Monday, August 24, 2026

ベールの彼方の生活(三)

「天界の政庁」

著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)
近藤千雄 訳



七章 善悪を超えて
1 聖堂へ招かれる      2使命への旅立ち
3 苦の哲学  深い筋    4さらに下層界へ




1 聖堂へ招かれる         
一九一七年十二月十七日  日曜日

 これまで吾々は物的宇宙の創造と進化、および、程度においては劣るが、霊的宇宙の神秘について吾々の理解した限りにおいて述べました。

そこには吾々の想像、そして貴殿の想像もはるかに超えた境涯があり、それはこれより永い永い年月をかけて一歩一歩、より完全へ向けて向上していく中で徐々に明らかにされて行くことでしょう。吾々がそのはるか彼方の生命と存在へ向けて想像の翼を広げうるかぎりにおいて言えば、向上進化の道に究極を見届けることはできません。

それはあたかも山頂に源を発する小川の行先をその山頂から眺めるのにも似て、生命の流れは永遠に続いて見える。流れは次第に大きく広がり、広がりつつその容積の中に水源を異にするさまざまな性質の他の流れも摂り入れていく。人間の生命も同じです。

その個性の中に異質の性格を摂り入れ、それらを融合させて自己と一体化させていく。

川はなおも広がりつつ最後は海へ流れ込んで独立性を失って見分けがつかなくなるごとく、人間も次第に個性を広げていくうちに、誕生の地である地上からは見きわめることの出来ない大きな光の海の中へ没入してしまう。

が、海水が川の水の性分を根本から変えてしまうのではなく、むしろその本質を豊かにし新たなものを加えるに過ぎないように、人間も一方には個別性を、他方には個性を具えて生命の大海へと没入しても、相変わらず個的存在を留め、それまでに蓄積してきた豊かな性格を、初めであり終わりであるところの無限なるもの、動と静の、エネルギーの無限の循環作用の中の究極の存在と融合していきます。

また、川にいかなる魚類や水棲動物がいても、海にはさらに大きくかつ強力な生命力を持つ生物を宿す余裕があるごとく、その究極の境涯における個性とエネルギーの巨大さは、吾々の想像を絶した壮観を極めたものでしょう。

 それゆえ吾々としては差し当たっての目標を吾々の先輩霊に置き、吾々の方から目をそらさぬかぎり、たとえ遠くかけ離れてはいても吾々のために心を配ってくれていると知ることで足りましょう。

生命の流れの淵源は究極の実在にあるが、それが吾々の界そして地上へ届けられるのは事実上その先輩霊が中継に当たっている。そう知るだけで十分です。吾々は宿命という名の聖杯からほんの一口をすすり、身も心も爽やかに、そして充実させて、次なる仕事に取り掛かるのです。


──どんなお仕事なのか、いくつか紹介していただけませんか。

 それは大変です。数も多いし内容も複雑なので・・・・・・。では最近吾々が言いつけられ首尾よく完遂した仕事を紹介しましょう。

 吾々の本来の界(第十界)の丘の上に聖堂が聳えています。


──それはザブディエル霊の話に出た聖堂──〝聖なる山〟の寺院のことですか。(第二巻八章4参照)


 同じものです。〝聖なる山〟に聳える寺院です。何ゆえに聖なる山と呼ぶかと言えば、その十界をはじめとする下の界のためのさまざまな使命を帯びて降りて来られる霊が格別に神聖だからであり、又、十界の住民の中で次の十一界に不快感なしに安住できるだけの神聖さと叡智とを身につけた者が通過して行くところでもあるからです。

それには長い修行と同時に、十一界と同じ大気の漂うその聖堂と麓の平野をたびたび訪れて、いずれの日にか永遠の住処となるべき境涯を体験し資格を身につける努力を要します。

 吾々はまずその平野まで来た。そして山腹をめぐって続いている歩道を登り、やがて正門の前の柱廊玄関(ポーチ)に近づいた。


──向上するための資格を身につけるためですか。

 今述べた目的のためではありません。そうではない。十一界の大気はいつもそこに漂っているわけではなく、向上の時が近づいた者が集まる時節に限ってのことです。

 さてポーチまで来てそこで暫く待機していた。するとその聖地の光輝あふれる住民のお一人で聖堂を管理しておられる方が姿を現わし、自分と一緒に中に入るようにと命じられた。吾々は一瞬ためらいました。吾々の霊団には誰一人として中に入ったことのある者はいなかったからです。

するとその方がにっこりと微笑まれ、その笑顔の中に〝大丈夫〟という安心感を読み取り、何の不安もなく後ろについて入った。その時点まで何ら儀式らしいものは無かった。そして又、真昼の太陽を肉眼で直視するにも似た、あまりの光輝に近づきすぎる危険にも遭遇しなかった。

 入ってみるとそこは長い柱廊になっており、両側に立ち並ぶ柱はポーチから聖堂の中心部へ一直線に走っている梁(はり)を支えている。ところが吾々の真上には屋根は付いておらず無限空間そのもの──貴殿らのいう青空天井になってる。

柱は太さも高さも雄大で、そのてっぺんに載っている梁には、吾々に理解できないさまざまなシンボルの飾りが施してある。中でも私が自分でなるほどと理解できたことが一つだけある。

それはぶどうの葉と巻きひげはあっても実が一つも付いてないことで、これは、その聖堂全体が一つの界と次の界との通路に過ぎず、実りの場ではないことを思えば、いかにもそれらしいシンボルのように思えました。

その長くて広い柱廊を一番奥まで行くとカーテンが下りていた。そこでいったん足を止めて案内の方だけがカーテンの中に入り、すぐまた出て来て吾々に入るように命じられた。

が、そのカーテンの中に入ってもまだ中央の大ホールの内部に入ったのではなく、ようやく控えの間に辿り着いたばかりだった。その控えの間は柱廊を横切るように位置し、吾々はその側面から入ったのだった。

これまた実に広くかつ高く、吾々が入ったドアの前の真上の屋根が正方形に青空天井になっていた。が、他の部分はすべて屋根でおおわれている。

 吾々はその部屋に入ってから右へ折れ、その場まで来て、そこで案内の方から止まるように言われた。すぐ目の前の高い位置に玉座のような立派な椅子が置いてある。それを前にして案内の方がこう申された。


 「皆さん、この度あなた方霊団をこの聖堂へお招きしたのは、これより下層界の為の仕事をしていただく、その全権を委任するためです。これよりその仕事について詳しい説明をしてくださる方がここへお出でになるまで暫くお持ちください」

 言われるまま待っていると、その椅子の後方から別の方が姿を見せられた。先程の方より背が高く、歩かれる身体のまわりに青と黄金色の霧状のものがサファイヤを散りばめたように漂っていた。

やがて吾々に近づかれると手を差し出され、一人ひとりと握手をされた。そのとき(あとで互いに語りあったことですが)吾々は身は第十界にありながら、第十一界への近親感のようなものを感じ取った。それは第十一界の凝縮されたエッセンスのようなもので、隣接した境界内にあってその内奥で進行する生命活動のすべてに触れる思いがしたことでした。

 吾々は玉座のまわりの上り段に腰を下ろし、その方は吾々の前で玉座の方へ向かって立たれた。それからある事柄について話されたのであるが、それは残念ながら貴殿に語れる性質のものではない。秘密というのではありません。

人間の体験を超えたものであり、吾々にとってすら、これから理解していくべき種類のものだからです。が、そのあと貴殿にも有益な事柄を話された。

 お話によると、ナザレのイエスが十字架上にあった時、それを見物していた群集の中にイエスを売り死に至らしめた人物がいたということです。


──生身の人間ですか。

 さよう、生身の人間です。あまり遠くにいるのも忍びず、さりとて近づきすぎるのも耐え切れず、死にゆく〝悲哀(かなしみ)の人〟イエス・キリストの顔だちが見えるところまで近づいて見物していたというのです。すでに茨の冠は取られていた。

が、額には血のしたたりが見え、頭髪もそこかしこに血のりが付いていた。その顔と姿に見入っていた裏切り者(ユダ)の心に次のような揶揄(からかい)の声が聞こえてきた───

〝これ、お前もイエスといっしょに天国へ行って権力の座を奪いたければ今すぐに悪魔の王国へ行くことだ。お前なら権力をほしいままに出来る。イエスでさえお前には敵わなかったではないか。さ、今すぐ行くがよい。

今ならお前がやったようにはイエスもお前に仕返しができぬであろうよ〟と。

 その言葉が彼の耳から離れない。彼は必死にそれを信じようとした。そして十字架上のイエスに目をやった。彼は真剣だった。しかし同時に、かつて一度も安らぎの気持ちで見つめたことのないイエスの目がやはり気がかりだった。

が、死に瀕しているイエスの目はおぼろげであった。もはやユダを見る力はない。

唆(そそのか)しの声はなおも鳴りひびき、嘲(あざけ)るかと思えば優しくおだてる。彼はついに脱兎のごとく駆け出し、人気のない場所でみずから命を捨てた。

帯を外して首に巻き、木に吊って死んだのである。かくして二人は同じ日に同じく〝木〟で死んだ。地上での生命は奇しくも同じ時刻に消えたのでした。

 さて、霊界へ赴いた二人は意識を取り戻した。そして再び相見えた。が二人とも言葉は交わさなかった。ただしイエスはペテロを見守ったごとく(*)、今はユダを同じ目で見守った。そして〝赦〟しを携えて再び訪れるべき時期(とき)がくるまで、後悔と苦悶に身を委ねさせた。

つまりペテロが闇夜の中に走り出て後悔の涙にくれるにまかせたようにイエスは、ユダが自分に背を向け目をおおって地獄の闇の中へよろめきつつ消えて行くのを見守ったのでした。

(*イエスの使徒でありながら、イエスが捕えられたあと〝お前もイエスの一味であろう〟と問われて〝そんな人間は知らぬ〟と偽って逃れたが、イエスはそのことをあらかじめ予見していて〝あなたは今夜鶏の鳴く前に三度私を知らないと言うだろう〟と忠告しておいた。訳者)

 しかしイエスは後悔と悲しみと苦悶の中にあるペテロを赦したごとく、自分に孤独の寂しさを味わわせたユダにも赦しを与えた。いつまでも苦悶の中に置き去りにはしなかった。その後みずから地獄に赴いて探し出し、赦しの祝福を与えたのです。(後注)

 以上がその方のお話です。実際はもっと多くを語られました。そしてしばらく聖堂に留まって今の話を吟味し、同時にそれを(他の話といっしょに)持ちかえって罪を犯せる者に語り聞かせるべく、エネルギーを蓄えて行われるがよいと仰せられた。

犯せる罪ゆえに絶望の暗黒に沈める者は裏切られた主イエス・キリストによる赦しへの希望を失っているものです。げに、罪とは背信行為なのです。

 さて吾々が仰せつかった使命については又の機会に述べるとしましょう。貴殿はそろそろ疲れてこられた。ここまで持ちこたえさせるのにも吾々はいささか難儀したほどです。

 願わくは罪を犯せる者の救い主、哀れみ深きイエス・キリストが暗闇にいるすべての者とともにいまさんことを。友よ、霊界と同じく地上にも主の慰めを深刻に求めている者が実に多いのです。貴殿にも主の慈悲を給わらんことを。


 訳者注──ここに言う〝赦し〟とはいわゆる〝罪を憎んで人を憎まず〟の理念からくる赦しであって、罪を免じるという意味とは異なる。

イエスもいったんはユダを地獄での後悔と苦悶に身をゆだねさせている。因果律は絶対であり〝自分が蒔いたタネは自分で刈り取る〟のが絶対的原則であることに変わりないが、ただ、被害者の立場にある者が加害者を慈悲の心でもって赦すという心情は霊的進化の大きな顕れであり、誤った自己主張の観念からすべてを利害関係で片づけようとする現代の風潮の中で急速に風化して行きつつある美徳の一つであろう。


 
2 使命への旅立ち          
 一九一七年十二月十八日  火曜日

 お話を給わった拝謁(はいえつ)の間を出て、吾々はその高き聖所を後にした。お話は私がお伝えしたよりもっと多かった。それを愛をこめて話してくださり、吾々は使命へ向けて大いに勇気づけられた。

ポーチまで進み、やがて立ち止まって広い視界に目をやった。下方には草原地帯が横たわり、左右のはるか彼方まで広がっている。

その先に丘が聖所を取り巻くように連なっており、そこから幾すじかの渓流が平野へ向けて流れ、吾々から見て左方向にある湖で合流している。

それがさらに左方向へ流出し、その行く手に第十界と第九界との間に聳える山脈が見える。そう見ているうちに、さきほど話をされた方が吾々の中央に立たれ、ご自身の霊力で吾々を包んで視力をお貸しくださり、ふだんの視力では見えない先、これから赴かねばならない低い界層をのぞかせてくださった。

初め明るく見えるものが次第に明るさが薄れ、かすんで見えるものがおぼろげに見え、ついには完全なモヤとなった。その先は吾々が位置した最も見えやすい位置からでも見透すことは不可能だった。

と言うのも、そこはすでに地球に隣接する界層及びそれ以下の境涯であり、地上界へ行きたい者はひとまずその境涯から脱出しなければならず、一方地上で正しい道を踏み外した者は自然の親和力の作用によってその境涯へと降りて行く。地獄と呼んでいるのがそれである。

なるほど、もし地獄を苦痛と煩悶と、魂を張り裂ける思いをさせることを意味するのであれば、そこを地獄と呼ぶのも結構であろう。

 さて必要な持ち物と、これより先に控える仕事を吟味し終えると、吾々はその方に向かって跪き、祝福をいただくとすぐに出発した。まず左手の坂道を下り、山間(あい)を通り抜けて、そこからまっしぐらの長い旅なので、四つの界層を山腹に沿って一気に空中を飛翔(ひしょう)した。

そして第五界まで来て降下し、そこでしばし滞在し、そこの住民が抱える悩みごとの解決にとって参考になるように、入念に言葉を選んで話をした。


──旅の話を進められる前に第五界でのお仕事の成果をお話ねがえませんか。

 吾々の仕事は各界で集会を開いて講演をすることでしたが、そこでの話がその最初となりました。まずそこの領主──第五界の統率者の招きにあずかりました。

その領主は、どの界でもそうですが、本来はその界よりも高い霊格を具えた方です。が、吾々が滞在したのは行政官の公舎でした。

行政官はその界でいつまでも向上出来ずにいる者たちの問題点に通暁しておられ、吾々がいかなる立場に立っていかなる点に話題をしぼって講演すべきかについて、よきアドバイスを与えて下さる。

 さて、そういう悩みを抱えた人々が公舎の大ホールに集まった。実に大きなホールで、形は長円形をしています。ただし、片方の端がもう一方より圧縮された格好をしています。


──西洋ナシのようにですか。

 はて、これはもう、ほとんど忘れかけた果実ですのでしかとは申せませんが、さよう、大体の格好は似ていましょう。ただしあれほど尖った形ではありません。その細い方の外側には大きなポーチがかぶさるように付いており、会衆はそこから入りました。

演壇は左右の壁から等距離の位置にあり、吾々はそこに上がりました。実は吾々の霊団の中に歌手が一人いて、まず初めにその時のために自分で作曲した魅力あふれる曲を歌いました。

その内容は──すでにお話したものも含まれていますが──究極の実在である神がいかなる過程でその霊力を具象化し、愛がいかにして誕生し、神の子等(造化に携わる高級神霊のこと──訳者)がその妙味に触れてそこから美が誕生するに至ったかを物語り、それ故にこそすべての美に愛が宿り、すべての愛が純朴であり、いかなる形で表現されても美にあふれていること。

しかし現象界の発展のために働く者の意志が愛に駆られた美の主流に逆らう方向へと働いた時、そこに元来の至純さと調和しない意志から生まれる或る種の要素が生じ、そのあとに創造される存在は美しくはあっても完全なる美とは言えず、また、ますます激しさを増す混沌たる流れに巻き込まれてさらに美的要素を欠く存在が出現したが、それでも根源より一気に一直線に下降を続けた者の目には見えない美しさを、おぼろげながら具えていた・・・・・・

 そう歌いました。会衆は身じろぎひとつせず聴き入っていた。それほどその曲が美と愛の根源から流れ出て来るような雰囲気を帯びていたのです。

またその言葉そのものが〝究極にして絶対〟の存在とは〝統一〟であり、それ自体に多様性はあり得ず、それまでに生じた多様性はてこ的存在としての意義を持つ──つまり多様性の中に表現されたものが抵抗によって再び高揚され統一へ向かうという哲学を暗示しておりました。

 さて、歌が終わると会場を重厚な静けさが支配し、全員が静粛にしていた。身じろぎ一つする者がいない。立っている者は立ったまま、ベンチあるいはスツールに腰を下ろしている者もそのまま黙しており、何かに寄り掛かってしゃがみ込んでいる者もそのままの気楽な姿勢でいた。

そのことをはっきりと見てとった。誰ひとり位置を変える者もいなかった。それは、はるか彼方の生命とエネルギーの力強い脈動の中に生まれた歌の魔力が彼らを虜にし、今の境涯と知識とで精一杯頑張ろうという決意を秘めさせたからです。

 ややあって、いよいよ私が語る段取りとなった。すでに先の歌い手が、抑え気味に、しかし甘美な声で歌い始めていた。それでも、天体の誕生の産みの痛みの時代の物語に至るとその痛みに声が激しさを増し、勢いとエネルギーが魂の中で激しく高まり、痛ましいほどの壮大な声量となってほとばしり出るかの如くであった。

それからカオス(混沌)が自ら形を整えてコスモス(宇宙)となり、さらに創造主の想像の中から各種の生命体が誕生する段階になると、声と用語の落着いたリズムが整然たる進行の中で次第に平穏となり、最後は単一音で終わった。

それはあたかも永遠の創造活動が今始まったばかりで未だ終局していないことを暗示するために、そのテーマを意図的に中天で停止させたかのようでした。
 
 そのあとを継いで語り始める前に私は一呼吸の間を置いた。それは私の話に備えて頭の中を整理させ、あたりに漂う発光性の雲の中でその考えをマントのごとく身にまとわせ、話をしている私の目に各自の性格と要求とが読み取れ、私の能力において出来うるかぎりの援助を与えるためでした。

 それからいよいよ講演に入った。全員に語りかけながら同時に個々の求めるものを順々に満たしていった。多様性となって顕現し虚空に散らばったものを再び一点に集約し、美そのもの、愛そのものである究極の実在からの熱と光りとを吸収しそして発散するところの大いなる霊的太陽について語った。

また、ペテロとユダの背信行為と裏切りとその後の後悔の話──一方は地上において束の間の地獄を味わい、一千年もの悔恨を一カ月で済ませて潔白の身となった。

そこに秩序ある神の家族内での寛恕と復権の可能性が見られること。もう一方は最後まで懺悔の念が生じず、自分が絶望の狂乱の中で金で売った人物(イエス)が死を迎えた時に、いつもの自暴自棄的気性のために早まって(首を吊って)この世から逃げた。が、

これで消えてしまったと思い込んだ思惑とは裏腹に彼は生き続けていた。しかし彼はなおも懺悔の念は生じず、イエスみずからが、迷える小羊を探し求めるごとくに、奥深き地獄の峡谷へユダその他の罪人に会いに赴いた。

そして陰気さと、触れられるほどの真実味のある暗闇の中にいる彼らに光と愛そのものである神の存在と、その聖なる御子を通じて愛の輝きが想像を絶した宇宙の果てまで、そしてその地獄の世界までも投射されている事実を語って聞かせた。

彼らは最後に光を見てから何十年何百年ものあいだ光というものを見ておらず、今では光とは何か、どのように目に映じるものかもほとんど忘れている。

その彼らの目に久しぶりに一条(ひとすじ)の光が見えてきた。もとよりイエスは彼らの視力に合わせてご自分の身体を柔らかい、優しい、ほのかな光輝で包み込んでおられた。

その足元へ一人また一人と這い寄ってくる。その目から涙がこぼれ落ちている。それがイエスの光に照らされてダイヤモンドのしずくの如く輝いて見える。その中の一人に裏切り者のユダもいた。そしてイエスから赦しの言葉を聞かされた。

ペテロがのちにイエスにあったとき主の寛恕の愛を聞かされたごとくにであった。

 聴衆はじっと聞き入り、そして私の述べていることが、宇宙の君主であり愛そのものであるところの神への一体化についてであり、そして又その神への従順さが生み出すところの産物──それは人間から見れば難問でありながら実はその一体化を促すためのてこ的意義を持つものであることを理解し始めていた。

 私は静寂のうちに講演を終わり、同じく静寂のうちに他の者とともに演壇を下り、ホールを出て公舎を後にし、次の旅へ向かった。行政官が総出で吾々をていねいな感謝の言葉とともに見送ってくださり、吾々も祈りでもってこれに応えた。かくしてその界を後にしたのであった。



 3〝苦〟の哲学
一九一七年十二月十九日  水曜日


さて吾々は急がずゆっくりと歩を進めました。と言うのは、そろそろ吾々の霊的波長が容易に馴染まぬ境涯に近づきつつあったからです。が、どうにか環境に合わせることができました。そしてついに地上から数えて二番目の界の始まる境界域に到達した。便宜上地上界をゼロ界としておきます。


──話を進められる前にお尋ねしておきたいことがあります。あなたがある種の悩みを抱えていたために他の界よりも長期間滞在されたというのは第五界だったのではありませんか。

 貴殿の要求は、私を悩ませしばらくその界に引き留めることになった問題の中身を説明してほしいということのようですな。よろしい。それはこういうことでした。

 私はすべての人間が最後は神が万物の主(ぬし)であることを理解すること、そしてその神より出でた高級神霊がそのことを御座(みくら)の聖域より遠く離れた存在にも告げているものと確信していた。

しかしそうなると吾々のはるか下界の暗黒界───悲劇と煩悶が渦巻き、すべての愛が裏切られ、その普遍性と矛盾するように思える境涯に無数の哀れな霊が存在するのはなぜか。

 それが私の疑問でした。昔からある悪の存在の問題です。私には善と悪という二つの勢力の対立関係が理解できないし、それを両立させることは少なくとも私の頭の中ではできなかった。つまり、もしも神が全能であるならば、なぜ一瞬たりとも、そして僅かたりとも悪の存在を許されたのであろうか、ということでした。

 私は久しくそのことに思いをめぐらしていた。そして結果的に大いに困惑を増すことになった。なぜなら〝神の王国〟の内部でのこうした矛盾から生まれる不信感が、目も眩まんばかりの天界の高地へ向上していく自信を私から奪ってしまったからです。

私はもしかしたらその高地で心の平静を失い、これまで降りたこともない深淵へ落ちて深いキズを負うことになりはせぬかと恐れたのです。

 煩悶しているうちに私は、いつもここという時に授かる援助をこの時も授かる用意が出来ていたようです。自分では気づかないのですが、啓発を受ける時はいつもそれに値するだけの考えが熟するまで私は論理的思考においてずっと指導を受け、その段階において直感的認識がひらめき、それまでの疑念のすべてが忘却の彼方へと一掃され、二度と疑わなくなるのでした。

 ある日のこと──貴殿らの言い方で述べればのことですが──私は小さな赤い花の密生する土手の上で東屋に似た木蔭で腰を下ろしていた。先の難問を考えていたわけではありません。他にもいろいろと楽しい考えごとはあるものです。

私はすっかり辺りの美しさ──花、木々、小鳥、そのさえずりに浸っていた。その時ふと振り返ると、すぐそばに落着いた魅力あふれる容貌の男性が腰を下ろしていた。

濃い紫のマントをつけ、その下からゴースのチュニック(*)が見える。そしてそのチュニックを透かして、まるで水晶の心臓に反射して放たれたような光が身体から輝いて見えた。肩に付けられた宝石は濃い緑とすみれ色に輝き、髪は茶色をしていた。

が、目は貴殿のご存知ない種類の色をしていた。(*ゴースはクモの糸のような繊細な布地。チュニックは首からかぶる昔の簡単な胴衣。なおこの人物が誰であるかはどこにも説明が出てこないが、多分このリーダー霊の守護霊であろう。訳者)

 その方は前方へ目をやっておられる。私はお姿に目をやり、その何とも言えない優雅さにしばし見とれていた。するとこう口を開かれた。

 「いかがであろう。ここは実に座り心地が良く、休息するには持ってこいの場所であるとは思われぬかな?」

 「はい、いかにも・・・・・・」私はこれ以上の言葉が出なかった。

 「がしかし、貴殿がそこに座る気になられたのは、きれいな花が敷きつめられているからであろう?」

 そう言われて私は返答に窮した。するとさらにこう続けられた。

 「さながら幼な子を思わせるつぼみの如き生命と愛らしさに満ちたこれらの赤い花の数々は、こうして吾々が楽しんでいるような目的のために創造されたと思われるかな?」

 これにも私はただ「そこまで考えたことはございませんでした」と答えるしかなかった。

 「そうであろう。吾々は大方みなそうである。しかも吾々が一人の例外もなく、片時も思考をお止めにならず理性から外れたことを何一つなさらぬ神の子孫であることを思うと、それは不思議と言うべきです。

吾々がいくら泳ぎ続けてもなおそこは神の生命の海の中であり、決してその外に出ることがない。それほど偉大な神の子でありながら、無分別な行為をしても赦されるということは不思議なことです」

 そこでいったん話を止められた。私は恥を覚えて顔を赤らめた。その声と話ぶりには少しも酷(きび)しさはなく、あたかも親が子をたしなめるごとく、優しさと愛敬に満ちていた。が、言われていることは分かった。

自分は今うかつにも愛らしく生命に溢れた、しかし、か弱い小さな花を押しつぶしているということです。そこで私はこう述べた。

 「お放ちになられた矢が何を狙われたか、より分かりました。私の胸深く突きささっております。これ以上ここに座っていることは良くありません。吾々のからだの重みでか弱い花に息苦しい思いをさせております」

 「では立ち上がって、いっしょにあちらへ参りましょう」そうおっしゃってお立ちになり、私も立ち上がってその場を離れた。

 「この道へはたびたび参られるのかな?」
 並んで歩きながらその方が聞かれた。

 「ここは私の大好きな散策のコースです。難しい問題が生じた時はここへ来て考えることにしております」

「なるほど。よそに較べてここは悩みごとを考えるには良いところです。そして貴殿はここに来て土手のどこかに座って考えに耽る、と言うよりは、その悩みの中に深く入り込んでしまわれるのではないかと思うが、ま、そのことは今はわきへ置いて、前回こちらへ来られた時はどこに座られましたか」

 そう聞いて足を止められた。私はその方のすぐ前の土手を指さして言った。

 「前回こちらへ来た時に座ったのはここでした」

 「それもつい最近のことであろう?」

 「そうです」

 「それにしては貴殿のからだの跡形がここの植物にも花にも見当たらない。嫌な重圧をすぐさまはね返したとみえますな」

 確かにこの地域ではそうなのである。その点が地上とは違う。花も草も芝生もすぐさま元の美しさを取り戻すので、立ち上がったすぐ後でも、どこに座っていたかが見分けがつけにくいほどである。これは第五界での話で、すべての界層がそうとは限らない。地上に近い界層ではまずそういう傾向は見られない。

 その方は続けてこう言われた。

 「これは真価においても評価においても、創造主による人間の魂の傷に対する配剤とまったく同じものです。現象界に起きるものは何であろうとすべて神のものであり神お一人のものだからです。では私に付いてこられるがよい。

貴殿が信仰心の欠如のために見落しているものをお見せしよう。貴殿は今ご自分が想像していた叡智の正しさを疑い始めておられるが、その疑念の中にこそ愛と叡智の神の配剤への信仰の核心が存在するのです」

 それから私たち二人は森の脇道を通り丘の麓へ来た。その丘を登り頂上まで来てみると森を見下ろす高さにいた。はるか遠い彼方まで景色が望める。

私は例の聖堂のさらに向こうまで目をやっていると、その聖堂の屋根の開口部を通って複数の光の柱が上空へ伸びて行き、それが中央のドームのあたりで一本にまとまっているのが見えた。それは聖堂内に集合した天使の霊的行事によって発生しているものだった。

 その時である、ドームに光り輝く天使の像が出現し、その頂上に立った。それは純白に身を包んだキリストの顕現であった。衣装は肩から足もとまで下りていたが足は隠れていない。

そしてその立ち姿のまま衣装が赤味を帯びはじめ、それが次第に濃さを増して、ついに深紅となった。まゆのすぐ上には血の色にも似た真っ赤なルビーの飾り輪があり、足先のサンダルにも同じくルビーが輝いていた。

やがて両手を高く上げると、両方の甲に大きな赤い宝石が一つずつ輝いていた。私にはこの顕現の私にとっての意味が読み取れた。最初の純白の美しさは美事であった。が今は深紅の魅力と美しさに輝き、そのあまりの神々しさに私は恍惚となって息を呑んだ。

 喘ぎつつなおも見ていると、その姿の周りにサファイヤとエメラルドの縞模様をした黄金色の雲が集結しはじめた。が、像のすぐ背後には頭部から下へ向けて血のような赤い色をした幅広いベルト状のものが立っており、さらにもう一本、同じような色彩をしたものが胸のうしろあたりで十文字に交わっている。

その十字架の前に立たれるキリストの姿にまさに相応しい燦爛たる光輝に輝ていた。

 平地へ目をやると、そこにはこの荘厳な顕現を一目見んものと大勢の群集が集まっていた。その顔と衣服がキリストの像から放たれる光を受けて明るく輝き、その像にはあたかも全幅の信頼を必要とするところの犠牲と奉仕を求める呼びかけのようなものが漂っているように思えた。

それに応えて申し出る者は、待ち受ける苦難のすべてを知らずとも、みずから進んでその苦難に身を曝す覚悟が出来ていなければならないからである。が、

その覚悟のできた者も、多くはただ跪き頭を垂れているのみであった。もとより主はそれを察し、その者たちに聖堂の中に入るよう命じられ、中にて使命を申しつけると仰せられた。そしてみずからもドームを通って堂内に入られた。そこで私の視界から消えた。

 私はそばに例の方がいらっしゃることをすっかり忘れていた。そして顕現が終わったあとも少しの間その方の存在に気づかずにいた。やっと気付いて目をやった時、

そのお顔に苦難の体験のあとが数多い深い筋となって刻まれているのを見て取った。
もとよりそれは現在のものではなく遠い昔のものであるが、その名残りがかえって魅力を増しているのだった。

 しかし私から声をお掛けできずに黙って立っていると、こうおっしゃった。

「私は貴殿に悲哀の人イエスの顕現をお見せするためにこの界のはるか上方から参っております。主はこうしてみずからお出でになっては悲哀を集めて我がものとされる。それは、その悲哀なくしては今拝見したごとき麗しさを欠くことになるからです。

主にあれほどの優しさを付加する悲哀は、その未発達の粗野な状態にあっては苦痛を伴って地上を襲い、激痛をもって地獄を襲うものと同一です。

この界においては各自その影を通過する時に一瞬のものとして体験する。吾々とて神の御心のすべてには通暁し得ない。しかし今目のあたりにした如く、時おり御心のすべてに流れる〝苦の意義〟を垣間見ることが出来る。

その時吾々が抱く悩みから不快な要素が消え、いつの日かはより深い理解が得られるとの希望が湧き出てきます。

 しかし、その日が訪れるまでは主イエスが純白の姿にて父の御胸より出て不動の目的をもって地上へ赴いたこと、そこは罪悪と憎悪の暗雲に包まれていたことを知ることで満足しています。

さよう、イエスはさらに死後には地獄へまでも赴き、そこで悶え苦しむ者にまで救いの手を差しのべられた。そしてみずからも苦しみを味わわれた。

かくして悲哀の人イエスは父の玉座の上り段へと戻り、そこで使命を成就された。が、戻られた時のイエスはもはや地上へ向かわれた時のイエスではあられなかった。聖なる純白の姿で出発し深紅の勝利者となって帰られた。

が流した血は自らのおん血のみであった。敵陣へ乗り込んだ兵士がその刃を己の胸に突きさし、しかもその流血ゆえに勝者として迎えられるとは、これはいかにも奇妙な闘いであり、地上の歴史においても空前絶後のことであろう。

 かくして王冠に新たなルビーを加え、御身に真っ赤な犠牲の色彩を一段と加えられて、出発の時より美しさを増して帰られた。そして今や、主イエスにとりて物質界への下降の苦しみは、貴殿が軽率にも腰を下ろしても変わらぬ生長力と開花力によっていささかも傷められることのなかった草花のごとく、一瞬の出来ごとでしかなかった。

主イエスは吾々の想像を絶する高き光と力の神界より降りて来られて、自己犠牲の崇高さを身を持ってお示しになった──まさに主は私にとって神の奇しき叡智の保証人でもあるのです。

 では罪悪の悲劇と地獄の狂乱はどうなるのか。これも、その暗黒界を旅してきた者は何ものかを持ち帰る。神とその子イエスの愛により、摂理への従順の正道を踏み外して我が儘の道を歩める者も、その暗黒より向上してくる時、貴重にして美妙なる何ものかを身につけている。

それが神と密接に結びつけるのです。さよう、貴殿もいずれその奇しき叡智を悟ることになるであろう。それまで辛棒強く待つことです。が、それには永き時を要するでしょう。

貴殿がその神秘の深奥を悟るのは私より容易ではなく、私ほど早くもないかも知れません。なぜなら貴殿はかの悔恨と苦悶の洞窟の奥深く沈んだ体験の持ち合わせがないからです。私にはそれがあるのです。私はそこから這い上がって来た者です」

 
 4 さらに下層界へ        
 一九一七年十二月二十日 木曜日

 さて、吾々はいよいよ第二界へ来た。そして最も多く人の集まっている場所を探しました。と言うのも、かつてこの界に滞在した頃とは様子が変っており、習慣や生活様式に関する私の知識を改めざるを得なかったのです。

貴殿にも知っておいていただきたいことですが、地上に近い界層の方がはるか彼方の進化した界層に較べて細かい点での変化が激しいのです。

いつの時代にも、地上における学問と国際的交流の発展が第二界にまで影響を及ぼし、中間の第一界へはほとんど影響を及ぼしません。

また死後に携えてきた地上的思想や偏見が第二界でも色濃く残っておりますが、それも一界また一界と向上して行くうちに次第に中和されて行きます。かなり進化した界層でもその痕跡を残していることがありますが、進歩の妨げになったり神の子としての兄弟関係を害したりすることはありません。

第七界あるいはそれ以上の界へ行くとむしろ地上生活の相違点が興味や魅力を増すところの多様性(バラエティー)となり、不和の要素が消え、他の思想や教義をないがしろにすることにもならない。

さらに光明界へ近づくとその光によって〝神の御業の書〟の中より教訓を読み取ることになる。そこにはもはや唯一の言語を話す者のための一冊の書があるのみであり、父のもとにおける一大家族となっております。

それは地上のように単なる遠慮や我慢から生まれるものではなく、仕事においても友愛においても心の奥底からの協調関係から、つまり愛において一つであるところから生まれるものです。

 うっかりしていました──私は第二界のことと、そこでの吾々の用事について語るのでした。

 そこではみんな好きな場所に好きなように集まっている。同じ民族のものといっしょになろうとする者もいれば、血のつながりよりも宗教的つながりで集まる者もいました。政治的思想によってサークルを作っている者もいました。

もっぱらそういうことだけで繋がっている者は、少し考えが似たところがあればちょくちょく顔を出し合っておりました。

例えばエスラム教徒は国際的な社会主義者の集団と親しく交わり、帝国主義者はキリスト教信仰にもとづく神を信仰する集団と交わるといった具合です。

色分けは実にさまざまで、その集団の構成分子も少々の内部変化があっても、大体において地上時代の信仰と政治的思想と民族の違いによる色分けが維持されていました。 

 それにしても、吾々第十界からの使者が来ることはすでにその地域全体に知れ渡っておりました。と言うのも、この界では地上ほど対立関係から出る邪心がなく、かなりの善意が行きわたっているからです。

かつて吾々が学んだことを今彼らも学んでいるところで、それで初めのうち少し集まりが悪いので、もし聞きたければ対立関係を超えていっしょに集まらねばならぬことを告げた。

吾々は小さなグループや党派に話すのではなく、全体を一つにまとめて話す必要があったからです。

 すると彼らは、そう高くはないが他の丘よりは小高い丘の上や芝生のくぼみなどに集結した。吾々は丘の中腹に立った。そこは全員から見える位置で、背後はてっぺんが平たい高い崖になっていた。

 吾々はまず父なる神を讃える祈りを捧げてから、その岩の周りに腰を下ろした。それからメンバーの一人が聴衆に語りかけた。彼はこの界のことについて最も詳しかった。

本来は第七界に所属しているのであるが、この度は使命を受けてから、道中の力をつけるために第十界まで来て修行したのです。

 彼は言語的表現においてなかなかの才能を有し、声を高くして、真理についての考えが異なるごとく服装の色彩もさまざまな大聴衆に向かって語りかけた。声は強くかつ魅力に富み、話の内容はおよそ次のようなものでした。

 かつて地上界に多くの思想集団に分裂した民族があった。そうした対立を好ましからぬものと考え、互いに手を握り合うようにと心を砕く者が大勢いた。

この界(第二界)にも〝オレの民族、オレの宗派こそ神の御心に近いのだ〟と考える、似たようなプライドの頑迷さが見受けられる。吾々がこうして諸君を一個の民族として集合させ、神からのメッセージを伝えるのも、これよりのちの自由闊達にして何の妨げもない進化のためには、まずそうした偏狭さを棄て去ってしまわねばならないからである、と。

 これを聞いて群集の間に動揺が見られた。が、述べられたことに何一つ誤りがないことは彼らも判っていた。

その証拠に彼らの目には、吾々のからだから発する光輝が彼らをはるかに凌いでいることが歴然としており、その吾々もかつては今の彼らと同じ考えを抱いていたこと、そして吾々が当時の考えのうちのあるものはかなぐり捨て、あるものは改めることによって、

姿も容貌も今のように光輝を増したことを理解していたからです。だからこそ静かに耳を傾けたのです。

 彼はいったんそこで間を置いてから、新たに彼の言わんとすることを次のように切り出しました。

「さて、主の御国への王道を歩んでおられる同志の諸君、私の述べるところを辛棒強く聞いていただきたい。かのカルバリの丘には実は三つの十字架があった。

三人の救世主がいたわけではない。救世主は一人だけである。同じ日に三人の男が処刑されたが、父の王国における地位(くらい)が約束できたのは一人だけであった。王たる資格を具えていたのは一人だけだったということである。


三人に死が訪れた。そのあとに憩いが訪れるのであるが、三人のうち安らかな眠りを得たのは一人だけだった。なぜであろうか。

それは父が人間を自己に似せて創造した目的、および洪水の如き勢いをもって千変万化の宇宙を創造した膨大なエネルギーの作用について理解し得るほどの優しき哀れみと偉大なる愛と聖純なる霊性を身につけていたのはイエスの他にいなかったからである。

あまりの苦悩に疲れ果てた主に安らかな眠りを与えたのには、邪悪との長き闘いとその憎悪による圧倒的な重圧の真の意味についての理解があったからであった。

主イエスは最高界より物質界へ降りて差別の世界の深奥(しんおう)まで究(きわ)められた。そして今や物的身体を離れて再び高き天界へと昇って行かれた。そのイエスが最初に心を掛けたのは十字架上でイエスに哀願した盗人のことであり、次は金貨三十枚にてイエスを売り死に至らしめたユダのことだった。

ここに奇妙な三一関係がある。が、この三者にも、もう一つの三一関係(神学上の三位一体説)と同じく、立派に統一性が見られるのである。

 それは、盗人も天国行きを哀願し、ユダも天国へ行きたがっていた。それを主が父への贈物として求めそして見出した。が、地上へ降りてしかもそこに天国を見出し得たのは主のみだった、ということである。

盗人は死にかかった目で今まさに霊の世界への入り口に立てる威風堂々たる王者の姿を見てはじめて、天国は地上だけに存在するものでないことを悟った。

一方の裏切り者はいったん暗黒界への門をくぐったのちに主の飾り気のない童子のごとき純心な美しさを見てはじめて天国を見出した。

それに引きかえ主は地上において既に天国を見出し、父なる神の御国がいかなるものであるかを人々に説いた。それは地上のものであると同時に天界のものでもあった。

肉体に宿っている間においてはその心の奥にあり、死してのちは歩み行くその先に存在した。つまるところ神の御国は天と地を包含していたのである。御国は万物の始まりの中にすでに存在し、その時点において神の御心から天と地が誕生したのであった。

 そこで私は、人間一人ひとりが自分にとっての兄弟であると考えてほしいと申し上げたいのである。カルバリの丘の三つの十字架上の三人三様の特質に注目していただきたい。

つまり完全なる人物すなわち主イエスと、そのイエスが死後に最初に救った二人である。そこにも神の意志が見出されるであろう。

つまり上下の差なく地上の人間のすべてが最後は主イエス・キリストにおいて一体となり、さらに主よりなお偉大なる神のもとで一体となるということである。そこで、さらに私は諸君みずからの中にも主の性格とユダの性格の相違にも似た多様性を見出してほしいのである。

そして、かく考えて行けば父なる神の寛大なる叡智によって多様性をもたらされた人類がいずれは再びその栄光の天国の王室の中にて一体となることが判るであろう。

何となれば神の栄光の中でも最も大いなる栄光は愛の栄光であり、愛なるものは憎しみが分かつものを結び合わせるものだからである」

シルバーバーチの霊訓  地上人類への最高の福音

  The Seed of Truth

トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)




7章 偉大さの尺度は奉仕的精神の度合いにあります


延べにして六十年にも及んだ地上での使命の中で、シルバーバーチが当惑した様子や不満の色、いらだちの態度を見せたことは一度もなかった。また、招待されて出席した人を個人的に批判することも絶対になかった。本当の意味での老賢人、慈悲深い魂だった。

その日の交霊会にもゲストが出席していた。そして、死後の世界の存在についてまだ本格的な確信が持てずにいることを正直に告白した。それを聞いて述べたシルバーバーチの回答が、さながらスピリチュアリズムの要約の観があるので、それをそのまま紹介しよう。


「わたしたち霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大変な使命です。霊界から見る地上は、無知の程度がひどすぎます。その無知が生み出す悪弊には、見るに耐えないものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれが、ひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。地上の宗教家は、死の関門をくぐった信者は、魔法のように突如として、言葉ではつくせないほどの喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です。

死んで霊界へ来た人は――初期の段階にかぎっての話ですが――地上にいた時と少しも変わりません。肉体を捨てた――ただそれだけのことです。個性は少しも変わっていません。性格はまったくいっしょです。習性も特質も性癖も個性も、地上時代そのままです。利己的だった人は、相変わらず利己的です。貪欲だった人は、相変わらず貪欲です。無知だった人は、相変わらず無知のままです。悩みを抱いていた人は、相変わらず悩んでおります。少なくとも霊的覚醒が起きるまでは、そうです。

こうしたことがあまりに多すぎることから、霊的実在について、ある程度の知識を地上に普及させるべしとの決断が下されたのです。そこで、わたしのような者が永年にわたって霊的生命についての真理を説く仕事にたずさわってきたわけです。霊的というと、これまではどこか神秘的な受け取られ方をされてきましたが、そういう曖昧なものでなしに、実在としての霊の真相を説くということです。そのためには、何世紀にもわたって受け継がれてきた誤解・無知・偏見・虚偽・欺瞞・迷信――要するに人類を暗闇の中に閉じ込めてきた勢力のすべてと闘わねばなりませんでした。

わたしたちは、そうした囚(とら)われの状態に置かれ続けている人類に霊的解放をもたらすという目的をもって、一大軍団を組織しました。お伝えする真埋はいたって単純なのですが、それにはまず、証拠になるものをお見せすることから始めなければなりません。すなわち偏見を捨てて、真摯な目的、真実を知ろうとする欲求をもって臨む者なら誰にでも得心のいくものであることを明らかにしなければなりません。愛する人たちは、そちら側からそのチャンスを与えてくれさえすれば、つまり然るべき通路(霊媒)を用意してくれさえすれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます。

これは空想の産物ではありません。何千回も何万回も、くり返し証明されてきている事実を、ありのままに述べているまでです。もはや議論や論争の枠を超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお、認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。

以上が第一の目的です。“事実なら、その証拠をみせていただこう。われわれはもう信じるというだけでは済まされなくなっている。あまりに長い間、気まぐれな不合理きわまる教義を信じ込まされてきて、われわれは今そうしたものに、ほとほと愛想をつかしてしまった。われわれが欲しいのは、われわれ自身で評価し、判断し、測定し、考察し、分析し、調査できるものだ”――そうおっしゃる物質界からの挑戦にお応えして、霊的事実の証拠を提供するということです。

それはもう十分に提供されているのです。すでに地上にもたらされております。欲しい人は自分で手にすることができます。それこそが、わたしがこれまでにあらゆる攻撃を耐え忍び、これからもその砦(とりで)となってくれる“確定的事実”という、スピリチュアリズムの基盤なのです。もはや“私は信じます。私には信仰というものがあります。私には希望があります”といったことでは済まされる問題ではなくなったのです。“事実なのだから、どうしようもありません。立証されたのです”と断言できる人が、数え切れないほどいる時代です。

人類史上はじめて、宗教が実証的事実を基盤とすることになりました。神学上のドグマは証明しようのないものであり、当然、議論や論争がありましょう。が、死後の存続という事実は、まともな理性をもつ者ならば必ずや得心するだけの証拠が揃っております。しかし、証明された時点から本当の仕事が始まるのです。それでお終(しま)いとなるのではありません。まだその事実を知らない人が無数にいます。その人たちのために証拠を見せてあげなくてはなりません。少なくとも、死後にも生命があるという基本的真理は間違いないのだ、という確証を植えつけてあげる必要があります。

墓の向こうにも生活があるのです。あなたがたが“死んだ”と思い込んでる人たちは、今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。現実に戻ってきているのです。

しかし、それだけで終わってはいけません。死後にも生活があるということは何を意味するのか。どのように生き続けるのか。その死後の生活は、地上生活によってどういう影響を受けるのか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。死の関門を通過したあと、いかなる体験をしているのか。地上時代に心に思ったことや言動は、死後、役に立っているのか障害となっているのか。以上のようなことを知らなくてはいけません。

また死後、地上へ伝えるべき教訓として何を学んでいるのか。物的所有物のすべてを残していったあとに、いったい何が残っているのか。死後の存続という事実は、宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別の問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。

そうです、そういう分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は、永いあいだ人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。

いかがですか、大ざっぱに申し上げた以上の話が、お役に立ちましたでしょうか」

「お話を聞いて、すっきりと理解がいったように思います」


「もう一つ申し上げたいことがあります。そうした問題と取り組んでいく上で、わたしたちは、暗黒の勢力と反抗勢力、そして、そうした勢力に加担することで利益を確保している者たちに対して、間断なき闘いを続けていかねばなりませんが、同時に、不安とか取り越し苦労といった“恐怖心”との闘いをも強(し)いられているということです。

地上と霊界との間には、その関係を容易にする条件と、反対に難しくする条件とがあります。誤解・敵意・無知――こうした障害は後者ですが、これはお互いの努力によって克服していけるものです。そのためには、わたしたちが存分に力を発揮する上で人間側に要求したい、心の姿勢というものがあります。

人間は肉体をたずさえた霊であり、わたしたちは肉体をもたない霊です。そこに共通したものがあります。“霊”というつながりです。あなたも今この時点において立派に“霊的存在”なのです。死んでから霊になるのではありません。死んでから霊体をさずかるのではありません。死はただ単に肉体という牢獄からあなたを解放するだけです。小鳥が鳥カゴを開けてもらって大空へ飛び立つように、死によってあなたは自由の身となるのです。

基本的には、あなたがた人間にも“霊”としてのあらゆる才能、あらゆる属性、あらゆる資質がそなわっております。今のところ、それが未発達の状態で潜在しているわけです。もっとも、わずかながら、すでに発現しているものもあります。未発達のものをこれからいかにして発現していくか、本当のあなたを表現していくにはどうしたらよいか、より大きな自我を悟り、大霊からのすばらしい遺産をわがものとするにはどうすればよいか、そうしたことをわたしたちがお教えすることができるのです。

しかし、いかなる形にせよ、そうした使命を帯びて地上へ戻ってくる霊は、必然的に、ある種の犠牲を強いられることになります。なぜなら、そのためには波長を地上の低い波長に合わさなければならない――言い変えれば、人間と接触するために、霊的な波長を物的な波長へと転換しなければならないからです。

人類の大半はまだ霊的なものを求める段階まで達しておりません。言い変えれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることができないのです。

そこで、わたしたちの方から、言わば階段を下りなければならないのです。そのためには当然、それまでに身につけた霊的なものの多くを、しばらく置き去りにしなければなりません。本当は人間側からも階段を上がってもらって、お互いが歩み寄るという形になれば有り難いのですが、それはちょっと望めそうにありません。

しかし、人間が霊的存在であることに変わりはありません。霊的資質を発揮し、霊的な光輝を発揮することができれば、不安や疑いの念はすべて消滅してしまいます。霊は安心立命の境地においてのみ、本来の力を発揮するものです。

わたしたちが闘わねばならない本当の敵は、実は人間の無用の心配です。それがあまりに多くの人間の心に巣くっているのです。単なる観念上の産物、現実には存在しない心配ごとで悩んでいる人が多すぎるのです。

そこでわたしは、取り越し苦労はおやめなさいと、くり返し申し上げることになるのです。自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物は決して与えられません。しかも、あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれる、あらゆる力を引き寄せることができるのです。

このように、霊的な問題は実に広大な範囲にまたがる、大きな問題なのです。人生のあらゆる側面にかかわりをもっているのです。ということは、これからという段階にいらっしゃるあなたには、探検旅行にも似た愉しみ、新しい霊的冒険の世界へ踏み込む楽しさがあるということでもあるのです。どうか頑張ってください」

「死後どれくらいたってから地上へ戻ってくるのでしょうか」


「それは一人ひとりの事情によって異なります。こちらへ来て何世紀にもなるのに、自分の身の上に何が起きたかがわからずにいる霊もいます」

「自分が死んだことに気づかないのです」とメンバーの一人が口添えする。するとシルバーバーチが――


「一方にはちゃんとした霊的知識をたずさえた人もいます。そういう霊は、適当な霊媒さえ見つかれば、死んですぐにでもメッセージを送ることができます。そのコツを心得ているのです。このように、この問題は霊的知識があるかどうかによって答えが異なる問題であり、単純にこうですとはお答えできません。

わたしたちが手を焼くのは、死後について誤った概念を抱いたままこちらへ来る大勢の人たちです。自分の想像していた世界だけが絶対と思い、それ以外ではありえないと思い込んでいます。一心にそう思い込んでいますから、それが彼らにとって現実の世界となるのです。わたしたちの世界は、精神と霊の世界であることを忘れないでください。思ったことがそのまま現実となるのです」

ここでシルバーバーチは、メンバーの中で心霊治療能力をもっている人に助言してから、再びさきの質問者に向かって――


「この心霊治療も、わたしたちの大切な仕事なのです。治療家を通路として霊界の治癒エネルギーが地上の病的身体に注がれるのです。

このように、わたしたちの仕事はいろいろな側面、いろいろな分野をもった、非常に幅の広い仕事です。初心者の方は面食らうこともあると思いますが、間違いなく真理であり、その真実性を悟られた時に、あなたの生活に革命が起こります。

宗教の世界では“帰依(きえ)”ということを言います。おきまりの宣誓文句を受け入れ、信仰を告白する――それでその宗教へ帰依したことになるというのですが、本当の帰依というのは、霊的真理に得心がいって、それがあなたという存在の中にしっくりと納まることをいうのです。

その時からその人は新しい眼を通して、新しい確信と新しい理解とをもって人生を見つめます。生きる目的が具体的にわかるようになります。大霊が全存在のために用意された計画の一端がわかり始めるからです。

ある人は政治の分野において、生活の苦しい人々、社会の犠牲になっている人々、裏切られている人々、寄るべなき人々のために、その霊的知識を生かそうと奮い立ちます。ある人は宗教の世界へ足を踏み入れて、死に瀕(ひん)している古い教義に新しい生命を吹き込もうとします。ある者は科学の実験室に入り、残念ながらすっかり迷路にはまってしまった科学者の頭脳に、霊的なアイディアを吹き込もうと意気込みます。また芸術の世界へ入っていく人もいることでしょう。

要するに霊的真理は人生のすべての分野に関わるものだということです。それは当然のことなのです。なぜなら、生命とは霊であり、霊とはすなわち生命だからです。霊が目を覚まして真の自分を知った時、つまり霊的意識が目覚めた時、その時こそ自分とは何者なのか、いかなる存在なのか、なぜ存在しているのかといったことに得心がいきます。それからの人生は、その後に宿命的に待ちうける、より豊かで、より大きな生命の世界への身仕度のために、“人のために自分を役立てる”ことをモットーとして生きるべきです。

どうぞ、これからも真理探求の旅をお続けください。求め続けるのです。きっと与えられます。要求が拒絶されることは決してありません。ただし、回答は必ずしもあなたが期待したとおりのものであるとはかぎりません。あなたの成長にとって最善のものが与えられます」

最後に出席者全員に向かって、次のような別れの言葉を述べた。


「われわれは大いなる神の計画の中に組み込まれていること、一人ひとりが何らかの存在価値をもち、小さすぎて用のない者というのは一人もいないこと、忘れ去られたりすることは決してないことを忘れないようにしましょう。そういうことは断じてありません。宇宙の大霊の大事業に誰しも何らかの貢献ができるのです。霊的知識の普及において、苦しみと悲しみの荷を軽くしてあげることにおいて、病を癒してあげることにおいて、同情の手を差しのべることにおいて、寛容心と包容力において、われわれのすべてが何らかの役に立つことができるのです。

かくして各自がそれぞれの道において、温かき愛と、悠然たる自信と、確固たる信念をもって生き、道を見失った人々があなたがたを見て、光明への道はきっとあるのだと感じ取ってくれるような、そういう生き方をなさってください。それも人のために役立つということです。

では、大霊の祝福の多からんことを!」

その日の交霊会はそれで終わり、続いての交霊会に出たシルバーバーチは、その間に帰っていた本来の上層界での話に言及して、こう述べた。


「いつものことながら、いよいよ物質界へ戻ることになった時の気持ちは、あまり楽しいものではありません。課せられた仕事の大変さばかりが心に重くのしかかります。しかし、皆さんの愛による援助を受けて、ささやかながらわたしの援助を必要としている人たち、そしてそれを受け止めてくださる人たちのために、こうして戻ってくるのです。

これまでの暫(しば)しの間、わたしは本来の住処(すみか)において僚友とともに過ごしてまいりましたが、どうやら、わたしたちのこれまでの努力によって何とか成就できた仕事についての評価は、わたしが確かめたかぎりにおいては、満足すべきものであったようです。これからも忠誠心と誠実さと協調精神さえあれば、ますます発展していく大霊の計画の推進に挫折が生じる気づかいは毛頭ありません。

その原動力である霊の力が果たしてどこまで広がりゆくのか、その際限を推し量ることは、このわたしにもできません。たずさわっている仕事の当面の成果と、自分の受け持ちの範囲の事情についての情報は得られても、その努力の成果が果たして当初の計画どおりに行っているのかどうかについては知りませんし、知るべき立場にもないのです。わたしたちの力がどこまで役立ったのだろうか、多くの人が救われているのだろうか、それとも僅(わず)かしかいなかったのだろうか――そんな思いを抱きながらも、わたしたちはひたすら努力を重ねるだけなのです。

しかし、上層界にはすべての連絡網を通じて情報を集めている霊団が控えているのです。必要に応じて大集会を催し、地上界の全域における反応をあらゆる手段を通してキャッチして、計画の進捗(しんちょく)ぐあいを査定し、評価を下しているのです。

かくして、わたしたちにすら知り得ない領域において、ある種の変化がゆっくりと進行しつつあるのです。暗闇が刻一刻と明るさを増していきつつあります。霧が少しずつ晴れていきつつあります。モヤが後退しつつあります。無知と迷信とドグマによる束縛と足枷から解放される人が、ますます増えつつあります。自由の空気の味を噛みしめております。心配も恐怖もない雰囲気の中で、精神的に、霊的に、自由の中で生きることの素晴らしさに目覚めつつあります。

自分がこの広い宇宙において決して一人ぼっちでないこと、見捨てられ忘れ去られた存在ではないこと、無限なる愛の手が常に差しのべられており、今まさに自分がその愛に触れたのだということを自覚し、そして理解します。人生は生き甲斐のあるものだということを、今一度あらためて確信します。そう断言できるようになった人が、今日、世界各地に広がっております。かつては、それが断言できなかったのです。

こうしたことが、わたしたちの仕事の進捗ぐあいを測るものさしとなります。束縛から解放された人々、二度と涙を流さなくなった人々が、その証人だということです。これから流す涙は、うれし涙だけです。心身ともに健全となった人々、懊悩(おうのう)することのなくなった人々、間違った教義や信仰がつくり出した奴隷的状態から逃れることができた人々、自由の中に生き、霊としての尊厳を意識するようになった人々、こうした人たちは皆、われわれの努力、人類解放という気高い大事業にたずさわる人たちすべての努力の成果なのです。

これからも、まだまだ手を差しのべるべき人が無数にいます。願わくば、われわれの手の届くかぎりにおいて、その無数の人々のうちの幾人かでも真の自我に目覚め、それまでに欠けていた確信を見出し、全人類にとって等しく心の拠(よ)り所となるべき、永遠の霊的真理への覚醒をもたらしてあげられるように――更生力に富み、活性力と慰安力とにあふれ、気高い目標のために働きかける霊の力の存在を意識し、代わって彼らもまた、いずれはその霊力の道具となって、同じ光明をますます広く世界中に行きわたらせる一助となってくれるよう、皆さんとともに希望し、祈り、そして決意を新たにしようではありませんか。

真理はたった一人の人間を通じてもたらされるものではありません。地球上の無数の人間を通じて浸透していくものです。霊力の働きかけがあるかぎり、人類は着実に進歩するものであることを忘れないでください。今まさに人類は、内在する霊的遺産を見出しはじめ、霊的自由をわがものとしはじめました。そこから湧き出る思い、駆り立てられるような衝動、鼓舞されるような気持ちは、強烈にして抑えがたく、とうてい抑え通せるものではありません。霊の自由、精神の自由、身体の自由にあこがれ、主張し、そして希求してきた地球上の無数の人々を、今その思いが奮い立たせております。

こうして、やがて新しい世界が生まれるのです。王位は転覆され、権力的支配者は失脚し、独裁者は姿を消してまいります。人類はその本来の存在価値を見出し、内部の霊の光が世界中にさん然と輝きわたることでしょう。

それは、抑え難い霊的衝動の湧出(ゆうしゅつ)によってもたらされます。今まさに、それが更生の大事業を推進しているのです。わたしが決して失望しない理由はそこにあります。わたしの目に、人類の霊的解放というゴールへ向けての大行進が見えるからです」

ここでメンバーの一人が「歴史をみても、人類の努力すべき方向はすでに多くの模範が示してくれております」と言うと――


「そうなのです。訓えは十分に揃っているのです。今必要なのは、その実行者です。

そこで、その実行者たるべきわれわれは、悲しみに打ちひしがれた人々、重苦しい無常感の中にあって真実を希求している無数の人々の身の上に思いを馳せましょう。われわれの影響力の行使範囲にまでたどりついた人々に精一杯の援助を施し、慰めを与え、その悲しみを希望に変え、孤独感を打ち消して、人生はまだお終いではないとの確信をもたせてあげましょう。

無限の宝を秘めた大霊の貯蔵庫から、霊力を引き出しましょう。われわれに存在を与え給い、みずからのイメージに似せて創造したまい、神性を賦与してくださった大霊の道具となるべく、日常生活において、われわれ自身を厳しく律してまいりましょう。

われわれこそ、その大霊の計画の推進者であることを片時も忘れることなく、謙虚さと奉仕の精神と、託された信託への忠誠心をもって臨むかぎり、恐れるものは何一つないこと、いかなる障害物も、太陽の輝きの前の影のごとく消滅していくとの確信をもって、邁進(まいしん)いたしましょう」

別の日の交霊会で――

「心霊的能力の発達は人類進化の次の段階なのでしょうか」


「霊能者とか霊媒と呼ばれている人が進化の先駆けであることに、疑問の余地はありません。進化の梯子の一段上を行く、いわば前衛です。そのうち、心霊能力が人間の当りまえの能力の一部となる時代がきます。地上人類は今、精神的発達の段階を通過しつつあるところです。このあとには、必然的に心霊的発達の段階がきます。

人間が、五感だけを宇宙との接触の通路としている、哀れな動物ではないことをまず認識しないといけません。五感で知りうる世界は、宇宙のほんの一部です。それは物的手段で感識できるものに限られています。人間は物質を超えた存在です。精神と霊とでできているのです。その精神と霊にはそれなりのバイブレーションがあり、そのバイブレーションに感応する、別の次元の世界が存在します。地上にいる間は物的なバイブレーションで生活しますが、やがて死をへて、より高いバイブレーションの世界が永遠の住処(すみか)となる日がまいります」

「霊界のどこに誰がいるということが簡単にわかるものでしょうか」


「霊界にはそういうことが得意な者がおります。そういう霊には簡単にわかります。大ざっぱに分類すれば、他界した霊は、地上へ帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。帰りたがっている霊の場合は、有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡が取れます。しかし帰りたがらない霊ですと、どこにいるかは突き止められても、地上と連絡を取るのは容易ではありません。イヤだというのを、無理やりに連れ戻すわけにはいかないからです」

別の質問に答えて――


「次のことをよく理解しないといけません。こちらの世界には地上の人間への愛、情愛、愛情、同情といったものをごく自然な形で感じている霊が大勢いるということです。精神的なもの、霊的なものによって結びついている時は、それは実在を基盤とした絆で結びついていることになります。なぜなら、精神的な力や霊的な力の方が、地上的な縁よりも強烈だからです。たとえば、地上のある画家がすでに他界している巨匠に心酔しているとします。その一念は当然その巨匠に通じ、それを縁として地上圏へ戻って、何らかの影響力を行使することになります。

もう一つ理解していただきたいのは、地上時代に発揮していた精神的ならびに霊的資質が何であれ、皆さんが“死んで”その肉体を捨ててしまうと、地上時代よりはるかに多くの資質が発揮されはじめるということです。肉体という物質の本質上、どうしても制約的・抑止的に働くものが取り払われるからです。そうなってから、もしも地上に、右の例の画家のように精神的ないし霊的なものを縁としてつながる人が見つかれば、その拡張された能力を役立てたいという気持ちになるものなのです。

その影響力を無意識のうちに受けておられる場合もあります。地上の芸術家はそれを“インスピレーション”と呼んできましたが、それが“霊”から送られていることには気づいておられないようです。つまり、かつて同じ地上で生活したことのある先輩から送られてきているという認識はないようです。

これは、わたしの場合にもいえることです。生命の摂理について皆さんより少しばかり多くのことを学んだわたしが、こうして地上へ戻ってきて、受け入れる用意のある人にお届けしているように、わたしより多くを学んでいる偉大な先輩が、このわたしに働きかけているのです。偉大さの尺度は奉仕的精神の度合にあります。いただくものが多いから偉大なのではなく、与えるものが多いから偉大なのです。

どうか皆さんも、可能なかぎりの美徳を地上にもたらすために皆さんを活用しようとしている高級霊の道具である、というよりは、心がけ一つで道具となれる、ということを自覚なさってください。自分が授かっている資質ないしは才能を人類のために捧げたい――苦悩を軽減し、精神を高揚し、不正を改めるための一助となりたい、という願望を至上目的とした生き方をしていれば、何一つ恐れるものはありません。

何が起きようと、それによって傷つくようなことはありません。目標を高く掲げ、何ものにも屈しない盤石(ばんじゃく)の決意をもって、“最大多数の人々への最大限の徳”をモットーにして仕事に当たれば、それが挫折することは絶対にありません」

その日のゲストには、ぜひとも交信したい相手がいて、どうすればそれが叶えられるかをシルバーバーチに尋ねた。すると次のようなアドバイスが与えられた。


「交霊会に出席する際に、特別な先入観を抱いていると、それが交信の障害となります。地上側はあくまでも受信者ですから、会場の雰囲気は受け身的でないといけません。そこへ強烈な思念を抱いて出席することは、言わばその会場に爆弾を落すようなものです。こうあってほしいという固定観念を放射し、それ以外のことを受け入れる余裕がないような状態では、せっかくの交信のチャンネルを塞いでしまうことになります。交信はあくまでもチャンネルを通して届けられるのです。それを塞いでしまっては、交信ができるはずがありません。開いていないといけません。

わたしたちが皆さんに近づけるのは、皆さんが精神的に共感的で受け身的な状態にある時です。言いかえれば、心のドアを開いて“さあ、受け入れの準備ができました。どうぞ”と言える時です。“自分はかくかくしかじかのものを要求したい。それ以外は断ります”といった態度では、交信のチャンネルを制約し、あなたが求めている霊までが出現しにくくなるのです」

「霊媒の中には、霊の姿まで見えているのに、その霊の地上時代の“姓”はよくわからないという人がいますが、なぜでしょうか」


「それは、その霊媒にとっては、ほかのことに較べて“姓”の観念がにがてというまでのことです。要は波動がキャッチできるかどうかの問題です。よく馴染んでいる波動は伝達が容易です。珍しい名前、変わった名前ほど伝達しにくく、したがって受け取りにくいということになります。

もう一つの要素として、霊界から霊媒や霊能者に届けられる通信の多くは、絵画やシンボルの形で送られることが多く、その点、姓名というのは絵画やシンボルで表現するのはほとんど不可能という事情があります。霊視力や霊聴力の確かな霊媒なら、姓名の伝達もうまく行きます。

ただ、忘れないでいただきたいのは、霊媒としての評価は姓名をよく言い当てるかどうかではなくて、その霊についての確かな存在の証拠を提供できるかどうかであることです」

祈り

地上各地に霊の神殿を設け……


ああ、大霊よ。全生命の無限なる始原にあらせられるあなた。全宇宙を創造し、形態を与え、それぞれに目的を持たせ、その全側面を経綸したまうあなた。そのあなたの分霊(わけみたま)をうけているわたしたちは、その霊性を高め、目的意識を強め、あなたとの絆をさらに強く締め、あなたの叡智、あなたの愛、あなたの力でみずからを満たし、あなたの道具として、より大きくお役に立ち、あなたの子等のために尽くしたいと願うものでございます。

わたしたちは、地上人類に実り多き仕事の機会をもたらす霊的な安らぎと和の雰囲気を回復させ、そのエネルギーを全世界へ福利と協調の精神を広めるために用い、空腹と飢餓、苦悩と悲哀、邪悪と病気、そして戦争という惨劇を永遠に排除し、すべての者が友好と親善の中で生活し、あなたが賦与なされた資質の開発に勤しみ、かくして一人ひとりが全体のために貢献するようになることを願っております。

わたしたちは子等の一人ひとりに潜在しているあなたの神性を呼び覚まし、それを生活の中に自由闊達に顕現せしめたいと念願しております。その神性にこそ、始めも終わりもない、無限の目的と表現をもつ、霊力の多様性が秘められているのでございます。

人間がチリとドロからこしらえられたものではなく、あなたの分霊であることを理解し、その目的のもとに生活を律していくためにも、その霊的資質を甦らせてあげたいのでございます。

愛と理解とをもって悲哀と無知とを追い出し、人間みずからこしらえてきた障害を破壊することによって、生命と同じく愛にも死はなく永遠であることの証を提供したいと望んでいる高き世界の霊が、自由にこの地上へ戻ってこられるようにしたいと願っているのでございます。

地上の各地に霊の神殿(交霊の場)を設け、高き界層からの導きとインスピレーションと叡智と真理が存分に届けられ、人間が人生の目的、物質界に存在することの理由を理解し、宿命的に待ちうける、より高き、より充実せる生命活動の場にそなえて、霊性を鍛えることができるようになることを願うものです。

あまりに永きにわたって霊性を束縛してきた無知と迷信への隷属状態から人間を救い出し、霊的にも、精神的にも、身体的にも自由を獲得し、あなたの意図された通りの生き方ができるようになって欲しいのでございます。

Sunday, August 23, 2026

シルバーバーチの霊訓  地上人類への最高の福音

 The Seed of Truth

トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



6章 人類は苦しみつつも、一歩一歩、光明へ向けて進化しております


現代は、科学技術の進歩のおかげで、何秒も数えないうちに、ニュースが地球を一周する。何万キロも離れたところで起きたことが、ほぼ同時にテレビに映し出され、ラジオで報じられ、その日の夕刊に載る。問題なのは、そうした素晴らしい科学技術の恩恵を活用して報じられるニュースの大半が、暴力行為と悲惨な出来事ばかりだということである。

ところがシルバーバーチに言わせると、それでもなお、人類は進化しつつあるという。ある日、二人のゲストを迎えての交霊会で、そのことに言及してこう語った。


「地上世界は、たった一つの重大な原因によって、着実に改善されております。その原因とは、“霊の力”が働きかけているということです。霊力が注がれた場所、有能な道具(霊媒・霊覚者)を通して霊力が顕現したところには、必ずや霊的刷新の仕事が始まり、その仕事を通して物事の価値観が徐々に変わってまいります。

今からほぼ一世紀前(一八四八年のハイズビル事件)に始まった、大々的な組織体制のもとでの霊力の降下がなかったならば、地上世界はもっともっと深刻な事態に陥っていたはずです。潜在的な更生力が全世界に働きかけてきたからこそ、この程度で終わっているのです。

その潜在力も、最初はわずか数滴から始まりました。それが勢力を集めて小川となり、大河をつくり、海となって、今や枯渇する心配などみじんもない分量で地球を包んでおります。歴史の流れをすっかり変えております。人間生活の視野に革新をもたらしております。それは“霊”という要素、永遠に不変の要素が持ち込まれたからです。それなくしては人生は無意味ですし、不合理ですし、目的がないことになります。

科学・哲学・宗教・美術・倫理・道徳・音楽・文学――要するに人間生活の全分野において、人間は死を超えて生き続けるという事実の立証から生まれる“霊”の優越性の認識が、その意義の捉え方を変えてしまいました。時には後退のやむなきに至ったこともありますが、総体的には前進の一途をたどっており、人類は苦しみつつも、一歩一歩、光明へ向けて進化しております」

ゲストの一人「別の考え方として、もしもこの地球という天体が今よりずっと住み良い世界だったら、むしろ存在意義を失ってしまう――より高い界層へのトレーニングの場としての意味がなくなるのではないでしょうか。つまり、進歩を促す要素として、こうした苦難もなければならない……」


「その考えにも一理ありますが、元来人間というものは、いったん霊性に目覚めたら、つまり永遠の実在を垣間見て、微(かす)かであっても宇宙的計画の一端を知り、無限の宇宙機構の中で占める自分の位置を認識したら、大霊と同様、自分みずからも無限の個性を発揮していく永遠の生命を秘めた、無限の存在であることを知ります。それは言いかえれば、前途には永遠に続く進化の道があることを悟る――その頂点は永遠に見ることができない――行けども行けども登り坂が続く、ということです。おわかりでしょうか」

「よくわかります。でも……」と言って、なおも“大霊への帰一”という飛躍した意見を出した。そこでシルバーバーチが――


「話がずいぶん広遠かつ深遠なものになってまいりましたね。われわれは一人の例外もなく、大霊の一部です。あなたという存在全体が、そして、この宇宙間の全生命の総体が大霊を構成しています。生命の総体から離れて大霊の存在はありえないのです。

しかし、そう申し上げても、わたしにはそれを証明する手立てがない以上、いくらでも異論が出てくることでしょう。ですから、ここでは、ともかくわたしの言葉をそのまま受けとめていただくほかはありません。

進化の道は限りなく続きます。ここでお終(しま)いという究極がないということです。その点を理解してくだされば、究極における“神との合一”などというものはありえないことが納得していただけると思います。もしもあなたの個性のすべて――その肉体を通して顕現している小さな一部だけでなく、霊的存在としてのあなたのすべて――が完全の域に達することがあるとしたら、生命活動の計画が何のために案出されたのか、その合理的説明ができなくなります。

生命は永遠にして無限です。不完全な側面を一つまた一つと取り除きつつ、完全へ向けて絶え間なく努力していくのであり、その過程に“終局”はないのです」

「この機械化時代は人類の進化に役立っているのでしょうか。私にはそうは思えないのですが……」


「最終的には役に立ちます。進化というものを一直線に進むもののように想像してはいけません。前進と後退のくり返しです。立ち上がっては倒れるのくり返しです。少し登っては滑り落ち、次に登った時は前よりは高いところまで上がっており、そうやって少しずつ進化していきます。ある一時期だけを見れば、“ご覧なさい。この時期は人類進化の暗い汚点です”と言われるような時期もありますが、それは話のすべてではありません。ほんの一部です。

人間の霊性は徐々に進化しております。進化にともなって自我の本性についての理解が深まり、自我の可能性に目覚め、存在の意図を知り、それに適応しようと努力するようになります。

数世紀前までは夢の中で天界の美を見、あるいは恍惚たる入神の境地においてそれを霊視できたのは、ほんの一握りの者にかぎられていました。が、今や、無数の人がそれを見て、ある者は改革者となり、ある者は先駆者となり、ある者は師となり、死してのちも、その成就のために霊界から働きかけております。そこに進歩が得られるのです」

その点に関してはまったく同感です。進歩はあると思うのです。しかし全体として見た時、地球上が(機械化によって)便利になりすぎると、進化にとってマイナスになるのではないかと考えるのです」


「しかし、霊的進化がともなえば――あなた個人のことではなく人類全体としての話ですが――住んでいる世界そのものにも発展性があることに気づき、かつては夢にも思わなかった豊かさが人生から得られることを知ります。

機械化を心配しておられますが、それが問題となるのは、人間が機械に振り回されて、それを使いこなしていないからに過ぎません。使いこなしさえすれば、何を手に入れてもよろしい――文化・レジャー・芸術・精神と霊の探求、何でもよろしい。かくして内的生命の豊かさが広く一般の人々にも行きわたります。

その力はすべての人間に宿されているのです。すべての人間が大霊の一部だからです。この大宇宙を創造した力と同じ力、山をこしらえ、恒星をこしらえ、惑星をこしらえた力と同じ力、太陽に光を与え、花に芳香を与えた力、それと同じ力があなた方一人ひとりに宿っており、生活の中でその絶対的な力に波長を合わせさえすれば、存分に活用することができるのです」

「花に芳香を与えた力が、ヘビに毒を与えている、という観方もあります」


「わたしに言わせれば、それは少しも問題ではありません。よろしいですか。わたしは大霊があなた方のいう“善”だけを受けもち、悪魔が“悪”を受けもっている、とは申しておりません」

「潜在的には善も悪もすべて、われわれ自身の中に存在しているということですね?」


「人間一人ひとりが小宇宙なのです。あなたもミニチュアの宇宙なのです。潜在的には完全な天使的資質をそなえていると同時に、どう猛な野獣性もそなえております。だからこそ、自分の進むべき方向を選ぶ自由意志が授けられているのです」

「地球という惑星も進化しているとおっしゃいましたが、ではなぜ、霊の浄化のためになお苦難と奮闘が必要なのでしょうか」


「人間が無限の存在だからです。一瞬の間の変化というものは生じません。永い永い進化の旅が続きます。その間には上昇もあれば下降もあり、前進もあれば後退もあります。しかし、そのたびに少しずつ進化していくのです。

霊の世界では、次の段階への準備が整うと、新しい身体への脱皮のようなものが生じます。ですが、その界層を境界線で仕切られた、固定した平地のように想像してはなりません。次元の異なる生活の場が段階的にいくつかあって、お互いに重なり合い融合し合っているのです。地上世界においても、一応みなさんは地表という同じ物的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別々の世界に住んでいるとも言えるのです」

「これまでの地上社会の進歩は、これから先の進歩に較べれば微々たるものに過ぎないのでしょうか」


「いえ、わたしはそういう観方はしたくないのです。比較すれば確かに小さいかもしれませんが、進歩は進歩です。

次のことを銘記してください。人間は法律や規則をこしらえ、道徳律を打ち立てました。文学を豊かなものにしてきました。芸術の奥義をきわめました。精神の隠された宝を突き止めました。霊の宝も、ある程度まで掘り起こしました。

こうしたことは全て、先輩たちのお蔭です。苦しみつつコツコツと励み、試行錯誤をくり返しつつ、人生の大うず巻の中を生き抜いた人たちのお蔭です。総体的にみれば進歩しており、人間は、初期の時代に較べれば豊かになりました。物質的な意味ではなく、霊的に精神的に豊かになっております。そうあってくれないと困ります」

このあと、さらに次のようなコメントを付け加えた。


「嘆かわしいほど無知な人々――自分が霊的存在であることを知らず、したがって“死”の彼方にも生活があることを知らずにいる人々に、そうした基本的な知識を広めるために、われわれがしなければならないことが山ほどあります。

せっかくのこの地上生活を、霊的実在について聞く耳も、語る口も、見る目も持ち合わせないまま終えてしまう、数え切れないほど多くの人たちのことを思うと、何たる悲劇! と叫ばずにはおれません。これは大悲劇です。われわれの努力はそういう人たちに向けられねばならないのです。人生の本当の意義を全うするためには、真実の自分に目覚めないといけないからです」

続いて、もう一人のゲストに向かってこう述べた。女性霊媒として長年の経験をもつ人である。


「今日まであなたを導いてきた力(背後霊)を確信することです。そうすれば、その力の方からあなたを見捨てることはありません。あなたは大変な愛によって包まれております。その愛の力は絶対にあなたを見捨てません。あなたに託されている責務を忠実に果たしているかぎり、その愛の力から見放されることはありません。

愛の力とは何か、どのように作用するのか、どのように規制されているか、どういう摂理のもとに管理されているかは、とうてい言語では説明できません。ただ確実にいえることは、正しい条件――誠実さ、奉仕的精神、知識を基盤とした確信さえあれば、その力があなたを支え、導き、いかなる体験にも力強く対処させ、あなたに託された目的を達成する上で援助してくれるということです」

いよいよその日の交霊会も終わりに近づき、シルバーバーチは最後の締めくくりとして、こう述べた。


「わたしの仕事は、地上へ来てからこしらえた多くの同志――といっても、この声と個性によってしかわたしをご存知ないわけですが――その人たちのお蔭で、ずいぶんラクな思いをさせていただいております。

その同志から送られてくる愛が、わたしにとって大きな力となっているのです。その愛の力こそがこの仕事を続ける上での“資力”なのです。わたしたちの心にあるものは、嘆き悲しんでいる人々、疑念と恐怖にさいなまれている人々のことばかりです。そういう人たちの人生に少しでも安らぎを与えてあげるものをお届けしないことには、わたしたちの心も安まらないのです。

これは大変な仕事です。これを正当な手段で遂行していくことによって、わたしたちも、そして皆さんも、真の意味での大霊の道具となることができるのです。地上世界は“下”からでなく“上”から支配されているのです。地上世界の法律は改正されたり、廃止されたり、無効になったりします。新たな事情が生じて、それに合わせて新たな法律がこしらえられたりします。が、霊の法則は変えられないのです。不変なのです。法則どおりにならないということがないのです。そして、ありとあらゆる事態にそなえられているのです。

ですから、少しも案ずることはありません。そうした絶対的な摂理をこしらえた力、全生命に意義と目的とを与えた力、それがあなたを取り巻いているのです。逆境にあっては、あなたを守るマントとなり、永遠なる愛をもって包み込んでくれる力なのです」

祈り

偽りの神・偽りの教義・偽りの神学に背を向け……


これよりわたしは、古(いにしえ)の予言者を鼓舞し、聖賢や先見者に叡智の輝きに満ちた未来図を見ることを得さしめたのと同じ力を呼び寄せ、人間の無明(むみょう)の心に光明と悟りを与え、迷いを払うべく、完全なる摂理として働くあなたに、深甚なる感謝の祈りを捧げます。

わたしどもが改めて地上に甦(よみがえ)らせたいのは、人間生活を一変せしむるほどの威力、人類を変身せしむるほどの威力を秘めた霊力でございます。それが人間に、あなたの永遠の機構の中で占める位置を理解せしめ、改善と改良と奉仕のために働き、挫折せる者を救い、無力なる者を援助し、飢えに苦しむ者に食を与え、弱き者に力を与え、人類の呪(のろ)いであり文明の汚点である不平等と不公正のすべてを排除すべく、子等に力と勇気と目的意識とを与えてくださるのでございます。

わたしたちは、地上の子等が偽りの神・偽りの教義・偽りの神学に背を向け、あなたの真理の光に導かれて普遍的な宗教を打ち立てることができるように、すなわちあなたを人類全体の父として認識し、人類はすべてあなたの子であるとの理解のもとに、こぞってあなたを崇拝することになるように、あなたの真の姿と彼ら自身についての、より充実せる理解が得られる道へ手引きしたいのでございます。

子等の団結の妨げとなるもの全てを排除したいのでございます。階級の差別、肌色の違い、民族の違いによる分裂をなくし、人間のこしらえた障壁を崩し、新しい光、新しい希望を物質界にもたらしたいのでございます。

同胞の高揚のために心を砕く各界の先駆者や改革者を鼓舞し励まし、彼らが高き霊の世界から導かれていること、その努力には大霊の祝福があることを知らしめたいのでございます。

かくしてわたしどもは、子等を少しでもあなたに近づかしめ、あなたを子等に近づかしめるべく、祈り、そして刻苦するものです。

Saturday, August 22, 2026

ベールの彼方の生活(三)

「天界の政庁」

著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)
近藤千雄 訳


六章 宇宙の創造原理・キリスト

1 顕現としてのキリスト 2 イエス・キリスト
3 究極の実在




1 顕現としてのキリスト  
一九一七年十二月十一日 火曜日

こうして通信を送るために地上へ降りてくる際に吾々が必ず利用するものに〝生命補給路〟(ライフライン)とでも呼ぶべきものがあります。それを敷設するのにかなりの時間を要しましたが、それだけの価値は十分にありました。初めて降りた時は一界また一界とゆっくり降りました。

各界に特有の霊的な環境条件があり、その一つひとつに適応しなければならなかったからです。

 これまで何度往復を繰り返したか知れませんが、回を重ねるごとに霊的体調の調節が容易になり、最初の時に較べればはるかに急速に降下できるようになりました。

今では吾々の住まいのある本来の界での行動と変わらぬほど楽々と動くことができます。かつては一界一界で体調を整えながらだったのが、いまでは一気に地上まで到達します。最初に述べたライフラインが完備しており、往復の途次にそれを活用しているからです。


──あなたの本来の界は何界でしょうか。

 ザブディエル殿の数え方に従えば第十界となります。その界についてはザブディエル殿が少しばかり述べておられるが、ご自身は今ではその界を後にして次の界へ旅立っておられる。

その界より上の界から地上へ降りて来れる霊は少なく、それも滅多にないことです。

降りること自体は可能です。そして貴殿らの観念でいう長い長い年月の間にはかなりの数の霊が降りてきていますが、それは必ず何か大きな目的───その使命を自分から買って出るほどの理解力を持った者が吾々の十界あるいはそれ以下の界層に見当たらないほどの奥深い目的がある時にかぎられます。

ガブリエル(第二巻三章参照)がその一人であった。今でも神の使者として、あるいは遠くへあるいは近くへ神の指令を受けて赴いておられる。が、そのガブリエルにしても地上近くまで降りたことはそう滅多にない。

 さて、こうして吾々が地上界へ降りて来ることが可能なように、吾々の界へも、さらに上層界から高級な天使がよく降りて来られる。それが摂理なのです。

その目的も同じです。すなわち究極の実在へ向けて一歩一歩と崇高さを増す界を向上していく、その奮闘努力の中にある者へ光明と栄光と叡智を授けるためです。

 かくして吾々は、ちょうど貴殿ら地上の一部の者がその恩恵に浴するごとく、これからたどるべき栄光の道を垣間見ることを許されるわけです。そうすることによって、はるか彼方の道程についてまったくの無知であることから免れることができる。

同時に、これは貴殿も同じであるが、時折僅かの間ながらもその栄光の界を訪れて、そこで見聞きしたことを土産話として同胞に語り聞かせることも許されます。

 これで判るように、神の摂理は一つなのです。今おかれている低い境涯は、これより先の高い境涯のために役立つように出来ています。

吾々の啓発の使命に喜んで協力してくれる貴殿が未来の生活に憧れを抱くように、吾々は吾々で今おかれている境涯での生活を十分に満喫しつつ、神の恩寵と自らの静かな奮闘努力によって、これよりたどる巡礼の旅路に相応しい霊性を身につけんと望んでいるところです。

 そういう形で得られる情報の中に、キリストの霊と共に生活する大天使の境涯に関する情報が入ってくる。渾然一体となったその最高界の生活ぶりは、天使の表情がすなわちキリストの姿と目鼻だちを拝すること、と言えるほどです。

 底知れぬ静かな潜在的エネルギーを秘めた崇高なる超越的境涯においては、キリストの霊は自由無碍なる活動をしておられるが、吾々にとってその存在は〝顕現〟の形をとって示されるのみです。が、その限られた形体においてすら、はや、その美しさは言語に絶する。

それを思えば、キリストの霊を身近に拝する天使たちの目に映じるその美しさ、その栄光はいかばかりであることであろう。


──では、あなたもそのキリストの姿を拝されたことがあるわけですね。

 顕現としては拝しております。究極の実在としてのキリストの霊はまだ拝したことはありませんが・・・・・・。


──一度でなく何度もですか。

 いかにも。幾つかの界にて拝している。権限の形においては地上界までも至り、その姿をお見せになることは決して珍しいことではない。ただし、それを拝することの出来る者は幼な子のごとき心の持主と、苦悶の中にキリストの救いを痛切に求める者にかぎられます。


──あなたがキリストを拝された時の様子を一つだけお話ねがえませんか。

 では、先日お話した〝選別〟の行われる界で、ちょっとした騒ぎが生じた時のお話をお聞かせしましょう。その時はことのほか大ぜいの他界者がいて大忙しの状態となり、少しばかり混乱も起きていた。

自分の落着くべき場所が定まらずにいる者をどう扱うかで担当者は頭を痛めていた。群集の中の善と悪の要素が衝突して騒ぎが持ち上がっていたのです。

というのも、彼らは自分の扱われ方が不当であると勝手に不満を抱きイラ立ちを覚えていたのです。こうしたことはそう滅多に起きるものではありません。が、私自身は一度ならずあったことを知っております。

 誤解しないでいただきたいのは、そこへ連れて来られる人たちは決して邪悪な人間ではないことです。みな信心深い人間であり、あからさまに不平を口にしたわけではありません。心の奥では自分たちが決して悪いようにはされないことを信じている。

ただ表面では不安が過(よぎ)る。その明と暗とが複雑に絡んで正しい理解を妨げていたのです。

口先でこそ文句は言わないが、心では自分の置かれた境遇を悲しみ、正しい自己認識への勇気を失い始める。よく銘記されたい。自分を正しく認識することは、地上でそれを疎かにしていた者にとっては大変な苦痛なのです。

地上よりもこちらへ来てからの方がなお辛いことのようです。が、この問題はここではこれ以上深い入りしないことにします。

 さきの話に戻りますが、そこへその界の領主を勤めておられる天使が館より姿を見せられ、群集へ向けて全員こちらへ集まるようにと声を掛けられた。

みな浮かぬ表情で集まって来た。多くの者がうつ向いたまま、その天使の美しい容姿に目を向ける気さえ起きなかった。柱廊玄関から出て階段の最上段に立たれた天使は静かな口調でこう語り始めた──なぜ諸君はいつまでもそのような惨めな気持ちでいるのか。

これよりお姿をお見せになる方もかつては諸君と同じ立場に置かれながらも父の愛を疑わず、首尾よくその暗雲を突き抜けて父のもとへと帰って行かれた方であるぞ、と。

 首をうなだれたまま聞いていた群集が一人また一人と顔を上げて天使の威厳ある、光輝あふれる容姿に目を向け始めた。その天使は本来はずっと高い界層の方であるが、今この難しい界の統治の任を仰せつかっている。

その天使がなおも叡智に溢れた話を続けているうちに、足もとから霧状のものが発生しはじめ、それが全身を包みこみ、包まれた容姿がゆっくりとその霧と融合し、マントのようなものになった。その時はもはや天使の姿は見えなかった。が、それが凝縮して、見よ! 

今度は天使に代って階段上の同じ位置に、その天使より一段と崇高な表情と一段と強烈な光輝を放つ姿をした、別の天使の姿となりはじめたではないか。

その輝きがさらに強烈となっていき、眼前にその明確な容姿を現わした時、頭部に巻かれたイバラの飾り輪の下部と胸部には、いま落ちたばかりかと思われるほどの鮮血の跡が見て取れた。が、

いやが上にも増していく輝きに何千何万と数える群集の疲れた目も次第に輝きを増し、その神々しい容姿に呆然とするのであった。

今やそのイバラの冠帯は黄金色とルビーのそれと変わり、胸部の赤き血痕は衣装を肩で止める締め金具と化し、マントの下にまとうアルバ(祭礼服の一種)は、その生地を陽光の色合いに染めた銀を溶かしたような薄地の紗織の中で、その身体からでる黄金の光に映えていた。

その容姿はとても地上の言語では説明できない。その神々しき天使は他ならぬ救世主イエス・キリストであるという以外に表現のしようがないのである。

その顔から溢れでる表情は数々の天体と宇宙の創造者の一人としての表情であり、それでありながらなお、頭髪を額の中央で左右に分けた辺りに女性的優しさを漂わせていた。冠帯は王として尊厳を表わしていたが、流れるようなその頭髪の優しさが尊大さを掻き消していた。

長いまつげにはどこかしら吾々に優しさを求める雰囲気を漂わせ、一方、その目には吾々におのずと愛と畏敬の念を起こさせるものが漂っていた。

 さて、その容姿はゆっくりと大気の中へ融合していった──消えていったとは言わない──吾々の視力に映じなくなっていくのをそう感じたまでだからです。その存在感が強化されるにつれて、むしろその容姿は気化していったのです。

 そしてついに吾々の視界から消えた。するとその場に前と同じ領主の姿が現われた。が、その時は直立の姿勢ではなかった。片ひざをつき、もう一方のひざに額を当て、両手を前で組んでおられた。

まだ恍惚たる霊的交信状態にあられるので、吾々はその場を失礼した。その時はじめて吾々の足取りが軽く心が高揚されているのに気づいた。もはや憂うつさは消え、いかなる用事にも喜んでいつでも取り掛かれる心境になっていた。

入神状態にあられる領主は何も語られなかったが、〝私は常にあなたたちと共にあるぞ〟という声が吾々の心の中に響いてくるのを感じた。吾々は満足と新たな決意を秘めて再び仕事へ向かったのでした。 



2 イエス・キリスト
一九一七年十二月十二日 水曜日

 吾々のことを想像なさる時、はるか遠くにいると思ってはなりません。すぐ近くにいます。貴殿は直接書いているのがカスリーンであるから吾々はどこか遠く離れたところから彼女へ思念を送っていると考えておられるようですが、そうではない。

霊的身体を調節しながら降下してくる難しさを克服した今、貴殿のすぐ近くに来るために思念を統一することは容易です。天界においても同じですが、地上にも霊格の格差というものがあります。

吾々にとっては、動物的次元からさほど霊的に進化していない人類に近づくことは敢えて不可能とは言わないにしても、きわめて困難なことです。一方、吾々に憧憬の念を抱いてくれている人に対しては、吾々としても精一杯努力してその人が背のびできる最高の段階で折合うようにする。

貴殿の場合もそうです。これで少しは貴殿の気休めになると思うのですが如何でしょう。


──初めの説明は私もそう理解しておりました。しかし、あとの方の説明が事実だとするとカスリーンは必要ないことになりませんか。

 そのことに関しては以前に少なくとも部分的には説明したつもりですが、ここで少しばかり付け加えておきましょう。貴殿に知っておいていただきたい事実が二、三あります。

すなわち──まず霊団の大半がかなり古い時代の人間であるのに較べてカスリーンは貴殿の時代に近いことがあげられます。

そのため平常時においては吾々より貴殿の霊的状態に近く、吾々は貴殿の内的自我とは接触できても、言語能力とか指の運動能力を司る部分つまり肉体の脳への働きかけとなるとカスリーンの方が容易ということになります。

また吾々の思念を言語に転換する際にも彼女が中継してうまくやってくれます。もっとも、それはそれとして、貴殿と吾々とは完全に調和状態で接触していることは事実です。


──質問があるのですが・・・・・・

 どうぞ──ただ一言ご注意申し上げるが、貴殿は知識が旺盛な余り先を急ぎすぎる嫌いがあります。一つ尋ねて、それが片付いてなお余裕のある時にさらに次の質問をお受けしましょう。


──どうも。キリストの地上への降下の問題についてですが、肉体に宿るべく父の住処を離れたあと地上へ至るまでの途中の界層の一つ一つで環境条件に波長を合わせていく必要があったと思われます。キリストほどの高い境涯から降りてくるには余ほどの〝時〟を閲(けみ)する必要があったと思うのですが・・・・・・。

 吾々が教わったかぎりにおいて言えば、キリストは地球がまだ形体を持つに至る以前、すなわち非物質的存在の時から存在していた。

そして、いよいよ物質が存在し始めたとき宇宙神は、物的宇宙を今貴殿らが知るところの整然とした星座とするために、キリストをその霊力の行使の主宰霊 Master Spirit とされた。

が、存在はしても、当時まだ物的宇宙に形態がなかったごとくキリストの霊みずからも形態を具えていなかった。そして宇宙が物的形態を賦与された時にまず霊的形態を具え、それから物的形態を具えるに至った。

当時の天地創造の全現象の背後にキリストの霊が控え、無限の時を閲して混沌(カオス)より整然たる宇宙(コスモス)へと発展するその道程はすべてキリストの霊を通して行われたのであった。それは混沌たる状態を超越するあの強大な存在による外部からの働きかけなくしては不可能であった。

何となれば、秩序に欠けるものから秩序を生ずるということは、新たな要素を加えずしては有り得ないからである。かくして宇宙はキリスト界とカオスとの接触の産物にほかならない。

 カオスとは物質が 未知の可能性を秘めた状態である。コスモスとは物質がその潜在力を発現した状態である。とは言え、その顕現されたものは〝静〟の状態を〝動〟の状態へと転じさせた、その原動的エネルギーの現象的結果に過ぎない。

動とはつまるところ潜在的意念の活動の総計である。意念はその潜在的状態から顕現へと転換する過程においては、その創造力として働く意念の性質に相応しい動の形を取る。

かくして万物の創造主はキリストの意念を通してその創造活動を悠久の時の流れの中で行使し続け、ついにコスモスを生んだのである。

 さて以上の説明によって吾々が抱いている概念をいくらかでも明確にすることが出来たとすれば、キリストが物質的宇宙の創造の当初より存在していたこと、それ故に地球が徐々に物質性を帯び、形態を整え、ついには顕著な年代的特徴を刻んでいくに至るその全過程において存在し続けていたことが解るであろう。

言いかえれば地球それ自体が創造原理を宿し、それに物的表現を与えていったということである。そのことは地球そのものから鉱物と植物と動物という生命形態が生まれてきた事実によって知れる。そこで、友よ、結局いかなることになると思われるか。

ほかでもない。地球並びに物的全宇宙はキリストの身体にほかならないということです。


──地上に誕生したあのキリストですか。

父と一体なるキリスト、そして一体なるが故に父の個性の一部であったところのキリストです。ナザレ人イエスは父の思念の直接の表現体であり、地球人類救済のためのキリストとして肉体をまとったのです。

友よ、貴殿の心に動揺が見られるが、どうか思念の翼を少しばかり広げていただきたい。

 太陽系の他の惑星上には人類とは異なる知的存在が生活を営んでいる。他の太陽系の惑星上にもまた別の存在が生活を営んでいる。さらに他の星雲にも神およびそのキリストとの間に人類と同じつながりを持つ存在がいて、人類と同じように霊的交わりを持つことが出来る。

が彼らの形態は人類とは異なり、思念の伝達も、人類が言語と呼んでいる方法とは異なる。それでいて創造神とそのキリストとの関係は人類の場合と同じなのです。

彼らにとってもキリストは彼らなりの形態を持って顕現する必要があったのであり、今なお必要です。が、それはナザレ人イエスと同じ人間的形態をまとって現われるのではありません。それでは彼らには奇異に思われるでしょう。否、それ以上に、意味がないでしょう。

彼らには彼らなりの形態をとり、交信方法も彼ら独自のものがあり、彼らなりの合理的プロセスを活用している。こうしたことは、地動説を虚空にかなぐり棄てながらも精神的には相も変わらずまるでミイラの如く物的観念によってぐるぐる巻きにされている者にとっては、およそ納得のいかないことでしょう。

彼らはその小さい世界観から一歩も出ることが出来ず、創造神にとって重大な意義を持つ天体がこの地球以外にも存在することが得心できないのです。

 そこで吾々はこう表現しておきましょう──ガリラヤに来たキリストは宇宙的キリストの地球的顕現に過ぎない。が、真のキリストであるという点では同じである、と。

 では結論を述べるとしよう。もっとも、以上述べた程度では無窮の宇宙の美事な韻律が綴った荘厳にして華麗なる物語、星雲の誕生と結婚、そしてそこから生まれた無数の恒星の物語のほんの一章節ほどにも満たないでしょう。

 要するにキリストは、エネルギーが霊的原動力の活性化によって降下──物質化と呼んでもよい──していく過程の中で降下していったということです。鉱物もキリストの生命の具現です。

何となればあらゆる物質がキリストの生命から生まれているからです。バラもそうです。

ユリもそうです。あらゆる植物がキリストの生命を宿しており、一見ただの物質でありながら美しさと素晴らしさを見せるのはその生命ゆえであり、そうした植物的生命も理性へ向けて進化しているのです。

しかし植物に宿っているかぎりその生命は、たとえ最高に進化しても合目的的活動の片鱗を見せるに留まるでしょう。キリスト的生命はまた地上の動物にも顕現しています。

動物も人間と同じくキリスト的生命の進化したものだからです。キリストの意念の最高の表現が人間であった。

それがやがて不可視の世界から可視の世界へと顕現した。つまり人間を創造したキリストみずからが人間となったのです。つまり人間に存在を与え存続させているキリストがその思念を物質に吹き込み、それがナザレ人イエスとなって顕現したのです。

それゆえ創造神より人類創造のための主宰権を委託されたキリストみずからが、その創造せる人間の子となったということです。

(質問に対する答えは)以上で十分であろう。さらに質問があれば、それは次の機会まで待っていただくことにしましょう。神とそのキリストは──その共同作業が人間を生んだのですが──貴殿がその親子関係と宿命を理解し、さらに他の者にも理解させんとする努力を多とされることでしょう。



 3 究極の実在
一九一七年十二月十四日 金曜日

  前回は貴殿の質問にお答えして物質界へのキリストの降下について述べました。ではこれより本題に戻って、これまでの続きを述べさせていただこうと思います。

今回の話は物的コスモスの深奥へ下って行くのではなく霊的コスモスへの上昇であり、その行き着く先は貴殿らが〝父なる住処〟と呼ぶところの境涯です。そこが現段階での人類の想像力の限界であり、存在の可能性へ向けての人類の思考力もそこから先へ進むことは不可能です。

 それに、こちらへ来て見て吾々も霊というものが本質は確かに崇高この上ないとは言え、まだ存在のすべてではないということを知るに至りました。

物質界を超えたところに霊界があるごとく、人智を超えた光と、至純の中に至誠を秘めた、遠く高き界層のそのまた彼方に、霊のみの存在にあらずして、霊たるものの本質をすべて自己の中に収めてしまい、霊的存在のすべてを包含して、さらに一段と高き崇高さを秘めた宇宙を構成している実在が存在するということです。

(訳者注──モーゼスの『霊訓』によると地上を含めた試練と浄化のための境涯のあとに絶対無の超越界があるという。右の説はそれを指しているものと推察される。が、その超越界の一歩手前まで到達しているイムペレーター霊でも、その先がどうなっているかについては何も知らないという)

 惑星の輝きは中心に位置する太陽の放射物のごく一部にすぎず、しかもそれ自体の惑星的特質による色彩を帯びているごとく、物的宇宙は霊の影響をごく僅かだけ受け、その特質による色彩を帯びたものを反射することによって、同じように霊的宇宙の質を向上させ豊かにする上で少しづつ貢献している。

がその太陽とて自己よりはるかに大きい、恒星の集団である星雲の中のごく小さな一単位である太陽系の一部にすぎないように、霊の世界も吾々の理解力をはるかに超えた規模と崇高性を具えたもう一つ別の存在の宇宙の一部にすぎない。

そして星雲もさらに広大な規模の集合体の一単位に過ぎない──これ以上広げることは止めにしましょう。理性と理解力を頼りとしながら道を探っている吾々には、これ以上規模を広げていくと、あまりの驚異に我を忘れてしまう恐れがあるからです。

 それ故に吾々としては本来の栄光の玉座へと戻られたキリストの後に付いて、いつの日かそのお側に侍(はべ)ることを夢見て、幾百億と知れぬ同志と共に数々の栄光に満ちた天界の道を歩むことで満足しようではありませんか。

 無窮の過去より無窮の未来へと時が閲するにつれてキリストの栄光もその大きさを増していきます。

何となれば天界の大軍に一人加わるごとに王国の輝きにさらに一個の光輝を添えることになるからです。吾々が聞き及んだところによれば、その光輝は、天界の最も遠く高き界層の目も眩まんばかりの高所より眺めれば、あたかも貴殿らが遠き星を見つめるごとくに一点の光として映じるという。

瀰漫する霊の海の中にあってはキリスト界の全境涯は一個の巨大な星であり、天界の高所より眺めればその外観を望むことができる。もっとも、このことは今の吾々には正しく理解することはできません。が、ささやかながらも、およそ次のようなことではあるまいかと思う。

 地上から太陽系全体を一つの単位として眺めることは不可能であろう。地球はその組織の中に包まれており、そのごく一部に過ぎないからです。が、アークツルス(牛飼座の一つ)より眺めれば太陽系全体が一つの小さな光球として見えることであろう。その中に太陽も惑星も衛星も含まれているのです。

同じように。そのアークツルスと他の無数の恒星を一個の光球と見ることのできる位置もあるでしょう。かくして、キリストの王国と各境涯を一望のもとに眺めることのできる超越的境涯がはるか彼方に存在するというわけです。

そしてその全組織は、それを構成する生命が物質性を脱して霊性へと進化してゆく悠久の時の流れの中で少しずつ光輝を加えていく。

つまり私は霊的宇宙全体を一つの恒星に見立て、それを一望できる位置にある高き存在を、霊の界層を超越した未知と無限の大いなる〝無〟の中の存在と見なすのです。

 その超越界と吾々第十界まで向上した者との隔たりは、貴殿ら地上の人間との隔たりとも大して差がないほど大きいものです。かりに人間から吾々までの距離を吾々と超越界との距離で割ったとすれば、その数値は計算できないほどの極小値となってしまうでしょう。

 が、恒星の集団のそのまた大集団が、悠久とはいえ確実なゴールへ向けて秩序整然たる行進を続けているごとく、霊の無数の界層もその宿命へ向けて行進している。その究極においては霊の巡礼の旅路は超越界へと融合し、そこに完全の極地を見出すことでしょう。

 その究極の目標へ向けてキリストはまず父の御胸より降下してその指先でそっと人類に触れられた。その神的生命が、魂の中に息づく同種の生命に衝動を与えて、人類は向上進化の宿命に目覚めた。そして至高の君主の後に付いて、他の天体の同胞に後れを取らぬように、ともに父の大軍として同じ目標へ向けて行進し続けているのです。


──一つよく理解できないことがあります。吾らが主は幼な子の純心さについて語ってから〝神の御国はかくの如き者のものなり〟と述べています。あなたのこれまでのお話を総合すると、私たちは年を取るにつれて子供らしさの点において御国に相応しくなくなっていくという風に受け取れるように思います。

たしかに地上生活については私も同感です。が、これでは後ろ向きに進行する、一種の退行現象を意味することになるでしょう。

しかも地上生活が進化の旅の最初の段階であり、それが死後のいくつもの界層まで続けられるとすると、子供らしさを基準として進化を測るのは矛盾するように思えます。その点をどう理解したらよいでしょうか。


 子供はいくつかの資質と能力とを携えてこの世に生まれてきます。ただし幼少時の期間は無活動で未発達の状態にある。存在はしていても居睡りをしているわけです。それが精神的機能と発達とともに一つ一つ開発され使用されるようになる。

そうすることによって人間はひっきりなしに活動の世界を広げ、そして、広げられた環境が次から次に新しいエネルギーを秘めた界層と接触することによって、そのエネルギーを引き寄せることができるようになる。

私のいうエネルギーは創造性と結合力と霊的浄化力とを秘め、さらには神の本性を理解させる力も有しています。

それらの高度なエネルギーをどこまで活用できるか──霊的存在としても人間の発達はそれに掛かっています。幼な子を御国の者になぞらえるのはその心が父なる神の心に反しない限りにおいてのことです。

人間の大人もその能力の開発の道程においてはそのことを銘記し幼な子の如き心を失わなければ、その限りなく広がりゆく霊的能力は壮大な神の目的に沿って、人類ならびに宇宙的大家族の一員であるところの他の天体の知的存在の進化のために使用されることになるでしょう。

が、もし年齢的ならびに才能上の成長とともに幼児的特質であるところの無心の従順さを失っていくとしたら、それは神の御心にそぐわなくなることを意味し、車輪の回転を鈍らせる摩擦にも似た軋みが生じ、次第に進化の速度が鈍り、御国の辺境の地へと離れていき、離れるにつれて旅の仲間との調和が取れにくくなる。

一方その幼児的従順さを失わず、生命の旅において他の美徳を積む者は、退行することなくますます御国の子として相応しい存在となって行く。

ナザレのイエスがまさしくその見本でした。その生涯の記録の書から明確に読み取れるように、父なる神の御子として、その心は常に御心と完全に一体となっていた。少年時代にあってもその心を占めていたのは父なる神についてのことばかりであった。

(修行時代に)自己中心的にならず世俗的欲望から遠ざけたのは父の館であった(*)。

ゲッセマネの園にあってもあくまで父の御心と一体を求めた(**)。十字架上にあっても父のお顔を振り返ろうとした。しかしそのお顔は地上時代の堕落の悪気によって完全に覆いかくされていた。が、それでもその心は神の御心から片時もそれることなく、肉体を離れるや否や神へ向けて一気に旅立って行った。

さらにイースターの日にはマグダラのマリヤに約束された如く(***)その日を神への旅路の道標としてきっと姿をお見せになる。

パトモス島の予言者ヨハネが天界の大聖堂にて主イエスと再会した時、イエスはヨハネに対してご自分が父の御心と完全に一体となっていたことを父が多とされて、天界にても地上と同じように、霊力と共に最高の権威を委ねられたと述べた。

吾々のごとく地上にてはささやかな記録(バイブル)を通じて知り、こちらへ来てからは直々にそのお姿を拝した者が、汚れなき霊性に霊力と完成された人間性の威厳が融合し、その上に神性の尊厳を具えた童子性を主に見出して何の不思議があろう。

 さよう。友よ、父の御国の童子性を理解するのは天界の高き境涯にまで至った者のみなのです。


(*モーゼスの『霊訓』によると、イエスの背後霊団は一度も肉体に宿ったことのない天使団、日本神道で言う〝自然霊〟によって構成され、イエスも自分が出世前その霊団の最高の地位(クライ)にあったことを自覚し、一人でいる時は大てい肉体から脱け出てその霊団と交わっていたという。

**ゲッセマネとはイエスがユダに裏切られ生涯で最大の苦悶に遭遇した園。父との一体を求めたというのはその時に発した次の言葉のことで、祈りの最高の在り方としてよく引用される──〝父よ、願わくばこの苦しみを取り除き給え。しかし私の望みより、どうか御心のままになさらんことを〟。***マルコ16・9~11。訳者)
 

Friday, August 21, 2026

ベールの彼方の生活(三)

 「天界の政庁」

著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)
近藤千雄 訳


五章 生前と死後
一兵士の例  一牧師の場合


1 一兵士の例  
一九一七年十二月七日 金曜日


 地球を取り巻く暗闇──光明界から使命を帯びて降りてくる霊のすべてがどうしても通過せざるを得ない暗闇を通って、地上という名の〝闘争の谷〟から光明と安らぎの丘へと、人間の群れが次から次へと引きも切らずにやってまいります。

これからお話しするのは、その中でも、右も左も弁えない無明の霊のことではなく、〝存在〟の意味、なかんずく自分の価値を知りたくてキリストの愛を人生の指針として生きてきた者たちのことです。彼らは地上においてすでに、その暗闇と煩悩の薄暮の彼方に輝く太陽が正義と公正と愛の象徴であることを知っておりました。

 それゆえ彼らはこちらへ来た時に、過ちではなかろうかと気にしながらも生きてきたものを潔く改める用意と、天界へ向けての巡礼の旅において大きく挫折しあるいは道を見失うことのないよう蔭から指導していた背後霊への信頼を持ち合わせているのです。

 それはそれなりに事実です。が、彼らにしてもなお、いよいよこちらへ到来してその美しさと安らぎの深さを実感した時の驚きと感嘆は、あたかもカンバスの上に描かれた光と蔭だけの平面的な肖像画と実物との差にも似て、その想像を超えた躍動する生命力に圧倒されます。


──判ります。私にはその真実性をすべて信じることが出来ます、リーダーさん・・・・・・あなたがそちらでそう呼ばれていることをカスリーンから聞いております・・・・・・
 でも、何か一つだけ例をあげていただけませんか。具体的なものを。

 無数にある例の中から一つだけと言われても困りますが、では最近こちらへ来たばかりの人の中から一人を選んでみましょう。現段階では吾々の班は地上界との境界近くへ行って新参の案内をする役目は仰せつかっていませんが、それを仕事としている者と常に連絡を取り合っておりますので、その体験を参考にさせてもらっています。

では、つい先ごろ壁を突き抜けてきたばかりで、通路わきの草地に横になっていた若者を紹介しましょう。


──〝壁〟というのは何でしょうか。説明していただけませんか。

 貴殿らの住む物質界では壁といえば石とかレンガで出来ていますが、吾々のいう壁は同じく石で出来てはいても、その石はしっかりと固いという意味で固形をしているのではありません。

その石を構成しているところの分子は、地上の科学でも最近発見されたように常に波動の状態にある。そしてその分子の集合体も地上でエーテルと呼ぶところの宇宙に瀰漫する成分よりもさらに鈍重な波動によって構成されている。

そもそも〝動〟なるものは意念の作用の結果として生じるものであり、また意念を発するのは意識を持つ存在です。

したがって逆に考えれば次のようなことになりましょう。まず一個の、または複数の意識的存在がエーテルに意念を集中するとそこに波動が生じる。そしてその波動から分子が構成される。

それがさらに別のグループ(天使団と呼んでもよい)の意念の働きによって濃度の異なる凝固物を構成し、あるいは水となり、あるいは石となり、あるいは樹木となる。

それゆえ、あらゆる物質は個性的存在である意念の物質化現象であり、その個性的存在の発達程度と、働きかけが一個によるか複数によるかによって、構成と濃度が異なるわけです。つまり意念の不断の放射がその放射する存在の発達程度に相応しい現象を生み出すわけです。

 霊界と物質界との間には常にこうした一連の摂理が働いているのです。

 さきの〝壁〟は実は地上界から放射される地上独特の想念が固まってでき、それが維持されているものです。すなわち天界へ向けて押し寄せてくる地上の想念が地上に近い界層の想念によって押し返される。

これを繰り返すうちに次第に固さが増して一種の壁のようなものを形成する。その固さと素材は吾々霊界の者には立派に感触があるが、地上の人間には一種の精神的状態としてしか感識できません。

貴殿らがよく〝煩悶の暗雲〟だの〝霊的暗黒〟だのと漠然と呼んでいる、あれです。

 従って吾々が〝その壁は地上の人間の想念によって作られている〟と言うとき、霊の想像力の文字どおりの意味において述べているのです。全ての霊に創造力があり、肉体に宿る人間は本質的には霊です。

そしてその一人ひとりが吾々と同じく宇宙の大霊の一焦点なのです。それゆえ霊界との境界へ向けて押し寄せてくるこの想念の雲は霊的創造物であり、それを迎えうって絶えず押し返し続け地上圏内に止めているところの霊界の雲と同じです。

本質において、あるいは種類において同じということです。程度において異なるのみです。つまり程度の高い想念体と低い想念体との押し合いであり、その時々の濃度の割合によって霊界の方へ押し込んで来たり、また地上近くへ押し返されたり、を繰りかえしている。

が、それにも限界があり、全体としてみればほぼ定位置に留まっており、決して地上圏からそう遠ざかることはありません。

 さて、貴殿の質問が吾々に一つの大きなテーマを課す結果になりました。今日の地上においては未だ科学の手の届いていない領域の一つを無理して地上の言語で語ることになってしまいました。

いずれ科学が領域を広げた暁には地上の誰かが人間にとってもっと馴染みやすい用語で、もっと分かり易く説明してくれることでしょう。


──大体の流れは掴めました。どうも済みませんでした。

 さてその男は道路わきの芝生に横になっていましたが、その道は男を案内して来た者たちの住居の入り口に通じる通路でした。間もなく男は目を開いて、あたりの明るい様子に驚きの表情を見せたが、目が慣れてくると彼を次の場所まで案内するために待機している者たちの姿が見えてきた。

 最初に発した質問が変わっていた。彼はこう聞いたのである──「私のキット(*)はどうしたのでしょうか。失くしてしまったのでしょうか」(*ふつうは身の回り品のことであるが、ここでは兵士の戦闘用具──訳者)

 すると、リーダー格の者が答えた。「その通り、失くされたようですね。でも、その代りとして私たちがもっと上等のものを差し上げます」

 男が返事をしようとした時あたりの景色が目に入り,こう尋ねた。「それにしてもこんなところへ私を連れてきたのはどなたですか。この国は見覚えがありません。敵の弾丸(たま)が当たった場所はこんな景色ではありませんでしたが・・・・・・」

そう言って目をさらに大きく見開いて、今度は小声で尋ねた。「あの、私は死んだのでしょうか」

 「その通りです。あなたは亡くなられたのです。そのことに気づかれる方はそう多くはありません。私たちはこちらからずっとあなたを見守っておりました。

生まれてから大きく成長されていく様子、職場での様子、入隊されてからの訓練生活、戦場で弾丸が当たるまでの様子、等々。あなたが自分で正しいと思ったことをなさってきたことは私たちもよく知っております。

すべてとは言えないまでも、大体においてあなたはより高いものを求めてこられました。ではこれから、こちらでのあなたの住居へご案内いたしましょう」

 男は少しの間黙っていたが、そのあとこう聞いた。「お尋ねしたいことがあります。よろしいでしょうか」

 「どうぞ、何なりとお聞きください。そのためにこうして参ったのですから・・・・・・」

 「では、私が歩哨に立っていた夜、私の耳に死期が近づいたことを告げたのはあなたですか」

 「いえ、その方はここにいる私たちの中にはおりません。もう少し先であなたを待っておられます。もっとしっかりなさってからご案内しましょう。ちょっと立ってみてください。歩けるかどうか・・・・・・」

 そういわれて男はいきなり立ち上がり、軍隊のクセで直立不動の姿勢をとった。するとリーダー格の人が笑顔でこう言った。

「もう、それはよろしい。こちらでの訓練はそれとはまったく違います。どうぞ私たちを仲間と心得てついてきて下さい。いずれ命令を授かり、それに従うことになりますが、当分はそれも無いでしょう。

その時が来れば私たちよりもっと偉い方から命令があります。あなたもそれには絶対的に従われるでしょう。叱責されるのが怖くてではありません。偉大なる愛の心からそうされるはずです」


 男はひとこと「有難うございます」と言って仲間たちに付いて歩み始めた。いま聞かされたことや新しい環境の不思議な美しさに心を奪われてか、黙って深い思いに耽っていた。

 一団は登り道を進み丘の端を通り過ぎた。その反対側には背の高い美しい樹木の茂る森があり、足元には花が咲き乱れ、木々の間で小鳥がさえずっている。その森の中の小さく盛り上がったところに一人の若者が待っていて、一団が近づくとやおら立ち上がった。

そして彼の方からも近づいてくだんの兵士のところへ行って、片腕で肩を抱くようにしていっしょに歩いた。互いに黙したままだった。

 すると突如として兵士が立ち止まり、その肩にまわした腕をほどいて若者の顔をしげしげとのぞき込んだ。次の瞬間その顔をほころばせてこう叫んだ。「なんと、チャーリーじゃないか。思ってもみなかったぞ。じゃあ、あの時君はやはりダメだったのか?」

 「そうなんだ。助からなかったよ。あの夜死んでこちらへ来た。すると君のところへ行くように言われた。君にずっと付いて回って、出来るだけの援助をしたつもりだ。が、そのうち君の寿命が尽きかけていることを知らされた。

僕は君にそのことを知らせるべきだと思った。と言うのも、僕が首に弾丸を受けた時君が僕を陣地まで抱きかかえて連れて帰ってくれたが、あのとき君が言った言葉を思い出したんだ。

それで君が静かに一人ぼっちになる時を待って(死期の迫っていることを知らせるべく)できるだけの手段を試みた。あとでどうにか君は僕の姿を見るとともに、もうすぐこちらへ来るぞという僕の言葉をおぼろげながら聞いてくれたことを感じ取ったよ」

 「なるほど〝こちらへ来る〟か・・・・・・もう〝あの世へ行く〟(*)じゃないわけだ」(*第一次大戦ごろから〝死ぬ〟ということを英語で俗に go west 〝西へ行く〟と言うようになった。ここでは死後の世界から見れば〝行く〟ではなく〝来る〟となるので come west と言ったわけである──訳者)

 「そういうわけだ。ここで改めてあの夜の君の介抱に対して礼を言うよ」

 こうした語らいのうちに二人だけがどんどん先を歩んだ。と言うのも、他の者たちが気をきかして歩調を落とし、二人が生前のままの言葉で語り合うようにしてあげたのである。

 さて吾々が特にこの例を挙げたことにはいろいろとわけがあるが、その中で主なものを指摘しておきたい。

 一つは、こちらの世界では地上での親切な行為は絶対に無視されないこと。人のために善行を施した者は、こちらへ来てからその相手から必ず礼を言われるということです。

 次に、こちらへ来ても相変わらず地上時代の言語をしゃべり、物の言い方も変わっていないことです。ために、久しぶりで面会した時にひどくぶっきらぼうな言いかたをされて驚く者もいる。今の二人の例に見られるように軍隊生活を送った者がとくにそうです。

 また、こちらでの身分・階級は霊的な本性に相当しており、地上時代の身分や学歴には何の関係もないということです。この二人の場合も、先に戦死した男は軍隊に入る前は一介の労働者であり、貧しい家庭に育った。

もう一人は世間的には恵まれた環境に育ち、兵役に就く前は叔父の会社の責任のあるポストを与えられて数年間それに携わった。が、そうした地位や身分の差は、負傷した前者を後者が背負って敵の陣地から連れて帰った行為の中にあっては関係なかった。こちらへ来てからは尚のこと、何の関係もなかった。

 こういう具合に、かつての知友はこちらで旧交を温め、そしてともに向上の道に勤しむ。それというのも、地上において己れの義務に忠実であった者は、美と休息の天界において大いなる歓迎を受けるものなのです。

そこでは戦乱の物音一つ聞こえず、負傷することもなく、苦痛を味わうこともない。地上の労苦に疲れた者が避難し、生命の喜びを味わう〝安らぎの境涯〟なのです。
                   



 2 一牧師の場合  
 一九一七年十二月十日 月曜日

 前回のような例は言わば地上の戦場シーンがこの静けさと安らぎの天界で再現されるわけであるから、貴殿にとっては信じられないことかも知れませんが、決して珍しいことではありません。人生模様というものはそうした小さな出来ごとによって織なされていくもので、こちらへ来ても人生は人生です。

かつての同僚がこちらで再会し、地上という生存競争の荒波の中で培った友情を温め合うという風景は決してこの二人に限ったことではありません。

 では、さらにもう一歩踏み込んで、別のタイプの再会シーンを紹介してみよう。吾々との間に横たわる濃霧の下で生活する人々に知識の光を授けたいと思うからです。その霧の壁は人間の限られた能力では当分は突き破ることは不可能です。

いつまでもとは言いません。が、当分の間すなわち人間の霊覚がよほど鋭さを増すまでは、こうした間接的方法で教えてあげるほかはないでしょう。

 第二界には地上界からの他界者が一たん収容される特別の施設があります。そこでは〝選別〟のようなことが行われており、一人ひとりに指導霊が当てがわれて、霊界での生活のスタートとしてもっとも適切な境涯へ連れて行かれます。

その施設を見学すると実にさまざまなタイプの者がいて、興味ぶかいことが数多く観察されます。中には地上生活に関する査定ではなかなか良い評価をされても、確信と信念とかの問題になると、ああでもないこうでもないと、なかなか定まらない者もいます。

誤解しないで頂きたいのは、それは施設でその仕事に当たっている者に判断能力が不足しているからではありません。

新参者もまず自分自身についての理解、つまりどういう点が優れ、どういう点が不足しているか、自分の本当の性格はどうかについて明確な理解がいくまでは、はっきりとした方向決めはしない方がよいという基本的方針があるのです。

そこで新参者はこの施設においてゆっくりと休養を取り、気心の合った人々との睦(むつ)び合いと語らいの生活の中において、地上生活から携えてきた興奮やイライラを鎮め、慎重にそして確実に自分と自分の境遇を見つめ直すことになります。

 最近のことですが、吾々の霊団の一人がその施設を訪れて、ある複雑な事情を抱えた男性を探し出した。その男性は地上では牧師だった人で、いわゆる心霊問題にも関心を持ち、いま吾々が行っているような霊界との交信の可能性についても一応信じていた。

が彼はもっとも肝心な点の理解が出来ていなかった。であるから、内心では真実で有益であると思っていることでも、それを公表することを恐れ、牧師としてお座なりのことをするだけにとどまった。

肝心な問題をワキへやったのです。というのも、彼は自分には人を救う道が別にある・・・が今それを口にして騒がれてはまずい・・・・・・それはもっと世間が理解するようになってからでよい・・・・・・その時は自分が先頭に立って堂々と唱導しよう・・・・・・そう考えたのです。

 そういうわけで、真剣に道を求める人たちが彼を訪ねて、まず第一に他界した肉親との交信は本当に可能かどうか、第二にそれは神の目から見て許されるべきことであるかどうかを質しても、彼はキリスト教の聖霊との交わりの信仰を改めて説き、霊媒を通じての交わりは教会がテストし、調査し、指示を与えられるまで待つようにと述べるにとどまった。

 ところが、そうしているうちには彼自身の寿命が尽きてこちらへ来た。そしてその施設へ案内され、例によってそこで地上の自分の取った職業上の心掛けと好機の活用の仕方についての反省を求められることになっていた。

 そこへ吾々の霊団の一人が──

──まわりくどい言い方をなさらずに、ズバリ、彼の名をおっしゃってください。

 〝彼〟ではなく〝彼女〟、つまり女性です。ネインとでも呼んでおきましょう。

 ネインが訪ねたとき彼は森の小道──群葉と花と光と色彩に溢れた草原を通り抜ける道を散策しておりました。安らかさと静けさの中で、たった一人でした。というのも、心にわだかまっているものを明確に見つめるために一人になりたかったのです。

 ネインが近づいてすぐ前まで来ると、彼は軽く会釈して通り過ぎようとした。そこで彼女の方から声をかけた。

 「すみません。あなたへの用事で参った者です。お話することがあって・・・・・・」
 「どなたからの命令でしょうか」

 「地上でのあなたの使命の達成のために主の命を受けて、あなたを守護し責任を取ってこられた方です」

 「なぜその方が私の責任を取らなくてはならないのでしょう。一人ひとりが自分の人生と仕事に責任を取るべきです。そうじゃないでしょうか」

 「たしかにおっしゃる通りです。ですが残念ながらそれだけでは済まされない事情があることを、私たちもこちらへ来て知らされたのです。

つまりあなたが地上で為さったこと、あるいは為すべきでありながら為さずに終わったことのすべてが、単にあなた一人の問題として片づけられないものがあるのです。

守護の任に当たられたその方も、あなたの幸せのために何かと心を配られましたが、思い通りになったのは一部だけで、全部ではありませんでした。こうして地上生活を終えられた今、その方はその地上生活を総ざらいして、ご自分の責任を取らねばなりません。喜びと同時に悲しみも味わわれることでしょう」


 「私には合点がいきません。他人の失敗の責任を取るというのは、私の公正の概念に反することです」

 「でも、あなたは地上でそれを信者に説かれたのではなかったでしょうか。カルバリの丘でのキリストの受難をあなたはそう理解され、そう信者に説かれました。すべてが真実ではなかったにしても、確かに真実を含んでおりました。

私たちは他人の喜びを我がことのように喜ぶように、他人の悲しみも我がことのように悲しむものではないでしょうか。守護の方も今そういうお立場にあります。あなたのことで喜び、あなたのことで悲しんでおられます」

 「どういう意味でしょうか。具体的におっしゃってくださいますか」

 「慈善という面で立派な仕事をなさったことは守護霊さまは喜んでおられます。神と同胞への愛の心に適ったことだったからです。が、あなたみずから受難について説かれたことを実行するまでに至らなかったことは悲しんでおられます。

あなたは世間の嘲笑の的になるのを潔(いさぎよ)しとしなかった。不興を買って牧師としての力を失うことを恐れられた。つまり神からの称賛より世間からの人気の方を優先し、暗闇の時代から光明の時代へ移り始めるまで待って、その時に一気に名声を得ようと安易な功名心を抱かれました。

が、その時あなたは意志の薄弱さと、恥辱と冷遇を物ともしない使命感と勇気の欠如のために、大切なことを忘れておられました。

つまりあなたが到来を待ち望んでいる時代はもはやあなたの努力を必要としない時代であるかも知れないこと、闘争はすでに信念強固なる他の人々によってほぼ勝ち取られ、あなたはただの傍観者として高見の見物をするのみであるかも知れないこと、又一方、その戦いにおいて一歩も後へ退かなかった者の中には、悪戦苦闘の末に名誉の戦死を遂げた者もいるかも知れないということです」


 「いったい、これはどういうことなのでしょう。あなたはいったい何の目的で私のところへ来られたのでしょうか」

 「その守護霊さまの使いです。いずれその方が直々にお会いになられますが、その前に私を遣わされたのです。今はまだその方とはお会いになれません。あなたの目的意識がもっと明確になってからです。つまりあなたの地上生活を織り成したさまざまな要素の真の価値評価を認識されてからのことです」

 「判りました。少なくとも部分的には判ってきました。礼を言います。実はこのところずっと暗い雲の中にいる気分でした。

なぜだろうかと思い、こうして人から離れて一人で考えておりました。あなたからずいぶん厳しいことを言われました。ではどうしたらよいのかを、ついでにおっしゃっていただけますか」

 「実はそれを申し上げるのが私のこの度の使いの目的だったのです。それが私が仰せつかった唯一の用件でした。つまりあなたの心情を推し量り、ご自身でも反省していただき、あなたに向上の意欲が見られれば守護霊さまからのメッセージをお伝えするということです。

今あなたはその意欲をお見せになられました──もっとも心の底からのものではありませんが・・・・・・。そこで守護霊さまからのメッセージをお伝えしましょう。あなたがもう少し修行なされば、その方が直々にご案内してくださいます。

その方がおっしゃるには、取りあえずあなたは第一界に居所を構えて、そこから地上へ赴いて、こちらの光明の世界の者との交信を求めている人たちの気持ちをよく汲み取り、その人たちをキリストの光明と安らぎへ向けて向上させてあげるために慰めと勇気づけのメッセージを送ることに専念している(光明界の)人たちの援助をなさることです。

あなたの教会の信者だった人の中には、悲しみに打ちひしがれた人たちのために交霊会を開き、他界した肉親との交信をさせて喜ばせ、かつ、自らも喜びを得ようと努力しておられる人もいます。

今こそあなたはその人たちのところへ赴き、あなたの存在を知らしめ、あなたが地上時代に説かれたことを撤回するなり、語るべきでありながら勇気がなくて語らずに終わった真理を説いて聞かせるなりすべきです。これは恥を忍ばねばならないことではあります。

でも、それによって地上の信者は大いに喜びを得るでしょうし、あなたの潔い態度に好意を抱くことでしょう。と言うのは、その方たちはすでに今のあなたの位置よりはるかに高い天界からの愛の芳香を嗅ぎ取っているのです。

でも、どうなさるかはあなたの自由意志に任されております。言われる通りになさるなり、拒否なさるなり、どうぞご自由になさってください」


 彼はしばし黙して下を向いていた。必死で思いを廻らしていた。その心の葛藤は彼のようなタイプの人間にとって決して小さなものではなかった。果たせるかな彼は決断に到着することが出来ず、後でもっとよく考えてからご返事しますとだけ述べた。

怖れと優柔不断という、かねてからの彼の欠点が相も変わらず彼をマントの如くおおい、その一線を突き破りたくても突き破れなくしていた。ネインは自分の界へ戻って行った。
が、彼女が求めに来た嬉しい返事を携えて帰ることはできなかった。


──それで結局彼はどうしました? どういう決断をしたのでしょうか。

 このあいだ聞いたところでは、まだ決めていないとのことでした。もっとも、この話はつい最近のことで、まだ結末に至る段階ではありません。彼の自由意志によって何らかの決断を下すまでは結末はあり得ないでしょう。

貴殿が催される〝交わりの集会〟へは彼のような立場の霊が大勢参加するものです。 


──交わりの集会というのは聖餐式のことでしょうか。それとも交霊会のことでしょうか。

 どう言い変えたところで同じでしょう。確かに地上の人間に取っては両者は大いに違うでしょうが、吾々には地上の基準で考えているのではありません。どちらにせよ同じ目的、つまり両界の者と主イエスとの交わりを得るためです。吾々にとってはそれだけで十分です。

 ところで吾々が派遣した女性のことですが、貴殿はなぜこのような使命を女性が担わされたのか──キリスト教の牧師を相手にしてその行為と態度を論じ合わせたのはなぜかと思っておられる。その疑問にお答えしましょう。

 答えは至って簡単です。実は彼には幼少時代に一人の妹がいたのですが、それがわずか二、三歳で夭折した。そして彼一人が成人した。例の女性がその妹です。

彼はその妹を非常に可愛がっていた。であるから、もしもその人生においてもう一段高い霊性を発揮していたら、たとえその後の彼女が美しく成人していても、すぐに妹と知れたはずです。が、低き霊性故に彼の視界は遮られ、視力は曇らされ、遂に彼女は自分が実の妹であることに気づいてもらえないまま去って行った。

 げに吾々は、喜びにつけ悲しみにつけ一つの家族のようなものであり、それを互いに分かち合わねばならない。主イエスも地上の人間の罪と愛、すなわち喜びと悲しみを身を持って体験されたのですから。

シルバーバーチの霊訓  地上人類への最高の福音

The Seed of Truth
トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



5章 人間は生まれる前も、今も、そしてこれからもずっと霊です


霊媒の指導霊や支配霊になるのは、霊媒自身より霊格の高い霊ときまっているのか。心霊研究というのは大切なものか。神を、全能で慈悲深い存在と考えてよいか。こうした質問がサイキックニューズ紙の読者から寄せられている。本章ではそうした投書による質問と、それに対するシルバーバーチの回答をまとめて紹介してみよう。

最初に紹介するのは、かの有名な“モーゼの十戒”に関するもので、あれはもう古いのではないか、内容を書き改めるべきではないか、といった意見が添えられていた。シルバーバーチは質問者の意見に同感であると述べてから、こう続けた。


「人類の永い歴史の中のある一時期のために届けられた霊力を、神による最終的な啓示と見なしてはなりません。啓示というものは、時代と民族の理解力に合わせて届けられるもので、継続的かつ進歩的です。理解力の及ぶ範囲内で少し進んだもの、ということです。常に一歩先のものが届けられ、そこまで到達すれば、さらに次の段階のものを、というふうに、無限の梯子(はしご)を登ってまいります。

なのに、かのユダヤ民族がまだ幼い段階にあり、しかもその当時の情況に合わせて届けられたものが、何もかも大きく事情の異なる現代に、どうして当てはまりましょうか。わたしには“一戒”しかありません。お互いがお互いのために尽くし合うべし――これだけです」

この回答がきっかけとなって、ひとしきりメンバーの間で議論の花が咲いた。それにシルバーバーチも加わって、こう述べた。


「こうして皆さんのご意見をお聞きしていると、わたしは、できることなら霊的ビジョンがどうなっているかをお見せしたいものだと思わずにはいられません。そうすれば、霊の世界に存在する複雑・微妙な組織と、計画が立案され地上の各国に影響力が行使されていく、その背景に行きわたる配慮、絶妙ともいうべき配剤を、まのあたりにすることができるのですが……。永年にわたって蓄積されてきた叡智から生まれる洞察力が総動員されます。が、それでも、時として見込み違いというものがあるものです。わたしたちにも失敗はあるのです。何もかもうまく行くとはかぎらないのです。

しかし、このわたしにかぎって言えば、皆さんからの大いなる愛と敬意を頂戴して、大へん恵まれた成果をあげてまいりました。その愛と敬意のお蔭で、他の霊団の多くが、必死の努力にもかかわらず、使命半ばにして挫折している中で、わたしの仕事はずいぶんラクな思いをさせていただきました。まったくの無名の状態から始めて、今や全世界のすみずみまで広がるに至ったこれまでの道のりを振り返ると、感慨ひとしおというところです。しかし、まだその使命は終わっていないのです。

今でも数多くの大きな問題に直面しております。が、それと闘い、そして克服しつつ、この暗闇に包まれた物質の世界に、ささやかな光明を注いでいくことができております」

次の投書には“大霊の存在を実感するにはどうしたらよいのでしょうか”とあった。これが読み上げられるとシルバーバーチは、間髪を入れず、こう答えた。


「まず第一に、生命の大霊とは何であるかを明確に認識しないといけません。これまでは、それが間違った概念のもとに信じられてまいりました。

もとより大霊を有限の用語で表現することは、必然的に不可能なことです。無限なる存在を有限なる言語で表現できる道理がありません。そこで、いつの時代においても、神の真の姿は捉え難く、限りある地上の人間の理解力では正しく理解することができませんでした。

しかし皆さんも霊的存在であり、内部に神性の火花を宿しており、程度の問題とはいえ、大霊の資質をそなえているからには、生命の全諸相に顕現している崇高にしてダイナミックな生命力を感じ取ることはできるはずです。ただし、それにも程度の差はありますが……。

そのための条件として、物的感覚を鎮静させること(精神統一)ができるようにならないといけません。世間の雑音、不協和音、いがみ合い等は、きれいさっぱりと忘れ去らないといけません。内面を穏やかに保ち、あたりを包んでいる崇高な根元的エネルギーに魂をゆだねるコツを身につけないといけません。その段階で内部から湧き出る静寂の醍醐味(だいごみ)――それが生命現象の背後の霊力と一体となった時の実感です。

そこに至るには、時間と忍耐と知識とが必要です。が、あなたのまわりに充満する霊妙にして微妙な霊的生命のバイブレーションを感じ取ることができるようになるにつれて、内部の霊的自我に潜む驚異的可能性に気づくようになります。それが、大霊の存在を実感するということです。しかし、それは容易なことではありません」

次の投書はシルバーバーチがよく使用する“霊の力”についての質問で、“それはタンジブルtangible(触れてみることができるもの)でしょうか。リアルreal(実体感のあるもの)でしょうか”というものだった。


「難しい用語を使用なさいますね。タンジブルとはどういう意味でしょうか。五感に反応するかという意味でしょうか。もしその意味でしたら、“ノー”の返事となります。

リアルなものか? むろんリアルです。知識がリアルであるように、叡智がリアルであるように、進化がリアルであるように、友情がリアルであるように、愛がリアルであるように、実在のエネルギーがすべてリアルであるように、霊力はリアルなものです。霊の世界においてはタンジブルなものですが、地上世界では、霊感者を除いては、感知できません。

霊力は生命を支えているエネルギーです。無知な人、偏見のある人、迷信にひきずり回されている人は、みずから障壁をこしらえ、それが霊力の流れを阻止しているのです。それを取り除くのにどれだけの時を要するかは、その障壁の性質(たち)によって違ってきます。

人によっては、霊的なことについて漠然とした概念すら抱くことなく生涯を終わる人もいます。生命とは霊であり、霊とは生命であり、地上に存在するものはすべて霊力のお蔭であるということが、チラリと脳裏をよぎることもなく過ごします。

そういう人は、霊的実在に対して、すべての感覚がマヒしているのです。言ってみれば物的牢獄の中で暮らしているようなもので、死が解放してくれるまで、その状態が続きます。もっとも、死んだらすぐに実在に気づくというものでないことは、ここにおいでの皆さんはよくご存知と思います。その種の人間は、霊的生活環境に馴染むまでに、相当な調整期間を要します。

中には、地上生活中に時おり、ほんの一瞬のことですが、生命の全諸相を創造し支配し導いている、何かしら超越的な力の存在に気づく人がいます。

さらには、ここにおいでの皆さんのように、霊力の実在について直接的な認識をお持ちで、日々、その恩恵に浴していらっしゃる方がいます。心が、精神が、そして魂が開かれ、この全大宇宙を動かしている力と同じものが自分を通して働きかけ、他の人々の魂を目覚めさせる上で、自分を役立てる用意ができておられる方たちです。

どの力も始原は一つです。全生命活動を動かしている力が、このわたしを今こうしてしゃベらせているのです」

そのシルバーバーチ霊団とサークルとのつながりについて問われて――


「信念に燃えなさい。盲目的な信念ではなく、確実な知識に基づいた信念です。確信です。これは、古くから言われ続けてきた訓えです。もともと、わたしが申し上げていることに新しいものは何一つありません。そこで、改めてここで、それが皆さんの存在の布地に染み込むように、わたしに可能なかぎりの力を込めて、同じ言葉を繰り返します――信念に燃えなさい!

皆さんは皆さんの役目を果たしてください。わたしたちはわたしたちの役目を果たします。絶対に見捨てるようなことはいたしません。宇宙にはインスピレーションが充満しているのです。条件さえ整えば、それを自由に我がものとすることができるのです。ところが、そこに取り越し苦労、疑念、不安といったものが入り込みます。そうした不協和音が邪魔をするのです。ですから、それらが心に宿るスキを与えてはならないのです。

為さねばならないことが山ほどあります。それを成就するためには、皆さんがた人間側の堅固な忠誠心による援護がぜひとも欲しいのです。比較的永い年月にわたる経験をもつこのわたしでさえ、克服に手こずる障害が沢山あります。それを乗り越えるには、皆さんがたが忠実であってくださること、信念を崩さないでいてくださること、そして何よりも、恐れることを知らない気魄(きはく)を持ち続けてくださることが不可欠なのです。心配・迷い・不安、こうした弱味が心に根を張るのを許してはなりません。

これからも難問が前途を過(よぎ)ることでしょう。が、皆さんもそれを過って進めばよろしい。いっしょに留まってはなりません。解決できないほど大きな難問、背負えないほど重い荷物というものはありません。弱気になってはいけません。明日がもたらすものを、断固たる意志と不敵な精神で迎えるのです。そうすれば万事うまく行きます。

皆さんの助力を必要とする人が無数にいます。皆さんはいつでも援助の手を差しのべられる用意ができていないといけません。それができてはじめて、自分の存在意義を発揮したことになるのです。どんな大言壮語をしても、人のためになることをしなかったら、自分が得たものを人に与えるということをしなかったら、せっかくあなたに託された霊的知識が教えてくれる生き方をしていないことになるのです。

やるべきことが沢山あります。どうか皆さんも、わたしたちとともに、自分の行為によって生きる愉(たの)しみを知ってくれる人が、ここにも、あそこにもいてくれるのだという喜びに満ちた期待をもって、仕事に邁進(まいしん)いたしましょう。

そして、例によってわたしの心は、大霊への祈りの気持ちに満たされます。

ああ、大霊よ、あなたの霊力はわたしたちを生かしめている力です。あなたの霊力はわたしたちの魂を高揚させる力です。わたしどもはその力をできうるかぎり豊かに地上へ顕現せしめ、それに気づかずにいる者に、その素晴らしさを認識させてあげたいのでございます。

大霊の祝福のあらんことを!」

別の日の交霊会でも、世界中の読者から寄せられた質問が取り上げられた。そのうちの一つは“他界後の行き先はわかったのですが、いったい霊はどこから来るのでしょうか”というものだった。するとシルバーバーチらしい返答が返ってきた。


「その方は本当に他界後の行き先がわかっていらっしゃるのでしょうか。どこへ行くのでしょう?」

この問いかけに、右の投書を読み上げたメンバーが「次の世界へ行くという意味だと思いますが……」と言うと――


「そういうふうに皆さんは“次の世界”などという実にあいまいな用語を用いられますが、生命の世界は一つなのです。それに無数の段階があるということです。皆さんは今も立派に霊界にいらっしゃるのですし、これからも永遠に霊界にいらっしゃるのです。バイブレーションの波長が異なるというだけのことです。同じ意味で、人間は今から立派に霊的存在であり、これからもずっと霊的存在です。“死”が霊にするのではありません――一ミリたりともあなたの霊性を高めてはくれません。

人間は生まれる前も、今も、そしてこれからもずっと霊です。現在はその肉体という機関を通して顕現している部分だけを意識していらっしゃるのです。いわゆる“死”のあとの進化にともなって、それまで顕現していなかった部分が次第に発揮されていきますが、“霊”としては、どこかへ行ってしまうわけではありません。どこから来たのでもありません。無窮の過去から存在し、今も存在し、これからも無窮に存在し続けます」

メンバーの一人「地上的表現形態をもつ前はどういう形で表現していたのでしょうか。この質問者が聞きたいのはそのことだろうと思うのです」


「霊としてはずっと存在しているのですが、その物質という形態に宿るまでは、個体としての存在はありません。霊が個別性をもつのは物的身体と連結した時です」

「それは、人間に飼われている動物の個別性が飼い主とのつながりによって促進されるのと同じと考えてよろしいでしょうか」


「結構です」


訳注――動物の霊は種族ごとの類魂としての意識しかなく、死後はその類魂と融合して個別性を失う。が、人間に可愛がられた動物は、その愛によって個別性が強められて、死後もしばらく、そのままの形態を維持している。飼い主の死後、霊界でいっしょに暮らしてますます個別性を強めるが、進化の速度が人間に劣るために、いつかは別れる時が来て、動物はその愛が薄れるにつれて個別性を失い、最後はやはり類魂の中へ融合していく。その分だけ類魂が進化を促進される。

コナン・ドイルの『妖精物語』の中で、ある体験者が、形体のはっきりしない精霊を目の前にして、素直でやさしい気持ちになるほど形体がくっきりと、そして生き生きとしてきた、という話がある。それが“愛の力”であり、育児や学校教育も、帰するところは“愛”の問題であることを、さきの人間と動物の進化の話とあわせて、教えているように思える。

別のメンバー「われわれがこの物的身体を失っても、やはり個性を持ち続けるのでしょうか」


「ますます個性が強くなります」

さらに別のメンバー「でも、次第にあなたのおっしゃる大霊の中へ融合していくのではないでしょうか。ますます神性を発揮するのですから……」


「それでもなお個性は残ります。あくまでもあなた自身の潜在的資質を発揮し続けるのです。その顕現の仕方は進化の程度によって決まります。進化するほど潜在的自我が表面へ出てまいります。それは、それだけ完成度が高められるということであり、完成度が高まるほど大霊に近づくということです。

もしもその完成度が限られたものであるとしたら、ある一定の時期がくればあなたも大霊に融合しきってしまうことになりますが、進化とは無限の過程なのです。進化すればするほど、まだその先に進化の余地があることを自覚することの連続です。こうしてあなたは、どこまで行っても、ますます個性を強めていくのです」

続いての投書は“他界した人たちには、私たちから送られる思いやりや祈りが通じているのでしょうか。愛の力を霊界での仕事に使用できるものでしょうか”というものだった。シルバーバーチが答える。


「それは、両者の間に真実の愛または情のつながりがあるかどうかによって違ってきますが、大体において、切なる思いや祈り、幸せを願う気持ちはその霊に通じ、力になります」

「もう一度やり直すチャンスはすべての人に与えられるのでしょうか」


「もちろんです。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事がお終いとなるとしたら、この世は実に不公平だらけで、生きてきた不満だらけの人生の埋め合わせもやり直しもできないことになります。

わたしたちが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は、人生が“死”をもって終了するのではないこと、したがって苦しい人生を送った人も失敗の人生を送った人も、あるいは屈辱の人生を送った人も、みんなもう一度やり直すことができるということ、言いかえれば、悔(くや)し涙を拭(ぬぐ)うチャンスが必ず与えられるということです。

人生は死後も続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で、人間は内在する能力、地上で発揮しえなかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時にまた、愚かにも摂理を無視し、他人の迷惑も考えずに横柄(おうへい)に生きてきた人間には、その悪業の償いをするチャンスが与えられます。

神の公正は完璧です。騙(だま)すことも、ごまかすこともできません。すべては神の眼下にあります。すべてをお見通しです。そうと知れば、まじめに生きてきた人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは、利己主義者だけです」

「スピリチュアリズムが現代の世界に貢献できることの中で最大のものは何でしょうか」


「最大の貢献は、大霊の子等にいろんな意味での自由をもたらすことです。これまで隷属させられてきた束縛から解放してくれます。知識の扉は誰にでも、分け隔てなく開かれていることを教えてあげることによって、無知の牢獄から解放してあげます。日陰でなく日向で生きることを可能にしてあげます。

スピリチュアリズムは、あらゆる迷信と宗教家の策謀から解放します。真理を求める闘いにおいて、勇猛果敢(ゆうもうかかん)であらしめます。内部に宿る神性を自覚せしめます。地上のいかなる人間にも、例外なく霊の絆が宿ることを認識せしめます。

憎み合いもなく、肌の色や民族の差別もない世界、自分をより多く人のために役立てた人だけが偉い人とされる世界を築くにはどうすればよいかを教えます。知識を豊かにします。精神を培(つちか)い、霊性を強固にし、生得の神性に恥じることのない生き方を教えます。こうした点がスピリチュアリズムにできる大きな貢献です。

人間は自由であるべく生まれてくるのです。自由の中で生きるべく意図されているのです。奴隷のごとく他の者によって縛られ、足枷をされて生きるべきものではありません。その人生に豊かさがないといけません。精神的に、身体的に、霊的に豊かでなければいけません。あらゆる知識――真理も、叡智も、霊的啓示も、すべてが広く開放されるべきです。生得の霊的遺産を差し押さえ、天命の全うを妨げる宗教的制約によって肩身の狭い思い、いらだち、悔しい思いをさせられることなく、霊の壮厳さの中で生きるべきです」

「スピリチュアリズムはこれまでどおり一種の影響力として伸び続けるべきでしょうか、それとも一つの信仰形体として正式に組織をもつべきでしょうか」


「わたしはスピリチュアリズムが信仰だとは思いません。知識です。その影響力の息吹は、止めようにも止められるものではありません。真理の普及は抑えられるものではありません。みずからの力で発展してまいります。外部の力で規制できるものではありません。あなたがたに寄与できるのは、それがより多くの人々に行きわたるように、その伝達手段となることです。

それがどれほどの影響をもたらすかは、前もって推し量ることはできません。そのためのルールをこしらえたり、細かく方針を立てたりすることはできない性質のものなのです。(※)

あなたがたにできるのは、一個の人間としての責任に忠実であるということ、それしかないのです。自分の理解力の光に照らして義務を遂行する――人のために役立つことをし、自分が手に入れたものを次の人に分け与える――かくして霊の芳香が自然に広がるようになるということです。一種の酵素のようなものです。じっくりと人間生活の全分野に浸透しながら熟成してまいります。みなさんは、ご自分で最善と思われることに精を出し、これでよいと思われる方法で真理を普及なさることです」


※――それを人間の浅知恵でやろうとすると、組織を整え、広報担当、営業担当といったものをこしらえ、一つの企業としての体制ができ上がる。その体制を維持するためには資金がいる。そこで、目標が宗教本来のものから逸脱して、いかにして収入増を図るかということに集中するようになり、かくして世俗的宗教――立派な“商売”となり下がっていく。それがいつの世にも変わらぬパターンであることを念頭においてシルバーバーチは警告している。

「支配霊になるのは霊媒自身よりも霊格の高い霊と決まっているのでしょうか」


「いえ、そうとはかぎりません。その霊媒の仕事の種類(大きく分ければ物理的心霊現象か精神的心霊現象か)によって違いますし、また、“支配霊”という用語をどういう意味で使っているかも問題です。

地上の霊媒を使用する仕事にたずさわる霊は“協力態勢”で臨みます。一人の霊媒には複数の霊から成る霊団が組織されており、その全体の指揮にあたる霊が一人います。これを“支配霊(コントロール)”と呼ぶのが適切でしょう。霊団全体を監督し、指示を与え、霊媒を通じてしゃべります。時おり他の霊がしゃべることもありますが、その場合も支配霊の指示と許可を得た上でのことです。しかし役割は一人ひとり違います。“指導霊(ガイド)”という呼び方をすることがあるのもそのためです。

霊言霊媒にかぎっていえば、支配霊はかならず霊媒より霊格が上です。が、物理現象の演出にたずさわるのは必ずしも霊格が高い霊とはかぎりません。中には、地上的要素(物質臭)が強く残っているからこそ、その種の仕事にたずさわれるという霊もいます。そういう霊ばかりで構成されている霊団もあり、その場合は必ずしも霊媒より上とはかぎりません。

しかし一般的に言えば、監督・支配している霊は霊媒より霊格が上です。そうでないと霊側に主導権が得られないからです」

「思念に実体があるというのは事実でしょうか」


「これはとても興味ぶかい問題です。思念にも影響力がある――このことには異論はないでしょう。思念は生命の創造作用の一つだからです。ですから、思念の世界においては実在なのです。が、それが使用される界層の環境条件によって、作用の仕方が制約を受けます。

いま地上人類は、五感を通して感識する条件下に住んでいます。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだ、テレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は、物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた、霊的存在ということです。その条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形態をとるまでは存在に気づかないからです。

思念は、思念の世界においては実在そのものです。が、地上においては、それを物質でくるまないと存在が感識されないのです。肉体による束縛をまったく受けないわたしの世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。わたしの世界では霊の表現または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。

勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは、思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても、代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは、邪道です。これも正しい視野で捉えないといけません」

「物的生活の動機づけとして使用するのは許されますね?」


「それは許されます。また事実、無意識のうちに使用しております。現在の限られた発達状態にあっては、その威力を意識的に活用することができないだけです」

「でも、その気になれば、霊側が人間の思念を利用して威力を出させることも可能でしょう?」


「できます。なぜなら、わたしたちは人間の精神と霊を通して働きかけているからです。ただ、わたしがぜひ申し上げておきたいのは、人間的問題を集団的思念行為で解決しようとしても、それは不可能だということです。思念がいかに威力があり役に立つものではあっても、本来の人間としての仕事の代用とはなり得ないのです。またまたわたしは歓迎されないお説教をしてしまいましたが、わたしが見るかぎり真実なのですから、仕方がありません」

「大戦前にあれだけ多くの人間が戦争にならないことを祈ったのに、阻止できませんでした。あれなどは、その良い例だと思います。ヨーロッパ全土、敵国のドイツでもそう祈ったのです」


「それは良い例だと思います。物質が認識の基本となっている物質界においては、思念の働きにもおのずと限界があります。それはやむを得ないことなのです。ですが他方、わたしは、思念の価値、ないしは地上生活における存在の意義を無視するつもりもありません」

「心霊研究をどう思われますか」


「その種の質問にお答えする時に困るのは、お使いになる用語の意味について、同意を得なければならないことです。“心霊研究”という用語には、スピリチュアリストが毛嫌いする意味も含まれています(※)。こうした交霊会や養成会も、本当の意味での“研究”であると言えます。というのは、わたしたちはこうした会を通じて、霊力がよりいっそう地上へもたらされるための通路を吟味・調査しているからです。

皆さんはわたしたちから学び、わたしたちは皆さんから学びます。動機が純粋な探求心に発し、得られたものを人類の福祉のために使用するのであれば、わたしは、研究は何であっても結構であると思います。が、霊媒を通して演出される現象を頭から猜疑心でもって観察し、にっちもさっちも行かなくなっている研究は感心しません。動機が真剣であれば、それは純粋に“研究”であるといえますが、真剣でなければ“研究”とはいえません。純心な研究は大いに結構です」


※―― 一八四八年のハイズビル事件以後、欧米各国にSociety for Psychical Research(略してS・P・R)という心霊研究のための学術機関が設立されたが、その基本的姿勢があくまでも従来の物質科学の常識を尺度としているために、結果的にただの資料集めの仕事しかしていない。“にっちもさっちもいかなくなっている研究”とはそのことを言っている。フレデリック・マイヤースやウィリアム・クルックス、オリバー・ロッジといった世界的な学者も一時は会長のイスに座っているが、そうした煮え切らない態度に嫌気がさして、すぐに辞任している。

「英国国教会は、スピリチュアリズムには何ら世の中に貢献する新しいものが見当らないといって愚弄(ぐろう)しておりますが、この意見にどう反論なさいますか」


「わたしは少しも“愚弄されている”とは思いません。わたしたちがお届けしたものの中で“新しいもの”が一つあります。それは、人類史上はじめて、宗教というものを証明可能な基盤の上に置いたことです。つまり信仰と希望と思索の領域から引き出して、“ごらんなさい、このようにちゃんとした証拠があるのですよ”と言えるようになったことです。

しかし、“新しいもの”がないとおっしゃいますが、ではイエスは何か新しいものを説いたのでしょうか。大切なのは新しさとか物珍しさではありません。真実であるか否かです」

「大霊(神)を、全能でしかも慈悲ある存在、と形容するのは正しいでしょうか」


「なんら差し支えありません。大霊は全能です。なぜなら、その力は宇宙およびそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。大霊より高いもの、大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。宇宙は、誤ることのない叡智と慈悲深い目的をもった法則によって統括されています。その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化していることは、間違いない事実です。

このことは、慈悲の要素が摂理の中に配剤されていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力をもってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。

いかに霊格の高い霊といえども、一つの原因が数学的正確さをもって結果を生んでいく過程を阻止することはできません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、この用語では、その背後に知的で目的意識をもつダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。

わたしがお伝えしようとしている概念は、全能にして慈悲にあふれ、完全にして無限なる存在でありながら、地上の人間がとかく想像しがちな“人間神”的な要素のない神です。しかし神は無限なる大霊である以上、顕現の仕方も無限です。あなたがたお一人お一人がミニチュアの神なのです。お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。その火花を宿しているからこそ存在できているのです。ただし、それが地上的人間性という形で顕現している現段階にあっては、皆さんは不完全な状態にあるということです。

神の火花は完全です。それがあなたがたの肉体を通して顕現している側面は、きわめて不完全です。死後はエーテル体、幽体、ないしは霊的身体――どうお呼びになっても結構です。要するに死後に使用する身体と理解すればよろしい――で自我を表現することになりますが、そのときは現在よりは不完全さが減ります。霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから、完全といい不完全といい、程度の問題です」

「バラも、つぼみのうちは完全とはいえませんが、満開となったときに完全となるのと同じですね?」


「まったくその通りとも言いかねるのです。厄介なことに、人間の場合は、完全への道が限りなく続くのです。完全の域へ到達することができないのです。知識にも、叡智にも、理解力にも、真理にも、究極というものがないのです。精神と霊とが成長するにつれて能力が増します。今の段階では成就できないものも、そのうち成就できるようになります。はしご段を上がっていき、昨日は手が届かなかった段に上がってみると、その上にもう一つ上の段が見えます。それが無限に続くのです。これで完全という段階がこないのです。もしそういうことがあるとしたら、進化ということが無意味となります」

これは当然のことながら論議を呼び、いくつかの質問が出たが、それにひと通り応答したあと、シルバーバーチはこう述べた。


「あなたがたは限りある言語を超えたことを理解しようとなさっているのであり、それはこれからも続けていくべきことですが、たとえ口では表現できなくても、心のどこかでチラリと捉え、理解できるものがあるはずです。たとえば言葉では尽くせない美しい光景、画家にも描けないほど美しい場面をチラッとでもご覧になったことがおありのはずですが、それは口では言えなくても心で感じ取り、しみじみと味わうことはできます。それと同じです。あなたがたは今、言葉では表現できないものを表現しようとなさっているのです」

「大ざっぱな言い方ですが、大霊は宇宙の霊的意識の集合体であると言ってよいかと思うのですが……」


「結構です。ただその意識にも、次元の異なる側面が無限にあるということを忘れないでください。いかなる生命現象も、活動も、大霊の管轄外で起きることはありません。摂理ないし自然法則は、自動的に宇宙間のすべての存在を包括するものだからです。たった一つの動き、たった一つの波動――動物の世界であろうと鳥類の世界であろうと、植物の世界であろうと昆虫の世界であろうと、根菜の世界であろうと花の世界であろうと、海の世界であろうと人間の世界であろうと、あるいは霊の世界であろうと――その法則によって規制を受けないものは何一つ存在しないのです。宇宙は漫然と存在しているのではありません。莫大なスケールをもった、一個の調和体なのです。

それを解くカギさえ手にすれば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は大霊の意志が顕現したものだということです。法則が大霊であり、大霊は法則であるということです。

その大霊は、人間を大きくしたようなものでないという意味では非人格的存在ですが、その法則が人間の霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では、人間的であると言えます。要するに、あなたがたは、人類として、宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです」

「ということは、神の法則は完全な形で定着しているということでしょうか。それとも新しい法則がつくられつつあるのでしょうか」


「法則は無窮の過去から存在しています。完全である以上、その法則の枠外で起きるものは何一つありえないのです。すべての事態にそなえてあります。ありとあらゆる可能性を認知しているのです。もしも新たに法則をこしらえる必要が生じるようなことがあれば、神は完全でなくなります。予測しなかった事態が生じたことを意味するからです」

「こう考えてよろしいでしょうか――神の法則は完全性の青写真(ブループリント)のようなもので、われわれはそのブループリントにゆっくりと合わせる努力をしつつあるところである、と」


「なかなかいい譬(たと)えです。皆さんは地上という進化の途上にある世界における進化しつつある存在です。その地球は、途方もなく大きな宇宙のほんの小さな一部にすぎませんが、その世界に生じるあらゆる事態にそなえた法則によって支配されております。

その法則の枠外に出ることはできないのです。あなたの生命、あなたの存在、あなたの活動のすべてが、その法則によって規制されているのです。あなたの思念、あなたの言葉、あなたの行為、つまり、あなたの生活全体をいかにしてその法則に調和させるかを、あなたみずから工夫しなければならないのです。

それさえできれば、病気も貧乏も、そのほか、無知の暗闇から生まれる不調和の状態がすべて無くなります。自由意志の問題について問われると、必ずわたしが、自由といっても無制限の自由ではなく、自然法則によって規制された範囲での自由です、と申し上げざるをえないのは、そのためです」

祈り

暗闇から光明へ……


ああ、大霊よ。わたしたちは、あなたの無限の叡智、無限の知識、無限の愛を、ささやかな形ででも啓示できればと心を砕いているところでございます。

過去幾世紀にもわたって、開けた洞察力に富む者たちは、目に見えざる、より大きな、より充実せる、より深き生命の界層を垣間見て、それをその時代の言語と慣習と特色の中で表現してまいりました。

いつの時代にもあなたの永遠の真理の証言者、霊力の存在に気づいた者がいたのでございます。ほかならぬその霊力によって鼓舞され、細やかにして微妙・霊妙なる霊波の存在を悟ったのでした。しかし、地上的条件の必然の結果として、そのいずれもが人間の浅知恵によって着色され、夾雑物の下敷きとなってしまいました。

そこでまたしても、あなたの僕たるわたしどもは、あなたのメッセンジャーとして、同じ永遠の真理を、こんどこそ汚れのない形で啓示せんとしております。一時期だけの特別の計らいとしてではありません。歴史的事件としてではありません。奇跡的現象としてではありません。あなたの自然の摂理の一環として啓示せんとしているのでございます。

物質界の彼方に広大なる霊の世界が存在する事実を知らせたいのでございます。その世界では、同じくあなたの子等が、向上と進化を重ねた末にいよいよ叡智の始原に近づき、それまでに獲得したものを、受け入れる用意のできた者に分け与えたいと望んでいるのでございます。

かくして地上には今、そうした霊界からの働きかけに反応する者、霊的な光明と知識と慰安と力と導きを広めるための道具たらんとする者が増えつつあり、今後ともますます増え続けることでしょう。わたしたちはぜひともこの任務を遠く広く遂行し、恵まれぬ人々へ手を差しのべるための手段となってくれる者を、一人でも多く霊力の影響下に引き寄せたいと願っております。

わたしたちの目には、心を苦痛と不安で満たされ、悲しみの涙で目を曇らされ、苦悩を背負い、孤独を味わい、暗くうっとうしい地上世界には希望も慰めもないと思い込んでいる人々の姿が見えます。

わたしたちがメッセージを届けるのはそういう人たちです。そういう人たちこそ、その魂に感動を与えてあげ、あなたの無限の摂理と愛と力への確信をもたせてあげ、自分が決して忘れ去られていないこと、あなたの王国ではすべての子等に豊かな配慮がなされていることを確信させてあげたいのでございます。

わたしは今その仕事に献身し、地上にあって、同胞を苦しみから救い、不安を和らげ、喪の悲しみの中にある人を慰め、暗闇から光明へと導かんとしている同志とともに、手を取り合ってまいるのでございます。