Monday, October 28, 2024

シアトルの秋 三つの出張講演から 

From three visiting lectures



《このたびこうして私をお呼びいただき、ささやかながら私がたずさえて来た知識を皆さんと分け合うことになったことを光栄に思っております。この新たな体験によって私が何らかのお役に立てば、こうして皆さんの前にお邪魔した甲斐があったことになります。

皆さん方はすでに霊的実在についての知識をお持ちの方ばかりです。したがって私から改めてその重大性、とくに今日の地上世界における不可欠性について強調する必要はないと思います》                

シルバーバーチ 
      
                                       
 永年ハンネン・スワッハ―・ホームサークルだけを拠点として語り続けてきたシルバーバーチが、最近になって三つのスピリチュアリストの団体からの招待に応じて、それぞれの本拠地で講演と一問一答を行った。  


 一つはコペンハーゲンで開催された国際スピリチュアリスト連盟 International Spiritualist Federation の総会において、二つ目は英国心霊治療家連盟 National Federation of Spiritual Healers において、三つ目は大英スピリチュアリスト協会 Spiritualist Association of Great Britain において、それぞれの評議会員を前にして行われた。


 ◎ I・S・F (国際スピリチュアリスト連盟) での講演と一問一答

 「私たち霊界側から言わせていただければ、こうした機会をもつことは皆さんの意識の焦点と視野を正しく修正する上でまことに結構なことだと思います。この霊的大事業にたずさわっておられる皆さん方も、ややもすると日常生活の煩雑さや揉めごとに巻き込まれて、こうして地上でいっしょに仕事をしているわれわれを鼓舞している雄大な理想像(ビジョン)の無垢の美しさを、つい忘れがちだからです。

 物質の世界に閉じ込められ、肉体をもつが故の数々の義務を背負っておられる皆さんにとって、自分が本来は霊的存在であることを忘れずにいることは難しいことでしょう。が、皆さんの本性の中を神の力が流れているのです。

また皆さんの中の大勢の方が霊的能力を授かっておられます。それは自分より恵まれていない同胞のために使用することができます。

 皆さん方が進まれる道は決して容易ではありません。それは皆さんが、潜在的な霊的資質を開発するチャンスをみずから欲するだけの器量を具えていらっしゃるからです。神の使節に気楽な人生は有り得ません。進化と向上を求める者、地上の人間として到達しうるかぎりの高級界に波長を合わせんとする者にとって、安易な道は許されません。

近道など有りません。酷しい試練と絶え間ない危険との遭遇を覚悟し、今たずさわっている仕事、それは実は───これがいつも議論のタネになるのですが───皆さんが地上へやってくる前にみずから志願されたものなのですが、それをあくまでも成就させんとする決意を要請されます。それは皆さんがみずから選択された道なのです。

 霊的闘争における勝利はそう簡単には得られません。霊的なものが支配権を握るに至る過程は長くて過酷なものです。が、一度手中にすれば、それは永遠です。決して失われることはありません。

霊の褒章は決して傷つきません。決してサビつきません。決して腐食しません。永遠に自分のものとなります。それは皆さんが、皆さんの一人一人が、みずからの努力で勝ち取らねばならない、永遠の財産なのです。

 皆さんとともに仕事をしている私たち霊界の者が、いくら皆さんを愛し、窮地にあって守り導き、道を教えてあげようと望んでも、所詮は皆さん自身の道なのです。その道を進むのはあなた方自身です。そして一つの困難を克服するごとにあなた方自身が霊性を強化し、霊的な仕事にたずさわる者として、より大きな資格を身につけて行かれるのです。

 ですから、困難の挑戦を大いに歓迎することです。困難を避けたいと思うような者は神の仕事には無用です。闘いの真っ只中、しかも物質万能思想との闘いという最大の闘争において、あまりの激しさに将軍や指揮官が敵前逃亡をするようなことがあっては断じてなりません。耐え忍び、みずから志願したこの神聖なる仕事を成就すべく、鍛えられ、しごかれ、また鍛えられ、しごかれなければならないのです。

 われわれに対抗する勢力は、地上においても霊界においても、実に強力です。しかし、いかに強力といっても、神の意志をしのぐほどの力はありません。永年にわたって地上での仕事にたずさわり、幸にして地上での神の計画の一部を知ることを得た私が絶対的確信をもって申し上げますが、霊力はすでに地上に根づいております。

すでに地上生活に浸透しているその霊力を駆逐する力は、物的世界に帰属する勢力、すなわち宗教界の有力者にも、新聞にも、医師にも、あるいはそうした勢力がいかなる形で結集したものにもありません。

 すぐれた霊の道具(霊能者・霊媒)の出現によって世界各地に霊力の前進基地がすでに設けられ、今その地固めが行われているところです。そこを拠点として、神の子等が一体自分はどこの誰なのか、何者なのか、なぜこの地球上に存在するのか、その存在の目的を成就するには何を為すべきかを、みずから理解して行くことになるのです。

 皆さんはこのたび海山を越えて遠く隔てた国々から集まってこられましたが、皆さんを結集させた力は、ふだん他人のための仕事においてわれわれを鼓舞している力と同じものです。私たちは自分のことは何も欲していません。

名誉も求めません。ひたすらお役に立ちたいと望み、神の子等が、霊と精神と身体とが調和的に機能した時に得られる充足感、豊かさ、美しさ、生きる喜び、こうしたものを味わえるようになる生き方をお教えしようとしているのです。

あなた方は自分を役立てる掛けがえのない好機を手にしていらっしゃいます。そして他人のために自分を役立てることほど偉大な宗教的行為はないのです。

 それは神の愛の働きにほかなりません。このたびこのデンマークの地に世界のスピリチュアリストの代表が総結集し、神の計画の推進のための会議をもつことになったのも、その愛、その叡智、その霊力の働きによるのです。

 ですから、時として闘いが酷しく、長く、ともすると投げやりな気持ちになりそうなことがあっても、決して挫けてはなりません。もしも挫けそうになった時はいったん物質界から身を引くことです。

気持ちの流れを止め、精神を統一して、内部の霊的バッテリーが充電される状態にするのです。一新された生命力、一新された元気、そして一新された目的意識をみなぎらせるのです。かくして元気百倍して物的世界に戻り、仕事を続けるのです。

 本日はこうしたメッセージをお届けする機会をこの私にお与えくださったことを感謝いたします。これは私個人の考えではありません。私をこの地上に派遣した霊団からのメッセージを私が取り次いだまでです。私と同じように他の多くの霊が地上へ派遣されており、皆さんとの協調関係を通じて、いかにわれわれが神の計画において一体であるかを理解していただくように配慮してくださっているのです」


───われわれの運動も内部に大きな問題を抱えております。本来なら団結すべきところでそれがうまく行かず、ために強力な態勢が整いません。何とかそれを改善するよい方法はないかというのが私の大きな関心事なのですが、何かよいコメントをいただけますでしょうか。

 「団結というのはそう簡単には成就できないものです。命令によって強制できる性質のものではありません。理解力の発達とともに徐々に達成していくほかはありません。問題は、人類の一人一人が知的にも道徳的にも霊的にも異なった発達段階にあることです。一つの共通した尺度というものがないのです。

あなた方の仕事においてさえも、各自の霊的進化のレベルが異なるという、その単純な事実に由来する衝突がたくさんあります。

 霊的覚醒というのは霊性の進化とともに深まるものです。となると、あなたが高級霊との一体関係を確立しても、あなたと同じ発達段階に到達していない者がそれに参加することができないのは明白なことです。したがってあなたはあなたとして活用しうるかぎりの手段を駆使して最大限の成果をあげることに努力するしかないわけです。

 この問題は私たち霊界の者にとっても無縁の問題ではありません。私たちも常に同じ問題に直面しているからです。私たちは地上の人間を道具として仕事をするのですが、その中には霊界側として期待している水準にまで達しない者がいます。しかし、それはそれとして最善を尽くすしかないのです。

 そうした事情のもとでも、光明が次第に広がりつつあることに皆さんもいずれ気づかれるはずです。大切なことは、このたびのように伝統も環境も異なる世界各地から、言語も考えも異なる代表が一堂に会する機会をもつことです。その場で、たとえば他の国での成果を知って、それを後れている国の人がよい刺激とすることができます。

  案ずることはありません。あなた方は自分なりの最善を尽くせばよいのです。もうこれ以上はできないというところまで努力したら、それ以上はムキにならず、あとは私たちに任せる気持におなりなさい。人間は自分にできるかぎりの努力をしていればよいのです。それ以上のことは要求しません」


 ───でも、何かよい秘訣のようなものはありませんか。


 「真理を理解するということ以外に秘訣はありません。たとえば再生の問題は人間には解決できない難問の一つです。人間はすぐに〝証拠〟にこだわりますが、再生は証拠によって確信が得られる性質のものではありません。証拠などといっても、ただの用語にすぎません。確信というのは内部から湧き出てくるものです。

魂に受け入れ準備が整えば理解がいきます。その理解こそ大切で、それが唯一の確信です。科学は刻一刻と変っていき、その領域を広げつつあります。知識というものは固定したものではありません。一方、確信というのは真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟りです。

 この再生に関しては地上では、当分の間、意見の一致は見られないでしょう。理解した人にとっては至って単純なことであり、容易に納得がいきます。一方、理解できない人にとっては、ひどく難しく思えるものです。ですから、忍耐強く待つことです。意見の一致が得られないからといって組織がつぶれるわけではありません。

 何につけ、議論することは結構なことです。意見が衝突することは結構なことです。自然は真空を嫌うと言います。惰性は自然の摂理に反します。作用と反作用は正反対であると同時に相等しいものであり、同じエネルギーの構成要素です。立ち止まってはいけません。

大いに議論し討論し合うことです。沸騰した議論がおさまった時、そのつぼの中から真実が姿を現すことでしょう」

Saturday, October 26, 2024

シアトルの秋 青年部の代表と語る

Talking with youth representatives

Philosophy of Silver Birch         
      by Stella Storm   
   Spiritualist Perss (1969) 
     London, England   


《あなた方は比較的若い年齢でこうした素晴らしい機会に恵まれたことを喜ぶべきです。今日なおあまりに多くの人たちが日陰の中で暮らし、きつね火を追い求め、幻影を抱き、実在を見出せずにいることは何と悲しいことでしょう。あなた方は一人一人が無限の可能性の宝庫なのです。

その中のどれだけを自分のものとするのかは、あなた方の努力次第です。それが自由意思をどれだけ行使するかの尺度となります。どこまで追求するか、それはひとえにあなた方自身にかかっております》               シルバーバーチ


 四人の若い真面目なスピリチュアリストがシルバーバーチと対話を交えた時の感動的な記事をこの私がサイキックニューズ紙に掲載したことがある。結成したばかりの青年部のメンバーで、どんな難しい質問でもよいから用意してくるようにとのシルバーバーチからの要請を受けて、ハンネン・スワッハー・ホームサークルを訪れた。

 二十代の男女二人ずつが青年部の代表として出席し、そのうちの一人が代表して質問を述べた。だらけ切った物質世界に何とかして霊的衝撃を与えたいと望む若々しい熱誠と、同じような質問を何十年も繰り返し聞かされてきた、我慢を身上とする老練な指導霊とのコントラストは、まさに〝事件〟と言ってよいほどの興味あふれるシーンであった。
 
 交霊会の終了後、一人が私にシルバーバーチの簡潔無比の言葉遣いと美しい言い回しの流麗さに深く感動したと言い、こう続けた。

 「それはあたかも一語一語ていねいに選び出しているようで、それでいて間髪を入れず返ってくる答えは、すごいというほかはありませんでした」

 彼はそれを現代人らしく〝霊的コンピューター〟に質問を入力するのに似ていると述べている。では、その青年グループによる交霊界での一問一答を紹介しよう。


───僕らのような若者の多くが真理を求めています。後に続く世代を育てるための、よりよい世界を望んでいます。なのになぜ人間は殺し合い、同胞を不具にし合うのでしょうか。なぜ異なった民族、異なった宗教の人間を憎むのでしょうか。なぜこの地上にそれほど愛が乏しいのでしょうか。

僕らは地上に平和が来ることを望んでいます。が、いつ、どういう形で来るのでしょうか。先輩の聖賢たちが失敗してきた問題を、どうすればわれわれが解決できるのでしょうか。僕らはまだ若く、体力があり、無知と愚行、貪欲と憎悪に対する闘争によろこんで参加したいと思っております。あなたの助言をお聞かせください。

  「これはとても難しい問題です。今あなたがおっしゃった無知と愚行は、実に永いあいだ地上世界に根を張っております。それを一夜のうちに取り除いてしまう呪文(まじない)はありません。大自然は過激な革命ではなく一歩一歩の進化によって営みを続けているのです。全ての生長・発展はゆっくりと、しかも冷厳な法則によって営まれています。

子供の身体を無理やりに生長させようとすると必ず不自然なことが生じます。それと同じで、霊的生長を性急に求めると失敗します。

 こんなことを言うのは別に弱気になっているからではありません。私は、幸いにして霊的実在をかいま見ることを許された者は何事につけても楽観的であらねばならない、と信じます。

が、いかに鈍感な人間でも、真理を知ることが自分に対して幾つかの制約を課したことになることに気づくものです。人間の力ではどうしようもない摂理というものに従わねばならないということです。

  私たちは万能薬は持ち合わせません。私たちに言えることは、霊的知識が広まり、その結果として無知が減るにつれて、それだけ人間と人間との間の差別が少なくなり、戦争が減り、貪欲が薄れ、日なたが多くなるということだけです。

地上の現状(シーン)を一変させる力は私たちにはありません。できるのは、受け入れる用意のできた者に人間本来の生き方を教える霊的真理を根気よく説いて感化していくことだけです。

 人間には、例によってある限られた範囲内での話ですが、選択の自由が許されております。
 宇宙の無限の霊力とともに創造活動に参加し、進化の行進(マーチ)を促進することができるのです。反対に邪魔することもできます。遅らせることもできます。ためらわせることもできます。それも、大きな進化の過程の一コマなのです。

  無限なる叡智を具えた神は人間をでくの坊、操り人形、ロボットにはしませんでした。神の所有する崇高な属性のすべてを潜在的に授かっているのです。ですから、人間界のことは人間みずから選択しなければなりません。

その上で、戦争が何の解決にもならないこと、逆に新たな問題を生み出すこと、貪欲と利己心はその内部に、みずからの災禍のタネを宿していることを思い知らねばなりません。

 その昔ナザレのイエスは〝すべて剣をとる者は剣にて滅ぶ〟と申しました。人間はみずからの選択でそれを学んで行かねばなりません。あなた方が個人として為しうることは、どこにいても霊的知識を普及することです。

あなたのほかに一人だけでも光と真理をもたせてあげることが出来たら、それだけであなたの地上人生は無駄でなかったことになります。それが私からの忠言です」


───正直言って現在のスピリチュアリズム運動と霊媒現象は程度が低く・・・・・・

 「ちょっとお待ちなさい。私たちは今あなたがおっしゃったスピリチュアリズム運動というものには関心はありません。

私たちが関心を向けているのは霊的資質の開発準備が整っている人たちで、スピリチュアリストの組織の中の人であるか外の人であるかにはこだわりません。組織には組織としての目的があり、それはその組織の者が遂行すればよろしい。私たちの責務はいつどこにいても自分を役立てることを望んでいる人を支援することです。

 私は名称というものにはこだわりません。スピリチュアリスト、セオソフィスト(神智学会員)、ロゼクルーシャン(バラ十字会員)、こうしたものはただのラベルにすぎません。

大切なのは一人一人が自分の能力に応じて真理を追及することです。霊媒能力が大切なのは、地上でもっとも大きな貢献の手段となりうる能力を授かった人間がそこにいるということを意味するからです。それは大へんな責任を伴う仕事であり、その人は神聖な信託を受けているのです。と言うよりは、そう自覚すべきなのです」 


───最近とくに若者の間で急激に増えている麻薬中毒は何が原因なのでしょうか。僕らにも力になってあげられることがあるのでしょうか。

 「あります。心霊治療、すなわち霊の力を与えることができます。麻薬性のある危険な薬を常用している気の毒な人たちの霊ないし魂の改善を目標として行われるものです。霊力とは宇宙の大霊すなわち神の力であり、生命力そのものであることを理解しなければなりません。

 それはあらゆる存在の活力であり、動力であり、根源的推進力です。霊のないところに生命は存在しません。人間が動き、呼吸し、思考するのは、霊であるからこそです。心霊治療においてはその生命力が、麻薬によって身体と精神と霊との調和が乱されている患者の衰弱した活力を回復するのに使用されるのです。

麻薬によって不調和状態となり、そこに、本来ならばふんだんにそして調和よく生命力が流れているはずの通路に、それを阻止する障害物ができているのです。

 もしあなたが治病能力をお持ちなら、ちょうど消耗したバッテリーに充電するようにカツを入れ、生命力が再び流入するようにその健康を阻害している障害物を取り除いてあげる、その通路となることが出来ます。それは薬害を取り除くためにさらに別の薬を使用するというやり方よりも、はるかに健全です。

 なぜ多くの若者が麻薬に走るのかということですが、その答えは簡単です。彼らは希望を失っているのです。欲求不満があるのです。悲観的になり、自分の力では何の希望も見出せずにいるのです。実在との接触が欠けているのです。霊的な道を見失い、といって物質万能主義に何一つ心の支えになるものを見出せないのです。

そこで彼らは刺激を求めて麻薬に手を出すのですが、これは本来の道ではありません。さきほども言いましたように、大自然は一歩一歩の進化によって営まれているのであって、急激な変革ではだめなのです」


───有色人種と白人とのミゾを修復するために、われわれ若者は何をすればよいのでしょうか。

 「手本を示すほかはありません。あなたたち自身の生活ぶりの中で、魂には黄色も赤色も黒色もないこと、肌の色は魂の資質とは何の関係もないことを示せば、そうした差別、禁制、防柵に苦しめられている人たちの注意を引くようになります。大霊はその無限の叡智でもって子等にさまざまな肌の色をもたせ、それらが一体となって美事な全体色を出すようにと意図されたのです。

 白い肌は霊の優秀さの証明ではありませんし、有色の肌が霊として劣っていることの証明でもありません。本当の霊の試金石は神的属性を発揮する時、すなわち霊が物質を超越して優位を占めた時です」


───霊的観点から見て心臓移植をどう思われますか。

 「何ごとも動機が大切です。移植が純粋に生命を永らえさせるためである場合が確かにあります。が、実験を重ねていくうちに実験そのものの興味が先行して肝心の目的を忘れている場合があります。興味本位で無抵抗の動物を残酷な実験に使用することは、霊的観点から言うと褒められた行為ではありません。

人間の健康は残酷な行為からは得られません。これまでナゾとされている大自然の秘密は、そういう一方的な搾取行為では解明できません。

 私は臓器の移植には賛成できません。また輸血も賛成できません。私の考えでは───私はあくまで私の個人的見解を述べるだけですが───肉体的生命の維持ということが唯一の目的であってはならないと思います。心に宿す考えが正しければ行為も正しく、したがって肉体も正常となります。


 問題の解決は臓器の移植ではありません。本当の解決は各自が神の意図(摂理)にのっとった生き方をすることです。人間は他の人間への思いやりと同時に、同じ惑星上に住んでいる他の生命のすべてに対して思いやりを持たねばなりません。神は人間の寿命を引き延ばすための実験材料として動物を用意したのではありません」


───現段階では心臓移植は必ず失敗に終わると考えてよろしいでしょうか。

 「実験そのものは成功するケースもあると思います。ただ私が気がかりなのは、実験そのものが霊的に見て間違った方向へ進みつつあることです。その方向は人間の幸福のために献身すべき人が選ぶべき道ではないということです。現段階のやり方では健康は得られません。

健康とは調和状態のことです。今の医学者のやっていることは一時的な部分品の継ぎ合わせにすぎません。

 いたって簡単で、しかも肝心なことをぜひ理解してください。人間という存在は身体と精神と霊の三位一体として創造されているのです。その三つは不可分のものです。置きかえはきかないのです。

あなたはそれらが一体となって一つの個性をこしらえている存在です。健康というのはその三つの要素の間の協調関係であり、規則的リズムであり、一体関係です。健康を得る方法はそれ以外にはありません。クスリでもなく医学でもありません。それは一時しのぎの手段にすぎません。

 地上は無知だらけです。死を恐ろしい怪物のように思って避けようとしています。死を恐怖心をもって迎えていますが、死も自然の摂理の一環にすぎません。地上はトレーニングセンターです。間違いなく訪れる次の、より大きな生活の場に備えて教訓を学ぶための学校なのです」


 ───神とは何でしょうか。

 「神の概念を完全にお伝えすることは不可能です。神は無限です。一方、言語や概念、心象といったものはどうしても限界があります。小なるものが大なるものを包みこむことは出来ません。が、宇宙をご覧になれば、ある程度まで神についての概念をつかむことが出来ます。

 この大宇宙は法則によって規制されているのです。千変万化の諸相を見せていながら、その一つ一つに必ず配剤がなされているのです。見えないほど小さいものであっても、途方もなく巨大なものであっても、動き、呼吸し、存在しているものはすべて自然法則によって支配されているのです。

何一つとして法則のワクからはみ出るものはありません。四季は順序よく巡り、地球は地軸上を回転し、汐は満ちては返します。種子を蒔けばその中にあったものが芽を出すのです。自然は正直なのです。

 法則は絶対です。新しい発見も、それが何であれ、どこであれ、やはり同じ自然法則のもとで統制されているのです。何一つ忘れられることはありません。何一つ見落とされることはありません。何一つ無視されることはありません。


 何の力でそうなっているのか。それは限りある存在ではありません。尊大にかまえた人間的存在ではありません。旧約聖書に出てくるエホバ神でもありません。復讐心に燃え、機嫌を損ねると人間に災いをもたらすような神ではありません。気まぐれで、いつ腹を立てるか分からないような神ではありません。

 歴史と進化のあとをご覧になれば、地球が徐々に前に向かって、あるいは上に向かって進んでいることが分かります。ということは、その背後の力は善の力だということを示しているわけです。

すべてを支配し、すべてを統制し、すべてを指揮し、すべての中に存在する、その無限の愛と叡智の権化としての神の概念を、あなたがたも少しずつ理解してまいります。それを私は〝大霊〟と呼んでいるのです」


 ───もう一つよく持ち出される問題に、人間の神への回帰思想があります。最後は神の霊の中に没入して個性を失ってしまうというのですが・・・・・・

 「究極はニルバーナ(涅槃)の達成ではありません。霊的進化はひとえにインディビジュアリティ(第八巻P92参照)の限りない開発です。個性を失っていくのではありません。反対に増していくのです。神性の発現に伴って潜在的資質が発達し、知識が増え、性格が強化されていきます。

 神は無限なのです。したがって無限の発達の可能性があります。完全というものは絶対に達成されません。絶え間なく完全へ向けて進化して行きます。その結果として自我を失ってしまうことはありません。ますます自我を見出していくのです」


 ───それはどういうものであるか、言葉で説明できないものでしょうか。

 「いいえ、説明できません。なぜならばそれは言語を超越した次元のことだからです。意識と悟りの状態です。その状態に達してみないと理解できないものです。巨大な意識の海にインディビジュアルティが埋没してしまうのではありません。反対に意識の海の深奥があなたのインディビジュアルティの中に吸収されてしまうのです」


───宿命というのは地上生活の中でどの程度まで働いているのでしょうか。そもそも宿命とは何かをご説明ねがえますか。先天的宿命というのは外部の力なのでしょうか。それとも自分で選んだものなのでしょうか。あなたは再生説を説かれますが、それはなぜなのか、どういう意味があるのかを説明してください。

 「それはどちらでもあります。ある種の外部の力があなたにその道を選択させたということです。あなたには自由意志と同時に宿命もあります。もしも地上人生とは物的生活を総合したものだと考え、それで満足できる人は、それはそれでよろしい。

が、現在のその肉体に宿っている霊───必ずしも同じ側面とはかぎりません───が以前にもこの地上で生活したことがあることも考えられます。あなたは一個の大きなダイヤモンドの数ある側面の一つであって、各々の側面が全体の進化のために異なった時代にこの物質界へ顔を出していることも有りうるのです」


───大きなダイヤモンドの側面の一つである、つまり私は類魂(グループソール)の一つであるという意味だと思うのですが、もしも生命が永遠だとすると、他の類魂の体験を必要とするというのは論理的におかしいように思えます。

 「全宇宙を通じて作用と反作用が営まれております。はるか彼方にいる者でも、あなたが叡智を身につけていく上において多大な影響力を行使することが出来るのです。

人間は身体的にも精神的にも霊的にも孤立状態で生きることは有り得ないのです。それをグループソールと呼んでもダイヤモンドと呼んでも、所詮は用語を超越したものを表現するためにあれこれと用語を使ってみてるにすぎません。

 〝あなた〟とはいったい誰なのでしょう。その〝あなた〟という存在はいつから始まったのでしょうか。あなたという個的存在は受胎の瞬間から始まったのでしょうか。〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟とイエスが述べておりますが、それはどういう意味かお分かりですか。

〝霊としては私は常に存在していた〟という意味です。あなたもそうですし私もそうです。インディビジュアリティの断片が異なった時代に物的世界に顔をのぞかせたということは有りうるのです。

 私の説が受け入れられないとおっしゃる方とは論争しようとは思いません。私は同志の方にも、自分の理性が納得しないものは拒絶しなさいと申し上げております。もしも私があなたから好感を持っていただけたら、そして愛ともいうべきものを頂戴できたら、それはあなたの理性が私の述べていることを真実であると認めたからであるに相違ありません。

もしも理性の許可を得た上での好感を勝ち取ることが出来ないとしたら、それは私たちの仕事が失敗の運命にあることを意味します。

われわれはこれまでに得た知識を土台とし信頼し合わなくてはいけません。基盤に間違いがないことを確信した上でなくてはいけません。そこから、ゆっくりと着実に、より高い道を目指して、手を取り合って開拓していきましょう。

 あなたには、これから先、うれしいことがたくさん用意されております。イヤなことがないという意味ではありません。難問はつねに振りかかってきます。逆境にも遭遇します。あなたは完成された世界の完成された存在ではないからです。あなた自身が不完全であり、世の中も不完全です。

しかし、あなたには自由意志があり、世の中の不完全とあなた自身の不完全を取り除いていくための力となる素晴らしいチャンスが用意されています。そこにあなたの仕事があります。

 いかなる知識にも、それをいかに活用するかについての責任が付加されます。それはあなたへの一つの信託がなされたということです。その信頼を裏切ってはなりません。あなたがその知識を得るにふさわしい人間であったと同時に、これから先あなたに受け入れる用意ができた時に授けられる次の段階の知識に対しても十分な資格があることを、あなた自身の生活の中で身をもって示さなくてはいけません」

 《あなたに受け入れる用意が整った時、いったん獲得したら決して色あせることもなく失われることもない、豊かな霊性が賦与されます。それはあなたみずからの努力によって勝ち取るべき褒賞です。みずからの魂の発達であり、みずからの性格の強化です。そうやってあなたは、その段階での光明の中に生きるにふさわしい存在となっていくのです》
                       シルバーバーチ

Thursday, October 24, 2024

シアトルの秋 死 ー 死とは〝神の心〟より流れ出る〝生命の河〟の上流へ向けて人類がたどる、ごく当たり前の旅のエピソードであることを示したのでした。

Death - Death is an episode in the natural journey of mankind toward the upper reaches of the “river of life” that flows from the “heart of God.

 

一九一七年十二月六日  木曜日

 これまで述べたことはごく手短に述べたまでであって、十分な叙述からほど遠い。述べたくても述べられないのです。たとえ述べても分量が増えるばかりで、しかもそれが貴殿の自由な精神活動の場を奪い、真意の理解を妨げることになるでしょう。

吾々としては取りあえず貴殿が食するだけのケーキの材料として程よい量の小麦を提供する。

それを貴殿が粉にしてケーキを作り、食べてみてこれはいけると思われれば、今度はご自分で小麦を栽培して脱穀し粉にして練り上げれば、保存がきくのみならず、これを読まれる貴殿以外の人へも利益をもたらすことになる。では吾々の叙述を進めましょう。

 前回の通信で婚姻が進化の過程における折り返し点であると述べましたが、この表現も大ざっぱな言い方であって、精密さに欠けます。そこで今回はこの問題の細かい点に焦点をしぼり、その婚姻の産物たる子供──男児あるいは女児──について述べてみましょう。

 生まれくる子供に四つの要素が秘められていることは(前回の通信を理解すれば)貴殿にも判るでしょう。父方から受ける男性と女性の要素と、母方から受ける女性と男性の要素です。

父方における支配的要素は男性であり、母方における支配的要素は女性です。この四つの要素、と言うよりは、一つの要素の四つの側面、もっと正確に言えば二つの主要素と二つの副次的要素とが一個の子孫の中で結合することにより、性の内的原理の外的表現であるところのそうした諸要素がいったん増加して再び一つになるという、一連の営みが行われるわけです。

 かくしてその子も一個の人間として独自の人生を開始する──無限の過去を背負いつつ無限の未来へ向けて歩を進めるのです。

 どうやら貴殿は洗礼とそれに続く按(あん)手礼(手を信者の頭部に置いて祝福する儀式)について語るものと期待しておられたようですが、そういう先入主的期待はやめていただきたい。吾々の思う通りに進行させてほしい。

貴殿からコースを指示されて進むよりも、貴殿の同意を得ながら吾々の予定通りに進んだ方が、結局は貴殿にとっても良い結果が得られます。

吾々には予定表がきちんと出来上がっているのです。貴殿は吾々の述べることを素直に綴ってくれればよいのであって、今夜はどういう通信だろうか、明日はなんの話題であろうかと先のことを勝手に憶測したり期待してもらっては困るのです。

吾々としては貴殿の余計な期待のために予定していない岬を迂回したり危険な海峡を恐る恐る通過することにならないように、貴殿には精神のこだわりを無くしてほしく思います。

吾々の方で予定したコースの方がよい仕事ができます。貴殿に指示されるとどうもうまく行かないのです。


──申しわけありません。おっしゃる通り私は確かに次は洗礼について語られるものと期待しておりました。サクラメントの順序を間違っておられるようです──聖餐式(せいさんしき)、それから婚姻と。でも結構です。次は何でしょうか。

(訳者注──本来の順序は洗礼が第一で聖餐式がこれに続き、婚姻はずっとあとにくる)


 〝死〟のサクラメントである。貴殿にとっては驚きでしょう。もっとも人生から驚きが無くなったらおしまいです。それはあたかも一年の四季と同じで、惰性には進歩性がないことを教えようとするものです。進歩こそ神の宇宙の一大目的なのです。

 〝死〟をサクラメントと呼ぶことには貴殿は抵抗を感じるでしょう。が、吾々は〝生〟と〝死〟を共に生きたサクラメントと見なしています。

〝婚姻〟をサクラメントとする以上はその当然の産物として〝誕生〟もサクラメントとすべきであり、さらにその生の完成へ向けての霊界への誕生という意味において〝死〟をサクラメントとすべきです。

 誕生においては暗黒より太陽の光の中へ出る。死においてさらに偉大なる光すなわち神の天国の光の中へと生まれる。どちらが上とも、どちらが下とも言えない。

〝誕生〟においては神の帝国における公権を与えられ、〝洗礼〟によって神の子イエスの王国の一住民となり、〝死〟によって地上という名のその王国の一地域から解放される。

 誕生は一個の人間としての存在を授ける。それが洗礼によって吾が王の旗印のもとに実戦に参加する資格を自覚させる。そして死によってさらに大いなる仕事に参加する───地上での実績の可なる者は義なる千軍万馬の古兵(ふるつわもの)として、〝良〟なる者は指揮官として、〝優〟なる者は統治者として迎えられるであろう。

 したがって〝死〟は何事にも終止をうつものではなく、〝誕生〟を持って始まったものを携えていく、その地上生活と天界の生活との中間に位置する関門であり、その意味において顕幽両界を取り持つ聖なるものであり、それで吾々はこれを吾々の理解する意味においてサクラメントと呼ぶのです。

 これで結果的には〝洗礼〟についても述べたことになるでしょう。詳しく述べなかったのは、主イエスの僕としての生涯におけるその重大な瞬間を吾々が理解していないからではありません。他に述べるべきことが幾つかあるからです。

そこで〝死〟のサクラメントについてもう少し述べて、それで今回は終わりとしたい。貴殿にも用事があるようですから。

 いよいよ他界する時刻が近づくと、それまでの人生の体験によって獲得しあるいは生み出してきたものの全てが凝縮し始める。これはそれまでの体験の残留エキス──希望と動機と憧憬と愛、その他、内部の自我の真の価値の表現であるところのものの一切です。

ふだんは各自の霊体と肉体の全存在を取り巻き、かつ滲み渡っている。それが死期が近づくにつれて一つに凝縮して霊体に摂り入れられ、そしてその霊体が物的外被すなわち肉体からゆっくりと脱け出て自由の身となる。それこそが天界の次の段階で使用する身体なのです。

 しかし時として死は衝撃的に、一瞬のうちに訪れることがある。そのとき霊体はまだ霊界の生活に十分な健康と生命力を具えるに至っていない。そこで肉体から先に述べた要素を抽出し霊体に摂り入れるまで上昇を遅らせる必要が生じる。

実際問題としてその過程が十分に、そして完全に終了するまでは、真の意味で霊界入りしたとは言い難い。

それは譬えてみれば月足らずして地上へ誕生してくる赤子のようなもので、虚弱であるために胎内にて身につけるべきであった要素を時間をかけてゆっくりと摂取していかねばならない。

 そういう次第で吾々は〝死〟は立派なサクラメントであると言うのです。きわめて神聖なものです。

 人類の歴史において、そのゆるやかな物体の過程──人間の目にはそれが死を意味するのですが──を経ずに肉体を奪われた殉教者がいる。貴殿が想像する以上に大勢いました。が、いずれの過程を経ようと、本質においては同じです。

主イエスは死が少しも恐るべきものでないことを示さんとして、地上的生命から永遠の生命への門出を従容(しょうよう)として迎えた。

その死にざまによって主は、人間の目にいかなる形式、いかなる価値として映じようが、死とは〝神の心〟より流れ出る〝生命の河〟の上流へ向けて人類がたどる、ごく当たり前の旅のエピソードであることを示したのでした。

シアトルの秋 婚 姻ー絶対的統一体すなわち神へ向けての第一歩が踏み出されるのです。

Marriage - the first step toward absolute unity, or God.




一九一七年十二月五日 水曜日


 昨夜はサクラメントの中でもとくに深遠な意味をもつものを取り上げました。今夜はそれよりは重要性は劣るものの、キリストを主と仰ぎ絶対と信じる者の生活において見逃せない意義を持つものを取り上げたい。

吾々がサクラメントと言う時、それはキリスト教界における狭い宗教的意味で用いているのではなく、霊力の始源に一層近い位置においてその働きをつぶさに観察することのできる吾々の境涯における意味で用いております。


 まず最初に、創造的機能を具えた二つの存在の結合としての婚姻について述べましょう。人間はこれを二つの〝性〟のたどるべき自然な成り行きとして捉え、男性と女性とが一体となることで成就されると考えます。

実はそれは絶対不可欠の条件ではありません。ただそれだけのことであれば、人間を両生動物(単性生殖動物)とすればよかったことになります。

が、今日のごとき理想的形態での物的存在が確立されるよりはるか以前、最高神界において議(はか)られしのちに神々は創造の大業を推進するための摂理の一つを定められた。

それは貴殿や地上の思想家が考えるような、人類が男女二つの性に分かれるという単なる分裂としての発達ではなく、性というものを物質という存在形態への霊の発展進出のための一要素とすることであった。霊は物的形態以前から存在する。

それが物的形態に宿ることによって個性が誕生し、物的形態の進化と共にその個性を具えた自我が発達して互いに補足し合うことになった。性はあくまでも一つなのです。それが二種類から成るというまでの話です。

肉と血液とで一個の人体が構成されるように、男と女とで一個の性を構成するわけです。

 神がなぜそう決定したか。吾々の知り得たかぎりにおいて言えば、それは自我をいっそう深く理解するためである。もっとも、これは大いなる謎です。吾々とてその全貌を知るカギは持ち合わせていません。

が、男性と女性の二つの要素を創造することによって〝統一性〟の真意がいっそう理解しやすくなったと解釈しています。つまり統一が分裂して霊の世界より物質の世界へと誕生し、やがて再び霊の世界へと回帰して元の統一体を回復することにより、その統一性への理解を得るということです。

神という絶対的統一体に含まれる二大原理が、それを一つとして理解し得ない者のために、二つに分離して顕現したわけです。

男性が女性を知るということは結局は自我をいっそう明確に理解することであり、女性が男性を知るのも同じく自我への理解を深めることになります。

なぜなら両者はこの物質という形態の中での生活の始まる以前においては別個の存在ではなかったのであり、したがって物質界を後にした生活において、いずれは再び一体となるべき宿命にあるのです。

 つまり天界の深奥を支配するその絶対的統一性が下層界へも及ぶためには、地上人類を構成すべき個々の存在にその二つの原理を包含させる必要があった。かくして婚姻が生じた。実にこの婚姻は人類のたどるべき宿命の折り返し点なのです。

 〝静〟の大根源が無限の発展という目的をもって〝動〟へ顕現したとき、全体を支配した基調はただ一つ〝多様性〟であった。かくしてその無数の存在の中に個性を特質と形態の原理が導入されるに至った。その多様性の最後の、そして究極の作用となったのが、貴殿らがセックスと呼んでいるところの生殖機能としての二つの性の創造であった。

 その段階において再び一体化へ向けて進化せんとする反動的衝動が生まれる。絶対的統一体すなわち神へ向けての第一歩が踏み出されるのです。

 かくして物的意味における両性と同時に霊的意味における両性の融合から、その両性を一つに体現した第三の要素が誕生する。主イエスこそ人類としてのその完璧な体現者であり、その霊的本質は男性的徳性と女性的徳性のほどよく融合せるものでした。

 その大原理は身体上にも同じくあてはまります。男性の胸にはかつての女性の象徴が二つ付いているであろう。生理学者に尋ねてみるがよい。体質的にも女性的なものが含まれており、それが男性的なものと一体となって人間という一個の統一体をこしらえていることを証言してくれるであろう。

 この両性の一体化された完全無欠の人間は、これより究極の完全状態へ向けての無限の奮闘努力を通じて、己れを空しくし他を愛し他へ施しをすることが実は己れを愛し己れに施すことになること、そして又、己れの下らなさを自覚する者ほど永遠の天界において恵みを受けるという叡智に目覚めることであろう。

この叡智を説いた人を貴殿はよく知っている。わざと妙なこと、謎めいた原理を語ったわけではありません。貴殿も吾々も今なおその崇高なる叡智を学びつつあるところであり、その奥義にたどり着くまでにはまだまだ果てしない道が前途に横たわっています。が、主イエスはすでにそこへ到達されたのです。

シアトルの秋 宗教とは

What is Religion?

Philosophy of Silver Birch
  by Stella Storm  

《いま霊の力がいちばん見られなくなっている場所は、皮肉にも、本来そこにこそ存在しなければならないはずの宗教界です。最高の位階に到達した者ですら、宗教の本来の起源であり基盤であるべき霊力に背を向け、われわれには不可解きわまる理由から、生きた霊的真理よりもただの形骸の方を後生大事にしています》 
                        シルバーバーチ


 「この地上世界の危急存亡の時代(とき)に、真理の守衛であるべき者たちが霊の威信をもって語ることが出来ないというのは悲しむべきことです。それは、霊力というものが(イエスの時代だけでなく)今の時代にも顕現できるという事実にまったく気づかないからです。

彼らは霊的真理と完全に疎遠になっているばかりでなく、愚かしい信仰がこびりついているために、それが頑固な壁となって霊的な真理、霊的な叡智、霊的な力を受けつけなくなっているのです。

 そうした偏狭で不毛の儀式とドグマと信条で固まった世界に霊力の入る余地があるわけがありません。現代の教会には霊の力は一かけらもありません。あるのは、またしても白塗りの墓(口に説くことと腹の中とが違う偽善的宗教家)、干からびた骨(真理の豊かさを身につけていない、精神のやせこけた宗教家)、豪華な建造物です。

見た目には華麗でも霊の照明がないために死のごとく冷ややかで不毛で荒涼としております。さらにいけないのは、そうした本来の宗教とは無縁の、干からびた神学的教義の収納所となってしまった教会内に霊が働きかけようとしても、それをまったく受けつけようとしなくなっていることです。

 いささか辛らつすぎたかも知れませんが、しかし何が悲しいといって、本来は先頭に立って指導すべき立場にある者が、こうした大切な霊的真理のこととなると、しんがりに回っているということほど情けない話はありません。みんな善人ばかりです。

罪なき人生を送ろうと心掛けている真面目な人たちです。が、宗教のすべてが基盤とすべき霊的なものに完全に無感覚になっているのです。霊性のないところに宗教はありません。〝文字は殺し霊は生かす〟(コリント)のです。霊のないところに生命は存在しないのです。

 もしも教会がそれ本来の目的を果たしていれば、言いかえれば、もしも神学的教義・儀式・慣習というわき道へそれることがなかったならば、こうして私のような者がわざわざ戻ってきて、神の計画の中での地球の本来の位置を維持する上で不可欠の霊的連絡関係を回復するための努力をする必要もなかったことでしょう。

 神に仕える者と自認する聖職者たちも、今では神について、神の働きについて、あるいはこの巨大な宇宙を支配している大自然の摂理について何も知りません。しかも、霊界からの働きかけに抵抗しようとするのですから、愚かしいとしか言いようがないのです。

 こうした聖職者たちは何世紀も昔の霊の働きかけの物語は信じながら、同じ霊が今日でも顕現できるということを信じようとしないのは、いったいなぜなのでしょう。彼らが説いていることは実はイエスとは何の関係もないことばかりです。

 その点あなた方は他の世界各地の方と同様、イエスみずから言った通りにイエス以上の仕事をすることができる、恵まれた方たちなのですが、そういうあなた方は、彼らからすれば邪教の徒なのです。

キリストの名にちなんで出来たキリスト教会が相も変らずキリストそのものを裏切り続けている事態を見て、キリストご自身がどれほど悲しい思いをされているか、一度その人たちに見ていただきたい気持ちです。

 霊力は一つの計画のもとに働きます。幾世紀にもわたってその時代の宗教を通して顕現しようとして来ました。それを受け入れる霊能者や霊媒は必ずどこかにおりました。その人たちが行ったことを無知な人は〝奇跡〟だと思いましたが、それこそが霊的法則の生々しい顕現のしるしだったのです。

それは今日有能な霊媒による交霊界で見る現象や治療家による奇跡的な治療と同じで、人間を通して霊力が働いたその結果なのです。不変・不滅の大霊から出る同じ霊力なのです。簡単なことなのです。

そうした霊力の激発のたびに、既得権力の座にある教会関係者すなわち教義作成者、神学者、学識者が集まって詭弁を弄しました。そして神からのインスピレーションを自分たちがこしらえた決まり文句と置きかえました。

しかし、いかに頭のいい人がこしらえたものでも、所詮は人間の頭脳から出たものにすぎませんから、それはいつかは力を失う運命にありました。霊が生命を与えるのです。神学は本質そのものが不毛なのです。

 測り知れない努力の繰り返しの末に、霊界の上層部において、もはや地上への流入は既成の宗教界を通じては無理との判断のもとに、宗教界とは無縁の者を通じて行うとの決断が下されました。

そして、ここにお出での皆さんのように何の宗教的肩書も持ち合わせない普通の人々が霊力の受け皿として養成され、各自がイエスと同じように霊の威力を実際に見せ、また同じような現象を演出してみせることになったのです。

 教会、寺院、チャペル(キリスト教の礼拝堂)、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)を通して支配力を行使している者たちが何とわめこうと、霊力はすでに根づいております。もはや、いかなる力をもってしてもこれを消すことはできません。

挫折させることもできません。ますます勢いを増しながら地上世界を元気づけていくことでしょう。ぜひともそうあらねばなりません。何ものによっても阻止されることはありません。

 このように、私は霊的真理と霊的実在についての知識の普及に全面的に賛成ですが、施設や建造物にはまったく関心がありません。私の関心の対象は大霊の子としての人間そのものです。私はその大霊の子等が真の自我を見出し、霊的遺産を理解し、天命を全うするところに、物的宇宙創造の目的があると理解しております。

われわれの仕事は、可能なかぎりの手段を尽くして人間をいちばん望ましい方法で指導し、一刻も早く霊的な受け入れ態勢を整えさせてあげることです。その段階から種子が芽を出しはじめるのです。

 一方には宗教界の指導者の感化を仕事としている霊団もいます。個人的に指導しているのです。何とかして本当の自分自身と、自分に存在を与えている力、存在の意味、そして聖職者として為すべきことについて、地上生活が終わらないうちに理解させる必要があるのです。

 これまで地上には数々の帝国が生まれましたが、いつしか滅んでいきました。独裁者が出現しましたが、やがて消えていきました。宗教が権力をふるったことがありましたが、必ず没落していきました。大霊は歩みを止めることがありません。この霊力はこれからも顕現し続けます。悲観する余地はどこにもありません。

 既成宗教がこのまま真理の光を見出せないままでいると、精彩を失い暗闇に包まれて行きます。ですから、霊的真理を広めることが大切なのです。

ですが、私に啓示された知識のかぎりで言えば───そのかぎりでしか言いようがないのですが─── 一ばん大切なことは(そうした組織ではなく)個人に目を向け、霊力の顕現の窓口となる霊的資質の開発を通じて、一人一人を霊的に甦らせることです。いささかなりとも神の使節としての仕事ができるわれわれは、実に光栄この上ないことです。

この光栄はもはや既成の宗教団体では浴せません。心の奥では自分でも信じられなくなっている古びた決まり文句を平気で口にします。とっくの昔に意義を失っている型どおりの文句と使い古した儀式と慣例を繰り返すのみです。

 そうした教会や大聖堂や寺院は、そこに霊力が機能しなくなったために不毛で荒涼とし死物と化しております。生命を与えるのは霊なのです。彼らはその霊、彼らのいうその聖霊を否定するようなことばかり繰り返しているのです。

そこでその聖霊の方が彼らに見切りをつけ、われわれのように別に風変りな式服をまとわず、説教壇に立つこともせず、ただ霊力の通路として一身を提供する者を活用して、神の計画の中においては誰一人として無視されたり見落とされたりすることがないことを証明せんとしているのです。

 《真実の祈りは心の奥底から油然として湧き出るものです。神に挨拶するための機械的な口上手段ではありません。スピチリチュアリストをもって任じている人も、もし日常生活においてその霊的真理の意味を生かすような生き方をしていなければ、何の徳にもなりません。私たちはラベルは崇めません。

大切なのは、自分はこういう者ですとみずから称していることではなくて、ふだん行っている行為です》 
    シルバーバーチ

Monday, October 21, 2024

シアトルの秋 憩いの里

village of rest and relaxation



一九一七年一月六日 火曜日

讃美歌に〝岸辺に生命(いのち)の木は茂れり〟という句がありますが、この言葉はよく考えると、二つの意味があるようです。もちろん植物がその養分を河(※)から摂取するという表面的な意味もありますが、こちらの世界へ来てみて私たちは、地上の営みの一つ一つがいかに霊的な意味を持っているかを理解します。

つまりその表面的な現象が、人間の目に映るのと同じ程度の自然味をもって私たちに訴える霊的真理を秘めているのです。

作者がその天界の事情によく通じていたかどうか、それは知りません。ですが、少なくともそれを書かせた霊には、聞く耳を持つ者に対して地上的現象以上のものを伝えんとする意図があったことは考えられます。

そこで、これから私は天界の科学に私以上に通じておられる方々のご援助を得て、それを天界の事情に当てはめ、私の知識の及ぶかぎり拡大解釈してご覧に入れようと思います。(※ここに言う〝岸辺〟は次の八日付の通信に引用される〝生命の河〟と同じく、〝ヨハネ黙示録〟に画かれている霊界の河のことである。──訳者)

 もっとも、今の私の念頭にあるのは河というよりは、地上なら内海(うちうみ)とでも呼ぶべき大きな湖で、この第六界を大きく二つに分ける独立した境界域を形成しております。岸辺はとても変化に富み、岩だらけで切り立った崖となっているところもありますが、なだらかな芝生と庭園の趣も持ったところもあります。

また私の目には一本一本の樹木よりも、ぎっしりと繁った森が青味がかった黄金色に輝く湖を帯状に取り巻いているのが見えます。それはさらに丘を越え高原をおおい、一方、切り立った崖を新緑で縁(ふち)どっています。

その岸辺の近くに、とくに繁った木立ちに囲まれて、大きな施設(ホーム)が建っております。そこは湖を渡ってくる人々のための憩いの場です。ある者は陸と海を越えての長距離の旅で疲れきっております。

第五界からようやくこの界へ辿り着いた新参がいます。この新しい国をさらに奥深く入るために身体をこの界の条件に順応させる必要があるので、ここで一服するのです。

また、使命を帯びて下層界へ、時には今の私のように地上界まで降りてきた人もいます。

その帰途、必ずとも言えませんが、しばしこの土地に立寄って、これよりそれぞれの界の領主あるいは霊団の指揮者に成果を報告しに行くために、体力を回復させるのです。

中には再び下層界へ赴くためにいったんここに戻って元気を回復し、急を要するので内陸を通らずにその湖を通って下り、未完のまま残されている仕事の完遂に奮闘する人もいます。

それから時折──これは決して珍しいことではないのですが──上層界の高級霊が地上ないしはその途中のどこかの界へ訪れる時、あるいはその帰途にここにお立ち寄りになり、しばし滞在なさってその光輝あふれる霊性で招待者を喜ばせることがあります。

まさしくここは憩いの里──この里に入った時の安らぎは入ってみた者でないと分かりません。援助を必要とする者のために危険を伴う高き使命に奮闘したあとのこの里での憩いは、私たちの最大の愉しみの一つなのです。

湖の岸辺のいかにも相応しい位置に、こんもりとした木立に囲まれて佇(たたず)む住処──そこは薄暗い天界の低地に蒔かれた善意の種子が実を結び、それを領主にご報告申し上げる処なのです。

愛の旗印のもと、激しくかつ鋭い痛撃のやり取りの中に勝ち取った数々の戦勝記念品もまたここに持ち帰り、英気を養い心を癒す縁(よすが)とされます。かつて主イエスが勇気を持って闘いそして勝ち得た、生きた戦利品と同じなのです。

 そろそろお疲れのようです。こうして書いていくうちに無理なくラクにあなたの腕が使えるようになるでしょう。私からの愛と感謝の気持ちをお受けください。ではお寝み。

シアトルの秋 不変・不滅・不可避の摂理

Immutable, immortal, inevitable providence


Philosophy of Silver Birch
  by Stella Storm  
Spiritualist Perss (1969)
 London, England

≪万が一にも大自然の摂理に欠陥が見つかったら、私はこのたびの使命をすべて放棄します。もしどこかに摂理のとおりに行っていないところが見つかったら教えてください。しかし、そういうことは絶対にありません。原因にはかならず結果が伴います。蒔いたタネを刈るのです。それ以外には有りようがないのです≫   シルバーバーチ


 「皆さんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは大自然の法則のことです。神はこの宇宙を不変の法則によって支配し顕現していくように定めました。宇宙のあらゆる側面が法則によって治められているのです。

みなさんが親しんでいる物的地上界であろうと、人間に感知できない、それよりはるかに大きな霊界であろうと、法則が行き届かないというところはどこにもありません。


 この法則を通して神の意志が働いているのです。人間の法律には変更と修正がつきものです。不完全であり、あらゆる情況を考慮に入れていないからです。が、神の法則は、起こりうるあらゆる事態に備えてあります。すべてが規制され、すべてが管理され、神の配剤がすべてに行きわたっております。

 人間には一種の機械としての物的身体が与えられています。あなたはその身体を通して自我を表現している一個の霊なのです。あなたが悩みを抱くと、霊と身体との間の水門が閉ざされ、身体は生命力の補給路を失うことになります。

補給源とのつながりを断たれることになります。そのことに気づいて心構えを改めないかぎり、あなたの身体はその不健康な作用と反作用の法則に従いつづけることになります。

 心配の念はあなたの霊的大気であるオーラの働きを阻害し、その心霊的波長を乱します。 (オーラには磁気性と電気性の二種類がある。詳しくは『母と子の心霊教室』を参照───訳者) 

その障害を取り除くまでは生命力は流れ込みません。泰然自若の境地に至るには長く厳しい修行、過酷な試練、そして心配の念の侵入を許すまいとする不断の努力が要請されます。

 無限の愛と叡智を有する神がこの摂理を創案したのです。完璧に出来あがっており、必ずその通りに作用します。心配することに費やしているエネルギーを建設的な思念へ転換すれば、健康上の問題は生じなくなります。神の計画は完全であり、あなたもその計画の中に組み込まれているのです。

あなたも自分自身を完成しなくてはいけません。そのための機会は日常生活の中にいくらでも用意されております。

 私には自然法則を変える力はありません。因果律という不変の法則に私が干渉することは許されません。たとえばあなたの身体が衰弱している兆候を見つければ、大切にするよう警告してあげることしかできません。

身体は一種の機械です。したがってそれなりの手入れがいります。手入れを怠れば故障するにきまっています。すると休息と修理によって機能を回復させるほかはありません。法則はごまかせないのです。

 あなたはその身体を通して自我を表現しているのです。その身体のすることにも限界があり、それを超えてしまえばバッテリーを補充しなければなりません。それはあなたの責任です。あなたの身体だからです。

 いくら愛があるとはいえ、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念の責任を私が肩代わりしてあげるわけにはまいりません、行為の一つひとつ、言葉の一つひとつ、思念の一つひとつについて、あなた自身が責任を取るのです。
身体はその責任ある自己表現の媒体なのですから、その遂行において支障がないように十分な手入れをしておく必要があります。人体は地上のいかなる機械よりもはるかに入り組んだ、すばらしい組織体です。まさしく驚異というにふさわしい道具です。が、それにも手入れがいります。

 自然の摂理と調和した生き方をしていれば病気も異状も不快感もありません。こうしたものは不調和から生じるのです。摂理に反することをすれば、その代償を払うことになります。摂理の範囲内で生活していれば恩恵を受けます。

 何よりも動機が優先されます。が、摂理に違反したことをすれば、それに対してペナルティが科せられます。自分の気持ちを満足させようとして身体を痛めるところまで行ってしまうか否かは、一人ひとりがその霊的進化の程度にしたがって判断することです。

地上生活にも神の計画の中でのそれなりの役割があります。無理を重ねて次の段階の生活への準備が十分に整わないうちに地上を去るようなことになってはいけません。

 たとえば、ここに人類の福祉に貢献している高潔な人物がいるとしましょう。その人がもしもその道での超人的活動で健康を損ねた場合、それは立派と言えるでしょうか。それも本人自身が判断すべきことです。

ただ残念なことに、そうした決断を下すに当たって必ずしも自分自身に真っ正直になり切っていないということです。どこかに自惚れの要素───オレ以外に出来るヤツはいないのだという考えが潜んでいるものです。

 法則にも、次元の違いによっていろいろあります。物的次元のもの、精神的次元のもの、霊的次元のもの、さらにはそれらが入り組んで作用する場合もあります。悲しいかな、人間は物的次元のことがギリギリの絶望的段階に至るまで、霊的次元の真理が理解できません。

それは実在を無視した生活に終始しているからです。物的なものだけが大切と思い込んでいるからです。

 しかし魂はいつかは真の自我に目覚めなくてはなりません。その時から内在する神性が発現しはじめるのです。それも神が定めた埋め合わせの法則の一環なのです。苦難が大きいだけ、そこから得られる悟りもそれだけ大きいものとなります。

 神は宇宙の会計士のようなものです。生命の帳簿は常に帳尻が合っており、すべてがきちんと清算されております。霊的機構は整然と規制されておりますから、あなたが霊的に受けるものはあなたに相応しい分だけであり、多すぎることもなければ少なすぎることもありません。

その計算はあなたがそれまでの努力によって到達した霊的進化の程度を基準にして行われます。霊的なことは常に完全な清算が行き届いており、ごまかしも見せかけも通用しません。

 法則は無限なる愛と叡智の働きによって完璧に機能しています。各自が受け取るのはそれまでの努力にふさわしい分だけです。私がそのように定めたのではありません。そのようになっていることを私が知ったというだけです。

それを因果律といいます。原因と結果の間にはいかなる者も干渉できません。偶発事故とか不測の事態というものは起きません。すべては自然の摂理でそうなっているのです。

 その摂理が廃止されたり、一時停止されたり、妨害されたりすることは絶対にありません。自然の摂理は絶え間なく作用しており、変わることもなければ修正することもできません。その摂理と調和して生きることです。

すると良い結果が得られます。摂理にひっかからないように上手にすり抜ける方法はありません。その作用は絶対です。宇宙の大霊は摂理の精髄であり、権化であり、哀願も弁解も通用しません」


 《私たちがこれまでに賜った知識のすべて───いま生きている宇宙について、その宇宙を法則によって管理している絶対的な力について、そしてその力と私たちとの関係ならびに私たち相互の関係について、より明確な理解を得させてくれた知識を有難く思っております。

 私たちは宇宙の摂理の働きについてより多くのことを学び、それが一つの手落ちもなく私たちの幸福にとって不可欠のものをいかに美事に用意してくれているか───無限なる叡智によって考案され、無限なる愛によって管理されている摂理が私たちすべてを包摂し、私たちのあらゆる必要性に備え、誰一人としてその支配からはみ出ることがないことを理解しております》                          
                         シルバーバーチ