Monday, November 2, 2026

シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch

Edited by Pam Riva
近藤千雄訳



二章 何のために生まれてくるのか

 地上生活の目的は人間の霊性の発現を促すことです。

 地球という天体上に住む人間の一人一人に生きる目的があります。なのに大半の人間がその生活の基盤となっている霊的実在に気づいていないのは悲しいことです。まるで穴居人のように、ガランとした暗がりの中で暮らしております。視角がズレているのです。焦点が狂っているのです。

ビジョンが間違っているのです。人生がもたらしてくれる莫大な豊かさをまったく知らずにいます。霊的真理に気がつけば自分がいま何をしなければならないかを自覚して、そこに人間革命が生じます。

 われわれはみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。

 私には皆さんの人間であるが故の弱点がよく理解できます。しかし、一つ一つの問題を自分への挑戦(チャレンジ)として平然と受け止めると同時に、内部の霊性を強化し、開発し、発展させて霊性を高めるための触媒として、それを克服していかねばなりません。

 地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではのさまざまな条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、いわゆる人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。
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 しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を受けた意味があるのです。つまりそうしたさまざまな浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質を顕現させることになるのです。困難と逆境とに遭遇してはじめて発揮されるものなのです。
 
 魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。

 これは、霊的叡智を求める求道者のすべてに言えることです。断腸の思い、悲痛、苦痛を体験しないことには、そのあとに訪れる恩寵の有難さが十分に理解できません。人のために役立とうとする人間は試練を覚悟しなければなりません。時には力の限界までしごかれることもあります。

 人間一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。すべてが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧にできあがっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。

 神の法則に例外というものはありません。存在するもののすべて───地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの───が神の配剤にあずかっているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。

小さすぎて見落とされたり、大きすぎて法則のワクからはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則があなたにも働いているのです。もちろん私にも、そして他のすべての人にも働いております。

 これで、作用と反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはドン底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。

そして又、皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をおもちです。


 しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在に不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。

大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。

 ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。

 そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。

元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。

 その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させ進化させていく上において必要不可欠の要素なのです。

 地上というところはバイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引きかえ霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です。

 太陽がさんさんと輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難門が無いようでは霊的真理は理解できません。困苦の真っ只中に置かれてはじめて触媒が働くのです。

 霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。鋼が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。

 黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で焼き上げねばなりません。同じことが皆さん方すべてに言えるのです。

 霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意ができなくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。

 苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。

光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。

 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。

絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。

 ですから、私たち霊界の者は魂にその受け入れ準備ができるまで根気よく待つほかないのです。馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。

 私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのおかげで、われわれのすべてを包摂し全存在に配剤した自然法則の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております。

 時おり私は地上の同志のもとを訪ねてみることがありますが、霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。

霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。

 地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器───非常事態や危機に際して活用できる霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決できない問題は何一つありません。

霊の書 アラン・カルデック(編)第3部 摂理と法則 6章−12章

 The Spirits' Book

スピリチュアリズムの真髄「思想編」
近藤千雄(訳)






6章 破壊の法則


このページの目次
〈必要な破壊と不当な破壊〉


――破壊も自然法則の一つでしょうか。


「形あるものは別の存在物の材料となって生まれ変わるために破壊される必要があります。破壊とは変化のことにほかなりません。その目的は生き物の新生と改良です」


――すると生き物には神の配剤として破壊の本能が植えつけられているのでしょうか。


「神の創造物は、神が意図しておられる目的を達成するための道具です。生き物は互いが互いの食糧となるために破壊し合います。それは生産と消費の均衡を保つためであり――生産ばかりでは過剰となります――また外衣としての物質の再利用のためでもあります。あくまでも外衣であり、考える力をもった存在の本質部分、すなわち知的要素は破壊されません。外衣がさまざまな変態を経ていくうちに、その知的要素が鍛練されてまいります」


――新生のための破壊が必要であるならば、なぜ自己保存の本能を授けてあるのでしょうか。


「破壊作用が適切な時期より早すぎることがないようにという配慮からです。破壊の時期が早すぎると知的要素の発達が阻害されます。神が各存在に生き延びようとする力と再生しようとする力とを授けた理由はそこにあります」


――破壊の法則は地球人類には常に必要なのでしょうか。


「物質に対する霊性の優位が高まるにつれて破壊の必要性も減少します。その必然の結果として、知的ならびに精神的発達に破壊の恐怖が伴う理由がお分かりでしょう」


――破壊が必要性と安全性の限度を超えているケースがあります。例えばスポーツとしての狩猟(ハンチング)などは意味がありませんし、殺すことの楽しさ以外の動機は考えられません。どういう見方をすべきでしょうか。


「狩猟は霊性に対する獣性の優位以外の何ものでもありません。生きる上での必要性の限度を超えた破壊は全て神の摂理に違反します。肉食動物でも空腹を満たす以上のことはしません。それと較べて人間は自由意志を持っているために不必要な破壊行為をします。自由意志の乱用は、いずれ神から釈明せよとのお達しがあるでしょう。本来なら抑制すべき本能に負けたのですから」
〈自然災害による破壊〉


――神は何の目的で自然災害という破壊をもたらすのでしょうか。


「人間の進化に拍車をかけるためです。精神的新生のためには破壊も必要です。新しく再生する毎に霊的浄化において新しい一歩を踏み出すのです。何事につけ、その過程を正しく理解するためには、結果を見届けなくてはいけません。人間はとかく我が身に置き代えて判断するために、苦しいことはみな災害と考えがちですが、新たな秩序をもたらすためには思い切った混乱を必要とする時があるのです。それまでの平穏無事の惰性では何世紀も要するような改革が二、三年で成就されることがあります」


――神はそういう破壊の手段以外に何か別の手段を取ることが出来ないのでしょうか。


「取っておられます。日常生活の中での善悪の判断を通じて進化を促すという方法です。ところがこの方法では人間はなかなか向上しません。そこでその高慢の鼻をへし折り、人間の弱さを思い知らせる必要が生じるのです」


――ですが、そうした災害による犠牲は、邪悪な人間だけでなく善良な人間も悲嘆に暮れさせるだけではないでしょうか。


「人間は、地上を旅する間の出来事は、どうしてもその肉体の生存期間を尺度として捉えます。ところが死んで霊界に戻ってくると観点が大きく変わり、地上時代の出来事が実に些細なことであることに気づきます。地上の一世紀は永遠の時の中では一瞬の花火のようなものに思えます。そして、地上の時間にして何日、何か月、何年にもわたる苦しみもどうということはないように思えてくるものです。

どうかこの点を今後のあなた方の生き方の参考にしていただきたい。霊こそ実在であり、全てのものに優先し、全てのものが消滅したあとも残り続けます。その霊の在り方こそ神が何よりも気遣うものであり、肉体は地上を生き抜くための仮の媒体にすぎません。

多くの尊い人命を奪う大災害におけるそうした犠牲者たちは、戦闘後の兵士のようなものです。軍服はボロボロに破れ、あるいは千切れ、あるいは無くなっているかも知れません。が、生命(いのち)は失っていない。その姿を見て将校は軍服のことよりも生命があったことを喜ぶものです。軍服が肉体であり生命が魂です」
〈戦争・殺人・残虐行為〉


――人間を戦争に駆り立てるものは何でしょうか。


「獣性が霊性を凌駕すること、そしてその動物的激情を満足させたいという欲求です。霊性が野蛮な状態では弱肉強食の原理しか通用しません。従って闘うということが通常の状態となるのです。霊性が発達するとともに争いを引き起こす原因が少なくなります。それだけ闘争が少なくなり、仮に闘争が避けられないことがあっても、その闘争の中にも人道的行為が見られるようになります」


――地球上から戦争が無くなる日が来るでしょうか。


「来ます。正義というものを理解し、神の摂理を実践すれば、戦争は無くなります。その時は人類がみな兄弟であるとの理解が行きわたるからです」


――神は何のために戦争を必要と認めたのでしょうか。


「自由と進歩のためです」


――戦争によって自由がもたらされるというのであれば、敗戦国が往々にして隷属させられる結果となるのはなぜでしょうか。


「隷属といっても一時的なことです。それを神が許すのは隷属の状態にうんざりさせて、自由へ向けての急速な進歩を促すためです」


――殺人はいかなるケースでも極悪な罪でしょうか。


「神は常に公正であると申し上げたつもりです。何事につけ、行為そのものよりも、その行為に出る動機ないし意図を審判なさいます」


――正当防衛であれば許されますか。


「絶対的な必要性があった場合にのみ許されます。攻撃を仕掛けられて、我が身を守るために相手の生命を奪うのは、やむを得ないことです」


――戦争における殺人行為にも責任を負わされるのでしょうか。


「命令によって戦わされている以上は責任は問われません。が、戦争によく見られる残虐行為には責任が問われ、人道的行為にはそれなりの報いがあります」


――残虐行為に駆り立てる心情は破壊的本能と関係があるのでしょうか。


「破壊的本能の中でも最も悪質なものです。破壊が必要になることはありますが、残虐行為が必要になることは絶対にありません。邪悪な心情が生み出す結果です」
〈死刑制度〉


――人間界の法律から死刑制度が消える日が来るでしょうか。


「いずれ消えることは間違いありません。それが成就されれば人類にとっての大きな進歩を画することになります。霊性が啓発されるにつれて、地球上の全土から死刑制度が無くなります。人間が人間を裁く必要が無くなるからです。もっとも、ずっと先の話ですが……」


――死刑制度が文明国から消えるということは、文明が開けない時代には必要悪だったということでしょうか。


「必要悪という用語は適切ではありません。人間は他に良い方法が見つからないとすぐに必要悪だと決めつけます。霊性が開発されるにつれて正しいことと正しくないこととの分別が明確になってきます。そして無知な時代に正義の名のもとに行った誤った慣習をやめます」






7章 社会生活の法則

このページの目次
〈社会生活の必要性〉


――社会生活は自然なことでしょうか。


「もちろんです。神は人間を社会という形態の中で生活するように意図されています。言語を始めとして人間関係に必要な能力を授けてあるのはそのためです」


――すると社会から隔絶した生き方は自然法則に反するのでしょうか。


「そうです。人間は本能的に他の人間との交わりを求めるものであり、お互いがお互いの進歩を援助し合うように意図されているからです」


――他との交わりを求めても結局は利己的な感情に負けるのではないでしょうか。それとも、そうした点にこそ神の配剤があるのでしょうか。


「人間は進化という宿命があります。それは一人だけの生活では達成されません。誰一人として才能の全てを所有してはいないからです。そこに他との接触の必要性が生じます。隔絶した一人の生活では人間らしさが失われ、太陽に当たらない植物のように弱々しくなります」
〈隠遁生活〉


――原則として社会志向の生活が自然であることは理解できますが、その社会から遁(のが)れた生活への志向も、それで本人が満足するのであれば、悪いとは言えないと思うのですが……


「そういう満足は利己的満足だからいけないのです。酒びたりの生活を送っている人がいますが、あなたはそれを、満足しているのだから良いとおっしゃるつもりですか。自分をその立場に置いてみて、自分以外の人に何の意味も持たないと思ったものは、神はお喜びにならないと思ってください」


――不幸な人々のために生涯を捧げる決意をして世を捨てる人々はどう理解すべきでしょうか。


「そういう人は自ら身を低くすることによって魂を高めています。物的享楽を捨てることと、仕事の法則を成就することによる善行の二つの点で大きな功績があります」


――ある種の仕事の成就のために世俗から遁れて静寂の中で生活している人はいかがでしょうか。


「そういう動機からであれば利己的ではありません。実質的には人のためなのですから、社会から隔絶してはおりません」


――ある宗派では“無言の誓い”というのを教義としておりますが、これはいかがでしょうか。


「言語能力が自然な能力であること、神から授かったものであることをお考えになれば、自ら答えが出るはずです。神は能力の悪用は咎めますが、正しい使用は決して咎めません。もっとも、静寂の時を持つこと自体は結構なことです。そういう時こそ本来の自我が顕現し、霊的な自由が増し、背後霊との内的コミュニケーションが持てます。ですから、そういう目的のために自発的な苦行を行うのは、動機の点で有徳の行為と言えます。が、基本的に見てそういう行に終始する生活は、神の摂理を十分に理解していないという点で、やはり間違いです」



8章 進歩の法則

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〈野生と進歩〉


――野生のままの状態と自然の法則とは一致しますか。


「しません。野生のままということは原始的状態のことです。文明は野生の状態とは相容れません。一方、自然の法則は人類の進歩に貢献します」


――人間は進歩を促す力を内部に秘めているのでしょうか、それとも進歩は外部からの働きかけの結果なのでしょうか。


「人間は自らの力で自然に発達します。ただ、全ての人間が同じ速度で同じ形で進歩するわけではありません。従って最も進歩している者が社会という形態の中での接触を通じて他の者の進歩を助ける仕組みになっているのです」


――道徳的進歩は知的発達に続くものでしょうか。


「知的発達の結果として道徳的進歩が生じますが、必ずしもすぐにというわけではありません」


――知的発達がどうして道徳的進歩を促すのでしょうか。


「知的発達によって善と悪とを理解するようになり、続いて、そのどちらかを選択するようになります。知性が発達すると自由意志が発達し、そこから人類の行動の責任が増してきます」


――人間にはそうした進歩を止める力がありますか。


「ありません。もっとも、時おり遅らせることをします」


――人類の進歩のためと思って真剣にやっていることが実際には進歩の邪魔をしているというケースがあるように思えるのですが……。


「あります。大きな車輪の下に小石をばらまく人がいますが、そんなことで進歩が阻止されるものではありません」


――人類の進歩は常にゆっくりとしたペースなのでしょうか。


「時の勢いで必然的に生じる一定の速度の進歩がありますが、それがあまりに遅すぎると、思い切った転換を促すために、時として物理的ないしは精神的ショックを神が用意します」


――進歩の最大の障害は何でしょうか。


「高慢と利己主義です。ただし道徳的進歩に限っての話です。と言うのは、知的進歩は時の勢いで常に進んでおります。そして、一見すると野心や富への欲望といった悪徳を煽るかに見えますが、代わってそれが精神を修養するための探求へ駆り立てます。

このように人間生活の全てが物的のみならず精神的にもどこかでつながっていて、悪と思えるものからでも善が生まれるのです。ただ、そういう形での因果関係は永続性がありません。それよりも、霊性が開眼して地上的享楽のレベルを超えた、限りなくスケールの大きい、そして限りなく永続性のある至福の境涯があることを悟るようになります」(十二章〈利己主義〉参照)
〈滅びゆく民族〉


――進歩性を完全に失ってしまった民族もあるように見受けられるのですが……。


「あります。ただしそれは一度にではなく、日を追って少しずつ人口が減少するという形を取ります」


――究極的には世界の全民族が一つの国家に統一されるのでしょうか。


「一つの国家にはなりません。それは有り得ないことです。気候の違いが多様な慣習と必要性を生み、それが自ずと多様な国民性を生み出します。そしてその一つ一つが特殊な慣習と必要性に適応した法律を必要とします。しかし思いやりの摂理には地域の差はありません。神の摂理にのっとった法律を施行していれば、国家と国家の間にも人間どうしと同じ思いやりによって結ばれ、互いが平和で幸せな生活が送れるようになります。誰一人として他を傷つけたり他を犠牲にして利益を得ようとする者はいなくなるからです」
〈文明の進歩〉


――文明は人類の進歩の現れでしょうか、それとも何人かの学者が言っているように、デカダンスでしょうか。


「進歩には違いありません。が、まだまだ完全からは程遠いです。人類は幼児期から一気に理性の時代へと移行するわけではありません」


訳注――デカダンスというのは、ちょうど本書が編纂されている頃、すなわち一九世紀末にフランスを中心にヨーロッパで広まった官能主義的頽廃思想のことで、現代のアメリカに代表される機械的物質文明とは質を異にする。


――文明をいけないものとする考えはいかがでしょうか。


「文明を悪用する者を非難すべきであって、神の配剤に文句を言うべきではありません」


――いずれは文明も浄化されて、それが生み出していた悪弊も消えるのでしょうか。


「そうです。人間の道徳性が知性と同じ程度にまで発達すればそうなります。花が咲く前に実がなることはありません」


――文明が頂点に達したことは何をもって知ることができるのでしょうか。


「道徳的発達です。あなた方は少しばかり発明や発見をし、立派な家に住んでシャレた服を着るようになると、えらく文明が発達したかに思い込んでいるようですが、本当の意味で“開化”したと言えるのは、不名誉な悪徳が消え、イエスの説く慈悲を実践して兄弟のごとく仲良く暮らせるようになった時です。それまでは“知的に啓発された”だけの国家であって、文明化の初期の段階を通過したにすぎません」
〈社会的法律の進歩〉


――人間社会を治めるには、人間がこしらえた法律の助けなしに自然の法律だけで十分なのでしょうか。


「自然の法則が正しく理解され、それを人間が素直に実践するのであれば、それで十分でしょう。が、社会には無法者がいますから、それに応じた特別の法律が必要となります」


――現段階の人間社会では刑法にも厳しさが必要でしょうか。


「堕落した社会には厳格な刑法も必要ですが、不幸にして現在の刑法は罰することにばかり偏って、悪の発生源を改めることに意を用いていません。人類を啓発するのは教育しかありません。教育さえしっかりすれば現在のような厳しさは必要でなくなります」


――法律を改めるにはどうすればよいでしょうか。


「時勢の流れによっても改められて行きますが、地上界をリードする偉大なる人物の影響によっても改められて行きます。これまでに多くの悪法が改められてきましたし、これからも改められて行くでしょう。焦らぬことです」
〈スピリチュアリズムの役割〉


――スピリチュアリズムはいずれは世間一般に受け入れられて行くのでしょうか、それとも限られた少数派のものであり続けるのでしょうか。


「間違いなく一般に受け入れられて行き、人類史上における画期的な時代が到来するでしょう。本質的に自然界の秩序に属するものであり、人類の知識の一部門として位置づけられるべきものだからです。しかしそれまでには、まだまだ烈しい抵抗に遭うでしょう。それは教義の真偽を問われるというよりも損得から生じる抵抗です。スピリチュアリズムの普及で経済的に被害をこうむる者、虚栄心を守ろうとする者、さらには世俗的面子(めんつ)にこだわる者などがいることを忘れてはなりません。しかしそのうち自分たちが少数派になってしまったことを知ると、恥を承知の上でも、手のひらを返すような態度に出ることでしょう」


――なぜ霊界側は人類発生の初期からこうした真理を説かなかったのでしょうか。


「あなただって大人に教えるようなことを子供に説くようなことはしないでしょうし、赤ん坊が消化しきれないものを食べさせるようなことはしないでしょう。何事にも時期というものがあります。これまでだって全く説かれていないわけではありません。が、その意義が理解されず、あるいは曲解されたりしています。そして今ようやく正しく理解してもらえる段階が到来したということです。が、これまでの教えも、不完全だったとは言え、これから本格的な実りを得るタネ蒔きのための土地を耕してくれていたのです」



9章 平等の法則

このページの目次〈さまざまな不平等〉
〈貧富による試練〉
〈男女の権利の平等〉

〈さまざまな不平等〉


――神はなぜ全ての人間に同じ才能を与えていないのでしょうか。


「全ての霊は神によって平等に創造されています。が、創造されてから今日に至るまでの期間に長短の差があり、結果的には過去世の体験の多い少ないの差が生じます。つまり各自の違いは体験の程度と、意志の鍛練の違いにあり、それが各自の霊的自由を決定づけ、自由の大きい者ほど急速に進化します。こうして現実に見られるような才能の多様性が生じて行きます。

この才能の多様性は、各自が開発した身体的ならびに知的能力の範囲内で神の計画の推進に協力し合う上で必要なことでもあります。ある人にできないことを別の人が行うという形で、全体の中の一部としての有用性を発揮できるわけです。さらには宇宙の全天体が連帯性でつながっていますから、より発達した天体の住民――そのほとんどが地球人類より先に創造されています――が地上に再生して範を垂れるということもあります」


――高級な天体から低級な天体へと転生しても、それまでに身につけた才能は失われないのでしょうか。


「失われません。すでに申しているごとく、進化した霊が退化することは有り得ません。物質性の強さのために以前の天体にいた時より感覚が鈍り、生まれ落ちる環境も危険に満ちた所を選ぶかも知れませんが、ある一定レベル以上に進化した霊は、そうした悪条件を糧として新たな教訓を悟り、さらなる進化に役立てるものです」


――社会の不平等も自然の法則でしょうか。


「違います。人間が生み出したものであり、神の業ではありません」


――最終的には不平等は消滅するのでしょうか。


「永遠に続くものは神の摂理以外にはありません。人間社会の不平等も、ご覧になっていて、少しずつではあっても日毎に改められて行っていることに気づきませんか。高慢と利己主義が影をひそめるにつれて不平等も消えて行きます。そして最後まで残る不平等は功罪の評価だけです。いずれ神の大家族が血統の良さを云々(うんぬん)することを止めて、霊性の純粋性を云々する日が来るでしょう」


訳注――“功罪の評価”の不平等というのは、功も罪も動機や目的によってその報いも違ってくるという意味で、“不公正”とは異なる。逆の場合の例を挙げれば、キリスト教には“死の床での懺悔”というのがある。イエスの信仰を告白して他界すればいかなる罪も赦されるという教義であるが、これは間違った平等であって、不公正の最たるものであろう。


――貧富の差は能力の差でしょうか。


「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。詐欺や強盗にも結構知恵が要りますが、これをあなたは能力と見ますか」


――私のいう能力はそういう意味ではありません。たとえば遺産には悪の要素は無いでしょう?


「どうしてそう断言できますか。その財産が蓄積される源にさかのぼって、その動機が文句なしに純粋だったかどうかを確かめるがよろしい。最初は略奪のような不当行為で獲得したものではないと誰が断言できますか。

百歩譲ってそこまでは詮索しないとしても、そもそもそんな大金を蓄えるという魂胆そのものが褒められることだと思われますか。神はその動機を裁かれます。その点に関するかぎり神は人間が想像するより遥かに厳正です」


――仮に蓄財の当初に不当行為があった場合、その遺産を引き継いだ者は責任まで引き継がされるのでしょうか。


「仮に不当行為があったとしても、相続人はまったく知らないことですから、当然その責任までは問われません。しかし、これから申し上げることをしっかりと理解してください。遺産の相続人は、必ずとは言いませんが、往々にして、その蓄財の当初の不正の責任を取ってくれる者が選ばれるということです。その点を正直に理解した人は幸せです。その罪を最初の蓄財者の名において償えば、その功は、当人と蓄財者の双方に報われます。蓄財者が霊界からそのように働きかけた結果だからです」
〈貧富による試練〉


――ではなぜ貧富の差があるのでしょうか。


「それなりに試練があるからです。ご存じの通り、再生するに際して自分でどちらかを選んでいるのです。ただ、多くの場合、その試練に負けています」


――貧と富のどちらが人間にとって危険でしょうか。


「どちらも同じ程度の危険性があります。貧乏は神への不平不満を抱かせます。一方、富は何かにつけて極端な過ちに陥(おとしい)れます」


――富は悪への誘惑となると同時に善行の手段にもなるはずです。


「そこです。そこに気づいてくれれば意義も生じるのですが、なかなかその方向へは向かわないものです。大抵は利己的で高慢で、ますます貪欲になりがちです。財産を増やすことばかり考え、これで十分という際限が無くなるのです」
〈男女の権利の平等〉


――女性が肉体的に男性より弱くできていることには何か目的があるのでしょうか。


「女性に女性としての機能を発揮させるためです。男性は荒仕事に耐えられるようにつくられ、女性は穏やかな仕事に向いています。辛い試練に満ちた人生を生き抜く上で互いが足らざる所を補い合うようにできています」


――機能的にも男女の重要性はまったく平等なのでしょうか。


「女性の機能の方がむしろ重要性が大きいと言えます。何しろ人間としての生命を与えるのは女性なのですから」


――神の目から見て平等である以上は人間界の法律上でも平等であるべきでしょうか。


「それが公正の第一原理です。“他人からして欲しくないことは、すべからく他人にもすべきではない”と言います」


訳注――これはキリストの“山上の垂訓”の一つである「他人からして欲しいことは、すべからく他人にもそのようにすべし」という有名な“黄金律”を裏返して表現したもの。


――法律が完全に公正であるためには男女の権利の平等を明言すべきでしょうか。


「権利の平等は明言すべきです。機能の平等はまた別問題です。双方がそれぞれの特殊な存在価値を主張し合うべきです。男性は外的な仕事に携わり、女性は内的な仕事に携わり、それぞれの性の特質を発揮するのです。

人間界の法律が公正を期するためには男女の権利の平等を明言すべきであり、どちらに特別の権利を与えても公正に反します。文明の発達は女性の解放を促すもので、女性の隷属は野蛮のレベルに属します。

忘れてならないのは、性の違いは肉体という組織体だけの話であって、霊は再生に際してどちらの性でも選べるという霊的事実です。その意味でも霊は男女どちらの権利でも体験できるわけです」


訳注――この問答を見るかぎりでは、当時はまだ自由と平等の先進国のフランスでも男女の平等は法律で謳われていなかったようで、今日の自由主義国の人間が読むと奇異にすら感じられる。しかし“権利”の平等と“機能”の平等を区別し、機能は平等・不平等次元で論じるべきものではないとしている点は、昨今いささか行き過ぎた平等主張、いわゆる“悪平等”が幅をきかせている、日本を始めとする文明先進国に良い反省材料を提供しているのではなかろうか。



10章 自由の法則

このページの目次
〈自由と束縛〉


――人間が完全な自由を得るのはどういう条件下においてでしょうか。


「砂漠の中の世捨て人くらいのものでしょう。二人の人間が存在すれば、互いの権利と義務が生じ、完全に自由ではなくなります」


――と言うことは、他人の権利を尊重するということは、自分の権利を奪われることを意味するのでしょうか。


「それは違います。権利は生得のものです」


――奴隷制度が既成の慣習となっている国家において、使用人の家に生まれた者はそれを当たり前のことと思うに違いありませんが、その場合でも罪でしょうか。


「いけないことはいけないこと、いくら詭弁を弄しても悪い慣習が良い慣習になるわけではありません。が、責任の重さとなると、当人がその善悪についてどの程度まで理解していたかによって違ってきます。

奴隷制度で甘い汁を吸っている者は神の摂理に違反していることは明白です。が、その場合の罪の重さは、他の全ての場合と同じく、相対的なものです。長年にわたって奴隷制度が根付いている国においては使用人は少しも悪いこととは思わず、むしろ当たり前のことと思っているでしょう。しかし例えばイエスの教えなどに接して道義心が目覚め、理性が啓発されて、奴隷も神の前には自分と同等なのだと悟ったあとは、どう弁解しても罪は罪です」


――使用人の中には心の優しい人もいて、扱い方が人道的で、何一つ不自由をさせないように心を配っていながら、解放してやると却って生活が苦しくなるという理由から奴隷を雇い続けている人がいますが、これはどう理解すべきでしょうか。


「奴隷を残酷に扱っている使用人に較べれば自分のしていることについての理解が立派であると言えるでしょう。が、私に言わせれば、それは牛や馬を飼育しているのと同じで、マーケットで高く売るために大切にしているだけです。残酷に扱っている人と同列には問えませんが、人間を商品として扱い、生来の独立した人格としての権利を奪っている点において罪に問われます」
〈良心の自由〉


――他人の良心の自由に柵を設ける権利はあるでしょうか。


「思想の自由に柵を設ける権利がないのと同じく、そういう権利は許されません。良心を判断する権利は神のみが所有しておられます。人間が法律によって人間と人間との関係を規制していますが、神は自然の摂理によって人間と神との関係を規律づけています」


――ある宗教で説かれている教義が有害であることが明らかな時、良心の自由を尊重する立場からこれをそのまま許すべきでしょうか、それとも、良心の自由を侵さない範囲で、その誤った教義によって道に迷っている人を正しい道に導いてもよろしいでしょうか。


「もちろんよろしいし、また、そう努力すべきです。ただし、その時の態度はイエスの範にならって、優しさと説得力をもって臨むべきで、強引な態度は慎まないといけません。強引な態度は、その相手の間違った信仰よりも有害です。確信は威嚇によって押しつけられるものではありません」
〈自由意志〉


――人間には行為の自由がありますか。


「思想の自由がある以上、行為の自由もあります。自由意志がなかったら人間はロボットと同じです」


――その自由意志は誕生の時から所有しているのでしょうか。


「自らの意志で行為に出るような段階から自由意志を所有したことになります。誕生後しばらくは自由意志は無いに等しく、機能の発達と共に発達しはじめ、目的意識を持つようになります。幼児期における目的意識は必ずその時期の必要性と調和していますから、好きにやっていることがその時期に適合したものになっています」


――未開の段階では人間は本能と自由意志のどちらが支配的なのでしょうか。


「本能です。と言っても、完全な自由意志による行動を妨げない面もいくつかあります。幼児と同じで、自分の必要性を満たすために自由意志を行使していて、その自由意志は知性の発達を通してのみ発達します。と言うことは、あなた方のように知性の発達した人類は、自由意志の行使による過ちに対しては未開人よりも責任が重いということになります」


――社会的地位が自由行動の妨げになることはありませんか。


「社会に属している以上、当然、それなりの制約はあるでしょう。神は公正であり、そうした条件も全て考慮に入れて裁かれますが、そうした制約に負けないだけの努力をしているか否かも神は見ておられます」


――人生での出来事にはいわゆる運命、つまりあらかじめ決められているものもあるのでしょうか。もしあるとすれば自由意志はどうなるのでしょうか。


「再生する際に自ら選択した試練以外には必然的な宿命(さだめ)というものはありません。試練を選択することによって、そのようになる環境へ誕生しますから、自然にそうなるのです。

もっとも私が言っているのは物的な出来事(事故など)のことです。精神的な試練や道徳的誘惑に関しては、霊は常に善悪の選択を迫られており、それに抵抗するか負けるかのどちらかです。その際、当人が躊躇しているのを見て背後霊がアドバイスをしてくれますが、当人の意志の強さの程度を超えて影響を及ぼすことはできません。

一方、低級なイタズラ霊が大げさな取り越し苦労の念を吹き込んで悩ませたり怖がらせたりすることもします。が、最後の選択権は当人にあります」


――次から次へと訪れる悪運に翻弄されて、このまま行くと死も避けられないかに思える人がいます。こういうケースには宿命性があるように思えるのですが……


「真実の意味で宿命づけられているのは“死ぬ時期(とき)”だけです。いかなる死に方になるかは別として、死期が到来すれば避けることは不可能です」


――と言うことは、あらかじめ用心しても無駄ということになるのでしょうか。


「そんなことはありません。脅(おびや)かされる幾多の危険を避けさせるために背後霊が用心の念を吹き込むことがあります。死期が熟さないうちに死亡することのないようにとの神慮の一つです」


――自分の死を予知している人は普通の人よりも死を怖がらないのはなぜでしょうか。


「死を怖がるのは人間性であって霊性ではありません。自分の死を予知する人は、それを人間としてではなく霊として受け止めているということです。いよいよ肉体から解放される時が来たと悟り、静かにその時を待ちます」


――死が避けられないように、他にも避けられない出来事があるのではないでしょうか。


「人生のさまざまな出来事は大体において些細なもので、背後霊による警告で避けられます。なぜ避けさせるかと言えば、些細とは言え物的な出来事で面倒なことになるのは背後霊としても面白くないからです。唯一の、そして真実の意味においての避け難い宿命は、この物質界への出現(誕生)と物質界からの消滅(死)の時だけです」


――その間にも絶対に避けられないものがあると思いますが……。


「あります。再生に際してあらかじめ予測して選したものです。しかし、そうした出来事が全て神の予定表の中に“書き込まれている”かに思うのは間違いです。自分の自由意志で行った行為の結果として生じるものであり、もしそういうことをしなかったら起きなかったものです。

例えば指に火傷(やけど)を負ったとします。その場合、指に火傷を負う宿命(さだめ)になっていたわけではありません。単にその人の不注意が原因であり、あとは物理と化学と生理の法則の為せる業です。

神の摂理で必ずそうなると決まっているのは深刻な重大性をもち、当人の霊性に大きな影響を与えるものだけです。それが当人の霊性を浄化し、叡知を学ばせるとの計算があるのです」


――例えば殺人を犯した場合、再生する時から殺人者になることを知っているのでしょうか。


「そうではありません。自分が選択した人生において殺人を犯しかねない事態が予想されていたかも知れません。が、その時点では殺人を犯すか犯さないかは分かっておりません。殺人を犯した者でも、その直前までは理性を働かせる余裕があったはずです。もしも殺人を犯すことに決まっているとしたら、自由意志による判断力を働かせることができないことになります。罪悪も、他のあらゆる行為と同じく、自由意志による判断力と決断力の結果です。

あなた方はとかく二種類のまったく異なるものを混同しがちです。すなわち物的生活での出来事と精神的生活での行為です。もし宿命性というものがあるとすれば、それは物的生活において、原因が本人の手の届かない、そして本人の意志と無関係の出来事にかぎられています。それとは対照的に、精神生活における行為は必ず本人から出ており、従って本人の自由意志による選択の余地があります。その種の行為に宿命性は絶対にありません」


――では“幸運の星の下に生まれる”とか“星回りの悪い時に生まれる”という表現はどこから生まれたのでしょうか。


「星と人間とを結びつける古い迷信から生まれたもので、愚かな人間が比喩的表現を文字通りに受け取っただけです」



11章 公正・愛・寛容の法則

このページの目次〈生得の権利と公正〉
〈隣人への寛容と愛〉

〈生得の権利と公正〉


――公正とはどう定義づけたらよろしいでしょうか。


「公正とは他人の権利の尊重を基本として成り立つものです」


――その権利を定めるのは何でしょうか。


「二つあります。人間の法律と自然の法則です。人間の法律はその時代の人間的性格と習性に合わせてこしらえられていますから、啓発が進むにつれて規定される権利も変わってきます。今日のフランスの法律は、まだ完全からは程遠いとは言え、中世において権利として認められたものは、もう認めていません。今日のあなた方には途方もないものに思えるでしょうけど、当時としてはごく当たり前だったのです。

そういう次第ですから、人間がこしらえた法律は必ずしも絶対的公正とは一致しません。その上、人間の法律が規定するのは社会生活に関連した側面に限られております。しかし各個人の生活においては、時々刻々の言動や思念について、良心の法則による裁きを受けております」


――では人間的法律はさておいて、自然の摂理に適った公正の基本は何でしょうか。


「イエスが言っております――自分が他人からしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい、と。神は、公正の真実の尺度として、自分の権利を尊重してもらいたいという願望を各自に植えつけておられます。対人関係において難しい事態に立ち至り、如何なる行為に出るべきかに迷った時は、自分を相手の立場に置いて、自分だったらどうしてもらいたいと思うだろうかと考えてみることです。その判断に基づいて行動した時は良心が咎めることはありません」


――生得の権利で第一に挙げられるのは何でしょうか。


「生きる権利です。従って他人の生命を奪う権利、あるいは個人的存在を危うくする権利は、誰にもありません」
〈隣人への寛容と愛〉


――イエスが説いた“慈愛”の本当の意味は何でしょうか。


「全ての人間への善意、他人の欠点への寛容、自分への中傷の容赦です」


――イエスは“汝の敵を愛せよ”とも言っておりますが、それは人間の自然な心情にはそぐわないように思います。


「自分に敵対する者に優しくし愛の心を向けることは、確かに人間には不可能でしょう。イエスも決して文字通りのことを要求しているわけではありません。敵を愛するということは、敵を赦し、悪想念に対して善意で返すということです。それができた時、あなたは本当の意味で敵に勝ったのであり、悪意でやり返した時は敵に負けたことになります」


――施しをすることはいけないことでしょうか。


「そんなことはありません。いけないのは施しそのものではなく、施しの仕方です。イエスの説いた慈愛の心を理解した者は、物乞いをするという下卑(げび)た態度に出させないようにして困っている人々に施しをするべきです。

真の慈善の行為は、ただ施しをするというだけでなく、その態度に優しさが無くてはいけません。同じく人のためになることでも、その行為に思いやりの心がこもっていると二重の功徳になります。反対に恵んでやるといった高慢な態度で施しをしたのでは、飢えている人は形振(なりふ)り構わず頂くでしょうが、感謝の念は抱かないでしょう。

もう一つ忘れてならないのは、見栄からの施しは神の目から見ると功徳にはならないということです。イエスは“右の手が行ったことを左の手に知らしめてはならない”と言っております。せっかくの慈善行為を高慢と見栄で汚してはいけないという意味です。

施しと善意との違いを知ってください。本当に困っているのは必ずしも道端で物乞いをしている人ではありません。飢えに苦しみながらも、恥を知る人間は物乞いをしません。本当に善意のある人とは、そうした人知れず飢えに耐えている人に施しをし、そしてそのことを口外しない人のことです」



12章 完全なる人格

このページの目次

〈美徳と悪徳〉


――美徳とされているものの中で最も徳性が高いのは何でしょうか。


「美徳はすべて価値があります。霊性の向上の証だからです。邪悪性を帯びた影響力の誘惑に自ら抵抗する行為も全て徳行と言えます。が、その徳行の崇高さは、他人への善行のために私利私欲を滅却するところにあります。最も崇高なる徳は、できるだけ多くの人への無私の善行という形を取った時です」


――誰の目にも明らかな欠点と悪徳は別として、一見するとそうは見えない不完全さの表れの中で最も特徴的なものは何でしょうか。


「利己主義です。一見すると徳の高そうな風貌をしていても、実はきらびやかなメッキにすぎず、試金石にはとても耐え切れないことがあります。世間的には“立派な方”で通っていて、確かにそこそこの人格をそなえていても、厳しい試練には耐え切れず、すぐに利己心をのぞかせます。それだけでどの程度の霊格をそなえているかが知れます。もっとも、絶対的な無欲というのは地上界では滅多にお目にかかれるものではなく、もしあれば驚嘆に値するでしょう」


――人のためになることを計画して、その実行のための資金を稼ぐということは間違っているでしょうか。


「純粋にそう思ってやっているのであれば結構でしょう。ですが、果たして心底から人のためと思っているでしょうか。利己心は一切無いと断言できるでしょうか。人のためと言いながら、その実、第一に考えているのは自分のことではないでしょうか」
〈感情〉


――感情というのは、本来、悪なのでしょうか。


「悪ではありません。悪となるのは度が過ぎた時だけです。度を越すということは意念の悪用の結果だからです。基本的には感情は人間の性格の形成に益するもので、偉大な仕事の成就に強烈な拍車をかけてくれることがあります。感情が害を及ぼすのは、その使い道を誤った時です」


――その善用と悪用の境界はどうやって認識するのでしょうか。


「感情は馬と同じです。手綱をうまく操っている間は役に立ちますが、いったんコントロールを失うと危険が生じます。抑えることができなくなると自分だけでなく他人をも傷つけるようになります」


――それは意志の力で克服できるのでしょうか。


「できます。ホンのちょっとした意志の働かせ方で抑えられるものです。その意志、抑えようとする意志の欠如が感情を暴走させてしまうのです。残念ながら、そういう努力をする人が少なすぎます」
〈利己主義〉


――悪徳の中でもその根源にあるものは何でしょうか。


「利己心です。このことはすでに何度も説いてきました。およそ悪と呼ばれているものは全てこの利己心から生じているからです。悪いこと、いけないこととされているものをよく分析してご覧なさい。その底には必ず自分中心の欲が巣食っています。それと闘い、克服して、悪を根絶やしにしないといけません。

利己主義こそ社会的腐敗の根源です。この地上生活(だけとは限りませんが)において幾らかでも道徳的に向上したいと願う者は、まず自分の心の奥から利己心を根こそぎ取り払わないといけません。利己心があるかぎり公正も愛も寛容心も生まれません。あらゆる善性を無力化してしまいます」


――利己心を撲滅するにはどうすればよいでしょうか。


「人間的欠点の中でも最も取り除き難いのがこの利己心です。その原因は物質の影響力と結びついているからです。人類はまだまだ物質性を多分に残していますから、それから解放されるのは容易ではありません。人間界の法律、社会的組織、そして教育までもが唯物主義の上に成り立っています。物的生活が精神的生活によって支配されるようになるにつれて、利己主義も薄められて行くでしょう。それにはスピリチュアリズムの普及によって死後の生命の実在についての認識が浸透することが大前提です。スピリチュアリズムの教義が正しく理解され、それまでの人類の信仰や慣習が見直されれば、習慣やしきたり、社会的関係の全てが改められるでしょう。

利己主義は自分という個的存在にこだわりすぎ、平たく言えば自分が偉いと思っているところから生じています。スピリチュアリズムを正しく理解すれば、それとは逆に、全てを大いなる生命の観点から見つめるようになって、己の小ささに気づきます。全体の中のささやかな存在にすぎないという認識によって自尊心が消え、必然的に利己心も消えてしまいます」

(署名)フェヌロン


訳注――フランソワ・フェヌロン(一六五一~一七一五)はフランスの聖職者・教育論者・著述家。ルイ十四世から孫(王子)の教育を託され、その功によって大主教に任ぜられるが、前任の教育係との間の神学論争に敗れて主教に降格される。その後王子の教育論を述べた大著を発表するが、ルイ王はそれを自分への風刺と受け取って発禁処分にし、対立する教育論者たちからも非難を浴びる。が、「王は臣民のためにあるのであり臣民が王のためにあるのではない」との説は最後まで歪げなかったという。
〈人格者〉


――高等な霊性をそなえていると判断できる人はどういう人格をしているでしょうか。


「肉体に宿っている霊の霊格の判断は、その人の日常生活での言動が神の摂理に適っているかどうか、そして霊的生命についてどの程度まで理解しているかによって決まります」


――地上生活によって徳性を高め、悪の誘いに抵抗していくには、どのような生き方が最も有効でしょうか。


「古賢の言葉に“汝自らを知れ”とあります」


訳注――ギリシャのデルファイの神殿に刻まれている言葉で、誰の言葉であるかは不明。


――その言葉の意味はよく分かるのですが、自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。


「私(聖アウグスティヌス)が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。

霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことのできない場にさらされたとしても、青天白日の気持ちで誰にでも顔向けができるか、と。まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。

人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つの秤(はか)り、二種類のモノサシを用いるはずはありません。

さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。

我々への質問は明確に、そして有りのままを述べ、幾つでもなさるがよろしい。そこに遠慮は無用です。人間は老後に備えてあくせくと働きます。老後の安楽が人生最大の目的――現在の疲労と窮乏生活をも厭わないほどの目的になっているではありませんか。疲労こんぱいの身体で人生最後の、ホンのわずかな時を経済的に安楽に過ごすことと、徳積みの生活に勤しんで死後の永遠の安らぎを得るのと、どちらが崇高でしょうか。

そう言うと人間は言うでしょう――現世のことは明確に分かるが死後のことは当てにならない、と。実はその考えこそ、我々霊団が人間の思念の中から取り除いて死後の実在に疑念を持たせないようにせよと命じられている、大きな課題なのです。だからこそ我々は心霊現象を発生させてあなた方の注意を喚起し、そして今こうして霊的思想を説いているのです。

本書を編纂するよう働きかけたのもその目的のためです。今度はあなた方がそれを広める番です」

(署名)アウグスティヌス


訳注――聖アウグスティヌス(三五四~四三〇・聖オーガスチンとも)は言わずと知れた初期キリスト教時代の最大の指導者・神学者・哲学者で、遺産を全て売り払って貧者に恵み、自らは清貧に甘んじ、とくに後半生は病弱と貧困に苦しめられたが、その中にあっても強靭な精神力、底知れぬ知性、深遠な霊性、崇高な高潔さは、キリスト教最高・最大の聖人と呼ばれるに相応しいものだったと言われる。

なお、これまでの通信でも“私”という言い方をしながら、それが誰であるかが記されていないものがある。それにも署名はあったであろうから、それを敢えて記さなかったのは、まったく無名の人物か、カルデックが本人であることに疑念を抱いたかの、どちらかであろう。フェヌロンとオーガスチンに関してはよほど確信を持ったということになる。

霊の書 アラン・カルデック(編)第3部 摂理と法則 1章−5章

  The Spirits' Book

スピリチュアリズムの真髄「思想編」
近藤千雄(訳)






1章 自然法則


このページの目次

〈自然法則の特性〉 〈自然法則の理解〉
〈自然法則の特性〉


――自然法則とは何でしょうか。


「神の摂理です。人間の幸せを保証する絶対的な摂理です。それが人間の為すべき事と為すべきでない事を示しており、それに逆らう者は苦しむのみです」


――神の摂理は永遠ですか。


「神ご自身と同じく永遠にして不変です」


――神の摂理は人間の倫理・道徳面だけに係わるものでしょうか。


「自然界の法則も全て神の摂理です。神が全存在の創造主だからです。科学の探求者は自然界の理法を研究し、善性の探求者はそれを魂の中に求め、そして実践します」


――人間はその全摂理に通暁できるのでしょうか。


「できます。ただし、たった一度や二度の地上生活では無理です」


――摂理は宇宙の全天体にわたって同一なのでしょうか。


「理性的に考えれば、当然、各天体の特殊性とそこに住む存在の発達程度に応じたものであるに決まっています」
〈自然法則の理解〉


――物的身体に宿る前の霊は、宿った後よりも神の摂理を明確に理解しているのでしょうか。


「到達した霊性の発達レベルに応じた理解をしており、身体に宿った後も直覚的な回想力を保持していますが、低劣な人間的本能がそれを忘れさせます」


――その摂理の理解は霊のどこに刻み込まれているのでしょうか。


「良心(善悪の分別力)です」


――良心に刻み込まれたものを、なぜ改めて啓発する必要があるのでしょうか。


「低劣な本能のせいで忘却したり誤解したりしているからです。人間がそれを思い出してくれるようにというのが神の御意志です」


――神はそうした摂理を外部から啓示する使者を派遣しておられるのでしょうか。


「もちろんです。あらゆる時代にその使命を授かった者がいます。霊性の高い霊で、人類の発達を促進する目的で地上へ降誕しています」


――そうした使者の中で模範とすべき最も完全に近い人物は誰でしょうか。


「ナザレのイエス」


訳注――カルデックの背後霊団がスピリチュアリズム、すなわち地球浄化の大事業の一翼を担っていたことは改めて指摘するまでもないであろう。巻頭の《カルデックへの霊団からのメッセージ》に「イエスの偉大なる愛の原理のもとに集える我々は」云々……とあるのを見ても明らかである。スピリチュアリズム運動の最高責任者がほかならぬあのナザレのイエスであることはシルバーバーチもインペレーターも明言している。

そのイエスは一体どういう風貌をしていたのだろうか。数多いインディアンの指導霊の一人であるホワイト・ホークが叙述しているところを紹介しておくと「体格はすらりとして品があり、髪はコーン色(浅黄)、顔は色白で卵形、わずかに頬が張り、髪よりも黒みがかったクリ色のアゴひげをたくわえていた。腕はほっそりとしていたが強靭で、容貌は優しさの中に憂いをたたえ、いつも紫色のマントをまとっていた。」
〈善と悪〉


――道徳的摂理とはどう定義づけたらよいでしょうか。


「道徳的摂理とは正しい行為を判断するための規準です。言い変えれば、実践において善と悪とを分別するための規準です。神の摂理の遵守が基本です。行為の動機と規準が善を志向するものであれば、その行為は正しいと言えます。神の摂理を遵守したことになるからです」


――善と悪との分別は何を規準にしたらよいのでしょうか。


「善とは神の摂理に適ったものであり、悪とは神の摂理から逸脱したものです。正しい行為とは神の摂理に適ったことをすることであり、過った行為とは神の摂理を侵害することです」


――人間には自ら善悪を弁(わきま)える能力がそなわっているのでしょうか。


「その両者を弁別するための直観的判断力(良心)が授けられています」


――自分では正しいと思っても間違っていることがあります。


「イエスが言っております――“自分がしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい”と。道徳的摂理の要諦はこの言葉に尽くされております。これを行動の規準にすることです。決して間違えることはありません」


――それは言わば相互依存の関係であり、自分自身に対する個人的な行為には当てはまらないと思うのです。自分自身への行為の善悪にも判断の規準があるのでしょうか。


「食べ過ぎると胃腸の調子がおかしくなります。神はその不快感をもって各自の限度の規準としています。その限界を超えると神が罰するということです。同じことが他の全てのことについて言えます。何事にも摂理によって必要限度というものが設定されており、それを超えると自動的に苦しみが生じて罰せられます。“それで十分”という神の声に人間が耳を傾けるようになれば、天災と思い込んでいる地上の災害の大半が未然に防げるはずです」


――善と悪は全ての人間にとって絶対的なものでしょうか。


「神の摂理は全ての人間に分け隔てなく働きます。が、罪悪はその実行に当たっての魂の欲望の中に潜んでいます。善はあくまでも善であり、悪はあくまでも悪であり、地位や職権には関係ありません。異なるのは責任の度合いです」


訳注――シルバーバーチは「罪は動機によって決まる」と一貫して述べている。ここでは「その実行に当たっての欲望」という難しい表現をしているが、煎じつめれば“動機”という用語に含まれているのではなかろうか。誉れ高き地位や名声を手にすると、善悪の判断に際してそれを失うまいとする欲望が先走り、良心との葛藤が渦巻く。しかし、シルバーバーチ曰く――「良心が命じることは、たとえその方向へ進むと物的には不遇になることが分かっていても、迷わず従いなさい。最後はきっと良いようになります。難しく考えることはないのです。これほど簡単な話はありません。」

とは言え、肉体をまとって地上の人間になってしまうと、それがそう簡単に行かない。“低劣な人間的本能”が邪魔をするのであるが、逆に考えると、だからこそ地上の物的生活の意義もあるのではなかろうか。


――すでに罪悪のタネが蒔かれていて、たまたま置かれた地位や立場上その責任を負わざるを得ないことがあります。この場合、最大の咎めを受けるのは誰でしょうか。


「最初にタネを蒔いた者です。罪悪そのものに対して責任を取らされるだけでなく、図らずもそのトラブルに巻き込まれた者がこうむった苦しみに対しても責任を問われます」


――反対に、自分は直接手を染めなかったけれどもその罪悪によって利益を得た者は、直接参加した場合と同じ罪に問われるのでしょうか。


「その通りです。罪による利益を手にした者は、罪を犯したのと同じです。仮に気が咎めて直接犯罪行為に加わらなかったとしても、実際に犯罪が実行され、その結果として得られた分け前を懐にすれば、直接参加したのと同じです」


――心に罪悪の思念を宿すということは、それを実行した場合と同じ罪に値するのでしょうか。


「それはそのケースによりけりです。犯意を抱きながらも、やはりいけないと必死に抑制した場合、これは立派です。しかし、同じく実行しなかった場合でも、実行するチャンスが無かったというのでは、これは罪を犯したのと同じです」


――置かれた立場上、善行のチャンスがないという人はいないでしょうか。


「善行のチャンスがない人間は一人もいません。もしいるとすれば、それは利己主義者のみです。人間関係が全く無いというのならともかく、毎日のように他人と接するチャンスがある生活環境においては、よほどの利己主義者を除いて、何らかの善行のチャンスはあります。善行というのは人に物を上げることを言っているのではありません。どんな形でもよろしい、他人の役に立つことをすることです」


――試練として悪徳の巷に生をうけた場合、悪への誘惑が抗し切れないものとはならないでしょうか。


「強烈ではあっても抗し切れないことはありません。悪徳の環境の中で徳性の高い行いを実践してみせる人はいます。そういう人は霊格の高い霊の生まれ変わりで、その程度の誘惑に負けないだけの霊力を身につけていますから、試練に打ち克つと同時に、周囲の人々に気高い影響力を行使する使命も果たします」


――徳行の価値の高さは、それを実行する環境の厳しさによって計られるものなのでしょうか。


「有徳の行為の価値は、実行の困難さによって決まります。克己も奮闘努力もなしに簡単に成就できるものは何の価値もありません。神は金持ちによる山ほどの供物よりも貧者による一切れのパンの方を嘉納されます。それをイエスは“寡婦の賽銭”の寓話で語っております」(新約聖書マルコ伝12)



2章 祈りの法則

このページの目次
〈讃仰(さんごう)の祈り〉


――讃仰の祈りとはどのような祈りでしょうか。


「思念の波動を神に近づけるための祈りです。その祈りを通して神に近づくのです」


――それは内部の感性の発露でしょうか、それとも祈りの言葉による産物でしょうか。


「宇宙の大霊の存在への信仰と同じく、内部の感性の発露です」


――やはり自然法則の範疇に入るのでしょうか。


「自然法則の一つです。なぜなら、人間の内部の感性の発露だからです。だからこそ、形式は異なっても、世界中の民族に見られるのです」


――表現形式は不可欠のものでしょうか。


「真実の祈りは心の中での働きです。いかなる形式を用いるにせよ、神の目が常に注がれていることを忘れないことです」


――と言うことは形式も無用ではないということでしょうか。


「見せかけのものでなければ無用ではありません。わざとらしい仰々しい態度や見せかけだけの敬虔な振る舞いを伴った祈りでは、人々を欺くと同時に、想像以上の弊害をもたらします」


――祈りは一人よりも集団で行う方が好ましいのでしょうか。


「思念と感情において親和性のある人々が集まれば善霊を呼び寄せる強力な波動が出せることはご存じと思いますが、それと同じで、祈りの波動も強力となります。だからといって一人での祈りは感心しないという意味に受け取ってはいけません。各自の思念の中において神を崇めることができるのですから」


――生涯を俗世から離れ、悪とも無縁で、ひたすら神を求めて瞑想三昧で過ごす生き方は、神の目から見て賞讃に値するものがあるのでしょうか。


「ありません。そういう人生では他人へ悪事を働くこともないでしょうが、善行もしません。しかも他人への善行がないということそれ自体が悪です。神は子等が神の存在を忘れないように配剤しておられますが(良心の声など)、同時に同胞に対しても果たすべき義務も与えておられます。精神統一と瞑想の行に費やす人生は、神の目から見て賞讃には値しません。そういう人生はその人だけのものであり、人類にとって何の益にもならないからです。いずれ神から、無為に終わらせた人生の穴埋めをするようにとのお達しがあるでしょう」
〈祈願〉


――一般的な意味での祈願とは何でしょうか。


「祈願も讃仰の祈りの一つです。神に祈るということは神の存在を意識することであり、神に近づくことであり、内的自我が神とコミュニケーションを持つことです。祈るということには三つの要素があることを認識してください。すなわち神を讃(たた)えること、神に何かを求めること、そして神に感謝すること、この三つです」


――よくお祈りをする人の中に、時として無愛想だったり、嫉妬深かったり、慈しみや忍耐心に欠ける人、極端な場合は悪徳の固まりのような人すら見かけますが、どう理解したらよろしいでしょうか。


「大切なのはたくさん祈るのではなく正しく祈ることです。今おっしゃったような人は祈りとは長々と言葉を述べることと思い込み、それを自分の欠点とは無関係と思っているのでしょう。彼にとっては言わば日課にすぎず、自己反省の要素は皆無です。効き目がないのは薬ではなく、その使い方を間違っているからです」


――自分の過ちを許してくださいと祈ることには何か意義があるのでしょうか。


「神の目には善か悪かは一目瞭然です。祈ったからといって神の目をごまかせるものではありません。過ちの許しを求める方法は、行いを改めるしかありません。善行が最高の祈りです。行為は言葉に優ります」


――他人のために祈ることに効用があるでしょうか。


「他人のためを思って祈る人の霊力が、力になってあげたいという欲求を通して影響を及ぼします。祈る人の波動によって善霊が引き寄せられ、その善行に加勢します」


――死者の霊および霊界で苦しんでいる霊のために祈ることは意義があるでしょうか。もしあるとすれば、その祈りがどういう形で苦痛を和らげ、あるいは苦しむ期間を短くしてあげることになるのでしょうか。祈りには摂理さえ変える力があるのでしょうか。


「神の摂理そのものは祈りによって何の影響も受けません。しかし、人間から送られてくる祈りの念によって霊の心が慰められます。孤独な霊にとっては自分に関心を向けてくれる人がいることの証であり、その思いが何よりの慰めとなるのです。が、それだけで終わっては何にもなりません。そこから高級霊の出番となります。慰めを得た霊に罪を悔い改め善性を志向する心が芽生えます。その一瞬を狙って高級霊が善性志向を増幅させ、結果的には苦悶の期間を短縮することになります」
〈生(い)け贄(にえ)〉


――祈りにつきものとして太古から生け贄を捧げる儀式がありますが、人類はなぜこんな残酷なことで神を喜ばせようとしたのでしょうか。


「まず第一は、神の概念が幼稚だったこと。第二に、ただの品物よりも生きたものの方が価値があると考え、始めのうちは動物を、やがて人間を捧げるようになりました。あなた方が贈り物をする時、高価なものほど受け取る人は喜ぶと考えるのと基本的にはいっしょです」


――すると、“人身御供(ひとみごくう)”というのは必ずしも残酷なこととは思われていなかったのでしょうか。


「その通りです。その方が神の怒りを鎮める効果が大きいと考えたのです。もちろん誤った神の概念から生まれたことですが……」


――動物の生け贄よりも果物のお供えの方が本当は神の目から見て喜ばしいわけですね?


「血なまぐさい生け贄よりも大地が生み出した果実の方がいいに決まっています。何度も言うように神が嘉納されるのは心です。形ある供物はどうでもよろしい。心の底から発せられた祈りの方が、山と積まれた供物よりも、遥かに神に通じます。くり返します――何事も心が大切です。形式はどうでもよろしい」



3章 仕事の法則

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〈仕事の必要性〉


――仕事の必要性も自然法則でしょうか。


「自然法則の一つです。そのことは、仕事は自然の成り行きでどうしてもせざるを得ないこと、そして文明が進むほど必需品と娯楽が増え、それだけ仕事の量も増えるという事実からも立証されます」


――“仕事”という用語は物的性格の労働と理解してよろしいでしょうか。


「それは違います。霊も仕事をしています。役に立つことは、いかなる性格のものでも仕事と言えます」


――なぜ人類に仕事が課せられているのでしょうか。


「物的生活の必然の結果です。罪滅ぼしの要素もありますが、同時に知性を発達させるための手段でもあります。もしも働くということが無かったら、人類は幼稚な知性のままでしょう。そこで食べるものを獲得し、安全を保ち、健康を維持するために働き活動をするようになっているのです。力の要る労働のできない虚弱な人には、それを補うだけの知性が授けられています。知性の活動も仕事です」


――地球よりも高度に発達した天体でも同様の仕事の必要性があるのでしょうか。


「仕事がどういう性格のものであるかは、その天体の必要性と関連してきます。物質性が少なければ仕事も物質性が少なくなります。だからといって活動がなくなり、何もしなくなるわけではありません。することが無いということは有り難いどころか、苦痛です」


――働こうにも働けない人がいるのではないでしょうか。そういう人の人生はまったく無駄なのでしょうか。


「神は常に公正です。神が罰するのは意図的に無為の人生を送る者だけです。それは他人の世話になるだけの一生に終わるからです。各自がその才能に応じて意義ある存在となるように神は配剤しておられます」
〈仕事の限度と休息〉


――仕事の後には休息が必要であるからには休息も自然の法則の一つではないでしょうか。


「もちろんそうです。休息によって体力が回復し、同時に身体が休むということは精神が自由になることであり、物的束縛から一時的に解放されます」


――仕事の限度は何が目安でしょうか。


「体力の限界です。ですが、神はその点については人間に自由を与えています」


――雇い人のような弱者に権力者が過激な労働を科するのは罪でしょうか。


「重大な罪の一つです。権力を振り回す者は、理不尽な程度に及ぶ時は、それに対する責任を取らされます。神の摂理を侵犯しているからです」


――仕事をしなければ生きて行けないのに、老齢で働けない場合はどうすればよいのでしょうか。


「元気な者が弱った人のために働くべきです。家族の援助が得られない場合は社会が面倒を見るべきです。それが慈悲の法則です」



4章 生殖の法則

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〈地球の人口問題〉


――生きものの生殖作用は自然の法則でしょうか。


「まさしく自然法則です。生殖作用が途絶えれば物質界の生物は絶滅します」


――これまでのような割合で地球の人口が増え続ければ多くなり過ぎるのではないでしょうか。


「そういう心配はいりません。神の配剤によって常に均衡が保たれるようになっています。神は何事につけても無駄は許しません。人間の視野には宇宙の全パノラマのほんの一部しか入りません。それゆえ全体にハーモニーが行き届いていることは知覚できません」


――現時点でも地上の幾つかの民族が明らかに減少しつつあります。それは最終的には地上から消滅してしまうのでしょうか。


「その通りです。ですが、代わって別の民族が生まれます。あなた方の民族もいずれは新しい民族と入れ替わるのです」


――現在の地上人類はまったく新しく創造されたものでしょうか、それとも原始的人類の進化した子孫でしょうか。


「霊系は同じです。それが新しい身体に宿り何度も再生し進化して行きつつあるところです。ですが、まだまだ完成からは程遠い段階にあります。いずれにしても現在の人類は人口の増加によって地球全土に広がり、消滅しかかっている民族と取って代わって行きますが、やがてそれも減少傾向に入り、消滅してしまいます。そして別の、もっと完成度の高い民族によって取って代わられますが、それも現人類の子孫です。ちょうど現在の文明人も粗野な原始人の子孫であるのと同じです」
〈繁殖の人工的抑制の是非〉


――人間は法律や慣習によって繁殖を防ぐ方法を講じていますが、これは自然法則に反することでしょうか。


「自然界の営みを妨げることは全て摂理に違反します」


――しかし動物や植物には繁殖しすぎると他の種属に害を及ぼし、巡りめぐって人類の破滅にもなりかねないものがあります。それを人間が抑制するのは間違いでしょうか。


「神は、地球上の生物全体の管理人的立場にある人間に、良きに計らうべき力を与えています。が、乱用は許されません。繁殖作用を必要性に応じて抑制するのは結構ですが、必要以上に阻止すべきではありません。人間の知的活動は大自然のエネルギーの均衡を保持するために神が用意した錘(おもり)のようなものです。そこにも人間が動物と大きく異なる点があります。つまり大自然全体の均衡のために人間は、自らを行使して、洞察力を働かせて協力しますが、動物は本性的に与えられている破壊の本能によって無意識のうちに協力しているのです。動物は自己の種の保存のためにのみ生きていながら、あまり繁殖しすぎると危険でさえある動物や植物を餌として食し、結果的に調和の維持に貢献しています」
〈結婚と禁欲〉


――結婚、つまり一対の男女が一個の単位となって生涯を送ることは自然法則に反したことでしょうか。


「人類が成就した進歩の一つです」


――もし一夫一婦制の結婚形態が廃止されたら人間社会はどうなるでしょうか。


「野獣の生活に戻ります」


――離婚の絶対禁止は自然法則に適っているでしょうか、それとも人間のこしらえた法律にすぎないのでしょうか。


「人間がこしらえた法律であり、自然法則に完全に違反します。しかし、人間は法律を少しずつ書き変えています。神の摂理のみが不変絶対です」


――禁欲生活は神の目から見て立派なことでしょうか。


「立派なこととは言えません。利己的な動機から独身生活を送ることは、神はお喜びになりません。社会の一員としての義務を果たしていないからです」


――同じく禁欲生活でも人類の福祉のために一切をなげうつという犠牲的精神から発している場合はいかがでしょうか。


「それはまったく話が別です。私がいけないと言っているのは“利己的な動機”に発している場合です。犠牲的精神から発しているものは、その目的が人のために役立つものであれば称讃に値します。犠牲が大きいほど功績も大きくなります」


訳注――ここでいう“利己的な動機”というのは性欲を諸悪の根源とするキリスト教の教えにこだわって、己の潔癖のみを守る生き方を言っているものと察せられる。

これは真理探究者がうっかりはまる落とし穴で、表面上の意識、つまり頭の中で考えていることの奥に、自分にも気がつかない、自己中心的な思惑が潜んでいることがある。“汝自らを知る”ということは実に難しいことである。



5章 自己保存の法則

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〈自己保存の本能〉


――自己保存の本能も自然法則の一つでしょうか。


「もちろんそうです。知的発達の水準に関係なく、全ての生き物に賦与されています。ある生物では純粋に機械的にすぎないものもありますが、理性と直結したものもあります」


――神が全ての生き物に自己保存の本能を授けた目的は何でしょうか。


「神の計画の成就にとって不可欠だからです。生きる意欲を与えているのもそのためです。その上、生きているということが進化にとっての不可欠の条件です。そのことを理解はしていなくても本能的に知っているということです」


――人間にも生きる意欲を授けている以上、神は生きるための手段も授けてくださっているのでしょうか。


「その通りです。その手段を人間が見出せないとすれば、それは周りに存在する始源の利用法を知らないからにすぎません。神が、生命への愛を植えつけておいて、その生命を維持する手段は与えないということは有り得ません。だからこそ生物の全てに生殖本能を授けて生命維持のための必要物が十分に得られるようにしてあるのです。ただし必要分だけです。有り余りすぎるものは益になりません」


――しかし、必ずしも人類の全てが必要物を十分に得ているとは言えません。なぜでしょうか。


「それは素晴らしい母なる大地を粗末にして感謝の念を忘れているからです。さらに、人間は自分の技術の未熟さや先見の明の無さを棚に上げて自然界の不毛のせいにしています。人間が“足れるを知る”生き方に徹すれば、生きるために必要なものは大地が必ず与えてくれます。必要なものが十分に手に入らないのは、必要の限度を超えたものを要求しているからです。

砂漠のアラブ人をご覧なさい。あの不毛の土地においてさえ生きるに必要なものはちゃんと手に入っています。余計な人工的文化生活を取り入れないからです。文明国の人間は他愛もない欲望を満たすために地球の産物の半分を無駄にしながら、少しの天候不順で欲しいものが手に入らなくなると困った困ったと不満をかこちます。なぜそういう時のために、節約して備えないのでしょうか。くり返します――自然が供給しないのではありません。人間がその恵みの使用を賢明に規制しないからです」


訳注――本書の原典の出版が一九世紀末であるという事実を思い合わせると、現代はこの通信霊が警告する人工的文化はとっくに限度を超えていると言えるであろう。


――この豊かな物質文明の中にありながら、生計を立てる手段が得られない人がいますが、どこに間違いがあるのでしょうか。


「利己主義がそういう結果を生んでいることがあります。が、最も多いのは、本人の意欲が不足している場合です。イエスは“求めよ、さらば見出さん”と言いましたが、これは地面に目を注いで欲しいものを探し歩きなさいと言っているのではありません。必要なものを真剣に、そして忍耐強く求め、障害に遭遇しても落胆しないことです。そうした障害は往々にして志操の堅固さ、忍耐力、そして決意のほどを試す手段として霊団側が用意することがあります」


――しかし、意志は強固でも、置かれた環境の中ではどうしても生計手段が得られない人もいるのではないでしょうか。


「そういうケースはあります。しかしそうした環境は再生に先立ってあらかじめ自分で選んで覚悟を決めていた試練です。いくら知恵をしぼっても苦境から脱し切れない時は、神の意思に全てをゆだねる覚悟にこそ、その人間の究極の偉さが生きてきます。このまま進むと死に至ると覚悟した時は、慌てず騒がず、いよいよ肉体の束縛から解放される時が来たことを喜び、自暴自棄に陥ることは折角の悟りを台なしにしてしまうことになることを知るべきです」


――極端な飢えの状態で生き残った者たちが仲間を食い合う話があります。これは罪でしょうか。仮に罪だとしても、自己保存の法則の極端な例として罪の重さが割り引かれるのではないでしょうか。


「人生の全ての試練に対しては勇気と克己心で対処すべきであると述べましたが、ご質問に対する答えもその中に含まれていると思います。今おっしゃった例には殺人の罪と自然に対する罪が含まれています。二重の罪には二重の罰が適用されます」


――人間の肉体よりも純度の高い身体で生活している天体上でも食糧は必要なのでしょうか。


「必要です。ですが、その身体の性質に応じたものです。その天体上の食物ではあなた方の身体は養えません。また、あなた方の食物は彼らの身体では消化できません」
〈大地の恵みの享受〉


――人間には大地の恵みを楽しむ権利があるのでしょうか。


「それは権利というよりも、生きる上での必要性が生み出す結果です。神は、義務を与えておいてその義務を果たす上で必要な手段は与えないというような理不尽なことはなさいません」


――その物的な恵みになぜ神は“魅力”を添えたのでしょうか。


「一つには、その義務の遂行に拍車がかかるように、もう一つは、その魅惑によって試すためです」


――何の目的で試すのでしょうか。


「度を超さないように自制する理性的判断力を発達させるためです」


――物的満足にも適度の限界というものが自然にそなわっているのでしょうか。


「必要性と幸せとが一致する限界が設けられています。その限界を超えると飽き飽きしてきます。その限界を超えた分だけ罰をこうむることになります」


――その限界はどのようにして知るのでしょうか。


「賢者は直観で知ります。体験で知る人もいます。つまり痛い目に遭って」
〈修行としての窮乏生活〉


――物的生活をエンジョイすることはいけないことでしょうか。


「物的な幸せを求めるのは人間として極めて自然なことです。神が禁じているのは過度の享楽です。自己保存の目的にとって有害だからです。楽しさを求めるのは、それが他人の犠牲を強いるものでなく、かつ又、当人の精神的ならびに身体的エネルギーを衰えさせるものでないかぎり、罪ではありません」


――自発的な罪障消滅を目的とした窮乏生活は神の目から見ていかがでしょうか。


「人のために役立つことをする――この心掛けでの平凡な日常生活の方が、自ら求めて窮乏生活をするよりも立派です」


――清貧の生活に甘んじること自体は良いことではないでしょうか。


「無用の贅を無くすることは良いことです。それだけ物質への執着を少なくし、魂の意識を高めます。節度を超えた贅への誘惑と無益な道楽を慎むということは立派なことです。自分の必要分を削って足らない人に分けてあげるということが基本的理念です。しかし、そうした修行の裏側に見栄が潜んでいたら、それは単なる心のオシャレであり偽善です」


――古来どの民族にも禁欲的修行者がいますが、どう見るべきでしょうか。


「そういう生活が誰にとって有益なのかを問うてみれば、自ずと答えが出るはずです。もしも自分にとっての修行であり人のために役立つ要素が無いとすれば、いかに弁明しようとそれは一種の利己主義です。本当の苦行とは人のために役立つことをするために自ら節約し克苦することです」


――動物性食品を摂取するのは自然法則に反しますか。


「地上の人間の体質からすれば、体力を維持するためには動物性食品は摂取する必要があります。それを欠くと体力が衰えます。自己保存の法則は健康と体力を維持する義務を要求します。そうしないと仕事の法則が成就できないからです。身体器官の必要性に応じた食品を摂取すべきです」


――人間は地上生活での苦難を通じて向上しているのであれば、自らに苦行を課することによって向上することも有り得るのではないでしょうか。


「人間の霊性を高める苦難は自然の成り行きで遭遇するものに限られます。神が用意したものだからです。人間が自らの考えで自らに課したものは、結果的に人のために役立つことに寄与しないかぎり無意味です。

考えてもご覧なさい。超人的な苦行をするヨガの行者やイスラム教の托鉢僧、ヒンズー教の苦行者、さらにはどこかの宗教の狂信者たちは、それによって一体どれだけ霊性が向上したというのでしょう? そんなことをしている暇があったら、なぜ地上の貧しい同胞のために慈悲を施さないのでしょうか。着るものにも事欠く人に衣類を与え、喪の悲しみの中にある人に慰めの言葉を与え、食べるものにも事欠く人のために自分のものを分けてあげ、そのために自分は断食もあえてする――そういう生活こそ有意義であり、神の意思に適っております。自分のためだけに修行をする者は一種の利己主義者です。他人のために自分が苦しんでこそ慈悲の法則を実践したことになります。それがイエスの教えです」



Sunday, November 1, 2026

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch

by Stella Storm
近藤千雄訳




十三章 おしまいに


 「私は、こうした形で私にできる仕事の限界をもとより承知しておりますが、同時に自分の力強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません。私自身はいつも謙虚な気持ちです。

本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない───私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。が、私はその援助のすべてを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちているのと言っているのです。

 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると自信をもって語ることができます。霊団が指図することを安心して語っていればよいのです。

威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人間全体の進化の指導に当たっている、真の意味での霊格の高いスピリットなのです。

 私自身はまだまだ未熟で、けっして地上の平凡人からも遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなた方の悩みがよく分ります。私はこの仕事を通じて地上生活を永いあいだ味わってまいりました。

あなた方 (レギラーメンバー)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く関わってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないことも分かります。

 霊力というのは必要な条件さえ整えば地上に奇跡と思えるようなことを起こしてみせるものです。私たちは地上の存在ではありません。霊の世界の住民です。地上の仕事をするにはあなた方にその手段を提供していただかねばなりません。

あなた方は私たちの手であり、私たちのからだです。あなた方が道具を提供する───そして私たちが仕事をする、ということです。

 私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけないといったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れといった指示を受けます。私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。

いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束ができているということです。私より勝れた叡智を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。

 そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているのです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在です。私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会いできることを無上の光栄に思っております。

その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。

 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。神界というのはあなた方人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が、地上の仕事を実行するとなると、われわれのようなこうした小さな組織が必要となるのです。

 私たちはひたすら人類の向上の手助けをしてあげたいと願っております。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えする目的でやってまいりました。

そこから正しい叡智を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も地上から送られてくる無知で何の備えもできていない、厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる───そう思って努力してまいりました。

 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度は取りたくありません。人間をロボットのようには扱いたくないのです。

死の淵を隔てていても友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の心とからだと魂に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。

 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶なさるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。

私たちがあなた方に代わって生きてあげるわけにはまいりません。援助はいたしましょう。指導もいたしましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけには行かないのです。

 スピリットの中にはみずからの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私はみずから買って出た口ではないのです。しかし、依頼された時は快く引き受けました。

 引き受けた当初、地上の状態はまさにお先真っ暗という感じでした。困難が山積しておりました。が、それも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに較べれば物の数ではありません。

 私たちの願いは、あなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい。持てる知能と技能と才能とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生をうけた真の目的を成就することにつながり、死とともに始まる次の段階の生活に備えることにもなる───そう願っているのです。

 私は理性を物事の判断基準として最優先させています。私を永いあいだご存知の方なら、私が常に理性を最高の権威ある裁定者としてきていると申し上げても、これまでの私の言説と少しも矛盾しないことを認めてくださると信じます。

 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそすべてを律する実在なのです。そこでは仮面(マスク)も見せかけも逃げ口上もごまかしも利きません。すべてが知れてしまうのです。

  私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕(しもべ)にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。喜びと楽しみをもってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなた方の何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。

 あなた方は、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が、信じてください。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる能力を具えた、実在の人間です。

こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。

 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が幾多の障害を乗り越えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。


 神よ、かたじけなくもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私どもは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を良しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場なることを知らしめ給わんことを。

 では、神の御恵みの多からんことを」

               
   
 解説〝霊がすぐ側にいる〟と言うことの意味
      
 本書は Philosophy of Silver Birch by Stella Storm の全訳である。全訳といっても、動物愛護運動家のデニス夫妻を招待した時の交霊の様子は全巻の(八)に引用したし、宗教教育に関する章は(四)の九章に出ているので当然カットした。その替わりとしてシルビア・バーバネルの More Wisdom of Silver Birch (七)からカットしておいた 「イエス・キリストについての質問に答える」 と 「自殺に関する二つの投書」 を引用した。

  なお巻末にシルバーバーチの名言が断片的に集めてあるが、これは最終巻の総集編に入れたいと考えている。

 編者のステラ・ストーム女史については 「まえがき」 の中で自己紹介してくれていること以外のことは分からない。

 さて、本書を訳していて目についたことは,シルバーバーチの文句に〝すぐ側にいます〟とか 〝いつもいっしょです〟といった表現が多いことである。シルバーバーチ自身のことを言っている場合もあるし、他界した肉親・知人のことを言っている場合もある。

 これを文字どおりに受け取って距離的にすぐ側にいると解釈してよい場合もあろうが、霊的に言えば、たとえ霊的身体はその場に存在しなくても、時間・空間の法則が地上の物理法則と異なる次元においては、いっしょにいるのと同じ関係を維持することができる。

 が、よく考えてみると、物理法則の支配を受ける肉体に霊が宿っているのが地上の人間であるから、その肉体を超越さえすれば、この地上における人間どうしの関係においても同じことがいえることになる。

 ただ、現段階の人類は霊性の発達が十分でなく五感でしか存在感が得られないために、目に見え肌で触れないことには実在している気がしないというにすぎない。たとえば学校へ行っている子供と家庭にいる母親とは霊的には〝いっしょにいる〟のであり、〝すぐ側にいる〟と言ってもよいのである。

 そのことは心霊現象を見ればよく分かる。いちばん良い例がリモートコントロール式の霊言および自動書記現象である。最近出たばかりの 『インペレーターの霊訓』 (モーゼスの 『霊訓』 の続編)の〝まえがき〟の中で私は霊界と地上との交信の原理の概略を解説しておいたが、その中に直接書記というのがある。

 これは霊媒は手に何も筆記用具を持たずにただ入神しているだけで、その筆記用具がひとりでに動いてメッセージを綴るという現象である。その原理を背後霊団がモーゼスに見せるために幽体離脱(体外遊離)の状態にさせて実際に霊が筆記を行っている場面を披露するところがある。その場面を抜粋すると───

 《気がつくと自分の身体のそばに立っていた。例のノートを前にしてペンを右手に持って座っている。私はその様子とあたりの様子とを興味ぶかく観察した。自分自身のからだが目の前にあり、そのからだと自分とが細い光の紐によってつながっている。部屋中の物的なものがことごとく実体のない影のように見え、霊的なものが固くて実体があるように見えた。

 その私の身体のすぐうしろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方をペンを握っている右手にかざしている。さらにインペレーターと、これまで永いあいだ私に影響を及ぼしてきた霊が数人いた。そのほかに私に見覚えのない霊が出入りして、その現象を興味ぶかそうに見守っていた。

 天井を突き抜けて柔らかい心地よい光が注がれており、時おり青味を帯びた光線が幾本か私の身体に向けて照射されていた。そのたびに私の身体はぎくりとし、震えを見せた。生命力が補給されていたのであろう。

 さらに気がつくと戸外の光も薄れて窓が暗く感じられた。したがって部屋の中が明るく見えるのは霊的な光線のせいだった。私に語りかける霊の声が鮮明に聞こえる。人間の声を聞くのと非常によく似ているが、そのひびきは人間の声より優美で、遠くから聞こえてくるような感じがした。

 インペレーターによると、これは実際のシーンで、私に霊の働きを見せるために用意したとのことだった。レクターが書いているのだが、私の想像とは違って、私の手を操っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンに当てているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意志が伝わり、それがペンに綴らせているのだった。

 私の手が道具にすぎず、それも必ずしも無くてはならぬものでもないことを示すために、光線がそのペンを私の手から離し、用紙の上に立たせ、さらに驚いたことに、それが用紙の上を動きはじめ、最初に掲げた文章(省略)を綴ったのである》

 右の場合は距離的にはすぐ近くであるが、〝青い光線のようなもの〟はいくらでも延ばすことができる。それなりに余分のエネルギーが要るのであるが、同じ方法が霊言現象にも応用することができる。同じ『インペレーターの霊訓』の第一部〝霊言による霊訓〟の中に次のような箇所がある。

《地上へ降りてくる高級霊は一種の影響力のようなものであり、言わば放射性エネルギーです。あなた方が人間的存在として想像するものとは異なり、高級界からの放射物のようなものです。高等な霊信の内容の非個人性に注目していただきたい。

 この霊媒(モーゼス)との関わりをもった当初、彼はしつこく我々の身元の証明を求めました。が、実は我々を通してさまざまな影響力が届けられております。

 死後、首尾よく二段階三段階と昇った霊はあなた方のいう個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私は地上界へ戻れるぎりぎりの境涯までたどり着いています。が、距離には関係なく影響力を行使することができます。私は今、あなた方からはるか彼方にいます》


 霊的なことはすべてバイブレーションの原理によるのであるから、波長さえ合えば、ちょうど国際電話でもすぐお隣りと話をしているみたいに聞こえるように、すぐ身のまわりにいるのと同じ親近感が味わえるし、波長が合わなければ、すぐ近く、否、まったく同じ位置にいても、まったく反応し合わないことにもなる。

すべてを解くカギはバイブレーションの原理にある。それを劇的に演出してみせた例がスカルソープの 『私の霊界紀行』 に出ている。


 《初期の頃のことであるが、離脱してひとまず事務所のようなところへ案内され、そこで指導霊だけが中へ入って指示を受けるあいだ私だけ外で待たされるということがたびたびなので、私もいい加減その場所と波長にうんざりしはじめていた。

 そんな時にまた同じ場所へ連れて行かれたので、つい心の中で 〝ちぇっ、またここか〟とつぶやいた。 すると一瞬のうちに場面が一変し、退屈な風景から明るく楽しい田園風景の中に立っていた。その変わりようは驚異的だった。指導霊の私への支配力が増し、私の波長がその楽しい場所の波長に高められたのであるが、私の身体は少しも動いていなかった》


 この原理を発展させていけばキリがないが、一つだけ誤解を解いておきたいことがあるので、最後にそれを指摘して参考に供したい。

 それは霊視能力が出はじめたばかりの人が陥りやすい錯覚の一つで、進歩性のない人はいつまでもその錯覚に陥ったままであるが、たとえば病気とか悩みごとの原因を探る場合に、霊視した映像をいきなり犯人と決めつけて、すぐにそれを払い除けようとする。

この場合、かりにその霊が俗にいう因縁霊であるとしても、その霊は必ずしも身体の側にいたり直接憑依しているとはかぎらない。先の直接書記のように遠くからバイブレーションによって作用しているにすぎないことがある。

 この場合に用心しなければならないのは、したたかな邪霊になると遠くから映像を送って審神者をからかうことがあること、また、わざと立派そうな姿を見せて安心させることすらあることである。

 その反対に、何の姿も見えないから霊障はないと判断するのも浅薄である。陰に隠れてひっそりとしていることがある。世間の常識と違って、審神者にとって霊視能力はあまり頼りにならないものなのである。

 では何を判断の基準とすべきか。霊を裁く上での最大の武器は、その霊能者の霊格の高さから生まれる看破力、霊的直感力である。

 私は師の間部詮敦氏が審神者をされるところをずいぶん見ているが、その中でとくに印象に残っているのが一つある。陰に隠れていた霊がついに引っぱり出されて霊媒に憑依させられた時(これを招霊実験と呼ぶ)、その霊がふてぶてしい態度で開口一番、間部氏に向かってこう言い放った。

 「お前は大したヤツじゃ。オレの負けだ!大ていのヤツには負けんが、お前の力には負けた。大したヤツじゃ!」

 直感的には間部氏の背後霊がひっぱり出したのであるが、それも間部氏の霊格と霊力とが大いに物を言っている。心霊学に裏打ちされた学識と体験と同時に、高潔な日常生活における修養があればこそ出来ることである。

 最後にシルバーバーチの霊言からそれに関連した一問一答を紹介しておく。


 霊能者がタバコを吸いすぎたりアルコールを飲みすぎたり、そのほか生活面で真理に忠実でなく品行に問題がある場合は、それが霊能にも悪い影響を及ぼすでしょうか。

 「もちろんです。いかなる霊媒能力、特に精神的霊能について言えることは、その霊能者の質が高ければ高いほど通信の内容も質が高いということです。身体と精神の質を落とすようなことは霊にとっても同じ影響が及びます。

 忘れてならないのは、身体と精神と霊とは一体関係にあることです。緊密な相互関係があり、絶えずエネルギーや感情が行き交っております。霊の世界と物質の世界は実は一つの実在の二つの側面なのであり、お互いに影響し合っております。両者は融合し合っていて、はっきりとした境界線というものはないのです。

 そのことを理解なされば、物的身体に悪いものは霊的身体にも悪く、精神に良くないものは霊にとっても良くなく、したがって霊の宮(からだ)を汚すようなことは必ずその持ち主を通過して届けられる通信の質を汚すことになることがお分かりになると思います。

 理想を言えば完全であるに越したことはありません。そうすれば完全な通信が得られることでしょう。が、所詮、私たちが扱っているのは物質の世界に住む人間味たっぷりの道具です。アルコールもタバコもほどほどにたしなむのであれば大した害にはなりません。ただし、霊能者は常に理想を目指していなければなりません」

 一九八七年八月    近藤千雄

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch

by Stella Storm
近藤千雄訳



十二章 自殺について二つの投書


 大きな悩みを抱えて自殺まで考えている男性から投書があり、シルバーバーチ霊は自殺行為をどう観ているかを聞いてみてほしいとあった。投書が読み上げられるのを聞いてシルバーバーチはこう語った。


 「事態を改善するよりも悪化させるようなことは、いかなる魂に対してもお勧めするわけにはまいりません。自殺行為によって地上生活に終止符を打つようなことは絶対にすべきではありません。

もしそのようなことをしたら、それ相当の代償を支払わねばならなくなります。それが自然の摂理なのです。地上の誰一人として、何かの手違いのためにその人が克服できないほどの障害に遭遇するようなことは絶対にありません。

 むしろ私は、その障害物はその人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられているのですと申し上げたいのです。苦しいからといって地上生活にさよならをしても、その苦しみが消えるわけではありません。

それは有り得ないことです。またそれは摂理に反することです。地上であろうと霊界であろうと、神の公正から逃れることはできません。なぜならば、公正は絶対不変であり、その裁定はそれぞれの魂の成長度に合わせて行われるからです」


 ───(司会者) この方は現在の自分の置かれている状態が不当だとおっしゃりたいようです。

 「分かっております。地上の人間は時として物事を逆さまに見ていることがあります。きわめて不完全な知識でもって判断しようとされます。人間にも一定範囲の自由意志が許されており、それを行使していらっしゃいますが、誰一人として自然の摂理から逃れられる人はいません。

 物質の世界から霊の世界へ移ったからといって、それだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。それだけは明確に断言できます。無限の知識にくらべると、われわれは何と知らなすぎることでしょう。が、そのわずかな知識しかもたない者でも、今までより少しでも多く知ったら、その知識を有効に活用しなければなりません」


───自殺者は死後どのような状態に置かれるのでしょうか。

 「それは一概には申し上げられません。それまで送ってきた地上人生によって異なるからです。開発された霊的資質によって違ってきます。魂の発達程度によって違ってきます。そして何よりも、その自殺の動機によって違ってきます。

 キリスト教では自殺をすべて一つのカテゴリーに入れて罪であるとしておりますが、そういうものではありません。地上生活を自分で勝手に終わらせる権利は誰にもありませんが、自殺に至る事情には酌量すべき要素や環境条件がいろいろとあるものです」


───いずれにせよ自殺行為が為にならないことだけは間違いないでしょう。

 「むろんです。絶対に為になりません。地上生活を勝手に終わらせることが魂にプラスになったということは絶対にありません。が、だからといって、自殺した者がみんな暗黒界の暗闇の中に永遠に閉じ込められるわけではないと申し上げているのです」

      ※ ※ ※
      

 別の日の交霊会では、親戚の者が自殺をしてしまったという人からの投書が読み上げられた。その最後に「自殺行為は霊的進歩の妨げになるのでしょうか」という質問があった。

 これに対してシルバーバーチが

 「もちろんです」と答えると、


───神は耐え切れないほどの苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか。

 「それは違います。説明の順序として、これには例外があることから申し上げましょう。いわゆる精神異常者、あるいは霊に憑依されている場合もあります。が、この問題は今はわきへ置いておきましょう。いずれにせよ、このケースはごく少数です。

大多数は私に言わせれば臆病者の逃避行為であると言ってよいと思います。果たすべき義務に真正面から取り組むことができず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れるいちばんラクな方法だと考えるわけです。

ところが、死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。その状態から抜け出られないまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。

 しかし、私がいつも言っているように、いちばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今述べた通り、そう思惑どおりには行きません。

が一方、時たまあるケースとして、動機が利己主義でなく利他主義に発している時、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発している時は、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの憶病心から出た自殺とはまったく違ってきます。

 いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分の手で自分の人生を書き綴っているのです。いったん書き記したものは二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。

 だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。

責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。背負い切れないほどの荷はけっして負わされません。なぜなら、その荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。けっして神が〝この人間にはこれだけのものを負わせてやろう〟と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。

 宇宙の絶対的な法則の働きによって、その人間がその時までに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。

となれば、それだけの荷をこしらえることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです」


 ───因果律の働きですね。

 「そうです。それが全てです」


 ───たとえば脳神経に異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪がないと考えてよろしいでしょうか。

 「話をそういう風にもって来られると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第では私がまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人に口実を与えていることになりかねないからです。

 もちろん私にはそんなつもりは毛頭ありません。今のご質問でも、確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に反省してみると、やはりそのスタートの時点において私がさきほどから言っている〝責任からの逃避〟の心理が働いていたのです。

もしもその人が何かにつまずいた時点で〝自分は間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても最後まで責任を全うしよう〟と覚悟を決めていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来ていたはずです。

 ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われていきます。ついにはノイローゼ気味となり、自分で自分が分からなくなります。問題はスタートの時点の心構えにあったのです」


 ───いわゆる〝偶発事故(アクシデント)〟による死はあるのでしょうか。

 「ひじょうに難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈次第でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけの分からない盲目的な力でたまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。

 ただ、その法則の範囲内での自由意志というものが許されております。が、その自由意志にもまた法則があります。わがまま勝手が許されるという意味ではありません。したがって偶発事故の起きる余地はありません。

偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるのです。ぜひ知っていただきたいのは、法則の中にも法則があり、その裏側にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。平面的な単純な法則ではないのです。

 よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。問題は解釈の仕方にあります」


 ───病気は教訓として与えられるのだとか人間性を築くためだとか言う人がおりますが、本当でしょうか。

 「言っていること自体は正しいのですが〝与えられる〟という言い方は適切ではありません。私たちと同じくあなた方も法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として生じるのです。言ってみれば霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。

しかしその支払いとはまた別の〝補償〟の法則もあります。物事には得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観念からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。

 教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で現れることもあるわけです。人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。

 ということは双方に神の意志が宿っているということです。良いことにだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知ってください」


 ───死体は火葬にした方がいいでしょうか。

 「ぜったい火葬がよろしい。理由にはいろいろありますが、根本的には、肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体のまわりに在世中の所有物や装飾品を並べてみたところで何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆に、いたずらに悲しみや寂しさを誘うだだけです。

 人間は、生命の灯の消えたただの物質となった死体に対してあまりに執着しすぎます。用事は終わったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。

 死体を火葬にすることは、道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。同時に又、心霊知識も持たずに霊界へ来た者が地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。

 衛生上から言っても火葬の方がいいと言えますが(※)、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知っていただきたいことは、火葬までに最低三日間は置いてほしいということです。というのは未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれくらい掛かることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与えかねません」


※───『霊訓』 の続編である 『インペレーターの霊訓』 に次のような箇所がある。

《二つの埋葬地の中間に位置する家に滞在していたことを咎められたモーゼスが 「なぜいけないのですか」 と尋ねたのに対し、レクターと名のる霊が答えた。


 「最近のあなたは墓地に漂う臭気に一段と影響されやすくなっております。その近辺で長時間寝たり呼吸したりしてはいけません。そこに発生するガスや臭気は鈍感な人なら大して害はないが、あなたほどに発達してくると有害です」


 ───でも、すぐそばではありません。

 「二つの墓地の中間に位置しています。あたりの空気にはあなたの身体に有害なものが充満しています。
 肉体が腐敗する際に強烈な臭気を発散する。それが生者の呼吸する空気に混入し、それに惹かれて地縛霊がうろつきます。どこからどう見ても感心しないものですが、霊的感受性が敏感な人間にとっては尚のこと有害です」


 ───墓地を嫌っておられるようですが、埋葬するより火葬の方がよいというお考えですか。

 「朽ち果てていく肉体を生きた人間の生活の場のどまん中に埋めることほど愚かなことはありません。呼吸する空気が汚染されてしまいます。もうすこし進歩すれば生きた人間に害になるようなことはやめるでしょう」》

Saturday, October 31, 2026

シルバーバーチの霊訓(九)

Philosophy of Silver Birch

by Stella Storm
近藤千雄訳



十一章 三つの出張講演から 


 《このたびこうして私をお呼びいただき、ささやかながら私がたずさえて来た知識を皆さんと分け合うことになったことを光栄に思っております。この新たな体験によって私が何らかのお役に立てば、こうして皆さんの前にお邪魔した甲斐があったことになります。

皆さん方はすでに霊的実在についての知識をお持ちの方ばかりです。したがって私から改めてその重大性、とくに今日の地上世界における不可欠性について強調する必要はないと思います》                シルバーバーチ 
      
                                       
 永年ハンネン・スワッハ―・ホームサークルだけを拠点として語り続けてきたシルバーバーチが、最近になって三つのスピリチュアリストの団体からの招待に応じて、それぞれの本拠地で講演と一問一答を行った。  


 一つはコペンハーゲンで開催された国際スピリチュアリスト連盟 International Spiritualist Federation の総会において、二つ目は英国心霊治療家連盟 National Federation of Spiritual Healers において、三つ目は大英スピリチュアリスト協会 Spiritualist Association of Great Britain において、それぞれの評議会員を前にして行われた。


 ◎ I・S・F (国際スピリチュアリスト連盟) での講演と一問一答

 「私たち霊界側から言わせていただければ、こうした機会をもつことは皆さんの意識の焦点と視野を正しく修正する上でまことに結構なことだと思います。この霊的大事業にたずさわっておられる皆さん方も、ややもすると日常生活の煩雑さや揉めごとに巻き込まれて、こうして地上でいっしょに仕事をしているわれわれを鼓舞している雄大な理想像(ビジョン)の無垢の美しさを、つい忘れがちだからです。

 物質の世界に閉じ込められ、肉体をもつが故の数々の義務を背負っておられる皆さんにとって、自分が本来は霊的存在であることを忘れずにいることは難しいことでしょう。が、皆さんの本性の中を神の力が流れているのです。

また皆さんの中の大勢の方が霊的能力を授かっておられます。それは自分より恵まれていない同胞のために使用することができます。

 皆さん方が進まれる道は決して容易ではありません。それは皆さんが、潜在的な霊的資質を開発するチャンスをみずから欲するだけの器量を具えていらっしゃるからです。神の使節に気楽な人生は有り得ません。進化と向上を求める者、地上の人間として到達しうるかぎりの高級界に波長を合わせんとする者にとって、安易な道は許されません。

近道など有りません。酷しい試練と絶え間ない危険との遭遇を覚悟し、今たずさわっている仕事、それは実は───これがいつも議論のタネになるのですが───皆さんが地上へやってくる前にみずから志願されたものなのですが、それをあくまでも成就させんとする決意を要請されます。それは皆さんがみずから選択された道なのです。

 霊的闘争における勝利はそう簡単には得られません。霊的なものが支配権を握るに至る過程は長くて過酷なものです。が、一度手中にすれば、それは永遠です。決して失われることはありません。

霊の褒章は決して傷つきません。決してサビつきません。決して腐食しません。永遠に自分のものとなります。それは皆さんが、皆さんの一人一人が、みずからの努力で勝ち取らねばならない、永遠の財産なのです。

 皆さんとともに仕事をしている私たち霊界の者が、いくら皆さんを愛し、窮地にあって守り導き、道を教えてあげようと望んでも、所詮は皆さん自身の道なのです。その道を進むのはあなた方自身です。そして一つの困難を克服するごとにあなた方自身が霊性を強化し、霊的な仕事にたずさわる者として、より大きな資格を身につけて行かれるのです。

 ですから、困難の挑戦を大いに歓迎することです。困難を避けたいと思うような者は神の仕事には無用です。闘いの真っ只中、しかも物質万能思想との闘いという最大の闘争において、あまりの激しさに将軍や指揮官が敵前逃亡をするようなことがあっては断じてなりません。耐え忍び、みずから志願したこの神聖なる仕事を成就すべく、鍛えられ、しごかれ、また鍛えられ、しごかれなければならないのです。

 われわれに対抗する勢力は、地上においても霊界においても、実に強力です。しかし、いかに強力といっても、神の意志をしのぐほどの力はありません。永年にわたって地上での仕事にたずさわり、幸にして地上での神の計画の一部を知ることを得た私が絶対的確信をもって申し上げますが、霊力はすでに地上に根づいております。

すでに地上生活に浸透しているその霊力を駆逐する力は、物的世界に帰属する勢力、すなわち宗教界の有力者にも、新聞にも、医師にも、あるいはそうした勢力がいかなる形で結集したものにもありません。

 すぐれた霊の道具(霊能者・霊媒)の出現によって世界各地に霊力の前進基地がすでに設けられ、今その地固めが行われているところです。そこを拠点として、神の子等が一体自分はどこの誰なのか、何者なのか、なぜこの地球上に存在するのか、その存在の目的を成就するには何を為すべきかを、みずから理解して行くことになるのです。

 皆さんはこのたび海山を越えて遠く隔てた国々から集まってこられましたが、皆さんを結集させた力は、ふだん他人のための仕事においてわれわれを鼓舞している力と同じものです。私たちは自分のことは何も欲していません。

名誉も求めません。ひたすらお役に立ちたいと望み、神の子等が、霊と精神と身体とが調和的に機能した時に得られる充足感、豊かさ、美しさ、生きる喜び、こうしたものを味わえるようになる生き方をお教えしようとしているのです。

あなた方は自分を役立てる掛けがえのない好機を手にしていらっしゃいます。そして他人のために自分を役立てることほど偉大な宗教的行為はないのです。

 それは神の愛の働きにほかなりません。このたびこのデンマークの地に世界のスピリチュアリストの代表が総結集し、神の計画の推進のための会議をもつことになったのも、その愛、その叡智、その霊力の働きによるのです。

 ですから、時として闘いが酷しく、長く、ともすると投げやりな気持ちになりそうなことがあっても、決して挫けてはなりません。もしも挫けそうになった時はいったん物質界から身を引くことです。

気持ちの流れを止め、精神を統一して、内部の霊的バッテリーが充電される状態にするのです。一新された生命力、一新された元気、そして一新された目的意識をみなぎらせるのです。かくして元気百倍して物的世界に戻り、仕事を続けるのです。

 本日はこうしたメッセージをお届けする機会をこの私にお与えくださったことを感謝いたします。これは私個人の考えではありません。私をこの地上に派遣した霊団からのメッセージを私が取り次いだまでです。私と同じように他の多くの霊が地上へ派遣されており、皆さんとの協調関係を通じて、いかにわれわれが神の計画において一体であるかを理解していただくように配慮してくださっているのです」


───われわれの運動も内部に大きな問題を抱えております。本来なら団結すべきところでそれがうまく行かず、ために強力な態勢が整いません。何とかそれを改善するよい方法はないかというのが私の大きな関心事なのですが、何かよいコメントをいただけますでしょうか。

 「団結というのはそう簡単には成就できないものです。命令によって強制できる性質のものではありません。理解力の発達とともに徐々に達成していくほかはありません。問題は、人類の一人一人が知的にも道徳的にも霊的にも異なった発達段階にあることです。一つの共通した尺度というものがないのです。

あなた方の仕事においてさえも、各自の霊的進化のレベルが異なるという、その単純な事実に由来する衝突がたくさんあります。

 霊的覚醒というのは霊性の進化とともに深まるものです。となると、あなたが高級霊との一体関係を確立しても、あなたと同じ発達段階に到達していない者がそれに参加することができないのは明白なことです。したがってあなたはあなたとして活用しうるかぎりの手段を駆使して最大限の成果をあげることに努力するしかないわけです。

 この問題は私たち霊界の者にとっても無縁の問題ではありません。私たちも常に同じ問題に直面しているからです。私たちは地上の人間を道具として仕事をするのですが、その中には霊界側として期待している水準にまで達しない者がいます。しかし、それはそれとして最善を尽くすしかないのです。

 そうした事情のもとでも、光明が次第に広がりつつあることに皆さんもいずれ気づかれるはずです。大切なことは、このたびのように伝統も環境も異なる世界各地から、言語も考えも異なる代表が一堂に会する機会をもつことです。その場で、たとえば他の国での成果を知って、それを後れている国の人がよい刺激とすることができます。

  案ずることはありません。あなた方は自分なりの最善を尽くせばよいのです。もうこれ以上はできないというところまで努力したら、それ以上はムキにならず、あとは私たちに任せる気持におなりなさい。人間は自分にできるかぎりの努力をしていればよいのです。それ以上のことは要求しません」


 ───でも、何かよい秘訣のようなものはありませんか。


 「真理を理解するということ以外に秘訣はありません。たとえば再生の問題は人間には解決できない難問の一つです。人間はすぐに〝証拠〟にこだわりますが、再生は証拠によって確信が得られる性質のものではありません。証拠などといっても、ただの用語にすぎません。確信というのは内部から湧き出てくるものです。

魂に受け入れ準備が整えば理解がいきます。その理解こそ大切で、それが唯一の確信です。科学は刻一刻と変っていき、その領域を広げつつあります。知識というものは固定したものではありません。一方、確信というのは真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟りです。

 この再生に関しては地上では、当分の間、意見の一致は見られないでしょう。理解した人にとっては至って単純なことであり、容易に納得がいきます。一方、理解できない人にとっては、ひどく難しく思えるものです。ですから、忍耐強く待つことです。意見の一致が得られないからといって組織がつぶれるわけではありません。

 何につけ、議論することは結構なことです。意見が衝突することは結構なことです。自然は真空を嫌うと言います。惰性は自然の摂理に反します。作用と反作用は正反対であると同時に相等しいものであり、同じエネルギーの構成要素です。立ち止まってはいけません。

大いに議論し討論し合うことです。沸騰した議論がおさまった時、そのつぼの中から真実が姿を現すことでしょう」


 ───再生について今ここで語っていただけませんか。

 「実は私みずからが、みなさん方が体験しておられる難しさを味わっております。私は再生を認めておりますが、このバーバネルは認めようとしません(※)。自分の道具すら説得できないでいて、他の人を説得できるわけがないでしょう」

(※)これはシルバーバーチとバーバネルとが別人であることの証拠としてよく話題にされたものであるが、晩年はバーバネルも得心していた。なおこのコペンハーゲンでの交霊会がいつ行われたかは記されていない───訳者)


───事実か事実でないかだけでもおっしゃっていただけませんか。

 「得心した人にとっては事実です。得心しない人にとっては事実ではありません」(真理の本質をついた名答というべきであるが、それにしてもなぜ要求にまともに応じなかったのか。私が思うに再生問題はスピリチュアリストの間でも異論の多い問題で、肯定派の中にさえさまざまな再生論があって、ここでシルバーバーチが一方的に述べることはISFの内部に余計な波風を立てることになることを案じたのであろう───訳者) 


───異なった信仰に対する態度はどうあるべきでしょうか。われわれに信仰を押しつけようとする者に対して寛大であるべきでしょうか。それとも我が道を行くの態度で相手にしない方がよろしいのでしょうか。

私の考えではスピリチュアリズムはキリスト教に対してその活動については寛大でありつつも、スピリチュアリズムの霊的真理そのものは浸透させて行くべきだと思うのです。真実の信仰に欠ける者にスピリチュアリストが正しい宗教性を植えつけていくべきだと考えます。

 「スピリチュアリズム、スピリチュアリズムとおっしゃっても、それはただの用語にすぎません。私たちは用語には関心はありません。用語とは概念や実在をくるむための道具にすぎません。私たちの関心は霊力、神の力───私はそれを大霊と呼んでいるのですが───それが地上に根づくことです。どこでもよいのです。それが私たちの努力の背後の目的です。

 なぜ霊力を根づかせようとするのか。それは、霊力には魂に感動をもたらし、真の生命に目覚めせる力があるからです。どこであってもよいのです。教会の中であっても、外であっても、家庭内でもいいのです。目的とするのは一人一人の魂です。

 物的惰眠から目覚める段階まできた魂は、あなたの行動範囲にみずからやってくるか、あるいはあなたの方から訪れて、魂のタネが蒔かれることになります。そのように導かれるのです。それでもし失敗したら、ひそかに涙を流してあげなさい。

自分のためにでなくその人のためにです。その人は絶好のチャンスを目の前にしながら、それをとらえ損ねたのです。

 しかし、そうこうしているうちに、そこかしこにタネの根づきやすい魂がいることが分かります。やがて芽を出し、花を咲かせ、急速に美しさと優雅さとを増していきます。そのタネに神性が宿されているからです。かくしてその魂は真の自我を発揮しはじめたことになります。

 地上生活のそもそもの目的は人間が身体的・精神的・霊的の全側面を活用して生活することであり、その三つの側面が機能するに至るまでは本当の意味で生きているとは言えません。身体と精神のみで生きている間は影と幻を追い求め、実在に気づかずにおります。

霊的自我が目覚めてはじめて、驚異的な霊的可能性と冒険への扉が開かれます。地上という物質の世界へ生まれて来たのは、その霊的自我を開発するためです。

 ですから、その目覚めがどこで生じるかは重要ではありません。重要なのは魂が目を覚ますということ、そのことです。地上生活に悩みと苦しみが絶えないのはそのためです。悩み苦しみ抜いた末に、もはや物的なものでは救いにならないと観念した時に、霊的なものへ目を向ける用意ができたことになります。

 〝風は気ままに吹く〟(ヨハネ)と言います。真理の風をどこにでも気ままに吹かせればよいのです。受け入れる用意のある魂にあたった時に存分に力になってあげることです」


───霊媒現象とスピリチュアリズムの活動のあり方をこれからどう改めて行くべきかについて何かアドバイスをいただけますか。

 「つねに新しい側面が台頭しています。物理的心霊現象が徐(おもむろ)に後退し、心霊治療と霊的教訓という高等な側面がそれと取って代わりつつあります。地上の人間の進化のサイクルが変わりつつあるからです。あなた方は霊的に導かれるままに進まれるがよろしい。霊的進歩には型にはまった様式はありません。

今日まで導いてきてくれた力を信じて一身を預けることです。その力こそ、地上のあらゆる物的財産に勝る珠玉の知識をもたらしてくれた力です。ひたすらに前向きに歩まれることです。どこにいても最善のものを施すことです。かならずや導かれ、援助を受けます」



───私は南アフリカのさまざまな言語集団と霊界とのつながりに関心をもっている者ですが、霊界にはこうした集団との接触において使用するバイブレーションの調整システムのようなものがあるのでしょうか。

 「それは問題を抱えている国の人たちがみずからの力で処理すべきことです。言語というのは思想・信念・想像、その他、内的な実在の諸相を表現するための人工的手段にすぎません。実在を適確に表現する言語は、いくら考えても見つかりません。要は魂に訴えるために最善を尽くすことです。

感動を与えるのです。悲しんでいる人を慰め悩んでいる人の心を癒すようなメッセージを届けて、魂を目覚めさせるのです。その魂に受け入れる用意があれば、きっと成果が出ます。受け入れる用意がなければ何の成果も出ません。

 こうした問題には楽な解決策はありません。試行錯誤がほとんどです。私たちとて完全ではないのです。霊的交信、霊力の扱い方、霊媒の成長と進化にともなう各種エネルギーの調整の仕方について、絶え間なく新しいテクニックを開発しております。

固定した形式があるわけではありません。すべてが流動的です。なぜかと言えば、霊そのものが無限であり、したがって無限の顕現の可能性を秘めているからです。

 ご質問に対してご期待にそった答えにならなくて申しわけありませんが、私としては以上のようなお答えしかできません」


─── 一般世間への普及活動において私たちは何か大きな間違いを犯していないでしょうか。もし犯していたらご教示をお願いしたいのですが・・・・・・

 「もしもあなたが何一つ間違いを犯さない人だったら、あなたは今この地上にはいらっしゃらないはずです。間違いを犯す人間だから地上に来ているのです。しくじってはそこから教訓を学ぶのです。もしもしくじらないほど完全な人間だったら、物質界に生まれてくる必要はありません。

勉強のために地上へ来ているのです。しくじっては学ぶ───それが進化の法則の一環なのです。しかも進化はどこかでおしまいとなるものではなく、限りなく続く営みなのです。その目的は完全性の成就です。が、

その完全性がまた無限の性質のものであり、いつまでたっても成就できないのです。完全を成就しているのは大霊のみです。無限なる愛と無限なる叡智の権化なのです。

 完全性が増せば増すほど、さらにその先に成就すべき完全性があることに気づきます。これが完全、という静止した状態ではありません。進化の法則はありとあらゆる段階を通じて働いており、それらがすべて連動しているのです。

人間の身体上の進化も、地上の科学者がどう言おうと、まだ終わったわけではありません。まだまだこれから開発されるべき表現形態があります。

同様に、精神的ならびに霊的進化も、この地上にあってさえ、三位一体の部分的側面として、到達すべき段階に至るにはまだまだ前途遼遠です。

 要するに進化とは地上においても全宇宙においても無限の過程であり、そのこと自体が宇宙の全機構を案出した無限の知性の存在の証明であることを認識してください。その知性が絶対に誤ることのない法則によって統治し、ありとあらゆる側面を導き、支え、そして規制しているのです。

 われわれはその愛と法則と叡智の機構の中に存在しているのです。間違いを恐れてはいけません。そこから学び、刻一刻と霊的に成長していくのです」



 ◎ N・F・S・H (英国心霊治療家連盟)における講演と一問一答

 「心霊治療の目的はいたって単純です。魂の琴線に触れるということです。身体は癒えても魂が目覚めなかったら、その治療は失敗だったことになります。たとえ身体は治らなくても魂に何か触れるものがあれば、その治療は成功したことになります。

他はいざ知らず、われわれに関するかぎり、霊のもつ才能、霊の力は、神の子の一人一人が有する神性を目覚めさせ、地上に生まれて来たことの意味を理解させるために使用すべきです。

 それが霊的能力の諸相の背後にある目的です。ですから、患者に身体上の好転が見られなくても少しも落胆することはありません。むしろ、身体上の病状は改善したのに、その患者が霊的な実在に何の関心を見せなかった時こそ落胆すべきです。それが病気が治るということの背後に秘められた究極の目的だからです。

 霊界にあっても私たちは一丸となって、地上の各地に拠点をもつ霊力が、受け入れる用意の出来ている者に間違いなく届けられるように地固めをしております。目指す目標は必須の要素すなわち自分とは一体何者なのか、何の目的でこの地上に存在しているのかについての自覚を植えつけることです。

簡単に言えば、自分の霊的宿命を成就するために自分の霊的起原を知ってほしいということです。

 治病能力は霊的身体のみが有する霊的能力の一つです。霊の目で見る霊視能力、霊の耳で聞く霊聴能力と同じです。ですから、治療家としての仕事をするには霊力のお世話にならねばなりません。

 ここで用語についてはっきりさせておきましょう。私が 〝大霊〟 と言う時、それは無限の知性であり、全生命の究極の裁定者であり、叡智と真理と理解力の極致です。人間的存在ではありません。ただ、それを表現する際にどうしても〝彼〟 とか 〝あなた〟 といった人称代名詞を使用せざるを得ませんが、大霊は神格化された人物ではありません。

生命力であり、原動力であり、活性力であり、意識であり、生気です。そうした原理の精髄です。無限なものです。したがって霊力も無限です。それは誰の占有物でもありません。通路となりうる人なら誰にでも流れます。キリスト教やクリスチャン・サイエンスはもとよりのこと、あなた方でも治病能力を独占することはできません。

 それを受け入れる能力をお持ちのあなた方に出来ることは、その能力をさらに発達させること、つまり受容能力を増し波長を高めることだけです。霊力そのものは無限に存在します。それをどれだけ受け入れるかは、あなた方自身の進化と発達の程度によって決まるのです。

あなた方を通じて流れる霊力の限界はその受容能力によって決まるのです。簡単なことなのです。あなた方の受容能力が増せば、それだけ多くの霊力があなた方を通して流れ込み、それだけ大きな成果が得られるということです。

 流入する霊力の分量に限界というものはありません。唯一それに制限を加えているのはあなた方治療家の霊的発達段階であり、それが、どれだけの霊力を受け入れるかを決定づけます。

この聖なる力、神の威力、大霊、生命力、どう呼ばれても結構ですが、それがあなた方を通路として流れるのは、あなた方に受容能力があるからです。それを患者へ届けてあげなければならないわけです。

 改めて初歩的なことを申し上げて恐縮ですが、病気・不快・異状の原因は調和の欠如にあります。健康とは全体の調和が取れている状態のことです。身体と精神と霊との間に正しいリズムとバランスが取れていることです。

三者の連繋がうまく行っていない時、どこかに焦点の狂いが生じている時、自然の生命力の流れが阻害されている時に病的症状が出るのです。霊力が流れず、本来の機能を果たしていないからです。

 人間の病気はサイコソマティック、つまり精神と霊に原因があってそれが身体に表れております。経験豊かな皆さんには私から申し上げる必要はないと思いますが、心配ばかりしていると胃潰瘍になります。が、かいよう部分を切除すれば心配しなくなるわけではありません。ですから心配しないような生き方を教えてあげないといけません。
  
 病気の大半は精神と霊から生じております。いわゆる人身事故でさえ精神ならびに霊的原因から発生していることがあるのです。これは皆さんにとってはとても理解しがたい難題であろうかと思いますが、では治療家としてはどうすべきか。

 患者の意識の中枢である霊に注がれる霊力を、治療霊団から受け取るのが治療家の仕事です。言わばバッテリーです。枯渇している生命力を充電してあげる通路です。それが障害物を取り除くのです。それがバランスを取り戻させるのです。リズムが整い、調和よく機能するようになるのです。

 そのとき治療が効を奏したことになります。霊力が魂にまで及ぶからです。ここが大切な点です。患部に置いた手が治しているのではありません。手をおくことは接触のための手段の一つにすぎません。

 治療家の霊的発達の程度いかんによっては、それが必要である場合もあれば必要でない場合もあります。肝心なのは魂にまで及ぶということです。魂にカツを入れて居眠りの状態から目を覚まさせ、自我の発見という本来の目的を意識させるのです。

 それさえうまく行けば、身体にある自然治癒力が機能を発揮して健康状態を取り戻します。その時はじめて治療家は、大霊すなわち神の通路としてその霊力を受け入れ、それが自分を通過して患者の魂の中の神を呼び覚まし、はじめて真の自我を意識させるという機能を見事に果たしたことになります。

 心霊治療というのはそういうものなのです。ここで改めて皆さんに申し上げます。たいへん改まった真剣な気持ちで申し上げますが、あなた方治療家の責任はきわめて重大です。真理を知るということは、それに伴って責任というものも付加されるのです。神聖な才能を授かるということは、それを本来の神の意志にそって使用するという責任が伴います。

 心霊的(サイキック)な能力と霊的(スピリチュアル)な能力とは違います。心霊治療家にもサイキック・ヒーラーとスピリチュアル・ヒーラーとがあるわけです。後者の場合は生活態度を可能なかぎり理想に近づける努力をしなければなりません。能力はあっても、それをどこまで開発するかは治療家自身の責任です。

それをいかなる目的に使用するかについても責任があります。なぜなら、その能力を授かったということは神の使節の一人であることを意味するからです。

 皆さんはどこの教会、どこの聖堂の司祭よりも、真実の意味での神の司祭でいらっしゃいます。神の霊力があなた方を通過して届けられるという点において、神の名代をつとめておられるのです。これは大へん責任の重い仕事です。それを汚すようなことがあってはなりません。傷つけてはなりません。

不名誉となるようなことをしてはなりません。腐敗させてはなりません。間違った動機から使用してはならないということです。ただひたすら自分を使っていただくという気持ちで、可能なかぎり理想を目指して努力していればよいのです」


 ───霊力がそちらで準備される過程を教えて頂けませんか。患者の特殊な症状に応じて調合される治癒力です。

 「とても説明が困難です。非物質的なエネルギーを表現する適切な用語が見当たらないのです。こう理解してください。霊力とは生命力であり、生命の素材そのものであること、活力であり無限に存在すること、可変性があり、無限の形態をとることができ、無限の置きかえと組み合わせが可能である、ということです。

 こちらの世界にはさまざまな程度の知識と経験と理解力をもつ霊が控えています。地上の化学者、科学者に相当する霊もいます。この生命力、霊のエネルギーのさまざまな性質を、あなたが使用された用語で言えば、特殊な症状に合わせて 〝調合〟 するのです。これはなかなかよい表現です。通路である治療家を通じて可能なかぎり症状に合った調合をする研究を絶えず重ねております。

 これ以上の説明はできそうにありません。治療家のもとを訪れる患者によって、一人一人、治療法が異なります。患者のオーラも大へん参考になります。オーラには病気の根本原理である霊的ならびに精神的状態が正直に表れているからです。それによって調合の仕方を考えます」


 ───それには霊界の担当医たちの精神的(メンタル)な努力を要するのでしょうか。

 「(人間が考える意味での)メンタルという用語は不適切です。実体のある作業だからです。実際に混合するのです。こちらの世界にもあなた方のいう化学物質に相当する霊的素材があります。もちろん精神(マインド)も使用します。霊界では精神がすべてをこしらえる上での実体のある媒体だからです」


 ───遠隔治療が可能であることを考慮すると、直接治療においてその治癒力を受けるのに、治療家の身体または霊体はどの程度まで使用されているのでしょうか。

 「遠隔治療にも治療家の霊体を使用しなければなりません」


 ───その過程を説明していただけませんか。 

 「治療家はテレビジョンとよく似ています。霊的なバイブレーションが治療家に届けられると、治療家(の霊体)を通過する際に半物質的治療光線に転換されて、それが患者に送られます。治療家は変圧器です」


 ───遠隔治療でも同じですか。

 「同じです」


 ───それがどうやって患者に届けられるのでしょうか。 

 「患者が治療を要望したということでつながりが出来ております。思念によって治療家へ向けてのバイブレーションが生じます。そこに絆が出来たわけで、そのバイブレーションに乗って治療力が患者に送られるのです」


 ───自分のために遠隔治療が行われていることを知らない場合はどうなりますか。

 「患者と関わりのある誰かが知っているはずです。そうでなかったらその患者に向けて治療が行われるわけがないでしょう」


 ───治療家がその患者の病状が悪いことを知って一方的に遠隔治療を施してあげる場合もあるでしょう。

 「それだけでもう絆ができております」


 ───でも患者の方から思念が出ていません。

 「いえ、出ております。治療家がその絆をこしらえております。こちらの世界では思念に実体があることを忘れてはなりません。私があなたを見る時、私にはあなたの身体は見えません。霊媒の目を使えば見えるかも知れませんが。

私たちにとって実体があるのは思念の方であり、実体がないのは身体の方です。あなたが思念を出せば、それがたちどころに実在物となるのです。それがバイブレーション───波動をこしらえます。それが遠隔治療で使用されるのです」


 ───心霊治療を受ける上で信仰のあるなしは関係ないということは理解しておりますが、患者が邪悪な思念を抱いていると、それが治療を妨げると考えてよろしいでしょうか。

 「私は信仰をもつこと自体は反対していません。それが理性を土台としていて、盲目的でなければ結構です。スピリチュアリズムの思想を正しく理解された方なら、手にされた真理は全体のほんの一かけらにすぎないことはご存知と思います。

肉体に閉じ込められているあなた方が全真理を手にすることは不可能なことです。霊界へ来ても同じことです。となると、手にした限りの知識を土台とした信仰を持たねばならないことになります。

 さて、そうした知識を土台とした理性的信仰を持っていることは大いに結構なことです。そのこと自体は何ら問題はないと思います。それが治療にとって好ましい楽観的な雰囲気をこしらえるからです。

霊力は明るく楽しい、愉快な精神状態の時にもっとも有効に作用し、反対にみじめで疑い深く、動揺しやすい心は、霊的雰囲気をかき乱して治療の妨げとなります」


 ───オーラを見る能力のない治療家は、治療がうまくいっていることをどうやって知ればよいのでしょうか。

 「治療家に患者のオーラが見えるか否かは問題ではありません。症状の診断ができるか否かも問題ではありません。そういうことにこだわってはいけません。要は霊が使いやすい状態になることです。

道具としてなるべく完全になることを心がけることです。完全な道具としてマイナスの要素となる人間的弱点を極力排除しなくてはなりません。そう努力することで霊力が豊富に流れるようになります。背後霊団との協調関係を決定づけるのは治療家の日常生活です」


 ───サークル活動に参加できる治療家は能力を開発する上で勉強になりますが、そういう機会に恵まれない人のために何かアドバイスをいただけないでしょうか。それと、交霊会に出席することは治療家にとって不可欠でしょうか。

 「あとのご質問からお答えしますと、これにはきっぱりと 〝ノー〟 と申し上げます。霊の能力はあくまで霊の能力です。それを授かって生まれてきたのであり、授かった以上はそれを発達させる責任があります。ピアニストとしての才能をもって生まれた人は練習と鍛錬によってそれを発達させなければならないのと同じです。

では治療能力はどうやって発達させるか。その答えはサークル活動に参加することではありません。それもプラスにはなります。心に宿す動機も発達を促します。日常生活の生き方によっても発達します。可能なかぎりの純粋性と完全性を目標とした心がけによっても発達します。できるだけ良くしてあげたいという願望を大きくしていくことによっても発達します。

 自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、それだけ自分が立派になります。よい治療家になる方法を教えてくれる書物はありません。

ひたすら他人のために役立ちたいと願い、こう反省なさることです───〝神は自分に治病能力を与えてくださったが、果たしてそれに相応しい生き方をしているだろうか〟と。これを原理として生きていれば、治病能力は自然に力を増し質を高めていきます」


 ───治療家によって力に差があるのはなぜでしょうか。

 「話の上手な人と下手な人、ピアノが上手な人と下手な人、文章のうまい人と下手な人がいるのと同じです。才能がそれだけ開発されているということです」


 ───もし治療家が病気になった場合は他の治療家にお願いすべきでしょうか。それとも自分で治す方法があるのでしょうか。

 「他の治療家にお願いする必要はありません。それよりも、いつも使用している霊力を直接自分に奏効させる方法を工夫すべきです。神に祈るのに教会まで行く必要がないように、霊力を自分自身に向けることが出来さえすれば、治療家のところへ行く必要はありません。そのためには自分の心、自分の精神、自分の魂を開かないといけません」



 ───医者は大病にもストレスや仕事上の心配が原因であるものがあると言っております。そうしたケースでは(身体と精神と霊の)不調和はどの程度まで関わっているのでしょうか。

 「あなたがおっしゃったことは私が別の言葉で言っているのと同じことです。あなたは仕事上の心配と呼んでおられますが、それは私のいう不調和状態のことです。精神と肉体と霊とが正しい連繋関係にあれば、仕事上の心配も、そのほか何の心配も生じません。心配する魂はすでに調和を欠いているのです。

霊的実在についての知識を手にした者は心配をしてはなりません。取越苦労は陰湿な勢力です。進化した魂には縁のないものです。あなたはそれを仕事上の心配と呼び、私は不調和状態と呼んでいるのです。自分が永遠の霊的存在であり物質界には何一つ怖いものはないと悟ったら、心配のタネはなくなります」


 ───なぜ治らない人がいるのでしょうか。

 「それはその人が霊的にまだ治る資格がないということです」


 ───いったん遠隔治療のための絆ができても、次の治療の時はまた改めてこしらえる必要があるのでしょうか。

 「いったん出来たら、もうその必要はありません。霊界との絆は磁気的なものです。いったん出来あがったら二度と壊れることはありません」


 ───ということは、どこにいても同じということですね。教会にいても駅にいても。

 「霊の世界には地理的な〝場〟というものがありません。常に身のまわりに存在しております。教会にいるからとか、地中深く掘られた採掘所にいるからとか、あるいは飛行機に乗って空高く上がったからといって、それだけ神に近くなっているわけではありません」


 ───地上世界に具現化するものは、その存在の基盤として思念が先行していると言われております。言えかえれば、われわれは思念的素材を製造していることになるわけですが、すると治療家が患者に対した時には完治するという思念を抱いて、完全な健康のイメージをもつことが治療にプラスになるのでしょうか。

 「大いにプラスになります。なぜなら、思念には実体があるからです。完全な健康状態のイメージを強くもてばもつほど、その成就へ向けて近づくことになります。あなた方もその理想へ向けて不断の努力をすべきです。最高のものを心に画くべきです。絶対に希望を棄ててはいけません。常に朗らかで楽観的な雰囲気を出すべきです。そうした条件が最高の成果を生みます」


 ───さきほど治らない患者はまだ治る資格がないからだとおっしゃいましたが、それだけでは単純すぎるように私には思えるのです。それでは悪人はいつまでたっても治らず、善人はいつでも治るということになるからです。

 「そんな単純なものではありません。それは皮相な見方です。問題を霊の目で見ていらっしゃらないからです。たとえば苦難は人間から見ればイヤなものでしょうが、私たち霊の立場から見れば実に有難いことです。凶事に出遭うと人間は万事休すと思いますが、私たちの目から見ると、それが新たな人生の始まりであることがあります。

 善とか悪とかの用語を物的価値基準に基づいて、あたかも善人という人種、悪人という人種がいるかのような言い方をしてはいけません。私たちの価値基準はあなた方とは必ずしも同じではありません。

私は、治るためにはそれだけの霊的な資格がなければならないと申し上げているのです。善人とか悪人とかは言っておりません。魂が真の自我に目覚めれば治る資格ができたことになります。そのとき治療が効を奏します」


 ───たとえその資格ができていても、純粋に身体上の理由から治らないこともあるのではないでしょうか。たとえば視神経が完全に破損されて眼が見えないという場合です。自然の摂理からすれば、いくら心霊治療でも、まったく新しい視神経をこしらえることはできないと思います。

 「今われわれは奇跡の話をしているのではありません」


 ───おっしゃる通りですが、ただ私は、あなたが 〝不治〟 の場合の理由をあまりに大ざっぱにおっしゃっているように思えたものですから・・・・・・

 「私が申し上げているのは、治る可能性のある病気が治らない場合、それはその患者にまだ治るための霊的資格ができていないからだということです」


 ───赤ん坊が両脚とも奇形である場合に、一方の脚は治ったのにもう一方の脚に何の反応も生じないことがあります。なぜでしょうか。

 「それぞれの脚にそれぞれの原因があって、同じ治療法では治せないということです。一つ一つ治療法が異なります。それぞれの事情に合わせた治療が行われます。それぞれに特徴があります。こうした問題を地上の皆さんのためにできるだけ平易に申し上げようとすると、とても骨が折れます。

他にもいろいろと考慮しなければならない条件があるのです。奥に隠れた原因があってそれに絡んだ霊的摂理が働いており、さらにその奥にも次元の異なる摂理が働いているのです。

 心霊治療は見かけほど単純ではないのです。ただ患部を治せばよいというものではありません。評価されるのは魂に関わることです。魂にいかなる意味が及ぶか、治療がいかなる意味をもつことになるか。なぜその患者は心霊治療家のもとを訪れたのか、その患者は魂が目を覚ます霊的進化の段階に到達しているか。

 こうしたことは物的尺度では測れないことばかりです。が、心霊治療にはそれらがすべて関わっているのです。なぜなら、治療にたずさわっている間は生命力そのものを扱っているからです。ということは、宇宙の永遠の創造活動に参加しているということになります。私が治療家の責任の重大性を強調する理由はそこにあります」


 ───てんかんの原因は何でしょうか。

 「脳に障害がって、それが精神による働きかけを正しく受け取れなくしているのです」


 ───治せるのでしょうか。

 「もちろんです。病気はすべて治せます。〝不治の病〟というものはありません、治してもらえない人がいるだけです」

 
───私が遠隔治療を依頼されたケースが三つないし四つあるのですが、不幸にして成功しませんでした。少なくとも私はそう考えております。いずれの患者もそのまま他界されたからです。

 「それはもしかしたら最高の成功だったと言えるかも知れませんよ。他界に際して何らかの力になることができたら、それは治療として成功といえます。

治療の目的は地上での寿命を引き延ばすことではありません。目的は霊との接触です。それがいちばん大切です。そのいちばん大切なことを第一の目標になさい。大切なのは霊です。霊が正常になれば身体も正常になります」


 ───わずか数分で治してしまう治療家がいると知って驚いているのですが、治療家によっては二時間とか数週間、あるいは数か月、時には何年もかかって、それでも良くならないというケースがあります。なぜでしょうか。
 
 「果を見て木を知るべしです。大切なのは結果です(※)。治療家は背後霊団との最高の調和関係を目指して日常生活を律するべきです。そうすれば必ず良い成果が得られます。あなた方は身を正すことだけを考えて下さい。あとは私たちがやります。援助の要請が拒否されることは決してありません。

霊力を出し惜しむようなことは絶対にいたしません。私たちは常にお役に立つための努力を重ねております。人を選り好みしません。すべての人を歓迎します。霊力はすべての人に恩恵をもたらすべく存在しているのです。私たちが欲しいのは、よろこんでその霊力の通路となってくれる道具です」


(※私が親しくしていた治療家の一人のM・H・テスター氏もこのNFSHの会員で、たぶんこの日の会合にも出席していたものと推察しているが、そのテスター氏が〝奇跡的治療というと人は一発で治る場合を想像するが、たとえ半年かかろうと1年かかろうと、医学的に不治とされたものが治れば、それも立派に奇跡である〟と述べている───訳者)


 ───心霊治療によって回復した人が間もなく他界することがあります。なぜでしょうか。

 「あなた方はなぜ死ぬということをそんなに悪いことのように考えるのでしょう。私たちの世界では仲間が地上へ誕生して行った時に泣くことがあります。地上を去ってこちらへ来ると手を取り合って喜びます。地球を離れることがなぜ悲劇なのでしょう」


───精神に異状のある方は本当に気の毒でならないのですが、治療家として無力であることを痛感させられています。

 「精神上の病も治すことができます。身を私たちにあずける───あなたに要請されるのはそれだけです。ご自分を通して霊力が流れるようにするのです。じかに治療できない人には遠隔治療を施してあげなさい。霊的治療はもはや地上に根づいております。退散することは決してありません。

あなたもあなたなりの貢献ができます。しかも、とても重要な役割です。忘れないでいただきたいのは、無限の進化の計画の中において、あなたも神聖なる通路としての神のお役に立っているということです。光栄この上ない仕事です。が、それだけに責任も重いということです」


 ◎ S・A・G・B (大英スピリチュアリスト教会)における講演と一問一答

 「本日お集まりの皆さんは霊的実在についての知識をお持ちの方ばかりです。ですから私からその大切さ、特に今日の世界における掛けがえのない重要性を強調する必要はありますまい。

 私は可能なかぎり皆さんのお力になるつもりでおります。私の申し上げることのすべてに同意なさらないかもしれませんが、真実の同胞関係というのは、お互いの意見が完全に一致しなくても愛し合えるということです。

皆さんは霊の力がさまざまな形態で顕現していることをよくご存知とはいえ、肉体に閉じ込められているが故の厄介な問題の一つとして、正しい焦点を定めることが難しいことがあげられます。つまり霊力というものが適切な通路を得た時の影響力がいかに実感あふれるものであるかについて、共通の認識が得られないことです。

 もしも私がかりそめにも地上の住民としての義務───家族への責任および共存共栄関係にある他人への責任───から逃れさせるようなことを口にしたら、他にどんなに立派なことを説いても指導霊として落第であることになりましょう。

しかし率直に申し上げさせていただけば───素直に言い合うことが協力の基本だと思うからこそですが───皆さん方は俗世間的な問題に関わりすぎており、そうした問題のすべての解決のカギである霊の力を十分に活用していらっしゃいません。

 このことを私は、私たち霊団の協力者である皆さん方───われわれの関係は主と従ではありません。対等の協力者です───そして地上の使節としてその任に恥じない生き方を望んでおられる皆さん方に、最大限の誠意と謙虚さをもって申し上げたいと思います。皆さんのような霊的知識を手にされた方が悩んだり、心配の念の侵入を許して取越苦労をするようではいけません。

霊的知識があるからこそ、いかなる心配、いかなる悩み、いかなる不安にも、皆さんの精神的・身体的・霊的環境の中への侵入を許してはならないのです。心配、悩み、不安───こうしたものは援助の力の通路そのものを塞いでしまいます。

 哀悼者の悲しみの念が壁となって他界した霊を近づけなくするように、気苦労のバイブレーションに取り囲まれてしまうと精神的・霊的雰囲気が乱されて、ますます霊を近づきにくくします。皆さんは愛に動かされた霊によって導かれているのです。それは地上の血縁や愛情あるいは友情によって結ばれている場合もありますが、それとは別に、

かつて皆さんと同じ道を歩み、今なお皆さんを通してその仕事に関心を持ち続けている霊である場合もあります。そうした霊のさらに背後には無私の博愛心に燃える高級霊の大軍が控えているのです。

 美と豊かさと荘厳さと威厳と光沢と気高さと光輝とにあふれた霊力そのものには際限というものはありません。ただ、人間がこしらえる条件によって制約されるのみです。

どうか信念に裏打ちされた、とらわれのない通路、安易に信じるのでなく、これまでに得た知識を基盤とした信念───進化の現段階では無限の知識を手にすることが不可能である以上どうしても必要となる信念に燃えた通路であってほしいのです。

 知識を基盤とした信念に燃えてください。皆さん方の一人一人が霊の導きによって今日まで苦難と危機と困難を乗り切ってこれたのです。振り返ってごらんになれば、その導きの跡が読み取れるはずです。

そこで、人間的煩悩ゆえに時には背後霊を手こずらせることはあっても、これほどのことをしてくださった背後霊が自分を見放すはずはないとの信念に燃えなくてはいけません。

 われわれは霊的真理の崇高なる啓示にあずかった、本当に祝福された者ばかりです。それ故にこそ、その知識に伴う責任に恥じない仕方をしようではありませんか。

 過去はもう過ぎ去ったのです。これまでに犯した間違いはお忘れになることです。皆さんは間違いを犯しそれから学ぶために地上へやって来たようなものです。過ぎ去ったことは忘れることです。大切なのは今現在です。

今、人のためになることをするのです。どんな形でもよろしい。自分の置かれた物的環境条件から考えて無理でない範囲のことを行えばよろしい。先のことをあまり考え過ぎてはいけません。

皆さんが皆さんの役目を果たしていれば、私たちは私たちの役目を果たします。そして、そうした協調関係の中では絶対に挫折はないことをお約束いたします。

 この建物の中でどれほどのことが為されているかは、皆さんは知ることができません。私たちにとっては神聖な場所です。ここには愛の働きがあり、悲しみの涙が拭われて確信の笑みに変っております。病の人は癒され、悩める魂は内なる静寂の芳香を見出しております。それを皆さん方は測り知ることができません。魂へ及ぶ影響を測るはかりがないからです」


 ───霊の指導によって行われる範囲と人間の努力によって行うべき範囲について教えて下さい。

 「私たちも一定の法則の範囲内で仕事をしなければなりません。霊にもできることとできないこととがあるということです。その法則による制約は人間よりはるかに厳格です。

私がこれまでいちばん辛い思いをしたのは、私の愛する者が危機のさなかにありながら何も手を出さずに一歩さがって控え、自分で工夫するにまかせ、どちらの道を選ぶかをじっと見守っているしかなかった時です。

それがいちばん本人のためであるとの判断があったからです。助言を求められても〝ここは一つご自分の判断でやってごらんなさい。どれだけうまく行くか試してごらんなさい。その判断はあなたの霊的進化の成就のすべてが掛かっているのですよ〟と申し上げなければならないこともよくあるのです。

 私たちの関心は霊的な結果です。きたんなく言わせていただけば、あなた方は物的な結果だけを見つめておられることが多すぎます。この連盟の歴史を振り返ってごらんになれば、霊の導きが決して少なくないことがお分かりになるはずです。

 私たちが基本的原理のいくつかを確信をもって明言できるのは、それらが永遠の実在に基づいているからにほかなりません。もしも地球が地軸上の回転をやめるような事があったなら、あるいは汐が満ちるべき時に満ちてこず引くべき時に引かないようなことがあったなら、あるいは又、星雲が回転のパターンからはずれるようなことがあったら、

私はこれほどの確信をもって説くことはできないでしょう。が、大霊は全知全能であり、その霊力の働きは完全無欠です。そこで私はその霊力に全幅の信頼を置く者に決して挫折はないと確信をもって申し上げるのです」


 ───さきほどあなたは、一歩控えて思いどおりにやらせるほかはないことがあるとおっしゃいました。その人には好きな道を選ぶ自由意志があるわけですが、もしもその人が自由に行動してそれが仕事をぶち壊すようなことになったらどうなるのでしょうか。

 「自由といってもある一定の範囲内での話です。無制限の自由ではありません。その人の霊的成長と進化から生じる一定の条件によって制約されます。完全な自由選択が許された無制限の自由ではありません」


 ───本当の意味での自由意志は存在しないわけですか。

 「ある限界内での自由意志が存在するということです。その段階での判断に基づいて好きな道が選べます。そしてそれがその人の霊的進歩を妨げもすれば促進もするということです」


 ───かりにあなたが代わりに選択してあげたら、それがその人の進歩を妨げることになるかも知れないし促進することになるかも知れないわけですね。

 「それは有り得ることです。ただ、なかなかうまく説明できないのですが、表向きは単純そうでも、その裏面は、法則の内側に法則があり、そのまた内側に法則があり、そのまた内側にも法則があって、実に複雑なのです。しかし、神の叡智は完ぺきですから、絶対に手落ちがないように、すみずみまでバランスが取れております」


 ───せっかくの成果をぶち壊しにするような行為も、全体の計画にとっては大して支障を来たさないということなのでしょうか。

 「とんでもないことをして成果のいくつかをぶち壊しにすることはあっても、全部を台なしにするようなことはないということです。人間の行為が及ぼす被害も多寡が知れてるということです。地上のいかなる人物にも、神の意志を完全に台なしにしたり、計画の推進を完全に阻害するほどの損害を及ぼす力はありません」


 ───ということは、この地球上で発生する災害もすべて神の計画の中で起きているということでしょうか。

 「人間はその神の計画のワク外で行動することはできないという意味で、そう言えます。絶対に免れることの出来ない因果律というものがあるからです。その冷厳な法則が人間に致命的な限界というものを設けております。ぶっきらぼうな言い方をすれば、地上の科学者には宇宙全体を全滅させるほどの破壊力は製造できません。そこに限界があります」


 ───人間の立場からみると悪に思えるものもまったく悪ではないことがあるものでしょうか───高い次元からみればむしろ善といえることが。

 「地上の人間にとって苦しみは悪であり、痛みは歓迎されませんが、実質的には必ずしもそうではありません。苦は楽と同じく神の計画の一部です。苦がなければ楽もなく、暗闇がなければ光明もなく、憎しみがなければ愛もありません。作用と反作用は同じものであると同時に正反対のものです。

一つのコインの両面と思えばよろしい。善と悪はともに不可欠のものであると同時に、相対的なものです。

 地上にはさまざまな道徳的規範があり、国によって異なります。たった一つの絶対的規範というものはありません。私たち霊にとっての価値基準はただ一つ───魂にどういう影響を及ぼすかということです。魂の成長を促すものは善で、成長を遅らせるものは悪です。そこが大切な点です」


 ───あなたは、成長のためのチャンスは平等に与えられるとおっしゃっていますが、私はどうも納得できません。魂の本質は同じかも知れませんが、その本質が発揮される能力は必ずしも平等ではありません。

同じチャンスから必ずしも同じだけのものを摂取できるとはかぎりません。能力の程度によって異ったチャンスが与えられるか、それともチャンスは同じでもそれをうまく活用する能力が平等に与えられていないかのいずれかだと思います。

 「いえ、私はその考えには同意できません。物質界に生まれてくる人間には神性の種子が宿されております。そうでなかったら生まれて来られません。生命とは霊であり、霊とは生命です。あなたにも花開くべき霊性の種子が宿っております。その開花は、成長を促す可能性をもった環境条件への反応次第で違ってきます。

霊性の発達を促すためのチャンスはすべての人間に平等に与えられています。私はすべての人間が同じ霊格を身につけることになるとは言っておりません。そのチャンスが与えられていると言ったのです。金持ちであるか貧乏であるかは関係ありません。他人のためになることをするのに地位や名声、財産といったこの世的なものは必要ありません」

 
 ───身体の機能上の不平等はどうでしょうか。

「奇形もしくは脳に異状のある場合のことをおっしゃりたいのでしょうか。それは別に扱わねばならない複雑な問題でして、これには宿業(カルマ)の要素が入ってきます」


 ───カルマの要素があるということは再生もあるということでしょうか。

 「再生はあります。しかし一般に言われている形(機械的輪廻転生)での生れ変わりではありません。霊界には無数の側面をもった、霊的ダイヤモンドとでもいうべきものがあります。その側面が全体としての光沢と輝きを増すための体験を求めて地上へやってまいります。

これでお分かりのように、地上へ生まれてきたパーソナリティは一個のインディビジュアリティの側面の一つということになります。少しも難しいことではないのですが、人間はそれを勘違いして〝私は前世はだれそれで、次はまた別の人間に生れ変わります〟などと言います。そういうものではありません。

生まれてくるのはダイヤモンド全体に寄与する一つの側面です。その意味での再生はあります。地上で発揮するのは大きなインディビジュアリティのごくごく小さな一部分にすぎません。

 かくして皆さんのおっしゃる類魂(グループソール)というものがあることになります。つまり霊的親族関係を有する霊の集団が一つの統一体を構成しており、それが全体としての進化を目的として、いろんな時代にいろんな土地に生れてその体験を持ち帰るわけです」


 ───インディビジュアリティがパーソナリティのひとかけらなのですか。それともその反対ですか。

 「パーソナリティがインデビジュアリティのひとかけらです」


 ───みんなグループソールに属しているとなると、仲間の良い体験の恩恵をこうむると同時に、良くない体験の悪影響も忍ばねばならないのでしょうか。

 「その通りです。それが全体に寄与するのだと思えば、それも有難い体験です」


 ───ということは、私が今苦しい思いをするのは必ずしも私自身のせいではないわけですね?

 「そう認識なさることで安らぎをお感じになるのであれば、そうお考えになられて結構です。一つだけ秘密のカギをお教えしましょう。叡智が増えれば増えるほど選択の余地が少なくなるということです。増えた叡智があなたの果たすべき役割を迷うことなく的確に指示します。

われわれはみずからの意志でこの道を志願した以上は、使命が達成されるまで頑張らねばなりません。あなた方はこの道をみずから選択なさったのです。ですから他に選択の余地はないことになります。

 叡智というものは受け入れる用意ができた時にのみ与えられるものです。それが摂理なのです。私は使命を要請され、それを受諾しました。本日皆さんがこの私を招待してくださったということは、高級界のマウスピースとして、その叡智を取り次ぐという仕事において幾らかでも成功していることを意味していると受け取らせていただきます。

 肉体的血縁関係が終わっても、永遠に消えることのない霊的親族関係というものが存在します。それは永遠に続きます。結びつける絆は物質ではなく霊です。物質は儚い存在ですが、霊は永遠です」

 《われわれはここで改めて気を引き締めて仕事に邁進し、一人でも多くの人を神の照明のもとに導いてあげないといけません。われわれのもとを訪れる魂が永遠の絆である霊によるつながりを強化するのを手助けして、無限の恩恵の可能性を秘めたその霊力の働きかけを受け止められるようにしてあげないといけません。

それがわれわれ全員がたずさわっている仕事の一環です。生命の原理、霊的真理の基本を忘れないようにしましょう。それさえ確保しておれば、存在の目的を成就していることになるからです。
    シルバーバーチ