Wednesday, September 2, 2026

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話

スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第4章 死後の世界

【Q1】
 死後の世界は、どこにあるのでしょう?

 今、あなた方が生活している世界の別の側面、肉眼に見えず肉耳にも聞こえない世界です。今こうして存在しているのと同じ場所に存在しているのです。死後、わざわざそこへおもむく必要はありません。今いるところが霊界なのです。

 それが感識できないのは、霊的な感覚が発達していないからで、それが発達して霊界の波動あるいは振動(何と呼ばれても、かまいません)と調和すれば見えるようになります。

 つまり、霊界という別の世界が存在するわけではないのです。顕と幽にまたがる大宇宙を構成する無数の側面の、一つの側面に過ぎません。


【Q2】
 死んだ後、生前のアイデンティティーはどうなるのでしょうか? たとえば二、三〇年前に他界した妻を夫が確認できるのでしょうか? 向上が著しくて近づくことができないということもあり得るのでしょうか?
 アイデンティティーは変わりません。個性も変わりません。意識も変わりません。霊的品性が増し、容姿が大きくなっていることがありますが、個的存在としては生前とまったく同じです。霊的感覚が鋭くなり能力も深まっています。シミや障害や傷跡は消えてなくなっていても、本人とはっきりと認識できます。容姿も(すぐには)変わりません。

自我を表現するための道具ないしは手段は霊となっても必要だからです。その道具、つまり霊的身体は、地上で生活しているときから存在しているのです。


【Q3】
 死に方というものが霊界へ行ってから影響するでしょうか? 自然な死に方のほうが霊界に溶け込みやすいのでしょうか?

 もちろんです。大いに影響します。すべての人間が霊的知識をもち自然な生き方をすれば、いわゆる死ぬということが、らくで苦痛のないものになります。また、肉体が死滅した後、霊体になじむための調整をしなくてすみます。ですが、残念ながら、そういうケースは、めったにありません。

 地上を去って、私たちの世界へやってくる人間の大半は、自分の霊的宿命や構成、霊的実在の本質について極端に無知です。それに加えて、死ぬべき時期が熟さないうちにこちらへやってくる人があまりに多過ぎます。そういう人は、私がよくたとえているように、熟さないうちにもぎとられた果物がおいしくないのと同じで、未熟です。果物は熟せば自然に落ちます。同じように肉体に宿っている霊が熟せば、肉体は自然に朽ちて霊体から離れるものです。

 今、こちらの世界には、すっぱい果物やしぶい果物がどんどん送られてきています。そういう霊を霊的環境へ適応させるために、私たちはいろいろと手を尽くし、監視し、世話をやかねばなりません。あらかじめ霊的知識をたずさえていれば、私がたずさわっているような仕事はずっと楽になるのですが・・・・・・。

 死に方によって、間違いなく死後の目覚めが大きく違ってきます。死ぬということは、霊体が肉体から脱皮して態勢を整えることです。決して痛みを伴うものではありません。何らかの病気で死んだ場合は、その反応が残る場合があるかもしれません。その影響が大きい場合は、医者に相当する霊界の専門家が立ちあいます。

集まっている縁故の霊とともに、その死体とつながっている生命の糸(シルバーコード)が完全に切れて、無事に霊界へ誕生するように手助けします。

 次に考慮しなければならないのは、死後の目覚めの問題です。それが早いか遅いかは、その新参者の霊的意識の程度によって違います。死後の生命の存続についてまったく無知である場合、あるいは間違った死後の概念を吹き込まれていて、正しい理解に時間を要する場合は、肉体の睡眠に相当する霊的休息という過程が必要になります。
 その過程は自覚が芽生えるまで続きます。地上の時間感覚で長いこともあれば、短いこともあります。個人によって違います。正しい知識があれば問題はありません。物的波動の世界から脱け出て霊的波動の世界へと入り、新しい環境への順応もすみやかです。目覚めの瞬間は歓喜に包まれます。その目覚めをじっと待ち望んでいた、縁ある人々との再会となるからです。

 そもそも死というものは、少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。死は自由をもたらしてくれます。みなさんは、赤ちゃんが生まれると喜びます。が、私たちの世界では、これから地上へ誕生していく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。

同じように地上ではだれかが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは、地上生活で果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意が、その霊にそなわったことを意味するからです。

 次のことをぜひ理解してください。すなわち、死は死んでいく者にとっては悲劇ではなく、後に残された者にとっての悲劇に過ぎないということです。暗黒から光明へとおもむくことは悲しむべきことではありますまい。悲しんでいるのは、実は、その人に先立たれた自分のことであって、肉体の束縛から解放されたその人のことを悲しんでいるのではありません。その人はより幸せになっているのです。

もう肉体の病に苦しめられることがなくなったのです。激痛にさいなまれることがなくなったのです。天賦の霊的資質が発現し、何の障害もなくそれを発揮し、援助を必要としている人々のために役立てることになるのです。

 毛虫が美しい蝶になったことを悲しんではいけません。鳥かごが開け放たれて、小鳥が大空へ飛び立ったことを泣き悲しんではいけません。肉体を離れた魂が自由を獲得したことを喜び、そして、あなたも大霊から授かった能力を発揮すれば、その魂が味わっている美しさと喜びをいくらかでも知ることができることを知ってください。

 死というものが存在することにも意味があるのです。一つの踏み石ないしはドアのようなものであり、そこを通過することによって、より自由な霊の世界へと入ることになるのです。


【Q4】
 唯物主義者をもって任じている人は、死後どうなるのでしょうか?

 地上人類は長い間、信心深い人間は、信仰心のない人間よりも優れているという思い違いをしてきました。必ずしも、そうとはいえないのです。ある宗教的信条を信じたからといって、それだけで霊的に立派になるわけではありません。判断の基準になるのは日常生活です。

 現在の霊的本性は、本人のこれまでの日常生活での心と体の行為がこしらえたものです。ですから、神の存在を信じ教義を受け入れたことで〝選ばれし者〟の一人となったと信じている人よりも、唯物主義者、無神論者、合理主義者、懐疑論者をもって任じている人のほうが、霊的に上である場合が多いのです。大切なのは、何を信じるかではなくて何をしたかです。そうでないと〝神の公正〟が根本から崩れます。
〝神の公正〟を人間の思惑で判断してはいけません。大霊の意志の反映ですから、大自然と同じように、人間の望み・思惑・願望などにおかまいなく働きます。神の公正と人間の公正とを比較して論じることは無意味です。

人間の公正は必ずしも正しくありません。判断を誤ることがあり得ます。無実の者が罪人にされたり、罪人が無実になったりすることもあります。人間であるからには間違うということは避けられません。絶対的不謬性(誤りを犯さない)はあり得ないからです。


【Q5】
たとえばH・G・ウェルズ(注)のように、スピリチュアリズムを否定し、生涯にわたって合理主義者で通した知性派の人間が他界して、死後にも生活があると知ったときは、どういう反応をするのでしょうか?

 生涯をかけて築いた人生哲学がひっくり返されるわけですから、とても納得がいきません。宇宙そのものがどこか狂ったに違いないと思います。自分が自信をもって、論理的かつ科学的に論証した宇宙観とそぐわないからです。それを調整していかねばならないわけですが、それには長い長い論争と語らいが続きます。
訳注───H.G.Wells(1866~1946)は、英国が生んだ世界的な文明評論家で 『The Outline of History (文明の概論)』 がその代表作であるが、Q4の回答のなかでシルバーバーチが述べているように、霊格が高くても生まれ落ちた国家や環境によって間違った人生観・宇宙観を抱いていることがよくあり、知性が強いだけに死後の〝調整〟がむずかしいことになる。特に宗教的指導者は信奉者とともに自分の想念でこしらえた孤立した世界で何千年、何万年と暮らしているという。 『マイヤースの通信』 では、これを「知的牢獄」と呼んでいる。


【Q6】
 間違った信仰をたずさえて霊界入りする者が多いとのことですが、『ヨハネ福音書』では、信ずる者こそ救われると説かれています。

 それは間違いです。死後も生き続けるのは、信条や教義やドグマを信じるからではなく、自然法則によって生き続けるようになっているからです。宗教とは何の関係もありません。因果律と同じく自然の摂理なのです。


【Q7】
死んでいく者の多くが死後の存続の事実を知らず、めまいのような状態にあるそうですが、それは子どもにも言えることでしょうか?

 その子どもの知識がどのようなものかによります。地上界の無知と迷信の産物によって汚染され過ぎていないかぎりは、本来そなわっている霊的資質が生み出す感性が、直観的理解へと導きます。


【Q8】
 死後どれくらいたつと、地上界へ意思を伝えることができるようになるのでしょうか?

 事情によって異なります。死後何世紀もたっているにもかかわらず、真相に目覚めない者がいます。一方、真理を明確に理解していて、霊媒現象の原理にも通じている者もいます。そういう者なら、死んで何分もしないうちにでも出現できます。


【Q9】
 魂はいくつもの側面があり、そのうちの一つが地上に誕生できるとおっしゃっていますが、他の側面は、どこか別の階層で進化しているのでしょうか?

 私たち霊的世界に住む者は、霊的なものを説明するにあたって地上界の言語を使用しなければなりません。言語は物的なものであり、魂は非物的なものです。物的でないものを物的な言語でどう説明するか───これはあなた方の言う語義論に関わる大問題です。

私に言わせれば、魂とは、すべての人間に宿っている神 (God)、私が 「大霊(Great Spirit)」 と呼んでいるものの一部です。それはこういうものですと、形状や寸法を述べることは不可能なのです。魂とは、生命力(life force)、動力(dynamic)、生気(vitality)、実質(real essence)、神性(divinity)といった用語で表現するしかありません。
 魂というものを、多分、あなた方は自分と同じような〝人物像〟や〝個的存在〟の観念で想像なさるのでしょう。

でも、もし私が 「あなたは、だれですか?」 と尋ねたらどう答えますか?名前をおっしゃっても、それだけではあなたが何者であるかはわかりません。それはあなたを呼ぶときの名称に過ぎません。では、一体あなたという魂は何なのか? 個性をもつ存在、理非曲直を判断する能力をもつ存在、思考力をもつ存在、愛を知り地上界の人間的体験の綾を織りなす情感を表現できる存在、それが魂です。

 人間が地上で生活できているのは、魂が物的身体に活力を与えているからです。魂が引っ込めば、身体は活力を失って死にます。その魂に地上で使われているような名前はありません。本質的には大霊と同じですから、無限の存在です。そして、無限ですから無限の表現が可能です。

魂には多くの側面があるというのは、そういう意味です。それを私はダイヤモンドにたとえているわけです。それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです。

 まれにですが、同じダイヤモンドの二つの側面が降誕して地上で出会うことがあります。これを 「アフィニティ(affinity)」 (注)といいます。そういう場合は、両者の間に完全な調和が見られます。同じグループを構成する魂同士だからです。これは再生(生まれかわり)の問題とつながってきます。

つまり、同じダイヤモンドの各側面が、それぞれに何度も地上へ生まれ出て知識を増やし、自己開発し、体験を積んで、ダイヤモンド全体としての進化を促すのです。

訳注───affinityはもともと「親近性」を意味する語で、霊的な親近性をもった魂、同じ霊系に属する魂を指す。『マイヤースの通信』 では 「Group Soul」 という用語を用いているが、両者がまったく同じものであることをシルバーバーチ自身が認めている。

日本語では浅野和三郎氏が 「類魂」 と訳しそれが定着しているが、「affinity」はそのまま英語読みが定着している。なお、次のQ10の回答の後半の表現から推察すると、シルバーバーチは 「Group soul」 を人間的要素の残っている段階、言い換えると地球圏内に限っているふしがうかがわれる。


【Q10】
類魂というのは家族のことでしょうか? 霊的発達程度の同じ者の集まりでしょうか?趣味・性向 の似た者同士でしょうか? それとも何かもっと別のものでしょうか?

 「家族」という用語の意味が文字通りの意味、つまり血族や結婚によってつながった者を意味するのであれば、それは違います。純粋に肉体に起因する地上的な縁は、必ずしも死後も続くとは限りません。

 霊的関係には、究極的にはアフィニティがあり、親近性が少し劣るものとして血縁の要素が残っているものがあります。血縁関係は、永遠・不変の原理に基づくものではありません。永続性のあるものは、永遠・不変の原理に基づくものだけです。
 類魂は、人間的要素を含む霊的親近関係にある魂によって構成されています。同じダイヤモンドの側面同士ですから、自動的に引きあい、引かれあうのです。ある特殊な目的を成就するために同じダイヤモンドの複数の側面が地球上に生まれ出て、〝より大きな自我〟であるダイヤモンド全体の進化に寄与するということはあり得ますし、現に行なわれています。


 【Q11】
 大きなダイヤモンドの一側面という言い方をされました。つまり、私もある魂の集団の一人ということになりますが、これは、われわれが永遠に生き続ける存在であるとすると、他の大勢の仲間のために地上経験を積む必要があるというのが、私には論理的に納得がいかないのですが・・・。

 全宇宙を通じて作用と反作用が生じています。はるか遠くにいる人間でも、あなたの存在に大きな影響を及ぼし、結果として宇宙全体の情報が増えていくことになるのです。肉体的にも精神的にも霊的にも、あなたが孤立するということはあり得ないのです。その仲間をグループと呼んでもダイヤモンドと呼んでも、しょせんは言語を超えたものを言語で表現しようとしているに過ぎません。

 一体 「あなた」 とは何者なのでしょう? また、「あなた」 という存在はいつから始まったのでしょう? 受胎の瞬間から始まったのでしょうか? ナザレのイエスは 「アブラハムが生まれる前から私は存在していた」 と言いましたが、これは何を意味しているのでしょう?霊としては、常に存在していたという事実を述べたに過ぎません(注)。

あなたも常に存在していましたし、私も常に存在していました。そうした霊的存在の側面が、肉体をまとって地上界で生活することはあり得ることです。
 私の言うことが納得できないとおっしゃる方と論争するつもりはありません。常々私は、自分の理性が反発することは拒絶なさってくださいと申しあげています。

 私たちがもし、みなさんの好意、あるいは愛と言えるものをいただけるとしたら、それは私たちが真実を述べていることを、みなさんの理性が認めたからに違いありません。もしも好意がいただけないとしたら、私たちの意図した目的が果たせていないことになりましょう。

 私たちは、しょせん、私たちが手にした知識を、これこそは間違いないと確認したうえで積み重ねていくしかありません。そこから始めてゆっくりと、そして段階的に、より高い道をめざして探求の歩みを続けようではありませんか。

訳注───イエスのセリフは 『ヨハネ福音書』 のユダヤ教のリーダーたちとの論争のなかで述べられたもので、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、イエスがその人物より前から存在していたと述べたことに「生意気だ」と言って憤慨し、石を投げつける場面である。シルバーバーチが「‥‥と述べたに過ぎません」と言ったのは、「アブラハムが生まれる前から存在していた」 という言葉は別に失礼でも生意気でもないのに、その意味がわからずにリーダーたちが憤慨したからである。


【Q12】
地上で魂の琴線にふれる体験をしなかった者は、そちらへ行ってどういうことになりますか?

 とてもやっかいな問題です。何の予備知識もなしに初体験をさせられる大人に似ています。霊的なことにまったく疎い状態で新しい生活を始めるわけですから、地上界でも霊界でも不適応者というわけです。霊界生活にそなえた教訓を学んでいないから、そういうことになるのです。準備不足だったわけです。


【Q13】
そちらで、どういった処置をとられるのでしょうか?

 自覚の芽生えない者は手のほどこしようがありませんから、再び地上界へ送り込むことがあります。霊的感性が芽生えるのに何百年もかかることがあります。


【Q14】
霊界の知人・友人などが手助けしないのですか?

 できるかぎりのことはします。が、霊的感性が芽生えるまでは暗闇のなかにいるのです。覚醒のないところに光は届きません。

 そういう人たちのことを気の毒に思ってあげるべきです。せっかくの地上生活が無駄に終わったのですから。霊的資質を発揮することができなかったのです。学生時代に学ぶべきことを学ばなかったために、卒業してからの大人の生活への準備ができていないのと同じです。
 地上生活は、死後に必ず訪れる霊的生活へのかけがえのない準備期間です。体験の一つ一つが進化のために支払う代価なのです。地上生活は一本調子では終わりません。光と影があり、晴天の日と嵐の日があります。


【Q15】
 導きにも一般的な摂理・法則があるのでしょうか?それとも、それを届ける特殊な施設があるのでしょうか?祈りや瞑想にも効用があるのでしょうか?

 すでに何度も申しあげたことを、もう一度言わせていただきましょう。「師は弟子に応じて法と説く」───この名言が何よりの答えではないでしょうか? あなた方が心配なさることではありません。

導きはすべて、大霊から届けられるのです。地上圏に関わる神庁から派遣される使者や他の高級神霊が、ときとして、あなた方が地上へ降誕する以前から、指名を受けて背後霊団に加わっている場合があります。

 そうした高級霊が、あなた方の誕生以前に、自分の存在を知らせてくれる場合があります。ときには特殊な仕事を言いつけて、本人の了承を得る場合もあります。そういう霊を何と呼ぼうとかまいません。

そういう高級霊がひかえている場合があるということです。使命を置き去りにすることは絶対にありません。その使命は、『祈祷書』 の言葉を借りれば、「神がそなたの管理を配下の天使(注)に託し、諸事にわたりて配慮させ給う」のです。

訳注───ここで言う 「神庁からの使者」 「高級神霊」 「天使」 は、もちろん守護霊と考えてよいが、言い回しから感じられるところでは、特殊な使命を帯びた、守護霊以外の超高級霊も含まれているようである。その一例が、ほかでもない、このシルバーバーチや 『霊訓』 のインペレーターである。

 シルバーバーチは、バーバネルの守護霊ではないし、インペレーターは、モーゼスの守護霊ではない。スピリチュアリズムのような人類史に残るような大イベントを遂行するに当たっては、守護霊は直接タッチしないもので、神庁から派遣された高級霊がたずさわっている。

バーバネルの守護霊はついに一度も出現しなかったし、モーゼスの守護霊も、「The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewy (モーゼスの背後霊団)」によると、インペレーターを指揮官とする四九名の霊団のほかにもう一人「プリセプター(「教師」の意味の仮の名)」と名のる総監督がいたというから、多分これがそうではないかと筆者は見ている。一度だけ姿を見せて、すぐに引っ込んだという。前出の原書には、BC九年のヘブライの預言者エリヤであることをにおわせる箇所がある。

Tuesday, September 1, 2026

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

 崇高な存在との対話

スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第3章 ナザレのイエスとキリスト教

【Q1】
 聖書(バイブル)には、真実が語られているのでしょうか?

 聖書は、霊的真理と人間的夾雑物の混ぜものです。


【Q2】
 キリスト教でもそうですが、宗教の指導者の生と死と復活を、太陽系や四季のめぐりといった、自然現象と関連した神話上の神々になぞらえているものが多いのはなぜでしょうか?

 それは、人間が自分たちの指導者には超自然的能力があったのだと思いたいために、太古の神話からそうしたものを借用したからです。

当時の人間は、まだ自然法則という概念をもちあわせていませんでした。それで彼らは、自分たちの指導者は、自分たちにはない超越的資質をそなえた超常的人物であったことにしたいと思い、民族同士でそれぞれの神話を借用しあったわけです。

 それはしかし、大霊の使者によってもたらされた教えを汚染するまでには至っていません。それぞれの時代、それぞれの民族において、それぞれの必要性に応じて、大霊の真理と英知と愛を反映したものが届けられています。


【Q3】
 そうした宗教上の人物は、大自然の運行と連動しているのだと、信奉者は信じています。つまり、自分たちの教祖さまの生涯は自然現象を暗示している(たとえば、死後の復活は冬のあとに春が訪れるのと同じ)と信じているのですが、これは単なる偶然でしょうか?

 あなたのおっしゃるのが、聖書にあるようにナザレのイエスが磔刑(はりつけ)になったときに、天地が慟哭するかのように、稲光とともに嵐が吹きまくったという話のことであれば、それは事実ではありません。死んだ人間もみな、地上へ戻ってくることを意味するのであれば、それは事実です。さきほど述べた大霊の使者の生涯に関しても、同じようなこじつけがみられます。


【Q4】
 「聖霊に対する罪」というのは、どういう罪でしょうか?

 聖霊に対する罪は、聖霊の存在を否定することです。

訳注───このシルバーバーチの答えは、キリスト教を代弁したものではなく、霊的真理に照らして批判的に答えたもの。つまり、キリスト教神学でいう 「三位一体説」、すなわちゴッドとイエスと聖霊が一体であるとの説が誤りであるとの立場から、次の質問(Q5)に対する答えで述べているように、キリスト教では実質的には聖霊の存在をみずから否定しているのだから、その意味でキリスト教者自身が罪を犯していることを指摘している。


【Q5】
 聖霊とは何なのでしょう?

 霊界から届けられる霊的エネルギーのことです。キリスト教では教義の一つとして抽象的には認めていますが、私たちが 「地上界のすべての人間が、その恩恵に浴しているものです。こうしてみなさんと語りあえるのも、その霊力のおかげです」 と言うと、それは聖霊ではないと反発します。たとえ一時であっても、霊の世界と物質の世界が目的において、こうして一つになることを可能にしてくれるのは、聖霊すなわち大霊のエネルギーのおかげなのです。


【Q6】
 聞くところによると、キリスト教のどの教派においても、洗礼を受けることによって、死後その教派の霊団に迎えられて、新しい環境に順応するように世話をしてもらえるのだそうですが、それが事実だとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか?

 この大宇宙を稼動させている力、この物的身体に生命の息吹を吹き込んで霊的存在としてくれている力、無数の天体のすべてに存在を与え、自然法則として顕現している力、無数の次元の生命として顕現している大霊、太古より多くの預言者や霊媒を通して顕現してきた大霊、すべての存在の内部と背後にあって働いている力、その無限大の力である大霊が、人間が水をかけられているかどうかでお困りになることはありません。

大切なのは、各自の人生が摂理にかなっているか否かです。赤子に数滴の水をかけたからといって、摂理がごまかせるわけではありません。摂理は変えられないのです。原因には、それ相当の結果が出るようになっているのです。


【Q7】
 キリスト教は、多くの立派な人間を生み出したのではないでしょうか?

 その人はクリスチャンになろうとなるまいと、立派な人間になっていたはずです。


【Q8】
 でも、イエスの教えにしたがったからこそ、立派になったのではないでしょうか?

 地上界の人間が本当にナザレのイエスを見習った生き方をしたら、人類の歴史に新たな一章が始まったことになるでしょう。残念ながら、まだ始まっていません。私の目にはその兆候はどこにも見えません。

 忠誠を尽くすべき人物を裏切るような生き方をしながら、この私に向かって 「クリスチャン」 という用語を用いることはやめてください。イエスも言っているではありませんか───「私に向かって主よ、主よ、と言っている者のすべてが天国に入れるわけではない。天に在します父の御心を実践する者のみが入れるのである」 と。


【Q9】
 クリスチャンのなかには教義にあまりこだわらず、それでいて我欲のない立派な生涯を送った人物がいく人もいましたね?

 そういう人物は、立派なクリスチャンとは言えません。だめなクリスチャンということになりましょう。ですが、立派な人物だったのです。忘れないでください。いかなる教義も必ず魂を束縛します。

 人間は、教義を守ることによって立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人類は教義の名のもとに殺しあい、火刑に処してきました。魂を縛るもの、手かせ足かせとなるもの、自由な生き方を阻むものは、いかなるものであっても排除しなくてはいけません。


【Q10】
 イエスは教会がいっているように 「神の唯一の子」 だったのでしょうか?それとも、ふつうの人間の子で、偉大な霊的能力をそなえていたのでしょうか?

 イエスは、大霊の使命を帯びて物質界へ降誕した使者の一人でした。地上での使命は成就しましたが、まだ全使命の一部が残っています。今、それを成就するために霊界から指揮しているところです。忘れてならないのは、イエスという一人物を崇めるのは間違いだということです。

 崇拝の対象とすべきものは大霊のみであって、その大霊の使者を崇めてはいけません。またイエスは、自然法則にのっとって地上界へ降誕してきました。自然法則を無視して物的生命を授かることはできません。法則を無視して地上へ生まれてくることも、地上界から私たちの世界へ来ることもできません。


【Q11】
 そのことを、イエスは聖書のどこかで言っていますか?

 私が訴えるのは大霊の法則のみです。何かというと言葉の松葉杖にすがるような人は、大霊が今も働いている、今もインスピレーションを地上の人間に届けてくださっている、今も真理を啓示してくださっているということを悟るまで、霊性の進化を待つしかありません。

 霊的法則は、今でも同じように働いているのです。霊的エネルギーは、今でも霊媒を通して働くことができるのです。あの聖書の時代と同じように、大霊の道具となることができるのです。聖書は立派な本かもしれませんが、もっと立派な〝本〟があります。大宇宙そのものです。

大霊の摂理で構成されており、その本からみなさんは、他のいかなる本───それがいかに立派で、いかに大切にされ、いかに崇められていても、それよりはるかに多くのことを学ぶことができます。


【Q12】
 イエスは今、どこにいて、何をなさっているのでしょうか?

 ナザレのイエスなる人物を通して顕現した霊は、二〇〇〇年前に開始した使命を果たすべく、今も働いています。その霊は二〇〇〇年前に十字架に架けられましたが、実はその後も数え切れないほど架けられ、今では毎日のように架けられています。しかし、その霊は大霊の分霊ですから、地上界に秩序と安寧をもたらすべく、これからも道具のあるところに働きかけて、その影響力を広げていくことでしょう。


【Q13】
 あなたがイエスについて語るとき、それは人間イエスのことですか? それともイエスを通して働きかけた霊的勢力の総合ですか?

 人間イエスのことです。ですが、その後イエスは大きく進化し、地上時代よりもはるかに高等な意識を発現しています。地上で発現する意識の高さが、生まれ落ちた時代と土地柄に相応したものにならざるを得ない以上、やむを得ないことです。それでも、ナザレのイエスを通じて発現した霊性は、地上に降誕したいかなる人物をも凌ぐものでした。イエスほど霊性を強烈に顕現した者は、ほかにいないということです。


【Q14】
この二〇〇〇年間に、でしょうか?

 前にも後にもいません。イエスが発現した霊性は、地上界で発現した大霊の霊性のなかでも最大のものでした。だからといって私たちは、イエスという一個の人物を崇めることはしません。イエスを通じて発現した霊力には敬意を表します。どれだけ霊力の道具になったかで受けるべき敬意の度合が決まる、というのが私たちの認識の仕方だからです。


【Q15】
 霊界では、イエスのような人物を地上へ送って、さらに啓示を届ける計画があるのでしょうか?

 必要性が変われば、それに応じて手段も変えないといけません。忘れてならないのは、地上世界は、ますます複雑になり、ますます相互依存の傾向が強まっていますから、霊界とのコミュニケーションのチャンネルも新たに開かねばならなくなっていることです。

 霊界側は、地上界のさまざまな気質、さまざまな慣習、ものの考え方、生活様式を考慮しなければなりません。メッセージの内容も自然環境や特質、民族的習慣にあわせなくてはなりません。言語による制約もあり、それを読んだり聞いたりする人たちの程度にあわせなくてはなりません。しかし、その背後で鼓舞している根源的エネルギーは同じです。
 キリスト教界では、死者からよみがえって姿を見せ、生命が永遠であることを証明して見せた人物に敬意を表しています。その人物は物質化して、証拠として磔刑の傷跡を見せています。その後も顕現しています。こうした現象をキリスト教界では、証明はできなくても事実として信じているのです。ところが、それは神の子イエスだから発生した奇跡であると独断します。

 しかし、私たち霊界の者が、こうして交霊会に出現し、死後の世界の実在を証言し、大霊の永遠性とその摂理・法則の不変性を説くことができるのも、奇跡ではなく、イエスのよみがえりと同じく、法則にのっとった自然現象なのです。つまり、すべての人間がよみがえるのです。生命の法則がそうなっているからです。


【Q16】
 伝統的宗教を扱うに際しては、寛大な態度でのぞむべきでしょうか、厳しい態度でのぞむべきでしょうか?

 おそれることなく、真実を語ることです。あなたは大霊の使いです。邪説を論破し、虚偽を暴きなさい。おそれることはありません。


【Q17】
 スピリチュアリズムを受け入れれば、伝統的宗教は捨て去るべきでしょうか?

 私はラベルには関心がありません。はたしてスピリチュアリストなのかも定かでありません。確認する儀式をしたことがないからです。自分がどういう信者であるかを宣言しても何の意味もありません。私たちが関心をもつのは、日常生活をどう生きているかです。
 宗教とは何なのでしょう? 教会やシナゴーグやチャペルや寺院に通うことでしょうか? 人間のこしらえた信条の受け入れを宣言することでしょうか? ローマ・カトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですとかいうことでしょうか?

 宗教とは、大霊に少しでも近づくような生き方をすることです。大霊の御心があなたを通じて発現することです。宗教とはサービスです。
 霊界からの啓示のすべてを手にしながら、あいかわらず伝統的宗教の教義にしがみついている人がいたら、その人のことを気の毒に思ってあげなさい。心のなかで、その人のために祈ってあげなさい。その人は、まだまだ初歩の段階にいるのですから。



【Q18】
 宗教の指導的立場にいる者が霊的真理に目覚めたとき、旧式の概念は捨て去るべきでしょうか?

 人間各個の義務というものを、私たちは至上の原則と位置づけています。自分のすることには自分が責任を負うということです。

 霊的真理に関して屁理屈で言い逃れをしても何にもなりません。霊的意識が芽生えれば、良心の声がどうすべきかを教えてくれるものです。それをなるほどと認識したら、そのとおりに実行しなければなりません。それができない人はその程度の人なのですから、それをとがめることは正しくありませんし、適切でもないと考えます。


【Q19】
 スピリチュアリズムは、いずれ普遍的な宗教となるのでしょうか?
 スピリチュアリズムというのは、いくつかの霊的真理の存在と意義と作用について与えられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは生き方そのものであって、特定の信仰を受け入れることではありません。


【Q20】
 教会やチャペル、シナゴーグなどは存在価値があると思われますか?

 あるものもあれば、ないものもあります。そういう場所にいる者が、無意識のうちにせよ霊の影響を受け、インスピレーションを受けるようであれば、光明と知識と英知と真理を広めるための道具となりますから、大いに役立つでしょう。

 インスピレーションもなく、古い形式や儀式、朽ち果てた教義の繰り返しで、神学の一字一句にこだわった説教しかできないようでは、何の役にも立ちません。

いずれにしても、一概にはどちらとも言えません。だめ呼ばわりするところばかりでもありませんし、絶賛したくなるようなところばかりでもありません。それぞれに長所と短所があり、本来のサービスをしているところもあれば、していないところもあります。

ベールの彼方の生活(四)

著者: G・V・オーエン(George Vale Owen)

近藤千雄 訳



一章 測りがたき神慮
1 大聖堂への帰還 2 静寂の極致 3 コロニーのその後
バーナバスの民へ支援の祈りを



1 大聖堂への帰還
一九一八年一月二十一日 月曜日

 
 これからは光明界へ向けての旅となります。例の〝光のかけ橋〟の下の谷の暗さは地上の夜の暗さであったと私が言えば、これまでいた暗黒界の都市の暗さの程度(ほど)がご想像いただけるであろう。

漆黒の闇は何も見えない暗さのことです。が、こちらにはそれよりさらに濃い闇が存在する。地上では闇はただ暗いだけのことですが、暗黒界の闇には実体があり、上層界からの保護を受けていない者にとっては、まさに恐怖なのです。

哀れにもその濃厚なる闇へと引き寄せられた者は、あたかも水に溺れるのにも似た窒息せんばかりの苦しみを覚えます。しかもそこには沈みゆく身を支えてくれる板切れ一枚ない。

苦しみの極みにやがて逆上と絶望が忍び寄り、冒涜の地獄を次から次へとさ迷い歩きながら、いつになっても、光明界へと向かうきっかけが己れの心一つに掛かっていることに気づかないのです。

 さよう、その奥深き暗黒界の闇には確かに一種の濃度があるのです。ただし、そこに住む者には薄ぼんやりと見透す視力が具わっています。もっとも、それが何らかの恩恵をもたらすわけでもありません。


それどころか、その視力に映じるものは身の毛もよだつものや悪意に満ちたものばかりであり、それが彼らの苦しみを一段と辛辣なものにしていくのです。

彼らの中にはかつてこの地上に生活し地上社会で交わった者もいる。生まれながらにして邪悪だった者もいれば名声と地位を誇った者もいる。このようなことを述べるのは、死後の真相を貴殿を通じて地上の人々に伝えたいと思うからです。

と言うのも、地上には、絶対神は愛そのものであるが故に地獄は存在しないと論ずる者がいます。確かに神は愛そのものです。が、そう述べる者がどこまでその絶対愛を理解しているか──ほんの初歩的なものでしかない。

一方こうして貴殿に語りかけている吾々霊団の者はどうかと言えば、これまでの永き道程にもかかわらず未だに究極には到達できずにいます。

が、神がまさしく愛であるとの確信を抱くに十分なだけの──と言ってもまだ一かけらほどでしかないが──神の叡智(摂理)を理解することを得ております。完全なる理解はできません。

しかしこれまで得た知識が〝神は叡智において完全であり完全なる愛そのものである〟との信仰をますます拡大し、より確固たるものにしてくれたことは確かです。


──リーダーさん、お聞きしたいことがあります。いつでしたか、睡眠中に私も暗黒の地下の仕事場を訪れたことがあるのですが、そのことをあなたはご存知でしたか。もしご存知でしたら、私が訪れたのはあなたが奴隷を救出された鉱山と同じところだったのでしょうか。どこか似通ったところもありましたが、違うところもありました。

 貴殿の睡眠中の体験のことは勿論よく存じております。と言うのも、こうして貴殿を使って通信を送る作業を準備するに当たって吾々は貴殿の生活について総合的に検討してあるのです。貴殿の扱い方に粗相があってはならないからです。

この種の仕事に抜擢(ばってき)される人間は、目的はそれぞれ違っていても、こちらで徹底的に調べ上げており、その生活ぶりは一つとして見落とされることがないものと思われて結構です。

 さてご質問の件ですが、あの場所は例の都市から数マイルほど離れた位置にある別の鉱山で吾々がお話したボスの子分によって支配されております。そこは、ボスに対して反抗的態度をとった者が連れていかれるところで、そこで徹底的にしごかれながら、吾々が訪れた鉱山よりもさらに厳しい監視下で働かされています。

それに比べれば吾々が訪ねた鉱山の奴隷は挫折感が強いだけに誰かにすがりつこうとする傾向があり、その意味で割合自由にされているところがあるわけです。

貴殿が行かれた場所はその地域へ初めて送り込まれた者がいったん置かれるところで、それだけにまだそこでの仕打ちの残酷さの程度を知らず、そのしごき方も知らずにおります。


──動物がいましたが、あれは何の用があるのでしょう。

 その者たちを威嚇し見張るように訓練してあるのです。


──でも動物がそんな地獄に落ちるようなことをしでかすはずがないし、そんな用事に使われるいわれもないと思うのですが・・・・・・


 貴殿が見られた動物は一度も地上に生を享けたことのない動物たちです。地上に生を享けた動物は明るい界層へ向かいますが、あそこの動物たちは悪の勢力によって創造されたもので、彼らにはそこまでは創造できても、地上へ誕生させるほどの力はありません。

そこで暗黒界の環境を形成している成分によって形態だけは立派な動物の姿をしておりますが進化はせず、これからもずっとあのままです。

貴殿があの境涯での動物の存在を不審に思われたのも無理はありません。あの種の動物は地上の動物的生命の秩序の中に組み込まれていないのです。地上の動物種族の進化に関与できる能力を有するのは創造界においてもよほど高い界層まで到達した神霊に限られます。

以上、非地上的真理を地上の言語で述べてみましたが、ご理解いただけましたか。


──一応わかりました。どうも。大へん謎めいた話で私には思いも寄らないことです。が、これは以後じっくり時間をかけて考えていけば、他の謎を解くカギにもなりそうです。


 いかにも。そういう姿勢で取り組めばきっと役に立ちます。その際に次のことを念頭に置いていただきたい。

すなわち宇宙を善と美のみの光で照らして考察すると、当然、悪は否定的な要素でしかないことになりますが、それを逆さまに考える──つまり反対の端から出発して善のみの生命の流れに逆らって進めていけば、暗黒界にも光明界の大天使や中天使や小天使に相当する強力な悪の存在がいるということです。但し一つだけ大きな相違点がある。それはこういうことです。

 天界の進化の階梯を下から上へ登っていくと次第に崇高さを増し、ついには究極的存在に至ることになりますが、暗黒界においては完成の極致というものがない───絶対的存在はいないということです。

すべての点で言えることですが、この点においても暗黒界の勢力には完成というものがなく、神性に欠けるが故に秩序もない。もしそうでなかったら暗黒の勢力が光明の勢力と対等となり、そのうち光明界が侵略され、愛と美がその反対の憎と醜にとって代られ存在の場を失うことにもなりかねない。

そうなると最高神の目的が歪められ、宇宙が進化の道を踏み外し、脇道へ外れて遭難し、幾星霜を経るうちに大混乱が生じ、ついにはその目的を成就できずに終わることになるでしょう。

 そこで、いかに暗黒の勢力が強力とはいえ全能ではないようにできているのです。全能は唯一絶対の宇宙神のみの大権なのです。

神は全知全能であるが故に、たとえ我が子が反逆して横道へ外れても、その我儘の程度を知悉(ちしつ)しているが故に、いずれは自らの意志により無条件に抵抗を止め、神の愛の絶対性を認めるに至るようにと、数世紀にも及ぶ放浪の旅をもお許しになるのです。

その時点において初めて宇宙の初めと終わりの謎が明確に理解され、神の叡智を悟るのです。

吾々が知り得た限りの神の御国──それとて程度は知れているが──について地上の言語で語れるのはこれまでです。吾々は吾々なりにもっと表現力に富む言語があるのですが・・・・・・地上の言語ではこれ以上は語れません。もっとも、貴殿の方にご質問があれば別ですが・・・・・・


──どうも。その件に関してはありません。

 では今回はこれで一応終わりとしましょう。どうやらカスリーンが貴殿にひとこと告げたいことがあるようなので、吾々の固苦しい影響力を引き上げて彼女自身の心根(こころね)のやさしい思念にゆずることにしましょう。

彼女の魅力ある性格から出るものをそのまま言わせてあげたいのです。彼女は実に心優しい性格で、吾々の書記として辛抱強く頑張ってくれております。その献身的な協力に対して吾々は心から感謝いたしております。貴殿とはまた機会を得てお会いしましょう。

お寝すみなさい。神の明るき光が貴殿並びに教会の信者の方々とともにありますように。みなさんは自覚なさっている以上に光輝に包まれておられます。いつの日かそれを目の当たりにされる日も来ることでしょう。


 訳者注──多分このあとすぐカスリーンからのメッセージがあったのであろう。それが載せられていないのは多分その内容がプライベートなものだったからであろう。 




  2  静寂の極致         
  一九一八年一月二十五日 金曜日

 吾々はついに光の橋にたどり着きました。上り傾斜になっているその橋を暗黒側の端から登って光明界側の端まで来ると、そこでしばし休息して、それまでの仕事の成果を振り返っておりました。

そこへ吾々の界からの使者がやって来て、吾々の使命の進行過程での神庁における配慮の様子を語ってくれました。と言うのも、第十界を離れて以来このかた、神庁においては片時も吾々との霊的接触をゆるめることはなかったのです。

彼はその具体的な例として吾々が重大な事態に立ち至り火急の援助と導きを必要とした時に神庁において打たれた手段の幾つかを語ってくれました。

そのうちの幾つかは吾々にもその時点ではっきりと分かっていたものや何となく感づいていたものもありましたが、大部分はその時の抜きさしならぬ状態の中で全神経を集中していたために、外部から援助されている事実すら気づいておりませんでした。

それというのも、そうした暗黒界においてはその界層特有の環境条件に身体の波長を合わせるために、霊的な感覚がある程度制限されるのはやむを得ないことなのです。

 その点は地上界に身を置く貴殿も同じです。たとえ吾々による手助けに気づかれなくても貴殿はいつも見守られており、必要な時には然るべき援助を授かっておられます。

 さて途中の界でのことは省略して、一気に第十界に帰ってからの話に入りましょう。

 第十界を取り囲むように連なる丘の上で吾々は一団の出迎えを受けました。みんな大喜びで吾々の帰還を待ちわびており、吾々の土産話を熱心に聞きたがりました。

そこで吾々はいっしょに歩を進めながらそれを語って聞かせているうちに、いよいよ〝聖なる山〟の大聖堂の前に広がる大平原にたどり着き、そこを通り抜けて〝聖なる山〟を登り、聖堂の袖廊(ポーチ)まで来ました。

そこから奥へ招き入れられ、中央の大ホールへ来て見ると、そこに大群集が集まっており、跪いて姿なき大霊への讃仰の祈りを捧げているところでした。吾々はそこを通り抜けて最後部で待機したのですが、吾々の動きに一瞥すらくれる者は一人もいませんでした。

 地上の人間は真の静寂を知りません。地上には完全な静寂というものがないのです。音の無い場所というものがありません。第十界のあの大聖堂での讃仰の祈りの時はまさしく静寂そのもので、崇厳さと畏敬の念に満ちておりました。

 かりに貴殿がはるか上空へ地上を離れれば、次第に地上の騒音から遠ざかることができるであろう。が、それでもなお空気との摩擦があり、微(かす)かとはいえ一種の音によって完全な静寂は破られるであろう。

さらに大気圏を離れても、惑星間の引力作用による潜在的な音の要素がエーテルに響いている。

太陽系を離れて別の太陽系との間の虚空まで行けば、幾百万光年の彼方の地球はもはや見ることも感知することもできず、殆どその存在は知られなくなることであろう。

しかしエーテルが存在する。たとえ貴殿の耳には何の音も届かなくても、エーテルを応接間に譬えれば空気はその控えの間のような存在であるから、音と隣り合わせていることになり、両者は言わば親戚関係にあることになる。

 ところがこの第十界までくると、そのエーテルを十倍も精妙化したような大気が存在する。ここでの静寂はそれに浸る者への影響の観点から言えば消極的なものではなく、むしろ能動的な一つの存在を有している。

つまり音が無いという意味での静寂ではなく、静寂という実体があるのである。それも一種のバイブレーションをもつ存在である。

がその周波は極めて緻密で、音の皆無の状態と同じなのである。私にはこれ以上の説明はできかねます。肉体という鈍重な物質に宿っている貴殿には、吾々があの大ホールへ入った時に体験した状態は、その万分の一といえども想像できるものではありません。

 最後部の座席で待機していると、前回吾々を見送って下さった方が中央の通路を通って近づいてこられ、私の手を取って祭壇へと案内してくださった。その祭壇は例の玉座のある拝謁の間にあり、吾々が暗黒界への使命を給わったのもその部屋でした。

 使命を終えて再びその部屋へ戻ってきた時の吾々は、あの暗黒界での辛酸をなめさせられて、いささかやつれぎみでした。顔の表情から数々の闘争のあとが窺われました。

というのも、私が貴殿にお話したのはほんの一部であって、決してあれがすべてではなかったのです。善と悪との絶え間ない戦いをくぐり抜けてきた戦士のようなものでした。

しかしその傷あともシワもいずれは霊格の一部として融合し、一段と品格を高めてくれることでしょう。吾らが主イエスも身を持ってその模範を垂れ、聖なる美への道をお示しになられたのです。

実に、身にまとわれる衣にも犠牲の教訓が読み取れるほどの主の美しさは、地上の言語はおろか天界の言葉をもってしても、私には表現することはできません。

 吾々一団は祭壇から少し離れた位置で足を止め、同じように跪いて存在の根源すなわち絶対神への祈りを捧げた。むろん絶対神は顕現の形でしかその姿をお見せになることはないし、それも滅多にあることではない。それもほとんどが主イエスの形態で現れる。

その理由は地上人類の一人として降誕されたその体験ゆえに、その段階での吾々にとってより交わりを得やすいからです。


 やがて合図を感受して全員が頭を上げて祭壇へ目をやった。合図と言ってもただ吾が身の内と外にある存在感を感じ取ったにすぎない。見ると祭壇の左手に主のお姿があった。

主は二度と同じ姿をお見せになることはない。どこかに新らしいもの──吾々の心を捉え教訓を物語る何ものかを備えておられる。

 その頭部の上方に七人の尊い天使のお姿が一列に並んで見える。腕で両手を交叉させ、立ったまま黙しておられる。目は閉じてはいないが、瞼が下がり主の少し後方の床へ目線を落としているようであった。

身には各種の色合いの混じったゴースの衣をまとっておられる。外から色づけしたものではない。意識的に表現するのでなしに、自然にその色合いが出ているのである。


地上にそれと同じ色合いを見つけることはできないが、そのほかにも地上のバイオレット、ゴールド、淡いクリムソン──ピンクとはちがいます。今の貴殿には理解できないでしょうが、そのうち分かります──それにブルー等々が混じっている。

ほぼそれに近いという程度ですが、実に美しいものです。ゴースの衣をまとっているとはいえ、身体そのものから出る美しさは譬えようもありません。

その至純さもまた譬えようもなく神々しく、それが衣に反映して放つ光輝は、それによって外から飾るのではなく、それがその存在の一部となり切って神々しさを引き立てている。

それぞれの頭部には光のベルトが輝いており、その生き生きとした様子は、心が讃仰へ、あるいは愛へ、あるいは慈悲心へと変わるごとに輝きが変化するほどでした。

七人の天使の心は完全なる調和と落着きを保っているために、僅かな心の動きでもすぐさま光のベルトに反応を示し、同時にブルーの衣を通してクリムソンのきらめきが、そしてバイオレットの衣を通してゴールドのきらめきが放たれるのでした。

 祭壇のわきに立たれるキリストの容姿は七人の天使に比べて一だんと鮮明度が強烈で、容貌の細部までよく見ることができました。頭部には二重の冠をつけておられる。一つの冠の内側にもう一つ見える。

外側の大きい方は紫色をしており、内側の小さい方はクリムソンの混じった白色をしている。その二つが幾本かの黄色の棒でつながれ、その間に実に可愛らしいサファイアの宝石が散りばめられ、冠全体から放たれる光輝が頭上で一つの固まりとなっています。

身体全体がきらめく銀色の光に包まれ、クリムソンパープル(深紅と紫の混じったもの)──この色は地上には存在しません──のマントを羽織っておられる。

胴体の中ほどに金属性のベルトを締めておられ、銀と銅の中間の色をしている。私はいま主の容姿を私に出来る限りに叙述しております。

時に地上の用語を妙な組み合わせで使わざるを得ませんが、それでも私の伝えたいこととは程遠いことばかりです。胸もとにはルビーの首飾りがあり、それがマントを両肩のところで留めております。

右手に色彩豊かな棒状のアラバスター(石膏の一種)を持ち、その先端を祭壇にそっと置いている。左手は腰のあたりに当てがい、親指をベルトの中に入れておられる。

そのせいでそのあたりのマントが片側へ広がっている。そのお姿の優美さは仁愛に満ちたお顔と完全に調和しておりました。


──そのお顔は地上の絵画に見る例のお顔と似ていますか。

 似ていますが、ほんの少しだけです。ただし、主のお顔は顕現のつど、どこかが少しずつ異なっていることを知っておかれたい。本質的には少しも変わりません。この度もそのお顔から受けた印象は王者のそれでした。

悲哀(かなしみ)の人でありながら全体には王者の風格がみなぎっておりました。その中に吾々は神の御国に到達された方のしるしを読み取りました。

そこへ到達されるまでの葛藤の痕跡は、その成就とともに訪れるのどかさの中に吸収されつくしておりました。

 貴殿は今その時の主のお顔に地上の肖像画に見えるようなあごひげが付いていただろうかと思っておられますが、私が見かけた限りでは、ありません。実は私は主があごひげを付けておられるのを見かけたことがないのです。

すでに五十回ないし六十回はご尊顔を拝しているのですが・・・・・・もっともそれは否定する理由にはなりません。主があごひげを付けてはならない理由はありません。

時にはお付けになって出られるのかもしれません。ただ私は見たことがないというまでです。それ以上のことは言えません。

 さて吾々が主を見つめ、それから頭上の天使に目をやっていると、やおら主がお言葉を述べられた。貴殿にはその大ホールの全会衆へ向けて述べられたお言葉の意味は理解しかねるであろうから割愛するとして、いよいよ吾々帰還したばかりの十五人に向けてとくに語られたお言葉は──語るといっても貴殿らが語るのとは異なるのですが──およそ次のようなものでした。


「さて、暗黒の飛地より帰られたそなたたち。実はその後私も同じ土地へ赴いていたことを知られたい。

群より離れた彼の地の小羊たちには私の姿は幽かにしか、それも稀にしか見えないことであろうが、私は父がお造りになられた世界の最僻地までも赴き、そこから上層界へと向かいつつ、そなたたちと同じように彼の地の者たちに語りかけてきた。

数多くの者が私の声に目を覚まし、その顔を光明界へと向けてくれた。が、私に背を向けて暗黒界をさらに深く入り行く者もいた。彼らは私がそこに存在することそのことから受ける知覚に耐えかねたのである。

その時はことさらに私の影響力が増幅されていた。今もそのまま残っていることと思う。

そなたたちはそのとき私に背を向けた者たちがその後たどり着いた場所までは踏み込んでおられない。が、私は今なおその地で彼らと共にあり、いつの日かは彼らもこの地において私と共にあることになろう。

 さて、私の忠実なる使者であるそなたたちは、よくぞ私の計画を推進なされた。私は私の本来の住処よりそなたたちの仕事ぶりを注視していた。名誉の負傷なくして帰ることを得なかったことであろう。

私も同じように傷を負いました。彼の地の者をこの光明界へと誘わんとするそなたたちの誠意ある意図は必ずしも妥当なる信任を得なかったが、それは私も同じである。

余計なお世話と言われたこともある。そなたたちは彼の荒涼たる大地に住める同胞の苦悶の様子を見て、さぞ心を痛めたことであろう。

そして又、時には、これで果たして神は父と呼ばれるべき存在であり得るのかとさえ思えたこともあろう。とくに彼らの苦しみを我が苦しみとして受けとめ我が身を滅ぼさんばかりになった時はなおのことだったであろう。しかし我が親愛なる使者に申し上げよう。

私も又、他のことと同様このたびのことにおいても、人間的苦悩の深奥を極める体験をさせられました。父が私から顔を背けられた時に私も暗黒の苦しみを味わったのです」

(訳者注──最後の一文は多分はりつけにされた時のことを指すのであろう。その直前イエスは窮地を救ってくれるよう父なる神に祈った──〝父よ、御心ならば、何とぞこの苦しみの杯を取り除き給え。が、どうぞ私の願いでなく御心のままになされんことを〟と。

そして有名な最後の一句〝エリ、エリ、レマ、サバクタニ〟──神よ、神よ、何ゆえに私を見捨て給うや──を唱えて息を引き取った)


 主は静かに、穏やかに、そして抑揚の少ない調子で話されました。しかも話しておられるうちに、その目の表情がはるか遠くの眺望の中へ霧のごとく融け入るようにみえました。

それはあたかも今そうして話をされている最中も七人の神々しき天使と共に、そこの大聖堂にいるのではなく、彼の暗黒の地においてその土地の者たちと苦しみを共にされているごとく思えました。

しかしそのお言葉に苦の情感は感じられませんでした。感じたのは主みずから語られた邪悪への哀れみと支配力の尊厳でした。さて再び主のお言葉に戻って、私に可能なかぎり地上の言語に直してみましょう。

「そこで私はそなたたちが父の優しさと恩寵を求めて祈る際に身につけるべきものとして、このたびの旅と尽力と苦難のしるしを授けよう」

 主が言われたのは新たに授かった宝石のことで、それが吾々の〝礼拝の冠帯(ダイアデム)〟に付け加えられたのです。主はそれから左手を高く上げられ、その手で、跪いている全会衆の頭上をゆっくりと円を画くように回され、そして最後の言葉を述べられました。

「私はこれにて去り、あとは私の代理の者が、そなたたちがこれより先この界において為すべき所用を申しつけることになろう。その仕事には私がいつでも援助すべく待機しているであろう。壮大なる計画のもとに行われる仕事だからです。

急いで着手してはなりません。が着手したら総力をあげて忍耐強く取り組み、知識と力とにおいてそなたたちに優る上層界の者による修正を必要とせぬよう、首尾よく仕上げてもらいたい。必要な時は私を呼ぶがよい。それなりの援助はいたそう。

が必要以上に求めてはならぬ。その仕事は下層界の向上のためであると同時に、そなたたち自身の向上のためでもある。

そのことを銘記して、これまでに身につけた力を精一杯駆使して成就されよ。ただ、しかし、私の援助を求めることを怠ったが為に支障をきたすことがあってはならぬ。

そなたたちの力にて見事に成し遂げるということの方が、いたずらに仕事を進行せしめることよりも大切である。何となれば、その仕事は私の父のためであり、そして私のためでもあるからである」

 そう述べられてから祝福と祈りをこめて再び手を上げられ、非常にゆっくりとした口調で〝神ぞ在します〟と言われました。

 そう述べているうちに主と七人の天使は本来の界へ戻るべくゆっくりと視界から姿を消され、吾々一同は静寂の中に残されました。

が、その静寂の中に主の存在感がなおも感じ取られ、その静寂に包まれて吾は、その静寂そのものが主の御声であり、吾々のために語りかけて下さっていることを知りました。

そうと気づいて吾々は一瞬ためらいを覚えましたが、ためらいつつも再びそれに耳を傾けて礼拝したのでした。




3 コロニーのその後      
一九一八年一月二十八日 月曜日

 かくして吾々の旅と使命はこれまで叙述したごとくにして終了しました。吾々の話について何かご質問があれば・・・・・・実はさきほどから貴殿の精神の中にいくつか質問が形成されつつあるのが見えるのです。今お答えしておいた方が都合がよいでしょう。


──ええ、二、三お尋ねしたいことがあります。まず第一は、前回の通信で〝礼拝の冠〟でしたか、何かそんな用語を使っておられましたが、あれはどんなものでしょう。


 こちらの世界では情緒も思念も、何一つとして外部に形体をとって現われないものはありません。貴殿が身のまわりにご覧になる地上のものも、元はといえばすべて思念の表現体です。思念はことごとく、全生命の根源である究極の実在すなわち神に発しています。

現象界の思念はすべてその神という焦点へ向けて内向していきます。つまり、すべての思念の根源は神で、そこから発したものが再び神に回帰していくという、果てしない循環運動をしております。その途中の過程において思念の流れはさまざまな序列の権威、忠誠心、ないしは神との一体性を有する存在の精神的操作を経てゆく。

つまり大天使、中天使、小天使、そして普通のスピリットの影響を受けて、ある者は天国、あるものは地獄、あるものは星雲、あるものは太陽系、その他、民族、国家、動物、植物、要するに貴殿らが〝もの〟とよぶものすべてとなって顕現されている。

それらはみな個性を具えた存在による外部へ向けての思念操作によって生産され、その想念が同じ界に住む者ないしは連絡を取り合っている界の住民の感覚に反応する表現形態を取ります。

 それのみではありません。あらゆる界層の想念は、地上であろうと地獄であろうと天国であろうと、それなりの能力を有する者には明瞭に感得することができます。

ですから、たとえば貴殿のすべての思念は吾々が住んでいる言わば天国の下層界においても、至聖至高の絶対神の心臓の鼓動の中に存在する実在界においても感識されているといっても決して過言ではありません。

 荘厳をきわめる事柄においても、些細な事柄においても、原理は同じということです。かくして吾々の界層の一団が発する思念は、その大気の温度にも色合いにも反映します。

(地上的用語を用いていますが、それ以外に表現方法がないのです)それで一人物の性格と霊格は衣服の生地、形、色彩、身体の姿かたち、背丈、肌ざわり、身につけている宝石の色彩と光沢等々、さまざまな形で顕現されていることになります。

 そういう次第で彼の地での使命を終えて帰ってきた時の吾々は以前には欠けていた性質を個性の中に吸収していたために、冠帯に宝石が一つ加えられていたのです。

 主お一人の独断でおやりになったのではありません。こちらの世界ではすべてが厳正にして精密な理法の働きによって決定され、しかも神の恵みに溢れた形で実施されます。私があの頭飾りを〝礼拝の冠帯〟と呼んだのは、それがいつも目に見えているわけではなくて、吾々の思念が礼拝に集中している時にのみ目に映じるからです。

その時になると吾々の頭髪の上に形体を現わし、髪を束ねて耳の後ろで留めてくれるのです。それを飾っている数々の宝石は吾々に相応しいものとして選んで付けられたのではなくて、吾々が一界また一界と降りていきながら身につけた資質が自然に生み出したものです。

今それに加えてもう一つの宝石が、最終的使命を託されていた暗黒界での功績のしるしとして与えられたという次第です。

 そうした宝石や珠玉に関しては、たとえ私には何とか意味だけは言葉に移し得ても、貴殿に理解していただけそうにないことが多々あります。

貴殿もいつの日かその美しさ、それが象徴しているもの、そしてそれに生命を賦与しているもの、さらにはその威力について知ることになるでしょうが、今はまだ無理です。一応この程度にさせていただいて、次の質問に移りましょうか。

℘39
──どうも。ではあなたが大ぜいの人を救出して小キリスト(とお呼びしたい方)に預けたというコロニーについて、何かお話しねがえませんか。

  あの方を小キリストとお呼びになられて結構です。そうお呼びするに相応しい方ですから。

 よろしい。ではお話しいたしましょう。あのとき私に同行した一団のうちの二、三名とともに、私はあのコロニーをその後数回にわたって訪ねております。小キリスト殿にそう約束してあったのです。そして彼が私の期待に背かずよくやってくれていることを知りました。まずその点をよく銘記しておかれたいのです。

私は彼の仕事ぶりに百パーセント満足しております。が、実はそれがある意味で彼にとっての試金石となりました。最終的には私が期待していた通りにならなかったからです。

 そのコロニーを時おり訪問したり、私の名代として派遣した者から報告を聞いたりすることは私にとってきわめて興味ぶかいことです。最初に訪ねたとき市街はなかなか整然としておりました。しかし、その境涯で手に入れる材料ではやむを得ないのでしょうが、建物そのものが粗末で優美さに欠けておりました。

完全性に欠けているようでした。でも私は称賛と激励の言葉を述べ、さらに一層の計画の推進に邁進するように言い残して帰りました。

 そうやって何度か訪ねているうちに私は、小キリスト殿───この呼び方では不便ですから名前を付けましょう。取りあえずバーナバス(※)と呼んでおきましょう───そのバーナバス殿が指導性を持った人物ではあっても指揮命令を下すタイプではないことが判ってきたのです。

彼の場合は愛によって説得するタイプでした。それはそれなりに影響力はありました。理解する者が増え、成長とともにその愛に応えることができるようになっていったからです。彼は叡智に富んだ人物ですが指揮統率力に欠けるのです。

そのうち彼自身もそのことに気づき始め、例の謙虚さから素直に、そして何の恥じらいもなく、それを認めることができました。

そういう次第で、内面的に深い問題や霊的なことがらに関しては彼が指導し、今も指導に当たっておりますが、組織全体の管理の面では、少しずつでしたが、例のキャプテンに譲っていきました。

この男は実に強力な個性の持ち主で、いつの日か光明界においてもきらびやかな存在、強力な指導者となって、果敢に大きな仕事を成し遂げていくことになるでしょう。なかなか豪胆な人物です。

(※Barnabas は聖書の使徒行伝4・36その他数か所でバルナバという呼び方で登場する人物と綴りが同じで〝慰めの子〟〝訓戒〟などの意味があるという。パウロの友人で使徒の一人に数えられており、断定はできないが、これが小キリストと同一人物であってもおかしくはない──訳者)

 彼は徐々に住民たちの閉ざされた記憶の層から地上での曽ての自分の仕事で使用した技能(うで)を思い出させ、それを今の仕事に使用させていきました。

金細工人だった者、木細工人だった者、彫り師だった者、石工だった者、建築家だった者、画家だった者、音楽家だった者等、それぞれの仕事に従事させたのです。

私が訪ねる毎にその都市が秩序と外観に改善のあとが窺われ住民が一段と明るくなっておりました。そしてそれ以外にもう一つ別のことを発見しました。

 私があの鉱山から彼らを連れ出してその土地へ来た当初、そこに見られた明りは精々薄明りといったところで、およそ〝光〟と言えるものではありませんでした。

ところが私が訪れる毎に一段と〝光〟と言えるものに近づいていき、可視性の度合いがその市街全体に行きわたり、さらに広がって周辺の土地一帯にも微光が射しておりました。これは一つにはバーナバス殿の地道な精神的指導の結果です。

と言うのも、各自に未来の正しい精神的方向づけをしたのは彼なのです。つまり愛の力によって強烈な霊的憧憬を抱かせ、それが真剣味を帯びるにつれてまず内部の光が増し、それが次第に外部へと放散されて、結果的にその土地の大気が明るさを増していったのです。

 かくして二人はそれぞれの特質を発揮して忠実に協力し合いながら、これまで立派な仕事を為し遂げ、これからもなお為し遂げていくことでしょう。それは私にとって大いなるよろこびであると同時に、道を見失える魂を求めて私と共に暗黒の道なき道を分け入って苦を共にした霊団の者たちすべてにとっても喜びでした」


──周辺の土地にいる者は何も悪いことはしないのですか。

 その問いに対してのみ答えれば「ノー」です。今はしなくなりました。しようとする様子もありません。が、心身とも弱り果て、とても敵と戦えない状態でそこへきた当初は大いに悩まされました。

 その前に大事なことをお話しましょう。まずはじめに多分貴殿が不思議に思うであろうことをお話しましょう。貴殿はヨハネが(黙示録に)書いている十二の部族から一万二千人ずつ(計一四四、〇〇〇人)の者が救われた話を憶えておられるであろう。

さよう、吾々が救出した人数もそれと同じだったのです。なぜ、どうしてそうなったのかと聞かれることでしょう。それは、あの仕事を計画された上層界の方々が目論まれたことです。

吾々よりはるか高い世界のことなので、なぜかということは私にも分かりません。

ただ、これから先の永い進化の道程に関わることであることは確かです。いま貴殿は吾々の救出した数とヨハネの記録にある数字とが何か関係があるのだろうかと考えておられる。少なくとも明瞭な関係はありません。が、暗示的な意味はあります。

それは、あの集団の発達していく過程の中に具体化されていくことでしょう。そして、いずれ彼らは天界において新しい、そして自己充足の──どう言えば貴殿に分かっていただけようか──そういう領域を形成することでしょう。新しい界層ではありません。天界の中の新しい領域です。

 さてご質問の件ですが、初めのうちは周辺の部族の者がやって来て、真面目に働いている者たちに侮辱的な言葉を吐き棄てては去っていくということを繰り返すので大いに困りました。彼らは別の部族にも通報するので、そういう嫌がらせがひんぱんになりました。

そのうち嫌がらせが当分なくなりました。が、キャプテンはかつての用心深さと才覚を取り戻していて、周辺の丘や見張所に見張番を置いて警戒させました。

そのうち分かったことは、周辺の部族が一団となって軍隊を組織し、あれやこれやと隊員たちの士気をあおるようなことをやりながら教練をしているということでした。こうした、言うなれば似非実在界ではよくあることなのです。

 しかし、そうするうちにも吾々の救出した者たちは力と光輝とを増していき、いよいよ彼らが攻めてきた時にはどうにか撃退することができました。戦力と意志の総力をあげた長く列しい戦いでしたが、ついに撃退しました。

それは彼らが──奇妙で矛盾しているように聞こえるかもしれませんが──真実の戦いとなったら絶対に負けないだけのものをすでに身につけていたからです。

その最大の武器となったのは身体と大気から出る光輝でした。今なお暗黒の闇の中に浸っている敵にとってはそれが大変な苦痛なのです。その光輝の届く範囲に入った敵はコロニー全体のオーラの持つ進歩性に富んだ性質が苦痛に感じられ、身を悶えて叫び声を上げるのでした。

 その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつその位置が光明界へと移動しております。

これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で、貴殿には理解が困難──否、不可能かも知れません。それでこれ以上は深いりしないことにします。

かくして敵はますます近づき難さを覚えるようになっていき、一方、コロニーの住民は敵が攻めてくる毎に危険に対する抵抗力が増していることを知るようになりました。敵が立ち往生する位置が次第に遠くになっていったのです。


 こうして領域が広がってきたコロニーでは、小集団を周辺の土地に住まわせて農耕に従事させ、さらに植林と鉱石の採掘をさせました。鉱山の仕事の着手は最後になりました。

かつての苦しい記憶からみんながしり込みしたからです。しかし鋼鉄の必要性に迫られて、大胆で思い切りのいい男たちが掘り始めました。やり始めてみると、奴隷として働くのと自由の身で働くのとでは全く違うことが分かり、そのうち志願者にこと欠かなくなりました。

 このように、善性の増加が住居と市街全体の光輝を増していきます。それが力となるのです。なぜなら光輝の増加は霊格の向上のしるしであり、それは霊的な力が増加したことを意味します。従って敵も彼らに対してまったく無力となっていくのです。

 どうぞ貴殿もこの点によく注目してください。と言うのも、地上の巡礼の旅において敵に囲まれている者にとっても、この事実は有難いことに違いないからです。

その敵は地上の人間であっても霊であっても、いいですか、バーナバス殿のコロニーの周辺にいる敵と少しも変わらないのです。

コロニーが光明界へ近づくにつれて敵は遠く離れていき、下層の暗黒界に取り残されていくのです。

 貴殿へ私より愛と祝福を。



4 バーナバスの民へ支援の祈りを
  一九一八年二月一日 金曜日

 カスリーンが貴殿に伝えたいことがあるようです。吾々は彼女の話が終わったあとにしましよう。


──ほう、カスリーンが ?

 そうです。私です。最近ザブディエル霊団との接触があって、あなたへの伝言を授かりましたので、そのことでお話したかったのです。霊団の方たちから何も心配することはないからそう伝えてほしいとのことです。

私たちが奥さんに通信を送っているときに霊団の方たちが近くに来てメッセージを伝えたことがありましたが、あなたはそれをザブディエル様ご自身から送られたのか、それとも霊団の一人がザブディエル様の名前で送ってきたのかと思っておられますが、あのときはザブディエル様が直々に──といっても霊団の方が付き添っておられましたが──お伝えになりました。霊団のメンバーの一人ではありません。

ご自身です。ザブディエル様はそのことを知ってほしく思っておられるのです。


──二、三日前の夜に出られた方が私の妻に、霊団の方たちはみなザブディエルというネームを付けているのを見たとおっしゃっていましたが、それはベルトにでも書かれていたのでしょうか。


 そうです。はい。

──ザブディエル殿が霊団を率いておられることをその時まで知りませんでした。それで私はあの時に出られた方をザブディエル殿と勘違いしたのではないかと思ったわけです。と言うのは、霊はよく所属する霊団の指導者の名前を使用することがあると聞いていましたので・・・・・・

 よくあることです。ちゃんとした規律のもとに行われる慣習です。ですが、あの時はザブディエル様ご自身が出られて話されたのです。


──ありがとう、カスリーン。おっしゃりたいことはそれだけですか。

 そうです。どうぞリーダーさんへ質問なさってください。あなたが質問を用意されていることをご存知で、先ほどから待っておられます。


──分かりました。ではリーダーさん、まず最初に前回の話題に戻って次のことをお聞きしたいのです。救出された一四四、〇〇〇人によるコロニーがいずれ天界で新しい領域を形成するとおっしゃいましたが、そうなった時にあなたはどんな役目をなさるのでしょうか。

何らかの形で関与なさるであろうという感じを抱いているのですが、いかがですか?


 あのようにきちんとした数の者が選ばれて新しい領域を形成することになったことには意味があります。実は私自身はバーナバス殿にあずけたあと二度目に訪ねた時に初めてそれを知ったのです。

それ以来私も、いま貴殿が察しておられることが有り得ないことでもないと感じております。

まだ具体的なことは何も聞かされておりません。また貴殿の仰るような時期には至っておりませんので・・・・・・今あの都市の者たちが目指している光明に首尾よく融合できるようになるには、まだまだ準備が要ります。

その上、彼らの進歩はためらいながらの遅々としたものなのです。そうでないと丹念な注意と計画のもとに選ばれたあの人数の意味が崩れる恐れがあるのです。

というのは、万一進歩性の高い者から次々と独自の歩調で進歩していったら、全体の団結に分裂が生じ、みんなで申し合わせたことが無に帰すからです。

 今も申した通り、私はあのコロニーについて何の指示も受けておりませんし、今後いかなるコースを辿るかも聞かされておりません。現在の進歩を見守るだけで満足し、そこに喜びを見出しているところです。

それ以外のことは吾々を指揮してくださっている神庁の方々の決定に俟つのみです。

 しかし次のことだけは言えるかも知れません。まえに吾々霊団の数のことをお話しました。十五名でした。あのとき私は七の倍数にリーダーとしての私という言い方をしました。

それは六人ずつ二つの班になっていて各班に一人ずつ班長を加え、さらに全体を統率する者として私を加えれば、これで十五名となります。そういう見方でこの新しいコロニーを見ると興味がありそうです。実はそのコロニーの発端、少なくとも初期の発展には貴殿も寄与しておられます。その意味でも、その進歩ぶりに興味を持たれるに相違ありません。


──この私が寄与するなんて考えられませんが・・・・・・

 でも、立派に寄与しておられます。貴殿はあの部族の様子がこちらから地上へ届けられた、その媒体です。心ある人々はそれを読まれて彼らの発展を祈り、善意の思いを寄せ、吾々援助者のことも思ってくださることでしょう。それが彼らの発展に寄与することになるのです。


──私はこれまで彼らのために祈ることなど思ってもみませんでした。

 それは貴殿が吾々の指示で書いたことの現実味を理解するだけの時間的余裕がなかったからです。理解がいけば祈る気持ちになられるでしょう。そうでなかったら私は貴殿を見損なったことになります・・・・・・いや、ぜひ祈るようにお願いします。


──きっと祈ります。

 そうです。祈るのです。そして貴殿がこちらへお出でになればご自分の目でその部族をご覧になり、貴殿のそうした祈りが彼らの力となっていることを知って、うれしく思われることでしょう。

彼らの進歩は遅々としていますから、貴殿がお出でになってからでも十分に間に合います(※)。ですから、彼らのために祈るのです。こちらでお会いになったとき貴殿に愛と感謝を捧げる人が少なくないはずです。それは気の毒な人への同情と同じです。

彼らが今まさにその状態にあるのです。〝バーナバスの民〟と呼んであげてください。そう心の中で念じてやってください。(※ちなみにオーエン氏は一九三一年に他界している──訳者)


──あなたの民と考えても良いのではないですか。

 それはいけません。私の民ではありません。貴殿は先走りしすぎます。いつかは私の民となるかも知れませんし、私もそう望んでおります。というのも、あの者たちは私にとって我が子、可愛い我が子も同然だからです。

言わば死者も同然の者の中から救い出した、いたいけない子供なのです。私にとって何を意味するかは貴殿の胸の中での想像にお任せします。

どうかバーナバス殿とキャプテンと同様に彼らのためにも祈り、そして愛念を送ってやっていただきたい。彼らはみな貴殿の同胞でもあるのです。そして吾々を通じて実質的なつながりを持っているのです。他の人々にも祈ってくださるようお願いしてください。


──私がうっかり見落としていたことを教えていただいて、お礼を申し上げます。

 それに、吾々の話に出た他の人たちのためにも祈ってやっていただきたいのです。彼らも向上のための祈りと支援を大いに必要としております──お話したあの暗黒の都市のかつてのボスとその配下の者たちのことです。

地上の人でも、地獄にいる者のためにしてあげられることがあることを理解してくだされば、地上にまで及んでいる彼らによる禍(わざわい)を減らすことにもなるのです。

つまり、その気の毒な霊たちを少しでも光明へ近づけ、その苦しみを和らげてやることによって、地上へ大挙して押し寄せては霊的に同質の人間、ひいては人類全体の邪悪性を煽っている霊たちの数とその悪念を減らすことにもなるのです。

 人間は上へ目をやって光明を求めて努力することはもとより結構なことです。が、下へ目を向けて、苦悶の淵にあえいでいる霊がその淵から脱け出るように手助けすることはそれ以上に徳のあることです。

思い出していただきたい。その昔、主みずからがそれを実践なさったのです。そして今日なお主の配下の者たちがなさっていることなのです。

 神は、その昔、主に託して地上へもたらした恩寵を今なおふんだんに授けて下さっています。願わくば貴殿の霊と行為において、神が貴殿をその恩寵をもたらした主と一つになさしめ給わんことを祈るものです。

父の恩寵です。それをその子イエスに託して地上という暗黒の人間にもたらしたのです。そして今なお途絶えることなくもたらしてくださっているのです。

 このことを篤と銘記していただきたい。そうすれば貴殿が授かったように他の人々にも授けずにはいられなくなることでしょう。そしてそれが貴殿の魂の安らぎと喜びとを増すことにもなるのです。

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




第2章  啓示と宗教


【Q1】
 霊媒というのは生まれながらのものなのでしょうか?それとも養成することも可能なのでしょうか?

 霊的能力がそなわっているということが第一条件です。それは授けられるものです。人間は、霊的存在であるからには霊的属性を備えていますから、その意味では、潜在的にはすべての人間が霊媒であるといえます。


【Q2】
 霊が支配するためには、霊媒は深いトランス状態に入る必要があるのでしょうか?

 その必要はありません。霊媒が深いトランス状態に入らなくても、支配霊や指導霊はメッセージを伝えることができます。トランス状態の利点は、霊媒の構成要素(肉体・精神・霊)を自由に操ることができるという点にあります。霊媒の意識のでしゃばりを抑えるほど、仕事がやりやすくなります。しかし、支配霊や指導霊にとって、霊媒がトランス状態に入ることは必須というわけではありません。


【Q3】
 霊媒現象およびスピリチュアリズム全体の普及のために、われわれは何をすべきかについて助言をいただけませんか?

 スピリチュアリズムのあらゆる側面において、常に新しい要素が生まれ出ています。霊媒現象でも物理的なものが次第に影をひそめ、病気治療と霊的知識の分野で高次元の側面が徐々に出始めています。進化のサイクルが変わったということです。

 どうすべきかとお尋ねですが、鼓舞されるままに進めばよろしい。あらかじめ用意されたものというものは何もありません。現在のあなたも、何かに鼓舞されてここまで来たのです。それと同じ力に任せればよろしい。その力は、これまで一度もあなたを見捨てたことはありませんでした。

地上のいかなるものよりも大切な霊的知識を手にするよう、今日まで導いてくれたのです。ひたすら前進することです。ベストを尽くすことです。その力が導き支えてくれます。


【Q4】
 トランスを伴う現象は、健康に影響があるでしょうか?

 ありますが、よい影響しかありません。ただし、トランス現象に関わる法則を守っていれば、のことです。たとえば、一日に三回も四回も交霊会を催せば、当然のことながら健康に害を及ぼすでしょう。常識的な線で定期的に行ない、演出される現象に進歩が見られれば、健康はむしろ増進するはずです。

 なぜかといえば、そういう状態のときに、霊媒の身体を流れる霊的エネルギーは活力に富んでいて、会を催すたびに少しずつその活力を残していくからです。使い方一つで、健康を増進することにもなれば、阻害することにもなります。


【Q5】
 心に念じたことは、必ず霊に通じるものでしょうか?

 そうとは限りません。波動的に合致しているか否かによります。合致していれば通じます。もっとも、霊的な親和性のある魂同士であれば、地上と霊界の隔たりに関係なく、思念や要望は即座に通じます。


【Q6】
 以前に比べて、霊界から通信を届けるのが容易になってきているのでしょうか?

 容易になりました。混沌とした状態が次第に消え、秩序ができてきました。(戦争が生み出した)激しい、凶暴な感情が後退し、消えていきつつあります。地球を取り巻いていた怨恨の霧に晴れ間が見えるようになり、それだけ地上界に近づきやすくなりました。この傾向は今後も進展することでしょう。


【Q7】
 霊視能力者が霊の姓名を伝えるときに、「姓」が伝えられないことがありますが、なぜでしょうか?

 大体において、姓は呼び名よりも受け取りにくいのです。これは音のバイブレーションの感得力の問題に帰します。呼び名のように聞き慣れているものは、伝えやすく受け取りやすいのです。変わった名前、一般的でない名前ほど伝えにくく、また受け取りにくいものです。

 さらにいえば、こちらの世界から霊媒または霊能者に送り届ける情報の多くは、絵画またはシンボルのかたちをとりますから、姓のような抽象的なものは伝えにくいのです。もちろん、霊視力ないしは霊聴力が格別に鋭い人は、鮮明に受け取ることができます。

 ですが、ここで忘れてならないのは、霊的能力の善し悪しは姓が正しく受け取れるか否かで決まるわけではないということです。要は、霊の身元の証拠になるものが示せるか否かです。


【Q8】
 ホームサークル(交霊会・実験会)には、ドアキーパー(玄関番・門衛)がいるそうですが、どういう役目をしているのでしょうか?
 ドアキーパーの役目は、ドアキーパーであることです。当たり前のことのようですが、邪霊やヤジ馬霊を排除するためのバリアをこしらえる力を操ることができるようにならないことには、その役目は果たせません。その力の源は、実はあなた方出席者であり、その集合的な力であることをご存じでしょうか?出席者一人ひとりから引き出し、担当の指導霊(ドアキーパー)がそれを素材にバリアをこしらえるのです。要するに、霊界のエネルギーと人間から引き出したエネルギーとを混合してバリアをこしらえ、サークル活動に使うのです。


【Q9】
 スピリチュアリズム勃興以前にも、霊的な啓示があったのでしょうか?

 突発的な啓示はいくつかありましたが、持続しませんでした。スピリチュアリズムと銘打った今回の啓示は組織的なものであり、コントロールされたものであり、規制されたものです。

 人間の想像をはるかに超えた協調関係のもとに計画されたプロジェクトで、その背後の組織は途方もなく広大であり、緻密な計算のもとに実行に移されています。すべてに打ち合わせがなされているのです。

 霊界の扉が地上へ向けて開かれることに決したとき、それは十分な熟慮の末に決したのであり、したがって、いったん開かれた以上は二度と閉じられることはありません。
 私たちの使命は、目的性のあるもの、意義のあるものを授けることであり、霊的なことにも法則があることを証明する一方で、死後の世界についての知識と慰めを与えることです。つまり、死後の世界にも摂理・法則があることを説きあかすだけでなく、霊に関わる真理をお教えすることです。

 私たちの使命に立ちはだかるものとして、間違った教えのうえに築かれた巨大な宗教的組織があります。何世紀にもわたって築きあげられてきたものを切り崩さねばなりません。誤った教義・信条のうえに築かれた聖職者の支配構造を破壊しなければならないのです。

 私たちは、物質界の子らに、いかにすれば迷信から解放され、霊的真理の陽光を浴びることができるか、いかにすれば誤った教義の奴隷状態から脱け出ることができるかをお教えしようと努力しているところです。これは容易ならざる仕事です。なぜなら、いったん宗教の罠にかかってしまうと、正しい霊的真理が、その迷信の厚い壁を突き抜けるには、長い長い年月を要するからです。

 私たちは、霊的真理の宗教的意義を説きあかしたいと努力しています。地上界の人間が、その霊的な意義を理解したとき、戦争や流血による革命より偉大な革命が成就されるからです。それは魂の革命であり、世界中の人間が本来享受すべきもの、霊的存在としての自由を満喫する権利を要求するようになります。

そのとき、足かせとなっていたものすべてが、ひとたまりもなく消し飛んでしまいます。私たちが忠誠を尽くすのは教義でもなく、書物でもなく、教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の自然法則です。


【Q10】
 私は、ドグマや組織宗教には、すっかり落胆しています。しかし、教会には存在価値を認めるのですが・・・。

 教会設立の起源に立ち戻ってみましょう。キリスト教の教会も、他の宗教の教会、寺院、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)、チャペルなどと同じく、遠い過去においても霊界から地上界への働きかけがあったからこそ、存在するようになったのです。そこでは常に(霊媒がいて)、いわゆる〝しるしと不思議〟、ときには奇跡的現象が発生していました。

 それは、当時の信仰や教義やドグマの間違いを教える目的をもっていました。霊界からの働きかけが、本来は、病人を癒し、正しい生き方を教え、人生の基本原理、すなわち、物質は殻であり、霊こそ実在であることを強調することにあるという点において、神性を帯びていることを証明するものでした。

 ところが残念ながら、これまでの歴史を見ればおわかりのとおり、そういう霊力のほとばしりは一時的なもので終わっています。
 次第に神学者が(霊媒を押しのけて)支配するようになり、俗世的な頭で教義をこしらえ、霊的啓示にとってかわるようになりました。不毛の言葉が生きた啓示を凌ぎ始めたのです。その後も霊力のほとばしりに伴って、〝しるしと不思議〟と奇跡が発生してきました。同じことがいく度も繰り返されたのです。


【Q11】
 あなたのおっしゃる「宗教的寛容」を明確に説いていただけませんか?宇宙が絶対的な自然法則によって支配されているとか、その法則は完璧で永遠不滅であるといった教えは、ある意味ではドグマ的で、寛容性に欠けていると言えないでしょうか?

 私はこれまで、絶対に間違ったことは言わないと主張したことは一度もありません。あなた方と同じ人間的存在であり、理性に訴えることを第一の心がけとして真理を説いてきました。私のいうことを拒絶したら罰が当たるようなことは、暗に、におわせることもしていないつもりです。こちらへ来てみてわかった真相はこうなっていますということをお伝えしているだけです。

 どう受け取るかは、あなた方の判断に任せます。なるほどと納得がいけば受け取ってください。納得がいかなければ拒否なさればよろしい。信頼を勝ち取る方法がほかにあるでしょうか?

 ご利益(あめ)と天罰(むち)ですか?とんでもない。私たちは、愛と常識で信頼を勝ち取り、共通の基盤のうえで語りあえることをモットーとしてのぞんでいます。


【Q12】
 あなたの教えは、一般の人々を対象にしておられるのでしょうか?もしそうであれば、初期のキリスト教が説いたような単純なもの、たとえば、贖い(あがな)の教義を説いたほうがよろしいのではないでしょうか?高級霊による霊界通信よりも、そのほうが現代人には役に立つのではないでしょうか?

 ご質問の根底にあるものは間違っていると、あえて申しあげます。私の教えが大衆を意図したものであることは認めます。また、大衆が理解し、吸収し、ありがたく思うような真理は単純なものであり、その単純なものこそが、大衆が宗教に求めているものを提供するというのが私の考えです。

教訓の真髄は単純そのもの、すなわち、真実であるということに尽きます。他の条件はどうでもよろしい。
 その点、ひきあいに出された教え(キリスト教)が支持を失ってしまったのは、その教義が真実でないからです。そのなかの一つである贖罪説を例に出されましたが、罪を贖うのはあくまでも自分自身であって、他のだれにも贖うことはできません。

あなたの人生の責任は、あなたが背負うのです。あなたが犯した罪を赦してくれる者はいません。原因と結果の法則を阻止したり変更したりすることのできる者はいません。寸分たがわぬ正確さをもって働きます。


【Q13】
 スピリチュアリズムと伝統的宗教との融合が望ましいのでしょうか?

 それは言葉の遊戯に過ぎません。私は、タイトルやラベルや種類分けには興味はありません。要は真理を普及させ、人類を迷信から解放し、大霊の子が死後に待ち受ける生活にそなえた、生き甲斐ある生活ができるようにしてあげる───そうした目的に沿ったものであれば私は大歓迎ですし、魂の解放にとって意義があります。

スピリチュアリズムといい、伝統的宗教といい、いずれも漠然としていて、これを言葉で解説しようとすると混乱してしまいます。私の関心は、光明を求め内部の神性を発現して、自分より恵まれない人々の役に立つことをしようと心がけている一人ひとりの人間です。

 一人ひとりの人間が授かった資質を活用して最善を尽くし、日々、大霊の計画とその子らのために寄与しているのだと実感する、それだけで十分です。霊能を授かった人は、一般の人にはできないかたちでの人助けができるという、はかりしれない恩恵に浴しています。ほとんど毎日のように訪れる素晴らしいサービスのチャンスに、心躍るほどの喜びを感じるようでなければいけません。

 が、知識には責任が伴うことを忘れてはいけません。霊能者は、崇高な真理を授かっているばかりでなく、崇高なエネルギー、神性を帯びた生命力そのものも授かっていることを忘れてはいけません。

 地上界を霊的に浄化し再生させる仕事にたずさわるということは、大変な責任を伴います。が、常に導きがあります。自信をもって進んでください。毎日、霊的歓喜を覚えるほどのサービスのチャンスがもたらされます。

 

Monday, August 31, 2026

「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A

崇高な存在との対話
スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著 近藤千雄 訳




 まえがき

 本書を手にされたいきさつは、人それぞれに異なるであろう。第一に考えられるのは、古くからのシルバーバーチの愛読者で、その崇高な英知と人生への霊的洞察から多くを学んでいるので、何の躊躇もなく手にされたというケースである。また、シルバーバーチのメッセージを、地上のみならず、死後の人生の指針としている人から贈られたという方もいるであろう。

 本書は、そういう方を決して裏切らないであろうことを断言しておきたい。もしかしたら書店でふと目にとまったからという方、あるいは新聞広告を見て興味を覚えて買ったという方もいることであろう。いわば偶然のなせるわざであるが、お読みになれば決して偶然ではなく、何らかの形で霊的な導きがあったのだと、ご理解がいくことであろう。

 ともあれ、シルバーバーチの訓えの素晴らしさを、今ここで筆者の拙い筆で改めて宣伝しようとは思わない。それよりも、本書の二人の編纂者の労をねぎらいたい心境である。

すでに発刊された(そして廃刊となった)数多くの霊言集の中から珠玉の「Q&A」を抜き出して一冊にまとめるというアイデアそのものに敬意を表したい。こういう形で読むと、シルバーバーチが一段と身近に感じられ、その意味の深さを改めて認識することになるであろう。

           霊的真理普及財団・会長  ロイ・ステマン



編者まえがき  

人生のスピリチュアルな面とサイキックな面に関心を向けながら求道の旅を続けている人々のために、遭遇する疑問への回答を与えてくれる一冊の書を用意してあげたい───これが本書を編纂した理由である。

 また、われわれが「勉強会」を始めた時、何か手ごろなテキストはないものかと話し合ったことがある。スピリチュアリズムの枠内でも起こり得る誤解や勝手な解釈を一掃したもの、というのが第一の条件であったが、そうなると 「シルバーバーチ」 の名で知られている、あの高級霊が遺してくれた宇宙哲学と生きる英知以外にはあり得ないのではないかという結論に達した。

 本書に盛られた質問には、実質的には一九二〇年から始まった交霊会で何度も出されているものがある。が、シルバーバーチはそのつど、内容を深めたり敷衍(フエン)したりして答えているので、本書でも重複をいとわず掲載した。

 霊言集の出版が終わった今、こうしたかたちでシルバーバーチの霊言を世に出すということは、真理普及に改めて貢献することになる。この一冊によって光を見出す人が一人でもいれば、われわれの努力も無駄ではなかったことになる。                                      スタン・バラード
ロジャー・グリーン

 


 シルバーバーチとは何者か                訳者

 本書を手にして「まえがき」と「編者まえがき」に目を通した時、シルバーバーチの霊言集がほとんど廃刊となった今でも、英国において「霊的真理普及財団」や「勉強会」という形で脈々と生き続けていることを知ってうれしかった。 

 人間は形而上的にも形而下的にも 「なぜ?」 と問いかけたくなるものにあふれている。
たとえば 「地動説」 という厳然たる事実が常識となるまでに何百年もかかったが、一体なぜ地球が太陽の周りを回転するのかは、いまだに謎である。

まっすぐに進もうとする地球を太陽が引っ張るから、というのは単なる原理的解説であって、では、なぜ地球はまっすぐに進もうとするのかは、天文学でもいまだに謎である。

 こうした 「なぜ?」 と問いかけたくなることは、人生にはいくらでもある。本書は、そのいくつかに納得のいく回答を与えてくれる。かけがえのない英知の泉であるが、シルバーバーチと名のる霊は一体いかなる存在なのであろうか。本書によってはじめてシルバーバーチを知ったという方のために、おおよそのところを紹介しておきたい。

 シルバーバーチというのは、霊媒のモーリス・バーバネルの口を使って、一九二〇年から六〇年間にわたって霊的教訓を語り続けてきた古代霊の仮の名で、今から三〇〇〇年前頃、つまりイエス・キリストより一〇〇〇年も前に地上で生活したということ以外、地上時代の国籍も姓名も地位も不明のままで終わった。

 せめて姓名だけでも教えてくれるよう何度かお願いしたが、そのつど、
「それを知ってどうしようというのですか。人間は名前や肩書きにこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だと分かったら、私がこれまで述べてきたことに一段と箔がつくと思われるのでしょうが、それは非常にたちの悪い錯覚です。

 前世で私が王様であろうと召使いであろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもでもよろしい。私の述べていることに、なるほどと納得がいったら真理として信じてください。そんなばかなと思われたら、どうぞ拒否してください。それでいいのです」

 と答えるのが常で、そのうち出席者も聞かなくなってしまった。
 ただ一つだけはっきりしていることは、霊視能力者が描いた肖像画が北米インディアンの姿をしていても、実はそのインディアンがシルバーバーチその人ではないということである。

 インディアンは、いわば霊界の霊媒であって、実際にメッセージを送っているのは高級神霊界の存在で、直接地上の人間に働きかけるには波長が高過ぎるので、その中継役としてインディアンを使っていたのである。近代の科学的霊魂学ともいうべきスピリチュアリズムによって、死後も今と同じ意識をもって生き続けることが明らかとなった。

これを 「個性の死後存続」 と呼び、これは 「地動説」 と同じく科学的事実として、好むと好まざるとにかかわらず、万人が認めざるを得ないものである。

その詳しい解説は第4章にゆずることにして、シルバーバーチが繰り返し説いている特徴的な教訓の一つは、仏教で「生・老・病・死」 を不幸としてとらえているのとは対照的に、そうしたものを体験するところに地上生活の意義があり、いわば魂の肥やしとして前向きにとらえることが、死後の向上につながると説いていることである。

 第6章を 「生・老・病・死・苦──地上人生の意義」 という見出しにしたのは、これがシルバーバーチの教えの圧巻だからである。そこには在来の全ての宗教に見られる 「現世利益」(げんせりやく) 的な気休めの説教はカケラもない。

「事実なのですから、そう述べるしかありません。もしも私が地上生活をらくに生きる方法があるかに説いたら、それは私が高級神霊界からあずかった使命に背いたことになります」 とまで述べているのである。

 シルバーバーチの教説は、その意味で 「大人の人生指導原理」 といえるかも知れない。気休めのありがたい話を好まれる方には厳し過ぎるかもしれない。が、現実界を見れば、気休めやご利益信仰など吹っ飛んでしまうような事象が毎日のように起きている。今後とも、それは変わることはないであろう。

 本書によって生きる勇気を与えられることを願っている。

  ※ ※ ※

 第1章 祈り                    
【Q1】
祈るということは大切でしょうか?

 それは、その祈りがどういうものであるかによって違ってくることです。祈りの文句を目的もなしに繰り返すだけでは、ただ大気中に波動を起こすだけです。

 が、誠心誠意、魂の底からの祈り、大霊 (第10章参照) の心と一体となり、大霊の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものが、その人を大霊の僕として、よりふさわしく、よりたくましくします。祈るということ、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。


【Q2】 
祈りは主観的なもので、客観的な結果は生み出さないとおっしゃるのでしょうか?人間的に立派になるだけで、具体的には何も生み出さないのでしょうか?

 真実の祈りは、人のために役立つ行為への心の準備であらねばなりません。より高い波長に適合させるための手段です。

 私のいう祈りは、他人の書いた意味のわからない文句を繰り返すことではありません。誠心誠意の祈り、魂の波長を最高度に高めようとする真摯な願いです。その結果として、感応するインスピレーションに満たされて一段とたくましい存在となります。


【Q3】
他人のために祈ることにも、何か効用がありますか?

 あります。真摯な祈りは決して無駄になりません。思念は生きものだからです。


【Q4】
遠隔治療にたずさわる治療家による祈りにも、実質的な効果があるのでしょうか?

 あります。先ほどの質問に対しては個人としての祈り (注) を念頭においてお答えしましたが、あらゆるかたちの祈りについてもいえることです。祈っているときは、サイキックな (心霊的) エネルギーを出しており、これを治療専門の霊が利用するのです。

 訳注──「個人としての祈り」 と断ったときのシルバーバーチの念頭には、グループで行なう遠隔治療のことがあったことが前後の文脈からうかがえる。グループで円座をつくり、中心に特定の患者がいるとの想定のもとに祈る方法である。


【Q5】
他に援助が得られないとき、祈りを通じて霊界からの援助を要請してもよいものでしょうか?

 誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長に感応させます。祈るということ自体が心を開かせるのです。ただし、その祈りは、心と魂と精神を込めたものであらねばなりません。こうしてほしい、ああしてほしといった、ただの要求は祈りではありません。真実の意味での祈りは大きな霊的活動です。

それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならない、というのがいちばん的確な表現かと思います。

 「何とぞ私を役立たせ給え」───これ以上の祈りの言葉はありません。「大霊とその子らのために、自分を役立たせたい」 と祈ることよりも偉大なる仕事、大いなる愛、崇高なる宗教、高邁なる哲学はありません。

 どういうかたちでもよろしい。摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、お腹をすかしている人に食べるものを与えてあげることでも、あるいは暗い思いに沈んでいる人を明るい気持ちにしてあげることでもよろしい。つまりは、その人のためになることであれば、どんなことでもよいのです。

自分のことをあとまわしにしてでも、他人のために役立つことをする術を身につければ、それだけ内部の霊性、すなわち大霊が発現することになるのです。ことは、簡単なのです。
 ところが、聖職者たちは教会を建立し、そのなかで得体の知れない説教をします。私にも理解できないようなむずかしい用語を散りばめ、〝宗教的〟であると信じている儀式をします。が、そんなことはどうでもよろしい。

くじけそうになっている人のところへ行って元気づけてあげ、疲れた人に休息の場を与えてあげ、空腹の人に食べ物を施してあげ、のどの渇いた人に飲み物を与えてあげ、暗闇のなかに沈んでいる人に新しい光明を見出させてあげるのです。そのとき、あなたを通して大霊の摂理が働いています。


【Q6】
祈りに何の回答もないように思えることがありますが、そんなとき、霊的にはどうなっているのでしょうか?

 人間の内部には人間くさいものと神性を帯びたものとが同居していて、両者の間で常に葛藤があります。霊性に軍配があがったときは大霊と一体となったときで、崇高な喜びに浸ります。人間性に軍配があがったときは、霊的自我は落胆しています。

 人生には、しばしば本人がこうあってほしいと思っている道ではなく、当人の存在意義が最大限に発揮される道へ、いやおうなしに導かれることがあります。たとえば、この部屋には、毎日毎晩、霊の一団が訪れています。

その霊団の一人ひとりが、本来なら一直線に向上の道を歩みたいところを、それをしばらくおあずけにして、この部屋に光の環(サークル)を構築するための環境条件を整えるために参加しているのです。いずれここが、暗い地上の片隅まで照らす灯りの始原の一つとなります。そういう仕事に比べれば、地上の人間的な悩みごとなど、ものの数ではありません。
 身を横たえる家もなく、星空のもとで寝て雨風にさらされ、満足に食べるものにもありつけない人が現実に大勢いるというのに、ここにお出でのみなさんの祈り求めるものが、大霊の目から見て、そんなに大切だと思われますか。

 みなさんに自覚していただきたいのは、みなさんも大霊の大計画に参画しているということ、そのなかでみなさんご自身の小さな人生模様を織っているということです。今は、その大計画がどういう図柄であるかはわからなくても、そのうちすべてが明かされる日が来ます。そのとき、すべての人種、すべての肌色が、それぞれに役割を果たしていることがわかります。そのときが地上天国となったときです。

 表向きは何事も生じていないかに思えるときでも、霊的刺繍は着々として織り込まれているのです。昼となく夜となく、大霊の計画は休むことなく続けられており、最終的には人間の一人ひとりがいくばくかの貢献をしています。

 人間から、ときおり自分の魂の成長にとってためにならないもの、かえって進化を遅らせることになるものを要求されます。それは、かなえてあげるわけにはいきません。またときおり、それを手にするに値するだけの努力をしていないものを要求されます。それも与えられません。

そしてときとして、(要求を)受け入れるだけの十分な準備をなさっているものを要求されます。それは、ここという好機を見はからって与えられます。みなさんの祈りは、口に出す前から、大霊は、先刻ご承知なのです。


【Q7】
教会で毎日のように唱えられている祈りに、効用があるのでしょうか?
 祈る人それぞれで違うでしょう。口先だけの祈りは空虚な音の響きに過ぎません。魂を込めた祈り、熱誠と憧憬に満ちた祈り、大霊に一歩でも近づきたいとの熱望に燃えた祈りであれば、その熱望そのものが祈りに翼を与え、霊界の深奥(シンオウ)まで届くことでしょう。


【Q8】
たとえば、幼な子が飲んだくれの親に更生してもらいたいと思って祈る祈りに、効用はあるのでしょうか?

 誠意ある祈りには、それなりのパワーがあります。そのパワーがどこまで物的次元に転換されるかは、さまざまな条件によって違ってきます。今あげられた例の場合ですと、飲んだくれの父親の魂が問題となります。つまり、その祈りのパワーがその琴線にふれるか、それとも霊的なものから遠ざかり過ぎて何の反応も示さないかによって違ってきます。この質問には 「イエス」 「ノー」 では答えられません。


【Q9】
でも、何らかの影響はあるでしょう?

 人のために役立ちたいという祈り、真理、光明、導きを求めての祈り、これはすべてその人の魂の進化の指標です。その心は物的身体から出たものではなく、霊そのもの、すなわち大霊の一部であり、したがって大霊のパワーを秘めているのです。しかし、それを発揮するためには艱難辛苦の体験を通じて、霊性が進化しなければなりなせん。それまでは、パワーは発揮できません。


【Q10】
祈りは霊界のだれかが聞き届けてくれるのでしょうか?それとも、その祈りと調和するバイブレーションに反応するパワーを、人間のほうで想定する必要があるのでしょうか?

 そもそも祈りとは魂の発現です。そこのところをまず明確にしておきたいと思います。光明すなわち導きを求めて叫ぶ魂の渇望です。その熱誠そのものが回答をもたらすのです。それが思念のパワーを起動させるのです。それが回答を引き寄せる原因であり、回答が結果です。霊界のだれかが、人間が祈るのを待っている必要はありません。

 なぜなら、人間の祈りの性質によって、それが届く範囲というものが自動的に決まり、その人間の霊性の進化の度合いに応じて、引き寄せられるべき霊が自然に引き寄せられるのです。その霊たちは、地上人類のために働く決意ができていますから、そのパワーが人間の祈りが生み出したパワーを増幅させます。それは思念の波動であり、霊性の一部です。
 つまり、祈る人間の霊性に応じて、宇宙のエネルギーが働くのです。ということは、稼動させることができる宇宙エネルギーは、祈る者の霊格によって、その範囲が自然に決まるということです。

 祈る人の霊性の進化の程度によっては、何らかの理想の観念を思い浮かべて、それに意念を集中するほうがいい場合があるでしょう。そのほうがやりやすいというのであれば、私はあえて否定はしません。
 しかし肝心なのは大霊であり、生命の原則であり、大自然の摂理です。大霊は完全ですから、摂理も完全です。あなたがたの内部に宿る大霊も完全であり、それがあなた方を通じて発現しようとしているのです。祈りにしても、人のための献身にしても、大霊を発現しようとする魂の行為です。そうした魂を開発しようとする行為が、霊性の進化を促すのです。


【Q11】
あらゆることが変えようにも変えられない法則によって支配されている以上は、大霊に祈っても何にもならないのではないでしょうか?祈りとは、大霊に法則を変更してくれるように頼むことではないかと思うのです。

 私は、祈りをそのようには理解していません。祈りとは、大霊に近づかんとする魂の切実な願いです。その行為そのものが内部に宿る大霊を発現させ、未踏の階層まで至らしめてくれるのです。そこに不公平も特別の配慮もありません。祈りという行為によって魂が身を引き締め、大霊をより多く発現し、それだけ多くの恵みをわがものとすることができるということです。大霊の恵みは無限です。そして、あなたの魂も無限に開発されていきます。


【Q12】
なぜ人間は、神に罪の赦しを乞うのでしょうか?摂理を犯せば自動的に罰が下されるのではないでしょうか?
 赦しを求めて祈っても、摂理が手直しされることはありません。支払うべき代償は支払わねばなりません。しかし、赦しを求めて祈るということは、自分の間違いに気付いて大霊との調和を求め始めたことを意味します。自我を見つめ、内省し始めたことを意味します。本当の意味での霊性の進化が始まったのです。


【Q13】
われわれは、摂理に向かって祈るべきなのでしょうか?

それは違います。自分の内部と外部に存在する大霊に向かって祈るのです。波動の調整とひたむきな向上心によって、大霊という無限のパワーとの一体化を少しでも促進しようとする営みです。より多くの光明、より多くの知識、より多くの英知と理解力を求める切実なものであらねばなりません。そういう祈りならば、必ず報われます。なぜならば、誠心誠意の訴えそのものが、内部の神性を発現させるからです。


【Q14】
ときおり、こちらが祈り求めないうちに霊界からの援助をいただくことがありますが、われわれの必要性をどうやってお知りになるのでしょうか?

 切実な祈りは、然るべき目標に届くものです。必死に祈れば (私の言う 「祈り」 は 「要求」 ではありません)、その祈りは必ず目標に届きます。磁気的引力の法則が働くのです。祈りがかけ橋となって回答が届けられるのです。


【Q15】
大霊に直接語りかけることができますか?

 あなたは大霊であり、大霊はあなたです。あなたと大霊との違いは、「性質」 ないしは 「本質」 にあるのではなく 「程度」 にあります。大霊は完全の極致であり、あなたはそれに向かって、はてしない努力を続けるのです。

 したがって、大霊は内部にも外部にもあることになります。あなたが神性を発現したとき、すなわち愛、寛容、慈悲、哀れみ、慈善などの行為を実行に移したとき、あなたは大霊と通じあっていることになります。なぜならそれは、大霊があなたを通して働きかけていることにほかならないからです。


【Q16】
悲しみのどん底にありながら、祈るということをしない人がいますが、どうなのでしょう?神の存在を信じない以上、救いようがないのでしょうか?

 大霊の存在を信じる信じないは問題ではありません。そのことで、大霊がお困りになることはありません。


【Q17】
ですが、そういう人でも救いがあるのでしょうか?さまざまな理由から神に祈ることも信じることもできないでいながら、大変な悩みを抱え、救いが必要な人がいます。

 救いをいただく資格は、大霊の存在を信じるか信じないかで決まるのではありません。その時点までに到達した精神的、ならびに霊的進化の程度によって決まることです。手助けをいただく資格があるからいただくのです。これも原因と結果の自然法則です。


【Q18】
霊側では、人間側が祈るまで待っているのでしょうか? それとも、人間側が要求するしないにかかわらず、聞き届けたり無視したりするのでしょうか?
 絶対的な法則によって経綸されている宇宙の大機構のなかにあって、人間、あるいは何らかの形態の存在が忘れ去られるということはあり得ません。自然法則は完壁ですから、すべての存在を包含しており、何一つ、だれ一人その枠からはみ出ることはありません。

 地上の人間が、大霊の目からもれるということはあり得ません。人間の一人ひとりがおかれている情況は、すべて把握されています。祈りがかなえられた場合は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的進化の段階で、当人にとってふさわしいものがかなえられたのです。


【Q19】
宗教集団で行なう日課の祈祷は、霊界に何か影響を及ぼすのでしょうか?
 ほんのわずかな間でも、波動が一つにまとまれば影響が出るでしょう。が、祈りとは、本来はやむにやまれず発する魂の叫びです。組織的な体制で、機械的に行う行事は祈りではありません。


【Q20】
スピリチュアリストの集会のなかには、祈りの日を設けているところがありますが・・・・・・。

 日常生活において霊的真理の意義を生かした生き方をしていなければ、自分たちを 「スピリチュアリスト」 と呼んでみても何の意味もありません。大切なのは、自分たちはこういう者ですと名のることではなく、実生活において何をしているかです。


【Q21】
祈れば、聞き届けてもらえるのでしょうか?

 聞き届けてもらえることもありますが、それは祈りの中身と動機によります。人間はよく、中身の性質上、聞いてあげるわけにはいかないものを要求します。要求通りにしてあげたら霊性の進化を妨げ、あるいは人生観を狂わせてしまうからです。

 祈りというものを、人間の側からの要求を聞いて霊界で審議会を開き、「よかろう」とか「それはならぬ」といった返事をするような図を想像してはいけません。祈ることによって波動を高め、より次元の高い階層と通じることによって、然るべき回答が届けられる条件を整えるのです。


【Q22】
祈りの機能は何でしょうか?

 本当の祈りとご利益信仰との違いを述べれば、祈りが、本来、どうあるべきかがおわかりいただけると思います。ご利益信仰は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい、お金がほしい、家がほしいといった物的欲望には、霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな欲求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。

 一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、万物の背後にひかえる霊力との融合を求める祈りといった、真実の祈りがあります。こうした祈りには魂の内省があります。つまり、自己の不完全さと欠点を自覚するがゆえに、真摯に祈ります。それが内在する霊的エネルギーを発現することになり、その姿勢そのものが祈りの回答を受け入れる態勢となるのです。

 これまで何度か述べたように、人間の祈りのなかには、それを完全に無視することが最高の回答であるものがたくさんあります。言うとおりにしてあげることが、かえって当人にとってプラスにならないとの判断があるのです。

 しかし、魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める願望は、自動的に成就されます。つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを巻き起こし、そのバイブレーションによって、当人の霊的成長に応じた分だけの援助が、次のステップのために引き寄せられます。

危険のなかにあっての祈りであれば、保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。そのなかには血縁関係によってつながっている霊もいれば、愛の絆によって結ばれている類魂もいます。そうした霊たちはみな、かつて地上時代に、自分も同じようにして救われた体験があるので、その要領を心得ています。


【Q23】
霊界側は、祈りをどう見ているのでしょう。

 祈りは、人間としての義務を逃れるための臆病者の〝避難所〟ではありません。祈りは、実際の行為で果たさねばならないことの代用となるものではありません。祈りは、義務を免除してもらうための手段ではありません。祈りは、大霊の摂理を出し抜くための手段ではありません。

それはいかなるかたちの祈りによっても不可能ですし、途切れることのない原因と結果のつながりを寸毫(スンゴウ)も変えることはできません。

 自分を役立てたいという願い、義務と責任を自覚した心から発していない祈りを、すべて無視してください。そしてその後に、サイキックないしはスピリチュアルなものとして、ある種のバイブレーションを生み出す祈りが残ります。そのバイブレーションが回答を呼び寄せるのです。それは必ずしも、当人が期待したとおりのものではありません。当人が発したバイブレーションが生み出した自然な結果です。


【Q24】
本当の祈りは、自分の意志を大霊の意志と調和させることだとおっしゃいましたが、どうやって調和させるかについては述べておられませんが・・・・・・。  

 祈り方がわからないという方は、無理して祈るべきではありません。祈りとは、精神と霊の行為、自分の意志を大霊の意志と調和させるための手段です。いくらやっても調和させることができないときは、それはあなたの祈りが効果を生み出さなかったということを意味します。真実の祈りには、その後に行為が伴わなければなりません。

 つまり、祈りの行為によって、自分を大いなる生命の力と荘厳さと支配力に調和させることで、それを満身に受け、宇宙的意識と一体となり、精神・霊的に一段と強くなって、より大きな貢献ができるようにならねばなりません。これが、私が理解している祈りです。


【Q25】
 公式の祈りの日に、どういう意義があるのでしょうか?

 祈りに公式も非公式もありません。昼と夜の区別もありません。祈りを発する当人以外の何者によっても影響を受けることはありません。当番の者が先導して述べる機械的な祈りには、何の価値もありません。

 そういう規約になっているため、あるいはそういう習慣になっているために顔をあわせて行なう祈祷───すっかり慣れっこになっているために、何の感慨もわいてこないような祈祷では、大霊に一歩たりとも近づけてくれません。人間にとって必要なものは、大霊は先刻ご承知です。人数を多くして嘆願する必要はありません。

シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来

 The Spirit Speaks

トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



8章 真理を知らないでいることは暗闇の中を歩くことです


半世紀以上にもわたって催された交霊会に出席するために、ロンドンのモーリス・バーバネルの私宅を訪れた人は、数も多ければ人物も多彩だった。海外旅行のハイライトとしてやってくる人もいれば、ロンドン市内から気軽に訪れる人もいた。

十一歳のジョン少年もその一人で、これが最初の交霊会への出席だった。幼いときに姉を失い、こんどは父親を不慮の事故で失って、母親と二人きりになったが、母親がシルバーバーチを通じて聞いていた二人からのメッセージをいつもジョンに語って聞かせていたので、十一歳の少年ながら、すでに死後の世界の存在を自然に信じるようになっていた。

まず、シルバーバーチの方からお父さんとお姉さんがここに来てますよと言い、二人ともジョン君と同じようにわくわくしている様子を告げると――

ジョン「ぼくは、お姉さんのことをよく知らないんです」


「でも、お姉さんの方はジョン君のことをよく知ってますよ」

ジョン「ぼくがまだ赤ちゃんの時に見たきりだと思います」


「いいえ、その赤ちゃんの時から、今のように大きくなるまで、ずっと見てきております。ジョン君には見えなくても、お姉さんの方からはジョン君がよく見えるんです。同じように目が二つあっても、ジョン君とは見え方がまったく違うのです。壁やドアを突き通して見ることができるんですから……」

ジョン「そうらしいですね。ぼく、知ってます」


「ジョン君のような目を持っていなくても、よく見えるんです。霊の目で見るのです。霊の目で見ると、はるか遠い先まで見えます」

ジョン「お姉さんは今年でいくつになったのですか」


「それはとても難しい質問ですね。なぜ難しいかを説明しましょう。わたしたち霊の成長のしかたは、ジョン君たちとは違うのです。誕生日というのがないのです。年齢(とし)が一つ増えた、二歳になった、というような言い方はしないのです。そういう成長のしかたをするのではなく、霊的に成長するのです。言い方をかえると、完全(パーフェクト)へ向けて成長するのです」

ジョン「パーフェクトというのは何ですか」


「パーフェクトというのは、魂の中のすべてのものが発揮されて、欠点も弱点もない、一点非のうちどころのない状態です。それがパーフェクトです」

ジョン「言いかえれば、ピースですか(※)」


※――peace(ピース)には戦争の反対の平和という一般的な意味以外に、日本語で表現できない精神的な意味がいくつかある。が、十一歳の少年がそう難しい意味で使うはずはないし、さりとて平和でもないので、原語のままにしておいた。


「そうです。パーフェクトになればピースが得られます。しかし実をいうと、“これがパーフェクトです”と言えるものは存在しないのです。どこまで行っても、それは永遠に続く過程の一つの段階にすぎないのです。いつまでも続くのです。終わりというものがないのです」

ジョン「でも、パーフェクトに手が届いたら、それが終わりとなるはずです」


「パーフェクトには手が届かないのです。いつまでも続くのです。これは、ジョン君には想像できないでしょうね? でも、ほんとにそうなのです。霊的なことには始まりも終わりもないのです。ずっと存在してきて、これからも休みなく向上していくのです。ジョン君のお姉さんも大きくなっていますが、地上のように身体(からだ)が大きくなったのではなくて、精神と霊とが大きくなったのです。成熟したのです。内部にあったものが開発されたのです。発達したのです。でも、身体のことではありませんよ。だから、いくつになったかは地上のことだけで、こちらでは言えないのです。

そんなことよりも、ジョン君に知ってほしいことは、もうわかってきたでしょうけど、お姉さんとお父さんはいつも側(そば)にいてくれているということです。これは、まだまだ知らない人が多い、大切な秘密です。いつもいっしょにいてくれているのです。ジョン君を愛し、力になってあげたいと思っているからです。

このことは、人に話しても信じてくれませんよね? みんな目に見えないものは存在しないと思っているからです。このことを知らないために、地上では多くの悲しみが生じております。理解すれば“死”を悲しまなくなります。死ぬことは悲劇ではないからです。あとに残された家族にとっては悲劇となることはあっても、死んだ本人にとっては、少しも悲しいことではありません。新しい世界への誕生なのです。まったく新しい生活の場へ向上して行くことなのですから……。ジョン君もそのことをしっかりと理解してくださいね。ジョン君は眠っている時にお姉さんに会ったことがあるので、少しは知っているでしょ?」

ジョン「今この目で見てみたいです」


「目を閉じれば見えることがあると思いますよ」

ジョン「この部屋にいる人が見えてるようにですか」


「まったく同じではありません。さっきも言ったように“霊の目”で見るのです。霊の世界のものは肉眼では見えません。霊の世界の音も、肉体の耳では聞こえません。

今お父さんが、とてもうれしいとおっしゃってますよ。もちろんお父さんは、ジョン君のことは何でも知っています。いつも面倒をみていて、ジョン君が正しい道からそれないように導いてくれているのですから……」

ジョン「ぼくに代わって、礼を言ってくださいね」


「今の言葉はちゃんとお父さんに聞こえてますよ。ジョン君にはまだちょっと理解するのは無理かな? でも、ジョン君がしゃべることも、みんなお父さんにはわかるのです。フラッシュとなってお父さんのところに届くのです」

ジョン「どんなフラッシュですか」


「ジョン君が何かを考えるたびに、小さな光が出るのです」

ジョン「どんな光ですか。地上の光と同じですか。ぼくたちの目には見えないのでしょうけど、マッチをすった時に出るフラッシュのようなものですか」


「いえ、いえ、そんなんじゃなくて、小さな、色のついた明かりです。ローソクの明かりに似ています。それにもいろんな色があるのです。考えの中身によって、みんな色が違うのです。地上の人間の思念は、そのように色彩となってこちらへ届くのです。

わたしたちには人間は色彩のかたまりとなって映ります。いろんな色彩をもった一つのかたまりです。訓練のできた人なら、その色彩の一つ一つの意味を読み取ることができます。ということは、隠しごとはできないということです。その色彩が、その人の考えていること、欲しがっているもの、そのほか何もかも教えてくれます」

ジョン「スピリチュアリズムについて知ると、どういう得をするのでしょうか」


「知識はすべて大切です。何かを知れば、知らないでいた時より、その分だけ得(とく)をします。真理を知らないでいることは、暗闇の中を歩くことです。ジョン君はどっちの道を歩きたいですか」

ジョン「光の中です」


「でしたら、少しでも多くの真理を知らなくてはいけません。知識は大切な財産です。なぜなら、生きるための知恵は知識から生まれるからです。判断力が生まれるからです。知識が少ないということは、持ち物が少ないということです。わかりますね?

ジョン君は今、地球という世界に住んでいます。自分では地球は広いと思っても、宇宙全体からみれば、ほんのひとかけらほどの、小さな世界です。でも、その地球上に生まれたということは、その地球上の知識をできるだけ多く知りなさいということなのです。それは、次の世界での生活にそなえるためです。

さて、スピリチュアリズムのことですが、人生の目的は何なのかを知ることは、とても大切なことなのです。なぜなら、人生の目的を知らないということは、何のために生きているかを知らずに生きていることになるからです。そうでしょ? ジョン君のお母さんは前よりずっと幸せです。なぜかというと、亡くなったお父さんやお姉さんのことについて、正しい知識を得たからです。そう思いませんか」

ジョン「そう思います。前よりも助けられることが多いです」


「ほら、ジョン君の質問に対する答えがそこにあるでしょ? さて次の質問は?」

ジョン「地上の人間が発明するものについて、霊の世界の人たちはどう思っていますか。たとえば原爆のことなんかについて……」


「これは大きな質問をされましたね。地上の人たちがどう考えているかは知りませんが、わたしたちが考えていることを正直に申しましょう。

地上の科学者は、戦争のための実験と研究にはっぱをかけられて、その結果として原子エネルギーという秘密を発見しました。そしてそれを爆弾に使用しました。しかし本当は、その秘密は人類が精神的・霊的にもっと成長して、それを正しいことに使えるようになってから発見すべきだったのです。もうあと百年か二百年のちに発見しておれば、地上人類も進歩していて、その危険な秘密の扱い方に手落ちがなかったことでしょう。

今の人類は、まだまだうっかりミスの危険性があります。原子エネルギーは益にも害にもなるものを秘めているからです。ですから、今の質問に対する答えは、地上人類が精神的・霊的にどこまで成長するかにかかっている、ということになります。わかりますか」

ジョン「最後におっしゃったことがよくわかりません」


「では、説明のしかたを変えてみましょう。原子エネルギーの発見は、時期が早すぎたということです。人類全体として、まだ自分たちが発見したものについて正しく理解する用意ができていなかったために、それが破壊の目的のために利用されてしまったのです。もし十分な理解ができていたら、初めから有効な目的のために利用されていたことでしょう。

そこで最初の質問に戻りますが、もしも地上の科学者のすべてが正しい知識、霊的なことについての正しい知識をもっていれば、そうした問題について悩むこともなかったことでしょう。出てくる答えは決まっているからです。霊的な理解ができていれば、その発見のもつ価値を認識して、その応用は人類の福祉のためという答えしか出てこないからです」

ジョン「それが本当にどんなものであるかがわかったら、正しい道に使うはずです」


「その通りです。自分の発明したものの取り扱いに悩むということは、まだ霊的理解力ができていないということです」

ジョン「幽霊と霊とは、どう違うのでしょうか」


「これはとてもいい質問ですよ。幽霊も霊の一種です。が、霊が幽霊になってくれては困るのです。地上の人たちが幽霊と呼んでいるのは、地上生活がとても惨(みじ)めだったために、いつまでも地上の雰囲気から抜け出られないでいる霊が姿を見せた場合か、それとも、よほどのことがあって強い憎しみや恨みを抱いたその念がずっと残っていて、それが何かの拍子に、その霊の姿となって見える場合の、いずれかです。

幽霊さわぎの原因は、大てい最初に述べたタイプ、つまり、地上世界から抜け出られない霊のしわざである場合が多いようです。死んで地上を去っているのに、地上で送った生活、自分の欲望しか考えなかった生活が、その霊を縛りつけるのです」

ジョン「もう質問はありません」


「以上のわたしの解答に、ジョン君は何点をつけてくれますか」

ジョン「ぼく自身がその答えがわからなかったんですから……」


「わたしの答えが正しいか、間違っているか、ジョン君にはわからない――よろしい! わからなくてもかまいません。大切なのは次のことです。

ジョン君は地上の身近な人たちによる愛情で包まれているだけでなく、わたしたち霊の世界の者からの大きな愛情によっても包まれているということです。目には見えなくても、ちゃんと存在しているのです。何か困ったことがあったら、静かにして、わたしか、お父さんか、お姉さんか、誰でもいいですから、心に念じてください。きっとその念が通じて、援助にまいります」

別の日の交霊会で、同じ原爆の問題が取り上げられ、次のような質問が出された。

「国家が、そして人類全体が、原爆の恐怖に対処するにはどうすればよいでしょうか」


「問題のそもそもの根元は、人間生活が霊的原理に支配されずに、明日への不安と貪(どん)欲、妬(ねた)みと利己主義と権勢欲によって支配されていることにあります。残念ながら、お互いに扶(たす)け合い、協調と平和の中で暮らしたいという願望は見られず、自分の国を他国より優位に立たせ、他の階層の者を犠牲にしてでも自分の階層を豊かにしようとする願望が支配しております。

すべての制度が、相も変わらず、唯物主義の思想を土台としております。唯物主義という言葉は、今日ではかなり影をひそめてきているかも知れませんが、実質的には変わっておりません。誰が何と言おうが、この世はやはりカネと地位と人種が物を言うのだ、と考えております。そして、それを土台として、すべての制度をこしらえようとします。永遠の実在が無視されております。人生のすべてを目で見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わえる範囲の、つまり、たった五つの感覚で得られる、ほんの僅かな体験でもって判断しようとしています。

しかし、生命は物質を超えたものであり、人間は土くれやチリだけでできているのではありません。化学・医学・原子、こうしたもので理解しようとしても無駄です。生命の謎は、科学の実験室の中で解明される性質のものではありません。魂をメスで切り裂いたり、化学的手法で分析したりすることはできません。なのに、物質界の大半の人間は、霊的実在から完全に切り離された生活を営んでおります。物質こそ生命と思い込んで、最も大切な事実、全生命の存在を可能ならしめているところの根元を無視しております。

地上の全生命は、“霊”であるがゆえに存在しているのです。あなたという存在は“霊”に依存しているのです。実在は物質の中にあるのではありません。その物的身体の中には発見できません。存在のタネは身体器官の中を探しても見つかりません。あなた方は今の時点において、立派に霊的存在なのです。死んでこちらへ来てから霊的なものを身につけるのではありません。母胎に宿った瞬間から(物的身体をたずさえた)霊的存在であり、どうもがいてみても、あなたを生かしめている霊的実在から離れることはできません。地上の全生命は霊のおかげで存在しているのです。なぜなら、生命とはすなわち霊であり、霊とはすなわち生命だからです。

死人が生き返ってもなお信じようとしない人は別として、その真理を人類に説き、聞く耳をもつ者に受け入れられるように、何らかの証拠を提供することがわたしたちの使命の大切な一環なのです。人間が本来は霊的存在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。今日は原爆が不安のタネですが、明日はそれよりもっと恐ろしい、途方もないものとなるでしょう。

が、地上の永い歴史を見れば、力による圧政はいずれ挫折することは明らかです。独裁的政治は幾度か生まれ、猛威をふるい、そして消滅していきました。独裁者が永遠に王座に君臨することは有り得ないのです。霊は絶対であり天与のものである以上、はじめは抑圧されても、いつかはその生得権を主張するようになるのです。

魂の自由性(※1)を永遠に束縛することはできません。魂の自在性(※2)も永遠に拘束し続けることはできません。自由性と自在性は、ともに魂が決して失ってはならない大切な条件です。人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在を超えたものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。人間的知性ではその果てを知ることのできない巨大な宇宙の中での、千変万化の生命現象の根元的要素である霊と、まったく同じ、不可欠の一部なのです。


※1――freedom 外部からの束縛・強制がないという意味での自由。


※2――liberty 心に囚(とら)われがないという意味での自由。


以上のような真理が正しく理解されれば、すべての恐怖と不安は消滅するはずです。来る日も来る日も煩悶と恐れを抱き、明日はどうなるのかと案じながら生きることがなくなるでしょう。霊的な生得権を主張するようになるのです。霊は本来、自由の陽光の中で生きるべく意図されているからです。内部の霊的属性を存分に発揮すべきなのです。

永遠なる存在である霊が拘束され、閉じ込められ、制約され続けることは有り得ないのです。いつかは束縛を突き破り、暗闇の中で生きることを余儀なくさせてきた障害のすべてを排除していきます。正しい知識が王座に君臨し、無知が逃走してしまえば、もはや恐怖心に駆られることもなくなるでしょう。

ですから、ご質問に対する答えは、とにもかくにも、霊的知識を広めることです。すべての者が霊的知識を手にすれば、きっとその中から、その知識がもたらす責務を買って出る者が出てくることでしょう。不安のタネの尽きない世界に平和(やすらぎ)を招来するためには、霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて、他に手段は有り得ません。

ストレスと難問の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は、“真理の使節”としての自覚をもたねばなりません。残念ながら、豊かな知識を手にし、悲しみの中で大いなる慰めを得た人が、その本当の意義を取り損ねていることがあります。

霊媒能力は神聖なものです。いい加減な気持ちでたずさわってはならない仕事なのです。ところが不幸にして、大半といってよい霊媒が自分の能力を神聖なものとは自覚せず、苦しむ者、弱き者、困り果てている人たちのために、営利を度外視してわが身を犠牲にするというところまで行っておりません。

また、真理の啓示を受けた者――長いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って、目もくらまんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行して、滅私の精神が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。まだまだ精進が足りません。まだまだ霊的再生が必要です。

真理普及の仕事を託された者にわたしから申し上げたいのは、現在のわが身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけてはいないか、今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか、時の流れとともに煤(すす)けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか……そう反省してみることです。

霊力の地上へのいっそうの顕現の道具として、おのれの全生活を捧げたいという熱意にもう一度燃えていただきたいのです」

祈り


ではお終いに、皆さんとともに、調和と愛の力によって可能なかぎり波長を高め、心配事や悩み事などの雑念を払い、内奥の魂を顕現せしめ、全存在の創造主、全創造物の統治者にあらせられる大霊に近づき、その尊き力と栄光による祝福を賜るべく、お祈りいたしましょう。

ああ、真白き大霊よ。あなたの子であり、あなたに似せて造られているわたしどもは、ささやかな叡智の蓄えに少しでも多くを加えるべく、敬虔さと真摯さと誠意とをもって、あなたに近づかんとしているところでございます。

これまでに学んだ知識は、あなたについての誤った認識を改めさせ、無限なる霊であるあなたに一層近づかせてくれました。あなたの霊妙不可思議な摂理が、あなたがこしらえられたこの宇宙に存在する生きとし生けるものすべてを制御し、規制し、維持しているのでございます。

あらゆる存在が、あらゆる生きものが、あらゆる動物が、あらゆる小鳥が、自然界のあらゆる生命が、あなたの摂理の恒常性と正確さに賛嘆の敬意を表しております。この果てしなき宇宙の全存在に完璧な配剤がなされているからでございます。自然界の全側面が、その一つ一つの動きに至るまで経綸している自然法則の命令にしたがって、調和とリズムをもって動いているのでございます。

狂いなき軌道にそって回る恒星、地軸上を自転しつつ公転をくり返す地球、規則正しく巡りくる四季、野菜・果物・花・樹木等々の植物、そしてあなたの神性をミニチュアの形で宿している子等の活動、こうしたものはすべて、荘厳なる全大宇宙を支えるその崇高なる力の発現にほかなりません。

それと同じ力の発現を物質界を超越した高き次元の境涯において見届けてきたわたしどもは、時の経過とともに、賛嘆の念が薄れるどころか、ますます強烈さを増し、この宇宙的大機構の中にあってわれわれなりに貢献せねばという気持ちを、畏怖の念とともに抱くのでございます。

そこでわたしどもは、こうした教訓を説き、範を垂れ、知識を広めることによって、聞く耳をもつ者、受け入れる用意のある人々に永遠不滅の真理を届け、彼らを一層あなたに近づかせ、また互いに近づかせ、光輝と威厳と尊厳と気高さの中に生きることを可能ならしめたいのでございます。真実の自我に目覚めた者は、ぜひそうあらねばならないのです。

かくしてわたしどもは、無知と頑迷と憎しみを生み出す暗黒を駆逐し、混乱と無秩序、敵意と貪欲を追い払い、破滅へと導く利己的物質万能主義を排除して、愛が支配し霊的真理が息づく平和の中で暮らせる地上天国を招来するために、微力を捧げる所存でございます。






訳者あとがき


シルバーバーチの霊言が始まったのは一九二〇年、霊媒のバーバネルが十八歳の時でしたが、正式に記録に残すことを始めたのは、多分一九三〇年代、つまりハンネン・スワッファーが司会者(さにわ)となって定期的に開催するようになってからであろうと推察されます。

まだテープ録音というものがなかった当初は速記によって記録され、その後テープに録音されて保存されるようになりましたが、一般公開、つまり市販を目的として録音されたものは、“Silver Birch Speaks”と題するカセットが一つあるだけです。これに“S.B.1”という記号がついているところをみると、つづいて“S.B.2”“S.B.3”……と出していく予定だったことが窺われますが、バーバネルが一九八一年七月に他界するまでにそれが実現しなかったのは、返すがえすも残念なことです。

このたびコスモ・テン・パブリケーションの厚意ある企画によって、その唯一のカセットテープの中から冒頭の祈り、いわゆるインボケーションの部分を電話でお聞かせできることになり、大変うれしく思っております。

本来この企画はそのシルバーバーチの生の声――といっても声帯はバーバネルのものなので、本当の意味での“ナマ”とは言えないかも知れませんが、その声も語り口も、ふだんのバーバネルとはまったく異なります――を聞きたいという、多くのファンのご要望にお応えするのが目的で考え出されたものですが、折しもあちらこちらで、シルバーバーチが出たとか、シルバーバーチと語りませんか、といった、言わば霊言のモノマネをして金儲けを企む者が現れはじめた事態に対処する必要が生じてきたことも事実です。つまり、ホンモノを紹介しておこうというわけです。(※現在はコスモ・テン・パブリケーションの企画は行われておりません。代わってハート出版より、CD版が発売されております)

本書の編者のオーツセンがサイキックニューズ紙上でこんなことを言っております。

(要旨)

「いかなる霊媒でも、高級霊をこちらから呼び出すことはできない。愛を絆として、向こうから出てくるのである。どんな霊でも呼び出してみせると豪語する霊媒は、霊能養成会に戻って一からやり直すしかない」

これを裏返せば、低級霊なら呼び出せることになりますが、事実その通りで、神話・伝説上の神さまや天使、歴史上の人物の名をなのって出てくる霊はみな低級霊で、パフォーマンスよろしく、それらしく語ってみせます。中には本当に自分は神さまのつもりで、大まじめで語っているおめでたい霊もいるようですが……。

同じく低級霊でも、その種のイタズラ霊とは別に、因縁霊・地縛霊の類も呼び出すことができますが、この場合は霊媒の背後霊団が連れてきて、霊媒の言語中枢が使えるように手取り足取りの指導をしているのであって、その大半が、自分が他人(霊媒)の身体に宿っていることを知らないまましゃべっております。

いずれにしても、低級霊の場合は高次元の話はしませんから、ただ言語中枢を使って低次元のことばかりペラペラしゃべることになります。名前だけは仰々しいのに、言っていることは軽薄短小で、何の感興も湧いてこないという印象をうけるのは、その辺に理由があります。

その点、高級霊になると波長の関係で直接的に霊媒を操作できませんから、シルバーバーチの場合のインディアンのように、霊界の霊媒を使用せざるを得なくなります。その連係プレーがスムーズに行くようになるまでには大変な予備練習が必要ですから、そう易々と出てこられるはずがないのです。そんなわけですから、たとえ三顧の礼をつくしてお願いしても、シルバーバーチはもう二度と出てこないことを、私がここに断言しておきます。

これを別の角度から見れば、高級霊ないしは、そこそこの霊的覚醒を得た霊になると、宇宙というものが厳然たる摂理と計画性のもとに運行していることを知っていますから、お呼びが掛かったからといって、すぐに安請け合いでノコノコと出てきて、わずか三十分や一時間そこらのインタビューに応じるはずはないのです。

これは人間界でも同じではないでしょうか。要職にある人物が、電話一本で、どこの誰だか知らない人のところへ出向くものでしょうか。ましてや“神”や“天使”のタイトルのついた霊がそう簡単に出てくるはずはないのです。うっかり出ようものなら、霊界のお笑いぐさにされてしまいます。もっとも、出ようにも出られないのですから、そんな気の毒なことになる心配はご無用ですが……。

結局のところ“霊言”と称しているものには、高級霊による計画的なもののほかに、イタズラ霊によるモノマネ的なもの、低級なのに本人は高級と思っている霊によるもの、腹話術等による詐術的なもの、そして、ただ書いただけの創作もの、こうしたものがあることになります。これは日本に限ったことではありません。モーリス・バーバネル著『これが心霊の世界だ』(潮文社)の中にこんな一節があります。

「詐術にもよく出会った。これには意図的にやっているものもあれば、無意識のうちにやってしまうものもある。いずれにせよ、この世界での詐術を私ほど多く暴いた人間もいないのではないかと思う。私にそれができたのは、取りも直さず、ホンモノを見てきているからである。結局ニセモノはホンモノのコピーなのである。もしもホンモノが存在しなければ、ニセモノも存在しないはずである」

ではホンモノを見聞きする機会のない一般人はどうするか――この問い、ないしは悩みに対して私がいつもお答えしているのは、心霊科学をしっかり勉強してほしいということです。目に見えない知的存在の実在を証拠づけてくれた、十九世紀から二十世紀にかけての英米の科学者による業績に目を通して、霊の実在と死後の存続についての確信と、霊的原理についての理解を身につけていただきたいのです。

それなしに一足飛びに霊言や自動書記といったいわゆる霊界通信を手当り次第に読みあさるのは、言わば、のべつ駄菓子をつまみ食いするようなもので、それでは肝心の食事どきに食欲が出ないように、真偽もわからないまま片っ端から霊界通信の類を読んでいると、ホンモノに出会った時にその良さがわからないということになります。

高級霊による啓示はそうやたらに届けられるものではありませんし、また、そうたくさん必要でもありません。私にとってはこのシルバーバーチの霊言と、このたび改訳新版(上)が発行されたばかりのモーゼスの『霊訓』、それにオーエンの『ベールの彼方の生活』――私の手もとにホンモノと思える霊界通信がいくつもある中で、――この三つだけは何年たっても、何回読んでも、いつ読んでも、生きていることの喜びと、生きる勇気と、宇宙へのロマンをかきたててくれる宝として大切にし、また、こうして日本の同胞のために翻訳してご紹介しているわけです。

このたび、十分とは言えないまでも、そのシルバーバーチのナマの霊言をお聞かせすることができることになって、大変うれしく思います。(中略)これが愛読者の皆さんのシルバーバーチへの親密感を深める縁(よすが)となれば、と心から願っております。

平成元年十一月

近藤干雄

Sunday, August 30, 2026

シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来

The Spirit Speaks

トニー・オーツセン(編)
近藤千雄(訳)



 

7章 光の存在を知るのは闇があるからです


映画女優のマール・オベロンには婚約者(フィアンセ)がいた。そのフィアンセを空港で見送った数秒後に、オベロンの人生に悲劇が訪れた。フィアンセを乗せた飛行機が爆発炎上したのである。事故の知らせを聞いて、当然のことながらオベロンは芒然自失の状態に陥った。

その後間もなく、ふとしたきっかけからハンネン・スワッファーのMy Greatest Story(私の人生最大の物語)という本を手に入れ、その中に引用されているシルバーバーチの霊言を読んで心を動かされた。たった一節の言葉に不思議な感動を覚えたのだった。

オベロンはさっそくスワッファーを訪ねて、できればシルバーバーチという霊のお話を直接聞きたいのですが、とお願いした。その要請をスワッファーから聞いたシルバーバーチは快く承諾した。そして、事故からまだ幾日も経たないうちに、交霊会に出席するチャンスを得た。

その後、さらに幾人かの霊媒も訪ねてフィアンセの存在を確信したオベロンは、その霊的知識のおかげで悲しみのどん底から脱け出ることができた。

では、最初にシルバーバーチの交霊会に出席した時の様子を紹介しよう。当日、スワッファーが交霊会の部屋(バーバネルの書斎)へオベロンを案内し、まずシルバーバーチにこう紹介した。

「ご承知のとおり、この方は大変な悲劇を体験なさったばかりです。非凡な忍耐力をもって耐えていらっしゃいますが、本日はあなたのご指導を仰ぎに来られました」

するとシルバーバーチがオベロンに向かって――


「あなたは本当に勇気のある方ですね。でも、勇気だけではダメです。知識が大きな力になってくれることがあります。ぜひ理解していただきたいのは、大切な知識、大きな悟りというものは、悲しみと苦しみという魂の試練を通してはじめて得られるものだということです。人生というものは、この世だけでなく、あなた方が“あの世”と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。光と影の両面がなくてはならないのです。

光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇がなければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは闇でなくなります。同じように、困難と悲しみを通してはじめて、魂が自我に目覚めていくのです。もちろん、それは容易なことではありません。とても辛いことです。でも、それが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜなら、地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ちうける次の段階の生活にそなえて、それに必要な霊的成長と才能とを身につけていくことだからです。

これまでにたどられた道も、決してラクではありませんでした。山あり、谷あり、そして、結婚という最高の幸せを目前にしながら、それが無慈悲にも一気に押し流されてしまいました。

あなたは何事も得心がいくまでは承知しないかたです。生命と愛は果たして死後にも続くものなのか、それとも死をもってすべてが終わりとなるか、それを一点の疑問の余地もないまで得心しないと気が済まないでしょう。そして今、あなたは死がすべての終わりでないことを証明するのに十分なものを手にされました。

ですが、わたしが察するところ、あなたはまだ本当の得心を与えてくれる事実のすべてを手にしたとは思っていらっしゃらない。そうでしょ?」

オベロン「おっしゃる通りです」


「こういうふうに理解なさることです――これがわたしにできる最大のアドバイスです――われわれ生あるものは、すべて、まず第一に霊的存在であるということです。霊であるからこそ生きているのです。霊こそ存在の根元なのです。生きとし生けるものが呼吸し、動き、意識を働かせるのは、霊であるからこそなのです。その霊があなた方のいう神であり、わたしたちのいう大霊なのです。その霊の一部、つまり大霊の一部が物質に宿って、次の段階の生活にふさわしい力を身につけるために地上体験を積みます。それはちょうど、子供が学校へ通って、卒業後の人生にそなえるのと同じです。

さて、あなたも、他のすべての人間と同じく、一個の霊的存在です。物的なものはそのうち色あせて朽ち果てますが、霊的なものは永遠であり、いつまでも残り続けます。物質の上に築かれたものは永続きしません。物質は殻であり、入れ物にすぎず、実体ではないからです。地上の人間の大半が幻影(まぼろし)を崇拝しております。キツネ火を追いかけているようなものです。真実のものを発見できずにいます。こうでもない、ああでもないの連続です。本来の自分を見出せずにいます。

大霊が愛と慈悲の心からこしらえた宇宙の目的・計画・機構の中の一時的な存在として人生をとらえ、自分もその中での不可欠の一部であるとの理解がいけば、たとえ身にふりかかる体験の一つ一つの意義はわからなくても、究極においては全てが永遠の機構の中に組み込まれているのだ、という確信は得られます。

霊にかかわるものは決して失われません。死は消滅ではありません。霊が別の世界へ解き放たれるための手段にすぎません。誕生が地上生活へ入るための手段であれば、死は地上生活から出るための手段ということができます。あなたはその肉体ではありません。その頭でも、目でも、鼻でも、手足でも、筋肉でもありません。つまり、その生物的集合体ではないということです。

それはあなた自身ではありません。あなたという別個の霊的存在が、地上で自我を表現していくための器官にすぎません。それが地上から消滅したあとも、あなたという霊は存在し続けます。

死が訪れると、霊はそれまでに身につけたものすべて――あなたを他と異なる存在であらしめている個性的所有物のすべて――をたずさえて、霊界へまいります。意識・能力・特質・習性・性癖、さらには愛する力、愛情と友情と同胞精神を発揮する力、こうしたものはすべて霊的属性であり、霊的であるからこそ存続するのです。

真にあなたのものは失われないのです。真にあなたの属性となっているものは失われないのです。そのことをあなたが理解できるできないにかかわらず、そしてまた確かにその真相のすべてを理解することは容易ではありませんが、あなたが愛する人、そしてあなたを愛する人は、今なお生き続けております。得心がいかれましたか?」

オベロン「はい」


「物的なものはすべてお忘れになることです。実在ではないからです。実在は物的なものの中には存在しないのです」

オベロン「私のフィアンセは今ここへ来ておりますでしょうか」


「来ておられます。実は先週も来られて、霊媒を通じてあなたに話しかける練習をなさったのです(※)。しかし、これはそう簡単にいくものではないのです。ちゃんと話せるようになるには、大変な訓練がいるのです。でも、あきらめずに続けて出席なさっておれば、そのうち話せるようになるでしょう。ご想像がつくと思いますが、彼は今のところ、非常に感情的になっておられます。まさかと思った最期でしたから、感情的になるなという方が無理です。とても無理な話です」


※――オベロンがスワッファーに出席の申し込みをした時点から霊団側はフィアンセと連絡を取っていたことが、これでわかる。交霊会は毎週金曜日の夜に行われた。

オベロン「今どうしているのでしょう? どういうところにいるのでしょうか。元気なのでしょうか」

この質問に、シルバーバーチは司会のスワッファーの方を向いて、しみじみとした口調で――


「このたびの事故は、そちらとこちらの二人の人間にとって、よほどのショックだったようですな。まだ今のところ調整ができておりません。あれだけの事故であれば、無理もないでしょうね」と述べてから、改めてオベロンに向かって――


「わたしとしては、若いフィアンセが、あなたの身近にいらっしゃることをお教えすることが、精一杯あなたの力になってあげることです。彼は今のところ何もできずにおります。ただお側に立っておられるだけです。これから交信の要領を勉強しなくてはなりません。霊媒を通じてだけではありません。ふだんの生活において、考えや欲求や望みをあなたに伝えることもそうです。それは大変な技術を要することです。それができるまでは、ずっとお側に付き添っているだけでしょう。

あなたの方でも、心を平静に保つ努力をしなくてはいけません。それができるようになれば、彼があなたに与えたいと望み、そしてあなたが彼から得たいと望まれる援助や指導が、確かに届いていることを得心なさることでしょう。

よく知っておいていただきたいのは、そうした交信を伝えるバイブレーションはきわめて微妙なもので、感情によってすぐ乱されるということです。不安・ショック・悲しみといった念を出すと、たちまちあなたの周囲に重々しい雰囲気、交信の妨げとなる壁をこしらえます。

心の静寂を保てるようになれば、平静な雰囲気を発散することができるようになれば、内的な安らぎを得るようになれば、それが、わたしたちの世界から必要なものを受けるための最高の条件を用意したことになります。感情が錯乱している状態では、わたしたちも何の手出しもできません。受容性、受け身の姿勢、これが、わたしたちが人間に近づくための必須の条件です」

このあと、フィアンセについて幾つかプライベートな内容の話が交わされてから、シルバーバーチがこう述べた。


「あなたにとって理解しがたいのは、多分、あなたのフィアンセが今はこちらの世界へ来られ、あなたはそちらの世界にいるのに、精神的にはわたしよりもあなたの方が身近な存在だということでしょう。おわかりになりますか。彼にとっては、霊的なことよりも地上のことの方が気がかりなのです。問題は、彼が霊的なことについて何も知らずにこちらへ来たということです。一度も意識にのぼったことがなかったのです。

でも、今では、こうした形であなたが会いに来てくれることで、彼も、あなたが想像する以上に助かっております。大半の人間が死を最期と考え、こちらへ来てからも記憶の幻影の中でのみ暮らして、実在を知りません。その点あなたのフィアンセは、こうして最愛のあなたに近づくチャンスを与えられ、あなたも、まわりに悲しみの情の壁をこしらえずにすんでおられる。そのことを彼はとても感謝しておられますよ」

オベロン「死ぬ時は苦しがったのでしょうか」


「いえ、何も感じておられません。不意の出来事だったからです。事故のことはお聞きになられたのでしょ?」

オベロン「はい」


「一瞬の閃光のうちに終わりました」

スワッファー「この方もそういうふうに聞かされております」


「そうでした。本当にあっという間の出来事でした。それだけに、長い休養期間が必要なのです」

オベロン「どれくらい掛かるのでしょうか」


「そういうご質問には、お答えするのがとても難しいのです。と申しますのは、わたしたちの世界では、地上のように時間で計るということをしないのです。でも、どのみち普通の死に方をした人よりは長く掛かります。急激な死に方をした人はみな、ショックを伴っているからです。いつまでも続くわけではありませんが、ショックはショックです。もともと霊は、肉体からそういう離れ方をすべきではないからです。そこで調整が必要となるのです」

さらにプライベートなメッセージを聞かされたあと――

オベロン「彼は今しあわせと言えるでしょうか。大丈夫でしょうか」


「しあわせとは申せません。彼にとって霊界は精神的に居心地がよくないからです。地上に戻って、あなたといっしょになりたいという気持ちの方が強いのです。それだけに、あなたの精神的援助が必要ですし、彼自身の方でも自覚が必要です。これは過渡的な状態であり、彼の場合は大丈夫です。霊的な危害(※)が及ぶ心配がありませんし、そのうち調整がなされることでしょう。

宇宙を創造なさった大霊は、愛に満ちた存在です。わたしたち一人一人に存在を与えてくださったその愛の力を信頼して、何事もなるべくしてそうなっているのだということを知らなくてはなりません。今は理解できないことも、そのうち明らかになる機会が訪れます。決して口先で適当なことを言っているのではありません。現実にそうだから、そう申し上げているのです。

あなたはまだ人生を物質の目でごらんになっていますが、永遠なるものは、地上の尺度では正しい価値は計れません。そのうち正しい視野をお持ちになることでしょうが、本当に大事なもの――生命・愛・本当の自分、こうしたものはいつまでも存在し続けます。死は生命に対しても、愛に対しても、まったく無力なのです」


※――邪霊による妨害と誘惑のことで、愛の絆のある霊たちが出迎えてくれるのは、それを防ぐ意味もある。

別の日の交霊会で、英国のみならず海外でも活躍している古くからのスピリチュアリスト(氏名は公表されていない)が招待され、シルバーバーチは「霊的知識に早くから馴染まれ、その道をいちずに歩まれ、今や多くの啓示を授かる段階まで到達された人」として丁重にお迎えした。そしてこう語りかけた。


「思えば長い道のりでしたね。人生の節目が画期的な出来事によって織りなされております。しかし、それもすべて、一つの大きな計画のもとに、愛によって導かれていることに気づいていらっしゃいます。暗い影のように思えた出来事も、今から思えば計画の推進に不可欠の要素であったことをご存知です。あなたがご自分の責務を果たすことができたのも、あなた自身の霊の感じる衝動に暗黙のうちに従っておられたからです。

これより先も、その肉体を大地へお返しになるまでに課せられているあなたの仕事は、とても意義深いものです。これまで一つ一つ段階を追って多くの啓示に接してこられましたが、これから先も、さらに多くの啓示をお受けになられます。これまでは、その幾つかをおぼろげに垣間見てこられたのであり、光明のすべて、啓示のすべてが授けられたわけではありません。それを手にされるには、ゆっくりとした発達と霊的進化が必要です。わたしの言わんとしていることがおわかりでしょうか」

「よくわかります」


「これは一体どういう目的あってのことなのか――あなたはよくそう自問してこられましたね?」

「目的があることは感じ取れるのです。目的があること自体を疑ったことはありません。ただ、自分の歩んでいる道のほんの先だけでいいから、それを照らし出してくれる光が欲しいのです」


「あなたは“大人(おとな)の霊”です。地上へ来られたのはこの度が最初ではありません。それはわかっておられますか」

「そのことについては、ある種の自覚をもっております。ただ、今ここで触れるつもりはありませんが、それとは別の考えがあって、いつもそれとの葛藤が生じるのです」


「わたしにはその葛藤がよく理解できます。別に難しいことではありません。その肉体を通して働いている意識と、あなたの本来の自我である、より大きな意識との間の葛藤です。たわいないこの世的な雑念から離れて霊の力に満たされると、魂が本来の意識を取り戻して、日常の生活において五感の水際(みぎわ)に打ち寄せて、しきりに存在を認めてほしがっていた、より大きな自我との接触が得られます。

さきほどおっしゃった目的のことですが、実は霊の世界から地上圏へ引き返し、地上人類のために献身している霊の大軍を動かしている壮大な目的があるのです。無知の海に知識を投入すること、それが目的です。暗闇に迷う魂のために灯火(ともしび)をかかげ、道を見失った人々、悩める人々、安らぎを求めている人々に安息の港、聖なる逃避所の存在を教えてあげることです。

わたしたちを一つに団結させている大いなる目的です。宗教・民族・国家、その他ありとあらゆる相違を超越した大目的なのです。その目的の中にあって、あなたにもあなたなりの役目が担わされております。そして、これまで数多くの魂の力になってこられました」

「ご説明いただいて得心がいきました。お礼申し上げます」


「わたしたちがいつも直面させられる問題が二つあります。一つは、惰眠(だみん)をむさぼっている魂の目を覚まさせ、地上で為すべき仕事は地上で済ませるように指導すること。もう一つは、目覚めてくれたのはよいとして、まずは自分自身の修養から始めなければならないのに、それを忘れて心霊的な活動に夢中になる人間を抑制することです。大霊は決してお急ぎになりません。宇宙が消滅してしまうことは決してありません。摂理も決して変更になることはありません。じっくりと構え、これまでに啓示されたことは、これからも啓示されていくことがあるとの証明として受け止め、自分を導いてくれている愛の力は、自分が精一杯の努力を怠りさえしなければ、決して自分を見捨てることはないとの信念に燃えなくてはいけません」

この老スピリチュアリストは、今回の交霊に備えて三つの質問を用意していた。次にその問答を紹介しよう。

「私の信じるところによれば、人間は宇宙の創造主である全能の神の最高傑作であり、形態ならびに器官の組織は大宇宙のミクロ的表現であり、各個が完全な組織をそなえ、特殊な変異は生まれません。しかし一体、その各個の明確な個性、顔つきの違い、表情の違い、性向の違い、そのほか知性・身振り・声・態度・才能等の差異も含めた、一見して区別できる個性を決定づけている要素は何なのでしょうか」


「これは大変な問題ですね。まず、物質と霊、物質と精神とを混同なさらないでください。人間は、宇宙の自然法則にしたがって生きている三位一体の存在です。肉体は物的法則にしたがい、精神は精神的法則にしたがい、霊は霊的法則にしたがっており、この三者が互いに協調し合っております。こうして、法則の内側にも法則があることになり、時には矛盾しているかに思えても、その謎を解くカギさえ手にすれば、本質的には何の矛盾もないことがわかります。

法則のウラに法則があると同時に、一個の人間のさまざまな側面が交錯し融合し合って、つねに精神的・霊的・物的の三種のエネルギーの相互作用が営まれているのです。そこでは三者の明確な区別はなくなっております。肉体は遺伝的な生理法則にしたがっており、精神は霊の表現ではあっても、肉体の脳と五官によって規制されております。つまり霊の物質界での表現は、それを表現する媒体である肉体によって制約を受けるということです。かくして、そこに無数の変化と組み合わせが生じます。霊は肉体に影響を及ぼし、肉体もまた霊に影響を及ぼすからです。これでおわかりいただけましたでしょうか」

「だいぶわかってまいりました。これからの勉強に大いに役立つことと思います。では次の質問に移させていただきます。人間はその始源――全生命の根源から生まれてくるのですが、その根源からどういう段階をへてこの最低次元の物質界へ下降し、物的身体から分離したあと(死後)、こんどはどういう段階をへて向上し、最後に“無限なる存在”と再融合するのか、その辺のところをお教えいただけませんか」


「これもまた大きな問題ですね。でも、これは説明が困難です。霊的生命の究極の問題を、物的問題の理解のための言語で説明することは、とてもできません。霊的生命の無辺性を完全に説き明かす言語は存在しません。ただ端的に、人間は霊である、ただし大霊は人間ではない、という表現しかできません。

大霊とは、全存在の究極の始源です。万物の大原因であり、大建築家であり、王の中の王です。霊とは生命であり、生命とは霊です。霊として、人間は始まりも終わりもなく存在しています。それが個体としての存在を得るのは、地上にかぎって言えば、母胎に宿った時です。物的身体は霊に個体としての存在を与えるための道具であり、地上生活の目的はその個性を発揮させることにあります。

霊界への誕生である死は、その個性をもつ霊が巡礼の旅の第二の段階を迎えるための門出です。つまり霊の内部に宿されている全資質を発達、促進、開発させ、完成させ、全存在の始源によりいっそう近づくということです。人間は霊である以上、潜在的には大霊と同じく完全です。しかし、わたしは、人間が最後に大霊の生命の中に吸収されてしまうという意味での“再融合”の時期がくるとは考えません。大霊が無限であるごとく、生命の旅も発達と完全へ向けての無限の過程であると主張します」

「よくわかります。お礼申し上げます。次に三つ目の質問ですが、今おっしゃられたことである程度まで説明されておりますが、人間は個霊として機械的に無限に再生をくり返す宿命にあるというのは事実でしょうか。もし事実でないとすれば、最低界である地上へ降りてくるまでに体験した地球以外における複数の前世で蓄積した個性や特質が、こんどは死後、進化向上していく過程を促進もし、渋滞もさせる、ということになるのでしょうか。私の言わんとすることがおわかりでしょうか」


「こうした存在の深奥にふれる問題を、わずかな言葉でお答えするのは容易なことではありませんが、まず、正直に申して、その輪廻転生論者がどういうことを主張しているのか、わたしは知りません。が、わたし個人として言わせていただけば――絶対性を主張する資格がないからこういう言い方をするのですが――再生というものが事実であることは、わたしも認めます。そのことに反論する人と議論するつもりはありません。理屈ではなく、わたしは現実に再生して戻ってきた人を大勢知っているのです。どうしても再生しなければならない目的があってそうするのです。地上にあずけてきた質(しち)を取り戻しに行くのです。

ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物とは申しておりません。一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは、全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、その海面上の部分だけです。死後もう一度生まれてくる時は、別の部分が海面上に顔を出します。潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。

霊界で進化を続けていくうちに、潜在的自我が、常時、発揮されるようになります。再生問題を物質の目で理解しようとしたり、判断したりしようとなさってはいけません。霊的知識の理解から生まれる叡智の目で洞察してください。そうすれば得心がいきます」

祈り

自然法則の一大パノラマの中に……


ああ大霊よ。無限なる設計者、王の中の王、全大宇宙機構を考案し、叡智によってそれを維持し、愛によってそれを動かしている、崇高なる知性にあらせられるあなた――そのあなたに、わたしたちは少しでも近づき、その無限なる叡智の宝庫から、永遠に続く求道(ぐどう)の旅に必要なものを摂取したいと願っているところでございます。

あなたは無限なる存在であり、あなたについてのわたしたちの認識は必然的に限りあるものとならざるを得ません。したがって、あなたの全体像を理解することは不可能なのでございます。

わたしたちは、果てしなき規模で顕現している宇宙の全生命を経綸する、自然法則の一大パノラマの中にあなたを見出しております。あなたは一部の人間が考えているがごとき、嫉妬心に燃える我儘(わがまま)な暴君ではございません。誰一人として特別に寵愛(ちょうあい)することもなければ、誰一人として特別に呪(のろ)うこともない、無限の知性にあらせられるのでございます。

あなたはその経綸のために絶対的原理を設けられました。原因に対しては必ずそれ相当の結果が自動的に、そして途切れることなく発生するように定められたのでございます。あなたに近づく者、あなたの意思を調和し、あなたの御心を表現する者は、その実りを、静寂と確信とにあふれた生活、輝きと豊かさに満ちた生活の中に刈り取ることになるのでございます。

不幸にしてあなたを見出し得ない者は、暗黒と無知の霧の中に迷い込み、行き先を見えなくする影にいつも取り囲まれていることになるのでございます。

人類の霊的救済に立ちあがったわたしたちにとって、そうした不幸な人々、困窮者、喪の悲しみに暮れている人々、病に苦しむ人々、重荷に耐えかねている人々、道を見失って、いずこへ向かうべきかが分からずにいる人々に手を差しのべることこそ任務と心得ております。進むべき道を照らし出す灯台としての真理を見出させてあげることが、わたしどもの願望なのでございます。

われわれの送り届けようとする霊力が、今、霊的真理と叡智の豊かさを受け入れる用意のある者に広めたいと願う地上の多くの同志を通して、ますます力強く顕現されていることに感謝の意を表したいと思います。

かくして人類は、徐々にではあっても確実に、混沌と利己主義と貪欲と戦争に背を向ける方向へと突き進むことになりましょう。そして霊力がますます人々の生活の中に顕現していくにつれて、平和の勢力がますます勢いを増し、やがて地上天国も現実のものとなることでございましょう。

その目標へ向けてわたしどもは祈り、そして努力するものです。