Wednesday, April 2, 2025

シアトルの春   偽キリストや偽預言者が現れるであろう  

There will be false Christs and false prophets





果実によってその木を知る

一、悪い果実を結ぶ木は善くないし、善い果実を結ぶ木は悪くない。このように、果実によってその木を知ることができます。茨からイチジクは採れないし、野ばらからぶどうの房を摘むこともありません。

善人はその心の善き宝より善いものを取り出し、悪人はその心の悪しき宝より悪いものを取り出します。ゆえに口は、心を満たしていることを語るのです。(ルカ 第六章 43-45)


二、中身は貪欲な狼でありながら、羊の毛を被り、あなたたちのもとにやってくる偽預言者たちから身を守りなさい。あなたたちは、その果実によって彼らを見分けることができるでしょう。茨からぶどうを採ったり、アザミからイチジクを集めたりすることができるでしょうか。

そのように、善い木には善い果実が実り、悪い木には悪い果実が実るのです。善い木は悪い果実を生むことはなく、悪い木が善い果実を生むこともありません。善い果実を生まない木はみな切られ、火に投じられてしまいます。

このように、あなたたちは、偽預言者をその果実によって見分けるのです。(マタイ第七章15-20)


三、誰にも誘惑されないように気をつけなさい。なぜなら、多くの者が私の名を語って現れ、「私はキリストである」と言うからです。そして多くの人々を誘惑するでしょう。

 多くの偽預言者が現れ、多くの人々を誘惑するでしょう。そして非道徳がはびこり、多くの慈善が冷めてしまうでしょう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。

 ゆえに、もし誰かがあなたに「キリストがここにいる」とか「キリストがあそこにいる」と言っても絶対に信じてはなりません。あるいは偽キリストや偽預言者たちが現れ、大きな奇蹟や驚くべきことを行い、できれば、選ばれた者たちをも誘惑しようとするでしょう。(マタイ 第二十四章 4,5,11‐13,23、24、マルコ 第十三章 5,6,21,22)
   
℘351    
  預言者たちの使命
四、一般に、預言者には未来を予見する才能があるとされるために、預言と予言は同意語のように認識されています。福音上の意味においては、預言者と言う言葉はより広い意味を持っています。

人類を指導する使命を持ち、不可視の事柄や霊的生活の秘密を人類に示す、神より送られたすべての者を指します。ゆえに、未来を予言することが無くとも預言者であり得ます。それがイエスの時代のユダヤ人たちの考え方であったのです。

そしてそのことから、イエスが最高司祭カイファの前へ連れて行かれた時、書記官や長老が集まって、イエスの頬に唾を吐きかけ、イエスを殴ったり打ったりしながら、「キリストよ、私たちに預言し、お前を打ったのは誰か言ってみろ」と言ったのです。

しかしながら、直感的、もしくは神よりの啓示として未来を予知し、人類への報せを伝える預言者も存在していました。そして予言された出来事が実際に起きたことから、未来を予知することが預言者に属する能力の一つとして考えられていたのです。  


 偽預言者たちの奇蹟 
五、「偽キリストや偽預言者たちが現れ、大きな奇蹟や驚くべきことを行い、できれば、選ばれた者たちをも誘惑しようとするでしょう」。この言葉は私たちに、奇蹟と言う言葉の真の意味を教えてくれています。

宗教学的には、奇蹟もしくは奇跡とは、自然の法に反した特別な現象を意味します。それらすべてを神が神だけが行える業としているため、神が望めばそれを取り消すことができるということは、疑いようもありません。

しかし神が、劣等で非道な者たちに神と等しい力を与える筈はなく、ましてや神が成したことをやり変える権利を与えるはずはないと、私たちの良識は即座に訴えます。

こんな原則をイエスが神聖化したはずはありません。もし、この言葉の文字どおり、悪の霊が選ばれた者さえも騙すような奇蹟を引き起こす力を持ち、神が行うようなことを行えるのであれば、奇蹟や奇跡は神から送られてきた者たちだけの特権ではなくなり、聖人の奇蹟と悪魔の奇蹟を区別するものがないことになってしまいます。

よって、これらの言葉の、もっと合理的な意味を見出すことが必要になります。

 一般の無知な人にとって、原因のわからない現象は、すべてが超自然で、すばらしく、奇跡的な現象となってしまいます。その原因が分かれば、その現象は、それがどんなに特異なものに見えても、自然の法則に適合した現象に過ぎないのだと認識するようになります。

こうして、超自然的な事柄の輪は科学の輪の広がりとともに狭まっていきます。どんな時代にも、自らのためにその野心や利害と支配欲によって、超人的な力の持ち主と言う権威を得ようとしたり、自分を神の使いであると思わせようと、所有するある種の知識を悪用した人々が存在しました。

こうした人々が偽キリストであり、偽預言者なのです。光が広がることによって、彼らは信用を失い、結果的にそうした者たちの数は人類が啓発されるに従って減少していきます。

つまり、人々が奇蹟と考えるようなことを行うことは、神からの使いであるしるしとはならず、誰にでも手の届くなんらかの知識や特別な肉体的能力を発揮させたことによる結果であり、それにふさわしくない者にでも、それにふさわしい者と同様にその所有は禁止されていないのです。

真なる預言者は、その真摯な態度や道徳性によってのみ知ることができます。    

    
 全ての霊を信じてはなりません
六、愛する者たちよ、あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい。なぜなら、世には多くの偽預言者が存在するからです。(ヨハネの第一の手紙 第四章1)


七、霊の現象は、一部の人たちが好んでそう言うように、偽キリストや偽預言者を助長するどころか、反対に、彼らに致命的な一撃を与えます。スピリティズムに奇蹟や奇跡を求めてはなりません。

なぜなら、そのようなものが引き起こされることはないと決定的に宣言しているからです。物理学や化学、天文学や地学が物質世界の法を解き明かすのと同様に、スピリティズムは科学にとっての自然の法則のように、その他の知られざる法則、霊の世界と物質世界の関係を支配する法則を解き明かします。

今日にいたるまで理解されていない現象の一種の法則の解説を提供し、依然として驚異の支配下に存在し続ける事柄を破壊します。

このことから、現象を自分自身の利益のために悪用したいと考え、自分を神より送られた救世主に仕立てようとしても、他人の信用を長い間もてあそぶことはできず、じきに仮面を引き剥がされることになるでしょう。

もっとも、すでに述べたように、そうした現象は引き起こすだけでは何を証明することもありません。使命とは道徳的な影響によって証明されるのであり、それは誰にでも引き起こせることではありません。それが、スピリティズムの科学の発展の結果のひとつです。

ある現象の原因を調べることによって、多くの神秘のベールを剥がすことになります。光よりも闇を好む者だけが、スピリティズムをうち消そうとします。しかし、真実とは太陽のようなものです。最も濃い霧をも消失させるのです。

 スピリティズムは、偽キリストや偽預言者よりもずっと危険な分類、すなわち生きた人々の間ではなく、肉体を失った死者の間に存在する分類について明らかにしています。

それは人を騙す霊、偽善的な霊、高慢な霊、知ったかぶりをする霊たちの分類であり、彼らは地上を後にして幽界へ行くと尊敬される名前を名のり、ありとあらゆるばかげた考えをより容易に受け入れさせようと仮面を被ります。

彼らは霊媒の関係について知られる以前は、直感を与えたり、聴覚に訴えたり、無意識のうちに話をさせる霊媒性といった、より目立たぬ方法を通じて行動していました。

さまざまな時代において、そして特に最近では、キリスト、マリア、その母、もしくは神とまで、自分を称する者の数は相当なものです。聖ヨハネは人類がそのような者たちに気をつけるように、次のように言っています。

「愛する者たちよ、あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい。なぜなら、世には多くの偽預言者が存在するからです」。

スピリティズムは、善霊であることを見分ける、常に道徳的で、決して物質的ではない特徴を示すことによって(→FEB版注1)、私たちが霊たちを試す手段を与えてくれています。それは悪い霊と善い霊を区別する方法で、特に次のイエスの言葉をあてはめることができます。

「悪い果実を結ぶ木は善くないし、善い果実を結ぶ木は悪くない。このように、果実によってその木を知ることができます」。ある木を、そこになる果実の質によって判断するのと同様に、霊はそのなす行いの質によってその善悪を判断することが出来るのです。





  霊たちからの指導

 偽預言者 
八、もし誰かが「キリストがここにいる」と言っても、行ってはいけません。反対にその時は注意してください。なぜなら偽預言者が大勢いるからです。イチジクの木の葉が白くなりはじめるのが見えないのですか。多くの芽が花の咲く季節を待ち構えているのが見えないのですか。

また、キリストは「木を果実によって知る」と言いませんでしたか。ゆえに果実が苦ければ、その木が悪い木であることがわかるでしょう。しかし、もしその果実が甘く、健康的であれば、「悪い泉から純粋なものが出るはずがない」と言うでしょう。

 兄弟たちよ、そのように判断することで、なされた行いを試さなければいけないのです。

神からの力を授かったと言う者が高尚な性格を持った使命のしるしを示すのであれば、つまり、愛、慈善、寛大さ、心を和ませる善意といった、永遠のキリストの美徳を最も高いレベルにおいて有しているのであれば、あるいは、言葉に伴った行動を取っているのであれば、「彼らは真に神より送られてきた」ということができます。

 しかし、蜜のように甘く流れる言葉や、公の広場で祈る長い着物をまとったファリサイ人たちや書記官たちを信じてはいけません。真実を独占しようとする者たちを信じてはいけません。

 そうです。キリストはそうした者たちの間にはいません。その聖なる教義を広め、人々を更生させるためにキリストが送る者は、何よりもまず、模範に従って柔和で謙虚な心を持っています。自らの示す模範と豊富な忠告によって人類を救おうと、不信仰のもとへ走り、歪曲した道のあちらこちらを駆けまわる者は、本質的に謙虚で慎み深いのです。

ほんの少しの自尊心でも示す者からは、さわるものすべてを害す伝染性のある病から逃げるように逃げてください。誰もがその額や、特にその行動に、その偉大さ、あるいはその不完全性のしるしを持ち合わせていることを覚えおいてください。


 私の愛する子供たちよ、だから行ってください。背を向けることなく、隠しごとなしに、選択した恵みの道を歩んでください。いつも、恐れることなく行って下さい。永遠の目的への歩みを止めようとするあらゆるものから、注意深く遠ざかってください。

旅人たちよ、永遠の法を啓示し、謎に対するあなたたちの魂の抱くあらゆる願望を満たしてくれる、この優しい教義に心を開くのであれば、試練の痛みと闇の中にいる時間はあと少しだけとなります。

あなたたちの夢の中に一時的に姿を見せ、心には訴えなくとも霊を魅了して去って行く敏速な妖精たちは、実際に存在するのです。愛する者たちよ、もはや死は消滅し、あなたたちの知る光を放つ天使、新しい出会いと再結合の天使にその場所を譲ったのです。

創造主がその被造物に託した使命を正しく遂行したあなたたちは、その正義に対してなにを恐れる必要もありません。なぜなら、彼は慈悲を嘆願する迷える子供たちをいつも赦してくれる父であるからです。だから、止まることなく進み続けてください。

進歩をあなたたちの標語として掲げてください。あらゆるものにおける継続的な進歩を遂げ、最後には、あなたたちの先を行った者すべてが待っていてくれる、幸福な旅の終結を迎えることができますように。(ルイ ボルドー、1861年)



 真なる預言者の特徴 
九、「偽預言者は信じないこと」。この忠告はどの時代においても有益ですが、現代のような人類に変化が起こる変遷の時代においては特に有益で、それは、そのような時代には野心に満ちた策略家たちの大群が、変革者や救世主と自称するからです。

そしてこうしたペテン師たちからは身を守らなければならず、正直な者にはみな彼らの化けの皮を剥がす義務が生まれるのです。あなたたちはきっとペテン師たちをどうすれば知ることが出来るかと尋ねるでしょう。それを示したものがここにあります。

 唯一、自分の軍隊を指揮することのできる有能な将校だけがそうすることができるのです。あなたたちは神が人間よりも慎重さに劣っていると考えるのですか。

神はその任務を遂行する能力があると分かっている者にしか重要な使命を託すことはないのだということを確信してください。なぜなら、偉大なる任務と言うのは重たい衣装のようなもので、それを身につける力に乏しい人間はその任務に押しつぶされてしまうからです。

あらゆることにおいて、師はその弟子よりも多くを知っている必要があります。人類を知性的、道徳的に進歩させるには、知性と道徳性において優れた人が必要なのです。

それゆえに、こうした使命のためには、過去の人生でその試練を果たしてきている、すでに進歩した霊がいつも選ばれますが、というのも、もし行動する環境の中においてより優れていなかったら、その行動が周りに及ぼす結果は皆無となってしまうからです。


 これらのことから、神より送られた真の使節と言うのは、その優位性、その美徳、その偉大さ、そのなす行いの持つ道徳的影響力、その託されているという使命の内容によって、それを証明するのであると結論づけなければなりません。次のことも導きだしてください。

もし、神より送られたと主張する者が、その性格、その美徳、その知性において、その持つ役割や名のる人物よりも劣っているのであれば、それは自分で選んだモデルをまねることさえも知らぬ、程度の低いペテン師に過ぎないのです。

 もう一つの留意点があります。神より送られた真なる使節は、ほとんどの場合、自分がそうであることさえ知りません。彼らはその才能の力によって呼ばれたその使命を遂行し、嫌々ながらも、彼らを導き元気づける見えざる力に助けられますが、あらかじめ考えられた計画は存在しません。

一言で言えば次のとおりです。真なる預言者たちはその行いによってそうであることを示し、そうであることを推測させることができます。一方で、偽預言者たちは自らが神より送られた者だということを示そうとします。

前者は慎み深く謙虚です。後者は自尊心が強く、自信過剰で、偽善者たちがそうであるように高慢な態度で話し、自分を信じてもらえないことを常に恐れているようです。

 こうしたくわせ者たちの幾人かは、キリストの使徒となりすまそうとしたり、キリスト自身になりすまそうとしたりしましたが、恥ずかしいことにも人類の中には、そうした醜行をすっかり信じてしまった人がいました。

しかし、実に単純な思考を巡らせば、盲目者たちの目を開くには十分です。それは、もしキリストが地球上に再生したとすれば、その力とその美徳によってそのことは明らかになるはずだということです。もっとも、キリストが退化したというばかげた考えを認めるのであれば話は変わりますが。

同様に、もし神からそれに帰属するものを一つでも取り去ったとすれば、もはや神は存在しなくなるように、キリストの美徳のうち、たった一つでも取り去るのであれば、それはもはやキリストではなくなります。

「キリストとしてのあらゆる美徳を有しているだろうか」。ここが問われるところです。

彼らを観察し、その考えや行動を分析すれば、何よりもまず、彼らにキリストを特徴づける性格である謙虚さや、慈善が欠けていることがわかり、キリストの有していなかった質である愚かさや自尊心といったものに彼らが支配されていることが分かります。

現在、さまざまな国において、キリストになりすました者、エリアになりすました者、聖ヨハネや聖ペトロになりすました者が多く存在していますが、その誰もが絶対に本物であり得ないことを十分に承知し、彼らが単に他人の信心を利用し、彼らに耳を傾ける人々に頼って生きることが都合が良いと考えている者たちに過ぎないのだということを確信してください。

 ゆえに、現在のような革新の時代には特に、偽預言者たちを疑ってください。なぜなら多くのペテン師たちが、自分が神から送られたというからです。彼らは地上でその虚栄心を満足させようとしているのです。しかし、恐ろしい正義が彼らを待ち受けていることをあなたたちは確信してください。(エラストゥス パリ、1862年)


 幽界における偽預言者たち
十、偽預言者たちは人間の間にばかり存在するのではありません。さらに多くの数の偽預言者たちが自尊心の強い霊たちの間におり、愛と慈善に見せかけながら不和の種を蒔き、霊媒に受け入れられた後、人類にばかげた主義を植え付けようとし、人類の解放の一大事業を遅らせます。

そして騙そうとする相手をさらにうまく魅了し、その理論にもっと重要性を持たせるため、人類が大いに敬意を払ってのみ呼ぶ名前をためらいもなく名のります。

 彼らこそが人類の間に存在するさまざまなグループの間に敵意の原因を広め、個々に孤立し、お互いに警戒し合うようになるように強いるのです。そのことだけでも正体を暴くには十分です。

なぜなら、そのように行動することによって、彼らこそが最初にその意図をはっきりと打ち消すことになるからです。すなわち、そのような粗雑なペテンに騙される人々は盲目なのです。

 しかし、それ以外にもその正体を確認する方法は多くあります。彼らが属するという分類の霊たちはあまり善くないばかりでなく、優れて理にかなっているわけでもありません。では、どうすればよいでしょうか。

彼らを理性と良識のふるいにかけ、何が残るかを見ればよいのです。したがって、人類の悪に対する薬や人類の変革を達成する方法として、幻想的で実現不可能なことや、ばかげたくだらない方法を霊が指示した時には、それは無知でうそつきの霊であるという私に同意してください。

 一方で、個々が必ずしも真実を備えていなくとも、真実は何時も大衆の良識に評価され、そのことが新たな基準となるのだということを信じてください。もし二つの原理が矛盾するのであれば、二つの内のどちらが反響や共感が多いかを確かめることによって、両方の固有の価値の量を知ることができるでしょう。

それ以外にも、信者が次第に減少する教義の方が、信者が継続的に増加する教義よりも信憑性が高いのだと考えるのは不合理であるということはもちろんです。

神は真理がすべてに到達することを望むために、真理を狭い輪の中に託すことはありません。真理をさまざまな違った地点に出現させ、それによってあらゆる場所で闇のとなりに光を存在させるのです。

 孤立と離別を説く、独占的な助言者を装う霊たちに従うことなく拒否してください。彼らはほとんどが虚栄心の強いつまらぬ霊たちで、弱く信心深い人々を騙し、大げさな賛美を尽くさせ、彼らを魅了し、支配しようとします。

彼らは普通、生きている間は社会であれ家庭内であれ、独裁君主となる権力に飢えており、死後も圧制する犠牲者を求めているのです。一般に、神秘で奇異な性格を持った通信や、贅沢な儀式を命じる通信は信じてはいけません。こうした場合には、疑うべき理由が必ず存在します。

 また同様に、人類に対して真理が啓示される時には、真剣な霊媒のいる真剣な団体すべてに通信されるのであって、いうならば、たちどころに通信され、他の団体を排除してこの団体とあの団体だけに通信するというようなことはないということを確信してください。

憑依にあれば、どんな霊媒も完全ではありません。ある霊媒が特定の霊の通信しか受けないのであれば、その霊がどんなに高いレベルを装っても、それは明らかに憑依を示しています。

よって、通信を受けることを特権だと考えたり、迷信的な行いに従う霊媒や団体は、全て疑いようもなく典型的な憑依に支配されており、特に、支配する霊が、生者も死者もが尊ぶべき名によって着飾り、何としてでも衰えを許すまいとするのであればなおさらです。  

 すべての詳細と霊からの通信を理性と論理のふるいにかければ、その過ちや不合理性を拒否するのは容易だということは確実です。一人の霊媒が魅了され、その団体を錯覚させていることもあります。

しかし、他の団体が行う厳格な検証や、実験がもたらした科学、団体の責任者の高い道徳的権威、主要な霊媒が得る通信、理性と最善の霊たちの認証のしるしを持てば、悪意を持った騙す霊の集団から放たれる、うそつきで悪賢い内容に直ちに審判を下せるでしょう(→序章 Ⅱ スピリティズム教義の権威 霊たちによる教えの普遍的管理、「霊媒の書」第二部 第二十三章憑依について)。(聖パウロの弟子エラストゥス パリ、1862年)
        
    
  エレミアと偽預言者たち
十一、万軍の主はこう言われる、「あなたたちに預言をし、あなたたちを騙す預言者たちの声を聞いてはなりません。彼らは、自分たちの心に描くことを公にするだけで、主から学んだことは言わないからです。

彼らは、私を侮る者たちにこう言います、『あなたたちには平和が訪れるでしょう』と。そして、心の堕落してしまった者たちにはこう言います、『あなたたちにはどんな悪いことも起きないでしょう』と」。

 しかし、彼らのうちの誰が、主の忠言を聞いたというのでしょう。彼らのうちの誰が、主を見て、その言うことに耳を傾けたというのでしょう。

「私はこのような預言者を遣わしてはいません。彼らが自ら始めたのです。
 私は彼らにまったく告げてはいません。彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです。

 私は偽りを預言する預言者たちが、私の名を名のり『夢を見た。夢を見た』というのを聞きました。その偽りの預言が、自分たちの心の誘惑に他ならないうそを預言する者たちの心の中に、いったいいつまであるのでしょうか。

 だから、もしこうした人々が、預言者であれ、聖職者であれ、あなたたちに『主の重荷は何ですか』と問うのであれば、このように答えなさい。『主は、あなたたちこそがその重荷であり、遠くへ追いやると言っておられます』と」、(エレミア 第二十三章 16-18、21,25,26,33)
       
 友よ、あなたたちに伝えたいことは、この預言者エレミアの一節のことです。神はその口から言いました。「彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです」。

この言葉は、すでに当時、ペテン師や熱狂者たちが預言の力を濫用し、悪用していたことを明らかに示しています。結果的に、ほぼ盲目的とも言える人々の単純な信心を食いものにし、金、快楽のために預言をしました。

ユダヤの国にはこうした一種の詐欺が一般的であったことから、当時のかわいそうな大衆は、その無知のために善と悪の判断をすることができずにほとんど詐欺師や狂信者に他ならぬ預言者に成りすました者たちに騙され、ばかにされていたということは容易に理解できます。

「私はこのような預言者を遣わしてはいません。彼らが自らはじめたのです。私は彼らにまったく告げてはいません。彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです」と言う言葉以上に重要な言葉はありません。

さらに、「私は偽りを預言する預言者たちが、私の名を名のり『夢を見た。夢を見た』というのを聞きました」と書かれています。ここには、偽預言者たちが詐欺の対象とする人々の信用を食いものにした時の手段が示されています。

いつも信心深かった大衆は、その夢や空想の真実性を確かめようとは思いませんでした。それらを自然であると考え、いつも預言者たちに話してもらおうと招いたのでした。

 預言者の言葉を聞いた後には、使徒ヨハネの賢明な次の忠告を聞いてください。「あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい」。なぜなら、目に見えぬ者たちの間にも、機会があれば人を騙して喜んでいる者たちがいるからです。

騙された者たちとは、おわかりのように十分な用心のない霊媒のことです。疑いもなく、そこには多くの者、特にスピリティズムに接して間もない者が、不幸なことにもつまずいてしまう最大の障害が存在します。

そうしたことには、大いに慎重になることによってのみ、打ち勝てるのだということをあなたたちに証明しています。ゆえに、何よりもまず、善い霊と悪い霊を区別することを学び、あなたたち自身が偽預言者とならないようにして下さい。(守護霊ルオズ カールスルーエ、1861年)

●FEB版注1
 霊の区別の仕方を参照のこと(『霊媒の書』第二部 24章及びその続き)

 三章シアトルの春 再生の原理

Principle of Regeneration

Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor


〝再生〟───生れ変わり───はスピリチュアリストの間でも議論の的となっている問題で、とかく意見が食い違うことがある。

シルバーバチはこれを全面的に肯定するスピリットの一人であるが、ただ従来の輪廻転生説にみられる機械的な生の繰り返しでは無く、進化の為の埋め合わせを目的とし、しかも生まれ変わるのは同一霊の別の意識層であるとする。次がそれについての問答である。


───意識が部分的に分かれて機能することが可能なのでしょうか。

 「今のあなたという意識とは別に、同じくあなたと言える大きな意識体があります。それのホンの一部(分霊)がいま地上という物質界でそのあなたを通じて表現されているわけです。そして、あなたの他にも同じ意識体を構成する分霊が別の世界で表現されております」

(訳者注───ここでいう〝意識体〟は次の質問に対する答えの中に出てくる〝内奥の霊的実在〟と同じで、これを私は浅野和三郎氏に倣って〝中心霊〟と訳しておく)


───個々が独立しているのでしょうか。

 「いいえ、独立はしていません。あなたも他の分霊も一個の中心霊の側面です。つまり全体を構成する一部であり、それぞれがさまざまな媒体を通して自我を表現しており、時おりその分霊どうしが合体することもあります。

※ですから、分霊どうしが霊的に無縁というわけではありませんが、互いに意識するのは何らかの媒体を通して自己表現し始めてからのことです。そのうち合流点にたどり着いて、最終的には全体として一つに再統一されます」 

平成5年7月15日 第3刷発行では次のようになっている──※「合体したことに互いが気づかないこともありますが、それは表現しはじめて間もない頃(霊的な幼児期)にかぎられます。そのうち共通の合流点を見いだして最終的には全体として一つに統一されます。

(マイヤースはその部分的存在を〝類魂(グループソール)〟と呼んでいるー訳者)


───その分霊どうしが地上で会っていながらそうと気づかないことがあるのでしょうか。

 「中心霊を一つの大きな円として想像してください。その円を構成する分霊が離ればなれになって中心核のまわりを回転しています。時おり分霊どうしが会ってお互いが共通の円の中にいることを認識し合います。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て再びもとの円が完成されます」


───二つの分霊が連絡し合うことができますか。

 「必要があればできます」


───二つの分霊が同時に地上に誕生することがありますか。

 「ありません。全体の目的に反することだからです。個々の意識であらゆる界層での体験を得るということが本来の目的です。同じ界層へもう一度戻ることがあるのは、それなりに成就すべき(埋め合わせをすべき)ことが残っている場合に限られます」


───個々の意識はみずからの進化にみずからが責任を負い、他の分霊の体験による恩恵は受けないというのは本当でしょうか。

 「そのとおりです。個々の霊は一つの中心霊の構成分子であり、さまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて小我が大我を意識していきます」

(訳者注ーマイヤースは〝類魂〟の説明の中で他の仲間の体験を自分のものとすることが出来ると述べている。ここでシルバーバーチはそれを否定するかのようなことを述べているが、マイヤースが喜怒哀楽を中心とした体験を言っているのに対して、シルバーバーチは例によって因果律の観点から述べているのであって、たとえ同じ類魂同士とはいえ、他の仲間の苦難の体験によって罪業が中和されたりすることはないという意味に解釈すべきである)


───そうして進化のある一点においてそれらの小我が一体となるわけですね。

 「(理屈では)そうです。無限の時を経てのことですが・・・」


───個々の小我の地上への誕生は一回きり、つまり大我としては再生の概念は当てはまっても小我には再生はないという考えは正しいでしょうか。

 「それは成就すべき目的いかんに関わる問題です。同じ小我が二度も三度も再生することがあります。ただしそれは特殊な使命のある場合に限られます」


───一つの意識体の個々の部分、というのはどういうものでしょうか。
 
 「これは説明の難しい問題です。あなた方には〝生きている〟ということの本当の意味が理解できないからです。実はあなた方にとっての生命は実質的には最も下等な形態で顕現しているのです。

そのあなた方には生命の実体、あなた方に思いつくことのできるものすべてを超越した意識を持って生きる、その言語を絶した生命の実情はとても想像できないでしょう。

 宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかなカゲを見たにすぎません。

鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう。

 私の苦労を察してください。譬えるものがちゃんとあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれが無い。あなた方にはせいぜい光と影、日向と日陰の比較ぐらいしかできません。虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明できないほどの美しい霊界の色彩を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです」


───再生は自発的なものでしょうか。それとも果たすべき目的があってやむを得ず再生するのでしょうか。

 「そのいずれの場合もあります」


───ということは、つまり強制的ということですね。

 「強制的という言葉の意味が問題です。誰かに再生しろと命令されるのであれば強制的と言ってもいいでしょうが、別にそういう命令が下るわけではありません。ただ地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世での過ち、施すべきでありながら施さなかった親切、こうしたものを明確に自覚するようになり、今こそ実行するのが自分にとって最良の道だと判断するのです」


───死後は愛の絆のある者同士が生活を共にすると聞いておりますが、愛する者が再生していったら残った者との間はどうなるのでしょうか。

 「別に問題はありません。物的な尺度で物ごとを考えるからそれが問題であるかに思えてくるのです。何度も言っていることですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分に過ぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。

一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、その内の幾つかが地上に誕生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間には物質という壁ができて一時的な分離状態になることは確かです。が、愛の絆のあるところにそんな別れは問題ではありません」


───霊魂は一体どこから来るのですか。どこかに魂の貯蔵所のようなものがあるのでしょうか。地上では近頃産児制限が叫ばれていますが、作ろうと思えば子供は幾らでも作れます。でもその場合、魂はどこから来るのでしょうか。

 「あなたのご質問には誤解があるようです。あなたがた人間が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは霊魂が自我を表現するための器官を提供することだけです。生命の根源である〝霊〟は無限です。無限なるものに個性はありません。

その一部が個体としての表現器官を得て地上に現われる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。霊は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。しかし個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。

霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大勢います。その中にはもう一度地上へ行って果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が沢山います。そして、その目的のためのチャンスを与えてくれる最適の身体を求めているのです」


───人間の霊も原始的段階から徐々に進化してきたものと思っていましたが・・・

 「そうではありません。それは身体について言えますが霊は無始無終です」


───古い霊魂と新しい霊魂との本質的な違いはどこにありますか。

 「本質的な違いは年輪の差でしょう。当然のことながら古い霊魂は新しい霊魂より年上ということです」


───類魂の一つひとつを中心霊の徳性の表現とみてもいいでしょうか。

 「それはまったく違います。どうも、こうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の日のあの青く澄みきった空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります」


───それはマイヤースの言う類魂と同じものですか。

 「まったく同じものです。ただし、単なる類魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が体験を求めて物質界にやって来るのです」


───その意識の本体に戻った時各霊は個性を失ってしまうのではなかろうかと思われるのですが・・・・・。

 「川が大海へ注ぎ込んだとき、その川の水は存在が消えてしまうのでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、例えばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」


───なぜ霊界の方から再生の決定的な証拠を提供してくれないのでしょうか。

 「霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などありえるでしょうか。意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になって初めて事実として認識されるのです。再生はないと言う者が私の世界にもいるのはそのためです。

まだその事実を悟れる段階にまで達していないからそう言うに過ぎません。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしょうがないでしょう。芸術家がインスピレーションの体験話を芸術的センスのない人に聞かせてどうなります。意識の段階が違うのです」


───再生するということが自分で分かるのでしょうか。

 「魂そのものは本能的に自覚します。しかし知的に意識するとはかぎりません。神の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現してもその分量は僅かであり、表現されない部分が大半を占めています」


───では無意識のまま再生するのでしょうか。

 「それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識しない霊もいます。魂が自覚していても、知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題で、とてもあなた方の言語では説明しかねます」


───生命がそのように変化と進化を伴ったものであり、生れ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか。

「愛は必ず成就されます。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は必ず愛する者を引寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同志を永久に引き裂くことは出来ません」


───でも再生を繰り返せば互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが。

 「一致しないのはあなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙及びその法則は神が拵えたのであって、その子供であるあなた方が拵えるのではありません。賢明なる人間は新しい事実を前にすると自己の考えを改めます。自己の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても所詮は徒労に終わることを知っているからです」


───これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもいいと思うのですが・・・。

 「物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間は何時までも最下等のままです。体験を積めば即成長というわけにはいきません。要は魂の進化の問題です」


───これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか。
 
 「そうです。無限に続きます。なんとなれば苦難の試練を経て始めて神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて初めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて始めて強く逞しい輝きを見せるのです」

───そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか。

 「今日あなたには天国と思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」


───再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、と言う具合に。

 「そうとは限りません。目指している目的のために最も適当と思われる国、民族を選びます」


───男性か女性かの選択も同じですか。

 「同じです、必ずしも前生と同じ性に生まれるとは限りません」


───死後、霊界へ行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してから又同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか。

 「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。

生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとは限りません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。

ましてや二度も罰せられるということは決してありません。神の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して片手落ちということがないのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」


───自分は地上生活を何回経験している、ということをはっきりと知っている霊がいますか。

 「います。それが分かるようになる段階まで成長すれば自然にわかるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることはできないのと同じです。名前を幾つかあげても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は〝説く〟だけで十分なはずです。

私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。

私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向にかまいません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。人が受け入れないからといって、別にかまいません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう」


───再生問題は問題が多いから、それを避けて、死後の存続ということだけに関心の的を絞るという考えは如何でしょう。

 「闇の中にいるよりは光の中にいる方がよろしい。無知のままでいるよりは摂理を少しでも多く知った方がよろしい。何もしないでじっとしているよりは、真面目に根気よく真理の探究に励む方がよろしい。向上を目指して奮闘するのが良いに決まっています。死後存続の事実は真理探究の終着駅ではありません。

そこから始まるのです。自分が神の分霊であること、それ故に何の苦もなく、何の変化もなく〝死〟の関門を通過できるという事実を理解したとき、それで全てがおしまいになるのではありません。そこから本当の意味で〝生きる〟ということが始まるのです」


───新しい霊魂はどこから来るのですか。

 「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。

聖書でも〝神は霊なり〟と言っております。ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう」


───ということは、われわれは神という全体の一部だということですか。

 「その通りです。だからこそあなた方は常に神と繋がっていると言えるのです。あなたという存在は決して切り捨てられることはあり得ないし、消されることもあり得ないし、破門されるなどということもあり得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります」


───でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう。

 「これまた用語の意味が厄介です。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。その意味でしたら、それはよくあることです。

但し、それは今地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します」


───再生するに際して過ちのないように指導監督する官庁のようなものが存在するのでしょうか。

 「こうした問題は全て自然法則の働きによって解決されます。再生すべき人は自分でそう決心するのです。つまり意識が拡大し、今度再生したらこれだけの生長が得られるということがわかるようになり、それで再生を決意するのです。再生専門の機関や霊団がいるわけではありません。全て魂自身が決めるのです」


───再生するごとに進歩するのでしょうか。時には登りかけていた階段を踏み外して一番下まで落ちるというようなこともあるのでしょうか。

「すべての生命、特に霊的な生命に関するかぎり、常に進歩的です。今は根本的な霊性についてのみ述べています。それが一ばん大切だからです。一たん神の摂理に関する知識を獲得したら、それを実践するごとに霊性が生長し、進歩します。進歩は永遠に続きます。なぜなら、完全なる霊性を成就するには永遠の時間を要するからです」


───先天性心臓疾患の子や知能障害児は地上生活を送っても何の教訓も得られないのではないかと言う人がいます。私たちスピリチュアリストはこうした難しいことは神を信じて、いずれは真相を理解する時が来ると信じているわけですが、疑い深い人間を説得するいい方法はないものでしょうか。

 「疑い深い人間につける薬はありません。何でも疑ってかかる人は自分で納得いくまで疑ってかかればよろしい。納得がいけばその時初めて疑いが消えるでしょう。私は神学者ではありません。宗教論争をやって勝った負けたと言い争っている御仁とは違います。

すべては悟りの問題です。悟りが開ければ、生命の神秘の理解がいきます。もっとも、全てを悟ることはできません。全てを悟れるほどの人なら地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。

少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。すると更に次の段階の真理を理解する力がつくわけです。それが人生の究極の目的なのです。激論し合ったり、論争を求められたりするのは私はごめんこうむります。

私はただこれまで自分が知り得たかぎりの真理を説いて教えてさし上げるだけです。お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば、〝そうですか。それは残念ですね(アイアムソリー)〟と申し上げるほかはありません」


───霊にいくつかの側面があり、その内の一つが地上に生れ、残りは他の世界で生活することもあり得る、という風におっしゃいましたが、もう少し詳しく説明していただけませんか。

 「私たち霊界の者は地上の言語を超越したことがらを、至ってお粗末な記号にすぎない地上の言語でもって説明しなくてはならない宿命を背負っております。言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものを、どうして地上的用語で説明できましょう。これは言語学でいう意味論の重大な問題でもあります。

私に言わせれば、霊とはあなた方のいう神 God 、私のいう大霊 Great Spirit の一部分です。あなた方に理解のいく用語で表現しようにも、これ以上の言い方は出来ません。生命力 life force 動力 dynamic、活力 vitality、本質 real essence、神性 divinity、それが霊です。

かりに私が〝あなたはどなたですか〟と尋ねたらどう答えますか。〝私は〇〇と申すものです〟などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方か皆目分かりません。

個性があり、判断力を持ち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することの出来る人───それがあなたであり、あなたという霊です。その霊があるからこそ肉体も地上生活が営めるのです。

霊がひっこめば肉体は死にます。霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性を持っています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。

その霊にいつくかの面があります。それを私はダイヤモンドに譬えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。

もしも二人の人間が別格に相性がいい場合(めったにないことですが)それは同じダイヤモンドの二つの面が同じ時期に地上に誕生したということが考えられます。

そうなると当然、二人の間に完全なる親和性があるわけです。調和のとれた全体の中の二つの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます」


───あなたがダイヤモンドに譬えておられるその〝類魂〟について、もう少し説明していただけませんか。それは家族関係(ファミリー)のグループですか、同じ霊格を具えた霊の集団ですか、それとも同じ趣味を持つ霊の集まりですか。あるいはもっとほかの種類のグループですか。


 「質問者がファミリーという言葉を文字通りに解釈しておられるとしたら、つまり血縁関係のある者の集団と考えておられるとすれば、私のいう類魂はそれとはまったく異なります。肉体上の結婚に起因する地上的姻戚関係は必ずしも死後も続くとは限りません。そもそも霊的関係というものは、その最も崇高なものが親和性に起因するものであり、その次に血縁関係に起因するものが来ます。

地上的血縁関係は永遠なる霊的原理に基づくものではありません。類魂というのは、人間性にかかわった部分にかぎって言えば、霊的血縁関係ともいうべきものに起因した霊によって構成されております。

同じダイヤモンドを形づくっている面々ですから、自動的に引き合い引かれ合って一体となっているのです。その大きなダイヤモンド全体の進化のために個々の面々が地上に誕生することは有り得ることですし、現にどんどん誕生しております」


───われわれ個々の人間は一つの大きな霊の一分子ということですか。
 
 「そういってもかまいませんが、問題は用語の解釈です。霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまで個性を具えた存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません」


───では今ここに類魂の一団がいるとします。その個々の霊が何百万年かの後に完全に進化しきって一個の霊になってしまうことは考えられませんか。

 「そういうことはあり得ません。なぜなら進化の道程は永遠であり、終わりが無いからです。完全というものは絶対に達成されません。一歩進めば、さらにその先に進むべき段階が開けます。聖書に、己を忘れる者ほど己を見出す、という言葉があります。これは個的存在の神秘を説いているのです。

つまり進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていくということです。おわかりですか。個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている神的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです」


───〝双子霊〟Twin Souls というのはどういう場合ですか。

 「双子霊というのは一つの霊の半分ずつが同時に地上に生を享けた場合のことです。自分と同じ親和性を持った霊魂───いわゆるアフィニティ affinity── は宇宙にたくさんいるのですが、それが同じ時期に同じ天体に生を享けるとは限りません。

双子霊のようにお互いが相補い合う関係にある霊同士が地上で巡り合うという幸運に浴した場合は、正に地上天国を達成することになります。霊的に双子なのですから、霊的進化の程度も同じで、従ってその後も手に手を取り合って生長していきます。私が時おり〝あなたたちはアフィニティですね〟と申し上げることがありますが、その場合がそれです」


───双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう。

 「肉体的にはその通りです。しかしそれもホンの束の間のことです。肝心なのは二人は霊的に一体関係にあるということですから、物質的な事情や出来ごとがその一体関係に決定的な影響を及ぼすことはありません。しかも、束の間とはいえ地上での何年かの一緒の生活は、霊界で一体となった時と同じく、素晴らしい輝きに満ちた幸福を味わいます」


───物質界に誕生する霊としない霊がいるのはなぜですか。

 「霊界の上層部、つまり神庁には一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験をしなくても成長進化を遂げることが出来るのです。頭初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上に降りてくることがあります。歴史上の偉大なる霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります」


───大きな業(カルマ)を背負って生れてきた人間が、何かのキッカケで愛と奉仕の生活に入った場合、その業がいっぺんに消えるということは有り得ますか。

 「自然法則の根本はあくまでも原因と結果の法則、つまり因果律です。業もその法則の働きの中で消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消えることはありません。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じ、その結果の中に次の結果を生み出す原因が宿されているわけで、これはほとんど機械的に作動します。

質問者がおっしゃるように、ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。しかし、いっぺんにというわけには行きません。愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えていき、やがて完全に消滅します。業という借金をすっかり返済したことになります」


───戦争と事故、疾病などで何万もの人間が死亡した場合も業だったのだと考えるべきでしょうか。もって生まれた寿命よりも早く死ぬことはないのでしょうか。戦争は避けられないのでしょうか。もし避けられないとすると、それは国家的な業ということになるのでしょうか。

 「業というのは詰るところは因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。これは神の公正の証として神が用意した手段の一つです。もし介入が許されるとしたら、神の公正は根底から崩れます。

因果律というのは行為者にそれ相当の報酬を与えるという趣旨であり、多すぎることも少なすぎることもないよう配慮されています。それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についても当てはまります。次に寿命についてですが、寿命は本来、魂そのものが決定するものです。

しかし個人には自由意志があり、また、もろもろの事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。戦争が不可避かとの問いですが、これはあなた方人間自身が解決すべきことです。

自由意志によって勝手なことをしながら、その報酬は受けたくないというようなムシのいい話は許されません。戦争をするもしないも人間の自由です。が、もし戦争の道を選んだら、それをモノサシとして責任問題が生じます」


───寿命は魂そのものが決定するとおっしゃいましたが、すべての人間に当てはまることでしょうか。たとえば幼児などはどうなるのでしょう。判断力や知識、教養などが具わっていないと思うのですが・・・。

 「この世に再生する前の判断力と、再生してからの肉体器官を通じての判断力とでは大きな差があります。もちろん再生してからの肉体器官の機能の限界のために大きな制限を受けます。しかし大半の人間は地上で辿るべき道程について再生前からあらかじめ承知しています」


───地上で辿るべきコースが分っているとすると、その結果得られる成果についてもわかっているということでしょうか。

 「その通りです」


───そうなると、前もって分っているものをわざわざ体験しに再生することになりますが、そこにどんな意義があるのでしょうか。

 「地上に再生する目的は、地上生活から戻って来て霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もって分ったからといって、霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。

 たとえば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えますまい。霊的生長というのは実際に物ごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の全目的があります」


───航空機事故のような惨事は犠牲者及びその親族が業を消すためなのだから前もって計画されているのだという考えは、私にはまだ得心がいきませんが・・・。

 「ご質問はいろいろな問題を含んでおります。まず、〝計画されている〟という言い方はよくありません。そういう言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事を引き起こしているように聞こえます。すべての事故は因果律によって起こるべくして起きているのです。

その犠牲者───この言い方も気に入りませんが取り敢えずそう呼んでおきます───の問題ですが、これには別の観方があることを知って下さい。つまり、あなた方にとって死は確かに恐るべきことでしょう。が私たち霊界の者とっては、ある意味で喜ぶべき出来ごとなのです。

赤ちゃんが誕生すればあなた方は喜びますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるのです。反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらは大よろこびでお迎えしています。

次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。これは運命と自由意志という相反する二つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です。

つまり運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されているわけです。説明の難しい問題ですが、そう言い表すほかにいい方法が思い当たりません」


───事故が予知できるのはなぜでしょう。

 「その人が一時的に三次元の物的感覚から脱して、ホンの瞬間ですが、時間の本来の流れをキャッチするからです。大切なことは、本来時間というのは〝永遠なる現在〟だということです。このことをよく理解して下さい。人間が現在と過去とを区別するのは、地上という三次元の世界の特殊事情に起因するのであって、時間には本来過去も未来もないのです。

三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になることが今現在において知ることが出来ます。もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味を持つかは、これはまた別の問題です。

単に物的感覚の延長に過ぎない透視、透聴の類の心霊的能力 Psychic Powers によっても予知できますし、霊視・霊聴の類の霊感 spiritual Powers によっても知ることが出来ます。Psychic と spiritual は同じではありません。

いわゆる ESP (Extra Sensory Perception 超感覚的知覚 )は人間の霊性には何のかかわりもなく、単なる五感の延長に過ぎないことがあります」

  
───占星術というのがありますが、誕生日が人の生涯を支配するものでしょうか。

 「およそ生命あるものは、生命を持つが故に何らかの放射を行っております。生命は常に表現を求めて活動するものです。その表現は昨今の用語で言えば波長とか振動によって行われます。

宇宙間のすべての存在が互いに影響し合っているのです。雷雨にも放射活動があり、人体にも何らかの影響を及ぼします。言うまでもなく太陽は光と熱を放射し、地上の生命を育てます。

木々も永年にわたって蓄えたエネルギーを放射しております。要するに大自然すべてが常に何らかのエネルギーを放射しております。従って当然他の惑星からの影響も受けます。それはもちろん物的エネルギーですから、肉体に影響を及ぼします。しかし、いかなるエネルギーも、いかなる放射性物質も、霊魂にまで直接影響を及ぼすことはありません。

影響するとすれば、それは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度に過ぎません」


───今の質問者が言っているのは、例えば二月一日に生まれた人間はみんな同じ様な影響を受けるのかという意味だと思うのですが・・・。

 「そんなことは絶対にありません。なぜなら霊魂は物質に勝るものだからです。肉体がいかなる物的影響下におかれても、宿っている霊にとって征服できないものはありません。

もっともその時の条件にもよりますが。いずれにせよ肉体に関するかぎり、すべての赤ん坊は進化の過程の一部として特殊な肉体的性格を背負って生まれてきます。それは胎児として母体に宿った日や地上に出た誕生日によって、いささかも影響を受けるものではありません。

しかし、そうした肉体的性格や環境の如何にかかわらず、人間はあくまで霊魂なのです。霊魂は無限の可能性を秘めているのです。その霊魂の未来の力を発揮しさえすれば、いかなる環境も克服しえないことはありません。もっとも、残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂の方が右往左往させられておりますが・・・」


───これから先のことはどの程度まで運命づけられているのでしょうか。それは自分の行いや心掛けによってどの程度まで変えられるのでしょうか。

〝なあ、ブルータスよ、
オレたちがうだつが上がらんのは星のせいじゃない。
オレたち自身が悪いのさ〟(シェークスピア)

〝門がいかに狭かろうが
いかなる逆境が運命の巻き物に記されていようと、
私は平気だ。なぜなら
運命の主人公はこの私だからだ。
私が魂の指揮者なのだ〟(W・E・ヘンリー)


 この二つの誌文を引用してからシルバーバーチはこう続けた。
 「惑星は物的存在です。それぞれに放射物を出しバイブレーションを発しております。しかしあなた方は物的存在であると同時に霊的存在です。内部には、物的なものから受ける影響のすべてを克服する力を具えております。未来は過去が生んでいきます。

自分の行為を思念によって創り出していくのです。大自然の法則についてはすでにお話しました。その一つに因果律があります。自分が蒔いたタネは自分が刈り取るという法則です。ある花のタネを蒔けば、その種の花が咲き、それ以外の花は咲きません。あなた方の未来も同じです。

過去と現在によって決定されるのです。外部から与えられる罰ではありません。自分でこしらえていくのです。これから先どうなるのだろう───こうした不安の念を抱くということそれ自体が、それを本当に実現させる手助けをしていることになります」


 出席者がしきりに〝災害〟とか〝悲劇〟とかの言葉を使って語り合っているのを聞いていてこう述べた。

 「物的な側面だけを見つめてはいけません。物的尺度で無限なるものを計ることはできません。そのことを常に念頭において物事を判断して下さい。物的な目だけで見れば地上は不公平だらけです。しかし悪行に対する懲罰があるように、善行に対する報酬も必ずあります。

霊的な天秤はいつかは平衝を取り戻すようになっているのです。地上生活は永遠なる生命のごく短い一時期に過ぎません。

 人間にとって悲劇に思えることが私どもにとって有難いことである場合があります。人間が有難がっていることが私どもにとって困ったことである場合があります。人間は私たちから見てどうでもいいこと、あるいは霊的に何の価値もないものを大切にしすぎます。財産、この世的な富、権力、支配への欲望です。強欲と貪欲によって動かされている人間が多すぎます」


 さらに霊的進化について聞かれて───

 「霊に関わる分野において進歩が容易に得られることは有り得ません。もし容易であれば成就する価値がないことになります。霊的進化はもっとも成就しがたいものです。一歩一歩の向上が鍛錬と努力と献身と自己滅却と忠誠心によってようやく克ち得られるものだからです。

霊的褒賞を手に入れるには奮闘努力がいるのです。もしも簡単に手に入るものであれば価値は無いことになります。価値が出るのは入手が困難だからです。それはいつまでも終わることのない道程です。霊的進化に終局というものはありません。水平線のようなものです。近づくほどに遠ざかっていきます。

 それと同じで、学べば学ぶほど、さらに学ぶべきのものがあることを知ります。進歩は知識や真理や叡智と同じく、限界というものがありません。ここまでという区切りがないのです。

一段よりも二段が上であり、二段よりも三段が上であり、三段よりも四段が上であるに決まっていますが、いずれもそこまでの到達度を示しているにすぎません。一段一段が人生の目的、真実、人生の拠って立つ永遠の原理をそれだけ多く理解したという指標であり、その理解と共に調和が訪れます。

 成就は調和を生みます。宇宙を支配する霊力を身につけるごとに、それだけその根源との調和が深まります。生活が豊かさを増します。本当の価値の識別力が身に付きます。その識別力が正しく働くようになります。選択の優先順位がきちんと決められるようになります。何がもっとも大切であるかが分かるようになります。

ほかの人たちが必死に追い求めるものがあほらしく思えるようになります。この世的な富への執着がすっかり無くなった時、霊の宝がいささかも色褪せることなく、傷つくこともなく、常に本来の純粋素朴な美しさを見せるものです。

 私は物質面での進歩についてあれこれ申し上げる立場にありませんが、物的進歩にもそれなりの役割があります。身体にとって必須のものを無視することは私どもの教えに反します。身体がその正しい成長にとって必須のものをきちんと得ていないと、霊も正しく機能を発揮することが出来ません。

大切なのは身体と精神と霊の調和です。この三者が一体となって機能し、その結果として健康と幸福と冷静さと自信と決断力と安らぎが得られるのです。

 霊的なことばかり気を奪われて身体上のことをおろそかにすることは、身体のことばかり気を奪われて霊的なことをなおざりにするのと同じく間違っております。心の修養にばかりこだわって他の側面を忘れるのもまた間違っております」
                 

  

Tuesday, April 1, 2025

シアトルの春 最後に来た労働者たち

Workers who came last




 一、天の国とは、自分のブドウ園で働く労働者たちを雇いに、朝早く出かけたある家の主人と同じである。彼は、労働者一人につき、一日一デナリオを支払うことを取り決めると、ぶどう園へ行くように言った。九時頃になって再び出て行くと、広場でなにもせず会話をしている者たちをみつけた。

彼らに言った、「あなたたちも私のぶどう園へいけば、それに見合う賃金を支払いましょう」。彼らは行った。

十二時頃と三時頃にも再び出て行き、同じことをした。五時頃になり、再び出て行くと、また暇そうにしている者たちを見つけたので、次のように言った。

「なぜ、あなたたちは、働かずに一日中ここにいたのですか」。彼らは自分たちを誰も雇ってくれなかったのだと言った。するとその者たちに言った、「あなたたちも私のぶどう園へ行きなさい」。

 夕方になると、ぶどう園の主人はその仕事を監督していた者に言った、「労働者たちを呼び、最後に来た者から順番に、最初に来た者にまでわたるように賃金を支払いなさい」。そして五時に来た者たちがきて、一人一デナリオを受け取った。

最初に雇われた者たちの順番が来ると、より多く貰えるだろうと思い込んでいたにも関わらず、受け取ったのは一人一デナリオだけだった。

受け取ると、主人に対して不満を言った、「最後に来た者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日中、暑さと重さに耐えた私たちと同じだけ支払うのですか」。

 しかし、主人は答えて彼らに言った。「友よ、私はあなたに対してどんな損も与えていない。あなたは私と、一日一デナリオという取り決めをしたではありませんか。自分に与えられた賃金を受け取り、行きなさい。最後に来た者にも、私はあなたと同じだけ与えたいのです。

自分のものを自分が望むようにしてはいけないのですか。それとも、私が善いことを妬ましく思うのですか」。このように、最後の者が最初になり、最初の者は最後になるのです。なぜなら、呼ばれる者は多いが、選ばれる者は少ないからです。(→第十八章 1 結婚披露宴のたとえ話)。(マタイ第二十章 1-16)
  
  



   霊たちからの指導

  最後の者が最初になる
二、最後に来た労働者に報酬を受ける権利はありますが、雇ってくれる者の為に働く意欲を抱いている必要があり、また怠惰や意欲が低いために遅れてきたのであってはいけません。

なぜ報酬を受ける権利があるかと言えば、夜明けから、彼を仕事に呼んでくれる人が来るのを首を長くして待っていたからです。働き者でありながら、仕事が不足していたのです。

 しかし、「私たちは辛抱強い。休息は私に心地よい。ギリギリになってその日の報酬のことを考えればよい。私が知りもしなければ尊敬もしない雇い主にどうして迷惑をかける必要があるのか。

より遅くなってから働けばよい」と言って、もしその日の早い時間に働くことを拒否していたとしたらどうでしょうか。友よ、このような者には労働者としての報酬はなく、怠惰な者にふさわしい報酬しかなかったでしょう。

 では、働かずにいるばかりか、労働に当てられるべき時間をくだらないことに使い、神を冒涜し、兄弟の血を流し、家族に動揺を与え、その人に託されたものを破壊し、無実の者につけ込み、ついには、人類のあらゆる不名誉を増大させてしまった者達にはなんと言えばよいでしょうか。

また、次のような者はどうでしょうか。最後の時がやってきてから、「主よ、私の時間を無駄にしてしまいました。私を一日が終わるまで雇って下さい。

そうすればほんの少しではありますが、私は自分の任務を果たすことができるので、やる気のある労働者の報酬をお与えください」。いけません。それではいけません。主はこう言うでしょう。「今あなたに与える仕事はない。あなたは自分の時間を浪費しました。

学んだことを忘れたのです。もうあなたは私のぶどう園では働けません。だから意欲のある時に学ぶことを再開し、私に申しでてください。そうすれば、あなたが一日のいつの時間でも働けるよう、私の広い農地をあなたに解放します」。

 愛する善きスピリティストたちよ。あなたたちはみな、最後に来た労働者です。「私は夜明けから働いているのだし、日が暮れれば仕事を終えるまでだ」という人は自尊心の強い人です。皆が呼ばれた時にやって来たのであり、ある者は少し早く、ある者は少し遅く、再生にたどりついたのであり、みなが地上での生活につながれているのです。

しかし、主は何世紀にもわたって、あなたたちをぶどう園に呼び続けていましたが、あなたたちはそこへ行こうとはしなかったのです。

あなたたちには報酬の弁済をする時がやって来たのです。あなたたちに残された時間を有効に使い、あなたの一生が、あなたたちにどんなに長く感じられても、永遠と呼ぶ時間に比べれば、ほんのつかの間に過ぎないのだということを忘れてはなりません。(守護霊 コンスタンティーノ ボルドー、1863年)


三、イエスは象徴の簡潔さを好みましたが、その男性的な表現で伝えた最初にやって来た労働者たちとは預言者、つまり段階的な進歩の過程で足跡を残したモーゼやその他すべての開始者たちのことを指しており、その進歩は後に、使徒たち、殉教者たち、教会の創設者たち、賢者たち、哲学者たち、そして最後にはスピリティストたちによって記されることになるのです。

後から来た者たちは、救世主の登場の兆しがあった頃から宣言され予言されており、ここで同じ報酬を、あるいは、より大きな報酬を受け取ることになるでしょう。

人類は集合的に仕事に取り組んでいるために、後から到着した者は先駆者たちの知性的な働きを相続して利用します。神は人類の連帯性を祝福します。とは言え、実際には、昔の人々の多くが、今日再び生きているか、もしくは明日再び生きることになるのであって、そのようにして昔開始した事業を終わらせることになるのです。

一人の愛国者、一人の預言者、一人のキリストの使徒、一人のキリスト教信仰の宣教者以上の者が私たちの間に存在しているのです。

彼らはより啓発され、より進歩しており、その仕事はもはや基礎の仕事ではなく、建造物の棟木を組む仕事に取り組んでいるのです。したがって、受け取る報酬は、その仕事の価値に見合ったものになるのです。

 美しい再生の教義は霊的な従属関係を永遠のものとし、より明確にします。地上における任務の精算に呼ばれ、仕事を中断しても、霊は、継続的に再着手すべき仕事の存在に気づきます。彼はそれを見て、自分より先を行く者たちの考えを大まかに理解したと感じると、豊富な経験を生かしてさらなる前進に挑み始めるのです。

最初からいる労働者も、最後に来た労働者も、神の深い正義に対して目をしっかり開いている者はみな、不平を言うことはありません。彼らは仕事を熱愛しているのです。

 これがこの話の真なる意味の一つです。イエスが民衆に話す時に用いたすべてのたとえ話と同様に、その中には啓示が含まれており、未来の始まり、あらゆる形と姿において、宇宙の全てを調和する荘厳なる統合力、すべての者の現在を過去と未来に結びつける連帯性を示しているのです。(ハインリヒ・ハイネ パリ、1863年)
   
   
  スピリティストの使命
四、古い世界を奪い去り、地上の非道を消滅させる嵐の音がまだ聞こえないのですか。ああ、主よ、至上の正義にその信仰を託した者たちを祝福して下さい。

上から来る預言の声によって示された信仰の新しい使徒たちよ、その使命を正しく達成したか、地上における試練に耐えたかに従って起こる霊の向上と再生の教義を説きに行って下さい。

 もはや驚くことはありません。炎はあなたたちの頭上まで届いています。スピリティズムの真なる使徒たちよ。あなたたちは神に選ばれたのです。神の言葉を説きに出かけて行って下さい。あなたたちの習慣や労働や無用な従事を、その普及のために犠牲にすべき時がやってきました。

宣教に出かけて行って下さい。高尚な霊たちがあなたたちと共にあります。神の声は絶え間なく自己の放棄を呼びかけるので、あなたたちは必ず、神の声を聞きたがらない人々と話すことになるでしょう。

 貪欲な人々に無関心を、ふしだらな者には禁欲を、家庭の君主や暴君たちには温和さを説きに行って下さい。種を蒔く土地にあなたたちの汗で水をまくことを仕事としてください。一方で、福音の鍬やくわによって繰り返し耕されることが無ければ、その種が育ち実を結ぶことはありません。行って、教えを説いてください。

善き信心を持った者たちよ、無限の中にまき散らされた世界を前に、自分の劣等を認識する者たちよ。不正義と非道に対抗する活動に身を投じてください。

行って、日を追うごとに広がる金の子牛の崇拝を禁じてください。行けば神が道を示してくれます。質素で無知な人々よ、あなたたちの舌は動き、どんな雄弁家にもまねのできない話をすることができるでしょう。

行って教えを説いてください。注意深い人々はあなたたちの慰安、兄弟愛、希望、平和の言葉を幸せに受け止めるでしょう。

 あなたの行く道に待ち伏せる者のことを気にする必要はありません。狼の罠には狼しかはまることはなく、羊飼いはその羊たちを生贄の火から守ることを知っています。

 神の前に偉大なる人々よ、霊媒性を実際に目にすることに拘らずに受け入れる者たちよ、それを自分自身の手に入れることができなかったとしても、使徒トマスよりも幸せな者たちよ、行って下さい、行けば神の霊が導いてくれます。

 だから、威厳のある一隊よ、信仰によって前進して下さい。朝霧が朝日の光に消えていくように、大きな不信心の集団もその前から消えて行きます。

 信仰は山をも動かす美徳であることをイエスは言いました。しかし、最も高い山よりも重いのは、人類の心の中に横たわる不純さと、そこから生まれるあらゆる悪癖なのです。

ですから、勇気を満たして出発し、あなたたちが異教徒の文明以前の時代についてとても不完全にしか知らないと同じように、未来の世代には昔話としてのみ知られるべき非道の山を取り除きに行って下さい。

 もっとも、地球上のあらゆる地点では、哲学的、道徳的反乱がまきおこるでしょう。神の光が二つの世界にあふれ、こぼれる時が近づいているのです。

 だから、神の言葉を運んで行って下さい。それらを軽んじるうぬぼれた人たちのもとにも、証拠を強いる知識人たちのもとにも、それらを受け入れる小さく、素朴な人々のもとにも運んで行って下さい。

なぜなら、特にそうした役割や地上の試練に殉じる者の中に、信仰と熱意が存在しているからです。行って下さい。こうした者たちは神への感謝と讃美の歌と共に、あなたたちが届ける聖なる慰安を受け取り、頭を下げ、地上が彼らに与えた苦しみに対して感謝をするでしょう。

 決意と勇気によってあなたたちの隊を武装してください。仕事に取り掛かってください。鍬の準備は整っています。土地が待ち受けています。耕しにかかってください。

 神が託してくれた輝かしい使命を、神に感謝しに行って下さい。しかし、注意も必要です。スピリティズムに呼ばれた者たちの中でも、多くの者がその道を歪めてしまいました。だから、あなたたちの道を修正し、真実に従って下さい。


質問=スピリティズムに呼ばれた者たちの中でも多くの者がその道を歪めたといいますが、正しい道にあるということを確認することのできる証とはなんでしょうか。

答え=彼らが教え、実践する真なる慈善の原則によって知ることができます。彼らが慰安を届ける苦しむ人々の数によって知ることができます。その隣人愛、甘受の態度、個人的な利害の放棄によって知ることができます。最後には、その原則の勝利によって知ることができます。なぜなら、神はその法の勝利を望んでいるからです。

神の法に従う者こそが選ばれた者たちであり、神は彼らに勝利を与えます。しかし神は、その法の真髄を偽り、自分の野望と虚栄心の満足の足がかりとして利用する者たちを消滅させます。(霊媒の守護霊エラストゥス パリ、1863年)(→FEB版注1)
   

  主の労働者たち
五、人類の変革のために生じることが告知された事柄が成就する時が近づいています。その時、自己放棄と慈善以外の目的なしに主の農園で働いている者は幸運です。その労働の日々は期待していたよりも百倍にして支払われるでしょう。

「主がやってきた時には仕事が終わっているように、ともに働き、私たちの力を合わせましょう」と自分の兄弟に伝える者は幸いです。

彼らに主は、「善き使いたちよ、私のもとへ来なさい。あなたたちは自分の妬みやあなたたちの不和に対して静寂を強いることを知り、仕事に損害を与えませんでした」というでしょう。

しかし、自分たちの意見の相違によって収穫の時期を遅らせてしまった者は不幸なものです。なぜなら、嵐が彼らのもとへやって来て、竜巻の中に巻き込まれてしまうからです。

「慈悲を、慈悲を」と叫ぶでしょう。しかし主は、「自分たちの兄弟に対して慈悲がなく、彼らに手を差しのべることを拒んだ者たちよ、弱き者たちを助ける代わりに圧した者たちよ、どうして慈悲を求めることができようか」と言うでしょう。

あなたたちの報酬をすでに地上の喜びや自分たちの自尊心を満たすことの中に求めておきながら、どうして慈悲を求めることができましょうか。すでに求めていた通りの報酬は受け取ったのです。あなたたちに求められるものはなく、天における報酬は、地上において報酬を求めなかった者たちのものなのです。

 神はいままさに、その忠実な使徒たちを調べにあたっており、献身が単に表面的な者たちには既にしるしをつけ、彼らが活力に満ちた使徒たちの報酬を騙し取ることができないようにしています。

自分たちの仕事を前にして退くことのない者たちに、神はスピリティズムによる偉大なる更生の事業の中のより難しい役割を託すでしょう。次の言葉のとおりになるのです。「天の国においては、先の者たちが後になり、後の者たちが先になる」(真実の霊 パリ、1862年)


●FEB版注1
フランス語第三版において、この通信は署名もなく不完全に記されている。原書第一版に合わせて修正した。-FEB,1948

シアトルの春  〝苦〟の哲学

Philosophy of “suffering"



Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor


 シルバーバーチが神の摂理を説くとき、その絶対性への確信が余りに深く、その述べ方が余りにあっさりとしているために、われわれ地上の人間には冷淡な印象すら与えることがある。たとえば次のように述べる───

 「摂理であるが故に摂理であるところのもの─── 永遠の心すなわち神の働きであるがゆえにこれまで絶え間なく機能し、これからも絶え間なく機能し続けるところの摂理の存在を指摘しているのです。その摂理に則って生きれば内にも外にも調和と安らぎが得られます。

逆らって生きれば内にも外にも不和と混沌が生じます。あなた方人間は霊的存在です。これは、誰もがいつの日か直面することになる厳粛な事実です。が、いつの日かではなく今すぐに認めて、これから先の何十年ものムダな困難を省いた方がどれだけ賢明でしょうか」

 そう言われれば、われわれには反論の余地がなくなる。それが冷淡さと受け取られかねないのである。霊的に未熟な者、あるいは悲しみの涙で視野を雲らされている者が苦しみと悲しみの必要性を説かれると、いっそうその感じを強く抱くことであろう。しかし、シルバーバーチはさらにこう説くのである。

 「神は無限なる愛です。そしてこの全宇宙のいかなる出来ごとも神の認知なしに生じることはありません。全ての苦はそれが魂の琴線に触れることによって自動的に報いをもたらし、それが宇宙のより高い、より深い実相について、より大きな悟りを得させることになるのです」

 別の交霊会でもこう述べている。
 「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたもの全てが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです。過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の難問に遭遇した時、人生で最も暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。

いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みも無く、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです」

 さらに別の交霊会で───

 「一つひとつの体験があなたの人生模様を織りなしています。あなた方はとかく一時の出来ごとでもって永遠を裁こうとされます。つまり目先の矛盾撞着にとらわれ、人生全体を通して神の叡知の糸が織りなされていることを理解しません。

 調和を基調とするこの大宇宙の中であなた方一人ひとりが神の計画の推進に貢献しております。人生での出来ごと───時には辛く絶望的であり、時には苦しく悲劇的であったりしますが───その一つひとつがこれから辿りゆく道のために魂を鍛える役割を果たしているのです。

 光と闇、日向と陰、こうしたものは唯一絶対の実在の反映にすぎません。陰なくして光はなく、光なくして陰はありません。人生の困難は魂が向上していくための階段です。

 困難、障害、不利な条件───これらみな魂の試練なのです。それを一つ克服した時、魂はいっそう充実し向上して、一段と強くそして純粋になってまいります。

 いったい無限の可能性を秘めた魂の潜在力が困難も苦痛も無く、影もなく悲しみも無く、苦難も悲劇も体験せずに発揮されると思われますか。もちろん思われないでしょう。

 人生のよろこび、楽しい笑いの味は、人生の辛酸をなめつくして始めて分かります。なぜなら、深く沈んだだけ、それだけ高く上がれるからです。地上生活の蔭を体験するほど、それだけ日向の喜びを味わうことができます。

 体験の全てが霊的進化の肥やしです。そのうちあなた方も肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば紆余曲折した一見とりとめのない出来ごとの絡み合いの中で、一つひとつがちゃんとした意味を持ち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解されるはずです。

 地上のいかなる体験も、それに正しく対処し正しく理解すれば、人間の魂にとって必ずやプラスになるものを持っております。いったい何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何の苦痛も、何の悩みもない世界を想像できるでしょうか。

そこにはもはや向上進化の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。ただ朽ち果てるのみです」


 こうして一方では厳しい生き方を説きながらも、他方では慰めの教説も忘れない。最近ご主人を失ったばかりの婦人にこう語って聞かせた。

 「あなたもそのうち物的なつながりよりも霊的なつながりの方が大きいことを理解し始めることでしょう。ご主人はこの世にいた時よりもはるかにあなたにとって身近な存在となっておられます。

 地上人類が肉体的存在の消滅を大変な不幸として受け止めるのは、地上世界の進化が物的バイブレーションの段階を超えていないからです。その段階を超えて進化すれば、物質というものがただの殻にすぎないことを理解するようになります。それを実在であるかに思い込むのは地上が影の世界だからです。

 霊的に向上して行くと、光とその光によって生じる影との区別ができるようになります。地上的縁には拘束力はありません。霊的な縁こそ永遠に続くものです。

 ぜひ銘記していただきたいのは、あなた自身にとって大変な悲しい出来ごとのように思えることも、実は他の大勢の人たちのためにあなたを役立てようとする計画の一端であることがある、ということです。あなただけの個人的(パーソナル)な見地からのみ眺めてはいけません。

その体験を通じてもし大ぜいの人々の魂が鼓舞されることになれば、それがひいてはあなた自身の魂の成長を促すことになります。そして、あなた自身がこちらへおいでになりご主人と再会された時にも、それが大きな拠りどころとなります。

 〝死んだ人〟たちはあなたのもとから去ってしまうのではありません。死という名のドアを通り抜けて新しい生活へ入っていくだけです。その人たちにとって死は大きな解放です。決して苦しいものではありません。彼らにとって唯一の辛さは、地上に残した人々が自分のことで嘆き悲しんでいることです。

 いくら順調に進化していても、地上にいる限りは相変わらず霊的なバイブレーションよりは物的なバイブレーションの方が感応しやすいものです。縁故のあるスピリットがすぐ身のまわりにいます。肉体に宿っていた時よりも一段と親近感を増しているのですが、人間の方は鈍重なバイブレーションにしか反応しないために、すぐ近くにいても、その高いバイブレーションに感応しないだけです。

あなた方は今この時点において立派に霊魂(スピリット)なのです。物的世界での教訓を身につけるために地上にやって来ているところです。時としてそれが辛い教訓となることがありますが、それはそれなりに価値あることではないでしょうか。

 皆さんはなぜ物的な出来ごとを持って永遠を判断しようとなさるのでしょう。皆さんは空の広さは計れません。地球の大きさすら測れません。なのに、僅かな地上生活で持って永遠を計ろうとなさいます」


 同じく主人を失い、失意の余り自殺まで考えた婦人が次のような質問を寄せ、それがシルバーバーチに読んで聞かされた。


───みずからの行為によってそちらの世界へ行くことは許されることでしょうか。例えば最愛の伴侶を奪われた人の場合です。

 「許されません。あくまでも摂理に従って寿命を完うしなければなりません。神の摂理はつねにその働きが完璧だからです。

完全な愛によって、つまり全存在に宿り全存在を通じて働いている神の意志によって支配されているからです。その摂理の働きに干渉する権利は誰にもありません。もし干渉して与えられた寿命をみずからの手で切り上げるようなことをすれば、それに対する代償を支払わせられます。

 たとえばリンゴを熟さないうちにもぎ取れば、リンゴの美味しさは味わえません。それと同じで、霊的に熟さないうちに無理やりに次の世界へ行くようなことをすると、(地上での悲しく苦しい期間よりも)永い期間にわたって辛い体験を支払わされることになります。

おまけに、せっかく一緒になりたいと思った愛する人にも会えないことにもなります。その摂理に背いた行為が一種のミゾをこしらえるからです」

 このシルバーバーチの回答がサイキック・ニューズ誌に掲載されたのを読んだその夫人が次のような礼状を寄せてきた。

 「質問にお答え下さったことへの私の感謝の気持ちをシルバーバーチ霊にお伝えいただけるものかどうか存じませんが、もしお伝えいただけるものでしたら、〝後に残された者〟の質問にこんなに明快にそしてこんなに早く回答して下さったことに対する私の感謝の気持ちをお伝え下さい。

そして、こうもお伝え下さい───お言葉に大変失望いたしましたが、お訓えを信じ神からのお呼びの声が掛るまで、力のかぎり〝生き続ける〟覚悟を決めました、と」


 では〝安楽死〟はどうであろうか。これは現代の世間一般の関心事であると同時にスピリチュアリズムでも議論の的となっている問題である。ある日の交霊会でそれについての質問が出された。


─── 回復の見込みのない患者を死なせる特権を法律によって医師に与えるべきだという考えをどう思われますか。

 「私は全ての生命は神のものと申し上げております。肉体が滅び霊が解き放たれる時が来れば、自然の摂理でそうなります」


───物的手段を講じて永生きさせることは正しいとお考えでしょうか。

 「はい」


───たとえ永生きさせることが苦しみまで永引かせることになってもですか。

 「そうです。ただ、この問題に関して一つお忘れになっていることがあります。霊は肉体を去るべき時が至ればかならず去るもので、地上にはその理法を変える手段はないということです」


───不治の患者を人為的に死なせた場合、それは死後その患者の霊にさらに苦痛をもたらすことになるのでしょうか。

 「そういうことはありませんが、死後に備えの出来ていない霊に一種のショックを与えることになり、そのショックが何かと良からぬ影響をもたらします。自然に死ねば必要でなかったはずの手間をかけて埋め合わせをしなければならなくなります」


───医師にも寿命を永引かせる力があるでしょうか。

 「医師が肉体を生き続けさせようと努力なさる───それは結構です。が、霊にはその肉体を去るべき時というものがあり、死の時が至れば地上の医師には為すべき手段はありません」


───ということは生命を維持させようと幾ら医師が努力しても無駄ということになるのでしょうか。

 「そういうことです。もしもあなたのおっしゃる通り医師に生命を維持させる力があるとすれば、なぜ最後はみんな死んで行くのでしょう」


───でも少しの間だけでも永生きさせてあげることはできます。

 「患者がその処置に反応すればの話です。例えば酸素吸入が出来ます。しかしそれもある程度までのことでしょう。霊が私達の世界へ来るべき準備が整ったら最期、医師には為す術がありません」


───もし寿命というものが定まっていて、各自が原則として霊的に準備が整った状態で死んでいくのが事実だとすると、なぜ平均寿命が延びているのでしょうか。

 「人類が進化しているからです。肉体的なことが霊的なことを決定づけているのではありません。霊的なことが肉体的なことを決定づけるのです」


 〝死なせる権利〟とは反対に 〝誕生させない権利〟の問題もある。次がその問題に関する問答である。なお、ここでは受胎調節つまり避妊の意味で述べており、人工中絶のことではない。


───産児制限をどう思われますか。

 「人間には正しいことと間違ったこととを見分ける道義的判断力と、それを選択する自由意志とが与えられております。つまるところ動機(意図、魂胆)の問題です。何のために?───これをみずからの良心に問いかけるのです。一度ならず何度でも問いかけてみるのです。その結果として選択したもの、それが何より大切です。他のことはどうでもよろしい」


───でも、生命の誕生を阻止することは神の摂理に反することではないでしょうか。

 「どうしても地上に誕生すべき宿命を持った霊は避妊しない夫婦を選んで誕生してきます。因果律は絶対です。一対の夫婦にとって新しい生命が誕生することが進化のためのプランに組み込まれておれば、それを阻止することはできません。本人(夫婦)みずからそれを要望するようになるものです」


───生れてくることになっていれば夫婦の方でそれを望むようになるということでしょうか。

 「そうです。その夫婦の進化の程度が新しい生命の誕生による影響を必要とする段階に達したということもあるでしょう」


───当然それはより高い進化を意味するわけですね。

 「いえ、必ずしも高いとは言えません。必ずしも低いとも言えません(第三巻一四一頁参照)。中には肉体的快楽だけを求めてその結果(避妊)は避けようとする者もいますので、この種の人間は別に扱わなくてはいけません。むろん私はそうした生き方は感心しません。その意図が同じく利己的で程度が低いからです」

(訳者注───シルバーバーチは利己性はすべていけないとは言っていない、人間界においては、たとえ愛に発する行為でも、大なり小なり利己性は免れないという。要は動機の程度が高いか低いかの問題で、そこでこのように lowly selfishness, 直訳すれば〝下賤な利己主義〟という言い方もするわけである。これはきわめて大切なことである。

この点を正しく理解していないと安易な自己犠牲精神に駆り立てられ、その犠牲が何も生み出さずに無駄に終わって元も子も無くしてしまう危険性がある。別のところでもシルバーバーチは、人類愛や博愛精神を説く一見崇高そうな人間の心の奥にも、霊界から見ると〝オレこそは〟といった自惚れと野心がうごめいているのがよく読み取れると言っている。

私が若いころ師の間部氏から〝人間のすることなんかタカが知れている!〟と強い口調で戒められたことがあったが、そういう意味合いがあったのでろう )


───でも、それがもし生まれてくる子供にとって不幸だという考えからだったらどうでしょうか。(裏返せば育児が面倒だと言うことー訳者)

 「それが動機ということになりませんか。何事も動機に帰着します。摂理をごまかすことはできません。摂理は各自の魂に入力されております。そしてあらゆる行為、あらゆる思想、あらゆる観念、あらゆる願望が細大もらさず魂のオーラに印象づけられていきます。

霊の目をもって見れば、そのすべてが一目瞭然です。地上生活での行為がいかなる意図のもとに為されたかが明確に知れます。あなた方の魂は霊の目の前では裸も同然です」


───霊は妊娠中のどの時期に宿るのでしょうか。

 「異議を唱える方が多いことと思いますが、私は二つの種子(精子と卵子)が合体して、ミニチュアの形にせよ、霊が機能する為の媒体を提供した時、その時が地上生活の出発点であると申し上げます」


───遺伝的に精神病を抱えた人の人生が、その肉体的な欠陥のために地上体験から教訓が得られないという意味で無意味であるとした場合、その病気の遺伝を防ぐ目的で断種をするという考えをどう思われますか。

 「私には、そして全宇宙のいかなる存在もみなそうですが、生命の法則を変える力はありません。一個の魂が物質界に誕生することになっている時は、それを阻止しようと如何に努力しても、必ず誕生してきます。なぜかとお聞きになることでしょう。そこで私は再生の事実の存在を説くのです。それが理由です」

Sunday, March 30, 2025

シアトルの春  山をも動かす信仰   

Faith that moves mountains 
Le Spiritism  Allen Kardec

 

信仰の力

一、イエスが民衆に会いにやって来ると、一人の人が近寄り、ひざまずいて言った、「主よ、私の子に慈悲を。てんかんにかかってとても苦しんでおり、火の中や水の中に何度も倒れるのです。あなたの使徒たちのところへ連れて行きましたが、彼らには治すことはできませんでした」。

するとイエスは答えて言われた、「ああ、何という不信仰な、曲がった時代でしょう。いつまで、私はあなた方と一緒にいることが出来るのでしょうか。いつまであなたたちに我慢ができるのでしょうか。その子をここに、私のところに連れてきなさい」。

イエスが悪霊を脅すと、悪霊は子供から出て行き、その瞬間子供は健康になった。使徒たちはひそかにイエスの許へ行き、尋ねた、「どうして私たちは悪霊を追い払うことができなかったのですか」。イエスは答えて言われた、

「あなたたちの不信仰のせいです。誠に言います、からしの粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『あちらへ動け』と言えば動き、何も不可能なことはなくなります」。(マタイ 第十七章 14-20)
   

二、ある意味では、自分自身の力に対する信念が物質的なことの実現を可能とさせるのであって、自分自身を疑う者はそれを実現できないというのは真実です。しかし、ここでは道徳的な意味においてのみ、これらの言葉を解釈するべきです。

信仰が動かす山とは、困難、抵抗、やる気のなさ、要するに善いことに向かう時にさえも人間の間に現れるもののことです。

日常の偏見、物質的な関心、エゴイズム、狂信の盲目、誇り高き感情などは、どれもが人類の進歩のために働く者の道を遮る山の数々です。強固な信念は、忍耐力や、小さなものであれ大きなものであれ、障害に打ち勝つエネルギーを与えます。

不安定な気持ちは不確実さや、躊躇を生み、打ち勝たねばならない敵対者たちに利用されてしまいます。こうした不安定な気持ちは、打ち勝つ手段を求めることもありません。なぜなら、打ち勝つことが出来ることを信じないからです。


三、別の解釈によれば、信念とはあることを実現できると信じること、ある特定の目的を達成する確信と理解とされます。

それはある種の明晰さをもたらし、それによって思考の中で、そこまでたどり着くための手段や達成しなければならない目標を見ることを可能にさせるがため、それを持って歩む者は、言うならば全く安心して歩むことができるのだということができます。いずれの場合であれ、偉大な事柄の実現を可能にします。

 誠実で真実なる信念は常に平静です。知性と物事の理解に支えられ、望む目的に到達する確信があるために、待つことを知る忍耐をもたらします。ぐらついた信念はそれ自身の弱点を感じています。

関心がそれを刺激すると、怒りっぽくなり、暴力によって自分に足りない力を補おうとします。戦いにおける平静は常に力と自信の証です。反対に暴力は弱さと自分自身に対する不安を表しています。

℘333 
四、信念と自惚れを混同してはいけません。真なる信念は謙虚さを伴います。真の信念を持つ者は自分自身よりも神をより信頼しており、なぜなら自分自身は神意に従う単なる道具であり、神なしには何も存在し得ないことを知っているからです。

こうした理由から、善霊たちがその者を助けにやってきます。自惚れでは、自尊心が信仰を上まわっており、自尊心はそれを持つ者に課された失望や失敗によって遅かれ早かれ、罰せられることになります。


五、信仰(信念)の力は磁気的な動きによる直接的で特別な形でその姿を示します。宇宙的動因であるフルイドに対して人間はその仲介として作用し、その性質を変化させ、いわば抑えようのない衝撃を与えます。

そのようなことから、普通のフルイドのある大きな力に熱心な信仰が結びつき、善に向けた意志の力のみによって治療のような特別な現象を引き起こすことになります。

それらは昔は奇蹟として扱われましたが、自然の法則の結果に過ぎないのです。こうした理由により、イエスはその使徒たちに言ったのです。「治すことができなかったのは、信仰がなかったからです」。


  宗教的な信仰。揺るがぬ信仰の条件
六、宗教的な視点では、信仰とは、さまざまな宗教を組織させたある特別な教義を信じることから成り立っています。どの宗教にもその信仰の対象というものがあります。この点において、信仰は理性的でも盲目的でもあり得ます。

なにも検証することなく、真実と偽りを確かめたりせずに、盲目的な信仰はそれを受け入れ、一歩歩むたびに立証や理性と衝突します。それが過剰になると狂信を生みます。誤りの上に立っていると、遅かれ早かれ崩壊します。

真実に基づく信仰のみがその未来を保証することができます。なぜなら、人々の啓発に対する恐れがまったくないからであり、闇の中で真実たるものは光の中でも真実であり続けるからです。

どの宗教も排他的な真実の主となろうとします。ある信仰のある部分を誰かに盲目的に信じるように教えることは、その信仰が理に適って居ることを示すことが出来ないと告白するのと同じことです。


七、一般に信仰と言うものは他人に示しようがないと言われますが、そのために、信仰がないことには責任が無いという多くの人の言い訳を生んでいます。確かに信仰は他人に示しようがありませんし、増してや強要することは不可能です。

そうです、信仰は獲得するものなのであり、最も頑固な者でさえも、信仰を持つことが許されていない者はいないのです。私たちが述べているのは霊的な真理の基本的なことについてであり、ある特定の信仰に関してどうこう言っているのではありません。

信仰が人々を探し求めるのではないのです。信仰に出合うことができるように、人々が誠実に求めれば、それに出合えないことはないでしょう。

ゆえに、「信じること以上に善いものを私たちは望まないが、それができないのだ」と言う人々は、それを心の底からではなく口先だけで言っているのだということを確信し、そう言う言葉を聞いたら耳を塞いでください。しかし、そうした人の周りには証が雨のように降り注いでいます。ではなぜ、それに気づくことが出来ないのでしょうか。

一部の人たちはそれを無視しています。他の人たちは習慣を変えなければならなくなること恐れています。

大半の人たちには自尊心があり、自分たちより優れた存在を認めることを否定するのです。なぜなら、そうした存在の前に頭を下げなければならなくなるからです。ある人たちにとって信仰は、生まれつきのものであるかのように見えます。

火の粉ほどの信仰さえあれば、それを発展させることができます。霊的な真理を受け入れることに対するこうした容易さは、前世における進歩の明らかな証拠です。 

他の人たちにとってはその反対で、そうした真理が入り込みにくく、それは同様に遅れた性格を示す明らかな証拠です。前者の人々はすでに信じ、理解しました。再生した時には既に知ったことを直感的に持ち合わせて来ているのです。

彼らはすでに教育されています。後者の人々はすべてを学ばなければなりません。これから教育を受けなければなりません。しかしそれを行い、現世のうちに終了できなければ、次の人生においてそれを行うことになるのです。

 信仰のない者の抵抗は、多くの場合、その人自身よりも、物事のその人に対する示され方から来ているということに私たちは同意しなければなりません。信仰には基礎が必要であり、その基礎とは信じようとする者の知性です。そして、信じるためには見るだけでは足りません。

何よりも理解することが必要なのです。盲目的信仰は、もはや今世紀のものではなく(→FEB版注1)それゆえに盲目的な信仰を教える教義が今日、不信仰な人々を多く生み出しているのです。なぜなら、そうした教義は強要によって、人類の最も大切な特権である理性と自由意志の放棄を命ずるからです。

不信仰な人々は主にこうした信仰に対して反抗するのであり、これに関して言えば、まったく信仰とは説明し得ぬものだということができるでしょう。そうした教義は証拠を認めないために、心の中に何か曖昧なものを残し、そこから疑いが生まれます。

理性的な信仰は、理論と事実に支えられ、いかなる曖昧さも残すことはありません。つまり人間は、確かだと思うから信じるのであり、誰も理解することなしに確かさを感じることはできません。理解できないために屈服しないのです。

揺るがぬ信仰とは唯一、人類のいつの時代に置いても理性に対して真正面から向き合うことのできる信仰のことです。

 スピリティズムはこうした結果を導くことで、意図的、もしくは制度的な反対が無い限り、いつも不信仰な者に対して勝利を収めるのです。


  枯れたイチジクの木の話   
八、ベタニアから出かけてきた時、イエスは空腹を覚えられた。そして、遠くにイチジクの木をごらんになって、なにかありはしないかと近寄られたが、イチジクの季節ではなかったために葉しかなかった。するとイエスは、イチジクの木に向かって言われた、

「これから先、誰もおまえから果実を食べることはないだろう」。使徒たちはそれを聞いていた。

次の日、イチジクの木の近くを通ると、根まで枯れているのを見た。そこでイエスが言ったことを思いだすと、ペトロは言った、「先生、あなたが呪われたイチジクの木がどうなったか見て下さい」。

イエスはその言葉を聞くと答えて言われた、「神を信じなさい。誠に言いますが、言葉にしたことはすべて起きると強く信じ、そこをどき、海へ落ちよと、この山に心からためらうことなしにいう者は、実際にそれが起きるのを目にすることになるでしょう」。(マルコ 第十一章 12-14,20-23)


九、枯れたイチジクの木とは、見た目には善に関心があるように見えながらも、実際には善いものをうまない人たちの象徴です。堅実さよりも華々しさを持った説教者のように、その言葉の表面は虚飾に覆われており、それを聞く耳を喜ばすことはできても、詳細について吟味してみると、心にとって本質的な意味を何も持たないことが分かります。

そして私たちは、聞いた言葉の中から何を役立てることが出来るのだろうかと問い直すことになるのです。

 同時に、有益な存在となる手段を持ちながら、そうなっていない人々のことも象徴しています。堅実な基礎を持たないあらゆる空想、無益な主義、教義がそれにあてはまります。殆どの場合そこには真なる信仰である、生産性のある信仰、心の隅々をも動かす信仰が不足しています。

その信仰とは一言でいうなら、山をも動かす信仰のことです。そうした信仰の欠けた人々は、葉に覆われながらも果実に乏しい木のようです、だからイエスはそうした木を不毛であると言いわたしたのであり、いつかそれらは根まで乾いてしまうものなのです。

つまり人類にとって何の善ももたらすことの無いいかなる主義も、いかなる教義も、没落し、消滅するということを指しています。自分のもつ手段を働かせないことにより無益と判断された人はみな、枯れたイチジクの木と同じように扱われるでしょう。

℘337 
十、霊媒とは霊の通訳者です。霊たちにはその指導を伝えるための物質的な器官はありませんが、霊媒がそれを補うのです。このように、こうした目的のために使われる能力を持った霊媒が存在します。

社会が変革しようとしている今日、彼らには非常に特別な使命があります。それは同胞たちに霊的な糧を供給する木となることです。糧が十分であるように、その数は増えていきます。

あらゆる場所、あらゆる国、あらゆる社会階級の中に、裕福な者の間にも貧しい者の間にも、偉大なる者の間にも小さな者たちの間にも現れ、そのためどの場所にも不足することが無く、人類の全ての者が招かれていることが示されるのです。

しかし、もし彼らが、託されたその貴重な能力を神意による目的からはずれたことに用い、不毛なことや、有害なことに使用するのであれば、あるいは、世俗的な利益に仕えるために用いたり、熟した実の代わりに悪い実を結ばせ、それを他人の益のために用いることを拒んだり、自分たちを向上させようとそこから自分たちの為に何かの利益も得ることもないのであれば、彼らは枯れたイチジクの木であるのです。

神は彼らの中で不毛となった力を奪います。そして実を結ばせることを知らない種が、悪い霊たちの間に捕まってしまうのを許すのです。





   霊たちからの指導

   信仰──希望と慈善の母 
十一、 有益になるためには、信仰は活動的にならなければなりません。それを無感覚にしてしまってはいけません。神へ導くあらゆる美徳の母は、それが生み出した子供たちの成長を注意深く見守らなければなりません。

 希望と慈善は信仰から派生しますが、信仰と共に分離不可能な三位となります。主の約束の実現の希望を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たずに、何を期待することができるでしょうか。愛を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たぬのであれば、あなたの価値やその愛は何でありましょうか。

 神性の発露である信仰は、人間を善へ導くあらゆる高尚な本能を目覚めさせます。信仰は更生の基礎です。必要なのは、この基礎が強い持続性を持つことです。というのも、もし、ほんの小さな疑いによってその基礎が動揺してしまうとしたら、その上に築いたものはどうなると考えますか。

だから、ゆるぎない基礎の上にその建物を築いてください。あなたたちの信仰は不信仰な者たちの詭弁や冷やかしよりも強くなければなりません。もっとも人間の嘲笑に対抗できない信仰は、本当の信仰とは言えません。

 誠実な信仰は人の心を捕え、影響力を持っています。信仰を持たなかった者や、信仰を持ちたくないと考える者の心に訴えます。それは魂に響く、説得力のある言葉を持ち、一方で見せかけだけの信仰は、聞く者を無関心にし、冷たくしてしまうように響く言葉を使います。

あなたの模範によって信仰を説き、人々に信仰を吹き込んでください。あなたたちの事業の模範によってそれを説き、信仰の真価を示してください。あなたの不動の希望によってそれを説き、人生のあらゆる苦しみに立ち向かうことができるように人間を強くしてくれる確信を示してください。

 だから美しく善い、純粋で合理性を持った内容に信仰を抱いてください。盲目から生まれた目の見えない娘である、証明のない信仰を認めてはなりません。

神を愛してください。しかし、なぜ愛するのかを知って愛してください。その約束を信じてください。しかし、なぜそれを信じるのか知って信じてください。私たちの忠告に従って下さい。

しかし、私たちが指摘する事柄やそれを成し遂げるための手段について納得した上で従って下さい。信じ、無気力になることなく待ってください。奇蹟は信仰のなす業です。 (守護霊ヨセフ ボルドー、1862年)   


  人間的な信念と神への信仰
十二、人間の信念は、未来の運命に対して生来持っている感覚です。自分自身の内に無限の能力を秘めているのだという認識であり、最初それは潜在的に存在しますが、意志の働きによってそれを発芽させ、育てることが必要です。

 今日まで、信心とはその宗教的側面しか理解されませんでしたが、それは、キリストが信仰を強力な梃子として示したため、イエスは宗教の指導者としてしか考えられていなかったからです。

しかしながら、物質的な奇蹟を引き起こしたキリストは、こうした奇蹟によって、人間に信念があれば、つまり、何かを望み、その望みが必ず満足されるという確信があれば、何ができるのかを示したのです。使徒たちも、イエスの模範に従って、奇蹟を引き起こしたではありませんか。

ただ、こうした奇蹟は、人類が当時その原因をいまだに解明していなかった自然現象に過ぎません。今日、その大部分はスピリティズムと磁気の研究により解明され、全く理解可能なものとなったではありませんか。

人がその能力を地上の必要性を満たすために用いるか、天や未来に対する熱望に用いるかによって、人間的な信念にも神への信仰にもなります。

天における自分の未来を信じる善なる人は、その存在を美しく高尚な行動によって満たしたいと望み、その信念の中から自分を待ち受ける幸福の確信や必要な力を汲みあげ、そこで慈善、献身、自己放棄の奇蹟を引き起こします。

つまり、信念(信仰)によって、打ち勝つことのできない悪は存在しないのです。

 磁気は、行動に移された信念の力の最大の証のうちの一つです。治療などに見られるような珍しい現象は、過去において奇蹟と呼ばれていましたが、それらは信念によって引き起こされるのです。

 繰り返します。人間的な信念と神への信仰があります。もし生きる人々が、自分がもち合わせる力をよく理解し、自分の意志をその力を用いるために使おうと望めば、今日に至るまで奇蹟と考えられていたような事柄を実現することができるでしょう。そしてそれを実現することは、人間のもつ能力の発展に過ぎないのです。(ある守護霊 パリ、1863年)


●FEB版注1
アラン・カルデックはこの言葉を十九世紀に記しました。今日、人類の霊は更に多くを求めます。盲目的な信仰は放棄されました。そうした信仰を強要する教会には不信仰が君臨しています。人類の多くは理想もなく、現世以外の人生への希望も持たずに、暴力によって世界を変えようとしています。

経済的な戦いは風変わりな原因と結果の教義を生み出しました。経済的優勢を激しく切望した二度の世界大戦が地球を痛めつけました。人類のあらゆる希望はキリスト教の復興、キリストの教義の原則が示す、人生の永遠性や、思考、言葉、行動の責任が無限であることを教えるスピリティズムにかかっています。

第三の啓示が無かったら、世界は大いに誤った暴力的、唯物的イデオロギーによって手の施しようもないほど失われていたことでしょう。ーFEB1948


●和訳注 「信念」と「信仰」について
原文では、FOI(フランス語)、FE(ポルトガル語)、FAITH(英語)という一つの言葉によって、日本語で言う「信念」と「信仰」の二つの意味を表現しています。日本語の「信仰」には「神や仏を信じ、崇め尊ぶこと」とあるため、宗教的な意味においてしか用いられることはありません。

本文では必ずしも「神仏」に対する信仰を必要とせずに、人間はその意志によって多くを実現することが出来ることを説明しているため、翻訳に当たっては「信仰」と「信念」とを使い分ける必要がありましたことをお断りしておきます。

シアトルの春 ───〝祈り〟に関する一問一答───

PrayerーA Question and Answer on Prayer



Wisdom of Silver Birch

 

 ああ神よ、あなたは大宇宙を創造し給いし無限の知性に御(オワ)します。間断なき日々の出来ごとの全パノラマを統御し規制し給う摂理に御します。全存在を支える力に御します。物質的形態に生命を賦与し、人間を動物界より引き上げて、いま所有せるところの意識を持つに至らせ給いました。

 私たち(霊団の者は)はあなたという存在を絶対的法則───不変にして不可変、そして全能なる摂理として説いております。あなたの摂理の枠を超えて何事も起こり得ないからでございます。宇宙の全存在はその摂理の絶対的不易性に静かなる敬意を表しております。

あなたの霊的領域においてより大きな体験を積ませていただいた私たちは、あなたの御力によって支配されている全生命活動の完璧さに対する賞賛の念を倍加することになりました。

 私たちは今、そのあなたの仔細をきわめた摂理の一端でも知らしめんとしている者でございます。それを理解することによって、あなたの子等があなたがふんだんに用意されている生命の喜びを味わうことが出来るようにと願うゆえに他なりませぬ。

 私たちは又、無知という名の暗闇から生まれる人間の恐怖心を追い払い、生命の大機構における〝死〟の占める位置を理解せしめ、自分の可能性を自覚させることによって、霊的本性の根源である無限の霊としての自我に目覚めさせんものと願っております。

それは同時に彼らとあなたとのつながり、そして彼ら同志のつながりの霊的同質性を理解させることでもございます。

 あなたの霊が地球全体をくるんでおります。あなたの神性という糸が全存在を結びつけております。地上に生きている者はすべて、誰であろうと、いかなる人間であろうと、どこに居ようと、絶対に朽ちることのない霊的なつながりによってあなたと結ばれております。

故に、あなたと子等との間を取りもつべき人物などは必要でないのでございます。生まれながらにして、あなたからの遺産を受け継いでいるが故に、あなたの用意された無限の叡知と愛と知識と真理の宝庫に、誰でも自由に出入りすることが許されるのでございます。

 私たちの仕事は人間の内奥に宿された霊を賦活し、その霊性を存分に発揮せしめることによって、あなたが意図された通りの人生を生きられるように導くことでございます。

かくして人間はいま置かれている地上での宿命を完うすることでしょう。かくして人間は霊的存在としての義務を果たすことになることでしょう。

かくして人間は戦いに傷ついた世の中を癒し、愛と善意を行きわたらせる仕事に勤しむことでしょう。かくして人間はあなたの真の姿を遮ってきた暗闇に永遠に訣別し、理解力の光の中で生きることになることでしょう。ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。



───〝祈り〟に関する一問一答───

(前巻及び本書の中に断片的に出ていたものをここにまとめて紹介するー訳者)
                            


───霊界側は祈りをどうみておられるのでしょうか。

 「祈りとは何かを理解するにはその目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願いごとを口にしたり、決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける人はいませんし、訴える力を持った波動を起こすことも出来ません。

私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意が込もっておらず、それを口にする人みずから、内容には無頓着であるのが普通です。永いあいだそれをロボットのように繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。

しかしいかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなり得ません。

 祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難場所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責務を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果的連鎖関係を寸毫(すんごう)も変えることはできません。

人のためにという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りをすべて無視されるがよろしい。その後に残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的行為(スピリチュアル)であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。

その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。

 あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取りくんだ時───解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。

そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたの周りにいる者、霊的な目を持って洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです。たとえばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。

 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならその魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです。

このように、一口に祈りといっても、その内容を見分けた上で語る必要があります。

 ところで、いわゆる〝主の祈り〟(天にまします我らが父よ、で始まる祈禱文。マタイ6・9~13、ルカ11・2~4-訳者)のことですが、あのような型にはまった祈りは人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。単なる形式的行為は、その起源においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまいます。

儀式の一環としては便利かも知れません。しかし人間にとっては何の益もありません。そもそも神とは法則なのです。自分で解決できる程度の要求で神の御手を煩わすことはありません。それに、ナザレのイエスがそれを口にした(とされる)」時代から二千年近くも過ぎました。

その間に人類も成長し進化し、人生について多くのことを悟っております。イエスは決してあの文句の通りを述べたわけではありませんが、いずれにしても当時のユダヤ人に分かりやすい言葉で述べたことは事実です。

 今のあなた方には父なる神が天にましますものでないことくらいはお判りになるでしょう。完璧な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているものだからです。

この宇宙のどこを探しても完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。神は地獄のドン底だけにいるものではないように、天国の一ばん高い所にだけ鎮座ましますものでもありません。

大霊として宇宙全体に普遍的に存在し、宇宙の生命活動の一つひとつとなって顕現しております。〝御国の来まさんことを〟などと祈る必要はありません。地上天国の時代はいつかは来ます。

必ず来るのです。しかしそれがいつ来るかは霊の世界と協力して働いている人たち、一日も早く招来したいと願っている人たちの努力いかんに掛っております。そういう時代が来ることは間違いないのです。

 しかしそれを速めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛っているということです。(このあと関連質問が出る―訳者)


───モーゼの十戒をどう思われますか。

 「もう時代遅れです。今の時代には別の戒めが必要です。
 人間の永い歴史のいつの時代に述べられたものであっても、それをもって神の啓示の最後と思ってはいけません。啓示というものは連続的かつ進歩的なものであり、その時代の人間の理解力の程度に応じたものが授けられております。

理解力が及ばないほど高級すぎてもいけませんが、理解力の及ぶ範囲が一歩先んじたものでなければなりません。霊界から授けられる叡知はいつも一歩時代を先んじております。そして人間がその段階まで到達すれば、次の段階の叡知を受け入れる準備が出来たことになります。

人類がまだ幼児の段階にあった時代に特殊な民族の為に授けられたものを、何故に当時とは何もかも事情の異なる今の時代に当てはめなければならないのでしょう。もっとも私には〝十戒〟ならぬ〝一戒〟しか持ち合わせません。〝お互いがお互いのために尽くし合うべし〟───これだけです」

 続いて好天や雨乞いの儀式が話題となった。


───悪天候を急に晴天にするには神はどんなことをなさるのでしょうか。

 「急きょ人間が大勢集まって祈ったからといって、神がどうされるということはありません。神は神であるが故に、大聖堂や教会においてそういう祈りが行われている事実を知らされる以前から、人間が必要とするものについてはすべてを知り尽くしております。

 祈りというものは大勢集まって紋切り型の祈禱文や特別に工夫をこらした文句を口にすることではありません。祈りは自然法則の働きを変えることはできません。

原因と結果の法則に干渉することはできません。ある原因に対して寸分の狂いもない結果が生まれるという因果律を変える力は誰にもありません。

 祈りは魂の活動としての価値があります。すなわち自己の限界を悟り、同時に(逆説的になりますが)内部の無限の可能性を自覚し、それを引き出してより大きな行為へ向けて自分を駆り立てる行為です。魂の必死の活動としての祈りは、魂が地上的束縛から脱してより大きな表現を求める手段であると言えます。

そうすることによって高級界からの働きかけに対する受容力を高め、結局は自分の祈りに対して自分がその受け皿となる───つまり、より多くのインスピレーションを受けるに相応しい状態に高めるということになります。

 私は祈りを以上のように理解しております。大自然の営みを変えようとして大勢で祈ってみても何の効果もありません」


───キリスト教では悪天候を世の中の邪悪性のしるしと見なしていますが・・・

 「私は世の中が邪悪であるとは思いません。罪悪への罰として神が雨を降らせるとは思いません。自然現象は人間の生活とはそんな具合には繋がっておりません。第一、三か月前と一週間前とで世の中の邪悪性に差があるわけではないでしょう。

 それは相も変わらず、依怙(えこ)ひいきと復讐心と怒りを抱く人間神の概念の域を出ておりません。神とは生命の大霊です。この大宇宙の存在を支えている力は、人間が集団で祈ったところでどうなるものでもありません。人間にできることはその大宇宙の摂理がどうなっているかを発見し、それに自分を調和させ、できるだけ多くの人間ができるだけ多くの恩恵を受けられるような社会体制を作ることです。

そうなった時こそ生命の大霊が目覚めた人間を通じて顕現されていることになります。私はそういう風に考えております」(先に出た〝地上天国〟とはこのこと―訳者)


───人類にもいつかはそういう時代が来ると思われますか。


 「程度問題ですが、来ることは来ます。しかしそれも、そう努力すればの話です。人類は、宇宙の摂理を福利のために活用できるようになるためには、まず自己の霊性に目覚めなくてはなりません。宇宙には常に因果応報の摂理が働いております。どんなに進化しても、これ以上克服すべきものが無くなったという段階は決してまいりません。

 知識を獲得することによっていかなる恩恵を受けても、それには必ずもう一つ別の要素が付いて回ります───知識に伴う責任の問題です。その責任はその人の人格によって程度が定まり、同時に人格の方も知識によって程度が定まります。

かくして知識が広まるとともに人格も成長し、人生が豊かさと気高さを増し、生きるよろこびと楽しさを味わう人が多くなります。

 いま皆さんの脳裏に原子の発見のことがあるようですが、人間がこれで全てを知り尽くしたと思っても、その先はまだまだ未知の要素があります。これから先も、人間が生命そのものをコントロールできるような立場には絶対になれません。

ますます宇宙の秘密を知り、ますます大きなエネルギーを扱うようになることでしょう。しかしその大きさに伴って責任も自覚していかないと、そのエネルギーの使用を誤り、自然を破壊し、進化が止まってしまうということも考えられないことはありません。が、実際にはそういう事態にはまずならないでしょう。

進化は螺旋形を画きながら広がっていきます。時には上昇し時には下降することもありますが、ぐるぐると円を画きながら、どんどん、どんどん広がりつつ進化しております」


───霊界では雨乞いのような祈りは問題にしないということでしょうか。

 「しません。たとえ誠心誠意のものでも、何の効果もありません。法則は変えられないのです。自然現象をいろいろな予兆と結び付ける人がいますが、あれはすべて迷信です。私たちが訴えるのは知識であり理性です」


───医師と看護婦に力を貸すための祈りが多くのスピリチュアリスト教会で行われておりますが、いっそのことその医師や看護婦が心霊治療家になれるよう祈る方が賢明ではないかと思うのですが・・・

 「その方がずっと賢明でしょうが、そう祈ったから必ずそうなるというものではありません。地上世界には祈りについて大きな誤解があります。いかに謙虚な気持からであっても、人間からみてこうあるべきだと思うことを神に訴えるのが祈りではありません。

 神は全知全能ですから、医師その他が霊力についての知識を持つことが好ましいことくらいは知っております。それを祈りによって神に訴えたところで、それだけで医師や看護婦が心霊治療家に早変わりするものではありません。

 祈りとは魂の行です。より大きな自我を発見し、物的束縛から脱して、本来一体となっているべき高級エネルギーとの一体を求めるための手段です。

 ですから、真の祈りとは魂が生気を取り戻し、力を増幅するための手段、言い変えれば、より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段であると言えます。

それによって神の意志との調和が深められるべきものです。自己を内観することによってそこに神の認識を誤らせている不完全さと欠陥を見出し、それを是正して少しでも完全に近づき、神性を宿す存在により相応しい生き方をしようと決意を新たにするための行為です」


───それが出来ないときはどうしたらよいのでしょう。

 「どうしても出来ないと観念された方は祈らない方がよろしい。祈りとは精神と霊の〝行〟です。それを通じて宇宙の大霊との一体を求める行為です。もしそれが祈りによって成就出来ない時、いくら祈ってもうまくいかない時は、それはその方が祈りによってそれを求めるのが適さない方であることを意味しています。

祈りは行為に先行するものです。つまり、より大きい生命との直結を求め、それが当人の存在を溢れんばかりに満たし、宇宙の大意識と一体となり、その結果として霊的強化と防備を得て奉仕への態勢固めをすることです。これが私が理解しているところの祈りです」


 訳者註───シルバーバーチは〝祈らない方がよい〟と述べて、その具体的な理由は述べていないが、筆者の師である間部詮敦氏はシルバーバーチと全く同じことを述べて、その理由を〝そうした不安定な状態で精神統一を続けていると邪霊に憑かれやすいから〟と言われた。

そして具体的に精神統一の時間を十五分ないし三十分程度とし、それ以上は続けない方がよいと言われた。

 これに筆者の私見を加えさせていただけば、人間はそれぞれの仕事に熱中している状態が最も精神が統一されており、それが祈りと同じ効果をもたらすものと信じている。宇宙の大霊との合体を求めての祈りなどを言われても、普通一般の日常生活においてそれを求めること自体が無理であり、無用でもあろう。

大体そうしものは求めようとして求められるものではなく、生涯に一度あるかないかの特殊な体験───絶体絶命の窮地において、守護霊その他の配慮のもとに〝演出〟されるものであると筆者は考えている。

 それを敢えて求めようとするのは、霊的法則をよくよく理解している人は別として、きわめて危険ですらある。と言うのは、神人合一といわれる境地にもピンからキリまであり、シルバーバーチも〝高僧が割然大悟したといっても高級界からみれば煤けたガラス越しに見た程度に過ぎない〟と言っているほどである。

ところが本人はそうは思わない。煤けたガラス越しにでも実在を見たのならまだしも、単なる自己暗示、潜在意識の反映にすぎないものを持って〝悟り〟と錯覚し、大変な霊格者になったような気分になっていく。そこが怖いのである。

 地上の人間はあくまで地上の人間らしく、五感を正しく使って生活するのが本来の生き方であって、霊的なことは必要な時に必要なものを体験させてくれるものと信じて平凡に徹することである、というのが筆者の基本的生活態度である。

シルバーバーチが祈りについて高等なことを述べたのは質問されたからであり、だから〝出来ないと観念した人は祈らない方がよい〟と言うことにもなった。

 シルバーバーチ霊は三千年も前に地上を去り、すでに煩悩の世界を超脱した、日本流で言えば八百万の神々の一柱と言うべき高級霊であることを忘れてはならない。

シアトルの春 絶対不変の摂理

 invariant disproportionate rule



Silver Birch Anthology
Edited by William Naylor



 「宇宙の大霊すなわち神は無限の存在です。そしてあなた方もその大霊の一分子です。不動の信念を持って正しい生活を送れば、きっとその恩恵に浴することができます。このことに例外はありません。いかなる身分の人であろうと、魂が何かを求め、その人の信仰に間違いがなければ、かならずやそれを手にすることができます。

 それが神の摂理なのです。その摂理に調和しさえすれば、かならずや良い結果が得られます。もしも良い結果が得られないとすれば、それは摂理と調和していないことを証明しているに過ぎません。

地上の歴史を繙(ひもと) けば、いかに身分の低い者でも、いかに貧しい人でも、その摂理に忠実に生きて決して裏切られることのなかった人々が大勢いることが分かります。忠実に生きずして摂理に文句を言う人間を引き合いに出してはいけません。

 時として酷しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。そんな時は神の象徴であるところの太陽に向かってこう述べるのです。

 ───自分は神の一部なのだ。不滅なのだ。永遠の存在なのだ。無限の可能性を宿しているのだ。その自分が限りある物質界のことで挫けるものか、と。そう言えるようになれば、決して挫けることありません。

 多くの人間はまず不安を抱きます。本当にそうなのだろうかと訝(いぶか)ります。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。〝完き愛は恐れを払う〟(ヨハネ①4・18)〝まず神の御国と義を求めよ。さらばすべてが汝のものとならん〟(ルカ12・31)

 これは遠いむかし神の摂理を理解した者(イエス)によって説かれました。勇気を持って実践すれば必ず成就されることを身をもって示しました。あなたもその摂理が働くような心構えができれば、何事も望みどおりの結果が得られます。

 もう一つ別の摂理をお教えしましょう。代価を払わずして価値あるものを手に入れることはできないということです。よい霊媒現象を得たいと思えばそれなりの感受性を磨かなくてはなりません。

また、この世的な富を蓄積しているとそれなりの代価を支払わされます。つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされることになります。

 人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなた方一人ひとりが神の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産もその霊の宝に優るものはありません。私どもはあなた方に内在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩の土塊(どかい)の中に埋もれた霊のダイヤモンドをお見せしようとしているのです。

 できるだけ高い界のバイブレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して宇宙で一人ぼっちでないこと、いつも周りに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚していただきたい。

そして霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知っていただきたい。そう願っているのです。
 
 人間は同胞のために自分を役立てることによって神に仕えることになります。その関係を維持しているかぎりその人は神のふところに抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。

 単なる信仰、盲目的な信仰は烈しい嵐にひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし立証された知識の土台の上に築かれた信仰はいかなる嵐にもびくともしません。

 いまだ証を見ずして死後の生命を信じることのできる人は幸せです。が、証を手にしてそれをもとに宇宙の摂理が愛と叡知によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることのできる人はその三倍も幸せです。

(訳者注──死後にも生命があることは証明できたが、それが永遠に続くものであるかどうかは、証明の問題では無く信仰の問題である。それは高級霊にとっても同じで、だから究極のことは知らない。とシルバーバーチは明言するのである)

 ここにお集まりの皆さんは完璧な信仰を持っていなければなりません。なぜならば皆さんは死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。霊力の証を手にしておられるからです。

そこまでくれば、さらに、今度は万事が良きに計らわれていること、神の摂理に調和しさえすれば幸せな結果がもたらされるとの信念を持たれてしかるべきです。

無明から生れるもの───あなた方のいう〝悪〟の要素によって迷わされることは絶対にないとの信念に生きなくてはいけません。自分は神の摂理による保護のもとに生き、活動しているのだという信念です。  

 心に邪なものさえなければ善なるものしか近づきません。善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。こちらの世界からも神の使徒しか近づきません。あなた方には何一つ恐れるものはありません。

あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹き込まんとする力は、宇宙の大霊から来る力に他ならないのです。

 その力はいかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。心の嵐を鎮め、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何一つ恐れるものはありません。

 完(まった)き信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐します。恐れは無知から生まれるものだからです。進化せる魂はいついかなる時も怖れることを知りません。なぜならば自分に神が宿るからには人生のいかなる出来ごとも克服できないものは有りえないことを悟っているからです。

 恐怖心は自ら魂の牢獄をこしらえます。皆さんはその恐怖心を達観しそのバイブレーションによって心を乱されることなく、完璧な信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩の気構えでこう宣言できるようでなければなりません───自分は神なのだ。足元の事情などには迷わされない。

いかなる困難も内部の無限の霊力できっと克服してみせる、と。その通り、人間はあらゆる環境を支配する力を所有しているのです。それを何を好んで(恐怖心などで)縮こませるのでしょう。

 神は物的なものも霊的なものも支配しております。神の目からすれば両者に区別はありません。ですから物の生命を霊の生命から切り離して考えてはなりません。決して水と油のように分離したものではありません。両者とも一大生命体を構成する不可分の要素であり、物的なものは霊的なものに働きかけ、霊的なものは物的なものに働きかけております。

 ですから、あなた方のように霊力の恵みを受けておられる方にとっては、いついかなる場においても神の存在を意識した生き方をしているかぎり、克服できない困難は絶対にふりかからないという信念に燃えなくてはなりません。

 世の中のいかなる障害も、神の目から見てそれが取り除かれるべきものであればきっと取り除かれます。万が一にもあなたの苦難が余りに大きくて耐え切れそうになく思えた時はこう理解して下さい───私の方でも向上進化の足を止めてあなたのために精一杯のことをして差し上げますが、今はじっとその苦難に耐え、それがもたらす教訓を学び取るように心掛ける方が賢明である場合がある、ということです。

 地上の人間の全てが自分が人間的煩悩と同時に神的属性も具えていることを自覚するようになれば、地上生活がどれだけ生き易くなることでしょう。トラブルはすぐに解決され、障害はすぐに取り除かれることでしょう。

しかし人間は心の奥に潜在する霊力をあまり信じようとしません。人間的煩悩はあくまでも地上だけのものです。神的属性は宇宙の大霊のものです。

 その昔〝この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ〟と言う訓え(※)が説かれましたが、死後の生命への信仰心に欠ける地上の人間にはそれを実践する勇気がありません。金持ちを羨ましがり金持ちの生活には悩みが無いかのような口を利きます。

金持ちには金持ちとしての悩みがあることを知らないからです。神の摂理は財産の多い少ないでごまかされるものではありません。

(※この世にありながら、この世的な俗人となるなというイエスの訓えで、確かに聖書にそういう意味のことを説いている箇所があるが、そっくりそのままの言葉は見当たらない。モーゼスの『霊訓』の中でも引用されているところをみると、地上の記録に残っていないだけで霊界の記録には記されているのであろう。オーエンの『ベールの彼方の生活』の通信霊の一人が〝われわれがキリストの地上での行状を語る時は霊界の記録簿を参照している〟と述べている。訳者)

 人間が地上にあるのは人格を形成するためです。降りかかる問題をどう処理して行くかがその人の性格を決定づけます。が、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものであり、一方あなたという存在は大霊の一部であり、神性を宿しているからには、あなたにとって克服できないほど大きな問題は絶対に生じません。

 心の平和は一つしかありません。神と一体となった者にのみ訪れる平和、神の御心と一つになり、神の大いなる意志と一つになった人に訪れる平和、魂も精神も心も神と一体となった者にのみ訪れる平和です。そうなった時の安らぎこそ真の平和です。神の摂理と調和するからです。それ以外には平和はありません。

 私にできることは摂理をお教えするだけです。その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。 有為転変の物質の世界に神の国があるはずはありません。魂の中に存在するのです。

 神の摂理は精細をきわめ完璧ですから、一切のごまかしが利きません。悪の報いを免れることは絶対にできませんし、善が報われずに終わることもありません。ただ、永遠の摂理を物質という束の間の存在の目で判断してはいけません。より大きなものをご覧にならずに小さいものを判断してはいけません。
      
 地上の束の間の喜びを永遠なる霊的なものと混同してはなりません。地上のよろこびは安ピカであり気まぐれです。あなた方は地上の感覚で物事を考え、私どもは霊の目で見ます。摂理を曲げてまで人間のよろこびそうなことを説くのは私にはとてもできません。

 私どもの世界から戻ってくる霊にお聞きになれば、みな口を揃えて摂理の完璧さを口にするはずです。そのスピリットたちは二度と物質の世界へ誕生したいとは思いません。

ところが人間はその面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。そこで私が、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。最大の財産は霊の財産だからです。

 どこまで向上してもなお自分に満足出来ない人がいます。そういうタイプの人は霊の世界へきても満足しません。不完全な自分に不満を覚えるのです。神の道具として十分でないことを自覚するのです。艱難辛苦を通してまだまだ魂に磨きをかけ神性を発揮しなければならないことを認識するのです。

 しなければならないことがあるのを自覚しながら心の安らぎが得られるでしょうか。地上の同胞が、知っておくべき真理も知らされず、神の名のもとに誤った教えを聞かされている事実を前にして、私どもが安閑としておれると思われますか。

 光があるべきところに闇があり、自由であるべき魂が煩悩に負けて牢獄に閉じ込められ、人間の過ちによって惹き起こされた混乱を目のあたりにして、私どもが平気な顔をしていられると思われますか。

 私どもがじっとしていられなくなるのは哀れみの情に耐え切れなくなるからです。霊的存在として受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に何とかして神の愛を行きわたらせたいと願うからです。神は人間に必要不可欠なものはすべて用意して下さっています。

それが平等に行きわたっていないだけです。偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に自分だけが豊富な知識を持って平気な顔をしていられないはずです。

 私たちが地上の人間を指導するに当たっていちばん辛く思うのは、時としてあなた方が苦しむのを敢えて傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということが判っているだけに、側から手出しをしてはならないことがあるのです。

 首尾よく本人が勝利を収めれば、それは私たちの勝利でもあります。挫折すれば私たちの敗北でもあります。いついかなる時も私たちにとっての闘いでもあるのです。それでいて指一本援助してはならないことがあるのです。

 私も、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。でも、ここは絶対に手出しをしてはならないと自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。

その時の辛さは苦しんでいる本人よりも辛いものです。しかし本人みずからの力で解決すべき問題を私が代って解決してあげることは許されないのです。もしも私が指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。

もしも私がこの霊媒(バーバネル)に為すべきこと、為すべきでないことをいちいち指示し始めたら、一人間として自由意志を奪うことになるのです。その時から(霊媒としてはイザ知らず)人間としての進歩が阻害され始めます。

 霊性の発達は各自が抱える問題をどう処理していくかに掛かっています。物ごとがラクに順調に捗(はかど)るから発達するのではありません。困難が伴うからこそ発達するのです。が、そうした中にあって私達にも干渉を許される場合が生じます。

 万一私たちスピリットとしての大義名分が損なわれかねない事態に立ちいたった時は干渉します。たとえばこの霊媒を通じての仕事が阻害される可能性が生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。しかしそれが霊媒個人の霊的進化に関わる問題であれば、それを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません。


 ある日の交霊会でサークルのメンバーの間で植物の栽培が話題となった時、それを取り上げてシルバーバーチがこう語った。

 「タネ蒔きと収穫の摂理は大自然の法則の中でも、もっともっと多くの人に理解していただきたいと思っているものです。大地が〝実り〟を産み出していく自然の営みの中に、神の摂理がいかに不変絶対であるかの教訓を読み取るべきです。

大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、大自然の仕組みの素晴らしさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、その全てを計画した宇宙の大精神すなわち神の御心をいくばくかでも悟られるはずです。

 蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因(タネ)は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの結果(みのり)をもたらします。自然界について言えることは人間界についてもそのまま当てはまります。

 利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑(かたく)な人、利己的な人は不寛容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。

いかなる宗教的儀式、いかなる賛美歌、いかなる祈り、いかなる聖典を持ってしても、その因果律に干渉し都合のよいように変えることはできません。

 発生した原因は数学的・機械的正確さを持って結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかはありません。

 その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げる事を通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されて初めて成長するのです。

邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。

 いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しています。その一つひとつが神の計画に沿って調和して働いています。この事実を推し進めて考えれば、世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活で責任を果たすべきであり、それを誰かに転嫁できるかのように教える誤った神学を一刻も早く棄て去るべきであることになります。

 人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡知と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは神が全部用意して下さっております。材料は揃っているのです。あとは各自がそれをいかに有効に使用するかに掛かっております」

 このようにシルバーバーチにとっては摂理そのものが神であり、神とは摂理そのものを意味する。別の交霊会でこう述べている。

 「人間的な感情を具えた神は、人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。悪魔も人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。それもこれも視野の狭い人間による想像の産物です。

神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら、世の中が不変不滅、無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰ひ一人としてこの宇宙から忘れ去られることがないことを悟ることができるからです。

 神が全てを知り尽くしているのも法則があればこそです。法則だからこそ何一つ見落とされることがないのです。法則だからこそ人生のあらゆる側面がこの大宇宙にその存在場所を得ているのです。人生のありとあらゆる側面が───いかに些細なことでも、いかに大きな問題でも───決して見逃されることがありません。全てが法則によって経綸されているからです。法則なくしては何ものも存在し得ません。

法則は絶対です。人間の自由意志が混乱を惹き起こし、その法則の働きを見きわめにくくすることはあっても、法則そのものは厳然と存在し機能しております。私は神学はこれまで人類にとって大きな呪いとなっていたと信じます。しかしその呪われた時代は事実上過ぎ去りました」

(訳者注───第二巻ならびに第三巻の〝あとがき〟で説明したとおり、シルバーバーチは同じ単語を冠詞の用い方で使い分けることが多く、ここでも一般に法律や法則を指す law を a law ,the law, laws,the laws, そしてただの law, さらにこれらを大文字にしたりしており、私はその場に応じて、法則、摂理、理法、絶対的原理、真理、神のおきて、あるいは働き等々と訳し変えている。

シルバーバーチも言っている通り霊的な内容を地上の言語で完璧に表現することは所詮無理なことであるから、用語そのものにあまり拘らずに全体としての意味を汲み取っていただければ結構である )

 さらにシルバーバーチはこれからはその法則を絶対的信仰対象にすべきであると説いてこう続ける。

 「私たちは神の摂理を説いているのです。摂理こそ地上に健康と幸福をもたらすと信じるからです。教会で(聖書を絶対のものとして)説教している人たちは、いずれその誤りを初めから是正させられる日が来ます。法則から逃れることはできません。

誰一人として免れることのできる人はいません。なかんずく霊の声を聞いたものは尚さらです。そうと知りつつ実行しない者は、知らずして実行しない者より責任は重大です。

 いったん心眼が開かれ霊力を伴った愛を受け入れた人、つまり霊的真理の啓示に目覚めた人が、そのあと万一それなりの責任を果たさなかったら、その人はいっそう大きな罰をこうむります。

なぜなら、そうと知りつつ怠ったのであり、そうとは知らずに怠ったのではないからです。立派な霊媒になれるはずなのに銀貨三十枚で霊的才能を売ってしまっている人が数多くいます。(訳者注──最後の晩餐の直前にイエスの弟子の一人ユダが、イエスを補縛せんとする側と密通して銀貨三十枚を貰ったことから〝裏切りの値〟としてよく用いられるが、ここではシルバーバーチは摂理に背くことを神への裏切り行為として述べている)

 神は人間の全てに内在しております。無論人類はありとあらゆる進化の形態を経て今日に至り、したがって誰しも遺伝的に動物的性向を宿してはおりますが、同時にそれらの全てに優るものとして神の属性も宿しており、それを機能させ発揮しさえすれば、地上生活を神の如く生きることができます」

 あらゆる病を治し、あらゆる困難を克服する力を人間の一人ひとりが宿している事実を地上人類はいまだに悟っておりません。心身が衰弱した時に引き出せる霊力の貯蔵庫を一人ひとりが携えているのです。

〝神の御国は汝等の心の中にある〟───この言葉の真意を理解する人が何と少ないことでしょう。

 その、より大きな自我と接触する方法は神の摂理に則った生活を送ることです。が、それを実行する人が何人いるでしょうか。生活は行為だけで成り立っているのではありません。口にすること、心に思うことによっても成り立っております。

行為さえ立派であれば良いというものではありません。むろん行為が一ばん大切です。しかし口をついて出る言葉、心に思うこともあなたの一部です。人間は往々にして思念の主人でなく奴隷になっている、とはよく言われることです」


普遍的な同胞精神の必要性を説いて───

 「私たちは一人の例外もなく神の一部です。赤い肌をした者(銅色人種)もいれば黒い肌をした者もおり、黄色い肌をした者もいれば白い肌をした者もいます。が、その一つひとつが全体の組織の一部を構成しているのです。

 そのうち神の摂理が地上全体で理解され、あらゆる肌色をした人種が混り合い、お互いに愛念を抱いて生活する調和のとれた地上天国が実現する日が来ます。今のあなた方にはそうした肌の色の違いが何を意味しているかは理解できません。が、その一つひとつに目的があり、それなりに生命の法則に貢献しているのです。

 そのすべてが融合し合うまでは地上にいかなる平和も訪れません。言いかえれば表面の肌色でなく、その奥の魂を見つめるようになるまでは真の平和は訪れません。

 このサークル───レギュラー・メンバーとシルバーバーチ霊団───がほぼ世界中の民族から構成されていることに気づかれたことがおありでしょうか。そのことにも地上人類への教訓が意図されているのです。

 私たちはどの民族にも他の民族にない特有の要素があって全体の為に寄与していることを学んだのです。各民族が全体にとって最善のものを持ち寄るのです。今までのところ地上人類は黄色人種は黄色人種なりに、白色人種は白色人種なりに、他の人種にない存在価値があることを理解しておりません。

 あなた方一人ひとりが神の構成分子であることを忘れてはなりません。お一人お一人が神の仕事、神の力、神の愛、神の知識に寄与することができるということです。自分より力の劣る人に手を貸すという、それだけの行為が、あなたを通じて神が顕現しようとする行為でもあるということになります。

 いかなる方法でもよいのです。相手が誰であってもよいのです。どこであってもよいのです。倒れた人に手を貸して起き上がらせ、衰弱した人に力を与え、暗闇に迷う人に光明をもたらし、飢えに苦しむ人に食べ物を与え、寝る場所とて見出せない人に安眠の場を提供してあげるという、その行為が大切です。

 そうした行為の一つひとつが神の仕事なのです。人間がそう努力するとき、そこには必ず霊界から支え、鼓舞し、援助せんとする力が加わり、予期した以上の成果が得られます。

 神が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院の中だけではありません。霊力に反応する人であればいつでもどこでも神の道具となります。神の力によって魂を鼓舞された人、高き天上界からの熱誠に感動して崇高なる憧憬に燃える人はみな神の道具です。

 地上界はいまだに神の力を特殊なものに限定し、聖霊の働きかける通路はかくかくしかじかの人でなければならないと勝手に決めてかかっておりますが、神はインスピレーションに感応する人、神の御心に適った生き方をしている人、神の摂理に従順な人であれば、どこの誰であろうと道具として使用します。

 その力は一切の地上的差別を無視します。地位や肩書、社会的階層の上下、肌の色、人種、国家、階級の別は構いません。場所がどこであろうと、誰であろうと、その力に反応する人に働きかけ、真理の大根源からの霊力を注ぎ、心を啓発し、魂を鼓舞し、宇宙という名の神の大農園の働き手として雇います。

 どうか皆さんもこの教訓を会得され、神の為に、人生の暗闇と重圧と嵐の中で難渋している神の子等を救う決意を固められ、彼らの重荷を軽くしてあげ、新たな希望と知識と光と力をもたらしてあげていただきたいのです。

それによって彼らの身体に新たなエネルギーが湧き、精神は勇気に満ち、霊は新たな意気に燃えて、神の恩恵を噛みしめることになるでしょう。同時にあなた方も人のために自分を役立てることの喜び───自分のためには何も求めず、ひたすら他人の心を高揚してあげる仕事の真の喜びを味わうことになるでしょう」

 霊的摂理の存在を知った者の責任の重大性を説いて───

 「地上の同胞の心身の糧となる霊的事実の中継役をする人たちには大変な責任が担わされています。その態度いかんが地上生活において、あるいは霊の世界へ来てから、その責任を問われることになります。

 霊界からの情報をしきりに求めながら、それを同胞の為に活用することをまるでしようとしない人に、私は時折うんざりさせられることがあります。そういう人は霊の述べたことなら何でも〝高等な訓え〟として有難がるのですが、各自が霊性の成長とともに神の摂理の働きをより多く理解していくのですから、訓えそのものに高級も低級もありません。

 もし彼らが自分の得た知識を活用して地上をより良い生活の場、つまり食に飢える人も喉を乾かしている人もなく、神の陽光がふんだんに降り注ぐ家に住むことが出来るような世の中にするために何かを為せば、それこそ最高の訓えを実践をしていることになりましょう」


 続いて自由意志との関連について───
 「人間は戦争が起きると〝なぜ神は戦争を中止させないのか〟 〝なぜ神は戦争が起きないようにしてくれないのか〟と言って私たちを批難します。しかし神の摂理をみずから無視しているかぎり、その責任は人間自身にあります。

 自分の行為による結果だけは避けようとする、そういうムシのいい考えは許されません。神の摂理は私たちも変えることはできません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばなりません。高慢、嫉妬、怨恨、貪欲、悪意、不信、猜疑心───こうしたものが実れば当然のことながら戦争、衝突、仲違いとなります。

 神の摂理を説こうとしている私たちは、こうして地上へ戻ってくる真の目的を理解していない人たちから(先ほど述べたように)よく批難されます。しかし私たちの目的は摂理を説くことでしかないのです。

この世には大自然の摂理しか存在しないからです。それをあなた方が宗教と呼ぼうと科学と呼ぼうと、あるいは哲学と呼ぼうと、それはどうでもよいことです。

 誰であろうと───一個人であろうと、大勢であろうと、民族全体であろうと国民全体であろうと───摂理に反したことをすれば必ずそれなりのツケが回ってきます。いつも申しておりますように、その摂理の働きは完璧です。時としてそれがあなた方人間には見きわめられないことがありますが、因果律は間違いなく働きます。法則だからです。このことはこれまで何度も説いてまいりました。ここでも改めて申しあげます───宇宙には大自然の法則、神の摂理しか存在しない、と。

 ですから、その摂理に順応して生きることが何よりも大切であることを人類が悟るまでは、地上に混乱と挫折と災害と破滅が絶えないことでしょう。私たちに出来るのは永遠の霊的原理をお教えすることだけです。物的なものがすべて朽ち果て灰燼(かいじん)に帰した後もなお残るのはそれだけだからです。

物的なものしか目に映じない人間は、幻影を追い求め永遠を忘れるために大きな過ちを犯すのです。いたって単純な真理ばかりです。が、地上人類はいまだにそれを悟れずにいます。

 霊界からいかなる手段を講じてもなお悟れないとすれば、苦痛と涙、流血と悲劇を通じて悟るほかはありません。私としてはこうした形で、つまり愛と協調の精神の中で悟って頂きたいのです。

ですが、それが叶えられない───つまり霊的手段ではだめということになれば、摂理に背いた生き方をしてその間違いを思い知らされるほかはありません。地上で偉人とされている人が必ずしも私たちの世界で偉人であるとは限りません。

私たちにとっての偉人は魂の偉大さ、霊の偉大さ、人のためを思う気持ちの大きさです。こうしたものは物的世界のケバケバしさが消えたあとも末永く残ります。

 自由意志は神からの授かりものです。ですが、その使い方を誤ればそれなりの償いをしなくてはなりません。地上世界が神の摂理に適った生き方をすれば、その恩恵がもたらさせます。摂理に背いた生き方をすれば、良からぬ結果がもたらされます。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱をもたらします。

 私たちは今、神の子の指導者であるべき人たちから軽蔑されております。神とその愛の旗印のもとに訪れるのですから歓迎されてよいはずなのに、彼らは私たちを受け入れようとしません。地上の人たちに何とかしてあげたいという願望に駆られて、みずからの力でみずからを救うための霊的理法と霊力の存在を明かそうと努力しているのですが・・・。

 ですが、霊的盲目による無知の中に浸り切り、祭礼や儀式に取り囲まれ、しかも今の時代に聖霊による地上への働きかけがあることを認めようとしない聖職者は、いずれその代償を払わされることになります。

私たちは人のためになることをしようとする人なら、いかなる分野の人でも味方として歓迎します。私たちにとっての敵は破壊的態度に出る人たちだけです。私たちは愛と奉仕の翼に乗って、援助の手を差し伸べられるところならどこへでも参ります。それが私たちに課せられた大切な使命なのです。

 むろんその過程において数々の困難や障害に遭遇することは承知しております。それを何とか克服していかねばなりません。汐は満ちたり引いたりします。が、確実に勝利に向かっております。私たちだけでは仕事らしい仕事はできません。あなた方地上の同志と手を握り合えばいくばくかの仕事はできます。

たった一個の魂でも目覚めさせれば、たった一人でも暗闇から光明へ導くことができれば、たった一人でも弱った人に元気を与え、悩める人に慰めを与えることができれば、それだけで私たちは立派な仕事を成し遂げたことになります」

 個々の人生に宿命的な流れがあるという意味において自由意志にも限度があるということにならないかとの質問に答えて───

 「人生にある種の傾向、つまり波動の流れがあることは事実ですが、どうしようもないものではありません。人間は常に各種の放射物や影響力によって囲まれており、その多くが個々の運動を左右する可能性を持っていることは事実です。

しかし神は全ての人間に自分の一部、大霊の分霊を賦与しています。それには、各自の進化の程度に応じて自由意志を正しく行使しさえすれば、その発現の障害となるものすべてを克服する力が秘められております。なぜなら一人ひとりが即ち神であり、神は即ちあなたがた一人ひとりだからです。

 神性を宿した種子は一人の例外もなくすべての人間に植えられております。その小さな種子は畑に蒔かれた種子と同じく正常な生長を促す養分さえ与えれば、やがて芽を出し、花を咲かせ、そして美事な実をつけます。

 その種子は神があなた方の魂に植えて下さっているのです。が、その手入れをするのは自分自身です。いつ花を咲かせるか、あるいは、果たして首尾よく花を咲かせるかどうかは、ひとえに各自の努力に掛っております。各自には自由意志があります。

もしもその種子を暗闇の中に閉じ込めて霊的成長のための光、慈善の光、善行の光を与えずにおけば、神の属性はいつになっても発揮されることはありません」