Sunday, April 6, 2025

シアトルの春  霊媒を励ます

Encourage mediums

 
Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor


 シルバーバーチの交霊会にはよく霊媒や心霊治療家が招待される。そしてシルバーバーチがその一人ひとりに称賛と激励の言葉を述べる。その中には霊媒現象の裏面に関わることなどが窺われて、同じ仕事に携わる人はもとより、一般の読者にも興味のある話題が豊富である。本章では三人の霊媒と心霊治療家の場合を紹介する。

(本章では前巻の Wisdom of Silver Birchでカットしておいたものを紹介する―訳者)



リリアン・ベイリー女史 Lilian Bailey

シルバーバーチ「あなたは人類の救済のために背後からあなたを使用している素晴らしい霊団が存在している事実を喜ぶべきです。あなたのお蔭でどれほどのことが成し遂げられているか、あなたご自身は(入神しているので)ご存知でありません。

意識が消えて、やがて意識が戻る───あなたにはただそれだけのことのように思えるでしょうけど、実際はその間に誰かの魂が目を覚まし、誰かの心の荷が軽減され、悲しみに暮れる人が慰めを受け、挫折した心が癒され、混乱した精神が安らぎを見出しております。 あなたに感謝の気持ちを抱いている人が長い列をなすほどいらっしゃいます。

私たち霊団としても、神から授かった才能を自分のことを忘れてひたすら人類のために捧げんとする霊媒の存在をどれほど誇りに思っているかを、何とかして言い表わしたいとじれったく思っているところです。 あなたは神の豊かな恩寵を受けられた方です。本当に豊かな恵みを受けておられます。

地上で大物とか大家と言いはやされている人たちより、あなたの方がはるかに立派な仕事をしておられます。残念ながら今のところ一握りの人によってしか活用されていない霊力をあなたは存分に活用しておられます。

それはどしどし活用されるべきものです。 迷信という名の闇を地上から一掃するために、その霊力をできるだけ多くの人間の魂の中で胎動させなければなりません。

それが私たち───あなたと私、そして他のすべての神の道具───が偏見と無知という名の霧とモヤを一掃し、真理という名の光が世界中に射し込むようにするために全身全霊を打ち込んでいる大事な仕事なのです。偉大な仕事です。あなたもその光栄ある仕事の一翼を担っておられるのです。

 私たち神の道具はひたすら前進あるのみです。その道程においてはしばしば落胆させられます。些細ないざこざにうんざりさせられることもしばしばです。歓迎されてよいはずの場でしばしば反撃に会います。

そこで、あなたより少しばかり先の見透しの利く私から申し上げましょう。どうか、そうした邪魔は相手になさらず、かつてあなたに閃いたビジョン(先見の明・理想像・悟り)にすがっていただきたい。そして、あなたの霊的能力を最善に、純粋に、そして最高に活用することのみに専念していただきたい。

それ以外のことは構わないことです。そうしておればきっと愛の恵みが届けられ、ご自分が使用されている能力は神がその発現の通路を求めて間断なく行使しておられる霊力に他ならないことを認識されることでしょう」

 ここでベイリー女史が感謝の言葉を述べかけると、シルバーバーチはそれを制して───

 「私は暗闇に呼ばわる声の一つにすぎません。私を地上へ派遣した高き神霊の仕事を推進せんとしているだけです。私もこれまでに易しい真理を少しばかり学んできて、それを形を変え、言いまわしを変えながら説いておりますが、同じ単純・素朴な真理であることに変わりはありません。 それを地上の方々が受け入れてくだされば、すべての難問が解決されるのですが・・・・・・」と述べてから「このサークルに参加されてどんな感想をお持ちですか」と尋ねた。



ベイリー女史 「素晴らしいと思います。全体にみなぎる力がとても感じが良いです。もっとも、私には少し強すぎるようです。私の意識から離れて作用しているみたいです。この意味お分かりいただければ有難いですが・・・」

 このサークルでも直接談話をはじめ数々の現象が行われており、それぞれに霊媒が揃っている。ベイリー女史は霊視力もあり霊感も鋭いので、その〝舞台裏〟が見えたのである。女史は続けて「このボリューウムあふれるエネルギー、迫りくるパワーは物質化現象に使われるものですね?」と述べた。

シルバーバーチ 「そうです。このサークルにいつも潜在しているものです。今日はそれがあなたの存在によって刺激されております」


ベイリー女史 「何人かのスピリットがそのエネルギーを部屋の中央へ運んで一つの固まりをこしらえているようです。珍しい光景ですね。次の機会にはもっとしっかりと確かめたいものです。どうやら声が出されるみたいです」

シルバーバーチ 「声の準備ですよ。いつも行われているものです。以前はそれを使って発声器官をこしらえていたのですが、戦争の影響で大気が混乱しているためにそれができなくなり、今のところ私の入神談話だけで間に合わせているのです」

ベイリー女史 「私が見たところでは大きな柱のようですね。白い柱です。コチコチに固いものではありません。そこから何本かの紐状のものが伸びてメンバーの一人ひとりとつながろうとしています。各メンバーから何かを摂取しようとしてるみたいです」

 そう述べてからその〝触手〟 を霊界の技師たちが操っている様子を細かく説明した。


シルバーバーチ 「地上の方々はこうした霊界の働きの現実を理解してくださらないのです。いつでも使用できる態勢になってるのです。あなたはその眼でご覧になったのですから、ぜひその事実を伝えて下さらないといけません」


ベイリー女史 「ときどき人間の探求は表面的すぎるという印象を抱くことがあります。ですからその背後に働く単純な現実を理解させるのが難しいのです」

シルバーバーチ 「おっしゃる通りです。しかし私たちの世界には、かつて地上で一見とても勝算はないと思えた逆境の中で、長いこと忠誠心に燃えて戦った古強者が沢山おります。彼らはその仕事が引き継がれ少しずつ成果が実っていくのを見守っております。

 私があなた方にひたすら前進なさいと申し上げるのはそのためです。あなた方はそれだけで(他のことは何も心配しないで)よろしい。霊的知識だけを広めることだけを考えておればよろしい。

理解力を広めるのです。思いやりの心を広めるのです。無知をなくすのです。光明へ向けて進むべき者を引き止めんとする勢力を打ち砕くのです。私たちが掲げる光明は決してささやかなものではありません。

なぜなら、いったん霊の力がいかに働きかけているかを知ったら、いったん死の扉を開くカギを手にしたら、いったん死の向こうに広がる生命躍如たる世界をご覧になったら、その時こそその人は霊的実在を理解し、神の永遠の計画の中における自分の位置を悟ることになるからです。

あなたはひたすらご自分の信じる道を突き進まれることです。後は私が力の限り鼓舞し援助します」


 W・H・リリー氏  W.H. Lilley
 A・リチャーズ氏  Arthur Richards

心霊治療家のリリー氏が同僚のリチャーズ氏を伴って出席したことがある。まずリリー氏が、二人でロンドンに心霊クリニックを設立しようとしているが偏見と無理解から来るさまざまな難問に遭遇している事情を説明してから、面接に出た役人が 〝この連中は一体何者なのか〟といった目つきで二人をじろじろ見つめ回した話をした。

 すると シルバーバーチが───
 
 「この連中はいったい何者か───このセリフは遠い昔にも言われたものです。霊力が一握りの男たちを鼓舞し真理普及のために自分を捨てて邁進させたのは二千年足らず前のことでした。

不変の摂理を啓示し、地上のいかなる力よりも偉大な力───人を導き霊感を注ぐことの出来る力、訓え諭すことの出来る力、病を癒し、傷つき衰弱した身体を回復させる力が存在することを身を持って証明しました。

すると人々は言いました───いったいこの者たちは何者かと。別に耳新しいセリフではありません。これから何度も何度も聞かされることでしょう。

 あなたがこうした光栄ある仕事に携われることになったのは神から才能を授かっておられるからこそです。使用するために授かったのです。私どもの世界から援助せんとする者と全面的に協調する姿勢を持ち続けるかぎり、その才能を行使することを妨げる力は地上にはありません。

問題や障害が立ちはだかっているとおっしゃいましたが、それは克服すべきものとして与えられているのです。ただし、その中にはあなたご自身が自ら招かれた問題もあることを忘れてはなりません。あなた自身が蒔いたタネもあるということです。

と申しますのは、あなたは(操り人形のように)ただ黙って言うなりになる道具ではないからです。(自由意志が尊重されているから過ちも犯しているということー訳者)ですが、背後にはいかなる困難の中をも導きとおす力を具えた霊団、永年の霊界での研鑽によってその能力を立証している霊団が控えております。

これまでも数多くの困難を克服し、数多くの悩みごとを解消してきております。いつか、これまでのあなたの辿って来られた人生を振り返りじっくりと見つめられれば、そこに霊による導きがあったことを明確にお認めになるはずです。

 あなたは心霊治療家です。病を癒す仕事です。それを阻止する力は誰にもありません───あなたご自身が拒否なされば別ですが。ぜひとも使用しなければならない力を授かっておられます。地上の力ではありません。はるか高級界から送られてくる力です。

 それは病に苦しむ数知れぬ人々に恩恵をもたらし祝福を与えることになりましょう。あなたに決意さえあれば、地上にはそれを阻止できる権力はありません。

問題はあなたの心のどこにも心配の念を宿らせないことです。これまで導いてくれた霊団が自分を見放すはずはないという断固たる信念を持たねばなりません。まだまだ越えねばならない険しい道があるからです。

まだまだ献身を必要とする仕事の場がたくさんあるからです。怖じ気づいてはなりません。かつてあなたがもう絶対にダメだと思ったことが霊の力によって克服されてきたように、これから先もきっとその力は凱旋を続け、あとで振り返った時、今のあなたには難問に思えることが他愛ない杞憂にすぎなかったことを知って、にっこりなさることでしょう。

 為さねばならない仕事があるのです。治療の手を必要とする人が大勢いるのです。悩める魂が大勢いるのです。怖(こわ)ごわ生きている人が大勢いるのです。

身体の異状と病に苦しんでいる人が大勢いるのです。あなたはそうした人々を救うことの出来る霊力を授かっている数少ない人間の一人です。いかに祝福された方であり、いかに素晴らしい能力を授かっている方であるか、あなたご自身の想像も及ばないほどです」


 続いてリチャーズ氏が、この交霊会に出席できたことを光栄に思うという挨拶をしたあと次のように述べた。

リチャーズ氏 「私はこれまで、あなたが毎週毎週お説きになっている訓えを忠実に信じておられる患者さんを大ぜい治療しております。そして私自身もあなたのお説きになる思想を細かく読み、それを道しるべとしてまいりました。

私の理解したところを言わせていただけば、あなたは神についての誤った観念を打ち砕き、それに代わって理知的な概念を説き、それを〝無色の大霊〟the Great White Spirit と呼ばれたり〝法則〟と呼ばれたりしております。

私にとって、あなたを始めとする霊団の方々は人間より高等な知的存在であり、したがって個的人格を具えた存在ですが 〝大霊〟 は非人格的存在であるように思えます。この私の理解の仕方はさらに深い理解への中途の段階にすぎないのでしょうか」

シルバーバーチ 「永い間地上を毒し続けてきた無知が私の力によって幾らかでも取り除かれたことを嬉しく思います。しかし、無知を無くしていく仕事はゆっくりとした、時間の要る仕事であることを忘れてはなりません。眼の見えなかった人に視力が戻る時はゆっくりと光に慣れさせていかねばなりません。

真っ暗闇からいきなり真昼の太陽の中に出せば逆に眼をひどく痛めてしまいます。そこで、ある意味で、〝教える〟立場にあるこの私は、教える相手の意識の程度に合わせて、叡智を噛みくだいてあげなければなりません。それは段階を経ながら徐々に行うしかありません。

地上にはこれまで余りにも誤りが多すぎました。間違った神々を信じてきました。あまりに永いあいだ叡智を拒絶してきたために、そのすべての誤りを正すには弛まぬ忍耐を持って臨むしかないのです。

 人格を具えた神の概念は、いつの時代にも個人はもとより民族・人種・国家にもそれを導く霊がいるという信仰にさかのぼります。つまり知識というものが今日ほど広がることのなかった時代にあっては、霊界から時おり姿を見せる指導者を畏怖の心を持って崇めたものです。そしてそれがいつの間にか神の座に祭り上げられていったのです。それだけのことなのです。

地球の歴史において、人類の痕跡のあるところには必ずそうした信仰があるといってよろしい。そして遠くさかのぼればさかのぼるほど、その信仰には神話と寓話がごたまぜになっております。

 さて、神とは法則です。私が思想や観念を述べるにはどうしても地上の言語を使用せざるを得ませんが、実はその言語そのものが障害となり、制約となり、限界となっているのです。

と申しますのは、観念を言語に移しかえる時、言いかえれば大なるものを小なるものに合わせようとする時、必然的に脱落する要素が沢山あるのです。ですから、私が述べたいと思っている思想や考えの符号またはシンボルとして言葉を使用しなければならない───それも往々にしてきわめてぎこちないものです───という事実そのものが、それを聞かれてあなた方が脳裏に画かれるものが必ずしも私が本当に述べたいと思っていることと同じではないことを意味します。お判りでしょうか」

 すると司会者のハンネン・スワッハーが意見を述べた。

スワッハー 「こう解釈してよろしいでしょうか。あなたはアメリカ・イディアンを霊界の霊媒として使用しておられるので、たとえば神のことをインディアンの古い用語である Great White spirit を使用することになる───このほうが国教会で使用されている God よりも自然の摂理の表現として確かに適切です」

シルバーバーチ「それがまさしく私の言わんとしていたことです。どうやらここで詳しく解説しておく必要がありそうですね。このインディアンは私の道具です。ですが、道具とはいえ(さきほど述べたとおり)これを使用している間はその個性によって条件づけられ、したがって私は私の言いたいことを表現する上で役に立つ要素を精一杯活用することになります。

たとえば大自然を支配する法則を私はアメリカ・インディアンの用語である〝大霊〟を使用しますが、それは一つには今なお残っている〝神は人間である───えらく威張った人間である〟とする観念、しかもむろん女性ではなく、自分の言うことを聞く者だけを可愛がりそして特権を与え、気に入らぬ者には腹を立て憎むことすらする男性であるとする、いわゆる神人同形同性説との相違をはっきりさせるためです。

 が、もう一つの理由として、それをどう表現しようと、その用語を超えた観念として私が何とかして明らかにしたい完璧な摂理の働き───あなた方や私の願望にはおかまいなしに働く法則、全宇宙を支配する法則、四季のめぐり潮の満ち引きを調節する法則、地上の生命の生長と活動と運動とリズムを管理している法則の観念があるのです。

その法則は全存在の行為の一つたりとも、言葉の一つたりとも、思念の一つたりとも、観念の一つたりとも見逃すことはありません。表に出る出ないに関わりなく、生活現象の全てを管理しています。その法則こそ私が最高の崇敬を捧げているものです。

それを大霊と呼ぼうと神と呼ぼうと、その他いかなる名称で呼ぼうと、その背後にある意味を理解してくだされば、それはどうでもよいことです。それが全存在をあらしめている力です。

その力なくしては生命は存在しえないのです。いかなる形態を取ろうと、その力なしには存在しえないのです。生命に存在を与えている根源的エネルギーなのです。それを神と呼ぶのも結構でしょう。大霊と呼ぶのも結構でしょう。全知全能の知的存在と呼ぶのも結構でしょう。しかし、いずれも、所詮は言葉にすぎません。

 私がそれを法則として説くのは、人間の意志ではどうしようもない絶対的な理法というものがあることを指摘したいからです。それを正しく認識すれば、そのワク内でお互いが協調的に生きることができ、それに背いて不和と仲違いと利己主義と貪欲と腐敗と戦争を生むことにならなくて済むはずです。

その摂理を理解しさえすれば、人生の図式が分かるようになり、進むべき方向と道しるべと目的が見えるようになります。そして同時にそれに自分を合わせていく方法も分かるようになります。なぜなら、自分も一個の霊、全生命の親である神の一部として、永遠の営みに参加できることを悟るようになるからです」


リリー氏 「病気はすべて治せるのでしょうか」

シルバーバーチ 「病気はすべて治せます。さらに言えば、正しい生き方をしておれば病気にはなりません。病気とは根源からいえば不調和、不協和音、つまり神の摂理に適った生活をしていないことから生じています。が、人類にはさまざまなタイプがあることを考えれば、病気にもさまざまなタイプがあるわけであり、それがさらに細かく変化していきつつあります。

したがって治療に使う霊力もそれぞれのタイプに合わせていく必要があります。あらゆるタイプの病気に効くたった一つのバイブレーションというものはありません。治療が成功するか否かは、それぞれの病気に合ったバイブレーションの霊力を見出せるか否かに掛かっております。

 しかし治療の不成功を単純に霊界側の責任、担当した専門の霊の責任、あるいは治療家の責任と決めつけることは出来ません。数え切れないほどの要素が絡んでいるからです。(訳者注ー別のところで百人の霊視家が見てもすべての要素を見究めることはできないと述べている)。

そこで治療家であるあなたにとって一ばん大切なことはこう考えることです───自分を使用する霊力と完全にそして完璧に一体となるためにはいかなる生き方をすべきか、ということです。言うまでもなくあなたと背後霊団との間にはさまざまな相違点があります。

それを一つでも少なくすることが、治療霊団にとって、一人ひとりの患者に適切なバイブレーションをあなたを通して注ぐことを容易にすることになります。

こちらの世界には莫大な種類の治療エネルギーがあり、かつて地上で病気治療に当たった者や科学者たちが弛まぬ研究を重ねております。しかし無数の治療エネルギーのうちのどれをどれだけ活用できるかは、ひとえに治療家に掛かっているのです。そこにあなたの役割があります。すなわち魂の成長と精神の啓発と身体の管理です」

リチャーズ氏 「心霊治療についての偏見を無くす必要もあると思います」
  
シルバーバーチ 「おっしゃる通りです。だからこそ私たちが援護射撃をしているのではありませんか。数年前でしたらあなた自身も私の言うことなどには耳を貸さなかったでしょう。

それが今はこうして熱心にお聞きになるということは、私たちの働きよって偏見を一つ減らすことができたということです。強烈な体験によって魂が目を覚まし、奉仕的精神を鼓舞された人を一人ずつ私たちの霊力の活動範囲の中に導いていくのです。

あなた方はお一人お一人が私たちの働きかけによる成果の生き証人なのです。そのつど一つの偏見が取り除かれたということです。それだけ私たちの仕事がラクになったということです。

まだまだ取り除くべき偏見が山のように立ちはだかっているという事実に、私どもは別に途方に暮れることはありません。それが私たちの仕事なのです。すなわち神の子がその魂の奥に秘めた霊性を発揮することによって生命の喜びを味わい、当然受けるべき神の遺産を存分に我がものとするように導いてあげることです。

 お二人もその役割を担っておられるのです。ひたすらお仕事に邁進なさることです。数々の困難に遭遇することでしょう。しかし背後に控える霊団がいかなる試練にも荒波にも支えになってくれます。首をうなだれてはなりません。

堂々と背筋を伸ばし、決して自分を見棄てるようなことをしない援助の手によって支えられていること、そして心の奥に芽生えた信念への忠誠心を失わず真摯な気持ちで奉仕し、神に召された今の仕事に良心的に仕えておれば、決して挫折することはないことを確信してください。

あなた方が一心に努力しておれば強力なる霊団が参加し、援助し、偉大な勝利へと導いてくれます。これから為し遂げていく仕事を大いなる期待を持って楽しみにするくらいの気構えが必要です。そしてそのお陰で数知れぬ人々が喜んでくれることを知ってください。

 人のために自分を役立てるということは大いなる特権です。その機会を与えられたことをお二人は誇りに思うべきです。それと同時に、私たちの世界から協力する者にも使命が託されていること、重大な使命、神からの使命が託されていること、そしてあなた方の方から見放さないかぎり決してあなた方を見放すことはないことを信じることです。

これまでも大いなる成果が上がっております。これからもさらに多くの仕事が成就されていくことでしょう」



 パリッシュ夫妻  Mr. and Mrs. Parish

イーストシーン治療所を滅多に離れることのない心霊治療家のパリッシュ氏が夫人を伴って出席した。この交霊会の長老格である。早朝から一六時間もぶっ通しで治療した後なのに、出席者の中でも一番元気そうに見える。シルバーバーチがこう語りかけた。

 「私はあなたとお話できる時はいつも楽しくてなりません。光栄にも私は現在の治療所で微力ながら毎日のように背後よりお手伝いさせていただいておりますが、こうして二人で人間らしく語り合えば、ほかの方々はまた別の意味でよろこばれます。

お二人の献身的なお仕事によって霊の力が着々と広がり、多くの魂が感動して目を覚まし、暗黒の中にいる人々が光を見出していることを私たち霊界の者がどれほどうれしく思い、世界中の人々が(遠隔治療を)どれほど有難く思っているかを知っていただきたいと思います。

 今ではあなた方を通して真理と悟りの光を見出した人が世界のほとんどの国におられます。あなたのこれまでの人生、そして今なお続けておられる毎日の献身的活躍によって巨大な奉仕の金字塔が築かれております。

憶えておいででしょうが、何年か前に初めてお会いした時、私はあなたにこれから後のお仕事の発展ぶり、どういう具合に世界の隅々まで広がり、いかに多くの人々が祝福を受けに来ることになるかを申し上げました。

すべての人が治るとは限りません。それぞれに地上との縁の切れ時(寿命)というものがあります。が、たとえすべての人の病気を治してあげられなくても、わずかな光明、暗闇の中に一条の光を見出させてあげていることを知ってください。

前にも一度申し上げたことがありますが、病気を治してあげることは確かに大切ですが、もっと大切なことは魂を目覚めさせること───真の自分を見出し、自分を見出すことによって生命の大霊であるところの神とのつながりをより緊密にしてあげることです。

 私たち霊界側でも絶え間なく活躍しております。あなた方に協力している高級霊団、あなた方を地上への働きかけの道具としている霊団では常に新しい霊波の研究をしており、また、あなた方が徐々に体験しておられる精神統一における意識の深まりが、治療エネルギーをより多く地上へ注ぎ込む可能性を大きくしてくれております。

治療に入る前にあなた方が背後霊団との完全な連繋態勢と調和を得るために行っておられる心掛けと工夫もその一環となっております。

どういうことかと言えば、精神統一が深まりあなたという個的存在が消滅する直前においての治癒エネルギーとの融合が完全に近づけば近づくほど、そのエネルギーの威力がより多くあなたの身体を通して流れるからです。それは治療所における直接治療の場合でも、世界各地への遠隔治療の場合でも同じです。

(訳者注ー私の師である間部詮敦氏が予言について語ったところによると、精神統一を深めていくと次から次へといろんな情報が飛び込んでくる。が、それにすぐに飛びついてはいけない。どんどん統一が深まっていき、もうすこしで意識が消えるというギリギリのところまで行った時に閃いたものが一番信頼できるということだった。

ある時は地震を何時何分何秒まで正確に当てたことがある。シルバーバーチが別のところで、霊媒の霊格が向上するほど程度の高い叡智を授かるようになると述べているが、これは言いかえれば精神統一の深さの程度のことであり、波長が高くなるということであろう)

 そうは言うものの、時にはうんざりなさることもありましょう。無意味に思えることもあることでしょう。しかしそれも詮ずるところ厳然たる計画と目的を持った仕事の一環です。あなたはそのための道具です。ただ一人で悟りへ向けて、孤独な道、犠牲の道を徐々に手引きされております。

かつても申し上げたことをあるのを覚えておいででしょうが、その道は行くほどに見慣れた景色を一つひとつ後にしていかねばならない寂しい道です。しかしそれしか道がないのです。みずから魂を高揚しなければなりません。高き憧憬を抱き続けねばなりません。

魂の受容性を高めねばなりません。内的意識を拡大していかねばなりません。しかし、それが順調にいくだけ、それだけ多く霊界からの生命力が流れ込むことになるのです。

 あなたとともに大ぜいのスピリットが働いております。地上で医者だった者、病気治療の専門家だった者はもとよりのこと、こちらで永い永い年月にわたって研究を重ね、各種の治癒エネルギーを扱って人間の霊的身体への影響を調べているスピリットもいます。

 ご承知のとおり私たちの世界は決して終局の世界ではありません。すべてのことが分かる世界ではありません。すべてが成就されてしまって、もう何もすることがないという世界ではありません。

私達も実験・研究が必要なのです。が、治療家としてふさわしい身体を持ち、人のためにという願望一つに燃え、大方の人間が追い求めるチャチな物的ぜいたくには目をくれず、ただひたすら魂と精神と身体を完全にマスターするための修行の道に勤む人間がいないことには、私たちとの協力関係も完璧は期しがたいのです。

その修養は一種の霊的浄化の過程です。純金が姿を現わすためには不純物を取り除かねばなりません。あなたも人間である以上、多少の不純物はかならずあります。しかし、あなた方はいま正道を歩んでおられます。そして、それは偉大なことと言うべきです」

 パリッシュ夫人も治療能力を持っておられ、シルバーバーチがその養成についての助言を与えた。夫人も霊の道具として活躍できることのよろこびを語った。

夫妻は霊媒として大望を抱く者にとって一つの模範である。といって、二人の治療がすべて奇跡的な効果を上げているわけではない。シルバーバーチも言っているように〝困難があり、失敗があり、そして心を大いに痛めることもある〟が、それでもお二人は尚も前向きの姿勢を失わない。

 二時間に及んだその日の交霊会の最後に、シルバーバーチはサークル全員にこう励ました。

 「決して弱気になってはいけません。堂々と胸を張り、宇宙の全生命を創造した力、夜空にきらめく星空を支えている力、花に香を添え、太陽を昇らせそして沈ませる力、虹にあの美しい色彩を施し小鳥にあの可憐なさえずりを与えた力、全生命に存在価値を与え、人間に神性を賦与した力、その力がいつもあなた方を支え、守り、そして導いていることを忘れてはなりません」

シアトルの春  聞き慣れない教え

An unfamiliar teaching



聞き慣れない教え

 父母を憎む
一、 イエスの後を大勢の民衆がついてきたので、イエスは振り返って彼らに言われた、「父や母、妻や子、兄弟、姉妹、さらに自分の人生さえも憎むことが無ければ、私の使徒になることはできません。

そして十字架を担ぐのがいやな者は、私についてきても私の使徒にはなれません。このようにあなたたちのうちで持つもののすべてを放棄することができない者は、私の使徒にはなれません」。(ルカ 第十四章 25-27,33)


二、私のことよりも父母を愛する者は、私にとってふさわしい者ではありません。私のことよりも子を愛する者は、私にとってふさわしい者ではありません。 (マタイ 第十章 37)


三、非常にまれですが、キリストのものとされるいくつかの言葉に関して、それがキリストの習慣的な話し方とあまりに異なっているため、私たちは本能的に拒んでしまい、イエスの教義の崇高さを崩さずに、それを文字通りに解釈するのが難しい場合があります。

どの福音書もイエスが生きている間に書かれたものではなく、イエスの死後に記述されたものであるために、このような場合には、イエスの根底にあった考えがうまく表現されなかったか、あるいは、起こり得ることとして、もとの考えがある言葉から別の言語へと伝えられていく中で、なんらかの変更がなされたのではなかったのかと考えられます。

歴史上の出来事においてよくあるように、一度間違えると、それを複写する者には何度も繰り返されてしまうことになります。

「父や母、妻や子、兄弟、姉妹、さらに自分の人生さえも憎むことが無ければ、私の使徒になることはできません」という聖ルカの一節の中の「憎む」という言葉は、こうした可能性の一つとして理解できます。誰もそれをイエスの言葉とすることに同意しないでしょう。

つまり、そのことについて議論したり、ましてや、それを正当化しようとすることは余計なことなのです。第一に重要なのは、イエスがその言葉を発言したのかということで、もしそうであるならば、表現に使われた言語において、問題の言葉が私たちの言語と同じ意味を持っていたのかということです。

「この世においてその人生を憎む者は、永遠の命を保つことになる」という聖ヨハネの一節において、この「憎む」という言葉が私たちの与える意味を表現しているのではないということは疑いようがありません。

 ヘブライ語の語彙は豊富ではなく、その中には多数の意味を持った単語がありました。その例として、創世記の中に創造の段階を記述したものがあります。それは同時にある一定の期間と一日の変化について表現しています。そのことから、後になって「日」と言う言葉の翻訳によって地球は六×二十四時間で造られたという信仰が生まれたのです。

綱がラクダの毛で造られていたことから、「ラクダ」という言葉がラクダと綱の意味を持っていることも同様な例です。それで、針の穴のたとえ話において、綱のことが「ラクダ」という単語で翻訳されたのです(→第十六章 2)。(→備考1)


 その他の場合には、その民族の言語の特別な意味に影響を与える習慣や性格に注意しなければなりません。こうした知識なくしては、言葉の本当の意味がしばしば失われてしまいます。ある言語と別の言語との比較においては、同じ言葉がより大きな力を持っていたり、より小さな力を持っていたりします。

一つの単語がその暗示する意味によって、ある言語においては非道や冒涜を意味し、他の言語においては大した意味を持たないということもあります。同じ言語においても、何世紀も経過する間に幾つかの言葉はその価値を失っていきます。

そのため、厳格な文字通りの直訳が、いつも完全にある考えを表現するとは限らず、その意味の正確さを保つには、時によって、その言葉に直接対応する言葉ではなく、別の同じ価値を持った言葉や、また同意の節を用いなければなりません。

 こうした注意は聖典、特に福音の解釈においてあてはまります。もし、イエスがどのような環境に生きていたのかを考慮に入れなければ、私たちには他人のことを自分のことにあてはめてしまう習慣があるために、いくつかの表現やいくつかの事実は、誤解にさらされることになってしまいます。

いずれにしても、イエスの教えの精神とは相容れないため、「憎む」という言葉の現代的な意味を捨てる必要があります。(→第十四章 5とそれに続く項)


●備考1
 ラテン語の Non odit、ギリシア語の Kai もしくは misei は、「憎む」という意味ではなく、「より少なく愛する」という意味です。中でもギリシア語の misein という動詩は、イエスが用いたヘブライ語の動詞の意味をよりよく表現しています。

この動詞は「憎む」という意味ばかりではなく、「より少なく愛す」、もしくは「人々を同じように愛さない」という意味を持っています。イエスがよく用いたシリア語の方言においては、その意味をよりよく表しています。こうした意味によって「創世記」(第二十九、三十、三十一章)には、

「そしてヤコブはリアよりもラケルを愛したが、エホバはリアが憎まれているのを見ると……」と書かれていますが、ここでの真の意味は「より少なく愛されている」であることは明白です。

このように翻訳されなければなりません。その他の多くのヘブライ語のくだりにおいて、特にシリア語のくだりには、一方を他方と同じように愛さないという意味で用いられており、はっきりと定まった別の意味を持つ「憎む」と言う言葉で訳すと、理解しがたいものとなってしまいます。

マタイの文章はそうした理解の難しさを遠ざけてくれています。(Pezzani氏による注釈)  
    
   
 父母と子を捨てる
四、私の名において、家、兄弟、姉妹、父母、妻、子、畑を捨てた者は、それらすべての幾倍のものを得ることになり、永遠の命を受け継ぐことになるでしょう。(マタイ第十九章 29)   


五、ペテロはイエスに言った、「私たちについては、すべてを捨て、あなたに従っていることがお分りでしょう」。するとイエスは言われた、「誠に言いますが、誰でも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、来るべき世では永遠の生命を受けるのである」。(ルカ 第十八章 28-30)


六、別の者がイエスに言った、「私は主に従ってまいります。しかし、その前に家の者に別れを言いに行くことをお許しください」。イエスは答えられた、「鍬に手をかけながらも後ろを振り向く者は、神の国にふさわしくありません」。(ルカ 第九章 61,62)

言葉についての議論をすることなしに、ここではそれらが明らかに次の考え方であったのだということを、私たちは見出さなければなりません。

「未来の人生に対する関心は人類のあらゆる関心や心配事に勝っている」。なぜなら、この考え方はイエスの教義の根本に即しているからで、家族を放棄することはその教義の否定となってしまうからです。

とは言え、母国への愛のために家族への愛情や関心を犠牲にする時、私たちはこの金言をあてはめているのではないでしょうか。母国の防衛のために行進し、父母や兄弟、妻を捨てる者に対して非難するでしょうか。

逆にある義務を遂行するために、家庭の快適さや友情の絆から自分を断ち切ることは、その功績を讃えられることではないでしょうか。つまり、ある義務に勝る他の義務が存在するのです。

娘はその夫に伴うために、この法をあてはめ、父母を捨てる義務を果たすのではありませんか。世界にはより痛ましい別離が必要な場合が多く存在しています。

しかし、だからと言ってその愛情が断ち切れるわけではありません。遠ざかることは、敬意や、子の父母に対する気遣いや、父母の子に対する優しさまでをも減少させるものではありません。

ゆえに、その言葉を文字通りに理解し、「憎む」ということを行ったとしても、人間にその父母を敬うことや父母の子に対する愛情を説く教えの否定にはならないのです。この言葉を用いたことには極端な表現を通じて、人間が未来の人生に対して心配する義務が如何に大きいかということを示す目的がありました。

ただし、習慣によって家族の絆がより弱かった時代の一民族に対して、その言葉は、道徳的により進んだ文明の中にある者に対してよりも衝撃は少なかったと考えられます。こうした原始的な民族における絆は、感受性や道徳性の発達に伴って強化されます。

別離そのものは進歩に必要です。家族や民族は融合したり、統合されなければ没落していきます。それは自然の法則であり、道徳的な進歩に関する事柄にも、物質的な進歩に関する事柄についても当てはまります。

 ここでは物事が地上からの観点によってのみ考慮されています。スピリティズムは私たちにそれをより高いところから見せてくれ、真の愛情の絆というものが、肉体によって結ばれたものではなく、霊によって結ばれたものであるということを示してくれます。

つまり、そうした絆が別離や肉体の死による死別によって断ち切れることはなく、霊の浄化によって霊界において強化されるということを示してくれ、そのことは真の慰安となり、人類はそこから大きな力を得ることができ、それによって人生の苦しみに耐えていくことができるようになるのです。


 死者を葬ることは死者に任せる
七、別の者に言われた、「私について来なさい」。するとその者が答えた、「主よ、先に私の父を葬りに行かせてください」。イエスは答えて言われた、「死者を葬ることは死者に任せておきなさい。あなたは神の国を伝えに行きなさい」。(ルカ 第九章 59,60)


八、「死者を葬ることは死者に任せておきなさい」という言葉は何を意味しているのでしょうか。

前述のことを考慮に入れれば、まず第一に、この言葉が発せられた状況において、これらの言葉が、自分の父親を葬ろうとすることを子の慈悲であると考える者に対する非難を意味していた筈はないということはわかります。

そうではなく、より深い意味があるのですが、それは霊の生活に関する、より完全な知識によってのみ理解可能となります。霊的生活とは実際の真なる生活であり、霊の普通の生活であり、地上における存在とは一時的な一過性のもので、霊の生活における活動やその輝きに比較すれば、それはある種の死のようなものです。

肉体は一時的に霊を覆う粗い衣服のようなものに過ぎず、まさに地球上につなぎとめる足かせのようなもので、そこから解放された時には幸せに感じるのです。

死者たちに捧げる私たちの敬意は物質によって促されるのではありません。それは不在の霊に関わる思い出によって促されるものなのです。

肉体は、その人が所有していたり触れたりしていた物であり、その者に愛情を抱く者が遺物として保管する物と同じなのです。父親を葬ろうとした者が理解できなかったことはこのことだったのです。イエスは次のように言って教えたのです。

「遺体のことは心配せず、まず霊のことを考えなさい。神の国を教えに行きなさい。人類の母国とは地上ではなく天にあるもので、そしてそこにのみ真なる命が続いているのだということを、人々に教えに行きなさい」。


 平和ではなく分裂をもたらしに来た
九、私が地上に平和をもたらしに来たと考えてはなりません。平和をもたらしに来たのではなく、剣を持って来たのです。ゆえに父からその息子を絶ち、母からその娘を絶ち、姑から嫁を絶ちに来たのです。人々は自分の家に敵を持つことになります。(マタイ 第十章 34-36)


十、私は地上に火を放ちに来ました。すでに火が燃えていたならと、どんなに望むことでしょう。私には受けなければならないパブテスマがあり、それを成し遂げる時をなんと待ち遠しく感じることでしょうか。

 私が地上に平和をもたらしに来たと思うのですか。いいえ、誠に言います。私はむしろ、分裂をもたらしに来たのです。ゆえに今後は、家に五人の人がいれば分裂し、三人対二人、二人対三人とお互いに対立することでしょう。父は息子に、息子は父に、母親は娘に、娘は母親に、姑は嫁に、嫁は姑に、それぞれ対立し合うことでしょう。(ルカ 第十二章 49-53)


十一、優しさの具現化、隣人に対する愛を教えて止むことがなかったイエスが「平和をもたらしに来たのではなく、分裂をもたらしに来た。父親から息子を絶ち、夫から妻を絶ちに来た。地上に火をもたらし、それが早く燃え上がることを望む」と本当に言った可能性があるのでしょうか。

これらの言葉は、その教えに明らかに矛盾していないでしょうか。イエスに血なまぐさい征服者や破壊者の言葉を帰することは冒涜ではないでしょうか。いいえ、冒涜でも矛盾でもありません。

なぜなら、その言葉を発したのはまさにイエス本人であり、そこに高い英知の存在が証明されています。ただ、多少曖昧で、表現の仕方がそこにある考え方を正確に顕していないため、これらの言葉の持つ本当の意味に対して誤解を招いているのです。

文字通りに解釈してしまうと、すべてが平和をもたらすためにあるイエスの使命を、動揺と不和をもたらすものに変えてしまうことになりますが、それはばかげた結論であり、イエスの言うことに矛盾が生じるはずはないため、良識はこの結論を拒むのです。(→第十四章 6)

 
十二、どんな新しい考えも、いやおうなく反対者に出会い、戦うことなくして根付くことはありません。そうした時、その抵抗の強さは常に、予期される結果の重要性に相応しています。なぜなら、重要であればあるほど、それによって損害を受ける者の数は多いからです。

もしある新しい考えが明らかに誤っているものであれば、それが重大な結果をもたらすことはなく、誰もそれに注意を払いません。その考えに活力が欠けていることを確信するため、人々はその考えをそのまま放っておきます。

しかし、もしそれが本物で、確固たる基礎にもとづき、その未来が予見できるものであれば、自分たちが維持に努めている事柄の秩序や、自分たちの存在に危機を与えるのではないかという反対者の内なる予感が、反対者たちに注意を喚起することになります。すると、その考えやその考えに従う者に対抗し始めるのです。

 このことから、ある新しい考えがもたらす結果やその重要性の度合いは、その考えが登場したことによって生まれた感情、抵抗者たちが引き起こす暴力、反対者たちの憤りの度合いや続き具合によって量ることができます。



十三、イエスは、その当時の聖職者、書記官、ファリサイ人たちの収入源となっていた宗教の濫用を土台から一掃する教義をもたらしに来ました。彼らはそのためにイエスを生贄とし、イエスを殺し、その思想をも消そうとしたのです。しかし、その教義は真実であったため生き続けました。

その教義は、神の意志に応えたものであったために広がり、ユダヤの世に知られぬ小さな村落で生まれながらも、その旗じるしを多神教の世界の中心地にまで掲げ、確信よりもむしろ当時の関心によって人々が大いに執着していた何世紀にもわたる信仰を覆したために、この教義を打ち消そうと競った最も残忍な敵対者たちに直面したのです。

そこでは最も恐ろしい戦いが信徒たちを待ち受けていました。その犠牲者の数は計り知れません。しかし、その思想は常に広がり、勝利を得ました。なぜなら、それが真実であるがためにそれまでにあった考えを征服していったからです。
        
    
十四、キリスト教が現れた時、異教は衰えはじめ、理性の光と戦っていたことに注意を払うことが必要です。異教は依然として形式的には実践されていました。しかし、その信仰はすでに消えていました。個人的な利害のみが異教を支えていたのです。

利害によって動く者は頑固で、証拠を前にしても譲歩することはありません。彼らに対立する議論がその誤りを決定的に明らかにすればするほど彼らは苛立ちます。そして誤っていることを知りながら、そのことは彼らの考えを揺るがすことはありません。

すなわち、彼らの魂には真なる信心は存在しないのです。彼らの恐れるものは、盲目者に視力を与える光なのです。誤った考えは、彼らにとって使い道がありました。だからそれに固執し、それを守ったのです。

 ソクラテスの教義は、ある範囲まで、キリストの教義と同様でありませんでしたか。では、なぜソクラテスの時代に、彼の教義は地球上の最も知性的な人々の間で優勢にならなかったのでしょうか。

それはまだ期が熟していなかったからです。ソクラテスは耕されていない土地に種を蒔いたのでした。

当時、異教はまだすたれてはいませんでした。キリストはふさわしい時代にその使命を受けました。もっとも、その時代のすべての人がキリストの考えを受け入れる水準にいたるには、多くのものが欠けていたことは明らかです。

しかし、キリストの時代の人々の間には、キリストの考えに同化する素質が一般的にあり、彼らは世俗的な信仰が魂にもたらす空虚をすでに感じ始めていたのです。

ソクラテスとプラトンは道を切り開き、霊たちを事前に準備したのでした。(→序章Ⅳ ソクラテスとプラトン。キリスト教思想及びスピリティズムの先駆者たち)


十五、残念なことに、新しい教義の信徒たちは、多くの場合、たとえ話や言葉の比喩に暗示された師の言葉の解釈を理解することができませんでした。そのために、すぐに多数の宗派が生まれ、それぞれが排他的に真実の主となろうとし、十八世紀という年月さえ、それらを合意させるには十分ではなかったのです。

神の教えの最も大切な部分であり、イエスがその建築の柱石として据えた、慈善、兄弟愛、隣人愛といった救いの確実な条件を忘れると、そうした宗派はお互いを異端とし合い、責め合い、強いものは弱いものをつぶし、それらを血に染め、拷問を与えたり、火あぶりにしたのです。

異教に対して勝者となったキリスト教徒たちは、それまで迫害されていたのが、自らが迫害者となってしまったのです。キリスト教徒と異教徒の二つの世界において汚点のない子羊たちの十字架を建てるために、鉄と火が用いられたのです。

宗教戦争は政治戦争よりも多くの犠牲者を出しており、より残酷であったということは誰もが知る事実です。その他の戦争においても、これほどまでの残虐行為や非情な行為はありませんでした。

 その責任はキリストの教義にあるのでしょうか。明らかにそうではありません。なぜなら、キリストの教義は暴力を非難するものであるからです。イエスがその使徒たちに、あなたたちと同じようには信じない者を殺害し、全滅させ、焼き払いに行きなさいと言ったことがあったでしょうか。ありません。

反対にイエスは使徒たちにこう言いました。「全人類は兄弟であり、神は至上の慈悲である。隣人を愛しなさい。あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを迫害する者に善を尽くしなさい」。

また、同じように使徒たちにこう言いました。「剣によって人を殺した者は剣によって殺されます」従って、その責任はイエスの教義にあるのではなく、教義を偽って解釈し、自分たちの情熱を満足させるための道具と化した人々にあるのです。

「私の国はこの世のものではありません」という言葉を軽んじた人たちの責任なのです。

 イエスの深い英知には、将来起こりうる出来事に対する先見の明がありました。しかし、そうした出来事とは人類の不完全な性質に帰するものであり、その性質を急に変化させることはできないため、避けることができなかったのです。

キリスト教はこうした長くて残酷な試練を十八世紀の間も受けながら、その力を示さねばならないのでした。しかし、その名によってあらゆる悪が行われたにもかかわらず、キリストの教えは純粋に保たれています。議論の対象となったことがありません。

非難はいつも教えを濫用した者たちの上に降りかかりました。あらゆる狭量の行為に対して、このように言われてきました。「もしキリストの教えがより正しく理解され、実践されていたなら、そのようなことは起こり得ない」と。


十六、「私が地上に平和をもたらしに来たと思ってはなりません。平和をもたらしに来たのではなく、分裂をもたらしに来たのです」とイエスが言った時、その考えは次のようなものでした。

「私の教義が平和のもとに確立すると信じてはいけません。それは私の名のもとに流血の戦いをもたらすでしょう。なぜなら人類は私の考えを理解できないか、あるいは理解したがらないからです。

それぞれの信仰に応じて分裂して兄弟たちはお互いに対して剣を抜き、同じ信仰を分かち合うことのない一つの家族の中には分裂が支配します。

害をもたらす植物を絶やすために野に火を放つのと同じ方法で、偏見を持った者たちの過ちを消滅させるために、私は地上に火を放ちに来たのであり、浄化が早く進むためにその火が早く燃え上がることを望んでいます。

 闘争の後、真実が勝者となるのです。戦いは平和に、分裂の憎しみは全世界の兄弟愛に、狂信の闇は理性的な信心の光に譲ることになります。やがて土地の準備ができたら、私は慰安者である真実の霊を送ります。真実の霊はすべてのものを再建しに、すなわち、私の言葉の真なる意味を教えに来ます。

それにより、より教養のある人々も理解することができるようになり、同じ神の子供たちを分裂させる兄弟殺しの戦いに終止符を打つことになるのです。家族の核心にまで荒廃と動揺ばかりをもたらす、結末のない戦いにようやく疲れ、人類はこの世とその先の世における本当の関心事がどこにあるのかを知るようになるでしょう。

人類はその平安の敵や仲間がどこに居るのかを知ることができるでしょう。そしてすべての者が一つの旗のもとに集まることになります。その旗とは慈善であり、私があなたたちに教えた原則と真実に従って、地上の物事は再建されることになるでしょう」。


十七、スピリティズムは、予期された時代に、キリストの約束を守るために現れました。しかし、あらゆる事柄の濫用を打ち崩すことなくそれを行うことはできません。イエスの時と同じように、スピリティズムは自尊心、エゴイズム、野心、貪欲、盲目的な狂信に直面しますが、それらを最後まで追い詰めると、妨害や迫害を扇動することになります。

ゆえに、スピリティズムも戦わねばなりません。しかし、争いや流血の迫害の時代は終わりました。苦しまねばならないそれらの戦いとは、すべてが道徳的秩序の上に立った戦いであり、その終わりも近い将来には来るでしょう。

最初の戦いは何世紀にも及びました。今度の戦いは何年間しか続くことはありません(→和訳注1)。なぜなら、その光は唯一の光源から放たれるのではなく、地球上のあらゆる地点で現れ、盲目者たちの目をすぐに開いてくれるからです。



十八、したがってこうしたイエスの言葉は、その教義が引き起こす怒りや、それが原因となって引き起こされる一時的な闘争、約束された土地に到着する前にヘブライ人たちにあったような、確固たる地位を得るために耐えぬかねばならない戦いについて言っているのだと理解しなければならず、

先に考えられたように、イエスの言葉が無秩序と混乱を広めようとするものであると理解してはいけないのです。悪は人類から生じるのであり、イエスは治療のために現れた医者のような存在です。しかしその薬は有益な危機をもたらし、病める者の悪しき体液を攻撃するのです。

●和訳注1
 スピリティズムが世に登場して間もない十九世紀後半当時、1861年のスペインでの焚書事件のように、スピリティズムはさまざまな方面から迫害を受けました。それから150年以上たった今日、スピリティズムを支持する人々は世界中に広がっています。

Friday, April 4, 2025

シアトルの春   神が結び合わせたものを引き離してはなりません

What God has knit together, we must not pull apart.
Le Spiritism  Allenardec 

「スピリティズムによる福音」  
アラン・カルデック著  
角 智織訳


解消してはならない結婚

一、ファリサイ人たちがイエスのみもとにやって来て、イエスを試みようとして言った、「何か理由があれば、妻と離別することは律法にかなっているでしょうか」。

イエスは答えて言われた、創造主は、はじめから人を男と女とに造られて、『それゆえに、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、二人の者が一体になるのだ』と言われたのです。それを、あなたたちは読んだことが無いのですか。

それで、もはや二人ではなく、一人なのです。だから、人は、神が結び合わされたものを引き離してはなりません」。

彼らはイエスに言った、「ではモーゼはなぜ、妻と離別する時は離縁状を渡すように定めたのですか」。イエスは彼らに言われた、「モーゼはあなたたちの心が冷たすぎるので、その妻を離別することをあなたたちに許したのです。

しかし、はじめからそうだったのではありません。誠に言います。妻が姦淫を犯したわけでもないのに、その妻と離別し、別の女を妻にする者は、姦淫を犯すことになるのです。また、夫に見放された妻をめとる者も姦淫を犯すことになるのです」。(マタイ 第十九章 3‐9)


二、神から来るもの以外に、普遍的なものは存在しません。人間によってつくられたものはすべて、変化する運命にあります。自然の法則は、いつの時代も、どの国においても同じです。しかし、人間のつくる法は、時代、場所、知性的発展によって変化します。

結婚というのは、その法により夫婦の性が結ばれることを神が定めたもので、その結果、死すべき運命にある人間は新たな生命を与えられることになります。しかし、結婚を規定する条件はあまりにも人間的に決められており、国によってさまざまです。

キリスト教の中でも、まったく同じように取り決める国は二つとなく、また時の流れとともに変更を余儀なくされなかったものは一つもないのです。

民法においては、ある国である時代に合法的とされたことが、他の国で別の時代には違法となり得ます。なぜならば、民法とは家族的な利害を調整することを目的としたものであり、そのような利害は、地域の習慣や必要性によって違ってくるからです。

ある国においては宗教的な結婚だけが法的に認められ、他の国では民法上の結婚だけで十分だということがありますが、これはその一つの例です。


三、しかし、夫婦の性の結びつきを定めるものには、どの国にも同じように人間の法が存在するのと同時に、他のすべての神の法と同じように、普遍の道徳的な神聖なる法、すなわち、愛の法が存在します。神は肉体の上だけではなく、魂の上でも、人間同士が結びつくことを望んでいるのです。

それにより夫婦がお互いの愛をその子どもに伝え、一人ではなく二人でその子どもを愛し、育て、子どもの進歩を助けることができるよう望んでいるのです。普通の結婚では、この愛の法は考慮に入れられているでしょうか。

いいえ、二人がお互いを引きあう気持ちは少しも考慮に入れられてはいません。だから、この気持ちは多くの場合途絶えてしまうのです。そのような結婚で求められているものは心の満足ではなく、自尊心、虚栄心、欲望の満足、つまり、物質的な関心事の満足です。

こうした関心にもとづいてすべてがうまくいくと、結婚とは都合の良いものだと考えられるのです。夫婦の両方が経済的にうまく釣り合っていると、その夫婦は同じように調和し合っており、幸せに違いないと言われるのです。

 しかしどのような民法の規定も、またそのもとに約束されたいかなる決め事も、愛の法が二人の結びつきをつくっているのでなければ、それに勝ることはできません。そのため、しばしば、強制的に結ばれたものは自然と離れていきます。

祭壇の前で単なる決まり文句として宣誓の言葉を唱えたのであれば、その言葉は偽証の言葉となってしまいます。不幸な夫婦の結びつきとはそのようなものであり、罪深いものとなるのです。

これは、結婚する条件として、神の目に認められる唯一の法である愛の法を忘れることが無ければ防ぐことの出来た二重の不幸です。

神が「二人は結ばれて一体となる」と言い、イエスが「神が結び合わされたものを引き離してはなりません」と注意したことは、普通の神の法にもとづいて理解されるべきものであり、人間によってつくられた不安定な法にもとづいて理解されるべきことではありません。


四、では民法は不必要で、自然の結婚に戻らねばならないでしょうか。もちろん違います。民法は、その文明の必要性に応じて、家族的な利害や社会的な関係を調整するために存在するのです。

だから民法は、役に立つ、なくてはならないものである一方で、変化しやすいものなのです。民法は社会の変化を見越したものでなければなりません。なぜなら、人間は野蛮人のように生きていくわけにはいかないからです。

しかし、その民法が神の法に沿ったものとなることを妨げるものは何もありません。神の法に従うための障害となるのは、民法の中ではなく、人々の持つ社会的偏見の中に存在します。その偏見は、とても根強いものですが、この世の高尚な人々はもはや偏見に支配されていません。

道徳的に進歩していけば、偏見も消滅していき、人間は物質的な関心だけによって結ばれることから生じる無数の悪、過ち、罪に対し、目を開くことになるのです。

そしていつかは、共に生きることができない二人の人間を結び止めておくことと、各々が自由を取り戻すのと、どちらがより道徳的、人間的、慈善的だろうか、と問いただすことになるのです。取り消すことのできない拘束が、不正な結婚を増やすことになるのではないかと。


 離婚
五、離婚は人間の法律によって決められたもので、その目的はすでに実際に離別しているものを法律上離別させることにあります。それは神の法に違反することではありません。

なぜなら、離婚とは人間が定めた関係を正すものに過ぎず、神の法が考慮されていなかった場合にのみ適用されるものだからです。もし離婚が神の法に反していたなら、権威と宗教の名において、多くの離婚を決定してきた教会の指導者のことを、教会自体が背任者であると判断しなければならなくなってしまいます。

一方、そうした離婚も愛の法に則るのではなく、物質的関心だけによって決定されていたのであれば、それは二重の裏切りをしたことになってしまいます。

 イエスさえも、結婚が絶対に引き離してはならないものであるとは言ってはいません。「モーゼは、あなたたちの心が冷たすぎるので、その妻を離別することをあなたたちに許したのです」とイエスは言いませんでしたか。

結婚の唯一の動機となる相互の愛がないのであれば、離別することも必要となるということが、モーゼの時代から続いているのだということがこのことからわかります。

しかし、イエスは「はじめからそうだったのではありません」と付け加えています。つまり人類はその起源においては、エゴイズム、自尊心によって堕落しておらず、神の法に従って生きており、その頃の夫婦の関係は虚栄心と野心によってではなく、お互いの好感によって結ばれており、離別の原因となるものは存在しなかったのです。

 イエスはさらに、離別を正当であると考えることができる場合を的確に示しています。それは姦淫が行われた場合です。しかし姦淫は、夫婦相互の誠実な愛が支配する関係が成り立っているところには存在しません。姦淫し、離縁された妻と結ばれることは禁止されています。

しかし、それを理解するには、その時代の習慣と人々の特徴を考慮に入れなければなりません。モーゼの法は、姦淫した者を死刑に処していた習慣を捨て去ろうとして規定されたのです。

ある野蛮な習慣を廃止するには、それに代わる罰則をつくる必要がありましたが、モーゼは二度目の結婚を禁止することによって受ける不名誉をその罰則としたのです。

すべての民法が時の流れとともに変遷していく運命にあるように、一つの法が別の法に置き換えられて行く必要があったのです。

シアトルの春 死んだらどうなるか

What happens when you die

Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor


 ある日の交霊会で死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。この中でシルバーバーチは最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上とそっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。

───幽界がこの世とそっくりであるというのが私には理解できないのですが・・・・・・。

 「地上界の次の生活の場は地上の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に耐え切れないショックを与えるでしょう。ですから、霊界への導入はやさしい段階をへながら行われることになります。こちらへ来てすぐの生活の場は地上と非常によく似ております。自分の死んだことに気づかない人が大勢いるのはそのためです。

 こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念の世界ですから、思念が生活と活動の表現のすべてに形態を与えます。

他界直後の世界は地球のすぐ近くにあり、ものの考え方がきわめて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現もきわめて土臭く、考えることが全て物的感覚によって行われます。

 そういう人たちは〝物〟を離れて存在を考えることができません。かつて一度も生命というものが物的なものから離れた形で意識にのぼったことがないのです。霊的な活動を心に思い浮かべることができないのです。精神構造の中に霊的なものを受け入れる余地が無いのです。 

ですが幽界(※)の生活にも段階があり、意識の開発と共に徐々に、着実に、土臭さが取れていきます。そして生命というものが物的な相を超えたものであることが判りはじめます。

そして自覚が芽生えると次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。こうして死と誕生(に相当するもの)が何度も繰り返されるのです」

(※ここでは〝物的感覚から脱しきれない世界〟のことを指している。これをシルバーバーチが幽界 astral world と呼んだのは質問者が最初にそう呼んだからで、そこは実質的には〝界〟というよりは〝状態〟という方が当たっている。だから霊的な自覚が出来てから赴く世界をシルバーバーチは〝霊界〟 spirit world とは言わず〝霊の世界〟the world of spirit という言い方をするのである。

仏教で〝成仏した〟というのは自縛的状態から脱して霊的自覚が芽生え、本格的な生活が始まる段階に入ったという意味で、そこから地上で身に付けた霊性に相応しい境涯へ赴くことになる。オーエンの『ベールの彼方の生活』では〝区分けの界〟という呼び方をしているー訳者)


───死後の世界での体験は主観的なのでしょうか客観的なのでしょうか。

 「客観的です。なぜかというと、こちらの世界はそれぞれの界で生活している住民の思念で営まれているからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると自然に離れていきます。成長と向上と進化によって霊的資質が身につくと、自然の法則によって次の段階へ移行するのです(※)。

それぞれの界において立派に客観的生活が営まれています」(※ 『ベールの彼方の生活』によると霊性の向上とともに光明の実在へ次第に近づいていく過程は神秘中の神秘で、人間の言語では説明できないし、そもそも人間の理解力を超えているというー訳者)


───ということは夢の世界ではないということですね。

 「そこを通過してしまえば夢の世界だったことになります。そこに生活している間は現実の世界です。それを夢と呼ぶか呼ばないかは観点の違いの問題です。あなた方も夢を見ている間はそれを夢だとは思わないでしょう。夢から覚めて初めて夢だったことを知り〝なんだ、夢だったのか〟と言うわけです。

ですから、夢が夢幻的段階を過ぎてしまうと、その時の体験を思い出して〝夢だった〟と言えるわけです。ですがその夢幻を体験している間は、それがその霊にとっての現実です」


───すべての人間が必ずその低い界層からスタートするのでしょうか。
 
 「いえ、いえ、それはあくまで何の予備知識も持たずに来た者や、幼稚な者にかぎっての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることの出来ない人の場合です。あなた方が幽界と呼んでいるところは霊の世界の中の小さな区域です。

それは低い境涯から高い境涯へと至る無数の段階の一つに過ぎません。きっちりと周囲が仕切られて存在するのではありません。それを〝界〟と呼んでいるのは、あなた方に理解出来る用語を用いるしかないからです」

(訳者注ー夢の説明で夢を見ている時はそれが現実で覚めれば夢であることを知ると言っているのと同じで、その境涯にいる間は現実に境界があり仕切りがあるように思えるが、霊性が向上してその境涯から脱け出ると、それもやはり夢幻であったことを知る。色即是空は地上だけとは限らない)

 霊界での成長について───

 「一つの界から次の界へよじ登っていくのではありません。自然に成長し、自然に進化していくのです。程度の低い要素が高い要素にその場を譲っていくのです。何度も死に、何度も誕生するのです。幽体は肉体の死と同じ過程で失われていくのではありません。

低級なものが消えるにつれて浄化され精妙になっていくのです。それが幽体の死です。そもそも〝死〟とは変化であり復活であり、低いものから高いものへの上昇です。時間と空間にしばられた地上生活のすべての制約から解放された霊の世界を説明しようとすると、何かと困難に遭遇します。

低いものは高いものを理解できません。有限なるものは無限なるものを包含することはできません。小さい器は大きい器を入れることはできません。奮闘努力の生活の中で理解力を増していくほかありません」


───幽界ではたとえば心臓なども残っていてやはり鼓動するのでしょうか。

 「肉体器官が残っているか否かはその霊の自覚の問題です。もし地上生活のあとにも生活があることを知らず、霊の世界など思いもよらない人であれば、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま残っていて、肉体的機能を続けています───あらゆる機能です」


───では霊の世界についての理解を持った人の場合はどうなりますか。

 「幽体の精妙化の過程がスムーズに進行します。ある器官が霊の生活に不要となったことを自覚すると、その器官が退化し始め、そのうち消滅してしまいます」


───死の直後からそういう現象が起きるのでしょうか。それとも、ゆっくりとした過程なのでしょうか。

 「それも自覚の程度によります。程度が高ければそれだけ調整期間が短くてすみます。忘れてならないことは、私たちの世界は精神的な世界、霊の世界であり、そこでは自覚というものが最優先されるということです。

精神が最高の権威を持ち支配しています。精神が指示したことが現実となるのです。昔から、高級界からやってきた霊のことを〝光り輝く存在〟というふうに述べていて、姿かたちをはっきり述べていないことにお気づきになったことはありませんか。外形というものが無くなっていくのです。つまり形による表現が少なくなっていくのです」


───最後にはどういう形態になっていくのでしょうか。

 「美はどういう形態をしているのでしょう。愛はどういう形態をしているのでしょう。光はどんな形態をしているのでしょうか」


───形態を超越してしまうと色彩が認識の基本になるのでしょうか。

 「その通りです。ただし地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私たちの世界にはあなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。私たちは高級界からの霊の姿が発する光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。

形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです」

 他界した身内の者や友人・知人は姿こそ見えなくても、地上にいた時より一層身近な存在となっていることを説いて、こう述べる。

 「その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じようにあなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らはもはや言葉で話しかけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身の回りにいて何かと援助してくれております。

自覚なさることがあるはずですが、実際はもっともっと密接な関係にあります。彼らはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまでを全部読み取っております。そしてあなた方の魂の成長にとって必要なものを地上的体験から摂取するように導いてくれております。

けっして薄ぼんやりとした、影のような、モヤのような存在ではありません。今なおあなた方を愛し、以前よりさらに身近となっている、実体のある男性であり女性なのです」(このあと死後の生活についての質問と答えが続くが、その部分は第二巻の九章ですでに出ているー訳者)

 「私たちが住む霊の世界をよく知っていただけば、私たちをして、こうして地上へ降りてくる気にさせるものは、あなた方のためを思う気持ち以外の何ものでもないことが分っていただけるはずです。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰れが好き好んで降りてまいりましょう。

 あなた方はまだ霊の世界の喜びを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐ形を持って眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。

 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存じない。そして、なお、死を恐れる。

 〝死〟というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んで初めて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。

なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。しかし一方では私たちの仕事が着々と進められています。霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗闇が後退していきます。

 霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなたがたが〝死んだ〟と言って片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。

  この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。地上の言語のようなぎこちない手段を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。

 金銭の心配がありません。生存競争というものが無いのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。

 地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現出来なくなります。正直言って私は地上に戻るのはイヤなのです。なのにこうして戻って来るのはそうした約束をしたからであり、地上の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持ちがあるからです。そして、それを支援してくれるあなた方の、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。

 死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場も無くなっている状態こそ悲劇です。

 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、果たして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駆け巡り、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。

 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律の一節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。

そのうちあなたがたもこちらの世界へ来られます。そしてその素晴しさに驚愕されるでしょう。

 英国は今美しい季節を迎えています。(この交霊会が開かれたのは五月だったー編者)木々は新緑に輝き、花の香が漂い、大自然の恵みがいっぱいです。あなた方は造化の美を見て〝何とすばらしいこと!〟と感嘆します。

 が、その美しさも、霊の世界の美しさに較べれば至ってお粗末な、色褪せた摸作ていどでしかありません。 地上の誰一人見たことのないような花があり色彩があります。その他小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。

その内あなた方もその美しさをじっくりと味わえる日が来ます。その時あなたはいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ真の意味で生きているのです。

 実は今でもあなた方は毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。

肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識を持って見ることが出来ます。その時全ての記憶がよみがえります」


───死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたこと───多分低い世界だろうと思いますが、それを思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか。

 「低い世界へ引きつけられて行くような人はやはり睡眠中にその低い界を訪れております。が、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。なぜかというと、その人の目覚める界は地上ときわめてよく似ているからです。

死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが粗いからです。高くなるほどバイブレーションが細かくなります」


───朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか。

 「睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界に縛りつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。

その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。なぜかというと脳があまりに狭いからです。小は大をかねることは出来ません。ムリをすると歪みを生じます。それは譬えば小さな袋の中にムリやりに物を詰め込むようなものです。袋にはおのずから容量というものがあります。

 ムリして詰め込むと、入るに入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。

実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。私は〝地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですよ〟と言っておくのですが、どうも思い出して下さらないようです。皆さんお一人お一人にお会いしているのですよ。

そして、あちらこちら霊界を案内して差し上げているんですよ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから。」


───死んでそちらへ行ってから役に立つわけですか。

 「そうです。何一つ無駄にはなりません。神の法則は完璧です。長年霊界で生きてきた私どもは神の法則の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものかといった地上の人間のお粗末なタンカを聞いていると、まったく情けなくなります。知らない人間ほど己の愚かさをさらけ出すのです」


───睡眠中に仕事で霊界へ行くことがありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的ですか。
 
 「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの能力を持った人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。

地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをするというのはその辺に理由があるわけです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。

光のまぶしさにまず慣れなければなりません。闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのにずいぶん時間がかかります。それは赤ん坊と同じです。はいはいしながら進むような状態です。地上の体験を思い出すことはあっても、大半は夢見るような状態で思い出します。

しかし地上での体験も霊界での体験も、一つとして失われることもありません。そのことを忘れないでください。あらゆる思念、あらゆる行為、あなた方の心から発した善意の願いは、必ずどこかの誰かの役に立ちます。その願いのあるところには必ずそれを支援する霊が引き寄せられるからです」


───霊的知識なしに他界した者でも、こちらからの思いや祈りの念が届くのでしょうか。

 「死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でもわれわれは無知と誤解と迷信と誤った教義と神学を無くすべく闘わねばならないのです。

それが霊界での目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれない限り、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかはありません。長い長い休息が必要となるのです。

又、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。反対に人のためによく尽くした人、他界に際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます」


───死後の生命を信じず、死ねばお終いと思っている人はどうなりますか。

 「死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかないわけです。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。つまりどれだけ進化しているか、どれだけ新しい環境に順応できるかにかかっています」


───そういう人、つまり死んだらそれでお終いと思っている人の死には苦痛が伴いますか。

 「それも霊格の程度次第です。一般的に言って死ぬということに苦痛は伴いません。大ていは無意識だからです。死ぬ時の様子が自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」


───善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎を受けますか。

 「私にはその善人とか悪人とかの意味が分りませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有った方がましです。がその人の真価は毎日をどう生きてきたかに尽きます」


───愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では嫁に行くとか嫁を貰うといったことはないと言っておりますが・・・・・・。

 「地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとってはより自由な世界への入口のようなものですから、二人の結びつきは地上より一層強くなります。が二人の男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差がある時は、死と共に両者は離れていきます。

それぞれの界へ引かれていくからです。若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことでなく、成長、進化、発達という形で現われます。つまり形体ではなく魂の問題になるわけです。

イエスが嫁にやったり取ったりしないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上がっておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます」

───死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪が一ばん多いですか。

 「もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌に現われて、霊格が下がるのが分ります。

そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、先ほど言ったように、利己主義の罪と呼ぶよりほかに良い表現が見当たりません」


───死後の世界が地球に比べて実感があり立派な支配者、君主または神の支配する世界であることは分りましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか。

 「霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はおりません。霊界の支配者は自然法則そのものなのです。また地上のように境界線によってどこかで区切られているのではありません。

低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて上へ上へと上昇してまいります」


───地上で孤独な生活を余儀なくされた者は死後も同じような生活を送るのですか。

 「いえ、いえ、そんなことはありません。そういう生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁あるものとの再会もあります」


───シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか。

 「とくに愛着を感じ、慕っている人物には、大抵の場合会うことが出来るでしょう。共感の絆が両者を引き寄せるのです」


───この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか。

 「地上よりはるかに実感があり、しっかりしています。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実体感は味わっておられません」


───ということは地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか。

 「だから言ってるでしょう。地上よりもっと実感がある、と。こちらの方が実在なのですから・・・・・。あなたがたはいわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられて、物質という壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外をのぞいているだけです。地上では本当の自分のホンの一部分しか意識していないのです」


───霊界では意念で通じあうのですか。それとも地上の言語のようなものがあるのですか。

 「意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます」


───急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるでしょうか。

 「魂の進化の程度によって違います」

───呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのですか。

 「魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所───病院なり休息所なり───に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます」


───愛し合いながら宗教的因習などで一緒になれなかった人も死後は一緒になれますか。

 「愛をいつまでも妨げることは出来ません」

───肉親や親せきの者とも会えますか。

 「愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません」

───死後の生命は永遠ですか。

 「生命は全て永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです」

───霊界はたった一つだけですか。

 「霊の世界は一つです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側には必ず霊的表現があるのです」

───その分布状態は地理的なものですか。

 「地理的なものではありません。精神的発達程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます」

───ということは、私たち人間の観念でいうところの界層というものもあるということですか。

 「その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような〝地域〟とか〝層〟が存在します(地球に隣接した幽界の下層界のことー訳者」」

───各界層が地球や太陽や惑星を取り巻いているのでしょうか。

 「取り巻いているのではありません。地理的に分けられているのではありません。球体つまり天体のような形で存在しているのでもありません。宇宙という大きな広がりの中の一部としての生活の場を構成しているのです。

宇宙にはあらゆる次元の生活の場があって互いに重なり合い融合し合っています。あなた方はそのうちの幾つかを知られたわけですが、まだまだご存知ない世界がたくさんあります。地上の天文学で知られていない生活が営まれている惑星が他にいくつもあります」


───各界を構成している成分は地球のようにマテリアルなものですか。(material には〝物質的〟〝実質的〟〝実体のある〟等々さまざまな意味があり、それを観念的に理解していただくために敢えて訳さずにおいたー訳者)

 「私という存在はマテリアルでしょうか。男女の愛はマテリアルでしょうか。芸術家のインスピレーションはマテリアルでしょうか。音楽の鑑賞力はマテリアルでしょうか。こうした質問に対する答えはマテリアルという言葉の意味によって違ってきます。

あなたのおっしゃるのが実感があるのか、実体があるのかという意味でしたら答えは〝イエス〟です。なぜなら霊こそ生命の実在そのものであり、あなた方が物質と呼んでいるもの、すなわち物質の世界はその実在を包んでいる殻にすぎません」


───霊界も地球の電磁場あるいは重力場の影響を受けて地球や太陽と運動を共にしているのでしょうか。

 「私たちの世界は地球の回転の影響は受けません。昼と夜の区別がないのです。エネルギーも地球に生命を賦与している太陽から受けているのではありません。引力は物質だけが受けるのであって、霊的なものは影響を受けません。霊的な法則とは関係がありません」


───霊の動く速さに限界がありますか。

 「私たちスピリットの動きに時間・空間による制約はありません。霊界生活に慣れてくるとまったく制約をうけなくなります。この地球のどの地域でも思念の速さで行き着くことができます。思念が私たちにとって現実の存在なのです。ただし、霊的発達段階による制約は受けます。

その段階を超えたことはできません。霊的成長によって到達した段階より速く動くことはできません。それがその霊にとっての限界ということです。ともあれ、霊的生活での霊自身による制約に過ぎません」(地上のように外的条件による制約はないということ―訳者)


───生命の住む天体には必ず霊界もあるのでしょうか。

 「あなた方が霊界と呼んでいるものも宇宙の霊的側面にすぎません。宇宙はあらゆる界層のあらゆる生命を包含します」

Wednesday, April 2, 2025

シアトルの春   偽キリストや偽預言者が現れるであろう  

There will be false Christs and false prophets





果実によってその木を知る

一、悪い果実を結ぶ木は善くないし、善い果実を結ぶ木は悪くない。このように、果実によってその木を知ることができます。茨からイチジクは採れないし、野ばらからぶどうの房を摘むこともありません。

善人はその心の善き宝より善いものを取り出し、悪人はその心の悪しき宝より悪いものを取り出します。ゆえに口は、心を満たしていることを語るのです。(ルカ 第六章 43-45)


二、中身は貪欲な狼でありながら、羊の毛を被り、あなたたちのもとにやってくる偽預言者たちから身を守りなさい。あなたたちは、その果実によって彼らを見分けることができるでしょう。茨からぶどうを採ったり、アザミからイチジクを集めたりすることができるでしょうか。

そのように、善い木には善い果実が実り、悪い木には悪い果実が実るのです。善い木は悪い果実を生むことはなく、悪い木が善い果実を生むこともありません。善い果実を生まない木はみな切られ、火に投じられてしまいます。

このように、あなたたちは、偽預言者をその果実によって見分けるのです。(マタイ第七章15-20)


三、誰にも誘惑されないように気をつけなさい。なぜなら、多くの者が私の名を語って現れ、「私はキリストである」と言うからです。そして多くの人々を誘惑するでしょう。

 多くの偽預言者が現れ、多くの人々を誘惑するでしょう。そして非道徳がはびこり、多くの慈善が冷めてしまうでしょう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。

 ゆえに、もし誰かがあなたに「キリストがここにいる」とか「キリストがあそこにいる」と言っても絶対に信じてはなりません。あるいは偽キリストや偽預言者たちが現れ、大きな奇蹟や驚くべきことを行い、できれば、選ばれた者たちをも誘惑しようとするでしょう。(マタイ 第二十四章 4,5,11‐13,23、24、マルコ 第十三章 5,6,21,22)
   
℘351    
  預言者たちの使命
四、一般に、預言者には未来を予見する才能があるとされるために、預言と予言は同意語のように認識されています。福音上の意味においては、預言者と言う言葉はより広い意味を持っています。

人類を指導する使命を持ち、不可視の事柄や霊的生活の秘密を人類に示す、神より送られたすべての者を指します。ゆえに、未来を予言することが無くとも預言者であり得ます。それがイエスの時代のユダヤ人たちの考え方であったのです。

そしてそのことから、イエスが最高司祭カイファの前へ連れて行かれた時、書記官や長老が集まって、イエスの頬に唾を吐きかけ、イエスを殴ったり打ったりしながら、「キリストよ、私たちに預言し、お前を打ったのは誰か言ってみろ」と言ったのです。

しかしながら、直感的、もしくは神よりの啓示として未来を予知し、人類への報せを伝える預言者も存在していました。そして予言された出来事が実際に起きたことから、未来を予知することが預言者に属する能力の一つとして考えられていたのです。  


 偽預言者たちの奇蹟 
五、「偽キリストや偽預言者たちが現れ、大きな奇蹟や驚くべきことを行い、できれば、選ばれた者たちをも誘惑しようとするでしょう」。この言葉は私たちに、奇蹟と言う言葉の真の意味を教えてくれています。

宗教学的には、奇蹟もしくは奇跡とは、自然の法に反した特別な現象を意味します。それらすべてを神が神だけが行える業としているため、神が望めばそれを取り消すことができるということは、疑いようもありません。

しかし神が、劣等で非道な者たちに神と等しい力を与える筈はなく、ましてや神が成したことをやり変える権利を与えるはずはないと、私たちの良識は即座に訴えます。

こんな原則をイエスが神聖化したはずはありません。もし、この言葉の文字どおり、悪の霊が選ばれた者さえも騙すような奇蹟を引き起こす力を持ち、神が行うようなことを行えるのであれば、奇蹟や奇跡は神から送られてきた者たちだけの特権ではなくなり、聖人の奇蹟と悪魔の奇蹟を区別するものがないことになってしまいます。

よって、これらの言葉の、もっと合理的な意味を見出すことが必要になります。

 一般の無知な人にとって、原因のわからない現象は、すべてが超自然で、すばらしく、奇跡的な現象となってしまいます。その原因が分かれば、その現象は、それがどんなに特異なものに見えても、自然の法則に適合した現象に過ぎないのだと認識するようになります。

こうして、超自然的な事柄の輪は科学の輪の広がりとともに狭まっていきます。どんな時代にも、自らのためにその野心や利害と支配欲によって、超人的な力の持ち主と言う権威を得ようとしたり、自分を神の使いであると思わせようと、所有するある種の知識を悪用した人々が存在しました。

こうした人々が偽キリストであり、偽預言者なのです。光が広がることによって、彼らは信用を失い、結果的にそうした者たちの数は人類が啓発されるに従って減少していきます。

つまり、人々が奇蹟と考えるようなことを行うことは、神からの使いであるしるしとはならず、誰にでも手の届くなんらかの知識や特別な肉体的能力を発揮させたことによる結果であり、それにふさわしくない者にでも、それにふさわしい者と同様にその所有は禁止されていないのです。

真なる預言者は、その真摯な態度や道徳性によってのみ知ることができます。    

    
 全ての霊を信じてはなりません
六、愛する者たちよ、あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい。なぜなら、世には多くの偽預言者が存在するからです。(ヨハネの第一の手紙 第四章1)


七、霊の現象は、一部の人たちが好んでそう言うように、偽キリストや偽預言者を助長するどころか、反対に、彼らに致命的な一撃を与えます。スピリティズムに奇蹟や奇跡を求めてはなりません。

なぜなら、そのようなものが引き起こされることはないと決定的に宣言しているからです。物理学や化学、天文学や地学が物質世界の法を解き明かすのと同様に、スピリティズムは科学にとっての自然の法則のように、その他の知られざる法則、霊の世界と物質世界の関係を支配する法則を解き明かします。

今日にいたるまで理解されていない現象の一種の法則の解説を提供し、依然として驚異の支配下に存在し続ける事柄を破壊します。

このことから、現象を自分自身の利益のために悪用したいと考え、自分を神より送られた救世主に仕立てようとしても、他人の信用を長い間もてあそぶことはできず、じきに仮面を引き剥がされることになるでしょう。

もっとも、すでに述べたように、そうした現象は引き起こすだけでは何を証明することもありません。使命とは道徳的な影響によって証明されるのであり、それは誰にでも引き起こせることではありません。それが、スピリティズムの科学の発展の結果のひとつです。

ある現象の原因を調べることによって、多くの神秘のベールを剥がすことになります。光よりも闇を好む者だけが、スピリティズムをうち消そうとします。しかし、真実とは太陽のようなものです。最も濃い霧をも消失させるのです。

 スピリティズムは、偽キリストや偽預言者よりもずっと危険な分類、すなわち生きた人々の間ではなく、肉体を失った死者の間に存在する分類について明らかにしています。

それは人を騙す霊、偽善的な霊、高慢な霊、知ったかぶりをする霊たちの分類であり、彼らは地上を後にして幽界へ行くと尊敬される名前を名のり、ありとあらゆるばかげた考えをより容易に受け入れさせようと仮面を被ります。

彼らは霊媒の関係について知られる以前は、直感を与えたり、聴覚に訴えたり、無意識のうちに話をさせる霊媒性といった、より目立たぬ方法を通じて行動していました。

さまざまな時代において、そして特に最近では、キリスト、マリア、その母、もしくは神とまで、自分を称する者の数は相当なものです。聖ヨハネは人類がそのような者たちに気をつけるように、次のように言っています。

「愛する者たちよ、あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい。なぜなら、世には多くの偽預言者が存在するからです」。

スピリティズムは、善霊であることを見分ける、常に道徳的で、決して物質的ではない特徴を示すことによって(→FEB版注1)、私たちが霊たちを試す手段を与えてくれています。それは悪い霊と善い霊を区別する方法で、特に次のイエスの言葉をあてはめることができます。

「悪い果実を結ぶ木は善くないし、善い果実を結ぶ木は悪くない。このように、果実によってその木を知ることができます」。ある木を、そこになる果実の質によって判断するのと同様に、霊はそのなす行いの質によってその善悪を判断することが出来るのです。





  霊たちからの指導

 偽預言者 
八、もし誰かが「キリストがここにいる」と言っても、行ってはいけません。反対にその時は注意してください。なぜなら偽預言者が大勢いるからです。イチジクの木の葉が白くなりはじめるのが見えないのですか。多くの芽が花の咲く季節を待ち構えているのが見えないのですか。

また、キリストは「木を果実によって知る」と言いませんでしたか。ゆえに果実が苦ければ、その木が悪い木であることがわかるでしょう。しかし、もしその果実が甘く、健康的であれば、「悪い泉から純粋なものが出るはずがない」と言うでしょう。

 兄弟たちよ、そのように判断することで、なされた行いを試さなければいけないのです。

神からの力を授かったと言う者が高尚な性格を持った使命のしるしを示すのであれば、つまり、愛、慈善、寛大さ、心を和ませる善意といった、永遠のキリストの美徳を最も高いレベルにおいて有しているのであれば、あるいは、言葉に伴った行動を取っているのであれば、「彼らは真に神より送られてきた」ということができます。

 しかし、蜜のように甘く流れる言葉や、公の広場で祈る長い着物をまとったファリサイ人たちや書記官たちを信じてはいけません。真実を独占しようとする者たちを信じてはいけません。

 そうです。キリストはそうした者たちの間にはいません。その聖なる教義を広め、人々を更生させるためにキリストが送る者は、何よりもまず、模範に従って柔和で謙虚な心を持っています。自らの示す模範と豊富な忠告によって人類を救おうと、不信仰のもとへ走り、歪曲した道のあちらこちらを駆けまわる者は、本質的に謙虚で慎み深いのです。

ほんの少しの自尊心でも示す者からは、さわるものすべてを害す伝染性のある病から逃げるように逃げてください。誰もがその額や、特にその行動に、その偉大さ、あるいはその不完全性のしるしを持ち合わせていることを覚えおいてください。


 私の愛する子供たちよ、だから行ってください。背を向けることなく、隠しごとなしに、選択した恵みの道を歩んでください。いつも、恐れることなく行って下さい。永遠の目的への歩みを止めようとするあらゆるものから、注意深く遠ざかってください。

旅人たちよ、永遠の法を啓示し、謎に対するあなたたちの魂の抱くあらゆる願望を満たしてくれる、この優しい教義に心を開くのであれば、試練の痛みと闇の中にいる時間はあと少しだけとなります。

あなたたちの夢の中に一時的に姿を見せ、心には訴えなくとも霊を魅了して去って行く敏速な妖精たちは、実際に存在するのです。愛する者たちよ、もはや死は消滅し、あなたたちの知る光を放つ天使、新しい出会いと再結合の天使にその場所を譲ったのです。

創造主がその被造物に託した使命を正しく遂行したあなたたちは、その正義に対してなにを恐れる必要もありません。なぜなら、彼は慈悲を嘆願する迷える子供たちをいつも赦してくれる父であるからです。だから、止まることなく進み続けてください。

進歩をあなたたちの標語として掲げてください。あらゆるものにおける継続的な進歩を遂げ、最後には、あなたたちの先を行った者すべてが待っていてくれる、幸福な旅の終結を迎えることができますように。(ルイ ボルドー、1861年)



 真なる預言者の特徴 
九、「偽預言者は信じないこと」。この忠告はどの時代においても有益ですが、現代のような人類に変化が起こる変遷の時代においては特に有益で、それは、そのような時代には野心に満ちた策略家たちの大群が、変革者や救世主と自称するからです。

そしてこうしたペテン師たちからは身を守らなければならず、正直な者にはみな彼らの化けの皮を剥がす義務が生まれるのです。あなたたちはきっとペテン師たちをどうすれば知ることが出来るかと尋ねるでしょう。それを示したものがここにあります。

 唯一、自分の軍隊を指揮することのできる有能な将校だけがそうすることができるのです。あなたたちは神が人間よりも慎重さに劣っていると考えるのですか。

神はその任務を遂行する能力があると分かっている者にしか重要な使命を託すことはないのだということを確信してください。なぜなら、偉大なる任務と言うのは重たい衣装のようなもので、それを身につける力に乏しい人間はその任務に押しつぶされてしまうからです。

あらゆることにおいて、師はその弟子よりも多くを知っている必要があります。人類を知性的、道徳的に進歩させるには、知性と道徳性において優れた人が必要なのです。

それゆえに、こうした使命のためには、過去の人生でその試練を果たしてきている、すでに進歩した霊がいつも選ばれますが、というのも、もし行動する環境の中においてより優れていなかったら、その行動が周りに及ぼす結果は皆無となってしまうからです。


 これらのことから、神より送られた真の使節と言うのは、その優位性、その美徳、その偉大さ、そのなす行いの持つ道徳的影響力、その託されているという使命の内容によって、それを証明するのであると結論づけなければなりません。次のことも導きだしてください。

もし、神より送られたと主張する者が、その性格、その美徳、その知性において、その持つ役割や名のる人物よりも劣っているのであれば、それは自分で選んだモデルをまねることさえも知らぬ、程度の低いペテン師に過ぎないのです。

 もう一つの留意点があります。神より送られた真なる使節は、ほとんどの場合、自分がそうであることさえ知りません。彼らはその才能の力によって呼ばれたその使命を遂行し、嫌々ながらも、彼らを導き元気づける見えざる力に助けられますが、あらかじめ考えられた計画は存在しません。

一言で言えば次のとおりです。真なる預言者たちはその行いによってそうであることを示し、そうであることを推測させることができます。一方で、偽預言者たちは自らが神より送られた者だということを示そうとします。

前者は慎み深く謙虚です。後者は自尊心が強く、自信過剰で、偽善者たちがそうであるように高慢な態度で話し、自分を信じてもらえないことを常に恐れているようです。

 こうしたくわせ者たちの幾人かは、キリストの使徒となりすまそうとしたり、キリスト自身になりすまそうとしたりしましたが、恥ずかしいことにも人類の中には、そうした醜行をすっかり信じてしまった人がいました。

しかし、実に単純な思考を巡らせば、盲目者たちの目を開くには十分です。それは、もしキリストが地球上に再生したとすれば、その力とその美徳によってそのことは明らかになるはずだということです。もっとも、キリストが退化したというばかげた考えを認めるのであれば話は変わりますが。

同様に、もし神からそれに帰属するものを一つでも取り去ったとすれば、もはや神は存在しなくなるように、キリストの美徳のうち、たった一つでも取り去るのであれば、それはもはやキリストではなくなります。

「キリストとしてのあらゆる美徳を有しているだろうか」。ここが問われるところです。

彼らを観察し、その考えや行動を分析すれば、何よりもまず、彼らにキリストを特徴づける性格である謙虚さや、慈善が欠けていることがわかり、キリストの有していなかった質である愚かさや自尊心といったものに彼らが支配されていることが分かります。

現在、さまざまな国において、キリストになりすました者、エリアになりすました者、聖ヨハネや聖ペトロになりすました者が多く存在していますが、その誰もが絶対に本物であり得ないことを十分に承知し、彼らが単に他人の信心を利用し、彼らに耳を傾ける人々に頼って生きることが都合が良いと考えている者たちに過ぎないのだということを確信してください。

 ゆえに、現在のような革新の時代には特に、偽預言者たちを疑ってください。なぜなら多くのペテン師たちが、自分が神から送られたというからです。彼らは地上でその虚栄心を満足させようとしているのです。しかし、恐ろしい正義が彼らを待ち受けていることをあなたたちは確信してください。(エラストゥス パリ、1862年)


 幽界における偽預言者たち
十、偽預言者たちは人間の間にばかり存在するのではありません。さらに多くの数の偽預言者たちが自尊心の強い霊たちの間におり、愛と慈善に見せかけながら不和の種を蒔き、霊媒に受け入れられた後、人類にばかげた主義を植え付けようとし、人類の解放の一大事業を遅らせます。

そして騙そうとする相手をさらにうまく魅了し、その理論にもっと重要性を持たせるため、人類が大いに敬意を払ってのみ呼ぶ名前をためらいもなく名のります。

 彼らこそが人類の間に存在するさまざまなグループの間に敵意の原因を広め、個々に孤立し、お互いに警戒し合うようになるように強いるのです。そのことだけでも正体を暴くには十分です。

なぜなら、そのように行動することによって、彼らこそが最初にその意図をはっきりと打ち消すことになるからです。すなわち、そのような粗雑なペテンに騙される人々は盲目なのです。

 しかし、それ以外にもその正体を確認する方法は多くあります。彼らが属するという分類の霊たちはあまり善くないばかりでなく、優れて理にかなっているわけでもありません。では、どうすればよいでしょうか。

彼らを理性と良識のふるいにかけ、何が残るかを見ればよいのです。したがって、人類の悪に対する薬や人類の変革を達成する方法として、幻想的で実現不可能なことや、ばかげたくだらない方法を霊が指示した時には、それは無知でうそつきの霊であるという私に同意してください。

 一方で、個々が必ずしも真実を備えていなくとも、真実は何時も大衆の良識に評価され、そのことが新たな基準となるのだということを信じてください。もし二つの原理が矛盾するのであれば、二つの内のどちらが反響や共感が多いかを確かめることによって、両方の固有の価値の量を知ることができるでしょう。

それ以外にも、信者が次第に減少する教義の方が、信者が継続的に増加する教義よりも信憑性が高いのだと考えるのは不合理であるということはもちろんです。

神は真理がすべてに到達することを望むために、真理を狭い輪の中に託すことはありません。真理をさまざまな違った地点に出現させ、それによってあらゆる場所で闇のとなりに光を存在させるのです。

 孤立と離別を説く、独占的な助言者を装う霊たちに従うことなく拒否してください。彼らはほとんどが虚栄心の強いつまらぬ霊たちで、弱く信心深い人々を騙し、大げさな賛美を尽くさせ、彼らを魅了し、支配しようとします。

彼らは普通、生きている間は社会であれ家庭内であれ、独裁君主となる権力に飢えており、死後も圧制する犠牲者を求めているのです。一般に、神秘で奇異な性格を持った通信や、贅沢な儀式を命じる通信は信じてはいけません。こうした場合には、疑うべき理由が必ず存在します。

 また同様に、人類に対して真理が啓示される時には、真剣な霊媒のいる真剣な団体すべてに通信されるのであって、いうならば、たちどころに通信され、他の団体を排除してこの団体とあの団体だけに通信するというようなことはないということを確信してください。

憑依にあれば、どんな霊媒も完全ではありません。ある霊媒が特定の霊の通信しか受けないのであれば、その霊がどんなに高いレベルを装っても、それは明らかに憑依を示しています。

よって、通信を受けることを特権だと考えたり、迷信的な行いに従う霊媒や団体は、全て疑いようもなく典型的な憑依に支配されており、特に、支配する霊が、生者も死者もが尊ぶべき名によって着飾り、何としてでも衰えを許すまいとするのであればなおさらです。  

 すべての詳細と霊からの通信を理性と論理のふるいにかければ、その過ちや不合理性を拒否するのは容易だということは確実です。一人の霊媒が魅了され、その団体を錯覚させていることもあります。

しかし、他の団体が行う厳格な検証や、実験がもたらした科学、団体の責任者の高い道徳的権威、主要な霊媒が得る通信、理性と最善の霊たちの認証のしるしを持てば、悪意を持った騙す霊の集団から放たれる、うそつきで悪賢い内容に直ちに審判を下せるでしょう(→序章 Ⅱ スピリティズム教義の権威 霊たちによる教えの普遍的管理、「霊媒の書」第二部 第二十三章憑依について)。(聖パウロの弟子エラストゥス パリ、1862年)
        
    
  エレミアと偽預言者たち
十一、万軍の主はこう言われる、「あなたたちに預言をし、あなたたちを騙す預言者たちの声を聞いてはなりません。彼らは、自分たちの心に描くことを公にするだけで、主から学んだことは言わないからです。

彼らは、私を侮る者たちにこう言います、『あなたたちには平和が訪れるでしょう』と。そして、心の堕落してしまった者たちにはこう言います、『あなたたちにはどんな悪いことも起きないでしょう』と」。

 しかし、彼らのうちの誰が、主の忠言を聞いたというのでしょう。彼らのうちの誰が、主を見て、その言うことに耳を傾けたというのでしょう。

「私はこのような預言者を遣わしてはいません。彼らが自ら始めたのです。
 私は彼らにまったく告げてはいません。彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです。

 私は偽りを預言する預言者たちが、私の名を名のり『夢を見た。夢を見た』というのを聞きました。その偽りの預言が、自分たちの心の誘惑に他ならないうそを預言する者たちの心の中に、いったいいつまであるのでしょうか。

 だから、もしこうした人々が、預言者であれ、聖職者であれ、あなたたちに『主の重荷は何ですか』と問うのであれば、このように答えなさい。『主は、あなたたちこそがその重荷であり、遠くへ追いやると言っておられます』と」、(エレミア 第二十三章 16-18、21,25,26,33)
       
 友よ、あなたたちに伝えたいことは、この預言者エレミアの一節のことです。神はその口から言いました。「彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです」。

この言葉は、すでに当時、ペテン師や熱狂者たちが預言の力を濫用し、悪用していたことを明らかに示しています。結果的に、ほぼ盲目的とも言える人々の単純な信心を食いものにし、金、快楽のために預言をしました。

ユダヤの国にはこうした一種の詐欺が一般的であったことから、当時のかわいそうな大衆は、その無知のために善と悪の判断をすることができずにほとんど詐欺師や狂信者に他ならぬ預言者に成りすました者たちに騙され、ばかにされていたということは容易に理解できます。

「私はこのような預言者を遣わしてはいません。彼らが自らはじめたのです。私は彼らにまったく告げてはいません。彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです」と言う言葉以上に重要な言葉はありません。

さらに、「私は偽りを預言する預言者たちが、私の名を名のり『夢を見た。夢を見た』というのを聞きました」と書かれています。ここには、偽預言者たちが詐欺の対象とする人々の信用を食いものにした時の手段が示されています。

いつも信心深かった大衆は、その夢や空想の真実性を確かめようとは思いませんでした。それらを自然であると考え、いつも預言者たちに話してもらおうと招いたのでした。

 預言者の言葉を聞いた後には、使徒ヨハネの賢明な次の忠告を聞いてください。「あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい」。なぜなら、目に見えぬ者たちの間にも、機会があれば人を騙して喜んでいる者たちがいるからです。

騙された者たちとは、おわかりのように十分な用心のない霊媒のことです。疑いもなく、そこには多くの者、特にスピリティズムに接して間もない者が、不幸なことにもつまずいてしまう最大の障害が存在します。

そうしたことには、大いに慎重になることによってのみ、打ち勝てるのだということをあなたたちに証明しています。ゆえに、何よりもまず、善い霊と悪い霊を区別することを学び、あなたたち自身が偽預言者とならないようにして下さい。(守護霊ルオズ カールスルーエ、1861年)

●FEB版注1
 霊の区別の仕方を参照のこと(『霊媒の書』第二部 24章及びその続き)

 三章シアトルの春 再生の原理

Principle of Regeneration

Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor


〝再生〟───生れ変わり───はスピリチュアリストの間でも議論の的となっている問題で、とかく意見が食い違うことがある。

シルバーバチはこれを全面的に肯定するスピリットの一人であるが、ただ従来の輪廻転生説にみられる機械的な生の繰り返しでは無く、進化の為の埋め合わせを目的とし、しかも生まれ変わるのは同一霊の別の意識層であるとする。次がそれについての問答である。


───意識が部分的に分かれて機能することが可能なのでしょうか。

 「今のあなたという意識とは別に、同じくあなたと言える大きな意識体があります。それのホンの一部(分霊)がいま地上という物質界でそのあなたを通じて表現されているわけです。そして、あなたの他にも同じ意識体を構成する分霊が別の世界で表現されております」

(訳者注───ここでいう〝意識体〟は次の質問に対する答えの中に出てくる〝内奥の霊的実在〟と同じで、これを私は浅野和三郎氏に倣って〝中心霊〟と訳しておく)


───個々が独立しているのでしょうか。

 「いいえ、独立はしていません。あなたも他の分霊も一個の中心霊の側面です。つまり全体を構成する一部であり、それぞれがさまざまな媒体を通して自我を表現しており、時おりその分霊どうしが合体することもあります。

※ですから、分霊どうしが霊的に無縁というわけではありませんが、互いに意識するのは何らかの媒体を通して自己表現し始めてからのことです。そのうち合流点にたどり着いて、最終的には全体として一つに再統一されます」 

平成5年7月15日 第3刷発行では次のようになっている──※「合体したことに互いが気づかないこともありますが、それは表現しはじめて間もない頃(霊的な幼児期)にかぎられます。そのうち共通の合流点を見いだして最終的には全体として一つに統一されます。

(マイヤースはその部分的存在を〝類魂(グループソール)〟と呼んでいるー訳者)


───その分霊どうしが地上で会っていながらそうと気づかないことがあるのでしょうか。

 「中心霊を一つの大きな円として想像してください。その円を構成する分霊が離ればなれになって中心核のまわりを回転しています。時おり分霊どうしが会ってお互いが共通の円の中にいることを認識し合います。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て再びもとの円が完成されます」


───二つの分霊が連絡し合うことができますか。

 「必要があればできます」


───二つの分霊が同時に地上に誕生することがありますか。

 「ありません。全体の目的に反することだからです。個々の意識であらゆる界層での体験を得るということが本来の目的です。同じ界層へもう一度戻ることがあるのは、それなりに成就すべき(埋め合わせをすべき)ことが残っている場合に限られます」


───個々の意識はみずからの進化にみずからが責任を負い、他の分霊の体験による恩恵は受けないというのは本当でしょうか。

 「そのとおりです。個々の霊は一つの中心霊の構成分子であり、さまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて小我が大我を意識していきます」

(訳者注ーマイヤースは〝類魂〟の説明の中で他の仲間の体験を自分のものとすることが出来ると述べている。ここでシルバーバーチはそれを否定するかのようなことを述べているが、マイヤースが喜怒哀楽を中心とした体験を言っているのに対して、シルバーバーチは例によって因果律の観点から述べているのであって、たとえ同じ類魂同士とはいえ、他の仲間の苦難の体験によって罪業が中和されたりすることはないという意味に解釈すべきである)


───そうして進化のある一点においてそれらの小我が一体となるわけですね。

 「(理屈では)そうです。無限の時を経てのことですが・・・」


───個々の小我の地上への誕生は一回きり、つまり大我としては再生の概念は当てはまっても小我には再生はないという考えは正しいでしょうか。

 「それは成就すべき目的いかんに関わる問題です。同じ小我が二度も三度も再生することがあります。ただしそれは特殊な使命のある場合に限られます」


───一つの意識体の個々の部分、というのはどういうものでしょうか。
 
 「これは説明の難しい問題です。あなた方には〝生きている〟ということの本当の意味が理解できないからです。実はあなた方にとっての生命は実質的には最も下等な形態で顕現しているのです。

そのあなた方には生命の実体、あなた方に思いつくことのできるものすべてを超越した意識を持って生きる、その言語を絶した生命の実情はとても想像できないでしょう。

 宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかなカゲを見たにすぎません。

鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう。

 私の苦労を察してください。譬えるものがちゃんとあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれが無い。あなた方にはせいぜい光と影、日向と日陰の比較ぐらいしかできません。虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明できないほどの美しい霊界の色彩を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです」


───再生は自発的なものでしょうか。それとも果たすべき目的があってやむを得ず再生するのでしょうか。

 「そのいずれの場合もあります」


───ということは、つまり強制的ということですね。

 「強制的という言葉の意味が問題です。誰かに再生しろと命令されるのであれば強制的と言ってもいいでしょうが、別にそういう命令が下るわけではありません。ただ地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世での過ち、施すべきでありながら施さなかった親切、こうしたものを明確に自覚するようになり、今こそ実行するのが自分にとって最良の道だと判断するのです」


───死後は愛の絆のある者同士が生活を共にすると聞いておりますが、愛する者が再生していったら残った者との間はどうなるのでしょうか。

 「別に問題はありません。物的な尺度で物ごとを考えるからそれが問題であるかに思えてくるのです。何度も言っていることですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分に過ぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。

一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、その内の幾つかが地上に誕生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間には物質という壁ができて一時的な分離状態になることは確かです。が、愛の絆のあるところにそんな別れは問題ではありません」


───霊魂は一体どこから来るのですか。どこかに魂の貯蔵所のようなものがあるのでしょうか。地上では近頃産児制限が叫ばれていますが、作ろうと思えば子供は幾らでも作れます。でもその場合、魂はどこから来るのでしょうか。

 「あなたのご質問には誤解があるようです。あなたがた人間が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは霊魂が自我を表現するための器官を提供することだけです。生命の根源である〝霊〟は無限です。無限なるものに個性はありません。

その一部が個体としての表現器官を得て地上に現われる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。霊は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。しかし個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。

霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大勢います。その中にはもう一度地上へ行って果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が沢山います。そして、その目的のためのチャンスを与えてくれる最適の身体を求めているのです」


───人間の霊も原始的段階から徐々に進化してきたものと思っていましたが・・・

 「そうではありません。それは身体について言えますが霊は無始無終です」


───古い霊魂と新しい霊魂との本質的な違いはどこにありますか。

 「本質的な違いは年輪の差でしょう。当然のことながら古い霊魂は新しい霊魂より年上ということです」


───類魂の一つひとつを中心霊の徳性の表現とみてもいいでしょうか。

 「それはまったく違います。どうも、こうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の日のあの青く澄みきった空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります」


───それはマイヤースの言う類魂と同じものですか。

 「まったく同じものです。ただし、単なる類魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が体験を求めて物質界にやって来るのです」


───その意識の本体に戻った時各霊は個性を失ってしまうのではなかろうかと思われるのですが・・・・・。

 「川が大海へ注ぎ込んだとき、その川の水は存在が消えてしまうのでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、例えばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」


───なぜ霊界の方から再生の決定的な証拠を提供してくれないのでしょうか。

 「霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などありえるでしょうか。意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になって初めて事実として認識されるのです。再生はないと言う者が私の世界にもいるのはそのためです。

まだその事実を悟れる段階にまで達していないからそう言うに過ぎません。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしょうがないでしょう。芸術家がインスピレーションの体験話を芸術的センスのない人に聞かせてどうなります。意識の段階が違うのです」


───再生するということが自分で分かるのでしょうか。

 「魂そのものは本能的に自覚します。しかし知的に意識するとはかぎりません。神の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現してもその分量は僅かであり、表現されない部分が大半を占めています」


───では無意識のまま再生するのでしょうか。

 「それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識しない霊もいます。魂が自覚していても、知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題で、とてもあなた方の言語では説明しかねます」


───生命がそのように変化と進化を伴ったものであり、生れ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか。

「愛は必ず成就されます。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は必ず愛する者を引寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同志を永久に引き裂くことは出来ません」


───でも再生を繰り返せば互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが。

 「一致しないのはあなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙及びその法則は神が拵えたのであって、その子供であるあなた方が拵えるのではありません。賢明なる人間は新しい事実を前にすると自己の考えを改めます。自己の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても所詮は徒労に終わることを知っているからです」


───これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもいいと思うのですが・・・。

 「物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間は何時までも最下等のままです。体験を積めば即成長というわけにはいきません。要は魂の進化の問題です」


───これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか。
 
 「そうです。無限に続きます。なんとなれば苦難の試練を経て始めて神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて初めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて始めて強く逞しい輝きを見せるのです」

───そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか。

 「今日あなたには天国と思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」


───再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、と言う具合に。

 「そうとは限りません。目指している目的のために最も適当と思われる国、民族を選びます」


───男性か女性かの選択も同じですか。

 「同じです、必ずしも前生と同じ性に生まれるとは限りません」


───死後、霊界へ行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してから又同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか。

 「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。

生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとは限りません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。

ましてや二度も罰せられるということは決してありません。神の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して片手落ちということがないのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」


───自分は地上生活を何回経験している、ということをはっきりと知っている霊がいますか。

 「います。それが分かるようになる段階まで成長すれば自然にわかるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることはできないのと同じです。名前を幾つかあげても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は〝説く〟だけで十分なはずです。

私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。

私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向にかまいません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。人が受け入れないからといって、別にかまいません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう」


───再生問題は問題が多いから、それを避けて、死後の存続ということだけに関心の的を絞るという考えは如何でしょう。

 「闇の中にいるよりは光の中にいる方がよろしい。無知のままでいるよりは摂理を少しでも多く知った方がよろしい。何もしないでじっとしているよりは、真面目に根気よく真理の探究に励む方がよろしい。向上を目指して奮闘するのが良いに決まっています。死後存続の事実は真理探究の終着駅ではありません。

そこから始まるのです。自分が神の分霊であること、それ故に何の苦もなく、何の変化もなく〝死〟の関門を通過できるという事実を理解したとき、それで全てがおしまいになるのではありません。そこから本当の意味で〝生きる〟ということが始まるのです」


───新しい霊魂はどこから来るのですか。

 「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。

聖書でも〝神は霊なり〟と言っております。ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう」


───ということは、われわれは神という全体の一部だということですか。

 「その通りです。だからこそあなた方は常に神と繋がっていると言えるのです。あなたという存在は決して切り捨てられることはあり得ないし、消されることもあり得ないし、破門されるなどということもあり得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります」


───でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう。

 「これまた用語の意味が厄介です。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。その意味でしたら、それはよくあることです。

但し、それは今地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します」


───再生するに際して過ちのないように指導監督する官庁のようなものが存在するのでしょうか。

 「こうした問題は全て自然法則の働きによって解決されます。再生すべき人は自分でそう決心するのです。つまり意識が拡大し、今度再生したらこれだけの生長が得られるということがわかるようになり、それで再生を決意するのです。再生専門の機関や霊団がいるわけではありません。全て魂自身が決めるのです」


───再生するごとに進歩するのでしょうか。時には登りかけていた階段を踏み外して一番下まで落ちるというようなこともあるのでしょうか。

「すべての生命、特に霊的な生命に関するかぎり、常に進歩的です。今は根本的な霊性についてのみ述べています。それが一ばん大切だからです。一たん神の摂理に関する知識を獲得したら、それを実践するごとに霊性が生長し、進歩します。進歩は永遠に続きます。なぜなら、完全なる霊性を成就するには永遠の時間を要するからです」


───先天性心臓疾患の子や知能障害児は地上生活を送っても何の教訓も得られないのではないかと言う人がいます。私たちスピリチュアリストはこうした難しいことは神を信じて、いずれは真相を理解する時が来ると信じているわけですが、疑い深い人間を説得するいい方法はないものでしょうか。

 「疑い深い人間につける薬はありません。何でも疑ってかかる人は自分で納得いくまで疑ってかかればよろしい。納得がいけばその時初めて疑いが消えるでしょう。私は神学者ではありません。宗教論争をやって勝った負けたと言い争っている御仁とは違います。

すべては悟りの問題です。悟りが開ければ、生命の神秘の理解がいきます。もっとも、全てを悟ることはできません。全てを悟れるほどの人なら地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。

少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。すると更に次の段階の真理を理解する力がつくわけです。それが人生の究極の目的なのです。激論し合ったり、論争を求められたりするのは私はごめんこうむります。

私はただこれまで自分が知り得たかぎりの真理を説いて教えてさし上げるだけです。お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば、〝そうですか。それは残念ですね(アイアムソリー)〟と申し上げるほかはありません」


───霊にいくつかの側面があり、その内の一つが地上に生れ、残りは他の世界で生活することもあり得る、という風におっしゃいましたが、もう少し詳しく説明していただけませんか。

 「私たち霊界の者は地上の言語を超越したことがらを、至ってお粗末な記号にすぎない地上の言語でもって説明しなくてはならない宿命を背負っております。言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものを、どうして地上的用語で説明できましょう。これは言語学でいう意味論の重大な問題でもあります。

私に言わせれば、霊とはあなた方のいう神 God 、私のいう大霊 Great Spirit の一部分です。あなた方に理解のいく用語で表現しようにも、これ以上の言い方は出来ません。生命力 life force 動力 dynamic、活力 vitality、本質 real essence、神性 divinity、それが霊です。

かりに私が〝あなたはどなたですか〟と尋ねたらどう答えますか。〝私は〇〇と申すものです〟などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方か皆目分かりません。

個性があり、判断力を持ち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することの出来る人───それがあなたであり、あなたという霊です。その霊があるからこそ肉体も地上生活が営めるのです。

霊がひっこめば肉体は死にます。霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性を持っています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。

その霊にいつくかの面があります。それを私はダイヤモンドに譬えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。

もしも二人の人間が別格に相性がいい場合(めったにないことですが)それは同じダイヤモンドの二つの面が同じ時期に地上に誕生したということが考えられます。

そうなると当然、二人の間に完全なる親和性があるわけです。調和のとれた全体の中の二つの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます」


───あなたがダイヤモンドに譬えておられるその〝類魂〟について、もう少し説明していただけませんか。それは家族関係(ファミリー)のグループですか、同じ霊格を具えた霊の集団ですか、それとも同じ趣味を持つ霊の集まりですか。あるいはもっとほかの種類のグループですか。


 「質問者がファミリーという言葉を文字通りに解釈しておられるとしたら、つまり血縁関係のある者の集団と考えておられるとすれば、私のいう類魂はそれとはまったく異なります。肉体上の結婚に起因する地上的姻戚関係は必ずしも死後も続くとは限りません。そもそも霊的関係というものは、その最も崇高なものが親和性に起因するものであり、その次に血縁関係に起因するものが来ます。

地上的血縁関係は永遠なる霊的原理に基づくものではありません。類魂というのは、人間性にかかわった部分にかぎって言えば、霊的血縁関係ともいうべきものに起因した霊によって構成されております。

同じダイヤモンドを形づくっている面々ですから、自動的に引き合い引かれ合って一体となっているのです。その大きなダイヤモンド全体の進化のために個々の面々が地上に誕生することは有り得ることですし、現にどんどん誕生しております」


───われわれ個々の人間は一つの大きな霊の一分子ということですか。
 
 「そういってもかまいませんが、問題は用語の解釈です。霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまで個性を具えた存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません」


───では今ここに類魂の一団がいるとします。その個々の霊が何百万年かの後に完全に進化しきって一個の霊になってしまうことは考えられませんか。

 「そういうことはあり得ません。なぜなら進化の道程は永遠であり、終わりが無いからです。完全というものは絶対に達成されません。一歩進めば、さらにその先に進むべき段階が開けます。聖書に、己を忘れる者ほど己を見出す、という言葉があります。これは個的存在の神秘を説いているのです。

つまり進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていくということです。おわかりですか。個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている神的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです」


───〝双子霊〟Twin Souls というのはどういう場合ですか。

 「双子霊というのは一つの霊の半分ずつが同時に地上に生を享けた場合のことです。自分と同じ親和性を持った霊魂───いわゆるアフィニティ affinity── は宇宙にたくさんいるのですが、それが同じ時期に同じ天体に生を享けるとは限りません。

双子霊のようにお互いが相補い合う関係にある霊同士が地上で巡り合うという幸運に浴した場合は、正に地上天国を達成することになります。霊的に双子なのですから、霊的進化の程度も同じで、従ってその後も手に手を取り合って生長していきます。私が時おり〝あなたたちはアフィニティですね〟と申し上げることがありますが、その場合がそれです」


───双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう。

 「肉体的にはその通りです。しかしそれもホンの束の間のことです。肝心なのは二人は霊的に一体関係にあるということですから、物質的な事情や出来ごとがその一体関係に決定的な影響を及ぼすことはありません。しかも、束の間とはいえ地上での何年かの一緒の生活は、霊界で一体となった時と同じく、素晴らしい輝きに満ちた幸福を味わいます」


───物質界に誕生する霊としない霊がいるのはなぜですか。

 「霊界の上層部、つまり神庁には一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験をしなくても成長進化を遂げることが出来るのです。頭初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上に降りてくることがあります。歴史上の偉大なる霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります」


───大きな業(カルマ)を背負って生れてきた人間が、何かのキッカケで愛と奉仕の生活に入った場合、その業がいっぺんに消えるということは有り得ますか。

 「自然法則の根本はあくまでも原因と結果の法則、つまり因果律です。業もその法則の働きの中で消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消えることはありません。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じ、その結果の中に次の結果を生み出す原因が宿されているわけで、これはほとんど機械的に作動します。

質問者がおっしゃるように、ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。しかし、いっぺんにというわけには行きません。愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えていき、やがて完全に消滅します。業という借金をすっかり返済したことになります」


───戦争と事故、疾病などで何万もの人間が死亡した場合も業だったのだと考えるべきでしょうか。もって生まれた寿命よりも早く死ぬことはないのでしょうか。戦争は避けられないのでしょうか。もし避けられないとすると、それは国家的な業ということになるのでしょうか。

 「業というのは詰るところは因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。これは神の公正の証として神が用意した手段の一つです。もし介入が許されるとしたら、神の公正は根底から崩れます。

因果律というのは行為者にそれ相当の報酬を与えるという趣旨であり、多すぎることも少なすぎることもないよう配慮されています。それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についても当てはまります。次に寿命についてですが、寿命は本来、魂そのものが決定するものです。

しかし個人には自由意志があり、また、もろもろの事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。戦争が不可避かとの問いですが、これはあなた方人間自身が解決すべきことです。

自由意志によって勝手なことをしながら、その報酬は受けたくないというようなムシのいい話は許されません。戦争をするもしないも人間の自由です。が、もし戦争の道を選んだら、それをモノサシとして責任問題が生じます」


───寿命は魂そのものが決定するとおっしゃいましたが、すべての人間に当てはまることでしょうか。たとえば幼児などはどうなるのでしょう。判断力や知識、教養などが具わっていないと思うのですが・・・。

 「この世に再生する前の判断力と、再生してからの肉体器官を通じての判断力とでは大きな差があります。もちろん再生してからの肉体器官の機能の限界のために大きな制限を受けます。しかし大半の人間は地上で辿るべき道程について再生前からあらかじめ承知しています」


───地上で辿るべきコースが分っているとすると、その結果得られる成果についてもわかっているということでしょうか。

 「その通りです」


───そうなると、前もって分っているものをわざわざ体験しに再生することになりますが、そこにどんな意義があるのでしょうか。

 「地上に再生する目的は、地上生活から戻って来て霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もって分ったからといって、霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。

 たとえば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えますまい。霊的生長というのは実際に物ごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の全目的があります」


───航空機事故のような惨事は犠牲者及びその親族が業を消すためなのだから前もって計画されているのだという考えは、私にはまだ得心がいきませんが・・・。

 「ご質問はいろいろな問題を含んでおります。まず、〝計画されている〟という言い方はよくありません。そういう言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事を引き起こしているように聞こえます。すべての事故は因果律によって起こるべくして起きているのです。

その犠牲者───この言い方も気に入りませんが取り敢えずそう呼んでおきます───の問題ですが、これには別の観方があることを知って下さい。つまり、あなた方にとって死は確かに恐るべきことでしょう。が私たち霊界の者とっては、ある意味で喜ぶべき出来ごとなのです。

赤ちゃんが誕生すればあなた方は喜びますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるのです。反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらは大よろこびでお迎えしています。

次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。これは運命と自由意志という相反する二つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です。

つまり運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されているわけです。説明の難しい問題ですが、そう言い表すほかにいい方法が思い当たりません」


───事故が予知できるのはなぜでしょう。

 「その人が一時的に三次元の物的感覚から脱して、ホンの瞬間ですが、時間の本来の流れをキャッチするからです。大切なことは、本来時間というのは〝永遠なる現在〟だということです。このことをよく理解して下さい。人間が現在と過去とを区別するのは、地上という三次元の世界の特殊事情に起因するのであって、時間には本来過去も未来もないのです。

三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になることが今現在において知ることが出来ます。もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味を持つかは、これはまた別の問題です。

単に物的感覚の延長に過ぎない透視、透聴の類の心霊的能力 Psychic Powers によっても予知できますし、霊視・霊聴の類の霊感 spiritual Powers によっても知ることが出来ます。Psychic と spiritual は同じではありません。

いわゆる ESP (Extra Sensory Perception 超感覚的知覚 )は人間の霊性には何のかかわりもなく、単なる五感の延長に過ぎないことがあります」

  
───占星術というのがありますが、誕生日が人の生涯を支配するものでしょうか。

 「およそ生命あるものは、生命を持つが故に何らかの放射を行っております。生命は常に表現を求めて活動するものです。その表現は昨今の用語で言えば波長とか振動によって行われます。

宇宙間のすべての存在が互いに影響し合っているのです。雷雨にも放射活動があり、人体にも何らかの影響を及ぼします。言うまでもなく太陽は光と熱を放射し、地上の生命を育てます。

木々も永年にわたって蓄えたエネルギーを放射しております。要するに大自然すべてが常に何らかのエネルギーを放射しております。従って当然他の惑星からの影響も受けます。それはもちろん物的エネルギーですから、肉体に影響を及ぼします。しかし、いかなるエネルギーも、いかなる放射性物質も、霊魂にまで直接影響を及ぼすことはありません。

影響するとすれば、それは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度に過ぎません」


───今の質問者が言っているのは、例えば二月一日に生まれた人間はみんな同じ様な影響を受けるのかという意味だと思うのですが・・・。

 「そんなことは絶対にありません。なぜなら霊魂は物質に勝るものだからです。肉体がいかなる物的影響下におかれても、宿っている霊にとって征服できないものはありません。

もっともその時の条件にもよりますが。いずれにせよ肉体に関するかぎり、すべての赤ん坊は進化の過程の一部として特殊な肉体的性格を背負って生まれてきます。それは胎児として母体に宿った日や地上に出た誕生日によって、いささかも影響を受けるものではありません。

しかし、そうした肉体的性格や環境の如何にかかわらず、人間はあくまで霊魂なのです。霊魂は無限の可能性を秘めているのです。その霊魂の未来の力を発揮しさえすれば、いかなる環境も克服しえないことはありません。もっとも、残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂の方が右往左往させられておりますが・・・」


───これから先のことはどの程度まで運命づけられているのでしょうか。それは自分の行いや心掛けによってどの程度まで変えられるのでしょうか。

〝なあ、ブルータスよ、
オレたちがうだつが上がらんのは星のせいじゃない。
オレたち自身が悪いのさ〟(シェークスピア)

〝門がいかに狭かろうが
いかなる逆境が運命の巻き物に記されていようと、
私は平気だ。なぜなら
運命の主人公はこの私だからだ。
私が魂の指揮者なのだ〟(W・E・ヘンリー)


 この二つの誌文を引用してからシルバーバーチはこう続けた。
 「惑星は物的存在です。それぞれに放射物を出しバイブレーションを発しております。しかしあなた方は物的存在であると同時に霊的存在です。内部には、物的なものから受ける影響のすべてを克服する力を具えております。未来は過去が生んでいきます。

自分の行為を思念によって創り出していくのです。大自然の法則についてはすでにお話しました。その一つに因果律があります。自分が蒔いたタネは自分が刈り取るという法則です。ある花のタネを蒔けば、その種の花が咲き、それ以外の花は咲きません。あなた方の未来も同じです。

過去と現在によって決定されるのです。外部から与えられる罰ではありません。自分でこしらえていくのです。これから先どうなるのだろう───こうした不安の念を抱くということそれ自体が、それを本当に実現させる手助けをしていることになります」


 出席者がしきりに〝災害〟とか〝悲劇〟とかの言葉を使って語り合っているのを聞いていてこう述べた。

 「物的な側面だけを見つめてはいけません。物的尺度で無限なるものを計ることはできません。そのことを常に念頭において物事を判断して下さい。物的な目だけで見れば地上は不公平だらけです。しかし悪行に対する懲罰があるように、善行に対する報酬も必ずあります。

霊的な天秤はいつかは平衝を取り戻すようになっているのです。地上生活は永遠なる生命のごく短い一時期に過ぎません。

 人間にとって悲劇に思えることが私どもにとって有難いことである場合があります。人間が有難がっていることが私どもにとって困ったことである場合があります。人間は私たちから見てどうでもいいこと、あるいは霊的に何の価値もないものを大切にしすぎます。財産、この世的な富、権力、支配への欲望です。強欲と貪欲によって動かされている人間が多すぎます」


 さらに霊的進化について聞かれて───

 「霊に関わる分野において進歩が容易に得られることは有り得ません。もし容易であれば成就する価値がないことになります。霊的進化はもっとも成就しがたいものです。一歩一歩の向上が鍛錬と努力と献身と自己滅却と忠誠心によってようやく克ち得られるものだからです。

霊的褒賞を手に入れるには奮闘努力がいるのです。もしも簡単に手に入るものであれば価値は無いことになります。価値が出るのは入手が困難だからです。それはいつまでも終わることのない道程です。霊的進化に終局というものはありません。水平線のようなものです。近づくほどに遠ざかっていきます。

 それと同じで、学べば学ぶほど、さらに学ぶべきのものがあることを知ります。進歩は知識や真理や叡智と同じく、限界というものがありません。ここまでという区切りがないのです。

一段よりも二段が上であり、二段よりも三段が上であり、三段よりも四段が上であるに決まっていますが、いずれもそこまでの到達度を示しているにすぎません。一段一段が人生の目的、真実、人生の拠って立つ永遠の原理をそれだけ多く理解したという指標であり、その理解と共に調和が訪れます。

 成就は調和を生みます。宇宙を支配する霊力を身につけるごとに、それだけその根源との調和が深まります。生活が豊かさを増します。本当の価値の識別力が身に付きます。その識別力が正しく働くようになります。選択の優先順位がきちんと決められるようになります。何がもっとも大切であるかが分かるようになります。

ほかの人たちが必死に追い求めるものがあほらしく思えるようになります。この世的な富への執着がすっかり無くなった時、霊の宝がいささかも色褪せることなく、傷つくこともなく、常に本来の純粋素朴な美しさを見せるものです。

 私は物質面での進歩についてあれこれ申し上げる立場にありませんが、物的進歩にもそれなりの役割があります。身体にとって必須のものを無視することは私どもの教えに反します。身体がその正しい成長にとって必須のものをきちんと得ていないと、霊も正しく機能を発揮することが出来ません。

大切なのは身体と精神と霊の調和です。この三者が一体となって機能し、その結果として健康と幸福と冷静さと自信と決断力と安らぎが得られるのです。

 霊的なことばかり気を奪われて身体上のことをおろそかにすることは、身体のことばかり気を奪われて霊的なことをなおざりにするのと同じく間違っております。心の修養にばかりこだわって他の側面を忘れるのもまた間違っております」
                 

  

Tuesday, April 1, 2025

シアトルの春 最後に来た労働者たち

Workers who came last




 一、天の国とは、自分のブドウ園で働く労働者たちを雇いに、朝早く出かけたある家の主人と同じである。彼は、労働者一人につき、一日一デナリオを支払うことを取り決めると、ぶどう園へ行くように言った。九時頃になって再び出て行くと、広場でなにもせず会話をしている者たちをみつけた。

彼らに言った、「あなたたちも私のぶどう園へいけば、それに見合う賃金を支払いましょう」。彼らは行った。

十二時頃と三時頃にも再び出て行き、同じことをした。五時頃になり、再び出て行くと、また暇そうにしている者たちを見つけたので、次のように言った。

「なぜ、あなたたちは、働かずに一日中ここにいたのですか」。彼らは自分たちを誰も雇ってくれなかったのだと言った。するとその者たちに言った、「あなたたちも私のぶどう園へ行きなさい」。

 夕方になると、ぶどう園の主人はその仕事を監督していた者に言った、「労働者たちを呼び、最後に来た者から順番に、最初に来た者にまでわたるように賃金を支払いなさい」。そして五時に来た者たちがきて、一人一デナリオを受け取った。

最初に雇われた者たちの順番が来ると、より多く貰えるだろうと思い込んでいたにも関わらず、受け取ったのは一人一デナリオだけだった。

受け取ると、主人に対して不満を言った、「最後に来た者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日中、暑さと重さに耐えた私たちと同じだけ支払うのですか」。

 しかし、主人は答えて彼らに言った。「友よ、私はあなたに対してどんな損も与えていない。あなたは私と、一日一デナリオという取り決めをしたではありませんか。自分に与えられた賃金を受け取り、行きなさい。最後に来た者にも、私はあなたと同じだけ与えたいのです。

自分のものを自分が望むようにしてはいけないのですか。それとも、私が善いことを妬ましく思うのですか」。このように、最後の者が最初になり、最初の者は最後になるのです。なぜなら、呼ばれる者は多いが、選ばれる者は少ないからです。(→第十八章 1 結婚披露宴のたとえ話)。(マタイ第二十章 1-16)
  
  



   霊たちからの指導

  最後の者が最初になる
二、最後に来た労働者に報酬を受ける権利はありますが、雇ってくれる者の為に働く意欲を抱いている必要があり、また怠惰や意欲が低いために遅れてきたのであってはいけません。

なぜ報酬を受ける権利があるかと言えば、夜明けから、彼を仕事に呼んでくれる人が来るのを首を長くして待っていたからです。働き者でありながら、仕事が不足していたのです。

 しかし、「私たちは辛抱強い。休息は私に心地よい。ギリギリになってその日の報酬のことを考えればよい。私が知りもしなければ尊敬もしない雇い主にどうして迷惑をかける必要があるのか。

より遅くなってから働けばよい」と言って、もしその日の早い時間に働くことを拒否していたとしたらどうでしょうか。友よ、このような者には労働者としての報酬はなく、怠惰な者にふさわしい報酬しかなかったでしょう。

 では、働かずにいるばかりか、労働に当てられるべき時間をくだらないことに使い、神を冒涜し、兄弟の血を流し、家族に動揺を与え、その人に託されたものを破壊し、無実の者につけ込み、ついには、人類のあらゆる不名誉を増大させてしまった者達にはなんと言えばよいでしょうか。

また、次のような者はどうでしょうか。最後の時がやってきてから、「主よ、私の時間を無駄にしてしまいました。私を一日が終わるまで雇って下さい。

そうすればほんの少しではありますが、私は自分の任務を果たすことができるので、やる気のある労働者の報酬をお与えください」。いけません。それではいけません。主はこう言うでしょう。「今あなたに与える仕事はない。あなたは自分の時間を浪費しました。

学んだことを忘れたのです。もうあなたは私のぶどう園では働けません。だから意欲のある時に学ぶことを再開し、私に申しでてください。そうすれば、あなたが一日のいつの時間でも働けるよう、私の広い農地をあなたに解放します」。

 愛する善きスピリティストたちよ。あなたたちはみな、最後に来た労働者です。「私は夜明けから働いているのだし、日が暮れれば仕事を終えるまでだ」という人は自尊心の強い人です。皆が呼ばれた時にやって来たのであり、ある者は少し早く、ある者は少し遅く、再生にたどりついたのであり、みなが地上での生活につながれているのです。

しかし、主は何世紀にもわたって、あなたたちをぶどう園に呼び続けていましたが、あなたたちはそこへ行こうとはしなかったのです。

あなたたちには報酬の弁済をする時がやって来たのです。あなたたちに残された時間を有効に使い、あなたの一生が、あなたたちにどんなに長く感じられても、永遠と呼ぶ時間に比べれば、ほんのつかの間に過ぎないのだということを忘れてはなりません。(守護霊 コンスタンティーノ ボルドー、1863年)


三、イエスは象徴の簡潔さを好みましたが、その男性的な表現で伝えた最初にやって来た労働者たちとは預言者、つまり段階的な進歩の過程で足跡を残したモーゼやその他すべての開始者たちのことを指しており、その進歩は後に、使徒たち、殉教者たち、教会の創設者たち、賢者たち、哲学者たち、そして最後にはスピリティストたちによって記されることになるのです。

後から来た者たちは、救世主の登場の兆しがあった頃から宣言され予言されており、ここで同じ報酬を、あるいは、より大きな報酬を受け取ることになるでしょう。

人類は集合的に仕事に取り組んでいるために、後から到着した者は先駆者たちの知性的な働きを相続して利用します。神は人類の連帯性を祝福します。とは言え、実際には、昔の人々の多くが、今日再び生きているか、もしくは明日再び生きることになるのであって、そのようにして昔開始した事業を終わらせることになるのです。

一人の愛国者、一人の預言者、一人のキリストの使徒、一人のキリスト教信仰の宣教者以上の者が私たちの間に存在しているのです。

彼らはより啓発され、より進歩しており、その仕事はもはや基礎の仕事ではなく、建造物の棟木を組む仕事に取り組んでいるのです。したがって、受け取る報酬は、その仕事の価値に見合ったものになるのです。

 美しい再生の教義は霊的な従属関係を永遠のものとし、より明確にします。地上における任務の精算に呼ばれ、仕事を中断しても、霊は、継続的に再着手すべき仕事の存在に気づきます。彼はそれを見て、自分より先を行く者たちの考えを大まかに理解したと感じると、豊富な経験を生かしてさらなる前進に挑み始めるのです。

最初からいる労働者も、最後に来た労働者も、神の深い正義に対して目をしっかり開いている者はみな、不平を言うことはありません。彼らは仕事を熱愛しているのです。

 これがこの話の真なる意味の一つです。イエスが民衆に話す時に用いたすべてのたとえ話と同様に、その中には啓示が含まれており、未来の始まり、あらゆる形と姿において、宇宙の全てを調和する荘厳なる統合力、すべての者の現在を過去と未来に結びつける連帯性を示しているのです。(ハインリヒ・ハイネ パリ、1863年)
   
   
  スピリティストの使命
四、古い世界を奪い去り、地上の非道を消滅させる嵐の音がまだ聞こえないのですか。ああ、主よ、至上の正義にその信仰を託した者たちを祝福して下さい。

上から来る預言の声によって示された信仰の新しい使徒たちよ、その使命を正しく達成したか、地上における試練に耐えたかに従って起こる霊の向上と再生の教義を説きに行って下さい。

 もはや驚くことはありません。炎はあなたたちの頭上まで届いています。スピリティズムの真なる使徒たちよ。あなたたちは神に選ばれたのです。神の言葉を説きに出かけて行って下さい。あなたたちの習慣や労働や無用な従事を、その普及のために犠牲にすべき時がやってきました。

宣教に出かけて行って下さい。高尚な霊たちがあなたたちと共にあります。神の声は絶え間なく自己の放棄を呼びかけるので、あなたたちは必ず、神の声を聞きたがらない人々と話すことになるでしょう。

 貪欲な人々に無関心を、ふしだらな者には禁欲を、家庭の君主や暴君たちには温和さを説きに行って下さい。種を蒔く土地にあなたたちの汗で水をまくことを仕事としてください。一方で、福音の鍬やくわによって繰り返し耕されることが無ければ、その種が育ち実を結ぶことはありません。行って、教えを説いてください。

善き信心を持った者たちよ、無限の中にまき散らされた世界を前に、自分の劣等を認識する者たちよ。不正義と非道に対抗する活動に身を投じてください。

行って、日を追うごとに広がる金の子牛の崇拝を禁じてください。行けば神が道を示してくれます。質素で無知な人々よ、あなたたちの舌は動き、どんな雄弁家にもまねのできない話をすることができるでしょう。

行って教えを説いてください。注意深い人々はあなたたちの慰安、兄弟愛、希望、平和の言葉を幸せに受け止めるでしょう。

 あなたの行く道に待ち伏せる者のことを気にする必要はありません。狼の罠には狼しかはまることはなく、羊飼いはその羊たちを生贄の火から守ることを知っています。

 神の前に偉大なる人々よ、霊媒性を実際に目にすることに拘らずに受け入れる者たちよ、それを自分自身の手に入れることができなかったとしても、使徒トマスよりも幸せな者たちよ、行って下さい、行けば神の霊が導いてくれます。

 だから、威厳のある一隊よ、信仰によって前進して下さい。朝霧が朝日の光に消えていくように、大きな不信心の集団もその前から消えて行きます。

 信仰は山をも動かす美徳であることをイエスは言いました。しかし、最も高い山よりも重いのは、人類の心の中に横たわる不純さと、そこから生まれるあらゆる悪癖なのです。

ですから、勇気を満たして出発し、あなたたちが異教徒の文明以前の時代についてとても不完全にしか知らないと同じように、未来の世代には昔話としてのみ知られるべき非道の山を取り除きに行って下さい。

 もっとも、地球上のあらゆる地点では、哲学的、道徳的反乱がまきおこるでしょう。神の光が二つの世界にあふれ、こぼれる時が近づいているのです。

 だから、神の言葉を運んで行って下さい。それらを軽んじるうぬぼれた人たちのもとにも、証拠を強いる知識人たちのもとにも、それらを受け入れる小さく、素朴な人々のもとにも運んで行って下さい。

なぜなら、特にそうした役割や地上の試練に殉じる者の中に、信仰と熱意が存在しているからです。行って下さい。こうした者たちは神への感謝と讃美の歌と共に、あなたたちが届ける聖なる慰安を受け取り、頭を下げ、地上が彼らに与えた苦しみに対して感謝をするでしょう。

 決意と勇気によってあなたたちの隊を武装してください。仕事に取り掛かってください。鍬の準備は整っています。土地が待ち受けています。耕しにかかってください。

 神が託してくれた輝かしい使命を、神に感謝しに行って下さい。しかし、注意も必要です。スピリティズムに呼ばれた者たちの中でも、多くの者がその道を歪めてしまいました。だから、あなたたちの道を修正し、真実に従って下さい。


質問=スピリティズムに呼ばれた者たちの中でも多くの者がその道を歪めたといいますが、正しい道にあるということを確認することのできる証とはなんでしょうか。

答え=彼らが教え、実践する真なる慈善の原則によって知ることができます。彼らが慰安を届ける苦しむ人々の数によって知ることができます。その隣人愛、甘受の態度、個人的な利害の放棄によって知ることができます。最後には、その原則の勝利によって知ることができます。なぜなら、神はその法の勝利を望んでいるからです。

神の法に従う者こそが選ばれた者たちであり、神は彼らに勝利を与えます。しかし神は、その法の真髄を偽り、自分の野望と虚栄心の満足の足がかりとして利用する者たちを消滅させます。(霊媒の守護霊エラストゥス パリ、1863年)(→FEB版注1)
   

  主の労働者たち
五、人類の変革のために生じることが告知された事柄が成就する時が近づいています。その時、自己放棄と慈善以外の目的なしに主の農園で働いている者は幸運です。その労働の日々は期待していたよりも百倍にして支払われるでしょう。

「主がやってきた時には仕事が終わっているように、ともに働き、私たちの力を合わせましょう」と自分の兄弟に伝える者は幸いです。

彼らに主は、「善き使いたちよ、私のもとへ来なさい。あなたたちは自分の妬みやあなたたちの不和に対して静寂を強いることを知り、仕事に損害を与えませんでした」というでしょう。

しかし、自分たちの意見の相違によって収穫の時期を遅らせてしまった者は不幸なものです。なぜなら、嵐が彼らのもとへやって来て、竜巻の中に巻き込まれてしまうからです。

「慈悲を、慈悲を」と叫ぶでしょう。しかし主は、「自分たちの兄弟に対して慈悲がなく、彼らに手を差しのべることを拒んだ者たちよ、弱き者たちを助ける代わりに圧した者たちよ、どうして慈悲を求めることができようか」と言うでしょう。

あなたたちの報酬をすでに地上の喜びや自分たちの自尊心を満たすことの中に求めておきながら、どうして慈悲を求めることができましょうか。すでに求めていた通りの報酬は受け取ったのです。あなたたちに求められるものはなく、天における報酬は、地上において報酬を求めなかった者たちのものなのです。

 神はいままさに、その忠実な使徒たちを調べにあたっており、献身が単に表面的な者たちには既にしるしをつけ、彼らが活力に満ちた使徒たちの報酬を騙し取ることができないようにしています。

自分たちの仕事を前にして退くことのない者たちに、神はスピリティズムによる偉大なる更生の事業の中のより難しい役割を託すでしょう。次の言葉のとおりになるのです。「天の国においては、先の者たちが後になり、後の者たちが先になる」(真実の霊 パリ、1862年)


●FEB版注1
フランス語第三版において、この通信は署名もなく不完全に記されている。原書第一版に合わせて修正した。-FEB,1948