Wednesday, January 7, 2026

ベールの彼方の生活(三)

 The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen

三章 天界の経綸



2 象徴(シンボル)の威力──十字を切ることの意味  
一九一七年十一月二十八日  水曜日


 貴殿がもし吾々の存在を疑わしく思うような気分になった時は〝十字〟を切っていただくとよろしい。それだけでも吾々が守ってあげていることを認識されると同時に、貴殿と吾々との間に割って入ろうとするあの手この手の邪魔を排除することができます。

身体を張って邪魔するのではなく、思念を放射し、それがモヤのように漂って吾々の視界を遮るのです。程度から言うと吾々よりも彼らの方が貴殿の近くまで接近し、吾々の望んでいる好条件を奪ってしまうことがあるので、よくよく注意していただきたい。


──十字を切るとどういう効果があるのですか。

 それが象徴するところの実在の威力が発揮されます。よく考えてみると記号というものも実は大きな威力を発揮しているものです。それは記号そのものに能動的な力が潜んでいるからではなく、それが象徴しているところの存在ないしはエネルギーの潜在力のせいです。


──例えば?

 例えば貴殿がいま使用しておられる文字も単なる記号に過ぎない。が、それによって綴られた文章を親しみと愛を持って読む者は、こうしたものを全く読むことなく人生を終わる者と違って、こちらへ来てからの進歩を促進する適応性を蓄えることになる。

一人の王様の名前も、その王を象徴する記号に過ぎないが、その名前を軽々しく口にする者は、その王の署名のもとに布告された命令を無視する者と同様に、秩序ある国家においては軽々しく見逃されることはない。

それによって生じる混乱と不統一が原因となって国家の運営が著しく阻害されるからです。故に、名前というものは崇敬の念をもって扱わねばならない。地上に限りません。

天界においても同じことです。たとえば大天使の名をぞんざいに呼ばわる者は、携わる仕事が何であれ、その者の立場を危うくしかねない。そういうことになっているのです。

そして最高の御名である主の御名は、貴殿らの聖典で規制されているように最高の敬意をもって扱わねばなりません。

 さて、もともと〝十字架〟の記号は吾々が教わり、遠い過去より今日に至るまでに地上の人間に啓示された数多くの聖なる記号の中の一つに過ぎない。ところが今日では他のいずれにも増して威力を持つに至っている。

ほかでもない、地上の進歩のために注がれる〝生けるキリスト〟の生命の表象(しるし)だからです。他の時代には他の──ためらわずに書かれよ──キリストの世があった如く(※)、今の世は天界の政庁から派遣された最後の、そして最高のキリストの世という意味において特殊な世なのである。

それ故、十字架を使用する者はキリストの生命を意味するおん血によって書かれた 親署を使用することを意味し、たとえキリストの絶対的権威を認めずその愛を理解せぬ者も、キリストの十字架の前にはおのずと頭を垂れなければならない。

何となればそれを前にすればその威力を思い知らされ畏れおののくからである。(※キリストの名で呼ばれる存在が他にもいたということにオーエン氏が戸惑いを見せている。イエス・キリストの真相についてはこの後三つの章で細かく説かれる。訳者)


──では、地獄にいる者でもキリストの十字架の威力が分かるということですか。

 まさにその通りである。ここで少しばかりその問題に触れておきたい。というのも、地上には理解力が不足しているために、この記号にあまり崇高の念を覚えぬ者が多いからです。私はしばしば薄暗い低級界を訪れることがあるが──最近は他に用があって訪れていないが──訪れた時はなるべく十字を切らないようにする。

何となれば、心に少なからず苦悶を抱く哀れむべき魂にとっては、十字を切ることがその苦悶の情をいっそう掻き立てることになるからです。


──十字を切られた時の反応を実際の例で話してください。

 あるとき私は、地上からの他界者の一人で、妙なことにいきなり第二界へ連れて来られた人物を探しに派遣されたことがあった。当然そこは居心地がよくなくて、やがて薄暗い下層界へと引き下ろされて行った。

なぜこのようなことになるのかは今ここで詳しい説明はしない。滅多にないことであるが、まったく有り得ないことでもないのである。

指導と案内に当たる者の認識不足によって、あちこちで同じような事態が起きていることは事実です。一生けんめいになるあまり、善意が先走って判断力と洞察力を追い越すことがあるもので、少し複雑で問題の多い人物の処遇に当たって、往々にしてそういうケースが生じます。

さて私は陰鬱な境涯へ降りて身体が環境に適応しきるのを待って、いよいよ捜査を開始した。市(まち)から市へと捜し歩いたあげくに、やっとその人物の気配を感じる門の前まで来た。貴殿には私の述べることが容易に理解できないであろうけど、構わず筆を進められたい。そのうち理解できる日が来ます。

さて、中へ入ってみると、まず目についたのは広場一帯をおおう陰気な光で、そこにかなりの数の群集が集まっていた。空気はまるで鍛冶屋の如く火照(ほて)り、群集が気勢を上げると明るさを増し、意気消沈すると弱まるというふうであった。

その中央に石の台があり、そこに私の探し求めている人物が立っていた。何やら激しい口調で群集に向かって演説をぶっている。私は蔭に隠れて聞き入った。

 彼は〝贖(あがな)い〟と〝贖い主〟について語っていた。が、その名が出てこない。暗に言及しているだけである。そこに注意していただきたい。二度、三度と名が出かかるのであるが、どうしても出ない。口元まで出かかると顔に苦痛の表情が浮かび、手をぐっと握りしめ、しばし沈黙し、それからまた話を進めた。

誰の名を言わんとしているのかはその場の誰一人として知らぬ者はいなかった。彼は悔い改めの必要性を長々と説いた。

そして自分が宗教心の不足から否応なしに、ほんのわずか垣間みた天国と光明界からこの苦悶と悔恨の境涯へ引きずり下ろされたことを語って聞かせた。彼はこう語った──自分はこの界へ降りて来る道すがら、この目を見開いて道をしかと確かめてきた。

だから、どこをどう行けば光明界へ行き着くかをよく知っている。が、その道は長く苦しい登り坂となっており、しかも暗い。そう述べてから、自分と共に出発する意志のある者を募り、羊の群れの如く一団となり手を取り合って進めば、例え道中は苦しくとも必ず目的地に辿り着き、ゆっくりと休息できる。

ただ道中ではぐれぬよう注意する必要がある。道なき峡谷を通り、左右の見分けもつかぬ森林地帯を抜けて行かねばならぬ。

万一はぐれたら最期、道を見失って一人永遠にさ迷い続けることになる。いずこをさ迷っても常にそこは暗闇であり、また極悪非道の輩が待ち伏せして通りかかる者に残虐のかぎりを尽くす危険がある。だから絶対に自分が掲げる旗から目を離さぬように。

そうすれば恐れるものは何もない。なぜならその旗には道中に耐えるだけの強大な力のシンボルとなるものを用意するつもりでいるからだ、と。

 以上が彼の演説の要旨である。これに対して群集はまんざらでもない反応を示しているようであった。彼は台から降りて、しばし黙したまま立っていた。すると群集の一人がこう聞いた──「どういう旗を考えてるんだ。何の紋章を飾るつもりだ。我々が付いて行くのに分かるものでないと困るぞ」と。

 するとさっきの男が再び広場の中央の石の上に立って右手を高く上げ、それを下ヘ向けて直線を描くように下そうとするが、下せない。何度も繰り返すが、その度に手がしびれるようであった。そして結局最後は──彼を知る私には見るに忍びない光景であったが──大きな溜息と苦悶の涙と共に、その手をだらりと力なくぶら下げるのだった。

 が間もなく、彼はきりっと姿勢を正し、顔に決意の表情を浮かべて、もう一度試みた。

そして何とか手を垂直に下すことができた。すると、どうであろう、その手の辿ったあとに微かに光輝を放つ一本の線が描かれているではないか。そこで又力をふりしぼり、用心深く、今度はその垂直の線の真ん中よりやや上あたりに横棒を描こうとして手を上げるのであるが、またもや出来ない。

 私には彼の心が読めていた。光明界への旅に彼が掲げ持つ旗の紋章として十字架を飾ることを群集に示そうとしているのである。あまりの哀れさに私は進み出て、ついに彼の側に立った。そして、まだうっすらとではあるが目に見えている直線をなぞった。

ゆっくりとなぞった。するとさっと光輝が増して広場全体と群集の顔という顔を照らし出した。次に私は横棒を画いた。それも同じように光輝を放った。私はその光輝を避けて、見えないところに身を隠した。

 ところが、その直後に狂乱した声と泣き叫ぶ声が聞こえてきたので再び出てみた。十字架はやや輝きを失っていたが、群集は、ある者は地面にひれ伏し、ある者はのたうち回りながら顔を隠し、十字架のイメージを消そうと必死になっていた。

嫌っているのではない。そこの群集はすでに自分の罪に対して良心の呵責を覚える段階にまで達した者たちであった。

苦痛の原因はその良心の呵責を覚えさせるほどの〝進化〟そのものであった。悔恨の情が罪悪と忘恩の不徳に対する悲しみへと変化し、その進化そのものが悲しみの情に一層の苦痛を加えていたのである。

 くだんの男はそうした群集のようにひれ伏さずに両手で顔を覆い、両ひじを膝の上に置いて跪き、他の者たちと同じく悔恨の情にからだを二つに折り曲げるようにして悶えていた。

 私はやっと気がついた。私のした事は彼らにとって余りに早まった行為だったのである。慰めになると思ってやってあげたことが実は彼らの古傷に手荒らに触れる行為となっていたのである。そこで私は群集を鎮めるためにその友人に代ってあの手この手を打った。

そして何とか治まった。が私は、その時その場で、これ以後は低級界ではよくよくのことがない限り十字架のサインは使用しない決心をした。心に傷を持つ者はそれが痛みを増す結果になることを知ったからです。


──今その男のことを〝友人〟と呼ばれましたが・・・・・。

 その通り。彼は私のかつての友人だったのです。二人は地上で同じ大学で哲学を教えたことがありました。彼はまっとうな生活を送り、時には奇特な行いもしないでもありませんでした。が、残念ながら敬虔な信仰心に欠けていた。もっとも今はもう順調に向上の道を歩み、善行にも励んでいますが・・・・・・。

 さきの話に戻りますが、どうにか旗が出来上がった。しかしそれはおよそ旗と呼べるしろものではなかった。二本の木の枝、それも節だらけの曲がったものを十字に組んだものに過ぎない──この界層でもそんな樹木しか見当たらないのです。

それでも彼らには立派な十字架に見えるのだった。横棒がぐらぐらしている。彼らの一途な気持ちと彼らにとっての深刻な意味合いを考えると、あまりにグロテスク過ぎるが、彼らにとってそれは自分たちを守ってくれる霊力を意味し、又、その源でありキリストを意味する。

したがってそれはそれなりに彼らにとって最も〝聖なるしるし〟であり、よろこび勇んで、しかし沈黙と畏敬の念をもって付いて行くべき目標であった。

二本の枝の交わる部分を結わえている赤の布切れは血の流れの如くなびいていた。そして彼らはいよいよその十字架の後について長き旅に出発した。足は痛み、疲れ果てることもしばしばであろう。が、

光明が見出せることを信じて、あくまでも高地へ高地へと進み続けることであろう。


──どうも。これでお終いにしたいのですが、最後に一つだけお聞きしたいことがあります。昨夜の例の聖堂のことですが、最初にその建立の目的は地上界への援助のためとおっしゃって、あとでそれとはまったく違った使用目的を話されました。そこのところが納得できません。ご説明ねがえますか。

 吾々の述べたことに何ら誤りはありません。ただ吾々が意図したほど明瞭には伝わっていないだけです。昨夜は貴殿は重々しい感じがしていました。今も疲れておられる。吾々の意図していた真意は次の機会に述べるとしよう。では今宵も神の祝福のあらんことを。

ベールの彼方の生活(三)

The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen
三章 天界の経綸




1 寺院の建造        
 一九一七年十一月二十七日 火曜日

話題はこちらで用意してあり、いつでも述べられる態勢にあります。再び貴殿の精神をお貸しいただきたい(*)。こちらで進行中の仕事を吾々が監督する要領を知っていただくために、つい最近吾々の界で起きた出来ごとをぜひ貴殿に語って聞かせたいと思うのです。

(*前にも述べたことであるが、霊界の者から見ると人間の精神は人間自身が想像しているような無形の観念ではなく、具体的な実質があり触れると実感がある。訳者)

 それは、ほかでもない、寺院風の建物の建造です。その建造の目的は強いて言えば天界のエネルギーが地上へ届き易いようにそこで調整するためである。今ゆっくりと最後の仕上げをしており、完成も間近い。

これよりまずその建物に使用する資材を説明し、続いてその用途を述べるとしよう。

 資材にはさまざまな色彩と密度とがある。さりとて地上の如くレンガや石等を積み重ねるのではない。全体として一つなのである。吾々は設計図が出来上がったところで、こぞって予定された敷地へ向かった。

その敷地は第五界の低地と高地の中間に位置する台地にある。なお吾々の通信における界層の数え方はザブディエル殿に倣っていることを承知されたい。数え方は霊団によってさまざまですが、貴殿にとってはすでに親しんでいるものが良かろうということでそうすることにしました。

また、それが他の数え方と較べてなかなかうまく出来ています。他のものはあまりに複雑すぎたり、反対にあまりに大ざっぱすぎたりします。その点ザブディエル殿の数え方は言わば中庸を得ているので、ここではそれに倣(なら)うことにします。

 さて敷地に到着すると吾々は、まず全員の創造エネルギーを一丸とするための精神統一を行ったのち、そのエネルギーを基礎工事へ向けた。すると、そのエネルギーが敷地からゆっくりと湧き出て来て、そのまま高く伸びて頂上にドーム形の屋根を拵えた。

そこへ大天使が姿を現わし、吾々のエネルギーを一つにまとめて一たんご自分の霊力の中に収められ、それを少しずつ放射しつつ、穏やかに吾々の仕事に細かい手を加えられた。その間、吾々は念波の放射を手控えて見守っていた。

 何ゆえ大天使までお出ましになるのか──貴殿にはそれが不思議に思われるであろう。

理由(わけ)を述べよう。一つの霊団として吾々もそれ相当の修養を積み、協調的仕事にも長いあいだ携わってきた。

しかし脆弱(ぜいじゃく)な第一段階の基礎工事の仕上げに当たっては、吾々より遥かに強烈な霊力をお持ちの大天使によって、吾々の放射したエネルギーを調節していただく必要がある。

それを怠ると形体にキズが残ったり、思わぬ不備から構造が崩れ、折角の努力が烏有(うゆう)に帰することも有りうる。そのほかにも理由はあるが、それは吾々の言語を理解してもらえない以上は説明困難です。

もっとも、次のように考えていただけば、手段はともかくとして、理由だけは多分わかっていただけるであろう。

つまり原理的に言えば誕生時の〝へその緒〟の切断、死亡時の〝たまの緒〟の切断、もしくは堰の水門の急激な閉鎖、大体そういったものに類似したものを想像していただけばよい。そうすれば地上の言語で表現できないものを、おぼろげにでも理解していただけるでしょう。

 こうして第一期工事はまず外形の完成に集中する。が、あくまで外形であって、そのまま手を引けば見る間に消滅してしまう。一服したのち吾々は引き続き第二期の基礎工事に着手した。第二期は柱、門、大小の塔を強固にすることである。

最下部から始めて徐々に上方へ向けて手を加えて行き、最後にドームにまで達する。

これを幾回となく繰り返した。まだ外形のみである。が、外形としては一応完成した。残るは色彩を鮮明にすることと、細かい装飾、そしてそれが終わると最後に全体を引き締めて、幾世期にも亘る持続性を与えることである。

 吾々はしばし工事に携わっては少し休み、その間にエネルギーを補充し、再び工事に着手するといった過程を幾度となく繰りかえし、その寺院風の建物に全身全霊を打ち込んだ。

美の創造に携わることほど楽しく且つ有難いものはない。吾々の建造せるその建物は大きさといい、デザインといい並はずれて雄大なものであり、同時に又、その雄姿が自分たちの力で着々と美しさを増していったのであるから尚のことであった。

 こちらの世界における建築が全てこれと同じ方法で行われるとは限らない。が、いかなる方法にせよ、出来上がったものは建築家による建造物というよりは〝吾が子〟のような存在となる。すべてが建造者のエネルギーと創造力とによって作られたものだからです。

そうして出来あがった建物が、のちにその建物において仕事をする者の理想に叶って居ることも論を俟(ま)たない。

何となれば、その建物にはすでに生命がこもっている。意識的生命ではないが、一種の感性を宿しているからです。こう言えばよかろうか。つまりこちらの世界の建物とその創造者との関係は、言うなれば肉体とそれに宿る霊との関係のようなものである。

肉体と霊とは覚醒時は言うに及ばず、睡眠中でも常に連絡を保持している。それと同じく、吾々建造者はたとえ完成後に各地へ分散しても、常にその建物を意念の焦点として互いに連絡を取り合っているのです。

その生き生きとした実感と満足感は実際にこちらへ来て創造の仕事に携わってみなければ判らないであろう。もっとも、こちらへ来た者のすべてが創造の仕事に携わるとは限らないが・・・・・・。

 さて建物としての一応の形が整い、さらにそれを強固にし終ると、あとに残された仕事は内部装飾の仕上げである。すなわち各室、ホール、聖堂等々にそれなりの装飾を施し、柱廊は柱廊らしく仕上げ、噴水には実際に水を通してその流れ具合を確かめる。

それをするのに吾々はまず外部に立って念波を送り、それから内部に入って仕上がり具合を点検する。手先はあまり使用しない。主役を務めるのは頭と心である。

 そこまで終了すると、以後は吾々が実際にその建物で生活して、地上の言い方をすれば毎日のように部屋から部屋へ、ホールからホールへと足を運び、設計図に照らして少しずつ手直しをする。そして最後に全体を美しく飾って終わりとする。

 こうして吾々による仕事が完了した暁に、畏れ多くも大天使が再度遥か高遠の世界から降りて来られ、細かく点検して回られた。そしてもし不備の点があれば大天使みずから手を加えられた。が、時として吾々の勉強のためを思われて、吾々に直々にお言いつけになることもある。

 かくして落成の日が訪れると、その大天使がもう一人の大天使を伴って再びお出でになられた。霊格がさらに上の方である。

その権威はイスラエルで言えばアロン(*)とその弟子たちのそれにも相当しよう。ギリシャならば神官、キリスト教ならば主席司祭にも相当しよう。その時の目的は建物の〝聖化〟とでも呼ぶべきものである。(*ユダヤの最初の大司祭。モーゼの兄──訳者)


──献堂式(*)でしょうか。(*新築の教会堂を神に奉納する儀式──訳者)


 それで良かろう。地球を含む低級界とを結ぶ保護のための拠点となり、同時に又、それ以後そこに住む人々が神の恩寵と霊力に与る中継の場となるのである。

 地上の寺院は天界の寺院のお粗末な模倣に過ぎない。が、その目的と機能は本質的には同一である。イスラエルにおいては雲が地上界とエホバ神との中継をすると考えられた。

古代エジプトにも同じ考えがあった。ギリシャの都市国家においては寺院の霊的活力が衰えていたが、まだ少しは残っていた。イスラエルにおいては天界からの援助と高揚という特殊な側面にはまったく関心を示さないようである。

私はイスラムの霊界を訪ねてみたことがあるが、そこには顕幽の交わりが根本的に違った形で行われていることを知った。キリスト教の(霊界の)教会堂にも同じくその観念はあるが、程度の差が著しい。

キリストを祀(まつ)る幾つかの教会堂においてはキリストとその側近の大天使の顕現がもう少しで見られる段階に至っている。実際に見られるようになるのも遠い先のことではなさそうに私には思える。

 そういう次第で、地上の寺院も基本理念においては同じものを持っており、遠い過去が引き継がれているのであるが、それがこちらの世界では目に見えて霊験あらたかとなり、見た目に美しくもあり、天界の高地へ向けて一界又一界と上昇して行く者への祝福に満ち満ちているのである。


──今回お建てになった寺院には特別な使用目的があるのでしょうか。

 あれは第五界の各地、時にはそれより下の界から訪れる者が身を浸すエネルギーの貯蔵所としての機能を開始しかけているところです。

訪れた者は色彩の持つ霊妙な波動に浸り、堂内を流れる生命を秘めた小川と噴水に身を洗われ、すみずみまで漲(みなぎ)る霊妙な旋律に包まれて、欠乏した生命力を補い、鈍化した知力を啓発される。そこに注目されたい。単なる保養所ではありません。


もっと質の高い機能を有している。それから先の魂の向上の旅に備えて体力をつけ、入手する知識を即座に、そして効率よく理解する知性を身に付ける場でもあることは確かであるが、同時に、その聖堂を焦点として愛と生命力を注ぎ、彼ら巡礼者の向上を待ち受ける高級神霊との霊的交わりを得るところでもあるのです。


──向上する者は必ずそこを通過しなければならないのでしょうか。

 そうと決まっているわけではありませんが、第五界の者は大半がそこを通過します。この界は永く滞在する者がわりに、いや、ずいぶん多いところです。各自の特性を点検し調整して円満さを身に付けなければならない、大切な界だからです。

(第二巻八章参照)その意味では卒業しにくい界であり、滞在が永びいている者が多く見出される理由はそこにある。聖堂の建立もそのためであった。その必要性が生じたのである。出来上がってまだ日も浅く、これからいろいろと機能を発揮していくことであろう。

また経験を積むにつれて細かい手直しも施されることであろう。

 が、その聖堂まで来て中を覗いてみて学ぶべきものが特に見当たらず、自己の中に改めるべきものも見当たらないほどのゆとりをもってこの界を卒業して行く者もいる。

そうした優等生的霊魂はさっさと上の界へと進み、その道すがら祝福を垂れ、通過する道が一段と輝きを増すほどである。近くの者はそれを有難がり、その姿を見て勇気を鼓舞される。地上ではこうしたことは見かけぬであろう。

が第五界まで向上した者は品性卑しからず、己れより美しく且つ高き霊力を具えた者を見ることが己れ自身の美徳を高め、かくして〝全て神の子〟の真実味をいやが上にも確認することになるのである。

シアトルの冬 シルバーバーチの霊訓 (十)

Light from Silver Birch Edited by Pam Riva 



八章 背後霊の仕事 

── 一般的に言って指導霊というのは人間のパーソナリティの規模を拡張した、その延長と考えてよろしいでしょうか。それともまったく別個の存在でしょうか。


 とても複雑な問題です。今おっしゃったパーソナリティはインディビジュアリティに置きかえた方がよいと思います。私は物的身体から派生する人物像であるパーソナリティと、その人物像という仮面(マスク)の背後の実像であるインディビジュアリティとを区別しております。

 地上ではあなたという存在はあくまでも独立した一人物ですが、霊的なインディビジュアリティは必ずしもそうではありません。例えばアフィニティというのがあります。これは一個の魂が半分に分かれた存在で、二つが同時に地上へ誕生することがあるのです。

 それから私がダイヤモンドの側面に例えている〝霊相〟とでも呼ぶべきものがあります。一個のダイヤモンドがあって、それに沢山の〝相〟facet があります。それぞれが地上に誕生して体験を持ち帰り、ダイヤモンドの光沢を増します。

 さらにそのダイヤモンドがいくつか集まって一個のインディビジュアリティを構成しております。例えばこの霊媒(バーバネル)と奥さん(シルビア・バーバネル)と私(シルバーバーチ)とは一個のインディビジュアリティに所属しております。一人の支配霊がいくつかの類魂を従えていることがあるわけです。

それを〝延長〟と呼びたければそう呼ばれても結構です。が、結局は同じことに帰一します。つまり地上で肉体を通して顕現するのはインディビジュアリティの極々小さな一部と言うことです。

(訳者注──これまでインディビジュアリティとダイヤモンドが同一であるような表現で説明していたのを、ここで初めて霊側からみた場合の違いを解説している。

 要するに意識の中枢であるインディビジュアリティがあって、その分霊を受けた魂の集団、いわゆるグループソールがある。その魂の一つにも相 facet があり、その相が地上へ誕生してくることもある。一つだけのこともあれば二つ、三つ、あるいはもっと多くの相が一度に一個の人間として誕生してくることもあり、全部が、つまり一個のダイヤモンドがそっくり誕生してくることもある。魂が大きいというのは相が数多く携えているということである。使命が大きいほど多くの相を携えている。

 ダイヤモンドに例えられているのは一個の魂のことであり、その魂がたくさん集まって一個のインディビジュアリティを構成している。地上で〝自分〟として意識しているのは脳を中枢として顕現している地上特有の人物像であって、その中において霊的自我の占める要素は極めて少ない。よほどの切実な試練でも体験しない限り目覚めない。

そこでシルバーバーチは安楽な生活より苦難の生活の方が有難いのです。と言うわけである。

 なお以上の説明は〝霊側からみた場合の違い〟であって、それを人間側からどう理解するのかは、例えや用語の受け止め方によって各人まちまちであろう。シルバーバーチがたびたび言っているように、用語にはあまりこだわらない方がよい)


──霊の導きを受けていることは私にも分かりますし、そのレベルの高さも分かるのですが、分からないのは、その導きの源が普遍的な始源なのか、それとも特定の指導霊なのかという点です。祈りまたは瞑想によってその出所を確かめる方法はあるのでしょうか。

 よく引用される諺をまた使用させていただきましょうか。〝師は弟子に合わせて法を説く〟 と言います。これがご質問への答えにならないでしょうか。このようなことにこだわってはいけません。

すべての導きは宇宙の大霊すなわち神から来ます。神庁から派遣される霊、およびあなたと霊的近親関係にある高級霊が、あなたが地上へ誕生する前から付いてくれているのです。

 必ずしも姿を見せるとは限りませんが、霊によってはきちんと姿を見せて地上での仕事について相談し、よく納得してから誕生させる場合もあります。その霊を何と呼ばれても結構です。今もちゃんと控えて下さっています。

側を離れることはありません。(九巻の解説《〝霊がすぐ側にいる〟ということの意味》参照)。その仕事は聖書(詩篇)にある通りです───〝神は天使を遣わして汝を守り、すべての面倒を見させ給う〟


 いずれも光り輝く存在です。それぞれの受け持ちの人間を取り囲み、保護と指導と援助という、みずから課した責任の遂行に当たります。その最後の目標は霊的発達を促すための道へ導くことです。それは容易なことではありません。岩や石ころだらけです。しかも見慣れた景色を後にするにつれて、ますます困難さを増していくものです。

(同じことを別のところで〝霊的理解が深まるにつれて、ますます孤独感が増していくものです〟と表現している──訳者)

 しかし、低く沈むだけ、それだけ高く上がることもできるのです。志は無限に高くもつことができます。完全というのは、いつかどこかで達成される性質の過程ではありません。到達せんとする過程の無限の連続です。

 霊の褒章を手に入れたければ、それなりの犠牲を払う覚悟がなくてはなりません。しかし、いったん手に入れたら二度と失うことはありません。

 私たちには人間世界の困難な事情、問題、そして欲求のすべてをよく理解しております。物的な世界に住んでおられるのだということを十分認識しております。

そこで、奉仕的な仕事に打ち込んでおられる方が食べるものや飲むものに事欠くことのないように、その供給源との連絡を取りもっております。必要最小限のものは必ず手に入ります。

 皆さんだけでなく、お会いする人すべてに申し上げていることは、人間としての最善を尽くしてさえいればよろしいと言うことです。それ以上のものは要求しません。たとえ倒れてもまた立ちあがることができるのです。


──支配霊にはレッド・インディアンが多いようですが、霊媒が次々と他界していったあと、それを継ぐ人がいないようです。もっと多くのインディアンの支配霊の働きを期待したいのですが・・・・・・

 情けないことを言ってはいけません。時が至れば必ず手段は見つかるものです。もとより霊媒も生身である以上は、いつかは霊界へ来なくてはなりません。神は肉体が永遠の生命を持つようには計画されていません。地球というのはほんの束の間の生活の場です。永遠の住処ではありません。


 (招待客の一人で心霊治療家として活躍している女性が述べる)

──霊媒のバーバネルさんが他界なさる時が来たらどうしようかと心配でなりません。

 心配はお止めなさい。心配してもなんの解決にもなりません。不安を抱いてはいけません。私は時折、私がこの霊媒たった一人を道具として使命を開始した時のことを振り返ってみることがあります。

英語を一言も話すことが出来なかったのです。それが今ではこうして大勢の方とお話ができるようになった幸運をしみじみと味わっているところです。

 あとのことはあとの者が面倒を見ます。ますます発達していく科学技術のお陰で私たちが成し遂げた以上の規模の人々に真理を普及する手段が活用されるようになります。

 あなたが治療家としてどれほどの貢献をなさっておられるかは、あなたご自身にはお分かりになりません。地上的なものさしを超えたものだからです。身体を癒しておられるのは事実ですが、もっと大切なことは魂の琴線に触れることです。

眠ったままの小さな神性の種子が目を覚まし、芽を出し、花を開く、その端緒をつけてあげるのです。最終的には個としての存在価値を成就させてあげることになる、そのスタートとなります。

そうした意義ある仕事をするチャンスを数多く与えられていることを喜んでください。あなたは病人の人を癒すために生まれて来ておられます。


──でも、時たまですが、がっかりさせられることがあります。

 分かっております。半世紀近くも地上で仕事をしてきた私が、人間の煩悩に気が付いていないと思われては心外です。あなたにも莫大な霊的潜在力が宿されております。イザという時に頼りにできる霊的な武器です。

 しかし万が一そこから十分なものを引き出すことができない時は、私たちを頼りにしてください。けっして見放すようなことはいたしません。

 もしもうんざりしたり困惑したり悲観的な気持ちになったりした時は、地上の喧騒から逃れて魂の静寂の中へ引っ込むことです。そうしてそこに溢れる豊かな光輝に馴染み、美しさに思い切り浸り、そこから得られる静けさと落着きと安らぎと自信を味わうことです。こうして気分一新してから再び地上世界へ戻り、はつらつと仕事を始めるのです。

 とかく前向きに進むほかはありません。引き退がってはなりません。どこにいても人のためになることを心掛けるのです。援助を求めてあなたのもとを尋ねる人をけっして拒絶してはなりません。

かといって、そういう人を求め歩いてはいけません。向こうからやってくるものなのです。〝病気を治してほしい人はいませんか〟などと町を触れて回るようなことをしてはなりません。あなたの援助を求めて先方から駆け付けるものなのです。(そういうふうに霊界の方で取り計らってくれるということ───訳者)

 無限なる叡智を具えた神によって霊的才能を賦与された人間は、導かれるところはどこへでも出向き、いかなる人にでも救いの手を伸ばしてあげるべきです。その行為が蒔く種子が肥沃な土地に落ちて魂を豊かにすることになることを期待しながら、どしどし種子を蒔いていくことです。

人間には霊の道具として成し遂げつつある仕事の大きさを測り知ることは出来ませんし、その価値を評価することも出来ません。


──私には二人の指導霊がついて下さっていると聞いております。一人はエジプト人で、もう一人は北米インディアンです。本当かどうか、確認して頂きたいのですが・・・・・・

 なぜそのようなことにこだわるのかが理解できません。その二人がしっかりとした霊であることはお認めになっているのでしょう?


──その点は疑問の余地はございません。

 だったら、その二人の霊が地上でどこに住んでいたかなどということはどうでもよいことではありませんか。大切なのは霊の威力です。間違いなく霊の世界からのものであることを示してくれる力です。あなたを愛し、そして援助してくれる背後霊に密かな信念をお持ちなさい。あなたを迷わせるようなことは致しません。イザという時は必ず道を示してくださいます。

Tuesday, January 6, 2026

ベールの彼方の生活(三)

The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen
二章 霊的交信の原理


4 生命の気流   
一九一七年十一月十日 土曜日


 〝天界からお声が掛かる〟──あなたと私がまさにそれです。私があなたに呼びかけると私は上層界の方から呼びかけられ、その方たちはさらに上層界の神霊からお声が掛かり、かくして最後は、かの遠き昔、父なる神より呼ばれて薄暗き地上へと派遣された主イエスにまで辿り着きます。

私たちが絶大なる確信を抱くことが出来る根拠は実に、霊力乏しき低地の者へその強力な霊力をお授けくださる崇高なる神霊から〝お声が掛かる〟という事実にあります。

 〝下界へ参れ〟との命を受けるということは、これはもうただ事ではないのです。下界へ向けて歩を進めるにつれて環境も私たちの身体も次第に光輝を失っていき、いよいよ地上界へ辿り着いた時には、あたりを見極めることが容易でないほどの状態となっています。

 が、それも初めのうちだけです。次第に目が地上の波長に慣れてきて、やがて見えるようになります。これを繰り返すことによって、ますます容易になります。もっとも、そのこと自体は少しも有難いことではありません。

有難いのは、そうなることによって地上で仕事が出来るということです。と言うのは、私たちの目に映る地上の光景はおよそ楽しいものではなく、一時も早く自分の界層(くに)へ帰りたい気持ちに駆られます。

その意味でも前回お話した水辺の景色や施設が有難く望ましいものであるばかりでなく、私たちの仕事にとって絶対に不可欠のものなのです。

これに関連して、もう一つお話しなければならない機能があります。それは、その〝憩の里〟には上層界から送られてきた生命力が蓄えられていて、それが気流となってその里一帯を流れており、必要な者に存分に与えられるということです。

私たちがいざ地上へ向かう時は途中でこの里に立ち寄り、その気流に身を浸して体力と活力を摂取します。地上に近づいた時に必ずしもその効力を実感しませんが、実際には澎湃として身辺を洗い、身体に滲み込んでいます。

そして、ちょうど海中に潜っているダイバーが海上から送られる空気で生命を維持するように、私たちを支えています。

自由で広大な海上からの光が届かぬ海底は薄暗く、水という鈍重な要素のために動きが重々しくなりますが、私たちもこうして地上に降りている間はまったく同じ条件下にあります。

ですから、聞いてもらいたいことがうまく述べられなかったり、用語を間違えたり、通信内容に不自然なところがあっても、どうかそれは大目に見ていただき、決して邪霊に騙されているかに思わないでいただきたいのです。

潜水服に身を固められたダイバーが水中で別のダイバーに話しかけている図でも想像してみて下さい。私たちベールのこちら側にいる者にとって、それがいかに根気とたゆまぬ努力を要することであるか、まして人間の言い分に耳を傾けることは尚のこと根気のいるものであることが、これで理解していただけるでしょう。

 ですが同時に、この地上での仕事を終え、くるりと向きを変えて天界へ上昇して行くと、そうした不自由を味わっただけ、それだけ遠き〝憩の里〟から流れてくる生命の気流をいち早く感じ取ることにもなります。

 生命力の波動が再び身辺を洗います。疲れた頬に心地よく当たります。くすんでいた飾りの宝石も次第に本来の輝きを取り戻します。

 衣服は一段と明るい色調に輝き、髪は光沢を増し、目から疲れと暗さが消え、そして何よりも有難いのは、私たちの耳に神のお召しのメロディが聞こえはじめ、次第に明瞭さを増していくことです。それは、神の蔵に蓄えるべき如何なる収穫を得たかをお確かめになるために、私たちを〝収穫の祝宴〟に招いてくださっているのです。

 さて、これ以上お引き留めするのはやめましょう。あなたは一刻の遅れも許されない大切なお仕事が進行中であることは私にもよく分かっております。

 あと一つだけ添えましょう。それは、こうしてあなたに呼びかける私たちとあなたとの間に再び懐疑の念が頭をもたげていることです。ですが、この度の通信があなたご自身から出たものでないことは確かでしょう。


──どうすればそれが私に納得できますか。

 忍耐あるのみです。それが進歩を確かなものとし、確信を深めるのです。おやすみなさい。安らぎのあらんことを。

 カスリーン並びに他の通信霊より慎んで申し上げます。

ベールの彼方の生活(三)

 The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen

二章 霊的交信の原理


3 生命(いのち)の河  
一九一七年十一月 八日  木曜日

 ではその〝憩いの里を〟を後にして内陸への旅をしてみましょう。その道中にもいろいろと学ぶことがあることでしょう。あなたも私も共に巡礼者であることを忘れてはなりません。

同じ光明へ向けて同じ道を歩んでいるのであり、この界と次の第七界との境界にある高い山脈を越えて、さらにさらに向上の道に励まなくてはならないのです。

 私たちはその里の敷地と庭園を後にして、広々とした田園地帯に続く長い並木道を行きます。行きながら気づいたことは、その道は一直線に走っているのではなく、そこを通って海に注ぐ小川のある谷に沿っているのです。では、先に進む前に、ここでその小川の水の持つ性質を幾つか説明しておきましょう。

〝生命の水〟の話をお読みになったことがあると思いますが、これは比喩ではなく文字どおり生命の水なのです。と言うのは、こちらの世界の水には地上の水にない成分が含まれていて、それぞれの水が他に見られない独特の成分を含んでいるのです。

川にせよ泉にせよ湖にせよ、水は高級霊によって管理されており、精気と啓発の徳が賦与されているのです。

その水を浴びることによって高級霊の賦与した生命波動から精気を吸収し啓発されていくのです。私が知っている噴水池が高い塔の屋上に設けてありますが、装置を作動させると深遠な雰囲気のハーモニーを持つ一連の和音を響かせます。

(第一巻一三五頁参照)これはその土地で何かの催しがある時に近隣の人々を召集するための合図の鐘の代わりに使われております。

しかもその噴水のしぶきはかなりの広い範囲にわたって飛び散り、さまざまな色彩の光の花びらとなって、その一帯の家や庭園に落ちていきます。

その花びらにはこれから催される集会のおよその性格と目的の主旨を伝えるものが含まれており、それを浴びる人の全身に心地よき温もりを漲(みなぎ)らせ、ぜひ出席したいと思わせるところの同志愛と連帯意識を自覚させるものも含まれているのです。

その地域一帯に集会の時と場所を知らせることも兼ね、同時に、しばしば高き界から講演のため、あるいはその界の領主の名代としてある仕事を執行するために訪れる天使についての情報を知らせることもあります。

 いま私どもが歩いているすぐ側を流れている川の主成分は〝安らぎ〟です。この川の側を通る人は、地上の人には遠く理解の及ばない方法でその安らぎの成分を吸収するのです。川面の色彩、色合い、流れのざわめき、両岸に繁る植物、岩石や土手の形や雰囲気、等々がみな安らぎを与えるように構成されているのです。

また地球に近い下層界での仕事を終えて例の湖を渡って帰ってくる霊の中にも、その安らぎを必要とする者が大勢おります。

私たちは時として大変な奮闘努力を余儀なくされることがあるのであり、地上の人がよく想像するように、のんびりと単調な生活を送っているのではないのです。

そこで時としてしばし肩の荷を下ろして憩い、待ち受ける次の仕事に備えて、使命成就に必須の安らかにして強力なる霊的静寂を取り戻す必要があるのです。

 さらに、ここでは全ての存在が滲み入るような個性を持っていることを理解していただかねばなりません。一つ一つの森、一つ一つの木立、一本一本の樹木、そのほか湖も小川も草原も花も家も、ことごとく滲み入るような個性を持っているのです。

それ自体は人格的存在ではないのですが、その存在、その属性、その性分は自然霊のたゆまぬ意志の働きの結果なのです。ですから、それと接触する者が摂取するのは自然霊の個性であり、またその人の感受性の度合いによって摂取量も違ってくるわけです。

たとえば樹木に対して特に感受性の強い人もいれば、小川に対して強い反応を示す人もいるといった具合です。しかし、やはり建築物に対しては誰もが反応を示すようです。中に入った時がとくにそうです。

それというのも、自然霊というのは人間と少しかけ離れた存在ですが、建物の建造に当たる霊は人間と同じ系列の高級霊であるという点で、質、程度ともに自然霊ほど遠くかけ離れた存在ではないからです。

 実はそうしたこちらの世界で当たり前のことが、程度こそ違いますが地上界の普通一般の人にも起きているのです。人類は現段階ではまだ物質にどっぷりと浸っていますから、その結果として感覚が鈍いというだけです。

明瞭性の度合いが劣るというだけで、真実性の度合いは決して劣らないのです。

 さっきからあなたの精神の中に質問が形成されつつありますが、何でしょうか。おっしゃってみて下さい。お答えしますから。


──実は内容が女性のお考えになることにしては不似合な感じがしております。お聞きしますが、私の手を使いたいとおっしゃったのはカスリーンですが、今書いているのもそうですか。


 そうです。私です。ですが、私一人のおしゃべりでは満足なさるわけがないでしょう。

まさか私が一人で無駄話などするつもりだとは想像なさらなかったはずですが、いかがですか。とにかく私としては、そんなみじめな想像をされないためにも、私があなたを使うのとほぼ同じように私を使う方を何人か用意しました。

男性ばかりではありません。女性の方も何人かおられます。全体が一つの声、一つのメッセージとなるように一体となって作業しており(*)、したがって私が綴る言葉はさまざまな知性がブレンドしたものなのです。

このところあなたの抵抗感(**)が少し和らいでいますので、まずまずうまく行っております。どうかこの状態を維持してください。私たちもこちらなりに最善を尽くしますから。

 ではお寝み。こうして書いていくことによってますます進歩が得られますように。
 (*二章の1で具体的な説明がある。**オーエン氏はこの段階でもまだ時おり疑念を抱くことがあった。次の十日付の通信の末尾でもそれが表面化している。─訳者)

ベールの彼方の生活(三)

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二章 霊的交信の原理

 
2 憩いの里
一九一七年一月六日 火曜日

 讃美歌に〝岸辺に生命(いのち)の木は茂れり〟という句がありますが、この言葉はよく考えると、二つの意味があるようです。もちろん植物がその養分を河(※)から摂取するという表面的な意味もありますが、こちらの世界へ来てみて私たちは、地上の営みの一つ一つがいかに霊的な意味を持っているかを理解します。

つまりその表面的な現象が、人間の目に映るのと同じ程度の自然味をもって私たちに訴える霊的真理を秘めているのです。

作者がその天界の事情によく通じていたかどうか、それは知りません。ですが、少なくともそれを書かせた霊には、聞く耳を持つ者に対して地上的現象以上のものを伝えんとする意図があったことは考えられます。

そこで、これから私は天界の科学に私以上に通じておられる方々のご援助を得て、それを天界の事情に当てはめ、私の知識の及ぶかぎり拡大解釈してご覧に入れようと思います。(※ここに言う〝岸辺〟は次の八日付の通信に引用される〝生命の河〟と同じく、〝ヨハネ黙示録〟に画かれている霊界の河のことである。──訳者)

 もっとも、今の私の念頭にあるのは河というよりは、地上なら内海(うちうみ)とでも呼ぶべき大きな湖で、この第六界を大きく二つに分ける独立した境界域を形成しております。岸辺はとても変化に富み、岩だらけで切り立った崖となっているところもありますが、なだらかな芝生と庭園の趣も持ったところもあります。

また私の目には一本一本の樹木よりも、ぎっしりと繁った森が青味がかった黄金色に輝く湖を帯状に取り巻いているのが見えます。それはさらに丘を越え高原をおおい、一方、切り立った崖を新緑で縁(ふち)どっています。

その岸辺の近くに、とくに繁った木立ちに囲まれて、大きな施設(ホーム)が建っております。そこは湖を渡ってくる人々のための憩いの場です。ある者は陸と海を越えての長距離の旅で疲れきっております。

第五界からようやくこの界へ辿り着いた新参がいます。この新しい国をさらに奥深く入るために身体をこの界の条件に順応させる必要があるので、ここで一服するのです。

また、使命を帯びて下層界へ、時には今の私のように地上界まで降りてきた人もいます。

その帰途、必ずとも言えませんが、しばしこの土地に立寄って、これよりそれぞれの界の領主あるいは霊団の指揮者に成果を報告しに行くために、体力を回復させるのです。

中には再び下層界へ赴くためにいったんここに戻って元気を回復し、急を要するので内陸を通らずにその湖を通って下り、未完のまま残されている仕事の完遂に奮闘する人もいます。

それから時折──これは決して珍しいことではないのですが──上層界の高級霊が地上ないしはその途中のどこかの界へ訪れる時、あるいはその帰途にここにお立ち寄りになり、しばし滞在なさってその光輝あふれる霊性で招待者を喜ばせることがあります。

まさしくここは憩いの里──この里に入った時の安らぎは入ってみた者でないと分かりません。援助を必要とする者のために危険を伴う高き使命に奮闘したあとのこの里での憩いは、私たちの最大の愉しみの一つなのです。

湖の岸辺のいかにも相応しい位置に、こんもりとした木立に囲まれて佇(たたず)む住処──そこは薄暗い天界の低地に蒔かれた善意の種子が実を結び、それを領主にご報告申し上げる処なのです。

愛の旗印のもと、激しくかつ鋭い痛撃のやり取りの中に勝ち取った数々の戦勝記念品もまたここに持ち帰り、英気を養い心を癒す縁(よすが)とされます。かつて主イエスが勇気を持って闘いそして勝ち得た、生きた戦利品と同じなのです。

 そろそろお疲れのようです。こうして書いていくうちに無理なくラクにあなたの腕が使えるようになるでしょう。私からの愛と感謝の気持ちをお受けください。ではお寝み。

 

 

ベールの彼方の生活(三)

The Life Beyond the Veil Vol.Ⅲ The Ministry of Heaven By G. V. Owen
二章 霊的交信の原理


1 霊界の霊媒カスリーン           
 一九一七年九月八日 土曜日

 私(※)は今あなたの精神を通して述べております。感応したままを綴っていただき、評価はその内容をみて下してください。そのうち私の思念をあなたの思念と接触させることなく直接書き留めることが出来るようになるでしょう。

そこでまず述べておきたいのは、こうした方法による通信を手掛ける人間は多くいても、最後まで続ける人が少ないことです。それは人間の思念と私たちの思念とが正面衝突して、結果的には支離滅裂なことを述べていることになりがちだからです。

 ところで私が以前もあなたの手を使って書いたことがある──それもたびたび──と聞かされたら、あなたはどう思われますか。実は数年前この自動書記であなたのご母堂とその霊団が通信を送ってきた時に、実際に綴ったのはこの私なのです。

あれは、あの後の他の霊団による通信のための準備でもありました。今夜から再び始めましょう。あっけない幕開きですが・・・・・・。書いていけば互いに要領が良くなるでしょう。

(※ここで〝私〟と言っているのはカスリーンである。第一巻並びに第二巻の通信も実はこのカスリーンが霊界の霊媒として筆記していたのであるが、未発表のものは別として少なくとも公表された通信の中では、カスリーンの個性が顔をのぞかせたことは一度もなかった。

それが、本書ではこうして冒頭から出て来てみずからその経緯を述べ、このあと署名(サイン)までしている。しかし回を追うごとに背後の通信霊による支配が強くなっていき、八日付けの通信では途中でオーエン氏が〝どうも内容が女性のお考えになることにしては不似合のように感じながら綴っているのですが、やはりカスリーンですか〟と、確かめるほどになる。

そして第二章になるとリーダーと名告(なの)る男性の霊が前面に出て来る。─訳者)


「神を愛する者には全てのこと相働きて益となる」(ロマ8・28) ───この言葉の真実性に気づかれたことがありますか。真実なのですが、その真意を理解する人は稀です。人間の視野が極めて限られているからです。〝全てのこと〟とは地上のことだけを言っているのではなく、こちらの霊の世界のことも含まれております。

しかもその〝全てのこと〟が行き着く先は私どもにも見届けることが出来ません。それは高き神庁まで送り届けられ、最後は〝神の玉座〟に集められます。が、働きそのものは小規模ではありますが明確に確かめることが出来ます。

右の言葉は天使が天界と地上界の双方において任務に勤しんでいることを指しているのであり、往々にして高き神庁の高級霊が最高神の命のもとに行う経綸が人間の考える公正と慈悲と善性の観念と衝突するように思えても、頂上に近い位置にある高級霊の視野は、神の御光のもとにあくまでも公正にして静穏であり、私たちが小規模ながら自覚しているように、その〝神の配剤の妙〟に深く通じているのです。

 今日、人間はその神の使徒に背を向けております。その原因はもしも神が存在するならこんなことになる筈がないと思う方向へ進んでいるかに思えるからです。

しかし深き谷底にいては、濃く深く垂れこめる霧のために、いずこを見ても何一つ判然とは見えません。あなたたちの地上界へは霊的太陽の光がほとんど射し込まないのです。

 このたびの(第一次)大戦も長い目で見ればいわば眠れる巨人が悪夢にうなされて吐き出す喘(あえ)ぎ程度のものに過ぎません。安眠を貪(むさぼ)る脳に見えざる光が射し込み、音なき旋律がひびき、底深き谷、言わば〝判決の谷〟(ヨエル書)にいて苛立(いらだ)ちの喘ぎをもらすのです。これからゆっくりと目を覚まし、霧が少しずつ晴れ、

(眠っている間に行われた)殺戮(さつりく)の終わった朝、狂気の夜を思い起こしては驚愕(きょうがく)することでしょうが、

それに劣らず、山頂より降り注ぐ温かき光に包まれたこの世の美しさに驚き、つい万事が愛によって経綸されていること、神はやはり〝吾らが父〟であり、たとえそのお顔は沸き立つ霧と冷たき風と谷底の胸塞ぐ死臭に遮られてはいても、その名はやはり〝愛〟であることを知ることでしょう。

 それは正にこの世の〝死〟を覆い隠す帳であり、その死の中から生命が蘇るのです。その生命はただただ〝美しい〟の一語に尽きます。なぜならば、その生命の根源であり泉であるのが、ほかならぬ〝美〟の極致である主イエス・キリストその人だからです。

 ですから、神の働きは必ずしも人間が勝手に想像するとおりではないこと、その意図は取り囲む山々によって遮られるものではなく、光明と喜悦の境涯より届けられることを知らねばなりません。私たちの進むべき道もそこにあるのです。では今夜はこれまでにします。

 これも道を誤った多くの魂の暗き足元を照らすささやかな一条(ひとすじ)の光です。

 願わくば神が眠れる巨人をその御手にお預かり下さり、その心に幼な子の心を吹き込まれんことを。主の御国は幼な子の心の如きものだからです。そして、その安眠を貪り、何も見えず何も聞こえぬまま苛立つ巨人こそ、曽て主が救いに降りられた人類そのものなのです。                                カスリーン