Tuesday, November 19, 2024

シアトルの晩秋 二人三脚の原理

principle of the three-legged race



二人三脚の原理
 一九一八年 三月二十二日 金曜日

 今夜も例の顕現の場における宇宙創造に関する研究から得た原理をテーマとして述べてみたいと思います。

 エネルギー作用におけるスパイラルの原理についてはすでに述べました。そこでもう一つ吾々が学んだ原理をお教えしましょう。

 創造的生命のあらゆる部門においてその発展を司る者が必ず遭遇し適応しなければならないものに、潜在的な反抗的衝動があります。

その影響力が生ずるに至った始源をたどれば悠久の太古にさかのぼり、しかもそれは神の心を物質という形態での顕現を完遂させようとする天使群の努力の中から生じたものなのです。

 当時──はるか太古のことですが──その完遂へ向けての道程に関して天使群の間で意見が二つに分かれました。時間をかけるべきと主張する側と早く仕上げるべきと主張する側です。と言っても真っ向から対立したわけではありません。

その考え方には共通した部分がいろいろとありました。が、不一致から生じた混乱によって今日人間が〝悪〟と呼ぶ要素が生まれたのです。今すべてが完成へ向けて進行していることは事実です。

が、そのための活動の分野は無限といえるほど広大であり、当然それに要する期間は地上の年数で計算すれば無限といってもいいでしょう。

永遠の存在である神の目から見れば長いも短いもないのですが、川の流れと同じで、上から見下ろせば一つの流れであっても、これを始源からたどれば全体をカバーするに延々とした道のりとなります。

 造化の進展におけるその多様性が現時点の地球意識が機能している外的界層にいかに顕現しているかは貴殿にもお分かりでしょう。

と言うのは、地球の表面には一方においては今なお発達途上にある才能の蓄積を生み、他方においては進化の大機構における目的に寄与して今や生命の質の向上によっていっそう入り組んだより敏感な媒体が必要となったために捨てられてしまった、かつての天使の叡智の試練の贈(タマモノ)があふれている──否、地球全体がそれによって構成されていると言えるほどだからです。

遠い太古の遺物にもそのことが言えますが、他方、発展せんとする衝動の強さにとって媒体が不適当であることが表面化し、窮屈となり、生命の鼓動が小さくなり、無力化し、ついにその系統の進化活動が停止するに至ったことを物語るものがあります。


 現在化石として残っている巨大な哺乳動物や爬虫類は創造物としては高度の技術を要した素晴らしい産物でした。が、現時点から見るとお粗末で不格好な作品に見えます。

ただ見落としてならないのは、そうしたぎこちない創造物の中にも、今なお造化の過程にある生き生きとして進歩性に富む生命力の宿る神殿(媒体)の基礎を据える上で役に立ったものがあるということです。

そうした基礎工事に較べれば神殿のデザインがいかに改良されてきたかがお分かりになると思います。今貴殿らが立って眺めている階段の標高がいかに高いかもお分かりでしょう。

その位置からは、今日の地上の生命の基礎が据えられた時の地球と同じ段階にある新しい天体の造化に当たっている他の天使群の作業場が、はるか虚空の彼方に見晴らせるのです。

 そこで私のいうもう一つの原理はこうです。発展というのは必ず二重のコースが並行して進みます。

一つはすでに述べた通りの統一性から多様性へ向けるのコースですが、それと並行して必ず、その対であるところの霊的なものから物的なものへのコースが伴うということです。両者は常に並んで走る二人のランナーのようなものです。

一人は〝統一性から多様性へ〟のランナー、もう一人は〝霊から物質へ〟のランナーです。二人は常に同じペースで走らなければなりません。一方が他方を追い越すことは許されません。競争ではなく、同時にゴールインしなければならないのです。

 ところが、その造化の大業にたずさわる者の中にタイミングの読みを間違えて、まだゴールの標識に至らないうちに外部への進展を止め、その創造的生命力をふたたび霊の方向へ向かわせる操作をした者がいたのです。

その標識とは地上の科学者が〝宇宙〟と呼んでいるところの、創造的活動の物質的表現のことです。実はそれが宇宙の全てではありません。

もっと奥深い次元での内的顕現の物質的側面に過ぎません。その背後には造化を司る天使群が控え、意念の活性化によって、銀河の世界の恒星の大艦隊が首尾よく物質の大海原を航海し、目指す港に到着すればくるりと向きを変えて帰路につけるように、たゆみなくその操作に当たっているのです。

 しかし、帰路に着くといっても、来た時と同じ航路を逆戻りするのではありません。

と言うのは、疾風怒濤の荒波を乗り越えてきた航路において生命の多彩な表現の豊かさを身につけて、最初に船出した時はただの漕ぎ手と荷上げ人足に過ぎなかったのが今や一人ひとりが船長の資格を持ち、指導者としての霊格を身につけていますから、来た時よりはるかに陽光にあふれた航路を進むことになるのです。

 さて私が先ほど混乱が生じたと申し上げたのは、その造化の天使群のうちの一部が目指す港への到着を待ちきれずに旋回しようと企てたことです。

艦隊はすでに悠久の時を閲しながら航海してきて、その大海のど真ん中で帆をいっぱいに膨らませたまま旋回しようというのです。疾風と怒涛の真っ只中です。

各船体が大きく揺れ、激突し合って今にも沈没しかけるものもありました。そこに至って彼らもやはり順風を受けて進むべきであることを思い知らされ、ふたたび当初の目的地へ向きを戻したのでした。

そうしてようやく目指す港へ着いた時は船体は傷つき、帆は破れ、くぐり抜けてきた嵐の跡がそこかしこに見られるのでした。

 以上の物語の意味を説明しましょう。大海は無限絶対の心すなわち神が外部へ向けて顕現していく存在の場です。艦隊は神の命を受けて造化に当たる天使群によって創造された顕幽にまたがる宇宙です。

外部へ向けてのコースの目指す港は現在の地球が一部を占めている物的宇宙です。帰路のコースは貴殿らがいま向かいつつあるものです。

最も外部の地点まで辿り着き、そこの標識を今まさに折り返しつつあるところです。

今日地上に何かと不穏な状態が生じているのは、人類がその折り返し点に来ているから──不活潑な物質の港から活潑な外洋へと船出せんとしている、その旋回が原因です。

そのうち帆に風いっぱいに受けてぶじ帰路に着くことでしょう。そして士官も乗組員も上機嫌となり、艦隊が存在の場を波を切って進むにつれて、悠久の港に船出した母港へと近づきます。すでに光が射しはじめ神の微笑が見えるはるか遠い東の空に待ちうける歓待へ向けて進むにつれて、喜びと安らぎが次第に増していくのです。


──混乱が生じたのはいつ頃のことだったのでしょうか。つまり造化にたずさわる天使群が過ちを犯しはじめたのは進化のどの段階でのことだったのでしょうか。

 私にもたどることができないほど遥か遠い昔のことでした。さらに言えば、地上の視点からすれば〝読み間違えた〟ように思えるかもしれませんが、実際には必ずしもそうではないのです。私は貴殿からは見えないところに位置しておりますが、進歩の程度からいえば、ほんの一歩先を歩んでいるだけです。

私およびここにいる私の仲間たちには、その〝間違えた〟と言っているものも、目指す港に着いてみれば現在の吾々が考えているものとは異なったものであるように思えるのです。

我々が〝悪〟だとか〝不完全〟だとか決めつけ、そう思い込んでいるものも、そこへ行き着けばまるでミニチュアの小島の岩に打ち寄せる小さな波のようなもの──無限なる大海の真っ只中の小さな一滴にすぎないのです。

その波が砕けて(大げさに)しぶきを上げているように思えます。が、落ちゆくところは母なる海であり、しょせん元の大海は増えてもいなければ減ってもいないのです。

吾々はその真っ只中の一点の島に当たって砕け散ったカップ一杯ほどの水でもって海の深さを測ってはならず、豊かなその懐の威厳を推し測ってもならないように、無限なるもののほんの一かけらを取り上げて神の偉大なる叡智に評価を下してはなりません。

 あるとき一匹のアリが仲間に言いました。

 「なあ、オレたちはアリマキよりは頭がいいんだよな。あいつらを働かせてオレたちが要るものを作らせてるんだから・・・・・・」

 「そりゃあそうさ」と仲間は答えました。

ところがそこへアリ食いが現われて、そのアリたちの知恵も一瞬のうちに消えてしまいました。アリ食いは日なたで寝そべってこうつぶやきました。

「アリたちはあんなことを言ってやがったが、みろ、オレはその上を行ったじゃないか。だが、オレよりもっと大きな知恵をもったヤツがいるに違いないんだ・・・・・・」

 人間がアリと同じような考えでいても、宇宙にはもっと大きい、そしてそれに似合った力を具えた存在がいるのです。そういう大きな存在はせっかちな結論は下しません。それを知恵が足りないからだと考えてはなりません。 
                                アーネル ±

シアトルの晩秋 造化の原理 ー スパイラルの原理

Principle of Creation - Principle of Spiral

五章 造化の原理

1 スパイラルの原理
一九一八年 三月十一日  月曜日

──創造的活動にたずさわる天使の大群とともに例の大学の大ホールで体験されたことや学ばれたことについて語っていただけませんか。

 私が仲間の学徒とともに大学を見学することになってすぐさま気がついたことは、すべてが吾々の理解を促進する知識の収集に好都合に配置されていることでした。

すべてが整然と構成されているのです。巨大な造化の序列の間には向うの端が遠くかすんで見えるほどの長い巾広いもの (avenues とあるが並木道、本通り、通路等の訳語しか見当たらない──訳者)で仕切られています。

と言っても、序列のどれ一つとして他から隔離されたものではないので、それはただの〝仕切り〟division ではなく、横切って通るための〝路〟road でもなく、実はそれ自体が両隣りを融和させる機能を具えた〝部門〟department なのです。

 そこを見学しているうちに吾々は、創造活動において造化の天使が忠実に守っている基本原則が幾つかあることを知らされて感心しました。その原則は無機物にも植物にも動物にも本質的には同じものが適用されています。

しかし最も進化せる界層に顕現されている叡智と巧みさに満ちた豪華絢爛たる多様性も、原初におては単純な成分の結合に端を発し、永い進化の時を閲しながら単純なものから複雑なものへと発達し、ついに今日見るがごとき豪華な豊かさへと至っていることを思えば、その事実は当然のことと言えるでしょう。

 私が言わんとすることを例を挙げて説明してみましょう。

 その仕切りの一つを通って行くと、天体がいかにして誕生したかが分かるようになっていました。左側は神の思念が外部へ向けて振動し鼓動しつつ徐々に密度を増し、貴殿らのいうエーテルそのものとなっていく様子が分かるようになっていました。

それを見ると〝動き〟の本質が分かります。本質的には螺旋状(スパイラル)です。それが原子の外側を上昇して先端までくると、今度は同じくスパイラル状に、しかし今度は原子の内部を下降しはじめます(これが象徴的表現に過ぎないことをこの後述べている──訳者)。

空間が狭いために小さなスパイラルでも上昇時よりもスピードを増します。そして猛烈なスピードで原子の底部から出ると再び上昇スパイラルとなりますが、スピードは少しゆるやかになり、上昇しきると再びスピードを増しながら内部を下向していきます。

 原子は完全な円でなく、といって卵形でもなく、内部での絶え間ない動きの影響で長円形をしています。その推進力は外部からの動力作用で、もしその動力源をたどることができれば、きっと神の心に行き着くのではないかと私は考えています。

お気付きと思いますが、〝先端〟とか〝底部〟とか〝上昇〟とか〝下降〟という言い方は便宜上そう表現したまでのことです。エーテルの原子に上も下もありません。

 さて、エーテルの原子を例に挙げたのは、これを他のさらに密度の高い性分へとたどっていくためのモデルとしていただくためです。たとえば地上の大気のガス物質を構成する原子にまでたどっても、やはり同じ運動をしております。

エーテルの原子の運動とまったく同じ循環運動をしております。細かい相違点はあります。

同じスパイラルでも細長い形もあれば扁平なのもあります。スピードの速いのもあれば遅いのもあります。いずれにせよ原子の内側と外側のスパイラル運動であることに変わりはありません。

 鉱物の原子を見てもやはり同じ原理になっていることが分かります。また一つの原子について言えることは、原子の集合体についても言えます。たとえば太陽系の惑星の動きもスパイラルです。但し、惑星を構成する物質の鈍重さのせいで動きはずっとゆっくりしています。

 同じことが衛星の運動にも言えます。さらに銀河系の恒星をめぐる惑星集団、さらに銀河の中心をめぐる恒星集団についても言えます。

 ただし各原子の質量と密度の双方がスパイラル運動の速度に影響します。密度の高い原子から成る物質においては速度が遅くなります。しかしその場合でも原子の内部での速度の方が外部での速度より速いという原則は同じです。

内側の運動から外側の運動へと移る時は、動くのがおっくうそうな、ゆっくりとしたものになります。しかしあくまできちんと運動し、その運動は軸を中心としたスパイラルの形をとります。

月もいまだに軌道運動に関してその性則を維持しようとしています。地球を中心とするかつてのスパイラル運動をしようとしながら出来ずにいるかのごとく、みずからを持ち上げようとしては沈みます。地球も同じことを太陽の周りで行ってなっております。

完全な円運動ではなく、完全な平面上の円運動でもありません。地軸に対しても平面に対しても少しずつずれており、それで楕円運動となるのです。

 以上のようにエーテルの原子、地球のガス物質、および地球そのものについて言えることは太陽ならびに銀河の世界についても言えます。その運動は巨大なスパイラルで、恒星とその惑星が楕円を描きながら動いております。

 こうした情況を吾々はその巾広い通りの左側に見たのです。がその反対側には物的創造物の霊的側面を見ました。つまり両者は表裏一体の関係になっているのです。

そして吾々が位置している通りが両者を結びつける境界域となっているのです。地上生活から霊界へ入る時はそれに似た境界域を横切るのです。そしてやがてその〝部門〟から次の〝部門〟へと移行することになります。

横切る通りは言わば地球の人間と天界の人間とを隔てる境界ということになります。


──さっき述べられた原理すなわちスパイラル運動の原理の他にも何か観察されたのでしょうか。

 しました。あの原理を紹介したのは説明が簡単であり、同時に基本的なものでもあるから・・・・・・いや多分基本的だから単純なのでしょう。

 では、もう一つの原理を紹介しましょう。基本的段階を過ぎると複雑さを増し説明が困難となります。が、やってみましょう。

 吾々が知ったことは造化の神々は先に述べたエーテルの原子よりさらに遡った全存在の始源近くにおいて造化に着手されているということです。またエーテルの進化を担当するのも太古より存在する偉大なる神々であるということです。

そこで吾々はずっと下がって材質の密度が運動を鈍らせるに至る段階における思念のバイブレーションを学習することになりました。

そしてまず知ったことは、吾々学徒にとって最も困難なことの一つは、正しく思惟し正しく意志を働らかせることだということです。物質を創造していく上でまず第一にマスターしなければならないことはスパイラル状に思惟するということです。

これ以上の説明は私には出来ません。スパイラルに思惟する───これを習慣的に身につけるのは実に困難な業です。

 しかし貴殿は別の原理を要求しておられる。それでは感覚的創造物───植物的生命の創造を観てみましょう。

 例の〝通り〟の一つを進んでいくと片側に地球ならびに他の惑星上の植物的生命が展示され、反対側にその霊的裏面が展示されていました。

それを観察して知ったことは、植物界の一つ一つの種に類似したものが動物界にも存在するということでした。それにはれっきとした理由があります。

そしてそれは樹皮、枝、葉という外部へ顕現した部分よりもむしろ、その植物の魂に関連しております。が、それだけでなく、よく観察するとその外見と魂との関係にも動物と植物の関連性を垣間みることができます。


──どうもお話について行けないのですが・・・・・・もう少し説明していただけますか。

 では、いったん動物と植物の対比から離れて、それからもう一度その話に戻ってきましょう。その方が分かりやすいでしょう。

 天界はさまざまな発達段階の存在──権威において異なり、威力において異なり、性格において異なり、さらには各分野における能力において異なる存在がいます。

 このことは途上に関しても言えることです。

 従ってそれは動物界についても言えることであることがお分かりでしょう。動物は種類によって能力がさまざまです。それぞれに優れた能力を発揮する分野があります。性格的にそうなっているのです。馬は蛇よりも人間と仲良くなり易いですし、ハゲワシよりオウムの方が人間によく懐(なつ)きます。

 さて先程述べかけた類似に原理は、大ていの場合さほど明確でないにしても、植物界と動物界にも存在することが分かります。たとえば植物の代表としてカシの木を、動物の代表として小鳥を例にとって考えてみましょう。

カシの木は種子(どんぐり)を作って地上に落とします。これが土に埋もれて大地で温められ、内部の生命が殻を破って外部へと顕現します。

実はそのどんぐりと小鳥は構造においても発生のメカニズムにおいても本質的にはまったく同じなのです。

 この〝内部から外部へ〟という生命の営みは普遍的な法則であって、けっして敗れることはありません。それは又、現在の宇宙を生んだ根源的物質の奥深く遡っても同じです。エーテルの原子の説明を思い出してください。原子の最初の運動は内部に発します。

そこでは速度が加速され、運動量が集積されます。外部に出ると両方とも鈍ります。


 同じルールが他の分野についても言えることが分かりました。創造界の神々が順守すべき幾つかの統一的原理が確立されているということです。

そのうちの一つが、まず外皮があってその内部の美がそれを突き破って顕現し、その有用性に似合っただけの喜びが見る者の目を楽しませるということであり、また一つは二つの性──能動的と受動的──であり、循環器系でいえば樹液と血液であり、呼吸器系で言えば毛穴と気孔であり、その他にもいろいろと共通の原理があります。

 これ以上貴殿のエネルギーが続きそうにありません。これにて中止されたい。
                                アーネル ±


 訳者注──最後の部分がよく理解できないが、これは次の通信の冒頭でアーネル霊も指摘し、通信が正しく伝わっていないと言って、その補足説明を行っている。

しかし年代的にアーネル霊は中世の人間であり、オーエンは現代の人間であっても科学的には素人なので、内容の表現や用語に素人くささが出ている。

大巾な書き変えは許されないので原文のまま訳しておいたが、読者はその趣旨を読み取る程度にお読みいただきたい。

Monday, November 18, 2024

シアトルの秋 シルバーバーチの教え 序文 ハンネン・スワッファー

Preface Hannen Swaffer
Teachings of Silver Birch

我々がシルバーバーチと呼んでいる霊は、実はレッド・インディアンではない。いったい誰なのか、今もって分からない。分かっているのは、その霊はたいへんな高級界に所属していて、その次元からは直接地上界と接触できないために、かつて地上でレッド・インディアンだった霊の霊的身体を中継して我々に語りかけている、ということだけである。

いずれにせよ、その霊が“ハンネン・スワッファー・ホームサークル”と呼称している交霊会の指導霊である。その霊が最近こんなことを言った。

「いつの日か私の本名(地上時代の名前)を明かす日もくることでしょうが、私は仰々しい名前などを使用せずに、私の説く中身の真実性によって確かに大霊の使徒であることを立証したいと思っています。それが地上の皆さんの愛と献身とを獲得する道であり、そのためにこうしてインディアンに身をやつしているのです。それが大霊の摂理なのです。」

もっとも、一度だけ、シルバーバーチがその本名をもう少しで口にしそうになったことがあった。一章の冒頭に出てくる、自分が使命を仰せつかってそれを承知するに至る場面でのことだった。

ところで、私とシルバーバーチとの出会いは、一九二四年にスピリチュアリズムの真実性を確信して間もない頃のことだった。以来私は、毎週一回一時間あまりシルバーバーチの教えに耳を傾け、助言をいただき、いつしかその霊を地上のいかなる人物よりも敬愛するようになった。


訳注――スワッファーはシルバーバーチの交霊会に出席する前は、同じ作家仲間が司会をするデニス・ブラッドレー・ホームサークルという交霊会に出席して死後の個性存続を確信していた。正確に言うと最初に出席したのは一九二四年二月二十七日で、そのときは親戚の者が(声で)出現しているが、まだ得心するには至らなかった。それが同年十月七日の交霊会に大先輩で《デイリー・メール》の創刊者のノースクリフ卿が出現して動かしがたい証拠を見せつけられ、会の終了後にブラッドレーに「今日のは凄かった。私もこれで死後の存続と、霊との交信の真実性を確信したよ」と語った。その五日後にスワッファーは、自分が主筆をしていた《ザ・ピープル》でその体験を公表し、続いて『Northcliffe's Return』という単行本を出版して大センセーションを巻き起こした。

シルバーバーチの地上への最初の働きかけは、普通とは少し違っていた。ある日、十八歳の無神論者の青年が、ロンドンの貧民街で行われていた交霊会にひやかし半分の気持ちで出席した。そして霊媒が次々といろいろな言語でしゃべるのを聞いて、青年は思わず吹き出してしまった。ところがその中の一人の霊が、「そのうちあなたも同じことをするようになりますよ」と諌(いさ)めるように言った。

その日はバカバカしいという気持ちで帰ったが、翌週、再び同じ交霊会に出席したところ、青年は途中でうっかり居眠りをしてしまった。目覚めると慌てて非礼を詫びたが、すぐ隣に座っていた人が「今あなたは入神しておられたのです」と言ってから、こう続けた。「入神中にあなたの指導霊が名前を名乗り、『今日までずっとあなたを指導してきたが、近いうちにスピリチュアリストの集会で講演をするようになる』と言っておられました」と。これを聞いて青年(モーリス・バーバネル)はまた笑い飛ばしたが、間もなくそれが現実となった。

当初、シルバーバーチは多くを語ることができず、それもひどいアクセントの英語だったが、年を経るにつれ語る回数が増えたことも手伝って、英語が飛躍的に上達した。今日ではその素朴で流麗な英語は、私がこれまで聞いたいかなる演説家もその右に出る者はいないほどである。

ところで、霊媒のバーバネルが本当に入神していることをどうやって確認するのか、という質問をよく受けるが、実はシルバーバーチが我々列席者に、霊媒の手にピンを刺してみるように言ったことが一度ならずあった。恐る恐るそっと刺すと、「思いきって深く刺しなさい」と言う。入神から覚めたバーバネルにそのことを聞いてもまったく記憶がないし、その傷跡も見当たらなかった。

もう一つよく受ける質問は、霊媒の潜在意識の仕業ではないことをどうやって見分けるのか、というものであるが、実はシルバーバーチとバーバネルとの間には思想的に完全に対立するものがいくつかあることが、そのよい証拠と言えよう。例えばシルバーバーチは再生説を説くが、バーバネルは通常意識のときには再生は絶対にないと主張する。そのくせ入神すると再生説を説く。(晩年は「再生説」を信じるようになった――訳注)

些細なことだが、さらに興味深い事実を紹介すると、シルバーバーチの霊言が《サイキック・ニューズ》紙に掲載されることになって速記録が取られるようになるまでのことであるが、バーバネルがベッドに入ると、その日の交霊会で自分が入神中にしゃべったことが霊耳(れいじ)に聞こえてくるのだった。

これには訳がある。バーバネルはもともと入神霊媒になるのがイヤだったのであるが、自分がしゃべったことをあとで聞かせてくれるのなら、という条件をシルバーバーチとの間で取りつけていたのである。速記録が取られるようになると、それきりそういう現象は止まった。

翌日、交霊会の速記録が記事になったのを読んでバーバネルは、いつものことながら、その文章の美しさに驚く。自分の口から出た言葉なのに……。

シルバーバーチは教えを説くことに専念しており、病気治療などは行わない。また心霊研究家が求めるような、証拠を意図したメッセージも滅多に持ち出さない。「誠に申しわけないが自分の使命は霊的教訓を説くことに限られているので……」と言って、我々人間側の要求のすべてには応じられない理由を説明する。

最近、私は各界の著名人を交霊会に招待している。牧師、ジャーナリスト、その他あらゆる分野から招いているが、シルバーバーチという人物にケチをつける者は誰ひとりいない。その中の一人で若い牧師を招いたとき、私は前もって「あなたの考えうる限りの難解な質問を用意していらっしゃい」と言っておいた。その牧師は、日頃仲間の牧師からさんざん悪口を聞かされている“交霊会”というものに出席するというので、この機会に思いきってその“霊”とやらをやり込めてやろうと意気込んで来たようである。しかしシルバーバーチが例によって“摂理”というものをやさしい言葉で説明すると、若者はそれきり黙り込んでしまった。難解きわまる神学が、いとも簡単に解きほぐされてしまったからである。

さて、シルバーバーチを支配霊とする私のホームサークルは毎週金曜日の夜に開かれ、その霊言は定期的に《サイキック・ニューズ》紙に掲載される。その版権が私のホームサークルに所属するのは、サークルとしての私用を目的としてのことではなく、これを世界中に広めるためである。今ではシルバーバーチは、地上のいかなる説教者よりも多くのファンを持つに至っている。あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる肌の色(人種)の人々に敬愛されている。

そうしたシルバーバーチの言葉も、いったん活字になってしまうと、その崇高さ、その温かさ、その威厳に満ちた雰囲気の片鱗(へんりん)しか伝えることができない。交霊会の出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバーバーチがどんなに謙虚に語っても、我々は高貴にして偉大なる霊の前にいることをひしひしと感じる。決して人を諌めない。そして絶対に人の粗探しをしない。

キリスト教では“ナザレのイエス”なる人物についてよく語るが、実は本当のことはほとんど知らないし、そもそもイエスという人物が実在した証拠は何ひとつ持ち合わせていないのである。

そのイエスをシルバーバーチは、彼が連絡を取り合っている霊団の中で最高の霊格を持つ存在と位置づけている。私は長年にわたってシルバーバーチと親しく交わってきて、その誠実な人柄に全幅の信頼をおいているので、シルバーバーチの言う通り、新約聖書の主役であるイエス・キリストは地上で開始した霊的刷新の使命に今なお携わっていると確信している。

そう信じて初めて、(マタイ伝の最後にある)「見よ! 私はこの世の終わりまで常にあなた方と共にいる」というイエスの言葉の真の意味が理解できる。今の教会では、この説明はできない。

これから紹介するシルバーバーチの教えを読むに当たってあらかじめ知っておいていただきたいのは、そのすべてが真っ暗闇の中で語られ、それがベテランの(盲人用の)点字速記者によって書き留められたという事実である。

元来じっくり語りかけるシルバーバーチも時には早口になることがあり、そんなときは付いていくのは大変だったろうと察せられるが、あとで一語たりとも訂正する必要はなかった。もとよりそれはシルバーバーチの英語が完璧だったことにもよるであろう。が、通常の英語に直したときに要求される作業は句読点を書き込むだけで、しかもその位置はいつも、きわめて自然に決まるような文章の流れになっていたというから驚きである。

シルバーバーチの哲学の基本的概念は、いわゆる汎神論(はんしんろん)である。すなわち神は大自然そのものに内在し、不変の法則としてすべてを支配している。要するに、神とはその法則(摂理)なのである。それをシルバーバーチは、「あなた方は大霊の中に存在し、また大霊はあなた方の中に存在します」と表現する。ということは、我々人間も潜在的にはミニチュアの神であり、絶対的創造原理の一部ということになる。

もっともシルバーバーチは理屈をこね回すだけの議論には耳を貸さない。人間は何らかの仕事をするためにこの地上へ来ているのだということを繰り返し説き、「宗教とは、人のために自分を役立てること」と単純明快に定義する。そして、お粗末とはいえ我々は今この地上にあって、戦争に終止符を打ち、飢餓を食い止め、神の恩寵(おんちょう)が世界中にふんだんに行きわたる時代を招来するための“霊の道具”であることを力説する。

「我々が忠誠を捧げるのは一つの教義ではなく、一冊の書物でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の摂理です」――これがシルバーバーチの終始一貫して変わらない基本姿勢である。

それはサークルのメンバーの構成からも窺(うかが)われる。当初、サークルは六人で構成されていたが、その中には三人のユダヤ人がいた。スピリチュアリズムは民族の違いや宗教の違いには頓着しないことの表れである。残りの三人は懐疑論者であり、うち一人はメソジストの牧師だった人物で、スピリチュアリズムの真理を知ってメソジストの教義が信じられなくなり、サークルのメンバーになる前に脱会している。

シルバーバーチは交霊会に変化をつけるために、時おり自分以外の人物にも語らせている。《デイリー・メール》の創刊者ノースクリフ、英国の小説家ゴールズワージー、同じく英国の小説家ホール・ケイン、政治家だったギルバート・パーカー、米国のジャーナリストだったホーラス・グリーリー、英国の聖職者ディック・シェパード、かの有名な米国大統領リンカーン、その他、サークルのメンバーの親しい知人などが声で出現している。

長年のメンバーである私は、シルバーバーチが前回での約束を忘れたという事実を、いまだかつて知らない。シルバーバーチは大切な真理を、平易に、そして人生に役立つ形で説くという本来の使命から一瞬たりとも逸脱したことはない。

Sunday, November 17, 2024

シアトルの晩秋 最後の晩餐

the Last Supper

More Philosophy of Silver Birch
Edited by Tony Ortzen
 

 訳者前置き───本章はシルバーバーチの交霊会を録音したカセットテープ Silver Birch Speaks<シルバ-バーチは語る>の全訳である。原書では部分的に1/3程度が紹介されているが、本書では全部を紹介することにした。シルバーバーチの交霊会は初期の頃は速記のみで、その後は速記と録音とによってすべて保存されているが、市販用にカセットテープに収められたのは、これまでのところこれが唯一である。

〝最後の晩餐〟という見出しは、たまたま出席者の数がキリストの最後の晩餐の時と同じ十三人だったので、リーバ女史がそう呼んだのであるが、シルバーバーチの霊訓の最後を飾るものとしてもふさわしいので、そのまま用いた。

訳文の中で(後注1、2、3、4)として章末にまとめたものは原書をお持ちの方への配慮である。

 なおカセットテープと原書をご希望の方は巻末の〝訳者あとがき〟を参照されたい。入神したバーバネルに乗り移っていよいよ話せる用意の整ったシルバーバーチが冒頭に呼びかけているサム・デニス Sam Dennis は司会者で、他のカセットでも司会やインタビュアーの役をしている人である。(この八章の会話行頭の───はすべてサム・デニス氏)

 最初に女性の声でこのカセットの内容についても解説があり、最後に〝それではシルバーバーチ霊に語っていただきましょう〟と結んだあと、シルバーバーチの次のような言葉で会が始まる。(カッコ内はすべて訳者による)


 サム・デニスさん、始めることにいたしましょう。

───よろしくお願いします。(後注1)

 皆様に大霊の祝福のあらんことを。
 本日もいつもの順序で会を進めることとし、悩みごとや厄介なこと、心配ごとや不安はとりあえず脇へ置いていただきましょう。そしてお互いが可能な限り和気あいあいのうちに最高のものを求めんとする願望において一つとなるよう努力いたしましょう。(次第に開会の祈り(インボケーション)にはいる)

 無限なる愛と叡智の根源である大霊を超えるものは誰一人、何一つ存在し得ません。その大霊こそが、私たちの住まうこの果てしなき宇宙の責任者であらせられ、その無限なる知性が、巨大と微細とを問わず、また複雑と単純とを問わず、ありとあらゆる存在を支配し規制する摂理の全てを創案し維持しておられます。

それが、およそ例外というものを知らない不変不動の法則に従って一糸乱れることなく働いているのでございます。

 私たちはその崇高なる力に深甚なる敬意を表するものでございます。その力が驚異的真理を啓示し、それが私たちの精神の領域を広げ、自分とは一体誰なのか、また何者なのかについてのより大きな理解を与え、さらには、われわれのすべてをその懐に抱きかつ支配する崇高なる力について一層明瞭なる心象を抱かせてくれるところとなりました。

その驚異的機構の中にあっては、誰一人、何一つ、見落とされることも忘れ去られることも、あるいは無視されることもございません。いずこにあろうと、ありとあらゆる存在が扶養と供給を受けるよう配慮されているのでございます。

 同時に私どもは、いついかなる時も私たちの背後には強大なる高級霊団が控えていることも認識いたしております。その望むところはただ一つ、私たちのために力を貸し、代わって私たちが恵まれぬ人たちのために力を貸すようになる、ということでございます。

私たちはこれまで多大の援助を受け、慰めを与えられ、導きを得てきたからには、こんどは代わって私たちが、授かった才能のすべてを駆使して、死別の悲しみの中にある人には慰めを、病の苦しみの中にある人には癒しを、悩める人には導きを、人生に疲れた人には力を、

道を見失える人には道しるべを与え、彼らを取り巻く暗闇に光輝溢れる真理の光明をもたらしてあげる心の用意を常に整えさせ給わんことを。

 ここに、常に己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。


 本日こうして皆さんのもとへ参り、霊の世界からの愛とメッセージをお届けできることを嬉しく思います。今夜の集りの特別な目的(市販の為の録音をすること)はよく存じております。

そこで私は、私の言葉をお聞き下さる方々のために、私の使命ならびに私と同じ願いに動かされている霊団の使命の背後に託された目的をまずご説明するのが適切と考えた次第です。 (それを冒頭の祈りの中で簡単に述べたということ)

 霊的なことはこれが初めてという方々に申し上げたいのは、私は皆さんと同じ一個の人間的存在であるということです。ただ私は、私の言葉をお聞きくださっている方のどなたよりも永い人生を生きてまいりました。

そしてこの地上より遥か彼方の世界における経験のたまものとして私は、あなた方が神と呼んでおられる大霊、ならびにその大霊の意志を究極において是非とも行きわたらせるために案出された大自然の摂理について、いくばくかの知識を手にいたしました。

 その経験の結果学んだものを、私は受け入れて下さる方に喜んでお分けしたいと思います。何かのお役に立つものと考えるからです。私はいかなる意味においても神さまのような存在ではございません。

私はまだまだ人間的要素を残しており、誤りも犯せば弱点もあり、不完全です。皆さん方のどなたとも同じように、まだまだ完全へ向けての長い長い道のりがあります。それは無限に続く道です。

 しかし私は、他の同僚と同じように、これまでに辿ってきた道を後戻りして、その間に得た真理と叡智と知識のいくばくかを披露して、それを皆さん方にもお分けするようにとの要請を受けたのです。

と同時に、私たちに協力してくださる方々の援助を得て、千変万化の生命形態のすべてを支配する崇高なる霊力を利用して、霊媒的能力を持つ人々を通じて恵み深い目的を果たすように手筈を整えることもできます。

 過去においても同じ霊力が流入して、今日の人が奇跡とみなしているところの驚異的な現象を演出いたしました。が、ここで申し上げておきたいのは、いかなる現象にも自然法則というものが働いており、それはいかなる力によっても停止されたり廃止されたりすることはあり得ず、原因に従って結果が生じるという整然たる因果律にのっとって働くほかはないということです。

  
 過去において発生したものも、それがいかに目を見張らせるものであろうと、いかに度肝を抜くようなものであろうと、いかに途方もないものであろうと、いかに驚異的なものであろうと、かならず自然法則の働きによって生じていたのです。

その法則は物質の領域においてだけでなく、霊的領域においても絶え間なく働いており、条件さえ整えば、霊的法則(スピリチュアル)・心霊的法則(サイキック)・半物質的法則(アストラル) (※)・エーテル的法則を総動員して、かつては奇跡と呼ばれ、今日では交霊会において霊媒的能力によって演出される、いわゆる心霊的現象を起こすことができます。

(※ 物的身体と霊的身体とをつなぐ媒体を複体(ダブル)と呼んでいるが、これがエーテル的な半物質体でできている。ここではその生理的法則のことを言っている)

さて、霊媒というのは霊的能力を授けられている人間のことで、それをバイブルの中で使徒パウロがうまく説明しております(コリント①12)。こうした能力は神から授かるものであり、授かった者は、それを開発することによって神の恵みが届けられる通路として使用されることが可能となるわけです。

 霊媒による現象は全て霊力の作用によります。したがってそれを今ご覧になっている皆さんは、かつて〝聖なる地〟と呼ばれた地方において起きていたのとまったく同じ現象を見ていることになるのです。大霊は不変です。自然の摂理も不変です。

それが今も昔と同じく作用していることは、かつて(三千年前に)この地上で生活したことのあるこの私が今こうして霊力を利用することによって霊媒を通じて皆さんに語りかけることができるという事実が証明しております。

 もう一つご説明したいことがあります。それは、私たちは途方もなく大きい霊的組織の一翼を担っており、総合的な基本計画とでも申し上げたいものを推進しているということです。

その基本計画は、霊力が引き続き地上へ流入してますます多くの人々の元に行きわたり、無知と過りと迷信を駆逐して正しい真理と知識の光明のもとへ誘い、かくして地上へ生を受けたその目的に沿って各自が神の意図された通りに生き天命を全うするようにもくろまれているのです。

 霊力は人間の記憶を絶した遠い過去の時代から間断なく地上へ流入しております。ただ、これまではそれが一時的で散発的なものに過ぎませんでした。

驚異的な出来事も、神わざのような現象も、啓示された教えも、その時代その民族に似合ったものが授けられたのでした。が、やがてそれが朽ち始めます。せっかく啓示されたものに政治的、神学的、時には国家的利害のからんだ、意図的な作為がなされたのです。

 しかし今は違います。先ほど申し上げた総合的計画というものがありますから、霊力はすでに地上に立派に根づいております。なぜか。どうしてもそうしなければならない必要性が生じているからです。

 組織的宗教は数多く存在しますが、地上の人間に真の自我を見出させ、生命の根源である神性を発現させるような理想に沿って生きる、その指針を提供することはできませんでした。何よりもまず〝霊性〟が日常生活の中で顕著とならないといけません。

皆さんの住んでおられる地上というところは、とても暗い世界です。騒乱と暴力沙汰が絶えず、貪欲と妬みに満ちております。大霊の代わりに富の神が崇められております。今なお間違った偶像が崇拝の対象とされています。

 すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはあり得ないことを得心なさるはずです。

物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦壊してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはあり得ないのです。

 死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生を受けて肉体を通して表現し始めた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へ赴き、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。

 あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。不滅の個霊としてのあなたはその肉体の死後も生き続け、あなたという個的存在を構成しているものはすべて存続するという事実を立証するだけの証拠は、すでに揃っております。

死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせ愛を表現する力が具わっています。愛は神性の一つなのです。愛はその最高の形においては神々しさを帯びたものとなります。そして、生命と同じく、不滅です。

 私たち霊団はなぜこの地上へ戻ってくるのか?数々の心痛と難題と苦悶と災難と逆境の渦巻く地上世界へ永遠に別れを告げることは、いとも簡単なことです。しかし、私たちには地上人類への愛があります。そして又、それに劣らない愛の絆によってあなた方と結ばれている霊(地上的血縁で繋がっている霊や類魂)も存在します。

 教会で行われる婚礼では 〝死が二人を別つまで〟という言い方をしますが、もしも二人が霊的に結ばれていなければ、死が訪れる前から二人は別れております。そこに愛があれば二人を別れさせるものは何もありません。

愛は宇宙における強力なエネルギーの一つです。ひたすら人類のためと思って働いている霊界の高級霊を動かしているのも愛なのです。

 私たちは自分自身のことは何一つ求めません。崇拝していただこうとは思いません。敬っていただこうとも思いません。もしも私たちが何かのお役に立てば、そのことを神に感謝していただき、ご自身が恩恵を受けたそのお返しに同胞へ恩恵を施してあげて下されば、それでいいのです。

 今地上にはびこっている欲望は是非とも愛と置き代えないといけません。なぜならば愛は霊性の表現の一つだからです。愛はいろいろな形をとります。哀れみ、奉仕、友情、協力などです。人間は、誰であろうと、いずこにいようと、お互いがお互いに無くてはならない存在です。肌の色、階級、国家、言語───こうしたものは物質的な相違に過ぎません。

 霊的に言えば皆さんはお互いにつながり合った関係にあります。人類は一大霊的家族を構成しているのです。なぜなら、霊性という共通の要素が、神とのつながりと同じように、切っても切れない絆によってしっかりとお互いを結びつけているからです。

 その力は、とかく離反させるそうした物的相違のいずれよりも強力です。皆さんはその霊力を最大限に発揮させなければいけません。真の自己革新とは何かを知らなくてはいけません。

物的欲望に拘らないという意味で〝我を捨てる〟ことが必要です。(後注2)それは〝霊の宮〟である身体を養うための物的必需品まで捨てなさいという意味ではありません。

  しかし、それと同等に〝永遠のあなた〟である霊の属性も大切にしなくてはいけません。あなたに潜在する神性を最大限に発揮し、あなたの存在の本来のあり方である同胞関係を実践しなくてはいけません。魂は白色でも黄色でも黒色でも赤色でもありません。魂には特殊な色も人種上の差別もありません。

 この事実をよく理解し実践しなくてはなりません。人類の優越性はその内部の神性を開発し、それを愛と哀れみと思いやりの形で他の同胞のみならず、同じ地球上に住む動物に対しても発揮するようになって初めて得られるのです。

地上の至る所で行われている無益な残虐行為と乱獲は止めないといけません。真の平和は人類がその霊的起源と天命に恥じない行為を実践できるようになった時に訪れます。

 私が申し上げることはすべて、皆さんの日常生活に少しでも理解と知識と真理と叡智をもたらしてあげたいという一念から出ているのです。が、それの基本となっている原理の中には、皆さんが子供の時から教えられてきた神学的な教義やドグマや信条と対立するものがあることは十分に考えられます。

 私たちは皆さんの理性に訴えているのです。もしも私たちの言うことと態度にあなた方の知性を侮辱し理性を反発させるようなものがあれば、それはどうぞ受け入れないでください。私たちはあなた方の理性、あなた方の知性による納得を得たいのです。

その上でなら、私たちの仕事の協力者として、神の意志を地上に行きわたらせるための道具となっていただけるでしょう。そしてそれが地上平和の到来を促進することになりましょう。

 かくして霊的資質を十分に発揮するようになれば、その当然の結果として、豊かさと光輝と落着きと決意と自覚と内的安らぎが得られます。なぜならば、それは神が生み出した摂理と調和していることを意味し、さらには、各自がその一部を宿している神性の大源である神そのものと一体となっていることになるからです。
 神の祝福のあらんことを。


 サム、以上で私が用意してきたものは終わりました。聞こえますでしょうか。

───ええ、よく聞こえております。


 それでは、もし何かご質問があれば・・・・・・皆さんご用意はよろしいでしょうか。

───結構です。用意はできております。結構です。


 もしご質問なさりたいことがあれば、精いっぱいお答えいたしましょう。

───これは多くの知人からよく聞かれることで、とても厄介なことになっている問題ですが、つまり人間はいつ死んだと言えるかという問題です。最近の新聞やテレビでも、いつ本当に死んだことになるかについて医師や法律家の間で随分議論されております。

心臓が停止したら死んだことになると言う人もいれば、脳死を持って本当に死だと主張する人もいます。あなたは何を持って〝死んだ〟と判断すべきだとお考えですか───この地球という惑星へ別れを告げる時、つまり物的身体と別れるのは・・・・・。

 分かりました。ご承知の通り人間には霊が宿っています。その身体を生かしめている、神性を帯びた存在です。そして、その霊によって活力を与えられて初めて存在を得ている物的身体を具えています。

 すでに述べましたように、霊が最終的に引っ込んだ時───この〝最終的に〟というところをここで特に強調しておきます。なぜなら一時的ならば毎晩寝入るごとに引っ込み、朝目が覚めると戻っているからです───霊が最終的に引っ込んでしまえば、物的身体は活力源を失うので、死が訪れます。

 さて、いわゆる〝霊視能力〟を持った人が見ると分かりますが、霊体と肉とをつないでいるコード(玉の緒)が霊体から次第に離れるにつれて伸びていき、それがついに切れた時、両者の分離が最終的に完了します。その分離の瞬間が死であり、そうなったら最後、地上のいかなる手段を持ってしても、肉体を生き返らせることはできません。


───そもそもこの問題が生じたのは臓器を摘出する技術が新たに開発されたからです。今日では医師は生きた心臓とか腎臓を頂戴するために人が死ぬのを待っているという状態です。そこで問題となるのが〝この人は本当に死んでいるか〟〝もう臓器を摘出することが許されるか〟ということで、それが医師を悩ませる深刻な問題となっているわけです。

 臓器移植については私もよく存じております。そして又、その動機が立派である場合が多いことも知っております。ですが私は、人間のいかなる臓器も他人に移植することには反対であると申し上げざるを得ません。

 そもそも死というのは少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。(このあたりから〝大勢いるのです〟というところまで、おかしさを噛み殺した言い方でしゃべっている)

 死は自由をもたらしてくれます。皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私たちの世界ではこれから地上へ生まれていく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私たちの世界ではその霊を喜んで迎えているのです。

なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。


───もう一つ、多くの人を悩ませているのは、死後の死体の取り扱いの問題です。人によっては、死体をいじくり回す前は一定の時間そっとしておいてあげる必要があると信じており、そういう人たちは、今日の医学界では人が死ぬとさっさと実験室へ運び込んで医学実験ないしは教材として使用する傾向があるので心配しているわけす。死後すぐに死体をいじくり回すと魂または霊に何らかの害があるでしょうか。

 それはその霊が霊的なことについての知識があるか否かによって違います。何も知らない場合は一時的に障害が及ぶことがあります。なぜかと言えば、例え肉体と霊体とをつないでいるコードが切れても、それまでの永年にわたる一体関係の名残りで、ある程度の相互作用が続いていることがあるからです。

 一般的に言えば、霊的なことにまったく無知だった人の場合は、埋葬ないし火葬を行う前に三日間は合間を置くことをすすめます。それから後はどうなさろうと構いません。死体を何かの役に立てるために提供したいのであれば、それは当事者がそう決断なさればよろしい。

 ただ、次のことも申し添えておきます。人間には生まれるべき時があり、死すべき時があります。もしその死すべき時が来ておれば、たとえ臓器移植をしても、肉体をそれ以上地上に永らえさせることはできません。


───それと関連した問題として〝突発事故〟による死の問題があります。たとえば百二十人の乗客を乗せた飛行機が離陸して十五分後に爆発して全員が即死したとします。この場合は乗客の魂または霊にどういう影響があるでしょうか。

 今申し上げたのとまったく同じことです。霊的実在についての知識がある場合は何の影響もありません。知識のない人はショックによる影響があります。しかし、いずれ時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。

───天命を全うしないうちに突発事故で他界した場合、次の再生が早まることになるのでしょうか。

 私はその〝突発事故〟という用語が気に入りません。原因と結果の要素以外には何も働いていないからです。〝たまたま〟と思われるものも因果律の作用に過ぎないものです。再生の問題についてですが、これは大変複雑な問題で、もっと時間を頂かないと十分なお答えが出来ません。


───最後に・・・・・最近私はルドルフ・シュタイナーの本を読んだのですが、その中で彼は 〝死者へ向かって読んで聞かせる〟 という供養の仕方を説いております。この 〝読んで聞かせる〟 ことの効用についてご教示を仰ぎたいのですが。

 〝死者〟というのは何のことでしょうか。


───ですから、物的身体から離れて霊界へ行った人たちです。

 ああ、なるほど ! 私はまた、目の前に横たわっている死体に向かって読んで聞かせるのかと思いました。 (ここでシルバーバーチは独特の含み笑いをする)


───違いますよ!

 そうすることで一体どうなると言っているのでしょうか。(後注3)


───何人かの弟子達が他界した親類縁者へ向けて毎日かなりの時間、ある教えを読んで聞かせるというのです。それを聞くことで、その親類縁者の霊がよい影響を受けると考えているわけです。

 別に害はないでしょうが、たいして益になるとも思えません。こちらの世界には受け入れる用意のできた人なら誰でも知識が得られるように、たくさんの施設が用意してあります。受け入れる素地ができていなければ受け入れることはできません。それをそちらでしようと、こちらでしようと、それは同じことです。

そうでしょう、サム、師は弟子に応じて法を説くほかはないわけでしょう。(訳者注──原則的にはシルバーバーチの言っている通りかもしれないし、事実、霊界ではわれわれの想像を超えた規模で地縛霊の救済が行われているのであるが、それとは別に、愛着を覚える人間に意識的にあるいは無意識のうちに寄り添ってくる霊がいて、

その人間が考えていることや読んでいるものによって感化されるということは実際にあるようである。背後霊がそう仕向けるのである。

その意味からも私は、読経のように形式化するのは感心しないにしても、例えばシルバーバーチの名言を繰り返し読んだり祈りの言葉を声に出して唱えることは、自分の魂の高揚になるだけでなく、聞いてくれているかもしれない霊にとっても勉強になると考えている。

シルバーバーチは〝よくあなた方はご自分で想像しておられる以上に役に立っておられますよ〟と言っているが、それはそういう意味も含まれているのではないかと考えている)


───まったくおっしゃる通りです。では最後に、霊体への心霊治療についてお伺いします。医学では物的身体しか治しませんが、最近エーテル体(※)の治療を熱心に行っているところがあります。それは可能なこと、実際にありうることでしょうか。

(※ 霊的身体にも幾つかあるが、セオソフィ―などではその一つをエーテル体と呼んでいる。一方、英米の心霊家には肉体以外の身体を総合してエーテル体と呼んでいる人が多い。が、ここでは〝複体〟(ダブル)という肉体と幽体との接着剤にあたる半物質体のことを言っている。チャップマン氏の〝霊体手術〟も実際にはこの複体を手術している)

 本当の霊的治療の仕組みは至って単純です。人間は肉体をたずさえた霊であり、霊をたずさえた肉体ではありません。その肉体が健康を損ねる、つまり病的状態となって、その結果苦痛を覚えるようになったら、それは健康を保たせている調和あるいは円満性が崩れているという単純な事実の表われです。

また人間には霊と肉体だけでなく精神もあります。霊が自我を表現し肉体を機能させるための機関です。(別のところでは〝コントロールルーム〟のようなものと言っている)

 さて霊的治療においては大始源から発せられる霊的エネルギーが霊的な治癒能力を持つ治療家に送られ、それが治療家を通して今度は患者の霊へ向けて発射されます。

その仕組みは〝霊から霊を通して霊へ〟というふうに、至って単純に表現することができます。すべての操作が霊的なものなのです。

 霊は生命力ですから、不調和状態───調和を阻害している何か、障害となっている何かがあって精神と霊と肉体という三つの側面が有効に機能していない状態───を改善して調和状態を取り戻させようとします。それが効を奏すると、一体性つまり健康が患者に戻ります。

 それをエーテル体(複体)を通して行うか霊体を通して行うか幽体を通して行うかは、単なる技術上(テクニック)の問題に過ぎません。肝心なことは霊力が患者の霊を再充電して、本来の能力を取り戻させ調和を回復させることです。


───どうも有難うございました。

 ほかに質問はありませんね?(少し間を置いて)よろしい。それでは、これからサークルの皆さんにお一人ずつお話することに致しましょう(これがいつものしきたりで、個人的な相談を受ける。それは当然カセットでは省略されている)
 

───有難うございます。

 いえ、お礼はよろしい。私はお礼は頂戴しません。

 (個人相談が終わって閉会の祈り(ベネディクション)で締めくくる)

 私のすべての同志に対して、私からの愛の気持ちをお届したいと思います。その方たちの多くはまだ一度もお会いしたことがございません。しかし皆さんからお寄せくださる愛と好意の念を私はいつも有難く思い、それがあればこそこうして地上での仕事ができているという事実を知っていただきたく思います。

 これは容易ならざる仕事です。私はこれを一つの素晴らしい挑戦としてお引き受けしたのです。地上は冷ややかな世界です。荒涼として陰うつで暗い世界です。しかし、その中にあって私たちはそこここに愛と好意と友情の炉辺(ロバタ)を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことができております。

 また新参の方々には〝導きを祈り求めなさい。知識を祈り求めなさい。真理を祈り求めなさい。必ずや授かります〟と申し上げたいと思います。昔から〝求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん〟と言われておりますが、これはまさしく至言です。

 それではこれを(カセットで)お聞き下さる方々、ならびに本日ここにおいでの皆様にも、常に大霊の祝福のあらんことを(後注4)。


注1、直訳すれば「私に声をお掛けくださってありがとう」 となるが、ここはデニス氏個人ではなく交霊会の司会者としての挨拶と取るべきところ。

注2、直訳すれば 「欲望が物的であるという意味においての〝我〟を忘れないといけない」 となるが、裏返せば本文のようになる。

注3、この言葉には〝さっきの話ではその点が分からなかった〟というニュアンスが含まれている。

注4、原文では同じ文句のくり返しになっているが、すぐ前の言葉から、訳文のような気持ちで述べていることが推察される。                     

Saturday, November 16, 2024

シアトルの晩秋 人類の宿題 ー 地上天国の建設 

Mankind's Homework ── Construction of Heaven on Earth

シルバー バーチの霊訓

 科学技術の急速な発達は目を見張るものがあるが、最近の情勢を見ていると、それがうっかりすると今よりさらに恐ろしい戦争と破壊の凶器をこしらえることになりかねない気がする。人間の人間に対する非人間的行為が相変らず後を絶たない。

果たして完全に終止符が打たれる日が来るのだろうか。お互いが霊的に兄弟であり姉妹であるという認識のもとに暮らせる真に平和な時代が本当に来るのだろうか。殺し合いは避けがたい人間の宿命なのだろうか。戦争は正当化されうるものだろうか。霊界はこうした地上世界をどう見ているのだろうか。  

 本章はこうした問題についてのシルバーバーチの知恵に耳を傾けることにしよう。


───今日の世界の風潮、物的利益優先の考え、暴力、そのほか〝文明国〟と呼ばれる国においてますます増加しつつある恐ろしいことを憂慮する人たちへ何かメッセージをいただけないでしょうか。果たして希望はあるのでしょうか。

 大霊の御心は必ずや行きわたります、と申し上げます。人類の霊的革新及び動物問題の改善に関わる仕事にたずさわる者、無駄な苦しみから救い、残虐行為を止めさせ、いつどこにいても人の力になってあげる仕事に献身する者は、絶対に弱気になってはいけません、と申し上げます。


 地上天国はいつの日かきっと成就されますが、それはゆっくりとした段階をへながら、そして時には苦痛を伴いながら成就されてまいります。おっしゃるような暴力・混乱・衝突・戦争・残虐行為が増えつつあるのは、今地上世界がオーバーホール(修理・点検の為の全面的解体作業)の過程にあるからです。

 すでに多くの伝統的思想が葬り去られました。若者は自由を求めて騒ぎたてております。又、あまりに永いあいだ手枷足枷となってきた制度、しかも何の努力もしない一部の階層の特権をこしらえている制度に対する不満がもはや抑制できなくなっております。

 そうしたるつぼの真っ只中にいる人間にとっては、その背後の神の意図を読み取ることは難しいことです、しかし歴史を振り返ってごらんになれば、そこには段階的な進化の跡があることに気づかれるはずです。

 総体的にみて人類はかつてより親切心と寛容心が増え、その一方において偏見と残虐行為と抑圧政策がのさばっております。これは物的宇宙の進化の仕組みの一環なのです。つまり対立する勢力が激突して、そこからより良いものが生まれ、全体として進化していくということです。


 気を落としてはなりません。大切なのは霊的真理と霊力とが世界の多くの土地にしっかりとした足場をつくり、退却させられることがないようにすることです。それが至るところに恵み多い影響力を及ぼし、全体としてパン種の働きをしつづけます。

その影響力が浸透するにつれて暗闇と無知と愚行と蛮行を追い払い、地上世界を汚している醜悪と邪悪を駆逐していくことでしょう。

 明るい希望と楽観の根拠がいつでも十分に揃っているのです。なぜなら大霊の働きの休む時はないからです。


───われわれがスピリチュアリズムと呼んでいる神のメッセージが届けられたのも、その働きの現れだと私は思います。

 それでこのたびの大事業を敢行する決断が下されたのです。それも、これまでに幾度かあったような一時的暴発に終わらせてはならないということになっているのです。ですから、いったん根づいたものは徹底的に地固めが行われ、地上の永続的な要素となっていくことでしょう。


───地上世界は渦巻き状(スパイラル)に進化しているように思います。

 おっしゃる通りです。その渦巻の一ばん底は恐ろしい様相を呈していても上層部は実に明るい展望が開けております。落胆してはいけません。霊的知識を携えた者が絶望感を抱くようなことがあってはなりません。このことはすでに何度も申し上げてまいりました。大霊は宇宙創造の当初からずっと地球を管理しておりますから、次になすべきこともちゃんとご存知です。

 もう一つ別の側面もあります。人間社会のあらゆる分野で古い概念が覆され廃棄されていきつつあります。その多くはあまりに永いあいだ人間を迷わせてきた間違った概念です。これから徐々に愛と善の勢力が欲得づくの勢力と取って代わり、生活状態が改善されていくことでしょう。

 大切なのは取り越し苦労をしないということです。心配の念は私たち霊界から援助する者にとって非常に厄介な障害です。拒否的性質があります。腐食性があります。恐れ・心配・不安、こうしたものはその人を包む物的・精神的・霊的雰囲気を乱し、私たちが近づくのを一段と困難にします。

  真理を知った者は、それがわずかであっても───たとえ多くを知ったとて、無限の真理からすれば多寡が知れています───いついかなる事態に直面しても、穏やかで平静で受容的態度を維持すべきですし、又そう努力すべきです。

全生命に存在を与えている霊力より強力なものはないとの断固たる自信に満ちていなければなりません。

 何度でも繰り返し申し上げられる私からのメッセージがあるとすれば、それは〝心配の念を棄てなさい。そうすれば内部に静穏が得られます。内部が静穏になれば外部も静穏になります〟ということです。


───暴漢やチンピラによる被害が多くて、散歩に出るのにも防具を用意しなければならないのかと本気で考えている始末です。ぶん殴られて金を巻き上げられるのを許すわけにはいきません。そういう時はやり返すべきでしょうか。

 悪を大目に見たり暴力を助長することになってもよいということは絶対にありません。剣を取るものは剣にて滅ぶと申します。あなたの身体は霊が地上で自我を表現する唯一の手段ですから、それを守るのはあなたの義務です。が、そのことに限らず、地上生活に関わることはすべて自分の理性によって判断しなくてはなりません。

 ですから、ご自分で正当だと思う手段によって身を守ってよいことは言うまでもありませんが、同時にそうした愚かな若者、自分のしていることの理非曲直も弁えないほど道を間違えている若者のことを可哀そうに思う心も忘れてはなりません。

それは一種の群集心理、劣等感から生まれるヒステリー症状です。つまり自分たちの存在を認めさせる唯一の手段としてそういう態度に出て関心を引こうとする、幼稚な自己憐憫の情です。

 もとより私たちには暴力への同情心はひとかけらもありません。霊力は暴力という形では表現されません。霊力も常に冷静・平穏・安らぎ・落ち着いた自信の中で表現されるものです。そうした心理状態が調和を醸し出し、物質の世界と霊の世界との間の障害を取り除くのです。

 それとは反対に暴力は調和を乱します。激情を噴出させます。挙げ句にその反動が自分に戻ってきます。本人にとって何一つ良いことはありません。これも物質偏重思想の副産物です。

 暴力的になっているのは若者だけではありません。若者はその元気さゆえに衆目にさらされやすくて非難の的とされているだけです。暴力的傾向は私利私欲の追及に目がくらんで人間としての道を見失っている、病める地上社会の一症状です。

無明の中で、他人の幸福にまったく無とん着に、ますます暴力的になってまいります。しかもそれは人間どうしだけでなくて、可哀そうにも、何の罪のない動物にも向けられています。

それは若者が見せているような破壊的エネルギーがたまたまその方向へ切り換えられているにすぎないという考えは、大変な見当違いです。全体としての調和ということを考えないといけません。

他の存在への慈善(チャリテイ)の心を発揮するには貧乏人の存在が必要だという意見がありますが、そういうものではありません。仁愛の心があってはじめて慈善が施せるのです。哀れな人の姿を見ないと慈悲の心が生まれないというものではありません。

 若者がその持てる強烈なエネルギーを社会のために活用する分野はたくさんあります。不幸なことに、正しい指導を受けていない若者が多すぎるのです。が、正しい指導を受けた場合、そして又、霊的な動機づけから行動した場合は、大人が心を洗われる思いをさせられるようなことをやってのけます。

 若者が若者としてのベストを見せた時は、敬服に値するものを発揮します。道を誤ると手の施しようのないほど惨めなことになります。

 皆さんは暴力やテロ行為の生み出す陰惨さに巻き込まれないようにしないといけません。超然とした態度、俗世にあって俗世に染まらない生き方を心掛け、自分の霊的本性、神から授かった潜在的可能性を自覚して、せめて皆さんだけでも、小さいながらも霊の灯台となって、導きの光を放ってあげて下さい。


─── 戦争はどう理解したらよいのでしょうか。

 無限なる叡智と愛を具えた大霊は地球人類を創造するとともに、ある範囲内での自由意志を授けられました。同時に大霊は、人間が個的存在としていかに生きるべきかについての誤りない指標としての神性が開発されるように、人類全体の霊と精神と身体とに配剤なさっております。

 大霊は人間をただの操り人形───選択する自由も力も持たない、機械仕掛けのような存在にすることもできたのです。が大霊は自由意志を与えて下さいました。しかし自由意志があるということは、同時に自分の行為への責任もあるということになります。

 あなたは〝善いこと〟をしてもいいし〝悪いこと〟をしてもいいのです。善と悪とは一つのコインの表と裏のようなものです。愛と憎しみ、光と闇、嵐と静けさもそうです。これを両極性といいます。そのどちらを選ぶかにあなたの選択権があるということです。

 そこで戦争のことですが、あなたはその動機に立ち帰って、こう自問するのです───〝なぜ戦争をしなくてはならないのか〟〝両者が共通して求めているものはいったい何なのか〟 〝それは互いに相手を支配することなのか〟  

 そうした問いにあなた自身が考えて答えを出さないといけません。所詮はあなた方の世界です。パラダイスとするも地獄とするもあなた方人間次第です。どちらかを選ぶ自由と、どちらにもできる手段を具えているからです。

───私個人にはできません。一人の人間ではどうしようもありません。

 〝個〟が集まって地上人類全体ができ上がっているのです。一人でも多くの〝個〟が貪欲と強欲と残虐と横暴を止めれば、その数だけ平和に貢献するのです。あなたはあなたの生活、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念に責任を負うのです。

他人のしたことで償いをさせられたり報酬を受けたりすることはありません。それが摂理なのです。

 平和を求めて祈り、霊界の高級霊の道具として協力しようとなさる努力は必ず報われます。人間の協力を得てはじめて霊力を地上へ届け、戦争や暴力行為、その他、地上の文明を混乱させ存在を脅かすものすべてに終止符を打たせることができるのです。


しかし、これより先もまだまだ地上から戦火の消えることはないでしょう。なぜなら、人類全体が一つの巨大な霊的家族であるという、この単純な真理が未だに理解されていないからです。

肉体は撃ち殺せても霊は死ないのです。この事実が世界各国の国政をあずかる人たちによって理解され、その関連分野を通じて実行に移されるようにならないかぎり、戦争の勃発は避けられないでしょう。

 人間が人間に対して行う非人間的行為に対して、私たちは何の責任もありません。これは因果律の働きが片付ける問題です。もちろん人類にとって〝より良き時代〟は到来します。

是非ともそうあらねばなりません。が、失望のドン底から一気に幸福の絶頂へと一夜の内に転換するようなわけにはまいりません。一歩一歩の段階的過程をへるほかはありません。

 霊的真理を理解する人が増えるにつれて、その知識にのっとった生き方をする人が増え、その人たちの生活が依存している各種の制度も、霊と精神と身体がその幸福と成長と成熟にとって必要な体験が得られるように改善されていくことでしょう。

 あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられる霊的思想が前世紀(一八四八年)に勃興したのもそこに目的があります。それはかつてのように突発的ですぐに立ち消えになるようなものではなく、総合的な計画のもとに行われて、すでに霊力は完全に地上に根づいております。
 
これからもその前線基地は誇張しつづけ、ますます多くの人間がその恩恵に浴することになるでしょう。

 ある人は〝黄金時代〟と呼び、ある人は〝地上天国〟と呼んでいるものは、いつかは成就されます。それまでにどれほどの時が掛かるかは、私の口からはあえて予言しないでおきましょう。ただ、物的進化が絶え間なくその目的を果たしつつあるように、それと併行して霊的進化もそれなりの役割も果たしつつあることを申し上げておきます。


───人間はどの程度まで殺すことが許されているのでしょうか。

 〝許されている〟という言い方は感心しません。確かに人類には自由意志が与えられておりますが、それは条件つきであり制約があります。やりたいことは何をやってもよいという意味での、無制約の自由ではありません。

 そもそも自由意志の授与は、人間が大自然の創造の過程に参加し、大自然の摂理と調和して生き、健康と理解と悟りを得て天命を全うするための神の計画の一環なのです。そうでなかったら進化も発展もありません。

 自由意志がなかったら皆さんは成長と進化のチャンスのない、ただの操り人形となってしまいます。せいぜいロボットのような行動しかできません。が、自由意志があるということは、その行使の仕方に責任を持たねばならないということになります。

 殺すという行為は、たとえやむを得ない事情はあるにしても、いけないことであることは明らかです。生命を与える力はないのですから、奪う権利もないはずです。が、酌量すべき情状というものがあることも事実です。

 霊的に進化するにつれて人間は、霊的実在についての知識を基盤とした明確な原理にのっとって生きなければならないことを自覚するようになります。所詮完璧な生き方は望むべくもありませんが、改善の余地は大いにあります。

 地球は生命活動の場の一つに過ぎません。これからもっともっと多くの生活の場を体験することになっております。

それが永遠に続くのです。地上生活なんかいい加減に送ればよいと言っているのではありません。あなたが送るべき全生活のほんのひとかけらに過ぎないことを申し上げているのです。

 その地球をよりよい生活の場とするために努力なさってください。地球は宇宙の惑星の中で最も進化の程度の低い部類に属します。が、それなりの進化の目標があります。

同時に、進化とは永遠の過程でもあります。完全ということは永遠に達成できないのです。なぜなら、完全に近づけば近づくほど、その先にまだ達成すべきものがあることを知るからです。


───(ゲストの一人)われわれスピリチュアリストは形骸化しつつある古い宗教と対決し反抗することに多大な時間とエネルギーを注ぎ込んでいるようですが、もう一つの宗教である───信奉者は宗教と呼ばれることを拒否なさるかも知れませんが───マルキシズムないしはコミュニズム(共産主義)についてはまったく言及しておりません。

今では少なくとも思想上の共鳴者は人類の三分の一にも達しています。既成宗教のいずれよりも遥かに頑強で、その影響力は強烈です。これこそ純粋な唯物観を説いている点で、われわれの本当の敵ではないかと思うのですが・・・・・


 コミュニズムというのは何のことでしょうか。

───マルクスとレーニンとエンゲルスの著作をもとにした政治的、経済的、ならびに社会的思想と言ってよいかと思います。

 もしもコミュニズムが真の協調性を意味し、階級上の差別もなく、住民がお互いに助け合う心をもった社会のことであるとすれば、現在の地上世界で思想的にコミュニズムを標榜している国家には、そういうものは存在しておりません。私の言わんとするところを明確に述べてみましょう。 

 地上社会の問題のそもそもの根源はマテリアリズム(物質偏重・唯物思想)にあります。皆さんはそれと真っ向から対立するスピリチュアリズムを提唱し唱道なさっているわけです。そして霊が実在であることが単なる理論ではなくて事実であることの証拠を提供しております。

私と同じく皆さんは、ナザレのイエスをリーダーとする神庁の霊団によって考案された霊的大計画の一環として、霊力を地上へ送り届けるだけでなく、そこにしっかりと根付かせ、いかなる地上の勢力がたとえ束になってかかっても、それを駆逐できないようにするために、本日もこうして集まっているわけです。

 今まさに世界中にそのための霊的橋頭保が設営され地固めされつつあります。それはさらに多くの橋頭保を築くためです。霊力はすでに地上にしっかりと根付き、その恵み深い影響力を発揮しております。公的には禁じられている国々においてすら働いており、これからも働き続けます。
                       
 皆さんは明日のことを思い煩う必要はどこにもありません。最善を尽くして私たちに協力してくださればよいのです。そのうち徐々にではありますが、地上のガンである物欲が除去されていきつつあることに気づかれるでしょう。


───(もう一人のゲストが息子から依頼された質問として)〝共産主義者(コミュニスト)の指導霊〟というのも存在するのでしょうか。

 そういう質問をされて私がどういう受け取り方をするかを説明しますので、しっかりと理解してください。

 私はラベルというものにはまったく関心がありません。私にとっては何の意味もありません。地上世界ではラベルが大切にされます───共産主義者、社会主義者、保守党、労働党、スピリチュアリスト、セオソフィスト、オカリスト、等々、挙げていったらキリがありません。

しかし、大切なのはラベルではなく、その中身です。コミュニストという用語の起源は、物的財産は共有するのが正しいと信じた遠い昔にさかのぼります。それ自体はとても結構なことです。

 いかがでしょう。有り余るほど持っている人が足りない人に分けてあげるというのは公正なことではないでしょうか。教師というのは持てる知識を持たざる生徒に譲ってあげようとする人のことではないでしょうか。

 分かち合うというのは立派な原理です。私たち霊がこうして地上へ戻ってくるそもそもの目的も、やはりそこにあります。皆さんは私たちから学び、私たちは皆さんから学ぶということです。

 聖書にも〝地球とそこにあるものすべては主のものなり〟(コリント①10・26)とあります。これは人間は地上のものは何一つとして所有できない───自分のものとはなり得ないことを意味します。地上にいる間だけリースで所有しているようなものです。永遠に自分のものではありません。

地上のゴタゴタは皆が自分がいちばんいいと思うものを少しでも多く自分のものとしようとする───いちばん悪いものを欲しがる者はいません───そこから生じております。その結果として強欲、貪欲、私利私欲が王座に祭り上げられ、物欲第一主義が新しい神として崇拝されることになります。

 地上には物欲優先の副産物が、見るも痛ましいほどはびこっております。悲劇・卑劣行為・飢餓・栄養失調・残虐行為・動物実験、こうしたものはすべて物欲を優先させることから生じる恐ろしい産物です。

 みんなで分け合うという理念は結構なことです。共産主義者(コミュニズム)という用語そのものに怯えてはいけません。初期のクリスチャンには全財産を共有し合った時期が、少しの間でしたがありました。ということは彼らのことをコミュニストと呼んでもよいことになります。

 一つの理念をもつことと、それを実現するために拷問や抑圧や迫害や専制的手段を用いることとは別問題です。そこに大事な違いがあります。

 ですから、ご質問に対するお答えは、大霊の恩恵を惜しみなく分かち合うべきであると信じて働いているコミュニストの指導霊はいます、ということになります。そこに何ら問題とすべきものはないと思います。
   
           ※ ※

 別の日の交霊会で戦争がもたらす地上と霊界双方の弊害について語る───

 私たちは霊界が再び傷ついた魂の病院となるのは御免こうむります。こうして地上の皆さんとともに仕事をしている私たちから申し上げたいことは、皆さんは私たちがお教えしていることのすべてを地上生活に摂り入れていくだけの用意ができていなければならないということです。

 私たちが代わりにやってあげるわけにはいかないのです。私たちには人間のしている間違ったことがもたらす結果が分かります。地上でそういうことをしていたら霊界へ来てからこうなりますよ、ということをお教えすることしかできません。

 そのことをわざわざこうして地上へ戻ってきて教えねばならないのは、戦争のもたらす結果が破綻と害悪でしかないからです。霊界へ送り込まれてくるのは霊的に未熟な魂ばかりです。

言ってみれば、熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。地上で使用していた肉体という表現機関を破壊されて分別を失った魂を一体なぜ私たちが癒やしてあげねばならないのでしょうか。

人間が人間としての義務を果たさないがために霊界へ送られてくる未熟な魂の世話をしに、一体なぜ私たちが巡礼の旅先からこの地上へ後戻りしなければならないのでしょうか。

 もしも私たちに愛の心がなければ、つまりもしも大霊の愛が私たちを通して表現されなかったら、こうして同じ大霊の子である地上の皆さんと交わるようなことはしていないでしょう。

どうか私たちの説く真理を唯一の判断の基準として私たちを裁いて下さい。〝あなたの教えは間違っている───われわれの常識に反するから〟などという幼稚なことを言ってはなりません。 

霊界にとっての迷惑はさておいても、地上での戦争を正当化することが許されるわけがありません。物質的な面にかぎってみても、ただ破壊するのみです。

霊界にとっても正当化の根拠はありません。なぜならば、神の摂理への干渉にほかならないからです。霊はその機が熟した時に肉体から離れるべきであるとの摂理に、よくも平気で逆らえるものだと呆れます。

 皆さんもかくあるべきという原理を何としても擁護しなくてはなりません。分別のない人たちに霊の仕事の邪魔を許してはなりません。ご存知でしょうが、進歩と平和と調和を求めて戦う私たち霊団の向こうを張って、それを阻止せんとする組織的な活動をしている邪霊集団もいるのです。(章末注参照)

 地上世界は人類というものを民族別に考えず、すべてが大霊の子であるという観点から考えないといけません。障壁をこしらえているのは人間自身なのです。大霊ではありません。大霊は人間の一人ひとりに神性を賦与しているのです。したがって人類の全てが大霊の一部なのです。

 地上は建設すべきものが山ほどあるというのに、上に立つ〝お偉方〟はなぜ破壊することばかりしたがるのでしょう。大霊はそうした人間の行為のすべてを規律的に治めるための摂理を用意しております。

それに干渉するようなことをしてはなりません。逆らったことをすれば、その結果は破壊と混乱でしかありません。そのことは(世界大戦で)目のあたりにしたばかりではないでしょうか。

 ここにお集まりの皆さん方の一人ひとりが積極的にその影響力を行使して、大霊の計画の推進のために尽力する人たちを先導していただきたいのです。大霊が流血を望まれると思いますか。

戦争による悲劇、苦痛、失業、飢餓、貧民窟を大霊が望まれると思いますか。子等が味わえるはずの恵みを奪われて喜ばれると思いますか。戦争で親を奪われて、幼な子が路頭に迷う姿を見て大霊が喜ばれると思いますか。

 殺意が芽生えた時、理性が去ります。人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残りとしての獣性もあります。人間としての向上進化というのは、その獣性を抑制し神性をより多く発揮できるようになることです。獣性が優勢になれば戦争と衝突と殺人が横行します。

神性が発揮され、お互いに援助し合うようになれば、平和と調和と豊かさが得られます。

 地上世界を国別、民族別に考えてはなりません。すべてが大霊の一部であることを教えないといけません。みんな大霊の子なのです。海で隔てられていても大霊の前では兄弟であり姉妹なのです。私たちの教えは単純です。しかし真実です。自然の摂理に基づいているからです。
  
摂理を無視した方法で地上世界を築こうとすると混乱と無秩序が生じます。必ず破綻をきたします。

 忍耐強い努力と犠牲を払わないことには、これからも数々の戦争が起きることでしょう。タネを蒔いてしまった以上は、その産物を刈り取らねばなりません。因果律はごまかせないのです。

流血の争いというタネを蒔いておいて平和という収穫は刈り取れません。他国を物理的に支配せんとする欲望の張り合いをしながら、その必然の苦い結果を逃れるわけにはまいりません。

 愛のタネを蒔けば愛が実ります。平和のタネを蒔けば平和が実ります、互助のタネを地上の至る所に蒔いておけば、やがて互助の花が咲き乱れます。

 単純な真理なのです。あまりに単純すぎるために、かえって地上の“〝お偉方〟を当惑させるのです。


───〝大戦〟(※) で戦死した人たちの犠牲は何一つ良い結果を生み出さなかったのでしょうか。(※英語で〝大戦〟Great War という時は第一次世界大戦のことをさすが、ここでは第二次大戦も含む戦争一般のこととして訳したー訳者)

 何一つありません。今の世界の方が〝偉大なる戦争〟勃発以前よりさらに混とん状態に近づき、破壊が増しております。


───数多く見られた英雄的行為が無駄に終わってしまうこともありうるのでしょうか。霊的に何の報いもないのでしょうか。

 その犠牲的行為をした当事者個人にはあります。動機が正しかったからです。ただ忘れないでいただきたいのは、そうした英雄を後世の人間が裏切っていることです。犠牲を無駄に終わらせています。その原因は相変わらず物的欲望を優先しているからです。


───毎年のように〝終戦記念日〟の催しがありますが、少しは役に立っているのでしょうか。

 たとえわずか二分間であっても、まったく思い出さないよりはましでしょう。が、その日をライフル銃と銃剣と花火という、戦争で使用する軍事力の誇示で祝って、いったいどうなるというのでしょう。何か霊的な行事で祝えないものでしょうか。


───同じ日にスピリチュアリストの集会で行っている記念行事を続けることには賛成なさいますか。

 真実が表現されているところには必ず価値あるものが生まれます。説教も奉仕的精神を生むものであれば結構です。ただ聴くだけで終わる説教では無意味です。聴衆をいかにも平和の味方であるかの気分に浸らせるだけのキザな説教ではいけません。

 私が望むのは実際の活動を生み出すような説教、人のために役立つことをしたいと思わせるような説教、弱者に勇気を与えるような説教、喪の悲しみに暮れる人を慰めてあげるような説教、住む家さえない人たちの心の支えとなるような説教、物質界の汚点である虐待行為のすべてに終止符を打たせるような説教です。

 お互いがお互いのためになることをする以外に平和の道はありません。すべての人間が互助の精神に満たされ、人のためになる行為を実践するようになるまでは、平和は到来しません。これまで続けられてきた終戦記念日も、今日では次の戦争の準備のための小休止でしかありません。


───不戦主義(兵役拒否)の運動に賛成なさいますか。
 
 私はどの〝主義〟にも属しません。私にはラベルはありません。名目に惑わされはいけません。その目的としているものは何か、何を望んでいるのか、そこが大切です。なぜなら、敵と味方の双方に誠実で善意の人がいるからです。

 私たちの教えは至って単純ですが、それを実行に移すには勇気がいります。一つの糸口をつかんだら、つまり霊的真理を知ることによって覚悟を決め、物的生活のあらゆる事柄に奉仕と無私の精神で臨めるようになれば、地上に平和と和合が招来されます。

 それは主義・主張からは生まれません。神の子がそうした精神の真実性を悟り、それを日常生活において、政治活動において、工場において、政府機関において、あるいは国際政策において応用していくことによって初めて実現されるのです。

 私たちにできるのは、これこそ真実に基づいていると確信した原理を説き、それを応用すれば、必ずや地上世界に良い結果がもたらされることを自信をもって申し上げるのみです。

 その地上世界にいるのはあなた方です。最後の責任はあなた方にあります。しかし皆さんが人の道を誤ることさえなければ、私たちも精一杯の愛と厚意をもって導き、万全の協力を惜しまないことだけはお約束します。

訳者注───私が〝英国の三代霊訓〟と呼んでいる 『シルバーバーチの霊訓』 と 『ベールの彼方の生活』 と 『霊訓』のうち、邪霊集団の存在についていちばん強く説き警告しているのは 『霊訓』 である。その中から参考とすべき箇所を部分的に紹介しておきたい。通信は自動書記によるインペレーターからのもの。

≪すでに聞き及んでいようが、今汝を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われわれ霊団と邪霊集団との反目であり、言い替えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせんとする働きとの闘いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。

 逆行派の軍団には悪意と邪心と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによって煽られる者もいれば、真の悪意というよりは悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。

要するに程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われわれをはじめとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。

 汝にそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状が汝の肉眼に映らぬからのようである。となれば汝の霊眼が開くまでは、その大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。

 その集団に集まるのは必然的に地爆霊、未発達霊の類である。彼らにとって地上生活は何の益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとっては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的な喜びには何の反応も示さぬ。

かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつき回り、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。(中略)

 一方、人間の無知の産物たる死刑の手段によって肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつき回り、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ───その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼らはその哀れなる犠牲者なのである───を抱き、

その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪をそそのかし、自分が犠牲となったその環境の永続を図る。(中略)

 かくの如く地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上へ舞い戻るこうした邪霊は、当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。

 久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖純にして善良なる霊に変わりうるであろうか。肉欲の塊りが至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるであろうか。それがあり得ぬことぐらいは汝にも分かるであろう。

 彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍とともに、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗にあうのは彼らの存在のせいであり、汝にそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し、彼らに攻撃のスキを見せることがあってはならぬ≫

シアトルの秋 霊の親族(アフィニティ)

Affinity of Spirits (Affinity)

二人の天使
一九一八年 二月十一日 月曜日 


 では今夜もまた貴殿の精神をお借りして、前回私が〝歓送の儀〟ならびに〝顕現〟と呼んだところの行事を叙述してみたいと思います。この度の行事にはその両方がいっしょに取り行われたのです。

 今しも中央大ホールには大聖殿の総監からの召集で第十一界の各地から晴れやかな面持ちの群集が列をなして集まっていました。が、面持は晴れやかでも、姿全体にどこか緊張感が漂っています。

というのも、彼らにはこれより厳粛な儀式が行われることが分かっており、この機会に自分の進歩を促進させるものを出来るかぎり摂取しておこうという心構えで来ているのです。

その儀式には神秘的かつサクラメント的な性格があり、吾々はその意味を理解し、意図されている恩恵のすべてを身に受けるべく、上層界より届けられる高き波長に合わせる修行を存分に積んでいるのです。

 全員が集合した時、前回申し上げた天上の雲状のものを見上げたところ、その色彩が変化しつつあるのが分かりました。

私がそのホールへ入ったときは青い筋の入った黄金色をしていました。それが今は次々と入場する群集が携えてくる色調を吸収し融合していき、数が増えるにつれて色彩が変化し、そしてついに全員が集結した時は濃い深紅のビロードの色調となっていました。

地上の色彩の用語で説明すれば以上が精一杯です。実際にはその色彩の表情に上層界からの高度なエネルギーの影響が加わっており、すでに何かの顕現が行われる準備が出来ていることを窺わせておりました。

 そう見ているうちに、その雲状のものからあたかも蒸溜されたエッセンスのようなものが霧状となって降下し、甘美な香気と囁きの音楽とともに個々の列席者にふりそそぎ、心に歓喜と安らぎの高まりを引き起こし、やがて吾々全員が完全なる融和状態へと導かれていきました。

その状態はあたかも細胞のすべてが一体となって一個の人体を構成しているごとくに、出席者全員がもはや個人としてでなく全体として一つの存在となっているのでした。それほどまで愛と目的とが親和性において一つになり切っていたのです。

 やがて謁見の間へ通じる道路の前に一個の雲状の固まりが現われ、凝縮しつつ形体を整えはじめました。

さて私はこれより展開することを精一杯描写するつもりですが、貴殿によくよく留意しておいていただきたいのは、かりに貴殿がその通りを私と同じ界の者に語って聞かせたら、その人は確かにそういう現象があったことは認めても、言い落していること、用語の不適切さ等のために、実際に起きたものとは違うことを指摘するであろうと言うことです。

 その雲状の固まりは表面は緑色で、内側に琥珀色の渦巻状の筋が入っており、それに青色の天蓋がかぶさっておりました。

それが休みなくうごめいており、やがてどっしりとしたパピリオン──濃い青紫色の天井と半透明の緑と琥珀色の柱をした館──の姿を見せました。半円形をした周囲に全部で七本の柱が並び、さらに表面玄関の両わきに二本見えます。

この二本は全体が濃紫色で、白の縁どりのある深紅の渦巻状の帯が巻いています。

パピリオン全体がその創造に携わる神霊の意念によって息づき、その構造から得も言われぬメロディの囁きが伝わってくるのが感じ取れました───聞くというよりは感じ取ったのです。こちらでは貴殿らのように聞くよりも感じ取る方がいっそう実感があるのです。


 やがて天蓋の下、七本の柱のちょうど中央に当たる位置に一台の四輪馬車が出現しました。後部をこちらへ向けております。五頭の美しい馬が頭を上げ、その厳かなドラマに一役買っていることをさも喜ぶかのような仕草をするのが見えます。

肌はほのかな黄金色に輝き、たてがみと尾はそれより濃い黄金色をしております。見るからに美しく、胴を飾る繻子(サテン)の掛けものもパピリオンの色彩を反映してうっすらと輝いております。

 続いてその馬車の中に現れたのは美しい若い女性の姿でした。吾々の方を向いておられ、私の目にはその美しさのすべてを見ることができました。見れば見るほど、ただただ美しいの一語に尽きます。全身が地上に存在しない色合いをしております。

琥珀色といってもよろしいが、同じ琥珀でもパピリオンの柱のそれとは感じが異なります。

もっと光輝が強く、もっと透明ですが、柱には見られない実在感と永続性を具えております。上腕部には紫の金属でできた腕輪(バンド)をつけ、手首のところにルビーの金属の輪が見えます。

頭部には白と黄色の筋の入った真っ赤な小さい帽子をつけておられ、髪はあたかも沈みかかった太陽の光を受けているような、オレンジ色の光沢をした茶褐色をしております。目は濃紫に青の混じった色をしておられます。

 さて、そうしたお姿に見入っているうちに突如として私は天上界からお出ましになられたこの女神が・・・・・・いけません。

その方が吾々にいかなる意味を持つのか、本来の界においていかなるお立場にあるのかをお伝えしたいのですが、それを適確に言い表わす用語が思い当たりません。しばらく間を置かせてください。それからにしましょう。


 では、こう綴ってください。母なる女王。処女性。一民族を懐に抱きつつ、進歩と善へ向けての力として、その民族の存在目的の成就へと導く守護神。

一方において惰眠をむさぼり進歩性を失える民族に啓示をもたらしてカツを入れ、騒乱の危険を冒してでも活動へとかきたて、他において、永遠の時がこのいっときに集約され、すべてが安寧の尊厳の中に融和し吸収され尽くしたかの感覚をすべての者に降り注ぐ。

すべてを曝しても恥じることなく、美への誘惑がことごとく聖(キヨ)さと哀れみと愛へ向かうところの、恐れることを知らぬ心と純粋性。

以上のものをひとまとめにして、これを〝女王〟という一語で表してみてください。その時のお姿から吾々が得たものをお伝えするにはそれが精一杯です。

 さて、その女王が後ろを振り向いて一ばん近い二頭の馬に軽く手を触れられると、馬車はくるりと向きを変えて吾々の方へ向きました。

するとそこへホールの反対側の二階の回廊から一人の若者が降りてきて、中央の通路を通って馬車の近くで歩を止められました。そこで女王がにっこりと笑みを送ると、若者は後部から馬車に乗り、女王のそばに立ちました。

そのお二人が立ち並んでいる時の愛と聖なる憧憬の中の、得も言われぬ睦み合い───互いが己れの美を与え合って互いの麗しさを増しております。


──その若者の様子を述べていただけませんか。

 若者は右に立たれる女王をそのまま男性としたようなものです。両者は互いに補足し合うもの、言わば〝対〟の存在です。ただし一つだけ異なるところがありました。

身にまとわれた衣装がわずかながら女王のそれより赤みがかっていたことです。それ以外にお二人を見分けるものはとくにありませんでした。

性別も身体上ではなく霊性に表われているだけでした。にもかかわらず、一方はあくまで女性であり、他方はあくまで男性でした。ですが、お二人には役割があります。

 お二人は、これより、ある雄大な構想を持つ画期的な計画を推進する大役を仰せつかった一団の指揮者として参られたのです。

その計画の推進には卓越した才能と多大な力とを要するために、一団はそれまでに大聖堂を中心とした聖域において準備を整えてきたのでした。その計画というのはこうです。

 現在ある天体上の生命がようやく〝知性〟が芽生えはじめる進化の階梯に到達していて、その生命を動物的段階からヒトの段階へと引き上げ、人類としての種を確立させるためにその天体へ赴くというものです。

人類といっても、現在の地上人類のタイプと同一のものとはならないでしょうが、大きく異なるものでもなく、本質においては同種です。

一団はその人類のこの画期的段階における進化を指導する仕事を引き受けることになっているわけです。計画のすべてを受け持つのではありません。

また今ただちに引き受けるのではありません。今回は彼らの前任者としてその天体を現在の段階にまで導いてきた〝創造の天使たち〟と初めて面会することになっております。彼らは時おり休息と指示を仰ぎに帰ってきます。

その間、一部の者が残留して仕事を続行し、休息を得た者は再びその天体へ赴いて、残留組と交替し、そうやって徐々に仕事を広げて生きつつありますが、他方では(今回の一団のように)この界または他の界において、次の新たな進化の段階を迎える時に備えて、さらに多くの天使からなる霊団を組織して鍛錬を積んでいるのです。

彼らはその天体が天界の虚空を旅しながら首尾よくモヤの状態から組織体へ、単なる組織体から生ける生命体へ、そして単なる生命体から知性を具えた存在へ──これを地上に擬(なぞら)えて言えば、動物的段階から人間的存在を経て神格を具えた存在へと進化していくのを陰から援助・促進するのです。

 間もなく吾々の見送りを受ける一団は、これから最初の試練を受けることになります。

といって、いきなり創造に携わるのではなく──それはずっと先の話です──創造的大業の末端ともいうべき作業、すなわち、すでに創造された生命を別の形体へと発展させる仕事を割り当てられます。

それも、原理的には創造性を帯びておりますが、まったく新しい根源的な創造ではなく、低級な創造物の分野にかかわる仕事です。

 ここで注目していただきたいのは、お二人が出現なさった時、順序としてまず女性の方が馬車の中に姿をお見せになり、それから男性が姿を見せたことです。

この王国においては女性原理が優位を占めているからです。が、お二人は並んでお立ちになり、肩を並べて歩まれます。

そこに謎が秘められているのです。つまり一方が主であり他方が従であるはずのお二人がなぜ等位の形で一体となることが出来るかということです。現実にそうなっているのです。しかし私からこれ以上話さないことにします。

あなた方ご自身でお考えいただくことにいたしましょう。理屈でなしに、真実性を直感していただけると思うのです。(章末にその謎を解くカギが出てくる──訳者)

 いよいよその厳粛なる使命のために選ばれた霊団──遠く深い暗黒の虚空の最果てへ赴く霊団がやってまいりました。彼らが赴くところは霊質に代って物質が支配する世界です。

ああ、光明の天界より果てしなく濃密な暗黒の世界へ──環境はもとより、吾々と同じ根源を有する生命の火花を宿す身体も物質で出来ている奈落の底へと一気に下がって行くことが吾々にとっていかなることを意味するか、貴殿にはまず推し測ることはできないであろう。

 かつて私も霊団を従えて同じような境涯へ赴いたのです。不思議といえば不思議、その私と霊団が今こうして物的身体に閉じ込められた貴殿に語りかけているとは。

もっとも、吾々の目には貴殿の霊的身体しか映じません。それに向けて語りかけているのです。が、可憐なるカスリーン嬢が彼女特有の不思議な魔力を駆使して吾々よりさらに踏み込み、直接貴殿の物的脳髄と接触してくれております。

 さて今回はこれ以上述べることはありません。質問が幾つかおありのようですね。私にはそれが見て取れます。お書きになってください。次の機会にお答えしましょう。
                           アーネル ±

 訳者註──ここには記載されていないが、実際にはこのあと質問事項が箇条書きにしたことが四日後の次の通信の冒頭から窺われる。

Friday, November 15, 2024

シアトルの晩秋 マンダラ模様の顕現

The life beyond the veil : spirit messages received and written down by the Rev. G. Vale Owen


マンダラ模様の顕現
一九一八年三月 八日 金曜日


 
吾々招待にあずかった者が全員集合すると、主のお伴をしてきた天使群が声高らかに讃美の聖歌を先導し、吾々もそれに加わりました。貴殿はその聖歌の主旨(モチーフ)を知りたがっておられる。それはおよそ次のようなものでした。


 「初めに実在があり、その実在の核心から神が生まれた。
 神が思惟し、その心からことばが生まれた。
 ことばが遠く行きわたり、それに伴って神も行きわたった。神はことばの生命(イノチ)にして、その生命がことばをへて形態をもつに至った。

 そこに人間(ヒト)の本質が誕生し、それが無窮の時を閲(ケミ)して神の心による創造物となった。さらにことばがそれに天使の心と人間の形体とを与えた。

 顕現のキリストはこの上なく尊い。ことばをへて神より出て来るものだからである。そして神の意図を宣言し、その生命がキリストをへて家族として天使と人間に注がれる。

 これがまさしくキリストによることばを通しての天使ならびに人間における神の顕現である。神の身体にほかならない。

 ことばが神の意志と意図を語ったとき虚空が物質に近い性質を帯び、それより物質が生じた。そして神より届けられる光をことばを通して反射した。

 これぞ神のマントであり、神のことばのマントであり、キリストのマントである。

そして無数の天体がことばの音楽に合わせて踊った。その声を聞いてよろこびを覚えたのある。なぜならば、天体が創造主の愛を知るのはことばを通して語るその声によるのみだからである。

 その天体はまさに神のマントを飾る宝石である。

 かくして実在より神が生まれ、神よりことばが生じ、そのことばより宇宙の王としてその救済者に任じられたキリストが生まれた。

 人間は永遠にキリストに倣う。永遠の一日の黄昏どきに、見知らぬ土地、ときには荒れ果てた土地を、わが家へ向けて、神へ向けて長き旅を続けるのである。今はまさにその真昼どきである。

 ここが神とそのキリストの王国となるであろう」


 こう歌っているうちにホール全体にまず震動がはじまり、やがて分解しはじめ、そして消滅した。そしてそれまで壁とアーチに散らばっていた天使が幾つかのグループを形成し、それぞれの霊格の順に全群集の前に整列しました。

その列は主の背後の天空はるか彼方へと続いていました。さらに全天にはさまざまな民族の数え切れないほどの人間と動物が満ちておりました。全創造物が吾々のまわりに集結したのです。

 動物的段階にあった時代の人間の霊も見えます。さまざまな段階を経て今や天体の中でも最も進化した段階に到達した人種もいます。さらには動物的生命───陸上動物と鳥類──のあらゆる種類、それに、あらゆる発達段階にある海洋生物が、単純な形態と器官をしたものから複雑なものまで勢揃いしていたのです。

 さらには、そうした人類と動物と植物を管理する、これ又さまざまな段階の光輝をもつ天使的存在も見えました。その秩序整然たる天使団はこの上ない崇高性にあふれていました。それと言うのも、ただでさえ荘厳なる存在が群れを成して集まっていたからであり、

王冠のまわりに位置していた天使団も今ではそれぞれに所属すべきグループのメンバーとしての所定の位置を得ておりました。

 全創造物と、中央高く立てるキリスト、そしてそのまわりを森羅万象が車輪のごとく回転する光景は、魂を畏敬と崇拝の念で満たさずにはおかない荘厳そのものでした。

 私がその時はじめて悟ったことですが、顕現されるキリストは、地上においてであれ天界においてであれ、キリストという全存在のほんの小さな影、その神性の光によって宇宙の壁に映し出されたほのかな影にすぎないこと、そしてその壁がまた巨大な虚空の中にばらまかれたチリの粒から出来ている程度のものであり、その粒の一つ一つが惑星を従えた恒星であるということです。


 それにしても、その時に顕現された主の何とお美しかったこと、そしてまた何という素朴な威厳に満ちておられたことでしょう。全創造物の動きの一つ一つが主のチュニック、目、あるいは胴体に反映しておりました。

主の肌の気孔の一つ一つ、細胞の一つ一つ、髪の毛の一本一本が、吾々のまわりに展開される美事な創造物のどれかに反映しているように思えるほどでした。


──あなたが見たとおっしゃる創造物の中にはすでに地上から絶滅したものやグロテスクなもの、どう猛な動物、吐き気を催すような生物──トラ、クモ、ヘビの類──もいたのでしょうか。


 ご注意申し上げておきますが、いかなる存在もその内側を見るまでは見苦しいものと決めつけてはいけません。

バラのつぼみも身をもちくずすとトゲになる、などという人がいますが、そのトゲも神が存在を許したからこそ存在するわけで、活用の仕方次第では美しき女王のボディガードのようにバラの花を護る役目にもなるわけです。

 そうです、その中にはそういう種類のものもいました。バラとトゲといった程度のものだけでなく、人間に嫌われているあらゆる生物がいました。神はそれらをお捨てにならず、活かしてお使いになるのです。

 もっとも吾々は、そうした貴殿がグロテスクだとか吐き気を催するようなものと呼んだものを、地上にいた時のような観方はせず、こちらへ来て教わった観方で見ております。その内面を見るのです。

すると少しもグロテスクでも吐き気を催すようなものでもなく、自然の秩序正しい進化の中の一本の大きな樹木の枝分かれとして見ます。

邪悪なものとしてではなく、完成度の低いものとして見ます。どの種類もある高級霊とその霊団が神の本性の何らかの細かい要素を具体的に表現しようとする努力の産物なのです。

 その努力の成果の完成度が高いものと低いものとがあるというまでのことで、神の大業が完成の域に達するまでは、いかなる天使といえども、ましてや人間はなおのこと、これは善であり、これは邪性から生じたものであるなどと宣言することは許されません。

内側から見る吾々は汚れなき主のマントの美しさに固唾(かたず)をのみます。中心に立たれたそのお姿は森羅万象の純化されつくしたエッセンスに包まれ、それが讃仰と崇敬の香りとなって主に降り注いているように思えるのでした。

 その時の吾々はもはや第十界の住民ではなく全宇宙の住民であり、広大なる星辰の世界を流浪(さすら)い、無限の時を眺望し、ついにそれを計画した存在、さらには神の作業場においてその創造に従事した存在と語り合ったのです。

そして新しいことを数多く学びました。その一つひとつが、今こうしてこちらの大学において高等な叡智を学びつつある吾々のように創造界のすぐ近くまでたどり着いた者のみが味わえる喜びであるのです。

 かくして吾々はかの偉大なる天使群に倣い、その素晴らしい成果───さよう、虫けらやトゲをこしらえたその仕事にも劣らぬものを為すべく邁進しなければならないのです。

それらを軽視した言い方をされた貴殿が、そのいずれをこしらえようとしても大変な苦労をなさるでしょう。そう思われませんか。ま、叡智は多くの月数を重ねてようやく身につくものであり、さらに大きな叡智は無限の時を必要とするものなのです。

 そこで吾々大学で学んでいた者がこうして探究の旅から呼び戻されて一堂に招集され、いよいよホールの中心に集結したところで突如としてホール全体が消滅し、気が付くと吾々は天使の塔のポーチの前に立っているのでした。

 見上げると王冠はもとの位置に戻っており、すべてがその儀式が始まる前と同じになっておりました。ただ一つだけ異なっているものがありました。

こうした来訪があった時は何かその永遠の記念になるものを残していくのが通例で、この度はそれは塔の前の湖に浮かぶ小さな建物でした。ドームの形をしており、水面からそう高くは聳えておりません。

水晶で出来ており、それを通して内部の光が輝き、それが水面に落ちて漂っております。

反射ではありません。光そのものなのです。かくしてその湖にそれまでにない新しいエネルギーの要素が加えられたことになります。


──どんなものか説明していただけませんか。

 それは無理です。これ以上どうにもなりません。地上の人間の知性では理解できない性質のものだからです。それは惑星と恒星のまわりに瀰漫するエネルギーについての吾々の研究にとっては新たな一助となりました。

そのエネルギーが天体を包む鈍重な大気との摩擦によっていわゆる〝光〟となるのです。

吾々はこの課題を第十一界においてさらに詳しく研究しなければなりません。新しい建造物はその点における吾々への一助としての意味が込められていたのです。
                               アーネル ±

──カスリーン、何か話したいことありますか。

  あります。こうして地上へ戻って来てアーネルさんとその霊団の思念をあなたが受け取るのをお手伝いするのがとても楽しいことをお伝えしたいのです。

みなさん、とても美しい方たちばかりで、わたしにとても親切にしてくださるので、ここでこうして間に立ってその方たちの思念を受信し、それをあなたに中継するのが私の楽しみなのです。


──アーネルさんはフローレンスに住んでおられた方なのに古いイタリア語ではなく古い英語で語られるのはどうしてでしょう?

 それはきっと、確かにフローレンスに住んでおられましたが、イタリア生まれではないからでしょう。

私が思うにアーネルさんは英国人、少なくとも英国のいずれかの島(※)生まれだったのが、若い時分に移住したか逃げなければならなかったか──どちらかであるかは定かでありませんが──いずれにしても英国から出て、それからフローレンスへ行き、そこに定住されたのです。

その後再び英国へ帰られたかどうかは知りません。当時はフローレンスに英国の植民地があったのです。(※英国は日本に似て大小さまざまな島から構成されているからこういう言い方になった──訳者)


──誰の治世下に生きておられたかご存知ですか。

 知りません。でも、あなたがルネッサンスのことを口にされた時に想像されたほど古くはないと思います。どっちにしても確かなことは知りませんけど。


──どうも有難う。それだけですか。

 これだけです。私たちのために書いてくださって有難う。


──これより先どれくらい続くのでしょう?

そんなに長くはないと思います。なぜかって? お止めになりたいのですか。


──とんでもない。私は楽しんでやってますよ。あなたとの一緒の仕事を楽しんでますよ。それからアーネルさんとの仕事も。でも最後まで持つだろうかと心配なのです。つまり要求される感受性を維持できるだろうかということです。このところ動揺させられることが多いものですから。

 お気持ちは分かります。でも力を貸してくださいますよ。そのことは気づいていらっしゃるでしょう? 邪魔が入らなくなったことなど・・・・・・アーネルさんがこれから自分が引き受けるとおっしゃってからは一度も邪魔は入っていませんよ。


──まったくおっしゃる通りです。あの時までの邪魔がぴたっと入らなくなったのが明らかに分かりました。ま、あなたが〝これまで〟と言ってくれるまで続けるつもりです。神のみ恵みを。では又の機会まで、さようなら。
 おやすみなさい。 カスリーン