Monday, October 12, 2026

霊訓〈完訳・下〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






21節

本節の内容
*著者の反省と反論
*回答
*霊団には果たさねばならぬ至上命令がある
*物理実験の禁止
*インペレーターの最後の嘆願
*判断を誤らぬよう神に祈れ
*インペレーターの祈り



〔この時期の私の精神状態はいかなる種類の現象にも満足できなくなっていた。私を支配している影響力は強烈で、私が何をやろうとしても満足を与える結果をもたらしてくれなかった。そして私をしきりに、過去を吟味するよう、そしてそこからまとまった見解を得るように仕向けるのであった。私の背後で何が行なわれているのか、当時は皆目理解できなかったが、今にして思えばそれは私の霊的教化の一環であった。私は幾度も幾度も過去を徘徊させられた。そしてそれまでの通信の内容をあらゆる観点から吟味し、再びそれをばらばらに分解してしまうことを余儀なくされた。昼も夜も心の安まることがなかった。それほど、私を支配した力は強烈だったのである。私の心がこの通信以外のことを思うのは僅かに毎日の教師としての仕事に携わっている時だけで、これだけは一切邪魔されることはなかった。そこで私は自分で厳律を設けた。それは通信に係わる問題を考えるのは日課を終えてから、ということで、これはここ十年間守り続けている。日課を終えて、さて、と思うと、とたんに私の心は通信の問題に襲われるのだった。

さんざん考え抜いたあげくに、私はこれまでインペレーターが相手にしてくれなかった問題をこれ以上いくら蒸し返しても無駄であるとの結論に達した。インペレーターの頑な態度には何か特別の意味があると観たのである。私はインペレーターの要求を何一つ拒絶したことはなかったが、逆にインペレーターは意味がないと思われることは完全に無視する態度に出ていた。が、この目に見えない知的存在が一体何者であるかについて私なりの得心を得るための証拠を要求する権利が絶対にあると考えた。それによって自分が決して自分の空想や妄想、あるいは私を騙さんと企む一団によって弄(もてあそ)ばれているのではないとの確信が得られると思ったのである。そこで私は率直に私の苦しい心境を述べ、それが未だに相手にされていないこと、私から手を引くかも知れぬとの脅しは事態を悪化させるばかりであると述べた。さらに私はこれからも待つ用意があること、これまでの通信を吟味するつもりであること、そしてこれ以後に付け加えてくれるものがあれば、それも読んで吟味したいとも述べた。しかし同時に、身元についての得心が得られるまではこれ以上先へ進むわけにはいかないとも断言した。私の態度に対する非難に具体性がなく曖昧であること、そして私が置かれている精神状態はあのような表現では正しく表現されていないと指摘した。またイエス・キリストがしるしを見せろとの要求を全部拒絶し、自分の言葉だけで十分であると述べたのは確かに重要なポイントではあるが、これを引き合いに出すのは危険ではないかとも述べた。総引き上げの脅しの件については、そんなことをすればそれは私を、不信とは言わないまでも、半信半疑の状態のまま放置することであり、結果は事態を私の手に負えない混乱状態に陥れることになるのみであること、何とか収拾がつけば為になる要素もあるかも知れないが、そうでなければまずもって無用であり、無益であり、そんなことをしても無駄であると述べた。するとすぐに返事が来た――〕


友よ、そなたの言わんとするところはよく判った。その言い分にも妥当性を認めたく思う。われらがあのような厳しき言葉にてそなたを責めたのは、情報を得んとする欲求そのものではなく、われらに応じきれぬ条件を強要するそなたの心の姿勢である。またわれらはそなたのしつこき反抗的態度、少なくともその時のそなたの不安と不信の念がわれらに与える印象を是非とも知らしめたいと考えた。あのような乱れた精神状態はわれらの妨げとなるからである。われらには果たさねばならぬ使命がある。徒に無為に過ごし、貴重なる時と機会を無駄にするわけにはいかぬ。為さねばならぬ仕事がある。何としても果たさねばならぬ。そなたのサークルがだめであれば他のサークルを通じて果たさねばならぬ。われらが総引き上げの意図がある旨を述べたのは、要求を満たさねば先へ進めぬとのそなたの言い分を受け入れたからに他ならぬ。われらとしては、そなたの要求に応じるわけにはいかなかった。故に総引き上げの必要を感じたのである。われらも、せっかく築き上げた関係を打ち切り、辛苦の中に成就せる仕事を一からやり直すことは元より望むところではない。将来はより一層強く支配することになるかも知れぬ。休息と反省とがわれらとそなた自身にとりて良き薬となるかも知れぬ。今はひたすら瞑想し、交霊会は滅多に催さぬがよい。よくよく真剣なる要求のないかぎりは交霊会には応じぬ。これまで述べたこと以上のことを付け加える意図も全くもたぬ。そなたの要求する条件も感心せぬ。そのような条件が一つ増えるごとに環境が変化を来し、それが余計な心配と手間の原因となる。好都合をもたらす見通しでもあれば文句は言わぬが、この際はその見通しもなく、それ故にそなたの提案に同意するわけにはいかぬ。

そなたが霊媒となりて行なう全ての物理的実験をこれ以後絶対に禁ずる。それによる肉体的消耗にそなたは絶対に耐えられぬ。昨今は余りに物理的現象に重きを置きすぎている。現象はせいぜい副次的な意味しか持たぬ。しかもそなたは他のサークル活動にも顔を出すという危険を冒している。すべて差し控えてもらいたい。徒に進歩を遅らせ、ついには危害と落胆を蒙るのみである。そのような手段では益になるものは得られぬ。これまでは敢えて出席を阻止するまでのことはしなかったが、これ以後は阻止せねばならぬことを承知されたい。われらとの仕事を継続するかぎりは、他のサークルの影響は排除してもらわねばならぬ。これは肝心なことである。排除してくれなければ、われらの仕事は一層困難となり、他の霊に憑依される危険性もある。その霊たるや、そなたがもしも本性を知ればそなたのほうから逃げ出したくなる類のものであり、およそわれらと仕事を共に出来るしろものではない。そなたの霊能が他のサークルの他の霊に役立つと思うのは誤りである。われらは敢えて阻止する。そのような方法では証拠は得られぬし、他の霊媒の為にもならぬ。むしろ逆効果である。さようなことにそなたが使用されるのを見過ごすわけにはいかぬ。

そなたが持ち出せる問題につきて今はこれ以上深入りはせぬ。もしもわれらがそなた本来の実直さと忠節を認めていなければ、疾(と)うの昔にこれほど実りなき苦労は中止していたであろう。今少し賢明であれば行なわずに済んだであろうことをそなたは無知なるが故に行なってきた。そなたの同志たちもわれらが期待したほどには援助になっていないが、彼らにも、そしてそなたにも、出来るかぎりの利益をもたらしてきたつもりである。しかし、こうした問題においては、われらの力にも意志にも限界がある。しかも全体的にみてそなたに相応しからぬものを押しつけることになれば、われらに配慮が足らなかったことになる。これより後も援助することになろうが、差し当たりこの時点ではこれ以上のことは出来ぬ。新たな試みをするつもりもない。これ以上無益なる時間と労力とを費すことは出来ぬ。無益であることはそなたの状態を見て悟ったのである。そなたの言説を聞けば少なくともそなたの知力はわれらの仕事の本質を理解しておらぬことが判る。大前提として要求する例の実験(1)には応じられぬし、応ずる気にもなれぬ。そのようなことで確信が得られるものでもなく、神の使徒であることの保証が得られるものでもない。そのような要求に応じてもそなたはまた新たな要求を突きつけてくるであろう。確信というものはそのような物理的手段によって確立されるものではないのである。

それよりも、これまで為されてきたことをよく吟味するがよい。そなたは目の前に提出されたものを脇へ押しやっている。得心のいかぬものを率直に拒絶すること自体、少しも非難はせぬ。が、一旦拒絶されれば最早やわれらとしては他に取るべき手段を知らぬ。故にそなたの選択は永遠なる重要性を秘めている。そしてそなたはすでに選択を行なっているやに察せられる。それが果たして賢明なる選択であるか否かは時が証明してくれるであろう。そしてその時に、その選択の誤りを幾分かは修正することが出来るかも知れぬ。が、願わくば今、細心の反省を行なうことによって、その選択を撤回してくれることを祈るものである。

(†インペレーター)


〔翌十月四日も引き続いて通信が来た。その中には余りに私的な内容のものが含まれているので、その部分の公表は控えさせていただく。が、全体として極めて威厳に満ちた言葉で綴られ、しかも最初は祈りの言葉で始まっている。内容的には結局これまでの主張の繰り返しであるが、部分的には私の要求の幾つかに譲歩を示している。とくに総引き上げの件についての譲歩は印象的で、純粋な人間的理性がにじみ、これまでの通信に終始一貫して見られる理路整然とした論理の典型を思わせるので、幾分私的な色彩があってもそのまま紹介する。極めて読み易い文字で、しかも猛スピードで書かれ、書き終るまで私にもその内容が判らなかったほどであった。〕


神の僕(しもべ)として、使者として、そなたの指導霊として、また守護霊として、余はそなたに神の御恵みの多からんことを祈る。至聖にして慈悲深き天なる父の祝福のあらんことを。目にこそ見えざれども、そなたを包む力強き神の御力が、何とぞそなたを良きに計らい給わんことを。

われらは今、これ以後の計画を全て放棄する前に是非とも暫くの間(ま)を置くようにとの要請を受けている。特に○○氏〔他界したばかりの私の友人で、死後すぐに通信して来た〕より強き要請があった。彼は信仰問題で今そなたが置かれている苦しき事態につきて、われらより生々しく、かつ強烈なる印象を有しているのであろう。われらの仕事はそなたが駄目であれば別の者を通じて成就することになろうが、それはそれとして、とにかく暫くの間を考慮してやってほしい――そなたほどの証を手にする者が最後まで完全なる確信に抵抗し得るはずはない、というのが彼の言い分である。そなたの視点、いかに公明正大なる精神も免れ得ぬ偏見、それに交霊につきまとう様々な困難――こうしたことも考慮せねばならぬ。そなたには疑わしく思えても、われらにはその真相を知り尽くしているが故に、そなたのその頑な態度がいかにも合点がいかぬが、それでも尚われらはその疑念に率直さと現実性を認め、それをこれよりのちの確信の可能性の尺度であるとの希望を抱いている。

これまでわれらは、そなたの心が近づき難き雰囲気に包まれておらぬ限り、そなたの悩みに答えてきた。が、あれほどの辛苦の末に結成せるサークルも用を為さぬほどに分裂し、殆どの交霊会において、われらの手に負えぬほどに調和を欠くに至った以上、もはやわれらの計画も挫折し、これ以上の努力の意味なしと判断せざるを得なかった。物理実験のしつこき要請はわれらの望むところと余りに掛け離れていた。われらはこのような目的でそなたを選んだのではない。仮にそうであったとしても、そなたの身体をあのような現象で消耗させるわけには参らぬ。さなきだに激しき消耗を強いられる生命力と絶え間なく動揺する身体的特質を考慮した時、とてもあのような実験を許すわけにはいかぬ。あの種の実験にはそれなりの体質を必要とする。それには逆に精神的現象の不得手な、より動物的体質の者が相応しい。そなたを通じてわれらはこの手段(2)によりて言いたきことを実に効果的に伝えることを得て来た。が、振り返ってみるに、その大部分はそなたの抗議への対応に終始し、サークル活動もその所期の大目的は未だ達成されぬままである。

そうした中において、更にそなたはわれらが不可能かつ不必要とみる実験を要請してきた。その折われらは、これを更に要求してくる先がけに過ぎぬと受けとめた。そしてそなたがわれらのこれまでの言説を十分に吟味していないとみた。その上われらは、証拠を出そうと思えばそなたが要求しているもの以上のものを、折を見て出すことも出来た。そこでわれらは、いっそのことこの仕事を止めてしまえば、言い換えれば、われらがこの通信の仕事から暫し引き上げてしまえば、多分そなたの心はおのずと過去へと向い、そこより正しき教訓を学んでくれると判断したのである。が、別な観方も出来る。つまり、たとえわれらが引き上げたところで、そなたの霊的能力まで消すことは出来ぬ。われらが使用を中止するということに過ぎぬ。するとその霊力が他の霊によりて牛耳られ、悪だくみと虚偽の侵入を許し、遂にはわれらの仕事が完全に挫折してしまうことになりかねぬ。その危険を無視するわけにはいかぬ。今もしそなたをそのような状態に放置すれば、そなたが懐疑より不信へと陥るであろうことも十分承知している。直感的判断力より遙かに幅を利かせているそなたの論理的判断の習性のために、そなたは恐らく、出なくなったものは信じなくなるものと思われる。印象が薄れ、やがて消滅していくことであろう。

そこで困難を避ける唯一の道は辛抱づよく待つことであるように思われる。将来を予言することは出来ぬが、そなたの前に二本の道が横たわっていること、そのいずれを選ぶかはそなたの理性が決めることであること、その二点に間違いはない。われらにも選択を迫りたい希望はあるが、それを強要する資格は持たぬ。責任はすべてそなたにある。選択に誤りがなければそなたの魂は進歩と啓発の道を歩むことになろう。その道を拒絶すれば当然暗黒と退歩の道を進むことになろう。それもこれもそなたの判断次第で決まることである。われらとしては、これまでの主張を一語たりとも削るつもりはない。むしろ更に強調したいほどである。その実相についてはこののち更に一層明確に理解することになろう。が、今は神の使徒としてのわれらの存在とこれまでの教説について真摯に、祈りの心を込めて細かく吟味するがよい。過去を振り返ることである。教説を吟味することである。記録を分析し、その中よりそなたの結論を引き出すのである。その間の進歩の跡に注目せよ。神より出でたる教義がいかに入念なる配慮によって仕上げられてきたか、その過程に注目せよ。そしてその過去を踏まえて将来への展望を広げてみよ。今そなたはまさに重大なる境界線上に立てること――魂の進歩の前に取り除かねばならぬことが数多くあること――建物を構築するに先立ちて地ならしの工事が必要であること――永遠がそなたを待ち受けていること――われらが扉を開くカギを授けんとしていることをよく認識されたい。

どうか、二度と訪れぬこの機を拒絶する前に、暫し間を置いてみられることを切望する。拒絶したが最期、それは暗き影となりて永遠にそなたの魂につきまとい続けることであろう。受け入れれば、それは魂の宝となりて永遠にその輝きを増し続けることであろう。

祈れ。父なる神に祈れ。そなたを守り、われらをして引き続きそなたを導くことを得さしめ給わんことを祈れ。冷ややかにして陰気なる地上の雰囲気より脱し、そなたを導かんとして待機せる明るき霊との交わりを求めて祈れ。そなたほど厚き看護を受けし者はおらぬぞ。その看護をそなたほど無益にした者はおらぬということになっても良いというのか。そうならぬよう、また身体的にも霊的にも邪(よこしま)なる影響力より護られるよう、そしてまたより高き知識の海原へ、さらにより確固として揺るぎなき信頼へと導かれるよう、そなたと共にわれらも祈ろう。

父よ! 永遠にして無限、全知全能なる神よ! 子なるわれらに、御前に近づき願いごとを述べさせ給え。きっとお聞き届け下さると信ずる故に他なりませぬ。永遠なる神よ、何とぞわれらを妨げんとする者たちと障害物を取り除き給え。疑う心に一条の光を照らされ、暗き心の片隅を明るく照らし、潜み隠れる敵対者を払いのけ給え。われらの労苦に慰めの愛を授け給え。労苦が大なれば、それだけその愛も大なるを要します。仕事が大なれば、それだけ愛の力も大なるを要します。全能なる神よ、何とぞ御力を授け給え。われらの讃仰の御しるしと致させ給え。御前に感謝と崇敬の念を表明し、心からの敬慕の念を捧げさせ給え。われら天使より、御力の御しるしたる宇宙を通じて、御身に栄光と祝福と名誉と讃美の祈念を捧げ奉ります。

(†インペレーター)


〔この通信が事実上これまでの一連の議論の締め括りとなった。むろん私がこれであっさりと確信したわけではない。暫しの議論の小休止、とくに霊界との係わりを全面的にストップしたことが、私にこれまでの通信の経過を自由な気持で振り返らせることになった。それまでの霊的影響力を直接的に受けなくなってからは、以前よりも冷静に判断できるようになり、通信の実直さと誠意と真実性に対する確信が徐々に芽生えてきた。と言うよりは、信仰心が実感を伴って深まり、知らない間に懐疑心が薄れていったと言った方がよいであろう。〕


〔注〕

(1)他の霊媒を通じてインペレーターがしゃべり、モーゼスを通じて働きかけている霊と同一であることを証明し、そうすることで、その存在が客観的存在であり、モーゼスの第二人格でないことを証明するということ。

(2)自動書記通信。

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch

Edited by A.W. Austen
近藤 千雄訳



七章 動物は死後どうなるか

  動物は死後どうなるのか───これは誰しも一度は考えてみたことのあるテーマであろう。ある日の交霊会で、そのテーマを本格的に扱った本を執筆中のシルビア・バーバネル女史がシルバーバーチに集中的に質問した。

(訳者注───のちにそれが、When Your Animal Dies と題されて出版され、スピリチュアリストに限らず動物問題に関心のある人たちの間でも大反響を呼んだ。それを読んで人間の死後の存在に確信を持つに至った人も少なくないという。オースティンの原典にはその日の交霊会の記録の十分の一程度しか紹介されていないので、本章にはバーバネル女史の原典からそっくり引用させていただいた)


問 「動物は死後もずっと飼い主と一緒に暮らすのでしょうか。それともいずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」

 「どっちとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛が関っているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かはその動物に対する飼い主の愛一つにかかっているのです。もしも動物とその飼い主───この飼主(Owner)という言葉は好きではありません。

他の生命を我がものとして所有する(own)などということは許されないのですから───その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼い主のところで暮らします。愛のある場所が住拠となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は住処がありますから動物界へ行く必要はありません。

 動物界に住むのは飼主より先に霊の世界へ来た動物に限られます。誰かに世話をしてもらわなくてはならないからです。さもないと、心を温めてくれただけでなく一時的にせよ〝不滅性〟の要素を吹き込んでくれた〝愛〟から切り離されて、動物といえども心を取り乱すことがあるのです。

地上で人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けた飼主より先に他界した場合は、その主人が来るまで、動物界へ行ってそこで面倒をみてもらいます。それはちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家に預けるのと同じで、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」


問 「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

 「長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは、法則の働きによって動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身に付けたわけです。

すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが目覚めるには神の息吹きが必要でした。

 さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込む能力を具えています。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。

愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同志でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。人間が可愛がる動物───犬、猫、その他のペット類───へ向けられる愛は死と共に終わるのではありません。愛があればこそ生命は進化するのです」


問 「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」

 「いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違います。より大きな光明へ向けて絶え間なく向上していく人間のペースについて行けなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、言いかえれば自分を地上と結びつけていた絆が切れたことを自覚すると、向上進化を求める欲求、内部の神性を発揮しようとする欲求が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力を他の生命の進化を援助する方向へと発揮しようとします。

そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はそのスピードについて行けなくなり、やがて死後も燃え続けた愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます。


問 「すると動物の場合は個性を失ってしまうということですか」

 「その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体として未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間の段階に到達したことになります。ペットとして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び越えて人間と一緒に暮らすわけですから、その愛の糸が切れてしまえば、もとの類魂の中に戻るほかはありません」


問 「せっかく人間との接触で得たものが消えてしまうのでは愛がムダに終わったことになりませんか」

 「そんなことはありません。類魂全体に対して貢献をしたことになります。類魂全体としてその分だけ進化が促進されたことになるのです。共通の蓄えに対する貢献です。今までその類魂に無かったものが加えられたわけです。全体のために個が犠牲になったということです。

そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて、人間の形体での個体としての存在が可能な段階へと進化していきます」


問 「その時点で人間界へと誕生するわけですか」

 「人間界への誕生には二種類あります。古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と〝新しい霊〟が物質界で個体としての最初の段階を迎える場合です」


問 「一人の人間としてですか」

 「そうです。双方とも霊魂(スピリット)です。双方とも自我意識を持った霊であり個性を持った霊的存在です。ただ、一方がベテランの霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上へやってくるのに対し、他方は、やっと人間の段階にまで達した新入生です。

直前まで動物だった類魂が人間界への仲間入りをしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階をへて、今ようやく人間へと達したのです」


問 「セオソフィー(神智学)の教えと同じですね」

 「何の教えでもよろしい。私に対して、学派だの宗派だのを口にするのは止めて下さい。私はそういうものに一切関心がありません。世の評論家というのはアレコレとよく知っていることをひけらかすだけで、その実、素朴な真理を何一つ知りません。

それはさて措いて、あなた方はまさか蜘蛛を家の中に持ち込んでペットして飼ったりはしないでしょう。カブト虫に温かい人間愛を捧げるようなことはしないでしょう。それはあなたと、そういう昆虫との間の隔たりを意識するからです。進化の道程において遥かに遅れていることを本能的に直感するからです。

一方、犬とか猫、時に猿などをペットとして可愛がるのは、一種の親近感を意識するからです。もうすぐ人間として生まれ代わってくる段階まで近づいて来ているために、動物の方でも人間の愛を受け入れようとするのです」


問「では下等動物が人間に飼われるということは、その動物はもうすぐ人間に生まれ代わるということを意味するのでしょうか」

 「進化にも、突然変異的な枝分かれ、いわゆる前衛と、後戻りする後衛とがあります。つまり前に行ったり後ろに下がったりしながら全体として進化していきます。中には例外的なものも生じます。動物で知的な面でずいぶん遅れているものもいれば、小鳥でも犬より知的に進化しているものがいたりします。しかしそうした例外と、全体の原理とを混同してはいけません」


問 「動物の類魂は同じ種類の動物に何回も生まれ代わるのですか、それとも一回きりですか」

 「一回きりです。無数の類魂が次々と生まれ代わっては類魂全体のために体験を持ち帰ります。動物の場合それぞれ一度ずつです。全体として再生する必要はありません。それでは進化になりません」


問 「われわれ人間としては、犬や猫などのペットと同じように、生物のすべてに対して愛情を向けることが望ましいのでしょうか」

 「それはそうです。しかし同じ反応を期待してはいけません。愛情は愛情を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶというのが原則ですが、進化の程度が低いほど反応も少なくなります。

あなたの心に怒りの念があるということは、それはあなたの人間的程度の一つの指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。あなたの心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります」


問 「動物がようやく人間として誕生しても、その人生がみじめな失敗に終わった場合は、再び動物界へ戻るのでしょうか」

 「そういうことはありません。一たん人間として自我意識を具えたら、二度と消えることはありません。それが絶対に切れることのない神との絆なのです」


問 「屠殺とか動物実験等の犠牲になった場合の代償───いわゆる埋め合わせの法則はどうなっていますか」

 「もちろんそれにもそれなりの埋め合わせがありますが、一匹とか一頭とかについてではなく、その動物の属する類魂全体を単位として法則が働きます。

進化の程度が異なる動物と人間とでは因果律の働きが違うのです。特に動物の場合は原則として死後は類魂の中に個性を埋没してしまうので、個的存在とは条件が異ります。類魂全体としての因果律があるのですが、残念ながら人間の言語では説明のしようがありません。譬えるものが見当たりません」


問 「シラミとかダニの寄生虫は人間の邪心の産物だという人がいますが、本当でしょうか。あれはホコリとか病気などの自然の産物ではないかと思うのですが・・・」

 「そのホコリや病気は一体何が原因で生じるのでしょうか。原因を辿れば人間の利己心に行きつくのではありませんか。その利己心はすなわち邪心と言えます。たしかに直接の原因は衛生の悪さ、不潔な育児環境、ホコリとか病気、直射日光や新鮮な空気の不足とかにありますが、さらのその原因を辿れば、そういう環境を改めようとしない、恵まれた環境にある人たちの同胞への利己心、同胞への非人間性に行きつきます。

これは一種の邪心であり、私に言わせれば人間の未熟性を示しています。そういう利己心を棄て、弱者を食いものにするようなマネをやめ、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります」

問 「それは、たとえばハエのようなものには当てはまらないでしょう」

 「いいですか。大自然全体は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何によって左右されており、人類が進化すればするほど、自然界の暗黒が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。

人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。双方の進化は大体において平行線を辿っています。人間は神によって創造されたものであると同時に、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家をも司配する自然法則に影響を及ぼします。

 私は今、人間と自然界の進化は大体において平行線を辿ると言いました。両者にはどうしても少しずつズレが出てくるのです。なぜなら、過去の世代が残した業は必ず処理していかねばならないからです」

問 「今おっしゃったことは恐ろしい野獣についてもあてはまるのでしょうか」

 「一応当てはまります。ただ忘れないでいただきたいのは、進化というのは一定の型にはまったものではないことです。いろいろと変化をしながら永遠に続くのです。原始的なものからスタートして低い段階から高い階段へと進むのですが、かつては低いところにいたものが次第に追い抜いて今では高いところにいたり、今高い所に位置しているものが、将来は低い方になることもあります」


問 「では進化にも後戻りということがあるわけですか」

 「それを後戻りと呼ぶのであればイエスという答えになりましょう。というのは、進化というのは一種の円運動(サイクル)、現代の思想家の言葉を借りれば螺旋(スパイラル)を画きながら進むものだからです。どちらの言い方でも構いません。要は進化というものが常に一直線に進むものではないことを理解していただけばよろしい。一歩進んでは後退し、二歩進んでは後退し、ということを繰り返しながら延々と続くのです」

問 「動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は動物実験をやってはいけないのでしょう」

 「それが人間の進化の指標だからです。人間が進化すればするほど地上から残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎった時、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと小羊が仲良く寄りそうようになります」

問 「しかし動物の残忍性も動物としての発達の表れではないでしょうか」

 「あなたもかつては動物だったのですよ。それがここまで進化してきた。だからこそ太古に較べれば動物界でも随分残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したのもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです」

問 「おとなしい動物の中にも絶滅したものもがいますが・・・」

 「進化の一番の指標が残忍性に出るといっているのです。太古でも進化上の枝分かれが幾つもありました。それらは進化の先進者とでも言うべきものです。進化というのはどの段階においても一定の型にはまったものではありません。優等生もおれば劣等性もおり、模範生もおれば反逆児もおります。おとなしい動物はさしずめ〝火を吐く怪獣〟を追い抜いた優等生だったわけです」

問 「寄生虫の類も動物と同じ類魂の中に入って行くのですか」

 「違います」

問 「動物の類魂は一つだけではないということですか」

 「各種属にそれぞれの類魂がいます」

問 「それが更に細分化しているわけですか」

 「そうです。細分化したものにもそれぞれの類魂がおります。新しい霊───初めて人間の身体に宿る霊は、動物の類魂の中の最も進化した類魂です」


問 「やはりサイクルを画きながら進化していくのでしょうか」

 「そうです。すべてサイクル状に進化します」

問 「動物で一番進化しているのは何ですか」

 「犬です」

問 「寄生虫の類魂の存在は害を及ぼしますか」

 「別に害はありません。全体のバランスから見て、殆ど取るに足らぬ勢力ですから。でもこれは普段あまり触れることのない深入りした質問ですよ」

問 「動物の類魂の住処はやはり動物界にあるのですか」

 「私にはあなたより有利な点が一つあります。それは地理を学ばなくてもいいということです。場所とか位置が要らないのです。霊的なものは空間を占領しないのです。地上的な位置の感覚で考えるからそういう質問が出てくるのです。

魂には居住地はいりません。最も、形体の中に宿れば別です。類魂そのものには形体はありません。もしも形体をもつとなれば、何らかの表現形態に宿り、その形態で自己表現できる場が必要になります」


問 「動物の類魂は地球上に対して何か物質的なエネルギーを供給しているのでしょうか。地球にとってそれなりの存在価値があるのでしょうか」

 「進化の過程においての存在価値はあります。ただ気をつけていただきたいのは、どうもあなた方は物的なものと霊的なものとを余りに区別しすぎるきらいがあります。地上に存在していても立派に類魂の一部でありうるわけで、死ななければ類魂の仲間入りが出来ないわけではありません」


問 「ペットも睡眠中に霊界を訪れますか」

 「訪れません」


問 「では死んでからいく世界にまるで馴染がないわけですか」

 「ありません。人間の場合は指導霊が手を引いて案内してくれますが、動物の場合はそれが出来るのは飼主だけです。飼主が地上にいれば案内できません」


問 「飼主が先に死んだ場合はどうなりますか」

 「その場合は事情が違ってきます。いま述べたのは一般的な話です」


問 「人間より動物の方が心霊能力がすぐれている場合があるのはどうしてですか」

 「〝進化〟の観点からいえば、まだ人間となる段階には到達していませんが、人間がいま送っているような〝文化生活〟を体験していないからです。人間がもしも文化生活の〝恩恵〟に浴さなかったら、もっと早い段階で心霊能力が普段の生活の一部となっていたはずです。

つまり人間は文明と引き替えに心霊能力を犠牲にしたわけです。動物には人間のような金銭問題もなく、社会問題もないので、本来なら人間が到達すべきであった段階へ人間より先に到達したのです。人間の場合は物的生活の必要性から本来の心霊能力が押さえ込まれてしまったわけです。いわゆる霊能者というのは進化のコースの先駆者です。いずれは人間の総てが発揮するはずの能力をいま発揮しているわけです」


問 「動物にはいわゆる第六感というのがあって災害を予知したり、知らないところからでもちゃんと帰って来たりしますが、これも心霊能力ですか」

 「そうです。霊能者にも同じことが出来ます。ただ動物の場合はその種属特有の先天的能力である場合があります。これも一種の進化の先駆けで、その能力だけがとくに発達したわけです。ハトのようにどんな遠くからでも帰って来る能力もそれです。本能と呼ばれていますが、一種の〝先見の明〟です」


問 「死んだばかりの犬が別の犬と連れだって出て来ている様子を霊能者が告げてくることがありますが、犬同士でも助け合うことがあるのですか」

 「ありません。ただし地上でその二匹が一緒に暮らした経験があれば連れだって出ることはあります」


問 「その手助けをする人間の霊がかならずいるのでしょうか」

 「そうです。高い者が低い者を援助することになっているのです。それが摂理です」


問 「動物界にはどんな種類の動物がいるのでしょうか」

 「地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間と殆ど同等に扱われて知性や思考力を刺戟された動物のすべてがおります。そうした動物は飼い主の手から離れたことでさびしがったり迷ったりするといけないので、動物界に連れてこられて、他の動物と一緒に暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。

その専門家は永いあいだ動物の研究をしてきていますので、その正しい対処の仕方を心得ており、自然な情愛の発露を動物へ向けることが出来るのです。そこには動物をよろこばせるものが何でも揃っており、やりたいことが何でも出来るので、イライラすることがありません。そして時には地上にいる飼主の家の雰囲気内まで連れてこられ、しばしその懐かしい雰囲気を味わいます。

心霊知識のない人でも自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言ってさわぐのはそんな時です。なんとなくあの辺にいたような気がするといった程度に過ぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達しているからです」


問 「動物界で世話をしている人間が連れてくるわけですか」

 「動物界でその管理に当たっている人たちで、それ以外の人について戻ってくることはありません。ところで、その世話をしている人はどんな人たちだと思いますか。動物が大好きなのに飼うチャンスがなかった人たちです。

それはちょうど子供が出来なくて母性本能が満たされなかった女性が、両親に先立って霊界へ来た子供の世話をするのといっしょです。犬とか猫、その他、人間が可愛がっている動物が飼主に先立ってこちらへ来ると、動物が大好きでありながら存分に動物との触れ合いが持てなかった人間によって世話をされるのです。

もちろん獣医のような動物の専門家がちゃんと控えております。それもやはり地上で勉強したことがそのまま霊界で役に立っているわけです。知識は何一つ無駄にはされません」


問 「病気で死亡した動物の場合も人間と同じように看護されるのですか」

 「そうです。そうしたチャンスを喜んで引き受けてくれる人が大勢います」


問 「動物界は種類別に分けられているのですか、それとも全部が混り合っているのですか」

 「種族の別ははっきりしています」


問 「動物界は一つでも、それぞれの境界があるということですか」

 「そうです。とにかく自然に出来あがっております。一つの大きなオリの中に飼われているのではありません」


問 「猫は猫、犬は犬に分けられているわけですか」

 「その通りです」


問 「特に仲の良かったものは別でしょう。その場合は互いに境界の近くに来るわけですか」

 「そういうことです。すべてが至って自然に出来あがっていると考えて下さい」


問 「犬の次に進化している動物は何ですか。猫ですか猿ですか」

 「猫です」


問 「なぜ猿ではないのでしょう。人間と非常によく似ていると思うのですが」

 「前にも述べましたが、進化というのは一本道ではありません。かならず優等生と劣等性とがいます。人間は確かに猿から進化しましたが、その猿を犬が抜き去ったのです。その大きな理由は人間が犬を可愛がったからです」


問 「犬が人間の次に進化しているから可愛がるのだと思っていましたが・・・」


 「それもそうですが、同時に人間の側の好き嫌いもあります。それからこの問題にはもう一つの側面があるのですが、ちょっと説明できません。長い長い進化の道程において、猿はいわば足をすべらせて後退し、残忍にはならなかったのですが、ケンカっぽく、そして怠けっぽくなって歩みを止めてしまい、結局類魂全体の進化が遅れたのです。

それと同時に、というより、ほぼその時期に相前後して、犬の種族が進化してきました。猿よりも類魂全体の団結心が強く、無欲性に富んでいたからです。しかしどうも話が複雑になりすぎたようです」


問 「猿の種族が法則を犯したのでしょうか」

 「法則を犯したというのではなく、当然しなければならないことをしなかったということです」


問 「では猿と同じように、将来、犬が進化の段階を滑り落ちるということもありうるのでしょうか」

 「それはもう有り得ないでしょう。というのは、すでに何百万年もの進化の過程を辿って来て、地上の種がすっかり固定してしまったからです。種の型が殆ど定型化して、これ以上の変化の生じる可能性はなくなりつつあります。物質的進化には限度があります。形体上の細かい変化はあるかも知れませんが、本質的な機能上の変化は考えられません。細かい変化は生じても、すっかり形体が変わることはありません。

 たとえば人間の場合を考えてごらんなさい。現在の型、すなわち二本の腕と脚、二つの目と一つの鼻が大きく変化することは考えらません。これが人間の標準の型となったわけです。もちろん民族により地方によって鼻とか目の形が少しずつ違いますが、型は同じです。動物の場合はこの傾向がもっと強くて、霊界の類魂に突然変異が発生することはあっても、それが地上の動物の型を大きく変化させることはまずないでしょう」


問 「猿の転落もやはり自由意志に関連した問題ですか」

 「それは違います。自由意志は個的存在の問題ですが、動物の場合は類魂全体としての問題だからです」


問 「動物に個体としての意識がないのに、なぜ類魂全体としての判断が出来るのですか」

 「本能による行動と本能の欠如による行動の違いがあります。個々には理性的判断力のない動物でも、働くか怠けるかを選ぶ力はあります。必要性に対して然るべく対処するかしないかの選択です。そこで種としての本能が伸びたり衰えたりします。個々には判断力は無くても、長い進化の過程において、種全体として然るべき対処を怠るという時期があるわけです」


問 「それは植物の場合にも言えるわけですか」

 「言えます」


問 「それは外的要因によっても生じるのではないですか」

 「それはそうですが、あなたのおっしゃる外的というのは実は内的でもあるのです。それに加えて更に、霊界からコントロールする霊団の存在も考慮しなくてはいけません。その霊団もまた法則、進取性、進歩といった要素に支配されます」


問 「たとえば猿の好物であるナッツが豊富にあれば、それが猿を怠惰にさせるということが考えられませんか」

 「そういうことも考えられますが、ではナッツがなぜ豊富にあったのかという点を考えると、そこには宇宙の法則の働きを考慮しなくてはいけません。つまり人間の目には外的な要因のように見えても、霊界から見れば内的な要因が働いているのです。私の言わんとしているのはその点なのです。

人間はとかく宇宙の法則を何か生命の無い機械的な、融通性のないもののように想像しがちですが、実際は法則と法則との絡まり合いがあり、ある次元の法則が別の次元の法則の支配を受けることもありますし、その根源において完全にして無限なる叡知によって支配監督されているのです。

法則にもまず基本の型というものがあって、それにいろいろとバリエーション(変化)が生じます。といっても、その基本の型の外に出ることは絶対に出来ません。どんなに反抗してみたところで、その法のワクはどうしようもなく、結局は順応していくほかはありません。

しかし同じ型の中にあって、努力次第でそれを豊かで意義あるものにしていくことも出来るし、窮屈で味気ないものにしてしまうことも出来ます。別の言い方をすれば、その法則に調和した色彩を施すのも、あるいはみっともない色彩を塗りつけてしまうのもあなた次第ということです。いずれにせよ、最後は型に収まります」


 別の日の交霊会で動物実験が道徳的側面から取り上げられた。

問「動物実験がますます増えておりますが、どう思われますか。これを中止させようと運動している団体もありますが、霊界からの援助もあるのでしょうか」


 「ためになる仕事をしようと努力している人は必ず霊界から鼓舞し支援し霊力をもたらそうとしている人たちの援助を受けます。神の創造物に対して苦痛を与えることは、いかなる動機からにせよ許されません。ただ、動物実験をしている人の中には、人類のためという一途な気持ちでいっしょうけんめいなあまり、それが動物に苦痛を与えていることに全く無神経な人がいることも忘れてはなりません。しかし摂理を犯していることに変りありません」


問 「でもあなたは動機が一番大切であると何度もおっしゃっています。人類のためと思ってやっても罰を受けるのでしょうか」

 「動機はなるほど結構なことかもしれませんが、法の原理を曲げるわけにはいきません。実験で動物が何らかの苦痛を受けていることが分っていながらなお意図的に苦しみを与えるということは、それなりの責務を自覚しているものと看做(みな)されます。

動機は人のためということで結構ですが、しかしそれが動物に苦痛を与えているわけです。そうした点を総合的に考慮した上で判断が下されます。いずれにせよ私としては苦痛を与えるということは賛成できません」


問 「動物は人類のために地上に送られてきているのでしょうか」

 「そうです。同時に人類も動物を助けるために来ているのです」


問 「動物創造の唯一の目的が人類のためということではないと思いますが」

 「それはそうです。人類のためということも含まれているということです」


問 「動物の生体解剖は動機が正しければ許されますか」

 「許されません。残酷な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませて、何が正義ですか。それは私どもの教えとまったく相容れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです」


問 「動物を実験材料とした研究からは、たとえばガンの治療法は発見できないという考えには賛成ですか」

 「神の摂理に反した方法からは正しい治療法は生まれません。人間の病気にはそれぞれにちゃんとした治療法が用意されています。しかしそれは動物実験では発見できません」


問 「そうしたむごい実験を見ていながら、なぜ霊界から阻止していただけないのでしょうか」

 「宇宙が自然法則によって支配されているからです」


 さらに別の交霊会で、キツネ狩りに参加した人が自分は間違ったことをしたのでしょうかと尋ねた。すると───

 「すべての生命のあるものは神のものです。いかなる形にせよ、生命を奪うことは許されません」

問 「でもうちのにわとりを二十羽も食い殺したんですが・・・・・・」

 「では、かりに私がそのキツネに銃を与えて、二十羽も鶏を食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなります。すべての地上の生命にとって必要なものは神がちゃんと用意してくださっています。

人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなく、人間自身が勝手な考えを持つからです。地上の人間が向上進化すれば、そうしたあくどい欲望はなくなります。キツネやにわとりをあなたがこしらえたのなら、これをあなたが食べても誰も文句は言いません。

人間がにわとりやキツネを殺していいというのが道理であるとしたら、あなたの同胞を殺してもいいという理屈になります。生命は人間のものではありません。神のものです。生命を奪うものは何時かはその責任を取らなくていけません」


問 「オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっておりますが、これについてどうでしょうか」

 「人間は本来そこにあるべきでないところに勝手に持ってきて、それがもたらす不都合について文句を言います。

私の地上の故郷である北米インデアンについても同じです。インデアンはもともと戦争とか、俗に言う火酒(ウイスキー、ジン等の強い酒)、そのほか不幸をもたらすようなものは知らなかったのです。

白人が教えてくれるまでは人を殺すための兵器は何も知らなかったのです。そのうち人間も宇宙のあらゆる生命───動物も小鳥も魚も花も、その一つ一つが神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを知るようになるでしょう」


 更に別の日の交霊会で───

問 「イエスの教えの中には動物に関するものが非常に少ないようですが何故でしょうか」

 「その当時はまだ動物の幸不幸を考えるほど人類が進化していなかったからです」


問 「ほかの国の霊覚者の訓えにはよく説かれているようですが・・・・・・」

 「それは全部とは言いませんが大部分はイエスよりずっと後の時代のことです。それはともかくとして、あなた方はイエスを人類全体の模範のように考えたがりますが、それは間違いです。イエスはあくまで西欧世界のための使命を担って地上へ降りてきたのであって、人類全体のためではありません。

イエスにはイエスの特殊な使命があり、イエス個人としては動物を始めとする全ての生命に愛情をもっていても、使命達成の為に、その教えを出来るだけ制限したのです。その使命というのは、当時の西欧世界を蝕んでいた時代遅れの腐敗した宗教界にくさびを打ち込んで、人生の照明灯(サーチライト)として難解なドグマに代わる単純明快な人間の道を説くことでした」


問 「下等動物への愛を説かない教えは完全とは言えないではないでしょうか」

 「もちろんそうです。ただイエスの場合はその教えをよく読めば動物への愛も含まれています。イエスは例の黄金律を説きました。すなわち〝汝の欲するところを人に施せ〟ということですが、この真意を理解した人なら、他のいかなる生命にもむごい仕打ちは出来ないはずです」
                       

シルバーバーチの霊訓(五)

 More Teachings of Silver Birch

Edited by A.W. Austen
近藤 千雄訳




六章 イエスはいま何をしているか

 ナザレのイエスは今どういう仕事に携っているのだろうか。ある日の交霊会でシルバーバーチは、イエスは今すっかり教義とドグマと権力という雑草におおわれてしまった霊的真理の本来の姿をいま一度明らかにするための霊界からの地球的規模の働きかけの最高責任者であると述べた。

 そのことについて別の日の交霊会で次のように述べた。

 「ほぼ二千年前にイエスは磔刑(はりつけ)にされました。それはただ、当時の祭司たちがイエスを憎んだからにすぎません。イエスを通して霊力のほとばしりを見せつけられたからでした。まさに神の子に相応しい人物だったからにほかなりません。このままでは自分達の立場が危ないと思ったのです。

私たちが今それとまったく同じ反抗に遭っております。宗教界がこぞって〝真理〟を磔刑にしようとしております。しかし、それは不可能なことです。真理は、ただ真理であるが故に、あらゆる反抗、あらゆる敵対行為の中でも厳然と存在しつづけます。

キリスト教会の外部では次々と霊力が顕現しているにもかかわらず、空虚で侘しい限りの巨大な建造物の中には、その陰気な暗闇を照らす霊力の光は一条も見られません」

───そういうキリスト教は死滅してしまった方がましだとおっしゃるのでしょうか。

 「私はレンガとモルタル、祭壇と尖塔で出来た教会には何の興味もありません。何の魅力も感じません。建造物にはまるで関心が無いのです。私が関心を向けるのは〝魂〟です。

それで私は神とその子の間に横たわる障壁を取り除くことに奮闘しているのですが、不幸にして今日では教会そのものがその障壁となっているのです。これほど大きな罪悪があるでしょうか。宇宙の大霊である神は一個の教会に局限されるものではありません。

一個の建造物の中に閉じ込められるものではないのです。神の力は人間各自がその霊性を発揮する行為の中に、すなわち自我を滅却した奉仕の行為、困窮せる無力な同胞のために一身を捧げんとする献身的生活の中に顕現されるのです。そこに宇宙の大霊の働きがあるのです。

 確かにキリスト教会にも奇特な行いをしている真摯な人材がそこここに存在します。が、私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かねばならないからです。

真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。同胞の為に自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそのことを何度申し上げてきたことでしょう。

然るに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。

新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません」

 
 ───イエスの意気込みが察せられます。

 「誤解され、崇められ、今や神の座にまつり上げられてしまったイエス───そのイエスは今どこにおられると思われますか。カンタべリー大聖堂ではありません。セントポール寺院でもありません。ウェストミンスター寺院でもありません。実はそうした建造物がイエスを追い出してしまったのです。

イエスを近づき難い存在とし、人類の手の届かぬところに置いてしまったのです。神の座にまつり上げてしまったのです。単純な真理を寓話と神話を土台とした教義の中に混ぜ合わせてしまい、イエスを手の届かぬ存在としてしまったのです。

 今なおイエスは人類のために働いておられます。それだけのことです。それを人間が(神学や儀式をこしらえて)難しく複雑にしてしまったのです。しかし今こうして同じ真理を説く私たちのことを天使を装った悪の勢力でありサタンの声であり魔王のそそのかしであると決めつけております。

しかし、すでにキリスト教の時代は過ぎました。人類を完全に失望させました。人生に疲れ、絶望の淵にいる地上世界に役立つものを何一つ持ち合わせていません」



 シルバーバーチによると、イエスは年二回、イースターとクリスマスに行われる指導霊ばかりの会議を主宰しているようである。その時期には交霊会も二、三週間にわたって休暇となる。時おりその前後の交霊会で会議の様子を説明してくれることがある。次に紹介するのは休暇に入る前の最後の交霊会での霊言である。

 「この機会は私にとって何よりの楽しみであり、心待ちにしているものです。この時の私は、わずかな期間ですが、本来の自分に立ち帰り、本来の霊的遺産の味を噛みしめ、霊界の古き知己と交わり、永年の向上と進化の末に獲得した霊的洞察力によって実在を認識することのできる界層での生命の実感を味わうことができます。

自分だけ味わってあなた方に味わわせてあげないというのではありません。味わわせてあげたくても、物質界に生きておられるあなた方、感覚が五つに制限され、肉体という牢獄に閉じ込められて、そこから解放された時の無上のよろこびをご存じないあなた方、

たった五本の鉄格子の間から人生をのぞいておられるあなた方には、本当の生命の何たるかを理解することはできないのです。霊が肉体から解放されて本来の自分に帰った時、より大きな自分、より深い自我意識に宿る神の恩寵をどれほど味わうものであるか、それはあなた方には想像できません。

 これより私はその本来の自分に帰り、幾世紀にもわたる知己と交わり、私が永い間その存在を知りながら地上人類への奉仕のために喜んで犠牲にしてきた〝生命の実感〟を味わいます。

これまでに大切に仕舞ってきたものをこの機会に味わえることを私がうれしくないと言ったらウソになりましょう。ご存じのとおり、この機会は私にとって数あるフェスティバル(うれしい催し)の中でも最大のものであり、あらゆる民族、あらゆる国家、あらゆる分野の者が大河をなして集結して一堂に会し、それまでの仕事の進歩具合を報告し合います。

その雄大にして崇高な雰囲気はとても地上の言語では表現できません。人間がインスピレーションに触れて味わう最大級の感激も、そのフェスティバルで味わう私どもの実感に較べれば、まるで無意味な、ささいな出来ごとでしかありません。

 その中でも最大の感激は再びあのナザレのイエスにお会いできることです。キリスト教の説くイエスではありません。偽りに伝えられ、不当に崇められ、そして手の届かぬ神の座にまつり上げられたイエスではありません。

人類のためをのみ思う偉大な人間としてのイエスであり、その父、そしてわれわれの父でもある神のために献身する者すべてにその偉大さを分かち合うことを願っておられるイエスです」

 休憩に入る直前の交霊会では、シルバーバーチがサークルのメンバーにそれまでの成果を語って協力に感謝するのが常である。

 「あなた方と私たち霊団との愛の親密度が年とともに深まるにつれて私は、それがほかならぬ大霊の愛のたまものであると感謝していることを知っていただきたいと思います。すなわち大霊の許しがあったればこそ私はこうして地上の方々のために献身できるのであり、たった週に一度あなた方とお会いし、

それも、私の姿をお見せすることなく、ただこうして語る声としてのみ存在を認識していただいているに過ぎないにもかかわらず、私を信じ、人生のすべてを委ねるまでに私を敬愛して下さる方々の愛を一身に受けることができるのも、大霊のお力があればこそだからです。

そのあなた方からの愛と信頼を私はこの上なく誇りに思います。あなた方の心の中に湧き出る私への熱烈な情愛───私にはそれがひしひしと感じ取れます───を傷つけるようなことだけは絶対に口にすまい、絶対に行うまい、といつも誓っております。

 私たちのそうした努力が大きな実りを生んでいることが私はうれしいのです。私たちのささやかな仕事によって多くの同胞が真理の光を見出していることを知って私はうれしいのです。無知を打ち負かし迷信を退却せしめることができたことが私はうれしいのです。

真理が前進していること、そしてその先頭に立っているのがほかならぬ私たちであることがうれしいのです。絶え間なくしかけてきた大きな闘いにおいてあなた方が堅忍不抜の心を失わず挫折することがなかったことをうれしく思います。

役割を忠実に果たされ、あなた方に託された大きな信頼を裏切ることがなかったことをうれしく思います。私の使命があなた方の努力の中に反映して成就されていくのを謙虚な目で確かめているからこそ、私はあなた方のその献身をうれしく思うのです」


 このあと、いつもの慣例に従ってメンバーの一人ひとりに個人的なメッセージを送り、そのあとこう述べて別れを告げた。

 「さて、別れを惜しむ重苦しい気持ちの中にも、再びお会いできる日を心待ちにしつつ、私はみなさんのもとを去ります。これより私は気分一新のために霊的エネルギーの泉へと赴きます。高遠の世界からのインスピレーションを求めに赴きます。

そこで生命力を充満させてから再び一層の献身と、神の無限の恩寵の一層の顕現のために、この地上へ戻ってまいります。あなた方の情愛、今ひしひしと感じる私への餞(はなむけ)の気持ちをいただいて、私はこれより旅立ちます。そうして再び戻って来るその日を楽しみにいたしております。どうか常に希望と勇気を失わないでいただきたい。

冬の雪は絶望をもたらしますが、再び春がめぐってくれば大自然は装いを新たにしてほほ笑みかけてくれます。希望に胸をふくらませ、勇気を持って下さい。いかに暗い夜にも必ず登りゆく太陽の到来を告げる夜明けが訪れるものです。

 では、これにてお別れします。神は常にあなた方を祝福し、その無限の愛がふんだんにもたらされております。神の霊があなた方すべての人々の霊に行きわたり、日々の生活の中に誇らしく輝いております。

 これより地上の暗闇をあとにして高き世界の光明を迎えに参ります。そしてお別れに際しての私の言葉は、再び訪れる時の挨拶の言葉と同じです───神の祝福の多からんことを」


 こうして地上を去って霊界での大集会に列席したあと、再び戻ってきたシルバーバーチはこう述べた。

 「その会合において私はかつての私の栄光の幾つかを再び味わってまいりました。地上世界の改善と進歩のために奮闘している同志たち、人類の福祉のために必要な改革の促進に情熱を傾ける同志たちによる会議に私も参加を許されました。

これまでの成果がこと細かに検討され、どこまで成功しどの点において失敗しているかが明らかにされました。そこで新たに計画が立て直され、これから先の仕事───地上人類の進化の現段階において必要な真理を普及させる上で為さねばならない仕事のプログラムが組まれました。

 地上世界のために献身している大勢の人々───死によって博愛心を失うことのなかった人々ともお会いしました。そして、ちょっぴり私ごとを言わせていただけば───こんなことは滅多にないのですが───過去数か月間においてささやかながら私が成し遂げたことに対してお褒めの言葉を頂戴いたしました。

もとより私はお褒めにあずかる資格はないと思っております。私は単なる代弁者にすぎないからです。私を派遣した高級霊団のメッセージを代弁したにすぎず、それをあなた方が広めてくださったのです。

 ともあれ、こうして私たちの説く真理が人生に迷っている人々、心は重く悲しみに満ち、目に涙をためた大勢の人々に知識と慰めと激励をもたらしていることは確かです」

Sunday, October 11, 2026

霊訓〈完訳・下〉

The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






20節

本節の内容
*霊団も全てを語ることを許されず、語ることが人間の為になるとも限らない
*著者の疑念を募らせる出来事の発生
*霊側の弁明
*精神状態の不安定な時の危険性
*猜疑と懐疑は別
*イエスは庶民を相手に法を説いた
*霊側の配慮に対する著者の無理解を指摘
*これ以上の働きかけを当分控えると表明


〔この時点でいろんな霊から通信が来た。彼らが言うには、その目的は死後存続の確証を積み重ねて私の心に確信を植えつけるためであった。その中の一人に著名人で生前私も親しくしていた人がいたので、その事実を身内の人に知らせても良いかと尋ねた。すると――〕


それは無駄であり賢明でもない。身内の者は交霊の事実を知らぬし、われらが知らしめんとしても不可能であろう。たとえそなたがその話をしたところで、気狂いのたわごとと思われるのが関の山であろう。とにかく今は身内の者に近づくことは出来ぬであろう。これは、後に残せる地上の肉親と何とか連絡したいと思う他界したばかりの霊が味わう試練の一つなのである。大体において他界してすぐは身内の者に近づくことは出来ぬ。何とかして思いを通じさせねばとあがく、その激しい念が障害となるのである。自分からのメッセージが何よりも証拠としての効き目があり、且つ望ましかろうと思い過ごし、その強き念波が肉親の悲しみの情と重なり合い、突き破らんとしても破れぬ強い障壁を拵えるのである。霊側の思いが薄れ、地上の者がその不幸の悲しみの情を忘れた時に初めて、霊は地上へ近づくことが可能となる。このことについては、このあと改めて述べることもあろう。

さてそなたの知人はそういう次第で、今は血縁関係の者との連絡を断たれている。受け入れる用意なき者に押しつけんとしても有害無益である。これはわれらにも如何ともし難き不変の摂理の一つなのである。われらは理解力なき者に霊的知識を押しつけるわけには参らぬ。哲人にしてなお驚嘆の念をもって眺める大自然の神秘を三歳の童子に説いてみたところで無意味であろう。それは実に無益というものである。もっとも童子に“害”はないかも知れぬ。が、不用意に押しつけることによりて本来の目的達成を阻害し、真理を授かるべき者が授からずに終わることにもなりかねぬ。賢明なる者はそのような愚は犯さぬ。受け入れ態勢の有無を考慮せずに、ただ霊的真理を送り届けさえすれば地上天国を招来できると期待するのは誤りである。それでは試練の場としての地上の意義は失われ、霊力を試さんと欲する者の、ただの実験場と化し、法も秩序も失われるであろう。そのような法の逆転は許されぬ。そう心得るがよい。


〔ほぼ同じ時期のことであるが、人間的手段を一切使わない、いわゆる直接書記によって書かれた氏名の綴りが間違っていたことから、例の身元確認に関する私の迷いが一段と強くなった。この場合霊媒に責任がないことは明らかである。そこで私は自分の氏名もロクに綴れないような霊を信じるわけにはいかないと強く抗議した。するとインペレーターが答えた――〕


いま身元確認の問題について議論しようとは思わぬが、そなたが言及する事柄は容易に説明のつくところである。あの霊の身元については余が保証し、そなたも少なくとも余の言葉を信じてくれた。綴りの誤りはあの霊自身ではなく、筆記せる霊が犯せるものである。そなたらが直接書記と呼ぶところの現象は今回はそなたのたっての要請に従って行なったが、あのような特殊なものが演出できる者は数多くはおらぬ。そして実際に筆記するのはそれに慣れた霊であり、通信を望む霊のいわば代書の如き役をするのが通例である。これには多くの場合数人の霊が携わる。今回の軽率な誤りに関しては交霊会の最中に訂正したが、そなたはそれに気づかなかったと見える。誤謬や矛盾についてはムキにならず、じっくりと調べるがよい。多くは今回の如く容易に説明のつくものばかりであることが判るであろう。


〔私の精神状態の乱れのせいで交霊会の調子まで乱れてきた。現象の現われ方がおかしく、時に乱暴になったり不規則になったりした。霊側からは“楽器の調子がおかしければ、それから出る音も調子はずれで軋(きし)むのだ”と言ってきた。が、交霊会を催すと気が休まることがあった。しかし反対に神経が緊張の極に達することもあり、その時の苦痛は並大抵のものではなかった。九月三十日に次のような通信が来た。〕


神経を休ませ和(なご)ませることが可能な時もあるが、神経の一本一本が震えるほど神経組織全体が過労ぎみで緊張の極にある時は、それも叶わぬ。われらとしては殆ど手の施しようもなく、せめてそうした精神状態が呼び寄せる低級霊に憑依される危険からそなたを守るのが精一杯である。そのような状態の時はわれらの世界との交信は求めぬよう忠告する。数々の理由により、これ以後は特に注意されたい。そなたはこれより急速に進歩し、それがあらゆる種類の霊的影響を受け易くする。多くの低級霊が近づき、交霊会を開かせては仲間入りを企む。悪自体は恐るに足らぬが、それによる混乱は避けられぬ。高度に発達せる霊媒は指導に当たる霊団以外の霊に邪魔される危険性のある会は避ける用心が肝要である。交霊会には危険はつきものであるが、今のそなたの精神状態では二重の危険性に身を曝すことになる。催す時は忍耐強く且つ受身の精神で臨んでもらいたい。そうすればそなたの望む証拠も得やすいであろう。


〔私は、たとえそう望んだところで所詮は自分自身の判断力で判断するほかはないではないかと答えた。さらに私は疑問を解くカギになると思える事柄を二、三指摘した。私の目には、地上で名声を謳(うた)われた著名人からの通信、しかも私を混乱させるだけだった通信よりも、そのほうが決定的な重要性をもっているように思えたのである。どう考えても世界的な大人物が私ごとき一介の人間のために人を惑わせるような些細なメッセージを伝えにやって来るとは思えなかった。私はむしろ最近他界したばかりで生前私たちのサークルの熱心なメンバーだった知人の身元を明かす何か良い証拠を数多く出してくれるよう要求した。それが身元証明の問題を解決する決定的なチャンスになるように思えたのである。さらに私はスピリチュアリズム思想の拠って来る源泉と規模と問題点、とくに霊の身元の問題について明快にして総合的な説明を切望した。私はこれまでの言説を全て真正なものと認めた上で、そうなるとこんどは、それを嘲笑の的とする反対派の批判に応えるための証拠を完璧で間違いのないものにしてくれないと困る、と述べた。その段階での私には、いくつかの心霊現象とそれを操る知的存在がいるといった程度のこと以外には証言らしい証言は何一つ見当たらなかったのである。それでは話にならない。いくら好意的心情になろうと努力しても、拭い切れずにいる疑問が一掃されないかぎり、それ以上先へ進めなかった。こうした私の言い分に対して十月一日に次のような通信が来た――〕


大神の御恵みの多からんことを。そなたが提出せる問題についてわれらがその全てに対応せず、また議論しようともせぬのは、今のそなたの精神状態では満足のいく完璧なる証拠を持ち出すことは不可能であるからに過ぎぬ。もっとも、多くの点においてそなたが率直かつ汚れなき真情を吐露してくれたことには感謝の意を表したい。が、それでもなおかつそなたの心の奥底に、われらの言説に対する不信と、われらの素性に対する信頼の欠如が潜んでいることを認めぬわけには参らぬ。これは、われらにとりて大いなる苦痛であり、また不当であるように感じられる。疑うこと自体、決して罪ではない。ある言説を知的に受け入れられぬことは決して咎めらるべきことではない。が、出された証拠を公正に吟味することを拒絶し、想像と独善主義の産物に過ぎぬ勝手な判断基準に照らさんとする態度は悲しむべき結果に終わるであろうし、そこにわれらの不満の根源がある。そなたの疑念にはわれらも敬意を払う。そしてそれが取り除かれた時はそなたと共に喜ぶであろう。が、それを取り除かんとするわれらの努力を無駄に終わらせる態度は、われらとしても咎めずにはおれぬところであり、非難するところである。その態度はそなたを氷の如き障壁の中に閉じ込め、われらの接近を阻む。またそれは率直にして進歩的な魂を孤立と退歩へと堕落させ、地上の地獄とも言うべき暗黒地帯へと引きずり込む。そうした依怙地(えこじ)な心の姿勢は邪霊による破壊的影響の所為であり、放置すれば魂の進化を永久に阻害することにもなりかねぬ。

われらはそなたからそのような態度で臨まれるのはご免蒙る。そなたとの霊的交わりを求めんとするわれらの努力がことごとく警戒心と猜疑心とによって監視されては堪らぬ。そなたは何かと言えばユダヤ時代の世相と少数の神の寵愛者を念頭に置き、その視点より現在を観んとする傾向があるが、当時のユダヤ人がイエスに神のしるしを求めた時にイエス自身の口から出た言葉がわれらの言い分と同じであったことをここに指摘しておきたい。イエスがついに自分の言葉以外のしるしは与えなかったことはそなたも知っていよう。なぜか、何の目的あってのことか、それは今は詮索すまい。不可能だったのかも知れぬ。不必要と観たのかも知れぬ。精神的土壤がそれを受け入れぬ状態にあったのかも知れぬ。今のそなたがまさにそれと同じ状態である。議論を強要する時のその荒れた気性そのものが、われらの適切なる返答を阻んでしまうのである。イエスの場合も多分それと同じ事情があったのであろう。そなたの注意を喚起しておきたいのは、イエスが慰めの言葉でもって答え、あるいは奇跡の霊力をもって応えたのは、議論を挑んだパリサイ派の学者でもなく、サドカイ派の学者でもなく、己の知識に溺れた賢人でもなく、謙虚にして従順なる心貧しき人々、真理一つ拾うにもおどおどとしてその恵みに浸る勇気もなく、それがいずこよりいかなる状態にてもたらされるものであるかも詮索せぬ、忠実にして真っ正直な人たちであった。イエスのその態度は生涯変わることがなかった。その態度はまさに父なる神が人間に対するのと同じであった。神の真の恩寵に浴するのは、己の我儘を押しつけ、それがすぐにでも満たされぬと不平をかこつ高慢不遜の独善者ではなく、苦しみの淵にあってなお“父よ、どうか私の望みよりあなたの御意(みこころ)のままに為さらんことを(1)”と祈る、謙虚にして疑うことを知らぬ敬虔なる平凡人である。

これが神の御業(みわざ)の全てを支配する摂理である。それを具体的にキリスト教界に観ることは今は控える。ただそなたに指摘しておきたいことは、そなたの頑(かたくな)な心の姿勢、こうと決めたら一歩も退こうとせぬ独善的議論の態度はそなたにとりて何の益にもならぬということである。われらも不本意ながらもその姿勢を譴責(けんせき)せねばならぬ。過ぎ来(こ)し方を振り返ってみるがよい。われらとの関わり合いの中に体験せる諸々の出来ごとを思い返してみるがよい。そなたの生活全体に行き渡れる背後霊の配慮についてそなたは何一つ知らぬ。そなたの心に向上心を育(はぐく)ませるための配慮、邪(よこしま)な影響より守り通さんがための配慮、悪霊の排除、難事に際しての導き、向上の道への手引き、真理についての無知と誤解より救わんとした配慮――こうした目に見えざる配慮についてそなたは何一つ知らぬ。しかし、その努力の証は決して秘密にして来たわけではない。このところそなたのもとを離れたことは一日とてない。われらの言葉、われらの働きかけはそなたの知るところである。ことに通信は間断なく送り届け、それがそなたの手もとに残っている。その言説の中に一語たりともそなたを欺いた言葉があったであろうか。われらの態度に卑劣なるもの、利己的なるもの、あるいは不親切に思えるものがあったであろうか。われらにとりて不名誉なことをしでかしたであろうか。そなたに対し侮辱的言葉、愚かしき言葉を述べたことがあったであろうか。卑劣なる策略、浅ましき動機によりてそなたを動かしたことがあったであろうか。向上の道より引きずり下ろすが如き行為をしたであろうか。要するに、われらがもたらせる成果より判断して、果たしてわれらの影響は善を志向せるものだったであろうか、悪を志向せるものだったであろうか。神を志向していたであろうか、その逆を志向していたであろうか。そなた自身はそれによりて改善されたと思えるであろうか、それとも改悪されたと思えるであろうか。より無知になったように思えるであろうか、無知より救われたように思えるであろうか。少しでもましな人間になったと思うであろうか、つまらぬ人間になり下がったと思えるであろうか。少しでも幸せになったと思えるであろうか、それとも幸せを感じられなくなったであろうか。

われらの存在そのものにつきて、われらの行為につきて、あるいはわれらの教説につきて、誰れが何と言おうと、筋の通れるものであればわれらは少しも苦にせぬ。聞く耳をもつ者すベてにわれらは公然と主張する――われらの教説は神の教えであり、われらの使命は神より命じられた神聖なるものである、と。

われらは、イエスがそうであり自らもそう述べている如く、公言せる教説については必ずその証となるべきしるしを提供してきた。当然納得して然るべき一連の証拠を提供した。これ以上付け加えようにももはや困難なところまで来ている。霊力の証を求めるそなたの要求に対しては決して労を惜しむことなく応じてきた。それどころか、より一層顕著なる現象を求める同志の要求を満たさんとしてそなたの健康を損ねることまで行なった。いかなる要求も、それが可能でありさえすれば、そしてわれらのより広き視野より判断して望ましきものと観たものは、すべて喜んで応じてきた。確かに要求を拒否して来たものもある。が、それはそなたが無理な要求をした場合、ないしはそうすることがそなたにとりて害になることを知らずに要求した場合に限られる。そなたとは視点が異なることを忘れてはならぬ。われらはそなたより遙かに高き視点より眺め、しかもそなたより遙かに鋭き洞察力をもって眺めている。故に、人間の無知と愚かさより出た要求は拒否せざるを得ぬことがしばしばある。が、しかし、そうした正当な理由によりてわれらが拒否して来たものは、要求に応じて提供せる証拠に比べれば九牛の一毛に過ぎぬ。その証拠は地球に属さぬエネルギーの存在、慈悲深く崇高にして尊き霊力の存在を証し、それが他ならぬ神の御力であることを証すに十分である。それほどの証を与えられ、それほどまで威力を見せつけられてきた霊力をそなたは信じようとせず、且つまた、われらの身元についての言説を真剣に疑る。どうやらそなたにとりては、そなたがこれまで崇めて来た尊き歴史上の人物が、神の使徒をもって任ずる者の指揮のもとに人類の命運の改善を旗印として働いていることが余ほど引っ掛かるのであろう。そこでそなたは拒絶し、無知からとは言え、無礼にもわれらを詐称者である――少なくともそうではなかろうかと疑い、口先でごまかしつつ善行ぶったことをしているのであると批難する。が、そう批判しつつもそなたはわれらが詐称すべき理由を何ら見出し得ず、神のほかに帰すべき源も見出し得ず、慈悲のほかにわれらが地上に派遣されし理由を見出し得ず、人間にとりての不滅の福音以外にその目的を見出し得ずにいる。

そなたのそもそもの誤りはそこにある。われらもその点は譴責せざるを得ぬ。敢えて申すが、それはそなたにとってもはや“罪”とも言うべきものであり、これ以後その種の問題について関わりをもつことはわれらはご免蒙る。さような視点より要求する証は提供するつもりはない。もはやわれらはこれより一歩も譲歩できぬぎりぎりの限界に来ている。これまで披露せしものをそなたが侮(あなど)るのは構わぬが、それによりて危害を蒙るのはそなた自身に他ならぬことを警告しておく。過ぎ来し方をよくよく吟味し、その教訓に思いを寄せ、証拠の価値を検討し、かりそめにも、これほどの教訓とこれほどの量の証拠をただの幻想として片付けることのなきよう警告しておく。

今はこれ以上は述べぬ。ともかくわれらとしては、そなたの如き判断を下されることだけはご免蒙る。われらは当初、われらの霊的教訓の受信者としてそなたを最適任者として選んだ。願わくば現在のその無知と愚かさから一刻も早く脱し、われらがそなたを選べし時のあの穏やかにして真実のそなたに立ち戻られんことを希望する。われらのその願いを、そなたに宿る能力と率直さを以て検討せねばならぬ。今後のそなたとの関わりもそれにて決定される。是非とも公正に、そして神に恥じぬ態度にて判断されたい。決して焦ってはならぬ。早まってはならぬ。事の重大性と、その決断のもつ責任の大きさを認識した上で決定されたく思う。

その間、新たな証を求めてはならぬ。求めても与えられぬであろう。他のサークルとの交わりも避けるよう警告する。あのような方法による通信は危険が伴うことを承知されたい。徒に迷いを増幅させ、それがわれらを一層手間どらせることになる。やむなく生ずる問題に関してはわれらより情報を提供しよう。また決して勧めもせぬが、われらのサークルでの交霊会は敢えて禁止もせぬ。但し、たとえ開いても新たなる証拠は出さぬ。開く以上は何らかの解明と調和のある交霊会の促進を目的としたものであらねばならぬ。

かつてわれらは、そなたにとって必要なのは休息と反省であると述べたことがある。この度も改めて同じことを述べておきたい。そなたのサークルが何としても会を催したいというのであれば、ある条件のもとで時には参加致そう。その条件については後に述べる。が、なるべくならば当分は会は催さぬが良い。かく申しても決してそなたを一人に放置しておくということではない。そなたは常に二重三重にも守られていると思うがよい。これにてひと先ずそなたのもとを去るが、祝福と祈りはそなたと共にあるであろう。

神の導きのあらんことを。

(†インペレーター)


〔注〕
(1)ルカ22:42ユダヤの律法学者。

霊訓〈完訳・下〉

 The Spirit Teachings

ステイントン・モーゼス(著)
近藤千雄(訳)


霊界側と、霊媒の牧師モーゼスとの激しい論争の中から、教訓的な内容を選びまとめたもの。スピリチュアリズム史上、第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”――“スピリチュアリズムのバイブル”と言われています。






19節

本節の内容
*地上人類としての宗教的生活の理想
*神は摂理としての働きによってのみ知るもの
*未来の不用意な詮索は禁物
*神と自己と同胞に対する責務
*満足は堕落への第一歩
*積極的活動と正しい習慣の生活
*身と心の宗教



〔繰り返し反論して来た問題――これまで再三言及して来たもの――が八月三十一日になってようやく本格的な回答を得た。〕


これまでにも言及しながら本格的に扱わずにおいた問題につきて述べたく思う。そなたはわれらの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めなく、実体が感じられぬという主張を固持し、それを再三に亙って表明してきた。そなたの主張によればわれらの教説はいたずらに古来の信仰に動揺をもたらし、それに代わる新たなる合理的信仰を持ち合わせぬと言う。その点に関してはこれまでも散発的には述べることはあったが、それらが大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に述べたことはなかった。それをこれより可能なかぎり述べることとする。

まずわれらは全創造物の指揮者であり、審判者であるところの宇宙神――永遠の静寂の中に君臨する全知全能の支配者から説き始めるとしよう。その至高の尊厳の前にわれらは厳粛なる崇敬の念をもって跪(ひざまず)くものである。その御姿を拝したことはない。また御前(おんまえ)に今すぐ近づこうなどとも思わぬ。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、地上界の時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることであろう。それは最早や限りある数字では表わせぬであろう。

しかし、たとえ拝したことはなくとも、われらはその御業(みわざ)を通じて神の奥知れぬ完璧さをますます認識する。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりである。それはそなたには叶わぬことであるが、われらは無数の方法にてその存在を認識することを得ている。地上という低き界層には届かぬ無数の形で認識する。哀れにも人間はその神の属性を独断し、愚かにも人間と同じ形体を具えた神を想像しているが、われらはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し感得している。われらとの繋がりの中に優しさと愛を感得するのである。

過去を振り返れば、慈悲と思いやりに満ち溢れていることを知る。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われている。未来は……これはわれらは余計な憶測はせぬ。これまでに身をもって味わえる力と愛の御手に全てを託す。詮索好きな人間が好んでするが如き、己の乏しき知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯さぬ。神への信頼が余りに実感あふれるものであるが故に、敢えて思案をめぐらす必要を感じぬのである。われらは神の為に生き、神に向かいて生きていく。神の意志を知り、それを実践せんとする。そうすることが、己自身のみならず、全ての創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信ずるからである。またそうすることが神に対する人間としての当然の敬意を表明する所以(ゆえん)であり、神が嘉納される唯一の献上物なのである。われらは神を敬愛する。神を崇拝する。神を敬慕する。神に絶対的に従う。が、神の御計画に疑念を挟み、あるいは神秘を覗き見するが如き無礼はせぬ。

次に人間についてであるが、われらは未だその知るところの全てを語ることを許されておらぬ。いたずらに好奇心を満足させることも、あるいは、精神を惑わせることにしかならぬ知識を明かすことも許されておらぬのである。人間の霊性の起源と宿命――いずこより来りいずこへ行くのか――については、いずれその全てを語るべき時期が到来することを信ずるに留めておいて貰いたい。差し当たりては神学が事細かく語り広く受け入れられているところのアダムとイブの堕罪の物語は根拠なき作り話であることを知られたい。恐らくそなたらキリスト者においても、これにまともな思考を巡らせた者ならばそのような伝説に理性がついて行けぬのが正直な事実であろう。差し当たりては人間が物質をまとえる霊魂であることを認識し、支配する神の法則に従いて進歩していくことこそが地上での幸せと死後の向上を導くことを理解すべく努力することである。遙か遠く高き世界のこと――洗練され浄化され尽くせる霊のみが入ることを許される天界のことは、ひとまず脇へ置くがよい。その秘奥は限りある人間の目には見ることを得ぬ。天界への門扉は聖なる神霊にのみ開かれる。そして、いつの日か十分なる試練と進化の暁に、そなたもその列に加えられる日もきっと来ることを信ずればそれでよい。

それよりも今のそなたには、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要であろう。人間はそなたも知る如く一時期を肉体に宿れる“霊魂”なのである。霊体を具えた霊魂であり、その霊体は肉体の死後もなお生き続ける。そのことにつきては聖書でも述べられている。仔細の点には誤りも見られるが、一応正しいと見てよかろう。この霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばならぬ。死後の生活は、そなたの知性の届く限りにおいて、無限である。もっとも、そなたには無限の真の意味は理解できまい。差し当たりてそなたの存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておこう。

その存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿りて生活するに過ぎぬとは言え、意識を有する責任ある存在であり、果たすべき責任と義務があり、各種の才能を持ち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものと見なしている。肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心――往々にして粗末であり未熟ではあるが――を先天的に有する。各自その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、かつ又、要請があり次第与えられる援助の手段も用意されている。こうした事実についてはすでに述べた。こののちにも更に述べることもあろうが、取り敢えず地上という試練の場における人間の義務について述べたく思う。

人間は責任ある霊的存在として、自己と同胞と神に対する義務を有する。その昔、そなたらの先師たちはその時代の知識の及ぶかぎり、そして表現し得る能力の限りにおいて、霊的生活に適切なる道徳的規範を説いた。しかし彼らの知識の及ばぬところ、そしてまた彼らの伝え得ぬところにも、まだまだ広く深き真理の領域が存在する。霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によりて理解され始めたところである。が、その事実により、人間の進化向上を促進せんとする勢力とこれを妨害せんとする勢力とが存在することを窺い知ることが出来るであろう。このことについては、こののち更に述べる機会もあろう。それはさておき、霊的存在としての人間の最高の義務は向上進化の一語――己に関する知識を始めとして霊的生長を促すあらゆる体験を積むことに要約されよう。次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は教養の一語に要約されよう。一つの枠にかぎられぬ幅広き教養を積むことである。地上生活のためのみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動である。そして肉体に宿れる一個の霊としての己に対する義務は、思念と言葉と行為における純粋の一語に要約されよう。以上の進歩と教養と純粋の三つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そしてまた肉体的存在としての人間の己に対するおよその義務が要約されていよう。

最後に、人間と神との関係について申せば、それは最も低き界層の者といえども“無始無終の光の泉”、“万物の創作者”であり“父”であるところの神に近づけるものであらねばならぬ。神を目の前にせる時の人間として相応しき態度は聖書において“天使もその翼もて顔を被う”と表現されているが、まさにその通りである。それは人間の霊に最も相応しき畏敬と崇拝の念を象徴しているのである。敬(うやま)い畏(おそ)れるのである。奴隷的恐怖心ではない。崇(あが)め拝(おが)むのであって、屈従的恐怖に身をすくめるのではない。神と人とを隔てる計り知れぬ距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、人間はかりそめにも神の御前にすぐに侍(はべ)ることを求めてはならぬ。ましてや天使にしてなお知ることを得ぬ深き神秘を覗き込まんとする倣慢なる態度は控えねばならぬ。畏敬と崇拝と愛、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性である。

大略ではあるが、以上が自己と同胞と神に対する人間の義務である。枝葉の点については追って付け加えることになろうが、以上の中に人間が知識を広め、よき住民となり、全ての階層の人間の手本となるべき資質が述べられている。この通信、並びにこれまでの通信の中にパリサイ派の学者が重んじたところの儀式的ないし形式的義務についての叙述が見られぬのは、それはわれらがその必要性を認めぬからである。人間が物的存在である以上、物的行為も当然大切である。われらがその点について詳しく言及せぬのは、その重要性について敢えてわれらが述べずとも事足りていると観たからである。われらの中心的関心は霊性にある。全てを生み出すところの霊性である。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行為も自ずと正しく行なわれるものである。われらはこれまでそなたを一貫した原則のもとに扱って来た。それはそなたの関心を真の自己であるところの霊に向けさせ、全ての行為をその内的自我の発現として捉えさせることである。その霊性が地上を去ったのちの霊的生活の全てを決定づけるからである。そこに真の叡智が存する。全てを動かす霊、千変万化の大自然と人類の移り行く姿の底流に存在する生命の実相を知った時、そなたは真の叡智に動かされていると言えよう。現時点においてわれらがそなたに示し得る義務は以上の如きものであるが、次に、その義務を果たせる時と怠(おこた)れる時にもたらされる結果について述べねばならぬ。

自己の能力の限りにおいて正直に、そして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして生き甲斐と向上とが得られる。われらが敢えて向上を強調するのは、人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見出すとの不変の真理を見失いがちだからである。これで佳しとの満足は真の魂にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかない。魂は過ぎ去りしものの中に腰を下ろすことは許されぬ。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかない。過去を振り向く態度は満足の表われであり、未来へ向う態度は一層の向上を求める希望と期待の顕われである。満足感に浸り、それにて目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、そのとき魂は退歩の危機にある。霊的存在としての正しき姿勢は常により高き目標に向いて努力し続けることである。その絶え間なき向上の中にこそ真の幸せを見出す。これで終わりという時は来ぬ。決して来ぬ。絶対に来ぬ。

このことはそなたらが人生と呼ぶところの地上の一時期のみに限らぬ。生命の全存在に関しても言えることである。さよう。肉体に宿りて行なえる行為は肉体を棄てたのちの霊界の生活にも関わりを有する。その因果関係はそなたらが死と呼ぶところの境界には縛られぬ。それのみではない。霊界にて落ち着くところの最初の境涯は、地上の行為のもたらす結果によりて定まるのである。怠惰と不純の生活に浸りし霊は当然の成り行きとして、霊界にてそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになる。犯せる罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、一歩また一歩と高き境涯へと向上していく。これが神の法を犯せる者に与えられる罰である。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではない。意識的生活の中に犯せる違反が招来する不可避の悔恨と自責の念の懲罰である。これは懲らしめのムチと言えよう。が、それは復讐に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではない。愛の神がわが子にその過ちを悟らせんとして用意せる因果律の働きなのである。

同様に、善行の報いは天国における永遠の休息などという感覚的安逸ではない。神の玉座のまわりにて讃美歌三昧に耽ることでもない。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によりて安易に得られる退屈きわまる白日夢の如き無為の生活でもない。義務を果たせる満足感、向上せる喜び、さらに向上する可能性を得たとの確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持し得たとの自信。こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に始めて味わえるものである。休息の喜びは働かずしては味わえぬ如く、食事の味は空腹なる者にしか味わえぬ如く、一杯の水の有難さは渇ける者にしか味わえぬ如く、そして我が家を目の前にせる時の胸の昂(たか)まりは久しく家を離れし者にして始めて味わえる如く、善の報酬は生活に刻苦し、人生の埃(ほこ)りにまみれ、真理に飢え、愛に渇ける者にして始めて真の味を賞美できるものである。怠惰なる感覚的満足はわれらの望むところではない。あくまでも全身全霊を込めて努力せるのちに漸く得られる心の満足であり、しかもそれは、すぐまた始まる次の向上進化へ向けての刺激剤でしかないのである。

以上に見られる如く、われらは人間を数々の果たすべき義務と数かぎりなき闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱ってきた。別の要素として人間には背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もあるが、ここでその問題を取り挙げる必要性を認めぬ。取り敢えずそなたの視野に映りそなた自ら検討し得る範囲内の事柄に限って述べてきた。また、われらとしては罪なき神の御子、というよりは神との共同責任者としてのイエスに己の足らざるところを全て償わせるが如き、都合よき言説は説かぬ。一度の信仰告白によりて魔法の如く罪を消すと説く、かの贖罪説も説かぬ。卑しき邪悪なる魂も死の床にて懴悔すればイエスがその罪の全てを背負うことによりて立ちどころにして“選ばれし者”の仲間に列せられ、神の国へ召されるなどという説は到底認めるわけにはいかぬ。われらは、そのような卑屈にして愚劣なる想像の産物に類することは一切述べたことはない。援助はある。常に手近にあり、いつでも活用できる強力なる霊力が控えている。しかし、放蕩と貪慾と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くせる人間が、その最期の一瞬に聖者の一人として神の聖域に列せられんが為に自由に引き出せる、そのような都合よき徳の貯えなどはどこにも存在せぬ。臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼び起こす死後の苦しみに怯(おび)える余りに縋(すが)らんとする身代わりの犠牲など、どこにも存在せぬ。そのような卑劣なる目的のためには神の使者は訪れぬ。そのような者に慰めを与えに参る霊などおらぬ。万が一にも己の罪に気づき、後悔することがあれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるであろう。神の愛のムチを当てられるままに放置することであろう。何となれば、その苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからである。然るに神学者はそのような者のために神は御子を遣わし、そして全ての罪を背負いて非業の死を遂げさせたのであると説く。それをもって最高の情けある処置であるとし、神の慈悲の最高の表現であると説く。

そのような作り話はわれらの知識の中には存在せぬ。徳の貯えは自分自ら一つ一つ刻苦勉励の中に積み重ねたるもの以外には存在せぬ。至福の境涯に到る道はかつて聖者たちが辿れる苦難の道と同じ道以外にはない。一瞬にして罪深き人間を聖者に変え、強(したた)かなる無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、そなたらの言う天国に相応しき霊となす魔法の呪文など、われらは知らぬ。そのような冒涜的想像の産物はおよそわれらとは縁はない。

人間は一方においてそのような無知にして到底有り得ぬ空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻く折角の霊的援助と加護には全く気づかずにいる。われらは人間自ら果たすべきことを人間に代わって果たす力は持ち合わせぬ。が、援助は出来る。慰めることは出来る。心の支えとなることは出来る。われらは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当たっている。時として余りにあくどく、余りに物質にかぶれ過ぎてわれらの霊力に感応せず、霊的なるものを求めようとせぬ霊に手こずり、あるいは愚弄されることもあるが、霊的援助の手は常に用意されており、真摯なる祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによりて結びつきを強化することが可能なのである。

ああ、何たる無知! 至聖、至純、至善なる霊が常に援助の手を差し延べんと待機しているものを、祈ることを疎かにするが故に、その霊との交わりを得ることが出来ぬのである。魂を神に近づける崇拝、そして天使を動かす祈り――この二つはいつでも実行可能な行為である。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手なる信仰、教義、宣誓、身代わり等々、事実とは程遠き謂(いわ)れなき作り話に託している。

われらはそうした個々の信仰は意に介さぬ。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩改められていくものだからである。狂気の如き熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体より解放されれば一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられる。生涯抱き続けた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散する。いかに誠意を込めて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われらは信条にはさしてこだわらぬ。それよりもわれらは行為を重要視する。何を信じたるやは問わぬ。何を為せるやを問う。なぜなら人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解するからである。そうした性格も長き苦難の過程を経てようやく改められるものであり、それ故にわれらは言葉より行いに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのである。

われらの説く宗教は行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれなる信仰の宗教ではない。身体の宗教でもあり魂の宗教でもある。打算なき進歩性に富む真実の宗教である。その教えに終局というものはない。信奉者は数知れぬ年月をかけてひたすらに向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨き尽くされたる霊――苦しみと闘争と経験によりて磨き上げられたる霊――が、その純真無垢の姿にて神の足もとに跪(ひざまず)く。この宗教には怠惰も安逸も見出せぬ。霊の教育の基調は真摯と熱意である。そこに己の行為のもたらす結果からの逃避は見出せぬであろう。不可能なのである。罪科はそれ自らの中に罰を含むものだからである。また己の罪を背負わせる都合よき身代わりも見出せぬであろう。自らの背に負い、その重圧に自ら苦悶せねばならぬからである。さらにまた、われらの宗教には、これさえ信ずれば堕落せる生活をごまかし、これさえ信ずれば魂の汚れを被い隠せるなどという卑怯な期待をもたせて動物的貪慾と利己主義を煽るが如き要素も、いずこにも見出せぬであろう。われらが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではない。そのような気紛れなる隠蔽物は死と共に一気に剥ぎ取られ、汚れた生活が白日のもとに曝され、魂はそのみすぼらしき姿を衆目に曝す。またわれらの宗教には、そのうち神は情けを垂れ全ての罪に恩赦を下さるであろうなどという、ケチくさきお情けを求める余地などさらさら見出せぬであろう。そのような人間的想像は真理の光の前にあっけなく存在を失う。神の情けは、それを受けるに相応しき者のみが受ける。言い換えるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進化がおのずとその報酬をもたらすことであろう。そこにはもはや情けも哀れみも必要とせぬであろう。

以上がわれらの説く霊と肉体の宗教である。神の真理の宗教である。そして人類がそれを理解する日もようやく近づきつつある。

(†インペレーター)

シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch

Edited by A.W. Austen
近藤 千雄訳


五章 迷いの過去から悟りの未来へ

 スピリチュアリズムの前途には大きな仕事が待ち受けている。霊的交信の目的はただ単に地上の人間に慰めをもたらすことではない。

ある日の交霊会でシルバーバーチは〝生命の法則について精神的側面、道徳的側面、物的側面、ならびに霊的側面から理解を深めるように指導し、身体的に不健全な人が少なくなると同時に霊的に未熟な人も少なくしていくことが我々の使命の一端です〟と述べて、スピリチュアリズムの目指すべき方向を暗示した。それを別の日の交霊会で次のように敷衍(ふえん)した。

 「私どもは自己中心主義、物質万能主義、無知、暗黒等々、人生の楽しさ、明るさ、安らぎを奪う勢力のすべてを一掃すべく努力しております。地上のため───それだけを望んでおります。それなのに、つまり地上のためになることをのみ望み、何一つ邪なものを持ち合わせず、人間性の中に下品なもの、あるいは低俗なものには決して訴えることがないのに、なぜ人間は私たち霊の働きかけを毛嫌いするのでしょうか。

 より次元の高い真理、より深い悟りの道をお教えしようとしているのです。人生の基盤とすべき霊的原理を理解していただこうと努力しているのです。人間の内部に宿る霊的可能性を認識し、真の自我とその内奥に存在する神性を見出していただきたいと願っているのです。

私たちは人間の理性───人間として最高の判断力に訴えております。一段と次元の高い生命の世界を支配する摂理をお教えし、宇宙の物的側面だけで無く、もっと大きな部分を占めているところの永遠不滅の霊的側面を理解していただこうと願っているのです。

 私たちの努力目標は人類が幻を追い求め影を崇めることのないように、霊的真理の実在を得心させることによって人生観を誤った信仰でなく確実な知識の上に確立し、大自然の法則に基づいた本当の宗教心を持ち、たとえ逆境の嵐が吹き荒れ、環境が酷しく、いずこに向かうべきかが分らなくなった時でも〝事実〟に裏打ちされた信仰心によってあらゆる試練、あらゆる苦難に耐えていけるようにしてあげることです。私たちの使命は霊的使命なのです。

人間が内奥に神すなわち実在の生命を宿していることをお教えし、従って人間は動物ではなく一人ひとりが神であることを自覚し、同じ神性が宇宙の他のすべての生命にも宿っていることを知っていただくことを使命としているのです。

 その認識が行きわたれば地上は一変します。理解が広まるにつれて新しい光が射し込み、永遠の大機構の中での人間の位置を悟ることになります。私たちが訴えるのはややこしい神学ではありません。時代遅れの教説ではありません。

素朴な理性───あらゆる真理、あらゆる知識、あらゆる叡知の真偽を判断する手段に訴えております。

もしも私の述べることにあなた方の知性を侮辱し理性を反撥させるようなものがあれば、それを無理して受け入れることは要求しません。最高の判断基準に訴えることによって人間が真の自分を見出し、真の自分を見出すことによって神を見出してくださることを望んでいるのです。

 真理は決して傷つけられることはありません。決して破壊されることはありません。後退させられることはあります。抑えつけられることもあります。しかし永久に埋もれてしまうことはありません。

真なるものが損なわれることはあり得ません。嘘言を持っていかに深くいかに固く埋め尽くされても、いつかは必ず表に出てきます。真理を永遠に抑えつけることはできません。

いま私たちが旗印としている真理は地上にとって重大な役割を担っております。人間というものは煩悶の時代になると永いあいだしがみついていた教説を改めて検討し、それが果たして苦難と困難のときに慰めとなり力となってくれるであろうかと思いはじめるものです。

 霊的実在についての真理を片隅に押しやることはできません。人間がひとりの例外もなく神の子であり成就すべき霊的宿命を背負った存在であるとの証は、宇宙における人類の本当の位置を認識し無限にして永遠の創造の大業の一翼を担う上で絶対必要なことです。

私たちの存在自体を疑う人がいることでしょう。存在は認めても影響力を疑う人がいることでしょう。もとより私たちは万能を主張するつもりはありません。私たちも常に数々の限界とさまざまな制約に直面していることは、これまでたびたび述べてきたことです。しかし私たちがあなた方を援助することができるという事実に疑う余地はないでしょう。

 私たちには霊力というパワーがあります。これは宇宙の全生命を生み、それに形態を与えている力です。正しい環境と条件さえ整えてくれれば、私たちはそのパワーを活用してあなた方を導き、保護し、援助することができます。

それも決してあなた方だけという限られた目標のためでなく、あなた方を通じて顕現した霊力がさらに他の人へも波及して、その人たちも霊的なパワーを感得できるようになるのです。

前途に横たわる道は決して容易ではありません。しかし協調精神をもって臨み、平和的解決を希求し、慈悲心に裏打ちされた公正を求め、憎しみと復讐心に根ざした観念を完全に排除して臨めば、明るい未来をすぐ近くまで招来することができることでしょう」

 これは一九三九年に第二次大戦が勃発して間もない頃の交霊会での霊言で、最後の部分はその大戦のことを指している(本書の出版は一九四一年──訳者)

 さらにメンバーからの質問を受けてこう語っている。

 「物質の世界に生きておられるあなた方は実在から切り離されております。あなた方自身にとって、そのことを理解することが難しいことは私もよく承知しております。なぜならば、あなた方なりに何もかもが実感があり実質があり永遠性があるように思えるからです。

ご自分を表現しておられるその身体、地上と言う大地、住んでおられる住居、口にされる食べ物───どれをとってもこれこそが実在であると思いたくなります。でも、それはことごとく〝影〟であり〝光〟でないことを申し上げねばなりません。

あなた方は五感に感応しない世界を想像することができません。従ってその想像を超えた世界における活動と生活ぶりを理解することができないのは当然です」


 そうした地上とはまったく異なる世界についての知識を得ているサークルのメンバーの一人に〝その知識はあなたにどういう変革をもたらしましたか〟とシルバーバーチの方から質問したことがあった。それを全部聞き終わったあとこう語った。

 「こうしてお聞きしてみますと、あなた方ひとにぎりの方たちにあっても、わずか二、三年間の霊力との接触によっていかに大きな変革がもたらされたかが分ります。となれば、これを世界中に普及させることによってその数を百万倍にもすることができるということです。

それは無知を一掃し、暗闇の中で進むべき道を見失った人々に灯を与え、全宇宙の背後に存在する大目的を教えてあげることによって達成されることでしょう。
℘71
 人類がいかに永いあいだ道を見失なってきたかご存知でしょうか。人類を先導すべき人たち、霊的指導者であるべき人たちみずからが盲目だったのです。玉石混交の信仰を持って事足れりとしてきました。宗教的体系をこしらえ、その上に教義とドグマで上部構造を築きました。

儀式と祭礼を発明しました。教会(チャーチ)(キリスト教)、寺院(テンプル)(仏教)、礼拝堂(シナゴーグ)(ユダヤ教)、モスク(イスラム教の礼拝堂)等々を建造しました。神とその子等との間に仕切りを設けたのです。それぞれに経典をこしらえ、わが宗教の経典こそ本物で宇宙の真理のすべてを包蔵していると主張し合いました。

かんかんがくがく、宗教家としての第一の心掛けであるべき愛の心を忘れ、その上なお情けないことに、憎悪と敵意を持って論争を繰り返してきました。

 予言者、霊覚者、哲人、聖者の類をすべて追い払いました。真の〝師〟たるべき人々を次々と迫害していきました。神の声の通路であるべき人々の口を塞いでしまいました。腐敗した組織にはもはや神の生きた声が聞かれる場がなくなってしまいました。

開かれたビジョンを閉ざし、すべての権力を聖職者に帰属させ、神へ近づける力は自分たち以外にはないことにしてしまいました。聖職者の中にも高徳の人物は数多くいました。ただ、惜しむらくは、その人たちも(そうした環境の影響のために)宗教の唯一の礎石(いしずえ)であり人類にその本領を発揮せしめる原動力である霊力の働きかけに無感覚となっておりました。
℘72
 人類の歴史において大きな革命を生んできたのは全て霊の力です。素朴な男性または女性が霊感に鼓舞されて素朴なメッセージを威信を持って語り、それを素朴な平凡人がよろこんで聞いたのです。今その霊力が、かつてと同じ〝しるしと奇跡〟を伴って再び顕現しております。

目の見えなかった人に光が戻り、耳の聞こえなかった人が聴覚を取り戻し、病の人が健康を回復しております。邪霊を払い、憑依霊を取り除き、肉親を失った人たちに慰めをもたらしております。

 多くの魂が目を覚まし、霊の大軍が存分にその威力を見せることが出来るようになりました。〝死〟の恐怖を取り除き、〝愛〟が死後もなお続きその望みを成就している事実を示すことができるようになりました。インスピレーションは(イエスの時代に限らず)今なお届けられるものであること、人間の心は(他界した時点のままでなく)死後も改めていくことが出来ること、(宗教的束縛から)

精神を解放することが可能であること、自己改革への道が(宗教的教義に関係なく)開かれていること、(宗教的活動から離れたところにも)自分を役立てる機会はいくらでもあること、霊力に鼓舞されて報酬を求めずこの世的な富への欲望を持たずに〝よい知らせ〟を教えてあげたい一心で、すべての人に分け隔てなく近づく用意の出来た魂が存在している事実を立証しております。

℘73
 これほどまで美しい話、これほどまで分り易い話、人生の本質をこれほど簡明に説き明かしてくれる話に耳を傾けようとしない人が多いのは一体なぜでしょうか。光明を手にすることができるのに一体なぜ多くの人が暗黒への道を好むのでしょうか。なぜ自由よりも束縛を好むのでしょうか。

 しかし、われわれはあなた方が想像される以上に大きな進歩を遂げております。難攻不落と思えた古い壁───迷信、既成権力、ご生大事にされている教義、仰々しい儀式を堅固に守り続けてきた壁が音を立てて崩れつつあります。急速に崩壊しつつあります。

一方では多くの魂が霊的真理に感動し、精神に光が射しこみ、心が受容性を増し、よろこんで私たちの教説に耳を傾けてくれております。過去数年間の進歩ぶりを見れば、われわれの勝利はすでにゴールが目に見えていると宣言してもよい時機が到来したと言えます。

その確信を私は語気を強く宣言します。もはや絶望の戦いではなくなりました。私たちが自己中心の物質第一主義に根ざした古い時代は終わった、新しい時代が誕生している、と述べる時、それは有るがままの事実を述べているのです。

 かつて地上において苦難と犠牲の生涯を送った人々、強者と権力者によって蔑まれる真理を護るためにすべてを犠牲にした人々───その人たちがいま霊界から見下ろし、霊的大軍の前進ぶりを見て勝利を確信しております。
℘74
むろんこれは比喩的に述べたまでです。銃を手にした兵士がいるわけではありません。われわれの弾薬は霊力であり、兵器は理性と良識です。私たちは常に人間の知性に訴えます。もっとも、時としてその知性が無知と迷信と依怙地な強情の下敷きとなってしまっているために、果たして(普遍的判断基準であるべき)知性が存在するのだろうかと迷うこともあるでしょう。

しかし、よく目を見開いて自分でそのしるしを求めることです。あなた方にはその判断力があり、囚われなきビジョンを手にする能力をお持ちです。その力で、暗闇を突き通す光を見届けて下さい。

 われわれはもはや軽蔑の対象とされた曽ての少数派ではありません。片隅で小さくなっていた内気な小集団ではありません。科学的立証を得て、やはり真実だったと確信した堂々たる大軍であり、恥じることない社会的位置を獲得し、霊的事実の福音を誇りを持って説いております。

霊的なことを口にしたからといって軽蔑されることはもうありません。それは過去の無知な人間がしたことです。今はそれを知っていることで尊敬される時代です」

 訳者注───モーゼスの『霊訓』によると、かの 〝十戒〟を授かったモーゼが従えていた七十人の長老はみな霊格の高い人物だったという。これは世界に共通した事実であって、古代においては霊感が鋭くかつ霊的なことに理解のある者が要職につき、いわゆる祭政一致が当然のこととされた。
℘75
 それが物質科学の発達と共に意識の焦点が五感へと移行し、物的なものさしで測れないものが否定されていった。ところが皮肉なことに、その物質科学みずからが物質の本質は常識的に受け止めてきたものとは違ってただのバイブレーションに過ぎないことを突き止めたのと時を同じくして、再び霊的なものへと関心が高まりつつある。

 シルバーバーチはそうした潮流の背後には霊界からの地球的規模の働きかけがあることを指摘している。オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻〝天界の大軍〟篇はそれを具体的に叙述して、その総指揮官がキリストであると述べている。シルバーバーチ霊団も、イムペレーター霊団もその大軍に属し、最前線で活躍していたことになる。

シルバーバーチの霊訓(五)

More Teachings of Silver Birch

Edited by A.W. Austen
近藤 千雄訳



四章 軽蔑と嘲笑の中で
        ───スピリチュアリズムの歩み

 一九世紀半ばから始まった科学的心霊研究、そしてその結果としてスピリチュアリズムの名のもとに盛んになり始めた霊的知識は、既成宗教界の侮蔑と弾圧の中にあっても着実に普及してきている。スピリチュアリズムの発端からほぼ百年の歩みを振り返ってシルバーバーチはこう述べた。(本書の初版は一九四一年───訳者)


 「私たちの仕事が始まった当初、(その表面の現象だけを見て)世間の人は何とたわいもないことをして、と軽蔑の眼差しで見たものでした。〝テーブルラッパー〟(※)───彼らはサークルのメンバーをそう呼んで軽蔑し嘲笑しました。しかし、そうした現象も実は大きな目的を持った一大計画に組み込まれていたのです。私たちの意図した影響力は次第に大きくなり世界中へ広がっていきました。

各分野で名声を得ていた名士を次々とその影響力に誘っていきました。偏見によって目隠しをされ理性が迷信によって曇らされている者は別として、やはり著名人の証言が全ての人に尊重されるという考えからそういう手段を選んだのです。(※初期の頃はテーブルの叩音(ラップ)による通信が盛んに行われた───訳者)

 その後もますます多くの人材が同じ霊的影響下に置かれていきました。霊媒も増えました。サークル活動が広まり盛んになりました。科学、医学、思想、宗教、その他ありとあらゆる分野の人をこれに参加させ、当時すでに猛威をふるっていた誤った物質万能主義を否定する現象、新しい高度な生命感を示唆する霊的事実、唯物思想の終焉を予告する目に見えない力の存在へ目を向けさせました。

ほどなくして───実に短期間のうちに───そのテーブルラッパーたちは宗教を腐敗から守る運動の旗手となっていったのです。

 僅か百年足らずの間にどれだけのことが成就されたか、それをこうした経過の中から読み取り、それを教訓としてこれ以後どれだけのことが成就できるか、そこに皆さんの先見の明を働かせてください。しかし私たちが今まさに欲しているのは、もっと多くの道具───背後から導き鼓舞してくれる霊の力に満腔の信頼を置いてくれる人材です。

霊的実在を悟りそれを他の同胞のために使用してくれる人、真理を暗い生活の灯火として持ち歩いてくれる人です。

  私たちが望んでいるのは、まずそうした霊的真理のメッセンジャー自らがそれを日常生活において体現し、その誠実さと公明正大さに貫かれた生活を通して、見る人の目になるほど神のメッセンジャーであることを認識させることです。

それから今度は積極的に世に出て社会生活のすべての面にそれを応用していってほしいのです。つまり、まず自らが身を修め、それから他人のために自分を役立てる仕事に着手するということです。これまでもあなた方が想像なさる以上に多くの仕事が成就されてまいりましたが、これから先に成就されていく可能性に較べれば、それは物の数ではありません。

 世の中を見回して、あなた方の努力のしるしを読み取ってごらんなさい。古くて使いものにならない教義やドグマの崩壊が見て取れるはずです。誤った信仰の上に築かれた構築物が至る所で崩壊しつつあります。私達の説く霊的真理(スピリチュアリズム)は(心霊学という)知識を土台として築かれております。

その土台はいかなる嵐にもビクともしません。なぜなら真実───霊的事実───を土台としているからです。あなた方が建造の一役を担ったその殿堂は、あなた方が(死んで)物質界に感応しなくなったのちも、あなた方の奮闘努力の記念碑として末永くその勇姿を失うことはないでしょう」

  同じテーマについて別の交霊会で───

 「真理は前進し、暗黒と無知と迷信と混迷を生む勢力は後退します。霊力はますます勢いをつけ、これまで難攻不落と思われていた分野にまで浸透しながら凱旋し続けます。これが私たちが繰り返し繰り返し宣言しているメッセージです。あなた方は今まさに地上に新しい存在の秩序を招来するために貢献しておられるということです。ゆっくりとではありますが、変革が生じつつあります。

新しいものが旧(ふる)いものと取って替わるとき数々の変動は避けられません。それも神の計画のうちに組み込まれているのです。

 常に基本的な霊的真理を忘れぬように、と私は申し上げております。常にそれを念頭におき、その上に宗教観、科学観、哲学観、倫理観、道徳観をうち立ててください。すぐにご大層なことを想像なさる御仁に惑わされてはなりません。私たちの説く真理は至って単純であるがゆえに、誰にでも分かり誰にでも価値を見出すことができます。神の子としての人間の有るがままの姿を何の虚飾もなく説いているからです。

すなわち神の分霊を宿し、その意味において真実〝神の子〟であり、永遠にして不変の霊の絆によって結ばれているという意味において真に同胞であり、人類全体が一大霊的家族であり神の前に平等であるということです。

 霊の目を持って見る者は民族、国家、気候、肌の色、宗教の別を超えて見つめ、全人類を一つに繋ぐ霊の絆を見てとります。地上世界は今こそそうした単純な真理を見直す必要があります。余りに永いあいだ教義とドグマ、祭礼と儀式といった宗教の本質ないしは生命の大霊とは何の関係もないものに躓(つまず)いてきました。

 私は魂をより意義ある生活へ誘うものでないかぎり教義、信条、ドグマといったものには関心がありません。日常の行い以外のものには関心がないのです。根本的に重要なのは日常生活の生き方だからです。いかなる教義もいかなるドグマもいかなる儀式も、原因と結果の関係を寸毫(すんごう)だに変えることはできません。

霊性を一分(ぶ)たりとも増すことも減らすことも出来ません。それは日常生活によってのみ決定づけられるものだからです。私たちが忠誠を捧げるのは宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理であって、教義でもなく書物でもなく教会でもありません。

 今や霊の力がこうして地上に顕現する新しい手掛かりが出来たことを喜んでください。真理を普及するための新しい人材が次々と霊力の支配下に導かれていることに着目してください。

新しい通信網が出来たことに着目してください。人類の進歩を妨げてきた既成権力が崩され障害が取り除かれていきつつあることに目を向けて下さい。私たちは刀剣や銃を手にせず愛と寛容心と慈悲と奉仕の精神でもって闘っている大軍の一翼を担っております。私達の武器は真理と理性です。

そして目指すのは人間として当然受け取るべきものを手にできずにいる人々の生活に豊かさと美しさをもたらしてあげることです。

 神とその子等の間に立ちはだかろうとする者には、いかなる地位にあろうと、いかなる人物であろうと容赦は致しません。地上に神の王国を築くためには地上のいずこであろうと赴く決意は決して揺らぎません。これまでも数々の虚言、中傷、敵意、迫害に遭ってまいりました。が、

勇気ある心の有ち主、断固たる決意を秘めた魂が闘ってきてくれたおかげで、こうして霊の力が地上に顕現することができたのです。今も新しい世界の前哨地に多くの勇士が歩哨に立ってくれております。ですから私は皆さんに、元気をお出しなさい、と申し上げるのです。

心に迷いを生じてさせてはなりません。変転きわまりない世の中の背後にも神の計画を読み取り、あなた方もその新しい世界の建設の一翼を担っていることを自覚してください。真理は絶え間なく前進しているのです。

 意気消沈した人、悲しげにしている人に元気を出すように言ってあげてください。先駆者たちの努力のたまものをこれから刈り入れるのです。そしてそれが明日を担う子供たちにより大きな自由、より大きな解放をもたらす地ならしでもあるのです。不安は無知という暗闇から生まれます。

勇気は自信から生まれます。すなわち自分は神であるとの真理に目覚めた魂はいかなる人生の嵐を持ってしても挫かせることはできないとの自信です。

 私がお教えしているのはごく単純な真理です。しかし単純でありながら大切この上ない真理です。地上人類がみずからの力でみずからを救い、内在する神性を発揮するようになるためには、そうした霊的真理を日常生活において実践する以外にないからです。 

あなた方はその貴重な霊的な宝を手にされていること、それがすべての霧とモヤを払い、悟りの光によって暗闇を突き破ることを可能にしてくれることを知ったからには、自信を持って生きてください。しかし同時に、知識には必ず責任が伴うことも忘れてはなりません。

知った以上は、知らなかった時のあなたとは違うからです。知っていながら霊力を無視した生き方をする人は、知らないために霊的真理にもとる生き方をする人よりも大きな罪を犯していることになります。

 その知識を賢明にそして有効に生かしてください。一人でも多くの人がその知識を手にすることが出来るように、それによって魂を鼓舞され心が開かれる機縁となるように配慮してあげてください。私たちの方でも一人でも多くの人の涙を拭い、心の痛みを癒し、燦然たる霊的真理を見えなくしている目隠しを取り除いてあげようとの態勢でいるのです。

親である神を子等に近づかせ、子等を神に近づかせ、人生の奥義に関わる摂理を実践に移させようとして心を砕いているのです。そうすることによって利己主義が影を潜め、生命の充実感を地上に生きる人の全てが味わえることになるでしょう」


 ここでメンバーの一人がこうした心霊知識の普及を既成宗教の発端と同列に並べて考えようとする意見を聞いて、シルバーバーチはこう説いた。

 「私たちはこれまで確かに成功を収めてまいりました。しかし、そうしたスピリチュアリズムの発展を私たちは他の宗教と同列に並べて考えていないことを銘記してください。私たちにとってスピリチュアリズムというのは宇宙の自然法則そのものなのです。

これを体系化して幾つかの信条箇条とすべき性質の教えではありません。キリスト教とて頭初は自然法則の一つの顕現でした。ユダヤ教もそうですし仏教もそうです。その他地上に誕生した宗教の全てが最初はそうでした。それぞれの教祖が霊覚でもってその時代の民衆の成長、発展、進化、慣習、鍛錬、理解力等の程度にふさわしいビジョン、インスピレーション、悟りを手にしました。

それがさらに受け入れる用意のある者に受け継がれていきました。それは一部とはいえ真理であることには間違いありませんでした。ところが残念なことに、そのささやかな真理が(人間的夾雑物の下に)埋もれてしまいました。

 真理の持つ純粋な美しさを留めることができなかったのです。まわりに世俗的信仰、神学的概念、宗教的慣習、伝承的習俗などが付加されて、玉石混交の状態となってしまいました。やがて神性が完全に影をひそめてしまいました。そして新たにそれを掘り起こし蘇生させる必要性が生じたのです。

過去の宗教はすべて───例外なしに───今日こうして地上へ届けられつつあるものと同じ啓示の一部であり一かけらなのです。一つの真理の側面に過ぎないのです。それらを比較して、どちらがどうということは言えません。届けられた時の事情がそれぞれに異なるのです。

たとえば今日の世の中ですと、昔では考えられなかった通信手段が発達しています。伝達し合うことにあなた方は何の不自由も感じません。何秒とかからずにお互いがつながり、メッセージを送り、地球を一周することができます。

 これまでの啓示と異なるところは、入念な計画にしたがって組織的な努力が始められたということです。それが地上の計算でいけば約百年前のことでした。こんどこそは何としてでも霊的知識を地上に根づかせ、いかなる勢力を持ってしても妨げることのできない態勢にしようということになったのです。

その計画は予定どおりに進行中です。そのことは、霊的知識が世界各地で盛んに口にされるようになってきていることで分ります。霊力は霊媒さえいれば、そこがどこであろうとお構いなく流入し、新しい前哨地が設立されます。

 ご承知のように私は常に、一人でも多くの霊媒が輩出することの必要性を強調しております。霊界からの知識、教訓、愛、慰め、導きが地上に届けられるためには、ぜひとも霊媒が必要なのです。一人の霊媒の輩出は物質的万能思想を葬る棺に打ち込まれるクギの一本を意味します。

神とその霊的真理の勝利を意味するのです。霊媒の存在が重要である理由はそこにあります。両界を繋ぐ霊媒だからです。知識と光と叡知の世界から私に届けられるものをこうした形で皆さんにお伝えすることを可能にしてくれる(バーバネルと言う)霊媒を見出したことを嬉しく思うのも、そこに理由があります」

 こうした霊媒を仲介役として始められたスピリチュアリズムに対する抵抗がよく話題にされるが、その中から典型的なシルバーバーチの霊言を紹介しよう。

 「私たちはほぼ一世紀にわたって、霊的真理を基本とした訓えを地上に根づかせようと努力してまいりました。それこそがこれから築かれていく新しい秩序の土台である以上、何としでも困難を切り抜けなくてはならないからです。本来は最大の味方であるべき陣営の抵抗と敵意に耐え抜き闘い抜いてまいりました。

宗教的分野において子羊たちを導こうとする人間(キリスト教の指導者)ならもろ手をあげて歓迎すべきものなのに、逆に自分たちの宗教の始祖(イエス)の教えであるとして広めんとしてきた主義・信条のすべてにみずから背いて、そういう立場の人間にあるまじき酷い言葉でわれわれを非難してきました。

そこには愛も寛容心も見られません。それどころか、私たちを悪魔の使いであると決めつけ、神の子羊を正義の道から邪な行為、不道徳、利己主義へ誘導せんとする闇の天使であるとして、悪口雑言の限りを浴びせます。

 しかし、そうした激しい抵抗の中にあっても、私たちの説く真理は今や世界中に広がり、これまで抵抗してきた勢力は退却の一途をたどっております。私たちは現今のキリスト教が基盤としている教説を否認する者です。愛と正義と慈悲と叡知の根源である大霊が地上人類に対して呪うべき行為を働くはずがないことを主張する者です。

神の怒りを鎮めるのに残酷な流血の犠牲(いけにえ)が必要であった。などという言い訳は断じて認めません。いかなる権力を持ってしても自然の摂理に介入出来たためしは一度もないことを主張します。神学の基盤と構造の全てを否定する者です。

なぜならば、それは人類の進歩の時計を逆まわりさせ、その狭苦しいひとりよがりの世界に合わないものはいかなる発見も発明も進歩も拒絶してきたからです。

 そうしたものに代わって私は、啓示というものが常に進歩的であること、かつて指導者の一人ひとりが神の叡知の宝庫からひと握りずつを地上へもたらしてきたこと、そしてその一連の系譜の最後を飾ったのがかのナザレのイエスであり、私たちはそのイエスを鼓舞したのと同じ霊の力の直系の後継者として、同じ福音、同じ真理を説いている者であることを宣言します。

人間に贖(あがな)い主はいらないのです。神との仲介者は不要なのです。自分の荷は自分で背負う義務があり、日々の生活の中の行為によって霊的生命を高めもすれば傷つけもするのです。内部に神性を宿していることは今も、そしてこれから先も永遠に変わりません。

変るのは程度の上下であって、本質は決して変わりません。向上進化というのはその潜在的神性をより多く顕現していく過程にほかならないのです。

 いかなる教義、いかなる信条をもってしても、過った行為がもたらす結果をねじ曲げることはできません。私たちの説く神は永遠・不変の法則によって宇宙を統治しており、その法則の働きによって地上の人間は地上で送る人生によってみずからを裁くようになっていると説くのです。

かつて地上においてこうした真理を説き、それ故に迫害を受けた先駆者たちに対して私たちは、今や彼らの努力が実りの時代(トキ)を迎え、古き秩序が廃れ新しき秩序のもとに霊的生命が芽生え始めている兆しを地上のいたるところに見ることが出来るようになった事実をお知らせしております。

 永いあいだ真理の太陽をさえぎってきた暗雲が足ばやに去りつつあります。そして光明が射して無数の人々の生活を明るく照らし、こんどはその人たちが、自分を自由にしてくれた真理の伝道者となっていきます。それだけの備えができている人たちです。

私どもは地上の人々がみずからの力でみずからを救い、死せる過去と訣別し、精神と霊を物質による奴隷的束縛から解放する方法をお教えするために戻ってまいりました。古くからの教えだからといって有難がってはいけない───知的な目を持って真理を探究し、常識に反し理性を反撥させるものは一切拒絶しなさい、と申し上げているのです」


 しばしの休暇ののちに再会された交霊会でシルバーバーチは年二回開かれるという霊界での指導霊の総会(※)に出席していたと言い、〝光の世界から影の世界へ、実在の世界から幻影の世界へ戻って来るのは気が進まないものです〟と述べてからこう続けた。

(※これはスピリチュアリズム思想推進のために経過報告と次の計画の指示を仰ぐための会合で、世界的規模で行われる。これが年に二回ということであるが、このほかにも実質的に地上の経綸に当たっている霊界の上層部において慣例的に行われる。〝讃仰のための集い〟もある。

オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻に、通信霊のアーネルがその会場に入った時の雰囲気を〝音が無いという意味での静けさではなく静寂という実体が存在する〟と表現している。

又モーゼスの『霊訓』にはイムペレーターからの通信がしばらく途絶えたのでモーゼスがその理由を尋ねると〝地上の用事とは別の用事があって留守にしていた〟と言い、霊界の上層部における神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるために他の多くの霊とともに一堂、集結したのだと言う。その時の日付けが十月十二日となっている。

日本で十月のことを神無(かんな)月と呼ぶことには〝神の月〟と〝神がいなくなる月〟の二つの説があるようであるが、私は両者は詰まるところ同じことに帰すると思う。古代の日本人はそれを直感していたのである───訳者)


 「そもそも私がこの利己主義と残酷に満ちた地上へ降りてくることになったのは、人類への愛と使命があったからです。そこでこの度も(総会を終えたあと)こうしてあなた方のもとへ戻ってまいりました。

私なりに出来るかぎりの援助を与えるためです。人類を霊的奴隷状態から解放し、神性を宿す者が当然わがものとすべき神の恩寵───霊的生活、精神的生活、そして身体的生活における充足───を得させると言う(地球規模の)大使命の推進の一翼を担う者として戻ってまいりました。

 その使命の成就を妨げんとするものは何であろうと排除しなければなりません。私たちが目指す自由は(霊的・精神的・身体的の)あらゆる面での自由です。その道に立ちはだかる既成の特権と利己主義の全勢力に対して、永遠の宣戦を布告します。

あなた方より少しばかり永く生きてきたこの私、あなた方がこれより辿らねばならない道を知っている先輩としての私からあなた方に、どうか勇気を持って邁進されるよう申し上げます。お一人おひとりがご自分で思っておられる以上に貢献なさっておられるからです」

 更に地球規模の霊的活動における指導霊と交霊会の役割りに言及して───

 「過去数年の間に私たちは数多くの人々を知識の大通りへと案内してまいりました。しかしまだまだ大きな仕事が為されます。世界各地で数多くの心霊治療家によって行われている霊的治療の成果に目を向けて下さい。大地に再び視界が開けていく様子を思い浮かべてください。

予言者の声が再び地上にこだまするようになり、夢かと紛(まご)うものを見るようになります。先見の明が開けはじめます。病める人々が癒され、肉親の死を悲しんでいる人々が慰められつつあります。あなた方は本当に恵まれた方たちです。

人間が永遠の魂の旅の中にあってほんの束の間をこの地上という生活の場で過ごしている、永遠にして無限の霊的存在であることをご存知だからです。

 私はそのメッセージをあなた方の助力を得ながら広め、私を地上へ派遣した霊団の使命を推進したいと望んでおります。私たちはいま勝利へ向けて前進しております。誤謬と利己主義、迷信と無知、自惚れと悪逆無道の勢力を蹴散らし過去のものとしなければなりません。

 もはやそうしたものが許される時代は終わったのです。真理が理解されるに従って暗闇が光明へとその場を譲ってまいります。人々はその目を上へ向けて新しい世界の夜明けを待ち望んでおります。新しい世界は新しい希望と新しい悟りを与えてくれます。
 神のみ恵みの多からんことを」