位置まで登って平野を見下ろして別れの手を振った時、そこにはそれに劣らぬ大群集が吾々を見上げていた。それ程その時の群集は数が多かったのである。

 かくして吾々全員が神殿の前の広場に勢揃いした時、主が下に残った群集へ向けて激励と祝福を述べられた。仮に吾々と共に召されなかったことを悲しんだ者がいたとしても、私が見下ろした時は、そこには悲しみの表情は跡形もなかった。

主イエス・キリストの在(ましま)すところに誰一人悲しむ者はあり得ず、ひたすらにその大いなる愛と恩寵を喜ぶのみである。

 その時吾々と同じ神殿の前から幾人かの天使が階段を降り始めた。そしてほぼ中途の辺りで立ち止まった。全員が同じ位置まで来ると〝天に在す栄光の神〟を讃える感謝の賛美歌を斉唱した。平地の群集がこれに応えて交互に斉唱し、最後は大合唱となって終わった。

 聖歌隊が再び上がって来た。そして吾々と同じ場所に立った。その時はすでに階段は消滅していた。どのようにして消えたか、それは私にも判らなかった。

見た時はもうすでにそこに無かったのである。そこで主が両手をお上げになって平地の群集に祝福を与えた。群集はただ黙って頭を垂れていた。それからくるりと向きを変えられて神殿の中へお入りになった。吾々もその後に続いたのであった。




 ザブディエル最後のメッセージ

 さて、私の同志であり、友であり、私が守護を託されている貴殿に、最後に申し置きたいことがある。別れの挨拶ではない。これよりのちも私は常に貴殿と共にあり、貴殿の望みに耳を傾け、そして答えるであろう。

いついかなる時もすぐ近くに居ると思うがよい、たとえ私の本来の住処が人間の距離感では遥か彼方にあっても、吾らにとってはすぐ側に居るのも同然であり、貴殿の考えること望むことそして行うことにおいて、常に接触を保ち続けている。

なぜなら、私にはその全てについて評価を下す責務があるからである。それ故、もしも私が友として援助者として貴殿に何らかの役に立ってきたとすれば、私が下した評価において貴殿が喜ぶように私も貴殿のことを喜んでいるものと心得るがよい。

七つの教会の七人の天使のこと(七章2)を思い出し、私の立場に思いを馳せてほしい。

更に又、いずれの日か貴殿も今の私と同じように、自分の責任において保護し指導し監視し援助し、あるいは人生問題に対処し、正しい生き方を教唆すべき人間を託されることになることを知りおくがよい。

では祝福を。もしかして私は再び貴殿と語る手段と許しとを授かることになるかも知れない。同じ手段によるかも知れないし、別の簡単な手段となるかも知れない。それは私も今は何とも言えない。貴殿の選択に任されるところが多いであろう。

ともあれ、何事が起ころうと常に心を強くもち、辛抱強く、あどけない無邪気さと謙虚さと祈りの心を持って事に当たることである。

 神の御恵みのあらんことを。私はこれをもって終わりとするに忍びないが、これも致し方ないことであろう。

 主イエス・キリストの御名のもとに、その僕として私は常にすぐそばに居ることをつゆ忘れるでないぞ。 アーメン    ♰   
              ザブディエル





 訳者あとがき

 第一巻はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占めた。その親子関係が醸(かも)し出す雰囲気には情緒性があり、どこかほのぼのとしたものを感じさせたが、この第二巻は一転して威厳に満ちた重厚さを漂わせている。

文章も古い文語体で書かれ、用語も今日では〝古語〟または〝廃語〟となっているものが数多く見受けられる。

が、同時に読者はその重厚な雰囲気の中にもどこかオーエン氏に対する温かい情愛のようなものが漂っていることに気づかれたであろう。最後のメッセージにそれがとくに顕著に出ている。もしそれが読み取っていただけたら、私の文章上の工夫が一応成功したことになって有難いのであるが・・・

実は私は頭初より本書を如何なる文体に訳すかで苦心した。原典の古い文体をそのまま日本の古文に置き換えれば現代人にはほとんど読めなくなる。それでは訳者の自己満足だけで終わってしまう。

そこで、語っているのがオーエン氏の守護霊である点に主眼点を置き、厳しさの中にも情愛を込めた滋味を出すことを試みた。それがどこまで成功したかは別問題であるが・・・

 さて、その〝厳しさの中の情愛〟は守護霊と人間との関係から出る絶対的なもので、第一巻が肉体的ないし血族的親子関係であれば、これは霊的ないし類魂的親子関係であり、前者がいずれは消滅していく運命にあるのに対し、後者は永遠不滅であり、むしろ死後においてますます深まっていくものである。

ついでに一言述べておきたいことがある。守護霊という用語は英語でも Guardian(ガーディアン) と言い、ともに〝守る〟という意味が込められている。

そのためか、世間では守護霊とは何かにつけて守ってくれる霊という印象を抱き、不幸や苦労まで取り除いてくれることを期待する風潮があるが、これは過りである。

守護霊の仕事はあくまでも本人に使命を完うさせ宿命を成就させるよう導く事であり、時には敢えて苦しみを背負わせ悲劇に巻き込ませることまでする。そうした時、守護霊は袖手(しゆうしゆ)傍観しているのではなく、ともに苦しみともに悲しみつつ、しかも宿命の成就のために霊的に精神的に援護してやらねばならない。

そうした厳粛な責務を持たされているのであり、その成果如何によって守護霊としての評価が下されるのである。

そのことは本文の〝七つの教会〟の話からも窺われるし、シルバーバーチの霊訓が〝苦難の哲学〟を説くのもそこに根拠がある。

 守護霊にはその守護霊がおり、その守護霊にもまた守護霊がいて、その関係は連綿として最後には守護神に辿り着く。それが類魂の中の一系列を構成し、そうした系列の集合体が類魂集団を構成する。言ってみれば太陽系が集まって星雲を構成するのと同一である。

 その無数の類魂の中でも一ばん鈍重な形体の中での生活を余儀なくさせられているのが吾々人間であるが、それは決して哀れに思うべきことではない。

苦難と悲哀に満ちたこの世での体験はそれだけ類魂全体にとって掛けがえのないものであり、それだけ貴重なのであり、それ故人間は堂々と誇りをもって生きるべきである、というのが私の人生観である。

 ただし一つだけ注意しなければならないのは、この世には目には見えざる迷路があり、その至る所に見えざる誘惑者がたむろしていることである。大まじめに立派なことをしているつもりでいて、その実とんでもない邪霊に弄(もてあそ)ばれていることが如何に多いことか。

 では、そうならないためにはどうすべきか。それは私ごとき俗物の説くべきことではなかろう。読者みずから本書から読み取っていただきたい。それが本書の価値の全てとは言えないにしても、それを読み取らなければ本書の価値は失われるのではなかろうか。

 一九八五年九月
                                近藤千雄

Saturday, August 8, 2026

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)




8章 絶望してはなりません


今から半世紀もさかのぼる一九三六年に、時の英国王エドワード八世が二度の離婚歴をもつ米国人女性ウォリス・シンプソンとの結婚のため王位を放棄することを宣言して、英国全土が危機的な事態に陥った。近代になって英国の君主制がこれほどの試練と動乱に遭遇したことはかつてなかった。

その話題は当然のことながらハンネン・スワッファー・ホームサークルにおいても持ち出された。意見を求められてシルバーバーチが述べた。


「大変困難な事態が続きましたが、今やっと収拾へ向かいはじめました。この度の事件には学ぶべき大きな教訓があることを申し上げたいと思います。

いかなる事態にあっても、永遠なるもの、霊的なものから目を逸らしてはなりません。この場合もあまり英国の王政や王権にこだわった考え方ではなく、神の統治する国ということを念頭に置いた考え方をしなくてはいけません。地上世界はまだまだそれからは程遠いのです。

しょせんは一個の人間にすぎない者に過度の崇敬を向けてはなりません。宇宙にはたった一人の王、全生命の王しか存在しないことを忘れないでください。その王の御国においてはすべての住民が等しく愛され、豊かな恩寵が欲しいだけ分け与えられるのです。

王室の華麗さに魅惑されて肝心な永遠の実在から目を逸らしてはなりません。他方には悲劇と暗黒の中にいる人、その日の食べものにも事欠く人、太陽の光も届かない場所で生活している人――要するに大霊が用意された恩恵に十分に浴せない人たちがいることを忘れてはなりません。

王室一個の問題よりもっと大きな仕事、もっと大きな問題へ関心を向けてください。涙ながらに苦境を訴えている一般庶民のことを忘れてはなりません。その痛み、その苦しみ、その悲しみは、王室一個の難事よりもはるかに、はるかに大きいのです」

ここで司会のハンネン・スワッファーが「私がサイキックニューズ紙に発表した論評は読者から指摘されている通り辛辣(らつ)すぎたでしょうか」と尋ねた。スワッファーの記事を読んですぐに抗議の手紙を寄せた人が何人かいたのである。そのうちの一人は“これほど薄情な意見を読んだことがない”と書き、もう一人は“非紳士的で男らしくなく、度量に欠け、しかも非キリスト教的である”と決めつけていたのである。するとシルバーバーチが答えた。


「そんなことはありません。真実を述べれば、それは必ずや人の心に訴えるものです。時には迷信と偏見による抵抗にあうことはあっても、そうした壁はそのうち崩れていきます。あなたの論評は昔だったらとても公表できなかったでしょう。しかし今あなたは現実に公表しました。

もとより、反論する人はいるでしょう。しかし、その数は取るに足りません。そういう人はまだ精神構造の中に古い伝統的な概念がしつこく残っている人たちです。論理と分別心とで判断できない人です。あなたはそういう人に自然の摂理の存在を教えたことになります。その摂理こそ、唯一、大切なものです。

感情的ないちずさから胸をたぎらせても、その熱が冷めると否応(いやおう)なしに現実に直面せざるを得なくなります。そこに地上でのあなた方の役割があるのです。すなわち、幻影のベールを剥ぎ取り実相を明らかにするのです。中には真理の光のまばゆさに耐えきれない人もいます。しかし構うことはありません。そういう人はまだそれを受け入れる用意ができていないということなのですから。

真理がすべてに優先します。真理が近づくと無知は逃げ去ります。いつかは必ずわれわれが優位を占めるのは、われわれの主張が真実だからこそです。もとより“われわれが優位を……”と言っても、“道具”であるわたしや皆さんのことを言っているのではありません。われわれが道具となって代弁しているもの、すなわち大霊の愛の大きさ、大霊の恩寵の無限性、全人類に分け隔てなく配剤されている愛と叡智と知識のことです。

そうした大霊の顕現を妨げるものはすべて排除しなければなりません。人工の教義への隷属状態はすべて解きほぐさないといけません。あらゆる障害物を取り除かないといけません。それが、皆さんとともにわたしたちが携わっている仕事なのです。

わたしは自分がこれまでに学んできたものの中から実に素朴なものを幾つか述べているだけです。たとえそれが何でもない人間生活の基本的原則のおさらいをさせるに過ぎなくても、やはりそれが何より大切であると確信するからです。

日常の仕事にあくせくとし、次から次へと生じるゴタゴタに係わっていると、皆さんもうっかりすると人生の基本である永遠の霊的原理を忘れがちです。そこでわたしが改めてそれを認識させてあげれば、皆さんはぼやけた焦点を回復し調和を取りもどして、一段と大きな奉仕に励むことができるわけです。

地上世界はまだまだ学ばねばならないことが沢山あります。が、皆さんの義務が大きいだけ、それだけ多くの犠牲を強いられることになります。手にされた知識が大きいだけに、責任もそれだけ大きくなります。しょせん代価なしには何も手に入れることはできません。支払うべき代価というものがあるのです」

その日から一カ月さかのぼった一九三六年十一月初旬に、シルバーバーチが第一次大戦の休戦記念日(十一月十一日)の恒例となっているメッセージを述べた。そのメッセージと、さらに一年のちのメッセージとを紹介し、その内容についての一問一答を併せて紹介して参考に供したい。


「あと数日もすれば英国全体の思いが戦争で物的身体を犠牲にした大勢の人々に注がれますが、この時に当ってわたしから皆さんに申し上げたいことがあります。それは、その日は数知れない大霊の子が今なお為政者によって裏切られ続けていることを思い起こさせる日でもあるということです。

彼らの犠牲が結局は無駄になっているということです。この聖なる日を迎えるたびに皆さんの一人ひとりが、地上に平和と調和と幸せを招来する道はいたって単純な原理をいくつか実行すればよいことを思い起こすことが大切です。

つまり地上世界は何かにつけて貪欲と利己主義が優先しているから戦争と貧困、飢餓と悲劇、災難と混乱が絶えないのです。せっかく届けられた大霊からのメッセージもそのうち忘れ去られ、無視されます。本来なら率先して説かねばならない立場にある聖職者すらそれを無視するようになります。そのくせ困ると神に祈ります。

一時的に権力を握ったところで、そんなものは霊的実在の前では物の数ではありません。霊的なことを口にすると一笑に付す人がいますが、地上のトラブルの解決法は、すべての人間が善意の精神で霊的真理を物的問題に適用するようにならないかぎり見出せません。

現在の地上の状態は休戦が宣告された時(一九一八年)よりも更に凶事に近づいております。実に深刻で恐ろしい事態に近づきつつあります。流血の争い、大規模な流血へ向けて一目散に突っ走っております。

わたしには確信があるからこそ、厳粛な気持ちでそう申し上げるのです。未然に防ぐ可能性がまったくないわけではありません。しかし、それはお互いがお互いのためを願う人たちみんなの努力――オレがという思い上がった気持ちは別です――それが貪欲と利己主義の勢力に打ち勝った時でしかありません。

戦争から平和は生まれません。悲劇から幸福は生まれません。悲哀の涙から愉(たの)しい笑いは生まれません。地上にはすべての人に行きわたるだけのものが用意されているのです。しかし、そこに貪欲が立ちはだかります。剣にて支配せんとする者は剣にて滅びます。それは今でも同じです。

しかし、真っ暗い闇の中にも一条(すじ)の希望の光が見えております。絶望してはなりません。皆さんはこれぞ真理と確信するものにしがみつくことです」

それから一年後の“休戦記念メッセージ”でシルバーバーチは、スペインの内乱(一九三六~三九)に言及した。それというのも実はバーバネルが夫人とともにたまたまスペインへ行っていてその内乱に巻き込まれ、兵士によってフランス国境まで護送されるというハプニングがあったのである。シルバーバーチは語る――


「毎年この日を迎えるごとに、戦争による犠牲の空しさを痛感させられます。あなた方はたった二分間を“英霊”のために捧げて黙祷して、そのあと一年間は忘れております。そして一年後にまた棚から下ろしてホコリをはたくということを繰り返しております。

戦死者の犠牲はまったく無意味でした。言うなれば、これまでの十九年間ずっと磔刑(はりつけ)にされ続けているようなものです。“大いなる戦い”(※)などとおっしゃいますが、その“大”とは殺りくの量、無益な殺人の多さでしかありません。“すべての戦争を終わらせるための大いなる戦い!”(第一次大戦はそれを大義名分として戦った)――なんと空虚な、なんと都合のよい言葉でしょう!

皆さんは地上にあって可能なかぎりの犠牲、時には生命を捨てることも辞さなかった人たちが死後ずっと幻滅の時を過ごしてきていることに思いを馳せたことがありますか。彼らは地上生活での青春の真っ盛りに生命を断たれたのです。まだ霊界の生活に十分な備えができていないうちに送り込まれたのです。もとより文明を守るという一つの理想に燃えて喜んで死んでいったのですが、それがずっと裏切られ続けているのです。

今もって地上から戦争はなくなっておりません。たとえ前回の戦争の“戦死者”に称賛の手向(たむ)けをしても、東洋においても、今またスペインにおいても戦乱の止む時がなく、これからも二分間の休みもなく、殺し合いが続くことでしょう。

真の平和は物的な問題に霊的摂理を適用するようにならないかぎり訪れないということが、なぜ地上の人には解らないのでしょうか。戦争、そしてその結果としての流血と悲劇と涙、さらには混乱と騒乱と災禍と破綻の原因は、元はといえば利己主義にあるのです。

その利己主義を互助の精神と置き替えてはじめて平和が到来すること、物量主義と権力を第一に考える古い概念と国威発揚の野望を捨て、それに代わってお互いが助け合って生きようとする精神――強い者が弱い者を助け、余るほど持っている人が足らない人に分けてあげるという関係にならなくてはいけません。

これ以外の方法はすべて試みられ、そして失敗に終わっています。霊的真理の適用という方法のみがまだ試みられておりません。それが実行されないかぎり地上には戦争と流血は跡を絶たず、それは最終的には、地上人類が誇りとしている文明を破壊してしまうことになるでしょう」


※――英語では第一次および第二次世界大戦のことを文字どおりWorld War Ⅰ、World War Ⅱと呼ぶのが一般的であるが、第一次大戦だけを Great War“大いなる戦い”と呼ぶことがある。これは、このあとに出ている“すべての戦争を終わらせるための大いなる戦い”という大義名分から自然にそう呼ばれるようになったのであろう。

「文明とは何かについてお話いただけませんか」


「一方に天賦の資質としての自由意志があり、これを正しく使用しないと代償を支払わされます。そして他方には、従わねばならない摂理というものがあります。摂理にのっとった生き方をしていれば恩恵という形での収穫があります。逆らった生き方をすれば、それ相当の結果を刈り取らねばなりません。一方は平和と幸福と豊かさをもたらし、他方には悲劇と争いと流血と混とんをもたらします。

わたしたちは、本来ならばその人たちこそ大霊の子を導くべきである立場の人たちから軽蔑されております。大霊の御名とその愛をたずさえて来ているのですから本当は歓迎してくれるべきなのですが、なぜか嫌われております。そうした中にあっても、わたしたちは地上人類のためを思う一心から、自らの力で地上を救う方法を教えてくれるものとして、その摂理と霊力の存在を説き明かそうと努力しているのです。

霊的な無知に浸りきり、まわりを儀式と祭礼で固め、しかも今現在でも大霊の力(聖霊)が降りることを否定している人たちは、いつかはその代償を支払わねばならなくなります。

わたしたちは人のために役立ちたいと願う人たちにとっては味方であり、伝統的な規範に合わないものはすべて破壊せんとする人たちにとっては大敵です。わたしたちは愛と奉仕の翼にのって地上へ舞い下り、いつどこでもお役に立つ用意ができております。それがわたしたちに課せられた大きな仕事なのです。

地上人類は古い伝統を、ただ古くからあるものというだけで大事にしすぎます。真理と時代とは必ずしも手を取り合って進むものではありません。幼児の頃から教え込まれた大事な信仰を捨て去ることの難しさは、わたしにもよく解ります。しかし、魂は理性が拒否するものをすべて捨て去ってはじめて自由になれるのです。それを潔く実行できる人が果たして何人いることでしょう」

「信仰を理性で検証するなどということは思いも寄らない人が多いのではないでしょうか」


「まったくその通りです。危険をはらんだ未知の世界へ踏み込むよりも、勝手を知った隠れ家にじっとしている方が良いというわけです。そして、もう一つ忘れてならないのは、地上では先覚者はあまり歓迎されないのです。大てい非難を浴びております」

「あなたは“霊的計画”をよく口にされますが、私たちには一向にそれらしき成果は見えないのですが……」


「物質の目でごらんになっているから見えないのです。皆さんは短い地上人生を尺度として進歩ぐあいを計っておられますが、わたしたちは別の次元から見つめております。

わたしたちの目には霊的知識の普及、霊的真理の理解の深まり、寛容精神の盛り上がり、善意の増大、無知と迷信と恐怖心と霊的隷属状態という障壁の崩壊が見えております。

瞠目(どうもく)するような急激な変革を期待してはいけません。そういうことは絶対に有りえないのです。霊的成長はゆっくりとした歩みの中で得られるものだからです。

絶望すべき要素はどこにも見当りません。もっとも、強まる一方の物量第一主義の風潮を見ていると絶望したくもなるでしょう。が、他方には霊的真理の光が物的利己主義のモヤを突き抜けていくにつれて、希望もまた強まりつつあります。知識が広がり続けるかぎり、勝利はきっと真理の上に輝きます。

だからこそ、こうした席でのメッセージが大切なのです。わたしたちにとって大切なのではありません。皆さんにとって大切なのです。わたしたちはただ、このまま放置しておくと地上世界はその利己主義、野蛮ともいうべき無知、そして故意の残虐行為の代償を支払わされる大変な事態になることを知っていただきたいと思って、こうして頑張っているのです。ひたすら皆さんのためを思っているのです。援助したいのです。なぜなら、わたしたちには無私の愛があるからです。

わたしたちは地上人類を破滅の道へ誘い込もうとしている悪霊の集団ではありません。人間の尊厳を傷つけたり、無慈悲なことや罪なことを言うようなことはいたしません。それどころか、皆さんの内部に潜在する神性、大霊の力を認識していただき、互助の精神を実行して大霊の計画の推進に協力してほしいと願っているのです」

「これまでの文明を破壊してしまうという考えはいかがでしょうか」


「たとえ悪い面はあっても、現代の文明を引き継ぐ方がはるかに賢明です」

「こうまでおかしくなってしまった以上、いっそのこと破壊して一からやり直した方がよいとは思われませんか」


「思いません。なぜなら、今や霊的真理の光が世界中に浸透しつつあるからです。霊力が浸透する通路があるかぎり、その世界が存在し続けるためのエネルギーが届けられます。何事も霊の貯蔵庫があるからこそ存在していることを知らないといけません」

別のメンバーが、この前の戦争で戦死した人たちの犠牲がすべて無駄に終わったというのは少し酷ではないか――それを聞いて心を傷める人もいるのでは、といった主旨のことを述べた。するとシルバーバーチが――


「純粋無垢の真理は時として苦(にが)く、また心を傷つけることがあるものです。しかし、あくまでも真実なのですから、いずれは良い結果を生みます」

「その犠牲からほんとに何一つ良い事は生まれなかったのでしょうか」


「わたしには何一つ見出せません。地上世界は“大いなる戦い”が始まった時よりもさらに混とんへ近づき、破滅的様相を呈しております」

「あれほどの英雄的行為が無駄に終わるということが有りうるのでしょうか。霊的な反響はないのでしょうか」


「犠牲になった兵士の一人ひとりにはそれなりの報いがあります。動機が純粋だったからです。しかし忘れてならないのは、地上世界全体としては彼らを裏切っていることです。犠牲が何一つ報われていないということです。相も変わらず物質第一主義がはびこっております」

「こうした休戦記念行事を毎年催すことは意義がありますでしょうか」


「たとえ二分間でも思い出してあげることは何もしないよりはましでしょう。ですが、ライフルや銃剣、軍隊、花火、そのほか戦争と結びついたもので軍事力を誇示することによって祝って、いったい何になるのかと言いたいわけです。なぜ霊的な行事で祝えないのでしょうか」

別のメンバーが――

「スピリチュアリズム的な行事を催すことには賛成ですか」


「真実が述べられるところには必ず徳が生まれます。もちろんそれが奉仕的精神を鼓舞するものであればのことです。大見得を切った演説からは何も生まれません。またそれを聴く側も、いかにも自分たちが平和の味方であるかの気分に浸るだけではいけません。

わたしは“行為”を要求しているのです。人に役立つことをしてほしいのです。弱者を元気づけることをしてほしいのです。病気の人を癒してあげてほしいのです。喪の悲しみの中にいる人を慰めてあげてほしいのです。住む家もない人に宿を貸してあげてほしいのです。地上世界の恥ともいうべき動物への虐待行為を止めさせてほしいのです。

平和は互助の精神からしか生まれません。すべての人が奉仕的精神を抱くようになるまでは、そしてそれを実行するようになるまでは、平和は訪れません」

不戦主義、すなわち参戦を拒否する一派の運動をどう思うかと問われて――


「わたしはいかなる派にも与(くみ)しません。わたしにはラベルというものがないのです。わたしの眼中には人のために役立つ行為と動機しかありません。お題目に眩惑されてはいけません。何を目的としているか、動機は何かを見極めないといけません。なぜなら、反目し合うどちらの側にも誠意の人と善意の人がいるからです。わたしが述べる教えはいたって簡単なことばかりですが、それを実行に移すには勇気がいります。

霊的知識と霊的摂理を知ることによって断固とした決意をもつに至った時、そして日常生活のあらゆる分野で私利私欲をなくし互助の精神で臨むようになった時、地上に平和と和合が訪れます。

それは一宗一派の主義・主張から生まれるのではありません。大霊の子のすべてが霊的真理を理解してそれを日常生活に、政策に、経営に、政治に、そして国際問題に適用していくことから生まれるのです。

わたしはこれこそ真実であると確信した宇宙の原理・原則を説きます。だからこそ、これを実行に移せばきっとうまく行きますということを自信をもって申し上げられるわけです。皆さんは物質の世界にいらっしゃいます。最終的には皆さんに責務があります。わたしたちはただ誠意をもってご指導し、皆さんが正しい道から外れないように協力してあげることしかできません。

地上には古いしきたりから抜け出せない人が大勢います。それが宗教的なものである場合もありますし、政治的なものである場合もありますし、自分の想像力でこしらえた小さな精神的牢獄である場合もあります。

魂は常に自由でないといけません。自らを牢の中に閉じ込めてはいけません。まわりに垣根を張りめぐらして、新しいものを受け入れなくなってはいけません。真理は絶え間なく探求していくべきものです。その境界は限りなく広がっていきます。魂が進化するにつれて精神がそれに呼応していくからです」

「その魂の自由はどうすれば得られるのでしょうか」


「完全な自由というものは得られません。自由の度合は魂の成長度に呼応するものだからです。知識にも真理にも叡智にも成長にも限界というものがないことを悟れば、それだけ自由の度合が大きくなったことになります。心の中で間違いだと気づいたもの、理性が拒否するもの、知性が反発するものを潔(いさぎよ)く捨てることができれば、それだけ多くの自由を獲得したことになります。新しい光に照らして間違いであることが判ったものを恐れることなく捨てることができたら、それだけ自由になったことになります。それがおできになる方が果たして何人いることでしょう」

そう言われてメンバーの一人が、経済的な事情からそれが叶えられない人もいるのではないでしょうかという意見を出すと――


「それは違います。経済的事情は物的身体を束縛することはあっても、魂まで束縛することはできません。束縛しているのは経済的事情ではなくして、その人自身の精神です。その束縛から解放されるための叡智は、受け入れる用意さえあればいつでも得られるようになっております。しかしそれを手に入れるための旅は自分一人で出かけるしかないのです。

果てしない旅となることを覚悟しなければなりません。恐怖や危険も覚悟しなくてはなりません。道なき道を行くことになることも覚悟しなければなりません。しかも真理の導くところならどこへでも付いて行き、間違っていることは、それがいかに古くから大事にされているものであっても、潔く拒絶する用意ができていなければなりません」
祈り




ああ、真白き大霊よ。

あなたの愛の崇厳さ、あなたの叡智の無限性、あなたの真理とインスピレーションの豪華さはどう表現すればよろしいのでしょうか。あなたは全生命の大法則――宇宙に展開する大パノラマの中に顕現している極大の生命も、想像を絶する極微の生命も包摂する大摂理にあらせられます。

あなたの摂理は生命のあらゆる現象を通して絶対的に支配しております。摂理としてすべての存在の中に表現されており、何一つとしてあなたを離れては存在し得ぬのでございます。昇っては沈む太陽の美しさの中に、淡い月の光の中に、夜空に輝く星の光の中に、小鳥のさえずりの中に、風にそよぐ花や松の梢(こずえ)に、小川のせせらぎに、そして寄せては返す大海のうねりの中にあなたが存在したまうのでございます。

またあなたは稲妻の中にも雷鳴の中にもいらっしゃいます。上にも下にも内にも外にもいらっしゃいます。あなたは生命の大霊にあらせられ、すべての愛、すべての力、すべての現象があなたに包摂されているのでございます。

さて、あなたの道具としてあなたからのメッセージを託されたわたしたちは、今なお肉の宮に閉じ込められている子等があなたの霊性の領域を見出し、彼らもあなたの霊の一部にほかならぬこと、彼らの一人ひとりにあなたの分霊が吹き込まれている事実を認識せしむべく、あなたの真実の姿を説き明かしたく存じます。

ああ、大霊よ。

暗闇と混とん、不信と嫉妬心、猜疑心と争いに満ちたこの地上にあって、わたしたちは、あなたの啓示の水門が開かれて霊の威力が、あなたのメッセージを地上の全民族へもたらさんとしている善意と愛に満ちた同志に届けられ、人類が一国の利害を超えてお互いのために生きそして地上にあなたの御国を実現する、その理想へ一歩でも近づいてくれることを祈るものです。

願わくばあなたのインスピレーションを受ける通路(チャンネル)(霊媒・霊覚者)が俗信に捉われず俗物に汚されることなく、彼らを通じてあなたのメッセージがふんだんに流入して、ますます多くの子等があなたの真理のイルミネーションの中へ導かれんことを。

また願わくば子等が自分を包む霊力の何たるかをますます認識することになりますように。

願わくば子等が、これまでも彼らにインスピレーションと導きを授け、人に役立つ道を歩ませてきたあなたの強大なる威力(背後霊)の存在に気づき、内在するあなたの霊性を存分に発揮することになりますように。

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)




7章 ああ、真白き大霊よ


最近ではシルバーバーチの交霊会の様子がカセットテープに録音され、世界中の数え切れない人々によって愛聴されているが、古くさかのぼると、かつては蓄音機用に何枚か吹き込まれたこともあったのである(*今では廃盤となっている)。

最初のレコーディングはできぐあいから言うと失敗だった。マイクの位置が遠すぎたためであるが、シルバーバーチは一言も文句を言わないどころか、ではもう一枚いきましょうと言った。最初のは身内を失った人たちへの慰めのメッセージだったが、「こんどは何にしましょうか」とシルバーバーチの方から言うので、司会のスワッファーが「“新しい時代”について述べられては?」と提案した。

するとシルバーバーチは一瞬のためらいもなく「では始めます」と言って、合図とともに語り始めた。そして、ぎりぎりの時間内で終わった。残念ながらそのレコードはもう手に入らない。

こうしてその日は全部で四枚の録音を行った。祈りが二枚とメッセージが二枚だった。なんと、その四枚とも一秒の違いもない、同じ長さだった。

録音の要領は、スタートを知らせるために列席者の一人が一から九まで数えて、十のところで係の者がスイッチを入れ、それと同時にシルバーバーチが語り始め、終わる三十秒前に霊媒の身体に手を触れる。するとピッタリ最後の一秒のところで終わった。霊界でリハーサルをしてきたわけではないとのことだった。

では当日の録音の中身を紹介しよう。


「まず初めに生命の大霊に祈りを捧げます。

王の中の王、造化の大霊、完全なる摂理の背後の無限なる知性にあらせられるあなた――あなたは全知にして全能なる存在におわします。あなたは無始無終に存在したまいます。なぜなら、あなたの霊は全宇宙に満ち、すべてがあなたの反映だからでございます。

しかし同時にあなたの神性はおのれを人のために役立てんと努める者の人生の中にも示されております。なぜなら、そこにあなたの神性が本来の表現の場を見出し、発現すればするほど既得の権力、憎悪、残虐、迷信、そして無知と闘うことになるからでございます。

わたしたちは完全なる愛と叡智の権化にあらせられるあなたに敬虔なる讃仰の気持ちを捧げ、あなたを荘厳なる存在そのままに啓示せんと努めているところでございます。これまで幾世紀にもわたってあなたは、直観力と洞察力とをそなえた少数の者を例外として、人類によって誤解されてまいられたからでございます。

あなたは復讐心を燃やす嫉妬ぶかい暴君ではございませぬ。あなたは全生命の大霊にあらせられます。なぜなら、あなたの霊は全宇宙のすべての子らに宿りたまい、永遠にあなたと結びついているからでございます。あなたの霊ありてこそ子らの存在があるのでございます。あなたの霊ありてこそ子らは死の彼方の世界にも存在し続けるのでございます」

この祈りの長さは三分だった。二分半が経過し、レコードはあと三十秒しかないという時点での印象では、まだ半分しか終わっていないような雰囲気だった。が、ぴったり最後の一秒で終わった。

では次に、録音としては失敗に終わった、身内の人を失った人たちへの慰めのメッセージを紹介しよう。


「皆さんからシルバーバーチと呼ばれている霊から、死によって愛する人を永遠に奪われたと信じて嘆き悲しみ、目に涙を浮かべておられる人たちへ、慰めのメッセージを贈りましょう。

自ら死を体験したのち三千年の霊界生活を体験してきたこのわたしから是非とも申し上げたいのは、死は愛する者どうしを裂くことは絶対にできないということです。愛はすべての障害を打ち砕きます。愛は必ずやその愛する相手を見つけ出すということです。

愛する人がこの残虐と誤解と無知の世界から、内部の神性がより豊かに発現される世界へと連れて行かれたことを泣いて悲しむのはお止めなさい。神があなたの庭から一本の花を抜き取って神の庭へ植え代えられたことを悲しんではなりません。その庭で、あらゆる制約と束縛とから解放されて、内在する香りをより多く放つことになるのです。

死も生命の法則の一環であることを理解してください。生と死はともに大霊のものであり、ともに大霊の摂理を教えるために使用されているのです。涙をお拭きなさい。悲しむのは間違いです。なぜなら、愛する人は今もなおあなたの身近にいらっしゃるのです。死は愛を滅ぼすことはできないのです。大霊が永遠であるごとく愛も永遠なのです」

終わると係の者が

「今のをお聞きになってみられますか。一度だけなら傷つけずにおかけできますよ」と言うとシルバーバーチが――


「せっかくならこの霊媒が入神から覚めてからにしましょう。彼にも聞かせてやりたいですから……」と言った。

が、係の者は「二度かけても大丈夫ですよ」と言ってさっそくかけてみると、音声が低すぎてうまく録音されていないことがわかった。

マイクの位置が遠すぎたためだった。

係の者が「もう一度同じものをお述べになることができますか」と聞くと――


「いえ、それはできません。でも別のものならすぐに始められますよ」と言うので、さっそく次の録音に取りかかった。それは次のような祈りだった。


「真白き大霊に祈りを捧げます。

ああ、大霊よ。

聖なる創造主、王の中の王、全生命の背後の無限なる知性にあらせられるあなたを、わたしたちは在るがままのお姿、すなわち完全なる摂理として説き明かさんとしております。

あなたは幾世紀にもわたって誤解され、誤って崇拝されてまいりました。ある人種はあなたのことを残忍にして血に飢え、復讐をたくらみ、嫉妬ぶかく、自分への忠誠を誓う者のみを愛する神として崇めてまいりました。そして彼らはその神罰に恐れおののきつつあなたへ近づいておりました。

わたしたちはあなたを完全なる愛と叡智の権化として啓示いたします。それが完全なる摂理の働きを通して顕現しているのです。その摂理の中に、子等が生命の充実感と豊かさと限りない恩寵を見出すようにとの、あなたの深遠なる配慮がなされているのでございます。

わたしたちの望みはその摂理を地上へもたらし、それによって善意の子等がいっそうの努力と奉仕に励み、地上世界からあらゆる不平等と不正、あなたの王国の地上への実現を阻むものすべてをなくすことです。その目的へ向かってわたしたちは祈り、そして奮励いたします」

これでA面が終わり、続いてB面を始めたところ、シルバーバーチには珍しく発音を間違えるというハプニングが起きた。surface(サーフィス)というべきところをservice(サービス)と言ってしまったのである。


「失敗しました」

シルバーバーチはそう言って、新しいレコードに替えてもらった。用意ができるとすぐに語り始めた。


「地上世界が暗黒に満ち、恐怖心が多くの人間の心を支配し、導きと慰めをいずこに求めるべきかに迷っている今、より高き界層に住み物質の境界を超えて見通すことのできるわたしたちは、自信をもって皆さん方に“万事うまく行っております”と申し上げます。

皆さんは新しい秩序の誕生を今まさに目撃しておられるのです。辺りをご覧になれば、利己主義と物質偏重と貪欲と強欲と残酷の上に築かれた古い世界が滅亡しつつあるのが分かります。スピリチュアリストをもって任じておられる皆さんは、大いなる真理の管理人でいらっしゃいます。前哨地を守る番兵として新しい時代の構築に協力してくださっているのです。

ご自分のことを戦(いくさ)の中の戦に参戦している大霊の兵士とお考えください。悲劇と混乱と破綻とをもたらした無知という暗黒の勢力を撃破するための仕事を支援なさっているのです。

子等が大霊の用意されている恩寵を心ゆくまで満喫できる新しい世界の構築に、皆さんも参加しておられるのです」

Friday, August 7, 2026

シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ

 A Voice in the Wilderness

トニー・オーツセン(編)近藤千雄(訳)




6章 摂理は完全であり、自動的に作用します


シルバーバーチの交霊会はおよそ五十年間に及んだ。その間に招待されたゲストもまた大変な数にのぼる。となると当然シルバーバーチが受けた質問はそのゲストの数だけ多種多様であった。その中から興味ぶかいものを幾つか拾って紹介しよう。

ある日の交霊会で菜食主義の是非について問われて――


「こんなことを言うとまたわたしは不評を買うことになるでしょうが、真実は真実として申し上げねばなりますまい。理想的な霊媒のあり方としては、アルコールや肉類、タバコ、その他、人体の質を低下させるものは極力控える方が霊媒の進化にとって良いに決まっています。

地上にあっては霊は肉体を通して自我を表現するしかありません。となれば、その肉体の質が高ければ高いほど霊媒の表現力も大きくなる道理です。したがってその肉体を汚すもの、間違った刺激を与えるものは、いかなるものであっても霊にとっては障害であり良いものではありません。肉体は霊の宿なのですから。

これでもうわたしの答えはお判りでしょう。動物の肉、タバコやアルコールによる刺激があなたの心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)(※)な能力(パワー)の開発に益があるでしょうか。もちろんないに決まっています。適度に摂取するのであれば害は少ないというのは当り前の理屈ですが、理想を言うならば、霊媒は大地からの産物のみに限るのが好ましいと言えます」


※――“サイキックパワー”というのは五感の延長としての霊能、いわゆる超能力のことで、これは人間よりもむしろ動物や生物の方が発達している。これに背後霊の援助が加わって高次元の世界とのつながりに発展したものをシルバーバーチは“スピリチュアルパワー”と呼んでいる。

「動物を人間の食料や衣服にするために殺すのは間違ったことでしょうか。動物自身は自然界の原理で互いに殺し合っているのですが……」


「こうしたことはすべて程度問題であり、進化の一過程として捉えるべきです。自然界は弱肉強食であるとよく言われていますが、それは大自然の進化の部分的現象にすぎません。大自然がすでに完成されていると述べている霊界通信はないはずです。自然界も進化の途上にあるからです。

理想を言えば――わたしの答えはどうしても理想を述べることになってしまいますが――動物を人間の食料として、衣類として、また(遊牧民の)住まいとするために殺すのは間違いです。しかし、未熟な世界においては完全な理想が実現されることは期待できません。しかし、だからといって、理想へ向けての努力をしないでよいということにはなりません。

どうしても殺す必要がある時は、なるべく苦痛を与えない方法を取らないといけません。残酷な殺し方は止めてください。食料を得るために殺すのは間違いであることを人類が悟る段階まで一足跳びに到達することはできない以上、殺し方をできるだけ苦痛を与えないように工夫してください。

皆さんは変化しつつある世界に生きており、わたしたちも、どうせ今すぐには実現できないと知りつつ、理想を説いております。もしもわたしたちが努力目標としての理想を説かずにいたら、与えられた使命を全うしていないことになります。目標の水準は高めないといけません。低くしてはいけないのです」

次に出された催眠術についての質問で、「これは研究に値するものでしょうか」と聞かれて――


「施術者が善意の目的をもち、その能力を人のために役立たせたいという願望から行うのであれば、もちろん結構なことです。催眠術者も魂の潜在力を使用している点は同じです」

「催眠術者が接触するのは何なのでしょうか」


「大我、すなわち内部の大霊です。何度も申し上げていることですが、人間の各自に内在するその力を自覚すれば、そしてそれを使用することができれば、人間にとって克服できない困難はありません。

その力と接触する方法は霊性を発達させること、波長を高めること、人のためになる生活を心がけること、要するに霊格を高めるようなことです。この世的なものに心を奪われるほど波長は低下し、私利私欲を捨てるほど波長は高まり、接触する波長も高くなり、内部の大霊がより多く発揮されることになります」

「その内部の大霊というのは独立した存在でしょうか。意識的自我とは別個に理性を働かせ、思考し、行動することができるのでしょうか」


「いいえ、その肉体を通して顕現している意識的自我によって条件づけられます。物的世界で生活している間は脳の意識中枢によって程度が左右されます。催眠術によって左右されることはありません。なぜなら施術者は牢の番人のようなもので、牢の扉を開けて自由にしてあげるだけです。

施術者が善意の意図のもとに働けば被術者の内部の神性を刺激するという立派な仕事ができます。しかし同時に、動物性を刺激してしまうこともあるのです。が、どっちにしたところで、今あなたが表現しておられる意識は、いつの日か発揮するであろう大我のホンのひとかけらに過ぎません」

「いささか不満を覚えますね」


「でしょうね。でも、不満を覚えるということは結構なことです。ケチくさい満足は成長の足しにはなりません」

そう述べてから、どんな質問でもなさってくださいと言って、こう続けた。


「知識というのは自分のものとして取っておくためではなく、他人に分けてあげるために与えられるのです。他人に分けてあげることによって、さらに知識の泉に近づくのです。知識は他人にあげることによって減るものではありません。反対に増えるのです。霊的知識を分け与えれば、それだけ霊性が豊かになるのです」

そこで新しい質問が出された。キリスト教をはじめとする伝統的信仰は人間の精神にどのような影響を及ぼすかという質問だった。

それに答えて――


「教義による束縛は地上世界の苦痛のタネの一つです。伝染病や不健康より厄介です。病気による身体上の苦痛よりはるかにタチが悪いものです。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に目隠しをしてしまうのです。

にもかかわらず、大霊の息のかかった叡智が無限にあるというのに人間の浅知恵がこしらえた教義にしがみつこうとする人がいます。牢の中にいた方がラクだと思う人がいるものなのです。自由とは、その有り難さがわかった者のみが手にするものです。

その教義の足枷から逃れることのできたあなたは感謝すべきです。そして、その喜びをもって、こんどは、一人でも多くの人を自由にしてあげるように努力なさるべきです」

続いて“苦の効用”について問われて――


「体験の一つ一つがあなたの人生を織りなしております。皆さんは永遠というものを目先の出来事で裁こうとなさいます。表面上の矛盾撞着に捉われて、人生全体を大霊の叡智の糸が通っていることが理解できないのです。

調和を基調とするこの大宇宙の中で、あなた方一人ひとりが大霊の計画の推進に貢献しておられます。人生の出来事――時には辛く絶望的であり、時には苦しく悲劇的であったりしますが――その一つ一つが、これからたどり行く道に備えて、魂を鍛える役割を果たしているのです。

光と闇、日向と陰、こうしたものは一つの全体像の反映にすぎません。陰なくしては光もなく、光なくしては陰も存在しません。人生の苦難は魂が向上していくための階段です。

困難・障害・不利な条件――これらは魂の試練なのです。それらを克服していくことによって魂がいっそう充実し、向上し、一段と強くそして純粋になってまいります。

あなたは、無限の可能性を秘めた魂の潜在力が、困難も苦痛もなく、陰もなく悲しみもなく、人生の浮き沈みを何一つ体験せずして発揮されると思われますか? もちろんそうは思われないでしょう。

人生の喜び、愉快な笑いの時は、人生の辛酸をなめつくして初めて解るのです。なぜなら、深く沈んだだけ、それだけ高く上がれるからです。地上生活の陰を体験しただけ、それだけ日向の喜びを味わうことができるのです。

体験のすべてがあなたの進化の肥やしです。そのうちあなたにも、肉体の束縛から解放されて物的な曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば、紆余曲折した一見とりとめもない出来事の絡み合いの中で、一つ一つがちゃんとした意味をもち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出させる上で意義があったことを、つぶさに理解なさるはずです。

こちら側にいるわたしたちにとって耐え忍ばねばならない最大の試練は、愛情の絆で結ばれている地上の人間が苦難と闘っているのを目のあたりにしながら、それがその人の魂にとって是非とも必要であるとの認識のもとに手をこまねいて見ていなければならない時です。

地上のいかなる体験も、それに正しく対処し正しく理解すれば、必ずや人間にとってプラスになるものを有しております。いったい何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何の苦痛も、何の悩みもない世界が想像できるでしょうか。そこにはもはや進化向上の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。ただ朽ち果てるのみです」

「魂の成長にとって苦しみが不可欠ならば、なぜ心霊治療のようにそれを軽減する仕事があるのでしょうか」


「その治療を通じて魂を真の自我に目覚めさせることができるからです。病気を治すということは確かに立派な仕事ですが、心霊治療家にはそれ以上に大きな仕事があるのです。すなわち病気が縁で訪れた人に真の自我を見出させてあげることです」

「それに較べれば身体の病気が治るということは大して重要ではないというお考えでしょうか」


「その通りです。物的身体に宿っている皆さんはどうしても地上生活のことだけを念頭におかれます。わたしたち地上を去った者は皆さんの永遠の生命を念頭に置いて、それをホンの一時期のものとして位置づけます。

病に苦しむ人を見て気の毒に思い胸に同情心が湧いてくるのは無理もないことであり、わたしもそれを咎めるつもりは毛頭ありません。しかし、その時のあなたは苦しみの一面のみを見ておられ、その人が苦しみの中で過ごす時間は、その代償として得られる喜びに較べれば実に些細(ささい)なものであるということまでは理解が及びません。

人間にとっては陰の中で過ごす時間の方が日向で過ごす時間よりも長く感じられるようですが、実際はそうではありません。

もう一つ理解しなくてはならないのは、病人のすべてが心霊治療で治るとはかぎらないということです。そこには法則というものが働いており、治療家にも治せない病気というのが出てきます。

病気は治るべき機が熟して治るもので、たまたま治っているのではありません。それは魂が地上的体験を卒業して新しい体験を必要とする機が熟すると死の関門を通過していくのと同じです。不意に死期が訪れるのではありません。すべては法則の働きで決まることなのです。が、その法則の働きの中にはあなたの役割も入っています。あなたも大霊の一部だからです」

「もしも病気治療が借金(カルマ)を支払ってしまうことによって魂にその資格ができた時にはじめて生じるものであるとすれば、その時は治療家のところへ行かなくても治ることになりませんか」


「かりに借金のすべてが支払い済みとなったら――実際にはそういうことにはならないのですが――もはや“苦”によって悩まされることがなくなるはずです。身体が完全な健康状態となるはずだからです。しかし人間は地上にいてもこちらへ来てからでも、常に借金を重ねております」

「病気の治癒が法則によって行われているとなると、治療家にはどんな役割があるのでしょうか」


「病気の人が治るべき段階にくると、治療家がその人のもとを訪れます。あるいは、その人の方から治療家のもとへ赴きます。あなたは永い間ここへ通っておられて人の出会いの不思議さを感じたことはありませんか。到達した進化の段階によってその人を治すべき治療家が決まるのです。

大霊は物忘れをなさいません。摂理は完全であり、自動的に作用します。誰一人として摂理を避けて通ることはできません。自由意志でさえ摂理の一環なのです。そしてその作用は、それがわかる段階まで進化した人にはまる見えなのです」

ここで列席者の一人が自由意志の存在は法則の存在と矛盾するのではないかと反論した。その理由として、もしもすべてが法則によって支配されているとなると、選択まで法則によって決められてしまうことになるので、そこには自由はないことになるはずだと述べた。するとシルバーバーチが――


「あなたが自由意志を行使できる範囲はあなたがこれまでに到達した進化の程度によって決まるということです。言いかえれば、あなたが選択した行為以外のことをしたかも知れないという可能性はない――魂の進化の程度によって決まることだから、ということです」

「それは精神状態が正常でない人の場合にも言えることでしょうか」


「精神が異常をきたすということは、そうなるような何かをしでかしているということです。それも法則の範囲内のことです。異常な精神状態は結果にすぎません」

「選択も法則によって決まるとなると、人生体験が進化に影響を及ぼす余地はないのではないでしょうか。進化までも自動的なものになってしまわないでしょうか」


「そういうことにはなりません。その論理には、あなたも大霊の一部であり無限の神性を秘めているという認識が欠けています。その神性が発揮されるにつれて、あなたはより高い次元の法則の支配を受けるようになるのです。その法則は他の次元の法則と矛盾するものではありません。あなたの霊格が高まったためにその法則との係わり合いが生じたということです。あくまでも“霊格の程度”の問題です。

無限ということは究極がないということです。美の極致にも、音楽の壮厳さにも究極がないのです。その無限の階梯の中にあって個々の魂は、霊格が高まるにつれて、より大きな美と調和の世界へ近づいていくのです。向上するにつれて、より大きな調和の世界が待ちうけているということです。

低い階梯にある間はそれより高い階梯のことは意識できません。が、高い階梯にいて低い階梯のことを意識することはできます。こうした生命の実相を支配している法則の働きは自動的ですから、より高い法則の支配を受けるにはその段階まで霊性を高めるほかはありません」

「でも未来の魂の成長は過去の魂の成長度によって決まるのではないでしょうか」


「そうではありません。過去の成長度があなたを、未来の成長を選択する階梯に位置づけるということです。でも、選択を強要されるのではありません。先に延ばすことはできます」

「ということは、自由意志の行使は自動的でないということでしょうか」


「いえ、自動的です。その時点であなたが取る行動は、さまざまな法則の相互作用によって決まります。その一つ一つの法則は自動的に働きます。その際のあなたの選択は、その段階での魂の成長度における意識の反応によって決められます。霊的自我に目覚めている魂は進化をさらに促進する方向を(たとえ過酷なコースであっても)選択するものです」

「魂が自らの成長を遅らせることができるのでしょうか」


「できます。しかしそれは、物的な脳を通して顕現している物的意識にかかわるものだけです」

別のメンバーが、治してもらえる段階まで来ていない患者は心霊治療で治せないという先の話を持ち出して、そうなるとその患者は実に痛ましいことになりそうだと述べた。するとシルバーバーチが――


「その患者さんはどうなると思われるのでしょうか」

「たぶん死んでしまうと思います」


「それが果たして痛ましいことなのでしょうか。このわたしも“死んでいる”のですよ。少しも痛ましくはありません。あなたは物的な面ばかりを考えていらっしゃいます。

地上というところは実にこっけいな世界です。生命にとって最も重大な体験である“死”をみんな怖がります。牢から解き放されることを怖がります。自由の身となることを怖がります。小鳥はカゴから出るのを怖がるでしょうか。なぜ人間はその肉体というカゴから出るのを怖がるのでしょうか」

「でも、たとえば母親が子供を置き去りにしたくないのは自然の情ではないでしょうか」


「あなたは生命を五、七十年の地上人生のみで考えていらっしゃいます。永遠の生命をこの世的なことだけで判断できるのでしょうか。大霊の叡智をいま生活しておられるチリほどの物質の世界だけで裁いてはいけません。地上には比較の尺度がないのです。生命活動の世界の中でも最低の界層の一つしか見ていない人間に、どうして最高界のことが理解できましょう」

代わって他のメンバーが――

「治してもらえる段階まで来ないまま他界すれば、霊界の自由な生活がエンジョイできます。一方、治るべき段階に来ていた人が治ってしまえば、そのまま地上生活を続けることになりますが、これでは進化していない方が進化した人より幸せということになりそうですが……」


「治るべき段階に来ていたため全治して死を免れたとすれば、それはまだ死ぬべき時機が来ていなかったということと、魂にとって必要だった身体の苦痛が一応そこで終了したことを意味します。しかし、魂が地上を去って新しい世界へ進む前に体験しなければならないことなら、ほかにも沢山あります。肉体の苦痛が人間的体験の究極ではありません!」

キリスト教の悪影響についての先のシルバーバーチの説がまだしっくりこないメンバーが「クリスチャンの中にも立派な方が沢山いると思うのですが」と言うと――


「そういう人はクリスチャンにならなくても立派だった人です」とシルバーバーチが答える。

「でも、イエスの教えに忠実であろうと努力したからこそ立派になった人もいるのではないでしょうか」


「地上の人間が本当にイエスの生きざまを模範とするようになれば、人類史上に新しいページが始まります。しかし、まだそこまでは至っておりません。わたしにはその徴候が見えないのです。忠誠を表明しているはずのイエスを欺(あざむ)きつづけている人のことを、わたしの前でクリスチャンと呼ぶのは止めてください。そのイエス自身が言っているではありませんか――“私に向かって主よ、主よ、と言う者のすべてが天国へ入れるのではない。天にまします父の意志を実践する者のみが入れるのである”と」

「でも、キリスト教の教義には深くかかわらずに立派な無私の生活を心がけているクリスチャンも大勢います」と言って、一例として有名な牧師の名前をあげた。

するとシルバーバーチは――


「あの方は立派なクリスチャンではありません。クリスチャンとしては立派な人ではありません。が、人間としては立派な方です。

いいですか、教義というものは例外なく魂にとって足枷となるのです。人間は教義のお蔭で立派になるのではありません。教義を無視しても立派になれるのです。教義の名のもとに同胞を殺し、教義の名のもとに同胞を焼き殺した歴史があります。魂を縛るもの、魂を閉じ込めるもの、その自由な発想を妨げるものはすべて一掃しなくてはいけません」

なおも納得しないその質問者は、ハンセン病患者の施設を見舞う牧師の話を持ち出した。するとシルバーバーチが――


「その人たちは教義に動かされて行くのではありません。魂がそうしてあげたいと望むから行くのです。宗教とは教義を超えたものです。教義は宗教ではありません」

つづいて信仰の問題がメンバーの間で論議されたあと、シルバーバーチがこう締めくくった。


「ただそう信じるというだけの信仰では、厳しい体験の嵐が吹き荒れるとあっさりと崩されてしまいます。が、霊的事実を土台として生まれた信仰はいかなる嵐が吹いてもビクともしません。

目で確かめずして信じることのできる人は幸いです。しかし、確かめた上で信じ、なおかつ、宇宙が愛と叡智の摂理によって支配されているとの認識のもとに、まだ啓示されていないものまで信じることのできる人は、その何倍も幸せです。

わたしたちがお教えしていることは、至って簡単なことばかりです。にもかかわらず、わたしたちのことを悪魔の手先であると決めつけたがる人がいます。わたしたちは、自然の摂理の働きをお教えしようとしているのです。それによって皆さんが生活を正しく規制し、生命の大霊と調和することによって内部から湧き出る幸福感を味わっていただくためです」

祈り


ああ、真白き大霊よ。

全生命の裁定者にあらせられるあなた。“死”の存在しない御国の主にあらせられるあなた。わたしたちは、全てを包摂して慈しまれ、大自然の法則の一大パノラマの中に顕現しておられるあなたを啓示せんと務めている者たちでございます。

わたしたちはあなたを完全なる公正と叡智の大霊、全生命に潜在し、生きとし生けるもの全てに表現されている存在として啓示いたします。

ああ、大霊よ。あなたは無窮にして無限、子等の理解力を超えた存在にあらせられます。しかし、それでもなおあなたを知ることは可能でございます。なぜならあなたは、物質の次元と霊の次元の区別なく、あらゆる生命の相に顕現しておられるからでございます。

あなたは小鳥のさえずりの中に存在します。夜空の星のまたたきの中に、雨滴のきらめきの中にあなたを見ることができます。小川のせせらぎの中に、ミツバチの羽音の中に、風に揺れる木々の枝の中にいらっしゃいます。轟く雷鳴の中にも大海の怒濤の中にもあなたがいらっしゃいます。またあなたは昇りゆく太陽の中にも淡い月の光の中にもいらっしゃいます。

あなたは生命のすべての相の中におられます。しかし、人間の霊性があなたの愛と善性とを奉仕と自己犠牲と理想主義の行為の中に顕現せんとして躍動する時、最もあなたに近い形でその存在をお示しになられます。

霊の世界から派遣されたあなたの使者であるわたしどもは、かつて限られた少数の人間のみに啓示され、今は物的領域を超えてあなたの計画を垣間(かいま)見ることのできる者すべてに啓示されつつある摂理の働きを、あなたの働きそのものとして啓示せんとしているところでございます。

物質の束縛を解かれ、今はより大きな世界において生命活動を営んでいるわたしどもは、あなたの法則にのっとって地上へ舞い戻り、愛は消えることなくいつまでも相手を捜し求めるものであることを教え、慰めと確信、導きと希望、知識と霊感、叡智と真理を地上の同胞にもたらさんとしているところでございます。

かくして離別の悲しみと愛による再会という体験の中で、あなたの子等は内在するあなたの霊性を認識するようになり、霊界からの鼓舞を受けてあなたの道具として献身し、苦しむ者を救い、あなたの霊性を日常生活の中で発揮し、すべての者にあなたの御心をもって接するようになることでございましょう。

わたしたちもその御心を体(たい)して地上へ戻り、いずこにおいても手助けすることを心がけ、地上の全人類を結びつけている霊的な絆(きずな)を強化し、全生命の背後の一体性を認識せしめんとしているところでございます。

願わくばあなたの御力が地上におけるあなたの神殿たらんと志す全ての通路(ひと)を通して顕現し給わんことを。

ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。