Wednesday, November 6, 2024

シアトルの秋 七章 善悪を超えて  聖堂へ招かれる

Beyond good and evil 1. Invited to the cathedral


1 聖堂へ招かれる         

一九一七年十二月十七日  日曜日

 これまで吾々は物的宇宙の創造と進化、および、程度においては劣るが、霊的宇宙の神秘について吾々の理解した限りにおいて述べました。

そこには吾々の想像、そして貴殿の想像もはるかに超えた境涯があり、それはこれより永い永い年月をかけて一歩一歩、より完全へ向けて向上していく中で徐々に明らかにされて行くことでしょう。吾々がそのはるか彼方の生命と存在へ向けて想像の翼を広げうるかぎりにおいて言えば、向上進化の道に究極を見届けることはできません。

それはあたかも山頂に源を発する小川の行先をその山頂から眺めるのにも似て、生命の流れは永遠に続いて見える。流れは次第に大きく広がり、広がりつつその容積の中に水源を異にするさまざまな性質の他の流れも摂り入れていく。人間の生命も同じです。

その個性の中に異質の性格を摂り入れ、それらを融合させて自己と一体化させていく。

川はなおも広がりつつ最後は海へ流れ込んで独立性を失って見分けがつかなくなるごとく、人間も次第に個性を広げていくうちに、誕生の地である地上からは見きわめることの出来ない大きな光の海の中へ没入してしまう。

が、海水が川の水の性分を根本から変えてしまうのではなく、むしろその本質を豊かにし新たなものを加えるに過ぎないように、人間も一方には個別性を、他方には個性を具えて生命の大海へと没入しても、相変わらず個的存在を留め、それまでに蓄積してきた豊かな性格を、初めであり終わりであるところの無限なるもの、動と静の、エネルギーの無限の循環作用の中の究極の存在と融合していきます。

また、川にいかなる魚類や水棲動物がいても、海にはさらに大きくかつ強力な生命力を持つ生物を宿す余裕があるごとく、その究極の境涯における個性とエネルギーの巨大さは、吾々の想像を絶した壮観を極めたものでしょう。

 それゆえ吾々としては差し当たっての目標を吾々の先輩霊に置き、吾々の方から目をそらさぬかぎり、たとえ遠くかけ離れてはいても吾々のために心を配ってくれていると知ることで足りましょう。

生命の流れの淵源は究極の実在にあるが、それが吾々の界そして地上へ届けられるのは事実上その先輩霊が中継に当たっている。そう知るだけで十分です。吾々は宿命という名の聖杯からほんの一口をすすり、身も心も爽やかに、そして充実させて、次なる仕事に取り掛かるのです。


──どんなお仕事なのか、いくつか紹介していただけませんか。

 それは大変です。数も多いし内容も複雑なので・・・・・・。では最近吾々が言いつけられ首尾よく完遂した仕事を紹介しましょう。

 吾々の本来の界(第十界)の丘の上に聖堂が聳えています。


──それはザブディエル霊の話に出た聖堂──〝聖なる山〟の寺院のことですか。(第二巻八章4参照)


 同じものです。〝聖なる山〟に聳える寺院です。何ゆえに聖なる山と呼ぶかと言えば、その十界をはじめとする下の界のためのさまざまな使命を帯びて降りて来られる霊が格別に神聖だからであり、又、十界の住民の中で次の十一界に不快感なしに安住できるだけの神聖さと叡智とを身につけた者が通過して行くところでもあるからです。

それには長い修行と同時に、十一界と同じ大気の漂うその聖堂と麓の平野をたびたび訪れて、いずれの日にか永遠の住処となるべき境涯を体験し資格を身につける努力を要します。

 吾々はまずその平野まで来た。そして山腹をめぐって続いている歩道を登り、やがて正門の前の柱廊玄関(ポーチ)に近づいた。


──向上するための資格を身につけるためですか。

 今述べた目的のためではありません。そうではない。十一界の大気はいつもそこに漂っているわけではなく、向上の時が近づいた者が集まる時節に限ってのことです。

 さてポーチまで来てそこで暫く待機していた。するとその聖地の光輝あふれる住民のお一人で聖堂を管理しておられる方が姿を現わし、自分と一緒に中に入るようにと命じられた。吾々は一瞬ためらいました。吾々の霊団には誰一人として中に入ったことのある者はいなかったからです。

するとその方がにっこりと微笑まれ、その笑顔の中に〝大丈夫〟という安心感を読み取り、何の不安もなく後ろについて入った。その時点まで何ら儀式らしいものは無かった。そして又、真昼の太陽を肉眼で直視するにも似た、あまりの光輝に近づきすぎる危険にも遭遇しなかった。

 入ってみるとそこは長い柱廊になっており、両側に立ち並ぶ柱はポーチから聖堂の中心部へ一直線に走っている梁(はり)を支えている。ところが吾々の真上には屋根は付いておらず無限空間そのもの──貴殿らのいう青空天井になってる。

柱は太さも高さも雄大で、そのてっぺんに載っている梁には、吾々に理解できないさまざまなシンボルの飾りが施してある。中でも私が自分でなるほどと理解できたことが一つだけある。

それはぶどうの葉と巻きひげはあっても実が一つも付いてないことで、これは、その聖堂全体が一つの界と次の界との通路に過ぎず、実りの場ではないことを思えば、いかにもそれらしいシンボルのように思えました。

その長くて広い柱廊を一番奥まで行くとカーテンが下りていた。そこでいったん足を止めて案内の方だけがカーテンの中に入り、すぐまた出て来て吾々に入るように命じられた。

が、そのカーテンの中に入ってもまだ中央の大ホールの内部に入ったのではなく、ようやく控えの間に辿り着いたばかりだった。その控えの間は柱廊を横切るように位置し、吾々はその側面から入ったのだった。

これまた実に広くかつ高く、吾々が入ったドアの前の真上の屋根が正方形に青空天井になっていた。が、他の部分はすべて屋根でおおわれている。

 吾々はその部屋に入ってから右へ折れ、その場まで来て、そこで案内の方から止まるように言われた。すぐ目の前の高い位置に玉座のような立派な椅子が置いてある。それを前にして案内の方がこう申された。


 「皆さん、この度あなた方霊団をこの聖堂へお招きしたのは、これより下層界の為の仕事をしていただく、その全権を委任するためです。これよりその仕事について詳しい説明をしてくださる方がここへお出でになるまで暫くお持ちください」

 言われるまま待っていると、その椅子の後方から別の方が姿を見せられた。先程の方より背が高く、歩かれる身体のまわりに青と黄金色の霧状のものがサファイヤを散りばめたように漂っていた。

やがて吾々に近づかれると手を差し出され、一人ひとりと握手をされた。そのとき(あとで互いに語りあったことですが)吾々は身は第十界にありながら、第十一界への近親感のようなものを感じ取った。それは第十一界の凝縮されたエッセンスのようなもので、隣接した境界内にあってその内奥で進行する生命活動のすべてに触れる思いがしたことでした。

 吾々は玉座のまわりの上り段に腰を下ろし、その方は吾々の前で玉座の方へ向かって立たれた。それからある事柄について話されたのであるが、それは残念ながら貴殿に語れる性質のものではない。秘密というのではありません。

人間の体験を超えたものであり、吾々にとってすら、これから理解していくべき種類のものだからです。が、そのあと貴殿にも有益な事柄を話された。

 お話によると、ナザレのイエスが十字架上にあった時、それを見物していた群集の中にイエスを売り死に至らしめた人物がいたということです。


──生身の人間ですか。

 さよう、生身の人間です。あまり遠くにいるのも忍びず、さりとて近づきすぎるのも耐え切れず、死にゆく〝悲哀(かなしみ)の人〟イエス・キリストの顔だちが見えるところまで近づいて見物していたというのです。すでに茨の冠は取られていた。

が、額には血のしたたりが見え、頭髪もそこかしこに血のりが付いていた。その顔と姿に見入っていた裏切り者(ユダ)の心に次のような揶揄(からかい)の声が聞こえてきた───

〝これ、お前もイエスといっしょに天国へ行って権力の座を奪いたければ今すぐに悪魔の王国へ行くことだ。お前なら権力をほしいままに出来る。イエスでさえお前には敵わなかったではないか。さ、今すぐ行くがよい。

今ならお前がやったようにはイエスもお前に仕返しができぬであろうよ〟と。

 その言葉が彼の耳から離れない。彼は必死にそれを信じようとした。そして十字架上のイエスに目をやった。彼は真剣だった。しかし同時に、かつて一度も安らぎの気持ちで見つめたことのないイエスの目がやはり気がかりだった。

が、死に瀕しているイエスの目はおぼろげであった。もはやユダを見る力はない。

唆(そそのか)しの声はなおも鳴りひびき、嘲(あざけ)るかと思えば優しくおだてる。彼はついに脱兎のごとく駆け出し、人気のない場所でみずから命を捨てた。

帯を外して首に巻き、木に吊って死んだのである。かくして二人は同じ日に同じく〝木〟で死んだ。地上での生命は奇しくも同じ時刻に消えたのでした。

 さて、霊界へ赴いた二人は意識を取り戻した。そして再び相見えた。が二人とも言葉は交わさなかった。ただしイエスはペテロを見守ったごとく(*)、今はユダを同じ目で見守った。そして〝赦〟しを携えて再び訪れるべき時期(とき)がくるまで、後悔と苦悶に身を委ねさせた。

つまりペテロが闇夜の中に走り出て後悔の涙にくれるにまかせたようにイエスは、ユダが自分に背を向け目をおおって地獄の闇の中へよろめきつつ消えて行くのを見守ったのでした。

(*イエスの使徒でありながら、イエスが捕えられたあと〝お前もイエスの一味であろう〟と問われて〝そんな人間は知らぬ〟と偽って逃れたが、イエスはそのことをあらかじめ予見していて〝あなたは今夜鶏の鳴く前に三度私を知らないと言うだろう〟と忠告しておいた。訳者)

 しかしイエスは後悔と悲しみと苦悶の中にあるペテロを赦したごとく、自分に孤独の寂しさを味わわせたユダにも赦しを与えた。いつまでも苦悶の中に置き去りにはしなかった。その後みずから地獄に赴いて探し出し、赦しの祝福を与えたのです。(後注)

 以上がその方のお話です。実際はもっと多くを語られました。そしてしばらく聖堂に留まって今の話を吟味し、同時にそれを(他の話といっしょに)持ちかえって罪を犯せる者に語り聞かせるべく、エネルギーを蓄えて行われるがよいと仰せられた。

犯せる罪ゆえに絶望の暗黒に沈める者は裏切られた主イエス・キリストによる赦しへの希望を失っているものです。げに、罪とは背信行為なのです。

 さて吾々が仰せつかった使命については又の機会に述べるとしましょう。貴殿はそろそろ疲れてこられた。ここまで持ちこたえさせるのにも吾々はいささか難儀したほどです。

 願わくは罪を犯せる者の救い主、哀れみ深きイエス・キリストが暗闇にいるすべての者とともにいまさんことを。友よ、霊界と同じく地上にも主の慰めを深刻に求めている者が実に多いのです。貴殿にも主の慈悲を給わらんことを。


 訳者注──ここに言う〝赦し〟とはいわゆる〝罪を憎んで人を憎まず〟の理念からくる赦しであって、罪を免じるという意味とは異なる。

イエスもいったんはユダを地獄での後悔と苦悶に身をゆだねさせている。因果律は絶対であり〝自分が蒔いたタネは自分で刈り取る〟のが絶対的原則であることに変わりないが、ただ、被害者の立場にある者が加害者を慈悲の心でもって赦すという心情は霊的進化の大きな顕れであり、誤った自己主張の観念からすべてを利害関係で片づけようとする現代の風潮の中で急速に風化して行きつつある美徳の一つであろう。

Monday, November 4, 2024

シアトルの秋 生きがいある人生を送るには

To live a life worth living

Light from Silver Birch
Edited by Pam Riva
Psychic Press Ltd.(1983)
London, England

 
  われわれ一同は神の道具です。神の道具として役立つということは光栄なことです。人の為に役立つことをすることほど立派な宗教的行為はありません。それこそが霊の正貨(コイン)です。人のために自分を役立てることは崇高なことです。

 それは人の生活を豊かにすると同時に自分の生活をも豊かにします。また、この世には自分のことを思ってくれる者はいないと思い込んでいる人々に慰めをもたらします。

 人のために役立っていると思う時、私たちは心の奥に安らぎと静けさと満足感を覚えます。宇宙の絶対的な支配力への全幅の信頼、神へ向けて一歩また一歩近づかんとする努力の支えとなる堅忍不抜さは、人のために尽くしている中でこそ得られるのです。

 目標の頂点は宇宙の大霊すなわち神です。われわれが生活するこの果てしない宇宙を創造し、ありとあらゆる存在に配剤するための摂理を考案した無限の愛と叡智の粋です。

 大霊と離れて何ものも存在しません。大霊が全てなのです。大なるもの、小なるもの、複雑なもの、単純なもの、生命現象のありとあらゆる側面に対して神の配剤があるのです。

霊の働きがあってこそ、すべてが存在できているのです。神の霊がすべてに潜在している以上、神との縁は切ろうにも切ることができないのです。人間がいかなる説を立てようと、神がすべてに宿り給い、したがって神はすべてであり、すべてが神であるという事実は変えることはできません。

 無限なる創造主であり、その愛と叡智によって壮大な宇宙を経綸し、その完全なる知性によって摂理を考案して、壮大といえるほど大きいものから顕微鏡的に小さいものまでの、ありとあらゆる存在を包摂し、その一つ一つに必要な配剤をしてくださっている大霊を超えた存在は、誰一人、何一つありません。

その摂理の作用は完全無欠であり、その支配の外に出られるものはありません。

 小さすぎるからということで無視されたり、見落とされたり、忘れ去られたりすることはありません。それは大霊の一部が生きとし生けるものすべてに宿っているからです。言いかえれば神がその霊性の一部を各自に吹き込んだからこそ存在しているのであり、その霊性が神とわれわれとを結びつけ、また、われわれお互いをつないでいるのです。

 その絆を断ち切ることの出来る力は地上にも死後の世界にも存在しません。その絆があるからこそ、叡智と真理と啓示の無限の貯蔵所を利用することも可能なのです。

 生命力すなわち霊がすべての存在、すべての人間に宿っているのです。その最高の形が他ならぬ人類という存在に見られます。人類の一人一人の中に、永遠に神と結び付け、また人間同士を結びつけている霊性が宿っているのです。その絆こそ万全の宇宙的ネットワークの一環なのです。


 皆さんより永い経験を持つ私達霊団の者も、この果てしない大機構を生み出された神の叡智の見事さに感嘆せずにはいられないことばかりです。

 また私たちの心の視野を常に広げ、自分が何者であり、いかなる存在であるかについての認識を増やし続けてくれる真理と叡智とインスピレーションの絶え間ない流れ、私たちの一人一人に宿る霊の力、わがものとすることができるにも関わらず、霊の豊かさと神と同胞とのつながりについて何も知らずにいる地上の人たちのために活用すべき才能を授かっていることに、私たち霊団の者は改めて感謝の意を表明せずにはいられません。

 大自然の法則は、われわれの一人一人に生命を吹き込んでくださった創造神と常に一体関係にあるように、そして地上世界はおろか霊の世界のいかなる力によってもその絆が断ち切られることが無いように配慮してあるのです。

 さらにその霊の機構を愛の力が導き管理し常に調和を維持して、受け入れる用意のある者が霊力と叡智と真理とインスピレーションとを授かるための手段を用意しております。

 その上われわれ自らが道具となって、地上の人間生活を豊かにし、病める者を癒やし、喪に服する人を慰め、人生に疲れた者に力を与え、道を見失える者に導きを与える、全存在の始源からの崇高な霊力の恩恵をもたらすことができるのです。

 われわれはそのための才能を授かっているのです。それを発達させることによって、われわれが手にした掛けがいのない知識の恩恵にあずかれずにいる不幸な人たちの為に活用することができます。

要するに、この荘厳な霊力の流れる通路として一層磨きをかけ、受け入れる用意のできた人々に惜しみなく恩恵をもたらしてあげられるようになることが、われわれの大切な務めなのです。

2. さて、ここで人生体験が霊的に見てどのような意味を持っているかをご説明しましょう。
℘29
地上の人間は、なぜ苦しみがあるのか、病気には何の目的があるのか、なぜ危機、困難、障害といったものに遭遇しなければならないかといった疑問を抱きますが、これらはみなそれに遭遇することによってまず カタルシス(※)を起こさせ、続いてカタリスト(※※)として霊的真理を学ばせる機会を提供してくれる、魂が是非とも体験しなければならない挑戦課題なのです。


(※ 語源的には〝浄化する〟ということで、それが精神医学において、無意識の精神的抑圧を洗い流す作用を意味する。※※ 精神的革命の触媒となるもの───訳者)

 魂は低く落ち込むことが可能であるだけ、それだけ高く向上することもできます。それが両極の原理です。すなわち作用と反作用は相等しいものであると同時に正反対のものであるという法則です。憎しみと愛、光と闇、嵐と静けさ、こうした〝対〟は同じコインの表と裏の関係にあるのです。

 私の好きな諺がバイブルの中にあります。〝信仰に知識を加えよ〟というのですが、私はこれを〝知識を得たら、それに信仰を加味せよ〟と言い変えたいところです。所詮すべての知識を手にすることはできません。あなた方は人の子であり、能力に限界があるからです。

人生の嵐に抵抗し、何が起きようと盤石不動であるためには、その土台として霊的知識を必要としますが、限られた知識ではすべてを網羅(カバー)することは出来ません。その足らざる部分は信仰心で補いなさいと私は言うのです。

 本来の住処である霊界から地上へこうして戻ってきて皆さんの賛同を得るのに私たち霊団が愛と理性に訴えていることを、私は誇りに思っております。有無を言わせず命令することはしません。

ああしてほしいとか、こうしてくれとかの要求もいたしません(※)。あなた方の判断によって自由におやりになられるがよろしい。そして霊の世界から申し上げることがあなた方の理性を納得させることができず反発を覚えさせる時、知性が侮辱される思いをなさる時は、遠慮なく拒絶なさるがよろしい。

(※ この姿勢は頭初からの方針として徹底しており、例えば霊言を公表すべきか否かについてさえバーバネルとスワッハーとの間で意見が対立し激論を闘わせたこともあったのに、シルバーバーチはそのことに一言も口をはさんでいない。

これは霊界の計画だから早く公表するように、といった助言があっても良さそうに思えるのであるが、それすらなく、実際にサイキックニューズ紙に掲載され、やがて霊言集として出版されるまでに十数年の歳月が流れている──訳者)

 私たちとしては皆さんが自発的に望まれた上で協力と忠誠心を捧げて下さるように、皆さんの内部の卑俗なものではなく最高の判断力に訴えなければならないのです。と言って私たちの方からは何もしないというのではありません。

それぞれの活動の分野、日常の仕事において援助を受けていらっしゃることに気づかれる筈です。そしてそれとは別の分野において、人のために役立つことをするように導かれているのです。

 私も私なりに皆さんのお役に立ちたいと願っております。気付いていらっしゃらないかも知れませんが、これまでに味わったことのない精神的ないし霊的な豊かさをきっと手にされることになる生き方にそって導かれていらっしゃいます。

そうした中にあってさえ皆さんの心の中には次々と悩みが生じ疑問を抱かれるのも、地上の人間としては止むを得ないこととして私は理解しております。がしかし、どう理屈をこねたところで、全宇宙の中にあって唯一の実在は〝霊〟であることを改めて申し上げます。

 物質はその本性そのものが束の間の存在であり移ろいやすいものです。物的に顕現している形態そのものには永続性はありません。それが存在を保っているのは霊によって生命を与えられているからです。

原動力は霊なのです。霊こそがあなたを、そして他の全ての人を地上に生かしめているのです。霊が引っ込めば物質は崩壊します。あなたの身体は元の塵に戻りますが、本当のあなたである霊は永遠の進化の旅を続けます。

 あなた方は霊を携えた身体ではありません。身体を携えた霊なのです。本当のあなたは鏡に映る容姿ではありません。それは霊が地上で自我を表現するための物的な道具、複雑な機械に過ぎません。霊は物質に勝ります。霊が王様であり、物質は召使です。

 こうした事実を追及していくうちに、あなたの視野と焦点の置きどころが変わっていくことに気づかれます。自分がなぜ地上にいるのか、真の自我を発揮するにはどうすべきか、そうしたことを理解し始めます。どういう種類のことであっても結構です。自分の能力を伸ばして他人への援助を啓発の為に活用する───それがあなた方のなすべきことです。

 忘れないでいただきたいのは、皆さんは不完全な世界に生きている不完全な存在だということです。もしも完全であれば神はあなた方を地上へ送らなかったでしょう。その不完全な世界においてあなた方は、持てる才能をいかに活用するかについて、自由な選択権が与えられております。

 地上世界の特異性は対照的、ないしは両極性にあります。美点と徳性を具えたものと、それらを欠いたものとが同じ地上に存在していることです。これは霊界では有り得ないことです。各界が同じ性質の霊で構成されていて、対照的なものが存在しません。

 地上生活の目的は善悪様々な体験を通じて魂が潜在的霊性を発揮して、強くたくましく成長するチャンスを提供することです。それで悪事があり、罪があり、暴力があるわけです。進化は一直線に進むものではありません。スパイラルを描きながら進みます。表面的には美しく見えても、その底はあまり美しくないものがあります。

 私が霊界の界層の話をする時、それは必ずしも丸い天体のことを言っているのではありません(※)。さまざまな発達段階の存在の場のことを指しており、それらが地理的に平面上で仕切られているのではなくて、低いレベルから高いレベルへと、段階的に繋がっているのです。

(※〝必ずしも〟と言っていることから察せられるように、地球と同じ丸い形をした界層も存在する。それがとりもなおさず地縛霊の世界で、地球圏の範囲から抜け出られないまま地上と同じような生活の場を形成している。同じことが各天体についても言えると考えて良い──訳者)

 それが無限に繋がっており、これでおしまいという頂上がないのです。霊性が開発されるにつれて、さらに開発すべきものがあることに気づきます。知識と同じです。知れば知るほど、その先にもっと知るべきものが存在することに気づきます。

 各界層にはほぼ同等の霊的発達段階にある者が集まっております。それより高い界層へ進むにはそれに相応しい霊格を身につけなければなりません。それより低い界層へはいつでも行くことができます。現に私たちは今こうして低い界層の人々を啓発する使命を担って地上へ下りて来ております。

 向上とは不完全さを洗い落とし、完全へ向けて絶え間なく努力して成長していくことです。それには今日一日を大切に生きるということだけでよいのです。毎朝の訪れを性格形成のための無限の可能性を告げるものとして迎えることです。それが自我を開発させ、人生に目的性を持たせることになります。残念ながら今の地上の余りに大勢の人たちが人生に対する目的意識を忘れております。

 神の心をわが心とするように心掛けることです。霊力と一体となるように心がけることです。皆さんの一人一人が神の愛の御手が触れるのを感じ取り、常に守られていることを知り、明日が何をもたらすかを恐れないようにならないといけません。そして人のために自分を役立てる機会をいただいたことを喜ぶことです。

 私たちは大きな戦いに参加しております。小競り合い、大規模な戦争がいくつもありました。が、本当に闘っている相手は貪欲、怨念、利己主義という、地上を蝕んでいる物質中心主義の副産物です。

 そこで私たちは全存在の始源は、無限の創造主から発せられる聖なる霊力であることを実証し、死が言語に絶する素晴らしい霊の世界への扉に過ぎないことをお教えするのです。

 それがあなた方も参加しておられる闘いです。その将校や指揮官は、戦闘のあまりの激しさに退却することがないよう、厳しい試練を受けねばなりません。

 あなた方の進むべき道は、霊界からあなた方を愛している大勢の霊が必ず示してくれます。それは地上で血縁関係にあった者だけではありません。霊的な近親関係にある者もいます。その霊たちがあなた方を使って恵まれない人々のために影響力を行使するのです。

 われわれはみな同じ霊的巡礼の旅を続ける仲間です。神への巡礼の道は無数に存在します。いかなる知識も、それがわれわれの視野の地平線を少しでも広げ、この宇宙についての理解を深める上で役立っていることを感謝いたしましょう。

 知識には責任が伴います。それなりの代価を支払わねばなりません。知識を手にしたということは、それを手にしていない人よりも責任が大きいということです。しかし私たち霊界の者は、私たちの道具として協力してくださる地上の人々を見棄てるようなことは決していたしません。

本当ならここで、あなた方地上の人たちも決して私たちを見捨てませんと言うセリフをお聞きしたいところですが、残念ながらそれは有り得ないことのようです。

 皆さんはご自分で気づいていらっしゃる以上に霊界からいろいろと援助を受けておられます。いずれ地上を去ってこちらへお出でになり、地上でなさったことを総合的に査定なされば、きっと驚かれることでしょう。私たちは魂の成長に関わったことで援助しているのです。それが一ばん大切だからです。


 それに引きかえ、地上の各分野での混乱ぶりはどうでしょうか。宗教は本来の目的を果たせなくなっております。科学者は自分たちの発明・発見が及ぼす被害の大きさを十分に認識しておりません。

唯物思想の袋小路に入り込んでしまった思想家たちは、誰一人救えないどころか自分自身すら救えなくなっております。その点われわれは光栄にも神の道具として大切な仕事を仰せつかり、一人ひとりに託された信頼を自覚しております。

 私たち霊界の者は、縁あって皆さんのもとを訪れる人たちに霊と精神と身体に真実の自由をもたらす崇高な真理を理解させ真の自我を見出させてあげるべく、皆さんを導き、勇気づけ、元気づけ、鼓舞する用意が出来ております。本当の自分を見出すこと、それが人生の究極の目的だからです。

 地上には霊的進歩を計るものさしがありませんから、そうした協力関係の中で皆さんがどれほどの貢献をなさっているかがお分かりになりません。しかし、たった一人の人の悲しみを慰め、たった一人の人の病気を治し、たった一人の人に真の自我に目覚めさせてあげることができたら、それだけであなたの全人生が無駄でなかったことになります。私たちはひたすら〝人のために役立つこと〟を心掛けております。

 不安を抱いたり動転するようなことがあってはなりません。不安は無知の産物です。知識を授かった人は、それによって不安を追い払えるようでなくてはなりません。皆さんは宇宙最大のエネルギー源とのつながりが持てるのです。

これまでに知られた物的世界のいかなるエネルギーよりも壮大です。崇高なエネルギーです。それをあなた方を通して流入させ、恵み深い仕事を遂行することが出来るのです。

 落胆したり悲観的になったりしてはなりません。幸いにして不変の基本的な霊的真理を手にした者は、いかなる事態にあっても霊は物質に勝るとの信念を忘れてはなりません。解決策はきっと見つかります。ただ、必ずしもすぐにとはいきません。

しばらく待たされることがあります。(別のところで、忍耐力と信念を試すためにわざとギリギリのところまで待たせることもする、と述べてる───訳者)

 自分より恵まれない人のための仕事に従事することは光栄この上ないことです。われわれが人のために尽くしている時、われわれみずからも、より高い、進化せる存在による働きかけの恩恵を受けているのです。

自分のことは何一つ望まず、ただひたすらわれわれを鼓舞して、暗闇のあるところには光を、無知のはびこっているところには真理を、窮地に陥っている人には援助をもたらすことに精励しているのです。

 そうした強大な霊団───生きがいのある人生を模索している人のために、われわれを道具として尽力している高級霊───の存在をますます身近に感じることが出来るように努力いたしましょう。 

 その崇高なる霊力がますます多くの人間を通じて地上へ注がれ、恩恵を広め、悲しむ人々を慰め、病の人を癒し、道に迷いもはや解決の手段は無いものと思い込んでいる人々に導きを与えることが出来ているということは、本当に有り難いことです。

 霊力がどこかで効を奏すると、そこに橋頭保が敷設され強化されます。続いて新たな橋頭保の敷設と強化を求めます。かくして次第に霊力が地球を取り囲み、ますます多くの人々がその莫大な恩恵にあずかることになります。

 われわれはこれまでに存在の始源から勿体ないほどの多くの恩恵を授かってまいりました。それによって同志の多くが霊的に豊かになりました。なればこそ、われわれより恵まれない人たちが同じ豊かさと美と栄光を分かち合えるように、われわれの奉仕的精神を一段と堅固に、そして強力にすることができるように神に祈りたいと思います。

 知識がもたらすところの責任も片時も忘れないようにいたしましょう。われわれはもはや、知らなかったでは済まされません。精神的自由と霊的解放をもたらす真理を手にしているからです。

人間の一人一人に神性の一部を植え付けて下さった宇宙の大霊とのより一層の調和を求めて、人のために自分を役立てる機会をますます多く与えて下さるように祈ろうではありませんか。

 そうした生き方の中においてこそ、すべて神が良きにはからって下さるという内的な安らぎ、静寂、悟り、落ち着きを得ることが出来ます。そして無限の創造活動を促進する上でわれわれも役目を担っていることになるのです。


 ───あなたは人類全体が霊において繋がっているとおっしゃっていますが、大半の人間はそのことに気づいておりません。その霊性を発見するためになぜ目覚めなくてはならないのでしょうか。そこのところがよく分かりません。

 
 表面をご覧になって感じられるほど不可解な謎ではありません。理解していただかねばならないのは、人間は肉体を携えた霊であって霊を携えた肉体ではないということです。

物質が存在出来るのは霊による賦活作用があるからであり、その霊は神性の火花として存在のすべて、生命を表現しているあらゆる形態の根源的要素となっているのです。

 改めて申し上げるまでもなく、地上へ誕生してくる目的は各自の魂の成長と開発と発達を促進するような体験を積み、肉体の死後に待ち受ける次の段階の生活に相応しい進化を遂げることです。

 地上は幼稚園であり、霊界は大人の学校です。今この地上においてあなたは教訓を正しく身につけ、精神を培い、霊性を鍛えて、神から頂いた才能を心霊治療その他の分野で人のために使用できるまで発達させることを心掛けるべきです。


 ───この世的なものをなるべく捨てて霊的なものを求める生き方が理想なのでしょうか。それとも出来るだけ多くの地上的体験を積むべきなのでしょうか。

 物質と言うものを霊から切り離して、あたかも水も通さない程に両者が仕切られているかに思ってはいけません。両者には密接な相互関係があります。地上にいる間は、霊が物質を支配していても物質がその支配の程度を規制しております。物質を霊から切り離して考えてはいけません。

 地上生活の目的は、いよいよ霊界へ旅立つ時が来たときに霊に十分な備えが出来ているように、さまざまな体験を積むことです。まずこの地球へ来るのはそのためです。地上はトレーニングセンターのようなものです。霊が死後の生活に対して十分な支度を整えるための学校です。

 あなた方にとってイヤな体験こそ本当はいちばん為になるのですよと繰り返し申し上げるのは、そういう理由からです。魂が目覚めるのは呑気な生活の中ではなく嵐のような生活の中においてこそです。雷鳴が轟き、稲妻が走っている時です。

 酷い目に遭わなくてはいけません。しごかれないといけません。磨かれないといけません。人生の絶頂と同時にドン底も体験しなくてはいけません。地上だからこそ味わえる体験を積まないといけません。かくして霊は一段と威力を増し強化されて、死後に待ち受けている生活への備えが出来るのです。

シルバーバーチ


Saturday, November 2, 2024

シアトルの秋 十章 質問に答える ───イエス・キリストについて 

Answering the Question  ─ About Jesus Christ


  地上の歴史の中で最大の論争の的とされている人物すなわちナザレのイエスが、その日の交霊会でも質問の的にされた。


 まず最初に一牧師からの投書が読み上げられた。それにはこうあった。〝シルバーバーチ霊はイエス・キリストを宇宙機構の中でどう位置づけているのでしょうか。また、<人間イエス>と<イエス・キリスト>とはどこがどう違うのでしょうか〟

 これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「ナザレのイエスは地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜の最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。

 イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と変わらぬ一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが地上に流入したことは前にも後にもありません。

イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦礫の下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

 そのために彼はまず自分へ注目を惹くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。彼は一度たりともそれを邪なことに使ったことはありませんでした。

 またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も廃止も干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を惹くようになりました。

そこでイエスは、人間が地球という惑星上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊格者が説いてきたのと同じ、単純で永遠に不変で基本的な霊の真理を説くことを始めたのです。


 それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大へんな改ざんがなされていることです。

ずいぶん多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話はぜんぶ割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから。

 もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後いっそう開発された霊力を駆使して、愛する人類のために働いておられるのです。イエスは神ではありません。全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではありません。

 いくら立派な位であっても、本来まったく関係のない位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんではありません。父なる神の右に座しているとか、〝イエス〟と〝大霊〟とは同一義であって置きかえられるものであるなどと主張しても、イエスは少しもよろこばれません。

 イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にヒザを折り平身低頭して仕える必要はないのです。それよりもイエスの生涯を人間の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。
 以上、大へん大きな問題についてほんの概略を申し上げました」


 メンバーの一人が尋ねる。
   ───〝キリストの霊〟Christ spiritとは何でしょうか。

 「これもただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを示すために聖油を注がれた時代がありました。それは大てい王家の生まれの者でした。キリストと言う言葉は〝聖油を注がれた〟という意味です。

それだけのことです」 (ユダヤでそれに相応しい人物はナザレのイエス Jesus だという信仰が生まれ、それで Jesus Christ と呼ぶようになり、やがてそれが固有名詞化していった───訳者)


───イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったとおっしゃるのが私にはどうしても理解できません。

 「私は決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。私が申し上げたのは地上を訪れた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊格者の系譜の中でイエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。

イエスの生活が完全であったとは一度も言っておりません。それは有り得ないことです。なぜなら彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」



 ───イエスの教えは最高であると思われますか。 

 「不幸にしてイエスの教えはその多くが汚されてしまいました。私はイエスの教えが最高であるとは言っておりません。私が言いたいのは、説かれた教訓の精髄は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど心霊的法則を使いこなした例は地上では空前絶後であるということです」


 ───イエスの教えがその時代の人間にとっては進み過ぎていた───だから理解できなかった、という観方は正しいでしょうか。

 「そうです。おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は彼らにとって成功であることが時代的に見れば失敗であり、逆に彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」

(※ George Lansbury は一九三一~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次世界大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じてヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppard についてはアメリカーナ、ブリタニカの両百科全書、その他の人名辞典にも見当たらない───訳者)


───イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の大根源であると考えてよろしいでしょうか。


 「いえ、それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し自在に使いこなすことができたからです。皆さんにぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、

つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた間違いが多かったにもかかわらず、あれほどの短い期間に全世界に広まりそして今日まで生き延びて来たのは、イエスが常に霊力と調和していたからだということです」


(訳者注───霊力との調和というのは、ここでは背後霊団との連絡がよく取れていたという意味である。『霊訓』のインペレーターによると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。

地上生活中のイエスは早くからそのことに気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体離脱し、その背後霊団と直接交わって連絡を取り合っていたという)


───(かつてのメソジスト派の牧師)いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできます。

 「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異論を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。

教えそのものと、その教えを取り違えしかもその熱烈信仰によってかえってイエスを何度もはりつけにするような間違いを犯している信奉者とを混同しないようにしなければなりません。

  イエスの生涯をみて私はそこに、物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完全で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった───自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。

イエスは一度たりとも自ら課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的に使用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

 どうもうまく説明できないのですが、イエスも生を受けた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味で完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派なそして大きな仕事ができる時代が来ると述べた意味がなくなります。 

 イエスという人物を指さして〝ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時はあれほどのことが出来るのですよ〟 と言える、そういう人間だったと考えればいいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。

しかもそのイエスは私たちの世界においても、私の知るかぎりでの最高の霊格を具えた霊であり、自分を映す鏡としてイエスに代わる者はいないと私は考えております。

 私がこうしてイエスについて語る時、私はいつも〝イエス崇拝〟を煽ることにならなければよいがという思いがあります。それが私が〝指導霊崇拝〟 に警告を発しているのと同じ理由からです(八巻P18参照)。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は理性と常識と知性をもって行わないといけません。

書物からも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人が良いと言ったから、賢明だと言ったから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断基準です。

 例えその後一段と明るい知識に照らしだされた時にあっさり打ち棄てられるかも知れなくても、今の時点でこれだと思うものを採用すべきです。たった一冊の本、一人の師、一人の指導霊ないしは支配霊に盲従すべきではありません。

 私とて決して無限の叡智の所有者ではありません。霊の世界のことを私が一手販売しているわけではありません。地上世界のために仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。私は完全であるとか絶対に間違ったことは言わないなどとは申しません。あなた方と同様、私もいたって人間的な存在です。

私はただ皆さんより人生の道のほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が私に少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしも私の言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線を私といっしょに眺めませんかとお誘いしているわけです」


 霊言の愛読者の一人から「スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して 〝最後の晩餐〟 の儀式を行うべきでしょうか」という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチがこう答えた。

 「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって身体的に、精神的に、あるいは霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれは最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、私自身にはそういうセレモニーに参加したいという気持ちは毛頭ありません。

そんなことをしたからといってイエスは少しも有難いとは思われません。私にとっても何の益にもなりません。否、霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

 イエスに対する最大の貢献はイエスを模範と仰ぐ人々がその教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人すべてに手を差しのべてあげることです。

 儀式よりも生活の方が大切です。宗教とは儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。〝聖なる書〟 と呼ばれている書物から活字のすべてを抹消してもかまいません。賛美歌の本から 〝聖なる歌〟 を全部削除してもかまいません。

儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に 〝宗教的〟 で有りうるのです。そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。

 私は皆さんの関心を儀式へ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく生活そのものです。生活の中で何をなすかです。どういう行いをするかです。〝最後の晩餐〟 の儀式がイエスの時代よりもさらにさかのぼる太古にも先例のある由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」


 別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて───

 「他人のためになることをする───これがいちばん大切です。私の意見は単純明快です。宗教には〝古い〟ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関係もないものばかりだということです。

 私にとって宗教とは崇拝することではありません。祈ることでもありません。審議会において人間の頭脳が考え出した形式的セレモニーでもありません。私はセレモニーには興味はありません。

それ自体は無くてはならないものではないからです。しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、無理してそれを止めさせる理由はありません。

 私自身としては、幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具はかたづけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係───これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えと何の関係もありません」 


───支配霊や指導霊の中にはなぜ地上でクリスチャンだった人が少ないのでしょうか。

 「少ないわけではありません。知名度が低かった───ただそれだけのことです。地上の知名度の高い人も実はただの代弁者(マウスピース)にすぎないことをご存知ないようです。

つまり彼らの背後では有志の霊が霊団やグループを結成して仕事を援助してくれているということです。その中にはかつてクリスチャンだった人も大勢います。もっとも、地上で何であったかは別に問題ではありませんが・・・・・・」


───キリスト教の教えも無数の人々の人生を変え、親切心や寛容心を培ってきていると思うのです。そういう教えを簡単に捨てさせることが出来るものでしょうか。

 「私は何々の教えという名称には関心がありません。私が関心をもつのは真理のみです。間違った教えでもそれが何らかの救いになった人がいるのだからとか、あえてその間違いを指摘することは混乱を巻き起こすからとかの理由で存続させるべきであるとおっしゃっても、私には聞こえません。

一方にはその間違った教えによって傷ついた人、無知の牢に閉じ込められている人、永遠の苦悶と断罪の脅迫によって悲惨な生活を強いられている人が無数にいるからです。

 わずかばかり立派そうに見えるところだけを抜き出して〝ごらんなさい。まんざらでもないじゃありませんか〟 と言ってそれを全体の見本のように見せびらかすのは、公正とは言えません。

 霊的摂理についてこれだけは真実だと確信したもの、および、それがどのように働くかについての知識を広めることが私の関心事なのです。あなたのような賢明な方たちがその知識をもとにして生き方を工夫していただきたいのです。そうすることが、個人的にも国家的にも国際的にも、永続性のある生活機構を築くゆえんとなりましょう。

 私は過去というものをただ単に古いものだからとか、威光に包まれているからというだけの理由で崇拝することはいたしません。あなたは過去からあなたにとって筋が通っていると思えるもの、真実と思えるもの、役に立つと思えるもの、心を鼓舞し満足を与えてくれるものを選び出す権利があります。

と同時に、非道徳的で不公正で不合理でしっくりこず、役に立ちそうにないものを拒否する権利もあります。ただしその際に、子供のように純心になり切って、単純な真理を素直に見て素直に受け入れられるようでないといけません」


 いわゆる 〝聖痕(スチグマ)〟について問われて───

 「人間の精神には強力な潜在能力が宿されており、ある一定の信仰や精神状態が維持されると、身体にその反応が出ることがあります。精神は物質より強力です。そもそも物質は精神の低級な表現形態だからです。精神の働きによって物質が自我の表現器官として形成されたのです。

精神の方が支配者なのです。精神は王様であり支配者です。ですから、もしもあなたがキリストのはりつけの物語に精神を集中し、それを長期間にわたって強力に持続したら、あなたの身体に十字架のスチグマが現れることも十分可能です」


 〝大霊の愛〟と、〝己を愛する如く隣人を愛する〟という言葉の解釈について問われて───
 
 「私だったら二つとも簡明にこう解釈します。すなわち自分を忘れて奉仕の生活に徹し、転んだ人を起こしてあげ、不正を駆逐し、みずからの生活ぶりによって神性を受け継ぐ者としてふさわしい人物である事を証明すべく努力する、ということです」    

Thursday, October 31, 2024

シアトルの秋 何のために生まれてくるのか

What are you born for?


    

 地上生活の目的は人間の霊性の発現を促すことです。

 地球という天体上に住む人間の一人一人に生きる目的があります。なのに大半の人間がその生活の基盤となっている霊的実在に気づいていないのは悲しいことです。まるで穴居人のように、ガランとした暗がりの中で暮らしております。視角がズレているのです。焦点が狂っているのです。

ビジョンが間違っているのです。人生がもたらしてくれる莫大な豊かさをまったく知らずにいます。霊的真理に気がつけば自分がいま何をしなければならないかを自覚して、そこに人間革命が生じます。

 われわれはみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。

 私には皆さんの人間であるが故の弱点がよく理解できます。しかし、一つ一つの問題を自分への挑戦(チャレンジ)として平然と受け止めると同時に、内部の霊性を強化し、開発し、発展させて霊性を高めるための触媒として、それを克服していかねばなりません。

 地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではのさまざまな条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、いわゆる人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。
℘19
 しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を受けた意味があるのです。つまりそうしたさまざまな浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質を顕現させることになるのです。困難と逆境とに遭遇してはじめて発揮されるものなのです。
 
 魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。

 これは、霊的叡智を求める求道者のすべてに言えることです。断腸の思い、悲痛、苦痛を体験しないことには、そのあとに訪れる恩寵の有難さが十分に理解できません。人のために役立とうとする人間は試練を覚悟しなければなりません。時には力の限界までしごかれることもあります。

 人間一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。すべてが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧にできあがっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。

 神の法則に例外というものはありません。存在するもののすべて───地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの───が神の配剤にあずかっているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。

小さすぎて見落とされたり、大きすぎて法則のワクからはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則があなたにも働いているのです。もちろん私にも、そして他のすべての人にも働いております。

 これで、作用と反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはドン底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。

そして又、皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をおもちです。


 しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在に不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。

大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。

 ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。

 そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。

元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。

 その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させ進化させていく上において必要不可欠の要素なのです。

 地上というところはバイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引きかえ霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です。

 太陽がさんさんと輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難門が無いようでは霊的真理は理解できません。困苦の真っ只中に置かれてはじめて触媒が働くのです。

 霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。鋼が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。

 黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で焼き上げねばなりません。同じことが皆さん方すべてに言えるのです。

 霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意ができなくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。

 苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。

光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。

 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。

絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。

 ですから、私たち霊界の者は魂にその受け入れ準備ができるまで根気よく待つほかないのです。馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。

 私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのおかげで、われわれのすべてを包摂し全存在に配剤した自然法則の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております。

 時おり私は地上の同志のもとを訪ねてみることがありますが、霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。

霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。

 地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器───非常事態や危機に際して活用できる霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決できない問題は何一つありません。

Wednesday, October 30, 2024

シアトルの秋 宇宙の創造原理・キリスト  

Principle of Creation of the Universe, Christ


1 顕現としてのキリスト  
一九一七年十二月十一日 火曜日


こうして通信を送るために地上へ降りてくる際に吾々が必ず利用するものに〝生命補給路〟(ライフライン)とでも呼ぶべきものがあります。それを敷設するのにかなりの時間を要しましたが、それだけの価値は十分にありました。初めて降りた時は一界また一界とゆっくり降りました。

各界に特有の霊的な環境条件があり、その一つひとつに適応しなければならなかったからです。

 これまで何度往復を繰り返したか知れませんが、回を重ねるごとに霊的体調の調節が容易になり、最初の時に較べればはるかに急速に降下できるようになりました。

今では吾々の住まいのある本来の界での行動と変わらぬほど楽々と動くことができます。かつては一界一界で体調を整えながらだったのが、いまでは一気に地上まで到達します。最初に述べたライフラインが完備しており、往復の途次にそれを活用しているからです。


──あなたの本来の界は何界でしょうか。

 ザブディエル殿の数え方に従えば第十界となります。その界についてはザブディエル殿が少しばかり述べておられるが、ご自身は今ではその界を後にして次の界へ旅立っておられる。

その界より上の界から地上へ降りて来れる霊は少なく、それも滅多にないことです。

降りること自体は可能です。そして貴殿らの観念でいう長い長い年月の間にはかなりの数の霊が降りてきていますが、それは必ず何か大きな目的───その使命を自分から買って出るほどの理解力を持った者が吾々の十界あるいはそれ以下の界層に見当たらないほどの奥深い目的がある時にかぎられます。

ガブリエル(第二巻三章参照)がその一人であった。今でも神の使者として、あるいは遠くへあるいは近くへ神の指令を受けて赴いておられる。が、そのガブリエルにしても地上近くまで降りたことはそう滅多にない。

 さて、こうして吾々が地上界へ降りて来ることが可能なように、吾々の界へも、さらに上層界から高級な天使がよく降りて来られる。それが摂理なのです。

その目的も同じです。すなわち究極の実在へ向けて一歩一歩と崇高さを増す界を向上していく、その奮闘努力の中にある者へ光明と栄光と叡智を授けるためです。

 かくして吾々は、ちょうど貴殿ら地上の一部の者がその恩恵に浴するごとく、これからたどるべき栄光の道を垣間見ることを許されるわけです。そうすることによって、はるか彼方の道程についてまったくの無知であることから免れることができる。

同時に、これは貴殿も同じであるが、時折僅かの間ながらもその栄光の界を訪れて、そこで見聞きしたことを土産話として同胞に語り聞かせることも許されます。

 これで判るように、神の摂理は一つなのです。今おかれている低い境涯は、これより先の高い境涯のために役立つように出来ています。

吾々の啓発の使命に喜んで協力してくれる貴殿が未来の生活に憧れを抱くように、吾々は吾々で今おかれている境涯での生活を十分に満喫しつつ、神の恩寵と自らの静かな奮闘努力によって、これよりたどる巡礼の旅路に相応しい霊性を身につけんと望んでいるところです。

 そういう形で得られる情報の中に、キリストの霊と共に生活する大天使の境涯に関する情報が入ってくる。渾然一体となったその最高界の生活ぶりは、天使の表情がすなわちキリストの姿と目鼻だちを拝すること、と言えるほどです。

 底知れぬ静かな潜在的エネルギーを秘めた崇高なる超越的境涯においては、キリストの霊は自由無碍なる活動をしておられるが、吾々にとってその存在は〝顕現〟の形をとって示されるのみです。が、その限られた形体においてすら、はや、その美しさは言語に絶する。

それを思えば、キリストの霊を身近に拝する天使たちの目に映じるその美しさ、その栄光はいかばかりであることであろう。


──では、あなたもそのキリストの姿を拝されたことがあるわけですね。

 顕現としては拝しております。究極の実在としてのキリストの霊はまだ拝したことはありませんが・・・・・・。


──一度でなく何度もですか。

 いかにも。幾つかの界にて拝している。権限の形においては地上界までも至り、その姿をお見せになることは決して珍しいことではない。ただし、それを拝することの出来る者は幼な子のごとき心の持主と、苦悶の中にキリストの救いを痛切に求める者にかぎられます。


──あなたがキリストを拝された時の様子を一つだけお話ねがえませんか。

 では、先日お話した〝選別〟の行われる界で、ちょっとした騒ぎが生じた時のお話をお聞かせしましょう。その時はことのほか大ぜいの他界者がいて大忙しの状態となり、少しばかり混乱も起きていた。

自分の落着くべき場所が定まらずにいる者をどう扱うかで担当者は頭を痛めていた。群集の中の善と悪の要素が衝突して騒ぎが持ち上がっていたのです。

というのも、彼らは自分の扱われ方が不当であると勝手に不満を抱きイラ立ちを覚えていたのです。こうしたことはそう滅多に起きるものではありません。が、私自身は一度ならずあったことを知っております。

 誤解しないでいただきたいのは、そこへ連れて来られる人たちは決して邪悪な人間ではないことです。みな信心深い人間であり、あからさまに不平を口にしたわけではありません。心の奥では自分たちが決して悪いようにはされないことを信じている。

ただ表面では不安が過(よぎ)る。その明と暗とが複雑に絡んで正しい理解を妨げていたのです。

口先でこそ文句は言わないが、心では自分の置かれた境遇を悲しみ、正しい自己認識への勇気を失い始める。よく銘記されたい。自分を正しく認識することは、地上でそれを疎かにしていた者にとっては大変な苦痛なのです。

地上よりもこちらへ来てからの方がなお辛いことのようです。が、この問題はここではこれ以上深い入りしないことにします。

 さきの話に戻りますが、そこへその界の領主を勤めておられる天使が館より姿を見せられ、群集へ向けて全員こちらへ集まるようにと声を掛けられた。

みな浮かぬ表情で集まって来た。多くの者がうつ向いたまま、その天使の美しい容姿に目を向ける気さえ起きなかった。柱廊玄関から出て階段の最上段に立たれた天使は静かな口調でこう語り始めた──なぜ諸君はいつまでもそのような惨めな気持ちでいるのか。

これよりお姿をお見せになる方もかつては諸君と同じ立場に置かれながらも父の愛を疑わず、首尾よくその暗雲を突き抜けて父のもとへと帰って行かれた方であるぞ、と。

 首をうなだれたまま聞いていた群集が一人また一人と顔を上げて天使の威厳ある、光輝あふれる容姿に目を向け始めた。その天使は本来はずっと高い界層の方であるが、今この難しい界の統治の任を仰せつかっている。

その天使がなおも叡智に溢れた話を続けているうちに、足もとから霧状のものが発生しはじめ、それが全身を包みこみ、包まれた容姿がゆっくりとその霧と融合し、マントのようなものになった。その時はもはや天使の姿は見えなかった。が、それが凝縮して、見よ! 

今度は天使に代って階段上の同じ位置に、その天使より一段と崇高な表情と一段と強烈な光輝を放つ姿をした、別の天使の姿となりはじめたではないか。

その輝きがさらに強烈となっていき、眼前にその明確な容姿を現わした時、頭部に巻かれたイバラの飾り輪の下部と胸部には、いま落ちたばかりかと思われるほどの鮮血の跡が見て取れた。が、

いやが上にも増していく輝きに何千何万と数える群集の疲れた目も次第に輝きを増し、その神々しい容姿に呆然とするのであった。

今やそのイバラの冠帯は黄金色とルビーのそれと変わり、胸部の赤き血痕は衣装を肩で止める締め金具と化し、マントの下にまとうアルバ(祭礼服の一種)は、その生地を陽光の色合いに染めた銀を溶かしたような薄地の紗織の中で、その身体からでる黄金の光に映えていた。

その容姿はとても地上の言語では説明できない。その神々しき天使は他ならぬ救世主イエス・キリストであるという以外に表現のしようがないのである。

その顔から溢れでる表情は数々の天体と宇宙の創造者の一人としての表情であり、それでありながらなお、頭髪を額の中央で左右に分けた辺りに女性的優しさを漂わせていた。冠帯は王として尊厳を表わしていたが、流れるようなその頭髪の優しさが尊大さを掻き消していた。

長いまつげにはどこかしら吾々に優しさを求める雰囲気を漂わせ、一方、その目には吾々におのずと愛と畏敬の念を起こさせるものが漂っていた。

 さて、その容姿はゆっくりと大気の中へ融合していった──消えていったとは言わない──吾々の視力に映じなくなっていくのをそう感じたまでだからです。その存在感が強化されるにつれて、むしろその容姿は気化していったのです。

 そしてついに吾々の視界から消えた。するとその場に前と同じ領主の姿が現われた。が、その時は直立の姿勢ではなかった。片ひざをつき、もう一方のひざに額を当て、両手を前で組んでおられた。

まだ恍惚たる霊的交信状態にあられるので、吾々はその場を失礼した。その時はじめて吾々の足取りが軽く心が高揚されているのに気づいた。もはや憂うつさは消え、いかなる用事にも喜んでいつでも取り掛かれる心境になっていた。

入神状態にあられる領主は何も語られなかったが、〝私は常にあなたたちと共にあるぞ〟という声が吾々の心の中に響いてくるのを感じた。吾々は満足と新たな決意を秘めて再び仕事へ向かったのでした。 

シアトルの秋  シルバーバーチの霊訓 (十) 一章 シルバーバーチの挨拶

 Silver Birch's Greetings


Light from Silver Birch
Edited by Pam Riva
Psychic Press Ltd.(1983)
London, England


まえがき

 人間は何のために生まれてくるのだろうか。死んだらどうなるのだろうか。もっと幸せで生き甲斐のある生活を送るにはどうすればよいのか。天地万物の背後には知的な〝こころ〟が存在するのだろうか。物的宇宙に、そして人間に、何か〝計画〟というものがあるのだろうか。

 知性の芽生えとともに、人類はこうした謎を追求しつづけてきた。そして今その解答が、かつて同じこの地球で生活し今は一段と次元の高い世界へ進化して行っている人類の先輩霊の一人によってもたらされつつある。

 その霊は人間の無知の暗闇を照らす松明の持ち手としての使命を引き受け、地上で語るための霊媒としてモーリス・バーバネルを選んだ。

 間もなくそのバーバネルを通して語るメッセージに耳を傾ける小さなグループができた。そしてそのうちの一人で〝フリート街の法王〟(英国ジャーナリズム界の御意見番)の異名をもつハンネン・スワッハーの名を冠して〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟を正式の名称とした。

 そのメンバーのうちの三人は世襲的にはユダヤ教徒であり、さらに三人はキリスト教徒だった。が、シルバーバーチと名のるその霊は 
 「我々が忠誠を捧げるのは一つの教義でもなく、一冊の書物でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の大自然の摂理です」
と語るのだった。

 一人の人間が人類全体の命運を左右することは現実に有りうることである。イエスがそうだったし、ヒトラーがそうだった。このモーリス・バーバネルとシルバーバーチという二つの世界にまたがるコンビは、以来、数え切れないほどの人々の人生を変え、悲しむ人には慰めを、絶望の淵に沈む人には希望を与え、今や世界のすみずみまでその愛好者が増えつつある。

 ところで、そのシルバーバーチとはいったい何者であろうか。

 それについては、最も身近かな存在である霊媒のバーバネルも、一九二〇年に始めて入神させられてシルバーバーチのマウスピースとなった時に何も知らなかったことは、間違いない事実である。そしてそれから六十一年後に他界するまで、もしかしたら知っていたかも知れないが、ひとことも口にしていない。

 が、彼はその六十一年の歳月を支配霊シルバーバーチの語るメッセージを世界中に広めることに献身した。他界する当日まで倦むことなく忠実にその使命を全うし続けた。本書には彼による最後の交霊会の霊言が収録されている。

 私はこの霊言集を次の三人の先達に捧げたい。すなわち優れた編集者であり、ジャーナリストであり、作家であり、また実業家としての才も見せた霊媒のモーリス・バーバネル、四十九年間にわたってその地上での良き伴侶であった奥さんのシルビア、そしてサークルのメンバーであり同時に霊言の速記者でもあったフランシス・ムーア女史である。                パム・リーバ

一章 シルバーバーチの挨拶

 私たち霊団の者は、一種名状しがたい暗闇に包まれている地上各地において、大々的救済活動に従事しております。霊の光がその暗闇を突き破り、人間が全生命の根源──物質的に精神的に霊的に豊かにする崇高な霊力の恩恵にあずかれるようにしてあげなければならないのです。

 進歩は遅々たるものです。克服しなければならない障害が山ほどあります。が、着実に進展しつつあります。各地に新しい橋頭堡が築かれつつあります。霊力はすでに地上に根づいております。それが、幾百万とも知れぬ人々に恩恵をもたらすことでしょう。

 私をはじめ、私を補佐してくれる霊団の者、そして地上にあって私たちの道具となってくれるあなた方は、この気高い事業に奉仕する栄誉を担っているわけです。それ故にこそわれわれは、双肩に託された信頼をいかなる形にても汚すことのないように心掛ける責任があると言えます。

あなた方は霊力を活用する立場にあります。私も同じです。そして必要とあれば私は、こうして私たちがあなた方のために尽力しているように、あなた方が他人のために自分を役立てるための霊力を、さらに余分に引き出すこともできます。

 これまでに啓示していただいた知識のおかげで、われわれは背後に控える力が地上のいかなる霊力よりも強大であるとの認識によって、常に楽観と希望をもって臨んでおります。敗北意識を抱いたり意気消沈したりする必要はありません。

すべて神の計画どおりに進行しており、今後もそれは変わりません。人間が邪魔することはできます。計画の進展を遅らせることはできます。が、宇宙最高の霊が地球救済のために開始した計画を台なしにしてしまうことはできません。

 われわれが有難く思うべきことは、地上的なものが提供してくれるいかなるものにも優る、物質の領域を超えた、より大きくより美しい生命の世界をかいま見ることを可能にしてくれる霊的知識を手にしていることです。

その世界には、地上に豊かな恩恵をもたらす霊力の道具としての人間を援助し鼓舞し活用することを唯一の望みとしている、進化せる高級霊が存在することをわれわれは、信仰ではなく事実として認識しております。

 その霊力は病気を癒やし、悲しむ人を慰め、道を失った人を導き、無知を知識に置きかえ、暗闇を光明に置きかえ、生きる意欲を失った人には元気を与え、真理に渇いた人の心をうるおし、真の自我を見出そうとする人には神の計画に基づいたガイドラインを提供してあげます。

 援助を求める祈りが聞かれないままで終わるということはありません。人のために何か役立つことをしたいという願いが何の反応もなしに終ることはありません。霊界においては、自分より恵まれない人のために役立てる用意のある地上の人間を援助せんとして万全の態勢を整えております。

ただ単に霊感や啓示を手にすることができるというだけではありません。霊力という具体的なエネルギーの働きかけによって、受け入れる用意のできた魂にふんだんに恩恵がもたらされるのです。
 
 その道具として、内部の神性をより多く発揮すべく、進化と発達と開発のために不断の努力を怠らないというのが、われわれの絶対的な義務です。

 生命に死はありません。墓には生命を終わらせる力はありません。愛にも死はありません。なぜなら愛は死を超えたものだからです。この生命と愛こそ、われわれが所有しかつ利用することのできる大霊の絶対的神性の双子(ツイン)です。それを発達させ開発させることによって、われわれより恵まれない人々のために、他の資質とともに活用することができます。

 今の地上は大霊すなわち宇宙の神よりも富の神マモンを崇拝する者の方が多くなっております。本来ならば人間生活を豊かにする霊的知識を携えた霊的指導者であるべきはずの宗教家がまずもって無知なのです。

霊的真理とは何の関係もない、人間が勝手にこしらえた教義や信条やドグマを信じ、それに束縛されているからです。洞察力に富んでいなければならない立場の人みずからが、悲しいかな、一寸先も見えなくなっているのです。

 そのために、霊の力を地上に顕現させ、生命と愛とが永遠であるとの証拠を提供し、医者に見放された患者を治してあげることによって霊力の有難さを味わわせてあげるためには、いろいろとしなければならないことがあるわけです。

 霊力の機能はそれ以外にもあります。日常の生活において他のすべての策が尽きたと思えた時の支えとなり、指示を与え、導きます。

宇宙機構の中における地上の人生の目的を認識することによって、各自がその本性を身体的に精神的に霊的に発揮できる道を見出し、かくして、たとえわずかな間とはいえ、この地上での旅によって、これ以後にかならず訪れる次のより大きい生命の世界に備えて、大自然の摂理の意図するままに生きられるように導いていきます。

 自分はこれからどうなるだろうかという不安や恐怖を抱く必要はどこにもありません。霊は物質に勝るのです。大霊はいかなる地上の人間よりも強大な存在です。いつかは必ず神の計画どおりになるのです。

 そのためには、あなた方人間の一人ひとりに果たすべき役割があります。いま住んでおられるところを、あなたがそこに存在するということによって明るく豊かにすることができるのです。そのための指針はあなたが霊的に受け入れる用意ができたときに授けられます。

 いったん宇宙の最大の力とのつながりができたからには挫折は有り得ないことをご存知ならば、いつも明るく信念と希望に燃えてください。あなたを愛する霊たちがいつでも援助に参ります。

あなたと地上的な縁によってつながっている霊だけではありません。霊的知識を地上全体に広めるためにあなたを霊的通路として活用せんとしている上層界の霊である場合もあります。

 私からのメッセージはいつも同じです───くよくよせずに元気をお出しなさい、ということです。毎朝が好機の訪れです。自己開発のための好機であると同時に、あなた自身ならびに縁によってあなたのもとを訪れる人々の地上での目的が成就される、その手段を提供してくれる好機の訪れでもあります。


  シルバーバーチの祈り

 私ども一同は、暗黒と無知と迷信と利己主義と暴力、そのほか地上のガンともいうべき恐ろしい害毒を駆逐することによって、神の永遠の創造活動にわれわれならではの役目を果たすことができますよう祈ります。

 私どもの仕事は、そうした害毒に代わって、神の子等が内部にその可能性を宿している燦爛たる光輝を発揮させる崇高な知識を授けることです。

これまでに私どもが授かった恩恵への感謝の表明として、私どもは今後ともその崇高な叡智と霊力の通路たるにふさわしい存在であり続け、恵まれない人々を救い他の人々に救いの手を差しのべ、生き甲斐ある人生の送り方を教える、その影響力の及ぶ範囲を強化し、そしてますます広げていく上で少しでもお役に立ちたいと祈る者です。

 ここに、常に己を役立てることのみを願うインディアンの祈りを捧げます。

Monday, October 28, 2024

シアトルの秋 三つの出張講演から 

From three visiting lectures



《このたびこうして私をお呼びいただき、ささやかながら私がたずさえて来た知識を皆さんと分け合うことになったことを光栄に思っております。この新たな体験によって私が何らかのお役に立てば、こうして皆さんの前にお邪魔した甲斐があったことになります。

皆さん方はすでに霊的実在についての知識をお持ちの方ばかりです。したがって私から改めてその重大性、とくに今日の地上世界における不可欠性について強調する必要はないと思います》                

シルバーバーチ 
      
                                       
 永年ハンネン・スワッハ―・ホームサークルだけを拠点として語り続けてきたシルバーバーチが、最近になって三つのスピリチュアリストの団体からの招待に応じて、それぞれの本拠地で講演と一問一答を行った。  


 一つはコペンハーゲンで開催された国際スピリチュアリスト連盟 International Spiritualist Federation の総会において、二つ目は英国心霊治療家連盟 National Federation of Spiritual Healers において、三つ目は大英スピリチュアリスト協会 Spiritualist Association of Great Britain において、それぞれの評議会員を前にして行われた。


 ◎ I・S・F (国際スピリチュアリスト連盟) での講演と一問一答

 「私たち霊界側から言わせていただければ、こうした機会をもつことは皆さんの意識の焦点と視野を正しく修正する上でまことに結構なことだと思います。この霊的大事業にたずさわっておられる皆さん方も、ややもすると日常生活の煩雑さや揉めごとに巻き込まれて、こうして地上でいっしょに仕事をしているわれわれを鼓舞している雄大な理想像(ビジョン)の無垢の美しさを、つい忘れがちだからです。

 物質の世界に閉じ込められ、肉体をもつが故の数々の義務を背負っておられる皆さんにとって、自分が本来は霊的存在であることを忘れずにいることは難しいことでしょう。が、皆さんの本性の中を神の力が流れているのです。

また皆さんの中の大勢の方が霊的能力を授かっておられます。それは自分より恵まれていない同胞のために使用することができます。

 皆さん方が進まれる道は決して容易ではありません。それは皆さんが、潜在的な霊的資質を開発するチャンスをみずから欲するだけの器量を具えていらっしゃるからです。神の使節に気楽な人生は有り得ません。進化と向上を求める者、地上の人間として到達しうるかぎりの高級界に波長を合わせんとする者にとって、安易な道は許されません。

近道など有りません。酷しい試練と絶え間ない危険との遭遇を覚悟し、今たずさわっている仕事、それは実は───これがいつも議論のタネになるのですが───皆さんが地上へやってくる前にみずから志願されたものなのですが、それをあくまでも成就させんとする決意を要請されます。それは皆さんがみずから選択された道なのです。

 霊的闘争における勝利はそう簡単には得られません。霊的なものが支配権を握るに至る過程は長くて過酷なものです。が、一度手中にすれば、それは永遠です。決して失われることはありません。

霊の褒章は決して傷つきません。決してサビつきません。決して腐食しません。永遠に自分のものとなります。それは皆さんが、皆さんの一人一人が、みずからの努力で勝ち取らねばならない、永遠の財産なのです。

 皆さんとともに仕事をしている私たち霊界の者が、いくら皆さんを愛し、窮地にあって守り導き、道を教えてあげようと望んでも、所詮は皆さん自身の道なのです。その道を進むのはあなた方自身です。そして一つの困難を克服するごとにあなた方自身が霊性を強化し、霊的な仕事にたずさわる者として、より大きな資格を身につけて行かれるのです。

 ですから、困難の挑戦を大いに歓迎することです。困難を避けたいと思うような者は神の仕事には無用です。闘いの真っ只中、しかも物質万能思想との闘いという最大の闘争において、あまりの激しさに将軍や指揮官が敵前逃亡をするようなことがあっては断じてなりません。耐え忍び、みずから志願したこの神聖なる仕事を成就すべく、鍛えられ、しごかれ、また鍛えられ、しごかれなければならないのです。

 われわれに対抗する勢力は、地上においても霊界においても、実に強力です。しかし、いかに強力といっても、神の意志をしのぐほどの力はありません。永年にわたって地上での仕事にたずさわり、幸にして地上での神の計画の一部を知ることを得た私が絶対的確信をもって申し上げますが、霊力はすでに地上に根づいております。

すでに地上生活に浸透しているその霊力を駆逐する力は、物的世界に帰属する勢力、すなわち宗教界の有力者にも、新聞にも、医師にも、あるいはそうした勢力がいかなる形で結集したものにもありません。

 すぐれた霊の道具(霊能者・霊媒)の出現によって世界各地に霊力の前進基地がすでに設けられ、今その地固めが行われているところです。そこを拠点として、神の子等が一体自分はどこの誰なのか、何者なのか、なぜこの地球上に存在するのか、その存在の目的を成就するには何を為すべきかを、みずから理解して行くことになるのです。

 皆さんはこのたび海山を越えて遠く隔てた国々から集まってこられましたが、皆さんを結集させた力は、ふだん他人のための仕事においてわれわれを鼓舞している力と同じものです。私たちは自分のことは何も欲していません。

名誉も求めません。ひたすらお役に立ちたいと望み、神の子等が、霊と精神と身体とが調和的に機能した時に得られる充足感、豊かさ、美しさ、生きる喜び、こうしたものを味わえるようになる生き方をお教えしようとしているのです。

あなた方は自分を役立てる掛けがえのない好機を手にしていらっしゃいます。そして他人のために自分を役立てることほど偉大な宗教的行為はないのです。

 それは神の愛の働きにほかなりません。このたびこのデンマークの地に世界のスピリチュアリストの代表が総結集し、神の計画の推進のための会議をもつことになったのも、その愛、その叡智、その霊力の働きによるのです。

 ですから、時として闘いが酷しく、長く、ともすると投げやりな気持ちになりそうなことがあっても、決して挫けてはなりません。もしも挫けそうになった時はいったん物質界から身を引くことです。

気持ちの流れを止め、精神を統一して、内部の霊的バッテリーが充電される状態にするのです。一新された生命力、一新された元気、そして一新された目的意識をみなぎらせるのです。かくして元気百倍して物的世界に戻り、仕事を続けるのです。

 本日はこうしたメッセージをお届けする機会をこの私にお与えくださったことを感謝いたします。これは私個人の考えではありません。私をこの地上に派遣した霊団からのメッセージを私が取り次いだまでです。私と同じように他の多くの霊が地上へ派遣されており、皆さんとの協調関係を通じて、いかにわれわれが神の計画において一体であるかを理解していただくように配慮してくださっているのです」


───われわれの運動も内部に大きな問題を抱えております。本来なら団結すべきところでそれがうまく行かず、ために強力な態勢が整いません。何とかそれを改善するよい方法はないかというのが私の大きな関心事なのですが、何かよいコメントをいただけますでしょうか。

 「団結というのはそう簡単には成就できないものです。命令によって強制できる性質のものではありません。理解力の発達とともに徐々に達成していくほかはありません。問題は、人類の一人一人が知的にも道徳的にも霊的にも異なった発達段階にあることです。一つの共通した尺度というものがないのです。

あなた方の仕事においてさえも、各自の霊的進化のレベルが異なるという、その単純な事実に由来する衝突がたくさんあります。

 霊的覚醒というのは霊性の進化とともに深まるものです。となると、あなたが高級霊との一体関係を確立しても、あなたと同じ発達段階に到達していない者がそれに参加することができないのは明白なことです。したがってあなたはあなたとして活用しうるかぎりの手段を駆使して最大限の成果をあげることに努力するしかないわけです。

 この問題は私たち霊界の者にとっても無縁の問題ではありません。私たちも常に同じ問題に直面しているからです。私たちは地上の人間を道具として仕事をするのですが、その中には霊界側として期待している水準にまで達しない者がいます。しかし、それはそれとして最善を尽くすしかないのです。

 そうした事情のもとでも、光明が次第に広がりつつあることに皆さんもいずれ気づかれるはずです。大切なことは、このたびのように伝統も環境も異なる世界各地から、言語も考えも異なる代表が一堂に会する機会をもつことです。その場で、たとえば他の国での成果を知って、それを後れている国の人がよい刺激とすることができます。

  案ずることはありません。あなた方は自分なりの最善を尽くせばよいのです。もうこれ以上はできないというところまで努力したら、それ以上はムキにならず、あとは私たちに任せる気持におなりなさい。人間は自分にできるかぎりの努力をしていればよいのです。それ以上のことは要求しません」


 ───でも、何かよい秘訣のようなものはありませんか。


 「真理を理解するということ以外に秘訣はありません。たとえば再生の問題は人間には解決できない難問の一つです。人間はすぐに〝証拠〟にこだわりますが、再生は証拠によって確信が得られる性質のものではありません。証拠などといっても、ただの用語にすぎません。確信というのは内部から湧き出てくるものです。

魂に受け入れ準備が整えば理解がいきます。その理解こそ大切で、それが唯一の確信です。科学は刻一刻と変っていき、その領域を広げつつあります。知識というものは固定したものではありません。一方、確信というのは真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟りです。

 この再生に関しては地上では、当分の間、意見の一致は見られないでしょう。理解した人にとっては至って単純なことであり、容易に納得がいきます。一方、理解できない人にとっては、ひどく難しく思えるものです。ですから、忍耐強く待つことです。意見の一致が得られないからといって組織がつぶれるわけではありません。

 何につけ、議論することは結構なことです。意見が衝突することは結構なことです。自然は真空を嫌うと言います。惰性は自然の摂理に反します。作用と反作用は正反対であると同時に相等しいものであり、同じエネルギーの構成要素です。立ち止まってはいけません。

大いに議論し討論し合うことです。沸騰した議論がおさまった時、そのつぼの中から真実が姿を現すことでしょう」