Friday, December 19, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

 The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

四章 天界の〝控えの間〟地上界


3 〝下界〟と地縛霊

一九二三年十一月二八日 金曜日

 人類の救世主、神の子イエス・キリストが〝天へ召される者は下界からも選ばれる〟と述べていることについて考察してみたい。下界に見出されるのみならず、その場において天に召されるという。

その〝下界から選ばれる者〟はいずこに住む者を言うのであろうか。これにはまずイエスが〝下界〟という用語をいかなる意味で用いているかを理解しなければならない。

この場合の下界とはベールの彼方においてとくに物質が圧倒的影響力を持つ界層のことを指し、その感覚に浸る者は、それとは対照的世界すなわち、物質は単に霊が身にまとい使用する表現形体に過ぎぬことを悟る者が住む世界とは、霊的にも身体的にも全く別の世界に生活している。

 それ故、下界の者と言う時、それは霊的な意味において地上に近き界層に居る者を指す。時に地縛霊と呼ぶこともある。肉体に宿る者であろうと、すでに肉体を棄てた者であろうと、同じことである。

身は霊界にあっても魂は地球に鎖でつながれ、光明の世界へ向上して行くことが出来ず、地球の表面の薄暗き界層にたむろする者同士の間でしか意志の疎通が出来ない。完全に地球の囚われの身であり、彼らは事実上地上的環境の中に存在している。

 さてイエスはその〝下界〟より〝選ばれし者〟を天界へ召されたという。その者たちの身の上は肉体をまとってはいても霊体によって天界と疎通していたことを意味する。その後の彼らの生活態度と活躍ぶりを見ればその事実に得心が行く。

悪のはびこる地上をやむを得ぬものと諦めず、悪との闘いの場として厳然と戦い、そして味方の待つ天界へ帰って行った彼ら殉教者の不屈の勇気と喜びと大胆不敵さは、その天界から得ていたのであった。そして同じことが今日の世にも言えるのである。

 これとは逆に地上の多くの者が襲われる恐怖と不安の念は地縛霊の界層から伝わって来る。その恐怖と不安の念こそがそこに住む者たちの宿業なのである。肉体はすでに無く、さりとて霊的環境を悟るほどの霊覚も芽生えていない。が、

それでも彼らはその界での体験を経て、やがては思考と生活様式の向上により、それに相応しい霊性を身につけて行く。

 かくて人間は〝身は地上に在っても霊的にはこの世の者とは違うことが有り得る〟という言い方は事実上正しいのである。

 これら二種類の人間は、こちらへ来ればそれ相応の境涯に落着くのであるが、いずれの場合も自分の身の上については理性的判断による知識はなく、無意識であったために、置かれた環境の意外性に驚く者が多い。

 このことを今少し明確にするために私自身の知識と体験の中から具体例を紹介してみよう。

 曽て私は特別の取り扱いを必要とする男性を迎えに派遣されたことがある。特別というのは、その男は死後の世界について独断的な概念を有し、それに備えた正しく且つ適切な心掛けはかくあるべしとの思想を勝手に抱いていたからである。

地球圏より二人の霊に付き添われて来たのを私がこんもりとした林の中で出迎えた。二人に挟まれた格好で歩いて来たが、私の姿を見て目が眩んだのか、見分けのつかないものを前にしたような当惑した態度を見せた。

 私は二人の付き添いの霊に男を一人にするようにとの合図を送ると、二人は少し後方へ下がった。男は始めのうち私の姿がよく見えぬようであった。そこで、こちらから意念を集中すると、ようやく食い入るように私を見つめた。

 そこでこう尋ねてみた。「何か探しものをしておられるようだが、この私が力になってさしあげよう。その前に、この土地へお出でになられてどれほどになられるであろうか。それをまずお聞かせ願いたい。」

 「それがどうもよく判りません。外国へ行く準備をしていたのは確かで、アフリカへ行くつもりだったように記憶しているのですが、ここはどう考えても想像していたところではないようです。」

 「それはそうかも知れない。ここはアフリカではありません。アフリカとはずいぶん遠く離れたところです。」

 「では、ここは何という国でしょうか。住んでいる人間は何という民族なのでしょうか。先ほどのお二人は白人で、身なりもきちんとしておられましたが、これまで一度も見かけたことのないタイプですし、書物で読んだこともありません。」

 「ほう、貴殿ほどの学問に詳しい方でもご存知ないことがありますか。が、貴殿もそうと気づかずにお読みになったことがあると思うが、ここの住民は聖人とか天使とか呼ばれている者で、私もその一人です。」

 「でも・・・・・・」彼はそう言いかけて、すぐに口をつぐんだ。まだ私に対する信用がなく、余計なことを言って取り返しのつかぬことにならぬよう、私に反論するのを控えたのである。

何しろ彼にしてみればそこは全くの見知らぬ国であり、見知らぬ民族に囲まれ、一人の味方もいなかったのであるから無理もなかろう。

 そこで私がこう述べた。「実は貴殿は今、曽てなかったほどの難問に遭遇しておられる。これまでの人生の旅でこれほど高くそして部厚い壁に突き当たったことはあるまいと思われます。これから私がざっくばらんにその真相を打ち明けましょう。

それを貴殿は信じて下さらぬかも知れない。しかし、それを信じ得心が行くまでは貴殿に心の平和は無く、進歩もないでしょう。

貴殿がこれより為さねばならないことは、これまでの一切の自分の説を洗いざらいひっくり返し裏返して、その上で自分が学者でも科学者でもない、知識の上では赤子に過ぎないこと、この土地について考えていたことは一顧の価値もない──つまり完全に間違っていたことを正直に認めることです。

酷なことを言うようですが、事実そうであれば致し方ないでしょう。でも私をよく見つめていただきたい。私が正直な人間で貴殿の味方だと思われますか、それともそうは見えぬであろうか。」

 男はしばし真剣な面持ちで私を見つめていたが、やがてこう述べた。「あなたのおっしゃることは私にはさっぱり理解できませんし、何か心得違いをしている狂信家のように思えますが、お顔を拝見した限りでは真面目な方で私の為を思って下さっているようにお見受けします。で、私に信じて欲しいとおっしゃるのは何でしょうか。」

 「〝死〟についてはもう聞かされたことでしょう。」

 「さんざん!」

 「今私が尋ねたような調子でであろう。なのに貴殿は何もご存知ない。知識というものはその真相を知らずしては知識とは言えますまい。」

 「私に理解できることを判り易くおっしゃってください。そうすればもう少しは吞み込みがよくなると思うのですが・・・・・・」

 「ではズバリ申し上げよう。貴殿はいわゆる〝死んだ人間〟の一人です。」
 これを聞いて彼は思わず吹き出し、そしてこう述べた。

 「一体あなたは何とおっしゃる方ですか。そして私をどうなさろうと考えておられるのでしょうか。もし私をからかっておられるだけでしたら、それはいい加減にして、どうか私を行かせてください。この近くにどこか食事と宿を取る所がありますか。少しこれから先のことを考えたいと思いますので・・・・・・」

 「食事を取る必要はないでしょう。空腹は感じておられないでしょうから・・・・・・宿も必要ありません。疲労は感じておられないでしょうから・・・・・・それに夜の気配がまるでないことにお気づきでしょう。」


 そう言われて彼は再び考え込み、それからこう述べた。

 「あなたのおっしゃる通りです。腹が空きません。不思議です。でもその通りです。空腹を感じません。それに確かに今日という日は記録的な長い一日ですね。わけが分かりません。」

 そう言って再び考え込んだ。そこで私がこう述べた。

 「貴殿はいわゆる死んだ人間であり、ここは霊の国です。貴殿は既に地上を後にされた。

ここは死後の世界で、これよりこの世界で生きて行かねばならず、より多く理解して行かねばならない。まずこの事実に得心が行かなければ、これより先の援助をするわけには参りません。しばらく貴殿を一人にしておきましょう。

よく考え、私に聞きたいことがあれば、そう念じてくれるだけで馳せ参じましょう。それに貴殿をここまで案内してきた二人が何時も付き添っています。何なりと聞かれるがよろしい。答えてくれるでしょう。

ただ注意しておくが、先ほど私の言い分を笑ったような調子で二人の言うことを軽蔑し喋笑してはなりません。謙虚に、そして礼儀を失いさえしなければ二人のお伴を許しましょう。

貴殿はなかなか良いものを持っておられる。が、これまでも同じような者が多くいましたが、自尊心と分別の無さもまた度が過ぎる。それを二人へ向けて剥き出しにしてはなりませんぞ。

その点を篤と心してほしい。と言うのも、貴殿は今、光明の世界と影の世界との境界に位置しておられる。そのどちらへ行くか、その選択は貴殿の自由意志に任せられている。神のお導きを祈りましょう。それも貴殿の心掛け一つに掛かっています。」

 そう述べてから二人の付き添いの者に合図を送った。すると二人が進み出て男のそばに立った。そこで三人を残して私はその場を離れたのであった。


──それからどうなりました。その男は上を選びましたか下を選びましたか。

 その後彼からは何の音沙汰もなく、私も久しく彼のもとを訪れていない。根がなかなか知識欲旺盛な人間であり、二人の付き添いがあれこれ面倒を見ていた。が、

次第にあの土地の光輝と雰囲気が慣染まなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に優るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛き屈辱の体験でもあった。

しかし彼は勇気ある魂の持ち主で、ついに己れに克った。その時点において二人の付き添いに召されて再び始めの明るい界層へと戻った。

 そこで私は前に迎えた時と同じ木蔭で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで、安易に人を軽蔑することもなくなっていた。私が静か見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの時のことを思い出して羞恥心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私をあざ笑ったことをえらく後悔していたようであった。

 やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。嗚咽で肩を震わせているのが判った。

 私はその頭に手を置いて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうしたことはよくあることである。 ♰

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

 The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

四章 天界の〝控えの間〟地上界


2 一夫婦の死後の再会の情景

一九一三年十一月二七日  火曜日

 前回述べたことに更に付け加えれば、地上の人間は日々生活を送っているその身のまわりに莫大な影響力が澎湃(ほうはい)として存在することに殆ど気づいていない。

すぐ身の回りに犇(ひし)めく現実の存在であり、人間が意識するとせぬとに拘らず生活の中に入り込んでいる。しかもその全てが必ずしも善なるものではなく、中には邪悪なるものもあれば中間的なもの、すなわち善でもなければ悪でもない類のものもある。

 よって私がエネルギーだの影響力だのと述べる時、必然的にそこにはそれを使用する個性的存在を想定してもらわねばならない。

人間は孤独な存在ではなく、孤独では有り得ず、また単独にて行動することも出来ず、常に何らかの目に見えない存在と共に行動し、意識し、工夫していることになる。その目に見えぬ相手がいかなる性質(たち)のものとなるかは、意識するとせぬとに拘らず当人自身が選択しているのである。

 この事実に鑑みれば、当然人間はすべからくその選択に慎重であらねばならないことになるが、それを保証するのは〝祈り〟と〝正しい生き方〟である。崇敬と畏怖の念を持って神を想い、敬意の念を持って同胞を思いやることである。

そして何を行うにも常に守護・指導に当たる霊が自分の心の動き一つ一つを見守り注視していること、今の自分、およびこれより変わり行く自分がそのまま死後の自分であること、その時は今の自分にとって物的であり絶対であり真実と思えることももはや別世界の話となり、地球が縁なき存在となり、地上で送った人生も遠い昔の旅の思い出となり、

金も家財道具も庭の銘木も、その他今の自分には掛けがえのない財産と思えるものの一切が自分のもので無くなることを心して生活することである。

 こちらへ来れば地上という学校での成績も宝も知人もその時点で縁が切れ、永遠に過去のものとなることを知るであろう。

その時は悲しみと後悔の念に襲われるであろうが、一方においては言葉に尽せぬよろこびと光と美と愛に包まれ、その全てが自分の思うがままとなり、先に他界した縁故者がようこそとばかりに歓迎し、霊界の観光へ案内してくれることであろう。

 では、窓一つない狭き牢獄のような人生観を持って生涯を送った者には死後いかなる運命が待ち受けていると思われるか。そういう者の面倒を私は数多くみてきたが、彼らは地上で形づくられた通りの心を持って行動する。

すなわちその大半が自分の誤りを認めようとしないものである。そういう者ほど地上で形成し地上生活には都合の良かった人生観がそう大きく誤っているはずはないと固く信じ切っている。

この類の者はその委縮した霊的視野に光が射すに至るまでには数多くの苦難を体験しなければならない。

 これに対し、この世的財産に目もくれず、自重自戒の人生を送った者は、こちらへ来て抱え切れぬほどの霊的財宝を授かり、更には歓迎とよろこびの笑顔を持って入れ替わり立ち替わり訪れてくれる縁故者などの霊は、一人一人確かめる暇(いとま)もないほどであろう。

そしてそこから真の実在の生活が始まり、地上より遥かに祝福多き世界であることを悟るのである。

 では以上の話を証明する実際の光景を紹介してみよう。

 緑と黄金色に輝き、色とりどりの花の香りが心地よく漂う丘の中腹に、初期の英国に見るような多くの小塔とガラス窓を持った切妻の館がある。それを囲む樹木も芝生も、また麓の湖も、色とりどりの小鳥が飛び交い、さながら生を愉しんでいる如く見える。地上の景色ではない。

これもベールの彼方の情景である。こちらにも地上さながらの情景が存在することは今さら述べるまでもあるまい。ベールの彼方には地上の善なるもの美なるものが、その善と美とを倍加されて存在する。

この事実は地上の人間にとって一つの驚異であるらしいが、人間がそれを疑うことこそ吾々にとりて驚異なのである。

 さて、その館の櫓(やぐら)の上に一人の貴婦人が立っている。身にまとえる衣服がその婦人の霊格を示す色彩に輝いているが、その色彩が地上に見当たらぬ故に何色とも言うことが出来ない。黄金の深紅色とでも言えようか。が、これでも殆んど伝わらないのではないかと思われる。

 さて婦人は先ほどから湖の水平線の彼方に目をやっている。そこに見える低い丘は水平線の彼方から来る光に美しく照り映えている。婦人は見るからにお美しい方である。姿は地上のいかなる婦人にも増して美しく整い、その容貌はさらにさらに美しい。

目は見るもあざやかなスミレ色の光輝を発し、額に光る銀の星は心の変化に応じてさまざまな色調を呈している。その星は婦人の霊格を表象する宝石である。言わば婦人の霊的美の泉であり、その輝き一つが表情に和みと喜びを増す。

この方は数知れぬ乙女の住むその館の女王なのである。乙女たちはこの婦人の意志の行使者であり、婦人の命に従って引きも切らず動き回っている。それほどこの館は広いのである。

 実はこの婦人は先ほどから何者かを待ちこがれている。そのことは婦人の表情を一見すれば直ちに察しがつく。

やがてその麗しい目からスミレ色の光輝が発し、それと同時に口元から何やら伝言が発せられた。そのことは、婦人の口のすぐ下から青とピンクと深紅色の光が放射されたことで判った。その光は、人間には行方を追うことさえ出来まいと思われるほど素早かった。

 すると間もなく地平線の右手に見える樹木の間をぬって、一隻のボートが勢いよくこちらへ向けて進んで来るのが見えてきた。オールが盛んに水しぶきを立てている。

金箔を着せた船首が散らす水しぶきはガラス玉のような輝きを見せながら、あるいはエメラルド、あるいはルビーとなって水面へ落ちて行く。やがてボートは船着き場に着いた。着くと同時に眩ゆいばかりに着飾った一団が大理石で出来た上り段に降り立った。

その上り段は緑の芝生へ通じている。一団は足取りも軽やかに上って来たが、中にただ一人、ゆっくりとした歩調の男が居る。その表情は喜びに溢れてはいるが、その目はまだ辺りを柔らかく包む神々しい光に十分慣れていないようである。

 その時、館の女王が大玄関より姿を見せ一団へ向かって歩を進めた、女王は程近く接近すると歩を止め、その男に懐かしげな眼差しを向けられた。男の目がたちまち困惑と焦燥の色に一変した。すると女王が親しみを込めた口調でこう挨拶された。

「ようこそジェームス様。ようやくあなた様もお出でになられましたね。ようこそ。ほんとにようこそ。」

 が、彼はなおも当惑していた。確かに妻の声である。が昔とだいぶ違う。それに、妻は確か死んだ時は病弱な白髪の老婆だったはずだ。それがどうしたことだ。いま目の前にいる妻は見るからに素敵な女性である。

若すぎもせず老いすぎもせず、優雅さと美しさに溢れているではないか。

 すると女王が言葉を継いだ。「あれよりこの方、私は蔭よりあなた様の身をお護りし、片時とて離れたことがございませんでした。たったお一人の生活でさぞお淋しかったことでしょう。が、それもはや過去のこと。

かくお会いした上は孤独とは永遠に別れを告げられたのでございます。ここは永遠に年を取ることのない神の常夏の国。息子たちやネリーも地上の仕事が終わればいずれこちらへ参ることでしょう。」

 女王はそう語ることによって自分が曽ての妻であることを明かさんと努力した。そしてその願いはついに叶えられた。彼はその麗わしくも神々しい女王こそまさしく吾が妻、吾が愛しき人であることを判然と自覚し、そう自覚すると同時に感激に耐えかねて、どっと泣きくずれたのである。

再び蘇った愛はそれまでの畏敬の念を圧倒し、左手で両目を押さえ、時折垣間見つつ、一歩二歩と神々しき女王に近づいた。

それを見た女王は喜びに顔をほころばせ、急いで歩み寄り、片腕を彼の肩に掛け、もう一方の手で彼の手を握りしめて厳かな足取りで彼と共に石段を登り、その夫のために用意していた館の中へ入って行ったのであった。

 さよう、その館こそ実に二人が地上で愛の巣を営み、妻の死後その妻を弔いつつ彼が一人さびしく暮らしたドーセット(英国南部の州)の家の再現なのである。

私はその家族的情景を、天界なるものが感傷的空想の世界ではなく、生き生きとして実感あふれる実存の世界であることを知ってもらうために綴ったのである。

家、友、牧場──天界には人間の親しんだ美しいものが全て存在する。否、こちらへ来てこそ、地臭を捨てた崇高なる美を発揮する。

 この夫婦は素朴にして神への畏敬の念の中に、貧しき者にも富める者にも等しく交わる良き人生を送った。こうした人々は必ずや天界にてその真実の報酬を授かる。その酬いはこの物語の夫婦の如く、往々にして予想もしなかったものなのである。

 この再会の情景は私が実際に見たものである。実は私もその時の案内役としてその館まで彼に付き添った者の一人であった。その頃は私はまだその界の住民だったのである。

──第何界での出来ごとでしょうか。

 六界である。さて、これにて終わりとしよう。私はしみじみ思う──愛に発する行為を行い、俗世での高き地位よりも神の義を求める、素朴な人間を待ち受ける栄光を少しでも知らせてあげたいものと。

そうした人間はあたかも星の如くあるいは太陽の如く、辺りの者がただ側(そば)にいるだけでその光輝によって一段と愛らしさを増すことであろう。 ♰
                                           

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(七)

More Wisdom of Silver Birch Edited by Sylvia Barbanell

十一章 なぜ神に祈るのか

 


 〝あなたはなぜ神に祈るのですか〟と問われてシルバーバーチは〝祈り〟の本来のあり方について次のように述べた。

 「それは、私に可能なかぎり最高の〝神の概念〟に波長を合わせたいという願いの表れなのです。

 私は祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、つまり抑え難い気持ちを外部へ向けて集中すると同時に、内部へ向けて探照の光を当てる行為であると考えております。ほんとうの祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。

われわれの心の中に抱く思念は神は先刻ご承知なのです。要望は口に出される前にすでに知れているのです。

 なのになぜ祈るのか。それは、祈りとはわれわれのまわりに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段だからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態に置くことになるのです。

僅かな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることが出来、かくしてわれわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。

 利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーのムダ使いをしているに過ぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。が、自分をよりいっそう役立てたいという真摯な願いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめるための祈りであれば、その時の高められた波長を通して力と励ましと決意を授かり、祈りが本来の効用を発揮したことになります。

 では誰に、あるいは何に祈るべきか──この問題になると少し厄介です。なぜなら人間一人ひとりに個人差があるからです。人間は必然的に自己の精神的限界によって支配されます。その時点までに理解したものより大きいものは心象として描きえないのです。

ですから私もこれまでに地上にもたらされた知識に、ある程度まで順応せざるを得ないことになります。たとえば私は言語という媒体を使用しなければなりませんが、これは観念の代用記号にすぎず、それ自体が、伝えるべき観念に制約を加える結果となっています。

 このように地上のための仕事をしようとすれば、どうしても地上の慣例や習慣、しきたりといったものに従わざるを得ません。ですから私は、神は人間的存在でないと言いながら男性代名詞を使用せざるを得ないことになります (たとえば〝神の法則〟というのを His Iaws というぐあいに──訳者)。私の説く神は宇宙の第一原因、始源、完全な摂理です。

 私が地上にいた頃はインディアンはみな別の世界の存在によって導かれていることを信じておりました。それが今日の実験会とほぼ同じ形式で姿を見せることがありました。その際、霊格の高い霊ほどその姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。

そこで我々は最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像したわけです。いつの時代にも〝白〟という のは 〝完全〟〝無垢〟〝混ぜもののない純粋性〟 の象徴です。そこで最高の霊は 〝白光の大霊〟 であると考えました。当時としてはそれが我々にとって最高の概念だったわけです。

 それは、しかし、今の私にとっても馴染みぶかい言い方であり、どのみち地上の言語に移しかえなければならないのであれば、永年使い慣れた古い型を使いたくなるわけです。

ただし、それは人間ではありません。人間的な神ではありません。神格化された人間ではありません。何かしらでかい存在ではありません。激情や怒りといった人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。

永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的な宇宙エネルギーであり、それが個別的意識形体をとっているのが人間です。

 しかしこうして述べてみますと、やはり今の私にも全生命の背後の無限の知性的存在である神を包括的に叙述することは不可能であることを痛感いたします。が少なくとも、これまで余りに永いあいだ地上世界にはびこっていた多くの幼稚な表現よりは、私が理解している神の概念に近いものを表現していると信じます。

 忘れてならないのは、人類は常に進化しているということ、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっているということです。知的地平線の境界がかつてほど狭くなくなり、神ないしは大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれにともなって進化しております。しかし神自体は少しも変わっておりません。

 これから千年後には地上の人類は今日の人類よりはるかに進化した神の概念を持つことになるでしょう。だからこそ私は、宗教は過去の出来ごとに依存してはいけないと主張するのです。過去の出来ごとを、ただ古い時代のことだから、ということで神聖であるかに思うのは間違いです。

霊力を過去の一時代だけに限定しようとすることは、霊力が永遠不変の実在であるという崇高な事実を無視することで、所詮は無駄に終わります。地上のいずこであろうと、通路のあるところには霊力は注がれるのです。

(訳者注──聖霊は紀元六六年まで聖地パレスチナにのみ降り、それきり神は霊力の泉に蓋をされた、というキリスト教の教えを踏まえて語っている)

 過去は記録としての価値はありますが、その過去に啓示の全てが隠されてるかに思うのは間違いです。神は子等に受容能力が増すのに応じて啓示を増してまいります。生命は常に成長しております。決して静止していません。〝自然は真空を嫌う〟という言葉もあるではありませんか。

 あなた方は人々に次のように説いてあげないといけません。すなわち、どの人間にも神性というものが潜在し、それを毎日、いえ、時々刻々、より多く発揮するために活用すべき才能が具わっていること、それさえ開発すれば、周囲に存在する莫大な霊的な富が誰にでも自由に利用できること、言語に絶する美事な叡知が無尽蔵に存在し、活用されるのを待っているということです。

人類はまだまだその宝庫の奥深くまで踏み込んでいません。ほんの表面しか知りません」


──あなたは霊的生活に関連した法則をよくテーマにされますが、肉体の管理に関連した法則のことはあまりおっしゃってないようにお見受けします。

 「おっしゃる通り、あまり申し上げておりません。それは、肉体に関して必要なことはすでに十分な注意が払われているからです。私が見るかぎり地上の大多数の人間は自分自身の永遠なる部分すなわち霊的自我について事実上何も知らずにおります。

生活の全てを肉体に関連したことばかりに費しております。霊的能力の開発に費している人は殆ど──もちろんおしなべての話ですが──いません。

第一、人間に霊的能力が潜在していることを知っている人がきわめて少ないのです。そこで私は、正しい人生観を持っていただくためには、そうした霊的原理について教えてあげることが大切であると考えるわけです。

 私はけっして現実の生活の場である地上社会への義務を無視して良いとは説いておりません。霊的真理の重大性を認識すれば、自分が広い宇宙の中のこの小さな地球上に置かれていることの意味を理解して、いちだんと義務を自覚するはずです。

自国だけでなく広い世界にとってのより良き住民となるはずです。人生の裏側に大きな計画があることを理解し始め、その大機構の中での自分の役割を自覚しはじめ、そして、もしその人が賢明であれば、その自覚に忠実に生きようとしはじめます。

 肉体は霊の宿である以上、それなりに果たすべき義務があります。地上にいるかぎり霊はその肉体によって機能するのですから、大切にしないといけません。が、そうした地上の人間としての義務をおろそかにするのが間違っているのと同じく、霊的実在を無視しているのも間違いであると申し上げているのです。

 また世間から隔絶し社会への義務を果たさないで宗教的ないし神秘的瞑想に耽っている人が大勢いますが、そういう人たちは一種の利己主義者であり、私は少しも感心しません。何ごとも偏りがあってはなりません。

いろんな法則があります。それを巾広く知らなくてはいけません。自分が授かっている神からの遺産と天命とを知らなくてはいけません。そこではじめて、この世に生まれてきた目的を成就することになるのです。

 霊的事実を受け入れることのできる人は、その結果として人生について新しい理解が芽生え、あらゆる可能性に目覚めます。霊的機構の中における宗教の持つ意義を理解します。科学の意義が分かるようになります。

芸術の価値が分るようになります。教育の理想が分るようになります。こうして人間的活動の全分野が理解できるようになります。一つ一つが霊の光で啓蒙されていきます。所詮、無知のままでいるより知識を持って生きる方がいいに決まっています」

 続いて二人の読者からの質問が読み上げられた。

 一つは「〝神は宇宙の全生命に宿り、その一つを欠いても神の存在はありません〟とおっしゃっている箇所がありますが、もしそうだとすると神に祈る必要ないことになりませんか」というものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

 「その方が祈りたくないと思われるのなら、別に祈る必要はないのです。私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないものを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列に過ぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。

魂の開発を促進するという霊的な目的です。ただし、だからといって祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。

 祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にするための刺戟──これから訪れるさまざまな闘いに打ち克つために守りを固める手段です。何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方にかかわってくる問題です。

 言い変えれば、祈りとは神性の一かけらである自分がその始源とのいっそう緊密なつながりを求めるための手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めたとき、その時こそ真の自我を見出したことになります」


 もう一つの質問は女性からのもので、「イエスは〝汝が祈りを求めるものはすでに授かりたるも同然と信ぜよ。しからば汝に与えられん〟と言っていますが、これは愛する者への祈りには当てはまらないように思いますが、いかがでしょうか」というものだった。これに対してシルバーバーチは答えた。

 「この方も、ご自分の理性にそぐわないことはなさらないことです。祈りたい気持ちがあれば祈ればよろしい。祈る気になれないのでしたら無理して祈ることはありません。イエスが述べたとされている言葉が真実だと思われれば、その言葉に従われることです。真実とは思えなかったら打っちゃればよろしい。

神からの大切な贈りものであるご自分の理性を使って日常生活における考え、言葉、行為を規制し、ご自分が気に食わないもの、ご自分の知性が侮蔑されるように思えるものを宗教観、哲学観から取り除いていけばよいのです。私にはそれ以上のことは申し上げられません」


──〝求めよ、さらば与えられん〟という言葉も真実ではなさそうですね。

 「その〝与えられるもの〟が何であるかが問題です。祈ったら何でもその通りになるとしたら、世の中は混乱します。最高の回答が何もせずにいることである場合だってあるのです」


──今の二つの格言はそれぞれに矛盾しているようで真実も含まれているということですね。

 「私はいかなる書物の言葉にも興味はありません。私はこう申し上げたことがあるはずです──われわれが忠誠を捧げるのは教義でもなく、書物でもなく、教会でもない、宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理である。と」



 シルバーバーチの祈り

 ああ神よ。私たちはあなたの尊厳、あなたの神性、無限なる宇宙にくまなく行きわたるあなたの絶対的摂理を説き明かさんと欲し、もどかしくも、それに相応しき言葉を求めております。

 私たちは、心を恐怖によって満たされ精神を不安によって曇らされている善男善女が何とかあなたへ顔を向け、あなたを見出し、万事が佳きに計らわれていること、あなたの御心のままにて全てが佳しとの確信を得てくれることを期待して、霊力の豊かな宝の幾つかを明かさんとしているところでございます。

 その目的の一環として私どもは、これまで永きにわたってあなたの子等にあなたの有るがままの姿───完璧に機能している摂理、しくじることも弱まることもない摂理、過ちを犯すことのない摂理としてのあなたを拝することを妨げてきた虚偽と誤謬と無知と誤解の全てを取り払わんとしております。

 私たちは宇宙には生物と無生物とを問わず全ての存在に対して、また全ての事態に対して備えができているものと観ております。あなた方から隠しおおせるものは何一つございません。神秘も謎もございません。あなたは全てを知ろしめし、全てがあなたの摂理の支配下にございます。

 それゆえ私どもは、その摂理───これまで無窮の過去より存在し、これより未来永劫に存在し続ける摂理を指向するのでございます。子等が生活をその摂理に調和させ、すべての暗黒、すべての邪悪、すべての混沌と悲劇とが消滅し、代わって光明が永遠に輝き渡ることでございましょう。

 さらに又、愛に死はないこと、生命は永遠であること、墓場は愛の絆にて結ばれし者を分け隔てることはできぬこと、霊力がその本来の威力を発揮したときは、いかなる障害も乗り切り、あらゆる障壁を突き破って、愛が再び結ばれるものであることを証明してみせることも私どもの仕事でございます。

 私たちは、人間が進化を遂げ、果たすべく運命づけられている己れの役割に耐えうる素質を身に付けた暁に活用されることを待っているその霊力の豊かさ、無尽蔵の本性を持つ無限なる霊の存在を明かさんと欲しているものでございます。
 ここに、己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

Thursday, December 18, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen
四章 天界の〝控えの間〟地上界


 1 インスピレーション

一九一三年十一月二六日  水曜日

 語りたいことは数多くある。霊界の組織、霊力の働き──それが最上界より発し吾々の界層を通過して地球へ至るまでに及ぼす影響と効果、等々。その中には人間に理解できないものがある。また、たとえ理解はできても信じてもらえそうにないものもある。

それ故私は、その中でも比較的単純な原理と作用に限定しようと思う。その一つがいわゆるインスピレーションの問題である。それが吾々と人間との間でどのように作用しているかを述べよう。

 ところで、このインスピレーションなる用語は正しく理解すれば実に表現力に富む用語であるが、解釈を誤ると逆に実に誤解を招き易い用語でもある。たとえば、それは吾々が神の真理を人間の心に吹き込むことであると言っても決して間違ってはいない。が、

それは真相のごく一部を述べているに過ぎない。それ以外のもの──向上する力、神の意志を成就する力、それを高尚な動機から成就しようとする道義心、その成就の為の叡智(愛と渾然一体となった知識)等々をも吹き込んでいるからである。

故に人間がインスピレーションを受けたと言う場合、それは一つの種類に限られたことではなく、また例外的なものでもない。

いかに生きるべきかを考えつつ生きている者──まったく考えぬ者はまずいないであろうが──は何らかの形で吾々のインスピレーションを受け援助を得ているのである。

 が、その方法を呼吸運動に譬えるのは必ずしも正しいとは言えない。それを主観的に解釈すればまだしもよい。人間が吸い込むのは吾々が送り届けるエネルギーの波動だからである。

人間は山頂において深呼吸し新鮮なる空気を胸いっぱいに吸い込み爽快感を味わうが、吾々が送り届けるエネルギーの波動も同時に吸い込んでいるのである。

 が、これを新しい神の真理を典雅なる言葉で世に伝える人々、あるいは古い真理を新たに説き直す特殊な人々のみに限られたことと思ってはならない。

病いを得た吾が子を介抱する母親、列車を運転する機関士、船を操る航海士、その他にもろもろの人間が黙々と仕事に勤しんでいるその合間をぬって、時と場合によって吾々がその考えを変え、あるいは補足している。

たとえ当人は気づかなくてもよい。大体において気づいていない。が、吾々は出来る範囲のことをしてそれで満足である。邪魔が入らぬ限りそれが可能なのである。

 その邪魔にも数多くある。頑な心の持ち主には無理して助言を押し付けようとはしない。その者にも自由意志があるからである。また、われわれの援助が必要とみた時でも、そこに悪の勢力の障害が入り込み、吾々も手出しが出来ないことがある。

悪に陥れんとする邪霊の餌食となり、その後の哀れな様は見るも悲しきものとなる。

 それぞれの人間が、老若男女を問わず、意識すると否とに拘らず、目に見えぬ仲間を選んでいると思えばよい。

当人が、吾々霊魂(スピリット)がこの地上に存在していること、つまり目に見えぬ未知の世界からの影響を受けているという事実をあざ笑ったとしても、善意と正しい動機にもとづいて行動しておれば、それは一向に構わぬことである。それが完全な障害となる気遣いは無用である。

吾々は喜んで援助する。なぜなら当人は真面目なのであり、いずれ自分の非を認める日も来るであろう──いずれ遠からぬ日に。ただ単に、その時点においては吾々の意図を理解するほどに鋭敏で無かったということに過ぎない。

人間が吾々の働きかけの意図を理解せず、結果的に吾々が誤解されることは良くあることである。

 水車は車軸に油が適度に差されているときは楽に回転する。これが錆びつけば水圧を増さねばならず、車輪と車軸との摩擦が大きくなり、動きも重い。

又、船員は新たに船長として迎えた人が全く知らない人間であっても、その指示には一応忠実に従うであろうが、よく知り尽くした船長であれば、例え嵐の夜であっても命令の意味をいち速く理解してテキパキと動くであろう。

互いに心を知り尽くしている故に、多くを語らずして船長の意図が伝わるからである。それと同じく、吾々の存在をより自然に、そしてより身近に自覚してくれている者の方が、吾々の意図をより正しく把握してくれるものである。

 それ故ひと口にインスピレーションと言っても意味は広く、その中身はさまざまである。古い時代の予言者は──今日でもそうであるが──その霊覚の鋭さに応じて霊界からの教示を受けた。霊の声を聞いた者もおれば姿を見た者もいた。

いずれも霊的身体に具わる感覚を用いたのである。また直感的印象で受けた者もいる。

吾々がそうした方法及び他の諸々の方法によって予言者にインスピレーションを送るその目的はただ一つ──人間の歩むべき道、神の御心に叶った道を歩むための心がけを、高い界にいる吾々が理解し得たかぎりにおいて、地上の人間一般へ送り届けることである。

もとより吾々の教えも最高ではなく、また絶対に誤りが無いとも言えない。が、少なくとも真剣に、そして祈りの気持ちと大いなる愛念を持って求める者を迷わせるようなことには絶対にならない。祈りも愛も神のものだからである。

そしてそれを吾ら神の使途は大いなる喜びとして受け止めるのである。

またそれを求めて遠くまで出向くことも不要である。なぜなら地上がすでに悪より善の勢力の方が優勢だからである。そしてその善と悪の程度次第で大いに援助できることもあれば、行使能力が制限されることもある。

 故に人間は、各自、次の二つのことを心しなければならない。一つは、天界にて神に仕える者の如くに地上に在りても常に魂の光を灯し続けることである。吾々が人間界と関わるのは神の意志を成就するためであり、そのために吾々が携えて来るのは他ならぬ神の御力だからである。

人間の祈りに対する回答は吾ら使徒に割り当てられる。つまり神の答えを吾々が届けるのである。故に吾々の訪れには常に油断なく注意しなければならない。

実は吾々は、かのイエスが荒野における誘惑と闘った時、またゲッセマネにおける最大の苦境にあった時に援助に赴いた霊団に属していたのである。(もっともあの時直接イエスと通じ合った天使は私よりは遥かに霊格の高きお方であるが。)

 もう一つ心しなければならないことは、常に〝動機〟を崇高に保ち、自分のためでなく他人の幸せを求めることである。吾々にとっても、己れ自身の利益より同胞の利益を優先させる者の進歩が最も援助しやすいものである。吾々は施すことによって授かる。

人間も同じである。イエスも述べた如く、動機の大半は施すことであらねばならない。そこにより大きな祝福への道があり、しかもそこに例外というものは無いのである。

 イエスの言葉を思い出すがよい。「私はこの命を捨てるに吝(やぶさ)かではない。が私はそれを私の子羊のために捨てるのである」と述べ、その言葉どおりに、そして、いささかの迷いもなく、潔く生命を捨てられた。が、捨てると同時に更に栄光ある生命を持って蘇られた。

ひたすら同胞への愛に動かされていたからである。貴殿も〝我〟を捨てることである。そうすれば、施すことの中にも授かることの中にも喜びを味わうことであろう。

これを完全に遂行することは確かに至難のわざである。が、それが本来の正しい道であり、ぜひ歩まねばならぬ道なのである。それを主イエスが身を持って示されたのである。


 花の導管は芳香を全部放出して人間を楽しませては、すぐまた補充し、そうした営みの中で日々成熟へと近づく。心優しき言葉はそれを語った人のもとに戻って来る。

かくして二人の人間はどちらかが親切の口火を切ることによって互いが幸せとなる。又、優しき言葉はやがて優しき行為となりて帰ってくる。かくて愛は相乗効果によって一層大きくなり、その愛と共に喜びと安らぎとが訪れる。

また施すことに喜びを感じる者、その喜び故に施しをする者は、天界へ向けて黄金の矢を放つにも似て、その矢は天界の都に落ち、拾い集められて大切に保存され、それを投げた者が(死後)それを拾いに訪れた時、彼は一段と価値を増した黄金の宝を受け取ることであろう。♰


シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(七)

  More Wisdom of Silver Birch Edited by Sylvia Barbanell

十章 質問に答える


(一)──スピリチュアリズムが現代の世界に貢献できるものの中で最大のものは何でしょうか。

 「最大の貢献は神の子等にいろんな意味での自由をもたらすことです。これまで隷属させられてきた束縛から解放してくれます。知識の扉は誰にでも分け隔てなく開かれていることを教えてあげることによって、無知の牢獄から解放します。日蔭でなく日向で生きることを可能にします。

 あらゆる迷信と宗教家の策謀から解放します。真理を求める戦いにおいて勇猛果敢であらしめます。内部に宿る神性を自覚せしめます。地上の他のいかなる人間にも霊の絆が宿ることを認識せしめます。

 憎み合いもなく、肌の色や民族の差別もない世界、自分をより多く役立てた人だけが偉い人と呼ばれる新しい世界を築くにはいかにしたらよいかを教えます。知識を豊かにします。精神を培い、霊性を強固にし、生得の神性に恥じることのない生き方を教えます。こうしたことがスピリチュアリズムにできる大きな貢献です。

 人間は自由であるべく生れてくるのです。自由の中で生きるべく意図されているのです。奴隷の如く他のものによって縛られ足枷をされて生きるべきものではありません。その人生は豊かでなければなりません。

精神的にも身体的にも霊的にも豊かでなければいけません。あらゆる知識──真理も叡知も霊的啓示も、すべてが広く開放されるべきです。生得の霊的遺産を差し押さえ天命の全うを妨げる宗教的制約によって肩身の狭い思い、いらだち、悔しい思いをさせられることなく、霊の荘厳さの中で生きるべきです」


(二)──スピリチュアリズムはこれまでどおり一種の影響力として伸び続けるべきでしょうか、それとも一つの信仰形体として正式に組織を持つべきでしょうか。

 「私はスピリチュアリズムが信仰だとは思いません。知識です。その影響力の息吹は止めようにも止められるものではありません。真理の普及は抑えられるものではありません。みずからの力で発展してまいります。外部の力で規制できるものではありません。

あなた方が寄与できるのは、それがより多くの人々に行き渡るように、その伝達手段となることです。それがどれだけの影響をもたらすかは前もって推し量ることは出来ません。そのためのルールをこしらえたり、細かく方針を立てたりすることはできません。

(そういうことを人間の浅知恵でやろうとすると組織を整え、広報担当、営業担当といったものをこしらえ、次第に世俗的宗教となり下がるということであろう──訳者)

 あなた方に出来るのは一個の人間としての責任に忠実であるということ、それしかないのです。自分の理解力の光に照らして義務を遂行する──人のために役立つことをし、自分が手に入れたものを次の人に分け与える──かくして霊の芳香が自然に広がるようになるということです。一種の酵素のようなものです。

じっくりと人間生活の全分野に浸透しながら熟成してまいります。皆さんはご自分で最善と思われることに精を出し、これでよいと思われる方法で真理を普及なさることです」


(三)──支配霊になるのは霊媒自身よりも霊格の高い霊と決まっているのでしょうか。

 「いえ、そうとはかぎりません。その霊媒の仕事の種類によって違いますし、また、〝支配霊〟という用語をどういう意味で使っているかも問題です。地上の霊媒を使用する仕事に携る霊は〝協力態勢〟で臨みます。

一人の霊媒には複数の霊からなる霊団が組織されており、その全体の指揮に当たる霊が一人います。これを〝支配霊〟と呼ぶのが適切でしょう。霊団全体を監督し、指示を与え、霊媒を通じでしゃべります。

ときおり他の霊がしゃべることもありますが、その場合も支配霊の指示と許可を得たうえでのことです。しかし役割は一人ひとり違います。〝指導霊〟という言い方をすることがあるのもそのためです。

 入神霊言霊媒にかぎって言えば、支配霊は必ず霊媒より霊格が上です。が、物理現象の演出にたずさわるのは必ずしも霊格が高い霊ばかりとはかぎりません。中にはまだまだ地上的要素が強く残っているからこそその種の仕事にたずさわれるという霊もいます。

そういう霊ばかりで構成されている霊団もあり、その場合は必ずしも霊媒より上とはかぎりません。しかし一般的には監督・支配している霊は霊媒より霊格が上です。そうでないと霊側に主導権が得られないからです」

(訳者注──〝霊〟と〝魂〟の違いと同じく、この〝支配霊〟と〝指導霊〟の使い方は英語でも混乱している。と言うよりは勝手な解釈のもとに使用されていると言った方がよいであろう。これは各自の理解力に差がある以上やむを得ないことであり、こうしたことは心霊の分野だけでなく学問の世界ですら一般的である。だからこそ辞引や用字用語辞典が生まれてくるのである。

心霊用語を一定の規範にまとめるべきだという意見も聞かれるが、私は使用する人間にその心得がない以上それは無駄であると同時に、その必要性もないと考えている。要は自分はこういう意味で使用するということを明確にすれば、あるいは文脈上それがはっきりすれば、それでいいと思う。

特に霊界通信になると根本的に人間の用語では表現できないことが多く、通信霊は人間以上にその点で苦労しているのである。

それは私のように英語を日本語に直す仕事以上に大変なことであろう。霊言でも自動書記でも同じである。それが人間の言語の宿命なのである。シルバーバーチが折あるごとに、用語に拘らずその意味をくみ取って欲しいと言っているのもそのためである)


(四)───入神状態(トランス)は霊媒の健康に害はないのでしょうか。
  「益こそあれ何ら害はありません。ただし、それは今までに明らかにされた霊媒現象の原理・法則を忠実に守っていればのことです。あまりひんぱんにしすぎると、たとえば一日に三回も四回も行えば、これは当然健康に悪影響を及ぼします。が、

常識的な線を守って、きちんと期間を置いて行い、霊媒としての日ごろの修行を怠らなければ、必ず健康にプラスします。なぜかというと、霊媒を通して流れるエネルギーは活性に富んでいますから、それが健康増進の効果をもたらすのです。正しく使えば霊媒能力はすべて健康にプラスします。が使い方を誤るとマイナスとなります」


(五)──思念に実体があるというのは本当でしょうか。

 「これはとても興味深い問題です。思念にも影響力がある───このことには異論はないでしょう。思念は生命の創造作用の一つだからです。ですから、思念の世界においては実在なのです。が、それが使用される界層(次元)の環境条件によって作用の仕方が制約を受けます。

 いま地上人類は五感を通して感識する条件下の世界に住んでいます。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信しあえる段階までは進化していないということです。

まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。その条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形体をとるまでは存在に気付かないからです。

 思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が感識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。

 勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野でとらえなければいけません」


──物的活動の動機づけとして活用するのは許されますね?

 「それは許されます。また事実、無意識のうちに使用しております。現在の限られた発達状態にあっては、その威力を意識的に活用することができないだけです」


──でも、その気になれば霊側が人間の思念を利用して威力を出させることも可能でしょう?

 「できます。なぜなら私たちは人間の精神と霊を通して働きかけているからです。ただ、私がぜひ申し上げておきたいのは、人間的問題を集団的思念行為で解決しようとしても、それは不可能だということです。思念がいかに威力があり役に立つものではあっても、本来の人間としての仕事の代用とはなり得ないのです。

またまた歓迎されないお説教をしてしまいましたが、私が観るかぎり、それが真実なのですから仕方がありません」


──大戦前にあれほど多くの人間が戦争にならないことを祈ったのに阻止できませんでした。あれなどはそのよい例だと思います。ヨーロッパ全土───敵国のドイツでもそう祈ったのです。

 「それは良い例だと思います。物質が認識の基本となっている物質界においては、思念の働きにおのずと限界があります。それはやむを得ないことなのです。ですが他方、私は思念の価値、ないしは地上生活における存在の場を無視するつもりはありません」


──善意の人々にとっては思念の力が頼りです。

──米国民への友好心はわれわれ英国人への友好心となって返ってきます。

 「それから、遠隔治療において思念が治療手段の一つとなっています。ただしその時は霊がその仲介役をしていることを忘れないでください。地上の人間は自分の精神に具わっている資質(能力)の使い方をほとんど知らずにいます。

ついでに言えば、その精神的資質が次の進化の段階での大切な要素となるのです。その意味でこの地上生活において思念を行為の有効なさきがけとする訓練をすべきです。

きちんと考えたうえで行為に出るように心掛けるべきです。ですが、思念の使い方を知らない方が何と多いことでしょう。わずか五分間でも、じっと一つのことに思念を集中できる人が何人いるでしょうか。実に少ないのです」


(六)──遠隔治療において患者が(精神を統一するなどして)治療に協力することは治療効果を増すものでしょうか。

 「私の考えでは、それは波長の調整にプラスしますから、大体において効果を増すと思います。異論もあることでしょうが、私はそうみています。知らずにいるよりは知っている方が原則としては治療が容易になります。治療エネルギーを送る側と受ける側とが波長が合えば、治療が一段と容易になります。

 治療を受けていることを知らないでも顕著な治療効果が表れたケースがあることは私もよく知っておりますが、大抵の場合それは患者の睡眠中に行われているのです。その方が患者の霊的身体との接触が容易なのです」

(昼間に送られた治療エネルギーが睡眠中に効き始めるというケースもある───訳者)


(七)──心霊研究をどう思われますか。

 「その種の質問にお答えする時に困るのは、お使いになる用語の意味について同意を得なければならないことです。〝心霊研究〟という用語には、いわゆるスピリチュアリストが毛嫌いする意味が含まれています。(S・P・Rのように資料をいじくりまわすだけに終始して一歩も進歩しない心霊研究をさす───訳者)

こうした交霊会や実験会や養成会も真の意味における〝研究〟であると言えます。というのは、私たちはそうした会を通して霊力がよりいっそう地上へもたらされるための通路を吟味・調査しているからです。

 みなさんは私たちから学び、私たちはみなさんから学びます。動機が純粋の探求心に発し、得られた知識を人類の福祉のために使うのであれば、私は研究は何であっても結構であると思います。が、霊媒を通して得られる現象を頭から猜疑心を持って臨み、にっちもさっちも行かなくなっている研究は感心しません。

動機が真摯であればそれは純粋に〝研究〟であると言えます。真摯でなければ〝研究〟とは言えません。純心な研究は大いに結構です」


(八)──国教会は、スピリチュリズムには何ら世の中に貢献する新しいものがないと言って愚弄しておりますが、それにどう反論されますか。

 「私は少しも愚弄されているとは思いません。私たちがお届けした〝新しいものが〟一つあります。それは、人類史上初めて宗教というものを証明可能な基盤の上に置いたことです。つまり信仰と希望とスペキュレーションの領域から引き出して〝ごらんなさい。このようにちゃんと証拠があるのですよ〟と言えるようになったことです。

しかし、新しいものが無いとおっしゃいますが、ではイエスは何か新しいものを説いたでしょうか。大切なのは新しさとか物珍しさではありません。真実か否かです」


 ここでメンバーたちがシルバーバーチの当意即妙の応答ぶりに感心して口々にそのことを述べると、こう述べた。

 「地上のみなさんは細切れの知識を寄せ集めなければなりませんが、私たちは地上にない形で組織された知識の貯蔵庫があるのです。どんな情報でも手に入ります───即座に手に入れるコツがあるのです(※)。私たちの世界の数ある驚異の一つは、すべてが見事に、絶妙に組織されていることです。

知識の分野だけでなく、霊にとってのあらゆる資源───文学、芸術、音楽等の分野においてもそうです。すべてが即座に知れ、即座に手に入ります。まだ地上の人間に知られていないことでも思いどうりになります」

(※霊格の高い低いに関係なく、そのコツさえ会得すれば誰にでも知れる。だからこそ歴史上の人物を名のって出る霊は警戒を要するのである。つまり、その人物の思想や地上時代の情報はいとも簡単に───あたかもコンピューターの情報のように、あるいはそれ以上に簡単に、しかも詳細に知れるので、〝それらしいこと〟を言っているからといってすぐに信じるのは浅はかである。

他界したばかりの霊を呼び出す場合も同じで、それらしく見せかけるのは霊にとっては造作もないことである。そんなことを専門にやって人間を感動させたり感激させたりしている低級霊団がいて、うまく行くとしてやったりと拍手喝さいして喜んでいる。別に危険性はないが、私には哀れに思えてならないのである───訳者)


(九)──大霊(神)を全能でしかも慈悲ある存在と形容するのは正しいでしょうか。

 「何ら差し支えありません。大霊は全能です。なぜならその力は宇宙及びそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。大霊より高いもの、大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。宇宙は誤ることのない叡知と慈悲深き目的を持った法則によって統括されています。

その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化していることは間違いない事実です。

 このことは慈悲の要素が神の摂理の中に目論まれていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力を持ってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。

 いかに霊格の高い霊といえども、一つの原因が数学的正確さを持って結果を生んでいく過程を阻止することは出来ません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、この用語ではその背後に知的で、目的意識を持ったダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。

 私がお伝えしようとしている概念は全能にして慈悲にあふれ、完全で無限なる神であると同時に、地上の人間がとかく想像しがちな〝人間神〟的な要素のない神です。しかし神は無限なる大霊である以上その顕現の仕方も無限です。あなた方お一人お一人がミニチュアの神なのです。

お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。その火花を宿していればこそ存在出来るのです。しかしそれが地上的人間性という形で顕現している現段階においては、みなさんは不完全な状態にあるということです。

 神の火花は完全です。一方それがあなた方の肉体を通して顕現している側面は極めて不完全です。死後あなた方はエーテル体、幽体、又は霊的身体───どう呼ばれても結構です。要するに死後に使用する身体であると理解すればよろしい───で自我を表現することになりますが、そのときは現在よりは不完全さが減ります。

霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから完全といい不完全といい、程度の問題です」


──バラもつぼみのうちは完全とは言えませんが満開となった時に完全となるのと同じですね。

 「全くその通りとも言いかねるのです。厄介なことに、人間の場合は完全への道が無限に続くのです。完全へ到達することができないのです。知識にも叡知にも理解力にも真理にも、究極というものがないのです。精神と霊とが成長するにつれて能力が増します。いま成就出来ないのも、そのうち成就出来るようになります。

はしご段を昇っていき、昨日は手が届かなかった段に上がってみると、その上にもう一つ上の段が見えます。それが無限に続くというのです。それで完全という段階が来ないのです。もしそういうことが有りうるとしたら、進化ということが無意味となります」


 これは当然のことながら議論を呼び、幾つかの質問が出たが、それにひと通り応答した後、シルバーバーチはこう述べた。

 「あなた方は限りある言語を超えたものを理解しようとなさっているのであり、それはぜひこれからも続けていくべきですが、たとえ口では表現できなくても、心のどこかでちらっと捉らえ、理解出来るものがあるはずです。

たとえば言葉では尽くせない美しい光景、画家にも描けないほど美しい場面をちらっと見たことがおありのはずですが、それは口では言えなくても心で感じ取り、しみじみと味わうことは出来ます。それと同じです。あなた方は今、言葉では表現できないものを表現しようとなさっているのです」


──大ざっぱな言い方ですが、大霊は宇宙の霊的意識の集合体であると言ってよいかと思うのですが・・・

 「結構です。ただその意識にも次元の異なる側面が無限にあるということを忘れないでください。いかなる生命現象も、活動も、大霊の管轄外で起きることはありません。摂理──大自然の法則──は、自動的に宇宙間のすべての存在を包含するからです。

たった一つの働き、たった一つのバイブレーション、動物の世界であろうと、鳥類の世界であろうと、植物の世界であろうと、昆虫の世界であろうと、根菜の世界だろうと、花の世界であろうと、海の世界であろうと、人間の世界であろうと、霊の世界であろうと、その法則によって規制されていないものは何一つ存在しないのです。

宇宙は漫然と存在しているのではありません。莫大なスケールを持った一つの調和体なのです。

 それを解くカギさえつかめば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は神の意志が顕現したものだということです。法則が神であり、神は法則であるということです。

 その神は、人間を大きくしたようなものではないという意味では非人格的存在ですが、その法則が霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では人間的であると言えます。要するにあなた方は人類として宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです」



──ということは神の法則は完全な形で定着しているということでしょうか。それとも新しい法則が作られつつあるのでしょうか。

 「法則は無窮の過去からずっと存在しています。完全である以上、その法則の枠外で起きるものは何一つ有り得ないのです。すべての事態に備えられております。あらゆる可能性を認知しているからです。もしも新たに法則を作る必要性が生じたとしたら、神は完全でなくなります。予測しなかった事態が生じたことを意味するからです」


──こう考えてよろしいでしょうか。神の法則は完全性のブループリント(青写真・設計図)のようなもので、われわれはそのブループリントにゆっくりと合わせる努力をしつつあるところである、と。

 「なかなか好い譬えです。みなさんは地上という進化の過程にある世界における進化しつつある存在です。その地球は途方もなく大きな宇宙のほんの小さな一部に過ぎませんが、その世界に生じるあらゆる事態に備えた法則によって支配されております。

 その法則の枠外に出ることは出来ないのです。あなたの生命、あなたの存在、あなたの活動のすべてがその法則によって規制されているのです。

あなたの思念、あなたの言葉、あなたの行為、つまりあなたの生活全体をいかにしてその法則に調和させるかは、あなた自ら工夫しなければなりません。それさえできれば、病気も貧乏も、そのほか無知の暗闇から生まれる不調和の状態が無くなります。

自由意志の問題について問われると必ず私が、自由といっても無制限の自由ではなく自然法則によって規制された範囲での自由です。と申し上げざるを得ないのはそのためです」


(10)──この機械化時代は人類の進化に役立っているのでしょうか。私にはそうは思えないのですが。

 「最終的には役に立ちます。進化というものを一直線に進むもののように想像してはいけません。前進と後退の繰り返しです。立ち上がっては倒れるの繰り返しです。少し登っては滑り落ち、次に登った時は前より高いところまで上がっており、そうやって少しずつ進化して行きます。

ある一時期だけを見れば〝ごらん!この時期は人類進化の黒い汚点です〟と言えるような時期もありますが、それは物語の全体ではありません。ほんの一部です。

 人間の霊性は徐々に進化しております。進化に伴って自我の本性の理解が深まり、自我の可能性に目覚め、存在の意図を知り、それに適応しようと努力するようになります。

 数世紀前までは夢の中で天界の美を見、あるいは恍惚たる入神の境地においてそれを霊視できたのは、ほんのひとにぎりの者にかぎられていました。が今や、無数の人々がそれを見て、ある者は改革者となり、ある者は先駆者となり、ある者は師となり、死して後もその成就の為に立ち働いております。そこに進歩が得られるのです」


──その点に関しては全く同感です。進歩はあると思うのです。が、全体として見た時、地球上が(機械化によって)余り住み良くなると進化にとってマイナスとなるのではないかと思うのです。

 「しかし霊的に向上すると──あなた個人のことではなく人類全体としての話ですが──住んでいる世界そのものにも発展性があることに気づき、かつては夢にも思わなかった豊かさが人生から得られることを知ります。

機械化を心配しておられますが、それが問題となるのは人間が機械に振り回されて、それを使いこなしていないからに過ぎません。使いこなしさえすれば何を手に入れても宜しい──文化、レジャー、芸術、精神と霊の探究、何でもよろしい。かくして内的生命の豊かさが広く一般の人々にも行きわたります。

 その力は全ての人間に宿っています。すべての人間が神の一部だからです。この大宇宙を創造した力と同じ力、山をこしらえ恒星をこしらえ惑星をこしらえた力と同じ力、太陽に光を与え花に芳香を与えた力、それと同じ力があなた方一人ひとりに宿っており、生活の中でその絶対的な力に波長を合わせさえすれば存分に活用することが出来るのです」


──花に芳香を与えた力が蛇に毒を与えているという問題もあります。

 「それは私から見れば少しも問題ではありません。よろしいですか。私は神があなた方のいう〝善〟だけを受け持ち、悪魔があなた方のいう〝悪〟を受けもっているとは申しあげておりません」


──潜在的には善も悪もすべてわれわれの中に存在しているということですね。

 「人間一人一人が小宇宙(ミクロコズム)なのです。あなたもミニチュアの宇宙なのです。潜在的には完全な天使的資質を具えていると同時に獰猛な野獣性も具えております。だからこそ自分の進むべき方向を選ぶ自由意志が授けられているのです」


(十一)──あなたは地球という惑星がかつてより進化しているとおっしゃいましたが、ではなぜ霊の浄化のためになお苦難と奮闘が必要なのでしょうか。

 「なぜなら人間が無限の存在だからです。一瞬の間の変化というものはありません。永い永い進化の旅が続きます。その間には上昇もあれば下降もあり、前進もあれば後退もあります。が、そのたびに少しずつ進化してまいります。

 霊の世界では、次の段階への準備が整うと新しい身体への脱皮のようなものが生じます。しかしその界層を境界線で仕切られた固定した平地のように想像してはなりません。次元の異なる生活の場が段階的に幾つかあって、お互いに重なり合い融合し合っております。

地上世界においても、一応皆さんは地表と言う同じ物質的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別の世界に住んでいると言えるのです」


──これまでの地上社会の進歩はこれから先に為されるべき進歩に較べれば微々たるものに過ぎないのでしょうか。

 「いえ、私はそういう観方はしたくないのです。比較すれば確かに小さいかも知れませんが、進歩は進歩です。次のことを銘記してください。人間は法律や規則をこしらえ、道徳律をうち立てました。文学を豊かにしてきました。芸術の奥義を極めました。精神の隠された宝を突き止めました。霊の宝も、ある程度まで掘り起こしました。

 こうしたことは全て先輩達のお陰です。苦しみつつコツコツと励み、試行錯誤を繰り返しつつ、人生の大渦巻きの中を生き抜いた人たちのお陰です。総合的に見れば進歩しており、人間は初期の時代にくらべて豊かになりました。物質的な意味ではなく霊的・精神的に豊かになっております。そうあって当然でしょう」

Wednesday, December 17, 2025

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓(七)

 More Wisdom of Silver Birch Edited by Sylvia Barbanell
九章 悩み多きインド





    インドのボンベイの新聞〝フリープレス・ジャーナル〟のロンドン特派員シュリダール・テルカール氏がハンネン・スワッハー氏との不思議な出会いからシルバーバーチの交霊会に招かれた。以下はテルカール氏の記事である。

             ※ ※ ※

 われわれの日常生活には不思議なことが起きるものである。なぜそうなったかは必ずしも説明できない。〝ああ、それはそうなるようになってたんだよ〟と言う人がいるであろう。〝それが神の意志だったのさ〟と言って片づけてしまう人もいるであろう。

かくして凡人はそうした〝予期せぬこと〟の背後の重大な意味に気づかないまま毎日を生きている。

 いま私の脳裏に、なぜあの時あんなことになってしまったのだろうかという、ある不思議な体験のことが残っている。今の私には不思議なナゾに包まれたミステリーに思える。私の職業はジャーナリストである。母国インドの新聞に何か新鮮なものを送りたいと思っていつも目を皿のようにしている人間である。

 さて、つい先ごろのことである。インド人の友だちが情報局のプレスルームにひょっこり姿を見せた。思いがけないことだった。〝サボイ・ホテルまで来てくれないか。いい話があるんだ〟と言う。

誘われるまま行ってみると、ストラボルギー卿の記者会見が行われていた。友たちは会見室に入っていきジャーナリストが並んでいる一ばん端に席を取った。が、私は何となく入る気がしなくて外で待っていた。

 ところが突然ストラボルギー卿が席を立って私のところへ歩み寄り、握手を求め〝ま、お入りください〟と言って中へ案内した。そして座らされたテーブルには、なんと、卿夫妻とイスラエル人の他にハンネン・スワッハー氏がいた。

私はスワッハー氏は取材旅行中に何度も見かけたことはあるが、それほど身近に見るのは初めてだった。氏には何かしら私を惹きつけるものを感じていた。

 その瞬間私の脳裏には学生時代のことが浮かんだ。当時はハンネン・スワッハーといえば毒舌をもって鳴らす怖い存在に思えた。が今はじめて言葉を交わして見て、本当は心根の優しい、温かい、真の庶民の味方で、深い人間的理解力を秘めた方であることを知った。

記者会見が終わると私はスワッハー氏に〝かねがねお会いできればと願っておりました〟と挨拶した。すると〝正午に私の家にいらっしゃい〟と言われた。

 訪ねてみるとスワッハー氏は書物と書類に埋もれた〝仕事場〟にいた。氏はそこであの超人的才能で文章を書き上げているのだ。あの辛らつな、容赦ない風刺をきかした文章、スワッハー一流の簡潔な文章──千語が百語に凝縮してしまうのだ。その日私はそのスワッハー氏がその魔術的仕事に携わっているところを見ていて〝ペンは剣より強し〟という古い諺を思い出した。

実はその時の私にはある不満のタネがあった。それを遠慮なく述べると、それをまともに取り上げてくれて、その場であっという間に記事を書き上げてしまった。奇跡としか思えなかった。スワッハーという人はただの毒舌家ではないのだ。

 さて私がそろそろ失礼しようとすると、氏が司会をしているホームサークルに出席してみなさいと言われた。私は英国へ来て十五年余りになるが、スピリチュアリストの集会にも交霊会にも行ってみたことがない。

ジャーナリストである以上──ジャーナリストというのは常に抜け目のない批判的精神の持ち主であると相場がきまっているので──このチャンスを逃すのは勿体ないと考えて、招待に応じた。

 交霊会が催されるこじんまりとした住居(バーバネルの私邸)に到着した時私はいささか興奮していた。とても雰囲気のいい家だった。バーバネル夫妻が温かく迎えてくれた。至って英国らしい家庭である。

が、雰囲気はどこかよそと違うところがある。何となく母国インド人の手厚い歓迎を受けているような錯覚を覚えた。数こそ少ないが、その日そこに集まった人たちとすぐに打ちとけてしまったのである。

初めて会う人たちばかりなのに、あたかも親しい旧友と再会したみたいに愉快に語り合い、冗談を言い合っては笑いが巻き起るのだった。

 壁の肖像画がすぐ目に入った。このハンネン・スワッハー・ホームサークルの支配霊シルバーバーチである。深い洞察力に富んだ眼と顔の輝きがインディアンの聖人を思わせる。私はしばしその画に見入っていた。今にも私に語りかけそうな感じがした。

 談笑はしばらく続いた。私はスワッハー氏の隣に腰かけた。有名な心霊治療家であるパリッシュ氏と向かい合う形となった。やがて急に部屋が静寂に包まれた。時おりヒソヒソと語り合う声がする。私は列席者の顔ぶれに興味のまなこを向けた。スワッハーの横にはもう一人、純情そうな若いジャーナリストがいた。こうして油断を怠らなくさせるのは新聞記者としての私の本能である。

 列席している男女は至って普通の人間ばかりである。奇人・変人の様子はひとかけらも見られない。語り合った印象でも、みな教養豊かな知識人ばかりである。政治問題、社会主義、ガンジーなどが話題に上ったが、どう見ても〝へソ曲がり〟でもなく〝ネコかぶり〟でもなく、〝一風変わった精神病者〟ではあり得なかった。(当時のスピリチュアリストはそういう言葉で形容されていたのであろう───訳者)

 そのうち霊媒のバーバネルが落ち着かない様子を見せはじめた。〝落ち着かない〟という表現は適切ではないのであろうが、私の目にはそう映ったのである。両手でしきりに頬をさすっている。眼はすでに閉じている。氏の身も心も何か目に見えないものによって占領されているように私には思えた。

続いて〝シュー〟という声とともにドラマチックな一瞬が訪れた。全員の目が霊媒の方へ注がれている。ついにシルバーバーチが語り始めたのである。

(訳者注───必ずいびきを伴った息づかいから始まり、それが次第に大きくなっていき、最後に〝フーッ〟と大きく吐き出す。それがそのときの唇の形によって〝シューッ〟となったり〝スーッ〟となったりする。霊媒から離れる時もなぜかいびきを伴った息づかいで終わる)

 最初に祈りの言葉があった。その簡潔でいてしかも深い意味を持つ言葉に私は感銘を受けた。それが淀みなく流れ出るのに深い感動を覚えた。祈りが終わってスワッハー氏が私を(インドの霊覚者)リシーと親交のある人物として紹介すると、シルバーバーチはこう語ってくれた。

 「本日は私たちの会にご出席いただいてうれしく思います。リシーご夫妻には私も深い敬意を抱いております。大きな仕事をなさっておられるからです。暗黒の大陸においては小さな灯でしかないかも知れませんが・・・

 ご夫妻は右に偏ることも左に偏ることもなく、双肩に担わされた神聖な信任に応えるべく真っすぐに歩んでおられます。大陸を相手にたった一人です。自らも遅々として進歩の少ないことを自覚しておられますが、そのたった一人の力で多くの魂が感動し、太古からの誤った教えと古臭い迷信による束縛から脱し、霊的真理の光明へ向かっております。

 どんどん広がってまいります。小さなうねりが次第に大きくなって大河となり、やがて巨大な大洋となることでしょう。きっとなります。宗教についてあれほど多くが語られながら霊についての真実がほとんど理解されていないあなたの大陸においてきっと広がることでしょう。

 私から見るとインドには霊の道具となれる人があふれるほどいます。一人ひとりが福音を広める道具です──道具となれる可能性をもっております。一人の人間が一人の人間に真理をもたらすことができれば、少なくとも倍の真理がもたらされたことになりましょう。

 所詮は短い人生です。その短い人生においてたった一人の人間でもいいから重荷を軽くしてあげることに成功したら、たった一人の人間の涙を拭ってあげることが出来たら、たった一人の人間の悩みを取り除いてあげることが出来たら、それだけでもあなたの生涯は無駄でなかったことになります。

ところが悲しいことに、地上生活の終わりを迎えたときに何一つ他人のためになることをしていない人が実に多いのです。そう思われませんか」

 「まったくです」と私は答えた。

 社会主義者として、また普遍的同胞精神の大切さを信じる者の一人として、そのシルバーバーチの最後の言葉は、苦しむ人類の全てに対するメッセージと言ってよい。その言葉を胆に銘ずべき人がいる筈である。今地上には同胞に対する非人間性がはびこりつつあり、われわれの想像力を悩ませている。


神と真理の名において多くの罪悪が横行している。〝力は善なり〟の風潮がはびこり、宇宙の永遠の摂理が風に吹き飛ばされている。確かにシルバーバーチの言うとおり、もしも〝一人ひとりが福音を広める道具〟となれば、少なくともわれわれの人生は無駄でなかったことになろう。私はシルバーバーチにこう尋ねた。

 「私は人間はすべて自由であるべきだと思います。私の国民は今大きな苦しみを味わっております。インドの魂は悶え苦しんでいると私はみています。今日インドには立派な人がいることはいます。

インド国民の霊的意識を高揚させ、霊力の貯蔵庫の恩恵にあずからせるべく献身的生活をしている霊覚者がいて、インドをイギリスの支配から独立させ、平和と幸福と自由を得るために闘っております。私たちの国民がそこまで到達する方法、あるいは道があるのでしょうか」

 「今ここに素晴らしい方がお見えになってます。その方の詩をあなたも愛読していらっしゃると言えば、もう誰だかお分かりでしょう」

 タゴールである。インド最高の詩人であり、その詩によって無数の国民の魂を鼓舞した人物である。シルバーバーチは続けた。

 「いいですか。インドは今、過去に蒔いたタネを刈り取っているところだということを知ってください。宇宙は法則によって支配されております。原因と結果の法則です。私の声は──そして地上の物的束縛から解放された者たちの声もみなそうですが──自由と解放と寛容の大切さを強調します。が、

血なまぐさい戦争の結果として生じた複雑な問題が一気に解決できるわけがありません。

国民が勝手にこれが自由だと思いこみ、それ以外の自由を望まない国民を安易に解放するわけには行かないでしょう。自由には必ず条件が付きものだからです。何の拘束も無い自由と言うものは無いのです。

〝自由な自由〟というものは無いのです。自由というのは、その自由がもし無条件なものとなったらかえって侵害されかねない〝自由の恩恵〟を味わうために、ある程度の制約が必要なのです。

 インドはこれまで幾世紀にもわたって、勝手にこしらえた信仰に縛られてきたがために生じた暗黒が支配しています。無数の国民が間違った偶像を崇拝し、それに神性と絶対力があるかに思い、それ以外の神々を認めることを拒否します。

それによって人間の霊性が束縛され、隷属させられ、抑圧されております。わけの分らない概念で戸惑わせるばかりの複雑な教義でがんじがらめにされております。

 さて、そうした彼らを救出してあげなければならないのですが、何世紀にもわたって積み重ねられてきたものをたった一日で元に戻す方法はありません。インド民族はまだ寛容の精神が身に付いておりません。

神の前において人類はすべて平等であること、誰一人として神の特別の寵愛を受ける者はいないこと、無私の奉仕に献身した者だけが神の恩寵にあずかるという教えが理解できておりません。

 改めなければならないことが沢山あります。永い間暗闇の中で暮らしてきた者は一度に真理の光を見ることができません。そんなことをしたら目が眩んでしまいます。仕事は一人ひとりが自分の力で、牢獄となってしまった宗教的束縛から脱け出ることから始まります。

その束縛を打ち破ってしまえば、より大きな自由を手にすることが出来ます。すなわち他人の権利を認めてあげられる心のゆとりです。

 人間の霊には教義やカースト(世襲的階級制度)を超えてすべてを結びつける要素があるとこと、民族全体が一つの兄弟関係にあることを理解出来る人が大多数を占めるようになれば、もはやその民族を隷属させる権力者も支配者もいなくなります。

なぜなら、すでにその民族は自らの努力によって獲得した魂の自由を駆使できる段階まで到達している筈だからです。

 まずは献身的奉仕精神に目覚めた、ひとにぎりの誠心誠意の人物が出現すればいいのです。その人たちによって多くの難問解決への道が切り開かれ、暗闇に光明を灯す糸口がつかめるでしょうが、そのためには、その人たちは〝我〟を超越し〝宗派〟を超越し、〝教義〟と〝カースト〟を超越して、インド民族のすべてが広大な宇宙の一員であること、その一人ひとりに存在の意味があることを率直にそして謙虚に認められるようにならなければいけません。

あれほどの宗教国家においてあれほどの暗黒が存在するとは、何という矛盾でしょう!。あれだけの裕福な階級がある一方で、あれほどの貧民階級が存在するとは、何という矛盾でしょう!」


 私は主張した──「でもインドにも偉大な人物が数多く存在します。政治犯として今なお獄中にあるネールを初め、ガンジー、そのほか偉大な人物がいます。インドの国民は、問題は要するに一国家による他国家の占領支配にあると考えています」

 「それは違いますよ」 と優しく諭すようにシルバーバーチは語ってくれた。「いいですか、問題はあなたのおっしゃる一国による占領支配にあるのではありません。何となれば、かりにその占領支配が一気に取り除かれても、それで民族に自由がもたらされるかというと、そうは行かないでしょう。

自由というのは苦労した末に手にすべきものなのです。自分の力で勝ち取らねばならないものなのです。そのための大きな革命がナザレのイエス以来ずっとこの方、個人の力で成就されてきているではありませんか」

(訳者注──イエス時代のイスラエル民族はローマの占領支配下にあり、それと結託したユダヤ政治家や宗教家の腐敗と堕落によって民衆は息も絶えだえの状態にあった。そこに出現したのがイエスであり、腐敗と堕落を極めた宗教家と政治家を相手に敢然として立ち向かった。

イエスは一般にはキリスト教の教祖のように思われているが、世襲的にはユダヤ教徒だった。が、ユダヤ教の誤った教義によって束縛された生活習慣や物の考え方を改めるために新しい霊的真理を説き、その証拠として持ち前の霊的能力を駆使したまでのことで、本質的には社会革命家だった。シルバーバーチの念頭にはインドが当時のイスラエルに似ているという認識がある)

 シルバーバーチの霊言を聞いていて私は、その言葉に深い真理があることに気づいた。その訓え──インド民族への霊的メッセージに秘められた叡知に大きな感動を覚えた。最も、末節的には賛成しかねる部分もあった。

現在のインド民族の大半がヒンズー教徒の信者であるが、今日のヒンズー教徒はべーダとウパニシャッド(ともにバラモン教の根本教典で最高の宗教哲学書とされている──訳者)をもとにした純粋のヒンズー教徒ではなくなっている。べーダとウパ二シャッドの教えはまさにシルバーバーチの訓えそのものなのである。

 ヒンズー教もその内きっと本来のあるべき姿を取り戻す日が来るであろう。それは時間の問題に過ぎない。ガンジーその他の大人物がすでにエネルギーを再生させ、それによって無数のインド人が勇気づけられている。今やインドは蘇ったのである。多くの者が既に邪神と似非(えせ)予言者との縁を断っている。

 この度の英国による政治支配はむろんインド自身の側にもその責任の一端がある。が、こうした事態に至らしめた最大の責任は、片手に銃を、もう一方の手にバイブルを持って攻め込んだ征服者の側にある。それが自分たちの邪神と似非予言者をインドに植え付けたのである。

それが積み重ねられた影響力がインド人の心にますます混乱を引き起こした。打ちひしがれた心が一段と虐げられ、インドの自由精神はほぼ外敵の戦車の車輪につながれてしまっていた。

 今日のインドには世界の他のいかなる国にも劣らない霊的同胞精神がある。人間の霊性が武力の前に恐れおののいているように思えてならない。カーストと教義を超えてインド人は、シルバーバーチの言うように〝すべてが広大な宇宙の一員であること、その一人ひとりに存在の意味がある〟ことを認識している。

 〝大きな革命は個人の力で成就されてきた〟──このシルバーバーチの言葉は至言である。ガンジーもネールも偉大な革命家だった。彼らの政策に批判的な人がいるかも知れない。その経済政策に疑問を持つ人がいるかも知れない。彼らの禁欲主義は度を過ごしていると思う人がいるかも知れない。が、彼らは現実にインドの大衆の心を捉えたのだ。

 彼らこそ宗教的教義のジャングルを切り開き、不幸な私の母国に自由をもたらしてくれることであろう。が、同時に、他の多くの国の偉大な霊もまた、その霊的統一をもたらす上で力となってくれるに違いない。頑丈な体格をしながらも傷ついた人間に小柄な人間が力を貸すことが出来ることもあるのだ。 

 では最後にこう付け加えて本稿を終わろう。私は厳密な意味でのスピリチュアリストではない。が、この度の交霊会への出席は素晴らしい体験だった。今なお私は勉強中であり、研究中であり、指導を求めている。道は遠く、困難をきわめることであろう。が、どうやらその旅の終わりには、それだけの価値のあるものが待ち受けている様な気がする。
シュリダール・テルカール
 

Tuesday, December 16, 2025

シアトルの冬 ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン

The Life Beyond the Veil Vol. II The Highlands of Heaven by G. V. Owen

三章 天上的なるものと地上的なるもの


2 守護霊と人間 

一九一三年十一月二四日   月曜日

 更に言えば、いついかなる時も吾らの存在を意識することは好ましいことであり、吾らにとって何かと都合がよい。事実、吾らはいつも近くにいる。もっとも、近くにいる形態はさまざまであり意味も異る。

距離的に近くにいる時は役に立つ考えや直感を印象づけるのが容易であり、又、仕事がラクに、そして先の見通しも他の条件下よりは鮮明に見えるように順序よく配慮することが出来る。

 吾らの本来の界にいる時でも、人間の心の中および取り巻く環境で起きている事柄のみならず、その事情の絡み合いがそのまま進行した場合どういう事態になるかについての情報をも入手する手段がある。

 こうして接触を保ちつつ吾らは監督指導が絶え間なく、そして滞りなく続けられるよう配慮し、挫折することのないように警戒を怠らない。

それが出来るのも吾らの界、および吾らと人間との間に存在する界層を通じて情報網が張りめぐらされているからであり、必要とあらば直接使者を派遣し、場合によっては今の吾々がそうであるように、自ら地上へ降りることも可能だからである。

 更にその方法とは別に、吾らの如き守護の任に当たる者が本来の界に留ったまま、ある手段を講じて自分に託された人間と接触し、然るべく影響を行使することも可能である。

これで理解が行くことと思うが、創造主の摂理は全界層を通じて一体となって連動し、相関関係を営んでいる。宇宙のいかなる部分も他の影響を受けないところは一つとして無く、人間が地上において行うことは天界全域に知れ亘り、それが守護霊の心と思想に反映し、守護霊としての天界での生活全体に影響を及ぼすことになる。

 されば人間は常に心と意念の働きに注意せねばならない。思念における行為、言葉における行為、そして実際の行為の全てが、目に映じ手を触れることのできる人々に対してのみならず、目には見えず手を触れることこそできないが、いつでも、そしてしばしば監視しながら接触している指導霊にも重大な影響を及ぼすからである。

それのみではない。地上から遠く離れた界層にて守護の任に当たる霊にも影響が及ぶ。私の界においても同じである。

この先更にどこまで届くか、それは敢えて断言することは控えたい。が、強いて求められれば、人間の行いは七の七十倍の勢い(*)を持って天界に知れ亘る、とでも答えておこう。その行きつく先は人間の視野にも天使の視野にも見届けることは出来ない。

何となれば、その行きつくところが神の御胸であることに疑いの余地は無いからである。(マタイ18・22。計り知れない勢いの意──訳者)

 故に、常に完全を心掛けよ。何となれば天に坐(ましま)す吾等が父が完全だからである。不完全なるものは神の玉座に列することを許されないのである。

 では善と美を愛さぬ者の住む界層はどうなるのか。実は吾らはその界層とも接触を保ち、地上と同じように、援助の必要があれば即座に届けられる。縁が薄いというのみであって決して断絶しているわけではないからである。

その界層の霊たちも彼らなりに学習している。その点は人間も変わらない。ただしその界の雰囲気は地上よりは暗い───ただそれだけのことである。彼らも唯一絶対なる神の息子であり娘であり、従って吾らの弟であり妹でもあるわけである。

人間の要請に応える如く彼らの魂の叫びに応えて吾らは援助の手を差し伸べる。そうした暗黒界の事情については貴殿はすでにある程度のことを知らされている。が、ご母堂の書かれたもの(第一巻三章)にここで少しばかり付け加えるとしよう。

 すでにご存知の通り、光と闇は魂の状態である。暗黒界に住む者が光を叫び求める時、それは魂の状態がそこの環境とそぐわなくなったことを意味する。そこで吾等は使者を派遣して手引きさせる。が、その方角は原則として本人の希望に任せる。

つまり、いきなり光明界へ連れてくることはしない。そのようなことをすれば却って苦痛を覚え、目が眩み、何も見えぬことになる。

そうではなく暗黒の度合いの薄れた世界、魂の耐えうる程度の光によって明るさを増した世界へ案内され、そこで更に光明を叫び求めるようになるまで留まることになる。

 暗黒地帯を後にして薄明の世界へ辿りついた当初は、以前に較べて大いなる安らぎと安楽さを味わう。その環境が魂の内的発達程度に調和しているからである。が、

尚も善への向上心が発達し続けると、その環境にも調和しない時期が到来し、不快感が募り、ついには苦痛さえ覚えるに至る。やがて自分で自分がどうにもならぬまま絶望に近い状態に陥り、自力の限界ぎりぎりまで至った時に、再び叫び声を上げる。

それに応えて神の使者が訪れ、更に一段階光明界に近い地域へと案内する。そこはもはや暗黒の世界ではなく薄明の世界である。かくて彼はついに光が光として見える世界へ辿り着く。それより先の向上の道にはもはや苦痛も苦悩も伴わない。喜びから更に大きな喜びへ、栄光から大いなる栄光へと進むのである。

 ああ、しかし、真の光明界へ辿り着くまでにいかに長き年月を要することか。苦悶と悲痛の歳月である。そしてその間に絶え間なく思い知らされることは、己れの魂が浄化しない限り再会を待ち望む顔馴染みの住む世界へは至れず、愛なき暗黒の大陸をとぼとぼと歩まねばならないということである。

 が、私の用いる言葉の意味を取り違えてはならない。怒れる神の復讐などは断じてない。「神は吾らの父なり」、しかして「父は愛なり」(ヨハネ)その過程で味わう悲しみは必然的なものであり、種子蒔きと刈入れを司る因果律によって定められるのである。

吾々の界──驚異的にして素晴らしいものを数多く見聞きできるこの界においてすら、まだその因果律の謎を知り尽くしたとは言えない。

全ての摂理が〝愛〟に発するものであることは、地上時代とは異なり、今の吾々には痛いほどよく解る。曽てはただ信ずるのみであったことを今は心行くまで得心することが出来ることも、憚(はばか)ることなく断言できる。が、因果律というこの厳粛なる謎については、まだまだ未知なるものがある。

が、吾々はそれが少しずつ明かされていくのを待つことで満足している。それというのも、吾々は万事が神の叡智によって佳きに計られていることを信ずるに足るだけのものを既に悟っているからである。

それは暗黒界の者さえいつの日か悟ることであろう。そして彼らがこの偉大にして美わしき光の世界へと向上進化して来てくれることが吾々にとっての何よりの慰めであり、また是非そうあらしむべく吾らが手引きしてやらねばならない。

そしてその暁には万事が有るがままにて公正であるのみならず、それが愛と叡智に発するものであることを認め、そして満足することであろう。

 吾々はそう理解しているのであり、そのことだけは確信を持って言える。そして私もその救済に当たる神の使者の一人なのである。

私が気づいていることは、かの恐ろしき暗黒の淵から這い上がって来た人たちの神への讃仰と祝福の念を、その体験の無い吾々のそれと比較する時、そこに愛の念の欠如が見られないことである。些かも見られぬのである。

と言うのも、正直に明かせば、彼らと共に天界の玉座の光の前にひれ伏して神への祈りを捧げた折のことであるが、彼らの祈りの中に私の祈りに欠けている何ものかがあることに気づいたのである。

そこで思わず、私もそれにあやかりたいとものと望みをかけて、ようやく思い止まったことでああった。

 それは許されぬことであろう。そして神はその愛ゆえに、吾々の内にあるものを嘉納されるに相違ない。それにしても、かのキリストの言葉は実に美わしく、愛がその美しさを赤裸々に見せる吾々の界において如実にその真実味を味わうのである。

 神はその愛の中にて人間と交わりを保つ。神の優しき抱擁に身を任せ、その御胸に憩いを求める時、何一つ恐れるものはない。 ♰