Thursday, October 17, 2024

シアトルの秋 天界の音楽と地上の音楽

Music of the Heavens and Music on Earth

一九一七年十一月十二日 月曜日

──オルガン奏者がこれから演奏を始めますが、邪魔にならないでしょうね。

 邪魔にならないどころか、逆にはかどります。好い機会ですので、今夜は天界の音楽について少しばかりお話しておきましょう。そうなのです。私たちにも地上のあなた方と同じような音楽があるのです。

しかし──この〝しかし〟はとくにアクセントを強くして申し上げておきます──実は地上の音楽は天界にある音楽の〝貯蔵所〟からこぼれ落ちた程度のものに過ぎません。壮麗な輝きを持つ天界の調べは地上界へも届いているのです。

ですが地上を取り巻く厚いベールを通過する際にどんどんその輝きを失っていきます。地上で名曲とされているのもその程度のものに過ぎないのです。

 ではこれから私が、そうした天上の音楽がどういう具合に地上へ届けられるかを説明します。どうか思い切り想像の翼を広げて聞いてください。いくら想像を逞しくしてもなお及ばないでしょう。

 目にも見えず耳にも聞こえず(*)──天界の音楽のあの崇高な躍動、盛り上がりと下降、そして魂の奥底まで響く力強さは、とうてい人間の肉耳(にくじ)には感応しないのです。

(*これはシェークスピアの〝真夏の夜の夢〟の一節であるが、天界に人間には聞こえない壮大な妙音が流れているという思想は紀元前からピタゴラスなどが説いていた。──訳者)

 それどころではありません。受信と通訳の二つの機能を併せ持つ脳を備えた物的身体に宿っているかぎり、天界の調べのあの得(え)も言われぬ美しさのイメージは、とても人間には想像できないでしょう。まして産み出すことなど全く不可能でしょう。

 その天界の最高界から最切に流れ出た旋律がいかなるものであったかは、この低地にいる私たちには測り知ることはできません。それはあなた方地上の人間に私たちの界の音楽が想像できないと同じです。

 ただ、このことだけは断言できます。これしか判らないと言ってもいいでしょう。

(そう思う程度のことです。いずれにせよ私たちの間では常識とされていることですが)それは〝神の御胸〟こそ音楽におけるハーモニーの源であるということです。神の偉大なる〝心臓部〟です。

そこから神のメロディの愛の調べが流れ出て、最も感応しやすい界層がそれを受け、他のもろもろの要素と合体して〝美〟の根源たる神にいやが上にも近づいていきます。かくて永遠の時の経過の中で遥か高き上層界の神霊が荘厳さと崇高さを帯び、神的属性を身に付けて行きつつあるのです。

 しかしこの問題は次元が高すぎて、私ごとき者にはとてもうまく叙述できません。このたびの目的は数少ない言葉を精いっぱい駆使して、その流れが私たちの界まで下降してきた後地上まで送り届けられる過程を私たちに知り得た範囲で叙述することです。

私たちの界を通過した旋律はその音色を構成する微粒子の一つひとつが膨張して互いに押し合い、密度を失い、かくて漸く地上との境界に辿り着いた時は基調(テクスチャー)のキメが非常に粗いものとなっていて、地上的感覚にしか感応しなくなっております。

 具体的に言えば、第六界まで流れて来たものが一つの受け入れ容器を見つけます。二つまたはそれ以上のこともあります。それが貯蔵所となり、それを利用してさまざまな節や旋律が構成され、小さくはあっても強烈な作品が再び地上へ向けて下降を開始します。

が下降しはじめた瞬間から先に述べたような膨張が始まります。ですから、あなた方が受け取った時はそれはすでに純粋なエキスではなくなっており、いわば原液が薄められた状態となっております。

これを譬えてみれば壁に開けられた小さな穴から真暗な部屋に射し込んだ光のようなもので、小さくても射し込んだ時は強烈だったものが、突き当りの壁に届いた時は性質が遥かに弱まっており、さらに雑音も加わっていて、それは隙間から飛び込んだ時の輝きを失わせることにしかなりません。

 もっとも、そうして地上に届く音楽でも魂を高揚させる素晴らしいものがあることは事実です。となると私たちの界の音楽がいかに素晴らしいものであるかは、思い半ばに過ぎるものがあるでしょう。

私たちは痛いほどに魂を鼓舞する旋律に心を奪われてしまいます。それを聞いた一人ひとりがみずから霊的エネルギーの集積体となり、さらにそれを各自の個性によって解釈し形体を賦与して、自分より低い界層の者へ送ります。その際、その音楽に秘められた繊細さと効力の度合いがその道の専門家によって適当に下げられます。

高き天界の大音楽家より発せられた旋律を捉え幾らかでも留めることができる地上の程度の高い音楽家の理解力に合わせて、あまり繊細過ぎないようにとの配慮からそうするのです。

 出来ればもっと話を進めたいのですが、そろそろあなたの受信度が悪くなってきました。そこであと一言だけ簡単に述べておきます。何事も同じですが、この問題においても父なる神より末端の人間に至るまでの整然たる階梯を通じて、次の大原則が支配しているのです。

すなわち〝父が自らの中に生命を宿すごとく父はその子イエスに生命を与え給うた〟ということです。単に生命のみではありません。生命現象の全てを含めての話です。その一つが音楽であるわけです。

 そのイエス様が父の貯蔵所から受ける生命を大天使に分け与えるごとくに、大天使もまたその能力に応じて小天使へと授けて行く───両親が子に生命を授けるように単に生命のみを与えるのではなく、愛と美と高尚な思想と天界のメロディをも併せて授けられます。

 では、私を通じてメッセージを届けている霊団の者になり代って、カスリーンが愛の祝福を申し上げます。

Wednesday, October 16, 2024

 シアトルの秋 あすの指導者たち ───若者にどう説くか───

Leaders of Tomorrow - How to Preach to the Young

 More Philosophy of Silver Birch 
  Edited by Tony Ortzen 

 初めて招待された女性が自分の教会に通う十代の若者にはどう霊的真理を説けばよいかを尋ねた。その教会は英国国教会には属しておらず、バイブル中心の教えは説いていないという。

 シルバーバーチはこう答えた。

 「今日の若者は反抗的なところがありますから、理性と論理に訴えるのが一ばん良いと私は考えます。彼らの気持ちの中には、過去の教えは暗黒の世界をもたらして自分たちを裏切ったという考えがあります。私だったらこうしてお持ちしている霊的真理の背後の理念の合理性を訴えたいと思います。

その際にスピリチュアルリズムとかオカルトとかのラベルや、神秘的、秘教的といった言い方はしない方がよろしい。ただの用語にすぎないのですから。

 それよりも、脳と精神の違い、物質と霊の違いを教え、今すでに自分という存在の中に化学的分析も解剖もできない、物質を超えた生命原理が働いており、それが原動力となって自分が生かされているのだということを説くのです。

人間という存在は最も高度に組織化され、最も緻密で最も複雑なコントロールルームを具えた、他に類をみない驚異的な有機体です。その無数の構成要素が調和的に働くことによって生き動き呼吸できているのです。

しかし実は、その物的身体のほかにもう一つ、それを操作する、思考力を具えた、目に見えない、霊的個性(インディビジュアリティ)が存在していることを説くのです。

 目に見えている表面の奥に、評価し考察し比較し反省し分析し判断し決断を下す精神が働いております。それは物的なものではありません。人間には情愛があり、友情があり、愛があり、同情心がありますが、これらは本質的には非物質的なものです。

愛を計量することはできません。重さを計ることも、目で見ることも、舌で舐めることも、鼻で嗅いでみることも、耳で聞いてみることもできません。それでも厳然として存在し、英雄的行為と犠牲的行為へ駆り立てる最大の原動力となっております。

 あなたの教会へ訪れる若者はまだ、あなたがすでにご存知の霊的真理は何も知らないわけですが、その子たちにまず精神とは何でしょうかと問いかけてみられることです。

それが肉体を超えたものであることは明白ですから、では肉体が機能しなくなると同時にその肉体を超えたものも機能しなくなると想像する根拠がどこにあるか──こういう具合に話を論理的に持っていけば、よいきっかけがつかめると思います。

 それによって何人かでも関心を抱いてくれる者がいれば、その好機を逃してはいけません。嘲笑やあざけりは気になさらないことです。あなたの言葉を素直に受け入れてくれる者が一人や二人はいるものです。その種子はすぐにではなくても、そのうち芽を出しはじめることでしょう。

それであなたは、自分以外の魂の一つに自我を見出させてあげたことになるのです。私たちは地上の人々が正しい生き方を始めるきっかけとなる、真の自我への覚醒と認識をもたらしてあげることに四六時中かかわっております。それが私たち霊団に課された大目的なのです。

人生の落伍者、死後に再び始まる生活に何の備えもない、何の身支度もできていないまま霊界入りする人があまりにも多すぎるからです」


 別の日の交霊会で───

 ───若者に霊的真理へ関心を向けさせるにはどうしたらよいでしょうか。

 「私の考えでは、若者は一般的に言って人生体験、とくに身近かな人を失うことによる胸をえぐられるような、内省を迫られる体験がありませんから、ただ単に霊の世界との交信が可能であることを証明してみせるという形で迫ってはいけないと思います。我が子が死後も生きているといった一身上の事実の証明では関心は引けません。

 私はやはり若者の理性と知性に訴えるべきだと思います。すなわち論理的思考が納得するような霊的真理を提示し、それを単に信じろとか希望を見出せとか要求するのではなく、それが合理的で理性を満足させるものであり、真理の極印が押されたものであることを理解させるために、こちらが説くことを徹底的に疑ってかからせるのです。

 私だったらその霊的真理は不変の自然法則によって統制されている広大な宇宙的構想の一端であることを説きます。生命現象、自然現象、人間的現象のあらゆる側面と活動が、起こりうるすべての事態に備えて用意されている神の摂理によって完全なる統制下に置かれているということです。

 それゆえ地上に起きる出来ごとはすべて法則によって支配されたものであると説きます。つまり原因と結果の法則が働いており、一つの原因には寸分の狂いもない連鎖でそれ相当の結果が生じるということです。奇跡というものはないということです。

法則は定められた通りに働くものであり、その意味ではすべてのことが前もって知れているわけですから、奇跡を起こすために法則を廃棄する必要はないのです。

 そう説いてから、心霊実験による証拠を引き合いに出して、それが、人間は本来が霊であること、肉体は付属物であって、それに生命を吹き入れる霊の投影にすぎないことを証明していることを指摘します。つまり肉体そのものには動力も生命力もないのです。

肉体が動き呼吸し機能できているのは、それを可能ならしめるエネルギーを具えた霊のおかげなのです。霊は物質に優るのです。霊が王様だとすれば物質は従臣です。霊が主人だとすれば、物質は召使いのようなものです。要するに霊がすべてを支配し、規制し、管理し、統制しているのです。

 そう述べてから更に私は、以上のような重大な事実を知ることは深遠な意義があることを付け加えます。これを正しく理解すれば人間的な考えに革命をもたらし、各自が正しい視野をもち、優先させるべきものを優先させ、永遠の実在である霊的本性の開発と向上について、その仮りの宿にすぎない肉体の維持に向けられている関心と同じ程度の関心を向けるようになることでしょう。

 以上のような対応の仕方なら若者も応じてくれるものと私は考えます」


──霊能養成会に参加することはお勧めになりますか。

 「初めからは勧めません。最初は精神統一のためのグループにでも加わることを勧めます。その方が若者には向いているのでしょう。瞑想によってふだん隠れているものに表現のチャンスを与えるのです」


──それはうっかりすると、いわゆる神秘主義者にしてしまいませんか。

 「もしそうなったら、それは方向を間違えたことになります。それも自由意志による選択に任されるべきことです。若者には若者なりの発達の余地を与えてやらねばなりません。受け入れる準備ができれば受け入れます。弟子に準備ができれば師が訪れるものです」


──現代の若者に対して霊界から特別の働きかけがあるのでしょうか。それが血気盛んな若者を刺激して、自分でもわけが分からないまま何かを求めようとさせているのではないでしょうか。

「今日の若者の問題の原因は、一つには第二次世界大戦による社会環境の大変動があります。それが忠誠の対象を変えさせ、過去に対して背を向けさせ、いま自分たちが置かれている状況に合っていると思う思想を求めさせているのです。

 若者は本性そのものが物ごとを何でも過激に、性急に求めさせます。従来の型にはまったものに背を向け、物質のベールに隠されたものを性急に求めようとします。(LSDのような)麻薬を使って一時的な幻覚を味わうとか、時には暴力行為で恍惚(エクスタシー)を味わうといった過激な方法に走るのも、若者が新しいものを求めようとして古いものを破壊している一例と言えます。

 もとより霊的開発に手っ取りばやい方法があるかに思わせることは断じてあってはなりません。それは絶対に有り得ないのです。霊の宝は即座に手に入るものではありません。努力して求めなくてはなりません。霊的熟達には大へんな修行が必要です。それを求める人は、本格的な霊能を身につけるためには長期間にわたる献身的修行を要することを認識しなくてはなりません。

 若者にはぜひとも物質を超えたものを求めさせる必要があります。物質の世界が殻であり、実在はその殻の内側にあることを認識すれば、それが生への新たな視野をもたせることになるでしょう。そうなった時はじめて若者としての社会への貢献ができることになります」


──組織的社会に対するそうした若者の反抗についてお尋ねしたいのですが、その傾向は若者が霊界の波長に合いやすくて、知らず知らずのうちに霊界からの指図に反応しているのだという観方をどう思われますか。

 「私は若者の反抗は別に気にしておりません。私がいけないと言っているのは若者による暴力行為です」


───若者も愛を基本概念とした神を求めております。彼らの思想は愛に根ざしています。教会中心ではなく神を中心としています。そうではないでしょうか。

 「反抗するのは若者の特権です。安易に妥協するようでは若者でなくなります。追求し、詮索し、反逆しなくてはいけません。地上世界はこのたび幾つかの激変を体験し、慣習が変化し、既成の教えに対する敬意を失いました。

 こうした折に若者なりに自分たちの住む世界の統治はかくあるべきだと思うものを求めても、それを非難してはいけません。しかし肝心なのは地上生活もすべて霊的実在が基本となっており物的現実とは違うという認識です。物質にはそれ自身の存在は無いのです。物質の存在は霊のおかげなのです。物質は外殻であり、外皮であり、霊が核なのです。

 肉体が滅びるのは物質で出来ているからであり、霊が撤退するからです。老いも若きも地上の人間すべてが学ばねばならない大切な教訓は、霊こそ全生命活動の基盤だということです。地上生活におけるより大きな安らぎ、より一層の宿願成就のカギを握るのは、その霊的原理をいかに応用するかです。すなわち慈悲、慈愛、寛容心、協調的精神、奉仕的精神といった霊的資質を少しでも多く発揮することです。

 人間世界の不幸の原因は物質万能主義、つまりは欲望と利己主義が支配していることにあります。我欲を愛他主義と置きかえないといけません。利己主義を自己犠牲と置きかえないといけません。

恵まれた人が恵まれない人に手を差しのべるような社会にしないといけません。それが究極的に今より大きな平和、協調性、思いやりの心を招来する道です。

 私は絶対に悲観していません。私はつねに楽観的です。人間世界の諺を使わせていただけば〝ボールはいつも足元に転がっている〟と申し上げます。(フットボールから生まれた言いまわしで、目の前に成功のチャンスが訪れている、といった意味──訳者)


──若者の関心が物的なものに偏っていること、つまりお金と地位だけを目的としている生き方に批判的であるようにお見受けしますが・・・

 「私は若者が悪いと言っているのではありません。彼らは言わば犠牲者です。今日の混乱した世相には何の責任もありません。しかし同時に、彼らが何の貢献もしていない過去からの遺産を数多く相続しております。さまざまな分野でのパイオニアや改革者たちが同胞のために刻苦し、そして豊かな遺産を残してくれているのです。

 見通しはけっして救いようのない陰うつなものではありません。確かに一方には世の中を悪くすることばかりしている連中もいますが、それは全体の中の一部にすぎません。他方には世の中に貢献している人々、啓発と叡智とををもたらし、来るべき世代がより多くの豊かさを手にすることができるようにしようと心を砕いている人たちが大勢いるのです」


──私にも子供がいます。私が大切だと思うアドバイスをしても必ずしも受け入れてくれませんが、そうした努力によって私も未来のために貢献できるのだと思うと慰められます。

 「とても難しいです。この道に近道はないのです。が、あなたもせめて物的自我から撤退して静かな瞑想の時をもち、受け身の姿勢になることはできます。それがあなたの家族を見守っている霊とのより緊密な接触を得る上で役立ちます」


──問題はけっきょく良い環境を作るということでしょうか。

 「若者というのは耳を貸そうとしないものです。若いがゆえに自分たちの方が立派なことを知っていると思い込んでいるのです。それが地上での正常な成長過程の一つなのです。

あなただって若い時は親よりも立派なことを知っていると思っていたはずです。若者が既成の権威に対して懐疑を抱くということは自然な成長過程の一つであるということを認識しなければいけません。

(環境うんぬんではなくて)けっきょく親として一つの手本を示して、その理由づけができるようでなければいけません。それしか方法はありません。若者も霊的存在としての人間の生き方はこうあるべきだという、幾つかの道があることは認めなくてはいけません。しかし、若者がそのことを理解するのは容易なことではありません」


──われわれが真実に間違いないと確信していることでも、それを他人に信じさせることは難しいことです。今こそ必要とされている霊的真理を広く一般に証明してみせるために何とかして霊界から大掛かりな働きかけをしていただけないものでしょうか。それとも、今はその時期ではないということでしょうか。

 「その時期でないのではなく、そういうやり方ではいけないということです。私たちは熱狂的雰囲気の中での集団的回心の方法はとりません。そんなものは翌朝はもう蒸発して消えています。私たちは目的が違います。

私たちの目的は一人ひとりが自分で疑問を抱いて追求し、その上で、私たちの説いていることに理性を反撥させるもの、あるいは知性を侮辱するものがないことを得心してくれるようにもっていくことです。

 私たちは立証と論理によって得心させなければいけません。これはその人たちが霊的に受け入れる用意ができていなければ不可能なことです。そしてその受け入れ準備は、魂が何らかの危機、悲劇、あるいは病気等の体験によって目覚めるまでは整いません。

つまり物質の世界には解答は見出し得ないという認識を得なければなりません。人間の窮地は神の好機であるといった主旨の諺があります。

 私たちはそういう方法でしか仕事ができないのです。一点の曇りもなく霊的真理を確信できた人間は真の自我に目覚め霊的可能性を知ることになると私たちは信じるのです。生命は死後も途切れることなく続くことに得心がいきます。霊的自我に目覚めたその魂にとっては、その時から本当の自己開発が始まるのです。

そして霊的知識に照らして自分の人生を規制するようになります。自然にそうなるのです。それによって内部の神性がますます発揮され、霊的に、そして精神的に、大きさと優雅さが増してまいります。

 あなたのように霊的な知識を手にした人間は、自分のもとを訪れる人にそれを提供する義務があります。ですが、受け入れる用意のできていない人をいくら説得せんとしても、それは石垣に頭を叩きつけるようなもので、何の効果もありません。手を差しのべる用意だけはいつも整えておくべきです。

もしお役に立てば、そうさせていただいたことに感謝の意を表しなさい。もしもお役に立てなかったら、その人のために涙を流してあげなさい。その人はせっかくのチャンスを目の前にしながら、それを手にすることができなかったのですから。

 それ以外に方法はありません。容易な手段で得られたものは容易に棄て去られるものです。霊的熟達の道は長く、遅々として、しかも困難なものです。霊の褒賞は奮闘努力と犠牲によってのみ獲得されるのです。

 霊的卓越に近道はありません。即席の方法というものはありません。奮闘努力の生活の中で魂が必死の思いで獲得しなければなりません。聖者が何年もの修行の末に手にしたものを、利己主義者が一夜のうちに手にすることが出来るとしたら、神の摂理はまやかしであったことになります。それはまさしく神の公正を愚弄するものです。

一人ひとりの魂が自分の努力によって成長と発達と進化を成就しなくてはならないのです。そうした努力の末に確信を得た魂は、もはや霊的真理をおろそかにすることは絶対にありません。

 落胆する必要など、どこにもありません。私たちは前進しつづけております。勝利をおさめつつあります。けっして敗けているのではありません。混乱しているのは(真理の出現に)狼狽している勢力です。霊的真理は途切れることなく前進をつづけております。

 あなたにこの知識をもたらしたのは、ほかならぬ〝悲しみ〟です。あなたは絶望の淵まで蹴落とされたからこそ受容性を身につけることができたのです。が、今はもうその淵へ舞い戻ることはないでしょう。

 それです。それと同じことを他の人々にも体験させてあげるのです。永い惰眠から目を覚まし、受容性を身につけ、神の意図された生き方を始める者が増えるにつれて、徐々にではあっても確実に霊的真理が広がっていっていることを私たちは心からうれしく思っております。

 あなた方が大事に思っておられることが私たちにはどうでもよいことに思えることがあります。反対にあなた方がどうでもよいと思っておられることが私たちからみると大事なことである場合があります。その違いは視野の置きどころの違いから生じます。分数の計算でいえば、人生七十年も、永遠の時で割れば大した数字にはなりますまい。


 ダマスカスへ向かうサウロ(のちのパウロ)を回心させたのが目も眩まんばかりの天の光であったように(使徒行伝9)たった一つの出来ごとが魂の目を開かせる触媒となることがあるものです。それはその時の事情次第です。こうだという厳格で固定した規準をあげるわけにはまいりません。

地上への誕生のそもそもの目的は魂が目を覚ますことにあります。もしも魂が目覚めないままに終われば、その一生は無駄に終わったことになります。地上生活が提供してくれる教育の機会が生かされなかったことになります」



──地上で目覚めなかった魂はそちらでどうなるでしょうか。

 「これがとても厄介なのです。それはちょうど社会生活について何の予備知識もないまま大人の世界に放り込まれた人と同じです。最初は何の自覚もないままでスタートします。地上と霊界のどちらの世界にも適応できません。地上において霊界生活に備えた教訓を何一つ学ばずに終わったのです。何の準備もできていないのです。身支度が整っていないのです」


──そういう人たちをどうされるのですか。

 「自覚のない魂はこちらでは手の施しようがありませんから、もう一度地上へ誕生せざるを得ない場合があります。霊的自覚が芽生えるまでに地上の年数にして何百年、何千年とかかることもあります」


──親しい知人が援助してくれるのでしょう?

 「出来るだけのことはします。しかし、自覚が芽生えるまでは暗闇の中にいます。自覚のないところに光明は射し込めないのです。それが私たちが直面する根本的な問題です」


──彼ら自身が悪いのでしょうか。

 「〝悪い〟という用語は適切でありません。私なりにお答えしてみましょう。魂を目覚めさせるためのチャンスは地上の人間の一人ひとりに必ず訪れています。神は完全です。誰一人忘れ去られることも無視されることも見落とされることもありません。誰一人として自然法則の行使範囲からはみ出ることはありません。

その法則の働きによって、一つ一つの魂に、目覚めのためのチャンスが用意されるのです。

 目覚めるまでに至らなかったとすれば、それは本人が悪いというべきではなく、せっかくのチャンスが活用されなかったと言わねばなりません。私がたびたび申し上げているのをご存知と思いますが、もしも誰かがあなたのもとを訪ねてきて、たとえば病気を治してあげることが出来なかったとか、あるいは他のことで何の力にもなってあげられなかったときは、その人のことを気の毒に思ってあげることです。

せっかくのチャンスを生かせなかったということになるからです。あなたが悪いのではありません。あなたは最善を尽くしてあげるしかありません。もしも相手が素直に受け入れてくれなければ、心の中でその方のために祈っておあげなさい。

 何とか力になってあげようと努力しても何の反応もないときは、その方にはあなたのもとを去っていただくしかありません。いつまでもその方と首をつながれた思いをなさってはいけません。それぞれの魂に、地上生活中に真理を学び自我を見出すためのチャンスが用意されております。それを本人が拒絶したからといって、それをあなたが悪いかに思うことはありません。

あなたの責任はあなたの能力の範囲でベストを尽くすことです。やってあげられるだけのことはやったと確信したら、あとのことは忘れて、次の人のことに専念なさることです。これは非情というのとは違います。霊力は、それを受け入れる用意のない人に浪費すべきものではないのです」


 その日の交霊会には両親がニュージーランドでスピリチュアリズムの普及活動をしている若い女性が出席していた。その女性にシルバーバーチが〝ようこそ〟と挨拶をしてからこう述べた。

 「新参の方にいつも申し上げていることですが、私の教えを (新聞・雑誌で) 世間へ公表してくださる際に、私のことをあたかも全知全能であるかに紹介してくださっているために、私もそれに恥じないように努力しなければなりません。しかし実際は私は永遠の真理のいくばくかを学んだだけでして、それを、受け入れる用意のできた地上の人たちにお分けしようとしているところです。

 そこが大切な点です。受け入れる用意ができていないとだめなのです。真理は心を固く閉ざした人の中には入れません。受け入れる能力のあるところにのみ居場所を見出すのです。真理は宇宙の大霊と同じく無限です。あなたが受け取る分量はあなたの理解力の一つにかかっています。

理解力が増せばさらに多くの真理を受け取ることができます。しかも、この宇宙についてすべてを知り尽くしたという段階には、いつまでたっても到達できません。

 前口上が長くなりましたが、私はあなたのようにお若い方にはいつも、その若さでこうした霊的真理を授かることができたことは、この上なく幸運なことであることを申し上げるのです。これから開けゆく人生でそれが何よりの力となってくれるからです。

それにひきかえ、今の時代においてすら若い時から間違ったことを教え込まれ、精神構造が宗教の名のもとに滑稽ともいうべき思想でぎゅうぎゅう詰めにされている若者が少なくないのは、何という悲しいことでしょう。何の価値もないばかりか、霊的進化を促進するどころかむしろ障害となっているのです。

 神の教えではなく、人間が勝手にこしらえた教説が無抵抗の未熟な精神に植えつけられます。それが成人後オウムのごとく繰り返されていくうちに潜在意識の組織の一部となってしまうケースが余りにも多いのです。それが本当は測り知れない恩恵をもたらすはずの霊的真理を受け入れ難くしております。

 地上生活にとって呪ともいうべきものの一つは、無意味な神学的教説が着々と広まったことだったと断言して、けっして間違っていないと私は考えます。それが統一ではなく分裂の原因となり、お互いの霊的本性の共通性の認識のもとに一体ならしめる基盤とならずに、流血と暴力と抗争と戦争そして分裂へと導いていきました。

 それゆえにこそ私は、あなたがこうして霊的真理を手にされたことは実に恵まれていらっしゃると申し上げるのです。あなたは人生の目的を理解し、無限の愛と叡智から生み出された雄大な構想の中に自分も入っているのだという認識をもって、人生の大冒険に立ち向かうことができます。それは何ものにも替えがたい貴重な財産です。霊的兵器を備えられたのです。  

 あなたは人生での闘いに臆することなく立ち向かい、いかなる事態に置かれても、自分には困難を克服し障害を乗り越え、霊的品格と美質と強靭さを身につけていく力が秘められているとの自信をもつことができます。それであなたも宇宙の大霊に貢献していることになります。

 大霊は無限の多様性をもった統一体です。人間一人ひとり異なっていながら根源においては同じです。同じ大霊によって生命を賦与されているからです。が、顕現の仕方は多岐にわたり、まったく同じ個性は二つと存在しません。しかも、いずれも神の遺産として、発達させれば自分より恵まれない者を救うことのできる能力が賦与されているのです。

 あなたも例外ではありません。その能力を発達させるのがあなたの義務なのです。必ずしも霊的能力にかぎりません。他にもすべての人間が所有し世の中を豊かにする手だてとすることのできる才能がたくさんあります。地上の人間のすべてがそれぞれに授かっている才能や技能を発揮するようになれば、どんなにか世の中が明るくなることでしょう」


 別の日の交霊会で若者の別の側面が話題となった時にこう語った。

 「若者は一筋縄ではいきません。あえて言わせていただきますが、ここにおいでの皆さんの誰一人として、若い時に大人を手こずらせなかった方はいません。大人になるにつれて若者特有の反抗的性格が薄らいでいきますが、若い時は大人が世の中をめちゃくちゃにしている──オレたちが建て直すのだ、という気概に燃えたに相違ないのです。

 が、成長して理解力が芽生えてくると、知らず知らずのうちに恩恵を受けていることが沢山あることに気づいて、それに感謝しなければならないと思いはじめます。こうしたことも両極の原理、バランスの原理の一つなのです。つまり若輩と年輩とがそれぞれの役割をもち、男性と女性の関係と同じように、お互いに補足し合うようになっているのです。

人生のしくみは完全なバランスの上に成り立っております。それぞれの存在が正しく機能を発揮すれば全体が調和するようになっているのです。ですから、年輪を重ねた大人は大らかな心、ゆとりのある態度で、これから数々のことを学んでいく若者を見守ってやることが大切であることになります」

 その日のゲストとして出席していた心霊治療家の意見に対して──

 「発酵素が働いているのです。発酵したエネルギーを若者はどちらへ向けるべきかが分かりません。在来の教えが何の効力も発揮しなかったことに不満を抱き、何かを求めようと必死になります。そして霊的なもの、神秘的なもの、目に見えないもの、無形のものに惹かれます。

無意識のうちに惹かれていることもあります。霊的なものだけが与えてくれる充実感を魂そのものが求めるのです。しかし若いがゆえに、それをわけも分からず性急に求めます。安易な手段で安直な満足を求めてしまいます」


──それでヘロインとかLSDに走るわけですね。

 「大人は大らかでないといけません。若者の心を理解し、力になってやらないといけません。もしもあなたが若者の心に霊力を注ぎ、魂に炎を点火してやることができたら、それだけでこの上なく大きな貢献をしたことになります。その若者の地上での生活全体が根本から違った意義をもつことになるのです」


──LSDを使用している若者は邪霊に取り憑かれているようです。

 「困ったことに、その種の麻薬は地上と接した幽界の最下層の波長に合った心霊中枢を開かせるのです。それに感応してやってくる霊はその若者と同程度のもの、往々にして地上で麻薬中毒あるいはアルコール中毒だった者で、その状態から一歩も脱出できずに、相変わらずその種の満足を求めているのです。地縛状態から解放されていないのです。

 霊的治癒能力は触媒です。身体と霊と幽体との関係が混乱して生じている複雑な状態を解きほぐします。霊と精神と身体の三者が調和すれば健康に向かいはじめます」

 別の日にも次のようなことを述べた。
 「若者は明日の指導者となるべき人たちです。思考の仕方を正しく指導し、生活全体を正しい視野におさめるようにもっていけば、平和をさらに確固たるものにする上で若者なりの大切な役割を果たすことができます」

Tuesday, October 15, 2024

 シアトルの秋 質問に答える (三) ──倫理・道徳・社会問題── 

Answering questions (3) ──Ethics, morals, and social issues──

More Philosophy of Silver Birch
Edited by Tony Ortzen


 「私は、自分で正しいと信じて行動するかぎりそれは許されるという考えに賛成です。人間には例外なく神の監視装置(モニター)が組み込まれております。道義心(良心)と呼んでおられるのがそれです。それがあなたの行動が正しいか間違っているかを教えてくれます」

 本章では今日の倫理、道徳ならびに社会問題を扱うが、上の引用文がその冒頭を飾るのに最も適切であろう。過去十年あまりのうちに社会的通念が大きく変革しており、それに対して例によって賛否両論がある。まずそのことに関連して質問が出された。


 人種問題
───現代社会の風潮について心配し、あるいは困惑している人が大勢いるのですが、スピリチュアリストとしてはこうした時代の潮流にどう対処すべきでしようか。

 「真理を手にした者は心配の念を心に宿すようなことがあってはなりません。地上社会にはずっとトラブルが続いております。霊的な原理が社会秩序の拠って立つ基盤とならないかぎり、トラブルは絶えないでしょう。

唯物的基盤の上に建てようとすることは流砂の上に建てようとするようなものです。内部で争いながら外部に平和を求めるのは無理な話です。憎しみと暴力と敵意をむき出しにして強欲と怠慢をむさぼっている者が群がっている世界に、どうして協調性が有り得ましょう。

 愛とは神の摂理を成就することです。お互いが霊的兄弟であり姉妹であり、全人類が霊的親族関係をもった大家族であることを認識すれば、お互いに愛し合わなければならないということになります。

そのためにこそ神は各自にその神性の一部を植えつけられ、人類の一人ひとりが構成員となってでき上がっている霊的連鎖が地球を取り巻くように意図されているのです。

 しかし今のところ、根本的には人間も霊的存在であること、誰一人として他の者から隔離されることはないこと、進化はお互いに連鎖関係があること、ともに進み、ともに後退するものであるという永遠の真理が認識されておりません。

 それはあなた方スピリチュアリストの責任です。常づね言っておりますように、知識はそれをいかに有効に生かすかの責任を伴います。いったん霊的真理に目覚めた以上、今日や明日のことを心配してはなりません。

 あなた方の霊に危害が及ぶことはけっしてありません。自分の知っていること、これまでに自分に明かされた真理に忠実に生きていれば、いかなる苦難がふりかかっても、いささかも傷つくことなく切り抜けることができます。

地上で生じるいかなる出来ごとも、あなた方を霊的に傷つけたり打ちのめしたりすることはできません。ご自分の日常生活をご覧になれば、条件が整ったときの霊の威力を証明するものがいくらでもあるはずです。

 残念ながらこうした重大な意味をもつ真理に気づいている人は少数であり、まだ多数とは言えません。大多数の人間は物量、権力、支配、暴虐、隷属(させること)こそ力であると思い込んでおります。しかし神の子はすべて身体と精神と霊において自由であるべく生まれているのです。

 霊的真理が世界各地に広がり浸透していくにつれて、次第に地上の神の子もより大きな自由の中で生活するようになり、その日常生活により大きな光輝が見られるようになることでしょう。まだまだ、英国はもとより他のいかなる国においても、話が終わったわけではありません。

進化へ向けての神の力が、これからゆっくりと、そして少しずつ、その威力を見せはじめます。それを地上の人間が一時的に阻止し、阻害し、遅らせることはできます。が、それによって神が意志を変更なさることはありません。

 もしそのくらいのことで神の意志が覆(くつがえ)されるようなことがあるとしたら、この地球はとっくの昔に破滅しているでしょう。霊は物質に優ります。神の霊、大霊こそが宇宙の絶対的支配力なのです。そこで私はいつも申し上げるのです───心を強く持ち、背筋を真っすぐに伸ばして歩みなさい。この世に、そして霊の世界にも、恐れるものは何一つありません、と。最後はきっとうまくいきます」


───われわれ真理を語る者は、人種差別や動物への虐待行為といった間違ったことに、もっと攻撃の矛先を向けるべきでしょうか。

 「そうです。ただ、その際に大切なことは、そうした残虐行為や不和、差別といったものを攻撃するのは、それが物的観点からではなく霊的観点からみて間違ったことだからであることを前面に押し出すことです。その点、霊的真理を手にされたあなた方はとくに恵まれた立場にあります。

人間は霊ですから、その霊の宿としてふさわしい身体をもたねばなりません。となると、そのための教育が必要となります。霊的観点からみて適切な生活環境、適切な家屋、適切な衣服、適切な食事を与えねばならないからです。

 動物を虐待することは霊的観点からみて間違ったことなのです。民族差別や有色人種蔑視は霊的観点からみて間違っているのです。魂には色はありません。黄色でも赤銅でも黒色でも白色でもありません。この霊的真実を前面に押し出して説くことが、もっとも大切な貢献をすることになります」


───私が言いたかったのは、マスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)が有色人種への嫌悪感をあおって、洗脳しようとする危険から身を守らねばならないということです。

 「ですから、霊的真理に目覚めれば霊的同胞を毛嫌いすることはできなくなると申し上げているのです」


───より多くを知っているわれわれがしっかりしなくてはならないと思います。

 「そうです。知識(の価値)が大きければ大きいほど大きな責任を伴います」


  愛と寛容
───それと、真理に目覚めた者は寛大であらねばならないと思います。

「寛容性は霊性の神髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません」



───寛大であれと言うのは結構だと思うのですが、現実の世界において何に寛大であるべきかをよく見きわめる必要があると思います。残虐行為や邪悪な行為に対してはいかなるものでも寛大であってはならないはずです。

 「それに、悪とは何かということも見きわめる必要があります。地上生活の究極の目的は〝死〟と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。

開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐みを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。

 人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。

それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。真の意味での寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません」


───愛と寛容は優しさから生まれます。情愛でつながった者に対しては、われわれはその欠点に対して寛大になります。私はこの寛大さ、これは愛といってもよいと思うのですが、これが現代の世の中に欠けていると思うのです。愛と寛容とを結びつけることができれば人類はさらに高揚されると思うのですが・・・・

 「同感です。バイブルにも愛とは摂理を成就することである、とあります。愛とは摂理のことです。神の御心です。なぜなら、神そのものがすなわち愛だからです。したがって神の御心に適った生き方をしていれば、それは愛を表現していることになります。

私のいう〝愛〟とは慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために自分の能力の範囲内で精いっぱい援助しようとする心を言います。自分のことをかえりみず、助けを必要とする人のために出来るかぎりのことをしてあげようとする心、それが愛なのです」


  真の道徳の基準
───現代社会ほど不道徳が露(あら)わな時代はないと主張する人がいます。霊界でもそう見ておられるのでしょうか。そう主張する人たちは、五十年あるいは百年前の時代を例にとって、当時は子供が煙突掃除のような仕事にいっしょうけんめい従事していたものだと言います。

 「不道徳とはいったい何なのでしょう。あなた方が道徳的だと考ていらっしゃることが私たちから見ると大へん非道徳的である場合もあります。そこに物の見方の問題があります。

私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようとすることであり、人の心を思いやることです。

 もとよりそれは人の心を傷つけたり感情を害することではありません。いかなる形においても人の進歩を阻害することであってはならないことになります。後になって恥ずかしく思ったり、自分が手にした真理に忠実でなかったと思うようなことをしてはいけないということになります。

 私が理解している道徳とはそういうものです。説くとすればそう説きます。今の社会がこれまでに較べて道徳的か非道徳的かの問題は、道徳というものについての解釈次第で違ってきます。本質において、ある面では経済的ならびに霊的に向上していながら、別の面では遅れていることもあります。進化というものは一直線に進むものではないからです」


───今の世の中は物質中心だと言われています。でも家族を養っていくためにはある程度は物質中心にならざるを得ません。あまりにスピリチュアリズム的になりすぎると経済的に苦しくなることが懸念されるのですが、その境目をどこに設けたらよいのでしょうか。

「まず神の御国と神の義を求めよ。しからば全てそれらのもの汝らに加えらるべし」(マタイ6・33)


───両方とも可能だということですね?

 「当然です。が、優先すべきものをちゃんと優先させ、霊的真理を忘れなければ、物質面をおろそかにすることはないはずです。私は物質界に生きる人間としての責務を回避すべきであるかに説いたことは一度もありません。

霊的存在として優先すべきものをちゃんと優先させ、その上で物的人間としての責務も忘れないということであらねばなりません。霊をおろそかにしてもいけませんし、精神をおろそかにしてもいけませんし、身体をおろそかにしてもいけません。責任をもつべきことを回避してはいけません」


  人工中絶と避妊
 その日のゲストの一人が産児制限の話を持ち出した。

───人間の誕生は自然法則によって支配されているとおっしゃっておられますが、そうなると産児制限はその自然法則に干渉することになり、間違っていることになるのでしょうか。

 「いえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この問題でも動機が大切です。何ごとも動機が正当であれば、正しい決着をみます。出産を制限することもその動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。

しかし、霊の世界には地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ちかまえている事実を忘れないでください」


 続いて妊娠中絶の話題が持ち出されると、同じゲストが尋ねた。

───それはどの段階からいけないことになるのでしょうか。

 「中絶行為をしたその瞬間からです」


───妊娠してすぐでもいけないのでしょうか。

 「とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなたがた人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。

その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。

中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児のせっかくの自然の生長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。

 私の住む世界の高級霊で人工中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことなのですが・・・・・・

 あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがってその生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に滅ぼすべきではありません。

もしも中絶を行っている人たちが、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題ではないこと、いつの日かその人たちは(医師も含まれる──訳者)その中絶行為のために地上に誕生できなかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなるものと私は考えております。

妊娠の瞬間からそこに一個の霊としての誕生があり、それは決して死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです」


───今地上で行われている実情を思うと、これは大変なことをしていることになります。

 「それが現実なのです」


───堕胎された霊はいつかまた誕生してくるのでしょうか。

 「そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、そのせっかくの機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生してきます」


  植物人間と安楽死
 もう一人のゲストが脳障害のために植物同然となり病院でただ機械につながれて生きながらえている人たちの問題を持ち出して、こう尋ねた。

───そうやって生きながらえさせることは神の摂理にもとるのではないでしょうか。その人たちの霊はどうなっているのでしょうか。肉体につながれたままなのでしょうか。睡眠と同じ状態なのでしょうか。解放してやるべきなのでしょうか。

 「地上生活の目的は霊が死後に迎えるより大きな生活に備えることです。自然の摂理と調和した生活を送っていればその目的は成就され、時が熟し肉体がその目的を果たし終えれば、霊はその肉体から離れます。たびたび申し上げておりますように、リンゴは熟すと自然に木から落ちます。それと同じように、霊もその時を得て肉体を離れるべきです。

 あなたのおっしゃる脳に障害のある人のケースですが、それは、患者の生命を維持させようとしてあらゆる手段を講じる医師の動機にかかわることです。昔の医師はそれが自分の全職務の究極の目的であるという趣旨の宣誓をしたものです。

今でも、地上のいかなる人間といえども、霊は時が熟してから身体を離れるべきであるという摂理に干渉することは、霊的な意味において許されません。特殊な事情があって医師がその過程を早めることをする場合がありますが、動機さえ純粋であればその医師を咎めることはできません。

 脳に障害を受けた患者は、たとえば動力源が故障したために受信・送信が不能になった機械のようなものです。正常の機能のほんの一部が働いているだけです。脳が障害を受けたために〝霊の脳〟ともいうべき精神が本来の表現ができなくなっているわけです。脳に障害があるからといって精神に障害があるわけではありません。

タイプライターを打っていてキーが故障した場合、それは使えなくなったというだけであって、タイピスト自身はどこも異状はありません。それと同じです。

 要するに精神が大きなハンディキャップを背負っているわけです。正常な生活を送れば得られたはずの成長をその分だけ欠くことになります。その結果こちらへ来てみると魂はその欠けた分の埋め合わせをしなくてはならない状態にあります。言ってみれば小児のような状態です。しかし個霊としては霊的に何の障害も受けておりません。

 霊が身体を生かしめているかぎり、両者のつながりは維持されます。霊と身体とをつないでいる〝玉の緒〟───胎児と母胎とをつないでいる〝へその緒〟と同じです───が切れると、霊は身体から解放されます。身体の死を迎えた人にとっては霊的生活の始まりであり、地上へ誕生してきた霊にとっては物的生活の始まりです」

───今にも死ぬかに思える人が機械によって生きながらえている例をよく耳にします。

 「霊が身体から離れるべき時期がくれば、地上のいかなる機械をもってしても、それ以上つなぎとめることはできません。いったんコードが切れたら地上のいかなる人物も、霊をもう一度つなぎとめる力は持ち合わせません。その時点で肉体の死が生じたのです」

 ここからいわゆる安楽死の問題が持ち出された。ゲストの一人が尋ねる。

───交通事故に遭った人の話をよく記事で読むのですが、病院へ運び込まれたあと一命を取り止めてもそのまま植物状態となって、自分の力では何一つできなくなっている人がいます。そのような状態で生きていても霊的に何の成長もないと思うのですが、なぜ地上に居続けねばならないのでしょうか。なぜ安楽死させることが許されないのでしょうか。

 「バイブルのどこかにこんな言葉があります〝神が与え、神が奪われる。ありがたきかな神の御名〟(ヨブ記1・21。 バイブルでは〝奪われた〟とあるが引用文は現在形になっている───訳者)

 私がこの文句を引用したのは真実そのとおりだからです。人間は生命を創造することはできませんし滅ぼすこともできません。生命が機能するための機関を提供することはできます。その機関を破壊することもできます。しかし生命は神からの贈りものであり、人間のものではありません。生命は神が人間に託した責務です。

 なぜ? というご質問ですが、それについては、物的尺度だけで判断を下さないように注意しないといけません。霊の問題は物的尺度では計れないのです。

植物同然となってしまった一個の人間をご覧になれば、自然の情として哀れ、同情、慈悲、憐憫をさそわれるのも無理はありません。しかし植物にも生命があり、地上で果たすべき役目があります。そうでなければ存在しないはずです。

 一人の人間が事故で負傷する。機能の損傷がひどくて霊が自我を表現できなくなった。この問題をあなたは身体上の問題としてみますか、それとも霊的な問題とみますか。霊的にはそこに果たすべき目的があり、学ぶべき教訓があり、忍ぶべき体験があるのです。たしかに見たところ身体的にはまったく動きが止まっています。

しかし霊的な目をもって見ることができるようになるまでは、つまり永遠の価値基準を理解できるようにならないかぎり、あなたの判断はどうしても誤りに基づいたものとなります。

 私はいわゆる植物人間を安楽死させることには全面的に、そして文句なしに反対です。ただし、そこにやむを得ない動機がありうることは認めます。しかしそれは問題を解決したことにはなりません。

あなたがもし安楽死を実行する時期の決断を誰かに任せたら、それは本来その人が持つべきことの出来ない権利を与えたことになります。その人にはそういう決断を下す義務も与えるべきではないのです」


 サークルのメンバーの一人が尋ねる。

─── 一人の人間が苦しんでいる時、それ以上苦しまないようにしてあげる義務が私たちにあるのではないでしょうか。

 「病気とか異状あるいは虚弱といった身体上のことをおっしゃっているのであれば、現代医学で治すことも改善することもできないものがあることは認めます。しかし、すばらしい効果のある、そして現に成果をあげている治療方法がほかにもいろいろあります。医学的診断のみを判定基準にしてはいけません。

そのことをしっかり認識しなくてはいけません。医師が〝不治〟と診断したものが心霊治療によって完治、または改善されたケースがたくさんあることを皆さんは良くご存知なのですから。

苦しみにはそれ相当の目的があります。苦しみは無くてはならない大切なものなのです。なぜなら、それを通じて魂が目が開かされ、隠れた力を呼び覚まされ、その結果として霊的に、時には身体的に、いっそう強力になってまいります。そうなるべきものなのです。

多くの人にとって苦しみは、全人生をまったく別の視点から見つめさせる大きな媒体となっています。

 いかなる症状の患者であっても、簡単に〝不治〟と片付けてはいけません。その態度は間違っています。地上の格言にも〝生命あるかぎりは希望がある〟というのがありますが、これは真実です。

霊が宿っているかぎり元気を回復させ、再充電し、ある程度まで機能を回復させることができます。摂理が自然に働くようにしさえすれば、身体は死すべき時機がくれば自然に死にます。霊に身体から離れる準備が出来たからです」


───私が知っているあるガン患者はそろそろ痛みを覚えはじめており、症状は良くないようです。

 「でも痛みを和らげることは可能です。医学的にも手段はあります。ですから痛みだけを問題にするのであれば、それはなんとかなります。そして、たとえ症状が耐えきれない段階に達しても、私たちから見るかぎり、それをもって最終的な宣告を下してはならないと私は主張いたします。

精神構造が限られた分野の教育しか受けていない者(医師・医学者)による宣告が最終的なものであると私がもし申し上げたら、それはこれまで私が説いてきたすべての教説を裏切ることになりましょう」


 ここで別のメンバーが 「私たちの経験でも手術不能のガン患者が心霊治療によって痛みが取れた例がたくさんあります」と指摘する。

 すると先のメンバーが「それは私も認めます。しかし痛みが取れない例もたくさんあります」と反論する。

 「結局われられは霊力についてもっと幅広い知識を求め、より多くを活用し、いざという時のために霊力を貯えておくべきだということではないでしょうか」


 「でも、それでは今私が言っている患者を救うことはできません」

  ここでシルバーバーチが答える。
 
 「皆さんはいつでも治療を施してあげることができます。祈ることによっても助けになってあげることができます。祈りの念にも効果を生むだけの力が秘められているからです。とにかく、いくら医師が理知的であっても、その視野は地縛的ですから、そんな人による悲劇的な宣告をまともに受けとめてはなりません」


 さきのメンバーの一人が「苦難が人間性を磨くことをたびたびおっしゃってますが、そうでないケースもしばしば見受けます」と異議をはさむと───

 「私は、苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれるとは決して申しておりません。苦難は地上にいるかぎり耐え忍ばねばならない、避けようにも避けられない貴重な体験の一つで、それが人間性を磨くことになると言っているのです。

たびたび申し上げておりますように、青天の日もあれば雨天の日もあり、嵐の日もあれば穏やかな日もあるというふうに、一方があれば必ずもう一方があるようになっているのです。

もしも地上生活が初めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それはもはや幸せとは言えません。幸せがあることがどういうことであるかが分からないからです。悲しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです。

苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、病気、危機、死別、こうしたものを体験してはじめて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達するための手段となっているケースがたくさんあります」


───残念なことなのですが、苦難に遭うと不幸だと思い、邪険になり、卑屈になっていく人が多いようです。

 「それは結局のところその人の人生に確固とした土台がないからです。人生観、宗教観、それに物の観方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはないはずです。これも人生の一こまだ、すべてではなくホンの一部にすぎないのだという認識ができるからです」


───結局のところ私が思うに、苦難はその意義が理解できる段階まで到達した人だけが受ければよいということになりそうです。

 「そのようなことは神と相談なさってください。この私に言えることは、これまで幾つもの存在の場で生活してきて、自然の摂理は厳格な正確さをもって働いており、絶対に誤ることはないことを知ったということ、それだけです」


 別のメンバーが論議に加わる。

───死にたくない患者も大勢いるはずです。たとえ医師が安楽死させる権利を与えられても、その人たちはまず死にたがらないだろうと思われます。

 「安楽死の決定権はもともと医師などに与えるべきものではないのです。現実の事実を直視してみてください。大半の医師の物の観方は唯物的です。その医学的知識は人間が身体のほかに精神と霊とから成っていることを認識していない唯物思想を基礎としています。

少なくとも医学界においては人間は脳を中枢とする身体、それに多分ある種の精神的なものをも具えた物的存在であり、霊というものについての認識はゼロに等しいのです。そうした、人生でもっとも大切なことについてまったく無知な人たちに、そのような生死にかかわる決定権がどうして預けられましょうか」


───万一事故で身体が不自由になった場合は死を選びます、と言う宣誓書にサインをする人がいます。

 「それはその人の自由意志によって行なう選択です」


───その要請に基づいて医師が実行した場合はどうなりますか。

 「問題はありません」


───患者が自由意志によって死を選んだ場合でもやはり因果律が働くのでしょうか。

 「いついかなる場合でも因果律が働いています。あなたのこのたびの地上への誕生も因果律が働いたその結果です。これから訪れるあなたの死も因果律の自然な働きの結果であるべきです。それを中断(ショート)させる、つまり余計な干渉をするということは、自然な因果関係を破壊することですから、当然その償いをしなければならなくなります。

 何度も申し上げておりますように、死は霊に準備ができた時に訪れるべきものです。それはリンゴが熟すると木(が)から落ちるのと同じです。まだ熟し切らないうちにもぎ取れば、そのリンゴは食べられません。霊も十分な準備ができないうちに身体から無理やり離されると、それなりのペナルティが課せられます。それを因果律というのです。


 人間の判断は物的観察だけに基づいておりますが、人生の目的はもともと霊的なものなのです。人間の勝手な考えで地上から連れ去ってはいけません。人間には全体像が見えません。物的側面しか見えません。一人ひとりに生まれるべき時があり死ぬべき時があります。それもすべて自然の摂理の一環なのです。

あなた方が生命を与えるのではありません。ですから勝手に奪うことも許されません。生命は神のものなのです。

 神はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように摂理を用意しておられます。その永遠のいとなみを、この地上生活という一かけらでもって判断しようとすると誤ります。あなた方は霊というもの、およびその霊への反応というものを推し量る手段を何一つ持ち合わせていないのです。

 苦しみが魂にとって薬になることがあります。それによって魂の本質が試されることになります。潜在する資質が呼び覚まされます。鋼(はがね)は炎の中においてこそ鍛えられるのです。黄金は破砕と練磨によってはじめて真の姿を現すのです。

 地上生活の出来ごとには必ず目的があります。哀れな姿を見て同情なさるお気持ちは私にも分かります。ですが、地上生活には偶然というものは何一つないのです。それに、いったい誰に、生殺与奪の権利を握る資格があるのでしょうか。医師が判断を誤ることは十分に有りうることです。数々の誤診を犯している現実をごらんになれば分かります。

 私たちはあなた方と正反対の観方をすることがあります。肉体の死は霊の誕生という観方をします。混乱状態を進歩と見なし、人間が進歩と思っていることを禍いのタネと見なすことがあります。永遠を物的なものさしで計っても満足のいく解答は得られません。

 たとえば、なぜ苦しみがあるのか。いたいけない子供がなぜ苦しまねばならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それもすべて霊の進化という永遠の物語の一部なのです。

その中には地上に誕生してくる前に、みずから覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。

 こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気づくのは暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というのがあります。神は厳正なる審判者です。差引勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成するときが来てみると帳じりがきっちりと合っています。

 どうか同情心はこれからも持ち続けてください。しかし同時に、見た目に気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するようにつとめてください。

 永遠の時の流れの中にあっては、数時間や数日は大して意味はありません。大切なのは魂に及ぼす影響です。たぶんご存知と思いますが、実際は患者よりも側で見ている人の方が苦しみが大きいことがよくあります。患者自身は単に身体上の反応を見せているだけで、あなたがさぞかしと思いやっておられる苦しみは味わっていないものです。

 魂に及ぶものが一ばん大切です。と言って、身体上のことに無神経になりなさいと言っているのではありません。身体は霊が地上で自我を表現する媒体です。両者はつねに反応し合っております。身体は霊に影響を及ぼし、霊は身体に影響を及ぼしています。しかし、どちらが上かと言えば、文句なしに霊の方です。霊が王様であり身体は召使いです。

 身体にいくら薬品を注ぎ込んでも、別に霊には影響ありません。それによって最終的な身体との分離の時期を少しばかり遅らせることはできるかも知れませんが、霊はいつかは身体を離れなければならないという摂理を変えることはできません。不老不死の妙薬や治療法をいくら求めても無駄です。自然の摂理によって支配されているからです」


  自殺の問題
 人為的な死のもう一つのタイプに自殺があるが、レギュラーメンバーによる次の質問をきっかけに、それが続いての話題となった。

───外的な手段によって生命を断つことを非難されるのは当然ですし、私もその通りだと思うのですが、外的な手段を用いずに、心で死のうと決意して死期を待つことも可能です。それも一種の自殺でしょうか。

 「各人各個の責任は変えようにも変えられません。因果律は絶対です。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じます」


───死後の生命を信じるがゆえに死を歓迎することもあるかも知れません。肉体が手の施しようのない状態となり、そうなった以上もはや医学的手段でいたずらに生命を維持するのを潔しとせず、死を覚悟するのです。

 「ならばその時の動機づけが大切なポイントになります。同じ行為でも動機づけによって正当性が違ってきます」


───自殺者のそちらでの状態は不幸で、右も左も分からなくなり、みじめであるということですが、自殺する時の精神状態がすでにそうであったはずですから、死後も同じ状態に置かれても不思議はないと思うのです。では仮に真のよろこびと幸せを感じながら自殺したらどうなるでしょうか。

 「その場合は動機が自己中心的ということになります。自然の摂理をごまかすことはできません。こればかりは例外がありません。蒔いたものは自分で刈り取らねばなりません。それ以外にありようがないのです。

動機がすべてを決定づけます。その時点において良心が善いことか悪いことかを告げてくれます。もしもそこで言い訳をして自分で自分をごまかすようなことをすれば、それに対して責任を取らされることになります」


 ここでゲストの一人が思いがけない角度からの質問をした。

───食べすぎ飲みすぎ吸いすぎは自殺行為だと医者がよく言いますが、これも一種の自殺と見なされるのでしょうか、それとも死というのはあらかじめ定められているのでしょうか。

 「答えはご質問の中に暗示されております。もしもあらかじめ定められているのであれば、それが自殺行為であるか否かの問題ではなく、そうなるように方向づけられていたことになります。ですから、それが宿命であれば、そうなるほかはなかったということです。魂そのものはそれと自覚していることも有り得ます」


───私は死が誕生時から知られているのかどうか、また、その後の行いによって変えることができるのかどうか、その辺が確信できません。

 「知られているというのは、誰にですか」


───おそらく生まれてくる本人、あるいはそちらに残していく仲間の霊かと思います。

 「知られていることは事実です。しかしそれが(脳を焦点とする意識を通して)表面に出て来ないのです。地上生活期間を永遠で割ると無限小の数字になってしまいます。その分数の横線の上(分子)にどんな数字をもってきても、その下のあるもの(分母)に較べれば顕微鏡的数字となります。小が大を兼ねることはできません。

魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります。

 人間には相対的条件下での自由意志が認められております。定められた人生模様の枝葉末節なら変えることができますが、その基本のパターンそのものを変えることはできません。定められたコースを自分で切り抜けていかねばなりません。

ただ、地上の人間は、一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵にあずかる機会が与えられております。みずから求めるのでないかぎり、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。何よりも動機が最優先されます。その行為が正しいか間違っているかは動機いかんに掛かっているのです。その摂理は動かしようがありません」


  死刑の是非
 最後に、いつの時代にも社会・道徳・霊的の視点から問題となっている死刑制度がある。それについてシルバーバーチは次のような見解を述べている。

 「霊の教訓として私が躊躇なく述べていることは、殺人を犯したからといってその犯人を殺してよいということにはならないということです。地上の人間は正義と復讐とを区別しなくてはいけません。

いかなる理由にせよ、霊的に何の用意もできていない魂から肉体を奪って霊界へ送り込むことは、最低の人間的感情を満足させることにはなっても、何一つ意義のあることは成就されません。

正当な裁きを下すべきです。死刑によって一個の人間を霊界へ送り込んでも、その霊を一かけらも進化させることにはなりません。逆に、一段と堕落させ、〝目には目を、歯には歯を〟の激情に巻き込みます。

 われわれは生命は肉体の死後も生き続けるという動かし難い事実を基盤とした原理を堅持しなくてはいけません。何の準備もできていない人間を霊界へ送り込むことは、ますますトラブルのタネを増やすことになるのです。時には誤審による死刑も行われており、正当な裁きが為されておりません。

 生命は神聖なるものです。その生殺与奪の権利は人間にはないのです。それをいかに扱うかにあなた方の責任があります。生命は物質から生まれるのではありません。物質が生命によってこしらえられ、存在が維持されているのです。生命とは霊に所属するものです。宇宙の大霊から出ているのです。

生命は神性を帯びているのです。ですから、生命および各種の生命形態を扱うに際しては、憐憫と慈愛と同情という最高の倫理的規範に照らさなくてはなりません。何事をするにも、まず動機に間違いがないようにしなくてはいけません。」

Monday, October 14, 2024

シアトルの秋  シルバーバーチの霊訓8巻 まえがき

preface



More Philosophy of Silver Birch
Edited by Tony Ortzen


  まえがき

 本書はハンネン・スワッハー・ホームサークルでの過去七年におけるシルバーバーチの霊言の速記録を読み返し、ふるいにかけ、そしてまとめ上げたものである。夏期を除いて、交霊会は月に一回の割合で開かれた。

 私のねらいはシルバーバーチの哲学と教訓を個人的問題、社会的問題、および国際的問題との関連においてまとめることである。選んだ題目はなるべく多岐にわたるよう配慮した。

シルバーバーチはとかく敬遠されがちな難題、異論の多い問題を敢えて歓迎する。それを、ぎこちない地上の言語の可能性を最大限に発揮して、わかり易い、それでいて深遠な響きを持った言葉で解き明かしてくれる。

 私はこの穏やかな霊の聖人から受けた交霊会での衝撃をひじょうに印象ぶかく思い出す。開会直前のバーバネル氏の落着かぬ様子を見るに見かねて目を外らすことがしばしばだった。

いつもはジャーナリズムとビジネスの大渦巻のど真ん中に身を置いて平然としている、この精力的でエネルギッシュ過ぎるほどの人物がシルバーバーチに身をゆだねんとして、その訪れを待っている身の置き所のなさそうな何分間かは、本人にとっては神の裁きを待っている辛い瞬間のようで、私には痛々しく思えるのだった。

 しかし、シルバーバーチの訪れはいたって穏やかである。そしてそのメッセージはいたって単純素朴であるが、今崩壊の一途をたどりつつあるキリスト教の基盤にとっては、あたかもダイナマイトのような衝撃である。十八歳の青年だった懐疑論者のバーバネルをある交霊へ誘って入神させて以来ほぼ半世紀たった今、その思想は一貫して変わっていない。

 変わっていないということは進歩がないということではない。その間にいくつかの世界的危機と社会的変革がありながら、それを見事に耐え抜いてきたということは、その訓えの本質的な強固さと実用性を雄弁に物語っていると言えよう。

 これからシルバーバーチに登場していただくお膳立てのつもりのこの前書きも、結局はシルバーバーチの霊言を引用するのが一ばん良いように思われる。ある日の交霊会でシルバーバーチがこの私にこう語ったことがある。

  「活字になってしまった言葉の威力を過小評価してはいけません。活字を通して私たちは海を越えて多くの人とのご縁ができているのです。読んでくださる私の言葉、と言っても、高級界の霊団の道具として勿体なくもこの私が取り次いでいるだけなのですが、それが、読んでくださった方の生活を変え、歩むべきコース、方角、道しるべとなっております。

無知が知識と取って代わり、暗闇が光明に変わり、模索が確信に代わり、恐怖が平静と取って代わります。地上の人間としての義務である天命の成就に向かって踏み出しております。

 それほどのことが活字によって行われているのです。それにたずさわるあなたは光栄に思わなくてはいけません。話し言葉はそのうち忘れてしまうことがありますが、活字にはそれがありません。永久にそこにあります。何度でも繰り返して読むことができます。理解力が増すにつれて新しい意味を発見することにもなります。

 かくして私たちは、この世には誰一人、また何一つ希望を与えてくれるものはないと思い込んでいた人々に希望の光を見せてあげることが出来るのです。あなたも私も、そして他の大勢の人々が参加できる光栄な仕事です。

それはおのずと、その責任の重さゆえに謙虚であることを要求します。その責任とは、自分の説く霊的真理の気高さと荘厳さと威厳をいささかたりとも損なうようなことは行わないように、口にしないように、伝達しないように慎むということです」

 そういう次第で、本書には私個人の誉れとすべきものは何一つない。関係者一同による協力の産物である。では、主役の古代霊、穏やかな老聖人、慈愛あふれる支配霊にご登場願うことにしよう。
     トニー・オーツセン


 訳者注──本書はシリーズの中で一ばんページ数が多く、一ばん少ない第一巻に較べると倍以上の霊言が収められている。しかも〝再生〟の章を除いて、重複するところがまったくない。そこで、ぺージ数をほぼ平均にしたいという潮文社の要望も入れて、わたしはこれを二冊に分けることにした。

というのは、オーツセンが編集したものがもう一冊あるが、これが本書とうって変わってその九〇パーセントが他と重複するものばかりであること、さらに本書の後半が全霊言集の中から名文句を断片的に厳選して収録してあることから、それとこれとを一緒にして最終巻としたいと考えている。




 なおサイキックニューズ紙とツーワールズ誌には今なお断片的ながらシルバーバーチの霊言が掲載されている。その中には霊言集に出ていないものもある。最終巻にはそうしたものも収録してシルバーバーチの〝総集編〟のようなものにしたいと考えている。 

Saturday, October 12, 2024

シアトルの秋 天使による地上の経綸 ー 霊界の霊媒カスリーン

Chapter 1: Earthly administration by angels.
Spiritual medium Kathleen of the spirit world



一章 天使による地上の経綸   1霊界の霊媒カスリーン            一九一七年九月八日 土曜日

 私(※)は今あなたの精神を通して述べております。感応したままを綴っていただき、評価はその内容をみて下してください。そのうち私の思念をあなたの思念と接触させることなく直接書き留めることが出来るようになるでしょう。

そこでまず述べておきたいのは、こうした方法による通信を手掛ける人間は多くいても、最後まで続ける人が少ないことです。それは人間の思念と私たちの思念とが正面衝突して、結果的には支離滅裂なことを述べていることになりがちだからです。

 ところで私が以前もあなたの手を使って書いたことがある──それもたびたび──と聞かされたら、あなたはどう思われますか。実は数年前この自動書記であなたのご母堂とその霊団が通信を送ってきた時に、実際に綴ったのはこの私なのです。

あれは、あの後の他の霊団による通信のための準備でもありました。今夜から再び始めましょう。あっけない幕開きですが・・・・・・。書いていけば互いに要領が良くなるでしょう。

(※ここで〝私〟と言っているのはカスリーンである。第一巻並びに第二巻の通信も実はこのカスリーンが霊界の霊媒として筆記していたのであるが、未発表のものは別として少なくとも公表された通信の中では、カスリーンの個性が顔をのぞかせたことは一度もなかった。

それが、本書ではこうして冒頭から出て来てみずからその経緯を述べ、このあと署名(サイン)までしている。しかし回を追うごとに背後の通信霊による支配が強くなっていき、八日付けの通信では途中でオーエン氏が〝どうも内容が女性のお考えになることにしては不似合のように感じながら綴っているのですが、やはりカスリーンですか〟と、確かめるほどになる。

そして第二章になるとリーダーと名告(なの)る男性の霊が前面に出て来る。─訳者)


「神を愛する者には全てのこと相働きて益となる」(ロマ8・28) ───この言葉の真実性に気づかれたことがありますか。真実なのですが、その真意を理解する人は稀です。人間の視野が極めて限られているからです。〝全てのこと〟とは地上のことだけを言っているのではなく、こちらの霊の世界のことも含まれております。

しかもその〝全てのこと〟が行き着く先は私どもにも見届けることが出来ません。それは高き神庁まで送り届けられ、最後は〝神の玉座〟に集められます。が、働きそのものは小規模ではありますが明確に確かめることが出来ます。

右の言葉は天使が天界と地上界の双方において任務に勤しんでいることを指しているのであり、往々にして高き神庁の高級霊が最高神の命のもとに行う経綸が人間の考える公正と慈悲と善性の観念と衝突するように思えても、頂上に近い位置にある高級霊の視野は、神の御光のもとにあくまでも公正にして静穏であり、私たちが小規模ながら自覚しているように、その〝神の配剤の妙〟に深く通じているのです。

 今日、人間はその神の使徒に背を向けております。その原因はもしも神が存在するならこんなことになる筈がないと思う方向へ進んでいるかに思えるからです。

しかし深き谷底にいては、濃く深く垂れこめる霧のために、いずこを見ても何一つ判然とは見えません。あなたたちの地上界へは霊的太陽の光がほとんど射し込まないのです。

 このたびの(第一次)大戦も長い目で見ればいわば眠れる巨人が悪夢にうなされて吐き出す喘(あえ)ぎ程度のものに過ぎません。安眠を貪(むさぼ)る脳に見えざる光が射し込み、音なき旋律がひびき、底深き谷、言わば〝判決の谷〟(ヨエル書)にいて苛立(いらだ)ちの喘ぎをもらすのです。これからゆっくりと目を覚まし、霧が少しずつ晴れ、

(眠っている間に行われた)殺戮(さつりく)の終わった朝、狂気の夜を思い起こしては驚愕(きょうがく)することでしょうが、

それに劣らず、山頂より降り注ぐ温かき光に包まれたこの世の美しさに驚き、つい万事が愛によって経綸されていること、神はやはり〝吾らが父〟であり、たとえそのお顔は沸き立つ霧と冷たき風と谷底の胸塞ぐ死臭に遮られてはいても、その名はやはり〝愛〟であることを知ることでしょう。

 それは正にこの世の〝死〟を覆い隠す帳であり、その死の中から生命が蘇るのです。その生命はただただ〝美しい〟の一語に尽きます。なぜならば、その生命の根源であり泉であるのが、ほかならぬ〝美〟の極致である主イエス・キリストその人だからです。

 ですから、神の働きは必ずしも人間が勝手に想像するとおりではないこと、その意図は取り囲む山々によって遮られるものではなく、光明と喜悦の境涯より届けられることを知らねばなりません。私たちの進むべき道もそこにあるのです。では今夜はこれまでにします。

 これも道を誤った多くの魂の暗き足元を照らすささやかな一条(ひとすじ)の光です。

 願わくば神が眠れる巨人をその御手にお預かり下さり、その心に幼な子の心を吹き込まれんことを。主の御国は幼な子の心の如きものだからです。そして、その安眠を貪り、何も見えず何も聞こえぬまま苛立つ巨人こそ、曽て主が救いに降りられた人類そのものなのです。                                カスリーン

Friday, October 11, 2024

シアトルの秋 イエス・キリストの出現

The Appearance of Jesus Christ





 一九一四年一月二日  金曜日

 ここで再び私の界へ心の中で戻ってもらいたい。語り聞かせたいことが幾つかある。神とその叡智の表われ方について知れば知るほど吾々は、神のエネルギーが如何に単純にして同時にいかに複雑であるかを理解することになる。

これは逆説的であるが、やはり真実なのである。単純性はエネルギーの一体性とそのエネルギーの使用原理に見出される。

 例えば創造の大事業のために神から届けられるエネルギーの一つ一つは愛によって強められ、愛が不足するにつれて弱められていく。この十界まで辿りつくほどの者になれば、それまで身につけた叡智によって物事の流れを洞察することが可能となる。

〝近づき難き光〟すなわち神に向けて歩を進めるにつれて、全てのものが唯一の中心的原理に向かっており、それがすなわち愛であることが判るようになる。愛こそ万物の根源であることを知るのである。

 その根源、その大中心から遠ざかるにつれて複雑さが増す。相変わらず愛は流れている。が、創造の大事業に携わる霊の叡智の低下に伴い、必然的にそれだけ弱められ、従って鮮明度が欠けていく。

その神の大計画のもとに働く無数の霊から送られる霊的活動のバイブレーションが物的宇宙に到達した時、適応と調整の度合が大幅に複雑さを増す。

この地上にあってさえ愛することを知る者は神の愛を知ることが出来るとなれば、吾々に知られる愛がいかに程度の高いものであるか、思い半ばに過ぎるものであろう。

 しかし、吾々がこれより獲得すべき叡智はある意味ではより単純になるとは言え、内的には遥かに入り組んだものとなる。なぜならば吾々の視野の届く範囲が遥かに広大な地域にまで及ぶからである。

一界一界と進むにつれて惑星系から太陽系へ、そして星団系へと、次第に規模が広がっていく世界の経綸に当たる偉大な霊団の存在を知る。その霊団から天界の広大な構成について、あるいはそこに住む神の子について、更には神による子への関わり、逆に子による神への関わりについて尋ね、そして学んでゆかねばならない。

 これで、歩を進める上では慎重であらねばならないこと、一歩一歩の歩みによって十全な理解を得なければならないことが判るであろう。吾々に割り当てられる義務はかぎりなく広がってゆき、吾々の決断と行為の影響が次第に厳粛さを帯びてゆき、責任の及ぶ範囲が一段と広い宇宙とその住民に及ぶことになるからである。

 しかし今は地球以外の天体には言及しない。貴殿はまだそうした地球を超えた範囲の知識を理解する能力が十分に具わっていない。

私および私の霊団の使命は、地球人類が個々に愛し合う義務と、神を一致団結し敬愛する義務についての高度な知識を授け、さらに貴殿のように愛と謙虚さをもって進んで吾々に協力してくれる者への吾々の援助と努力──つまり吾々はベールのこちら側から援助し、

貴殿らはベールのそちら側で吾々の手となり目となり口となって共に協力し合い、人類を神が意図された通りの在るべき姿──本来は栄光ある存在でありながら今は光乏しい地上において苦闘を強いられている人間の真実の姿を理解させることにあるのである。

 では私の界についての話に戻るとしよう。

 ある草原地帯に切り立つように聳える高い山がある。あたかも王が玉座から従者を見下ろすように、まわりの山々を圧している。その山にも急な登り坂のように見える道があり、そのところどころに建物が見える。四方に何の囲いもない祭壇も幾つかある。

礼拝所もある。そして頂上には全体を治める大神殿がある。この大神殿を舞台にして時おりさまざまな〝顕現〟が平地に集結した会衆に披露される。


──前に話されたあの大聖堂のことですか(五章4)

 違う。あれは都の中の神殿であった。これは〝聖なる山〟の神殿である。程度において一段と高く、また目的も異なる。そこの内部での祈りが目的ではなく、平地に集結した礼拝者を高揚し、強化し、指導することを主な目的としている。

専属の聖職者がいて内部で祈りを捧げるが、その霊格はきわめて高く、この十界より遥かに上の界層まで進化した者が使命を帯びて戻って来た時にのみ、中に入ることが許される。

 そこは能天使(※)の館である。すでにこの十界を卒業しながら、援助と判断力を授けにこの大神殿を訪れる。そこには幾人かの天使が常駐し、誰ひとり居なくなることは決してない。が、私は内部のことは詳しくは知らない。

霊力と崇高さを一団と高め、十一界、十二界と進んだ後のこととなろう。(※中世の天使論で天界の霊的存在を九段階に分けた。ここではその用語を用いているまでで、用語そのものに拘わる必要はない。──訳者)

 さて平地は今、十界の全地域から召集された者によって埋め尽くされている。地上の距離にしてその山の麓から半マイルもの範囲に亘って延々と群がり、その優雅な流れはあたかも〝花の海〟を思わせ、霊格を示す宝石がその動きに伴ってきらきらと輝き、色とりどりの衣装が幾つもの組み合わせを変えて綾を織りなしてゆく。

そして遠く〝聖なる山〟の頂上に大神殿が見える。集まった者たちは顕現を今や遅しと期待しつつ、その方へ目をやるのであった。

 やがてその神殿の屋根の上に高き地位(くらい)を物語る輝く衣装をまとった一団が姿を現わした。それから正門と本殿とをつなぐ袖廊(ポーチ)の上に立ち並び、そのうちの一人が両手を上げて平地の群集に祝福を述べた。

その一語一語は最も遠方にいる者にも実に鮮明に、そして強い響きをもって聞こえた。遠近に関わりなく全員に同じように聞こえ、容姿も同じように鮮明に映じる。

それから此の度の到来の目的を述べた。それは、首尾よくこの界での修行を終え、さらに向上していくだけの霊力を備えたと判断された者が間もなく第十一界へ旅立つことになった。そこで彼らに特別な力を授けるためであるという。

 その〝彼ら〟が誰であるのか──自分なのか、それとも隣にいる者なのか、それは誰にも判らない。それはあとで告げられることになった。そこで吾々はえも言われぬ静寂のうちに、次に起きるものを待っていた。ポーチの上の一団も無言のままであった。

 その時である。神殿の門より大天使が姿を現わした。素朴な白衣に身を包んでいたが、煌々と輝き、麗わしいの一語に尽きた。頭部には黄金の冠帯を付け、足に付けておられる履き物も黄金色に輝いていた。

腰のあたりに赤色のベルトを締め、それが前に進まれるたびに深紅の光を放つのであった。右手には黄金の聖杯(カリス)を捧げ持っておられる。

左手はベルトの上、心臓の近くに当てておられる。吾々にはその方がどなたであるかはすぐさま知れた。他ならぬイエス・キリストその人なのである。(※)いかなる形体にせよ、あるいは顕現にせよ、愛と王威とがこれほど渾然一体となっておられる方は他に類を求めることが出来ない。

その華麗さの中に素朴さを秘め、その素朴さの中に威厳を秘めておられる。それらの要素が、こうして顕現された時に吾々列席者の全ての魂と生命とに秘み込むのを感じる。

そして顕現が終了した後もそれは決して消えることなく、いつまでも吾々の中に残るのである。(※その本質と地上降誕の謎に関しては第三巻で明かされる。──訳者)

 今そのイエス・キリストがそこに立っておられる。何もかもがお美しい。譬えようもなくお美しい。甘美にして優雅であり、その中に一抹の自己犠牲的慈悲を漂わせ、それが又お顔の峻厳な雰囲気に和みを添えている。

その結果そのお顔は笑顔そのものとなっている。といって決して笑っておられるのではない。そしてその笑みの中に涙を浮かべておられる。悲しみの涙ではない。

己の喜びを他へ施す喜びの涙である。その全体の様子にそのお姿から発せられる実に多種多様な力と美質が渾然一体となった様子が、側に控える他の天使の中にあってさえ際(きわ)立った存在となし、まさしく王者として全てに君臨せしめている。

 そのイエス・キリストは今じっと遠くへ目をやっておられる。吾々群集ではない。吾々を越えた遥か遠くを見つめておられる。やがて神殿の数か所の門から一団の従者が列をなして出てきた。男性と女性の天使である。その霊格の高さはお顔と容姿の優雅さに歴然と顕れていた。

 私の注目を引いたことが一つある。それを可能なかぎり述べてみよう。その優雅な天使の一人一人の顔と歩き方と所作に他と異なる強烈な個性が窺われる。同じ徳を同じ形で具えた天使は二人と見当たらない。霊格と威光はどの方もきわめて高い。が、一人一人が他に見られない個性を有し、似通った天使は二人といない。

その天使の一団が今イエス・キリストの両脇と、前方の少し低い岩棚の上に位置した。するとお顔にその一団の美と特質と霊力の全てが心地よい融和と交わりの中に反映されるのが判った。一人一人の個性が歴然と、しかも渾然一体となっているのが判るのである。

さよう、主イエスは全ての者に超然としておられる。そしてその超然とした様子が一層その威厳を増すのである。

 以上の光景を篤と考えてみてほしい。このあとのことは貴殿が機会を与えてくれれば明日にでも述べるとしよう。主イエスのお姿を私は地上を去ってのち一度ならず幾度か拝してきたが、そこには常に至福と栄光と美とが漂っている。

常に祝福を携え、それを同胞のために残して行かれる。常に栄光に包まれ、それが主を高き天界の玉座とつないでいる。そしてその美は光り輝く衣服に歴然と顕れている。

 しかも主イエスは吾々と同じく地上の人間と共にある。姿こそお見せにならないが、実質となって薄暗い地上界へ降り、同じように祝福と栄光と美をもたらしておられる。が、そのごく一部、それもごく限られた者によって僅かに見られるに過ぎない。

地球を包む罪悪の暗雲と信仰心の欠如がそれを遮るのである。それでもなお主イエスは人間と共にある。貴殿も心を開かれよ。主の祝福が授けられるであろう。  ♰

Thursday, October 10, 2024

シアトルの秋 憎しみと愚かさの中にも

In the midst of all the hate and stupidity.



真白き大霊よ。

あなたは全存在の太源におわします。

あなたは太初(たいしょ)です。

あなたは終極です。

すべてのものに存在し、すべての相(すがた)に顕現しておられます。

霊の世界の最高界であろうと、物質の世界の最低界であろうと、そこに何ら相違はございません。

あなたは光明の中に存在すると同時に暗黒の中にも存在します。

春に存在すると同時に秋にも存在します。

夏に存在すると同時に冬にも存在します。

日和(ひより)の中に存在すると同時に嵐の中にも存在します。

あなたは稲妻の中にも雷鳴の中にも存在なさっております。

そよ風の中にも、あなたが存在します。小鳥のさえずりの中にも、あなたが存在します。

嵐に揺れるこずえにも、小川のせせらぎの中にも存在します。

高き山の頂きにも大海の深き底にも存在します。

無数の太陽の集まる星雲の中にも、きらめく星の一つ一つにもあなたが存在いたします。

あなたは愛の中にも憎しみの中にも存在します。

叡智の中にも愚かさの中にも宿っておられます。

内側にも外側にも存在しておられます。

何となれば、あなたは絶対的な大霊にあらせられ、その摂理なくしては何一つ存在しえないのでございます。

ああ、真白き大霊よ、あなたの大きさは到底、地上の言語では表現できませぬ。

地上のいかなる進化せる人物によっても、あなたの全体像を理解することはできませぬ。

あなたはいつの時代にも人間の信仰の対象とされ、あらゆる言語によって讃美されてまいりました。

多くの人間によって、あまたの聖なる書の中に啓示されてまいりました。

物質の霧を突き抜けて〝霊の目〟をもって見通せる者を通じて、あなたは分け隔てなく、それぞれの時代にあなたの摂理を啓示なさってこられました。


ああ神よ、あなたは今まさに地上世界へ新たにあなたの使者を遣わされ、子らを一層あなたの身近き存在となし、子らがあなたを少しでも多く理解し、あなたの霊力を活用することによって、物質の世界へ安らぎと豊かさと幸福をもたらすための新たな啓示を行っておられます。

その道具としてあなたのお役に立つことを願う私どもは、地上の子らとの協力によって暗黒の世界へあなたの光明をもたらし、あなたの力、あなたの愛、あなたの摂理を物的宇宙のすみずみまで顕現せしめんと望むものです。

ここに、あなたの子らに仕えることによってあなたに仕えんとするあなたの僕の祈りを捧げます。

<『シルバーバーチの霊訓(12)9章より』>