Sunday, March 22, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings

30節

*本節の内容イースター・メッセージ(一八七四年)キリストに学べ
*真の信仰とは
*イースター・メッセージ(一八七五年)“復活”の真意
*キリストの身体とその生涯が意味するもの
*各種祭日の意義(クリスマス、レント、グッドフライデー、イースター、ペンテコステ、アセンション)
*イースター・メッセージ(一八七六年)再びキリストの生涯
*三種の“敵”(俗世、肉体、悪魔)
*イースター・メッセージ(一八七七年)再びキリストに学ぶ
*俗世に在りて俗世に超然とせよ
*苦難の時こそ進歩の時



〔霊は何かと祝祭日が好きである。その所為でキリスト教の祝祭日に関する特別のメッセージが数多く寄せられている。一例として三年連続して送られて来たイースターメッセージを紹介しておく。一八七四年のインペレーターによるメッセージに較べると、一八七五年に別の霊がサインしたものが雰囲気も異なり観点も異なる点に気づかれるであろう。〕

〔イースター。一八七四年。前の年の同日にドクターとプルーデンスから送られた通信に言及したところ、次のようなメッセージが書かれた。〕


あの通信が届けられた頃のそなたの心境と現在の知識とを較べれば、そなたの進歩のよき指標となろう。重大なる問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めたかがよく判るであろう。あの頃われらはいわゆる“復活”が肉体の復活ではなく“霊”の復活であることを説いた。遠い未来ではなく死の瞬間における霊の蘇(よみがえ)りの真相を説明した。その時点におけるそなたにとりては初耳であった。が、今は違う。当時理解に苦しんだことについて今は明確な理解がある。イエスの地上での使命と、今その使者を通じて進行中の仕事についても説いた。イエスの真の神性――そなたらが誤って崇拝してきた“主”の本来の偉大さについても説いた。イエス自ら述べた如く、イエスがそなたらと同じ一個の人間であったこと、ただ比類なき神性を体現する至純至高の人間の理想像であったことを説いた。愚かなる人間的神学が糊塗せるイエスの虚像を取り除くことによりて、そこに地上の人間の理想像としての人間イエス・キリストの実像を明らかにすることが出来た。

イエスは肉体を持って昇天したのではなかった。が、決して死んでしまったわけでもない。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説いた。われらも同様のことをする日が来るかも知れぬ。

今そなたが見ているのはこれから始まる新しき配慮――人間が空想し神学者が愚かにも説ける人類の最後の審判者としての“主”の出現ではなく、われら使者を通じての新たなる使命(実は古き真理の完成)、地上への新しき福音の啓示という形による“主”の出現の前ぶれとしての“しるしと奇跡(1)”なのである。すでに地上に進行しつつあるその働きの一環をわれらも担っている。イエス・キリストの指揮のもとに新しき福音を地上にもたらすことがわれらの使命なのである。今はまだその一部しか理解できぬであろう。が、いずれ、のちの時代にそれが神より授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることであろう。

このところそなたの精神の反抗性が減り、受容的態度が増したことにより、われらは直接的働きかけが目立って容易となってきた。これに加えて忍耐力と同時に祈りの気持ちと不動の精神をぜひ堅持してもらいたい。われらの目指す目的から目をそらせてはならぬ。今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージを繰り返しじっくりと噛みしめることである。進歩の妨げとなる障害物をつとめて排除せよ。もっとも、日々の勤めを疎かにしてもらっては困る。そのうち今より頻繁にそなたを利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではない。そのためにはまだまだ試練と準備とが必要である。友よ、その時期までにそなたは火の如き厳しき鍛練を必要とすることを覚悟せよ。地上的意識を超えて高級霊の住める高き境涯へと意識を高めねばならぬぞ。これがわれらからの復活祭(イースター)のメッセージである。死せるものより目覚め、魂を蘇らせよ。地上世界の低俗なる気遣いより超脱せよ。魂を縛り息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。死せる物質より生ける霊へ、俗世的取越苦労より霊的愛へ、地上より天界へと目を向けよ。地上生活にまつわる気苦労より霊を解放せよ。これまでの成長の補助的手段に過ぎなかった物的証拠並びに物理的現象を捨て去り、興味の対象を地上的なものより霊的真理の正しき理解へ向けよ。イエスが弟子たちに申したであろう――「この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ(2)」と。次の聖書の言葉も心の糧とせよ。「汝ら、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん。(3)


――私がこの世的なことに無駄な時間を費して来たとおっしゃっているように聞こえますが。


そうは言っておらぬ。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことは為さねばならぬと言って来たつもりである。が、われらの願いはそうした客観的証拠がもはや必要とせぬ段階においては、そこより霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることである。向上心を要求しているのである。そしてそなたに求めることを全ての人間に求むるものである。


〔さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世的な仕事に全く不向きとなり、ガラスケースにでも入れておく他ないほど繊細となる――つまり霊界との関係にのみ浸り切り世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのかと尋ねた。〕


霊媒には環境も背後霊も異なる別のタイプがある。その種の霊媒にとりてはそうなって行くことが理想であろう。そなたもいずれはそのように取り扱うことになろう。もともとそなたを選んだのはそうした目論見(もくろみ)があってのことである。それ故にこそ、自制心に欠け邪霊の餌食となり易き人間となるのを防がんとして、時間を犠牲にしてきたのである。時間を掛けるだけ掛ければ疑念と困難が薄れ、代わりて信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのである。焦ったからとてその時期の到来が早まるものではない。たとえ早まるとしても、われらは焦らぬ。が、霊的向上心の必要性だけは、われらの仕事に関わる全ての人間に促してきた。同時に、物理的基盤が確立した以上、こんどは霊的構築の段階に入るべきであることも常に印象づけてきたつもりである。


〔ここで私はかつて述べたことがあることを再度述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行なわれているものの多くが無価値で、時に有害でさえあること、霊媒現象というものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、無闇に利用すると危険であるといったことであった。さらに私は、信念が必要であることは論を俟(ま)たないが、私には私なりの十分な信念が出来ていること、これ以上いくら物的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。〕


そなたの信念が十分に確立されていると思うのは間違いである。信念が真に拡充され純粋さを増した時、今そなたが信念と呼んでいるところの冷ややかにして打算的かつ無気力なる信念とはおよそ質を異にするものとなるであろう。今の程度の信念では本格的な障害に遭遇すれば呆気なく萎(しぼ)むことであろう。まだまだそなたの精神に染み込んでおらぬ。生活の重要素となっておらぬ。ある種の抵抗に遭うことで力を付けることはあろうが、霊界の邪霊集団の強力なる総攻撃に遭えば、ひとたまりもないであろう。真実の信念とは“用心”の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越せる無条件の“あるもの”によりて鼓舞されたものであらねばならぬ。魂の奥底より燃えさかる炎であり、湧き出ずる生命の源泉であり、抑えようにも抑え難きエネルギーであらねばならぬ。イエスが“山をも動かす(4)”と表現せる信念はこのことだったのである。それは死に際しても拷問に際しても怯(ひる)まぬ勇気を与え、長く厳しき試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成への道程にふりかかる幾多の危険の中を首尾よくゴールへ向けて導いてくれる筈のものである。

この種の信念をそなたは知らぬ。そなたの信念はまだ信念とは言えぬ。ただの論理的合意に過ぎぬ。自然に湧き出ずる生きた信念にはあらずして、常に知的躊躇を伴う検討のあげくに絞り出した知的合意に過ぎぬ。安全無事の人生を送るには間に合うかも知れぬが、山をも動かすには覚束(おぼつか)ぬ。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れぬが、魂を鼓舞し元気づけるだけの力はない。知的論争における後ろ楯としての効用はあろうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為と崇高なる目的の遂行において圧倒的支配力を揮うところの、魂の奥底より絶え間なく湧き出ずる信念ではない。そなたにはその認識が皆無である。が、案ずるには及ばぬ。そのうちそなたも過去を振り返り、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、かつまた、その及び腰の信念でもって神の真理の扉の開かれるのを夢想したものであると驚き呆れる時も到来しよう。その時節を待つことである。その時節が到れば、信念に燃え崇高なる目的に鼓舞された生ける身体の代わりに、大理石の彫像を置くこともせぬであろう。そなたにはまだ信念はない。


――あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくても、些(いささ)か希望を挫けさせるものがあります。それにしても“信仰は神からの授かりもの(5)”である以上、私のどこが責められるべきなのか理解に苦しみます。私は“拵えられた”ものです。


違う。今のそなたは内と外より影響を受けつつ自ら造り上げて来たものである。外なる環境と内なる偏向と霊的指導の産物である。そなたには誤解がある。われらが批難したのは、その名に値せぬものを信念であると広言したことに過ぎぬ。案ずるには及ばぬ。そなたはより崇高なる真理への道を歩みつつある。(なるべくならば)現象的なものを控え、内的なるもの、霊的なるものの開発を心がけよ。信念を求めて祈れ。そなたがいみじくも“神からの授かりもの”と呼べるものが魂に注がれ、その力によりてより高き知識へと導かれるよう祈れ。そなたのそのあらぬ気遣いがわれらを妨げる。

(†インペレーター)


〔イースター。一八七五年。午前中かなりの数の霊が集まっているのを感じていた。そのことに言及した後、それまでとは全く異質の影響力のもとに次のようなメッセージが書かれた。但し筆記者はいつもの霊である。〕


すでに述べたように、われわれもよく祭日を祝う。イースターも貴殿たちと同じようにわれわれにとっても祭日である。尤もわれわれは祝う理由が異なり、その意義についての知識も次元が異なる。われわれにとってもイースターは復活を祝う日であるが、肉体の復活ではない。われわれにとっては物質の復活ではなく、物質からの復活であり、霊の復活である。それのみではない。物的信仰と物的環境からの復活であり、用を終えた死せる肉体から霊が昇天するように、地上的・物的なものから魂が解放されることである。

全ての物的存在に霊が内在するように、何事にも霊的な意味があることは貴殿も学んだ。その意味においてキリスト教が祝うこの復活の教理は、われわれにとっても格別の意味をもつ。キリスト教徒は主イエスの死の支配からの脱出を祝う。その際、それを肉体のままの復活であると信ずるのは誤りであるが、霊にとっては死は存在せぬという偉大なる真理を、無知の中にも祝ってはいる。それはわれわれにとっては、人間が真理を部分的にせよ霊的に理解していることを喜ぶ日であり、さらにまた、この日に結実せるイエスの大使命の成就を喜ぶ気持はさらに大である。貴殿たちが信じたがるように、死が征服されるというのではない。生命の永遠性について朧気ながら理解し始めたということである。


〔私はイエス・キリストの身体の体質と、その生涯の霊的意義について尋ねた。〕


人類救済のために偉大なる霊が地上に降誕することはイエス一人に限られたことではない、と言うに留めておこう。そうした救世主によって人類が得る救いは、その時代の必要性に応じたものである。そうした特殊な降誕については、こののち更に述べることになろう。差し当たっては、人間の身体にも民族性によって程度の差があるように、そうした救世主にも平凡な人間とは異なる次元において程度の差があると言うに留めておく。俗性と官能性とを多分に具えた者もいれば、霊性高き洗練された者もいる。中でもイエスは最も洗練された霊性高き身体を具え、しかもそれが僅か三年の活動に備えて三十年もの鍛練と修養を重ねたのであった。〔この時私の脳裏に、三年のために三十年を費すのは不釣合だ――勿体ないという思いが走った。〕

救世主の為せる仕事が地上生活の期間にのみかぎられていると思うのは間違いである。イエスの場合に見られるように、真の影響はその死後の余波にある場合がよくある。イエスの仕事はその三年の間に始まったのであり、そして今なお続いているのである。

イエスの生活の特質は威厳と謙虚の合体であった。威厳さと平凡さとの結合にあった。威厳さが発揮されたのは誕生時と死亡時、その他、ヨルダンにおいて霊がイエスを試し、その使命を神聖なるものと認めた時等(6)、その生涯の節目にいくつか見られる。住民はイエスがその生誕より死に至るまで尋常の人間でないことに気づいていた。その生涯が俗世間の社会生活や家族的関係によって束縛されるべき人物でないことを知っていた。と言っても、イエスを取り巻く生活の和気あいあいたる雰囲気は、イエスにとって心地良きものであった。それを住民は理解していた。聖書はそうしたイエスと住民との関わりについての叙述がきわめて不十分である。イエスの言葉と行為が住民に及ぼした影響に関する言及が余りに少なく、一方、いつの時代にもあるように、新しき真理に楯ついた当時の学者並びに貴族階級の愚かなる誤解についての言及が余りに多すぎる。律法学者、為政者、パリサイ派、並びにサドカイ派の学者は挙(こぞ)ってイエスの敵にまわった。今もしイエスが当時の真の姿のまま教えを説いたならば、現代の知識人、博士、神学者、科学者と呼ばれる階層の者も挙ってイエスを嫌い、あるいは迫害することであろう。

仮に貴殿がわれわれのこうした仕事について語ることになった時、貴殿はまさかそうした階層の人たちから証言を得ようとは思わぬであろう。イエスの言行についての記録がそうした無知なる知識階層による迫害の叙述に偏り、平凡なる住民と共に暮らせる生活の中で見せた道徳的気高さについての叙述が余りに少な過ぎるところに問題がある。編纂者たちはイエスの直接の教えを受けた者との接触がなく、当時の風聞(うわさ)をもとに間接的に資料を得た。それではあたかも何世紀ものちになって歴史を編纂するのにも似ていよう。その点をよく心しておくがよい。

イエスの生涯は世間に知られているかぎりでは三年と数か月であった。それまでの三十年間はそのための準備期間であった。その間イエスはずっとその使命達成に意欲と愛を寄せる天使の一団(7)からの指示を受けていた。イエスは常に霊界と連絡を取っていた。その身体が霊の障害とならなかっただけ、それだけ自然に天使の指導を受け入れることが出来たのである。

地上の救済のために遣わされる霊はそのほとんどが肉体をまとうことによって霊的視覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常である。が、イエスは例外であった。その肉体の純粋さ故に霊的感覚を鈍らせることがほとんどなく、同等の霊格の天使たちと連絡を取ることが出来た。天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における地位まで記憶していた。天使としての生活の記憶はいささかも鈍らず、一人の時は、ほとんど常時、肉体を離れて天使と交わっていた。長時間に亙る入神も苦にならなかった。そのことは聖書に幾つか例を見ることが出来よう――荒野の誘惑の話、瞑想の習慣の話、山上における祈り、あるいはゲッセマネの園での苦悶。いずれも誤り伝えられてはいるが。

さらにまた、イエスが語ったという天地創造以前の神の栄光の中での生活の回想についても、すでに貴殿もわれわれが授けた知識によって思い当たるものがあろう。そうしたものが数多くあるのである。

イエスにとっては肉体が殆ど束縛とならず――それはまさに仮の上着であり物質界と接触する時にしか必要でなく――その生涯は普通一般の人間とは質こそ同じであったが程度において異なっていた。より清らかにして素朴であり、より崇高にして情愛に満ち、また人々から愛される人間であった。そうした生活は同時代の者には決してその真価を理解されることは有り得なかった。誤解され、曲解され、誹(そし)られ、思い違いをされるのは当然の結果であった。それは大なり小なり一般より抜きん出た者に共通して言えることであるが、イエスにおいてはまた格別であった。

その聖なる生活は人間の無知と悪意とによって、その半ばにして終焉を迎えた。キリスト教徒がイエスは地上人類の犠牲となるために降誕したと述べる時、彼らはその真実の意味を理解していない。確かにイエスは人類の犠牲となるために来た。が、その意味は熱烈なるキリスト教徒の説く意味とは異なる。カルバリの丘(8)でのあの受難のドラマは人間の為せる業であり、神の意図せるものではなかった。使命遂行に着手したばかりの時点においてイエスを葬ることは、神の悠久の目的の中にはなかった。それは人間の為せる行為であり、邪悪にして憎むべき、かつ忌まわしき出来ごとであった。

イエスは、他のすべての改革者が救世主であったのと同じ意味において(程度は他に抜きん出ていたが)人類のために死にに来た。そして至上の目的のために己の肉体を犠牲にしたのである。その意味においては確かにイエスは人類を救い、人類のために死ぬために地上に降りた。しかし、あの愚かしきカルバリの丘での終末のシーンがあらかじめ神によって予定されていたという意味においては、イエスはそのような目的をもって来たのではなかった。これは重大なる意味をもつ問題である。

もしイエスが地上生活を全(まっと)うしておれば人類がいかに大きな恩恵をこうむっていたか、それは計り知れぬものがある。が、時期尚早であった。当時の人間はその施された恵みを僅かに味わっただけで棄て去った。それを受け入れる用意が出来ていなかったのである。同じことが全ての偉大なる指導者について言える。まわりの人間は理解し得るものだけを取って残りを後の世へ遺し、あるいは性急のあまり脇へ押しやって目を呉れようともしない。そして後世の人間がその時期尚早に過ぎた霊を崇め敬慕することになる。これまた由々しき問題である。

受け入れの機が熟さぬうちに真理を押しつけることは、われわれには許されていない。否、それは神ご自身の計画の中にもなかろう。神の統(おしな)べる全宇宙は整然たる進化と組織的発展の中に営まれねばならない。今も同じである。今もし人類にわれわれの授ける真理を受け入れる用意があれば、地上はかつて天使が神の真理の光を届けた時以来の全啓示に浴することが出来ることであろう。が、今はまだその時期ではない。僅か一握りの備えある者のみが、後の世の者が喜んで喉の渇きを潤すであろう真理を受け入れるのみである。その意味においてイエスの地上での生涯は失敗であり、後世への潜在的影響力となることで終わってしまったと言えよう。

のちにキリストの名を標榜する教会が天使の影響のもとにイエスの生涯が象徴する真理をかき集めた。が、悲しい哉、今やその真理も、長き慣習によって慢性化し、真の威力を失うに至った。

貴殿も知る如く、キリスト教界の三大勢力(9)はイエスの生涯の出来ごとの幾つかを祝う点においては一致している。その三大勢力以外に精進日と祭日を祝うことを拒否する派があるが、これは感心しない。彼らは真理の一部を自ら切り取ったも同然である。が、教会は主イエスの記念として、クリスマス、エピファニー、イースター、アセンション、ペンテコスト等を祝う。これらはイエスの生涯の節目であり、各々が霊的意義を秘めた出来ごとなのである。

クリスマス(キリスト降誕祭(10))――これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿りとし、人類愛から己を犠牲にする。われわれにとってクリスマスは無私の祭日である。

エピファニー(救世主顕現祭(11))――これはその新しき光の地上への顕現を祝う祭日であり、われわれにとっては霊的啓発の祭日である。すなわち、地上に生まれ来るすべての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人一人に持ち運び与えるのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めて来るように、高揚するのである。

レント(受難節(12))――これはわれわれにとっては真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの時節は絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日である。

グッドフライデー(聖金曜日(13))――これはわれわれにとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤の末に訪れる目的成就、すなわち“死”を象徴する。但し新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生涯の認識と達成の祝日である。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。

イースター(復活祭(14))――これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克てる霊、そしてまた打ち克つベき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた蘇れる生命の祭りである。

ペンテコステ(聖霊降臨祭(15))――キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけているが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日である。それはキリストの生涯の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさから、自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を授かる。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日である。

アセンション(昇天祭(16))――これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生涯の終焉である。使命の完遂の祭りである。

以上がキリスト教徒の祝日に秘められた霊的な意味である。われわれ及びわれわれの仕事の最高指揮者であられる霊(インぺレーター)がキリスト教的独善主義の壁を打ち崩し、迷信に新たな光を当てて下さったおかげで、われわれが今こうして全ての行事に秘められた真理の芽を披露することを許されたのである。人間的誤謬が取り除かれれば、それだけ多くの神の真理が明らかにされるのである。

われわれは貴殿がこれまでに授かった教訓を補足し、完成せしめたいと望んできた。これまでは破壊することが必要であったが、今や構築を必要とする段階となった。神の子羊、人類の救い主イエス・キリストがユダヤの無知と迷信の中から神の真理を救い出したように、今度はわれわれが同じ真理を人間的神学の破壊的重圧から救い出さねばならない。イエスは真理を求めて喘ぐ魂を地上的煩悩より救い出し、邪霊の支配から解き放った。われわれは魂を人間的ドグマの束縛より解放し、自由の真理を高揚して人間に知らしめ、それが神からの啓示であることを悟らしめんと思うのである。

イースターメッセージ。一八七六年。

『磔刑(たくけい)と復活――自己犠牲と新生』


〔私は“死”と“生命”の問題、とりわけ霊性に係わる象徴的側面について一層踏み込んだ教えを請うた。質問の中で私は“死”と“復活”との霊的関係に言及し、肉体の死は新たな生への入口を象徴し、霊的な死は霊的新生ヘの道であると考えて良いかと尋ねた。(17)


その件に関しては昨年のイースターに述べたことを参照するがよい。そなたの言う象徴性が説明されている。すなわち、物質からの復活であり、物質の復活ではないということである。キリスト教会が祝い続けて来たさまざまな祭日のもつ霊的意義についても説明してある。参照するがよい。


〔言われるまま私は一八七五年のイースターメッセージを読んだ。教会の祭日が象徴的に解説してある。クリスマスは自己否定、顕現祭は霊的啓発、受難節は霊的葛藤、聖金曜日は愛の勝利、復活祭は蘇れる生命、聖霊降誕祭は豊かな霊的真理、昇天祭は使命の成就を意味するとある。〕


その通りである。理想的人間像の手本であったイエスの生涯は、地上に始まれる生命の進歩的発展が(そなたらの用語で言えば)天国にて完成される――自己否定の中に誕生し昇天の中に終焉を迎えることを象徴している。人間はイエスの生涯の中に霊の肉体との結合と解放の過程を一つの物語を読む如くに読み取ることが出来よう。天使の加護のもとでの三十年余の準備期間はイエスの使命にとりて相応しきものであり、三年の短かき期間も、人間の受け入れ能力に相応しきものを行使する上では十分であった。人間の霊もその発達過程においては、教会が祝う祭りに象徴される過程を辿る。すなわち自己否定の誕生に始まり、完成された生命の祝福に終わる。自己否定の中に誕生せる生命が犠牲的生活の中にて進化を遂げつつ、敵対するもの(日常生活、自己、及び敵の中に見出される反作用の原理)との不断の葛藤の中に成長し、ついに物的なるものより超脱し、イースターの朝、物質の墓より昇天し、それを機に豊かなる聖霊の洗礼を受けて新しき生命として生まれ変わり、ついに地上生活の徳性によりて用意された境涯(18)へと進む。

これぞ霊の進化であり、磔刑(はりつけ)と復活によりて端的に象徴された霊的新生の過程と言えよう。古き自我が死に、その墓場より新たな自我が誕生する。肉体的欲求に縛られて来た自我が十字架にかけられ、新たなる自我が神聖なる霊的生活を送るべく昇天する。肉体的生活の終焉は霊の新生である。そしてその過程が自我の磔刑――パウロの言う“日毎(ひごと)の死(19)”である。霊的進化の生活に停滞があってはならぬ。麻痺があってはならぬ。不断の成長であリ、日々の生活における真理の体得であらねばならぬ。地上的なもの、物質的なものの抑制と、それに呼応せる霊的なるもの、天上的なるものの啓発であらねばならぬ。言い換えるならば、美徳を積むこと、そして人間生活の模範として示されたイエスの生涯につきての理解を深めることである。物質的なるものからの超脱と霊的なるものへの発展――あたかも火によりて、全てを焼き尽くすほどの熱誠によりて焼き払う如く、物的汚れを清めて行くことである。それは自我と自我にまつわる全てのものとの闘いであり、神の真理の終わりなき悟りのための行(ぎょう)である。

これを除いて他に霊の浄化の方法はない。鍛練の炉は自己犠牲である。これに例外はない。ただ、霊的“炎”が一段と大きく燃えさかる偉大なる霊においては、その過程が急速であり、かつ一時期に凝縮されることがある。一方鈍重なる霊においては、その炎がくすぶり、浄化の過程も延々と幾度も繰り返されることになる。いち早く地上的なるものより脱し、浄化の炎を有難く受け入れる者は幸いである。そうした者は進化も急速であり浄化も確実である。


――その通りだと思います。が、その闘争は厳しくて何から克服して行くべきか迷います。


先ず自己より始めよ。古(いにしえ)の賢人は魂の敵の表現において見事であった。魂には三つの敵がある――自分自身とそれを取り囲む物的環境、そして向上を阻止せんとする邪霊集団である。これを古人は“俗世”と“肉体”と“悪魔”と表現している。

まず自己すなわち“肉”の克服より始めよ。肉体的欲求と感情と野心の奴隷とならぬよう、そして自我を殺し、隠者的独房より出でて宇宙的同胞主義の自由なる視野の中に生き、呼吸し、そして行動すべく、まず己自身を克服せよ。これが第一歩である。まず己を十字架にかけよ。そうすれば、己を埋葬せる墓地より、束縛なき魂が自由に羽ばたくことであろう。

これさえ成就すれば、その魂にとりて目に映じる物を忌み永遠なる価値に憧れるに至るのはさして困難ではない。真理は永遠なるものの中にのみ発見されるものであることを悟り、そう悟ったかが最後、それ以後は外界の物的形体を真理の影――人を迷わせ真の満足を与えぬ外敵として、ひたすらそれとの闘争を続けることになろう。物質は殻であり、それを剥ぎ取って始めて真理の核が得られることを知るであろう。また物質は往々にして人を誤らせる儚(はかな)き幻影であり、その奥に悟れる者のみが見出せる霊的真理が隠されている。そう悟れる魂にとりては最早や、物的なるものを避けその殻を通して内部の真理を求めよと、改めて説く必要はない。その魂にとりては、表面上(うわべ)の意味がいわば霊的理解力において幼児の段階にある者のためのものであること、その奥に象徴的なる霊的真理が潜んでいることを悟っている。物質と霊との相関関係を理解し、その表面的事象が幼児のささやかなる理解力に適う真理を伝えるための粗末な証でしかないことも理解している。その魂にとりては真実の意味において“身を棄ててこそ浮かぶ瀬(20)”もあるのである。その生活は魂のための生活である。何となれば、すでに“肉”を征服し、“世間”も最早や魅力はないからである。

が、霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて邪霊の敵対行為も目立ってくる。不倶戴天の敵とも言うべき邪霊集団が行く手を阻み、この試練の境涯を通じて絶え間なく煩悶の種子を蒔き散らす。信仰厚き魂はその一つ一つを首尾よく克服して行くことであろう。が、地上生活においてそれが完全に絶える時はついぞ訪れぬであろう。何となればそれはより高級なる霊的才能を発達させるための手段なのであり、より幸せな境涯へ向上する資格を得るための踏台だからである。

以上が、簡単ではあるが、進歩的人間の辿る生活である。すなわち、己を十字架にかける自己犠牲と、世間の誘惑に打ち克つための自制と、邪霊との対抗に耐えるための霊的葛藤の生活である。そこに停滞は許されぬ。休息もない。そして終息もない。一日一日が死であり、そこより新たなる生活が始まる。不断の闘争であり、そこより止まることなき進歩が得られる。魂に内在せる霊的ともしびが徐々にその光度を増し、ついに完全なる光輝となるための絶え間なき闘争である。そなたらの言う天国はこうした厳しき闘争の末においてのみ得られるものである。


――Sic itur ad astra.(21)これこそがキリスト教において、仏教において、それから神秘学においても中心的思想となっています。キリストの言葉の中にも生涯キリスト自身を鼓舞し続けたその思想が随所に見られます。問題はいかにしてその理想をこの俗世で生かすかということです。


そこに、キリストの言える如く、地上の住民とならず地上を旅する者であらんとするための闘争があるわけである。この高度な理想は日常の雑務に心を奪われている者にはまずもって実現不可能である。だからこそわれらはそなたの関心を出来るかぎり物理的交霊実験より逸(そ)らさんとしてきたのである。危険と見たのである。物理的現象より超脱するよう努力せねばならぬ。構わず放っておくがよい。その種の交霊は隠遁生活でも送れる者にのみ相応しかろう。


――ずっと以前に私は、霊媒に徹しようとすれば世俗的生活と相容れなくなると思うと述べたことがあります。つまり霊的過敏性が急速に発達していくために世間との接触に適応できなくなる。あるいは、とにかくその霊媒の性格が普通の生活をし難くさせるものとなり、そういう種類の影響力ばかりを惹き寄せるようになる、と。


そうした傾向は多分にある。だからこそわれらは余りに物質的すぎる現象を控え、危険性の少なき精神現象を発達させてきたのである。とにかく、われらが全てを良きに計らっていると信ずるがよい。危険なのは背後霊が背後霊としての仕事がやり難くなった時である。そうなりたる時の危険性は深刻である。が、案ずるには及ばぬ。そなたの歩むべき道は見通しがついている。ただ、今は闇の力がはびこる暗黒の時期に差しかかっている。辛抱づよく待つことである。

(†インペレーター)


〔イースター。一八七七年〕


神の祝福のあらんことを! この時節の恒例として、生命の復活と再生について述べたく思う。

このキリスト教の祭日のもつ素朴なる象徴的意義については述べぬ。すでに述べてあるからである。すなわち葛藤の後に得られる勝利について説いてある。そなたも人間イエス・キリストの生涯の中にいかに霊の向上進歩が象徴的に表現されているかを学んだことであろう。その認識を改めて促しておきたい。

さて救世主イエスは神の使命を帯びて、至福の天界における霊的生活より地上へと降りられた。至純なる霊が一個の人体に宿り、ベツレヘムの飼い葉おけの中にて誕生した。ありとあらゆる不完全さと煩悩を具え、進歩のための唯一の手段である悲しみと誘惑と試練から遁れることの出来ぬ一個の人間となられたのである。

そこに進歩の唯一の手段としての霊から物質への降誕の一つの典型を読み取って貰いたい。遠き過去より存在し続け、必要かつ十分なる発達を遂げたる霊が、他の手段にては絶対に得られぬ進化に不可欠の葛藤と試練を求めて、いよいよ物質的身体による生活の場に降りたということである。

かくして人類の境涯へと誕生せるイエスは、たちまちにして“この世の君(22)”悪魔(サタン)による迫害に身を曝された。時の権力者たちは一斉にイエスに敵対し、神の子であることの証を要求した。そして遂に磔刑に処する命令を下した。イエスの説くところが彼らの主張するところと相容れなかったからである。

すでに述べた如く、向上進歩の道程において新たな段階に差しかかる毎に天使の一団が見守っているのであるが、その恩恵は格闘と煩悶〔のちに葛藤の意味であるとの説明があった〕の末でなくしては得られぬ。危険を冒すこともなく、必死の努力もせずに、ただのんびりと夢見る如き生活の中からは得られぬ。もし得られるとすれば、それはもはや恩恵とは言えぬ。葛藤の中にこそ恵みがあるのであり、敵対するものを克服し、闘い抜いた末の勝利の中にこそ存在するのである。このことをよく心するがよい。肉体を持ちて生を享けた霊には常にこれを滅ぼさんとする霊が付きまとうことを知るがよい。

幼な子イエスもそうした外敵の危険を察知する両親によりて安全の地を求めてエジプトへと連れて行かれた。そしてイエスはその地にて豊かなる霊的知識を身につけることになる。エジプトは太古より神秘的知識の宝庫であり、のちにイエスが披露せる知識の多くはそのエジプトにて摂取したものであった。

そなたにとりてはもはやそうした闘争の意味について改めて深く探る必要もあるまい。敵に取り囲まれ、怯えるその霊は、エジプトを措いて他のいずこに避難と武装の場所を求めるべきか。先人が苦闘の中に蓄積せる神秘的知識と体験の記録の中に求めたのは蓋(けだ)し賢明であった。神秘的知識の豊富なるエジプトこそ、闘う霊が悪との闘争に備えて知識を身につけ徳性を涵養して霊的武力を具える兵器庫であった。と言うのも、実を言えばエジプトへの脱出には二つの意味があったのである。一つには安全の地への逃避であったが、今一つは教育のための一時的逗留の意味もあった。すなわち徳性を涵養し、その中より霊的闘争の武器を身につけんがために、エジプトという深遠なる神秘的哲学の地へ隠棲したのであり、一方、他の地に比して平穏無事の雰囲気の中にて安らぎと憩いを求めたのである。瞑想、徳育、そして霊的闘士としての成長――イエスもそのか弱き幼少時代より青年期に至る時代をこうして過ごし、体力の増強と並行して獲得せる知識の中に徳性を涵養して行ったのである。まさに叡智と身体の双方の増強の時代であった。

救世主イエスの象徴的生涯の一つの典型とも言うべき時代がこれにて終わる。準備期が終わり公的生活が始まる。大衆の求むるものを遙かに超えた進歩と発達を限られた地上時代に成就すべく自らを鼓舞し続ける霊に、いよいよ第二の時期――われらのいう伝道期間に入るに先立ち、その準備を整える時期を与えられ、摂取し得るかぎりの真理を摂取するということである。そなたには改めて説くまでもなかろうが、霊的進歩にとりては、ありとあらゆる形式の利己主義を粉砕し、才能を己の利益のために使用せず、生活の全てにおいて“惜しみなく授かれる者は惜しみなく与えよ(23)”の戒律を厳守することが必須の条件なのである。

故に己に与えられたものは、それを求むる者と分かち合わねばならぬ。真理は、少なくとも通俗的なものは、世の人々に等しく分け与えられねばならぬ。が、より深く、より天上的なる真理は、イエスが一人山頂にこもりて孤独なる瞑想の中に己自身と対峙し、背後霊団(24)との交わりの中に霊的生気を取り戻さんとした如く、その葛藤の合間の魂の憩いとすべく、大切に、純粋のまま取っておかねばならぬ。その時のイエスには仲間はいなかった。ただ一人霊体に宿りて地上を遠く高く離れた(25)。その時の真相は、一人を除いて、弟子たちにも見ることを得なかった。その一人だけは幾度か神の使徒イエスを包むその最高の霊的現象を見る栄誉に浴したのだった。


〔のちに、その一人とは聖ヨハネ(26)であるとの説明があった。いつ、どこで、という指摘はなかったが、ヨハネはたびたびイエスの光輪現象(27)を目撃している。〕


この意味において、背後霊との交わりと同時に地上の同志との交わりの中に霊的真理の救いと喜びを分かち合うことを得る者は幸いである。霊的真理は分かち合うことによりて些かもその恩恵が減少するものではない。一途なる目的と、真摯にして完全なる共感の絆さえあれば、見る者が増えたからとて真理の光が減少するものではない。しかし、求道の世界には、たとえ同じ道を歩もうとも、二人三脚はそう滅多に望めるものではない。たとえ目指すものは同じでも、それぞれに辿る道があることを知り、それぞれに瞑想と祈りのための山頂をもち、一人そこに引きこもる時を持たねばならぬ。

その宗教的向上心の生活と相まてる陶冶(とうや)の生活は来るべき奉仕的社会生活への準備なのである。

救世主イエスは、エジプトにて霊的知識を身につけ、瞑想の生活によりて霊性を涵養し、純粋性をまとい、慈悲心に駆り立てられ、熱意に燃えて隠遁の生活よりようやく福音を授けるべく大衆の中へと入って行った。彼は真理に対する不敵なる信念に燃えていた。が、決して破壊主義者ではなかった。破壊することではなく真理を成就することこそ彼の眼目であった。荒れ果てた荒野とすることではなく、実りをもたらし花を咲かせんが為に土地を掘り起こし、耕作し、種子を蒔くことであった。材料は手もとにあるものを使用し、その垢を取り除き、生命を失える儀式も彼のまことの言葉の魔法にふれて生きた真理の象徴と化した。骨と皮ばかりの痩せこけた人間が生気を取り戻し、死体に霊が戻り、死者が蘇り、そして立ち上がったのである。

誠実なる目をもってすれば、こうした流れの中に突然の断絶も、一時期の粗暴なる終焉も、現在と過去との懸隔もなかったことが判るであろう。すべては推移であり、緩やかなる目覚めであり、それは今もなお自然界に見る通りである。一年の終わりと始まりとに急激なる断絶はない。人間の目には前年に埋められし墓の石蓋が如何なる力によりて取り除かれて来たかが判らぬ。ある時は全てが冷ややかにして生気なく、陰うつであり、もはや過去のものとなるかに思える栄光を悲しむ。が、やがて変化が生じる。人間的武力や権力によるのではなく、目に見えぬ霊力によりて起こされるのである。太陽が再び光を放つ。その光は死せる年が閉じ込められた牢獄のカギを開け、花が芽を出し、恥ずかしげに、そして半ば恐怖を抱きつつ頭をもたげる。やがて足もとはエメラルドの絨毯(じゅうたん)と化し、緑の平野が広がり、見よ! 痩せ細れる者が生気を取り戻す復活の季節(とき)が勢いよく訪れる。と言うよりは、死せる過去が静かに地上に戻る。これが大自然に年毎に黙示される霊的再生の寓話なのである。

同じ教訓を救世主イエスの生涯の中にも読み取らねばならぬ。伝道のために祖国に戻りし時、ユダヤの民の生活はあたかも冬の木々の如く霊性の全てを失い、寒々としていた。樹液がその流れを止めたかに見えた。枝に一葉も見られず、無気味ささえ漂っていた。疲れし旅人の喉を潤す果実一つなく、目を楽しませる一輪の花すら見当たらなかった。まさしく死の疫病が全てに蔓延していた。そうした中に“神の使者”、“選ばれし救世主”イエス、“正義と真理の太陽(サン)”――これは“息子(サン)”でもあった(28)、両者に差異はない――が、死せるが如き裸の枝に啓蒙の光と暖かさを注いだ。そして、見よ、その変化を! 空虚なる形式主義が霊的真理に輝き、冷ややかなる説教が健全なる生命によりて生気を取り戻す。古き時代につきての説話に新たなる奥深き意義がもたらされる。社会生活は向上し、改められ、尊さを増していく。宗教はかつてなく高度にその霊性を増す。イエスは形式に代わりて霊的意義を、けばけばしき儀式に代わりて静かなる人知れぬ祈りを、見せびらかし的宗教――人に見せんがための行事――に代わりて、人目につかぬ隔離された部屋での、己と神との二人きりの交わりを説いた。これを要するに、野蛮にして空虚、高慢にして偽りだらけの形式主義を排し、代わりて温順にして霊性に富める求道の生活を説いたのである。その真実の例証は騒々しき市場にはなく、静かなる個室にあり、パリサイ派にあらずして収税吏にあり(29)、大衆の目にあらずして神の監視の中にあった。

大自然とイエスの生涯に寓された教訓は魂の旅路にも見られる。学び得たかぎりの知識を携え、徳性を培える魂は、試練の生活ののちに新たなる生命の旅へと旅立つ。形式と儀式にこだわれる過去が霊性を賦与されて新たなる道が開ける。信仰に目覚めし魂の目には、それまで単なる現象であったものの裏に秘められた霊的意味が見える。むき出しの枝が緑の衣をまとう。死せる如く放置された儀式の形骸が霊性を賦与されて新たな生命の息吹きを取り戻す。古きものが廃棄されるのではない。質が変えられるのである。為すべき義務が免除されるのではない。逆に、より鋭き熱意と配慮をもって果たすことになるのである。憂き世の苦労の繰り返しが短縮されるのではない。その長き過程がささやかな善行の霊的意義によりて楽しく、かつ誇り高きものと感じられるようになるということである。

あまりの冷たさ、あまりの生気のなさに絶望し、“ああ、主よ、この形骸に果たして生命はありや”と幾度も叫ばしめた無味乾燥の儀式が復活霊の息吹きによりて生命と温(ぬく)もりと現実味を帯びる。それなりの効用を果たせる古き儀式が新たなる環境に適応せる生活へと再生される。古き生命力より一層強き生命力をもち、過去の美わしさより一段と霊性を増せる美わしさをもって新生される。若さを取り戻したのである。霊的に啓発された目をもって見れば、真理はひとかけらたりとも滅びることはなく、必要に応じて神の研究室にて再化合され再生されて行くものであることを知るのである。

要するに魂はそれを取り巻く自然界全体の復活に参加するのである。生命を新たにし、高き知識を獲得し、奥深き真理を悟り、そうして貯えた力を携えて、啓発と発展と成長のための手段を授けに同胞のもとに赴くのである。その時は最早や平凡なる人間とは物の観方が異なる。行為も異なる。何の変哲もなき外観の内側に神的可能性を見る。如何ともし難き厄介物といえども、剪定によりて発育を促し、枯れ枝の刈り込みによりて若き枝が成長すると観れば、これを見捨てることはせぬ。かくして同胞のための公共的奉仕の生活に勤みつつ、一方においては絶え間なく霊的向上のための生活――真理への憧れと発展、霊との交わり、物質的・地上的なものからの超脱によりて一歩でも主イエスの完全なる模範に近づかんとする修養を怠らぬ。

この隠れた霊的向上の生活こそ、同胞への伝道の生活の源泉なのである。

主イエスの地上生活の終末のシーンもまた象徴的意義を秘めている。それは敵意と侮蔑と迫害を煽(あお)るところの時代的偏見と闘う伝道者の宿命であり、気に入らぬ真理に対する地上的報復なのである。イエスの生涯の記録を歴史的事実として理解できるそなたには、その悲劇的最期に至る一連の迫害の生涯が当然予想されるものであり、それ以外の生涯は到底有り得べくもなかったことに理解がいくことであろう。恐れることを知らぬ革命家イエスの出現に危惧を覚えた卑劣なる学者たちは、民衆をけしかけて一勢にイエスを攻撃させた。そうしなければ自分たちがその虚飾の姿を赤裸々に曝されることになっていたかも知れぬ。尊大にして虚飾に満ちたパリサイ主義は、若しもパリサイ人をしてイエスに対する怨恨を抱かしめなかったならば、イエスがマグダラのマリヤ(30)と収税吏を戒めた以上の厳しき言葉で糾弾されていたかも知れぬ。見せかけのみの儀式主義に堕落し、金の力にて容易に地位と権力を獲得できた当時のユダヤ教は、もしもそうした地位と権力を有する者が、聖櫃(31)にさえ不敬をはたらく忌まわしきナザレ人を憎むべき人物に仕立てなかったならば早晩大革命が生じ、律法学者やパリサイ派教徒よりも収税吏や売春婦のほうが高き地位と権力とを手中にすることになっていたかも知れぬ――が、こうしたことは到底有り得なかったであろうことは、そなたにも理解がいくであろう。

イエスの至純さと至善は怨恨を呼ばずにはおかなかった。妥協を排する真摯なる態度は嫉妬心を惹起せずにはおかなかった。その説くところの教義は余りに厳しく、一般民衆には付いて行けなかった。その生活上の戒律は余りに霊的に過ぎ、放縦と安逸の時代にはそぐわなかった。詰まるところ、そうした高度の訓えを受け入れる用意のない時代がイエスを十字架にかけたのであった。空虚と不純の時代が、罪悪の首謀者たちの立てた恥辱の木にイエスを磔(はりつけ)にすることにより、至純至聖なる“真理の子”に報復したのであった。

そういう次第であった。今なお、形而下的にはともかく、形而上的には多くの例証を見ることが出来る。中には神の使者の活動の波がちょうど通過せし時代にその波に乗って時代相応の真理を説き、それが首尾よく世に入れられ、その功ゆえに名誉と賞讃を得た改革者がいた。また中には、さらに多くの世俗的叡智と分別に長(た)け、より多く世の為に尽くした人物もいた。が、そうした指導者は稀である。大抵の指導者はイエスの如く真理の代償として屈辱と恥辱の中に死を迎える。真理を説ける指導者には死が与えられる。が、その訓えには復活と新たな生命が与えられる。そしてその指導者の姿がこの世より消えて始めて、その訓えの真価が理解される。その例は改めて長々と説くまでもなかろう。

キリストが十字架にかけられた時、そこには実に少数の同志しか居合わせなかった。悲劇の底にありてもなお鋭き直感と情愛が変わることのなかった二、三の女性と、公然と信仰の告白をせず最も臆病でさえありながら、実は最も忠実なる側近であった隠れた弟子のヨセフ(32)とニコデモ(33)の二人のみであり、他はすべて逃走したのだった。そして新しき真理の伝道者、新たなる福音の宣教師――彼は今いずこに在りや。身罷(みまか)ったのである。そして彼の説ける福音はいずこに在りや。これ又どうみても葬られたとしか思えなかった。それ故、誰一人として福音のこともイエスのことも思い出さず注意すら払わなかった。しかしそれは、人間の性急なる判断であった。かの埋葬場所の入口の蓋を取り除いたのは誰なのかは知るよしもなかった。ただ時おり地上に新生をもたらす“霊”の力が石を取り払い、死せる肉体に生命を吹き込んだとのみ信じた。それは実は天使の仕業であった。それと同じ力――完全に死せるものと思い埋葬せる肉体に新たな生命を吹き込める同じ力が、イエスの福音に生気を吹き込み、善悪さまざまな風説の中で育て上げ、ついに諸国にまで波及させ、当時の霊的真理の強大なる動力とならしめたのであった。

これを個々の革命家に当てはめてみよ。辿るベき宿命は同じである。神の真理として説くところがその時代の心に訴えようが訴えまいが、あるいは仮に訴えたとして、それが時宜を得たものとして喜んで受け入れられようが、それとも余計なことをする革新者のおせっかいと受け取られようが、真理は真理として受け入れられるべく闘いの道を歩まねばならぬ。それが神の選別の手段なのである。そして抵抗が大なれば大なるほど、それだけ真理普及に対する意気込みも大となる。踏みつけられれば踏みつけられるほど、信念は深く固く根を下ろす。その闘いの生涯がイエスの如き終焉を迎えるか、あるいは信念の弱さ、または慎重なる配慮によりてその悲劇的運命が避けられるか、それは大した問題ではない。真理の言葉そのものが最後の勝利へ向けて首尾よく闘争をくぐり抜けることが肝要なのである。それはちょうど修行時代において孤独と瞑想の生活の中に誘惑者と敵対者と闘い、苦悩の中に身を修め、受難の末に勝利を手にしたのと同じである。

修行時代を終え、新たなる生命を携えて公的生活に入ったのちのイエスの生涯は、覚醒せる魂に訪れる変化の象徴であった。この世に在りつつこの世の住民とならぬ生活――地上への“訪問者”としてこの世の慣習に順応しつつ、しかもそれに隷属せぬ生き方をイエスは示した。常に、全ての霊的影響力に見られる、かの最も強力なる原理すなわち“愛の摂理”によりて鼓舞され続けた。イエスがその姿を現わす時、あるいは何か事を為す時、それは常に愛に発していた。そなたらの手に残された記録は乏しく、かつ誤謬に満ちているとは言え、その原理を示す事象は十分に盛り込まれている。イエスは愛の摂理を成就し、そして相応しき境涯へと昇天して行った。二度と御姿を拝することも、じかに接することも出来ぬ。もはや形体を具えた存在ではない。今や霊的恩寵の源泉であり、“影響力”としての存在となっている。

自らの発意によりて地上界を訪れる霊はことごとくその愛に鼓舞されているのである。言い換えれば彼らの使命はイエスと同じ愛の原理に発しているのである。人間的情愛にせよ、宇宙的博愛にせよ、その愛は高級霊界の存在を惹き寄せる。そして果たすべき使命を終えれば、彼らもまた父なる神、普遍的宇宙神のもとへ帰って行く。

希望に燃えよ! そなたはとかく真理の枯渇を嘆き過ぎる。暗く寒き冬にありてはその寒さに震え、冬の後には必ず春が訪れている事実を忘れる。つまり“死”ありてこそ“再生”があり、新たなる生活、より広き視野と有用性と崇高なる目標と真実の意図を具えた生活へと導かれるものであることを忘れている。そうした生活には必ず死が先立つものであること――人間が死と呼ぶところのものは、神的真理に関するかぎり、豊かなる実りをもたらす必須条件としての“種子の死”に過ぎぬことをそなたは知らぬ。生へ向けての死――これこそが魂のモットーなのである。より高き生へと昇華され行く死である。墓場における勝利であり、死を通じての勝利である。霊的真理を扱うに当たりては、このことを忘れてはならぬ。

輝きと静けさの中にある時に恐れを抱くのは構わぬ。空気は淀み、焼けつく炎熱の時、潤いが渇き切り、太陽が容赦なく照りつける時、か弱き植物はしぼみ萎(しな)びていく。故に安逸と安楽の時、事が順調に運ぶ時、そして世を挙げて“真理の言葉”を賞讃する時、その時こそ、やがてそれが萎び、輪郭が翳(かげ)り、伝来の世俗的信仰の中に埋没して行くことを恐れる必要があるのである。全ての者が無条件に真理を受け入れる時こそ、その真理もやがて改められる必要が生じ、より深き真理が要求される時が到来しつつあるものと思うがよい。それとは逆に、強烈なる抵抗の中にある時こそ大いに意を強くするがよい。何となれば、その産みの痛みによりてこそ頼もしき後継者が誕生し、その気力と精力とによりて抵抗を跳ね除け、神の規範を一層有利なる戦いの場へと導いてくれるであろうからである。

救世主イエスの誕生から復活への生涯の過程にはそうした趣旨が込められている。これは永遠に変わることなき比喩である。

(†インペレーター)

シルバー・バーチの霊訓(一)

Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley



二章 なぜ生れてきたのか

 地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。

ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話です。

 あなたがた地上の人間にとっての大きな問題点は、やむを得ないことかもしれませんが、人生というものを間違った視点から観ていることです。つまり、あまりにもこの世的・物質的観点からのみ人生を考えていることです。

人生には確かに地上的な要素がありますが、同時に霊的なものであり、永遠に続くものなのです。その永遠なるものを地上的視野だけで眺めてはいけません。それでは十全な判断は出来ません。

神の子には、一人の例外も無く、善悪ともに〝埋め合わせ〟の原理が働くのですが、地上生活のみで判断しようとすると全ての要素を考慮することができなくなります。

 人生には目的があります。しかしその目的は、それに携わる人間が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。人間の一人ひとりに分霊が宿っており、一人ひとりが無限の創造活動に参加できるのです。

つまりあなた方には個的存在としての責任と同時に、ある限度内の自由意志が与えられているのです。自由意志といっても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありません。ある限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。

運命全体としての枠組みは出来ております。しかしその枠組みの中で、あなた方が計画した予定表(ブループリント)に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第だということです。


 もしかしたら、そのブループリントさえ自覚できないかもしれません。でも魂は神性を宿すが故に常に活動を求め、自己表現を求めて波のようにうねります。時にはそれが悲嘆、無念、苦悩、病苦という形をとり、無気力状態のあなたにカツを入れ、目を覚まさせることになります。

もしも神があなたに創造活動へ参加させ、そうすることによって潜在的神性を開発させることを望まないのであれば、あなたがこの世に生を享けた意味は無いことになりましょう。そこに〝埋め合わせの原理〟が働いていることを理解しなくてはいけません。

つまり創造活動に貢献する仕事に携わりつつ潜在能力を開発していく生活の中で、あなたの人間的発達が促進されていくという仕組みです。

 つまり二重の仕組みになっているわけです。進歩の誘発は内と外の両側から行われるのです。魂の奥には物質界のいかなるエネルギーよりも大きい威力が秘められています。宇宙の大霊の一部だからです。それが無ければ生命は存在しません。

なぜなら生命は霊そのものだからです。物質はカゲに過ぎません。霊という実在の殻に過ぎません。この二重のエネルギーをどこまで活用できるかは、その魂の悟りの程度にかかっています。

 霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊の無いところに生命はありません。物質は殻に過ぎません。霊という実在によって投影されたカゲにすぎません。物質それ自体には存在はないのです。あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、勘案し、熟考することができるのは、あなたが霊であるからこそです。

霊があなたの身体を動かしているのです。霊が離れたら最期、その身体は崩壊して元の土くれに戻ってしまいます。物質を崇拝する人間は間違った偶像を拝していることになります。そこに実在が無いからです。物質は一時的な存在に過ぎません。

 霊はすべての存在物を形成する基本的素材であるが故に永続性があります。人間という形体によって表現されている生命力は、小鳥、動物、魚類、樹木、草花、果実、野菜等に表現されているものと同じ生命力なのです。いかなる形体にせよ、生命のあるところには必ず霊が働いております。


 自覚の程度、意識の程度にはさまざまな段階があります。霊の表現形態は無限だからです。無限なるものに制限を加えるわけには参りません。その生命の背後の力をあなた方は〝神〟と呼び、私は〝大霊〟(※)と呼びます。それは全ての霊の極致であり源泉であり頂上であるからです。
 
いかなる形態を取ろうと、創造者たるその大霊の表現であることに変わりありません。 (※シルバーバーチはこの〝大霊〟Great Spirit の他に〝白色大霊〟Great White Spirit という呼び方をします。白色とは実は無色透明を意味しているのですが、やはり〝神〟Got という言い方もよくしますので、本書では特殊な場合を除いてこの〝神〟に統一しました。──訳者)

 残念ながら、人の為に役立つ仕事はなかなか思うにまかせないものです。私が法則をこしらえたのではありません。

宇宙の理法はこうなっているということをお教えしているだけです。最大の貢献をなさんと心掛ける人は、困難や難問を避けようとしてはなりません。その困難、その難問こそが、そうした志をもつ人々の魂の奥底を掘り起こし、奉仕の仕事に役立つ道具として是非とも具えねばならない隠れた資質を活用させることになるからです。


 奉仕という名の硬貨(コイン)にもその価値を示す表示があるということです。真に役立つ人間になるためには魂の最奥まで響く強烈な体験がなくてはなりません。

魂が円熟の花を咲かせるためには奥深く耕されなければなりません。そのことを思うと、私は時として、その逆であってくれればいいのだが・・・・・と思うことがあります。つまり自己犠牲の道を歩む人間がいうなれば〝バラ色の人生〟を歩むことができればと思うのです。しかし、その美しいバラにもトゲがあります。

 以上、霊についての真理を幾つか紹介しましたが、私がそれを変更するわけには参りません。できもしないことをあたかもできるかのように言うわけにはいきません。できないものはできないのです。無限なる霊である神の働きは完璧です。完璧なる公正のもとに働きます。 

完璧というものは、未完成の地上の人間だけでなく私どもの世界の多くの界層の霊にとっても理解できるものではありません。物事には必ず埋め合わせがあり、応報があります。その計量は完璧な天秤によって行われます。犠牲的生活によって魂が〝損〟をすることはありません。

また利己的生活によっていささかも〝得〟をすることはありません。魂の進化の程度と悟りの指標はどれだけ〝ゲッセマネの園(※)〟に生き、どれだけ〝変容の丘(※※)〟に達するかにあります。そこに神の真の愛の働きがあります。

(※キリストが最大の苦難と裏切りにあった場所──苦難の象徴。※※キリストがこの世のものとも思えぬ輝ける姿に変容した丘──苦難克服の象徴。──訳者)


 人のために己を棄てる仕事にもいろいろあります。あるものは人目につく派手なものであり、あるものは人目につかない静かな聖域で行われます。いずれにせよ大切なのは人のために役立つことです。霊的真理の悟りを一人でも多くの、受け入れる用意の出来た人に施すことです。

不安と恐怖に満ち、数知れぬ人々が明日はどうなるかと案じつつ生きているこの世においては、人生とは何かについて、表面的なことではなく、真実の相を教えてあげなくてはなりません。

 大切なのは、人間が永遠なる魂であり、地上生活はその永遠の巡礼の旅路のほんの短い、しかし大事な一部なのだという事実を知ることです。その地上生活を無知の暗闇の中ではなく、叡知の光の中で、肩をすぼめず背筋をまっすぐに伸ばして、恐れを抱かず堂々たる落ち着きをもって生きるべきです。

 あなた方は一時の勝ち負けのために備えているのではありません。目先の結果、一時の勝利ではなく、永遠なる目的、無窮の闘いに携わっているのです。成就したものがいかなる結果をもたらすかを安易に推し量ってはいけません。

今日世界各地で、難攻不落と思われた城壁が崩れ落ち、特権階級が揺さぶられ、独占支配は崩壊し、迷信が減り、無知が次第に押し寄せる霊的真理によって追い払われていきつつあります。

 あなた方の懸念は無意味であり根拠がありません。しっかりとした手に守られております。これまでもずっと、それによって支えられてきました。もしそうでなかったら、とうの昔に地上を去っていることでしょう。霊的なものにとって〝恐れる〟ということがなによりも強烈な腐食作用を及ぼします。

恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。なんとなれば、それが霊力が作用する通路を塞いでしまうからです。

 光の中ばかりで暮らしておれば光の有難さは分かりません。光明が有難く思われるのは暗闇の中で苦しめばこそです。こちらの世界で幸せが味わえる資格を身につけるためには、そちらの世界での苦労を十分に体験しなければなりません。

果たすべき義務を中途で投げ出してこちらへ来た者は、こちらで用意している喜びを味わうことはできません。少なくとも永続的な幸せは得られません。

 人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまざまな体験を積むということです。そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。

この地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終われば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。このことは地上だけでなく、私どもの霊の世界でも同じことです。

 毛を刈り取られたばかりの羊は冷たい風に当たらないようにしてやるものです。神の帳簿は一銭の間違いもなく収支が相償うようになっております。つまり人間の行為の一つひとつについて、その賞と罰とが正確に与えられます。これを別の言い方をすれば、原因があれば必ずそれ相当の結果があるということです。

いかなる苦難にもそれ相当の償いがあり、体験を積めばそれ相当の教訓が身に付きます。片方無くして他方は有り得ません。体験もせずにどうして教訓が得られましょう。そして教訓を学んだ時から、その教訓を生かす義務が生じます。

何も知らずに犯した罪よりも、悪いと知りつつ犯した罪の方が重いに決まっています。

 あなた方は内部に完全性を秘めそれを発揮せんとしている未完の存在です。地上生活においては物質と霊との間がしっくりいかず常に葛藤が続いている以上、あなた方は当然のことながら罪を犯すことになります。私はこれを〝過ち〟と呼ぶ方を好みます。

もし過ちを犯さなくなったら、地上にも私どもの世界にも誰一人存在しなくなります。あなた方が地上という世界に来たのは、霊的な力と物質的な力との作用と反作用の中においてこそ内部の神性が発揮されていくからです。

 光を有難いと思うのは蔭と暗闇を体験すればこそです。晴天を有難いと思うのは嵐を体験すればこそです。物事の成就を誇りに思えるのは困難があればこそです。平和が有難く思えるのは闘争があればこそです。このように人生は対照の中において悟っていくものです。もしも辿る道が単調であれば開発は無いでしょう。さまざまな環境の衝突の中にこそ内部の霊性が形成され成熟していくのです。


 時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中で生きているように思えることがあります。しかしその観方は事実の反面しか見ておりません。まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。

私はあなた方に較べれば遥かに長い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てきましたが、私はその摂理に絶対的敬意を表します。なぜなら、

神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。こちらへ来た人間が〝自分は両方の世界を体験したが私は不公平な扱いを受けている〟などと言えるような不当な扱いを受けている例を私は一つも知りません。神は絶対に誤りを犯しません。

もしも誤りを犯すことがあったら宇宙は明日という日も覚束(おぼつか)ないことになります。あなた方が誕生する遥か以前から地球は存在し、あなた方が去った後も延々と存在し続けます。

何億年の昔、まだ地上に何一つ生物の存在しなかった時から太陽は地球を照らし続け、人間が誰一人居ない時からエネルギーをふんだんに放射し続け、そのおかげで石炭その他の、太陽エネルギーの貯蔵物を燃料とすることが出来ているのです。何と悠長な教訓でしょう。

 せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台無しにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターン(型)があり、そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も、自ら定めた摂理の枠から外れて働くことは出来ないのです。指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えなくてはいけません。そのためには、それまでの経験を活用しなくてはいけません。

それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信を持つことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。

正しい条件さえ整えば、その神性は、神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。

 故にあなた方は常にリラックスし、受身的で穏やかで平静で、しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。その状態にある限り万事がうまくいき、必要とするもの全てが施されるとの確信を持たなければいけません。安易な人生からは価値あるものは得られません。困難な人生からのみ得られるのです。神は決してあなた方を見捨てません。

見捨てるのはあなた方の方です。あなた方が神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開けるのだという自信を持つことです。不動の信念を持てば道は必ず開かれます。これはすでに私が何年にもわたって説いてきたことです。真実だからです。実践してみればその通りであることを知ります。物質は霊の僕です。

霊は物質の僕では無いのです。身体がひとりで呼吸し動いているのではありません。霊がいなかったら身体は生きておれません。現に、霊が去れば身体は朽ち果てるのみです。

 霊性を悟ることは容易なことではありません。もし容易であれば価値は有りません。その道に近道は有りません。王道は無いのです。各自が自分で努力し自分で苦労をしなくてはなりません。しかし同時にそれは登るにつれて喜びの増す、素晴らしい霊的冒険でもあるのです。
              

Saturday, March 21, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


29節


*本節の内容低級霊に関する警告現実の裏側の怖るべき実情
*邪悪霊・堕落霊・復讐霊・偽善霊
*物質文明と大都会の悪弊
*興味本位の心霊実験の危険性
*物理的心霊現象の価値
*物的次元より霊的次元への脱皮の必要性
*氏名を詐称する霊の危険性
*いたずら霊の存在
*個人的関心事は避けるが賢明

〔一八七四年三月十五日。この頃までに他人の名を詐称する霊が出没しているから注意せよとの警告がしきりに出され、その特殊なケースが実際に他のサークルで起きたことで一段としつこくなっていた。その問題に関連して数多くの通信が送られて来たが、その中で唯一普遍的な内容のものを紹介する。〕


このところわれらの要請がしつこくなっているが、それは人間を騙さんとして他人の名を詐称する霊にはめられる危険性について、これまでも再三警告してきたことを改めて繰り返す必要を痛感しているからである。そうした連中も“未熟霊”の中に入る。その種の霊による面倒や困惑の危険性がそなたの身辺に迫っており、その餌食とならぬようにと、最近特に注意を促したばかりであろう。如何にもわれらに協力せんとしているかに見せかける霊が存在することをわれらは確かめている。その目的とするところはわれらの仕事に邪魔を入れ進行を遅らせることにある。

この点については十分に説明しておく必要がある。すでに聞き及んでいようが、今そなたを中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われらの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによりて煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに、程度を異にする未熟な霊が全てこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われらを始めとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。

そなたにそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状がそなたの肉眼に映らぬからであるようである。となれば、そなたの霊眼が開くまではその大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達霊の類である。彼らにとりて地上生活は何の利益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとりては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的喜びには何の反応も示さぬ。かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによりて、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。

肉欲の中に生き、肉欲のためにのみ生き、今その肉体を失える後も、肉欲のみは失うことの出来ぬこの哀れなる人間は、地上に感応しやすき同類を求め、深みに追いやることをもって生きる拠り所とする。それを措いて他に愉しみを見出し得ぬからである。地上では肉体はすでに病に蝕まれ精神はアルコールによりて麻痺されていた。それが、かつての通い慣れた悪徳の巣窟をさ迷い歩き、取り憑きやすき呑んだくれを見つけてはけしかける。けしかけられた男らは一段と深みにはまる。それが罪もなき妻や子の悲劇を広げ、知識と教養の中心たるベき都会の片隅に不名誉と恥辱の巣窟を生む。そうすることに彼らは痛快を覚え、満足の笑みをもらすのである。こうした現実がそなたらの身のまわりに実在する。それにそなたらは一向に気づかぬ。かくの如き悪疫の巣がある――あるどころか、ますます繁栄しのさばる一方でありながら、それを批難する叫び声は一体地上のいずこより聞こえるであろうか。何故どこからも批難の声が上がらぬのであろうか。何故か? それも邪霊の働きに他ならぬ。その陰湿なる影響によりて人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならぬ。その悪疫は歓楽街のみに留まらぬ。そこを中心として周囲一円に影響を及ぼし、かくして悪徳が絶えることがないのである。かつての呑んだくれは――人間の目には死んだと思えようが――相も変わらず呑んだくれであり、その影響もまた、相も変わらず地上の同類の人間の魂を蝕み続けているのである。

一方人間の無知の産物である死刑の手段によりて肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつきまわり、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ――その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼らはその哀れなる犠牲者なのである――を抱き、その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪を唆(そそのか)し、己が犠牲となりしその環境の永続を図る。人間は一体いつになれば毎日の如く、否、時々刻々と処罰している罪悪が実は混雑せる都会生活の産み出す必然の副産物に過ぎぬことを悟るのか。根本の腐敗の根源をそのままにして、何故に醜き枝葉のみを切り落とすのか。協同責任において生み出せる哀れむべき仲間を何故に無慈悲に処分するのか。そなたらは実は利己主義者なのである。その利己主義者が何故に憎悪に燃える霊を敵にまわす行為をしでかすのか。ああ、友よ、そなたらの旧時代的刑法が誤れる認識の上に成り立っており、犯罪防止よりむしろ悪用を生んでいることに気づくまでには、そなたら人間はまだまだ幾多の苦難を体験せねばならぬであろう。

かくの如く、地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上に舞い戻るこうした邪霊は当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖にして善なる霊に変り得るであろうか。肉欲の塊りが至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるものであろうか。それが有り得ぬことくらいはそなたにも判るであろう。彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍と共に、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗に遭うのは彼らの存在の所為であり、そなたにそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し彼らの攻撃にスキを見せることがあってはならぬ。

この警告はいくら強調しても強調しすぎることはない。その働きが常に潜行的であり、想像を超えた範囲に行きわたっているだけに、なおのこと危険なのである。地上の罪悪と悲劇の多くはそうした邪霊が同種の人間に働きかけた結果に他ならぬ。地上の名誉を傷つけ、体面を辱しめるところの、文明と教養の汚点とも言うべき戦争と、それに伴う数々の恐怖もまた、彼らの仕業である。大都会を汚し、腐敗させ、不正と恥辱の巷(ちまた)と化す犯罪を醸成するのも彼らなのである。

そなたら文明人は知識の進歩を誇り、芸術と科学の進歩を誇り、文化と教養の進歩を誇る。文明を誇り、己の国を飾り立て高揚するキリスト教を地上の僻地にまで広めんと大真面目で奔走する。のみならず、それをそなたらのみに授けられた神の万能薬として、彼らに押しつけんとする。その押しつけんとする宗教と文明がそなたらにもたらす現実については、彼らには言わぬが華であろう。われらが繰り返し説ける如く、そなたらの説く宗教は、真のキリスト教の名に値する単純素朴にして、純粋なる信仰の堕落による退廃的所産に他ならぬ。そなたらの誇りとする文明も文化もうわべのみの飾りに過ぎず、化膿せる傷口は到底隠し切れず、霊眼には歴然として正視できぬ。それが人間性に及ぼす影響に至りては、その本来の崇高なる感覚を汚し、空虚さと偽瞞と利己主義しか産み出さぬ。その点においては、人間本来の感性を文明によりて矮小化されず麻痺されることのなかった砂漠の民のアラブ人、あるいはアメリカ・インディアンの方が、人を出し抜き、ペテンにかけることに長けた狡猾なる商人、あるいは文化的生活に毒された巧妙なる弁舌家や淫乱きわまる文明人より遙かに高潔であることが、往々にして見受けられるのである。

地上の大都会はまさに悪徳と残忍と利己主義と無慈悲と悲劇のるつぼである! 魂は真理に飢え途方に暮れている。霊的影響力を受けつけぬ雰囲気の中で暮らす彼らは、より清く、より平静なる雰囲気を求めて悶え苦しむ。が、その悶えも、取り囲む闇の帳(とばり)を突き抜けることが出来ぬ。必死の向上心も繰り返される悪の誘いに打ち砕かれる。折角の決意も邪霊に奪われる。かくして彼らは次第にそうした邪霊の働きかけへの抵抗力を失う。その段階まで至れば、自暴自棄の念を吹き込むのはいとも簡単である。それが悪徳を大きく助長し、救いへの正道がほぼ完全に閉ざされる。

では、そうした不純と淫乱と懊悩の巷――実はすぐ目と鼻の先のそなたらの同胞の住める都会であり、そこでは金さえあれば少なくとも身体的労苦からは逃れられるが――そうした巷より霊界入りする人間はその後いかなる経過を辿るであろうか。彼らの住める環境は、見た目には霊と肉を堕落させる恥ずべき環境とは思えぬ。が、そこに漂う霊的雰囲気は俗悪臭に満ち溢れている。金儲けのみが人生であり、愉しみと言えば飲食と酒色である。雰囲気は金銭欲と権力欲、その他ありとあらゆる形の利己心である。そうした環境にて暮らせる人間の魂が死後いかなる状態に置かれるか――そなたは一度でも想像してみたことがあるであろうか。魂の糧となるべきものを知らず、成長もなく、携わるベき仕事も持たぬ。発育は歪(いびつ)となり、落着くところは古巣の地上でしかなく、金と欲の巷に舞い戻ったところを、待ち受けていた邪霊に掴まり、唆(そそのか)され、欲望を一層掻き立てられ、われらには近づき難き存在となる。そうなるが最後、悪徳の巣窟である歓楽街の酒色に溺れる霊と同じく、われらは手を施す術(すべ)を知らぬ。辺りはむせ返る雑踏――そこでは金のみが物を言い、利己心と貪欲と盗みが横行する。そこは邪霊集団の行動の中心地であり、そこより毒々しき影響力が発散されていく。

が、人間はそれに一向に気づかぬ。諸悪の根源に無知であり、その諸悪に恰好の場を提供している点において愚か極まる。悪の環境を永続させるのはその愚かさに他ならぬ。そして地上に生命が誕生し発達し霊性を開発していく、その本来の原理・原則を理解せしめんとするわれらの努力を一層困難なものにする。これまでにも結婚生活のもつ重大なる意義について理解せる高邁なる改革者が幾人かいた。われらもそなたに理解し得る範囲での見解を述べてきた。世の中がさらに進歩した時点において説くべきものが、まだまだ数多く残っている。が、今はその時期ではない。差し当たり、われらとしては、結婚生活というものが病いと犯罪と貧困と精神病等の重大なる問題と密接に結びつける問題であることを指摘しておく。それが人間との係わりにおいてわれらを悩ませ混乱せしめている。その多くが結婚生活にまつわる愚劣なる思想、さらには無謀きわまる犯罪的処罰――犯罪的であると同時に、より一層愚かでもある法律に帰されるべきである。そのことは無知・無教養の階層に劣らず教養ある上流階級についても言えることである。否、むしろその最大の罪は富める階層にあるであろう。そなたらはこれまで抱いて来た結婚にまつわる観念を大いに改めねばならぬ。結婚の美名のもとに行なわれる退廃と堕落の大根源を抹殺するにはまず、それまでそなたらが佳しとして来たものに代わりて、幸福と進歩のための、より真実にして神聖なる規範を学ばねばならぬ。われらを誤解してはならぬ! われらは放縦を唱道する者ではない。世に言う社会的自由の伝道者ではない。愚か者は自由と放縦とを履き違えて堕落する。その墜落せる観念をわられは軽蔑をもって拒否する。かの恥ずべき人身売買――最も神聖なる生命の法則の侮辱とも言うべき社会的奴隷制度を軽蔑する以上に、われらは結婚の美名のもとに行なわれる人身売買を軽蔑するものである。

そなたは未だに肉体が霊の道具であること、その肉体の発達を促す健康の法則と条件が、霊が肉に宿って送る地上生活にとりて必須のものであることを理解しておらぬ。それについては前にも述べたが、ここで一言だけ付け加えるならば、他の面においても同じことであるが、この問題においてもそなたらはわれらの敵に味方する結果となっている。そなたらがその独占者を以て任じているところの純粋にして崇高なる霊的福音が地上にもたらされて早や十九世紀の歳月が流れた。然るにそなたらは真の向上に資する面においても、叡智においても、真の宗教性においても、殆ど成長らしき成長をしておらぬ。それどころかむしろイエスがその修業時代を過ごせるエッセネ派(1)にも及ばぬ。イエスに最も辛辣なる非難を浴びせし律法学者やパリサイ派と同列である。

そなたは知らぬ。肉体と霊の問題――この世のみならず死後の生活にも関わる重大なる意味をもつこの問題について、そなたはまるで判っておらぬ。

以上、かつて言及しておいた、われらに敵対する邪霊集団について、その幾つかを明らかにしてみた。彼らは勢力を結集してわれらの仕事を挫折させ悩ませ傷つけんとスキを窺っている。しかも人間の無知ゆえに堕落していく霊によりて時々刻々その勢力を拡充していきつつある。

これまでわれらはもう一方の集団、すなわち人類のため、人類の発展のために力のかぎりに努力している霊の集団については述べずにおいた。人類を救済し、未来に希望をもたせる犠牲と献身の行為、素朴にして気高き生きざま、心豊かな行為については敢えて述べずにおいた。それは、われらの目下の仕事がその反対の暗黒面を描いてみせることにあるからである。出来るだけその方向へそなたの注意を仕向けてきた。言っておくが、われらはその内面の姿を有るがままに描いているのである。われらの通信の底流をなす深刻なる真理、すなわち善と悪との対立、その悪の勢力を助長する人間の過ちは、われらが担(にな)える仕事の今後の進展に大きく係わる重大な事実だからである。今しがた述べたことも、われらに敵対する組織的集団についてかつて述べたことを繰り返し述べたに過ぎぬ。が、これ以後ますます繁くなるであろうことが予想される特殊な敵対手段については、述べることを控えておいた。それは、客観的心霊現象が頻繁となり、それを求める欲求が募るにつれて、邪霊集団が意図的に手の込んだ策を弄し、肝心の霊的真理に対する不信感を煽る企みのために多くの霊媒が利用される可能性が大きくなるということである。これは特殊な敵対手段であり、最も大なる危険性を秘めている。と言うのは、程度の低き霊ほど物的なものへの働きかけが強力であり、巧妙であり、時として憎悪に満ちている。彼らは、目を見張る心霊現象を起こす霊媒を養成し、超自然力に興味をもつ者を得心させようと強力に働きかけている。いったん得心させれば、あとは容易である。トリックとペテンを弄し、同時に真面目な道徳的説教も交えつつ、徐々に疑念を誘い、初め霊の存在に向けられた不信感と猜疑心とが次第に心霊現象そのものと道徳的教訓にまで広がっていく。

心霊現象は単に人間の目を見張らせ、面白がらせるためのものではない。肝心の目的は霊的教訓にある。それに対する不信感を煽る手段としてこれに勝る巧妙なるものはない。人間は最後にこう言い始める――われわれは色々とやってみた。自らも実験してみた。そして真相が判った。結局はペテンか愚劣にして不道徳きわまる教説を説くか、あるいは間違いだらけか、要するに悪魔の仕業である、と。そう考え始めた連中に正と邪を見分けるようにと説いても最早や無駄である。揺らぎ始めた信頼がそれを許さぬ。初め信じてかかったものがニセであることが証明されたわけであり、信頼の殿堂は瓦礫となって辺りに散乱する。基礎が十分でなく、建造物を支えることが出来なかったということである。

繰り返し述べるが、これほどわれらの仕事を麻痺させる悪魔的策謀はない。われらは厳粛なる気持ちをもって警告するものである。必ずわれらの警告に従って行動して貰いたい。次から次へと無闇に派手な現象を演出してみせてくれる時は用心するがよい。そうしたものは大体において低級にして未発達なる霊の仕業である。その演出には往々にして招かれざる客が携わっている。驚異的現象も余り度を越すと、ことに結成したばかりのサークルにおいては大いに危険がある。心霊実験も必要である。われらは決してある種の人間にとりての効用を過小評価する者ではない。求むる者全てに納得のいく証拠を提供してあげたいとは思う。が、そうした物理的現象のみの興味、魂の成長に殆ど役に立たぬうわべの興味にのみ終始して貰っては困る。そうした現象にしか興味を抱かぬ者の目には、われらの為すことが時として人間のすることよりお粗未に映ることすらあろう。が、現象そのものを目標としているのではない。目標は一段高き次元にある。また、この世のものとは別の存在がこの世の法則に干渉できることを証明して満足しているわけでもない。もしもそれが全てであるとするならば、そうした事実を知ることは害にこそなれ、益にはならぬであろう。われらは唯一絶対の至上命令を下されている。その使命達成のために地上に戻ってきた。それ以外に用はない。その使命はそなたにも判っていよう。信仰心が冷却し、神の存在と霊魂不滅への信仰が衰えかけた時、われらは人間が神の火花を宿すが故に永遠不滅であることを証しにくる。旧き時代の信仰の誤りを指摘し、向上進化をもたらす人生を説き、発達と向上の未来永劫ヘと目を向けさせる。

われらが、不本意ながらも、物質を操る霊の威力の発達のために、その本来の目標を脇へ置くことがあるが、それは決して人間の好奇心を喜ばせるためではない。あくまでも目的の為のやむを得ぬ手段として必要と見たからであり、決して望ましきことと考えているわけではない。仮に無害であるとしても、われらは同じ忠告をするであろう。が、現実にはわれらが最も恐るべき反抗集団による攻撃手段とされるが故に、そうした物的現象を無闇に求めたり、それをもってわれらとの交霊の目的とすることを、われらは声を大にして警告するものである。

心霊現象はあくまでも確信を得させるための手段に過ぎぬものと心得よ。その一つ一つを霊の世界より物質の世界ヘの働きかけの証と受けとめよ。それだけのものに過ぎぬと理解し、それを霊的神殿を建立するための基礎として活用せよ。現象はどういじくってみたところでそれ以上の価値は出て来ぬ。それに、霊側がこれ以上は無駄と見た時は、そうした現象をより得意とする霊に譲って引き上げてしまう。かくして折角の奥深き啓示の機会が逃げ去ることになる。あくまでも現象を基礎として、そこより一歩踏み出さねばならぬ。現象に携わる知的存在の本性は一体何であるのか、いずこより来るのか、その意図は、等々を知ろうとせねばならぬ。きっとそれが神の計画であり、その拠って来る根源も意図も至純にして必ずや何らかの恩恵をもたらすものであるとの確信を得たいと思うことであろう。魂の辿る道程と、人間が死と呼ぶところの変化に最も有効に対処できる心がけについて納得のいく指針を得たく思うことであろう。それは当然の成り行きである。何となれば、万が一われらが人類と同類でないとすれば、われらの体験が人類に一体何の役に立つというのであろうか。万が一そなたら人間の不滅性を語れぬとすれば、われらがこうして存在し続けていることを幾ら徹底的に証明してみたところで、一体何の意味があろう。妙な話になりはせぬか。これほど奇妙な話もあるまい。

そなたが首尾よく現象的なものを超えて真理のための真理探求にまで進めば――要するにわれらの意図を信じてくれれば――その暁には、未だそなたが知らずにいる世界に案内することが出来よう。その世界についてはそなたの国(2)以外の国の真摯なる探求者にはすでに、遙かに奥深きことが啓示されている。そなたらの国ではまだその恩恵に与れる者は僅かである。こうした自動書記による通信も、テーブルラップ(3)その他のぎこちなき手段に較べればよほど進んでいるかに思えるであろうが、そうした物理的手段を経ぬ直接的な霊と霊との感応に較べればその比ではない。スピリチュアリズム勃興の地である米国においては、地上と霊界の二重の生活を送れるまでに霊感が発達し、霊界との交信を日常茶飯事としている者が大勢いる。英国民の精神の不信心性と、興味の唯物性と、雰囲気の低俗性の故に、われらの思うに任せぬことが米国では着々と成果を挙げて行きつつある。われらの仕事は俗事を処理するようなわけには参らぬ。われらは心を読み取ってしまう。故に人間が実際には興味を覚えぬくせに、つまり真にやる気を持たぬのに、いかにもそれらしく装ってみたところで――心底より信じぬままわれらの仕事に手を貸してくれたところで、何の益にもならぬ。いつの時代にも、いずこの国においても常にそうであった。高級なる霊的真理を地上へ送り届けんとする努力が時おり為される。が、まだ時期尚早であることを悟って手を引くことがある。もっともこの度われらが述べんとするのはそのことではない。心霊実験にまつわる危険性について警告し、物的現象はいち早く卒業して霊的知識へと進むよう忠告せんとしているまでである。進歩には受け入れ態勢が先行せねばならぬ。が、われらとしてはそなたが少しでも早く物的束縛より脱け出て、ひたすら霊的真理の追求に専心する日の到来を望み祈る気持でいる。そなたはその目標に向かって迷わず一意専心せねばならぬ。有象(うぞう)無象の意見を振り切り、地上の生活者として出来得るかぎり物的感覚より脱け出なければならぬ。

永遠なる父よ! 私たちはあなたの御名のもとに勤しみ、あなたの真理の啓示のために遣わされました。その真理が私たちの語りかける者の心を高め、そして清め、地上的なものを超えて霊的感覚を目覚めしめ、私たちの説くところを悟らしめます。願わくば彼ら地上の者の心に信仰を育み給え。それが真理への渇望を生み、地上的利害を超えて霊的啓示を学ばしめることになればと願えばこそでございます。

(†インペレーター)


〔私は右に述べられたことが全て真実であることに疑いは挟まないが、そういう邪霊の働きを抑制するための法や秩序が霊界にないのが理解できないと述べた。読んでいると何だか彼らは好きに振舞い、何の支配も受けていない感じがするのである。同時に彼らが他人の名を騙(かた)るという事実が不思議に思える。何故そんなことに興味を覚えるのかが理解できないと述べた。〕


われらの世界に法も秩序もなきが如くに想像するのは誤りである。人間の側にて整えるべき条件を整えてくれぬことがわれらの秩序ある努力を挫折させているに過ぎぬ。交霊会を催すに際してはまずそれなりの条件を整えねばならぬ。それさえ励行してくれれば、これまでの如き悪戯や混乱の半分は除去されるであろう。もっともそなたらの言う悪の要素が完全に抹殺される日は来ぬ。何となれば、そうした体験も霊的鍛錬の一つであるからであり、われらとてそなたの進歩的発達を促すこの過程を免除してやるわけには参らぬのである。そなたにはその過程を通過する必要があるのである。まだまだ学ばねばならぬことが多々ある。こうした実際に即した体験もその勉強の一つと心得るがよい。

邪霊が他人の名を騙る問題については、これ以後多くを知ることになろうが、取り敢えず述べておけば、こちらにはそうした悪戯を愉しみとする低級霊がおり、ある条件下において実に手の込んだ詐術を弄する才能を持っているということである。人間が望んでいるとみた人物の名を騙り、いかなる人物でも実にうまく真似て応対する。こうした霊は交霊会が用心を怠らず、霊側で守護の任に当たる者が鋭く睨みを利かせれば、大抵は締め出すことが出来る。無闇に交霊会を催し、新参者を不用意に参加させ、霊的条件への配慮を怠り、それが為に霊側の厳戒態勢が整わぬようでは、彼らの侵入を許す危険が大である。われらの知るかぎりでは、大半の交霊会ではその種の悪戯(いたずら)霊の侵入を許していると見てよかろう。単なる好奇心から現象を求める。霊界の知人・友人を次々と呼び寄せる。それが本当に当人なのか騙(かた)りなのかを見分ける用心を怠る。あれこれと愚にもつかぬ質問をし、その返事を大まじめで聞いて鵜呑みにする。これでは低級霊がそれを愉しみとして何の不思議があろう。


――そんなことでは、これで絶対大丈夫という確信を得ることが出来ませんし、立派で筋の通ったものと思い込んでいたものが結局はトリックだったということにならない保証はどこにもないのではありませんか。背後にそうした邪悪な勢力が存在する以上、絶対安全と言える人がいるでしょうか。


その問いに対しては、すでに述べたことを繰り返すのみである。われらの信頼性と誠意と客観的存在については、そなたにはすでに証明済みである。証拠の上に証拠を重ねてきた。われらの道徳的意識の程度は全ての面に一貫する誠意――そなたに授けた教訓に一貫する基調を以て証明してきたつもりである。それはそなた自らの判断にて評価されたい。そなたの評価を得て始めて世の全ての人に至純にして至善なる教訓として公開されることになろう(4)。今すでにそなたはそれを全体の傾向として崇高にして善なるものであることは認めておろう。われらの身元、われらの仕事、そしてわれらの目的に関してそなたは、一個の人間について評価を下すのと同じように評価を下せるだけの情報を手にしているに相違ない。


――おっしゃる通りです。この通信の最初に私が指摘した霊などは、もし引っ掛かっておれば、容易に信念を揺るがせかねなかったと思われます。


それは十分に有り得たことである。万一の場合われらがその働きにどこまで対抗できたかは判らぬ。が、そのような危険に足を踏み入れることはわれらはご免蒙る。あの場合にしても、どう警告したところで彼らはそれに対抗して巧みに操り、うまく人の名を騙って、挙句には、ただでさえ心もとなき信念に致命的打撃を与えたことであろう。そなたにとりてそれは真実危険である。何にもまして、矛盾せる偽りの言説は、そなたに猜疑心を誘発せしめることであろう。その猜疑心は遂にはわれらへの信頼を覆し、われらは退散のやむなきに到るであろう。


――確かにこれは、係わり合うと実に危険な存在であるように思われます。


何事にせよ、乱用は感心せぬ。正用は結構であり、それを常に心がけるべきである。軽薄なる心でもって霊界と係わりをもつ者、単なる好奇心の対象に過ぎぬものに低俗なる動機からのめり込む者、見栄っ張りの自惚れ屋、軽率者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、おしゃべり――この種の者にとりては危険が実に大である。われらとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに係わることは勧められぬ。賢明にして強力なる背後霊に守られ、その指示によりて行動する者のみがこの道に携わるべきであり、それも細心の注意と誠心からの祈りの念を持って臨むべきである。不用意な係わり合いは断じて許せぬ。また、円満な精神と平静な感情の持ち主にあらざれば、とても霊界との安全なる係わり合いは不可能であり、己の地上生活に禍の種子を持ち込むのみである。節度なき精神、興奮しやすき感情、衝動的かつ無軌道な性格の持ち主は低級霊にとりて恰好の餌食となる。その種の人間が霊的なことに係わることは危険である。特にその求むるところが単なる驚異的現象、好奇心の満足、あるいは虚栄心の慰めに過ぎぬ場合はなおのことである。その種の人間には神の訓えは耳に届かぬ。願わくば聞く耳を持つ者が低級霊の干渉を首尾よく切り抜け、低級界を後にして高級界のより聖純なる大気の中へと進んでくれることを望むこと切なるものがある。


――それはしかし、世間一般の人にとっては要求が高すぎるのではありませんか。大方の者は何となく取っ付きにくい教訓めいた話よりは、頭をコツンと叩かれたり(5)、椅子が浮揚するのを見る方を好むものです。


確かにその通りである。それはわれらも十分に承知している。が、現在の段階はあくまで通過すべき段階であらねばならぬ。われらの仕事にも物理現象は付随する。が、それは真の目的ではない。われらが期待している真の発展の地ならし程度であらねばならぬ。これより後も、各地で一層盛んに見られるようになるであろう。われらはそれに伴うところの危険性について警告しつつも、現在そなたが置かれている知的段階においては、それも必要であることを決して偽りはせぬ。遺憾には思うものの、その必要性は認める。この件については付言すべきことがまだあるが、今は控える。しばし休息せよ。


〔僅かばかりの休息の後に、次のような通信が追加された。〕


邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはりわれらにとりて面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えぬ。肉体より離れて行く人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。そして、地上に近き界層を一気に突き抜けて行くほど進化せる霊は、特別の使命でもないかぎり、地上へは戻って来ぬものである。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。

言い残せるものにもう一種類の霊団がある。それは悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙(けむ)に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて如何にも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては面白がっているに過ぎぬ。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあるとそなたに言わしめる要因がそこにある。茶目っ気や悪戯半分の気持から如何にも真面目くさった演出をしては、それを信ずる人間の気持を弄(もてあそ)ぶ霊の仕業がその原因となっている。列席者が望む肉親を装って如何にもそれらしく応対するのも彼らである。誰にでも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在の所為である。最近、誰それの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、そのほとんどは彼らの仕業である。通信にふざけた内容、あるいは、ばかばかしい内容を吹き込むのも彼らである。彼らは真の道徳的意識は持ち合わせぬ。求められれば、いつでも如何なることでも、ふざけ半分いたずら半分にやってみせる。その時々の面白さ以上のものは何も求めぬ。人間を傷つける意図はもたぬ。ただ面白がるのみである。

人の道を誤らせ、邪(よこしま)な欲望や想念を抱かせるのも彼らである。霊媒を密かに操り、高尚な目的を阻止せんとする。高尚にして高貴な目的が彼らには我慢ならず、俗悪なる目的を示唆する。要するにその障害物、妨害とならんとする。係わるのは主として物理的現象である。通例その種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆をもって、混乱を惹き起こさせる現象を演出する。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによりて惹き起こされる当惑の様子を見てほくそえむ。憑依現象を始めとする数々の心霊的障害は往々にして彼らの仕業に起因する。いったん付け入れば如何ようにでも心理操作が出来るのである。個人的に霊を呼び出して慰安を求める者たちを愚弄するのも彼らである。如何にもそれらしく応対し、嬉しがらせるような言葉を述べて欺く。間違いなく本人が出て、しっかりとした意志の疎通が行なわれることはある。が、次の会では巧みに本人を出し抜いて悪戯霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながら、その中に辻褄の合わぬ話を織り混ぜたり、全くの作り話を語ったりする。そなたもそうした霊に付け入られぬためにも、一身上の話題はなるべく避けるが賢明である。

(†インペレーター)

シルバー・バーチの霊訓(一) 

Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley
 




  シルバー・バーチシリーズ刊行に当たって

 私は、ほぼ一年半前 (一九八四年五月) に 「シルバーバーチ霊言集」 全十一巻を総集した 『古代霊は語る』 を潮文社より上梓した。正直言って、その出版に際して訳者自身も潮文社の担当者も、この種のものに対する一般読者の反応に一抹の懸念を禁じ得なかった。

ところが、出版してみると、予想に反して全国各地から訳者と出版社の双方に感動と感謝の手紙が次々と寄せられた。英語の素養のある方からは原書の入手方法についての問い合わせもあった。そして、当然予想されたこととして、霊言集全十一巻を全訳してほしいという希望が多く寄せられた。

 『古代霊は語る』の〝あとがき〟の中で私は「今この全十一巻を一冊にまとめて、何という無謀なことをしたのだろうと、恰も過ちを犯してしまった時のような気持ちがふと湧くことがある。が・・・(中略) 決して弁解して言うのではなく、私の理解力の範囲で確信して言うが、シルバーバーチの説かんとすることは本書が一応その全てを尽くしていると考えていただいて結構である」 と述べた。

そして今もその確信に変わりはないが、多くの読者からの希望を受け取るごとに、かなえられるものであれば全巻を訳しておくのも私の使命かも知れないという考えが深まっていった。そしてこの度潮文社のご理解を得て、幾つかの条件のもとにその実現に努力してみることになった次第である。

 〝条件〟を考慮しなければならない最大の原因は、内容的に重複する箇所が多いことにある。 『古代霊は語る』 と題して一冊にまとめた理由もそこにあるが、〝まとめる〟という作業がエッセンスだけに絞ることになる傾向を避けられないことは確かで、現に読者から〝もっと細々(こまごま)とした悩みごとの質疑応答はないのでしょうか〟といった手紙も寄せられている。

そして、確かにそれが豊富にあるのである。全訳によってそれが紹介できることを有難いと思う一方、重複は是非避けたい気持ちもある。そこで翻訳のシリーズは原典のシリーズのそのままの置き替えではなく、重複箇所を削除し、編者による冗漫な解説も省かせていただくことにした。その点をご了解ねがいたい。

 霊言集は五〇年余りにわたって蓄積された膨大な量の霊言をハンネン・スワッハー・ホームサークルのメンバーがそれぞれの視点から編集したものである。そのうち二人のメンバーが二冊ずつ出しているので、全部で九人によって十一冊が編集されたことになる。

先日、メンバーの一人でバーバネルの秘書だったパム・リバ女史に手紙で確かめたところ、これ以後新たに編集する予定は今のところ無いということであった。

 いま改めてその十一巻に目を通してみると、その扱い方は一冊一冊に特徴があり、実に多彩である。その中から本シリーズの第一巻としてアン・ドゥーリー女史の Guidance from Silver Birch (シルバーバーチの導き) を選んだのは、本書が全巻の中でもシルバーバーチの霊訓をもっとも平易な形でまとめてあり、また 「まえがき」 でシルバーバーチと霊媒バーバネルについての詳しい紹介があり、本シリーズの初巻を飾るものとしていちばん適当とみたからである。

 また全巻の中で本書が最もページ数が少なかったことが、巻末に私自身の長文の解説 「霊的啓示の系譜」 を載せる余裕を与えてくれることにもなった。これによって人類史の背後の霊的な流れの中における「シルバーバーチの霊訓」の位置を理解していただけるものと信じている。

 熱心な読者のために、願わくば一冊でも多く、そして少しでも早く出せることを心から念じている。
                       一九八五年七月  近藤 千雄




  まえがき

  古代霊シルバーバーチと霊媒モーリス・バーバネル

 四〇年余り前 (一九二〇年ごろ) のことである。文人による社交クラブで司会役をしていた十八歳の議論好きの青年が、思わぬ成り行きからスピリチュアリズム (章末注①) の研究に引きずり込まれた。そしてある心霊家の招きでロンドンの東部地区で催されていた交霊会 (注②) なるものに一種の軽蔑心を抱きつつ出席した。

 これといった感動も覚えぬまま会の成り行きを見ていたその青年は、入神した人間の口をついてインディアンだのアフリカ人だの中国人だのが代わるがわるしゃべるのを聞いて苦笑を禁じ得なかった。そして列席者の一人から 「あなたもそのうち同じことをするようになります」 と言われた時もアホらしいといった気持ちで軽く聞き流した。のちにこれが現実となるとは神ならぬ身には知る由もなかった。

二度目に出席した時、青年は途中でうっかり〝居眠り〟をしてしまい、目覚めてから慌てて失礼を詫びた。ところが驚いたことに他の出席者たちから 「居眠りをなさっている間あなたはインディアンになっておられましたよ。名前も名のってましたが、その方はあなたがお生まれになる前からあなたを選んで、これまでずっと指導してこられたそうです。そのうちスピリチュアリズムについて講演なさるようになるとも言ってました」と言われた。

 この時も青年は一笑に付した。しかしどこか心の奥にひっかかるものがあった。そしてその後出席する度に入神させられ、そのたびに同じインディアンがしゃべった。はじめのうち片言英語しか話せなかったのが次第に流暢になっていった。

 その青年の名はモーリス・バーバネル。(注③) そしてインディアンはシルバーバーチ (注④) と呼ばれるようになった。両者は顕と幽の相反する世界にいながら密接に結びついた仕事で世界的に知られるようになる運命にあった。

前者は練達の宣伝家、著作家、編集者として、後者はハンネン・スワッハー氏 (注⑤) の言葉を借りれば〝他のいかなる説教家よりも多くの心酔者をもつ〟雄弁な説教者としてである。

 スワッハーの言葉には説得力がある。スワッハー自身がその会の司会者であり、今日までその交霊会はハンネン・スワッハー・ホームサークルの名称で知られているからである。それにスワッハーはジャーナリズム界では〝フリート街の法王〟の異名を取る反骨のジャーナリストとして長くその存在を知られている人物である。

 そのスワッハーの勧めでシルバーバーチの霊言が心霊紙上で公表されるようになってからも、霊媒がバーバネルであることは内密にされた。

バーバネルにしてみれば自分を通じての霊的教訓はいくら宣伝されてもそれだけの価値はあるが、それを掲載するサイキックニューズ紙とツーワールズ紙の主筆が実はその霊媒であるというのは、受け取られようではまずい印象を与えるのではないかという用心があったのである。


そういう次第でバーバネルがシルバーバーチの霊媒であるという事実は二十年余りも極秘にされていたが、いったい霊媒は誰なのかという次第に高まる一般のうわさを放置するわけにもいかなくなり、ついに一九五七年八月二四日のツーワールズ紙上でバーバネル自ら公表したのであった。

 シルバーバーチについてスワッハーはこう述べている。 「シルバーバーチは実はインディアンではない。いったい誰なのか、本当のところは分からない。本来属する界は波長が高すぎて地上とは直接の交信が不可能であるために低い界の霊 (霊界の霊媒) の幽体を使用している。

シルバーバーチと名のるインディアンはたぶんその幽体の持ち主であろう。その証拠に彼はこう言っているのである。〝いずれ私の身元を明かす日も来ることでしょう。私は仰々しい名前を使うことによって敬愛を受けたくはありません。私が語る真理によって私の真価を証明するためにあえて素朴なインディアンに身をやつしております。それが自然の理というものなのです〟」と。

 これらの教説が霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのかとの批評家の質問に対してスワッハーは、両者が別個の存在であることを示す決定的な事実がいくつかあると言う。例えばシルバーバーチは再生説(注⑥)を説くが、バーバネルは通常意識の時はこれを否定し、入神すると反対に再生説を主張する。

 シルバーバーチ自身も自分が心霊家がよく持ち出す〝霊媒の第二人格〟でないことを示す証拠をこれまで何度も提供している。例えば霊媒の奥さんのシルビアに対してシルバーバーチが、今度のエステル・ロバーツ女史 (注⑦) の交霊会でかくかくしかじかのことを直接談話 (注⑧) で言います、と約束したことがある。

そしてその約束どおりのことが起きた。いっしょに出席していたバーバネルも初めてシルバーバーチの声を直接聞いて感動を覚えたという。

 「文は人なり」 とは十八世紀のフランスの博物学者ビュフォンの名言であるが、これはシルバーバーチに関する限り人間性のみならず教説の説き方についても言える。霊媒のバーバネルもシルバーバーチの説き方の巧みさをまさに〝霊の錬金術〟であると激賞してこう述べている。

 「年がら年中ものを書く仕事をしている人間から観れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さでもって説き続けるということ、それ自体がすでに超人的であることを示している。

ペンで生きている他のジャーナリスト同様、私も平易な文章ほど難しいものはないことを熟知している。誰しも単語を置き換えたり消したり、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っぴきでやっと満足の行く記事が出来上がる。ところがこの〝死者〟は一度も言葉に窮することなく、すらすらと完璧な文章を述べていく。

その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を昂揚し、気高さを感じさせる。シルバーバーチの言葉には実にダイヤモンドの輝きにも似たものがある。ますます敬意を覚えるようになったこの名文家、文章の達人に私は最敬礼する。」

 南アフリカにおけるスピリチュアリズムの中心的指導者であるエドマンド・ベントリー氏もその著書の中でシルバーバーチとバーバネルの相違を〝一目瞭然〟であると評し、とくに弁舌のさわやかさと文体の美しさにおいて際立った対照を見せていると述べてからこう続ける。

 「バーバネルも確かに優れた演説家である。公開の演壇上で、宴会の席で、選挙の応援演説で、あるいは何万人もの聴衆を前にした集会の演説等々での体験から氏は実に弁舌さわやかであり、ユーモアのあるエピソートを混じえるのも巧みであり、なかんずく法廷弁護士にも似た理路整然とした説明にただならぬ才能を見せる。

 しかしシルバーバーチはこうした人間的評価の域を完全に超えている。シルバーバーチには荘厳さと威厳があり、それに王者の風格ともいうべき高度な素朴さと情愛とが一体となった風合いが感じられる。

あえて説明するに及ばぬことであるが、その表現力の幅広さ、用語の選択の適確さ、生気溢れる爽やかな弁舌をみれば、シルバーバーチと名のる存在が明らかにバーバネルとは別個の霊界からの訪問者であり、それが豊富な知識と叡智と才能を携えて訪れ、地上の人間の身体を借りて語っていることは明白である。」

 そのシルバーバーチがバーバネルの身体を完全に使いこなすに至る過程をバーバネル自身が次のように語っている。

 「はじめのころは身体から二、三フィート離れたところに立っていたり、あるいは身体の上の方で宙ぶらりんの格好で自分の口からでる言葉を一語一語聞き取ることができた。シルバーバーチは英語がだんだん上手になり、はじめのころの太いしわがれ声も次第にきれいな声──私より低いが気持ちのよい声──に変わっていった。

 ほかの霊媒の場合はともかくとして、私自身にとって入神はいわば〝心地良い降服〟である。まず気持ちを落着かせ、受身の心境になって気分的に身を投げ出してしまう。

そして私を通じて何とぞ最高で純粋な通信が得られますようにと祈る。すると一種名状し難い温かみを覚える。ふだんでも時折感じることがあるが、これはシルバーバーチと接触したときの反応である。

温かいといっても体温計で計る温度とは違う。恐らく計ってみても体温に変化はないはずである。やがて私の呼吸が大きくリズミカルになり、そして鼾(いびき)にも似たものになる。

すると意識が薄らいでいき、まわりのことが分からなくなり、柔らかい毛布で包まれたみたいな感じになる。そしてついに〝私〟が消えてしまう。どこへ消えてしまうのか私にも分からない。

 聞くところによると、入神はシルバーバーチのオーラと私のオーラとが融合し、シルバーバーチが私の潜在意識を支配した時の状態だとのことである。意識の回復はその逆のプロセスということになるが、目覚めた時は、部屋がどんなに温かくしてあっても下半身が妙に冷えているのが常である。

時には私の感情が使用されたのが分かることもある。というのは、あたかも涙を流したあとのような感じが残っていることがあるからである。

  入神状態がいくら長引いても、目覚めた時はさっぱりした気分である。入神前にくたくたに疲れていても同じである。そして一杯の水を頂いてすっかり普段の私に戻るのであるが、交霊会が始まってすぐにも水を一杯いただく。

忙しい毎日であるから、仕事が終わっていきなり交霊会の部屋に飛び込むこともしばしばであるが、どんなに疲れていても、あるいはその日どんなに変わった出来ごとがあっても、入神には何の影響もないようである。

あまりに疲労がひどく、こんな状態ではいい成果が得られないだろうと思った時でも、目覚めてみると、いつもと変わらない成果が得られていることを知って驚くことがある。

 私の経験では交霊会の前はあまり食べないほうが良いようである。胸がつかえた感じがするのである。また、いろいろと言う人がいるが、私の場合は交霊会の出席者 (招待客) についてあらかじめあまり知らない方がうまくいく。

余計なことを知っているとかえって邪魔になるのである。」


 私(アン・ドゥーリー) にとっては一九六三年秋に初めて出席した交霊会は忘れ難いものとなった。格別目を見張るような現象があったわけではない。常連のメンバー六人に私を含む招待客六人の計十二人が出席した。雰囲気は極めてリラックスして和気あいあいとしていた。部屋はロンドン近郊の樹木に囲まれたバーバネル氏の自宅の一階の居間で、書物の並ぶ壁で四方を取り囲まれた素敵な部屋であった。

 聞いた話では交霊会は〝テーブルの振動〟によって始まるとのことであった。確かにそうなのだが、その時の印象は見ると聞くとでは大違いであった。

死んだカエルの足がピクピク引きつるのを科学者が目撃したのが電気時代の始まりだそうだが、私にとってそんな言い草は、他の出席者と共に両手をテーブルの上に置いたとたんに消し飛んだ。テーブルに〝生命〟が吹き込まれるのをこの目で見ただけでなくこの手で感じ取ったのである。

出席者が誠実な人ばかりであることは確信していたので、誰かが故意に動かしているのではないことは断言できる。そのテーブルがこちらの挨拶に応えて筋の通った反応を見せた時に、私がこれまで抱いていた万有引力の法則の概念が崩れ去った。

何の変哲もない無生物である木製のテーブルがギーギーときしむ音を出しながら人間が頷くような動作から、苛立つように激しく前後に揺れ動く動作まで、さまざまな動きを見せるのだった。

 そうした現象がひと通り終わって全員が着席すると、霊媒のバーバネルがソファに腰掛けて入神状態に入った。その瞬間から会が目に見えぬ一団によって進められている雰囲気となった。そして私は神秘家の言う〝聖霊の降下〟を垣間見ることとなった。

 驚いたことにバーバネル氏の顔が急に変貌し始めたのである。仕事の上で慣れ親しんでいるあの皮肉屋でいつも葉巻を口にした毒舌家のジャーナリストに、一体何の変化が生じたのだろうか。フロイトに言わせると、精神病や夢の原因はことごとく潜在意識の仕業だそうで、われわれもそう思い込んできた。

が、それから八〇分間にわたって私がこの目で見この耳で聞いたものは、そんな単純な説明ではとても解釈できるものではなかった。ジャーナリストとしてネタ集めに奔走してきた関係で、私は熟練の税関職員と同じように、話しぶりや挙動でその人の本性を見抜く才能が身についている。

いま目の前でしゃべり始めたのが日ごろ親しくしているバーバネル氏とは別人であることを私はすぐに直感した。バーバネル氏の身体がしゃべっているのであるが、それはバーバネル氏その人ではない。話しぶりが全く違うのである。

 その日、シルバーバーチは出席者の一人一人に個別に語りかけたが、その内容は万人に共通した普遍的なものであった。ただ序(ついで)に付け加えれば、その日この強(したた)か者の私を含む三人の女性が涙を流した。悲しみの涙ではない。感激の涙である。

こう言うとまた否定論者の偏見を招くことになるかもしれない。が、ギリシャのデルポイの神託でリディアの最後の王クロイソスが何の変哲もないメッセージを受けたことがもとで、王国が根柢から揺れ動いた例もあることを忘れてはならない。

 さて長年の慣例に従い私もシルバーバーチに悩みごとの相談を許された。私はこう質問した。「私が今なお理解できないのはこの世に不可抗力の苦難が絶えず、それが私を含めて多くの人間を神へ背を向けさせていることです。」

シルバーバーチ「なるほど。でも神はその方たちに背を向けませんよ。いったいどうあってほしいとおっしゃるのですか。苦労なしに勝利を収め、努力なしに賞を獲得したいとおっしゃるのでしょうか」


 次に私は 「当然の報いと慈悲との関係がよく分かりません」 と尋ねた。

シルバーバーチ 「報いは報いであり慈悲は慈悲です。地上で報われない時はこちらの世界 (死後の世界) で報われます。神をごまかすことはできません。なぜなら永遠の法則が全ての出来事をチェックしているからです。その働きは完璧です。宇宙を創造したのは愛です。無限なる神の愛です。

無限なる愛がある以上、そこに慈悲が無いはずはないでしょう。なぜなら慈悲心、思いやり、寛容心、公正、慈善、愛、こうしたものはすべて神の属性だからです。

 苦難は無くてはならぬものなのです。いったい霊性の向上はどうすれば得られるのでしょう。安逸をむさぼっていて得られるでしょうか。楽でないからこそ価値があるのです。もし楽に得られるのであったら価値はありません。身についてしまえば楽に思えるでしょう。身につくまでは楽ではなかったのです。」


 このハンネン・スワッハー・ホームサークルにおけるシルバーバーチの霊言の全てが公表されれば、いま物質主義的文化の危険な曲がり角に立つ人類が抱える諸問題についての注目すべき叡智が数多く発見されることであろう。

 とりあえずその中から私なりに選んだ叡智の幾つかを紹介するに際し、読者の全てがご自分の人生において慰めとなり、あるいは思考の糧となる何ものかを見出されることを希望してやまない次第である。
                      一九六六年  アン・ドゥーリー


 注釈

①スピリチュアリズム Spiritualism

 狭義には、古来〝奇蹟〟または〝超自然現象〟と呼ばれてきたものを組織的に調査・研究した結果、その背後に〝霊魂〟つまり他界した先祖の働きがあるとする〝霊魂説〟およびそれを土台とする死後の生命観、道徳観、神に関する思想・哲学を意味するが、広義には、次の注②の交霊会を通じその死者との交信や心霊現象一般を指すこともある。ラテン諸国ではスピリティズム Spiritism と呼んでいる。

②交霊会

 霊媒を通じて死者の霊と交信したり心霊現象を観察したりする会で、出席者が十人前後の私的な集いと科学的調査研究を目的としたものとがある。西洋では前者を家庭交霊会(ホームサークル)と呼ぶが、日本では双方とも心霊実験会と呼んでいる。

③モーリス・バーバネル Maurice Barbanell (1902~1981)

  ミスター・スピリチュアリズムの異名をとった英国第一級の心霊ジャーナリストで、本文で紹介されている二つの週刊心霊紙(ツーワールズは後に月刊誌となる) の主筆をつとめつつ、シルバーバーチの霊言霊媒として五十年余りにわたって毎週一回 (晩年は月一回) 交霊会を開き、数え切れない人々に啓発と慰安を与えた。

④シルバーバーチ Silver Birch

 バーバネルの遺稿 「シルバーバーチと私」 によると当初は別のニックネームでよばれていたが、それが公的な場で使用するには不適当ということで、本人自らこの名を選んだ。

面白いことに、そう決まった翌日バーバネル氏の事務所にスコットランドから氏名も住所もない一通の封書が届き、開けてみると銀色の樺 の木(シルバーバーチ) の絵はがきが入っていたという。常識では、距離的に考えてすぐ翌朝に届く筈はない。

⑤ハンネン・スワッハー Hannen Swaffer  (1879~1962)

 〝フリート街の法王〟(フリート街は英国の新聞社が林立する通り) と呼ばれた世界的なジャーナリスト。シルバーバーチの霊言を高く評価し、当初は自宅に呼んで交霊会を開き、のちにバーバネルの自宅で定期的に行われるようになり、その霊言を二つの心霊紙に掲載させる一方、自分の知名度を利用して各界の名士を招待して、スピリチュアリズムの普及と理解に大いに貢献した。

⑥再生説

 いったん他界した人間が再び人体に宿って地上に誕生してくるという説。スピリチュアリズムの中でも賛否両論があり、従って定説とはなっていないが、シルバーバーチはこれを五十余年にわたって首尾一貫して説き続け、その説に矛盾撞着は見られない。

これを肯定する霊の間にも諸説があり、中には否定する霊さえいるが、その間の事情についてシルバーバーチはこう語っている。

 「知識と体験の多い少ないの差がそうした諸説を生むのです。再生の原理を全面的に理解するにはたいへんな年月と体験が必要です。霊界に何百年何千年いても再生の事実を全く知らない者がいます。なぜか。それは死後の世界が地上のように平面的でなく段階的な内面の世界だからです。

その段階は霊格によって決まります。その霊的段階を一段また一段と上がって行くと、再生というものが厳然と存在することを知るようになります。もっともその原理はあなた方が想像するような単純なものではありませんが・・・」

⑦エステル・ロバ―ツ Estelle Roberts

 英国屈指の女性霊媒で、多彩な霊能を発揮したが、中でも霊視と霊聴の適確さは完璧であった。中心的支配霊はブラック・クラウドと名のるやはりインディアンで、直接談話 (注⑧参照) でユーモア溢れる話術で列席者と親しく交わった。

バーバネルは女史を英国最高の霊媒として敬意を表し、毎週開かれる交霊会に出席して細かくメモを取り、それを中心的資料として名著 This is Spiritualism (邦訳「これが心霊の世界だ」 潮文社刊) を著わした。

⑧直接談話

 シルバーバーチは入神中のバーバネルの発声器官を使用した。これを入神談話または霊言現象と呼ぶが、霊媒の身体を使わず直接空中からメガホンを使って話しかけるのを直接談話と呼ぶ。この際も実際にはエクトプラズムという霊質の物質でメガホンの中に人間と同じ発声器官をこしらえている。




   
 第一章 あなたとは何か  


 いったいあなたとは何なのでしょう。ご存知ですか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。  

 ですから、どれが自分でどれが自分でないかを知りたければ、まずその総体としての自分を発見することから始めなくてはなりません。これまであなたはその身体に包まれた〝小さな自分〟以上のものを少しでも発見された経験がおありですか。

今あなたが意識しておられるその自我意識が本来のあなた全体の意識であると思われますか。お分りにならないでしょう。


 となると、どれが普段の自分自身の考えであり自分自身の想像の産物なのか、そしてどれがそのような大きな自分つまり高次元の世界からの霊感であり導きなのか、どうやって判断すればよいのでしょう。

 そのためには正しい物の観方を身につけなくてはなりません。つまりあなた方は本来が霊的存在であり、それが肉体という器官を通して自己を表現しているのだということです。霊的部分が本来のあなたなのです。霊が上であり身体は下です。

霊が主人であり身体は召使いなのです。霊が王様であり身体はその従僕なのです。霊はあなた全体の中の神性を帯びた部分を言うのです。

 それはこの全大宇宙を創造し計画し運用してきた大いなる霊と本質的には全く同じ霊なのです。つまりあなたの奥にはいわゆる〝神〟の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。

その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありません。

 身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。家であってあなた自身ではないということです。家である以上は住み心地よくしなければなりません。手入れが要るわけです。しかし、あくまで住居であり住人ではないことを忘れてはなりません。

 この宇宙をこしらえた力が生命活動を司っているのです。生命は物質ではありません。霊なのです。そして霊は即ち生命なのです。生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。

 あなた自身も生命そのものであり、それ故に宇宙の大霊との繋がりがあり、それ故にあなたもこの無限の創造進化の過程に参加することができるのです。その生命力は必要とあらばいつでもあなたの生命の井戸からくみ上げることが出来ます。

その身体に宿る霊に秘められた莫大なエネルギー、あなたの生命活動の動力であり活力であり、あなたの存在を根本において支えている力を呼び寄せることができるのです。

 あなた方にはそれぞれにこの世で果たすべき仕事があります。それを果たすためにはこうした知識を摂取し、それを活力としていくことが必要です。霊に宿された資質を自らの手で発揮することです。そうすることは暗闇で苦悩する人々に光を与える小さな灯台となることであり、そうなればあなたのこの世での存在の目的を果たしたことになります。

 宇宙にはある計画に沿った〝摂理(きまり)〟というものがあります。私たちはそれにきちんと合わさるように出来上がっているのですが、それに合わすか否かは本人の意志による選択の自由が与えられています。東洋の諺に〝師は弟子に合わせて法を説く〟というのがあります。霊的に受け入れる準備ができればおのずと真理の扉が開かれるのです。

こちらから求めなくても良いのです。豁然と視野が開き、そこから本当の仕事が始まります。

 と言っても私どもはあなた方の生活から問題も悩みも苦しみもなくなるというお約束はできません。お約束できるのは全ての障害を乗り越え、不可能と思われることを可能にする手段をあなた方自身の中に見出すようになるということです。

内部に宿る資質の中の最高のもの、最奥のもの、最大のものを発揮しようと努力する時、私ども霊界の者の中であなたに愛着を感じ、あなたを援助することによって多くの人々の力になりたいと望む霊を呼び寄せることになるのです。

 悲しいかな、あまりに多くの人々が暗黒の霧に取り巻かれ、人生の重荷に打ちひしがれ、病める身と心と魂を引きずりながら、どこへ救いを求めるべきかも分からずに迷い続けております。私どもはこうした人々に救いの手を差し延べなければならないのです。

 もしも私どもが霊性の開発が容易であるとか、暗黒の中にささやかなりとも光明をもたらしたいと願う人々の仕事が楽に達成されるかのような口を利くことがあれば、そのこと自体がすでに私どもの失敗を証言していることになりましょう。

決してそんな容易なものではありません。歴史を見てもその反対を証言することばかりです。真理と誤謬とがいつ果てるともない闘いを続けております。たぶん〝完全〟が成就されるまで続くことでしょう。しかし完全ということは事の性質上絶対に成就されることはありません。その意味で私どもは長く困難で苦労の多い仕事に携わっているわけです。

 これより先どれほどの偏見と反感と敵意と誤解と迷信と故意の敵対行為に遭遇しなければならないかは、あなた方には想像もつかないことでしょう。

怖じけづかせようと思って言っているのではありません。事を成就するためにはそのあるがままの背景を理解しておく必要があるからです。私にはその大変さがよく分かるのです。

 これまでも私は可能な限りの力を駆使して、克服不可能と思われた障害を克服して、あなた方の世界に近づいてまいりました。私一人の力ではありません。私は地上へ戻るべく選ばれた霊団の一人です。なぜその必要があるのか。

それは今、地上人類に降りかからんとしている苦難があまりに恐ろしいものであるために、霊界の力を結集して地上のあらゆる地点に橋頭堡を築かなければ、人類自らが人類を、そして地球そのものを破壊に陥れることになるからです。

 人類は物質文明を自負しますが、霊的には極めてお粗末です。願わくはその物質文明の進歩に見合っただけの霊性が発達することを祈ります。つまりこれまで〝物〟に向けられてきた人間的努力の進歩に匹敵するだけの進歩が精神と霊性の分野にも向けられればと思います。

 進歩に霊性が伴わない今の状態では、使用する資格のないエネルギーによって自ら爆破してしまう危険があります。そこで私どもは、地上生活全体の根幹であるべき霊的真理に従って各自が生活を営めるように、ということを唯一の目的として努力しているのです。

 嫉妬心、口論、諍い、殺人、戦争、混乱、羨望、貪欲、恨み、こうしたものを地上より一掃することは可能です。そして、それに代わって思いやりの心、親切、優しさ、友愛、協力の精神によって生活の全てを律することができます。

それにはその根幹として、霊性において人類は一つであるとの認識が必要です。決して救いようのないほど暗い面ばかりを想像してはいけません。

明るい面もあります。なぜならそうした障害と困難の中にあっての進歩は、たった一歩であっても偉大な価値があるからです。

 たった一人でいいのです。全てが陰気で暗く侘しく感じられるこの地上において元気づけてあげることができれば、それだけであなたの人生は価値があったことになります。そして一人を二人に、二人を三人としていくことができるのです。

 霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利といえるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したとしたら、それが征服と言えるでしょうか。

霊的進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きながら後の者のために道標を残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。

 〔地上の人間が何かを成就しようとして努力する時、少なくとも同等の、あるいは多くの場合それ以上の援助の努力が霊界において為されていることを強調して次のように述べる──〕

 援助を求める真摯な熱意が等閑(なおざり)にされることは決してありません。衷心からの祈りによる霊的つながりが出来ると同時に、援助を受け入れる扉を開いたことになります。その時に発生する背後での霊的事情の実際はとても言語では説明できません。

元来地上の出来ごとを表現するように出来ている言語は、それとは本質的に異なる霊的な出来ごとを表現することは不可能です。どう駆使してみたところで、高度な霊的実在を表現するにはお粗末なシンボル程度の機能しか果たせません。

 いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。すなわち一種の悟りを開きます。大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に全く気付かぬまま生きております。こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないのです。

 人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。つまり真のあなたは霊なのです。生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。

 肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。その形体としての存在はほんの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいます。が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。

その辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出はじめたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出て来たのです。あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。

 そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。霊性を一切行使することなく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。

 霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。神性が目を覚ましたのです。それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。

霊の宝は地上のいかなる宝よりも遥かに偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。物的なものが全て色褪せ、錆つき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。

 魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。それはこの宇宙で最も強力なエネルギーの一つなのです。その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。

これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し延べます。

 この霊的自覚が確立された時、あなたにはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないもの──盤石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心を所有することになります。そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ──自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。

 人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。どうか、何処でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。

議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理して植えても不毛の土地には決して根付きません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。あなたを小馬鹿にして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来ることでしょう。

 私たちを互いに結びつける絆は神の絆です。神は愛をもって全てを抱擁しています。これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来事は宇宙のいずこにも決して起きません。

 宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。従って私たちも神を見捨てるようなことがあってはなりません。宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。

種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そして再び新しい芽を出すことを繰り返しています。色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやに靡(なび)き、かくして全世命が法則に従って生命活動を営んでおります。

 私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。私たちもその一部を構成しているからです。どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれていることを忘れぬようにしましょう。

Friday, March 20, 2026

霊訓 「下」 ステイントン・モーゼス(著)

 The Spirit Teachings


28節

*本節の内容エジプトの神学とユダヤ教
*三位一体説
*エジプトの宗教
*現代生活の唯物性に関する議論
*モーセの律法の原点
*各国の三一神
*エジプトとインド
*霊的向上は信教の別と無関係
*最後の審判説は誤り
*毎日が審判の日
*霊の究極の運命の詮索は無用



〔一八七四年二月二十六日。この頃に催した交霊会で訳のわからない直接書記の現象が出た。奇妙な象形文字で書かれていた。それについて尋ねると――〕


そなたには解読できぬであろうが、あの文は大変な高級霊によるものである。その霊は偉大なる国家エジプトが最も霊的に発達した時代に生を享けた。当時のエジプト人は霊の存在とその働きについて今のそなたより遙かに現実味のある信仰を抱いていた。死後の存続と霊性の永遠不滅性について、現代の地上の賢人より遙かに堅固なる信仰をもっていた。彼らの文明の大きさについてはそなたもよく知っていよう。その学識は言わば当時の知識の貯蔵庫のようなものであった。

まさしくそうであった。彼らには唯物主義の時代が見失える知識があった。ピタゴラス(1)やプラトン(2)の魂を啓発せる知識、そしてその教えを通してそなたらの時代へと受け継がれて来た知識があった。古代エジプト人は実に聡明にして博学なる哲学者であり、われらの同志がいずれそなたの知らぬ多くのことを教えることになろう。地上にてすでに神と死後について悟りを得ていた偉大なる霊が三千有余年もの時を隔てて、その後の地上での信仰の様子を見に参る。その霊が霊界にて生活するその三千有余年、それはそなたの偏狭なる視野を以てすれば、大いなる時間の経過と思えるであろうが、その時代の流れが新たなる真理の視野を開かせ、古き誤謬を取り除かせ、古き思索に新たなる光を当てさせ、同時にまた、神と、人間の生命の永遠性についての信念を一層深めさせることになったのである。


〔私は、それにしても一体何のためにわれわれに読めない文字を書いてきたのかが判らないと述べ、その霊の地上での名前を尋ねてみた。〕


いずれ教える時も来よう。が、地上での身元を証明するものは全て失われている。直接書記から何の手掛りも得られぬと同じで、彼の名を知る手掛りはあるまい。その霊は地上にてすでに物的生活が永遠の生命の第一歩に過ぎぬことを悟っていた。そして死後、彼自身の信ずるところによれば、地上にて信じていた太陽神ラー(3)のもとまで辿り着いたのである。


〔彼もある一定期間の進歩の後に絶対神の中に入滅してしまうと信じているのかどうかを尋ねた。〕


古代エジプト人の信仰に幾分そうした要素があった。哲学者たちは、段階的進化の後に人間臭がすっかり洗い清められ、ついには完全無垢の霊になると信じた。その宗教は死後の向上と現世での有徳の生活であった。他人と自己に対する義務を忘れず、言わば日常生活が即宗教であった。この点についてはそなたの知識の進歩を見て改めて説くことになろう。差し当たり古代エジプトの神学の最大の特質――肉体の尊厳――には正しき面と誤れる面とがあることを知ることで十分である。

エジプト人にとりて生きとし生けるもの全てが神であり、従って人間の肉体もまた神聖なるものであり、死体も出来得るかぎり自然の腐敗を防がんとした。その見事な技術の証拠(4)が今なお残っている。肉体の健康管理に行き過ぎた面もあったが、適切なる管理は正しくもあり、賢明でもあった。彼らは全ての物に神を認めた。この信仰は結構であった。が、それが神を人間的形体を具えたものと信じさせるに至った時、死体の処理を誤らせることになった。無限の時間をかけ無数の再生を繰り返す輪廻転生の教義は、永遠の向上進化を象徴せんとして作り出された誤りであった。こうした誤りがあらゆる動物的生命を創造主の象徴と見なし、数かぎりなき転生の中において、いずれは人間もそれに生まれ変わるものとする信仰を生んだのであるが、この信仰は死後の向上進化の過程の中において改めて行かねばならぬ。が、その中には神を宇宙の大創造力と見なし、その象徴であるところの全ての生命が永遠に向上進化するとの大真理が込められていることは事実である。

動物の生命を崇拝するということが愚かしく、浅はかに思えるとしたら――そう思うのも無理からぬことではあるが――信仰というものは外面的な象徴的現象を通して、それが象徴するところの霊的本質へと向けられるものであること、そして真理を内蔵せる誤謬は言わば外殻であり、やがて時と共に消え失せ、あとに核心を残していくための保護嚢である場合もあることを忘れてはならぬ。中核の概念、つまり真理の芽は決して死滅してはおらぬ。その概念が媒体によりて歪められ、本来の姿とは異なる形を取ることはある。が、一たんその媒体を取り除けば、本来の姿を取り戻す。先に話題にのせたエジプトの霊も、またその時代の仲間たちも、今では地上世界の自然を全て絶対神の現象的表現と見なし、それ故に、たとえ如何なる形にせよ、地上的生命を崇拝の対象とすることは出来ぬとは言え、そうした自然崇拝を通して神を求め模索する霊を不当なる批判の目を以て迎えるべきではないことを悟っている。その辺がそなたには理解できるであろうか。


――ある程度出来ます。すべてが神を理解する上で存在価値を有していることが判ります。ですが私は、エジプトの神学はインドの神学に較べて唯物的で土臭いところがあると思っていました。世界の宗教に関するあなたの通信を読むと、エジプトはインドから刺戟を受けたような印象を受けます。思うに、すべての真理に誤りが混入しているように、どの誤りにもある程度の真理が含まれており、真理といい誤謬といい、両者は相関的であり絶対ではないようです。


今ここでインドの神学の特徴について詳しく述べようとは思わぬが、そなたの述べるところは真実である。われらとしてはただ、真理というものが今の時点でのそなたには不快に思えるような形で潜在していたこと、そして古代人には理解されていたそれらの真理も、近代に至りてその多くが完全に消滅してしまっていることをそなたに知らしめんとしているまでである。そなた自身の知識と古代人の知識とを評価するに当たりては謙虚であることが大切である。


――判ります。そうした問題に関して近代人がおしなべて無知であることを知るばかりです。私自身具体的には何も知りませんし、いかなる形にせよ、古代の宗教を軽蔑することこそ愚かであることが判ります。例の古代霊はそうした時代に生活したわけですが、エジプトの司祭だったのでしょうか。


彼はオシリス(5)に司える預言者の一人であり、深遠にして一般庶民に説き得ぬ神秘に通暁していた。オシリスとイシス(6)とホルス(7)――これが彼の崇拝した三一神(8)であった。オシリスが最高神、イシスが母なる神、そしてホルスが人間の罪の犠牲者としての子なる神であった。彼はその最高神を地上の歴史家がエジプトより借用せる用語にて、いみじくも表現せるI am the I Am(9)――すなわち宇宙の実在そのものであることを理解していた。生命と光の大根源である。それを意味するエホバ(10)なる語をモーセがテーベ(11)の司祭たちから使用したのである。


――原語ではどう言ったのでしょうか。


Nup-pu-Nuk、すなわちI am the I AM.

この通信を送って来たのは例のラーの預言者である。“光の都市”オン(12)、ギリシャ人が“太陽の都市(13)”と呼ぶ都市の預言者で、そなたらの言うキリスト教時代より一六三〇年も前に生活した。その名をチョム(14)と言った。彼は遠き太古の時代からの霊魂不滅の生き証人である。余がその証言の真実性を保証する。

(†インペレーター)


〔私はエジプトの神学を勉強するよい記録は手に入らぬものかと尋ねた(15)。〕


その必要はない。当時の古記録はほとんど残っていない。ミイラの棺の中に納められた埋葬の儀式に関する書きものは全てその古記録からの抜粋である。前にも述べた如く、死体の管理がエジプト宗教の特徴であった。葬儀は長く且つ精細を極め、墓石並びに死体を納めた棺に見られる書きものはエジプト信仰の初期の記録から取ったものである。

こうしたことに深入りする必要はない。今の貴殿に必要なのは、貴殿が軽蔑する古代の知識にも真理の芽が包蔵されていたという厳粛なる事実を直視し理解することである。

それだけではない。エジプト人にとって宗教は日常生活の大根幹であり、全てがそれに従属していたのである。芸術も文学も科学も、言わば宗教の補助的役割をもつものであり、日常生活そのものが精細きわまる儀式となっていた。信仰が全ての行為に体現されていた。昇りては沈む神なる太陽が生命そのものを象徴していた。当時を起点として二つのソティス周期(16)、つまりは大凡(おおよそ)二千年後に再び地球に戻り、遂には生命と光の源泉たるラー神の純白の光の中に吸収されつくすと信じたのである。

斎戒の儀式が日常生活に浸透し、家業に霊性の雰囲気が漂っていた。一日一日に主宰霊又は主宰神がおり、その加護のもとに生活が営まれるという信仰があった。各寺院に大勢の預言者、司祭、神官、士師、書記がいた。その全てが神秘的伝承に通じ、大自然の隠れた秘密と霊交の奥義を極めんがために純潔と質素の生活に徹した。古代エジプト人は実に純粋にして学識ある霊的民族であった。もっとも今の人間に知られている知識で彼らが知らなかったものが色々とある。が、深き哲学的知識と霊的知覚の明晰さにおいては現代の賢人も遠く及ばない。

また宗教の実践面においても現代人はその比ではない。われらはこれまでの長き生活を通じ、宗教とは言葉にあらずして行動によって価値評価をすべきであるとの認識を持っている。天国へ上るはしごはどれでも構わない。誤れる信仰が少なからず混じっていることもあろう。今も昔も人間は己の愚かな想像を神の啓示と思い込んでは視野を曇らせている。その点はエジプト人も例外ではない。確かにその信仰には誤りが少なからずあった。が、同時にそれを補い生活に気高さを与えるものもまた持っていた。少なくとも物質一辺倒の生活に陥ることはなかった。常にどこかに霊的世界との通路を開いていた。神の概念は未熟ではあったが、日常生活の行為の一つ一つに神の働きかけがあるものと信じた。売買の取り引きにおいても故意に相手を騙し出し抜くようなことは決してなかった。確かに一面において滅び行くもの、物的なものに対する過度の執着は見られたが、それ以外のものを無視したわけではなかった。

現代にも通ずるものがあることに貴殿も気づくであろう。余りにも物質的であり、土臭く、俗悪である。思想も志向も余りに現世的である。霊性に欠け、気高き志向に欠け、霊的洞察力に欠け、霊界及び霊界との交信への現実的信仰に欠けている。われらが指摘せずとも貴殿には古代エジプトとの相違点が判るであろう。と言って、われらは古代エジプトの宗教をそのまま奨揚するつもりはない。ただ、貴殿の目に土臭く不快に見えるものも、彼らにとっては生きた信仰であり、日常生活を支配し、その奥に深き霊的叡智を包蔵していたことを指摘せんとしているまでである。


――判ります。ある程度そういうことが確かに言えると思います。あらゆる信仰形式について同様のことが言えるように思います。それは全て永遠の生命を希求する人間の暗中模索の結果であり、その真実性は啓発の程度によって異なります。それにしても、現代という時代についてあなたがおっしゃることは少し酷すぎます。確かに物質偏重の傾向はあります。が、一方にはそれを避けんとする努力も為されております。好んで物質主義にかぶれている者は少ないと思います。宗教、神、死後等に関する思想が盛んな時代があるとすれば、現代こそその時代と言えると思います。あなたの酷評は過去の無関心の時代にこそ向けられるべきで、少なくとも無関心から目覚め、あなたの指摘される重大問題に関心を示している現代には当てはまらないと思うのですが。


そうかも知れない。現代にはそうした問題に関心を示す傾向が多く見られる。その傾向がある限り希望も持てるというものである。が、一方には人間生活から霊的要素を排除せんとする強き願望があることも事実である。全てを物質的に解釈し、霊との交わりを求め霊界の存在を探求せんとする行為を誤り、ないしは、妄想とまでは言わないまでも、少なくとも非現実的なものとして粉砕せんとする態度が見られる。一つの信仰形体から次の信仰形体へと移行する過渡期には必然的に混乱が生ずる。古きものが崩れ、新しきものが未だ確立されていないからである。人間は否応なしにその時期を通過せねばならない。そこには必然的に視野を歪める傾向が生じるものである。


――おっしゃる通りです。物事が流動的で移り変わりが激しく、曖昧となります。勿論そうした時には混乱に巻き込まれたくないと望む者も大勢います。余りに長い間物質中心に物事を考えて来たために、物質は、所詮、霊の外殻に過ぎないという思考にはどうしても付いて行けない者もいます。それは事実であるとしても、古代ギリシャは別格として、現代ほど霊的摂理と自然法則についての積極的な探求が盛んな時代は、私の知るかぎり他になかったという信念は変わりません。


貴殿がそう思うこと自体は結構である。われらとしても徒(いたずら)にその信念を揺さぶりたいとは思わぬ。ただ貴殿の目に卑俗で土臭く見える信仰の中にも真理が包蔵されていることを、一つの典型を挙げて指摘せんとしたまでである。


――モーセはエジプトの知恵をそっくり学んで、その多くを律法の中に摂り入れたのだと思いますが。


まさしくその通りである。割礼の儀式もエジプトの秘法から借用したものである。ユダヤの神殿における斎戒の儀式もすべてエジプトからの借用である。また司祭の衣服をリンネルで作ったのもエジプトを真似たものである。神の玉座を護衛する霊的存在ケルビム(17)の観念もエジプトからきている。いや、そもそも“聖所”とか“至聖所”という観念そのものがエジプトの神殿からの借用に過ぎない。ただ、確かにモーセは教えを受けた司祭から学び取ることに長(た)けてはいたが、惜しむらくは、その儀式の中に象徴されている霊的観念までは借用しなかった。霊魂不滅と霊の支配という崇高なる教義は彼の著述の中にその所を得ていない。貴殿も知る如く、霊が辿るべき死後の宿命に関する言及は一切見られない。霊の出現も偶然に誘発された、単なる映像と見なしており、霊の実在の真理とは結び付いていない。


――その通りです。エジプトの割礼の儀式はモーセの時代以前からあったのでしょうか。


無論である。証拠が見たければ、今なお残されているアブラハム以前の、宗教的儀式によって保存された遺体を見るがよい。


――それは知りませんでした。モーセは信仰の箇条まで借用したのですか。


三一神の教義はインドのみならず、エジプトにも存在した。モーセの律法には霊性を抜きにしたエジプトの儀式が細かく複製された。


――それほどのエジプトの知恵の宝庫がなぜ閉じられたのでしょうか。孔子、釈迦、モーセ、マホメットなどは現代にも生き続けております。マーニー(18)はなぜ生き残らなかったのでしょう。


彼の場合は他へ及ぼせる影響としてのみ生き残っている。エジプトの宗教は特権階級のみに限られていた。ために国境を越えて広がる勢いがなく、長く生き残れなかったわけである。聖職者の一派の占有物としての宗教であり、その一派の滅亡と共に滅んだ。但しその影響は他の信仰の中に見られる。


――三位一体の観念のことですが、あれは元はインドのものですかエジプトのものですか。


創造力と破壊力とその調停者という三一神の観念は、インドにおいてはBrahm,Siva,Vishnu、エジプトにてはOsiris,Typhon,Horus、となった。エジプト神学には他に幾通りもの三一神があった。ペルシャにもOrmuzd,Ahriman,Mithra(調停者)というものがあった。

エジプトでは地方によって異なれる神学が存在した。最高神としてのPthah、太陽神すなわち最高神の顕現としてのRa、未知の神Amunといった如く、神にも種々あった。


――エジプトの三一神は、オシリスとイシスとホラスであると言われたように記憶していますが。


生産の原理としてのイシスを入れたまでである。つまり創造主としてのオシリス、繁殖原理としてのイシス、そしてオシリスとイシスとの間の子としてのホルス、ということである。三一神の観念にも色々あった。大切なのは全体の概念であって、その一つ一つは重要ではない。


――ではエジプトはインドから宗教を移入したということでしょうか。


一部はそうである。が、この分野に関して詳しく語れる者はわれらの霊団にはいない。

(プルーデンス)


〔以上は一八七四年二月二十八日に書かれたものである。四月八日にさらに回答が寄せられた。その間にも他の問題に関するものが数多く書かれた(19)。〕


そなたは先にインドとエジプトとの関係について問うている。インドの宗教が“魂”の宗教であったのに比して、エジプトの宗教は本質的には“肉”の宗教であった。雑多な形式的儀式が多く、一方のインドでは瞑想が盛んであった。インド人にとりて神とは肉眼では見出し得ぬ霊的実在であり、一方エジプト人にとりては全ての動物的形体の中に顕現されていると信じられた。インド人にとりて時間は無であった。すなわち、無窮であり全体であった。エジプト人にとりて、過ぎゆく時はその一刻一刻に聖なる意味があった。かくの如くエジプトは全ての面においてインドと対照的であった。が、ペルシャのゾロアスターがそうであった如く、インドより最初の宗教的啓発を受けている。

前にも述べた如く、エジプトの信仰の他に類を見ぬ良さは、日常生活の全てがその信仰に捧げられたことである。信仰が日常の全ての行為を支配していた。そこに信仰の力があった。すべての自然、とりわけ、動物の生命を神の顕現とする信仰であった。たとえば、エジプト人が牛の偶像の前にひれ伏した時、彼らにとりてそれは存在の神秘――神の最高の表現を崇拝したことになるのであった。そうした古代エジプトの教義を形成し、われらの説く教義とも大いに共通する身体の管理、宗教的義務感、全存在に内在する神の認識等は、再びそなたらの時代に摂り入れられて然るべきものである。


――結局エジプトの神学は、インドの神秘主義の反動であったと思うのです。あなたはエジプトの込み入った儀式を立派であるかのように語っていますが、私からみればエジプトの聖職者の生活には大変な時間の浪費があったし、しつこく身体を洗ったりヒゲを剃ったりしたのは愚かとしか言いようがありません。


そうとばかりは言えぬ。あの儀式はあれなりにあの時代と民族にとりて必要なものであった。もっとも、われらが指摘せんとしているのはその底に流れる観念でしかない。エジプトにおいては、芸術も文学も科学も全てが宗教のためのものであった。とは言え、信仰のために日常の暮らしが窮屈に縛られたわけではない。それどころかむしろ生活の行動の全てがその崇拝の行為の厳粛さによって高められたのである。エジプトの宗教の真髄はそこにあり、また、そこにしかない。これほど崇高なる信仰は他に見出せぬ。神の見守る中での生活――身の回りの全てに神を認識し、全ての行為を神に捧げ、神が純粋である如く己の心も霊も身体も潔く保ち、それを神に、ひたすら神に捧げる――これこそ神の如き生活を送ることであり、たとえ細かい点において誤りがあろうと、それは敢えて問われるほどのものではない。


――確かにわれわれ人間は偏見が大きな障害となります。しかし、あなただってまさか人間の信仰が絶対に偏見がないとおっしゃるつもりはないでしょう。たとえば、あなたが立派だとおっしゃるエジプト人の生活が今そっくり現代に再現されたとしても、それが必ずしもあなたの理想とされるものとはならないでしょう。


確かにならぬ。時代は常に進歩し、より高き知識を獲得していく。初歩的発達段階にあった別の民族に適せるものが必ずしも現代に合うとは限らぬ。が、獲得するものもある一方には失えるものもある。そしてその失えるものの中には、如何なる形式の信仰にも等しく存在すべきものがある。それが己ヘの義務と神への献身である。これは決してエジプトの信仰のみの占有物ではない。キリストの生涯とその教えの中ではむしろそれがより高度に増幅されて具現されている。然るにそなたらはそれを忘れ去った――真の宗教の証とも言うべきものを失った。その点において、そなたらが軽蔑し批判する者のほうがそなたらを凌いでいることを篤と認識する必要がある。

常に述べて来たことであるが、人間の責務はその人間の宿す内的な光によってその大小が決まる。啓示を受けた者は、その質が高ければ高いほど、それだけ責務が小さくなるどころか、大きくなるのである。信ずる教義の如何に関わらず、正直さと真摯さと一途(いちず)さによって向上した者も多ければ、その信仰にまつわる期待の大きさが重荷となって向上を阻害された者もまた多い。われらにはその真相がよく見て取れるのである。信仰の形式――そなたにはその形骸しか見えぬのであるが――は大して重要ではない。人間には生まれついての宿命があり、それは否応なしに受け入れざるを得ぬ。問題はそれをどう理解するかにあり、それによりて進化が決まる。地上でユダヤ人となるかトルコ人となるか、またマホメット教徒となるかキリスト教徒となるか、バラモン教徒となるか、パルシー教徒(20)となるか、それは生まれついての宿命的巡り合わせと言える。が、その環境を向上進化の方向へ活用するか、それとも悪用して堕落するかは、その霊の本質に係わる問題である。地上にて与えられる機会は霊によりてさまざまであり、それを如何に活用するかによりて、死後の生活における向上進化に相応しき能力が増す者もあり減る者もいる。その辺のことはそなたにも判るであろう。故にパリサイ主義的クリスチャンが侮蔑を込めて見下す慎ましく謙虚なる人間にとりても、あるいは恵まれた環境と、向上の機会の真っ只中に生を享けた人間にとりても、真の向上の可能性においては些かも差はないのである。要は霊性の問題である。そなたはまだその問題に入る段階に来ておらぬ。形骸にのみこだわっている。核心には到達しておらぬ。


――でも、いくら真面目とは言え、野蛮な呪物信仰者に比べれば、クリスチャンとして高度な知識と完全な行ないの中で、その能力と機会のかぎり精一杯生きている者の方が遙かに上だと信じますが。


全存在のホンの一かけらほどに過ぎぬ地上生活にありては、取り損ねたら最後、二度と取り返しがつかぬというほど大事なものは有り得ぬ。そなたら人間は視野も知識も人間であるが故の宿命的な限界によりて拘束されている。本人には障害であるかに思える出来ごとも、実は背後霊が必要とみた性質――忍耐力、根気、信頼心、愛といったものを植えつけんとして用意する手段である場合がある。一方ぜいたくな環境のもとで周囲の者にへつらわれ、悦に入れる生活に自己満足することが、実は邪霊が堕落させんとして企んだワナである場合がある。

そなたの判断は短絡的であり、不完全であり、見た目に受けた印象のみで判断している。背後の意図が読めず、また邪霊による誘惑と落とし穴があることが理解できぬ。

なおそなたの言い分についてであるが、人間は己に啓示され理解し得たかぎりの最高の真理に照らして受け入れ行動するというのが、絶対的義務である。それを基準として魂の進化の程度が判断されるのである。


――“最後の審判”を説かれますか。


説かぬ。審判は霊が自ら用意する霊界の住処(すみか)に落着いた時に完了する。そこに誤審はない。不変の摂理の働きによって落ち着くベきところに落ち着く。そして一段と高き位置への備えが整うまで、この位置にて然るべき処罰を受け、それが完了すれば向上する。その繰り返しが何回となく行なわれるうちに、鍛練浄化のための動の世界を終了し、静なる瞑想界ヘと入寂する(21)


――と言うことは審判は一回きりでなく、何回もあるということですか。


そうとも言えるし、そうでないとも言える。数かぎりなく審判されるとも言えるし、一度も審判されないとも言える。要するに魂は絶え間なく審判されているということである。常に変化する魂に自らを適応させているということである。そなたらが考えているが如き、全人類を一堂に集めて一人一人審問するなどということはない。あれは寓話に過ぎぬ。

鍛練浄化の世界の各段階において、霊はそれまでの行ないによりて一つの性格を形成する。その性格にはそれなりに相応しき境涯がある。そこへ必然的に落着くことになる。そこに審判というものはない。即座に判決が下る。討議も裁きもなく、諸々の行状の価値がひとまとめに判断される。地上に見られるが如き裁判のための法廷など必要ではない。魂みずからが己の宿命の決定者であり、裁判官である。このことは、進化についても退化についても例外なく当てはまる。


――一つの界層または境涯から次の界層へ行く時は、死に似た変化による区切りがあるのでしょうか。


似たようなものはある。それは、霊体が徐々に浄化され、低俗なる要素が拭い去られるという意味で似ているということである。上へ行くほど身体が純化され、精妙となっていく。故にその変化はそなたらが死と呼ぶものから連想するほど物的なものではない。脱ぎ棄てるベき外皮を持たぬからである。が、霊が浄化してゆく過程であること、つまり一段と高き境涯への向上という点においては同一である。


――そうやって全ての不純物が消えると霊は瞑想界へと入り、そこで完全に浄化され尽くすというのですか。


そうではない。全ての不純物が取り除かれ、最後に純粋なる霊的黄金のみが残る。それから内的霊界である瞑想界ヘと入っていくのであるが、そこでの生活は実はわれらにも知ることを得ぬ。ただ判っているのは、ひたすらに神の属性を身につけ、ひたすらに神に近づいて行くということのみである。友よ、完成されたる魂の最後に辿り着くところが、それまでひたすらに求め来たれる神――その巡礼の旅路のために神性を授け給いし父なる神の御胸であるのかも知れぬぞ! が、それもそなたと同様われらにとりても単なる想像に過ぎぬ。そのような問題は脇へ置き、今のそなたにとりて意義あることのみを知り得ることで有難き幸せと思うがよい。もしも宇宙の神秘の全てに通暁してしまえば、そなたの精神はもはや活動の場がなくなるであろう。ともかくそなたが地上にて知り得ることは高が知れている。が、たとえ限りはあっても、知らんと欲することは許される。知らんと欲することによりて魂を浅ましき地上的気苦労に超然とさせ、真の在るべき姿に一層近づくことを得さしめることであろう。神の御恵みのあらんことを!

(†インペレーター)

シルバー・バーチの霊訓 古代霊は語る

  The Ancient Spirits Speak
 第十章 おしまいに

 シルバー・バーチによる交霊会は正式の名称をハンネン・スワッハー・ホームサークルと言いましたが、その第一回が何年何月に開かれたのかは明らかでありません。公表されていないし、もしかしたら記録すらないかも知れません。

というのは霊媒のバーバネル氏は、その会があくまで私的な集まりだからという理由で、初めのころは霊言そのものの公表すら避けていたのです。

 バーバネルという人は自分を表に出すことを徹底的に嫌った人で、その態度は七十九才で他界するまで変わりませんでした。

ところが真の意味で最良の親友だったハンネン・スワッハーは当時英国新聞界の法王とまで言われたほどの大物で、バーバネルとは対照的に、英国の著名人でスワッハーの名を知らない人はまずいないと言ってよいほどでした。

 スワッハーはその知名度を利用して各界の名士を交霊会に招待し、また招待された方は相手がスワッハーとなると断わるわけにもいかず、かならず出席しました。

中には 「よし、オレがバーバネルのバケの皮をはがしてやる」とか、「シルバー・バーチとかいうインデアンをオレが徹底的に論破してやる」といった意気込みで乗り込んで来る連中もいたようですが、バーバネルが入紳してシルバー・バーチが語り始めると、その威厳ある雰囲気に圧倒されて、来た時の意気込みもどこへやら、すっかり感動して帰って行ったそうです。

 こうしたバーバネルとスワッハーという対照的な性格のコンビは実にうまい取り合わせで、それにシルバー・バーチが加わった三人組(トリオ)は多分、いや間違いなく、二人の出生以前から組まれた計画だったと想像されます。

バーバネルなくしてはシルバー・バーチもあり得ず、スワッハーなくしては霊言集の出版もなかったはずです。

 はじめ公表に消極的だったバーバネルをスワッハーが説き伏せて、霊言が『サイキック・ニューズ』紙に連載されるようになってほぼ半世紀が過ぎました。

そして私がその心霊紙で、霊視家によるシルバー・バーチの肖像画と共に初めて霊言に接して、一種異様な感動を覚えながら貪り読んで以来、三十年近い歳月が流れました。

 そして一九八一年七月にバーバネル氏が急逝した時、私はこれでついにシルバー・バーチの霊言にもピリオドが打たれたかと思い、その心の拠りどころとして来ただけに残念無念さも一入(ヒトシオ)でした。

また、何か一つの大きな時代が終って自分一人が取り残されたような、言葉では形容しようのないさみしさをしみじみと味わったものでした。

 が、その霊訓は霊言集として残されている。それを日本の有志の方々──シルバー・バーチの言う〝それを理解できるところまで来ている人々〟に紹介することが私の使命であるかも知れないという自覚が私の魂を鼓舞し続け、それが本稿となって実現しました。

 シルバー・バーチ霊言集は延べにして二千ページ程度になります。それだけのものをこの程度のものにまとめてしまうのは、あるいは暴挙と言えるかも知れません。

しかしシルバー・バーチは単純で基本的な真理──いやしくも思考力を具えた者であれば老若男女のすべてが理解できる真理をくり返しくり返し説いたのであって、決して二千ページも要するほど難解な哲理を説いたのではありません。

私はこれまで紹介したものだけで十分シルバー・バーチの言わんとしていることは尽くしていると確信します。

 願わくば読者諸氏が、シルバー・バーチが繰り返し繰り返し説いたごとく、それを繰り返し繰り返し味読されることを希望します。恩師の間部先生がよく、霊界の前売券を買っておきなさい、と言われたのを思い出します。

宗教とか信仰はどうかすると地上生活を忌避する方向に進みがちですが、スピリチュアリズムだけはむしろ、死後の存在を現実のものとして確信することによって、地上生活を人間らしく生きよう、

地上生活ならではの体験を存分に積んでおこう──楽しみもそして苦しみも──という積極的な生活態度を生んでくれます。それは〝前売券〟を手にしているという安心と自信が生んでくれる。間部氏はそういう意味で言われたのではないかと思うのです。

 そしてそれが、図らずも、シルバー・バーチの訓えの中枢でもあります。

では最後にシルバー・バーチのしめくくりの霊言と神への祈りの言葉を紹介して本稿を閉じることにします。


 「私はこうした形で私に出来る仕事の限界を、もとより十分承知しておりますが、同時に自分の力の強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません。

私自身はいつも謙虚な気持です。本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない──私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。

が私はその援助の全てを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちていると言っているのです。

 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると、自信をもって語ることが出来ます。霊団が指示することを安心して語っていればよいのです。

威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人類全体の進化の指導に当たっている、真の意味で霊格の高いスピリットなのです。

 私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけない、といったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れ、といった指示を受けます。

私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束が出来ているということです。

私よりすぐれた叡知を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。

 そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているからです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在なのです。

私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会い出来ることを無上の光栄に思っております。その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。
 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。

神界というのはあなたがた人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が地上経綸の仕事を実施するとなると、こうした小さな組織が必要となるのです。

 私自身はまだまだ未熟で、決して地上の一般的凡人から遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなたがたの悩みがよくわかります。私はこの仕事を通じて地上生活を長く味わってまいりました。

あなたがた(列席者)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く係わりあってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないこともわかります。

 私たちはひたすらに人類の向上の手助けをしてあげたいと願っています。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えするためにやって来たのです。そこから正しい叡知を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。

そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も、地上から送られてくる無知で何の備えも出来ていない厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる。そう思って努力してまいりました。

 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度を取りたくありません。ロボットのようには扱いたくないのです。

死の淵を隔てていても、友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の肉体と心と霊に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。


 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶なさるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。

私たちがあなたがたに代って生きてあげるわけにはまいりません。援助は致しましょう。指導もしてあげましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけにはいかないのです。

 スピリットの中には自らの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私は自ら買って出た口ではないのです。が依頼された時は快く引き受けました。

 引き受けた当初、地上の状態はまさにお先まっ暗という感じでした。困難が山積しておりました。がそれも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに比べれば物の数ではありません。

 私たちの願いはあなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい──持てる知能と技能と天賦の才とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生を享けた真の目的を成就することにつながり、死と共に始まる次の段階の生活に備えることにもなる。そう願っているのです。

 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそ全てを律する実在なのです。そこでは仮面も見せかけも逃げ口上もごまかしもききません。すべてが知れてしまうのです。

 私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。よろこびと楽しみを持ってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなたがたに何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。


 あなたがたは、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が信じて下さい。私も物事を感じ、知り、そして愛することの出来る能力を具えた実在の人間です。

こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。

 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が、幾多の障害をのり超えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。

 神よ、忝(かたじけな)くもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私たちは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を佳しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場となることを知らしめ給わんことを。

 では神の御恵みの多からんことを。」                                            シルバー・バーチ



  あとがき

 シルバー・バーチとバーバネルに関しては、本文と 「遺稿」で十分紹介されていると思うので、ここで改めて付け加えることは何もない。

そこで最後に私とシルバー・バーチとの出会いと、その霊言をこうした形で紹介するに至った経緯について述べておきたい。

 そもそも私がシルバー・バーチ霊言集に接したのは大学二年の時だった。当時 (昭和三十年頃)、東京には日本心霊科学協会のほかにもう一つ、浅野和三郎氏の系統を受け継いだ心霊科学研究会というのがあった(現状については寡聞にしてよく知らない)。

 ある日、別にこれといった目的もなしに事務所を訪ねたところ、月刊雑誌 「心霊と人生」 主幹の脇長生氏が私が英文科生であることを知って 「サイキックニューズ」 という英字新聞を手渡し、これを持って帰って何かいい記事があったら訳してみてくれないかと言う。

言われるまま下宿に帰ってからページをめくっているうちに、例のインデアンの肖像画とともにシルバー・バーチの霊言が目についた。

その肖像画から受けた印象は、それまで西部劇映画などから受けていたインデアンの印象とはまったく違った、一種名状しがたい威厳と叡智に満ちた賢人のそれだった。

 霊言の英文を読んで一層その感を深くした私は、これを訳したいとも思ったが、当時のお粗末な英語力ではとても自信がなく、何かほかの簡単な心霊現象に関する記事を訳し、それが 「心霊と人生」 に載って感激したのを憶えている。それが私にとって最初の翻訳であり、活字になったのもそれが最初だった。

 しかし印象という点ではその時に受けたシルバー・バーチの印象の方がよほど強烈で、その後ずっと忘れられず、サイキックニューズ社から次々と霊言集を取り寄せることになる。

最初に届いた Teachings of Silver Birch (一九三八年発行)は果たして何度読み返したか知らないが、とにかく余ほど読み返したに相違いないことは、ページが全部バラバラになってしまっていることからも窺える。

また至るところに見られる赤鉛筆による下線部分を読むと、当時の私がどんなことに悩んでいたか、何を知りたがっていたかが判って興味ぶかい。

 とにかくシルバー・バーチとの出会いは私の思想と人生を方向づける決定的な意味をもつものであった。僭越かも知れないが、シルバー・バーチはバーバネルの支配霊であったと同時に私の精神的指導霊でもあったと表現して、あながち間違いではないと思ってるほどである。

 さて、その出会いから四半世紀後の一九八〇年八月末のことであったが、福岡の手島逸郎氏 (日本心霊科学協会評議員) から、福岡支部で発行している 「心霊月報」 に何か寄稿してほしいとの依頼があった。その依頼の手紙を読み終えたとたんに 「シルバー・バーチ」 の名が浮かび、ずっと脳裏から離れなかった。

 そしてさっそく九月から霊言集の翻訳と編纂に取りかかったのであるが、十月に入った頃から、ふと、英国へ行ってみようかという気になり、それが日増しに強くなっていき、十月末ごろにはすでに行くことに決めて準備に取りかかっていた。

 準備には渡航のための準備もあったが、もっと大切なこととして、バーバネル氏やテスター氏といった、向うで是非会うべき人々との面会の日程を組むために先方の都合を聞かねばならない。同時に私は高校生対象の英語塾を開いている関係で、冬休みか夏休みにしか行けない。

どっちにしようかと迷ったが、とにかく気が急くので冬休みを選んだ。本文でも言及したが、もしも翌年の夏休みにしていたら、この世でバーバネル氏に会うことはなかったことになる。私の背後霊が急がせたわけもあとで納得がいった。

 バーバネル氏に会ったことで霊言集の翻訳に拍車がかかったことは言うまでもない。「心霊月報」 は四、五回連載したところで都合で休刊となったが、私の筆は自分でも不思議なほど渉るので、発表の場を日本心霊科学協会の 「心霊研究」 に移して、もう一度最初から連載していただいた。

(当時の編集主幹梅原伸太郎氏の理解と積極的好意に対し、ここに深甚なる謝意を表したい。それなくしては私の筆はその時点で挫折していたかも知れない。)

 バーバネル氏の訃報が入ったのはその頃だった。梅原氏の要請で 「モーリス・バーバネル氏を偲んで」 と題する一文を書いたが、その結びの節で私はこう述べた。

 「それにしても、ほぼ半世紀にわたって脈々と続いてきたシルバー・バーチの霊言がこれでついに途絶えるのかと思うと、学生時代から四半世紀にわたって愛読してきた私には、ただ惜しいという気持とは別に、何か一つ大きな時代が去ったような心細い感慨が、ひしひしと身に沁みるような思いがいたします。」

 もちろんこれは私の人間としての感慨である。バーバネルほどの人物に哀悼の念など贈る必要はない。そもそもシルバー・バーチは霊界の人間であり、バーバネルも今そこへ逝った。地上での使命が終わってホッとしていることだろう。

私もいずれはそこへ行く日が来る。そして多分バーバネルに、そして若しかしたらシルバー・バーチにも会えるかもしれない。その時に、〝よくぞやってくれた〟と言われたい。

そう言われるような仕事を残したい。私はそんな気持を抱えながら本稿の執筆を続け、どうにか、まる二年を掛けて仕上げたのだった。

 いま、その全十一巻を一冊の本にまとめ上げて、何という無謀なことをしたのだろうという、あたかも過ちを犯してしまった時のような気持がふと湧くことがある。

 が、何度も説明してきたようにシルバー・バーチは決して難解な哲学を延々と説き続けたのではない。誰れにでも理解できる平凡な霊的真理を平易な言葉で繰り返し繰り返し説いてきたのである。私は決して弁解して言うのではなく、私の理解力の範囲で確信して言うが、シルバー・バーチの説かんとしたことは本書が一応その全てを尽くしていると考えていただいて結構である。

 むしろ私が真に恐れているのは、シルバー・バーチの流麗なる文体と、その後聞くことを得た生の声が伝える威厳に満ちた雰囲気を、果たして私の訳文がどこまで伝え得たかということである。

 が、これに対する答えはきわめて明瞭である。満足のいくほど十分に伝え得たはずはまずない。何となれば私はまだ五十そこそこの地上の人間であり、シルバー・バーチは三千年を生きた霊界のはるか上層部のスピリットだからだ。

 願わくは、拙い私の拙い翻訳から、その雰囲気の何分の一かでも読み取っていただければと思う。同時にシルバー・バーチの霊言の中に、他の何ものからも得られなかった新たな教訓を発見され、あるいは生きる勇気を鼓舞され、さらには霊的真理を知るよろこびを味わっていただければ、まる二年を掛けた私の努力も無駄でなかったという慰めを得ることが出来る。少なくとも私は終始そう祈りながら執筆したことを付記しておきたい。

 ちなみに本書の原典となった霊言集(ほとんどのものが絶版)は次の通りである。


Teachings of Silver Birch (1938)


  Silver Birch Speaks (1949)

Silver Birch Anthology (1955)

Guidance from Silver Birch (1966)

More Philosophy of Silver Birch (1979)

Light from Silver Birch (1983)

More Teachings of Silver Birch (1941)

Wisdom of Silver Birch (1944)

More Wisdom of Silver Birch (1945)

Silver Birch Speaks Again (1952)

Philosophy of Silver Birch (1969)

Psychic Press Ltd.、 London
 
 
   
 ●遺稿  

 シルバー・バーチと私 モーリス・バーバネル 
                     近藤千雄 訳


 私と心霊との係わりあいは前世にまで遡ると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッドクラウドは死後存続の決定的証拠を見せつけてくれた恩人であり、その交霊会において 「サイキック・ニューズ」 紙発刊の決定が為されたのであるが、そのレッドクラウドの話によると、私は、こんど生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯を捧げるとの約束をしたそうである。

 私の記憶によればスピリチュアリズムなるものを初めて知ったのは、ロンドン東部地区で催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた十八才の時のことで、およそドラマチックとは言えない事がきっかけとなった。

 クラブでの私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、これをどうにか大過なくやりこなしていた。それは多分にその名士たちが、ロンドンで最も暗いと言われる東部地区でそういうシャレた催しがあることに興味をそそられたからであろう。

 私のもう一つの役目は、講演の内容のいかんに係わらず、私がそれに反論することによってディスカッションへと発展させていくことで、いつも同僚が、なかなかやるじゃないかと私のことを褒めてくれていた。

 実はその頃、数人の友人が私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん初めてのことで、私は大真面目で出席した。ところが終って初めて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。

そんなこともあって、たとえ冗談とは言え、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。

 同時にその頃の私は他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教に背を向けていた。

母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が教会での儀式に一人で出席するのはみっともないからぜひ同伴してほしいと嘆願しても、頑として聞かなかった。二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。

理屈の上では必ずと言ってよいほど父の方が母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それから更に不可知論へと変わって行った。

 こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただく上で、その背景として必要だと考えたからである。

 ある夜、これといって名の知れた講演者のいない日があった。そこでヘンリー・サンダースという青年がしゃべることになった。彼はスピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終ると私の同僚が私の方を向いて、例によって反論するよう合図を送った。

 ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近ニセの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないと述べ、従ってそれをまったく持ち合わせない私の意見では価値がないと思う、と言った。これには出席者一同、驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。

 終わるとサンダース氏が私に近づいて来て、〝調査研究の体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もしも本気でおっしゃったのなら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか〟 と尋ねた。

 〝ええ〟 私はついそう返事をしてしまった。しかし〝結論を出すまで六か月の期間がいると思います〟 と付け加えた。日記をめくってみると、その六ヶ月が終わる日付がちゃんと記入してある。もっとも、それから半世紀たった今もなお研究中だが・・・・・・

 そのことがきっかけで、サンダース氏は私を近くで開かれているホームサークルへ招待してくれた。定められた日時に、私は、当時婚約中で現在妻となっているシルビアを伴って出席した。行ってみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。

 若い者も老人もいる。あまり好感はもてなかったが、まじめな集会であることは確かだった。

 霊媒はブロースタインという中年の女性だった。その女性が入神状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。そして事実そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。

少なくとも私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが〝死者〟である、ということを得心させる証拠は何一つ見当らなかった。

 しかし私には六ヶ月間勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。ところが会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり 〝居眠り〟をしてしまった。目を覚ますと私はあわてて非礼を詫びた。

ところが驚いたことに、その 〝居眠り〟 をしている間、 私がレッド・インデアンになっていたことを聞かされた。

 それが私の最初の霊媒的入神だった。何をしゃべったかは自分にはまったく分からない。が、聞いたところでは、シルバー・バーチと名告る霊が、ハスキーでノドの奥から出るような声で、少しだけしゃべったという。

その後現在に至るまで、大勢の方々に聞いていただいている。地味ながら人の心に訴える (と皆さんが言って下さる) 響きとは似ても似つかぬものだったらしい。

 しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホームサークルができた。シルバー・バーチも、回を重ねるごとに私の身体のコントロールがうまくなっていった。

コントロールするということは、シルバー・バーチの個性と私の個性とが融合することであるが、それがピッタリうまく行くようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。

 始めのうち私は入神状態にあまり好感を抱かなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が私自身に分らないのは不当だ、という生意気な考えのせいであったろう。

 ところが、ある時こんな体験をさせられた。交霊会を終ってベッドに横になっていた時のことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声つまり私の霊言とともに、ビデオのように映し出されたのである。そんなことがその後もしばしば起きた。

 が、今はもう見なくなった。それは他ならぬハンネン・スワッハーの登場のせいである。著名なジャーナリストだったスワッハーも、当時からスピリチュアリズムに彼なりの理解があり、私は彼と三年ばかり、週末を利用して英国中を講演してまわったことがある。

延べにして二十五万人に講演した計算になる。一日に三回も講演したこともある。こうしたことで二人の間は密接不離なものになっていった。

 二人は土曜日の朝ロンドンをいつも車で発った。そして月曜日の早朝に帰ることもしばしばだった。私は当時商売をしていたので、交霊会は週末にしか開けなかった。もっともその商売も、一九三二年に心霊新聞 『サイキック・ニューズ』を発行するようになって、事実上廃業した。それからスワッハーとの関係が別の形をとり始めた。

 彼は私の入神現象に非常な関心を示すようになり、シルバー・バーチをえらく気に入り始めた。そして、これほどの霊訓をひとにぎりの人間しか聞けないのは勿体ない話だ、と言い出した。元来が宣伝ずきの男なので、それをできるだけ大勢の人に分けてあげるべきだと考え、『サイキック・ニューズ』 紙に連載するのが一ばん得策だという考えを示した。

 始め私は反対した。自分が編集している新聞に自分の霊現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん議論したあげくに、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。

 が、もう一つ問題があった。現在シルバー・バーチと呼んでいる支配霊は、当初は別のニック・ネームで呼ばれていて、それは公的な場で使用するには不適当なので、支配霊自身に何かいい呼び名を考えてもらわねばならなくなった。

そこで選ばれたのが 「シルバー・バーチ」 (Silver Birch) だった。不思議なことに、そう決まった翌朝、私の事務所にスコットランドから氏名も住所もない一通の封書が届き、開けてみると銀色の樺の木(シルバーバーチ)の絵はがきが入っていた。

 その頃から私の交霊会は、 「ハンネン・スワッハー・ホームサークル」 と呼ばれるようになり、スワッハー亡きあと今なおそう呼ばれているが、同時にその会での霊言が 『サイキック・ニューズ』 紙に毎週定期的に掲載されるようになった。当然のことながら、霊媒は一体誰かという詮索がしきりに為されたが、かなりの期間秘密にされていた。

しかし顔の広いスワッハーが次々と著名人を招待するので、私はいつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して、ついに事実を公表する記事を掲載したのだった。

 ついでに述べておくが、製菓工場で働いていると甘いものが欲しくなくなるのと同じで、長いあいだ編集の仕事をしていると、名前が知れるということについて、一般の人が抱いているほどの魅力は感じなくなるものである。

 シルバー・バーチの霊言は、二人の速記者によって記録された。最初は当時私の編集助手をしてくれていたビリー・オースチンで、その後フランシス・ムーアという女性に引き継がれ、今に至っている。シルバー・バーチは彼女のことをいつも、the scribe (書記)と呼んでいた。

 テープにも何回か収録されたことがある。今でもカセットが発売されている。一度レコード盤が発売されたこともあった。いずれにせよ、会の全てが記録されるようになってから、例のベッドで交霊会の様子をビデオのように見せるのは大変なエネルギーの消耗になるから止めにしたい、のとシルバー・バーチからの要請があり、私もそれに同意した。

私が本当に入神しているか否かをテストするために、シルバー・バーチが私の肌にピンを突きさしてみるように言ったことがある。血が流れ出たらしいが、私は少しも痛みを感じなかった。

 心霊研究家と称する人の中には、われわれが背後霊とか支配霊とか呼んでいる霊魂(スピリット)のことを、霊媒の別の人格にすぎないと主張する人がいる。私も入神現象にはいろいろと問題が多いことは百も承知している。

 問題の生じる根本原因は、スピリットが霊媒の潜在意識を使用しなければならないことにある。霊媒は機能的には電話のようなものかも知れないが、電話と違ってこちらは生きものなのである。従ってある程度はその潜在意識によって通信内容が着色されることは避けられない。

霊媒現象が発達するということは、取りも直さずスピリットがこの潜在意識をより完全に支配できるようになることを意味するのである。

 仕事柄、私は毎日のように文章を書いている。が、自分の書いたものをあとで読んで満足できたためしがない。単語なり句なり文章なりを、どこか書き改める必要があるのである。ところが、シルバー・バーチの霊言にはそれがない。

コンマやセミコロン、ピリオド等をこちらで適当に書き込むほかは、一点の非の打ちどころもないのである。それに加えてもう一つ興味深いのは、その文章の中に私が普段まず使用しないような古語が時おり混ざっていることである。

シルバー・バーチが (霊的なつながりはあっても) 私とまったくの別人であることを、私と妻のシルビアに対して証明してくれたことが何度かあった。中でも一番歴然としたものが初期のころにあった。

 ある時シルバー・バーチがシルビアに向って、〝あなたがたが解決不可能と思っておられる問題に、決定的な解答を授けましょう〟 と約束したことがあった。

当時私たち夫婦は、直接談話霊媒として有名なエステル・ロバーツ女史の交霊会に毎週のように出席していたのであるが、シルバー・バーチは、次のロバーツ女史の交霊会でメガホンを通してシルビアにかくかくしかじかの言葉で話しかけましょう、と言ったのである。

 むろんロバーツ女史はそのことについては何も知らない。どんなことになるか、私たちはその日が待遠しくて仕方がなかった。いよいよその日の交霊会が始まった時、支配霊のレッドクラウドが冒頭の挨拶の中で、私たち夫婦しか知らないはずの事柄に言及したことから、レッドクラウドはすでに事情を知っているとの察しがついた。

 交霊会の演出に天才的なうまさを発揮するレッドクラウドは、そのことを交霊会の終るぎりぎりまで隠しておいて、わざとわれわれ夫婦を焦らせた。そしていよいよ最後になってシルビアに向い、次の通信者はあなたに用があるそうです、と言った。

暗闇の中で、蛍光塗料を輝かせながらメガホンがシルビアの前にやってきた。そしてその奥から、紛れもないシルバー・バーチの声がしてきた。間違いなく約束した通りの言葉だった。

 もう一人、これは職業霊媒ではないが、同じく直接談話を得意とする二ーナ・メイヤー女史の交霊会でも、度々シルバー・バーチが出現して、独立した存在であることを証明してくれた。

 私の身体を使ってしゃべったシルバー・バーチが、こんどはメガホンで私に話しかけるのを聞くのは、私にとっては何とも曰く言い難い、興味ある体験だった。

 ほかにも挙げようと思えば幾つでも挙げられるが、あと一つで十分であろう。私の知り合いの、ある新聞社の編集者が世界大戦でご子息を亡くされ、私は気の毒でならないので、ロバーツ女史に、交霊会に招待してあげてほしいとお願いした。名前は匿しておいた。が、女史は、それは結構ですがレッドクラウドの許可を得てほしいと言う。

そこで私は、では次の交霊会で私からお願いしてみますと言っておいた。ところがそのすぐ翌日、ロバーツ女史から電話が掛かり、昨日シルバー・バーチが現われて、是非その編集者を招待してやってほしいと頼んだというのである。

 ロバーツ女史はその依頼に応じて、編集者夫妻を次の交霊会に招待した。戦死した息子さんが両親と 〝声の対面〟 をしたことは言うまでもない。



 訳者付記

 ここに訳出したのは、モーリス・バーバネル氏の最後の記事となったもので、他界直後に、週刊紙 『サイキック・ニューズ』 の一九八一年七月下旬号、及び月刊誌 『ツー・ワールズ』 の八月号に掲載されたもので、原文にはタイトルはないが、便宜上訳者が付した。